2023年06月14日
循環する時間の中にこそ創造的な一回性が生まれる
月曜日、ハウスマスター募集の記事作成の取材を受けました。
阿賀の高校魅力化のことを文字化するときに、冬がちゃんと来て四季が移り変わるめぐる季節のある暮らしを表現したかったのだけど、どうにもこうにも言語化できなくて、そんなモヤモヤした時間を送っています。
キーワードとしては
「ともにつくる」と「循環する時間」、そして「一回性」。
ハウスマスターの仕事は日々、高校生も自身もお互いに変わっていっているから。今日この瞬間、どんな言葉をかけるか、一回性の高い仕事で結果が出るのが遅い(卒業してからのこともある)ことが特徴なのだろうと。
時間軸。これがテーマになりそうで。
本屋さんで新装版を購入し、読み始めます。
「アニミズムという希望」(山尾三省 野草社)
~第14話 回帰する時間より引用
「進歩する文明の時間」
文明というのは道具をもとにして始まるわけですね。道具とともに文明は始まる。ということはいったんぼく達が手にした道具というのは、後戻りすることはない。
進歩する文明の時間というのは、過去から未来に向かって上昇するかどうかは分かりませんけれども、少なくとも一直線に進んでいます。決して後戻りしません。
「回帰する自然の時間」
簡単に言えば太陽系の時間ということです。太陽系の惑星たちは自転してますし、自転しながら少しずつ太陽の周囲を公転していますね。地球の場合も1日に1回自転しながら太陽のまわりを1年かけて回りますね。この太陽系のシステムというのは、太陽系が宇宙の中に発生した46億年前から現在に至るまでまったく進歩してないんです。ただ同じ道を回帰しているだけ、循環しているだけなんです。
1日が24時間というこの時間は、1万年前も現在もまったく変わってないんです。日本のような温帯においては、春夏秋冬が繰り返される。このことは1万年先、1千万年先、1億年先もほとんど変わらないはずです。これが太陽系の自然時間です。そういう時間の中にも私たちは生きているわけです。
どんなに文明が進歩しようとも、私たち個人一人一人が生まれ成長し年老いて死ぬというこの姿は永遠に変わらない。人類が存在している限り変わらない。私たちの肉体と意識は回帰する、あるいは循環する時間に属しているんです。そこに属しながら、人類という種全体としては進歩してやまない文明をつくりつづけているんです。
今はその文明の速度がコンピューター関連技術に象徴されるように、目を奪うほどに早まっていますから、この文明の進歩についていくことだけが人生の目的であるかのようになってしまって、個人としての見心が、循環する、一歩も進歩しない時間に属していることを忘れてしまうんですね。
今の多くの社会不安、社会病理のようなものは、この二つの時間の相剋、個体としては循環する生(生理)の内にあるものが、つまり進歩しない時間を自らの内に内蔵しているものが、進歩する時間に奪い取られてしまっていることに原因していると思います。
その二つの時間の相の調和をつくり出していくことが、次の世紀、次の時代の最深のテーマだと思うんです。
俳句なり短歌なりというのは主として季節を歌うわけですね。季節というのはまさに回帰する時間そのものです。季節季節の植物なり動物に目を向けるということの中で、自然に回帰する時間に身心が入り込みますから、癒しがあり喜びがあるわけです。それで俳句ないしは短歌人口が未曽有に増えているんだと僕は思ってるんです。
~~~ここまで引用
「めぐる季節の中で、ともにつくる」
たぶんそういうニュアンスのことが言いたいのだろう、と。
循環する時間の中での一回性の高い瞬間。
いや、すべての瞬間は一回しかないのだけど。
高校生は日々、当人たちが変化しているので、それに対峙する大人たちも変化せざるを得ない。
人類学的ではあるけれど、「ともにつくる」場において、その場が何かを創造したとき。自らも無事ではいられない。つまり、相互作用により自らも創造(変容)されてしまう。
あ、それかもしれない。5年前に起こった「平成最後の」ブームに対する違和感の正体。
人びとが(メディアも)こぞって「平成最後の」と言い立てることが不思議でならなかった。
「平成最後の」という直線的な時間軸における「一回性」と「循環する時間(毎日)」という時間軸における「一回性」の違いは、「それによって自らが変容するのかどうか?」という違いなのかもしれない。
俳句や短歌は山尾さんの言葉で言えば、自然の時間に一体化し、そこから何かを生み出す行為であると言える。その小さな「創造」によって、詠んだ本人は変容するだろう。
違和感の理由のもうひとつは「平成最後の」が消費をかき立てる方法論であったから、なのかもしれない。「二度とこない」という一回性(希少性)は、人々の行動を促す。それを消費活動へとつなげる方法論としての「平成最後の」であったからなのかも。
僕にとっての価値は、「一回性」ではなくて、「創造する(場の)一回性」なのかもしれない。
そしてそれは、「循環する時間軸」(季節感とか)のほうが起こりやすい(感じやすい)のではないかと思う。
直線的な時間だけを生きていると、「進歩・進化・成長しなければならない」という不安に襲われる。
しかし、循環する時間において、「いまを生きる」ことで、「創造」が起こり、その創造により「変容」させられる。
それはもう、自発的なのか主体的なのか、それとも中動態的なのか、あいまいになっている。
循環する時間において(本来は直進する時間においても)、「変化(変容)」は前提である。生きている、それは「変容」の中にある、ということになる。
その変容のプロセスにある私たちがたまたまこの場所、この瞬間に出会ったことで始まる何か。
たぶんそれを見てみたいのだ。
阿賀の高校魅力化のことを文字化するときに、冬がちゃんと来て四季が移り変わるめぐる季節のある暮らしを表現したかったのだけど、どうにもこうにも言語化できなくて、そんなモヤモヤした時間を送っています。
キーワードとしては
「ともにつくる」と「循環する時間」、そして「一回性」。
ハウスマスターの仕事は日々、高校生も自身もお互いに変わっていっているから。今日この瞬間、どんな言葉をかけるか、一回性の高い仕事で結果が出るのが遅い(卒業してからのこともある)ことが特徴なのだろうと。
時間軸。これがテーマになりそうで。
本屋さんで新装版を購入し、読み始めます。
「アニミズムという希望」(山尾三省 野草社)
~第14話 回帰する時間より引用
「進歩する文明の時間」
文明というのは道具をもとにして始まるわけですね。道具とともに文明は始まる。ということはいったんぼく達が手にした道具というのは、後戻りすることはない。
進歩する文明の時間というのは、過去から未来に向かって上昇するかどうかは分かりませんけれども、少なくとも一直線に進んでいます。決して後戻りしません。
「回帰する自然の時間」
簡単に言えば太陽系の時間ということです。太陽系の惑星たちは自転してますし、自転しながら少しずつ太陽の周囲を公転していますね。地球の場合も1日に1回自転しながら太陽のまわりを1年かけて回りますね。この太陽系のシステムというのは、太陽系が宇宙の中に発生した46億年前から現在に至るまでまったく進歩してないんです。ただ同じ道を回帰しているだけ、循環しているだけなんです。
1日が24時間というこの時間は、1万年前も現在もまったく変わってないんです。日本のような温帯においては、春夏秋冬が繰り返される。このことは1万年先、1千万年先、1億年先もほとんど変わらないはずです。これが太陽系の自然時間です。そういう時間の中にも私たちは生きているわけです。
どんなに文明が進歩しようとも、私たち個人一人一人が生まれ成長し年老いて死ぬというこの姿は永遠に変わらない。人類が存在している限り変わらない。私たちの肉体と意識は回帰する、あるいは循環する時間に属しているんです。そこに属しながら、人類という種全体としては進歩してやまない文明をつくりつづけているんです。
今はその文明の速度がコンピューター関連技術に象徴されるように、目を奪うほどに早まっていますから、この文明の進歩についていくことだけが人生の目的であるかのようになってしまって、個人としての見心が、循環する、一歩も進歩しない時間に属していることを忘れてしまうんですね。
今の多くの社会不安、社会病理のようなものは、この二つの時間の相剋、個体としては循環する生(生理)の内にあるものが、つまり進歩しない時間を自らの内に内蔵しているものが、進歩する時間に奪い取られてしまっていることに原因していると思います。
その二つの時間の相の調和をつくり出していくことが、次の世紀、次の時代の最深のテーマだと思うんです。
俳句なり短歌なりというのは主として季節を歌うわけですね。季節というのはまさに回帰する時間そのものです。季節季節の植物なり動物に目を向けるということの中で、自然に回帰する時間に身心が入り込みますから、癒しがあり喜びがあるわけです。それで俳句ないしは短歌人口が未曽有に増えているんだと僕は思ってるんです。
~~~ここまで引用
「めぐる季節の中で、ともにつくる」
たぶんそういうニュアンスのことが言いたいのだろう、と。
循環する時間の中での一回性の高い瞬間。
いや、すべての瞬間は一回しかないのだけど。
高校生は日々、当人たちが変化しているので、それに対峙する大人たちも変化せざるを得ない。
人類学的ではあるけれど、「ともにつくる」場において、その場が何かを創造したとき。自らも無事ではいられない。つまり、相互作用により自らも創造(変容)されてしまう。
あ、それかもしれない。5年前に起こった「平成最後の」ブームに対する違和感の正体。
人びとが(メディアも)こぞって「平成最後の」と言い立てることが不思議でならなかった。
「平成最後の」という直線的な時間軸における「一回性」と「循環する時間(毎日)」という時間軸における「一回性」の違いは、「それによって自らが変容するのかどうか?」という違いなのかもしれない。
俳句や短歌は山尾さんの言葉で言えば、自然の時間に一体化し、そこから何かを生み出す行為であると言える。その小さな「創造」によって、詠んだ本人は変容するだろう。
違和感の理由のもうひとつは「平成最後の」が消費をかき立てる方法論であったから、なのかもしれない。「二度とこない」という一回性(希少性)は、人々の行動を促す。それを消費活動へとつなげる方法論としての「平成最後の」であったからなのかも。
僕にとっての価値は、「一回性」ではなくて、「創造する(場の)一回性」なのかもしれない。
そしてそれは、「循環する時間軸」(季節感とか)のほうが起こりやすい(感じやすい)のではないかと思う。
直線的な時間だけを生きていると、「進歩・進化・成長しなければならない」という不安に襲われる。
しかし、循環する時間において、「いまを生きる」ことで、「創造」が起こり、その創造により「変容」させられる。
それはもう、自発的なのか主体的なのか、それとも中動態的なのか、あいまいになっている。
循環する時間において(本来は直進する時間においても)、「変化(変容)」は前提である。生きている、それは「変容」の中にある、ということになる。
その変容のプロセスにある私たちがたまたまこの場所、この瞬間に出会ったことで始まる何か。
たぶんそれを見てみたいのだ。
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