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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年12月10日

最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である

12月13日の茨城大学iopラボ「場づくりラボ~付箋を使って、発想を生む!KJ法の使い方」
https://www.ibaraki.ac.jp/commit/ioplab/2019/11/271145.html

に向けて、
川喜田先生の著作を読みます。


「野性の復興」(祥伝社)


「創造と伝統」(祥伝社)


「発想法~創造性開発のために」(中公新書)

阿賀黎明高校魅力化プロジェクトのコンセプトは
「ふるさと創りびと」を育てる。
なのだけど。

その「ふるさと」の定義は、川喜田先生のものを採用している。

「ふるさと」とは、子どもから大人になる途中で、子どもながらに全力傾注で創造的行為を行い、それをいくつか達成した、そういう達成体験が累積した場所だから「ふるさと」になったということ。「ふるさと」は過ぎ去った時を懐かしく思っての「→過去」という矢印ではなく、創造的行為によって「→未来」が累積した場所のこと。

こんなことを復習していたら、
デカルト的パラダイムと、川喜田先生の考え方が大きく異なることが書いてあった。

そこでこの一言。

最初にあるのは「我」ではなくて「混沌」である。(「創造と伝統」川喜田二郎)

「われ思う、ゆえにわれ有り」に代表される物心二元論。
デカルトは「初めに我ありき」といい、川喜田先生は「初めに混沌ありき」という。

「混沌」→「出会い」→「矛盾葛藤」→「本然」
「混沌のなかから自己という主体の認識を持つ」
それはデカルトとはまったく異なる。

デカルトの考え方では「我」、自我意識の自己というものが支配的な主体の位置を占めているのに対して、私の考えている創造的行為にあっては、何を創造するかという対象となる客体との相互関係で「我」が存在する。

デカルト的パラダイム(範例、図式)は、近代科学の基礎になった。そこには「分析と推論」という方法しか用意されていない。しかし、環境問題や世界平和といった現実社会において今もっとも必要としているのは、問題解決のための「総合」であり、それには欠けているのである。

そして、今日イチの衝撃はこの図(「創造と伝統」P59より)



デカルト的パラダイムと川喜田的パラダイムの比較説明図。

デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。
しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、
主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。
そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

川喜田先生は、このように説く。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場をつくる。

っていうのは、きっとそういうことなのだろうと。
そしてそれはそのまま「学びの場」、あるいは「学びあいの場」づくりに
直結しているのだろうと。

場の価値。
それは創造が起こること。それにより自己が変容すること。

そして人は、場から学ぶ。
「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。
それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?
そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?
「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。
そこに「創造」が生まれる、かもしれない。
その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。

そんな「場」をともにつくる。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2019年12月09日

「判断」の余白をつくる

栃木・那須にある非電化工房に行ってきました。
行きの電車の中で読んでいたのはこの本。


「野性の復興」(川喜田二郎 祥伝社)

こちらのW型の問題解決図式。
これが面白かった。

P109のこの図

「ひと仕事」とは、このように動くのだと。

それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?
と川喜田さんは問いかける。

何が違うのか?
そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。
これは厳しい一言だなあと。

A 探検 →B 野外観察 →C データをして語らしめる
→D 評価・決断・構想計画→E 具体策・手順化
→F 実施 →G吟味検証→H 結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。
「仕事」にモチベーションが上がらないのは、
F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。

あ、それって「学習」も同じだ。
学校の授業にはFしかないんだ。
授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

そして、非電化工房見学会へ。


予算50万円で建てた非電化カフェ。

中に入るとこんな感じ。




~~~ここから見学会メモ

「非電化工房」見学会に参加。
感想がうまくまとまりそうにないけど、一言で言えば、ジーンと来ちゃったなあ。静かな感動というか、そういうやつ。
高校~大学の僕のトピックは環境問題だった。その頃に出会っていたら、1年修行したかった。
環境問題は技術でなく、価値観の画一化と思考停止の問題だと思った。

生きる力。食べるもの、住む家、エネルギーを自分で何とかすること。
+生活に必要な資金を稼ぐこと。
特に住む家を自分で建てられるというときの安心感。50万円で家は建つ。

テスト弟子入りのポイント
1 体力
2 性格
3 志

杉皮の遮光性とか、もみ殻の断熱性とか、すげえなと。自給できるじゃんって。

「非電化」というのは、「電気を使わない」ということではなくて、「電気に依存しない」ということ。
「お金やエネルギーに依存しない」ということ。「生きていける」という実感。

「現代の縄文人」っていうか、そういう感じ。
テクノロジーさえも自然資源とするような。

「保温調理器」とか「圧力鍋」とか。
エネルギーを与え続ける必要はなくて、温度を保てばいいのだと。

白金カイロ「ひとりキャンペーン」。
いいなあ、藤村先生の遊び心。

土塗りワークショップの一番の利点は仲良くなること。

「非電化工房じゃないとできないワークショップ」
同じワークショップは2度とやらないという発明家の意地。
でも、あまりにもそれだと大変なので、やっぱり2,3回はやろうかという余白。笑。
その余裕が魅力だ。「しなければならない」「こうでなければならない」は一つもないのだから。

女2人で2日で1万円で井戸を掘るWS
http://hidenka.net/seminar/ws2018/ws5.htm
いきたい。

もはや上水道は維持できない。
だとすると、井戸を掘るしかないよね。
出るまで掘る。1人ではやらないこと。みんなでやること。

「発明家」とは何か?
困っている人がいたら何か発明して解決する人のこと。

汚い水が原因で子どもが毎日死んでいる。なぜそれを放っておくのか?という憤りから始まった井戸掘り。
お金を使わないで井戸を掘る方法はないか?女の人は子どものためなら動く。だから、女2人で、ってタイトルなのか。

ワークショップで簡単に水が出るのはあまりよくない。井戸掘りの技術そのものがすごいのではなくて、出るまでやっても1万円しかかからないこと。みんなでやれること。出るまでやり続けることができる、という価値。

「お金があることでチャレンジできる」のではなく、「お金がなくてもチャレンジできる」へ
出るまで掘れば井戸から水は出る。やればできる。

「非電化工房」全体の横たわる遊び心がすごいな、と。日々実験してる。

「時間が止められるか?」という問い。
「空間が狭くなるほど時間は長くなる」理論。面白かったな。

クレーの絵と谷川俊太郎の詩で感動できないはずがない。
→感動できないのは時間に追われているからだ。
→時間を止められる場所をつくれないか。
→ツリーハウス。

猪熊弦一郎×ホンマタカシも感動できないはずがない。
「時間の流れを変えられないか?」という問い。

「非電化」っていうのは技術じゃなくて思想や文化、なのだなあと。
そこに若い人が吸い込まれていくのはよくわかる。
それでいて思考停止させない余白だらけの空間がある。
常に判断、し続ける。

非日常空間をつくるには、太陽(光)を見せないこと。

「窓」とはいったい何か?
採光や風を通すという機能以外の何か、もっと大事なものが入ってくるのではないか?
それは未来や希望なのかもしれない。
想像力。

「機能」よりも大切なものがあるんじゃないか?という問い。

~~~ここまでメモ

どこまでも遊び心にあふれた発明家、藤村靖之さん。
「非電化」とは、「電気を使わない」ことではなく、「電気に依存しない」こと。

そして、「非電化工房」っていうのは、
巨大な実験場で、日常生活そのものを「自らつくる」という
プロセスそのものを楽しんでいるところ。
発明家の意地、誇りから始まった井戸掘りプロジェクト。
家を自ら作ることで得られる、圧倒的な安心感。

「時間を止めることができるか?」
「窓」ってそもそもなんだろう?
と実践を通して問われる哲学的な対話の時間。
ここには、川喜田さんの言う「仕事」が、たしかにある。

それは、探検(実験)し、野外観察し、評価と決断をして、
次の策を考えるという問題解決図式の本質がある。

「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)

この言葉は重い。
多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。
それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。

「学び」もきっとそうだ。
「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?

そこに「判断」があるのか?
「構想計画」があるのか?

「課題が与えられ、解決策を提案する」
「観察」も「判断」も「執行」もない。
そんな授業でどんな力をつけようとするのか?

「判断」の余白をつくること。
そこに「主体性」と呼ばれるような何かが生まれるのだと思う。
それは「好奇心」だったり「探究心」だったりするのだろうけど。

たぶん、そこが一番大切なところだと。  

Posted by ニシダタクジ at 10:20Comments(0)学び日記

2019年12月01日

「学び」を「創造」する

フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン。
これが僕の現代美術家としてのポジションなのですが。



昨日は黎明学舎と「れふぇり」さんのコラボ
むかごジェラート(目黒農園提供)のイオン新潟南での販売でした。


目黒さん入りパッケージ。


むかごってタピオカに似てますよね。



信州大学の福住さん、平下さんが
1泊2日で阿賀町に来てくれて、最初のお客さんをやってくれました。

1日目の夜に、
すごい発見をもらいました。

「学び」を「創造」すること。

それだ、と思いました。
高知の嶺北で瀬戸さんたちがやっていること。

それは、
創造的な学びの場づくり、ではなくて
「学び」の「創造」だった。

嶺北探究の授業で誰よりも学んでいたのは
瀬戸さん自身だった。
しかもそれは、授業という「場」がなければ成立しない
学びだった。

そこに惹かれて、中学生は入学を決めていくのではないかという仮説。
嶺北には、「あこ」には、「学び」の「創造」がある。

学びを創造する。
創造的行為を積み重ねて「ふるさと」をつくる。

むかごジェラートっていうのは
たぶんそういうこと。
初めてのことをやることで「学びの場」が創造される。

高校生と講師の区別なく、
学びを創造していきたいと思った。

そして何よりも僕自身は
学びの創造の際に起こる
フラットなコミュニケーションを見たいのだと思った。

楽しくなってきた。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)学び

2019年11月25日

二元論という禁断の実


「普通がいい」という病(泉谷閑示 講談社現代新書)

この春、衝撃を受けた
「仕事なんか生きがいにするな」(幻冬舎新書)の著者、泉谷さんの2006年の著作です。
http://hero.niiblo.jp/e489521.html
(貨幣経済が「質」を「量」に還元した 19.7.4)

今回取り上げるのは 第3講:失楽園です。
「頭」と「心」の話が分かりやすく解説されています。

人はなぜ思い悩むのか?
「頭」と「心」と「体」はどう関係しているのか?

そんな問い。

~~~ここから抜粋して引用


図3-1で「頭」と「心」と「身体」の関係が描かれています。

「頭」とは理性の場であり一方「心」は感情や欲求の場で、「身体」と一心同体につながっています。

「心」の上に「頭」がついていますが、そこにはフタがついていて、これは頭によって開閉されます。ですから、このフタが閉まっているときは、「頭」VS「心」=「身体」という内部対立というか、自己矛盾が起こります。しかし一心同体である「心」と「身体」は、決して食い違いを生じません。

「頭」は理性の場所で、理性とはコンピューターのような働きをするもので、1/0という二進法を基礎に動いています。

ここでは、計算や情報の蓄積、それを基にした情報処理つまり推測・分析・計画・反省などを行います。使う言葉としては、「頭」は「~すべき」「~してはいけない」といった言い方をする。英語で話すとmust やshouldという系列になります。論理的であること、因果関係を考える働きがありますので、必ず理由がくっついているという特徴もあります。

また、時間・空間の認識では、過去を分析し、未来やここ以外の場所をシュミレートするのが得意です。過去の「後悔」未来への「不安」などはここで生み出されます。逆に「今・ここ」については苦手で、正しくとらえることができません。

また重要な特性としては、「頭」は、とにかく何でもコントロールしたがるという傾向を持っています。自分の「心」や「身体」に対して、まはは降りかかる運命に対して、自然に対して、といった具合に、その対象は際限ありません。間違ってはならないのは、いわゆる「欲望」というものは、「欲求」と違って、「心」からではなく、この「頭」のコントロール志向から生じてくるものだということです。

一方、「心」は「~したい」「~したくない」「好き」「嫌い」等々の言葉を使います。英語で言えば、want toやlikeの系列です。理由や意味・意義などは一切くっついてきません。いきなり判断だけを言ってくるのです。

時間・空間の認識では、「頭」と違って、「今・ここ」に対して焦点を当て、シャープに反応します。ですから非常に即興的で、「前はこうだったから、今度もそうだろう」といったような過去の情報に基づいた反応はしません。それをするのは記憶やシュミレートをつかさどる「頭」の方です。

またオリジナルな感情、つまり喜怒哀楽は「心」から生まれますが、期待をかけて叶わなかった時に起こってくるような感情は「頭」から生まれます。なぜならば期待というものは、未来をシュミレートし、こうあって欲しいとコントロール志向を向ける「頭」由来のものだからです。

「身体」は「心」と直結していますので、密接に連動しています。欲求や感覚などは、この両者によって生み出されるものです。また「身体」と「心」は一心同体ですから、「心」に元気がなければ「身体」も元気がないということになります。

他の動物と人間が決定的に異なっているのが「頭」という部分であり、この「頭」が人間にまつわる様々な現象の鍵を握っているわけです。

「頭」は、二元論が基礎になっている理性の場ですが、これを仏教の言葉で言うと、分別ということになります。善/悪、正/誤などなど、この分別の働きが人間の文明をつくってくれてきたのですが、しかし、この働きが同時に人間の不幸を生み出す源にもなっているのだということを、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教共通の聖典である「旧約聖書」や、また仏典でも、口を揃えて言っているのです。

旧約聖書・創世記の中の「失楽園」の話では、アダムとイブが神の禁を破って禁断の果実を食べてしまいます。すると途端に、自分たちが男/女の違いがあることに気づき、恥ずかしくなってイチジクの葉で陰部を覆うことにしました。これが羞恥心の始まりというわけです。

一般的に考えて、人間が善悪の判断ができるようになることはむしろ望ましいことなのではないか、それなのに、なぜ神はこれほどまでに厳しく禁じたのか?

「善悪の智慧の実」は、つまり、物事を善/悪に判断する二元論の実であったのです。ですから二人とも同じ人間であったのに、男/女という区別が生まれた。そのために性差の象徴である陰部を覆わざるをえなくなったのです。

それでは、神はなぜ、二元論の獲得を人間に厳しく禁じたのでしょうか。二元論を獲得した後、アダムとイブは神に対して、責任転嫁という悪知恵を使って言い逃れしようとしましたが、これが神の怒りをかってしまいました。

キリスト教において、人間はあらかじめ「原罪」を負っているという考え方がありますが、その「原罪」とは、神の禁を破って「善悪の智慧の実」を食べてしまったことを指します。よくある解釈では「神の禁を破ったこと」に重点を置いたものが多いようですが、私はこの「二元論の獲得」にこそ、人間の「原罪」を見るべきではないかと考えるのです。

~~~ここまで抜粋して引用

「二元論の獲得」こそが「原罪」である。

これはなんか、すごいことです。
「頭」と「心」と「身体」の関係。

そう考えると、近現代は、「頭」が「心」と「身体」を支配しようとしてきた時代なのかもしれません。「宗教」は「科学」へと取って代わられ、そしていま「科学」の価値が揺らいでいます。

その認識を持つこと。

本書はこの後、「科学」と「頭」による支配について言及しています。

「二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・数量化や計量ができるもの・再現可能なもの・必然性の明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を与えない場合しか扱えないという大きな限界があります。しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・質的なもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとってはむしろ重要です。なぜなら、それらの性質とは、「生きているもの」や「大自然」の特性そのものだからです。」

「人間をひとつの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。」「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけど、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。それがうつ状態や幻覚、妄想、そして摂食障害などです。いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の特異な秘書を雇ったのだけど、いつの間にかその秘書が社長を仕切り始めた、そんなイメージです。」

そして、こうまとめます。

本来、人間の中心は「心」=「身体」の方なのだということを「頭」はわきまえる必要があります。「心」=「身体」は「頭」などが及びもつかない深い知恵を備えているものです。しかし、それがあまりにも桁外れに凄い能力であるために、「頭」にはその凄さが分からない。単にきまぐれ、デタラメとしか理解できない。それで「頭」は、「心」=「身体」を劣ったものだと誤解している。その結果「頭」が思い上がってしまって、「心」=「身体」をコントロールすべきものだと考え、このような独裁状態になってしまったのです。」

という感じで引用しまくってしまいましたが、この「頭」と「心」=「身体」の関係は、知っておいたほうがいい話だなと思いました。

教師と生徒の関係にも似ているなと。「心」=「身体」とは、内なる自然である、と出てきます。

木曜日に高知・嶺北で見た瀬戸さんによる「嶺北探究」の授業。
そこには「自然」があった。「心」に耳を傾けていました。

「二元論の獲得」という原罪。
「頭」の限界。「心」=「身体」へのシフト。
これがいま、起こっていることなのではないかと思います。

ますます、ここ200年の近現代社会が特殊の状況にあったのだなあと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:47Comments(0)

2019年11月23日

「授業」や「場」というエコシステム(生態系)

高知県の嶺北地域、本山町に嶺北高校があり、
土佐町にNPO法人SOMAが運営する「あこ」がある。

嶺北高校の探究の授業と
フィールドの見学をさせていただきました。
大辻さん、本当にありがとうございました!

まずは四国の水がめ、早明浦ダム。


からの男子寮の見学


そして、高校で探究の授業を見学


事務所に戻って、説明を伺い、最後に公営塾の雰囲気を見て、帰ってきました。

NPO法人SOMAが展開する
地域の学びの場「あこ」が
本当に子どもから大人までが集っていて
すごい場所だった。

兵庫県の中学から入学した男子生徒は、
「最初に見たときに、ここだ、と思った。ひとめぼれに近いです」
と話してくれた。

その理由が、
大辻さんや瀬戸さんから話をきくたびに、
だんだんとわかってきた。

学びのエコシステム(=生態系)をつくる。

一言でいえば、そういうことなのだろうけど。

一番印象的だったこと。
嶺北探究の作られ方。
この日も直前のぎりぎりまで瀬戸さんは準備していた。

この日の授業は、
・「嶺北高校の魅力化は私の笑顔」→動画をつくる
・シネマトグラフィー。どのように時間を使うのか?
・中学3年生がどんな映像を見せられたら行きたくなるか?
・60秒で動画4シーンで表現する。1シーンずつにタイトル→どこで撮るか?
・絵コンテには忠実に撮る。現場で変えない。

前々回:絵コンテ
前回:動画撮る
今回:実際の動画を見てみる。

前回に撮った動画を見てみて、フィードバックをもらう、という授業。
動画のクオリティとしては、ぜんぜん完成されていない。
それを客観視する。

「観察する」→「デザインする」→「表現する」
このサイクルを回していくこと。

しかし、多くの場合、
「観察する」に重きを置いてしまう、
あるいは、「お手本」を見せてしまう。
最初からクオリティを重視してしまう。

モデルを示すと、その枠を超えていかない、と
瀬戸さんは言っていた。
いちど作ってみて、それを客観的に見ることで、自分たちに気づく。

そして、モチベーションも上がる。

今回、授業後に瀬戸さんのところに来て、
もっと動画編集の時間がほしい、と言ってきた生徒がいた。

これは、マニュアル通りにやって、
そこそこの動画ができていたら起こらないことなのではないか。
もしかしたら授業外にスマホもって、動画を撮りにいくのかもしれない。
自分で動画編集を研究するのかもしれない。

瀬戸さんも言っていた。
絵コンテに集中してた。前回と全然違う。
サブリーダーが生まれた。人数が多く感じた、と。

僕も授業を見ていて、
生徒たちがだんだんと身を乗り出していくのがわかった。

~~~以下メモ

「干渉」ではなく「保護」(見守り)

個人の興味関心を言葉(発言)から拾っていく。
マンガ、ラノベ、検索してあらすじだけを把握する

★そこしか拾えないならこちらが学ぶしかない
★「聞いてあげること」の大切さ

目線を合わせないコミュニケーション
「あなたはそこにいるよね」というメッセージ
「かかわりがある」⇔「促進する」とは違う
コンテンツじゃなくて「環境」(場)

★主語が出る
誰でもいい動画じゃない。自分が出ないと成り立たない。

「この授業の主役って誰?」→あなたですよね?
と毎回聞いている。だんだん浸透していく。

「主語を自分にしていく練習」としてのマンダラート。
できていないことのチェックとリマインドはやらない。
「変化した」⇔「変化させた」

週1時間でいい。主語を自分にしていく。そこから。
「あなたの人生の主役は誰ですか?」と問い続ける。

~~~ここまでメモ

いちばんビックリしたのはリフレクションシートのこと。
リフレクションシートは毎回違うものをつくっているのだという。

前とのつながりを確認したり、次へのつながりを確認したり、
その授業回によってリフレクションの機能が違うのだと。

ああ、この授業はライブなんだと。
いま、この瞬間瞬間に作られていくんだと。

瀬戸さんは
「次に会うときには別の人になっているという前提で授業をする」
それはおそらく瀬戸さんにとっても。

来週の授業に来ている生徒は、今週とはまったく別人なのだ。
その前提で、授業をつくる。ふりかえりをつくる。
ライブ。瞬間瞬間

この授業は、瀬戸さんにしか作れないと思った。
いや、本来はどの授業も、その人にしか作れないんだ。

瀬戸さんが言ってた。
「目の前で変化している人の変化を見逃さずに済む。」

それを見ているんだ。
ひとりひとりの「変化」そのものを。

「新しい学校をつくる」という言い方
→既存の学校を否定することになる。

スタッフとして二項対立で見る人はダメ。AもBもありだと。
環境とマインドセットで人は変わる。

あとは場づくりについてのこの一言。
(子どもたちの意欲を高めるために)
「そこでは、無能な大人を演じるしかなかった。」
これも深い。

「支援」だと思って、大人はつい教えてしまう。
それが子どもの意欲を摘んでいないだろうか。

月刊「社会教育」2019年8月号に、瀬戸さんが紹介されている。

~~~ここから引用

「なんでなんだろう」と誰かが思った時に、「なんでなんだろうね」ってみんなで考えられるかどうか、これが教育機会の確保だと思ってる。

教育の目的が人に置かれることに対する危機感。

ある活動を通してこういう人が育ってほしいというのは非常に危ないと思っていて。だから常に意識・作用点は環境に置く。人は環境から独立して生きていくことはできないし、常に環境依存だから。

エコシステム、すなわち個と環境との関わり合いに注目する仕組みづくりと言える。

ここで重要なことは、エコシステムのアプローチは、あくまで意識・作用の対象を環境に向けるが、そのため相手の存在をしっかりと認めることが必要とされる。

エコシステムのアプローチにおいては、個の存在を圧倒的に意識しながらも、学びのために一歩引くということがなされている。

「土佐町は貧困地域というよりも、本質的な学びができる地域だと思った。」

~~~ここまで引用

エコシステム(=生態系)とそこにいるひとり。

という視点。
個の存在を意識しながら、学びのために環境(場)にアプローチすること。
「承認欲求を満たす」というよりも「あなたを見ていますよ」というメッセージを言語外で伝えていくこと。
そういうかかわり。

授業も、場も、エコシステム(生態系)ではないのか?

そんな深く、重い問い。
再現性なんて、やってみないとわからないけど、誰がやっても同じ結果には絶対にならない。
そして、環境も、そこにいる人ひとりひとりも、常に変化し続けている。
それを感じながら、「学び」をつくっていくこと。「場」をつくっていくこと。

その「場」を見て、感じて。
中学校3年生が直感で「ここにしよう」って決められるような。
「ひとめぼれしました」って言ってもらえるような。

そんな「場」がつくれるか?
にかかっている。

地域外からの受け入れ初年度(H31年度)10名、二年目も10名(R2年度)
の申し込みがすでに来ている嶺北高校。

その魅力を一言では言えないのだけど、
そこにはたしかに「場」があった。

「変化」を見守る大人たちがたくさんいて、圧倒的にあったかくって、
日々、学びの機会があって、毎日、「変化」が楽しみになるような。

そんな「場」がたしかにあった。

さて、こんな場を作ることができるのか、まったく自信はないけれど、
エコシステムというサイクルを、僕らのまちでも、回しにかかろう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:40Comments(0)学び

2019年11月20日

コーディネーターがつなぐのは

6月の地域みらい留学フェスタ@東京でめちゃめちゃ輝いていた
大崎海星高校におじゃましています。



1日目は
コーディネーターの取釜さんに話を聞き、
「みりょくゆうびん局」交流チームのランチミーティングの後、
1年生の大崎上島学「羅針盤学」の授業を見学し、
その後、公営塾「神峰学舎」へ。

公営塾は、夢☆ラボ。
1年生による「興味があるもの発表会」
「興味があるもの」についてプレゼン。
「ビートルズから学ぶ」の彼、面白かったな。

大好きなものがあって、
なぜ、自分は好きなのか?って問うのは
探究の入り口のような気がしたし、
最後にビートルズから学んだことを
自分の言葉で語ってくれた。
「自分は自分、好きなことをして、好きなように生きていい」
いいなあ、そういう入口。

モチベーションのスイッチを押すって
そういう機会の積み重ねなんだなあって。
黒ひげ危機一髪みたいに、
「機会」というナイフを刺しまくっていくことだなあと。

ランチーミーティングの進行をした石井先生もすごかった。

ほかの人の意見を聞きたい
→「それによってあなたはどう変わる?」
おどおどしたくない
→そういう経験があったの?

ひとりひとりのコメントに対して、それを掘り下げる質問力。
すごいなあって。
わずか30分の魔法を見せてもらったようだった。

プロジェクトの説明をしてくれたのは取釜宏行さん。

2011年にUターンして私塾をスタート。
学習支援とキャリア教育の2本柱で取り組む。
この私塾でのキャリア教育がすごかった。

6つの柱で「島キャリ」を行っていて、
生徒が主体となった「やりたいイベント実行委員会」など、
興味深いプログラムが詰まっている。

ここから始まったんだ。

そんな風に思った。
26年から準備して平成27年度に大崎海星高校の魅力化がスタート。

考えられることはすべてやった。
民泊を受け入れている大阪の中学校全校に校長先生と一緒に営業にいった。
東京での説明会を12回行ったが、参加者ゼロの会も数回あった。
寮の整備も予算のない中、様々な可能性を検討し、交渉した。

いま、コーディネーターとしてプロジェクトの設計や
地域の人たちとの橋渡しを行っている。

「関係者には、電話で済む話でも直接会いに行く」
と取釜さんは言っていた。

車に乗せてもらっているあいだも、
郵便局でも、道端でも、
取釜さんは知り合いを見つけては、
自分から話しかけていっていた。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。
はじまりはひとりかもしれない。
でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。
そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、
人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、
熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。

と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

夜明けは近い。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)学び

2019年11月18日

高校生がまちに魔法をかける

高校生による高校説明会@村松高校

村松高校
新津高校
阿賀黎明高校
新津工業高校
新津南高校
五泉高校
の6校がプレゼン。(発表順)


阿賀黎明高校は3番目。
自分たちの書いた原稿で主に行事紹介を行った。

こんな風にすればよかった。は、
・「個別最適化」を伝えるには個にフォーカスしたムービー
・「安心」を伝えるには黎明学舎のお兄さんお姉さん
・「黎明で探究」的な活動紹介、かな。

以下、他校の発表を聞いたりしてのふりかえりメモ

~~~

パターンとしては、
学校の特徴→学校案内(授業、行事など)→部活紹介
が多い。

半分くらいの高校は、
配布資料の各校の「学校案内」読めばわかるでしょ
みたいな説明をしていた。
それは別に高校生がしなくてもいいのではないか。

高校生が説明する意味。
それをもっと考えたほうがいいと思った。

主語は学校なのか?
ひとりひとりの生徒なのか?
でプレゼンは全然違ってくる。

聞きにきてる中学生(3年生だけではなかったようだ)も親も真剣そのものだった。

「就職希望する人はインターンシップとかキャリア教育が充実しているから来い」
「進学を希望する人には特進クラスがあって0限から授業があります」
みたいなターゲットに特化したメッセージも必要。

ある高校は最後に、いじめ対策のことを言ってた。
たしかにそれも心配。
動画で1日の流れを朝から放課後までおいかけた高校もあり。

なぜ今、私は3年間をその高校に投資しなければならないのか?
そこに行くと、自分の子どもは将来幸せになれる可能性は高まるのか?
この2つの問いに答えられるプレゼンを。

進路(進学)の実績を数字で語ることに意味があるのか?
→もっとひとりひとりの生徒にフォーカスしてみてもいいのではないか。

圧巻だったのは、
地域唯一の総合学科を持つ隣町の高校のプレゼン。
もうびっくりした。

まず冒頭から
「進学型総合学科」を名乗り(コンセプトの明確化)、
数英の習熟度別クラスを説明。ここまではよくある。

その次に
1 英語を特に頑張りたい生徒は、週13時間を英語に費やすことができる。
2 工学部を目指している生徒は、週17時間を数学と理科にすることができる。
3 就職を希望する生徒は、資格などに特化してカリキュラムを組むことができる
と3つの事例を紹介。

つまりこれはウチの高校に来ると「個別最適化」できますよ
というメッセージだ。

そのあとに、なんとクイズ。
創立の時代は明治か大正か昭和か?
双方向のコミュニケーションはなかったけど、
観客を楽しませようとしていた。

つまり、この高校のプレゼンテーションは、
「まず楽しくて、がんばれば進学もできますよ」
というメッセージを発していた。

学校紹介プレゼンのあと、
生徒が取り組んだプロジェクトの発表。

隣町はニット生産で有名なまちだが、
「ニットフェス」のイベントに合わせて、
さまざまな企画を立案、実行したプロセスの紹介があった。

ニットを使ったノベルティグッズを自分たちで制作し
イベントをPRする。

高校生プロジェクトとしてフォトコンテストを企画。
ハッシュタグを付けて投稿する方式でフォトコンテストを行った。
来場者は平年の2倍になったという。
アンケートを分析、対策している。

来年はバスツアーを企画。
ニットを完成させる合間に、まちのおいしいランチやスイーツが
食べられる女性向けのツアー。

その集客方法として、フォトコンテスト応募者にDMを送る
とかいうマーケティング方法を披露。
それは純粋にスゲーって思った。
フォトコンテストをインスタ上でやる意味、みたいなの。
あとはプレスリリースをする、とかも言ってた。

ほんと、大学生の経営学部の2年次のゼミのプレゼンかなと思った
PDCAとか、SWOT分析とか、STP設定とか、
誰か先生が教えてるんだろうなっていうマーケティング用語が
随所に出てきたのはかわいかった。
まあでも、「ビジネスごっこ」だとしてもすげーなと。

~~~ここまでメモ

高校生はそんなことまでできるんだ!
っていうのはたしかに思ったし、
会場にいた多くの中学生やその親は、

「個別最適化」してくれて、
「コミュニケーション」しようとする先輩がいて、
「地域の団体・企業と一緒に青天井にチャレンジできる」
っていうのは、伝わったのだろうと。

しかし。
最後のプロジェクトに関して、
ひとつだけ指摘すれば、
これはある程度設定・設計されたプロジェクトだ。

1 誰と
2 いつ
3 どこで
4 なぜ
5 誰のために
6 何を
7 どのように

の中で、4 なぜ の要素は、地域サイドから出てきている。
もちろん地域の課題をジブンゴトにする、という観点からすれば
それはそれでいいのかもしれないけど。

成果の測り方も、数字そのものだ。
来客が何人伸びた、フォトコンテストの参加人数は何人、だ。

もうひとつの別の「価値」があるのではないか?
そして、それを問うことこそ、高校時代に必要なのではないか?

地域課題解決(デザイン)と自らが心から感じた問い(アート)の
真ん中にプロジェクトが作っていけないだろうか?

数値化できる「学校化」された価値ではなくて、
自らが価値だと認識する価値へと向かっていけないだろうか?

「探究」するっていうのは、そういうことなのではないか。

さまざまな「機会」を得ることで「対話」が生まれ、
「実験」したくなる題材が見つかる。
そのサイクルの中で、

「おおお!これは。」
と感嘆符なしでは語れない出来事が生まれる。
あとはその題材を探究・探求していくこと。
たぶんそういうことなのだろうと

百姓3.0
自らの仕事の価値は自らが決める。

そんな人材が育っていくための題材が、
この町にはあふれているのだけど、まだ眠っているだけだ。

今回の学びの最大のところは、
高校生がまちに魔法をかける、ということ。
高校生ががんばっていると、まちの人は応援したくなる。

高校生が編集し、発信すると、
その面白さに、みんながワクワクする。

そんな魔法の中に、
いつしかプロジェクトをやる高校生自身が入ってしまう。

それが、「夢中になる」っていうことなのではないかって思った。
夢中になる瞬間を、もっともっと作っていきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)日記

2019年11月16日

アートとデザインのあいだ

長岡で大正大学浦崎先生の講演があるので電車で移動。
電車内読書はこの本。

学校の「当たり前」をやめた。(工藤勇一 時事通信社)

すごい。
改革がすごいというより、問いを立てる力というか、
常識を疑う力がすごい。

以下、ビビっときた語録

学校という存在自体も手段の一つにすぎず、目的ではありません。

「関心・意欲・態度」は、目に見えない尺度だけに、評価するのが難しいものです。
そのため、宿題の提出量や授業中の挙手回数などをカウントし、それを評価に活用していることは珍しくありません。

そもそも学力をある時点で切り取って評価することに、意味があるのでしょうか。

担任制はなんのためにあるのか?

これまでの学校教育では、「規律」や「団結」が尊ばれ、私自身も、チームが一丸となって何か達成するといったストーリーに感動してきました。

人が社会で生きていくスタイルそのものがアクティブラーニングだからです。

社会でよりよく生きていけるようにするという目的に対し、寺子屋が最適な手段だった

~~~

と、こんな感じ。「そもそも、何のためにあるのか?」
ってすごい根本的な思想だけど。

からの大正大学浦崎先生の講義「地元回帰の人材育成」。



講義のあとのアリバイ作り写真。(笑)
講義に興奮して赤くなってます。
いや、ホントに行ってよかったなと。

事例として出てきた飯野高校。
生徒たちが主体的にガンガンと地域で活動していて、
先生たちは新聞を見てそれを知る、みたいな。

「観光列車を走らせたい」って思ったら
本当に実現させてしまう先輩を見て、後輩は奮起する、みたいな。

恋愛のように、夢中になる地域での活動。
たしかに、部活や遊び、恋愛を超えるワクワクは
地域で作れると僕も思う。

~~~以下メモ

なぜ「地域で探究」なのか?
社会に出たときに求められる力:よりよい提案・アイデア・プランを生み出す力
=仮説:AをするとBという結果が出るはずだ
仮説が正しければ結果を出せるが、仮説が間違っていれば結果は出せない。
⇒より正しい仮説を生み出す力」が必要

1 思いつきレベルの提案:実効性なし
2 妥当性がある提案:仮説(前提条件)の吟味を行う⇒実効性あり
情報収集・整理分析・まとめ・表現
3 実践して仮説を検証:解決プランの実践⇒解決プランの修正
⇒現場(地域)での実践が必要

これからの新卒採用

・社会人基礎力と学歴(偏差値)は相関しない(高校卒業時までに決まる)
・社会人基礎力は出身高校による差が大きい
・社会人基礎力を育成する力の高い高校の卒業者を採用したほうがいい

地域が稼ぐ力/地域で稼ぐ力
→仮説形成能力がつく:地域が検証の現場になる
地元企業が採用したい若者像
→地域と豊かに関わってきた高校生が有望
・元気で提案力がある
・人柄や能力を熟知している
・幅広い年齢層と関われる
地元に回帰する可能性
→大人との一体感がカギ
採用の視点が激変する可能性
→高校に焦点、地域連携に誠実なほど有利

Society5.0
狩猟→農業→工業→情報→AI

人間には容易だがAIには困難なこと
1 現場で「感じる」こと
2 問いを立てること
3 意味を味わうこと
→探究(自問自答)によって

・課題発見(問い)には、現場(地域)で感じることが必要
・感性には個性→探究テーマは高い個別性

習得すべき知識量も以前よりさらに増加
→「与えた知識しか頭に入らない」:指示待ち人間を量産
→「放っておいても自ら吸収する力」が必要:探究する態度・能力の育成

Society5.0
人間にしかできないこと「探究」
Society4.0
「知識」は瞬時に賞味期限切れになる
・「知恵を生み出す」力が必要
・「三人寄れば文殊の知恵」
・「徹底的に個性を伸ばす」ことが必要

「対話」の重要性(三人寄れば文殊の知恵)
主体的・対話的で深い学び
お互い思い切りとがっているほうがよいものがでる。

若者が帰属意識を持つ集団・場所
1 親近感・一体感をもてる人がいる
2 自分をそこで表現できた
3 自分がそこで成長できた
若者は自分に無関心な地域には戻ってこない。
信頼を寄せる大人から誘われれば喜んで参加し、一緒に挑戦し、表現・成長できる。

Society5.0時代の教育
一人ひとりの感性・興味関心に応じた探究。
公正に「個別最適化」された学びが必要。

「個別最適化」された学び:問いに当事者性がある
地域課題解決(地域素材×探究能力)
その真ん中にふるさと教育(担い手育成)をつくっていく。

1 何を理解しているか、何ができるか
2 理解していること・できることをどう使うか
3 どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか

高校生が地域の多様な大人とともに、地域の課題発見・解決にあたる
⇒関わり合いを通して、大人も地域も揃って変容する。

行政プロセスと学校のプロセス:
「教授」から「探究」へ。

「教授」:一方向、正解を持っている
・対話性が乏しく全体最適案・深い理解ができない
・委員(生徒)の当事者性や創造性は高まらない

「探究」:委員(生徒)からの問いを誘発する
・自分たちで考える
・対話性が高く、納得感の高い解に至る
・委員(生徒)の当事者性や創造性が高まる。

~~~以上メモ

「地域の課題解決」と「問いの当事者性」の真ん中に
探究をつくっていくこと。
ここは非常にその通りだと思った。

僕は少し表現が違う。
アートとデザインのあいだ。
「課題解決」って、むずかしいし、マイナスをプラスにするようなエネルギーが必要

だから「デザイン」なんだ。
縦割り社会で予算が削られていたら、
課題をそれぞれ単独で解決することはさらに難しい。

「まちの保育園」で、高齢の方が幼児の見守りをする、など。
課題と課題を組み合わせると、一方の課題は一方に対して資源だったりする。
そういうことだ。

もうひとつは「アート」、自分の当事者性のある課題、テーマ。
「表現したいこと」に出会うこと。

それには、地域が必要。
「お客に出会うこと」が必要なのだと思う。
「この人のために頑張りたい」と思える何か。

デザインは社会を出発点にして、アートは主観を出発点にしている。
そのあいだ。そこに探究テーマをもってくること。

なんか、見えてきたよ、なんとなく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)日記

2019年11月11日

ガーデニングでスープカレーをつくる



昨日は教育ドキュメンタリー映画「Most Likely To Succeed」
の上映会でした。(眞也さん、写真もらいました!)

映画についてはこちらから。
http://www.futureedu.tokyo/education-news-blog/2016/6/8/most-likely-to-succeed-

僕のメモ。


一番印象的だったのは、
「教育はガーデニングに似ている。」
というもの。

それ!
と思った。
しかもそれは、あらかじめ何の種だかわからないんだ。

それを畑に蒔く。
日照りが続けば水をやらなければならない。
風向きが変わり、大雨が降るかもしれない。
時にカラスやタヌキが襲ってくるかもしれない。

隣に何の種を植えればいいのか?
肥料をどのくらいやればいいのか?
それは、1回1回の試行によって変わる。

それなのに、いままでは、
子どもたちは、トウモロコシの種だと信じ込まされ、
市場に出荷されるためには、色と形を均一になるように
施肥管理され、まわりと同じトウモロコシになることを強いられてきた。

ところが市場は、もう、トウモロコシばかり要らないという。
トルティーヤだけでは、食の世界にイノベーションが起こせないのだと。
もっと多様なメニューを開発し、新しいものを生み出し続けなければいけないのだと。
世界を驚かせないといけないのだと。

そもそも、みんなトウモロコシじゃなかったはずだ。

2003年、シングルカットされたSMAPの「世界にひとつだけの花」と
「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)が発売された。
http://hero.niiblo.jp/e185845.html
オンリーワンとキャリア・デザイン(12.7.23)

槙原敬之はこう描いた。
~~~
そうさ 僕らも
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい
もともと特別な Only one
~~~

この種は決して1つではないのだろうと思う。
ひとりひとりが、別々の種を複数個、いや、30,40、300,400持っているはずだ。
その中で出現しているのがそのいくつかであるだけだと思う。

今年の6月に、
柏崎変態ツアーで感じた、「人間はもっと柔らかい」のではないか、という仮説。
http://hero.niiblo.jp/e489377.html
(人間はもっと柔らかい 19.6.2)

そう。
環境によって、一緒にいる相手によって、変化しうる存在であるのだと。

映画の後の対話会で「ガーデニング」という言葉について深めることができた。

これからやっていくことは?
と問われ、それは「庭づくり」だと思った。

その種が、何の種なのか、わからないのだ。
だから、まず、植えてみるしかない。
それが「プロジェクト」という小さな庭なのだと思った。

土壌によって、気象環境によって、また一緒に育つ相手によって、
その庭の出来は決まってくるし、
自分自身がどんな花を咲かせるのか、
また、咲かせようとワクワクするのか?が決まってくる。

みんなでいい庭をつくろうと、チームビルディングをする。

そんな庭をたくさん作ること、なのではないか。
そして、その子がどんな種を持っているのか、興味深く見守ること、なのではないか。
そしてそれを自らも庭の一部としてデザインすること、なのではないか。

これからやることは、「庭づくり」。

全員にキレイだねとは言ってもらえないかもしれないが
野菜も花も、皆それぞれが咲き誇っている庭を見ながら、
その庭で取れた野菜のたくさん載ったスープカレーを食べたいなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:42Comments(0)学び

2019年11月09日

あなたは何芸人なのか?

ギャップ萌え人材。
みんなが〇〇芸人になったほうがいい時代。

生きづらさの本質は、
世の中がひとつの価値観で支配されてしまったからだと思う。
上野千鶴子さんの言う「学校化社会」である。

「近代」という「旧パラダイム」(17.4.30)
http://hero.niiblo.jp/e484636.html

上野さんは言う。

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

偏差値の呪縛から自分を解放し、自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる。私からのメッセージはこれに尽きるでしょう。

それだよな、と。

そして、坂口恭平さんは「独立国家のつくり方」の中で、
「放課後社会」を定義する。

自由とはタテの世界を行き来すること(13.1.19)
http://hero.niiblo.jp/e229119.html

この本の中で例えられているのは、「学校社会」と「放課後社会」というふたつの世界(レイヤー)

学校社会の中での評価基準は「勉強ができる」が最高で、「スポーツができる」だったり「音楽ができる」という評価ポイントがある。それは学校の先生によって測られる。

放課後社会は、もっと自由だ。人が2人以上集まったら、そこに放課後社会が形成され、そこには独自の価値観がある。

この本の中には放課後の土井くんという工作のものすごい得意な子が出てきて、それは放課後社会で著者の圧倒的リスペクトを受けていた。しかし彼の学校社会での評価はあまり高くはなかった。

坂口さんは言う。
放課後社会は無数にあり、しかもそれは匿名化されていないリアルな世界だ。

~~~ここまでブログから引用

そう。
「放課後社会」を自らつくっていくこと。それが必要なのだと思う。
「勉強」でも「部活」でもない、第3の道。いや、第3の道は無数にあるのだけど。
それは、たぶん、ひとりひとりが生きるために必要なのだ。
その第3の道を探究していく方法のひとつが大学進学なのだと僕は思う。
それに気づくこと。

今日は、橘玲さんの「人生は攻略できる」から、なぜそれが必要なのか考えたいと思う。


~~~以下メモ

働き方には大きく3つある。クリエイター、スペシャリスト、バックオフィスだ。

クリエイター:「クリエイティブ(創造的)」な仕事をする人
スペシャリスト:「スペシャル(専門)」を持っている人
バックオフィス:事務系の仕事

クリエイター、スペシャリスト、バックオフィスの1番の違いは、会社に属しているか、属していないか。
クリエイターは会社員ではない。バックオフィスは、全員がどこかの組織に属している。
スペシャリストはこの中間で、組織に属さずに仕事をするひともいれば、どこかの組織に属している人もいる。

組織に属していないクリエイターとスペシャリストは、「フリーエージェント」とか「インディペンデント・ワーカー」と呼ばれる。

「外資系」の企業では組織の中でスペシャリストとバックオフィスがはっきりと分かれている。
それに対して日本の企業ではバックオフィスの仕事は主に非正規という「身分」の労働者が行っているが、
正規の「身分」正社員のなかにもバックオフィスの仕事をしている人がいて渾然一体となっている。
「同一労働同一賃金」とは、正社員と非正規社員の身分差別をなくし、雇用形態にかかわらず同じ仕事なら同じ待遇にすることだ。

【「拡張可能な仕事」と「拡張できない仕事」】

映画はクリエイター、演劇はスペシャリストの世界だ。これは、その仕事が「拡張」できるかどうかで決まる。

映画は複製可能だから、さまざまなメディアによって世界中に広がっていく。
しかし、バックオフィスは時給計算の仕事だから、収入は時給と労働時間で決まり拡張性はまったくない。
時給1000円の仕事を8時間やれば8000円で、それ以上にもそれ以下にもならない。

演劇はたしかにクリエイティブな仕事だけど、その収入は
劇場の規模、料金、公演回数によって決まる。
大評判になれば連日満員だろうが、それ以上は利益が増えないから
富を拡張するには広い劇場に移るか、公演回数を増やすしかない。
このように考えると医師や弁護士、会計士などの仕事も拡張性がない。

クリエイティブな仕事をしていても、クリエイターは拡張可能で、スペシャリストは拡張不可能だ。

クリエイターとスペシャリストを合わせて「クリエイティブクラス」として、
バックオフィスは仕事の手順がマニュアル化されているからクリエイティブなものはほとんどない。
いちばんの特徴は「責任がない」ことだ。スペシャリストは時給も高いが責任も大きい。
もうひとつの特徴はマニュアル通りに仕事ができさえすれば、高齢者や障がい者でも、外国人でも、
働き手は誰でもかまわないことだ。バックオフィスの会社は、社会から差別され排除されているひとに
仕事を提供するというとても大事な役割を果たしている。

機械は、マニュアル化された仕事がとても得意だ。
18世紀までは糸を編んで布をつくる作業は人間にしかできなかったが、1779年にイギリスの発明家が紡績機をつくって機械化に成功した。それ以来、科学技術はさまざまな作業をマニュアル化してきて、もちろんAIもその延長上にある。
だからこそ、バックオフィスの仕事は雲行きはだいぶあやしい。

ただし、時給で給与が払われる仕事の中にもAIでは代替できないものがある。代表的なのは看護や介護などの仕事で、そこでは患者や顧客への共感力が重要になる。共感力については男性より女性のほうが高いことがさまざまな研究で明らかになっている。アメリカでは男性と徐英の平均収入が逆転してしまった。

【「サラリーマン」は日本にしかいない絶滅危惧種】

仕事と会社が一致しているのはバックオフィスだけ。
海外ではすべてのスペシャリストが「自分はなにを専門ンししているのか」を真っ先に伝える。
「サラリーマン」は会社と一体化したスペシャリストだが、このような働き方は海外ではかなり前になくなっている。

【伽藍とバザール】

伽藍というのは、お寺のお堂とか協会の聖堂のように、壁に囲まれた閉鎖的な場所
それに対してバザールは誰でも自由に商品を売り買いできる開放的な空間をいう。
そして伽藍かバザールかによって、同じひとでも行動の仕方が変わる。

バザールの特徴は、参入も退出も自由なことだ。商売に失敗して、「なんだあいつ口ばっかでぜんぜんダメじゃないか」といわれたら、さっさと店を畳んで別の場所で出直せばいい。その代わりバザールには誰でも商売を始められるわけだから、ライバルはものすごく多い。ふつうに商品を売っているだけではどんどんジリ貧になるばかりだ。これがゲームの基本ルールだとすると、どういう戦略がいちばん有効だろうか?

それは「失敗を恐れず、ライバルに差をつけようとするような大胆なことに挑戦して、一発当てる」だ。もちろん運よく成功するよりも挑戦に失敗することのほうがずっと多いだろう。でもそんなことを気にする必要はない。バザールでは、悪評はいつでもリセットできるのだから。

これを言い換えると、バザールの必勝戦略は「よい評判をたくさん集めること」になる。だからこれを「ポジティブゲーム」と呼ぼう。

これに対して伽藍の特徴は、参入が制限されていて、よほどのことがないと退出できないことだ。このような閉鎖空間だとちょっとした悪口が消えないままずっとつづくことになる。

その代わり、新しいライバルが現れることはないのだから、競争率はものすごく低い。どこにでもある商品をふつうに売っているだけで、とりあえずお客さんが来て商売が成り立つ。

これがゲームの基本ルールだとすると、どういう戦略が最適だろうか。それは、「失敗するようなリスクを取らず、目立つことは一切しない」だ。なぜなら、いちどついた悪い評判は二度と消えないのだから。

このように伽藍の必勝戦略は「悪い評判(失敗)」をできるだけなくすことになる。こちらは「ネガティブゲーム」だ。

ここで強調しておきたいのは、ポジティブになるかネガティブになるかは、そのひとの個性とはまったく関係ないということだ。ふだんはポジティブなひとでも、伽藍に放り込まれればネガティブゲームをするようになる。同様にいつもはネガティブな人も、バザールではポジティブになる。なぜならそれが、生き延びるための唯一の方法だから。

伽藍の世界の典型は学校だ。1年生のときについた悪い評判は、よほどのことがないかぎり学年が変わってもついてまわる。
いじめへの対処が難しいのは、生徒たちが伽藍のなかでネガティブゲームをしているからだ。
日本社会ではいたるところで伽藍ができていく。そして日本人は伽藍でのふるまい方(ネガティブゲーム)がとても上手だ。

~~~ここまで引用

なるほど。
めちゃめちゃ鋭い。

いろいろ考えることがあるのだけど
今日は大学入試というバザールについて。

大学入試そのものがバザールになった。
推薦・AO入試という巨大な市場において、自分という商品の魅力をアピールしなければいけなくなった。

就職活動も同じだ。
学生、企業が双方とも自らの魅力を語り、ビジョンを共有し、入社できれば幸せだ。
ところが、高校も大学も、伽藍の世界だ。
そこではネガティブゲームがいまだに展開されている。

世界は必然的な流れとしてバザールに向かっている。
それはグローバル競争社会と呼ばれているのかもしれない。

自らがスペシャリスト、クリエイティブクラスになるために、
バザールに対応した戦略、つまり「ポジティブゲーム」、つまり

「失敗を恐れず、ライバルに差をつけようとするような大胆なことに挑戦して、一発当てる」

だから、人が目をつけていないところを見つけ、ひたすらに掘っていくこと。
それが〇〇芸人への道だ。

それが、大学の研究分野にマッチしていたり、
研究分野でがんばれそうだとなったら、
大学はあなたという人に入学してほしいと思うだろう。

それがバザールとしての大学入試対策になるだろう。
さて、高校生のみんな、「ギャップ萌え」を探しにいこうか。

ギャップの種は、地域にめちゃめちゃ転がっているぜ。
たぶんだけど。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)日記

2019年11月08日

「ギャップ萌え人材」の育成

11月4-5日
「黎明学舎」&阿賀町の面白い人に会うツアーでした。

スケジュールはこんな感じ。

4日
9:00~10:30 くるみ洗い




10:30~13:00 フリートーク&きのこ園ランチ


14:00~15:00 ぎんなん拾い


15:00~17:30 「黎明学舎」公開ミーティング


17:30~19:30 買い出し、津川温泉
20:00~22:00 交流会

5日
9:00~10:00 昨日の振り返り
10:00~12:00 目黒農園見学


参加いただいたみなさん、たいへんありがとうございました。
公開ミーティングでは、たくさんの気づきがありました。

11月3日に長岡の正徳館高校フェスティバルにお邪魔して、
杉崎さんプロデュースのかき氷をいただいて、






ふたば未来学園高校のコーディネーター長谷川さんの講演
これもタイミングがよかった。小林先生ありがとうございます。

~~~以下講演メモ

なぜ高校と地域は協働しないといけないのか?
「地域」:担い手をつくるため
「教育」:子どもの自立のため
子どもが未来(自分と地域)のつくり手となるために必要な資質・能力という目標を共有する。

「ヒューマンライブラリー」という対話の場。

「背負う」ことが原動力になっているとは思うけど、そこまで背負わなくてもいいのではないか、ってちょっと思った。「地域のためにあるあなた」というアイデンティティ構築はだんだんつらくなる。「役に立たないといけない」みたいになるから。

かかわり過ぎず、放置しすぎない。

1 机上に留まらない生徒の資質・能力の向上
2 地域に愛着を持ち、社会への参画意識が高まる。

総合的探究の時間。
「高等学校では、生徒自身が自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し、解決していくことが期待されている。」(文部科学省)
自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見する。
これ、すごい言葉だなと。地域課題じゃなくて、生徒が中心なんだよね。

管理栄養士になりたい
→スーパーでおばあちゃんが惣菜をたくさん買ってた
→高齢者向け料理教室をやったらどうか
→もっと言えば野菜作りを一緒にやるのはどうか
→畑をつくってそこに人を呼んだらどうか
→チラシをつくって告知
→参加者ゼロだった

うまくいかない!!
みたいな出発点。
机上では想像できない提案と実践の壁。

プロジェクト学習にとって最も必要なのは真正性、つまりリアル。
「地域」はまさに「リアル」そのもの。
生徒の学びを中心に探究を設計する。
地域課題解決、地域活性化は目的ではなく結果。

「コンソーシアムをつくる」っていうのが目的になるのではなくて、機能を限定して、「価値」を共有していくことを重ねていくことが大切だと思う。
まずは「探究」サポーター的な横断的集まりから始めていったらいいと思う。

「探究」:深く考えて物事の真相・在り方などを明らかにすること
まわりの大人こそがやらないといけない。

生徒が変わる体験をつくり、それを見せる。
地域の人の「出番」をつくること。
ここで力を借りたいと設定すること。

徹底して生徒にフォーカスすることで、結果地域のためになると思う。

~~~ここまで講演メモ

そして、11月5日の公開ミーティング。
10月25日の「学校3.0」でもらったカタリバの説明資料が
非常にわかりやすかったので、それを参考に
黎明学舎のミッションについて考えるワークをした。

自己紹介→それぞれ「背景」について話す→キーワード出し
→ミッションについて話す。

みたいな感じだったかな。
アドリブだったけどうまく流れた。

~~~ここからミーティングメモ

小田切先生の言う「誇りの空洞化」と同時に、アイデンティティの空洞化が起こっていたのかもしれない。

アイデンティティを「仕事」というか職業に求めなければいけないつらさ。
それをキャリア教育は助長していないか?

「キャリアを自分で切り拓く」とは、価値の決定権を自らが持つこと、なのではないか。
「よいチーム」とは、価値をその都度みんなで設定・設計しているチームなのではないか?

石川くんの「充実感がある。くるみは嘘つかない」っていう発言もよかった。
くるみという圧倒的なリアル。

自ら価値を設定し、それを実感できる機会をつくり出すこと。
一言で言えば「この町で遊べること」
「ふるさと創りびと」とは、そういう人。

「高校生を応援するプロジェクト」と「まちの当事者(プレイヤー)を増やすプロジェクト」は同時に起こる。
同時に起こるというか、高校生という題材を追いかけることで、まちの当事者が増えていく。

「かかわりしろ」を増やす、とか、地域内でも、関係人口的なアプローチが有効なのかもしれない。
・労力を出す
・道具を出す
・お金を出す
・情報を出す(アイデア、人を紹介)
みたいなメニューの設定。

「手伝いたいのだけど?」
「はい、こんなメニューがあります」
みたいな。

気がついたら、当事者(まちのプレイヤー)になっている。
そんなデザインをつくろうよ。
まちづくり会議の目的は何か?って言われたら、まちの当事者(プレイヤー)を増やすこと、なのだけど、
まちの当事者を増やすのが目的だとしたら、まちづくり会議よりも、高校生の探究のサポートをしてもらったほうがいいのかもしれない。

アイデンティティ(自分らしさ)の危機と、ふるさとの危機(誇りの空洞化)は、同時に起こっていたんだ。
「まちを何とかしよう。」と並行して、ひとを育てること。
いや、ひとを育てることを繰り返して、結果、「まち」がつくられる。

高校生の生きづらさは、「部活」と「勉強」の価値軸しか与えられていないこと。
しかもそれは他者からの評価という量的な指標によって決まる。
価値軸の選択肢を増やし、そういう大人に出会い、リアルを体験・体感すること。

「ふるさと創りびと」の結果、自分の価値軸を自分で掴み取っていけること。
無数の「放課後社会」をつくるんだ。ね、坂口恭平さん。

どうワクワクをつくるのか?

田舎こそ、価値軸、つまり「放課後社会」がたくさんある。しかもそれが「リアル」なものとしてあるから体感できる。

「部活」と「勉強」という価値が一元化された「学校社会」の息苦しさを開放していくフィールドをまちにつくっていく。
変動する「価値」をその都度とらえながら歩いていく。

~~~ここまでミーティングメモ

「ふるさと創りびと」というコンセプトは8月に決まったものだけど、
そこに至る背景とその先にあるビジョンを考える時間。

「勉強」と「部活」という価値観。
数値化され、序列化される価値。
そこにはやはり、「効率化」という工業社会の要請があった。

そもそも学校は
「最小の労力で、(工場労働者として)一人前の人材を育てる」
という「効率化」というコンセプトで始まった。

おそらくは社会全体が「効率化」という価値観を信じた。

http://hero.niiblo.jp/e489486.html
なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)

このブログに引用した本に書いてあるように、
「効率化」の名のもとに「教養」は死んだ。

しかし。工業社会はもう終わってしまったのだ。
いや、終わってはいないのだけど、少なくとも国民のほとんどが製造業に就職して、マイホームを買えて、老後も安泰っていう時代は終わった。

僕たちは生まれた時から、そういう時代を生きてきたから、
信じられないかもしれないけども・・・

「効率化」とは、「価値の一元化」そしてそれによる「序列化」のこと。
数値化し、量的に見るということ。その前提が崩れ去っている。
価値は常に流動し、しかもそれは同じモノサシでは測れない。
そのほうがよっぽどリアルで、量的な指標しかない社会のほうがパロディに思えてくる。

誰かが設定した価値に対して、量的に反応して一喜一憂するのではなく、
自らが価値を設定し、それを分かち合える仲間とチームを組み、
その価値に共感してくれる人に商品やサービスを届ける。
それを作っていかなくてはいけない。

そこで「ふるさと創りびと」なのだけど、
自ら価値を生んでいくためにまちの資源を題材にして創造的行為に没頭すると、
そこがふるさとになっていくこと。
そんな学びができる学校を、地域をつくっていきたいと思った。

それは高校生だけじゃなく、そこに住んでいる人たちも同じく必要なことなのだ。
「誇りの空洞化」は「自分らしさの空洞化」でもあった。

そんな話を振り返っていて、
高知大学2年の檜山さんを送りながら
車の中で思いついたキーワード。

「ギャップ萌え人材」

ああ、ありかもと思った。
いま、テレビに出てる人たち。
〇〇芸人。

それって、〇〇を探究した「探究芸人」なのではないか。
それを「芸人」と掛け合わせることによって、「個性」を生んでいるのではないか。

そして芸人イメージとのギャップがあればあるほど人はそれを面白いと思う。
エンターテイメントの本質は予測不可能性だから。

少女漫画の定番みたいな、
普段は不良なのに、捨て犬に給食の残りをあげたりしていると、
そういう人を人は面白いと思うし、恋に落ちてしまう。

ギャップ萌え人材。

これ、高校生向けには使っていけそうです。
探究する人はギャップ萌えを手に入れやすい。
それって人生戦略的にはアリだよな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)言葉

2019年11月01日

伽藍を捨ててバザールに向かえ


「人生は攻略できる~君たちはこれからどう生きるか?」(橘玲 ポプラ社)

橘さんの本の面白さは、いかにも自己啓発っぽいタイトルなのに、
本人はこの世から自己啓発書を消滅させたいと思っていること。

僕が最初にファンになったのは、
「残酷な世界を生き延びるたったひとつの方法」(幻冬舎文庫)を読んだとき。
http://hero.niiblo.jp/e485390.html
参考:政治空間と貨幣空間のあいだ(17.7.20)

これでもかっていうくらい、エビデンスをもとに、
あなたは変われない、「やればできる」なんて嘘だ
っていうのを説いてくる。もはや絶望しかない。
まあ、この本はラストにめちゃめちゃ救いがあるのだけどね。
それは読んでからのお楽しみ。

今回の「人生は攻略できる」は
中学生でも読めるように平易な文章で書かれている。
学校図書館に入れるべき1冊。

さて。
今回もエッセンスのメモを書き起こします。

~~~ここから引用

好きなことの見つけ方
1 キャラに合った自分らしい生き方をする
2 トライ&エラーを繰り返す

知性とビッグファイブ
「知性」「経験への開放性」「堅実性」「外向性」「同調性」「安定性」

「圧倒的な努力」ができるのは好きなことだけ。

「やればできる」ではなく「やってもできない」を前提として人生ゲームの攻略法を考えるべきだ。

最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。

君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。

ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。

トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。

会社は社員が幸福になるためのただの道具だ。

大事なのは「きらきら」のキャリアをつくることではなく、相手が納得する魅力的な「物語」を持つことだ。

だったらなぜ、これほどまでみんなが不動産を所有したがるのか?いちばんの理由は、農耕社会では土地を所有していないと生き延びられなかったからだろう。

「土地を失うことは死ぬことだ」というルールで何千年もやっていると、「土地なんかなくてもなんの不都合もない」という新しい時代に対応できなくて、使い古しの神話にしがみついてしまうのだ。

ウマい話は、君のところにはぜったいこない。ほんとうにウマい話なら、自分で投資するに決まっているから。だから、ウマい話はすべて無視すればいいのだ。

~~~ここまで引用

リアルだ。
やっぱリアル。そして言語化能力がすごい。
その通りすぎる。

そして本書は、働くこと、働き方についての核心に迫っていく。

~~~ここから引用

働き方には大きく3つある。クリエイター、スペシャリスト、バックオフィスだ。

拡張可能な仕事と拡張できない仕事。

将来の夢や、やりたいことを職業名で答えさせるっていうのは、スペシャリストの養成っていうメッセージになっている、ってことかな。
それではクリエイターは生まれないのかも。

「共感力」が必要とされる仕事はロボットに置き換えられにくい。

仕事と会社が一体化しているのはバックオフィスだけだから。
それに対してスペシャリストは、自分の専門が職業だと思っている。

「伽藍」と「バザール」。
「バザール」の攻略戦略は、「失敗を恐れずに、ライバルに差をつけるような大胆なことに挑戦して、一発当てる」だ。
「伽藍」の攻略戦略は、「失敗するようなリスクを取らず、目立つことは一切しない」だ。

だから、伽藍を捨ててバザールに向かわないといけないし、スペシャリストを目指さないといけない。

シリコンバレーでは大失敗すると投資家から高く評価されて、より大きなチャンスがめぐってきたりする。なぜなら、能力のない人間には大きな失敗などできないから。

伽藍とバザールではゲームのルールが正反対なのだ。ネガティブゲームを抜け出し、ポジティブゲームに徹せよ。そういう風に言われないとさ、単に失敗を恐れずにチャレンジしろって言われてもチャレンジできないけど、バザールに向かうのだから新しいことやってみろって言われたほうが納得するよね。

~~~

働き方の3分類もうなったけど、
やっぱり一番は伽藍とバザールの話だ。

インターネットは伽藍の壁を破壊しつつある。
「伽藍(がらん)」とは、寺院にある門のように、外界と遮断する壁の内部のことだ。
かつて会社は、そして地方は、さらには地域社会は、伽藍の中にあった。

そこでのゲームのルールは、橘さんのいうように「ネガティブゲーム」だ。
「失敗をするようなリスクを取らず、目立つことは一切しないこと」
失敗すれば、不義理をすれば、そのネガティブな評判は一生ついてまわる。

その壁は、破壊されたのだ。
あるいは、破壊されつつあるのだ。
世界はバザールに向かっている。

バザールとはオープンな市場だ。
誰かが珍しい良いものを売れば、それが評判を生んで儲かっていく。
粗悪品は評判によって淘汰されていく。
よいものはよいフィードバックがなされ、評判資本が増える。
たぶん、そんな社会へと変化しつつあるんだ。

そんなときに、「高校」と「地域」っていう文脈では、何をすればいいのか?
バザールな社会を生きていくことになる高校生にとっての価値はいったい何なのか?

自ら題材に出会い、探究し、自分なりの価値を見つけていくこと。
それだろう。
「百姓3.0」は自ら価値を決められる人、そして価値を生み出せる人をつくるっていうコンセプトだ。

その価値に共感してくれる人が
世界という大きなバザールにいるのかもしれない。
そこに届けるための方法を考えること。
それを「探究」できる場。

昨日、友人と話していて、
「高校生」が「地域」で「探究」に対する、
高校生自身が感じる「違和感」について話をしていた。

で、タイムリーな10月30日のこれ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/endotsukasa/20191030-00148864/
まちづくりは「クソダセェからやりたくない」とのこと
リアルだなあ、と。
「高校生」が「地域」で「探究」もこれに陥りやすいのではないかなあと。

「高校生」が「地域」で「探究」。
その時の題材は「地域課題」であることが多い。
あるいは地域課題をベースに「SDGs」まで考えちゃったりしてるかもしれない。

それ、つまんねーなって。
何がつまらないのか。

「ベクトル」が一緒なんだ。
「地域の課題解決」みたいなベクトルが。
しかも、それを一元化された価値で評価されてしまう。
(それが「ルーブリック」評価だとしても一元化されていることには変わらない)

わー、それつまんねえなって。
学校っていう「伽藍」の中で踊らされているのに関しては
これまでとなんら変わらないじゃないかと。

そんなときに出てきたコンセプト
(株)グランドレベルの田中さんの「補助線」の話
https://blog.kitchhike.com/makanai-interview-tanakamotoko/
素人力を引き出す「補助線」っていうキーワード。

そう、それ!
そこにあるのかもしれない。

大切なことは「地域の課題解決」なんかじゃなくて、高校生ひとりひとりのスピリチュアルが「これだよ!」って思える題材に出会えること。
課題解決は目的ではなく結果だし、単なる機会にすぎない。
それを「伴走」ではなく、「伴奏」するようなかかわり。
それが田中さんのいう補助線をひく、ということなのかもしれない。

高校生に伝えたいこと。

与えられても与えられていなくても「機会」の中で自らの「違和感」をキャッチし、
それを深めていく中で「これだ!」って思える題材に出会い、
好奇心を原動力に深めていくことによって、「価値」に出会うこと。

思えば、僕は、大学時代にそんな探究をしていた。
地球環境問題の深刻さにかかわらず、エコバックを持ちましょうなどという
小手先の対策しかしていない現実に大きな違和感があった。
個人が幸せになるってどういうことなのか?そんな問いがあった。

たまたま僕は「畑で野菜を育てる」っていうところに深く感動し、
それを手段に環境問題へアプローチしてみようと思った。
現在も毎週日曜日朝、畑作業のあと朝ごはんを食べる活動
「まきどき村」の始まりはそんな「探究」から始まっていた。

その場所は、僕にとって「ふるさと」になった。
いまでもそこに足を踏み入れるとホッとする。

バザールを生きていく高校生へ

地域課題をこちらで設定するのではなく、
「機会」をともに味わいながら、補助線を引き、
さまざまなベクトルに探究が始まっていくような、

そんな活動をしていくこと。
そんな現場を僕は見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 09:12Comments(0)思い

2019年10月28日

PBLの意味と意義

10月22日
推薦・AO入試研修に続いて、
高大接続改革とPBLについて。

~~~まずはメモ

キャリア教育とは社会と学校の断絶を埋める教育内容・手法

社会の変化によって、教育機関と仕事社会のあいだの断絶が
企業内研修で埋められないほど大きくなっている現状

高校で学ぶこと、大学で学ぶこと、社会人で必要なことが
接続していない

大学生と高校生の違いって何?
高校に通っているのは「生徒」。「生徒」は「正しい答えを学んでいく」ことが役割
大学に通っているのは「学生」。「学生」は「物事を突き詰めて明らかにする」ことが役割
そのために、必要な教授や授業、研究会を選び、意見を交換し、アドバイスをもらい、自分の意見を考え続け、まとめていく。

学生として必要な力
・基礎学力・・・学習能力
・問題発見能力・・・研究テーマの発見
・主体性・・・授業、ゼミ、研究を選択する
・巻き込む力・・・授業・ゼミを活性化する
大学は、これらの能力が高い人間を求めている。

「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性・協働性・多様性」
高校で学ぶこと、大学で学ぶこと、社会人で必要なことが接続する=高大接続改革の目的。

高大接続改革とは、高校と大学の学びをつなげること。高校で育む学力の共通言語(学力の3要素)を作ることで高校と大学の学びをつなげ一貫性を持たせる改革のこと。

大学入試改革。
高大接続で問われる学力の3要素を多様な視点で評価する入試形態。

入試改革後の問題に立ち向かうには
・相手にわかりやすく伝える力。(論理的思考・表現力)
・物事を多様に捉える視点。
・資料から目的に従って情報を取捨選択する力
・問題、課題を捉えて原因を追求し、解決策を考え抜く力
・自分独自の視点、視座から考える力
が必要

アクティブラーニングとは学びの手法
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり学習者の能動的な学習への参加を教授・学習法の総称。(中略)発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループディスカッション、ディベート、グループワーク等も有効なアクティブラーニング法

アクティブラーニングの意味=指導者が一方的に説明し、生徒たちがそれを受け身で聞く授業から脱し、生徒が能動的に学習に取り組むよう指導者が支援すること。

アクティブラーニングの特徴
・生徒を学習内容に巻き込む
・読解、議論、筆記などのアクティビティに取り組ませる
・情報伝達より生徒のスキル開発を重視する
・生徒のモチベーションを高める
・生徒が指導者から即時フィードバックを受け取ることができる。
・生徒が分析、知識の統合、評価などより高次の思考に取り組む。
アクティブラーニング-教室で生徒の熱狂を生み出す方法(チャールズ・ボンウェル1991)
⇒意味が多義的で誤解が生まれそう

「主体的な学び」とは、
・学ぶことに関心を持つ
・学習内容を自分のキャリアの方向性と関連づける
・学習の見通しを持ち粘り強く取り組む

「対話的な学び」とは
・自分の考えを以下の3つの方法で広げ、深めること。
・子ども同士で協働(協力して学習を進める)
・先哲の考え方を手掛かりにする。

「深い学び」とは、
・知識を関連付ける
・問題を見つけ解決策を考える
・思いや考えを基に創造する
知識の習得→習得した知識の活用

「何を、なぜあなたが、どうして志望校で、学ぶのか?」

主体的・対話的で深い学びとは、学びの姿勢
生徒が主体的に、他者と対話しながら自身、他者、地域の課題について考えれば、結果的に自身の目的意識や将来像を深掘りしながら明確にする学びが可能になる。

PBL=problem based learning
問題が与えられた上で、問題について原因を追求・探究を行い、課題を設定、解決策を見出してプレゼンテーションをする。場合によっては実行する場合もある。
これに課題発見が加わったものがproject based learning

PBL=project based learning
プロジェクト学習とは学習方法
チームや個人が自ら一定のフィールドで問題やテーマを発見し、プロジェクト化して問題について原因の追求・探究を行い、課題を設定、解決策を見出してプレゼンテーションなどアウトプットを表現する。場合によっては実行する場合もある

研究とは、未知の問題に対して仮説を立てて証明、実証すること。

これが本当に原因か?論理が正しいのかを確かめる。
この施策が本当に有効か?を確かめる。

PBLは、
1 問題を発見し、原因を追求し課題を設定した上で解決策を考える。(研究)
2 解決策を行動に移す。(原因追求、課題設定でも行動してもよい。)※地域連携が必須
3 リフレクションをして、解決策の有効性の確認、課題設定までのロジックの確認を行う。(研究)
4 改善点などから、もう一度、原因を追求し、課題を設定し、解決策を考える。→2に戻る
このサイクルを通じて、「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう人間性(主体性・協働性・多様性)を身につけていく。評価はルーブリックを用いる。

経験学習サイクル(デイビッド・コルブ)
具体的な経験をする(行動)
自分の経験を言葉でふりかえる(振り返り)
教訓や持論、自論を引き出す(本質の気づき)
次の経験の際に自分が取る行動の目標を立てる(将来の目標設定)
具体から抽象へ。

プレスタ法。
STARとPREPね。
言語化し、他者に説明する、その手順の繰り返し。
状況→障害→行動→結果
結論→理由→具体的エピソード→経緯

PBL(プロジェクト学習)とは

探究・研究や問題発見・解決の方法論やロジック、実践、
振り返り、評価を通じて生徒の論理的推論、仮説検証、実行力チームワークなど
育む学び方のこと⇒学力の3要素を育むには最適

PBLの設計のまずさ。
1 リテラシーやコンピテンシーを育む前からPBLをやっている
2 PBLをすることが目的化している
3 PBLを進路に結びつけていない。

リテラシーとコンピテンシー
「思考力・判断力・表現力」=リテラシー
情報収集力→情報分析力→課題発見力→構想力→表現力→実行
※このプロセスをふまえながら、レポートやプレゼン、卒論などの成果物を作成することで育成される。
「主体性・多様性・協働性」=コンピテンシー
対人基礎力、対自己基礎力、対課題的スキル
※協働による実際の課題解決とふりかえり(リフレクション)で育成される。

「活動あって成果なし」にならないように。
PBL以外の方法もあるけど、PBLが最適だと現在は考えられている。

リテラシーとコンピテンシーは両輪でないといけない。

~~~ここまでメモ

なぜ、アクティブラーニングなのか、
なぜ。PBLなのか、
っていうのがコンパクトにまとまっていて、
いろいろ衝撃だった。
わかりやすっ、みたいな。

学力の3要素。
それを育むためのアクティブラーニング、PBL。

それを理解した上でやらないと、
文部科学省が「アクティブラーニングだ、次はPBLだ」
って言ってるから、右往左往している教育現場ではいけないのだ。

なんか、非常にすっきりした金沢研修でした。ありがたい。  

Posted by ニシダタクジ at 17:53Comments(0)学び

2019年10月24日

「大学での研究」というプロジェクト設計ができるか?







21日月曜日は、推薦・AO入試対策研修@金沢でした。
カギとなる「志望理由書」の書き方について。
「7つの観点」とか、エッセンスに詰まった研修でした。
このブログは、まとめというよりメモ起こしです。

そもそも大学って何だっけ?から始まりました。そういうの好き。
大学は教育と研究をやる機関で、研究とは、まだ分かってないことの答えを見つけるための活動のこと。
大学の学びとは、研究を通して学ぶということ。課題を設定し、自ら突きつめて明らかにすること。
そんなところから始まった研修。

~~~以下メモ

学生とは?
「研究=自ら物事を突き詰めて明らかにする」ために
自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定し、
その課題を解決するために、自分で動ける人が求められる。

だから、推薦・AO入試で評価されること。
=「学生」として求められる力を持つ高校生を選ぶ入学試験。

A基礎学力(基本的な学習能力)
B人物像(主体性)
☆自ら教授や授業、研究会、ゼミを選ぶことができる。
C大学で学ぶときに必要な力(周囲を巻き込む力・リーダーシップ・プレゼン力・コミュニケーション能力など)
☆研究会、ゼミを活性化することができる
D明確な問題意識(問題発見能力)
☆自ら課題・テーマを発見できる
一般入試と異なり、学力以外の観点も評価されます⇒総合的な評価で決まる。

入試方式
1 評定平均・学力
2 志望理由(志望理由書、自己推薦書、エントリーシート)
3 面接・プレゼンテーション
4 小論文
5 グループディスカッション

「志望理由書」→大学は何を見たいのか?
⇒大学に入学しても意欲的に勉強してくれるかどうか。大学を辞めないか。
必要なものは明確な問題意識・志望理由と、その内容を伝えるコツ!

合格しやすいテーマがあるわけではなく、
そのテーマや問題意識に取り組む必然性が
自身(今までの活動)にあるかどうか。

そのうえで評価されるテーマは
1 だれが書きそうなテーマでも、大人が知らないくらいまで深く言及している
2 誰も思いつかないテーマ設定か
3 価値観から一貫した熱い思い

※活動実績に注意。とにかく経験を積むのではなくて、
大切なことはどのような壁に対して、何を価値観や理念として、何を考えて、どのように行動したのか。

志望理由書が書けるということと、プロジェクトが設計できるというのはかなり近いなと。
そういえば、研究も就職もプロジェクトだもんね。

1 キャリアアンカー型(職業前提型)
2 問題発見・解決型
3 野心実現・創造型

【7つの観点】
1 経験(活動実績)
2 気づき・価値観
3 実現したい野望・問題意識
4 社会的意義
5 取り組むべき課題・実現方法(解決策)
6 志望大学が最適である理由
7 将来の夢・志

★プロジェクト・行動を貫く価値観が重要

価値観・信念が思考を生み、思考が行動を生む。
その集合体を個性という。
行動から逆算して思考と価値観・信条を引き出すこと。
それが振り返りに必要な要素。

テレビ「プロフェッショナル」で挿入される一言のような価値観・信条を見つけること、引き出すこと。
勉強だけでは、それは引き出せないよね。

価値観っていうのと問題意識っていうのも近いかも。
価値観の構成要素に問題意識があるのか。
「何に違和感を感じるか?」っていうことか。

活動だけを繰り返してもそれを振り返り、思考から価値観へとメタ化していかないと、いつまで経っても志望理由書は書けない。
大学生で言えばエントリーシートが書けない。
アクティブラーニングを批判した「活動あって、成果なし」の言葉は重いよ。
そういうのを作ってきたのかもなあ。

誰に対して、誰が、何を、なぜ、どのようにするのか。
それと活動実績を接続して書くこと。

「問題意識」:そのテーマに自分が取り組む必然性があるかどうか、つまり内発的動機があるかどうか?と客観的に問題だと説明できるか?つまりデータ、数値、権威の意見があるか、つまりその問題は本当に存在するのか?
を説明できる志望理由書。

「内発的動機」と「客観的事実」
why、for whomとwhat、howの真ん中につなぎてとして、who、when、whereがあり、プロジェクトはできるのかもしれない。

「社会的意義」:投資価値があるか、ということ。社会がその問題の追求と解決を求めているのか?その理由は何か?
解決されない場合の未来と解決された場合の未来を描く。

課題とは、問題(テーマ)の中で、手が出せて解決できるもののこと。
ロジック分析とかロジックツリーって高校生のうちにやってみてもいいよなあ。
whyを繰り返す、ということ。仮説とは、原因と結果のセット。
問題には必ず原因がある、今起こっている理由、未だに解決できない理由、
根本的な理由、問題の原因がわかれば有効な解決策や学ぶべき学問を考えることができる。

志望理由書の概要:
Who(誰に対して、誰が)、what(何をする)、why(なぜするのか)、how(どうやってするのか)の要素を入れて、30秒で説明できるもの。
☆アテンションゲット(はっとさせる、びっくりさせる、読んだ瞬間「何が起こるのか」「もっと読みたい」と思わせる短い文章。
「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した」

その大学である理由「オープンキャンパスが楽しかった」はNG

~~~ここまでAO推薦入試の話。

めっちゃ楽しい。
阿賀町でやってる「まちづくり会議」のフォーマットと
志望理由書のフォーマットがめちゃめちゃ似ていてビックリした。

推薦・AO入試って、個人の能力の有無、高低じゃなくて、研究者としての大学生になる
ためにプロジェクトを設計できるかっていうのが問われているんだと。

ひとまず、今回のブログはこちらで。
また考察いろいろ考えます。  

Posted by ニシダタクジ at 10:13Comments(0)学び日記

2019年10月02日

「人」は最大の資源ではあるのだけれど

東京の魅力は「人」なんだと思う。
もちろん文化があり、商売があり、創造があるのだけれど、
東京というまちの最大の魅力は「人」に尽きると思う。

もちろんそれは、組織や地域でも同じで、
最大の資源は「人」である。
だからこそ。
教育は国の要であるし、人材育成は企業や地域の要である。

加えて、ここ数十年の大きな雇用環境の変化によって、
組織が一生涯にわたって個人を守ってくれない状況となっている上に、
「キャリア教育」という名の下で、
自分は何者なのか?
自分はどこを目指しているのか?
とひたすら問い続けられる。

「人」つまり「自分」にフォーカスしすぎなのではないか、って思う。
そしてそれこそが生きづらさの根源なのではないかと。

参考:
何者かにならなくてもいい(19.1.30)
http://hero.niiblo.jp/e488809.html

こうして、極端に言えば、
「プロフェッショナルになれ、さもなくば奴隷になるぞ」と脅されて、
中学高校大学と不安の真っただ中にいる人を何人も見てきた。

自分に向き合う。
目標に向き合う。
他者と向き合う。

それって本当に必要なのだろうか?って思う。

つい最近。
イベントの企画を考えていて、ふと思ったこと。
「いま、高校生に伝えたいこと」ってなんだろう?って。
なかなか出てこなくて、ちょっと真剣に悩んだ。

高校生を目の前にしているのに、
「いちばん伝えたいこと」が出てこないなんて。
そもそも「伝えたいことは?」っていう問い自体が、
高校生と向き合っているから、違和感なのかも。

向き合わないこと、なのかもしれないと思った。

向き合わずに、一緒に同じ方向を見つめることなのかもしれないと。
僕がやってきたコミュニケーションのデザインってそういうことなのかも、と。

本屋さんで本をすすめるとき。
意識は本に向かっている。

そして本を読んだ先にある何か、
それは決してその時点でお互いに見えているわけではないけど、
何かがあるような気がするから、本をすすめる。

畑で草をとっているとき。
朝ごはんを一緒に食べているとき。
みんなで輪になってはいるけど、向き合ってはいない。
僕はたぶん、そういう場が心地いいのだ。

「人」から「場」へ。
「チームの力」から、「場のチカラ」へ。
「手段としての学び」から「機会としての学び」へ。

そんなことを発信していけたら、と思う。
だからこそ、僕は阿賀町で、黎明学舎で、
高校魅力化プロジェクトをやっているのだと。
ここには「人」もあるけど、「人」以外の資源もたくさんあるから。
「機会」にあふれているから。「ブリコラージュ」し放題だから。

「人」は最大の資源ではあるのだけれど、
人生は経営ではあるのだけれど、
それは決して個人戦ではない。


「読みたいことを、書けばいい」(田中泰延 ダイヤモンド社)

最近読んだ本の中でいちばんドキドキした1冊。
「痛快」という言葉がしっくりくる。

この中に書いてある一言。
「就活は、受かる落ちるの選別の場ではなく、単に企業の業務と人材の能力のマッチングの場にすぎない。」

そうなんだよ。
受かるか落ちるか、っていう視点で見てちゃダメなのよ。

ヘリコプターに乗ってみたら、
まさに上に書いてあるように見える。

企業というプレイヤーと就活生っていうプレイヤーがいて、
企業の業務内容と人材の能力のマッチングを行っているだけなの。
しかもその能力は、その人のすべてではなくて、
その「企業の業務」単位で必要な1部の能力なのよ。

自分とも企業とも上司とも向き合わないことだと思う。
その企業の業務限定で開花する能力を、一緒に同じ方向を見れる企業と、上司と、やればいい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)学び

2019年09月28日

パフォーミングアーツ

パフォーミングアーツ:
演劇・舞踊など、肉体の行為によって表現する芸術。公演芸術。舞台芸術。

ワークショップは「パフォーミングアーツ」(舞台芸術)
なのだと、あらためて知った。

脚本、監督、そしてキャストが
一体とならなければ、いい作品はできない。

そんなことを思った。
一線で活躍するファシリテーターすごいなって。
「場」のつくり方、つくられ方を学ぶいい時間になった。

~~~以下メモ

ワークショップ参加者の相互理解がなければ、プランを立てることはできない。
通常2H×4回くらいはかけたい。
参加者の
・知識のレベル
・動機のレベル
・活動するときのレイヤー
がみな違うのだから、それをチューニングしないといけない。
そこから「場」が育まれる。

ワークショップが失敗する理由を合理化していないか?
・参加者
・お金
・時間
のせいにしていないか?
「ワークショップの課題」と「運営上の課題」をごっちゃにして考えないこと。

「ワークショップがどんな場であったらいいのか?」をみんなで考える。
主体は誰なのか?
行政に頼らずに自走していく会議体を作れないだろうか?
行政は場とペンと付箋と模造紙だけ用意するような、そんな会議体が作れないだろうか?

そもそもひとりひとりがどんな思いでここにいるのか?
それを確かめながら進めていくこと。

「ファシリテート」はスキル、テクニックではなく、あり方、体質のこと。
ファリシテーターとしてどうあるか?が問われている。

その会議、集まり自体の存在を問いかけないといけない。
「何のためにここにいるのか?」っていうことが分かっている人たちが本質的な場を形成する。

コントロール不能になる状態を怖れすぎていないか?
「主催者自身がプログラムに迷いがあるんじゃないのか?」
その通りだった。
「場」と「参加者」と「自分」への信頼があるのか?
そこにエネルギーを注がなければ場をつくることはできない。

「地域に対しての当事者意識を上げていく」っていう前提条件は崩れているんじゃないのか?
集まっているメンバーの当事者意識は高い。

「成果を測る必要があるのか?」
という問い。
そして測るとしたら、その指標でいいのか?
っていう2段階の問いを考えないとね。

「場」に対する信頼を。
ファシリテーターはその意味で迷ってはいけない。
ファシリテートとは、「パフォーミングアート」なのだから。

来年度に向けて、会議そのものをリ・デザインしていく。それによってひとりひとりが当事者になっていく。

「正解がある」というOSでは、もう勝負できない。
「正解がない」という前提で、取り組んでいけるか。

「創造的混沌」を味わう。
「創造的混沌」というカオスの中から新しいものが生まれ出て、秩序化されることで新しい常識が生まれる。

要するに、そのワークショップには、「愛」がなかった。
それはうまくいかないわ。

~~~ここまでメモ

ワークショップとは、パフォーミングアーツ(舞台芸術)である。

その通りだと思った。

僕はワークショップから何かが生まれなければいけないと思っていた。
分類のためのKJ法ではいけないと思っていた。

「自らを場に溶かしていく」って言っていた。
でも、今回そんな設計にはなっていないことに気が付いた。
そもそも「信頼」がないんじゃないか。
「不信」から出発していたのではないかって。
一言で言えば、「愛が足りない。」んだよ。

こちらの「愛」が足りないから、
参加者同士の相互理解と場への信頼が重なっていかない。

結果、場に自分を溶かしきれない。
一体感が生まれない。
新しい何かが生まれない。
そういうメカニズムだったのか。

なんかスッキリした。
うまくいかない理由が分かるって楽しい。

「場」と「参加者」と「自分」への信頼を持って、
場に溶けていくこと。

それがきっと、
僕がやるパフォーミングアーツとしてのワークショップなのだろう。

いい舞台をつくりましょうぜ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:13Comments(0)学び

2019年09月27日

プロジェクトの解像度を上げる

まちづくり会議2日目。
空振りした感がある。

今回のプログラム

前回のプロジェクトキーワード出しから、
・具体的な顧客と顧客価値の設定
・まちの現実の把握
プランと現実の接続

を経て、キーワード未来日記を書いて、マッチング。
もうちょっと未来日記を掘り下げる時間があってもよかった。
未来日記が書いた状態でシェアするとか。

参加者のひとりに聞けば、
結局最後のマッチングは
プロジェクトキーワードで起こっていたのだという。
そして、阿賀町の現状を強調しすぎたか。
「まちづくり」の主語は、「自分たち」というプレイヤーだ。

双葉みらい高校のときは、それを高校生観点から考えたけど、
http://hero.niiblo.jp/e489819.html
チーム「自分たち」に「地域」というプレイヤーを含めていく(19.9.21)

未来日記ワークシートだったら、
ど真ん中に「誰のためにやるか?」(顧客はだれか?)
っていう問いをもってもよかった。

「未来日記をつくる」にもっとフォーカスしてもよかった。

未来日記のポイントは、顧客を主人公にする、ということ。
その顧客は自分自身であってもいいのだけど、
プロジェクトが実現している未来に登場する人がいい。

「高校生のための場をつくりたい」っていうのだったら、
5年後、その場ができているとしたときの、
高校生自身の日記をかかなければいけない。
今日も、「場」に行って、友達としゃべった、とか、
自分たちでくるみのプロジェクトに挑戦している、とか。
そういう感じ。
もう一度、黎明学舎でやってみようかな。

「まち」とか「地域」とかを主語にしない。

主語は具体的なお客である誰か、そして、プロジェクトを実行する自分たち。
プロジェクトの解像度を上げないと、未来日記は書けない。
でもそういう未来を描けるからこそ、プロジェクトが進む。

「もうトシだし、農業しんどくなってきたからやめよっかな」って思っていた
おばあちゃんが、農産物直売所をプチリニューアルして、
食べてくれる人たちや子どもたちと交流が始まって、
いっちょ頑張るか、って新たなモチベーションが湧いてくる、とか。

そういう話が書けないといけない。

それ、誰がやるのか?っていうのと、
それで、だれが幸せになるのか?っていうのと、
両方がないとプロジェクトは動かない。

ワークシートをそういうのを書けるように改善していく必要がある。
昨日の最初に江川さんが見せた図のようにしていく。

主人公が左下にいて、
右上の未来に向かって、
プロジェクトをつくっていく。

左上には背景(現状・課題)・資源(使えそうなもの)があって。

みたいな。
そんなワークシートに改善すれば、もっと解像度が上がるのかもしれない。

さてさて。
実験実験。

参加者の皆様、お付き合いありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)アイデア日記

2019年09月23日

「承認欲求」の自覚と学びあいのデザイン

ひろのアートキャンプ。
91名の方に本をハックツしてもらいました!
ふたば未来高校で活動しているカタリバのスタッフ内海さん加藤さんも、
「結のはじまり」の古谷さんも来てくれました。

ふたば未来高校の見学と発表会と
周りの方々のお話から、いろいろ感じたことをつぶやいているのだけど、
そのまとめ。

~~~ここからつぶやき

「学ぶ」とは、価値を問い続ける、ということ。

「承認欲求」の存在に気づくこと。
「地域」とか「探究」とかいう前に、そういう授業をやったほうがいいのかもしれない。

ふりかえり方法は3つ
「メタ化して学びにフォーカスすること」
「深掘りして個人の感情にフォーカスすること」
「地域にとっての価値にフォーカスすること」

答えを持っている大人からは、もう何も学べない時代に入ったのではないか。

承認を得られるのはプロジェクトの結果が出たときではなく、思ったことが言え、それを受け止めてもらった時。

親和的承認を得るためには評価を受けることではなく、愛を受けること。
向かい合うことではなく、同じ方向を見つめること。

ティーチングでもコーチングでもなく、チューニングという方法。

承認欲求が満たされないのは、第1に家庭環境と地域コミュニティの弱体化、第2に学校教育により承認欲求が評価欲求にズラされていること、第3に質的にではなく、量的な分かりやすさを志向する資本主義社会のため。

ふるさと創りびと。
で創造という同じ方向を見つめること。
自分たちが思う価値に向かって進むこと。
他者からの評価を超えて自ら評価すること。
それは同時に承認欲求を満たすのではないか。

なぜ、自分はこのプロジェクトを始めたのか?
それは事後的に分かる。
決して事前には全部分からない。
そのなぜ?に出会うためにプロジェクトがあると言ってもいい。
その予測不可能性がプロジェクトをやる意味なのだと思う。

~~~ここまでつぶやき

少し近づいた、そんな感じがした。
「答えを持っている大人」がそれを教える、
みたいなスタイルで、学びはもう成立しないんじゃないか。

高校生と同じ位置に立ち、
彼らの発する音に耳を集中させ、
共に価値を生んでいくような、
そんな時間をつくっていくこと。

「価値」はあらかじめ決まっていない、ということ。
地域や大人や先生からの「評価」は、価値ではあるけど、
価値のすべてではないということ。

「価値」はいま、この瞬間に生まれていて、
常に流動していること。

そのスタートラインに立つ前に、
あるいは、立ってからも、自らの承認欲求の存在に気づくこと。
「承認」欲求を「他者からの評価」欲求にすり替えないこと。

自ら価値を設計・設定すること。
価値をこの瞬間、一緒に探っていける大人とプロジェクトを組むこと。

「地域」で「探究」ってそういうことなんじゃないか。
答えのない時代に突入しているんですよね。

高校生がプロジェクトで何を学んだか?じゃない。
その活動のプロセスで、大人は何を感じたのか?
どんな価値を見出したのか?
関係者全員で、その価値を探し、見つけ、つかんでいくこと。

そんな設計をしなきゃいけない。

だから、チューニングなのかもしれない。
「場のチカラ」なのかもしれない。
ティーチングでもコーチングでもないチューニング。

みんなの音を合わせて、
ひとつの曲を生んでいくような、そんな設計。

それをデザインしたいと強く思った。  

Posted by ニシダタクジ at 07:08Comments(0)学び日記

2019年09月22日

「あきらめない理由」に出会うこと。



ひろのアートキャンプの準備を終えて、
ふたば未来学園高校の「未来創造研究」研究発表会の
午前中の分科会に少しだけ顔を出してきました。
3つのプロジェクトのまとめのセッションにもやもやしたので、整理してみます。

~~~ここからメモ

作業療法士を目指している高校生が地域のおばあちゃんと話す。
「こんなに笑ったのは震災の後初めてだ」と聞く。
内面の復興は進んでいないのではないかと感じる。
心が動いた。それがいつなのか?それを掘り下げていくこと。

「見学」→「計画」→「実践」
そんな流れ。そこに仮説を組み込むことで「見学」が生きてくる。
「仮説」→「見学」→「新仮説」→「計画」→「実践」→「ふりかえり」→「新・新仮説」
そのサイクルに入れたら、「探求」自体が楽しくなってくる。

やってみると、問題点が出てきた!
→それを解決するために、大人の力を借りる。
→学校に来てもらって料理を教えてもらう。
→おばあちゃんの得意料理である「酢豚」「煮物」を作ってもらう。
→地域の人が地域で料理教室をやる。
「食」でつながる。っていうのと高校生バリューっていうのがある

1~3年の混じった振り返りセッション。
ここのファシリテーションが大切だと思った。

「目的」と「手段」みたいな話に集約していくのはどうなのかなあと思った。
「進路にどう生かすか?」みたいな問いによって、学びが「手段」になってしまう。
「機会」としての学びのために地域があるんじゃないのか?

目的・目標を達成することじゃなくて、その手段を選び、そのプロセスにあることによる心の動きのほうが大切なんじゃないのか?
「手段」そのものの「瞬間」に価値があるのではないか。そしてそれは非常に個人的なもの、その人特有のものだ。

「交流」を深めるために大切なものは?
共通のテーマ(相手の立場にたっているか?)と相手はどんなことを大切にしているのか?それを感じ取れるかどうか?それって個人の能力や精神論じゃなくて、コミュニケーション・デザインの問題ではないか。
実際は、「相手の立場に立つ」ことが大切なのではなくて、相手が「この人は私のこと分かってくれてるな」と感じていることが大切なのだよね。それはテクニックやコミュニケーション力ではなくて、コミュニケーション・デザインの設計のような気がする。

「3つの発表の共通点は何か?」という問いは、過度にプロジェクトをメタ化してしまう。それはそれで重要な能力なのだろうと思うのだけど、ジャンルの違うプロジェクトでそれをやったら、精神論的なものだけが抽出されてしまうのではないか。メタ化する前にもっと解像度を上げることが大切だと思う。「共通点は何か?」っていうより「何に、どんな瞬間に一番シビれたのか?」っていう問いを投げかけたい。

「おわらせたくない」「あきらめたくない」「やめたくない」のはなぜか?
「志」があるから?
社会的意義があるから?
やりたいことと社会的価値が一致しているから?
そういう側面もあると思うけど、高校生でも大学生でも大人でも、学びのスイッチが入ってしまったから、だと思いますよ。

自分だけのため→やめちゃう
社会だけのため→やめちゃう
だから、「自分のやりたいこと」が社会のためにつながるか?が大事。うんうん。わかるけども。それって事前にわかります?
「自分のやりたいこと」だからやめない、あきらめない?「意志」ってそんなに強く、すごいのだろうか。

「強い動機」に出会うこと。それが人生にとって大きい。
心を揺さぶられるような実体験、人の言葉、笑顔、空気感。
地域をフィールドにした学びが、それを得る機会になればいい。
プロジェクトの成果(社会的評価を伴うような)は、重要度としては2番手以下だ。

自分の「テーマ」と「ジャンル」を違う言い方で呼べないだろうか。
やっぱお客(対象)と、事業領域か。ジャンルは後付けでもいいのだよな。

「意志」とか「なんとか力」とかを信じない。
それをデザインの力で乗り切っていくこと。
それがデザイナーの仕事なのではないか。

そのストーリーづくりに参画しているのか?
誰かが作ったストーリーに出演させられているだけなんじゃないのか?
もっと、ひとりひとりのストーリーに重さを置きたい。
あなたはいつそう思ったのか。
具体的にどんなシーンだったのか。
そう思ったのはどうしてなのか。
もっと聞きたい。

~~~ここまでメモ

僕がいた部屋がたまたまそうだったのだと思うけど、めちゃめちゃ違和感。

「地域」で「探究」の意味とか意義ってなんだろう?
ってあらためて思った。

3つのプロジェクトの共通点は何か?
→挫折にくじけずにプロジェクトを前に進めたこと
→「あきらめなかった」のはなぜか?
→自分のためと社会のためがクロスしていたから

みたいなまとめに意味があるのだろうか?って。

なるほど、意味は分かる。
「自分のため」だけでも「社会のため」だけでも
継続するモチベーションにはならない。それはその通りだと思う。
その合わさるところにプロジェクトを作っていく、っていう考え方も分かる。

だとしたらなんだろう、この違和感は。

それが、高校生の「地域」で「探究」で学ぶべき本丸なのだろうか?
っていう違和感。

「なぜ、自分はこのプロジェクトをやっているのか?」に答えられること。

そのほうが大切なのではないか。
それは決して事前にわかるのではなくて、
やってみた後でわかることも多い。

実際にやってみたことで、予想しなかった何かが起こる。
思いもよらない発見や誰かの一言、やってよかったと思える瞬間に出会う。
そのときに高校生は、
「ああ、だから自分はこのプロジェクトを始めたのだ」と実感する。

その実感はきっちりとふりかえりの時間を確保して
誰かが質問してあげないと出てこないのかもしれない。
だから、そのような設計をすること。
そして、それをプレゼンで表現すること。

聞き手は、特に1,2年生は、そこに至るプロセスを知りたいのではないか。
それによってモチベーションが上がるのではないか。

共通項は何か?
あきらめなかったことです。

って言われても、
ノートに「あきらめないことが大事」とか
「自分のためと社会のためが重なるところにプロジェクトをつくる」とか書いても、
それが自分の活動につながるのだろうか?

プロジェクトをやったことで、
こんなことを起こり、こんな人に出会い、こんな経験をして、こんな自分に気づいたんだと。
そんなストーリーを聞きたいのだ。
プロジェクトの成果なんかよりずっとずっとそれを聞きたい。
どんな感情の動きやどんな学びがあったのか?を知りたい。

「高校生」が「地域」で「探究」の意味は、
そこにあるのではないか、って思う。

「あきらめない理由」に出会うこと。

プロジェクトを始めることで、何かが起こり、誰かに出会う。
そこで何かを感じる自分がいる。
そこにフォーカスすること。

「気づいたこと、学んだこと」の前に
「印象に残ったこと」という心のふりかえりをすること。

「機会」から学ぶっていうこと。
そして、「あきらめない理由」を発見すること。
プロジェクトの評価を自分ですること。

そのために「地域」という題材がある。
そして「地域」そのものも、高校生と共に学ばないといけない。
もちろん教員やファシリテーターそのものも。

「学ぶ」とは「価値」を問い続けるということ。
そして、価値に気づく瞬間があり、顧客に出会う瞬間がある。
それをキャッチすること。
それこそが「あきらめない理由」になる。

「あきらめない理由」からふたたびプロジェクトが生まれる。
その2プロジェクト目をつくること。できれば授業外に。
そこが「探究」のゴールなのではないかと思う。

「震災復興で高校生が地域のために頑張っています」という
ストーリーに出演させられるのではなく、
自らが、自分たちや地域の誰かを主人公にしたストーリーづくりに参画し、
自らをキャストしたストーリーを始めていくこと。

そこからしか人生というストーリーは始まらないと僕は思う。  

Posted by ニシダタクジ at 07:40Comments(0)学び

2019年09月21日

チーム「自分たち」に「地域」というプレイヤーを含めていく


ふたば未来学園高等学校


NPOカタリバが関わる「ふたば未来ラボ」にお邪魔しました。


全面黒板で場所の説明


スタッフ紹介。「好きなこと」とか書くの大事。


高校生も運営に参画するカフェふぅ


高校生が淹れたウィンナーコーヒー320円

っていうことで、楽しんできました。

なんというか、学校の中なのに
「第3の場」っていう感じ。

カフェとして使っている大人も高校生もいれば、
21日の発表会のためのミーティングをしている高校生もいれば、
大学生スタッフと談笑している高校生もいれば。

カフェ自体は
一般社団法人たんぽぽ(校長が代表理事)が運営。

カタリバのコミュニケーションデザインとしては、
やっぱりプロフィールと顔写真を載せて、名札をしているところが
徹底しているなと思った。
ニックネームも書いてあるし。
スタッフは毎月更新してもいいのかもしれない。

ふたば未来は総合高校なので、いろんなコースを選び、
授業で地元産品を利用したお菓子づくりを行っているという。

そしてカフェチームはカフェをやってみたい
っていう生徒が授業後の16:00~18:00で運営。(火・木は17:00~)

そうやって「自分」と「地域」の重なるところに
「プロジェクト」をつくっていけたらいいなと思った。

「地域」ってそういうためにあるんじゃないか。

「地域」や「まち」を主語にして語らない。
「自分たち」を主語にして語る。
しかしその「たち」の中に、「地域」や「まち」が含まれているような、
そんなプロジェクトをつくっていけないだろうか。

「自分」にフォーカスしすぎなんだ。

自分のやりたいことは?
自分の強みは?
本当の自分はどこに?

そんな問いを忘れてしまうような
プロジェクトに出会うこと。
それには「地域」が必要なのではないか。

分断。

個人は分断された。
地域も分断された。
おそらくそれは社会の要請だった。

「最後の市場」がそこにあったのではないか。

参考:家電を売るために「夢を持て」?
http://hero.niiblo.jp/e346221.html

人々は自分にフォーカスするようになった。
自分にフォーカスすると、他者と比べるようになる。

・これが足りない。
・ここが劣っている。
・いつまでたってもこれができない。

そこに市場が生まれた。
「夢」「キャリア」「資格」「進学」「美容」「健康」。

作り出された「ニーズ」。
コンプレックスを解消するために消費を重ねる。

自分らしい人生を生きるために。
女性を美しくするために。
80過ぎて人に迷惑をかけないように。

そんな自分へのフォーカスをズラすことができないだろうか?
自分にフォーカスするから比較が始まり、コンプレックスが生まれるのだ。

「地域」を取り戻す。
いや、地域よりも小さい範囲の「自分たち」を取り戻すこと。

「自分たち」はこの瞬間、この顧客にとってのこの価値を追いかけていく。
そこに没頭していくこと。
「自分」ではなく、プロジェクトの先にフォーカスしていくこと。

そしてそのうち、チーム「自分たち」の中に、「地域」というプレイヤーを含めていくこと。
それが、アイデンティティ・クライシス時代を生きていくひとつの方法論なのではないか。

チーム「自分たち」への出発点として、
双葉みらい学園の中にある未来ラボやカフェのような、
「機会」と「場」が機能していけばいいなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 06:21Comments(0)日記