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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年02月25日

「問いかけ」と「リスペクト」と「好奇心」


「問いかけの作法」(安斎勇樹 ディスカバートゥエンティワン)

3日目。いよいよ佳境に入ってきました。
ミーティングとかワークショップとかをかじってきた僕には、ズンズンと刺さります。

4-2 質問の精度をあげる「フカボリ」と「ユサブリ」
~~~
フカボリモード:チームの根底にある「こだわり」がはっきりせずにぼやけているときに、解像度を高めるためのモード
1 素人質問:みんなの当たり前を確認する
2 ルーツ発掘:相手のこだわりの源泉を聞き込む
3 真善美:根底にある哲学的な価値観を探る

ユサブリモード:固定観念や価値観のズレなどの「とらわれ」が見えてきたときに、揺さぶりをかけて、新しい可能性を探るためのモード
1 パラフレイズ:別の言葉や表現に言い換えを促す
2 仮定法:仮想的な設定によって視点を変える
3 バイアス破壊:特定の固定観念に疑いをかける

☆ルーツ発掘:こだわりの種を見つけたら、whyとwhenでストーリーを掘り下げる。
⇒これ、マジで大切だなあ。
そしてこだわりが発露しやすいポイントとして
1基準の高さ2過剰な投資3違いの識別4怒りのツボ5偏愛対象6違和感

MIMIGIRIのプロフィールシート:
・得意なこと・好きなこと・何をしているときが幸せか・苦手なこと・どんな特にモチベーションが下がるか・趣味・好きなもの・過去の自分らしいエピソード⇒自分の「こだわり」の開示⇒自分のルーツをテーマに人事の司会進行でラジオ番組を実施⇒ランチタイムに放映

★メインの質問から必要なプロセスを逆算する
ビジョンセッションであるなら、ビジョンの方向性で
昨日の四象限の話で行けば右上の「組織・社会×未来」の部分
⇒谷型のプロセスと山型のプロセス
谷型:組織×過去⇒個人×過去・未来⇒組織×未来:組織のビジョンを到達点にしたいとき
山型:個人×過去⇒組織×未来⇒個人×未来:個人の展望を到達点にしたいとき
~~~

いやいや。なんとなんと。

ここまで読むと、昨日のミライカイギのメカニズムがさらに解説されていました。
高校生とプロジェクトや寮運営をやる上で大切なのは、やはり「ルーツ発掘」だろうなと。

「ルーツ発掘において大切なことは、相手をリスペクトすることです。相手には秘めた才能と魅力があることを信じて、好奇心を持って明らかにしていくのがあなたの役目です。」

1基準の高さ2過剰な投資3違いの識別4怒りのツボ5偏愛対象6違和感
というこだわいの種を見つけて、それをwhyとwhenで掘り下げていくこと
これが大切なのだろう。

質問するとしたら
2 過剰な投資⇒これまで一番時間をかけたことは何か?
4 怒りのツボ⇒これまで許せなかったことは何か?
5 偏愛対象⇒偏愛マップを作ってそれを掘り下げる。

とかですかね。
プロジェクトをやる前に、まずひとりひとりのこだわり:源泉を知ること。

2017年、茨城・大子町での合宿を思い出した。
ツルハシが掘るもの(17.10.15)
http://hero.niiblo.jp/e486023.html

~~~
1 根っこの思いを自覚する
2 境界を超えてつながる土壌
3 感性に従ってやってみる

インタビューワーク
1 自分の住んでいるまちを好きだなと思った時。
2 人生で誇りに思うこと。本領発揮したシーン
3 根っこの想いは何か?

インタビューワークのゴールは、想いの源泉に触れる。というか、掘り当てること。
そうすれば、温泉が湧いてくるように、やればやるほど力が出てくる。
~~~

そこからなのだろうと。それを高校生が相互的にできるようになったら楽しいだろうな。

高校生が(いや、大学生も、40のオッサンも)身につけるべきは、課題を解決する能力やプロジェクトを遂行する能力よりも、「問いかけの作法」と、相手(チームメイト)に対するリスペクトと好奇心なのだろう。

そんなプログラムをつくっていきたいね。

いい本、ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)学び日記

2022年02月24日

ミライカイギのメカニズム


「問いかけの作法」(安斎勇樹 ディスカバートゥエンティワン)

1章ずつって言ってましたが、昨日、大学生に本が読めない悩みを相談されて
「全部しっかり読もうとしないでパラパラっとエッセンスだけ読めば読める」
って言ってたら、第4章まで来てしまいました。

メモしておきたいことはこちら

~~~
問いかけの基本定石
1 相手の個性を引き出し、こだわりを尊重する
2 適度に制約をかけ、考えるきっかけをつくる
3 遊び心をくすぐり、答えたくなる仕掛けを施す
4 凝り固まった発想をほぐし、意外な発見を生み出す

問いかけのサイクル
1 見立てる
2 組み立てる
3 投げかける

三角形モデル
1 場の目的
2 見たい光景
3 現在の様子
をぐるぐるする

場の目的のパターン
1 情報共有:情報のインプット
2 すり合わせ:前提や認識をすり合わせる
3 アイデア出し:新しいアイデアを出す
4 意思決定:具体的アクションに向けて決める
5 フィードバック:評価とパフォーマンスの改善

質問を組み立てる手順
手順1 未知数を定める
手順2 方向性を調整する
手順3 制約をかける

制約をかけるテクニック
1 トピックを限定する:思考を焦点化する
2 形容詞を加える:内省と対話を促す
3 範囲を指定する:過度な発散を防ぐ
4 答え方を指定する:発散と収束をサポートする
~~~

ということで、今日は「方向性を調整する」にスポットを当てて紹介します。

~~~以下引用
質問を方向づける軸は大きく2つあり、それは「主語」と「時間」です。

「主語」
抽象度低 あなた⇒チーム⇒組織⇒社会 抽象度高

★主語の抽象度を高めて、チームの視座を引き上げる
☆主語を個人にすることで、自分ごと化を促す

「時間」
質問の方向性マトリクス(縦軸:組織・社会⇔個人、横軸:未来⇔過去)

1 左上:組織・社会×過去=歴史
2 右上:組織・社会×未来=ビジョン
3 左下:個人×過去=経験
4 右下:個人×未来=願望
~~~

これがいちばんヒットでしたね。「主語」と「時間」をうまくいれること。
茨城の株式会社えぽっくでやっているビジョンセッション「ミライカイギ」ってそういうメカニズムだったんだなあと。

1 チームメンバーひとりひとりの 個人×過去=経験を出す。
2 顧客を設定し、顧客×未来=願望をイメージする。
3 組織×未来=ビジョンに落とし込む。

4 ビジョンに向けていま(現在)、チームは何ができるのか?考える
5 チームに対して自分は何ができるのか考える

単純化するとこういう感じですよね。
これまで、ミライカイギは、「過去」⇒「未来」⇒「現在」で考える、だと思っていたのだけど。

「個人×過去」⇒「顧客×未来」⇒「組織×未来」⇒「組織×現在」⇒「個人×現在」
っていうアプローチだったということがわかって、なんかうれしくなりました。

「主語」と「時間」、これ問いかけのすごいエッセンスだなあと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び日記

2022年02月23日

「衝動」から始まる・・・


「問いかけの作法」(安斎勇樹 ディスカバートゥエンティワン)

新年度までの自分的課題図書です。
1章ずつ読んでいきます。
自分のためのメモですのでご理解ください。

きっかけはSHIBUYA QWSの話。
https://shibuya-qws.com/
ビジョンや目標ではなく、問いこそが未来を創造するのだと、僕も直感したので。

まずは第1章「チームの問題はなぜ起きるのか」より全体像をつかみます。

~~~ここからメモ

ファクトリー(工場)型におけるチームの意義:作業を効率的に分担すること

ワークショップ型における経営層の役割:現場と対話しながら「理念」を探究すること
ワークショップ(工房)型におけるチームの醍醐味:仕事の過程におけるコミュニケーション

「ワークショップ型」から「ファクトリー型」への図解はこちら
https://www.cultibase.jp/articles/8671

レヴィ=ストロース「野生の思考」
目標と計画を立てたところで、目標を達成するために特別に考案された道具を、調達できるとは限りません。現実的にはたまたま手元にあった道具を用いて「使えるかどうか」を試すしかないでしょう。このように道具を寄せ集めながらものを修繕していく未開人の仕事のスタイルを「ブリコラージュ」と呼び、これこそが人類にとって創造的かつ普遍的な思考法であると確信し、「野生の思考」として復権を試みたのです。同時にレヴィ=ストロースは、目標と計画に基づく近代合理的なものづくりの方法を「エンジニアリング」として対置させ、むしろ「エンジニアリング」のほうが、人類にとって不自然な、特殊なやり方であると強調したのです。

ファクトリー型からワークショップ型に切り替えていくということは、レヴィ=ストロースの言葉を借りれば、チームに「野生」の創造性を取り戻していくことなのかもしれません。
~~~

さらに、この前までテーマだった、「越境」や「創造」がなぜ起こらないか?を解説した1-2チームの問題はなぜ起きるのか?から

~~~
現代病1 判断の自動化による認識の固定化
例:過去にうまくいったやり方をやってしまうこと

現代病2 部分的な分業による、関係性の固定化
例:上司と部下がお互いを「わかったつもり」になってしまう

現代病3 逸脱の抑止による、衝動の枯渇
例:個性的なパフォーマンスをしようとするよりも、なるべくミスをしないようにすることに意識を向ける

現代病4 手段への没頭による、目的の形骸化
例なぜそれをやるのか、作業の目的が感じられなくなっていても、手段そのものを続けること自体に没頭することができる
~~~

いやあ、これは怖い。
これらを著者は人類の本能である、「環境適応」だと言います。
そしてこれらは教育の現場でもまさに起こっていることではないかと。

そして、1-3 ワークショップ型でチームのポテンシャルを発揮するへ
キーワードは「こだわり」と「とらわれ」

~~~
ワークショップ型のチームが「ポテンシャルが発揮されている状態」とは、チームにおいて「こだわり」を見つけて育てることと、「とらわれ」を疑い問い直すことの両方が、互いに循環しながら実現されている状態だとイメージしておくとよいでしょう。

「こだわり」を見つけて育てることとは、チームメンバーの一人ひとりの「衝動」を尊重して、それらをチームにとって意味のある「目的」に昇華させ、実現させていくことです。

「とらわれ」を問い直すこととは、凝り固まった「認識」や「関係性」に疑いをかけ、批判的に問い直しながら、新たな可能性を探っていくことです。

ワークショップ型のチームにおいては、一人ひとりのこだわりは、たとえどんなものであっても、「創造性の源泉」になります。

外部に正解の基準を求められないVUCAの時代において、ものづくりの指針は「自分たちの内側」に持たなくてはなりません。自分たちが「良い」と思える仕事を成すためには、自分たちが「良さ」の基準を持ち、そこに執着しなければなりません。それが他人にとって「些細なこと」であっても、それが「他の人と違うもの」を生み出す源泉になります。

ものづくりの観点だけではありません。一人ひとりが個性を大切にしながら成長していくことは、メンバーの人材育成の観点からも重要だといえます。

個人のこだわりは、内なる衝動と共に姿を現します。頼まれてもいないのについやってしまうこと。時間がないのについ時間をかけてしまうもの。そのような場面に、こだわりの芽が生まれます。ワークショップ型の組織が、メンバー一人ひとりの思いつきや「作りたい!」「これを試してみたい!」という実験的な衝動を大切にするのは、これが理由です。

そして、そこから見えてきたお互いの「こだわりの違い」を、チームを豊かにする「個性」として認め合い、対話を通して深くわかりあおうとすることが必要です。そうしたなかで、共通の核となる「チームとしてのこだわり」が育っていき、チームにとって「意味のある目的」へとなっていく。このようにして、個人とチームのこだわりを育て続けることが大切です。

同時に、チームにおける「とらわれ」を疑い続けることも必要です。

自分たちが共通の基盤としている「組織の理念」や「チームの目的」もまた、月日が経つにつれて、「とらわれ」になっているかもしれません。過去には、確かに衝動を感じていた理念や目的も、いつしか熱量が失われ、形骸化しているかもしれません。

~~~

いやあ、いいですね。鋭く現実をついてきています。やっぱり最大の課題は「衝動」の枯渇なんじゃないかと強く思いました。
あらためて、本書の「現代病3 逸脱の抑止による、衝動の枯渇」について引用します

~~~
ファクトリー型においては、なるべくミスを犯さないように、設計図に忠実に仕事を進める必要がありました。

正解の基準を定められ、失敗に対するネガティブフィードバックを毎日のように受けていると、当然ながら、個性的なパフォーマンスをしようとするよりも、なるべくミスをしないようにすることに、意識を向けるようになっていきます。さらに伝統的な学校教育には、他の生徒と足並みを揃えさせる同調圧力をかける仕組みが満載です。

このような環境に適応する過程で、私たちは他の生徒と足並みを揃えて、なるべく集団の輪から外れないように、規範から逸脱する行為にブレーキをかけるようになっています。本能的な欲求にすらブレーキをかけてしまうところに、学校教育の成果が現れているのかもしれません。これが「逸脱の抑止」という環境適応です。

「逸脱の抑止」は、チームメンバーの内発的な動機を阻害する「衝動の枯渇」という現代病を生み出します。衝動とは、人の内側から湧き上がる欲求のことで、子どもの頃から誰しもが持っている本能的な感覚です。ところが、規範から逸脱することを恐れ、関係性が凝り固まったままでは、それが主体的な行動や発想のストッパーとして働き、本来あるはずの衝動に「蓋」がされた状態になります。
~~~

「衝動」から始まる・・・
まさにそれだろうなと。
VUCAの時代に、価値を生み出していくチームの一員になるために、それが必要なんだ。
自分のこだわりの源泉である「衝動」の自覚とその発揮ができる場を必要としているのではないかと。
それが探究の授業や地域というフィールドで、高校生のときにできたらいいのだろうなと。

そのためには同学年に数百人いるような高校よりは、いい意味で「逸脱」が許される環境に身を置き、それを支えてくれる地域の人達がいる、みたいなことって大切だろうな、と。

プレゼンを聞いて、プロジェクトの「なぜ?」を問いかけたとき、聞きたいのは、社会的意義なんかじゃなくて、あなた自身の「衝動」なんだよね。「衝動」なきプロジェクトにはエンターテイメント性が少ない。「衝動」から始まる「発見」の物語を聞きたいんだよ。

「主体性」「協働性」「探究性」はひとまず本流の方に任せておいて、「衝動性」「越境性」「発見性」をキーワードにしたプロジェクト発表会したいなあ、ねえ、佐藤恒平さん。  

Posted by ニシダタクジ at 08:53Comments(0)学び日記

2022年02月06日

呼びかけに応えるという「存在」の承認


「複雑化の教育論」(内田樹 東洋館出版社)

読み終わりました。
第3章もシビれましたね。

キーワード的にはやっぱり「身体性」とか「アイデンティティ」とか、まさにこのタイミングで。
そして、土曜日に大学生と話していた風舟の新サービス「緒(いとぐち)」のことも、つながってきてビックリしました。

~~~ここから引用
オンライン授業の最大の欠点は教育が「オン・デマンド(on demand)」になるということです。

レストランのメニューを見て、オーダーするようなものだと、注文するのは「食べたことのある料理」に偏ります。どんな味で、どんな栄養があって、どのくらいのカロリーであるかの情報が事前に開示されている選択肢の中からしか選ぶことができない。

こういう知識、こういう技術を身につけたい、こういう資格や免状が欲しいという学生たちの側に「プロセス・チャート」があって、その工程表に従ってこつこつと履修して、単位を集めて、卒業する。そこに限定されてしまうというのが「オン・デマンド」教育の最大の難点です。

実際には、どんな科目を履修して、どんな専門分野を選んで、どんな研究室に所属することになったのかって、おおかたが偶然なんですよね。大学教育の実態は「バイ・アクシデント(by accident)」なんです。その偶発性のうちにキャンパスライフの豊かさはあると僕は思います。
~~~

なるほどなあ。オンライン授業によって奪われたものは「身体性」と「偶発性」か。
それこそがキャンパスライフの豊かさだったはずなのに。
「授業料」とは、授業を履修するために払うものではなく、身体を使って、偶然をキャッチするためのものだと気づいたのかもしれない。

そして、次の学校には「呼びかけ」がある、は面白かった。

~~~ここから引用

「学園マンガ」の世界では、主人公たちは誰一人予定通りの学生生活を送ることがない。思いもよらない出来事に「巻き込まれる」ことで学園生活が生き生きとしたものになる。これはすべての「学園マンガ」に共通しています。このパターンは、子どもたちの無意識的な願望を表現していると思います。

いま学校では、小学校から将来設計を書かせて、その目標を達成するために、いつ何を学ぶかまで工程表を作成することを義務づけようとしています。「買い物リスト」を手にしてスーパーに買い物に行くような気分で、自分の学びの過程を一望俯瞰することを子どもたちに強要している。

(中略)

子どもたちが求めているのは、「まだ知らない世界」に入ることだからです。思いがけない冒険に巻き込まれることだからです。

子どもが小学生の時に描いたシンプルな「地図」を手にして、わき目もふらずに歩き続け、どんな出来事が起きても、どんな呼びかけがあっても、一切の外部情報を遮断して、目的地をめざすということをさせて、いったい何をしようというのでしょう。

学校で子どもたちが経験するのは「呼びかけ」です。誰かに「ねえ、君。ちょっと来てよ」と声をかけられる。これは自分であらかじめ仕込んでおくことができない。でも学校というのは、まさにこのような無数の「呼びかけ」が行き交っている場です。

キャンパスをぼんやりと歩いていると、誰かに「ちょっと来て」と声がかけられる。そして、その呼びかけはたいていの場合「ちょっと手を貸して」という「救援の要請」なんです。

(中略)

そして、人間は「ちょっと手を貸して」というタイプの要請を断ることができない。
~~~

「呼びかけ」。これは大きなキーワードを手に入れたような気がします。
オンライン化した学校によって失われる最大のもの、それが「呼びかけ」なのかもしれません。

そして、その「呼びかけ」には応えざるを得ない、とタツル先生は説きます。

~~~
「ちょっと、そこ持ってて」とか「ちょっと、そこ抑えてて」とかいきなり言われて、図らずも手を貸してしまったところからそこで行われている不思議なゲームに巻き込まれる。

でも、これは人類学的心理なんです。人間は「救援の要請」を断ることができない。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取ったものである」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまったものが「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。

「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。昔からそういうことになっているんです。

だから、学びの場に立った時に、子どもたちに必要なのは、キャリアパスポートだとかポートフォリオだとかいう野暮ったいものではなくて、自分の支援を求める声に耳を傾けることなんです。オン・デマンドの教育では「呼びかけに応答する」というアクシデントが起こらない。
~~~

学園マンガってたしかにそうなっているかもしれませんね。
そして、ラストに引用するのは「天職」の話です。

~~~
「天職」のことを英語ではvocationとかcallingと言います。どちらも「呼びかけ」という意味です。自分を呼ぶ声を聞いて、それに耳を傾ける。それによって人間は自分の召命を知り、天職に出会い、おのれの適性・資質を見出す。そういうものなんです。自分にはどういう才能があり、どういう道に進むべきかは、自分で決定することじゃない。「呼びかけ」を聴き取るんです。

「呼びかけ」というのは「意味がよくわからないもの」です。ただ、呼んでいるだけですから。先ほどキャンパスで「図らずも」巻き込まれる経験のきっかけとなるのは「ちょっと手を貸して」だということを申し上げましたけれど、これが「呼びかけ」の基本文型です。「ちょっとこっちへ来て、ちょっと手を貸して」なんです。いったい自分に何をさせたいのきあ、わからない。どうして自分に声をかけたのかも、わからない。わからないけれども、自分が呼びかけられたということは、わかる。

メッセージのコンテンツは理解できないけれども、宛て先が自分だということだけはわかる。メッセージというのは起源的にそういうものなんだと思います。意味はわからないけれど自分宛てであることはわかる。

赤ちゃんはまず自分が「呼びかけ」と「懇請」と「祝福」の宛て先であることを理解する。人生はそこから始まるわけです。すべては「呼びかけ」を聴き取ることから始まる。「呼びかけ」を受信することで初めて「呼びかけの宛て先」として「私」という概念がかたちづくられる。まず私がいて、他者がいて、その間にコミュニケーションが成立するという順序ではないんです。呼びかけがあり、その宛て先が「ここにいる」という確信とともに「私」という概念が受肉する。

アブラハムに主の声が臨んできたとき、主はアブラハムに「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と告げます。いまいる所から外に出よ、と。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家」というのは、あなたがいまいるシステムということです。あなたがいまそこに包摂されている記号のシステム、価値体系の外側に出なさい。そこにとどまっている限り、このメッセージは理解できない。
~~~

そうか、そのメッセージを聴くために「越境」するのか。そして、メッセージを受け取る、つまりメッセージの宛て先になることによって、わたしはわたしになるのか。

「手紙」としての本棚っていうのは、そういうことなのかもしれないですね。

「呼びかけ」と「越境」と「天職」と「わたし=アイデンティティ」と、これらすべてがつながってきます。

「緒(いとぐち)」は、そんな「呼びかけ」が本棚と本を通して伝わってくる、そんな仕組みになっていくのだと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 15:15Comments(0)学び日記

2022年02月06日

「問いと答え」というスキームを疑う


「複雑化の教育論」(内田樹 東洋館出版社)

読むべき本が目の前にくる喜び。
そんな感じの1冊になりました。
12月からずっと感じていた
SDGs的な課題解決型プロジェクトへの違和感。

その正体を見つけた、という感じの一節。
P166からの「先手を取る」能力
これだよ、これ、っていう。

長文になってしまいますが、僕のメモのために記録します。

~~~ここから引用

「目の前に問題があり、それに正解することが急務である」という枠組みでものを考えてはいけないという話です。

武道の場合は相手が何かを仕掛けてくるという初期設定をします。つかむ、突く、切る、抑える、というふうに。こちらの自由度を下げ、可動域を限定してくる。それに対して技を返したり、投げたり、極めたり、ということをするわけです。でも、この時に、相手が手首を握ってくるとか、正面から切り込んでくるとか、肩をつかんでくるとかいう設定を「問題」ととらえて、さて、それに対してどう処するのが「正解」であろうかと考えると武道的にはもう終わりです。

「問い」に対して「正解」する責務が自分にはある。その解答が正しかったか間違っていたかは、相手に「技が効いた/効かなかった」という仕方で事後的に判定される。こういう発想をすることが「後手に回る」ということです。

「後手に回る」ということは「必ず負ける」ということです。相手がまず場を設定し、それに対する自分のリアクションに「点数をつける」。うまく応じたらよい点が付き、へたに応じたら悪い点がつく。

相手が作問し、出題し、採点する。先方が「査定する側」で、こちらが「査定される側」である。この非対称性のことを「後手」というのです。

でも、現代人である僕たちはそういうスキームしか知らないんです。子どもの時からずっとそういう枠組みの中で能力を査定されてきたから。学校がそうですね。

先生が作った問題に解答すると点数がつけられて戻される。会社に勤めるようになってもそうですね。上司に仕事を命じられて、それをこなすと勤務考課される。そういう枠組みの中で「いい点数・いい考課」をもらうことが人生の目的になる。でも、これは制度的に「後手に回る」人間を創り出しているということです。

学校や会社のような閉じられた系の内部で、定められたルールの中でなら、「ゲーム」としてそのスキームを利用しても構わまないんです。

たぶん先生方も、学校教育の現場にいるわけですから、「問いと答え」というスキームがもう身に浸みついていると思います。あらゆることをそのスキームで考える習慣になじんでいる。学びも、成長も、すべて「難問と正解」の形式でなされるとたぶん信じ込んでいる。

でも、それは違います。そのような枠組みで開発されたり、涵養されたりする能力や資質もたしかにあります。でも、それは子どもたちの中に潜在している能力のほんの一部に過ぎません。われわれが人間として生きてゆく時に実際に必要とされる能力のうちのごく一部です。残りのほとんどは「難問と正解」という刑式では対処できない。複雑すぎるからです。だから、そのような難問に答える必要がない立ち位置にあらかじめ移動しておく。それが「先手を取る」ということです。

~~~

これ、すごいことだよなあ。「身体性」って言ってたのとかもここに含まれてるなあと。
「問いと答え」っていうスキームそのものが複雑化する社会には対処できないのかもしれない、と。

そして、この「先手を取る」能力のラストにズバリ、書いてあります。

~~~
いまのようにシステムそのものが劣化していると、「どうやってこのシステムを改善したらよいのか?」というふうにふつうは問いを立てます。けれども、そういう問い方をすることが「後手に回っている」わけです。それでは「システム内部的」な問いに「システム内部的」な答えをあてがうことしかできない。

システムそのものが劣化している時に、立つべきポジションはシステムの外部です。外に出るしかない。システム外でも考えなければいけないこと、しなければいけないことはたくさんあります。でも、それは誰かが作問して突きつけてきた「難問」に答えるという形をとらない。

システムの外に立つというのは、自分で選んだ生き方を具体的にどうやって成り立たせるかということです。システムの外部で、どうやって愉快に暮らしていけるか、それは個別的で、具体的なことであって、どこにも「正解」なんかありません。
~~~

うわーーー。これだよ、これ。
SDGs的な課題解決型プロジェクトへの違和感。

1月12日に書いた
「課題を発見し、ニーズに応え、期待値を超える」の外側
http://hero.niiblo.jp/e492263.html

まさにこれだよね。
それって、「先手を取る」ために、「後手に回らない」ために必要なんだって。

「問いと答え」というスキームそのものを疑う。
それはシステムの内部で考えてしまっていることになるから。

だからこそ「越境」が必要だし、「アマチュアリズム」が大切だし、直感で動き、やってみるしかないのだなあと。

「問いと答え」というシステムそのものが劣化している中、素人だからこそ、できることがきっとある。

だからこそ高校生や大学生の出番なんだよね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:42Comments(0)学び日記

2022年02月05日

才能の発見と開発のための手段としての評価


「複雑化の教育論」(内田樹 東洋館出版社)

タツル先生は、このパンデミック下に何を考えているんだろうな~って。
最新刊を読んでいます。

キーワードがザクザクです。
そもそも、タイトルの「複雑化」というのがまずきますね。

「教育の目的は子どもたちの成熟を支援することであり、成熟とは複雑化することだ」
がはじめに、に書いてあります。

複雑化したからといって、子どもは「昨日より幸福になる」わけでもないし、「昨日より自由になる」わけでもないし、「昨日より強くなる」わけでもありません。長期的に見ればそうなる確率は高まるのですけれども、即席な効果は期待できません。複雑化した子どもは、ただ「昨日より複雑になる」だけです。

~~~

重要なのは、次です。

~~~
複雑化は、計測不能である。それがとても重要なことなんだと思います。だも、複雑化を計る「ものさし」は僕たちの手元にはありません。複雑化する時に起きているのは、量的な変化ではありません。それは「表情の変化」「手触りの変化」「雰囲気の変化」というようなものです。表情が深くなる、声の厚みが変わる、身動きの分節が変わる。
~~~

「計測不能」これが大切なんだとタツル先生は言います。そうなんだよね、それなんだよ。
「計測可能」である、つまり「評価可能」であるという前提を疑うことから始めないといけない。

そして、この部分、第1章の本文には次のように説明されています。

「成熟」というのは「複雑化」ということです。ほとんどの人は子どもが成長するということは量的な増大だということを考えているからです。実際に子どもを見ていると、成長するにつれて、背が伸びて、体重が増えて、語彙が増え、活動範囲が広がる。だから、成長というのは量的増大のことだとつい思ってしまう。

さらに、中学生になると、「複雑化」ではなくて「キャラ設定」をしてできあいの型にハマってしまう。「ヤンキー」なら「ヤンキー」に、「陰キャ」なら「陰キャ」に。与えられたキャラを演じていると、それがだんだん身体になじんでくる。そうすると仲間うちでのやりとりが上手になる。
~~~

中学校から高校へ、あるいは高校から大学へ進学する時は、そのキャラ設定を外す大きなチャンス。だから、区域外の学校へと行きたがるんですよね。これは中学時代の「キャラ設定」の呪縛を解くことからしか始まらないのではないかなと。

そのほか、キーワードが詰まっているので一部引用します。

~~~ここから一部およびキーワード引用

・キャンパスに必要なのは「ミステリアスさ」
・学校は査定や格付けの機関ではなくて、子どもたちの市民的成熟を支援するために存在する
・いやあ、教師は楽しいなあって本気で言えば、教員志願者は増える
・倫理的であるためには「自分のような人間がこの世にたくさんいればいるほど、自分は生きるのが楽になる」ようにふるまうこと

~~~

面白かったのがタツル先生自身の高校中退の話。

「ある時期から満員電車に乗るということが耐えがたくなった。みんなと同じ時間に、同じ方向に運ばれるということに耐えられなくなった。こうして毎日満員電車に乗って、三年間学校に通うと、自分の中の深いところにある何かが損なわれるのではないかという気がした。だから、高校を辞めてしまった。」

そういう、身体的直感が、いまの児童生徒の不登校にもあるのではないかと説明します。いや、これはホントそう。大人はみんな不登校の原因(成績やいじめや人間関係)を探ろうとするけど、そんな言語化できたり、原因⇔結果の枠組みで説明できることではないよね、と。

そして、タツル先生からの提案は、

「強い刺激を受けて傷つけられるリスクがなくて、かつある程度の社会性は必要とされるような低刺激環境を探し出す、というのが、不登校の子どもたちについての僕からの暫定的な提案です。(中略)学校以外のところに、周りの人とかかわりを持って、コミュニケーションできるような非競争的な環境を探す。」

いわゆる「サードプレイス」の定義のような文章ですね。
これ、不登校の子だけじゃなくって、大方の小学生中学生高校生にとって必要な「場(環境)」だと思います。

それって「部活」でもつくれるのではないか、と思ったのだけど、「部活」についてタツル先生はかつてとは機能が変わってきていると説明します。フランスではそのような仕組みはなく、習い事(クラブチーム)にするしかなくて、裕福な家庭しかやることはできない、と。

部活でさまざまなタイプの活動にアクセスできることの最良の効果は、「才能の取りこぼし」がなかなか起きないということです。経済的な格差や家庭の文化資本のレベルにかかわらず、高校までのどこかの段階で、際立った才能には誰かが気づく。
~~~

なるほどぉ。「部活」ってそういう仕組みなんだなあ、本来は。

ところがいま、部活はすでに、「競争と格付けと差別化のための活動」になってしまっていると警告します。勝ち負けとか、コンクールで賞を取る、とかは、才能の発見と開発のための手段だったはずです。一人一人が自分の潜在的な才能に気づく機会を提供することこそが部活の目的だと。どころが、大学生の話を聞いていると、「3年間バレーボール部でした。その忍耐力を評価してください。大学ではもうやりたくはありません」みたいな感じになっていると。

~~~

自分の「評価」を上げるための「忍耐力」の指標としての「部活」。

「評価」とか「競争」とか「格付け」とか「差別化」だとか、、、人はいったい、何のために運動し、何のために学ぶのでしょうか?なんのために「学校」なるものに行くのでしょうか。タツル先生は「成熟」とは「複雑化」で、「複雑化」は「計測不能」だと言います。

やっぱり「部活」に代わる「場」が必要なのだと思います。

それは、競争や格付けや差別化という原理に支配されない「場」
つまり「評価」を前提としていない「場」。
そもそも「評価」とは、運動においても勉強においても、才能の発見と開発のための手段だったはず。
前提に立ち返るとともに、複雑化は計測不能であり、評価不能であること。

そこから出発すること。

「学校以外のところの、周りの人とかかわりを持って、コミュニケーションできるような非競争的な環境」
僕にとっては、現在のところ、それは本屋だろう、と思うのです。

そしてそれは、不登校の小中学生だけではなく、高校生も、大学生も、いい歳した大人たちも、切実に必要としていると僕は思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)学び日記

2022年02月04日

「学習の手段化」からの解放


「みんなのアンラーニング論 組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ」(長岡健 翔泳社)

読み終わりました。
いやあ、燃えたなあ。

「偉大な教育者は、心に火を灯す」
ってこういうことか、と。

師匠、おれ、がんばるわ、みたいな。
ジーンとくる1冊となりました。
全ての同志に贈りたいです。
※「風舟」で購入できます。

第4章 学習を手段化する人材育成的視点

これだったんですね。
12月から僕の感じていた違和感の正体は。

この章では「学習科学」がビジネスの業界に浸透するようになったのは
21世紀に入ってからで、そのキーワードが「人材育成」だったことが紹介されています。

・教科書的な知識をもっているだけでは、仕事の中で高いパフォーマンスを発揮することはできない
・学校的な環境で「教わる」だけでなく、現場でさまざまな実践に取り組むことを通じて、実務家は経験的に学んでいる
・「子どもの学習」と比較すると、「大人の学習」は問題解決的であり、目的志向的である傾向が強い

そして、ビジネス的視点での熟達者を次のように定義します。

・既存の知識に固執せず、新たなやり方を試みる柔軟性
・分析や考察の結果を、躊躇わずに即実行するスピード感
・行為の途中であっても、必要に応じて計画変更する判断力
~~~

それを身につけるものとしてのデヴィット・コルブの「経験学習論」がありました。
「実践」⇒「経験」⇒「省察」⇒「概念化」⇒「実践」の繰り返しです。

本書では、それを「プロセス」にフォーカスして次の6点を強調しています。

・学習は「結果」ではなく、「プロセス」として理解すべきものである。
・学習は、経験に根ざした継続的な「プロセス」である
・学習の「プロセス」は、環境への適応に際して対峙する、異なるモード同士の対立の解消をともなう
・学習とは、環境に適応するためのホリスティックな「プロセス」である
・学習とは、人と環境との相互作用をともなう
・学習とは、知識を生成する「プロセス」である。

~~~
うーん。なるほど。
学習とはプロセスなんだな。
昨年の2月に東京マイプロで高校生に言われた「読書は過程ですもんね」を思い出した。

このあとに続くところが、この本の、というか長岡さんの真骨頂で。
人材育成を「企業の視座」から見るのと「学習者の視座」から見るの両方が語られています。

問題視されるのは「問題解決症候群」と呼ばれているもの
1 「問題は与えられる」という前提から逃れられない
2 「問題には必ず唯一の正解がある」と思い込んでいる
3 「正解はだれかが教えてくれる」はずだと想定している
~~~

「やりたいことが見つかってないなら、目の前のことを頑張ってみたらどう?自分探しに悩むより、多くのことを学んでおいたほうがいい。知識やスキルを身につけておけば、やりたいことが見つかった時に役立つのだから」

周囲からのこんなアドバイスには注意が必要だと長岡さんは言います。これでは「そもそも何を目指し、なぜ学ぶのか」を自分自身に問いかけることがないから、進むべき方向や目指したい未来像が見つかることはない、と。

学びを手段としてでなく「プロセス」としてとらえること。
目の前に起こることは周りをどのように変え、自分の感情をどのように動かしたのか、考え続けること。
「学習者の自由」っていうのは、「学びの手段化」からの解放のことを言うのかもしれません。

だから、越境しようぜと長岡さんは語りかけます。

~~~ここから引用

「学びの意味づけを変えてみませんか?」

私たちの目の前には、2つの学習観が存在します。ひとつは、権威ある誰かが設定した学習目的を所与として受け入れ、目的達成につながる知識・スキルを効率的に習得することを学習とみなす考え方。もうひとつは、「なぜ、自分は学ぶのか」を考えながら、学ぶことの意義を本気で探り、進むべき方向や、目指したい未来像を自分自身で見つけ出す。その探索的なプロセス自体が、自分にとって意味ある学習の一部だとみなす考え方。

「自分探し」に悩んでいる若者の多くが、前者の学習観、つまり、「学習とは手段である」という考え方に束縛されているように、私には見えます。でも、後者の学習観に立ち、「手段化された学習」から自分を解き放つことで、「自分探し」は重要な学習プロセスの一部になるのです。

~~~ここまで引用

いやあ、これは、ホントそうだな。

「就活」の苦しさとかもまさにこれなんじゃないか。「就職」するための手段として就活をしているか、「学びのプロセス」として就活をしているか?っていうね。

だから、越境しよう、と。旅しよう、と。
「手段としての学習」から自分を解放しよう。

「プロセス」を楽しもう。
その中で自分の「あり方とベクトル」を探ろう。

長岡さんが主に大学生に向かって発してきた「越境しようぜ」を、僕は高校生や、それを取り巻く大人に向けて放ちたいと強く思った。

この本で紹介されている「越境」3つのキーワード
・ビッグアイデア・クラウドというゆるい関係
・公と私のあいだにある共(common)のマインド
・試行錯誤を楽しむための直感と好奇心

この規模感を「高校生」や「地域」というように少し小さくして

・試行錯誤を楽しむ直感と好奇心 を起点に
・社会と自分のあいだにある地域での「共(common)」的なプロジェクト を通して
・さらなる「機会」をもらえるゆるい人的ネットワーク をつくっていくこと

このループを作っていくことが、地域社会でできるのではないかと思ったし、やっていきたいと思った。

「学びの手段化」からの解放。

だから、まずは、越境しようぜ。

そんなメッセージを伝えられる授業や課外活動をつくっていきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び日記

2022年02月03日

意識を成果からプロセスに移していく


「みんなのアンラーニング論 組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ」(長岡健 翔泳社)

のつづきメモ。今日は第3章。
「場」や「ワークショップ」についても考えていく。

この本の主題である「アンラーニング」について。

「アンラーニングとは、不適切となった既存の習慣/知識/価値基準jなどを棄て、新たに、妥当性が高く、有用なものに入れ換えること」と定義されている。

よく言われる「アップデートする」ためには、「アンラーニング」が必要、あるいは同時に起こっているように思う。では、そのプロセスとは?が第3章のお題だ。

そして、この本では、アンラーニングが結果で、越境がプロセスだと説明される。

「越境とは、これまで興味のなかったテーマ、直接的な利害関係の薄い人物、自分とは異なる価値観などにあえて触れていく体験を通じて、自分自身を揺さぶりながら、自分にとって当たり前な考え方やモノの見方を見つめ直し、自分の進むべき方向や目指したい未来像を探索すること」

強く意識しているのは、結果よりもプロセスということ。「新しい考え方や見方を身につけた」「未来像が描けた」という成果(結果)よりも、そこに至る思索のプロセスを大事にする自分自身を育んでいく。それが私の考える越境です。
~~~

越境は漢方薬でワークショップが治療にあたる、と長岡さんは説明を続けます。

中野民生さんの定義によればワークショップとは
「先生や講師から一方的に話を聞くのではなく、参加者が主体的に議論に参加したり、言葉だけでなくからだやこころを使って体験したり、相互に刺激しあい学びあう、グループによる学びと創造の方法」とされます。

この文章の違和感は目指すべき成果(=到達点)が書かれていないことにあると説明します。

つまり、ワークショップという活動は、リベラルアーツや越境と同様、大切なことは学んでいくプロセスにあるという学習観に立脚しているということです。

この後、本書では、
TWDW(Tokyo Work Design Week)
https://twdw.jp/
の横石さんとの対談となる。

ここでビビっときたのが
「進行形」であること。

~~~ここから引用

横石:普段はあまり知ることができない人の話に触れて、その場の空気ごと五感で吸収しながら、自分自身の発見を楽しめたらいい。今はインターネットでいくらでも情報は取れますが、本当に面白い本質のところは後付けの言葉からは得られないと僕はおもっていたんです。

長岡:「過去形」になっていない本質を見せることが重要。その感覚を横石さんは最初からもっていたんですね。とても共感します。生身の人の体験や思いは、本やウェブに載った途端に「情報」としてデコレートされてしまうのだけど、本当の面白さはライブにある。ライブの面白さとは、常に確定せずに「進行形」であること。

(中略)

横石:働き方について語るときや書くとき、つい短く分かりやすい言葉に短縮してまとめがちですが、そこからこぼれ落ちてしまうものがたくさんある。どんな表情で、どう語るのかを含めて、その人の働き方を丸ごと体で感じられるのがライブセッションならではの良さだと思います。

~~~

このあともキーワードがたくさん。

・自己紹介スライドすら要らないイベントに僕はしたい。過去の実績の話はほどほどにしていただいて、「今ここで感じていること」を表現してほしい。
・働き方を頭で考えすぎるとよくないと思っているんです。もっと体で考えたほうがいい。
・台本をつくらない代わりに、マインドマップはつくるんです。
・僕の場合、計画を立てないから、失敗は起きないんです。

~~~

そして2人目のコクヨワークスタイルの山下さんとの対談からは、組織(会社)が決めてくれる時代の終わりと、プロセスそのものをひとりひとりがデザインしていく時代の到来を説明している。

~~~
組織や学校がお膳立てした環境を当たり前に受け入れ、与えられた環境に自分を適応させようとするのではなく、自分の方から環境に働きかけ、自分にふさわしい活動環境を自分自身でつくっていく。自分の活動を構成している要素を何ひとつとしてアンタッチャブルな与件とみなすことなく、自分の中の主体性をどこまでも突き詰めていく行動原理が、行動を組織に縛られず、判断を組織に依存しない「心の自由さ」につながっていくと私は考えています。

だから、主体性発揮のきっかけとなる「場づくり」がアンラーニングにとって重要な意味をもつということです。もちろん私たちの意識を成果からプロセスに移していくことが場づくりでも肝心なのは言うまでもありません。
~~~

昨日の3つのキーワード。
・ビッグアイデア・クラウドというゆるい関係
・公と私のあいだにある共(common)のマインド
・試行錯誤を楽しむための直感と好奇心
横石さんの言葉のように、大切なのは過剰な作り込みから脱却して参加者の主体性を信じ、対話のプロセスを委ねることのようです。

「意識を成果からプロセスに移していくこと」

たぶんこれだよね。
「成果」から「プロセス」へのシフト。

実はそれこそが、「成果」を上げていくのではないかということ。
それは「ビジネス」においても、「学習」においても、同じなのではないか。
そして、ひとりひとりがプロセスに参加し、プロセスを自分自身で、周りと協働しながらつくっていくこと。

それは、「趣味」においても「観光」においても、同じだろうなと。

今回、一番衝撃だったのは横石さんの一言。
「僕の場合、計画を立てないから、失敗は起きないんです。」

うわー!

僕は小学校5年生でスクールウォーズを見て以来、
「失敗をしない方法がひとつだけある。それは何もしないことだ。でもそれは死んでいるのと同じこと。人間生きていれば必ず失敗をする。人間には失敗する権利がある。」
っていうのを持っていたのだけど。

「計画を立てない」っていうの方法があるのか!とアンラーニングされました。
「成果」にフォーカスするから、「失敗」が生まれるのだ。

「成果」から「プロセス」へのシフト。
これ、とても大切なキーワードになっていきそうです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)学び日記

2022年02月02日

「自分」を揺さぶり「価値」を揺さぶれ


「みんなのアンラーニング論 組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ」(長岡健 翔泳社)

やっと読めました、師匠(だと勝手に思っている)長岡さんの本。
ひとまず第2章まで来ましたが、アウトプットしておきます。
いま考えている風舟や温泉での「旅」の話にも通じる。

キーワードは長岡ゼミの基本中の基本である「越境」なのですが、その意味について説明してくれています。

・ビッグアイデア・クラウドというゆるい関係
「ワークシフト」(リンダグラットン)に紹介されている「ビッグアイデア・クラウド」⇒自分の興味関心を広げてくれる人々との弱いつながり。強い絆を持つ「同志」でもなく、一緒にいるだけで癒される「心の友」でもないけれど、利害関係や上下関係に束縛されないで、気軽にあれこれ話せる「ゆるい関係」ということと、自分とは異なる興味、視点、価値観を持つ魅力的な人々とのネットワークのこと。

その人たちと「シリアス・ファン(真面目に楽しむ)」な対話を楽しむことが大切だと言います。

・公と私のあいだにある共(common)のマインド
義務感や同調圧力ではなく、個人の自由意思でお互いが助け合おうとする共のマインド。公と私のどちらにも偏らないほどよいマインドセットで結ばれている人々とのネットワークを作り続けていくことが越境を繰り返しながら、ドキドキ感、モヤモヤ感を楽しむ心の自由さにつながっていくのです。

・試行錯誤を楽しむための直感と好奇心
スタート前は、いい意味で直感だのみ。でも、一度スタートすると、ほんの少し試しに進んでみては、状況を常にモニタリングして、「やっぱりこっちかな」と軌道修正を繰り返す。そして、ついには想像もしなかった場所にたどり着く。そんなふうに試行錯誤を楽しむスタイルが身体知化しているようです。

そして、長岡さんの「越境」の定義を。

特に興味がある訳ではないテーマの話を聞いたり、仕事と関連しない活動に参加したり、自分と異なる価値観をもつ人物に出会うことで、あえて自分を不安定な状態に置きながら、自分の中の「正しい」考え方やモノの見方を揺さぶっていく。

つまり、越境とは自分自身を揺さぶるプロセスのこと。行き着く先がどんな目的地なのかを気にせず、自分を不安定な状態に置いて、考え方やモノの見方を揺さぶることに集中してみようというメッセージが、その行動原理に込められています。

~~~
これって。
高校生にも、いや大人になっても、ずっとベースにあるように思う。「本を読む」っていうのは、頭の中での越境でもあるし。越境して、自分を揺さぶる。自分が越境することで「場」も揺さぶられる。そういう「機会」と「場」をつくりたいなとあらためて思った。

SDGs的なプロジェクトへの違和感。

「それは越境していないのでは?」という違和感だったのかもしれない。価値ピラミッドというか、目的⇔手段の世界の外へ越境すること。目的もなく、価値がわからない領域へと飛び出して、足元を照らしながら、自ら地図を描くこと。社会的合意が取れている価値に適応し成果を上げることにも価値や意味はあると思うが、それは越境ではないし、自分を創造しない。

それでは「アイデンティティ」問題がクリアされていかないのではないか。

社会的価値に「適応」するのではなく、「自分」を不安定な状態に置き、価値と意味を問いかけること。今見えている「学校化社会」の地図の外に出てみること。

価値と、意味と、自分を、問い続けること。

創造すること。

自分と社会のあいだに、プロジェクトという場を創造すること。

揺さぶること。

「自分」を揺さぶること、「場」を「社会」を揺さぶること。「価値」を揺さぶること。

その先にあるかもしれない、ないかもしれない「何か」を、見てみたいから。

それが、学ぶ理由だし、プロジェクトをする理由だし、「旅」をする理由。

たぶん、そういうことだな。
なんとなく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)学び日記