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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2017年01月31日

「本屋をやる」とは、「常に変わり続ける」ということ


芸術批評誌【リア】vol.32 特集「本をとどける」

たぶん、水戸芸術館のミュージアムショップで購入。
最近は積ん読だった本が絶妙のタイミングで
目の前に現れてくるから読書が楽しい。

リアの冒頭での
ヴィレッジヴァンガード創設者の菊地敬一さんと
ちくさ正文館本店の古田一晴さんの対談。
これを「本屋は死なない」の石橋毅史さんが進行する。

これが熱かった。
キーワードだらけ。

なぜ、本屋なのか?
に対して、熱く熱く問いを深めてくれる。

以下キーワードを

~~~以下一部引用

つまり、ハードじゃなくて、ソフトなんですよね。
ソフトが一番大事で、ソフトは真似できない。動いてますから。

一部を切り取って真似できても、
動きは分かんないんで、基本的についていけない。

ヴィレッジヴァンガードの棚を見たときには、
この人(菊地さん)の頭の中は次へ行っているわけだから。

芸術性と通俗性のコンフリクト。

初期のアーリーステージは、
僕なりに「BRUTUS」の世界を立体的に
具現化するってことを志向して
立体BRUTUSをやってました。

イオンや生活創庫にでて、
立体BRUTUSじゃ立ち行かなくなったんですよね。
基本的にお客さんと対話しながらインターフェイスしながら
品揃えしていきますから、立ち行かなくなった。

中高生、ファミリー、おばあちゃんおじいちゃんを
相手しなきゃとなってBRUTUSのクールな感じが
失われていって、「BRUTUS」から「月刊宝島」になったんですよね。

「本屋をやりたい」、それは崇高な理念であるけれど、
継続させようとすれば利益を出さなければならない。
人はその狭間で悩むんですよ。
でもその悩みを最初から拒否してるんですよね、恐らく。
それっておかしいよね。もうちょっとその思いを発酵させればいいよね。

いろいろ突き詰めて考えたら、
やっぱり粗利を上げるしかないんですよ。
でも好きな本は売りたい。
その狭間にすごく悩んだ時に、粗利で雑貨を一緒に売る。

アナロジーを駆使して、本の隣に雑貨を置いて、
雑貨の隣に関連したCDを置いてということを、
僕らは融合させたんです。
複合ではなく融合。大事なのはここです。
それがコロンブスの卵だった。
そしてそれが名古屋の若者にウケたんですよね。

あの頃の夢と今の夢は違いますよ。
だって夢はどんどん変わっていかないと馬鹿でしょ。
教条主義・原理主義ほど生き方をスポイルするものはない。

そりゃあ僕だって変遷がありますよ、ものすごく。
あの頃の自分のインタビュー見ると笑っちゃいますよ。
恥ずかしくて穴に入りたいくらい。

ヴィレヴァンでは、Tシャツで仕事ができるんです。

月に100人来る本屋と月に1万人来る本屋、
どっちが社会的貢献が高いかって、
そりゃ1万人に決まってますよ。

でも、100人の方、つまり弱い者、マイノリティの方を
特にマスコミさんはね(笑)、すごく持ち上げるんです。
それでミスリードしちゃう。

「僕のことはつかまえられないよ」
こうなんだという、固定した形で語るということは
できないという意味で。

本というと、経営という現実的な問題と、
芸術性という文化というものがありますが、
書店をやる以上は通俗性とは
分かちがたいものがあるわけですよね。

アマゾンのアルゴリズムを使えるんだったら
使ったほうがいい。あれは統計学ですから。

最後の砦は、店主の人柄だけ、残念だけど、
それしかもう残っていない。(早川義夫さん)

具体的な夢を生き生きと想像する奴だけに、
その夢の実現は選択的に訪れる。

この本をどこで買ったかと思い出す時に、
ヴィレッジヴァンガートで買ったということを
まざまざと思い出すような本屋にしたいというのが具体的な夢でした。

~~~ここまで一部引用

いいですね。
熱いですね。
すごく熱いです。

この対談の締めくくりには、
ロバート・D・ヘイルの言葉が引用されている。


本の真の実質は、思想にある。
書店が売るものは、情報であり、霊感であり、
人とのかかわりあいである。
本を売ることは、
永久に伝わる一種の波紋を起こすことである。
(中略)書店は、書棚に魔法を満たすことも、
風を吹かせることもできる。
(中略)書店人が、特別な人間でなくてなんであろう。
(書店販売の手引―アメリカ書店界のバイブル)


そして、石橋さんの締めも素敵。

本屋にとって「本をとどける」とは、「売る」ことなんですよね。
生活していくための現実的な営為を抜きにして、本を語りえない。

それと、「常に変わり続けること」が
常態で、こうでなければいけない、こうしておけばいい、
と見方や関わり方を固定させた時点で役割が終わってしまう危うさもある。

本屋の凄さ、面白さを、お二人の話からあらためて感じました。
有難うございました。

うーん。
ホント、ありがとうございました。

なぜ、本屋なのか?
に対する熱い熱いメッセージをもらいました。

僕も、菊地さんが言うように、
本棚の本、手元の本をあらためて見たときに、
この本、どこで買ったんだっけな?
と思い出してもらえるような本屋になりたかったと
あらためて思いました。

まだ、これからなのですね、きっと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2017年01月30日

「意識高い系」から「視野が広い系」へ


「自分でつくるセーフティネット」(佐々木俊尚 大和書房)

佐々木俊尚月間の12月の最後に
手に入れた1冊。

佐々木さんの本を読んでると、
視野が広がった感じがしますね。
視界が晴れていくというか、
世界って広いんだな、と。
歴史って長いんだな、と。

目の前のある世界が
いかに特殊な前提の上で成り立っているか、
って思います。

これからは
「意識高い系」ではなくて
「視野が広い系」が流行るんじゃないかな。

というか本屋さんの本質ってそこかも。
そんな本屋さんになりたい。

上昇志向から複眼、多眼思考へ。
そんな生き方、暮らし方を求めている人に
それに会う本を提供したいなあ。

と、まあ前提はおいておいて。

この本では、第4章で
「見知らぬ他人」をあんまり信用してはいけない、
いわゆる「人を見たら泥棒と思え」
というのは本当か?と問いかけます。

かつて、
「見知らぬ他人」を最初から信用していた時期があったのではないか、と。

~~~ここから一部引用

ムラ社会ってのは、農村で
みんなが強く強くつながって団結している社会で、
だいたい江戸時代ぐらいに成立したって言われてます。

それまでは農村といっても、半分武士で半分農民
みたいな村民が中心で、何かことがあると
刀や槍や弓矢持って戦いにいったりしてた。

黒沢明監督の「七人の侍」は、
戦国時代を舞台にして、
農民は弱くて小ずるい者たちとして描かれているが
これは史実とは違っていて、

農民が武器を捨てたのは、戦国時代の終わりに
豊臣秀吉が刀狩をしてからのことで
それまでは武士と農民の境ははっきりしてなかった。
江戸時代になってからも下級武士は、農業したり
内職したりしてきたけど。

武器をとりあげられて、しかも定住するようになって、
農村の共同体がきっちり固まるようになって、
人間関係が思いきり固定されるようになりました。

これは日本が農業国家だった昭和の初期ぐらいまで
ずっとそうだったんですよね。

そして戦争が終わって、高度成長が始まって、
農村の人たちが都会に出てきて工場に勤めるようになると
農村の共同体の役割を、今度は会社が務めるようになった。

終身雇用で勤める会社が、
「おらが村」みたいな感じになったってことです。

~~~ここまで一部引用

なるほど。

だから、佐々木さんは、
江戸時代からこの400年が
ムラ社会という共同体で生きてきて
その特徴が「人を見たら泥棒と思え」
ということだったということだったんです。

村の中の人とは信頼しあって、
強いきずなで団結して生きていくけれども、
外の人は基本的に信用しない。

そして、
日本人が和を重んじているのは、
きずなが強くて団結しているのではなくて、
システム的に「相互監視」の仕組みになっているからだと言います。

もう、すごいですね。
これが同調圧力の正体なのかと。

目の前にあるみんなと一緒でなければならない
という同調圧力の源泉はどこからくるのか?

そんなことを考えてみると、
「視野が広い系」大学生に近づけるのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)

2017年01月24日

何を考えているか分からないと、もう一度会いたくなる


「ビジネスに『戦略』なんていらない」(平川克美 洋泉社)
10年前の本(2008年初版)。

冒頭から
「現在」の絶えざる手段化こそビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因。
と始まる1冊。

よくぞこのタイミングで。
と思ってしまった。
ツルハシブックスが劇場である理由。

いやあ、読書って面白いですね。
シビれるフレーズだらけで
倒れそうになりました。

ビジネスとは、高度な非言語的コミュニケーション。
つまり、「恋愛」に似ているなあと。

これを読んだ上で、
川上徹也さんの「モテる会社」とかを
読むと、なおそう思うのかもしれませんね。

そしてお店とは、
やっぱり劇場なんだと。

そうなると本屋とは、
顧客とお店が「恋愛」劇を演じる
空間なのだなあと。

そんな風に実感しました。
もうちょっとちゃんと時間をとって、
考えたいのだけど、ひとまず読み終えたので、
何か書いておきたい。

最後に内田樹さんとの対話が収録されているのだけど
特にそこのところから非常にインスパイアされました。

~~~ここから一部引用

人間がビジネスを選ぶのではなく、ビジネスする動物が人間である。

言葉を持つ、火を使う、墓を持つということと同様に、
人間を他の動物と隔てる条件のひとつが交換するということであり、
それこそがビジネスの起源的な場所であるということです。

外部インセンティブ論がかえって根源的、本質的な面白さを
隠蔽するように機能していると言えるのではないでしょうか。
本来、人は意味や目的のために働くのではないのに、
意味や目的によって働いているように見えるわけです。

ビジネスは面白いわけでもつらいわけでもなく、
わたしたちとともにそこにあるもの。

もしビジネスに面白さを見出すとすれば、
それは自己の現実と自己の欲望との関係の中にあるのではなく、
そういった欲望の劇や商品に値づけをして
販売するという社会的な行動プロセスの背後に
非言語コミュニケーションが行われているところから来るのだろうと思います。

つまり、ビジネスが提供する
人と人との関係性の面白さに起因しているということなのです。

個人はここでは業務遂行的な課題と
自己確認的な課題に引き裂かれたような関係にあります。
この引き裂かれた関係こそが仕事の面白さの源泉であり、
エネルギーを生み出す源泉であると言えるのです。

自分の演じているキャラと自分の個性との落差の不断の交換プロセスが、
ひとりの個人のあいだで生起しており、同時に他者との間においても行われている。

コミュニケーションが発生する最初の条件は、最初の贈与であると考えています。

今、ここで行われているコミュニケーションはうまくいっているのか、
を問うべきだろうと思います。

ビジネスとはモノやサービスを媒介とした高度な非言語的なコミュニケーション。

会社が蓄積するのはお金ですが、そのお金が含意しているものが
顧客の満足や信用である限り、会社は持続的成長というものを保証されるのです。

要するに、僕たちがいるのは暫定的な場にすぎない。

ああ、私はこういう氷山の一部だったのか。

ぼくたちはひとりひとりが大きな流れ、
巨大なシステムの中の一部分であり、その中で限定的な役割を期待されています。

サーリンズは、人々は適切な等価交換が行われたように思われないときに、
「もう一度であわなければならないと感じてしまう」と書いています。
そして、それが沈黙交易の原動力である、と。

ユニクロがフリースを二千万着売ったのは、割安感ではなく、
どうしてこんなに安いのか、その合理的理由がわからないという、
考量不可能性がもう一度ユニクロに行かねば、
という消費者サイドの焦燥感に点火したのではなかったか。

何を考えているかわからない、とどうなるでしょう?
正解はサーリンズが教えてくれたとおりです。
もう一度会わずにはいられないと思うようになるのです。

信用とは、繰り返しのことである。

些末な理由ではその定期的訪問をやめないということが老舗の信用ということ

そして、その繰り返される訪問を動機づけるのは、
何度訪れても、そこでなされていることの意味や、
そこが提供する商品価格の積算根拠がよくわからない。
という不可知性だと思うんです。

値段だけじゃなくて、どうしてこんな商品を作り続けているのか、
どうしてそんな会社をやっているのか、
その動機が功利的な計算だけではどうしても考量しきれない。

ぼくたちは常に世界に絶対的に遅れて到来します。

~~~ここまで一部引用

いや、またすごく引用しちゃった。
読んだ人買ってください。(笑)

一番のところはタイトルにも書いたけど
何を考えているか分からないともう一度会いたくなる。

やっぱり「恋愛」と「ビジネス」は似ています。
というか、恋愛のようにビジネスしなくちゃね。

さてと。
不可思議な劇場を、もうひとつ、つくりましょうかね。  

Posted by ニシダタクジ at 09:33Comments(0)

2017年01月22日

「営み」に会いたくなる旅

旅先でも、
地元の人が行く店が好きだ。

まちの定食屋さんとか、
中華料理屋さんとか。
九州だったら、酒屋で立ち飲みする角打ちが好きだ。






北九州・小倉の平尾酒店。
北九州出身のかなさんとメッセージやりとりをしていて、

「観光の原点も営みだと思います。
その場所の営みに魅力を感じた時に
本当にまた行きたい場所になるなあ!、と
いろんな場所に行ってみて感じました。」

!!!

って。
それだ!!
って。

人に会いたくなるっていうのもあるけど、
最初に行く場所は、知っている人がいない。

だから、
「営み」のあるところに行きたくなる。

「営み」
っていい言葉だなって。
大きく言えば「暮らし」なのだけど。

なんというか、
完結していない、つながっている、
そんな感じ。

こうやって生きてきた。
っていう生を感じる。

だから、旦過市場のような場所に
人は惹かれるのだろうなと。

きっと、これからの旅は、そのようになっていく。
「営み」に出会う旅。

農業だったり、
お店だったり、
それはいろいろあるのだろうけど、
「営み」に惹かれる人はたくさんいるのだろう。

そしてその営みの中に「人」がいて、
人の「暮らし」があって、
そこに来訪者としての旅人がいる。

そしてまた、その「営み」に会いたくなるのだ。
これからの観光はそう変わっていく。

そんな予感がした1通のメッセージでした。
かなさん、ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)言葉

2017年01月19日

可能性の無視は最大の悪策である


「ローマ法王に米を食べさせた男」(高野誠鮮 講談社+α新書)

ほんと、いまさら読んですみません。
遅すぎました。

公務員志望の大学生必読の1冊です。

「公務員こそ、プレイヤーであれ」

そんなメッセージが伝わってくる。
塩尻の山田くんとか、まさにそんな生き方だなあと。
商店街の空き店舗の掃除とかしたくなってきます。

「スーパー公務員」
と呼ばれていた高野さん。

たぶんまだお会いしていないと思うのだけど、
近いうちにお話聞いてみたいなあと。

さて。
この本。

泣けます。
笑えます。
心躍ります。

「痛快」という言葉がしっくりきます。

坂口恭平「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)のような
爽やかな風が吹きます。

ノウハウではなく、魂、スピリットがこの本にはあります。
企画だけではなく、絶えざる圧倒的な行動があります。

可能性があるのなら、やる。

「あきらめ」の扉をこじ開けるのは、
ただそれだけなのだと考えさせられます。

特に痛快だったのは、
臨時職員だったときのUFOによるまち起こし。

予算ゼロで取り組んだ
「マスコミ作戦」で町の人たちが
なだれを打って「UFO何々」を売り出すところ
が笑えた。

手紙作戦で
「羽咋でUFOによるまちおこしをやるのですが、
ゴルバチョフ書記長(当時)はどう思いますか?」
ってロシア語で手紙を書く。

もう。
すごい。
やってみるしかない。

企業協賛作戦で、UFOまんじゅうと紙ペラで
突入して、日清から返り討ちに遭うなど、
行動力がすごすぎて、もう笑ってしまいます。

でも、そうやって高野さんは、
扉をこじ開けてきたんだなあと。

壁をブチ破りたいすべての大学生に
オススメしたい1冊です。

熱い。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)

2017年01月18日

誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ること


「未来食堂ができるまで」(小林せかい 小学館)

なんか。
最近また読む本のタイミングがいいなあ。
1月7日に未来食堂買った1冊。

このあとに出た「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」
もシビれまくったけど。

こちらの「未来食堂ができるまで」
もリアルで素敵です。

驚いたのは、コミュニティへの言及。

~~~以下引用

ただし、自分としては、まかないは
「お店のファンクラブ」や「会社を超えた第3コミュニティ」
みたいな今流行のコンテキストとしてはまったく捉えていません。

あくまでも、一文無しになったり、そんなどうしようもないときに
未来食堂のことを思い出してほしいという想いから来ています。

少なくとも一度は訪れてくれた人との縁は切りたくない。
たとえ、もしその人が一文無しになったとしても、
どうにかつながる方法は残しておきたかったんです。
未来食堂は誰かのセーフティーネットでありたいのです。

なのでひっそりとやっていきたいなと思っています。
コミュニティとなった瞬間に、コミュニティの中と外というように
二分化されてしまうので、それは望む姿ではありません。

今の流行はコミュニティのコンテキストに流れていきがちだと思うので
極力注意してやっていきたいのです。
ただのセーフティーネットだし、意識高い何かでもないのです。

どこまでも「わたし」と「あなた」がいる、
そのあり方が未来食堂なんだと思います。

~~~ここまで引用

このあと読み進めていくと、
さらに熱い表現があるのだけど、
それは読んでみてのお楽しみ。

未来食堂のコンセプトは、
「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ること」

未来食堂の存在価値は、
常に新しいこと、常識を再構築すること。

そうそう。
ツルハシブックスもそうだったのかもしれないなと。

だからこそ、
「劇場」であり、「畑のある本屋」に向かっているのだと思っています。

誰もが受け入れられる。
それは本屋単体では難しかったです。

誰もがふさわしい。
それは、舞台を用意して、
「演じられる」役が生まれることであるかもしれません。

同志というかなんというか。

僕もそんな場を目指していきたいなあと思います。

「コミュニティ」ではなく
どこまでも、「わたし」と「あなた」がいる。

そんな本屋さんになりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学び

2017年01月17日

なぜ本屋だったのか?

なぜ本屋だったのか?
と聞かれるけど。
いろいろ理由はあるのだけど。

不登校の中学生の家庭教師をしたとか、
サンクチュアリ出版の営業をしたとか、
郡山のヴィレッジヴァンガードの店長とか、
インターン事業のプラットフォームが欲しかったとか。

いろいろ言語化されていることは
あるのだけれど。

今回の九州で、わかったこと。
やっぱり本屋だったんだなあということ。

箱崎・キューブリック・丸充酒店・見月さん
小倉・旦過市場・大學堂・竹川さん
天神・ひとつ星・屋台・白石さん
古湯・泊まれる図書館・キッチン10・白石さん
熊本・正統的周辺参加・ねぎぼうず・松尾さん
鹿児島・居場所・第3の場・本の処方箋・4人のスタッフ大学生と参加者

僕にとって本屋とは、
「新しい世界との境界」で、「コミュニケーション」で
「人と人が出会う」ところであり、
システムとしての「場」であり、
本への「愛」を届ける「実験場」であり、
「癒し」であり「多様性」であり「地域への愛」であり、
「参加の仕組み」であり、
固定された「居場所」ではなく「流動性」のある「第3の場」であり、
そして、「学び」にあふれた「劇場」だったのだ、と。

そんな「劇場」のような本屋を。
いや、本屋のような「劇場」を
この世につくっていくことこそ、
僕のミッションなのではないかと思った。

最後の鹿児島は、
ジャズセッションのようなライヴ感のあるイベントとなった。

「本の処方箋」もしてくれた参加者のひとりからメッセージをもらった。

~~~ここから引用

今日のお話を聞いて、悩みが解決した気がします。
診察のときに”いま満たされているのが悩み”って言いましたが、
たぶん、私は今まで人生の充実ばかり求め過ぎていたんだなって思いました。
だから、目的を果たした途端、
何を目的にして進めばいいか分からなくなって迷っていたんだと思います。
これからは、もっと場の楽しみを追い求めてみようと思います!笑

役割を果たすだけじゃなくて、色んな劇場で色んな役を演じてみようと思いました!
今までは、何か悩みがあると1人でひたすら考え込んで
落ち込んでしまうのが当たり前だったんですけど、
今日みたいに、あんなに楽しく落ち込まずに悩みを解決する方法があったんだなって、
終わった後で気がついてすごく衝撃でした笑

なんだか落ち着く場所で、すごく幸せな時間でした(o^^o)
今日のイベントが背中を押してもらうきっかけになった気がします。
処方していただいた本も読んでみます!本当にありがとうございました。

~~~ここまで引用

イベントでは、
「第3の場」と「居場所」について
参加者全員で考えるという、そんな話になった。
(打ち合わせと全然違う)

「人生を充実させる」には「役割」があることが大切だけど、
「場を楽しむ」には「役割」ではなく「役」を演じることが大切なのではないか。

「第3の場」は、
必ずしも空間ではなく、時間でもいいのだと。
いてもいい、と存在が許される空間・時間なのだと。
そういう時間と空間と関係性が「第3の場」をつくるのだなあと。

そしてそれは時間的継続性を持たず、
一瞬一瞬を楽しむ場になっている。

いい意味で無責任というか、
ゆるやかな「役」があるかもしれない、ということ。

おそらくはツルハシブックスが目指していた「本屋のような劇場」は、
そんな「場」だったのだろうと思う。

そういう「場」をつくるには、
本屋という「システム」はかなり魅力的なものと
なるのだろうなと改めて思った。

鹿児島のイベントを企画してくれた
4人の大学生のみなさん、ありがとうございました。

15日・鹿児島を目標に
予定を組んでいたら、
自分自身を問い直す。
とても有意義な時間となりました。

本当にありがとうございました。

最後に翌日の朝活で思ったこと。
主催の1人がさまざまな場所で自分を演じる、
というのを図解して書いていて、
それを支える「受け止める」「受け入れる」存在
という図解を書いていたけど、

そういう、ありのままを愛してくれる存在、
受け入れてくれる存在を、
きっと多くの人、特に中高大学生は必要としていて、

そんな存在に、本屋ならなれるんじゃないか。
きっとそれが僕が本屋である理由なのではないか。

だから、次は「畑のある本屋」なんだと、
自分の中でしっくりきた、九州縦断でした。
最後まで、大きな学びをありがとうございました。

写真は末吉くんが撮ってくれました。
  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)日記

2017年01月16日

なるべく多くの人をゴールまで連れていく

福岡テンジン大学の岩永さんと。


写真は1.14の佐賀・古湯温泉ですが、
話をしたのは1.13の福岡・天神でした。

福岡テンジン大学(以下テン大)は、
60名のボランティアスタッフで回している。
月に1度第4土曜日に数々の講座を行っている。

その仕組みは

理事
講座企画者
講座レポート担当
当日お手伝い

というピラミッド構造になっていき、
講座企画者を5回以上やると
「マイスター」として認定され、
講座企画者のアドバイスを行う。

「マイスター」の特典は
その講座が終了し、打ち上げをするときの
飲み会代が無料になるだけだという。

企画者は、企画シートを書くなかで、
なぜやりたいのか?
誰に届けたいのか?
を深く考えるようになっている。

そして参加者から
リフレクションシートを書いてもらい、
目的・ゴールを達成したかどうか、検証する。
そうやって「体験の言語化」をしているのだという。

岩永さんが言っていた言葉で
印象的だったのは、
「ドラクエ方式」のこと。

ドラクエの原作者が語っていたこと。
ドラクエの設計で大切なことは、

「次とりあえずどこにいくか?」がわかる
ということだという。

何をしたらよいかわからなくなった瞬間に、
人はゲームをするのをやめるのだという。

だから、
「なるべく多くの人をゴールまで連れていく」
ために、次にどこにいけばいいか、わかることを大切にしているのだという。

あと、ふりかえり手法では、
「トークフォークダンス」っていうのが
面白そうだなあと思った。

内側と外側に分けて、
順々に振り返りをしていくのだという。

話し役と聞き役を分けて、
そしてそれで聞き役の人はなにかホメるのだという。

その感想を聞くと、
〇〇さんに言われた言葉がよかった
とか、プラスになるのだという。

なんか、さすが。
テン大、すごい仕組み。

まさに北九州で聞いてきた、
「よいシステムは自律して動く」
がそこにあるような気がした。

刺激いっぱいいただきました。
ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 14:04Comments(0)学び

2017年01月15日

いいシステムをつくれば場は自律的に動く

北九州市・小倉の旦過市場。
ここに「大學堂」という北九州市立大学の
フィールドワーク研究会(通称:野研)が手掛ける
お店がある。

手がけたのは
人類学を研究する竹川先生ほかゼミのメンバー。

話を聞いていたら
エッセンスがいろいろつまっていたので
ここに少しまとめておくことにする。

~~~ここからメモ

義務は2つ
1 ミーティングに出る。(毎週水曜12:00~14:30)
2 活動したら報告をする。ほかの人に伝える。

報告のポイント
・まとめない。
・1人1人が出す。
・他人がわかるように書く。
・ほかの人が気づかないことを報告する

人類学
「歩いて」「見て」「聞いて」「伝える」

文字化するということ。
一言でもいいから終わったその日に書くということ。

「場」について
・部屋をひとつ確保する。
・毎日誰かいる状態にする。
・「プロジェクトは雑談から生まれる」

会議:報告・決定をする場
⇒細かい議論:「場」で行う

「空間」を「場」に変える。
「場」=力が働いている「空間」

「場」は1か所のほうがいい。
場を2つにすると組織が2つに割れる。

野研は組織ではなく、ネットワーク。
メンバーシップをあいまいにする。

コミュニティ⇔ネットワーク
新しい人が来るというのが場にとって大事。

いいプログラムを組めば、
いいシステムを作れば、自律的に動く。

ボロい部屋のほうが「場」に向いている
きれいで、近くに先生がいる⇒×

「表現の場」としての掲示板の重要性
アナログであること。
掲示板というメディア

~~~ここまでメモ

いちばんシビれたのは
タイトルにも書いたけど
よいシステムは自律的に動くってところかな。

野研、奥が深いです。
またまとめます。


竹川先生、ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)学び

2017年01月08日

食堂のような劇場





「未来食堂」にいってきました。
メニューは鮭のちゃんちゃん焼定食でした。


「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」(小林せかい 太田出版)
年末に読んだこの本が衝撃的過ぎて。

お店でこちら

「未来食堂ができるまで」(小林せかい 小学館)
を買いました。
いま読んでいます。

ランチを食べ終わったら、
なんと、ライフネット生命の出口さんが登場。
思わず3ショット。(笑)
「仕事に効く教養としての世界史」、読んでます。



で。
ランチだけではなく夜も行きました。
さすが山田さん@塩尻市役所。

そしたら、この写真です。


閉店時間の22時がせまってくると
突如始まるミュージカルのような時間。
お客さん全員で、お店の掃除です。
明日はサロン18禁という18歳以上は入場できない
イベントがあるので、すみずみまでピカピカにします。

このあと、ワックスまでかけました。
そして、最後にみんなで記念撮影。



1人が言いました。
「なんか、ラジオ体操の後みたいですね」

そうそう。
そういう感じ。
すがすがしい感じ。

今日も夏休み始まるぞ~、みたいな。

その店にたまたま居合わせた2人も
誘って、吉野家で乾杯しました。
なんか、人生史に残る2次会だったなあ。

「未来食堂」は、
食堂のような劇場でした。

なんでしょう、このすがすがしい敗北感は。

「本屋のような劇場」を
目指してきた僕としては、
圧倒的に敗北しました。

ツルハシブックスは、
「アートとビジネスとデザインのあいだ」
を目指してきましたが、

未来食堂は、
「目指したい未来」といういちご
が「遊び心」と「アート」という餡でくるまれ、
さらにそれを「ビジネス」というもちで包んだ、

「いちご大福」のような場所でした。

せかいさん、山田さん、みなさん
劇場のような1日を、ありがとうございました。

楽しかったです。

1月28日(土)
飯塚商店withツルハシブックスで
こちらの2冊を販売します。

購入いただいた方にはなんと!
「未来食堂」の何度でも使える100円引き券をプレゼントします。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)日記

2017年01月06日

神は「空白」に舞い降りる


「当事者の時代」(佐々木俊尚 光文社新書)

先月に引き続き佐々木俊尚ウィーク継続中。
「当事者の時代」

戦後の
被害者と加害者の意識の変遷を
全共闘などの事例を通して、斬る
っていう、めっちゃ難しい本。(笑)

338ページ読んできて、
ようやく第5章。

「穢れ」からの退避
ここからいきなり熱くてワクワクした。

ここでは日本の神道がどのように神をとらえているか、
が鋭くつっこまれている。

~~~ここから引用

神々は、どんな場所に降りてくるのだろうか。
どこか岩の上。あるいは、人の手で掃き清められた清浄な場所。
そういう場に、神々は降りてくると古代の人は考えていた。

だから神社のような永続的な建物は
もともと日本の神道には存在せず、
まつりのたびに人々はその場に神に降りてきてもらい、
そこでさまざまな儀式を行っていたのだ。

神々はいたるところに偏在する存在で、
そこに意図的に空白の場所「しろ」を
つくっておけば、そこに神がやってくるというのだ。

つまりは、神社は神社の建物そのものが神々しいのではなく、
その中心に神がやってくる空白の何もない空間が
つくられていることが神々しいのだ。

日本の神々は、いろんな場所をふわふわと浮遊している。
そして、人間が身を清めて一心に祈ると、
目の前に用意されている「空白」の場所へと舞い降りてきてくれるのだ。

ただその「場」を用意する。それこそが人間のできる唯一のこと、
というのがもともとのこの日本列島の島々の信仰心だったということなのだ。

神をまつる神社は、つねにそこに座っている神をまつる固定化されたものではなく、
そこに空白をつくって神を呼び寄せる場所として機能してきたのである。

この何もない空間、空白こそが、「絶対」にほかならない。
この「絶対」は空白であるがゆえに傷つけられず、汚されることもない。

伊勢神宮の式年遷宮の意味。
建物は神ではない。神は空白そのものなのだ。

日本人は、どこかからやってきた神様をお迎えし、丁重に応対し、
そして最後はお帰りいただくということをつねに続けてきた。
この三つの過程のどれが欠けても、神様の送り迎えを無事に終わらせることはできない。

神様はあくまでも私たちの日常の外からやってきて、
一時的に滞在して、いつかは帰っていく人たち。
つまり言ってしまえば、「異邦人」でもあったのだ。

ハレの日に客が来て、
私たちの日常は賑やかで新鮮な空気に一変する。

ふだんは食べられないようなご馳走が並べられる。
そして旅人でもある来客は、珍しく面白い話をもたらしてくれる。

来客の話は、新鮮な活気を私たちの
退屈な日常へと吹き込んでくれるからだ。

しかしこの新鮮な活気、新たな刺激は、
実のところ彼ら来客が私たちとはまったく違う「異邦人」で
あるからこそ表現できるものなのだ。

謎めいていて不透明で、
何か暗い異空間のようなものを背負った異物であるからこそ、
私たちの退屈な日常は刺激を受けるのだ。

~~~ここまで引用

この章を当然、著者の佐々木さんは、
「当事者」という視点から描いているわけで、

この後に、
「絶対」でアウトサイダーとしての視点を持つことで、
戦後の「運動」は当事者性を失い、衰退していく。
という仕組みが考察されている。

しかし、この章だけを、
「場」という視点から見てみるとどうだろう。

「場」に必要なエッセンスが含まれているのではないか。

「場」に必要なのは神が降りるための「空白」であり、
「異邦人」としての神であるのではないか。

「場のチカラ」とは、
「空白」が存在すること、
「異邦人」を受け入れられることではないか。

お店に例えれば、
「異邦人」として店にやってきて、
つかのま滞在し、新しい風を吹き込み、
非日常空間を生み出し、そして去っていく。

そんなまつりのような「店」ができないだろうか。

いや、
そんな店こそが、「場のチカラ」を有する、
素敵な場所なのではないか。

そんな空間をつくりたい、
そしてその空間は「日本人」という言い方が正しいかどうかわからないけど、
われらの先祖が古来から、持っていた意識にあっているのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び

2017年01月05日

「場」と「コミュニティ」のあいだ

必要なのは、「場」であって、
「コミュニティ」や「居場所」ではない。
プラットフォームとは、
「場」であって、「居場所」ではない。

まあ、日本語のニュアンスは難しいのだけども。

その「場」とは、
相互に作用する「学びの場」で
あるのではないか。

そこには少しばかりの緊張感があり、
少しばかりの安心感もある。

緊張感があるとすれば、
「自分が変わるかもしれない」という変化への恐怖かもしれないし、
安心感があるとすれば、
それは同じ学びをする「同志」としての感覚なのかもしれない。

一方で、人が「コミュニティ」を欲してしまうのに、無理はない。

人は、生き延びるために「コミュニティ」を
必要としてきた。

農村社会
職人や商人たちの組合
あるいは企業社会

そのコミュニティに属していることが
「生き延びる」ために必要だった。

しかし。
いまは、その前提は崩されている。

一部大企業や官公庁・自治体に属さない限り、
「コミュニティ」は生活を保証してくれない。

しかし。
人は「コミュニティ」を求める。

「場」が「コミュニティ」になってしまうことがある。

常連さんのついた居酒屋や喫茶店。
入り口を開けた時の「ギラッ」とにらまれる感じ。
なんとも言えず居心地が悪い。

ツルハシブックスもそのような状況に陥りつつあったのではないか。

僕にとって、価値があるのは、「機会提供」だ。
そこにたくさんの人が来て、本や人との出会いを
提供したいから本屋というスタイルにつながった。

それが「コミュニティ」を形成し、「居場所」利用が
進んでしまうと、そのような「機会提供」機能が損なわれる。

それには、
「アイデンティティ」という課題が存在するのだろうと思う。

私が私である意味。
私は何者なのか?という問いに答えられない不安。

それが、「コミュニティ」に属することで、
少し解消されるのだと思う。
マズローの欲求五段階説のような。

問題は
「場」と「コミュニティ」が両立しないことだ。

「場」は絶えず、「新しい風」を必要としている。
「コミュニティ」は世界をウチとソトに分け、
新しい人はソト側になってしまう。

これを「ゲストハウス」は性質上、
うまいこと仕組化しているのだろうと思う。

「場」と「コミュニティ」のあいだ。

おそらくはそこに「場」をつくっていくことだろうと思う。
具体的には「市場」のような空間なのかもしれない。

新しい人が入ってきて、
古い人も、ゆるやかにつながり、
それぞれの人が自分の「店=見世」を
やったりやらなかったりするような空間。

そんな空間をつくっていけたらいいなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)日記

2017年01月03日

「本屋」から「市場」へ



初日の入り後の富士山@千葉。

本年もよろしくお願いします。
「毎日」にこだわらず、書きたいときに
書いていきます。

基本的には、本を読んで気づいたこと、
20代に向けてのメッセージを中心に書いています。

紹介する最初の1冊は

「本屋になりたい~この島の本を売る」(宇田智子 ちくまプリマー新書)

沖縄の市場(商店街)で小さな古本屋を
やっている宇田さんの1冊。

日本最大の書店(ジュンク堂)から
日本一小さい(3坪)の古本屋へ。

この「市場」っぽいところに惹かれて購入。
この本の最終章「町の本を町で売る」に、
なんだか町の本屋さんってなんだろう?
って考えさせられました。

「本屋」から「市場」へ。

2017年はきっとそんな年になるのだなと予感しました。

~~~これから本文より抜粋

自分で店を始めてから、
買いものをする場所が変わりました。
スーパーやチェーン店、または通販を使うより、
できるだけ近くの商店で買うようになったのです。

個人商店の苦労がわかったから、というのが大きな理由です。
特に、店主が店番もしているような店では、目のまえでひとつ
商品が売れることがどれだけ励みになるか。

(中略)

店をやっている知り合いが増えたのも
理由のひとつです。
少しでも売り上げに貢献できればという気持ちと、
ちょっと顔を見にいくような気分で立ち寄ります。

~~~ここまで本文より抜粋

そうそう。
お店をやるってそういう感じ。

沖縄の人も、普通に車で郊外のショッピングモールに
買い物に行くのだそう。

きっとそれって、
みんながサラリーマンになっちゃったからかもしれないなあと
思いました。

分断。
経済成長とは、分断だったと僕は思っています。

生産者と消費者を分け、
作る人と使う人を分ける。
その逆展開でつながることを人は求めているのかもしれません。

そんな中で、
本屋は何ができるのでしょうか。

早稲田大学の松永さんは、
本にも、演劇にも、「多様性」と「普遍性」がある
と言いました。

そうそう。
それにプラスして、
本屋には「劇場性」があるのだと思います。

僕が「偶然」と読んでいた現象は、
大阪の陸奥さんに言わせれば「逢着(ほうちゃく)」でした。
http://hero.niiblo.jp/e483057.html
(2016年12月4日 20代の宿題)

そして、ツルハシブックスが閉店した理由は、
おそらくは、その「劇場性」が発揮できなくなっていったから、
だと思います。

「居場所」と「言語コミュニケーション」
の課題が、駅前のビル店舗では、解決不可能だったのかもしれません。

次は、「市場」だ。
「市場」の中の「本屋」になるということだと思います。

そしてその本屋は。
「畑のある本屋」です。

塩見直紀さんは、「半農半Xという生き方」(ちくま文庫)
の中で、「使命多様性」の時代だと言いました。

そうそう。
半農半XのXは使命であり、天職のことです。

「天職」と聞くと、
どうしても、「職業名」のことかと思ってしまいますが、
本当は「使命」のことだと僕は思います。
何に命を使うのか?というほうがしっくりきます。

そんな大げさだけど「使命」に出会える「場」をつくる。

大学では、
そんな小さな「使命」に出会える機会を、

本屋で言えば、
「多様性」と「普遍性」と「劇場性」を満たす本屋を、

つくっていくこと。

それが2017年の出発点にしたいと思います。
とてもおもしろいものができそうな予感がしています。

本年もよろしくお願いします。  

Posted by ニシダタクジ at 04:31Comments(0)日記