プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年11月14日

なぜ、(小さな)本屋なのか?

なぜ本屋なのか?

そこには省略されているのは
なぜ(図書館ではなく)(大きな書店でもなく)(小さな)本屋なのか?
ということなのだろう。

そんな問いをもらって、あらためて考える。

本屋を始めた理由。
http://hero.niiblo.jp/e269505.html
(13.6.11 僕が本屋さんになった3つの理由)

1 ヴィレッジヴァンガード郡山店の店長のカフェをつくりたい話からいつか本屋をしようと思っていた。
2 「ホスピタルクラウン」(大棟耕介)を仕入れすぎた。
3 地域と若者のプラットフォームは本屋なのではないかと直感した。

と簡単に言えば3つになるのだけど。

なぜ本屋なのか?はそのまま「本屋とは何か?」
という問いにつながっている。

ツルハシブックスを始めてから、「なぜ本屋なのか?」というよりも、
「それを実現するのは本屋なんじゃないか?」と思うようになった。
特に「カフェ」という概念に出会ってから、かもしれない。

クルミドコーヒー影山さんやCommon Cafe山納さんの著書を読んでいると、
「それはカフェでこそ実現できる」というニュアンスで書かれていることが、
僕にとっては、それは本屋でこそ実現できる、と思える。

ツルハシブックスを開店した当初に、
山納さんの「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)を読んで、
僕がやりたいのは「新刊書店」ではなくて「カフェ」なのだと知った。
http://hero.niiblo.jp/e208716.html
(12.10.28 カフェという場のつくり方)

2019年のかえるライブラリーのクラファンのときに、
http://hero.niiblo.jp/e488750.html
(19.1.20 本屋元年)

~~~
「つくる」と「届ける」。そのあいだに、本棚があるように思う。
つくり手と受け手のコミュニケーションのあいだに、本棚があるように思う。
~~~

なるほど。
本棚をつくる人は、その「あいだ」をつくっているんだ。ただ機会を提供しているだけ。
その本を買うか、買った本を読むか、は読み手(買い手)に委ねられている。
そんな「あいだ」をつくる、それがかえるライブラリーだろうと。

もうひとつ。
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
(20.10.15 ベクトルとして存在を許されるカフェという場)

~~~
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェ。
「何者でもない誰か」を言い換えれば、名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。
実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。
~~~

クルミドコーヒー影山さんは、「続・ゆっくりいそげ」の中で「場が力をもつための条件」として5つ挙げている。
1 目的がなくともふらっと行ける場であること
2 多様な人が参加できる場であること
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一の要素があること
5 楽しく、遊びの要素があること

うんうん。このすべてが合わさって、ようやく場は力を持つのだろうと。
そして、それはカフェではなくて、「(小さな)本屋」でこそ、実現できるのではないかと。
もちろん、カフェでも本屋でもない別の方法もあるのだと思うけども。

その本屋をかつて僕は「劇場のような本屋、本屋のような劇場」と名付けた。
提供している価値は「予測不可能性」という楽しさ。

つくると届けるの「あいだ」にあり、それを委ねる空間。
それがつくりたい小さな本屋という空間なのかもしれません。

それを僕やスタッフだけがやるのではなく
主客をあいまいにしながら本棚を作っていく「かえるライブラリー」のオーナーや、
温泉入ってサッパリしてからひと仕事しよう、とか。
いろんな人たちが「ベクトル」だけになって、そこに存在を許されるような、
そういう「場」としての本屋を、始めてみようと思っています。

「かえるライブラリー」は年間8,000円で借りることができます。(予定 3月まではお試し期間で1,000円/12月~3月)
詳しくは西田までお問合せください。  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)学び

2021年10月24日

「見つけた、つくった」に向かう生態系


「役に立たない研究の未来」(初田哲男・大隅良典・隠岐さや香 柏書房)

またしてもタイムリーな本でした。
「探究」をドライブするのはなんなのか?
山崎糀屋・山崎京子さんを突き動かした「好奇心」は
基礎科学の研究者の原動力でもあるようです。

この本でのとても大切なテーマは「役に立つ」と「役に立たない」です。
いわゆる「基礎研究」と呼ばれる分野は有用性が(すぐには)分かりづらいので、
しばしばそのような議論にさらされると言います。

本書44ページには
「役に立つ」知識と「役に立たない」知識との間に、不明瞭で人為的な境界を無理やり引くのはもうやめよう、として、基礎研究の特徴が以下のようにまとめられています。

1 基礎研究はそれ自体が知識を向上させる
2 基礎研究がしばしば予想外のかたちで、新しいツールや技術をもたらす
3 好奇心を原動力とする基礎研究は、世界レベルの学者を惹きつける
4 基礎研究によって得られる知識の大半は公共の財産となる
5 基礎研究の最も具体的な効果はスタートアップ企業というかたちで現れる。
~~~

そうか、基礎研究の原動力は「好奇心」なのか。

この本のラストに隠岐さんが以下のように言っている。

~~~
一般的に「何かに役に立つ研究」の動機は、「Xのために役立つからYを研究したい」といったかたりで表明されます。すると、内容はどうであれ、その人の関心はXとYとに分散していることになります。場合によっては研究対象のYよりXのほうが大事なことすらあるかもしれません。

それに対して「とにかくYを研究したい」という場合、その人は基本的にYのことしか考えていないはずです。すぐには役に立たないとされる研究の多くは、このように研究対象自体への純粋な関心により成り立つものが多いように思います。

自然科学の基礎研究なら、Yのところになんらかの自然現象が入ります。人文社会系の研究の場合、そこには人間社会に存在する対象が当てはまります。
~~~

うわー、これは厳しい指摘。
探究をプロジェクト型学習だとすると、私たちは、隠岐さんの言うXつまり目的を大切にしすぎているのではないか?

SDGsに当てはまるとか、地域の活性化や、空き家の解決だとか。
もしくは顧客は誰で、その人がどうなったら幸せなのか?

それを言語化していくことは、そんなに大切なのだろうか?と。
もっと「好奇心」そのものを出発点にできないだろうかと。

その「好奇心」そのものが学校および学校型社会によって削がれてしまう、
というのなら、それを取り戻すところから始める必要があるのではないか、と。

だからこそ振り返りで「印象に残ったこと、面白いと思ったこと、疑問に思ったこと」を
継続して問い続けないといけないのではないか、と。

僕たちは呪われてしまったのではないか。
「役に立つ(=有用性)」という悪魔に。

しかもこの本で書かれているが、古代ギリシア・ローマ時代の有用性とは、便利、とか実用性という意味とは違い、共同体の繁栄の役に立つ、ということであったのだと。自分とか就職とか短い射程ではなく、共同体とか人類の未来だとか、空間的時間的に広い射程の中で「有用性」を捉えていくことが必要になってきているのだと思う。

なるほどなあ。
そもそも役に立つとか、インセンティブとかそういう考え方が「好奇心」そのものを奪ってきたのかもしれない。

さらにこの本で出てくる「科学」とは何か?というところ。

~~~
1を100にする時には選択と集中は有用だがゼロをイチにする時には使えない。

「科学」というものは、原理や普遍性や法則性を「発見」する過程です。一方の「技術」とは、「発明」という言葉に代表されるものです。

科学の本質は自分で「問い」を見つけることにあります。

科学は「文化」の一つである。陸上で新記録が出たとか、ベートーヴェンの音楽に感動するだとか、儲けにも「役に立つ」にもつながらない感動が、科学にもあるのです。
~~~

これさ、「科学」を「学び」や「探究」に換えても、同様のことが言えるのではないか、と。
高校生や大学生のうちから、「役に立つ」にフォーカスしなくてもいい。
むしろそのフォーカスが、学びを狭くしているのではないかと。

さらにつづきます。

~~~
それが大事な研究課題だったら、いずれどこかで大きな分野に育っていくだろうし、そもそもそんな予測は立てられないし、本人にもわからないのですよ。やってみる以外に解はないのです。

自分ではこうに違いないと信じるのだけど、それが必ずしも100パーセント当たるわけでもない。それがサイエンスという営みなので、そういうものなんだと思うことも、私は同じくらいに大事だと思っています。

一人の天才が急に現れて、すべての理論ができあがったわけではまったくなくて、結局、氷山の一角なんですよね。たまたま機が熟し、そのひとの能力もあいまって、新しい発見や発明が出てきたというだけ。

サイエンスという生態系により、新たな発見が生まれるんだ。科学は堤防を決壊させる地点にいた人だけで進んできたのではなく、アインシュタインでさえその例外ではありません。
~~~

そっか。「営み」の中の「場」の一員として、そこにある、って感覚なのかもしれないな。
つくりたい「まなびの生態系(まなびサイクル)」はきっとそういうイメージだと思いました。

高校生への問いかけは、
この3年間で何を達成したか?と問うのではなく、
この3年間何を発見したか?と問うべきなんだろうな。
顧客も、ミッションも、価値も、自ら「発見」しないとね。

マイプロジェクトで語るべき「君だけのドラマ」は
その「発見」のストーリーなんだよな、きっと。

「変わりたい」「変わった」は目的・目標ではなくて結果なんだよね、きっと。
見つけた、つくった。その先に「変わった」が結果としてある。
フォーカスすべきは見つけた、つくった、なのではないか。

「見つけた、つくった」に向かうとき、高校生と大人のあいだに上下関係も師弟関係もなく、ただただフラットな同志というか仲間というかそういう関係がある。

つくりたいのは、そういう生態系です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)学び日記

2021年10月20日

そして「つなぐ」



明治元年創業の山崎糀屋6代目、山崎京子さん。
いつも高校生たちとお世話になっています。

そんな山崎さんのお話と糀のレシピが詰まった1冊
「糀入門」(山崎京子 新潟日報事業社)


山崎さんからいつもお話を伺っている
糀の話や味噌の話も書いてあります。

なぜ味噌を煮るのにガスや圧力釜ではなく、薪火を使うのか。
これ、僕も昨年の春に見せてもらいました。







~~~以下本書より引用
発酵食品をつくるために一番大切なのは徹底した温度管理です。微生物の活動によって成立する発酵食品ですから、それらが死んでしまうような高温で処理すると台無しです。「温度管理=火力を御すること」と考えれば、味噌に使う大豆を煮る時も同じ考え方です。

山崎糀屋では、大豆を煮る時、薪に火を起こして、そのとろ火で大豆を煮ています。火力の強いガスや圧力釜を使った方が効率的だと思います。なにせ大豆を煮てやわらかくするだけで、半日以上かかります。
~~~

この大豆の煮汁を飲ませてもらったのですが、これがビックリするほど美味しい!「れふぇり」さんに持ち込んでジェラートつくってもらおうかと思いました。

あと、この本には、山崎さんのこれまでの半生が描かれ、40代後半から50代にかけては、本業の糀屋女将の他に、アパート新設と経営、スナックのママ、町議会議員と、4足のワラジを履いて忙しい日々を過ごしていたということです。

昨年の「まなび体験会」で聞いて度肝を抜かれたマサイ族に会いに行った話も収録されています。世界中の人たちがどんなものを食べて、どんなからだの仕組みをしているかが知りたくて世界14か国を歩いたのだと。

その中にアフリカ・ケニア・マサイ族や極北イヌイットに会いに行った話が書いてあり、彼らが「牛の生き血」や「アザラシの肉」を食べていることを目で見て、民族や人種によって、腸のつくりや消化能力が異なることを実感したと言います。

それにしても、「なぜ、マサイ族はそんなに視力がいいんだ?」と問いかけ、実際に会いに行ってくる、なんて、「探究的学び」そのものですよね。問いと発見の連続。昨年制作した「プロジェクトA探究者たち」っていいネーミングだなあと。阿賀町にはたくさんの探究者たちがいるんです。

この本の冒頭に、「こうじ菌」そのものの説明が載っています。こうじ菌は日本の「国菌」として指定され、和食文化において果たしてきた役割が大きいということです。

こうじが伝来したのは弥生時代とも言われ、奈良時代の書物には記載があったと言われています。「発酵」という文化はそれぞれの地方や国にありますが、こうじ菌をつけることで腐敗ではなく発酵に導く、というのは日本の風土(温度や湿度)に合っていたのでしょう。

そんな糀について学ぶこと。微生物の偉大さを体感すること。「受け継がれてきた何か」に思いを馳せること。たぶん、そこから始まっていくものもあるのだろうな、と思います。

前回のブログに、自分で「決めて」みんなで「つくる」と締めくくりましたが、実はその先に「つなぐ」があるのかもしれないと思いました。「つなぐ」とは、「人と人がつながる」ことではなく、時間軸的に「継いでいく」ということ。

弥生時代、奈良時代から連綿と受け継がれ、発展してきた糀、そして発酵文化。明治元年創業、山崎糀屋6代目の山崎京子さんは、「つないできた」人だし、「つなぐ」人だ。

僕は、アイデンティティを「場」によって構築しようとしているのだけど、そのキーワードとしても、継いでいくという意味の「つなぐ」が大切だと思っていた。

「経済成長」というスローガンのもと、地域社会や家制度は崩壊させられ、個人は「ひとりの力」で「自立」するように強制させられた。

それはいったい誰のためだったのだろう。
http://hero.niiblo.jp/e346221.html
(参考:14.1.30 家電を売るために「夢を持て」?)

今年春に読んだ「進化思考」(太刀川英輔 海士の風)で、「人間が生物であること」を再確認した。
http://hero.niiblo.jp/e491673.html
(参考:21.4.26 人間が生物であること)

僕たちは生物として「継いでいくこと」を前提としているはずだ。その実感を取り戻していくこと。そのためには、糀のような、つながれてきた文化を肌で感じることが大切なのかもしれない。

山崎京子さんのように好奇心を表現して前進・創造しながら、問いを探究していくこと。
そして「受け継がれてきた何か」を次世代につないでいくこと。

それは、高校生や若い人の最大の課題である(と僕が思っている)
自分らしさ(アイデンティティ)問題にも直結していると感じる。

自分で「決めて」みんなで「つくる」そして「つなぐ」

その繰り返しで「自分らしさ」は創られる。

あなたが「継いでいきたい何か」は何ですか?  

Posted by ニシダタクジ at 06:59Comments(0)学び日記

2021年10月18日

自分で「決めて」みんなで「つくる」


「会って、話すこと」(田中泰延 ダイヤモンド社)


「14歳の君に伝えたいお金の話」(藤野英人 マガジンハウス)

電車の中での2冊並行読書。
これが僕のリラックスタイムjかもしれません。

今回はこの2冊。
「会って、話すこと」は前作の「読みたいことを、書けばいい」(同社)があまりにも面白かったので。
「14歳の君に伝えたい『お金の話』」は、「投資家がお金よりも大切にしていること」(星海社新書)が面白かったで。

ということで、読み進めました。
詳しい話は本書を読んでいただくとして。

まずは、14歳の君に伝えたいお金の話より
~~~
お金は僕たちに「フラットであれ」という教訓を教えてくれます。

お金は「使って終わるもの」ではなく、むしろ「違うことから始まるもの」なのです。

老若男女すべての人にとって、「何を買うか」に意思は宿るのです。

自分の人生と未来を自分自身で決めるという場面が、日常には無数にあるということです。
~~~

「お金を使う」ということは、意思を表示している、ということです。

駒崎弘樹さんの「社会を変えるお金の使い方」(英治出版)や
家入一真さんの「なめらかなお金がめぐる社会」(ディスカヴァ―・トゥエンティワン)
にも同様の表現があったように思いますが、
こちらの本ではさらにシンプルに解説してくれています。

この中での高校生に伝えたいエッセンスは「自分で決める」ということ。

水戸で、商工会議所が主催する小学生(5,6年)向けのお店体験である「ジュニアエコノミーカレッジ」(ジュニエコ)に参加させてもらったときに感じたこと。ひたすら問われるのは「自分で決める」ということ。

ジュニエコは「自分で決める」の1点勝負。
中小企業の経営者・経営幹部が多く参加している商工会議所だからこその説得力があるメッセージ。

「先生や親が言ったから」ではなく「自分で決める」こと。
そこからしか始まらないのだとジュニエコは教えてくれる。

そしてもう1冊。「会って、話すこと」会話というより、対話の本。
前作に続きこの本もひたすら痛快で、いわゆる会話術的な本をバッサリ切っていて爆笑しながら読めます。

冒頭に引用されているアメリカの物理学者デヴィッド・ボームの言葉がズッシリくる。
「対話では、話し手のどちらも、自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。むしろ、二人の人間が何かを協力して作ると言ったほうがいいだろう。つまり、新たなものを一緒に創造するということだ」

いやあ、そうなんですよ。それなんです。
大切なのは「対話」であり「創造」なんです。

そしてその「創造」がどこにあるのか?ということで本書より抜粋するのは
~~~
「ボケ」は現実世界への「仮説」の提示であり、「ツッコミ」は「マウンティング」である。

「ツッコミ」は漫才や落語などの舞台演芸場の職務であって、現実の会話にはまったく必要がない。

会話の参加者のだれも「ツッコミ」というマウンティングをせず、「その発想、おもしろいね」という審査員にもならず、全員がプレーヤーとしてスローインされたボールをドリブルしてパスを出す。

そうしてただパスを回す遊び、それが最上の会話であり、「連歌」にも通じる遊びの本質なのである。

関西人は日常をひとつの舞台として捉え、どこかにカメラがあるような意識を持って、自分を客観視している。

有名な起業家はみんな、アイデアという大ボケをかましたんです。その壮大な仮説に乗っかった人がいたから、世界は前よりも便利になったり、おもしろくなってきた。いわゆるイノベーションと呼ばれるビジネスはそうやって実現してきたんじゃないでしょうか。
~~~

そうか。スティーブ・ジョブズの「Stay foolish」って「ボケろ」「ボケんかい」ってことだったんですね。(違うか)
「創造」は「対話」の「あいだ」に生まれる。

蓮歌のように、会話を楽しむこと。

そうか。エンターテイメントの本質は「つくる」にあるのかもしれない。

だから、人はボケなければならない。
「学び」と「遊び」ってかなり近いところにあるんじゃないか、って思った。
大切なのは「教える」と「まなぶ」なんかじゃなくて「決める」と「つくる」なんじゃないか。

「決める」と「つくる」にフォーカスすること。
対話と創造を楽しむこと。
実はそのマインドセットこそが、どんなスキルよりも大切なのかもしれない。

自分で「決めて」みんなで「つくる」
それを何度も何度も繰り返し、その人の人生は創られる。
アイデンティティも、仕事も、暮らしも。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)学び日記

2021年10月14日

うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ

まなびときばんだい(福島県磐梯町)に通りすがりにお邪魔してきました。








関係者の皆様(特に塩尻の山田さん)、
塩尻でお会いして以来の高田さん、お元気でしたよ!

小中高生のための自習スペース「まなびときばんだい」は、
たくさんのコミュニケーションの仕掛けが隠されていて、
学校以外の「まなびのトビラ」をうっかり開いてしまうような場になっていました。

公民館的な場所でも、デザインによってこんな素敵な「場」(空間)ができるなんて、と感動しました。
くじ引きシステムとか、やっぱり素敵だなあと。しかも番号じゃなくてカルタなところとか。

ということで、本日の1冊はこちら。

「やりたいことが見つからない君へ」(坪田信貴 小学館)

あの「ビリギャル」の坪田さんからのメッセージ。

いきなりいいです。

人生の早い段階で自分のやりたいことを決めるということは、「今、持っているカードの中から最善のものを選ぼうとしている」ということです。つまり、人生の早い段階で中途半端な夢を持つ人よりも、「人が求めていること」や「世の中が必要としていることは何か」を考える人のほうが、後々にずっと大きな可能性を持っているということです。

いや、ホントそうなんですよ。
夢・目標を定めることに大した価値はないんです。
(全くないとは言わないですけど)
だって、15年後には65%の仕事は入れ替わっている、らしいんですから。

あとは、受験勉強についてのこれ
「はっきり言って、受験勉強というのはパターン学習にすぎません。」

いいっすね。
何人もの子どもを有名大学に合格させてきた坪田さんが言うと説得力がある。

今日は「第3章「自分」を知ると関係性が開けてくる」からエッセンスを一部抜粋。

「自分」を知ることは一人ではできません。
この本の中で坪田さんは3つの方法をお勧めしています。

1 メタ認知
2 20答法
3 ジョハリの窓

たぶん、メタ認知っていうのは探究の授業とかの振り返りに当たるのだろうな。
その辺の重要性、もう一度確認しないとね。

基本的には
「印象にのこったこと、疑問に思ったこと、面白いと思ったこと」
「自分(あるいはグループメンバー)はなぜ印象にのこったのか?」
この繰り返しになると思うし、

予想できた、できなかった、よかった、悪かったマトリクスもメタ認知の手法なのだろうけど。
もう少し、高校生にもふりかえり・メタ認知の重要性を伝えることと
その具体的方法について一緒に試行錯誤することが大切だなと。

そしてもうひとつ、アイデンティティの話

~~~
つまり、君という人間のアイデンティティは、君の周りの人との関係性、さらにその先の人との関係性、もっとさきの人との関係性によって大きく左右されるということです。まさに網の目のように延々と続いていくネットワーク全体があなた自身のアイデンティティである、とも言えるのです。
~~~

アイデンティティ(自分らしさ)とは関係性である、と坪田さんは言います。
だからこそ坪田さんは、目の前の一人を感動させることが大切で、その評判はどんどん伝わっていく、と。
「誰かのため」にやっていることが「自分のため」になることもある、と。

夢や目標は一人ではかなえられないのだだから、偶然の積み重ねによって、時には誰かの目標に巻き込まれ、一緒にやり、仲間を増やしていくことで、実現の可能性が広がっていく、と。まずは目の前の一人を感動させることだ、と。

いや、ホントそうなのだろうな、と。
高校生の探究的な学びも向かうところはそこなのではないかなと。

昨日の只見高校でも、新國農園の新國さんが「手触り感(実現可能性)」と「ターゲット(顧客イメージ)」
について、高校生に説明していたけど、プロジェクトのモチベーションとかワクワクって結局そこだよね、と。

目の前のイメージできる誰かに、価値を届けること。
その届けるリアルを感じられること。
そこなんだろうな、と。

人生は、プロジェクトの連続である。しかも仕事や家庭、恋愛、その他プライベートなど、複数のプロジェクトの同時進行である。

プロジェクトづくりをする上で必須なのは、企画づくりと仲間づくりである。

企画づくりには「企画書づくり」のスキルと、社会や時代を読み取る観察力が必要であり、仲間づくりには、コミュニケーション・デザイン力と「自分を知り、相手を知る」ことが必要である。

プロジェクトは一隻の船をつくるようなものだ。
1 誰と船に乗っているか。
2 船に乗る人と、船を取り巻く環境のタイミングはいつなのか。
3 船の内装はどうか?どこの海、または川、湖に浮かんでいるのか?
4 船の目的地はどこか
5 この航海は誰をハッピーにするのか
6 この船は何を運んでいるのか、どんな機能をもっているのか
7 どうやって運ぶのか、その機能をどうやって発揮するのか。

こうして人はプロジェクトという船旅に出る。その時に、「成功」「失敗」にこだわらないこと。
全ては「実験と結果」にすぎないし、旅に出たからには「発見」があるはずだ。
つねに僕たちは船旅の途中だから。

トーマス・エジソンは言った。
「私は失敗などしていない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」

さて、次はどんな発見が待っているのだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)学び日記

2021年10月11日

変化しない「語義」と変化し続ける「意味」


「教えから学びへ~教育にとって一番大切なこと」(汐見稔幸 河出新書)

界隈で話題になっていたので読みました。
考えさせられるキーワードがたくさんありました。

~~~
・エージェンシー(当事者性)
・文科系と理科系は分けられない
・MITでは音楽を重視している
・「わかる」の3つのレベル(言葉・名前を知る⇒対象の属性を知る⇒現象の背景にある法則を知る)
・3つの教養
  1 分化した知識をつなぎ直す
  2 関心の発展的システムを持っている
  3 全体との関係で自分を位置づける
・本来の学びは「師弟モデル」
・「受動の中に能動を見る」パッシブ=受け止める
・全ては仮説にすぎない(1+1=2ではない)
~~~

とこんなところでしょうか。
詳しくは本書を読んでください。

今日は、僕にとってもっとも大きかった「語義」と「意味」のところから。

~~~
ロシアの心理学者、レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーは「思想と言語」の中で、「一人ひとりが"これが面白い!”と感じるものは、社会が与えている意味とは異なる。しかし、そのような個人的な意味を与えていくところにその人の個性が現れる。」というのです。

「私が自分で意味を与えていく心の働き」と「世間で言われている意味を取り入れる働き」の兼ね合いに、精神活動の面白さがある。

自分が何かを感じたものに意味を与えていくのことは、感覚に深く関わっているからsense(感覚、センス)、
社会が与えた意味を理解し、そういうものだとして取り入れていくことはmeaning(意味・目的)なのだと。

ヴィゴツキーの本の中では、senseは意味、meaningは語義と訳されていました。

たとえば宇宙人に「母親とはどういう意味か」とたずねられたらどう答えますか?
「子どもを産んだり育てたりする女の人」と答えるのは語義meaningです。

「あなたにとって母親とは?」とたずねられたらどうでしょう?その答えは人によって千差万別です。
「愛の象徴」「憎むべき存在」など、それぞれ自分の経験から価値づけしているのが意味senseです。l

語義meaningの上に、意味senseが重なって、発酵していくのです。
そして「母親は嫌いだったけど、自分が母親になったら理解できるようになった」など、意味senseは時間や経験の影響を受けながら深まり、変化していきます。

本来、私たち人間は、生きる「意味」を求めて生きているのですが、その意味は世間でつくられるものではなく、私が私の経験に基づいてつくる「意味sense」です。しかしそこが大切にされず、「語義」の世界に合わせて振る舞うように望まれるのがいまの社会です。

人間にとって「学ぶ」ということは、「意味」の世界が経験によって深まり重層化し発酵していくことによって、「語義」の世界も深まって進むことだと私は考えています。別の言い方をすれば、人間は「語義」を学ぶことで社会性を身につけます。しかし、社会の中で皆が使う「語義」に、その人なりの「意味」が乗ることで、その人の個性が出てくるわけです。その人らしく生きていくためには、私にとっての「意味」の世界を豊かにしていく必要があるのです。

学校で身につける認識は三人称的な認識で、それだけでは認識が行動をコントロールするレベルにまで進化しない。その三人称的な観念を、「自己一身上」の問題として認識し直さなければならない。つまり「一人称化する」ということです。

「一人称化する」とは、「語義」の世界だけではなく「意味」の世界を豊かにしていくこと

「一人称化」するプロセスは「問いと答えの間」だと言えます。その「間」をどれだけ充実させるかという問題。
~~~

これがきっと「地域を舞台にした学び」「プロジェクト型学習」の価値なのだろうな、と。(という仮説)
「語義」だけではなく、自分なりの「意味」を載せていく。

それは体験・経験に基づく感情の揺れを言語化することだし、さらにそれを振りかえって意味に落とし込んでいくこと。ひたすら、その繰り返し。

その中から「問い」が生まれ、問いに向かって進んでいく中で「プロジェクト」が生まれる。

「プロジェクト」とは1「期限」があり、2「独自のプロダクトや価値」を生み出す、3「段階的な」活動のことであり、「プロジェクト型学習」は「活動」と「自分」を行き来することによって、活動の成否だけではなく、自分を知るために「語義」に「意味」をまぶしていく活動だと言えるだろう。

「こんなこと(勉強)をやっても意味ないよ」というときの「意味」は、たぶん自分にとっての「意味sense」ではなくて、共通理解としての「語義meaning」なのだろう。

キーワードはやはり「時間軸」のような気がする。本書でも、「一人称化する:当事者性を上げる」ためには、問いと答えの往還が必要だとしているけど、そのあいだ、つまり長い時間軸が必要になる。

ひとりひとりの「人生の意味」に唯一の定まった答えは存在しない。
鎌倉幕府でさえ1192(イイクニ)が1185(イイハコ)つくろうに変わっているのだ。

問いと答えの往還を活動と言語化を繰り返しながらするのがプロジェクトだ。

1 誰と 2 いつ 3 どこで
という「場」をチューニングしながら高め

4 なぜ 5 誰のために
という「ベクトル感」と「解像度」を上げ

6 何を 7 どのように
具体的な活動へと展開していくこと。

・印象に残ったこと・疑問に思ったこと・面白いと思ったことフォーマットで振り返りことで、好奇心を育みながら言語化を促し、語義meaningを身につけるだけではなく意味senseを発見し、磨いていく。

「何かが(スキル的に)できるようになる」よりも、「何かをやる意味を自分で(事後的にも)探せるようになる」

「人生の意味」はそうやって見つかっていく、という仮説に向けて、プロジェクトというのは、それを見つける、探すための箱(手段)なのだろう。

イイハコつくろう、高校生。  

Posted by ニシダタクジ at 07:42Comments(0)学び日記

2021年10月06日

マインドセットをアップデートする

大学でのPBL授業などでよく言われていたのが「リテラシー」と「コンピテンシー」。
リテラシーが「知識を基にした能力」であるのに対し、コンピテンシーは「経験を基にした行動特性」。
特に就職活動の際には「コンピテンシー」が問われるということでそれを数値化するようなテストまで試行していた。

一方で21世紀型スキルなどと言われるものもあり、学びを取り巻く環境が過渡期にあることを実感させられる。
https://kodomo-manabi-labo.net/21st-century-skills

キーワードが #共同体 #子ども #成長・・・な
教育社会学専攻の大学生と対話して考えたこと。

ミッションやヴィジョンなどのベクトル性を持った共同体。
そして、それをシャッフルしてくれるような共同体の外部の人(旅人)

そこで作られる「場」(共同体の一瞬を切り取ったワンシーン)が
どんな子どもを(大人も)育てるのか?(育むのか?)っていう。

何をいちばん変えるのか?って言えば、やはりマインドセットだろうと思う。

「無力感」は獲得されたものだ(14.2.15)
http://hero.niiblo.jp/e357687.html

人は、学校に行くことで、成績を序列化されることで、「無力感」を獲得していく。
ドゥエック博士のいうように「やってもどうせできない」と思ってしまう。
その「固定的知能観」というマインドセットを、アップデートすること。

おそらくはこれが「探究的学び」のミッションだろうと思う。
そこでのヒントが「共同体」であるかもしれない。

人間はひとりではとても弱い。
だから共同体を作って暮らしてきた。

工業社会は「効率性」をもっとも大切なものと位置付けた。
3世代同居の家族は核家族へ。あるいは東京に出て1人暮らしへと分断された。
それのほうが経済成長にとっては効率的だからだ。(テレビは世帯数分必要になる)

もう、社会がターンしている。
工業社会とは、人口が増えている時にのみ採用可能なモデル(自然資源も無限にある前提)だ。
「効率性」はもはや価値を生まない。
にもかかわらず、学校は「効率的に学ぶ」というリテラシーを獲得する場所として今も存在している。
「効率性」から「創造性」へのシフトが求められていると思う。そして、それらは両立しない。

もうひとつは「共同体」をどう取り戻していくか、だ。
かつてのような地域共同体や会社共同体が復活しないとしたら、どんな共同体を作っていけばいいのか。

それが、ミッションやヴィジョンを持つ動的な共同体と
定期的にやってくる外部の人なのかもしれないと。

そこで身に付ける最大のものは「マインドセット」ではないか、と思う。
正解のない、先の見えない中で実験的にやってみる共同体のメンバーとなり、
やってみたらできるかも!というyet confidenceを身に付けること。
(参考:15.7.7)
http://hero.niiblo.jp/e470331.html

高校でやれることはこのようなマインドセットのアップデートなのではないか、と。

動的な共同体に身を置き、プロジェクトを実践する一員になること。
「場」に溶け出して、創造すること。

そこではたぶん、アイデンティティの不安も同時にクリアされていくような気がする。
「コンビテンシー」の前提として「マインドセット」があり、「マインドセット」の前提として「存在の承認」があるのではないか。
そんなことを感じられる「共同体」や「プロジェクト」や「場」をたくさんつくっていくこと。

それは阿賀町でこそ可能であるのではないか、というマインドセット(思い込み)です。


「風舟」プロジェクトが始まっています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:51Comments(0)学び日記

2021年09月27日

「つくる」ために一緒に「見て」「感じる」

昨日はオンライン劇場ツルハシブックスvol.17
ゲストはウチノ食堂 藤蔵の野呂巧さん。
いやあ、なかなかのもやもやした時間でしたね。

~~~ここからメモ

その店に行く目的(理由)が1つではないようなお店。
「飲食店」「雑貨屋」とかでくくられないようなお店。
「あいまいさ」「偶然性」をもって人に出会う空間。

「性に合う」っていわゆる「生きるように働く」ってやつか。身体的にも、精神的にも。

フランスのカフェも、イギリスのパブも、スペインのバルも。いろんな人がいろんな使い方をしている場所。日本でいえば、酒も飲める大衆食堂、か。または本屋。

TSUTAYAの最大の魅力は、目的なく行ける場所だったことなのかもな。目的がないから落ちている「偶然」にレスポンス(反応)できる。

「日常」が「目的」によって余白部分を失いつつある。「余白」とは境界のあいまいな部分にある何か。多様性を受け入れ可能にするのは「余白」であると思うのだけど、「多様性が大事だ」と言葉にしてしまうとそこが「余白」ではなくなる気がする。

「日常」が「目的」によって余白部分を失いつつある。「余白」とは境界のあいまいな部分にある何か。
多様性を受け入れ可能にするのは「余白」であると思うのだけど、「多様性が大事だ」と言葉にしてしまうとそこが「余白」ではなくなる気がする。

~~~
とここまでは前座。

ここからが「食堂から見える人類学」の話です。

~~~
「お店という装置を通してどうまちを観察するか?」という問い。

「定食」がこの町にない。米屋も味噌屋もある町で、定食が出せるのではないか。
そこに来る人と何ができるか、考えたいし、一緒につくりたい。

自分もこの町に入り込んだ。取材を受けた時、それが自分に来ているのか、お店に来ているのか、戸惑った。「自分ーお店」は同時に変わっている。変化し合う関係。

学問とは自分と「(研究)対象」を分けて考える。自分と対象あいだに境界線を引く。そんな線を引いている時代じゃない。

「はみだしの人類学」思い出しました。
http://hero.niiblo.jp/e491269.html

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

その「はみだし方」が「一回性」(一期一会)をつくるのかもしれません。その瞬間の感じ合い、はみだし合う関係性が。

「つくる」前に「感じる」ことがあり、「感じる」前に「見る(観る、視る)」ことがある。お店づくり、場づくりをするには、まずは「店」や「場」を一緒に見つめて、感じて、そして創っていくんだ。

向き合わずに、同じ方向を見つめること。これが「つくる」コミュニケーションの基本なのではないか。1対1で向き合う関係ではなく、そこに見つめる対象をつくること。余白(隙)があったら自分も創造性を発揮できるような「場」。そういうもの。

「コワーキングスペース」と「商店街」の違い。
コワーキング:「コラボレーション」のためにあなたの「スキル」を提示してください、っていう。
商店街:暮らしを前提として、そこにいるメンバーでブリコラージュしてつくっていきましょう、っていう。
~~~

「愛するということはお互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見ること」(サンテクジュペリ)を思い出した。
そしてやはり、観察すること。

「つくる」ためのプロセスについて、考えさせられた。
お店のような「リアルメディア」において、
一回性の高い(一期一会の)場をつくるには、

そういうプロセスが必要なんだと。

一緒に
場を見つめること。
場を感じること。
そして、場に溶けていくこと。

野呂さんが言っていた
「そこに来る人と何ができるか、考えたいし、一緒につくりたい。」
っていうの。

そこに戻っていきたいな、って思った。

境界をあいまいにし、余白をつくり、場に溶けていく。
そんな空間を、場をつくっていくこと。

一緒に観て、感じること。
そこからしか「つくる」は始まらない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:45Comments(0)学び日記

2021年09月26日

「プロモート」のために観察し、感じること

探究学習コミュニティ2回目。
ゲストは後藤寛勝さんと水戸部智さん。
新潟で活躍する2名から学ぶ「探究的」な姿勢。

シビれる名言だらけでしたのでメモに残します。

~~~
「未来の自分に期待しない」「自分の世界を広げられるのは自分だけ」

このまま受験勉強に取り組む、というのは「思考停止への恐怖感」があった。

違和感のキャッチと言語化。思考停止しないために、その機会と時間を持つこと。

「国公立大学に入学する」という理想的生徒像をプロデュースする先生という構図から、「何がやりたいがわからない」から、たくさん拾い上げて助長するというプロモートする地域の大人と先生という構図へ。

「プロデュース」と「プロモート」。
「プロモート」とは、予測不可能な未来に対しての謙虚な姿勢のような気がした。
「プロデュース」するほど、未来に確信ありますか?っていう。

「ファシリテーター」は「プロデューサー」ではなく「プロモーター」なのか。

プロデュースの主体は自分(プロデューサー)で、プロモートの主体は商品。
「プロモーション」とは、商品の特長を引き出して、アピールすること。

以上後藤さん

人から求められること⇒最後のバッターボックスだな、って。最後のバッターボックス。っていいな。機会を大切にしようと。バット振っていこうと。

地域に「ふれる」⇒やりたいことを「さがす」⇒自分らしい生き方に「きづく」⇒目標に向かって「うごく」
すこしずつ、すこしずつ。

「調べる」⇒「考える」⇒「やってみる」を繰り返す。

繰り返しの中で自分のモノサシが見つかる。⇒周りの評価基準に左右されなくなる。
挫折=モノサシの精度が上がる

パッションを維持できるか⇔金を回せるか
という事業の両輪。

WHYとHOWの両輪、か。
なぜ今、自分がそれをやらないといけないのか?に答え続けること。

以上水戸部さん
~~~

「やりたいことがわからない」というときのやりたいことって、whatじゃなくてwhyなのでは、と思った。

なぜ?を教えてほしいんだ。でも、なぜ?は、主観であり、その源泉は自分の中にしかない。「経験」から「違和感」をキャッチし「なぜ?」を磨こう、と。

昨日の最大の学びは「自分を信じすぎないこと」でした。
「信じること」より「感じること」
「プロデュース」から「プロモート」へのシフト。
予測不可能な「未来」に対するリスペクトを。

「挑戦」よりも「実験」のほうが、観察したり、感じたりすることに重点が置かれそう。成果を示すよりも、結果を観察しよう、と。
そんな基本姿勢が大切なのでは、と思っていたら、タイミングよく1冊の本が。


「観察力の鍛え方」(佐渡島庸平 SB新書)
いやあ、タイミングがいいなあと。

「探究学習に必要な姿勢」ってこういうことなのではないかと。
一方で、現在行われているいわゆる「キャリア教育」っていうのが大丈夫かなと。

少し抜粋メモ
~~~
いい観察は、ある主体が、物事に対して仮説を持ちながら、客観的に物事を観て、仮説とその物事の状態のズレに気づき、仮説の更新を促す。

計画→実行→振り返り→計画というサイクルにおいて、起点にすべきは計画ではなくて、振り返り。

オリジナリティとは、型がないのではない。型と型を組み合わせるときに生まれる。いかに遠い型と組み合わせるかが革新を生み出す。

自問自答を繰り返すことで、価値観をモノサシへの進化させる、か。

~~~
読んでいて、「自信がない」っていうのは観察力を鍛える、という意味ではいいことなのではないか、って思えてきた。

自信がない、というのは、観察することが得意になる可能性があるということ。「自信がない」という相談を受けたら「観察力を磨け」とアドバイスするのがいいのかも、と。

今朝は第3章「観察は、いかに歪むか 認知バイアス」を読んでいたのだけど、これはホント、その通りすぎてすごいな、と。

以下に一覧で挙げておく。
・確証バイアス:仮説を強化する情報ばかりが見えるようになる
・ネガティビティバイアス:ポジティブな未来は漠然としか描けないがネガティブなことは仔細に思い浮かぶ
・同調バイアス:みんながそう言っているから、と多数派の意見を支持すること
・ハロー効果:顕著に目立つある特徴に引きずられて、他の特徴がゆがめられる
・生存者バイアス:成功した人の意見には特別な何かがあると思ってしまう
・根本的な帰属の誤り:問題の原因を個人の資質や能力に求めてしまう
・後知恵バイアス:物事が起きてから、それが予測可能だったと考える傾向
・正常性バイアス:異常事態になった時に、パニックになるのを防ぐために、予期せぬ出来事には鈍感に反応するバイアス
~~~
各バイアスにどのように対処し、あるいはむしろそのバイアスを推進力に変えていくか?については、本書を読んで頂きたい。

今日は2つ紹介します。

1つ目はネガティビティバイアスについて
自然の中に暮らしていてどこに危険が潜んでいるかわからない時代は、悲観的であることが、人の生存を助けたのだろう。

そうか。「自信がない」とか「悲観的に考える」っていうのは動物である人にとってはデフォルト(初期設定)なんだな、と。

2つ目は「炎上」について。「炎上」とは現代の魔女狩りで、後知恵バイアスと根本的な帰属の誤りによって起こる。

昔の魔女狩りと同じことが形を変えて、現代でも再現されている。昔は火炙りになり殺されたが、今はマスコミ、SNSで集中砲火にあい、社会的地位から引きずりおろされる。本人の意思や能力が本当に問題であれば、魔女がいなくなれば状態は改善されるはずだが、環境、仕組みが要因だから何も変わらない。そして、また次の魔女を探しにかかる。リーダーを担える能力と気概のある人が、社会から排除されていき、緩やかに社会は弱体化していく。

昔の人たちは、この2つのバイアスで間違った判断をしすぎるのを防ぐために、「妖精」を考え出したのかなと僕は思う。

もしも、起きている問題が、妖精のせいであれば、個人を責める必要がなくなる。集団全体の気持ちが、個人の人格へと執着するのを防ぐ。代わりに、妖精の気持ちを鎮めるための儀式が必要になるのだ。

妖精は、昔の人たちが、無知だから信じてしまった迷信ではない。対立を生み出すことなく、バイアスから自分たちを守る、人間ならではの知恵なのではないか。その知恵を僕たちは、科学的であることが正義であるという考えの下に捨ててしまった。
~~~

うーん、なるほど、と。
「科学的であること」の迷走が起こっているのだなあと。

バイアスの話を読んでいて思ったのだけど、世の自己啓発本と呼ばれている本の多くは、バイアスの強化もしくはバイアスの否定なんだな。成功者の○○とか、不安の何%は幻想、だとか。「バイアス」とは何かを認識することって大事だ。そのメガネで見えてます?みたいな。そう考えると、いわゆる「キャリア教育」で行われていることっていうのはバイアスだらけでまったく科学的じゃないな、と。

探究学習の起点も、科学の原点に返り
「観察」と「振り返り(そして発見)」に置いた方がいいのだなと。

僕たちはバイアスという色眼鏡を通して世の中を見ている、いや自分自身に対してもそうなのかもしれない。自分はこういう性格だから、とか。ジョハリの窓とかそういうのを外して見てみる効果があるのかも。

探究学習コミュニティでも言っていた、「プロデュース」と「プロモート」の違い。
「自分が信じる未来」がいかに危ういか。
そんな前提に立たなければいけないのではないか。
生徒の特徴を生かし、伸ばしていく「プロモート」のために、「観察」し、「感じる」ことを強化しないといけない。

そして、この本の中に何度も出てくるコルクのミッション「物語の力で一人一人の世界を変える」に影響を受けて、僕もミッションを暫定で書いてみようと思った。

フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザインによって「場」をつくり、自分と地域とまなびの未来を、いま、ここから創造する。

ちょっとまだ長いので、シンプルにまとめようと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)学び日記

2021年09月20日

「自分に自信がない」の社会学

本日の黎明ラヂオに向けてまとめておこう思います。

「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか?
プレ企画第2弾「自分に自信がない」の社会学です。

1 天職などない
2 自信は要らない
3 試作の時代へ

です。
2013年当初に、金沢大学などでお話しさせてもらってものを書き直しました。

まずは
1天職などない
「13歳のハローワーク」と「世界にひとつだけの花」の2003年問題によってかけられた呪いについて。
デューク大学のデビッドソン博士の話。⇒これ、もう古いのかな。
を題材に。

そして本題
2 自信は要らない へ。
・固定的知能観と成長的知能観
・「自信がない」後天的に獲得した資質である。
・スラムダンク理論でやってみる「みんなでやればできる、かもしれない。」

3 試作の時代 へ
・答えがわからない時代」っていうのは「答えが存在しない時代」ではなくて「ひとりひとりに違う答えがある時代」という意味であり、しかもそれがいま共にしている「場」(誰といつどこで)によって変わり続けるから、暫定の答えでしかない、ということ。

予測不可能な時代
・「挑戦」という言葉への違和感。
・「挑戦」⇒「実験」:挑戦には成功or失敗があるが、実験には結果and発見がある。
・エジソン「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」

「未来」「自分」「意志」「挑戦」⇒明治時代以降に発明されたのでは?

※工業社会における価値
1 計画通りにできる
2 均一につくる
3 効率化する

学校でいうところの
⇒「目標」「計画」「努力」「反省」
⇒自信を失っていく仕組み

何のために学ぶのか?

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。
先生は「私がこの世に生まれたのは、私にしかできない仕事、私以外の誰によっても代替できないような責務を果たすためではないか・・・」と思った人の前だけに姿を現します。
(「先生はえらい」内田樹 ちくまプリマー新書)

何のための教育なのか?

われわれは子どもたちを格付けして資源分配するために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。

集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。

教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。
(「サル化する世界」(内田樹 文藝春秋)  

Posted by ニシダタクジ at 10:05Comments(0)学び

2021年09月04日

「場」という舟とともに流れる自分を感じること

昨日は、探究学習コミュニティの1回目でした。

テーマはメンタルモデルを知ること。
メンタルモデルについてはこちらから。
https://sevendex.com/post/322/

こんな学びをつくりたい⇒壁になっていることは?⇒そこにあるメンタルモデルは?
というワークをグループで行いました。

僕は、キーワード的には、
発見と変容とか、伴奏者によるジャズセッションのような学びとか、書いたのですが、
一番はやはり学びの主体を「個人」から「場」へとシフトさせたい、ということでした。

そのための壁はやはり「定期テスト」かなあと。
そこにあるメンタルモデルは、評価軸がひとつで先生方がなにをもって自分たちの成果を含めて評価するのか?という問いに対して、探究学習が答えられにくい、というのがあるなあと思いました。

「評価」の呪縛だし、評価の前には「計測可能」「再現可能」であるという教育を含めた「科学」の前提も影響しているなあと。
それ以前には昨日のメモマップにも書いたけど、工業社会という前提があるのではないかなあと。

もうひとつの見つかった課題は僕自身が、「個」から「場」へと、言ってはいるけど、それがわかりやすい言葉や感覚では伝えきれていないので、そこは試行錯誤する必要があるなと。一方で言葉にすると失われるものがあるから、そこにも注意して言語と非言語(感覚)の双方からアプローチが必要だなあと。

そんな振り返りをしていたら、朝読書はタイムリーにこの本が。

「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)
第7章 頭の中(お花)畑だよねあんた
から。

~~~

詩はお金になりません。しかしだからといって経済ではないとは断定できないんです。(中略)お金とは経済です。でも数多ある経済のうちの一つなんです。

コツは、楽しくない時間を経済にしないことです。やりたくないことはしない。(中略)理由はそれではお金を稼げないだけでなく、他の経済の流れも堰き止めてしまうからです。

畑の中では経済がぐるぐると回り回っています。流れてます。いい感じです。心地いいです。何よりも楽しいです。

なぜなら植物は自分自身が経済であることに気付いているからです。

植物は自分が経済であることを知っている。一方、人間は自分が経済であることを知らないんです。もう困ったものです。その挙句「私はなんのために生きているのかわからない」なんてことをぬかす、いや、失礼、嘆いてしまうんです。いやはや!

植物はなんで自分が経済であることを知っているんでしょうか。簡単なことです、一人じゃないからです。植物がどこかに生えると、というか生える前から植物はすでに土の中にいまして、その時点で一人じゃありません。土がベッドです。

作品を外に発表すると、流れが発生します。経済が生まれてます。経済は素直であればあるほど、生であればあるほど、その人の一番自然な部分であればあるほど、すくすくと、植物なんですから、どんどん伸びていきます。どこまでも届いていきます。

僕の経済は常にみんなの経済なのです。僕は経済です。みんなは経済です。僕と経済とみんなは、一つの大きな流れなのです。海みたいなものです。どこまでも流れていきましょう。

~~~

きましたね。タイミングよく。「個人」じゃなくて「場」を主体にする、ということに大きなヒントがあります。
その「場」とは「流れ」の中にある「場」であり、「場」に溶けだしている自分も「流れ」を感じているはずです。

植物は自分が「経済」であることを知っている。
この本でいうところの「経済」である、とは、「流れ」があるということ。
いや、そもそも自分自身が「経済」、つまり「流れ」である、ということ。
そういう意味では、「場」とは、「流れ」のある川の中に浮かぶ小さな船のようです。

ひとりひとりも「経済」つまり「流れ」であり、また「船」でもあるのでしょう。

そのことを実感・体感したとき、「自分」とか「意志」とか、そのような問いが無効化されていくのかもしれません。
僕が探究学習でつくりたいのは、そんな「場」であり、「舟」であり、「瞬間」なのだと思いました。

体験と、言語と感覚(非言語)で、そこにアプローチしていきたいなと思います。
コミュニティの皆様、3月までよろしくお願いいたします。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)学び日記

2021年09月03日

「やりたいことがわからない」問いマップ

8月21日(土)の新潟駅MOYORe:のイベントに合わせて、
僕もバックキャスティングのワークシートをやりました。

10年後は図書館をつくって初代館長にしたのだけど、
5年後のところには、「大学で15コマ授業をやる」って書きました。



で、そんなタイミングでこの本を読んでいたことを思い出しまして。
杣ブックスの細井さんにも、「大切なのは真に受けて行動することだ」と言われたので。
ひとまずオンラインで15コマ(までいくかわかりませんけど)やってみようかなと思ってます。


坂口恭平さんには、とりあえず「流れ」をつくれ、それが「経済」の始まりだ。
という教えを頂きましたので、そちらも真に受けて。

9月15日(水)~中学生・高校生・大学生向けのラジオ
「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか(仮)をオンライン上でシリーズ化しようと思って。
※一緒にラジオつくってくれる悩める大学生を募集しています。

そんなタイミングで問いフレンドのAさんからナイスな問いをもらいまして。
「西田さんの問いはどのように変わってきたのか?」と。

なので、簡単にではありますが、書いてみました。


という感じでしょうか。
2011年のジブン発掘本屋「ツルハシブックス」の開店からずっとあった違和感が「やりたいことがわからない」はなぜこんなにも苦しいのか?でした。

そしてその解決策が「やりたいことが見つかる」ことではない、ということも何となくわかっていました。なぜなら自分自身が20代の頃、その無限ループにハマっていたからです。

僕にはやりたいことがありました。

中学生の時は、高校に入ってバスケ部に入るんだ、ということ。(実際はレギュラーになれず補欠)
高校生の時は、大学に入って沙漠緑化で地図に残る仕事を、と。
そして、大学生の時は、「種をまく人」に影響されて、畑サークル「まきどき村」を発足、就職しないでそんなことをやってました。

あきらかに「やりたいことをやる」人生を歩んできました。

ところが、不安が消えないのです。畑を始めて、人が集まってきて、それが新聞やテレビに取り上げられても、ずっと不安なのです。
胸の中には「本当にこれが自分のやりたいことなのか?」という問いがありました。

つまり。
「自分のやりたいことは何か?」という問いには終わり(答え)がない、ということです。

すべては「試作」に過ぎない、ということです。
さらに言えば、社会がこれだけ変化し続けているし、予測不可能性が高まっている中で、「やりたいこと=目標」を決めることに、どれほどの意味と価値があるのでしょうか?

細井さんのように、目の前に来たものをカラダの中に入れて、排出(放出)する。
それが「ジネン」で、楽な生き方なのではないでしょうか?

僕が文部科学大臣だったら「やりたいことは何か?」という問いを廃止したい。
その苦しさがどこから来るのか?
それは、アイデンティティ(自分らしさ)問題から来るのではないか、と思っています。

大人も子どもも、アイデンティティの不安にさらされている。その大きな原因が「所属」を失ったからだと思います。
「地域」や「会社」といったコミュニティから自由になった代わりに「所属」というアイデンティティ構築の手段を失ったのです。

今はひとりひとりの「個」が「社会」や「学校」というシステムに単独で対峙しなければなりません。

能力のある人は問題ないでしょう。世の中の変化やニーズを巧みに読み取り、新商品や新サービスを生み出したり、動画を配信したりして、うまく立ち回ることができるでしょう。

それ、全部のうち、何%の人ができるんですか?
って。

自分のやりたいことやできることを社会のニーズや未来の変化に合わせて、うまく市場にアピールし、売っていく。

本当にそれをしなければ生き残れないんでしょうか?
そもそも「個」が生き残る、生き延びることは生物的にはどれほどの価値があるのでしょうか?

2008年NHK全国学校音楽コンクールの課題曲だったアンジェラ・アキ「手紙」
僕は、この曲を聞いて、ただただ悲しくなった。

http://hero.niiblo.jp/e73613.html
(参考「手紙」10.6.16)

悩み、苦しんでいる15歳に対して、テレビの中から「今は苦しいけど、がんばればそのうちなんとかなる」としか言えない世の中が、社会が、ただただ悲しかったし、悔しかった。

そうじゃない。
人生は個人戦なんかじゃない。

「場」をつくるんだ。
「余白」のある、場を。

「営み」と他者との関係性の交点に場をつくるんだ。
そこにアイデンティティを「創造」するんだ。

「自分」も「意志」も西洋の神話なんだ。
田舎や自然の中では要らないんだ。
感覚と身体性を開放して、非言語コミュニケーションも含めてたくさんしていこう。

システムはそんなにすぐには変わらないから、
うまく折り合って、システムに適応する役を演じていこう。

創造する「場」をつくろう。
場を構成する一員になろう。

そんな場をいくつも持つことだ。
気がついたら、「やりたいことは何か?」という問い自体が無効化されている。

っていう仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)学び日記

2021年08月30日

誤読して行動し、冗談で企画書を書く

杣ブックス細井さんとの対談から丸1日以上たった今も、胸に残るキーワードがある。

誤読、そして冗談。
4年前、日本橋の「本との土曜日」で細井さんが言っていた「ぜんぶ冗談なんすよ」っていう言葉がやっとわかった。(誤読だけど)

人は皆、誤読する自由を持っている。
いや、というより、ひとりひとりが異なる感覚受容器を持っているのだから、「誤読」は前提である。

「本を真に受けて、行動する。」
その行動は誤読に基づいていて、だからこそ「冗談」なのだ。

逆に言えば、本は誤読する自由をくれる。
それは教科書にはない(あるけども要素としては少ない)ものだ。

取材インターンひきだしでのキーワードである「違和感」「違和感の表明」の難しさはそこにあるのかもしれない。

本はキケンなものだし、本屋はキケンな場所だ。そこには誤読し、行動に移してしまうようなアブない本たちがある。

そんな「誤読する自由」を味わうのに、例えば中学生高校生なら、どんな本を読んだらいいのだろう?

いま見えている世界が唯一の世界ではないかもしれない。
そんな本。

やっぱり坂口恭平さんの
「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)と
「独立国家のつくり方」(講談社現代新書)
かなあと思う。

そんなことを思っていたら、目の前に入ってきた本。


「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)

久しぶりに読んだ坂口節が、細井さんからもらった問い(というか違和感)に
合っていたので少し紹介します。

~~~
経済とはあらゆる流れの総体であって、一つの流れだけを指すのではありません。

今、人々は経済を一つの「お金の流れ」と断定してしまっています。しかし、実際はいろんな流れがあります。

もちろん、経済もまた自然のものです。だから植物みたいに、切っても、別のところから生えてきます。人間の合理性と植物の合理性はまったく違います。植物の合理性によるツルの生え方、伸び方は人間の合理性から捉えると矛盾そのものになります。植物は切られても平気です。むしろ喜んで伸びていきます。踏まれることも切られることも腐ることも全部喜びに変えちゃいます。そんなふうに合理性もまた自然界には無数に存在しています。経済もまた然りなのです。

重要なのは、自分が必要だと思うものを、楽しく流れを感じながら獲得することです。楽しくないところには、流れが発生しません。つまり、そこにはお金は生まれるかもしれないけど、経済は発生しません。
~~~
経済とは「流れ」である、と坂口さんは言います。

細井さんの本を真に受けて(誤読し)、行動(表現)すること。って、ここでいうところの「流れ」のような気がします。
オンラインツルハシの第1部で話した生物としてヒトっていうのにも通じてくるような気がします。

そこで、坂口さんから提案があります。
「企画書を書け」です。

お店をつくりたいと思ったら、
理想の場所はどこか?を考え、その場所の家賃がいくらか?を実際に不動産屋に行って問い合わせ、図面を書いてみる、ということ。お客さんの客単価はこれぐらいで、毎月の売り上げがこれくらいになるから、なんとかやっていけそうだな、と。

これ、いいじゃん。中学生高校生にめちゃめちゃオススメ。
「マイプロ」って結局こういうことなのではないか、って。

自分だけの企画書を書くっていうこと。企画書を完成させることではなく、企画書をつくっていくプロセスに学びがあるということ。

その企画書づくりは、「誤読」から始まるのではないか、っていうこと。
教科書やSDGsのような「正解」から始まらないのではないか、っていうこと。
いや、始まってもいいと思うけど、そこに楽しさや坂口さんの言うところの「流れ」があるか?っていうこと。

大切なのは、「誤読」する機会をたくさん持つこと。真に受けて、行動し始めること。

だから、本があり、地域の大人がいて、さまざまな課題がある。
それらは教科書と違い誤読を前提としている。「誤読」しかないんだ。

「誤読」して行動し、冗談で企画書を書く。それを繰り返す。
高校時代、大学時代にやることってそういうことなのではないか。

その入り口をつくっていくキケンな本屋を、僕はつくっていきたいのかもしれない。

安西先生、そんな本屋がしたいです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)学び日記

2021年08月28日

在野の〇〇

「在野研究(者)」という言葉がある。
(専門的な研究機関である)大学外で研究し、本や論文などを書いて発表する(人)のことだ。

って調べてみたら、2019年「いまブーム」って言われていたみたい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67039

昨日は取材型インターン「ひきだし」の事後研修でした。
印象に残ったキーワードは「違和感」

オンラインでの取材型インターンの最大のポイントは
「思ったことを言う」ことで、それが難しかったのだという。

その難しさは「違和感」の表明にあるのだと。
これまでの学校生活、社会生活では、違和感を表明する機会がなかった。
どちらかと言えば「共感」の表明を求められた。
しかも「違和感」の表明(言語化)は難しい。
なんとなくのもやもやした感じ、だから。

一方でこの「違和感」トークに違和感を感じていた参加者もいた。
彼女が育ってきたり、いまいる多様な人たちから成る大学では、違和感の表明は当たり前のことだからだ。
このトーク、本質をついているなあと。

創造性は違和感から生まれる、って思った。
多くのソーシャルビジネスと呼ばれる取り組みが「違和感」から始まっている。
「課題発見」のはるか前に「違和感」がある。
「違和感」を言語化することで、それを「問い」に変換する。

それをひとりでやるのはかなり大変なので、みんなでそれをやってみること。
それが取材型インターン「ひきだし」だけではなく、ワークショップの意味なのではないか。

違和感の表明、それ以前のたくさんの違和感を感じられる多様な人。
そう、実は「違和感」こそが個性だ。そしてその「違和感の表明」を可能にする心理的安全性。
たぶんそれが、創造的な組織(一時的な「チーム」を含む)には必要なんだ。

~~~~~
と、こういう感じで。

僕の在野研究テーマは、フラットな関係をつくるコミュニケーションのデザインと「存在の承認」なので、今回の「ひきだし」も「違和感」というキーワードを得たことで発見があった。

そんなところで本日の1冊はこちら

「文化人類学の思考法」(松村圭一郎 中川理 石井美保)

第5章 モノと芸術より
~~~
トロブリアンド諸島のクラ交換に用いられるカヌーは、卓越した彫りや彩色で知られ、どんな美術館に並べても引けをとらないような視覚的特徴をもつ。そしてこの視覚的特徴こそがクラ交換の相手に返礼をさせる力の一端を担うともいわれる。だが、それが現に美術館のガラスケースに入れられたのなら、おそらく発揮される力はずいぶん異なるたぐいのものになるだろう。それは青い海とのコントラストの中に浮き上がった白と赤として、ぐんぐん島へ迫ってくるから人びとをぎょっとさせるのであり、巧みな技術を見て人びとは「こんなものを作り出すなんて、彼らはいったいどんな凄い呪術力をもっているのだろう」と畏れる。カヌーはこのようなさまざまな事象と一体になってこそ大きな力を発揮するのだ。

美的判断が独立せずに、その他の実践の中に埋め込まれているという視点の土台には、マルセル・モースの贈与論がある。モースは贈与交換を、あらゆる種類の諸制度が一挙に現れる現象すなわち「全体的社会的事実」として論じた。モースが引きあいに出す諸制度とは、宗教、法、道徳、経済、芸術だ。贈与交換においてはこれらの領域がすべて渾然一体となって駆動しているので、そこで用いられるモノを説明するにあたっては、たとえばその芸術的(美的)価値のみを取り出すわけにはいかないのだ。

また、モースのこのような議論に先立って、マックス・ウェーバーは、芸術はとりわけ宗教と不可分な領域を構成していたにもかかわらず、啓蒙思想をつうじて芸術と宗教が分かたれたと論じた。そして芸術誕生の歴史を、芸術の脱呪術化(合理化)の過程として説明した。
~~~

いやあ。そうなんですよ。
芸術と生活は切り離すことができない。

たぶんそれは、「仕事」や「はたらく」においてもそうだ。

就職活動の本質的な違和感の原因は、「個」として「システム」に対峙するところにあると僕は思う。
あなたは「個」としてどんな「機能」を有し、会社にどんな「価値(利益)」をもたらすのか?
という問いは、果たして答えるべき問いなのだろうか?

成果を生み出すのは、個人ではなく、会社という「場」なのではないか?

同じように、私という存在も、会社という一組織の構成員としてだけではなく、友人やスポーツや出身高校や、たくさんのレイヤーの中のひとつとして会社があるだけだ。

アイデンティティを仕事そのものに依存しないことだと思う。
僕は「在野の〇〇」として生きていくことを提案したい。

僕自身は「現代美術家」を名乗ってはいるけど、完全に自称だ。
作品と言えば、2015年松本市の栞日で行った「天空ハックツ」くらいだ。
しかし、「文化人類学の思考法」にあるように、芸術が生活に埋め込まれているとしたら、僕は在野のアーティストとして、ここに立っていることになる。

「仕事とは、組織でつくっていく芸術的要素を含んだ何か」なのではないか、と思うし、そんな「仕事」をつくっていきたいと思う。

「在野の〇〇」にあなたは何を入れますか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:06Comments(0)学び日記

2021年08月21日

桃太郎のおばあさんになれ

「きみだけのドラマを語れ」

これは、いわゆる「マイプロ」
全国高校生マイプロジェクトのテーマだ。
https://myprojects.jp/

今日の1冊はこちら

「将来の夢なんか、いま叶えろ」(堀江貴文 実務教育出版)

通信制高校サポート校である「ゼロ高等学院」を立ち上げた堀江さんが
2017年の「すべての教育は洗脳である」に続いて、2020年9月に刊行した本。

参考:「学校」は他者評価を「前提」としたシステム(17.5.31)
http://hero.niiblo.jp/e484924.html

このときは、衝撃のワンフレーズ。
僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。

いや、ホントそれだよね。
いま、まさにそんな時代や社会を生きている気がします。

ということで、今回もなかなか考えさせられるフレーズが。

まずはこの一言から。
「教育現場で教えられることは、リアルの体験以外すべて、テクノロジーで代用できる」

高校魅力化プロジェクトのライバルは他の公立高校などではなく、ゼロ高やN高といったテクノロジーを駆使して個別最適化した学校なんだと思う。
じゃあ、ゼロ高やN高に対抗できる価値ってなんだろう?そんな問いを考える上でいい機会になる1冊。

~~~ここからメモ
英語ができればたしかに社会で便利な場面は多いけれど、英語だけできて、ほかに何もできなければ「英語×ゼロ=ゼロ」だ。英語を使って、何をしたい?という問いを深める機会と環境を学校が提供しないまま英語を詰め込んでも、無意味だ

「その学びを選んだ理由を、自身の没頭体験をもとに語ることができる」若者の育成。

没頭への支援ができなければ親の資格はない。

数字評価なんかに、心の充足を委ねてはいけない。

「やりたいことがある大人は楽しそうに生きている」と「やりたいことがない大人は我慢しながら生きている」の2つのイメージが合わさって「やりたいことが見つからない=将来お先真っ暗」と思い込んでしまうのではないでしょうか。
~~~

そして、ゼロ高が目指す方向性で共感したのはこの2つ

~~~
自立の3本の足
1 自分に何ができるのか、何をしたいのかを行動による失敗から理解していく
2 自分のできること、したいことで助け合える仲間を見つける
3 自分ができること、したいことでファンをつくる
この3本の足で立つことができたとき、人は自立することができます。

僕自身が、繰り返し生徒に伝えていることがあります。「僕は君のこれまでの、そしてこれからの物語を何も知らない。だから、自分でつくり上げて僕に教えてほしい」と。ゼロ高生には卒業するとき、誰かにこう語れるようになってほしいと考えています。

私は、ゼロ高というコミュニティで学びました。
私はその中で、自分だけの物語を紡いできました。
たとえば、ストーリー1、ストーリー2、ストーリー3。
ストーリー1の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー2の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー3の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
そして私はいま、4つ目のストーリーとして〇〇をやろうとしています。
その理由は△△をやってみて、◇◇が面白いと思ったからです。
~~~

いやあ、これですよね。
マイプロジェクトをいくつも作って、振り返って、学びに落とし込む。
そうやって自分のやりたいことに出会うっていうパターン。

この本のラストは中高生世代に向けてのメッセージになっているのだけど、
その中でもシビれるところを抜粋します。

~~~
みんなが知っている「桃太郎」の話をしよう。
子どものときに親から聞かされて、よく覚えているのは主人公の桃太郎だろう。だが、本当に注目すべきは、おばあさんだ。川に洗濯に行ったおばあさんは、上流から「ドンブラコ」と流れてきた巨大な桃を、迷いなく拾い上げた。そして家に持ち帰り、何が入っているのだろう?と包丁でパカンと真っ二つに割ってみた。すると可愛らしい桃太郎が誕生した。

昔話のオブラートに包まれているが、おばあさんの行動は完全にぶっ飛んでいる。抱えきれないほどの巨大な桃を素手で拾ってくるだけでなく、家まで持ち帰って包丁で切るなんて、変わり者すぎる。普通だったら、そんな得体のしれない巨大桃が流れてきたら、ビビって見送ってしまうだろう。仮に拾ったとしても、常人なら包丁を入れるほどの勇気は持てないはずだ。

そうなのだ。おばあさんの「ありえない行動」が桃太郎の大冒険の始まりとなり、不朽の名作を後世に残したのだ。
~~~

いいなあ。
川上から流れてくる巨大な桃を拾うことで冒険が始まるんだ。

そして、人生の点を思い切り打ちまくれ、とスティーブジョブズの「コネクティングドット」の話を引用して語る。

~~~
「未来をあらかじめ予測して、点と点をつなぎ合わせることはできない。可能なのは、後からつなぎ合わせることだけだ。つまり私たちは、いまやっていることが、今後の人生のどこかでつながり、自然に実を結ぶことを信じ(て行動し続け)るしかない」

誰かではなく自分自身を驚かせる未来のために、たくさんの点を打とう!

多くの「点」は、やがて迎える未来の「いま」を描く、太い「線」になる。
~~~

堀江さんと思いは共通するところが多いかも、って思った。

点を打つ場所をどこにするか?
そして、誰と一緒に点を打つのか?

たぶん、中高生が持っている根源的問いはそこにあるのだろうし、点を打ちたくなる地域や地域との関係、コーディネーター的な動きが必要になる。

冒頭に書いたけど、「個別最適化」を考えれば、圧倒的にゼロ高やN高だと僕も思う。

でも、地域で、地域の大人たちと見つけ合いながら、地域の未来も少しだけ背負いながら、「点」を打っていく。

既存のシステムともうまく折り合いながら、未来を探り、試し、見つけていくような、そんな「まなび」をともに創っていけたらいいな、と。

今日は新潟駅MOYORe:で「まなびのトビラをともにひらく」が開催されます。

トビラを見つけ、ともに開けましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)学び日記

2021年08月17日

「計測可能である」という前提を疑う


「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)

久しぶりに内田節を聞きたくなって某古本屋さんで購入。
第3章 ウチダ式教育再生論 から
元原稿は、京都精華大学の精華人文文庫「きみの生きづらさと向き合うために」
なので、主に大学生向けに書かれているのだと思う。

「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解
とタイトルされた文章が昨日の「なぜ本屋なのか?図書館なのか?」
につながっていると思ったので書きます。

~~~ここから引用
世界は移行期的混乱のうちにあり、あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけている。それなのに、日本の社会はその変化に対応できずに硬直化している。金魚鉢にひびが入り、いまにも割れて中の水ごと放り出されるしかないのに、若い人たち、相変わらず「金魚鉢の中の」価値観や規範に適応するように求められている。むしろ、外側で大きな変化が起きている分だけ、恐怖と不安で、硬直化しているように見えます。

激動期に対応して、生き残るためには、集団の一人一人が持っている多様な能力や資質を活かして、「強い」チームを形成しなければいけないのですが、日本の学校教育は単一の「ものさし」をあてがって子どもたちを格付けして、スコアの高い者には報酬を与え、低い者には処罰を与えるということしかしていない。

多様な才能や資質を開花させるためにはほとんど何もしないで、ただ「みんなができることを、他の人よりうまくできる」競争に若者たちを追い込んで、消耗させている。こんな相対的な優劣を競わせても、来るべき変化に備え、それを生き延びる知恵と力を育てるには何の役にも立ちません。
~~~

いやあ、もう、ホントそれ。
ひれ伏すしかない。

そして「コミュニケーション」についても大学での経験から「コミュ障」だという大学生に出会い、次のようにコミュニケーションを定義し直す。
~~~
コミュニケーションすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイディアを他人から得ることや、自分とは違う感受性を通じて経験された世界を知ることにあると僕は思っています。自分の感情や思考を他人にまるごと肯定してもらっても、うれしいけれど、それによって自分が豊かになるわけではない。対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になることでしょう?
~~~
内田さんによれば、極端な同調的コミュニケーションも、自己責任論を内面化し、十分な評価を得られないときに自分の能力や努力にしてしまう、格付け志向については、若者の責任ではなく、「金魚鉢の中の硬直化したルール」を適用する社会がそうさせている、と言います。

そして、人文学の意味を語ります。
~~~
自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。

人文学というのは、扱う素材の時間軸が長く、空間も広い。考古学や歴史学なら何千年、何万年前のことを扱うし、民俗学や地域研究では、はるか遠い国の文化を学びます。文学もそうです。遠い時代の、遠い国の、人種や信仰や性別や年齢が違う人の中に想像的に入り込んでいって、その人の心と身体を通じて世界を経験する。「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。

学ぶことによって、自分たちが閉じ込められている「金魚鉢」のシステムや構造を知り、それがいつどんな歴史的条件下で形成されたものであるかを知り、金魚鉢の外側には広い社会があり、見知らぬ世界があり、さらにそれを取り巻く宇宙があることを知る。金魚鉢を含めた世界はどこから来て、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしているのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。これが人文学を学ぶということです。

この混乱期を生き延びていくためには、できるだけ視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の情勢を俯瞰することが必要です。
~~~

これ、人文学を「読書」や「地域探究」に置き換えても同じだろうなと。ヘリコプター(ドローンでもいいけど)に乗って、世界を(歴史的地理的民俗学的視点からも)俯瞰して見る方法の1つとして読書や地域探究はあるんだと。

さらに(僕が少し編集しましたが)、「実学」についても以下のようにバッサリ行きます。
~~~
政治学や経済学や法学といった「実学」というのは、既存のシステムが正常に作用している時代の、いわば「平時の学問」です。ある数値や理論を入力すれば、こんな出力があるという入力出力の相関が計算できる場合にはきわめて効率がよい。それに対して、自分が存在し、生きているこの社会の成り立ちや学問領域そのものの意味を問いかけていく人文学は、いわば「乱世の学問」です。
~~~

そうなんだよね。だから歴史だったり哲学だったりが必要なのだよね。
金魚鉢そのものがもうすぐ割れちゃうかもしれないんだから。

そしてこの文は、「自分が機嫌よくいられる場所」を探そう、と締めくくられます。
~~~
武道的な意味での「正しい場所」とは「どこにでもいける場所」のことであり、「正しい時」というのは「次の行動の選択肢が最大化する時」のことだからです。

「正しい位置」というのは、空間的に決まった座標のことではなくて、その時々において最も自由度の高いポジションを選択できる「開放度」のことだからです。

これと同じで、生きていく上で最も大事なのは、ニュートラルで選択肢の多い、自由な状態に立つことです。それはできるだけ「オープンマインド」でいることと言い換えることもできます。オープンマインドこそは、学ぶ人にとって最も大切な基本の構えです。
~~~

そうなんだよね。そういう「場」が必要なんだよね。ひとりひとりにとってその「場」が違うんだよね。
坂口恭平さん的に言えば「学校社会」のルールとは異なる無数の「放課後社会」が必要なんだよね。
そしてその「自分が機嫌よくいられる場所」の価値は、身体的なものであり、本人にしか分からない。つまり「計測不可能なもの」。

この「計測不可能」な余白を許容できなくなっているんだな。
金魚が金魚鉢ではなくて、広い川で泳いでいた時のような。

この文の少し前に、格付けできないのが「知」と題して、人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減少していることに対して、考察している。
~~~
「数値的な格付け」に基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。

というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。

独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。
~~~

うう。うなってしまうね。
「個性を発揮せよ、独創性を持て。」と言うならば、それを格付けすることをやめなければならない。その計測可能性を捨てないといけない。

「学校」は、「教育」は、「まちづくり」はどうなんだ?と問いかけてくる。

「越境」し、他者や本と「対話・協働」し、「試行・省察」すること。
金魚鉢の外の広い世界や、新たな自分を「発見」し、「変容」し続けること。

そのベースキャンプに、本屋や図書館がなったらいいと思うし、自分がニュートラルになれる無数の余白が、まちにたくさんあったらいい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)学び日記

2021年08月16日

「勉強」という乗り物

雨だったのでいろいろ乱読。読み終えたのはこの2冊かな。


「読書からはじまる」(長田弘 ちくま文庫)


「日本哲学の最前線」(山口尚 講談社現代新書)

なぜ「本/読書」なのか?
なぜ「まなび」なのか?
そんな問いの海をプカプカと浮かんでおりました。

「読書からはじまる」の
第2章は「読書のための椅子」。

その本をどんな椅子で読むか?
ってとても大切な問いだなあと。
空間として椅子にこだわりたいなあと。

そして「日本哲学の最前線」では、
大好きな國分功一郎さんの「中動態」の話から始まって、
6名の哲学者たちの現在進行形な哲学のベクトルが示されている。

テーマは「不自由とどう向き合い、真の自由を手に入れるか?」だ。

今日はこの本の第三章 偶然の波に乗る生の実践‐千葉雅也『勉強の哲学』より。

キーワードとして押さえておくのは「非意味的切断」。
~~~
意味的切断が「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」という意図に導かれながら情報収集をやめて次の行動に移る過程」のことを指すのに対し、非意味的切断とは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害と言った「有限性(finitude)」のために、あちこちを乱走している切断である。
~~~(本書より引用)

そして「非意味的切断は現に偏在する」と指摘し、「私たちは偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として『善用する』しかない」と説明する。

そして、ここから「勉強」の本質を鋭くえぐる。

~~~
勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。なぜなら《いま取り組んでいる物語が自分をどこへ連れていくか》は勉強するものにとっては前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性を持つ。

例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。(中略)そして―多くの人が経験から知るとおり―勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上はいけないな」と感じると別の一冊に向かう、というやり方のほうが享楽も多く意欲も持続する。

勉強を続けるには、<不意に読めなくなったときに警戒に中断してとりあえずイケる本を開くという柔軟な姿勢‐すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢‐こそが重要になる。偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけではなくその創造性も増しうる。
~~~
「勉強」とは乗り物なのだな、と。しかもそれは行き先が分からず、生成変化し続ける乗り物なのだ、と。

さらに「不自由」からどう脱出するかについても「勉強」が有効だとする。
※ノリ=コード(規範)のこと。
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。

勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。

とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~
「越境」の意味とはそういうことか、と。
そして勉強の結果起こるのは「成長」なんかではなく「変化」に過ぎないのだと。

このあと本書は千葉さんの具体的方法として「アイロニー」(一歩退いた姿勢)と「ユーモア」(コードをズラす発現)

そして「こだわり」について。
~~~
こだわりとは、何なのでしょう。
何かの作品、あるキャラクター、味や色、言葉などへのこだわりをもっている。それがなぜ自分にとって重要なのか、ある程度なら理由を説明できるかもしれません。しかし、こだわりとは、この身体にたまたま生じたもの、何か他者との偶然的な出会いによって生じたものであり、根本的に言って理由がない。こだわりには、人生の偶然性が刻印されている。偶然的な出会いの結果として、私たちは個性的な存在になるのです。
~~~

そうだよね。いまの自分っていうのは、まさに「偶然≒非意味的切断」の産物なんだよ。
5年前から今を目指して努力してきた直線の延長上には自分はないんだよね。

だから、人は「勉強」するし「読書」するんだよね。
生成変化の「過程」にある自分として。

ラストに「読書からはじまる」の最終章から「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」というキーワードを。

~~~
今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えばモノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして情報というのは物流・流通に似ています。

簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。

「育てる」文化と「分ける」文化というのは拠って立つものが違います。「育てる」文化の基本は、個性です。「分ける」文化の基本にあるのは平等です。今日の世界に広くゆきわたったのは平等の文化の景色です。

この国が情報社会として「分ける」力をつけるにつれて、逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。

「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。
~~~
このあと、「蓄える」文化の担い手として、いつの時代も図書館があり、図書館をのあり方について問いかけてきます。

この「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」は、「産業」だけでなく、いわゆる「教育」や「学び」のジャンルにおいても、「まちづくり」のジャンルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

いつのまにか本は「情報」を運ぶ箱に過ぎなくなった。
分けられ、選ばれ、消費されるものになった。
図書館カードは通帳化され、貸出冊数が見える化された。

民間図書館や小さな本屋さん古本屋さんをやる人たちっていうのは、そんなふうに「情報」として、分ける文化としての本ではなくて、育てる文化、蓄える文化の担い手としての場になることの大切さを本能的に感じている人たちなのではないか。

本は「育てる」し読書は「蓄える」。
そして本のある場には、千葉さん的に言えば「偶然≒非意味的切断」がある。

そうやって人は「越境」し、「生成変化」し、新たな自分となる。
その「過程」をただ、歩んでいるだけなのかもしれない。

まず「越境」するために「勉強」という乗り物が必要なんだな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:55Comments(0)学び日記

2021年08月07日

巻き込まれて越境し、ふりかえりで意味と自分を知る

8月26日(木)の愛知フォーラムは残念ながらオンライン開催となってしまいましたが、
https://www.agareimei.com/posts/19710629

昨日はそのフォーラムのリハーサルを兼ねた主に保護者対象のトーク企画でした。小さな離島で「島留学」をしている中3生の保護者の方に、フォーラムのプレゼンの予行練習に付き合ってもらいました。

プロジェクトという「場と機会」に自分を差し出すことで「見つけ合うまなび」をつくっていきたい、と。

その後30分の対話の時間。
彼の暮らす小さな村では地域の団結が強く、行事が多数行われるのだという。それに参加しているうちに、両親が目を見張るほどに変化していったのだという。

あらためて思い出したこと。
「巻き込まれる」から冒険は始まる、ということ。

検索したら過去にこんなブログを書いていた。
「冒険は巻き込まれるところから始まる」(15.2.1)
http://hero.niiblo.jp/e462263.html

世の中のロングセラーと呼ばれる冒険の物語の
スタートの多くは自分の意思とは無関係に
巻き込まれるところから始まっているのだという。

名作RPGと言われる「ドラゴンクエスト」。
生まれ育った町が何者かに襲われる。
王様に呼ばれる。「君は勇者だ。」

え?おれ?勇者?なの?
と言っているあいだに冒険は始まっている。
たぶん、そんなものなのだと思う。

8月1日のブログに、はじめに越境ありきと書いたが、
実はその「越境」とは、巻き込まれることによって起こるのかもしれない。

昨日は「地域学」のまちづくりチームの課外活動で、
新潟の沼垂商店街の見学と、阿賀町の空き家の中の整理をを行っていた。
2年生2名が参加。



おそらくはそういう視点でまちを見たことがなかっただろうな、と。

まちづくりチームを率いる
阿賀まちづくり株式会社の高橋眞也さんの人柄と情熱に「巻き込まれた」んだろうなと。

きっと冒険は、そうやって始まるんだ。

「やりたいことは何か?」とその子の意志を尋ねるのではなく、
まずは「越境」だし、それは巻き込まれることから始まる。

その現場で、心が動く。
ふりかえり心の動きをキャッチして、その活動の意味と自分を知る。

「自分」とは「何をやりたいか」なんかではなくて、「どうありたいか?」「どの方向へ向かうか?」なのだと思う。
「目標」(やりたいことやなりたい自分)などではなく「現在地とベクトル」こそが「自分」だと思う。

それを知るために、まずは巻き込まれて冒険をするんだ。

はじめに「やりたいこと」や「意志」があるのではない。はじめに「巻き込まれての越境」があり、その行動を振り返ることで行動の意味と自分を知るんだ。

世の中は「挑戦」に偏重し過ぎているのではないか。
意志があり、やりたいことがあり、挑戦がある。

しかし。

予測不可能なVUCAの時代(社会)が来ている、ということにはみんな同意をしているはずなのに、なぜ「挑戦」に価値を置くのだろうか。予測不可能な時代において起こっていることは、単純に「目標設定の価値の(相対的な)低下」である。だって、その方向に未来がないのかもしれないからだ。

オリンピックのような競技を見ていると、やりたいこと、なりたいものを決め、その目標に向かって「挑戦」することは美しいとは思うけど、実社会においては、挑戦の延長上に未来がないかもしれないのだ。

例えば、馬車が自動車に置き換わっている時に、「日本最高の馬車馬使いになるぜ」って目標を決めているかもしれないのだ。(美しいけども)

もっと感覚を、身体性を磨いて、ステキな大人(だと自分が感じる人)に心を開き、巻き込まれて、「冒険」を始めてほしい。
「挑戦」ではなく「冒険」なんだ。

「冒険」の途中で振り返りながら自分の現在地とベクトルを知るんだ。
阿賀黎明高校の「地域学」がそんな「冒険」の舞台になったらいいな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:47Comments(0)学び日記

2021年08月05日

「個」と「システム」、そして「場」と「余白」


サウナのあるオフィス、はたらクリエイト(ハタクリ)の佐久オフィスにお邪魔してきました。
(サウナ前で井上さんと)

上田オフィスはこんな感じ。


ハタクリサイト
https://hatakuri.jp/
もう、いろいろ圧倒されて「サウナめし」の試食までさせてもらって、ずっとビックリしてました。
「場をつくる」ってこういうことなんじゃないかって。

ハタクリは、サイトに書いてあるように、はたらくをクリエイトすることで仕事を楽しむ人を増やす、というミッションの元、子育て中のお母さん等がスキルを磨いて段階的に再就職していく場などを提供している。

その人と人とのコミュニケーションのデザインも試行錯誤しながらかなり作りこまれていて、これは寮運営にとってもすごく参考になるなあと思った。

ハタクリの人を育てるコミュニケーションシステム(個人の強みや性格を開示したり、フィードバックしたり、〇〇係をつくったり)は、よく「学校みたいですね」と言われるらしい。

たしかにやっていることは、学校みたいなのだけど、そのベースにあるものが「個」なのか「システム」なのかの違いがあると思った。

この前の大城さんの福祉の話ではないけど、「その人に出会う」ことを大切にしたシステムと、組織や会社を「運営・マネジメントする」ことを大切にしたシステムとの違い。いや、もちろん、「個」と「システム」は、相互に関係しあっているから、両方ともの要素が必要なのだけど。

ハタクリはそのあいだに絶妙に「場」をつくっているから、人が育ち、組織も成長していくのだろうと。
「その人に出会う」ことと、「組織を運営・マネジメントする」の動的平衡の絶妙な「場」を作れるか?っていう。
そういうアートに挑んでいるんだなあと。

たぶん「学校」も「寮(地域や家庭)」も同じで、学校はどちらかと言えば、システムを重視して、そこに適応できる人を育てていくことに重きが置かれ、寮はどちらかと言えば、「その人に出会う」ことを重視して、構成員に合わせシステムの方を育てていくことが大切なのだろう。

たぶん、場をつくる意味ってそういうことなのだろうなと思った。

その「場をつくる」ときに、必要となってくるのが、シロウト(素人)の意見なのかも。
「専門家」と呼ばれる人たちは、その世界に長く暮らしているので、当たり前を疑うことが難しくなる。
(超一流の専門家は、それをいとも簡単にやるのだろうけど。)

「私にとって建築は手段でしかない」とある学生が言っていたけど、そういう感覚こそ必要なのではないかと。「建築は手段でしかない」と言われたときに、じゃあ目的は?とかゴールは?とか聞いてしまうことこそが、近代システムの奴隷であるのかもしれないが、VUCAの時代、予測不可能な、答えのない時代において、手段が(感覚的に)分かっているということには大きな意味があるのだと思った。

専門家ではないからこそ、それを手段としていろんな目的地への行き方として使うことができるのではないか。

「では、私はどこに向かっているのだろう?」というのは永遠の問いなのだから、それを早いうちに決めてしまう必要は必ずしもない。(決めることでの安心感はもちろんある)

今回の遠征で出会ってしまった2冊の本


「シェルパ」と道の人類学(古川不可知 亜紀書房)


季刊誌『tattva』vol.2「にほんてき、ってなんだ?」(ブートレグ)

「シェルパ」はヒマラヤの山岳ガイド「シェルパ」について考察した人類学の論文の書籍化。

希望とは、もともとあるとのだともいえぬし、ないものだともいえない。それは、地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。(魯迅「故郷」)

いきなり魯迅の言葉がすごくて購入。
希望ってそういうものかと。
「道とは何か?」っていい問いだなあと。

もうひとつのtattvaは、にほんてきってなんだ?のあとに、いとなみ、たのしみ、アイデンティティ」って書いてあり、これはヤバい、と思ったのと、冒頭の黒川雅之さんのところにビビっと来たので。

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西洋文化の市場価値は「知」、日本が大切にするのは「美」

例えば、車のハンドルには「遊び」がちりばめられています。ダイレクトではなく、ちょっと動かしてから反応する。人間の動きに完全にシンクロできてしまったら、すごく運転しにくい車になります。

この「遊び」は、人間がハンドルを操作するという行為とメカニズムとの間をつなぐために設けられています。そう考えると理詰めのものをつなぐあいまいな余白、つまり「間」のようなものを「遊び」と言っているのではないか。そして、余白をあえて埋めない「遊び」の感覚が、ものづくりから日々の暮らしまで隅々にちりばめられていたのが、日本文化の豊かさにつながっていたのではないかと思うのです。

しかし、そうした日本人が持っていたはずの美意識は、「知」を中心に置く西洋的価値観に染まった現代ではかなり失われています。では、どうすれば取り戻すことができるのでしょう?

日本の美意識を支えているのは、肌で感じ、香りを嗅ぎ、触れてわかる身体的な感覚です。細部を重視するので、表面的な形はシンプルになっていきます。ただ同時に「シンプルが至上である」というルールもないので、調和をあえて壊す型破りな側面もあります。ひとつの価値観に固定化されようとすると、そこに居心地の悪さを感じ、創造のために破壊するのです。そのため常に揺れ動き、確固とした思想として捉えることを困難にしています。代わりに日本人が重視するのは、「気」であり「間」であり、つまりは感覚的な調和感です。
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そうか。日本的な美は、調和的なものなのだなあと。
そして調和的なものというのは、「あいだ」というか「余白」が大切なのだと。

はたらクリエイトのオフィスにある「純信州産サウナ」のような。

「個」と「システム」のあいだに「場」があり、その「場」には「余白」が必要なんだ。
その「場」と「余白」があることで、「個」と「システム」はうまくやっていける。

たぶん、そんな「場」と「余白」を作りたいんですよね、となんとなくあいまいに思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び日記

2021年08月01日

はじめに「越境」ありき



オンライン劇場ツルハシブックス
昨年5月から毎月1回開催。
なんだろうな。
気軽な哲学対話な時間って感じですかね。

なんとなくやっているのは僕の「問い」仲間をゲストに呼んでのトークセッション
※来月の8月28日はついに細井岳さん登場です!

今回は、デンマーク・フォルケホイスコーレに留学中の大城美空さんとの時差7時間トーク。
あっという間に時間が過ぎて30分も延長しちゃいました。

まずは僕のふりかえりメモから

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はじめに意志ありきではなく、はじめに越境ありき。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」ではなくて、「直感で動け、そうすれば失敗しかないのだから。」

直感と好奇心で始めるから面白い。
目的や目標から始めると面白くない。
「予測不可能性」こそがエンターテイメントだから。

相手の分かる言葉で話しているか?

「自由の相互承認」は、言葉で言うのは簡単だけど、実際はすごくスッキリしないあいまいなもので、立場や意見の違いをかみしめてその場の納得解(妥協点)を探っていくことの繰り返しで、「決めたから守る」というのものではなく、永遠にその問いが繰り返される。

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのではないか。

ひとりひとり「個」のために福祉がある。しかし(この国における)福祉は制度であり、制度とはルールを決めることだ。ルールを決めなくては判断ができない。しかし、そのルールによって人は区分けされ匿名化する。

肉体的背景、精神的背景、社会的背景、文化的背景、すべてがその人を構成している。

「哲学」も「承認」も他者から教えられたり与えられたりするものではなく、思考と実践(試行)のあいだを往復することによって徐々に自分の中に形成されていくものだ。

「人材育成」は効率化できるのかもしれないが「人を育てる」とか「人が育つ場をつくる」っていうのはとてつもなく非効率な営みなのだなあ。

ルールや立場を固定すると「安定」が得られる。
しかし、そこでは1回1回の真剣勝負が失われる。
ルールや立場(肩書き)は人を匿名化し交換可能にする。

「属人的である」ということは、いまこの瞬間の関係性が大切にされ再現可能性が低い。
「誰でもできる」ことは、継続的であり再現可能性が高い。
ルールやマニュアルはなんのためにあるのか?

ルールがないということは自由であるということではなく、思考し続けないといけないということ。
どのくらいのスパンの時間軸で「効率性」「成長」を目指し、測るのか?

「立場」を演じているうちに「自分」を失っていっていないか。

ルールを作っていく、ということはふりかえりが必須である、ということ。
「迷いがある」「悩みがある」ことを肯定する。
ふりかえり⇔反省、愚痴
プロであること:「迷わないこと」ではなく「考え続けること」
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僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまったのではないか。
デンマークのエピソードを聞いて、そんな風に感じた。

決められたルールを守ること。
それを当たり前だと思っていた。

今回、大城さんは新型コロナウイルス危機の最中にデンマークで暮らし、共同生活の中で、外出をどう制限すべきか、について、話し合ったという。毎日酒を飲むようなお酒好きな人たちは、酒を買い出しに行きたいといい、そんなにお酒を飲まない人たちは、リスクが高いからやめたほうがいいと主張する。

自分も意見を言いながら、相手の顔を見ると、「うわ、面倒なことを言って・・・」というような顔をしている。なんらかの結論が出るのだが、なんだかスッキリしない。もやもやしていると、「こういう話がすっきり終わるはずないよね~」と当たり前のように言われる。そしてルールについて守らないヤツがいたりするので、以降も何度も話し合われ、ルールが微妙に変更されたりする。「みんなでルールを決めて、それを守ること」が当たり前だと思っていた自分に気がつく。

苫野一徳さんによれば、公教育の目的は「自由の相互承認」に在るという。
参考:価値観の多様化とは、明確な価値が失われたのと同義語である(15.6.26)
http://hero.niiblo.jp/e469959.html
参考2:「共同探究者」になるということ
http://hero.niiblo.jp/e489119.html

「自由の相互承認」と、言葉で書けば7文字でしかないのだけど、
それはとてつもない「非効率」な営みによって実現されるんだということ。

もうひとつ。フォルケには「先生」と敬称付きで呼ばれる人はいない。校長でさえファーストネームで呼ばれることもある。

そもそもルールとか立場(肩書き、役割)ってなんのためにあるんだろう?って。

ルールや立場を固定化すると、「安定」を得られる。しかし、その「安定」は同時に1回1回の真剣勝負の場を失うことと同義だ。ひとりの生身の人間として一期一会の場に臨んでいるんだという自覚を失う。

「ルールを決めて守ること」
「立場(肩書き、役割)を決めてその責任を果たすこと」
が当たり前だと思っている私たちは、「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのかもしれない。

VUCAの時代、予測不可能な時代だと言われる。
答えのない時代だ、とも言われる。
社会が大きく変化するときだ、とも言われる。

社会が大きく変化し続けているとしたら、その社会に合わせて、いまのチームの、場の構成員に合わせて、ルールを変化させ続ける必要がある。

だから、考え続けなければならない。
対話し続けなければならない。
ふりかえり続けなければならない。
それはものすごく「非効率」な営みなのだ、と。

デンマークは第二次大戦後、「教育」「福祉」「医療」に力を入れてきた。この3つは別々ではなく、それぞれの仕事に携わる人には共通の哲学を身に付けている必要があるという。

その「哲学」に近いものが、このページに書かれている「デンマーク・スタイル」なのだろう。
http://www.capnochokinbako.jp/denmark/style/

「指導から支援へ」:スタッフは問題を解決するためのサポーターであること。
「上下関係から対等な立場へ」:人としての敬意をはらい、信頼関係を築くこと。
「すべての支援はコミュニケーションから」:言葉だけがコミュニケーションではないことを知り、コミュニケーションスキルを模索すること。
「機会を与えること」:人と交わる機会、社会と交わる機会、自然と交わる機会

ミクさんが言っていた「その人に出会う」という福祉の出発点。
それをひたすらにやっていくことなのだろうと思った。

最後に、あらためて「越境」について。

まずは「越境」してみること、なのだろうと。はじめに「意志」「挑戦」ありきではなく、はじめに「越境」ありきだ。

「直感で動け、そうすれば失敗しかない」これはミクさんの恩師、長岡先生からのメッセージだ。(たぶんこれ。言い方ちがうかも)

参考:「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける(19.7.24)
http://hero.niiblo.jp/e489583.html

「やりたいことは何か?」
じゃなくて、はじめに越境があるんだ。

ミクさんが大学時代から続けてきたように、

越境し、そこにいる人たちと場を共にすること。
違和感をキャッチし、表現し、ともにルールを作っていくこと。
対話し、ふりかえり、次のルールを考えていくこと。

その繰り返しでしか「自らの未来をつくる」ことはできない。
小さな小さな、非効率な営みの先にしか、僕たちの未来はないのかもしれない。

その未来へ、15歳~18歳と一緒に歩んでいくこと。
それが僕にとっての高校魅力化プロジェクトです。

本日も「地域みらい留学合同オンライン説明会」でお待ちしています。
https://c-mirai.jp/schools/18

高校魅力化プロジェクトのページ
https://www.agareimei.com/  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学びイベント日記