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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年09月23日

単元テストという相互フィードバック





北海道大空高校
https://ozora-h.ed.jp/

女満別空港から20分ほど。
東京から一番近い北海道でみらい留学の受け入れをしている高校だ。
昨年4月に民間人校長大辻さんを招いて開校。
僕が興味を持ったのは、定期テストから単元テストに変えたこと。

英語の先生へヒアリングしたときのこの一言にインスパイアされた。
「習ったところがすぐにフィードバックされる」

そうか。単元テストとは、いわゆる生徒がどのくらい学習したか、という到達度を測るだけのテストではなく、教師と生徒のお互いのフィードバックの機会である。

つまり、単元テストは、教師・生徒双方のふりかえり、フィードバックの機会だということ。
この瞬間、教師と生徒は、評価者と被評価者の関係ではなく、「ともにつくる仲間」になるのではないかと

単元別テストにするメリットとして
1 1度作ってしまえば毎年使える
2 学習の進度に関わらず、同じものを使える
3 学校の中でライブラリー化すれば、指導要領が変わらない限り次の年も使える(参考にできる)
4 先生は長期休みに教材研究をし、テストを作ることができる
などなど。

「探究的な学びの推進」の観点からのみでなく、「先生の働き方改革」という点でも
多くのメリットがあると感じた。

調整が必要なのは
1 教科間のテストがかぶらないようにすること
2 テスト期間の緊張感みたいなのが失われる

何よりも、単元テストがすでに作ってあることによって、中期的なゴールを設定して、授業に臨むことができる、というメリットがあるのではないかと思う。

単元テストというゴールは、教師がここまでは到達してほしいという単元のゴールである。底に向かって、今日はどこまでやったらいいのか。何を理解し、 何を理解してないのか。

定期テストから単元テストへ。これからいろんなアプローチで実現していきたいなと思った。

6限の生徒総会では、会計に立候補した地元出身の1年生の演説に涙が出そうになった。

オープンキャンパスで越境留学した先輩(生徒会長立候補者)にあこがれて入学。地元の子からは、大空高校はやめたほうがいいと言われながらも、自分にはこの高校が合っていると思い、その評判を良くしていきたいと入学。先輩と一緒にこの学校を良くしていくんだ、と生徒会選挙に立候補した。

これって「高校魅力化」の出発点じゃん、って思った。

ひとつひとつ。そして、ひとりひとり。
それらをていねいに重ねていくことでしか、高校魅力化は達成されない。
いや、達成ではなくどこまでもプロセスなのだろうと思う。

大空高校でいいものを見せていただきました。
大辻さん、受け入れありがとうございました。

私たちも「ともにつくる」をテーマに、あらためて再構築していこうと思います。



  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)学び日記

2022年09月19日

焚き火のような本屋



昨日は西会津町の「いとなみ」にお邪魔してきました。
佐々木さん、ほんと素敵な人だなあと。
https://www.100itonami.com/

今日はこの1冊を紹介します。

「ことばの焚き火」(大澤真美 中村一浩 植田順 野底稔 ハンカチーフブックス)

期せずして昨日の「本が届く場をつくる」の続きになった。
これだから読書は面白いなと。

春先に手にはしていたのだけど、読むべきタイミングがなかなか来なくて。
今朝、目の前に飛び込んできて(昨日の言葉で言えば呼ばれて)読んでました。

対話(ダイアローグ)がテーマの本。

新型ウイルスは「世界がつながっている」つまり「世界はひとつ」だということを自覚させてくれた。
そんなつながっている感じを味わいながら、生きていけたらいいと思う。

ここで面白かったのが対話は波紋の広がりというイメージ。
そこで出てくるのが「焚き火」のメタファーなのだけど。

大澤さんは、
「焚き火にあたりながら、薪をくべるように、場に声を出す」という表現をする。

誰に向かうでもなく、火を見ながら、ポツリポツリとことばを出していくように思う。そして、人のことばだけでなく、火の揺らめきや、鳥の声、木々の音も耳に入ってくるだろう。

暖かい火にあたって、からだがゆるんだ状態でいると、こころもゆるむ。だから、誰かのことばや、何かの音や匂いをきっかけに、自分の中から普段は見えない声が立ち上がって来て、うっかり口をつくことがある。

その時のそのメンバーだからこそ、その場だからこそ、その時間だからこそ、出てくることばがある。対話の一回性、再現不可能性、唯一無二性は、まさに参加型の即興ライブだ。それに気づくと、本当にワクワクするし、「人」と「場」と「時間」との一期一会が尊く感じられる。
~~~

わー、それそれ。
昨日の「本が届く場をつくる」ってそういうことじゃないかなと。

そこに本もある、みたいな。
「対話」というのを言葉だけじゃなくて、本の背表紙や本棚の並びも、本屋にやってきた人たちの存在も。

隣の温泉で心身を解放して、高校生ともおしゃべりして。
この高校生っていう存在が、また一期一会感を強くしてくれるんだ。

焚き火に薪をくべるように、「場」に、発言を、本を、自分という存在を置いてくる。
自らも構成員としてたしかにありながら、空間に委ねているような「場」。

そこから生まれてくる何か。それを見てみたい。
だから今日も、僕は焚き火に火をくべるように、本棚に本を置き、本棚という表現をつくり、対話する空間をデザインする。

そんな「焚き火のような本屋」になれたらいいな。  

Posted by ニシダタクジ at 09:21Comments(0)学び日記

2022年09月18日

「本が届く」場をつくりたい

「本を売りたいわけじゃない。」
ツルハシブックスの時にそう思っていた。

大学生が来て、話をしてておススメしたい本が見つかって、
買うほど(家にストックしておくほど)でもない本の場合は、
3階に上がって僕の本を貸したりしていた。

きっと
「かえるライブラリー」というあいまいな空間を作ったのも
それが理由だと思う。

スピノザに出会ってから、僕は「意志」が信じられなくなった。
http://hero.niiblo.jp/e489527.html
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ(19.7.6)

「挑戦」という言葉への違和感から始まった旅は、
スピノザによって、暫定的なゴールにたどり着いた。

そして、何かが起こるのは、「場」であり「中動態」であるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e492444.html
「自分」から「場」へ(22.5.18)

地下古本コーナーHAKKUTSUから始まった
「10代(中高生)に本を届ける」活動。

「本を売りたい」というより「本を届けたい」のだと思っていた。
でも昨日、緒ラジオ収録で、大学生と話していて、
「本を届けたい」わけでもないことが分かった。

5年位前に渋谷のとある本屋で、「〇〇な時に読みたい本」だったかな、そんなタイトルのフェアがやっていて、各界の有名人が本を選んで顔写真付きのPOPと共にディスプレイされていた時の違和感。

「そのフェア、リアル本屋でやる必要あります?」って思った。ネットでやった方がいいな、って。

あらためてそれを思い出して、僕は「本を届けたい」わけでもないなと思った。11年前に本屋さんになるずっと前から、自分は「本好き」ではなく、「本屋好き」だと思っていたのだけど、それはつまり、「(背表紙が並んだ)本棚が好き」だっていうことが分かった。

東京・千駄木の往来堂書店の棚を見てるだけでワクワクするし、長崎・ひとやすみ書店で立ち読みしてたら全部ほしくなるし、福岡・箱崎のブックスキューブリックに行ったら手に汗かくほどドキドキする。

本棚、そしてその本棚のある空間。
そこで人は、本棚と本に出会う。
たぶんそういうことだ。

「本を売りたい」わけでも「本を届けたい」わけでもなく、ただただ「本が届く」場をつくりたんだ。本が届く瞬間を見たいんだ。

「風舟」でやっている一箱本屋「緒-itoguchi」ってきっとそういうことなんだな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2022年09月16日

「自己」ではなく「自分」


「会社という迷宮」(石井 光太郎 ダイヤモンド社)

いつも話していてインスパイアされる友人絶賛の1冊。
でてくるキーワードにいちいちシビれますが、今日はこちらを。

~~~
「組織」との関係の中で自分の場所というのは、古来、日本では「分」という言葉で表現されてきた。

「分」とは何かと言えば、そもそもは、集団の中で自分の役割や責任を自覚的に認識するポジティブな概念であったはずである。何より社会においては、人間は常に「自己」ではなくて「自分」なのである。

「分」とは、社会や集団や組織の中で、自分はどのような位置を占めるか、何者なのであるか、を自覚・他覚し、共有するための表象なのである。そして、職業や仕事の世界においては、自らの職業人としての責任や矜持を表象するものが「職分」であった。
~~~

!!!

そうか。
「自分」を知るって、自らの「分」を知るってことなんだな。
「分」を言い換えれば「役割と責任」

就活の時の「自己分析」の違和感ってそこにあるんじゃないのか。

大切なのは「自己」ではなく「自分」

かつて茨城大学の学生が言っていた。「どんな仕事でもいい。この人と一緒に働きたいと思える人と働けるなら、1日中コピーを取っていても、エクセルに数値を入力してても、なんでもいいんです。」

たぶん。
そういうプロセスの中で「自分の場所」を見つけていくのだろう、って思った。

高校生や大学生にとって、「自分を知る」というのは、「自己を知る」ということではなく、文字通り「分」を、役割や責任を知りたいということなのではないか。

それは自己分析では出てこなくて、いろんなアクションの先での対話と探究の結果、自覚・他覚されてくるもの、なのだろうなと。

そういう意味においては「自分」っていい訳語だなあと。

ひとりひとりは「自己」ではなくて「自分」なんだよなと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)学び

2022年09月13日

「国語力」のために本屋と寮と公営塾ができること


「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(石井光太 文藝春秋)

久しぶりにガチの教育ルポ読みました。
思った以上に自体は深刻だなあと。

ネットゲームやLINEなどの日常風景によって
国語力が育まれることがなく年齢を重ねていく子どもたち。

こうなってしまった社会背景を探り、
実際に犯罪にまで至ったケースをルポタージュし、
それに対してフリースクールや更生施設で行われていることの
リアルは、胸に刺さる。

ラストの、私立の中高一貫校で取り組まれている
深夜特急などの文庫本を出発点にした各科目の横断教育や
哲学対話の実践などは、まさに「探究的な学び」そのものだと思った。

本屋は、寮は、公営塾は、そして小中高校は今、何をすべきか?
「心理的な安全性」とはどのようにつくるのだろうか?

自分の気持ちを言語化する機会、対話によって自己理解と他者理解をする機会は、
どのようにつくったらいいのか?

そんな問いも刺さる。

・対話の場と機会をつくる(本屋)
・ふりかえりと対話の時間を持つ(寮)
・探究活動を深める対話を繰り返す(公営塾)

そんなことができるのではないか。

文科省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「創造する力」「表す力」の四つの中核からなる能力としている。その基盤になる「語彙力」、それと同時に伸ばしていくのが「情緒力」と「想像力」である。

「ふりかえれない探究」には大きな意味がないと思う。
体験を経験にするために、国語力が必要なんだ。

町ぐるみでそれをやっていくことが大切で、この町ならそれができるのではないか、と感じる1冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)学び

2022年09月04日

「自分」と「時間」に中途半端に抗う

三大発明と言えば「火薬」「羅針盤」「活版印刷」なのだそうです。

僕は、ツルハシブックス前後から、
(正確には中越地震ボランティア以来)
大学生と接する機会が増えた中で、

「やりたいことがわからない」
「自分に自信がない」
が大きな二大悩みであることを知った。

その解決策は、いま多くの場所で行われているような
「やりたいことを見つける」ことや「自分に自信をつける(もしくは自己肯定感を高める)」
ことなのだろうか?

そもそも、
「やりたいことがわかっている」「自分に自信がある」
という状態に価値があるのか?
価値があるとしたら、どんな価値なのか?

課題は、「やりたいことがわからない」ことではなく、
「やりたいことがわからなくてつらい」ことではないか。

取り組みべきは
「やりたいことがわかっている」状態を目指すことではなく
「やりたいことがわからなくてもつらくない」状態なのではないか。

「13歳のハローワーク」(村上龍 はまのゆか 2003)
と「世界にひとつだけの花」(SMAP 2003)

が同時に登場したことで、小中学生はどんなメッセージを受け取ったのか?
「あなたにもオンリーワンの自分に向いている仕事がある」なのではないか?
もしくは、「好き」を仕事にしている大人はカッコいい、なのではないか?

ひきだし2022で出てきたキーワードは「苦にならない」だった。
人は、「苦にならない」を見つけて、仕事にしている。

「好き」でも「嫌い」でもない。二元論ではない「苦にならない仕事」。
それを見つけるためには、「やってみる」以外に方法はない。

自分の意志ではなく、「言われたから、頼まれたから、仕事だから、やってみた。」

そういうことの中で自分の「苦にならない」を見つける。
あるいは人から「そういう作業、早いよね」って指摘されて意外な自分を知る。
「意志」ではなく「意外」

明治時代の最大の発明は「自分」と「時間」なのではないかと。
そして、その概念こそが、大学生を、高校生を苦しめているのではないかと。
そんな仮説を持った。

「アンチテーゼを示す」っていうのは、たぶん僕の得意分野でななくて、
フワッとした中途半端なものを差し出す、というのが僕の手法なのかもしれない。
中途半端で、あいまいであることが「余白」を生み「参加性」を増やす。(と言い訳している)

「自分」ではなく「場」を主体にすること。
「意志」ではなく「委ねる」こと。

直線的に進む「文明の時間」ではなく、循環する「自然の時間」を感じること
目的・目標ではなく、回っていく何かに委ねてみること。
それができるのが、この町なんだろうと。

その「あいだ」、そして行き来する何か、なのだろうな、と。

にいがたイナカレッジのやっている「にいがたでくらすはたらく編集室」
ってまさにそれを表現する「場」なのかもしれないな、と。

かといって、人は、環境に適応しなければ生きていけないから、
いまの「自分」と「(文明の)時間」のある経済社会に、ある程度の適応が必要となる。

副業とか複業とかプロボノとか趣味とかボランティアとかで
自分と社会のあいだの「場」をつくったり、
文明の時間(仕事)と自然の時間(暮らし)を行き来したり。
そういう視点で人生を捉えるのもいいなあと思う。

僕のアプローチは、「探究的な学び」において、
「自分」単位から「場」単位へのシフトというか行き来ができるようにすることと

丘の上の高台に、温泉と高校生寮を併設した目的・目標がわかりにくい空間をつくる、
というのが、

「自分」と「時間」という宗教に抗う中途半端な方法、なのかなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学び思い日記