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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2018年01月17日

「自由」への学び(前編)


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)

読み進めています。
オランダの公教育を題材に
深く教育について問い直す1冊。

第4章の苫野一徳さんのところが
学び多いので、メモします。

~~~以下メモ

現在において、「自由」に生きるための力とは何か。

現在とは、「知識基盤社会」と「グローバル化社会」である

「知識基盤社会」。
産業主義社会が終わり、ポスト産業主義社会を迎えた今、
すでに多くの商品が市場に行き渡っています。

単純な大量生産・大量消費はあまり成り立たず、
企業は、さまざまなサービスや付加価値を見出し続けなければなりません。

産業主義社会においては、
多くの企業が求める人材の大多数は、
一部の経営者層の支持に従い、
「言われたことを言われた通りに効率よくこなす」
ことができる労働者であったと言えるでしょう。

そのため、学校教育もまた、
子どもたちに、「決められたことを決められた通りに勉強させる」
ことが、ある意味では求められていたと言えるでしょう。

ポスト産業主義社会(知識基盤社会)では、
「言われたことを言われたとおりにこなす」
だけでなく、みずから考え、また多様な人たちと協同して
課題を解決していける、そんな力が求められるようになっているのです。

「学び続けることを余儀なくされる」現代社会においては、
「学ぶ力」「考える力」「考え合う力」を
すべての子どもたちに育み、保障しなければならないというべきなので。

この息苦しい時代・社会において、
どうすれば自分なりの幸せや喜びや自由を
得られるのだろうか?

そのための力能は
いったいどのようなもので、どうすれば学び取っていくことができるのか?
子どもたちは、こうした問いを、ただ教育から受け身に与えられるだけでなく、
みずから考え、学び、そして多様な人たちと協力し合って、答えを
見出していく必要があるのです。

「決められたことを決められた通りに」
「言われたことを言われた通りに」
勉強させることが中心の教育では、
そんな子どもたちを力強くはぐくみ支えていくことは困難でしょう。

以上のような学力観の転換は、一般に
「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ」
といわれています。

つまり、どれだけの知識・情報(コンテンツ)をため込んだかよりも、
それらを駆使して何ができるのかという能力(コンピテンシー)が
今日求められているというのです。

OECD-DeSeCo「キーコンピテンシー」
「相互作用的に道具(言語・知識・情報)を用いる能力」
「異質な集団で交流する能力」
「自律的に活動する能力」

国立教育政策研究所「21世紀型能力」
「思考力」を中核に、それを支える「基礎力」、
そしてこの両者を方向づける「実践力」の
三層構造から成るものです。

~~~ここまでメモ。

うんうん。
たしかに、世の中の変化からいって、
そういう方向で進んでいくのは間違いなあと。

次、「グローバル化社会」について書きます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2018年01月15日

「ベクトル感」を感じる

福島・白河
コミュニティ・カフェ EMANON

NO NAME
「名もなき」
を逆にして、EMANON
エマノン。

素敵なセンスだなあ。

昨日は
オーナーの青砥和希さんと
青砥さんの妹でシェフの青砥侑紀さんに
ロングインタビューをしてきました。



青砥兄妹と。


青砥侑紀さん。

おもしろい。
11月に初めて会った時から、
この人、すごいなって直感して、
「インタビューに来ます」って言ったので
それを果たしに来ました。

侑紀さんは大学を休学中で
2年前のエマノンのオープンした直後から参画。

子どもの頃は絵を描いていて、
マンガ家やイラストレーターに
なりたかったのだという。

ところが、中2の時に
妹が同じように絵を描くようになって
そのほうが上手に見えたので、
やめようと。
で、料理の方向へ。

子どものころから、
母の仕事の帰りが遅いことが多かったので
家族の食事を小学校6年生の頃からつくっていたという。

そんな侑紀さんがお菓子作りをしようと思ったのは、
妹がつくるクッキーがあまりにも
おいしくなかったので、
「そんなわけねーだろ。ちょっと作らせろ。」
ってレシピを見ながら作ったのが最初だった。

人に食べてもらうなら
クオリティの高いものをつくる。

これはきっと侑紀さんの美学なのだろう。

バレンタインデーのいわゆる「友チョコ」として、
チョコを溶かして固めただけのお菓子を配っている
学校の友達の感覚が理解できなかったという。

そう言えば、和希さんも、似たようなところがある。

カフェをできるだけDIYでつくる、
ということにしたけど、
ベースになるようなところは、
プロにお願いした。

和希さんが言うには、
「みんなでやる」っていってよくないものが
出来上がるくらいなら、プロフェッショナルに頼んだほうがいい。

「みんなでやる」ことそのものに
重きを置きすぎない。

兄妹の美学が少し似ているなと思った。

高校に進学した侑紀さんが、
部活代わりにやっていたこと。

それは
「女子高生×白河ラーメン 制服食べ歩きスタンプラリー」
だった。(仮 笑)

バスと徒歩を駆使して、
ラーメンマップに掲載されている全ての
ラーメン店に行くという謎の行動。

もうひとつが「プリン研究家」
お菓子屋やコンビニで発売されている
プリンを全種類食べつくす、というもの。
毎週火曜日の新商品の発売時には、
すべてのコンビニをハシゴする日々だった。

すごい。
徹底的にやる人だったのだ。

そんな日々侑紀さんが手に入れたもの。
それはなんと「家」だった。

白河で住む場所を探していたとき、
行きつけの蕎麦屋(女子高生が行きつけってすごい)
のマスターが、ココの3F、使っていいよ
って言ってくれた。

いまもその場所に住みながら、
エマノンに通っている。

高校3年のとき、料理の道に進むことを決意し、
料理の専門学校へ進学。

ところが、思っていたのと違い、つまらなかったのだという。
4月にはもう、何しに来たんだろうって思っていたのだという。
そんな侑紀さんに天気が訪れる。

フラッと目に入った
世田谷の家の近くのフランス料理店。
店に掲げられた青いユリの紋章にも惹かれた。

料理も見た目も味も素晴らしくよかった。
思わず、会計の時に言ってしまった。

「あの、ここでバイトしたいんですけど」
コワモテのシェフが答えた。
「わかった。明日から来い」
そこから始まる血のにじむような日々。

10年以上、店をひとりで切り盛りするシェフは
厳しかった。毎日のように怒鳴られていた。
黙っていると怖いので、毎日、
話すことを考え、メモしていったのだという。

3月、侑紀さんは専門学校をやめ、
店に集中することになる。
学校よりも店での日々を選んだのだった。

朝7時に来て、併設のパン屋さんのパンをつくり、
昼の仕込みをして、ランチ、
夜の仕込みをして、夜の営業。
家に帰るのは深夜1時くらいだった。

でも、やめなかった。
ひたすら続けた。
何かがあると思ったからだった。

侑紀さんは言った
「1度も同じまかないを食べたことがない。」

すごいな。
それ。やめるまで、
600日くらいは食べてるはずなのに、
一度も同じものを食べていない。

意外にシェフはツンデレで、
「お前にしかこの肉は食べさせないんだから」
とか言ってくるんだって。不器用だなあ。笑。

やめてから、受験勉強をして、大学生になったが、
1年目でどうも暮らしが合わずに、もやもやしていたところに、
兄に声をかけられ、2年間エマノンのシェフをしている。

エマノンにいると
本当に面白い人たちに会えるのだという。

エマノンは、2015年11月に動き出した。
最初は単なる空き家があるだけだった。

白河駅前に高校生も立ち寄れるような拠点を
つくりたいと考えた青砥和希さんは、
1枚のチラシをつくった。
それを高校の正門前で手配りした。

「はじめまして。これからはじめます」
的なチラシ。

第1回目のミーティングは
予定地を見せたあとに、市役所でミーティング。
15名くらいの高校生が集まった。

「困っていることを教えてほしい」と
高校生に聞いた。

クリップボードを使って、こういう感じで、遊び心をくすぐる。


そのときは、内装について、ではなく、
運営方針について、この方向性でいいのか、
を確認するための調査的な意味合いが強かった。

「工事手伝ってくれる人募集」で
高校生がやってきた。
「なんか面白そう」が動機だった。

2015年12月26日のオープニングパーティーにはたくさんの人が来たけど、
まだ全然工事は終わってなかった。

2016年3月4日に正式オープン。

高校生は会員登録すると
「自習室」的に使うことができる。

これは、無料で来てほしいという和希さんの思いと、
ある程度の緊張感を保つためにした仕組みだった。

登録のときに、
名前、連絡先などを記載してもらうし、
カードにも名前が書いてあり、
カードを毎回確認することで、
お店側は名前がわかるし、迷惑行為の防止になる。

靴を脱いで上がるスタイルは、
オイルを塗ったら、靴で上がるのが
もったいなくなったのと、
2Fも使ってもらいたかったので、
その流れをよくするためだった。


高校生向けのライター講座を行い、
フリーペーパーを発行した。

その時にはもう、初期のメンバーは、
誰かしらイベントにいるようになっていたので、
人を集めるのが楽になっていたという。

そっか。
もはや部活みたいになっていたんだな。

とまあ、エマノン兄妹のストーリーはこんな感じ。

今回、僕が聞いていて、出てきたキーワードは、
「ベクトル感」だった。

みんなでテーブルをつくるときは、
若手だが本物の家具職人を呼んだ。

まだ20代なので、
会社の中で自分の好きなようにはやれないが、
こういう場所での経験が生きてくる。

侑紀さんだってそうだ
「自分の店」という意味では初めてのことだ。
「やったことがない」
それが始める理由なんだ。

そして、ここからは僕の仮説なのだけど、
高校生にとって大切なのは、

「ベクトル感を感じること」
なのではないかと思う。

「ベクトル感」とは、
この人は、この方向に向かっているんだな
と感じること。

家具職人の若手職人にも
侑紀さんにも、それがあった。
もちろん、和希さんにも。

エマノンとは、
そういう「名もなき」若者が、
それぞれの方向へのベクトルを持ちながら、
実験的に何かをやってみる、という場所なのだ。

そしてそれが高校生にとって心地よい学びがあるのではないか。

あらためて、
「目標」の意義について考えさせられた。

学校で行われているキャリア教育は、
「到達点」を見せようとしていないだろうか?
「目標」を持たせるために。

「目標」は本当に必要なのだろうか?
方向性、つまり「ベクトル感」だけがあればいいのではないか。

「ようこそ先輩」に出てくるような
超一流のプロフェッショナルは、
到達点としてのスキルと、
これから進んでいくベクトル感を
両方持っている人なんじゃないか。
だから子どもは惹きつけられるのではないか。

目標より、
到達点より、
方向性、
ベクトル感を共感し、場を共有すること。

そういう場が高校生に必要なんじゃないのか?

そんな熱い問いをもらったインタビューになりました。

ひとまず、現場からは以上です。

最後に、侑紀さんがつくった自然薯のティラミスを。




  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)

2018年01月14日

「主人公になる」本屋という場をつくる

山形市・郁文堂書店でイベント





本の処方箋もやりました。


そしてオーナーの原田さんの
手作りの漬物と煮卵。
日本酒飲みたくなった。(笑)







僕は昨年9月、東北ツアー中に郁文堂に立ち寄り、
原田さんに会うことができた。

そして今回、
郁文堂書店プロジェクトをすすめてきた
追沼さん、芳賀さんに会いにやってきたのだった。

郁文堂書店復活プロジェクト。
それはかつての「郁文堂サロン(本屋サロン)」の復活だった。
山形市七日町、山形市の中心部に位置するこの場所は、
役所も近くにあり、たくさんの人たちが交わる交差点だった。

そんな中にあった、郁文堂書店。
現オーナーの原田伸子さんに聞くと、
そこは昔、サロンのようだったという。
サロン、それは情報交換の場。
「生きた」情報が飛び交う場だった。

東北芸術工科大学の当時3年生だった追沼さんと芳賀さんは
この物件に出会った。
斉藤茂吉や司馬遼太郎、井上ひさしも訪れたこの場所は、
すでに閉じてから10年以上の月日が流れていた。

山形ビエンナーレに合わせて、
1日だけのイベントを開催。
100名以上の来場者が集まり、
そこから郁文堂は再生へと歩き始める。

クラウドファンディングで資金を調達し、
「知識の本棚」などを開設した。

僕が9月に行って、
一番びっくりしたのは、
原田さんがそこにいたことだった。

「商売はよ、ここ、ハートだがんな」(2017.9.25)
http://hero.niiblo.jp/e485890.html

原田さんは
その場にいた全員分のお茶を入れ、
おしぼりを出してくれた。
そして、漬物も。

「何十年も前から、そうやってやってきた」
って笑った。

衝撃だった。
それまでの僕は、
「リノベーション」って、古い建物の雰囲気を生かしつつ、
いまの時代に合わせて新しくつくりかえることだと思っていた。

そうじゃない。

リノベーションは、その土地や場所に息づく継ぎたい何か、を
どのように継いでいくかの方法論として改築や新しく何かをつくること
なんだって思った。

郁文堂書店プロジェクトが継ぎたいもの、残したいものは
「郁文堂サロン」と呼ばれていた文化だった。

昨日、原田さんが言っていた。

「ここにくれば、誰かに会える」
と言って人は来たのだという。

えっ。それって、2014年2月のソトコトで
ツルハシブックス店員だった野島萌子が言った言葉だ。

そっか。
本屋っていうのは、そういう空間なんだ。

偶然性というか、予測不可能性というか、
そういうのを求めて、人は本屋に足を運んだんだ。
本との出会い、だけではなく、
それと同じくらいの人との出会いが
郁文堂サロンにはあったのだ。

ツルハシブックスのキャッチコピーは、
「気がついたら私も、本屋という舞台の、共演者になっていました」だ。
(少し長い)

郁文堂サロンもきっとそんな機能だったのだと思うとうれしくなってきた。

そして、電車の中で読んできたこの本とリンクしてるなあって。

「コト消費の嘘」(川上徹也 角川新書)

おととい、水戸で川上さんのトークイベントがあり、購入。



この本がめちゃめちゃ問いに詰まっていて、
ドキドキしながら読み進めたら、
昨日の山形行きの電車の中で読み終わってしまった。

柴咲コウさん風に言えば、
「頷きながら、一気に読みました」となる。
(某映画化されたミリオンセラー小説のマネ)

モノではなく、コトを。
外国人観光客に、コト消費を。
それ、本当に継続した売り上げにつながってますか?
って。

コト消費ではなく、
コトとモノがつながったコトモノ消費へ
もっと言えば、人にフォーカスした「モノガタリ消費」へ

川上さんって、「ストーリーブランディング」を売っているというより、
「あなたの物語はなんですか?」っていう問いを売っているんだなって。
素敵な仕事だ。

川上さんによれば、ストーリーブランディングの手順は以下の通りだ。
1 ヒストリーを聞き出す。(会社・個人)
2 ビジョンとキャラクター設定を考える
3 川上コピー(旗印)を決める
4 三本の矢(志・独自化・エピソード)
5 川中・川下の言葉やアイデアを出す
6 川上コピーを発表する
7 社内浸透と社外アピール

ここでポイントは3の「川上コピー(旗印)」を決めるということころ。

川上さんは、
「過去」と「未来」を融合して旗印を掲げ物語の主人公になる。
と説明する。

過去のストーリーと未来のビジョン、そしてキャラ設定。

会社も、個人も、商品も、「主人公」化するということ。
ここが本書の大きなポイントだと思った。

このあと本書では、台湾の宮原眼科というお菓子屋さんの事例が
出てくるが、これが圧倒的にすごい。
建物、お客さん、従業員、商品、最後に企業を
主人公にしながら、お菓子を売っている。

これは、昨日の郁文堂書店にも当てはまる。
建物や、原田さんや、原田さんがつくってきた
郁文堂サロンの物語が人を惹きつけている。

そして、この文にシビれた。

「物語の主人公になって商売をする」と一度決めたら、ゴールはありません。
あなたのお店が主人公であり続けるには、
常に「未来のビジョン」に向かって進んでいく姿を、
観客(顧客・見込み客・消費者)に見せ続ける必要があるからです。

いいな、そうそう。
そんな商売をしていかないとね。
お客と高めあえるようなお店をつくること。
それが商売の醍醐味だよなあって思った。

そして、昨日もイベント前にやっていた、
本の処方箋でも、人生に悩む人たちが集まってきていた。

「ここに来れば誰かに会える」
それがサロンの役割だったのではないか。

そして、その「出会い」が起こったとき、
人生が動き始める。

それは、その人が人生の「主人公」へと
変わった瞬間なのではないのか。

本来、人は、人生の主人公だ。
日々を過ごしていると、それを忘れてしまう。

本屋での本との出会い、人との出会いが、
人生を少し動かす。

いや、気がつかないうちに、
人生が動いている。

たぶん、本屋が提供する「機会」は、
そういう機会なのだろう。

気がついたら、人生が動いていた。
気がついたら、共演者になっていた。
それは、その人が人生の主人公になる瞬間、

山形・郁文堂書店が売っているもの、
僕がツルハシブックスで売りたいものは、
そんな瞬間なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)イベント

2018年01月12日

学力という「単一の指標」は「唯一の指標」ではない


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)

福岡・ブックスキューブリック箱崎店にて購入。
大好きな本屋さんで堅めの1冊。

翌日に伺った「こととば那珂川」の坂口さんとの
話にも刺激を受けて、
再び教育というか、小学校中学校高校の
ことを考えるようになっています。

この本、買ってよかった。
いいタイミングで、いい問いをくれる本屋は本当に貴重です。
僕もそういう本屋になりたいです。
ブックスキューブリック箱崎店さん、ありがとう。

坂口さんに話を聞いて、
いちばん感じたことは、
学校の勉強だって「リベラルアーツ」になり得るっていうこと。
(リベラルアーツ:自由への学問、教養)

数学はアートで、
英語はサイエンスだ、っていうこと。

そういうふうに、学びを楽しむこと、
好奇心をはぐくむこと。
きっとそれが子どもの時に必要なのだろうな。

ということで、この本。
まだ第1章ですが、リヒテルズ直子さんの
心をえぐるような、辛辣というか、真実というか、
感じていることを言葉にしてくれている感じに
胸が苦しくなります。

~~~以下、本文よりメモ

学習とは、本来楽しいもののはずです。
これからの社会がますます必要とする
人間のさまざまな創造力や批判的な思考力は、
学ぶことに喜びを感じられる環境の中で初めて
育つものです。

しかし、日本の子どもたちは、
まだ生まれてほんの数年の、幼稚園に通う年齢の時から、
「勉強とは一所懸命励むもの」
「勉強が他人より遅れたら人生に失敗してしまう」
という外からの強制と脅しの中で、

学ぶことの楽しさを奪われ、
生きがいを見出すうえで大切な好奇心を
磨滅させられているのです。

受験で成功することが人生を切り開く第一歩。
学校で落ちこぼれたり受験に失敗したりすることは、
幸福な人生への切符を取り損ねたも同じ。

18歳の若さで、みずからに「負け組」のレッテルを貼って、
自己肯定感とは正反対の精神状態に放り込まれる・・・。
そういう、必要のない無意味な敗北感を持ったまま
大人になっていく子どもが、日本にはあまりにも多すぎます。

そして、子どもたちから遊ぶ時間や家族と過ごす時間を奪い去って、
「いま苦しみに打ち勝てば、やがて幸福な人生を手に入れられる」
と無責任にささやいているのは、塾や家庭教師といった
大小の教育産業に携わる大人たちです。

大人たちが寄ってたかって、子どものためというよりも
自分たちの立場や利益のために、子どもたちの可能性を
損っているのではないでしょうか。

自分が営利の仕組みに組み込まれてそれをどうすることも
できないでいるのを内心では承知していながら、
「子どものためにやっているのだ」と、
自分だけはその仕組みがもたらす結果の責任から
免れているかのような態度をとります。

企業戦士の塾教師たちが大声でかける叱咤激励のもと、
子どもたちは「必勝」などと書いたハチマキを頭に巻きつけ、
個性などまったく無視されて、
大きなホールに何十人も一緒に並んで反復学習に励まされる・・

成績ランキングにさらされ、「負けることは恥」と心に刷り込まれ、
最後にはおおげさな打ち上げ花火までして、
合宿終了がお祭り騒ぎで祝われます。
こうした偽りの「達成感」に陶酔させられる子どもたちの中には、
涙すら流す子が何人もいるのです。

競争神話の刷り込み以外の何ものでもないこうした行為に
「教育」という看板をつけて親から金を巻き上げているこんな国が、世界のどこにあることでしょう。

問題は、
こうした「最小限の投資による効率化」ばかりを狙う国の施策によって、
すっかり「粗末」となり硬直してしまった日本の公教育が、
公的な縛りを受けない塾産業や、親や教材やサービスを購入する
教育産業を助長させ、結果として、
営利ベースの教育機会にアクセスできない貧困家庭の子どもたちが
最新のメソッドや機器に触れる機会から遠ざけられていることです。

長きにわたり続いた学歴社会と受験競争によって確立してしまった
学歴偏重の社会意識(子どもの人間性尊重の欠如)

それがもたらした塾・教育産業の無節操な蔓延(次世代教育の営利事業化)

それが逆に学校関係者に次世代教育の責任の放棄を促していること(公教育の荒廃)

教育委員会等の行政指導によって教員の自由裁量権が取り上げられている(教育の自由の剥奪)

貧困家庭の子どもたちが学力競争のスタートラインでハンディキャップを負っている(発達の権利の剥奪)

日本の公教育の課題の大もとは、
直接的には、学歴社会と受験戦争にあるでしょう。
そして、この競争的な学歴社会を生んだのは、
学校教育を「優れた人材の選抜システム」とみなす考え方に
あることもあきらかです。

~~~ここまでメモ

このあと、教科書の問題になっていくのだけど、
それはまた別の機会に。

一言で言って、「ヤバイね、これは」
っていう感じですね。
その通り過ぎるよって。

「効率的であること」
に最大の価値がおかれたシステム。
それが現代の日本の教育システムにいまだ生きているのだなと。

この文章を読んでると、
あまりにも異常だと思えてくるんだけど、
なぜ、それが今まで続いてきたのか?
って考えると、

2017年の僕のテーマのひとつだった
「近代」とは何か?に入っていく。

「明治維新以来、日本の近代化が急速に進んだ。」
と習ってきたけれど、

それはいったいなんだったのか?

一言でいえば、「効率化」であり、
「日本人」という「国民」をつくること。
「富国強兵」「殖産興業」というスローガンのもと、
我が国は近代化への突き進んだ。

やむをえない事情だったと思う。
アジア各国が植民地となる中、
戦争に負けないためには、
急速に「国民国家」を作る必要があった。

なぜなら、「国民国家」こそが
当時の戦争において最強のシステムだったからだ。

それを「効率的」につくるためにシステムのひとつ、
いや、要となるのが「学校」だった。

それが、今もつづいている。
日本は最終的に戦争に負けたが、
戦後ふたたび、「効率化」が価値を生んだ。
工業社会だったからだ。

「効率化」システムは、
ふたたび価値を生んだ。
そしてそれは、日本を「世界2位の経済大国」
と呼ばれるまでに押し上げた。

その要になったのは、やはり公教育を
出発点とする「学歴社会」システムであろう。
学力という単一の指標で輪切りにし、
システムの管理者と被管理者に分ける。

「管理者の命令だから」
と行動する人を増やしていくこと。
それが価値を、いや価値というか、
お金を生んだのだった。

ところが。
時代は変わった。

日本で「効率化」が価値を生むことは
難しくなっている。

工業社会が終わりを告げて、
付加価値をどうつくるのか?
他社とどのように差別化するのか?
が価値を生んでいる。

また、課題を解決したり、
今までにないものを生み出していくことが
求められている。

世の中はもう、「効率化」で価値は生むことはできない。

にも関わらず、
学校は、教育は、いまだに「効率化」されたシステムに
最適化する人材を育て、
また教育産業はそのようにして稼いでいる。
そんなシステム自身に問いを投げかける必要があるのではないか。

さて。
本屋にもできることがあるんじゃないか。
って思わせてくれるのに十分な第1章でした。

また、読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)

2018年01月10日

「哲学」のある人、「哲学」のある場所

「哲学」のある人って
かっこいいなって思った。
そんな人にたくさん出会った。

津屋崎、暮らしの問屋の古橋さん。
暮らしに「問い」を投げかけること。
そんな場づくりがコメタクと似ているなと感じた。

西戸崎、ナツメ書店。
平日朝7時から9時と14時から21時オープン
っていうのが気になって、いってみた。
「朝7時から、文化的な何かを感じる暮らしっていいんじゃないかなと」

そして、その後、
那珂川町のこととば那珂川の坂口さん。
いちばんビックリした。
感覚似てるって。

坂口さんのやってる塾の取り組みについて。
コミュニケーション・デザインが詰まっているなって。

何より、
あふれ出る、「哲学」あるなと。

坂口さんにかかれば、
学校の勉強そのものも、
「哲学」にそして「リベラルアーツ」に化けてしまう。

「数学とは何か?」
っていう問いを考える塾、すてきだなと。

数学に限らず、サイエンスの始まりは、
「わからないこと」に向き合った結果だっていうこと。

「わからないことをわかるようになった」
宇宙の法則を見つけた。
これはロマンだよね。

一方でアートは、
「わからないことをわからないままで表現していくこと」
あるいは仮説を提示していくこと。

「わからないこと」が出発点になっているという意味では、
アートとサイエンスは同源なんだな、って思った。

そんな風に世の中を見れば、
勉強ってもっとワクワクしてくるんじゃないかな。

法則性の発見だし、歴史の発見の連続だし。

坂口さんは子どもたちにたずねる
「それって本当に苦手なの?」
って。
先生が嫌いなだけじゃないの?って。

思えば、苦手科目とかっていう言葉は、
先入観を植え付けるよね。

「数学が苦手だから、文系です」とか
みんなあたりまえに言ってるけどさ。

中学レベルまでは、
一定レベルの「教養」なんだよね。

すべてが、
自由のための学問「リベラルアーツ」
になり得るんだよね。

そんな風に思って勉強と対峙したほうが、
日々とっても楽しいんじゃないかな。

「わかる」も「わからない」も
向き合って、抱きしめて、愛していければいいなと思った。

なんか、とってもいい出会いをいただきました。
ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)

2018年01月06日

松下村塾は塾生募集広告なんか出さなかった


「ローカリズム宣言~「成長」から「定常」へ」(内田樹 deco)

移住雑誌「TURNS」の連載
「若者よ! 地方をめざせ」の大幅加筆修正バージョン。

買ってよかった。出会えてよかった。
新潟・新津の英進堂書店さん、ありがとう。

いつも内田さんの本は鋭いのだけど、
「で、どうすればいいの?」
(まあ、自分で考えろってことなんでしょうけど)
って思うのだけど、この本には提案も載っているので
より熱いです。鼓舞されます。

特に特にシビれたのは、
第9章 脱「市場経済」です。

~~~印象的だったところをメモ。まずは市場経済について

お金さえあれば、生きてゆくために必要なことが
何でも市場で買えるというのはある意味では素晴らしいことです。
お金を稼ぐことに集中して、それ以外のことは考えずに済みますから。

人間として生きる上で必要なものは全部マーケットで
値札がついて売っている。金さえあれば誰でも買える。
個人で暮らす立場からすれば、これほど生きやすいことはありません。

でも、それは逆に言えば、お金がないと生きていく上で
必須の支援さえ手に入らないということを意味しています。

格差の拡大は誰かの邪悪な意思によって起きているのではありません。
市場の合理的な選択の帰結なのです。

超富裕層に権力も財貨も文化資本もすべてを集中した方が
短期的には資本主義は快調に運転する。(先のことさえ考えなければ)

人間にとって必要な資源が少数者に排他的に蓄積された場合には、
集団全体の生命力は衰えます。イノベーションも起こらなくなる。

市場に委ねている限り、格差拡大は絶対に止まりません。
だから、どこかで強い意志をもって、市場の全能を停止させなければならない。

~~~ここまで本文よりメモ

なるほど。
市場は、「効率化」を求め、
会社は、「コストの外部化」によって儲けた。
そのスパイラルが限界に達したのだと。

さらなる効率化をするためには、
すべてを集中させることしかない。

しかし、それでは生き延びれないんじゃないの?
っていうのが内田さんの問いです。

そして、生き延びるためには、として以下のように説明します

~~~ここからメモ

これから社会的能力として最優先されるのは「いい人」であること。

「いい人」だと思われることが相互扶助・相互支援ネットワークに
登録されるときはかなり優先度の高い条件です。

能力があることより、リーダーシップがあることより、
資本があることより、「いい人」であることです。

能力とかリーダーシップというのは「ひとりでも生きていける」能力です。
集団を形成するために必要なのは、そういうタイプの強さではなく、
むしろ「仲間がいないと生きていけない」という弱さだからです。
自分の弱さを自覚している人だけが共生できる。

弱さをカミングアウトするためには「心の広さ」が必要です。
心の狭い人は、同じ意見の人と徒党を組むことはできても、
異なる意見の人と組むことはできないからです。
心の狭い人は均質な集団しかつくれない。

でも、生き延びるための集団は均質的であってはならない。
均質的な集団は、平時にルーティンワークをこなすときは効率的ですけど、
危機的な状況には対応できません。
だって、全員が同じ能力しか持っていないんですから。
危機というのは何が起きるかわからない状況のことです。

ですから、危機を生き延びることを優先させて
制度設計された集団は必ず多様な才能、多様な適性が共生するものになります。

危機を生き延びることを目指して設計された集団は、
「単独では何の役に立つのかさっぱりわからない人たち」を大量に抱え込んでいる。

集団はメンバーの資質や能力が多様であればあるほど危機的状況には強い。
そして、そういう集団の成員たちは、それぞれあまりに特異な才能の持ち主なので、
ひとりでは生きていけない。ひとりでは生きていけない人たちによって形成されている集団が最強である。

集団を強靭なものにしようと思ったら、強者連合を作るよりは、
「自分ひとりでは生きていけない」と信じている弱者たちを集めるほうがよい。

~~~ここまでメモ

なるほど。
これ、学校で習っていることとまるっきり逆ですね。

そして最後、私塾について語るココに、
シビれまくりました。

~~~さらにメモ

蘭学者の緒方洪庵が開いた適塾、大坂の商人たちがつくった懐徳堂、
吉田松陰の松下村塾、福澤諭吉の慶應義塾など、
どれも個人が身銭を切って立ち上げた教育機関です。
それらの私塾が日本教育史上もっとも成功した教育機関であった。

国家や自治体の支援がなくても、法律や要項に従わなくても、
教育はできるということを彼らの先例が教えています。

江戸時代にも藩校という、いまでいう国立大学に相当する教育機関がありました。
でも、そこからは残念ながら乱世を縦横に往来するような人材は生まれなかった。
既成のキャリアパスで出世しそうな秀才しか育てられなかった。だから、私塾ができた。

現代における私塾の登場は、時代が乱世に入りつつあることの証拠だと思います。

高等教育機関がもたらすのは、単に地域の経済効果だけではなく、
いわば一種の「空気」でもあるからです。
風通しのよい知性、権威や世俗におもねらない自尊心、活発な好奇心、
そういうものが流れ出る場所が存在する街と、
そういうものがない街の違いは暮らしていればはっきりわかります。

学校が若者たちの心身の成熟のための機関としてさっぱり機能しなくなってきた以上、
共同体にとって必須のその仕事を誰かが引き受けなければならない。
そう考えている人による私塾運動が、いま全国で同時多発的に始まっている。

塾でも道場でも、かたちはどうあれ、
教育共同体がこれからの地域共同体の再生の核になるだろうと僕は思っています。

広告なんかしなくても、知的で創造的な「空気」が漂っている場所なら、
意欲のある若い人たちは必ず惹きつけられて集まってきます。
松下村塾は広告なんて出さなかった。
でも、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋はじめ異才が門前列をなした。
そういう場所は鼻のきく若者にはわかるんです。

~~~ここまでメモ

うわ~。
それだよ、それ。
そういうのやりたいんだよ。
それが僕の考える「本屋」なんだよ。

やろうぜ、私塾をさ。
見た目は本屋かもしれないけど。

そんな感じ。

「高等教育機関」を「本屋」に置き換えてみる。

「本屋」がもたらすのは、単に地域の経済効果だけではなく、
いわば一種の「空気」でもあるからです。
風通しのよい知性、権威や世俗におもねらない自尊心、活発な好奇心、
そういうものが流れ出る場所が存在する街と、
そういうものがない街の違いは暮らしていればはっきりわかります。

そうそう。
そういう空気をつくるんだよ。

その「空気」を感じた人たちが集まってきて、
学びあい、高めあい、また助けあっている。

そんな「場」をつくるんだ、って。
そして、それは自分にしかできないんじゃないかって。

20年前。1998年2月。
大阪ボランティア協会の早瀬昇さんの講演を聞いた。

「ボランティアを始める人の条件は2つ。
これが世の中に絶対に必要だという思い込みと
これができるのは自分しかいないという思い上がりだ」

そうそう。
「思い込み」と「思い上がり」
つまり、「勘違い」が行動の源泉なんだ。
この本は僕が「勘違い」するのに十分なインスパイアがあった。

昨日のワークで出てきた
「本屋じゃない何か」、その未来像は見えた。
言語化はできていないけど、たしかに見えた。

あとはそれをストーリーへと組み込んでいく。

やろうぜ、私塾をさ。
本屋にしか見えないかもしれないけど。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2018年01月05日

「生きてる感」がどこから来るのか?





新幹線が見えるスタバ@東京駅。
好きなんですよね。

https://medium.com/be%E3%81%AE%E8%82%A9%E6%9B%B8%E3%81%8D-%E6%8E%A2%E7%A9%B6%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89

1月4日になってしまいましたが、
兼松さんのBEの肩書ワークをやってみました。

ホントは1年じゃなくて、3年を振り返りたかったのだけど、
1年仕様になっていたので、1年でやってみました。

これ、面白い。
Do(やったこと)の下から、
Be(どうあったか、ありたいこと)が見えてくる。

わたしのユーダイモニアのタイトルは
ある「衝撃好き」の1年。(笑)

1年間を振り返ると、
「シビれた」とか「衝撃を受けた」とかいう
言葉が多く出てくるもんだなと。

そして、それこそが自分自身が
「生きてる」感があるんだなとあらためて思った。

2017年を4つに分けてみる(強引に)

1~3月 「近代」への疑問

1月、未来食堂小林せかいさんに出会い、
お店はもっと「コミュニケーション・デザイン」できると感動し、
2月、西村佳哲さんと山口覚さんに出会い、
これからのキャリアのつくり方としての「キャリア・オリエント」を構想した。
3月、「日本人というウソ」と「日本人は何を考えてきたのか」
っていう2冊の本から、「近代」という時代への疑問が湧いた。

4~6月 ミーティングをエンターテイメントに

4月、新城劇場がスタートし、ミーティングのファシリテートをすることになり、
「チューニング」という概念を見つけ、実感した。
5月、法政大学長岡ゼミ「カフェゼミ」でつながるカレーの加藤さんの話を聞いて、
「予測不可能性」というエンターテイメントの神髄に気付いた。
5月、碇さんからインタビューを受け、心を開くデザインが得意なことを引き出され、
「余白おじさん」というネーミングをもらった。

7~9月 「問い」を生みたい

7月、アルプスブックキャンプで藤本智史さんのトークを聞き、
「その日、その瞬間、自分でしか書けない記事」の魅力に気づき、
大学生の価値について新たな発見をした。
8月、藤原印刷・藤原章次さんに出会い、
「それって作品って言えるのかな?」に衝撃。
9月、郁文堂書店(山形市)に出会う。
原田さんにお茶を入れてもらって感動。
リノベーションって、魂・想いを継ぎながら時代に合わせていく手法のこと
9月、まがりブックスをスタート。
「まがり=間借り」というコンセプトはコミュニティや就職にも使えそうだ。

10~12月 「本屋」じゃない何か

10月、9月につづいて、20代へインタビュー。
「他者評価の檻を脱出させる」という使命に気づく。
12月、まちライブラリー礒井さんに、
「本屋とか図書館とか言ってるやつは、、、」と言われる。
12月、立て続けに「本屋やりたいんだ」と言われる。
12月、ポーランド芸術祭にエントリーして落選するが、
プロフィールを「現代美術家」風に書き直して、自覚が出る。

っとまあこんな感じ。
これにBEの質問に答えていく。
(リンク参照)

そして出てきたBEの肩書。
DOの肩書→BEの肩書

現在美術家→「場」や「仕組み」を通じて、問いを投げかける人
衝撃を受け、構想し、行動する人。
「自分で考える人」がフラットな関係性の中で生み出す未来を実現する人

ワークショップ・ファシリテーター→場をデザインする余白おじさん
「場」をつくることで、言葉じゃなく伝える余白おじさん。

本屋→「本屋じゃない何か」屋
「場」で楽しそうにしている人を見ていると幸せな人

キャリアのつくり方研究家→鎖はずし人
10代・20代を他者評価の呪縛から解き放ちたい人

と、こんな感じで、
4つのDOの肩書から
4つのBEの肩書が見えてくる。

あれ、これって関連してるかも。
ってすこし思った。

場をつくりながら、
ゆるいファシリテートしながら、
問いを投げかけること。

一番のお客は、
「他者評価の呪縛」に気づかないうちに縛られている人たち。

なんかなんか、見えてきました。

つづく、ですね。

ワークをやってみて、
一番大切なのは、
自分は「生きてる感」をいつ感じているのか?

っていうこと。
それがBEの肩書に近づいていく
自分の「ありかた」なのだろうなとすごく感じた。

兼松さん、素敵なワークをありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)日記

2018年01月03日

「どうぐや」になる

「夢はのりもの」

2016年、
「ゆめのはいたつにん」(教来石小織 センジュ出版)
を読んで思ったこと。

2017年末、
PCシステム屋さん、
料理道具屋さん、
そして出版社(これはセンジュ出版さんですが)

に話を聞いて、
キーワードは「どうぐ」かもしれないと思った。

そんなとき、
1月1日朝、毎日新聞のAI特集で
yoshikiがAIと音楽について語っていた。

~~~以下、一部引用

AIでヒット曲は作ることができる。
ただ同時に「曲が売れる(ヒットする)」ということに、
そんなに意味があるのかな、と僕は思ってしまうんですね。

「売れたい」つまり「お金を稼ぎたい」ということであれば、
もっといい職業ってありますよね。
わざわざ芸術家である必要はないわけです。

メロディーってなんか突然降ってくるというか、説明不可能なもの。

どうしようもない悲しみや怒りを音楽を通して表現した。
そこに没頭するだけでも自分は救われていたと思います。

音楽という芸術表現があったからこそ、
僕は今まで生きてこられたと思うんですね。

作曲は、目の前に広がる芸術という海に飛び込んでいくイメージ。

理論じゃ語れない「何か」が芸術の中にあると、そう思いたいですよね。
すべてAIにできてしまったら、自分たちの存在価値がなくなってしまうので。

AIはライバルではなくて、友。

「何のために音楽をやるか」ということに尽きると思うんです。
「音楽で売れたい」って思ったらAIが脅威になる可能性があります。
でも見方を変えれば、そういう風には思えないんじゃないかな。

これまでもデジタル技術の発達によって、
作曲の選択肢はどんどん広がっています。
デジタル化のいいところはいっぱいあって、使わない手はない。
同じようにAIも、「心の友」だと思って、共存していけばいいと思います。

~~~以上、一部引用

そうそう。
AIって道具なんですよね。
ただ、それだけ。
本と同じ。
どの乗り物に乗るのか?っていう話。

そのくらい自分を相対化というか、俯瞰化して
見れたらいいなと思う。

本も、PCも、AIも、職業も、夢も、
ぜんぶ乗り物にすぎない。
目的地ではないんだ。

夢や目標に乗って、
その先の地平を見に行くんだ。

yoshikiも言ってる。

「何のために音楽をやるか」ということに尽きると思うんです。

それだ。
WHY?
なぜ、その乗り物に乗るんだ?
っていう問い。

そんな問いから2018年を始めてみようと思う。

そして、僕の今年のテーマは
「どうぐや」なのかもしれません。

武器も、防具も、薬草も、乗り物も
売っているような、そんな「どうぐや」
になりたいなと思います。
誰かもそんなこと言っていたような気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 06:21Comments(0)言葉

2017年12月28日

「違い」の違い


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

今日は、戦略の基本原理について。

~~~以下本文より引用を含む

「違い」をつくる。
これが戦略の本質です。

競争の中で業界平均以上の利益を上げることができるとしたら、
それは競合他社と何らかの「違い」があるからです。

「違い」には2種類あり、
「程度の違い」と「種類の違い」です。

「種類の違い」を重視するのが表千家で、
それを「ポジショニング」と言い、
「程度の違い」を重視するのが裏千家で、
そのカギになるのは「組織能力」です。

レストランに例えると、
料理がおいしいという評判で流行っているレストランの場合
その料理を考案したシェフのレシピが優れているのか、
使っている素材や料理人たちのチームワークが良いのかもしれません。

シェフのレシピに注目するのが
「ポジショニング」(SP:Strategic Positioning)の戦略論で
厨房の中に注目するのが
「組織能力」(OC:Organizational Capability)に注目した戦略

このそれぞれをSP、OCと呼びます。

~~~ここまで引用。

この本では、さまざまな会社の事例を挙げて、
SP志向かOC志向か、という話、
セブンイレブンの仮説検証仕入れや、
あるいは、日産やマツダのV字回復の
要因をこの観点から分析している。

SP(ポジショニング)というのは、
「戦わないという戦略」であり、

OC(組織能力)は、
仕方なく戦わなきゃいけなくなったときに、
組織の能力を高めることで競争優位を確保する戦略である。

トヨタのカイゼンなどに代表されるように、
日本の製造業の多くでは、
現場から数々の作業イノベーションが起こり、
それによって競争優位を確保してきた。

一方で、新興企業は、
「ポジショニング」が非常に重要になり、
「ニッチな業界を狙え」などと言われる。

理想を言えば、
SPとOCがともに高いレベルにあり、
なおかつ、利益率の高い(参入障壁の高い)
業界にいることであるのだけど、
この考え方はすごく面白いなあと思った。

つまり、V字回復した企業は、
強いOC(厨房技術)を持っていたけど、
SP(シェフのレシピ)が弱かったところに、
リーダーシップを持つシェフ(カルロスゴーン社長など)
が来て、SPを強化することによって、
もともと力のあったOCが花開いたということになるのだろう。
うーん、面白いね、戦略論。

今回のこの本を読んで思ったのは、
「インターンシップにおける学生の機能」について。

これさ、SP(に強みを持つ)企業か、OC企業かによって
変わってくるんじゃないかなっていうこと。

振興のベンチャー企業は、SP企業のほうが多いと思う。
(独自のポジショニングが取れないとそもそも創業できないから)
いっぽうで、何代目社長です、創業天保何年、みたいな老舗企業は、
OC企業というか続いてるってことは内部に強みがあるんだと思う。

受け入れ先はどっち系の企業なのか?
あるいは、その企業における価値はどこにあるのか?

新規事業開拓(たとえば、食品メーカーで新商品をつくる)
みたいな場合は、OC企業におけるSPの強化になるんだよね。

一方で、インターンを長期的に見た場合。

ETIC.の研修に出てたごく初期の頃、
京都のIT企業の社長が言っていた。

「インターン受け入れですぐに売り上げが伸びるとか、
成果が上がるなどということはありません。
しかし、5年、10年のスパンで見た場合、
インターン生を受け入れ、彼らが成長する会社になるということは
会社にとっては大きな財産です。」

そうそう。
まさにそういうことなんだろうね。
これは、SP企業における、OCの強化ということになる。

うーむ、なるほど~。
もちろん、SPもOCも両方が優れていることが
競争に強い企業の条件なのだけど、

インターン生の役割を、どちらに位置づけるのか?
っていうのを受け入れ先の経営者と合意しているって
大事なことだなと思った。

そしておそらく、相性がいいのは、
中小企業・伝統企業でどちらかというと
OC(組織能力)に強みのある会社での、
SP(ポジショニング)戦略を進めるインターンかもしれないですね。

第2章読み終わりました。
ラストに少し怖い話を。

企業の業績が悪化したとき。
SP先行型の企業は、みるみる業績が悪化し、シェフを変えなければならなくなるが、
OC先行型の企業は、冷蔵庫の中身が時間をかけて徐々に腐っていく。

それ、まさに、日本の大手製造業で
起こっていったことなんじゃないすか。
こわい。

さて、僕は世の中にどんな価値を生めるのだろう。

読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:36Comments(0)

2017年12月26日

あなたは何屋さんなんですか?


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

この本、おもしろい。
なんかいい。

今日は、「機能分化」と「価値分化」の違いについて。

ガイシ系(=外資系)
っていう組織体が少しわかった気がする。

前までは、
能力主義で、ドライなんだろうなくらいしか
印象がなかったので。

欧米の会社が「機能分化」であるのに対して、
日本の会社が「価値分化」であるという説明。

ソニーがトランジスタ・ラジオを開発できた理由の
エピソードを紹介している。

~~~ここから本文より引用

ソニーの創始者、井深大さんは、トランジスタの話を聞いてすぐに、
「それは自分にとってなんだろう?わが社にとってなんだろう?」と考えている。
そして、非常に早い時期に、もう、トランジスタ・ラジオをやってみようと心に決めている。

井深さんは、ニューヨークの昼食会に招かれたとき、
「この頃何をしようと考えていますか?」と問われ、
「トランジスタでラジオをつくろうと思って」と答え、
大声で笑われたのだという。

トランジスタ誕生のあと、米国では4つの研究プロジェクトが動いていた。
1 トランジスタの性質の物理的研究
2 トランジスタの性能の改善の研究
3 トランジスタのつくり方の研究
4 トランジスタの普及のための再教育のやり方の研究

米国では、大局から方針を立て、
その方針に合った計画をつくり、それを動かす、
という方法を好む。

そういう米国の通念からすれば、
まだ未熟なトランジスタをいきなり
ラジオという商品にするというのは
夢のような話だと映ったのだろう。

ところがトランジスタ・ラジオという目標が
設定され、そこに活力が集中されたために、
問題解決のための努力が実った。

~~~ここまで本文より引用

ここで著者が説明したいのは、
「機能分化」と「価値分化」の違い。

アメリカはトランジスタの開発を
機能分化したプロジェクトそいて進め、

ソニーの井深さんは初めから自分の仕事を
「トランジスタでラジオをつくろう」
という顧客に提供する製品の価値から入っている。
そして現実にソニーはトランジスタ・ラジオの
イノベーションに成功した。

顧客がどのように使うのか、どのように喜ぶのか、という
観点から開発の基本的な方向づけがされていたことが
日本のエレクトロニクス産業が育った本質的な要因なのではないか。

なるほど。

ここから本文中では前後するのだけど、
僕のメモを

~~~以下メモ

機能と価値の違い。
「マーケティング」が「機能」であれば、
「オーディオ」という切り口は「価値」を問題にしています。

機能のお客さんは組織です。
ある人の「マーケティングの専門知識・技能」という機能は、
その人が所属する組織に提供されるものです。
その意味で、機能は組織に対するインプットです。

これに対して、
価値のお客さんはその人が所属する組織の内側にはいません。
お客さんは文字どおり組織の外にいる顧客です。

価値にコミットするということは、「こういうものをお客さんに提供したい」
というアウトプットが仕事のよりどころになるということです。

欧米では自分が組織に提供するインプット(機能)が
そのまま仕事の定義になるのに対して、
日本企業では、組織が提供する
アウトプット(価値)が人々のアイデンティティとなる傾向がある。
これが分化という組織の編成原理に注目した対比の図式です。

~~~ここまでメモ

なるほど。
欧米の企業は機能分化を文化とし、
日本の企業は価値分化を文化としている。

なるほどね。
外資系っていう世界が少しだけ理解できた気がする。

そして同時に、就活の「違和感」の原因がそこにもあるなと思った。

良い悪いではなく、
日本人は、考え方の癖として、

「価値」は何か?
というふうになっているんだ。

だから、オーディオを作っている会社で、
マーケティングを日々やっているとしたら、

「あなたは何屋さんですか?」
っていう質問に対して、
「マーケティング屋さん」ではなくて、
「オーディオ屋さん」であると答えるのが日本人「的」であるというのだ。

「マーケティング」というのは、
その人が属する組織(会社)にとっての価値であって、
「オーディオ」っていうのは、
その会社が提供する商品の顧客にとっての価値である。

なるほど。

だからさ、就活の時に、
「業種」と「職種」とかって聞かれるのって、
やっぱりちょっと違和感があるんじゃないかな?

特に「職種」っていうのは、
会社に対する機能を聞かれているわけだからね。

その会社にとってお客は誰なのか?
生み出す価値は何なのか?

そういうことをお互いにイメージする「就活」が
日本「的」なのかもしれないですね。

さて、
「あなたは何屋さんなんですか?」  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)

2017年12月25日

「生きる」という問い



「たたみかた」(アタシ社)
23日の鎌倉さんぽで購入しました。

今年の4月に発行された創刊号は、
福島特集。

この前、逗子であった、
10代のためのブックフェアで
「アタシ社」を知った後だったので、
ビビっときました。

まえがきでもう、問いがいっぱい。

自分の「正しさ」がどこからやってきたのかも知らないで、
他者の「正しさ」を理解しようとすることができるだろうか?
これが、私が私に投げかけた問いである。

ただ一つの「正しさ」は存在しない、という結論に至ったからこそ、
その存在しないはずの「正しさ」を探せたらなあと思うようになった。
できる限り、全ての生命が調和的に生きられるような、そんな「正しさ」。

いいな。
そうそう。
終わりのない問い、正しさ。
それは、「美しさ」と言い換えてもいいかもしれない。

そういうやつ。

巻頭に出てくる「上野」の話は
とってもグッとくる。

東北の人たちにとって、「東京」とは
上野のことだと。
長らく発着駅であった上野。

以下、本文から。

~~~以下引用

東北の、そして福島の余韻をまだちょっとだけ残した、
あの混沌の街。闇市に始まり、高度経済成長を支え、
「ヒルズ」的な商業施設を拒絶し、昭和の亡霊を一人引き受け
今ではアジアの混沌を、その深い懐の中に迎え入れている上野。
生きることの根源がそこにはあるんだ。

~~~ここまで引用

そっか。
上野ってそういうところか。
たしかに、包容力ある。

ここに出てくるアメ横の魚屋「魚草」の店主、
大橋さんのコメントが素敵だ。

「アメ横で魚屋をやるっていうのは、
矜持と忸怩を2つ持たなければいけないんだ」

いいなあって。
そこには、「生きる」っていうのがあるなあって。

キレイなだけじゃないし、
正しいだけじゃない。

そこに、自分なりの「生きる」があるのだろうなと。

そんな文を電車の中で、読んでいたら、
あ、そういえば、今日アメ横行けるなって。

常陸多賀「クリエイティブ図書館‐kazamidori」で本棚つくってから上野へ移動。

アメ横

八百屋を探したけど、魚屋さんばっかりで、
地下街でようやく発見。


めちゃアジアでした。
金額も電卓を見せられる感じです。

せっかくなので、魚草(立ち飲みは年内最終日でした)


そして、合羽橋・飯田屋さんへ。


200種類のおろし金の中から、
ジンジャーエールつかうジンジャーシロップ用の
生姜を下ろすためのおろし金を吟味!


新城劇場の麗花さんも実演!

結局、下ろし界のベンツ、に決定しました。


最後に飯田さんと!


料理人を幸せにしたい。
いい料理道具を手に持ったときの、
その「ひと手間」が、たくさんの人を笑顔にする。
そんな飯田屋さんのミッションを感じた。

暮らすこと。
食べること。
生きること。

「働くこと」も大切だけど、
暮らすこと、食べること、生きること。

そういう根源的な問いにも、
自分なりの「生きる」を探し、実践していきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:30Comments(0)

2017年12月22日

もし、このプロジェクトが「アートプロジェクト」だとしたら

昨日は、
武蔵新城で川崎市とコラボした
ブックフェアのミーティング。

「多様性」「つながる」「メッセージ」をテーマに、
「次世代に残したい本」の展示を行い、
ガラスにはキットパスで絵を描く。

オープン時間の相談で、
展示のお客は誰か?
という話になった。

そうそう。
それそれ、めちゃ大事。
「お客はだれか?」っていう問い。

今回の企画のポイントは、
単なる図書館や書店の「おススメ本」を並べる絵本展示でななくて、
「次世代に届けたい本を1冊選ぶとすればなんですか?」
という問いを投げかけていること。
その「問い」部分が大切なのだなと、あらためて。

あと、自分自身で一番ビックリしたのは、
「僕はさ、アーティストだからさ」って照れることなく、
普通に話し始めていたこと。
ああ、おれ、アーティストなんだって(笑)

落選しちゃったけど、
ポーランドのアーティストインレジデンスに
応募するときに、「現代美術家」風にプロフィールを
書いてみたのだけど、

まきどき村とかツルハシブックスとか、
やっぱアートかもしれないって。

そこで思い出したのは、
2015年10月の北澤潤さんとの出会い。
http://hero.niiblo.jp/e473298.html
(「当たり前を揺るがすこと」2015.10.3)

デザインの役割は、課題を解決すること
アートの役割は、問いを投げかけること

ああ、それなら僕もアーティストだ。
と思って、「現代美術家」の名刺をつくった。

この道20年。
1999年4月に「まきどき村」を始めてから
僕は現代アートをつくっていたことになる。

まきどき村は、
僕の中の問題意識が結晶した畑アート。

「豊かさとは何か?」
という大学1年生以来の問いに
みんなで畑をやるというアウトプットを出した「作品」だ。
問いが詰まっている。

さて、武蔵新城ではどんな場、作品を
つくっていくのか?
っていう自分たち自身への問い。

そんな問いを持ちながら、毎朝の電車読書。


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

まだまだ序盤なのだけど、
「なぜ、ストーリーか」っていうのが熱かったので、
こちらにメモする。

~~~以下本文より一部引用メモ(省略・改変あり)

ある登山隊がピレネー山脈で雪崩に遭遇し、
隊員は一時的に意識を失い、意識が戻った時には
背負っていた基本的な装備を失っていました。

ポケットの中にもほとんど何もないどころか、
コンパスも失っていました。
もう生きて帰れない、どうやって山を下るんだ、と絶望します。

そんなとき、ある隊員のポケットから1枚の地図が出てきました。
これを見ているうちにどんどん元気が湧いてきて、

尾根がこうなっているなら、このあたりにいて、
太陽の位置からこう行けば下山できるのではないか、
と地図の上に道をつけていきました。

つまりストーリーを組み立て、
それを共有したわけです。

登山隊は、地図の上につけた道筋を信じて、
奇跡的に下山に成功しました。

この話にはオチがあります。

救助隊を組織した人々は
登山隊と連絡も取れず生還は絶望的だと思っていました。

そこに登山隊が生きて帰ってきたのです。
びっくりして尋ねました。
「あの状況で、いったいどうやって戻ってこられたのですか?」

リーダーは一枚の地図を取り出して答えました。
「この地図のおかげで助かりました。」

救助隊は笑って言いました。
「こんなときによくそんな冗談を言う余裕がありますね。
これはアルプスの地図じゃないですか・・・」

驚いた登山隊のリーダーが自分たちが道筋を
つけた地図を改めてよく見ると、
それは実はピレネーではなくアルプスの地図だったというのです。

~~~ここまでメモ

この衝撃のエピソードから
楠木さんは次のように言います。

▽▽▽ここから本文より引用

これがこの話の一番重要なポイントで、
ストーリーとしての競争戦略の一つの本質を
物語っているのではないかと私は思います。

つまり、戦略ストーリーというのは
きわめて主体的な意志を問うものだということです。

言い換えれば、戦略ストーリーは、
前提条件を正確に入力すれば、
自動的に正解が出てくるというような
環境決定的なものではないということです。

(中略)

未来はしょせん不確実だけれども、
われわれはこの道筋で進んでいこうという明確な意志、
これが戦略ストーリーです。ストーリーを語るということは、
「こうしよう」という意志の表明にほかなりません。
「こうなるだろう」という将来予測ではないのです。

意志表明としてのストーリーが組織の人々に共有されている
ということは、戦略の実行にとって、決定的に重要な意味を持っています。
なぜならば、ビジネスは総力戦だからです。

自分が確かにストーリーの登場人物の一人で
あることがわかれば、その気になります。
こうしてビジネスは総力戦になるのです。

△△△ここまで本文より引用

ストーリーとは「意志の表明」である。
いやあ、そうですよね。
感覚的にはその通りだなあと。

そして、そのストーリーを共有するから
チームメンバーのモチベーションが上がり、
プロジェクトやビジネスが前に進むのだろうなと思った。

昨日のミーティングで言えば、
まるラジの朗読やキットパスでの絵を描くこと
をひとつのストーリー
(昨日は、4月のリニューアルオープン後に
定期的に同様のことを開催する、など)

に作り上げていくことで、
みんなが前に進んでいくのだろうと思った。

もし、このプロジェクトがアートプロジェクトだとしたら
僕たちが来場者や関係者に
投げかける「問い」とはいったいなんだろうか?

そんな問いが生まれた
ミーティングでした。

ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:05Comments(0)日記

2017年12月20日

人とストーリーと経営とアート

つくばプレイスラボにお邪魔したら鍋を
ごちそうになっちゃいました。
熊本の素晴らしい米焼酎も。





鍋はフードコーディネーターの
さおりさんが作ってくれるめちゃ美味い
鳥団子→豚肉→ネギ
という3回変わる鍋でした。感動。

締めはなんと。
スペシャルゲストの珠理ちゃんが
もってきてくれた「BAKE」のチーズタルト。
そして、
もとカフェ経営の堀下さんの淹れるコーヒー。

至福すぎるひとときでした。
ホント、ありがとうございました。

でもって、
今更ながら読み始めたのがこの本。


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

前から読みたかったのだけど、
ようやく手に入りました。

まだ冒頭なのですが、
一部抜粋して。

~~~ここから抜粋

要するに、無意味と嘘の間に位置するのが論理なのです。
経営や戦略を相手にしている以上、法則成立は不可能です。
しかし、それでも論理はある、「論理化」は可能だという主張です。

戦略はサイエンスというよりもアートに近い。
優れた経営者は「アーティスト」です。
その会社のその事業の文脈に埋め込まれた
特殊解として戦略を構想します。
それが優れた戦略であるほど、
文脈にどっぷりと埋め込まれています。

サイエンスの本質が「人によらない」ことにあるとすれば、
戦略はサイエンスよりもアートに近い。

戦略は因果論理のシンセンス(綜合)であり、
それは「特定の文脈に埋め込まれた特殊解」
という本質を持っています。

優れた戦略立案の「普遍の法則」があるえないのは、
戦略がどこまでいっても特定の文脈に依存したシンセンスだからです。

~~~ここまで抜粋

昨日の堀下さんの顔が浮かんだ。
そして、あの場を構成したみんなの顔も浮かんだ。
たまたま、居合わせた「お客さん」として居た2人の顔も。

「コワーキング・スペース」
ってそういうことなのか、って。

あの日、居合わせた偶然から
出てくるアイデアや発想。
それをつなげるストーリー。
「場」とはなんだろうっていう問い。

ストーリー(論理)をつくるチカラ。
これが戦略にとって大切なんだなと。

まずは、ひとりひとりのWHYを掘っていくこと。
場の持つチカラを活かすこと。

まだまだもやもやしているけど、
心地よいもやもやです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)

2017年12月19日

テクノロジーを巴投げする(笑)

木更津高校バスケ部の同級生の潤くんとごはん。
いや、いい時間だった。

ソフトウェアの会社を経営しながら、
小中学生向けのプログラミング教室を
開いているのだという。
小学生向けのプログラミング教室、僕も通いたい。

~~~以下、メモより。

パソコンは道具だ。
プログラミングは、
パソコンを「道具」としてどう使うか?
という可能性をみせてくれる。

そこで、問うのだ。
あなたは、パソコンという道具を使って
何をしたいの?と。

IT(情報技術)もAI(人工知能)も
道具に過ぎない。

AIに仕事を奪われる。
あるいは、AIが人間行動を管理するようになる。
実はそういう議論というか結果が大切じゃないんだと。

30年前にパソコンが登場したのと同じ、
「インフラ」であるだけだ。

パソコンは
コミュニケーションインフラとして機能した。

ツイッターはなぜ流行ったのか?

140文字という「制限」をした

フェイスブックは何をしたのか?

個人を「特定」した。

つまり、ツイッターもフェイスブックも、
パソコンやインターネットという無限のインフラを、
テクノロジーの機能を、「限定」したんだ。

その「限定」によって、
人と人が「つながれる」ことを生み出した。

なるほど。
そういうことか。

だから、プログラミングは鉛筆削りのナイフ
のようなものだと。
道具に過ぎないんだと。

使うその人が何をしたいか?
お客に何を届けるか?
その問いが大切なんだ。

~~~ここまでメモより

最後に駅に向かいながら、話していたのは、
同じアウトプットを出さなければいけない仕事
=コンビニの店員とか、タクシードライバーとか
はもちろんAIに取って代わられるだろう。
って話。

それって、
チェーン店で本部一括仕入れの本屋の店員もそうだなと。
それってアマゾンのほうが100倍いいなと。

「AIに仕事を奪われる」
とか無駄に恐れていないで、

AIとは何か?
テクノロジーとは何か?
を問いかけることが大切なんだなと。

ということで、
昨日に引き続き、
向かう電車の中で読んでいた本より。


「結論は出さなくていい」(丸山俊一 光文社新書)

~~~以下本文より引用

右も左も、政治も文学も、いつの間にか軽々と越えていく妙が、
じつに楽しいのだ。辛気臭くも、高尚でもない。
人間が生きている。思考している。精神が運動している。

そして何より素晴らしいのは、柔道の巴投げよろしく、
お二人とも挑みかかっては投げ飛ばされることを
楽しんでいるように見えることだ。
対話に奥行きがあり、柔らかさがある。

「分かる」の語源は「分ける」で、つまり分類することで整理され、
「わかった」につながるということ。
その分類の基準は人それぞれ。
それぞれ勝手に「分けている」可能性もあるわけだ。

裏を返せば、「わかりやすく」と人に求めることは、
自分の分類の基準に入るようにしてくれ、という意味になりかねない。
それは、可能性の半分を失う行為でもある。
他者の発想の基準を発見し、学ぶ機会を失いかねないことでもあるのだから。

「わからない」状況は、もっと楽しまれてもよい。
昨日まで自分を支えていた「わかり方」が壊され、
少しずつ再構築されていく感覚は、快感でもあると思う。

このゆらゆらこそが、その気になれば常にいつも、
ありえたかもしれない世界の可能性への想像力を担保してくれているのだから。
ゆらゆらしていてもいい。言葉にならなくてもいい。

~~~ここまで本文より引用

いいっすね。
なんか。
「分からない」まま、受け入れるっていうこと。

他者も、テクノロジーも、
「わからない」状況を、もっと楽しめたらいい。

テクノロジーに対峙するのでも
単に利用するのでもなくて、
「巴投げ」よろしく、一緒に時代という大空に
投げ飛ばしてしまいたいと。

そういう意味では、
潤のやっているプログラミング教室と「本屋」は、

「問い」やミッションが近いかもしれないなと思った。

世界の広さと、可能性を見せる。

ありかもしれないですね。
次は昼間に会いましょう。
いい時間をありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記

2017年12月18日

海図は必要だが、航路を決めすぎてはならない


「結論は出さなくていい」(丸山俊一 光文社新書)

「ニッポンのジレンマ」をはじめ、
問いを放つ番組をつくるNHKプロデューサー
丸山俊一さんの最新刊を読み始めました。

実は、前著の「すべての仕事は肯定から始まる」(大和書房)
に感激して、去年の2月頃、時間を作ってもらい、
お話をさせてもらったことがある。

僕はこの本の中で、本屋である意味を確認させてもらった。
http://hero.niiblo.jp/e475347.html
(素直で謙虚でありながら権威を疑うこと 2015.12.16)

「僕たちは、ある時代ある場所に選択を許されることなく、生まれ落ちます。
そこには過去の歴史があり、その場所の制約の中での位置づけがあり、
ひとつの座標軸の中に立つわけです。
そうしたとき、時間の流れを把握し、空間の広がりを意識した上で、
その座標軸の中でものごとを捉え、考えなければならない。

つまり、そのとき大事なのは、どんな状況に置かれても、
自分の立っている場所を相対化して考えることができるような視野の広さと、バランス感覚、
何よりもそうした思考法、センスを身につけることこそが最大の武器になるのだと思います。」

そうそう。
それが本屋の使命のひとつですよね、と。

さて、今回のこの本。
冒頭から、シンプルに時代を表していて、
とってもドキドキさせられます。

~~~以下、まえがきより引用

「正解のない時代」と言われて久しい。
幸せの形を人々が共有することが難しくなったかに見える時代。

多様性が叫ばれ、叫ばれれば叫ばれるほどに、
現実にはそれが実現していないことを証明しているかに思える時代。
ひとつのレールから降りることがプレッシャーとなり、
多くの人々を縛っているかのごとく感じられる時代。

そんな時代に生きるからこそ、自らの心、意識、
そして無意識のあり方までを丁寧に見つめ、
自分自身と対話することが重要になる。

~~~以上、まえがきより引用

そうそう。
そうだわ。

「多様性」が叫ばれれば叫ばれるほどに
現実にはそれが実現していない。

無言のムラ社会的な同調圧力が
呪いのように多くの人を覆っているように見える。

丸山さんがつくってきた番組の多くが
「教養」と「笑い」の掛け算
なのだという。

そこには決まった結論は存在しない。
出演者の人たちが展開する話を、
見守っていくことだ。

「あるひとつの枠組みの中で自足してしまったり、
自分というものを固定化させてしまうことなく、
他者の声に耳を傾け、変化を楽しみ続ける、柔らかな思考だ」

「結論を出すという不自由さが逃れた時、
人は自由になれるのだ。
思考の運動に身を委ねていけるのだ。
生きていくということは、そうした発見の連続ではなかったか?」

「企画段階の文章は、徐々に書き換えられ、
台本は「捨てるべきハシゴ」となってしまう。」

なるほど。
そして言う。

企画の哲学からブレず、同時に、
多くの人々が関わって転がしていくうちに
成長していく番組の生命力を維持していくためには、
海図は必要だが、航路を決めすぎてはならない。

そうね。
これだね。
ホント、これ。

海図は必要だが、航路を決めすぎてはならない。

いまの世の中は、
高校3年生や大学3年生に
「航路を決めろ」と迫っているのではないか。

また、丸山さんは、この本のなかで、
大学生の安易な「インターンシップ」志向について
警鐘を鳴らす。

▽▽▽以下本文より引用

なんでも体験して、幅を広げて・・・とは、
耳ざわりはよいけれど、さしたる考えもないうちに、
あるひとつの特定の企業の風土、
仕事の流儀、さらには市場の論理に
どっぷりとつかってしまうことが、
むしろ視野狭窄を生んでしまう可能性もある。

「積極的」「体験主義」のプラスとマイナスは、
よく見極めたほうがいい。
インターンシップの間は、当然ながら、
大学生活はかなりの制約を受ける。

講義や、友だちとの交友、キャンパス内で
過ごして学問の基礎や原理を学び、
考える時間はかなり削られることになるだろう。

もちろん、夏休みなどを利用して短期で
さまざまな世界、ビジネスの現場などを垣間見ることには、
メリットもある。

しかし、それは自らの資質や、価値観を
見つけ出すためのものだ。
さまざまな企業の価値観を比較することが
できるような幅のある体験であってほしいし、
そのためにはキャンパスという
空間での思考の軸も失わないように注意したほうがいい。

(中略)

時代の激変期だからこそと焦る気持ちはよく分かるが、
やはり学生時代にこそ、自らの頭で考え、
自らの心と対話するゆとりを持ち続けたいものだ。

学問というものに耽溺すると、
「問い」続ける力が要請される。
原初的な「問い」を考え続ける力でもある。

△△△以上本文より引用

そうそう。
「インターンシップ」だけでなく、
「問い続ける力」をつけること。
これが大切なんだよね。

進路の検討・進路の選択とは、
単に乗る船を決めることではなく、

目的地や方向性を決め、
方角を指し示すコンパスを手に入れ。
そのための地図を描くことなのだろう。

目的地や方向性が決まっていれば、
航路や乗る船はいつでも変更できる。

2年前のブログと同じ結論になってしまうけど、

志向し続けること。
思考し続けること。
試行し続けること。

そうやって、自分の海図を手に入れること。

そのための「本屋じゃない、何か」になりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2017年12月13日

facebookの告知が「顧客」に届かない理由

昨年11月のツルハシブックス閉店から
学んだことはたくさんあるけども、

いまだに越えられないのが、
「居場所のジレンマ」だ。

http://hero.niiblo.jp/e482717.html
(2016.11.7 居場所のジレンマ)

この1年のあいだにも、
たくさんの「場」を運営している人たちに
話を聞いたけど、
共通する課題を持っているように思う。

それは、
居心地のよい「場」をつくり、継続して運営していくと、
そこを「居場所」として利用する人が増えてしまう。

「居場所」は内向きのエネルギーを持ち、
初めての参加者が入りにくい雰囲気を持ってしまう。

つまり、その「場」
初めての人にとっては居心地の悪い「場」になる。

そういう意味では、
「本」というのは、「諸刃の剣」であるのかもしれない。

「本」を通じて、人と人がつながるツールにもなるのだが、
一方で、そもそも「本」というのは内向きのツールであるから、
そういうキーワードで人を集めようとすると、
内向きの人が集まってしまうかもしれない。

「facebookを見てるのは、暇なおじさんだけだよ。」
って誰かが言っていた。

実際東京の本のイベントに来ている20代に
話を聞いてみると、友人経由ではない場合、
peatixの告知でっていう人が何人かいた。

一方で、
ツルハシブックスでも陥っていたのだけど、
facebookで公開イベントを告知すると、
若者向けのイベントなのだけど、
「暇なおじさん」が集まってしまう、
という現象が起こっていた。
いや、それが「面白いおじさん」であればいいのだけど。

イベントが「顧客」に届いていない。

それは、もしかしたら、
facebookという広報ツールがいけないのかもしれないなと思った。

https://hachi-style.com/take-a-chance/
チャンスを掴むのはチャンスを掴む準備をした人だけ
(8STYLEより)



イノベーター理論で行くと、
すでにfacebookというメディアのユーザーが
アーリーマジョリティ領域を超え、
レイトマジョリティ領域まで進んで行ってしまったのではないか、
ということが言えるかもしれない。

アクティブユーザー数が2800万人ということは、
ネット人口1億人のうちの30%に満たないのだけど、
(ネット人口にはメール送受信のみという人を含む)
そんな感じする。

そもそも「マジョリティ」とは、
「みんながやっているからやる」というメンタリティを
持っているからこそ「マジョリティ」なのである。
(これは別にいい悪いではない)
必然的にそのエネルギーは内に向かう。

マジョリティであることが心地よいのだ。

ところが、
アーリーアダプターは違う。少数であることを苦にせず、
新しいもの、外にあるものを積極的に取り入れようとする。

僕の中で日本最高のアーリーアダプターは、
長野・上田の柚木真くんなのだけど、
彼の活動は見ているだけで、
僕にとってはエンターテイメントで、うらやましくなる。

柚木くんの脳みそに、
僕のカラダというか、時間を含めて、
委ねてみたくなって、
「ゆのたく」という活動を開始してみようと思う。
(ゆのきのアタマとタクジのカラダ)

さて、
タイトルの課題について戻ると、

facebookでの告知をがんばればがんばるほど、
それは、レイトマジョリティを拾ってしまうのではないか。

そして、SNS上のレイトマジョリティには、
「暇なおじさん」「ちょっと面倒なおじさん」
が割合的に多いのかもしれない。

なぜなら、
「面白いおじさん」は、アンテナが高いので、
いろんなネットワークがあって、
他のイベントに出ているから。
(そのおじさんはそもそもアーリーアダプターである)

そして、その人たちは、
そのイベントそのものや、
あるいはその「場」に対して、
「居場所」感を抱いてしまう。

人間はおそらく本能的に、
「居場所」を欲しているから、
そこに行かないといけないようになる。

こうして「場」が「居場所」感に
支配されることで、「場」の力は急速にダウンしていくし、
初参加の人にとっての魅力を失っていく。

さて。
この仮説が合っているとすれば、

facebookでの公開イベントを打つことは
諸刃の剣であると言えるだろう。

「より多くの人を集めたい」というのと
「レイトマジョリティなおじさんが来てしまう。」
というのがセットになってしまうからだ。

しかし、この仮説には、地域によって違いがある。

茨城の水戸や日立、このあいだお邪魔した岐阜なんかでは、
まだ、facebookコミュニティの中のアーリーアダプターの割合が高いので
公開イベントを打つことが楽しい空間をつくることになる。
(ちなみにこれは、クラウドファンディングの地元支援率とも連動している気がする)

新潟でも、ツルハシブックスが始まった当初はまだ
mixiからfacebookへの移行期だったので、
そこに集まってきた人は面白い人が多かった。

しかし、4年目、5年目になると、
「居場所」問題が顕在化した。

つまり、facebookの普及率というか、浸透率というか、
あるいはそのコミュニティの拡大率というか、
そういうものによるのかもしれない。

東京などは母数が多いこともあって、
そういうことが起こりやすくなってしまうかも。

じゃあ、これからどうすればいいのか。

これが課題だ。

考えるべきことは2つだ。
1 「顧客」に届ける告知ツールを考える。
2 「場」を「居場所」化しないデザインを考える。

まず1は、
facebookという告知ツールを使わないというか、
たぶん「公開イベント」という形をとることは、
リスクが伴うので、ほかの告知ツールを選ぶか、
直接メールするとか、チラシにふたたび戻るとか。

あるいは、「場」そのものを固定せずに、
流動的なものにするか、
(塩尻の山田くんがやってるみたいな
何月何日汐留、みたいなイベントをやるとか)

または、そういう「レイトマジョリティ」なおじさんも
受け入れることができるデザイン
(たとえば、畑に隣接するとかで作業場をつくる)

「畑のある本屋」
っていうのは、そのひとつのソリューションなのかもしれない。

僕としては、どうせやるなら、
化学反応やイノベーションの起こる場にしたいと思っているので、

そのためには、
・多様性の許容(それは違和感の許容でもある)
・フラットな関係性
・掛け算の発想

それができるような「場」とは、なんだろうか。
そんな問いを考え続けていきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)日記

2017年12月12日

目標の先にあるもの

1964年東京オリンピック。
1970年大阪万博。

そして

2020年東京オリンピック・パラリンピック
2025年大阪万博

また、やってくる。
はたして、オリンピックや万博が
夢を与えてくれるのだろうか。

いや、そもそも、
夢は与えてもらうもんだろうか?
元気や勇気は人からもらうものだろうか?

そういう僕自身も
1985年のつくば科学万博に行ったことで、
白衣来て仕事する、みたいな
理系のカッコよさ的なものに目覚めた気がする。
(いまは人と人の化学反応を作るのが楽しくなっている)

オリンピックや万博そのものが
夢や希望を与えてくれたわけではないだろうと思う。

昨日、人生初・東京タワー。







1958年竣工。
映画「三丁目の夕日」には、
だんだんとタワーが完成していく様子が描かれている。

あのときは、
みんなが、「その先」を見ていた。
東京タワーがゴールではなかった。

そんな熱がまだ感じられる鉄骨だった。
シンプルな「機能美」があった。

いま、
オリンピックや万博の「その先」を
見せられるのだろうか。

いや、
おそらくは見せられるのだろう。

「その先」に共感できるかどうか別にして。

価値観は多様化した、というより
そもそも価値観は多様である。

戦後復興。
追いつけ、追い越せ。
今よりももっと豊かに。

そんなフレーズにみんなが乗れた時代は
幸せな時代だ。

いまは、もう一度ローカルはローカルで、
自らの「その先」を考えなければならない時代。

目標の「その先」を
語り合い、描いていけるような、
そんな場をつくりたいかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)日記

2017年12月11日

瓶の中に紙切れを入れ、封をして海に流すことだけ

「暗やみ本屋ハックツ」の
2017年度振り返り+忘年会でした。

サンクチュアリ出版副社長の金子さんと
ブックスタマの社長の加藤さんと
トーハンの水井さんと僕の
おじさん4人ではじまったプロジェクト。

上石神井の本屋「ブックスタマ」(現在は閉店)
の会議室を拠点に、2015年3月に活動を開始。

4月にクラウドファンディング。
6月から工事を行い、9月にオープンした。



代表は宮本明里さん。
新潟・ツルハシブックスの地下にあった
「地下古本コーナーHAKKUTSU」の東京版。

プロジェクト名(店名)を
「暗やみ本屋ハックツ」とした。
月に1度だけオープンする古本屋さん。

いちばん議論したのは、
20代までにするか、思い切って10代限定にするか。

もともと、
ハックツには、
「10代(特に中高生)に本を読んでほしい」という思いが詰まっていた。

だから、
価格設定は20代300円、10代200円、中高生は100円だった
(つまり、小学生は200円)

思い切って10代に絞った。
コンセプトは、「10代に本を通じて、手紙を届ける」

手紙とは、手書きのメッセージと本そのもの。
10代に読んでほしい本をメッセージと共に、
暗やみ本屋に託す。

10代がやってきて、
懐中電灯を頼りに、1冊の本を探す。
目の前に飛び込んでくる手書きのメッセージ。

ピンと来た本を買う。
そういう仕組みだ。

そして、もうひとつ、
本の集め方。

通称「10代に贈りたい本」寄贈本読書会
っていうのを毎回営業後の空間で行い、
商店街で買い出ししてきたごはんをみんなで食べた。


この「10代に向けて」っていうのが、
普通の読書会(あまり出たことないけど)

オープンマインドを作るために
有効なツールであることを知った。

僕は、知らない本を説明されても、
あまり心が動かないのだけど
(特にファンタジーやSFはイメージが湧かない)

なぜ10代に贈りたいのか?

っていうテーマだと、
その人自身のストーリーが語られるので、
聞いていて面白いのだ。

そして昨日、
2017年のふりかえりと今後の展望ミーティング


2017年は「暗やみ本屋ハックツ」にとっては
大きな動きの年となった。

ブックスタマ上石神井店の閉店に伴い、
場所そのものが使えなくなったのだ。

移転先を探していた時に、
ハックツのチラシを置かせてもらっていた
cafe30の店主さんが、
「月に1度、使っていいですよ。」と言ってくれ、
春からそちらを会場に開催していた。

そして、代表の宮本さんが転勤となり、
2015年当初は大学生だった原さんにバトンタッチ。

そして、この秋、
cafe30がビルの建て替えのため、
使えなくなり。

先月は雑司ヶ谷イベントに出店、
来年3月には、関町図書館とコラボイベントをすることになっている。

そこで、
特に練馬区近郊に地縁のある方に、おたずねします。

・月に1度、「暗やみ本屋ハックツ」を開催させてくれる場所
(1回限りの開催でもありがたいです)
・ハックツ用の本やノボリなどを保管させてくれる場所

を探しています。

現在、中学生高校生スタッフが活躍しているので、
上石神井近辺より自転車でいける場所を探しています。

もし、心当たりのある方は、西田までご一報ください。

2017年度振り返りでは、

「固定の活動する場所がほしい」

っていう声が出た。
たしかにそうだ。

そこに行けば、という場所があることは、
活動にとってとても大切だ。

一方で、場所がないことで、
いろんな場に出ていくことができる。

スタッフにとっては、
ミーティングなどをしたりする場所が
心のよりどころになったりする。

また、寄贈本を集める時も、
その場所で読書会を開催できれば
その場所に置いておけるが、違う場所であれば
保管場所まで運ばなければならない。

一方お客である10代にとってはどうだろうか。

固定の場所に集まってくる中高生がいる。

同じ場所で開催することで
徐々に心を開き、中高生がスタッフと談笑する姿を
何度も見てきた。

しかし、本質的には、
「暗やみ本屋ハックツ」の活動は、
「機会提供」である。

その日、偶然にも、
暗やみで、本を見つけ、購入して、読んでみた。

その日、偶然にも、
店番をしていたスタッフのお兄さんと話をしてみた。

そんな機会の提供であり、
その結果、10代がどうなるか?は
第一義ではない。

「機会提供」そのものに価値があると僕は思っている。

だからいつも、取材のときは困った。
「ハックツした若者にどうなって欲しいですか?」

別にどうなってもほしくない。

ただ、本との出会い、人との出会いを提供したい。
それがすべてだ。
そんなことをミーティングで確認した。

話はその8時間前にさかのぼる。



僕はハックツの荷物の運び出し向かっている電車の中で、
1冊の本を読み終えようとしていた。


「断片的なものの社会学」(岸政彦 朝日出版社)

この一節がとっても素晴らしくタイムリーだったので、
少し引用したい。

~~~ここから引用

何も特別な価値のない自分というものと、
ずっと付き合って生きていかなければならないのである。

かけがえのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、
くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、
それが人生だよ、という歌がもしあれば、ぜひ聞いてみたい。

ただ、私たちの人生がくだらないからこそ、できることがある

賭けに勝ったとき手に入れるのは、「何ものかになれた人生」である。
そして負けたときに差し出すのは、「何ものにもなれなかった人生」そのものである。

もしこのとき、人生そのものが、とてつもなく素晴らしい、
このうえなく価値のある、ほんとうにかけがえのないものだったら、どうなるだろう。
誰もそれを、自ら捨てようとはしないだろう。

さて、「天才」がたくさん生まれる社会とは、どのような社会だろうか。
それは、自らの人生を差し出すものがとてつもなく多い社会である。

神ではない私たちは、それぞれ、
狭く不完全な自分という檻に閉じ込められた
断片的な存在でしかない。

そして、私たちは小さな断片だからこそ、
自分が思う正しさを述べる「権利」がある。
それはどこか「祈り」にも似ている。

その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。

私たちにできることは、
瓶の中に紙切れをいれ、
封をして海に流すことだけだ。

それがどこの誰に届くか、
そもそも誰にも届かないのかを
自分ではどうすることもできない。

~~~ここまで引用

いいな、この本。

ハックツの活動に無理無理キレイにつなげようと
するならば、

「10代の誰かのために」
差し出された1冊の本は、

その人の人生の一端であり、
その人の祈りであり、「正しさ」でもある。
(僕は「正しさ」よりは「美しさ」っていう言葉を使いたいけど)

私たちにできることは、
瓶の中に紙切れをいれ、
封をして海に流すことだけだ。

そうそう。
ハックツっていうのは、そういう活動だし、
そこに共感した人たちが集まってきている。

実は、世の中という大海原には、
たくさんの紙切れの入った瓶が漂っている。

それにどう気づくか、
それをどのように拾うか。
どうやって開けるのか。

そんなことをデザインしていくこと。
ハックツに課せられた問いは、きっと、そういうことなのだろう。

暗やみ本屋ハックツのみなさん、
1年間、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:33Comments(0)思い

2017年12月09日

正しいことをしたければ、偉くなれ。


「青島よ。正しいことをしたければ、偉くなれ」(「踊る大捜査線」より)


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)
いよいよ最終章「どう美意識を鍛えるか?」

最後まで熱かったっす。

「なぜ、本屋なのか?」
ってよく聞かれるのだけど、
それに対してのひとつの仮説が書かれてるし、
そこには非常に大きな共感があった。

ひとつは、「哲学」についての話。

~~~ここから一部引用

海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、
その上で功利的なテクニックを身につけさせるという
側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の
「哲学教育」がすっぽりと抜け落ちていて、
ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせている。

哲学からの得られる学びには大きく3種類ある。

1 コンテンツからの学び
2 プロセスからの学び
3 モードからの学び

コンテンツとは、その哲学者が主張した内容そのもの、
プロセスとはそのコンテンツを生み出すに至った気づきと思考の過程、
モードとは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢

現代社会を生きるエリートが、
哲学を学ぶことの意味合いのほとんどが、
実は過去の哲学者たちの「1.コンテンツ」ではなく、
むしろ「2.プロセス」や「3.モード」にあるということです。

「真に重要なのは、その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、
その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考えたかというプロセスや態度だからです。」

その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、
批判的に疑いの目を差し向ける。
誤解を恐れずに言えば、これはつまりロックンロールだということです。

「哲学」と「ロック」というと、何か真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、
「知的反逆」という点において、両者は地下で同じマグマを共有している。

哲学を学ぶことで、「無批判にシステムを受け入れる」という「悪」に、
人生を絡めとられることを防げるということです。

エリートというのは、自分が所属しているシステムに最適化することで
多くの便益を受け取っているわけですから、
システムを改変することのインセンティブがないわけです。

システムに最適化すること自体は、批判されるべきことではありません。
かつての歴史においても、現代においても、
システムに最適化すること自体を否定し、いわばシステムの外側から
遠吠えのようにシステム批判を繰り返している人はたくさんいます。

しかし、ではそういう人たちが、
実際にシステムを改変できるだけの権力や影響力を持てたかというと、
残念ながらそういうことはほとんどありません。

システムの内部にいて、これに最適化しながらも、
システムそのものへの懐疑は失わない。
そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を
発揮できるだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、
理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる。
これが現在のエリートに求められる戦略であり、
この戦略を実行するためには、「システムを懐疑的に批判するスキル」としての
哲学が欠かせない、ということです。

おれたちはみんなどぶの中を這っている。
しかし、そこから星を見上げている奴だっているんだ。(オスカー・ワイルド)

~~~ここまで引用

なんか、そうだなあって。

踊る大捜査線の名ゼリフ
「正しいことしたければ偉くなれ」
を思い出した。

そうなんだよ。
社会を変えるには、システムの内側にいて、
そのシステムを修正していける人が必要なんだ。

僕はそのプレイヤーにはなれないけど、
そういう人たちに、本という機会を提供することはできる。

エリートたちに、問いを生んでもらう本屋。
エリートの卵である大学生に、問いを育む本屋。

社会システムに対するロックンロールを
奏で、歌えるようなエリートを生んでいきたい。

僕の社会へのアプローチは、
今のところ、そういう感じです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)

2017年12月08日

美意識とクリティカル・シンキング


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)

いやあ、ホント、いい本。
僕にとってめちゃめちゃ刺さる。
グサグサくる。
ドキドキするわ、ほんとに。

昨年の「コミュニティ難民のススメ」以来の衝撃。
タイムリーな本をありがとうスタンダードブックストア。

~~~今日のメモ

「イノベーションが競争の鍵だ」ということを誰もが言うようになったということは、
つまりすでにイノベーションは競争の鍵ではない、ということでもあります。

競争戦略というのは差別化を追求するわけですから、
皆が同じ目標を掲げて走っているという現在の状況の先に、
大きな見返りがあるとは考えられない。

問題になるのは「イノベーションのその先」に何を追求するか、ということです。
このパースペクティブを持たないままに、
「イノベーションの実現」だけをゴールに走るのは非常に危険だと思います

世界観とストーリーは決してコピーすることができない。

デザインとテクノロジーはコピーできるが、ストーリー性だけは、
コピーされてもオリジナル価値が揺るがない最後の価値である

アカウンタビリティとは要するに「言語化できる」ということであり、
言語化できることは全てコピーできるということです。

ノート型パソコンというイノベーションを生み出したのは東芝でした。
優れたイノベーションは、それが優れていればいるほど、即座にコピーされることになります。
デザインとテクノロジーはサイエンスの力によって容易、かつ徹底的にコピーすることが可能だからです。

人生を評価する自分なりのモノサシを持ちなさい

これからのビジネスリーダーの素養として、最も重要な要素は何か
それはセルフアウェアネス=自己認識である。
つまり、自分の状況認識、自分の強みや弱み、
自分の価値観や志向性など、自分の内側にあるものに気づく力のことです。

「システムに良く適応する」ということと、「より良い生を営む」というのは、全く違うことだからです。

「誠実性」というコンピテンシーを高い水準で発揮している人は、
外部から与えられたルールや規則ではなく、
自分の中にある基準に照らして、難しい判断をしています。

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである。」ハンナ・アーレント

「悪」というものが、システムを受け入れ、それに実直に従おうとする「誠実さ」によって、
引き起こされるものだとすれば、私たちは、「悪」に手を染めないために、どうすればいいのか?

「システムを相対化すること」しかありません。

自分なりの「美意識」を持ち、その美意識に照らしてシステムを批判的に見ることでしか、
私たちは「悪」から遠ざかるすべはないのです。

一方でシステムから排除されてしまえば、社会的な成功を収めることは難しい。
ここに私たちが向き合っている大変難しい問題があります。

「システムを批判的に対象化する」ということは、
そのまま「システムを全否定する」ことを意味するわけではありません。

システムを修正できるのは、システムに適応している人だけです。
つまりエリートの役割なのです。

~~~ここまで今日のメモ

やっとタイトルの意味が分かった。
エリートこそがシステムを修正できる。
そしてそれに気づくのは美意識の力だ。

オウム真理教事件が引き起こされたのは、
システムへの過度の適応と美意識の欠如だった。

美しさを鍛えながら、
クリティカル・シンキングというか、
相対的にシステムを見ることが必要だ。

本を読み、美意識を磨き、
目の前のことをどう感じるのか、
表現していくこと。

それは本当ですか?
と問いかけること。

たとえば、
「自分に自信がない」っていうのは
ダメなことだと思えるけど、
それは本当にダメなことなのか?

ひとりでは何もできない。ということは、
言い方を変えれば、
必ず誰かと一緒にやるということ。

それっていま、むしろ求められてるんじゃないの?
そういう発想。
フラットな関係性の中でプラスを掛け合わせていく。

そういう中で「美しい」に出会うこと。
「美しくない」と思うことはやめること。

その繰り返しで、
自らの「美意識」を鍛えること。
それが一番、大学時代に必要なことなんじゃないのか?

本棚で世界観を表現しあい、
ときに本を売り、ときに人と出会う場となり、
ミーティングファシリテーションを学び、
さまざまなプロジェクトを生み出し、
美しいかどうか振り返り、
その繰り返しによって、
未来が創られていくような、

そんな本屋をつくりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:38Comments(0)