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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年09月18日

学校を変えるのではなく、演じるためのもうひとつの場をつくる

デンマークのフォルケホイスコーレ留学帰りの
大学生2名が阿賀町にやってきてました。
昨日はそのふりかえり。

公営塾スタッフやまちの人に
インタビューしてもらったので、
それがこれから記事になります。

なので、
取材型インターンひきだしの
フォーマットを使って振り返りました。

キーワードは
・場のチカラ
・魔法をかける編集
・予測不可能性
・解像度を上げる

などなど。

~~~以下ふりかえりメモ 
(フォルケホイスコーレ(ipc)留学経験の視点を入れつつ振り返りしました)

瞳の色が印象的。たどりついていない感じ。
まだ何かあるんじゃないか、と思わせる。

ipcも色で覚えている
コモンルームのオレンジ色の光と2つのソファー。
オンラインの画面では色が見えない。
リアルだと色が立体的に感じられる。

・関係性を鮮やかにしていくこと
ベクトル=問いの共有

その人が拡張されていく感じ。
面が増えていく。
人と一緒に旅をすることの醍醐味。

一緒に旅をする=自分を見つける/相手を見つける。
プロジェクト=小さな船旅

多様性を組み込んでいくコミュニティ。
年齢は数字でしかない。
その人のできないところ、ニガテなところもさらけ出して共有することでフラットになれる。
フラットに感じられる。
学びの場においてフラットであることが大切。

一緒に体を動かす。
「楽しさ」=身体性の共有

ipc:先生は「自分が分からないこと」も共有してくれるんだ!
一緒に考えてくれるんだ。

問いの共有

新型コロナウイルスの時の激動の2週間の後、
自分たちの気持ちを話し、また気持ちを聞いていく。
新型コロナウイルス=課題であると同時に機会でもある。

「感情」を出せる場が大切。
空間のデザインも重要。
共感・違和感をともにすることを大切にする。
リアルな不安も話せる場づくり。
「先生」でもあり、ひとりの市民でもある。

日本の「学校」=演じる場
ipc=さらけ出せる場。
学校をフィクションだと認識する。
先生の発言は仮説にすぎない。

他者と話す。紙に書くこと。
「体から切り離して」出してみる。
相手の言葉によって、自分を理解する。

~~~ここまでメモ

ああ、フォルケホイスコーレって
とっても素敵な「場」ができているんだな、と。
新型コロナウイルスでさえ、「機会として学ぶ」
に組み込まれているんだなと。

たぶん、高校における「探究」っていうのも、
大きな流れで言えば、そういうことなのだと思うのだけど。

僕の感想としては、
やっぱり「場」が大切なんだなと。

そして一気には変わらないし、
そもそもそういうエネルギーの使い方は
「創造的破壊」アプローチで、僕に向いてないなと。

フォルケホイスコーレ的な学びの場を日本にも作ろうって
動きが盛んだけれども、そしてそれはまたそれで理想的なのかもしれないけど、

僕のアプローチは、
「並行」「並列」「ハイブリッド」なのかもしれない。

と、打っていたら。
「へいこう」の変換が「平衡」になり。

!!!ってなった。

それだ!
「二元論」から「動的平衡」へ。
いま、僕の中でのキーワードなのだけど。

その「動的平衡」のためには、
2つの世界が必要で、

坂口恭平さん風に言えば(「独立国家のつくり方」より)、
「学校社会」と「放課後社会」なのだけど、
それを行き来すること、できることが大切なのだなと。

それはいわゆる「サードプレイス」とは少しニュアンスが違っていて、
「並列」なんだよね。

そしてそれはもしかすると、
高校生のための寮を併設しているからこそ、可能になるのかもしれないと思った。

生活とか暮らしの中で、経験し対話し、感性が磨かれて、
そして「感情」を「場」に出していくことで、相手を知り、また自分を知る。
学校にいる時間は学校にいる時間で、「学校にいる自分」を生きていく。

フォルケホイスコーレの先生たちは、ひとりの人間として、
感じたことを大切にして、時にそれをさらけ出して、学生たちと接していた。
それはそれで素晴らしいと思うのだけど。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。
そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、
「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。

もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、
関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。

いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。

そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。


写真は、大学生撮影のオラに力を分けてくれ、の図。  

Posted by ニシダタクジ at 06:41Comments(0)学び日記

2020年09月13日

ドリームチームのフリをしろ



「教育の島発 高校魅力化&島の仕事図鑑~地域とつくるこれからの高校教育」
(編著 大崎海星高校魅力化プロジェクト 文 松見敬彦 学事出版)

読み終わりました。
シビれまくりましたね。

僕は昨年11月に大崎海星高校におじゃましました。

「コーディネーターがつなぐのは」(19.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

今年2月に新潟で再会
「気が付くと地域と自らの人生の当事者になっている」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

圧倒的な勝手な使命感、何度聞いてもアツいなあ。

ということで本を読んだメモを書きますが、
その前に、わかりやすく学校の現状がまとめられている部分を引用します

~~~

学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。

~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

まさにこれ。
こういう「本能的な学び」をつくっていくこと。
これが地方にある高校の使命だと思います。

じゃあ、どうしたらいいのか。
本書を読んでひとまずメモします。

~~~ここからメモ

「これってこうだよ」ではなく、「それってどうなの?」って訊いてくれるから。
よい教師は、生徒によい問いを発する。

校長から電話。でも、夜10時以降じゃないと時間が取れない。
校長は言った。「じゃあ、その時間で」
深夜に教頭を伴ってやってきた大林校長(当時)。

「ここまでやれる校長がおるんか!」
取釜さんのあの時の感動が、「直接会いに行く」という基本姿勢につながっているのだろうな。

「魅力化推進チーム」
ここから生まれてる。
取釜さんと先生方のチーム。
これ、大事かも。

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。
「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

~~~ここまでメモ

エッセンスに詰まっているなあと。
魅力化3番手グループとしては、めちゃめちゃ響きます。

タイトルにもなっている「島の仕事図鑑」は
魅力化の初年度からスタートしたプロジェクト。
町と商工会との協力によりスタート。

地域の大人にインタビューをして冊子化する地域プロジェクト(有志の課外活動)

本書にコラムを寄せている東北芸術工科大学岡崎エミさんによれば、

「きく」という行為だけでも
1「じっくり聞く」 2「共感して聞く」 3「質問して聞く」 4「要約して聞く」
の4種類があり、依頼の時には自己との対話が不可欠だし
聞いた後に第三者に表現して伝えるアウトプットにもなる
コミュニケーション訓練のフルコースなのだという。

なるほど。
インタビュー冊子づくりやってみたいなと。

この冊子づくりが果たした役割はとてつもなく大きいと感じた。

1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。

2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。

3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

特に、3つめの「承認」と「誇り」については、僕の長年のキーワードでもあるので、
ここに書いておきたい。

第4章「若手教員」
登場しているのは新任教員の長門先生。
仕事図鑑づくりに寄り添った。

~~~以下本文より引用

誰もが、いまの長門にないものを持っているような気がした。
きらきらと輝いてまぶしく映った。背景や想いは異なっても、
彼らはみな自分の意思で選択した「自分の人生」を生きていたのだ。

彼らの矜持は、生徒たちのインタビューに付き添って、
話を聞いていればすぐに分かった。

他者からの承認を求めたり、それを行動原理にしたりすることもない。
自分の中から突き上げる内なる声に正面から向き合い、その
野生が赴くまま正直に生きていた。

(中略)

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」と長門。
羨ましかった。純粋に、心から憧れた。まさしく生徒たちに期待した
刺激や感動、変化を、長門も一緒に追体験していたのだ。
もしかすると、他でもない自分が最も強く影響を受けたかもしれないとさえ感じる。

~~~以上本文より引用

ふふふ。
すごいね。
笑ってしまう。

これが、デザインのチカラだと思った。
きっと、取釜さんは「結果的にそうなった」と言うだろう。
それが想いの力とふりかえりの成果なのだろう。

生徒も、先生も、地域の人たちも「機会」を起点にともに学ぶ。
大崎上島では「島の仕事図鑑」こそが「機会」だった。

そしてそれは同時に「承認」と「誇り」を生みだすプロジェクトとなった。

生徒たちにとっても、
地域の大人たちにとって、
いや、おそらく先生たちにとっても、
いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。
「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。
たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、
もっとも大切になっていくのだろうと。

第6章で「島の仕事図鑑PJ」を立ち上げた
当時の商工会の総務企画課長、渡川さんは言う。

「すべてにおいてタイミングも良かったんじゃと思います」

自分が移住定住の担当者だった時に高校魅力化PJが始まったこと、
コーディネーターとなる取釜さんがいたこと、大林校長が赴任してきたこと。

「うまい時にうまいこと『変人』が三人集まったんですよ」と笑う。

そういう意味では、今の阿賀黎明高校魅力化チームも、
「ドリームチーム」ってのちに言われるくらいの人が集まってきているな、と。

Fake it till you make it
「実現するまでそのフリをしろ」
という言葉がある。

そうだ。
僕たちはドリームチームだ。

ドリームチームのフリをして、
本日も「まなび体験会」と「地域みらい留学フェスタ」でお待ちしています。


※写真は8月23日まなび体験会の様子です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)

2020年09月11日

もう出港しているんじゃけえ


「教育の島発! 高校魅力化&島の仕事図鑑」(大崎海星高校魅力化プロジェクト 学事出版)

やっと読み始めました。
最初から激アツな文章が続いて、朝からドキドキしています。
仕入れたいなあ、この本。

昨日の山形・新庄・最上ジモト大学を運営するとらいあさんが
主催する「学びの土壌づくり」のゲストにも登場していた
大崎海星高校魅力化推進コーディネーターの取釜さん。

取釜さんの一言一言に実践者としての重みを感じる。

ポイントは1~3年で取り組み「時代の航界士」となる「大崎上島学」と
島の大人たちを取材して冊子をつくる「島の仕事図鑑」だと。

~~~以下、イベントメモ

「地域と学校の連携」と、言葉で語るのはたやすいが、
それは1日1日の積み重ねの結果、ようやく実現するものだ。

「組織や行政はあとから付いてくる」

まずひとりが動き、そして地域が動く。
それから学校が変わり、行政が後追いしてくる。
「学校にとっての魅力化」と「地域にとっての魅力化」は
「生徒」「学校」「自分」「地域」の重要度が異なるが、重なる部分があり、
そこをやっていくこと。そのひとつが「島の仕事図鑑」だ、と。

そして、地域の人に対しては、
「(ゆくゆくは)地域にとってもプラスですよ」と語り続ける。
そして、目に見える成果物(印刷物など)を残していく。

始めるのはひとりの人だが、
続けていくには仕組みとかシステムにしていく必要がある。
⇒一般社団法人「まなびのみなと」設立

★どういう子を育てたいか?
⇒年々更新していってもいい。その更新システムがあることが大切。

高校生がプロジェクトに参加した時の
その日のリアルな声を積み重ねていく。

「協議会」⇔「分科会」
偉い人が入っている承認システムと役割ごとに動きが速い行動システムとの分業

★地域との接点:授業だけではなく授業外でも
・授業「大崎上島学」
・単発の「地域プロジェクト」(1~数か月)
・部活動「みりょくゆうびんきょく」
3パターンの地域との接点。

~~~ここまでメモ

取釜さんの話の後の参加者同士の対話の時間。

僕のキーワードは3つ

「講座」の終わり⇒誰かが何かを一方向的に教える「まなび方」は終わりに近づいている。

育てたい人物像⇒アップデートされ続ける。

「手段としての学び」から「機会としての学び」へ。

最後のはいつも言っていることだけども。
基本的には「対話」なんだなと。

ただひたすらに「対話」を積み重ねて、
今の大崎海星高校魅力化プロジェクトがある。

「対話」をするから、
異質な他者との協働の入り口が見えてくる。

「対話」によって「関係性の質」が高まり、「学びの質」も高まる。
だから、「ギャップ」は乗り越えるものではなく、活かすものなんだなと。
そのための対話。

話を聞いていて、
大崎海星高校のプロジェクトはよくデザインされているなと思った。

授業や授業外プロジェクト、部活動等との組み合わせによる
生徒たちの地域への「参画のハシゴ」のデザイン。

協議会と分科会といった「企画の実行」のデザイン。

島の仕事図鑑づくりという双方の「当事者意識の向上」のデザイン。

最後にそれを質問したのだけど、
取釜さんはそれを「結果」だという。

仕組み化のポイントは、
「目の前のことを大切にしながら先の話をすること」だと。

シンプルだなあと思った。
実は原則ってシンプルなのかもしれない。

目の前のこと、目の前の仲間(生徒やパートナー)を大切にして、
振り返りながら、先を見据えること。

「もう出港しているんじゃけえ」
(実際はこういう風には言ってない。笑)

そう。
船はもう、出港しているんだ。

いまいる乗組員と対話し、違いを楽しみ活かし、
目の前に来る自然条件に対応しながら、船を進めていく以外にない。

ラストは、取釜さんのモットーである「圧倒的勝手な使命感」で締められた。

「圧倒的勝手な使命感」を持ち、まだ、できることがあるんじゃないか?とひたすら考える。
そんなひとりひとりと船に乗り、船を進めていくこと。
そしてプロジェクトという船旅は続いていく。


※ 写真は昨年11月、大崎上島を訪れた際の行きの船から撮影したもの  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)学び

2020年09月07日

やりがいは何か?という愚問

9月4日
取材インターン「ひきだし」事後研修でした。

僕の興味は、取材を通して、
「オンラインの向こう側」を見てみたかった。

結論としては、
チューニングを強化してチャットと併用することで、
チームインタビューはうまくいくことが分かった。

実は「場」に差し出してるものが多くなるっていうこと。
それが場との一体感を生んでいる。
オンラインは、頭や気持ちの一部だけを取り出せるからかもしれない。

~~~ここからはメモ

「否定」ではなく、「違和感の表明」。
違和感を受け止める場があるかどうか?
自分にしかできない質問=いまこの瞬間に感じた違和感を問いに替えること
その質問がインタビューをドライブさせる。

「昭和のサラリーマンはお金のために好きでもない仕事をやっていた」は本当なのか?
⇒また行きたくなる「場」「一体感」があったのではないか。

好きなこと=doやwhatではなくbeやhowかも。
何をやるかではなく、状態や関係性が大切。

★「やりがい」問題
仕事人にインタビューをするとき、ついつい、
「この仕事のやりがいは何ですか?」と聞いてしまう。

今回インタビューした会社の中で、
「やりがいを感じるのは感謝されたとき」
との回答を得て、ひとりの大学生が違和感を持った。
感謝ってやりがいなの?って
それがふりかえりでホットな議論になった。

その違和感について、僕が感じたのは、
「やりがいは何か?」って仕事の目的を聞いているはずなのに、
「感謝されること」は結果であって、目的ではないから。

でも、そもそも仕事に目的は必要なのか?
そもそも普段「やりがい」なんて意識して仕事しているか?
もしかすると、経営者は必要なのかもしれないけど。

目の前の仕事に、お客様に、集中しているとき、
「やりがい」という言葉は頭から消えている。

大学生に質問されてはじめて意識する。
問われたから無理やり考える。

そしてそれは、研修でやったけど、
「内なる言葉」ではなく「外に向かう言葉」で答えてしまう。
「外に向かう言葉」=人に説明する言葉⇒見える化⇒計測可能(量的に語れる)
結果、「感謝」が出てくる。

1人が書いていたけど、
仕事の目的というかそもそもの成り立ちは「お客様に価値を届けること」であり、
「感謝されること」は結果である。

だから、やりがいは何か?という質問の仕方が間違っているのだ。

あなたが届けたい、届けられる価値は?
と聞かないといけないし、

「感謝」をもっと解像度を上げるには、
あなたが喜びを感じる瞬間は?
と質問しないといけない。

ただ、今回聞いていて思ったのは、
「感謝」によって思いやりと愛の循環が起こる
⇒「場」の空気がよくなる⇒明日も会社行こうと思う
っていうことなのかもしれない。

つまり。
モチベーションの源泉は、ゴール(目的)ではなく、
「場」から湧いているのではないか、と。

~~~ここまでメモ

いいですね。
やりがい問題。

タイトルの話に戻ると、
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと
同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、
ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。
例えば「お客様に感謝されること」
それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。
しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど
夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。
たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

あとは、「外に向かう言葉」と「内なる言葉」の違い。
やりがいは何か?と聞かれて、
やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、
リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。

「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。

「近代」なる何か(資本主義や教育)は、
「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。
それが、「計測可能」という罠だ。
「学び」の目的は
「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、
実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。
「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)
「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

9月4日を予言するかのように、9月3日にツイートしたもの

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。
ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。

そして、「学び」を「遊び」にしたい。
その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。
遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。
目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。
「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

たぶんそういうこと。

事後研修を終えて、数名の参加者が
ふりだしに戻った!と叫んでいた。(チャットで)

~~~
振り出しにもどった!!!!
OKいろいろあるのね、自分のとらえかた次第ね
業界や職種で絞れないね
→どう絞れば!?
スキを仕事にしなくてもいい
→楽になったけど、なにを軸にすればいいんだ!?
自分にできることって何
→やってからじゃないとわからない、最初どうすれば!?
~~~

いいなあ、内なる言葉が出てくる「チャット」という機能は。(笑)

ふりだしに戻る。
でも、それは戻ったわけではなく、螺旋階段を1段登っている。
そして、1段登った分、見える景色が変わっているはずだ。

そんな「機会提供」の場をつくりたかった。
たぶんそれが主催者である若松さんと僕の想い。
機会をどうとるかは参加者次第なのだけど。

今回の「ひきだし」も僕にとっても予測不可能な発見の連続で、
めちゃめちゃ楽しかったのです。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:24Comments(0)就職イベント日記

2020年08月30日

場のチカラと場の豊かさ

取材インターン「ひきだし」第2週の事前研修でした

「場のチカラ」
「魔法をかける編集」
「オンラインの向こう側」
がテーマ。

~~~以下メモ

オンラインマジカルバナナの威力がすごい。
あれ、目的に向かってないからいいのかもしれない。
場を温める。

「チューニング」についてあらためて説明。
チューニング=感性を共有すること
ではないか?と言われて、そうかも、と。
思ったことが言える場づくりがいちばん大切だなあと。
あとは振り返りにおける「印象に残ったこと」

今回いちばん面白かったのはチャットの活用ですかね。

「ふりかえり」特に印象に残ったことを書き出すことで、
お互いがお互いを知ることにつながるし、そこでの発見がある。
ふりかえりつつ、気づくみたいなことはオンラインのほうが可能かもしれない。

また、インタビュー時はインタビューしつつチャットを併用することで、
頭の違う部分が開かれるような気がする。それは相手(話し手)にとっても同じだ。

「オレンジ」とか暖色系で、
チームカラーを決めるっていう方法もあるかも。

チューニングとふりかえりを繰り返すことで
チームの雰囲気ができていく。

現代の美術家のアート領域。
境目をあいまいにすること。

~~~ここまでメモ

ふりかえり

1 場のチカラについて

目指す方向だけを決めた方がいいのではないか?
という話から、「誰のために、なぜ冊子をつくるか?」という議論になった。

場(プロジェクト)の構成要素である
誰と⇒いつ⇒どこで⇒なぜ⇒誰のために⇒何を⇒どのように
の「どこで」(オンライン)で「何を」(企業取材を)とだけ決まっていて、
そのあいだを埋めていくこと。それによって、「誰と」「いつ」が明確になっていくこと。

2 魔法をかける編集について

いま、あなたにしか、このチームにしか書けない記事がある。
それを実現するために。

・相手(インタビュー先、チームメンバー)を知る、知りたいと思う。
・感じることを、感じたことを大切にして、それを場に出す。
・人の話(ふりかえり含む)に乗っかる。
⇒自分のいま抱えている何かとリンクさせて語る

3 オンラインの向こう側について

チャットとの併用にヒントがある。
脳の境界をあいまいにすること。
違う回路を開きつつ、進めていくこと。
相手(しかも複数名)がいったことが同時に見れる。

オプションで「交流会」時間があったのだけど、
編集長の青木さんが言っていた「これ、編集だな」っていう一言にインスパイアされた。

編集かもね。
人と人とをうまく編集すること。
言われてみれば、人生も、仕事も全部編集なのかも。

この前のオンライン・ツルハシで話した原さんのような
編集の仕方があるっていうこと。

今回の「ひきだし」もめちゃめちゃそうだなと。
「オンライン」っていう条件さえも、制約ではなく編集対象にしてしまうこと。

っていう振り返りをしていて、僕が思ったこと。(ふりかえりのふりかえり)

「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から
少し異なるのだなあと思った。

そして、オンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。
「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。
場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。

一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」
スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、
お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。

ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、
またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。
仕事の打ち合わせの人もいるだろう。
そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。

参考ブログ「分断から共存へ」(13.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e302022.html

おそらく、
「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。
「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。

そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。
そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)学びイベント日記

2020年08月25日

見つけ合う「場」をつくる

取材型インターン「ひきだし」の事前研修でした。

他者の意見に「乗っかる」練習として
オンライン・マジカルバナナに初挑戦。
めちゃ使える。
またひとつ、技が増えた。(♪ドラクエの効果音)

ここ1週間で大学生との対話の機会が何度かあり、
そこで感じたことも含めて、メモにまとめておきます。
(ツイートメモを含む)

~~~

「手段として学ぶ」⇒「機会として学ぶ」へのシフト
目標⇒ベクトル
個人⇒場
評価⇒承認
達成⇒発見
学び合い⇒見つけ合い
アイデンティティ、予測不可能性、今を生きる、という側面から見れば、このシフトのほうが現実的だなあと。

「プロジェクト」を褒めることで間接的に承認になる。承認は与えられるものじゃないから、直接褒められても得られないのかもしれない。

「感動を売る」仕事と「必要を満たす」仕事。
スポーツでも芸能でも「感動を売る」エンターテイメントビジネスは、その仕事に必要な技能を習得するには、バックキャスティング的なアプローチが必要になってくる。一方で「必要を満たす」仕事に対して、そのアプローチは必要なのか?

プロジェクトという場に自分を溶かして、一体化すること。
そうすればプロジェクトによって承認される、というか自分を承認することができるのかも。
それが自らの在り方生き方と一体的で不可分のプロジェクト。
一体的というより、一体化してしまうの。それがいい。

誰かに決められた人生を生きるか? 自分で決めた人生を生きるか? みたいな2択じゃないよ。
そのあいだに無限にグラデーションが広がっているし、誰と一緒に決めて動くか?生きるか?を考えること。

気づきや学びではなく、発見と変容。でも、発見と変容を目的にしてはいけない。
結果に過ぎない。そのへんのデザイン。

自分は変われる、と思っているか、自分は変わらないと思っているか。

自分の感情を確認し表現しながら、参画したいと思える仲間を見つけ、参画してわたしを拡張し「わたしたち」になる。
わたしたちが決めた今を生きること。

通知表、成績表によって、人生が個人戦であり、その戦いの勝ち負けを決めるのは先生や上司や世間からの評価であるかのような錯覚に陥っているのではないか。それはもはや「学び」と呼べるのか。

「見つける楽しさ」にフォーカスすれば、「学び」は遊びを超える遊びになる。

そもそも資本主義が、とかいっているのに、自分の壁を超えるために、スキルアップが必要で、その講座を受講しないと壁は越えられないという矛盾。資本主義とは、ゴールに向かっていくことだし、二元論だし、手段として今を生きることなのに、な。

教育とか学びとかの観点からすれば、問うべきは就職や資本主義じゃなくて、「近代」というシステムそのもののような気がします。

今日のゴールは?って確認するのをできればやめたいです。
幅が狭くなる気がする。

承認を直接的に得るのか、間接的に得るのか。
間接的に得るほうが健全な気がする。
人に与えてもらうものじゃないからね。
コーチングとか、対話系イベントの危うさ。

「親和的承認」が不十分な人に、「承認」を与えてはいけないんだよ。
それは「評価」であっても同じだ。
そんな「人」や「場」が人を依存させるのかもしれない。
「承認」依存症になっちゃうぜ。

企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。「就活」は「お見合い結婚」システムで、インターンシップが「恋愛」で、インターンシップ就職は「恋愛結婚」だと茨城でお世話になった社長は言っていた。

ところが。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
つまり。別れを前提に付き合ってみる、ということ。

「恋愛」上手になるには?
恋愛の経験値を積んでいく。
だとみんな言いますよね。

あと「どんな恋愛がしたいか?」
って言われたらどう答えますか?
もしくは「どんな恋愛の始まり方が理想ですか?」
って聞かれたら?

ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、
それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。
本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。

やりたいことは何か?という呪い。
職業と自分らしさと自己実現をイコールで結ぶことでどんどん辛くなるよ。
そんな呪いを解いていく呪術師にもなるしかないか。
カギを握るのは場のチカラ、だと思います。あとは読書で俯瞰することか。

「自分を知る」ために、中に向かうのではなく、むしろ、外の「場」へ自らを投げ出して、溶け出した後に、ふりかえりをしてみること。
そのほうが結果、自分が分かるような気がします。「わたし」と「わたしたち」を行き来すること

二元論と、目標に向かっていくことと、量的に測るということ。
それこそが資本主義の本質じゃないか。
資本主義に違和感、といいながら、アプローチが資本主義的すぎるよ。

13歳のハローワークで語られた「あなたにも向いている仕事がある」っていう適職幻想が大多数であるサラリーマンの労働意欲を著しく下げた。
それが決定的になるのが、2005年プロジェクトXから2006年プロフェッショナルへの移行という社会学的な仮説。
向上しなかった生産性の原因はどこにあるか。

身体性と、方向性と、偶然性の共有。オンラインだからこそ。

人材マーケットのために人は人材となり、量的に測られるようになった。
量的に測られること、それはすなわち、交換可能になるということと同義だ。
資格試験を頑張るという矛盾はそこにある。
役所などの巨大な組織は、交換可能であることを前提としている。

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、
それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。
これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。
「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

12歳時点で、親和的承認が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。

インターンからの就職は「恋愛結婚」だと、とある社長が言っていたが、もはや就職そのものが「恋愛」に替わっていくいくのではないか。
だけど恋愛マッチングサイトと違って就活マッチングサイトが暴力的なのは、圧倒的に立場の差があるということだ。
フラットじゃないコミュニケーションつらい

取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。
お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)

「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、
「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい。

「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。
発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。
そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。
そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする

共感しながらも違和感をキャッチし、それを質問すること。
インタビューのコツってそういうことか。

仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。

~~~とまあ、こんな感じ。

「場」「承認」「見つける」
とか、このあたりがキーワード。

ひきだし研修での一番の気づきは

人材マーケットのために人は人材となり、量的に測られるようになった。量的に測られること、それはすなわち、交換可能になるということと同義だ。資格試験を頑張るという矛盾はそこにある。役所などの巨大な組織は、交換可能であることを前提としている。

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

たぶんこの矛盾。
そしてその出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。

目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること
そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。

その時点で「親和的承認」が満たされていないにも関わらず。

人はみな「承認されたい」
しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。
自らが感じるしかない。

「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、
それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。
中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、
5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。

そのころにはもう「評価」中毒になっている。

地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、
一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。

「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」

しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を
評価してくれる「誰か」はいない。

そして就職活動。
「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。

ところが、何をやったらいいのかわからない。
どうすれば評価されるのか、わからない。
自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。

仕方なく、資格やスキルを身につける。
しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。

そこで行き詰まる。

がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。

「量的に測れない。」
これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。

でも、自分は量的なアプローチしか知らない。
「就活の不安」のおおもとはそこにあるのかもしれない。

時計の針を巻き戻す。
中学入学時点まで。

本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。
しかも「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。

本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。
「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」
というメッセージを伝え続けること。

しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、
家庭や地域にその役割を負わせることは不可能となっている。

だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。

その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。

思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。
実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。
「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、
「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。

そうやって、見つける、発見する。
この「場」でしか生まれないものを生み出す。

それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。

だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。

見つけ合う場を、そしてはじまる場を。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:25Comments(0)日記

2020年08月11日

「誇り」がはじまる場所

新潟県マイプロスタートアップキャンプ2DAYSでした。

宮崎さん、スタッフのみなさん、本当にお疲れさまでした。
ご協力いただいたファシリテーター・アドバイザーのみなさんも
ありがとうございました。
阿賀黎明高校からも4名の生徒が参加し、刺激の多い1日となったようです。
これからの活動が楽しみです。

いつもの振り返りメモを残しておきます。

~~~以下、プロジェクトとコメント、問い。

「佐渡乳業を応援したい」
買い続ける理由は?
熱狂的なファンになるとしたら?

「ボランティアで人と人をつなげたい」
肉体系ボランティアをやると仲良くなれる。

「アレルギー対応のイベントしたい」
笑顔になれる食事体験の方法は?
楽しめる食事と楽しめない食事
「楽しめる食事」とは、アレルギー対応以外の方法もあるのでは?

★パートナーの「想い」を確認すること。
・佐渡乳業、ボランティアやってほしい人、アレルギーを持つ人にヒアリングする

「食品ロスをなくしたい」
データを示せば、行動が変わるのか?
どの地点の食品ロスをなくすのか?

「通販サイトさどおしなの活性化」
ふるさとを思い出すためにポストカードをいれる。
行ったことがある人に「また来て佐渡」って言いたい。
ポストカードで行ったことのある旅館に手紙を書く

「料理の絵を描き、食の魅力を伝える」
コンテストなど大規模じゃなくて、小規模で始められるものはなにか?

「佐渡チェキ」
日常風景を写真にとる。
グローバルな人は地元が好き=地元を語れる
キーワードとしての「探検」

「新潟甚句を広めたい」
歴史的なつながりに魅力を感じるのか?

「音楽をもっと身近に」
音楽の魅力は?
あなたにとって音楽とは=存在価値そのもの
ライブの一体感と偶然性、一回性。
音楽=芸術=表現すること

「五泉ニットを売り出したい」
お客は誰で価値は何か?
高校生にとっての価値は?おしゃれ?かっこいい?かわいい?
ファンとお客さんの違いとは?
誰が五泉ニットをつくっているのか?職人さん・社長さんの想いは?

「演劇文化を広く伝えたい」
演劇の魅力は?⇒心を揺さぶられる体験。
演劇鑑賞⇒対話により違いを楽しむ。
講師謝金は出やすい。

「不登校生を学校へ」
そもそもなぜ学校が必要なのか?
想定される具体的な誰かはいるか?
学校に行くことで得られるものと失われるものは?
「学校に行けなくてつらい」の解決策は
「学校にいくこと」と「学校に行かなくてもつらくない」の2つの方法がある

「佐渡金山にきてほしい」
誰かの企画に乗っかってみるという方法もある。
ふりかえって自分の勘定を知る⇒自分を知る。

★フレームを外して広く見てみること。

~~~ここまでコメント、問い


2日目の事例紹介は、7月31日の探究学習コミュニティ第1回でも登壇した元大船渡高校の船野さん。

マイプロアワード2017文部科学大臣賞
https://myprojects.jp/project/4134/

あらためて聞いてみると、「探究」とは何か?考えさせられるキーワードにあふれていた。

~~~ここからメモと考えたこと。

目標・テーマに向けて、進んでいく。(ニアウォーターをつくる)
それと同時に、自分を知る=感情の動きをキャッチする。

つまり、目標というナナメ上に進むベクトルの一方で、
自分を知るという自分自身の内に向かうベクトルを動かし続ける。
実はその「自分を知る」というベクトルの先に、目的というか、
船野さんの言葉でいうところの「北極星」に出会う。

それが「展開型の学び」の醍醐味なのではないか。

「目的から考える」というのはよく言われるのだけど、
それって、「PDCAを回す」みたいなのにとらわれている状態と同じで、

ひとまず、やってみて、ふりかえりを重ねていく中で、自分を知ること。
その振り返りも、「気づき・学び」ではなくて、「印象に残ったこと」、
つまり心の動きを振り返るということ。何を感じたか?を振り返ること。

「挑戦」⇒「失敗」⇒「気づき・学び」⇒「再挑戦」ではなくて
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか?」⇒「再実験」というプロセスの中で
自分を知っていくことなのだと思う。

その「何を感じたか?」
には「違和感」が含まれていて、その「違和感」こそが次の「問い」に繋がっている。

だから、付け足すと
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。
感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。
だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思う。

終了後、宮崎さんの一期生、「Sフェス」のふみかさんと中等生プロジェクトに伴走してきた増山さんとの対話。
ふみかさんのテーマは「イノベーションを起こす場づくり」
そういう意味では、僕のテーマに近いなあと。

僕が大学を辞めた理由は、「このコミュニケーションでは新しいものは生まれない」と思ったからだ。会議の場がまったくフラットではなかった。
教授は教授として、准教授は准教授、事務職員は事務職員、コーディネーターはコーディネーターとして、会議に参加していた。
「踊る大捜査線」の和久刑事(いかりや長介)のセリフが何度も聞こえてきた。「正しいことをしたかったら、偉くなれ」

僕のテーマは、
「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」

「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。
そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。

「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト

それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。
「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。

出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、
「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。

だからもっと「場」の力を高める必要がある気がした。
・オープンマインド(心を開く)をつくるために、「印象に残ったこと」を言葉にしてもらう。
・2人司会制度で余裕をもって進行し、随所に振る。
・特にアドバイザータイムは2人ファシリで、高校生をフォローしながら進行したほうがよさそうな。(メモも必須なので難しいところだけど)

僕は2日目、新潟が誇る「問い」の大御所、「ふりかえり王」(笑)の山本一輝さんとコンビだったのだけど、
それをファシリしていたしぶはるさんのコメントが印象的だったのでここに残しておく。

「事例紹介」で拡げて、と「問い」で深めるみたいなバランスがいい。
ああ、それって、「向き合う」っていうのと「横に並ぶ」っていうのを自在に行っているのかもって。
増山さんも、インタビューの極意は「深く聞いているか」「広く聞いているか」の使い分けだと言っていたけど、
「わたしとあなた」っていう関係性と「わたしたち」っていう関係性、それともまた少し違う「ナナメの関係」(どんどんやれやれっていうおっちゃん的な)っていうのも、自在に行き来するような、そういう「場」が作れるのではないかと思った。
だからzoomにおける2人司会制も、一方は、向き合い、一方は横に並ぶ、みたいなコミュニケーションも可能なのかも、と。

まあ、いろんなヒントがあった2DAYSでした。

最後に、宮崎さんのあの一言を。

「気がつくと地域と人生の当事者になっていた」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

佐渡中等教育学校に赴任して耳にした言葉。
「わたしたち嫌われているんです」
すべてはあの一言から始まった。

現代版スクールウォーズだとあらためて思った。
伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。
「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」

「誇り」が必要なのだと思う。
それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。
文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。

「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、
マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。
「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。

現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、
その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。
探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。

そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 07:37Comments(0)学びイベント

2020年08月08日

信は力なり


昨日は、探究学習コミュニティの2日目でした。

ゲストは宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校の上水先生
http://gokase-h.com/

いやあ。
もう、衝撃がすごすぎて、手に汗かいちゃいました。
最後には泣きそうになってた。

ということで、自分のためのメモ

~~~ここからメモ

学びの氷山モデル。
育てたい資質・能力:野性味あふれる地球市民の育成
・つながる力・試みる力・見る力・問う力・関連付ける力
・networking/experimenting/observing/questioning/associating
・個人will×社会needs

「実社会」(具体)⇔「探究」(半抽象)⇔(抽象)
ステップ型からスパイラルな探究へ
フォアキャスティング⇒バックキャスティングへ

地域での体験⇒地域での経験⇒地域での実践(普遍性)⇓・・・ローカル
社会への発信⇐社会への参画⇐社会への問い・・・グローバル

中3マイプロジェクト活動:自分の中にある興味・関心(Will)から生まれたテーマを設定し、ワンアクションを起こす
高1知の理論・問いの探究:問いの構造を学び、深く考えることによって物事を抽象化する思考法を身につける。(Why)
高2・3課題研究活動・・・社会に散在する諸問題(needs)に対して、グローカルな視点から探究活動に取り組む

これまでのKKD(経験・勘・度胸)⇒できる人ができる
これからのKKD(仮説・検証・データ)⇒やりたい人ができる

PDCAからAAPへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

「思い込み」と「思い上がり」でプロジェクトをつくる、に似ているなあ。
ゼミ形式で共飲1名あたり6名を担当する。

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。
「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ
社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

~~~以下第2部

society5.0時代における持続可能な社会と幸福な人生の創り手として、予測困難な未来社会を自立的に生き、多様な人々と協働しながら社会の形成に創造的に参画することができる資質・能力。

遠隔・オンライン学習やデジタル技術を活用した個別最適化した学び⇔対面指導や集団活動、地域社会の多様な教育資源を活用し社会とつながる真正な学びの充実

自立的な学び⇔協働的な学び⇔探究的な学び
主体的な学び⇔対話的な学び⇔深い学び
⇒誰一人取り残されることなく社会につながる教育環境の実現

「対話と協働」でリアルな学びの場と学校をつなぎ
「越境」で学校外とつなぎ「普遍化」でグローバルとつなぐハイブリッド探究・協働様式

自ら学びをデザインし、新しい時代を共に生き抜く力
「つながり」「対話・協働」「自立・探究」「社会・創造」を組み合わせて学ぶ
それを支える「学びの土壌」があること

ハイブリッド⇒どちらも
対面・体験・オフライン⇔遠隔・体感・オンライン
知識・技能・教科学習⇔探究・実践・総合探究の時間
全体・指導・公教育が持つ強み⇔個別・伴走・地域社会が持つ強み

「共創的カリキュラム」
個別的カリキュラム:学びの実態や環境に応じて、社会総掛かりで知見を共有しながら個別に学習計画が設計されたカリキュラム
明示的カリキュラム:新しい時代に必要となる資質・能力の獲得を目指して、誰一人取り残さないための「学習保障」「関係保障」「健康保障」が明示されたカリキュラム
潜在的カリキュラム(学びの土壌):学校や地域の特性や歴史・風土を活かし、学び手を伴走する土壌によって自然に生み出されるカリキュラム。

★余白をつくること
何を教えて、何を学んだか⇒何を教えず、何を学ばないのか
「対話」と「協働」で探究をドライブする。

ビジョン委員会:半分つくり、半分はつくらない。ねらいと偶然性を両方とる。5年後10年後を語り合う
「対話」の文化があること。

オンラインは会いに行くたくなるように終わること。

★「探究」と「教科」
コンテンツベースで教科をつなぐのではなく、コンピテンシーベースでつなぐ。
教科における見る力とは何か?問いを立てる力とは何か?ふりかえりをする力とは何か?

~~~以上メモ

すげえ・・・
ヤバい・・・

途中から僕の言語化能力を超えてきてしまって、手に汗かいてきた。
こんなの、前にあったな。

2005年の玉川大学のスクーリング「教育の原理」だ。
教育とは何か?を真正面から考える授業に、心も体も震えた。

僕がなぜ今ここにいるのか、わかった気がした。

探究の3つの感。
自分にしかできない感、自分がやるべき感、そして自分にもできそう感、
それって、「思い上がり」と「思い込み」つまり勘違いなのだけど、
生きていくってそれが大事だなとあらためて思った。

一番印象に残ったのは、
「探究」と「研究」の話。

「探究」は入り口が「好き」にあって入りやすいく、その先に青天井に進んでいける。
「研究」は入り口に社会のニーズ(課題)があって、そのフレーム設計をして進んでいく。
つまり、「探究」はフレームを超えていける。

そして探究を、客観(ニーズ)に落とし込んだときに自己変容が始まる、というのもすごくしっくりきた。
学びの醍醐味はまさにそこにあるんじゃないのか、と。

何より上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」

生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。
「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。
時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。
圧倒的な敗北がここにありました。

2020年8月7日。
世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは
五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。
で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと
他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。

パートナーのみなさん、よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)学びイベント

2020年08月01日

問いを研いで磨く



探究学習コミュニティの1回目。
ゲストは前大船渡高校「大船渡学」の梨子田先生。
わずか3年で、東大生まで輩出した大船渡学。
その秘密に迫る。

~~~以下メモ

「学力の氷山モデル」
見える学力⇒見えにくい学力⇒ほとんど見えない学力⇒見えない学力
ペーパーテスト学力⇒思考力⇒関心・意欲⇒感性・経験
センター試験⇒共通テスト⇒二次試験⇒推薦AO
★ここを授業や問題集で鍛える☆ここを探究やPBLで鍛える

コルブの経験学習のモデル:「問う力」と「言語化する力」が学力の根本にある。

☆目に見える☆
試行・実践⇒挑戦・経験
家庭学習、宿題、練習問題、質問⇒授業を聞く・ワークをする
★目に見えない・意識下★
⇒振り返り⇒抽象化・概念化
疑問点・わかったことなどを抽出⇒そういうことか!の発見。わからないことの焦点化

この「挑戦・経験⇒振り返り」のスイッチが「問う」で「抽象化・概念化⇒試行・実践」のスイッチが「言語化」

探究のサイクル
「経験」⇒「問う(探究)」⇒「アクティブラーニング(言語化)」
※授業改善のポイントは授業を「経験」に変えること。

・質問:問われる側が答えを知っている⇒情報を引き出すトリガー
・発問:問う側が答えを知っている⇒考えさせるためのトリガー
・問い:問う側も問われる側も答えを知らない⇒創造的対話を促すトリガー

「問い」ブレスト
90秒でお題⇒180秒で質問を10個以上出す
※質問には答えない。すべて質問の形に書き直す。細かい質問OK

「大船渡学」:地元を知ることがゴールなのか?
この違和感からのイノベーション。
⇒「地域のため」ではなく、生徒の「学びたいこと」を中心に

教育課程に入れる⇒生徒全員が取り組む
⇒全生徒・全職員が主体的に取り組めるように
⇒地域ベースではなく学びベースに

目的は地元の活性化ではなく、行動や考え方の変容、
課題設定力や課題解決力など自己実現に必要な力を養うこと。
「まなびたい」ことを真ん中においたマインドマップ。

地域と関係のないようなテーマも出てくる。⇒生徒の多様性
⇒総合的探究のテーマ「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」
⇒鉱脈を掘り当てる:対話を通して内発的な動機を探す。
⇒生徒がオーナーシップを持つようになる。

「双子の過ち」を乗り越える
×地元学習×調べ学習
⇒机上の探究ではなくフィールドへ。
ネットや本に答えを求めるのではなくリアルの世界で本気の思考を。
⇒考察のスイッチが入る⇒さらなる問いを得る。

アクションの条件:結果にコミットすること:1㎜でも動かす、1人でも変える。
「ポスターを貼る」「SNSで情報発信」だけでは課題の解決につながりません。
情報発信を行うときは、「誰がどのような行動を起こすためのものなのか」、
そして、その情報発信によって、「本当にその行動が起こせるか」を検証してください。
★この条件が本気の思考を促すスパイス

ロジャー・ハート「参画のはしご」
1「偽り参画」⇒4「与えられた役割の内容を認識した上での参画」⇒6「大人主導で意思決定に子どもも参画」⇒8「子ども主導の活動に大人を巻き込む」へ

大船渡を学ばない大船渡学
あなたにとって大船渡学とは?

・「学び」を学ぶもの
・問題を自力で見つける力
・姿勢と育てるレッスン
⇒コンピテンシーベースの学び

自宅の水を調べて、ニアウォーターをつくる。
⇒圧倒的にジブンごと。

北極星:まだ知らない化学の世界を見たい。⇒「好奇心」

周りからの「なんのためにやってるの?」「カッコ悪い」の目
⇒「好奇心」で突破していく
⇒「問い」というコンパス。

他校の生徒:外の世界を見ること⇒フレームを外して見つめてみる
「言葉を発することを怖がっている人はひとりもいない」
「探究」っていう世界に「第3の場所」が作れるのかもしれない。

「とりあえず驚くこと」「伴奏者:打てば響く人」
「おっ!」て思うことにリアクションする。
事象、行為に対する承認なのかもしれない。

問いをつくる⇒再設定を繰り返す。
問いみがき⇒問いが育つ⇒生徒が育つ

「新しいワクワクがもらえる」
目の前のワクワクに向かっていける。
⇒「面白いね(共感・承認)」って言ってもらえること。
評価⇔「面白いね」

紙飛行機はまっすぐ飛ばない

「テーマ」ではなく「問い」
肌感覚的な何か、感じる何かによって磨かれる
手触り感がある経験⇒「問いで研いで磨く」
磨くには接点が必要

「志望理由指導」⇒「主体的探究支援」
大学や社会は受験勉強ができる生徒を求めているのだろうか?
自ら問いを立て、主体的に学べる生徒、仮説検証プロセスを
体得している生徒を待っているのでは?

1 教材が提示した問題を生徒が考える
2 先生が提示した問いを生徒が考える
3 生徒が立てた問いを生徒同士で考える
4 生徒が立てた問いを生徒本人が考える

1・2は生徒は客体で3・4は生徒が主体
現状では3・4の時間はほとんどない。
⇒問いを立てると主体となる。

見通しがないことが大切。
先生もわからない、「指導」できない。
誰も踏んでいない雪道を歩く。
不安、だが、ワクワク、
失敗したらそれを次へ転がす

1 見通しがない
2 ワクワク。常識を覆す
3 生徒の中から生まれている
4 フィールドで検証できる
5 「気づき⇒発見」発展性

~~~

とまあ、そういう感じ。
探究学習とか、地域を題材に、とかって、地域ファーストになりがちだけど、
探究の本来は、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」に出会うこと。

地域サイドからしたら、地域のことをもっと知ってほしい。
ってなるんだろうけど、
それって、生徒のためなのか?って。

1月にコミュニティスクール立ち上げ準備をしたとき思ったこと。
「地域の良さを伝えていないから子どもたちは出て行ってしまう」は本当か?(20.1.21)
http://hero.niiblo.jp/e490223.html

まさに僕たちの「問い」の設定がそれでいいのかっていうこと。

「地元に残って(戻って)もらうにはどうするか?」
っていう問いじゃなくて、
「どんな生徒(若者)に地元に残って(戻ってきて)もらいたいか?」
って問いが必要なのではないか?

そして印象に残ったのは、鉱脈を掘り当てるっていう表現。
対話を通して、内発的な動機を探すことで生徒がオーナーシップを持つようになる。

三田愛さんが「種火」と表現していたもの。
ツルハシが掘るもの(17.10.15)
http://hero.niiblo.jp/e486023.html

ああ、そうか。
種火っていうのは、生徒の中にあるんだって。

かつて、ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)は言った。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

ああ。
火を灯すための種火は、生徒の中にあるんだって。
支援者の役割は、その種火に、枯れ草を添えて、団扇で軽く仰いでやるだけなんだって。

そして問いを磨いていくこと。
リアルな、手触り感のある肌感覚で味わえるものに触れて、磨いていくこと。
その問いは研げば研ぐほど、鋭くなって、やがて、北極星になる。
北極星があれば、もう、そこへと進んでいけばいい。

そんな探究的学びができるまち、できる高校を実現したい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学び日記

2020年07月28日

「学び」の逆シフト

移住情報サービス「SMOUT」の「SMOUT移住研究所」で阿賀黎明高校魅力化プロジェクトが紹介されています。
https://lab.smout.jp/primapinguino

この記事のメイキング映像がこちら。(6月ロケ)





取材は終始和やかな雰囲気。
清川高原も映してもらいたかったので、連れまわした結果、
ジェラート「Referi」と「桝や酒店」にしかいけず。
素敵な記事に仕上がってよかったです。

1か月ほど前の取材なので、もっと言いたいことが出てきましたので、
こちらで発信しようと思います。

これからの学びに大切なのは、「資源」と「課題」と「関係性」
ってコメントしているけど、その話には続きがあって、

そして、「場」が重要だっていうこと。
「学び」は「場」がつくる、「場」によって生み出されるっていうこと。

それは、付箋を使ったワークショップであり、
支えてくれる地域の自然や社会資源、人たちだったりするのだけど。

「学び」はいつから苦役になってしまったのだろう?

「追いつけ、追い越せ」など、目指す目標や夢を失ったときからか?
いま、学ぶことが「将来」を保証しなくなったときからか?

ここで。
明治時代に起こった「学び」の変化について考えてみたい。
藩校、寺子屋、私塾、かつて様々な学びの形があった。

それが明治以降に「学校」へと統一され、150年が過ぎた。
「学校」へのシフトとはなんだったのか?を学ぶ側からの視点で考えてみる。

1 「発見」から「達成」へのシフト
学びの喜びを「発見」から「達成」へとシフトさせた。

2 「承認」から「評価」へのシフト
承認欲求を他者からの評価欲求へとズラした。

3 「場」から「個人」「自分」へのシフト
学びが「科学」となり、量的に測られるようになった。

これら3つのシフトは、
「近代工業社会」の要請によって、「科学的」であり、「量的に計測可能」であることが大切だった。
その、前提が何十年も前に崩れているのだ。

「地方創生」が叫ばれ、都市から地方へ人の逆流が起こっている。
計画された「工業社会」ではなく、日進月歩する技術の中で、
「イノベーション」を起こせる人材が求められている。

いや。
そうじゃない。
「人材」という価値観が違うのかもしれないのだ。

イノベーションを起こすのは個人のチカラではなく、
場のチカラであり、それを支える想いのチカラだ。

そして、その原動力は、「好奇心」。
この先に何があるのだろう?というスピリットだ。

エンターテイメントの本質は、「予測不可能性」にあるという仮説を
僕は3年前に「つながるカレー」の加藤文俊さんのトークをヒントに得た。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
(「予測できない」というモチベーション・デザイン 17.5.19)
もちろんそれは、「安定性」「安心感」とトレードオフなのだけど。

上田信行さんが、キャロル・ドゥエック博士の研究を説明し、
小中学校に通っていると、
「成長的知能観」(やればできるかもしれない)から
「固定的知能観」(自分の才能は生まれつき決まっている)へのシフトが起こるのだと説いた。
http://hero.niiblo.jp/e459844.html
(「自信がない」は後天的に獲得した資質である 14.12.29)

学校に通っているといつのまにか、学びは苦役となる。
学べば学ぶほど、「自分はアタマ悪いんじゃないか?」って思うようになる。

なんだそれって。
学びが人を幸せにしないシステムってなんなんだって。

「学び」の逆シフトを起こさなければならない。
いや、もう起こっているはずだ。

「個人」から「場」へ。
「評価」から「承認」へ。
「達成」から「発見」へ。

それを始めるのが「場」の構築であると思う。
「場」で学ぶとは、「学び合い」を「見つけ合い」にするということ。

心に浮かぶ言語化以前の不完全なキーワード、
もしくは、「印象に残ったこと」というあいまいなものを
「場」に出し合うこと。

それを「その人はなぜ、そんなことを思ったのだろう?」
と「場」で考えること。

そして、見つけること、発見すること。
そこに喜びを見出すこと。

思ったことをいうこと。言える場があること。
「個人」を「場」に溶かしていくこと。

それが「対話の場」だったり、「ワークショップ」だったり、「プロジェクト」だったり、町を舞台にした「探究学習」だったりする。
この町にはそれを起こせる「場」がある。「場」の構成物、構成者たちがいる。

人口1万人の小さくて広い阿賀町には、流行りの言葉で言えば、「手触り感のある」「高解像度」な「資源」と「課題」と「関係性」が詰まっている。

それらを「場」が希望に変えていく。そんな学びの未来を見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び日記

2020年07月26日

開かれ続けているということ

新潟県立阿賀黎明高等学校×阿賀町
阿賀町教育留学制度のパンフレットができました。
関係者のみなさま、たいへんお世話になりました。









ウェブはこちらから。
https://reimei-gakusya.localinfo.jp/pages/1427137/page_201711151839

昨日は「地域みらい留学フェスタ」(オンライン開催)の初日でした。
「地域みらい留学」
https://c-mirai.jp/
「新潟県立阿賀黎明高等学校」
https://c-mirai.jp/school/agareimei/

ZOOMウェビナーでの合同説明会と、ZOOMj会議を使った個別説明会。
黎明学舎スタッフの及川さんが慣れていて心強い。
校長先生が最後にいい言葉で締めてくれたり、
教育長が随所に登場してくれたりするので、
「オール阿賀町」感が出ているような気がする。

さて。
今日の1冊。


「14歳の教室~どう読み、どう生きるか」(若松英輔 NHK出版)

筑波大学付属中学校で行われた7回の授業をもとにまとめられた1冊。
新津・英進堂にありましたので思わず購入。

いきなり。
「動的に考える」から始まります。

鴨長明「方丈記」の冒頭の一節。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。」

河の流れは止まることなく、動いていて、いつも異なる水が流れている。同じ水などというものはない、というのです。

そうだなあと。
まさに人生というか、学びってそういうことなのではないかと。
川のまち阿賀町での学びも、そんな精神でいきたいですね。

この本で!!と思ったのは、
「第6章 対話するⅠ」のところ。

友と問いについて。

~~~ここから引用

たしかに、友とは、広い意味で人生の問いを共有している人かもしれません。そうした人とは対話が深まるのは当然です。

古人は歌には歌で返していました。返歌という文化がありました。そこには、目に見えない、耳にも聞こえない「対話」が成立していたのです。

私たちは歴史という豊かさな資産がある。歴史のなかに自分の対話の相手を見つけていかなければいけない場合がある。別な言い方をすれば、自分はひとりだと思う前に、皆さんは歴史の中に友を探すことができるのです。

「対話」とは、他者に向かって自分を開こうとする営みです。ジブンだけで問題を解決しようとする、そうした場所から離れることでもある。自分の問題を自分だけで解決しようとするとき、私たちは自分の可能性をどんんどん小さくしているかもしれないのです。

そして、他者に、世界に、あるいは歴史に向かって開かれていくということと、自己において深まっていくことが同時に起こり得る。むしろ、開かれていないとき、深まりもまた限定的だと言えると思います。

気を付けないと、私たちは、自分を深めていこうと思うときに、だんだん自分の世界に閉じこもってしまう。

プラトンが重んじた対話の「場」とは、目に見える空間ではありますが、目に見えない地平のようなものであることが分かります。「場」は目の前にもありますが、「眼」で「観る」世界、リルケのいう「内界」にも広がっています。だからこそ、「内なる対話」という言葉が生まれてきたのだと思います。

~~~ここまで引用

冒頭のパンフレットにあるように、
温泉と森のシェアレジデンスの意味とは、
地域に「開かれている」場であるということ。

別棟にある日帰り温泉には、
暮らしの一部として、そこに通うお年寄りを含め、地域の人たちがいます。

そこで「対話」するまでの関係性になるのはハードルが高いけれど、
人生の問いを共有できるような誰かに出会えるといいなあと思います。

一方でひとりひとりはその人なりの探究を深く掘っていくこと。
「対話」と「探究」を繰り返し、その人なりの「道」が見えてくる、

阿賀町の教育留学とは、そういうことなのかもしれません。

歴史や地域に開かれている「場」、開かれ続けている「自分」
そこで対話を繰り返し、「わたしたち」と「わたし」を行き来することが
できる場所。

そんな学びの空間を一緒につくっていきたいと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び

2020年07月24日

「結節点」としての私と「わたしたち」


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」(渡辺保史)

読み終わりました。
2年以上の時が過ぎ、今こそ、読むべき時が来ました。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)から、
時代の10年先を行っていた渡辺さん。

「社会の時代」から「情報の時代」への変化の中で、
渡辺さんの先見の明がすごいなと。
約10年前にこんな世界を予感していたなんて。

本書は非売品なので、読むことができる人は少ないかもしれませんが。
ここにメモを。

~~~ここからメモ 1 経験デザインとインターフェイスについて

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。

経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。

「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

~~~ここからメモ2 学びについて

大切なキーワードは「学び」で、一部の専門家から、「残り多く」の人へ知識が受渡されるのではなく、ある時空間を共有しながら、実践を通して、互いが学び合うこと。そんな実践コミュニティ。

地域社会の未来を構築する力の源泉として「学び」を捉えること。

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。

三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

ノード(結節点)としての大学。

~~~ここからメモ3 コワーキングについて

コワーキングは、都市内の空きストックの単なる有効活用(場所貸し)でも、社会的に立場の弱いフリーランサーのためのアジール(避難場所)でもない。

これまで、仕事は組織の「所有物」と見なされ、ひとは組織から仕事を与えられて働いてきた。

戦後の高度経済成長期、ひとは組織の成長や目的とおのれを重ね合わせ、一心不乱に働くことで自身の豊かさを充足できると信じていた。

組織と個人のベクトルの同一化は、高度成長が終わってしばらくの間も、あたかも慣性の法則が作用しているごとく、ある程度は続いていたが、それもバブル経済のつかの間の繁栄がしぼむとともになし崩し的に消えていった。

「仕事」全体の再発明を余儀なくされているのかもしれない。

コンピュータとインターネットさえあれば「どこでも仕事ができる」と一般には思われがちだが、実際には「どこでも仕事ができ」てしまうからこそ、逆に「どこで、誰と、どんな風に働くのか?」にきわめて意識的にならざるを得ない。

そうした人々が、創造的な環境を実現する条件として強く希求するのが、居心地のよいコミュニティであるというのは非常に示唆的なことではないだろうか。

創造的な人材を引きつけるためには、企業でなくコミュニティの品質と活力が大切である。創造的会社の従業員は独立した起業家であり、どこで生活するかを自由に決める人種である。(「市民起業家」エドワード・マクラッケン 1997)

地域において最も必要なインキュベーターとは、「高速回線付きの安い貸しオフィス」などではなく、多様な人々が集う結節点的な場だと唱えた。もちろん、物理的な空間やインフラが不要だというわけじゃない。

それよりも大事なのは、ビジネスやまちづくりや文化活動を盛り上げる「地域全体のインキュベーター」なのではないか?

~~~ここまで本書より引用メモ

「経験デザイン」「学び」「コワーキング」と非常に示唆に富んだ文だが、

キーワードは「インターフェイス」と「結節点」だと思った。

もともと僕が渡辺さんに実際にお会いしたのは、
2003年の「はこだてスローマップ」のワークショップだった。

その時のことも本書に書いてあるが、「地図」というのはそもそも「インターフェイス」だと

地図というインターフェイス。インターフェイス「二つのものの間ににある接点、境界」
1 フィジカル(物理的に存在する)空間とデジタル情報空間
2 知識から経験へ
3 マップ作りを通して人と人を結びつける

このインターフェイスという考え方と
当時から聞いていたノード(結節点)というキーワードが
今になって立体的に見えてきた。

第10章 まちなかで模索する新しい働き方 より抜粋する

~~~ここから引用

どこでも仕事ができるようになったからこそ、逆に、どこで、どんな風に(そして誰と)働くのかに意識的にならざるを得ない。そこで強く希求されるようになったのがコミュニティだったのではないか。コワーキングの中心層であるフリーランスやスタートアップの起業家、あるいは社会起業家たちは、まぎれもなくコミュニティを必要とする人々である。

たとえば、フリーランスの生命線は、いかに多様な人々や組織とのつながりがあるか、いわゆる「ソーシャルキャピタル」を持っているか。あるいはある種の「生態系」の中で活動する自分を意識できるかどうかに尽きる。

とはいえ、それは単に人脈(コネ)があるとか、顔が利くという皮相なレベルではない。かつて名著「マインド・ネットワーク‐独創力から協創力の時代へ」(マイケル・シュレーグ 1992)で言及されたコラボレーション(協調・共創)の条件をクリアしていくこと。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。
「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、
ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、
そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライン劇場ツルハシブックスで宮本明里が言っていた。
「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。
その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

そして、上の引用に書いてあるが、
メディアで起こっている3Cの変化は、これから、「学び」の世界で急速に起こることなのだろう。

▼▼▼ふたたび引用

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

▲▲▲ふたたびここまで引用

いままさに、これが起ころうとしている。
少なくとも、新潟県東蒲原郡阿賀町では起こりつつある。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、
ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、
高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、
一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、
僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び思い

2020年07月21日

「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ

渡辺保史さん。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)の著者。
渡辺さんの活動を知って、「はこだてスローマップ」の
活動に参加し、会いに行ったのが2003年。


若いです。(2003.3.29)

その後、10年の時を経て、新潟青陵大学が中心となった「にいがた未来考房」
立ち上げの時に講師でお呼びして伺ったのが自分ごとのデザイン。


スーツきてる。(2013.3.27)

このわずか3か月後の6月に急逝。
言葉を失いました。

その後、当時書いていた原稿を出版するプロジェクトが立ち上がり、
2018年3月にクラウドファンディングにより自費出版されたのがこちらの本。


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」

いまこそ、読むときが来たと。

土日、2つの教育系ウェブセミナーと
オンライン劇場「ツルハシブックス」を開催。

土曜日は
「最上マイプロジェクト推進運営委員会オンライン勉強会 #学びの土壌づくり」

日曜日は
「スカイロケットプロジェクト主催の21世紀を生きる子供への大人のかかわり方⑥」でした。

~~~こちらはメモ

18日

高校生の探究と大人の探究が重なり合う部分にプロジェクトをつくっていけるかどうか。

対話:認識のズレを顕在化させるコミュニケーションのこと⇒違うことを楽しむこと。

「学び合えば希望は生まれる」
     ↑
「フラットなコミュニケーションが必要」
     ↑
「心をひらくためのデザイン、ツール」

「ワクワク」は伝染する。
その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。

個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場。

19日

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。

「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

リフレクションと対話とメタ認知

主語を私たちにシフトしていくこと。
「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

オンラインによる「個別最適化」は学ぶ意欲のある子にとっては理想的なのかもしれないが、そうではない子にとっては、生活習慣さえ乱れてしまう。

先生や公務員こそ、「コミュニティ副業」をする時代だ。

小中学校時代にうまく学校についていけずに、高校で学び始めた子どもたちが「本当は勉強したかった」というのだと。
8割の子どもは、自己肯定感を下げるためだけに学校に行っているのではないか?

「履修主義」から「習得(修得)主義」へのリスク。プロセスにおける雑談や関係性は配慮されなくなる。

学校を社会に開く合理性を市民側が説明しているか?
市民側のリテラシーの低さ。
先生が何に苦しんでいる状況なのかを理解してから提案すること。

年齢の違う人と、テーマで話すこと。
評価・判断を保留して聞くこと。
年齢の壁はオンラインのほうが越えられるかもしれない。

発達の最近接領域
https://learn-tern.com/proximal-development/

たぶんこれと、場のチカラによる「学び合い」から「見つけ合い」へのシフト。「私たちとして探究的に学ぶ」これが自己肯定感問題を含むアイデンティティ・クライシスと探究学習を同時にクリアしていく方法かもな。

新型コロナウイルスで失われたものは学校での授業と言うよりもむしろ「登下校」や「放課後社会」といった無数の余白時間なのだろう。そしてむしろ余白のほうが本質的に重要だったものなのかもしれない。

~~~ここまでメモ

そしてもうひとつオンライン劇場の宮本さんとの対話やそのあとの「やりたいことが分からないの社会学」、
「責任」について、も。

~~~ここからメモ

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。
そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。
その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。
好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。
ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。
それでようやく「自分」がわかる。

SDGsから出発したプロジェクトが僕の心を打たないのは、「手触り感」からスタートしていないからか。

自分に自信がない、つまり自己肯定感の低い人は、客観的に自分を見てしまうから、ついつい場において役割を果たせていないのではないか、と感じてしまう。

それって「責任感が強い」ってことじゃないですかね。オーダーされたものに真剣に応えるデザイナーのような。

これまで「自分に自信がない」とか「他者からの評価を気にしてしまう」とかって聞くと、評価という呪縛から早く逃れたほうがいいと思っていたけど、昨日のツルハシでの対話を経て、そういう人のことが好きになったというより、僕のようなクレイジー・ポジティブの人の周りには必要な存在だと分かった。平尾さんのいう「相補的関係」

同時に、その人たちが「安心」できるために、「チューニング・ファシリテーション」が必要なのだなあと思った。
冒頭で「最近あったよかったこと」を聞いて、終わりに「印象に残ったこと」を聞く。そして「発見」し合う場づくり。

最後の時間は「責任」について。哲学対話みたいになってた。これ、オンラインのほうがうまくいく気がする。今まで照れ臭くって「対話」ってタイトルのイベントには足が向かなかったのだけど。オンラインならできるね。クルミドコーヒー影山さんが言ってた「自己開示が強要されない」場づくり。

~~~ここまでメモ

っていう感じ。

昨日は校長先生と教育長と阿賀黎明探究パートナーズの会長である麒麟山齋藤社長との会談で、
プロジェクト学習について話し合っていたけど、

~~~思ったことメモ

「進学クラス」と「就職・専門学校クラス」っていう区分けがもう意味を為さないような気がした。
一緒にプロジェクトやってみたいな、と思えるヤツを育て、それをベースに「もっと研究したい」と思う人が大学に行けばいい。

マイプロジェクト
    ↑
プロジェクト型学習
    ↑
ワークショップ手法
    ↑
対話のデザイン、オープンマインド
    ↑
安心・安全の土壌づくり

マイプロジェクトの先に大学での「研究」と専門学校での「専門スキル」と企業での「就職」というプロジェクトがある。

地域の○○を学ぶ、っていうだけではほとんど意味がなく、地域の○○を活かして何かプロジェクトとして実践するところまで行かないといけない。
地域の特産物を育てて「販売」というのは一番思いつきやすい実践例だと思うが、プロジェクトはそれだけではないはずだ。

仕事や人生を主体的対話的に歩んでいけるような人に高校卒業時になっていること。
言い換えれば、人生の経営者になっていること。
会社では一介のサラリーマンであるかもしれないが、自らの人生の経営者であること。
そうしないと地域に貢献したりしないよね。それがシチズンシップ教育なのでは

~~~ここまでメモ

「わたしたち」として「見つけ合う」から始まる学び。
ワークショップ、プロジェクト学習、マイプロジェクトとつながっていく学びの前提。

そこに対話のデザイン、オープンマインドが必要で、
その前提として安心・安全の土壌づくりがあるのだろうと思う。

その「わたしたち」の範囲、フレームをどこまでにするか?
そこに心地よい責任感のヒントもあるなあと。

いろいろ繋がってきています。
渡辺先生、この本でまた学ばせてもらいます。
そして、先へ送ります。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)学びイベント

2020年07月18日

おじさんという60°のナナメの関係


「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

いいっすね。
どこまでもドライ。

正義とは何か?
とか
愛とは何か?

って考えている人にめちゃめちゃおすすめ。

「愛には、4つの形があります。」
みたいな。

わーー。こんな授業聞きたいわ。
って。

まあ、今日はそういうわけで、
「おじさん」について。
愛(=身近な関係)には4つあるという話。

・横の相補型:恋人、夫婦など
・縦の相補型:親子、師弟など
・横の共同型:友達、コミュニティなど
・縦の共同型:部活、上司と部下など

って。
これはわかりやすい。

相補型では、相手もっている自分と違うものを大切にすること
協働型では、相手と共通するものを大切にすること
がポイントなのだと。

そうかもしれませんね。
あとこれは、コミュニティ論としても面白いなと。

コミュニティが育つ、長続きする、生み出し続けるためには、
共同性と相補性の双方が必要なのだと。

そしてもうひとつ。
P214のコラムにかかえれている「ぼくのおじさん」

ここでいう「おじさん」は、両親と違うことを許容してくれるテキトーな存在、
つまり「ナナメの関係」として書かれています。

わー。
これ、ツルハシブックスの僕じゃん。
やっぱおれ、おじさんだったんだ、ってちょっぴり凹みましたけど。(笑)
「ナナメの関係」っていう視点から見ると、まさにそうだったんだなと。

「ナナメの関係」っていうのはNPOカタリバがのコンセプトなのだけど、
高校生にとっての大学生という意味合いで表現されているのだけど。

「おじさん」っていうナナメの関係もありなのかもしれないと。
ちょっと角度が大きくなりますけどね。
(大学生30°⇒おじさん60°くらい)

それって、地域コミュニティが、というより、
地域の大人ひとりひとりがなっていけるんじゃないかと。

そんな「おじさん」と中学生高校生の接点をつくっていくこと。

「学びの土壌」の構成要素としての「おじさん」の存在を
あらためて考えなおしてみることにする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学び

2020年07月15日

多数派でないことは、「逃げ」なのか?


「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

読み始めました。
「道徳」とか大嫌いだったんですけど、倫理学、ね。
みたいな。

「哲学」無しでは生きられない時代(社会)になったと思っていたのだけど
この前の「はみ出し者の系譜」のところで、
ステージが進むと、前のステージを内包しなければならない
っていうのも、たぶんそういうことで。

ソクラテスの時代から「よく生きる」とは何だろうか?
という問いは始まっていたのだけど、
都市化という「効率的な社会」をつくる方法が追求され続けた結果、
人は、「倫理」や「哲学」がなくても、掟とかルール(法律)に従って
生きていくことで、共同体のメンバーとなれた。

ところが。
国家や地域、会社と言った共同体や社会システムそのものが揺らいでいる今。
「情報の時代」へと突入している今。
自らの内側に「倫理」や「哲学」を内包する必要があるのではないかということで手に取った1冊。

この本の価値は、簡潔に示している(と僕が思っている)箇所から抜粋引用します。

~~~ここから引用(P58~)

倫理学の仕事パート・ワンは、倫理や道徳の整理でした。倫理や道徳は、必要なものもあるけど、中には個人が経験したことから導き出したもの(つまり人生論)や、単なる思い込み(偏見)、理由はわからないけど伝統的に受け継がれてきただけの因習(つまり、昔からの、よく分からない言い伝え)とかもあります。倫理学はまずそうしたものを整理します。つまり、「道徳とされているもの」が全部大事だとは限らないので、それらの中で本当に必要なものと、必要じゃないものに分けるのです。

必要だというのなら、なぜ必要なのか、その理由を説明する。それが倫理学の仕事パート・ツーなのです。

ほんとは必要じゃない、理由もよく分からないのに「道徳」っていう顔をしているものがあったら、これは押し付けにすぎません。倫理学の仕事は、こうした押し付けを取り除くことなのです。

倫理や道徳は「こうしなさい」とか「してはならない」という形をとります。つまり人を縛るようなものだから、出来れば少ない方がいいわけです。要するに、倫理学は道徳や倫理を整理して、必要なものに絞る。そうして倫理学は我々を自由にする。

そして、もし必要な倫理があるんだったら、倫理学は「そうしなければならないこと」「そうした方がよいこと」の理由を考えます。理由があって、必要なものなら、自分でも納得して従うことができる。そうなれば「従う」というより、自分の意志で「そうしよう!」と思えます。この意味でも倫理学は、我々を自由にする。

こうして倫理学は、二重の意味で我々を自由にするわけです。

~~~~ここまで引用

自由になるために、「倫理学」が必要って、その通りだなあと思った。
大学生や新社会人が就活や働くことへの違和感やもやもやを聞いていると、

まさにこの倫理・道徳の整理とその理由の説明が自分なりにできるのかどうか、がポイントになってくるのだと思う。
あとは社会やシステムを俯瞰して見れるかどうか。

昨日、取材型インターン「ひきだし」説明会で気づいたこと。

いわゆる「ジョブ・ローテーション」の話。いろんな仕事をやってみて(やらせてみて)、その人にあった仕事を見つける(適性)。(市役所などの場合は、癒着や汚職の防止っていう意味合いもあるのだろうけど。)

これって、一見win-winな関係に見える。適性ある仕事ができるなんて、双方にとって、ハッピーだよね、みたいな。

しかし、そこには「人間関係」は考慮されていない。(考慮されている会社もあるかもしれないけど。)

「適性」ってそもそも、会社側の論理なんだと。

「自己分析」して、「自分に向いている仕事」を判別して、御社にとって私は有用です、とアプローチする就活。

「創造を生むフラットなコミュニケーション」はそういう就活には存在しない。「使えるヤツ」「使えないヤツ」を企業側が判断するだけだ。

そこには環境(人間関係含む)によって、人のパフォーマンスは変わらない、という人間観があるような気がする。

そのコミュニケーションの時間ってもったいないな、と思ったのが取材型インターン「ひきだし」の出発点だった。

今回、完全オンラインでの開催となって、「フラットな対話空間」はより実現できそうだけど。

オンラインという「場」に会社側も学生側も何かを持ち寄って、その「場」に差し出す、みたいな場が作れないだろうか。その先にオンラインでしかたどり着けない「場」があるのではないか。それが今回見てみたいもの。

2006年から大学生と関わるようになり、「就活」というシステムそのものに違和感を抱き、立ち止まる大学生に何人も出会った。

そのシステムに適応できる人はすればいいと思うし、どちらが正しいか、という問題ではない。

ただ、現実に違和感を感じる自分がいるとしたら。その違和感を言葉にしていくこと。

周りの大学生や、大人たちが示す「常識」というかみんながやっていることにいまいち乗れないこと。そこから出発していくこと。そこには、もしかしたら倫理学的なアプローチが必要なのかもしれない。

多数派ではないことをしていると、それって「逃げ」じゃないのか?みたいな謎の恐怖が襲ってくる。その「逃げ」という言葉の大半を占めるのは「同調圧力」だと思う。

倫理や道徳、常識を整理し、その理由を考えること。「就活」とは、そんなアプローチをするいい機会や題材なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)学び

2020年07月14日

「まなび」の「よはく」



パンフレット用写真撮影の日。
7月に入ってからずっと雨&くもりだったのが、奇跡的な晴れに。

「神は細部に宿る」ってこういうことか!と感じた1日でした。
15歳になりきって、その世界の中を躍動していきながらの写真撮影。
写真のディレクションってそういうことか、と。

その前の日の夜に少し聞かせてもらった
Ciftの説明会の話が面白くて。

「拡張家族における親と子。自己変容型リーダーシップ」~Cift2周年祭で僕が語ったこと
https://cift.co/life/1659

補完としてこちら。
「なぜ“家族”になるために「人事」があるのか」
https://cift.co/work/802

~~~ここから上記ページよりメモ

仲間:ともに働く
家族:ともに暮らす

世界⇒私たち(Cift)⇒私
世界平和への拡張家族への自己変容

「拡張j家族」:「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡されながら、深化と成長を生む生命体

ひとつ(関係性):あなたもわたし、弱さでつながる、共に暮らす、助け合う組織、共依存関係、今が大事、居場所、愛
ひとり(主体性):あなたとわたし、強さでつながる、共に働く、育みあう組織、共自立関係、未来が大事、出番、力

「自己変容」:自分に全体性を取り戻し、次元をシフトする。

「自己変容」⇒「自己変容型リーダーシップ」へ。

「自己変容」:内に解き(対個人)、Be(内的姿勢)、さらけ出す、自責する、アンラーンする、人の成長を信じる、習慣化する
+(型)「リーダーシップ」:外に結ぶ(対全体)、Do(外的行動)、方針を示す、率先する、つなげる、やる気を上げる、役割分担する

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

依存的全体:属する共同体に依存している状態。大いなる母親に包まれている状態。

このフェーズで必要なのは居心地の良い共同体から自らの離脱を通して自立することである。全体から分離することで、自分自身の存在に向き合い、力を身につけ、自信を持つということが重要だ。その自立が新たな共同体に入ることだと今度はそれに依存してしまうのでCiftに入るタイミングではないと考える。まずは自らの足で立てる力をつけようと伝えることにしている。

主体的個別:共同体から離脱し、自らの足で歩きはじめ、自己実現を目指そうとしている状態。

この状態は力を得るためにとても必要な時期であると同時に、Ciftではこの力はあくまで手段であって、目的である愛の主体的全体へと意識を向けるかどうかがポイントになる。主体的個別を目指して邁進している人については、それを応援しながら、Ciftという場所はその自己実現を一部解いて全体実現に加担する行為なので今は適切ではないと伝えるようにしている。

主体的全体:自己実現において限界感や喪失感を感じた上で、自我を超えたものにコミットしようとする状態。

力を得る主体的個別フェーズを通った人たちがそれを手段として、愛という目的に意識が向き始めたらCiftに入る立ち位置になったと言える。ここでポイントなのは主体的全体がすでに体現できている態度の状態ではなく、そう在りたいと思う意識の状態を確認していることだ。なぜなら僕も含めてここができている人は少ないし、むしろそこを共進化するための場所がCiftだからだ。その時に大事なのは自らの意志で入った環境が自ずと人を変容させていくことだ。このとき、主体的全体への意志がなければ、どんな環境があっても発酵しないし、むしろその人の人生にとって腐敗してしまうので、ここの音合わせはとても大事と言える。

~~~ここまでメモ

刺さる言葉がたくさんあって、タイムリーだなあと。

7月10日のブログ「はみ出しものの系譜」
http://hero.niiblo.jp/e490859.html

にもつながっていく話で面白いなと。
僕としてのキーワードは「自分たち」「わたしたち」なのだけど。
それを「ひとり」と「ひとつ」という言葉で表していたのがすごい。

そして、未来を占うのはこちら。
「オフグリッド化するコミュニティ 渋谷Ciftが提唱する“拡張家族“とは?」
https://nextwisdom.org/article/2291/

~~~ここから上記ページより引用

全体の一部である構成員でありながら、自立した人間であるという状態の矛盾した関係を解決するのが新しいコミュニティのキーになると思っています。

人類の歴史を考えると、17世紀前後の科学革命の前は人間ではなく自然が中心の社会で、人は生まれてから死ぬまで全体に依存しなければ生きていけなかった。その中で全体としての秩序があった。そこから、個人というものが台頭してきて、現代はかなりの個人化の時代にも思えますが、この先もっと個人化、個別化が進んでいくのだと思います。人間の心と体が分離するとかも十分起こりえると思います。

でも、もともと人類というのはコミュニティから始まっているんですよね。生まれた瞬間は誰もひとりでは生きられない。家族というコミュニティに守られていて、生活を安定させるために家族が集まって村を作り農耕社会になっていった。現代の社会では、高校を卒業する頃には、家族から離れて村から飛び出して、ひとりで生きていくこともできます。だけど、そっちにも限界がある。

全体の一部として生きていくということは、個性は無いけど協調性はあるという状態。言い換えると、愛はあるけど力は無いということになります。

近代以降の私たちは外側に力を求めがちです。内省することや、空を見上げることもあまりせずに。それは、外にしか目が向いていないからです。力はすごくあるんだけど、その力がすべて外に向かっているから、自分の傍にある愛を大切に生きていない。

本質的に平和って何か考えたとき、個が自立して多様で皆が好き勝手にやる世界なのか、それとも、皆が協調し合って一つとして愛し合う世界なのかっていうと、そのどちらでもない。要は、それを止揚させた世界でなくてはいけない。

~~~ここまで引用

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、
海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、
前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの
個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と
皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。
つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、
「主体的全体」なのだろうと。
僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」
「個人」と「共同体」
そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。

内田樹さんがよく言っている。
教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、
個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして
家電王国としての国を支えたりした。
いつのまにか教育は「お買い物」と化し、
最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。
だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。
「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、
Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。
その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。
「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」や
にいがたイナカレッジのプログラム、
そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。

その「よはく(余白)」は、
「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、
いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。
そして、その「よはく」に「場」ができていく。
それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、
高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、
まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、
ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:11Comments(0)学び日記

2020年07月12日

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値



昨日の地域みらい留学LIVEを30分だけ視聴。
聞きたかった若新雄純さんの話が聴け、シビれたのでメモしておきます。

~~~ここからメモ

わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないか。

イケてる田舎の学びは「非線形」
JK課=女子高生がまちづくりに関わるプログラム
インターン・PBLがつまらないのは、先に学ぶものを決めているから

イケてる田舎での学び:予定・用意されたものじゃない何かがある。
目標・計画もない学び。

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。
よくわからないものを楽しむこと。

都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。
田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」
「線形」の学び=これまで。

〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
・予測可能(指数関数的)
・予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続
ゴールがない、わからない、計測不可能

3年間そこにいると何が学べるか=不明確なのが価値
ぜんぶたまたまの結果にすぎない。

「こうあるべき」⇒「分からないけど、面白そうだ」(創造的脱力)

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。
プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。
「発見」は100%生まれる。

~~~ここまでメモ。

いやあ、ほんと、このタイミングで聞けてよかったなと。
田舎で、この町で学ぶ価値って、魅力ってなんだろう?って
「魅力を明確に言語化しない」っていうのはすごいなと。

たしかに、一言で言える観光地よりも、底が知れない場のほうがリピートするし。
ご当地名物料理よりも、地元民御用達の駅前中華料理屋さんのほうが行ってみたいし。

そして、「線形」と「非線形」の話。

これは、「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)
に書いてあった、メディアの変化にマッチしているな、と。

参考:本屋というメディアをつくる(17.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e486326.html

参考:メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e486304.html

ここで説明されている「コンテンツ」の3つの軸

ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

~~~

これって・・・
まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。

ストックとフローを組み合わせつつ、
「権威型」から「参加型」に寄りつつ、
ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

そしてWithコロナ時代を迎えて都市と地方の「情報格差」が決定的に小さくなった今。
だからこそ学びは転換点にあるのではないか。いや、もともと転換点にあったのだけど。

そしてもうひとつ紹介したいのが若新さんの著書「創造的脱力」

参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

~~~以下、書籍より引用

目的やゴール、到達点が明確で、勝ち負けや白黒をはっきりさせたいプロジェクトやチームには、それにふさわしいまとめ方やまとめ役というのが必要なのだと思います。正しく状況を判断し、的確に情報を収集、分析し、権限を使って指示や命令をおこないながら、ときには破壊的な攻めにでることも必要なのでしょう。

一方で、すすんでみなければゴールがわからず、偶然の出来事や変化を受け入れながら学んでいくような実験的な取り組みにおいては、成果や正解を焦って求めすぎない脱力感と、そのプロセスを楽しめる柔軟性が必要です。

でも、ただ力を抜いてやわらかくしているだけでは、「まとまり」ができずバラバラになってしまいます。脱力しながらもうまくまとめていくためには、その場にいる一人ひとりの欲や好奇心、その場から得られる体験や感動をみんなで共有し、ときにはぶつかり合いながらもお互いを必要とするような、人間関係にみちあふれた「関わり合い」が必要です。

僕はこれを「ゆるいコミュニケーション」と呼んでいます。「ゆるい」というのは、「いい加減」ということではありません。

きっちりとは固定されていないのに、つながっている。
強制されているわけではないのに、参加している。
必要に迫られているわけでもないのに、欲している。
細かいことは決まっていないのに、全体としては成り立っている。

一見もろそうに見えて、実は「かたいつながり」以上の「ネバネバ感」があり、「まとまり」があるのです。

さらに「ゆるい」だけあって、平均からのズレや偏りを排除してしまわず、むしろその差や違いを吸収できる余白や「ゆらぎ」をもっています。つまり、「ゆるいコミュニケーション」は、一人ひとりの異なる価値観やライフスタイルをお互いに認め合い、それぞれの個性的なパーソナリティを引き出し合うことができる「成長の機会」なのです。

~~~ここまで

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。
田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。
その先に非線形の学びがある。
その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、
スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。
「発見」を価値だと認識すること。
場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。
その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。
いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。
そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。  

Posted by ニシダタクジ at 10:25Comments(0)学びイベント

2020年07月10日

はみ出し者の系譜


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

はやくも2周目。今日は「はみ出し者の系譜」です。
言い換えれば、「コミュニティ難民」なのかもしれません。

参考:中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」(16.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e483286.html

ツルハシブックス閉店1か月後に書いた文。

「居場所」という場所は不要で、「劇場」をたくさんつくり、
「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。
これはもしかすると、オンライン劇場ツルハシブックスで目指しているものなのかもしれない。

リアル店舗の本屋「ツルハシブックス」とは僕なりの「参加型社会」への実験だったと言えるだろう。

本屋のような劇場をつくる。
気がついたら本屋という舞台の共演者になっている。

それは、もしかしたら、
「ヨコ軸」としての参加型社会だったのかもしれない、と。
そしてそれは「瞬間的に」発生することで、
心が開き、共同体感を感じられる場になったのかもしれない。

そして、唐澤さんたちの「ネオ・まきどき村」が志向している
「営みの中にあること」はタテ軸としての参加型社会なのかもしれない。

この本を読んで、
あらためて、自分という存在だったり、昨日のブログに書いた
「永遠に中間的なるもの」としての「自分たち」という存在を考えた。

~~~以下本書より一部引用とメモ

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。
アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。
そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、
その中でまた独自の掟や作法が生まれて、
それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。
「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

ここまで第6章の「よはとつ図形2020」より。

そっか。
「とどまる」を経験しないと、真の意味で「つながる」フェーズにはいけないんだなあと。
永遠に「よりそう」「はじける」「よりそう」「はじける」を繰り返してしまう。

もう、「よりそう」だけでは(全員は)生きていけないのだ。
コロナ過での公務員・大企業志向は、まさに「よりそう」への回帰なのだと思う。
一方で、「はじけろ」っていうだけなのも違う気がするのだよね、きっと。

このブログのタイトル「20代の宿題」っていうのは、もしかしたら、
「つながる」フェーズに行くために、
「よりそう」「はじける」「とどまる」の3フェーズを繰り返すこと、なのかもしれない。

そしてそこで圧倒的に重要で、しかも難しいのは「とどまる」だ。
意識しなければできないし、「とどまる」には孤独が必須だからだ。
そして「とどまる」の前には「はじける」がある。

同調圧力などの掟・ルールに耐えられず、コミュニティにいられなくなる。
そんな状況で「はじける」ことができるのか。

そこで、この本では歴史を壮大にふりかえる。
(この本のクライマックスなので、本を買おうと思っている人は読まないほうjがいいかも)

▼▼▼ここから一部引用・メモ

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。

海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。
海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。
生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。

私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。

私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。

「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。

その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。

▲▲▲ここまで引用・メモ

このあと本当のラスト「望郷としての海」に行くのだけど、それは本書をお読みください。

いやあ。書いていて、身震いがする。

新型コロナウイルスが強引にこじ開けたドア。
Withコロナ時代の先、向こう側。
なぜ、自分がこんなにも本を読まないといけない、と思ったのか。
「サピエンス全史」をこのタイミングで読みたかったのか。

僕たちは「はみ出し者の系譜」の中にいる。

歴史・営みというタテ軸と、共同体というヨコ軸。
自分はその真ん中に存在しているのだけど、
それを「自分たち」に拡張していくことだと思う。

そしてひとつひとつの「自分たち」には、
進んでいくベクトルがあり、それは1つ1つ異なる。

僕たちはいま、そんな世界へのドアの前に立っている両生類なんだ。

そして僕はきっと、そんな時代を見据えて、
新しい本屋に「かえるライブラリー」と名付けたんだなと。(本当か)

  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び

2020年07月09日

「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

予約していたものがようやく昨日届きました。

もう、すごいです。
「ヤバい」っていう言葉しか出ない。
そして、僕にとってのタイムリー。

「参加型社会」は橘川さんの半世紀のキーワード。
その本質をえぐるような言葉に、ドキドキしながら読みました。

昨日夜の「取材型インターンひきだし」での
大学生の不安を聞いていて出てきたのがやはり「近代的自我」、
つまり、やりたいことがわからない問題とアイデンティティ危機の問題。
そこともリンクしてきて面白かったのが第3章のメディアとは何か?

ここの部分を今日は紹介します。

~~~ここから本から一部引用

デカルトが定義づけた近代的自我は、まさに人間のソフトウェアに対する讃歌である。「我思う」という想像力の自由こそが、人間の持つ本来性であるとしたのである。

近代の方法論を簡単に言うと「コピペ」である。
近代とは「量」を神とする信仰であった。

本来、人間の意思(ソフトウェア)に応じて作られたのが道具(ハードウェア)である。それが、道具が道具を作り出すようになった。やがて「人間の意思」が「道具の進歩」に追いついていかなければならなくなった。

今、人間(ソフトウェア)が為すべきは、ただハードウェアに追随するのではなく、ソフトとハードの人類史をより大きな視点で俯瞰し、ソフトウェアの本質を再確認することではないか。

ソフトなきハードの暴走はいずれ停止する。その時代に向けて、人類もまた、幼児的なソフトウェア(近代的自我)の次元から、一回り成長した、大人のソフトウェア(情報的自我)へと脱皮する必要があるだろう。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。

融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

~~~ここまで引用

このあと第5章に、近代的自我の先にある情報的自我の説明がある。一部引用すると
「これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。」

これです。これ。
昨日の「取材型インターンひきだし」説明会でも話していた、
「魔法をかける編集」と「場のチカラ」の話ってまさにこの自我の話ではないかと。

アウトプットするのは個人やチームの力ではなく「場のチカラ」であり、

参考:人生は経営である。ただし個人戦ではない。
http://hero.niiblo.jp/e489703.html

「魔法をかける編集」というのは、
ひとりひとりの「今の自分しか紡ぎだせない編集」を
そのインタビューに表現していく、ということである。

アイデンティティ・危機を越えていくために、
自らを差し出して複数の「場」の構成員になり、その組み合わせを自分とすること、だと昨日話していたけど、
それって、橘川さんの言う、「情報的自我」のことなのではないかと。

「取材型インターンひきだし」は、就活という近代的「フレーム」が機能しなくなっている中で、
「永遠に中間なるもの」としての「私たちの時代」への道を切り拓いていっているのではないか、と。

そんなことを感じてワクワクした朝読書でした。

「ちょっと何言ってるかわからない」と思った方はごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)学び

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学びイベント