プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年07月14日

「まなび」の「よはく」



パンフレット用写真撮影の日。
7月に入ってからずっと雨&くもりだったのが、奇跡的な晴れに。

「神は細部に宿る」ってこういうことか!と感じた1日でした。
15歳になりきって、その世界の中を躍動していきながらの写真撮影。
写真のディレクションってそういうことか、と。

その前の日の夜に少し聞かせてもらった
Ciftの説明会の話が面白くて。

「拡張家族における親と子。自己変容型リーダーシップ」~Cift2周年祭で僕が語ったこと
https://cift.co/life/1659

補完としてこちら。
「なぜ“家族”になるために「人事」があるのか」
https://cift.co/work/802

~~~ここから上記ページよりメモ

仲間:ともに働く
家族:ともに暮らす

世界⇒私たち(Cift)⇒私
世界平和への拡張家族への自己変容

「拡張j家族」:「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡されながら、深化と成長を生む生命体

ひとつ(関係性):あなたもわたし、弱さでつながる、共に暮らす、助け合う組織、共依存関係、今が大事、居場所、愛
ひとり(主体性):あなたとわたし、強さでつながる、共に働く、育みあう組織、共自立関係、未来が大事、出番、力

「自己変容」:自分に全体性を取り戻し、次元をシフトする。

「自己変容」⇒「自己変容型リーダーシップ」へ。

「自己変容」:内に解き(対個人)、Be(内的姿勢)、さらけ出す、自責する、アンラーンする、人の成長を信じる、習慣化する
+(型)「リーダーシップ」:外に結ぶ(対全体)、Do(外的行動)、方針を示す、率先する、つなげる、やる気を上げる、役割分担する

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

依存的全体:属する共同体に依存している状態。大いなる母親に包まれている状態。

このフェーズで必要なのは居心地の良い共同体から自らの離脱を通して自立することである。全体から分離することで、自分自身の存在に向き合い、力を身につけ、自信を持つということが重要だ。その自立が新たな共同体に入ることだと今度はそれに依存してしまうのでCiftに入るタイミングではないと考える。まずは自らの足で立てる力をつけようと伝えることにしている。

主体的個別:共同体から離脱し、自らの足で歩きはじめ、自己実現を目指そうとしている状態。

この状態は力を得るためにとても必要な時期であると同時に、Ciftではこの力はあくまで手段であって、目的である愛の主体的全体へと意識を向けるかどうかがポイントになる。主体的個別を目指して邁進している人については、それを応援しながら、Ciftという場所はその自己実現を一部解いて全体実現に加担する行為なので今は適切ではないと伝えるようにしている。

主体的全体:自己実現において限界感や喪失感を感じた上で、自我を超えたものにコミットしようとする状態。

力を得る主体的個別フェーズを通った人たちがそれを手段として、愛という目的に意識が向き始めたらCiftに入る立ち位置になったと言える。ここでポイントなのは主体的全体がすでに体現できている態度の状態ではなく、そう在りたいと思う意識の状態を確認していることだ。なぜなら僕も含めてここができている人は少ないし、むしろそこを共進化するための場所がCiftだからだ。その時に大事なのは自らの意志で入った環境が自ずと人を変容させていくことだ。このとき、主体的全体への意志がなければ、どんな環境があっても発酵しないし、むしろその人の人生にとって腐敗してしまうので、ここの音合わせはとても大事と言える。

~~~ここまでメモ

刺さる言葉がたくさんあって、タイムリーだなあと。

7月10日のブログ「はみ出しものの系譜」
http://hero.niiblo.jp/e490859.html

にもつながっていく話で面白いなと。
僕としてのキーワードは「自分たち」「わたしたち」なのだけど。
それを「ひとり」と「ひとつ」という言葉で表していたのがすごい。

そして、未来を占うのはこちら。
「オフグリッド化するコミュニティ 渋谷Ciftが提唱する“拡張家族“とは?」
https://nextwisdom.org/article/2291/

~~~ここから上記ページより引用

全体の一部である構成員でありながら、自立した人間であるという状態の矛盾した関係を解決するのが新しいコミュニティのキーになると思っています。

人類の歴史を考えると、17世紀前後の科学革命の前は人間ではなく自然が中心の社会で、人は生まれてから死ぬまで全体に依存しなければ生きていけなかった。その中で全体としての秩序があった。そこから、個人というものが台頭してきて、現代はかなりの個人化の時代にも思えますが、この先もっと個人化、個別化が進んでいくのだと思います。人間の心と体が分離するとかも十分起こりえると思います。

でも、もともと人類というのはコミュニティから始まっているんですよね。生まれた瞬間は誰もひとりでは生きられない。家族というコミュニティに守られていて、生活を安定させるために家族が集まって村を作り農耕社会になっていった。現代の社会では、高校を卒業する頃には、家族から離れて村から飛び出して、ひとりで生きていくこともできます。だけど、そっちにも限界がある。

全体の一部として生きていくということは、個性は無いけど協調性はあるという状態。言い換えると、愛はあるけど力は無いということになります。

近代以降の私たちは外側に力を求めがちです。内省することや、空を見上げることもあまりせずに。それは、外にしか目が向いていないからです。力はすごくあるんだけど、その力がすべて外に向かっているから、自分の傍にある愛を大切に生きていない。

本質的に平和って何か考えたとき、個が自立して多様で皆が好き勝手にやる世界なのか、それとも、皆が協調し合って一つとして愛し合う世界なのかっていうと、そのどちらでもない。要は、それを止揚させた世界でなくてはいけない。

~~~ここまで引用

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、
海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、
前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの
個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と
皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。
つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、
「主体的全体」なのだろうと。
僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」
「個人」と「共同体」
そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。

内田樹さんがよく言っている。
教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、
個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして
家電王国としての国を支えたりした。
いつのまにか教育は「お買い物」と化し、
最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。
だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。
「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、
Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。
その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。
「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」や
にいがたイナカレッジのプログラム、
そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。

その「よはく(余白)」は、
「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、
いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。
そして、その「よはく」に「場」ができていく。
それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、
高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、
まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、
ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:11Comments(0)学び日記

2020年07月12日

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値



昨日の地域みらい留学LIVEを30分だけ視聴。
聞きたかった若新雄純さんの話が聴け、シビれたのでメモしておきます。

~~~ここからメモ

わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないか。

イケてる田舎の学びは「非線形」
JK課=女子高生がまちづくりに関わるプログラム
インターン・PBLがつまらないのは、先に学ぶものを決めているから

イケてる田舎での学び:予定・用意されたものじゃない何かがある。
目標・計画もない学び。

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。
よくわからないものを楽しむこと。

都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。
田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」
「線形」の学び=これまで。

〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
・予測可能(指数関数的)
・予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続
ゴールがない、わからない、計測不可能

3年間そこにいると何が学べるか=不明確なのが価値
ぜんぶたまたまの結果にすぎない。

「こうあるべき」⇒「分からないけど、面白そうだ」(創造的脱力)

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。
プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。
「発見」は100%生まれる。

~~~ここまでメモ。

いやあ、ほんと、このタイミングで聞けてよかったなと。
田舎で、この町で学ぶ価値って、魅力ってなんだろう?って
「魅力を明確に言語化しない」っていうのはすごいなと。

たしかに、一言で言える観光地よりも、底が知れない場のほうがリピートするし。
ご当地名物料理よりも、地元民御用達の駅前中華料理屋さんのほうが行ってみたいし。

そして、「線形」と「非線形」の話。

これは、「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)
に書いてあった、メディアの変化にマッチしているな、と。

参考:本屋というメディアをつくる(17.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e486326.html

参考:メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e486304.html

ここで説明されている「コンテンツ」の3つの軸

ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

~~~

これって・・・
まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。

ストックとフローを組み合わせつつ、
「権威型」から「参加型」に寄りつつ、
ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

そしてWithコロナ時代を迎えて都市と地方の「情報格差」が決定的に小さくなった今。
だからこそ学びは転換点にあるのではないか。いや、もともと転換点にあったのだけど。

そしてもうひとつ紹介したいのが若新さんの著書「創造的脱力」

参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

~~~以下、書籍より引用

目的やゴール、到達点が明確で、勝ち負けや白黒をはっきりさせたいプロジェクトやチームには、それにふさわしいまとめ方やまとめ役というのが必要なのだと思います。正しく状況を判断し、的確に情報を収集、分析し、権限を使って指示や命令をおこないながら、ときには破壊的な攻めにでることも必要なのでしょう。

一方で、すすんでみなければゴールがわからず、偶然の出来事や変化を受け入れながら学んでいくような実験的な取り組みにおいては、成果や正解を焦って求めすぎない脱力感と、そのプロセスを楽しめる柔軟性が必要です。

でも、ただ力を抜いてやわらかくしているだけでは、「まとまり」ができずバラバラになってしまいます。脱力しながらもうまくまとめていくためには、その場にいる一人ひとりの欲や好奇心、その場から得られる体験や感動をみんなで共有し、ときにはぶつかり合いながらもお互いを必要とするような、人間関係にみちあふれた「関わり合い」が必要です。

僕はこれを「ゆるいコミュニケーション」と呼んでいます。「ゆるい」というのは、「いい加減」ということではありません。

きっちりとは固定されていないのに、つながっている。
強制されているわけではないのに、参加している。
必要に迫られているわけでもないのに、欲している。
細かいことは決まっていないのに、全体としては成り立っている。

一見もろそうに見えて、実は「かたいつながり」以上の「ネバネバ感」があり、「まとまり」があるのです。

さらに「ゆるい」だけあって、平均からのズレや偏りを排除してしまわず、むしろその差や違いを吸収できる余白や「ゆらぎ」をもっています。つまり、「ゆるいコミュニケーション」は、一人ひとりの異なる価値観やライフスタイルをお互いに認め合い、それぞれの個性的なパーソナリティを引き出し合うことができる「成長の機会」なのです。

~~~ここまで

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。
田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。
その先に非線形の学びがある。
その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、
スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。
「発見」を価値だと認識すること。
場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。
その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。
いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。
そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。  

Posted by ニシダタクジ at 10:25Comments(0)学びイベント

2020年07月10日

はみ出し者の系譜


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

はやくも2周目。今日は「はみ出し者の系譜」です。
言い換えれば、「コミュニティ難民」なのかもしれません。

参考:中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」(16.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e483286.html

ツルハシブックス閉店1か月後に書いた文。

「居場所」という場所は不要で、「劇場」をたくさんつくり、
「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。
これはもしかすると、オンライン劇場ツルハシブックスで目指しているものなのかもしれない。

リアル店舗の本屋「ツルハシブックス」とは僕なりの「参加型社会」への実験だったと言えるだろう。

本屋のような劇場をつくる。
気がついたら本屋という舞台の共演者になっている。

それは、もしかしたら、
「ヨコ軸」としての参加型社会だったのかもしれない、と。
そしてそれは「瞬間的に」発生することで、
心が開き、共同体感を感じられる場になったのかもしれない。

そして、唐澤さんたちの「ネオ・まきどき村」が志向している
「営みの中にあること」はタテ軸としての参加型社会なのかもしれない。

この本を読んで、
あらためて、自分という存在だったり、昨日のブログに書いた
「永遠に中間的なるもの」としての「自分たち」という存在を考えた。

~~~以下本書より一部引用とメモ

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。
アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。
そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、
その中でまた独自の掟や作法が生まれて、
それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。
「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

ここまで第6章の「よはとつ図形2020」より。

そっか。
「とどまる」を経験しないと、真の意味で「つながる」フェーズにはいけないんだなあと。
永遠に「よりそう」「はじける」「よりそう」「はじける」を繰り返してしまう。

もう、「よりそう」だけでは(全員は)生きていけないのだ。
コロナ過での公務員・大企業志向は、まさに「よりそう」への回帰なのだと思う。
一方で、「はじけろ」っていうだけなのも違う気がするのだよね、きっと。

このブログのタイトル「20代の宿題」っていうのは、もしかしたら、
「つながる」フェーズに行くために、
「よりそう」「はじける」「とどまる」の3フェーズを繰り返すこと、なのかもしれない。

そしてそこで圧倒的に重要で、しかも難しいのは「とどまる」だ。
意識しなければできないし、「とどまる」には孤独が必須だからだ。
そして「とどまる」の前には「はじける」がある。

同調圧力などの掟・ルールに耐えられず、コミュニティにいられなくなる。
そんな状況で「はじける」ことができるのか。

そこで、この本では歴史を壮大にふりかえる。
(この本のクライマックスなので、本を買おうと思っている人は読まないほうjがいいかも)

▼▼▼ここから一部引用・メモ

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。

海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。
海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。
生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。

私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。

私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。

「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。

その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。

▲▲▲ここまで引用・メモ

このあと本当のラスト「望郷としての海」に行くのだけど、それは本書をお読みください。

いやあ。書いていて、身震いがする。

新型コロナウイルスが強引にこじ開けたドア。
Withコロナ時代の先、向こう側。
なぜ、自分がこんなにも本を読まないといけない、と思ったのか。
「サピエンス全史」をこのタイミングで読みたかったのか。

僕たちは「はみ出し者の系譜」の中にいる。

歴史・営みというタテ軸と、共同体というヨコ軸。
自分はその真ん中に存在しているのだけど、
それを「自分たち」に拡張していくことだと思う。

そしてひとつひとつの「自分たち」には、
進んでいくベクトルがあり、それは1つ1つ異なる。

僕たちはいま、そんな世界へのドアの前に立っている両生類なんだ。

そして僕はきっと、そんな時代を見据えて、
新しい本屋に「かえるライブラリー」と名付けたんだなと。(本当か)

  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び

2020年07月09日

「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

予約していたものがようやく昨日届きました。

もう、すごいです。
「ヤバい」っていう言葉しか出ない。
そして、僕にとってのタイムリー。

「参加型社会」は橘川さんの半世紀のキーワード。
その本質をえぐるような言葉に、ドキドキしながら読みました。

昨日夜の「取材型インターンひきだし」での
大学生の不安を聞いていて出てきたのがやはり「近代的自我」、
つまり、やりたいことがわからない問題とアイデンティティ危機の問題。
そこともリンクしてきて面白かったのが第3章のメディアとは何か?

ここの部分を今日は紹介します。

~~~ここから本から一部引用

デカルトが定義づけた近代的自我は、まさに人間のソフトウェアに対する讃歌である。「我思う」という想像力の自由こそが、人間の持つ本来性であるとしたのである。

近代の方法論を簡単に言うと「コピペ」である。
近代とは「量」を神とする信仰であった。

本来、人間の意思(ソフトウェア)に応じて作られたのが道具(ハードウェア)である。それが、道具が道具を作り出すようになった。やがて「人間の意思」が「道具の進歩」に追いついていかなければならなくなった。

今、人間(ソフトウェア)が為すべきは、ただハードウェアに追随するのではなく、ソフトとハードの人類史をより大きな視点で俯瞰し、ソフトウェアの本質を再確認することではないか。

ソフトなきハードの暴走はいずれ停止する。その時代に向けて、人類もまた、幼児的なソフトウェア(近代的自我)の次元から、一回り成長した、大人のソフトウェア(情報的自我)へと脱皮する必要があるだろう。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。

融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

~~~ここまで引用

このあと第5章に、近代的自我の先にある情報的自我の説明がある。一部引用すると
「これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。」

これです。これ。
昨日の「取材型インターンひきだし」説明会でも話していた、
「魔法をかける編集」と「場のチカラ」の話ってまさにこの自我の話ではないかと。

アウトプットするのは個人やチームの力ではなく「場のチカラ」であり、

参考:人生は経営である。ただし個人戦ではない。
http://hero.niiblo.jp/e489703.html

「魔法をかける編集」というのは、
ひとりひとりの「今の自分しか紡ぎだせない編集」を
そのインタビューに表現していく、ということである。

アイデンティティ・危機を越えていくために、
自らを差し出して複数の「場」の構成員になり、その組み合わせを自分とすること、だと昨日話していたけど、
それって、橘川さんの言う、「情報的自我」のことなのではないかと。

「取材型インターンひきだし」は、就活という近代的「フレーム」が機能しなくなっている中で、
「永遠に中間なるもの」としての「私たちの時代」への道を切り拓いていっているのではないか、と。

そんなことを感じてワクワクした朝読書でした。

「ちょっと何言ってるかわからない」と思った方はごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)学び

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学びイベント

2020年07月03日

まなぶを響き合わせる

6月24日のweekly ochiai

「ギグワークは仕事の未来なのか」
https://newspicks.com/news/5016231?ref=user_2250


が面白すぎて。
特にラストの宮田さんの「はたらくを響き合わせる」がアツかったな、と。

で。本も読んでみました。


「GIG WORK」(長倉顕太 すばる社)

まあ、本は思っていたのと若干違って、
ギグワークとは何か?ではなくて
なぜギグワークか?どうやってギグワークに(自分として)シフトするかっていう話でした。
昨日読んだ「サブカルチャー論講義録」と重なっていて、これはこれでうなりました。

~~~本を読みながらのメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

「お金持ちになる」っていうことは「選択肢が増える」っていうことか。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?
「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」
そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。
本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。

昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。
それこそが奴隷づくりの方法なのに。

「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。
フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。
まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

~~~ここまで読書中のメモ

なるほど。
社会学的で、昨日の若者のサブカルチャー論講義録の補足にもなっていて、とてもスイスイきました。

で、冒頭のウィークリーオチアイのまとめ。

~~~以下、動画みながらのメモ

ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

ギグワーカー=労働法上の労働者ではない。
・環境の変化がはげしく、人材を自社で賄えなくなっている。
・労働者ではないから自由に働ける
・マッチングするプラットフォームの進化

クラウドワークス:3つのタイプ
・プロジェクトベース(単発)
・人をコンスタントに契約(長期)
・PMをやって、その下にチームをつくる
個人がだんだん事務所化している。
事務3-7だったのが9-1でオンラインになった。
主婦とシニアが増えている

人材マッチングの機会としてのギグワーク

「体験バイト」=大人版キッザニア タイミー:会社員:主婦:フリーター 同じくらいの割合
正社員:やったことないのにいきなり正社員で、やめるにやめれない。

転職のリスクはむしろ上がっている。副業がリスクヘッジになっている。副業というセーフティネット。副業は社員の幸せを考える会社は必須。実際の働きぶりを見て、転職。会社的には人材募集システムとして機能する。(無料の引き抜き)実際に働きぶりとなじんでるのを見て、採用すると長く働いてくれる。人材の流動性を高めるうえで仕組みとしていい。

セーフティネットとしてのギグワーク:ヘッドとロングテール⇒日本の分布に似ている。

稼げる、稼げないだけではなく、やりがい、充実感のグラフもある。
ギグワーク:多様なロールモデルを見せる。ひとりひとりのモチベーションにグラデーションがある。多様な生きがい。
コミックマーケット:フラットな世界⇒ロングテールが大好き

社の論理だけでフィットしない人を排除してきた。それがうまく生かせるかもしれない。

「機会の提供」という意味ではネットはいいけど、コミュニケーションのOSが増えた
オンライン時代に、リアルのスキルが下がっている。
フィットする人材の多様化。リアルに弱い人でもオンラインで強い人には活躍の場がでる。
匿名、ニックネーム、年齢・住所非公開で働ける
「承認欲求」が満たされる。ギグワークは即時相互評価。それが働くモチベーションになる。

ウーバー:「働く」って一方的な提供じゃなくて一緒につくるエクスペリエンス。お互いに仕事を提供して一緒にはたらく。
派遣は一方的な体験だったのが相互評価になる。上から命令される、みたいなかたちにならない。評価の悪い悪質な発注者は駆逐される。
ギグワーク:新しい社員探し。インターンの替わり。コンビニ向けのサービスを考える⇒ギグワークするほうが早い。

クライアントからありがとうって言われる⇒シニアにとって生きがい。
お金いる人といらないひとがいる。タイミー:ボランティアにもいけるように。
IT技術は信用(信頼)を前提としている。ピーク時の2時間だけ人がほしい。

将来のためにギグワークをする。

働くを響き合わせる。
与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ

都市や会社=お金のためだった。
自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

~~~ここまで動画メモ。

いやあ、宮田さんがアツいね、やっぱ。
仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、
やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。
お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、
「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)
みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、
フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。
僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。

一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、
一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、
伴奏者としての大人たちと一緒に、
ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:34Comments(0)学び

2020年06月27日

「主体的である」の反対は、「やらされる」なのか?

昨日、とある会議のあと、とある取材を受けていて感じたことのまとめ。

いちばんの気づきは、
「自律的主体的に学ぶ子」にとって、この町の環境は最高だと思ってた。
資源も課題もたくさんあって、学び放題だと。

でも。
「やりたいことがわからなくて立ち止まっている子」にとっても、
学校内外で、多様で多数の「機会」を提供できるっていうことだ。
「機会」を振り返って、感情から自分を知る。

環境の豊かさっていうのは
・資源の豊かさ:くるみやの農作物などの自然資源
・課題の豊かさ:高齢化・猿による農作物被害などの課題
そしてもうひとつ
・関係性の豊かさ:地域の人たちが重層的に学びにかかわる。

それはそのまま
「機会の豊かさ」であり、「学びの豊かさ」につながっていく。

三菱UFJリサーチ&コンサルティングの阿部さんの論文の「学びの土壌」
https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2019/11/seiken_191122_3.pdf

挑戦の連鎖を生む「安心・安全の土壌」←大人の主体性
協働を生む「多様性の土壌」←大人の協働性
問う・問われる「対話の土壌」←大人の探究性
地域や社会に「開かれた土壌」←大人の社会性

これは地域から、というかマクロな目線で書かれたものだけど、
これを高校生目線に落とし込むと。

やりたいことがある、あるいはやりたいことを自ら見つけ、自ら学んでいける高校生にとっては、自らつかんでいく「学びの機会」にあふれていて、反対に「やりたいことがわからない。自分に自信がない。何をしたらいいかわからない」高校生にとっては、周りから与えられる「学びの機会」があるのだと。

これまで僕は思っていたのは
「主体的である」と「やらされる(主体的でない)」の二項対立。

じゃあ、「機会提供」は「やらされる」なのかと言えば、そうでもないと思うし。
「最初は先生に言われたので始めました」っていうのは、高校生のマイプロ発表聞いててもよく出てくる言葉だし。

高校生側の感じ方だったり、
ひとりひとりに話を聞いているか、ひとりひとりに話しかけているか、だし。
もっと大切なのは「ふりかえりをしているか」だったりかもしれないし。

こちらが「機会提供」しているつもりでも、高校生は「やらされている」と思っているかもしれないし。
その前提となる信頼関係があるかないか、にもよると思うし。

つまり。
「主体的である」は「やらされる」と二項対立で考えるものではなく、
高校生目線で言えば、「主体的である」と「機会提供」のあいだにグラデーションが広がっているのだと。

やりたいことがないと悩んでいる子の隣に座って、機会を提供する。
その提供の仕方もあるよね。
ただネタを提供してこちらは見ているだけっていうのは、やらされ感が出る。
一緒にやってみる。考えてみる。悩んでみる。

それが大切なのだろうなと。

地域の自然も資源も課題も地域の大人も、自らも独自の楽器をもって学びという音楽づくりに参加する
高校生にとっての「学びの伴奏者」であること。学びという営みのプレイヤーとして参加すること。

まあ、言うは易し、行うは難しってやつですけどね。
まさにいま、その課題に直面しています。  

Posted by ニシダタクジ at 06:11Comments(0)学び

2020年06月19日

時計の奴隷



https://www.katariba.or.jp/event/23138/
6月17日(水)の「ゆるいエデュケーション・ラボ」オンライン・ゼミに参加。
若新雄純さんの言う「ゆるい」が好きなので。

「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)は僕にとって思い出の1冊。
参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

ということで、イベントメモ

~~~ここからメモ

・学び合うことをとらえ直していく
・学ぶ場のありかたをゆるめてつくりなおす
・「ゆるい」:答えを出さないといけない⇒答えがすぐに出なくてもいい
⇒成果・結論・まとめ・気づき・学び・いいアイデア・答えを求めない。
⇒つまり、ゴールに向かわないってことか。

「対話」によって「そういう見方もある」という「発見」があるはず。
「正解」から「発見」へ

ソクラテスの時代から「対話」だった。
不知の自覚:無知の知
「哲学」:テーブルに乗せて丸裸にするという営み。
「哲学の本質」:本質洞察に基づく原理の提示。
「公教育」:社会における自由と自由の相互承認の実質化
正当性の原理は「一般福祉」。

150年かわらない学校システム⇒ベルトコンベアシステム⇒同質性の高い集団に最適化したシステム。
学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合。

アダプティ・ラーニング:キュビナ
個別に今学ぶべきことを最適に与える:テクノロジーのほうが優れている⇒テクノロジーに任せることは任せる。
モチベーションを上げることは人にしかできないから人がやる。
主体的対話的学びもテクノロジーでフォローできる。

「学びの個別化」:自分が学びのコントローラーを握っていること。
「学び(のコントローラー)」を子どもの手に返す。
高校生自身に学びの主導権を渡す。
ログが残る⇒リアルタイムのフィードバックができる⇒ゲーミフィケーション。

モチベーションをどうやって上げるのか?
ゲームの攻略:いいゲームは「チュートリアル」がしっかりしている。

麹町中学校のキュビナ導入から
1 ティーチングプロセス⇒ラーニングプロセス
2 助け合える学習空間をつくれるか?
3 先生も探究的に学ぶ

プログラムの提供⇒場を提供して待つ、一緒に学ぶ
自己成長力を信じられないと待てない。

言われたことを言われたとおりにやらせる。
⇒信頼して まかせて 待って 支える

それができないのなら、「時計の奴隷」になっている。
時間割とか、この時間までにここまで、とか。全部そうだな。

幼小中高大をつなげる「ラーニングセンター」として空間を再結成する。
「大きくはみ出せない」「多様であれない」のは、不安だから。
人と違っていてもいいという安心感をどうつくるか。
異年齢の人が出入りしていると同調圧力は軽減される。

「多様性」を目指さない。
結果であり、前提としての多様性。
僕たちはすでに多様。

これまでの学校:スーツケース
長い棒は折らないと入らない。ボールみたいな丸いやつは押し込めないといけない。
⇒ふろしきみたいな学校はつくれないか?
まあ、いろんなふろしきが学校の周りにもたくさんあったらいいなと。

「評価」(≒数値化)の呪縛をアンラーンする。
大切なのは一緒にプロジェクトをやりたいか?っていうこと。
評価が正確・公正であるというウソ。

「こういう人と一緒に学んでいきたい」
”あなたと一緒に学びたい”と思えるか。

「序列」:クラスの中で何番目か
⇒自分(たち)の目指しているものに対して何合目か?

ピアノやギター:やってるからできる
学年とかがない。誰も評価しない。

~~~

とまあこんな感じ。
高校魅力化の文脈に落とし込んでいくと、キーワードは

・「ゆるい」:答えを求めない。ゴールに向かわない。
・モチベーションとゲーミフィケーション、チュートリアル
・ラーニングセンター、異年齢の多様な人の出入りと心理的安全性
・ギターやピアノのようなやってるからできる、っていう感覚。

そんな感じかな。
いちばん響いたキーワードは「評価の呪縛」ですかね。

構造的に見れば。
「目標達成」という大きな仕組みの中で、授業の達成目標があって、
そこに対して限られた時間数で到達させることが重要で、
その到達度をテスト(高校なら中間・期末試験)によって測定するという仕組み。

ところが、キュビナのようなAI教材で学びを個別化したとすれば、
その時点(たとえば、2年生の7月時点)でのテストの結果は、どんな意味があるのだろうか?

そもそも。
目標⇒到達度評価⇒テストみたいな枠組みにどれほどの意味があるのか?

それって、サピエンス全史にも書いてあった、
「時計の奴隷」ってやつだよなあと。
工場は効率化のため、「時計」を発明した。
いや、時計はあったのだけど、イギリス各地域で異なっていた。

「時計」とか「始業時間」とか「時間割」とか
そういう概念そのものがわずか150年しか経っていないのだ。

そうそう。
人は、目標の奴隷である前に、時計の奴隷だ。
島に行くと誰も時間守らないっていうのは、時計から自由だって言うことなのかもしれない。

「学び」と「評価」と「目標」と「時計」
この構造に、何かヒントがあるよ。

「時計」から解放された学びをつくりたいね。

その「学び」はきっと、「遊び」に近づいていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)学びイベント

2020年06月18日

ビジョンづくり⇒企画書づくり


久しぶりのスターバックスひとり朝活。
ソーシャルディスタンスがすごい。
ソファー席もひとつずつ空いてる。

「言葉にできる」は武器になる
の梅田さんの「企画者は3度たくらむ」

企画書づくりの本をこれまでも読んできたけど
そもそも企画ってなんだっけ?という問いに、
スパっと答えてくれていて、いいなあと。
ビジョンづくりは企画書づくりだと思ってやったほうがいいなと。

そこに課題発見があるのか?と。
そういう意味では「探究的学び」と構造上は同じだなあと。

まだ第1章しか読んでいないのですが、
「あたりまえ」の大切なことがたくさん書いてある。

~~~以下メモ

全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。

全ての根源にあるのは「課題に気付く力」であり、そこから解決方法を紐解いていく一連の流れこそが企画なのである。

問題を解消するのではなく、課題を解決することこそが、企画者の仕事なのである。

発生している問題は、あくまでも課題が存在することによってもたらされている結果に過ぎず、解決すべき課題そのものではない。

問題ではなく、課題へ。課題ではなく、現在の課題へ。

企画力=発想力+実現力
課題解決力=企画力=(課題発見力+発想力)×チーム力

提案先が求めているのは、企画書ではない。企画である。
より正確に言えば、企画に辿り着いたプロセスが正確に記されている企画書である。

~~~以上メモ

うーん、すごい。
第1章だけでエッセンスが詰まっている。

いちばん思ったのは、
「ビジョンづくり」って「企画書づくり」だなあと。

ビジョンだけ示しても、現状認識と課題設定からくるプロセスの提示が必要なのだよね。
そのすべてに共感というか少なくとも同意がないと、ビジョンで終わってしまう。

まずその1点。

二つ目は、
そもそも「キャリア教育」ってなんだっけ?
みたいな。

「全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。」この原則から始めないといけないのではないだろうか。

だとしたら「やりたいことは何か?」よりもはるかに大切な問いは、困っている人はいないか?不便を感じていることはないか?それを解決するには?なのではないか。

三つ目の気づきは、アイデンティティの危機という課題に対してのアプローチのこと。僕が思うに、その筆頭は属するコミュニティを多様化・多層化してその掛け算として生きる、で、その階層1つ下に「地域の個性の構成員になること」があり、その場合、地域の個性は「編集」によって生み出すことができるし、周りの人たちと一緒に創ることもできる。

つまり、この本で言うところの「企画書づくり」(課題発見からの一連のプロセス)を通して、チーム(会社・地域)の個性を生み出すこともできるし、その構成員になることもできる。

ビジョンづくりは、企画書づくりへ。
そしてそれは個人のアイデンティティをも創っていく。

いや、仮説ですけどね。

課題とビジョンと、仮説と、打ち手。

そのくりかえし。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)学び

2020年06月14日

動的な屋号と空白のある地図

オンライン劇場ツルハシブックス2回目。
ゲストは、ZINE「とまれみよ」を発行した吉野さくらさん。
https://www.tomaremiyo.com/

自らの祖父を題材としたZINE
テーマは散歩と聞き書き。
散歩しながらじいちゃんの話を聞く。

気になったのは、
「とまれみよ」という屋号の由来。

踏切によく書いてある「とまれみよ」
これを見た時にハッとしたのだという。
「とまれみよ」は、自分の在り方としてしっくりくる。

コメタクの活動も、「とまれみよ」だ。
朝ごはんのご飯を炊くこと。
炊きあがるまでの時間(隙)をつくること。

さんぽ×聞き書き

散歩:偶然に出会える、思いつく
聞き書き:アウトプットすること(成果物)が唯一のゴールではない

日常と非日常
言葉と身体性
情報と感情

~~~こんな感じ

いちばん来たのは、屋号の話かな。
「とまれみよ」は、まさにさくらさんの在り方を示している。

いいなあ、在り方を示す屋号。
そういう意味では「ツルハシブックス」もいい線言ってますけどね。

次は「機会として学ぶ」の屋号化だな。

その後、つくばのじゅりさんと今は東京のみのりんと3人で茨城県人会(誰も茨城出身じゃない)
ただの雑談。最近読んだ本とか感じていることとかはひたすら話す、みたいな。

なんか、楽しい時間だった。
お茶とスイーツ、もしくはお酒とおつまみ(手でつまめるもの)をご用意ください。
って書いておけばいいかもしれない。
スイーツ紹介から始まる本の処方箋っぽい雑談、楽しいかも。

そして、第3部は、オンライン・ゼミ
「やりたいことがわからない」の社会学でした。

まず、「やりたことがわからないの社会学」を聞いて、キーワードだし。
そこからひとつずつ拾っていく。

まずは大学生が話した
「ライフヒストリー(チャート)」への違和感。
これ、僕も感じていたので、いいお題だった。

ライフヒストリー(チャート)は、
自分の人生を振り返ってその時のプラスマイナスを折れ線グラフ化するもので、
就活の自己分析に使われたり、チームビルディング研修などでも使われるやつ。

ここ数年、僕もライフヒストリーには違和感があって、
人を理解する方法としては使ってこなかったのだけど、
最近思うのは、「自己開示」のツールとしては使えるのだけど
「自己分析」や「他者理解」のツールとして使うのは危ういなということ。

言ってみれば「人生の編集」だもんね。
その瞬間のその人はあぶりだされない。

次のキーワードは「アイデンティティ」。
まあ、これ言っちゃったら、ゼミが終わっちゃうんだけどね。笑

アイデンティティを分散させる
って誰かが言っていたけど、
コミュニティを多層化、複層化するっていうのはありだなと思う。

そういう意味でも第1部のさくらさんの話に戻るけど、
あり方としての屋号っていうのは面白いなと。

「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。
「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。
スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。

動的な(動きを感じられる)屋号だということ。

そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。
そういう感じ。

ライフヒストリー(チャート)の違和感のひとつもそこにあるのかも。

過去の出来事を静的な点として観る。
でも、その時、その点はたしかに動いていたし、
今現時点ではその点(出来事)はマイナスに感じられるのかもしれないけど
5年後にはプラスに感じられるかもしれないので、現実には今も動いているかもしれない。

だからこそ、動的な屋号とか、コンセプトが必要なんだなと。
そしてそれは一人でなくても、二人でも、チームでも、いいのかもしれない。
この船はどこに向かっているんだっけ?っていうのに答えられるような名前を必要としている。

~~~

っていう感じ。
オンライン劇場の未来がまた一つ見えた。


「サピエンス全史 下」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)

を読んでいて出会ったシビれるキーワード
「空白のある地図」

~~~ここから一部引用

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ人は空白の多い世界地図を描き始めた。それ以前には地図には空白はなかった。だからそれらは世界の隅々まで熟知しているという印象を与えた。

コロンブスは、1492年に中南米のバハマ諸島に到達した時、東アジア沖にある小島にたどり着いたと信じていた。だからこそ、そこに住む人を「インディアン」と呼んだ。コロンブスは死ぬまでそう誤解していた。

その10年後、1502年~04年にイタリア人航海者アメリゴ・ヴェスプッチらは何度かアメリカ探検をした。これらの探検について書かれた書簡の中で、彼は、コロンブスが到達したのは東インド諸島ではなく、まったく無知の大陸だとした。

1507年、定評のある地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが発行した改訂した世界地図にはそれが独立した大陸であると初めて書かれ、その大陸を発見したのがアメリゴだと誤解したヴァルトぜーミューラーは、その大陸に名前を付けるとき、アメリゴの栄誉をたたえて「アメリカ」と名付けた。

この地図は非常な人気を博し、他の多くの地図製作者に複写されたので、彼が新大陸につけた名前が広まっていった。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋なめぐりあわせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

(中略)

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

~~~ここまで一部引用

いいですね、「空白のある地図」。
まさに、僕がオンライン劇場に感じているのはこれのことだなあと。
インターネット黎明期の90年代後半にその世界の人が感じていたものらしき何かを感じている。

オンラインだからこそ、たどり着ける地平があると。
そしてそれは、ひとりではなたどり着けないくらい遠くにありそうで、まだ見えていない。

そこへの旅を進めるために、ひとりひとりの動的な屋号を、ベクトル感を共有したい。

それは「言葉」と「身体」のあいだ。
「考える」と「感じる」のあいだにある何か、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:22Comments(0)学び

2020年06月10日

ひきだしミライカイギ

昨日は、取材型インターンひきだしミライカイギ~オンライン「ひきだし」はできるのか~
でした。
参加してくださった企業の方、OBOGの方ありがとうございました。

「ひきだし」の本質的な価値はどこにあったのか?を
改めて考えていく中で、その価値をオンラインである程度再現しつつ、
オンラインでしかたどり着けない場所にいくというミッション。

結論からいけば、始まる前には、完全オンラインは難しくって、
一部オンライン(現地に何名かは行くパターン)
を考えていたけど、実際に話してみたら完全オンラインもいけるような気がしてきました。

さて。
昨日の話を整理してみます。

取材型インターン「ひきだし」の価値(特徴)について


1 学生側と企業側のフラットな関係性

・ミステリーツアー方式(選んでないし、選ばれていない)
・「目的多様性」と「身体性」を持つ「場」づくり

2 会社を「人」から知る

・雑談、雰囲気などから会社のリアルを知る。

3 共同生活がある

・合宿形式で、家事分担などから身体感覚を共有している(オフの時間がある)

4 企業を含め全員が参加者(当事者)である。

・同じ空間(場)を共有すること、問いに向かっていくことで、全員が当事者になっている。
・会社の魅力を引き出して冊子をつくる、とぃうゴールがある。

と、かけば書くほど、やっぱオンラインなんて無理じゃんってなるのだけど、
昨日は後半で、いろいろ大学生や企業の担当者の話を聞いていると、
いや、やっぱいけるかも、と思った。

【オンラインの課題】
・大学のオンライン授業の場合:そもそも主導権が学生側にあるし、自由度が高いので、当事者意識が下がる。
⇒それはかけてるコストが少ないから。
⇒有料化することでそれは変わるのか?

・「人」から会社を知る、という意味では、リアルならでは「雑談」「雰囲気」が大切
⇒オンラインだとフラットなだけにさらに「人」にフォーカスできる可能性がある。(プログラム次第)

・身体性をベクトル性で補えるのか?
⇒ベクトルを合わせることはそもそも難しいし、場のチカラと矛盾するのではないか。
⇒ベクトルを合わせるのではなく、ベクトル性を共有(お互いに知る)ことでできないか。
⇒キーワード・トークなどを会社側も交えてやるとか。

・トランプやサイコロなどの「ギャンブル性」を入れる
⇒これってリアルでもそうだけど、オンラインだからこそのドキドキが必要なのかも。
⇒ブレイクアウトセッションも、ランダムで決めればくじ引きだもんね。

【オンラインひきだしの案】

・各人の「問い」(ベクトル)をていねいにチューニングする。
⇒企業の担当者も含めてやる。
⇒キーワード・カフェとか。
⇒いままでよりさらに「人間性」で勝負する。
⇒会社を「人」で知る

・ブレイクアウトセッションでの対話、雑談の時間を増やす。
⇒経営者や社員とのトークの合間や振り返りで、ブレイクアウトセッションを増やし、1対1の場をランダムにつくる。
⇒雑談の場の設計。ごはんや飲み会、飲みながらの振り返りなども入れる。

・学生の当事者意識を上げるには?
⇒参加費を取る☆コロナ後に使える企業訪問ツアーを付けるなどの特典
⇒参加課題を出す、面接する(ベクトル性の異なる人を集める)

~~~
っと現時点ではこういう感じかな。
来週また話しましょう。

僕としてはあらためて、
「機会として学ぶ」っていう原点に返った気がします。

新型コロナウイルスによって、
現地型のインターンがすべてNGになっていく中で、ひきだしは、どこへ向かっていくのか。
「オンライン化」でなく、オンラインだからこそたどり着ける学びの機会をつくれるのではないか。

キーワードは、向き合わないことだと思った。

人は人と出会うべきなのか(斎藤環)
https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec

の中で、

~~~
あらゆる関係性は非対称である。これが前提だ。言い換えるなら、非対称性が想定されない場所には関係性も生まれない。そう、「対等な関係性」などは、誰かの政治的夢想の中にしか存在しない。どんな関係性にも上下関係、支配関係が埋め込まれている。
~~~

と出てくる。そしてそれには臨場性が必要だと。
人間関係の非対称性は身体からくるのだと。
まあ、そうなのかもしれないけど。

僕がひきだしに込めた思いは、
「機会としての学び」の中で、人と人はフラットになる、ということだった。
そしてその「場」にこそ、生まれる未来がある、と。

ひきだしがオンラインになったとしても、
機会としての学びに向かって、
企業も、学生も向き合わずに未来を生み出していくような
場をつくっていけるし、
むしろ、オンラインひきだしじゃないと、たどりつけない「場」があるのではないか、と予感した。

まあ、予感しただけなのですが。

それにしても、イベントラストに撮ったこの写真が楽しそうすぎる。
やっぱ身体性大事だわ。
それでは、ご唱和ください。「ヒキダシ、ヒキダシ」

  

Posted by ニシダタクジ at 07:05Comments(0)学び日記

2020年06月05日

「機会」を「問い」に換え、Whyに立ち返る。

今週のweekly ochiaiでの一コマ。
テーマは、アフターコロナのリアル「飲食・小売」編
代々木上原のsioの鳥羽周作さんのお店でやってきたことが衝撃で。

sio
http://sio-yoyogiuehara.com/

レシピを無料公開していたツイッター
https://mobile.twitter.com/pirlo05050505

お店ってなんだっけ?
っていう問いに詰まっていたので、メモしておく。
まだ途中までしかみていないのだけど。

~~~以下メモ(他・出演者のもの含む)

コロナ期間中にやったこと。
・ツイッターでのレシピ公開
・1,000円のお弁当
・10,000円/13,500円(2名分)のお弁当
・お店の営業
⇒コロナ前以上の売り上げ

レシピ公開:
お客様しかコロナの答えはもっていない。⇒何を求めているか?
ステイホーム:料理する人が増える。包丁を握ったことがない人もいる
⇒再現性の高いレシピを。

家でつくってみて、弁当にして再現できるか?妻に食べてもらって判定
⇒お客さんの立場(包丁もったことがない)まで想像できているか?

1000円の弁当:
レストランクオリティ(価値体験)を1000円であっても提供するんだという意志。
⇒ぜいたく弁当(10,000円~/2名)へ
※通常のコースは1名10,000円~

トップシェフが弁当で新しい価値を提供する
⇒今まで向き合ってなかった層に価値を提供すること
⇒まず3weekお弁当を研究した。
⇒レストランに求めている価値をどうやって自宅にお弁当として届けるか?

「エンゲージメント」
もともとのお客さんにちゃんと届けているか。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること

基準は:これをやって幸せな人が増えるのか?増える:やる 減る:やらない
⇒意思決定を最高速に。

レストラン価値を届ける方法として、弁当という方法もある。
10,000円のコースも、1,000円の弁当も、同じ熱量で作りこむ。
誇りをもって1,000円で新しい体験価値を届ける。ナポリタンでもからあげでも。

視点は常に「お客様は何を求めているか?」
⇒予想を上回るものを出し続けることがエンゲージメントにつながる。
エンゲージメント:ファンをつくること。
地域のおばあちゃんが1,000円の弁当やめないでね、と言ってくれる。

~~~ここまでメモ

いやあ、すごい。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、
「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、
「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし、
(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)
1000円の弁当も本気で作る。

かっこいいなと。
そんな本屋をつくりたいなと。
僕がつくるのではなくて、劇団員と呼ばれる人たちと、ね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)学び

2020年06月01日

何がどうシフトするのか?

5月29日金曜日に、2つのオンライン勉強会に出たのでキーワードまとめ。

~~~ここからメモ

昼の部:尼崎市職員向け研修(ゲスト:ディスカバ・今村亮さん)

オンラインになると先生中心の「教育」から生徒中心の「学習(学び)」へシフトせざるを得ない。

従来型の学びで得たものを今仕事で使っているとしたら、従来型の学びを提供しようとする。

「問いの立て方、問いの作り方」っていう問いは違うのではないか。
感じたことを、言葉にするプロセスの中で5W1Hを組み合わせれば、問いは生まれる。

サイコロ探究
https://hen-ai-topic.jimdosite.com/junior/?fbclid=IwAR3K7FTaN5iGjStcY-T4h7Xnj9JOAsLTBVMRM_a0yG4wetPkVG5l04Fskfc

浦崎先生の言う「感じること」「問いを立てること」「意味を味わうこと」
の「感じること」と「問いを立てること」のあいだに、深い深い「言語化の谷」が広がっている。

ディスカバ!オンライン(PBLをオンライン上で再現)
https://discova.jp/online/

「教育」つまり、「教える」のは先生だが、「学ぶ」のは子ども。
主語、主導権の大転換が起こっている。

言いたいことが言えない関係。タテの関係は「評価」というプレッシャーが、ヨコの関係は「同調圧力」がかかる。
「評価」も「同調圧力」もない「ナナメの関係」、それがカタリバの関係。ようやく「ナナメの関係」が腑に落ちた。

「学び」の主導権の移行。
それは経済では「企業」から「消費者」へと30年前に起こっていたこと。
ここ30年の経済史をふりかえることで、何か見えるのかもしれない。
戦後最大・明治以来と言われる教育改革としての「探究」
正解を教わるの教育ではなく自ら主導権を持つ探究へ。

本来は「学校」「家庭」「地域」の3つで構成される子育て。しかし、「ステイホーム」は子どもの居場所を「家庭」だけに制限した。
→オンライン上に居場所をつくる必要があった。
→たとえば、「カタリバオンライン」とか「朝の会」とか。
→異年齢の子が接する時間になった。

わかりやすい勉強コンテンツはウェブ上にいくらでもあった。

必要なのは対話・コミュニケーション。
→オンライン朝礼をした
→不登校傾向の子どもたちにとってはむしろプラスに働くこともあった。

夜の部:マイプロ勉強会・事例紹介(ふたば未来学園高校・鈴木先生)

福島県立ふたば未来学園高校の「未来創造探究」
地域社会のneedと自分について理解するWillの真ん中にテーマ設定すること。
「調査のためのアクション」と「解決のためのワーク」を行き来する。

「知らないことを知る」ワーク
自分は何を知っていて、何を知らないのか?
聞いたことがある≠知っている
を再認識する。

情報の種類を知る:「事実」「意見」「仮定」
聞いたことがあって、自分でも使っているのに実はよく知らないこと
→友人に説明できるようになるまでインプットする。
知らなかったワードを自分自身で定義しなおすこと。

「ヒューマン・ライブラリー」
近隣地域で活動する人々を8名を呼び、うち2名に話を聞ける時間にする。
「会いにいけるゲスト」
テーマ「私のマイプロ(探究)」で話してもらう。

そこで新たな問い、観点、ロールモデルを得て、実際に現場に会いに行ってみる。
→問いと調査のためのアクション。

~~~とこんな感じ。

たまたま5月30日に、本屋さんで目に留まったこの本を買いまして、今朝、一気に読みました。


「2020年6月30日にまたここで会おう~瀧本哲史伝説の東大講義」(瀧本哲史 星海者新書)
昨年急逝された瀧本さんの講演録。
久しぶりに奥底に響くような内容。

~~~以下本からメモ

「教養の役割とは、他の見方、考え方があり得ることを示すことである。」アラン・ブルーム

学問や学びというのは、答えを知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。
なるほど、学校で学ぶことは守破離の守の、さらに基礎なのか。

バイブルとカリスマの否定。

明治維新というのは近代革命の中でも、際立って言葉を武器にして行われた革命だったと言える。

教養の1歩目は言語。
右手にロジック、左手にレトリックを。

だから「瀧本先生、僕に進むべき道を教えてください」じゃないんです。ぜんぜん違うんです。君が自分の仮説を出して、それを試してみるしかないんですよ。

「弱いつながり」とはSNSでつながることではなくて、バックグラウンドが違う人とつながっているということ。

アイデアがどうかなんてことより、「あなただからその事業をやる意味がある」ということが、やはりきわめて重要です。

~~~ここまでメモ。

なんだかタイムリー。

金曜日の今村さんの一言。
オンラインは先生が主導権を握る「教育」から生徒が主導権を握る「学び」へと変えてしまった。

パラダイムシフト。

夜の部のとある学校の先生が言っていた一言。
「探究活動を積極的にやった子が有名大学にAO・推薦で受かっているので、うちの学校では今年から探究の授業を検討するところと進路指導部が一緒になったんです。」

えっ。
それって・・・
強烈な違和感。

有名大学にAO・推薦で合格するというのは、
探究の「結果」であって、探究の「目的」ではないはずなんです。

そもそも探究とは、
個人の関心と社会の課題の重なるところにできていって、
その題材は、ひとりひとりに委ねられている。
個人の興味関心というエネルギーを注ぎ込まないと成立しないもの。

パラダイムシフト。

が起こっているはずだ。
「探究型学び」へのパラダイム・シフトが。

今村さんが言うように、
教育(≒学び)の主導権が「教師」から「生徒」自身へシフトする。

そして、僕が以前から言っている「機会としての学び」
http://hero.niiblo.jp/e489763.html

学びの構造が「(目的・目標を設定し)手段として学ぶ」から「(展開・振り返り重視で)機会として学ぶ」へシフトする。

教育だけではなく、近代のパラダイム(価値観)のキーワードは「効率化」だった。
「目的・目標を設定して、そこに最高速で行く」に価値があった。
それは工業を中心とした社会だったからだ。
ところが、そのゴールを失い、しかも「効率化」が価値を生まないことがわかってきた今。
当然教育の現場のパラダイムもシフトせざるを得ない。

ところが「AO・推薦入試のために、探究を」って、まったく目的・目標設定のパラダイムではないか。
そのほかにもシフトしているように思うこと。

「個人として学び」から「場としての学び」へのシフト。
方法(メソッド)から場へのシフト。
挑戦から実験へのシフト
達成感から予測不可能性へのシフト。
伝説のカリスマ教師から歌われざる英雄へのシフト。
明確なゴールから方向感・ベクトル感へのシフト。

そんなシフトが始まっている。
いや、コロナ休校期間中にもうシフトは終わっていて、気づいていないだけかもしれない。

瀧本さんに言葉を借りれば、
あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマが、きっとあるはずだ。  

Posted by ニシダタクジ at 09:55Comments(0)学び日記

2020年05月28日

「自分ごと」になるための「対話」のデザイン

「就活」の違和感。
その大きなもののひとつが「自己分析」だろうと思う。
「自分を知る」というやつだ。

人はそんなに、自分を知らない。

しかも「自分」はひとつではなく、インスタの複数アカウントのごとく、シーン(場面での立場)によって使い分けている。

昨日は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会第3回目
題材は、
【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編②
https://www.youtube.com/watch?v=sHemvchZ_6c&t=2481s
でした。

昼の部は先生方4名+校長先生
地域の方3名+学校教育課長
そして黎明学舎スタッフ4名の計13名、
夜の部はパートナーズ3名+私の4名で行いました。

題材があることで対話できるなあと。

~~~ここから動画メモ

感じること、問いを立てること、意味を味わうこと

地域課題解決(地域素材・探究能力):これまで総合で取り組まれてきたこと
と個別最適化(問いに当事者性):マイプロジェクトなど
の真ん中にふるさと教育(探究)をつくっていくこと。

マイプロジェクト:その子にとって、とことん自分ごとを追求した。

飛騨市学園構想⇒大人の探究活動
検討委員会:対話が乏しい。
事務局が原案をつくり、委員の質問に対して事務局が答える。
行政の会議こそ探究的にしていくべきではないか?

授業も同じ。
教える流れのデザインをして、生徒がお客さんであっていいのか?
対話性・創造性が失われている。
探究:問いを引き出すことが重要。問いづくりから出発する。
唯一解はなく、納得解を追う:当事者性や創造性が向上する。

探究的な行政プロセス
委員から問いが生まれるように工夫する。
ファシリテーターとしての事務局

主体的になる←自分ごとになる←対話によって←問いによって←題材によって
休校前⇒休校後
※対話する必要がある。
育ちの文脈の共有・関係性づくりが重要

~~~ここまで動画メモ

そのあと、先生方を交え、ディスカッションしました。(メモは夜の部を含む)

・ゴール到達点を共有することが大切なのではないか。
・「自分を知る」のと「地域を知る」ということは同時に起こるのではないか?
・筑波大学付属坂戸高校は、体験⇒対話の流れができていた。
・畑作業はしんどいという身体性を共有していることも。
・ゴールを設定するとゴールに向かって最適化するのでは?
・「他者」として目の前の相手を認識できるか
・「信用社会」から「信頼社会」へ
・体験で終わらずにそれをふりかえり、言語化すること。
・頭で振り返るまでに「印象に残ったこと」など、心の振り返りをする。
・ボート部:まちの人との対話の機会がある
・雑談・身体性感覚、共通テーマが重要
・答えを教えてしまうのではなく、もやもや感を助ける
・違う年齢層の人と話す(他者と話す)
・多様な人と関わる:ロールモデルを通して自分を知る
・「自分」っていうのは「哲学(美学)」と「承認欲求」
・「対話」(ふりかえりを含め)によって言語化がおこって自分を知り、自分を承認できるようになる。
・大人自身が変わり続けないといけない。
・「対話」をすることの重要性:相手の話を聞く、感じたことを言葉で表現する。
・「学びの土壌づくりをやらなければならない。
・「問い」を深めるために、問いかける人が必要。

探究

承認

フラットな「対話」←「問い」

たぶんそんな感じ。

・先生という言葉は死語。どの方向に進むかわからないのだから。
・「探究的に学ぶ」とは「対話的」「機会的」「実験的」に学ぶということ。

そんな感じ。
これからやっていくこととしては、「対話」の時間のデザイン。
題材としての大人と問いかける大人の確保・授業参画。
その大人が、自分自身も探究していること。
問いかける人は、ある意味、アーティストである。
教育はアートに近づいていく。そんな風に思った。

夜の部で出たアイデアは、
地域人にインタビューして、編集してアウトプットするような機会がつくれないか?ということと
zoomなどのツールを使ったコミュニケーションの場がもっとつくれないか?

中高生が地域の人的資源(大人というか、対話ベースで取材)を編集して発信する「奥阿賀編集室」(仮)と
そこに至るきっかけにもなる、あがまち未来フォーラム・オンライン(仮)を立ち上げてもいいのかなあと思ってます。

「主体的に学ぶ」には、「自分ごとになる」ことが大切で
「自分ごとになる」ためには、「対話」による相互理解、相互承認が必要で、
「対話」を生むには問い、その前にある題材が必要で。

っていうことになっていて、
「対話」を真ん中に、パートナーズの大人たちも参画したような
デザインが可能になっていくのではないだろうか。

最後に、次回のお題動画になるかもしれないけど、

苫野一徳×税所篤快ZOOMトークイベント――ぼくたちは、「未来の学校」をどうつくっていくのか?
https://www.youtube.com/watch?v=0JiYqY-O-rM&t=447s

これを見ていて、気が付いたことを含めて、まとめてみる。

~~~ここから動画メモ

「探究的」に学ぶとは、
「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

子どもに主体性がなく、チャレンジしない、覇気がない、っていっているとしたら、
先生自身が主体性がなく、チャレンジせず、覇気がにじみ出てないのではないか。

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。
「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。
教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。
「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?
学校じゃなければ、できないことは何か?
学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。
だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。
現在の教育は150年前の仮説にすぎない。
それ以前から学びはすでに存在していた。

時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。
それが現在のシステム。

~~~ここまで動画メモ

「探究」がどのように起こるのか?
そもそも探究とはなにか?
っていうのに対しての爽快とも言えるくらいのはっきりした考え。

一番印象に残ったのは
「探究」って遊びでしょ?って。

そうそう。
「遊び」つまり、エンターテイメントの本質は「予測不可能性」なのだよね。
「ゴールに向かって、近づいている」とか「ゴールを達成した」っていうのは、実は楽しくない。

そう考えると、答えがないような探究テーマを、自分で設定し、
そこに向かっていく(実際はどこに向かっているのかわからない)のは
とても楽しい「遊び」なのだろうなと思った。

そんな探究を、このまちと、まちに住む大人を題材につくっていくこと、
オンラインでたくさんの場や大人とつないで、機会と対話を生んでいくこと。
それらによって刺激された好奇心と探究心でガンガン実験してみること。

そんな探究を学校も、地域も、先生も、生徒自身も、ともに学びながらつくりあげていけたら、楽しいなあと思う。

君も、この列車にのらないか?

  

Posted by ニシダタクジ at 09:11Comments(0)学び日記

2020年05月21日

「対話」と「承認」



阿賀黎明探究パートナーズ・オンライン勉強会の第2回目。
大正大学・浦崎先生の動画を見ながら、先生方とパートナーズの皆さんが対話をする。

今回の動画は【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編①
https://www.youtube.com/watch?v=VOzliqJIVS0
でした。

エキサイティングだったのは、やっぱり山形県立小国高校の事例でした。
小規模校サミットへ向けての話、感動的でした。

~~~ここから動画メモ

society5.0時代に大切なこと
・感じること
・問いを立てること
・意味を味わうこと

感性とは個性
探究テーマには高い個別性がある。

問いを立てるには現場(地域)で感じることが大事

3.0時代の依存・受け身・暗記から
4.0時代の自立・能動・アクティブラーニングへ

全員一斉⇒公正に個別最適化された学び

規格品を大量生産するのではなく、尖った人材をどう作るのか?
興味関心を尊重して個別に最適化する。
それには学校だけでは完結できない。

コンソーシアム
各生徒の興味関心と地域の課題を効果的にマッチングする組織

「学びの自走性」
エンジン→ギア→駆動輪
4サイクルエンジン

学力低下:パワーダウン
⇒「学力向上」頑張って押した:N(ニュートラル)にいれたほうが楽だ。
⇒素直で従順な子が育った。

いま「探究だ」と。
エネルギー源そのものを考えないといけない。
勉強した後に高収入が待っている⇒誰も勉強しない。
知的欲求(知りたい、学びたい、実現したい)をエネルギー源にしないといけない。

事例:山形県立小国高校

R1.7.31「小規模校サミット」
参加校依頼に直筆の手紙を書いた。
国語の先生は学習の絶好の機会ととらえ、国語力がめちゃめちゃついた。

「グループワークを成功させたい」という思いで、練習した
⇒思考力・表現力・判断力がついて面接で役立った。

生徒がもつ興味関心を軸に各教科とのつながり、カリキュラムマネジメントを考える。
カリキュラムマネジメントは個別性が強い。
学校都合ではなく生徒の思いでつくっていったこと。
先生は伴走するだけでいい。

~~~ここまで動画メモ

約1時間の動画のあと休憩。
休憩後に2グループに分けて先生方とのディスカッション

・興味関心が自分でわかっている生徒とわかっていない生徒がいて、わかっていない生徒にどう進路(キャリア)を考えてもらうか?
・個々人が何を目指すか?に最適化するのがいいのだが、その前に学校として何を目指すか?という方法もある。
・町の歴史や自然、福祉やまちづくりに関することなどを学んでいくことも大切
・「発酵」のような横断したテーマでつくれないか?
・地域学などで生徒は、「やってみたらよかった」という。
・分水高校の事例のように短期スパンでの「インプット⇒アウトプット」みたいなことがやれないか?

夜の部でも、
・興味関心や進路希望に応じて人をマッチングする⇒ランダムにインタビューしてアウトプットする。
・感じたことをアウトプットする練習が必要
・「対話」による「承認」
・「自分をみつける」⇔「地域を知る」を交互に起こる⇒結果、やりたいこと方向性が決まる。
・「自分を知る」とは「自分の感情を知る」⇒他者を知るとは、他者の感情を知ること⇒だから対話


「言葉にできる」は武器になる。

いま、この本を読んでいるのだけど、
言葉にできる、っていつでも大事だなと。

浦崎先生の言っていた
「感じること」と「問いを立てること」
のあいだに、深い谷があるのだと。
そこに橋をかけてやるところから始まるのではないか。

その前に、「感じたことを言葉にする」という段階がある。
それってきっと練習なので、何度も繰り返してやるっていうこと。

そして、その練習をするためには「題材」としての何かと、
「安心空間」を作らなきゃいけなくて、ってことなのではないかと。
その場を作ったうえで「対話」的に聞き出していくっていうことを
ていねいにやっていくことなのかなと。

先生方の話を聞いていて思ったことは、
「地域」や「地域の人」とどのように連携していくか?
って考えたときに、

つい、本人の興味関心または進路に向けて
「最適化」するような大人をマッチングしようとしてしまう。

言い替えれば、
ゴールを設定し、そのゴールに向かって向かっている状態を良いものとしている、
目標達成のパラダイムなのではないか。

society5.0が問いかけるのは、
目標達成というパラダイムそのものなのではないか?

これからの社会に向けて、
磨いていくべきは、目標達成の能力だけではなく、
(もちろんそれが大切ではないとは言わないが)

学び続けること、そしてそのために対話し続けることなのではないか?

自分と対話し、他者と対話し、社会と対話する。
その社会との対話方法の1つとして仕事、キャリアがあるのではないか。

「対話」によって、目の前の人は「他者」になる。
いや、自分さえも他者になる。
「ふりかえり」とは、自分を他者化する行為であるとも言える。

「対話」の習慣は、人を「承認」する。

今回の小国高校の事例。
保健室登校が二けたに達するほどいたのがゼロになった。
多くが「自分に自信がない」などのメンタルの不調だったという。

それを浦崎先生は
「生徒たちが一丸となってサミットを成功させようとして、実際に成功させた」
ことによる自信の回復だと説明したが、

(ここからは実際に保健室の先生や生徒たち自身に聞いてみたいところだが)

小国高校は1年生の入学時から、
東北芸術工科大学コミュニティデザイン学科と連携して、
ワークショップ・ファシリテーションなどの基本を学ぶ機会がある。
たとえば、コミュニケーション手法としての「Yes,and」とかの練習する、など。

そのような「対話」のスキルを磨いているのだ。
そこに「小規模校サミット」という題材がやってきて、それが見事にはまり、
各教科への学びにまでつながっていった。

しかし、ベースには「対話」の習慣とスキルの上達があるのではないか。

72人の小規模校とはいえ、全員が心から同意して熱意をもってイベントに取り組むとは思えない。
仮にそれがあるとしたら、逆に昭和の一斉教育のようだと思う。

そうではなく、小国高校には「対話」があった。
つまり、イベントに乗り気じゃない人の話を「他者」として受け止め、理解しようとした。
結果、イベントはうまくいった。
それは、見た目上、「一丸となった」ように見えるのだろう。

さらに、保健室の話もそうだ。
保健室に来る子がいなくなったのは、自信がついた、のではなく、
「対話」による「承認」があった、からではないか。

っていう、仮説です。

昨年から「機会」「対話」「実験」と言ってきたけど、

まずは「機会」と「対話」を繰り返すこと。
そして「対話」はスキルでもあるので、練習すること。
練習のために、感じたことを言葉にしてみること。
インプットとアウトプットを繰り返すこと。
それを踏まえて、実験段階にいけるのかもしれない。
「オンライン・トークフォークダンス」とか、いいかもね。

「地域を知る」っていうのと
「自分を知る」っていうのは並行して起こる、ということ。
「自分を知る」上で自分の感情を知ること、つまり言葉にすること。
「他者を知る」ために、他者の感情、言葉に耳を傾けること。

そんな設計が必要な気がしています。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)学び日記

2020年05月15日

やりたいことは何か?と7つの問い

初開催した黎明学舎「テラコヤ・オンライン」
タイトルは「やりたいことの見つけ方」
東北芸術工科大学の本間真生さん。

高校時代、バレー部を途中でやめて、
一気にまちづくり、地域づくりにシフトし、
大学に入ってからも出会いと直感と行動力で
クランボルツ博士のプランドハプンスタンス(計画された偶発性)理論を
地で行くようなお話でした。

いちばん学びがあったのは、大学選びの話。
「まちづくり」や「地域」という分野に関心があり、
進路選択をするときに、つい、キーワードで選んでしまいがち。

そうすると、「地域」とか「コミュニティ」とかっていう学部・学科を目指すことになる。

たとえば国立大学の「地域〇〇学部」とか
経営学部の「地域〇〇学科」とか
本間さんがいる芸工大のように芸術・デザイン寄りの
「コミュニティデザイン学科」とか。

それって実は、アプローチの方法が違うんだよね、って。

某国立大学の地域〇〇学部の学生が言ってましたが、
フィールドワークが多すぎて、それに伴うレポート提出が山のようにあり、
みなレポート職人のように定型文になっていっていると。

いやあ、それでいいのか?って。
他者からの評価を前提にした教育カリキュラムは
ある程度仕方ないのだと思うのだけど、
そうやって出会った地域のどこかを、
卒論などで深めていけばいいのかもしれないけど。

そういう意味では本間さんの学科では、
夏に1か月、どこの地域でも行ってきて、
っていう「インターン」を実施していて、
その場所を決定し、何をやるか?に関しても
学生自身の感性と行動力に委ねられている。

高校生の時に、キーワードでフワッと進路を決めてしまうのではなくて、
そこまで大学の様子を調べて、AOや推薦の志望理由書がかけるくらいに
なっておくのってとても大切だなあと。
大学時代という膨大な時間(とお金)の投資を
納得できるものにするには、いっぱい調べないといけないなあと。

とりあえず、キーワードと偏差値(やブランド大学名)でこんくらいかな、みたいな進路選択してたらアウトだなと。
そんな大きな学びがありました。

あとは、今日のタイトルが
「やりたいことの見つけ方」だったのだけど、
やっぱり、「やりたいことは何か?」っていう問いでいいのか?
って思いました。

ブレークアウトルームでも話していましたが、
あらためて「地域」とか「コミュニティ」とかについて考えときに、
僕としては切り口を「アイデンティティ」に置きたいなと。

僕の本丸は、やっぱり「アイデンティティ・クライシス(自分らしさ危機)」だと感じました。
そしてそこから全部つながっているなあと。

これ、そろそろ整理する時を迎えているので、
ノートにキーワードを書き出してみました。

~~~ここからメモ

アイデンティティとコミュニティ
個人戦と団体戦
東洋と西洋
デカルトとスピノザ
評価と承認
共感と違和感
自我と共同体
個性の構成員になる
他者と出会う
キャリアデザインとキャリアドリフト
贈与者になる。
手段として学ぶと機会として学ぶ

~~~ここまでメモ

これで読書マップとかつくってみようかな。

ということで、寝るまでこの問いがぐるぐるしていて、夜中に出てきた言葉。

やりたいことは何か問題の深刻さはそれがアイデンティティに直結しているから。
いまはそれが負の連鎖をしている。

やりたいことは何か?という問いだけに集中してしまうのは平成で終わりにしよう。
誰と、いつ、どこで。
なぜ、誰のために。
何を、どのように。
その全ての問いが大切。

誰と、いつ、どこで学ぶか、学びたいか?
なぜ、誰のために学びたいのか?

その前提の上で、何をどのように学ぶか?
を考えることなのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:13Comments(0)学び

2020年05月14日

杉林を育てるのではなく、雑木林を見守る。

5月13日付新潟日報の
県央・下越版に「オンライン黎明学舎」の様子が掲載されました。


そして昨日午後は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会で
先生方とパートナーズの皆さんがオンライン上ですが、顔合わせました。

「話をする時間がもっと欲しい」との声が多数あり、
来週からは事前に資料を見てもらう「反転授業」パターンを検討します。


そして今朝、月刊先端教育のオンライン教育特集を読みました。

日本教育工学会が3月31日に発表した
「学校と家庭をつなぐオンライン学習実践ガイド」。
https://www.jset.gr.jp/sig/pre_online_learning_guide_sig04.pdf

まず同期型(リアルタイムでつなぐ)と
非同期型(時間を合わせずに学校と家庭のあいだでやりとりする)
の2つに分けた上で、オンライン教育の4つの方法を示す。

1 リアルタイム授業配信
会議ツール等を使ったネットでの授業実施

2 録画授業動画の配信
授業の講義場面を録画したビデオを、学習者が各自で視聴して学習する

3 ドリル形式アプリ
学習に使えるドリル形式のアプリを活用したオンライン学習

4 オンラインでの共同制作
学習者たちが一緒に何かをつくる共同制作をオンラインで実施する

なるほど。
ほかにも、たくさんの実践例などからのメモを以下に。

~~~ここからメモ

オンライン教育の最大の魅力は、自分に合った「師匠」と出会うチャンスが世界に広がることです。

同じ形ではなく、同じ価値を追求すること。



オンラインは自律性を身に付けるチャンス

壇上の賢者から寄り添う案内人へ

最大の課題はモチベーション維持。

録画版に向いているのは、英文法などのインプットが多い知識伝達型の授業です。

質問がリアルタイムでできる双方向型でなければできない授業は何か?という問い。

「ちゃんとやる」っていうことに対するハードルが下がっている。
大学であれば、聞いているほうがフォローすることもできる。

ICTが持つ3つの機能
1 個別で学ぶこと(Adaptive)
2 気付きの機会があること(assistive)
3 協働すること(Active)

多くの人は、「学習指導要領が変われば、教育が変わる」と思っていますが、それは大きな間違いです。現場の授業を実施質的に規定しているのは学習指導要領ではなく、アナログ環境下で構築された各教科の教科教育の指導法なのです。

子どもたちは毎日、ランドセルを背負って、「過去」にタイムスリップしているようなものです。

料理をしてみるという最小単位のPBL。確かに、料理って小さな、でも壮大な、自由度の高い、プロジェクトだなあ。

~~~ここまでメモ

思ったことは、

「何を学ぶか?」から「どのように学ぶか?」
そして「誰と、いつ、どこで学ぶか?」が大切になってくるということ。
そして、その前に「なぜ学ぶか?」と「誰のために学ぶか?」を考えるとき。

場のチカラとか、プロジェクトとかの話だなあと。
プロジェクトベースドラーニングってそういうことかもしれない。
さらに、特別企画「GIGAスクール構想の実現と教育改革」のページでの一言

「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

いやあ、これですね。これからの森づくり。
「学びの土壌」の上にある、「学びの生態系」って
そういうところにあるのかもしれませんね。

かつて、杉林を育てる理由があった。
しかし、社会や時代のほうが変わってしまい、
杉をつくっても売れなくなってしまった。

いまや、森の中で自分の木を育て、それを自分自身で売り込まないといけない。
そしてそれは、木単体で売るのではなくて、ほかの木や生き物との組み合わせで売る、
あるいは、森を観光資源にした観光ビジネスや生き物を教育コンテンツにした教育ビジネスを売っていかないといけないのだ。

学びの雑木林づくり。
先生はその見守り人(ファシリテーター)に。
地域の人は、雑木の中の1つや動物に、
あるいは太陽や風という役割を担っていくことかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:23Comments(0)学び

2020年05月08日

教育の場を人間的にすること

5月5日にやっていた
Learn by Creation オンライン vol2: コロナ後の社会と教育の可能性 苫野一徳 (教育哲学者)X 尾原 和啓(フューチャリスト)
https://www.youtube.com/watch?v=SYiPFajMmrA&t=2658s
を録画で見ました。

そして、その流れで(尾原さんが講演の中で紹介していたので)
TED2011「サルマン・カーン:ビデオによる教育の再発明」
https://www.ted.com/talks/sal_khan_let_s_use_video_to_reinvent_education?language=ja

日本語訳はこちら
http://www.aoky.net/articles/salman_khan/let_s_use_video_to_reinvent_education.htm
を見ました。

10年の時を経て、いまようやく、目の前にきているんだなと。

~~~以下メモ

学びのマインドセット:信頼して任せて待って支える→共同探究者、探究支援者になる。
コロナ休校→先生がコントローラーを常に持っていることができなくなった。

コンフォートゾーンの外に出て「好奇心」に喉を乾かすこと。
大事なものができたら、それが壊れないように社会課題を解決する。

自由のトレードオフに気づく→自由の相互承認へ
今こそ夢中になれること、好奇心をかきたてられることを。

大きくなるとどうして好奇心がなくなるのか?→他人(大人)の時間を生きるから
自分の時間を生きること。自分でルールを決めること。
自由を自分で行使すること。自立から自律へ。

自律⇔他律
効率的にするには他律で統一すること。
コロナ休校:自律を試される1か月。
マイルールを一緒に寄り添いながらつくること。

モンテッソーリ:先生の役割は環境を整えること。
現状であれば、ネット上の良質コンテンツを探し、紹介すること。
データを可視化することによって、自分でふりかえることができる。

個別化+協同化するには?
学びは個別化するが、場面によって力を借りたり貸したりできる。

「教育の機会均等」をベルトコンベア式で実現しようとしたのは当時(産業革命当時)としては革命。
今はそれが成り立っていない。一斉授業では同じところに到達しない。
個別化したほうが機会均等になる。格差は縮小する。
ゴールに至る道は違ってもいい。

カーンアカデミーはボランティアがメンターをできる。
すぐに協同化できる。

ギブすることの喜びを知る。
ありがとう(あることが難しい)を実感する。
自分は何をギブできるだろうか?
自分のあたりまえが遠くにいるひとにとっては「有り難い」ことだったりする。

「自由の相互承認」を失われない。
十分な自由と人権が保障されていれば責任ある行動がとれる。
自由を奪われるからどうやったら勝ち逃げできるか?になってしまう。

探究をドライブするには?
長期:徹底的に遊びぬく。
中期:いろんなテーマに浸る時間がある。
短期:本物との出会いをつくる(憧れを駆動する)

~~~以上メモ

そして、TEDにシビれる一節が。

「教育の場を人間的にする」

私たちが目指しているのは、世界的なスケールで教育の場を人間的にすることです。これは興味深い視点をもたらします。教室をより人間的なものにする努力はもっぱら「生徒あたりの先生の数」に向けられています。私たちから見ると、重要な指標は「生徒あたりの、貴重で人間的な先生の時間」であるべきなのです。従来のやり方では、先生の時間のほとんどは、講義したり成績をつけたりすることに費やされます。生徒の横について一緒に取り組む時間は、せいぜい5%といったものでしょう。今や100%の時間をそこに充てられます。テクノロジーを使うことで、教室をひっくり返すだけでなく、教室を人間的にすることができるのです。それも5倍、10倍という割合でです。

テクノロジーが何のためにあるのか?
それは非人間的になるためではなく、
より人間的になるためなのではないか。

まさにこんな原点を思い出させてくれました。

さて、具体的方法を一緒に考えましょうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)学び日記

2020年05月03日

「手紙」を受け取るために学ぶ


「世界は贈与でできている」(近内悠太 ニュースピックスパブリッシング)

衝撃でした。
「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)以来の衝撃。

「贈与」は受けとることなく開始することができない。
贈与された、という気づきからしか始まらない。

モチベーションの源泉。
それは「贈与」そのものなのだろう。
言い換えれば、その人が「贈与を受けた」という勘違いすること。

大学生のアイデンティティ・クライシス問題に切り込む1冊。

アイデンティティは、どのような未来を目指すか?ではなく、過去にどのような贈与を受け取っているか?という問いから始まる。
「自己分析」でやるべきはきっとそっちだ。

何をやりたいか?ではなく、
これまでどんな贈与をもらったのだろうか?
誰にそれをパスしたいのか?

僕はそれを「お客は誰か?」という問いで表現してきたけど、お客の設定としてもっともパワフルなのは「過去の自分」で、そのためなら無限にエネルギーを得られるのだけど、それって過去の自分にとって「つらかったこと」も本質的には「贈与を受けている」からなのかもしれない。

交換の論理と贈与の論理。
消費者マインドと贈与者マインド。
道徳って本来きっとそういうことだ。

「地域愛をもった高校生を育む」のではなく、
「ペイフォワードしたくなるくらい贈与を受け取った」と認識できているかどうか?
イナカレッジの大学はまず最初に、いや1か月のあいだずっと、贈与を受け取りつづける。
結果、何度も帰ってくる。

~~~本文から

そもそも、僕らがつながりを必要とするのは、まさに交換することができなくなったときなのではないでしょうか。(中略)交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。

贈与は届かないかもしれない。
贈与は本質的に偶然で、不合理なものだ。
そう思えることが差出人に必要な資質なのです。

~~~

交換の論理しかない社会が果たして「社会」と呼べるのか?

天職(calling)への道は、誰かの声を聴くこと。耳を澄ませること。

人はみな「言語ゲーム」という「世界」を生きている。
他者を理解するとは、その「言語ゲーム」を理解する、ということか。
そしてその言語ゲームを開いていく、というのが「コミュニケーション」なのか。

人は「正統的周辺参加」によって、ルールや言語を習得しているのか。
ルールが先にあるのではなく、ゲームが先にあるのだ。「実存は本質に先立つ」っていうのもね。
とすれば、「地域の活動への参加・参画」っていうのは、文科省が言っているから、ではなく根源的に必要なのかもしれない。

「疑い」ではなく、「自身の言語ゲームに対する問い」か。
「この言語ゲームで本当に良いのか?」という問いね。
「常識を疑え」って言われるよりもよっぽど刺さりますね。

この本の言う「言語ゲーム」っていう概念を実感することで何かが変わるなあと。

僕は、この本を読んでいて、なんのために学ぶのか?についてのひとつの仮説を得た。

なぜ、学ぶのか?
なぜ、知性が必要なのか?
それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。
たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。

「贈与を受けてしまった」という自覚からしか
贈与が始まらない。

生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。

これはもう一度読み直さないといけないな。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)学び

2020年04月29日

共同体としての学びをつくる


「共感資本社会を生きる」(新井和宏・高橋博之 ダイヤモンド社)

流れがよい。

「共同体の基礎理論」
→「しょぼい生活革命」
→「共感資本社会を生きる」
この順番に読んで未来を展望したい。

鎌倉投信と東北食べる通信の
お二人の次なるステップのその先に見ているもの。

どきどきしながら読み終わりました。

~~~ここから引用とメモ

都会の人って、僕を含めて消費者でしかなくて、みんな割と「点」で生きている。自分の得になることしか考えていない。でも生産者ってすごいんです。亡くなったじいちゃん、ばあちゃんの話はするし、先祖の話、未来の孫子の話、そして動植物、森、海、山、川などの自然の話も。だから「面」なんですよ、あの人たち。あの人たちは面における自分っていうのをすごく意識していて、そこが個でしか生きられない都会の人と全然違うなと思っています。

「まきどき村」の「営み」っていうのもきっとそうだなと。地域には、「面」っていうのと、時間的な流れである「タテ軸」が流れている、つまり自らが3次元的な空間の中にある1つの点であることが感じられるのではないかな。

生きてる実感から遠ざかるっていうことが起こるのは、もはやいまを犠牲にする正当な理由がないにもかかわらず、なにかの目的や意味のために、いまを使えって言われているからです。

それって「学び」も同じだよな、と。
「志望校合格」や「将来のなりたい職業に就く」という目的のために今がまんして学べっていうのは、もう無理なんだよね。
そもそもその先の未来みたいなやつは失われちゃっているのだから。

なぜ「予定調和」、つまり「こうすればああなる」っていう考え方の中にいると安心で、自分のいまを犠牲にすることをいとわなくなるのか。この問いに、都会的な問題の本質があると思うんです。いわば人工物というのは人間がコントロールするために設計しているもの。

人間がコントロールできないものがあれば効率も落ちてよくないというので、徹底的に自然を排除してつくられているのが都会。その中で生きていれば、すごく予定調和な思考、「こうすればああなる」という考え方に染まってしまうのは当然です。

対して地方はどうか。都市に比べて、はるかに自然の残る田舎に帰ると、コントロールできないことが一気に増える。自然っていうのはやっぱり思い通りにはならないし、都会より地方のほうが予期せぬことは起きやすい。

「こうすればああなる」っていうことじゃなくて、生き物として、言葉の世界にない感覚的なもので、突如異質なものに遭遇したときにどう対応するかっていうときに必要になるのは、もはや意識的な思考じゃないと思うんですよ。

不確実なものはないほうがいいって、どんどん自然なものから自然でないものに切り替えていくことによって、効率を上げて、不確実性というものを排除する。

「複雑系」を生きていかなきゃいけない時代に、都市の図書館やスタバで大学受験勉強だけをする3年間という投資にどれほど価値があるのか?
「身体性」とか「感性」を磨かないとヤバいんじゃないの、って思う。

「間」っていう概念も大事ですよね。どっちかを取るってことではない。西洋って「間」がないので、あなたか私か、自然か人間か、みたいなどっちかを取るってなりがちです。だけど日本の面白いところは、間があるんですね。どっちかを取るということをしない。

間にフォーカスすれば、基本的に対立構造っていうのは生まれないんですよ。なぜかと言ったら、そこの間に存在しているのはあなたでもなく自分でもないものだから。でも、自分とあなたってなった瞬間に、壁をつくり対立が生まれるんですよ。

これからは共同体感覚の時代なので、お互いが交わる場所があって、お互いが当事者になれる場所が必要になる。その場所が、僕は「間」だと思っていて、あなたもこの間の当事者だし、自分も当事者であるっていう、お互いが当事者になったときには争いなんて起こらないんです。

この間にフォーカスするっていうことがすごく重要で、これが関係性の再構築なのかなと思っています。

「間」にできあがるものってお互いでつくるものだから、自分自身じゃない部分がある。そうしたときに自分という器の中ではできないことが、この「間」ではできるし、存在しうるわけですよ。

「間」を育むための必要な時間とか環境とかって、僕は地域にすごく存在していると見ている。

働きかけ、働きかけられる、動き、動かされるっていう、この相互作用の複雑系がまるっと「生きる」っていうことだとしたら、地域にはこれを感じやすい環境がありますよね。

人と人との関係性だけじゃなくて、人と自然との関係性もそこには存在していて、その「間」には対話があるじゃないですか。

~~~ここまで引用とメモ

キーワードでまくり。
そして、アイデンティティ問題への視点もありましたね。
「点」で生きてるのがつらいのではないか、ってね。

田舎に行くと、「面」で生きている人がたくさんいて、
もっと大きな時間軸での3次元空間の構成員としてそこに存在できることが
ある意味、幸せだったりする。

一方で、田舎にある関係性っていうのは
いわゆる「しがらみ」的なものでもあって、
そのあたりをどのようにデザインしていくのか?ってことなのだと思う。

昨日、いい問いをもらって、
「これからコーディネーターの役割は変わっていくのではないか?」

っていうのについて考えていたら、まさにここ1週間で読んできた3冊の本に
方向性へのヒントがあるなあと。

うまく説明するのが難しいのだけど、
「学びの共同体」と「共同体としての学び」をつくる。
っていうことなのかもしれない。

ここでいう「共同体」は、
内山さんの「共同体の基礎理論」で書いてあったような、
ヨーロッパ由来の人と人の共同体の意味ではなく、明治以前の日本的な共同体を意味する。
人と自然、人と宗教、都市と農村。それぞれが学びあうこと。感じあうこと。

3次元の、あるいは「シン・ニホン」的に言えば、複素数平面的な学びをつくっていくためには「身体性」は必須で。
さらに、コーディネーターがコーディネートするものは学校とまち、や、生徒と地域の人、とかではなくて、
自然や歴史や宗教や風土や、そういうあらゆる資源や課題なのだろうと思った。

そうやって、「学びの共同体」をつくること。
それにともなって「共同体としての学び」をつくっていくこと。

上に引用した「共感資本社会を生きる」にも書いてあったけど、

(目的に対する)「手段としての学び」は、ひたすら効率化されてしまう。
だから、探究学習に代表されるように「機会としての学び」にシフトしていくこと。
それこそが予測不可能性を高め、学びを面白くするって思う。

その「機会としての学び」を
地域全体から見れば、自然、歴史、宗教を含めた
「共同体としての学び」になっていくのではないか。

まだ、仮説の段階なのだけど、うっすら見えてきた気がします。
いい問いをありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:47Comments(0)学び