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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





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2017年03月20日

作品と文化のあいだ

アーティストと作品の関係。のつづき。
「作品」と「文化」の関係。

まきどき村も
ツルハシブックスも
コメタクも

共通しているのは、
「効率化」そのものに抗っているということかな。
それは、結果論なのだけど。

まきどき村は
「豊かさとは何か?」という問いへのひとつのアプローチだった。
ツルハシブックスは、
「若者地域拠点としての本屋」という方法論だった。
そしてコメタクは、
「米を炊く」という具体的方法による世の中に好きと隙を増やす活動だった。

その中に共通して流れているもの。
それは、「効率化に抗う」ということ。
なのかもしれないな、と思った。

そして、それは、
クルミドコーヒーやカキモリやタルマーリーみたいな、
経済社会そのものへの問いよりは
少し小さいのかもしれないけど、
結構共感度の高いプロジェクトなのかもしれない。

目標を決めず、セッションを楽しむ。

「目的」は究極、今日を楽しむということ。
本日この時間を楽しむということ。

そこでは周りを見渡して、
みんながどんな楽器を手に持っているかを見ながら、
新しい演者が向こうからやってくるかもしれないと思いながら、
自分の楽器を打ち鳴らすか、あるいはそこで踊るのだ。

そうして、できていくもの。
それが、作品であり文化であり、自らのキャリアであるのかもしれない。

昨日、かなちゃんが言った言葉に、ドキっとした。

「日本語がYes Noを最初に言わないのは、
結論を急がなくてもいいからだ。」

まず理由を述べて、最後に結論を述べる。
聞いているほうは、「結論はどっちなんだろう」
と想像しなければならない。

それは、話を聞くということ、
相手を理解するということなのかもしれない。
もっとセッションを楽しむ。
温暖な我が国では、そんな余裕があったのかもしれない。

セッションを繰り返し、
プロジェクトが生まれ、
作品が生まれる。
その作品がいつしか文化に変わっていく。

さくらちゃんも言っていた。
「個人に依存しているうちは、まだ文化になっていない。」

なるほど。
「この文化の期限には、諸説ありますが、」
と言われて初めてそれが「文化」になっているのだと。
面白いなあ。

しかし、
さくらちゃんがやっている「聞き書き」は、
個人が大切なのだという。

ライブなのだと。
誰と誰が聞き書きという場を共有したのか、
というのが大切で、そこからどんな言葉が出てきたのか。
そんな関係性が大切なのだと。

僕たちは、周りを見渡して、ライブを生きながら、
一方でそれをいろんな人が始められるように、
「文化」をつくっていくようなことを望む。
ひとつのプロジェクトが共感の連鎖でつながり、広がっていく。

きっと、そうやって、
作品と文化のあいだを、
ぐるぐるしながら、
未来と自分ができていく。

そんなことを感じた、いい夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:07Comments(0)学び

2017年02月17日

「発酵」しながら生きる


西村佳哲さん。

初めてお会いしました。
2017年の初めから、
「自分の仕事をつくる」「自分をいかして生きる」を読み直し、

そして今も「かかわり方の学び方」を
読み進めていたので、非常にタイムリーでした。
素敵な人だった。

さらに、進行していた、津屋崎ブランチ
http://1000gen.com/
の山口さんの冒頭のトークが熱くって。
一気にテンションあがった。
コメタクのコンセプトに非常にシンクロしている気がして。

なんか自分の方向性に自信が持てた1日となりました。

~~~以下メモ

注意事項
・否定しないで耳を澄ます。
・自分だけが正しいと思わない。断定しない。新しい気づきを大切に。
・沈黙を歓迎する。言葉が出てこないのは生まれる前兆。
・落書き・メモを取る。

感じをデザインする。感じを交わし合う。
自然物のカラーパレット。

自分は何をするか、から、周りにいる人と何ができるか?
という問い。
出会いをカタチにする。

15分プレゼン→シェア
を繰り返すと様子がわかってくる感じになる。
「思い浮かぶ人」を増やすことが地域に活動を増やす。

つなぐ公社のロゴはこぐま座。
北極星を見失わずにつなぎ直して価値をつくる。

名刺交換でその人を見てない。
肩書きとメリットしか見てなかった。

肩書きじゃなく、まずその人とつながること。
そこから始まる。

どこで、だれと、なにを、して生きていくか。
「なにを」から、「だれと」になり、「どこで」というのも大切になってきた。

暮らしをつくる。風景をつくる。
本当の暮らし、働き方、つながり。
暮らし→家族、地域
働き方→専業なのか?
つながり→人として見る
風景→人の営みがにじみ出る

まちづくりとは、このまちにあった
営みの哲学を新しい形でとりもどすことだ。

風景=情景をつくる。いい映画を見たとき、シーンが残る。空気感。
シーンを生み出していくこと。
シーンには、暮らす人の価値観がにじみ出る。

いいアウトプットを出す人は、方法論が違うだろう。

違和感を大切にする。
違和感こそ衝動のタネ。
やり方を変えられる。

仕事だから、っていう言い訳は、
仕事と自分が分離している。

仕事は、
はたらき→生業→事業→産業と拡大していく。
地方創生とかで、仕事をつくる、って言う時の仕事ってどれ?

はたらき、は、いるだけで作動する機能。ほっとする、とか。
生業は、機能+技能。個人に依存している。その人がいなくなったら無くなる。
事業は、個人に依存していない。仕組みができている。システムに依存する。
このあいだにカベがある。
産業は事業の集積。

その場合の仕事は、どの位相の仕事のことを言ってるの?

生業のデメリットは、本人が本人の奴隷になることがあること。
事業になるとそれがなくなる。
そのあいだに家業がある。

最近は家業っぽい事業が増えつつある。
ニュー家業的会社が増えている。個人が大事にされている。

移住して仕事をつくる、のときの仕事は「生業」であることが多い。
それをどうニュー「家業」に発展させていけるか。

日本は産業(工業)がダメになっている。
カンフル剤としての多機能化やエコ家電があったが、すでに限界。
次の産業をつくらなければいけないが、いきなり産業はつくれず、
生業から始めて、家業、事業と発展させなければならない。

まずは生業を集めて、組み合わせること。星座のように。
ねんど細工のような、やりながら考えるような。
⇒「発酵」みたいな。
温度や湿度が整えば勝手に生まれてくるような。
コンディションが大事。

都会のアスファルトでは芽吹かないが、
津屋崎ではミミズがいっぱいいるので、種があれば芽吹く。

「はたらき」に気づくには他者が必要。

自分で見つけるのは難しい
→あきもせずに繰り返しできること
→たいしたことないと思っている
→実は才能かも。

「生業」も自分だけでは考えないこと。

世界に一つだけの花という強迫。
出会いを仕事にする、というような感覚。

個人にウェイトを置くキャリア教育=西洋的
「個人」という縛りから外れること。発酵=環境

自分の思惑通りの人生は意外に面白くない。
「気がついたらここに来ちゃった。」と言っている人で
つらそうな人はあまり見たことがない。楽しそう。

自分が開かれていることが大事。

「費用対効果」「原因と結果」という幻。
1対1の対応関係であるはずがない。
小さな「原因」をたくさんつくっていくようなまちづくり。

イベントをやる(非日常)
→日々、今日を幸せに生きる。(日常)
→平凡なことしかやってない。
→営みの中にシーン(風景・情景)が生まれる。

結果としてしか起こらないことを目的にしているのではないか?

~~~ここまでメモ

これが、また今朝読んでいた
「かかわり方の学び方」の内容とリンクする。

カール・ロジャースの
「パーソン・センタード・アプローチ」。

共感、無条件の肯定的尊重、自己一致。
これらの条件が揃うと、その気があろうとなかろうと
より一致する方向へ向かう。

たとえ相手がどんな人であろうと、生き物であるなら、
聴き手の条件が揃うと語り手の中に自然に発動する動きがある

なるほど。
これがつまり、「発酵」ってことか。

環境を整えることで
おのずから、芽が出る。
そんな場をつくっていくこと。

昨日の話を聞いて、
「豊かさ」や「キャリア」について、
僕が考えてきたこと、考えていることが、
非常にいい線いってるなあと実感した。

そして、いま自分がここに立っている意味を。

大学時代、自然農に学び
まきどき村で農を核としたコミュニティをつくり、
大学生のインターンプログラムをつくり、
キャリアのことに関心を持ち、

もっと自信のない子にアプローチしたいと
ツルハシブックスをつくり、
そして、茨城に来て、岡倉天心という生き方に出会った。

これがもし、偶然ではないとすると。

西村さんが
「かかわり方の学び方」のあとがきで

「やり方」の奥には、「あり方」があったわけです。
そこがなによりも違うんだなと。
働き方方面から掘っていた穴と、
かかわり方(ワークショップとかそのファシリテーション)方面から
掘っていた穴がそこで貫通します。

そうそう。
そういう「貫通」した感じ、昨日はありました。

大学時代に環境問題をテーマにしたことで出会った
「豊かさと何か?」という問いと
若者のキャリア形成というシーンで出会った、
「地域とキャリアの関係」という問いが貫通したように思えます。

そして、
それは「発酵」のように「自然農」のように、
環境をつくるということ。

パーソン・センタード・アプローチのように、
ひとりひとりの中にあるものを信じるということ。

「未来」という「自然」と、ともにあるということ。

キャリアデザインもキャリアドリフトも
個をベースにしてつくられているけど、もしかしたら
日本では、もっと、主客一体とか一座建立とか
そういう精神でキャリアをつくっていくことが可能なのではないか。

いや、二者択一ではなくて、
それらをミックスしながら、
岡倉天心的な第3の道を歩んでいくことが可能なのではないか。

鴻上尚史さんのいう、
同調圧力についても理解し、
俯瞰して世の中を見ること。

それと同時に、
地域や世の中という環境に委ね、
感じ、行動していくこと。

そこから対話しながら、キャリアを構築していくこと。
そこに僕の使命があるんじゃないか。

まずは僕自身も発酵しながら生きたいと
強く思った1日になりました。

西村さん、山口さん、本当にありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)学び

2017年02月12日

「少数派」を好きになるということ

福島に来ています。

朝7時から、大学生4人とミーティング


おとといの農家ヒアリングで大学生が聞いた一言。

「農業は可能性だらけだ。」

ホント、僕もそう思う。

「顔が見える」っていうのは
つくっている人の顔が見えるだけでなく、
食べている人の顔が見えるということでもある。

とか。
いろいろ学びが多かった。

そして今回、
僕がもっとも痛切に感じたのは、

「食」や「農」というテーマは、
若者のアイデンティティ問題にとっては、
解決策のひとつとなるのではないか?
という仮説だ。

若者のアイデンティティ問題。

たとえば、
「自信がない」とか
「やりたいことがわからない」とか

その大きな原因は
満たされていない承認欲求、
とくにベースとなる「親和的承認」の機会の少なさにあると
僕は考えている。

参考:「評価」ではなく、「承認」を必要としている。
http://hero.niiblo.jp/e470668.html
(2015.7.16)

その解決策は、商店街や離島に行くことだと思った。
そこで存在そのものを受け入れてもらうことが大切ではないかと。

もうひとつ、方法があるのではないか。
それが「食」や「農」なのかもしれないと思った。

有機農家やオーガニックレストランの
運営者に話を聞くこと。
価値観を揺さぶられること。
そして好きになること。

そのプロセスの中で、
大学生は「好き」という関係性を築いていく。

その「好き」の関係性を増やしていくこと。

結局、個人のアイデンティティは
その人の中にあるのではなくて、関係性の中にある。
フェイスブックは関係性の可視化ツールで
あるからこそ、ときに喜びや出会いを、
ときに悲しみや嫉妬を運んでしまうのではないか。

しかし、ネットの中ではなく、
リアルな社会に、「好き」という関係性をつくっていけるか、
それがアイデンティティにつながっていく。

「恋愛したいけどできない。」
と思っている女子には、自信が足りないのだと大人はいう。

「人を好きになる前にまず自分を好きにならなきゃ」
という謎のアドバイスをするおじさんもいる。

しかし、
簡単に言っても、「自分を好きになる」っていうのは
そんなに簡単なものではない。

だから、まず、恋愛ではなく、人を好きになる。
それは、お気に入りのお店でもいいし、住みたいまちでもいい。

その「好き」を好きだと自信を持って言えるとき
(それは決して好きである理由を述べられるという意味ではない)
人は小さな自信の階段を登るのではないか。

今回、大学生たちがヒアリングした農家はしきりに、
自分たちが「少数派」であることを語っていたという。

僕は、そこにまた違った希望を見た。

つまり、「少数派」である人たちを
かっこいい、とか、尊敬できる、とか
好きになった時点で、
自分の感性への自信が少し増しているのではないか。

その他大勢ではなく、
自分が感じる「好き」を集めていくこと。
その入り口を食べることにすること。

今回のミーティングは、
若者のアイデンティティ問題を
「食」「農」というフィールドで、アプローチできるのでは、
という仮説を得た、僕にとっても収穫の多いものとなった。

もうひとつ。
つけ加えると、「伝え方」のこと。

「伝えよう」とすると、伝わらないのではないかと思った。
今回はひとりの大学生の言葉に胸を打たれた。

それは、彼女自身が、
農業者の話を聞いて、価値観を揺さぶられたのを
素直に表現していたからだ。

こんなことは今まで考えてなかった。
世界が広がった。

そんなことを自分の言葉で紡いでいた。
実はそれこそが「伝わる」言葉なのかもしれない。

僕たちはいま、
新しいメディアをつくろうとしている。

大学生や高校生が「食」「農」をテーマに取材し、
学んだことをアウトプットするプロセスの中で、
価値観に揺さぶりをかけ、生き方を探っていく、
その探っていく過程そのものに、
実はメディアとしての価値もあるのかもしれない。

感じたことを素直に書いていくこと。
それをアウトプットしていくこと。

それを繰り返すことで、
小さなメディアができていくのかもしれない。

「食」「農」の可能性を感じた1日でした。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:23Comments(0)学び

2017年02月09日

「正しさ」への違和感

最近のトピック。

「正しさ」への違和感。

「バブル以前」と「バブル以降」と
世代をぶったぎるわけではないけれど、
そこに大きな隔たりがあるような気がしている。

僕が啓発系の環境NGOから手を引いたのも、
まさに「正しさ」への違和感だった。

自分たちは正しく、世の中は間違っている、あるいは狂っている。

その価値観。
それが多数派であれば、
それ以外の人たちは少数派「アウトロー」として外に追いやる。

http://hero.niiblo.jp/e483155.html
(20代の宿題 16.12.10)

の佐々木さんも言っているように、
上へ、でも、外へでもない
第3の道を探れ、と言っている。

これがおそらくはこれからの時代の
スタンダードになっていくのだろう。

「正しさ」など存在しない。

ミスチルの歌ではないけれど、
白と黒のあいだに無限のグレーが広がっているのだ。

その「正しさ」とは、
経済至上主義であり、学歴社会であり、
そこから紡がれてきた「社会の常識」だ。

「正しさ」への違和感を抱えながら、生きていく。
これはもはや必要不可欠なのだろうと思う。

「価値観の多様化」とはそういうことなのだろうと。

信念を持つことは素晴らしいと思う。
しかし、世の中は変わってしまったのだ。
いつまでも過去の「正しさ」を引きずってはならない。

その「正しさ」を捨て去ることができるか。
「もしかしたら」と他の要素が入ってくる余裕を持てるか。

それがないと、
これからの時代は非常に生きづらくなっていくのかもしれないな、と思った。

「シーナと一平」が言っていたけど
境界のデザインを意識して、コミュニケーションのきっかけになる
パブリックマインドを持ち得たとき、輪が広がる。

まさにそういうこと。
そんな境界をデザインして、
そこの生まれるコミュニケーションによって
生成される何か。

きっとそれこそが「場」の目的なのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 06:14Comments(0)学び

2017年01月18日

誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ること


「未来食堂ができるまで」(小林せかい 小学館)

なんか。
最近また読む本のタイミングがいいなあ。
1月7日に未来食堂買った1冊。

このあとに出た「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」
もシビれまくったけど。

こちらの「未来食堂ができるまで」
もリアルで素敵です。

驚いたのは、コミュニティへの言及。

~~~以下引用

ただし、自分としては、まかないは
「お店のファンクラブ」や「会社を超えた第3コミュニティ」
みたいな今流行のコンテキストとしてはまったく捉えていません。

あくまでも、一文無しになったり、そんなどうしようもないときに
未来食堂のことを思い出してほしいという想いから来ています。

少なくとも一度は訪れてくれた人との縁は切りたくない。
たとえ、もしその人が一文無しになったとしても、
どうにかつながる方法は残しておきたかったんです。
未来食堂は誰かのセーフティーネットでありたいのです。

なのでひっそりとやっていきたいなと思っています。
コミュニティとなった瞬間に、コミュニティの中と外というように
二分化されてしまうので、それは望む姿ではありません。

今の流行はコミュニティのコンテキストに流れていきがちだと思うので
極力注意してやっていきたいのです。
ただのセーフティーネットだし、意識高い何かでもないのです。

どこまでも「わたし」と「あなた」がいる、
そのあり方が未来食堂なんだと思います。

~~~ここまで引用

このあと読み進めていくと、
さらに熱い表現があるのだけど、
それは読んでみてのお楽しみ。

未来食堂のコンセプトは、
「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ること」

未来食堂の存在価値は、
常に新しいこと、常識を再構築すること。

そうそう。
ツルハシブックスもそうだったのかもしれないなと。

だからこそ、
「劇場」であり、「畑のある本屋」に向かっているのだと思っています。

誰もが受け入れられる。
それは本屋単体では難しかったです。

誰もがふさわしい。
それは、舞台を用意して、
「演じられる」役が生まれることであるかもしれません。

同志というかなんというか。

僕もそんな場を目指していきたいなあと思います。

「コミュニティ」ではなく
どこまでも、「わたし」と「あなた」がいる。

そんな本屋さんになりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学び

2017年01月16日

なるべく多くの人をゴールまで連れていく

福岡テンジン大学の岩永さんと。


写真は1.14の佐賀・古湯温泉ですが、
話をしたのは1.13の福岡・天神でした。

福岡テンジン大学(以下テン大)は、
60名のボランティアスタッフで回している。
月に1度第4土曜日に数々の講座を行っている。

その仕組みは

理事
講座企画者
講座レポート担当
当日お手伝い

というピラミッド構造になっていき、
講座企画者を5回以上やると
「マイスター」として認定され、
講座企画者のアドバイスを行う。

「マイスター」の特典は
その講座が終了し、打ち上げをするときの
飲み会代が無料になるだけだという。

企画者は、企画シートを書くなかで、
なぜやりたいのか?
誰に届けたいのか?
を深く考えるようになっている。

そして参加者から
リフレクションシートを書いてもらい、
目的・ゴールを達成したかどうか、検証する。
そうやって「体験の言語化」をしているのだという。

岩永さんが言っていた言葉で
印象的だったのは、
「ドラクエ方式」のこと。

ドラクエの原作者が語っていたこと。
ドラクエの設計で大切なことは、

「次とりあえずどこにいくか?」がわかる
ということだという。

何をしたらよいかわからなくなった瞬間に、
人はゲームをするのをやめるのだという。

だから、
「なるべく多くの人をゴールまで連れていく」
ために、次にどこにいけばいいか、わかることを大切にしているのだという。

あと、ふりかえり手法では、
「トークフォークダンス」っていうのが
面白そうだなあと思った。

内側と外側に分けて、
順々に振り返りをしていくのだという。

話し役と聞き役を分けて、
そしてそれで聞き役の人はなにかホメるのだという。

その感想を聞くと、
〇〇さんに言われた言葉がよかった
とか、プラスになるのだという。

なんか、さすが。
テン大、すごい仕組み。

まさに北九州で聞いてきた、
「よいシステムは自律して動く」
がそこにあるような気がした。

刺激いっぱいいただきました。
ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 14:04Comments(0)学び

2017年01月15日

いいシステムをつくれば場は自律的に動く

北九州市・小倉の旦過市場。
ここに「大學堂」という北九州市立大学の
フィールドワーク研究会(通称:野研)が手掛ける
お店がある。

手がけたのは
人類学を研究する竹川先生ほかゼミのメンバー。

話を聞いていたら
エッセンスがいろいろつまっていたので
ここに少しまとめておくことにする。

~~~ここからメモ

義務は2つ
1 ミーティングに出る。(毎週水曜12:00~14:30)
2 活動したら報告をする。ほかの人に伝える。

報告のポイント
・まとめない。
・1人1人が出す。
・他人がわかるように書く。
・ほかの人が気づかないことを報告する

人類学
「歩いて」「見て」「聞いて」「伝える」

文字化するということ。
一言でもいいから終わったその日に書くということ。

「場」について
・部屋をひとつ確保する。
・毎日誰かいる状態にする。
・「プロジェクトは雑談から生まれる」

会議:報告・決定をする場
⇒細かい議論:「場」で行う

「空間」を「場」に変える。
「場」=力が働いている「空間」

「場」は1か所のほうがいい。
場を2つにすると組織が2つに割れる。

野研は組織ではなく、ネットワーク。
メンバーシップをあいまいにする。

コミュニティ⇔ネットワーク
新しい人が来るというのが場にとって大事。

いいプログラムを組めば、
いいシステムを作れば、自律的に動く。

ボロい部屋のほうが「場」に向いている
きれいで、近くに先生がいる⇒×

「表現の場」としての掲示板の重要性
アナログであること。
掲示板というメディア

~~~ここまでメモ

いちばんシビれたのは
タイトルにも書いたけど
よいシステムは自律的に動くってところかな。

野研、奥が深いです。
またまとめます。


竹川先生、ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)学び

2017年01月06日

神は「空白」に舞い降りる


「当事者の時代」(佐々木俊尚 光文社新書)

先月に引き続き佐々木俊尚ウィーク継続中。
「当事者の時代」

戦後の
被害者と加害者の意識の変遷を
全共闘などの事例を通して、斬る
っていう、めっちゃ難しい本。(笑)

338ページ読んできて、
ようやく第5章。

「穢れ」からの退避
ここからいきなり熱くてワクワクした。

ここでは日本の神道がどのように神をとらえているか、
が鋭くつっこまれている。

~~~ここから引用

神々は、どんな場所に降りてくるのだろうか。
どこか岩の上。あるいは、人の手で掃き清められた清浄な場所。
そういう場に、神々は降りてくると古代の人は考えていた。

だから神社のような永続的な建物は
もともと日本の神道には存在せず、
まつりのたびに人々はその場に神に降りてきてもらい、
そこでさまざまな儀式を行っていたのだ。

神々はいたるところに偏在する存在で、
そこに意図的に空白の場所「しろ」を
つくっておけば、そこに神がやってくるというのだ。

つまりは、神社は神社の建物そのものが神々しいのではなく、
その中心に神がやってくる空白の何もない空間が
つくられていることが神々しいのだ。

日本の神々は、いろんな場所をふわふわと浮遊している。
そして、人間が身を清めて一心に祈ると、
目の前に用意されている「空白」の場所へと舞い降りてきてくれるのだ。

ただその「場」を用意する。それこそが人間のできる唯一のこと、
というのがもともとのこの日本列島の島々の信仰心だったということなのだ。

神をまつる神社は、つねにそこに座っている神をまつる固定化されたものではなく、
そこに空白をつくって神を呼び寄せる場所として機能してきたのである。

この何もない空間、空白こそが、「絶対」にほかならない。
この「絶対」は空白であるがゆえに傷つけられず、汚されることもない。

伊勢神宮の式年遷宮の意味。
建物は神ではない。神は空白そのものなのだ。

日本人は、どこかからやってきた神様をお迎えし、丁重に応対し、
そして最後はお帰りいただくということをつねに続けてきた。
この三つの過程のどれが欠けても、神様の送り迎えを無事に終わらせることはできない。

神様はあくまでも私たちの日常の外からやってきて、
一時的に滞在して、いつかは帰っていく人たち。
つまり言ってしまえば、「異邦人」でもあったのだ。

ハレの日に客が来て、
私たちの日常は賑やかで新鮮な空気に一変する。

ふだんは食べられないようなご馳走が並べられる。
そして旅人でもある来客は、珍しく面白い話をもたらしてくれる。

来客の話は、新鮮な活気を私たちの
退屈な日常へと吹き込んでくれるからだ。

しかしこの新鮮な活気、新たな刺激は、
実のところ彼ら来客が私たちとはまったく違う「異邦人」で
あるからこそ表現できるものなのだ。

謎めいていて不透明で、
何か暗い異空間のようなものを背負った異物であるからこそ、
私たちの退屈な日常は刺激を受けるのだ。

~~~ここまで引用

この章を当然、著者の佐々木さんは、
「当事者」という視点から描いているわけで、

この後に、
「絶対」でアウトサイダーとしての視点を持つことで、
戦後の「運動」は当事者性を失い、衰退していく。
という仕組みが考察されている。

しかし、この章だけを、
「場」という視点から見てみるとどうだろう。

「場」に必要なエッセンスが含まれているのではないか。

「場」に必要なのは神が降りるための「空白」であり、
「異邦人」としての神であるのではないか。

「場のチカラ」とは、
「空白」が存在すること、
「異邦人」を受け入れられることではないか。

お店に例えれば、
「異邦人」として店にやってきて、
つかのま滞在し、新しい風を吹き込み、
非日常空間を生み出し、そして去っていく。

そんなまつりのような「店」ができないだろうか。

いや、
そんな店こそが、「場のチカラ」を有する、
素敵な場所なのではないか。

そんな空間をつくりたい、
そしてその空間は「日本人」という言い方が正しいかどうかわからないけど、
われらの先祖が古来から、持っていた意識にあっているのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び

2016年12月15日

0.3から始まるまち暮らし



シェアする暮らしのポータルサイト主催
そして暮らしは共同体になる出版記念イベント
佐々木俊尚×影山知明@汐留ホール
に行ってきました。

いってよかったです。
本もすごくよかったので、
話聞きたいなあと思っていたところで
タイミングよかったなあ。

シェアする暮らしのポータルサイト
のシェアって「持ち寄る」」って意味だったんですね。
素敵だなあ。

昨日の話のテーマは
「まちで暮らす。」だったように思う。

コメタクとか、
3号室プロジェクトとか、
きっとそういう話。

~~~以下キーワード

ミニマルな衣食住
ミニマルだからこそ外に開かれる。
ゆるゆるつながって暮らす。

リビングはカフェ。まちを間取りとして考える
豆腐屋やビストロ、まち全体がチーム稲垣

大衆居酒屋のように
居心地の良さが大切になってきた。
アンチ六本木・渋谷とかではなく、
赤羽や西荻窪が愛されるようになってきた。

マンションが発明されたのは近代以降

古代ギリシャでは、
家の前のほうを男の空間(パブリック)
後ろのほうを女の空間(プライベート)とした

日本では、上り框(かまち)=閾というのがあった。
パブリックとプライベートのあいだ。

まちの中心ってどこ?
人が集まる場、広場がまちの中心
Iターンした人が
カフェやゲストハウスをつくるのはなぜか?
人が集まる場がまちの中心だから。

開かれた共同体であることが必要。
ヒッピーコミューンは閉じたことで消滅した。
熊本・サイハテは自給自足しない、開かれている。
ネットというテクノロジーが可能にしている。

共同体の感覚が変わってきた。
不自由さとともにある共生関係ではない。

総中流という幻想
自らを多層化していくこと

まちは自動車なのか、植物なのか。
植物を育てるようにまちをつくる。
設計図はないが状況がある。
芽が出るような状況にしていくこと。

機械・ロボットに置き換わらない仕事
CMH
クリエイティブ、マネジメント、ホスピタリティ

自主性は不要。ついていく人を見つけられればいい。
そして、ついていく。

変化の時代。
その変化を受け入れて楽しもうとすること。

~~~ここまでメモ

写真を交えながら、
そして時代は共同体になるの
エッセンスを受け取りました。

なんか、楽しかった。

「ミニマルな暮らし」を望む人たちは
まち全体でシェアする暮らし、
「まちで暮らす。」の心地よさに気づく。

そんなことができるまちを
求めているのだろうと思った。

そんな人たちをつないでいく、
パブリックとプライベートのあいだ
が必要なのだろう。

あるいは、
ヨソモノと暮らす人のあいだ
が必要なのだろう。

だから人は住み開きをし、カフェをつくり、ゲストハウスを
つくっていくのだろうなと思った。

「そして、暮らしは共同体になる」
っていうのはそういうことなのだろうなあと思った。

コメタク、やっぱりいい線いっているなあと感じた。

その共同体は、開かれていて、演じられていて、
なんていうか、風が吹き抜ける感じになるのだろうなあと。

印象に残ったのは、
影山さんが対談の中で言っていた

「これまで工学的にまちづくりをしてきたけど
まちは自動車なのか、植物なのか?」

って。

自動車であれば、工場を建てて
部品をそろえればできるけど、

植物は、そうじゃない。
おかれている「状況」がある。

自然条件、土、日光、ほかの植物
などなど。

そんな状況のなかで、
ど芽を出し、花を開き、実をつける。

そんなものを育てていくことが
まちづくりなのだろうなあと。

そういった意味では、
ツルハシブックスはもう一度やりなおしなのかもしれないね。

自然条件と、土と、光の具合と相談しながら、
まちにすでにあるお店や人とコラボしながら、
つくっていく。

ゼロからではなく、
0.3くらいから始まるまち暮らし。

そんなのが始まっていく気がする。

コメタク、やっぱり最先端だなあと実感しました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)学び

2016年11月23日

「感染動機」による内発的学び


「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)

昨日に引き続きまして。
いやあ、これ面白い。
真骨頂は第5章でしたね。

第5章 <本物>と<ニセ物>

ここです。
大学生必読。

~~~ここから一部引用

宮台さんによると、
ものを学ぼうとするときに、3つの動機があるという。

1 競争動機(勝つ喜び)
周りの子とテストの点数を競い合うとか
人よりも高い偏差値の学校に合格したいと思って受験勉強するとか。

2 理解同期(わかる喜び)
自分の力で問題が解けたとか
自分の考えをうまく説明できたと感じる喜び。

戦後の日本の教育は、
「競争動機」と「理解動機」に集中して議論がなされてきた。
だがもうひとつ大事な動機がある、と宮台さんは言う。
それが

3 感染動機だ。
直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばにいると
「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう
―そうやって学んだことが一番身になると宮台さんは言う。

「よくわからないけどスゴイ」から始まる学び。

「感染動機」だけが知識を本当に血肉化できる。
なぜか。

「競争動機」は競争に勝った喜びの瞬間。
「理解動機」は理解できた喜びの瞬間。
これらの瞬間を求めて、君はやる気を出す。

「感染動機」は違う。
スゴイ人に「感染」している何かをしている時間が、
すべて喜びの時間―瞬間じゃない―になるんだ。

だから、感染動機が最も強い「内発性」をあたえる。
「内発性」とは、内側からわき上がる力だ。
「自発性」と比べるといい。

「競争動機」も「理解動機」も自発性に基づく。

「感染動機」は違う。
「感染」している限り、「何か」自体が喜びになる。
やることなすことが喜びだ。これこそが「内発性」なんだ

1 誰かに「感染」し、
2 徹底的にその人の視点から理解し
3 やがて卒業して今度は別の誰かに「感染」する。

1~3を数回繰り返すと、
君自身が誰かから「感染」してもらえる価値を持つようになっているだろう。

~~~ここまで一部引用

したがって、
大切なのは、知識ではなく、「感染」。
「スゴイ人」に「感染」する感受性を少しずつ育むこと。

いや。
これはたしかにそうだ。

大学時代に得るべき「学び」
っていうのは、この、
「感染動機」による内発的な学びではないか。

そういう意味では、
広い世界を見るっていうことは大切だと思う。
もしかしたらその前に「プライドを砕く」っていう
ワンステップが必要なのかもしれないけど。

僕の場合は、
大学1年生の時に、啓発系環境NGOの代表の本を読み、感染。
大学2年生の時には、微生物資材技術を説明するとある農学部教授の本を読み、感染。

大学4年生の時には、「自然農」の川口由一さんに、
院1年生の時には、「粗食のすすめ」の幕内秀夫さんに感染した。

思えば、それが今の基本姿勢を決めているのかもしれないなと。
前者の二つは、「卒業」したので、あえて名前を出さないが、
たしかに、宮台さんのいうように、「感染」によって僕はつくられてきた。

「勝手に弟子入り」みたいな感じ。
追っかけになる、というのかな。

自然農の川口さんは、ほんと、追っかけた。

山形の北のほうから
四国・徳島の自然農実践者の集いまで、
川口さんの講演を聞きに行った。

そのときの最初の出会いは
東京での対談イベントだっただろうか。

ものすごい衝撃だった。
淡々と語る川口さんの姿にびっくりした。

伝えようとしていないのに、伝わってくる。

これはなんだろう?
と率直に疑問を感じた。
思えば、それが宮台さんの言う「感染」だったのだろう。

「感染動機」による内発的学びは、楽しい。
言語化できない何かを解き明かし続けていく旅だから。

まさにこれこそが、
大学生の、20代の、宿題になるのではないか。

感染する誰かに出会い、感染する。

そこから学びのドアは開かれていく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)学び

2016年11月07日

居場所のジレンマ



ツルハシブックス閉店。
5年半という期間、たくさんの人に支えていただいた。

ふりかえると、
山田店長の名言
「これがツルハシブックスの日常です」が出た
2015年12月のテレビ放送の時が最高値で、
ラストの1年は、「居場所のジレンマ」に苦しむ日々だった。

「居場所のジレンマ」

それは、居心地のいい場所は、
誰かにとっての「居場所」になる。

そしてその「居場所」を享受する人が増えすぎると、
その場所は、初めて来店する人にとっては、
「居心地の悪い場所」に感じられる。

「常連さん」
と呼ばれる人が増えてきたら、注意が必要だ。

ツルハシブックスの店員サムライには
わずかな決め事があった。

・レジに必ず1人は立っている。
・来店したお客さん全てに話しかける。
・「こんにちは」「近くからですか?遠くからですか?」
そのあと、話の流れは個々に委ねられる。

この会話が成立するには、
本屋という空間に人が多すぎてはいけない。

せいぜい、3人。
いや、8人いてもいいけど、その8人は
1人で本を見ている人が3人、
2人で話している人と3人で話している人が1組ずつ
というように、なっていなければならない。

ソファ席を廃止したのは、
大人数で集まることを防ぐためだ。

「お客はだれか?」
ツルハシブックスの店員サムライが
合宿で問われる重要な問い。

ツルハシブックスにとって、「お客」とは
自動ドアに見えるけど実は手動の、
あの重い扉を勇気を出して開けてきた
中学生高校生大学生のことだった。

だから、彼らが来た時に、
店員サムライだけではなく、
その場にいるお客さんも、
みな、その瞬間、「演じ」なければならない。

店員役を、
そして、お客の役を。

それを目指し、「劇団員」という制度をつくり、
それはツルハシブックスという場所でなくても、
「日常」を「劇場」に変えていく、という思いを込めた。

常連さんたちのためには「三階」をつくった。
「居場所」は三階で、一階の空間はツルハシブックスとして残したかった。

しかし、その試みは、失敗した。
「居場所のジレンマ」の壁は超えられなかった。

11月3日も、同じことが起こった。
ツルハシブックスで知り合ったお客さん同士で
遊びに行った後の午後6時前に、
ふたたび「ただいま」ともどってきた。

10人ほどのお客さんが、テーブル席に集まっていた。

そうなると、もう、
その空間は「劇場」としての緊張感を失う。
初めて来店したお客さんへの対応も、
まずは「うるさくってすみません」という言葉から入るようになる。

それが決して悪いわけではないという人もいるかもしれない。

でも、僕がツルハシブックスで創りたかったのは、
劇場としての本屋であって、「居場所」ではない。

「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)を読んで、
「居場所とは瞬間のことだ」という言葉にインスパイアされた。

ツルハシブックスは、アートプロジェクトだった。
「アートとデザインとビジネスのあいだ」というアートを
目指す活動だった。

「中高生のための本屋づくり」
をコンテンツとして集まった、
「サムライ」と呼ばれる人たちによる
アートプロジェクトだった。

アートプロジェクトで大切にすべきは
当然、「美しさ」である。

「居場所のジレンマ」をどうやって超えるのか?

本屋、あるいはブックカフェという具体的な「場」を
持ってしまったら、それは避けられないのか。

何十年も続いている喫茶店やショットバーのような空間
が「居場所のジレンマ」をどのように超えているのか?
については、「お客を育てる」というところがポイントらしいが、
それができていなかったのか。

スターバックスコーヒーで朝活を続ける土屋さんの
つくる「場」のようなものは、固定した場所ではできないのか。

そんな大きな問いが残ったツルハシブックス閉店だった。

山田店長がいうように、
ツルハシブックスはこれから、「ハード」ではなく、「ソフト」として
活動していくことになる。

「居場所のジレンマ」をどう超えるか?

これを一緒に考えてくれる方、
あなたも「ツルハシブックス」劇団員になりませんか?

「ツルハシブックス劇団員」募集
http://www.tsuruhashibooks.com/gekidan.html  

Posted by ニシダタクジ at 07:13Comments(0)学び

2016年10月19日

「リスペクト」なき国


「日本の反知性主義」(内田樹編 晶文社)

難しいっ。

けど面白いなあと。

知的好奇心をくすぐられる1冊。
今日は白井聡さんの「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」より

~~~ここから一部引用

「日本社会は同調圧力が強い」といわれるが、
何に同調させられているのか?
その核心にあるのは、「敵対性の否認」にほかなるまい。

このことは、明治以降の近代化に始まり、
敗戦を契機とする民主化が行われても、
依然として日本国家が契約国家(社会契約に基づく国家)
になり切っていないことと関係している。

要するにこの国には「社会」がない。
社会においては本来、その構成員のあいだで
潜在的・顕在的に利害や価値観の敵対関係が
存在することが前提されなければならない。

しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。
そうでなければ、「社会」という言葉と「会社」という言葉が
事実上同義で使われるという著しい混乱が生じるはずがないのである。
(「社会人」とは実質的に「会社人」を意味する)

あるいは「権利」も同様である。
敵対する可能性をもった対等な者同士が
お互いに納得できる利害の公正な妥協点を
見つけるためにこの概念があるのだとすれば、
敵対性のない社会にはそもそもこの概念が必要がない。

ゆえに、社会内在的な敵対性を否定する
日本社会では「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、
その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、
不当な特権を主張する輩だと認知される。
ここではすべての権利は「利権」にすぎない。

(中略)

「貴方のためなのよ」という母親が
しばしば子に対して発する言葉は、
支配の欲望を実現しつつ隠蔽するものであるが、
それは戦前戦中の思想検事の論理をぴたりとなぞっている。

そこでは温情と拷問は、いずれも、
思想犯の主体性を無化する、主体として思考することを
不可能にする手段としてコインの裏表をなしていたのであった。

~~~ここまで一部引用

なるほどなあ。
「孤独と不安のレッスン」や「空気と世間」の鴻上さんのいう
日本社会についての記述としてはうなるばかりだ。

社会システムとして、主体性が育たないように
しておきながら、
いまさら「主体性が大切だ」とか言っているんです、
我が国は。

ひとりひとりを個人として、リスペクトすること。
まずはそこから、ですかね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)学び

2016年09月17日

「過去」というモチベーションの源泉

3日目。

昨日のワークシートにタイトルをつける。
これはまずタイトルを付けるだけ。

見えてきた町のタイトル。
タイトルをつけると、それは「作品」になる。
2日間の総決算。

そのタイトルが
プレゼンテーション(提案)のテーマになる。

参考資料の提示。
RESASおよび統計資料および観光マップ

~~~
これは不要だったかも。
統計データで裏付けるほどのプランは練っていない。
観光マップもあまり良くなかった。
情報が多すぎる。

3日間を通して、
与えられた情報が多すぎた。

多すぎるインプットを受けているのに、
「1つに絞れ」とか「シンプルに」というのは
無理があったかも。
~~~

参考資料の提示の次は、プラン作成

星空の中から星座を見つける。
それをプランに落とし込んでいく。

BEFOREとAFTER
そこに自分たちは、そして、まちづくり会社は何ができるか。

プランの軸を見つける。
ここが各チーム苦労した。

具体的なプランに落とし込む
というのが難しい。

昼休み後
小さくまとまるな、というゲキを飛ばす。
「現実的になるな」というメッセージ。

締め切りを切ったことがプランは完成。
そしてプレゼンテーション。

・発表順はアルファベット順でよかったか?
・プレゼン時間5分間を測定したほうがよかったか。
・お金に関する質問は雰囲気もモチベーションも下がる。

・第2の顧客:メリットがある人は誰だろう?という問いかけ
もう少し視野を広げて考えてみる。

そして講評
・「目的」は本当に目的なのか?
・お金を稼ぐこと、スマホを買うことが目的なのか?

・「目的」(まと)と「目標」(しるし)の違いは?
・達成のためには、3つのことを共有する「目的」「役割」「価値観」

・ボランティア=語源は火山。やりたくて仕方ない。衝動
⇒目的の明確化が必要

・現在と未来しかないと説得力がない。
・なぜ?を問いかけると「過去」とつながる。
⇒それがモチベーションになる。

ラストは振り返りを記入して終了。

個人にフォーカスできたチームのほうが
プレゼンの共感度は高かった。
抽象的な課題やテーマにとどまってしまったところは、
プレゼンも上滑りした。

情報はあふれるほどにあった。
材料に満ち溢れていた。
何が足りなかったか。

「共感」、そして「過去」だ。

インタビューにおいては、
おそらく何を、じゃなくて、なぜ?
を聞かなければならなかった。

「課題共感」と「未来思考」のトレードオフ。

ここ5年間。
地域系のワークショップで、
僕がずっと課題に思っていること。

当事者意識を高めるためには、
「課題共感」が大切なのだけど、
当事者自身の話を聞いてしまうと、
「未来思考」ができなくなる。

かといって、
現状から未来をイメージするだけでは、
「そういうの、あったらいいよね」という
当事者不在の、実現性のない、机上の空論に
なってしまう。

実現性という意味では、大学生×(かける)という
フレームワークをやっても面白いかなと思った。

僕の収穫は、
「過去」というリアルが大切なんだ、と確認できた。

人は「過去」に共感するんだな。
よくいう、企業にも「物語」が必要だというのはそういうことなのかもしれない。

ツルハシブックスの店員サムライ合宿も
スタートは「過去」だ。
「心を開く」「共感」フェーズを経て、
未来を考え、現在と未来のギャップをプランに落としていく。
それかもしれない。

「過去」からスタートする。
自分たちの「過去」とまちの「過去」。

そこから未来を見ている人、作っている人の
活動しているプレイヤーたちの声を聴く。
それはたぶん「未来」への材料だ。

そこから未来をイメージする。
このときに大切なのは具体的な人を思い浮かべることだ。

その「人」を思い浮かべるためには、
おそらくはヒアリング時のリアルな声への共感が
必要になってくる。
何をやっているか、じゃなくてなぜやっているか?だ。
それを「過去」というのだけど。
そして自分自身の「過去」も未来の材料になる。

そうして描いた未来と現在とのギャップを埋める
「プラン」を考える。
それなら、共感できるかもしれない。

僕の学びは、
「共感」とは「過去」なのだということ。

そして過去こそがモチベーションの源泉なのだ。
「昔はよかった」それもモチベーションの源泉になる、ということだ。

もう一度やりたい。
また考えようっと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:50Comments(0)学び

2016年09月16日

ラスト・サムライ

PBL2日目。
最初と最後
スタッフ打ち合わせと振り返りやったほうがいいな、と。

まずは市内巡見から。
大型ショッピングセンターの視察。
平日なので人は少なく、降りる必要は特になかった。

子育て応援施設+起業支援
を行っている場所へ。
ここでは、なかなか面白い気づきが。

他地域から嫁に来た奥さんが
結婚・出産後の孤独をなんとかするために
開所された子育てサロン。

そこに集まってくる人たちが
起業というか個人事業主になっていくのを
支援するというもの。

「ノマド」ってもしかしたら
子育て中でも働きたいお母さんの
ための言葉なのかもしれない。

実家に帰っていても、
夜中に子どもに起こされて、
眠れなくなった夜でも、
PCとネット環境さえあれば、仕事ができる。
そんな人のための「ノマド」なのかもしれない、と。

「子育て」がコミュニケーション・ツールとなって、
人と人をつなぎ、仕事が生まれる。
そんな場所に可能性を感じた。

次に行ったのが、
40年前の新興住宅地、
つまり、すっかり高齢化してしまったまちにある
ひとつのお店。

40年前のニュータウンに高齢者だけが取り残され、
最後のスーパーだった生協店舗が閉店することになった。

平成17年、いまから11年前の話だ。
閉店説明会で、住民たちは言った。

「ここがなくなったら生きていけない。」
「どこで食べる物を買えばいいんだ」

まだ、「買い物難民」という言葉が一般的でなかった時代。
500m先の国道沿いにはスーパーもあるのだが、
そこまで歩いて、帰りに荷物を持って帰ってくるのはしんどい。
「買い物難民」が歩くのは500m(往復)が限界だという。

そこで立ち上がったのがいまの理事長だった。
まずは、週に1度の市を開催。
1年半後にお店を復活させる。

コンセプトは
1 「食」を大切にする。
2 ふれあい生きがい支えあい
3 地域産業支援
だ。

これは住民アンケートで、
「とにかく食べるものを売ってほしい」というのと
「ともだちといける場所がほしい」というのと
「ともだちがほしい」

が多かったところからきているのだそうだ。

現在は手作り惣菜を含む食品の販売、
レンタルボックスなどの運営、
介護予防教室や健康麻雀などの定期的な活動、
市民交流市のようなイベント、
伝統行事(もちつき、節分)などを行っている。
また、災害時などへの備えも行っている。

この話を後ろで聞いて、熱くなっていた。

「ラスト・サムライ」
の渡辺謙を思い出していた。

まちが寂れ、若者がいなくなった。
そしてスーパーがいなくなった。
そんななかで立ち上がったサムライたち。

サムライたちはそこに、
スーパーを超える、コンビニを凌ぐ「何か」
をつくりあげた。

「ザ・ラスト・コンビニ」
ともいうべき風景が広がっていた。

スタッフであるお年寄りたちは有償ボランティア。
時給換算すると240円程度だという。
でも、みんなが生き生きと輝いていた。

「価値」とは何か?
問いかけられた。
とそんな盛りだくさんな午前中。

個人振り返りだけだったので、ちょっと消化不良か。
グループシェアができる時間がほしかった。
最初の15分の散策が不要か。
あと地図を渡しておくほうがいいね。

あとはバスの配置も
グループごとにして、口頭ベースでも振り返ったほうがよかったかな。

そして午後。
まちづくりのプレイヤーたちへのインタビュー

こちらは、
・司会を学生がやって、趣旨説明をする。
・15分話を聞き、15分はインタビューだと伝える

前日のインタビューシートが
あまり役に立っていなかったように見える
⇒前日のワーク時間は多くは不要かも

その後、個人振り返り(ワークシート記入)
そしてワークショップへ。

1 1対1インタビューで付箋に出す
2 付箋の発表
3 付箋を眺める(無言⇒対話)

・付箋の発表をしながら出していったほうがよかった。
・感性の発動をもっと大事にするような雰囲気づくり
・重要度が高そうな(心動かされた)付箋から出していく

そして、この中から「キラリと光る付箋」を見つけ、
そこから次のワークへ。

1 真ん中に「キラリ付箋」を貼る
2 そこから他の付箋を関連付けていく
3 関連付けた付箋を「原因」「結果」などで線でつなぐ

・付箋を全部生かそうとすると混乱してくる。
⇒周りに置いておく(捨てる)勇気
・真ん中に置いたのが具体的でない抽象的な
「まちに集まる人を増やす」などだと、議論が堂々巡りする。
・付箋の貼り方なども放射状にするなどの工夫が可能

具体的なお客像を軸として
つかんだグループは、話が進んでいたが、
そこが明確ではないグループはいつまでも
議論がぐるぐるしていた。

さあ、3日目。
ここからどうプランに持っていくか。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)学び

2016年09月15日

自分のためのまちづくり

5学部混合地域PBL1日目。
5学部それぞれ1名以上ちゃんと参加している。
それはとりあえず成果。

ひたちなかまちづくり株式会社を舞台に3日間行われる。

まずは小野社長(写真館元店主)の講演
・仕事づくりが重要
・東京が考えるまちづくりは通用しない(市場規模が違う)
・利便性を求めても来てくれない。
・人間関係を深めていけるまちづくり。
・教育を受けた人ほど仕事がない
・「まちづくり」=「働く場所づくり」=「仕事づくり」が重要

なるほど。
そうだろうなあ。仕事づくり、大事だ。
仕事があるから移住するわけではないけど。

つづいて、小池さん(仕立て屋さん)
・アーケード=横のデパートとしての商店街
・歩行者天国で人があふれた
・昨年からタマリバというマーケットを開始
・「顔が見えない」という理由で2002年アーケードを外す。
・商売=人が「付加価値」をつけて売る。

それそれ。
僕が「商店街はなぜ滅びるのか?」で読んだ
世界がそこにあった。
モノからヒト、コトへ。っていうのもよかった。

そして、おそらく一番アツかったのが、オセアの藤田さんだった。
竹中工務店を退職して、地元に帰ってきた。

こちらの講義が熱かった。

・「都会」よりも「地方」が上回っていることがある
・「将来の夢は決まっていますか?」は過去の質問。
・〇〇(職業)になれば安泰⇒終身雇用は崩壊している。
・「どう生きるのか?」が問われている。

・したい「生き方」と「将来の夢」が矛盾してないか?
・「地方」のほうが「生き方」を実現できる
・子育てママの可能性⇒人口推移・学生資源⇒まちへのインパクト大
・子育てママが活動するようになるとまちがかわる

とインプット
午後からはまちを歩く。
感じたことを出す。

そして14時40分から僕の担当
ワークショップへの導入。

今回はA3のシートに
感じたことをみんなで書いていくという
ところからスタート。

それを見つめて、
いちばん心に残ったものをしるしをつけたり、さらに書き出す。
その後、ワークショップとは?の説明
今回はワークショップという語源について考えてみた。

「かかわり方のまなび方」での
高田さんの定義を使わせてもらった。
「いまなぜワークショップか」(16.8.31)
http://hero.niiblo.jp/e481697.html

これを紙芝居プレゼンテーションで。

ワークショップ(工房)とファクトリー(工場)
の対比をやった。

ファクトリーは、何をつくるか決まっていて、量産する
ワークショップは、何をつくるかが決まっておらず、量産しない。
ファクトリーは、失敗は絶対に防がなきゃいけないが
ワークショップは、失敗は新しいものを生むためにむしろ歓迎するものだ
ファクトリーは組織がピラミッド型でしっかりしているが
ワークショップはひとりひとりの個性を生かすことだ

だから、ワークショップだ、という説明。

いや、前提条件で、
いまなぜワークショップか?
っていう話をもう少しすればよかったかな、

それともこの話のあとで、
少しグループワークをはさめばよかったかな。
そもそも「工場」と「工房」
の違いっていうのをグループワークしてもらう、っていうのもあるな、とか、
いろいろ振り返り。

そもそも導入の時に、
小野さんや小池さんの話を引用して
時代の変化を語ることが必要だったな、と。
いやあ、もう1回やらせてほしい。(笑)(泣)

そのくらい、やっぱりライブだね、ワークショップは。
問われているのは、試されているのはこちらだから、
ドキドキする。

1日目を振り返って
一番驚いたのは、
「A3用紙を使って書き出してください」
って言ったら、
左上から箇条書きにしていくこと。

ああ!
その手があったか。と。

A3の白い紙を渡されたら、
マインドマップ的に適当に書いていくことが
当たり前だと思っていたのでビックリしました。
でもふつう、左上から書きますよね。

真ん中にAとか、Bとか、
あるいは単に丸を書くとかすれば、
放射状に書いてくれたのかも、と思ってちょっと反省。

アイデアをつなげる、
という意味では箇条書きよりはいいかなと思っているけど。

あとの課題は、
課題を容易に設定して、すぐに解決策を考えてしまうこと。

店の中が暗く感じる⇒明るくして
商店街かどうかわからない⇒看板つけて

ここをどう深めていけるかが2日目の課題。

いちばんの収穫は、
藤田さんの講演のあとのコメントで学生が

「これまで、まちづくりを「誰かのために」と思っていた。
お年寄りだったり、子育てママだったり、
でも、自分のためのまちづくりという視点もあるなのだなと感じた。

それそれ!!って
それこそが自らをまちづくりの当事者にするよね。

ほかにも、
小野社長の話を聞いて、
「買い物とかショッピングセンターとか、いままで自分が考えていたものが
逆にまちを衰退させていたのだと気付いた」

などなど。
フィールドワーク(課外活動)の価値ってやっぱり
そこだよね、と。

いままで築いてきた価値観がゆさぶられる瞬間。
そんな瞬間をいっぱい作っていくことだろうなと。

2日目。
学んでいるのは、こちらなのかもしれません。

いや、そもそも「ワークショップ」とは
そのような場のことを意味するのですよね。

共に学ぶ。
それです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)学び

2016年09月10日

コンセプトと活動をつなぐもの、そしてつなぎ方

「同じ船に乗る」
言葉でいうのは簡単だけど、

プロジェクトにおいて、
それはなかなか難しいのかもしれない。

「ミーティングに人が集まらない」
「アイデアはいっぱいあるけど、何からやったらいいか分からない」

そういう悩みを抱えている
団体、あるいは団体リーダーは多い。

その大きな要因は、
「コンセプト」と「具体的活動」
をつなぐ「何か」がないのだろう。

たとえば、
「人と人をつなぐカフェをやる」というコンセプト

で具体的活動は
・カフェイベントを開催する
だったり、
・地域の人を取材したフリーペーパーを発行する
だったりするのだけど、

それらのひとつひとつの活動は
たしかに「人と人をつなぐ」というところにつながっているのだけど、
それらの成果を測ることは難しい。

大切になってくるのは
「コンセプト」と具体的活動をつなぐもの、

ツルハシブックスで言えば、
「誰に」「何を」提供するのか。

つまり、ドラッカーの5つの質問のうちの2つ
「顧客は誰か?」
「顧客にとっての価値は何か?」
という質問に答えることである。

中学生高校生に、第三の居場所を提供する。
具体的には、学校にも家にも居場所がないと思っている
中学生がツルハシブックスに来ることで落ち着いていられる場所をつくる。

そこくらいまでコンセプトが「誰に」「何を」まで
分解されていると、
イベントをやったときでも「成果」が見えるし、

イベントのアイデアも取捨選択できる。
顧客をもっとも幸せにするイベントを打つことが大切だからだ。
そうすると振り返りの質があがってくる。

「誰に」「何を」の視点から振り返れば、
参加しなかったメンバーにも、共有できる。

スタッフの小さなエピソードから、
「ああ、このイベントは成功だったんだ」と思えるようになる。

そうやって1つ1つのイベントがどのくらい成功したのか、
その指標が得られる。

きっと、非営利のプロジェクトにとって
この「同じ船に乗る」というプロセスが大切なのだろうと思う。

ツルハシブックスのサムライ合宿は、
「同じ船に乗る」ためのプロセスである。

まず
1 「心を開く」「共感」フェーズ
モチベーショングラフ、それにもとづく1対1トーク
それぞれの過去をオープンにし、心を開く。

2 「未来」「シナリオ」フェーズ
未来日記ワークショップ、発表
理想の未来を出して、共感する。

3 「現状」「不満」フェーズ
いま、メンバーが抱えている課題、
感じていることを共有する
リーダーもひとりのメンバーとして話す

4 「誰に」「何を」フェーズ
1,2,3を踏まえてチームとして
「誰に」「何を」提供するのか言葉にする。

5 「具体的行動」フェーズ
1,2,3を踏まえて、これからの
具体的行動計画を立てる。

大切なのは、1つの時間・空間で(場所を移動してもよい)
1,2,3,4を一気にやること。

5は活動拠点に帰ってからでもできる。

おそらくはこれが
「同じ船に乗る」ためのプロセスなのだろうと思う。

こういうワークショップの体系を
もうすこし考えて、実践して、
学生発の非営利プロジェクトの精度をあげようと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)学び

2016年09月07日

手紙のような本棚をつくる

2016年1月3日。
僕は新年最初の1冊を
東京・千駄木の往来堂書店で購入した。
「誰もいない場所を探している」(庄野雄治 ミルブックス)
だった。素敵な言葉遣いに魅了された。

新刊書店ツルハシブックスを始めてから、
本屋特集の雑誌を買っては、
本屋めぐりの旅をするようになった。

自分も新刊書店なのだから、
トーハンに注文すれば、ツルハシブックスに
数日後、数週間後には入荷される。

それは分かっているのだけど、
「買ってしまう」店がある。

東京では、圧倒的に「往来堂書店」だ。
なぜか、買ってしまう。
そこに「一期一会」があるような気がする。

今日、その理由がわかった。


「本屋会議」(本屋図鑑編集部編 夏葉社)

の第5部「本屋原論」

往来堂の笈入さんが、

本屋とは何か?
本屋の果たすべき役割とは何か?
について書かれた渾身のエッセイ。

シビれた。
揺さぶられた。

今から11年前、
2005年夏の玉川大学教育学部のスクーリングで受けた
「教育の原理」の講義を思い出した。

~~~以下に少し引用する

すぐに役立つ本といつか役に立つかもしれない本

いつか役に立つかもしれない本は、じっくり読んでみなければ、
どんな問題に答えてくれるのかさえわからない。
また読んだ人によって、得る答えも異なることだろう。

産業としての日本の出版は、
1990年代後半に売り上げのピークを迎えた。
その後は減少を続けているが、私はその原因の一つは、
「すぐに役立つ本」の成長が限界に達したからだと思う。

まじめな日本人は、
とにかく昨日よりは今日、先月より今月、昨年より今年の
商売が少しでも大きくなるように一生懸命努力してきたが、
いまや勤勉さだけでは生産を拡大していくことはできない。

利益を生まない、つまり商品として価値がないものは、
資本主義の立場から見ると無価値である。
しかしそれらは図書館に行けば基本的に無料で読める。

100年前も、もしかしたら1000年前も、同じ問題を考えていた
人間の知の営みは少しずつ蓄積されながら、
本という形で人類の共有財産としてそこにあり続け、万人に向けて開かれている。

つまり根源的には本の価値と商品としての価値は関係がない。
というより商品としての価値は本の価値のごく一部分と言えるだろう。
したがって資本主義的な方法でのみ本を取り扱おうとすると、どうしても無理が生じる。

本は共有財産として無料で読む方法が用意されているが、
一方で本を書くには時間も労力もエネルギーもいるし、お金もかかる。
新しい本の値段というのは、その共有財産を
少しずつ積み重ねて発展させていくための寄付のようなものではないのか。

そして本屋は本の文化を維持し、
本を再生産するための寄付を受け付けるところとは言えないだろうか。

人々が本屋でお金を出して本を買い、
それがまた別の本を生み出すことにつながり、
その積み重ねが人間の共有財産として万人に開かれる。
一部の人しか経済的負担をしないのは不公平とも思えるが、
寄付とはそもそもできる人ができる範囲で行えば良いものだ。

その場所に足を踏み入れたとき、
その文化の一翼を自分も担えてうれしいと感じられる場所であること。
それが本屋の目指すべき理想であろう。

本屋はよく売れる本を愛してはいけないのである。
愛した本を、よく売らなければならない。つまり順序が逆なのだ。

新刊本はどこで買っても同じ値段、同じ品質である。
そして現代は人々の生活に情報の検索が浸透し、
多くの人がインターネット上にある膨大な商品群のなかから注文して本を買う。

そのような時代においてもある特定の店で買う理由がもしあるのなら、
それこそが人々がこれからの本屋に求めていることだし、
本屋がこの先も果たしていくべき役割と言えそうである。

想像力を駆使して生活者である読者の見ている世界を考えてみることだ。
その人には世界はどのように見えているのか。
何を重要と考え、どんなことに関心を持っているのか。やりたいことは何なのか。

それらを想像することは、身近にいる大切な人に
何を手渡したら喜んでもらえるのか考えることと同じだ。

その人に世間で売れているものを渡せば大喜びするだろうか。
反対に見かけることのまれな珍しいものを渡せばいいのか。どちらも違うだろう。

たとえば何も知らない子どもはそもそも検索窓に入力する言葉を持っていない。
したがっていくらインターネットが使えても本を探すことはできない。

そもそも子どもは知りたいことがはっきりしていない。
ゴールがはっきりしないとき、検索は対して力を発揮しないように思える。

だから目的のまだはっきりしない子どもには、
文化を見わたし世界に誘う力を持つ本棚、
それがたくさん並んだ本屋という空間を日常的に味わってほしい。
一冊の本との出会いも喜ばしいし、その一冊の背後に
大きな世界が広がっていることを感じ取ることができると思うからだ。

目的がはっきりしていないのは、何も子どもに限った話ではない。

大人もはっきりとした目的を持たずに本屋へやってくる。
むしろ、これからの本屋にとって目的のはっきりしない読者が
一番重要な顧客になってくるはずである。
なぜなら、目的の本が決まっている読者は
インターネット上の書店や巨大な書店で買うことが多くなるからだ。

目的の本がはっきりと決まっていない読者に対して、
どのように本を見せるか。それが今まで述べた知識の体系や、
ある本屋が見た世界観を表現した本棚である。

それぞれの世界認識の方法の数だけ、
異なる本屋が現れてしかるべきである。

私たちはその間を自由に行き来できる自由を持っているはずなのである。
人々はいくつも本屋を持つことができる。
昨日行った本屋とまた違う本屋を今日はまた覗いてみればいい。

~~~ここまで引用

って。引用しすぎかも。著作権大丈夫かと思うくらいだわ。

この本、買うべきですよ。
「本屋」という文化を残したいとあなたが思うなら、
絶対に買うべき1冊。

僕は本屋でよかったと、心から思った。
世界観を表現した手紙のような本屋さんをつくりたいと。
もちろんそれはツルハシブックスやハックツのことなのだけども。

まだまだ、まだまだだよ、って。

一番衝撃を受けたのはココ。

「本は共有財産として無料で読む方法が用意されているが、
一方で本を書くには時間も労力もエネルギーもいるし、お金もかかる。
新しい本の値段というのは、その共有財産を
少しずつ積み重ねて発展させていくための寄付のようなものではないのか。

そして本屋は本の文化を維持し、
本を再生産するための寄付を受け付けるところとは言えないだろうか。

人々が本屋でお金を出して本を買い、
それがまた別の本を生み出すことにつながり、
その積み重ねが人間の共有財産として万人に開かれる。
一部の人しか経済的負担をしないのは不公平とも思えるが、
寄付とはそもそもできる人ができる範囲で行えば良いものだ。

その場所に足を踏み入れたとき、
その文化の一翼を自分も担えてうれしいと感じられる場所であること。
それが本屋の目指すべき理想であろう。」

本屋とは、そんな理想を持って歩んでいく道のこと
なのかもしれない。

だとしたら、やっぱり米屋本屋だなあと、
実感がじわじわくる。

夏葉社さん、本当に素敵な1冊をありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)学び

2016年08月29日

「ビジネス」と「地域づくり」のあいだ


百姓百貨店インターンシップ2週目。


(写真は1週前の朝日)

今回は川口のラーメンの名店「つり吉」からの
ワークショップ。

今年2月の立命館大学での
上田信行さんのワークショップに出てから、
ワークショップスタイルを変更し、
「自分が雰囲気をつくる」系にシフトした。
いわゆる「前に出る」ファシリテート。かな?

これが
進行中のプロジェクトのワークショップとしては、
かなり有効なのではないかということを感じている。

今年5月にやったツルハシブックスのサムライ合宿でも
手ごたえがあったし、先週の1泊2日の木沢合宿でも
「楽しかった」という感想をもらった。

昨日も、最終報告会を
地域の人を巻き込んだ寸劇にする、などの
アイデアが出た。

百姓百貨店インターンシップ(4週間)は、
いろんな場所で応用できるのではないかと思った。

ゴール:
地域資源を活用した月3万円ビジネスアイデアを100個出して、
そのうちいくつかを実際にやってみる。

1週目:まずはビジネスアイデア(資源含む)を100個出す。
ポイント:たとえば、みたいな例示をいくつか出す。

今年は6日目時点ですでに100個のアイデアが出ていた。
それを具体的にする1泊2日合宿。

「顧客はだれか?」
「顧客にとっての価値は何か?」
を軸にアイデアをビジネスに落とし込む。

2週目:具体的にカタチにしていく。
集落とコミュニケーションを重ねながら、ビジネスをカタチにしていく。

ここで、
「もやもや」が発生する。
顧客像が具体的に浮かばない。

集落のじいちゃんばあちゃんこそが
顧客じゃないのか?

そしてもうひとつ。
「のもーれ長岡」という交流会に行って、問われたとき。

そのゴールはどこか?
成果は何か?
インターンシップの期間が終わった後はどうなるのか?

うんうん。
ビジネスだとそこ、問われるところだね。
それに明確に答えられない自分に気づく。

もういちど、プロジェクトを見つめなおす。
俯瞰してみる。

なんのためにやっているのか?
ゴールはどこなのか?
明確じゃないなあって思う。

でもね。
先週書いたけど、

「ゴールが明確じゃない」からこそ、
このプロジェクトに応募したはずなんだよね。

「百姓百貨店」と「白い箱」(ナリワイボックス)
というわけがわからない何かに魅力を感じて、
いま木沢にいるわけ。

そこ。
新しい何か。

今回、ワークショップをやってみて、
「新しい何か」って
別に何かを発明するわけじゃないのかも、
って思った。

「ビジネス」と「地域づくり」のあいだ

そこを探る「社会実験」なのだなあと。

ビジネスの価値観と地域づくりの価値観は
少し異なる。

ビジネスはなんといっても「結果がすべて」「数字がすべて」だ
「わかりやすさ」に価値がある。

地域づくりのゴールは地域の数だけ多様だし、
それは地域の方との対話の先にしか見えてこない。

それをつなぐ「社会実験」。
「社会実験」は、必ず終わる。
成功を目的としていない。
実験・検証を目的としている。

うまくいっているのなら、続ければいいし、
うまくいかなければ、やめればいい。
まわしよみ新聞の陸奥さんから教えてもらったエッセンスだ。

地域からすれば、「社会実験」をローコストで行う、
これが「田舎インターン」ということになるのだろう。

そして、大学生にとっては、
「価値とは何か?」という圧倒的な問いの中に放り込まれること。

ビジネスにして、売れることももちろん価値なのだけど、
そうじゃない価値があるのではないか、と。
自分たちはどこに向かっていのか?
と「もやもや」すること。

そしてその「もやもや」を共有すること、言語化すること。
それが2週目なのかもしれないと思った。

昨日の結論は、
お客さん目線だけではなくて、
商品づくりのプロセスを集落のみんなと
一緒に楽しむこと。

お客さんの課題だけではなく、
地域の課題も同時に解決すること。
地域の人たちも一緒にワクワクできる商品をつくること。
やればやるほど、地域の人と仲良くなれること。

そんな商品をひとつでもつくれたら、
「百姓百貨店」はだんだんとカタチになっていくのだろうと思う。

僕としては、地域の、特に中山間地の現場で、
「百姓百貨店プログラム」そのものが売れるような気がする。

「ビジネス」と「地域づくり」のあいだに、
「新しい何か」をつくっていこう。
自分の「在り方」を問いかけながら。  

Posted by ニシダタクジ at 07:32Comments(0)学び

2016年08月24日

「課題解決」という幻

「課題解決」を考える。
もう、そんな机上の遊びはやめたほうがいい。

リアル。
どこまでもリアルを追い求めないといけない。

企業が、いや世の中が求めるのは、
自ら考え、自ら行動する人材。
そこには、圧倒的なリアルが必要だ。

「課題解決」というより、
むしろ「課題発見」力が必要だ。

いや、もしかすると、
「課題解決」というのは、
20世紀の手法だったのかもしれない。

とくに「まちづくり」のジャンルについては、

人口減少、高齢化、税収減少。

その中で、課題が山積している。
社会保障ひとつとっても、財源とサービスの質が
問われている。

「デザイン」で解決しなければいけない。

課題と課題を組み合わせることで、
お互いを「資源」に変えていく。
そんなデザインが必要だ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:14Comments(0)学び

2016年08月20日

もし、その事業について、本を書くとしたら

カタリバ理事の東大中原淳さんのブログ。
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/3826

NPOで「表現する」「社会と対話する」
とはどういうことなのか?

激しく心を揺さぶられるブログ。

~~~以下メモ

カタリバのルーツを大事にすること
そして
カタリバが何をめざす組織であるのか
の対話を必ずメンバーが続けていくこと

今後のカタリバの課題は、組織のビジョン確定をうけて、
事業ごと、セグメントごとに、事業レベル、セグメントレベルの
ミッション、ビジョンを明確にしていくことだと思います。
カタリバの組織としてのミッションに「同期」しつつ、
各事業部間には「明確な違い」を明らかにしていくこと
そして
社会には、カタリバならではの「付加価値」を提供すること

「今の事業をやりつづけ、3年後に、事業に区切りがつきます。
そして、あなたが、その事業についての、本を書くとします。
その本のタイトルをあなたはどうつけますか?」
とお話をしました。
  
タイトルを何と付けるか?
そこには、どんな挿絵や写真が入るのか?
どんな目次構成なのか?
何がこの本のうりなのか?
何を社会に訴えかける本なのか?
  
本を書くのだとしたら、これらすべてにオリジナリティやビジョンが求められます。
僕がみなさんに明確にしていただきたいのは、そういうことです。

Doable(ドゥアブル)とは「今、あなたがやっていること」(行動項目)
一方、
Deliverable(デリバラブル)とは「あなたがやっていることで、
誰かに何らかの価値提供を行えたか」ということ」(提供価値)

「Doable(ドゥアブル)視点」では「今やっていること」を
ひたすらリスト化すればいいのに対して、
「Deliverable(デリバラブル)視点」では、
それが「誰の何の役にたっているか、どんなお届け物をしているか」を考えなくてはなりません。

それで誰に付加価値をお届けしているのか?
であり
それで何が変わるのか?
ということです。そして、そのために、どのような工夫をしてきたか?ということです。  
人生はまことに短い。
その一瞬一瞬で、誰に何をもたらしてきたのか、がデリバラブル発想です。

私たちは何者なのか?
私たちは、どうありたいのか?
私たちは、何をめざしているのか?
私たちは、誰に、どんな価値をお届けしているのか?

~~~以上メモ

素敵な示唆をいただくブログになった。

ツルハシブックスの閉店から始まる物語が、
もし、本になるとしたら?

タイトルを何と付けるか?
そこには、どんな挿絵や写真が入るのか?
どんな目次構成なのか?
何がこの本のうりなのか?
何を社会に訴えかける本なのか?

そんな問いを手にして、
11月に向かっていこうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 10:08Comments(0)学び