2024年02月11日
「あそび」の復権
『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)
10月に読んだ『あそびの生まれる時』(ころから)
http://hero.niiblo.jp/e493287.html
参考:「遊ぶ」の土台としての「あそび」(23.10.21)
http://hero.niiblo.jp/e493290.html
参考:「あそびごころ」が生まれる放課後研究所(23.10.22)
の前作です。
いきなり前書きから本質的なので、メモに残します。
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さて、そもそも、遊びとは何だろうか。
こんな幼稚園児のつぶやきがある。
「先生、この『大縄跳び』が終わったら、遊んでもいい?」
遊びとは、「大縄跳び」や「かくれんぼ」などの「メニュー」のことではない。
遊びは、心のありようを表す言葉である。
その子が、自分でやりたい(おもしろそう)と感じ、動き出すことが遊び。
したがって誰かにやらされていると感じているうちは、遊びとはならない。
また、最初から結果が見えていたら遊びにはならない。
どうなるかわからないという時、はじめてそれは遊びになる。
身体の動きは小さくても、「(その時の、その子にとって)何か違う世界が見えるかもしれないからやってみたい」という意味では、川に飛び込むことと同じ。「おもしろそう」であるかどうか、心がアクティブな状態かどうかなのだ。ゆえにいずれの場合も集中した表情になる。
あとさき考えず、何かをしてみて、未知の心の動きを味わう。それが遊ぶということ。
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さらに、もうひとつの「あそび」について
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ところで、日本語の「あそび」には、もうひとつの意味がある。
車のハンドルや、建築物で「意図してつくったゆるみ」などを表すことばも「あそび」という。一見、無駄に見えるが、それがなければ全体をうまく動かすことができないもの。こういうことに対して、私たちは「あそび」ということばを当てはめてきた。
私たちが気づかないうちに失くしてきたのはこちらの〈あそび〉かもしれない。
時間、空間、仲間
遊びが生まれやすいのはこの3つの「間」があるときだという。
すなわち、ひま=〈時間のあそび〉、すきま〈空間のあそび〉、そして、よい間合い=〈間柄/人と人の関係のあそび〉の3つの〈あそび〉があるとき、人の心が動きはじめる、と。
遊びの本質は、「想定外のドキドキ」だ。結果がわからないから、遊びになる。
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「あそび」をデザインすることは、「あいだ」をデザインすること。
学びー遊び
目標に向かうー目標に向かわない
計測可能-計測不能
予測可能-予測不能
個人-場(共同体)
プロ(仕事)ー素人(遊び)
一元化されたモノサシー多様なモノサシ
序列があるー序列がなくフラット
適応するー個性を発揮する
このあいだを行き来できる道具や乗り物やかぶりものをつくりたい
まず最初に打つべき1点は、「あそび」の復権なのではないだろうか
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