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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年01月07日

見えないけどそこにある「あはひ」

見えないけどそこにある「あはひ」
「見えないものを探す旅」(安田登 亜紀書房)

新年最初に開いた1冊。
タイトルのテーマがピッタリだなあと。

安田さんの「あわいの力」は21年6月に読んでいたのですが。
http://hero.niiblo.jp/e491828.html
(参考:「心」に代わる何か 21.6.21)

「アンチ〇〇やポスト●●ではなく、中心と周辺」がテーマな今こその1冊でした。

まずは、「花」から。
花っていうのは、草冠に「化」ということで「変化」を表している。
~~~
P84
変化(花)は存在ではない。点は現象ではあるが、存在ではない。それは絶対の闇と同じく、時間も空間も所有しない。しかし花(化)は絶対の闇と違って、時間と空間を生み出す母胎たりうる現象だ。変化そのものがそこに立ち現れた瞬間に、時間と空間が誕生する。

P86
さて、「花」の訓の「はな」は鼻でもあり、端=先っぽでもある。すなわち枝の「先」に咲くもの、それが花だ。そして先っぽの「先」は「咲く」と語源を共有し、サキ(幸、崎、先)やサカ(坂、境)にもつながる。すなわち枝の先に神が寄り付き、その霊力が最高に発動している状態、それが「咲く」であり「花」である。
~~~
おおお~!これもすごいですねえ。
花っていうのはプロセスでありながら、これから生まれる何かを予感させる現象なのですね。

次に藤原定家と松尾芭蕉からひもとく「非在」について

~~~
P99
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
霧の彼方の桜や紅葉を観るのは、私たちの普段使う目ではなく、もうひとつの次元の意識が有する目である。感覚器官である「目」を使わない目で見る。目を使わずに見るということを、私たちは日常的に行っている。(中略)この歌は、そんな別の次元の意識だけが見ることができる幻の桜や幻の紅葉を出現させてしまう。

P100
このように、<事実としての存在>はそこにはないが、しかし厳然とそこにある存在、それを「非在」と呼ぶことにしよう。「非」はただの否定ではない。花などの美しいさまを「菲々(ひひ)」というが、そんな香るような存在が「非在」だ。

P103
「古池や蛙飛こむ水の音」
水音がした時点で「蛙」はすでにいない。芭蕉は蛙を見ることができなかったはずだ。それなのになぜわかったのか。それは芭蕉が水と一体化していたからではなかっただろうか。

P105
日本人は昔から組織や共同体の中で自分の「物語」を紡いできた。あるときは英雄になり、あるときは悲劇の主人公になり、あるときは三枚目となり、などなど。だから組織や共同体から追い出されるということは物語を剥奪されてしまうということになる。

物語がなければよって立つ所もない。どこに足を置いたらわからなくなる。深い暗闇が大きな口を開いている、そんな穴の上に立たされるのと同じだ。そんな時、昔人は旅をした。物語を喪失した旅人はあてのない旅の途中で、ある場所と出会う。

P106
漂泊の旅人はそこで歌を謡う。(中略)歌を通じて彼は土地の霊や物語と出会い、その出会いによって、喪失した自分の物語も再び紡がれ得る可能性を感じ、そして自分の霊である魂が甦るのを体感する。

「生きる意味」とか「自分探し」というのは日本人にはあまり合わない。そういう硬質な方法論ではなく、ぶらぶらはぐれ旅をしながら非在と出会い、物語が再び紡がれるのを待つ、そんなゆったりとした方法で日本人は昔から、その魂を癒してきた。
~~~

むうう。なるほど。
旅に出てその「場(土地)」にある「非在」の存在である霊や物語に出会う。
そこから新たな物語が始まってくのか。
「始める」のではなく「始まる」のだなあと。


そしてテーマは「あはひ」の話へ。
~~~
P152
レレレのおじさんの特徴は、自分のうちの前だけを掃除するのではない。ということだ。隣のうちの前もついでに掃除する。縄張りにあまりこだわらない。小難しく言えば自他の境界が曖昧なのである。自他の境界が曖昧だから、目の前に現れた人に対して「お出かけですか」と声をかけるのがレレレのおじさんである。

P154
お盆は死者が戻ってくる日だが、お盆という「とき」そのものが、あの世とこの世との接点、糊代なのである。この接点、糊代を「あはひ(あわい)」と呼ぼうと思う。
「あはひ」というのは「あいだ(間)とは違う。「あいだ」は、ふたつのものの間隙をいう。それに対して「あはひ」は「会ふ(会う)」を語源としてふたつのものの重なっている部分を言う。そしてこの糊代文化、あはひ文化こそが日本文化の特色のひとつのような気がする。

P155
また、「あはひ」文化の建築版と言えば縁側だ。縁側は内でもあり社外でもある境界としての存在だ。(中略)古くは「うち」と「なか」の区別があったという。家の中は「うち」、縁側は「なか」である。「うち」まで入ることができるのは「みうち」だけだが、「なかま」であれば「なか」である縁側までは入ることができる。「なか」である縁側は自他の境界があいまいな「あはひ」の空間だ。
~~~

そうか。年末に言っていた「ギャップ」っていうのは実は「あはひ」のことだったんだなあ。
どちらでもあるあいまいな「境界」のことをギャップと言っていたんだなと。

中心と周辺。
そしてそのあいだにある「あはひ」のデザイン。
「周辺」をつくりながら、その境界にある「あはひ」への参加をデザインすること。

これが2023年のミッションなのでしょうね。

人は、物語を求め、旅に出る。
物理的にも、精神的にもそうだ。

そして、花に出会う。心が動く。
物語が始まる。物語によって自身が変化する。

おそらくはそうやって、人は生きていくのだろう。

「花」「非在」「あはひ」というキーワードをもらった大きな1冊となりました。

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Posted by ニシダタクジ at 08:20│Comments(0)日記学び
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