プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月23日

「ローカル・モモ」が必要なんだ

探究学習コミュニティの5回目。
ゲストは津和野高校コーディネーターの山本竜也さん。

~~~以下メモ

・まず第一に、生徒たちにとって「の」魅力がある。
・生徒たちの保護者、教職員、生徒や学校を支える地域社会の人々にとって「も」魅力がある。
・地域社会の未来を切り拓く資質・能力の育成&魅力あるまちづくり

【核3つ】
1 T-PLAN(授業内)
・ブリコラージュゼミ
・トークフォークダンス
・選択プロジェクト

2地域と連携したプロジェクト(授業外)
・授業外でのマイプロジェクト支援
・地域系部活動「グローカル・ラボ」

3進路サポート
・町営英語塾「HANKOH」
・総合型選抜、学校推薦型選抜サポート

【総合的な探究の時間】
ブリコラージュゼミ(1年次に4回行う)
・1年次に年間4回行う
・毎回6~8講座から選択(★趣味的なもの)
・地域の方に講師になってもらう
★地域の大人を面白いと思わせることができるか?

トークフォークダンス
・1年次に1回行う
・地域の方々を生徒と同数集める。
★ふりかえりシートを自分で設計する。

選択プロジェクト
・2年次に半年かけて実施
・自ら選んだテーマに関し、個別ORグループでプロジェクトを行う。

2014年当時はそうじゃなかった。
敷居が高い、無駄遣い、もっと部活頑張ろう、みたいな

ヤマタツさんの地域とのコミュニケーション(関係性づくり)
・地域おこし協力隊と話す、プロジェクトやる、呑む
・地域の関係者(飲食店、経営者、自治会等)をあいさつ回り、のみまくり&お祭り参加
・行政の高校支援係につなぎを頼んで話題提供きてもらう
・フェイスブックでこまめに連絡をとる
・公民館長、社会教育主事と仲良くなる
★ヤマタツ個人として依頼すること

結果、学びの土壌の数値がダントツ。
・興味を持ったことに対してすぐに橋渡しをしてくれる大人がいる
・挑戦する人に対して、応援することができている
・自分と異なる立場や役割を持つ人と交流している
・生徒の関心に合わせて機会を提供できている

まちづくり⇒ひとづくり

2015年度:非進学クラスから立命館大学文学部AO入試合格
強み(日本史・小論文)をHAN-KOHの授業で発見
志望校を一緒に探し、進路指導部に提案
★強みを生かした大学選択

2016年度:20コマを1学期に一気にやる(6クラス同時)
⇒教職員との関係性づくり

2016年度:慶応SFCAO入試合格
強み:地域愛、イベント実施、大学での活動が見えている
進路指導部などとの協働での面接指導等

2016年度:教育課程外の拠点ができた:グローカル・ラボ
1,2年生合わせて20名程度が部員として参加
1年生は体験を重視し、農園づくり、地域イベント等へ積極的に参加
2年生は自分の関心や問題意識に合わせてマイプロジェクトに取り組む

2020年3月卒ストーリー
1年冬~2年春:短編映画づくりワークショップからPVづくりへ
2年冬:プロジェクト2周目(インバウンド/SDGs)
2年冬~3年春:マイプロジェクト全力疾走(和菓子屋で英語メニュー/絵本製作)
3年夏~3年冬:進路実現へ全力疾走(立命館大学食マネジメント/立教大学コミュニティ福祉学部)
⇒大学進学してからも津和野に帰ってくる。

2年の総合的探究
依頼型プロジェクト R1:14種類49名⇒R2:8種類27名
・津和野野菜PR/芸術士ワークショップ/木部ふれあい食堂
自発型プロジェクト R1:1種類2名⇒R2:21種類30名
・空き家活用/マネージャーサミット/つわのアットホームプロジェクト
サポーター数 R1:9名⇒R2:18名「個別最適化」へ。

教員組織の強み
・生徒の声をしっかり聴く⇒つなぐ
・成長ストーリーの共有ができている(あの子みたいに・・・)
・探究やマイプロジェクト、新しい企画に関しては、柔軟な対応を臨機応変さ

津和野コンソーシアム(2つ以上が組織や人の共同事業体)へ。
・コーディネーター頼み、コーディネーター人材確保、魅力化の広がりの弱さを解決
⇒コーディネーターの地位向上と事業の見える化
⇒教育魅力化から町の魅力化へ。

コーディネーターとして大切にしていること
「架橋」:地域とつなぐ、社会(大学、民間、企業等)とつなぐ、知識とつなぐ、未来とつなぐ
「越境」:立場や分掌を越える、常に業務範囲を更新する、グレーゾーンに飛び込む
「公共」:「持続可能性」にコミット、開かれた取り組み、学びを共有し、発信し続ける

~~~ここまでメモ

質疑応答で印象に残ったのは、「マイプロ」と「進路」の関係。
津和野高校は「マイプロ」を通してうまく越境(架橋?)ができているなあと。

ヤマタツさんも言っていたけど、
「進路実現」のポイントは、
・「話を聞いてくれる」という在り方。
・マイプロの抽象化⇒大学の求める人物像とマッチングする
・徹底した面接、小論文、志望理由書サポート

地域の人の最大の役割は、「話を聞いてくれる大人」になることなのだろうな。
「第三の大人」の役割はそこにある。

そして、またしても「編集」。
マイプロで打った点を抽象化すること。
「それって、食を通じてコミュニケーションを活発にして地域を元気にしたいんじゃないの?」
みたいな。

ああ、「就活」における「編集」と同じだ、と。
あとポイントは「関係性づくり」かな。それも広義の「編集」なのだろうけど。
ヤマタツさんが個人として人と人をつなぎまくった。
だから最初は属人的な「人」の魅力なのだろうなと。

「トークフォークダンス」の振り返りをしたけど、
こちらの課題は「言語化」と「語彙力」、そして「対話力」のところかな。

「場」と「関係性」のデザインでクリアしていくこと。
(KJ法等のワークショップ手法、ブリコラージュゼミのような趣味的なつながり)

あとは教科でも振り返りとか言語化、
とかをやってみるのはアリかもしれない。

「マイプロ」という点を数多く打ち、それを編集することで進路実現になる。
それはまるで、満天の星の中から星座を見つけるようなものだ。
いや、星座として「編集」するだけかもしれない。

この点とこの点をこうつなぐと、「こぐま」みたいに見えませんか?みたいな。
(ちなみにこぐま座の尻尾は北極星なのだそうです)

まあでも、その点を打つ前段階として、
あるいは点を打ちながらも、話を聞いてくれる人が必要なのだろうな。
そしてそれは先生でも親でもない、「第三の大人」
評価者でも当事者でもない大人が必要なんだな。

そんな「ローカル・モモ」を高校生たちはきっと必要としている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)学び日記

2021年01月21日

「やらされ感」の正体


NHK100分で名著「カール・マルクス『資本論』」

第3回目のキーワードは「構想」と「実行」の分離。

ひとつ、謎が解けた。(仮説です)
「やらされ感」という感覚。

これ、「構想」と「実行」の分離のことを言っているのではないか、って。
自分が構想していないことで、かつ構想に同意できていないとき、いわゆる「やらされ感」という違和感を感じるとする。

それは、仕事でもそうかもしれないし、学校の授業でもそうかもしれない。

学校の授業で言えば、
「教科学習」と「探究(的な)学習」があるとする。

よくある話が「探究学習」だと言いながら、
「素材選択→課題設定→解決策の提示」
みたいな枠組みで取り組んでみること。

この場合、「構想」はあるだろうか。
鍵られた授業時間の中で、無理無理課題を設定させられ、解決策を提示させられる。
そもそもこの「課題解決型の学び」とやらにどんな意味があるんだ?
っていう問いに答えられないまま進む探究学習。

一方で教科学習も別に「構想」はしていない。
文部科学省が「構想」した教育課程に従って、
先生が授業を「実行」し、成績がつく。
しかし、こっちのほうが「構想」に対して、
多くの人が同意したであろうことはなんとなく想像がつく。

仕事もおそらくはそうだ。
番組の中でも取り上げられていたが、
いわゆる「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」
に時間を費やしている人がいかに多いか。

その始まりは「構想」と「実行」の分離にあるのではないか。
それは「機械化」「分業化」によって、一気に進んだ。
資本家にとっての価値は「効率化」だったから。

労働者は切り離された。
ふるさとや生産手段からだけでなく、ついに、「仕事」からも。

つまり、たとえば職人がものづくりをするとき、
そこには「構想」と「実行」がセットで「仕事」をなしていたのに、
工場ではそれが「分離」され、労働者にはただ「実行」だけがある。

いわゆる仕事のモチベーションっていうのも、そこにあるのだろう。
「構想」づくりに参画できる働き方。
「構想」づくりに参加できる(意見・考えを述べられる)働き方。
「構想」づくりに参加はしていないが、「構想」に同意している働き方。
「構想」づくりに参加してなく、「構想」にも同意していない働き方。
「構想」がそもそもない、ただ「実行」している働き方。

大きい組織であればあるほど、
「構想」に「参画・参加」するのは難しいことであるだろうけど。
たぶん、これが「やらされ感」の正体だ。

「やらされ感」とは、する・されるの能動・受動のことではなくて、
「構想」していない、「構想」に参加していない、「構想」に同意していない場合の
「実行」のときに感じるもの、なのではないか。

昨日の「にいがたイナカレッジ」の話に戻るけど、
「にいがたイナカレッジ」ではチューニングによる「場のチカラ」を大切にしている。

7 どのように
6 何を
5 誰のために
4 なぜ
3 どこで
2 いつ
1 誰と

がプロジェクトの構成要素だとしたら、下から丁寧に積み上げていくのが「にいがたイナカレッジ」のプログラムだ。

もうひとつは、川喜田二郎さんが問いかける、それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?という問い。
何が違うのか?そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。

参考:「判断の余白をつくる」(19.12.9)
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

彼の言う「ひと仕事」は、
A探検 →B野外観察 →Cデータをして語らしめる→D評価・決断・構想計画→E具体策・手順化→F実施→G吟味検証→H結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。「仕事」にモチベーションが上がらないのは、F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。
あ、それって「学習」も同じだ。学校の授業にはFしかないんだ。授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

「構想」とは、川喜田さんの言うところで、A探検→D評価・決断・構想計画をやること。
にいがたイナカレッジで言えば、1誰と~3どこでをチューニングしながら、地域を観察し、地域の人と対話し、4なぜ~6何を をつくっていくこと。
たぶんそれだ。

「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」(福島正伸・きこ書房)
の「人であふれた駐車場」の話にめっちゃ感動して涙をしたけども、
あれは単に「気持ちの持ちようで、どんな仕事も感動する仕事になる」っていう精神論ではなくて、
「構想」できる部分がある仕事を「構想」しようっていうことなのではないかなと。

「人であふれた駐車場」PVはこちらから(2008年)
http://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho

「やらされ感」の正体は、「構想」を奪われたこと。

だとしたら
「場」を設計する(モチベーションの高い職場・モチベーションの高い(探究の)授業)ことのポイントは、

3「構想」に同意している。
2「構想」に参加している。
1「構想」に参画している。

という階段を登っていくことなのだろうと。
それは個人やチームでのプロジェクトにおいても同じだろう、と。

いや、もしかしたら、「進学」「就活」のその先の人生の「編集」においても、「構想」と「実行」を分離させないこと。あるいはこの視点を持ちながら労働者であること。

マルクスが150年前に、川喜田二郎氏が25年前に語っていたことがいま、目の前にある。
その問いにどう応えていこうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:12Comments(0)学び日記

2021年01月20日

視点を上げると、問いが小さくなる

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」最終回。

いつにも増して、「問い祭り」でした。
次々にチャットに投げ込まれる不完全な問い。
即答できない問い、そもそも答えがないような問いに、
ただただもやもやが募る。

こういうのもいいかもしれない、と思った。
オンラインの「場」の魅力を考えさせられた。

ふりかえりを発表してくれた
くまがいくんとにしやまさん。

くまがいくんのサイクル
体験→余裕→いちいち楽しむ→違和感→体験
これはすごい編集だなと。

豊かさより心地よさも
(頭)→(心)っていうことなのかも。

「豊かさ」は頭で感知し、「心地よさ」は心で感知する。
二元論じゃないので、グラデーションだけども。
有意義-無意義と快-不快っていうのと近いかもね。

その組み合わせに仕事をつくること。
仕事上で「無意識に頑張れちゃうこと」って体が快だと言っているのかもしれないですね。

そしてにしやまさん。
越境をテーマに学び続ける長岡ゼミ生なので、
言葉が鋭いなあと思いました。

いちばん心に残ったのは、「世界が広がっていく感覚」
たしかにこれが学びの意味だし、喜びだよなあと。

これにヒントを得て話したのが
「問いのスケール」の話でした。

「やりたいことは何か?」という問いの中にいると、
やりたいことが見つかっていない状態がすごくつらくて、
「やりたいことを見つけること」が唯一の苦しさの解決策だと思っている。

しかし、その問いの地点から
ドローンで垂直方向に上がっていくと、

「やりたいことは何か?」という問いがみるみると小さくなって、
「やりたいことがわからないはなぜ苦しいのか?」
という問いへとスケールが大きくなる。

これが、にしやまさんの言う、
「世界が広がっていく感覚」と近いのではないか、と思った。
だから僕は本を読むし、本を届けたいのだなあと。

世界を上から見たり、歴史的な時を越えて移動してみたり、
「いま」「ここ」がずっとずっと小さく見えること。

たぶんこれ。

いま、必要とされているし、オンライン化された世の中で、
より可能になっているような気がした。

昨日の僕の話のキーワードは
にいがたイナカレッジを取り囲むキーワード
・「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
・「近代」(工業社会+学校教育)からの呪縛
・アイデンティティと存在の承認
・夢という神話

・「場」のチカラ
・わたしを「ひらく」
・場とともに自分が変容する

・有意義-無意義と快-不快
・オンラインで突破できるもの(哲学対話とインタビュー)
・ベクトル多様性とベクトルの一致
・身体性を伴わないからこそできること。
・思ったことを即座に言える(書ける)。叫べる。
・音声(画面)とチャットの併用による問いのドライブ
・自分を経営する

~~~

こういう感じ。

昨日の「はたらくくらすラボ」で気づいたオンラインの価値は、頭と体の一部しか参加していないからこそ、「不完全な問い」も場にもチャットにも投げ込めること。インタビューや哲学対話的なトークに向いている理由はそういうところにあるのかもしれない。

「場」というのを考える意味では、オンラインイベントは非常に有効なのかもしれないと思った。

最後に「はたらくくらすラボ」なので、就活の話になっていったけど、
ここでもにしやまさんとの対話での発見があった。

僕は「演じる」というのをポジティブな意味で使っているのだけど、
それに対するてらださんの違和感があって、そこからの対話。

就活は「演じる」のではなくて、視点を上げて(メタ化)してみることができるかどうか?
それをストーリー化できるかっていうことなのでは?

ふだんは「越境」をキーワードに、
多分野の活動に、いろいろ視野を拡げておく。
それが視点を上げる際にも役に立つ。

「就活」はそれを組み合わせて
(企業にとっての)有意義性(価値があるか)で編集していくこと。
それを「ポートフォリオ」と呼ぶのかもしれない。

活動のひとつひとつは、つながっているように見えないのだけど、
部分的に取り出し、組み合わせ、並び替えると、
「私はあなたの会社にとって有用であるかもしれませんよ」って
言えるような、就職活動ができるのかもしれない。

まずは、感覚的に、点を打っておく。
打った点を、上から眺めて、編集する。

その先に自分があるし、オンラインでは、「編集された自分」というのを
より意識しやすいのかもしれないと思った。

本屋×オンライン対話っていう次のステージが僕も見えてきました。
本が売れそう。笑  

Posted by ニシダタクジ at 07:39Comments(0)学びイベント日記

2021年01月18日

「承認」不安とアイデンティティ


「ひとはなぜ「認められたい」のか ―承認不安を生きる知恵」 (山竹伸二 ちくま新書)

「認められたい」の正体(講談社現代新書)から10年。
(僕にとっては)待望の新刊です。

ツルハシブックス時代に聞いた大学生の二大悩み
「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
の「自信がない」ほうの原因のひとつが
この「承認」不安なのではないかと思っています。

「承認」不安のメカニズムをどうとらえたらいいのか?
大学生からで間に合うのか?
家庭で「親和的承認」が得られない場合、学校や地域でフォローは可能か?
チューニング(チームビルディング)によって「存在の承認」は可能か?

そんな問い。

2012年夏、大学の課外活動プログラムづくりで、
粟島に行った時の劇的な効果(実感値)を目の当たりにして、
そのカギは、存在の承認(≒親和的承認)にあるのではないかと思った。

http://hero.niiblo.jp/e291471.html

この時のキーワードが
1 親和的承認
2 集団的承認
3 一般的承認
だった。

大学生が抱える「自分に自信がない」の中に、
アイデンティティの不安がある。
「何者かにならなければならない」という脅迫だ。

本書ではアイデンティティと承認不安の関係を次のように説明する

~~~ここから引用

近代以前なら、共通の社会規範・価値観によってアイデンティティも明確でしたが、そうした大きな価値観がなくなると、私たちは根無し草のようになり、自分が何者なのかを自分で探し求めなければなりません。しかも、自由な社会であるはずなのに、「自分らしく生きろ」とか「個性が大事だ」などといわれながら、独自のアイデンティティを見出す必要性に迫られています。

哲学者のチャールズ・テイラーも、近代以前は「アイデンティティが、それとした主題化されるに値するほどの疑わしさを持たなかった」が、近代ではアイデンティティが他者との対話的な関係、承認に依存するようになったのだと述べています。「内面において生み出されるアイデンティティの理念の発展が承認に新たな重要性を付与するのは、このゆえである」というのです。

このように現代は自分の固有性・独自性を他者に認めてもらわなければ、自分のアイデンティティがはっきりしない時代です。そのため、他人の目を気にし、周囲の評価に怯えるばかりで、なかなか自由に行動することができなくなっています。もはや私たちは、社会的な価値観に制約されず、社会の評価、承認をさほど怖れてはいないのですが、身の回りにいる人々に対しては、強い承認不安を抱いているのです。

~~~ここまで引用

サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、まさにそれだなと。
そして彼は「社会参画せよ」とも言った。

「では、どうするか?」
という課題。

ベースとなる「存在の承認」を家庭以外で取り戻せないだろうか?


ひとつ目は、離島に行くこと。新潟で言えば粟島。
シーズンオフに行けば、すれ違う人が皆、話しかけてくる。
「どこから来たんだ?」と。

2泊3日で行けば、民宿のおじちゃんが、
2日目の過ごし方を心配してくれる。
「明日の昼間、何するんだ?車、乗ってく?」

マザーテレサは愛情の反対は無関心だと言ったが、
粟島にいけば、「関心」にさらされる。
それを繰り返すと、「もしかしたら自分は若いだけで価値があるのかもしれない」と勘違いできる。
いや、本当に「若いこと」は(おじいちゃん、おばあちゃんにとっては特に)価値があるのだけど。

それは「にいがたイナカレッジ」の1か月を中山間地の集落で「暮らす」のも同じだ。
そこに「存在の承認」(自己承認)のチャンスがあると思っている。

ふたつ目は、「チューニング」だ。
ミーティングの最初に「最近あったよかったこと」を言う。
ミーティングの終わりに「印象に残ったこと」を言う。
いわゆる感覚、感性の共有。「思ったことを言う」こと。
それを繰り返すことで、「存在の承認」が得られるのではないか、
という仮説を持って、「チューニング」をやっている。

みっつ目は、
「チームや地域や場の個性の構成員になる」というもの。

これは非常に感覚的なものなのだけど、
自分が属しているチーム、地域、場の
一員として、自分が存在していて、
そのチーム(地域・場)全体として個性を発揮できる環境。
(そのチームには「チューニング」によって自らが一部溶け出している)

その個性や独自性、生産物が認められること。
それによって間接的に自分を認められるようになるのではないか。

っていう3つの仮説。
「アイデンティティ」と「承認」は密接に関係していると僕も思う。
「行為の承認」を求めて「チャレンジ」を始める前に、「存在の承認」が必要だと思う。
そしてそれは、チャレンジしながらでも作っていくことができるのではないか。

まあ、本当は「チャレンジ」などではなくて、「実験」に過ぎないのだけど。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)学び

2021年01月17日

生きるために作品をつくる

オンライン劇場ツルハシブックス2021の1回目。

満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。



https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。

「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。

「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。

そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。

紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。

昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。

オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。

音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。

第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。

「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。

ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。

2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。

9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html

10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html

9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」

これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。

あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。

10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。

そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。

大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。

やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。

TO自分とTO社会という2軸で考える。

つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける

自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。

~~~ここまで第1部

いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。

そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。


「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。

だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。

「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。

「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。

たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。

~~~

とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:10Comments(0)学びイベント日記

2021年01月15日

「なんとなく」シフトふたたび


「わかりやすさの罪」(武田砂鉄 朝日新聞出版)

読み始めました。
面白いですね。
とっても痛快です。

「わかりやすい」ことにどれほどの意味があるのだろうか?って。
「測定可能であること」はわかりやすさの一つでもある。
それだけじゃないひとりひとりとそれぞれの関係性によって
人って変わってくるよねっていう前提でチームを作りたいなと思う。

今日は2か所して紹介します。

1つ目は、「コミュニケーション能力」について。

~~~ここから引用

関西学院大学准教授の貴戸理恵が「コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、能力として個人のなかに固定的に措定すること『関係性の個人化」と呼んでいる(『「コミュ障」の社会学』青土社)。他人との関係性でのみ成り立つものを、自分の能力として問われてしまえば、当然、皆が皆、どうしてその能力が私にはかけているのだろうと悩む。無理がある。だって、コミュニケーションは他者との関係性で成り立つのだから、いつだって欠けているはずなのだ。

しかし、とにかく無理解を嫌い、意味のわからないものを遠ざける昨今、結果的に個人が理解すべき範囲が拡張され、抱え持つ必要のないものまで持たねばならなくなる。貴戸の言う「関係性の個人化」によって、私たちは、理由あるもの、有効なものばかりを獲得するようになった。

~~~ここまで引用

そうっすよね。
「コミュニケーション能力」っていう言葉自体がおかしいと。
コミュニケーションは個人に属するわけではないのだから。
これ、「責任の生成」にあったASDの話にも通じるなあ、と。

そしてもうひとつ。
鷲田清一さんの「わかりやすいはわかりにくい?」を紹介して次のように述べる

~~~ここから引用

「何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、『これができたら』という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせていく。自分が『いる』に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに、恒常的に自分に向けるようになる」(前掲書より)

そこにいるだけでは価値が認められない社会において、自主的に価値を探し出し、打ち出し、強化していく。その繰り返しによって、やがて他人から価値を認められていく。生きていく上で、あらゆる場面でプレゼンが必須になっている。なぜそのような行動をnとったのかについて、明確な理由を示し、その行動について認可を得なければならない。自分の行動なのに、おい、それに意味があるのか、あるんだろうな、と尋問されるのは、相当にしんどい。そうではなく、相手が何をして、何を考えているのか、それがどうにもわからない、という状態をそのまま放置しておきたい。

~~~

いやあ。そのままズバリですね。
大学生の生きづらさというか、親世代とのギャップってこういうところにあるんじゃないかって思います。

以前に「にいがたイナカレッジ」で講演した時、
「なんとなく」シフトを提唱したことがあったのだけど、まさにこれですね。
参考:(16.6.13ブログ)
http://hero.niiblo.jp/e480075.html

個人としては、「なんとなく」をむしろ推奨していくこと。

内田樹さんが「日本習合論」で説明していた
「理解と共感に基づかない関係性と共同体」を探っていくこと。

そしてもうひとつがやはり「場」にフォーカスしていくことだと思う。
「場」を活動の主体にし、個人は「場」にチューニングし、「場」の構成員としての自分を感じること。

ひとりひとりが「存在の承認」を、いま切実に必要としている。

それは「チームや誰かの役に立つ」という「有用性」や
「〇〇という将来の夢に向かって今は全力でこれに打ち込んでいる」といったような
「わかりやすく夢に向かう自分」によってのみ得られるものではない。
(現実社会はそのようになっているけど)

ひとつひとつのシーンで、プロジェクトで、「なんとなく」やってみる
理解と共感を前提とせず、理解しえないであろう他者と協働してみること。

前回の「アイデンティティデザインの時代」の紹介で、
リーダーシップとはイシューを設定する力であり、
しかもそのイシューは、非目的で他者と関係する活動の中にあるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e491351.html

それって。ひとりひとりの中でも言えるのではないか。
「なんとなく」やってみた中に「発見」があり、「顧客」との出会いがあり、顧客にとっての「価値」を考え、その先に「使命」を知ることになる。

個人としては「なんとなく」、
チームとしては「理解と共感に基づかない協働」、
プロジェクトとしては「場」を主体にチューニングをしながらイシューを見つけていくこと。

現時点ではそのアプローチが、「生きづらさ」に対処する僕の仮説です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)学び日記

2021年01月14日

「学び」ってなんだっけ?

2020年9月
取材型インターンひきだしの事後研修からスタート。「オンラインの向こう側」を見せてもらったというか体感させてもらった機会となりました。

ハイライトは「やりがい問題」ですかね。
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。例えば「お客様に感謝されること」それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

やりがいは何か?と聞かれて、やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。「近代」なる何か(資本主義や教育)は、「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。それが、「計測可能」という罠だ。「学び」の目的は「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った。「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)」

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。そして、「学び」を「遊び」にしたい。その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

~~~

いいですね。取材型インターン「ひきだし」はオンラインになって、たくさんの「発見」をもらいましたし、そもそもオンラインとは何か?みたいな可能性を見せてもらいました。

そして、次は
広島県立大崎海星高校のドキュメンタリー本「教育の島発! 高校魅力化&島の仕事図鑑」(大崎海星高校魅力化プロジェクト 学事出版)
http://hero.niiblo.jp/e491054.html

まずは「学び」とはそもそもなんだっけ?っていう話

~~~
学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。
~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

いやあ、一言一言が重いっすね。

そして「島の仕事図鑑」をやってよかったこと。
1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。
2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。
3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

生徒たちにとっても、地域の大人たちにとって、いや、おそらく先生たちにとっても、いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、もっとも大切になっていくのだろうと。

~~~

そして、9月に遊びに来たフォルケホイスコーレ帰りの二人から、エッセンスをもらった。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。
いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。
そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。
並列するというコンセプトはここから生まれたのかも。

~~~

そして、ティール組織を読んで「内包する」っていうコンセプトを得て、さらに探究コミュニティとにいがたイナカレッジラボへ。

キーワードは「委ねる」かなあ。

あとは、取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題はアイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

~~~

なるほどな。「場」に「学び」と「承認」を委ねるんだ。

そして、「ダブルローカル」のイベントに。
http://hero.niiblo.jp/e491095.html

「現代の分身の術」おもしろかったなあ。

僕の中で残ったキーワードは、「対話」「余白(余地)」「現在地」かなあ。

「自分との対話」っていうけども、その時に、「ダブルローカル」みたいにベースの違う「もうひとりの自分」と話せることってとても大切かもしれないなあと。なんか余裕とういうか「余白」が生まれるよね。

「ダブルローカル」という2つの視点を持つということ。あ、視点っていうのは支点っていうことなのかもしれない。考えるための軸足。「自由」っていうのは、それをいくつも持つことなのかもしれないなあと。

最後に「現在地」。こんなにも結論がない本もないかもしれない、と。おじさんが読んだら「結局、何が言いたいの?」ってレビューしちゃうかもしれない。

でもその「結局」とかっていう思想じゃない世界観で書かれているんだなあと。

複数の視点であり、なりわいであり、場を行き来すること。行き来し続けること。そのある部分を切り取って言語化する。それが今回の「ダブルローカル」。話したとき、書かれたときの「現在地」に過ぎない。

そんな「現在地」を重ねていくような生き方。たまたまそこに居合わせた人と「現在地」を共有していくような場。

うん、それ、やりたいです。

~~~
学びの場でも「行き来すること」ができたらいいなあと。

そして、コミュニティスクール(学校運営協議会)と拡大熟議

「あなたの学びのスイッチが入った瞬間は?」という自己紹介兼アイスブレイクは機能しましたね。

僕のグループでのキーワードは、

「一生を通して学び続ける人」を輩出したいとするならば。「学び」を再定義しないといけないな、と。与えられて、教えられて、覚えて、テストを受ける「勉強」から機会を得て、好奇心をくすぐられて、やってみて、発見する「学び」へとシフトしないといけない。

それを高校でやらないといけないのではないか。言ってみれば「学びのスタートラインに立つ」ための準備期間。

就職も、専門学校進学も、大学進学も、「学びのスタートラインに立つ」という意味ではまったく同じだ。

だって、人生は巨大な学び場なのだから。

「あなたは何を学びたいのか?」という問いに答える高校3年間であってほしいし、そのための機会として地域の人達と地域資源があるのだと思う。

あなた固有のその「学び」は就職によって深められるのか、その舞台は、専門学校なのか、もしくは大学なのか?そんな問いを地域と一緒に受けとめ、ともに育んでいくこと。それは、実は地域の大人に向けられた問いでもある。

巨大な学び場としての人生を、地域社会をいかに生きるのか?何を学びたいのか?探究したいのか?その問いは大人にとっても、先生にとってもフラットに刺さってくる。

きっとそれが地域と連携した学びのスタートであり、ゴールになっていくのだろうなと。

生徒の「学びのスタートライン」(進路)を一緒に考え、ともにつくっていくこと。地域の大人自身も学びのスタートラインに立つということ。

「学びとなんだろうか?」と問いかけるプロジェクトのスタート地点に立とうとしているのではないかと思うと、ワクワクしました。

~~~

ここまで。
最後に「学びとはなにか?」の本質に迫った9月。
いよいよ2020年ラスト3か月です。  

Posted by ニシダタクジ at 12:09Comments(0)学び足跡日記

2021年01月13日

アイデンティティデザインの時代


「仮想空間シフト」(尾原和啓 山口周 MdN新書)

いいですね。
こういう軽い本好きなんですよ。
いいキーワードたくさんもらいました。

~~~以下一部引用

これから起きる変化っていうのは、新型コロナウイルスによって突然変異的に生じる未知のものではなく、元から本質的に存在していた考え方であったり将来像であったりが一足早く顕在化しただけだ。

これは言葉を変えれば「今まで私たちが信じたきたことは実はフィクションだったんだと気づく」ということができる。

「大企業」というのは完全なフィクションですよね。

1 仕事が変わる
2 暮らしが変わる
3 社会が変わる
4 人生が変わる
5 国と行政が変わる

issueを見つける能力をつけること。
世の中ってこうあるべきじゃないか、仕事ってこうあるべきだよね、っていう思想を持っておくこと。

アラン・ケイは、コンピュータは軍事や金融ではなく「人間の知性と創造性を開放する道具となるべきだ」と考えたからパーソナルコンピュータという概念が生まれた。コンピュータの在り方に疑問を呈したわけですね。

IKEA This Ables
https://thisables.com/en/
家具に取り付けて使う補助パーツを3Dプリンタデータとして公開。

自分たちの持つテーマに愚直に向き合う。IKEAのミッションは「家具をデモクラタイズ(民主化)する」
貴族じゃなくても素敵な家具を持てるように。

「リーダーシップ」とは、魅力的なイシューを提示できる力のことになるのだろうな。

そのイシューを見つけるには「目的に向かわない」ことが必要になる。

仮想空間の解像度を上げる四象限(P75)
タテ軸:みんなで(上)⇔ひとりで(下)
ヨコ軸:非目的型(左)⇔目的型(右)

右側はオンライン(ZOOM)と相性がいいが
それだけでは新しいものは生まれず、左上が重要であり、
左下の自分の時間がないとストレスがかかる。

リンダ・グラットンの言う「生産性資産」と「変身資産」と「活力資産」の中の「変身資産」ね。
それが旅に出て人に会うことなのかもしれないですね。ご当地の美味しいものを食べるのは「活力資産」のアップか。

「人生を経営する」ためにイニシアティブ・ポートフォリオをつくり、意識すること。

会社の外側のプロジェクトに少し参加してみるとか、そういう小さなステップの積み重ねが人生を大きく変えてくれる。とにかく打席にたって自分が適材適所になる場所を探すというのは、仮想空間シフトが広がると余計に重要になると思っています。

~~~

ここまで一部引用。

いやあ、わかりやすい。
ZOOMがうまくいく集まり、うまくいかない集まり。
オンライン飲み会とかは左上象限にあるのだけど、
やっぱそれには身体性が必要なのだなあと。

僕がこの本で重要だと思える、アイデンティティのところを抜粋します。
本書P92~

~~~
どうせ仮想空間でしか仕事をしなくなるのなら、そもそもデジタルアイデンティティを持てばいい。まず仕事が会社と言う組織ベースではなく、プロジェクトベースになると、あなたは「〇〇社の社員」というアイデンティティではなくて、「そのプロジェクトの中の〇〇係の人」という役割に紐づいたアイデンティティを持つようになります。

アイデンティティというのは関係性の中で築かれるものですからね。そしてすべての人がさまざまなプロジェクトを渡り歩くわけですから、自然と複数のアイデンティティを持つことになります。だって、このプロジェクトではリーダーだけれど、あっちのプロジェクトでは単なるエンジニア、という働き方になるわけですから、役割に紐づくアイデンティティは当然複数に分かれていく。

その中で自分のアイデンティティを好きになるためには、その自分の役割、係を好きにならないといけないわけですが、それはすなわり「仕事の目的、意味」です。だから、魅力的なイシューのもとで、熱量をもって仕事を消費するということが、自分というアイデンティティを愛して精神状態を健康に保つことになるわけです。

~~~

いいですね。「デジタルアイデンティティ」っていう感覚。ネット上のもうひとつの人格。これってインターネット黎明期にはみんなが持っていたはずなのに、フェイスブックによって現実空間とネット空間が同一化されてしまったのだろうな。若者のフェイスブック人口が少ないのは、リアル社会と同一化された世界だから、みたいな理由もあるでしょうね。

さらに、この本は、近代化=都市化に一石を投じる

~~~
近代化というのは都市化とイコールなんですね。近代化というと産業構造の変化が起きて、一次産業から三次産業へとシフトする。これはつまり畑とか森とか海から財を作っていた人たちが情報から財を作るようになるわけです。情報から財をつくると言うのは、はじめに語った脳を工場にしてあさまざまなアウトプットを生産していくような仕事をするということですよね。これまでは物理空間に縛られていましたから、脳を工場にすると一極集中にならざるを得なかったわけです。

自分の脳で生産した情報は、また他の誰かの脳にわたってさらに磨かれたりするわけですが、そのためには二つの脳みそが近くになければならなかったので。工場を移動させるのは無駄なので、じゃあどうするかといえば近くに工場を置くしかない。だから本当は住みたいところが他にあるけれど、三次産業として情報を扱っていく都合上、多くの脳みそが東京というひとつの都市に集まらざるをえなかったわけですね。これは世界共通の事象ですから近代化と都市化はかならずセットで起きることになります。

その一方で、今回起きたパンデミックというのは都市を狙うものですよね。人が密集していればいるほど危険になるわけですから。ある種パンデミックというのは都市が生み出した病とも言えるわけです。これまで都市というのは近代産業を支えている最重要ポイントだったのですが、それが最脆弱ポイントとなってしまった。これは人類史に残る事件なのではないかと私は考えています。

~~~

いやあ、これですね。春くらいにウィークリーオチアイでも言っていた。コロナウイルスは都市への挑戦だと。

そして、この後、山口さんが「東京こそが仮想空間である」と語ります。今となっては仮想空間上で作れるものをわざわざ資源を使って物化させているだけの存在であると言うことができます。

まさにそうですね。今まさにその過渡期にある。

そして、最後に紹介したいのが
こういう本にありがちな「これからの世界を生き抜く10のアクション」から。
その1「境界性領域をつくる」の中での山口さんの発言を。

シチュエーションやコンテキストに応じてアイデンティティを切り替えるということを考えてみたときに、「アイデンティティデザイン」という考え方がこれからは必要になってくるかもしれません。人のアイデンティティは人間関係の中の位置づけで、成り行きで決まっていくようなところがありますが、仮想空間シフトが起きると、必ずしも顔が見える関係性の中だけで物事が進むわけではないので、自分の「ブレないアイデンティティ」をキャラクターとしてしっかりと持つということが必要になると思います。

これですね。「アイデンティティデザイン」
自分のアイデンティティをデザインし、プロジェクトに参画していくこと。

それを複数個もつこと。Z世代(1996年以降生まれ)は普通にやれていることなのかもしれない。
彼らが覇権を握るのは15年後くらいなのだろうけど、それを新型コロナウイルスが一気に変えてしまっている。
だから、おじさん世代もシフトする必要があるよねっていう話。

「アイデンティティ」(自分らしさ)だってフィクションになっていく。

本当の自分とはなにか?
自分が本当にやりたいことは?

という問い自体が無効化される時代。
それは言い換えれば、アイデンティティそのものをデザインできる時代になると言えると思う。

「仮想空間シフト」は、リアルとネットの境目が溶けている状況のことを言うのだろう。
そして、「学び」の文脈で言えば、ますます地域というフィールドの価値が増すだろうと思う。

東京から地方の高校に進学して学ぶ。
地域の大人と複数個のプロジェクトを立ち上げ、それぞれでアイデンティティをデザインする。
そのプロジェクトには自らの学びのために東京から参加している会社員がいたりする。
進行しているプロジェクトを他地域の高校生と共有・ブラッシュアップする。
そんな学びのカタチが見えつつある。

いやあ、面白かったですね。

僕の中の面白かったポイントは3つ
1 リーダーとは良いイシューを提示できる人
2 「生産性資産」「変身資産」「活力資産」をマネジメントする=人生を経営する
3 アイデンティティはデザインできる。しかもそれはZ世代以降であれば普通にできる。

そんな感じですかね。
「探究」の授業設計に良いエッセンスを頂きました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)学び日記

2021年01月12日

「場」とともにある「わたしたち」


「責任の生成-中動態と当事者研究」(國分功一郎 ・熊谷晋一郎 新曜社)

久しぶりにゾクゾクくる本を読みました。うわあ、うわあ、って。
「やりたいことは何か?」っていう「意志」を問う問いはやっぱおかしいよねって。

まずは、熊谷さんの「当事者研究」のひとつであるASD(自閉スペクトラム症)について。

環境と私との相互作用によって発生したり消えたりする障害をディスアビリティと表現し、皮膚の内側にある障害、環境から独立している障害はインペアメントと表現される。

では、コミュニケーション障害は、インペアメントなのかそれともディスアビリティなのか。素朴に考えてディスアビリティですよね。なぜなら、気心の知れた相手なら発生しにくいけれど、相性の悪い人とならコミュニケーション障害は発生しやすいからです。あるいは共通前提が無い人や、文化的背景の異なる人であれば発生しやすい。

どころが、ASDの診断基準はあたかもインペアメントを表しているものとして世界中で解釈して使われている。

ディスアビリティのインペアメント化が起こっているのではないか?

~~~

そして「意志」について

ギリシアは非常にアジア的であってその文明の根底にあるのは循環する時間と自然という考え方です。それに対し、キリスト教は直線的な時間感覚を生み出しました。始まりと終わりがある時間という考えです。

何ものからも自由で、何ものにも先行されない意志というものはあり得ない。にも関わらず、僕らはこの意志という概念を日常的に利用している。だとしたら、これはもう信仰としか言いようがありません。つまり、僕らは意志信仰のなかにいる。

そして意志がキリスト教哲学によって発見された概念であるのならば、僕らはクリスチャンであろうとなかろうと、キリスト教哲学の影響下にあるのだとすら言えるのかもしれません。

意志という概念を使って、因果関係を恣意的に切断してしまっているわけです。

意志という概念が切断の効果をもつことが分かります。そしてそれは本来切断できないものを切断しているわけです。

本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

~~~

これはヤバいですね。「自分のやりたいことは何か?」と「意志」を問うことでいわゆる「自己責任論」が発生するわけですね。
「中動態の世界」でもありましたが、そもそも他から切り離された「意志」なんて存在するのか?と國分さんは問いかけます。

あとは「意志」と「選択」を混同しないことだと。

あと興味深いキーワードとして「反芻」と「省察」を

「省察」は好奇心を掻き立てる研究対象となるような有意味性をもった出来事として過去を思い出すスタイルです。能動/受動の形式で過去の出来事を思い出すことを「反芻」、中動態の形式で「自分において生起した現象」として過去の出来事を思い出すことを「省察」として考える。

これ、つまり振り返りにおける「場」として見るっていうことだろうなあと思います。
個人戦ではなく「場」を主体としてふりかえること。
ライフチャート(モチベーショングラフ)への違和感もこれで説明できます。

~~~

だからこそ「意思決定支援」ではなく、「欲望形成支援」が必要なのだと。

個人的ではなく集団、意思決定のような切断ではなくて、過去との連続体のなかにある欲望の形成の重要性ということになります。

人間は自分では意思決定を感じる。それはある意味では意志が「うっかり」生成するものだからだと言えるかもしれません。頭のなかでいろいろな演算が行われて、その結果が意識に上ってきます。意識には結果しかわからない。その諸々の結果をうっかりまとめ上げてしまうことで意志を感じられるようになる。

もうひとつ「想像力」について

人間の精神的能力の全ては想像力からきている。想像力の定義は存在していないものを存在させる能力。図式化とは多様なものを大雑把なイメージに当てはめること。このイメージは現実には存在していないものであり、心のなかで作り出さなければならない。だから想像力が図式化を行うと言われるわけです。

~~~

次に「他者」について

自分に見えていないものの存在を信じられるためには他者が必要である。

当事者研究は、傷から自伝的自己を生成するための他者との出会いの条件を探究しなければいけない。

他者というものを、一つの、あるいは大文字の「他者」みたいに思わないほうがよいのでしょう。特定の状況において登場してくる多様な他者を、変数として分析しないといけないと思います。

そして、今の教育が目指すコンピテンシー重視の人物像について次のように説明する。

いかなる変化にもフレキシブルに対応し、いかなる感情も操作し、過去を切断しながら未来志向で生きていく労働者。 
経営者が課すお題を効率よく達成するにはそんな人は重宝するかもしれないけど、そもそも、そんな人と働きたいだろうか?

~~~

最後、あらためて「中動態」について確認するとともに「責任」の話へ

中動態とは、主語が動詞の名指す動作の場所になっているときに用いられる態でした。これに対し、中動態に対立する場合の能動態は、動作が主語の外で完結する際に用いられる。

あらかじめ確固として存在している主体が、客体を支配するというのとは違う契機が中動態に見出されるからです。繰り返しになりますが、中動態の場合、主語は単なる場所だからです。

格変化はだんだんなくなってきたと言いましたが、前置詞というのはそれに伴って現れてきた新しい品詞です。名詞自体を見てもその役割がわからないので、名詞の前に、その役割を表す言葉を置くことにしたわけです。

~~~

このあと、僕の中でのハイライト、「場」とは何だろう?「場に溶ける」とは?を説明する上で大切な「主体」「客体」をギリシア語で「使う」を意味するクレースタイを持ち出して、説明します。

ここだけ引用させてください。

~~~ここから一部引用

クレースタイという動詞には中動態しかありません。ギリシア語は直接目的語を表すために名刺を対格というかたちに格変化させますが、クレースタイは対格をとらないのです。「格」というのは名詞の役割を表すものです。ギリシア語やラテン語では名詞が縦横無尽に変化します。格変化はだんだんなくなってきましたが、前置詞というのはそれに伴って現れてきた新しい品詞です。

クレースタイが目的語を対格でとらないということは、「使う」という言葉がただ「・・・を使う」を意味するわけではないことを意味します。私という言葉=主体があって、物という目的語=客体があって、前者が後者を使うというのとは異なる意味が「使う」という概念には秘められていることを、このクレースタイという動詞は示していることになります。

「誰が何ものかを使用するという近代的な考えたのうちにかくもはっきりと刻印されている主体(主語)と客体(目的語)の関係がこのギリシア語の動詞の意味を捕まえるには不適切なのである。」(アガンペン「身体の使用」)

僕らは「使用」を「支配」の意味で考えていると思います。ペンを使うとき、ペンを支配して、みずからの思いのままにそれを使っている、と。しかし自転車や車いすの例からわかるように、むしろ使うためには、使う主体にならなければならない。クレースタイを通じて主体が出てくる、というか、クレースタイを通じて主体と客体の一つの組み合わさった何か、自己のようなものが構成されると考えねばならないのではないか。そしてクレースタイが中動態にしか活用しないのであれば、それはまさしく主語が自己の生成する場所であることを示しているのではないか。

~~~

このあと、いよいよ「責任」の話に入っていくわけですが、それは本書をお読みください。
NHK100分で名著の「カールマルクス・資本論」を読んで考えていた「自由」の話にも通じるなあと。

「意志という神話」を信じ込まされ、労働者となった私たち。そこには「消費者としての自由」があった。

強い「意志」によって自分と過去とを切断し、描いた「未来」に向かって力強く進んでいく存在。

しかしそれはかつて尾崎豊が「卒業」で語ったような「仕組まれた自由」なのかもしれない。

私たちは切り離された。「共同体」からも、そして「過去」からも。
それをうまく切り離せない人が「生きづらさ」を抱えているのかもしれない。

だからこそ「場」を主体にして、「学び」を再構築できないだろうか?
「学びの場」に自らを溶け出していくことで、「切り離されていない自己」を構築できないか、と。
もちろんそれは、自らを「多層化」したうちのひとつではあるのだけど。

中動態の世界において、動詞が示す変化は自分の中の「場」で起こる。
そしてそれは相手を変化させていると同時に自らを変化させる。

「探究的な学びは自己の変容を前提としている」と前に書いたけど
http://hero.niiblo.jp/e491217.html
それは実はギリシア時代には当たり前のことだったのだ。

「場」とともにある「私たち」。

そんな感覚が持てるような場(やプロジェクト)をつくっていくこと。

それが、多くの若者が、いや私たちを含めて直面している「アイデンティティ危機」に対する僕なりのアプローチなのかしれないと感じています。ステキな本をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学び

2021年01月11日

「場の豊かさ」をベースに「場のチカラ」を発揮できるチームをつくる

2020年8月

7月末の探究学習コミュニティ(オンライン勉強会)から。
大船渡高校の梨子田先生。

まずは「問い」について
・質問:問われる側が答えを知っている⇒情報を引き出すトリガー
・発問:問う側が答えを知っている⇒考えさせるためのトリガー
・問い:問う側も問われる側も答えを知らない⇒創造的対話を促すトリガー

「問い」ブレスト
90秒でお題⇒180秒で質問を10個以上出す
※質問には答えない。すべて質問の形に書き直す。細かい質問OK

問いをつくる⇒再設定を繰り返す。
問いみがき⇒問いが育つ⇒生徒が育つ

「新しいワクワクがもらえる」目の前のワクワクに向かっていける。
⇒「面白いね(共感・承認)」って言ってもらえること。
評価⇔「面白いね」

「テーマ」ではなく「問い」:肌感覚的な何か、感じる何かによって磨かれる
手触り感がある経験⇒「問いで研いで磨く」:磨くには接点が必要

「志望理由指導」⇒「主体的探究支援」
大学や社会は受験勉強ができる生徒を求めているのだろうか?自ら問いを立て、主体的に学べる生徒、仮説検証プロセスを体得している生徒を待っているのでは?

1 教材が提示した問題を生徒が考える
2 先生が提示した問いを生徒が考える
3 生徒が立てた問いを生徒同士で考える
4 生徒が立てた問いを生徒本人が考える

1・2は生徒は客体で3・4は生徒が主体。現状では3・4の時間はほとんどない。
⇒問いを立てると主体となる。

かつて、ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)は言った。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

ああ。火を灯すための種火は、生徒の中にあるんだって。支援者の役割は、その種火に、枯れ草を添えて、団扇で軽く仰いでやるだけなんだって。

そして問いを磨いていくこと。リアルな、手触り感のある肌感覚で味わえるものに触れて、磨いていくこと。その問いは研げば研ぐほど、鋭くなって、やがて、北極星になる。北極星があれば、もう、そこへと進んでいけばいい。

そんな探究的学びができるまち、できる高校を実現したい。

~~~

さらに2週連続で五ヶ瀬中等の上水先生
http://hero.niiblo.jp/e490965.html

PDCAからAARへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感:
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ、社会で取り組みたい人は就職へ。

「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」
生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。圧倒的な敗北がここにありました。
2020年8月7日。世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと。他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。パートナーのみなさん、よろしくお願いします!

~~~
「現代版スクールウォーズ」それが探究なのだと。俄然モチベーションが上がってきたなと。

そしてその週末
「NIIGATAマイプロジェクトLABO」キックオフ
http://hero.niiblo.jp/e490977.html

ゲストだった大船渡高校でマイプロアワードをグランプリだった船野さん。

彼女の話を聞いていて、探究サイクルとは、
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思った。

僕のテーマは、「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」

「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。

「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト

それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。

出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。

現代版スクールウォーズだとあらためて思った。伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」

「誇り」が必要なのだと思う。それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。

「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。

現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。

そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。

~~~
いいですね。アツくなってます。スクールウォーズなんですね。

そして8月25日。前の週末の学校見学&まなび体験会を開催し、他県から2名の男子生徒と家族が見に来てくれました。

その1週間は大学生との対話の機会があったり、取材型インターン「ひきだし」の事前研修があったり、いろいろ考えました。

ダイジェストでお送りします。

企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
「恋愛」上手になるには?と聞けば、「経験値を積んでいく」ことだとみんな言いますよね?

どんな恋愛をしたいか?
理想的な恋愛の始まり方は?
恋愛が終わるときは?
と聞かれたら、就職活動そのものが変わらざるを得ない。

取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。

愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)

「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい

仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。

~~~ここまで「就活」について

ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。

「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする

~~~ここまで「ブレスト」について

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

12歳時点で、存在の承認(親和的承認)が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。

~~~ここまで「承認」について

最後にまとめ。

僕がアプローチしてきた「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」問題の原因と課題とその解決方法。(私のマイプロ)

その出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること、そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。その時点で「親和的承認(存在の承認)」が満たされていないにも関わらず。

人はみな「承認されたい」。しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。自らが感じるしかない。

「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。

そのころにはもう「評価」中毒になっている。

地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。

「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」

しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を評価してくれる「誰か」はいない。

そして就職活動。「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。
ところが、何をやったらいいのかわからない。どうすれば評価されるのか、わからない。自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。

仕方なく、資格やスキルを身につける。しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。

そこで行き詰まる。
がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。

「量的に測れない。」これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。でも、自分は量的なアプローチしか知らない。「就活の不安」の根本はそこにあるのかもしれない。

時計の針を巻き戻す。中学入学時点まで。

本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。しかもその「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。

本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」というメッセージを伝え続けること。

しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、家庭や地域にその役割を負わせることはほぼ不可能となっている。

だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。

その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。

思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。

そうやって、見つける、発見する。この「場」でしか生まれないものを生み出す。

それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。
だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。
見つけ合う場を、そしてはじまる場を。

~~~
いやあ、渾身のブログですね。アツいです。2011年の本屋開業、もっと言えば2006年から大学生インターン事業開始15年がひとつに繋がってくるような感覚があります。

そして、ひきだし研修2週目。
引き出しの実施可否を考える上で、いちばんポイントになったのは、
「オンラインでなければたどり着けない場所があるのでは?」という仮説の検証だった。

チューニング=感性の共有

オンラインマジカルバナナの「これ、目的に向かっていないんじゃないか?」っていう面白さ。

「印象に残ったこと」をチャット欄に同時に書き込むことで、違う回路が開く面白さ。

「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から少し異なるのだなあと思った。

「場」をオンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。

一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。

ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。仕事の打ち合わせの人もいるだろう。そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。

おそらく、「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。

~~~
ここまで。いや、あらためて読んでみると、ちゃんと考えながらやっているなあと。
「場のチカラ」と「場の豊かさ」のベクトル性の違い。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。
これってさ、内田樹さんの言う、「理解と共感に基づかない協働」なのではないか?
理解と共感できないからこそ、突破できるベクトルを生むことが可能なのではないか。

そんなことを思った2020年8月ふりかえりでした。
  

Posted by ニシダタクジ at 09:05Comments(0)学び足跡日記

2021年01月10日

経験をデザインするために「動詞」として捉える

2020年7月

いよいよ、寮を設定して「地域みらい留学フェスタ(オンライン)」に向けて急ピッチで準備しているところ。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」に刺激を受けて、買ってみたのがこの本。「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)
これ、面白かったなあ。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。「情報」から「体験」「コミュニケーション」へと音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーからコンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」という新たなフロンティアが発見される。サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

「コロナの時代」が問いかけているのは、「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。

~~~

このころ、タイミングよく「ウィークリーオチアイ」の「ギグワークは仕事の未来なのか?」を見る。

http://hero.niiblo.jp/e490845.html
キーワードは「響き合わせる」

まずは本「ギグワーク」からメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。それこそが奴隷づくりの方法なのに。「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

「ウィークリーオチアイ」からまとめ
ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

宮田さんのこれがアツかった。

働くを響き合わせる。与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく。
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ
都市や会社=お金のためだった。自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、伴奏者としての大人たちと一緒に、ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?

~~~

そしてこのタイミングで内田樹さんの「ひとりでは生きられないのも芸のうち」
これ、就活生必読ですよ。そもそも論好き。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違えだったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

これは「まなび」についても言えるなと

「まなび」の報酬が学んだ本人宛てに戻されなければならないっていうこと自体が、子どもから「学びの意欲」を奪ったのではないか。

「まなび」の成果はそもそも属する集団に帰属するんだ。その「集団」を失っているんだろうな。と同時にアイデンティティ不安に陥っているんだ。

「労働」の報酬を受け取る人が増えるほうがモチベーションは維持できるように、「まなび」の報酬を受け取る人が増えるほど、「学びの意欲」は高まるのではないか。

~~~

オンラインイナカレッジラボ作戦会議
「チェンジ」⇒「シフト」

「にいがたイナカレッジ」とはなんなのか?について、昨日に引き続き、内田さんの本からの考察。

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

いやあ、これはすごいな。身体的なコミュニケーションと共同体の帰属儀式としての会食。チューニング(同期)方法としての食事。

~~~
いやあ、これすごいですね。「まきどき村」の朝ごはんっていうのはこういうことなんだなあと。

さらに橘川幸夫さんの「参加型社会宣言」。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。いやあ、スケールデカいな。橘川さんかっこいい。

~~~

そして、「地域みらい留学LIVE」で確信を持てたキーワード「発見」
http://hero.niiblo.jp/e490866.html

若新雄純さんひさしぶり
わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないだろうか

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」

「線形」の学び=これまで。
〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
予測可能(指数関数的)⇔予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続=ゴールがない、わからない、計測不可能

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。「発見」は100%生まれる。

「線形」と「非線形」の話で「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)を思い出す。

「コンテンツ」の3つの軸
ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

~~~

これって・・・まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。ストックとフローを組み合わせつつ、「権威型」から「参加型」に寄りつつ、ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。その先に非線形の学びがある。その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。「発見」を価値だと認識すること。場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。

~~~

7月14日「まなびのよはく」
http://hero.niiblo.jp/e490874.html

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、「主体的全体」なのだろうと。僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」、「個人」と「共同体」そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。内田樹さんがよく言っている。教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして家電王国としての国を支えたりした。いつのまにか教育は「お買い物」と化し、最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」やにいがたイナカレッジのプログラム、そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。その「よはく(余白)」は、「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。そして、その「よはく」に「場」ができていく。それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。

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「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

愛(=身近な関係)には4つあるという話。

・横の相補型:恋人、夫婦など
・縦の相補型:親子、師弟など
・横の共同型:友達、コミュニティなど
・縦の共同型:部活、上司と部下など

って。これはわかりやすい。相補型では、相手もっている自分と違うものを大切にすること協働型では、相手と共通するものを大切にすることがポイントなのだと。

そして60°の「ナナメの関係」としてのおじさん

ここでいう「おじさん」は、両親と違うことを許容してくれるテキトーな存在、つまり「ナナメの関係」として書かれています。

「ナナメの関係」っていうのはNPOカタリバが言っているコンセプトなのだけど、高校生にとっての大学生という意味合いで表現されているのだけど。

「おじさん」っていうナナメの関係もありなのかもしれないと。ちょっと角度が大きくなりますけどね。(大学生30°⇒おじさん60°くらい)

それって、地域コミュニティが、というより、地域の大人ひとりひとりがなっていけるんじゃないかと。そんな「おじさん」と中学生高校生の接点をつくっていくこと。

「学びの土壌」の構成要素としての「おじさん」の存在をあらためて考えなおしてみることにする。

~~~

そして、渡辺保史さんの「自分たちごとのデザイン」を。
ここで僕は「見つけ合い」というコンセプトにたどり着く。

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

主語を私たちにシフトしていくこと。「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

「ワクワク」は伝染する。その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場をつくる。


そして、オンラインツルハシで宮本明里さんと対話。

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。それでようやく「自分」がわかる。

~~~

さらに、渡辺さんの「自分たちごとのデザイン」より

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。
経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

~~~
おおお。ここで「動詞」っていうキーワード出てきているんですね。これ、進路選択にもに使えると思う。

「探究」って一言で言えば「学びの経験のデザイン」だもんね。

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライツルハシで宮本明里が言っていた。「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。

~~~

そしてSMOUTによるプロジェクトの取材

あらためて明治時代以降の教育シフトとは何か?を考えた。

1 「発見」から「達成」へのシフト
学びの喜びを「発見」から「達成」へとシフトさせた。

2 「承認」から「評価」へのシフト
承認欲求を他者からの評価欲求へとズラした。

3 「場」から「個人」「自分」へのシフト
学びが「科学」となり、量的に測られるようになった。

これら3つのシフトは、「近代工業社会」の要請によって、「科学的」であり、「量的に計測可能」であることが大切だった。その、前提が何十年も前に崩れているのだ。

学校に通っているといつのまにか、学びは苦役となる。学べば学ぶほど、「自分はアタマ悪いんじゃないか?」って思うようになる。なんだそれって。学びが人を幸せにしないシステムってなんなんだって。

「学び」の逆シフトを起こさなければならない。いや、もう起こっているはずだ。

「個人」から「場」へ。
「評価」から「承認」へ。
「達成」から「発見」へ。

それを始めるのが「場」の構築であると思う。「場」で学ぶとは、「学び合い」を「見つけ合い」にするということ。心に浮かぶ言語化以前の不完全なキーワード、もしくは、「印象に残ったこと」というあいまいなものを「場」に出し合うこと。

それを「その人はなぜ、そんなことを思ったのだろう?」と「場」で考えること。

そして、見つけること、発見すること。
そこに喜びを見出すこと。

思ったことをいうこと。言える場があること。「個人」を「場」に溶かしていくこと。

それが「対話の場」だったり、「ワークショップ」だったり、「プロジェクト」だったり、町を舞台にした「探究学習」だったりする。この町にはそれを起こせる「場」がある。「場」の構成物、構成者たちがいる。

人口1万人の小さくて広い阿賀町には、流行りの言葉で言えば、「手触り感のある」「高解像度」な「資源」と「課題」と「関係性」が詰まっている。

それらを「場」が希望に変えていく。そんな学びの未来を見てみたい。

~~~
という感じの7月でした。

「見つけ合い」「私たち」とか
いまにつながる重要なコンセプトを見出した7月でした。  

Posted by ニシダタクジ at 05:18Comments(0)学び足跡日記

2021年01月09日

「主体的にやる」と「機会提供」のあいだ

2年間ふりかえり。2020年6月。
休校が明け、怒涛の日々が始まる。

そんなスタートの日に読んだ伝説の講演録
「2020年6月30日にまたここで会おう~瀧本哲史伝説の東大講義」(瀧本哲史 星海者新書)

アツかったなあ。

「教養の役割とは、他の見方、考え方があり得ることを示すことである。」アラン・ブルーム

コロナ前後で何かシフトするのか、考えたこと。

学びの構造が「(目的・目標を設定し)手段として学ぶ」から「(展開・振り返り重視で)機会として学ぶ」へシフトする。

教育だけではなく、近代のパラダイム(価値観)のキーワードは「効率化」だった。「目的・目標を設定して、そこに最高速で行く」に価値があった。それは工業を中心とした社会だったからだ。ところが、そのゴールを失い、しかも「効率化」が価値を生まないことがわかってきた今。当然教育の現場のパラダイムもシフトせざるを得ない。

ところが「AO・推薦入試のために、探究を」って、まったく目的・目標設定のパラダイムではないか。そのほかにもシフトしているように思うこと。

「個人として学び」から「場としての学び」へのシフト。
方法(メソッド)から場へのシフト。
挑戦から実験へのシフト
達成感から予測不可能性へのシフト。
伝説のカリスマ教師から歌われざる英雄へのシフト。
明確なゴールから方向感・ベクトル感へのシフト。

そんなシフトが始まっている。いや、コロナ休校期間中にもうシフトは終わっていて、気づいていないだけかもしれない。

瀧本さんに言葉を借りれば、あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマが、きっとあるはずだ。

~~~
「あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマがきっとあるはずだ」
このメッセージは熱いな。
「自らのあり方生き方と一体的で不可分の問い」っていうだけではなく、そこに「現在性」つまり「今」っていうのを加えないといけないのかもな。

「なぜ、いま、あなたからこれを買わないといけないのか?」に応えられないとモノは売れないのだと本屋さん時代に痛切に思った。

これは「勉強」「学び」も「探究」「プロジェクト」も同じだ。なぜ今、自分はこれをこの場であなたから(場・プロジェクトから)学ばないといけないのか?
に応えられない「学び」はもう成立しない。
~~~

このタイミングで「サピエンス全史」なんか、読まなきゃいけないような気がしたんですよね。

ホモ・サピエンスがなぜ地上の覇者になったのか。激しい議論は今なお尽きないが、最も有力な答えは、その議論を可能にしているものにほかならない。すなわち、ホモ・サピエンスが世界を征服できたのは、何よりも、その比類なき言語のおかげではなかろうか。

集団の限界値である「150人」を超えるための虚構の登場。「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ。」

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

宇宙には神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。

~~~
ウィークリーオチアイでやっていた「sio」の話面白かったな。
「エンゲージメント」とは何か、考えさせれた。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)、1000円の弁当も本気で作る。

~~~
これ、飲食店のリアルだなあと。「商品」ではなく「価値」を届け続けたら、お客とエンゲージメントできるんだなあと。先日の「合理性」の話にも通じるなあと。
サンクチュアリの営業の時も他社の本をよく紹介していたもんなあと。

そして、このタイミングで、夏休みのえぽっく「取材型インターンひきだし」をやるかどうか、っていう決断を迫られて会議をした。

http://hero.niiblo.jp/e490767.html

面白かったのは、「ひきだし」の価値を考えるほどに、「オンラインじゃ再現できないよね」っていうのが列挙されているところ。結局、検討の結果、完全オンライン実施をすることになるのだけど、この当時の葛藤がなつかしい。

1 学生側と企業側のフラットな関係性
・ミステリーツアー方式(選んでないし、選ばれていない)
・「目的多様性」と「身体性」を持つ「場」づくり
2 会社を「人」から知る
・雑談、雰囲気などから会社のリアルを知る。
3 共同生活がある
・合宿形式で、家事分担などから身体感覚を共有している(オフの時間がある)
4 企業を含め全員が参加者(当事者)である。
・同じ空間(場)を共有すること、問いに向かっていくことで、全員が当事者になっている。
・会社の魅力を引き出して冊子をつくる、とぃうゴールがある。

これがオンラインでできるのか?っていう問いじゃなくて、オンラインだからこそできることがあるか?っていう問いに転換した。

~~~

藤岡さんの話を聞いて、思ったこと

大学に入るのも、企業に入社するのも、「乗り物に乗る」ようなものだなあと。もしかすると、ワークショップのような一回性の高い「場」も、「乗り物に乗る」ようなもの、かもしれませんね。

試験は、乗り物に乗るチケットを手に入れるためのもの。あるいは、この人たちと一緒に乗ったら楽しいか?成長できるか?みたいなことを確かめるもの。そんな感覚で、大学入試にも就職活動にも向かっていけたらいいなと。

お互いにね。この人と一緒に船に乗れるのか?っていう。

~~~
で、オンラインツルハシで吉野さくらさんの登場。

「とまれみよ」という動的な屋号。「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。動的な(動きを感じられる)屋号だということ。そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。そういう感じ。
~~~
2020年にインスピレーションのあった言葉のうちに大きかったのがこの「動的な屋号」っていう方法だろうなあと。

次。角田陽一郎さんの「13の未来地図」。よかったですね。
組織⇒バンド、イデオロギー⇒ユーモアへとシフトしていく、と言っています。

これからの仕事における個人と組織の形態はバンドなのではないか?
バンドメンバーは基本的に全員でステージに立ち「替えが効かない」のです。

ここで、素敵な一節を

「ロックバンドが気の合う仲間とともに音楽を奏でるように、あなたがやりたいプロジェクトのための自分のバンドを作るべきだと言っているわけです。」そういう「プロジェクトバンド」経験が就職に効くって言ってます。

ああ、それはあるなって。ボーカルだけじゃなくて、相手によってはギターもベースもドラムもできます。みたいなこともできるし。バンド名を考えたし、作曲も作詞もやったことあります、みたいなのは重宝されそうですよね。でもいちばん自分が好きなのはベースです、みたいな就活。

でも、そもそも、企業ってバンドなのか?みたいなところもあります。特に大企業では難しいかもしれません。「替わりがいること」が最優先されます。やりたい曲もなかなかやらせてもらえないかもしれません。それって、音楽性の違い、なんじゃないか?みたいな気もします。

取材型インターン「ひきだし」のオンラインミーティングで若松さんが「人を通して会社を知る」って言っていたけど、それってまさにバンド選びのようなものだなあと。ただ、もちろん、大オーケストラでしか奏でられない音楽もあって。そういう音楽を目指したい人は大企業にいったほうがいいかもしれない。

でも、音楽性の合う仲間と、バンド組みたいんだよ、みたいな人は、その音楽性を頼りに、会社を選んだらいいなと。

じゃあ、音楽性って何?みたいなときに、それって、ベクトル感だと思うんだよね。メンバーひとりひとりや全体から感じるベクトル感。そういうのを感じられる「就活」ってできないかなあと。

~~~
これ、読み直すとめちゃめちゃ深い。おもしろ。

さらに、「言葉にできるは武器になる」の梅田さんの本「企画者は3度たくらむ」より
http://hero.niiblo.jp/e490791.html

1つ目「ビジョンづくり」って「企画書づくり」だなあと。
ビジョンだけ示しても、現状認識と課題設定からくるプロセスの提示が必要なのだよね。
そのすべてに共感というか少なくとも同意がないと、ビジョンで終わってしまう

2つ目は、
そもそも「キャリア教育」ってなんだっけ?みたいな。
「全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。」この原則から始めないといけないのではないだろうか。

だとしたら「やりたいことは何か?」よりもはるかに大切な問いは、困っている人はいないか?不便を感じていることはないか?それを解決するには?なのではないか。

3つ目の気づきは、アイデンティティの危機という課題に対してのアプローチのこと。僕が思うに、その筆頭は属するコミュニティを多様化・多層化してその掛け算として生きる、で、その階層1つ下に「地域の個性の構成員になること」があり、その場合、地域の個性は「編集」によって生み出すことができるし、周りの人たちと一緒に創ることもできる。

つまり、この本で言うところの「企画書づくり」(課題発見からの一連のプロセス)を通して、チーム(会社・地域)の個性を生み出すこともできるし、その構成員になることもできる。

ビジョンづくりは、企画書づくりへ。そしてそれは個人のアイデンティティをも創っていく。
いや、仮説ですけどね。課題とビジョンと、仮説と、打ち手。そのくりかえし。

~~~
「学ぶ環境」の豊かさっていうのは
・資源の豊かさ:くるみやの農作物などの自然資源
・課題の豊かさ:高齢化・猿による農作物被害などの課題
・関係性の豊かさ:地域の人たちが重層的に学びにかかわる。

~~~
そして地域探究系部活動で学んだこと

これまで僕は思っていたのは「主体的である」と「やらされる(主体的でない)」の二項対立。じゃあ、「機会提供」は「やらされる」なのかと言えば、そうでもないと思うし。「最初は先生に言われたので始めました」っていうのは、高校生のマイプロ発表聞いててもよく出てくる言葉だし。

高校生側の感じ方だったり、ひとりひとりに話を聞いているか、ひとりひとりに話しかけているか、だし。もっと大切なのは「ふりかえりをしているか」だったりかもしれないし、こちらが「機会提供」しているつもりでも、高校生は「やらされている」と思っているかもしれないし。その前提となる信頼関係があるかないか、にもよると思うし。

つまり。「主体的である」は「やらされる」と二項対立で考えるものではなく、高校生目線で言えば、「主体的である」と「機会提供」のあいだにグラデーションが広がっているのだと。

やりたいことがないと悩んでいる子の隣に座って、機会を提供する。その提供の仕方もあるよね。ただネタを提供してこちらは見ているだけっていうのは、やらされ感が出る。一緒にやってみる。考えてみる。悩んでみる。

それが大切なのだろうなと。

地域の自然も資源も課題も地域の大人も、自らも独自の楽器をもって学びという音楽づくりに参加する高校生にとっての「学びの伴奏者」であること。学びという営みのプレイヤーとして参加すること。
~~~

まさにこれ。総合型選抜で問われる「主体的に」活動したこと、をどうデザインするか?これはずっと大きな課題なのだろうなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)学び足跡日記

2021年01月09日

「学び」と「遊び」のあいだに「探究」がある

2020年5月。

この本に出会っているんだなあ
「世界は贈与でできている」
http://hero.niiblo.jp/e490625.html

なぜ、学ぶのか?なぜ、知性が必要なのか?それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。「贈与を受けてしまった」という自覚からしか贈与が始まらない。生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。

~~~
ふたたび安宅さん。
このころニューズビックスの本ばかり読んでますね。

不確実性の4つのレベル
1 確実に見通せる未来
2 他の可能性もある未来
3 可能性の範囲が見えている未来
4 まったく読めない未来

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

具体的な手法
1 大勝負に出る
2 オプションを仕掛ける
3 後悔のない行動をとる

~~~

先端教育5月号から、雑木林の話

「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

いやあ、これですね。これからの森づくり。「学びの土壌」の上にある、「学びの生態系」ってそういうところにあるのかもしれませんね。

かつて、杉林を育てる理由があった。しかし、社会や時代のほうが変わってしまい、杉をつくっても売れなくなってしまった。

いまや、森の中で自分の木を育て、それを自分自身で売り込まないといけない。そしてそれは、木単体で売るのではなくて、ほかの木や生き物との組み合わせで売る、あるいは、森を観光資源にした観光ビジネスや生き物を教育コンテンツにした教育ビジネスを売っていかないといけないのだ。

学びの雑木林づくり。先生はその見守り人(ファシリテーター)に。地域の人は、雑木の中の1つや動物に、あるいは太陽や風という役割を担っていくことかもしれない。

~~~ここまで

次に大学生の「やりたいことの見つけ方」っていうタイトルへの違和感から

~~~ここからメモ

アイデンティティとコミュニティ
個人戦と団体戦
東洋と西洋
デカルトとスピノザ
計画性と予測不可能性
評価と承認
共感と違和感
自我と共同体
個性の構成員になる
他者と出会う
キャリアデザインとキャリアドリフト
贈与者になる。イスラムとキリスト
手段として学ぶと機会として学ぶ

~~~ここまでメモ

そして、5月から実験的にスタートする「オンライン劇場ツルハシブックス」の企画を考えたのがこのころ。ツルハシブックス閉店のときのコミュニティの閉鎖性について、宮台真司さんが次のように言っていた。
プラットフォームの寿命は2年。2年が過ぎれば、アーリーアダプターの次のアーリーマジョリティが参入し、結果、プラットフォームは死んでいく。

まさにこれ。人材募集市場でも起こっていること。

2年で劣化しない「プラットフォーム」「場」「コミュニティ」は可能か?
っていうことで考えついたキーワードは次の3つ。

1 身体性
本屋というのは、言語コミュニケーションで成り立っている。言語コミュニケーションの得意ではない人は、その「場」に、悪い影響を与えてしまう。言語コミュニケーション以外のコミュニケーションの方法を持つこと、それが「畑のある本屋」仮説だった。

2 (半)開放性
「リアルな場」というのは、そこに存在しているから価値があるわけであって、だからこそそこには「いい雰囲気」みたいなものが流れるのだけど、一方でそれは、場を内と外に分ける、というリスクを負っている。「安心感」という意味では、ある程度の「顔を知ってる」みたいなやつは必要なのだけど、それを外に開き続ける、みたいなことが必要である。

3 (共同体の)多層性
横につながるのではなく、ひとりひとりが幾重にもさまざまな共同体を掛け持ちしている前提で、目の前にある「場」は、それを切り出した場面に過ぎない。ひとりひとりの視点から描かれるスタイルの小説があるけど、そういう感じ。仕事場でも、家庭でもない「サードプレイス」がいくつもあって、その「場」ごとに人は変わる。

~~~
さらに、「お金2.0」へ

発展する「経済システム」の5つの要素
生産活動をうまく回す仕組みを経済システムとここでは呼びます。

1 インセンティブ
2 リアルタイム
3 不確実性
4 ヒエラルキー
5 コミュニケーション

1 インセンティブ
現代は生物的な欲望よりも社会的な欲望が目立っていて、なかでも3M(儲けたい・モテたい・認められたい)の3つが欲望としては特に強く、これらを満たすようなシステムは急速に発展しやすいです。

2 時間によって変化する(リアルタイム)
常に状況が変化するということを参加者が知っていることが重要です。人間(生物)は変化が激しい環境では緊張感を保ちながら熱量の高い状態で活動することができます。

3 運と実力の両方の要素がある(不確実性)
自らの思考と努力でコントロールできる「実力」の要素と、全くコントロールできない「運」の要素が良いバランスで混ざっている環境のほうが持続的な発展が望めます。

4 秩序の可視化(ヒエラルキー)
「経済」は実物のない、参加者の創造の中だけにある「概念」に過ぎません。なので、目に見える(数値化される、分類される)指標がないと参加者は自分の立ち位置がわからなくなってしまいます。また、指標が存在することで自分と他人の距離感や関係性をつかみやすくなるメリットもあります。

一方でこのヒエラルキーも、それが固定化されると
2 リアルタイム(時間によって変化)と
3 不確実性(運と実力の要素)
が失われ、全体の活気を失わせてしまう原因にもなる諸刃の剣です。

5 参加者が交流する場がある(コミュニケーション)
人間は社会的な生き物ですから、他人との関係性で自己の存在を定義します。参加者同士が交流しながら互いに助け合ったり議論したりする場が存在することで、全体が1つの共同体であることを認識できるようになります。

追加1 経済システムの「寿命」を考慮しておく
フェイスブックがインスタグラムを買収したように、次の経済システムを用意しておく。

追加2 「共同幻想」が寿命を長くする
参加者が共同の幻想を抱いている場合、システムの寿命は飛躍的に伸びます。全員が同じものに価値を感じれば、実際に価値が発生してしまうのです。共同幻想はシステムに対して自己強化をかけます。
~~~

これ、やっぱりすごいな。意識したほうがいいやつ。
みんな1インセンティブばかり見ているような気がする。

さらに、お金2.0は、「価値」主義の時代へのシフトを語る

~~~ここから
1 有用性としての価値
これはもっともなじみが深く、資本主義がメインに扱う価値です。経済、経営、金融、会計などで価値という言葉が出たらこの有用性・有益性・実用性としての価値を指しています。一言で言えば、「役に立つか?」という観点から考えた価値です。
現実世界で使用できる、利用できる、儲かる、といった実世界での「リターン」を前提にした価値です。なので、直接的に次のお金に繋がらない、現実世界で利用できないものは有用性としての価値はないということになります。

2 内面的な価値
実生活に役に立つか?という観点とは別に、個人の内面的な感情と結びつけても、価値という言葉は使われます。愛情・共感・興奮・好意・信頼など、実生活に役立つわけではないけれど、その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼす時に、価値があるという表現を使います。有用性としての観点で考えると、個人が心の中でどんなことを思っているのかは関係ありませんし、それらの感情が役に立つといったことはありません。感情は消費する、役に立つといった実用性とは無縁だからです。ただ、美しい景色を見た時、友達と過ごして楽しかった時、それらには価値があると表現しても特に違和感はないはずです。

3 社会的な価値
資本主義は個人の利益を追求していくことが全体の利益につながるという考え方です。一方で、慈善事業やNPOのように、個人でなく社会全体の持続性を高めるような活動も私たちは価値があると表現します。金融や経営の観点から考えると、社会全体の持続性を高めるような行動はただのコストに過ぎず、少なくとも価値があるとは言えませんでした。ただ、砂漠に木を植える人たちや、発展途上国に学校を作ったりする人の行動に価値を感じる人は多いと思います。

このように一言で「価値」と言っても、私たちは3つの異なる概念を区別せずに使っていることがわかります。そして、いずれも私たちの脳の報酬系を刺激する現象であり、脳からしたら等しく「報酬」ととらえることができます。

資本主義の問題点はまさに1の有用性のみを価値として認識して、その他の2つの価値を無視してきた点にあります。ただ、実際に1の価値のみを追求して2と3を無視すると崩壊します。例えば、自社の価値のみを追求し、ブラックな労働環境で社員を酷使して何の社会的意味も見出せないような企業は、優秀な人材も引き寄せられず、内部告発や社員の離反を招き、消費者からの共感も得られません。

価値主義で扱う価値とは、1も2も3もすべて価値として取り扱う仕組みです。そして1と比べて2や3は物質がなくあいまいであるがためにテクノロジーの活用が不可欠です。

裏を返せば、価値主義とは資本主義と全く違うパラダイムではなく、これまでの資本主義が認識できなかった領域もテクノロジーの力を使ってカバーする、資本主義の発展系と考えもらったほうがわかりやすいと思います。

~~~

「You Tuber」とは、チャンネル登録し動画を見てくれるファンからの「興味・関心」という価値を最大化している人のことであり、彼らが稼ぐ広告費などの「お金」とは、その「価値」の一部を変換したものに過ぎないのです。

つまり、「資本」を最大化するのではなく、「資本」の源泉である「価値」を最大化すること。
そしてその価値は上に挙げたように「有用性」だけではないということ。
そして2 内面的な価値と3 社会的な価値を現金化(資本化)する手法が例えば九ラウンドファンディングなどテクノロジーの発達によって訪れているということ。

そういう意味において、キャリアを考える上での大切な質問は、
「あなたのやりたいことは何か?」ではなく、
「あなたが感じる価値は何か?」になってくるのだろう。

超一流企業に就職できるエリートが名もなきNPOに就職するということは、自分が考える「価値」の言語化ができているのだろうと思う。まさに「合理的」判断というときの「合理的」が経済合理性のみを指し示さなくなってきているのだ。

~~~
そして、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトの転機となったコロナ休校期間中の先生方とパートナーズの「オンライン勉強会」。

「対話」の重要性と「承認」との関係を感じる機会となった。

~~~ここから

society5.0が問いかけるのは、目標達成というパラダイムそのものなのではないか?これからの社会に向けて、磨いていくべきは、目標達成の能力だけではなく、(もちろんそれが大切ではないとは言わないが)学び続けること、そしてそのために対話し続けることなのではないか?

自分と対話し、他者と対話し、社会と対話する。その社会との対話方法の1つとして仕事、キャリアがあるのではないか。「対話」によって、目の前の人は「他者」になる。いや、自分さえも他者になる。「ふりかえり」とは、自分を他者化する行為であるとも言える。

「対話」の習慣は、人を「承認」する。

~~~

いや、これ、ホントそう。承認の中でも特に「存在の承認」は、「対話」によって徐々に生成されていくのではないかと思う。

さらに、税所篤史さんと苫野一徳さんの対話から。

「探究的」に学ぶとは、「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?学校じゃなければ、できないことは何か?学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。現在の教育は150年前の仮説にすぎない。それ以前から学びはすでに存在していた。時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。それが現在の学校システム。

~~~
ホントそうだよね。新型コロナウイルスが問いかけているのはまだにそれだ。「学び」と「遊び」は、本来は分けられずつながっているのかもしれない。その「あいだ」に探究はあるのかもな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:30Comments(0)学び足跡日記

2021年01月08日

二元論でも第三の道でもなく「あいだ」がある

2020年4月
学校始まったばかりでふたたび休校措置になった4月。
取り憑かれたように本を読みながら、
いまやれることを考えていました。
ここからは1か月単位でいきます。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」から

~~~
かつて、インターネットが代表する情報技術が人類に与えていた「夢」とは、「ここではない、どこか」を仮構することだった。この世界とは異なるもうひとつの世界を構築すること。それが前世紀の末にコンピューターが担った最大の気体であり、そして当時の若者たちが虚構に求めたものだった。

だからこそ僕たちはそこで本名ではなくハンドルを用い、もうひとつの自分を演出した。そしてそこには現実とは切り離されたもうひとつの世界を作り上げ、そこでもうひとつのルール、もうひとつの秩序、もうひとつの社会を築き上げようとした。まだインターネットがソーシャルネットワークに飲み込まれる前の話だ。

だが、現在は違う。僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。多くの人たちが実社会の人間関係の効率化とメンテナンスのためにfacebookを使い、夜の会食の店を食べログで検索して予約し、移動中はApple musicでヒットチャートをチェックする。退屈な会議中は、海外出張中の友人にメッセンジャーで愚痴をこぼす。

21世紀の今日、僕たちは情報技術を「ここではない、どこか」つまり仮想現実を作り上げるためではなく「ここ」を豊かにするために、つまり拡張現実的に使用している。

(中略)

20世紀の最後の四半世紀のあいだ、虚構とは、革命の可能性を失った消費社会において、「ここではない、どこか」を仮構することが役割だった。これが仮想現実的な虚構だ。しかし、超国家的に拡大した市場を通じて世界を変える回路が常態化した今日において、外部を失ったグローバル化以降の世界において虚構が果たすべき役割は「ここ」を重層化し、世界変革のビジョンをこの現実において示すことなのだ。拡張現実(AR)的な虚構がいま、求められているのだ。

~~~

「外部」を失ったグローバル化以降の世界のために「ここ」を重層化する必要がある。
これ、たぶん「探究」にも言えるなあと。
津和野高校の探究って意図せずして「高校生活」の重層化を可能にしているのではないか。

「ここ」「この町」の暮らしの重層化のために、観光を強化し、外国人観光客を呼び、テレワーク拠点をつくり、IT企業と連携し、まちをつくっていくこと。それがこの町で暮らす意味になると思う。

十数年前、「課題先進地」というフロンティアを求め、海士町に、西粟倉村に、神山町へと志ある若者が移住した。

それはきっと、アメリカ西海岸でインターネット産業を興した若者たちの「世界に素手で触れている」という感覚に似たようなもの。

「未来に素手で触れている」というような感覚なのではないか。それがフロンティアなのではないか。

~~~
緊急事態宣言まであと少しのところで、
「心の時代にモノを売る方法」と「武器になる哲学」の合わせ技

「心の豊かさと毎日の精神的充足感」への希求が主流をなしてくると共に、長らく―おそらく産業革命以来200年以上も―「生産と分配の経済」の陰に隠れていたもうひとつの系統、「贈与と交換」そして「社交と商業」の経済が、再び表舞台に出てきたのである。
(中略)
もうひとつの経済(贈与と交換の経済)の決定的な原則は
1 1回ごとの試みによって(お客さんに喜ばれるかどうか)が模索される
2 常に需要のないところに新しく需要を作り出す
3 あらかじめ需要は予測され得ない

とダーウィンのこれ。
もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。
って、僕も言ってました。だから、変化しなきゃいけないんだよ、お前(オレ)って。

誤解していました。僕は、ダーウィンを誤解していました。この本を読んで、突然変異は「意志」ではなく「偶然」に起こり、生き延びるのは、「個人」ではなく「集団」なのだ、と。

この町が生き延びるために、異質な他者(エラー)を組み込んでいくことが必要なのだと。
そのエラーを得るために「学ぶ環境」を売り込むキリギリスになろうじゃないか。
エラー求む、だよ。

~~~
これ、いいな。高校魅力化の基本姿勢かも。

からの平田オリザ「22世紀を生きる君たちへ」

現在、ハーバード大学やMITあるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは一見、不思議な事象だ。学生は厳しい受験戦争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。

インターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。

もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。そのようなネット時代を前提にして、ハーバードで一緒に議論することに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。

だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員を含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ。

~~~
これもめちゃめちゃ本質的。大学は1年間もオンラインになっているけど、そもそも「授業料」って言ってるけど、それは授業に対して払っているのではなくて、「学びの共同体」に入る「会費」のようなものになっていくのだと。

高校魅力化も同じだろうな。学びの「コンテンツ」というよりは「学びの共同体」「学びの土壌」に対して対価を払うのだろうなと。「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ、さらには「どこで学ぶか?」がとても大切になっていく。

~~~

そしてウィークリーオチアイをこの頃見始めてますね。
シン・ニホンの安宅さんから。
http://hero.niiblo.jp/e490580.html

コロナショックで起こっていることは、クローズで密な空間からオープンで疎な空間へと距離をとるところが標準になる。

それっていうのは、City(都市)への挑戦、つまり「文明なるもの」への挑戦なのだと。都市に人が集まり、交わることで人類は文明をつくってきた。2000年以上続いた転換点にいるのだという。

そういう意味では、いま、多くの人が当たり前のように使っているzoomのようなテレビ電話システムを使えば、開疎化されても、価値を生むことができるような世の中にはなっている。つまりデジタルテクノロジーやネットワークがそれを可能にしている。

「都市」「高密度」「効率性」「弱者切り捨て」といった社会モデルそのものが変わらなければいけないのだと。

開疎化された世界では
・土地が余っている
・職住隣接
・食べものがおいしくて安い

また、起業家、ベンチャー企業にとっても東京のイベントがぜんぶzoomでオンライン配信となったことで、地方にいても東京と同じ情報が手に入る。ベンチャー企業にとっては大きなビジネスチャンスが生まれているかもしれない。建築やオフィスのリノベーションなど。と同時に地方も企業誘致のチャンスがきている。

~~~
さらに「シン・ニホン」から。

マネジメントとは
0 あるべき姿を見極め、設定する
1 いい仕事をする(顧客を生み出す、価値を提供する、低廉に回す、リスクを回避する他)
2 いい人を採って、いい人を育て、維持する
3 以上の実現のためにリソースを適切に配分し運用する

価値創出の3つの型
1 N倍化(大量生産)
2 刷新(A→B)
3 創造(0→1)

複素数平面的なゲームに入る前の実数空間ゲームのときは、ご存知のとおりとにもかくにも「N倍化」、大量生産でボリュームを生み出すことが何よりも大きな価値の源泉だった。トップに立つことはトップシェアをとることと同義だった。

次の強かったのが「刷新」だ。なんらかの分野に知恵を絞ってアップデートすることである。この実数軸の時代、日の目を見なかったのが今風に言えば0to1の「創造」だ。

ところが今はどうか。「N倍化」はすでにシェアを握りスケール(規模)をとってしまった大企業にとっては、長期的な人口調整局面については先細りのトレンドだ。一方の「刷新」は今や「N倍化」よりも遥かに価値を生む力がある。0to1の聖地のように言われるシリコンバレーで行われている大半の取り組みも実際にはこの刷新モデルが中心だ。

そして、今の時代において明らかにもっとも力強いのは0to1「創造」だ。妄想を形に変える力を持つコミュニティ、人、企業が、もっとも影響力が強く、その結果、富も握る。
だから、「異人」の時代なのだと安宅さんは言う。「異人」からイノベーションを生むのだと。

~~~
からの共同体の基礎理論(内山節)
これもウィークリーオチアイで紹介されてて、買ってみましたがタイムリーでしたね。

特にこの「コミュニティ」の定義と「多層性」のところ。

マッキーヴァーのコミュニティとアソシエーション
コミュニティ:共同的な生活が営まれている場であり、社会のあり方や文化などが共有されている結合体
アソシエーション:コミュニティの内部にある、ある目的を達成するための組織

「コミュニティは、社会生活の、つまり社会的存在の共同生活の焦点であるが、アソシエーションは、ある共同の関心または諸関心の追求のために明確に設立された社会生活の組織体である。アソシエーションは部分的であり、コミュニティは統合的である。」(「コミュニティ」(中久郎・松本通晴監訳 ミネルヴァ書房)

真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。

それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。

共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。

この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。

とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。

故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。

トクヴィルにとって健全な社会とはさまざまな精神の習慣が併存している社会だった。逆に述べれば、ひとつの精神の習慣が覆っているような社会を、トクヴィルは危険な社会とみなした。ひとつの理念が支配するような社会をよい社会だと考えてはいなかったのである。なぜならひとつの理念が支配すれば、その理念だけが正義になり、それとは異なる精神の習慣を圧迫する抑圧的な社会が生まれてしまうからである。

いくら制度が民主的でも、圧倒的な多数派が同一の精神の習慣をもっていれば、それが当たり前のように正義になり、それと異なる意見をもっている人は葬り去られる。ここに制度は民主的でも、実態は強権的、抑圧的、全体主義的な社会が生まれる。それがトクヴィルのみたアメリカだった。

では多様な精神の習慣はどうしたら生まれるのか。小さな集団が多様に存在することだと彼は考える。人間の精神の習慣は自分でつくっているように見えるかもしれないがじつはそうではない。そのグループに加わっていることによって、そのグループの精神を身につけるのだと。

いくつかの精神の習慣を1人の人間が身につけるようになると、どれかひとつの精神の習慣に絶対的な真理があるわけではないことに、人々は気づくようになる。

~~~

「多様性」っていうのは、本当はこういうことなのだろうな、と。
もともと日本の共同体には「自治」があったのだと。

からの、内田樹×えらいてんちょう「しょぼい生活革命」

~~~ここから引用
学校教育は戦後のある時点から「工業製品を作る」という産業形態に準じて、制度設計されるようになりました。それは適切に管理された工程をたどって、仕様書どおりの「製品」ができていくプロセスを教育についても理想とする考え方です。

その前の時代、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと収穫期になると「何か」が採れる。

「工場での工業製品を製造する」というのは第二次産業が支配的な業態だった前期産業社会に固有のメタファーです。「教育の質管理」とか「PDCAサイクルを回す」とか「シラバスによる工程管理」とか、そういうのは全部「工場でものを作る」ための作業なんです。

「私はこれこれこういう人間ですと自己規定して、それを言葉にしてずっと維持してゆく」というアイデンティティ圧力というのは、工業製品に固有のものなんです。缶詰や乾電池だったら、規格化しないと使えない。だから、つよい同質化圧が学校教育で働く。

一度仕様書に組成や使途を定められた製品は、途中で仕様を変更することが許されない。いまの日本社会では、その「仕様変更の禁止」のことを「アイデンティティー」と呼んでいるんです。

~~~ここまで引用

いやあ、これはそのとおり。「自分らしさ」とは「自分のやりたいことは?」とかアイデンティティへの違和感って、これが原因だろうなあと。

いまの社会に合ってない。複雑化し、予測不可能化している社会に、価値を生むためにはそもそも「アイデンティティ」の確立は必要なのか?っていう。

~~~
そして「共感資本社会を生きる」。
やっぱ高橋さんいいなあと。

印象的だったのは「間」の話。

「間」っていう概念も大事ですよね。どっちかを取るってことではない。西洋って「間」がないので、あなたか私か、自然か人間か、みたいなどっちかを取るってなりがちです。だけど日本の面白いところは、間があるんですね。どっちかを取るということをしない。

間にフォーカスすれば、基本的に対立構造っていうのは生まれないんですよ。なぜかと言ったら、そこの間に存在しているのはあなたでもなく自分でもないものだから。でも、自分とあなたってなった瞬間に、壁をつくり対立が生まれるんですよ。

これからは共同体感覚の時代なので、お互いが交わる場所があって、お互いが当事者になれる場所が必要になる。その場所が、僕は「間」だと思っていて、あなたもこの間の当事者だし、自分も当事者であるっていう、お互いが当事者になったときには争いなんて起こらないんです。

この間にフォーカスするっていうことがすごく重要で、これが関係性の再構築なのかなと思っています。

「間」にできあがるものってお互いでつくるものだから、自分自身じゃない部分がある。そうしたときに自分という器の中ではできないことが、この「間」ではできるし、存在しうるわけですよ。

「間」を育むための必要な時間とか環境とかって、僕は地域にすごく存在していると見ている。

働きかけ、働きかけられる、動き、動かされるっていう、この相互作用の複雑系がまるっと「生きる」っていうことだとしたら、地域にはこれを感じやすい環境がありますよね。

人と人との関係性だけじゃなくて、人と自然との関係性もそこには存在していて、その「間」には対話があるじゃないですか。

~~~

4月のラストは、「13歳からのアート思考」から

「表現の花」にとらわれるのではなく、興味のタネを蒔き、探究の根を伸ばし、アートという植物を育てていくこと。その植物は、作品でもあり、高校生自身、つまりアイデンティティでもあるんだと。

そんな場づくり。そして地域の環境づくり。

アートって自由だと思った。いつのまにか収容されていた(あるいは自ら築いてきた)檻をぶっ壊すのは「問い」というベクトルだった。
自由とは「自ら定義すること」だと思った。誰かの設定した枠組みで誰かの設定した答えに向かっていくことは不自由だと思った。

~~~

「間(あいだ)」っていうコンセプト。
二元論ではなく第三の道でもなく、「あいだ」っていうのがあるんだよな。
しかも「あいだ」には無数のグラデーションがあるんだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)学び足跡日記

2021年01月07日

学びの土壌に興味のタネを蒔く

2020年1月~3月ふりかえり。
いよいよ、2020年に入りました。
まだ新潟は「コロナ前」ですね。

1月1日はジュンク堂で買った5冊の本からスタート。
その中でも「編集思考」は特に、魅力化プロジェクトにも通じるものがある。

キーワードは「エンゲージ」。
これってコロナ後のもっとも問われているところなのだろうと。

食事とか医療とかではない生活に必要なものではないモノやサービスを売っている人(本屋もそう)
はますます「エンゲージ」が問われている。

サブスクリプションモデルに代表される「エンゲージ」ビジネス。
その「エンゲージ」には4つのポイントがあります。
コミュニケーション(communication)
コミュニティ(Community)
コンシステンシー(consistency)
カジュアル(casual)

「こう言うと、先ほどの「コンシステンシーの話と矛盾するのではないか」と思われるかもしれませんが、複数の顔を持つことと、一貫性を持つことは必ずしも矛盾しません。単に複数の顔があるだけであれば、それはできの悪い福笑いのようになってしまいます。分裂した人格になってしまい、不信感を高めてしまいます。しかし、一見すると多才で多彩なのだけど、通底するThought(思想)やTruth(真実)が感じられる。表面上のコンシステンシーではなく、思想レベルのコンシステンシーがあるという状態が理想なのです。逆に思想レベルのコンシステンシーがあれば、表出する顔は多様でもいいのです。人間と同様に、それぞれ異なるターゲットに、異なる受け入れ方をするのは、企業やブランドとしても自然です。

編集の4ステップの最初の「選ぶ」のところに出ていたセレクトの法則1「いいところだけを見て惚れ抜く」っていうところにも通じるけど。「編集思考」っていうのは、組織論やアイデンティティ構築についても使えるのではないかなと思った。もっと言えば、まちづくり、地域づくりについても、同じことが言えるのではないかと。

長く続くファンとの関係。いや、ファンというよりもパートナーと言えるような関係を気づけるかどうか。

10点満点ですべてが7点のヒトやモノやコトより、たとえ欠点があってもどこかが飛び抜けた素材を選ぶこと。他の人が気づいていない、本人すらも気づいていない「未開拓のいいところ」に気づけるとより価値は高まる。

佐々木さんは編集思考で大切なことは、完璧なものを見つけようとせずに、デコボコな個性をくっつけて、「組み合わせで完璧を創る」という発想に切り替えること。

これって高校生や大学生のアイデンティティの話にも通じていくよなあと。

「いいところだけ見て、惚れ抜く」ところから始まっていく。

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そして、宮崎・飯野高校@グローカルリーダーズサミット
シンポジウム史上、もっともアツくなった校長挨拶。

http://hero.niiblo.jp/e490186.html

あなたの隣にいる「その人」は世界を変える人かもしれない。
「その人」はあなたかもしれない。
これ、最高っす。

子育て支援活動をするNOGIKUのプレゼンにも
「これ、NPO立ち上げとか社会起業塾のプレゼンじゃないか?」
って思うほどに衝撃的だった。

翌日の2日目には三重県の飯南高校美術部でラテアートをつくる佐々木くんに「一回性」の美学を学んだ。
「学び」はきっとアートに寄っていくのだろと思ったし、その最前線はバンクシーのような「一回性」を大切にするのだろうと。

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にいがたイナカレッジの「トビラプロジェクト」報告会
http://hero.niiblo.jp/e490215.html

トビラプロジェクトの大学生に「まきどき村の目的は?」って聞かれて誰も答えられない。目的や目標を持って、どこかに向かっていくわけではないから。「存在価値」とか「有用性」ではなくて、ただ「営み」の中にある。それがまきどき村の価値なのだと。TANEMAKI2にも書いてあったけど、システムは自らを維持するため構成員に「有用であれ」そして「交換可能であれ」と迫る。それって、人の幸せのためにシステムがあるのではなく、システムを維持するために人があるのではないか?

「パッとする」っていうのは、例えばソトコトに掲載されたり、地域外の人がめっちゃ集まっていたり、商品の売り上げが上がっていたり、SNSのフォロワーがたくさんいたり。「数値化」されそうな何かがあること。
「パッとしない」っていうのは、分かりにくいっていうこと。考えてみれば、まきどき村の活動は、すごく曖昧だ。朝ごはんイベントと田んぼづくりと、日常とイベントが陸続きになっている。でも、「暮らし」ってそういうことだろう。

「参加」の度合いにグラデーションがあり、それを許容できること。遅刻歓迎、畑作業も朝ごはんも参加自由、農作業もそうだけど、手伝ってくれるととても助かる。そんなあいまいさ。それを「ゆるさ」と呼ぶのか。
「パッとしない」は分かりにくい、ということ。分かりにくい、っていうのは分けられないということ。お客さんとスタッフを分けないこと。「暮らし」とは、分けないことなのではないか。

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そして高校魅力化の会議

問うべきは「どうすれば残ってくれるか?」じゃなくて「どんな人に残ってほしいか?」ではないか。

関係人口も同じだ。「どうやったら関係人口が増えるか?」っていう問いの前に、「その地域にはどんな関係人口が必要なのか?」「どんな人に関係人口になってもらいたいのか?」っていうのを決めないと。

そもそも「良さを伝える」って不可能じゃないか。価値観そのものが揺らいでいるのだから。良さは本人によって、見出してもらわないことには、「良さ」とはならない。

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そして1月のラストは
面白法人カヤックの柳沢さんの講演@長岡

「面白法人」
1 まずは自分たちが面白がろう。
2 周囲からも面白い人と言われよう。
3 誰かの人生を面白くしよう。
「つくる人を増やす」という経営理念。

ブレストのルールは2つ。
1 仲間のアイデアに乗っかる。
2 とにかくたくさんのアイデアを出す。
「否定しない」よりもこの2つ。否定することで数が出せるとしたらそれはOK。効能は自分ごと化され、つくる人になる、面白がる人になる。

カマコン=ブレスト
1 アイデアプレゼン
2 ブレスト
3 発表
4 プロジェクト立案
5 実行
自分ゴト化させるにはブレストは最強。
アイデアを出す部活的な感覚。

あとはブログにも書いたけど
http://hero.niiblo.jp/e490259.html
伽藍とバザールの話はキャリアにおいて必須のような気がする。

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糸魚川の久保田さんとの対話
「キャリア教育」はあまりにも「ワーク」に偏重している。
それに対して「探究」は「ライフ」全体の問題だと。

たしかにそうかもしれない。
「自らのあり方生き方と一体的で不可分の課題」を見つけるには、
暮らし全体を見つめる必要があるよね。

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飛騨市の吉城高校発表会に参加。

「さわやかな敗北」

高校生にとって、自分の足りなさ、できなさに気づくこと。それは大きなモチベーションのスイッチになる。これをいつやれるのか?高校生の早い段階で、もっと言えば、中学生のうちでもいいから、やれたほうがいい。

同質性集団の中で比較によって敗北感を得るのでは無く、自分なりのミッションを持って実験・挑戦した後の敗北感を得ること。

「さわやかな敗北。」それを可能にするのは、地域というフィールドと地域の人という学びのパートナーと、ふりかえりのデザインだろうなと。

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その帰りに長野県立図書館のトークイベントへ。

影山さんが言っていた。
「モモ」が増えていけばいい、と。他者を操作しようとしないこと。
評価でもアドバイスでもなく話を聞いてくれる存在と空間。

「あなたがモモになったらいいんじゃないですか?」

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http://hero.niiblo.jp/e490297.html

からのマイプロ関東サミット
山梨のバッグづくりの高校生のプレゼンテーションに、
「自らのあり方生き方と一体的で不可分の課題」とはどういうことか、
感覚的にしった。

学習指導要領がいう、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」を見つけること。それは、「キャリア教育」と呼ばれる何かが言ってきた、やりたいことを見つける、とか、自分に向いている仕事を探す、とかいうことよりもはるかに重要なのだろう。その課題に出会うということ。そのために、地域や大人との「経験」が必要で他者や自分との「対話」が必要になる。

「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」とは、「使命」のことだと思った。ひとりひとりにその「課題」があり「使命」があり、それをひとりの力ではなく、周りの力を借りながら、果たしていく、ということ、そのプロセスの中にこそ学びがある。

織物プロジェクトの高校生のプロジェクトは、こう締めくくらられた。スライドには「人に頼ってもいいんだ」の文字。

そしてコメント。
「お世話になった人への感謝を忘れずに、そして、人に頼ることを恐れずに、これからも進んでいきたい。」
「人に頼ることを恐れずに」か。いい言葉だな、と。

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佐渡に渡り、宮崎先生に会いに行く
「私たち、嫌われているんです」から始まる、マイプロへのアプローチに熱くなった。

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にしかんプロジェクトの説明会

「10年後に最高の形で、この学校(地域)があるとしたら?」

そこでは、日々、生徒はどんな日常を送っていて、どんな学びを得ているのだろう?
そして、どんな生徒を輩出しているだろう?
さらに、それを包む地域の人は、どんなアクションをしていて、どんな顔をしているだろうか?
どんな仕事、働き方をしているだろうか?
そんなゴールをつくっていくこと。

大切にしたいものを、自分たちで決めること。
その決定に参画したからこそ、自分たちが向かっていける。
「ローカルマニュフェスト」っていうのは、
「参画社会」のひとつのカタチなのだと思った。

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2月のラストは山形・東北芸術工科大学のSCHシンポジウムへ。

まずは前夜祭の新潟から。
取釜さんの「圧倒的な勝手な使命感」アツかったなあ。

「未来に対する強烈な当事者意識」
「気づいた人がやらないといけない」
「コーディネーターはグレーなところに落ちたものを全部拾う」
これらは実は教員やコーディネーターだけではなく、高校生自身にも当てはまると思った。

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山形・郁文堂書店でリノベーションの意味を確認。
http://hero.niiblo.jp/e490342.html

リノベーションとは、その土地や場所に息づく継ぎたい何か、をどのように継いでいくかの方法論として改築や新しく何かをつくることなんだって思った。郁文堂書店プロジェクトが継ぎたいもの、残したいものは「郁文堂サロン」と呼ばれていた文化だった。

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そしてSCHシンポ本番。
小国高校の生徒たちの輝きに度肝を抜けれた。

あれが「ワークショップマインド」のチカラだ、と。
ファシリテート研修で学んだこと
・Yes,and・名前を呼ぶ・話の量を均等にする・自分から意見を出す

1 雰囲気づくり 2 やっている様子の観察 3 一緒にやってみる
安心・安全の土壌⇔対話の土壌「Yes,and」というコミュニケーションから。

「小国高校だからこそできる」
コンプレックスが誇りに変わる瞬間

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2日目の長野県教委の内堀さんの講演が本質的だった

・自分の人生を生きる当事者として
・学校を共に創る当事者として
・社会の一員(市民)としての当事者として
・新しい社会を創り次の時代につなぐ当事者として
一人ひとりが新しい時代や社会を創造する力と意思を持つことが大事。

「他校との差別化をどう図っていくか?」
という問いにひたすら向かっていた僕は、ガツンとやられた。

そうじゃないだろ、もっと先を、未来を、そしてひとりひとりの生徒たちを見ろよ、と。
ごめんなさいって思った。

もっと先を、未来を見て、そこに向かっていくこと。
あらゆる周りの人たちと「対話」を重ねていくこと。
周りの人たちと協働し、未来をつくっていくこと。

いいものを見せてもらった。
残された時間はあまりないけど、ここから登っていくしかない。
まだ見えない雲の上に、さらに高い頂上があるのだろうけど。

~~~

そして柏崎「まちから」でのスクランブルエッグ登壇。
http://hero.niiblo.jp/e490381.html

「アイデア」はどこにあるのだろうか?

さっきの場のチカラ理論で言えば、「HOW」「WHAT」と「for whom」「WHY」のあいだにあるのではないか?と。

つまり、言語化以前と言語化以後。何をどうやるか、と、なぜ誰のために。

そのあいだにあるのではないか。

あるいは、一回性と再現性予測可能性と予測不可能性。美しさと楽しさ。
そのあいだにこそアイデアがあるのではないか?という仮説が生まれた。

「学校」を、そして「地域」を、ふたたびアイデンティティの構成要素、誇りの製造装置とする。
それには、部活などリーダーシップによる一体感と成功体験ではなく、個別のプロジェクトという場と、地域の人との関わりの中で生まれるふるさと感が重要なのではないか。

それを仮に伴奏型チームと呼んでみる。多ジャンルの音楽を生み出す伴奏型チームに複数属してみること。その繰り返しにより、人はミッション、つまりWHY、そしてfor whomに出会える。

高校生の探究活動の祭典「マイプロジェクトサミット」を見学して、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」という言葉の意味が分かった。

WHYに、そしてfor whomに出会えた人生は幸せな人生だと思う。じゃあ、それをどうやって見つけるのか?

実は、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」は最初から分かるのではなくて、共感とか違和感とか、そういう非言語領域を大切に抱え続けて行動することで、次第に見えてくるのではないか。そして、その課題こそが自己のアイデンティティとなる。

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3月5-6日公営塾ネットワーク会議(オンライン開催)
と「小さなゆうびんせん」お披露目

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そして、内田樹さんの「サル化する世界」も衝撃でしたね。

アクターのふるまいが絶えず変化すると、システムの制御がむずかしくなる。だから、システムの管理コストを最小化するために、人間たちは「成熟するな」という命令を下されている。知識や技能を量的に拡大するのは構わない、生産性を上げたり、効率的に働いたりすることは構わない。でも、自分に割り振られた「分際」から踏み出すことは許さない。ましてや別人になることは絶対に許さない。人をして「括目」せしめるような生き方をすることは許さない。

システムの効率的な管理が大切な仕事であることを僕はもちろん認めます。でも、システム管理の効率化を急ぐあまり、アクターである人間たちを同一的なままにとどめておくというのは長期的にはシステムの自殺行為ではないかという気がします。もし、国民が成熟を止め、変化を止め、どれほど時間を経過しても「括目して相待つ」必要がなくなったら、その国ではもういかなるイノベーションも、どのようなブレークスルーも起こらないからです。

おいおい。こわいな。いまの世界は「システム」に人が最適化しているんじゃないのか?

~~~

3月18日には「キャリア教育」の中教審答申を読んで衝撃を受ける。

「自分らしさ」は職業の中にあるのではなくて、問いの中にある。その問いを駆動させるのが機会で、その機会が、田舎という環境と対話の中にはたくさんある。それをたまに「地域の課題」と呼ぶこともある。

「問い」を駆動するのが「違和感」であり、学びにおいては「共感」よりもずっと大事で、共感を強制する同調圧力は学びの敵となる。いわゆる「安心・安全の土壌」とか、思ったことを言える関係性っていうのは、違和感をキャッチする上で極めて重要で、しかもそれは身体的なもの。

学びの報酬は、達成の瞬間(達成感)にあるのではなくて、機会から問いが生まれる瞬間(違和感⇒問い)にある。それはさらなる行動(つまり学び)を駆動してくれる。

~~~

そしてもういちど、カヤックの柳沢さんの「ブレスト」について
「否定しない」ルールは何なのか?を考えた。
「場に溶ける」っていうのはどういうことか?と。

通常、ブレスト(ブレーンストーミング:アイデアだし会議)や
ワークショップなどをを行う時に設定される4つのルール。

1 結論厳禁:否定しない
2 自由奔放:粗削りなアイデアを歓迎
3 質より量:量の重視
4 便乗歓迎:他人のアイデアに乗っかる

しかし。
会社において「ブレスト」を重要視する「面白法人カヤック」では
ルールは2つしかない

1 仲間のアイデアに乗っかる
2 とにかく数を出す

つまり、4つのルールのうち、最初の2つのルールはない。

いろいろと試した結果。
否定しないというルールにはあまり意味がないことがわかったのだという。
たしかに、「自由に考えて」って言われてもそれって前提だし、とは思う。
しかし、1 否定しないっていうのはかなり重要だと思っていたので衝撃だった。

さらに落合陽一さんの「近代的自我」っていう言葉への違和感と重なる。

~~~

そして3月末、ふたたび内田樹さんの「サル化する世界」

集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。

(中略)

教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。

(中略)

教育の主体は集団です。教育は集団で行うものであり、教育を受けるのは個人ですけれど、その個人の活動から受益するのは集団です。「ファカルティ(faculty)」というのは「教師団」という意味です。教育活動を行うのは「ファカルティー」であって、教員個人ではありません。

(中略)

「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人々だけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」を目指すものだからです。

~~~

教育とはそもそも何か?から問う。
3月ラストは、「13歳からのアート思考」。

誰かに頼まれた「花」ばかりつくってはいないか?
「探究の根」を伸ばすことを途中で諦めていないか?
自分の内側にあったはずの「興味のタネ」を放置していないか?

アーティストに限らず、自らの「興味のタネ」から「探究の根」を伸ばすこと。
これって、これからの時代、みんなに必要なことなんだよね。
「共通の答え」なんて存在しなくて、
「自分なりの答え」「自分たちなりの答え」で生きていくしかないんですもん。

そういう意味では、学びの環境として、この町は最高だなと、僕は思うのです。

~~~

ここまで3月。
この後4月から、緊急事態宣言がなされ、取り憑かれたように本を読むようになります。  

Posted by ニシダタクジ at 11:39Comments(0)学び

2021年01月06日

プロジェクトという「庭」づくり

2年間ふりかえりシリーズ
2109年10月~12月

10月、公営塾研修。
藤岡さんの総合型選抜についての話。

大学=研究機関:分かっていないことを研究する
⇒推薦・総合型選抜でも見るのは、「学生」をやれるかどうか?

学生とは?
「研究=自ら物事を突き詰めて明らかにする」ために
自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定し、
その課題を解決するために、自分で動ける人が求められる。

自律的に研究できる⇒プロジェクト設計力
PBL=プロジェクト学習の重要性
学力の3要素⇒PBLで身につける⇒地域という題材が必要

11月、読書月間
橘玲さんの「人生は攻略できる」
いいなあ橘さん。
自己啓発本にまみれて売れるようなタイトルをつけるという美学。

「やればできる」ではなく、「やってもできない」を前提に人生ゲームの戦略を立てる。

~~~ここから引用

「圧倒的な努力」ができるのは好きなことだけ。

最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。

君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。

ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。

トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。

~~~ここまで

「スピリチュアル」つまり感性のこと。それはトライアンドエラーの中から何かを見つけてくれる。

あとは、仕事の3種類:クリエイター、スペシャリスト、バックオフィス。
バックオフィスだけは仕事=会社名となる。

あと、毎度出てくる伽藍とバザール。

インターネットは伽藍の壁を破壊しつつある。「伽藍(がらん)」とは、寺院にある門のように、外界と遮断する壁の内部のことだ。かつて会社は、そして地方は、さらには地域社会は、伽藍の中にあった。

そこでのゲームのルールは、橘さんのいうように「ネガティブゲーム」だ。「失敗をするようなリスクを取らず、目立つことは一切しないこと」。失敗すれば、不義理をすれば、そのネガティブな評判は一生ついてまわる。

その壁は、破壊されたのだ。あるいは、破壊されつつあるのだ。世界はバザールに向かっている。

バザールとはオープンな市場だ。誰かが珍しい良いものを売れば、それが評判を生んで儲かっていく。粗悪品は評判によって淘汰されていく。よいものはよいフィードバックがなされ、評判資本が増える。たぶん、そんな社会へと変化しつつあるんだ。

大切なことは「地域の課題解決」なんかじゃなくて、高校生ひとりひとりのスピリチュアルが「これだよ!」って思える題材に出会えること。課題解決は目的ではなく結果だし、単なる機会にすぎない。それを「伴走」ではなく、「伴奏」するようなかかわり。

高校生に伝えたいこと。

与えられても与えられていなくても「機会」の中で自らの「違和感」をキャッチし、それを深めていく中で「これだ!」って思える題材に出会い、好奇心を原動力に深めていくことによって、自分が信じられる「価値」に出会うこと。

~~~ここまで

11月の連休中は、正徳館高校に長谷川さんの講演を聞きに行きかき氷を食べて、
その後、黎明学舎体験合宿+公開ミーティングでした。

http://hero.niiblo.jp/e489973.html

キーワードとしての「かかわりしろ」を増やす、とか、地域内でも、関係人口的なアプローチが有効なのかもしれない。
・労力を出す・道具を出す・お金を出す・情報を出す(アイデア、人を紹介)みたいなメニューの設定。

「勉強」と「部活」という価値観。数値化され、序列化される価値。そこにはやはり、「効率化」という工業社会の要請があった。そもそも学校は「最小の労力で、(工場労働者として)一人前の人材を育てる」という「効率化」というコンセプトで始まった。おそらくは社会全体が「効率化」という価値観を信じた。

「効率化」とは、「価値の一元化」そしてそれによる「序列化」のこと。数値化し、量的に見るということ。その前提が崩れ去っている。価値は常に流動し、しかもそれは同じモノサシでは測れない。そのほうがよっぽどリアルで、量的な指標しかない社会のほうがパロディに思えてくる。

誰かが設定した価値に対して、量的に反応して一喜一憂するのではなく、自らが価値を設定し、それを分かち合える仲間とチームを組み、その価値に共感してくれる人に商品やサービスを届ける。それを作っていかなくてはいけない。

「ギャップ萌え人材」「〇〇探究芸人」をつくっていくこと。

大学入試でさえも、推薦・AO入試という「バザール」に向かっているのだ。
トライアンドエラーで一発当てる、っていうポジティブゲームを展開しないといけない。

~~~

上野千鶴子さんは「学校化社会」を次のように断じる。
http://hero.niiblo.jp/e484636.html

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

~~~

そして、映画「Most Likely To Succeed」上映会
http://hero.niiblo.jp/e489987.html

「教育はガーデニングに似ている。」

その種が、何の種なのか、わからないのだ。だから、まず、植えてみるしかない。それが「プロジェクト」という小さな庭なのだと思った。

土壌によって、気象環境によって、また一緒に育つ相手によって、その庭の出来は決まってくるし、自分自身がどんな花を咲かせるのか、また、咲かせようとワクワクするのか?が決まってくる。

みんなでいい庭をつくろうと、チームビルディングをする。

そんな庭をたくさん作ること、なのではないか。そして、その子がどんな種を持っているのか、興味深く見守ること、なのではないか。そしてそれを自らも庭の一部としてデザインすること、なのではないか。

これからやることは、「庭づくり」。

全員にキレイだねとは言ってもらえないかもしれないが、野菜も花も、皆それぞれが咲き誇っている庭を見ながら、その庭で取れた野菜のたくさん載ったスープカレーを食べたいなと思った。

~~~

そして、浦崎先生の講演会を初めて聞きました。

人間には容易だがAIには困難なこと
1 現場で「感じる」こと
2 問いを立てること
3 意味を味わうこと
→探究(自問自答)によって

・課題発見(問い)には、現場(地域)で感じることが必要
・感性には個性→探究テーマは高い個別性

~~~

さらに高校の生徒会による高校説明会初参加。
五泉高校のプレゼンが圧倒的に素晴らしかった。

まず、プレゼンの主語は誰なのか?
「学校」なのか、「わたし(生徒自身)」なのか。
これは全然違うよね。半数くらいの高校が「学校」を主語にして話していた。

そして五泉高校はさらにその上をいった
1 総合高校だから「個別最適化」できる:資格もとれるし進学もサポートしてくれる
2 先輩たちがやさしく「コミュニケーション」してくれる
3 地域を題材にチャレンジできる

これは今年の秋に復活したら意識しようと。

~~~

そして大崎海星高校と嶺北高校の視察・見学

大崎海星高校
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

嶺北高校
http://hero.niiblo.jp/e490024.html

大崎海星高校コーディネーターの取釜さんの
私塾での取り組みが出発点だった。
「やりたいイベント実行委員会」
中学生高校生が自主的にイベントを企画・実行する掲示板。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。はじまりはひとりかもしれない。でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

~~~
嶺北高校の探究の授業には度肝を抜かれた。

瀬戸さんは「次に会うときには別の人になっているという前提で授業をする」それはおそらく瀬戸さんにとっても。

来週の授業に来ている生徒は、今週とはまったく別人なのだ。その前提で、授業をつくる。ふりかえりをつくる。ライブ。瞬間瞬間

この授業は、瀬戸さんにしか作れないと思った。いや、本来はどの授業も、その人にしか作れないんだ。

瀬戸さんが言ってた。「目の前で変化している人の変化を見逃さずに済む。」

それを見ているんだ。ひとりひとりの「変化」そのものを。

瀬戸さんのNPO法人SOMAが運営する地域の学びの場「あこ」が本当に子どもから大人までが集って学んでいて、すごい場所だった。あれ見たら、僕が中学生だったら入学するよなあと。

エコシステム(=生態系)とそこにいるひとり。
という視点。

個の存在を意識しながら、学びのために環境(場)にアプローチすること。「承認欲求を満たす」というよりも「あなたを見ていますよ」というメッセージを言語外で伝えていくこと。そういうかかわり。

授業も、場も、エコシステム(生態系)ではないのか?

そんな深く、重い問い。再現性なんて、やってみないとわからないけど、誰がやっても同じ結果には絶対にならない。そして、環境も、そこにいる人ひとりひとりも、常に変化し続けている。それを感じながら、「学び」をつくっていくこと。「場」をつくっていくこと。

その「場」を見て、感じて。中学校3年生が直感で「ここにしよう」って決められるような。「ひとめぼれしました」って言ってもらえるような。

そんな「場」がつくれるか?にかかっている。

~~~
これだよね、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトが目指す「場」は。
まだまだ、これからだな。

11月のラストは
泉谷さんの「普通がいい」という病

http://hero.niiblo.jp/e490011.html
「頭」と「心」「体」についての関係性がわかりやすい。

「二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・数量化や計量ができるもの・再現可能なもの・必然性の明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を与えない場合しか扱えないという大きな限界があります。しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・質的なもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとってはむしろ重要です。なぜなら、それらの性質とは、「生きているもの」や「大自然」の特性そのものだからです。」

「人間をひとつの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。」「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけど、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。それがうつ状態や幻覚、妄想、そして摂食障害などです。いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の特異な秘書を雇ったのだけど、いつの間にかその秘書が社長を仕切り始めた、そんなイメージです。」

うーん、まさに。

~~~

イオン亀田でむかごジェラートを売っていた11月のラスト
そして迎えた12月。

一度行ってみたかった栃木の非電化工房へ。
月3万円ビジネスの著者フジムラさんの遊び心が詰まってた。
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

そして、それと合わせて
KJ法生みの親、川喜田二郎氏からの学びを。

~~~

「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)

この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。

「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?

「課題が与えられ、解決策を提案する」では、「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?

「判断」の余白をつくること。そこに「主体性」と呼ばれるような何かが生まれるのだと思う。それは「好奇心」だったり「探究心」だったりするのだろうけど。

~~~

デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場の価値。それは「創造」が起こること。それにより自己が変容すること。

そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?
そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。

そんな「場」をともにつくる。

~~~

これも深いですね。
初めににあるのは「我」ではなく「混沌」である。

12月14-15日はマイプロラボ新潟初開催でした。
「やりたいことは何か?」っていう問い自体が人口流出の原因じゃないか?
って思った。

もっとそもそも「仕事」とは?
わたしにとっての「価値」とは?
って聞かないといけないよね。

12月21日からは清川で温泉カフェをやっていました。
コーヒー焙煎楽しかったなあ。

そして公民連携ミーティングに出て山倉さんの話を聞いて、
その後、阿賀町で山倉さんのレクチャーを聞く。

はちみつ草野の
★「はちみつには使命があります」
★あなたにも使命があるんじゃないか?って問いかけてくる。
っていうのが衝撃的だったなあと。

このまちの使命はなんだろう?
ですね。

やっと、2019年おわりだ~。
次はいよいよ2020年。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)学び足跡日記

2021年01月03日

「おでん」に溶けるジャガイモになる

みなさんが振り返っているのに影響されて、
わたしも振り返ります。

2019年1月~3月(さきは長い・・・)

この3か月のテーマは「本屋」と「就活」でした。
まだ自分が5月から高校魅力化プロジェクトに携わろうとは思っていなかったですね。

2019年1月は、
「かえるライブラリー」のクラウドファンディングに挑戦。

年明けは「本を贈る」と「続・ゆっくりいそげ」を併せて読んでいました。
want,doからbeで自分のありたい姿を現すこと。
何をやるか?ではなく、誰とやるか?どうありたいか?を問いかけました。

★影山さんの場の定義
空間×関係性×記憶っていうのも記憶に残る。

★影山さんの場のチカラは
1 目的がなくても参加できる
2 多様な人が来る
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一
5 楽しく遊びの要素がある

影山さんは、「それってカフェじゃないか」って思うのだけど、
僕はやっぱり「それって本屋じゃないか」って思ったのです。

★向き合わないデザイン
また、「本の処方箋」から考えた「向き合わないデザイン」について。
1つ目 その場限りであること
2つ目 その悩みは本では解決しない
3つ目 向き合わずに本棚を見ながら話すこと
これによって、相談者が「心を開く」ことができるのでは?と考えた

★本屋は「委ねる」
・場に委ね
・感性に委ね
・購入者の未来に委ねる

★かえるライブラリーのシステムは公務員も参画できる地域ビジネスのプラットフォームであること。
・公開積読
・本で出会う就活⇒耳をすませばプロジェクト⇒「手紙を届ける」

★本屋のオヤジのおせっかい
無力というのは「何もしない」ということではない

★本屋は「つくる」と「届ける」が同時に起こる
文化=質の高い時間を盗まれたい。質のいい時間どろぼう

★場をつくることは未来をわからなくする方法

にいがたイナカレッジの連載では
「挑戦するな、実験しよう」が生まれた。
https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/

・やりたいことがわからない
・自分に自信がない
・リーダーシップ・主体性がない
・「就職」したいけど「就活」したくない
・「働きたい」より「暮らしたい」

クラウドファンディングは場になりうるのか?という実験は
1月28日の野島萌子の投稿がその1つの答えだった。
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72112#main

そして2月。
クルミドコーヒー影山さんに誘ってもらい、胡桃堂喫茶店での対談。

★主客同一⇒主客未分
新しいシステムをつくるには問いが必要。
「生産性」が問われると人は手段化する。
「問い」の種をまくような本屋
「空間的」にも「時間的」にもフラットであること。

まちから:水戸部さん
「欠落」と「有意味性」
伴走型支援⇒伴奏型支援

★地域の個性の構成員になること。
「営み」の中にあるという身体性(食や農)を通じて自分自身の豊かさに気づくこと。

「課題解決」⇒価値アプローチ
「源泉」をさがす⇒顧客(自分)アプローチ(面白がること)

doの肩書き×beの肩書き
「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく。

そして3月。
益田ひとづくりフォーラムへ。
ライフキャリア教育、カタリ場、大人と子どもの出会い直し
新・職場体験

2018年11月に行った「しまね教育の日ファーラム」で感銘を受けて、
2018年度3度目の島根へ(6月には海士町と雲南に行ってますね)

空っぽなままで言葉は出てこない
心動かしたことを貯めていく
★思考停止こそが絶望
アイデンティティ問題⇒未分化な地方でクリアできないか?

学び合えば希望は生まれる
⇒究極のエンターテイメント(予測不可能性)としての学び
⇒贈与を受けた者であることを知るために学ぶ

★「第3の大人」:評価しない大人、共に学ぶ大人

心>頭
「感じる」から始めるキャリア教育
共に「価値」を設定していく。
中学生も大人も「感じること」から始める。

そして、その帰り道。
愛知県のとある高校で講師を行う。
あれは大きかった。
http://hero.niiblo.jp/e488989.html

自分は多感な高校生に通用するのか?
っていうプレッシャーがすごかった。
お題はコミュニケーションについて
コミュニケーション力(スキル)⇒コミュニケーションデザインへ

さらに、
3月15日には再びクルミドコーヒーで影山さんと「就活」についてのトーク
良いものと悪いものはコナトゥスとの組み合わせによって決まる
リザルトパラダイムとプロセスパラダイムを併せること

3月のラストは
落合陽一さんの「日本再興戦略」が締めくくった。
http://hero.niiblo.jp/e489076.html

~~~少しだけ改めて抜粋

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きてきました。我々は個人なんてなくても、権利なんて与えられなくても、江戸時代など、対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、誰かが技術失業することはありませんでした。

~~~ここまで抜粋

そしてもうひとつ。日本再興戦略の冒頭から抜粋

~~~ここから引用

我々の教育は、人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるには特化していないからです。しかし、それで良かったのです。むしろそのほうが近代的工業生産社会では優位に立てたのです。

だって、近代以前の個別に尖った創造性社会を無個性で共通認識のある訓練された集団へ変換するほうが、マスを解体するより難しいと思いませんか?

これまでのシステムは、大量生産型の工業社会、たとえばトヨタの車をつくるのには向いてましたし、ソニーのテレビをつくるのには向いていました。みなが均質な教育を受けていて、何も言わなくても足並みがそろうからです。不良品が少なく、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せ感を演出できる社会は非常にうまくデザインされていたといえるでしょう。幸せは演出され、成長は計画されてきたのです。

ただし今は、工場が本質的に機械知能化されていっています。スマホのように、高集積で人間が関与することが難しいものに関しては、その作業工程で足並みをそろえる必要がありません。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればいい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」の3点セットだと僕は考えています。つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。

~~~ここまで「日本再興戦略」より引用

「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」
すごい発明だなあと。
カール・マルクス「資本論」の前に読み直しておいてよかった。

じゃあ、どうすればいいのか?
ヒントは「おでん」だ。

場という「おでん」の具として生きる(19.3.18)
http://hero.niiblo.jp/e489028.html

~~~ここからブログより引用

「二元論」でわかりやすくすること、とか「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が苦しさの原因なのではないかと。

よい「場」っていうのは、おでんのようなもので。

それぞれが、おでんに向かって
ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、
ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、
全体としてひとつのおでんができている。
ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。

よい場っていうのは「おでん」のような場なのではないか。

個人を個人として考えるのではなく、場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、とらえてみること。

2003年に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は200万部を売り、子どもたちに呪いをかけた。「プロフェッショナルになれ」という呪いを。一方で同じ年にリリースされた「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」と言った。それは子どもたちを癒すのではなく、よりいっそう、「何者かにならなければならない」という呪縛につながった。

でも。そもそも人はONEなのではないのではないか。
おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。

場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、
場とやり取りしながら、出番が来るまで、
役割を全うすることなのではないか。

そんな「おでんの歌」を、必要としているのかも。

~~~ここまでブログより引用

1月のかえるライブラリーと本屋の価値の話から、
「続・ゆっくりいそげ」から始まった2月、3月の影山さんとの対話。
そして益田ひとづくりフォーラムからの高校生への講演。
さらに、近代的自我に対する疑問。

2019年1月~3月。
この時点ですでに、僕が取り組みたい課題と、
その手法(おでんのような「場」をつくる)

振り返っていて一番驚いたのは、4月1日のブログに、こう書いてあること。

~~~

中学・高校の時から学校以外の場所に「おでん」を持つこと。「居場所」じゃなくて、「おでん」のような「場」を持つこと。何か小さなプロジェクトが生まれる、そこに小さな帰属意識と小さな参加意識が生まれるような、そんな「場」を持つこと。

その「場」は、「場」から生み出されるプロジェクトは、個人が特定されないような、中途半端な「匿名性」を持っていること。

それは、「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)で紹介されていた鯖江市「JK課」の取り組みのように、「JK課が批判されても、私の学校の成績が下がるわけじゃない」(参加高校生のコメント)とか、福岡で出会った大学1年生の「インスタ講座」で「インスタはもうひとつの人格を作り出す装置」というような、

調べればだれがやっているのか分かるけど、発言(表現)はプロジェクトとして、あるいはチームとして行う、っていうのが、日本人のメンタリティに向いているのかもしれない。だからこそ、大学生たちは、「場」を持とうじゃないかと。「おでん」のように相互に関係し合う「場」で小さなプロジェクトを生んでいこうじゃないか。

「プロジェクト」は仮の自分だ。もうひとつの自分だ。もちろん複数名でやっているから、自分そのものではないけれど。その「中の人」として、何かを始めてみること。

これが、オルタナティブ就活への第1歩なのかもしれない。

~~~

いや、すでに、今とほぼ同じような結論に到達しているんだなあと。
おそるべし、現代美術家、ニシダタクジ。

ふりかえり、やっぱ大事だ、と。

  

Posted by ニシダタクジ at 15:08Comments(0)学び足跡日記

2021年01月01日

全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる


「おやときどきこども」(鳥羽和久 ナナロク社)

新年1冊目はこの本。
12月30日に新津・英進堂で購入しました。
英進堂で買いたい本ですね。

思春期の若者、そしてその親と対話してきた塾の先生の記録なのだけど、
一言一言が美しくて、胸に来るものがあります。

詳しくは本書を読んでいただくとして、
(僕もまだ読み終わってないのだけど)
一節だけ紹介します。

~~~ここから引用

「遊びと企て」
企てと遊びとは、人間の日常生活における、二つの基本的なありかたであり、ひととひとの関係のとりかたと、その関係のもとでのふるまいかたの二つの基本様式である。(西村清和「電脳遊戯の少年少女たち」)

この場合の「企て」とは、その都度ある目的や意図をもってその実現に向かっていく行動全般のことで、一方で「遊び」というのは、例えば母親と赤ん坊の間の「いない、いない、ばあ」のような、私と他者との同調関係のなかで軽やかに世界に包まれる実感を得るような、それ自体は目的を伴わない所為を指しています。

私たちは「企て」と「遊び」の両方を享受しなければ満たされません。日々の生活にメリハリをつける目標や動機付けは欠かせませんし、勉強や仕事などの生活のために必要な行為は、広い意味ではすべてが「企て」と言えるものものです。一方で精神の緊張が伴う「企て」の狭間には、心をほどく「遊び」の時間が必要になるでしょう。「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

(中略)

親は子どものことを思って何かやろうとすると、いつの間にか子どものあらゆる可能性を自分の「企て」の中に回収してしまいます。

子どもの「遊び」にかまっていられない親が、その代理物としてすがるのが「企て」です。中でも、塾や習い事は、「やってる感」が得られやすいので、安心したい親としては便利なツールです。子どもが手から離れる上に、将来のために目的を見つけて成長していく子どもの姿を見ることができるわけですから、親にとってこれ以上のことはありません。こうして「遊び」を侵食する形で、ある目的を達成するための「企て」が子どもの生活の大半を占めていくことになります。

こうした「企て」には本来的に転倒が潜んでいます。私たちはある目的を達成したいから「企て」が生じると考えますが、そうではなく「企て」という欲求によって、事後的に「ある目的」が召喚されるのです。目的というのは初めから素朴にあるのではなく、目的的に動きたい私たちが目的的に動くために自らの手で立てるフラグの一種です。

こうして目的の達成を目指すというふるまいを手に入れたあとには、私たちが抱えていたもともとの不安の中身は忘れ去られ、目的の達成という情熱がそれに取って替わります。こうして急場をしのぐためのプロジェクトが成立します。

~~~ここまで引用

昨日のブログで書いた「副業をつくること」。
70%-30%くらいのバランスで自分のリソースを振り分けておくこと。
もちろんそのパーセンテージは個人の性格や人生ステージ、タイミングによるのだけど。

高校生活、大学生活で言えば、
70%を「達成・成長」のパラダイムへ
30%を「発見・変化」のパラダイムへ
と力を注いでいくこと。

これは、この本で言えば、「企て」の部分を70%-30%に配分していくこと。
さらに、その上で生活の時間の中で「企て」と「遊び」を70%-30%で配分していくこと。

「土日でストレス解消」という言葉は、
仕事でたまったストレスを、土日の何らかの活動で「解消」し、
また月曜日に仕事場へ向かうことを意味する。
それって、「遊び」じゃなくて「企て」だよね、ってこの本は問いかけてくる。

本書にあるように、
★「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

そういう「遊び」が必要なのだと。
いま、おれは生きているという「快」、「生」の実感が。

そんな「遊び」を人は根源的に必要としているのだと。
その「環境」を用意すること。
目的に取り込まれない「生」をともに生きること。


もうひとつ。100分de名著の「カール・マルクス 資本論」(2021年1月放送)から

これは昨日31日に読み始めてさきほど読み終わりました。

~~~ここから引用

かつては誰もがアクセスできるコモン(みんなの共有財産)だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、「商品」になる。例えば飲料メーカーが、ミネラル豊富な水が湧く一帯の土地を買い占め、汲み上げた水をペットボトルに詰めて、「商品」として売ってしまう。それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければ、スーパーやコンビニで買うほかない。これが商品化です。

二重の意味の「自由」。ひとつは、強制労働ではないという自由。もうひとつは、生産手段を持たないという自由。普通の人が生活のために売ることができるのは、唯一、自分自身の労働力だけなのです。

資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係からもフリーになる、つまり切り離されてしまうということです。

しかも、責任の感情をもって仕事に取り組む労働者は、無理やり働かされている奴隷よりも良く働くし、いい仕事をします。そして、ミスをしたら自分を責める。理不尽なことさえも受け入れて、自分を追い詰めてしまうのです。これは、資本家にとって、願ってもないことでしょう。資本家にとって都合のいいメンタリティを、労働者自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。

資本主義社会では、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されていくことをマルクスは指摘し、警告していたのです。

マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしという富を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない。

~~~ここまで引用

この話、つながっているんじゃないかと。
「主体性」が、「企て」に取り込まれていないだろうか?

私たちが高校生、大学生に身につけてほしいと思っている「主体性」は、
会社や社会が求める、「企業人として求められる主体性」なのではないか。

それは果たして、本人たちを、本質的な意味で「豊か」にするのだろうか?

カギは「演じること」だと僕は思っている。
「演じること」が人生を経営することの始まりだと思っている。
場面場面で、複数の自分を使い分けていくこと。
1つのことに全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じること。

「企て」と「遊び」を自ら配分していくこと。
「企て」の中身も、「達成」パラダイムと「発見」パラダイムに自らのリソースを振り分けること。
限られた資源をバランスし、理解も共感もできないかもしれない他者とチューニングし、協働していくこと。

予測不可能な、未来が分からない時代・社会で、どのようにふるまうべきか、大人たちも迷っている。
そんな不安に、一筋の仮説をもらった2冊の本でした。  

Posted by ニシダタクジ at 10:39Comments(0)学び

2020年12月26日

「わたし」をやわらかく開く


「はみだしの人類学~ともに生きる方法」(松村圭一郎 NHK出版)

読むべき本にタイムリーに出会えるって幸せだなあと。
たぶん、レヴィナスが言っていた
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」

じゃあ、どうすりゃいいんだ?
っていう問いに一定のヒントを与えてくれる1冊。

冒頭から「近代」に対する問い。

~~~
「近代社会」を支える人間観・社会観の中心に「個人」という存在があります。
確固とした「個人」が間違いなく存在する。近代はこの個人としての「わたし」の存在をもとに、
その個人が集まって社会を構成している、という考え方を発展させてきました。
でも、歴史的に見れば、それは必ずしも「あたりまえ」でも「自然」でもありませんでした。
~~~

興味を引く導入ですね。
そして次に「つながり」について言及します。

~~~
「つながり」には、ふたつの働きがあります。
存在の輪郭を強化する働きと、反対にその輪郭が溶けるような働き。
「ともに生きる方法」を考えるとき、この両方の側面に目を向ける必要がある。
~~~

現在起こっている「つながり」の可視化(SNS等)によって起こっているのは、「存在の輪郭が強化される」です。

エドワード・サイードが「オリエンタリズム」で述べたように、「オリエント世界を描く」ことは「ヨーロッパ人が何者であるかを知る」ためにある。つながりを通してAとBが何者であるかが定まるように、他者表象と自己理解は別々の営みではなく、同時に起きているのです。そうして、文化人類学は「異文化」を理解するための学問というよりも、異文化との出会いを通して自分たちのことを理解しようとする学問であると認識されるようになりました。

フレデリック・バルトは、「エスニック・バウンダリー論」を提唱し、民族集団はそれぞれ言語や文化、習慣といった内側の要素から定義されるのではなく、境界(バウンダリー)を接している他民族との関係によって定義される、としました。

次に、「輪郭が溶ける」について

松村さんはフィールドワークで訪れた場所での気づきを、次のように述べます。

それまで「わたし」という存在は明確な輪郭をもって存在していると思っていました。でも、見知らぬ他者と出会い、別の世界や生き方の可能性に触れることで、それまで「輪郭」だと信じていたものが揺さぶられる。その揺さぶりによって「わたし」のなかの大きな欠落に気づく。その欠落を埋めようと、「わたし」がそれまでの輪郭をはみだしながら他者と交わり、変化していく、そんな経験だったのです。

イギリスの人類学者ティム・インゴルドは、その著書「メイキング」で、人類学の参与観察は対象についての研究ではなく、相手とともに考えるプロセスなのだとはっきり書いています。そこで互いに変容することのほうが、客観的データを収集するより大切なのだ、と。自分たちの知識や枠組みを相手に押しつけず、相手と同じ場に身をおき、相手から学ぼうとする姿勢で「わたし」を開いておく。すると、その「つながり」はおのずと互いを変容させていく。その変容こそが「学び」なのだとインゴルドは言います。

人類学のフィールドワークでは、人びとの生活の中に入り込み、長い時間を一緒に過ごします。そうしているうちに「わたし」の輪郭が溶けて、他者であるはずの「かれら」の存在へとはみ出していくような経験をします。そのとき「わたし」と「かれら」の境界があいまいになり、もともと「わたし」だと信じていたものが、そうではないあり方へと導かれる。たしかにそこに「ある」と思っていた「わたし」の人格や価値観が絶対的なものではなく、容易に変化しうることに気づかされるのです。

私たちは他者とつながるなかで境界線を越えたいろんな交わりをもちます。それによって変化し、成長することもできます。それは「わたし」という存在が、生まれつきのプログラム通りに動くようなものではなく、いろんな外部の要素を内側に取り込んで変わることができる「やわらかなもの」だからです。

「わたし」が溶ける経験を変化への受容力ととらえると、ポジティブに受け止められると思います。さまざまな人と出会い、いろんなものをやりとりした結果として、いまの「わたし」がいる。その出会いの蓄積は、その人だけに固有のものです。だれ一人として、あなたと同じ人に同じように出会っている人はいません。「わたし」の固有性は、そうした他者との出会いの固有性の上に成り立っている。

でもだからこそ、いまの「わたし」が不満な人は、それを悲観する必要もない。みんな気づかないうちにかつての「わたし」を捨て、こっそり他者からあらたな「わたし」を獲得しているのですから。

この後、
平野啓一郎さんの「分人」理論(「自分」とは何か? 講談社現代新書より)を人類学視点から説明します。

状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、まさに「分人」的な人間のとらえ方です。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。ここで重要なのは、他者によって「引き出される」という点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみ出しながら、浸透しあう柔軟なもの、そうとらえると少し気が楽になりませんか?

もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられている。という自覚があります。

この本のラストに、まとめがあり。
輪郭が強調されるつながりを「共感のつながり」と定義し
輪郭が溶けるような、他者と交わるなかでお互いが変化するようなつながり方を「共鳴のつながり」と呼びます。

共感して「いいね!」をつけるのではなく、
自他の区別があいまいになり、「わたし」が他者との響き合いをとおして
別の「わたし」へと生まれ変わっていくといったイメージです。

~~~ここまでいろいろ引用

いやあ、これはすごい本だなあ。
僕が「場」に溶ける、「場を学びの主体にする」とかって言っていたことの
理論的な裏付けができているのかもしれない。

「取材型インターンひきだし」とか「にいがたイナカレッジ」とかでの大学生との対話でも、
「やりたいこと」とか「個性」とか「強み」とかって言っているけど、
そもそも、それを問うことで「自分らしさ危機(アイデンティティ・クライシス)」の負のスパイラルに落ちていっているのかもしれない。

「自分」を起点に考え、
「自分」と他者を分けること、
「自分」で意志を持ち、目標を立てること
そのものが「自分らしさ危機」を招いているのかもしれない。

そして僕が取り組みたいのはまさにそこだ。

「わたし」をやわらかく開くこと。
「場」に溶けだしていること。
「他者」と影響しあい、求められる「役」を演じること

「自分」という単位で考えることを
「自分たち」や「場」や「関係性」でとらえ直すこと。

そうやって委ねているうちに、
いつのまにかたどりつく「わたし」、
変化し続ける「わたし」を楽しんでいける、

そんな日々を送ってみたいと僕も思うのです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:42Comments(0)学び

2020年12月23日

#高校生は副業です

高校生が探究的なプロジェクトを実践する
「全国高校生マイプロジェクト」の新潟県版の発表会
「NIIGATA マイプロジェクト LABO 2020」が12月20日に
オンラインで開催されました。

阿賀黎明高校からは2組が出場し、
齋藤くんの「釣りってなんだ?」プロジェクトが
午後の代表プレゼンへ進出し、
「ベストアントレプレナーシップ賞」に輝きました。

そして、なんと昨日、別でエントリーしていた
「全国高校生マイプロジェクト関東summit」
の書類選考にパスして、出場が決定しました。
すごい。

20日のふりかえりをしていて、2人とも、他校の生徒の発表を聞いて、よく学んでいるなと。
特にベストマイプロ賞に輝いた佐渡高校の演劇プロジェクトと
津南中等教育学校の紅葉がキレイに見えるように杉を伐採したいというプロジェクトが心に残ったようで、

「部員がほとんどいない部活をゼロから立ち上げる行動力がすごい」

「紅葉の色合いを取り戻すために杉で生活用品をつくっていく一石二鳥感がすごい。スケールがでかい。」

「何気ない日常に疑問を持ち、行動するのはすごいと思う。家を出て、学校にいくまでのあいだにもヒントがある。自分も温泉に入るときも景色を見ていく」

特に3つ目は、いわゆる「行動変容」が起こる学びだったので大きいなと感じた。

高校生同士が刺激し合う。
いい「場」をつくってもらったなあと。
実行委員およびファシリテーター&アドバイザーのみなさん、たいへんお世話になりました。ありがとうございます。





子どものころからひたすら「釣り」をしていた彼のプロジェクトは、
「バーベキューの時に焼きたいので鮎を分けてくれないか?」
という一言から始まりました。





釣った鮎の美味しさ。
阿賀町に来てよかったなあと思いました。
そして8月23日「学校見学&まなび体験会」のスタッフ側として参加。



他県から来た中学生に「釣りを教える」を経験。
その日の午前中は地元の釣りクラブ「アユビレックス」主催の大会に参加。

今年の鮎は記録的に不漁で、
多くの人が数匹の釣果しかなかったところ

「午後から中学生に釣り体験をさせ、鮎を食べさせたいんだ」
と釣りクラブ代表の真田さんが語ると、みんなが釣った鮎を分けてくれた。
あったかいな、阿賀町の釣り人。
そして午後から釣り体験と、鮎塩焼き。
僕はオンライン説明会が終わった午後3時頃から参戦。
釣りたての鮎は信じられない美味しさでした。

振り返ると、あの日が、齋藤くんにとって、
ターニングポイントだったと言います。

釣りを中学生に教えたこと。
釣りを愛する地域の大人と一緒に釣りをしたこと。
昼ご飯(たれかつ丼)をご馳走になったこと。

「釣り」は自分ひとりの趣味でしかなかった、
それが、あの日、
「釣り」を通して、人を喜ばせることができる、
人とコミュニケーションすることができる、と知ったのだと。

その後、冷凍保存している鮎を燻製にしてみたらどうか?と燻製づくりを始め、
真田さんが「鮎出汁のそば」を作っていることを知って、蕎麦打ちのセットも自分で購入。
売れるくらいの商品づくりまで行きたいと言っていた。

そして、最後の決め。
#高校生は副業です。

これ、すごい問いだなあと。
むしろ大人に問いかけてくる。

あなたの本業はなんですか?って
いや、もちろん、生活をしていくために中心的に取り組んでいること
が本業と言うのだろうけど、

スピノザ的に言えば「コナトゥス」、
僕的に言えば「ベクトル」こそがその人の本質なんじゃないの?
って。
高校生って「カタチ」だからね。ベクトルじゃない。

#高校生は副業です

は、その問いを投げかける。
あなたの本質はなんですか?


ハウンドドッグ風に言えば、
「やりたいことがわかっているのに、始めてないんじゃないか?」
と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:03Comments(0)学び