プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年10月17日

地域を「編集」するリアルメディアとしての宿

大正大学地域実習29日目。



南魚沼・里山十帖へ。
http://www.satoyama-jujo.com/about/

冒頭より
「2014年5月、私たちは新しい宿をオープンさせました。
でも旅館を始めたかったわけではありません。
レストランを始めたかったわけでもありません。
始めたかったのは、新たなインタラクティブ・メディアの枠組みをつくること。」

※この里山十帖とは?のページだけでも、応用できることが
たくさんあります。すごい。

雑誌「自遊人」を作っていた岩佐さんが
2004年に「米をつくいたい」と会社を移転。
農業法人を立ち上げ、地元の農家のお米を
生産者の名前入りで販売したりした(当時としては珍しい)
出版、農業、物品販売を行ってきた。

2013年。
山の中の温泉旅館が廃業するタイミングで
そこを買い取り、リノベーションの末「里山十帖」をオープンした。

「さとやまから始まる10の物語」
十帖とは、10ページのこと。

「真に豊かな暮らし」を提案・発信することを目的に、オーガニック魚沼産コシヒカリを育てる農作業体験「農」、美術大学との産学協同でリノベーションに取り組む「芸」、料理人とのコラボレーションで地産地消の郷土食文化に新たな彩りを加える「食」など、10のコンセプトから成っている(上記webより)

里山料理。
ここにあるものを楽しんでもらうこと。

そして何より、
ここでしかできない「体験」を重視していること。

「米一粒がメディア」。
「椅子はそのフォルムだけではなく、座り心地がメディア」。
「そこにある風景そのものがメディア」。
人と人の対話だけでなく、モノが、建物が、風景が語り出す……、
そんなメディアをつくっていきたいと考えています。(上記webより)

夏は星空を眺め、秋には稲刈りをして
冬にはかまくらの中でホットワインを楽しむ。

そんな里山十帖に来ないと体験できないことを
体験してもらうこと。

そしてスタッフではなくプレゼンターであり、
宿のコンセプト、食材の物語、自然について説明し
お客様に里山十帖を楽しんでもらうこと。
里山十帖そのものがメディアであるということ。

~~~以下メモ

雑誌が売れなくなってきている
→ホテル経営:次のステップへ

地域の人々に参加してもらう
料理部門:地域の食材を使って。

お客:ペルソナ設定
一番来てもらいたいお客にどうやってきてもらうか。

体験する:散歩ツアー
「あのお米が夜でますから」

そもそも美味しい上にプレゼンテーションするさらにおいしくなる。
150年前の北前船の物語:ネオ里山料理

宿:リアルメディア
その場所でしか味わえない。
1つ1つの体験がリアルメディア

薪ストーブ:暖かさが循環するように。

「地域おこし」をいかにカッコよくやるか。
「編集」によって地域の価値を高めていくこと。

バリアフリーではないこと
⇒ページに表示している。
お客さんの想定がある。

ハコは変わらない⇒季節によって「体験」を売ること
・たき火
・かまくら
・山菜

リピーターがくる。
⇒違う季節の里山体験をしたいから。

お土産を持ってくる。
「あなたに会いに来た」と言ってもらえる。

~~~ここまでメモ

美学。
言葉にうまくできないけど、そんな感じ。

美しさとは何か?
カッコよさって何か?
雑誌「自遊人」が編集していたものとは?
里山十帖が提供する「価値」とは?
そんな問いが次々に生まれていく。

「里山十帖」はお客さんの中に、
問いを残しているんじゃないか。

「豊かさ」って?
「季節」って?
「日本」って?
「地域」って?

その謎が解けなくて、
お客さんはまた里山十帖にやってくる。
与えられるだけの体験ではなく、そこに「参加」できること。

「編集者」とか「アーティスト」ってなんだろう?
って思った。

目の前にあるもの。
目の前になく、心や頭の中にあるもの。
人と人のあいだにあるもの。
季節と季節のあいだにあるもの。

それらを編集し、「価値」を生み出していく。

その「価値」っていうのは、
実は、自分の中に問いが生まれること、なのかもしれないなと思った。

それって、宿じゃなくて本屋でもできると思った。
いや、本屋こそがそういう空間になるんじゃないかと思った。

ツルハシブックスは
まさに「双方向メディア」だったんじゃないか。
そしてお客と店員の境をあいまいにすることで
お客が「参加」できる仕組みだったじゃないか。

デザイナーの役割は課題を解決すること
アーティストの役割は問いを投げかけること。

「編集者」っていうのは
その両方を同時に、しかもあいまいに行うこと、
なのかもしれないって思った。

さて、ぼくは本屋というフィールドで、
どんな編集をしますかね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:35Comments(0)学び

2018年10月13日

素材の声を聴く



大正大学「地域実習」24日目。

午前中は八海醸造「魚沼の里」で「雪国wa!shoku会議」に参加。
午後からは国際情報高校の授業「魚沼学」の中間プレゼンの見学
夜はこの期間の実習のコーディネートをしてもらっている
「愛・南魚沼未来塾」の倉田さんと魚沼学をスタートした茂木さんの講座。

盛りだくさんの1日でした。
まず午前中から。

あの「里山十帖」(来週お邪魔します)の
岩佐さんに初めてお会いしました。
さすが、最先端だなあと。

「美しさ」について考えさせられました。

~~~以下メモ

定住者ひとり当たりの消費額は年間124万円。
人口減少とは、1人あたり124万円減るということ。
外国人観光客10名(2組)、日本人宿泊客26名(13組)、日本人日帰り83名(50組)と同じ。

旅行の目的の変化
名所・旧跡⇒温泉⇒美味しい食べ物
現地でしか食べられないものが旅行の動機になる。

美食の定義が変わってきた。
豪華な食事ではなく食文化の豊かさを感じる食事。

おいしい食べものってなんですか?
ガストロノミー=美食学
食べ物を右脳と左脳両方使って楽しむ

美食の定義。
フランス=テロワール(土)、イタリア=スローフード
ローカル・ガストロノミー:地域の風土・文化・歴史を皿の上に表現したもの。
それぞれの立場(生産者、料理人、住人)でローカルガストロノミーを表現していくこと。

2019新潟・庄内DCコンセプト「日本海美食旅」
食を通じて、新潟・庄内の歴史・文化を味わう知的な旅。

ガストロノミーツーリズム:
その土地の気候風土が生んだ食材・習慣・伝統・歴史などによって育まれた職を楽しみ、
その土地の食文化に触れることを目的としたツーリズム

新潟のナス:日本一の作付面積→66%は自家消費
新潟の枝豆:日本一の作付面積→42%は自家消費
→こういうものの中にローカルガストロノミーはある。

京都・東京に次ぐ食文化圏へ:日本海美食旅

京都のすごさは住人が京都出身・在住に誇りを持っているから。
新潟もそうありたいね。新潟最高だよ、
観光客なんて来なくてもいいのに、くらいにならないと。
でも独り占めもあれだから、観光客さんもどうぞいらっしゃい。みたいな。

独自のコンテンツ(温泉・名所)+ローカルガストロノミー
→どの地域にもある。
コンテンツが人である場合もある。
柏崎ツアーもこれでいけるかも。

里山十帖:米づくりを学ぶために南魚沼へ。
3年、5年で軽井沢に引っ越すつもりだった。ところが軽井沢には
自然・文化が乏しいことに気がつき、南魚沼が味があるところだと感じてきたので、
いまのところ引っ越す予定はない。

世界の潮流:「衣食住」への原点回帰。
→一番大切なものは食なのではないか。

京都の野菜料理:下ゆでをする
⇒一度味を抜いてからダシで味を入れていく。ダシ(かつお+昆布)でつける。

新潟の野菜:味があるから昆布だけで味が出る。野菜の皮:うまみが凝縮している。
水の違い(硬水、軟水)もある。

京都の野菜:滋賀や福井、兵庫から運んできている。
技術を磨いて同じ味を再現することに価値がある。恵まれていない食材をどうするか?

京料理にとって大切なもの
1 見た目(ビジュアル)
2 味
3 素材
京料理を目指す必要はない。昔からある食文化を生かすこと。

山菜を生で食べたら甘かった。育っているシーン(場所や時期)で味が違う。
⇒食材とともに生きている。

山菜はアク抜きが必要、天ぷらにして苦みを飛ばす必要
→従来の常識

「旬」=一瞬で過ぎていくのが分かる
金沢・京都の旬と違う。
新潟では春が遅くくるし、秋は早くくる。

歳時記ではなくて、
目の前にあるものを料理する。
⇒土地そのものと対話

ダイナミック=自然とのコミュニケーション
ダイナミズム:東京・軽井沢にはない。
⇒季節に合わせた無理のない料理=家庭料理

東京:〇月の料理:家庭でつくれるのか?
1か月そろえられるのか?
七十二候を感じるのか?

砂糖を使うと塩が増える。
塩分をを控えるには砂糖を減らせばいい。

~~~以上メモ

京都の料理は
一度味を抜いて、そこから味をつける。
農家の料理は、そのままの味を活かす。
それがローカルガストロノミーか。

なんか、単純だけど、
とても深いように感じた。

午後からは国際情報高校へ。
2年生の「魚沼学」中間プレゼンテーションを見学

印象に残った2チーム

高校生のための新聞発行をするチーム
同じ事柄を異なる視点で描いた新聞をつくって、
「進路」の悩みを軽減できるのではないか。
不安を解消するのではなくやわらげることができるのではないか。

もうひとつが
スイカを使った商品開発チーム
名産の八色スイカ。

彼女たちが通学路を通るとき、八色スイカの畑を通る。
すると、規格外で捨てられているスイカを目にするのだという。

あれを何とかできないか。
ということで、石鹸、化粧水、種を使ったお菓子を作ってみた。

いいね。
そういうの。アクション起こってる。
それを夏休みにバイト代わりに売ったりしたら
楽しいだろうなあと。

プレゼン聞いていて思ったこと。
やっぱ切実なストーリーって大事だなと。
スイカ畑のスイカが捨てられてる絵って
何かつらいもんね。

茂木さんが最後に言っていたけど、
「共感から始まる。もし、自分の中に何かなかったら、
誰かの思いに心を寄せていく」
っていうのが印象に残った。
共感とか思いとか大事だなあと。

夜の部。
愛未来塾の倉田さん。

旅行代理店での様々な取りくみ、
地元の誇りを生み出している。

交換価値→使用価値へ
トキ(時)とエン(縁)が価値を持つ時代。
ナナメの関係を地域でつくっている。

学びが楽しいまちは暮らしが楽しいまち
まちづくり=最終的には教育に行き着く。

うんうん。

茂木さんの話を聞いていて、
ビビっときた。

子どもを育てるって、
京料理じゃなくて、新潟の農家料理をつくるような
ものなんじゃないかって。
素材の声を聴く。

京料理じゃなくて、
農家の家庭料理をつくるんだって。

今までの教育は京料理をみんなで目指してきたんじゃないか。
「最高」と設定した料理を分析し、マニュアル化し、それを目指してきた。

でもね、それってもう価値じゃなくなってきてるんすよ。
ガストロノミーの時代。

地域固有の食文化を、一瞬しかない「旬」を、
農家の家庭料理のように、
毎日食べられる方法で調理すること。
それを味わいに海外から観光客が来るんだ。

アイデンティティ。

新聞をつくるチームの
プレゼンにもあったけど、
それって食からも作られるなあって。

素材の声を聴く。
素材の旬を感じる。
素材そのままの力を活かす。

そういう場をつくっていくこと。

なんか1日がすべて編集されて、
とってもいい気分になりました。
ありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 09:27Comments(0)学び

2018年10月10日

おそるおそる差し出してみる

「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」

僕が本屋さんに立っているときに、
大学生が話してくれた二大悩み。

「やりたいことがわからない」のほうは、
夢至上主義とも言えるキャリア教育に疑問を持ち、

山登り型の「キャリアデザイン」への違和感と
川下り型の「キャリアドリフト」への学びを得た。

そして、激動する世の中において、
どちらが機能するのか、という問いが生まれた。

今もその問いは続いていて、
「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)
とか
「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)

を読むと、
むしろやりたいことを決めないほうが、
変化に即座に対応できるし、
場のチカラを最大限に高められるのではないか、
と思った。

そこでもう一度、
「自分に自信がない」問題を考えてみる。

これについては、
上田信行さんの「プレイフルシンキング」(宣伝会議)を読んで、
キャロル・ドゥエックさんの「やればできるの研究」(草思社)
へとつながった。

「固定的知能観」と「成長的知能観」の違いだ。
「自分の能力は生まれつき決まっていて、変わらない」と思うのか
「自分の能力は常に開花の途上にあり、変わっていく」と思うのか

学校教育を受けていると、前者のほうに傾きやすくなる。
「自分は能力ないんだ」と思ってしまう。
だからチャレンジが始まらないのだと思った。

だから、そのハードルを下げるために、
「チャレンジだと思わないようにチャレンジする環境をつくる」
を本屋ツルハシブックスでは目指してきた。

昨日、来月のイベントの打ち合わせをしていて、
思い出したエピソードがあった。

2004年。
中越地震。

僕は地震後、川口町へボランティアに行った。
新潟大学ボランティアセンターと協力して、
「子どものケア」部門へ。

入ってすぐに、
自分たちの考えが甘かったことを知った。

「週1日で大学生8人なんてボランティアは要らない。」
「あなたが毎日来てくれ。」

その理由は、子どものマインドはきっと傷ついているから、
毎日新しいお兄さんお姉さんが来て遊ぶよりも
昨日と同じお兄さんお姉さんが来てくれたほうがいい。

子どものケア部門のボランティアをコーディネートしていた
ホールアース自然学校の方針だった。

日程を調整して、その週末から7日間連続で(通いで)
僕は川口町のある地域に入った。
現場ではただただ、無力だった。

学校が再開してなかったから、
朝から、小学生と遊んだ。
避難しているテントの中で。
親は日中は地震で散らかった
家の片づけをしていた。

弟がふたりいる小学生のおねえちゃんがつらそうだった。
甘えたいのに、甘えられない。
そんなことが伝わってきた。

午後4時。
ボランティア終了の時間。

ボランティアセンターに帰っていく車を
追いかけてくる子どもたち。

車の中でみな、黙り込んだ。

無力。
たたただ、無力だった。
こんなことを続けて、彼らのためになっているんだろうか。
苦しかった。

子どもは答えてくれないから。
評価をしてくれないから。

そもそも、毎日違う人が来るよりも、
同じお兄ちゃんお姉ちゃんが来たほうがいい
っていうのは、ホールアース自然学校の
経験則に基づくもので、
現場の子どもたちが発した「ニーズ」ではない。

「災害ボランティアセンター」は
「ニーズ」に対して「最高速で応える」ことを
ミッションとして運営されている。

そこでは、
「挙がってこないニーズ」は基本的に後回しにされる。

僕が中越地震の時、川口町で学んだこと。

ボランティアっていうのは、
「おそるおそる差し出すもの」だってこと。

おそるおそる差し出し、
相手の出方を観察し、
また改善して、
ふたたび差し出すこと。

そういうことなんだって。

なんか、それってさ、
ビジネスに似ているなって思った。

自信はないけど、仮説がちょっとだけあって、
それを検証するために、おそるおそる差し出してみる。

それって、
「自信を持っておススメします。」
って差し出されるよりも、
「コミュニケーションしよう」っていう意思が感じられるなあと思う。

だからさ。
「自分に自信がない」って、
顧客とコミュニケーションしようっていうビジネスにおいては
とても大切なことなのではないかと。

「やりたいことがわからない」
「自分に自信がない」

それはむしろ人生を送る上で必要なのではないか。
そんなふうに思ってきました。









大正大学地域実習21日目。
直江兼続ゆかりの坂戸城と八海山ロープウェーへ。

ちっぽけな自分をあらためて実感して、
次のステージに向かいます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)学び

2018年10月08日

「道」を歩むということ

「つなぎ道」を始めた佐藤孝治さんと
「道」について話して、感じたこと。

ああ、それは道なんだって。

そして、「道」ってなんだろう?って。

で、調べてみました。

https://wanodaigaku.com/genre03/know005/

~~~以下上記ブログから引用

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ。」

古代中国で老子が語ったとされる「道(タオ)」以来、「道」という漢字は事物や世界、人生等の本質および本質に迫ろうとする生き方を意味するようになりました。

老子や荘子の思想を受け継ぐものを道家といい、その思想が宗教的に変遷したものが道教です。 この「道」という概念の影響を受けて、日本の古代宗教は「神道」となり、立花は「華道」に、茶の湯は「茶道」に変遷していきました。

「道」とはプロセス、過程のことをいいます。
例えば、お茶の道というものは、どこへ行く道なのかというと、茶というものを媒体にして、人生とか自然の悟りを得るための道なのです。
つまり、悟ろうとする努力の過程が「道」なのであって、悟ってしまったら、それはもう「道」ではなくなってしまいます。
したがって、日本における「道」の思想が、西洋の「術」と違うのは、未完の美に価値を置くところなのです。

(中略)

日本の「道」という発想から学ぶのは、技術ではなく、技術を通して、その裏にある「精神」、自然から学べる静かな心や精神状態、人間関係をスムーズに深くしていく心だと思います。
ですから、そこには発展や進歩という概念はありません。
西洋の芸術が、つねに新しいものを求めて発展進歩をよしとするのと、ここで根本的に異なっているのです。

~~~以上引用

「つなぎ道」が「道」だとすると、
それもまた技ではなくて「過程」のことであり、

「過程である」ということは、
「答えがない」と同義であり、

たどり着かないということであり、
人それぞれであるということ。
〇〇流っていうのが出てくるのかもしれない。

昨日は湯島のプログラミング教室「ソラ」
のプレゼンテーション大会にコメンテーターとして参加。



小学生、中学生が
自分が書いたプログラムを発表、実演する。
シューティングゲームや
植物育成ゲームを作ってみる。

ああ。
そうそう。

大切なことは、やってみることなんだなあって。
始める理由は「やったことがないから」でいいんだって。
そんな大切なことを思い出した。

そして、プログラミングもまた
「道」のようなものだなあって。
これでいいっていう終わりがない。

常にプロセスの中にいて、
その中で技術と自分を高めていくこと。
そういう繰り返し。

つなぎ道もそう。

佐藤孝治さんが目指すつなぎ道と
僕が目指すつなぎ道は違っていい。
僕は本屋で、「機会提供」をいちばん大切にするから。

「道」を歩む。
「未完の美」の中にいる。

多くの人がそんな生き方を欲しているのかもしれないなと思いました。

目指さないこと。
そもそもゴールなど無いのだから。

ただ、歩き始めればいい。
それだけなのかもしれないですね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:42Comments(0)学び

2018年10月06日

目的を持って始めないこと

10月4日木曜日は東京湯島・ソラで
「NPO・NGO草莽の集い2018」
で「暗やみ本屋ハックツ」の活動について、
現代表の原さんと話してきました。

10月5日金曜日は茨城水戸・茨城大学で
「iOPラボ」の初回イベント「場づくりラボ」を
(株)えぽっく若松さんと「場づくり」を
キーワードにしたワークショップを進行してきました。

「場づくり」のキーワードがよかったのか、20名を超える参加。
久しぶりに緊張するファシリテーションでした。
ああいうのが平然とできないとダメだなあと。

最初に用意していたシナリオは全部なしにして、
各自の「場づくり」についての
イメージを共有するワークショップにしました。

2次会に14人くらい来ていたので、
まあ、いい場だったのではないかなと。
発起人の川原涼太郎くん、ありがとうございます。
あなたが3月に開いたイベントが始まりです。

ということで。
僕の気づき。

「目的をもって始めないこと」
「課題を解決しないこと」

これがとても大切なんだっていうこと。

特に10代と何かやるとき。
あるいは単に話を聞くときであっても。
目的や課題解決をゴールにしてしまうと、
はじめられないし、フラットに聞けなくなってしまう。

「アマチュアリズム」に失敗はないことを
僕はつながるカレーの加藤先生から
学んだのだけど。

それは「経済価値を生む」という
大いなる(ほとんどの経済活動が持っている)
大義(目的)を消去しているのだ。

そしてそれこそが「つながるカレー」活動の
魅力である。

目的を持ってはじめないからこそ、
起こったことを楽しめる。
課題を解決しないからこそ、
フラットにメンバーの意思を確認できる。

「価値」を固定しないこと。
目標にとらわれないこと。

一期一会のいまこの瞬間を楽しむこと。
他者に出会い、尊重すること。

それっていうのが「場づくり」にいちばん大切なこと
なのだろうなあと僕はあらためて感じました。

関係者の皆さん、参加者の皆さん、
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:15Comments(0)学び

2018年10月02日

「大切にしたいもの」に気づくこと

大正大学「地域実習」13日目。
十日町(旧松代)・竹所集落。

あの、カールベンクスさんの
古民家再生プロジェクトの村。







知ってはいたけど、初めて見に来ました。

日本の古民家に一目ぼれして、
それをドイツ建築の知恵と融合してつくる
古民家再生。

「リノベーション」とは何か?
山形・郁文堂書店プロジェクトと同じ問いが
突き刺さってくる。

これまでのストーリーと。
これからのストーリーと。

古民家(特に釘をつかわない工法)を活かしつつ、
ドイツ建築の石瓦やサッシなどが
ふんだんに使われていて、
中身はソファの似合う洋式なつくりとなっていた。

竹所は真冬には3m4mも積もる豪雪地域なのだが、
ベンクスさんの古民家再生では、雪下ろしは不要だ。
現在でもこの地域に住んで、長岡などに
通勤している人もいるという。

建築のチカラ。

この地域に住みたいといって、
移住していくる人たちがいる。

なんていうのだろう。
「コミュニケーション」だなって思った。

日本とドイツとの。
豪雪と自分の暮らしとの。

「暮らす」っていうのはなんだろうと
問いかけられているような気がした。

そんな中。
昨日、大学生こはるによる「イナカレッジ」レポートが
掲載された。

https://inacollege.jp/blog/2018/10/01/%E3%80%8C%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%99%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%97%85%E3%81%AB%E5%87%BA%E3%82%8B%EF%BD%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A64%E5%B9%B4%E7%94%9F%E5%B0%8F%E6%98%A5%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%81%A3/

キーワードは「自分を知る」

「地域に暮らす」「ともに暮らす」なかで、
人は自分を知る。

「自分を知る」ことは、
簡単なようでいて、すごく難しい。

自分はすでにそこにあるのだけど、
それがなんなのか、よくわからない。

明確にわかるものなんてたぶんないのだけど。

「大切にしたいもの。」に気づくこと。

そこからかもしれないなあと思った。

「暮らし方」って実はそういうことなのかもね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:19Comments(0)学び

2018年09月25日

「夢」や「目標」にアイデンティティを依存しないこと

「やりたいことがわからない」
ことがつらいのは(つらく感じるのは)、

心はやりたいことを決めるべきではない。
(価値を固定すべきではない)
キャリアデザインではなくキャリアドリフト的な
生き方がいいと直感ではわかっているのだけど。

教育によって、
「目標のある人生に価値がある。」
と思い込んでいる(思い込まされている)から、
そのギャップがつらいのと。

もうひとつは、
夢、目標に、自らのアイデンティティ(存在意義・存在承認)
を依存するしかないからだろうと思う。

ひとつに、
「地域」コミュニティの崩壊。
またひとつに、
「会社」コミュニティの崩壊。

それは同時に
「地域」アイデンティティの崩壊と「会社」アイデンティティの崩壊
を意味する。

いまだに町人総出の祭りのある地域の
出身の人たちには、何とも言えない自信がある。
それは「誇り」と呼べるようなものかもしれない。

その要因のひとつは、
「地域」アイデンティティが備わっている人たちだからだと思う。

かつてはどこの会社に勤めているか?
がその人のアイデンティティだった。
ほとんどの会社員が定年まで働くという
状況の中で、会社は家族であったし、会社と自分は一体だった。

2012年3月26日に書いたブログ
「アイデンティティ・クライシス」
http://hero.niiblo.jp/e162894.html

で、若者が直面する最大の危機は
アイデンティティの危機であり、
それは「役割の喪失」からくる、と書いている。

毎週日曜日(冬季のぞく)に
「人生最高の朝ごはん」が開催されている
新潟市西蒲区福井地区。


そこのじいちゃんたちに会い、
「誇り」そして「役割」こそがアイデンティティの源泉だと思った。
だから、「役割」を持たなければならない。と思っていた。

いま、そんな「誇り」や「役割」のあるコミュニティは
数えるほどしかない。

一方、学校社会は、「キャリア教育」の名の下、
早期のキャリア目標の設定を迫る。
親戚のおじさんは、正月に、甥っ子姪っ子に対して、
「将来何になりたいんだ?」と聞く。

いまなら、タカアンドトシばりに「昭和かっ!」
って額を叩いてやりたいところだけど。

まるで、「夢がなければ、人に非ず」
と言っているようなものだ。

そう。
「夢」や「目標」がアイデンティティに直結していること。
それが現代の若者の生きづらさの一つの要因となっていると思う。

その前提を疑うこと。

昨日、「常識を疑うことから始めよう」(ひすいこたろう・石井しおり サンクチュアリ出版)
を読み直していて、「前提を疑う」ことってとても大切だなと思った。


例:
「常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである」(アインシュタイン)

教育の奥にあるものを考えること。
「夢」や「目標」にアイデンティティを依存しないこと。

かといって、アイデンティティを「役割」に求めるのは
少しズレてくるように思う。
「役割」には「承認」が必要だから。

6年前のブログにも書いているけど、
「人のためになる仕事がしたい」という大学生の欲求は
「役割を持つことで承認されたい」だと思う。

「承認されたい」という病(というか本能)に気づくこと。
場(プロジェクト)の一員となり、役を演じること。

「役割」ではなくて、「役を演じる」くらいの
軽やかさで、人生を生きていければいい。

「やりたいことがわからない」
とアイデンティティの問題は根深い。

僕はそれを場のチカラで超えていけると思っている。
「アイデンティティ」も「個人」も場に溶けてしまえばいいと思っている。

そういう意味では、「イナカレッジ」という地域と一体化する1か月の
プログラムは、そういう設計になっているのかもしれないと思った。
地域の「誇り」や「地域愛」に包まれる1か月。

そこから始まる何かがあるような気がする。
これ、イナカレッジ参加者に聞いてみたいなあ。




写真は出雲崎・海チーム(2018.9.22)  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)学び

2018年09月22日

個性を生み出す「場」の構成員となる

地域実習3日目。
今日は柏崎のまちづくりネットあいさの
水戸部さんに話を聞く。



2007年の中越沖地震のときに
大学3年生で建築を学んでいた水戸部さんは
中越沖復興支援ネットワークの
立ち上げにかかわる。

これがきっかけとなって、
現在の「柏崎まちづくりネットあいさ」
「市民活動センターまちから」につながっている。

~~~ここからメモ

町:AREA・・・区域のこと    柏崎市
街:HARD・・・建物のあつまり  中心市街地
まち:SOFT・・・人と人との関係、暮らし

ミッション:
自分たちの地域を
自分たちの手で
よくしていくこと

よくしていこうとしている人をバックアップする。
挑戦したいという志に火をつける。

朝鮮の循環によって躍動する地域
縮小の時代:地域に挑戦が必要
事業を通じて社会に貢献するプレイヤーを増殖させる。
都会:消費するものがコンテンツ化されている。

3段階のステップ
1 任意団体:中越沖復興支援ネットワーク
2 NPO法人柏崎まちづくりネットあいさ
3 市民活動センター「まちから」

家族以外の最小単位のコミュニティ

「ディス柏」:若者が集う場
「Okinet press」の発行
おもしろい人がいる
→取材にいけるし、深く知れる

話聞いてくれる人=向かい側
となりにたまにいる人
ピストルの弾=事業をどこに打ち込むか

※総合計画をちゃんと読む

やりたいことがやれて自己満足している状態

隣の友達を助けられる

やりたいことを応援していく

やりたいことをやっている

ハッピーになる

まわりをHappyにしていく

まちからはみんなと楽しめるまちを目指して、
あなたとやりたいことをカタチにします。

※会議体の役割を明確にする

主体性・高
A:立ち上げ・中心メンバー
B:参画メンバー
C:参加してみたい
D:関心がない
主体性・低

A~Bをあいさが支援
C~Dをまちから:応援する、つながる、つたわるで支援

東京にはないものがない
地方にはないものがある
地域にないことをやれれば仕事になる。
相談される。メシが食える。地方はパラダイス。

今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない

ビジネス=仮説の検証
あのころの自分(の直観)が正しかったかかどうかわかる。

金もうけの勉強していない
→22歳から金もうけが問われる

100点とれるやつ=みんなと同じことができる
みんなができないことがやれる
どっちに価値があるか?

~~~ここまでメモ

あいさ~市民活動センターの取り組み。
10年でここまでなるか、っていう驚き。
地震という強いインパクトがあって、
復旧、復興、そしてその先、どうするか。

そんな問いの中で、
参加型まちづくり、ひとりひとりが主役であるような、
そんな場を「よりそう支援」をしながらつくっていた。

市施設を活用した
市場のような市民団体がお金を稼げるような
取り組みも素晴らしかった。

「学校では金もうけをやり方を習わない。」
そんな、伝えたい思いがあふれていた。

僕が話を聞いていて思ったこと。
それは昨日の続きだ。

ひとりひとりが
個性を発揮する必要はないのではないか、
ということ。

「個性」とは、「役割」のことではないのではないか。
ましてや「能力」のことではないのではないか。
ということ。

個性(アイデンティティ)≠役割 ≠能力

水戸部さんが言っていたように、
「今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない」

そうそう。
正しさも、価値も、流動している。

だから。
もっと場に溶け出していいと思った。

昨日と一昨日のブログ
http://hero.niiblo.jp/e488131.html
地域の「個性」の構成員となる(18.9.19)

http://hero.niiblo.jp/e488136.html
「主客未分」で場に溶けていく(18.9.20)

これを合わせて、
個性(を生み出す「場」)の構成員になる

っていうのが可能なのではないか、


「日本人は何を考えてきたのか~日本の思想1300年を読み直す」(斉藤孝 洋伝社)

「中動態の世界」のあと、
読み直したくなった1冊。

これもまた、めちゃタイムリー。

昨日は西田幾多郎について書いたのだけど、
今日は「禅」を研究した鈴木大拙の言葉から。

「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」(禅と日本文化)

禅においては「体験」が重要であり、
「言葉」はむしろ妨げになる。

「日本人は、自分たちが最も激しい興奮の状態に置かれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛錬されてきた」

自分を囚われから引き離すことが大切である、ということ。
自己が囚われるということは、心が何かにとどまるということです。
そこから、「心をとどめぬが肝要」と言います。

心がとどまってしまうと人は反応できなくなります。
「あのとき、ああすればよかった」と思っていると
また失敗してしまいます。
また先のことを思って、
「こうすればほめられるだろう」と先回りすると、
やはりこれも失敗してしまいます。

「石火の機」というのは、まさに火花が飛ぶ瞬間のように、
いまその瞬間にきちんと反応する、ということですが、
反応するためには、常に心を無にしていなければいけません。

そして極めつけは
この2つあとに出てくる、
大森荘蔵の言葉。

「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思い込んでいる感情に他ならない。」
(大森荘蔵セレクション・平凡社より)

感情というものは心の中にあるのではない、そもそも心の中というものはなくて、天地がすでに感情を持っていて、そこに自分は参加しているのだ、ということです。

大森は
「心の中」とか「意識」という言葉は危険なワードだと言います。
なぜなら、この「意識」という言葉が世界と人間を隔ててしまっているからです。

この後、斉藤孝さんはこのように解説します。

~~~ここからさらに引用

ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、
人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。

(中略)

このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを
前提とするよりも、場の雰囲気といったものを
前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。

「私」というものがあって、
その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら
思い込みなのかもしれません。

「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、
禅の伝統も生きてきます。

~~~ここまで引用

うわ~!って
日本の哲学スゲーって。
うなっちゃいました。

そして、僕のコンセプト「場に溶ける」なんて、
全然新しくないんだって。(笑)

「個性」とか「私」とか
そもそも幻想なんじゃないか。

もともと、「私」は世界に、というか場に溶けているんだ。
「場」から生み出される「価値」を「個性」と呼ぶのだと。

だからさ、個人が個性を発揮する必要なんて必要なくて、
「場」の構成員になればいい、というか、すでになっているんだって。

「やりたいこと」とか「夢」って「囚われ」のひとつだって思った。
自分なんてない。

水戸部さんは、長野市から柏崎市へ進学し、
3年次に震災が起こった。
その「場」に溶けていったのではないか。

震災復興から、まちづくりへ。
ひとりひとりがやりたいことを実現できるサポートを。
Happyの連鎖を。

そして、「あいさ」や「まちから」がそこにあることが
柏崎市の個性になっていく。

場に溶けていく。
そこから始まっていく。

それがいつのまにか「個性」となる。

私のやりたいことは何か?
私のビジョンは何で、いまどこのプロセスにあるのか?

そんなことを考えるよりも、
場に溶けていく。「場」に委ねてみる。

そんなほうが楽なんじゃないですかね。

楽に生きたい。ただそれだけなのかもしれないですが。  

Posted by ニシダタクジ at 10:31Comments(0)学び

2018年09月21日

「主客未分」で場に溶けていく

西田幾多郎。
「京都学派」の源流。

西洋の哲学・思想を踏まえた上で、
初めて本格的に日本の哲学、あるいは日本の思想
と言えるものを作った人物。

西田の根本的な思想に「純粋経験」がある。


斉藤孝「日本人は何を考えてきたのか」(洋伝社)
には、西田の言葉として以下が紹介されている。

「通常、経験といわれているものは、すでにその内に何らかの思想や反省を含んでいるので、厳密な意味では純粋な経験とはいえない。純粋経験とは、一切の思慮分別の加わる以前の経験そのままの状態、いいかえれば直接的経験の状態である。例えば、ある色を見たり、音を聞いたりするその瞬間、それがある物の作用であるとか、私がそれを感じているとかいった意識や、その色や音がなんであるかという判断の加わる以前の原初的な意識や経験の状態である。」

つまり、「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句。ここに「私は聞いた」というのはない。「ボチャン」という水音だけ。そこに静かな沈黙が広がっている。これが純粋な経験だとすると、「そこに私がいて、池があって、池の淵にカエルがいて、そのカエルが飛び込む音を、私はそのとき聞いて逆に沈黙を感じました。」ということと同じことのようで全く違うのだと。

単純に「ボチャン」という音があった。私はたまたまそこにいたにすぎないのです。
つまり、意識的な私というものが先にいて、そういう経験が起こったわけではない。
そんな主客未分の純粋経験がこの世の基本であると西田は説く。

さらに「自覚」と「場所」というキーワードに行き着く。

「直観というのは主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、翻って之を見た意識である。・・・余は我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにするものは
われわれの自覚であると思う。」

そして、「西田幾多郎の思想」(小坂国継 講談社学術文庫)の言葉によると、それは「場所」によって起こるという思想に行き着く。

「西田の考えでは、対象と対象が相互に関係するには、そのような関係が(そこに於いて)成立する「場所」というものがなければならない。例えば、物と物とは共通の空間においてはじめて関係するものである。」

斎藤孝さんは、この解説の中で、
「場所」は実体的な場所だけにとどまらず、「有の場所」「無の場所(意識の野)」、さらに有無を超越した「絶対無の場所」、それは禅でいうところの「空」に近いものであらゆるものが生まれ出る「場所」なのだと言っている。

~~~ここから引用
アリストテレス以来、西洋倫理学の基本は
「AはAである。(同一律)」
「Aであるか、またはAではない」(排中律)」
「Aかつ非Aであることはない。(矛盾律または無矛盾律)」

これらは一見、絶対的に正しいように思えます。
しかし、西田に言わせれば、Aと非Aを分けている点ですでにおかしいということになります。

色で考えるとよく分かります。赤と青はもちろん違う色です。
しかし、どこまでが赤でどこからが青なのかというと、はっきりしません。
色は七色のスペクトルにはっきりと分かれているのではなく、グラデーションになって無限に続いているからです。「ここから」と線引きすることができない以上、赤と非赤があるとは言えません。

(中略)

西田の言うように、主客の分かれていないところでこそ、純粋な経験が起こっている状態は何も特別なことではなく、私たちが折々に感じているものでもあります。

たとえばスポーツや音楽をしているときに「自分をなくす経験」をしたことがある人は多いと思います。意識せずに打っていたとか、思わず演奏していたとか、その行為に集中することで、音楽そのものになり切っていたという経験です。こうした経験は、音楽を聞くだけでも体験することがあります。

~~~ここまで引用(日本人は何を考えてきたのか)

主客未分。利休の茶の世界でも、そのように言われてきたし、岡倉天心も、東洋も西洋もないと表現してきた。

それって、この前読んだ「中動態の世界」そのものなのではないか。

アリストテレス以前に、「意志」も「未来」も存在しなかった。
これにも関連しているのではないか。

そして、それは最近僕がよく使う
「場に溶けている」状態のことをいうのではないのか。

目的という「主」に対して、手段は「客」である。
「主客未分」であるということは、目的と手段がごっちゃになっているという状態である。

よく、「目的と手段が逆転している」あるいは「手段が目的化している」というけど、それって起こりやすいのだろうなと思う。

「価値」は、常に流動している。

国民国家とか学校システム、会社システムなどは、
価値を固定した仕組みである。
だから、目的を固定化することができた。

ところが、価値が流動している時代においては、
目的と手段も流動しているし、
それは個人においても同じだと思う。

「ランナーズハイ」のように、自分を無くし、場に溶けている感覚。
その瞬間こそ、人は心地よさを感じるのではないだろうか。

主客のわかれていないところで、「純粋経験」をして、
そこから「自分(たち)なりの価値」を発見し、
松尾芭蕉が俳句を詠むように、
その「価値」を表現していくこと。

それをひとりではなくて、「場のチカラ」を通して、やっていくこと。
その繰り返しなのではないかなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 09:27Comments(0)学び

2018年09月20日

地域の「個性」の構成員になる





大正大学「地域実習~越後バージョン」
6週間にわたって、新潟県を縦断するプログラムの2日目。
柏崎市(旧高柳町)の荻ノ島集落。
かやぶきの里として知られる荻ノ島ではたくさんの取り組みが行われている。

代表の春日さんに話を伺う。
キーワードは「個性」。

以下、春日さんのトークのメモ

~~~ここから
金太郎飴のようなまちでは個性が無くなる
個性がなくなると自主性・主体性がなくなる。
地域づくりがマニュアル化して個性がなくなった。

「理屈・スローガン」ではなく、「共感」でつながる。
「共感」:意識しなくてもつながる、伝わる。

ポスターづくり:「来てください・お待ちしています」と言わない。
⇒地域のありようを伝える

自治組織と活動組織
守りの自治と攻めの自治

田植え:苗が活着してないと風景にならない。根を張ってこそ美しさ。
風景:村の人が暮らしている気持ちが表れたもの。⇒「誇り」こそ風景

経済社会と戦っていく道ではない。
→戦わないポジショニング。共感してくれる人たちとつながりを持とう。

収穫した米:横浜の社会福祉法人に売っている。
福祉法人がお米屋さんを持っている。

コシヒカリ7/こしいぶき3
⇒作業分散のため。
10,500円/30kgで売っている。
※コシヒカリとこしいぶきの価格は同じ
モノをつくる前に買ってくれる人を浮かべる。
=ピンホールマーケティング
収穫後、全量横浜の低温倉庫に保管し、社会福祉法人が管理する。

力があれば競争できる。
競争できないところはどうするか?

雪が降るということ:情報が減るということ。
⇒自分・自分に近い人と向き合える時間ができる。
人が生きていくには、インプットとアウトプットの時間が必要
アウトプット一辺倒はありえない。
自分の今のありようを確かめながらアウトプットしていく

あたたかみ:手間をかけること
⇒言葉のひとつひとつが感性に訴えている:共感する。

スローガンではなく、一緒に活動する。
橋本さん:京都府立大公共政策⇒イナカレッジ長期インターン⇒移住1年目
「人口減少」という課題に対して、地域がリアルにどういう対応をしていくのか。
地域移住して不安になる要素:お金、地域とうまくやっていけるか?など

「会社ではたらく」⇒「米、野菜を自分でつくって百姓的に生きる」ほうが安定しているのではないか?5つ以上の仕事をしている

集落単体で越えていけない:連携する。
他地域、福祉法人と連携すること。

「個性」がないと発信できないんじゃないか。
「誇り」と「アイデンティティ」
効率化⇒単純化⇒類友
田舎:複雑系⇒多様である。時間軸がたくさんある。

地域の個性の構成員であるということ。
「個性」=「能力」?
「価値観が変わってきてる」のではなく「価値が流動している」

便利=考えない⇒幸せにならない
ストックする幸せ=つながらない
「仮説にすぎない。検証してもらいたい」

東京に住み続ける:地方とのつながりが必要
関係性をもたないと生きていけない。

ムラの葬式:念仏を唱えることで呼吸を合わせた仕組み。

~~~ここまでメモ

共感。
個性。
アイデンティティ。
誇りの空洞化。
連携。

僕の中ではタイムリーなキーワードだった。
ひとつ、違和感があったのは、「個性」の話。

「地域は単体で生きていかなくてもいい」

そっか。
連携が「個性」を生むんだ。

横浜の社会福祉法人とコメの販売で連携している新潟の集落、荻ノ島。
それは「個性」だよね。

その「個性」は荻ノ島単体で成り立っているのではなくて、
横浜の社会福祉法人があって初めて「個性」になるんだ。

個人も同じなんじゃないか。
関係性の中で、「個性」やアイデンティティが生まれるんじゃないか。
地域の個性の構成員になる。

そこから始まるアイデンティティがあるのかもしれない。

だから、若者よ、地域に出よう。  

Posted by ニシダタクジ at 18:48Comments(0)学び

2018年09月15日

「なぜあなたは、その本を10代に届けたいのか?」

茨城県日立市・明秀学園日立高等学校。

今年春の甲子園にも出場した文武両道な高校。
9月15日(本日)午後、暗やみで本をハックツする
「ジブンハックツ」が学校の中の図書館で開催される。







昨日は本番に向けての最終打ち合わせにお邪魔してきました。



僕もインタビューを受けて、1冊寄贈してきました。







昨日まで4日間、図書館に展示されていた本。



これは8月から高校生自身が町を歩いて、
「10代に贈りたい本」をテーマに、
地域の人から集めてもらったもの。

2016年4月に神奈川県茅ケ崎市の
「茅ヶ崎市美術館」で行われた展示の
高校生バージョン。

http://hero.niiblo.jp/e478527.html
(アートとは「問い」を灯すことで、仕事とは「手紙」を届けること)
(2016.4.16)

この時、リベンデル熊沢さんに出会って、展示をして、
本のチカラというか思いを本に託す、ということの
パワーを改めて感じた。

そして、暗やみ本屋ハックツで
「寄贈本読書会」をやっていて、
「なぜ、この本を10代に届けたいのか?」
という話題で盛り上がるのだけど、

それを、高校生と地域の人が
直接やりあったら、面白いのではないかと思った。

そしてそれは、
いわゆる「キャリア教育」とは
ちょっと違った効果を生むのではないだろうか、と思った。
「職業観」ではない、何か。

たとえば、
「今の仕事のやりがいはなんですか?」
「仕事をしていてどんなときに一番よろこびを感じますか?」
みたいな質問。

それと、
「あなたが10代に贈りたい本はなんですか?」
「なぜその本を10代に届けたいのですか?」
という質問。

それを、高校生自身が問うということ。

それはきっと、
「あり方」が問われているのだと思った。

「あなたは今まで、何を大切に生きてきましたか?」
「人生を賭けて、10代に届けたいメッセージは何か?」
というのと本質的には同じ質問である。

高校生自身が取り組む
「10代に届けたい本」や10代限定本屋「ハックツ」は、
そんな「問いのデザイン」になっていると思った。

地域の大人から、
本というコミュニケーション・ツールを通じて、何かを学ぶこと。

大人自身も、高校生を目の前にして、
人生を見つめなおし、大切にしてきたものを確認すること。
そんなことを可能にする。

そこには、
「教えてもらう」
というよりも
「学びあう」という空間があると思う。

高校生は、大人の差し出す本と
大人自身が発する言葉から、
何らかの「誤解」をする。

昨日のブログ。
「個性」とは、どのように誤答するか?ということ(18.9.14)
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

で言えば、
誤答の旅が始まる。

そんな空間や時間が起こること。

たぶん、それが
僕が「ジブンハックツ」的なものに望むことなのだろうと思った。

僕自身が寄贈した本に書いたメッセージで締めます。

「個性」「自分らしさ」は
美しい誤解の積み重ねの先にある。

現時点で僕が高校生に伝えたいメッセージはこれで、
本は内田樹「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)です。

よき旅を。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)学び

2018年09月08日

「参加」と「ケア」のデザイン

「参加」と「ケア」。
これからはこの2つがテーマになってくると思う。

「場のチカラ」を高めるために、
個人が思っていることを話す。
そういう環境をつくることはとても大切だ。

それは「ケア」であると同時に「参加」になっている。
実は最大のケアは「参加」なのではないか、と思った。

それは決して、
「役割がある」ということではない、と思う。

「役を演じる」というか、
即興演劇に近いような、そういう感じ。

生きづらさの源泉は
「個人」という考え方にあるのではないかと
思う今日この頃。

学校は、「集団生活」を学ぶといいながら、
「個人戦」を強いる。
他者と比べることで、
アイデンティティを確立しようとする。

結果、いじめが起こる。

アウトプットを出すのは、
場のチカラであって、個人やチームの力ではない。

だから、そこにいるひとりひとりが
「参加」すること。「ケア」されること。

「ひとりひとり」と「個人」っていう概念は違うのではないか。
そう思っている。

場の構成員としての「ひとりひとり」であり、
それは一個の「個人」ではない。
決して切り離すことはできない。

それがたぶん「場」という考え方
だろうと思う。

「参加」と「ケア」のある場をデザインすること。

それって、ミーティングの時の「チューニング」とか
そういう話でもある。

多くの大学生がアイデンティティの不安を抱えている。
自分が何者であるか、わからない。

それはコミュニティが希薄化したことが
大きな要因であるといえるだろう。
また、学校社会が「夢」や「目標」を
アイデンティティの要素として聞いてくることも大きいような気がする。

「夢」がなければ人に非ず。

そんなことないんだよ。
常に場に溶け出していけばいいと思う。

「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)を読むと、
「意志」とか「未来」とか「個人」とか、幻想のような気もしてくる。

そんなあいまいな世界を生きる僕たちに、
「参加」と「ケア」のある場をデザインしていきたいなあと思う。

8月29日(水)から9月7日(金)まで、
10日間にわたり、そんなことを考えていました。

場を共有していただいた方、ありがとうございました。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:03Comments(0)学び

2018年09月06日

「手紙」を届ける「プロジェクト」を支える「場のデザイン」





まりさんにヒアリングしてもらいました。
!!っていうことがたくさんありました。

いちばん驚いたのは、
「場のチカラ」とか「場をデザインすること」
を大切にしているのだけど、
その根本にあるコンセプト(大切にしたいもの)は、
「手紙」であるということ。

そのふたつがズレているということ。
そこかな。

自分がいちばん心地よいのは、
「場のデザイン」なのだなあと。

ツルハシブックスで階段から見た
いろんな場所に輪ができている景色。
武雄市図書館で感じた
違う目的の人が同じ空間を分け合っている景色。
ワークショップの個人振り返りをしているときのあの空気感。

僕自身は場のデザインをすることで、
何かが起こっていることを見るのが好きだ。
その「何か」とは、
「プロジェクト」のことではないかと。

場のチカラを高めること。
・誰とやるか
・いつやるか
・どこでやるか
それを大切にすること。
前提としてオープンマインドをつくること。

それは「参加のデザイン」にも通じるのだということ。
ツルハシブックスの店員サムライや
寄付サムライの仕組みのように、
境界をあいまいにすること。

流動する価値を
一緒にやるメンバーと一時的に固定して、プロジェクトをつくること。
その価値に同意して、勝ちに向かっている状態であること。
問いを共有し、学びあうこと。

学びの結果として、予測不可能な何かが起こること。
そもそも、場に溶け出して、アウトプットすること。
そういうことを目指してきたんだとわかった。

それと「手紙」。
その根底には、「手紙」というコンセプトがあるのだなあと。

誰もが手紙を預かってきて、
それを渡すのが誰なのかいつなのかわからない。
その手紙を渡すためのプロセスにいること。
それが「プロジェクト」なのではないかなと思った。

つながったね。

僕自身が渡したい手紙は、それなんだ。

人生は、仕事は、
手紙を届けるようなものだっていうこと。

その手紙は、
宛先=「誰に」=「顧客」があって
内容=「何を」=「価値」がある、
プロジェクトを通して届けられるんだっていうこと。

そのプロジェクトを生み出すような、
あるいは促進していくような、
もしくは、きっかけをつくるような、
そんな「場のデザイン」が僕のミッションなのではないかと。

なんか。
しっくりと来た。

まりさん、1時間のヒアリングありがとうございました。
やっと、つながりました。そんな感じ。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:14Comments(0)学び

2018年09月05日

「好き」と「刺激」のあいだ

えぽっくのチームひきだしからイナカレッジ
の中間研修ハシゴで、

場のチカラについて考えて、
ぐるぐるしている。

場のチカラはチームの力とイコールではなく、

人(誰とやるか) with whom
タイミング(いつ) when
場所(どこで) where

が「場」であり、
人ひとりひとりは、その人の過去がつくっている。
研修でやったのは過去の感じたことを思い出すこと。
いましか書けないことを書くこと。

そこにプラスして
なぜやるか(ミッションは何か?) why
誰に対してやるか(お客はだれか?) for whom
何をやるか(価値は何か?)what
どのようにやるか how

という風に、展開していく。

大切なのは、
「個人」を場に溶かしていくことだと思った。

「場」がアプトプットを出す。
そのために、場に自らを溶かしていくこと。

そんなことを考えていたら、
出雲崎町釜谷集落のチームのコンセプトが
「トキメキ」だった。

「刺激」ではなく、「好き」でもなく、「トキメキ」

ああ。
なるほど、って思った。

刺激と好きのあいだ。

受動的に刺さる感じでもなく、能動的に好きになる感じでもなく、トキメキ。
「違和感」っていうのにも近いと思うのだけど、
自分の中からあふれてくる(こぼれてくる)何か。
それが「トキメキ」なのかもしれないと思った。
中動態っぽいなあと思った。

そんな「トキメキ」をアウトプットするには
どうしたらいいのか?
それは楽しみだなあと思った。
あと、柏崎市の岩の入集落の出来上がった暦を見た。

表紙からすでに泣きそうで、
「魔法がかかる編集」が詰まっていた。

イナカレッジ、素敵なプログラムを展開しているなあと思いました。
ありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)学び

2018年09月02日

個人の「感情」を材料にして、「場」が冊子をつくる

茨城県日立市の(株)ユニキャストが運営する
地域貢献型シェアハウス「コクリエ」にて
株式会社えぽっく(僕の肩書は顧問!)が展開する
「チームひきだし」のワークショップに出てきました。

前日訪問した小美玉市の(株)ユーゴーさんでワークショップの様子




昨日のコクリエの様子


ヒキダシ、ヒキダシ!!


午前中は、僕自身のヒストリーを語りつつ、質疑応答。

僕が自分自身で語っていた気づきは、
本屋をやる理由でした。

1 本屋はまちを作ることができる「メディア」だから。
郡山のヴィレッジヴァンガードの「郡山にカフェをつくりたいんだ」発言から、僕は本屋になろうと思った。

2 本は、手紙であり、それを「一時預かり」したいから。
ハックツをやったときの金子さんとのトークと伊那市のブックカフェ3日間の土田さんのコメントから。

3 結果が目的ではなくて、本人や、社会環境や、時代に委ねられているから。
一連の「目的・目標」「キャリアデザイン」という教育への違和感に対する自分なりの表現。

これに気づきました。
昨日、話しているときは整理できてなかったけど。

大学生7人と対話していて思ったのは、
「学校教育と家庭環境が効いてるなあ」っていうこと。

「こうあるべき」
「こういうもんだ」
っていうのが強いなあと。

2社回っての一番の驚きは
「あんな楽しそうに仕事ってできるんだ」
「社員の幸せがまわり回って、お客様の幸せになるんだ」
「先輩後輩との関係性ってあんなにフラットなんだ」
っていうこと。

もちろん、そういう会社を選んでいるんですけどね。

でも、思ったよりも、みんな「仕事はつらいもんだ」とか
「耐えること」とかを教え込まれてきているんだなあと。

あとは、失敗してはいけない、とか。
みんなの和を乱してはいけない、とか。
結果責任を個人に負わせる、とか。

まあ、それが我が国の「サラリーマン養成教育」ですけども。

昨日のテーマは「魔法をかえる編集」
2社で聞いてきたことを編集して、冊子にしなきゃいけない。

その時に大切なのは、
「自分がどう感じたか?」であり、
それを文章に載せていくことで、
だからこそ、届けたい人に届くのだと思う。

だから、まずは個人の人生振り返り。
幼いころから今まで、どんな人生を歩んできたのか?

プレゼンを聞いていて感じたのは、
意外にみんな感情を出さないのだなあと。
安心空間を作れてないわけじゃないのだけど、
たぶん、ぼくが書く前に言えばよかったんだなあと。
臨場感あるトークをしていたのは数人だった。

大切なのは、出来事そのものではなくて、
その時に自分の感情がどう動いたか。
何を感じたか、っていうことなんだ。

だって、そこに自分が感じる
「価値」や「違和感」や「衝動」があるんだから。
たぶん、そういう導入にしなきゃいけないんだな、と思いました。
9月3日にまた新潟でやるので、考えようっと。

そのワークを踏まえて、
企業訪問の振り返り。

このときも、
「気づいたこと」「企業のいいところ」ではなくて、
「自分が驚いたこと」というところにフォーカスしたほうがいいなと思った。
「いいところ」だと、ちょっと抽象化されちゃうんだよね。

それは、もしかしたら、
「否定されたくない」という恐れの表れなのかもしれない。

もっと個人の感情を出していくこと。
どんどんオープンマインドになっていくこと。

だから、
「抽象度を下げて、というか解像度を上げて」という話をして、やり直し。
出てきた、共感度の高い意見。

そのあと。
「そもそも何のために冊子をつくるんだっけ?」

この冊子は誰のためにつくるのか?
という問いで息詰まる。
・会社のよさを紹介するのか
・チームひきだしの参加者を集めるのか
と目的が揺らぐ。

っていうところで、若松さん登場。
「チームひきだし」の理念というかミッションを語ってもらう。

大学生からは、
なぜ、初日にそれをやらなかったのか、
という素朴な質問が来る。

それをやっていたら、もっと違う視点で会社訪問ができたのに。

たしかに、そうだろうと思う。
しかし、それによって失われるものも確実にある。

目的を持たずに聞く。
それはチームひきだしのひとつの強みだと思う。
どこまでもライブで、
「場」のチカラを高めることに集中していくこと。

目的なんだっけ?
と立ち止まることも、よい機会であったと思う。

「オープンマインド」をつくり、
個人の感情を出し切り、
それを合わせて、新しい価値を生み出す。

そう。
冊子をつくる、というかアウトプットを出すのは、
「チーム」ではなく「場」なのだ。

そんなワークショップで生み出される冊子は
一回性の高いものになる。
二度と同じものは作れない。

だからこそ。
ひとりひとりのパーソナルな過去と、
心の動きがとても大切で、
それを「場」に出し合うこと。

そうやって「場」のチカラを高めて、「場」がアプトプットを出す。

たぶん、えぽっくと僕が作りたいのは、
そういう冊子で、そういうインターンだ。

W若松さん、いい学びの機会をありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び

2018年08月27日

未知なるものとしての「他者」



陸奥賢さんの「まわしよみ新聞をつくろう」(創元社)発売記念!
まわしよみ新聞&トークライブ新潟ツアー3DAYS。
長岡・コモンリビングで最終日。



まわしよみ新聞をやったあとで、
池戸と陸奥さんとトーク。

「コモンズデザイン」とは、「他者と出会う」こと。

「コミュニティ」は同一性集団であり、だんだんと閉じていく。
自分たちが優先されるから、「ふるさと納税」など、取り合いが起こり、
他のコミュニティは「敵」となる。

インターネットは、
マイノリティがつながりやすくなった半面、
そこに「閉じていく」ことが可能になった。

自分とは主張が違う人たちと
接することなく、あるいは否定するだけで、
過ごせるようになった。
(少なくともネット上では)

それではどんどん世界が狭くなってしまうのではないか。
生きていく、には「他者」との出会いが必要なのでないか。
僕もそう思う。



「まわしよみ新聞をつくろう」(陸奥賢 創元社 2,160円)
には、そのエッセンスが余すところなく、書かれている。

しかも、参考文献はない。
陸奥さんがまわしよみ新聞実践の中で
感じ取って、考えてきたことがすべてだ。
これはすごいなと。

「まわしよみ新聞」の魅力を知るには、
第2章「まわしよみ新聞10のいいね!」を読むのがいいだろう。

この10個の中から、
僕がビビッときた3つを紹介する。

2 司会がいなくてもみんな平等に参加できる

「ノーテーマ」「ノーファシリテーション」だと陸奥さんは言う。
実際やってみると、まさにそんな感じだ。
陸奥さんはみんなが新聞を読み始めた瞬間に、
ソファに寝転んでいたりする。

ひとりひとりが3枚程度「おもしろい」と思う記事を切り抜き、
発表していく。
テーマは様々。ジャンルもいろいろ。
新聞広告を切り抜いてもいい。

これは、「ワークショップ」や「ファシリテーション」
を学んできた僕としては、非常にビックリしたことだ。

司会やテーマがなくても、
自己紹介さえなくても、
みんな楽しそうに新聞切り抜きを発表している。

7 世間を語りながら自分を語り、他者を知る。

まわしよみ新聞は、新聞を通して、
「自分語り」でありながら「世間語り」ができる。

新聞は世間のことが書かれていて、
「誰かに読ませようとして」書かれているメディアなので、
それを元にして話をすると共感が得られやすい。

そして、2枚、3枚と発表していくと、
「あ、この人はこういうことに興味があるんだ」
「こういう考え方するんだ」と他者を知ることになる。

「新聞」という記事を通して、
人を知る、ということだ。

8 「小さい共感」が「話す力」に繋がる。

昨日、長岡でやったまわしよみ新聞は、
1 新聞を読む→切り抜き 15分~20分
2 切り抜いた記事を発表 30分
3 壁新聞を作成 30分

ということでだいたい80分くらいで
「まわしよみ新聞」ができる。

意外に短いのが新聞を読む時間だ。
実はこれには理由があって、
「自分の興味関心にぴったり」な記事というのは、
なかなかない。

だから「強いていうなら関心がある」程度の記事を発表する。
その「好きの度合いが低い」からこそ、小さな共感が生まれるのだ。

怪獣映画好きな人が怪獣映画の記事を
発見して熱く語られても引いてしまって、むしろ共感度は低い。

でも、「こんなのも面白いですよね」
ってさし出されると、「へぇ、おもしろいね」と小さな共感が生まれる。
「他者」と話をするときは「小さな共感」がとても大切である。

これ、まさにそうだなと。

僕が、ミーティング進行の時に
「チューニング」をやっているけど、
それってまさに「小さな共感」のデザインをしているのだなと。

そして、「オープンマインド」をつくる
もっとも大切なことは、
「思ったことを言う」ってことだと思っているので、
「まわしよみ新聞」はそれが見事にデザインされているんだなと思った。

まあ、こんな感じで
エッセンスが詰まりまくっている「まわしよみ新聞をつくろう!」。

場づくりとか、ファシリテーションとか
そういうキーワードを持っている人には
特にオススメの1冊。
あと2冊、僕の手元にありますので、気になる方はお声がけください。

昨日のトークの僕なりの感想は、

僕は、「予測不可能性」こそがエンターテイメントの本質だと思っていて、
それをいかに楽しめるかが人生を楽しむことだと思っている。

では、その「予測不可能性」を誰が(何が)もたらすのか?
といったとき、それは「他者」であるのではないか、と思った。

「他者」とは、「未知なるもの(人)」の総称ではないか。

新聞とは、「新しく聞く」というメディア。
この本の中にも書いてあるけど、
ページを「めくる」ことでどんどん新しい世界、新しい価値観
と出会うことができる。

予測不可能なメディアであり、
かつ、「まわしよみ新聞」はそこに集まっている
「他者」が「おもしろい」と感じた記事が切り出されているので、
それによってもまた「未知なるもの」との出会いがある。

そんな「他者との出会い」
をつくる活動が「まわしよみ新聞」なんだなあと。

そして、陸奥さんは実践の後にこう繰り返す。
「誰か外の人に向けて、貼り出す前提でつくってください。そして貼り出してください」

新たなる他者との出会いを生むための
まわしよみ新聞をつくる、というのだ。

「まわしよみ新聞」3DAYS。

「まわしよみ新聞」というメディアは、「予測不可能性」と「小さな共感の機会」
と「小さな自己表現」を伴った、「他者」との出会いのデザインなのだなあと思った。

ちなみにこの本のタイトルは、
「まわしよみ新聞をつくろう!」であり、徹底した実践ガイトとなっている。
つまり、「やってみよう」っていうこと。

そして、陸奥さんが言うには、「ガイドブック」であって「ルールブック」ではないのだと。

オープンソースであるまわしよみ新聞を実践者が実践し、
そこの場から新たに気づき、新たに出会い、
自分たちなりの「まわしよみ新聞」を展開していくこと、だ。

陸奥さんが昨日の帰り際に言っていた。
「僕は中卒ですから、アクティビストでしかない」

大学の先生のような「アカデミスト」ではないし、
昨今の人文書ブームのような、
「読んだら少し頭がよくなった気がする」という本を書いたのでない。

あくまで実践者(アクティビスト)として、アクションを起こし、
他者と出会い、他者と小さな共感をし、新たな何かを生んでいくこと。

きっとそれが「まわしよみ新聞」から始まった、
陸奥さんのコモンズデザインなのだなあと思った。

さて、僕も実践はじめますか、ね。
「まわしよみ新聞」、一緒にやる人、求む。

★「まわしよみ新聞をつくろう」(陸奥賢 創元社 2,160円)は
僕の手元にあと2冊あります。希望される方はご一報ください  

Posted by ニシダタクジ at 09:12Comments(0)学び

2018年08月25日

「他者」に出会うコモンズ・デザイン

まわしよみ新聞開発者の陸奥賢さん、
内野に来ていただきました!
内野町の「又蔵ベース」で開催。
参加者は12名でした。



まずは直観読みブックマーカー。
これは、本の神様にワンフレーズを聞く、
本占いみたいなものです。

僕がやったのは、

6月に発売された陸奥さんの
「まわしよみ新聞をつくろう」(創元社)です。

愛とは何か。
「1回やれば誰でも簡単にできる」
うーん。
深い。(笑)

ブックマーカーで遊んだあとは、
まったく関係ない本にこっそり挟んでおき、
その本をうっかり手に取った人が
違う世界に興味を持てるきっかけになるような、
そんなデザイン。

そんなブックマーカーの実践をしてからのトーク。

陸奥さんのやっている
「まわしよみ新聞」などのコモンズデザイン。

「まわしよみ新聞をつくろう」には、
2012年からの6年間の実践を通して気づいた
エッセンスがたくさん詰まっている。

特に第4章の「もっと知りたい、まわしよみ新聞」では、
フロー型のテレビやインターネットとは違う、
ストック型メディアである新聞を使うことによる
さまざまな効果が書かれています。

この中にもある「他者に出会う」
というキーワードが、昨日のトークを通しても、
陸奥さんがやっていることの
大きな要素となっているように感じました。

本書では
「共同作業に慣れる」
「会話でもなく対話でもない共話のデザイン」
「ノンバーバルな共同体験」

など、まわしよみ新聞のエッセンスが書かれていて、
それによって、いかに「他者と出会う」ことが大切かと語ります。

大切なのは「他者に出会う」こと。

それを、「まわしよみ新聞」や「直観読みブックマーカー」や
「当事者研究すごろく」などを通じて実践しているのが
陸奥さんの強みだなあと思いました。

それは、僕がいう
「本、本屋をきっかけとした機会提供」
に近いものなのかもしれません。

昨日トークしていて思ったのは、
陸奥さんは
「機会提供」の対象者が、広くて深いんだなあと。

僕は冷たいんだなあというか、
対象者が狭いんだなあと。

僕はおそらく、対象者を限定している。
対象者というのは「お客」と同じことだ。

それは、僕の出発点が
15歳の不登校中学生、シンタロウに出会ったことだったから。
僕は「お客」から出発しているから。

だから、僕にとっては、
「コモンズデザイン」で出会う「他者」であり、その「出会い」を、
顧客である中学生高校生大学生にとって提供したいと思っている。

一方で、「対象者」を設定することは、
「他者」を限定することにつながるのかもしれないと昨日は思った。

陸奥さん的には、
他者っていうのは、想定していない人との出会いであり、
それを生み出すのがまわしよみ新聞などのツール。

だから、まわしよみ新聞をつくったら、
人が見えるところに張り出して、
そこからまた出会いにつなげていくこと。

そういうのを繰り返して行った先にあるもの。
それを見てみたいのだなあと思った。

さて、今日はいよいよまわしよみ新聞の実践と
お笑い集団NAMARAの江口歩代表とのトークです。

トークテーマは、
「越境~コミュニティデザインとコモンズデザイン」

今日もいろいろ学んできます。
参加者まだまだ募集しています。

直接会場へお越しください。  

Posted by ニシダタクジ at 06:05Comments(0)学び

2018年07月19日

接続するコミュニティ

宇多田ヒカルさんについて
書かれたこちらの記事
https://note.mu/wildriverpeace/n/n75dfc3e5212d

~~~以下引用

「コミュニティというものが所属によって成立し得なくなるからです。」
だから、無理に属さなくてもいい。属することでの安心というのは、
それと引き換えに、空気を読んだり、納得しないながらも同調するという行動を伴います。
所属とは、みんなと同じなら安心だ、という錯覚に陥ることですから。

今後ポイントになるのは、無理に属さなくても、
私が私じゃない誰かと一瞬接続することだけでも得られる、
そんな刹那の安心があると気付ける事だと思う。

僕は、それを「接続するコミュニティ」と表現しています。

(中略)

インサイドコミュニティとは、自分自身の中にコミュニティを作り出すということです。
所属するコミュニティは、あくまで自分の外側の枠に自分を置くことでした。
しかし、接続するコミュニティでは、逆に自分の内面に安心できるコミュニティを築くことになります。

なぜなら、たくさんの人とつながり、自分の中にたくさんの
多様な自分が生み出されるということは、
それは個人であっても唯一無二の個人ではなく、多様な個人、
言うなれば「やおよろずの個人」が存在するわけです。
だから自分の中にコミュニティは生み出せるのです。

~~~ここまで引用

たくさんの人とつながることで、
自分の中にたくさんの多様な自分が生み出される。
その人たちとコミュニティをつくっていく。

えっ。
そんなことが可能なんですか?
って思った。

そして以下の曲作りの話へとつづく。

☆☆☆ここから

宇多田ヒカルが曲作りや歌詞作りをするにあたっては、
私が「私ではない誰か」に伝えたいことを書くという話でした。
「私ではない誰か」とは特定の誰かではない。かといって架空でもない。
それは、「私ではない私」でもあり、「誰かによって生まれた私」なのだ。
だからこそ、彼女の歌は、多くの人の心の中にいる
「宇多田ヒカルによって生まれた私」が刺激されて心を打つのだろう。

★★★ここまで

そんな曲作り。

なるほど。
だから宇多田ヒカルの歌は心を打つのか。

たぶん、本屋も同じだと思った。
「誰かによって生まれた私」のために、
本を選び、並べること。
伝えたい思いを込めて、本棚をつくること。

本屋のあり方を考えると、
そういう機会となるような本棚をつくること。
たぶんそういう本棚を作っていくのだろうなあ。

そしてそこに「接続するコミュニティ」が
できていくのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 10:09Comments(0)学び

2018年07月06日

未来像をハッシュタグで説明する

「そこってどんな場所?」
「一言でいうと何?」
「どんなプロジェクト?」

それを表現するのって難しい。

どちらかというと、
目的が多様であるほうがいいと思っているし、
未来が決まっていないほうがいいと思っている。

かえるライブラリーキカクカイギ@湯島「ヨソラ」。

どんな場にしていきたいのか?
そんなことを話し合う。

場の運営者の高橋さんの話で
印象的だった話。

この場所(ヨソラ)は、
主に子ども(小学生~高校生)向けのプログラミング教室
をやっているのだけど、
最初から「カフェ的な空間」を目指していたのだということ。

つまり、畳があって、ちゃぶ台があって、
そこで作業してもよいということだったり、
木の机を置いたり、
かなり自由度が高い空間を作ってきた。

つまり、カフェ的な空間である。

カフェ空間の居心地の良さは、
目的が多様であること。
「コーヒーを飲む」という
目的以外の利用が認められていること。

たぶんそういうところにあると思う。
それ以外にも店主さんの気づかいというか
こだわりというか、そういうのも居心地の良さに
かかわってくると思うが。
(椅子と照明が居心地の良さの本質らしいので)

じゃあ、そんな「ヨソラ」で
「かえるライブラリー」を展開しつつ、
この場所をどう運営・展開していくのか、そんな話。

たぶん、場所のミッションとしては、
この場所は、昨日のブログの話で言えば、

「コネクティングドット」の「ドット」をつくる、ということ。

その時はどうつながるか分からなかったけれど、
あとで振り返ると、
あ、そういえば、あそこで出会った人が、あそこで借りた本が、
いまここにつながってます。

そういう「ドット」(点)をつくること。

それが「ヨソラ」×かえるライブラリーの
ミッションだと思った。

だから、
顧客は誰か、
顧客にとって価値は何か、

っていう定番の質問を
あえて明確にしないことなのかもしれないな。

かといって、だれでもフリーに来てほしいわけじゃなくて、
キーワードにヒットする人に来てほしい。

つまり、ツイッターのハッシュタグのような、
いくつかのキーワードがあって、
そこにいくつかヒットする人が集まってきて、
集まった人たちで(もちろん全員ではなく)、
顧客と顧客価値を設定して、プロジェクトが生まれていくような、
そんな場になればいいと思った。

「本」「本屋」「手紙」「学び」「スキル交換」
「地域」「パラレルキャリア」「二拠点居住」
とかそういう感じ。

僕自身がやりたい方向性としては、
「かえるライブラリー」のネットワークを通じて、
各「地域」に本やライブラリーを通じた友人ができて、
そこで小さなプロジェクトを一緒にやったり、
東京にいながら関われたり、東京でモノを売ったり、
そういう場所になれたらいいなと思った。

これからの「学び」。
それは「予測不可能性」にあり、
「越境」にあり、「コモンズ」にある。

そのためには、
目的の多様性を許容する「場」があり、
もちろん本棚があり、「身体性」が
発揮できるようになっている。

そんな目的を明確にしない「学び」と
仲間との「出会い」を、
湯島天神の前でやるっていうのが
このプロジェクトの面白いところだと思う。

学びとは何か?
問いかけるようなプロジェクトをつくりたい。
  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)学び

2018年07月05日

「過去をつなげる」と、「未来が見える」。



昨日は、シリーズ「若松ミライ会議」@コクリエ。
なかなか素敵なコンテンツができたなあと。
昨日の話題提供は吉成美里さん。デザイナー。

現在のプロフィールから始まって、

小学校
中学校
高校
大学

と過去を振り返っていく。

小学校の時に参加したオペラの事業名が
「オペラによるまちづくり」だったので
「まちづくり」というキーワードが頭の中に入ってきたという。
すごいな。言葉の力。祈りだね。

ハイライトは
中学の時につくった部活動「わくわく倶楽部」かな。

体育会系至上主義的な学校の中で、
それをやっていない自分たちの「居場所」をつくろうと発足させた。

顧問の先生とのやりとりでの葛藤。

※注
「琴で大会出場」とかって言ってたらしい。
そういう「学校的価値観」に合わないからその
倶楽部があったのにね。

日立の「いいとこ探し」をやろうと決めて、
桜満開の下、日立の良いところを聞いて、付箋に書いてもらってはった。
圧倒的行動力。

そんな彼女のプレゼンを聞いて、
若松さんが一言。

「共感性が高いっすね」って言った。
そうそう共感力がある。

自分の周りにいる子たちの
話を聞いて、力になりたくなる。

なるほど。
ミライ会議ってそういうことか。

僕も思ったのは、
美里ちゃんは、自分と同世代の人が
「好きになる」ってことをやってるんだって思った。

自分の置かれている状況や環境、
あるいは自分自身や友達のこと、
それを「好きになる」「肯定する」ために
活動しているんじゃないかって思った。

そんな話をしていたら、
美里さんがだんだん元気になっていくような、
そんな雰囲気があった。

「コネクティングドット」と、
スティーブジョブズはかつて言った。
過去の出来事、点と点がつながると。

若松ミライ会議は、
その「点」と「点」をそこに参加している人たちが
メタ化というか、ちょっと上から俯瞰して見たり、
感じたことを話したりして、

点と点がつながる、
あるいはつながったような気がする、
そんな会議だ。

「過去をつなげる」と、「未来が見える」。
そんな感じ。

就活生は、
自己分析とか強みとか適性とか、
そういう統計学に身を委ねるのではなくて、

自らの「過去」を振り返り、
それを他者とディスカッションして、
「点」と「点」をつなげていくこと。

その先に未来があるのではないかと僕は思った。
「若松ミライ会議」、これ、なかなか楽しいコンテンツですよ。

若松さん、吉成さん、
昨日も楽しい時間をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:50Comments(0)学び