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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年06月30日

「まなび」と「身体性」


「感性の哲学」(桑子敏雄 NHK出版)

途中、難解で飛ばしてしまいましたが、最終章にグッと来たので書き残しておきます。
キーワードは「身体の配置」と「空間の履歴」です。

第9章 感性を取り戻すこと より
~~~以下メモ・引用

朱子学:人間を「身体の配置」として理解しようとした。
西洋:身体である以前に精神として人間を捉える(デカルト的)
朱子学:人間は精神である以前に身体であると捉え、しかも身体の基礎は「気」という非固体的なもの。

人間は世界の一部として、その他の部分と特有の配置でむすばれていることになる。人間は世界に対立するものでも、世界を支配するものでもありえない。また、人間のあり方と世界の変化とは不可分の関係にある。

わたしたちが生きているのは、人間と環境が常に相関している世界である。「世界のなかでモノや人々が相関している」というべきではなく、「モノやひとびとと人間が相関しているということ、そのことによって世界が成り立っている」ということである。その相関の空間的な表現が「配置」である。

「配置」は、自己とモノやひととの相関の構造を表す概念である。ひとの身体とはその身体と他のモノやひとびととの相関的な配置の関係にある。この配置こそ、ひとりひとりの固有性を決定する要因である。だから、どんな人間もすでに個性的な存在である。

中国的な時間軸では、時間は「四時」と呼ばれ「春夏秋冬」を意味する。農耕民族である中国人は、時間をつねに四季の変動とともに把握した。「春秋」は四季であると同時に歴史でもある。四季の循環が同時に、歴史の変動循環とも連動するところに、中国の歴史意識の根本がある。歴史そのものが循環するという思想である。

人間を「履歴をもつ空間での身体の配置」と捉えることで、つぎのようなことが可能になった。

1 人間のかけがえのなさ自明の事実として把握できるようになった。配置の個性が人間の個性の根幹にある。人間は生まれつき個性的な存在であり、「個性を伸ばす教育」にとってもっとも大切な一歩は、この固有の配置をこどもたちに自覚させることである。

2 履歴を蓄積するひとりひとりの人間にとって、その履歴形成の舞台となる空間のかけがえのなさを示すことができた。ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるように、そのかけがえのなさの根拠である空間もまたかけがえのない存在である。

3 空間の履歴は人間の履歴に組み込まれると考えることで、二つの履歴の不可分であることを示すことができた。このことによって空間の価値がそこに生き、そこに住むひとびとの履歴の価値と不可分であること、自分を愛することは、履歴を積んだ空間を愛することであることを論じ、また、このことによって、ひとびとの空間への愛着の根拠を示せた。

4 空間の価値は、そこに存在する希少生物やモノの価値で測ることはできず、その空間のもつ固有の歴史にもとづいているということ、したがって、希少生物が存在しない空間であろうと、単純に開発の論理に載せることができないということを示せた

5 「ローカル」と「グローバル」の区別を空間と身体の相関によって捉えることができるようになった。「ローカル」とは、ひとが履歴を積む身体空間を指し、「グローバル」とは地球全体を志向によって捉えた表現である。
~~~

うう。これはすごい。
長年探究してきた「場のチカラ」と「アイデンティティ」の関係をズバリ言い表している。

次にこの本に引用されている 大森荘蔵の「ことだま論」について

~~~
ことばが力をもってひとの心を動かし、ひとの身体を動かし、世界の出来事を生じさせるのはどうしてなのか。それを説明するために、人間と世界から独立したことばの意味を考える必要があるのか。

声になったことばは、じっさいは、身体の外にあってのみ、はたらくことができる。声は出されていないときには存在せず、声として身体の外の出されてはじめて存在するからである。すると、声は皮膚の外で身体の生きることに「参加」しているのである。そこでこそ、声は、身体と親密な関係を持つ。

「聞き手は話し手の身振り、すなわち話し手の体振り、視振り、声振りによって(広い意味で)触れられる。それによって聞き手は身体的、精神的に動かされるのである。多くの場合、人は対面して話す。その対面の場面では、声振りは体振りと視振りと一体となって働き、その一体となった身振りから声振りだけを引きはがして分離することはできない」

触れられ、動かされることが、ことばの意味を知ることであり、だからこそことばとは行為である。行為としてのことばがひとの心を動かし、ひとの身体を動かし、行動を引き起こす。行動が世界に変化をもたらす。
~~~

「ことだま」という現象がどのように起こるのか、を捉えているなあと思います。

もうひとつ「空間の履歴」と「普遍性」について
~~~
わたしが「空間の履歴」ということばを考えたのは、世界を動かす身体的配置という人間の把握に、時間を組み込んだ表現をつくりたいという思いからであった。

わたしが「空間の歴史」といわないで、「履歴」というのは、履歴がつねに現在において存在するものだからである。履歴書を書くひとは、つねに現在の履歴を書かなければならない。

履歴は過去の歴史に言及はするけれども、その記述はつねに現在に属している。履歴を語ることは現在において過去を語ることであり、また現在に属するものとして過去を語ることである。過去はすべて現在に埋め込まれている。

普遍性のことばとは、どこでもないどこかで、いつでもないいつか、だれでもないだれかの語ることばである。人間の語るものであっても、科学のことばには、配置と履歴が書き込まれていない。

今、この実験室のなかで行われている実験には、配置と履歴が存在するが、その実験によって明らかにされ、論文や教科書に記載される物理法則には、配置と履歴がないのである。科学のことばに普遍性があるというのは、要するに、配置と履歴を消去したことばだからである。

わたしの考えでは、感性とは、自己の空間的配置と時間的履歴を身体的自己が感知する能力である。このとき、配置と履歴は、相互に不可分な関係にある。わたしの配置が履歴となるのは、配置が変化してゆくからである。昨日の配置と今日の配置は異なっていて、昨日の配置は今日の履歴の一部となる。

人間は、さまざまな事物やひとびとと固有の配置でむすばれながら、行為を選択し、人生を送る。行為と人生について語るとき、ひとは自己の配置と履歴を知る。

配置と履歴を消去した普遍的なことばがどれほど力をもつように見えても、そのことばによって世界とかかわり、自己の人生を選択していくのは、どこまでも配置と履歴をもつ身体的な存在である。

環境と自己の関係を捉える能力、配置と履歴から世界を感知する能力が感性であるとすれば、この能力は、人間が身体的存在であるという人間の本質に由来している。だからこそ、ひとりひとりの感性は異なっていて、あるひとびとの感性はするどく、また豊かであるといわれる。

人間は普遍的なことばが配置と履歴を組み込んだことばよりも高い次元にあるという幻想を抱いてきたし、まだその幻想から抜けきれないでいる。この幻想から醒めて、もう一度自分の皮膚とその外の空間との境目を見つめ直すことが必要である。
~~~

グッときますね。「感性とは、自己の空間的配置と時間的履歴を身体的自己が感知する能力である。」ホントそうだなあと思います。

「感性を磨く」ってそういうことだし、それが高校時代から磨けたらいいなと心から思います。
そしてそれは「アイデンティティ」とか「存在」の課題と直結していて。

僕たちが歴史ある居酒屋や「まち中華」、古民家をリノベーションした空間に感じるもの、なのかもしれませんし、ソーシャルバーPORTOのような「場」で起こっていることなのではないかと思います。

学校の教科書がつまらないのは、表記が「普遍的なことば」で書かれているからであって、それを生身の教師が、配置と履歴、つまり「存在」を賭けて、語るからこそ、面白い授業になるのではないかと。

探究の時間においては、「考えること」だけじゃなく「感じること」も大切にしてほしい。
達成と成長ではなく発見と変容だし、まずは観察し、感じてください。

「まなび」ってそんな風に身体的なものになっていくことで初めて「アイデンティティ」が形成されていくのではないかと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)学び日記

2023年06月29日

「自分」と「場」をともに「いとなむ」







ソーシャルバーPORTOの嶋田匠さんとご一緒してきました。
嶋田さんの取り組みについてはこちらから
https://note.com/takumi_shimada/n/nec142082f73c

なんというか、言葉のセンスがすごくて、ドキドキします。

以下、僕のサイトを見たメモ
~~~
「居場所」
よりどころ・・・「存在価値」を認められる場所
やくどころ・・・「提供価値」を認められる場所

よりどころ⇒PORTO:日替わり店長のバー
人が場を持つことのハードルを下げる

やくどころ⇒コアキナイ
会社員のやくどころ:外部に依存した不安定なものとなっている
「1社に属してはたらく」⇒安定しない

らしさ=「志向(判断基準)」「嗜好(好き/嫌い)」「資質(強み/弱み)」
本業とは別に個人のらしさを活かしたスモールビジネス「コアキナイ」をつくる

「コアキナイ」
1 小さな(無理のない大きさの)商売という意味での「小商」
2 個性(らしさ)を活かした商いという意味での「個商」

コアキナイ:個人の「らしさ」を活かした無理のない大きさの価値交換
起業⇒コアキナイへのシフト
1 個商:マーケットイン⇒パーソナリティアウト
2 小商:不特定多数⇒特定少数⇒中数
自分をそのまま社会に差し出してみる
それを無理のない大きさでやってみる
そんな自然なやくどころがコアキナイ

「木」と「森」
「木」:それぞれのコアキナイ
「森」:コアキナイの集合体
ゼミで木を生み、コミュニティで森を育てる
⇒「森」の時間と「木」の時間をつくる
⇒林よりも森みたいな
~~~

嶋田さんは大学時代に原宿で「無料相談屋」というボードを持って、道行く人たちの相談を受け付けていた。そんなところからリクルートキャリアに就職し、売れない日々の中で「よりどころ」と「やくどころ」という感覚に気づき、PORTOをスタートします。

現在はコアキナイビルで、ソーシャルバーの他、シェアハウスなど様々な事業を展開しています。
https://ko-akinai.com/overview/
↑「アウトプットするガレージ」っていいな。

そんな嶋田さんと今回は
「らしさ」を見せる〇〇ということで
20代半ばのみなさんとトークしました。

~~~以下メモ
「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係という贅沢だ。」
サン=テグジュペリ『人間の土地』(新潮社文庫)

ヨリドコロとヤクドコロ:どちらかだけではダメで両方必要
「ヨリドコロ」SNSの友人が1000人いて見えるようで、点線でつながっているだけ。
⇒ヨリドコロをたしかめるための「バー借りるけど一緒にやらない?」と声をかけられる場としてのPORTO。

存在承認とヤクドコロ
アイデンティティは事後的にできる
居場所⇒アトリエ:「〇〇する」を許されている「場」

「身体性」というキーワード
PORTOに立つ(店長をやる)ということ。
=「存在」を体感すること
=ヨリドコロとヤクドコロを行き来すること
=他者の存在(目撃者と証人)があるということ
=リアルメディアとしてのPORTOだしコアキナイだしガレージ

そこには固定された役割ではなくて、生成的に役割が生まれてきて、それを育むことで「ヤクドコロ」が発生し、それが他の人にとっても自分にとっても「ヨリドコロ」になり得る。

みんなで育てていく「営み」として:「林よりも森みたいな」
林=生やすを語源としていると言われている:人工的に植えて、木を生やした状態のこと
森=盛りを語源としていると言われている:盛り上がった土に気が生えている状態のこと
「待つ」こと:機が熟すのを待つ。

ヨリドコロとヤクドコロは複数名のあいだで同時に起こり、境界がなくなる。
それを行き来するような「場」があるのではないか。
存在価値⇔影響価値⇔提供価値

共有地⇒共営地へ
この営みがつづいていくことを心から願ったときに場と自分とのあいだに役割が生成されていく。
⇒ブリコラージュってそういうこと?:この場をともにしてくれてありがとうございます。
~~~以上メモ

「生成される役割(=ヤクドコロ)」これが「存在承認」へのキーワードかなあと。
僕がつくりたい「場」もそういうものかと思ったし、高校生にこそそんな「場」があったらいいなと思う。

ひとりひとりという木と、それが集まった森と。
それが相互作用し、育む「場」。
そんな「営み」をつくっていきたいと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 05:48Comments(0)学び日記

2023年06月25日

わたしとわたしたちのまなびかた





名古屋で本当に久しぶりのリアルトークイベント。
テーマは「わたしとわたしたちのつくりかた」
アイデンティティをどこにつくっていったらいいのか?
そんな終わりのない問い。

三塩菜摘さんプロデュースで高校生のまどかさんと高校生のキャリア支援をしているはるかさんとトークしてました。

以下イベントメモ

ひとつは「答えのない時代・社会」について
~~~
答えがない、というのは答えが存在しない、ということではなくて、答えが無数にあるということ。それの方が勝者と敗者を作らない。

答えがない時代・社会に合わない言葉は聞くだけでしんどいな、と。「指導」「成長」「失敗」それ、答えのない時代に本当に定義できますか?
~~~
とまあこんな感じ。WORDに繊細な人たちが集まっていてうれしいな、と。学校で頻出する「指導」って確かにすごい言葉だなと。指し導くってどこへ?って思います。

あと、高校の現場(進学校)で起こっていること
成績が悪いやつは、課外活動に制限がかかるっていうシステムがあると聞いて驚愕した。

ひとつのことを専念することでスキルを向上させるという「専念」幻想は本当なのか。本だって2冊3冊4冊と並行して読むことで思わぬ発見がある。仕事だってその可能性は多いにある。

なによりも「学びのスタイル」が変わってきているのではないのか?「(目標達成の)手段として学ぶ」から「(自己変容の)機会として学ぶ」へとシフトしているはずでしょう。(ちがいますか?)僕が大学のある町の駅前で本屋をやっていたのも、暗やみで古本を懐中電灯で探してもらったもの、ひとえに「機会提供」の価値を信じていたからだった。

「機会」には目的・目標がない。どう生かすかも自分次第だ。そしてそれは誰かが意図を持っている機会でもいいと思う。受け取る人にとって機会であればいいと思う。だから、自分が何かをやりたくなってプロジェクトを立ち上げたら周りの人をどんどん誘えばいいと思う。

反対に上記の先生のように、課外活動に参加させない、のような機会を奪うような行為は納得ができない。

そんな学校(化)社会にどのように対処したらいいのか?
ATフィールド(絶対不可侵領域:エヴァンゲリオンより)をどのようにつくったらいいのか?っていう話で盛り上がり。

~~~
自分だったらこの授業をこういう風に改善して、学校はこうやって運営するんだけどな、っていうのをノートに書きまくるという「スパイ大作戦」とか。

異邦人として学校空間に入っていくこと。文化・風習の違う場所に足を踏み入れ、発見する楽しさを味わう。

劇団「学校」に入団すること
~~~

ひとつ印象に残ったのは、キーワードとして出た「重ねる」。僕たちは、日々仮説と行動を重ねていく。人は場において重なり、その重なりの偶然に身を委ねる。その重なりに自分があるのかもしれない。

そして、昨日、いちばん胸に刺さったのは高校3年生のまどかさんの発言だった。

「大人とフラットに語り、学べる、こういう「場」やイベントを自分は知ってしまった。高校に行けば勉強だけを強制される。日常と非日常をどう行き来したらよいのか?」

「知ってしまった」苦しさ。あるよね、これは。できることなら戻りたくなる。知らない方がよかったのかもしれないと思う。そんな葛藤の中にまどかさんはいた。

メタ認知すればいいって問題じゃないんだよね。たぶん身体的なものも入ってきていると思う。
ちょうど名古屋行の飛行機で読んでいた本の中にそんな文章が。


「感性の哲学」(桑子敏雄 NHK出版)
~~~
自己とは、身体的存在としての履歴そのものに他ならない。人間が身体的存在として空間とともにある以上、空間とどのような関係をもって生きるかということは、そのひとの人間形成と不可分な関係にある。

感性は自己と世界との相関を捉える能力であるが、自己が履歴と不可分であるとすれば、自己の履歴を世界との相関で捉えるとらえる能力があるはずである。

自己が自己であることの履歴の発端となった体験、自己変容の自覚の起点として記憶の中で現れてくるのである。原体験を回顧するのは、経験の記憶をたどって落ちつくところが自己変容の起点だからである。
~~~

「機会提供」は、そのような自己変容の「原体験」を作れるかもしれないから、大切なのかもしれない、って思った。それはとても「身体的」な経験なのだ。

まどかさんがnegraや菜摘さんと話している中で「学んでいる」ものは、学校でやる脳の一部だけのものではなく、身体的なものを含んでいる。いや、まなびそのものが「身体的」だからこそ、学校空間から影響を受けてしまうのだと思う。

名古屋のトークイベントの僕的なキーワードは「まなび方」だった。

高校3年間、いや大学4年間で見つけること、いや、「答えのない時代」にずっと必要なのが自分の「まなび方」のスタイルを知り、確立していくことなのかもしれないと思った。

それは「生き方」「あり方」(Be)みたいな哲学的なものと肩書、何をやるか?(Do)のあいだ(境界線上)にあるスタイルのことなのかもしれないと。スピノザのいう「コナトゥス」っていう感覚に近いのかも。

そしてそれは同時に、「わたし」と「わたしたち」のあいだ、「わたし」と「しゃかい」のあいだにも存在しているのかもしれない。

一生学び続けなければならない。という時の学びのスタイルは、決して人や本、経験からのインプットだけではない。体験し、対話し、振り返って、Twitterにあげて、noteを書いて、フィードバックもらって。その人なりの学び方があると思うし、それらも決して個人戦ではない。

昨日のnegraに生まれた「場」が「まなびの主体」となりうる。

もうひとつ、目的・目標に向かう学校空間・学校生活が日常で、社会人と接して、感じてしまう一回性や偶然性にドキドキするのが非日常で。それって本当か、って。本当は循環する時間軸の中で、身体性と一回性と偶然性を感じられることこそが日常で、目的・目標に向かって非身体的に学んでいくことこそが非日常のフィクションなのではないのか。

身体性と一回性と偶然性を感じながら双方向の対話によって何かを発見し、生み出し、その反作用で自分が変容し、生み出され、そのプロセスをうまく言語化できなくて。でも身体的にこれでいいのだと思えること。

「わたしとわたしたちのつくりかた」は、「わたしとわたしたちのまなびかた」にかかっている、と思ったし、それをつくっていきたいと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:38Comments(0)学び日記

2023年06月20日

「フードデザイン」という問い(アート)

3学年「フードデザイン」の授業サポート

ガイダンスでは「フードデザイン」という言葉について考えた

1 デザインとは?
2 フードとは?
3 文明の時間と自然の時間

こんな感じのダイジェストで、紙芝居プレゼンテーションにより実施

1 デザインとは
アートとデザインの違い
アート:問いを投げかける
デザイン:課題を解決する

創造的課題解決:〇〇×〇〇

例:まほうのだがしやチロル堂
https://www.tyroldo.com/
2022年グッドデザイン賞

チロル堂金沢店のオープンの動画を見せる

2 フードとは
フード=風土?
西洋:人間が自然を制御する
日本:自然との折り合いをつけながら生きていく
阿賀町の風土とは?

3 文明の時間と自然の時間
文明の時間:後戻りしない、進歩し続ける
自然の時間:進まない。循環し続ける

ふりかえりで出た一言にハッとした。

フード:風土、自然=問い⇒アート的
デザイン:意図的・不自然=デザイン的

阿賀町で行う「フードデザイン」はデザインであり、アートである。

というか。
世の中のデザインプロジェクトの根底には問いがあるし、その問いの深さが、デザインの刺さり方を分けるのだと思う。
まほうのだがしやチロル堂だって、どうやったら助け合える関係性をつくれるか?という問いの中から生まれている活動。

問いに根ざしたデザインを作っていくこと。
これからのビジネスは、いやすべてのサービスは、そうなっていくのだろうな、と。

そのビジネスモデルの根っこにある問いはなんですか?  

Posted by ニシダタクジ at 06:35Comments(0)学び日記

2023年06月17日

「おのずから」という問いの共有

「教育は誰のためにあるか」
その問いが、僕たちを結びつけているのかもしれない。


「ローカリズム原論」(内山節 農文教 2012刊)

もんもんとした違和感が残るオンラインイベントのあとの電車読書はこの1冊。
とあるブックカフェで目に留まって購入しました。

第3章 日本人にとって個とは何か

まさにアイデンティティの問題ですね。
面白かったのでたくさん引用します。
~~~
個の確立とは何か。欧米社会における個の確立は、横の関係でつくられていると考えればよい、つまり他人に対して自分を主張するかたちで個をつくり上げていく。他者との違いを際立たせるという関係のなかで個を確立していくのが欧米的な個の確立です。それに対して日本人は伝統的に、自分を深めるとか自分を究めるということに個の確立を求めてきました。

日本人が自分をつくろうとすると、他人との違いはどうでもよい、それよりも自分の追求したいことをとことん究めたくなる。ひたすら下へ下へと穿っていく。そういう感じで個を確立しようとします。
~~~

なるほど。他者との違いによって個(アイデンティティ)を確立するのは欧米的なのですね。
「差別化によるセルフブランディングを」とか言っている人には「欧米かっ」って突っ込んだ方がいいですね。

そして今朝イチの衝撃。人間はなぜ文化・文明をつくってきたのか。

よくあるのは、2足歩行の実現により脳が発達して、道具を使えるようになって・・・
と説明されてきたわけで。

その視点で見ると、共同体や関係性づくりも「生きのびるための道具」と位置づけられてしまうが、内山さんはそれを否定します。

~~~
人間は非常に弱い動物として地球上に生まれてきた、と考えています。

人間というきわめて弱い生き物が生き延びようとした方法として、人間は周りのものと多様な関係をつくったのだ。

人間は自然のものとさまざまな関係をつくっています。食物を採るということで、草、木の実、魚、貝、動物などと関係を持つ。消化能力が弱いため生で食べることに限界があって火と関係をもつ。そして薪と関係を持ち、一人で生きていけないほど弱いから家族を形成して生きてきました。

自然と多様な関係をつくるために、道具をつくり、畑をつくり、そして結果として文化や文明をつくってきた。
~~~

文化や文明をつくったのは、人間が優秀だからではなく、人間が弱いから、か。
これ、いいですね。

そして、本題のアイデンティティ問題へ。

~~~
人間は片方ではつねに関係性を世界に身を置き、一方では自己を形成しようとしてきました。

そのやり方としてヨーロッパでは水平的な関係の中で自己形成してきたし、日本では自分を深めるという垂直的な自己形成をしてきた。

ヨーロッパでの個の形成は、社会が生者たちの世界ですから、生きている人たちの中で共同性をつくり、個を形成していきます。日本の社会は生者と死者と自然でできていますから、生者と死者と自然の関係のなかで自己形成をしてきた。そしてその結果何を手に入れようとしたかといえば「永遠性」です。

永遠性とは何かというと、日本の人たちが感じていた永遠性は「おのずから」をみつけだすことだったと考えています。

自己形成をめざしながら自己消滅をめざす。自己形成を達成すると自己が消滅する、そういう非常に複雑な世界を形成してきたのです。

たえず自分の役割がどこにあるかをみつけ、それを実現させていく。それが自然におのずからなる生き方になっていく。つまり自分の意思で動くのではない、役割で動くということです。
~~~

「おのずから」(自然=じねん)を意識し役割を演じること。それが日本人の理想の生き方だったということです。
最後に日本人的メンタリティとしての「哀しさ」と「許す」そして「信仰」について。

~~~
「許す」というのは共同体で生きる知恵でもありました。人々を許しながら生きることで、発生してくるいろいろな問題の解決をしてきたということでもあります。人間たちの片方にはおのずからなる永遠の社会がある。そこに行こうとするが生ききれない人間の存在がある。そこに人間の哀しさがある。

それを哀しさと見ることで他者を許すことができる。その精神を基盤において折り合いをつけていく共同体の世界をつくった。過去と未来をつなぐ世界をつくろうとした。

「おのずから」とは人為的ではないといっているだけで、本当のところ何が「おのずから」なのか、よくわからない。だけれども、そこにこそ本当のあり方があるというのです。

なぜなら人間は哀しいもので、自己を追究したり主張したりするわけで、当然争いや対立も起きてきます。それで許し合いながら共同体を維持していく生き方は、共通の「願い」や「祈り」が根底にあり、自然(じねん)に対する共通の祈りを共有しながら、伝統社会の民衆の生活を形成されてきたのです。
~~~

共同体が続いていくためには「願い」「祈り」そして「自然(じねん)」に対する共通認識があることが必要だった。

しかもその「自然(じねん)」には、聖書のように単一の回答がない。
そういう世界観を生きてきたんだなあと。

オンラインイベントの話に戻るけど。
今回のイベントは、阿賀のみんなにとっての研修だった。

その研修の目的とは、「ゴールの共有」ではなく、「問いの共有」あるいは、「ベクトル感の共有」だったのかもしれない。
「学校じゃない教育」という問いから始まる3人の発表と、公営塾、寮、ブックカフェがある阿賀という場の持つ力。

たとえば「教育はだれのためにあるのだろう?」という問い。
そこに対して対話をしていくこと。

答えがない。
でも進んでいく。

その時に必要なのは、暫定的な答え(ゴール)というよりは、問いそのものなのかもしれない。
問いに対しての仮説をやってみて、ふりかえること。

かつて日本の共同体が「おのずから」という問いを持って生きたように答えのない問いを共通に持てば、それが「願い」「祈り」となっていく。

もうひとつ私たちがアイデンティティを考えるとき。そこには「自然(じねん)」、つまり「おのずから」と「みずから」について考えるという出発点が必要なのではないか、と。

内山さんが言う「おのずから」と「みずから」の関係。
「おのずから」は自然とそうなること。「みずから」は自分が自ら主体的にやること。すべて「おのずから」を見定めてから「みずから」やる。

そこから始めてみようと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)学び日記

2023年06月16日

BeとDoのグラデーションを生きる

シリーズ「学校じゃない教育」の第2回対話編オンラインイベントでした。
公営塾、寮、風舟をもつ阿賀町の高校魅力化を題材にしたトーク。
この道でいいんだ、と思えると同時にぜんぜんできてないなと悔しい気持ちになる。
そんな夜でした。

「教育」はいま、揺らいでいるのだ、と思った。
答えがない時代の「教育」はその根底を揺さぶられているのだ。
それは「挑戦」や「失敗」、「成長」という言葉への違和感につながっている。

~~~昨日のメモ
「顧客は誰か?」「価値は何か?」っていうドラッカーの質問が明確ではない状況に置かれて、もやもやしているのだ、と。

でも、「答えがない」っていうのは、「存在しない」という意味ではなくて「いくつもある」っていうことだから、それをいま、この瞬間瞬間で探っていくこと。

誰にとって、「誰の」「何の」魅力化なのか?それは「なぜ」必要なのか。変化し続けるそれをおそるおそる捉えながら進んでいく必要がある。

その主語は個人ではなく「場」で。「場」の構成要素は、「個」と「個」だけでなく、「いつ」「どこで」「誰と」を含み、それらの「関係性」が重要な要素となる。

「個」は「場」を主語とした創造(変容)に対して、無傷ではおれず、必ずダメージ(変容)を伴う。

見えているDoばかりを見るのではなく、その下にあるBeを見つめていきたい。Beを土台にしたDoをつくっていきたい。そういう意味で、ハウスマスターは、ひとりひとりのBeを見つめる仕事だと思った。

「評価」とは当然、Do(やること、やったこと)の評価である。見えないものは評価不能だから。「評価」を前提としたシステムのツラさはそこにあるのかもしれない。Doだけにフォーカスすると、そこにひとりひとりの「存在」が失われる。

たむたむの「ハウスマスターとは、一緒に暮らすこと」「うれしいのは朝全員が登校できた時」「有り難いの意味を知った」と言っていたけど、ハウスマスターの究極的な仕事は、暮らしという循環のサイクルに一緒にいることだし、存在の承認だと思った。

ちあきが言っていた「教育って誰のもの?」っていう問いにゴールは無くて、暫定的なものでしかない。今、この、場(状態)で揺れ動く「誰かのために」を、そこにあるひとつの存在として設定していくこと。
~~~

参加者のひとりのコメントが胸に刺さった。

・久しぶりに目の前の悩みから少し離れて日常を見つめなおすことができて新鮮だった。そういえばこんなことにわくわくして教育に関わりたい、と思ったな、とか。
・BEの部分でさえ「ただある、構える」というよりも「目標」「目指すべきゴール」ととらえてしまっていたと気づいた

子どもの頃の体験の減少によって、「わくわく」することが減少しているのでは?
と別の参加者も言っていた。

目に見えないBeを土台として目に見えるDoを生きていくこと。

参考:「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく(19.2.13)
http://hero.niiblo.jp/e488890.html

高校生に必要なのは、目に見えるDoだけにフォーカスするのではなくて、まずは土台となるBeだし、たむたむが言うように、それは「一緒に暮らす」ことで存在の承認になっていく。

Beを見つめる存在としての寮。
BeからDoまでを行き来しながら居られる場所としての風舟。
学校外のBeに支えられたDoをともにつくる場としての公営塾。

高校生は、いや、僕たちもみな、BeとDoのグラデーションを生きているし、それを行き来しながら、自分(=アイデンティティ)を形成している。

その「場」を共につくっている。
いや、えひめさんの言葉を借りれば、「共に営んでいる」共営地をつくっている。

それが阿賀の高校魅力化プロジェクト、かもしれないという仮説でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:17Comments(0)学び日記

2023年06月15日

反省するな、ふりかえろう


リフレクション‐自分とチームの成長を加速させる内省の技術(熊平美香 ディスカバー・トゥエンティワン)

読み始めました。
「挑戦」や「失敗」、「成長」という言葉への違和感って
僕の認知の問題なんですよね、きっと。
っていうところから始まりました。

今日は「第1章 リフレクション・基本の5メソッド」より

~~~
認知の4点セット
1 意見:あなたの意見はなんですか?
2 経験:その意見の背景には、どのような経験や経験を通して知っていることがありますか?
3 感情:その経験には、どのような感情が紐づいていますか?
4 価値観:意見、経験、感情を俯瞰して、あなたが大切にしていることが何かを明らかにしましょう。

10の問い
1 テーマ:あなたは何に取り組んでいますか?
2 目的とビジョン:あなたはその取り組みを通して、何を実現したいですか?
3 動機の源とのつながり:そのことは、あなたにとってどのような意味を持ちますか?
4 経験:そのことについて、どのような経験(知っていることも含む)をお持ちですか?
  (目的やビジョンが大切だと思う背景にある経験)
5 感情:その経験にはどのような感情が紐づいていますか?
6 価値観:そこから見えてくる、あなたが大切にしていることは何ですか?
 (何を大事にしているから、その目的やビジョンにこだわりを持っているのか。経験や感情の背景にどのような価値観が存在するのか?)
7 誰のニーズ:取り組みの受益者は誰ですか?
 (目的やビジョンが達成されると、誰のニーズが満たされるのか)
8 どのようなニーズ:取り組みが成功すると、受益者は何を手に入れるのでしょうか?
 (目的やビジョンが達成すると、どんなニーズが満たされるのか)
9 インパクト:取り組みが成功すると、社会にどのような変化が起きますか?
 (目的やビジョンが達成すると、社会はどう変わるのか)
10 成功の評価軸:目的やビジョンの成功を評価する定義は何ですか?
 (取り組みにおいて絶対に外せないゴールや、成功の評価に用いる評価軸は何か)

~~~
1 大学生と中小企業の本(本棚)を通したマッチングサービス
2 業種・業界ではない人で選ぶ「就活」の構築
3 フラットなコミュニケーションの実現
4 悩める就活生との出会い。職種じゃなくて人で選びたい。
5 就活生の立場になったときの共感
6 何も生み出さない就活コミュニケーションに対するもったいなさ
7 大学生および中小企業経営者
8 新卒マッチングの実現
9 各地方都市に波及する
10 120冊の本の販売、48件の面談マッチング

なるほど。
WHYを分解するとこういうことになるのだなあと。

そして、今日のメイン「反省とリフレクション」について。

~~~
リフレクションの目的は、経験からの学びを未来に活かすことです。リフレクションの前提には、「成功しても、失敗しても、いずれにしても、経験したからこそ知っていることがある、経験を知恵に変えることができる」という信念があります。

コルブの経験学習サイクル
1 経験:どんな成功または失敗体験をしたのか
2 経験の振り返り:そこから何を学んだのか
3 法則の発見:そこからどんな教訓や法則を見つけたのか
4 行動計画:次のアクションをどうするか

対話とは、自己を内省し、価値判断を保留にして、他者と共感する聴き方と話し方です。対話には3つのステップがあります。
1 自分の考えを認知の4点セットでリフレクションする
2 感情をコントロールし、価値判断を保留にする
3 相手の意見を認知の4点セットで聴き取り、共感する

・相手には、どのような経験があるのでしょうか?
・どのような感情がその意見に紐づいているのでしょうか?
・相手は何を大切にしているから、その意見に固執しているのでしょうか?

リフレクションと対話の2つを実践することで、自分の境界線の外にある学びを、自分のものにすることが可能になります。
~~~

なるほどなあ。まったく賛成できない意見に対しても、相手がそれに至った理由を認知の4点セットを用いて聞き出すこと。
むしろそれを対話のチャンスとして捉えることって可能だよなあと。

高校生のふりかえりもそうだなと。
いま、只見高校で使っている振り返りシートは、言語化のカベを超えるために
「意見」の前にある「経験」や「感情」をむしろ先に聞くという手法を取っているのだなあと思った。

1 「感情」を聞き
2 いつその感情が起こったのかで「経験」を言語化し
3 「意見」へとつなげていく。

単に「感想、気づき・学び」を聞くふりかえりの場合、

「意見」を言える子、つまり「価値観」を持っていて、それに基づいた「経験」と「感情」が起こった結果の「意見」が出てくる子と「価値観」は明確に言語化されておらず(ほとんどの高校生はそうだろうと思う)「経験」や「感情」の理由が分からずにただただ表面上の「感想」(面白かったとか、勉強になった、とか)だけが表出してくる。

それは大学生でも同じだ。
大学生に「感想」を、と振ると、
「いろんな意見があるんだいうことが分かって、参考(勉強)になりました」

それは聞き方が悪いのだ。
「印象に残ったこと(言葉)」つまり具体的事柄を聞かないといけない。
そこから「意見」につなげていかないといけない。
もっと丁寧にやるなら、高校生のように、感情⇒経験⇒意見の順に聞いていくこと、だなあと。

高校生・大学生にとって、進路選択をする上での「自分を知る」という最大の課題に対して、もっておいたほうがいいスキル、「リフレクション」。

この本からかみ砕いて、ワークシートを作っていきたいなと思いました。

かつてにいがたイナカレッジで「挑戦するな、実験しよう」という連載ブログを書いていたけど
「挑戦するな、実験しよう」は「反省するな、実験しよう」とセットなのかもしれない、なと。

答えのない時代に「実験」を繰り返して、それを「振り返る」こと。

~~~
リフレクションの目的は、経験からの学びを未来に活かすことです。リフレクションの前提には、「成功しても、失敗しても、いずれにしても、経験したからこそ知っていることがある、経験を知恵に変えることができる」という信念があります。
~~~

経験を知恵に変える方法としてのリフレクション。
それを実践していく人たちと「ともにつくる」をやっていこうと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)学び日記

2023年06月14日

循環する時間の中にこそ創造的な一回性が生まれる

月曜日、ハウスマスター募集の記事作成の取材を受けました。

阿賀の高校魅力化のことを文字化するときに、冬がちゃんと来て四季が移り変わるめぐる季節のある暮らしを表現したかったのだけど、どうにもこうにも言語化できなくて、そんなモヤモヤした時間を送っています。

キーワードとしては
「ともにつくる」と「循環する時間」、そして「一回性」。

ハウスマスターの仕事は日々、高校生も自身もお互いに変わっていっているから。今日この瞬間、どんな言葉をかけるか、一回性の高い仕事で結果が出るのが遅い(卒業してからのこともある)ことが特徴なのだろうと。

時間軸。これがテーマになりそうで。
本屋さんで新装版を購入し、読み始めます。


「アニミズムという希望」(山尾三省 野草社)

~第14話 回帰する時間より引用
「進歩する文明の時間」
文明というのは道具をもとにして始まるわけですね。道具とともに文明は始まる。ということはいったんぼく達が手にした道具というのは、後戻りすることはない。

進歩する文明の時間というのは、過去から未来に向かって上昇するかどうかは分かりませんけれども、少なくとも一直線に進んでいます。決して後戻りしません。

「回帰する自然の時間」
簡単に言えば太陽系の時間ということです。太陽系の惑星たちは自転してますし、自転しながら少しずつ太陽の周囲を公転していますね。地球の場合も1日に1回自転しながら太陽のまわりを1年かけて回りますね。この太陽系のシステムというのは、太陽系が宇宙の中に発生した46億年前から現在に至るまでまったく進歩してないんです。ただ同じ道を回帰しているだけ、循環しているだけなんです。

1日が24時間というこの時間は、1万年前も現在もまったく変わってないんです。日本のような温帯においては、春夏秋冬が繰り返される。このことは1万年先、1千万年先、1億年先もほとんど変わらないはずです。これが太陽系の自然時間です。そういう時間の中にも私たちは生きているわけです。

どんなに文明が進歩しようとも、私たち個人一人一人が生まれ成長し年老いて死ぬというこの姿は永遠に変わらない。人類が存在している限り変わらない。私たちの肉体と意識は回帰する、あるいは循環する時間に属しているんです。そこに属しながら、人類という種全体としては進歩してやまない文明をつくりつづけているんです。

今はその文明の速度がコンピューター関連技術に象徴されるように、目を奪うほどに早まっていますから、この文明の進歩についていくことだけが人生の目的であるかのようになってしまって、個人としての見心が、循環する、一歩も進歩しない時間に属していることを忘れてしまうんですね。

今の多くの社会不安、社会病理のようなものは、この二つの時間の相剋、個体としては循環する生(生理)の内にあるものが、つまり進歩しない時間を自らの内に内蔵しているものが、進歩する時間に奪い取られてしまっていることに原因していると思います。

その二つの時間の相の調和をつくり出していくことが、次の世紀、次の時代の最深のテーマだと思うんです。

俳句なり短歌なりというのは主として季節を歌うわけですね。季節というのはまさに回帰する時間そのものです。季節季節の植物なり動物に目を向けるということの中で、自然に回帰する時間に身心が入り込みますから、癒しがあり喜びがあるわけです。それで俳句ないしは短歌人口が未曽有に増えているんだと僕は思ってるんです。

~~~ここまで引用

「めぐる季節の中で、ともにつくる」
たぶんそういうニュアンスのことが言いたいのだろう、と。

循環する時間の中での一回性の高い瞬間。
いや、すべての瞬間は一回しかないのだけど。

高校生は日々、当人たちが変化しているので、それに対峙する大人たちも変化せざるを得ない。

人類学的ではあるけれど、「ともにつくる」場において、その場が何かを創造したとき。自らも無事ではいられない。つまり、相互作用により自らも創造(変容)されてしまう。

あ、それかもしれない。5年前に起こった「平成最後の」ブームに対する違和感の正体。
人びとが(メディアも)こぞって「平成最後の」と言い立てることが不思議でならなかった。

「平成最後の」という直線的な時間軸における「一回性」と「循環する時間(毎日)」という時間軸における「一回性」の違いは、「それによって自らが変容するのかどうか?」という違いなのかもしれない。

俳句や短歌は山尾さんの言葉で言えば、自然の時間に一体化し、そこから何かを生み出す行為であると言える。その小さな「創造」によって、詠んだ本人は変容するだろう。

違和感の理由のもうひとつは「平成最後の」が消費をかき立てる方法論であったから、なのかもしれない。「二度とこない」という一回性(希少性)は、人々の行動を促す。それを消費活動へとつなげる方法論としての「平成最後の」であったからなのかも。

僕にとっての価値は、「一回性」ではなくて、「創造する(場の)一回性」なのかもしれない。
そしてそれは、「循環する時間軸」(季節感とか)のほうが起こりやすい(感じやすい)のではないかと思う。

直線的な時間だけを生きていると、「進歩・進化・成長しなければならない」という不安に襲われる。
しかし、循環する時間において、「いまを生きる」ことで、「創造」が起こり、その創造により「変容」させられる。

それはもう、自発的なのか主体的なのか、それとも中動態的なのか、あいまいになっている。

循環する時間において(本来は直進する時間においても)、「変化(変容)」は前提である。生きている、それは「変容」の中にある、ということになる。

その変容のプロセスにある私たちがたまたまこの場所、この瞬間に出会ったことで始まる何か。

たぶんそれを見てみたいのだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び日記

2023年06月12日

「実験」する3年間を「ともにつくる」

6月10-11日地域みらい留学オンライン合同説明会でした。

高校3年間を「越境」して過ごす地域みらい留学についてはこちらから。
https://c-mirai.jp/

阿賀黎明高校は「地域みらい留学」に参画して4年目となります。
https://c-mirai.jp/schools/18

学校見学&「まなび体験会」の日程はこちらから
https://www.agareimei.com/posts/43966609

とある高校のプレゼンテーションにモヤモヤが募ったのでアウトプットしておきます。

キーワードとして挙げていた
・未知の領域に踏み出す価値
・挑戦的な高校生活
・人生における重要な経験
・挑戦、貢献、主体的
・踏み込み、挑戦し、失敗を称えあう

なんていうか。
衝撃的すぎた。
単純に自分だったら行きたくないな、って思った。

・都会で経済資源を活用して学力アップに「挑戦」するのと
・地方で地域資源を活用して探究力アップに「挑戦」するのと

何が違うのだろうと?
パラダイムが一緒じゃないかと。
挑戦することを強いられるってツラくないか?って。

「つらいこともしんどいこともあります。でも、3年後には来て本当によかった。ってなります。」

それ「目的」じゃなくて「結果」じゃないですか。って思った。個人が「挑戦」して「失敗」してする「ふりかえり」は、「ふりかえり」ではなく「反省会」では、とも思った。ともに「実験」して「結果」をふまえてする「ふりかえり」でたくさんの「発見」をしたいと思うよ。「達成」ではなく「発見」をエネルギーに変えたい。

阿賀黎明高校のテーマ「ともにつくる」についてあらためて考えさせられた。

「挑戦」と「失敗」と「成長」って15歳がやらなければならないことなのでしょうか。しかもひとりひとりが個人戦で。そもそも予測不可能で「答えのない」時代に「挑戦」「失敗」「成長」を定義することが可能なのでしょうか?挑戦も失敗も成長も、答えやゴールがあっての話ではないのかって思った。

最大1m50cmの雪が積もる、冬がちゃんと来るこの町で、自然や人、めぐる季節に身を委ねて、巻き込まれて巻き込みながら、気がついたら辿り着く「景色」や自身の「変化」を知る、そんな高校生活をともにつくりたいと僕は思っています。

暮らしや自然も、地域の人たちとも、つくり、つくられる。そんな日々を過ごしたいなと。

「挑戦」「失敗」「成長」サイクルじゃなくて「実験」「発見」「変容」サイクルをつくりたいなと。

踏み込む⇒振り返るではなくて
巻き込まれる(誘われる)⇒行動する⇒(結果を)観察する⇒発見する⇒考える⇒企画する(巻き込まれる)⇒行動する⇒観察する⇒発見する

この「企画する(巻き込まれる)」のところにグラデーションがあって、だんだんと企画の度合いが上がっていく人もいるだろうし、サポートタイプの人はいつまでも「巻き込まれる(誘われて参加する)」を繰り返しているかもしれない。

でも、それでいいんだ。

個人がひとりひとり「挑戦」して「失敗」して「成長」しなければならない。なんてことはないと思うのだよ。チーム(共同体)の中で自分の得意とニガテを活きる場を探し見つけていけばいいと思うんだよね。

それがテーマに対しての違和感。
もうひとつは、プレゼンテーションに対するスタイルについて。

~~~
あなたも挑戦しないか?ここには挑戦する仲間とそれを支える大人たちがいるから、安心して失敗すればいい。
~~~

そんなメッセージ。それってどこから発しているんだろうって。プレゼンターはどこに立っているのか?って。オンライン(Zoom)開催なのに、ずいぶんと遠い場所から話しているんだなあって。

3年間「地域みらい留学」の募集活動をやってきて、僕的なベストコメントは、前H校長が放った一言だったのだけど。

合同説明会で最後に一言を、っていうパターンはよくあります。

「校長先生、最後に一言お願いします」

「私も1年目です。一緒に頑張りましょう」

うわー。
校長、いきなり画面の向こう側(聞いている中学生側)に行っちゃったよ。って思った。
いい一言だなあと。

「ともにつくる」をオンライン上でもつくっていくこと。
たぶんそれを根底にしなければならないな。

某O氏(笑)の名言を思い出す。「阿賀黎明高校は生徒募集やめます。僕たちが募集しているのは一緒につくっていく仲間です」

そんな風に、横に並んで、一緒に未来を見つめながら話しかけるような、そんなオンライン説明会ができないだろうか。

VUCAの時代だからファシリテーション能力や創造的な力が必要、とか、充実した3年間にするために「挑戦」「失敗」「成長」をしようぜっていうパラダイムではなく。

いや。そういう時もあってもいいと思うし、社会に出てからもある程度必要だと思うのだけど。

高校3年間は、循環する暮らしを楽しみながら、巻き込まれて時に巻き込みながら、そこにいる地域や自分を観察して発見し、そこから始まる何かに身を委ねてみる。

そんな実験的な3年間を「ともにつくっていきたいな」と僕は思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)学び日記

2023年06月05日

お客は誰か?

福島県楢葉町の木戸の小料理「結のはじまり」かおりママとの企画
余白をデザインする新スナック学講座が始まりました。

定員ぴったりの8名が参加。
自己紹介の参加動機からさまざま
・イベント時のコミュニケーションをデザインしたい
・高校生向けの企画がしたい
・ふらっと立ち寄る場をつくりたい
・コミュニティデザインしたい
・スナックをやってみたい
・お酒が好き
・フラットな場づくりがしたい

多種多様な志向の人たちが集まりました。
なかなかいいタイトル=問い、祈りになったなあと。
そしてこれは2か月で企画完成までいくのか、っていう

ひとまず僕も学びます。
スナック的とは
・店員と客の境界があいまい
・お客がいつのまにか手伝っている
・愛はあるけど関心のない関係性
・水割りをつくる動作(身体性)
・サードプレイス

グループワークでスナック的についてキーワードトーク。
印象に残ったのは、スナックにあるネットやSNSには載っていないオフラインの情報の中に地域における大切なことがあるのではないか、という意見。

たしかに、地方都市こそ、スナックの機能が生きるのかもしれない。

そして、メインイベントのかおりママの話。

・自分がもっている雰囲気=すでに「場」である。
・コミュニティを発酵させる(自分も変わり、相手も変わっていく)

ポイント
★最初のドリンクをお渡しするときの一言が重要「おつかれさま★」とか
★あいづちと質問すること
★商品に伝えたいメッセージを込める。
★ハード(席配置)を変えることで伝える。
★カウンター=誰かと誰かが隣になる
★カウンターの椅子⇒クルクル回るやつにすると後ろを向きやすくなる。

参加者からの質問では、
誰を呼びたいか?というのと経営的に誰を呼んだらいいのか?を整理して考えた方がいいのか?ということ。

僕が思ったのは、それがまったく別の人に乖離しているのはつらいなと思った。
誰を呼びたいか=お客は誰か?その周辺に経営的に必要な誰かをいれていくのもいいと思った。

「お客は誰か?」
その前に「お客」そのものの定義をしていく必要がある、と。  

Posted by ニシダタクジ at 09:20Comments(0)学び日記

2023年06月03日

「探究」というヘンテコな別の列車


「協働する探究のデザイン: 社会をよくする学びをつくる」(藤原さと 平凡社)

読み終わりました。
ジーンとくる読後感。
心地よい敗北感です。

何歩も先に行っている人がいる。それはそれで希望になります。
最後にふたたび「探究はどこへ向かうのか?」と問いかけてきます。

~~~以下メモ
競走馬の中にはレースに出るために「ブリンカー(遮眼革):視野を狭める器具」が必要な馬もいる。

馬は草食動物でもともと臆病なのでいろいろなものが見えると怖くて走れなくなったり、集中できなくなるため、ブリンカーが必要になる。

決められたコースをひた走りに走るには、余計なコミュニケーションなど遮断されたほうがいいのである。私たちはそれと同じことを子どもたちに強いてはいないだろうか。

国家成長のための直線的な人材育成というモデルは、そろそろ本気で疑われてもいいのではないかと思う。そのために子どもたちからブリンカーを外し、適切な活動ができるように自由にしなければならない。
~~~

元競馬ファンの私としては非常に刺さる言葉です。
ブリンカーさせられて走らされている、そんな学校はいやですね。

そして、ラストは「止まらぬ列車」について
ノーベル物理学賞の湯川秀樹と哲学者の梅原猛の対話

~~~
梅原は、地球全体の将来を真摯に考えることを妨げるのが直線の思想、つまりあたかもスピードの出た止まらぬ汽車に乗り、それを文明や善であるかのごとく考えることだと批判した。それに対し湯川が「できることでもやらぬということ、これが私はこれからの問題だと思う」と応答した。もう50年前の対話である。現状はどれだけ変わったのだろうか。

今の社会・教育は窮屈だと思う。なぜかを問う間もないまま、止まらない列車に乗せられ、降りるというオプションを与えられない。一旦乗ってしまうと、乗客としてあれをやれこれをやれと言われ続ける。それに耐えきれずに降りてしまうと社会の落伍者としての烙印を押される。一方で、「あなたは止まらない列車に乗る権利はありません」と乗る前からその辺にほうっておかれる人もいる。

止まらない列車に乗っている乗客の顔はのっぺらぼうである。最短距離を走ろうとせず、寄り道ばかりする子どもは怒られる。ミヒャエル・エンデの童話「モモ」では、人の時間を奪う灰色の男たちが出てくる。「時間を節約すると、君の生活は幸せに豊かになる」と囁く。

それでも、ここ100年くらいは「止まらない列車」に乗ることで、生活が保証されたり、夜や長期の休みのときは列車を降りて、人間らしい生活を過ごすことも可能だったろう。

しかし、現代の「止まらない列車」は一体どこに行こうとしているのだろうか。行き先はVUCAと呼ばれる、変動性が高く、不確実で複雑で曖昧な世界だろうか。だとしたら、私たちは一体何を準備しようとしているのだろうか。

冒頭より、「探究」とは、何か未知のものに出会ったときに、どうふるまい、どう向き合うかを学ぶことではないだろうか、と伝えてきた。しかし、「探究」ということを考えたときに、私がとても気になるのが、子どもたちを探究という名のついた別の列車に乗せるように教育することである。あたかも「探究」がよい職業に就くための道具のように扱われ、短い時間で最大の効果を上げるようなプレッシャーに晒される。

子どもたちも教師も一向に楽にならない。そもそも「列車に乗る」ということと「探究」は矛盾しているのだから、混乱させられたままである。そんなヘンテコな列車に乗るくらいなら、乗らないほうがいいとすら思う。

私たちは、もうどこに向かうともわからない列車を降りて、羅針盤とひつようなものだけナップザックに入れて、徒歩旅行をスタートすることはできないだろうか。もしくはそういった時間をもつことはできないだろうか。そしてその羅針盤の示す先は、公正なのかもしれないし、自由なのかもしれないし、幸福なのかもしれない。
~~~

まさに。「学級の歴史学」を読んで苦しかったこと、もやもやしていたことがやっと言語化された。

「探究」というカリキュラムを設計する。

それこそが「探究という名のついた別の列車」なのではないか、という違和感だった。

そうじゃないんだ。その列車の目的地に「幸せ」はないんだ。この100年続いてきた「止まらない列車」の先にだって本当に幸せがあったのか疑わしい。人も社会も地球もボロボロじゃないか。

列車を降り、自分の足で歩いてみる。そんな徒歩旅行を始めてみないか?

そんな風に問いかけ、待つ探究の授業ができないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 05:46Comments(0)学び日記

2023年06月02日

「評価」ってなんのためにあるんだろう?


「協働する探究のデザイン: 社会をよくする学びをつくる」(藤原さと 平凡社)

刺さります。
刺さりまくります。
いい本。

あなたのやってる「探究」は本当に「探究」ですか?
と問いかけられまくる1冊。苦しいです。

ということで「第7章:探究の評価をデザインする」よりメモ

~~~
評価の4項目

1 総括的評価から形成的評価へ
ブルームは教育活動における評価を「診断的評価」「形成的評価」「総括的評価」の3類型に分けた。
診断的評価:前もって学習者の状況を確認し、学びの設計に役立てる。
形成的評価:学びの過程で何が起き、何を学んだのか、何がうまくいき、うまくいかなかったのか。うまくいかなかったとしたらその原因は何か、私は何をすればいいのか。
総括的評価:一定期間に学んだことを総括的に評価する。テスト/プレゼンテーションの発表による評価など。

2 評定・評価・見取りを区別する
評定:数値による総括的評価
評価:アセスメントとしての評価:3つの観点から見ていく形成的評価
見取り:子どもたちの日々の様子を記録する

3 フィードバックの重要性
「フィードバック」は、漠然としたアドバイスや評価のことではない。基本的には「あなたはどこに到達しようとしており」「どこにいるのか」、そして「どうしたらいいのか」をガイドするものである。つまり、生徒が自分の学びを理解するために必要な情報が与えられることが重要であり、結果として学びへの意欲が増すものでなければならない。

4 教師による評価から自己評価・ピア評価へ
生徒中心の評価は生徒一人ひとりにとって十分な情報が必要であると共に、協働的な営みであり、内省を促すものでなくてはならない。自分一人で自分のことを理解するのは難しい。私たちは、社会と接し、相互に作用しながらだんだんに「私」がわかってくるものである。そうなると「自己評価」だけではなく「ピア評価」をバランスよく取り入れつつ、自分を知るプロセスをデザインしていく必要がある。
~~~

ということで、ついに登場、ケン・ロビンソン卿と佐藤学先生です。
もう、いいですよ。アツいです。

~~~
人の才能は天然資源と同じで、探さないと見つからないし、表層に転がっているものでもなく、才能が現れる状況をつくり出すことが教育の役割だといった。彼は人生において、自分の「エレメント」を見つけることが何よりも重要であるとした。

「エレメント」とは、「自分の才能と情熱が出会う場所」を意味し、それは「自分にとって、それをするのが自然に感じられること」である。

ケン・ロビンソン卿がいう「自分の才能と情熱が出会う場所」をどのようにつくり上げていけばいいのだろうか。

佐藤学氏は、「カリキュラム」はラテン語の「走路」を語源とし、「人生の来歴」を含意する言葉であり、学校において、教師と子どもが創造する教育体験の総体を意味する言葉である、という

そもそも子どもたちは人生の旅を歩んでいるわけで、そのある一定の期間、ある人たちと共に「学校」という場で過ごし、文化的・社会的・倫理的な経験をする。だとしたら、その経験に寄り添い、共に歩むような評価を実現したいものである。
~~~

うわー。めちゃめちゃそんな評価したいです。
「カリキュラム」は「教師と子どもが創造する教育体験の総体」を意味するのか!って
アツいっす。
教師も生徒も、共に創造し、創造されちゃうのが「カリキュラム」なんですね。

そして、評価について3つに分けて説明する

~~~
1 はじまりの評価:初期評価
子どもがどのような状態にあるか。どのような意志をもって教室にいて、どのようなことが得意で、どのようなことが好きで、どのようなパーソナリティを持っているかという確認。初期状態が確認されていなければ、学校における経験によって児童・生徒たちがどう変容したのか測ることができない。

それをしなければ、その子がどうありたいか、どう変化したか、ではなく社会が決めた「規格」に当てはまるのかどうかでずっと評価され続ける。

2 中間の評価
「自分自身との関係」
「他の人との関係」
「世界との関係」

ハイテック・ハイの中間評価
・なぜ今やっていることが重要なのか
・何が私たちにこの活動が価値があると感じさせているのだろうか
・なぜ私たちはこの活動に価値があると感じるのだろうか
・この活動をすることで何か違いが出てくるのだおるか
・私たちの活動は私たちの学びや世界に対しての意義からいって、どこに向かっているのだろうか

形成的評価における前提条件として、「はじまりの評価」が全人的に行われ、その続きとして意味のある学びができているか確認する「中間の評価」が連続していなければならない。そして、形成的評価は、教師側が生徒を評価しているようで、実は教師側こそが一番評価されるという意味で非常に興味深いものである。

3 終わりの評価

決定的に重要なのは「自分ははじめどこにいて」「どのような努力をして」「最終的に何を学び」「これからどうしていきたいか」と内省し、それを人に説明し、そしてアクションを起こせるように子どもたちを導いていくことである。「終わりの評価」の目標は、最終成果物をつくった「自分」に対する誇りをもてるようにすることである。ここでいう誇りは、他者からの評価ではなく、真摯に取り組んだ自分への自己評価である。

ハイテック・ハイの「学びのプレゼンテーション」
・重要だと考える学びのゴールやスキルにどこまで自分は到達したか
・プロジェクトに関連する文脈・規律のなかで、どのくらい自分は開発され、成長したと感じるか
・学びのプロセスと態度・習慣はどのようなものだったか
・取り組んでいるものに対する気持ちや学びの経験はどのようなものだったか。
・使われている教育手法に対するフィット感はどうだったか。
・何について誇りをもっているか。それはなぜか。
・ゴールとネクストステップは考えられているか。

評価というものは最終的には「自分のことを自分の言葉で表現できること」に尽きると私は考えている。そして、その最終的な目的は「私は私であってよい」と思えることではないだろうか。

「人はこうあるべき」と上から示され、それに当てはまっているかどうかで評価されることの多い世の中で、今の子どもたちは追い詰められているように見える。だからこそ、「私は私であってよい」と自己信頼に結びつくような評価が増えていってほしいと願っている。
~~~

うわー、アツいなあ。藤原さん。
そうなのよ、そこなんですよ!
評価ってなんのためにあるんだろう?
ってすごく思います。

「評価」「カリキュラム」について根源的に揺さぶられてしまう1冊。

カリキュラム=「教師と子どもが創造する教育体験の総体」
評価=「私は私であってよい」という自己信頼にむすびつくもの

そんな「探究」を実現したいものです。心からそう思います。  

Posted by ニシダタクジ at 17:08Comments(0)学び日記

2023年06月02日

子どもの一日は一編の詩である。今日一日が果たして詩たりえたか


「協働する探究のデザイン: 社会をよくする学びをつくる」
(藤原さと 平凡社)

いきなりビビっと来てしまったので、メモはじめます。
やっぱ「探究」って人類学的なアプローチだよな、と。

~~~
インゴルドは、制覇いくつかの点を直線で結び、目的に向けて最短距離を進むネットワークではなく、動的に生成的に紡がれていく網細工(メッシュワーク)であると考えた。そして生命とは「あらゆる生物を紡ぎ出す無数の意図によって織りなされる多様体」ではいかといった。このことと探究は密接に関与する。

自らが唯一の個性的な探究者であることが心底わかれば、本当の意味で他者と協働できるようになる。一人ひとり固有の探究者である子どもたちの個性的な歩みも尊重することができる。

探究する学びとはつまるところ、未知のものに出会ったときに、私たちがどのようにふるまい、向き合うかを学ぶことではないだろうか。

「アマチュアリズムとは、文字通りの意味を言えば、利益とか利害に、もしくは専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。」(エドワード・サイード)

「伝達的価値観」
・まず知識を与え、学びをガイドし、知識・スキルを発展できるようにしていく。
・子どもの行動を変化させることに重点を置く。学びは刺激とその刺激に対する反応から生まれる。外部的な働きかけによって「学び」が起きるという考え方をする。

「構成的価値観」
・自ら学ぶ子は、興味、過去の経験、現在の理解度を土台にして、自ら学びを構成していく
・生徒の経験と認知にフォーカスする。学びは、個人的な経験がその子の考えや行動に変化を及ぼすときに発生する、と考える。
・学びとは、外発的ではなく内発的に起こるものであると考える。

ここで大事なのは、探究する学び、構成的な価値観が正しく、伝達的価値観が間違っているという風に断定しないことである。

誰しも構成的な価値観と伝統的な価値観が入り混じっていることが実際には大石、探究学習やプロジェクト型学習の過程であっても、古典をしっかり読み込むというような永続主義的な学びの要素が入り込み、入れ子構造で学んでいくことのほうがむしろ普通である。人は一つの主義で生きているわけではなく、その時々で違った考え方を使い分けている。

イエナプランは、「一人ひとりの個別の発達を最大限にすることを目指すのではなく、人は誰でも他人との関わりを持つことで人間らしくなる。」と考える。ペーターゼンは、共に生き、共に学ぶことが教育の中心にあると考えた。

イエナプランでは「対話」「遊び」「仕事(学習)」「催し」が「ともに学ぶ」の4要素として示されており、リズミカルに組まれた日課に沿って、遊びながら、仕事をしながら、対話をしながら、また共に催しに参加しながら、共同体として学んでいく。

淀川茂重
1 教育は学説や思想ではない。子どもの事実から出発する
2 学びは頭だけで起きるのではない。からだ全体で学ぶ
3 子どもの学びは総合的である

伊那小では、子どもを自ら求め、自ら決め、自ら動き出す力をもっている存在であると考え、からだ全体で学ぶことを支援する。

「子どもの一日は一編の詩である。今日一日が果たして詩足りえたか」この言葉は、伊那小学校の教師たちがことあるごとに立ち戻るものである。

学校は単なる職場ではなく詩境であり、学校は子どもと教師の「人生邂逅の場」として人間形成の現実境であってほしいと言葉が添えられていた。言葉になるものとならないものの「あわい」に子どもたちは生きている。そして、教師たちは徹底的にそのことに寄り添っていく。

子どもはたとえばある花を見た時に、その花の名前ではなく、そこに漂う匂いや色、生命力、音、花の感情などさまざまなものを読み取っている。そして、その観察眼たるや大人を圧倒的に凌駕する。そのことに対する尊敬が基底にあれば、不用意に子どもを引っ張ろうなどとは思わないはずである。

リップマン「探求の共同体」
1 批判的思考
2 自律的思考
3 共同的思考
4 創造的思考

ジェネレーターとしての大人のありかた
G=Guide(ガイドする)
R=Release(解き放ち、待つ)
A=Accept(思いつき・発見を認める)
S=Show(失敗も無様な部分もさらけだす、本物を見せて・魅せる)
P=Participate(一蓮托生の場に参加する)

ジェネレーターシップ
1 やってみないとわからない状況で一歩踏み出す。
2 辛く楽しく面倒なプロセスを面白くしようとする。
3 みんなで試し続け、つくり直して発見を積み重ねる。
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第2章まで読み終わりました。
いちばん心を揺さぶられたのは伊那小学校の実践とメッセージ。

~~~あらためて引用
「子どもの一日は一編の詩である。今日一日が果たして詩足りえたか」この言葉は、伊那小学校の教師たちがことあるごとに立ち戻るものである。

学校は単なる職場ではなく詩境であり、学校は子どもと教師の「人生邂逅の場」として人間形成の現実境であってほしいと言葉が添えられていた。言葉になるものとならないものの「あわい」に子どもたちは生きている。そして、教師たちは徹底的にそのことに寄り添っていく。

子どもはたとえばある花を見た時に、その花の名前ではなく、そこに漂う匂いや色、生命力、音、花の感情などさまざまなものを読み取っている。そして、その観察眼たるや大人を圧倒的に凌駕する。そのことに対する尊敬が基底にあれば、不用意に子どもを引っ張ろうなどとは思わないはずである。
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今日一日が果たして詩たりえたか?
そんな日々を、子どもたちは1日1日、生きている。
「教育」に携わるっていうのはそういうことなのかもしれないと。

今日一日という詩。
人生邂逅=めぐり合うこと、奇跡の出会い、運命の出来事の場としての1日。
子どもにとっても教師にとっても伊那小学校の1日1日は、そんな瞬間なのだろう。

「観察」ってやっぱりキーワードだと思った。
子どもに絶対にかなわないもの。
それは「観察」と「感性」だと思う。

そこにフォーカスして企画や活動をつくっていくことで
子どもと大人はフラットに関われるのではないか。

昨日noteで見つけたこの記事にもハッとさせられた。
https://note.com/shinshinohara/n/n58737391137b
「問いかけ、能動性が出現した奇跡に驚く」

大学生になってからでも、そんなシンプルなことで、その人は活き活きと学び、暮らし出すのだ。

「能動性が出現する」なんという奇跡だろうか。
そしてそれをほめるのではなくただ「驚く」こと。
それを「問いかけ」という機会提供によって実現していく。

「学級」というシステムに適応しすぎた結果。
子どもたちは能動性を発揮する機会も意欲も力も奪われた

しかしそれは、もともとあったものではなく、後天的に身につけたものである。
それをどのように解除していくのか。
そのヒントが詰まっていた。

「探究する学び」のいいところは、答えがないということ。
大人にも子どもにも地域ごとにも違った答えがあるかもしれないし、ひとつの答えは仮説にすぎないということ。

それが「探究する学び」の面白さなのだろうなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 09:07Comments(0)学び日記