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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2015年08月27日

「わかりやすいこと」に価値はどの程度あるか?

「やりたいことがわからない。」
これが一般的な大学生の最大の課題であると思う。

就職活動が始まるまでに、
いや、せめて大学卒業するまでに。

「わかりやすいこと」に価値はどの程度あるか?
「自由はいかに可能か」(苫野一徳 NHKブックス)

この本に挑戦しないといけないタイミングな気がした。
(この前の夏休みに長岡駅で購入したが読み進められていない)
冒頭、「自由であることの苦しみ」について記述されている。

~~~ここから一部引用

現代ドイツの哲学者アクセル・ホネットは
著作「自由であることの苦しみ」の中で、
19世紀の哲学者W・F・ヘーゲルが
すでにこの問題を先取りしていたと言及している。

わたしたちが政治的「自由」や
生き方の「自由」を得たとしても、
まさにそのためにこそ、
わたしたちは「無規定性の苦しみ」の中に
投げ込まれてしまうことになる。

それはまさに
「どのように生きればいいのかわからない」
という苦しみだ。

「自由」と言われながらも
実際は「自由競争社会」であるから、
「やりたいこと」がわかったとしても
それが現実に叶うかどうかはわからない

思想家は
自由ではなく、「他者に対する責任」こそが重要であると言ったりしてきたが
むしろそれは自由の一条件に過ぎないと苫野さんは言う。

序章では、
「自由であることの苦しみ」から逃れるために、
私たちが足を踏み入れてしまう道を3つ提示している。

1つめが「奴隷化」の道である。
あまりに厳しい自由競争社会から逃れるために、
自由を自ら放棄し、誰かの支配を求めるということである。
自由に仕事をすればいいなどと言われるよりも
決まりきった仕事を命じられるままに続けていたほうがよっぽど生きやすい、と。

2つめが「動物化」の道である。
そのつど短期的な欲求を満たしていくものを選び取り、
瞬間的にそのつどの欲求を満足させていく。
ゲームをしたり、ネットで何かしたり、
いまの世の中では過去に比べれば圧倒的に「動物化」が容易になった時代を生きている。

3つめが「新たな大義」の道である。
「他者」や「正義」といったようなものである。
フランスの思想家であるレヴィナスは、自由の上に他者を置く。
他者を尊重することが自らの自由よりも大切である、という主張である。

これらに対して、
苫野さんは、自由は、動物化や他者といった概念の中に位置づけられるのではなく、
それらこそが「自由」の一条件であると言う。

なるほど。
と序章まではこんな感じ。

~~~ここまで一部引用

なるほど。
いいね。
頑張って読もう。

冒頭の「やりたいことがわからない」問題も
根本的原因はおそらくはここ、「自由であることの苦しみ」の中にある。

そして、もうひとつは、
「わかりやすさ」の問題ではないだろうか。
その最大の要因はテレビと学校教育にあると思った。

テレビで重要視されるのは、
「わかりやすいこと」である。
映像を交えて、きっちり編集された動画を
短時間にまとめてみることができる。

これがテレビの価値である。

しかし。
その「わかりやすいこと」は同時に、
思考停止を生んでしまう。

端的に言えば、
テレビCMを見るとその商品がほしくなるのは、
「考えずに買え」と言われているようなものだ。

このテレビの持つ「わかりやすさ」至上主義と
目標設定・達成型のキャリア教育が
「やりたいことがわからない」という病を引き起こしているのではないかと思う。

テレビで放映されるのは、
目標設定⇒困難(挫折)⇒目標達成
というパターンが圧倒的に多い。
「わかりやすい」からだ。

夢を持って、困難に負けずに努力し、
いろんな仲間の支えがあって、最後には目標達成する。
うーん。感動。

きっとそういうストーリーを見せられ続けると、
自分も何か目標を持ってそこに向かっていかなくてはならない。
しかも他者からもわかりやすく説明しなければならない。

そういう思考になってしまうとしても無理はない。

ところがいざ実際に自分の将来を描いてみようとすると、
そこは霧の中で、ゴールが見えない。

でも先生や親は
「将来何になりたいのか?」と執拗に聞いてくる。

「学校の先生になる。子どものころに出会った先生に影響されたから」
「販売員になる。人と話をするのが好きだから。」
「公務員になる。地域の人の役に立ちたいから。」
「パティシエになる。お菓子作りが好きだから。」

いいね。
わかりやすい。
しかもなんか、将来が少し見える。
学校の先生も納得。

この目標設定がはっきりしている、わかりやすい。
というところにあまりにも価値を置きすぎなのではないか、と僕は思う。

目標があることを否定はしない。
とてもいいことであると思う。
生きるモチベーションも湧いてくるし、
困難に打ち勝つ力も出てくる。

しかし。
それが全てではない。

なぜなら。
10年後の世の中は誰にも予想がつかないからだ。

何より、
周りを見て「素敵だなあ」と自分が思う大人は、
20歳で人生の目標を定めてはいないからだ。

だから、現在、自分が「やりたいことがわからない」
状態だったとしても、まったく問題はない。

むしろ昨日のブログに書いたように、
オープンマインドでコーリングに耳を傾けるほうが
よっぽど大切である。

それを「わかりやすい」こと、
あるいは学校で言えば「管理しやすい」ことのために、
自分が不安に思うことは決してないと思う。

「自由であることの苦しさ」を受け止めて、
オープンマインドで、小さなチャンスをつかもう。

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Posted by ニシダタクジ at 07:33│Comments(0)日記
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