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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年08月20日

「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感


「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)

3月に西村佳哲さんに聞き、
4月にブックスキューブリック箱崎店で購入し、
4か月寝かせておりましたが、
お盆に読んだ「日本文化の論点」(宇野常寛 ちくま新書)
でも言及されていたので、読み始めました。

こんどの週末に行われる
陸奥賢さん、江口歩さんとのコラボに向けて、
この本は読んでおいたほうがいいのではないかと。

この本は、中動態(いま、単語登録しました)
をめぐる旅。
考古学的言語学?人類学的言語学?
とでも言うのだろうか。

國分さんの語り口が、まるで名探偵のように
的を射ていて、とてもワクワクしながら読める。
この週末で第6章まで読みました。

ここらで少しまとめておこうかなと。

まずこの本は
「能動態」(する)と「受動態」(される)という現在の区分のほかに
「中動態」があったとするところから始まる。

~~~以下シビれたところを本書より引用(自分のメモ含む)

実は多くの言語が能動態と受動態という区別を知らない。

責任を負うためには人は能動的でなければならない。

責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉する、ということである。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題だった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

ギリシア世界には「意志」はなかった。能動態が中動態に対立している世界に「意志」はない。

おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきたこの思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだという見解は、暗々裏に、未来を真正な時制とすることを否定している。

アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去からの切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力の存在が認められる。

選択は過去の帰結としてあるが、意志は、過去を断ち切るものとして責任に付随している。

選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。

能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。

「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。

出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。

意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。

私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。

~~~ここまで引用

どんどん先を読み進めたいところなのだけど。

ギリシア世界には、「意志」は存在しないし、
それに伴って「未来」も存在しない。
過去からつづく流れの中で、状態(状況)としての今がある。

能動態‐受動態という言語体系は、
「この行為は誰のものか?」と問うが、
その問いはそんなに大切なのか?

大切だとしたら、それが大切とされるようになったのはいつからなのか?
そんな問いが浮かぶ。

そこで。
僕の興味ジャンルに、このことを
応用しようとすると、

小学生~大学生が向き合っている(向き合わざるを得ない、強制的に向き合わされている)
次のふたつの問いが浮かんでくる。

「やりたいことは何か?」
「何になりたいのか?」
この二つはまさに「意志」と「未来」を問う
質問なのではないか。

あたりまえだけど、
「言葉」と「世界」は相互に作用している。
「言葉」が「世界」を規定し、
「世界」が「言葉」を規定している。

だから、「やりたいことは何か?」
と問われれば、「やりたいことは何だろう?」
と考え、それに答えようとしてしまう。

でもさ、
そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。
能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。

もしかしたら、そんなところに
これらふたつの問いの
違和感の正体があるような、ないような気がする本です。
いやあ、これだから本は面白いなあと思いました。

で、この本がどう週末のイベントに関係しているかというと、

陸奥さんのテーマは「コモンズ(共有地)デザイン」
江口さんのテーマは「越境」

大きな意味でふたりは、
「分ける」ということに対して、
チャレンジしているのではないかなと思った。

僕は、そのヒントが「能動態」と「受動態」の対立、
「行為者」や「意志」を確定させようとする言語というか
言語の変遷にあるような気がして、
まあ、たぶん水曜日までに読み終わります。

お楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)

2018年08月16日

「人」にフォーカスする本屋


「日本文化の論点」(宇野常寛 ちくま新書)

お盆読書。
宇野さんの本。
スラスラ読めた。
「メディア」屋の人は必読だと思った。
本屋もそう。

インターネットとはなんだったのか?
AKB現象とは何なのか?
「文化」の役割とは何か?
そんな問いを持っている人に読んでほしい1冊。

キーワードは「想像力」かなあ。

~~~以下一部引用

かつては、宗教がこの想像力の増幅器として機能して、「個」と「公」、「一」と「多」を結びつけていました(祭政一致)。しかし時代が下り、人々が精神の自由を求めるようになると宗教という装置は機能しなくなった。

その代わりに台頭したのが物語(イデオロギー)です。民族や国家の歴史を、個人の人生を意味づける「物語」として機能させることで国民統合を計る、という社会的回路がやがてヨーロッパを中心に標準的になります(国民国家)。

「自分は~民族である/~国民である/~党員である」という物語で、個人の人生の価値を保証することで、「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶわけです。このとき大きな役割を果たしたのが新聞やラジオといったマスメディアの存在です。

とくに、すべての国民が同時に同じ番組に耳を傾けることのできるラジオの登場は決定的でした。20世紀前半はこのラジオの威力を用いて、国民の熱狂的な支持を集めることで急進的な独裁政権がいくつか生まれています。ナチス・ドイツやイタリアのファシズム政権がその代表です。

言ってみれば20世紀前半はマスメディアの進化が災いして、それが政治利用されファシズムが台頭し、世界大戦が二度も起こって危うく人生が滅びかけた時代です。

その反省から、20世紀後半の西側諸国では、マスメディアがいかに政治から距離を取るか、政治からの独立性を保つか、が大きな課題になりました。しかしその結果、今度はマスメディアの力が大きくなりすぎて国によっては民主主義が立ち行かなくなっています。

ではどうするか。答えは明白です。
マスメディア「ではない」装置によって「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶ以外にありません。ソーシャルメディアがその役割を果たすのです。

これまでのメディアについての議論では、情報化の進行は主に誰もが発信者にも受信者にもなれること、つまり双方向性に力点が置かれていた。

たとえば映画というのは、実際には非常に能動的な観客を対象にしているメディアです。(中略)それに対して、テレビはかなり受動的な視聴者を想定したメディアと言える。より正確に言えば、ダラダラ見たいと考えている視聴者に対応できる番組構成が要求されている。

では、能動性/受動性という観点から考えたとき、インターネットはいかなるメディアだと言えるのか。いや、いかなるユーザーを想定したメディアだといえるのか。それはずばり、その中間です。より正確には、インターネットは映画よりも能動的に扱えるし、テレビよりも受動的に消費できる。

「ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。」

仮に映画が想定している人間の能動性を100、テレビが想定している能動性を0として考えた場合、人間は0から100のあいだを常に揺れ動いている(あるいは100以上や0以下にもなる)存在です。僕の考えでは、ここにインターネットというメディアの本質があります。

これまで(20世紀)のあいだは情報技術が未発達だったために、人間本来の姿、つまり常にその能動性が変化する主体としての性質に対応することができずに、(能動的な)「観客」や(受動的な)「視聴者」といった固定的な人間像を「想定するしかなかった」と考えるべきでしょう。

人間を二元論的に捉えることが困難になっている。20世紀後半の人間観というのは「能動的かつ理性的な主体=市民」と「受動的かつ感情的な主体=動物」というふたつの側面から人間を捉えようとするもので、前者に対しては規律訓練によって、後者に対しては環境管理によって対応しようとしてきた。

これまでは技術の問題で、人間を中動態として考えることが非常に困難だった。しかし、テクノロジーの発展によってインターネットが登場したことで、僕たちは中動態としての(本来の)人間を可視化することができるようになったわけです。

だからこそ、インターネットについて考えるということは、単にメディアの変化を考えるということに留まらず、「人間という存在をどのようなものとしてイメージしていくことが可能か」という非常に巨大な問いにつながっていくのです。

「若者の街」渋谷から「埼玉の首都」池袋、「サブカルの聖地」下北沢、「オタクの聖地」秋葉原、など特定の都市が若者文化を代表することがなくなり、それぞれのトライブごとに街々がすみ分けるようになってきた。

「秋葉原」という街は若者たちが自分たちの力でー「~が好き」という気持ちで、そこを自分たちの場所に変えていく空間として機能していたからです。

アニメの「聖地」。普通の人にはなんでもない場所が、そのアニメのファンにとっては特別な場所になる。ここではオタクたちがその想像力でなんでもない場所を「意味」と「歴史」を与えている。

かつては「地理」が「文化」を生んでいた。「この町には~な産業が発達した歴史があって、そのために・・・系な施設や商店が多い」云々、といった形式で地理が文化を規定していた。しかし、現代は逆です。文化が地理を規定している、と言えます。

今もオタクたちは郊外のショッピングモールや、ありふれた田舎の駅前の「風景」を自分たちの力で着々と「聖地」に変えていっているのです。

サブカルチャーの歴史とは、半ば創作者であり、半ば消費者である人簿とのコミュニティーたとえばインディーズ作家たちとそのファンたちのコミュニティから文化運動が発生していく、という現象の反復です。

情報化が進行するとコンテンツ(情報)自体でなく、それを媒介としたコミュニケーションこそが価値を帯びる。これはコンテンツビジネスのあり方を根本から書き換えかねない、極めて大きく本質的な変化ななずです。

ゲームというのは、究極的には手段と目的のバランスに介入して、イコールに近づけることで快楽を生むものです。つまり、ゲームを攻略することは手段であると同時に目的でもある。RPGをプレイするとき、レベル上げやアイテムの探索自体が面白くなければならない。

すべてが自己決定=実力で決定されてしまうゲームは攻略の方法が明確に存在するため、人はすぐ飽きてしまう。対してすべてが運で決定されてしまうゲームもまた、人は攻略(介入)の余地がなくおもしろみを感じないのです。

徹底してフェアでオープンな自己決定と、徹底して偶然性に左右される運命。このともに現代社会において信頼を失って久しいもの(そして一見相容れないもの)を奇跡的に両立させている。それが、AKB48の本質なのだと思います。

AKB48も若手芸人たちのM-1グランプリなどの番組も「ゲーミフィケーション」(ゲーム化)の流れの中で、「大きなゲーム」として機能している。
1 個性的なシステムを持つ番組(ゲーム)をプレイすることで魅力が引き出される
2 ゲームの中にいる複数のプレイヤーのうち誰を応援するかは自由

「政治と文学」つまり、「社会と文化」「世界と個人」「システムと内面」がうまく結びついていない。
近代的な(大きな)「物語」が機能しなくなったときの、その代替物としての大きな「ゲーム」の可能性。

<昼の世界>からは見向きもされない<夜の世界>で培われた思想と技術ーここにこの国を変えていく可能性が詰まっている。

<昼の世界>と<夜の世界>のパワーバランスは圧倒的に<昼の世界>。
<夜の世界>が勝っているのは、目に見えない力、つまり「想像力」。<昼の世界>の住人達が思いつかないアイデアやビジョンを見せることで彼らを魅惑して、ワクワクさせて、味方になってもらう、「推して」もらうしかない。

~~~ここまで一部引用

と、またしても引用しすぎ。
ホント、買ってください。笑

AKBとアマゾンが「ロングテール戦略」を取っているという点で
似ていること。

変革を起こすときは、
平氏的アプローチじゃなくて、源氏的アプローチで。

みたいな。
エッセンスの詰まった1冊でした。

序章を読むだけでも、
メディアの変化と歴史について、
なかなか大きな示唆があります。

僕が感じたのは、
「本屋」という「場」、
あるいは小売業という「場」がこれから
どうなっていくのか、っていうこと。

お店が「メディア」であるとすれば、
(僕はそう思っているのだけど)

「ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。」

たぶんココ。
ここに対応できるツールがインターネットであると
宇野さんは言う。

だから、たぶん、ここの部分を
SNSなどのツールを使って、
本屋というか「お店」がデザインできればいいのだろうと。

おそらくはこれが
今流行っている「ファンクラブ」的なビジネス
になっていくのだ。

ツルハシブックスの「サムライ」制度は、
まさにそのあたりをついていたのだなあと。

この本を読んで、
AKB48的なビジネスの「仕組み」が
やっと読み解けた。
そう読めばいいのか、って思った。

だから、AKBを「総選挙」だと思って、
その手法だけ真似する「総選挙」的なものが世の中にあふれているのだけど。
それは、消費者という主体としてのあなた(の1票)に
フォーカスしているという点では同じだ。

AKBの神髄は、「会いに行けるアイドル」、つまり、
秋葉原の専用劇場に行けば、毎日公演をやっていて、
そこで見れるばかりか、CDについている「握手会参加権」を
行使すれば推しメンと握手ができることだ。

それは、AKBというゲームに自分自身が
「参加」「登場」し、かつゲームの行方に
影響を与えられる、ということである。

そこの意味を理解せず、
「総選挙」という手法だけを真似しても、
AKBほどのビジネスにはならない。

僕は、これからの小さな小売業は
「参加」だけではなく、「ケア」が必要になると思っている。

たとえば、古本屋さんにいて、
「この本はあの人が必要としそうだ」
と思い、購入して店頭に並べる、とか。

この商品は仕事で疲れて
1人暮らしの部屋に帰ってきたときの
こういうシーンで飲んでほしいとか。

それを参加者と一緒に考えていくような、
そんなビジネスになっていく。

そもそも「本屋」っていうのは
そういうビジネスだったのではないか。

本を見ていて、誰かの顔が浮かぶ。
誰かの生活シーンが浮かぶ。
その先の未来を想像する。

宇野さんが最後に

<夜の世界>が勝っているのは、目に見えない力、つまり「想像力」。<昼の世界>の住人達が思いつかないアイデアやビジョンを見せることで彼らを魅惑して、ワクワクさせて、味方になってもらう、「推して」もらうしかない。

こう書いているように、
キーワードは「想像力」だ。目に見えないものに思いを馳せること。

これからの本屋は、そんな想像力を持って、
「人」にフォーカスして、本を並べていくこと。
お客さんが「参加」できる仕組みをつくること。

たぶんそんな感じ。

サムライ制度とか
暗やみ本屋ハックツとか
いい線いってるわ、と改めて思った読書でした。

宇野さん、素敵な本をありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)

2018年08月13日

17歳に贈りたいマンガ

茨城県日立市の高校で
「ジブンハックツ」という企画が進んでいる。

高校生自ら商店街を訪ねて、
高校生に贈りたい本を集めてくる。

この「高校生に贈りたい本を1冊」というテーマは、なかなか深い。
双方の想像力が問われる。

自らが高校生の時に読んで感銘を受けた本を
オススメする場合もあるし、
「もっと早く読んでおけばよかった」
という本もあるし、
いま、よく売れていて、
高校生に読んでほしいなあと思う本もあると思う。

昨日、
「覇王伝説タケル」というマンガを読み直していた。

久しぶりに読んだら感動しちゃったよ。

ストーリーはいたってワンパターン。(笑)

裏切り続けて、恐怖政治を敷く
人を人とも思わない悪役と戦い、
信と義によって、仲間を増やし、
最終的には天下を取るというストーリー。

当時週刊少年マガジンで連載。
毎週それが楽しみで、コンビニで立ち読みした。

今回読んでみてのハイライトは
19巻の葵四迷が、
自分はニセモノのインチキ軍師
だと告白するところ。

それに対して、タケルは言い放つ。
ニセモノか本物かはどうだっていいと。
おれ自身がニセモノかもしれない、と。

「目の前にやらなきゃいけないことがあった時、
それが王の子であろうとなかろうと関係ねえじゃんか」
と。

いい。
これいい。
17歳に送りたいマンガだわ。

僕は当時きっと、
このマンガを読んで、
「使命」とか「志」とかを学んだ気がする。

他にも
「SHOGUN」と「沈黙の艦隊」
はまさにそんな本だったなあ。

17歳に贈りたいマンガ展、やってみようかなと思った。

それぞれの世代に、それぞれの人生を動かしたマンガがある。
それを集めるのっていいかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)

2018年08月10日

「若さ」という機能

「今の大学生っていろいろ考えててすごいなあと。
僕が大学生の時なんて、ただ遊んでいただけで何も考えてなかった。」

トークイベントなどをしていて、最近違和感を感じる発言。
そんなの当たり前じゃんって。

そして、その発言をした人は、
その大学生と同じ地平に降りてないっていうか、
安全地帯から発言してるっていうか、
僕と君は違うから、って予防線を張っているっていうか、そういう感じ。

昔の大学生よりも今の大学生のほうが優れている。
それは、携帯電話と同じだ。

今の大学1年生は、携帯で言えば、
iphone7みたいなもんだ。
最新の機能(顔認識とか)がついている。

そう考えれば、
今の20代半ばの人たちなんて、
iphone3みたいなもんだよ。
もはや化石だよ。笑。

40代な僕らなんて、
大学時代は携帯電話すらなかった時代
(その頃広末涼子がポケベル宣伝してた)

だから、
僕は、若いというだけでむしろリスペクトというか、
その話を注意深く聞いたほうがいいと思う。
今の最新の感性は何にヒットしているのか、
学んだほうがいいと思う。

高校生に至っては、iphone10みたいなもんだから
より鋭くなっているはずだ。
少し年下の世代を見つけて、
説教したくなるとおじさんになったというらしいのだけど、
(それは大学生でもなってしまうらしい)

「若さ」という機能(つまり感性)に
もっと耳を澄ませてみることが大切なのではないかと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:02Comments(0)日記

2018年08月07日

創造力の翼

電車旅。
3冊同時読書。


「一緒に冒険をする」(西村佳哲 弘文堂)
つくばの江本珠理が絶賛していたので積ん読だったのを呼び出してきた。
(大阪・スタンダードブックストアで4月に購入)


「市場って何だろう」(松井彰彦 ちくまプリマー新書)
(甲府・春光堂書店で7月に購入)


「芸術論」(宮島達男 アートダイバー)
(先週、金沢21世紀美術館で購入)

の3冊を同時並行読み。
ちなみに、坂口恭平「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)
もなぜかカバンに入ってたので読んだ

素敵なタイミングで、
素敵な本に会うなあと思った。

西村さんの本では、
本城慎之介さんの話が響いた。

楽天副社長から、
学校づくりへとシフトする中で
軽井沢の森のようちえんにたどり着き、
そのスタッフをしながら、学校を構想している。

「森のようちえん ぴっぴ」のエピソードがすごい。
子どもはみんな、知っているんだって。
どうやって決めていったらいいのか。
ケンカになったとき、
誰かが泣いているとき、どうしたらいいのか。

答えのない問いへの対応を知っているのだ。
まず、輪になって語る。
ひとりひとりの顔が見えるように。
ひとりひとりが当事者であり、
ひとりひとりが大切である、っていうこと。

そういうのって子どもは知っているんだなと。
いつの間に忘れちゃったのだろうか。

最後に登場する内野加奈子さんが言っている。

~~~ここから引用

私は日本の教育のネガティブな恩恵を直に受けていたなと思います。
「答えがある」という教育。正しい答えがあって、
ちゃんと調べて勉強してゆけばそこに辿り着ける、
という教育をずっと受けてきたと思うんです。

そこから離れるのに少し時間がかかった。
航海術を教わっていたとき、ナイノアに
「僕は君に情報は与えれるけど、知恵はあげることはできない。
機会はあげられるけど経験はあげることはできない。」
と何度も言われた。

「それは自分でやらなきゃいけない作業なんだよ」
ということを教えてもらった。

自分が知ったことを人に伝えることはできる。
けど「体験する」には、本人が自分で動いていかないと。
やっぱり身体を使って感じることが、すごく大切だと思います。

~~~ここまで引用

そうそう。
本当は「答え」などなくて、
「機会」のみが差し出すことができる。

そういうこと。
その機会を生み出すのが「市場」だ。

「市場はヒトとモノ、ヒトとヒトをつなげる場である。
作品(アート)にも市場が必要だ。
市場がなければ僕たちは素晴らしい作品(アート)に出会えない。
それまでお互いに知らなかった人同士が市場を介して
突然結びつく。そのこと自体が市場の力だ。」(「市場ってなんだろう」本文より)

そして、重要なのが自立と依存についての記述
依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。
たしかにそうだなあと。
特定の何かに依存していると不自由だもんね。

そして最後に、「芸術論」。
これには、シビれるフレーズがたくさん掲載されている。

~~~ここから引用

はっきり言って、「絵で飯は食えない」。誰もがわかっていることだが、
「プロのアーティスト=絵で飯を食う人」という幻想を持ち続ける者は意外に多い。

元来、アートは職業になじまない。職業とは誰かのニーズがあり、
それに応えて初めて成立するものだ。ところが、
アートには他者のニーズがなく、
自らの思いをカタチにするだけだから、そもそも職業とはなり得ない。

ピカソのように絵で食える人は、全体の1パーセントにも満たず、
宝くじを当てるより難しい。したがって、食える/食えないは、
まったくの偶然であると言っても過言ではないのだ。
アーティストはそんなギャンブルのような賭けに、
自分の人生やアートを翻弄されてもいいのだろうか。

私は、アーティストは自分の生活を自分で支え、
なお、自らの思いを納得するまでカタチにし、他者に伝える人間だと考えている。
こう考えていけば、アーティストとは職業ではなく、むしろ生き方になってくる。

アーティストという生き方を選べば、じつはもっと自由になる。

アーティストという「名詞」を目指すのではなく、
アーティストという「形容詞」の生き方を目指してほしい。

~~~ここまで引用

「アート」を「本棚」に「アーティスト」を「本屋」に替えても、同じだろうな、と。
本屋という「形容詞」の生き方を目指す。
たぶんそういうことだ。

この3冊は、まったく別々なようで、
僕が編集すると、
すべて、ひとつのところに向かっているように思う。

「答え」はないということ。
「場」をつくるということ。
「表現」するということ。
「問い」があるということ。
そして、「本屋」である、ということ。

そういうものとして、この3冊を読んだ。

本って素敵だ。

機会しかない。
ヒントしかない。

それをどう学びに変えるか、
力に変えるか、は読んだ人次第だ。

そんな、目的のあいまいな読書をしてしまうような、
興味関心の罠がたくさん仕掛けられているような、
次の世界への扉が無数に存在するような、

そんな本屋になりたいなあ。

最後に「芸術論」から一言。

絵が描けなくても、モノが作れなくても、創造力の翼で芸術家になれるのだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2018年08月06日

「消費財化」という思考停止の罠

「働き方」から「暮らし方」へのシフトが起こっている。
大げさに言えば、「あり方」へのシフトが始まっている。

西村佳哲さんは著書「自分をいかして生きる」の中で
こう語っている。

以下参考ブログ
http://hero.niiblo.jp/e484009.html
(17.2.13東洋的キャリアのつくり方)
http://hero.niiblo.jp/e484019.html
(17.2.14対話型キャリア形成)
http://hero.niiblo.jp/e484047.html
(17.2.17発酵しながら生きる)

~~~あらためて引用

でも本人の実感以外のところから、まるで倫理や徳や常識のように語られる
「働くことは喜びである」といった言い切りには同意しきれない。

それが〈自分の仕事〉ならむろん働くことは喜びになると思うが、
そう思い込まされるようなファシリテーションが社会に施されているとしたら?

そもそもこの、働くことはよいことであるという考え方は、
人類史の途中から姿をあらわしたものだ。
その時々の為政者や権力によって人々に与えられてきた痕跡も見受けられる。
これは労働文化史の領域では決して斬新な視点ではない。

働くことをよしとする価値観は、近世のヨーロッパで生まれ、
キリスト教と産業革命を足がかりに世界へ広がった。

労働や働くことをよしとする考え方は、
共産主義においても資本主義においても機能した。
それは都市化・数量化・産業化の流れに沿って広がった
近代以降の価値観であって、それ以前の社会には、実はあまり見られないという。

人は、より生きているという実感に喜びをおぼえる。
仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、というだけのことだ。

ただ働くことだけが、わたしたちの生を充足させるわけじゃない。
価値観の形成過程に誘導性も感じられるので、
このことについては、むしろ慎重でいたい。

~~~ここまで引用

そう。
仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、
ということだけなのだ。

その上で西村さんは
目に見えている仕事を島にたとえ、
そこの目に見えない部分には、

それを支える知識・技術
さらにその下の考え方、価値観
さらにその下にあり方、存在があると説明した。

そう。
西村さんが言っていた「働き方」は
「あり方、存在」を問いかけるようなものだった。

今や、「働き方」が消費財となってしまった感がある。

というか、この社会は、
あらゆるものを消費財としてしまう。

ノマドワーカー。
コワーキング。
パラレルキャリア。

いまや、「働き方」そのものがビジネスとなっている。

そんな中。
イナカレッジインターンが問いかけるもの。
それは「暮らし」であり、「暮らし方」だ。

まあ、「暮らし方」に関しても、
うっかりしていると、「ていねいな暮らし」みたいな
キーワードで消費財化してしまう。

消費財化が別に悪いわけではないのだけど、
その答えを自分の中に求めずに、
他者の考えを取り入れたり、何かを購入することによって
達成できると思うような思考になってしまうことは、
長期的に見れば、本質的には不安なままである。

http://hero.niiblo.jp/e487798.html
「働き方」と「暮らし方」(18.7.23)

イナカレッジの説明会に来た大学生に響いた
キーワードは「暮らし方」だった。

そう、「働き方」は「暮らし方」に包括されている。
そして、暮らしをまず見つめたいということだった。

そういえば、「イナカレッジ」は、2004年10月
新潟県中越地震の復興を目的とした団体が母体だ。

団体がやってきたことは、
よそ者がデザインした計画を押し付けるのではなく、
中山間地の暮らしに寄り添いながら、
「復興」そして「地域の未来」そのものを共に考え、
共に汗を流すことだった。

そこに共通するような「答え」は存在しない。

対話を通して、活動実践を通して、
仮説をつくり、実践して、検証を行い、
また新たな仮説を立てる。
その繰り返ししかない。

たぶん「暮らし」ってそういうものだ。
そもそも不確定要素が多すぎるし。

おそらくは
「働き方」っていうのも同じなんだよね。

ところが、これまで、
というか西村さんも上に書いてあるように

「働くことは美徳である」的な価値観を、
教育によって植えつけられている自分たちは、
「働き方」にさえ「答え」があるような気がして、
「正解」を探してしまう。

それはたぶん思考停止の罠だ。

「暮らし」には正解がない。
「仮説」を立てるには、「感性」を発動させて、
自然の声、住民の声を聴かなければならない。
考え続けて、仮説を検証し続けなきゃならない。

それは終わりのない道だ。

でも、たぶん終わりなんてないんだ。
「価値」とは何か?を問い、
それを「誰に」届けるべきか?
それが仕事であり、
暮らしは「価値」を自分や家族にとどけることだ。

そんな答えのない旅への第1歩となるのが
「暮らし方」インターンなのかもしれない。
なんか、いいネーミングないかなあ。

http://hero.niiblo.jp/e487730.html
これまでの「物語」をつなぎ、これからの「物語」を始めていく(18.7.11)

「保田小魂」に匹敵するような
キーコンセプトを必要としている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)アイデア

2018年08月03日

「少数派である」ということ

少数派であるということ。
それは多数派ではないということ。
その意味でしかない。

少数派は、異常ではない。
多数派が正常ではないように。

でも、不安になるんだよ、少数派は。
多数派はなぜか自分たちが正しいと思っちゃうんだよ。

「学校」っていうシステムは、
「多数派」を作ってきたのではないか。
「少数派」もしくは「ひとり」にとっては
生きづらいシステムを作ってきたのではないか。

「社会」の中においていつも人は、
「アイデンティティ」(自分らしさ)不安にさらされている。

それを、
「多数派」が支配する社会は、

マズローの欲求5段階説が説明するように、
生理的欲求⇒安全欲求⇒所属と愛の欲求⇒承認欲求⇒自己実現欲求

「所属と愛」を会社と家庭で満たし、
(満たすようなシステムをつくり)
人を「多数派」にしてきた。

しかし、いま、その前提が崩れているのだ。

人口が増え続けること。
地方や他国から搾取し続けること。
そのような条件下にのみ、
そのシステムの維持は可能であったのではないか。

だから、
会社や地域といったコミュニティは溶解した今。
承認不安と同時に、所属の不安を感じている。

つまり、マズローの3段階目以降が溶け出している、
とも言えるだろう。
自己実現と、承認と所属が
それぞれを前提とせずに絡み合っている。

この春から自由の身となって、
自分とは何か?という問いを
大学生並みに問いかけている。
過去を振り返ったりしている。

昨日も金沢で20年ぶりに再会した谷内くんと
地域のプラットフォームについて話していて
なんか、1週間ぶりにあったかのような会話で
なんだかうれしかった。




僕は「畑は人と人をつなぐ」と直感して畑をやり、
不登校の中学生シンタロウに出会って問いをもらい、
小学生と神社で遊んだり、大学生の挑戦の舞台をつくったり、
試行錯誤の結果、本屋になった。

やってくる大学生の悩みを聞いて、
また問いをもらい、
その問いを解き明かしたいと大学職員をやってみた。

「やりたいことがわからない」の社会学
がテーマだ。

思想的には、
大学時代に出会った宮澤賢治先生の「芸術家であれ」
というメッセージと
自然農実践家の沖津一陽さんの
「ダイコンがダイコンを全うするように私は私を全うする」と
「小説吉田松陰」に書かれていた野山獄のエピソードでの
「学びあいで希望が生まれる」
が僕の中で大きい。





今回の旅は、
七尾で行われた高校生と大学生の座談会的なものの見学でした。

振り返りの時間も担当させてもらいました。

「予想できた」「予想できなかった」
「よかったこと」「わるかったこと」
マトリクスの振り返りをした。

大切なのは
「予想できなかったよかったこと」で
その人しか知らない(気づかない)具体的なエピソードが
出るということ。

参加者のこの人に、こんなことを言われた。
とか
あの時間にあの子、いい顔してた。
とか

そういうことが出てくること。
それこそがイベントの「価値」なのだ。
そしてそれを出すためには、
ひとりひとりの「顧客」にもっとフォーカスしなければならない。

僕は本屋(本を売っている)であり、
現代美術家として、「本屋のような劇場」をつくっていて、
高校生、大学生、20代社会人といったキーワードでの
場の設計者であったりファシリテーターであったりする。

キーワードは、
「少数派」であり、「ひとり」かもしれないと思った。

多くの人が「ひとり」であり、「少数派」である。
しかし社会システム、学校システムは「多数派」を要求してくる。
そのほうが効率的だからだ。

でもそれって、
「効率的」が価値を持つ時代、社会にのみ有効なのではないのか。
所属の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求が溶け出しているいま、

僕は本屋として、現代美術家として、場の設計者・ファシリテーターとして、
「機会提供」を続けていこうと思った。

ある人に、「機会提供」の結果に責任を持たないのことは無責任じゃないのか?

という問われた。
それは少数派だから、そう言われるのではないか。

多数派な学校教育であれ、その機会提供の責任は同程度にある、つまりいずれも責任はあまりないのではないか。

と僕は思っている。

そんな誕生日の朝です。
新しい1年もよろしくお願いします。  

Posted by ニシダタクジ at 05:44Comments(0)日記