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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年09月20日

地域の「個性」の構成員になる





大正大学「地域実習~越後バージョン」
6週間にわたって、新潟県を縦断するプログラムの2日目。
柏崎市(旧高柳町)の荻ノ島集落。
かやぶきの里として知られる荻ノ島ではたくさんの取り組みが行われている。

代表の春日さんに話を伺う。
キーワードは「個性」。

以下、春日さんのトークのメモ

~~~ここから
金太郎飴のようなまちでは個性が無くなる
個性がなくなると自主性・主体性がなくなる。
地域づくりがマニュアル化して個性がなくなった。

「理屈・スローガン」ではなく、「共感」でつながる。
「共感」:意識しなくてもつながる、伝わる。

ポスターづくり:「来てください・お待ちしています」と言わない。
⇒地域のありようを伝える

自治組織と活動組織
守りの自治と攻めの自治

田植え:苗が活着してないと風景にならない。根を張ってこそ美しさ。
風景:村の人が暮らしている気持ちが表れたもの。⇒「誇り」こそ風景

経済社会と戦っていく道ではない。
→戦わないポジショニング。共感してくれる人たちとつながりを持とう。

収穫した米:横浜の社会福祉法人に売っている。
福祉法人がお米屋さんを持っている。

コシヒカリ7/こしいぶき3
⇒作業分散のため。
10,500円/30kgで売っている。
※コシヒカリとこしいぶきの価格は同じ
モノをつくる前に買ってくれる人を浮かべる。
=ピンホールマーケティング
収穫後、全量横浜の低温倉庫に保管し、社会福祉法人が管理する。

力があれば競争できる。
競争できないところはどうするか?

雪が降るということ:情報が減るということ。
⇒自分・自分に近い人と向き合える時間ができる。
人が生きていくには、インプットとアウトプットの時間が必要
アウトプット一辺倒はありえない。
自分の今のありようを確かめながらアウトプットしていく

あたたかみ:手間をかけること
⇒言葉のひとつひとつが感性に訴えている:共感する。

スローガンではなく、一緒に活動する。
橋本さん:京都府立大公共政策⇒イナカレッジ長期インターン⇒移住1年目
「人口減少」という課題に対して、地域がリアルにどういう対応をしていくのか。
地域移住して不安になる要素:お金、地域とうまくやっていけるか?など

「会社ではたらく」⇒「米、野菜を自分でつくって百姓的に生きる」ほうが安定しているのではないか?5つ以上の仕事をしている

集落単体で越えていけない:連携する。
他地域、福祉法人と連携すること。

「個性」がないと発信できないんじゃないか。
「誇り」と「アイデンティティ」
効率化⇒単純化⇒類友
田舎:複雑系⇒多様である。時間軸がたくさんある。

地域の個性の構成員であるということ。
「個性」=「能力」?
「価値観が変わってきてる」のではなく「価値が流動している」

便利=考えない⇒幸せにならない
ストックする幸せ=つながらない
「仮説にすぎない。検証してもらいたい」

東京に住み続ける:地方とのつながりが必要
関係性をもたないと生きていけない。

ムラの葬式:念仏を唱えることで呼吸を合わせた仕組み。

~~~ここまでメモ

共感。
個性。
アイデンティティ。
誇りの空洞化。
連携。

僕の中ではタイムリーなキーワードだった。
ひとつ、違和感があったのは、「個性」の話。

「地域は単体で生きていかなくてもいい」

そっか。
連携が「個性」を生むんだ。

横浜の社会福祉法人とコメの販売で連携している新潟の集落、荻ノ島。
それは「個性」だよね。

その「個性」は荻ノ島単体で成り立っているのではなくて、
横浜の社会福祉法人があって初めて「個性」になるんだ。

個人も同じなんじゃないか。
関係性の中で、「個性」やアイデンティティが生まれるんじゃないか。
地域の個性の構成員になる。

そこから始まるアイデンティティがあるのかもしれない。

だから、若者よ、地域に出よう。  

Posted by ニシダタクジ at 18:48Comments(0)学び

2018年09月20日

「正解がない」という普通



「口笛を吹きながら本を売る」(石橋毅史 晶文社)

神保町の「岩波ブックセンター」柴田信さんを書いた本。
サブタイトルは「柴田信、最終授業~本屋は「普通」であればいい」



元郵便局を使った素敵な建物、富山のひらすま書房で6月に購入。
(ココ、マジで素敵なので行ってください!)

3か月寝かせておいて、ようやく読めました。
まだ途中ですが、ビビっときたところを。

~~~以下引用

世の中の変化にどう合わせるか。そんな方法は、私にはなかった、ということです。というより、方法は定まらない。世の中がこう変化したから自分もこう変わろうなんて、決まったものはなかった。だからこそ、変化にどこまでも合わせていけるんだ、と思っているんだよね。その途中で、押したり引いたり、ずるかったり、妥協したり、いろいろしてるだろうけど、私はこう対応した、なんて話はない。

この歳になると、なにが正しいか、正解か、なんていうのは全然面白くないんだね。形の定まらないまま直感でいくというのが面白い。

そういう本屋は、その店なりの個別の条件を抱えながら、そこの店主にとっての普通を、身の丈でやってると思うんだよ。私のところも、そうです。

~~~ここまで引用

「普通」っていうのを考えさせられるし。
変わっていく自分と変わっていく社会、世の中
に対して、どうするか、という問いが詰まっている。

注目すべきは、
何が正しいか、正解か、なんていうのは「全然面白くない」
と書いてあるところ。

面白いとか、面白くないとか
そういう問題か?
と思うんだけど、そういう問題なんだよなって改めて思った。

昨日のつづきで言えば、

「変わっていく自分」を前提にすること。
変わりつつある自分の今を前提にして、価値を今この瞬間設定するということ。
「社会」や「世の中」は前提条件ではなく、要素(パラメータ)に過ぎない。

そういうことかなと思う。
それを積み重ねて、柴田さんのいう「普通」ができていく。

ああ、自然農に似ているな、と思った。

自然農と、宮澤賢治と、
長期インターンと、岡倉天心と、
本屋と、現代美術家と。

全部つながってんだな。

そんな気がした素敵な1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)

2018年09月19日

「変わっていく自分」を前提にする

「福島白河にもうひとつの拠点をつくる」合宿。


2泊3日の工程を終えました。
僕自身のお題は、このツアーの
参加者にとっての価値を確認すること。

ひとりひとりのリアルな発言に耳を傾け、
「価値」を確認すること。

参加者のひとりが帰りのバスの中でつぶやいた一言。

「私が地域に関わりたい理由。居場所をたくさんつくる。
変わっていく自分を受け入れるために、生き方のバリエーションを増やす。」

それだ、って思った。

「変わっていく自分」を前提にする。

だから、二拠点目が必要だし、
だから、青砥さんが冒頭に言っていた
「他者」と「余白」が重要なんだし、

17日のブログに書いた、
http://hero.niiblo.jp/e488110.html
(もうひとつの拠点をつくる18.9.17)

体験を通して、「価値」に気づく。
同世代との対話を通して、「大切にしたいもの」を感じるっていうことが
切実に重要なものとなってくる。

そう。
「価値」は常に流動しているからだ。

ひとりひとり価値は違うし、
かつその自分の価値さえも変化し続けているから。

「個人」っていう考え方は、
変化しないことを前提にしていないだろうか。

やりたいことは何か?
とか
あなたの将来の夢は?
っていう質問は、

「個人が一定期間、変わらないこと」を前提にしていないだろうか。

「変わっていく自分」を前提にする。

そのとき、
「やりたいこと」と
「やっておいたほうがいいこと」と
「やらなければいけないこと」
に差があるのだろうか。

17日のブログから、さらに参加者の発言を引用する。

「東京は類友だから、同じような人が集まっていて、
だんだん狭くなっていく。他者に出会えない。」
「好きなことを仕事にする、っていうことは、
そういう人ばかりの集まりになって、やっぱり閉じていく」

「変わっていく自分」。

いま好きなことは、明日好きでなくなっているかもしれない。
世の中が変化しているのだから、自分も変化し続ける。

そのために「他者」の存在が必要であり。

それには、
「やりたいこと」も
「やっておいてほうがよいこと」も
「やらなければいけないこと」も
同様に価値がある。

やることで、「価値」や「他者」に出会えるかもしれないからだ。

「変わっていく自分」を前提にする。

何度も書いているけど、
これってかなり大切なことなのかもしれないと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2018年09月17日

もうひとつの拠点をつくる

9月15日~17日で
「福島白河にもうひとつの拠点をつくる」合宿を
コーディネートしています。(あまりしていないけど)

東京・新潟・宮城から20代6名が集まって、
「移住」「二拠点居住」をテーマに
福島の地域を、見て、感じて、アウトプットします。

僕の肩書は、
「二拠点キャリアコーディネーター」です。
今回の合宿のためにつくりました。

まずは1日目。
ご当地の白河ラーメンを食べたあと、
白河駅近くのコミュニティカフェ「EMANON」で
青砥さんの取り組みを聞いて、
キーワード「他者」と「余白」、
「やらされる」から遠い場所をつくりたい。
を得る。

その後、聖ヶ岩キャンプ場へ行き、芋煮会。

1日目のハイライトは
参加者の一人が言ってた2つ。

「東京は類友だから、同じような人が集まっていて、
だんだん狭くなっていく。他者に出会えない。」

「好きなことを仕事にする、っていうことは、
そういう人ばかりの集まりになって、やっぱり閉じていく」

へ~。
そうなんだね。
「閉じていく」ことへの怖さみたいなものがあるんだな。
僕にもあるけども。

新潟で本屋をやっていて、
「ツルハシブックスの西田」になっていく怖さと
あとはSNSでおっさんのランチのラーメンの写真を見ながら
俺は死んでいくのか?
って思ったもんなあ。
「二拠点」とかってそういうことなのかもしれないですね。

そういう人に出会って、話をしていく中で、
気がついたことをメモできるって大事かもしれないな。

A6ノートとボールペンとか
参加者全員に渡すのはありかもしれませんね。

キャンプ場は圏外だからデジタルデトックスできるのも
強みだなあと思いました。



2日目は西郷村(にしごうむら)ツアー

朝8時から酪王カフェオレの元となる牛乳をつくっている
「雪割牧場」へ行き、酪農の現場を見る。
ここは、震災後に規模を拡大して、地元の雇用の場となっていた。
酪王カフェオレ(牛乳も)おいしいもんね。



その後、上野農場でジャガイモ掘り。

西郷村は、戦後、開拓された村。
満州からの引揚者を含む全国からこの地に移住する。
だから村の歴史はまだ70年。
「うちのオヤジたちが・・・」
とよく話していたけど、まだ2代目、3代目だ。

なぜ、ジャガイモが特産なのか。
風が強くて、なかなか作物が育たなかった。
だから防風林として松を植え、
その風下に杉を植えて建材とした。
そんな畑。

掘ったばかりのじゃがいもを
地元のお母さんたちが待機している集会所へ行き、
ゆでじゃがと、カレーを作って食べた。
その時に、子育てや地域のリアルな話が聞けた。

午後からは遊歩道を散策。
紅葉したらすごくきれいなんだろうなと思う
場所を地元のガイドさんたちと滝まで歩いた。
こういうときのコミュニケーションって大事だな、と。

そして夜。
地元の方々との交流会。
これがタレントぞろいで面白かったのだった。

ということで、2日目の振り返り。

酪農の現場を見る、に反応していたのは、
大学の時に農業系の団体をやっていたHさん。
全国のいろんな農家さんを見に行きたくて
いったのだけど、酪農家だけはいけなかったのだという。

今回、最新の搾乳機を備えた
規模の大きな酪農業を見たのと、
家業だった酪農を閉業して、
雪割牧場で働いているリアルな話を聞けたりして、
ああ、酪農ってそうなっているんだ、って思えた。

いつも、当たり前のように冷蔵庫に入っている牛乳が
たくさんの人(や牛)の手を通って目の前にあること。
そんなことを実感できたという。

たぶん、みんないろんなシーンで感じることがあっただろうと思う。

体験を通して、「価値」に気づく。
同世代との対話を通して、「大切にしたいもの」を感じる。

それってとても大切なことなのかもしれないなと思った。

まずは五感を開く。
他者と出会い、感じる。
「価値」に気づく。
そして、やってみる。

そういう「もうひとつの拠点」
を、必要としているのではないだろうか。

「移住」は、その人の人生の瞬間の出来事のことだ。
当然ながら、「移住」は目的ではなく手段に過ぎない。

だから、「移住」をゴールにした取組みではなくて、
参加者それぞれの人生にフォーカスし、
その地域の資源(自然資源、人的資源)に出会い、
感性を発動させながら、

自らが大切にしたい「価値」に気づくこと。
同世代との対話の中で、「感性」に自信を持つこと。

生きていくのに本当に必要なのは、
感性に自信を持つことだと僕は思っているし、

ツルハシブックスという実験の価値も
そこにあったと思っている。
(今井さんも井上有紀さんも同じことを言っていた)

「感性に自信を持つ」には、
場のチカラが必要なのだよね、きっと。

誰とやるか
いつやるか
どこでやるか

福島白河。
開拓者の村、西郷村。

この村での様々な体験が、
参加者ひとりひとりの、そして地元の人たちにとっての、
「感性に自信を持つ場」になったらいいなと思った。

それが「もうひとつの拠点をつくる」ことの価値なのかもしれないと思った。

僕自身も振り返ると、素敵なカフェをやっている
主催の青砥さんの感性を信じられると思った。
参加者の顔が浮かんで、いい合宿になりそうな気がした。

この2日間のプログラムやお会いした人たちを思い返すと、
その感性でいいんだなと思えた時間になった。

青砥さん、参加者のみなさん、西郷村のみなさん、
素敵な時間をありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:02Comments(0)日記

2018年09月15日

「なぜあなたは、その本を10代に届けたいのか?」

茨城県日立市・明秀学園日立高等学校。

今年春の甲子園にも出場した文武両道な高校。
9月15日(本日)午後、暗やみで本をハックツする
「ジブンハックツ」が学校の中の図書館で開催される。







昨日は本番に向けての最終打ち合わせにお邪魔してきました。



僕もインタビューを受けて、1冊寄贈してきました。







昨日まで4日間、図書館に展示されていた本。



これは8月から高校生自身が町を歩いて、
「10代に贈りたい本」をテーマに、
地域の人から集めてもらったもの。

2016年4月に神奈川県茅ケ崎市の
「茅ヶ崎市美術館」で行われた展示の
高校生バージョン。

http://hero.niiblo.jp/e478527.html
(アートとは「問い」を灯すことで、仕事とは「手紙」を届けること)
(2016.4.16)

この時、リベンデル熊沢さんに出会って、展示をして、
本のチカラというか思いを本に託す、ということの
パワーを改めて感じた。

そして、暗やみ本屋ハックツで
「寄贈本読書会」をやっていて、
「なぜ、この本を10代に届けたいのか?」
という話題で盛り上がるのだけど、

それを、高校生と地域の人が
直接やりあったら、面白いのではないかと思った。

そしてそれは、
いわゆる「キャリア教育」とは
ちょっと違った効果を生むのではないだろうか、と思った。
「職業観」ではない、何か。

たとえば、
「今の仕事のやりがいはなんですか?」
「仕事をしていてどんなときに一番よろこびを感じますか?」
みたいな質問。

それと、
「あなたが10代に贈りたい本はなんですか?」
「なぜその本を10代に届けたいのですか?」
という質問。

それを、高校生自身が問うということ。

それはきっと、
「あり方」が問われているのだと思った。

「あなたは今まで、何を大切に生きてきましたか?」
「人生を賭けて、10代に届けたいメッセージは何か?」
というのと本質的には同じ質問である。

高校生自身が取り組む
「10代に届けたい本」や10代限定本屋「ハックツ」は、
そんな「問いのデザイン」になっていると思った。

地域の大人から、
本というコミュニケーション・ツールを通じて、何かを学ぶこと。

大人自身も、高校生を目の前にして、
人生を見つめなおし、大切にしてきたものを確認すること。
そんなことを可能にする。

そこには、
「教えてもらう」
というよりも
「学びあう」という空間があると思う。

高校生は、大人の差し出す本と
大人自身が発する言葉から、
何らかの「誤解」をする。

昨日のブログ。
「個性」とは、どのように誤答するか?ということ(18.9.14)
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

で言えば、
誤答の旅が始まる。

そんな空間や時間が起こること。

たぶん、それが
僕が「ジブンハックツ」的なものに望むことなのだろうと思った。

僕自身が寄贈した本に書いたメッセージで締めます。

「個性」「自分らしさ」は
美しい誤解の積み重ねの先にある。

現時点で僕が高校生に伝えたいメッセージはこれで、
本は内田樹「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)です。

よき旅を。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)学び

2018年09月14日

「個性」とは、どのように誤答するか?ということ

朝活@中目黒蔦屋。


ここ、外を見ながら充電もありながら
できるので、かなりいいです。

さて。
茨城県日立市にある明秀学園日立高等学校では、
図書館のリニューアルに合わせて、
「ジブンハックツ」なる企画が進行しています。





高校生自身がまちを歩いて、
お店の人に、「10代に届けたい1冊」を
聞いて、本を集めて、

9月11日~14日に展示(17:00~18:00)
9月15日に暗闇でハックツするという企画。
(13:30~15:00 10代のみハックツ可。見学はいつでも可能)
企画の立ち上げにかかわりました。
僕も今日(14日)現地へ見に行ってきます。

ということで、
僕も1冊。
「10代に届けたい本」を考えました。

「孤独と不安のレッスン」とか
「非属の才能」とか
「種をまく人」とか
いろいろ考えたのだけど。

これ、読み直してみたかったので、これにしました。


「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)

あらためて読んでみると、
これはすごい本だなと。

学びとは何か?
人はなぜ学ぶのか?

とか。

タイムリーだったのは、
「場のチカラ」とか、「予測不可能性」とか、
そういうのにも通じているような、
そんな本でした。

さて。
ということで、

本のメモを。

~~~ここから引用

「いい先生」というのはみなさんが出会う前にあらかじめ存在するものではないからです。
あるいは「万人にとっての、いい先生」というのもまた存在しない、と申し上げた方がよろしいでしょうか。

師との出会いに偶然ということはありません。

恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、
私にはこの人がとても素敵に見える」という
客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。

生物に関する限り、ほとんどの場合、「誤解」がばらけることの方が、
単一の「正解」にみんなが同意することよりも、
類的な水準でのソロバン勘定は合うんです。

技術には無限の段階があり、完璧な技術というものに人間は決して到達することができない。
プロはどの道の人でも、必ずそのことをまず第一に教えます。

道に窮まりなし。だからこそ人は独創的でありうる。

「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」
と「恋愛に終わりはない」と「失敗する方法において私たちは独創性を発揮する」
は同じ。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。
自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在である
という事実を確認するために私たちは学ぶのです。

あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない。
だから私は生きなければならない。

先生は「私がこの世に生まれたのは、私にしかできない仕事、
私以外の誰によっても代替できないような責務を果たすためではないか・・・」
と思った人の前だけに姿を現します。

二人の人がまっすぐ向き合って、
相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、
そこで話しているのは、二人のうちどちらでもないものなんです。
対話において語っているのは「第三者」です。

人間は本当に重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える。

沈黙交易の最初のとき、人間たちはそれにいかなる価値があるのかわからないものを交換しあった。

ロレックスを買うのは、「どうしてこんなに高いかわかんない」から。

ユニクロのフリースも安かったから売れたのではなくて、どうしてこんなに安いか理解できなかったから。

交易が継続するためには、この代価でこの商品を購入したことに対する割り切れなさが残る必要があるのです。
「もう一度あの場所に行き、もう一度交換をしてみたい」という消費者の欲望に点火する、価格設定にかかわる「謎」が必須なんです。

サッカーボールそのものには価値はない。ボールに求められる機能は、「最も速く移動する能力」。
サッカーは交易の原初的形態を現代におそらく伝えているゲームだろうと私は思います。
それはやりとりされるものには価値がなく、やりとりという行為そのものがこの遊びの愉悦の源泉であるからです。

通販は本質的なところで沈黙交易的だから、みんなハマってしまう。

コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。
何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、
そこで取り替えつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなく、メッセージをやりとりすることそのものなのではないか。

コミュニケーションを前に進めることができるのは、
そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。

誤解の幅があるようにコミュニケーションする。
それこそがコミュニケーションの王道。

ことばの意味がよく分かるということと、ことばがこちらに触れてくるということは全く別のことです。

誤読を許容する文章というのは、実は誤読しか許容しない文章なんです。

夏目漱石が「先生」の条件として挙げているのは、
一つは「なんだかよくわからない人」であること、
一つは「ある種の満たされなさに取り憑かれた人」であること。この二つです。

先生が先生として機能するための条件は、その人が若いときにある種の満たされなさを経験して、
その結果「わけのわからないおじさん」になってしまった、ということである。

人間の定義がコミュニケーションするものだとすると、
コミュニケーションにおいて「正解」を決めてしまうと、
ほとんどの人間はその存在理由を失って、人間じゃなくなってしまいます。

人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者としての独創性」です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。

すべての弟子は師を理解することに失敗します。
けれども、その失敗の仕方の独創性において、
他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、
師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。

大人と子どもの分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうかという一点にかかっている。

かけがえのなさ、というのは自らのバカさ加減によって担保されてる。

解釈者の位置に身を固定させるということは、武道的には必敗の立場に身を置くということです。

相手に先手を譲って、それをどう解釈するかの作業に魅入られるというのは、構造的に負ける、ということです。

真の師弟関係において、学ぶものは自分がその師から何を学ぶのかを、師事する以前には言うことができないからです。

学ぶ者の定義とは、「自分は何ができないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。

師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たしうるかを、師が知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです。

学ぶのは学ぶもの自身であり、教えるものではありません。
「それがなんであるかを言うことができないことを知っている人がここにいる」
と「誤解」したことによって、学びは成立するのです。

この謎めいた音声は何かのメッセージではないのか?これらの記号の配列には何らかの規則性があるのではないか?
これがすべての学びの根源にある問いかけです。学ぶことの全行程はこの問いを発することができるかどうかにかかっています。

謎から学び取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在するということこそが、学びの豊饒性を担保しているからです。

~~~ここまで引用

またやってしまいました。
嵐の引用。(ツイッター@tkj83から転機)
買ってくださいね、ホントに。

今回さらに選ぶとしたらココですかね。

「私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。
自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在である
という事実を確認するために私たちは学ぶのです。

あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない。
だから私は生きなければならない。」

「コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。
何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、
そこで取り替えつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなく、メッセージをやりとりすることそのものなのではないか。

コミュニケーションを前に進めることができるのは、
そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。」

「人間の定義がコミュニケーションするものだとすると、
コミュニケーションにおいて「正解」を決めてしまうと、
ほとんどの人間はその存在理由を失って、人間じゃなくなってしまいます。

人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者としての独創性」です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。

すべての弟子は師を理解することに失敗します。
けれども、その失敗の仕方の独創性において、
他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、
師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。」

この3つ。
「かけがえのない存在として生きるために学ぶ」

「コミュニケーションを進めるには、誤解の幅と訂正の道が残されているから。」

「個性とは、誤答者としての独創性のこと」

いいなあ。
それが学ぶっていうことなのだなあと。

生きるために学び、誤答しながら訂正し、
コミュニケーションを前に進めていくこと。

そうやって、アイデンティティというものが
できていくのだとしたら、
そういうのが進んでいく「場」をつくっていくことが、
僕はやってみたいなあと思いました。

「松下村塾」とは、
吉田松陰先生が師だと思い込んだ人たちが、
ともに学ぼうという「場のチカラ」によって、
花開いていくプロセスのことなのだろうと思いました。

自分が思ったことを口に出せる安心空間をつくり、
一緒にいる人たちと、「勘違い」によって、仮説(誤答)を立てて、
実践し、訂正していくプロセス。

「プロジェクト」が始まる場所は、
そんな場であってほしいなと思います。

さて、本日夕方、明秀学園日立高等学校にお邪魔します。
よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)

2018年09月12日

はたらく女子のための「プロジェクト」ラボ

かえるライブラリーキカクカイギ。
隣の自習室との関連性について。

届けたいのは誰なのか。
という大切な問い。

昨日、新宿で
大学生2人と話した、
「場のチカラ」と「プロジェクト」について

1「誰とやるか」2「いつやるか」3「どこでやるか」
が場のチカラで。

そこに
4「なぜやるか?」
5「誰に対してやるか?」
6「何をやるか」
7「どのようにやるか」
が加わって、プロジェクトになる。

企業インターンシップは、
あらかじめ1~6までが決められていて、
7を考えるというものが多いだろう。

何をやるか、やゴールは決まっていて、
それをどのようにやるか?を委ねられている。

しかし。
そもそも、そのゴールに同意・共感しているのか?
があまり問われない。

「何あまいこと言ってんだ」
と言う人もいるかもしれない。

でも、インターンだって、
めちゃめちゃ貴重な大学生の数週間~数か月を投資してやっていくのだから、
できることなら、同意・共感しているプロジェクトをやりたいだろうと思う。
そこでも、参加とケアのデザインが重要だと思った。

「にいがたイナカレッジ」のすごいところは、
4 なぜやるか
5 誰に対してやるか
6 何をやるか

が大学生のチームに委ねられているところだと思った。


(写真は9月3日の交流会の様子)

9月3日の中間研修のときの
各プロジェクト紹介では、

「最初は・・・だったんですけど、
私たちはこう考えて、こういうアウトプットにすることにしました」
っていう話が続出。

ああ、アウトプットを自分たちで決めていいんだ。
というか、プロジェクトの「価値」と「顧客」を自分たちで
決めていいんだって思った。

それって。
めちゃめちゃ重要なことなんじゃないか?

時代の境目にある、とか
社会は大きな変化の中にある、とか
よく聞く話なのだけどさ、

本質的には「価値」を自分なりに設定して、「顧客」に届けていくこと。
そう、「手紙」を届けていくことだと僕は思っているのだけど、

そのためにはさ、「価値」を問い、「顧客」を設定し、
そこに対してアウトプットして、振り返る。

それをやんなきゃいけないよね。
企業が設定した「価値」(≒売上・利益)
に「どうやるか」だけを考えるだけじゃさ、
なんか、物足りないって感じるのはその通りだろうなと思う。

それは大学生だけじゃなくて、
いま会社員として働いている人も同じで、

たぶん、自分で「価値」と「顧客」を設定して、
プロジェクトを生み出すみたいなことって、
絶対的に必要としているのではないかなあと思う。

世の中が激変しているのではなくて、
「価値」が流動していて、

今までは「効率化すること」と
「課題を解決すること」は、
「価値」(≒売上・利益)に
直結していたわけだけど、

「効率化」や「課題解決」は
もはや「価値」の源泉ではなくなっているのだと思う。
というより、
みんなが思う「価値」みたいな共有ができなくなっている
と言ったほうがいいか。

だから、その都度、集まったメンバーで、
ひとりひとりの物語も大切にしながら、
「価値」を設定して、プロジェクトを設計して、
それをやってみる、そんな「場」を必要としているのだろうと思う。

はたらく女子のための「プロジェクト」ラボとしての
「かえるライブラリー@湯島」っていう方向性は
かなり実現したい絵だなあと思いました。

※10月7日(日)に「かえるライブラリー」の東京拠点である、
ソラ-solur-のプレゼンテーション大会が入谷であります。
ピアノ発表会のようなプレゼンテーション大会、一緒に見に行きませんか?
当日はツルハシブックスも出店予定です。
http://solur.jp/Presentation/  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)かえるライブラリー

2018年09月08日

「参加」と「ケア」のデザイン

「参加」と「ケア」。
これからはこの2つがテーマになってくると思う。

「場のチカラ」を高めるために、
個人が思っていることを話す。
そういう環境をつくることはとても大切だ。

それは「ケア」であると同時に「参加」になっている。
実は最大のケアは「参加」なのではないか、と思った。

それは決して、
「役割がある」ということではない、と思う。

「役を演じる」というか、
即興演劇に近いような、そういう感じ。

生きづらさの源泉は
「個人」という考え方にあるのではないかと
思う今日この頃。

学校は、「集団生活」を学ぶといいながら、
「個人戦」を強いる。
他者と比べることで、
アイデンティティを確立しようとする。

結果、いじめが起こる。

アウトプットを出すのは、
場のチカラであって、個人やチームの力ではない。

だから、そこにいるひとりひとりが
「参加」すること。「ケア」されること。

「ひとりひとり」と「個人」っていう概念は違うのではないか。
そう思っている。

場の構成員としての「ひとりひとり」であり、
それは一個の「個人」ではない。
決して切り離すことはできない。

それがたぶん「場」という考え方
だろうと思う。

「参加」と「ケア」のある場をデザインすること。

それって、ミーティングの時の「チューニング」とか
そういう話でもある。

多くの大学生がアイデンティティの不安を抱えている。
自分が何者であるか、わからない。

それはコミュニティが希薄化したことが
大きな要因であるといえるだろう。
また、学校社会が「夢」や「目標」を
アイデンティティの要素として聞いてくることも大きいような気がする。

「夢」がなければ人に非ず。

そんなことないんだよ。
常に場に溶け出していけばいいと思う。

「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)を読むと、
「意志」とか「未来」とか「個人」とか、幻想のような気もしてくる。

そんなあいまいな世界を生きる僕たちに、
「参加」と「ケア」のある場をデザインしていきたいなあと思う。

8月29日(水)から9月7日(金)まで、
10日間にわたり、そんなことを考えていました。

場を共有していただいた方、ありがとうございました。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:03Comments(0)学び

2018年09月06日

「手紙」を届ける「プロジェクト」を支える「場のデザイン」





まりさんにヒアリングしてもらいました。
!!っていうことがたくさんありました。

いちばん驚いたのは、
「場のチカラ」とか「場をデザインすること」
を大切にしているのだけど、
その根本にあるコンセプト(大切にしたいもの)は、
「手紙」であるということ。

そのふたつがズレているということ。
そこかな。

自分がいちばん心地よいのは、
「場のデザイン」なのだなあと。

ツルハシブックスで階段から見た
いろんな場所に輪ができている景色。
武雄市図書館で感じた
違う目的の人が同じ空間を分け合っている景色。
ワークショップの個人振り返りをしているときのあの空気感。

僕自身は場のデザインをすることで、
何かが起こっていることを見るのが好きだ。
その「何か」とは、
「プロジェクト」のことではないかと。

場のチカラを高めること。
・誰とやるか
・いつやるか
・どこでやるか
それを大切にすること。
前提としてオープンマインドをつくること。

それは「参加のデザイン」にも通じるのだということ。
ツルハシブックスの店員サムライや
寄付サムライの仕組みのように、
境界をあいまいにすること。

流動する価値を
一緒にやるメンバーと一時的に固定して、プロジェクトをつくること。
その価値に同意して、勝ちに向かっている状態であること。
問いを共有し、学びあうこと。

学びの結果として、予測不可能な何かが起こること。
そもそも、場に溶け出して、アウトプットすること。
そういうことを目指してきたんだとわかった。

それと「手紙」。
その根底には、「手紙」というコンセプトがあるのだなあと。

誰もが手紙を預かってきて、
それを渡すのが誰なのかいつなのかわからない。
その手紙を渡すためのプロセスにいること。
それが「プロジェクト」なのではないかなと思った。

つながったね。

僕自身が渡したい手紙は、それなんだ。

人生は、仕事は、
手紙を届けるようなものだっていうこと。

その手紙は、
宛先=「誰に」=「顧客」があって
内容=「何を」=「価値」がある、
プロジェクトを通して届けられるんだっていうこと。

そのプロジェクトを生み出すような、
あるいは促進していくような、
もしくは、きっかけをつくるような、
そんな「場のデザイン」が僕のミッションなのではないかと。

なんか。
しっくりと来た。

まりさん、1時間のヒアリングありがとうございました。
やっと、つながりました。そんな感じ。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:14Comments(0)学び

2018年09月05日

「好き」と「刺激」のあいだ

えぽっくのチームひきだしからイナカレッジ
の中間研修ハシゴで、

場のチカラについて考えて、
ぐるぐるしている。

場のチカラはチームの力とイコールではなく、

人(誰とやるか) with whom
タイミング(いつ) when
場所(どこで) where

が「場」であり、
人ひとりひとりは、その人の過去がつくっている。
研修でやったのは過去の感じたことを思い出すこと。
いましか書けないことを書くこと。

そこにプラスして
なぜやるか(ミッションは何か?) why
誰に対してやるか(お客はだれか?) for whom
何をやるか(価値は何か?)what
どのようにやるか how

という風に、展開していく。

大切なのは、
「個人」を場に溶かしていくことだと思った。

「場」がアプトプットを出す。
そのために、場に自らを溶かしていくこと。

そんなことを考えていたら、
出雲崎町釜谷集落のチームのコンセプトが
「トキメキ」だった。

「刺激」ではなく、「好き」でもなく、「トキメキ」

ああ。
なるほど、って思った。

刺激と好きのあいだ。

受動的に刺さる感じでもなく、能動的に好きになる感じでもなく、トキメキ。
「違和感」っていうのにも近いと思うのだけど、
自分の中からあふれてくる(こぼれてくる)何か。
それが「トキメキ」なのかもしれないと思った。
中動態っぽいなあと思った。

そんな「トキメキ」をアウトプットするには
どうしたらいいのか?
それは楽しみだなあと思った。
あと、柏崎市の岩の入集落の出来上がった暦を見た。

表紙からすでに泣きそうで、
「魔法がかかる編集」が詰まっていた。

イナカレッジ、素敵なプログラムを展開しているなあと思いました。
ありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)学び

2018年09月04日

参加のデザインとしてのイナカレッジ

イナカレッジインターン中間研修




夜は集落の人たちと交流会




昨日、大学生のプロジェクト紹介とブラッシュアップの話を聞いていて、
イナカレッジは参加のデザインだと思った。

それってたぶん中越地震の時から、
いや、20年前からやろうとしていたこと。

参加型社会。
それをいかに作るか。
それはNPO法ができたときからのテーマであったと思う。

イナカレッジインターンには
地域の人たちが「参加」できる。

野菜を持って来たり、
話をかけにきたり。

自分がどうやって関わろうか?
という問いの中にいる。
大学生に何かしてやりたい。

それって地域づくりにおいては
まさに参加のデザインではないのか。

そういう見せ方もあるなあと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 06:29Comments(0)イベント

2018年09月03日

「場のチカラ」と6W1H

「チームの力」ではなく、「場のチカラ」

昨日のブログ

個人の「感情」を材料にして、「場」が冊子をつくる(18.9.2)
http://hero.niiblo.jp/e488024.html

のあと、大学生との対話で、出てきたこと。

「チーム」と「場」ってどう違うのか?
「場」って人のことじゃないのか?

そんな対話。

「チーム」に対して、
「場」はもっと動的なものだと思った。

「場」を構成するのは、
もちろん人であるのだけど、
それらの人ひとりひとりには「過去」があって。
その過去の「感情」をすべて「場」に出すことが大切だなあと思った。

「場」とはいったいなんだろうか?

「人」「空間」、そして「タイミング」。

誰と、いつ、どこで、なのかもしれない。
with whom,When,Where

「いつ」には、
それぞれの人のライフステージだったり、
社会背景だったり、時代の変化だったりする。

「どこで」には、
ミーティングの場所とかも入ってくる

その「場」に
なぜやるかWhy(ミッションは何か)
誰に対してfor whom(お客はだれか)
何をやるかWhat(価値は何か、モノ・サービスは何か)
どうやってやるかHow

が加わることで場から「プロジェクト」が生まれる。

アウトプットをよくするためには、
いや、プロジェクト自身を楽しめるようにするには、
場のチカラを高めることだ。

それには、「オープンマインド」をつくり、
思ったことが言える「安心空間」をつくることだ。

昨日は、9月2日、美術思想家、岡倉天心の命日だった。





茨城大学に行って一番よかったこと。
それは岡倉天心に出会えたことだった。

1杯の茶には、西洋も東洋もない
まあ、茶でも一杯すすろうではないか。


2016年の岡倉天心国際シンポジウムの際に、
「岡倉天心・五浦発信プロジェクト」が発足。

昨日の午後から、(株)サザコーヒーと開発した「五浦コーヒー」を淹れて、飲みながら
天心のボストンでの暮らしを展望するワークショップが開催された。
僕は午前のリハーサルを兼ねた勉強会に出席し、
コーヒーをいただいた。

お昼には、「チームひきだし」が訪問している
あんこう料理で有名な「まるみつ旅館」にお邪魔して、
お話を伺った後に、







あん肝ラーメン(あん肝スモーク入り)をいただいた。
2017年の鍋‐1グランプリでグランプリを受賞した
あんこう鍋(どぶ汁)のエッセンスをラーメンに応用した逸品だった。
想いのある社長の話を聞いて、一緒においしいものを食べる。

そうやって、「場」がまたひとつ、前に進む。

個人か、チームか、ではなく、「場」がつくる。
「場」がアウトプットする。

誰とやるか
いつやるか
どこでやるか

によって、「価値」は変わってくる。
「顧客」も変わってくる。
「ミッション」そのものさえ変わる。

「価値」を設定して、プロジェクトが始まる。
ひとりひとりのメンバーの過去の心の動きを大切にして、
個人の感情を場に委ねてもらう。
そう、あん肝ラーメンスープに麺が身を委ねるように。

学校教育は、西洋的思想は、
あまりにも「個人」を大切にしすぎた。
そしてそれはコミュニティが崩壊しつつある今、
アイデンティティの不安を生んでいる。

アウトプットするのは「場」であって、
個人の集合体である「チーム」ではない。

「場」は常に揺れ動いていて、
当然「価値」も流動している。

そんな動的な世界の中で、
アウトプットを生んでいくようなプロジェクトをつくる。

そんなプロジェクトをつくりたい仲間がいること。
人生ってやつは、そこから始まるのかもしれないね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:33Comments(0)

2018年09月02日

個人の「感情」を材料にして、「場」が冊子をつくる

茨城県日立市の(株)ユニキャストが運営する
地域貢献型シェアハウス「コクリエ」にて
株式会社えぽっく(僕の肩書は顧問!)が展開する
「チームひきだし」のワークショップに出てきました。

前日訪問した小美玉市の(株)ユーゴーさんでワークショップの様子




昨日のコクリエの様子


ヒキダシ、ヒキダシ!!


午前中は、僕自身のヒストリーを語りつつ、質疑応答。

僕が自分自身で語っていた気づきは、
本屋をやる理由でした。

1 本屋はまちを作ることができる「メディア」だから。
郡山のヴィレッジヴァンガードの「郡山にカフェをつくりたいんだ」発言から、僕は本屋になろうと思った。

2 本は、手紙であり、それを「一時預かり」したいから。
ハックツをやったときの金子さんとのトークと伊那市のブックカフェ3日間の土田さんのコメントから。

3 結果が目的ではなくて、本人や、社会環境や、時代に委ねられているから。
一連の「目的・目標」「キャリアデザイン」という教育への違和感に対する自分なりの表現。

これに気づきました。
昨日、話しているときは整理できてなかったけど。

大学生7人と対話していて思ったのは、
「学校教育と家庭環境が効いてるなあ」っていうこと。

「こうあるべき」
「こういうもんだ」
っていうのが強いなあと。

2社回っての一番の驚きは
「あんな楽しそうに仕事ってできるんだ」
「社員の幸せがまわり回って、お客様の幸せになるんだ」
「先輩後輩との関係性ってあんなにフラットなんだ」
っていうこと。

もちろん、そういう会社を選んでいるんですけどね。

でも、思ったよりも、みんな「仕事はつらいもんだ」とか
「耐えること」とかを教え込まれてきているんだなあと。

あとは、失敗してはいけない、とか。
みんなの和を乱してはいけない、とか。
結果責任を個人に負わせる、とか。

まあ、それが我が国の「サラリーマン養成教育」ですけども。

昨日のテーマは「魔法をかえる編集」
2社で聞いてきたことを編集して、冊子にしなきゃいけない。

その時に大切なのは、
「自分がどう感じたか?」であり、
それを文章に載せていくことで、
だからこそ、届けたい人に届くのだと思う。

だから、まずは個人の人生振り返り。
幼いころから今まで、どんな人生を歩んできたのか?

プレゼンを聞いていて感じたのは、
意外にみんな感情を出さないのだなあと。
安心空間を作れてないわけじゃないのだけど、
たぶん、ぼくが書く前に言えばよかったんだなあと。
臨場感あるトークをしていたのは数人だった。

大切なのは、出来事そのものではなくて、
その時に自分の感情がどう動いたか。
何を感じたか、っていうことなんだ。

だって、そこに自分が感じる
「価値」や「違和感」や「衝動」があるんだから。
たぶん、そういう導入にしなきゃいけないんだな、と思いました。
9月3日にまた新潟でやるので、考えようっと。

そのワークを踏まえて、
企業訪問の振り返り。

このときも、
「気づいたこと」「企業のいいところ」ではなくて、
「自分が驚いたこと」というところにフォーカスしたほうがいいなと思った。
「いいところ」だと、ちょっと抽象化されちゃうんだよね。

それは、もしかしたら、
「否定されたくない」という恐れの表れなのかもしれない。

もっと個人の感情を出していくこと。
どんどんオープンマインドになっていくこと。

だから、
「抽象度を下げて、というか解像度を上げて」という話をして、やり直し。
出てきた、共感度の高い意見。

そのあと。
「そもそも何のために冊子をつくるんだっけ?」

この冊子は誰のためにつくるのか?
という問いで息詰まる。
・会社のよさを紹介するのか
・チームひきだしの参加者を集めるのか
と目的が揺らぐ。

っていうところで、若松さん登場。
「チームひきだし」の理念というかミッションを語ってもらう。

大学生からは、
なぜ、初日にそれをやらなかったのか、
という素朴な質問が来る。

それをやっていたら、もっと違う視点で会社訪問ができたのに。

たしかに、そうだろうと思う。
しかし、それによって失われるものも確実にある。

目的を持たずに聞く。
それはチームひきだしのひとつの強みだと思う。
どこまでもライブで、
「場」のチカラを高めることに集中していくこと。

目的なんだっけ?
と立ち止まることも、よい機会であったと思う。

「オープンマインド」をつくり、
個人の感情を出し切り、
それを合わせて、新しい価値を生み出す。

そう。
冊子をつくる、というかアウトプットを出すのは、
「チーム」ではなく「場」なのだ。

そんなワークショップで生み出される冊子は
一回性の高いものになる。
二度と同じものは作れない。

だからこそ。
ひとりひとりのパーソナルな過去と、
心の動きがとても大切で、
それを「場」に出し合うこと。

そうやって「場」のチカラを高めて、「場」がアプトプットを出す。

たぶん、えぽっくと僕が作りたいのは、
そういう冊子で、そういうインターンだ。

W若松さん、いい学びの機会をありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び

2018年08月31日

「自分に自信がない」の「自分」って何だ?

明日は茨城県日立市で「若松ミライ会議」の拡大版。
復習しようと。

「顧客」と「価値」の視点から過去を見つめなおす(18.7.12)
http://hero.niiblo.jp/e487733.html

「私」を外す、という美学(17.3.28)
http://hero.niiblo.jp/e484378.html

あらためて。
「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)より

西田幾多郎の言葉。
「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ。本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」

そして、鈴木大拙もつづく。
「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」

これ、中動態を学んだ今、めっちゃよくわかるね。

自分の過去に、「顧客」と「価値」があって、
それはすごく体験的で、個人的なもので、

そもそも「自分に自信がない」というときの
「自分」ってなんだろう?

と、「やりたいことがわからない」
ことが苦しいから、「やりたいこと」を探してしまうけど、

「自分に自信がない」
ことが苦しいから、自分に自信をつけようとしてしまうけど。

そもそも、やりたいことって何か?

とか

自分に自信がない場合の「自分」って何か?
みたいなことって問わないもんね。

僕はかつて、
「自分に自信がない」と言ってきた若者に対して、
「自信がなくても始められたらいい」
と思っていた。

だから、上田信行先生に出会って、
キャロル・ドゥエック先生の本を読み、
固定的知能観と成長的知能観について学んだ。

「自信がない」は後天的に獲得した資質である(14.12.29)
http://hero.niiblo.jp/e459844.html

やればできる(かもしれない)、
つまり自信がある状態が通常で、
自信がない(からやれない)
というのは後から獲得している。

だから、始めたらいい。
と言っていたけど。

自信がどうの、っていうよりはまず「自分」というか
アイデンティティについて取り組んでいく必要がある。

そのためには、自分の過去を知ること。
過去の結果としての自分を受け入れること。
状況に身を委ねること。

「自分」を知ること
「社会」を知ること

そこから「自分」を見つめなおすこと。
明日の「ミライ会議」がそんな場になったらいい。

これから明日の予習をこの本で。

「We are lonely,but not alone」(佐渡島庸平 幻冬舎)  

Posted by ニシダタクジ at 09:38Comments(0)言葉

2018年08月30日

やりたいことを決めることは価値を固定化すること



「やりたいことがわからない」の社会学&本の処方箋セミナー
と題して、仙台・ファイブブリッジ会議室で
ワカツクの渡辺一馬さんとトークしてきました。

この場所に初めてきた、
あるいはこういうイベントに初めてきた、っていう人がたくさん。
いやあ、これは、タイトルの勝利ですよ、一馬さん。

シナリオは特になかったのだけど、
最初に「本屋の青空」の話をして、
(予想しなかった本に出会えることが本屋の価値ではないか)

それはまちに通じるし、
この場所につくるライブラリーにも通じるよねえという話からスタート。

参加者は、「やりたいことはなんだろう?」と問いかけている大学生と
目標設定、達成だけの会社人生だとつらいといっている
社会人の人など、
まさにそういう人に来てほしい、みたいなのが来てくれた時間だった。

そしてそれは、
本人たちにとってみれば切実な課題なのだとということもあらためてわかった。

そして、学校というシステムが設定する(固定する)「価値」に対して、
それを信じているからこそつらいのだということが分かった。

昨日も話したけど、
「やりたいこと」や「将来の夢」を決めるのは激動の時代にナンセンスだと思うし、
それはもっと言えば、目標とか意志とかを設定し、そこに向かって全力で進むみたいな価値観が
揺らいできているのだと思うのだけど、

それはもっと機能的に説明すると、
「やりたいこと」とか「将来の夢」、「目標」とか「意志」の前には、
「価値」の固定化がある。

一定のもの(売上とか)に「価値」があると設定して、
そこに向かっていくこと。

そうだとすると、明治時代に学校ができて以来、
もっとも大きなコンセプトは「効率化」であっただろうと思う。

富国強兵、追いつけ、追い越せという
スローガンのもとに、急速な「近代化」を遂げた日本、
それを支えた教育。
そのベースには「効率化」がある。

学校では夢(目標)を設定し、
その目標に向かって効率化せよ、と求められる。

あなたはどこに行きたいんだ?
と問われ、そこに早く行くために、
どうしたらいいのだ?と問い詰められる。

ところが。
冒頭の話に戻るけど、それって楽しいのか?
っていうこと。

「本屋の青空」があるような本屋。
目的の本を忘れ、思ってもいなかった本を買ってしまうような、

街を歩いていて、
古めかしいおばちゃんがやっている定食屋で
おにぎりを買う、みたいな、
そんな「たまたま」を人は、人生は求めているのではないか。

「効率化」と「予測不可能性」は対立する。

「やりたいことがわからない」
素晴らしいじゃないかと思う。

とはいえ、
何かに打ち込んでないと不安になる、
それもひとつだろう。

昨日一馬さんとの結論は、
「小さなプロジェクトをやってみる」だった。
「価値」と「お客」を設定して、
小さなプロジェクトをやってみること。

そして振り返ること。
流動する「価値」をいったん固定し、やってみること。

そんな中から自分の「やりたいこと」の仮説ができて、
それを検証し続けること、なのかもしれない。

藤原奈央子ちゃんにも沖縄・糸満ぶりの再会だったけど、
彼女の人生がまさにそんな感じで楽しかった。

さて、仙台にもそんなことを伝えるライブラリーが
できたらいいなと思う。

また来ます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:33Comments(0)イベント

2018年08月29日

システムを俯瞰して見ること

今月23日に発売された教員志望者向け雑誌「教職課程」の
巻頭メッセージ「そうか、きみは教員を目指すのか?」に掲載されています。
なんとリニューアルされたので第1回の#1です!





書店や大学生協、大学図書館などで見つけてください!
報告お待ちしてます!
テーマは「価値出会う」ことについて、書きました。

現代の若者の生きづらさの大きな原因のひとつが、
「価値」そのものが流動化していることだと僕は思います。

学校で教えられてきた(今も教えられている)「価値」が
価値を持たなくなっている。

それはインターネットが、とか、AIが、とか
いろいろ原因はあるのでしょうけど、
そもそも「価値」というのは常に
流動しているものなのではないかと僕は考えます。

だから、都度、「価値」を確認しなければならない。

今日、僕は夜、仙台で
「やりたいことがわからない」の社会学というテーマで
話しますけど、

「あなたの夢は何か?」
「将来、つきたい職業は?」
という問い。

親戚のおじさんが聞いてくる「将来、何になりたいんだ?」
とか、親戚のおばさんが聞いてくる
「あなた、いい人いないの?」(これは若干違うか)

みたいな問いにおける
「価値」はなんだろうか?
と問いかけてみる。

5年後10年後の世界がまったく予想できないのに、
自らの10年後のビジョンを描けと小学生に問いかける学校システムは
どう考えてもナンセンスだと思う。

じゃあ、何のために、(何の「価値」があり)
それを問いかけるのか。

それは管理上の理由なのではないか。
あるいは、「評価」のためである。

進路指導(あるいはキャリア教育)をする上で、
目標を定めなければ、指導は難しい。

目標を決めて、その達成を指導・支援することが
学校的な「価値」であるからではないか。

そもそも、
「目標を決める」ことに価値はあるのだろうか?

価値はないわけではないけど、
「価値がある場合がある」が答えだろうと思う。

あるいは、
かつて、そういう時代があった、かもしれない。

たしかに、工業社会においては、
目標を決めて、達成すること。
均質な製品を早く、大量に生み出すことは
絶対的な価値があった。

ところが、それは産業革命以降の限定された時代にのみ
通用する価値だったのではないか。

そしてその時代と
「学校」というシステムが成立していったのとは
同時期に起こっている。

いま、社会は大きく変わりつつある。
少なくともかつての工業システム(大量生産・大量消費)で
「価値」=経済的価値を生むことはできなくなった。

「価値」が流動している時代、
都度、価値は変化していて、
その価値は、自らが判断・決定するしかない。

だから、教員志望者に限らず、
大学時代にやっておいたほうがいいと僕が思うのは、

「価値に出会う」こと。

学校システムが設定する「価値」とは別の「価値」
が世の中にたくさんあって、
それを自分なりに見つけ、そこを目指していくことが必要だ。

学校システムを否定するわけでは決してない。

しかし、学校システムが設定する「価値」は
「価値」のひとつに過ぎないのだ。

じゃあ。
それ以外の価値に出会うにはどうしたらいいのか。

人に会う
本を読む
旅に出る

多くの人が言ってるけど、僕もこれだろうと思う。
陸奥賢さん流に言えば、「他者に出会う」ことだ。

そうやって、「価値」に出会うことで、
自分がいるシステムを俯瞰し、相対化できる。

そこから、自らが生み出したい「価値」を考え、
その価値の実現に向けて動いていくこと。
たぶんそれ。

さて。
僕は「かえるライブラリー」を実現していきますね。

では、今夜、仙台にてお会いしましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)日記

2018年08月27日

未知なるものとしての「他者」



陸奥賢さんの「まわしよみ新聞をつくろう」(創元社)発売記念!
まわしよみ新聞&トークライブ新潟ツアー3DAYS。
長岡・コモンリビングで最終日。



まわしよみ新聞をやったあとで、
池戸と陸奥さんとトーク。

「コモンズデザイン」とは、「他者と出会う」こと。

「コミュニティ」は同一性集団であり、だんだんと閉じていく。
自分たちが優先されるから、「ふるさと納税」など、取り合いが起こり、
他のコミュニティは「敵」となる。

インターネットは、
マイノリティがつながりやすくなった半面、
そこに「閉じていく」ことが可能になった。

自分とは主張が違う人たちと
接することなく、あるいは否定するだけで、
過ごせるようになった。
(少なくともネット上では)

それではどんどん世界が狭くなってしまうのではないか。
生きていく、には「他者」との出会いが必要なのでないか。
僕もそう思う。



「まわしよみ新聞をつくろう」(陸奥賢 創元社 2,160円)
には、そのエッセンスが余すところなく、書かれている。

しかも、参考文献はない。
陸奥さんがまわしよみ新聞実践の中で
感じ取って、考えてきたことがすべてだ。
これはすごいなと。

「まわしよみ新聞」の魅力を知るには、
第2章「まわしよみ新聞10のいいね!」を読むのがいいだろう。

この10個の中から、
僕がビビッときた3つを紹介する。

2 司会がいなくてもみんな平等に参加できる

「ノーテーマ」「ノーファシリテーション」だと陸奥さんは言う。
実際やってみると、まさにそんな感じだ。
陸奥さんはみんなが新聞を読み始めた瞬間に、
ソファに寝転んでいたりする。

ひとりひとりが3枚程度「おもしろい」と思う記事を切り抜き、
発表していく。
テーマは様々。ジャンルもいろいろ。
新聞広告を切り抜いてもいい。

これは、「ワークショップ」や「ファシリテーション」
を学んできた僕としては、非常にビックリしたことだ。

司会やテーマがなくても、
自己紹介さえなくても、
みんな楽しそうに新聞切り抜きを発表している。

7 世間を語りながら自分を語り、他者を知る。

まわしよみ新聞は、新聞を通して、
「自分語り」でありながら「世間語り」ができる。

新聞は世間のことが書かれていて、
「誰かに読ませようとして」書かれているメディアなので、
それを元にして話をすると共感が得られやすい。

そして、2枚、3枚と発表していくと、
「あ、この人はこういうことに興味があるんだ」
「こういう考え方するんだ」と他者を知ることになる。

「新聞」という記事を通して、
人を知る、ということだ。

8 「小さい共感」が「話す力」に繋がる。

昨日、長岡でやったまわしよみ新聞は、
1 新聞を読む→切り抜き 15分~20分
2 切り抜いた記事を発表 30分
3 壁新聞を作成 30分

ということでだいたい80分くらいで
「まわしよみ新聞」ができる。

意外に短いのが新聞を読む時間だ。
実はこれには理由があって、
「自分の興味関心にぴったり」な記事というのは、
なかなかない。

だから「強いていうなら関心がある」程度の記事を発表する。
その「好きの度合いが低い」からこそ、小さな共感が生まれるのだ。

怪獣映画好きな人が怪獣映画の記事を
発見して熱く語られても引いてしまって、むしろ共感度は低い。

でも、「こんなのも面白いですよね」
ってさし出されると、「へぇ、おもしろいね」と小さな共感が生まれる。
「他者」と話をするときは「小さな共感」がとても大切である。

これ、まさにそうだなと。

僕が、ミーティング進行の時に
「チューニング」をやっているけど、
それってまさに「小さな共感」のデザインをしているのだなと。

そして、「オープンマインド」をつくる
もっとも大切なことは、
「思ったことを言う」ってことだと思っているので、
「まわしよみ新聞」はそれが見事にデザインされているんだなと思った。

まあ、こんな感じで
エッセンスが詰まりまくっている「まわしよみ新聞をつくろう!」。

場づくりとか、ファシリテーションとか
そういうキーワードを持っている人には
特にオススメの1冊。
あと2冊、僕の手元にありますので、気になる方はお声がけください。

昨日のトークの僕なりの感想は、

僕は、「予測不可能性」こそがエンターテイメントの本質だと思っていて、
それをいかに楽しめるかが人生を楽しむことだと思っている。

では、その「予測不可能性」を誰が(何が)もたらすのか?
といったとき、それは「他者」であるのではないか、と思った。

「他者」とは、「未知なるもの(人)」の総称ではないか。

新聞とは、「新しく聞く」というメディア。
この本の中にも書いてあるけど、
ページを「めくる」ことでどんどん新しい世界、新しい価値観
と出会うことができる。

予測不可能なメディアであり、
かつ、「まわしよみ新聞」はそこに集まっている
「他者」が「おもしろい」と感じた記事が切り出されているので、
それによってもまた「未知なるもの」との出会いがある。

そんな「他者との出会い」
をつくる活動が「まわしよみ新聞」なんだなあと。

そして、陸奥さんは実践の後にこう繰り返す。
「誰か外の人に向けて、貼り出す前提でつくってください。そして貼り出してください」

新たなる他者との出会いを生むための
まわしよみ新聞をつくる、というのだ。

「まわしよみ新聞」3DAYS。

「まわしよみ新聞」というメディアは、「予測不可能性」と「小さな共感の機会」
と「小さな自己表現」を伴った、「他者」との出会いのデザインなのだなあと思った。

ちなみにこの本のタイトルは、
「まわしよみ新聞をつくろう!」であり、徹底した実践ガイトとなっている。
つまり、「やってみよう」っていうこと。

そして、陸奥さんが言うには、「ガイドブック」であって「ルールブック」ではないのだと。

オープンソースであるまわしよみ新聞を実践者が実践し、
そこの場から新たに気づき、新たに出会い、
自分たちなりの「まわしよみ新聞」を展開していくこと、だ。

陸奥さんが昨日の帰り際に言っていた。
「僕は中卒ですから、アクティビストでしかない」

大学の先生のような「アカデミスト」ではないし、
昨今の人文書ブームのような、
「読んだら少し頭がよくなった気がする」という本を書いたのでない。

あくまで実践者(アクティビスト)として、アクションを起こし、
他者と出会い、他者と小さな共感をし、新たな何かを生んでいくこと。

きっとそれが「まわしよみ新聞」から始まった、
陸奥さんのコモンズデザインなのだなあと思った。

さて、僕も実践はじめますか、ね。
「まわしよみ新聞」、一緒にやる人、求む。

★「まわしよみ新聞をつくろう」(陸奥賢 創元社 2,160円)は
僕の手元にあと2冊あります。希望される方はご一報ください  

Posted by ニシダタクジ at 09:12Comments(0)学び

2018年08月25日

「他者」に出会うコモンズ・デザイン

まわしよみ新聞開発者の陸奥賢さん、
内野に来ていただきました!
内野町の「又蔵ベース」で開催。
参加者は12名でした。



まずは直観読みブックマーカー。
これは、本の神様にワンフレーズを聞く、
本占いみたいなものです。

僕がやったのは、

6月に発売された陸奥さんの
「まわしよみ新聞をつくろう」(創元社)です。

愛とは何か。
「1回やれば誰でも簡単にできる」
うーん。
深い。(笑)

ブックマーカーで遊んだあとは、
まったく関係ない本にこっそり挟んでおき、
その本をうっかり手に取った人が
違う世界に興味を持てるきっかけになるような、
そんなデザイン。

そんなブックマーカーの実践をしてからのトーク。

陸奥さんのやっている
「まわしよみ新聞」などのコモンズデザイン。

「まわしよみ新聞をつくろう」には、
2012年からの6年間の実践を通して気づいた
エッセンスがたくさん詰まっている。

特に第4章の「もっと知りたい、まわしよみ新聞」では、
フロー型のテレビやインターネットとは違う、
ストック型メディアである新聞を使うことによる
さまざまな効果が書かれています。

この中にもある「他者に出会う」
というキーワードが、昨日のトークを通しても、
陸奥さんがやっていることの
大きな要素となっているように感じました。

本書では
「共同作業に慣れる」
「会話でもなく対話でもない共話のデザイン」
「ノンバーバルな共同体験」

など、まわしよみ新聞のエッセンスが書かれていて、
それによって、いかに「他者と出会う」ことが大切かと語ります。

大切なのは「他者に出会う」こと。

それを、「まわしよみ新聞」や「直観読みブックマーカー」や
「当事者研究すごろく」などを通じて実践しているのが
陸奥さんの強みだなあと思いました。

それは、僕がいう
「本、本屋をきっかけとした機会提供」
に近いものなのかもしれません。

昨日トークしていて思ったのは、
陸奥さんは
「機会提供」の対象者が、広くて深いんだなあと。

僕は冷たいんだなあというか、
対象者が狭いんだなあと。

僕はおそらく、対象者を限定している。
対象者というのは「お客」と同じことだ。

それは、僕の出発点が
15歳の不登校中学生、シンタロウに出会ったことだったから。
僕は「お客」から出発しているから。

だから、僕にとっては、
「コモンズデザイン」で出会う「他者」であり、その「出会い」を、
顧客である中学生高校生大学生にとって提供したいと思っている。

一方で、「対象者」を設定することは、
「他者」を限定することにつながるのかもしれないと昨日は思った。

陸奥さん的には、
他者っていうのは、想定していない人との出会いであり、
それを生み出すのがまわしよみ新聞などのツール。

だから、まわしよみ新聞をつくったら、
人が見えるところに張り出して、
そこからまた出会いにつなげていくこと。

そういうのを繰り返して行った先にあるもの。
それを見てみたいのだなあと思った。

さて、今日はいよいよまわしよみ新聞の実践と
お笑い集団NAMARAの江口歩代表とのトークです。

トークテーマは、
「越境~コミュニティデザインとコモンズデザイン」

今日もいろいろ学んできます。
参加者まだまだ募集しています。

直接会場へお越しください。  

Posted by ニシダタクジ at 06:05Comments(0)学び

2018年08月24日

なぜ本なのか、なぜ本屋なのか?

とあるケーブルテレビのインタビューを受ける前の
事前打ち合わせ。
最後に、「なぜ本なのか?」と問われた。

これまで幾度となく聞かれ、
なんて答えたのか覚えていない質問。

気がついたら、本屋だった。

そして、本屋で目指していたのも
「劇場のような本屋、本屋のような劇場」だった。

キャッチコピーは
「気がついたら私も、本屋という舞台の共演者になっていました」
だ。(キャッチコピーとしては長い)

本屋をやる一方で(多方で、か)、

僕はまきどき村で畑と朝ごはんをやり、
ヒーローズファームで大学生の実践型インターンシップ「起業家留学」をプログラムし、
大学生向けの地域プログラムを書き、また大学のコーディネーターとして、
地域活動の立ち上げ支援を行った。

それはなぜなのか?
そもそも本とは、本屋とはなんなのか?

昨日、「かえるライブラリー」の説明をしていて、
「本屋の機能」について説明していた。

僕が考える本屋(あるいは古本屋)におけるもっとも重要な機能は、
「何か面白いものないかなあと」という気持ちだ。
つまり、予測不可能な面白い本(情報)がある、ということだ。

そこに新刊書店であれば、「最近の世の中はどうなっているんだろう」というのが付加される。

ツルハシブックスであれば、そこに集まる人(ほかのお客さん)との出会いも付加される。
野島さんがソトコトに語った「ツルハシブックスにいけば誰かに会えるから」と言ったあれだ。

東京でやっている「暗やみ本屋ハックツ」は、
メッセージで本を選ぶことで普段手にしない本を手に入れたり、
あるいは誰か(寄贈者)の思いを受け取る。といったような機能があるだろう。

僕が現代美術家であるとするならば(この前提。笑)、
すべてのプロジェクトに「問いかけたい(表現したい)」何かがある、はずである。

まきどき村は「豊かさ」の表現だった。
ツルハシブックスは「偶然」という価値の演出だった。
じゃあ、かえるライブラリーは?

そんなことに思いを馳せていると、
1冊の本に出会った。


「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)

僕が本を読む動機の中でもっとも強いのは、
自らの現在や過去の「違和感」や「感動」を解読したいからだ。

そういう意味では、
この「中動態の世界」が僕に拓いてくれたものは
とてつもなく大きい。

僕が何を大切にしているのか、
なぜ本なのか、なぜ本屋なのか。

それは、僕たちが中動態の世界を生きているから、
あるいは僕が生きたいから、なのかもしれない。

「意志」も「未来」も存在しない。
能動と受動が対立するのではなく、
それは中動態から始まっているのだ。

「やりたいことは何か」「将来何になりたいのか?」という問いは
問いが間違っているのではないか、とずっと思っていた。
「意志」と「未来」が存在しないとしたら、
その問いは大きく間違っているのだろう。というか、意味をなさないだろう。

西村佳哲さんがいう、仕事の根っこにある
「あり方、存在」の大切さもここにある。

「場」のチカラって、
それぞれの人が「変状する」のが
それぞれの人の本質に沿っている、
つまり自由が発揮されている状態にあること、だなあと。

「挑戦」とか「目標」とかじゃなくて、
ただ、「結果」が目の前にあって、
他者からの影響も受け続けていて、
そこに対して自分がどのように影響を受け、
またどのように変状していくか。

たぶんそんなのを本屋でやりたいんだ。

なぜ本なのか?
それは、本がもっとも不確実に人に影響を及ぼすからだ。
意図しない変化をもたらすからだ。

なぜ本屋なのか?
それは、本屋空間という場のチカラによって、予測不可能性が高まり、
それによって相互の影響しあうからだ。

目の前の状況から、
いまいるメンバーで何かが起こっていくこと。
それを見届けること。
あるいはそこに自分も参画すること。

そんな「あり方」を僕が望んでいるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 12:21Comments(0)

2018年08月20日

「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感


「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)

3月に西村佳哲さんに聞き、
4月にブックスキューブリック箱崎店で購入し、
4か月寝かせておりましたが、
お盆に読んだ「日本文化の論点」(宇野常寛 ちくま新書)
でも言及されていたので、読み始めました。

こんどの週末に行われる
陸奥賢さん、江口歩さんとのコラボに向けて、
この本は読んでおいたほうがいいのではないかと。

この本は、中動態(いま、単語登録しました)
をめぐる旅。
考古学的言語学?人類学的言語学?
とでも言うのだろうか。

國分さんの語り口が、まるで名探偵のように
的を射ていて、とてもワクワクしながら読める。
この週末で第6章まで読みました。

ここらで少しまとめておこうかなと。

まずこの本は
「能動態」(する)と「受動態」(される)という現在の区分のほかに
「中動態」があったとするところから始まる。

~~~以下シビれたところを本書より引用(自分のメモ含む)

実は多くの言語が能動態と受動態という区別を知らない。

責任を負うためには人は能動的でなければならない。

責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉する、ということである。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題だった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

ギリシア世界には「意志」はなかった。能動態が中動態に対立している世界に「意志」はない。

おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきたこの思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだという見解は、暗々裏に、未来を真正な時制とすることを否定している。

アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去からの切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力の存在が認められる。

選択は過去の帰結としてあるが、意志は、過去を断ち切るものとして責任に付随している。

選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。

能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。

「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。

出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。

意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。

私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。

~~~ここまで引用

どんどん先を読み進めたいところなのだけど。

ギリシア世界には、「意志」は存在しないし、
それに伴って「未来」も存在しない。
過去からつづく流れの中で、状態(状況)としての今がある。

能動態‐受動態という言語体系は、
「この行為は誰のものか?」と問うが、
その問いはそんなに大切なのか?

大切だとしたら、それが大切とされるようになったのはいつからなのか?
そんな問いが浮かぶ。

そこで。
僕の興味ジャンルに、このことを
応用しようとすると、

小学生~大学生が向き合っている(向き合わざるを得ない、強制的に向き合わされている)
次のふたつの問いが浮かんでくる。

「やりたいことは何か?」
「何になりたいのか?」
この二つはまさに「意志」と「未来」を問う
質問なのではないか。

あたりまえだけど、
「言葉」と「世界」は相互に作用している。
「言葉」が「世界」を規定し、
「世界」が「言葉」を規定している。

だから、「やりたいことは何か?」
と問われれば、「やりたいことは何だろう?」
と考え、それに答えようとしてしまう。

でもさ、
そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。
能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。

もしかしたら、そんなところに
これらふたつの問いの
違和感の正体があるような、ないような気がする本です。
いやあ、これだから本は面白いなあと思いました。

で、この本がどう週末のイベントに関係しているかというと、

陸奥さんのテーマは「コモンズ(共有地)デザイン」
江口さんのテーマは「越境」

大きな意味でふたりは、
「分ける」ということに対して、
チャレンジしているのではないかなと思った。

僕は、そのヒントが「能動態」と「受動態」の対立、
「行為者」や「意志」を確定させようとする言語というか
言語の変遷にあるような気がして、
まあ、たぶん水曜日までに読み終わります。

お楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)