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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

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土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2017年04月24日

サードプレイスは「提供」できない


サードプレイスとしての本屋を考える@新城劇場 17.4.23

なんだか。
面白かった。

一番おもしろかったのは、
「サードプレイスは提供できない」
っていうこと。

特に中学生高校生にとってはそうなのかもしれない。
スターバックスのように、「サードプレイス」という商品に
お金を出して買う、というようなものではないのかもしれない。

なぜなら、
中高生のころを思い出してもらえば、
「サードプレイス」とは、
自ら発見し、つくっていくものであった。

ある人にとっては、
レコード屋のおやじがいる空間であり、
ある人にとっては、
仲間と話した部室だったりする。
家庭、学校(職場)ではない、第3の場所。

それはもしかしたら提供できないのだ
と思っていたら、タイミングよく、
10年以上ぶりに飛び込んでくる本がある。

これが最近の読書運の良さ。


駄菓子屋楽校(松田道雄 新評論)

著者は「駄菓子屋の教育的意義」を研究テーマとして、
ひたすら研究し尽くした。

そして、山形市内で
「だがしや楽校」という、
大人が子どもに様々な遊びを披露する場を始める。

僕は2004年にこの本を読み、
いたく感動して、2005年から「だがしや楽校」を
新潟市の巻と、中越地震後の旧川口町で取り組む。

この本では、
加藤理氏の「駄菓子屋・読み物と子どもの近代」という本の
「子どもが作り出した駄菓子屋」の項を取り上げ、「駄菓子屋」の定義を
「子どもが駄菓子屋だと認知した店が駄菓子屋なのだ」と結論している。

~~~ここから一部引用

「羽田郷土誌」(昭和29年)によれば、
資料によって「子供用小菓子店」の数が
9店だったり、20店だったり資料によって大きく異なるのです。

その謎を、
加藤氏は、9店とは、自分の店が駄菓子屋だと自覚して
自己申告した数で、20店とは、客である子どもや
第三者の調査者がその店を駄菓子屋だと認知した数だと
説明しています。

そしてこの事実から
「駄菓子屋という概念は、店の経営者たちが
作ったものではなく、じつは顧客である子どもたちが
作り出した概念だった」と述べて、次のようにまとめています。

「つまり駄菓子屋とは、店の経営者である大人が、
子どもたちを顧客とした子どもたちの店を開こうと
思って開いた店ではないのである。

需要に応じて品揃えをしていった結果、子どもたちに駄菓子屋
と認知されるようになっていった店をさしていたのである。
もう少し別の表現をすると、大人たちが、駄菓子屋とはこういう店、
これが子どものためにふさわしい店、と考えて用意し子どもたちに
提供したのではなく、数ある店の中から、
子どもたちが自分たちの店、として認識した店が駄菓子屋になっていったのである。

その意味ではたとえ本来は八百屋だったとしても、
子どもたちが駄菓子屋だと認めればそこは子どもたちにとって
駄菓子屋になるし、認めなければ、たとえ品揃えが駄菓子屋的
であっても駄菓子屋にはならなかった、とも言えよう。

~~~ここまで一部引用

実際に松田さんも
子どもたちに聞いた「駄菓子屋」をたずねてみたら、
そこは八百屋だったり、小鳥屋だったりという
思い描いていたオーソドックスな駄菓子屋像とは大きく違ったのだという。

そしてそれは「大人世界」と「子ども世界」
の違いであり、

駄菓子屋は、子ども世界の主観的現実の中に存在し、
それは空き地につくる「秘密基地」と同じようなものだったのだ。

なるほど。
この後、話は、「市の教育学」という
「屋台のある本屋」の本質に迫っていく。

なんていう読書運なんだろう。
明日が楽しみ。

ということで、
イベントの話に戻ると、
中高生に「サードプレイス」を提供することはできないのだということ。

大人社会から見た「サードプレイス」像を
彼らがそのように認知するかどうかは
別の問題なのだ。

ということは、やはり、つくる段階から、
大人社会ではない、向こう側から見た
サードプレイスをつくっていくことが必要である。

それはかつて読んだ、
坂口恭平さんが「独立国家のつくり方」で言っている
「無数の放課後社会」のひとつとなるのだろう。

自由とはタテの世界を行き来すること(13.1.19)
http://hero.niiblo.jp/e229119.html

だとしたら、
おっさんの出番ではなく、
大学生や20代の出番なのだろう。

いや、「子どものような大人」なら、
なんとかなるかもしれない。

現在の中学生や高校生の話を聞き、
彼らを想像しながら、ともに創っていくもの。

そんな「場」や「空間」づくりをこれからやっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)学び

2017年04月23日

「ミーティング」とは感性をチューニングすること

多彩な人が集まる。
共有したいのは、その先のビジョン。

ミーティングでやるべきは、
感性のチューニング。

僕が当たり前のようにやっていた、
アイスブレイクとミーティング後の振り返り。
(ナカムラノリカズ直伝)

「アイスブレイク」は
フルネームと、出身と、最近あったよかったこと。

それって、「存在」を明らかにし、
「感性」をオープンにするということ。
なのかもしれない。

ミーティングは、
終わり方が大切だと思う。

一番まずいのは、時間切れで終了。
何が決まったのか、決まってないのか、
何が話し合われたのかわからない。

「あとで議事録アップします」
って言って終わるミーティング。

脳はそれで完了するかもしれないけど、
心が、感性が完了しない。
もやもやっとした何かが残って終わる。

普通のミーティングは
「今日はこれこれこういう話をして、
こういうことが決まりました。次回は〇〇です。」
ということを確認して終わる。

これ、ふつう。
通常の会議。
これをやらないと終われないし、
みんなが集まっている意味があまりない。

しかし。
もうひとつ。
せっかくみんなが集まり、「場を共有」しているのだから、
やっておきたいことがある。

それは、
先ほどの議題、決まったことの確認のあと、
「今日のミーティングをやってみて、どうでしたか?」

という「ミーティングの感想」を共有するというもの。

このときに、
「今日いろいろ決まったので明日からがんばりたいと思います。」
「モチベーションが上がりました」
みたいなことを言うのではなく、

各自、一番印象に残ったこと、感動したこと、
心に響いた言葉などをいう。

「あの人のあの発言が印象に残りました。」
「今日の会議はよくわからなかったですが、あの部分は共感できました」

そんなことを発言して終わること。
これが実は一番大切なのかもしれなと
感じた、昨日の朝、新城劇場のミーティング。

「感じ」で始まり、「感じ」で終わること。

心を開き、そして、心を整理して、終わること。

そんな中でチームメイトが感性をチューニングする。

だからこそ、ミーティングは
集まって同じ空間で、
できれば居心地のいい空間で、
やる意義があるのだろうと思う。

そんなミーティングを繰り返すことで、
ミーティングが楽しくなり、
感性がチューニングされ、方向感が共有されていく。

そんなミーティングを、重ねていこう。  

Posted by ニシダタクジ at 06:33Comments(0)チーム

2017年04月22日

承認のスパイラル

「屋台のある図書館」
長野県の塩尻市立図書館の
入っている「えんぱーく」で
構想していたこと。

参考:「誰のための図書館?」(15.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e474463.html

高校生が屋台で何かを売るということ。
それは、地域を知る、そして好きになることにつながる。

ワークショップでよく使われるKJ法の生みの親
川喜田二郎氏によれば、
「ふるさととは、子どもながらに全力傾注して
創造的行為を行った場所のこと。」だと言う。
(「創造性とは何か」川喜田二郎 洋伝社新書より)

参考:「帰る場所、ふるさとをつくる」(15.5.14)
http://hero.niiblo.jp/e468419.html

いま、自分の育ったところが
「ふるさと」にならないのは、
そこに全力傾注するほどの創造的行為
をする場と機会がなかったからであると思う。

僕にとっての千葉県袖ケ浦市はまさにそうだ。
むしろ、まきどき村のある新潟市西蒲区福井こそが
僕にとってのふるさとである。

屋台で商売をすること、は
そんな創造的な何かなのではないか。

そしてそれは、
高校生の自信につながってくる。
承認欲求を商人欲求に。

これが
ハックツ×小商いのコンセプト

育ってきた環境が
「承認」を与えてくれないから、
ついつい人は承認を求めてしまう。

大学生が「ボランティア」とか「貢献」
という言葉にヒットするのは、
「親和的承認」の代わりに「一般的承認」
を求めてしまうからではないか。

そしてその土台のない承認は
負のスパイラルを生み出してしまうのではないか。
つまり、「承認」を求めて活動を繰り返す、
ことになってしまうのではないか。

それを「商人欲求」に変えていく。
駄洒落だけど、ね。笑。

物を売りたい。
どうやったら売れるだろう。

売れた。
うれしい。
買ってもらえた。
どうして買ってくれたんだろう。

そんなスパイラル
そこには、小さな承認がある。

承認されたい、という他力本願ではなく、
売ることで承認される、というモチベーションが上がる。

商人欲求を持つ。
ものを売ってみる。

小さな承認を得られる。
すると、自分に自信が持てるようになる。
そんなスパイラルに変えていけないだろうか。

そこには
「全力傾注する創造的行為」
が起こるかもしれない。

地域の大人とのコミュニケーションが生まれ、
たとえば農家さんのものを売ってみたりする。

そうやって、
そのまちは、高校生にとっての「ふるさと」に変わっていく。
同時に、高校生たちの承認欲求が満たされる。

地方創生の切り札って
「屋台のある本屋」なのではないかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:00Comments(0)日記

2017年04月21日

本屋というプロセス・デザイン

今度の日曜日に、武蔵新城で、
「サードプレイスとしての本屋」
というテーマトークをするので、
その前に整理しておこうと思い。

「サードプレイス」が必要だっていう人に、
何人か会ったことがある。

スターバックスコーヒーの「サードプレイス」は、
家庭でも職場(学校)でもない
第3の場所、という意味でのカフェを提供している。

「スターバックスはコーヒーを売っているのではない。」
という言葉に衝撃を受け(岩田松雄著「MISSION(アスコム)」より)、
そこから「ツルハシブックスは何を売っているのだろう?」
という問いが生まれた。

その問いは、歴史をさかのぼり、
どうやって自分が本屋さんにたどり着いたのか?
を考えさせた。

2002年の不登校の中学校3年生との出会い。
あのとき、多様な大人と出会える仕組みが必要だと思ったし、

ツイッターのプロフィールに書いてある
「15歳が自分と住んでいる地域を好きになり、
自分と社会の未来創造へ向けて歩き出している地域社会を実現する。」
というミッションが生まれた。

15歳。
中学校3年生。
これはひとつの象徴ではあるだろうけど。

自分自身を振り返ると、
中学・高校という進路選択の狭間に揺れていた。

僕がやりたかったキーワードは、「環境」だった。
しかし、当時はマイナーなキーワードで
まわりの友人も、先生たちも、あまり関心を持ってくれなかった。

今思えば、
中学高校の時の「とるに足らない」悩みであるのだろうけど、
当時の自分にとっては、「生きる死ぬ」に
値する大きな問題だった。

思えば、
小学校の時に再放送の「スクールウォーズ」
を見て以来、「いかに生きるか?」
という問いは胸の中にあったし、
それが分からないと生きられないと思っていた。

そんな原点がひとつ。

もうひとつは、
2008年にサービスインした地域企業での大学生のインターン事業。
半年間、正社員並みに企業のプロジェクトにコミットするプログラムを提供していた。

そのときに、迷った上で
チャレンジをあきらめる学生や
途中でリタイアしてしまう学生に出会った。

そして、「自分に自信がない」
さらに、「やりたいことがわからない」
ということがなぜ起こるのか?
それはどうやって越えていったらいいのか?
という問いが生まれた。

その問いは、2013年に
「プレイフルラーニング」の上田信行先生に
出会ったことで、光が見えた。

「挑戦するのに自信は要らない」(13.5.10)
http://hero.niiblo.jp/e262963.html

にあるように、

身につけるべきは
やればやるほど自分の能力は開花していくという「成長思考」
(⇔自分の能力は生まれつき決まっていて変化しないという「才能思考」)
であり、
手放すべきは
他者からの評価を得ようとする「他者評価依存」ではないかと結論した。

「本屋」をやるということは、15歳が代表するような、
中学生高校生あるいは大学1,2年生にたいして、
(もしかしたら、20代社会人も含まれるかもしれないが)

「機会提供」を行うプロセス・デザインの
現場なのかもしれないと思った。

本屋をやったことで実感するのは、

1 本屋という空間そのものが「多様性」を表現する場であること
⇒「本」にはさまざまな「価値観」が詰まっているので、
その本に囲まれていると、多様性が許容される気がする。

2 小さな本屋には「偶然」が詰まっているということ
⇒思いがけなかった本や人との出会いがあるので、
運命的なものを感じるということ。

3 「運命」を感じることで、「行動」が起こりやすいということ
⇒「まきこまれる」ことから始まる小さな「行動」
それを振り返ると「挑戦」とよぶ

昨日のブログに書いた、
「感性に自信を持つ」ための3つのステップ

・感性に自信を持つ

・なにかやってみる

・自分の存在を許す

・心を開く

この、「心を開く」「自分の存在を許す」部分を、
「偶然」が補うのだと思う。

本屋の現場では、この4つはぐるぐるしているのだろう。
いや、おそらくは中学生高校生大学生の中でも
この4つはぐるぐるしながら、
だんだんと感性に自信が持てるようになる。

本屋とは、
そんな「プロセス・デザイン」の現場なのかもしれない。

日替わりで店が変わるという「偶然」も提供できる
「屋台のある本屋」っていうのは、そういう意味では、
いい線いってるんじゃないかなあ。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)足跡

2017年04月20日

「心を開く」から始まる

5年後10年後の自分を想像する。
キャリアの目標を立てる。

それって、
なんか、ピンと来ない。

目標を立てて頑張れる人もいるのだろうけど。
そういう人をビジョン型という

ほとんどの人はコンセプト型で
糸井重里風に言えば、
「あなたが大切にしてきたことはなんですか?」
(「はたらきたい」ほぼ日の就職論より)
を大切にしている。

だとしたら、
キャリアにおいて大切なのは、何よりも
「自分の感性に自信を持つ」っていうことではないか。

「一生食べていけるだけの力をつける」
っていうときの力ってなんだろう。

たとえば営業力、物を売る力っていうのは、
生涯にわたってその人を助けてくれるだろう。
あるいはPDCAを回す力。計画実行能力。
これも仕事をする上で不可欠だろう。

でも、その前提として、
「感性に自信を持つ」っていうのが大切なように思う。

だから、インターンとかスキルアップとか
資格講座とか行く前に、
「感性を磨く」ことって大切だなあと思う。

芸術に触れたり、本を読んだり。
あるいは、誘いに乗って様々な活動に参加してみる、とか。

そうやって、
だんだんと感性が育っていくのだろう。

それより以前に、
僕は、「自分の存在を許す」という
ステップが必要なように思う。

自己肯定感っていうのとは、
ちょっと違うんだよな、ニュアンスが。

この世に存在していていいのだ、
という圧倒的実感が足りない。

それはひとえに子どもの時に育つ環境にも原因がある。
それが核家族だったり、学校社会だったりすると、
よっぽど親や先生に恵まれない限り、
言い方が悪いけどそこには「条件付きの愛」しかない。

そうすると、
存在そのものを許していないのだ。

新潟の粟島でのプログラムで、
大学生が劇的に変わるのを何度も見てきた。

それは歩いていると島の人が話しかけてくれるから。
島の人にとっては、若いだけで価値がある。
よそ者が島を歩いているだけで気になる。

それが、存在を許すことにつながっていくのではないか、
という仮説だ。

そしてその前に、
何よりその学生自身が心を開かなければならない

その際に、
「船に乗る」というアクティビティはかなり有効なのだと感じている。

僕が思うのは、
キャリアを考える・行動する前に、
3つのステップが必要で、

・感性に自信を持つ

・なにかやってみる

・自分の存在を許す

・心を開く

きっとそういうところから僕はやりたいのだと思う。

ミーティングの時に、
カタルタとかアイスブレイクで名前を言った後に、最近あったよかったことを言う
って、もしかしたら簡易的にそういうことをやっているのかもしれないな。

くりかえし、くりかえし。
タマネギの皮を剥くように、
だんだんと感性に自信が持てるようになってくる。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)思い

2017年04月19日

ソフトとハードが未分化だった時代のLife


「日本のカタチ2050~こうなったらいい未来の描き方」
(竹内昌義、馬場正尊、マエキタミヤコ、 山崎亮 晶文社)

読み始めたばかりだが、
山崎亮さんが書いた章が面白かったので、メモ。

~~~以下メモ

山崎さんは「豊かさとはそもそも何か?」
というアプローチの中で、
働くことと宗教観の日本と西洋の違いを見出す。

日本書紀の「日神尊、天垣田を以て御田としたまふ」とあり、
天照大御神は、御自ら天垣田で稲をお育てになっている。
つまり、日本の神様は田植えをしていた。

つまり「働く」ということは、
自らを高める修業的な要素があり、
働くことによって神様のように
崇高な存在になることができるという感覚がある。

一方で、西洋で描かれる神様は、
基本的には働かなくても良い暮らしができる
素晴らしい世界に住んでいる。
果実がなり、鳥がさえずり、風景は絶景。

罪を犯すと、罰として地上で働かされる。

だから、西洋の人たちは、
労働から解放されるために機械をつくり、
オートメーション化をはかっていった。

すべてを機械化し、
人間の労働を無くし、
地上に天国をつくろう。

そういう意思があったからこそ、
欧米の産業革命はどんどん進んだのだろう。

そんな中で、デザイナー
ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスは、
ライフの大事さを説き、
アーツ・アンド・クラフト運動などを展開する。

山崎さんの主宰する
studio-LのLの字は、
この「ライフ」の頭文字をとっているのだという。

ラスキンの本「この最後の者にも」の第77節に、
「Lifeこそが最も大切である」と書いてある。

Lifeは日本語でいう「生活」というよりは、
愛も喜びも全部含まれた意味での「生」
つまり生きることそのものと訳されるべきであろう。

ラスキンが定義する
豊かな人生を生きた人々とは、

「その人格、あるいは所有物を使い、
他人に対してとてもいい影響を与え続ける生き方をした人」

なのだという。
そんな人々がたくさんいる国はラスキンは裕福な国と呼んだ。

だからこそ、
山崎さんは、新しいソフトとハードのバランスを
考えながらビジョンを示す人が必要になるのではないか、と説明する。

フランスの哲学者
シャルル・フーリエ(1772~1837)が提唱した「ファランスティール」という共同体
家族の延長上として住むのに最適な集落の形をデザインした。

なにより大切なのは、
フーリエが「人々の暮らしとコミュニティはどうあるべきか」
ということと空間の形態がぴったり一致していたことだという。

また、エベネザー・ハワード(1850~1928)は
「田園都市」を提唱し、街の真ん中に広場をつくり、その回りに商店街を、
さらに外側に住宅地を、そしてその外側に鉄道がまわされ、
鉄道の外側を農地という風に働く場所と住む場所が明確に決められている。

しかし、ル・コルビュジエ(1887~1965)になると、
空間の形態と人々の生活は一体としては提示されていない。

つまり「Life=生」が抜け落ちた計画となり、
1920年代以降の建築家や都市計画家の空間に対する提案には、
「生(=Life)」という重要な部分はほとんど見えなくなる。

~~~ここまでメモ

山崎さんは、
これからの建築家には

我々はどう生きたいのか、どう働きたいのか、さらにどう生きるべきなのか。
こうした「生=(Life)」の全体性と空間形態を
同時に提案することが求められるようになるだろうという。
ソフトとハードを統合して組み立てていく
アーキテクトの役割が求められるだろうと。

この章は、
ソフトとハードが未分化だった時代に学ばないといけないのだと締めくくられる。

なるほど。
Lifeという出発点と、
かつて未分化だったソフトとハード。

そういう意味では、
かつて、労働と芸術は未分化であった。

そしてそこにこそ
ラスキンのいう「生(=Life)」があったのではないか。

そんな古いようで新しい社会に向かって、本屋は何ができるだろうか?
という実験を武蔵新城駅前ではやっているのだろうと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)

2017年04月17日

過去の感性を信じてあげること

まきどき村の人生最高の朝ごはん。

1999年から続く活動。
今年は19年目を迎えた。





まずは畑作業から。





佐藤家のまわりは桜が咲いていました。





20名の参加というまれに見る大所帯だったので
囲炉裏を囲まずに朝ごはん。
でも、メヒカリは囲炉裏で焼きました。

畑で唐澤くんと宇根豊さんの言う、
「農本主義」の話をしていた。

「農業」として
収穫物が目的になると、畑をするのは少しつらくなる。

日々、草をとり、苗を植えて、
成長したものを収穫して食べる。

そのプロセスのひとつひとつが
必要なのだと。

きっと、「畑をやる」ってそういうこと。

20代のとき、「畑がなければ生きられない」
って思ってた。

だから、就職しないで畑をやることにした。

「畑をやる」っていうのが他者に
どうも通じなくて、
「農業やってるの?」っていつも聞かれて困っていた。

畑はやりたかったけど、
野菜を売りたいわけではなかったから。

そんな感性をもっと信じてあげてもいいなと
思った日曜日の朝。

「人生最高の朝ごはん」を、ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)足跡

2017年04月14日

フェーズと人材

日々、会社のフェーズは変わる。
日々の仮説検証を経て、マイナーチェンジする。
あるいは、軌道に乗って、安定走行を目指す。

本来なら、そのタイミングで
人も入れ替えられたらいいのだけど、
そんなに柔軟性のある組織には作られていない。

立ち上げ期、変革期に必要な人材と、
安定走行への移行期に必要な人材は異なる。

だから、
起業家志向の人が、
伸び盛りのベンチャー企業に
就職を志向するのは、実はミスマッチが起こる可能性が高い。

なぜなら、
正社員を募集する時点で、
その会社は、事業は、ある程度
ビジネスプラン的にはうまくいき、
軌道に乗っていることが多いからだ。

そんなときに必要な人材は
「整えていく人材」であって、
「壊して、生み出していく」人材ではない。

むしろ、硬直化した組織にこそ、
起業家志向の人材がマッチする。

公務員や大企業で常識を打ち破っていくこと。
新しいものを生み出していくこと。

それを人材ひとりあたりではなく、
組織全体でできていくといいのだな。

西洋と東洋の融合。
岡倉天心の描いた世界がそこにも広がっている気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:44Comments(0)日記

2017年04月13日

「その日暮らし」の豊かさ


「その日暮らしの人類学」(小川さやか 光文社新書)

次はこの本。
なんだか流れがいい気がする。(笑)

アマゾンの奥地に住む狩猟採集民「ピダハン」には、
現代人の常識とされていたことがほとんど行われていない。
いわゆる「進化のプロセス」を踏んでいない。

~~~ここから一部引用

芸術作品どころか、道具類もほとんどつくらない。
物を加工することがあっても、長く持たせる手間はかけない。

肉の塩漬けや燻製といった保存食もつくらず、
食べられるときには食べつくし、ときには何日も食べない。

熟睡しない代わりにいつでもどこでも転寝をする。
人類学者が好んで調査してきた、
儀礼らしき行為も存在しない。
葬式や結婚式、通過儀礼もない。
創世神話も口頭伝承もない。
曽祖父母やいとこの概念も存在しない。

それどころか彼らの言語には、
ありがとうやこんにちはなどの「交感的言語」も
右左の概念も、数の概念も色の名前もない。

それは、「ピダハン」(みすず書房)著者のエヴァレットによると
「直接体験の原則」があるからだという。

ピダハンは実際に見たり体験したことのない事柄
~わたしたちが「過去」や「未来」と位置付ける事象や
伝説・空想の世界~に言及しないし、そもそも関心を示さない。

そして価値を抽象的な言葉で置き換えることをしない。
ある場面では右は「川の水が流れてくる場所」で
左は「川の水が流れていく場所」かもしれない。

ピダハンのほとんどの関心が
「現在」に向けられており、
それゆえ彼らが「現在」をあるがままに生きている。

彼らは直接体験したことがない他の文化に
興味がなく、自分たちの文化と生き方こそが
最高だと思っており、それ以外の価値観と
同化することに関心がない。

彼らはよく笑う、自身に降りかかってきた不幸を笑う、
過酷な運命をたんたんと受け入れる。
未来を思い悩む私たちに比べて、
何やら自信と余裕がある。

かれらは他人に貸しをつくらないし、
他人に負い目を感じることもない。
彼らにとって1日1日を生き抜くために必要なのは、
直接体験に基づ自身の「力」だけである。

~~~ここまで一部引用

なるほど。

いまを生きるってそういうことなのかもしれないね。
人と比べない。
未来に思い悩まない。

未来を予測する最良の方法は
自ら未来を発明することだ。

というアランケイの言葉を思い出した。

さて、読み進めてみようっと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)

2017年04月12日

「目的」は必要なのか?


「社交する人間~ホモ・ソシアビリス」(山崎正和 中央公論新社)

読み直すタイミングというのがある。
まさかのここでジェイコブズが登場してくる。
読書サーフィン面白い。

「効率性」
は何か違うんじゃないか?
という違和感。

「目標を立てる」というのがそもそも苦手だったこともあり。

研修に行って、
「5年後ビジョン」を「定量的」と「定性的」に言え
って言われたのもキツかった。

あのときは、
ああ、僕はビジネスに向いてないんだなと思った。

さて、この本。
読めば読むほど読み直してよかった。

キャリアデザインへの違和感。
目標設定、達成という思考への違和感。

近代工業社会の成立は、
仕事観、人生観そのものを根本から揺るがしたのだろうと
改めて実感した。

~~~以下一部引用

「テクノロジー」とは、
機械工業を富の生産の基本的なしかたと見なし、
機械生産によって実現された効率主義を文明の理想と
考える価値観の浸透であった。

いうまでもなく、
この効率主義を可能にしたのは、
人間の作業を機械で置き換えることであったが、
その前提となるのは、作業の目的を作業の実行に先立って
固定化することであった。

機械は人間の身体を作業から極力排除し、
そのことによって身体が作業から受ける抵抗や
反作業を感じられないものにする。

その結果、工業生産では作業の過程で
方法を変更したり、目的の内容を微調整する
必要は原則的に排除される。

いいかえれば作業の計画と実行、
目的と過程を不可逆的に峻別して、
後者が前者に影響することを極限まで防止するのが、
機械生産の思想なのであった。

~~~ここまで引用

なるほど。

「産業革命」が「革命」したのは、
工業生産そのものではなくて、
人間の思想そのものだったのだなと。

「何か目的のために向かっていかなくてはいけない。」

本屋をやっているとき、
そんな脅迫を抱えて生きている大学生に何人も出会った。

彼らは行動している
(ゆえに、少し変わった本屋にたどりついている)
にも関わらず、常に不安を抱えていて、

いろいろ活動しているのに、
「この先に何があるのか、わからない」
「ゴールに向かっているのか、不安だ」
という思いを抱えている。

実はその思想そのものが
工業社会的なのだと。

まず、ここから始めなきゃいけないんじゃないか。

いま、幸せになるには、何が必要で、何が必要じゃないのか。

そんな根源的な問いに挑んでみること、から始まる人生がきっとある。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)

2017年04月07日

アルスの終焉


「社交する人間~ホモ・ソシアビリス」(山崎正和 中央公論新社)

とある古本屋さんで
ハードカバーを発見。
そして書き込みあり。

これは「もう一度読め」という
神からのメッセージだと思い、
家にある文庫本を再び読み始める。

もともとは小阪裕司さんの名著
「心の時代にモノを売る方法」に
引用されていたから買ったので、

「社交と経済」のところだけしか
読んでなかった気がする。

経済の第1の系統は、
「生産と分配」の経済で
第2の系統は
「贈与と交換」の経済なのだと。

しかし、現在において
「経済」とは「生産と分配」だけのことを
指しているように思える。

まあ、それはまた次回に書くことにして、
今日は「アルスの終焉」について

古代ギリシャで
テクネー(わざ)と呼ばれたものは、
大工が机をつくる方法も、
詩人が詩をつくる営みも、
同じように呼ばれた。

それは中世になって、
「アルス」と呼ばれるようになっても、
しばらくは続いた。

イギリスでは、
アルスは「アート」と言葉を変えるのだが、
18世紀までは、
まだ、「ファイン(美しい)・アート」と
「ユースフル(有用な)・アート」と区別されていた。

ところがいつのまにか、
「ファイン」が取れ、
「アート」が芸術を指すようになったのは、
19世紀のことだったという。

それは産業革命による工業技術的な生産が
始まったこととリンクしているだろうと著者は言う。

~~~以下引用

このように振り返ると近代工業社会で生じたことは、
いわばアルスが正反対の二つの敵に挟撃され、
それまでの領土を失う過程であったと要約することができる。

かつてアルスの一部だった
二つの行動形式が独立して、
それぞれ技術と芸術としてみずからを純粋化し、
本来の母体を左右から攻撃したのである。

攻撃という言葉は必ずしも比喩ではなく、
現にどちらもあからさまにアルスを時代遅れの文化として非難した。

技術に言わせれば職人的技能は不正確で非効率的であり、
芸術に言わせれば社交儀礼は人間の心を伝えるうえで不誠実であった。

なかでも職人技能のほうはまだ幸運であって、
一部は「ノウハウ」の名で工業技術の補助とされ、
一部は「工芸」と呼ばれて芸術の周辺で生き延びることができた。

だがもともと有用性とは無縁だった社交儀礼は、
近代工業の精神というべき清教徒主義と
芸術の反俗主義の双方から直撃されて
衰退することとなったのである。

~~~以上引用

なるほど。
仕事とは何か?
を考えるうえで、非常に興味深い。

かつて芸術と技術はひとつであった。
それを「アルス」と呼んだ。

そのアルスの終焉は、
近代工業革命によって、決定づけられた。

なるほど。

もし、近代工業社会が
壮大なる仮説、だとしたら。

ふたたび「アルス」に近づいていくのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:47Comments(0)

2017年04月04日

「ちいさな本屋 こっそりー」を生んだ3冊の本

「本屋のある暮らし」
を提案したいと思っている。

それは、
いい本屋が近所にあって、
そこに通うことができる暮らしではなく。

本屋の店員ができる暮らしが
いいと思う。

「一箱古本市」は
そんな願いを叶えてくれるひとつの方法だ。

サービスリリースした
「ちいさな本屋こっそりー」
は移動型で、ソリの形をしていて、
どこでも本屋になれるツール。
(人間は乗れません)

現在第1期フランチャイズを募集しています。
加盟金は30,000円で
一切の年会費はかかりません。

長野県伊那市で、森の保全活動を推進する
KEESプロジェクトの中村さんがひとつひとつ手作りする
本棚「こっそりー」を1つお渡しします。


中村さんとツーショット。

「こっそりー物語」は
本屋さんとは?という問いから始まりました。

きっかけとなったのは3冊の本


「ゆめのはいたつにん」(教来石小織 センジュ出版)



「こっそりごっそりまちをかえよう。」 (三浦 丈典、 斉藤 弥世 彰国社)



せかいでいちばんつよい国(作・絵: デビッド・マッキー 訳: なかがわ ちひろ 光村教育図書)

まずは一番下の「せかいでいちばんつよい国」
これを読むと、世界の変え方がわかります。
文化と愛とコミュニケーションで
世界は動いていくんだ、とワクワクします。

そして、
「こっそりごっそりまちをかえよう。」

ああ、まちを変えるのは、「こっそり」なんだな。
何かを声高に叫ぶのではなく、こっそり変えるって美しいな。
って思いました。

最後に「ゆめのはいたつにん」の
本文中の印象的なフレーズ、
「夢は私をいろいろなところへ連れていってくれる」

このフレーズに衝撃を受けました。
夢は見るもの、ではなく「乗り物」なんだ!って。

これら3つの本から、

本屋っていうのは、
「文化と愛とコミュニケーションでこっそり世界を変えていく乗り物なんだ」
って。

そんなものを表現したら、ソリ型の本屋、
「ちいさな本屋 こっそりー」ができました。

4月9日には豊島区・椎名町の「シーナと一平」に
こっそりーがデビューします。

お楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 07:50Comments(0)

2017年03月31日

「コラボレーション」より「一体化」


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

面白かったので、もういちど読み直す。

最初は日本語の話。

~~~ここから引用

日本人とは、日本語を母語にしている人

日本語は、私、やあなた、と言いたがらない。
古典が難しいのは、主語がわからないから。

日本人は気が小さいから、主語をあきらかにしない。

和歌や俳句の世界では、自然に仮託して
心情を表わすという表現方法を生み出し、その中で感性を鍛錬してきた。

自然と自分を区別するのではなく、
自分を自然に溶け込ませることをよしとする。

西洋は自然環境が厳しいために、人間的なるものを打ち立て、
自分たち自然の猛威から隔絶する形で自己了解してきた。

日本人は、自分の存在が自然に溶け込んだ状態を好み、
自然に溶け込んでいる自分がうれしいという感覚を持っている。

~~~ここまで引用

このあと、連歌や、
日本語が外国語をうまく取り込んだり
省略や造語がやさしいことなど、
日本語の「懐の深さ」などが書かれています。

連歌っていう文化。
大阪の陸奥くんが言っていたけど、
平安時代は、連歌を送りあって、
男女は恋をしたのだという。

問われたのは、
容姿ではなく教養。

なるほどな~。

なんていうか、
コラボレーションというより、一体化なんだろうね。

日本的な何か。
それはキャリアにも言えるのかもしれないな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)

2017年03月30日

「諸行無常」


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

東洋的キャリアを考えるで外せないと思うのが
日本人と宗教である。

日本ほど、宗教に関して
いい加減な国はないだろう。

クリスマスを盛大に祝ったと思ったら、
正月は神社に初詣に行き、
バレンタインにはプレゼントを贈り合い、
お彼岸にはおはぎを供えてお祈りし、
ハロウィンもすっかり定着した。

でも、それでいいのだ、と斉藤さんは言う。

仏教の教えとは、
現世をよりよく、より幸せに生きるためのものだからと。

「諸行無常」
すべてのものは移り変わっていく。

だから、だれが世界を創ったとか、
考える必要はないのだと。

なるほど。

「空」もそんな感じだもんね。
出来事はすべて空であって、
良いことも悪いことも存在しない。
そう思う自分の心があるだけ。

そんな、今風に言えば
「ゆるい感じの」宗教だからこそ、
日本では受け入れられたのではないか。

厳しい修行なんかしないで、
念仏だけ唱えるだけで極楽浄土にいけるなら
それはそれでいいかな。

みたいな感じで仏教を受け入れた。
つまり、八百万の神の
ひとつくらいの感覚で仏教を受け入れた。
そんな仮説が本当っぽく感じます。

それが明治時代に、富国強兵のために
「国家神道」で統一されたあと、
それが敗戦でひと段落してる。
というのが今の状況ではないかと思います。

諸行無常だから、今を楽しむ。
まあ、細かいことを言わなくてもいいじゃないか。
というのが仏教の教えです。

そういうのがいいんでしょうね。

キリスト教とか
イスラム教のように
日曜日に礼拝とか、豚肉食べちゃダメ、
とか、そういうのがあんまり合わないのでしょう。

そういう意味では今の子どもたちは、
(というか僕のころからですけど)
「夢」という一神教を背負わされてきたのではないかと思います。

夢や目標のために
今の楽しみを犠牲にする。
わき目も振らずそこへ向かっていくこと
が良しとされる。

それって、今を楽しむ
日本人の生き方とはマッチしてないのでは、と思います。

「諸行無常」
「空」

そんなことを学んでいくことも、
大切なのかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:54Comments(0)

2017年03月29日

市場の倫理 統治の倫理


「日本人」という、うそ: 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

古本屋さんで目に留まって、買いました。
セレクトされている本屋って素敵だな、と。

さて、
「安心社会」と「信頼社会」
というキーワードで知られる
社会心理学者の山岸先生。

僕はたぶん中公新書の本を
買ってはいたけど、ちゃんと読んでなかった。
ようやく読むべき時が来ました。
先生、遅くなってすみません。

この本の前半は、
道徳というか、倫理教育が機能しないこと、
そして、「日本人らしさ」という幻想を徹底的に斬ります。

まずは、「タブラ・ラサの神話」といって、
生まれたての赤ちゃんは、
タブラ・ラサ(白板)のようなもので、
そこに適切な教育をすれば「立派な人間」が
作れるはずだという説。

しかし、この仮説は20世紀の中国や旧ソ連の
社会主義国家を目指すという壮大な実験によって、
覆されていると山岸さんは言います。

何の見返りがなくても、同胞に奉仕するような
立派な人間はできずに、同じ給料ならサボる、
というメンタリティがはびこっていたので、
経済力、国力が減退し、旧ソ連はついに無くなり、
中国も方針転換をします。
つまり、「人間性」を無視した教育は機能しないということです。

つづいて、「日本人らしさ」について。

「日本人は集団主義で欧米人は個人主義だ」
というのはよく言われていることですが、

これを心理学実験によって、
次々と覆していきます。
実は集団主義的社会に暮らしている日本人が
他人を信頼していない個人主義者であり、
「人を見たら泥棒と思え」というメンタリティの持ち主
なのだという実験結果が出ます。

逆に西洋人は、
相手をまず信頼し、その後の観察によって、
信頼に足る人物かを測っていく、という方法を取るのだそうです。

そして、社会環境の差異から、
それが起こっていると説明します。
ここで「安心」と「信頼」というキーワードが出てきます。

「集団主義社会とは、信頼を本質的に必要としない社会である」
と説明します。

農村では家に鍵をかけなかったり、
共同作業に皆で参加したりということが行われます。

それはみんなが信頼し合っている、
とか心がキレイだから、というわけではなく、
そのように振る舞うほうがトクだから
(悪いことをしたり、非協力的だったりすると制裁を受ける)
という理由であると説明します。

ところが、都会では、見知らぬ人ばかりだから、
悪事や非協力的なことに対しての制裁を
加えるようなシステムがないので、
目の前の人を自分で判断しなければなりません。

それは活動的には大きなコストがかかります。
日本社会が高度経済成長を遂げたのは、
経済社会に、集団主義が機能した、「安心社会」をつくりあげた
ためではないかと言います。

しかし。
その安心社会は今や終わりを告げたのだと。
経済のグローバル化など、
「安心社会」から「信頼社会」への移行期を生きているのだと。

そして、いま、世の中で起きている問題が
企業の不祥事やいじめ問題をなんとかするために、
「道徳」を強化して、あるいは「武士道精神」などを
持ち出して、いくというのは根本的に解決しないと言います。

「信頼社会」への移行をしていく上で、
重要な示唆がヨーロッパ中世の地中海貿易の
覇権を競い合っていたマグレブ商人とジェノア商人の逸話です。

貿易を行う上で人類を悩ませてきたのは
「エージェント問題」、つまり代理人の問題でした。

代理人が自分の利益のためにちゃんと働いてくれるか
利益を途中で吸い上げたり、相手側に味方をしていたりしないか
というのをチェックする機能がなかったからです。

マグレブ商人は、徹底して身内との取引を選びました。
そして、エージェントが裏切った場合、取引停止などの厳しい措置を取りました。

ジェノア商人は、身内、よそ者に関係なく
その時々で必要なエージェントを立てました。
当然、ジェノア商人のほうがコストもリスクも高くなります。
トラブルが起こった時のために裁判所を整備せざるを得ませんでした。
それでさらなるコストは上昇します。

結果、どうなったか。

マグレブ商人は地中海から姿を消し、
ジェノア商人が覇権を握ったのです。

そして、まちから評判も、
「ジェノアは正直者を守る」というふうになっていったのです。
つまり、これが「信頼社会」の作り方です。
法制度がちゃんと機能していることで、
他人とビジネスしても裏切られない、あるいは裏切られても法が守ってくれる。

そういう「評判」がジェノア商人を押し上げていったのです。

そして、最終章。
「武士道精神が日本のモラルを破壊する」
と題された第10章で、「市場の倫理 統治の倫理」がでてきます。

まずはおさらいで
この地球上には「安心社会」と「信頼社会」
という二種類の社会が存在し、

集団主義社会が「安心社会」に
個人主義社会が「信頼社会」に寄っていきます。

「安心社会」は社会が安心を提供してくれます。
それに反すると制裁が待っているからです。
よそ者は裏切るかもしれないので歓迎されません。

「信頼社会」は、社会が提供する「安心」に
頼るのではなく、自らの責任で、
リスクを覚悟で他者と人間関係を結んでいこうとする
人々の集まりです。

これはどちらがいいというわけでもなく、
飢饉や戦争などが起これば、
「安心社会」のメリットは大きくなります。

そこで、表題の
「市場の倫理 統治の倫理」です。

アメリカ系カナダ人の学者、
ジェイン・ジェイコブズが指摘したものです。

市場の倫理をわかりやすく言えば「商人道」
統治の倫理をわかりやすく言えば「武士道」だと
著者は言います。

「市場の倫理=商人道」は信頼社会において有効なモラル体系であって、
「統治の倫理=武士道」は安心社会におけるモラルの体系であると言うことができるのです。

市場の倫理 15か条は
「他人や外国人とも気やすく協力せよ」
「正直たれ」「契約尊重」「勤勉なれ」「楽観せよ」
など、他者との協力関係を結び、
常に自己変革するために「競争せよ」「創意工夫の発揮」
などが必要とされます。

一方、統治の倫理 15か条は
「規律遵守」「位階尊重」「忠実たれ」
と集団内の秩序を保つことが大切であり、
外部からの敵から集団を守るために、
「勇敢であれ」「排他的であれ」という道徳律が必要で、
裏切られないために「復讐せよ」という道徳律も必要になります。

そして、ジェイコブズの指摘は、
この2つのモラルの混用が「救いがたい腐敗」を
もたらすと言うのです。

その理由は
この二つのモラル体系が目指す世界は
まったく対立するものであって、
混ぜることは大いなる矛盾と混乱を招き、
最終的には「何をやってもかまわない」という
究極的な堕落を生み出すと言います。

商人たちの信頼社会では、
正直であることは重要な道徳律ですが、
江戸時代の武家社会では、主君(属している藩や幕府)
を守ることに価値があり、「嘘も方便」とされるのです。

もし、商人の世界に
「嘘も方便」のモラルが混入してきたら
どのようなことが起きるでしょう。

口先では「お客様が大事」「正直が一番」
と言いながら、ホンネは自分たちの組織を
守るためには客を騙しても許されるという考えたり
儲けのためなら偽物を売ってもよい
というダブル・スタンダードが生まれてしまいます。

と、続いていきます。
これは、面白い。

おそらくは今、
「安心社会」から「信頼社会」への移行期を
生きているのだろうと思います。

その時に、
「武士道」と「商人道」を混同しないこと。

どちらかと言えば、
商人道を生きていくこと。

これ、きっと大切なことなんだと思います。

まちゼミの松井さんの本、読まないと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年03月28日

「私」を外す、という美学

読書運があるような気がする。


「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)

に衝撃を受け、

次に、手に取ったのは3月頭に買っていた本


「日本人」という、うそ: 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

からの、
ちくさ正文館でビビっときたこの本。


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

謎がだんだんと解けていく感じ。
これが僕の読書の醍醐味なのだけど、
そんな幸せな読書時間を過ごした。

堀江さんから
まずはこんなイントロ。

「常識への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

ガツーンとくる。

そして、
「つまり学校はもともと、子どもという原材料を使って、
産業社会に適応した大人を大量生産する工場のひとつだったのである。」
とバッサリ。

「N(国民国家)幻想がなくなり、誰もが共有する幸せの正解がなくなった現在、
人は国民ではない民のひとりとして、自分だけの幸せを探し、
生き方を探し、働き方を探さなければならない。
それは、画一的な学校で教えられるものではない。」

とつづく。

そして、ITで一世を風靡した堀江さんの一言

「インターネットの恩恵は、他者と通信できることではなく、
所有の価値を著しく下げたこと。」
なるほど。
これはたしかに革命だ。

そして、次の本につながっていく一言は、

~~~ここから

逆算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。
100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、
あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。
100点以上を取れる確率はゼロだ。

でも逆算をやめ、1点1点を楽しみながら積み上げていけば、
無我夢中で動いている間に、200点、300点と
その点が膨れ上がっていく可能性が開かれる。

この場合、取れる点数の上限はない。
目標からの逆算を思い切ってやめたほうが、
得られるものの可能性は大きく膨らむのである。

~~~ここまで

なるほど。
逆算じゃなくて、没頭すること。
そこから人生は開かれていくのだと堀江さんは言う。
その通りだな。

次に、「日本人というウソ」の山岸さん
「安心社会」と「信頼社会」というキーワードで
日本を読み解く。

日本人が集団に合わせて自己主張をあまりしないのは
そのような態度をとっていたほうが結果として得だから、
つまり、「情けは人のためならず」というのは、
結局そっちのほうが得だから、っていう理由である。

この本の中で、いちばん印象に残ったのは
「武士道」と「商人道」の違いだ。
それは閉鎖型社会と開放型社会
とパラレルにつながっている。

武士道の倫理は閉鎖型社会をうまく生きるための倫理だ
それに対して商人道は、開放型社会を生きるための倫理だ

たとえるなら、
武士道では、
忠実であること、規律を遵守すること、名誉を尊ぶことがよしとされるが、
商人道では、
目的のために異説を唱えること、創意工夫、正直であることたよしとされる。

この2つは両立しない、
というのが筆者と、そしてジェイン・ジェイコブズの意見だ。

しかも、この2つを混用してしまうと、
「救い難い腐敗」が進んでしまうのだという。

あ~。
これはなかなか、鋭い。

最後に、斉藤孝さんのこれ。
いまこそ、のタイミングってある。
この本を読むために、っていうやつ。

~~~ここから

日本人は、神がいろいろあるなかで、
今日はこの神に手を合わせようというのならいいのですが、
この神しかいない、という強い信仰を強制されるのが
息苦しく感じられて嫌なのです。

なぜ息苦しく感じられるかというと、日本人にとって神というのは、
実は概念に過ぎないからです。天の恵み、地の恵み、
そうした概念に神の姿を与え、現実に合わせて便利に使いたいという、
非常に現実的な思考が日本人の心情にはあるのです。

捨てる神あれば拾う神あり、という諺があるように、
万が一、神の怒りに触れたとしても逃げ場があります。

~~~ここまで

そして、西田幾多郎のこの言葉

「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。
実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。
経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ
本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、
むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」

そして、鈴木大拙がつづく

「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。
禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、
個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。
体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。
科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。
言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。
なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。
実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」

これだね。
これをキャリア理論に落とし込んでみる。

そもそも。
日本文化はそうやって、
自分を持たず、目標を持たず、
目の前にいる人と、目の前の時間を
共につくってきたのではないか?

そしてそれは、科学ではなくむしろ禅のようなものだったのではないのか。
身体性を重んじ、体験を重んじてきたのではないか。

キャリアデザインという一神教に
違和感を感じるのは当然なのではないか。

もっと状況に身を委ねてもよい。

この本の冒頭で、
「私」と言わない日本人、という項目が出てくる。

とくに俳句は、
5・7・5というシンプルな構成に奥深さがある。

松尾芭蕉は詠んだ。

五月雨を集めて早し最上川
荒海や佐渡に横たふ天の河
静かさや岩にしみ入る蝉の声
古池や蛙飛び込む水の音

西洋では、自然と自分を明確に分け、
あくまで自然ではない自分というものを表現するが、

日本では自然と自分を区別することなく、
自分を自然に溶け込ませることをよしとする。

それのようが心地よく、
それのほうが美しいと感じているのだと。

私を外し、自然と一体化する。
目の前を感じ、動き、振り返る。
きっとそうやって自分のキャリアも作られていくのだろうと思いました。

東洋的キャリア、だんだんと見えてくる3冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 05:18Comments(0)

2017年03月26日

夢を語れ

どうやるか?
ではなくて、
なぜやるか?

方法を語るのではなく、
夢を語れ。

きっとそのフェーズに戻したほうがいいのだろうね。

描く未来にワクワクしていないと、
仕事は作業になる。

その未来を描くところから、
もう一度やり直しだなと思った。

1人のリーダーにに求心力を期待するのではなく、
コンセプトに求心力を持たせること。
それをやらなければいけないのだな。

誰かが人生を賭けないプロジェクトは
成功しない。

いや、人生賭けたって、
うまくいかないプロジェクトはある。

それを誰かに期待するのではなく、
自分が動くしかないのかもしれないなと。

もう一回、
ワクワクする未来を描くところから、やり直そうかな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)日記

2017年03月25日

The great teacher inspires.

日本経済新聞社主催の
大学改革シンポジウム
改革はどこまで進んだか?

ノーベル生理学・医学賞の大隅良典・東京工業大学栄誉教授に
聞き手、池上彰さん(同じく東工大特命教授という豪華な対談から始まり、

関西学院大学の村田学長
芝浦工業大学の村上学長
(株)ワークスアプリケーションズの牧野CEO
のパネルディスカッション。

あんなに熱いシンポジウムは
ここ10年記憶がないくらいの熱気。
パネルディスカッションがディスカッションになってたし。

ということで、少しメモを。

~~~以下対談メモ

新しい学問には権威がないから、自由な発想が受け入れられやすい

1人の研究より共同研究。
違う方法論でアプローチしてくれる人がいるという価値

異質な存在があってこその発見。

役に立つとは何か?
2.3年後に企業で役に立つことか?
20.30年後に役に立つ、かもしれないか?

28年前にはガンの研究の役に立つなんて思っていなかった。

役に立つという概念を社会がもうちょっと考える。
短期的に役に立つか立たないかの二軸で判断していいのか?

科学は文化になってほしい。
役に立つか立たないかという視点で評価しないでほしい。

サイエンスを文化として楽しもう

~~~以上対談メモ

いいですね。
まずは大隅先生から「役に立つ」ということへの問いがなげかけられる。

役に立つか立たないか?
という視点を短期的なものとしてとらえすぎていないか?

そうそう。
「効率的」なことを重視しすぎていないか?

昨日のブログで書いた没頭する、っていう
堀江さんの言葉を思い出した。

そして、さらにシビれたのは、パネルディスカッション。

▽▽▽ここからパネルのメモ

何を教えたか、ではなく、何を学んだか。

卒論は最高のアクティブラーニングだ

The great teacher inspires.
偉大な教師は学びの心に火を灯す。

知識ではなく、行動力、態度、価値観。

大学が単なるラベルであった時代には遊んでいてもよかった。
しかしこれからは主体性と多様性とコラボレーションの時代だから、
大学名に関わらず、やらないと。

高校までは文科省の検定済の教科書で学んできた。
それはだいたい正しいことが書いてある。
しかし、大学で研究されていることは最先端だから、
間違っているかもしれない。
だから、鵜呑みにせずにクリティカルシンキングしないと。

って言ったら、池上彰先生に苦情
クリティカルシンキングが大事だ、を
あまりに素直に受け取りすぎだよ。(笑)

コミットメントするということ。
期限を決めて、全力でやるということ。

教育と研究の関係。
研究で知った喜びを、熱を伝達していく。
それがインスパイアを呼ぶ。

よい研究者は、よい教育者だ。熱を伝えられるから。
研究してなければ、教育はできない。

△△△ここまでパネルメモ

うんうん。
特に芝浦工業大学の村上学長の言った
The great teacher inspires.

教員も職員も学生もgreat teacher
を目指していくというのが芝浦イズムだという。

気になったので、検索した。
この言葉は、
ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)が言った

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

だったことを知る。
なるほど。

インスパイア。

それかもな。
堀江さんの言う「没頭する」の
前段階にある、「衝動」を起こさせる何か。

それをgreat teacher と呼ぶのだろうと。

だとすると、
それは「誰か」じゃなくて、
「何か」であるかもしれないなと。

2008年、ナカムラノリカズくんと一緒にやっていた
起業家留学プログラムの研修を思い出した。

心に火を灯す。

彼の司会や、ほかの研修生とつくる場のチカラが
宮澤くんたちの心に火を灯すのを目の前で見た。

インターンシップに必要なのは、
きっとそういうことなのだろう。
インスパイア。
それこそが必須の条件だ。

それは、受け入れ先の企業の人、
プログラムの設計、そして場のチカラ。
この3つが必要なのだろうと思った。

インスパイアなきインターンは今すぐに
やめたほうがいいと思った。

そして、インターンをはじめ、
学校外で、地域で、あるいは外国で何かやってみるというのは、
「インスパイア」を得るための機会なのかもしれないと思った。

いや、そもそも。
The great teacher inspires.

を逆から読んでみると、
インスパイアさせるものが偉大な教師である、
とするならば、

「機会」そのものが偉大な教師なのではないか。
という仮説ができる。

それだ、と思った。

僕が本屋をやったのも、
地下にハックツをつくったのも、
劇団員というシステムをつくったのも、
そこに「インスパイア」の機会が生まれるからなのではないか。
「心に火が灯る」瞬間が生まれるからではないか。

great teacher とは、機会であり、場であり、コミュニティなのではないか。

きっとこれからも、
それをやっていくのだろう。

たった一言で「インスパイア」は起こる。

僕にとって、昨日のシンポジウムの場はそんな機会となりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び

2017年03月23日

「没頭」して、「磨く」、ということ

友人が何人かシェアしていた
「教育改革最前線#1」
https://newspicks.com/news/2129062/

スライドになっていてわかりやすい。
ちょうどタイミングよく、
旅読書で、藤原さんと堀江さんの本を読んでいたので、
ふむふむと思った。


「藤原先生、これからの働き方について教えてください。」(藤原和博 ディスカバー21)


「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)

この2冊。
大学生、20代で進路とか
仕事とか、働き方とか考えている人は読んでほしい本だ。

まずは藤原さんの本から一部引用

~~~ここから。

ひとりひとりが自分独自の幸福論を持たないと、
幸せになれない時代になりました。

与えられた選択肢の中に必ず正解があるという前提はもはやない

コミュニケーションとは、伝達することではなく、共有することである。

自己紹介から、自己プレゼンへ。
相手の脳の中にどんな像を浮かばせるか。

会社も個人もエネルギー体。
ベクトルの和の最大化を目指す。

自分にぴったりの正解の仕事なんてないと知る

人と企業という変化するもの同士が、
無限に考えられる組み合わせの中で、
日々、ベクトル合わせをし続けること。
21世紀の働き方はこれに尽きる。

毎日カスタマイズして、
お互いにベクトル合わせを続けていける会社を探しましょう

富士山型でなく、八ヶ岳型連峰主義。

~~~ここまで引用

スライドにも出てくる、藤原節の炸裂に、
久々、熱い気持ちになった。

そして昨日からワクワクしながら読んでいる本。
ちくさ正文館で購入した本が堀江さんの本。

冒頭からガンガンとくる。
でも、なんというか、痛快な、
「学校」システムそのものへの疑問。

▽▽▽ここから一部引用

常識への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる

つまり学校はもともと、子どもという原材料を使って、
産業社会に適応した大人を大量生産する工場のひとつだったのである。

国家は想像上の産物である。モノとしての国家があるわけではない。

もう、国民国家というフィクションは力を持っていない。国家はなくなりつつある。

インターネットがもたらした本当の衝撃は、国家がなくなることなのだ。

明治時代の日本が一気に列強にのし上がれたのも、
国民国家というフィクションの創作に成功したからに他ならない。

更新するべきフィクションはどんどんアップデートしなければならない。

僕たちの周りにはびこっているフィクションは、とうに古び始めている。
そろそろ、新しい時代のための、新しいフィクションが必要だろう。

時代に合った良質なフィクションは、人々に居場所を提供してくれる

インターネットの恩恵は、他者と通信できることではなく、
所有の価値を著しく下げたこと。

国民国家というシステムには、
もはや、個人の人生を左右する力はないからだ。

今を生きる人たちが向き合うべき課題は、いかにいい大学に入るか、
ではなく、いかに自分だけの幸福を見つけ、追求するか、なのである。

必要なのは、セミナーでも勉強でもない、没頭する力の解放だ

学びとは、没頭のこと。

今学問と呼ばれている領域だって、
言ってしまえば誰かの没頭体験のアーカイブだ。

逆算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。

100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、
あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。
100点以上を取れる確率はゼロだ。

でも逆算をやめ、1点1点を楽しみながら積み上げていけば、
無我夢中で動いている間に、
200点、300点とその点が膨れ上がっていく可能性が開かれる。

この場合、取れる点数の上限はない。
目標からの逆算を思い切ってやめたほうが、
得られるものの可能性は大きく膨らむのである。

△△△ここまで引用

あ、しまった。
また引用し過ぎた。
買ってください。(笑)

この前書いていた、
東洋的キャリアに非常に親和性が高い
2人の本を読んでいて、うれしくなりました。
この2冊の世界観に賛同する。

そして、堀江さんの言うように、
「やってみる」がすべてだ。

やってみて、没頭する。
そこから始まっていくのだと思う。

知識を得る。
経験をする。

そういうことじゃなくて、
「没頭」して、「磨く」ってことなんじゃないかな、と思う。

それはきっと、
学校の外にあるのだろうと。

しかもしれを周りの人との合作でつくっていくこと。
そんなキャリアのつくり方がきっとあるのだろうと、
予感している。

さて、理論化しなきゃな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2017年03月20日

作品と文化のあいだ

アーティストと作品の関係。のつづき。
「作品」と「文化」の関係。

まきどき村も
ツルハシブックスも
コメタクも

共通しているのは、
「効率化」そのものに抗っているということかな。
それは、結果論なのだけど。

まきどき村は
「豊かさとは何か?」という問いへのひとつのアプローチだった。
ツルハシブックスは、
「若者地域拠点としての本屋」という方法論だった。
そしてコメタクは、
「米を炊く」という具体的方法による世の中に好きと隙を増やす活動だった。

その中に共通して流れているもの。
それは、「効率化に抗う」ということ。
なのかもしれないな、と思った。

そして、それは、
クルミドコーヒーやカキモリやタルマーリーみたいな、
経済社会そのものへの問いよりは
少し小さいのかもしれないけど、
結構共感度の高いプロジェクトなのかもしれない。

目標を決めず、セッションを楽しむ。

「目的」は究極、今日を楽しむということ。
本日この時間を楽しむということ。

そこでは周りを見渡して、
みんながどんな楽器を手に持っているかを見ながら、
新しい演者が向こうからやってくるかもしれないと思いながら、
自分の楽器を打ち鳴らすか、あるいはそこで踊るのだ。

そうして、できていくもの。
それが、作品であり文化であり、自らのキャリアであるのかもしれない。

昨日、かなちゃんが言った言葉に、ドキっとした。

「日本語がYes Noを最初に言わないのは、
結論を急がなくてもいいからだ。」

まず理由を述べて、最後に結論を述べる。
聞いているほうは、「結論はどっちなんだろう」
と想像しなければならない。

それは、話を聞くということ、
相手を理解するということなのかもしれない。
もっとセッションを楽しむ。
温暖な我が国では、そんな余裕があったのかもしれない。

セッションを繰り返し、
プロジェクトが生まれ、
作品が生まれる。
その作品がいつしか文化に変わっていく。

さくらちゃんも言っていた。
「個人に依存しているうちは、まだ文化になっていない。」

なるほど。
「この文化の期限には、諸説ありますが、」
と言われて初めてそれが「文化」になっているのだと。
面白いなあ。

しかし、
さくらちゃんがやっている「聞き書き」は、
個人が大切なのだという。

ライブなのだと。
誰と誰が聞き書きという場を共有したのか、
というのが大切で、そこからどんな言葉が出てきたのか。
そんな関係性が大切なのだと。

僕たちは、周りを見渡して、ライブを生きながら、
一方でそれをいろんな人が始められるように、
「文化」をつくっていくようなことを望む。
ひとつのプロジェクトが共感の連鎖でつながり、広がっていく。

きっと、そうやって、
作品と文化のあいだを、
ぐるぐるしながら、
未来と自分ができていく。

そんなことを感じた、いい夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:07Comments(0)学び