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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年07月10日

はみ出し者の系譜


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

はやくも2周目。今日は「はみ出し者の系譜」です。
言い換えれば、「コミュニティ難民」なのかもしれません。

参考:中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」(16.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e483286.html

ツルハシブックス閉店1か月後に書いた文。

「居場所」という場所は不要で、「劇場」をたくさんつくり、
「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。
これはもしかすると、オンライン劇場ツルハシブックスで目指しているものなのかもしれない。

リアル店舗の本屋「ツルハシブックス」とは僕なりの「参加型社会」への実験だったと言えるだろう。

本屋のような劇場をつくる。
気がついたら本屋という舞台の共演者になっている。

それは、もしかしたら、
「ヨコ軸」としての参加型社会だったのかもしれない、と。
そしてそれは「瞬間的に」発生することで、
心が開き、共同体感を感じられる場になったのかもしれない。

そして、唐澤さんたちの「ネオ・まきどき村」が志向している
「営みの中にあること」はタテ軸としての参加型社会なのかもしれない。

この本を読んで、
あらためて、自分という存在だったり、昨日のブログに書いた
「永遠に中間的なるもの」としての「自分たち」という存在を考えた。

~~~以下本書より一部引用とメモ

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。
アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。
そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、
その中でまた独自の掟や作法が生まれて、
それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。
「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

ここまで第6章の「よはとつ図形2020」より。

そっか。
「とどまる」を経験しないと、真の意味で「つながる」フェーズにはいけないんだなあと。
永遠に「よりそう」「はじける」「よりそう」「はじける」を繰り返してしまう。

もう、「よりそう」だけでは(全員は)生きていけないのだ。
コロナ過での公務員・大企業志向は、まさに「よりそう」への回帰なのだと思う。
一方で、「はじけろ」っていうだけなのも違う気がするのだよね、きっと。

このブログのタイトル「20代の宿題」っていうのは、もしかしたら、
「つながる」フェーズに行くために、
「よりそう」「はじける」「とどまる」の3フェーズを繰り返すこと、なのかもしれない。

そしてそこで圧倒的に重要で、しかも難しいのは「とどまる」だ。
意識しなければできないし、「とどまる」には孤独が必須だからだ。
そして「とどまる」の前には「はじける」がある。

同調圧力などの掟・ルールに耐えられず、コミュニティにいられなくなる。
そんな状況で「はじける」ことができるのか。

そこで、この本では歴史を壮大にふりかえる。
(この本のクライマックスなので、本を買おうと思っている人は読まないほうjがいいかも)

▼▼▼ここから一部引用・メモ

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。

海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。
海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。
生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。

私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。

私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。

「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。

その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。

▲▲▲ここまで引用・メモ

このあと本当のラスト「望郷としての海」に行くのだけど、それは本書をお読みください。

いやあ。書いていて、身震いがする。

新型コロナウイルスが強引にこじ開けたドア。
Withコロナ時代の先、向こう側。
なぜ、自分がこんなにも本を読まないといけない、と思ったのか。
「サピエンス全史」をこのタイミングで読みたかったのか。

僕たちは「はみ出し者の系譜」の中にいる。

歴史・営みというタテ軸と、共同体というヨコ軸。
自分はその真ん中に存在しているのだけど、
それを「自分たち」に拡張していくことだと思う。

そしてひとつひとつの「自分たち」には、
進んでいくベクトルがあり、それは1つ1つ異なる。

僕たちはいま、そんな世界へのドアの前に立っている両生類なんだ。

そして僕はきっと、そんな時代を見据えて、
新しい本屋に「かえるライブラリー」と名付けたんだなと。(本当か)

  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び

2020年07月09日

「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

予約していたものがようやく昨日届きました。

もう、すごいです。
「ヤバい」っていう言葉しか出ない。
そして、僕にとってのタイムリー。

「参加型社会」は橘川さんの半世紀のキーワード。
その本質をえぐるような言葉に、ドキドキしながら読みました。

昨日夜の「取材型インターンひきだし」での
大学生の不安を聞いていて出てきたのがやはり「近代的自我」、
つまり、やりたいことがわからない問題とアイデンティティ危機の問題。
そこともリンクしてきて面白かったのが第3章のメディアとは何か?

ここの部分を今日は紹介します。

~~~ここから本から一部引用

デカルトが定義づけた近代的自我は、まさに人間のソフトウェアに対する讃歌である。「我思う」という想像力の自由こそが、人間の持つ本来性であるとしたのである。

近代の方法論を簡単に言うと「コピペ」である。
近代とは「量」を神とする信仰であった。

本来、人間の意思(ソフトウェア)に応じて作られたのが道具(ハードウェア)である。それが、道具が道具を作り出すようになった。やがて「人間の意思」が「道具の進歩」に追いついていかなければならなくなった。

今、人間(ソフトウェア)が為すべきは、ただハードウェアに追随するのではなく、ソフトとハードの人類史をより大きな視点で俯瞰し、ソフトウェアの本質を再確認することではないか。

ソフトなきハードの暴走はいずれ停止する。その時代に向けて、人類もまた、幼児的なソフトウェア(近代的自我)の次元から、一回り成長した、大人のソフトウェア(情報的自我)へと脱皮する必要があるだろう。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。

融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

~~~ここまで引用

このあと第5章に、近代的自我の先にある情報的自我の説明がある。一部引用すると
「これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。」

これです。これ。
昨日の「取材型インターンひきだし」説明会でも話していた、
「魔法をかける編集」と「場のチカラ」の話ってまさにこの自我の話ではないかと。

アウトプットするのは個人やチームの力ではなく「場のチカラ」であり、

参考:人生は経営である。ただし個人戦ではない。
http://hero.niiblo.jp/e489703.html

「魔法をかける編集」というのは、
ひとりひとりの「今の自分しか紡ぎだせない編集」を
そのインタビューに表現していく、ということである。

アイデンティティ・危機を越えていくために、
自らを差し出して複数の「場」の構成員になり、その組み合わせを自分とすること、だと昨日話していたけど、
それって、橘川さんの言う、「情報的自我」のことなのではないかと。

「取材型インターンひきだし」は、就活という近代的「フレーム」が機能しなくなっている中で、
「永遠に中間なるもの」としての「私たちの時代」への道を切り拓いていっているのではないか、と。

そんなことを感じてワクワクした朝読書でした。

「ちょっと何言ってるかわからない」と思った方はごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)学び

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学びイベント

2020年07月06日

「達成感」の使い方


「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

僕が読んでいるのは文藝春秋の単行本のほうですが。
08年の本ですので、古本屋でも見つけられます。

第2章の「働くということ」がタイムリーだったのでメモします。

~~~

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な資金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望が持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違え」だったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価のほうが本人の自己評価よりも客観性が高いのである。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのもの。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。

~~~ここまでメモ

人間という集団が生き延びるために「労働」があり、「労働」の受益者は基本的に集団である。おそらくはこのリアリティがない。

この章の後半、著者は「スイスのロビンソン」を題材に「無人島のルール」を説明する。集団で生きるとき、個人の利益を最大化するという行為はルールに反するのだと。

そして社会のルールは、「複数の人間が無人島で暮らせる」ことを基準に作られていて、そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。

「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」である。いわば「温室」ルールである。敗者になっても命までは取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。

「キャリア教育」の名の下に、何をしてきたのだろうか。
3年で会社を辞める若者は、「適職ではなかった」からなのだろうか?

そもそも労働とは何か?
という問いが必要だったのではないか。

「ふるさと教育が叫ばれ、地域を愛する子どもを育てたい。」と多くの人が願っている。
わが町も例外ではない。

先週のプロジェクト打ち合わせで出てきた「早く大人にしたい。」その言葉に込められた思い。
集団の成員として学校改革の、まちづくりの、パートナーになってほしい。

名作マンガ「SLAMDUNK」で桜木花道が5人いたとしても山王工業には決して勝てない。
「地域の役に立つ」前に「集団の役に立つ」という経験が必要なのかもしれない。

そしてそれは目に見える「報酬」がある役に立つではない。
集団の成員として、責任を果たした。そんな「達成感」。

そんな達成感を報酬だと感じられるような、
一緒にいると楽しくなるような、そんなパートナーを育む学びができるのではないか?

そしてそれこそが、若者自身が「アイデンティティ危機」と付き合っていく有効な方法なのだと僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)日記

2020年07月03日

まなぶを響き合わせる

6月24日のweekly ochiai

「ギグワークは仕事の未来なのか」
https://newspicks.com/news/5016231?ref=user_2250


が面白すぎて。
特にラストの宮田さんの「はたらくを響き合わせる」がアツかったな、と。

で。本も読んでみました。


「GIG WORK」(長倉顕太 すばる社)

まあ、本は思っていたのと若干違って、
ギグワークとは何か?ではなくて
なぜギグワークか?どうやってギグワークに(自分として)シフトするかっていう話でした。
昨日読んだ「サブカルチャー論講義録」と重なっていて、これはこれでうなりました。

~~~本を読みながらのメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

「お金持ちになる」っていうことは「選択肢が増える」っていうことか。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?
「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」
そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。
本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。

昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。
それこそが奴隷づくりの方法なのに。

「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。
フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。
まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

~~~ここまで読書中のメモ

なるほど。
社会学的で、昨日の若者のサブカルチャー論講義録の補足にもなっていて、とてもスイスイきました。

で、冒頭のウィークリーオチアイのまとめ。

~~~以下、動画みながらのメモ

ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

ギグワーカー=労働法上の労働者ではない。
・環境の変化がはげしく、人材を自社で賄えなくなっている。
・労働者ではないから自由に働ける
・マッチングするプラットフォームの進化

クラウドワークス:3つのタイプ
・プロジェクトベース(単発)
・人をコンスタントに契約(長期)
・PMをやって、その下にチームをつくる
個人がだんだん事務所化している。
事務3-7だったのが9-1でオンラインになった。
主婦とシニアが増えている

人材マッチングの機会としてのギグワーク

「体験バイト」=大人版キッザニア タイミー:会社員:主婦:フリーター 同じくらいの割合
正社員:やったことないのにいきなり正社員で、やめるにやめれない。

転職のリスクはむしろ上がっている。副業がリスクヘッジになっている。副業というセーフティネット。副業は社員の幸せを考える会社は必須。実際の働きぶりを見て、転職。会社的には人材募集システムとして機能する。(無料の引き抜き)実際に働きぶりとなじんでるのを見て、採用すると長く働いてくれる。人材の流動性を高めるうえで仕組みとしていい。

セーフティネットとしてのギグワーク:ヘッドとロングテール⇒日本の分布に似ている。

稼げる、稼げないだけではなく、やりがい、充実感のグラフもある。
ギグワーク:多様なロールモデルを見せる。ひとりひとりのモチベーションにグラデーションがある。多様な生きがい。
コミックマーケット:フラットな世界⇒ロングテールが大好き

社の論理だけでフィットしない人を排除してきた。それがうまく生かせるかもしれない。

「機会の提供」という意味ではネットはいいけど、コミュニケーションのOSが増えた
オンライン時代に、リアルのスキルが下がっている。
フィットする人材の多様化。リアルに弱い人でもオンラインで強い人には活躍の場がでる。
匿名、ニックネーム、年齢・住所非公開で働ける
「承認欲求」が満たされる。ギグワークは即時相互評価。それが働くモチベーションになる。

ウーバー:「働く」って一方的な提供じゃなくて一緒につくるエクスペリエンス。お互いに仕事を提供して一緒にはたらく。
派遣は一方的な体験だったのが相互評価になる。上から命令される、みたいなかたちにならない。評価の悪い悪質な発注者は駆逐される。
ギグワーク:新しい社員探し。インターンの替わり。コンビニ向けのサービスを考える⇒ギグワークするほうが早い。

クライアントからありがとうって言われる⇒シニアにとって生きがい。
お金いる人といらないひとがいる。タイミー:ボランティアにもいけるように。
IT技術は信用(信頼)を前提としている。ピーク時の2時間だけ人がほしい。

将来のためにギグワークをする。

働くを響き合わせる。
与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ

都市や会社=お金のためだった。
自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

~~~ここまで動画メモ。

いやあ、宮田さんがアツいね、やっぱ。
仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、
やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。
お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、
「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)
みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、
フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。
僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。

一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、
一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、
伴奏者としての大人たちと一緒に、
ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:34Comments(0)学び

2020年07月02日

「創造力」を伸ばすまち


「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)

オジサン必読の1冊。
(まあ、僕はまだギリギリなってないけどもね。)

いやあ、こういう本、好きなんですよね。
AKBとか乃木坂とか、なんなんだ、みたいなもやもやを
すっきりとある視点から切ってくれる1冊。

京都精華大学の講義を編集したもので、
マンガ、アニメ、アイドルなどの現象を社会学的に解説。
これは面白い。
途中何度も爆笑しました。

いちばん笑ったのは、マンガ「頭文字D」の「ロータリーの高橋兄弟」のくだりですかね。
駅前のロータリーのことではなく、ロータリーエンジンのことです。

「世界でいちばん受けたい授業」ってこれかもしれない。
週に1コマこれがあるだけで、1週間が楽しくなりそう。

敗戦から戦後、そして経済成長、バブル崩壊・・・
と移りゆく時代の中で、サブカルチャーがどのように変化したか。

週刊少年ジャンプの連載マンガや
不良を題材にしたマンガの変遷など、
当時高校生だった時のものもあり、なかなかうなります。

そしてラスト1つ前のAKB現象の解説と、最終回のところは、
いままさに、高校生を取り巻く環境へのヒントが記されていて、インスパイアされました。

いくつかキーワードを。

~~~ここから引用

音楽は、CDからフェスへと市場がシフトしている
つまりコンテンツから「体験」へと価値がシフトしたということ。

「体験」の中でも一番強いのは「人とのコミュニケーション」。
アイドルは直接コミュニケーションがとれるし、「推す」ことによって、その人の人生に貢献できる。

「音楽を聴く(CDを買う)」ことは「推す」という体験を盛り上げる蝶番として機能している

現代のメジャーJ-popは三国志で言えば「蜀」で10分の1の勢力しかない。
「アイドル」と「アニソン・声優・ボーカロイド」で9割。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。
「情報」から「体験」へ
「情報」から「コミュニケーション」へ
と音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。
60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと
「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。
そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーから
コンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」
という新たなフロンティアが発見される。
サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割
「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

~~~ここまでメモ

もっと書きたいのだけど、これ以上ネタバレしてもいけないので。
予告だけにします。

「情報」から「体験」へ。
「情報」から「コミュニケーション」へ。
そして、虚構の2つ目の役割。

「コロナの時代」が問いかけているのは、
「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?
なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。
僕だって茨城時代にはインプットしたくて後半2年は東京からのアクセスのよい土浦に住んでいた。

突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、
「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば
実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、
「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。
人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。
それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。

そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)

2020年06月27日

「主体的である」の反対は、「やらされる」なのか?

昨日、とある会議のあと、とある取材を受けていて感じたことのまとめ。

いちばんの気づきは、
「自律的主体的に学ぶ子」にとって、この町の環境は最高だと思ってた。
資源も課題もたくさんあって、学び放題だと。

でも。
「やりたいことがわからなくて立ち止まっている子」にとっても、
学校内外で、多様で多数の「機会」を提供できるっていうことだ。
「機会」を振り返って、感情から自分を知る。

環境の豊かさっていうのは
・資源の豊かさ:くるみやの農作物などの自然資源
・課題の豊かさ:高齢化・猿による農作物被害などの課題
そしてもうひとつ
・関係性の豊かさ:地域の人たちが重層的に学びにかかわる。

それはそのまま
「機会の豊かさ」であり、「学びの豊かさ」につながっていく。

三菱UFJリサーチ&コンサルティングの阿部さんの論文の「学びの土壌」
https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2019/11/seiken_191122_3.pdf

挑戦の連鎖を生む「安心・安全の土壌」←大人の主体性
協働を生む「多様性の土壌」←大人の協働性
問う・問われる「対話の土壌」←大人の探究性
地域や社会に「開かれた土壌」←大人の社会性

これは地域から、というかマクロな目線で書かれたものだけど、
これを高校生目線に落とし込むと。

やりたいことがある、あるいはやりたいことを自ら見つけ、自ら学んでいける高校生にとっては、自らつかんでいく「学びの機会」にあふれていて、反対に「やりたいことがわからない。自分に自信がない。何をしたらいいかわからない」高校生にとっては、周りから与えられる「学びの機会」があるのだと。

これまで僕は思っていたのは
「主体的である」と「やらされる(主体的でない)」の二項対立。

じゃあ、「機会提供」は「やらされる」なのかと言えば、そうでもないと思うし。
「最初は先生に言われたので始めました」っていうのは、高校生のマイプロ発表聞いててもよく出てくる言葉だし。

高校生側の感じ方だったり、
ひとりひとりに話を聞いているか、ひとりひとりに話しかけているか、だし。
もっと大切なのは「ふりかえりをしているか」だったりかもしれないし。

こちらが「機会提供」しているつもりでも、高校生は「やらされている」と思っているかもしれないし。
その前提となる信頼関係があるかないか、にもよると思うし。

つまり。
「主体的である」は「やらされる」と二項対立で考えるものではなく、
高校生目線で言えば、「主体的である」と「機会提供」のあいだにグラデーションが広がっているのだと。

やりたいことがないと悩んでいる子の隣に座って、機会を提供する。
その提供の仕方もあるよね。
ただネタを提供してこちらは見ているだけっていうのは、やらされ感が出る。
一緒にやってみる。考えてみる。悩んでみる。

それが大切なのだろうなと。

地域の自然も資源も課題も地域の大人も、自らも独自の楽器をもって学びという音楽づくりに参加する
高校生にとっての「学びの伴奏者」であること。学びという営みのプレイヤーとして参加すること。

まあ、言うは易し、行うは難しってやつですけどね。
まさにいま、その課題に直面しています。  

Posted by ニシダタクジ at 06:11Comments(0)学び

2020年06月25日

世の中も、自分自身も、前提を疑うこと。


「FACT FULNESS」(ハンス・ロスリング 日経BP)
サブタイトルは、10の思い込みを乗り越え、データを基に、世界を正しく見る習慣。

いつか読もうと思っていたら、高校図書館にあったので借りました。
うれしい。

SDGsとセットで学ぶべき1冊ですね。
目標を立てる前にまず、事実を数字で把握することって大切だなと。

世界は変わっているし、本能は間違えるし、
その間違える本能がビジネスに有効となれば、
メディアはそれを使ってくるし。

具体的に言えば、
この本に出てくる「分断本能」「恐怖本能」「過大視本能」なんかを巧みについてくる。
今回のコロナの報道でも当てはまることが多いなと感じた。
フラットに世の中を見る目を失わなずにアップデートしていくことが大切なのだと思った。

「前提を疑え」っていうのはよく言われるし、心がけてもいるのだけど、
その「前提」は自分自身の中にある「思い込み」にも当てはまるのだと
この本を通じて思った。

特に教育の文脈では、「単純化」して「犯人捜し」をしている場合ではない。
データと、目の前にいる子どもたちと、わたしたちのいまを感じながら、考えながら進んでいくこと。



昨日は阿賀黎明探究パートナーズのミーティングでした。
昼の部10名、夜の部4名が参加。

地域みらい留学フェスタに合わせて、オープンスクール開催と、
そこでやる企画などが話し合われました。

川辺でBBQとか、釣りたての鮎の塩焼きとか、
お祭り感を出していってもいいのではないか、って。
まさにそうですね!
楽しそうな雰囲気、一緒につくろうって雰囲気もめちゃ大切。

湘南のみやじ豚に学んだ
バーベキュー・マーケティングを実現するときが来たようです。

企画詳細決定までもう少しお待ちください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2020年06月22日

帰ることができる場所をともにつくる


「就活原論」(宮台真司 太田出版)

「就活への違和感」とか言っている人、
社会学的に就活をとらえ直したい人にとって面白い1冊。

ただ、入門編としては
「14歳からの社会学」をお勧めします。
「就活原論」は用語がちょっと難しいです。

参考:「自由」と「承認」と「尊厳」(16.11.18)
http://hero.niiblo.jp/e482857.html
参考:「生きがい」と「仕事」の逆転(16.11.21)
http://hero.niiblo.jp/e482895.html

エッセンスは上記の本に書かれているのだけど、この「就活原論」では、「就活」にテーマを絞って書かれている。

この本のハイライトというか、刺さるところは、やはりこの一節。

仕事での自己実現機会は希少ですが、これを煽ることで、低成長時代の高付加価値化市場に相応しい人材の「動機付けと選別」を行います。そして「仕事での自己実現」競争に敗れた大半の成員には、代わりに「消費での自己実現」を提案するわけです。

うわ。これが欠乏時代から消費社会にシフトした後のシステムなんだなあと。これと「承認」(欲求)が絡んでくるから大変なことになるのではないかと。

~~~以下読書メモ1

前近代     ⇒近代
属性主義    ⇒業績主義
生得的地位で評価⇒能力と努力の結果で評価

大卒者さえ必要なスペシャルな能力を試験で試されることなく採用されるのは、「小⇒中⇒高⇒大」という学校教育のシリーズにおいて「学歴競争に勝ち上がってきた」という事実が保証する、ある種の事務能力だけが評価されたから。

企業も、企業文化も、企業存続のために変わるかもしれない、だから「適応」ではなく「適応力」を求めざるを得ないのです。

社会システム理論では「区別」と「観察」を分けます。「区別」とは差異の線を引くことです。「観察」とは差異の線を引いた上で線の両側のどちらか一方を「指示」することです。適切な「区別」が極めて重要だということです。

70年代には、「成長の限界=環境の限界+資源の限界」が露わになる動きがあり、他方で「福祉の限界=財政破綻+共同体空洞化」が露わになる動きがありました。これに対応して80年代、先進各国で共同体自立化運動が同時多発します。北イタリア発で欧州に拡がったスローフード運動ないしスローライフ運動然り。カナダ発で大英帝国圏に拡がったメディアリテラシーないしメディアエデュケーション運動然り、米国に拡がったアンチ巨大マーケット運動然り。日本は・・・全くありませんでした。
(中略)
これらの運動の共通性は、共同体が、市場に依存しすぎても、国家(行政官僚制)に依存しすぎても危ないとして、市場や国家からの、共同体の相対的な自立を目指すところにありました。ところが、それを理解していなかった日本国民が、90年代に経済がうまく回らなくなって、ふと見回してみると、感情的安全を確保してくれるがゆえに帰還場所にもなれば出撃基地にもなるような家族親族ユニットや地域ユニットはすでに消滅していたというわけです。

要は「仕事での自己実現」などにかまけている暇があったら、市場や国家(行政官僚制)への過剰依存によって風前の灯となった共同体の、自己決定を通じた自立へ向けて、力を振り絞っていなければならないはずなのです。でも日本にはそれがありませんでした。そして気がついてみると、帰還場所も出撃基地も失っている。つまり本拠地を失っている。これを失った状態で「仕事での自己実現」に向けたリスキーなチャレンジができるはずもない。

帰還場所があれば君は言葉通りに振舞えるだろうが、帰還場所がなければ、口で何を言おうが、君には頑張りが利かない。

追い込まれた末の自発性を、内発性と取り違える愚を避けてほしい。

必要なのは、仲間の存在と、あとは泡盛とつまみを買うためのわずかなカネだけ。これといって消費しているモノもサービスもないので、「消費を通じた自己実現」じゃない。強いて言えば、コミュニケーションだけを消費している。それで十分ではないですか。共同体の空洞化ゆえに、こうした「コミュニケーションの消費」が難しくなったから、「仕事での自己実現」や「消費での自己実現」が、埋め合わせとして要求されているのではありませんか。とすれば、それは内発性というより、追い込まれた末の自発性です。

古来、人は、昨日あるように今日あり、今日あるように明日もある、というような生活をしてきました。

「任せて文句垂れる社会」から「引き受けて考える社会」へ
「空気に縛られる社会」から「知識を尊重する社会」へ
「行政に従って褒美をもらう社会」から「善いことをすると儲かる社会」へ
「国家と市場に依存する社会」から「共同体自治で自立する社会」へ
「便利と快適を追求する社会」から「幸福と尊厳を追求する社会」へ

「社会」を「個人」に置き換えてみる。

ホームベースが昔ながらの家族や地域でなければならないということは決してありません。ホームベースは今後、さまざまな形を取るしかないと予想しています。ただ、人間は、埋め込まれ、背負い、貢献し、帰還できる「我々」なくして、雨にも負けず風にも負けず前へは進めません。その「我々」は「長らく近しくあり続ける」近接的な範囲です。

この近接性は、血縁の結びつきで与えられる場合もあれば(血縁共同体)、宗教の結びつきで与えられる場合もあれば(信仰共同体)、日本のように労働集約的な共同作業を通じて物理的にトゥギャザであり続けることで与えられる場合もあります(職場共同体)

絆を与える共同体は、多かれ少なかれ、何かをシェアしているという感覚に支えられます。シェアされるものは、血縁的儀礼だったり、宗教的戒律だったり、職場の時間と空間だったりします。シェアしているという感覚が情緒的アタッチメントを与えます。

何かをシェアしているという感覚なくして「お先にどうぞ」とは言えないのです。

一見したところ典型家族とかけ離れていても、長らく近しくあり続ける近接共同体のうち、とりわけ「成人の感情的回復」機能と「子供の一次的社会化」機能を担うユニットなら、家族と見做すことが大切です。今後は変形家族こそが大切になります。

~~~ここまで読書メモ1

いやあ、すごい。そういうことか、と。
シェアハウスで子育てするとか、山倉さんのやってる拡張家族「Cift」の実験とか。
そして、これからの阿賀町の暮らしにも魅力化にもエッセンスを投入できるような気がします。
高校生を核にして、ふたたび自立的な「共同体」を構築していくこと。

ということで、次に「就職」とか「就活」についていきます。

▼▼▼ここから読書メモ2

「適職幻想」の定義:「自分はこういう人間だから、こういう仕事が向き、別の仕事には向かない」という思い込み。

選択肢が多すぎるという未規定性が人を混乱させて選択不能に陥らせる。
「ニーズに応じて選択肢が提示されるから、学生の適職幻想が煽られる」

最終目的&優先順位を巡る試行錯誤は、「スゴイ奴」と出会って感染(ミメーシス)しては卒業する経験が、最も効果的です。

「仕事の中身」より「周囲の承認」

趣味の時間や家族の時間を楽しむための食い扶持だと割り切っていれば、安全牌狙いの大企業への就職で良いでしょう。でも「仕事での自己実現」を目指している場合は、こうした「全体性からの疎外」は良くありません。全体性が見える中小企業がお勧めです。

その「社会的正しさ」は古くてダサい、これからのこの「社会的正しさ」がカッコイイという訴求を、マーケティング戦略として利用できるはずなのです。

自分にコレが向いてるとかアレがやりたいとか言わず、自分はなんでもやれます、という構えであること。次に、実際自分はなんでもやってきました、という実績を示せるということ。

内定する「他者性」
1 ビビらずに限界ギリギリまで挑戦でき、
2 限界を知るがゆえに高望みせず、
3 様々な社会的手順に通暁し、
4 コミュニケーションにおいて相手が何を求めているかを的確に把握して動ける。
内定が出ない
1 限界を試したことがないのでビビりがち
2 同じ理由でお門違いの自己実現欲求を抱いていたり、
3 どんなボタンを押すとどんな社会過程が動くのか知らなかったり
4 他者の構えに鈍感

「教育意図の失敗」による有効な社会化をいかに設計するか、という「計算不可能性の設計」の可能性が問われています。

共同体の存在が自明だった頃は、グループワーク能力の欠落は珍しいことでした。郊外化に従って共同体が空洞化してくると、グループワーク能力の欠落が珍しくなくなります。

▲▲▲ここまで読書メモ2

「適職幻想」まさにそれだなあと。
そして、この本のあとがきの書き出しが、この本からのメッセージになっている。

デタラメな社会を放置したまま、個人を癒して適応させるだけでいいのか。

就職がどうなろうと揺るぎない帰還場所=出撃基地(ホームベース)を作り、不安ベースより内発性ベースで進むほうが良いです。そうすれば、本文の言葉で言えば「適応」よりも「適応力」ということで、過剰適応せずに相手の要求に応じて「仮の姿」を適当に演じることが可能になります。
「依存」せずに「自立」するための帰還場所=出撃基地が必要です。

そういうホームベースを自らも一緒になってつくること。
これが地域(共同体)にとっても、若者自身にとっても必要なことなのだろうなあと思った。

何かをシェアする(感覚を持つ)共同体をつくっていくこと。
それこそがいまを生きるために必要なことなのだろうと考えさせられる1冊となりました。  

Posted by ニシダタクジ at 09:04Comments(0)

2020年06月19日

時計の奴隷



https://www.katariba.or.jp/event/23138/
6月17日(水)の「ゆるいエデュケーション・ラボ」オンライン・ゼミに参加。
若新雄純さんの言う「ゆるい」が好きなので。

「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)は僕にとって思い出の1冊。
参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

ということで、イベントメモ

~~~ここからメモ

・学び合うことをとらえ直していく
・学ぶ場のありかたをゆるめてつくりなおす
・「ゆるい」:答えを出さないといけない⇒答えがすぐに出なくてもいい
⇒成果・結論・まとめ・気づき・学び・いいアイデア・答えを求めない。
⇒つまり、ゴールに向かわないってことか。

「対話」によって「そういう見方もある」という「発見」があるはず。
「正解」から「発見」へ

ソクラテスの時代から「対話」だった。
不知の自覚:無知の知
「哲学」:テーブルに乗せて丸裸にするという営み。
「哲学の本質」:本質洞察に基づく原理の提示。
「公教育」:社会における自由と自由の相互承認の実質化
正当性の原理は「一般福祉」。

150年かわらない学校システム⇒ベルトコンベアシステム⇒同質性の高い集団に最適化したシステム。
学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合。

アダプティ・ラーニング:キュビナ
個別に今学ぶべきことを最適に与える:テクノロジーのほうが優れている⇒テクノロジーに任せることは任せる。
モチベーションを上げることは人にしかできないから人がやる。
主体的対話的学びもテクノロジーでフォローできる。

「学びの個別化」:自分が学びのコントローラーを握っていること。
「学び(のコントローラー)」を子どもの手に返す。
高校生自身に学びの主導権を渡す。
ログが残る⇒リアルタイムのフィードバックができる⇒ゲーミフィケーション。

モチベーションをどうやって上げるのか?
ゲームの攻略:いいゲームは「チュートリアル」がしっかりしている。

麹町中学校のキュビナ導入から
1 ティーチングプロセス⇒ラーニングプロセス
2 助け合える学習空間をつくれるか?
3 先生も探究的に学ぶ

プログラムの提供⇒場を提供して待つ、一緒に学ぶ
自己成長力を信じられないと待てない。

言われたことを言われたとおりにやらせる。
⇒信頼して まかせて 待って 支える

それができないのなら、「時計の奴隷」になっている。
時間割とか、この時間までにここまで、とか。全部そうだな。

幼小中高大をつなげる「ラーニングセンター」として空間を再結成する。
「大きくはみ出せない」「多様であれない」のは、不安だから。
人と違っていてもいいという安心感をどうつくるか。
異年齢の人が出入りしていると同調圧力は軽減される。

「多様性」を目指さない。
結果であり、前提としての多様性。
僕たちはすでに多様。

これまでの学校:スーツケース
長い棒は折らないと入らない。ボールみたいな丸いやつは押し込めないといけない。
⇒ふろしきみたいな学校はつくれないか?
まあ、いろんなふろしきが学校の周りにもたくさんあったらいいなと。

「評価」(≒数値化)の呪縛をアンラーンする。
大切なのは一緒にプロジェクトをやりたいか?っていうこと。
評価が正確・公正であるというウソ。

「こういう人と一緒に学んでいきたい」
”あなたと一緒に学びたい”と思えるか。

「序列」:クラスの中で何番目か
⇒自分(たち)の目指しているものに対して何合目か?

ピアノやギター:やってるからできる
学年とかがない。誰も評価しない。

~~~

とまあこんな感じ。
高校魅力化の文脈に落とし込んでいくと、キーワードは

・「ゆるい」:答えを求めない。ゴールに向かわない。
・モチベーションとゲーミフィケーション、チュートリアル
・ラーニングセンター、異年齢の多様な人の出入りと心理的安全性
・ギターやピアノのようなやってるからできる、っていう感覚。

そんな感じかな。
いちばん響いたキーワードは「評価の呪縛」ですかね。

構造的に見れば。
「目標達成」という大きな仕組みの中で、授業の達成目標があって、
そこに対して限られた時間数で到達させることが重要で、
その到達度をテスト(高校なら中間・期末試験)によって測定するという仕組み。

ところが、キュビナのようなAI教材で学びを個別化したとすれば、
その時点(たとえば、2年生の7月時点)でのテストの結果は、どんな意味があるのだろうか?

そもそも。
目標⇒到達度評価⇒テストみたいな枠組みにどれほどの意味があるのか?

それって、サピエンス全史にも書いてあった、
「時計の奴隷」ってやつだよなあと。
工場は効率化のため、「時計」を発明した。
いや、時計はあったのだけど、イギリス各地域で異なっていた。

「時計」とか「始業時間」とか「時間割」とか
そういう概念そのものがわずか150年しか経っていないのだ。

そうそう。
人は、目標の奴隷である前に、時計の奴隷だ。
島に行くと誰も時間守らないっていうのは、時計から自由だって言うことなのかもしれない。

「学び」と「評価」と「目標」と「時計」
この構造に、何かヒントがあるよ。

「時計」から解放された学びをつくりたいね。

その「学び」はきっと、「遊び」に近づいていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)学びイベント

2020年06月18日

ビジョンづくり⇒企画書づくり


久しぶりのスターバックスひとり朝活。
ソーシャルディスタンスがすごい。
ソファー席もひとつずつ空いてる。

「言葉にできる」は武器になる
の梅田さんの「企画者は3度たくらむ」

企画書づくりの本をこれまでも読んできたけど
そもそも企画ってなんだっけ?という問いに、
スパっと答えてくれていて、いいなあと。
ビジョンづくりは企画書づくりだと思ってやったほうがいいなと。

そこに課題発見があるのか?と。
そういう意味では「探究的学び」と構造上は同じだなあと。

まだ第1章しか読んでいないのですが、
「あたりまえ」の大切なことがたくさん書いてある。

~~~以下メモ

全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。

全ての根源にあるのは「課題に気付く力」であり、そこから解決方法を紐解いていく一連の流れこそが企画なのである。

問題を解消するのではなく、課題を解決することこそが、企画者の仕事なのである。

発生している問題は、あくまでも課題が存在することによってもたらされている結果に過ぎず、解決すべき課題そのものではない。

問題ではなく、課題へ。課題ではなく、現在の課題へ。

企画力=発想力+実現力
課題解決力=企画力=(課題発見力+発想力)×チーム力

提案先が求めているのは、企画書ではない。企画である。
より正確に言えば、企画に辿り着いたプロセスが正確に記されている企画書である。

~~~以上メモ

うーん、すごい。
第1章だけでエッセンスが詰まっている。

いちばん思ったのは、
「ビジョンづくり」って「企画書づくり」だなあと。

ビジョンだけ示しても、現状認識と課題設定からくるプロセスの提示が必要なのだよね。
そのすべてに共感というか少なくとも同意がないと、ビジョンで終わってしまう。

まずその1点。

二つ目は、
そもそも「キャリア教育」ってなんだっけ?
みたいな。

「全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。」この原則から始めないといけないのではないだろうか。

だとしたら「やりたいことは何か?」よりもはるかに大切な問いは、困っている人はいないか?不便を感じていることはないか?それを解決するには?なのではないか。

三つ目の気づきは、アイデンティティの危機という課題に対してのアプローチのこと。僕が思うに、その筆頭は属するコミュニティを多様化・多層化してその掛け算として生きる、で、その階層1つ下に「地域の個性の構成員になること」があり、その場合、地域の個性は「編集」によって生み出すことができるし、周りの人たちと一緒に創ることもできる。

つまり、この本で言うところの「企画書づくり」(課題発見からの一連のプロセス)を通して、チーム(会社・地域)の個性を生み出すこともできるし、その構成員になることもできる。

ビジョンづくりは、企画書づくりへ。
そしてそれは個人のアイデンティティをも創っていく。

いや、仮説ですけどね。

課題とビジョンと、仮説と、打ち手。

そのくりかえし。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)学び

2020年06月17日

バンド選びのように、企業を選ぶ



「13の未来地図~フレームなき時代の羅針盤」(角田陽一郎 ぴあ)

withコロナ時代を予言していたかのような2018年3月発刊の1冊。
いまだからこそ読むべき1冊だと思います。

タイトルにもあるように、この本のテーマは、フレーム(枠組み)
本書の中で著者はなんども、フレームそのものがなくなっていくのだ、と説明します。

わかりやすいところで言えば、第1章「モノ⇒情報」の「スマホは携帯電話の進化系ではない」でしょうか。

スマホはそのモノ自体にはたいして価値はなく、購入したあとにオーナーが好きな情報サービスを自由にプラスできることに価値があるわけです。その点で、スマホは携帯電話とはまったく概念が違うもの。

そのうえで著者は、「情報革命」の本質について次のように述べます。

~~~ここから引用

「農業革命」とは、人類が生きていくために「モノを生み出す進化」でした。では「産業革命」とは何だったかというと、機械の力によって「モノを生み出す進化」をより効率的に進める効率革命でした。素晴らしい効率化ですが、モノに価値があるという意味では、あくまで農業革命の延長上にしかなかったのです。

一方、今起こっている情報革命とは、モノから情報という「目に見えないコト」に価値を置く社会への転換です。それは価値の機軸の転換であり「概念革命」なのです。だからこそ、情報革命は産業革命の時よりも、はるかに大きなインパクトを世界にもたらすはずです。

~~~ここまで引用

大きく言うとこういう感じ。
いやあ、メタ認知できる人ってすごいなあと。

ということで、今日紹介するのは2つのシフト
(全部面白かったので、買ったほうがいいです)

4 組織⇒バンド

あれ、聞いたことあるな。
そうです。2019年の1月にやっていた「かえるライブラリー」の
クラウドファンディング「バンドやろうぜ、みたいに本屋やろうぜ」です。

うわー、あれパクリだったのか。って。
角田さんすみません。

これからの仕事における個人と組織の形態はバンドなのではないか?
バンドメンバーは基本的に全員でステージに立ち「替えが効かない」のです。

ここで、素敵な一節を

「ロックバンドが気の合う仲間とともに音楽を奏でるように、あなたがやりたいプロジェクトのための自分のバンドを作るべきだと言っているわけです。」

いいっすね。
かえるライブラリーで目指したのはまさにそれです。
いま、オンライン劇場でやってますけど。

その続きで書いてあるのは、そういう「プロジェクトバンド」経験が就職に効くって言ってます。

ああ、それはあるなって。ボーカルだけじゃなくて、相手によってはギターもベースもドラムもできます。みたいなこともできるし。バンド名を考えたし、作曲も作詞もやったことあります、みたいなのは重宝されそうですよね。でもいちばん自分が好きなのはベースです、みたいな就活。

でも、そもそも、企業ってバンドなのか?みたいなところもあります。特に大企業では難しいかもしれません。「替わりがいること」が最優先されます。やりたい曲もなかなかやらせてもらえないかもしれません。それって、音楽性の違い、なんじゃないか?みたいな気もします。

取材型インターン「ひきだし」のオンラインミーティングで若松さんが「人を通して会社を知る」って言っていたけど、それってまさにバンド選びのようなものだなあと。

ただ、もちろん、大オーケストラでしか奏でられない音楽もあって。そういう音楽を目指したい人は大企業にいったほうがいいかもしれない。

でも、音楽性の合う仲間と、バンド組みたいんだよ、みたいな人は、その音楽性を頼りに、会社を選んだらいいなと。

じゃあ、音楽性って何?みたいなときに、それって、ベクトル感だと思うんだよね。メンバーひとりひとりや全体から感じるベクトル感。そういうのを感じられる「就活」ってできないかなあと。

もうひとう、キーワード

5 イデオロギー⇒ユーモア

これはガツンときました。
「農業革命」によって生まれた2つの概念、国(国家)と「宗教」(あるいは「思想」)その後、産業革命によってまた2つの概念が生まれます。「会社」と「イデオロギー」です。

イデオロギーとは日本語で言えば「〇〇主義」であり、資本主義と社会主義など様々な対立を生み出しました。

そこで、角田さんが言うのは「ユーモア」です。全然違うじゃんって、僕も思いました。

~~~ここから引用

ユーモアは単におもしろいことを言ったりすることではありません。本来の意味は、ある事実や現象を多視点で見る、つまり次元を変えてとらえ直すことによって、同じ事実や事象もまったく違ったものに見えるようになり、そこに”おかしみ“が発生する、という感覚のことです。

新しいフレームを作るには、既存のフレームを超える別次元の視点が必要です。

~~~ここまで引用

おもしろいなあ、と。
「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)を思い出しました。

参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

僕の茨城での失敗は、まさにここにありました。
「創造的破壊」を志向してしまったこと。
「創造的脱力」を発揮できなかったこと。
そのためには「ユーモア」こそが(僕にも組織にも)必要なのです。

「ユーモア」は、遊びではなく、思考の次元を超えていくことだと思います。
フレームを超えるときに必要なもの。

取材型インターンは、そういうものを大切にしていきたいなと思います。

なので、取材型インターンあらため、
ミステリーツアー型企業取材編集ドキュメンタリー「ひきだし」
にするというのはどうでしょうか。(笑)
参加したい大学生はお問い合わせください。

「就活はフレームワークだ」と、大学生さとしが断言していた。

参考:「就活」というフレームワーク(18.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e488581.html

その通りだと思う。
そして違和感の正体(正体ってたくさんあるな。笑)も
そこにあるようにも思う。

「学歴社会」っていうのは、フレームワーク至上主義社会のことであると思う。偏差値の高い大学というのは、(学力)入試というフレームワークが得意かどうか?という視点において、一定のクリアをしていることを示している。

本書によれば、その「フレーム」そのものが溶け出しているのだ。「会社」というフレームも、「事業」というフレームも、もしかすると「都市」や「資本主義」というフレームさえ溶け出している。「withコロナ」とは、そういう時代だと思う。

フレームなき時代へのシフトは、すでに起こっていて、新型コロナウイルスがそれにトドメを刺した、と言えるのかもしれない。

フレームを超えて、何を創造できるか?
そんな問いに真っただ中にいる、と僕は思っている。

フレームを超えて「ひきだし」が生み出すものを見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)

2020年06月14日

動的な屋号と空白のある地図

オンライン劇場ツルハシブックス2回目。
ゲストは、ZINE「とまれみよ」を発行した吉野さくらさん。
https://www.tomaremiyo.com/

自らの祖父を題材としたZINE
テーマは散歩と聞き書き。
散歩しながらじいちゃんの話を聞く。

気になったのは、
「とまれみよ」という屋号の由来。

踏切によく書いてある「とまれみよ」
これを見た時にハッとしたのだという。
「とまれみよ」は、自分の在り方としてしっくりくる。

コメタクの活動も、「とまれみよ」だ。
朝ごはんのご飯を炊くこと。
炊きあがるまでの時間(隙)をつくること。

さんぽ×聞き書き

散歩:偶然に出会える、思いつく
聞き書き:アウトプットすること(成果物)が唯一のゴールではない

日常と非日常
言葉と身体性
情報と感情

~~~こんな感じ

いちばん来たのは、屋号の話かな。
「とまれみよ」は、まさにさくらさんの在り方を示している。

いいなあ、在り方を示す屋号。
そういう意味では「ツルハシブックス」もいい線言ってますけどね。

次は「機会として学ぶ」の屋号化だな。

その後、つくばのじゅりさんと今は東京のみのりんと3人で茨城県人会(誰も茨城出身じゃない)
ただの雑談。最近読んだ本とか感じていることとかはひたすら話す、みたいな。

なんか、楽しい時間だった。
お茶とスイーツ、もしくはお酒とおつまみ(手でつまめるもの)をご用意ください。
って書いておけばいいかもしれない。
スイーツ紹介から始まる本の処方箋っぽい雑談、楽しいかも。

そして、第3部は、オンライン・ゼミ
「やりたいことがわからない」の社会学でした。

まず、「やりたことがわからないの社会学」を聞いて、キーワードだし。
そこからひとつずつ拾っていく。

まずは大学生が話した
「ライフヒストリー(チャート)」への違和感。
これ、僕も感じていたので、いいお題だった。

ライフヒストリー(チャート)は、
自分の人生を振り返ってその時のプラスマイナスを折れ線グラフ化するもので、
就活の自己分析に使われたり、チームビルディング研修などでも使われるやつ。

ここ数年、僕もライフヒストリーには違和感があって、
人を理解する方法としては使ってこなかったのだけど、
最近思うのは、「自己開示」のツールとしては使えるのだけど
「自己分析」や「他者理解」のツールとして使うのは危ういなということ。

言ってみれば「人生の編集」だもんね。
その瞬間のその人はあぶりだされない。

次のキーワードは「アイデンティティ」。
まあ、これ言っちゃったら、ゼミが終わっちゃうんだけどね。笑

アイデンティティを分散させる
って誰かが言っていたけど、
コミュニティを多層化、複層化するっていうのはありだなと思う。

そういう意味でも第1部のさくらさんの話に戻るけど、
あり方としての屋号っていうのは面白いなと。

「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。
「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。
スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。

動的な(動きを感じられる)屋号だということ。

そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。
そういう感じ。

ライフヒストリー(チャート)の違和感のひとつもそこにあるのかも。

過去の出来事を静的な点として観る。
でも、その時、その点はたしかに動いていたし、
今現時点ではその点(出来事)はマイナスに感じられるのかもしれないけど
5年後にはプラスに感じられるかもしれないので、現実には今も動いているかもしれない。

だからこそ、動的な屋号とか、コンセプトが必要なんだなと。
そしてそれは一人でなくても、二人でも、チームでも、いいのかもしれない。
この船はどこに向かっているんだっけ?っていうのに答えられるような名前を必要としている。

~~~

っていう感じ。
オンライン劇場の未来がまた一つ見えた。


「サピエンス全史 下」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)

を読んでいて出会ったシビれるキーワード
「空白のある地図」

~~~ここから一部引用

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ人は空白の多い世界地図を描き始めた。それ以前には地図には空白はなかった。だからそれらは世界の隅々まで熟知しているという印象を与えた。

コロンブスは、1492年に中南米のバハマ諸島に到達した時、東アジア沖にある小島にたどり着いたと信じていた。だからこそ、そこに住む人を「インディアン」と呼んだ。コロンブスは死ぬまでそう誤解していた。

その10年後、1502年~04年にイタリア人航海者アメリゴ・ヴェスプッチらは何度かアメリカ探検をした。これらの探検について書かれた書簡の中で、彼は、コロンブスが到達したのは東インド諸島ではなく、まったく無知の大陸だとした。

1507年、定評のある地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが発行した改訂した世界地図にはそれが独立した大陸であると初めて書かれ、その大陸を発見したのがアメリゴだと誤解したヴァルトぜーミューラーは、その大陸に名前を付けるとき、アメリゴの栄誉をたたえて「アメリカ」と名付けた。

この地図は非常な人気を博し、他の多くの地図製作者に複写されたので、彼が新大陸につけた名前が広まっていった。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋なめぐりあわせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

(中略)

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

~~~ここまで一部引用

いいですね、「空白のある地図」。
まさに、僕がオンライン劇場に感じているのはこれのことだなあと。
インターネット黎明期の90年代後半にその世界の人が感じていたものらしき何かを感じている。

オンラインだからこそ、たどり着ける地平があると。
そしてそれは、ひとりではなたどり着けないくらい遠くにありそうで、まだ見えていない。

そこへの旅を進めるために、ひとりひとりの動的な屋号を、ベクトル感を共有したい。

それは「言葉」と「身体」のあいだ。
「考える」と「感じる」のあいだにある何か、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:22Comments(0)学び

2020年06月11日

「大学」という乗り物に乗る。

公営塾対象のAO・推薦入試(総合型選抜)研修(オンライン)でした。
いつも藤岡さんの話は本質的だなあと。

ということで、ひたすらメモします。

~~~ここからメモ

コロナ過で様々な大会、コンクール、部活動、学校外の活動などが停止。
⇒AO・推薦を受験できないのではないか?という不安
⇒(実績)要件は緩和されている

しかし、問うべきは
「そもそも、大学側は、大会、生徒会などで、何を、なぜ、見たいのでしょうか?」

「三ポリ」
・ディプロマ・ポリシー(DP):大学卒業時に身につけておくべき学力の3要素
・カリキュラムポリシー:DPを体系的に身に付けるための授業の配置方針と教育方針
・アドミッション・ポリシー:カリキュラムを受けるために入学者に求めたい学力の3要素

例:北陸大学
https://www.hokuriku-u.ac.jp/about/outline/policy.html

DPルーブリック(学年別到達目標・評価基準)とカリキュラムツリーがある。
AP:求める学生像が書いてある:例
・自分の考えや意見を述べることができる人
・経験を振り返り、自分の言葉で表現できる人

⇒APから求められる力を導き、ルーブリックを作ってみる
・「表現力」4 聞き手に対して熱意を持って、効果的に語り掛けることができている。⇒1 聞き手を意識せず原稿を読み上げているだけである。

アドミッションポリシー(AP)の例:慶応SFC総合政策学部
総合政策学部は「実践知」を理念とし、「問題発見・解決」に拘る学生を求めます。問題を発見・分析し、解決の処方箋を作り実行するプロセスを主体的に体験し、社会で現実問題の解決に活躍する事を期待します。
従って入学試験の重要な判定基準は、自主的な思考力、発想力、構想力、実行力の有無です。「SFCでこんな事に取り組み学びたい」という問題意識に基づいて、自らの手で未来を拓く力を磨く意欲ある学生を求めます。

~~~ここまで第1部

DP⇒CP⇒APの流れって、高校でも意識してもいいような気がした。
いわゆる「教育目標」って、DPにあたると思うし、
「カリキュラムマネジメント」って言われているのは、CPをベースになっているし、
APも、普通科であればだれでも歓迎なのだろうけど、高校魅力化の観点からは、
そのあたりを明確に、「こういう人に来てほしい」っていうメッセージが必要かなと思う。

あとは、推薦やAOに関わらず、高校でも公営塾でもルーブリック評価みたいな軸を
作っておくことも、自らを確認する上では重要だと思う。

~~~僕の中で切っているだけですが第2部

・大学は「教育研究機関」であり、「研究」の側面を持つ。
・「研究」とは、「まだわかってないことの答えをみつける」こと
⇒講義を受けて知識を得るだけではなく、課題を設定して研究すること「自ら物事をつきつめて明らかにする」ことが求められる
⇒そのために必要な教授や授業、研究会を選び、意見を交換し、アドバイスをもらい、自分の意見を考え続け、まとめていく
・「学生」(≠生徒)とは「自ら物事を突き詰めて明らかにする」自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定、その課題を解決するために自分で動ける人
⇒「学生」として求められるチカラ
基本的な学習能力⇒基礎学力
自ら課題・テーマを発見できる⇒問題発見能力
自ら教授や授業、研究会・ゼミを選ぶ⇒主体性
研究会・ゼミを活性化する力⇒周囲を巻き込む力

推薦・AO入試(総合型選抜)とは
「学生として求められる力」と持つ高校生を多面的観点から選ぶ入学試験。

★大学の裏事情として、大学入試改革が文科省から迫られていることもある。

・大学が見たい高校生のコンピテンシー
⇒大会やコンクールなど、いわゆる「実績」がなくても合格可能
⇒大学は「結果」だけでなく、そこに至るプロセス、プロセスにおけるコンビテンシー(思考特性・行動特性)を見ている。
⇒コンピテンシーとは「思考特性・行動特性」であり、思考と行動、その背後にある価値観や信念を含めて大学側が見たい「人となり」です。

★「個性」とは
「理念・価値観・世界観」⇒「思考」⇒「行動」の集合体

これ、西村モデルの高校生版だなと。


こちらより引用
https://note.com/yuumitakano/n/n767c1516fc65

・なぜ目覚ましい実績・成績があると合格しやすいと言われていたり、出願要件に入っているのか?
実績・成績はあくまで人となりが結果として表出化され出てきたもの。
⇒二次面接者にとって、高校生のわかりやすい人となり:コミュニケーション・ツールになる。

★実績の言語化が必要
・あくまで志望校のアドミッションポリシーに合うかどうかがポイント
・実績があればOKではない
・実績を相手に伝わるように言語化
・活動において実績を出すに至った価値観・思考・行動の言語化が必要。

経験学習サイクル(デイビット・コルブ)
行動(具体的経験)⇒振り返り(自分の経験を言葉でふりかえる)⇒本質の気づき(教訓や持論・自論を引き出す)⇒将来の目標設定(次の経験の際に自分が取る行動の目標を立てる)⇒行動に戻る
★具体から抽象へ。なぜうまくいったか、を再現できる。うまくいかなかったことを再現せず、失敗しない。
「人はおよそ70%を経験から学び、20%は観察学習や他者からのアドバイスによって学び、残りの10%は研修や書籍などから学ぶ。
経験を言語化できる人はパフォーマンスが高くなる傾向がある。

~~~ここまで第2部

今回の研修で、多くの人がヒットしたのは、ここだった。
経験の言語化、ふりかえりの重要性はわかるのだけど、
そもそも高校生が言語化に慣れていない。

藤岡さんは
・言語化するメリットと手法
・言語化できる自信と期待感⇒話したら共感が得られた(うまくいった)みたいな
を高めていく必要を語っていたし、
その前提となるような心理的安全性(安心空間)
をつくっていかないといけないと言った。

多くの高校生は、話すことそのものが不安というか
自分のことを話すのはイタイやつみたいな習慣があるので、
それを打破していかないといけない。

黎明学舎でやっているような、
雑談の時間や、毎日やるお題自己紹介などは
非常に有効なのかもしれない。

「ふりかえり」を反省(特に目標に対する結果の)の場にしないこと
「印象に残ったこと」など、心をまずふりかえること。

~~~ここから第3部メモ(テクニック編)

・プレスタ法
PREP法とSTAR法

PREP法(説明の順番)
1 Point:伝えたい結論・メッセージ
2 Reason:理由・経緯・Pointの詳しい説明
3 Episode:具体的エピソード
4 Point:伝えたい結論・メッセージ

STAR法(言語化の順番)
1 Situation:状況
2 Target&Task:目標・障害・壁・課題
3 Action:解決に向けた意志・行動・姿勢など
4 Result:結果・好転した状況・気づいたこと・得た意見

TAE(Think at the Edge)
https://taetokyo.jimdofree.com/
http://gen.taejapan.org/index.html

志望理由書と7つの観点
1 経緯:過去(高校時代まで)に頑張ったこと、印象に残ったこと、自分に大きい影響を与えた出来事、など
2 気づき・価値観:1を通して、気づいたことや学んだことから得た考え方・大切に思うこと
3 問題意識・テーマ(実現したい野望):2に照らしたとき、問題だと感じること、考えること、このままではいけない、解決したいと思うこと。
4 社会的意義:3の、社会における重要性。それに取り組むべき社会的必然性と、その先にある利益(メリット)
5 解決すべき課題・解決策:3の原因を解決(解消)するためのアイデア、具体的な方法
6 志望大学が最適である理由:5を実現するために、その大学(・学部)に進学したいという根拠。大学の理念・ゼミ・研究内容など。
7 将来の夢・志:その大学での学びをとおして、社会に出て何をしたいか、どのように社会貢献したいか、など。

AO・推薦入試で評価されること⇒総合的な評価が得られれば合格できる。
A 基礎学力
B 人物像(主体性)
C 大学で学ぶときに必要な力(周囲を巻き込む力・リーダーシップ・プレゼン力・コミュニケーション能力など)
D 明確な目的意識(問題発見能力)

AO推薦入試がおすすめな理由
1 一般入試より学力レベルの少し高い大学へ合格できる
2 一般入試(学力)にも相乗効果がある
3 AO入試に挑戦することで就活・社会人など、将来に渡り役に立つスキルが身に付く

~~~ここまで第3部メモ

いや、これって、構造的には大学生の就活とまったく変わらないなあと。
あときっと、中学生が高校を選ぶときにだって、こういう選択プロセスを踏んでいるはずだ。
これを入学志願者を集めるほうの視点で考えることはできるよね。

◎◎な課題を解決したい人にとっては、
ウチの高校のこういう活動、ウチの地域のこういう人、ウチの町のこういう環境は、
とても魅力がありますよ、っていうこと。

それを言語化していくことだ。

「言語化」の課題。
それは高校生ばかりではなく、一生モノの課題。

あとは、全体として思ったことは、
大学に入るのも、企業に入社するのも、
「乗り物に乗る」ようなものだなあと。
もしかすると、ワークショップのような一回性の高い「場」も、
「乗り物に乗る」ようなもの、かもしれませんね。

試験は、乗り物に乗るチケットを手に入れるためのもの。
あるいは、この人たちと一緒に乗ったら楽しいか?成長できるか?
みたいなことを確かめるもの。

そんな感覚で、大学入試にも就職活動にも向かっていけたらいいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)イベント日記

2020年06月10日

ひきだしミライカイギ

昨日は、取材型インターンひきだしミライカイギ~オンライン「ひきだし」はできるのか~
でした。
参加してくださった企業の方、OBOGの方ありがとうございました。

「ひきだし」の本質的な価値はどこにあったのか?を
改めて考えていく中で、その価値をオンラインである程度再現しつつ、
オンラインでしかたどり着けない場所にいくというミッション。

結論からいけば、始まる前には、完全オンラインは難しくって、
一部オンライン(現地に何名かは行くパターン)
を考えていたけど、実際に話してみたら完全オンラインもいけるような気がしてきました。

さて。
昨日の話を整理してみます。

取材型インターン「ひきだし」の価値(特徴)について


1 学生側と企業側のフラットな関係性

・ミステリーツアー方式(選んでないし、選ばれていない)
・「目的多様性」と「身体性」を持つ「場」づくり

2 会社を「人」から知る

・雑談、雰囲気などから会社のリアルを知る。

3 共同生活がある

・合宿形式で、家事分担などから身体感覚を共有している(オフの時間がある)

4 企業を含め全員が参加者(当事者)である。

・同じ空間(場)を共有すること、問いに向かっていくことで、全員が当事者になっている。
・会社の魅力を引き出して冊子をつくる、とぃうゴールがある。

と、かけば書くほど、やっぱオンラインなんて無理じゃんってなるのだけど、
昨日は後半で、いろいろ大学生や企業の担当者の話を聞いていると、
いや、やっぱいけるかも、と思った。

【オンラインの課題】
・大学のオンライン授業の場合:そもそも主導権が学生側にあるし、自由度が高いので、当事者意識が下がる。
⇒それはかけてるコストが少ないから。
⇒有料化することでそれは変わるのか?

・「人」から会社を知る、という意味では、リアルならでは「雑談」「雰囲気」が大切
⇒オンラインだとフラットなだけにさらに「人」にフォーカスできる可能性がある。(プログラム次第)

・身体性をベクトル性で補えるのか?
⇒ベクトルを合わせることはそもそも難しいし、場のチカラと矛盾するのではないか。
⇒ベクトルを合わせるのではなく、ベクトル性を共有(お互いに知る)ことでできないか。
⇒キーワード・トークなどを会社側も交えてやるとか。

・トランプやサイコロなどの「ギャンブル性」を入れる
⇒これってリアルでもそうだけど、オンラインだからこそのドキドキが必要なのかも。
⇒ブレイクアウトセッションも、ランダムで決めればくじ引きだもんね。

【オンラインひきだしの案】

・各人の「問い」(ベクトル)をていねいにチューニングする。
⇒企業の担当者も含めてやる。
⇒キーワード・カフェとか。
⇒いままでよりさらに「人間性」で勝負する。
⇒会社を「人」で知る

・ブレイクアウトセッションでの対話、雑談の時間を増やす。
⇒経営者や社員とのトークの合間や振り返りで、ブレイクアウトセッションを増やし、1対1の場をランダムにつくる。
⇒雑談の場の設計。ごはんや飲み会、飲みながらの振り返りなども入れる。

・学生の当事者意識を上げるには?
⇒参加費を取る☆コロナ後に使える企業訪問ツアーを付けるなどの特典
⇒参加課題を出す、面接する(ベクトル性の異なる人を集める)

~~~
っと現時点ではこういう感じかな。
来週また話しましょう。

僕としてはあらためて、
「機会として学ぶ」っていう原点に返った気がします。

新型コロナウイルスによって、
現地型のインターンがすべてNGになっていく中で、ひきだしは、どこへ向かっていくのか。
「オンライン化」でなく、オンラインだからこそたどり着ける学びの機会をつくれるのではないか。

キーワードは、向き合わないことだと思った。

人は人と出会うべきなのか(斎藤環)
https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec

の中で、

~~~
あらゆる関係性は非対称である。これが前提だ。言い換えるなら、非対称性が想定されない場所には関係性も生まれない。そう、「対等な関係性」などは、誰かの政治的夢想の中にしか存在しない。どんな関係性にも上下関係、支配関係が埋め込まれている。
~~~

と出てくる。そしてそれには臨場性が必要だと。
人間関係の非対称性は身体からくるのだと。
まあ、そうなのかもしれないけど。

僕がひきだしに込めた思いは、
「機会としての学び」の中で、人と人はフラットになる、ということだった。
そしてその「場」にこそ、生まれる未来がある、と。

ひきだしがオンラインになったとしても、
機会としての学びに向かって、
企業も、学生も向き合わずに未来を生み出していくような
場をつくっていけるし、
むしろ、オンラインひきだしじゃないと、たどりつけない「場」があるのではないか、と予感した。

まあ、予感しただけなのですが。

それにしても、イベントラストに撮ったこの写真が楽しそうすぎる。
やっぱ身体性大事だわ。
それでは、ご唱和ください。「ヒキダシ、ヒキダシ」

  

Posted by ニシダタクジ at 07:05Comments(0)学び日記

2020年06月05日

「機会」を「問い」に換え、Whyに立ち返る。

今週のweekly ochiaiでの一コマ。
テーマは、アフターコロナのリアル「飲食・小売」編
代々木上原のsioの鳥羽周作さんのお店でやってきたことが衝撃で。

sio
http://sio-yoyogiuehara.com/

レシピを無料公開していたツイッター
https://mobile.twitter.com/pirlo05050505

お店ってなんだっけ?
っていう問いに詰まっていたので、メモしておく。
まだ途中までしかみていないのだけど。

~~~以下メモ(他・出演者のもの含む)

コロナ期間中にやったこと。
・ツイッターでのレシピ公開
・1,000円のお弁当
・10,000円/13,500円(2名分)のお弁当
・お店の営業
⇒コロナ前以上の売り上げ

レシピ公開:
お客様しかコロナの答えはもっていない。⇒何を求めているか?
ステイホーム:料理する人が増える。包丁を握ったことがない人もいる
⇒再現性の高いレシピを。

家でつくってみて、弁当にして再現できるか?妻に食べてもらって判定
⇒お客さんの立場(包丁もったことがない)まで想像できているか?

1000円の弁当:
レストランクオリティ(価値体験)を1000円であっても提供するんだという意志。
⇒ぜいたく弁当(10,000円~/2名)へ
※通常のコースは1名10,000円~

トップシェフが弁当で新しい価値を提供する
⇒今まで向き合ってなかった層に価値を提供すること
⇒まず3weekお弁当を研究した。
⇒レストランに求めている価値をどうやって自宅にお弁当として届けるか?

「エンゲージメント」
もともとのお客さんにちゃんと届けているか。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること

基準は:これをやって幸せな人が増えるのか?増える:やる 減る:やらない
⇒意思決定を最高速に。

レストラン価値を届ける方法として、弁当という方法もある。
10,000円のコースも、1,000円の弁当も、同じ熱量で作りこむ。
誇りをもって1,000円で新しい体験価値を届ける。ナポリタンでもからあげでも。

視点は常に「お客様は何を求めているか?」
⇒予想を上回るものを出し続けることがエンゲージメントにつながる。
エンゲージメント:ファンをつくること。
地域のおばあちゃんが1,000円の弁当やめないでね、と言ってくれる。

~~~ここまでメモ

いやあ、すごい。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、
「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、
「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし、
(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)
1000円の弁当も本気で作る。

かっこいいなと。
そんな本屋をつくりたいなと。
僕がつくるのではなくて、劇団員と呼ばれる人たちと、ね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)学び

2020年06月03日

学校はあるものではなく、つくるもの


「未来の学校のつくりかた」(税所篤快 教育開発研究所)

久しぶりに、やべえ本に出会ってしまった。
「ありのままがあるところ」以来の衝撃。
https://note.com/tsuruhashi/n/nae7ec266333e?magazine_key=m21a04cf91a68

「学校」「地域」「コーディネーター」「学び」とか
キーワードの方には読んでいただきたい1冊。
さっそく注文しました。オンライン劇場に間に合うといいなあ。

第1章の大阪市住吉区の大空小学校の話だけで2000円の元はとれます。
それくらいの衝撃というか、くやしさというか、実践者っているんやなあって。

映画っていうメディアが苦手なので、まだ見れてないのですが、この本読んだら見たくなりますね。
映画「みんなの学校」上映会+対話の会したいなあ。
6万円だから2000円×30人で見れるのか。
考えてみよう。

この章の締めくくりで書いてあるけど、
大空小学校の初代校長の木村さんの言葉は重い。

学校を「木」だとするならば、地域が「土」、教職員は「風」。
「木が最もよりどころにするのは、常にそこにある土。いい土があって、木がそこにしっかりと根を張っていれば、少々乱暴な風が吹いても倒れません。風は外から、木と土にとって必要なものを運んでこられればいい。」

税所さんは、木村さんを、手段ではなく目的を見ている人だと、
刻みつけるべきは、彼女のしてきたことではなく、彼女の視座だと語る。

ホント、そうだなあと。

キーワードだけ、メモします。
本文をぜひ読んでほしい。

・「教員」ではなく「教職員」
・学校はあるものではなくてつくるもの
・「保護者」になるな、「サポーター」であれ
・学校と地域に上下関係はない
・手段と目的を混同しないこと

いやあ、すごい。
一言一言がグサグサと刺さる。

ひとつ、ヒントになったのは、
ふれあい科の「ようこそ大空の先生たち」という
1~6年の教員(校長も含む)をシャッフルして、
くじ引きで授業をするクラスを選ぶというもの。

子どもたちはとても楽しみにしているのだという。
ああ、こんなふうに、学校現場での
「予測不可能性」ってつくれるんだなあと。

先日のサイコロをつかった探究テーマづくり
https://hen-ai-topic.jimdosite.com/junior/?fbclid=IwAR0P71ofHglQO0cHW5_1oKZYXhTEYPygG-VxjhujgGxhr22TzloayFZFDdI
とか。

そういう小さな部分にいれていくことで予測不可能性は高まるなあと。
ゴールに向かっていかない学びってパラダイムシフトだから、
予測不可能性の面白さを取り入れていく、ってことから始まるのかもしれないなと思いました。

ひとまず、この本、仕入れますので、買ってください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:39Comments(0)

2020年06月02日

「法人」という神話


「サピエンス全史(上)」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)

読み始めました。
手ごたえがありまくるので少しずつ読みますね。
今日は第2章まで。

~~~ここから読書メモ

地球に君臨する捕食者の大半は、堂々たる生き物だ。何百万年にも及ぶ支配のおかげで、彼らは自信に満ちている。それに比べると、サピエンスはむしろ、政情不安定な弱小国の独裁者のようなものだ。

私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。

激しい議論は今なお尽きないが、最も有力な答えは、その議論を可能にしているものにほかならない。すなわち、ホモ・サピエンスが世界を征服できたのは、何よりも、その比類なき言語のおかげではなかろうか。

集団の限界値である「150人」を超えるための虚構の登場、か。

「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ。」

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

宇宙には神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。

言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。

~~~ここまでメモ

ホモ・サピエンスを世界の覇者にしたのは、言語の力である。

最近は、「言葉」の大切さを実感しつつあったところなので、めちゃタイムリー。
そもそも人は言葉によって、世界を作ってきた。
しかし、ここまで言い切られるとすっきりしますね。

「人が神や宗教を必要としている」のではなく、
協力したり、連帯感をもったりするための「虚構」「神話」「物語」を必要としているのだと。

会社における、ビジョンとかミッションもその話ですね。
この本では老舗自動車メーカー「プジョー」を例に、
「法人」という神話を説明していますがその通りだなあと。

言葉の大切さを語る前に、言葉とは何か?
なぜ、言葉なのか?
を考えさせられる1冊。

これと、最近テーマになっているのが「身体性」なのだけど、
それに関して、友人がシェアしたnoteが面白かったので

人は人と出会うべきなのか(斎藤環)
https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec

ここでは、「臨場性」と説明されているがまさに
その身体性のようなもの。
「やさしさも暴力である」とか刺激的な内容もあるけれど、ここでは一部を引用する。

オンラインでは完結できない領域とは何だろうか。少なくとも「関係性」が重要な意味を持つあらゆる領域は、今後も臨場性が必須となるだろう。性関係はもとより、治療関係、師弟関係、家族関係、などがそれにあたる。言い換えるなら、関係性よりもコミュニケーションが意味を持つ領域では、臨場性を捨象するほうが効率化されるため、オンラインで完結できるだろう。おわかりの通り、関係性とコミュニケーション(情報の伝達)はまったくの別物であり、私からみれば、ほとんど対義語ですらある。

関係性とコミュニケーションは別物で、関係性には臨場性は必須である、と。

まさに、ここに「オンライン本屋」のカギがあるように思う。
言葉と臨場性(身体性)。

このクロスする領域というか、
無限のグラデーションの中に、「場」を構築できるか、それがカギになる。

ちょっと何言ってるか分からない。byサンドウィッチマン富澤  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)

2020年06月01日

何がどうシフトするのか?

5月29日金曜日に、2つのオンライン勉強会に出たのでキーワードまとめ。

~~~ここからメモ

昼の部:尼崎市職員向け研修(ゲスト:ディスカバ・今村亮さん)

オンラインになると先生中心の「教育」から生徒中心の「学習(学び)」へシフトせざるを得ない。

従来型の学びで得たものを今仕事で使っているとしたら、従来型の学びを提供しようとする。

「問いの立て方、問いの作り方」っていう問いは違うのではないか。
感じたことを、言葉にするプロセスの中で5W1Hを組み合わせれば、問いは生まれる。

サイコロ探究
https://hen-ai-topic.jimdosite.com/junior/?fbclid=IwAR3K7FTaN5iGjStcY-T4h7Xnj9JOAsLTBVMRM_a0yG4wetPkVG5l04Fskfc

浦崎先生の言う「感じること」「問いを立てること」「意味を味わうこと」
の「感じること」と「問いを立てること」のあいだに、深い深い「言語化の谷」が広がっている。

ディスカバ!オンライン(PBLをオンライン上で再現)
https://discova.jp/online/

「教育」つまり、「教える」のは先生だが、「学ぶ」のは子ども。
主語、主導権の大転換が起こっている。

言いたいことが言えない関係。タテの関係は「評価」というプレッシャーが、ヨコの関係は「同調圧力」がかかる。
「評価」も「同調圧力」もない「ナナメの関係」、それがカタリバの関係。ようやく「ナナメの関係」が腑に落ちた。

「学び」の主導権の移行。
それは経済では「企業」から「消費者」へと30年前に起こっていたこと。
ここ30年の経済史をふりかえることで、何か見えるのかもしれない。
戦後最大・明治以来と言われる教育改革としての「探究」
正解を教わるの教育ではなく自ら主導権を持つ探究へ。

本来は「学校」「家庭」「地域」の3つで構成される子育て。しかし、「ステイホーム」は子どもの居場所を「家庭」だけに制限した。
→オンライン上に居場所をつくる必要があった。
→たとえば、「カタリバオンライン」とか「朝の会」とか。
→異年齢の子が接する時間になった。

わかりやすい勉強コンテンツはウェブ上にいくらでもあった。

必要なのは対話・コミュニケーション。
→オンライン朝礼をした
→不登校傾向の子どもたちにとってはむしろプラスに働くこともあった。

夜の部:マイプロ勉強会・事例紹介(ふたば未来学園高校・鈴木先生)

福島県立ふたば未来学園高校の「未来創造探究」
地域社会のneedと自分について理解するWillの真ん中にテーマ設定すること。
「調査のためのアクション」と「解決のためのワーク」を行き来する。

「知らないことを知る」ワーク
自分は何を知っていて、何を知らないのか?
聞いたことがある≠知っている
を再認識する。

情報の種類を知る:「事実」「意見」「仮定」
聞いたことがあって、自分でも使っているのに実はよく知らないこと
→友人に説明できるようになるまでインプットする。
知らなかったワードを自分自身で定義しなおすこと。

「ヒューマン・ライブラリー」
近隣地域で活動する人々を8名を呼び、うち2名に話を聞ける時間にする。
「会いにいけるゲスト」
テーマ「私のマイプロ(探究)」で話してもらう。

そこで新たな問い、観点、ロールモデルを得て、実際に現場に会いに行ってみる。
→問いと調査のためのアクション。

~~~とこんな感じ。

たまたま5月30日に、本屋さんで目に留まったこの本を買いまして、今朝、一気に読みました。


「2020年6月30日にまたここで会おう~瀧本哲史伝説の東大講義」(瀧本哲史 星海者新書)
昨年急逝された瀧本さんの講演録。
久しぶりに奥底に響くような内容。

~~~以下本からメモ

「教養の役割とは、他の見方、考え方があり得ることを示すことである。」アラン・ブルーム

学問や学びというのは、答えを知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。
なるほど、学校で学ぶことは守破離の守の、さらに基礎なのか。

バイブルとカリスマの否定。

明治維新というのは近代革命の中でも、際立って言葉を武器にして行われた革命だったと言える。

教養の1歩目は言語。
右手にロジック、左手にレトリックを。

だから「瀧本先生、僕に進むべき道を教えてください」じゃないんです。ぜんぜん違うんです。君が自分の仮説を出して、それを試してみるしかないんですよ。

「弱いつながり」とはSNSでつながることではなくて、バックグラウンドが違う人とつながっているということ。

アイデアがどうかなんてことより、「あなただからその事業をやる意味がある」ということが、やはりきわめて重要です。

~~~ここまでメモ。

なんだかタイムリー。

金曜日の今村さんの一言。
オンラインは先生が主導権を握る「教育」から生徒が主導権を握る「学び」へと変えてしまった。

パラダイムシフト。

夜の部のとある学校の先生が言っていた一言。
「探究活動を積極的にやった子が有名大学にAO・推薦で受かっているので、うちの学校では今年から探究の授業を検討するところと進路指導部が一緒になったんです。」

えっ。
それって・・・
強烈な違和感。

有名大学にAO・推薦で合格するというのは、
探究の「結果」であって、探究の「目的」ではないはずなんです。

そもそも探究とは、
個人の関心と社会の課題の重なるところにできていって、
その題材は、ひとりひとりに委ねられている。
個人の興味関心というエネルギーを注ぎ込まないと成立しないもの。

パラダイムシフト。

が起こっているはずだ。
「探究型学び」へのパラダイム・シフトが。

今村さんが言うように、
教育(≒学び)の主導権が「教師」から「生徒」自身へシフトする。

そして、僕が以前から言っている「機会としての学び」
http://hero.niiblo.jp/e489763.html

学びの構造が「(目的・目標を設定し)手段として学ぶ」から「(展開・振り返り重視で)機会として学ぶ」へシフトする。

教育だけではなく、近代のパラダイム(価値観)のキーワードは「効率化」だった。
「目的・目標を設定して、そこに最高速で行く」に価値があった。
それは工業を中心とした社会だったからだ。
ところが、そのゴールを失い、しかも「効率化」が価値を生まないことがわかってきた今。
当然教育の現場のパラダイムもシフトせざるを得ない。

ところが「AO・推薦入試のために、探究を」って、まったく目的・目標設定のパラダイムではないか。
そのほかにもシフトしているように思うこと。

「個人として学び」から「場としての学び」へのシフト。
方法(メソッド)から場へのシフト。
挑戦から実験へのシフト
達成感から予測不可能性へのシフト。
伝説のカリスマ教師から歌われざる英雄へのシフト。
明確なゴールから方向感・ベクトル感へのシフト。

そんなシフトが始まっている。
いや、コロナ休校期間中にもうシフトは終わっていて、気づいていないだけかもしれない。

瀧本さんに言葉を借りれば、
あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマが、きっとあるはずだ。  

Posted by ニシダタクジ at 09:55Comments(0)学び日記

2020年05月28日

「自分ごと」になるための「対話」のデザイン

「就活」の違和感。
その大きなもののひとつが「自己分析」だろうと思う。
「自分を知る」というやつだ。

人はそんなに、自分を知らない。

しかも「自分」はひとつではなく、インスタの複数アカウントのごとく、シーン(場面での立場)によって使い分けている。

昨日は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会第3回目
題材は、
【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編②
https://www.youtube.com/watch?v=sHemvchZ_6c&t=2481s
でした。

昼の部は先生方4名+校長先生
地域の方3名+学校教育課長
そして黎明学舎スタッフ4名の計13名、
夜の部はパートナーズ3名+私の4名で行いました。

題材があることで対話できるなあと。

~~~ここから動画メモ

感じること、問いを立てること、意味を味わうこと

地域課題解決(地域素材・探究能力):これまで総合で取り組まれてきたこと
と個別最適化(問いに当事者性):マイプロジェクトなど
の真ん中にふるさと教育(探究)をつくっていくこと。

マイプロジェクト:その子にとって、とことん自分ごとを追求した。

飛騨市学園構想⇒大人の探究活動
検討委員会:対話が乏しい。
事務局が原案をつくり、委員の質問に対して事務局が答える。
行政の会議こそ探究的にしていくべきではないか?

授業も同じ。
教える流れのデザインをして、生徒がお客さんであっていいのか?
対話性・創造性が失われている。
探究:問いを引き出すことが重要。問いづくりから出発する。
唯一解はなく、納得解を追う:当事者性や創造性が向上する。

探究的な行政プロセス
委員から問いが生まれるように工夫する。
ファシリテーターとしての事務局

主体的になる←自分ごとになる←対話によって←問いによって←題材によって
休校前⇒休校後
※対話する必要がある。
育ちの文脈の共有・関係性づくりが重要

~~~ここまで動画メモ

そのあと、先生方を交え、ディスカッションしました。(メモは夜の部を含む)

・ゴール到達点を共有することが大切なのではないか。
・「自分を知る」のと「地域を知る」ということは同時に起こるのではないか?
・筑波大学付属坂戸高校は、体験⇒対話の流れができていた。
・畑作業はしんどいという身体性を共有していることも。
・ゴールを設定するとゴールに向かって最適化するのでは?
・「他者」として目の前の相手を認識できるか
・「信用社会」から「信頼社会」へ
・体験で終わらずにそれをふりかえり、言語化すること。
・頭で振り返るまでに「印象に残ったこと」など、心の振り返りをする。
・ボート部:まちの人との対話の機会がある
・雑談・身体性感覚、共通テーマが重要
・答えを教えてしまうのではなく、もやもや感を助ける
・違う年齢層の人と話す(他者と話す)
・多様な人と関わる:ロールモデルを通して自分を知る
・「自分」っていうのは「哲学(美学)」と「承認欲求」
・「対話」(ふりかえりを含め)によって言語化がおこって自分を知り、自分を承認できるようになる。
・大人自身が変わり続けないといけない。
・「対話」をすることの重要性:相手の話を聞く、感じたことを言葉で表現する。
・「学びの土壌づくりをやらなければならない。
・「問い」を深めるために、問いかける人が必要。

探究

承認

フラットな「対話」←「問い」

たぶんそんな感じ。

・先生という言葉は死語。どの方向に進むかわからないのだから。
・「探究的に学ぶ」とは「対話的」「機会的」「実験的」に学ぶということ。

そんな感じ。
これからやっていくこととしては、「対話」の時間のデザイン。
題材としての大人と問いかける大人の確保・授業参画。
その大人が、自分自身も探究していること。
問いかける人は、ある意味、アーティストである。
教育はアートに近づいていく。そんな風に思った。

夜の部で出たアイデアは、
地域人にインタビューして、編集してアウトプットするような機会がつくれないか?ということと
zoomなどのツールを使ったコミュニケーションの場がもっとつくれないか?

中高生が地域の人的資源(大人というか、対話ベースで取材)を編集して発信する「奥阿賀編集室」(仮)と
そこに至るきっかけにもなる、あがまち未来フォーラム・オンライン(仮)を立ち上げてもいいのかなあと思ってます。

「主体的に学ぶ」には、「自分ごとになる」ことが大切で
「自分ごとになる」ためには、「対話」による相互理解、相互承認が必要で、
「対話」を生むには問い、その前にある題材が必要で。

っていうことになっていて、
「対話」を真ん中に、パートナーズの大人たちも参画したような
デザインが可能になっていくのではないだろうか。

最後に、次回のお題動画になるかもしれないけど、

苫野一徳×税所篤快ZOOMトークイベント――ぼくたちは、「未来の学校」をどうつくっていくのか?
https://www.youtube.com/watch?v=0JiYqY-O-rM&t=447s

これを見ていて、気が付いたことを含めて、まとめてみる。

~~~ここから動画メモ

「探究的」に学ぶとは、
「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

子どもに主体性がなく、チャレンジしない、覇気がない、っていっているとしたら、
先生自身が主体性がなく、チャレンジせず、覇気がにじみ出てないのではないか。

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。
「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。
教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。
「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?
学校じゃなければ、できないことは何か?
学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。
だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。
現在の教育は150年前の仮説にすぎない。
それ以前から学びはすでに存在していた。

時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。
それが現在のシステム。

~~~ここまで動画メモ

「探究」がどのように起こるのか?
そもそも探究とはなにか?
っていうのに対しての爽快とも言えるくらいのはっきりした考え。

一番印象に残ったのは
「探究」って遊びでしょ?って。

そうそう。
「遊び」つまり、エンターテイメントの本質は「予測不可能性」なのだよね。
「ゴールに向かって、近づいている」とか「ゴールを達成した」っていうのは、実は楽しくない。

そう考えると、答えがないような探究テーマを、自分で設定し、
そこに向かっていく(実際はどこに向かっているのかわからない)のは
とても楽しい「遊び」なのだろうなと思った。

そんな探究を、このまちと、まちに住む大人を題材につくっていくこと、
オンラインでたくさんの場や大人とつないで、機会と対話を生んでいくこと。
それらによって刺激された好奇心と探究心でガンガン実験してみること。

そんな探究を学校も、地域も、先生も、生徒自身も、ともに学びながらつくりあげていけたら、楽しいなあと思う。

君も、この列車にのらないか?

  

Posted by ニシダタクジ at 09:11Comments(0)学び日記