2023年03月04日
「発見と変容」と小さな経済圏
月刊「先端教育」2023年4月号(先端教育機構出版部)
の新潟特集にうまいこと便乗して掲載されました。


しかし。8割くらいプロフィールになってます。。。
ツルハシブックスとかまきどき村とか過去の話多い・・・
唯一言っているのはタイトルにもなっている「発見と変容」ですね。
~~~
学校では、目標達成に向けて、成長のための学びが提供されています。それはとても大切なことですが、今の時代、そもそも設定された目標が正しいとは限らず、達成への努力を続けるだけでは無理が出てくる。そのため、学校教育の周辺に「発見と変容」の場や機会が欠かせません。
一方で「発見と変容」は偶発性が高く、それだけでは迷うことになりますから、何らかの軸や指針を持つためには「達成と成長」が必要です。「達成と成長」と「発見と変容」の教育は、それぞれに意味があります。
~~~
本文を通して、主張として載っているのはこれだけです。
ここ5年くらいのキーワードである「発見と変容」が掲載されたのは素直にうれしかったのです。
http://hero.niiblo.jp/e492764.html
参考:発見と変容の物語を語れ(22.11.11)
目標達成とか課題解決とか「その先に未来がある」と信じられなくなってきた社会や時代になったはずなのに。
それでもまだ「あなたの夢は?」「今年の目標は?」と問われ続ける日々を過ごしていて。
「その先に未来はあるんですか?」と叫んで逃げ出したい日々の中。
なんとか会社や学校に行っている、そんな現実があるんじゃないかと。
http://hero.niiblo.jp/e492597.html
参考:「文明の時間」と「自然の時間」(22.8.23)
~~~
山尾三省さん「アミニズムという希望」(野草社)の言葉から
「文明の時間」:進歩し続ける。それは必ず前に進み、後戻りすることはありません。
必ず昨日よりも今日、今日よりも明日には進歩するのであって、後退したりしません。世の中の主流の価値観と親和性の高い時間です。
「自然の時間」:循環し回帰する時間です。
地球は1日1回自転をしながら、1年に1回、太陽の周りを回ります。そのサイクルは太陽系が生まれて48億年前から変わらず、まったく進歩していません。地球の回転により季節は春から冬への変化しますが冬の次はまた春に戻ります。くるくると回転しているだけで前には進まないのです。
生き物としての人間の身体や心も、この循環する時間に属します。人間は誰しも生まれ、成長し、老いて、死んでいきますが、このサイクルもやはり進歩しないからです。
~~~
「文明の時間」と「自然の時間」、その両方をヒトは必要としている。
「社会的な動物」として、そして「自然的な動物」として。
「文明の時間」という直線する時間軸の中では「達成と成長」が重要である。そして、それは価値を測定することができる。
「自然の時間」という循環する時間軸の中ではふとしたときに「発見と変容」が起こる(し、起こらないかもしれない)。そして、それは予測できず、もっと言えば振り返りをしなければ認識さえできないかもしれない。
その両方を必要としているのだと思う。
そんな時にヒントになるのが「小さな経済圏」の話なのかもしれない、と。
http://hero.niiblo.jp/e492922.html
参考:「小さな経済圏」という学びの場(23.3.2)
3月1日に新潟駅NINNOで開催された「めぐるめ倶楽部」のイベント。
ひとりの参加者が放った質問に「おっ!」って思った。
「そのプロジェクトはどのくらいの経済圏を想定していますか?」
現場で聞いたときは、「なんでそんなこと聞くんだろう。さすがコンサル」って、すごい違和感だったけど、後から考えるとすごくいい問いだな、と。
経済圏の大きさの美学っていうのがあると思った。
グローバル経済圏で戦うのでも、ローカルでボランタリーな経済圏で戦うのでもなく。
このプロジェクトはどのくらいの経済圏を想定しているか?という問い。
坂口恭平さんは「経済とは流れである」と言い切る。
http://hero.niiblo.jp/e491998.html
参考:誤読して行動し、冗談で企画書を書く(21.8.30)
自分はどれくらいの経済圏を想定しているのだろうか?
そして、その「経済」で起こしていくお金以外の「流れ」とは何か?
そんな問い。
そういう意味では、一定の経済圏を想定して何かを動かしていくこと。
関係人口ではなく、「経済圏人口」を増やしていくこと。
そこに新たな「共同体」(のようなもの)を構築していくこと。
「共同体」を維持する必然性としての「人を育てる(教育的試み)」をやっていくこと。
その最大の魅力は「参加できる」ってことにあるのではないか。
昨日、麒麟山酒造の齋藤社長に聞いた、奥阿賀酒米研究会の話。
農家はひとり社長みたいなもので孤独なんだけど、
酒米研究会で肥料や栽培技術の勉強をみんなでして、
毎回酒を飲むことでだんだんと仲良くなって、面積も増えていったんだと。
それ、コーディネーターですよ、って思った。
そして、それこそが「小さな経済圏」の始まりだと。
ひとりひとりの農家は「酒米研究会」へ参加した。
それは地元産米100%を掲げた麒麟山酒造のベクトルに乗ったからだ。
その「参加」のデザインと熱意が素晴らしかったのだろう。
多様なステークホルダーがたくさんいる小さな経済圏の方が「参加できる」に価値を置くにはいいのかもしれない。多様な関わり方がある、っていう魅力。
高校生もその経済圏への「参加」は可能だし、そこにこそ、まちの経済と高校生の将来に向けた学びがクロスしてくる現場があるのかもしれない。
経済圏とは、経済の循環する範囲のことだ。
その中で、学びも循環し、振り返ると発見と変容が起こっていた、そんな場をつくりたいなあ。
の新潟特集にうまいこと便乗して掲載されました。


しかし。8割くらいプロフィールになってます。。。
ツルハシブックスとかまきどき村とか過去の話多い・・・
唯一言っているのはタイトルにもなっている「発見と変容」ですね。
~~~
学校では、目標達成に向けて、成長のための学びが提供されています。それはとても大切なことですが、今の時代、そもそも設定された目標が正しいとは限らず、達成への努力を続けるだけでは無理が出てくる。そのため、学校教育の周辺に「発見と変容」の場や機会が欠かせません。
一方で「発見と変容」は偶発性が高く、それだけでは迷うことになりますから、何らかの軸や指針を持つためには「達成と成長」が必要です。「達成と成長」と「発見と変容」の教育は、それぞれに意味があります。
~~~
本文を通して、主張として載っているのはこれだけです。
ここ5年くらいのキーワードである「発見と変容」が掲載されたのは素直にうれしかったのです。
http://hero.niiblo.jp/e492764.html
参考:発見と変容の物語を語れ(22.11.11)
目標達成とか課題解決とか「その先に未来がある」と信じられなくなってきた社会や時代になったはずなのに。
それでもまだ「あなたの夢は?」「今年の目標は?」と問われ続ける日々を過ごしていて。
「その先に未来はあるんですか?」と叫んで逃げ出したい日々の中。
なんとか会社や学校に行っている、そんな現実があるんじゃないかと。
http://hero.niiblo.jp/e492597.html
参考:「文明の時間」と「自然の時間」(22.8.23)
~~~
山尾三省さん「アミニズムという希望」(野草社)の言葉から
「文明の時間」:進歩し続ける。それは必ず前に進み、後戻りすることはありません。
必ず昨日よりも今日、今日よりも明日には進歩するのであって、後退したりしません。世の中の主流の価値観と親和性の高い時間です。
「自然の時間」:循環し回帰する時間です。
地球は1日1回自転をしながら、1年に1回、太陽の周りを回ります。そのサイクルは太陽系が生まれて48億年前から変わらず、まったく進歩していません。地球の回転により季節は春から冬への変化しますが冬の次はまた春に戻ります。くるくると回転しているだけで前には進まないのです。
生き物としての人間の身体や心も、この循環する時間に属します。人間は誰しも生まれ、成長し、老いて、死んでいきますが、このサイクルもやはり進歩しないからです。
~~~
「文明の時間」と「自然の時間」、その両方をヒトは必要としている。
「社会的な動物」として、そして「自然的な動物」として。
「文明の時間」という直線する時間軸の中では「達成と成長」が重要である。そして、それは価値を測定することができる。
「自然の時間」という循環する時間軸の中ではふとしたときに「発見と変容」が起こる(し、起こらないかもしれない)。そして、それは予測できず、もっと言えば振り返りをしなければ認識さえできないかもしれない。
その両方を必要としているのだと思う。
そんな時にヒントになるのが「小さな経済圏」の話なのかもしれない、と。
http://hero.niiblo.jp/e492922.html
参考:「小さな経済圏」という学びの場(23.3.2)
3月1日に新潟駅NINNOで開催された「めぐるめ倶楽部」のイベント。
ひとりの参加者が放った質問に「おっ!」って思った。
「そのプロジェクトはどのくらいの経済圏を想定していますか?」
現場で聞いたときは、「なんでそんなこと聞くんだろう。さすがコンサル」って、すごい違和感だったけど、後から考えるとすごくいい問いだな、と。
経済圏の大きさの美学っていうのがあると思った。
グローバル経済圏で戦うのでも、ローカルでボランタリーな経済圏で戦うのでもなく。
このプロジェクトはどのくらいの経済圏を想定しているか?という問い。
坂口恭平さんは「経済とは流れである」と言い切る。
http://hero.niiblo.jp/e491998.html
参考:誤読して行動し、冗談で企画書を書く(21.8.30)
自分はどれくらいの経済圏を想定しているのだろうか?
そして、その「経済」で起こしていくお金以外の「流れ」とは何か?
そんな問い。
そういう意味では、一定の経済圏を想定して何かを動かしていくこと。
関係人口ではなく、「経済圏人口」を増やしていくこと。
そこに新たな「共同体」(のようなもの)を構築していくこと。
「共同体」を維持する必然性としての「人を育てる(教育的試み)」をやっていくこと。
その最大の魅力は「参加できる」ってことにあるのではないか。
昨日、麒麟山酒造の齋藤社長に聞いた、奥阿賀酒米研究会の話。
農家はひとり社長みたいなもので孤独なんだけど、
酒米研究会で肥料や栽培技術の勉強をみんなでして、
毎回酒を飲むことでだんだんと仲良くなって、面積も増えていったんだと。
それ、コーディネーターですよ、って思った。
そして、それこそが「小さな経済圏」の始まりだと。
ひとりひとりの農家は「酒米研究会」へ参加した。
それは地元産米100%を掲げた麒麟山酒造のベクトルに乗ったからだ。
その「参加」のデザインと熱意が素晴らしかったのだろう。
多様なステークホルダーがたくさんいる小さな経済圏の方が「参加できる」に価値を置くにはいいのかもしれない。多様な関わり方がある、っていう魅力。
高校生もその経済圏への「参加」は可能だし、そこにこそ、まちの経済と高校生の将来に向けた学びがクロスしてくる現場があるのかもしれない。
経済圏とは、経済の循環する範囲のことだ。
その中で、学びも循環し、振り返ると発見と変容が起こっていた、そんな場をつくりたいなあ。
2023年03月02日
「小さな経済圏」という学びの場
めぐるめくプロジェクトのイベント@NINNOにお邪魔してきました。
参考:https://note.com/megourmake/

デザイン会社U-STYLEが手掛ける上越・安塚で行われている里山ボタニカル
https://u-style-niigata.com/works/2020_satoyamabotanical/
そこで生まれる新しい日本酒についてのプレゼン。
キーワードが素敵だったのでメモ。
・人と自然がよりよくかかわっていく
・土地の営みを伝える
・小さな経済圏を回していくこと
・農家もストーリーの中に入れる
・選択寄付的クラファン⇒どこに投資したいのか?
・日本酒についてくる体験・情緒的価値
・お酒にまつわるすべてを体験できる
・「芽出」「田休」「出穂」「刈上」「越冬」
・お酒を通して地域を知ってもらう
・関わる人を増やす⇒自然と共生し続ける人を増やす
・宿泊も含めて考えると滞在時間が延びる
デザインで素敵だったのは、
ランチョンマットの下にヒントの紙が裏になって置いてあったこと。
こういう仕掛け、好きだなあ。

・問い:日本酒を起点に、里山に人・自然・経済の幸せな循環をどうつくれるだろうか?
・ヒント1:このプロジェクトは誰をどのように幸せにできるだろうか?(誰に届ける?)
・ヒント2:プロジェクトを加速させる次の一人とは?(どんな仲間を?)
・ヒント3:このお酒における最高の体験とは?(体験価値)
このカードもいいですね。
風舟の本棚でやりたい。
ということで、今日は「小さな経済圏」について。
参考:その「問い」であってます?(17.11.13)
http://hero.niiblo.jp/e486273.html
次の作品の話をしよう(17.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e486281.html
「なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。」(家入一真 ディスカヴァー・トゥエンティワン)
~~~
働き方論はテクニックにすぎない。
大切なのはどんな生き方をしたいかであり、
それは自分にとっての幸せはどこにあるのかを探るということだ。
地域活性化の本質とは、その土地での暮らしの集積であるべきで、
それを大切に育てて、発信して、人を魅了していくことにあると思う。
ここでしか食べられないもの
ここでしか見られない景色
ここでしか出会えない人たち
ここでしか味わえない時間の流れ方
~~~
いいですね。
もう一度読み直そう。
~~~
次のお店。
それは
Local
Liberal Arts
Laboratory
「地域資源」を活用した
「自由になるための学び」を提供する
「実験室」
としての本屋
「自由」っていうのは、
・精神的自由のための本・地域活動・インターンシップ
・経済的自由のための小商い・クラウドファンディング
・食糧的自由のための八百屋や米屋・加工品販売
そんな感じ。それらを通して、「学び合う」空間。
地域の人、企業、産業などをベースに、学び合う空間。
~~~
うんうん。
「風舟」とか「麒麟山米づくり大学」ってきっとそういう感じ。
2017年にもう予言してるんだ。
「小さな経済圏」の僕にとっての付加価値は、学び合う空間。
学びというベクトルが人と人をフラットにし、新しいアイデアを創出させる。
その一部がビジネスとなって、小さな経済圏は回っていく。
その一部はいわゆる「教育」的価値を生み、次世代を育て、引き寄せる。
そういうプラットフォームをつくりたいな、と。
参考:https://note.com/megourmake/

デザイン会社U-STYLEが手掛ける上越・安塚で行われている里山ボタニカル
https://u-style-niigata.com/works/2020_satoyamabotanical/
そこで生まれる新しい日本酒についてのプレゼン。
キーワードが素敵だったのでメモ。
・人と自然がよりよくかかわっていく
・土地の営みを伝える
・小さな経済圏を回していくこと
・農家もストーリーの中に入れる
・選択寄付的クラファン⇒どこに投資したいのか?
・日本酒についてくる体験・情緒的価値
・お酒にまつわるすべてを体験できる
・「芽出」「田休」「出穂」「刈上」「越冬」
・お酒を通して地域を知ってもらう
・関わる人を増やす⇒自然と共生し続ける人を増やす
・宿泊も含めて考えると滞在時間が延びる
デザインで素敵だったのは、
ランチョンマットの下にヒントの紙が裏になって置いてあったこと。
こういう仕掛け、好きだなあ。

・問い:日本酒を起点に、里山に人・自然・経済の幸せな循環をどうつくれるだろうか?
・ヒント1:このプロジェクトは誰をどのように幸せにできるだろうか?(誰に届ける?)
・ヒント2:プロジェクトを加速させる次の一人とは?(どんな仲間を?)
・ヒント3:このお酒における最高の体験とは?(体験価値)
このカードもいいですね。
風舟の本棚でやりたい。
ということで、今日は「小さな経済圏」について。
参考:その「問い」であってます?(17.11.13)
http://hero.niiblo.jp/e486273.html
次の作品の話をしよう(17.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e486281.html
「なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。」(家入一真 ディスカヴァー・トゥエンティワン)
~~~
働き方論はテクニックにすぎない。
大切なのはどんな生き方をしたいかであり、
それは自分にとっての幸せはどこにあるのかを探るということだ。
地域活性化の本質とは、その土地での暮らしの集積であるべきで、
それを大切に育てて、発信して、人を魅了していくことにあると思う。
ここでしか食べられないもの
ここでしか見られない景色
ここでしか出会えない人たち
ここでしか味わえない時間の流れ方
~~~
いいですね。
もう一度読み直そう。
~~~
次のお店。
それは
Local
Liberal Arts
Laboratory
「地域資源」を活用した
「自由になるための学び」を提供する
「実験室」
としての本屋
「自由」っていうのは、
・精神的自由のための本・地域活動・インターンシップ
・経済的自由のための小商い・クラウドファンディング
・食糧的自由のための八百屋や米屋・加工品販売
そんな感じ。それらを通して、「学び合う」空間。
地域の人、企業、産業などをベースに、学び合う空間。
~~~
うんうん。
「風舟」とか「麒麟山米づくり大学」ってきっとそういう感じ。
2017年にもう予言してるんだ。
「小さな経済圏」の僕にとっての付加価値は、学び合う空間。
学びというベクトルが人と人をフラットにし、新しいアイデアを創出させる。
その一部がビジネスとなって、小さな経済圏は回っていく。
その一部はいわゆる「教育」的価値を生み、次世代を育て、引き寄せる。
そういうプラットフォームをつくりたいな、と。
2023年02月27日
「好き」というフィクションで自分を創る
2月23日「くらはたずかん」の報告会@新潟駅MOYORe:でした。
各地域を取材した大学生のブログ記事を発表し、
それについて話をしていました。
全体のnote記事はこちらから
https://note.com/kurahata_niigata/
今回取り上げるのは、2つ。
ふりかえりセッションでのコメントが多かった柏露酒造の染谷さん
https://note.com/kurahata_niigata/n/n13b237187f9f
~~~
「好きなことを仕事にできていいよね」って言われるけど、「日本酒が好き」と自分に思い込ませたという感じです。そうじゃないと何でここで働いてるの?って聞かれたときに説明できないんですよ。もちろんお世話になったから恩返しをするためという理由もありますけどね。
~~~
「好きなことを仕事にする」って素敵だよね、って多くの人が思っている。
一方で今働いている人の何割がその状況なのか?と問われれば1割を切っているんじゃないかと思う。
そんな世の中で「好きってことにする」っていうのは、
なかなかの衝撃だった。
そもそも、「自分はこれが好き」って胸張って言えるものってどれくらいあるだろうか。
好きな食べ物とか音楽とかだったら、それなりに語れるのだろうけど。
仕事の分野や内容でそれを語れる人ってどれくらいいるのだろうと。
みんなそんなに自分に自信ないんじゃないか。
「日本酒が好きってことにする」
「そうするとだんだんと好きになって行く」
「日本酒が好きな自分に自信が持てるようになっていく」
「やっと好きって言える」
そんなモデルなのではないかなあと。
もちろん、だんだんと好きにならない場合もあるんでしょうけど。
そのときはまた、違う「好き」を設定してみるしかないなと。
あとは、これ。
https://note.com/kurahata_niigata/n/n4b41af0a0635
糸魚川・能生の屋村さんの記事なのだけどその冒頭
~~~
今回の記事は、以下のみなさんにおすすめ!
・都会暮らしに憧れている人
・地方でのスローライフに憧れている人
・飽きっぽい人
・パートナーとの将来を考え始めた人
・社会に出ることが不安な人
~~~
リアル。リアルすぎる。
特に「パートナーとの将来を考え始めた人」って
大学4年生女子あるあるですごい。
で、文章もまさに!ってグッとくる箇所が多い。
話を聞いて、それが彼女なりの「魔法をかける編集」なのだと知った。
くらはたずかんのキックオフの時、
僕はいつもの「魔法をかける編集」の話をした。
「今しか、あなたにしか書けない記事を書いてください。」だ。
取材に行って、話を聞いて、その問いをまたグルグルして、記事を書く。
誰に向けて、どうなってほしくて、この記事を書くのだろうか。
私が伝えるべきことは?
そんな問いの中で出来上がった文章が心を打つのだと思う。
1年かけて1本のブログ記事を書く。なんとも贅沢な時間。
こういうのは県庁がやったほうがいいですね。
各地域を取材した大学生のブログ記事を発表し、
それについて話をしていました。
全体のnote記事はこちらから
https://note.com/kurahata_niigata/
今回取り上げるのは、2つ。
ふりかえりセッションでのコメントが多かった柏露酒造の染谷さん
https://note.com/kurahata_niigata/n/n13b237187f9f
~~~
「好きなことを仕事にできていいよね」って言われるけど、「日本酒が好き」と自分に思い込ませたという感じです。そうじゃないと何でここで働いてるの?って聞かれたときに説明できないんですよ。もちろんお世話になったから恩返しをするためという理由もありますけどね。
~~~
「好きなことを仕事にする」って素敵だよね、って多くの人が思っている。
一方で今働いている人の何割がその状況なのか?と問われれば1割を切っているんじゃないかと思う。
そんな世の中で「好きってことにする」っていうのは、
なかなかの衝撃だった。
そもそも、「自分はこれが好き」って胸張って言えるものってどれくらいあるだろうか。
好きな食べ物とか音楽とかだったら、それなりに語れるのだろうけど。
仕事の分野や内容でそれを語れる人ってどれくらいいるのだろうと。
みんなそんなに自分に自信ないんじゃないか。
「日本酒が好きってことにする」
「そうするとだんだんと好きになって行く」
「日本酒が好きな自分に自信が持てるようになっていく」
「やっと好きって言える」
そんなモデルなのではないかなあと。
もちろん、だんだんと好きにならない場合もあるんでしょうけど。
そのときはまた、違う「好き」を設定してみるしかないなと。
あとは、これ。
https://note.com/kurahata_niigata/n/n4b41af0a0635
糸魚川・能生の屋村さんの記事なのだけどその冒頭
~~~
今回の記事は、以下のみなさんにおすすめ!
・都会暮らしに憧れている人
・地方でのスローライフに憧れている人
・飽きっぽい人
・パートナーとの将来を考え始めた人
・社会に出ることが不安な人
~~~
リアル。リアルすぎる。
特に「パートナーとの将来を考え始めた人」って
大学4年生女子あるあるですごい。
で、文章もまさに!ってグッとくる箇所が多い。
話を聞いて、それが彼女なりの「魔法をかける編集」なのだと知った。
くらはたずかんのキックオフの時、
僕はいつもの「魔法をかける編集」の話をした。
「今しか、あなたにしか書けない記事を書いてください。」だ。
取材に行って、話を聞いて、その問いをまたグルグルして、記事を書く。
誰に向けて、どうなってほしくて、この記事を書くのだろうか。
私が伝えるべきことは?
そんな問いの中で出来上がった文章が心を打つのだと思う。
1年かけて1本のブログ記事を書く。なんとも贅沢な時間。
こういうのは県庁がやったほうがいいですね。
2023年02月22日
地域みらい留学ビジョンセッションの型
地域みらい留学を検討している中学生に向けたメッセージを検討する方法:「場」と「人」の往還
1 この町はどんな町?この学校はどんな学校 ⇒ だからこういう人に来てほしいの言語化(付箋ワーク)
※これを地元住民(役場の人)を交えてやることで、町の再発見とチームビルディングになる。
⇒ふるさとCM大賞でもこのフレーム使えるかも?
2 具体的な生徒の事例(成長物語的なもの等)を出して、それを1と合わせる
※1との往復によって、理想的な具体例に落とし込む
3 2で作った具体例に合わせ、コンセプトを言語化し、対象者(ターゲット)向けの言葉をつくる。
※〇〇とともにつくるを3パターンつくる、など。
「こういうことができるから」「こういう人に来てほしい」
「こういうことに困っているから」「一緒に考えてほしい」
「私たちは急いでないから」「場に委ねながらゆっくりと考えよう」
〇〇と●●を、ともにつくる
目的・目標中心主義からのグラデーションで表現する。
例:
1 地域にこんなフィールドがあるから、地域のサポートを受けて学べます⇒目的がある、または目的を見つけて学びたい人
2 学校生活もいいけど、暮らしを楽しみたい人は一緒に楽しみましょう⇒畑づくりやそば打ち、釣りなど、暮らしのスキルを身につけたい人
3 ひとりの時間も大切にして考えたい人は、見守ります⇒自然やゆっくりとした時の流れの中で深く考えたい人
1 この町はどんな町?この学校はどんな学校 ⇒ だからこういう人に来てほしいの言語化(付箋ワーク)
※これを地元住民(役場の人)を交えてやることで、町の再発見とチームビルディングになる。
⇒ふるさとCM大賞でもこのフレーム使えるかも?
2 具体的な生徒の事例(成長物語的なもの等)を出して、それを1と合わせる
※1との往復によって、理想的な具体例に落とし込む
3 2で作った具体例に合わせ、コンセプトを言語化し、対象者(ターゲット)向けの言葉をつくる。
※〇〇とともにつくるを3パターンつくる、など。
「こういうことができるから」「こういう人に来てほしい」
「こういうことに困っているから」「一緒に考えてほしい」
「私たちは急いでないから」「場に委ねながらゆっくりと考えよう」
〇〇と●●を、ともにつくる
目的・目標中心主義からのグラデーションで表現する。
例:
1 地域にこんなフィールドがあるから、地域のサポートを受けて学べます⇒目的がある、または目的を見つけて学びたい人
2 学校生活もいいけど、暮らしを楽しみたい人は一緒に楽しみましょう⇒畑づくりやそば打ち、釣りなど、暮らしのスキルを身につけたい人
3 ひとりの時間も大切にして考えたい人は、見守ります⇒自然やゆっくりとした時の流れの中で深く考えたい人
2023年02月19日
「構想」と「実行」、そして「アイデンティティ」
徳島・神山町にようやく行ってきました。宿題をたくさん残してきた2日間となりました。夏にまたいけるといいなと。
雨乞の滝は不動滝で引き返しました。

詳細は現在まとめているとして、一番感じたことは、「存在承認」のデザインでした。
高校3年の千代実さん。寮の夜ごはんづくりでも手際よく鶏肉を捌いていた。寮生の頼れるお姉さん的な存在。彼女の作ったケーキが「かま屋」で販売されると聞き、お邪魔しました。


そして手に入れたのがこの新聞です。

高校1年の夏からアルバイトを始めて2年半。
彼女の高校生活はかまパンとともにありました。
~~~以下新聞より引用
約2年半の間で、かまパンという存在は姿を変え続けています。それでも、ずっと変わらず大好きな場所です。学校や寮、地域に居場所がなかったころ、かまパンは私の心の拠り所でした。ここだったらいてもいいんだ、と何度も思わせてくれました。密かに、勝手に、常に支えてもらいました。それはきっとかまパンの人たちが、高校生やアルバイト、あゆハウスの子といった何かの括りを通してではなく、一人の人として私を見てくれたからだと思います。そんな環境が私は心から嬉しかったのです。
やりたいことがわからなくなったとき、かまパンは常に刺激をくれる場所でした。自分の興味関心を大切にしている人ばかりで、私にはなかった視点や考え方をたくさん教えてもらえました。自分の大切な経験や好きなことを語ってくれるみんなの顔はいきいきとしていて、私も自分のことのように心を躍らせる日々でした。
一歩踏み出せない弱い自分がいるとき、かまパンは挑戦する勇気をくれる場所でした。(中略)かまパンにいたから、できない理由よりもできる方法を探せる人になりたい、と思えるようになりました。
そして、神山の土地を離れる今、かまパンはこれからもずっと関わり続けたい、何度でも遊びにきたい場所です。ここで作られるパンを食べに、ここにいる人たちに会いに、ただこの場所を訪れるために。きっと私はこの先も、かまパンを愛し続けるのだと思います。こんなふうに思える場所に出会えたことが、大きな大きな私の財産です。
~~~ここまで引用
なんかもう、泣きそうだ。アルバイトの意味ってなんだろう?って。川喜田二郎氏が言う、「創造的行為を繰り返し行い、そのいくつかの達成が累積した場所」それがふるさとなのだと。
千代実さんの場合は、まさにそれなのではないかと。
この「生きてる感」はなんだろう、って。
多くの、いやほとんどすべての高校生、大学生は、アイデンティティの不安を抱えて生きている。
自分は何者なのか。生きている意味があるのか。誰かの役に立つことができるのか。
(それをいったらほとんどの大人も同じ問いを持っているのかも)
「創造的行為」の前段階が必要なのではないか。
それは、同じく川喜田二郎氏の「野生の復興」から読み解けば
http://hero.niiblo.jp/e490083.html
(参考:「判断」の余白をつくる 19.12.9)
~~~ブログから引用
「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)
この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。
「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?
「課題が与えられ、解決策を提案する」。「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?
~~~
千代実さんのバイト先であるかまパンには、「構想」と「判断」があったのだろう。いや、つねにその連続の中に身を置いていたのだろう。
そして、さらにその前提として、千代実さんも書いているけど、「何かの括りを通してではなく、一人の人として」存在できる場であった、ということ。
「存在の承認」それをどのように見出し、形成していくか。
それは本人にとっても大人側にとっても、非常に重要な課題であると思う。
http://hero.niiblo.jp/e291471.html
(参考:承認欲求と他者評価 13.10.24)
考えてみれば、ここ10年、ずっとこのことを考えている気がする。山竹伸二さんの言うところの親和的承認(存在承認)を得るのは、本来であれば親や祖父母をはじめとする血縁者だろうと思うが、それを家庭に期待することはすでに難しい。
だったら、地域(社会)がそれをできないだろうか。
そのひとつの手法が「アルバイト」、それも個人店、小規模事業者のアルバイトであるかもしれない。コンビニやチェーン店のような大手と違うところは、「構想と実行の分離」ではないか、と。
「構想」と「実行」が分離されているところには「やらされ感」がある。
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
(参考:「やらされ感」の正体 21.1.21)
1 構想に同意している
2 構想づくりに参加している
3 構想づくりに参画している
4 自ら構想している
この階段を徐々に登っていくこと。「構想の階段」を登って行けば行くほど、そこには、自分がプロジェクトを動かした実感が伴ってくる。
僕はそれがアイデンティティの形成にも関係してくるのではないかと思った。
一人の人として存在を承認される。
次に場の一員として構想から実行までに参加・参画する。
その繰り返しによって何かを創造する。
「自分」と「地域(社会)」と「未来」にプロジェクトができていくと言っていたけれど。「自分づくり」と「地域づくり」と「未来づくり」は、構想から実行へというプロジェクトを通して、同時に起こっていくのだろう。
2月8日に書いた違和感
~~~
「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?
~~~
http://hero.niiblo.jp/e492876.html
(参考:正解というまがいもの 23.2.8)
そこに「構想」や「判断」が本当にあるのか?逆に、自分出発の「構想」が無ければ、そこに「自分」は形成されるだろうか。
千代実さんのかまパンでのアルバイトには、そのほとんどがあった。
・ひとりの人として承認される場があった。
・「構想」と「判断」と「実行」を目の前で見れるバイト先だった
・自らもケーキを企画・制作し、販売することができた。
そのすべてが、この場所を、かまパンを、そして神山を、ふるさとへと変えていく。
日本画家の千住博さんは、「料理だって立派な芸術です。作り手が、自分のイマジネーションを広げ、『私はこれが美味しいと思う。みなさんどうでしょう』と差し出すのですから。」と言う。
参考:「混沌」を示すことが、現代を生きる芸術家の使命でもある【第1回】「芸術とは何か」についての考察(19.3.9)
https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17251951
あゆハウスで行っている生徒による料理は、2時間でできる「構想と判断と実行」の実践かもしれない。「朝のあのスープ美味しかった」とフィードバックをもらい、少しだけホッとする。自分がここに存在していてもいいのだと思える。
先輩たちについて、最初はおそるおそる。でも経験を重ねれば、みんなができるようになる。
暮らしって、きっとそういうものだ。
直線的に進んでいく未来に向かって、階段を登っていくような「達成と成長」モデルではなく、ただひたすらに続いていく循環する今日を生きながら、「構想と判断と実行」を繰り返し、いつの間にかできていくもの。
それこそがアイデンティティであるのかもしれない。
雨乞の滝は不動滝で引き返しました。

詳細は現在まとめているとして、一番感じたことは、「存在承認」のデザインでした。
高校3年の千代実さん。寮の夜ごはんづくりでも手際よく鶏肉を捌いていた。寮生の頼れるお姉さん的な存在。彼女の作ったケーキが「かま屋」で販売されると聞き、お邪魔しました。


そして手に入れたのがこの新聞です。

高校1年の夏からアルバイトを始めて2年半。
彼女の高校生活はかまパンとともにありました。
~~~以下新聞より引用
約2年半の間で、かまパンという存在は姿を変え続けています。それでも、ずっと変わらず大好きな場所です。学校や寮、地域に居場所がなかったころ、かまパンは私の心の拠り所でした。ここだったらいてもいいんだ、と何度も思わせてくれました。密かに、勝手に、常に支えてもらいました。それはきっとかまパンの人たちが、高校生やアルバイト、あゆハウスの子といった何かの括りを通してではなく、一人の人として私を見てくれたからだと思います。そんな環境が私は心から嬉しかったのです。
やりたいことがわからなくなったとき、かまパンは常に刺激をくれる場所でした。自分の興味関心を大切にしている人ばかりで、私にはなかった視点や考え方をたくさん教えてもらえました。自分の大切な経験や好きなことを語ってくれるみんなの顔はいきいきとしていて、私も自分のことのように心を躍らせる日々でした。
一歩踏み出せない弱い自分がいるとき、かまパンは挑戦する勇気をくれる場所でした。(中略)かまパンにいたから、できない理由よりもできる方法を探せる人になりたい、と思えるようになりました。
そして、神山の土地を離れる今、かまパンはこれからもずっと関わり続けたい、何度でも遊びにきたい場所です。ここで作られるパンを食べに、ここにいる人たちに会いに、ただこの場所を訪れるために。きっと私はこの先も、かまパンを愛し続けるのだと思います。こんなふうに思える場所に出会えたことが、大きな大きな私の財産です。
~~~ここまで引用
なんかもう、泣きそうだ。アルバイトの意味ってなんだろう?って。川喜田二郎氏が言う、「創造的行為を繰り返し行い、そのいくつかの達成が累積した場所」それがふるさとなのだと。
千代実さんの場合は、まさにそれなのではないかと。
この「生きてる感」はなんだろう、って。
多くの、いやほとんどすべての高校生、大学生は、アイデンティティの不安を抱えて生きている。
自分は何者なのか。生きている意味があるのか。誰かの役に立つことができるのか。
(それをいったらほとんどの大人も同じ問いを持っているのかも)
「創造的行為」の前段階が必要なのではないか。
それは、同じく川喜田二郎氏の「野生の復興」から読み解けば
http://hero.niiblo.jp/e490083.html
(参考:「判断」の余白をつくる 19.12.9)
~~~ブログから引用
「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)
この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。
「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?
「課題が与えられ、解決策を提案する」。「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?
~~~
千代実さんのバイト先であるかまパンには、「構想」と「判断」があったのだろう。いや、つねにその連続の中に身を置いていたのだろう。
そして、さらにその前提として、千代実さんも書いているけど、「何かの括りを通してではなく、一人の人として」存在できる場であった、ということ。
「存在の承認」それをどのように見出し、形成していくか。
それは本人にとっても大人側にとっても、非常に重要な課題であると思う。
http://hero.niiblo.jp/e291471.html
(参考:承認欲求と他者評価 13.10.24)
考えてみれば、ここ10年、ずっとこのことを考えている気がする。山竹伸二さんの言うところの親和的承認(存在承認)を得るのは、本来であれば親や祖父母をはじめとする血縁者だろうと思うが、それを家庭に期待することはすでに難しい。
だったら、地域(社会)がそれをできないだろうか。
そのひとつの手法が「アルバイト」、それも個人店、小規模事業者のアルバイトであるかもしれない。コンビニやチェーン店のような大手と違うところは、「構想と実行の分離」ではないか、と。
「構想」と「実行」が分離されているところには「やらされ感」がある。
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
(参考:「やらされ感」の正体 21.1.21)
1 構想に同意している
2 構想づくりに参加している
3 構想づくりに参画している
4 自ら構想している
この階段を徐々に登っていくこと。「構想の階段」を登って行けば行くほど、そこには、自分がプロジェクトを動かした実感が伴ってくる。
僕はそれがアイデンティティの形成にも関係してくるのではないかと思った。
一人の人として存在を承認される。
次に場の一員として構想から実行までに参加・参画する。
その繰り返しによって何かを創造する。
「自分」と「地域(社会)」と「未来」にプロジェクトができていくと言っていたけれど。「自分づくり」と「地域づくり」と「未来づくり」は、構想から実行へというプロジェクトを通して、同時に起こっていくのだろう。
2月8日に書いた違和感
~~~
「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?
~~~
http://hero.niiblo.jp/e492876.html
(参考:正解というまがいもの 23.2.8)
そこに「構想」や「判断」が本当にあるのか?逆に、自分出発の「構想」が無ければ、そこに「自分」は形成されるだろうか。
千代実さんのかまパンでのアルバイトには、そのほとんどがあった。
・ひとりの人として承認される場があった。
・「構想」と「判断」と「実行」を目の前で見れるバイト先だった
・自らもケーキを企画・制作し、販売することができた。
そのすべてが、この場所を、かまパンを、そして神山を、ふるさとへと変えていく。
日本画家の千住博さんは、「料理だって立派な芸術です。作り手が、自分のイマジネーションを広げ、『私はこれが美味しいと思う。みなさんどうでしょう』と差し出すのですから。」と言う。
参考:「混沌」を示すことが、現代を生きる芸術家の使命でもある【第1回】「芸術とは何か」についての考察(19.3.9)
https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17251951
あゆハウスで行っている生徒による料理は、2時間でできる「構想と判断と実行」の実践かもしれない。「朝のあのスープ美味しかった」とフィードバックをもらい、少しだけホッとする。自分がここに存在していてもいいのだと思える。
先輩たちについて、最初はおそるおそる。でも経験を重ねれば、みんなができるようになる。
暮らしって、きっとそういうものだ。
直線的に進んでいく未来に向かって、階段を登っていくような「達成と成長」モデルではなく、ただひたすらに続いていく循環する今日を生きながら、「構想と判断と実行」を繰り返し、いつの間にかできていくもの。
それこそがアイデンティティであるのかもしれない。
2023年02月18日
輸送から徒歩旅行へ、そして「自由」を手に入れるために学ぶ

「君は君の人生の主役になれ」(鳥羽和久 ちくまプリマ―新書)
読み終わりました。
すごいグサグサと刺さりまくる本ですね。
高校魅力化界隈の人は読んでほしい。
その「探究」は何のため?と問いかけられる1冊。
~~~以下メモ
自主性というのは、環境とウマが合ったときに子どもに欲望の火がついた状態のことを言うのでしょう。つまり、教育の「され方」がうまくいっているときに、自主性は生まれやすいのです。
学びは一方がもう一方をむやみに信じ込むという非対称な関係のもとでなければ成立しえないのです。
それなら、あなたにとってどういう人が「先生」になり得るのでしょうか。それは、謎を秘めている人です。つまり、得体の知れなさのようなものを感じさせる人です。
実社会という狭い現実を上位に置くような教育では、子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。
いつの間にか先生が教えようとしていないことまで勝手に学んでしまう。そういう勘違いが学びの本質。
先生との出会いというのは、いったん自分の身体がバラバラになったような経験です。それから、バラバラになった身体を再統合して、もう一度生き直すような経験です。
「差別はいけない」という形でマイノリティが社会的に包摂されるようになった状況は、これまでのマジョリティの支配と何も変わっていない。むしろ、それも差別の一形態じゃないか。
自分を善良の立場に置くことがいつも差別の構造の根本にあるのに、いったんその立場に立ってしまうと、それを保持することに躍起になり、肝心なことに気がつかなくなってしまうものです。
コントロールというのは、わかりやすく相手を自分の思想に染めるのではなくて、こんなふうに相手をある枠内でしか思考できないよう追い込むことによって遂行されます。でも、それは表面上では子どもの意志を尊重する体をとるから、子どもはもちろん親自身さえその権力構造になかなか気づきません。
~~~
いいですねえ。
なんかバッサリっていう感じで。
「実社会という狭い現実を上位に置くような教育では、子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。」
そうなんですよ。実社会が偉いなんて、子どもも大人ももう信じられなくなっているんじゃないかと思います。
そして、ラストの章は、「なんのために勉強するのか」についての鳥羽さんなりのコメントがアツいです。
~~~以下メモ
「人の役に立つため」に勉強するようでは志が低いんです。なぜなら、「人の役に立つため」というゴール設定は、知らず知らずのうちに未来の可能性を封じてしまうからです。
科学技術の歴史を振り返ってみればわかりますが、人間が生きる地層を変化させるような発明のほとんどは「人の役に立つため」という動機で生まれていません。そうではなく、世界の秘密を探求する営みの中でたまたま発見されたことが、応用的に人の役に立つことに利用されるようになったのです。
つまり、人の想像力なんてたかが知れていて、現実世界では人の想像をはるかに超える偶発的な出来事が起こる。そこに秘められた爆発的な力をうまく利用することで、人は世界を改変してきたのです。
「人の役に立つため」という限定された目標設定では、偶然との出会いは生まれず、スタートの時点で未来の可能性をつぶしてしまいます。
~~~
人の役に立つっていうのは目的ではなく結果だと鳥羽さんは言います。
さらに、勉強と「自由」ついて、鳥羽さんのアツい話が続きます。
~~~
あなたが勉強を通して自分自身が変化することを発見し、それにともなって世界の受容のしかたが変わること、さらにそのことで、あなたを取り巻く人やモノとの関係性さえも変わることを許容できるかということにかかっています。
勉強することの大きな意味のひとつは、それを通してあなたが親をはじめとする身近な大人の影響から距離を取ることができる点です。
人間たちは、勉強を通して抽象の扉を開き、具体と中小の間を往還することで、世の中を見る解像度を高める努力をしてきました。
勉強は子どもの目を別のしかたで取り戻すことを通して自由になるためのものとも言えるのです。
人間は自分の人生が動き続けるということに負担を感じます。だから多くの人は大人になるにつれて、安定と安心を求める方向に進むものです。それに対し、自由というのは常に自分自身が揺れ動くことを許容することであり、安定や安心とは真逆の価値観なのです。
~~~
「勉強」と「自由」について、考えさせられた。
勉強とは本来、「思考の自由」を得るためにするものなのだ。親の影響や世間の常識に囚われずに自分で思考・判断できるようになることでできるのは勉強を通してのみ可能だ。「この先に自由がある」と自覚したものが学び、本を読むんだ。
ところが学校での勉強の多くは、むしろ社会適応した使いやすい存在とした「匿名の誰か」を作ろうとしているという自由とは真逆の方向に進んでいるから、それを本能的に察知して学ばないのではないか。
「じゃあ、どうやって学ぶか?」
そんなときに飛び込んできたのが、大阪万博の広報活動「AFTER2025」だった。
http://after2025.jp/magazine/
人類学者ティム・インゴルドのインタビュー記事。
~~~以下メモ
「輸送(transport)」から「徒歩旅行(wayfaring)」への変化。「目標を掲げて、AからBへ移動すること」から「常にまわりの状況に反応し続けられる状態にあること」への転換こそがほんとうのシフトだと考えています。
私たちの行動は、すべて人生の一部であると捉えてみましょう。そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです。
少し想像してみてください。もし、みんながまったく同じ考えを持っていたら、会話は成り立たないと思いませんか?それぞれが違うことを考えていたり、異なる経験や知恵を持ち込むからこそ、私たちは言葉を交わすことができる。人は誰しも異なる経験を持っています。だからこそ、なんらかの形で会話に関わっていくことができる。公共とは、「ある問いに対して集められた異なる経験や知恵の集合」なのです。
教育とは本来、私たちの人生の歩みを導くこと。固定観念や思い込みから解放し、世界に対する知覚をひらくー私たちは世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学ばなければならないのです。
~~~以上メモ
人類学的アプローチ。参与観察。
たぶん、これが方法なのだろうなと。
輸送から徒歩旅行へのシフト。
そして「自由」のために学ぶ。
これが、僕の「探究(的学び)」に惹かれる理由だと思った。
僕が「高校生の探究」というテーマに惹かれる理由は、それが高校魅力化の方法として適しているとか、文科省がいうようにこれからの社会を生き抜くのに必要だから、ということではなくて、マイ探究である若者の(大人も)アイデンティティ問題にアプローチする方法として「探究」が魅力的だったから、だ。
そしてその方法を一言で言えば、ティムインゴルドが言っているように、「ともにつくる」だ。
人は「自由」を手に入れるために学ぶ。親の影響や世間の常識によって自由を脅かされないように。勝手に設定された「枠組み」の範囲内から脱出するために。
だから学ぶし、その学び方は目標設定・達成を繰り返す「輸送」ではなく、世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学んでいくということ。
そういう実践をしていきたいなあと。
2023年02月14日
宛て先のない手紙

「自分の〈ことば〉をつくる」(細川英雄 ディスカバー携書)
「活動あって学びなし」は
アクティブ・ラーニングが叫ばれるようになって、言われてきており、
現在でも高校の「総合的な探究の時間」などで実際に起こっている現象だと思う。
高校生の文脈で言えば、
1 活動だけして振り返りが無かったり、
2 教員や指導者に振り返りのスキルが足りなかったり、
3 振り返りをするにも言語化力がなくて、言葉にできなかったり
っていう現象全体のことであると思う。
そして、もし3の場合は、解決するのはかなり大変だし、一歩ずつやるしかない。令和4年度から2つの高校で、感情ベースと活動ベースの振り返りを1枚のシートで行っているが、それも上記の課題意識を踏まえている。
そしてそれは、僕の分野から言えば、アイデンティティ問題とも直結しているように思う。
「自分」と「社会」と「未来」のあいだにプロジェクトをつくる。
それを他者に説明、つまり「自分」と「社会」と「未来」の言語化をしなければならない。
そんな時にこの本はいいかもって。
~~~以下メモ
オリジナリティは、はじめから「私」の中にはっきりと見えるかたちで存在するものではなく、他者とのやりとりのプロセスの中で少しずつ姿を見せ始め、自分と環境の間に浮遊するものとして把握されるからです。
もっとも問題なのは、この「客観」は、個人の外側にあると思われていますが、具体的にどのようなものかははっきりしないものであるという点です。これは、いわば宛先のない手紙のようなもので、だれに向けてのどのような客観なのかがはっきりしないのです。
本来、評価というものは、評価する人がいて、評価される物・人がある/いるという関係で成り立つものです。
しかし、「世の中ではこうだ」とか「みんながそう思っている」という漠然とした評価になると、その評価主体の立場とその基準がどこにあるのかがわからなくなります。
近代の学校教育は、そうした宛て先のない権威性に気づかせないような制度となってきたのかもしれません。この制度の中でいつの間にか評価の行為主体は、自らの責任を取らないことに無自覚になってしまったということになります。
オリジナリティとは、はじめの「なぜ」からはじまって、「~だから」を経て、「~と考える」に至る、全行程の中から自然と滲み出てくるものだと考えるのがいいでしょう。
「こころ」は、感覚・感情による情緒の部分と、筋道をたどる思考による論理の部分との統合されたかたちで、あなたの中に内在しているのですから、これを外側から見ることができないのは当然のことでしょう。
この内側の「こころ」の一部が、「かたち」としての「ことば」となって他者に伝えられるのですから、他者には自分の「考えていること」のすべてが伝わるわけではありません。「こころ」のほんの一部が間接的に伝えられるに過ぎないのです。
このように考えると、「こころ」だけを追求したところで何もわからないし、「かたち」だけをターゲットとしたところで本質は明らかにならないことになります。両者が相互的な関係にあり、相補的な状況の中でしか問題は解決できないということになるわけです。
自己完結的なエッセイのような文章を「主観的」とし、論文のような検証を必要とする文章を「客観的」と定めてしまったことに大きな問題があると言えるでしょう。
論点はむしろ、主観・客観の問題なのではなく、テーマに関する他者の存在の有無なのではないかとわたしは考えます。
~~~ここまでメモ
「オリジナリティ」と「評価」と「客観」と「こころ」と「かたち」
なかなかのキーワードだなあと。
学校っていうシステムは、いわば「宛て先のない手紙」の訓練ばかりさせられているんじゃないかと。
「評価」を前提にしているにも関われず、評価主体は、その責任を取らない。
こうしてその「評価」を得るために、「宛て先のない手紙」を書き続ける。
アクティブ・ラーニングや探究的学びの落とし穴は、そこにあるのではないか。
「主体性」や「探究性」などを客観的評価をするというコンペの結果、
それに適応していつのまにかそのプロジェクトは宛て先を失う。
宛て先を失った個人のプレゼンは、誰にも届かない。
そんなスパイラルが起こりつつあるのではないのか。
自分のことばをつくる。
「なぜ~」「だから~」「~と考える」を繰り返すこと。
「こころ」を認識し、その一部を言葉という「かたち」へとアウトプットすること。
社会的インパクトのあるプロジェクトをなんかよりも、
ひとつのプロジェクトに対して、ひとつひとつていねいにことばをつくっていく、紡いでいくことが
特に「自分」を知るためには大切なのだろうな。
2023年02月08日
正解というまがいもの

「君は君の人生の主役になれ」(鳥羽和久 ちくまプリマ―新書)
まだ読み始めなのですけど、グサッと来たのと、2月7日~8日の企業向けワーケーションモニターツアーでのキーワード「はずれ者の祭典」とマッチしていたので。
~~~ここから引用
大人になる過程で、多くの人は自分の生きる実感よりも適応(周りに合わせること)を優先させることで自信を失っていきます。その結果、自分が好きなようにふるまえないことに対して、できない言い訳探しばかりに明け暮れる大人になります。
生きる実感を大切に育てていけば、あなたはいつかきっと曖昧なことを曖昧なままに受け入れることを知ります。白黒つかない現実の中にこそ、生きる楽しみがあることを知ります。
いつも正解ばかり求めてしまうのは、生きている実感が足りないからです。実感が足りないから、その代わりに正解というまがいものにすがってしまうのです。でもそんな不確かなものに支えられて生きていくのは、なかなかしんどいことです。
なぜなら、それはまがいものだけに、肝心なときほど頼りにならないし、どんなに求め続けても満たされることがないからです。
社会に適応できないと生きていけない。そんなことを言う大人は嘘つきですよ。そんな大人の言う「社会」なんて、その人が見たせまい世界の断片でしかなくて、彼らはいまあなたが見ている世界を見ていません。
自分を窮屈な枠組みに閉じ込めることでしか生きることができない恨みを、子どもを通して晴らそうとしているんですから、そんな言葉に対して聞く耳を持たなくて良いのです。
~~~ここまで引用
鳥羽さんの本は「おやときどきこども」以来ですが、
参考:全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる(21.1.1)
http://hero.niiblo.jp/e491303.html
メタ認知って大切だなあと。
なんていうか、「自分を知る」というよりも「自分を捉える」のほうがしっくりくる。
常に変化し続けているからね。
引用した文章の後に、環境と自分の話がでているのだけど、
そんな風に自分を相対的に見る機会が大切だと。
昨日聞いたとある高校生の時に地域へ越境留学した大学生の話を思い出した。
高校入学後に地域活動を行い、その活動を推薦入試という枠組みを通して発表し、有名大学に進学した。それは高校魅力化の現場にとってもキレイなストーリーなので、界隈ではよく知られているし、むしろそれを目指したい地域は多いだろう。
そんな彼が語った言葉があまりにも重くて。
キーワードは「主体性」と「承認欲求」なのだけど。
「なぜあなたが主体性をもってこの活動に取り組んでいるのか」という問いに答え続け、うまく言語化できるようになり、そのストーリーを内面化していったと言う。
それは、鳥羽先生の本でいうところの「適応」と呼べるかもしれない。「適応」することで、評価は得られるが「自信」は失われていくと、鳥羽さんは言う。
これは僕も思っている「探究的な学び」そのものに対する違和感と近いかもしれない。
「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。
しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?
鳥羽さんの言う「生きる実感」をもっと大切にしていかなければいけないのではないか。
たまたま出会えた「偶然」的な出来事や出会いを大切にして、感性を磨いていくことも必要なのではないか。
「正解などない」だからこそ「探究的な学び」が必要になるはずなのだけど
いつのまにか「探究的な学び」からの大学合格みたいな正解ができてしまっていて。
そのためには「内発的な動機付け」と「主体性」が必要になって
それに「適応」してそのようなストーリーを内面化する。
そしてそれは「承認欲求」を満たすことになるのかもしれない。
そうして、むしろ自分を、「生きる実感」を、失っていくのではないか。
そんな風に思った。
正解を疑うこと。
世界をメタ認知すること。
たぶんそこから始める必要があるのだろうなと。
2023年02月03日
「福祉」から出発するアントレプレナーシップ

なぜ「偏差値50の公立高校」が世界のトップ大学から注目されるようになったのか(日野田直彦 IBCパブリッシング)
2018年刊。
湯島の「夜学バー」で知り合った大学院生の出身校である大阪府立箕面高校の話。
これは本質的で素晴らしいなと。
いい本を紹介して頂きました。
~~~以下引用とメモ
要はビッグプロダクトではなくて、ミニマムプロダクトで隣人の問題解決を「具体的にできる」こと、それだけなのです。それ以外はとりたてて必要ないのです。
今はインタラクティブな関係性をいかにつくり、ダイバーシティを理解し、共感し、変化・成長し続けることが、より重要な時代です。いうなれば双方向でありつつ、トップダウンのない、本当に対等な関係をどう築くか。
すごいですねえという拒否
英語より先にマインドセット。実験場として使ってくれ、ただしコラボレーションして、ね。
ホワイトボードだらけにするとコミュニケーションが活発になる。
そもそも今の教室のスタイルは、何の科学的根拠もありません。単に、国家予算による物理的な限界によって作成された妥協の結果です。
ワークショップマインドのためには上下を作らないことだけでなく、前後もつくらないことが重要なのか。発言者が立ったところが前になる。
ワークショップのスキルではなくてマインドをまず体得すること。プロジェクトの進行と創造は、メンバーの変容と相互作用しながら起こっていく。「つくる」と「かわる」が場によって起こり、結果自分も創られていくのだと。それがワークショップマインドなのでは。
ワークショップのマインドは、手段であると同時に目的でもある。VUCA時代を生きていくための基本的マインドセット。
~~~
とまあ、こんな感じの学校改革。「海外有名大学に多数輩出」というと、「英語に力を入れたのね」と思う感じと「総合型選抜で有名大学に多数合格」というと、「探究、プロジェクト活動に力を入れたのね」と思うのに似ている。
いやいや。そういうことじゃないんだなと。
箕面高校を変えたのは「マインドセット」なんだと。
そしてそれこそがひとりひとりの「人生への当事者意識」を変えていくのではないかと思った。
伝えるべきは、ワークショップのスキルというよりもまず、ワークショップのマインドだなあと。
場のチカラで作り上げていくものが必要なのだと。
以下、この本で一番アツかったところを引用
~~~ここから引用
なぜ会社が存在するかというと、昨日よりも明日、社会をもっと良くするためです。そのためにどういうシステムをつくったらいいのかを考えるのが「株式会社」でした。
資本主義の目的(存在意義)とは、元手を持っているが行動する方法がわからない人と元手を持っていないが行動をしたい人がマッチアップして、より効率よく、そして規模を大きくして社会を変えるためのシステムであったはずです。
教育のことを順序立てて話していくと、学歴やビジネス、ましてやお金の話には決してなりません。人類を次のステップにどうやって上げるか。私はそのために教育の現場にいるのです。そのための、日本の高校の現場なのです。
マネージャーとは、ミッションベースと、社会のマーケットベースで物事を判断し、それをどうやって合わせるかを考える仕事です。そして現場の人たちはというと、いま自分たちができる最大のポテンシャルを発揮してもらうだけでいいのです。
~~~
いいなあ。
日野田さん。カッコいいな。
ラスト、「未来の学校は宇宙につくるべきだ」と日野田さんは語る。
時間と空間の枠を超えて学べ、と。
いやあ、それですね、それ。まさにそんな時代。
「一生学び続ける」ってインプットを続けるってことじゃなくて時間と空間を超えて学ぶことだろうなと。
宮澤賢治先生的に言えば「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」って感じか(農民芸術概論綱要より)
学校ってなんだ?
学びってなんだ?
と問いかけられる1冊でした。
そんな本を読んだ後での中高連携の打ち合わせを経て思ったこと。
1 そもそもどこを目指していくのか?
キャリア形成の時の定番である「やりたいことは何か?」という問いがベクトルを尋ねているような気がするので応えなければならない気がするのだけど、それを職業名などの到達点で答えているからいつまでもモヤモヤするのではないのか。
問うべきは、あなた自身の問い(テーマ)は何か?ではないだろうか。そのベクトルが生きるのに必要なのでは。
人間の本質がベクトルだとすれば、三丁目の夕日的な、社会全体にベクトル感があれば、与えられたベクトル、つまり目標があれば生きられるのだけど、社会全体がベクトル感を失ったいま、人は自らベクトルを生み出さなければならなくなっている。
そのベクトルを生み出す方法としての「問い」でもある。
ベクトルっていうのは、現代においては目標ではなく問いのことで。問いを共有することがチームの条件なわけで。問いのアップデートができる環境こそが価値。
人は、自分自身の問いを会社(学校、プロジェクト)という箱を使って表現し、問いをアップデートする存在なのかもしれない。
問いのアップデート。それこそが生きる意味なのかもしれない。だから明日も生きられるのかもしれない。
2 プロジェクト学習、ワークショップ手法を使う意味について。
自分を知る、社会を知るのベースにワークショップ(場)という手法があり、場を通して自分と社会を認識し、自分と社会のあいだにプロジェクトができる。
プロジェクト=やりたいことWANT
自分=できることCAN
社会=求められていることNEED
手法(場)=ワークショップ
のひし形かも。
「自分を知る」っていうのは、自分の形(や完成形)を知るっていうのではなくて、自分のベクトル(とか方向性)を知りたいってこと。自分を知る、社会を知るというより、自分と社会をどのように捉えるか。それも「いま」捉えるか、なのだろうな。自分も社会も常に変化していて形ではないから、それをインプットすることは原理的に不可能。
ボランティアを起業家(アントレプレナーシップ)教育の入門編に位置づける、っていうのはどうだろう。隣人のお困りごとを解決できることこそ、起業家精神を発揮する場。
ボランティアではなくフィールドワーク。それこそ参与観察だよね。
~~~とツイートまとめ
と、なんとまさか、最後に日野田先生の本の「要はビッグプロダクトではなくて、ミニマムプロダクトで隣人の問題解決を「具体的にできる」こと、それだけなのです。それ以外はとりたてて必要ないのです。」
に戻ってくるというオチ。
「福祉」から出発するアントレプレナーシップってあり得るなあと思った。
「学力向上」に必要なのは、高い目標などではなくマインドセット。
そして隣人の課題を具体的に解決することができるアントレプレナーシップ。
それはもしかしたら高齢化が進み福祉の役割が大きいこの町のもっとも得意とすることであるのかもしれない。
2023年01月31日
「とどまる」のプロセスを経たものだけが「つながる」ことができる

「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書)
読書サーフィン。
テーマは「アイデンティティの再構築」です。
今日は2020年に衝撃をうけた1冊からあらためて。
参考:
「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代(20.7.9)
http://hero.niiblo.jp/e490856.html
はみ出し者の系譜(20.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e490859.html
橘川さん、やっぱ先を言ってるなあと。
あらためてこの本から。
~~~第5章 P53 情報的自我より
これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。
~~~
宮澤賢治先生「農民藝術概論綱要」序論を思い出す。
~~~
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
~~~
そういう時代。(賢治先生は1926年に書いていますけども)
その時、私たちはどう生きていくのか。
どう、「つながって」いくのか?
「つながり」が叫ばれるようになってからかなり多くの時間が過ぎた。
近代社会のシステムによって「個人」として分断された私たちは、ふたたびつながろうとしている。
このとき。
橘川さんの「よはとつ」図形が参考になる。
~~~第6章 よはとつ図形2020 P62より
よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代
寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。
そしてまた都市からはじける者が出てくる。そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、その中でまた独自の掟や作法が生まれて、それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。
共同体から、はじけて「とどまる」こと。「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。
辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる
きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。
やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。
~~~ここまで引用+メモ
辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる
そうなのか、と。「つながる」ためには、「とどまる」が必要なのだ。
大切なのは「よりそう」と「つながる」を区別することだと思った。
ひとりとしての輪郭を持つ人だけが、「つながる」ことができる。
「よりそう」から生まれた共同体は、やがて「はじける」、または「はじける」人たちを生む。
「はじけた」人たちは孤独に耐えられず、ふたたび「よりそい」共同体をつくる。
その共同体を「つながり」と呼んでいないだろうか?
「とどまる」のプロセスを経たものだけが、「つながる」ことができる、そんな仮説。
~~~
指導者も教祖もいない、純粋な個人として、意識を自由にできるものだけが、つながる意味がある。それが、ネットワーク社会である。
~~~
「つながる」ためにまずは「とどまる」。
自分という輪郭をたしかめる。
そのプロセスが大切なのだろうと。
「つながりたい」
それは、孤独に耐えられない、そして満たされない承認不安をなんとかしたいと思う心から来るのだろう。
山口揚平さんは、「まだ、会社にいるの?」(2013年刊)の中で、「承認欲求」がビジネスの主役になる、と語った。
~~~
グリーやディー・エヌ・エーなどに代表される企業が提供しているものの本質はゲームではありません。彼らが提供しているのは、人に認められたいという「承認欲求」に対する満足です。
SNSのゲームを通して、武器などのアイテム、アバターを着飾るものですが、それらはゲームの世界において、他者に認められるための道具にすぎません。
~~~~
参考:何を表現するか?ではなく、何「で」表現するか?(16.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e482804.html
「つながりたい」若者を、よりそい型の「コミュニティ」が狙っている。承認欲求を満たすフリをしながら。ほんとうは「つながり」が必要なのに。
「つながる」ために、まずは「とどまる」孤独を経験する。
自分という輪郭をたしかめる。そしてその輪郭を時に発揮し、特に取り払って、人と出会い、プロジェクトをつくり、活動をする。それによって得られるものを「つながり」と呼ぶのだろう。
まずは「とどまる」ことから始めてみたい。
2023年01月29日
「問い」の瞬間こそが「創造」

「独立国家のつくりかた」(坂口恭平 講談社現代新書)
2012年5月刊
すでに10年以上前の本だけど、色あせない。
ブログにも何度も書いているけどもあらためて読み直し。
この本で「学校社会」と「放課後社会」というコンセプトに感銘を受けて、
松陰神社の絵馬に書いたのは10年前でした。
「無数の放課後社会をつくる」これがツルハシブックス3年目のテーマでした。
さて、本日はアイデンティティのつくりかたシリーズのつづきです。
本書の第4章「創造の方法論、あるいは人間機械論P160より
~~~
あなたが「やりたいこと」など、社会には必要ない。今すぐ帰って家でやれ。
やりたいことを無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。しかも、それはすべての人が持っているものだ。絶対に。なぜなら人間は考える葦と言うじゃないか。考えているのだ。自分の得意なこととかやりたいこととかはどうでもよくて、ただ考えている。それを口に出す。
好きでやっているとか、そんな動機じゃない。もっと切実な動機でやっている。こんな大人たちに任せてしまってはたいへんなことになると思った。使命といっては大げさかもしれないけれど、これは自分がやらなければならないと心に決めたのだ。
大事なことは、何かに疑問を持ったかということだ。それがあれば生きのびられる。
今まで生きてきて、一度も疑問を持ったことがなければ、今すぐ企業に走った方がいい。誰かに指示されて生きていこう。
でも、何か「疑問」をもったらチャンスだ。そこから「問い」にまで持っていこう。
「疑問」を問いにする。この過程を僕は完全に独自な「創造」と呼んでいる。綺麗な色の絵とか、美しい旋律とか、創造というのはそんなものではない。あなたがこの世界のどこをおかしいと思えたかである。
まず僕たちは生きているわけだ。この社会で。この都市で。たくさんの人が生きている。同じシステムで動いている。そこは単一レイヤーのように見える。そして、問題がないように思える。平和のように思える。でもそれは平和なシステムではない。誰かを無視している。誰か困っている一が絶対にいる。それを見ていたら疲れるから、ヒエラルキーをつくって、一つのシステムをつくり出す。でもそれはあなたのシステムではないので、当然ながらちょっと居心地が悪い。そしてちょっとだけ大変。でも、楽なものだ。
すべての人の無意識が構築したもの、それが匿名化したシステムである。
無意識というものは本当に何も考えないで厄介なものだから「疑問」を持つ。なんだ、これ?と思う。そうするとしめたもの。そこに気づいたら、次に無意識ではなく意識で生活している人を見つけないといけない。
それが隅田川の0円ソーラーハウスの住人だったわけだ。
彼は徹底して疑問を持ち、意識を持ち、自分のシステムで生活をつくり上げていた。僕の言葉でいえば、「新しい経済」をつくっていた。そして、僕は彼から学んだ。
すると漠然とした「疑問」から、「どんな住生活というものが意識生活と言えるのか」「いかなる建築が意識を持った自律した建築と言えるのか」というもっと具体的な「問い」が生まれた。そこから僕の活動は始まった。僕はその体験を踏まえてつくった本を「創造」とは思わなかった。「問い」の瞬間こそが「創造」だと思った。
そうやって、まわりの景色を見てほしい。楽になるどころか、もっと緊張して、冷や汗をかいて、泣きたくなって、死にそうになって、おびえて隠れてしまいそうになるから。それはとっても孤独だ。でも、そんな時に会える人間がいる。物事がある。それがあなたの使命を見つけるヒントになる。恐れたままでいいから、近づいて手で触れたり、直接声をかけてみよう。
~~~ここまで引用
「好奇心」が大切だと人は言う。その「好奇心」生まれもったものではなく、育むことができると、広島で読書会を主宰する友人は言う。
「疑問を持つ」「面白がる」この2つを意識的にやっていけば、好奇心は育むことができる、と。
http://hero.niiblo.jp/e491176.html
参考:探究の森の子どもたち(20.11.8)
「疑問」を持つこと。
「疑問」を「問い」にすること。
そのためにアクションすること。
問いを得てまたアクションすること。
「使命」という言葉は「問い」とセットで語られるものだと思った。
そしてそれは壮大なる「勘違い」なのだなあと。
高校生、大学生が放つ「やりたいことがわからない」という言葉は、本質的には自分の意志や目指すべき到達点を知りたいだけではなく、自らの使命、つまり「自分は何に人生を賭けるべきか」という問いを知りたいのではないのか。
そうであるとすれば、
・自分の好きやベクトルを知ること、
・なりたいロールモデルや、10年後の姿をイメージする
・目標を達成するためのPDCA的なスキル
というキャリアデザイン的なアプローチだけではなく、
・世の中に疑問を持つ
・そのための体験と振り返り
・疑問を問いに変えるメタ認知および言語化能力
というキャリアドリフト(探究)的なアプローチがもっと大切なのではないか。
そして「疑問」が「問い」に変わる瞬間にこそ「創造」があるという坂口さんの論は、
まさにアイデンティティの問題のひとつの解決方法を示している。
ふりかえると、僕自身もツルハシブックスにやってくる大学生が「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」という悩みを、生きる死ぬレベルの深刻さで語っていたことに疑問を持ったのが始まりだった。
そこからキャリア教育文脈ではクランボルツ先生の計画された偶発性理論や、哲学文脈では、國分功一郎「中動態の世界」やスピノザ「エチカ」の解説、社会学文脈では、三浦展「第四の消費」、歴史文脈では佐々木俊尚「レイヤー化する世界」など、「やりたいことがわからない」の正体を探る読書の旅と、大学生や20代と対話するフィールドワークを行ったと言えるだろう。
そもそも「やりたいことは何か?」という問い自体が間違っているのではないか?
そんな風に思ったのは、坂口さんのこの1冊が始まりだったような気がする。
疑問を持ち、行動し、それを「問い」にする瞬間。さらに行動し、次なる「問い」が生まれる瞬間。人は「学んでいる」、いや「生きている」と実感できるのではないだろうか。
そして、その瞬間にこそ「使命」という壮大なる勘違いとアイデンティティが構築されていくと僕は思っている。
2023年01月27日
アイデンティティ構築への人類学的アプローチ

「人類学とは何か」(ティム・インゴルド 亜紀書房)
「寮のハウスマスターってどんな仕事ですか?」
と問われたら、どう答えるか?
どんな「仕事」か?ではないけど、ひとつ言えそうなのは、
「アイデンティティ構築への人類学的アプローチ」
なのだろうということ。
手法として使われるのは人類学のまなび方である「参与観察」ではないかと。
そして「参与観察」的アプローチが
学校⇒公営塾⇒寮⇒サードプレイス(阿賀町で言えば風舟等)
という円状に連なっていく外側になるほど、実際に行われていることだし、
それがプロジェクト的な場においては「ジェネレーター」と呼ばれるものとなるだろう。
その中でも特に、寮の「ハウスマスター」という立場は、
業務の性格上、そのようなアプローチにならざるを得ない。
~~~本書より引用
私たちは人々についての研究を生み出すというよりも、むしろ人々とともに研究する。このやり方を参与観察と呼ぶ
参与観察には時間がかかる。人類学者が「フィールド」と呼ぶところで何年間も過ごすのは稀なことではない。
フィールドワークとは互酬性の土台の上に築かれた原理であり、互酬性とは、与えられないものを偽ったりごまかしたりして得ようとすることではなくて、与えられたものをありがたく受け取るものである。
「質的なデータ」という考え方そのものが、私にはどこか落ち着かない感じがする。というのも、現象の質はその現前の中にしか、つまり現象を知覚する私たちを含む、周囲の環境に現象が開かれるやり方の中にしかないからである。
人類学者にとって、参与観察はデータ収集の方法では断じてない。参与観察とはむしろ、やりながら学ぶということへの積極的な関与であり、徒弟とか生徒がやっていることに比べられうる。
他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。
先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていて構わないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。
~~~
昨日見た動画「神山つなプロ ♯24 つくる暮らし・つくる仕事」
https://www.youtube.com/watch?v=dVMGrUTVDME
これを見て、あらためて「アイデンティティ構築」と「つくる(創る、作る)」の関係について考えさせられた。
アイデンティティ(自分らしさ)とは、自分を限定する(規定する)ことだと言えるだろう。
〇〇ができる、××が不得意、〇〇が好き、××は苦手、とかとか。
この動画の中の神山のアーティストたちが語るのは「神山という地域限定の中から、さらには地域との関係性から、作品を生み出したい」という想いなのではないか。
「クリエイティブ」の意味が変わってきているのではないか、と思った。
いわゆる0⇒1(ゼロイチ)ではなくて、限定(制限)された中で、すでにある資源を活かし、どう生み出すか?そしてどのように「継いでいく」のか?
さらにそれは、神山での暮らしの中で、だんだんと紡がれていく。無から有を生み出すのではなくて、資源や歴史、暮らしの営みからプロダクトを生んでいく。いや、生んでいくというより、生まれていく。
そんな「生まれていく」作品としてのモノを彼らはつくっているのではないか、と。
それを、作家の側から見ると、
「アイデンティティ構築への人類学的アプローチ」
と言えるのではないだろうか。
「つくりたい」という衝動。それは、自らのアイデンティティと切り離すことはできない。それを地域を限定した形で実現することは難しいと思うけど、なんていうか、ロマンがあるよね。神山には広大な自然と受け継がれてきた文化があり、その中で生み出す、っていうのが可能だし、それこそがクリエイティブとアイデンティティを両立させるのではないか。
22日に書いたように
http://hero.niiblo.jp/e492843.html
参考:ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」(23.1.22)
僕たちは地縁共同体を飛び出して「自由」を手に入れた。
それは同時に、受け継がれてきた「アイデンティティ」の喪失を意味する。
そのアイデンティティを消費によって生み出すという近代社会の壮大な実験は失敗した。
僕たちはアイデンティティを自ら構築しなければならない。
構築というか、おそらくはクリエイト(創造)しなければならない。
そのための一歩目が「参与観察」なのではないか。
~~~
他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。
先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていて構わないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。
~~~
この他者を「地域」と置き換えても同じことが言えるだろう。
3年間の参与観察というフィールドワーク。
それによって、他者は、そして自分は、何が変わったのか?
場は何を創造したのか?
「アイデンティティ」は、きっと「観察」と「相互作用」と「創造」のあいだに生まれていく。
それは寮生も、ハウスマスターも、寮長も同じだ。
そんなふうに場を見つめていきたいなと。
2023年01月26日
風景をつくる3つのシコウ力

「まちの風景をつくる学校」(森山円香 晶文社)
読書日記。
本を読んでいて気持ちがいいのは「圧倒的敗北感」を感じられる本に出会ったとき。
この本もそんな一冊となりました。
小さな農業高校徳島県立城西高等学校神山校で起こったこと。
高校魅力化界隈では発売当初から話題になっておりましたがようやく読み終えました。
~~~ここから引用
4つの試み P26~
1 神山創造学
⇒高校の「学校設定科目」(1~3年で全10単位)で地域プロジェクトを行う。
2 どんぐりプロジェクト
⇒山に入って種(どんぐり)を拾い、木を育て、建物を整備する。
3 孫の手プロジェクト
⇒学校で習った造園などの技術を活かして、有償ボランティアを行う。
4 まめのくぼプロジェクト
⇒耕作放棄地を耕し、野菜を育て、弁当をつくる
あゆハウス(寮)
・2019年スタート
・定員18名
・食事は自分たちでつくる
・夕食後に話し合いをして自治する
「まちづくり」ではなく「まちが生えてくる」
P218 問いを変えてみる
「このまちで3年間を過ごすことが将来にどうつながるか」から、
「神山で3年間暮らすことで何を得られるか」へのシフト
1 出会うつもりのなかった世界との出会い
⇒「知っている」選択肢の数と「直接関われる」選択肢の数
2 身体感覚を伴う体験
⇒映像や言葉でわかったつもりになってしまえることを、各々の身体と感性を拠り所に獲得していく
3 社会は手づくりという感覚
⇒自分の言動が周囲に影響を及ぼす経験、つくる側になる経験の積み重ねの先に自己有用感の醸成がある
~~~
印象に残ったのは、寮生の3年次の下宿について。
2年間寮で過ごした後に3年次は町の人のところにお世話になるという子が2人現れたということ。
ああ、そういうのいいなって。
最後に、森山さんが、
学校と地域、子どもと大人。異なる存在がともに育っていく環境をつくることはいかにして可能か。
という問いをふりかえります。
1 フェアな関係性
2 試みへの寛容性
3 自分自身を満たす
なんか、重みがありますね。
ホントそうだなあと。
僕自身のキーワードは、3つのシコウ力、かなあと。
1 試行する力
2 思考する力
3 志向する力
仕事と暮らしの関係、とか、
学校と地域の関係ってこのグラデーションなのではないかって。
名付けて「やってミズム」なんですけど。(笑)
神山のキーマン、大南信也さんの
「まちが生えてくる」っていう言葉に代表されるように、
種まき(試行)を繰り返し、
いつぞや蒔いた種が、あるいはどこからか吹いてきた種が、
そこの土壌に合っていればそれぞれのタイミングで芽を出す。
たぶんそれが「まち」であり、「風景」なのだろうなと。
「学校(授業)」と「地域(活動)」の関係もきっとそういう感じで、
「志向」と「思考」に寄っているのが授業で、
「思考」と「試行」に寄っているのが活動なのだろうと思う。
おそらくは人生(キャリア)もそんな感じで。
目標を持って、そこに向けてスキルを磨いて、実現していくみたいなフェーズと
なんでもやってみて、いつかつながるかもしれないから、みたいなフェーズと
その両方が必要なのだろうなと。
VUCAな社会の到来だとか言って、
ひとりひとりが予測不可能な時代を生き抜く力だとか脅してくるけど、
それはあくまでグラデーションの話で、
工業社会の時は、(仕事においては)「予測可能」な目的達成的な部分が多かっただけで、人生的には偶然の連続を積み重ねている人もかなりいただろうし。
これからもひとりひとりは、その人生フェーズによって、そのグラデーションを変えていくのだろうと。
そのひとりひとりの人生が重なる場所として、神山という町がとても魅力的なのだろうと思った。
「3年間」をその後の将来にどう生かすか?
ではなく、
「3年間」で(機会として)何が得られるか?
を訴えていくこと。
3つのシコウ力「試行」「思考」「志向」を意識し、グラデーションを創造していくこと。
その繰り返しこそが、風景がつくるのだと。
読み終え、あらためて表紙を見てハッとした。
「まちの風景をつくる学校」にはサブタイトルがあった。
小さなフォントで書かれた「神山の小さな高校が試したこと」。
そう。この本はサクセスストーリーではなく試みの記録。
あなたも、あなたの地域も「やってみないか?」と誘いかける1冊。
心に風が通り抜けるようなさわやかな1冊となりました。
ありがとうございました。
2023年01月22日
ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」

「共有地をつくる」(平川克美 ミシマ社)
大学4年生のサードプレイスに関する卒論を読んだので読み直し。
今日は「私有」と「共同体」について
~~~ここから引用(P27 私有するとは失うものが増えるということ)
ボードリヤールは、商品は単に交換価値や等価労働価値を示すのではなく記号としての象徴的な価値を担うようになったと説き、(中略)個人のアイデンティティ(自分らしさ)を表現する記号となり、人は自分らしさを獲得するために消費するのだと説明したのです。
私有がアイデンティティを表現する記号であるならば、競争社会においては、私有への欲求は歯止めがなくなります。なぜなら、私が私有すれば、すぐにそれに追いつくように誰かが私有することになり、誰かが私有すれば、さらに他の誰かが私有することになるからです。
私有するとは、「失うもの」が増えるということです。(中略)私たちは「私有」を増やすことで、失うことへの恐怖も増やしていると言えるのではないでしょうか。
~~~さらに引用(P102 共同体のジレンマ)
外敵があるからこそ、共同体はひとつにまとまることができる。これを言い換えるなら「外敵がなければ、共同体は団結の統合軸を持てない」ということになるかもしれません。
共同体は、その内部に強い結束を維持し続ける動機というものをもともと持ってはいない。友愛の倫理とか、正義の実践というものが最初にあって、共同体ができたわけではないのです。まず外敵があって、その外敵から身を守るために、弱いもの同士が結束し、団結して外敵に立ち向かうという順序でしょうか。
格差と孤立化を生み出す原因となった、すべてを自己責任と自己決定へと収斂させてゆこうとする新自由主義が、なぜ、これほど力を持つに至ったのかということの根本に、相互扶助的な共同体の持つ負の側面から逃れたいという気持ちがあったことは否定できません。同時に、新自由主義を否定して、もう一度相互扶助的な共同体を再評価しようとする気持ちも、共同体の持つポジティヴな側面ばかりを見ているとも言えそうです。
~~~さらに引用(P118 共同体のジレンマを解くための共有地)
共同体のジレンマは、共同体を共同体たらしめる幻想の統合軸が、そこからはみ出てしまう異種を排除することによって強化されるというところから生じるものです。そこでは、一人称複数形としての「わたしたち」を成立させるために、それを一人称としての「わたし」の上位の概念として掲げているわけです。極言すれば個人を犠牲にして、共同体の生き残りのための掟が定められている。
共同体のあいだにある非武装地帯は、そうした管理武装を解除する場として機能してきました。そのような場をつくることで、共同体から排除された人間や他の共同体の人間がいきていける場所が確保されたのです。
誰も所有権を主張しない、誰のものでもない、そして誰のものでもあるような「場」こそが共有地だということで、自分のものは他人のものでもあるが故に、他者に配慮しなければならないということなのです。
~~~
これこそ「国家を守るために敵を設定し、防衛予算を増大する」とか、今まさに社会で起こっていることなのかなと思いますが、共同体の本質をついているなあと思います。
僕は、アイデンティティ論の方に興味があるので、そっちに水を引っ張っていくと。
「窮屈」な地縁共同体を抜け出して「自由」になりたい。
それって人間の本質的な欲求だと思いますし、だからこそ経済も発展したのでしょう。
逆に経済もそれを利用していた。
参考:家電を売るために「夢を持て」?(14.1.30)
http://hero.niiblo.jp/e346221.html
ボードリヤールが、商品が個人のアイデンティティ(自分らしさ)を表現する記号となり、人は自分らしさを獲得するために消費するのだと説明したとおりのことが実際に起こった(今も起こっている)と思うのです。
だから人は、旅行の名所やランチ写真を、SNSに投稿するのではないかと。
でも、なんか寂しいのです。
その原因は、おそらくは「共同体」を失ったことにあるのではないかと。
だから、シェアハウスに住んでみたり、オンラインコミュニティに参加してみたりするのだろう。
でも、平川さんが言うように「共同体」は本質的に閉じていく傾向にあり、だからこそ、新しいタイプの「共同体」「共有地」づくりと複数の共同体に属すること、さらには、この本で言うところの「共有地」が必要なのではないかと。
参考:場(プラットフォーム)が機能され続けるための仮説(20.5.17)
http://hero.niiblo.jp/e490674.html
「身体性」「(半)開放性」「多層性」
をキーワードに、これからの共同体、共有地をつくっていく必要があるのではないかと。
参考:ベクトルとして存在を許されるカフェという場(20.10.15)
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
カフェのような共有地で大切なのは、ベクトルとしてそこに存在すること。
~~~「共有地をつくる」P120から引用、
共有地では、それを利用するものは誰もがアノニマス(人称を持たず、所有権を主張しない)存在だということです。そこでは社会的ステイタスも関係ないし、貧富の格差も無関係です。
~~~
僕はこれが、アイデンティティの悩みを解くカギなのではないかと思っている。
消費によってアイデンティティを表現することは、もはや美しくないと感じている世代。
かといってそれをひとつの「共同体」に入ることで、アイデンティティ表現は満たされない世代。
カギは「ベクトル」と「余白」だと僕は思っている。
ベクトルのある時限的な共同体、つまりプロジェクトへの参加。
そしてさらには「ベクトル」として存在できる「共有地」を持つこと。
「カフェから時代は創られる」(クルミド出版)の中で飯田さんが言っている
~~~
カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。
通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。
~~~
「消費」と「共同体」で自己を表現できた時代は過去のものとなった。
アイデンティティをつくるには、「ベクトル感のある時限的共同体(プロジェクト)」と「自らがベクトルとして存在できる目的のない共有地(余白)」の両方が、しかも、複数個が必要なのだろうな、と。
これが現時点での僕のサードプレイス論、なのかもしれません。
2023年01月16日
答えのない問いに出会った瞬間に、人生は探究になる

「〈問い〉から始めるアート思考」(吉井仁実 光文社新書)
「アート思考=問う力」だと定義する、吉井さんのメッセージが響きます。
まえがきより
~~~
現代の社会に対して問いを投げかけること。それが「アート思考」であると。「この既成の考え方は本当に正しいのか」「今の時代ではこのような表現もあり得るのではないか」「どうして私たちはこんな不自由を強いられるのか」などという問いを、ときにはユーモラスに、ときには洗練された手法で、ときには突拍子もないやり方で、つまり今までにないやり方法を用いて表現する。それがアートであり、その「問う力」が画期的であればあるほどにアートの価値が高まると私は思っています。
米国アップル社のiphoneにも私は画期的な「問い」があったと思っています。(中略)あの小さな危機に人々の心を揺さぶる何かがあったのでしょう。それはいったいなんなのか。便利さや機能性だけではない何かあったのです。私に言わせればそれは「問い」のようなものだと思います。問題解決から始まる何かではなく、今の社会や私たちに対する「問い」から生まれた何かがそこにあった。
イノベーションを生み出すのは「問題解決」からではなく、「問い」なのではないかと思うのです。
「問い」は、「答え」よりも、時を越えて大きな力を持ち得ます。その「問い」が社会的かつ本質的なものであればあるほど、人々を驚かせたり、今まで感じたことのない感情を与えたり、今まで思考したことのないものを考えさせたり、感動させたり、新しい世界を見させたりできます。
~~~
とまあ、こんなスタートで始まるのですけど、いちばんすごかったのは、
第五章 芸術祭とは何か で建築家の石上さんのすぐに消える建築物というアート。
「アートというのは本来こういうものではないかとも思いました。どれほど長く作品を残すかではなく、どれほど人の心を揺るがし、その中で何を響かせるのか。」
なるほどなあ。
アート思考=問いってそういうことか、と。
デザイン(課題解決)とアート(問う力)のバランスが大切だと思いました。
そして、進学や就職(課題解決)のために、問いをつくるのではなく、問いが結果として、進学や就職につながっていくという構図が大切なのではないか、とも思いました。
大学進学の総合型選抜のために探究活動をやる、みたいなのではなくて。
問いにひたすらに向かって行ったら探究的に学んでいた、っていうのが大切かなあと。
昨日、高校魅力化スタッフの募集イベントがあったのだけど、僕の最近のキーワードは、中心と周辺で。
「学校」っていう中心に対して、公営塾、寮、そして風舟、そして地域っていうグラデーション(周辺というか周縁)で考えることが大切なのだなあとあらためて考えた。
中心に近づくほどベクトル性(課題解決性)を持ち、周辺に行くほど、偶然性(機会)を大切にして、成果が見えにくい。
それって、デザインとアートの関係に似ているのかもしれない、と。
「問いを見つけ、探究していく。」
それは、直接的に何かにつながってはいない。
だからこそ、偶然性や一回性が高く、ワクワクする瞬間がある。
人生をデザインすること(目標を持ち、課題を解決すること)。
それと同時に人生をアートすること(問いを持ち、探究すること)。
その両方が大切なのだろうな、と。
2023年01月14日
外向的なのは鈍感だから

スピリチュアルズ 「わたし」の謎(橘玲 幻冬舎)
これでもか、というくらい、エビデンスベースで残酷な事実を突きつけてくる橘さんの本。
今回はこの1冊を紹介します。
大学生にまずおススメなのは、
文庫版「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 幻冬舎文庫)でしょうか。
http://hero.niiblo.jp/e485390.html
(参考:政治空間と貨幣空間のあいだ 17.7.20)
やればできる!努力は報われる!というのが実はウソであったことを解き明かした1冊。
本当に救いがなくてどうしようかと思うのだけど、ラストのあとがきでようやく救われます。
世の中に出ている「やればできる」「夢は叶う」系の「自己啓発本」を一刀両断する1冊。おススメです。
そして、その次に読みやすいのは
「人生は攻略できる~君たちはこれからどう生きるか?」(橘玲 ポプラ社)
橘さんの本の面白さは、いかにも自己啓発っぽいタイトルなのに、
本人はこの世から自己啓発書を消滅させたいと思っていること。
http://hero.niiblo.jp/e489952.html
(参考:伽藍を捨ててバザールに向かえ 19.11.1)
せっかくなので上記ブログより引用
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最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。
君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。
ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。
トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。
~~~
いいですね。好きを仕事にする方法。最後にはスピリチュアル(無意識)が見つけてくれる。
ということで、今回の1冊は、
まさにそのスピリチュアル(無意識)を追いかけた1冊。
心理学の進展によって、パーソナリティ(性格)5因子でできていることが分かってきた。
その5因子とは
1 外向的/内向的
2 神経症傾向(楽観的/悲観的)
3 協調性(同調性+共感力)
4 堅実性(自制力)
5 経験への開放性(新奇性)
である。これらは「ビッグファイブ」と言われる。
「人格(パーソナリティ)」とはあなたの内部にあるのではなく、身近な他者の評価がフィードバックされたものだからだ。パーソナリティとは「キャラ」のことだが、それは「観客」の評価を反映しているのだ。
ということで、この本ではビッグファイブそれぞれの因子について詳しく解説されている。
今日紹介するのは最初の「外向的/内向的」から。
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生き物は、「快/不快」「覚醒/鎮静」という「感じ」を持つように進化した。感覚器官が快を感じると中枢神経は覚醒し、その方向に筋肉=身体を動かす指示を送る。逆に不快を感じると、逆の方向に身体を動かそうとする。これが「動く生き物」の基本だ。この覚醒の度合には、個体ごとに一定の範囲でばらつきがあるが、脳=中枢神経系が快適に感じる覚醒度はぼぼ決まっているようだ。するとこの「最適覚醒度」に対して、それぞれの個体の生得的な初期値がどうなっているかで2つのタイプの反応が生じるだろう。
1 刺激に対して鈍感な人は、覚醒度を上げようとして強い刺激を求める⇒外向的
2 刺激に対して敏感な人は、覚醒度を下げようとして強い刺激を避ける⇒内向的
最適覚醒度に対して、ふだんの覚醒度が低い個体は、そのことを「不快」と感じるから、覚醒度を上げようとする。逆にふだんの覚醒度が高い個体は、そのことが「不快」だから、覚醒度を下げようとするはずだ。このとき、「覚醒度を上げようとする傾向」を外向的、「覚醒度を下げようとする傾向」を内向的という。
なぜ、「外向的/内向的」にばらつきがあるのか。これは「身体のエネルギーは有限である」という制約から説明できる。外向的な個体は覚醒度を上げようとして刺激に向かって進んでいくから、食べ物や生殖の相手を獲得するなど、目的を実現する可能性が高まるが、エネルギーの消耗も激しい。それに対して内向的な個体は、強い刺激を避けようとするからエネルギーは保存できるが、目的を実現する機会は少なくなるだろう。
身体のエネルギーが無限にあるのなら外向的な戦略が最強だし、動かなくても食べ物がいくらでも手に入るなら内向的な戦略でこと足りる。しかし自然界にそんなウマい話があるわけがなく、生き物は「あちらを立てればこちらが立たず」のトレードオフの状況に置かれている。「外向的/内向的」は、このトレードオフ(ジレンマ)に対する適応なのだ・
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なるほど。生物の進化の過程で、「外向的/内向的」が正規分布(ベルカーブ)しているんだ。だから、進路講演会で、「やりたいことがわからないのなら行動した方がいい」っていうのは、「外向的」な人つまり鈍感な人には最適な戦略なのだけど、「内向的」な人つまり敏感な人には採用できる戦略ではない。
キャリア教育の入り口。それは「個人」を単位として仕事を考えること。それこそが最大の間違いなのではないかと思う。
「やりたいことがわからない」の苦しさのひとつには、敏感な(内向的な)人たちが、「なんでもやってみよう」という戦略を性格的な理由(パーソナリティ)から採用できないことにある。
そもそも、仕事は個人戦なのだろうか?と問いかけたい。
「マイノリティ・デザイン」の話にも通じるけど、個人ではなく共同体(チーム)単位で見れば、「誰かの弱さは、誰かの強さを引き出す力」だと思う。
ひとりひとりが自分や相手のパーソナリティを理解し、社会(会社)でのポジショニングを考え、全体としてうまくいくようなデザインを必要としているのだと思う。
2023年01月08日
VUCAな世界を見る「まなざし」

「まなざしの革命」(ハナムラチカヒロ 河出書房新社)
途中、なかなか難しかったのですが読み終わりました。
第九章の「解放」からメモ
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三つの「り」の話。
1 「利」のまなざし:利益に基づいて見ること
何をするときでも、それがどのような利益や不利益をもたらすのかを考えねばならない。資本主義は利のまなざしが強いシステムである。利は人を結びつける大きな引力を持つが、その利のスケールを今だけここだけ自分だけの利へと、時間的にも空間的にもどんどん小さくしてしまったことで、世界は破綻へと向かっている。
2 「理」のまなざし:物事の「道理」を基準に何かを行うこと
理は利と異なり、理想や理念、そして理由が重要である。己の利だけで動くのではなく、「善」であったり、「情」であったり、「愛」であったり、「哀」にもとづいて何かを選択する。だが理だけで物事を見つめると、正しさと間違いに囚われがちになる。共産主義や社会主義は理のまなざしで物事を推し量りがちなシステムだ。そこでの理は社会全体として正しいことを掲げながら、一人一人の利を犠牲にするものであったかもしれない。
3 「離」のまなざし:物事に囚われないこと
自分の欲や怒りとは離れた場所から、しっかりと物事を観察するニュートラルな視座である。自分の判断や、自分の価値基準を持つことは大切だが、私たちはつい自分の見方にこだわってしまう。これまで自分が経験してきたことにもとづいて今を判断し、その延長線上に未来を想像する。しかし本当は、私たちが見ているものは、常に初めて経験するものである。
しかし一方で離が「無知」や「痴」に囚われると、物事に無関心になり、なんでも諦めるようになり、何も考えずにその場限りの行動をしてしまうことになる。これからやってくるかもしれない監視管理システムに基づくデジタル社会主義は、私たち自身に対する「無知」を育てるシステムである。管理者や人工知能に委ねてしまうと、私たちはそのうち判断や思考すらしなくなるだろう。
それぞれの「り」には、良い側面と悪い側面がある。三つの「り」はそれぞれ「欲」「怒り」「無知」に囚われやすいが、順序を間違えるとその状態に気づけない。「り」の順序として大事なのは「離」「理」「利」である。
まず自分自身のまなざしに対して「離」を向ける。正しい判断をするためには物事を少し離れて見つめねばならないし、何かを行うことだけに囚われてはならない。何かに囚われたままだと、視野が狭くなりできることがどんどん狭まっていく。一方で離れて視野を拡げることで私たちは時代がどの方向に向かっているのかを知ることができる。その上で「理」のまなざしを向けて、今とこれからにおいて何が正しいのかを見つめる。時代の流れや自然の法則から外れたことは理にかなっていない。それに沿う形で最後に「利」のまなざしを向ける。それは自分一人の利ではなく、より多くの生命にとって利がもたらされる方向を見つめる。そのように「り」の順番を組み立てていけば、どんな問題が起こっても、適切に物事を判断していけるだろう。その積み重ねが私たちを人生の問題から解放するのではないか。
しかし私たちは正反対の順番でものごとを見つめる。どうすれば「利」が得られるのかを考え、そのために「理」を掲げて人を巻き込み、挙げ句の果てに「離」を決め込み責任逃れをする。
~~~ここまで一部引用
この章のテーマは「解放」。
「いま必要な「ソーシャル・ディスタンス」は、感染を防ぐために人から距離をとる社会的距離ではなく、常識や概念といった多くの人が共有する社会的な見方からの距離である。」と続く。
予測不可能なVUCAな時代に、僕たちはどう生きていくのか。
この本に書いてあるように、新型コロナウイルスという「未曽有の危機(と言われている)」機会に乗じて、資本主義以上に私たちを思考停止させる監視管理型デジタル社会主義が待ち受けているのかもしれない。
「解放」のために、思考をとめないこと。
「利」や「理」に流されないこと。
「離」の視座をもつために、アンラーニングすること。
そこから始めていかないといけないのだろうな。
最後にあらためてこの一節を。
私たちはつい自分の見方にこだわってしまう。これまで自分が経験してきたことにもとづいて今を判断し、その延長線上に未来を想像する。しかし本当は、私たちが見ているものは、常に初めて経験するものである。
初めて経験する機会に対して、「離」⇒「理」⇒「利」のまなざしをもって、対応していきたいですね。
2023年01月07日
見えないけどそこにある「あはひ」

「見えないものを探す旅」(安田登 亜紀書房)
新年最初に開いた1冊。
タイトルのテーマがピッタリだなあと。
安田さんの「あわいの力」は21年6月に読んでいたのですが。
http://hero.niiblo.jp/e491828.html
(参考:「心」に代わる何か 21.6.21)
「アンチ〇〇やポスト●●ではなく、中心と周辺」がテーマな今こその1冊でした。
まずは、「花」から。
花っていうのは、草冠に「化」ということで「変化」を表している。
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P84
変化(花)は存在ではない。点は現象ではあるが、存在ではない。それは絶対の闇と同じく、時間も空間も所有しない。しかし花(化)は絶対の闇と違って、時間と空間を生み出す母胎たりうる現象だ。変化そのものがそこに立ち現れた瞬間に、時間と空間が誕生する。
P86
さて、「花」の訓の「はな」は鼻でもあり、端=先っぽでもある。すなわち枝の「先」に咲くもの、それが花だ。そして先っぽの「先」は「咲く」と語源を共有し、サキ(幸、崎、先)やサカ(坂、境)にもつながる。すなわち枝の先に神が寄り付き、その霊力が最高に発動している状態、それが「咲く」であり「花」である。
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おおお~!これもすごいですねえ。
花っていうのはプロセスでありながら、これから生まれる何かを予感させる現象なのですね。
次に藤原定家と松尾芭蕉からひもとく「非在」について
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P99
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
霧の彼方の桜や紅葉を観るのは、私たちの普段使う目ではなく、もうひとつの次元の意識が有する目である。感覚器官である「目」を使わない目で見る。目を使わずに見るということを、私たちは日常的に行っている。(中略)この歌は、そんな別の次元の意識だけが見ることができる幻の桜や幻の紅葉を出現させてしまう。
P100
このように、<事実としての存在>はそこにはないが、しかし厳然とそこにある存在、それを「非在」と呼ぶことにしよう。「非」はただの否定ではない。花などの美しいさまを「菲々(ひひ)」というが、そんな香るような存在が「非在」だ。
P103
「古池や蛙飛こむ水の音」
水音がした時点で「蛙」はすでにいない。芭蕉は蛙を見ることができなかったはずだ。それなのになぜわかったのか。それは芭蕉が水と一体化していたからではなかっただろうか。
P105
日本人は昔から組織や共同体の中で自分の「物語」を紡いできた。あるときは英雄になり、あるときは悲劇の主人公になり、あるときは三枚目となり、などなど。だから組織や共同体から追い出されるということは物語を剥奪されてしまうということになる。
物語がなければよって立つ所もない。どこに足を置いたらわからなくなる。深い暗闇が大きな口を開いている、そんな穴の上に立たされるのと同じだ。そんな時、昔人は旅をした。物語を喪失した旅人はあてのない旅の途中で、ある場所と出会う。
P106
漂泊の旅人はそこで歌を謡う。(中略)歌を通じて彼は土地の霊や物語と出会い、その出会いによって、喪失した自分の物語も再び紡がれ得る可能性を感じ、そして自分の霊である魂が甦るのを体感する。
「生きる意味」とか「自分探し」というのは日本人にはあまり合わない。そういう硬質な方法論ではなく、ぶらぶらはぐれ旅をしながら非在と出会い、物語が再び紡がれるのを待つ、そんなゆったりとした方法で日本人は昔から、その魂を癒してきた。
~~~
むうう。なるほど。
旅に出てその「場(土地)」にある「非在」の存在である霊や物語に出会う。
そこから新たな物語が始まってくのか。
「始める」のではなく「始まる」のだなあと。
そしてテーマは「あはひ」の話へ。
~~~
P152
レレレのおじさんの特徴は、自分のうちの前だけを掃除するのではない。ということだ。隣のうちの前もついでに掃除する。縄張りにあまりこだわらない。小難しく言えば自他の境界が曖昧なのである。自他の境界が曖昧だから、目の前に現れた人に対して「お出かけですか」と声をかけるのがレレレのおじさんである。
P154
お盆は死者が戻ってくる日だが、お盆という「とき」そのものが、あの世とこの世との接点、糊代なのである。この接点、糊代を「あはひ(あわい)」と呼ぼうと思う。
「あはひ」というのは「あいだ(間)とは違う。「あいだ」は、ふたつのものの間隙をいう。それに対して「あはひ」は「会ふ(会う)」を語源としてふたつのものの重なっている部分を言う。そしてこの糊代文化、あはひ文化こそが日本文化の特色のひとつのような気がする。
P155
また、「あはひ」文化の建築版と言えば縁側だ。縁側は内でもあり社外でもある境界としての存在だ。(中略)古くは「うち」と「なか」の区別があったという。家の中は「うち」、縁側は「なか」である。「うち」まで入ることができるのは「みうち」だけだが、「なかま」であれば「なか」である縁側までは入ることができる。「なか」である縁側は自他の境界があいまいな「あはひ」の空間だ。
~~~
そうか。年末に言っていた「ギャップ」っていうのは実は「あはひ」のことだったんだなあ。
どちらでもあるあいまいな「境界」のことをギャップと言っていたんだなと。
中心と周辺。
そしてそのあいだにある「あはひ」のデザイン。
「周辺」をつくりながら、その境界にある「あはひ」への参加をデザインすること。
これが2023年のミッションなのでしょうね。
人は、物語を求め、旅に出る。
物理的にも、精神的にもそうだ。
そして、花に出会う。心が動く。
物語が始まる。物語によって自身が変化する。
おそらくはそうやって、人は生きていくのだろう。
「花」「非在」「あはひ」というキーワードをもらった大きな1冊となりました。
2023年01月05日
誰かの弱さは、誰かの強さを引き出す力

「マイノリティ・デザイン」(澤田智洋 ライツ社)
1日1冊、紹介できるといいなあと思いつつ。
~~~ここから引用
すべての「弱さ」は、社会の「伸びしろ」
あなたが持つマイノリティ性=「苦手」や「できないこと」や「障害」や「コンプレックス」は、克服しなければならないものではなく、活かせるものだ。誰かの弱さは、誰かの強さを引き出す力だから。そう伝えたくて僕はこの本を書きました。
~~~ここまで引用
そうそう。
そういうこと。
もうひとつ。
~~~
「境界線上」に立つ、アウトサイダーにこそ価値がある
アメリカ在住時にラルクアンシエルに影響を受け、日米のロックを混ぜたような音楽をつくって、インディーズデビューしたエピソードで著者は日本とアメリカの境界線上に立っていること自体の価値に築く。
広告マンも境界線上に立っていて、いろんなものを俯瞰的な見方で捉えていることを知る。
~~~
「境界線上」に立つことそのものに価値があるっていいなと。
それが僕たちが目指しているところでもあるのかもしれない。
2023年01月04日
ゲーミフィケーションと進化論マーケティング

「進化論マーケティング」(鈴木祐 すばる舎)
仙台の丸善アエル店で見つけて、新潟で購入。
年末年始の読書ラインナップの1つに。
本能を8つに分類して、そのそれぞれに対する
アプローチを指南してくれる1冊。
テクニック本と言えばテクニック本なのだけど。
こちらの

「まなざしの革命」(ハナムラチカヒロ 河出書房新社)
と合わせて読むことで、自覚をもってマーケティングや広報ができるような気がします。
資本主義が限界を迎えた今、世界は管理社会に向かっていて、新型コロナのパンデミックはその絶好の機会を与えている、とハナムラさんは言う。
そんな状況に対して、一庶民としてできることはあるのだろうか。
そんな問いが生まれる本。
でも僕は、やっぱりマーケティングとか広報とか、好きなんだよね。
自分の大好きなものが売れていくのが好き。
そしてその売るときのコミュニケーションが好き。
そのコミュニケーションから生まれる創造がもっと好き。
たぶん、そういう感じ。
今回は進化論マーケティングのStage4の2.進める本能デザインについて。
~~~ここから引用メモ
「進める本能が活性化した消費者は、「大事なことを成し遂げた」「重要なスキルを身につけた」が旺盛
・即時フィードバック:ユーザーが行った行動に対してすぐに何らかの結果を返す仕組み。例:テストの結果がすぐ表示される
・進捗トラッキング:ユーザーの進捗状況を記録する仕組み。例:ラジオ体操の参加でシールを貼る
・ロードマップ提示:ユーザーが目標を達成するまでの道のりを示した大まかな計画表。例:最初の1週間で初球をクリアして3週間で上級を目指します。
・マイルストーン解除:進み具合に応じて新たな可能性が広がる。例:レベルが上がったら新しい魔法が使える
・難易度ステップ:ユーザーが経験を積むごとに、課題の難しさが上がっていく仕組み。例:英単語800を覚えたら次は2000語へ
・極小クエスト:1万の英単語を覚えるではなく、3日で小テストをクリアするなど、小さなミッションをいくつも用意する手法。
・限定ボーナス:ある特定の条件下でのみ、特別なアイテムや報酬が手に入るように設定された仕組み。例:午後5時より前の来店でハッピーアワー
・コンボ連鎖:ユーザーが特定の行動を連続で行った場合に、得られる報酬が倍々に増えていく仕組み。
・達成メッセージ:「改善」や「没頭」の感覚を打ち出したメッセージ。「もっといい方法がある」「ゾーンを体験しましょう」
~~~ここまで引用メモ
おお!
これ、ゲーミフィケーションの手法じゃんって。
http://hero.niiblo.jp/e492335.html
(ゲームにはゲームを 22.3.5)
「アンロック」と「レベルデザイン」。
これっていうのは、「進める本能」を活性化する手法だったんだ。
ゲームの世界がビジネスチャンスになる分、それが徹底されている。
学校の授業とか探究とか、もっとこの手法を学んでいいんじゃないかと。
テクニック論だと言われても、ゲームに対抗しうる「まなび」を創りたいなあと僕は思っています。