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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年05月30日

大人が苦しむ授業「地域学A」

地域学Aの顔合わせ
阿賀黎明探究パートナーズとの協働授業の初日

「定性チーム」と名付けられたチームには
2年生男子2名女子3名
昨年までは「福祉チーム」と呼ばれていたチーム

「大人が主導しすぎた」という昨年度の振り返りから、今年はゴールも内容も決めないで、題材だけを決めるという設計で授業を始めている。

「設計で」と書いたが、設計していない授業だ。

初日。
定性チーム。

自己紹介のあと、社会福祉協議会の谷垣さんが
今回のフィールドとなる七名地区「七福の恵」について概要説明。
来週の現地見学に向けての導入を行った。

・NPOが管理する温泉施設 七福温泉「七福荘」
・七つの地域があり、一地域 10世帯ほど
・高齢者のひとり世帯多い
・デマンドバスが走っている
・NPO=みんなの利益になることをやる

さて。
どうやって進めていこうか。

困っていることを考えて、その解決策を探ろうか。
自分たちの困っていることと合わせて、なにかできることがないか考えようか。
それとも、魅力を探して見つけて、それをPRしようか。
温泉施設の中にある物品販売をお手伝いしようか。

やってみた付箋ワークは、年4回、そこに足を運びたくなるには?
個人で付箋を書き、発表し、もういちど眺めてみて
やっぱりこれがいいという2,3枚を選んでもらう。
5人全員が挙げたのが「キャンプ」だった。
(アニメイベント、音楽フェス、朝カフェ・・・もありました)

しかし。
「キャンプ」と言っても、ひとりひとりのキャンプ像が違っていた。

・キレイな景色
・肉を食べたい(BBQ)
・焚き火したい
・花火したい
・家族と非日常の時間を過ごす

そんなのを出したところで振り返りの時間。

本番は、そこからだった。
授業終了後、大人チームの振り返りの時間。

なんといっても1学期に与えられた授業は今回と来週の現地見学の2回のみ。
それを元に9月にはなにかしらのアウトプットを出さないといけない。

当然、キャンプイベントを授業時間内にはできない。
そして、キャンプが地域にとってプラスなのか、意味があるのか?

そもそも、自分たちが伝えたいことってなんだっけ?

七名地区のみなさんが地域のことは地域でなんとかしようとこの温泉施設をベースに活動していること。過疎化・高齢化のど真ん中にも「暮らし」があるっていうこと。そんな福祉的な要素を伝えたい。

そんなときに「キャンプ」っていうアウトプットになるのか?という違和感。
最初に想定していたのは、高校生が町のイベントで七福の恵のPRのためのブースをつくり、物品を売ったりする、みたいなイベント。

でもさ、それって、根っこの部分の「支え合う暮らし」みたいなのとどうつながるんだろう?って。高校生が当事者性を持って、取り組めるのだろうかって。

リーダー谷垣さんが言った「高校生の自分事はこういうことなんですね」。

ここからどうやってアウトプットするのか?
高校生の学びにできるのか?
どんなことが伝わるのか?

そんなことをみんなで考え、悶々とする時間。
僕が関わった授業史上でもっとも苦しい時間だった。

僕たちは高校生に対して、「伝えよう」という意図を持って伝えても結果として「伝わらない」ことを何度も経験してきた。
だからまず高校生の声を聴いたのかもしれないし、まだチューニングをしている時間なのかもしれない。

谷垣さんが最後に言った。
・外のひとのために出来ること
・地域のために出来ること
・そのベースにある「暮らし」

それをワークシート化してみようかな。

「定性チーム」。
まさに、って思った。数値化できない価値そのものを探究するチームだ。

高校生と地域が一緒につくる価値ってなんだろう?
そんな問いの真っただ中に授業をつくる。
「ともにつくる」ってそういうことなのかもしれない。

ふりかえり中、僕はただただ苦しかった。ここからどうやって、プロジェクトをつくっていこう?って途方にくれながらも考え続けていた。
「ジェネレーター」ってそういうことなのかもしれない。

「学級の歴史学」に書いてあった「事前制御」され「自己抑制」を強制される学級・授業ではない何かの兆しが少し見えた。

高校生も大人もゴールが分からない授業。
ともに悩み、ともにやってみて、ともにつくる授業。

そんな第1歩。
地域学Aの初回は苦しくて楽しくてうれしい授業となりました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:02Comments(0)学び日記

2023年05月26日

「学級」「学校」「教育」という幻想


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

終章 変わる学級制-共同体幻想からの脱却

読み終わりました。

自分のアイデンティティを揺るがす1冊となりました。
武者震いというのでしょうか。先の見えない不安なのかもしれません。
この道でよかったのだろうか、と揺さぶられます。
著者の柳先生に「このタスキ、たしかに受け取ったよ」って言いたい気分です。

角川・ドワンゴ学園が挑んでいるのは「学校」ではなくて「学級」というシステムなのかもしれませんね。

さて。
終章からもいくつか引用を

~~~
ハードウェアが見えなければ、学校をめぐる議論は、ソフトウェアを中心とした教育論の中に閉塞していく他はない。

明確に自覚されなくとも、実際にはチェーン・システムとして動いているために、学校は随所で、機械的性格、限定的性格、そして画一的性格を表面化させる。しかしチェーン・システムとして動いていることが見えなければ、学校が提供する教育は明らかに貧相な、あるいは否定さるべき教育としてしか目に映らない。ここから、画一教育や個性無視の教育という批判や、「子どもの自発性を大切にしていない」などの批判が次々に学校に投げかけられてくる。

チェーン・システムとしての学校はその成立過程で、他のチェーン・システムのサービスと同様に、一括処理による画一的教育法を採用し、児童・生徒の個性や自発性を意図的に無視してきたという側面があることは否定しえない。だから粗末な教育だと批判することはいつでも、そして誰でも簡単にできる。しかしそれは、本当の学校批判になりえているのだろうか。それは既製品しか売らないことを標榜している店で、「あつらえ物がない」と騒ぎ立てることと同じく、単なるないものねだりの、あるいは的はずれの批判ということでしかないだろう。

3R'sの伝達を中心に組織を整備してきた学校は、子どもの生活の一部にしかかかわっていなかったはずである。しかしハードウェアが持つ限界が理解されなければ、子どもをめぐるすべての問題が関係あるとして、学校に背負わされることとなってしまう。「しつけは学校でやってほしい」「地域でのボランティア活動は学校が推進してほしい」「繁華街での補導は学校でやってほしい」「青少年の非行は学校教育に問題があるからだ」というように、ありとらゆる事柄が学校の仕事とされてしまう。
~~~
比較不能であるがゆえに現代人は、自分を学級制という特異なシステムの影響を受けた存在として自覚することができなくなった。しかし事前制御や自己抑制という仕組みの異常性を十分に理解すれば、われわれが学級制という長期にわたって人間の行動を規制する装置の中に身を置くことによって、特異な性格形成を余儀なくされていることを、否定しえなくなるだろう。

就学期間の長期化は、学校外社会における異年齢集団の解体と同時に進行した。柳田國男が指摘したように、かつて学校外の伝統的な異年齢集団と、学校に導入された同年齢集団が共存した時期があり、青少年はこの異質な集団の双方にかかわりを持っていた。

集団所属の二元性とは、学級非体験的自己が生きた世界が根強く存続していたことを意味する。学校教育を通じて得た知識に対し、経験を通じて獲得された知識がいまだに社会的に正当な評価を獲得し、また、そのような人物の影響力は決して弱くはなかった。また当然のこととして、学級非体験的自己からの、学級体験的自己へと向けられた批判が存在した。このような力が存在する限り、学級体験的自己のみが自己増殖し始める他はない。われわれが生きている今とは、このような時代なのである。
~~~
学級制とは、あくまでも義務教育制度が効率的教育の」ために作り上げられ、そして事前制御を伴う必要悪である。それは3R'sを児童・生徒に確実に教えるために開発された機能集団であり、自己抑制に見合った学習満足度を与え、収支の釣り合いを確実に実現しなければならない。このことを確認した上で、学級制の中にどれだけ青少年を入れ込むべきかを議論すべきであろう。

わが国では、この問題をあまりにも無頓着なまま、学級を共同体として理解し、人間関係を育む場として楽観的にとらえ、その結果、きわめて長期にわたる学級生活を、青少年に強いていることになってしまった。

学級制は、生徒の意識、感性の変化にまったく無頓着であった。否、むしろ1960年代の高度成長期に、生徒の意識が個人化しはじめたころに、集団作り、仲間作りというようなスローガンが、教育界でもてはやされた。生徒の意識や生活様式の個人化に対応して学級制を弾力化するのではなく、逆に集団形成を強化する方向へと向かったのである、したがって、日常生活のいろいろな分野で脱共同体的生活様式が一般化しているのに、学級制のみが、依然として共同体的性格を濃厚に持ったまま、現在にいたっている。
~~~

これはすごいですね。まずは「学級非体験的自己」。坂本龍馬も西郷隆盛も体験していない「学級」。
いつのまにか、私たちは「学校」=「学級で学ぶもの」ということを前提にしてしまった。
そして「教育」=「学校」だといまだに思っている。

事前制御され自己抑制を強制するパックツアーとしての「学級」についてあらめて考えること。
それによって青少年はどのように影響を受けるのか。

僕たちが学校外で、あるいは学校と一緒に取り組むべきことは何か?
「学級」というシステムそのものに働きかけることは可能なのか?
われわれ自身が「探究」の授業を「事前制御」していないか?

「学級」って
「学校」って
「教育」って
「学校と地域の協働」って
「生きる力」って
いったいなんなのか。

苦しいくらいもやもやが募る1冊となりました。
柳先生、ありがとうございました。
このタスキ、たしかに受け取りました。  

Posted by ニシダタクジ at 13:36Comments(0)学び日記

2023年05月26日

「自分できめる」を奪う「学級」



「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

第六章 学校病理の解明

いよいよ佳境にはいってきました。残り僅かです。
今回もひらすらメモしていきます。

~~~ここからメモ「報われない自己抑制」

1 パックツアーと違い、意図的に参加するのではないから、参加者すなわち生徒の目的が脆弱。
2 目的達成としての手段として学級を位置づけたり手段としての規律化、自己抑制を受け入れるのが困難。
3 規律化された代償としての成績上昇が誰にでも保証されるわけではない。
4 「学級」が共同体言説によって生活集団化することで事前制御という目的達成のための手段が無視される。
5 教育評価は教師が生徒に行い、生徒は評価できない。

学級制は明らかに、特定機能充足のためのパッケージとして生まれた。そしてそれは分業制の産物であった。しかし、わが国において学級制が導入された明治時代の後半は、いまだに社会における分業制の展開が制約されていた時代であった。このような社会が、機能限定的な「学級」という集団形態を素直に受け入れるはずはなかった。むしろ自給自足的な生活を続けてきた村落共同体の生活の論理が、そのまま「学級」の中に入り込んでも不思議ではない。

「学級」が機能集団であれば、子どもの生活の一部分を「学級」が占めるに過ぎない。逆に「学級」が生活共同体化するということは、「学級」が日々の生活のすべてをおおい、支配することを物語る。「学級」は多様な活動を抱え込み、「重たい学級」となる。多様な活動の抱え込みと事前制御や自己抑制は相容れない。ここではハードウェアとソフトウェアとの完全な不一致が発生する。

逆に「軽い学級」であれば、学級の活動は学習機能に限定され、自己抑制をした分の代償として、成績向上という成果がもたらされねばならないという自覚が生まれやすい。習う側に、自己抑制して教師の話を聞く目的が明白であれば、また授業の成果に対する判断も明確となる。また、毎日の授業に目的意識を持って臨む態度が形成される。

しかしいろいろな活動を吸収した「重たい学級」では、このような学習に対する目的意識は形成されず、自己抑制と満足との均衡感も自覚されにくい。このような「学級」の中での生活とは、目的を知らないまま、あるいは達成感を感じることもなく、自己抑制を継続することに他ならない。自己抑制は自己目的化し、児童・生徒はひたすらまじめであることが求められる。あるいは、まじめであることが、しばしば教育効果が上がった成果として強調される。
~~~

なるほどなあ。「重たい学級」か。
このあと、スルドい一言が待っていました。

~~~
事前制御された生活に有無を言わさずに組み込み、そしてさらなる自己抑制を求めておきながら、提供された活動に楽しみを見いだせと求める大人の勝手な論理が、生徒たちにそのまま通用するとは思われない。

学級集団作りや仲間作りが持つ問題も、ここにある。一方では児童・生徒は事前制御という見えない学校の強烈な組織化のテクノロジーに支配され、自己抑制して、感情的に行動することを厳しく制限されている。さらに、名誉の獲得をめぐって、恒常的な競争状態にある。このような学級空間の独自の力学が作用する中で、彼らが教師の命ずるままに、緊密な人間関係を維持したり、統一された行動をとりうるはずがない。
~~~

著者は、いじめや学校外での逸脱行動の原因もこのような学級における代償充足不全状況がもたらすと説明する。事前制御された環境における自己抑制に対して、学校はほとんどなんの代償も払ってはくれない。

さらにおそろしい文章がつづきます。

~~~
事前制御されることは、学習活動が他律的に進行することに他ならない。この事前制御された「学級」の中で生活するには、児童・生徒が自己の方針を明確に持っていたり、強固な意志を持つ存在であったりしてはならない。

学校は、学校に行きたくないという生徒の存在を承認してはならないだけではなく、自分のペースで学習を進めたいという生徒の存在も認めてはならないのである。そのためには学校は児童・生徒を無力化し、彼らが学校秩序に従順になるように仕向ける必要がある。

時間割というわれわれにはありふれた紙切れが示すことは、教科の好き嫌いや、優先順位に関する自己決定権を児童・生徒に認めていたのでは学校の一斉授業は成立しないということである。児童・生徒を無力化し、彼らから学習過程に関する自己決定権を剥奪することによって、ようやく「学級」という教授活動は成立しうる。「学級」という事前制御空間は、あえていえば、児童・生徒の自己決定権の剥奪という人権侵害をすることによって成立する集団である。このことを強要しない限り「学級」も、そして一斉授業も成立しえない・
~~~

さらに著者はさらに過激になり、軍隊や刑務所、隔離病棟のような「全制施設」に学校はきわめて類似していると指摘する。教師と生徒の情報格差についてもそのプロセスの一部だという。

~~~
かくして、自分の生活の細部まで知り尽くされ、秘密を持つことができなかったり、自分のペースで生活することが承認されなかったりした場合、人間は次第に無力化されていく他はない。無力化は、命令を下したり校則を制定したりというような可視化レベルでのみ進行しているのではなく、自明のこととして受け入れられた身体検査、試験、教師による観察など、児童・生徒に関する情報蓄積のあらゆる方法によって促されているのである。

このような単なる無力化の方策では、児童・生徒の積極的な学習意欲は生まれてこない。

司牧関係は、信者が自分の罪を自覚することから始まる。罪深い存在の人間が、死後の世界において救われるためには、神を畏れる人間にならねばならないし、また救われるためには、神の意にかなうように被虐的なあるいは自己否定的な努力を積み重ねなければならない。司祭こそが信者に絶対的な神への従順性を培い、なおかつまた激しい自己否定的な努力を促すのにかかすことができない存在である。

学校秩序が安定するには、原罪意識を梃子にして「自分は教師に導かれ、教わらねばならない未熟で怠惰な存在である。」という自己確信を生徒に持たせねばならない。

しかし世俗化された学校でこのような濃密な宗教意識をかき立てることは次第に困難になる。従順性と積極性を同時に獲得する技術は、宗教から離れて、功利的な栄光や立身出世という、未来の生活にかかわる夢を提供するように変容していく。「現在の自己に甘んじることなく、将来のよりよい生活を目指して努力し続けなければならない」という先に期待をつなぐ成功神話を生徒に植えつけることほど、学校が生徒を秩序に馴致させ、また積極的学習態度を作り上げるのに効果的な方法はない。

学校秩序は、「未来志向の物語」を必要とするのである。「自分の将来は学校教育の成果にかかわっており、教師に依存することなしには将来の成功はありえない。」という意識をいかに生徒の頭の中に作り上げるかに学校秩序の維持はかかっている。

空手形とわかっていても、ともかく未来に眼を向けさせねば、学校秩序はおろか、教師の支配の正当性も危機に瀕する。しかし、超越的な神の存在を前提とした現在意識と自己抑制の文化そのものが存在しないわが国で、罪の意識を醸成するにはひと工夫が必要であった。

それは、他の生徒には内緒で個別的な教師・生徒関係を作り上げ、教師の期待に背く自分を負い目に感じるように仕向けることであった。「先生は自分の将来のことをこんなに心配してくれているのに、私が怠けたのでは申し訳ない」、あるいは「先生の励ましにもかかわらず、成績が上がらないのは、私の努力不足が原因である」という負い目に基づく罪の意識を生徒の中に生み出すことが、教師にとってもっとも必要であったのである。
~~~

なんというマジックなのでしょう。
「学級」を機能させることが目的なのでしょうか。

~~~
自己決定しないということは、自分で自分の将来を描きえなくなることでしかない。日常生活の些細な事柄に関する選択と決定の絶えざる繰り返しが、将来の自己イメージを決定する重要な契機である。未来の自己実現という美味しい果実のために、現在の欲望を抑え込むことが、すなわち自己抑制と達成感との収支関係が釣り合うことが、そもそもの出発点であった。しかしこの些細な決定を放棄することは、結局は将来の自己を決定する能力を放棄することとなる。
~~~

「自己できめる」力を知らず知らずに奪われていくって怖いことだなと。
さらに、もっとも恐ろしい「ダブルバインド」の話が。

~~~
事前制御という統制を受けていることを意識の上で自覚しないだけで、身体はこの制御の中にある。そして意識は、自由とか主体性とかの言説を信奉している。身体は意識しなくても統制され、意識にのぼる言説では、自由や主体性が強調される。教師も生徒もこの二つの命令によって動かされる時、彼らは完全なダブルバインドの落とし穴に入り込まざるをえない。

事前制御という特別の操作が加えられた世界に児童・生徒を閉じ込めておき、従順性を養い、無力化に努めながら、他方では教育言説により、「いきいきと」とか、「のびのびと」とかの言葉を乱発し、積極的、能動的態度や行動を求めて働きかける。また、あらゆる方法を通じて、児童・生徒に関する情報を獲得し、圧倒的な情報の格差を一方で作り上げながら、「共に学ぶ」とか「「共感的理解」とかいう言説のもと、教師は彼らとの間に、友達同然の関係を作るように促される。
~~~

いやー、学校とか学級ってすごい無理ゲーだなあと。「教育」、「学級」というシステムを作り上げるプロセスの中で、いつのまにか「学級」を機能させること自体が目的化してしまったのだ。

最後のダブルバインドの話もそうだけど、誰のためのシステムなんだろうって。

水戸にいるときに参加した「ジュニアエコノミーカレッジ」は小学校5・6年生が屋台を企画し、何かを売ってみる、というプログラムだった。そのプログラム中に再三言われるのが、「自分できめる」だった。

いま。学校で、学級(教室)で、子どもたちが直面している環境ってなんなんだろう。

「答えのない時代・社会が到来している」という言葉に、誰もが納得しているのに、学校は、学級は、事前制御されたハードウェアに教師も生徒も縛られた上で、「こどもが主役」などという聞こえのいいソフトウェアがまん延しているというダブルバインドが教師と生徒双方を覆っている。

なによりも「自分できめる」という機会を奪い続けることで失われることのほうが大きい僕は思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:47Comments(0)学び日記

2023年05月23日

作文指導による内面の操作


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

第五章 日本の学校はいかに機能したか
いよいよ我が国の話に入ってきました。
毎日書いてますけど、この本は目から鱗だらけです。

まずは前提確認から
~~~
1 我が国の義務教育制度は、宗教団体による組織化の先行経験もないまま、突如国家が生徒の組織化を開始させねばならなかった。需要が存在しない中で、いわば分業化された教授活動が、いきなり日本社会の中に入り込むこととなった。

2 農村的秩序が解体し、都市を中心に産業革命が進行する過程で、学校が成立したのではなく、農村秩序の真っ只中で、学校を作り、学級制を定着させねばならなかった。産業革命の進行は義務教育制度施行よりもはるかに遅れ、また人々の移動も極度に少なく、大部分の人々は農民として村落共同体という伝統的集団の枠組みの中で生活していた。

3 日本は欧米諸国の制度をモデルとして輸入しなければならなかった。キリスト教的文化、とりわけプロテスタントの世俗内禁欲主義という宗教倫理の中で育まれてきた制度を、仏教や儒教、あるいはさまざまな民間信仰が大きな役割と果たしている日本の社会の中に定着させなければならない。当然、キリスト教の司牧関係は存在しようがなかった。

学校とは、伝統的農村秩序にとっては、明らかに社会的異物であった。例えば学校は欧米にならい、いち早く太陽暦を導入した。しかし、農業のリズムに合致した太陰暦(旧暦)のもとに生活を送っている人々にとって、太陽暦という季節を無視したリズムで動く学校とは、迷惑な存在であったであろう。このような伝統的、農村的性格を強く持つ日本において、この奇異な学校制度は開始されねばならなかったし、また学級制も導入される必要があったのである。
~~~

いやあ。そんな社会状況で義務教育制度なんて導入できるのでしょうか。無理ゲーとしか思えません。
ところが先人たちは、その想像を絶する困難に関わらず、義務教育導入へと突き進みます。

まずやられたのは等級制という生徒編成方式の導入と、もっぱら個人に焦点をしぼった競争試験の強化だった。表面上の目的は、試験が持つ平等化期の機能に求められねばならない。幕藩体制を解体させ、新たな国民国家を実現していくためには教育はすべての人間に開かれていなければならなかった。

これは、イギリスの場合と同じく「競争」によって、学校そのものの魅力創出を狙ったのである。ところが試験は多くの落伍者を発生させる。そして等級制は学級制へと移行していく。

その規律化の方法として出てくるのが「起立」「礼」「着席」を代表とする軍隊式の身体の規律化であった。さらには運動会を典型とする学校行事でそれを強化した。

筆者は村落共同体の「こども組」と学級という集団を対比して次のように説明する
~~~
明らかに子ども組は異年齢集団だったのであり、年長者を中心とする自治が行われていたのであった。これに対して「学級」とは有無を言わさずよその村落の見知らぬ同じ年齢の他人と強制的に一緒にさせられ、よそ者としての教師によって統制される、まったく異質な集団であった。
~~~

そこで出てきたの「学級文化活動」である。それは「生活綴り方運動」と共に広がった運動であった。

~~~
学校は、西洋文化に満ちたカプセルであるが、貧困な中にある生徒の日常生活は、新聞もラジオもない。この文化的落差を前提に貧しい生徒たちが持てない文化活動を学校で提供すれば、ことは十分である。本を整備し、新聞という文字メディアの世界へと誘い、歌や文集づくり、あるいは誕生会というハイカラな文化を教室に取り入れることは、生徒にとって大きな魅力となった。児童が夢中になってこれらの文化を教室に取り組むことが、さらに教師の実践意欲をかき立てた。「学級文化活動」とは、供給先行型組織としての学校が児童の学校への関心を引き起こすための自己準拠活動であった。

しかしこのことは、学級が分業制から逸脱したことを意味する。パッケージとしての「学級」が担う機能は、分業制の下では制限され、教師の活動にもまた制約が課されるはずである。しかし、このような自覚のないままに、多様な活動が「学級」内に導入された。それはいうまでもなく、当時の人々が機能限定的な集団の意味を理解しえなかったことを物語っている。

換言すればこのことは、「学級」が、あらゆる生活機能を包含した村落共同体の論理によって解釈されたことを示している。村落共同体が、生産機能、生活機能、政治機能、祭祀機能をすべて包含する重層的存在であると同様、「学級」もさまざまな活動が重層的に累積した集団となったのである。
~~~

そして、学級を強化する方法として「競争」も機能するのである。

~~~
「学級」は「競争する学級」として出現した。教師は多様な活動を導入し、常に他の「学級」、他の教師の活動を意識しつつ、自分の教室での活動の成果を高める努力をした。こうして他の「学級」への対抗意識を燃やすことによって、学級成員の結束は強化される。「学級」の共同体的性格はさらに強まり、その自己準拠機能もまた高まっていく。

しかしながら競争は、競争のための競争として、自己目的化する。当然、学級内での共同性の強化を目指した諸々の活動の導入も、自己目的化する。「学級文化活動」もまた、そのような動きの典型であった。目的を失い、競争意識に促された活動の導入は、その限界を知らない。そして「学級」はこのような多くの活動体験を共有する生活共同体、そして他「学級」との対抗意識を共有する、一種の感情共同体へと変容していく。
~~~

いやあ、こうして日本の「学級王国」が出来上がっていくんですね。なるほどなと。
そして「生活綴り方運動」について。ここにも柳先生は手厳しい。

~~~
生活綴り方運動は、キリスト教の告解の技術とは異なり、作文指導を通じた生徒の内面操作技術を広めた。共同体化した学級の中での共同作業の共有や、他の学級との対抗関係による一体意識の共有は、教師へのよそ者意識を生徒の中で薄めるように作用した。

我が国の村落共同体と密接な関係を持ちつつ浸透した宗教意識は、導く人と導かれる人との隔壁を設けず、共に苦難の道を歩むという「同行思想」にあった。この意識は、神の意志を代行する司祭と、迷える羊との間に形成される垂直的関係とは異なり、むしろ苦難を共通に抱え込んだ存在として、当事者同士を水平的関係に置く。

この濃厚な共同体関係の中に入り込んだ教師と生徒の間には、さらに教師による生徒の心の操作という、新たな技術が加わることとなった。強固な感情的一体性が築かれた中での作文教育が意味すること、それは教師による生徒の内面への介入を容易にしたということである。

「自分の生活」を書け。「自分の心に思い浮かぶこと」を書け。

「随意選題」というイデオロギー

「自分」「生活」「心」という言葉も、そのままで自明なものではありえない。逆に、そうしたものが「自明」であり「自然」であり、あたかも天賦のものとしてすべての人間にそなわっているという考え方こそ、きわめて近代的なイデオロギーであり、そうした自明のイデオロギーの強要の下で、生徒たちは「自分の生活」や「自分の心」というものを作文の中でせっせと作りあげねばならなかったのである。

濃密な共同体的関係の中で、よそ者の教師に対し武装解除された生徒が、自分の感じたことを書くという名目の下に、教師によって誘導された、あるいは教師の意志をくみ取った作文を書くようになっても不思議ではない。綴り方教育はこうして戦前から戦後にかけ、単なる作文指導としてではなく、生徒指導における巧みな技術として、わが国の教師たちに広く浸透していった。

教師は教室や運動場における日常行動の観察や、試験の成績などを通じて、生徒に関する情報を集めるのみならず、日記や作文という手法を使って学校外の生活をも十分に把握することができるようになった。それは、教師が生徒の内面だけではなく、家庭生活にまで入り込むきわめて特異な関係、すなわち日本的司牧関係の成立であった。

このような関係が強化されるに従い、教師・生徒関係を従業員対顧客関係として見る目は、完全に閉ざされてしまう。また、教育が組織による教育として展開していることを見る目もまた閉ざされ、教育は教師の全霊を傾けた活動として理解されることになる。そして「学級」は、機能集団としての機能を限定するのではなく、多様な活動を導入した生活共同体、あるいは感情共同体へと大きく変容させられたのである。

機能集団としての「学級」とは、子どもの生活の一部に過ぎない。しかし、「学級」が生活共同体化すると、それが子どもの生活のすべてとなる。放課後も、帰宅しても、そしてまた夏休み中も、電話やメールで同級生とのつながりがそのまま継続するという現代の風景の出発点が、このようにして作られた。
~~~

「学級」という生活共同体・感情共同体をつくっていく。これが義務教育導入のための手法であった。そしてそのために「作文教育」があったとは。今まで、生活綴り方運動(教育)ってポジティブな意味で捉えていましたが、教師による生徒の掌握方法としての見方もあるってことなんですね。

というより、そこまでしないと義務教育というシステムは導入できないほど「不自然な」システムだったのだなと。

「学級」というフィクションは、教育の成否を教師の資質に委ねてしまう。
~~~
個々の教師の努力に、教育の成果がすべてかかっていると主張することもできる。逆に失敗の原因を、組織にではなく教師個人に背負わせてしまうこともできる。
~~~

そうなんですよね。「学級」というフィクションが自明化(当たり前化)するとどうなるか。〇〇先生のカリスマ性がクローズアップされ、ベストセラー作家となったり。「いい先生がウチの学校にはいないから」とか「担任がハズレ」だとか。そんな風に教育を捉えるようになった。

それにはこのような原因があったのである。
この章はこう締めくくられる。

~~~
わが国において、学級が共同体的な感覚で受容され、そしてまた二項対立的な教育言説によって「良い教育」と「悪い教育」という論争が過熱してしまった結果、学校ができることとできないことの峻別がまったくなされなくなってしまった。教育論議は、国家対国民、民主教育対管理教育、自由放任主義対統制主義、画一主義対個性尊重教育、能力主義対平等主義、偏差値教育対ゆとり教育という二者択一的言葉の羅列に終始し、ひたすら「理想の教育」論が展開される。ハードウェアとして学校の特性なり限界なりを冷静に見る目は完全に閉ざされてしまった。
~~~

二項対立って思考停止だなあと思う。問いのマジックでもあるし。聞く人の思考を停止させる効果もある。ORなんかじゃなく、仮説のひとつに過ぎないし、その間に無限のグラデーションが広がっている。

もっともっといろんな角度から考え、対話し、また考え続けなければならない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:26Comments(0)学び日記

2023年05月21日

学級というシステムが「小さな大人」を「子ども」という演技者へ変えた。


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

第四章 学校組織の矛盾

もはや一章ずつ書きたくなってしまいます。いい本です。去年読んでた「ジェネレーター」以来の衝撃。

~~~以下メモ
学校には二つのタイプが存在することがわかる。一つは、教育を受ける側の需要に基づいて成立した学校、すなわち需要先行型の学校である。もう一つは、需要の存在とは関係なく、慈善活動から始まり、最終的には義務教育制度に組み込まれたそれであり、供給先行型の学校と名づけることができる。

通常の組織は需要があるから拡大する。需要の存在と、業者間の争いが、顧客獲得の競争を促し、競争に勝った業者が組織を拡大し、ついには全国規模の巨大なチェーン・システムの組織を作り上げる。しかし学校とは、このような顧客獲得競争を通じて、全国的な大規模組織へと成長したわけではない。

教育を受ける側の需要に基づかない供給先行型の学校は、学習意欲が存在しなくとも就学を強制されるという意味で、また厳格な行動規範が課されるという点でも、子どもに大きな負荷をかける組織である。
~~~

いやあ、当たり前のことを文字化していて、ちょっとハッとさせられます。
学校教育というシステムは、需要に基づいていない、と。

~~~
モニトリアル・システムは明らかに機械装置であった。それは貧困な人々の日常的生活の中で形成された共同体的な親密な人間関係から一線を画した、「地域に閉ざされた学校」であった。

無機的に動く機械化された学校という世界が、人を引きつけるはずはない。需要に基づかない学校は、個々の子どものリズムに合わせる存在ではなくなっていた。逆にシステム化された学校のリズムに、子どもが合わせていかねばならない。

このような学校に、彼らを向かわせるには、学校自身が魅力ある存在へと変化しなければならない。需要そのものが脆弱であるならば、学校が需要を生み出すように働きかけねばならなかった。
~~~

「学校をどのように魅力化するか?」っていう話です。
どこかで聞いたことありますね。

学校の魅力を創出するために何をやったか?
なんと、そこで出てきたのが「競争」だったのです。

~~~
モニトリアル・システムによって学校の中に導入されたクラスは、生徒を一括して処遇するだめのパッケージにとどまらなかった。クラスは、競争を促す集団としても編成されたのである。ランカスターは、同一能力により均質化されたクラスという人為的集団を作り、この集団を媒介とするゼロサム競争と賞罰制度により、システムを通じた欲望の創出を行う端緒を切り開いた。

競争の勝者に用意された商品と名誉とが、生徒の間に強烈な学習意欲を作り出した。システム自身が働きかけて、需要を作り出したのである。3R'sという知識の習得に商品と名誉という付加価値を加え、学習意欲の喚起を行う方策がここに開発されたのであった。
~~~

驚きますね。「競争」とは、学校の魅力創出のための方法だったと言うのです。さらに「学級」について、続きます。

~~~
組織内組織についての「学級」はここに完成する。授業の成立に不要な人物、物がすべて排除され、また学習活動には無縁な活動が入り込むことも大幅に制限される。そして同一年齢や能力、同一教育内容、同一教師、同一時間、同一空間というように授業を構成するすべての要素が同一化され、揃えられてしまうと、「学級」は無条件に生徒の中に競争状態を作り出す。このシステムは、生徒相互間に、名誉の獲得と恥辱の回避への欲望を最大限にかき立てる。

こうして学校は、「学級」を通して成績差が作り出すこのゼロサム競争を学習への駆動力として利用し、自己の力で生徒を引きつけ、自己の存続を可能とするようになった。

学級の存立はこの「学級」における欲望の創出具合にかかっている。教育機構の最前線にある「学級」は、生徒の間に欲望をかき立て、学習への動機づけていくもっとも重要な道具となった。
~~~

「学級」というシステムそのものが、競争へと生徒を導いているのだと。しかし、学校の存立に決定的な意味を持つ「学級」は安定的集団では決してなく、常に解体の危機に直面しているのだと柳さんは説明する。その理由は、「学級」が生徒にとって「疎外」に満ち満ちた世界であるからだと。

~~~
1 児童・生徒であるということは、多面的全体的存在である子どもが、ひたすら学習活動をすることのみに自己の行動を限定され、他の多くの活動を制限されることを意味する。いろいろな技や知識を習得することが遊びや仕事と明確に区別されることなく、また多様な大人の中に紛れ込んで生活していたかつての「小さな大人」は、同年齢集団に分類され、外界から隔離され、学習だけにエネルギーを集中する生徒へと変容させられた。児童・生徒とは、バランスのとれた全体的存在ではなく、一面的生活を余儀なくされた存在であることを意味する。前近代社会においては決して経験することのなかった、異常な世界へと子どもは組み込まれたのであった。

2 彼らが閉じ込められるようになった世界とは、彼らの意思を無視して、機械的リズムで動く装置である。チェーン化した学校で、流れ作業のごとく動いていく組織のリズムに、生徒は自分を合わせねばならない。「学級」とは、この組織のリズムが強力に作用する場、すなわち規律空間である。個人の好み、理解のスピード、成績のレベルはすべて無視されることによって、「学級」を通じた授業は進行する。したがって、自己抑制という規律が大きな負荷をかける一種の高圧釜として、「学級」は子どもに重圧を及ぼす。しかも彼らはゼロサム競争の世界に投げ込まれてしまっている。地縁・血縁関係や身分関係などの属性を剥奪された生徒は、これまで身をかばってくれた家柄や義理人情というような社会的保護膜を喪失し、匿名化された裸の個人として、競争の世界の中に投げ込まれる。試験による競争は、彼らの自己抑制を促進し、「学級」という規律化された高圧釜の内圧はさらに強化される。 

3 学校という組織のリズムに従うことは、学校の権威的秩序に従うこと、具体的には生徒が教師に服従することを意味する。またそれに付随した役割演技を求められる存在となった。子どもは児童や生徒として行動しなければならず、独立した大人として、ましてや教師として振る舞ってはならない。生徒は必ず教師にたいする服従者として振る舞わねばならない。このことに失敗すると厳しい制裁が生徒を待っている。
~~~

なんということでしょう。
「学校」って「学級」ってなんて残酷なんだ、って思いました。

~~~
多面的存在であるはずの子どもは、生徒として学習活動に自己を限定する一面的存在となり、また教師の指示に一方的に従属せねばならない受動的存在となる。また何ら互いに面識もなく、自分の好き嫌いの意思を表明することも認められない生徒が強制的に集団を組まされる。喜怒哀楽の感情を持つ人間が、見知らぬ人との年間を通じた空間の共有を、教室という場で強制される。さらに否応なしに、競争によって相互排他的関係に追いやられる。

このような規律化された世界に、貧困な生活の下で生き延びていかねばならない子どもが、簡単に同化できるわけはない。競争とは違う、別の自己準拠活動を備えないことには、学校の存立はあやうくなる。
~~~

そこで出てきたのが「レスペクタブルな(尊敬しうる)人間としての教師」である。医師・ケイ・シャトルワースが私費で開設した「バタシー師範学校」では、キリスト教の精神に満ちた教師を育みことを目指して全寮制で共同生活した。

~~~
自己の欲望を抑え、愛他的に行動しうる人間だけが、貧しい子どもたちに道徳を教えることができるし、生徒との共感を味わり、知識愛を伝えることができるというわけである。

子どもの動きをつぶさに観察し、彼らの中の悪の芽を見いだす教師は、罪を背負い、卑小で無力な人間を救済するという新たな役割を備えることとなった。子どもは罪を背負った存在として、自己を認知し、自己抑制、努力をすべき対象とされていく。それは俗人に特別な実践を求める、キリスト教的司牧教育学の歴史的再来であり、生徒が反省的人間として自己を認知しながら自己に関する事故の仕事をするように仕向ける実践であった。

必然性のない教師・生徒関係はこうして司牧関係という宗教的信念によって秩序化可能となる。

学校という機構が特定の秩序を持ち、子どもがこの学校組織へ組み込まれねばならないなら、彼らの中に「自己否定的な服従を高める被虐愛の態度が形成されなければならない」。成績が上がらないのは「私にいつも怠け心がある」とか「私は努力が足りない」という罪の意識が生徒の意識の中に芽生えれば、ことは円滑に進む。

逆に教師には、生徒を服従せしめることを正当視する加虐愛の感情を呼び起こさねばならない。迷える生徒たちに、進むべき道を示すことのできる牧人として、自己の位置を認知すれば、あとは円滑に進む。「自己の行為は生徒の救済のためにある」という自負心は、教師をして積極的な教授活動の担い手へと向けていく。そこには、機械のリズムに従って受動的に動く存在としてではなく、生徒のために能動的に行動する、救済者としてのイメージが形成される。自分は生徒のためにあるという陶酔感は、教師のエネルギーを引き出す最大の要因となる。
~~~

このころ、ルソーやペスタロッチの思想や実践から「児童中心主義教育思想」が世界的に広がっていく。
それがなぜだったのか?そもそもそれが子どもたちのためなのか?という柳さんの説明が鋭い。

~~~
「進歩主義教育活動として知られる「児童中心主義教育思想」が、なぜ19世紀に登場し、世界的に広がったのか。それは、義務教育制度として完成した機械的システムに人々を同化させ、とりわけ教師を適応させ、愛他的使命感を持たせていくために、感情に訴え酔わせなければならなかったからである。規律化された合理的システムの存立には、感情的同化という手法を積極的に活用する必要がある。

教師にとってこのことは重要な意味を持った。没人格的なシステムに組み込まれた教師にとって、子どもの未来を託された存在として自己の仕事を再確認することは、職業的アイデンティティー確立上、欠くことのできない作業であった。児童中心主義という理想を掲げ、子どもの幸福に全生活を捧げる教師像への自己陶酔は、教師のエネルギーを高揚させるのに最良の方法であった。
~~~
「児童中心主義教育思想」は、子どもたちのために世界に広まったのではなく、国家が管理する「義務教育制度」にとって、プレイヤーである教師のモチベーションを高めるという目的に合致していたからではないのかと、柳さんは説明する。

いやあ、国家も必死ですよ、こうなると

~~~
児童中心主義教育思想は、キリスト教の下で生まれた司牧言説から表面上は宗教性を抜き取り、世俗化した言説であった。しかし依然としてそれは、宗教意識として存在している。

「教育を、合理性を伴う組織構造によってでなく、信仰によって結びつけられた近代の宗教システムとして見る方がよいであろう」(J・マイヤー)

「教育とはそれ自体よいものであり、それはまずなによりも子ども自身のためのものである、という信仰のもとに組織された言語ゲーム」(越智康嗣)

司牧言説は、神の存在を信じ、人間の罪深さを自覚するという宗教的心情から生まれたのであり、現実に根拠を持つものではない。いわば神という記号に対する心の作用がすべてを支配する。この神という記号によりかき立てられた言説は、二項対立的な単純化された論理構造を持たざるをえない。

司牧関係は、救済か否か、天国か地獄か、あるいは聖か俗かという二者択一を迫る教義から生まれ、またその歴史は、正教と邪教、正統と異端の争いとして比較的単純な二項コードのによる対立図式を随伴してきた。現在の欲望の充足か未来へ向けた禁欲か、信者は常に二者択一の決定を迫られる。キリスト教のこれら単純な対立的記号図式が、そのまま教育言説へと継承された。

児童中心主義という新たな司牧言説は、問題をすべて二者択一的問いかけの枠の中に押し込んだ。本来、学校で生じる問題は、供給先行型のシステムと顧客の関係、すなわち子どもとは別の論理で存在している学校というシステムと、無理に学級制を通じて参加を強制される児童・生徒との関係の中で問われるべきことであった。教師・生徒関係は、従業員対顧客関係として検討されるべきことだった。

ことはそのように進まなかった。教師・生徒関係は、周知のごとく児童中心主義教育思想の成立により、「子ども中心隊大人中心」という論理の中に組み込まれ、二者択一的思考パターンが広く教育界に広まったのである。それは直ちに、「経験中心対学問中心」「生活中心対教科中心」という単純化された図式のカリキュラム論争となって教育界を被った。われわれは今も、このような二項コードの渦中にある。宗教としての教育言説は、あるいは記号としての教育言説は、「良い教育」対「悪い教育」という二項コードの記号を作り上げる。

危機に陥った組織の存立が、聖化された記号を持ち出すことによって安定化する。この点では、学校も企業組織も変わりはない。感情を抑制し、人間の合理的判断に基づいて成立するはずの近代的組織が、この聖化された記号によって支えられるという奇妙なパラドックスが出現しているのである。
~~~

その出発点から「学校」「学級」というシステムは、宗教的要素から逃れることができない。そして神を前提とする立場での教育言説は、二項対立構造を取らざるを得ない。

今でいえば「探究支援」なのか「学習支援」なのかのような対立である。

ラストは、学校なるものは何か、鋭く問いかけてくる一節を

~~~
20世紀後半に登場したチェーン・システムよりもいち早く成立した義務教育制度は、教育言説という記号価値によって人を酔わせることなしには存立不能だったのである。学校はこの言説によって保護されることにより、かろうじて安定性を確保しているとみることができる。

学校とは明らかに二つの原理が貫いた特異な組織である。

ひとつには、チェーン・システムを作り上げる需要供給関係が、脆弱な需要を競争によって事後的に形成するとはいえ、確かに存在する。そして他方では、需要供給関係の脆弱性を補うべく、利他的に教師が生徒の幸福のために自己抑制を強化する司牧関係、すなわち宗教的関係が存在する。

それは二つの教師・生徒関係として、学級内に出現する。まず組織対顧客あるいはその系にある従業員対顧客関係としての教師・生徒関係であり、サービスの善し悪しをめぐって、また利益の獲得をめぐって、対立する場面がしばしば発生する。他方、魂の救済のために生徒の内面にまで介入する、個人対個人としての教師・生徒関係が、司牧関係の延長上に成立する。
~~~

いやあ、「学校」(義務教育)という壮大なフィクションを僕たちは目の前にしているのではないか。

ひとまず、読み進めてみます。  

Posted by ニシダタクジ at 13:48Comments(0)学び日記

2023年05月20日

カリキュラムというハンバーガーセット


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

第三章 義務教育制度の実現 まで来ました。
なんというか、震えが止まらない1冊です。
学校って、学級って当たり前じゃないな、って思います。

読み進めていくと、モニトリアル・システムの後に、いよいよギャラリー型一斉授業が始まっていく様子が伺えます。始まりはモニター養成が困難な幼児学校で、学校建築の設計する際にひとつの教場におけるモニトリアル・システムだけでなく、ギャラリー型の一斉授業ができるような部屋がつくられていく。

そしてさらに国家(イギリス)は、国庫補助を出す学校に対し、監督官制度を設け、学校の管理、規律、教授方法などについての視察、改善のための助言をするという役割を担わせた。

そこから義務教育に向けて、イギリスは「教育」を「経営」し始める。そして始まったのが「学級」である。

~~~ここからメモ
1860年イギリスの「改正教育令」。教える内容を3R's(読み書きそろばん)に絞り込んだ。安定したサービスの供給のために、サービスや扱う商品の絞り込みこそは、顧客の信頼を獲得するために不可欠の方策である。

多くの活動に無原則に手を染め、サービスの低下、ひいては信用の低下を招き、顧客離れを生み、倒産のやむなきにいたった店舗の例は多い。また、作業成果の評価を複雑かつ困難にしてしまい、成果の客観的表示も事実上不可能にしてしまう。

あえて3R'sに限定し、しかも決して高くはない水準のスタンダードとして教育内容を設定したということは、サービスの品質保証、そして組織の信頼の確保という点では、有効な方策だったというべきだろう

改正教育令は、「安上がり政策」でも、また自由の抑圧でもなく、経営合理化のための必然的産物であった。効率をあげるために、どのチェーンシステムも、サービスのしぼり込みと売り上げの入念なチェックを欠かすことができない。そしてサービスの最前線では、従業員はマニュアルに従って、忠実に所定のサービスを提供しなければならない。このチェーン・システムの論理が改正教育令の推進者ロウを動かしたのであった。
~~~

なるほどな~。選択と集中っていう経営の論理が教育にも入ってきた瞬間ですね。

教師を単なる現場監督にしてしまうこの制度は大きな批判を浴びたが、肯定的に受け止めれば、「学校に行けば必ず3R'sが身につく」という信頼感を、人々に与えたということでもある。

その後、この章の衝撃的な一節がつづく
例にとるのは、マクドナルド兄弟が立ち上げたハンバーガーチェーンの話。

~~~
合理的システムは、人間によって生じる商品のサイズや品質の不揃いを何よりも嫌う。人間の自然の態度を是認していたのでは、つまり個人の好み、義理や人情のような生の関係を容認していたのでは、品質の不揃いが発生し、合理的経営は成立しえない。

人間を徹底的に訓練し、規律化することで、つまり構成員から人間性を奪い、システムという機械の歯車に仕立て上げることによって、ようやく合理的経営は動き出す。

効率化のためには、調理を人間任せにしてはならない。システムによる調理によってこそ、規格の揃った品物をつくることができる。これは、教授活動の場合も同じであった。

経営の論理、それは無駄の排除ということに集約的に表される。そしてこの無駄の最大の原因が人間にある。マクドナルドは、「客の好みをいちいち聞いていたら大混乱になる」という理由で、顧客の好みまで無駄として排除してしまい、同一規格のハンバーガーセットを提供した。

学校でも、生徒の好みを認めず、スタンダードで制定した内容へと、生徒の学習活動を限定してしまったのである。こうして無駄を省くという論理は、人間的要素の排除と、教育内容の限定として具体化した。
~~~

このマクドナルド・システムの経営・調理⇒教育に、品物・顧客⇒生徒に置き換えてみたらどうだろう。

~~~以下置き換えた文(一部削除)
「合理的システムは、人間によって生じる商品のサイズや品質の不揃いを何よりも嫌う。人間の自然の態度を是認していたのでは、つまり個人の好み、義理や人情のような生の関係を容認していたのでは、品質の不揃いが発生し、合理的教育は成立しえない。人間を徹底的に訓練し、規律化することで、つまり構成員から人間性を奪い、システムという機械の歯車に仕立て上げることによって、ようやく合理的教育は動き出す。

効率化のためには、教育を人間任せにしてはならない。システムによる教育によってこそ、規格の揃った生徒をつくることができる。教育の論理、それは無駄の排除ということに集約的に表される。そしてこの無駄の最大の原因が人間にある。マクドナルドは、「生徒の好みをいちいち聞いていたら大混乱になる」という理由で、生徒の好みまで無駄として排除してしまい、同一規格のハンバーガーセットを提供した。
~~~

われわれが「提供」しているのは、「カリキュラム」という同一規格のハンバーガーセットなのではないか?
と深く問いかけてくる一節。なんだか苦しくなります。

ところが、国家が目指した「学校」ではなく、労働者階級において日常的教育機関として選ばれたのは私設の学校が多く選ばれた。

~~~以下メモ
私設学校の教師は、よく知られた地域の地域の人間であり、顧客たちの友人や隣人であった。訓練を受けた教師の場合と違い、親しみやすく近づきやすかった。私設の学校は個々の教師に依存する学校であった。」

このような学校は、今日のようにシステム化され、機能的に日常生活から完全に切り離された機関ではなかった。現在の学校は教育機関として、他の社会的制度や機関からは明確に区別され、教師はその他の職業と明らかに区別されている。しかし社会の底辺に生きる人々によって織り成され、家庭生活や地域生活に根ざすこの学校は、目的性においても、そしてそれを担う教師も、さらに教えを受ける生徒も、決して固定的な存在ではなかった。これから私設の学校とは、あらゆる意味において流動的であり、ある意味で「地域に開かれた学校」であった。

システム化された学校が多くの貧困階級の人々によって忌避され、私設の学校が逆に普及した原因の一つは、このようなシステム化された学校の規律性にある。時間を忠実に守り、よそ者としての教師の権威に従順に従わせ、本人が必要としない学習を強制する。こうしたシステム化した秩序への反抗こそが、彼らを私設学校へと向かわせた最大の根拠であった。地域社会の共同体関係を少なからず保持し、身内としての近隣者を教師とし、生活のリズムに沿って展開した私設の学校と、地域社会を越え、機械的リズムで働くシステム化された学校の間には大きな隔たりが存在したのである。

私設学校で教えたのはあくまでも人間であった。教師の人格がこの場合大きな意味を持つ。しかし、モニトリアル・システムが実現したのはシステムによる教育である。ここでは個人は意味をなさない。モニターはあくまでもシステムの代弁者、命令の執行者であり、彼自身が目的の設定者でも、方法の選択者でもない。個人が教えているのではなく、システムが教えるのである。下層社会に生きる人々の濃密な近隣関係の中で成立した教師と生徒の関係と、モニトリアル・システムにおける教師やモニターと生徒の関係の間には、深い断絶が存在する。

また労働者階級の子どもは早くから仕事に必要な技を身につけ、ひとり立ちしなければならないという生活文化の中にいた。そこでは自立こそは、何よりも重要な生活上の信条であった。しかし学校は、よそ者としての教師に無条件の服従を要求する権威的空間であった。学校秩序に同化するということは、従順になり、はては無気力な存在へと化せられていく危険性を持つ。

「カンニングしてはならない」という競争的個人主義に基づく中産階級的倫理観と、「困ったときは助け合うのがあたり前」となっている貧しい人々の日常生活の倫理観との隔絶は、あまりにも大きいものであった。
~~~

貧しい人々を効率的に救うための「教育」だったはずが、システム化されることで、彼らから遠く離れた存在となってしまった。しかしながら、国家施策として教育を進める当局は私設学校を排除し、基準に適合した学校を学校として認め、いわゆる義務教育を開始する。

この章のラストはこう締めくくられる。
~~~
現代の義務教育制度として教育を独占してしまった学校の背後には、弾圧され、排除された「地域に根ざす学校」あるいは「生活に根ざす学校」が存在していることを、忘れてはならない。また、システム化された学校による教育の独占がもたらす弊害が、現代の学校の病理として、さまざまな形態を取って出現することも、決して見逃されてはならない。
~~~

どこかで聞いたことがあるような「地域に根ざす学校」っていうキーワード。その学校は義務教育以前にすでに成立していた。義務教育がシステム化されるその瞬間にも、多くの子どもたちがそこで学んでいた。

「教育」ってなんだっけ?って熱く問いかけてくる1冊ですね。

もういちどこの部分を

~~~
私設学校で教えたのはあくまでも人間であった。教師の人格がこの場合大きな意味を持つ。しかし、モニトリアル・システムが実現したのはシステムによる教育である。ここでは個人は意味をなさない。モニターはあくまでもシステムの代弁者、命令の執行者であり、彼自身が目的の設定者でも、方法の選択者でもない。個人が教えているのではなく、システムが教えるのである。下層社会に生きる人々の濃密な近隣関係の中で成立した教師と生徒の関係と、モニトリアル・システムにおける教師やモニターと生徒の関係の間には、深い断絶が存在する。
~~~

経済社会における労働者として匿名化された人たちは、教育を受ける立場としても、あるいは教育を届ける立場としても疎外され、匿名化されてしまう。それこそがシステムによる教育なのではないか。

構想と実行の分離。工場においても学校においても、現場ではただ「実行」があるだけだ。

地域地域における高校魅力化、地域に開かれた教育活動にまい進する前に、読んでおきたい本です。

われわれが「提供」しているのは、「カリキュラム」という同一規格のハンバーガーセットなのではないか?  

Posted by ニシダタクジ at 14:58Comments(0)学び日記

2023年05月19日

人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

この本、面白いです。
不登校は、「学校からの逃走」ではなくて「学級(というシステム)からの逃走」なのではないか、って。
「効率的な学校、あるいは(工業)社会」に適応する必要なんてあるのだろうか?っていう問い。

ということで第2章を読み進めていきます。
キーワードは「モニトリアル・システム」です。

第2章 「クラス」の誕生と分業される教師

~~~ここから引用
誰が、何を、いつ、どこで、学ぶのか、現代の学校ではあらかじめすべてが事細かに決められ、それが具体的に時間割に示されている。しかし、伝統的な学校では、目の前に座っている生徒が誰かによって、教える内容やレベルをその場で決めたのであろう。現代の感覚からすれば、「計画性のない場当たり主義」と批判がされそうであるが、かつてそれは学校の当たり前の姿であった。

昔の学校は場当たり主義であるために、「学級」を明確にして、担任と習う生徒と教育内容、そして時間と場所をあらかじめ明確に決めておく必要などなかったのである。逆に「学級」を持つ学校とは、教えることにかかわる様々なことが事前に計画された世界であることを物語っている。
~~~

そして、革命が起こった。
19世紀初頭にロンドンのサザーク地区で始まった「モニトリアル・システム」だ。

~~~以下引用
それまでにない生徒の編成の仕方と教え方をした風変わりな学校が出現した。どのように変わっていたかというと、それまでの学校のように教師(マスター)が生徒に教えるのを止め、代わりにモニターと呼ばれる生徒が、他の生徒に教え始めたのである。

教師は生徒の中から比較的優秀な、あるいは年長のものを選び出し、彼らに最初に3R's(読み書き計算)を教えた。次いでモニターと呼ばれたこれらの生徒がそれぞれ、約10人の生徒のグループを相手に、自分が習った3R'sを教えたのである。すなわち、教師が直接生徒に教えるのではなくモニターたちが他の生徒に読み書きを教えた。

この学校では、読み方と計算の能力で生徒を分けた。この分けられた生徒の集まりが「クラス」と呼ばれたのである。

つくったのは若干20歳の青年、J・ランカスターだった。彼が父親の家を借りて最初の学校を作ったのは1798年のことであった。面倒見の良さがあって、貧民街の多くの子どもたちが集まってきたために、伝統的な1対1の教授法では対応できなくなってしまった。

ところが、助手の数を増やすと、当然授業料を上げなければならない。それでは貧民街の生徒にとって大きな負担となる。授業料の値上げをせず、しかも多人数の生徒を教えるという問題にランカスターは直面したのである。

そこで思いついたのが生徒が生徒に教えるという相互教授法であった。1810年、ランカスターは自分の学校の運営方法を書いたマニュアル本の中で、「教育を経済的に実施するためには、助手に代えてより効率的な代替者を工夫することである。代替者として助手の代わりに生徒が教えるためには、秩序と教授のシステムを単純化する必要がある」とモニターを使った理由を説明している。

生徒が生徒に教えるわけであるから、複雑な内容を教えたり、複雑な方法を採用したりすることはできない。子どもでも教えられるように、教授活動をいかに単純化するかということが、彼の追求した中心テーマであった。
~~~

すごいソーシャルビジネスなんですね。「学級」の起源は。

ところが、です。

~~~
モニトリアル・システムは、伝統的な学校のあり方を一変させる画期的な学校として誕生した。そしてまたたく間に、そしてさらにヨーロッパ大陸はおろか、アフリカ大陸、アメリカ大陸まで広まっていった。常識的感覚で言えば、学校の歴史に革命的変化をもたらしたこのモニトリアル・システムには最大限の賛辞が送られ、また開発したベルやランカスターの名声は後世に伝えられるべきものである。

しかしことは逆に進んだ。ルソーやペスタロッチの思想を基盤に広がった進歩主義教育思想の立場から、モニトリアル・システムが行った丸暗記や機械的注入主義の教育を批判された。子どもの自発性、自主性を尊重した教育の重要性を訴える人々からは、現実に多くの貧しい子どもに「より早く」「より安く」3R'sを教えたにもかかわらず、批判され、歴史的に抹殺されてしまったのである。
~~~

そうなのか。だから私たちは知らないのかもしれませんね。しかし、このシステムが生まれた当時の人々は、モニトリアル・システムを機械装置になぞらえ、礼賛したのである。

~~~
礼賛にとどまらず冷静な社会科学的眼で観察していたT・バーナード卿は、モニトリアル・システムを「ニューシステム」伝統的学校を「オールドシステム」として、オールドシステムの欠点を10点にわたって指摘した。その主な内容は、オールドシステムが少人数の生徒を対象とし、学習が偶然性にゆだねられ、計画性を欠き、ロスの多い不安定な学校であるという点である。

「オールドシステム」の欠陥を指摘しながら、同時にこのような問題を克服しえたとして「ニューシステム」がはるかに優秀であることを彼は力説した。この場合、彼が優秀性を実現した最大の理由として強調するのが分業制の採用である。「工場の原理と学校の原理は同じである」として、進行しつつあった産業革命における機械的生産、そして機械による生産を行う向上に学校をなぞらえている。新しい学校の存立の背後に分業制が存在することを、彼は鋭く指摘したのである。
~~~

こうして「学校」は分業化されることとなった。

~~~
モニトリアム・システムも伝統的学校と同じく1つの教場しか備えていないが、ここでの教場は、徹底的に分類され、それぞれの場所が機械的に特化されており、伝統的学校の雑然とした教場空間とはまったく異なっていた。マスターが座るプラットフォーム、生徒が座る机と椅子、モニターが待機すべき位置、書き取りによる教授が行われる場所、読み方と質問による教授が行われる場所、教材を吊るす壁の位置、教具を収納すべき場所、さらには生徒がスレートを吊るす位置が詳細に定められている。生徒が座る机やステーションは、能力別に序列化された生徒の分類に対応させられている。
~~~

すごい「システム化」なんですね、モニトリアム・システムという革命は。
さらに分業について「垂直方向」へも進んだと本書ではつづきます。

~~~
モニター間の分業は水平的であったが、分業制はさらに垂直的にも進行した。専門化し、細分化されたモニターの活動は、教師(マスター)が全体を管理することによってようやく意味を持つ。

何を、どのクラスで、どの時間で教えるか、モニターに決定権はなく、すべて管理者としての教師の計画と命令に従って行動しなければならない。ここで教師のあり方に決定的な転換が生じた。すなわち伝統的教師像は解体されてしまい、管理し、計画を練る人間と、計画に従って教えることのみに専念する人間とに分解され、何についても自己決定しうる伝統的教師はここでは消失したのであった。

よく知られているように、このような企画・設計機能と作業機能の分離という垂直的分業化による自動車の大量生産を20世紀初頭に始めたのがフォードシステムであった。しかしそれより100年も以前に、教授活動においてこの垂直的分業が実現していたのであった。
~~~

フォードの100年も前に、分業が成立させた「モニトリアル・システム」。
その出発点は貧民を「効率的に」救いたい、ということだった。

しかし、このシステムは高度に機械化・工業化されつつあった時代・社会にマッチした。
ハンバーガーは初めとするファーストフードチェーンは同様のシステムを持っていた。

つづきます
~~~
サービス業への分業制の導入としてモニトリアル・システムをみた時、また新たな姿がクローズアップされてくる。それはこれまで個々の顧客に対応してきた教授活動が、セットとして組み合わされ、パッケージとして提供されるということである。平たくいえば、顧客の個別の要求は無視して、画一的なサービスを提供し始めた。典型的には、それらはファーストフード店におけるセットメニューであったり、旅行業界におけるパックツアーであったりする。

モニトリアル・システムが始めた経営企画機能と作業機能の分離という垂直的分業化は、現場作業の単純化、効率化を、パッケージによる一括処理方式で実現可能としたのであった。クラスはこのサービスのパッケージの産物として生まれた。したがってそれは人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校となった。具体的には学校は、クラスというパッケージを通じて一括した教育サービスを提供する組織となったのである。クラス制を導入し、時間通りに動くこの学校は、顧客としての生徒の好みやリズムを無視して成立する学校であった。モニターの行動が流れ作業の中で規律化され、個人の判断で動くことは許されないだけではなく、顧客としての生徒もまたこの流れ作業の中に投げ込まれ、規律化されたのである。
~~~

うわー。
いわゆる「構想と実行の分離」は、学校でも起こっていた。むしろ工場よりも先に起こっていたのだった。

もちろん、メリットもあった。
しかも当時の情勢からすれば切実なメリットだ。

~~~
ランカスターの学校は、彼が計画したように分類すれば、簡単に開校できる学校であった。すなわち今日みることができるチェーン・システムの店舗は、施設の設計がみな同じであり、すぐに建設できる。アルバイトを集め、すでに存在するノウハウに従ってサービスを提供すれば、これまたすぐに営業を開始しうるのである。同様に、モニトリアル・システムも、モニターを訓練しさえすれば、どこでも学校を簡単に開きうるようになった。
~~~

誰もに教育の機会を、という点ではモニトリアルシステムは画期的だったのだなあと改めて思った。

第2章は、モニトリアルシステム/1つの教場で教えることの限界を示して締めくくられる

1 3R's以外の教科については、モニターは教えられない
2 1つの教場内に同時並行でクラスが進行しているので騒音がすごい
3 規律と権威のみによる秩序の下では生徒の授業への関心が維持できない
~~~
なんか、現在の教育の課題とオーバーラップしてきますね。
つづきます。

今日はあらめてここについて。
~~~
サービス業への分業制の導入としてモニトリアル・システムをみた時、また新たな姿がクローズアップされてくる。それはこれまで個々の顧客に対応してきた教授活動が、セットとして組み合わされ、パッケージとして提供されるということである。平たくいえば、顧客の個別の要求は無視して、画一的なサービスを提供し始めた。典型的には、それらはファーストフード店におけるセットメニューであったり、旅行業界におけるパックツアーであったりする。

モニトリアル・システムが始めた経営企画機能と作業機能の分離という垂直的分業化は、現場作業の単純化、効率化を、パッケージによる一括処理方式で実現可能としたのであった。クラスはこのサービスのパッケージの産物として生まれた。したがってそれは人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校となった。具体的には学校は、クラスというパッケージを通じて一括した教育サービスを提供する組織となったのである。クラス制を導入し、時間通りに動くこの学校は、顧客としての生徒の好みやリズムを無視して成立する学校であった。モニターの行動が流れ作業の中で規律化され、個人の判断で動くことは許されないだけではなく、顧客としての生徒もまたこの流れ作業の中に投げ込まれ、規律化されたのである。
~~~

内田樹先生の「教育のお買い物化」に通じるところがあるなあと。そして、教育が消費者的な人格を刺激している、ということも。「構想と実行の分離」もまさにこれだなあと。

人間が教える学校ではなく、システムが教育を提供する学校となった。

「教える」ってなんだろう?って。
「カリキュラム」ってなんだろう?って。
僕たちは「教育を提供」したいんだろうか?って。

刺さりまくる問い。

こんな問いを胸に「ともにつくる」を実践していきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 09:22Comments(0)学び日記

2023年05月18日

ともにつくる小さな旅


「〈学級〉の歴史学-自明化された空間を疑う」(柳治男 講談社選書メチエ 2005年刊)

「子どもたちに民主主義を教えよう」からの読書サーフィン
http://hero.niiblo.jp/e493060.html

「学級」とはいったい?
そんなことあまり考えたことなかったです。
確かに「自明化」(当たり前)されていますね。

今日はまだ第一章なのですが、アウトプットしたかったので書いてみます。
テーマは、「学級」と「パック旅行(ツアー)」です。

~~~以下メモ
中世までの学校に「学級」は存在しない。

中世の学校は多くの場合一つの部屋でしかなく、しかもそれは「教室(class room」ではなく、「教場(school room)」と呼ばれた。この「教場」の中にいる子どもは、年齢がまちまちで、同年齢の子どもの集まりなどは見られなかった。われわれがカリキュラムといっている、教授活動の全体的な計画なども、まったく存在しなかったのである。
~~~

いいですね。まずは前提を疑う、って大切なことだなと。

第一章では、「学級」を疑う、と題して、パックツアーと学級について比較している。
~~~
共通する点
1 指導する側と指導される側から構成される集団である
2 期間が限定されて成立する集団である
3 参加者の選択の自由度が少ない集団である
異なる点
1 人々が自発的に集まった集団と強制的に集められた集団という違いがある
2 参加者の年齢が問われない集団と、参加者の年齢が統一された集団という違いがある
3 参加者の相互関係が非競争的状況にある集団と、競争的集団という違いがある
4 参加者による集団形成が短期間で終了する集団と、長期間にわたる集団という違いがある
5 大人が主として利用する集団と、青少年が主として利用する集団という違いがある

簡単に言えば、「学級」とは、「強制されたパック(旅行)」という性格を持っている
そうすると「学級」は多くの問題を抱えた集団となる。

1 学習意欲のない子どもも受け入れなければならないという使命を学級集団は背負っている
2 学習の順序を、子どもが自分で決定することができない
3 年齢が無理に統一されることにより、子どもの中で比較的年長者が支配するという自然の秩序が存在しない、いびつな集団が形成される
4 ある程度均質な集団の中で、児童・生徒は数字でメリハリのついた成績をめぐる競争状態に常に置かれる。
5 仲良しの友達ができれば幸いだが、どうしても仲良しになれない同級生と、一年間も、あるいはそれ以上の長期間にわたって付き合わねばならない。
~~~

いやあ。
「学校あるある」ではなくて、「学級あるある」だったんですね。これは。

そして、本日のメイン、学級とパックツアーとの共通性です。
まずはパックツアー(旅行)とその前からある「冒険旅行」との違いから

~~~
地理も言語もわからないところへの旅行には、どのような危険が待ち受けているかわからない、「未知との遭遇」というある種の冒険の試みであった。パックツアーが、それなりの営業成績を収めうるようになったのは、旅行から冒険性や偶然性をなくし、それを安定した、あるいは安心しうる旅行へと切り替えた点にある。

冒険旅行に代わって、安全で安い旅行をするには何が必要か。それは、未知の世界への旅行が持つ冒険性、偶発性をできるだけなくし、旅行に計画性と利便性を与えることである。目的地、滞在ホテル、利用交通機関、必要経費、案内係、参加人員をすべて事前に手配して決定しておき、後は計画されたスケジュールに沿って行動する。このことでより安定した、そして安い旅行が可能となり、誰でも気楽に参加できる。簡単にいえば「旅行に関するすべての要素を事前に制御しておく」ということである。

「学級」という集団もまた、この事前制御の世界である。ある曜日、どの時間に、どの「学級」の生徒が、どの教室で、何を学習するのか、誰が教えるのか。必要なことはすべて事前に「時間割」として決められている。この事前制御という意味で、パックツアーのグループと学級集団はまったく同じ性格を持っている。
~~~

いやあ。
それです。

「探究的学び」が教室という箱の中で、なかなか難しい理由。
「達成と成長」パラダイム「発見と変容」パラダイムとか。
予測不可能性と一回性というエンターテイメントとか。

今回もっとも驚いたのが、パックツアーの始まりと、学級制の始まりが 同じ時代のイギリスの貧民救済という目的から始まっている、ということだった。

~~~
「学級」とは、都市のスラム街に集まる貧窮児に教育を施して勤勉な生活態度を身につけさせ、また治安の維持を図るために集められた貧民教育の中で、子どもを学校へと組織化する方法として作り出されてきた。

パックツアーは、酒におぼれ、社会の底辺に沈んでいく貧しい大人たちを酒から切り離し、勤勉な生活態度と健全な娯楽を身につけさせようんとする禁酒運動の結果として生まれた。
~~~

!!!
パックツアーは禁酒運動から始まったんですか。
へえボタン連発したい。(古い)

~~~
パック旅行とは、バプティストの宣教師、T・クックの福音主義的禁酒運動にてその発端を持つ。彼は居酒屋入り浸り、動物を戦わせる野蛮な気晴らしや賭博に明け暮れる人々に、酒に代わるレクリエーションとして楽しみを与えることを考えた。

小旅行に当時誕生したばかりの汽車の旅を結びつけるというアイデアを生み出したことから旅行の大衆化は始まった。

彼は1841年、イギリス中部の都市レスターから、約10マイル離れたラフバラで開催された禁酒大会に多くの市民を参加させるために、500人前後の人々を汽車で運ぶ計画を立て、この大会を成功させた。

この団体旅行は、禁酒運動という宗教上の集会への参加として行われたが、往復運賃は有料であり、その他に軽食と娯楽のための費用も参加費に含まれており、料金はいわばパックとして徴収された。

その後、スコットランドの観光を機に、一つの事業として旅行業を独立させた。すなわち目的地の決定、ホテルや旅行会社との折衝、旅行内容の編成という、旅行に必要なあらゆる業務に事前の準備を行い、ガイドブックを発行して、自らはマネージャーの役割を果たすようになったのである。
~~~

いやあ。そうだったのか。

宗教上の禁酒運動から旅行業が成立していくって面白い話だなあと。日本では、都市生活者が明治初期にはいなかったので、パック旅行が事業として成立するのは高度成長期になってからである。

そしてそのことが、日本の「学級」の「生活共同体」的な性格を増す要因になっていくのだと本書は第2章へとつづきます。

「学級」というパックツアー(旅行)。

買いたい、行きたいと意思表示していない1年間の旅行に、強制的に参加させられていのが「学級」だとしたら、、、
大人だったら絶対いきたくないですよね。

しかも、イギリスと違って当時の日本は農村的秩序の中にあり、そこに合わせて、「生活」そのものを抱え込まなければならなかった、と、柳さんは説明します。その詳細は第二章以降に。



昨日は只見高校1年の「総合的な探究の時間」でした。
授業はフォトスゴロクをつくってみる、でした。

あらためてやってみて思うこと。フォトスゴロクは、「発見と変容」、そして「予測不可能性(偶然性)と一回性」というコンセプトを体現している授業だなあと。

・町を観察し!と?を探す⇒自分の心を揺さぶる⇒ゆさぶられた写真を撮る⇒プレゼンする⇒すごろくをつくる

そんなプロセスの中に
・自分を知る、自己を開示する
・!と?をプレゼンする
・他者との違いを楽しむ
・場のチカラを活かす
・やってみてふりかえって改善する
・身体性の同期
っていう要素が詰まっていて。

「ともにつくる」小さな旅。
そんな感じのプログラム。

僕たちがつくろうとしているのは、きっとそういう感じの授業。
決まり切った予定通りのパック旅行でもなく、冒険だらけの旅でもない。
計画通りに進むこともあるけれど「発見と変容」の余白がある小さな旅。
予測できない「発見と変容」を、場のチカラを使って、生み出していこうと。

パック旅行と冒険旅行の「あいだ」にある、「ともにつくる」小さな旅のような授業がともにつくれないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)学び日記

2023年05月16日

「未知の良さ」を求めて旅に出る


「コンセプトのつくりかた」(玉樹真一郎 ダイヤモンド社)

読書メモ。
コンセプトのつくりかたをあらためて。

~~~以下メモ

1 あなたが世界に向けて「良いもの」を作る
2 世界に何か「良い変化」が起こる
3 世界からあなたに「良い報酬」が届く
4 あなたに「良い変化」が起こる

「世界」とはあなたの外側の世界、あなた以外のすべて
あなたが求めるもの⇒あなたに良い変化が起こる
そのための条件⇒世界に良い変化が起こる
※コンセプトのコンセプト「世界を良くする」

コンセプト⇒プレゼン⇒プロジェクト⇒アウトプット
※素直な心をそのまま表す「生きるあなた」が大切。

コンセプトは世界を良くすると同時に、あなたがしあわせに生きられる方法

コンセプトは、
1 覚えやすい 2 伝わりやすい 3 変わらない
数字を除く母国語の文字20時程度の言葉

「既知の良さ」:ユーザーも作り手も、その良さ自体や良い理由を直感的に理解できるが、実現するのは無限のリソースが必要になる。
「未知の良さ」:ユーザーはその良さ自体がうまく表現できず、他メーカーも追従できない。実現するには「リソース以外の何か」が必要になる。

この「リソース以外の何か」こそが「コンセプト」
「未知の良さ」は「間違いなくそれは良いものだ」と直感的に理解することはできません。

ビジョン=素直な願い。いっさい責任を取るつもりもなく、実現可能性にも触れられていない純然たる欲求でなければいけません。

「新しいゲーム機ってさ、どんな機能がついてたら良いと思う?」
この質問自体が、すでに「既知の良さ」を訊ねている点に注目してください。ビジョンを訊ねている質問ではありますが、その答えとして求めているのは、みんなが良いと直感的に感じられるもの・・・すなわち「既知の良さ」である点が大きな問題です。

未知の良さはユーザーにも作り手にとっても未知である。

既知の良さに囚われることなく、ユーザーにとっても、私たちにとっても未知となる良さを探し求め続けられるかどうか。そのためには、遊び人である「生きるあなた」の素直な思いに耳を傾けてみることが最大の近道になります。

コンセプト
1 何をしたいか?(ビジョンの集合体)
2 何を用いるのか?(アイテムの集合体)

〇〇で(’アイテム)〇〇したい(ビジョン)

ものづくり4つの原理
1 すきになる:生きるあなた
⇒ビジョンを生み出し共有するための原動力となる
2 かわる:コンセプトワークするあなた
⇒未知の良さを志し、ビジョンとアイテムを探し続ける
3 わかる:プレゼンするあなた
⇒ビジョンとアイテムを組み合わせた物語を紡ぎ出し、仲間の心に火をつける
4 できる:プロジェクトを行うあなた
⇒コンセプトを守りつつ、数々の試練を乗り越え「良いもの」をアウトプットする

どんな問題が目の前に立ちふさがったとしても、世界を良くしようとしていれば、「世界」と「あなた」が切り離されることはありません。コンセプトの奥底で、「世界」と「あなた」は1つにつながっています。

~~~

なんか、いいですね。
あたらしい舟旅に漕ぎ出したくなるような1冊です。

いちばん響いたのは「既知の良さ」と「未知の良さ」のところでしょうか。

「新しいゲーム機ってさ、どんな機能がついてたら良いと思う?」
この質問自体が、すでに「既知の良さ」を訊ねている点に注目してください。ビジョンを訊ねている質問ではありますが、その答えとして求めているのは、みんなが良いと直感的に感じられるもの・・・すなわち「既知の良さ」である点が大きな問題です。

これ「まちづくりワークショップ」に置き換えてもまったく同じだろうな。

小学生・中学生にこの町に何があったらいいと思う?と聞いたら、イオンやドンキホーテ、ラウンドワン、スターバックスなどが出てくるでしょう。まさにそれは既知の良さ。しかも小中学生の経験から来る「既知の良さ」なわけです。

「高校魅力化」にしたって同じです。
僕が高校魅力化に惹かれたのは、そこに答えが無かったからです。隠岐島前高校の真似をすればうまくいく、という話ではなかったからです。地域に入り込み、実践を通して、自分たちなりのビジョンを描き続け、実践して振り返り続け、いったりきたりする中で、ようやく仮説ができて、そこに向かって進んでいき、観察を怠らずに実践し、また振り返って改善し、つくっていく。そんな営みだからです。それをやってみたいと思いました。

価値そのものが固定されず流動化している今、「未知の良さ」を生み出すためにどうするのか。

たとえば、アンケート。答えの無い時代・社会における探究において、ビジョンを決めるために「アンケートを取る」という手法そのものへの違和感。アンケートで出てくるものは「既知の良さ」であり、それをやったところで、リソースが足りないし、大きなところ、先行している事例に、追いつくことはできない。

観察し、疑問を持ち、仮説を立て、インタビューし、その言葉の裏にある痛み、願い、祈りをつかみとること。

そのプロセスの中に「未知の良さ」につながる何かがあるのだろうと思う。

そんな「未知の良さ」に出会うために、今日も私たちは小さな舟旅に漕ぎ出していく。

そんな感じ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び日記

2023年05月15日

「ともにつくる」を実質化する


「子どもたちに民主主義を教えよう」(工藤勇一 苫野一徳 あさま社)

たまには哲学を問い直そうと。

まずは「自由の相互承認」という原理から。
~~~
人類は、この「自由」への欲望があるがゆえに、その「自由」をめぐって命の奪い合いを延々と続けてきたのです。そしてこの戦いに勝利した一部の者たちが、残りの大多数の人の自由を奪って、ピラミッド型の社会をつくり統治しました。しかしその統治もいつかは終わりを迎え、また命の奪い合いが続く。こんなことを人類は1万年くらいずっと繰り返してきたんですね。

「みんな自由に生きたいと願っている。でも、自由をめぐって戦争をしたり、一部の人が大多数の人の自由を奪っていたら、誰も自由に生きられない。だったら、誰もが自由な存在であることを、お互いに認め合うことをルールにした社会をつくるしかない」。そうヘーゲルは言ったのです。

すべての人が、対等に自由な存在であることをお互いに認め合う。そのことをルールにした社会。これが民主主義の根本原理です。別言すれば、他者の自由を侵害しない限り、どんな価値観や感受性や信仰を持っていても、どんな主張や行為をしても自由であることを、まずはお互いに認め合う。これが「自由の相互承認」です。⇒どうやって勉強するかは君たちの自由だけど、他の人の勉強の邪魔をする権利はないからね(工藤勇一)

一般意志:「みんなの意志を持ち寄って見出し合った、みんなの利益になる合意」のことです。法や権力の正当性は、この合意にのみあるとルソーは言ったのです。⇒みんながOKと言える最上位目標(工藤勇一)

「自由の相互承認」を実質化するための制度的土台
1 憲法:国民から国家権力への命令
2 公教育:自由の相互承認の感度を育む
3 福祉:公教育だけでは実質化できない場合に、福祉行政によって自由を保障する

「学校は子どものためにあるのか、それとも社会のためにあるのか」という対立は「問い方のマジック」で、二項対立ではなく、どっちのためにもある。個人からすれば、学校は自由になる、つまり生きたいように生きるための力を育んでくれるものです。他方、社会からすれば「自由の相互承認」の原理をより実質化するためのもの。

OECDラーニング・コンパス
個人および社会の2030年委おけるウェルビーイングの手段としての
1 新たな価値を創造する力
2 責任ある行動をとる力
3 対立やジレンマに対処する力
~~~

なるほどな~。
教育の目的は「自由の相互承認の実質化」ですね。

次に刺さったのが教員採用試験で教員を志した理由について「素敵な先生と出会いまして」と答える人の多さ。そうではなくて、「私が受けたきた教育を振り返るとこういうところが問題だと感じます。だから現場に入ってこういうふうに変えたいんです。それが子どもたちのため、日本の未来のためになると思います。」という若い人を僕は切望しているんです。(工藤勇一さん)

いやあ、まさに。
そういう思考じゃないと「これからの学びをつくってはいけない」と思う。

次に、「〈学級〉の歴史学」(柳治男)から。
~~~
すでに産業革命が進行していた欧米では、学級は工業社会における知識を効率よく教えるためのシステムでした。他方、まだ農村が中心だった明治時代の日本では、学級は村落共同体という伝統的な枠組みの中でつくられるようになったというんです。つまり、同質性の高い、よそ者に対しては排他的な集団です。大半の日本人はそんな共同体しか知らなかったために、学級は最初から「我々意識」に基づく生活共同体としてつくられることになったんですね。

「起立」「礼」「着席」も、ごく初期からはじめられていました。村落共同体ですから、集団的規律がなによりも重視されたわけです。運動会は、競争意識を利用して学級の結束を高めるためのものでした。まさに、他の集団に対しては排他的な集団です。こうして、教師を頂点とした学級王国がつくられていったんです。

戦後、今度はお父さんやお母さんのような存在になって、クラスを家族のような場所にしていこうとなったんですね。心を通わせ合う教師と子ども、というイメージが、理想の関係となりました。
~~~

さらに固定担任制から全員(チーム)担任制へと移行した麹町中の話
~~~
突出して人気のある教員がいる学年は、学級崩壊が起きやすいんです。なぜなら子どもたちが与えられる教育に慣れてしまって、教員に依存し、比較ばかりするからです。「あのクラスはいい先生がいるな。それに比べてうちは・・・」とうまくいかない原因を自分たちに向けずに学級担任に向ける。

固定担任制は100年くらい前の日本なら機能していたと思う。なぜなら子どもたちが学ぶことに飢えていたから。学ぶことに主体的に取り組む子どもが多ければ、教員に対して過度の期待をしなかったと思うんです。そもそも教師にきたいすることすらなかったはずです。
~~~

その他キーワードを
~~~
基本的に子どもたちは自分が信頼している人からしか価値観を学ばないからです。

3つの問いかけ
1 どうしたの?(なにか困ったことはあるの?)=状況の言語化。メタ認知
2 どうしたいの?(これからどうしようと考えているの?)=意志の確認。解決策を探すきっかけ
3 何か手伝えることある?(私(大人)に何か支援できることはある?)=問題解決の手助け。心理的安全性に寄与する
~~~

いやあ、面白いですね。「学級の歴史学」購入手続きしちゃいました。

「村落共同体モデル」で学級が運営されていて、結束を高める(≒排他的になる)ように運動会が設計されているってヤバいなと。
時代や社会が変わっているのに、教育が取り残されているっていうのはそういうことかと。

あとは、やっぱり、先生⇒生徒というベクトルの終わりを感じました。
与えられる授業や学校で先生に依存し、生活では会社や役所に依存し、消費者的に生きている日々で、本当に幸せになれるのでしょうか。

自らが「ともにつくる」一員になること。
その実質化を図っていきたいなと思いました。

ひとまずはメモブログです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学び日記

2023年05月10日

「しあさって」という時間的余白


「公民館のしあさって」(公民館のしあさって出版委員会 ボーダーインク)

昨日につづき、まずは東大の牧野先生のところから。

~~~
PDCAサイクルが前提としているのはエビデンスベースドな医療モデルなので、それ以外のところではやはり馴染みません。医療モデルはわかりやすくいえば、ワクチンを打った人と打たなかった人を比較して、結果がこうでした、と見せるもので、条件を統制して、一つの違いを見ることが基本の手法です。または製造業の製品の歩留まりを高めるために、その工程を管理するための手法でもあります。

ですから、ゼロであることが基本で、いわばマイナスからゼロにするためのするためのものなのです。行政とか教育というのは、ゼロから上をつくっていく、つまり人々の幸せを増進するためのものなので、マイナスからゼロにしていくPDCAのようなものを適用して管理しようとすると壊れてしまいますよね。

AARは、Anticipation(楽しいことを考えてわくわくする)/Action(やってみる)/Reflection(振り返って、またわくわくする)の略ですが、簡単にいうと、少し考えてちょっとやってみて、うまくいったら、振り返りしながら、俺は天才だ!と思っちゃったりして、もっとやっちゃおうということですよね。うまくいかなかったら、別のやり方でやってみようとか、変に批判しないことをベースに、やっていくと楽しくなってしまうようなのりで、続けていくのです。これを開放系の試行錯誤と呼んでいます。

目標はなくて、いまの状態を次から次へとわくわくする状況にもっていこうとして、おもしろいねえ、という形で動いていくので、拡大型の試行錯誤の循環に入っていって、それって楽しいよねとなります。面白いのはうまくまわっている公民館だと、お互いに肯定的な声を掛け合ったり、積極的な発言をしたりすることが多かったりするわけです。
~~~

これ、小国高校でやってた「Yes,and」とかめちゃ使えるだろうなあと。
学校外のプラットフォームの役割ってまさにそこにあるのだろうなと。

つづいて、コーディネータ(本文表記のまま)について
~~~
「触媒」であり、「言語化・可視化・組織化・橋渡し」をする人がコーディネータ。南さんみたいに雑談ばかりやっているということです。(笑)可視化も言語化も、相手がしゃべっていることに頷いているだけです。誰もが楽しい会話を通して自己発見があり、ああしよう、こうしようと思うようになるのです。コーディネータの役割はそのあたりにあるのではないでしょうか。

コーディネータは特に何かを仕掛けたりとかする必要のない仕事だと思います。もう少し進んでくると、世話焼きおばさんのように、あれやって、これやってとそこに居合わせたみんなに役割を振っていくようになるのだと思います。

まずは形式を持ち込んで強制的にやってもらって、次にそこでものをいうのが言葉です。自分が発した言葉が跳ね返ってきて、自分で気づくようになるという関係が、形式を次へ次へと動かしていくような規範になってきます。運動し続けるための駆動力としての規範です。言葉を介して形式が次へ次へと駆動されていくと、行動になってくるので、生活も変わるし、地域も変わっていきます。さらに楽しくなってくると、自律的に動いていくので、コーディネーターが手を引いても大丈夫です。だから、まあ雑談しているだけですよ。
~~~

そうか~。そうですよね~。
コーディネーターの役割って雑談なんだよなあ。

そして本日の気づきは以下「しあさって」というタイトルについて。

~~~
しあさって、というとちょっと余白がありますよね。明日だとすぐやらなきゃいけないですし、未来っていうとどうせ実現しないよなあと思ったりしてしまいます。しあさってって考えると少しぐらい置いておいてもいいかなと思います。忘れちゃったみたいなことが起こるかもしれないですが、それぐらいのゆるさが許されるのではないでしょうか。

雑談って議論ではないので、余白だらけです。やってもやらなくてもいいし、やってみたら面白かったという風に動けばいいのです。それがしあさってにつながるのではないでしょうか。

「しあさって」って絶妙なネーミングですよね。「公民館のあした」だとすぐにやらなければならければいけないし、「公民館の未来」だと遠すぎるし、「しあさって」っていいなと思いました。

あるべき未来を考えて、そのための現在を積み重ねる。それはなんだか良い話のような気がしますが、どうも未来のために現在を犠牲にしているニュアンスもあるように思います。人を過剰に管理対象にしないように、未来も同じように過剰に管理せず、今を最大限楽しむ結果、来るべき未来がやってくるということを感じていました。「しあさって」という未来感は、そんな気持ちも少し含んでいます。

その都度、その都度、新しい私が生まれ続けるおもしろさを身につけるみたいなことですよね。

今日でも明日でもないしあさって、遠い未来でもない「しあさって」という設定をしているので、現実的かどうかではなくて、あるいは理想を拡げるだけでもなくて、その間を行き来しながらよりよくなっていったらいいねという会話ができたらと考えています。
~~~

わー。いいなと。「しあさって」は時間軸的な「余白」ってことなんだ、ってたぶん、生きていくのに必要なのはその「余白」なのだろうなと。

目的・目標に向かわない雑談と、面白いからやってみようかなと思ったときに、明日(または今日)かならずやる、ってことじゃなくて、「しあさって」くらいに実現できたら楽しいな、くらいの感覚でいろいろコトを起こせたらいいなと。

そして最終章 公民館のしあさってってなんだろう より
~~~
あそこ(公民館)に行ったら、今までの自分とは違う、何かを考えるきっかけがあるのかもしれないという期待かもしれませんね。

目的があってもいいし、なくてもいいし、地域の熱量というか、今ここの旬ってなんなんだというのがありそうな予感のする場所が公民館なんではないかと思います。そういうことを若い人たちが嗅ぎつけてきているのかもしれないです。

ドラえもんに出てくる空き地ですね。偶然かつ無目的のハブ拠点が公民館。

私たちがモスクに行くのは、モスクが物理的な空間の中で持っている機能を求めてではないです。モスクに象徴されている意味やプロセスに重要な要素があって集っているんですね。宗教というフィルターはあるものの、その目的以外には、偶然に場所と時間を共有しているだけです。まさにたまたまの出会いでモスクにたくさんの人が集い、出会うと、必然的に思いがけない隣人との学びも生まれることになります。

プロセスについても同じことが言えます。課題を解決していくために何が必要か、ばかりを考えている人たちが多いのですが、それでははっきり言って公民館は動けません。プロセスそのものが、最終的には課題解決につながってくることが公民館の潜在的な魅力なんですが、それも社会の中で認められてこなかった部分なのでもったいないですね。
~~~

これ、「公民館」を「地域にある200円で入れる日帰り温泉」に置き換えても同じかもしれないなと思い始めました。

さらにその「つくりかた」について

~~~
公民館を利用する人たちが、公民館はサービスを一方的に受けられる場所であるという間違った認識を捨てるべきだとも考えられます。公民館を利用する人が運営する立場にもなり、公民館を運営する人が利用する人になる場合もあるというフラットな関係性が築けてこそ、間接的な社会形成という社会教育の目的が達成されますね。

居酒屋と公民館が決定的に違うのは、そこの場にちょっとだけ責任のある人がいるかどうかだと思います。それがコーディネータの存在ですね。だから、居酒屋にはその先がないけど、公民館にはその先があるということです。

「don't be customer」

公民館から帰るときに、あなたはCustomerではありませんと言うようにしています。わたしたちだけでは、地域の課題は解決できないけど、あなたと一緒だったら、解決できるかもしれないし、あなたにはできることがあるので、あなたの役割は大切ですと伝えています。

エジプトにはたくさん居場所があるけど、Costomerとしての居場所で、ター公民館はオーナーとしての居場所だという違いがあるということですね。メンタルも含めてぜんぜん違うと

喫茶店にちゃんとしたコーディネータがいれば、公民館になりますよね。その場の発言にちょっとだけ責任をもって前に進めたりする人の存在です。

公民館では社会のマスクを外してほんとうの自分を出す場所ですね、本来的には。個が確立され、その人らしさが出ることで、地域がおもしろくなって、課題や問題と思われていたことが解決していきます。
~~~

「don't be customer」(消費者になるな)
って、これからの世の中を生きていく上で、すごく大切なことだなあと。

その地平に、いつ立てるのか?
学校が「Customer」だけを育ててこなかっただろうか?

じゃあどうやって、場のオーナーシップ、地域のオーナーシップ、社会のオーナーシップを持った人を育てていくのか?

それは、「雑談」する場を持ち、まずは話をひたすらに聞き、発言を拾い、前に進めるコーディネータの存在があり、それを実践・実現するフィールドがあり、仲間集めができる。

AARサイクル、ワクワクして、やってみて、ふりかえってまたワクワクする。そんなサイクルを回していくこと。

そこには、目的・目標を決めて直線的に進んでいくような、明日から(今日から)はじめる、という脅迫は無くて、しあさってくらいに動き出したらいいなという時間的余白もあり、ゆるやかに動きが始まっていくような。

そういう余白ある「場」をつくっていくこと。
学校にも、公営塾にも、寮にも、ブックカフェにも、温泉にもつくっていくこと。

それをやりたいなと心から思えた1冊でした。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:20Comments(0)学び日記

2023年05月09日

「福祉」と「教育」と「まちづくり」のあいだ


「公民館のしあさって」(公民館のしあさって出版委員会 ボーダーインク)
西会津のゲストハウスでカフェをやっているナオさん激推しの1冊ということで購入。

面白かったです!
「マイパブリックとグランドレベル」の次に読むにふさわしい1冊。
おススメありがとうございます。
僕たちが目指しているのはアップデート「公民館」のようなものかもしれない、と思いました。

今日もメモを書きとめます。

まずはちょっとヤンチャな高校生が公民館の福祉活動に参加した後に
教頭先生が電話をかけてきて「なにをやったんですか?」って驚かれた話から。

~~~
公民館では様々な人の出入りが当たり前である。出停中というレッテルを張られず、自分のやった仕事で誰かが喜び、認められる場がたくさんある。

様々な価値観や環境で育ってきた生徒たち、必ずしも学校や企業が求める人物像ではないだろう。しかし地域の包容力は大きいのだ。またそういった多様性を認める地域文化は皆で育むものだ。

地域の人の感謝の言葉や行動が、生徒の目の色を変えていくのを何度も見てきた。人がつどい、生きがいづくりの場であり地域を元気にする公民館は、互いを認め合える「ありがとう」の力に満ちている。このような身近にある公民館は地域の力が人を育むのだと実感する。

今日もどこかで地域の「ありがとう」が誰かを支えていることだろう。
~~~

いいですね。
高校生のアイデンティティにとって、とても機能しているなあと。
そしてコーディネーターの心得としての「3人先までの噂を意識する」とか

~~~
イベントに参加した人や取り組みに関わった人が、3人先までどのような噂話をするかまでイメージしてほしい。お家に帰って楽しかったこと、もっと知りたくなったことを人から人へ伝えたくなるような、家族間、地域間でのコミュニケーションが深まるようなきっかけとしての事業であってほしい。
~~~

コミュニケーション・ツールとしてのイベント・活動をつくっていくこと。
これって、めちゃめちゃ経済社会においても重要なことだな。
いわゆる「口コミマーケティング」ですもんね。

そして、高校生の学びみたいなテーマでも示唆に富んだ一節が。
「消費としての学習」と「生産としての学習」というテーマ。
~~~
地域にある公民館にとって大切なことは、消費ではなく「生産としての学習」である。そしてそれは、すぐに可視化できるものではないことが重要である。人と人、団体と団体などのつながりを作り出したり、他者からの承認を得ながら自分の存在意義を見出したりするなど関係性や価値を創造するものだからである。

しかも講師⇒受講生という一方向的に知識を与える関係からではなく、ともに学び合うなかから生まれてくるものである。何を教えてくれるのか、どのようなカリキュラムがあるのかではなく、一緒に学びたい仲間を集め自分たちでカリキュラムを作っていく。

ひとは、何かに貢献したり、役に立つことを実感することで社会的な存在となる。ター公民館では、同じ場所なのに、人によって使い方も意味も目的も役割も変わっていくことを大切にしているという。この場所に来ると自分も何か社会貢献することができるということに気づき、自分のできることを探し行動するのだと。

単なる利用者ではなく、一人ひとりが地域・社会とかかわることを大切にするこの視点は、まさに消費の場としてではなく、生産=関係創造の場として公民館を位置づけているに他ならない。このプロセスを経て、私たちは社会に影響を与えつつ初めて自分自身の意味を知り、喜びや他者の幸せへの実感をくり返し、生きがいや自己実現を我が物にしていく。
~~~

単なる利用者ではなく、か。重い言葉だな、と。高校生を単なる教育サービスの利用者にしてしまっていないだろうか?という激しい問いが突き刺さります。

もうひとつ思ったのは、公民館の「ともに学ぶ機能」とカフェ的空間の「入り口・偶然性機能」とを合わせたような場は可能だろうか?っていう問い。その両方が必要なのだろうと。

さらに刺さったのは、「答えのない世界」というキーワードで、高崎経済大学の櫻井常矢先生のコメント。

~~~
答えのない世界は、何よりも人びとを対等なものにする。答えさえなければ、そこには教師も生徒もない。教える側⇒学ぶ側という一方向的な関係性はなく、ともに知恵と工夫を出し合いながら学ぶことを許す。

公民館での学び方は多様であるはずだが、そこでの人びとの営みは常に対等である。最初から答えを持っていないけれど学び続ける私たちに限界もない(南さん)し、だからこそそれぞれがクリアな気持ちで、目指す方向に向かってやりたいことを実現できる(ミギードさん)こと

あらためて「答えのない世界」とは、とても心地よいものである。それぞれが対等な関係の中で、ひとつのことにこだわりをもって話し合い、悩み、実践し、前に進もうとするからだ。そこに共通にあるのは、誰かが決めた規範や豊富な知識からくる自信ではなく、こうありたいと願う社会への確かなまなざしである。
~~~

「ともにつくる」学びってそういうことですよね、って。
もっと言えば、「ウェルビーイング」ってそういうことなんじゃないか、って。

阿賀黎明高校「地域学」と阿賀黎明探究パートナーズの関係って、そういう関係なのでは、って思う。

僕たちが創りたいのは、そんな「場」や「関係性」なのかもしれない。

「福祉」と「教育」と「まちづくり」のあいだ。「公民館のしあさって」が示すのは、公民館でそれが可能になるのではないか、という問いだ。

僕たちの町にも、僕たちの町なりの「やり方」があり、築き続ける「関係性」があるはずだ。

なぜなら、そこに答えはないのだから。

そんな「場」を高校生も含めて、ともにつくりたいのよ。  

Posted by ニシダタクジ at 09:33Comments(0)学び日記

2023年05月08日

マイパブリックと参加のデザイン


「マイパブリックとグランドレベル」(田中元子 晶文社)

シビれまくりながら一気に読みました。
すごかった。タイムリーすぎる。

まずは能動性について
~~~ここから引用
わたしたちは、モノに飽きているのではない、受動機会に飽きているからだ。

コトを実現させるためのモノがあり、モノをとりまくコトが生まれていく。そういう関係が成り立っているとき、モノは飽きられないし、コトはうまくいく。要は、そこに関わる人々が能動的であるかどうか。モノよりもコトよりも、まずはヒトの問題なのだ。

ひとは、受動がうまくなるように、飼い慣らされてきたところがある気がする。

合理的ではない部分にこそ、能動性の鍵が眠っている気がする。そしてそのうちのひとつが、趣味と呼ばれる行いのような気がするのだ。与えられた趣味などない。合理的だから、意味があるからするという趣味もない。ひとは趣味の中で、能動性を発揮させている。

わたしはその能動性を、もっと社会で、つまりまちの中で直接的に存在させたら、どんなに素敵だろう、と思っているのだ。
~~~
これ、「学び」に置き換えても一緒だろうな。
必要かどうか、以前に、受動的学びにすでに飽きているんだ。
もっと「学びたい」という欲求に応える学びの機会をつくりたいなと。

そして「マイパブリック(私設公共)」について
~~~
公共的である状況
=第三者との接触可能性がある(共有性)
=第三者にとって「自分の居場所」である(実践性)
=第三者どうしが互いの存在を許容し合える(関係性)

言い切ってしまうと、マイパブリックを通して発生する第三者との接触とはつまり、社会との直接的な接触に他ならないと思う。社会と呼ばれるもののうち、最も身近な一端は、他者という存在である。では、社会とはどこにあるのか。他者とは、どこにいるのか。その答えは「まち」である。

これまでの都市計画はみな、鳥瞰的だった。そして、ひとは立体的にまちを使いこなせるものだと、思い込み過ぎていたと思う。誰も鳥になんかならないのに。わたしたちはみな、目の高さから水平の世界しか、視認できないのだ。

自然な目の高さで見た視界でもって、グランドレベルの作り方、使い方をアシストする仕事を、つくろうと思った。グランドレベルさえよくなれば、人々の目の前に広がる風景、つまい人々にとってのまちや社会、その見た目だけでなく、そこで起きる出来事も変わっていくのではないか。

人はグランドレベルから一切逃れて生きていく、などということはできない。ひとは人生の多くをグランドレベルの上で過ごし、そこでの時間にさまざまな経験と想いを積み重ねながら生きていく。

本質は「マイパブリック(=私設の公共)」が、誰にでも平等に与えられているグランドレベル(地階・地上・地平)において、どれだけ実践されるか、である。
~~~

これもすごいな、と。
なぜ、「高校生」が「地域」で「探究」するのか、とか。

大学生の卒論相談で話していたまさに「若者のアイデンティティ」と「まちづくり」の交点をつくる話だよ、と。
社会や他者との間接的コミュニケーションとしてのマイパブリックを持つこと。

マイパブリックをどの視線でつくるのか?

小学生にとっての、中学生にとっての、高校生にとっての、まちの大人にとっての「グランドレベル」とはいったい何だろうか?
この町でそれを表現するには?

そんな2つの問いをもらった。

小中学生、高校生の「プロジェクト」でもそれを目指したいなと。大人顔負けの商品開発や課題解決のプロジェクトやるんじゃなくて、マイパブリックを実践するプロジェクトから始めていきたい。地域の当事者になるってそこからだよ、って。

そして最後に、記号とコミュニケーション、存在について。
~~~
人々は既存の屋台のかたちを、すでに「自分が近寄ってみてもよい何か」であるという記号として捉えている。その既存の記号性を利用すればいいのだ。コミュニケーションを試みてもよい、と人々に認識してもらえることで、自分と社会がダイレクトに接続される。

存在するだけで与えてしまうわけだから、できれば何をどう与えるか、という部分だけでも、自分でコントロールしたい。第三者でも近づきやすいようにデザインし、設える。このような言葉以外の言語を駆使することで、自分と社会の交点に近づくことができる。

そもそも「ふるまう」「与える」ということは、日常、本人が意図していなくても、起きてしまうことなのだ。

ひとも、モノも、グランドレベルも、ふるまう気なんかなくたって、誰かの目に晒された時点で、誰かに「与えて」しまっている。きれいだとか、面白いとか、気になるな、といった視覚情報と、それによる印象を、瞬時に、大量に与えている。

だからこそ、どうせ放っておいても「与えてしまう」ことになる「存在」というものに対して能動的に、自覚的に楽しんでいこうよ、という話なのである。

ここの人々はわかっているのではないか。地上階が特殊領域であることを。プライベートとパブリックの交差点であることを。だから他の階と並列に数えることはせず、わざわざグランドレベルと呼んでいるのではないだろうか。
~~~

いやー、すごい。田中さんが「グランドレベル」という社名に込めた思いが伝わってくる。もう、読んでいてドキドキしたし、僕らの文脈からすれば、「高校生」が「地域」で「探究」するのはなぜなのか?っていうのに対して、より解像度の高い説明になっているなあと。

そして僕的に言えば、最大の課題である「存在の承認」問題にも踏み込んできているから、さらにドキドキします。人は場に影響を与えてしまう存在であり、それをまず認識することで始まるものがあると。

「ともにつくる」場のデザインを志向・思考・試行してきた僕にとって、衝撃を受ける1冊になりました。それだよ、それ!っていうのばかり。

最後に、効果的なグランドレベルをつくる3つの基本を引用して、読書ブログを締めくくります。

~~~
1 ひととグランドレベルが出会う「からまりしろ」
行き交う人の目に付き、対象に対して何か気になりはじめる。つまり、ここに生まれているのは、認知や意識の「からまりしろ」である。そしてさらに、ベンチに座ったり、お店に入ったり、そこにいる人に話しかけたり、対象に対して能動的な行為におよんだとき、そこは行為の「からまりしろ」になる。「からまりしろ」とは、グランドレベルにある、さまざまな領域のエッジで生じるものだ。「からまりしろ」は、単純なモノのデザインではない、包括的(=ホリスティック)なデザインによって実現する。そこには、五感による多様なコミュニケーションのきっかけが生まれる。

2 ひととまちが一体化する「かかわりしろ」
まちのモノやひとに対して、自分自身が、能動的な行為を起こすことができ、さらに継続的に応答できることを、わたしは「かかわりしろ」と呼んでいる。「かかわりしろ」のデザインとは、物理的なデザインというよりは、ひとの能動性をより引き出し、まちに関われるシステムだ。「かかわりしろ」があることで、ひととその場の関係性がぐっと高まり、まちに対する愛が生まれる。そこには、まるでひとりの友達ができたかのような錯覚を覚えさせる力がある。

3 面的な一体感をつくる「つながりしろ」
その施設、その空間が、単体で存在しているのではなく、「つながり」の一部としてそれがあることを意識し、「つながりしろ」をつくること。グランドレベルにあるすべての施設や空間が、「まち」というものを介してつながっていると捉えるならば、「つながりしろ」とは、グランドレベルの施設と空間と「まち」との間に、中間領域をつくるということだ。「つながりしろ」があることで、グランドレベルはより一体化し、人々のアクティビティを一層高めることになる。

「からまりしろ」「かかわりしろ」「つながりしろ」の3つがどうつくられているのか。この視点を持って、改めてあなたの住むまちのグランドレベルを、まずは観察してみてほしい。
~~~

うわー、これ、「地域」で「探究」せよって言ってる側の「大人の宿題」だよなあと。
グランドレベルの景色をそのままに、探究せよって言われてもね。無理ゲーですよ。

地域の大人は、子どもに直接「教育」することはできない。(先生もそうなのかもしれないけど)
だから、できることは「環境に働きかける」ことだけだ。

じゃあ「環境に働きかける」ってなんだよ?って言ったときに、それってまさにグランドレベルの観察と仮説設計と構築、そして振り返りなのだろうなと。

それを繰り返しやっていくことで、大人も子どもも、「まち」に「まちづくり」に参加・参画するようになり、それは田中さんがパーソナル屋台を引いた時に得られたような、子どもたちの(大人たちも)アイデンティティの構築へとつながっていくのだろう。

GW中にもらった機会の解像度と具体的方法が浮かぶ節目にふさわしい1冊でした。ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)学び日記

2023年05月07日

コミュニケーションって何?


西会津の私設図書館「いとなみ」の「風舟」本棚を入れ替えてきました。
https://www.100itonami.com/

借りてきた本は2冊


「マイパブリックとグランドレベル」(田中元子 晶文社)
「ともにつくるDIYワークショップ」(河野直+河野桃子 つみき設計施工社)

「マイパブリックとグランドレベル」は
ずっと前から知っていて、喫茶ランドリーも行ったんだけど、なぜか本はまだ読んでなくて。
https://hatawarawide.jp/wakatejidai/211213-1/
(喫茶ランドリーと田中さんについてはこちらから)

「目の前に来た時が新刊」って出版社で書店営業していた時に
よく話していたけど、まさにそんなタイミングで、この本と。
「ともにつくる」ってキーワードに惹かれて、つみき設計施工社を知りました。
そして、今朝さっそく読んでみたら、問いにあふれていて、うなっておりました。

冒頭の事務所の中にIKEAで買ってDIYしたバーカウンターをつくって、いろんなカクテルを作り出した話は爆笑。
「建築カクテル」つくって、「うん、確かにザハ・ハディドの香りがする」って・・・どんな香りよ。(笑)

味覚じゃないものを味覚で表現するのって面白いな。春夏秋冬の他にもできるのかも。飯豊山とか御神楽岳とか、日本酒ならありそうだけど。「数学IAの味がするね~。」とか面白いなと思った。建築家みたいに、タイトル(飲み物の名前)が問いになっているのはさらに面白いなと。
ワークショップ「鍋対決」もきっとそんな感じだなあ。

~~~以下メモ
建築や都市が、経済よりも学問よりもまず、ひとのためにある、と感じられるときというのは、建築や都市やひとが、公共的な関係を築くことに成功しているときであることが、わかってきました。公共とは施設でも制度でもなく、関係性なのだと。

個人が作る私設公共=マイパブリックは、「みんなのもの」という責を負わない。作り手本人がよかれと思うものを、やれる範囲でやる。それをフィーリングの合う人が使う。

わたしはおかねのためではなく自分の意思でひとをもてなしたかったし、相手にも、余計な心配をして欲しくなかった。今日は誰かが来てくれる、という予定が入るだけでワクワクした。

店と事務所の間、パブリックとプライベートの間。そんな曖昧な場所である。ゲストにとっても、この曖昧さが、緊張がくれるワクワクした感じと、リラックスがくれる打ち解けた感じの、ちょうどいいバランスになるようだった。

それぞれにいくらかかって、どれだけの費用対効果があるのか、考えながら行動することは、こうしたらもっと楽しくなるかな、素敵じゃないかな、という自分の衝動に、いちいちブレーキをかけるようにして、気を配らなければならなくなるからだ。

おかねのやり取りをしないだけで、どんなに手慣れたとしても、堂々と素人でいられる。相手もわたしにプロの店員であることを求めないし、わたしも相手に、あらゆる意味で良い客であることを求めない。お互いに期待しない。

わたしはバーに立っている間、相手の期待からも自分の期待からも、解放されていた。この解放感は味わわないとわからない。
~~~

「緊張がくれるワクワク」「期待からの解放」とか。僕にとってキーワードだらけです。
「アマチュアリズム」ってそういうことか、と。
「期待」からの解放ってものすごく深いなと。
これで苦しんでいる若者ってたくさんいると思う。
それを解決する手法としてのアマチュアリズム。

高校生が「やってみる」ためには、「期待」から解放される場づくりっていうキーワードもあるのかもしれないなと。

そしてもう1冊
「ともにつくるDIYワークショップ」については、千葉県市川市を拠点とする施工会社
http://tsumiki.main.jp/
つみき設計施工社の話。

~~~以下引用
この本に登場する左官職人 金沢萌さんのひとこと

「だから今、私のような、コミュニケーションを取りながら仕事を進める「緩い」職人の世界も世の中に求められているんじゃないかと思ってます。もちろん、修行を重ねて、技術の高みを求めていく「厳しい」世界も必要です。」

「緩い」職人の世界。
言い換えれば「コミュニケーションを大事にする」職人の世界って必要だよなあと思う。ひとりひとりがメディアになる時代だからこそ。

そしてもうひとり、なつめ縫製所の夏目奈央子さんの言葉も

~~~ここから引用
建築家だけじゃなく、大工さんやほかのいろんな専門家の知識や技術、住まい手や使い手の思いが詰まっていい建築ができているはずなのに、建築雑誌などではそれがすっぽり抜け落ちているように感じて。

紙の箱も建築も使う人や時間の経過が物語をつくっていく。箱は小さな建築みたいで、そんな物語の紡ぎ方は、今でも変わらず自分のなかにあると思います。

私にとって衣服のデザインも、建築のデザインも根っこは同じで、大きさや素材は違うけど、どれも人間の「器」、時間の「器」だと思っています。

身体の延長にまず衣服があり、空間があり、建築があり、街がある。いまもずっと根本にある興味は、「人間を包み込む素材として、布に何ができるのか」ということなんだと思います。
~~~ここまで引用

夏目さんの言う「箱」や「布」を「場」に置き換えると、僕にとってすごくしっくりくるメッセージになります。
そういう「場」をつくりたいんです。

そしてまた「マイパブリックとグランドレベル」の話に戻って、田中さんが小さなコーヒー屋台をつくる話です。
~~~
ああ、わたしのバーにタイヤがついていたら。そうしたら、まちの中でも人通りがあって、かつ歩行の邪魔にならないような場所を見つけて、そこでふるまえるのに。そうしたらふるまっているひととき、まちの風景も、街ゆく人々のふるまいも確実に変わる。

それってひとときのまちづくりかも。つまりひととき、世界を変えるということだ。わたしはこうして、都市と自分の関係について、考えるようになっていた。

わたしたちはまたしてもIKEAに向かった。何だかよく分からない何かを、手探りしようと思った。つまりIKEAの既製品を組み合わせて、イメージに近いものを、作ってみようと思ったのだ。目的の商品は何も決まっていなかったが、しかし、何かと何かを組み合わせれば、何かができるんじゃないか。バーを作ったときのように。要は、そのための材料を見繕いに行ったのだ。材料以上、完成品以下のなにかを扱う店は、わたしの知る限り、IKEAしかない。

実際、計画性なく出費しても許される金額に収まった。

そうそう、こういう規模感なんだ。野点やピクニックよりもアイレベルに近いから、決まったコミュニティだけではなく、より多くの人に立ち寄ってもらえる。そのうえ気軽に持ち歩くことのできる、屋台未満の規模のもの。野点以上、屋台未満なんだ。

たった3800円で、街に出る口実ができた。
~~~
このあと、やっぱり屋台のデザインとしてはイマイチで改良をすることになるのだけど、この始め方、すごいなと。阿賀でやる高校生のマイプロってこういう感じにしたいなと。「とりあえずやってみる。組み合わせてできないか」考える。実践して振り返る。そういう感じのプロジェクトをやりたいよね。

そして、田中さんはタイムリーにアドラーの本を読み、趣味について再考する。

アドラーの「幸福」三原則(本書P56より)
人が幸せだと感じるのに必要な3つの要素
1 自分を好きである
2 他者が信頼できる
3 社会や世の中に貢献できる・役に立っている

これを「趣味」に置き換え、第三の趣味を提案する
1 自分を満たす趣味
2 他者と楽しむ、交流する趣味
3 社会や世の中に貢献できる・役に立てる趣味⇒第三の趣味

この「第三の趣味」についての考察が鋭い
~~~以下引用
自分だけでは成り立たず、また家族や友だちといった小さなコミュニティでも成り立たず、全くの別人、全くの第三者を巻き込むかたちとなっているからだ。自分が好きでやることと社会との交点。そう、たとえばまちで誰かにふるまうこと。それこそが、第三の趣味だ。

第三者が絡む第三の趣味が、なぜこれまで興味を持たなかったわたしを、そこまで虜にしたのだろう。その理由のひとつは、第三者とは期待しないで済む存在だからだと思う。

期待しなくていいのは、ひとにだけではない。ただ気まぐれにふるまっているのだから、儲けなんてものにはまるで期待しなくていい。

第三の趣味は、何が起こるか、誰が来るかわからない、予測不可能な状況に自分を置くことができる。だから些細なことにさえ新鮮な気持ちになれるし、敗北も失敗もない、やればやるだけ、ただ楽しい気持ちでいられるのだ。
~~~

高校生(だけじゃなくて小中学生も)プロジェクト入門ってこういうことをしたらいいではないか。それこそ最初にして最大の壁である「承認」のステージをクリアするのに、「何かをふるまう」っていうのはとてもよいスタートなのではないかと思った。

「ともにつくる」場をつくるために。

アマチュアリズム
ブリコラージュ
コクリエーション

の理論の入門として、第三の趣味というアプローチがあると思ったし、この2冊は、「コミュニケーションって何?」っていう問いをひたすら投げかけてくる本になりました。

本との出会いで人生は拓けるなあと。
今日も本を売りたくなりました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)学び日記

2023年05月06日

「ともにつくる」「場」のつくりかた



Rural Readingさんで購入した3冊をぐるぐる読み。
タイムリーな本たちでした。高校生の地域系部活動文脈を考える上で、ヒントに富んだ3冊となりました。

旋回する人類学(松村圭一郎 講談社)
わたしのコミュニティスペースのつくりかた(土肥潤也・若林拓哉 ユウブックス)
本気で遊ぶまちの部活(ゆたり編集室 ゆたり文庫)

まずは「旋回する人類学」から問いを。

~~~
私たちはいったいどんな世界をつくりだそうとし、現実にどう世界を変えてきてしまったのか。それは、人類学という一学問に限らず、いまの時代を生きるすべての人にとって切実な問いである。

人類学の一筋縄ではいかない旋回の軌跡をたどりなおす過程は、その問いへの向きあい方がいくつもありうることを確認していく作業でもある。

多様な差異にあふれたこの世界で、ともに生きていくとはどういうことなのか。人間とはどんな存在なのか。秩序ある調和のとれた世界がいかに可能なのか。

本書であらためて人類学の歴史をひもとくのは、いま私たちが「答え」を必要としている課題へのさまざまな「問い方」の可能性を学ぶためである。
~~~
なるほど。「問い方の可能性」ね。なかなかモヤモヤするキーワードです。

次に「本気で遊ぶ まちの部活」へ。
こちらは群馬県前橋市で起こった「前橋〇〇部」の詳細が書いてある1冊。
前橋〇〇部についてはこちらから。(greenzさんのサイト)
https://greenz.jp/2019/06/18/maebashi_oobu/

facebookを活用したいわゆる「大人の部活動」
「アクションの敷居を下げる」っていう点において、
中高生の地域活動の参考になります。

■ミッション
1 前橋の新しいコミュニケーションの構築
2 誰もがアクションを起こせる土壌づくり
3 前橋の圧倒的な興隆
■そのために
1 「〇〇部」と敷居の低い言葉で誰でも発足し、参加できるものにする。
2 前橋を「自分事」と捉える
3 日常をイベントに変える
■ターゲット
「活動家」や「アーティスト」など、特殊技術をもった人をメインに考えるのではなく、あくまでも前橋で生活をする「普通の人」
~~~
これ、いいですね。
とくに、そのためにの3 日常をイベントに変える。
これ、阿賀町でもできそうなことがたくさんあります。

住民の当たり前の日常は、観光客や高校生にとってはとても新鮮なイベントの場になります。
僕も麒麟山に登って雲海をたまに見ていますけど、雲海がそんなに簡単に見れるなんて最初は衝撃でした。

そして最後にみんなの図書館「さんかく」の土肥さんの1冊。
これも「場」について激しく考えさせられる本。
~~~
コミュニティスペースづくりには、多様な人の参画が欠かせないと考えています。たくさんの人の手が加わることによって、多彩で豊かな場がつくられていくことを実感しています。そのためには、関わる時間や責任にグラデーションをもたせて、参加の裾野を広くすることも重要な要素です。

場を育てていくのは、その場に関わるさまざまな人の小さな思いの集まりだと私は考えています。ある意味で場づくりへの参加は自己実現とも言い換えられます。

つまり、その場を通じて自分の思いをカタチにする、誰かの思いをカタチにすることを支援するのがコミュニティスペースをつくる意義なのではないかと考えています。

さまざまな人の思いがカタチになる場所であるから、多様な人が集まる魅力が生まれます。目の前の人や場に来てくれる人の思いをどうやったらカタチにできるか?の視点で考えることが、場づくりの基本スタンスとして重要です。

普段出会わない異質なものと出会える場がまちにあることは、まちづくりにとって必要な要素です。

自由に過ごしてよい、何をしてもよいという空間は、逆に中高生にとって居心地が悪いということです。

その場所にいる言い訳をつくってあげること。
~~~
いやー、そうそう!ってなりましたね。
多様なベクトルを持った人を受け入れ、そのベクトルを確認すること。さらに目的をズラすっていうこと。そこに余白が生まれ、創造性が入る余地が生まれるということ。

そんな「場」をともにつくっていくこと。
そこから出発しないとな、と。

「高校生の支援をする」のではなくて、「ともにつくる」こと。
「高校生のまなび」と「参画するまちづくり」の真ん中に「場」をつくっていくこと。

そんなことを考えていたタイミングで、コミュニティ構想専攻の大学生の卒論相談の機会が。
タイムリーなので、この話をしつつ、もう一度「場」について考えてみる。

「場」の魅力は、「予測不可能性」と「一回性」にあると僕も思う。
http://hero.niiblo.jp/e480545.html
放浪書房が売っているもの。(16.7.5)

ではそんな「場」をいかにつくるのか?
または、高校生×地域で何ができるだろうか?
みたいな問い。
そしてそれは若者のアイデンティティの問題に直結しているのではないか、とか。

ひとまず昨日の時点での卒論テーマは、
「20代が参加・参画し、自己を表現できる地方の場のデザインの研究」
になりました。

ふりかえりトークで面白かったのは、
僕の現在の仮説である「自分たち」=Responsibility仮説について。

以下、ツイート
個性とは、Responsibilityである、という仮説。Responsibilityには広さと深さがあって、どこまでを「自分たち」として捉えるか、ということ。自分たちを「広げる」「深める」しながら、見つけていく過程のことを「学び」と呼ぶのかもな。その深さのひとつに「継いでいく」があるのかもしれない。

Responsibilityの異なる人たち同士が出会い、交じり合うと「余白」が生まれ、そこに構築される新しいものを「創造」と呼ぶ、とか

カフェの場としての魅力のひとつは「異なる目的を持つ人が同じ空間を分け合っている」ことだと思うのだけど、通常はそれらは交わらないのだよね。「予測不可能性」や「一回性」を生む場をつくるためには、交わる仕組み、仕掛けが必要なんだ。

ヨコ軸の自分の「好き」とか「誰かのために」とかいうのと、タテ軸の「継いでいく」みたいなものがクロスするところに「予測不可能性」と「一回性」を高めた「場」をつくっていくこと。それはそれでアイデンティティ構築の方法のひとつだと思う。
~~~以上ツイート

自分たち=圏のようなものっていうのに対して、圏だと「広がり」だけだから、「深まり」っていうベクトルもあるのでは?っていう問いから生まれた発想でした。

まさに!って思った。

人間はいくつものレイヤー(層)の集合体で、そのうちのいくつかを組み合わせて「場」で「自分」を演じる。
http://hero.niiblo.jp/e483303.html (自分を多層化して生きる16.12.20)

「広がり」と「深まり」っていう2軸の中に「自分たち」をつくっていく。
それが「自分らしさ」の構築方法なのではないか。

そして、「ともにつくる」とは、その2軸を意識しながら、場をつくり、場がつくっていくもの、であるかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)学び日記