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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年11月25日

二元論という禁断の実


「普通がいい」という病(泉谷閑示 講談社現代新書)

この春、衝撃を受けた
「仕事なんか生きがいにするな」(幻冬舎新書)の著者、泉谷さんの2006年の著作です。
http://hero.niiblo.jp/e489521.html
(貨幣経済が「質」を「量」に還元した 19.7.4)

今回取り上げるのは 第3講:失楽園です。
「頭」と「心」の話が分かりやすく解説されています。

人はなぜ思い悩むのか?
「頭」と「心」と「体」はどう関係しているのか?

そんな問い。

~~~ここから抜粋して引用


図3-1で「頭」と「心」と「身体」の関係が描かれています。

「頭」とは理性の場であり一方「心」は感情や欲求の場で、「身体」と一心同体につながっています。

「心」の上に「頭」がついていますが、そこにはフタがついていて、これは頭によって開閉されます。ですから、このフタが閉まっているときは、「頭」VS「心」=「身体」という内部対立というか、自己矛盾が起こります。しかし一心同体である「心」と「身体」は、決して食い違いを生じません。

「頭」は理性の場所で、理性とはコンピューターのような働きをするもので、1/0という二進法を基礎に動いています。

ここでは、計算や情報の蓄積、それを基にした情報処理つまり推測・分析・計画・反省などを行います。使う言葉としては、「頭」は「~すべき」「~してはいけない」といった言い方をする。英語で話すとmust やshouldという系列になります。論理的であること、因果関係を考える働きがありますので、必ず理由がくっついているという特徴もあります。

また、時間・空間の認識では、過去を分析し、未来やここ以外の場所をシュミレートするのが得意です。過去の「後悔」未来への「不安」などはここで生み出されます。逆に「今・ここ」については苦手で、正しくとらえることができません。

また重要な特性としては、「頭」は、とにかく何でもコントロールしたがるという傾向を持っています。自分の「心」や「身体」に対して、まはは降りかかる運命に対して、自然に対して、といった具合に、その対象は際限ありません。間違ってはならないのは、いわゆる「欲望」というものは、「欲求」と違って、「心」からではなく、この「頭」のコントロール志向から生じてくるものだということです。

一方、「心」は「~したい」「~したくない」「好き」「嫌い」等々の言葉を使います。英語で言えば、want toやlikeの系列です。理由や意味・意義などは一切くっついてきません。いきなり判断だけを言ってくるのです。

時間・空間の認識では、「頭」と違って、「今・ここ」に対して焦点を当て、シャープに反応します。ですから非常に即興的で、「前はこうだったから、今度もそうだろう」といったような過去の情報に基づいた反応はしません。それをするのは記憶やシュミレートをつかさどる「頭」の方です。

またオリジナルな感情、つまり喜怒哀楽は「心」から生まれますが、期待をかけて叶わなかった時に起こってくるような感情は「頭」から生まれます。なぜならば期待というものは、未来をシュミレートし、こうあって欲しいとコントロール志向を向ける「頭」由来のものだからです。

「身体」は「心」と直結していますので、密接に連動しています。欲求や感覚などは、この両者によって生み出されるものです。また「身体」と「心」は一心同体ですから、「心」に元気がなければ「身体」も元気がないということになります。

他の動物と人間が決定的に異なっているのが「頭」という部分であり、この「頭」が人間にまつわる様々な現象の鍵を握っているわけです。

「頭」は、二元論が基礎になっている理性の場ですが、これを仏教の言葉で言うと、分別ということになります。善/悪、正/誤などなど、この分別の働きが人間の文明をつくってくれてきたのですが、しかし、この働きが同時に人間の不幸を生み出す源にもなっているのだということを、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教共通の聖典である「旧約聖書」や、また仏典でも、口を揃えて言っているのです。

旧約聖書・創世記の中の「失楽園」の話では、アダムとイブが神の禁を破って禁断の果実を食べてしまいます。すると途端に、自分たちが男/女の違いがあることに気づき、恥ずかしくなってイチジクの葉で陰部を覆うことにしました。これが羞恥心の始まりというわけです。

一般的に考えて、人間が善悪の判断ができるようになることはむしろ望ましいことなのではないか、それなのに、なぜ神はこれほどまでに厳しく禁じたのか?

「善悪の智慧の実」は、つまり、物事を善/悪に判断する二元論の実であったのです。ですから二人とも同じ人間であったのに、男/女という区別が生まれた。そのために性差の象徴である陰部を覆わざるをえなくなったのです。

それでは、神はなぜ、二元論の獲得を人間に厳しく禁じたのでしょうか。二元論を獲得した後、アダムとイブは神に対して、責任転嫁という悪知恵を使って言い逃れしようとしましたが、これが神の怒りをかってしまいました。

キリスト教において、人間はあらかじめ「原罪」を負っているという考え方がありますが、その「原罪」とは、神の禁を破って「善悪の智慧の実」を食べてしまったことを指します。よくある解釈では「神の禁を破ったこと」に重点を置いたものが多いようですが、私はこの「二元論の獲得」にこそ、人間の「原罪」を見るべきではないかと考えるのです。

~~~ここまで抜粋して引用

「二元論の獲得」こそが「原罪」である。

これはなんか、すごいことです。
「頭」と「心」と「身体」の関係。

そう考えると、近現代は、「頭」が「心」と「身体」を支配しようとしてきた時代なのかもしれません。「宗教」は「科学」へと取って代わられ、そしていま「科学」の価値が揺らいでいます。

その認識を持つこと。

本書はこの後、「科学」と「頭」による支配について言及しています。

「二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・数量化や計量ができるもの・再現可能なもの・必然性の明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を与えない場合しか扱えないという大きな限界があります。しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・質的なもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとってはむしろ重要です。なぜなら、それらの性質とは、「生きているもの」や「大自然」の特性そのものだからです。」

「人間をひとつの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。」「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけど、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。それがうつ状態や幻覚、妄想、そして摂食障害などです。いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の特異な秘書を雇ったのだけど、いつの間にかその秘書が社長を仕切り始めた、そんなイメージです。」

そして、こうまとめます。

本来、人間の中心は「心」=「身体」の方なのだということを「頭」はわきまえる必要があります。「心」=「身体」は「頭」などが及びもつかない深い知恵を備えているものです。しかし、それがあまりにも桁外れに凄い能力であるために、「頭」にはその凄さが分からない。単にきまぐれ、デタラメとしか理解できない。それで「頭」は、「心」=「身体」を劣ったものだと誤解している。その結果「頭」が思い上がってしまって、「心」=「身体」をコントロールすべきものだと考え、このような独裁状態になってしまったのです。」

という感じで引用しまくってしまいましたが、この「頭」と「心」=「身体」の関係は、知っておいたほうがいい話だなと思いました。

教師と生徒の関係にも似ているなと。「心」=「身体」とは、内なる自然である、と出てきます。

木曜日に高知・嶺北で見た瀬戸さんによる「嶺北探究」の授業。
そこには「自然」があった。「心」に耳を傾けていました。

「二元論の獲得」という原罪。
「頭」の限界。「心」=「身体」へのシフト。
これがいま、起こっていることなのではないかと思います。

ますます、ここ200年の近現代社会が特殊の状況にあったのだなあと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:47Comments(0)

2019年11月23日

「授業」や「場」というエコシステム(生態系)

高知県の嶺北地域、本山町に嶺北高校があり、
土佐町にNPO法人SOMAが運営する「あこ」がある。

嶺北高校の探究の授業と
フィールドの見学をさせていただきました。
大辻さん、本当にありがとうございました!

まずは四国の水がめ、早明浦ダム。


からの男子寮の見学


そして、高校で探究の授業を見学


事務所に戻って、説明を伺い、最後に公営塾の雰囲気を見て、帰ってきました。

NPO法人SOMAが展開する
地域の学びの場「あこ」が
本当に子どもから大人までが集っていて
すごい場所だった。

兵庫県の中学から入学した男子生徒は、
「最初に見たときに、ここだ、と思った。ひとめぼれに近いです」
と話してくれた。

その理由が、
大辻さんや瀬戸さんから話をきくたびに、
だんだんとわかってきた。

学びのエコシステム(=生態系)をつくる。

一言でいえば、そういうことなのだろうけど。

一番印象的だったこと。
嶺北探究の作られ方。
この日も直前のぎりぎりまで瀬戸さんは準備していた。

この日の授業は、
・「嶺北高校の魅力化は私の笑顔」→動画をつくる
・シネマトグラフィー。どのように時間を使うのか?
・中学3年生がどんな映像を見せられたら行きたくなるか?
・60秒で動画4シーンで表現する。1シーンずつにタイトル→どこで撮るか?
・絵コンテには忠実に撮る。現場で変えない。

前々回:絵コンテ
前回:動画撮る
今回:実際の動画を見てみる。

前回に撮った動画を見てみて、フィードバックをもらう、という授業。
動画のクオリティとしては、ぜんぜん完成されていない。
それを客観視する。

「観察する」→「デザインする」→「表現する」
このサイクルを回していくこと。

しかし、多くの場合、
「観察する」に重きを置いてしまう、
あるいは、「お手本」を見せてしまう。
最初からクオリティを重視してしまう。

モデルを示すと、その枠を超えていかない、と
瀬戸さんは言っていた。
いちど作ってみて、それを客観的に見ることで、自分たちに気づく。

そして、モチベーションも上がる。

今回、授業後に瀬戸さんのところに来て、
もっと動画編集の時間がほしい、と言ってきた生徒がいた。

これは、マニュアル通りにやって、
そこそこの動画ができていたら起こらないことなのではないか。
もしかしたら授業外にスマホもって、動画を撮りにいくのかもしれない。
自分で動画編集を研究するのかもしれない。

瀬戸さんも言っていた。
絵コンテに集中してた。前回と全然違う。
サブリーダーが生まれた。人数が多く感じた、と。

僕も授業を見ていて、
生徒たちがだんだんと身を乗り出していくのがわかった。

~~~以下メモ

「干渉」ではなく「保護」(見守り)

個人の興味関心を言葉(発言)から拾っていく。
マンガ、ラノベ、検索してあらすじだけを把握する

★そこしか拾えないならこちらが学ぶしかない
★「聞いてあげること」の大切さ

目線を合わせないコミュニケーション
「あなたはそこにいるよね」というメッセージ
「かかわりがある」⇔「促進する」とは違う
コンテンツじゃなくて「環境」(場)

★主語が出る
誰でもいい動画じゃない。自分が出ないと成り立たない。

「この授業の主役って誰?」→あなたですよね?
と毎回聞いている。だんだん浸透していく。

「主語を自分にしていく練習」としてのマンダラート。
できていないことのチェックとリマインドはやらない。
「変化した」⇔「変化させた」

週1時間でいい。主語を自分にしていく。そこから。
「あなたの人生の主役は誰ですか?」と問い続ける。

~~~ここまでメモ

いちばんビックリしたのはリフレクションシートのこと。
リフレクションシートは毎回違うものをつくっているのだという。

前とのつながりを確認したり、次へのつながりを確認したり、
その授業回によってリフレクションの機能が違うのだと。

ああ、この授業はライブなんだと。
いま、この瞬間瞬間に作られていくんだと。

瀬戸さんは
「次に会うときには別の人になっているという前提で授業をする」
それはおそらく瀬戸さんにとっても。

来週の授業に来ている生徒は、今週とはまったく別人なのだ。
その前提で、授業をつくる。ふりかえりをつくる。
ライブ。瞬間瞬間

この授業は、瀬戸さんにしか作れないと思った。
いや、本来はどの授業も、その人にしか作れないんだ。

瀬戸さんが言ってた。
「目の前で変化している人の変化を見逃さずに済む。」

それを見ているんだ。
ひとりひとりの「変化」そのものを。

「新しい学校をつくる」という言い方
→既存の学校を否定することになる。

スタッフとして二項対立で見る人はダメ。AもBもありだと。
環境とマインドセットで人は変わる。

あとは場づくりについてのこの一言。
(子どもたちの意欲を高めるために)
「そこでは、無能な大人を演じるしかなかった。」
これも深い。

「支援」だと思って、大人はつい教えてしまう。
それが子どもの意欲を摘んでいないだろうか。

月刊「社会教育」2019年8月号に、瀬戸さんが紹介されている。

~~~ここから引用

「なんでなんだろう」と誰かが思った時に、「なんでなんだろうね」ってみんなで考えられるかどうか、これが教育機会の確保だと思ってる。

教育の目的が人に置かれることに対する危機感。

ある活動を通してこういう人が育ってほしいというのは非常に危ないと思っていて。だから常に意識・作用点は環境に置く。人は環境から独立して生きていくことはできないし、常に環境依存だから。

エコシステム、すなわち個と環境との関わり合いに注目する仕組みづくりと言える。

ここで重要なことは、エコシステムのアプローチは、あくまで意識・作用の対象を環境に向けるが、そのため相手の存在をしっかりと認めることが必要とされる。

エコシステムのアプローチにおいては、個の存在を圧倒的に意識しながらも、学びのために一歩引くということがなされている。

「土佐町は貧困地域というよりも、本質的な学びができる地域だと思った。」

~~~ここまで引用

エコシステム(=生態系)とそこにいるひとり。

という視点。
個の存在を意識しながら、学びのために環境(場)にアプローチすること。
「承認欲求を満たす」というよりも「あなたを見ていますよ」というメッセージを言語外で伝えていくこと。
そういうかかわり。

授業も、場も、エコシステム(生態系)ではないのか?

そんな深く、重い問い。
再現性なんて、やってみないとわからないけど、誰がやっても同じ結果には絶対にならない。
そして、環境も、そこにいる人ひとりひとりも、常に変化し続けている。
それを感じながら、「学び」をつくっていくこと。「場」をつくっていくこと。

その「場」を見て、感じて。
中学校3年生が直感で「ここにしよう」って決められるような。
「ひとめぼれしました」って言ってもらえるような。

そんな「場」がつくれるか?
にかかっている。

地域外からの受け入れ初年度(H31年度)10名、二年目も10名(R2年度)
の申し込みがすでに来ている嶺北高校。

その魅力を一言では言えないのだけど、
そこにはたしかに「場」があった。

「変化」を見守る大人たちがたくさんいて、圧倒的にあったかくって、
日々、学びの機会があって、毎日、「変化」が楽しみになるような。

そんな「場」がたしかにあった。

さて、こんな場を作ることができるのか、まったく自信はないけれど、
エコシステムというサイクルを、僕らのまちでも、回しにかかろう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:40Comments(0)学び

2019年11月20日

コーディネーターがつなぐのは

6月の地域みらい留学フェスタ@東京でめちゃめちゃ輝いていた
大崎海星高校におじゃましています。



1日目は
コーディネーターの取釜さんに話を聞き、
「みりょくゆうびん局」交流チームのランチミーティングの後、
1年生の大崎上島学「羅針盤学」の授業を見学し、
その後、公営塾「神峰学舎」へ。

公営塾は、夢☆ラボ。
1年生による「興味があるもの発表会」
「興味があるもの」についてプレゼン。
「ビートルズから学ぶ」の彼、面白かったな。

大好きなものがあって、
なぜ、自分は好きなのか?って問うのは
探究の入り口のような気がしたし、
最後にビートルズから学んだことを
自分の言葉で語ってくれた。
「自分は自分、好きなことをして、好きなように生きていい」
いいなあ、そういう入口。

モチベーションのスイッチを押すって
そういう機会の積み重ねなんだなあって。
黒ひげ危機一髪みたいに、
「機会」というナイフを刺しまくっていくことだなあと。

ランチーミーティングの進行をした石井先生もすごかった。

ほかの人の意見を聞きたい
→「それによってあなたはどう変わる?」
おどおどしたくない
→そういう経験があったの?

ひとりひとりのコメントに対して、それを掘り下げる質問力。
すごいなあって。
わずか30分の魔法を見せてもらったようだった。

プロジェクトの説明をしてくれたのは取釜宏行さん。

2011年にUターンして私塾をスタート。
学習支援とキャリア教育の2本柱で取り組む。
この私塾でのキャリア教育がすごかった。

6つの柱で「島キャリ」を行っていて、
生徒が主体となった「やりたいイベント実行委員会」など、
興味深いプログラムが詰まっている。

ここから始まったんだ。

そんな風に思った。
26年から準備して平成27年度に大崎海星高校の魅力化がスタート。

考えられることはすべてやった。
民泊を受け入れている大阪の中学校全校に校長先生と一緒に営業にいった。
東京での説明会を12回行ったが、参加者ゼロの会も数回あった。
寮の整備も予算のない中、様々な可能性を検討し、交渉した。

いま、コーディネーターとしてプロジェクトの設計や
地域の人たちとの橋渡しを行っている。

「関係者には、電話で済む話でも直接会いに行く」
と取釜さんは言っていた。

車に乗せてもらっているあいだも、
郵便局でも、道端でも、
取釜さんは知り合いを見つけては、
自分から話しかけていっていた。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。
はじまりはひとりかもしれない。
でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。
そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、
人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、
熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。

と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

夜明けは近い。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)学び

2019年11月18日

高校生がまちに魔法をかける

高校生による高校説明会@村松高校

村松高校
新津高校
阿賀黎明高校
新津工業高校
新津南高校
五泉高校
の6校がプレゼン。(発表順)


阿賀黎明高校は3番目。
自分たちの書いた原稿で主に行事紹介を行った。

こんな風にすればよかった。は、
・「個別最適化」を伝えるには個にフォーカスしたムービー
・「安心」を伝えるには黎明学舎のお兄さんお姉さん
・「黎明で探究」的な活動紹介、かな。

以下、他校の発表を聞いたりしてのふりかえりメモ

~~~

パターンとしては、
学校の特徴→学校案内(授業、行事など)→部活紹介
が多い。

半分くらいの高校は、
配布資料の各校の「学校案内」読めばわかるでしょ
みたいな説明をしていた。
それは別に高校生がしなくてもいいのではないか。

高校生が説明する意味。
それをもっと考えたほうがいいと思った。

主語は学校なのか?
ひとりひとりの生徒なのか?
でプレゼンは全然違ってくる。

聞きにきてる中学生(3年生だけではなかったようだ)も親も真剣そのものだった。

「就職希望する人はインターンシップとかキャリア教育が充実しているから来い」
「進学を希望する人には特進クラスがあって0限から授業があります」
みたいなターゲットに特化したメッセージも必要。

ある高校は最後に、いじめ対策のことを言ってた。
たしかにそれも心配。
動画で1日の流れを朝から放課後までおいかけた高校もあり。

なぜ今、私は3年間をその高校に投資しなければならないのか?
そこに行くと、自分の子どもは将来幸せになれる可能性は高まるのか?
この2つの問いに答えられるプレゼンを。

進路(進学)の実績を数字で語ることに意味があるのか?
→もっとひとりひとりの生徒にフォーカスしてみてもいいのではないか。

圧巻だったのは、
地域唯一の総合学科を持つ隣町の高校のプレゼン。
もうびっくりした。

まず冒頭から
「進学型総合学科」を名乗り(コンセプトの明確化)、
数英の習熟度別クラスを説明。ここまではよくある。

その次に
1 英語を特に頑張りたい生徒は、週13時間を英語に費やすことができる。
2 工学部を目指している生徒は、週17時間を数学と理科にすることができる。
3 就職を希望する生徒は、資格などに特化してカリキュラムを組むことができる
と3つの事例を紹介。

つまりこれはウチの高校に来ると「個別最適化」できますよ
というメッセージだ。

そのあとに、なんとクイズ。
創立の時代は明治か大正か昭和か?
双方向のコミュニケーションはなかったけど、
観客を楽しませようとしていた。

つまり、この高校のプレゼンテーションは、
「まず楽しくて、がんばれば進学もできますよ」
というメッセージを発していた。

学校紹介プレゼンのあと、
生徒が取り組んだプロジェクトの発表。

隣町はニット生産で有名なまちだが、
「ニットフェス」のイベントに合わせて、
さまざまな企画を立案、実行したプロセスの紹介があった。

ニットを使ったノベルティグッズを自分たちで制作し
イベントをPRする。

高校生プロジェクトとしてフォトコンテストを企画。
ハッシュタグを付けて投稿する方式でフォトコンテストを行った。
来場者は平年の2倍になったという。
アンケートを分析、対策している。

来年はバスツアーを企画。
ニットを完成させる合間に、まちのおいしいランチやスイーツが
食べられる女性向けのツアー。

その集客方法として、フォトコンテスト応募者にDMを送る
とかいうマーケティング方法を披露。
それは純粋にスゲーって思った。
フォトコンテストをインスタ上でやる意味、みたいなの。
あとはプレスリリースをする、とかも言ってた。

ほんと、大学生の経営学部の2年次のゼミのプレゼンかなと思った
PDCAとか、SWOT分析とか、STP設定とか、
誰か先生が教えてるんだろうなっていうマーケティング用語が
随所に出てきたのはかわいかった。
まあでも、「ビジネスごっこ」だとしてもすげーなと。

~~~ここまでメモ

高校生はそんなことまでできるんだ!
っていうのはたしかに思ったし、
会場にいた多くの中学生やその親は、

「個別最適化」してくれて、
「コミュニケーション」しようとする先輩がいて、
「地域の団体・企業と一緒に青天井にチャレンジできる」
っていうのは、伝わったのだろうと。

しかし。
最後のプロジェクトに関して、
ひとつだけ指摘すれば、
これはある程度設定・設計されたプロジェクトだ。

1 誰と
2 いつ
3 どこで
4 なぜ
5 誰のために
6 何を
7 どのように

の中で、4 なぜ の要素は、地域サイドから出てきている。
もちろん地域の課題をジブンゴトにする、という観点からすれば
それはそれでいいのかもしれないけど。

成果の測り方も、数字そのものだ。
来客が何人伸びた、フォトコンテストの参加人数は何人、だ。

もうひとつの別の「価値」があるのではないか?
そして、それを問うことこそ、高校時代に必要なのではないか?

地域課題解決(デザイン)と自らが心から感じた問い(アート)の
真ん中にプロジェクトが作っていけないだろうか?

数値化できる「学校化」された価値ではなくて、
自らが価値だと認識する価値へと向かっていけないだろうか?

「探究」するっていうのは、そういうことなのではないか。

さまざまな「機会」を得ることで「対話」が生まれ、
「実験」したくなる題材が見つかる。
そのサイクルの中で、

「おおお!これは。」
と感嘆符なしでは語れない出来事が生まれる。
あとはその題材を探究・探求していくこと。
たぶんそういうことなのだろうと

百姓3.0
自らの仕事の価値は自らが決める。

そんな人材が育っていくための題材が、
この町にはあふれているのだけど、まだ眠っているだけだ。

今回の学びの最大のところは、
高校生がまちに魔法をかける、ということ。
高校生ががんばっていると、まちの人は応援したくなる。

高校生が編集し、発信すると、
その面白さに、みんながワクワクする。

そんな魔法の中に、
いつしかプロジェクトをやる高校生自身が入ってしまう。

それが、「夢中になる」っていうことなのではないかって思った。
夢中になる瞬間を、もっともっと作っていきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)日記

2019年11月16日

アートとデザインのあいだ

長岡で大正大学浦崎先生の講演があるので電車で移動。
電車内読書はこの本。

学校の「当たり前」をやめた。(工藤勇一 時事通信社)

すごい。
改革がすごいというより、問いを立てる力というか、
常識を疑う力がすごい。

以下、ビビっときた語録

学校という存在自体も手段の一つにすぎず、目的ではありません。

「関心・意欲・態度」は、目に見えない尺度だけに、評価するのが難しいものです。
そのため、宿題の提出量や授業中の挙手回数などをカウントし、それを評価に活用していることは珍しくありません。

そもそも学力をある時点で切り取って評価することに、意味があるのでしょうか。

担任制はなんのためにあるのか?

これまでの学校教育では、「規律」や「団結」が尊ばれ、私自身も、チームが一丸となって何か達成するといったストーリーに感動してきました。

人が社会で生きていくスタイルそのものがアクティブラーニングだからです。

社会でよりよく生きていけるようにするという目的に対し、寺子屋が最適な手段だった

~~~

と、こんな感じ。「そもそも、何のためにあるのか?」
ってすごい根本的な思想だけど。

からの大正大学浦崎先生の講義「地元回帰の人材育成」。



講義のあとのアリバイ作り写真。(笑)
講義に興奮して赤くなってます。
いや、ホントに行ってよかったなと。

事例として出てきた飯野高校。
生徒たちが主体的にガンガンと地域で活動していて、
先生たちは新聞を見てそれを知る、みたいな。

「観光列車を走らせたい」って思ったら
本当に実現させてしまう先輩を見て、後輩は奮起する、みたいな。

恋愛のように、夢中になる地域での活動。
たしかに、部活や遊び、恋愛を超えるワクワクは
地域で作れると僕も思う。

~~~以下メモ

なぜ「地域で探究」なのか?
社会に出たときに求められる力:よりよい提案・アイデア・プランを生み出す力
=仮説:AをするとBという結果が出るはずだ
仮説が正しければ結果を出せるが、仮説が間違っていれば結果は出せない。
⇒より正しい仮説を生み出す力」が必要

1 思いつきレベルの提案:実効性なし
2 妥当性がある提案:仮説(前提条件)の吟味を行う⇒実効性あり
情報収集・整理分析・まとめ・表現
3 実践して仮説を検証:解決プランの実践⇒解決プランの修正
⇒現場(地域)での実践が必要

これからの新卒採用

・社会人基礎力と学歴(偏差値)は相関しない(高校卒業時までに決まる)
・社会人基礎力は出身高校による差が大きい
・社会人基礎力を育成する力の高い高校の卒業者を採用したほうがいい

地域が稼ぐ力/地域で稼ぐ力
→仮説形成能力がつく:地域が検証の現場になる
地元企業が採用したい若者像
→地域と豊かに関わってきた高校生が有望
・元気で提案力がある
・人柄や能力を熟知している
・幅広い年齢層と関われる
地元に回帰する可能性
→大人との一体感がカギ
採用の視点が激変する可能性
→高校に焦点、地域連携に誠実なほど有利

Society5.0
狩猟→農業→工業→情報→AI

人間には容易だがAIには困難なこと
1 現場で「感じる」こと
2 問いを立てること
3 意味を味わうこと
→探究(自問自答)によって

・課題発見(問い)には、現場(地域)で感じることが必要
・感性には個性→探究テーマは高い個別性

習得すべき知識量も以前よりさらに増加
→「与えた知識しか頭に入らない」:指示待ち人間を量産
→「放っておいても自ら吸収する力」が必要:探究する態度・能力の育成

Society5.0
人間にしかできないこと「探究」
Society4.0
「知識」は瞬時に賞味期限切れになる
・「知恵を生み出す」力が必要
・「三人寄れば文殊の知恵」
・「徹底的に個性を伸ばす」ことが必要

「対話」の重要性(三人寄れば文殊の知恵)
主体的・対話的で深い学び
お互い思い切りとがっているほうがよいものがでる。

若者が帰属意識を持つ集団・場所
1 親近感・一体感をもてる人がいる
2 自分をそこで表現できた
3 自分がそこで成長できた
若者は自分に無関心な地域には戻ってこない。
信頼を寄せる大人から誘われれば喜んで参加し、一緒に挑戦し、表現・成長できる。

Society5.0時代の教育
一人ひとりの感性・興味関心に応じた探究。
公正に「個別最適化」された学びが必要。

「個別最適化」された学び:問いに当事者性がある
地域課題解決(地域素材×探究能力)
その真ん中にふるさと教育(担い手育成)をつくっていく。

1 何を理解しているか、何ができるか
2 理解していること・できることをどう使うか
3 どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか

高校生が地域の多様な大人とともに、地域の課題発見・解決にあたる
⇒関わり合いを通して、大人も地域も揃って変容する。

行政プロセスと学校のプロセス:
「教授」から「探究」へ。

「教授」:一方向、正解を持っている
・対話性が乏しく全体最適案・深い理解ができない
・委員(生徒)の当事者性や創造性は高まらない

「探究」:委員(生徒)からの問いを誘発する
・自分たちで考える
・対話性が高く、納得感の高い解に至る
・委員(生徒)の当事者性や創造性が高まる。

~~~以上メモ

「地域の課題解決」と「問いの当事者性」の真ん中に
探究をつくっていくこと。
ここは非常にその通りだと思った。

僕は少し表現が違う。
アートとデザインのあいだ。
「課題解決」って、むずかしいし、マイナスをプラスにするようなエネルギーが必要

だから「デザイン」なんだ。
縦割り社会で予算が削られていたら、
課題をそれぞれ単独で解決することはさらに難しい。

「まちの保育園」で、高齢の方が幼児の見守りをする、など。
課題と課題を組み合わせると、一方の課題は一方に対して資源だったりする。
そういうことだ。

もうひとつは「アート」、自分の当事者性のある課題、テーマ。
「表現したいこと」に出会うこと。

それには、地域が必要。
「お客に出会うこと」が必要なのだと思う。
「この人のために頑張りたい」と思える何か。

デザインは社会を出発点にして、アートは主観を出発点にしている。
そのあいだ。そこに探究テーマをもってくること。

なんか、見えてきたよ、なんとなく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)日記

2019年11月11日

ガーデニングでスープカレーをつくる



昨日は教育ドキュメンタリー映画「Most Likely To Succeed」
の上映会でした。(眞也さん、写真もらいました!)

映画についてはこちらから。
http://www.futureedu.tokyo/education-news-blog/2016/6/8/most-likely-to-succeed-

僕のメモ。


一番印象的だったのは、
「教育はガーデニングに似ている。」
というもの。

それ!
と思った。
しかもそれは、あらかじめ何の種だかわからないんだ。

それを畑に蒔く。
日照りが続けば水をやらなければならない。
風向きが変わり、大雨が降るかもしれない。
時にカラスやタヌキが襲ってくるかもしれない。

隣に何の種を植えればいいのか?
肥料をどのくらいやればいいのか?
それは、1回1回の試行によって変わる。

それなのに、いままでは、
子どもたちは、トウモロコシの種だと信じ込まされ、
市場に出荷されるためには、色と形を均一になるように
施肥管理され、まわりと同じトウモロコシになることを強いられてきた。

ところが市場は、もう、トウモロコシばかり要らないという。
トルティーヤだけでは、食の世界にイノベーションが起こせないのだと。
もっと多様なメニューを開発し、新しいものを生み出し続けなければいけないのだと。
世界を驚かせないといけないのだと。

そもそも、みんなトウモロコシじゃなかったはずだ。

2003年、シングルカットされたSMAPの「世界にひとつだけの花」と
「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)が発売された。
http://hero.niiblo.jp/e185845.html
オンリーワンとキャリア・デザイン(12.7.23)

槙原敬之はこう描いた。
~~~
そうさ 僕らも
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい
もともと特別な Only one
~~~

この種は決して1つではないのだろうと思う。
ひとりひとりが、別々の種を複数個、いや、30,40、300,400持っているはずだ。
その中で出現しているのがそのいくつかであるだけだと思う。

今年の6月に、
柏崎変態ツアーで感じた、「人間はもっと柔らかい」のではないか、という仮説。
http://hero.niiblo.jp/e489377.html
(人間はもっと柔らかい 19.6.2)

そう。
環境によって、一緒にいる相手によって、変化しうる存在であるのだと。

映画の後の対話会で「ガーデニング」という言葉について深めることができた。

これからやっていくことは?
と問われ、それは「庭づくり」だと思った。

その種が、何の種なのか、わからないのだ。
だから、まず、植えてみるしかない。
それが「プロジェクト」という小さな庭なのだと思った。

土壌によって、気象環境によって、また一緒に育つ相手によって、
その庭の出来は決まってくるし、
自分自身がどんな花を咲かせるのか、
また、咲かせようとワクワクするのか?が決まってくる。

みんなでいい庭をつくろうと、チームビルディングをする。

そんな庭をたくさん作ること、なのではないか。
そして、その子がどんな種を持っているのか、興味深く見守ること、なのではないか。
そしてそれを自らも庭の一部としてデザインすること、なのではないか。

これからやることは、「庭づくり」。

全員にキレイだねとは言ってもらえないかもしれないが
野菜も花も、皆それぞれが咲き誇っている庭を見ながら、
その庭で取れた野菜のたくさん載ったスープカレーを食べたいなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:42Comments(0)学び

2019年11月09日

あなたは何芸人なのか?

ギャップ萌え人材。
みんなが〇〇芸人になったほうがいい時代。

生きづらさの本質は、
世の中がひとつの価値観で支配されてしまったからだと思う。
上野千鶴子さんの言う「学校化社会」である。

「近代」という「旧パラダイム」(17.4.30)
http://hero.niiblo.jp/e484636.html

上野さんは言う。

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

偏差値の呪縛から自分を解放し、自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる。私からのメッセージはこれに尽きるでしょう。

それだよな、と。

そして、坂口恭平さんは「独立国家のつくり方」の中で、
「放課後社会」を定義する。

自由とはタテの世界を行き来すること(13.1.19)
http://hero.niiblo.jp/e229119.html

この本の中で例えられているのは、「学校社会」と「放課後社会」というふたつの世界(レイヤー)

学校社会の中での評価基準は「勉強ができる」が最高で、「スポーツができる」だったり「音楽ができる」という評価ポイントがある。それは学校の先生によって測られる。

放課後社会は、もっと自由だ。人が2人以上集まったら、そこに放課後社会が形成され、そこには独自の価値観がある。

この本の中には放課後の土井くんという工作のものすごい得意な子が出てきて、それは放課後社会で著者の圧倒的リスペクトを受けていた。しかし彼の学校社会での評価はあまり高くはなかった。

坂口さんは言う。
放課後社会は無数にあり、しかもそれは匿名化されていないリアルな世界だ。

~~~ここまでブログから引用

そう。
「放課後社会」を自らつくっていくこと。それが必要なのだと思う。
「勉強」でも「部活」でもない、第3の道。いや、第3の道は無数にあるのだけど。
それは、たぶん、ひとりひとりが生きるために必要なのだ。
その第3の道を探究していく方法のひとつが大学進学なのだと僕は思う。
それに気づくこと。

今日は、橘玲さんの「人生は攻略できる」から、なぜそれが必要なのか考えたいと思う。


~~~以下メモ

働き方には大きく3つある。クリエイター、スペシャリスト、バックオフィスだ。

クリエイター:「クリエイティブ(創造的)」な仕事をする人
スペシャリスト:「スペシャル(専門)」を持っている人
バックオフィス:事務系の仕事

クリエイター、スペシャリスト、バックオフィスの1番の違いは、会社に属しているか、属していないか。
クリエイターは会社員ではない。バックオフィスは、全員がどこかの組織に属している。
スペシャリストはこの中間で、組織に属さずに仕事をするひともいれば、どこかの組織に属している人もいる。

組織に属していないクリエイターとスペシャリストは、「フリーエージェント」とか「インディペンデント・ワーカー」と呼ばれる。

「外資系」の企業では組織の中でスペシャリストとバックオフィスがはっきりと分かれている。
それに対して日本の企業ではバックオフィスの仕事は主に非正規という「身分」の労働者が行っているが、
正規の「身分」正社員のなかにもバックオフィスの仕事をしている人がいて渾然一体となっている。
「同一労働同一賃金」とは、正社員と非正規社員の身分差別をなくし、雇用形態にかかわらず同じ仕事なら同じ待遇にすることだ。

【「拡張可能な仕事」と「拡張できない仕事」】

映画はクリエイター、演劇はスペシャリストの世界だ。これは、その仕事が「拡張」できるかどうかで決まる。

映画は複製可能だから、さまざまなメディアによって世界中に広がっていく。
しかし、バックオフィスは時給計算の仕事だから、収入は時給と労働時間で決まり拡張性はまったくない。
時給1000円の仕事を8時間やれば8000円で、それ以上にもそれ以下にもならない。

演劇はたしかにクリエイティブな仕事だけど、その収入は
劇場の規模、料金、公演回数によって決まる。
大評判になれば連日満員だろうが、それ以上は利益が増えないから
富を拡張するには広い劇場に移るか、公演回数を増やすしかない。
このように考えると医師や弁護士、会計士などの仕事も拡張性がない。

クリエイティブな仕事をしていても、クリエイターは拡張可能で、スペシャリストは拡張不可能だ。

クリエイターとスペシャリストを合わせて「クリエイティブクラス」として、
バックオフィスは仕事の手順がマニュアル化されているからクリエイティブなものはほとんどない。
いちばんの特徴は「責任がない」ことだ。スペシャリストは時給も高いが責任も大きい。
もうひとつの特徴はマニュアル通りに仕事ができさえすれば、高齢者や障がい者でも、外国人でも、
働き手は誰でもかまわないことだ。バックオフィスの会社は、社会から差別され排除されているひとに
仕事を提供するというとても大事な役割を果たしている。

機械は、マニュアル化された仕事がとても得意だ。
18世紀までは糸を編んで布をつくる作業は人間にしかできなかったが、1779年にイギリスの発明家が紡績機をつくって機械化に成功した。それ以来、科学技術はさまざまな作業をマニュアル化してきて、もちろんAIもその延長上にある。
だからこそ、バックオフィスの仕事は雲行きはだいぶあやしい。

ただし、時給で給与が払われる仕事の中にもAIでは代替できないものがある。代表的なのは看護や介護などの仕事で、そこでは患者や顧客への共感力が重要になる。共感力については男性より女性のほうが高いことがさまざまな研究で明らかになっている。アメリカでは男性と徐英の平均収入が逆転してしまった。

【「サラリーマン」は日本にしかいない絶滅危惧種】

仕事と会社が一致しているのはバックオフィスだけ。
海外ではすべてのスペシャリストが「自分はなにを専門ンししているのか」を真っ先に伝える。
「サラリーマン」は会社と一体化したスペシャリストだが、このような働き方は海外ではかなり前になくなっている。

【伽藍とバザール】

伽藍というのは、お寺のお堂とか協会の聖堂のように、壁に囲まれた閉鎖的な場所
それに対してバザールは誰でも自由に商品を売り買いできる開放的な空間をいう。
そして伽藍かバザールかによって、同じひとでも行動の仕方が変わる。

バザールの特徴は、参入も退出も自由なことだ。商売に失敗して、「なんだあいつ口ばっかでぜんぜんダメじゃないか」といわれたら、さっさと店を畳んで別の場所で出直せばいい。その代わりバザールには誰でも商売を始められるわけだから、ライバルはものすごく多い。ふつうに商品を売っているだけではどんどんジリ貧になるばかりだ。これがゲームの基本ルールだとすると、どういう戦略がいちばん有効だろうか?

それは「失敗を恐れず、ライバルに差をつけようとするような大胆なことに挑戦して、一発当てる」だ。もちろん運よく成功するよりも挑戦に失敗することのほうがずっと多いだろう。でもそんなことを気にする必要はない。バザールでは、悪評はいつでもリセットできるのだから。

これを言い換えると、バザールの必勝戦略は「よい評判をたくさん集めること」になる。だからこれを「ポジティブゲーム」と呼ぼう。

これに対して伽藍の特徴は、参入が制限されていて、よほどのことがないと退出できないことだ。このような閉鎖空間だとちょっとした悪口が消えないままずっとつづくことになる。

その代わり、新しいライバルが現れることはないのだから、競争率はものすごく低い。どこにでもある商品をふつうに売っているだけで、とりあえずお客さんが来て商売が成り立つ。

これがゲームの基本ルールだとすると、どういう戦略が最適だろうか。それは、「失敗するようなリスクを取らず、目立つことは一切しない」だ。なぜなら、いちどついた悪い評判は二度と消えないのだから。

このように伽藍の必勝戦略は「悪い評判(失敗)」をできるだけなくすことになる。こちらは「ネガティブゲーム」だ。

ここで強調しておきたいのは、ポジティブになるかネガティブになるかは、そのひとの個性とはまったく関係ないということだ。ふだんはポジティブなひとでも、伽藍に放り込まれればネガティブゲームをするようになる。同様にいつもはネガティブな人も、バザールではポジティブになる。なぜならそれが、生き延びるための唯一の方法だから。

伽藍の世界の典型は学校だ。1年生のときについた悪い評判は、よほどのことがないかぎり学年が変わってもついてまわる。
いじめへの対処が難しいのは、生徒たちが伽藍のなかでネガティブゲームをしているからだ。
日本社会ではいたるところで伽藍ができていく。そして日本人は伽藍でのふるまい方(ネガティブゲーム)がとても上手だ。

~~~ここまで引用

なるほど。
めちゃめちゃ鋭い。

いろいろ考えることがあるのだけど
今日は大学入試というバザールについて。

大学入試そのものがバザールになった。
推薦・AO入試という巨大な市場において、自分という商品の魅力をアピールしなければいけなくなった。

就職活動も同じだ。
学生、企業が双方とも自らの魅力を語り、ビジョンを共有し、入社できれば幸せだ。
ところが、高校も大学も、伽藍の世界だ。
そこではネガティブゲームがいまだに展開されている。

世界は必然的な流れとしてバザールに向かっている。
それはグローバル競争社会と呼ばれているのかもしれない。

自らがスペシャリスト、クリエイティブクラスになるために、
バザールに対応した戦略、つまり「ポジティブゲーム」、つまり

「失敗を恐れず、ライバルに差をつけようとするような大胆なことに挑戦して、一発当てる」

だから、人が目をつけていないところを見つけ、ひたすらに掘っていくこと。
それが〇〇芸人への道だ。

それが、大学の研究分野にマッチしていたり、
研究分野でがんばれそうだとなったら、
大学はあなたという人に入学してほしいと思うだろう。

それがバザールとしての大学入試対策になるだろう。
さて、高校生のみんな、「ギャップ萌え」を探しにいこうか。

ギャップの種は、地域にめちゃめちゃ転がっているぜ。
たぶんだけど。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)日記

2019年11月08日

「ギャップ萌え人材」の育成

11月4-5日
「黎明学舎」&阿賀町の面白い人に会うツアーでした。

スケジュールはこんな感じ。

4日
9:00~10:30 くるみ洗い




10:30~13:00 フリートーク&きのこ園ランチ


14:00~15:00 ぎんなん拾い


15:00~17:30 「黎明学舎」公開ミーティング


17:30~19:30 買い出し、津川温泉
20:00~22:00 交流会

5日
9:00~10:00 昨日の振り返り
10:00~12:00 目黒農園見学


参加いただいたみなさん、たいへんありがとうございました。
公開ミーティングでは、たくさんの気づきがありました。

11月3日に長岡の正徳館高校フェスティバルにお邪魔して、
杉崎さんプロデュースのかき氷をいただいて、






ふたば未来学園高校のコーディネーター長谷川さんの講演
これもタイミングがよかった。小林先生ありがとうございます。

~~~以下講演メモ

なぜ高校と地域は協働しないといけないのか?
「地域」:担い手をつくるため
「教育」:子どもの自立のため
子どもが未来(自分と地域)のつくり手となるために必要な資質・能力という目標を共有する。

「ヒューマンライブラリー」という対話の場。

「背負う」ことが原動力になっているとは思うけど、そこまで背負わなくてもいいのではないか、ってちょっと思った。「地域のためにあるあなた」というアイデンティティ構築はだんだんつらくなる。「役に立たないといけない」みたいになるから。

かかわり過ぎず、放置しすぎない。

1 机上に留まらない生徒の資質・能力の向上
2 地域に愛着を持ち、社会への参画意識が高まる。

総合的探究の時間。
「高等学校では、生徒自身が自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し、解決していくことが期待されている。」(文部科学省)
自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見する。
これ、すごい言葉だなと。地域課題じゃなくて、生徒が中心なんだよね。

管理栄養士になりたい
→スーパーでおばあちゃんが惣菜をたくさん買ってた
→高齢者向け料理教室をやったらどうか
→もっと言えば野菜作りを一緒にやるのはどうか
→畑をつくってそこに人を呼んだらどうか
→チラシをつくって告知
→参加者ゼロだった

うまくいかない!!
みたいな出発点。
机上では想像できない提案と実践の壁。

プロジェクト学習にとって最も必要なのは真正性、つまりリアル。
「地域」はまさに「リアル」そのもの。
生徒の学びを中心に探究を設計する。
地域課題解決、地域活性化は目的ではなく結果。

「コンソーシアムをつくる」っていうのが目的になるのではなくて、機能を限定して、「価値」を共有していくことを重ねていくことが大切だと思う。
まずは「探究」サポーター的な横断的集まりから始めていったらいいと思う。

「探究」:深く考えて物事の真相・在り方などを明らかにすること
まわりの大人こそがやらないといけない。

生徒が変わる体験をつくり、それを見せる。
地域の人の「出番」をつくること。
ここで力を借りたいと設定すること。

徹底して生徒にフォーカスすることで、結果地域のためになると思う。

~~~ここまで講演メモ

そして、11月5日の公開ミーティング。
10月25日の「学校3.0」でもらったカタリバの説明資料が
非常にわかりやすかったので、それを参考に
黎明学舎のミッションについて考えるワークをした。

自己紹介→それぞれ「背景」について話す→キーワード出し
→ミッションについて話す。

みたいな感じだったかな。
アドリブだったけどうまく流れた。

~~~ここからミーティングメモ

小田切先生の言う「誇りの空洞化」と同時に、アイデンティティの空洞化が起こっていたのかもしれない。

アイデンティティを「仕事」というか職業に求めなければいけないつらさ。
それをキャリア教育は助長していないか?

「キャリアを自分で切り拓く」とは、価値の決定権を自らが持つこと、なのではないか。
「よいチーム」とは、価値をその都度みんなで設定・設計しているチームなのではないか?

石川くんの「充実感がある。くるみは嘘つかない」っていう発言もよかった。
くるみという圧倒的なリアル。

自ら価値を設定し、それを実感できる機会をつくり出すこと。
一言で言えば「この町で遊べること」
「ふるさと創りびと」とは、そういう人。

「高校生を応援するプロジェクト」と「まちの当事者(プレイヤー)を増やすプロジェクト」は同時に起こる。
同時に起こるというか、高校生という題材を追いかけることで、まちの当事者が増えていく。

「かかわりしろ」を増やす、とか、地域内でも、関係人口的なアプローチが有効なのかもしれない。
・労力を出す
・道具を出す
・お金を出す
・情報を出す(アイデア、人を紹介)
みたいなメニューの設定。

「手伝いたいのだけど?」
「はい、こんなメニューがあります」
みたいな。

気がついたら、当事者(まちのプレイヤー)になっている。
そんなデザインをつくろうよ。
まちづくり会議の目的は何か?って言われたら、まちの当事者(プレイヤー)を増やすこと、なのだけど、
まちの当事者を増やすのが目的だとしたら、まちづくり会議よりも、高校生の探究のサポートをしてもらったほうがいいのかもしれない。

アイデンティティ(自分らしさ)の危機と、ふるさとの危機(誇りの空洞化)は、同時に起こっていたんだ。
「まちを何とかしよう。」と並行して、ひとを育てること。
いや、ひとを育てることを繰り返して、結果、「まち」がつくられる。

高校生の生きづらさは、「部活」と「勉強」の価値軸しか与えられていないこと。
しかもそれは他者からの評価という量的な指標によって決まる。
価値軸の選択肢を増やし、そういう大人に出会い、リアルを体験・体感すること。

「ふるさと創りびと」の結果、自分の価値軸を自分で掴み取っていけること。
無数の「放課後社会」をつくるんだ。ね、坂口恭平さん。

どうワクワクをつくるのか?

田舎こそ、価値軸、つまり「放課後社会」がたくさんある。しかもそれが「リアル」なものとしてあるから体感できる。

「部活」と「勉強」という価値が一元化された「学校社会」の息苦しさを開放していくフィールドをまちにつくっていく。
変動する「価値」をその都度とらえながら歩いていく。

~~~ここまでミーティングメモ

「ふるさと創りびと」というコンセプトは8月に決まったものだけど、
そこに至る背景とその先にあるビジョンを考える時間。

「勉強」と「部活」という価値観。
数値化され、序列化される価値。
そこにはやはり、「効率化」という工業社会の要請があった。

そもそも学校は
「最小の労力で、(工場労働者として)一人前の人材を育てる」
という「効率化」というコンセプトで始まった。

おそらくは社会全体が「効率化」という価値観を信じた。

http://hero.niiblo.jp/e489486.html
なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)

このブログに引用した本に書いてあるように、
「効率化」の名のもとに「教養」は死んだ。

しかし。工業社会はもう終わってしまったのだ。
いや、終わってはいないのだけど、少なくとも国民のほとんどが製造業に就職して、マイホームを買えて、老後も安泰っていう時代は終わった。

僕たちは生まれた時から、そういう時代を生きてきたから、
信じられないかもしれないけども・・・

「効率化」とは、「価値の一元化」そしてそれによる「序列化」のこと。
数値化し、量的に見るということ。その前提が崩れ去っている。
価値は常に流動し、しかもそれは同じモノサシでは測れない。
そのほうがよっぽどリアルで、量的な指標しかない社会のほうがパロディに思えてくる。

誰かが設定した価値に対して、量的に反応して一喜一憂するのではなく、
自らが価値を設定し、それを分かち合える仲間とチームを組み、
その価値に共感してくれる人に商品やサービスを届ける。
それを作っていかなくてはいけない。

そこで「ふるさと創りびと」なのだけど、
自ら価値を生んでいくためにまちの資源を題材にして創造的行為に没頭すると、
そこがふるさとになっていくこと。
そんな学びができる学校を、地域をつくっていきたいと思った。

それは高校生だけじゃなく、そこに住んでいる人たちも同じく必要なことなのだ。
「誇りの空洞化」は「自分らしさの空洞化」でもあった。

そんな話を振り返っていて、
高知大学2年の檜山さんを送りながら
車の中で思いついたキーワード。

「ギャップ萌え人材」

ああ、ありかもと思った。
いま、テレビに出てる人たち。
〇〇芸人。

それって、〇〇を探究した「探究芸人」なのではないか。
それを「芸人」と掛け合わせることによって、「個性」を生んでいるのではないか。

そして芸人イメージとのギャップがあればあるほど人はそれを面白いと思う。
エンターテイメントの本質は予測不可能性だから。

少女漫画の定番みたいな、
普段は不良なのに、捨て犬に給食の残りをあげたりしていると、
そういう人を人は面白いと思うし、恋に落ちてしまう。

ギャップ萌え人材。

これ、高校生向けには使っていけそうです。
探究する人はギャップ萌えを手に入れやすい。
それって人生戦略的にはアリだよな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)言葉

2019年11月01日

伽藍を捨ててバザールに向かえ


「人生は攻略できる~君たちはこれからどう生きるか?」(橘玲 ポプラ社)

橘さんの本の面白さは、いかにも自己啓発っぽいタイトルなのに、
本人はこの世から自己啓発書を消滅させたいと思っていること。

僕が最初にファンになったのは、
「残酷な世界を生き延びるたったひとつの方法」(幻冬舎文庫)を読んだとき。
http://hero.niiblo.jp/e485390.html
参考:政治空間と貨幣空間のあいだ(17.7.20)

これでもかっていうくらい、エビデンスをもとに、
あなたは変われない、「やればできる」なんて嘘だ
っていうのを説いてくる。もはや絶望しかない。
まあ、この本はラストにめちゃめちゃ救いがあるのだけどね。
それは読んでからのお楽しみ。

今回の「人生は攻略できる」は
中学生でも読めるように平易な文章で書かれている。
学校図書館に入れるべき1冊。

さて。
今回もエッセンスのメモを書き起こします。

~~~ここから引用

好きなことの見つけ方
1 キャラに合った自分らしい生き方をする
2 トライ&エラーを繰り返す

知性とビッグファイブ
「知性」「経験への開放性」「堅実性」「外向性」「同調性」「安定性」

「圧倒的な努力」ができるのは好きなことだけ。

「やればできる」ではなく「やってもできない」を前提として人生ゲームの攻略法を考えるべきだ。

最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。

君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。

ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。

トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。

会社は社員が幸福になるためのただの道具だ。

大事なのは「きらきら」のキャリアをつくることではなく、相手が納得する魅力的な「物語」を持つことだ。

だったらなぜ、これほどまでみんなが不動産を所有したがるのか?いちばんの理由は、農耕社会では土地を所有していないと生き延びられなかったからだろう。

「土地を失うことは死ぬことだ」というルールで何千年もやっていると、「土地なんかなくてもなんの不都合もない」という新しい時代に対応できなくて、使い古しの神話にしがみついてしまうのだ。

ウマい話は、君のところにはぜったいこない。ほんとうにウマい話なら、自分で投資するに決まっているから。だから、ウマい話はすべて無視すればいいのだ。

~~~ここまで引用

リアルだ。
やっぱリアル。そして言語化能力がすごい。
その通りすぎる。

そして本書は、働くこと、働き方についての核心に迫っていく。

~~~ここから引用

働き方には大きく3つある。クリエイター、スペシャリスト、バックオフィスだ。

拡張可能な仕事と拡張できない仕事。

将来の夢や、やりたいことを職業名で答えさせるっていうのは、スペシャリストの養成っていうメッセージになっている、ってことかな。
それではクリエイターは生まれないのかも。

「共感力」が必要とされる仕事はロボットに置き換えられにくい。

仕事と会社が一体化しているのはバックオフィスだけだから。
それに対してスペシャリストは、自分の専門が職業だと思っている。

「伽藍」と「バザール」。
「バザール」の攻略戦略は、「失敗を恐れずに、ライバルに差をつけるような大胆なことに挑戦して、一発当てる」だ。
「伽藍」の攻略戦略は、「失敗するようなリスクを取らず、目立つことは一切しない」だ。

だから、伽藍を捨ててバザールに向かわないといけないし、スペシャリストを目指さないといけない。

シリコンバレーでは大失敗すると投資家から高く評価されて、より大きなチャンスがめぐってきたりする。なぜなら、能力のない人間には大きな失敗などできないから。

伽藍とバザールではゲームのルールが正反対なのだ。ネガティブゲームを抜け出し、ポジティブゲームに徹せよ。そういう風に言われないとさ、単に失敗を恐れずにチャレンジしろって言われてもチャレンジできないけど、バザールに向かうのだから新しいことやってみろって言われたほうが納得するよね。

~~~

働き方の3分類もうなったけど、
やっぱり一番は伽藍とバザールの話だ。

インターネットは伽藍の壁を破壊しつつある。
「伽藍(がらん)」とは、寺院にある門のように、外界と遮断する壁の内部のことだ。
かつて会社は、そして地方は、さらには地域社会は、伽藍の中にあった。

そこでのゲームのルールは、橘さんのいうように「ネガティブゲーム」だ。
「失敗をするようなリスクを取らず、目立つことは一切しないこと」
失敗すれば、不義理をすれば、そのネガティブな評判は一生ついてまわる。

その壁は、破壊されたのだ。
あるいは、破壊されつつあるのだ。
世界はバザールに向かっている。

バザールとはオープンな市場だ。
誰かが珍しい良いものを売れば、それが評判を生んで儲かっていく。
粗悪品は評判によって淘汰されていく。
よいものはよいフィードバックがなされ、評判資本が増える。
たぶん、そんな社会へと変化しつつあるんだ。

そんなときに、「高校」と「地域」っていう文脈では、何をすればいいのか?
バザールな社会を生きていくことになる高校生にとっての価値はいったい何なのか?

自ら題材に出会い、探究し、自分なりの価値を見つけていくこと。
それだろう。
「百姓3.0」は自ら価値を決められる人、そして価値を生み出せる人をつくるっていうコンセプトだ。

その価値に共感してくれる人が
世界という大きなバザールにいるのかもしれない。
そこに届けるための方法を考えること。
それを「探究」できる場。

昨日、友人と話していて、
「高校生」が「地域」で「探究」に対する、
高校生自身が感じる「違和感」について話をしていた。

で、タイムリーな10月30日のこれ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/endotsukasa/20191030-00148864/
まちづくりは「クソダセェからやりたくない」とのこと
リアルだなあ、と。
「高校生」が「地域」で「探究」もこれに陥りやすいのではないかなあと。

「高校生」が「地域」で「探究」。
その時の題材は「地域課題」であることが多い。
あるいは地域課題をベースに「SDGs」まで考えちゃったりしてるかもしれない。

それ、つまんねーなって。
何がつまらないのか。

「ベクトル」が一緒なんだ。
「地域の課題解決」みたいなベクトルが。
しかも、それを一元化された価値で評価されてしまう。
(それが「ルーブリック」評価だとしても一元化されていることには変わらない)

わー、それつまんねえなって。
学校っていう「伽藍」の中で踊らされているのに関しては
これまでとなんら変わらないじゃないかと。

そんなときに出てきたコンセプト
(株)グランドレベルの田中さんの「補助線」の話
https://blog.kitchhike.com/makanai-interview-tanakamotoko/
素人力を引き出す「補助線」っていうキーワード。

そう、それ!
そこにあるのかもしれない。

大切なことは「地域の課題解決」なんかじゃなくて、高校生ひとりひとりのスピリチュアルが「これだよ!」って思える題材に出会えること。
課題解決は目的ではなく結果だし、単なる機会にすぎない。
それを「伴走」ではなく、「伴奏」するようなかかわり。
それが田中さんのいう補助線をひく、ということなのかもしれない。

高校生に伝えたいこと。

与えられても与えられていなくても「機会」の中で自らの「違和感」をキャッチし、
それを深めていく中で「これだ!」って思える題材に出会い、
好奇心を原動力に深めていくことによって、「価値」に出会うこと。

思えば、僕は、大学時代にそんな探究をしていた。
地球環境問題の深刻さにかかわらず、エコバックを持ちましょうなどという
小手先の対策しかしていない現実に大きな違和感があった。
個人が幸せになるってどういうことなのか?そんな問いがあった。

たまたま僕は「畑で野菜を育てる」っていうところに深く感動し、
それを手段に環境問題へアプローチしてみようと思った。
現在も毎週日曜日朝、畑作業のあと朝ごはんを食べる活動
「まきどき村」の始まりはそんな「探究」から始まっていた。

その場所は、僕にとって「ふるさと」になった。
いまでもそこに足を踏み入れるとホッとする。

バザールを生きていく高校生へ

地域課題をこちらで設定するのではなく、
「機会」をともに味わいながら、補助線を引き、
さまざまなベクトルに探究が始まっていくような、

そんな活動をしていくこと。
そんな現場を僕は見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 09:12Comments(0)思い