2022年04月09日
「越境」を繰り返し「縁」に出会う
「手づくりのアジール-土着の知が生まれるところ」(青木真兵 晶文社)
対話2 これからの「働く」を考える
まで来ました。
青木さんと百木さんの「働く」についての対談。
ハンナ・アーレントとカール・マルクスを題材にして、
資本主義のカタチについて考察をしていきます。
昨日のブログ
http://hero.niiblo.jp/e492378.html
には、就活の違和感、そのものが表現されていました。
12月には違う人の文章で、同じようなことを考えていました。
http://hero.niiblo.jp/e492232.html
(「ニーズに応える」と「人生を経営する」のあいだ 21.12.29)
今日はアーレントの「労働」と「仕事」、そして「活動」の概念から。
アーレントによると
「労働」とは自分や家族の生命・生活を維持するための私的な営みで「仕事」とは自分を超えたパブリックな「世界」と創り出す営みとされています。
働き方の点で言えば
「労働」は生命維持の必然性=必要性のために強制的に行わなくてはならないもので「仕事」は目的-手段がはっきりした合理的な生産行為であり、そこには理性や創造性を発揮する余地があるとされています。
このような意味で、アーレントは「労働」に西條の価値を置き、生産性の向上という目標に国民を統合していく「全体主義」を批判しているのです。
一方でマルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、「共産主義社会では、各人は専属の活動範囲を持たず、自分が望むどの部門でも自分を鍛えることができるし、社会が万人の生産を管理している。まさにそのおかげで、私は好きなように今日はこれを、明日はあれを行い、朝に狩りをし、午後に漁をし、夕方に家畜の世話をし、食後には批評する。しかしだからと言って、狩人、漁師、牧人、批評家になることはない。あるいはなる必要はない」と語ります。
アーレントが古代ギリシャやローマをモデルとして、西欧思想の伝統を遡ったのに対してマルクスは現在を乗り越えた未来=彼岸に向かうことによって別のシステムへ移行し、みんなが自由に生きられる社会を作ろうと考えていた。
そんな中で、ふたりは、もうひとつの道「網野善彦」について語る。
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網野は、国家や社会の枠組みから溢れる、周辺に現れるもの、「無縁」を公と見ているんですね。現代で無縁というとネガティブな印象ですが、中世日本では、世間や社会のしがらみから逃れることというポジティブな意味合いがあった。
「男はつらいよ」の寅さんの実家「とらや」も、アジールに近い部分がある。まず何と言っても、葛飾・柴又は東京の端っこ、辺境の地にあるということ。そしてとらやが店を構えるのは帝釈天の参道、つまり宗教エリアであるということ。
寅さんは資本主義社会から完全にはじかれた存在でありながら、なぜか楽しそうです。いろいろ悩みはあったと思うのですが、とらやと日本各地の参道を「行ったり来たり」することで上機嫌に暮らすことができた。ああいう人物が主人公の作品が長きにわたりポピュラティを得続けているのは、日本人の中に「二つの原理を行き来するもの」への情景があるからではないかと思うんです。
網野の言う無縁の場=「公界」にはさまざまな怪しげな人びとが集います。漂泊者、商人、行者、芸能人、遊女・・・。各地域から集まった物が交換されたり、芸能が披露されたりするのですが、そこにはお寺や神社が密接に関係している。網野はこうした場が日本的な資本主義の起源としてあるのではないか、辺境的な怪しげなものから貨幣市場が広がったのではないか、というんですよね。
一か所に定住せず、移動を繰り返しながら経済活動を行い、技能(芸能)を獲得しながら多様な人びとともかかわりあっていく。宗教的な領域にも世俗的な物語にも触れるような寅さんの物語が今でも人気があるということには、どこか希望を感じます。
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そっかー。
日本にはかつて、「もうひとつの資本主義」があったし、二つの原理を行き来するものへのあこがれがあったんだなあと。
これさ、いまの10代、20代にとっても重要なのではないか。
だから大学生は在学中に地方でインターンし、20代は3年限定で「地域おこし協力隊」となり、中学生は「地域みらい留学」を志向するのではないか。
それは、彼らなりの「越境」つまり「二つの原理の行き来」なのではないか。
そして、今日思ったのは、そこにこそ「縁」があるのだと。「縁:えにし、えん、ふち」は、境界に存在するのだということ。
「縁」を知るために、活かすために、「越境」が必要なんだ、と。
そういう意味でも、ここ、新潟県東蒲原郡阿賀町津川という場所。
かつて、会津藩の河港として栄えた場所。
新潟県の東の端。会津の文化と新潟の文化が混ざり合う場所。
そんな境界のまちだからこそ、できることがあるんだろうな、と。
ここにはきっと「縁」がある。
そんな体感を、みんな必要としているのではないかなあと。
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