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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





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2017年07月22日

本との出会いかた

1冊の本との出会いが人生を変える。
本屋には新しい人生が転がっている。

2009年。
ホスピタルクラウン1点、64冊から
スタートした僕の本屋さんのテーマ。

でも。
それって、本屋サイドからの考え方かもしれないな。

この本を待っている人に届けたい。

そのとき。

その「この本を待っている」人
は、どうやってその本に出会うのだろうか。

友達と待ち合わせをしていたルミネのブックファーストか、
それとも本はここで買うと決めているお気に入りの本屋さんで、か。

もしかしたら、普段は本屋にはいかなくて、
友達がツイッターでつぶやいたのを見て、
ほしくなるかもしれない。

まずは友達から借りるのかもしれない。
それでよかったら買ってみるのかもしれない。

そこまで想像して、
本をつくるところから始めるっていいかも。

どの店に、どんなふうに並んでいたら
手に取るだろうか。

どんな表紙、どんな背表紙で
惹かれるのだろうか。

本屋でその本を手に取ったとして、
どこから読み始めるだろうか。

まえがきからかあとがきからか。
まずはじっくりと全体をパラパラするのだろうか。

そんな本との出会いかたそのものが
価値になっていく、そんな気がする。

そのひとつが本の処方箋なんだよね、きっと。

あなたの悩みを聞いて、本を処方します。
そうやってコミュニケーションしながら、本と出会っていく。

7月29日(土)
アルプスブックキャンプ@信州木崎湖で、「本の処方箋」やります。

  

Posted by ニシダタクジ at 05:20Comments(0)

2017年07月20日

政治空間と貨幣空間のあいだ


「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 幻冬舎文庫)

前から気にはなっていたのだけど。
やっぱり面白いっす。

第2章 自分は変えられるか

これは大学生は読んどいたほうがいいかも。

引き寄せの法則の法則とか。

元祖自己啓発の
ナポレオン・ヒルの本を出した田中さんの話とか。

20世紀少年や木更津キャッツアイの背景とか。

ここで
面白いのは、
愛情空間‐友情空間(この2つを合わせた「政治空間」)‐貨幣空間

の図解。

世界は、貨幣空間に覆われているが、
ひとりひとりの人生的には
愛情空間と友情空間の割合は大きい。

そして
政治空間と貨幣空間ではルールが違う。

~~~ここから引用

政治空間の基本は、
敵を殺して権力を獲得する冷酷なパワーゲームだ。
それに対して、貨幣空間では、競争しつつも契約を尊重し、
相手を信頼するまったく別のゲームが行われている。

人間社会に異なるゲームがあるのは、富を獲得する手段に、
①相手から奪う(権力ゲーム)
②交易する(お金儲けゲーム)という二つの方法があるからだ。

政治空間の権力ゲームは複雑で、
貨幣空間のお金持ちゲームはシンプルだ。
誰だって難しいより簡単なほうがいいから、
必然的に貨幣空間が政治空間を侵食していく。

~~~ここまで引用

これらを
社会心理学者ロバート・アクセルドットの行った
「囚人のジレンマ」実験から、
「しっぺ返し戦略」が有効であることを実証した。

つまり、
まずは相手を信頼し、行動し、結果が出たら、
その後は相手の信頼度に合わせて、
自分もふるまうということである。

なるほど。

さらに社会心理学者の山岸俊男のいうように、
市場の倫理と統治の倫理の違いを語り、

それが日本社会にどのような影響を及ぼしているか、
を示している。

学校社会は統治の倫理が作用し、
しかし、グローバル化されたビジネス社会は市場の倫理で
動いている。

その狭間にいるのが僕たちである。

そっか~。

そこに生きづらさや働きづらさ、
学校や企業の息苦しさのヒントがあるような気がします。

政治空間と貨幣空間のあいだ。

それを揺れ動いているのですね、大学生は。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年07月19日

小さなゆうびんせん

小さなゆうびんせん

人はみな、ひとり乗りの小さなゆうびんせんとして、生まれてくる。
少しの手紙を携えて。

でもその手紙には、あて名が無い。
差出人の名前もこすれて消えかかっている。

学校や会社という大きな船。
たくさんの手紙を預かって、どこかに届ける。

大きな船に、小さな舟ごと、乗り込むこともできる。

そこでは、目的地に早く着くために、
船長の指示に従い、効率が求められる。

大きな船は安定していて、揺れることがあまりない。
いつのまにか、船に乗っていることも忘れてしまいそうになる。
効率を求めすぎて、目の前のことをやるのに精いっぱいになる。

その船を途中で降りることもできる。
またひとり乗りの小さな舟でこぎ出したり、
20人乗りの船に乗り換えたり、
仲間と一緒に3人乗りの船をつくってもいい。

小さい舟は不安定だ。よく揺れる。
ひとりひとりが考え、判断しなきゃいけない。

大切なのは、
このふねは、どこに向かっているのか?
誰に手紙を届けるのか?

この船旅を誰と一緒にしたいのか?
のんびり行きたいのか、はやく行きたいのか?

そんな話し合いをすることだ。

時には、港町に立ち寄り、酒を酌み交わし、
次の行先を決めるんだ。

ひとりひとりが預かっている手紙。

その手紙を待っている人がどこかにいるはずだから、
今日も、その船を漕ぎ出していこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)言葉

2017年07月14日

いつのまにか「目的」が分からなくなる


「日本の覚醒のために」(内田樹 晶文社)

模様替えしてしまった
スタンダードブックストアあべので購入
模様替え残念。
何があるかわからない感じが好きだった。

この本は、講演集なのだけど、
テーマが多岐にわたっていて、
ひとつひとつ読んでいく感じ。

読み終わった余韻で、
じわじわ来るのが、やっぱり
「目的」って忘れられやすいんだな、って。

何か「目的」があって
それを始めたはずなのに、
それをどんな「指標」で評価するか?

っていうようになってくると、
「手段」が目的化する。

あるいは、
大学のサークルとかでもあるのは、
時が経ち、代替わりをして、
最初の人がなんのために始めたのか
わからなくなったとき。

そういう点では、
この本にも書いてあるのだけど、

武道っていうのは、
創始者の像が飾ってある。

あれって、どこを目指しているか、
見失わないように。

そしてそれが「達成される」ことは決してない。
そういうのが大切なのだなあと。

そうしないと、
「目的」があって、「目標」があって、
そのための「指標」(数字)
あったはずなのに、

いつのまにか、
「指標」(数字)が目標になり、目的になっていく。
何件達成しました。

僕たちの社会はそういう危うさを
常に抱えているのだ。

だからやっぱり
PDCAだけじゃなくて、

ミッションは誰で
顧客は誰で
顧客価値は何かって
問いかけ続けなきゃいけないのだろうね。

ほかにも紹介したいところがあるのだけど、
今日はこのへんで。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2017年07月13日

盛岡の「楽園」


「書店員X」(長江貴士 中公新書ラクレ)

大ヒットした「文庫X」を
生み出したさわや書店フェザン店の
長江さんの本。

文庫Xっていうのは
「本を読むとは何か?」
っていう根源的な問いを与えてくれる1冊
だったんだな、と。

「未知のもの」
とどう出合い、どう生かすか。
そんなことが書いてある。

これ、よかったなあ。

この本のサブタイトルは
「常識」に殺されない生き方。

私たちがいかに
「先入観」を脱していくか、
が書いてある。

~~~以下メモ

共感を求めれば求めるほど、
「今の自分」を超えたものに出合う機会が狭まる、ということでもあるのだ。

すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。
そして国語教科書の詩の単元は、この権利をわたしからうばうものだった。
「わからない状態のたいせつさ」という考えは、
このころに芽ばえ、いつのまにかわたしの生涯のテーマになったように思う。

「わからない状態」で出合うからこそ、
「自分にとっての魅力」に気づくことができるのだ。
そんなふうに世の中のいろんなものと出合うことで、
僕たちは「今の自分」を超え、「先入観」を乗り越えることができる。

「未知のもの」に「わからない状態」で出合う。
情報が氾濫している世の中では
ますます難しくなってしまったこんなやり方が、
僕たちを少しずつ押し広げていくのだ。

本はそんなふうに、ネットと比べて遥かに簡単に
「未知のもの」と出合う可能性を与えてくれる存在だ。

書店の存在意義というのは、
「読者(お客さん)が本を選ぶ力を高めることにある」と思っているんです。

「未知のもの」との出合いすべてに「失敗」はない。

「未知のもの」との出合いやすさを売り場づくりのベースにしながら、
その中にどれだけ探しやすさという要素を組み込むことができるのか。
今書店に求められている発想はこういうものなのではないかと思う。

~~~ここまで引用

そうそう。
本屋の役割ってきっと、そういうことだと。

文庫本Xっていうのは
長江さんからの、強烈な、
本とは何か?
本屋とは何か?
っていう問いなんだなと。

そして、この本の僕的なクライマックスは、
証言3:さわや書店フェザン店の田口店長のコラムだ

「北に楽園があるよ。来てみない?」

そう言って田口さんは、
川崎にいた長江さんを盛岡に誘った。
3年越しのアプローチ。
すげーなって。

☆☆☆

「『文庫X』についてどう思われますか?」
同じ質問を何度もされた。
「たまたまです」といつも僕は答えている。

その間、彼が本の魅力を伝えようとした
熱意と努力の積み重ねの日々を傍らで見てきたから、
そう断言できる。「文庫X」はあくまでその一部なのだ。

★★★

ホントはこの後の「さわや書店という場とは?」の部分を書きたいのだけど、
文庫Xにならって、ここは伏せておくことにする。

楽園は南の国にあるのではなく、
日本の岩手、盛岡にたしかにあった。

くやしい。
やっぱり、くやしい。

「本屋」はどこまで「本屋」に、
そして「楽園」になれるのか?

そんな大いなる問いをもらった1冊となりました。

田口店長の
「まちの本屋」とも合わせてどうぞ。

「ひとりひとりに使命があるように、本屋にも使命がある。」
http://hero.niiblo.jp/e475548.html
(15.12.21)  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)

2017年07月11日

本屋とは、世界に放たれた手紙

なぜ本屋なのか?
とよく聞かれる。




さわや書店フェザン店。
大好きな本屋さん。
本屋はどこまで本屋になれるのか。

どうやら「文庫X」という企画が
書店界隈では話題となっていたようだ。

表紙を伏せて、
メッセージを載せて、
すべてを隠して文庫本を売るというもの。

それにどんな思いを込めたのか。
なにがどうつながると、そうなるのか。


「書店員X」(長江貴士 中公新書ラクレ)

それがこの本に書いてあって、
いま読み途中。
文庫Xは、あっという間に読み終えた。

たしかに、普段なら手に取らないだろうな
と思う本。

しかし、グイグイ引き込まれていく。
そして熱い。

生きるとは?
働くとは?
仕事とは?
価値とは?

そんな根源的な問いにあふれている1冊だった。

そんな本に出会ったからこそ
文庫Xという企画が生まれた。

その売り方には、
小阪裕司さんの方法論も
取り入れられていて、とっても楽しかった。

そう。
一緒につくりたいんだよね、何かを。

そんなことが本屋さんでできるんだって
そんな風に思った。

誰かに届けたい
そんな思いが連鎖していく。

本1冊1冊も手紙であるのだけど、
本屋そのものが、手紙なんだって。

そんな本屋さんをつくろうと思う。
コアなお客は、コミュニティ難民な女子たちかもな、と思っている。
うまくコミュニティと同調できない人。

そこに感性の高い男子(イケトとか唐澤くんとか)が入ってきて、
学びあいながら、新しい仕事というかプロジェクトというか、
そういうのを作っていけるような
本屋さんをつくりたいと思う。

やっぱり本屋なんだよね。
そう思った。

さわや書店さん、田口さん、長江さん、
ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)学び

2017年07月07日

パスと敬意と委ねること


「呪いの時代」(内田樹 新潮社)

またしてもいい本に当たってしまった。
熱い。

教育とは?
学ぶとは?

そんな問いをたくさんもらえる本。

~~~キーワードを以下に

贈与経済のいうのは、要するに自分のところに来たものは
退蔵しないで、次に「パス」するといことです。それだけ。

贈り物を受け取ったときに、目にも止まらぬ速さで次の贈り先に
それがパスされるような人のところにしか、贈り物は届かない。
そういうものなのです。

私はあなたに贈り物をする。
それがどのような価値をもつものであるかを
贈与者である私は言うことができない。
そこに価値を見出すのは受け取り手であるあなたである。
この世に価値をもたらすのはあなたである。
あなたが価値の創造主である。そう告げるのが贈与の構造です。

人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、
ましてやそこ能力が所有者にもたらした利益によってではなく、
その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。

最終的に人間がその言葉に聴き従うのは、
その言葉のうちに聴き手に対する深い敬意が含まれている場合だけだ。

人はどれほどわかりにくいメッセージであっても、
そこに自分に対する敬意が含まれているならば、
最大限の注意をそこに向け、聴き取り、理解しようと努める。

だから、もしあなたが飲み込むことの
むずかしいメッセージを誰かに届けようと願うなら、
深い敬意を込めてそれを発信しなさい。
それがコミュニケーションにかかわる
ユダヤ=キリスト教の太古的な叡智の一つではないかと僕は思います。

~~~ここまでキーワード

そっか~。

暗やみ本屋ハックツを構造的に説明すると
そういうことなのかもしれないな、と。

まず、誰かから、
影響を与えられた「本」という贈り物をもらう。

それを誰かにパスしないと
いけないという気持ちが芽生える。

そして、
受け取り手に敬意を込めて、
メッセージを書く。

しかし、最終的に、それが価値あるものか
判断するのは、ハックツした若者次第で
あって、そこには手が及ばない。

また、それを「贈り物だ」と思ったとして、
それを本人にお返しすることはなかなかできないので、
違う人に贈ることになる。

そうやって本と気持ちの贈り物の連鎖を生んでいくこと。

きっとそれがハックツに仕組みなのだろうなと
この本を読んでいて思いました。

「ハックツ」ってすげーな。
って思いました。

そこに「教育とは?」や「学びとは?」、大げさに言えば、「生きるとは?」
という問いに対しての原点的な何かがあるのではないかなと思いました。

パスと敬意と委ねること。
そんな贈与経済的なアートですよ、ハックツは。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)

2017年07月05日

「正解しなければいけない」は敗北への一歩


「呪いの時代」(内田樹 新潮社)

第3章 後手に回る日本

面白かった。

アメリカの「設計図神話」の話。
理想国家をつくる、というコンセプトで
できたアメリカでは、

システムに不具合が起きた時、
アメリカでは、システムの設計そのものを
見直すのではなく、バグや人為的ミス
のせいであるとする。

「ありあわせのものでしのぐ」という発想をせずに
「最初の設計図通りに作り直す」というかたちで処理する。

へ~。
なるほど。

~~~ここから一部引用

だからアメリカ合衆国の大統領は
建国の「物語」を力強く語ることができる。

いっぽう、日本の政治家は、「物語」を語れない。
統治原理の根幹が何であるか、
本人たちも分かっていない。

アメリカに従属しなければ生き残れない。
という「やむをえない実証性」に基づいて
その場の最適解で応じている。

相手がこう来たらこう返す、
こうされたらこう逃げるという受け身の姿勢でいること。

つねに状況に対して「後手」に回るという
日本の政治文化は受験生に似ています。
受験生はつねに「試験問題に遅れている」。

そもそも何のために受験勉強をしているのか?
などということは問わない。

この「受験生マインド」は、
政治家のみならず、官僚にもビジネスマンにも
日本人全体に蔓延しています。

まず「問題」が出る。
その問題に対してどう解答するかを
必死で考える。

そしてそれなりのよい解答を思いつく。
そういう能力は日本人はけっこう高いのです。

白紙にゼロから絵を描くように、
なすべきことを創造することは、
まったく不得手だけれど、
言い逃れとか言いくるめとかはうまい。
恐ろしいほどうまい。

~~~ここまで一部引用

なるほど。
この後に、武道的観点から、バッサリと切ります。

☆☆☆ここから引用

相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく、
全神経を集中すること、それを武道では「居着き」と言います。

物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない
状態ですが、居着くとは構造的に「負ける」ことです。

居着いた相手は活殺自在である、そう言われます。
端的に言えば、武道はどちらが相手を「居着かせる」ことが
できるかを競っている。

ですから、武道的観点から言うと、
「問題に正解しなければならない」という
発想をする人は構造的に敗者であるということになります。

★★★ここまで引用

うわ~。
これは、あれですね。

スラムダンクの流川と沢北の勝負ですね。

「お前はまだその才能を活かしきれてねえ」
の後にパスを出す流川。

パスもある、と思った瞬間に
沢北のディフェンスが「居着き」の
状態にあって、

「ひとつ忘れてるぜ」

でスリーポイントが決まる、みたいな。

思い出しちゃった。

後手に回らず、そもそも、と考えること。
目的はなんだっけ?
って問い直すこと。

そこからしか、始まらんのですね、きっと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)

2017年07月03日

「おむすび」が結ぶもの

7月2日(日)
「むすんでひらいて」@武蔵新城。

物語のある
お米、海苔、塩
をつかって、おむすびを
みんなでむすんで食べるイベント。

かなちゃんとさくらちゃんの企画。
高校生以下は参加無料。

高校生3人が参加してくれました。

まずは海苔の食べ比べから。
宮城県・東松島から有明海までの
最高級の海苔を食べ比べました。



その後、商店街でおかずや
おにぎりの具を買いものして、
炊き立てのごはんを「むすんで」食べます。

そんなことをしていたら中学生がやってきて
飛び入り。

中学生1名
高校生3名
大学生1名
(全員女性)

10代社会人1名
20代社会人1名
(2名とも男性)

が参加するイベントになりました。
感想としては、楽しかった、の一言。

おむすびの具を買いに行くとき、
武蔵新城のまちで行ったことがなかった
韓国料理屋さんを発見しました。

店主さんのとびっきりの笑顔がよかった。
あれを高校生と共有できたのが
よかったです。

スーパーで買うより、
個人のお店で買うほうが
「体験を共有」できるような気がした。

そして帰ってきてから、
海苔を選んで、おむすびを結ぶ
好きな具材やおかずと一緒に食べる。

ただ、それだけ。
ただ、それだけのイベントで
参加者みんながとっても仲良くなった
気がしました。

手を動かす。
味を感じる。

「おむすび」をむすんで食べる。
それだけで、何かが生まれるような気がする。
次は高校生が企画するおむすび会ができるかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 08:14Comments(0)イベント

2017年07月02日

「居場所」と「生まれる場」を繰り返す

こめつぶ本屋営業のあと、
knsの主催イベントでした。

金曜日はメビック扇町で
堂野さんの場づくりの話。

これも面白かった。

ビジネスプランじゃないんだと。
関係性の質なんだと。

関係性の質⇒思考の質⇒行動の質⇒結果の質

この順番でいかないと。

結果を求めるあまり、
関係性が悪化して、思考の質が低下してるんじゃないの、
っていうこと。

大切なのは、誰とやるか?
その関係性なのだと。
昨日はKNSの「コミュニティスポット」
話題提供者として事例紹介した。
最後の主催者領家さんのコメントがよかった。

校門前で怪しいものを売っているおじさん。
そんなおじさんっていいなあと思った。

どうなってメシ食っているんだ、みたいなおじさんが
たくさん増えていくといいなあと思った。

昨日のハイライトは
やっぱり「居場所」不要論のところでしょうか。

本屋は静的な「居場所」になってはいけない。
動的な「何かが生まれる場」であることが大切だ。

いや、「居場所」と「生まれる場」が
そのときどきで入れ替わるような、
構成メンバーと新しく来たメンバーによって、

「一期一会」の瞬間がつくられるような、
そんな本屋さんをつくりたいと思った。

そしてそんな本屋さんこそが、
コミュニティ難民のための本屋さんに
なるのかもしれない。

それが一番面白かったところかな。

チューニングする⇒ふりかえりをする

それを繰り返して、場とチームはだんだんとできていく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:43Comments(0)イベント

2017年06月30日

アンサング・ヒーロー

ああ、読み終わってしまう・・・

と読み進めていきなら、悲しくなる本に出会うことがある。
「もったいないから一章ずつ読もう」とか

アサダワタルさんの
「コミュニティ難民のススメ」以来のドキドキ。


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

うわー、うわーって
何度もうなっていた。

もっともこころ揺さぶられたのは、

第5章 「次世代にパスを送る」の「教育の奇跡」のところ。

またしても興奮状態でツイートしすぎた。

さて、ちょっと引用させてください。

~~~ここから引用

人間は知っている者の立場に立たされている間は
つねに十分に知っている。

「教卓のこちら側」にいる人間は、
「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、
すでに「教師」としての条件を満たしている。

教師は別にとりわけ有用な、
実利的な知識や情報や技能を持っており、
それを生徒や弟子に伝えることができるから
教師であるわけではない。
これが教えることの逆説である。

教師は「この人は私たちが何を学ぶべきか知っている」
という確信を持っている人々の前に立つ限り、
すでに十分に教師として機能する。
彼に就いて学ぶ人たちは、
「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」
を彼から学ぶ

誰だって教師になれる。
そうでなければ困る。

人間たちが集団的に生き延びてゆくために
ほんとうに重要な社会制度は、
「誰でもできるように」設計されている。
そうでなければ困る。

例外的に卓越した資質を持っている
人間にしか社会制度の枢要な機能を
担い得ないという方針で社会制度が
設計されていたら、とっくの昔に
人類は滅亡していただろう。

学校における知の非対称性とは
「あなたたちはなぜ学ばなければならないのかその理由を知らないが、
私はあなたたちが学ばなければならない理由を知っている」という一言に尽くされる。

私たちは「教卓の向こう側にいる人」はすでにそのことだけで
すでに教える資格があるというルールを身体化していたからである。

「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、
少しも人間的に卓越しているわけではない」
という事実を意地悪く暴露して、
教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。

私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、
「言うべきではなかったこと」だった。
それに気づくほど私たちは大人ではなかった。

教師は自分の知らないことを教えることができ、
自分ができないことをさせることができる」という
「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。

教師であり続けるためには、一つだけ条件がある。
一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。

自分は自分がよく知らないことを教えることができる。
なぜか、教えることができる。
生徒たちは教師が教えてくれないことを学ぶことができる。
なぜか、学ぶことができる。
この不条理のうちに教育の卓越性は存する。
それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。

もし、生徒たちが学んだことは、どれも教師がすでに知っていることの
一部を移転したにすぎないと思っている教師がいたとしたら、私は
「そのような教師は教卓に立つべきではない」と思うし、当人にはっきりとそう告げるだろう。

その人には「教育制度に対する敬意がかけている」からである。
教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。

教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を
知識において技芸において凌駕することが
日常的に起きるという事実のうちにある。
「出力が入力を超える」という事実のうちにある。

「教室とはそこに存在しないものが生成する奇跡的な場だ」
という信念を持たない教師は
長期にわたって(生徒たちが卒業した後になっても)
彼らの成熟を支援するというような仕事はできない。

今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、
教師に教科に知識が不足しているからでも、
専門職大学院を出ていないからでもない。
そうではなくて、教師たちが教育の信じるのを止めてしまったからである。

教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。

~~~ここまで引用

教育の奇跡。
なるほど。

それは「場」にあるのだと。
教師と生徒が教卓を挟んで、向かい合う。
その「場」に「奇跡」が生成するのだ。

教師とは、
その構成員のひとりにすぎないのだ。

この本を読んでいて、つぶやいた。
(というかいつも、最近、主語を「本屋」に置き換えてしまうのだけど)

「教育」を「本屋」あるいは「本屋という場」に置き換えてみる。
わくわくする。
本屋が、「出力が入力を上回る」という
「本屋の奇跡」を信じることを止めて、いったい誰が本屋を信じるのか。

「劇団員」とか「サムライ」とか「ヤクシャ」
ってきっとそういうこと。

学びあいの場をつくる、
本屋を学びあいの場にする、
ってきっとそういうこと。

そこに師匠はいないかもしれないけど、
本の中に師匠がいるかもしれない。
いや、今日やったイベントの中に、
師匠がいるのかもしれない。

そこから何を学ぶか。
その入力から何を出力するか。
それが入力を上回るという点において、
本屋は本屋である意味がある。

この本のあとがきに
「アンサング・ヒーロー」のことが書いてある。

事故を未然に防いだ人たちの功績は
決して顕彰されることがありません。

そういう顕彰されることのない英雄のことを
「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」
と呼びます。「歌われざる英雄」です。

このアンサング・ヒーローたちの
報われない努力によって
僕たちの社会はかろうじて成立している。

なるほど。

教師も、本屋も、
目指していくところは、
「アンサング・ヒーロー」なのかもしれない。

僕が高校生の時に通っていたたこ焼き屋のおばちゃんのことだ。
店内でヤンキー高校生にタバコを吸わせながら
たこ焼きやカップラーメンを食べさせて、話を聞いてあげていた。
あのおばちゃんのおかげで悪さをしなかった高校生はひとりふたりじゃないだろう。

思えばあれが僕の原点になっているのかもしれない。

教育の奇跡を、本屋の奇跡を信じ、

周りの大人を、先輩を、地域の人たちを
「アンサング・ヒーロー」にしていくような学びの場や本屋を
いま、作らなければならないのではないか。

100年先の日本のために。

今一度、日本を小さく洗濯しようか。
小さな本屋で。
ねえ、龍馬さん。
  

Posted by ニシダタクジ at 10:37Comments(0)

2017年06月28日

「小さな本屋」というゆらいだメディア


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

昨年秋に「街場の憂国会議」からの
三部作を読んでいたのだけど、
この本はまだ読んでなかった。

この本もとっても熱い。

P216 「日本のメディアの病」より

~~~ここから一部引用

生き延びるためには、複雑な生体でなければならない。
変化に応じられるためには、
生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで
構造化されていなければならない。
ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、
それが生物の本態である。

私たちのうちには、気高さと卑しさ、
寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、
入り交じっている。

私たちはそのような複雑な構造物としての
おのれを受け入れ、それらの要素を
折り合わせ、強制をはかろうと努めている。
そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人の
ことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。

メディアは「ゆらいだ」ものであるために、
「デタッチメント」と「コミットメント」を
同時的に果たすことを求められる。

「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、
そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、
それが何であるのか、なぜ起きたのか、
どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。

「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、
他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、
当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。

この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、
混沌としたこの世界の成り立ちをいくぶんか明晰な語法で明らかにし、
そこでの人間たちのふるまい方についていくぶんか倫理的な指示を示すことができる。

メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を
果たすことではじめてその社会的機能を果たす。
だが、現実に日本のメディアで起きているのは、
「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。

「デタッチメント」的報道は、ストレートな事実しか報道しない。
その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、
どういう意味を持つものなのか、私たちは
どの出来事をどう解釈すべきなのかについて、
何の手がかりも提供しない。
そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。

「コミットメント」的報道は、その逆である。
その出来事がある具体的な個人にとって
どういう意味を持つのかしか語らない。
個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを
一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が
他ならぬこの人において、なぜどのゆおうに生じたのかを
「非人情的」な視点から分析することを自制する。
そこに「客観的冷静さ」を混じり込むことを嫌うからである。

いまメディアに必要なものは、
あえて抽象的な言葉を借りて言えば、
「生身」なのだと思う。

~~~ここまで一部引用

本屋は本来のメディアになりうる、と思った。
「デタッチメント」と「コミットメント」
を同時に提供できるからだ。

世の中を客観的に構造的にドライに見るヒントも本から与えることもできるし、
お客さんのパーソナルな話を聞き、共感し、寄り添うこともできるからだ。

人間的な「生身」のメディアとしての本屋。

「小さな本屋」は、そういう存在になれるのではないか。

私たちの多くは、ゆらいでいる。
(イチロー並みにブレない人もごく少数いる)

ゆらいでいるからこそ、
偶然を楽しみ、多様性に埋もれ、
予期せぬ何かや誰かに出会い、
さらにゆらいで生きていくのだろう。

小さな本屋はそんな存在になれるのではないか。

それが僕が「本屋というメディア」の先に見るものかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)

2017年06月27日

コミュニティ難民向け本屋さん

「孤独と不安のレッスン」
「売りたい」ではなく、「売らなきゃ」と思える本
http://hero.niiblo.jp/e269669.html

そういう本を売っていきたい。


コミュニティ難民のススメ。(アサダワタル 木楽舎)

手紙。
売らなきゃ、と思える本。
この本を手渡さなくちゃ、と思える本。
そんな本を売っていこうと思う。

最近は僕の周りに
コミュニティ難民な女子が多いので、
それ向けのセレクトをするのが楽しそう。
ひとまずアルプスブックキャンプでお披露目しようと。
新城劇場にも同時に発表したい。

部活をやめたばかりの
中学生高校生向けのハックツというのもいいな。
女子会に行けるような感性の強い男子も対象かな。

自分で考えること。
思考停止しないこと。
精神的に独立すること。
それが一番大切なのだろうと思う。

就職でなく、人生の経営者として、
企業とのパートナーシップ契約を結ぶ。

そういう感覚がないと、
システムはどんどん、独立を奪う。

ひとりひとりを幸せにするはずだったシステムは、
ひとりひとりを「交換可能」にし、
ひとりひとりを「顧客」から遠ざける。
顧客に「手紙」を渡せなくなる。

孤独を携えて、人生を生きる。
そんな「手紙」を僕は預かってきたのかもしれない。

「孤独と不安のレッスン」から
「コミュニティ難民のススメ」まで。

どうやってつなげていこうか、楽しみです。  

Posted by ニシダタクジ at 05:43Comments(0)アイデア

2017年06月26日

「学びあい」で希望を生む


「フォー・ビギナーズ・シリーズ 108 吉田松陰」(現代書館)

こんな本あったんだ。
と古本屋さんで買ってしまった。

やっぱり、僕の原点は(原点いっぱいあるな~)、
吉田松陰先生の野山獄エピソードだろうと思う。

たとえ獄中であっても、
一生そこから出られないとしても、
「学びあいで希望は生まれる」

ということを学んだし。
これだ!と直感し、すぐに萩に向かい、
野山獄跡地と、松下村塾(松陰神社)と松陰先生の墓に
手を合わせた。

学びあうこと。
考え続けること。
そういうのを作りたいのだ。

「カレーキャラバン」が楽しいのは、
「予測不可能」という価値を追い続けているから。

予想しなかったよかったことも
予想しなかった悪かったことも
彼らの中では等しく価値があるのだ。

いや、価値に等しいも等しくないもない。

そこに価値を感じる自分とチームメイトがいればいい。
それだけだ。

ツルハシブックスの店員サムライも
新城劇場のヤクシャも、
そういう仕組みをつくっているということ。

コメタクも、
なじみのお店ものがたりも、
夜景企画会議も、
インターンシップの設計も、

社長に挑戦セヨ!と題して、
「これは研修です」と
社長たちから参加費30,000円を徴収したのも、

それはともに学ぶ場をつくる
というコミュニケーション・デザインだったのだと思う。

そういう視点で、
もういちど整理してもいいのかもしれない。

学びあいの場をつくる。
そこに余白がある。

市場ってそういうものなのかもしれない。

そういう場所を必要としているのは、
コミュニティ難民な、中学生高校生大学生
そして20代社会人なのだろうと思う。

「余白のある学びあいの場。」

これをつくっていこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年06月23日

「なぜ」「いま」「私が」やるのか

イベント「稼ぐ地域ビジネスのつくり方。」でした。
15分講師初体験。
問いと事例紹介だけっていう
新しさ。

もっと事例を少なくしてもよかったなあと
思いました。

僕の感想は、
物語こそが原動力だと思った。

マクロな課題を出発点にするのではなく、
ミクロな個人的エピソードこそが出発点だと思った。

マクロな課題
・若者が少ない
・人が集まらない

というところからは、
当事者意識が生まれないので、
アクションが起こらないのではないかと思った。

個人的具体的エピソードは「物語」を生む。

昨日は少し話があったけど、

クラウドファンディングにとって必要なのは、
そのプロジェクトを「なぜ」「いま」「私」がやるのか?

という問いに答えることだと僕は思う。
それには個人的なストーリーが必要だと思う。

昨日のプレゼンでの3つの問い。

1 「稼ぐ」って何?:
あなたは何を稼ぎたいのか?

2 「顧客」は誰か?:
なぜ、茨城でビジネスしたいのか?

3 「ふりかえり」してますか?:
他者評価の檻を脱出し、人生を経営する

これって根源的な問いだと思う。
相手にとって、社会にとって、そして自分にとって価値は何か?
そんな問いを続けていくこと。

近江商人の三方よし
という考え方は
「自分よし相手よし世間よし」だといわれるが

思考の順番としては
「相手よし」「世間よし」「自分よし」
というようになっていくのではないか。

ドラッカーさんの言葉を借りれば
「世間よし」の前に「第2の顧客よし」っていうのが入るのかもしれないが。

そして、今日から読み始めたのはこの本。

「市場の倫理 統治の倫理」(ジェイン・ジェイコブス 日経ビジネス人文庫)

世の中には2種類の道徳、
市場の倫理(商人道)と統治の倫理(武士道)
があり、それらを混同すると腐敗が生まれるというもの。

どちらも道徳としてはもっともなのだろうけど、
これらは目的が違うので、
相互に相容れないのだという。

多様化した価値観では、
「何を稼ぎたいのか?」「顧客はだれか?」
に対する答えがひとりひとり違っているはずである。

そしてそれは非常にミクロでパーソナルなものになるはずだ。
そしてたぶん、そこからしか始まらない。

そこから始まる、小さなビジネス、いっぱいつくりたいなと感じた。
ドラッカーサイクルを小さく回す。

そこからいろんなものが開いていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)日記

2017年06月21日

自信とは、「やったことがある」ということ

人は、他者評価という檻の中にいると、
チャレンジすることを忘れていく。

チャレンジするということは
失敗するということだからだ。

学校も、会社も、
「目的の遂行」や「効率的な運営」のために、
他者からの評価を前提としたシステムをつくっている。

そんなシステムに
子どもたちを放り込んでおきながら、

個人に対して、
「チャレンジしろ」と半ば強制するのは、
完全にダブルバインドだ。
(ダブルマインド:2つのレベルの相反するメッセージを言われること)

僕も、28歳まで、
他者評価の檻の中にいた。

まきどき村を始めていたのに、
すでに、中学校3年生に出会い、
NPO法人を立ち上げていたのに、

友達の結婚式の二次会に行って
「お前、いま、何やってんの?」
って言われるのが苦痛だった。

「畑やってる。」
「なにそれ。面白そうじゃん。相変わらず自由でいいね。」

三次会には行かず、
家に帰って、なぜか凹んでた。

「俺にも、土日休みの人生があったんじゃないか。」
って、大学4年生の時の「就職しない」っていう
選択を、少しだけ後悔してた。

それは28歳のとき、突然外れた。
自分にはこの人生しかなかった。
と思えるようになった。

あのとき、僕は他者評価の檻から脱出した。
「世間」という小さな藩から脱藩した。
しかし、それは、そんなに簡単ではないだろう。

他者評価の檻を脱出するために、
どこからアクションすればいいのか。

それは「やってみる」以外にない。

自分の感性を信じて、やってみること。
他者評価を気にせずにアクションすること。
そこからしか道は開けない。

堀江貴文さんが
自信とは、「やったことがある」ということだと
言っていたけど。

まさにそれだと。
自信がなくて始められないというのは
論理的に成り立たない。

だって、自信って、成功体験じゃなくて
やってことがあるってことだから。
はじめてみる以外に方法はないのだ。

そして重要なのは自分で、あるいはチームで
「ふりかえり」をすること。

このチャレンジの意義はなんだったのか?
自分たちで評価をすること。
すべての活動を学びに変換していくこと。

そうやってだんだんと
他者評価の檻から脱出する訓練をするのだ。

檻と言っても、
囚われているのは心だけなのだから
うまくいけば、どこかで外れる。

まずは学校を飛び出して、
何かプロジェクトに参加してみるのが
いいのではないか。

自信とはやったことがある、ということ。
「やってみる」から始まるから。  

Posted by ニシダタクジ at 05:34Comments(0)思い

2017年06月20日

もうひとつのCSA

東北食べる通信の高橋さんの本。


で、書いたブログ。
「Community Supported Bookstore」
http://hero.niiblo.jp/e475942.html
(16.1.5)

この本の中で紹介されている
農家と消費者をつなぐ「CSA」。

CSAとは
「Community Supported Agriculture」のことで、
直訳すればコミュニティに支えられる農業のことだ。

コミュニティマネージャーを配置し、
生産者と消費者、あるいは消費者同士のコミュニティを育む。
そんな取り組みが始まっている。

昨日企画していた「おとばたけ」の取り組みって
その方法論のひとつになるのではないかな。

音で農とつながる。
五感を使って感じる。

それは、きっと「ひらく」ということ。

昨日、コミュニティとプロジェクトのあいだ
と書いた。
コミュニティは居場所、プロジェクトはチーム。

人には「居場所」が必要である。
というのが、もし、ウソだとしたら。

「本当の自分」など、存在しないとしたら。

そして必要なのは、「承認」だとしたら。

「承認」が得られないのは、
他者からの「評価」を基準に生きているからだとしたら。

いまや、
「学校」も、「家庭」も、「地域」も、「会社」も
すでに「居場所」ではない。

「だから『居場所』が必要なのだ」
と言う人は多い。

でも、本当は、「居場所」じゃなくて「承認」
なのではないか。
特に山竹伸二さんのいう「親和的承認」なのではないか。

「部分的承認」
http://hero.niiblo.jp/e344865.html
(14.1.28)

大げさに言えば、
「自分がこの世に存在していていいんだ」
っていう承認を必要としている。

そしてそれは、
「居場所」によって全面的に得られるのではなくて、
「プロジェクトチーム」によって、一時的、部分的に得ていく。
その方法をとったほうがいいのではないか。

そういう意味では、
「農」によって、そして音によって、
五感をひらきながら、地域とつながっていくこと。
経済社会とつながっていくこと。

そのプロジェクトは、
地域の「農」をサポートするだけではなく、
若者の「承認」をサポートするのではないか。

「Community Supported Agriculture」
というコミュニティが

「Community Supported Approval または Acknowledgment」
になり得るのではないか。

※ ↑「承認」辞書ひいてしまった。英語わかる人、どっちが正しいか教えてください。
  両方違っていても教えてください。

そんな場と機会を起こしていくような本屋を、
いろんな人と作っていくこと。

それがCSB「Community Supported Bookstore」
なのだろうな。

もうひとつのCSAを作るような本屋、やりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 05:34Comments(0)アイデア

2017年06月19日

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ

昨日は久しぶりの開催。
「何か企むミーティング」

なんとなく感覚で集まった
4人で新しいプロジェクトを考える時間。

特にゴールはないアイデアだしの時間。

15時スタートだったのだけど
14時に集まって、お菓子を食べながら話す。
その時間がすごくよかった。
僕は途中抜けていたのだけど
家族との関係について、いい話ができていたようだった。

アイドリングというかチューニングというか
そういう時間。
15時からものんびりと話しました。

みんな中学・高校の時に
いろんなことを抱えていて、
特に女子は同調圧力が強くて、
そこに馴染めない人にはつらいんだろうなって。
なんか共感してつらくなっちゃいました。

僕はそこかも、って。
「コミュニティ難民」的な人に、話を聞いて、本を届ける。

新城劇場ってそういうところかもしれない。
そういう人たちが集まって、
コミュニティではなくて、プロジェクトを立ち上げる。

ビジネスやろう。
っていうのは、
経済社会の土俵で、人とコミュニケーションしよう。
ってこと。

ビジネスモデルがこうで、
こうやって投資を回収します、
みたいなことじゃなくて、
もっとヒューマンスケールで始めてみるのがいいなと。

そしてそれは、プロジェクトとして起こしていくこと。
チームはコミュニティではなく、プロジェクトチーム。

「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、
所産を創造するために実施される有期性の業務である。」
(PMBOKの定義)

なるほど。
「独自」なものを「創造」するための「有期性」の仕事のこと、か。

有期性、つまり、「終わりがある」ということ。
だから、「ふりかえる」ということ。
「独自」なものを「創造」しなければならないということ。

それは決してコミュニティではない。
というか非営利活動が陥る「マンネリ」というのは、
プロジェクトがコミュニティに変質してしまっているのではないか。

そして、かつ、それは純粋なプロジェクトでもなく、
プロセスを大切にするということ。
アウトプットと同じくらい、ひとりひとりを大切にすること。

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ。
そういう感じのやつを、
「コミュニティ難民」なみんなと共につくりたい
っていうのが、僕にとっての新城劇場なのかもしれません。

場づくり×小商い×ゼミ(動的な学びの場)

その先に、僕と地域の未来があるような気がしています。



今回始まりそうなのは、「おとばたけ」プロジェクト。
なんだか面白そうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2017年06月18日

ハタチのためのブックガイド

ハタチのためのブックガイド
そんなのを作ってみようかなと思う。

岡倉天心の五浦で読むのがオススメ。
みたいなやつ。

じぶん編
しごと編
くらし編

おまけで
ばづくり編
とか。
かな。

みたいな感じですかね。

まずは「じぶん編」
「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)

まずはここから入門かな。
日本の学校環境の同調圧力について考えてみる。
鴻上さんの熱いメッセージにシビれる

そして「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
ここでは、自由と承認、そして「親和的承認」について理解する。

で、「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)かな。

この3つ。
これで「自分」と「他者」について
相対的に、全体的に、俯瞰的に見てみる。

次にどう生きていくか、視野を一気に広げる。
ヘリコプターで上に上がっていくような感じ。

「独立国家のつくり方」(坂口恭平 講談社現代新書)
自分たちが今見えている世界だけが世界ではないのだと実感する。

「自分とは何か」(平野啓一郎 講談社現代新書)
本当の自分など存在しない、「分人」を生きることを提案してくれる。

「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)
歴史的視点から、自分とはプリズムなのだと教えてくれる。
この3冊でさらに高い視点でじぶんを見つめなおす。

こんな感じ。

ちょっと続けます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)

2017年06月17日

「共鳴」から始まるプロジェクト

「チューニング」っていうマイブーム。

先週金沢文庫「キッチンのある本屋」プロジェクト
のミーティング前の平野さんとのメッセージのやりとりでも
自然と出てきた言葉。

初めての人もいるから、
いきなりミーティングしないで、
8時に集合して、称名寺散歩して、
ちょっとチューニングしてから行く。

って。


「チューニング」。
それはもちろんコミュニケーションだ。

1つは感情のコミュニケーション。
「最近あったよかったこと」
「今日のミーティングをやってみてどうだったか?」

そうやって、感情を言葉にする「チューニング」。

もうひとつは、非言語のコミュニケーション。
一緒にご飯を食べる。
ご飯をつくる。
散歩をする。
農作業をする。

そうやって相手を
「感覚的に」「なんとなく」
知っていくこと。
音楽で言えば「音合わせ」をしている状態。

そこには、
「共感」というよりは、「共鳴」が起こる。

「共感」っていうのは、言葉だけでもできる。
でも「共鳴」っていうのはもっと肌感覚で、
感じないとできない。

プロジェクトってそういうものなのかもしれないなと。

ハックツの宮本もコメタクの吉野も
「なんか一緒にやってみたいな」
というのから始まっている。

それは本当に「なにか」だったんだと
今は思う。

感覚的な何か。

一緒に踊りたかったのか、歌いたかったのか、
奏でたかったのか。

そういう感じ。
楽器としての自分を、引き出してくれるような、
そんな出会い。

共鳴から始まるプロジェクト。

そしてそれはチューニングを繰り返しながら進んでいく。
いま、この瞬間が、ひとつの音楽なのだ。

そんなプロジェクトの進め方。

ひとつひとつのミーティングが
楽曲であるような、そんな時間。

今日はいい音出せたかな、
とふりかえるようなミーティングをしたい。

「目的から考える。」
と口癖のようにいつも言われてきた。
それはもちろんそうなのだけど。

ひとりひとり、いやひとつひとつの楽器が
いい音出してこそ、いい音楽、いい仕事だったと
言えるのではないかな。

そのためには、目的から考える、その前に、
チューニングから、共鳴から始めたほうがよいのではないか。

僕はそんな「チューニング」をする人に
なりたいかもしれない。

チューニング・デザイナー
ってどうですか?(笑)  

Posted by ニシダタクジ at 06:30Comments(0)言葉