2024年03月30日
SNSとアイデンティティ
『砂漠と異人たち』(宇野常寛 朝日新聞出版)
第四部 脱ゲーム的身体より
吉本隆明『共同幻想論』からの、アイデンティティ問題の考察がスルドいのでメモ
~~~
吉本の生きた20世紀が、共同幻想の肥大が個人を押しつぶしていた時代だったからだ。
イデオロギーによって思考を停止し、世界を善悪に二分してしまった人間たちが何をし得るのかは自明だ。20世紀とは、情報環境の進化に踊らされた人類が共同幻想を肥大化させ危うく自らを滅ぼしかけた時代だったのだ。だからこそ、吉本隆明はあらゆる共同幻想からの自立を唱えた。
3つの幻想は、自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人など、1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)に分類され、これらは互いに独立して存在し、かつ反発し合う性質(逆立)があると吉本は考えた。
吉本が自立の根拠としたのが、対幻想-家族や友人などに発生する1対1の対の関係性-だった。家族を守ること、妻と子の生活を守ることをアイデンティティの中核に置き、政治的イデオロギーのもたらす共同幻想から「自立」すること。つまり吉本は半世紀前に、共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠するという処方箋を提示したのだ。
その処方箋を提示された患者たちー全共闘の若き活動家たちーはたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想から自立したのかもしれない。しかし、彼らの新しい依存先となった戦後的な核家族による家庭の多くは、かつての大家族に比して制度的には緩和されているが、その分精神的にはより依存の度合いを深めた性搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止させ職場となる企業や団体のネジや歯車として埋没していったことは記憶に新しい。
前者は21世紀の今日においても性差別の根深いこの国の後進性そのものであり、そして後者は共同体の同調圧力として、個人の創造性を抑圧することでこの国の産業を20世紀的な工業社会に縛り付け、21世紀的な情報社会への対応を大きく遅らせている。
~~~
共同幻想とアイデンティティ問題。これ、僕のテーマでもあります。
著者は、この吉本の処方が失敗したプロジェクトだったと断じる。
~~~
吉本は、どこで誤ったのだろうか。吉本の失敗と、この国の長すぎた戦後史が証明することーそれはある幻想にアイデンティティを預けることがほかの幻想に取り込まれないことを保証しないということだ。
自分は妻子のために身を粉にしていることを誇りに〈対幻想への依拠〉、安心して職場ではネジや歯車となって思考を停止〈共同幻想へ埋没〉していった。
今日の情報社会においてそれは自明なことだが、むしろ人間はある領域の幻想にアイデンティティを確立することで、別の領域では安心してそれを明け渡すことができる。
資本主義と情報技術の発展は、人々に複数の場を生きることを可能にした。より正確には、人間が複数の場を生き得ることを、顕在化させた。このとき、吉本の自立論はその根底の部分で大きな修正を迫られる。三幻想はそれぞれ、別の欲望に根差して単に独立しているのであり、決して逆立はしていないのだ。
~~~
ある幻想にアイデンティティを依拠すること。それは、他の幻想が作用する場における思考停止を意味する。それで、はたして人は幸せになれるのだろうか。さらに、消費社会へと時代がシフトする中での吉本が変わっていくことを以下のように述べる。
~~~
その後の吉本は、80年代の消費社会の到来を経て、むしろ個人の単位でのアイデンティティの確立を志向するようになる。
大衆が一人ひとり生活の必需品ではなく、嗜好品を手に入れること。この国にはじめて訪れた消費社会は、日本人に消費することでの自己確認(自己表現)という回路を与えた。
モノとのコミュニケーション(所有)によって、他の誰かにも特定の共同体にも承認されることなく、アイデンティティを安定させること。モノの所有のもたらすアイデンティティは多くの場合一時的なもので、そして弱い。
実際に当時の消費社会下におけるモノの所有によるアイデンティの確認は、実質的にはそれを社会的に顕示することで、共同体からの承認を獲得することが目的とされていた。それは自己幻想による自立ではなく、実質的には共同幻想への埋没だったのだ。
そして、21世紀の今日において情報社会の到来とともに価値の中心は「モノ」から「コト」に移行した。現在ではアルマーニのシャツの袖口からロレックスの時計をチラつかせている人間に、現役世代の大半が軽蔑を感じるだろう。一方で「コト」は情報技術によって簡単に可視化され、そしてシェアされるようになっている。
そしてその結果として、多くの人々は「コト」を社会的に顕示している。この「コト」のシェアによる顕示の中心を占めるのが、SNSのプラットフォーム上の相互評価のゲームである。
情報技術はコトをシェアすることでの自己幻想の確認のコストを、大きく下げてくれる。意識の高いイベントへの参加を顕示するのは骨の折れる行為だが、タイムラインの潮目を読んで周囲の人間が石を投げつけている相手に自分も一撃を加えることには、能力もコストもそれほど必要ない。
~~~
いやあ、これはすごい。アイデンティティの確立がSNSへ依存していることがわかる。さらに著者は、現代の代表的SNSが、吉本の三幻想に対応していることを指摘する。
~~~
プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。シリコンバレーの人々が吉本と参照したなどということがあるはずもない。彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。
吉本隆明が提唱した三幻想が人間と人間の間に発生する関係のパターンを網羅し正確に分類するものであったことが、四半世紀後の情報技術によって証明されたと考えればよいだろう。
そして、いま僕たちはこれらの幻想をコントロールする情報技術によって、吉本隆明のいう「関係の絶対性」の内部に閉じ込められている。
たとえば、FacebookやTwitterのユーザーの多くが、対幻想(他のユーザーとの関係)や共同幻想(所属するコミュニティ)を誇示することでの自己幻想(プロフィール)の強化を日常的に試みている。21世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、動員のゲームのネットワークの中に閉じ込めているだ。
SNSとは情報技術を用いて人間間の社会関係のみを抽出する装置だ。人間間の関係のみを肥大させた結果としてSNSの与える社会的身体は「人と関わること」に特化し、そのために承認欲求以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。
~~~
そっか。僕たちはまだ、吉本隆明が規定した世界の中で戸惑っているんだなあと。じゃあ、どうしたらいいのか。
「このゲームから降りる」ことだと宇野さんは言う。
~~~
かつてハンナ・アーレントが指摘したように、ゲームのプレイを目的にした主体はゲームの存在とその拡張を疑うことができなくなる。そしてゲームのプレイスタイルを変えること(所有から関係性へ)も、ゲームを複数化すること(プラットフォームとコミュニティの分散)も突破口になり得ない。では、どうするべきか。僕の解答はこの(関係性の絶対性のもたらす)ゲームから降りることだ。
それは外部に脱出するのではなく、内部に潜ることでなければいけない。
その手がかりは、日常の、暮らしの内部にある。
ロレンスも村上春樹もある時期から「走る」ことをその暮らしの中に取り入れていったことを。それも一定以上の「速さ」で走ることを彼らが求めたことを。
ランナーになったとき、住民と旅行客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、走っている時間は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っている時はその差はまったくなくなる。
僕が世界中の様々な街を訪れたときに、走ることでその街の一部になることができるように感じるのはそのためだ。街を走る人は、半ば匿名的になり、その街の風景の一部になっているのだ。
ランナーは走ることによってその街と、世界と対話する。しかし、速さを求めることは、その対話の可能性を閉ざす。純化されたスピードの追求は、その土地からの切断をもたらす。
「遅い」ランナーとは人間間の相互評価のゲームから降りた存在だ。しかしそれでいながら、人間を世界から切断する「速さ」の呪縛からも逃れ、「遅さ」を受け入れることで世界に対して開かれている存在だ。街を孤独に走るとき、僕たちは人間間の相互評価のゲームからは離脱しているが、その土地の事物に対しては開かれているのだ。
ここで重要なことはたった一つ。街を走るように、世界に接することだ。ただし、ゆっくりと。
~~~
じゃあ、どうやって脱ゲーム化していくのか?宇野さんは、京都に暮らした経験を基に「歴史に見られる」ことだと言う。
~~~
言い換えれば、個人の生の尺度で測ることができない巨大がものが、自分の生活の中に存在しているという感触だった。それは歴史を見るのではなく、歴史に見られる体験だった。自分がその物語の登場人物として、歴史の当事者として関与しているという実感はない。しかし確かに歴史は存在していて、自分の等身大の生活にも強く、深く影響している。そのことを僕はあの街で暮らしているときに、「見る」ことではなく「見られる」ことで感じていた。
そこには、「いま」自分が閉じたネットワークの相互評価のゲームでどのくらいスコアを挙げているかという問題を超越した、時間的な自立を与えてくれる感覚が、それも日常の、生活の内部に存在していた。人は歴史に見られながら暮らすことで、閉じたネットワークの時間的な外部の存在を意識するのだ。
京都のような古い街に暮らすとき、人はそれを意識することなくただ生活の中で歴史に見られることになる。このとき人間は時間をかけて、自己の存在よりも圧倒的に巨大な規模で、時間の流れが存在していることを無意識のうちに認識させられる。これがおそらく、物語化されない歴史へのアプローチのほぼ唯一の回路だ。
移住者としてその土地に接することが、そこを旅先として暮らしの外部に置くのではなく、暮らしの内部として受け止めることが、もっとも効果的に歴史に見られる身体を育むのだ。
その土地を無目的に「遅く」走るとき、僕たちの身体は無防備に歴史に見られることになる。このとき僕たちの身体は走ること以外に、自由な速度を用いてその土地に触れること以外に目的を持たない。セルフィーを撮るべき名所旧跡も、承認を交換すべき他の誰かも必要としていない。そしてそのために、接した場所において目的を持たない。
~~~
「歴史に見られる」という感覚。これはきっと、麒麟山米づくり大学に参加している人たち、Feel度Walkをしている人たち、もしかしたら地域みらい留学の高校生たちががうっすらと感じていることなのではないか。
180年続く酒蔵の米づくりを体感し、酒造りの細部を知る。そこに込められた想いを知る。そして、同時に、酒造りの歴史から見られているのだ。
本書のラストに著者は三つの知恵を提案する。
~~~
第一に、人間以外の事物と触れる時間を持つこと
第二に、人間以外の事物を「制作」すること
最後に、その「制作」を通じて、他者と接すること
人間は、人間外の事物に触れることで人間間の相互評価のゲームから一時的に逸脱する。プラットフォームによって画一化され、同じ身体を持つ他のプレイヤーとの承認の交換しかできなくなった身体がその多様な側面を回復する。ここで大事なのは、その事物を消費せずに、愛好することだ。ここで述べる消費とは、その事物を受け取り、用いることを指す。そして愛好とはその事物を単に受け取るのではなく、独自の問題を設定し、探求することを指す。
このとき僕たちは事物をただ単に見る、触れるのではなく、その事物を用いて何かを制作することが望ましい。そうすることで、僕たちは相互評価のネットワーク(世間)とは、切断されながら、世界と接続することができる。そして制作された事物により、僕たちは自立しながらも開かれることになる。そして制作された事物は、未来において人間たちを「見る」歴史的な主体になっていくのだ。
こうしてその人ではなく、制作された事物とのコミュニケーションに注力することで、情報技術に支援された人間間の相互評価のゲームとは異なるチャンネルでの対話が可能になる。
~~~
SNSによる相互評価ゲームの外部を、ひとりひとりは必要としている。そしてそれは、旅先のどこかではなく、暮らしの内部にあり、住んでいる町の歴史との相互作用にあるのかもしれない。
「いきている」と実感すること。それはひとえに、自分が交換不可能な存在であると認識できることなのだろうと思う。
人間以外の事物にふれ、事物を制作し、それを通じて他者と接すること。
そこに、アイデンティティを取り戻すヒントが詰まっていると思う。
第四部 脱ゲーム的身体より
吉本隆明『共同幻想論』からの、アイデンティティ問題の考察がスルドいのでメモ
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吉本の生きた20世紀が、共同幻想の肥大が個人を押しつぶしていた時代だったからだ。
イデオロギーによって思考を停止し、世界を善悪に二分してしまった人間たちが何をし得るのかは自明だ。20世紀とは、情報環境の進化に踊らされた人類が共同幻想を肥大化させ危うく自らを滅ぼしかけた時代だったのだ。だからこそ、吉本隆明はあらゆる共同幻想からの自立を唱えた。
3つの幻想は、自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人など、1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)に分類され、これらは互いに独立して存在し、かつ反発し合う性質(逆立)があると吉本は考えた。
吉本が自立の根拠としたのが、対幻想-家族や友人などに発生する1対1の対の関係性-だった。家族を守ること、妻と子の生活を守ることをアイデンティティの中核に置き、政治的イデオロギーのもたらす共同幻想から「自立」すること。つまり吉本は半世紀前に、共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠するという処方箋を提示したのだ。
その処方箋を提示された患者たちー全共闘の若き活動家たちーはたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想から自立したのかもしれない。しかし、彼らの新しい依存先となった戦後的な核家族による家庭の多くは、かつての大家族に比して制度的には緩和されているが、その分精神的にはより依存の度合いを深めた性搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止させ職場となる企業や団体のネジや歯車として埋没していったことは記憶に新しい。
前者は21世紀の今日においても性差別の根深いこの国の後進性そのものであり、そして後者は共同体の同調圧力として、個人の創造性を抑圧することでこの国の産業を20世紀的な工業社会に縛り付け、21世紀的な情報社会への対応を大きく遅らせている。
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共同幻想とアイデンティティ問題。これ、僕のテーマでもあります。
著者は、この吉本の処方が失敗したプロジェクトだったと断じる。
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吉本は、どこで誤ったのだろうか。吉本の失敗と、この国の長すぎた戦後史が証明することーそれはある幻想にアイデンティティを預けることがほかの幻想に取り込まれないことを保証しないということだ。
自分は妻子のために身を粉にしていることを誇りに〈対幻想への依拠〉、安心して職場ではネジや歯車となって思考を停止〈共同幻想へ埋没〉していった。
今日の情報社会においてそれは自明なことだが、むしろ人間はある領域の幻想にアイデンティティを確立することで、別の領域では安心してそれを明け渡すことができる。
資本主義と情報技術の発展は、人々に複数の場を生きることを可能にした。より正確には、人間が複数の場を生き得ることを、顕在化させた。このとき、吉本の自立論はその根底の部分で大きな修正を迫られる。三幻想はそれぞれ、別の欲望に根差して単に独立しているのであり、決して逆立はしていないのだ。
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ある幻想にアイデンティティを依拠すること。それは、他の幻想が作用する場における思考停止を意味する。それで、はたして人は幸せになれるのだろうか。さらに、消費社会へと時代がシフトする中での吉本が変わっていくことを以下のように述べる。
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その後の吉本は、80年代の消費社会の到来を経て、むしろ個人の単位でのアイデンティティの確立を志向するようになる。
大衆が一人ひとり生活の必需品ではなく、嗜好品を手に入れること。この国にはじめて訪れた消費社会は、日本人に消費することでの自己確認(自己表現)という回路を与えた。
モノとのコミュニケーション(所有)によって、他の誰かにも特定の共同体にも承認されることなく、アイデンティティを安定させること。モノの所有のもたらすアイデンティティは多くの場合一時的なもので、そして弱い。
実際に当時の消費社会下におけるモノの所有によるアイデンティの確認は、実質的にはそれを社会的に顕示することで、共同体からの承認を獲得することが目的とされていた。それは自己幻想による自立ではなく、実質的には共同幻想への埋没だったのだ。
そして、21世紀の今日において情報社会の到来とともに価値の中心は「モノ」から「コト」に移行した。現在ではアルマーニのシャツの袖口からロレックスの時計をチラつかせている人間に、現役世代の大半が軽蔑を感じるだろう。一方で「コト」は情報技術によって簡単に可視化され、そしてシェアされるようになっている。
そしてその結果として、多くの人々は「コト」を社会的に顕示している。この「コト」のシェアによる顕示の中心を占めるのが、SNSのプラットフォーム上の相互評価のゲームである。
情報技術はコトをシェアすることでの自己幻想の確認のコストを、大きく下げてくれる。意識の高いイベントへの参加を顕示するのは骨の折れる行為だが、タイムラインの潮目を読んで周囲の人間が石を投げつけている相手に自分も一撃を加えることには、能力もコストもそれほど必要ない。
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いやあ、これはすごい。アイデンティティの確立がSNSへ依存していることがわかる。さらに著者は、現代の代表的SNSが、吉本の三幻想に対応していることを指摘する。
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プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。シリコンバレーの人々が吉本と参照したなどということがあるはずもない。彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。
吉本隆明が提唱した三幻想が人間と人間の間に発生する関係のパターンを網羅し正確に分類するものであったことが、四半世紀後の情報技術によって証明されたと考えればよいだろう。
そして、いま僕たちはこれらの幻想をコントロールする情報技術によって、吉本隆明のいう「関係の絶対性」の内部に閉じ込められている。
たとえば、FacebookやTwitterのユーザーの多くが、対幻想(他のユーザーとの関係)や共同幻想(所属するコミュニティ)を誇示することでの自己幻想(プロフィール)の強化を日常的に試みている。21世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、動員のゲームのネットワークの中に閉じ込めているだ。
SNSとは情報技術を用いて人間間の社会関係のみを抽出する装置だ。人間間の関係のみを肥大させた結果としてSNSの与える社会的身体は「人と関わること」に特化し、そのために承認欲求以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。
~~~
そっか。僕たちはまだ、吉本隆明が規定した世界の中で戸惑っているんだなあと。じゃあ、どうしたらいいのか。
「このゲームから降りる」ことだと宇野さんは言う。
~~~
かつてハンナ・アーレントが指摘したように、ゲームのプレイを目的にした主体はゲームの存在とその拡張を疑うことができなくなる。そしてゲームのプレイスタイルを変えること(所有から関係性へ)も、ゲームを複数化すること(プラットフォームとコミュニティの分散)も突破口になり得ない。では、どうするべきか。僕の解答はこの(関係性の絶対性のもたらす)ゲームから降りることだ。
それは外部に脱出するのではなく、内部に潜ることでなければいけない。
その手がかりは、日常の、暮らしの内部にある。
ロレンスも村上春樹もある時期から「走る」ことをその暮らしの中に取り入れていったことを。それも一定以上の「速さ」で走ることを彼らが求めたことを。
ランナーになったとき、住民と旅行客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、走っている時間は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っている時はその差はまったくなくなる。
僕が世界中の様々な街を訪れたときに、走ることでその街の一部になることができるように感じるのはそのためだ。街を走る人は、半ば匿名的になり、その街の風景の一部になっているのだ。
ランナーは走ることによってその街と、世界と対話する。しかし、速さを求めることは、その対話の可能性を閉ざす。純化されたスピードの追求は、その土地からの切断をもたらす。
「遅い」ランナーとは人間間の相互評価のゲームから降りた存在だ。しかしそれでいながら、人間を世界から切断する「速さ」の呪縛からも逃れ、「遅さ」を受け入れることで世界に対して開かれている存在だ。街を孤独に走るとき、僕たちは人間間の相互評価のゲームからは離脱しているが、その土地の事物に対しては開かれているのだ。
ここで重要なことはたった一つ。街を走るように、世界に接することだ。ただし、ゆっくりと。
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じゃあ、どうやって脱ゲーム化していくのか?宇野さんは、京都に暮らした経験を基に「歴史に見られる」ことだと言う。
~~~
言い換えれば、個人の生の尺度で測ることができない巨大がものが、自分の生活の中に存在しているという感触だった。それは歴史を見るのではなく、歴史に見られる体験だった。自分がその物語の登場人物として、歴史の当事者として関与しているという実感はない。しかし確かに歴史は存在していて、自分の等身大の生活にも強く、深く影響している。そのことを僕はあの街で暮らしているときに、「見る」ことではなく「見られる」ことで感じていた。
そこには、「いま」自分が閉じたネットワークの相互評価のゲームでどのくらいスコアを挙げているかという問題を超越した、時間的な自立を与えてくれる感覚が、それも日常の、生活の内部に存在していた。人は歴史に見られながら暮らすことで、閉じたネットワークの時間的な外部の存在を意識するのだ。
京都のような古い街に暮らすとき、人はそれを意識することなくただ生活の中で歴史に見られることになる。このとき人間は時間をかけて、自己の存在よりも圧倒的に巨大な規模で、時間の流れが存在していることを無意識のうちに認識させられる。これがおそらく、物語化されない歴史へのアプローチのほぼ唯一の回路だ。
移住者としてその土地に接することが、そこを旅先として暮らしの外部に置くのではなく、暮らしの内部として受け止めることが、もっとも効果的に歴史に見られる身体を育むのだ。
その土地を無目的に「遅く」走るとき、僕たちの身体は無防備に歴史に見られることになる。このとき僕たちの身体は走ること以外に、自由な速度を用いてその土地に触れること以外に目的を持たない。セルフィーを撮るべき名所旧跡も、承認を交換すべき他の誰かも必要としていない。そしてそのために、接した場所において目的を持たない。
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「歴史に見られる」という感覚。これはきっと、麒麟山米づくり大学に参加している人たち、Feel度Walkをしている人たち、もしかしたら地域みらい留学の高校生たちががうっすらと感じていることなのではないか。
180年続く酒蔵の米づくりを体感し、酒造りの細部を知る。そこに込められた想いを知る。そして、同時に、酒造りの歴史から見られているのだ。
本書のラストに著者は三つの知恵を提案する。
~~~
第一に、人間以外の事物と触れる時間を持つこと
第二に、人間以外の事物を「制作」すること
最後に、その「制作」を通じて、他者と接すること
人間は、人間外の事物に触れることで人間間の相互評価のゲームから一時的に逸脱する。プラットフォームによって画一化され、同じ身体を持つ他のプレイヤーとの承認の交換しかできなくなった身体がその多様な側面を回復する。ここで大事なのは、その事物を消費せずに、愛好することだ。ここで述べる消費とは、その事物を受け取り、用いることを指す。そして愛好とはその事物を単に受け取るのではなく、独自の問題を設定し、探求することを指す。
このとき僕たちは事物をただ単に見る、触れるのではなく、その事物を用いて何かを制作することが望ましい。そうすることで、僕たちは相互評価のネットワーク(世間)とは、切断されながら、世界と接続することができる。そして制作された事物により、僕たちは自立しながらも開かれることになる。そして制作された事物は、未来において人間たちを「見る」歴史的な主体になっていくのだ。
こうしてその人ではなく、制作された事物とのコミュニケーションに注力することで、情報技術に支援された人間間の相互評価のゲームとは異なるチャンネルでの対話が可能になる。
~~~
SNSによる相互評価ゲームの外部を、ひとりひとりは必要としている。そしてそれは、旅先のどこかではなく、暮らしの内部にあり、住んでいる町の歴史との相互作用にあるのかもしれない。
「いきている」と実感すること。それはひとえに、自分が交換不可能な存在であると認識できることなのだろうと思う。
人間以外の事物にふれ、事物を制作し、それを通じて他者と接すること。
そこに、アイデンティティを取り戻すヒントが詰まっていると思う。
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