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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2014年04月30日

メーカーの誇りはどこにいったのか?



「思想なき日本酒は造らない。」

秋田の日本酒メーカー「新政」が
danchu 3月号に特集された時のキャッチコピー。
熱いな、って思った。


「森を見る力」(橘川幸夫 晶文社)
を読み進めていると、
たしかに、私たちは森を見ずに木を見てきたなあと思う。

目のつけどころがシャープだったはずの
SHARPやパナソニック、NECが大きく揺らいでいる。
価格決定権を大手家電量販店に奪われた。

それは、日本が豊かになり、
電化製品はいきわたり、
必要な商品から付加価値のついた商品へのシフトが進んだこと大きいだろう。
「付加価値」とは本来の必要性以外の要素である。

かつて家電メーカーが
開発費や人件費を換算して決めていた
メーカー希望小売価格は「オープン価格」となり、
ギリギリの卸値で家電量販店が買い、
定価はほとんど流通側が決めた。

橘川さんは言う。
「もっとも利益が捻出できる部分を奪われ、
メーカーは流通の下請けになってしまった。」

システムダイアリーから「未来の手帳」ザウルスを生んだ
シャープはもはや昔話のようだ。

日本語ワープロも一定の使用者層がいた
(ワープロがなくなったときに、嘆いている人が僕の周りでもいっぱいいた)
にもかかわらず、
ウインドウズ95の販売開始と同時に
一斉に日本語ワープロの開発をやめてしまった。

~~~ここから引用

欧米では、これだけパソコンが普及した現在でも、
タイプライターのメーカーは生き延びている。

ワープロもザウルスも
ヘビーなユーザーを抱えていた。
彼らはメーカーは裏切ったのだ。
ユーザーの期待を切り捨てたのだ。

それは絶対にしてはいけないことだ。
商品とは、ユーザーとメーカーが一緒に作ってきたものなのだから。

~~~ここまで引用

そう。
商品はメーカーが作ってきたのではなく、
ユーザーと一緒に作ってきたのだ。

家電メーカーだけではない。
食品メーカーも同じように、

巨大化を続ける流通の覇権争いに
巻き込まれたままだ。

恐竜化するイオン(文中の表現のまま)
は他社から市場を奪うことが戦略である。
「トップバリュ」で激安のPB商品を売りまくるのだ。

それに対抗する
セブンイレブンは「セブンプレミアム」を強化している。

~~~ここから再び一部引用

製造しているのは大手企業が多く、
消費者の評判もよいようだ。

コンビニは陳列スペースに限りがあるので、
セブンイレブン本体が陳列商品を製造したら、
一般のメーカーは排除されざるを得ないので、
PBの下請け企業にならざるを得ない。

この商品は本当に「おいしい」のか?

たとえば、出版社は、
自分たちが表現したいもの、伝えたいものを持つ人たちの集まりである。
自分たちがいいコンテンツを作れば、きっと受け入れられると思って
日夜編集作業にいそしんでいる。

しかしたとえば、印刷会社が雑誌をつくるとすると、
「印刷すること」が彼らの本業だから、
お金をかけてグラフィックデザイナーを使っても、
その雑誌には志がない。
これに広告代理店の思惑まで加わるとさらに違う要素で編集
というものづくりがされるから「おいしくない」ものになる。

セブンプレミアムは
印刷会社の出す雑誌のように思えてならない。
たしかに最新の情報を集め、食材も良質なものなのだろう。
パッケージも広告も話題の人たちを上手に使っている。

しかし、ここには「食品産業」の中にあった「志」を
一切感じることができない。
「おいしいものを食べさせたい」という作り手の意欲はここにはない。

お客は、本当に「おいしい」のではなく、
「おいしいと思わされている」のではないか。
食べ物で本当においしいと思うのは、
素材の力もあるが、作った人と食べる人のコミュニケーションなのではないだろうか。

~~~ここまで一部引用

メーカーの誇りはどこにいったのか。

いや。
おそらくはそれは資質の問題ではなく、
時代の変化なのだろう。

「日本全体を豊かにする」
という大いなるゴールを達成して、
持つべきゴールを失い、
それとともに誇りが薄らいでいったのだろう。

だからこそ。
冒頭に紹介した新政のような誇りある企業に、
人は惹かれる。

そういえば、内野商店街の「マルカク醸造場」の主人が、
「スーパーに卸したことはない。」と言っていたっけ。

メーカーが作った、
誇りある商品、胸を晴れる商品を買うような生活を
僕はしたいなあと思う。

そして、
ユーザーとのコミュニケーションによって、
商品は作られていくのだという原点に返ろう。

橘川さんは「セブンプレミアムはおいしいのか?」の章を次のように締めくくる。

~~~ここから三度目引用

経営を拡大し、スケールメリットを追求し、
売上高と利益率の最大化を目指す運動があらゆる業界にはびこっている。

しかし、それでは「ものを作る」「心を伝える」という
根本的なモチベーションが欠落した、
機械的なルーチン作業だけが残ってしまうのではないか。

作った人、売っている人の見えない商品構造は、
どこか不気味な未来を拡大していく。

現代の経営者は、
まるで、試験の点数だけをとるために勉強して、
何のために勉強しているのかという疑問を感じていない
優等生のように見える。

一体、誰の幸せのために事業を展開しているのだろうか、
僕には分からない。

~~~ここまで三度目引用

いいなあ。こういう問い。
シビれる読書時間をありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:18Comments(0)

2014年04月29日

思考を停止して勉強するという矛盾


「森を見る力」(橘川幸夫 晶文社)

僕は2001年に橘川さんの
「インターネットは儲からない」(日経BP)
を読んだ時から大ファンで、
ほかにも「希望の仕事術」とかも大好きですが、

久しぶりに世の中をぶった斬る大作が「森を見る力」。
帯に書いてある「データを見るな、森を見よ」
というのも熱い。
いいなあ、橘川さん好きだ。

とかつてツイッターで絶賛していたら、
本人からリツイートされて、お昼ご飯をご一緒させてもらったことがあります。
絶賛するためのメディア、それがツイッターです。

まだまだ読み始めたばかりですが、
シビれるところがたくさんあります。

P38「就活地獄はどこから来たのか」

冒頭から

僕たちの社会が失ったものはたくさんあるが、
一番大きな喪失は「社会の教育機能」ではないか。

と始まります。

~~~以下一部引用

かつては地域全体が教育の場であったが、
社会という教育機能が蒸発し、学校だけが取り残された。

かつて職場とは、生産や流通の場であると同時に教育の場であった。
ところが会社が企業と呼ばれるようになったころから職場の意味が変質してきた。

先輩・後輩の序列が失われ、
共同性も失われ、
ひたすら生産効率の数字だけが一人歩きしはじめた。

教育とはコストがかかるものである。
まして全人格的にマンツーマンで育て上げるには、
奉仕に近いエネルギーを必要とする。
後輩に教えなくても自分でやったほうが早い作業も
後輩を育てるためにやらせたいする。

しかし企業はそうした奉仕を不合理と感じた。
必要な人材は外部から完成した人材を供給するか
外部に発注すればよい。
基本教育は専門の社員研修会社に委託すればよい。

「コーチング」という、何を教えるかを無視した、
教え方の技術だけが企業にもてはやされた。
マンツーマンの関係を作るより、効率良い一般的な方法を強いられた。
戦後の個人主義の突出も、そうした動きに拍車をかけた。

出版社は外部の編集プロダクションに作業を委託し、
テレビ放送局は番組制作を外部プロダクションに委託する。
会社の魂である「コンテンツを作る」ということを外部委託してしまえば、
ノウハウを失い、教育しようにも教育のしようがない。

「一緒につくる」という一体感がなければ、
組織は冷たく機械的なものになる。

競争社会というのは、結局、誰ひとり勝ち組になれない社会なのだろう。
買った者は勝ち続けなければ負けてしまうのだから。

現在の大学生は「就活」に苦労しているという。
学生にとって就職の問題は今も昔も大事な問題であった。

しかし、以前は、今以上に就職の選択肢があったのだ。
それは社会に「教育者」が溢れていて、
たとえば、高校に行かないでバイクばっかり乗ってるヤンチャな子も、
町内の自動車修理工場の親父が「おまえ、いつまでもそんなことしてないで、
うちで働いてみる気はないか」と声をかけてくれたり、

大学受験に失敗して自暴自棄になっている子に、
親戚の中小企業の社長が声をかけてくれることがいくらでもあった。
つまり、就職という社会への入口が、社会のあちこちに用意されていたのだ。

しかし、企業が巨大化し、チェーンストア化してくると、
就職することは、巨大な会社に入ることでしかなくなった。

商店街の衣料品店に就職するのと、
ユニクロに就職するのでは、方法が違ってくる。

巨大な企業に入るには、結局、良い大学に入らなくてはいけないし、
良い進学校に入らないといけない、という窒息しそうなパイプに若者たちを
押しこめるしかなくなっている。

90年代にエントリーシートが普及し、
ソニーなどは履歴書欄に出身学校を記入することをやめたことがあった。

有名大学、有名企業という幻想は、
一度、学生も企業も捨てたはずなのに、

何万通とウェブでエントリーシートが届くシステム化された就職活動では、
結局、まずは出身大学で切るという
同じ幻想に引き戻されている。

~~~ここまで一部引用

就職活動があまりにシステム化されて、
ふたたび、「学歴」がモノを言う社会になった。
じゃあ、それに適応するために、
高校生の時はとりあえず勉強していたほうがいいのか?

それは部分的には正しいかもしれないけど、
長い目で見れば、危険だろうと僕たちは思うだろう。

「思考停止して勉強しろ」
という謎の価値観を押し付ける学校は、
本当に本人たちのことを考えているのだろうか。

平田オリザさんの「新しい広場をつくる」に書いてある
東大入学生の文化の地域間格差は衝撃的だ。

東京の私立中高一貫校と
地方の公立地域一番進学校の出身では、
高校までに味わってきた「文化」度が違うのである。
そのギャップに、会話が合わない地方出身者が続出し、
悪くなると不登校・中退につながってしまうという。

中学生高校生たちよ。
勉強してもいいけど、思考停止をしてはいけない。

「学ぶだけでいいのか?」
「なんのために学ぶのか?」
と問い続けながら、考え続けながら
勉強をしていなければならない。

そんな問いのチャンスが得られるような空間を
僕は作りたいんだなあと思った。

「就活地獄はどこから来たのか」を
橘川さんはこんなふうに締めくくります。

~~~ここから引用

誰も信じていないことを狂信しなければ就職が出来ないという、
残酷なまでのプロセスを、人間の生涯にとって最も重要な年代だと思われる
20歳前後の時期に要求する社会は、どこかおかしい。

個人も企業も、自分の利益だけを見て、
それを病的な執念で拡大しようとしている。
そのことによって、窒息させられているのは自分たちなのに。

組織の外側の社会全体を感じるように、
森の中で深呼吸をするように、
僕は、この社会で生きていきたいと思う。

~~~ここまで引用

うーむ。
なるほど。

「就職活動」に違和感を感じる、
っていうのはするどい感性なんだなあ。

だから、高校でも、思考停止して
勉強させられるっていうのに違和感を感じるのもまた、
感性なんだろうなあ。

その「おやっ?」
って疑問に思える感性を
吐き出し、受け入れる場と人間関係を作っていくのが、
「第三の場所」をつくっている人たちの使命なのではないかなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:23Comments(0)学び

2014年04月28日

1冊の本を選ぶということ。

日曜日のツルハシブックスは
落ち着いている。
そして、いろんな人がくる。

よく晴れた日曜日にツルハシブックスに行きたくなる
ってどんなときだろうか。

穏やかな日曜日なのか。
外に出かけていく気分じゃないから、
本でも読もうかと思うのだろうか。
イロハニ堂でゆっくり癒されにくるのだろうか。

土曜日とは
まったく違う空気感があるような気がする。

土曜日は、
比較的元気な人、上昇志向な人、
あるいはタイミングの人が多く来る。
土曜日は出会いが詰まっている。

「土日」
とみんなひとくくりにするけれど、
本屋に限っては、少し違う気がする。

平日に働いている人たちにとっては、
土曜日と日曜日は意味合いがまるで違うだろう。
そんな想像力が求めれているのかもしれない。

昨日。
「元気が出る本を」と言われ、
1冊の本を選んだ。

平野啓一郎「自分とは何か」だった。

何か、1冊の本を提供する。
それってすごいことなんじゃないか。

あの日。
あの時。
あの場所で。

そんなタイミングが重なって、
1冊の本を手にする。
そんな「機会」を提供している。

そのために、
コンディションを整え、
本屋という舞台に立たなければならない、
と改めて思った。

僕たちが提供する一瞬の「機会」が
その人の人生と、世の中を変えていくのだから。



いや。
変えていく、のかもしれない。のだから。

いいんだ。
「かもしれない。」で。
「機会」とはそういうものだからだ。

「かもしれない」という美しさがそこにはある。  

Posted by ニシダタクジ at 06:04Comments(0)

2014年04月27日

人であふれた駐車場



福島正伸さんの
「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」
が文庫化されました。

https://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho

「人であふれた駐車場」の動画はいつ見ても、
熱いっす。

講演はもっと熱いっす。
「花束で見えないんです!」

つらい思いをしているかもしれない新入社員の方へ
オススメの1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 05:13Comments(0)学び

2014年04月26日

農夫であれ

松浦弥太郎
「新しいお金術」(集英社)

どの本にも素敵な言葉がたくさん載っている
松浦弥太郎さんはツルハシブックスで人気のある作家さんです。
この本にも
お金と友だちになる方法がたくさん載っています。

「農夫であれ」
松浦さんの恩師が教えてくれた言葉。

~~~ここから引用

種を選び、土を耕し、種を蒔き、芽が出るのを待つ。
水をやり、肥料をやり、葉っぱが出るのを待つ。
日が照るのを待ち、雨が降り注ぐのを待ち、実がなるのを待つ。

どんな仕事であれ、農夫のごとく働きなさい。
どこかに生えているものを穫ってくるのではなく、
自分で土を耕して準備をし、自分で種を蒔きなさい。
一息に収穫しようと焦らず、時が熟すのを待ちなさい。

(中略)

実りのひとつがお金であれば、
農夫のごとく自分で育てたいと僕は思います。
猟師であれば、駆けていって、獣を打てば収穫となるのでしょうが、
それは命を奪うこと。

自分より弱い誰かの命を奪って何かを得れば
いつの日か自分よりもっと強い人に、
自分の命を奪われるサイクルに組み込まれてしまうことでしょう。

(中略)

僕らはみな「自分株式会社」を営む農夫なのですから、
やり方を教えてくれる人はいません。
自分の畑に合ったやり方は自分で見つけ出すしかないのです。

~~~ここまで引用

いやあ。
いいなあ。

やたろうさん。
誰もが「自分株式会社」を営む農夫。

今日はどんな種を蒔こうかな。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)言葉

2014年04月25日

複数のコミュニティを持つということ

「コミュニティ」が解決する。

うまく説明できないけど、そう確信したのは2002年だったかな。
不登校の中学校3年生と接してから、
「15歳に、学校の先生ではない大人に出会ってもらいたい」
だけをモチベーションにNPOを設立。

15歳が自分と自分の住んでいる地域を好きになり、
自分と地域と社会の未来創造へ歩き出している地域社会の実現
を理念にやってきた。
それがミッション。

思えば、
「ビジョン」っていうのを描いて来なかったんじゃないか。
そしてそれを一言で表現することをしてこなかったんじゃないか。

「孤独と不安のレッスン」とか「空気と世間」(ともに鴻上尚史)とか
「わかりあえないことから」(平田オリザ)とか
「認められたいの正体」(山竹伸二)とか「自分とは何か」(平野啓一郎)とか
を読むことによって、

その15歳から25歳くらいの若者の
(もちろん僕自身が15歳から25歳だったときの)
「生きづらさ」
が言語化されてきたような気がする。

そして。
社会人向けには、


「ナリワイをつくる」(伊藤洋志 東京書籍)


「人生が変わる2枚目の名刺」(柳内啓司 クロスメディアパブリッシング)


「LESS IS MORE」(本田直之 ダイヤモンド社)

といった本が、
「パラレルキャリア」や「デュアルライフ」の必要性を熱く語ってくれる。

経済社会的視点から見ると、
「パラレルキャリア」(複数の仕事を同時進行していくこと)
は避けられないだろうと思う。

そしてそれは、
「空気」と「世間」に書いてあるように、
「世間」との関係性の中での「個人」と「社会」の出現の必然でもある。

もはや守ってくれる「世間」が存在しない。
会社にも、地域社会にも。

それは子どもたちも同じで、
学校やクラスや部活動という「世間」はもはや自分を守ってくれないのである。

だとすると。
「2枚目の名刺」のような本業以外の活動は、
経済的にだけではなく、
精神的に非常に意義があるだろうと思われる。

だからこそ。
中学生・高校生・大学生は地域に出るべきだ。
そしてそこに学校とは異なる人間構成の
コミュニティを形成していくことだ。

それは部活動のような同質の集団では、
得られない「居心地」を手に入れるだろう。

もちろん。
それが簡単に得られるわけではないだろう。
なんらかの「貢献」が可能になるようになって初めて、
コミュニティの一員となれるのだ。
(それはもしかしたら「若い人がいるだけで明るくなるよ」と言われることかもしれないが)

そうした「複数のコミュニティ」を持つからこそ。

孤独に耐える力がつき、
学校や職場という「世間」につぶされずに、
他者や社会とのコミュニケーションを重ね、
承認欲求を少しずつ満たしながら、
分人の総合体としての自分を形成していくのだろう。

つまり。
「15歳が自分と自分の地域を好きになり、
自分と地域と社会の未来創造へ歩き出している地域社会」とは、

15歳から25歳くらいの若者が
学校や職場以外の複数のコミュニティに属し、
そこで、仲間とコラボしながら小さなアクションを起こしている状態が
日常化している地域社会、のことではないだろうか。

そんなプラットフォームを作りたかったのかもしれないなあと
今頃説明できるようになりました。

さあ。
あとはそれを一言で表現すること。

「2枚目の名刺」とか
すごくいいワンフレーズだなあと。
「第三の場所」とかもそうだけど、
数字が入っているとすごく具体的にイメージできるなあ。

いまのところ。
「共演者になれる本屋」
あたりかなあ。

まだまだ、明確じゃないなあ。
コピーライターなあなた、教えてください。  

Posted by ニシダタクジ at 06:13Comments(0)思い

2014年04月24日

「世間」の崩壊と「空気」の台頭


「空気」と「世間」(鴻上尚史 講談社現代新書)

読み終わりました。
いやあ。
面白い。
こういう「生きづらさ」の解説本って好きだなあ。

鴻上さんの本を
中学生・高校生・大学生に届けたいと強く思う。

~~~ここから一部引用しながら

クラスや職場で友だちから
「最近、あんた、評判悪いよ」と言われ、
あまりいい気持ちはしません。
「誰がそんなことを言っているんだよ?」
と聞き返せば、友だちは
「みんな言っているよ」と答えたとします。

冷静に考えれば「みんな」が言っているはずはないと
すぐに分かります。
多くの人がいうことはあっても、例外なく「みんな」がいうことはまずないでしょう。

そのときに
あなたがどのくらい傷つくか、が
「世間」の力がどのくらい残っているか、
を示していると鴻上さんが言います。

「みんなが言っている」というのは
「世間」がそう言っているということです。

もし、「世間」が完全に機能していれば、
「みんな言ってるよ」と言われれば絶望するしかありません。

もし、「世間」が完全に力を失っていれば、
「みんな?みんなが言うわけないだろ。
英語で言えばエブリバディーだよ。
そんなわけないじゃん。」
と言って、鼻で笑って終わりです。

この「みんな言ってるよ」に対して
どのくらいズキリとくるかであなたがどれほど安定した「世間」に
住んでいるかがわかります。

「世間」という言葉は、
自分と利害関係のある人々と
将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称なのである。
政党の派閥や大学の同窓会や会社内部の組織など、
それらは基本的には同質の人間からなり、外国人を含まず、
排他的で差別的な性格をもっている。(阿部謹也)

かつて、地域社会を強く結び付けてきた地域共同体という「世間」や
会社組織を結び付けてきた会社共同体という「世間」は
都市化と経済的グローバル化によって、緩やかに解体されました。

農業の機械化によって、
村落共同体として田植え、稲刈りを共同作業で
する必要はもはやありませんし、
誰かが困ったら助けてあげる、というようなセーフティネットも機能しません。
だから祭りなどの共同作業に参加しない「世間」を気にしない人も増えていくのは必然の結果です。

会社という共同体も
経済的グローバル化によって解体されつつあります。

「終身雇用」と「年功序列」は
昨日のブログに書いた「世間」のルールを
会社用語で置き換えたものです。

「共通の時間意識」と「贈与・互酬の関係」を
「終身雇用」に
「長幼の序」を
「年功序列」
という単語に翻訳しました。

こうして会社は強力な「世間」をそこに構築していったのです。

そして経済的グローバリズムが、
「成果主義」の名のもとに、
「終身雇用」と「年功序列」をなくしていった、
つまり、「世間」を解体していったのです。

だからこそ、
おじさん社員の「今夜、一杯どうだい?」
という誘いに対して、さらっと
「いや、今夜はデートですので」
と断れるようになったのです。

このように、「世間」はだんだんと壊れていき、
ということは、
会社というセーフティーネットは機能しないということです。

いつ会社を解雇されるかわからないという不安の中で
「世間」の一員として「共通の時間意識」を持つことが不可能になり、
飲み会を断るという状況になっているのです。

そこで、「空気」が台頭してくるのだと著者は言います。

「世間」のルールが部分的に成立しているもの、
これが「空気」だと言います。
そこにあるのは、「共同体の匂い」です。

つまり、
「空気を読め」とは「共同体の匂いを読め」
ということです。

その共同体の匂いをたとえばマスコミがつくりあげて
それを共有することで、

「私は孤独じゃない。私たちはバラバラじゃない。
なぜなら同じものを見て、一緒に笑える人たちがいる。
一緒に笑えている人たちの中に私がいる。」
という安心感を得ているのです。

不安になればなるほど、
敏感になり、場の空気を探り、従おうとするようになるのです。

~~~ここまで一部引用しながら

日本人にとって、「世間」は神様のようなものだった、と著者は言います。
なるほど、たしかにそうだなあと思います。
しかし、「世間」が大きく壊れているいま、
私たちは「世間」と「社会」をうまく行き来する必要があります。

「社会」に生きる人として
「社会」(自分が属している「世間」の外)にいる人に
対して、伝わる言語で相手に伝え、
コミュニケーションをとっていかなくてはなりません。

そして、
ゆるやかな共同体を新たに形成しながら、
この「世間」なき時代をしなやかに生きていかなくてはならない。

これがきっと
中学高校大学で学ぶべきことなのだなあと思います。

「空気」と「世間」
若者の生きづらさを考えたい人が読むべき1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 06:17Comments(0)

2014年04月23日

「世間」と「社会」を分けるもの


「空気」と「世間」(鴻上尚史 講談社現代新書 2009)

孤独と不安のレッスン(2006)
に続いて出た
若者の生きづらさを解読する1冊。

これも、おもしろい。

「空気を読む」
の「空気」とは「世間が流動化したもの」
だという。

ではその「世間」の基本ルールとは、

1 贈与・互酬の関係

地縁・血縁コミュニティでよくあるもらったら、お返しする法則のこと。
もちろん会社付き合いでもある。
部長にお中元だしたか?みたいな世界。

2 長幼の序

年齢が高ければ偉いという序列。
「1年、ジュース買ってこい」というような
先輩、後輩などという世界は欧米にはない。

3 共通の時間意識

同じ時間を共有しているという意識。
電話の「お世話になっております」に対して、
「いや、まだ初めての電話で、これからお世話するかもしれませんが。」
という人はいない。

4 差別的で排他的

自分の所属する「世間」のルールを
破った時に、誰もが差別され、はじき出される。

5 神秘性

合理的に説明できない「しきたり」や「伝統」や「迷信」がある。
それは「世間」の中にいる人しか理解できない。

というような「世間」は
実はキリスト教圏には存在しない、といいます。

だから、西欧人には、
合理的に無理だと言っているのに、
「そこをなんとか」とかって食い下がる言葉は
理解不能なのだそうです。

しかも、
そういわれると日本人はなんとかしようかな、
と思ってしまうのです。

西欧では「個人」と「社会」の関係が存在します。
そしてそれは、
自然と成り立っていたのではなく、
キリスト教信仰を浸透させるために、
民間信仰や呪術的なしきたりを禁止させるところから始まります。

つまり、
ヨーロッパでは、
上に書いたような「世間のルール」を
ひとつひとつ、つぶしていったのです。

留学したりして、
西欧かぶれした人が言うことがあるそうです。

「日本人は自分で食べるものも自分で決められない」

たとえば昼食に自分はパスタが食べたいと思っていても、
友人たちの3人が
「ラーメン食べたい」と続けば、「じゃあそうしようか」
ということになります。

そこで、
「だから日本人はダメなんだよ、個人がしっかりしてないんだ」
と言ってしまう。

著者が言うには、それは
自立とか個人の強さの問題ではなく、
欧米人は神との関係が問題であり、
日本人は「世間」との関係が問題なのである。

ラーメンを食べに行くという
「世間」の「空気」を絶妙に読み取って
コミュニティを維持してきたのです。

「世間のルール」は
悪いことばかり書いてあるように思えるかもしれませんが、
たとえば「差別的で排他的」というのは、
裏を返せば、その世間に入ってしまえば、ずっと守られる、ということを表しています。

そう。
明治以降に激変する生活の中で、
「個人」や「社会」といった西欧的考え方ではなく、
「世間」が人間が生きるのを支えてきたのです。
いま風に言えば、世間こそが「セーフティネット」だったのです。

な、なるほど~。

「空気」を読むのが難しいのは、
「空気」とは、
世間の5つのルールのうちのいくつかが
成立していない部分的な「世間」のことであるからと著者は言います。

そこには実態がないのに、強烈な拘束力がある。
だから「空気読めよ」という言葉は人を傷つけるのです。
これはまた、示唆に富んだ1冊。

「私とは何か?」
と共に読みたい本ですね。

これから第4章に突入します。  

Posted by ニシダタクジ at 04:43Comments(0)

2014年04月22日

ワンフレーズのチカラ

「味噌カフェ」
というキーワードを手に入れるだけで
人はこんなにも行動的になり、
そしてみるみるうちに情報が集まってくる。

伊藤薫さんを見ていて、
そんなことを実感している。

ワンフレーズで
自分の夢を表現すること。
それってすごくチカラがあるんだなあと。

「遊べる本屋 ヴィレッジヴァンガード」
「第三の場所 スターバックスコーヒー」

そんなのを僕も表現しなきゃいけないなあ。

僕が実現したいものは、
一言で言うと、なんだろう。

共演者になれる本屋 
Shared story

うーん。
もう少しだな。
本屋、ではないような気もするし。

もっとユーザーに寄り添った言葉、
潜在的にほしかったものを表現する言葉がほしい。

ワンフレーズのチカラ。
常に考えていかないと。  

Posted by ニシダタクジ at 05:59Comments(0)言葉

2014年04月21日

大事なのは「選択の結果」ではなく「選択の基準」


「ツキの正体~運を引き寄せる技術」(桜井章一 幻冬舎新書)

20年間無敗の男、桜井章一。
これは、麻雀の話だ。

しかし、深い。
そして、熱い。

特に第二章「すぐやる人」はツキまくる
が僕にとってはシビれる言葉だらけ。

冒頭から、

麻雀は1枚ツモったら、1枚捨てなければならない。
「何かを得たら何かを失わなければならない」という点と
「選択の連続である」という点で、
人生と似ているかもしれません。

なるほど。
たしかに似ている。

考えすぎずに、自分に素直になって、
自分の目で見極めたことを信じ、
いいと感じたほうを即座に選べばいいと思うのです。

~~~ここから引用

大事なのは「選択の結果」ではなく、むしろ「選択の基準」です。

(中略)

いわば、「自分の麻雀を貫き通すために、どの選択がベストか、ということです。
あがれないかもしれない、相手の手に振り込むかもしれない、
それでもそうした結果を恐れずに行うべき選択、それが「正しい手順」なのです。

常に正しい手順を打っていると、必ずツキが回ってきます。
金とか地位とか名誉とか、
そんなつまらないことを基準にしないで、
「本当の自分がまっとうに生きる」ということを基準にして、
いいと感じたほうを迷わずに選べばいいのです。

仮にそのときの勝負には負けたとしても、
そういう決断の積み重ねが、
あなたを確実に強い人間にしていくのです。

~~~ここまで引用

いいですね。
なんか、めちゃめちゃ真実。

このあと、
感性の大切さ、とか
バカになること、とか
捨てること、が書かれていて、ラストはこのように締めくくられます。

~~~ここからさらに引用

すべての局であがる必要はないのです。
ここだけはどうしてもあがりたい、という勝負どころで、
きっちりとあがりをものにすればいい。
そのために、どんなに手が悪くても、流れが悪くても、
それにふさわしい手順を打ちながら、ターニングポイントに向かって
力を溜めていくのです。

内容と勝負の関係を、私はこう考えています。

理想的なのは「よい内容で勝つ」こと。
次に望ましいのは、「よい内容で負ける」こと。
3番目が「悪い内容で負ける」ことであり、
最も下なのは「悪い内容で勝つ」こと。

(中略)

今は流れが向かずに負けているけれど、
ひるむことなく、正しい手順を堂々と打ち続けている人間。
長い人生の間に、どちらが強くなれるか、どちらに本当のツキが
回ってくるかは、言うまでもありません。

今の時代は、いわば流れが逆になっている状態なので、
最も価値の低い「悪い内容で勝つ」という現象が頻繁に起こっています。
そして、
「内容なんか関係ない。勝てばいいんだ。」
などと言う輩が大手を振って歩いています。

~~~ここまで引用

いいっすね。
なんか、現代社会の闇を鋭く突いている内容で
衝撃を受けます。

だからこそ、体にも心にも
「ナリワイをつくる」の時代なのですね。

内容よく暮らすということ。
ここから始まります。

最後に
20年間無敗の男が語る熱い一言を。

あがれなくても、振り込んでしまってもかまわないから、
「自分の麻雀」を打ち続けていく。

やっぱ、これですね。

「自分の麻雀」、打ち続けていますか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:08Comments(0)

2014年04月20日

「働き方研究所」のある自動車学校

「働き方研究所」@新潟中央自動車学校の
第1回の朝活でした。
「はじめてみよう朝活~ボクらで新潟のこれからを話そう」


1年生から4年生まで8名が集まりました。

なんと、今回は東京からも参加!
商店街でいろいろ活動している二人の
話から始まりました。

「地域活性について、学びたいと思っています。
具体的には、商店街でカフェを運営したりしています。」

「おもしろそうだから」「人に誘われたから」
参加した1年生、2年生は、ちょっぴり不安。
「ついていけるのかな」

ということで
グループを2つに分けます。


うさぎさんチーム


かめさんチーム

分けたところで、
お題は。。。

1 「地域を元気にする」とは、具体的にどういうことか?
2 そのために大学生がいますぐできることは何か?

ということで話し合ってもらいました。

このときに、
ポイントは、

「場のチカラによって、いい意見が出る。」
という前提と
「それを引き出すのは素人の質問(amateur’s question)である。」

ということなのかな。

そんなのをひとつひとつ体感していくと、
就職したときに、一番下っ端だからと言って、
黙っているのではなく、
積極的に発言(質問)して、場のチカラに貢献するようになる。

そうそう。
「場のチカラに貢献する」
っていう感覚が大切だと思う。

そして、
自動車学校内に
「働き方研究所」があるのは、
まさに「場のチカラ」を最大化するためだ。

多様な大学生が集まる。
教習生用のバスが市内のほとんどの大学から
出ている。

この先、教習生がどんどん入ってくるようになるから
高校生も参加する。

そのときに生まれる
偶然の場。

「多様性」と「偶然性」の中に
「可能性」が生まれてくる。

これが
僕の考えるイノベーション理論だ。
その可能性にみんながワクワクして、
いい「場」というのが形成されていく。

自動車学校にある働き方研究所は
そんな可能性を秘めている。

またひとつ、いい場を生み出していこう。
ここから始まる物語がきっとある。  

Posted by ニシダタクジ at 06:15Comments(0)日記

2014年04月19日

古い地図を捨てる

20代は捨て。


「自由であり続けるために、20代で捨てるべき50のこと」(四角大輔 サンクチュアリ出版)

この本、久しぶりに読んだけど、
やっぱり名著だ。
30代にも響きまくる。

時間があったら、
今日、何をしようか。

ではなくて、
何を捨てようか?
と考える。

「小銭入れを捨てる。」
それは、不用意な出費をしないため。
小銭でお釣りをもらったときはすべて寄付をすると決める。

かっこいいな。
「今日もていねいに」の実践編な気もする。

「なじみを捨てる」
いままでやってきたから、こうやるとかを捨てる。
いつもの、を捨てていく。

そしてラスト
「古い地図を捨てる」
過去うまくいった成功体験を捨て、
いまの自分の感性を信じて判断する。
そこからだ。

すべては捨てることから。
昨日、ケータイをdocomoからauにうつりました。
番号は変わりません。
10年以上のおつきあいでした。

「ロングエンゲージメント」とはなんだろう?
と考えさせられました。
電気屋さんの機械的な説明に、
心が踊りませんでした。

次のステージへ行くには、
まだまだ捨てるものが多そうです。

「今日もていねいに」

「自由であり続けるために、捨てる。」

をテーマにいこうかなと思った1日でした。  

Posted by ニシダタクジ at 06:07Comments(0)学び

2014年04月18日

つながりの中に入っていく恋愛型コミュニケーション


「明日のコミュニケーション」(佐藤尚之 アスキー新書)

読み終わりました。
これからの広告についての
熱い示唆。

ソーシャルメディアによって
関与する生活者の幅が広がった。

「アクティブ関与層」(積極的に関与する人、もともと影響力があった人たち)だけではく
「潜在関与層」(関与したかったけどいままで関与する方法を持たなかった人たち)、
「プチ関与層」(深く関与はできないけどちょっとだけ関与したい人たち)が
さまざまなことに関与できるようになった。
「プチ関与層」でいえば、ソーシャルメディアで「いいね!」を押したりすることが小さな関与だ。

だからこそ、
これからの企業と生活者のコミュニケーションは
恋愛に近づいていくと著者はいう。

マスメディア全盛期。
たとえるならば、「口説く」コミュニケーションだった。

「ねぇ!聞いて聞いて!オレってスゴイんだよ!
いいヤツなんだし、恰好いいし、大評判なんだよ!
こんなオレ、いまお買い得!
絶対オレを選んだほうがいいよ!」

というようなアプローチでテレビや雑誌、新聞に
広告を打ち続けた。

これではもはや、モテないだろう・・・(笑)

ソーシャルメディア時代のアプローチは、
「愛される」コミュニケーション

「私はあの人のこと好きだよ。まじめだし、親切だし。
あなたにもいいと思うわ。」
「ボクは、一緒に仕事した。とてもいい人だった。おススメ。」
「アタシは顔は好みじゃないけど中身はいいから、あなたとは合うんじゃない?」
と自分とタイプや環境が似ている人がリコメンド(推薦)してくれる言葉が一番信用できる。

つまり、「口説く」から「愛される」
コミュニケーションに変わっているのだ。

このような恋愛関係をつくるために、
「人と人とのつながりの中に入っていく」
(=ロングエンゲージメント)
のやり方がこちら。

~~~ここから引用

・役に立つ
(生活者の役に立つ企画を中心にすえる)
みなに喜ばれ、使ってもらえるテクノロジーやサービス

・地道に長く貢献する
(生活者に誠実に向き合う。手離れ悪く努力する)
誠実でがんばりが必要な地道なキャンペーン

・切っても切れない仲になる
(コンテクストを創出する)
商品開発者の熱い志に触れると生活者の自分ごとになる

・お土産を持っていく
(いま流行っていることを企画にとりいれる)
ここ数年でいえば社会貢献アイデアなどを持っていく

・話のネタを提供する
(友人に話したくなる話題を作る。発見させる。)
人に言い触らしたくなる話題をつくる

基本は
「自分だったらどういう人を受け入れるか」
「どういう人であれば愛せるか」
をいろいろ考えること。

~~~ここまで引用

双方向コミュニケーション。
これが、ビジネスの場面では最も必要になってきている。

それなのに、講義型の授業をやり続けていて大丈夫なのだろうか、
答えのある講義を受け続けていて大丈夫なのだろうか。

双方向コミュニケーションから価値を生んでいく営み。

たとえば、フリーマーケットのような小さなビジネス
を始めてみることがとても大切な経験なのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:28Comments(0)

2014年04月17日

ソーシャルメディア上の流通貨幣は「共感」である


「明日のコミュニケーション」(佐藤尚之 アスキー新書)

ツイッターやフェイスブックといったソーシャルメディアは
「共感メディア」であると言われる。

著者は、
電通でCMプランナーなどを経て
現在はコミュニケーションディレクターを名乗っている佐藤さん。

2011年10月に発行された本。

この本は主にソーシャルメディアでの
コミュニケーションを題材にした1冊。

第3章の解析はなるほど、と唸るものが多数ある。

ソーシャルメディアにおけるコミュニケーション視点でのキーワード
1 共感を纏わない情報は広まらない。

そして、その「共感」には、2種類存在すると著者は言う。

「情報そのものへの共感」と
「発信元への共感」である。

どんなときに、人は、
フェイスブックでいいね!を押し、
ツイッターでRTするのだろうか?

それは自分にとって重要な情報だということよりも、
共感できる自分の親友だったり、
尊敬している人物だったり、超有名人の発言だったりすると
人はいいね!やRTしたくなるのである。

このように
「誰が発言したか」「誰がRTしているか」「誰がいいね!やシェアをしているか」
がソーシャルメディアにおいては大切なのである。

これは企業にたいしても同じで、
スティーブジョブズを愛していた人たちが
アップルの新商品情報を
RTしたりシェアするのは容易に想像できる。

つまり、アップルという発信元の情報は
単なる情報ではなくてすでに共感を纏った情報なのである。

そしてそれどころか、
ネガティブな情報、つまり悪い噂がまわってきても、
それは自分の友人や知人には教えない。
それどころか、擁護し、その悪い噂を否定して回ったりもする。

そして、僕がもっともビビったのは次の項目だ。

~~~ここから一部引用

3 有益である可能性が高い情報に受動的に出会う

たとえば、
ツイッターで10人しかフォロワーがいない人が
「とても共感できるツイート」をし、
10人のうちの誰かがそれをRTしたとする。

そのRTを読んだ人が
「お!おもしろい!」と思ってまたRTする。

そして何人かのソーシャルグラフ(ネット上の人間関係図)にを介して、
発信元の発信力とまったく関係なくその情報の共感力のみで広まっていく。
そしてあなたの目の前に来る。

つまり
「あなたに有益である可能性が高い情報」が勝手にやってきたのだ。

「勝手に」というのは、
あなたが能動的にその情報を得ようとしたのではなく、
受動的にモニター前にいただけだ。

これはたとえばテレビと一緒である。
テレビも受動的に待っていると勝手に向こうから情報がやってくる「受動メディア」である。

これはネットが受動メディアに変わった瞬間だ。

ネットはずっと能動メディアと言われてきた。
自分から検索して情報を取りにいったり、
クリックしてリンクを辿らないと情報を受け取れなかったからである。
でも、ソーシャルメディアではそれが根本的に変化する。

~~~ここまで一部引用

なるほど。

これは
ネットが受動メディアになったというよりも、

能動メディアと受動メディアの双方を
手に入れたというほうがしっくりとくる。
そしてまさにこれが
ソーシャルメディア普及の要因なのだろうと思う。

能動的ではなく、受動的に
情報が入ってくる。

たとえば、
ブラウザを開いた初期のページは
僕は昔はYahoo!Japanを使っていたが、
だいぶ前からgoogleである。
検索やgmailが開きやすいからであると思っていたが、

実はYahooに出ているニュースをクリックしていて
時間が過ぎているのが嫌だったのが本当のところだ。

「ポータルサイト」はまさに
受動的に情報が入ってくる。
全国でどんなニュースがあったのか、
スポーツの結果はどうだったのか、
そんなことがリアルタイムに流れてくる。

それを受け取るのは非常に受動的だ。

受動的な状況は楽だ。
たとえば、ツイッターやフェイスブックの
タイムラインを見れば、
友人たちの日常がひたすら流れ続けている。
そこに「おもしろい」と思える情報もあるだろう。

ソーシャルメディアはそのような受動性と
自分が発信できる能動性を併せ持つから、
人がワクワクできるのだろうと思う。

だからこそ、
「共感」を集められる人、そして場所、さらには活動が
これからメディアパワーを持ってくる。
企業もまったく同じだ。

さて。
次からは第4章。
このあとも楽しみだなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:44Comments(0)

2014年04月16日

私という存在は他者との相互作用の中にしか存在しない

昨日は、新潟中央自動車学校での「働き方研究所」
の第1回夜活でした。


3大学の1年生~4年生までが
参加して、「これからの大学の話をしよう」
というテーマでトークしました。

みんな本音が話せていたので、
場としては一定の成功かなと思いました。
1年生と3年生では視点が違うのが新鮮でした。

さて。
本日もこちらの本。


「私とは何か‐個人から分人へ」(平野啓一郎 講談社現代新書)

あまりにも興味深かったので、
2日目にして読了。

「個人主義」に対して、
個人を対人別の人格へと分けた「分人」を単位とした
「分人主義」を唱える著者。
分人そのそれぞれが「本当の自分」であるとする。

そして個性とは
「分人の構成比率」だと言う。

たとえば、
僕が本屋さんにいるときと、
まきどき村の畑にいるときでは、まったく別人となっている。
まきどき村には、圧倒的な開放感がある。

本屋にいるときは、
初めてのお客さんにどうやって話しかけようか、ドキドキしている。
大学生の悩み相談をされたときは、
きっちりを向き合って話をしなければならない。

「誰とどう付き合っているかで
あなたの中の分人の構成比率は変化する。
その総体があなたの個性となる」(本文より)

だから個性とは
生まれつきの生涯不変のものではない。

だから、
小学校からの友人が中学に入って
急にヤンキーになってしまっても、
「本当はあんなヤツだったんだ」と思ってはいけない。
ヤンキー仲間との「分人」比率が高まっていっただけだ。

「分人」モデルには
自我や「本当の自分」といった中心は存在しない。
しかし、その時々に大きな比率を占めている分人はある。

高校時代は部活の仲間に対しての分人としての自分だったり、
会社に入ってからは上司に対しての分人かもしれない。

それら、足場となるような重要な分人を
「一時的に」中心として、その他の分人の構成を整理することもできる。

この分人主義は
人間関係に悩む人が多い現代において、
大きなリスクヘッジになるだろうと著者はいう。

たとえば、
学校でも職場でもつらいいじめに遭っているとする。

そのときに
「自分は本質的にいじめられる人間だ」と
思う必要は全くない。

それはあくまでいじめる人間との関係、
その人に対する分人の問題である。

そうであれば、
学校や職場以外の
安心できる居場所にいる人に対する分人を足場に
分人を再構成していくことが可能になる。

「居場所」あるいは「コミュニティ」とは、
自分のお気に入りの分人を演じられる場所なのではないか。

いわば、
「あなたといるときの私が好き」

これが発展していくと恋愛になっていくのだろう。

~~~ここから引用

人間の身体は、なるほど、わけられないindividual。
しかし、人間そのものは、複数の分人に分けられるdividual。
あなたはその集合体で相手によってさまざまな分人を生きている。

(中略)

私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。
つねに他者との相互作用の中にある。
というより、他者との相互作用の中にしかない。

~~~ここまで引用

ということは、
「居場所」をつくる
とか
「たまり場」とか
「プラットフォーム」とかは、

自分がそうありたいという分人になれる場所をつくる
ということ。

そういう意味では、
昨日の新潟中央自動車学校での「働き方研究所」での

各人が演じた「分人」は
なかなか心地よかったのかなあと思います。

自動車学校という空間。
他大学の学年が違う人たちの集まり。
少しの緊張感とリラックスできる場づくり。
これは、いい場になる予感がしました。

大学生の皆様、
免許を取るなら新潟中央自動車学校ですよ。
僕までお問い合わせください。  

Posted by ニシダタクジ at 09:09Comments(0)

2014年04月15日

「本当の自分」という幻想


「私とは何か‐個人から分人へ」(平野啓一郎 講談社現代新書)

「本当の」自分とは、
いったいどこにいるのだろうか?
10代のころ、
多くの人が抱いたであろう疑問。

もしかしたら、就活中の大学生も自己分析をしながら、
本当の自分を探しているのかもしれない。

学校や家庭、部活、気の合う友達といるとき。

私たちは、そのときどきに応じて、
特に居心地の悪い空間にいたとき、
「場の空気」に合わせたキャラを使い分ける。

そしてあとで
「あれは本当の自分じゃない」と自分に言い聞かせる。

こんな風な
「本当の自分/ウソの自分」モデルは、
手軽でわかりやすい。

しかし著者は、
そのそれぞれで演じられる自分に序列はない。
つまり、演じられるどれもが本当の自分の姿であり、
個人は場面場面で顔を出す「分人」の集合体であるという。

人間は唯一無二の「(分割不可能な)個人individual」ではなく、
複数の「(分割可能な)分人dividual」である。
そして分人それぞれには価値の序列はない、
とするのが著者の考え方だ。

「本当の自分/ウソの自分」モデルは、人を苦しめる。
そのときどきでキャラを作っている(=ウソの自分を演じている)のだとすると、
私たちの人間関係とはいったいなんなのか?
さっきまで親しくしていた友人や恋人との会話は全部見せかけだけのものだったのか?

「本当の自分」を隠し続けて、
ウソの自分で中学高校時代を生き続けていたのか?

そんなことはない。
そのそれぞれが本来の自分の姿であり、
それが一通りの「本当の自分」である必要などない。

お互いがお互いを
「分人」の集合体だとして接することが
コミュニケーションの秘訣だという。

なるほど。

そういえば僕が中学校に3週間、教育実習に行った時(32歳のときに行きました)の
もっとも大きな経験は、
音楽部や美術部の子たちの教室と部活動との表情の変化だった。

教室ではあんなにおとなしく見えた子たちが
部活になると急に生き生きと瞳を輝かせ、
音楽や絵に取り組んでいるではないか。

僕はあのとき、
「ああ、教室での姿だけが子の姿じゃないんだ」
と思った。

そして、そのときに、
「学校以外に、そんな顔が見せられる場所が地域にあったらいい」
と、教師になる道は閉ざされた。(というか自分で閉ざしたので結局教員免許を持っていない)

この本に出てくる「分人主義」に基づき多様な居場所をつくり、
多様な分人を演じられる空間をつくるということ、
そしてそのそれぞれが「本当の自分」だと伝えることが
何よりも必要なのだろうと思う。

よく、「ネット上では別人」というようなことも耳にするが、
それもひとつの「分人」だと思えば、
それを受け入れればいいだけだ。

では、なぜ、ここまで「個人」が
クローズアップされてきたのだろうか?

文部科学省の中央教育審議会で
「個性の尊重」が明確に目標として掲げられるようになったのは、
1980年代前半のことだという。

僕らが属する団塊ジュニア世代が
小学校に入るころから「個性尊重」の教育が始まった。

その理由は、
「将来的に個性と職業とを結びつけなさい」
という意味である。

・自分のやりたいことを見つけなさい
・努力して夢を実現しなさい
・社会に出て自分のしたい仕事をすることこそが個性的に生きるということ
・自分の個性を発揮するのはまさにその時である。

とはいえ、
自分のしたいことがそんなに簡単にわかるわけがない。
夢や希望を持て、と簡単に大人は言うが、
この複雑で変化を続ける社会へ出ていくのに、
知識も経験もない若者がそんなに簡単に将来展望を持てるはずがない。

ここでこの本のハイライト的な文章が来る。

~~~ここから引用

職業の多様性は、元々は、社会の必要に応じて生じたもので、
色々な個性の人間がいるから、それを生かせるように多様な職業が作られた、
というわけではない。

手紙を届けるのが得意な人がいるから、郵便局が作られたのではなく、
手紙のやりとりが必要だから、郵便局が作られ、そこで働く人が求められているのである。

~~~ここまで引用

そうそう。
それそれ。

だから、個性に合わせて職業を選ぶ、のではなくて、
「職業に合わせて、自分の可能性を開花させていく」
というのが僕の仕事観だ。

このような「個性尊重」の教育と、
先に出てきた「本当の自分」との狭間で、
若者たちは揺れていく。

とくに就職活動時期はそうだ。

「本当の自分」がやりたいこと、得意なこと、人の役に立てることは
いったいなんだろうか?

そうではなくて、
「会社員を演じる自分」がその会社内で
最大限に果たせる役割を果たしていくこと、
それだけでいいのではないか。

あるいは、それだけではつらいのならば、
社外の人間関係をたくさんつくり、
様々な自分を演じていけばいいのではないだろうか。

「本当の自分」幻想を打ち破ること。
ここは、生きていくのに大きなことなのかもしれない。

まだ第2章までしか読んでいないのでつづきをお楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 06:35Comments(0)

2014年04月14日

三冊屋という編集力

松岡正剛さんの「三冊屋」
http://es.isis.ne.jp/sansatsuya/

本は三冊で読む。
すると世界がグッと広がる。
こういうのがブックセレクト
の面白さなのかもしれない。
セットで読むと相乗効果のある本もあるよね。

僕のいまイチオシは
「いま、なぜナリワイか?」
の3冊セット×2

「ナリワイをつくる」(伊藤洋志 東京書籍)
「月3万円ビジネス」(藤村靖之 晶文社)
「二枚目の名刺」(柳内啓司 クロスメディアパブリッシング)

この3冊で、パラレルキャリア時代の生き方のヒントを得ます。
そして、それを裏付ける3冊がこちら。

「なぜゴッホは貧乏でピカソは金持ちだったのか」(山口揚平 ダイヤモンド社)
「評価と贈与の経済学」(岡田斗司夫 内田樹 徳間ポケット新書)
「ワークデザイン」(長沼博之 阪急コミュニケーションズ)

こちらはマクロな視点で、
なぜ、いまナリワイというかパラレルキャリアなのか?
ということが書かれています。

そしてやりたいことが見えてきたら

「企画書のつくり方、見せ方の技術」(藤村正宏 あさ出版)
「そろそろ会社をやめようかなと思っている人に一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか」(山口揚平 アスキーメディアワークス)
「価値創造の思考法」(小阪裕司 東洋経済新報社)

この3冊をバイブルに試しにやってみる。
というような感じで三冊ずつ提案する三冊屋。

ツルハシブックスでも今日から始めてみます。
通販も間もなくスタートします。
お楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)

2014年04月13日

「ふるさとを創る」祭り屋台体験ツアー

祭り屋台体験ツアーのテスト版
を開催しました。

舞台はまきどき村がある集落「福井」
100世帯ほどの小さな集落ですが、
屋台が出る祭りを年に3回やっています。

4月春祭り
6月ほたる祭り
8月秋祭り

祭りの屋台をやるほうって
なかなかできる経験じゃありません。
そこで。
祭り屋台体験ツアーを開発中です。

ドキュメントで追ってみましょう。

09:00 集合
まず最初にやるのは、焼きそばの麺もみほぐしです。


モミモミほぐします。

10:00 テント張り

骨組みから作っていきます。慣れたものです。

11:00 休憩・昼食
人がたくさんきてくれたので午前の作業終了しばし休憩です。


昨日つくったモツ煮の味見を兼ねて休憩。
もちろん昼ビールからのまかないカレーです。

12:00~13:00 休憩
昼ビールしたので昼寝です。
写真忘れました。

13:00 屋台準備開始


火起こしは時間がかかりますので早めに。


14:00 焼き始め


ちょっと早いのですが、ためしに焼いてみます。

15:00 祭り開始


クレープ屋さん


おでんもありますよ!


なんと、射的もあります!

16:00 宴会+たまり場


飲んだくれるオヤジたちの横で女子中学生が談義しています。
高知のひろめ市場を彷彿とさせます。

17:30 寒いので・・・


寒いので中に移動して延長戦。

19:45 撤収後、打ち上げ


屋台片づけ、テント片づけを終えて、ようやく打ち上げです。
おつまみは残念ながら売れ残った食べ物の数々です。
次回はもっと売らなきゃ!

というようなツアーです。

このあと、
かやぶきの家佐藤家に泊まって、
翌朝はカーブドッチの温泉ヴィネスパに行くとか、

あるいは後片付けの時に、
じょんのび館に行って、打ち上げの時に帰ってくるとか、もありかも。
東京から婚活を兼ねてお年頃女子を呼ぶのもいいなあ。

祭り体験ツアー、
福井に限らず、地域コミュニティが残っている場所の
祭りってすごく豊かなので、
そういうのを欲している人がいると思うなあ。

祭りの屋台をやれるツアー、
あなたなら、1泊2日3食付でいくら払いますか?
教えてください。  

Posted by ニシダタクジ at 11:01Comments(0)アイデア

2014年04月12日

劇場と工房とスタジオ

金沢市民芸術村


http://www.artvillage.gr.jp/

アーティストたちが
24時間利用可能
な芸術施設。

合唱やフラメンコなどを行うマルチ工房
演劇を主に行うドラマ工房
誰もが使えるステージ付のオープンスペース
バンドマンたちが利用できるスタジオのついたミュージック工房
美術作品の制作に使用するアート工房
という施設が一堂に集まっている。

また、里山の家という研修施設や
一般の人が散歩で訪れる広場などがある。

ここで近所の子連れのお母さんが
晴れた日にのんびりしたり、ジョギング市民がいたりする。

「つくる」ということ。
「表現する」ということ。

そんな空間。

そして、広場を利用するたちにとっては、
目の前の表現者たちに出会える空間。
これをツルハシブックスで作れないだろうか。

演劇ができる劇場と
造形ができる工房と
音楽ができるスタジオを
本屋の中に作れないだろうか。

「つくる」そして「表現する」
そのワクワクを伝えられるような空間はつくれないだろうか?

そのとき、本屋は小さな芸術村になる。

訪れる人は誰もがみな、芸術家になる。  

Posted by ニシダタクジ at 06:30Comments(0)アイデア

2014年04月11日

「文化」を自己決定し、「文化」を創出する

宮沢賢治先生の
「農民芸術概論綱要」
に出会ったのは、大学3年生のとき。

筑波大学の橘先生が主宰する
有機農業ゼミだった。
日農ゼミ(日本農学系学生ゼミナール連合)のイベント参加をきっかけにこの取り組みを知った僕は、
隔月だったかつくば市で開催されていた公開ゼミに、なぜか新潟から参加していた。

そのとき。
よく取り上げられていたのが、
宮沢賢治「農民芸術概論綱要」だった。

賢治のメッセージは、
当時の僕の胸に熱く突き刺さった。

序論
……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

という感じで始まる。
(文庫版宮沢賢治全集10 ちくま文庫に収録)

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
「求道、すでに道である」
「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」

「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ 
われらのすべての田園とわれらのすべての生活を
一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか」

「永久の未完成これ完成である」
というように、熱いメッセージがひたすら続く。

「農民たちよ、芸術家たれ。」
と放たれた熱いメッセージは、
いまこそ、現代こそに熱く響く。

農民ではなく、いま生きているひとりひとりに。

そして、もっとも熱い部分はここ。

「世界に対する大なる希願をまづ起せ
強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ」

大学3年生の時。
「どれだけ消費すれば満足なのか?」(アランダーニング/ワールドウォッチ研究所)
を読んだとき、テレビでブータン王国のGNHを知ったときから始まった問い、

「環境問題とは、なんだったのか?」
という問い。

本質は
「二酸化炭素の排出」「生物種の絶滅」ではなくって、

それを引き起こした人の心。
「みんながやっているから、僕もやる」
という日本型同調社会が生んだ経済成長の心理的要因が
ひとりひとりを幸せにしていないということだった。

平田オリザ氏の言う、文化の自己決定力を持たずに
政府や学者やマスコミや他者が語る文化(価値観)を
自分の価値観だと思い込み、そこにひた走ったあとに何も残らないむなしさ。

文化を自己決定する。
そして文化を創出する。

これからは、これがないと生きられないのではないだろうか。

そのためには、
学校だけではない
多様な文化に触れ、本を読み、
文化を自己決定しなければならない。

そんな機会提供が僕のミッションのひとつだと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 07:19Comments(0)学び