2024年07月14日
「利他」という「自由」へ至る道

『利他・ケア・傷の倫理学-「私」を生き直すための哲学』(近内悠太 晶文社)
昨日につづき、この本から。
第2章 利他とケア
冒頭は経済学者宇沢弘文の『自動車の社会的費用』(1974)から。
~~~
自動車の維持費は、ガソリン代・保険代などの私的費用の他に年間200万程の費用がかかると宇沢は試算しました。ちなみに運輸省試算は交通設備や警察の費用を含めて年間7万円、自動車工業会は7千円ほど、野村総合研究所はさらに大気汚染などの公害の費用も盛り込み、約18万円としました。
これらに対して宇沢の200万はあまりにも大きい。なぜか。
それは宇沢以外の三つの試算はいずれも、失われたものを「金銭的価値」に置き換えるという方法によって算出していました。たとえば「ホフマン方式」と呼ばれるものは、ある人が交通事故で死亡した場合、その損失を「仮にその人が生きていたとしたら得たであろう所得」という基準に基づき算出する方法です。
宇沢の指摘はこうです。
現行の試算の前提は、「ある人間の存在価値は、その主体の生産性すなわち生み出す金銭的価値によって規定される」というものであり、その前提は到底、人間的なものではない。そして、もしこの価値観を一度採用してしまえば、『人間存在は金銭に還元可能であり、損失を金銭によって補填することができる」という主張が帰結してしまう。
失われたものを金銭的な価値に還元せずに宇沢はどうやって試算したのか。答えはこうです。
どのような都市環境や道路の構造であれば、そもそも事故が発生せず、人命がおびやかされずにすむかという視点から計算したのです。たとえば仮に車道を両側4メートルずつ広げ、歩道と車道を並木によって分離したりなどの投資を行った場合、どのくらいのコストが発生するか。つまり、市民の基本的権利を侵害しないような道路を作るにはどれほどのコストがかかるのか、という観点に基づき試算したのです。これは発想の根本的な転換でした。
人命や健康が損なわれた、それは一体いくらのコストなのか?という前提を宇沢は拒否します。なぜなら、それはもはや「回復することのできない価値」だからです。
宇沢の倫理観はホフマン方式という既存のシステムの中で常識的なものとされていた算出方法を認めなかった。そんな倫理が宇沢に車1台あたり年間200万という額を導かせたのです。そして、実際の東京とはまったく異なる、自動車によって生命や健康が奪われない、市民の基本的な人権が守られる都市としての東京を想像したのです。
~~~
うーんすごい。
常識を疑い、リフレームすること。
それこそが倫理なのだと。
さらに、倫理と道徳について、続きます。
~~~
道徳:してはいけないからしない
倫理:したくないからしない
「罰せられるからしない」これは道徳であり
「嫌だからしない」これが倫理である
(池田晶子『言葉を生きる』22頁)
個別の出来事に配慮するシステムというものは存在しません。それは端的な形容矛盾です。そして、システムに従順な者は思考する必要がありません。なぜなら、全てはシステムが決定してくれるからです。そこでは「きまりなので」というまさに決め台詞がきちんと用意されています。
もちろん、それは公平性や公共性といった価値に基づいて設計されたものではあります。あるいは、人治に陥らず、あくまで法治として無秩序になるのを防ぐ意味合いもあるでしょう。ですが、システムがケアし切れない者、システムから「はぐれてしまった者」との邂逅が僕らに利他を促す。そして利他はその定義上、僕らをシステム・コード・規範から自由にする。
ケアと利他を概念として分けることを提案するのは、利他にはそのような「自由」を発生させる力があるからです。宇沢本人にとっては学舎としての使命を果たすという、ねじれや葛藤のない「ケア」だったのかもしれませんが、その姿を見た僕らにとってはそれは「利他」に映る。なぜなら、ホフマン方式という「システム」や「常識」に縛られていた僕らを認知的に自由にしてくれたからです。
宇沢のまなざしによって、僕らはシステム・コード・規範から少しだけ自由になる勇気をもらった。それゆえ、宇沢本人にとっては、市民の大切にしているものをともに大切にしようとしたケアであるが、それを受け取った僕らにとってはそれは利他に見える。
利他にはそのような軛としての思い込みや先入観からの離脱があります。利他には、そのような「自己変容」の契機が潜んでいるのです。
道徳:これまでのシステム・コード・規範によって「踏み固められて」きたもの
倫理:これまでの前例が通用しない、いわばカッティングエッジ(最先端)な判断
道徳はいわば「地図に載っている街」ということです。先人たちが通り抜け、歩き、踏み固められた道が縦横に走っている街が道徳なのです。それに対し、その慣れ親しんだ街から離れ、誰も歩いたことがない未開の大地を歩くこと、そして歩こうとする意志を倫理と呼ぶのです。
当然、不安を拭い去ることことはできず、ぬかるみに足を取られ、時には転びそうになることもあります。しかし、自由という可能性の大地に至るためには、そのような逆境はどうしても必要です。
~~~
「越境」とか「アンラーン」とかっていう意味は、もしかしたらここにあるのかもしれない。
人が何かを学ぶというプロセスは創造的。(寺中作雄 1949)っていうのも、こういうところにあるし、「社会教育」という自由さは、まさに道徳というか、システム・コード・規範が通用しなく(地域)社会における倫理、ケア、利他とつながっているのだろう。
昨日の社会教育主事講習の受講生と話していた時の「福祉」と「まちづくり・産業振興」と「(キャリア)教育」のあいだに、「社会教育」をつくっていくことが可能なのではないか、と思った。
まさに社会教育って「あいだ」に存在するなあと。
地図に載っている街から誰も歩いたことのない未踏の大地を歩くこと。
そして、それは、目の前の人のケアと利他からも始まるのだということ。
「学校社会」や「経済社会」、あるいは「地域(ローカル)社会」といったゴールが描かれているように見える地図とそこでのシステム・コード・規範から越境すること。利他を葛藤すること。
そこにこそひとりひとりの「自由」があるのではないか、と僕は直感した。
「道徳」を疑い、「利他」から始まる自由があるのかもしれないし、それこそが倫理を学ぶ意味なのかもしれない。
Posted by ニシダタクジ at 06:46│Comments(0)
│本
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。