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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年04月30日

「奇跡」の目撃者となり、「奇跡」を体感し、「奇跡」のつくり手となること


『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川嘉浩 ちくまプリマ―新書)

これは高校生にも大学生にも20代にもおススメ。
僕の研究テーマであるアイデンティティと承認欲求に鋭く迫ります。

メモとして記録
キーワード、たくさんあるのだけど、まずは「偏愛」かなあ。
「強い欲望」と「深い欲望」についての言及も興味深い

~~~
「承認欲求」には2種類あって
(他者から)「承認される」欲求は強い欲望であり、「他人の視線」を介して生まれるが故に情動の高まりを伴い、
(自らを)「承認する」欲求は本書の深い欲望のことであり、自らを知ると同義なのかも

「承認される」欲求はSNSによって数値化を伴うことで強化され、ますます相互評価の檻の中へと自らを閉じ込めていく

「承認される」欲求を追い求めるのではなく自らを「承認する」ために「強い欲望」を発するもの(広告やSNS、相互評価ゲーム)から距離を置き、環境を活かしたプロジェクトを遂行する「わたしたち≒場」を形成し振り返りで承認することによって、その構成員である自分を承認するという方法論

二人が価値を置こうとしているのは、他人に移し替えられないほど「個人的」であり、文脈や対象を変えると成立しないくらい「細分化された」欲望です。

「欲しかった本」というのも、「深い欲望」を知るためのツールになるのかもしれない。本屋の役割って、きっとそういうことだ。欲しい本ではなく、欲しかった本を売りたい。
~~~

必要なのはその「深い欲望」に目を向けること。
そこへ到達するキーワードが「偏愛」なのだと。

~~~
「何かを理解したかのような気分」に浸り、「そうすることである種の安堵感」を得る

些細な部分についての質問や感想、細部を掘り下げる言葉こそが当人の性格を浮かび上がらせる。

効率的で、計算可能で、予測可能で、コントロールしやすいものを求める合理化された集団には、必ずこういう要素(外圧的アプローチ)があります。外圧的アプローチは、当事者の願望や欲望を無視します。
~~~

そっか。細部にこそ神は宿るんだ。
高校生や地域の大人へのインタビューはまさにその細部を浮かび上がらせるためにやっているんだなあと。それを掘り下げると。

~~~
一周回った爽やかさとは、「これさえ譲らなければ他はどうだっていいんだ」と言えるような根拠地を知っている人の自由さです。自分の衝動を知っている人には、大概のことには振り回されない泰然自若とした姿勢があります。

広告やSNSなど様々なメディアを通して色々な刺激を与えられ続けることで、自分の中で生まれた多数の強い欲望に感情を絡めとられて、小さく静かに動く深い欲望が見えなくなっている。そういうときに採用できるのは、状況全体を暗くすることです。
~~~
自分の衝動を知ること。

「〇〇がないと生きていけない」の〇〇が見つかった人は幸運だ。〇〇があれば生きていける(のに前進することを知っている)のだから。

次に、衝動と「目的」について
~~~
「衝動」は具体的な目的地ではなく大体の方向性を告げるもの

衝動は、直接私たちになすべきことを教えてくれません。具体的な行動を導くのは「衝動」ではなく、知性が試行錯誤しながら組み立てる達成可能な「目的」です。むしろ、今掲げている目的や戦略に固執せず、衝動に照らして、よりよい目的や戦略と出会ったらどんどん修正する貪欲さこそが、彼女の行動を特徴づけていると考えられます。衝動の力が続く限り、目的や戦略は変化し、成長していくものだということです。
~~~

さらには、「キャリアデザイン」についての痛烈な一矢を。

~~~
キャリアデザインを支えているのは、結局のところ、コントロール願望です。(中略)こうした人生設計は、自分の決定に自分自身が驚く可能性を考慮していません。考慮しないどころか、何か偶然の出会いを通して、自己がすっかり書き換えられてしまうなどという事態は、設計からは程遠いという点で許容しがたいのです。

キャリアデザインは「自分の人生を自分で設計する」ことを標榜しています。その役割を果たすために、未来の自分が過去や今の自分と本質的に同質的であると前提せざるをえません。そもそも、キャリア教育やキャリアデザインは、反設計的な衝動を悪魔祓いしたところに成立していると言えるかもしれません。

この姿勢が容認しがたいのは、キャリアデザインというコンセプトが「人生を『仕事』のように生きる」ことを要求しているところがあるからです。ここでいう「仕事」は、自分のすべての行動を目的に従属させ、それに向けて課題を分割して計画的にことに取り組み高いパフォーマンスや効率を出そうとする目的に駆動された生き方のことです。

目の前にある機会も多面的であり、私たち自身も多面性を持っている。そうしたものの組み合わせとして自分の人生を捉えた方がいいのに、リスクやキャリア、人生設計という言葉は、機会や自分を誰にとっても同じフラットで平均的なものとして捉えてしまう。
~~~

なるほど。
「キャリアデザイン」によって、むしろ僕たちは「個性」というか「固有性」、自分でなければいけない理由を失っているのかもしれませんね。

~~~
衝動の「持続性」は「特定の目的や戦略へのこだわり」という形をとりません、「手元の目的や戦略に色々な修正・変更を加えながら進む」という試行錯誤の形をとります。

自分の内側にモチベーションのきっかけがあるというよりも、環境のあちこちにモチベーションの芽が散らばっている。僕たちが心だと思っているものは記憶にせよ、行為の動機にせよ、意外と自分の周りにも広がっているのかもしれない。
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モチベーションは本人の中にあるわけではない。ホントその通りだと思います。

最後に、「知性」と衝動について

~~~
「知性」:環境の観察と記憶の探索を行き来しながら、事柄の意味を判断し、具体的な行動の計画につなげる働きをするもの。

衝動は私たちの進むべき方向性を教えてくれるのに対して、知性は具体的なアクションのことを考え、判断する。

衝動と知性を行き来すること
~~~~
それって、場と個の往還に近いなあと。
中動態で動き、能動に落とし込んでいくこと。

なぜ、「衝動」が必要なのか、著者は次のように言います。

現代人の抱きがちな「寂しさ」は、私たちを抽象性や交換可能性へと導いています。「寂しさ」が導く生き方のレールを外れた先にあるのは、「衝動」が導く生き方です。

「寂しさ」を埋めるために、常に(ネット上を含め)「つながって」マルチタスクをこなし、「忙しい」状態をつくる。強い欲望を発するメディアによって行動を決められてしまう。

それによって、自分自身はますます抽象化され、交換可能になっていく。それってますます「寂しく」なっていってるんじゃないか。抜け出せない苦しさだろう。

「なんでそれを?その熱量で!?」と他人(合理的存在)が見たら、驚愕するようなこと、つまり自らの「偏愛」を知り、時間をかけて実践し、知性により言語化し、目的を定め、行動計画に落とし込むこと。

個別性と一回性と偶然性の中で、「奇跡」の目撃者となり「奇跡」を体感することいや、そこにたしかに自分が「存在」しているのだから「奇跡」のつくり手となっていると実感できること。

「衝動」と「知性」を行き来すること。
「場」と「個」を往還すること。

自らの「衝動」をつかむ。そんな1歩を踏み出せるプログラムがつくれないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 09:20Comments(0)学び日記

2024年04月10日

ベクトルの始点を合わせるというチューニング



ぼくの師匠、佐藤恒平さんに会いに山形県朝日町へ
話題のメインは、おとなり、西会津で撮った映画の話。
つぎの民話
https://minwa.listpage.jp/

昨年12月10日に西会津の奥川地区でやった上映会の様子(映画の予告編もあります)
https://mayoiga-k.jp/news/1589.html

滞在時間は2時間。
まずは、知る人ぞ知る地元人気食堂でモツ煮定食を頂きながら(モツ、大盛り過ぎる。笑)


その後朝日中学校内にある佐藤さんの会社「まよひが企画」オフィスにお邪魔し、恒平くんがウサヒに化けて中学校の授業に行くところの30分で映画を見せてもらって、その後、話をしました。


~~~以下メモ
1 中学校内のオフィスについて
・コミュニティスクール委員をやっているときに提案
・先生方が地域を題材にした、あるいは地域と連携した授業をしたいときに相談に行ける
・結果、働き方改革(先生の勤務超過を防ぐ)につながっている
⇒「地域連携」と「働き方改革」の文脈でNHKウイークエンド東北に
⇒次の先生にも映像で伝えられる

2 中学生の「総合的な学習の時間」について
・1年生の授業で、地元を題材にしたカルタをやる
・地元の集落ごとのジグソーパズルをつくってやってみる
⇒地理的な俯瞰をすることから始める。「地理」から始まる好奇心が歴史や人文や、理科や経済などにもつながっていく。

3 映画について
これについては、Xの投稿を貼っておきます。

地図は物理的、地理的に町を俯瞰し、ドキュメンタリー映画は、感情的、時間的に人生や関係性を俯瞰するのかもしれない。そこにナレーションというガイドは不要なのかもしれない。目的や意図を持つけど、解釈や感情の余白を残しておくこと。アートの領域だよなあ、と。

ワークショップの下ごしらえとしての30分のドキュメンタリー映画。リアルを見て、感情を動かして、自分だったら、と感じて考えて、同じ地平に立つ。仕組まれたアイスブレイクではなく、同じ地平に立つためにできることは何か?

マスに届けようとすると、背景説明を丁寧にしなければならない。その射程の半径を小さくすれば、コンテクストをある程度共有しているので、背景は説明せず、ナレーションというガイドも不要になる。結果、ダイレクトに登場人物の感情が心に響く。

映画上映会場という暗い空間の中で、俳優の一言一言との対話が起こる。それは話に応じるという意味では応話と呼べるのかも知れないし、近い暮らしを共有しているからこその共話でもあるのかもしれない。
~~~

と、こんな感じ。
僕の研究領域である、コミュニケーション・デザインとチューニング・ファシリテーションの観点からも、非常にインスパイアされるお話でした。

映画の中に、「未来型結(みらいがたゆい)」の話が出てくるのだけど
参考:未来型結について:http://kyodoshi.com/article/13015

未来型「結」にとって必要なのは、まず、同じ「座」に座り、ごはんを食べたり、農作業をしたりすることが大切なのだろう。同じ映像を見る、という方法もあるのだな、と。それもチューニング・ファシリテーションか。ベクトルの方向を合わせるのではなく、ベクトルの始点を合わせること

その「座」を共有していること。それが最大のチューニング、なのかもしれない。

たとえば、高校の授業の冒頭に、地域の人との4マス自己紹介で、出身と、最近あったよかったことを話すのも、地理的な俯瞰と、時間的な俯瞰、さらには(身近な)価値観をチューニングしているのだな、と。

ドキュメンタリー映画(映像)を見ること、あるいは探究的な文脈で言えば、生徒自身のリアルな声を聞くこと。評価をするのではなく、そこから自分は何を感じ、どんなことを思ったのか。それをシェアし、さらに深めていくこと。自分を自覚すること。

「機会として学ぶ」ってそういうことなのかもしれないなと思いました。そこでは「学ぼう」としなくても、勝手に「学び」という現象が立ち上がっていくのだと。

そういう「デザイン」をやってみたいのかもしれません。
恒平師匠、たくさんのヒントをありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 09:51Comments(0)学び日記

2024年04月08日

アンサング・ヒーローの物語を紡ぐ


『チ。-地球の運動についてー』(魚豊 小学館)

話題のマンガ、一気読みしました。
題材は天動説⇒地動説へと変わるまでのフィクション。

なんというか、「アンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)」の物語ですね。
「学ぶ」とは何か?
「生きる」とは?
そして、人はなぜ、本を読むのか?

いろいろ考えさせられます。
名言だらけなのでメモしておきます。
(ネタバレなので、マンガを読む人は読まないでください)

~~~
不正解は無意味を意味しない。

あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。
ある種の想像力であり、好奇心であり逸脱で他者で外部で
畢竟、それは知性だ。

今夜君達はこれから少しの間だけ、恐らく人生で初めて、
自らの運命を変える挑戦権を得ている。
一生快適な自己否定に留まるか、
全てを捨てて自己肯定に賭けて出るか、どちらを選ぶも自由だ

思慮深くてはダメなんですよ、修道院長。
そんなヤワな姿勢じゃ時代に埋もれて終わる。
利口ではいざという時掴み取れない。

掴む?何を?
私がずっと待っている、
私を特別にする瞬間、私を偉大にする瞬間、私が歴史を動かす瞬間ですよ。

その一人とは、私ではなく君かもしれんからだ。

もし、過去の積み重ねの先に答えがないなら、真理にとって我々は無駄だったかもしれん。
しかしたとえ過ちでも何かを書き留めたことは、歴史にとって無意味ではない。と願ってる。

私達の人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められてる。
だけど、文字を読むときだけはかつていた偉人達が私に向かって口を開いてくれる。
その一瞬この時代から抜け出せる。
文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。

『自らが間違ってる可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。
第三者による反論が許されないならそれは信仰だ。

自分以外に託すって姿勢に希望を見出してた。
そしてあろうことかその姿勢を天国にいくより重視した。

そういう他者が引き起こす捩れが、現状を前に向かわせる希望なのかもしれない。

それは地動説の意味を知った時、多分、感動したからです。

君の文章は論文としての価値はない。-がそれ故、伝わる可能性は高いだろう。
伝わる? 何が? 感動だ。

それさえ残せば、後は自然と立ち上がる。

一見、無関係な情報と情報の間に関わりを見つけ出せ。
ただの情報を使える知識に変えるんだ。その過程に、知性が宿る。
それがあれば留まる勇気と踏み出す度胸が得られる。

タウマゼイン?
それは古代の哲学者曰く、知的探求の原始にある驚異。
簡単に言い換えるとこの世の美しさに痺れる肉体のこと。
そして、それに近づきたいと思う精神のこと
つまり、「?」と感じること

身体と魂、理性と信仰、哲学と神学、疑うことと信じること
これらの矛盾は両立します。何故か?
それが人間だからです。
人間は神でも獣でもない。人間はその中間に存在する。
でもだからこそ中間を、曖昧を、混乱を、受け入れられる。
むしろ矛盾で理性の息継ぎをする。

貴方は今、神を失っている。
この世界が存在するという奇跡を感じられないでいる。

奇跡とは、必然に満ちた領域で生まれる偶然のことです。
と同時に、偶然に満ちた領域で必然が生まれることです。

昔の貴方はそれを感じていた。この世のすべてが奇跡的だと知っていた。
しかし経験や記憶、過去や故郷、そして痛みと引き替えに、奇跡まで失ってしまった。
奇跡は、貴方が生きる場所だったのに・・・です。
~~~

このマンガには、ひたすらに、ただひたすらに
歌われざる英雄(アンサング・ヒーロー)が描かれています。
真実を求め、託して、死んでいくものたち。
そしてその好奇心は止められないのだ、と。

美しい人生ってなんだろう?
って考えさせられます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:16Comments(0)学び日記