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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年07月28日

「学び」の逆シフト

移住情報サービス「SMOUT」の「SMOUT移住研究所」で阿賀黎明高校魅力化プロジェクトが紹介されています。
https://lab.smout.jp/primapinguino

この記事のメイキング映像がこちら。(6月ロケ)





取材は終始和やかな雰囲気。
清川高原も映してもらいたかったので、連れまわした結果、
ジェラート「Referi」と「桝や酒店」にしかいけず。
素敵な記事に仕上がってよかったです。

1か月ほど前の取材なので、もっと言いたいことが出てきましたので、
こちらで発信しようと思います。

これからの学びに大切なのは、「資源」と「課題」と「関係性」
ってコメントしているけど、その話には続きがあって、

そして、「場」が重要だっていうこと。
「学び」は「場」がつくる、「場」によって生み出されるっていうこと。

それは、付箋を使ったワークショップであり、
支えてくれる地域の自然や社会資源、人たちだったりするのだけど。

「学び」はいつから苦役になってしまったのだろう?

「追いつけ、追い越せ」など、目指す目標や夢を失ったときからか?
いま、学ぶことが「将来」を保証しなくなったときからか?

ここで。
明治時代に起こった「学び」の変化について考えてみたい。
藩校、寺子屋、私塾、かつて様々な学びの形があった。

それが明治以降に「学校」へと統一され、150年が過ぎた。
「学校」へのシフトとはなんだったのか?を学ぶ側からの視点で考えてみる。

1 「発見」から「達成」へのシフト
学びの喜びを「発見」から「達成」へとシフトさせた。

2 「承認」から「評価」へのシフト
承認欲求を他者からの評価欲求へとズラした。

3 「場」から「個人」「自分」へのシフト
学びが「科学」となり、量的に測られるようになった。

これら3つのシフトは、
「近代工業社会」の要請によって、「科学的」であり、「量的に計測可能」であることが大切だった。
その、前提が何十年も前に崩れているのだ。

「地方創生」が叫ばれ、都市から地方へ人の逆流が起こっている。
計画された「工業社会」ではなく、日進月歩する技術の中で、
「イノベーション」を起こせる人材が求められている。

いや。
そうじゃない。
「人材」という価値観が違うのかもしれないのだ。

イノベーションを起こすのは個人のチカラではなく、
場のチカラであり、それを支える想いのチカラだ。

そして、その原動力は、「好奇心」。
この先に何があるのだろう?というスピリットだ。

エンターテイメントの本質は、「予測不可能性」にあるという仮説を
僕は3年前に「つながるカレー」の加藤文俊さんのトークをヒントに得た。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
(「予測できない」というモチベーション・デザイン 17.5.19)
もちろんそれは、「安定性」「安心感」とトレードオフなのだけど。

上田信行さんが、キャロル・ドゥエック博士の研究を説明し、
小中学校に通っていると、
「成長的知能観」(やればできるかもしれない)から
「固定的知能観」(自分の才能は生まれつき決まっている)へのシフトが起こるのだと説いた。
http://hero.niiblo.jp/e459844.html
(「自信がない」は後天的に獲得した資質である 14.12.29)

学校に通っているといつのまにか、学びは苦役となる。
学べば学ぶほど、「自分はアタマ悪いんじゃないか?」って思うようになる。

なんだそれって。
学びが人を幸せにしないシステムってなんなんだって。

「学び」の逆シフトを起こさなければならない。
いや、もう起こっているはずだ。

「個人」から「場」へ。
「評価」から「承認」へ。
「達成」から「発見」へ。

それを始めるのが「場」の構築であると思う。
「場」で学ぶとは、「学び合い」を「見つけ合い」にするということ。

心に浮かぶ言語化以前の不完全なキーワード、
もしくは、「印象に残ったこと」というあいまいなものを
「場」に出し合うこと。

それを「その人はなぜ、そんなことを思ったのだろう?」
と「場」で考えること。

そして、見つけること、発見すること。
そこに喜びを見出すこと。

思ったことをいうこと。言える場があること。
「個人」を「場」に溶かしていくこと。

それが「対話の場」だったり、「ワークショップ」だったり、「プロジェクト」だったり、町を舞台にした「探究学習」だったりする。
この町にはそれを起こせる「場」がある。「場」の構成物、構成者たちがいる。

人口1万人の小さくて広い阿賀町には、流行りの言葉で言えば、「手触り感のある」「高解像度」な「資源」と「課題」と「関係性」が詰まっている。

それらを「場」が希望に変えていく。そんな学びの未来を見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び日記

2020年07月26日

開かれ続けているということ

新潟県立阿賀黎明高等学校×阿賀町
阿賀町教育留学制度のパンフレットができました。
関係者のみなさま、たいへんお世話になりました。









ウェブはこちらから。
https://reimei-gakusya.localinfo.jp/pages/1427137/page_201711151839

昨日は「地域みらい留学フェスタ」(オンライン開催)の初日でした。
「地域みらい留学」
https://c-mirai.jp/
「新潟県立阿賀黎明高等学校」
https://c-mirai.jp/school/agareimei/

ZOOMウェビナーでの合同説明会と、ZOOMj会議を使った個別説明会。
黎明学舎スタッフの及川さんが慣れていて心強い。
校長先生が最後にいい言葉で締めてくれたり、
教育長が随所に登場してくれたりするので、
「オール阿賀町」感が出ているような気がする。

さて。
今日の1冊。


「14歳の教室~どう読み、どう生きるか」(若松英輔 NHK出版)

筑波大学付属中学校で行われた7回の授業をもとにまとめられた1冊。
新津・英進堂にありましたので思わず購入。

いきなり。
「動的に考える」から始まります。

鴨長明「方丈記」の冒頭の一節。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。」

河の流れは止まることなく、動いていて、いつも異なる水が流れている。同じ水などというものはない、というのです。

そうだなあと。
まさに人生というか、学びってそういうことなのではないかと。
川のまち阿賀町での学びも、そんな精神でいきたいですね。

この本で!!と思ったのは、
「第6章 対話するⅠ」のところ。

友と問いについて。

~~~ここから引用

たしかに、友とは、広い意味で人生の問いを共有している人かもしれません。そうした人とは対話が深まるのは当然です。

古人は歌には歌で返していました。返歌という文化がありました。そこには、目に見えない、耳にも聞こえない「対話」が成立していたのです。

私たちは歴史という豊かさな資産がある。歴史のなかに自分の対話の相手を見つけていかなければいけない場合がある。別な言い方をすれば、自分はひとりだと思う前に、皆さんは歴史の中に友を探すことができるのです。

「対話」とは、他者に向かって自分を開こうとする営みです。ジブンだけで問題を解決しようとする、そうした場所から離れることでもある。自分の問題を自分だけで解決しようとするとき、私たちは自分の可能性をどんんどん小さくしているかもしれないのです。

そして、他者に、世界に、あるいは歴史に向かって開かれていくということと、自己において深まっていくことが同時に起こり得る。むしろ、開かれていないとき、深まりもまた限定的だと言えると思います。

気を付けないと、私たちは、自分を深めていこうと思うときに、だんだん自分の世界に閉じこもってしまう。

プラトンが重んじた対話の「場」とは、目に見える空間ではありますが、目に見えない地平のようなものであることが分かります。「場」は目の前にもありますが、「眼」で「観る」世界、リルケのいう「内界」にも広がっています。だからこそ、「内なる対話」という言葉が生まれてきたのだと思います。

~~~ここまで引用

冒頭のパンフレットにあるように、
温泉と森のシェアレジデンスの意味とは、
地域に「開かれている」場であるということ。

別棟にある日帰り温泉には、
暮らしの一部として、そこに通うお年寄りを含め、地域の人たちがいます。

そこで「対話」するまでの関係性になるのはハードルが高いけれど、
人生の問いを共有できるような誰かに出会えるといいなあと思います。

一方でひとりひとりはその人なりの探究を深く掘っていくこと。
「対話」と「探究」を繰り返し、その人なりの「道」が見えてくる、

阿賀町の教育留学とは、そういうことなのかもしれません。

歴史や地域に開かれている「場」、開かれ続けている「自分」
そこで対話を繰り返し、「わたしたち」と「わたし」を行き来することが
できる場所。

そんな学びの空間を一緒につくっていきたいと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び

2020年07月24日

「結節点」としての私と「わたしたち」


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」(渡辺保史)

読み終わりました。
2年以上の時が過ぎ、今こそ、読むべき時が来ました。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)から、
時代の10年先を行っていた渡辺さん。

「社会の時代」から「情報の時代」への変化の中で、
渡辺さんの先見の明がすごいなと。
約10年前にこんな世界を予感していたなんて。

本書は非売品なので、読むことができる人は少ないかもしれませんが。
ここにメモを。

~~~ここからメモ 1 経験デザインとインターフェイスについて

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。

経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。

「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

~~~ここからメモ2 学びについて

大切なキーワードは「学び」で、一部の専門家から、「残り多く」の人へ知識が受渡されるのではなく、ある時空間を共有しながら、実践を通して、互いが学び合うこと。そんな実践コミュニティ。

地域社会の未来を構築する力の源泉として「学び」を捉えること。

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。

三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

ノード(結節点)としての大学。

~~~ここからメモ3 コワーキングについて

コワーキングは、都市内の空きストックの単なる有効活用(場所貸し)でも、社会的に立場の弱いフリーランサーのためのアジール(避難場所)でもない。

これまで、仕事は組織の「所有物」と見なされ、ひとは組織から仕事を与えられて働いてきた。

戦後の高度経済成長期、ひとは組織の成長や目的とおのれを重ね合わせ、一心不乱に働くことで自身の豊かさを充足できると信じていた。

組織と個人のベクトルの同一化は、高度成長が終わってしばらくの間も、あたかも慣性の法則が作用しているごとく、ある程度は続いていたが、それもバブル経済のつかの間の繁栄がしぼむとともになし崩し的に消えていった。

「仕事」全体の再発明を余儀なくされているのかもしれない。

コンピュータとインターネットさえあれば「どこでも仕事ができる」と一般には思われがちだが、実際には「どこでも仕事ができ」てしまうからこそ、逆に「どこで、誰と、どんな風に働くのか?」にきわめて意識的にならざるを得ない。

そうした人々が、創造的な環境を実現する条件として強く希求するのが、居心地のよいコミュニティであるというのは非常に示唆的なことではないだろうか。

創造的な人材を引きつけるためには、企業でなくコミュニティの品質と活力が大切である。創造的会社の従業員は独立した起業家であり、どこで生活するかを自由に決める人種である。(「市民起業家」エドワード・マクラッケン 1997)

地域において最も必要なインキュベーターとは、「高速回線付きの安い貸しオフィス」などではなく、多様な人々が集う結節点的な場だと唱えた。もちろん、物理的な空間やインフラが不要だというわけじゃない。

それよりも大事なのは、ビジネスやまちづくりや文化活動を盛り上げる「地域全体のインキュベーター」なのではないか?

~~~ここまで本書より引用メモ

「経験デザイン」「学び」「コワーキング」と非常に示唆に富んだ文だが、

キーワードは「インターフェイス」と「結節点」だと思った。

もともと僕が渡辺さんに実際にお会いしたのは、
2003年の「はこだてスローマップ」のワークショップだった。

その時のことも本書に書いてあるが、「地図」というのはそもそも「インターフェイス」だと

地図というインターフェイス。インターフェイス「二つのものの間ににある接点、境界」
1 フィジカル(物理的に存在する)空間とデジタル情報空間
2 知識から経験へ
3 マップ作りを通して人と人を結びつける

このインターフェイスという考え方と
当時から聞いていたノード(結節点)というキーワードが
今になって立体的に見えてきた。

第10章 まちなかで模索する新しい働き方 より抜粋する

~~~ここから引用

どこでも仕事ができるようになったからこそ、逆に、どこで、どんな風に(そして誰と)働くのかに意識的にならざるを得ない。そこで強く希求されるようになったのがコミュニティだったのではないか。コワーキングの中心層であるフリーランスやスタートアップの起業家、あるいは社会起業家たちは、まぎれもなくコミュニティを必要とする人々である。

たとえば、フリーランスの生命線は、いかに多様な人々や組織とのつながりがあるか、いわゆる「ソーシャルキャピタル」を持っているか。あるいはある種の「生態系」の中で活動する自分を意識できるかどうかに尽きる。

とはいえ、それは単に人脈(コネ)があるとか、顔が利くという皮相なレベルではない。かつて名著「マインド・ネットワーク‐独創力から協創力の時代へ」(マイケル・シュレーグ 1992)で言及されたコラボレーション(協調・共創)の条件をクリアしていくこと。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。
「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、
ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、
そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライン劇場ツルハシブックスで宮本明里が言っていた。
「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。
その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

そして、上の引用に書いてあるが、
メディアで起こっている3Cの変化は、これから、「学び」の世界で急速に起こることなのだろう。

▼▼▼ふたたび引用

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

▲▲▲ふたたびここまで引用

いままさに、これが起ころうとしている。
少なくとも、新潟県東蒲原郡阿賀町では起こりつつある。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、
ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、
高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、
一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、
僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び思い

2020年07月21日

「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ

渡辺保史さん。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)の著者。
渡辺さんの活動を知って、「はこだてスローマップ」の
活動に参加し、会いに行ったのが2003年。


若いです。(2003.3.29)

その後、10年の時を経て、新潟青陵大学が中心となった「にいがた未来考房」
立ち上げの時に講師でお呼びして伺ったのが自分ごとのデザイン。


スーツきてる。(2013.3.27)

このわずか3か月後の6月に急逝。
言葉を失いました。

その後、当時書いていた原稿を出版するプロジェクトが立ち上がり、
2018年3月にクラウドファンディングにより自費出版されたのがこちらの本。


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」

いまこそ、読むときが来たと。

土日、2つの教育系ウェブセミナーと
オンライン劇場「ツルハシブックス」を開催。

土曜日は
「最上マイプロジェクト推進運営委員会オンライン勉強会 #学びの土壌づくり」

日曜日は
「スカイロケットプロジェクト主催の21世紀を生きる子供への大人のかかわり方⑥」でした。

~~~こちらはメモ

18日

高校生の探究と大人の探究が重なり合う部分にプロジェクトをつくっていけるかどうか。

対話:認識のズレを顕在化させるコミュニケーションのこと⇒違うことを楽しむこと。

「学び合えば希望は生まれる」
     ↑
「フラットなコミュニケーションが必要」
     ↑
「心をひらくためのデザイン、ツール」

「ワクワク」は伝染する。
その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。

個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場。

19日

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。

「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

リフレクションと対話とメタ認知

主語を私たちにシフトしていくこと。
「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

オンラインによる「個別最適化」は学ぶ意欲のある子にとっては理想的なのかもしれないが、そうではない子にとっては、生活習慣さえ乱れてしまう。

先生や公務員こそ、「コミュニティ副業」をする時代だ。

小中学校時代にうまく学校についていけずに、高校で学び始めた子どもたちが「本当は勉強したかった」というのだと。
8割の子どもは、自己肯定感を下げるためだけに学校に行っているのではないか?

「履修主義」から「習得(修得)主義」へのリスク。プロセスにおける雑談や関係性は配慮されなくなる。

学校を社会に開く合理性を市民側が説明しているか?
市民側のリテラシーの低さ。
先生が何に苦しんでいる状況なのかを理解してから提案すること。

年齢の違う人と、テーマで話すこと。
評価・判断を保留して聞くこと。
年齢の壁はオンラインのほうが越えられるかもしれない。

発達の最近接領域
https://learn-tern.com/proximal-development/

たぶんこれと、場のチカラによる「学び合い」から「見つけ合い」へのシフト。「私たちとして探究的に学ぶ」これが自己肯定感問題を含むアイデンティティ・クライシスと探究学習を同時にクリアしていく方法かもな。

新型コロナウイルスで失われたものは学校での授業と言うよりもむしろ「登下校」や「放課後社会」といった無数の余白時間なのだろう。そしてむしろ余白のほうが本質的に重要だったものなのかもしれない。

~~~ここまでメモ

そしてもうひとつオンライン劇場の宮本さんとの対話やそのあとの「やりたいことが分からないの社会学」、
「責任」について、も。

~~~ここからメモ

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。
そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。
その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。
好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。
ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。
それでようやく「自分」がわかる。

SDGsから出発したプロジェクトが僕の心を打たないのは、「手触り感」からスタートしていないからか。

自分に自信がない、つまり自己肯定感の低い人は、客観的に自分を見てしまうから、ついつい場において役割を果たせていないのではないか、と感じてしまう。

それって「責任感が強い」ってことじゃないですかね。オーダーされたものに真剣に応えるデザイナーのような。

これまで「自分に自信がない」とか「他者からの評価を気にしてしまう」とかって聞くと、評価という呪縛から早く逃れたほうがいいと思っていたけど、昨日のツルハシでの対話を経て、そういう人のことが好きになったというより、僕のようなクレイジー・ポジティブの人の周りには必要な存在だと分かった。平尾さんのいう「相補的関係」

同時に、その人たちが「安心」できるために、「チューニング・ファシリテーション」が必要なのだなあと思った。
冒頭で「最近あったよかったこと」を聞いて、終わりに「印象に残ったこと」を聞く。そして「発見」し合う場づくり。

最後の時間は「責任」について。哲学対話みたいになってた。これ、オンラインのほうがうまくいく気がする。今まで照れ臭くって「対話」ってタイトルのイベントには足が向かなかったのだけど。オンラインならできるね。クルミドコーヒー影山さんが言ってた「自己開示が強要されない」場づくり。

~~~ここまでメモ

っていう感じ。

昨日は校長先生と教育長と阿賀黎明探究パートナーズの会長である麒麟山齋藤社長との会談で、
プロジェクト学習について話し合っていたけど、

~~~思ったことメモ

「進学クラス」と「就職・専門学校クラス」っていう区分けがもう意味を為さないような気がした。
一緒にプロジェクトやってみたいな、と思えるヤツを育て、それをベースに「もっと研究したい」と思う人が大学に行けばいい。

マイプロジェクト
    ↑
プロジェクト型学習
    ↑
ワークショップ手法
    ↑
対話のデザイン、オープンマインド
    ↑
安心・安全の土壌づくり

マイプロジェクトの先に大学での「研究」と専門学校での「専門スキル」と企業での「就職」というプロジェクトがある。

地域の○○を学ぶ、っていうだけではほとんど意味がなく、地域の○○を活かして何かプロジェクトとして実践するところまで行かないといけない。
地域の特産物を育てて「販売」というのは一番思いつきやすい実践例だと思うが、プロジェクトはそれだけではないはずだ。

仕事や人生を主体的対話的に歩んでいけるような人に高校卒業時になっていること。
言い換えれば、人生の経営者になっていること。
会社では一介のサラリーマンであるかもしれないが、自らの人生の経営者であること。
そうしないと地域に貢献したりしないよね。それがシチズンシップ教育なのでは

~~~ここまでメモ

「わたしたち」として「見つけ合う」から始まる学び。
ワークショップ、プロジェクト学習、マイプロジェクトとつながっていく学びの前提。

そこに対話のデザイン、オープンマインドが必要で、
その前提として安心・安全の土壌づくりがあるのだろうと思う。

その「わたしたち」の範囲、フレームをどこまでにするか?
そこに心地よい責任感のヒントもあるなあと。

いろいろ繋がってきています。
渡辺先生、この本でまた学ばせてもらいます。
そして、先へ送ります。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)学びイベント

2020年07月18日

おじさんという60°のナナメの関係


「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

いいっすね。
どこまでもドライ。

正義とは何か?
とか
愛とは何か?

って考えている人にめちゃめちゃおすすめ。

「愛には、4つの形があります。」
みたいな。

わーー。こんな授業聞きたいわ。
って。

まあ、今日はそういうわけで、
「おじさん」について。
愛(=身近な関係)には4つあるという話。

・横の相補型:恋人、夫婦など
・縦の相補型:親子、師弟など
・横の共同型:友達、コミュニティなど
・縦の共同型:部活、上司と部下など

って。
これはわかりやすい。

相補型では、相手もっている自分と違うものを大切にすること
協働型では、相手と共通するものを大切にすること
がポイントなのだと。

そうかもしれませんね。
あとこれは、コミュニティ論としても面白いなと。

コミュニティが育つ、長続きする、生み出し続けるためには、
共同性と相補性の双方が必要なのだと。

そしてもうひとつ。
P214のコラムにかかえれている「ぼくのおじさん」

ここでいう「おじさん」は、両親と違うことを許容してくれるテキトーな存在、
つまり「ナナメの関係」として書かれています。

わー。
これ、ツルハシブックスの僕じゃん。
やっぱおれ、おじさんだったんだ、ってちょっぴり凹みましたけど。(笑)
「ナナメの関係」っていう視点から見ると、まさにそうだったんだなと。

「ナナメの関係」っていうのはNPOカタリバがのコンセプトなのだけど、
高校生にとっての大学生という意味合いで表現されているのだけど。

「おじさん」っていうナナメの関係もありなのかもしれないと。
ちょっと角度が大きくなりますけどね。
(大学生30°⇒おじさん60°くらい)

それって、地域コミュニティが、というより、
地域の大人ひとりひとりがなっていけるんじゃないかと。

そんな「おじさん」と中学生高校生の接点をつくっていくこと。

「学びの土壌」の構成要素としての「おじさん」の存在を
あらためて考えなおしてみることにする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学び

2020年07月15日

多数派でないことは、「逃げ」なのか?


「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

読み始めました。
「道徳」とか大嫌いだったんですけど、倫理学、ね。
みたいな。

「哲学」無しでは生きられない時代(社会)になったと思っていたのだけど
この前の「はみ出し者の系譜」のところで、
ステージが進むと、前のステージを内包しなければならない
っていうのも、たぶんそういうことで。

ソクラテスの時代から「よく生きる」とは何だろうか?
という問いは始まっていたのだけど、
都市化という「効率的な社会」をつくる方法が追求され続けた結果、
人は、「倫理」や「哲学」がなくても、掟とかルール(法律)に従って
生きていくことで、共同体のメンバーとなれた。

ところが。
国家や地域、会社と言った共同体や社会システムそのものが揺らいでいる今。
「情報の時代」へと突入している今。
自らの内側に「倫理」や「哲学」を内包する必要があるのではないかということで手に取った1冊。

この本の価値は、簡潔に示している(と僕が思っている)箇所から抜粋引用します。

~~~ここから引用(P58~)

倫理学の仕事パート・ワンは、倫理や道徳の整理でした。倫理や道徳は、必要なものもあるけど、中には個人が経験したことから導き出したもの(つまり人生論)や、単なる思い込み(偏見)、理由はわからないけど伝統的に受け継がれてきただけの因習(つまり、昔からの、よく分からない言い伝え)とかもあります。倫理学はまずそうしたものを整理します。つまり、「道徳とされているもの」が全部大事だとは限らないので、それらの中で本当に必要なものと、必要じゃないものに分けるのです。

必要だというのなら、なぜ必要なのか、その理由を説明する。それが倫理学の仕事パート・ツーなのです。

ほんとは必要じゃない、理由もよく分からないのに「道徳」っていう顔をしているものがあったら、これは押し付けにすぎません。倫理学の仕事は、こうした押し付けを取り除くことなのです。

倫理や道徳は「こうしなさい」とか「してはならない」という形をとります。つまり人を縛るようなものだから、出来れば少ない方がいいわけです。要するに、倫理学は道徳や倫理を整理して、必要なものに絞る。そうして倫理学は我々を自由にする。

そして、もし必要な倫理があるんだったら、倫理学は「そうしなければならないこと」「そうした方がよいこと」の理由を考えます。理由があって、必要なものなら、自分でも納得して従うことができる。そうなれば「従う」というより、自分の意志で「そうしよう!」と思えます。この意味でも倫理学は、我々を自由にする。

こうして倫理学は、二重の意味で我々を自由にするわけです。

~~~~ここまで引用

自由になるために、「倫理学」が必要って、その通りだなあと思った。
大学生や新社会人が就活や働くことへの違和感やもやもやを聞いていると、

まさにこの倫理・道徳の整理とその理由の説明が自分なりにできるのかどうか、がポイントになってくるのだと思う。
あとは社会やシステムを俯瞰して見れるかどうか。

昨日、取材型インターン「ひきだし」説明会で気づいたこと。

いわゆる「ジョブ・ローテーション」の話。いろんな仕事をやってみて(やらせてみて)、その人にあった仕事を見つける(適性)。(市役所などの場合は、癒着や汚職の防止っていう意味合いもあるのだろうけど。)

これって、一見win-winな関係に見える。適性ある仕事ができるなんて、双方にとって、ハッピーだよね、みたいな。

しかし、そこには「人間関係」は考慮されていない。(考慮されている会社もあるかもしれないけど。)

「適性」ってそもそも、会社側の論理なんだと。

「自己分析」して、「自分に向いている仕事」を判別して、御社にとって私は有用です、とアプローチする就活。

「創造を生むフラットなコミュニケーション」はそういう就活には存在しない。「使えるヤツ」「使えないヤツ」を企業側が判断するだけだ。

そこには環境(人間関係含む)によって、人のパフォーマンスは変わらない、という人間観があるような気がする。

そのコミュニケーションの時間ってもったいないな、と思ったのが取材型インターン「ひきだし」の出発点だった。

今回、完全オンラインでの開催となって、「フラットな対話空間」はより実現できそうだけど。

オンラインという「場」に会社側も学生側も何かを持ち寄って、その「場」に差し出す、みたいな場が作れないだろうか。その先にオンラインでしかたどり着けない「場」があるのではないか。それが今回見てみたいもの。

2006年から大学生と関わるようになり、「就活」というシステムそのものに違和感を抱き、立ち止まる大学生に何人も出会った。

そのシステムに適応できる人はすればいいと思うし、どちらが正しいか、という問題ではない。

ただ、現実に違和感を感じる自分がいるとしたら。その違和感を言葉にしていくこと。

周りの大学生や、大人たちが示す「常識」というかみんながやっていることにいまいち乗れないこと。そこから出発していくこと。そこには、もしかしたら倫理学的なアプローチが必要なのかもしれない。

多数派ではないことをしていると、それって「逃げ」じゃないのか?みたいな謎の恐怖が襲ってくる。その「逃げ」という言葉の大半を占めるのは「同調圧力」だと思う。

倫理や道徳、常識を整理し、その理由を考えること。「就活」とは、そんなアプローチをするいい機会や題材なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)学び

2020年07月14日

「まなび」の「よはく」



パンフレット用写真撮影の日。
7月に入ってからずっと雨&くもりだったのが、奇跡的な晴れに。

「神は細部に宿る」ってこういうことか!と感じた1日でした。
15歳になりきって、その世界の中を躍動していきながらの写真撮影。
写真のディレクションってそういうことか、と。

その前の日の夜に少し聞かせてもらった
Ciftの説明会の話が面白くて。

「拡張家族における親と子。自己変容型リーダーシップ」~Cift2周年祭で僕が語ったこと
https://cift.co/life/1659

補完としてこちら。
「なぜ“家族”になるために「人事」があるのか」
https://cift.co/work/802

~~~ここから上記ページよりメモ

仲間:ともに働く
家族:ともに暮らす

世界⇒私たち(Cift)⇒私
世界平和への拡張家族への自己変容

「拡張j家族」:「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡されながら、深化と成長を生む生命体

ひとつ(関係性):あなたもわたし、弱さでつながる、共に暮らす、助け合う組織、共依存関係、今が大事、居場所、愛
ひとり(主体性):あなたとわたし、強さでつながる、共に働く、育みあう組織、共自立関係、未来が大事、出番、力

「自己変容」:自分に全体性を取り戻し、次元をシフトする。

「自己変容」⇒「自己変容型リーダーシップ」へ。

「自己変容」:内に解き(対個人)、Be(内的姿勢)、さらけ出す、自責する、アンラーンする、人の成長を信じる、習慣化する
+(型)「リーダーシップ」:外に結ぶ(対全体)、Do(外的行動)、方針を示す、率先する、つなげる、やる気を上げる、役割分担する

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

依存的全体:属する共同体に依存している状態。大いなる母親に包まれている状態。

このフェーズで必要なのは居心地の良い共同体から自らの離脱を通して自立することである。全体から分離することで、自分自身の存在に向き合い、力を身につけ、自信を持つということが重要だ。その自立が新たな共同体に入ることだと今度はそれに依存してしまうのでCiftに入るタイミングではないと考える。まずは自らの足で立てる力をつけようと伝えることにしている。

主体的個別:共同体から離脱し、自らの足で歩きはじめ、自己実現を目指そうとしている状態。

この状態は力を得るためにとても必要な時期であると同時に、Ciftではこの力はあくまで手段であって、目的である愛の主体的全体へと意識を向けるかどうかがポイントになる。主体的個別を目指して邁進している人については、それを応援しながら、Ciftという場所はその自己実現を一部解いて全体実現に加担する行為なので今は適切ではないと伝えるようにしている。

主体的全体:自己実現において限界感や喪失感を感じた上で、自我を超えたものにコミットしようとする状態。

力を得る主体的個別フェーズを通った人たちがそれを手段として、愛という目的に意識が向き始めたらCiftに入る立ち位置になったと言える。ここでポイントなのは主体的全体がすでに体現できている態度の状態ではなく、そう在りたいと思う意識の状態を確認していることだ。なぜなら僕も含めてここができている人は少ないし、むしろそこを共進化するための場所がCiftだからだ。その時に大事なのは自らの意志で入った環境が自ずと人を変容させていくことだ。このとき、主体的全体への意志がなければ、どんな環境があっても発酵しないし、むしろその人の人生にとって腐敗してしまうので、ここの音合わせはとても大事と言える。

~~~ここまでメモ

刺さる言葉がたくさんあって、タイムリーだなあと。

7月10日のブログ「はみ出しものの系譜」
http://hero.niiblo.jp/e490859.html

にもつながっていく話で面白いなと。
僕としてのキーワードは「自分たち」「わたしたち」なのだけど。
それを「ひとり」と「ひとつ」という言葉で表していたのがすごい。

そして、未来を占うのはこちら。
「オフグリッド化するコミュニティ 渋谷Ciftが提唱する“拡張家族“とは?」
https://nextwisdom.org/article/2291/

~~~ここから上記ページより引用

全体の一部である構成員でありながら、自立した人間であるという状態の矛盾した関係を解決するのが新しいコミュニティのキーになると思っています。

人類の歴史を考えると、17世紀前後の科学革命の前は人間ではなく自然が中心の社会で、人は生まれてから死ぬまで全体に依存しなければ生きていけなかった。その中で全体としての秩序があった。そこから、個人というものが台頭してきて、現代はかなりの個人化の時代にも思えますが、この先もっと個人化、個別化が進んでいくのだと思います。人間の心と体が分離するとかも十分起こりえると思います。

でも、もともと人類というのはコミュニティから始まっているんですよね。生まれた瞬間は誰もひとりでは生きられない。家族というコミュニティに守られていて、生活を安定させるために家族が集まって村を作り農耕社会になっていった。現代の社会では、高校を卒業する頃には、家族から離れて村から飛び出して、ひとりで生きていくこともできます。だけど、そっちにも限界がある。

全体の一部として生きていくということは、個性は無いけど協調性はあるという状態。言い換えると、愛はあるけど力は無いということになります。

近代以降の私たちは外側に力を求めがちです。内省することや、空を見上げることもあまりせずに。それは、外にしか目が向いていないからです。力はすごくあるんだけど、その力がすべて外に向かっているから、自分の傍にある愛を大切に生きていない。

本質的に平和って何か考えたとき、個が自立して多様で皆が好き勝手にやる世界なのか、それとも、皆が協調し合って一つとして愛し合う世界なのかっていうと、そのどちらでもない。要は、それを止揚させた世界でなくてはいけない。

~~~ここまで引用

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、
海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、
前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの
個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と
皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。
つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、
「主体的全体」なのだろうと。
僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」
「個人」と「共同体」
そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。

内田樹さんがよく言っている。
教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、
個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして
家電王国としての国を支えたりした。
いつのまにか教育は「お買い物」と化し、
最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。
だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。
「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、
Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。
その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。
「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」や
にいがたイナカレッジのプログラム、
そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。

その「よはく(余白)」は、
「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、
いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。
そして、その「よはく」に「場」ができていく。
それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、
高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、
まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、
ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:11Comments(0)学び日記

2020年07月12日

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値



昨日の地域みらい留学LIVEを30分だけ視聴。
聞きたかった若新雄純さんの話が聴け、シビれたのでメモしておきます。

~~~ここからメモ

わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないか。

イケてる田舎の学びは「非線形」
JK課=女子高生がまちづくりに関わるプログラム
インターン・PBLがつまらないのは、先に学ぶものを決めているから

イケてる田舎での学び:予定・用意されたものじゃない何かがある。
目標・計画もない学び。

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。
よくわからないものを楽しむこと。

都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。
田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」
「線形」の学び=これまで。

〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
・予測可能(指数関数的)
・予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続
ゴールがない、わからない、計測不可能

3年間そこにいると何が学べるか=不明確なのが価値
ぜんぶたまたまの結果にすぎない。

「こうあるべき」⇒「分からないけど、面白そうだ」(創造的脱力)

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。
プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。
「発見」は100%生まれる。

~~~ここまでメモ。

いやあ、ほんと、このタイミングで聞けてよかったなと。
田舎で、この町で学ぶ価値って、魅力ってなんだろう?って
「魅力を明確に言語化しない」っていうのはすごいなと。

たしかに、一言で言える観光地よりも、底が知れない場のほうがリピートするし。
ご当地名物料理よりも、地元民御用達の駅前中華料理屋さんのほうが行ってみたいし。

そして、「線形」と「非線形」の話。

これは、「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)
に書いてあった、メディアの変化にマッチしているな、と。

参考:本屋というメディアをつくる(17.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e486326.html

参考:メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e486304.html

ここで説明されている「コンテンツ」の3つの軸

ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

~~~

これって・・・
まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。

ストックとフローを組み合わせつつ、
「権威型」から「参加型」に寄りつつ、
ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

そしてWithコロナ時代を迎えて都市と地方の「情報格差」が決定的に小さくなった今。
だからこそ学びは転換点にあるのではないか。いや、もともと転換点にあったのだけど。

そしてもうひとつ紹介したいのが若新さんの著書「創造的脱力」

参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

~~~以下、書籍より引用

目的やゴール、到達点が明確で、勝ち負けや白黒をはっきりさせたいプロジェクトやチームには、それにふさわしいまとめ方やまとめ役というのが必要なのだと思います。正しく状況を判断し、的確に情報を収集、分析し、権限を使って指示や命令をおこないながら、ときには破壊的な攻めにでることも必要なのでしょう。

一方で、すすんでみなければゴールがわからず、偶然の出来事や変化を受け入れながら学んでいくような実験的な取り組みにおいては、成果や正解を焦って求めすぎない脱力感と、そのプロセスを楽しめる柔軟性が必要です。

でも、ただ力を抜いてやわらかくしているだけでは、「まとまり」ができずバラバラになってしまいます。脱力しながらもうまくまとめていくためには、その場にいる一人ひとりの欲や好奇心、その場から得られる体験や感動をみんなで共有し、ときにはぶつかり合いながらもお互いを必要とするような、人間関係にみちあふれた「関わり合い」が必要です。

僕はこれを「ゆるいコミュニケーション」と呼んでいます。「ゆるい」というのは、「いい加減」ということではありません。

きっちりとは固定されていないのに、つながっている。
強制されているわけではないのに、参加している。
必要に迫られているわけでもないのに、欲している。
細かいことは決まっていないのに、全体としては成り立っている。

一見もろそうに見えて、実は「かたいつながり」以上の「ネバネバ感」があり、「まとまり」があるのです。

さらに「ゆるい」だけあって、平均からのズレや偏りを排除してしまわず、むしろその差や違いを吸収できる余白や「ゆらぎ」をもっています。つまり、「ゆるいコミュニケーション」は、一人ひとりの異なる価値観やライフスタイルをお互いに認め合い、それぞれの個性的なパーソナリティを引き出し合うことができる「成長の機会」なのです。

~~~ここまで

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。
田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。
その先に非線形の学びがある。
その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、
スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。
「発見」を価値だと認識すること。
場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。
その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。
いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。
そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。  

Posted by ニシダタクジ at 10:25Comments(0)学びイベント

2020年07月10日

はみ出し者の系譜


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

はやくも2周目。今日は「はみ出し者の系譜」です。
言い換えれば、「コミュニティ難民」なのかもしれません。

参考:中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」(16.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e483286.html

ツルハシブックス閉店1か月後に書いた文。

「居場所」という場所は不要で、「劇場」をたくさんつくり、
「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。
これはもしかすると、オンライン劇場ツルハシブックスで目指しているものなのかもしれない。

リアル店舗の本屋「ツルハシブックス」とは僕なりの「参加型社会」への実験だったと言えるだろう。

本屋のような劇場をつくる。
気がついたら本屋という舞台の共演者になっている。

それは、もしかしたら、
「ヨコ軸」としての参加型社会だったのかもしれない、と。
そしてそれは「瞬間的に」発生することで、
心が開き、共同体感を感じられる場になったのかもしれない。

そして、唐澤さんたちの「ネオ・まきどき村」が志向している
「営みの中にあること」はタテ軸としての参加型社会なのかもしれない。

この本を読んで、
あらためて、自分という存在だったり、昨日のブログに書いた
「永遠に中間的なるもの」としての「自分たち」という存在を考えた。

~~~以下本書より一部引用とメモ

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。
アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。
そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、
その中でまた独自の掟や作法が生まれて、
それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。
「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

ここまで第6章の「よはとつ図形2020」より。

そっか。
「とどまる」を経験しないと、真の意味で「つながる」フェーズにはいけないんだなあと。
永遠に「よりそう」「はじける」「よりそう」「はじける」を繰り返してしまう。

もう、「よりそう」だけでは(全員は)生きていけないのだ。
コロナ過での公務員・大企業志向は、まさに「よりそう」への回帰なのだと思う。
一方で、「はじけろ」っていうだけなのも違う気がするのだよね、きっと。

このブログのタイトル「20代の宿題」っていうのは、もしかしたら、
「つながる」フェーズに行くために、
「よりそう」「はじける」「とどまる」の3フェーズを繰り返すこと、なのかもしれない。

そしてそこで圧倒的に重要で、しかも難しいのは「とどまる」だ。
意識しなければできないし、「とどまる」には孤独が必須だからだ。
そして「とどまる」の前には「はじける」がある。

同調圧力などの掟・ルールに耐えられず、コミュニティにいられなくなる。
そんな状況で「はじける」ことができるのか。

そこで、この本では歴史を壮大にふりかえる。
(この本のクライマックスなので、本を買おうと思っている人は読まないほうjがいいかも)

▼▼▼ここから一部引用・メモ

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。

海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。
海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。
生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。

私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。

私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。

「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。

その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。

▲▲▲ここまで引用・メモ

このあと本当のラスト「望郷としての海」に行くのだけど、それは本書をお読みください。

いやあ。書いていて、身震いがする。

新型コロナウイルスが強引にこじ開けたドア。
Withコロナ時代の先、向こう側。
なぜ、自分がこんなにも本を読まないといけない、と思ったのか。
「サピエンス全史」をこのタイミングで読みたかったのか。

僕たちは「はみ出し者の系譜」の中にいる。

歴史・営みというタテ軸と、共同体というヨコ軸。
自分はその真ん中に存在しているのだけど、
それを「自分たち」に拡張していくことだと思う。

そしてひとつひとつの「自分たち」には、
進んでいくベクトルがあり、それは1つ1つ異なる。

僕たちはいま、そんな世界へのドアの前に立っている両生類なんだ。

そして僕はきっと、そんな時代を見据えて、
新しい本屋に「かえるライブラリー」と名付けたんだなと。(本当か)

  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び

2020年07月09日

「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

予約していたものがようやく昨日届きました。

もう、すごいです。
「ヤバい」っていう言葉しか出ない。
そして、僕にとってのタイムリー。

「参加型社会」は橘川さんの半世紀のキーワード。
その本質をえぐるような言葉に、ドキドキしながら読みました。

昨日夜の「取材型インターンひきだし」での
大学生の不安を聞いていて出てきたのがやはり「近代的自我」、
つまり、やりたいことがわからない問題とアイデンティティ危機の問題。
そこともリンクしてきて面白かったのが第3章のメディアとは何か?

ここの部分を今日は紹介します。

~~~ここから本から一部引用

デカルトが定義づけた近代的自我は、まさに人間のソフトウェアに対する讃歌である。「我思う」という想像力の自由こそが、人間の持つ本来性であるとしたのである。

近代の方法論を簡単に言うと「コピペ」である。
近代とは「量」を神とする信仰であった。

本来、人間の意思(ソフトウェア)に応じて作られたのが道具(ハードウェア)である。それが、道具が道具を作り出すようになった。やがて「人間の意思」が「道具の進歩」に追いついていかなければならなくなった。

今、人間(ソフトウェア)が為すべきは、ただハードウェアに追随するのではなく、ソフトとハードの人類史をより大きな視点で俯瞰し、ソフトウェアの本質を再確認することではないか。

ソフトなきハードの暴走はいずれ停止する。その時代に向けて、人類もまた、幼児的なソフトウェア(近代的自我)の次元から、一回り成長した、大人のソフトウェア(情報的自我)へと脱皮する必要があるだろう。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。

融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

~~~ここまで引用

このあと第5章に、近代的自我の先にある情報的自我の説明がある。一部引用すると
「これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。」

これです。これ。
昨日の「取材型インターンひきだし」説明会でも話していた、
「魔法をかける編集」と「場のチカラ」の話ってまさにこの自我の話ではないかと。

アウトプットするのは個人やチームの力ではなく「場のチカラ」であり、

参考:人生は経営である。ただし個人戦ではない。
http://hero.niiblo.jp/e489703.html

「魔法をかける編集」というのは、
ひとりひとりの「今の自分しか紡ぎだせない編集」を
そのインタビューに表現していく、ということである。

アイデンティティ・危機を越えていくために、
自らを差し出して複数の「場」の構成員になり、その組み合わせを自分とすること、だと昨日話していたけど、
それって、橘川さんの言う、「情報的自我」のことなのではないかと。

「取材型インターンひきだし」は、就活という近代的「フレーム」が機能しなくなっている中で、
「永遠に中間なるもの」としての「私たちの時代」への道を切り拓いていっているのではないか、と。

そんなことを感じてワクワクした朝読書でした。

「ちょっと何言ってるかわからない」と思った方はごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)学び

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学びイベント

2020年07月06日

「達成感」の使い方


「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

僕が読んでいるのは文藝春秋の単行本のほうですが。
08年の本ですので、古本屋でも見つけられます。

第2章の「働くということ」がタイムリーだったのでメモします。

~~~

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な資金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望が持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違え」だったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価のほうが本人の自己評価よりも客観性が高いのである。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのもの。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。

~~~ここまでメモ

人間という集団が生き延びるために「労働」があり、「労働」の受益者は基本的に集団である。おそらくはこのリアリティがない。

この章の後半、著者は「スイスのロビンソン」を題材に「無人島のルール」を説明する。集団で生きるとき、個人の利益を最大化するという行為はルールに反するのだと。

そして社会のルールは、「複数の人間が無人島で暮らせる」ことを基準に作られていて、そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。

「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」である。いわば「温室」ルールである。敗者になっても命までは取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。

「キャリア教育」の名の下に、何をしてきたのだろうか。
3年で会社を辞める若者は、「適職ではなかった」からなのだろうか?

そもそも労働とは何か?
という問いが必要だったのではないか。

「ふるさと教育が叫ばれ、地域を愛する子どもを育てたい。」と多くの人が願っている。
わが町も例外ではない。

先週のプロジェクト打ち合わせで出てきた「早く大人にしたい。」その言葉に込められた思い。
集団の成員として学校改革の、まちづくりの、パートナーになってほしい。

名作マンガ「SLAMDUNK」で桜木花道が5人いたとしても山王工業には決して勝てない。
「地域の役に立つ」前に「集団の役に立つ」という経験が必要なのかもしれない。

そしてそれは目に見える「報酬」がある役に立つではない。
集団の成員として、責任を果たした。そんな「達成感」。

そんな達成感を報酬だと感じられるような、
一緒にいると楽しくなるような、そんなパートナーを育む学びができるのではないか?

そしてそれこそが、若者自身が「アイデンティティ危機」と付き合っていく有効な方法なのだと僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)日記

2020年07月03日

まなぶを響き合わせる

6月24日のweekly ochiai

「ギグワークは仕事の未来なのか」
https://newspicks.com/news/5016231?ref=user_2250


が面白すぎて。
特にラストの宮田さんの「はたらくを響き合わせる」がアツかったな、と。

で。本も読んでみました。


「GIG WORK」(長倉顕太 すばる社)

まあ、本は思っていたのと若干違って、
ギグワークとは何か?ではなくて
なぜギグワークか?どうやってギグワークに(自分として)シフトするかっていう話でした。
昨日読んだ「サブカルチャー論講義録」と重なっていて、これはこれでうなりました。

~~~本を読みながらのメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

「お金持ちになる」っていうことは「選択肢が増える」っていうことか。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?
「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」
そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。
本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。

昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。
それこそが奴隷づくりの方法なのに。

「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。
フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。
まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

~~~ここまで読書中のメモ

なるほど。
社会学的で、昨日の若者のサブカルチャー論講義録の補足にもなっていて、とてもスイスイきました。

で、冒頭のウィークリーオチアイのまとめ。

~~~以下、動画みながらのメモ

ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

ギグワーカー=労働法上の労働者ではない。
・環境の変化がはげしく、人材を自社で賄えなくなっている。
・労働者ではないから自由に働ける
・マッチングするプラットフォームの進化

クラウドワークス:3つのタイプ
・プロジェクトベース(単発)
・人をコンスタントに契約(長期)
・PMをやって、その下にチームをつくる
個人がだんだん事務所化している。
事務3-7だったのが9-1でオンラインになった。
主婦とシニアが増えている

人材マッチングの機会としてのギグワーク

「体験バイト」=大人版キッザニア タイミー:会社員:主婦:フリーター 同じくらいの割合
正社員:やったことないのにいきなり正社員で、やめるにやめれない。

転職のリスクはむしろ上がっている。副業がリスクヘッジになっている。副業というセーフティネット。副業は社員の幸せを考える会社は必須。実際の働きぶりを見て、転職。会社的には人材募集システムとして機能する。(無料の引き抜き)実際に働きぶりとなじんでるのを見て、採用すると長く働いてくれる。人材の流動性を高めるうえで仕組みとしていい。

セーフティネットとしてのギグワーク:ヘッドとロングテール⇒日本の分布に似ている。

稼げる、稼げないだけではなく、やりがい、充実感のグラフもある。
ギグワーク:多様なロールモデルを見せる。ひとりひとりのモチベーションにグラデーションがある。多様な生きがい。
コミックマーケット:フラットな世界⇒ロングテールが大好き

社の論理だけでフィットしない人を排除してきた。それがうまく生かせるかもしれない。

「機会の提供」という意味ではネットはいいけど、コミュニケーションのOSが増えた
オンライン時代に、リアルのスキルが下がっている。
フィットする人材の多様化。リアルに弱い人でもオンラインで強い人には活躍の場がでる。
匿名、ニックネーム、年齢・住所非公開で働ける
「承認欲求」が満たされる。ギグワークは即時相互評価。それが働くモチベーションになる。

ウーバー:「働く」って一方的な提供じゃなくて一緒につくるエクスペリエンス。お互いに仕事を提供して一緒にはたらく。
派遣は一方的な体験だったのが相互評価になる。上から命令される、みたいなかたちにならない。評価の悪い悪質な発注者は駆逐される。
ギグワーク:新しい社員探し。インターンの替わり。コンビニ向けのサービスを考える⇒ギグワークするほうが早い。

クライアントからありがとうって言われる⇒シニアにとって生きがい。
お金いる人といらないひとがいる。タイミー:ボランティアにもいけるように。
IT技術は信用(信頼)を前提としている。ピーク時の2時間だけ人がほしい。

将来のためにギグワークをする。

働くを響き合わせる。
与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ

都市や会社=お金のためだった。
自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

~~~ここまで動画メモ。

いやあ、宮田さんがアツいね、やっぱ。
仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、
やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。
お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、
「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)
みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、
フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。
僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。

一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、
一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、
伴奏者としての大人たちと一緒に、
ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:34Comments(0)学び

2020年07月02日

「創造力」を伸ばすまち


「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)

オジサン必読の1冊。
(まあ、僕はまだギリギリなってないけどもね。)

いやあ、こういう本、好きなんですよね。
AKBとか乃木坂とか、なんなんだ、みたいなもやもやを
すっきりとある視点から切ってくれる1冊。

京都精華大学の講義を編集したもので、
マンガ、アニメ、アイドルなどの現象を社会学的に解説。
これは面白い。
途中何度も爆笑しました。

いちばん笑ったのは、マンガ「頭文字D」の「ロータリーの高橋兄弟」のくだりですかね。
駅前のロータリーのことではなく、ロータリーエンジンのことです。

「世界でいちばん受けたい授業」ってこれかもしれない。
週に1コマこれがあるだけで、1週間が楽しくなりそう。

敗戦から戦後、そして経済成長、バブル崩壊・・・
と移りゆく時代の中で、サブカルチャーがどのように変化したか。

週刊少年ジャンプの連載マンガや
不良を題材にしたマンガの変遷など、
当時高校生だった時のものもあり、なかなかうなります。

そしてラスト1つ前のAKB現象の解説と、最終回のところは、
いままさに、高校生を取り巻く環境へのヒントが記されていて、インスパイアされました。

いくつかキーワードを。

~~~ここから引用

音楽は、CDからフェスへと市場がシフトしている
つまりコンテンツから「体験」へと価値がシフトしたということ。

「体験」の中でも一番強いのは「人とのコミュニケーション」。
アイドルは直接コミュニケーションがとれるし、「推す」ことによって、その人の人生に貢献できる。

「音楽を聴く(CDを買う)」ことは「推す」という体験を盛り上げる蝶番として機能している

現代のメジャーJ-popは三国志で言えば「蜀」で10分の1の勢力しかない。
「アイドル」と「アニソン・声優・ボーカロイド」で9割。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。
「情報」から「体験」へ
「情報」から「コミュニケーション」へ
と音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。
60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと
「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。
そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーから
コンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」
という新たなフロンティアが発見される。
サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割
「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

~~~ここまでメモ

もっと書きたいのだけど、これ以上ネタバレしてもいけないので。
予告だけにします。

「情報」から「体験」へ。
「情報」から「コミュニケーション」へ。
そして、虚構の2つ目の役割。

「コロナの時代」が問いかけているのは、
「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?
なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。
僕だって茨城時代にはインプットしたくて後半2年は東京からのアクセスのよい土浦に住んでいた。

突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、
「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば
実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、
「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。
人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。
それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。

そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)