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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年05月17日

トンネル開通

トンネル開通
「ジェネレーター まなびと活動の生成」(市川力+井庭崇 学事出版)

P150 ジェネレーターは生成の場となる-中動態としてしか表せない出来事

ついに、きました中動態。長いこと掘ってきたトンネルがココで開通するとは。
僕が掘ってきたのはアイデンティティ、自分らしさという呪縛について、だったのだけど、
それを創造的な学び(=クリエイティブラーニング)というトンネルを掘ってきた人がいるんだって。

能動-受動ではない中動態という世界があることを知ったのは、2018年の夏
http://hero.niiblo.jp/e487965.html
「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感(18.8.20)

~~~上記ブログより引用
ギリシア世界には、「意志」は存在しないし、それに伴って「未来」も存在しない。過去からつづく流れの中で、状態(状況)としての今がある。能動態‐受動態という言語体系は、「この行為は誰のものか?」と問うが、その問いはそんなに大切なのか?大切だとしたら、それが大切とされるようになったのはいつからなのか?そんな問いが浮かぶ。

「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」この二つはまさに「意志」と「未来」を問う質問なのではないか。

あたりまえだけど、「言葉」と「世界」は相互に作用している。「言葉」が「世界」を規定し、「世界」が「言葉」を規定している。だから、「やりたいことは何か?」と問われれば、「やりたいことは何だろう?」と考え、それに答えようとしてしまう。

でもさ、そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。

もしかしたら、そんなところにこれらふたつの問いの違和感の正体があるような、ないような気がする本です。
~~~

大学生の「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」のつらさのの正体はどこにあるのか?
そんな問いの中で、僕は中動態に出会いました。

そしてその解決策として、「場のチカラ」にフォーカスし、「学ぶ」から「つくる」へのシフトを図り、他者や地域の大人と「ともにつくる」プロジェクトを志向してきました。

僕にとって、「つくる」=クリエイティブは「自分らしさ問題を解決する」という意味では手段だったのかもしれません。

「存在」は創造の場のエッジにある、とかつて考え、創造する共同体の中に身を置くことで、その場にたしかにいたという実感こそが「存在」を承認してくれるのだと考えていました。

今だったら「過去を継いでいく」という方向でしょうか。

P154~156に、トンネル開通部分の話が出ているので抜粋する

~~~
森田亜紀さんは「芸術の中動態」のなかで、次のように説明している

「中動態で表される事態において、主語は動詞の表す過程の中にいわば巻き込まれている。言い換えれば、中動態の動詞は、名詞の主語に従属する述語ではない。中動態によって、われわれは主語を前提としない述語、さらに言えば、主語に先立ち主語をそこから成立させる述語というものまで考えることができるように思われる。」

まさにこの意味で中動態の状態にあるのが「ジェネレート」ということの本質なのだ。生成の現場に入り込むと、自分はたしかに関わってはいたが、「自分がジェネレートした」という自覚はなく、何をしたらそうなったのかということも明確にはわからない。しかし、ジェネレートされた場にいたという実感だけは確実に残る。

ジェネレーターとして何かをしたという能動的行為の記憶ではなく、出来事の中にいて、その一翼を担っていたという体感だけが残っている。自分がその場に溶け込み、自分たちを場として生成が起き、それを自分も体験している。そのような出来事への関わりは、まさに中動態で表されるような出来事なのだ。

そうであるのに、「ジェネレート」ということを、「誰かがジェネレートする」というように能動的な行為としてとらえると、僕や市川さんは何をしているのか?という問いになってしまう。けれども、そういうものではなく、そもそもジェネレートという出来事が起きるのだ。そこに僕らは関わり、巻き込まれ、参加し、味わい、その一翼を担うということなのだ。

古代ギリシア語やサンスクリット語にあった中動態という考えが、その後なくなってしまったのは、人間中心の世界観が強固になってきたからではないだろうか。僕は古代ギリシアと東洋の考えは通じ合う部分が多いことから、人類は古くは西も東も同じような感覚を持っていたのではないかと考えている。その後、西洋のロゴス的世界観が強固となり、人間中心の近代的自我の意識が強くなり、現在のような世界観に到達したと思っている。

そういう世界観のまま、「ジェネレーター」を捉えようとすると、そこで起きていることは異なる、変形を伴った理解になってしまうだろう。なぜなら、能動態/受動態のフレームではとらえられない中動態で表されるような出来事に「参加」し、それをますます勢いづけているのが「ジェネレーター」だからだ。能動態/受動態で分けて考えてしまうから、ジェネレーターという「主体」が周りの他の人たちに何かしているという話になってしまう。しかし、そうではない。僕たちが提唱している「ジェネレーター」は、中動態で表されるような出来事の「場」に溶け込み、なりきる人なのだ。
~~~

トンネル開通。光が、見えた。にいがたイナカレッジや取材インターンや、総合的な探究の時間で目指してきたこと。

場のチカラ、場に溶ける、場を主語にする、チューニングする、魔法をかける編集、まなぶからつくるへ。これらのキーワードは、「つくる」ことにとっても大切だったのだ。

協働から共創へ
ってきっと中動態的なアプローチによって達成されていくのだろう。
そしてそれは、自分らしさ問題をも解決する方法になっていくのだと、予感できた朝です。

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Posted by ニシダタクジ at 08:27│Comments(0)
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