プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年08月21日

桃太郎のおばあさんになれ

「きみだけのドラマを語れ」

これは、いわゆる「マイプロ」
全国高校生マイプロジェクトのテーマだ。
https://myprojects.jp/

今日の1冊はこちら

「将来の夢なんか、いま叶えろ」(堀江貴文 実務教育出版)

通信制高校サポート校である「ゼロ高等学院」を立ち上げた堀江さんが
2017年の「すべての教育は洗脳である」に続いて、2020年9月に刊行した本。

参考:「学校」は他者評価を「前提」としたシステム(17.5.31)
http://hero.niiblo.jp/e484924.html

このときは、衝撃のワンフレーズ。
僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。

いや、ホントそれだよね。
いま、まさにそんな時代や社会を生きている気がします。

ということで、今回もなかなか考えさせられるフレーズが。

まずはこの一言から。
「教育現場で教えられることは、リアルの体験以外すべて、テクノロジーで代用できる」

高校魅力化プロジェクトのライバルは他の公立高校などではなく、ゼロ高やN高といったテクノロジーを駆使して個別最適化した学校なんだと思う。
じゃあ、ゼロ高やN高に対抗できる価値ってなんだろう?そんな問いを考える上でいい機会になる1冊。

~~~ここからメモ
英語ができればたしかに社会で便利な場面は多いけれど、英語だけできて、ほかに何もできなければ「英語×ゼロ=ゼロ」だ。英語を使って、何をしたい?という問いを深める機会と環境を学校が提供しないまま英語を詰め込んでも、無意味だ

「その学びを選んだ理由を、自身の没頭体験をもとに語ることができる」若者の育成。

没頭への支援ができなければ親の資格はない。

数字評価なんかに、心の充足を委ねてはいけない。

「やりたいことがある大人は楽しそうに生きている」と「やりたいことがない大人は我慢しながら生きている」の2つのイメージが合わさって「やりたいことが見つからない=将来お先真っ暗」と思い込んでしまうのではないでしょうか。
~~~

そして、ゼロ高が目指す方向性で共感したのはこの2つ

~~~
自立の3本の足
1 自分に何ができるのか、何をしたいのかを行動による失敗から理解していく
2 自分のできること、したいことで助け合える仲間を見つける
3 自分ができること、したいことでファンをつくる
この3本の足で立つことができたとき、人は自立することができます。

僕自身が、繰り返し生徒に伝えていることがあります。「僕は君のこれまでの、そしてこれからの物語を何も知らない。だから、自分でつくり上げて僕に教えてほしい」と。ゼロ高生には卒業するとき、誰かにこう語れるようになってほしいと考えています。

私は、ゼロ高というコミュニティで学びました。
私はその中で、自分だけの物語を紡いできました。
たとえば、ストーリー1、ストーリー2、ストーリー3。
ストーリー1の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー2の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー3の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
そして私はいま、4つ目のストーリーとして〇〇をやろうとしています。
その理由は△△をやってみて、◇◇が面白いと思ったからです。
~~~

いやあ、これですよね。
マイプロジェクトをいくつも作って、振り返って、学びに落とし込む。
そうやって自分のやりたいことに出会うっていうパターン。

この本のラストは中高生世代に向けてのメッセージになっているのだけど、
その中でもシビれるところを抜粋します。

~~~
みんなが知っている「桃太郎」の話をしよう。
子どものときに親から聞かされて、よく覚えているのは主人公の桃太郎だろう。だが、本当に注目すべきは、おばあさんだ。川に洗濯に行ったおばあさんは、上流から「ドンブラコ」と流れてきた巨大な桃を、迷いなく拾い上げた。そして家に持ち帰り、何が入っているのだろう?と包丁でパカンと真っ二つに割ってみた。すると可愛らしい桃太郎が誕生した。

昔話のオブラートに包まれているが、おばあさんの行動は完全にぶっ飛んでいる。抱えきれないほどの巨大な桃を素手で拾ってくるだけでなく、家まで持ち帰って包丁で切るなんて、変わり者すぎる。普通だったら、そんな得体のしれない巨大桃が流れてきたら、ビビって見送ってしまうだろう。仮に拾ったとしても、常人なら包丁を入れるほどの勇気は持てないはずだ。

そうなのだ。おばあさんの「ありえない行動」が桃太郎の大冒険の始まりとなり、不朽の名作を後世に残したのだ。
~~~

いいなあ。
川上から流れてくる巨大な桃を拾うことで冒険が始まるんだ。

そして、人生の点を思い切り打ちまくれ、とスティーブジョブズの「コネクティングドット」の話を引用して語る。

~~~
「未来をあらかじめ予測して、点と点をつなぎ合わせることはできない。可能なのは、後からつなぎ合わせることだけだ。つまり私たちは、いまやっていることが、今後の人生のどこかでつながり、自然に実を結ぶことを信じ(て行動し続け)るしかない」

誰かではなく自分自身を驚かせる未来のために、たくさんの点を打とう!

多くの「点」は、やがて迎える未来の「いま」を描く、太い「線」になる。
~~~

堀江さんと思いは共通するところが多いかも、って思った。

点を打つ場所をどこにするか?
そして、誰と一緒に点を打つのか?

たぶん、中高生が持っている根源的問いはそこにあるのだろうし、点を打ちたくなる地域や地域との関係、コーディネーター的な動きが必要になる。

冒頭に書いたけど、「個別最適化」を考えれば、圧倒的にゼロ高やN高だと僕も思う。

でも、地域で、地域の大人たちと見つけ合いながら、地域の未来も少しだけ背負いながら、「点」を打っていく。

既存のシステムともうまく折り合いながら、未来を探り、試し、見つけていくような、そんな「まなび」をともに創っていけたらいいな、と。

今日は新潟駅MOYORe:で「まなびのトビラをともにひらく」が開催されます。

トビラを見つけ、ともに開けましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)学び日記

2021年08月18日

「他者」と出会い、困難なコミュニケーションを立ち上げ「調和」していく


「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)

昨日に引き続きこちらの本から。
「痛快」です。切れ味が好き。

まずは「グローバル人材育成」についてバッサリ
~~~
日本の学生に際立って欠けているのは、一言でいえば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力だということです。

しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは、日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとまでは言わないまでも)黙許してきました。

でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略が、皆さん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。
~~~

く~~~。
そうなんですよ。そうなんですよね。
「学校」なるシステムに「適応」しすぎるとそうなっちゃうんです。

さらに、その教育が生み出すエリートについて原発事故を題材にバッサリ。
~~~
エリートたちは受験秀才です。彼らの仕事は正解を答えることであり、誤答を嫌います。誤答するくらいなら黙っている。でも、危機というのは「資源がない、情報がない、人員がない、時間がない」という状況のことです。そのような状況下で最適判断を求められると、受験秀才はフリーズしていまう。そういう訓練を受けたことがないからです。

彼らは決断するに先立って、その判断の法的根拠や上司からの指示や「言い訳」をまず探します。「このように判断したことには十分な根拠がある」という条件が整うまで、秀才は何もしない。その間に、もっとも貴重な資源である「時間」は不可逆的に失われてしまう。そして、危機とはまさに時間が失われるにつれて採りうる選択肢がどんどん減っていく状況のことなのです。
~~~

自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。
危機において、それを最も短い時間でやらなければ、最大の資源である「時間」を失ってしまう。

それを鍛えるに受験秀才ではないんですね。
何度も(規模の大小はあれ)危機(ピンチ)対応をしている経験が必要なのです。

最後に、それらを踏まえて「自由」と「調和」について。

~~~
日本人にとって、気が楽になるとか、心が落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうですから。それよりはほっとしたい、気楽でいたい。

集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は解放感と達成感を覚えます。理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して・・・というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に日本人はなぜか深い満足感を覚える。これはどう考えてもヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。

ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカをとって・・・」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したテーマでした。
~~~

そうか。
民族の地理的歴史的にね~。
こういう話面白いですよね。

茨城大学時代に公開講座で聞いた
日本にやってきた5つの移民の話を思い出しました。
これからのキャリアと縄文と弥生の関係(15.10.16)
http://hero.niiblo.jp/e473674.html

そうなんだよね。
日本人は「調整」してきたし、大切なのは「調和」だった。

このあと、爆笑な部分(あるある話)がふたつ。

~~~
サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ってありましたけど、日本人だったら、「さあ、正解はどっちだ」と切り立てられたら、「まあそう言わずに、どうですお茶でも一杯」というかたちで「白熱しない」方向に誘い込もうとするんじゃないでしょうか。

でも、日本人はちょっと違う。「いや~悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない?いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょう。
~~~

爆笑。めちゃ面白い。あるあるですね。
「そのどこが仕事やねん!」って関西弁でツッコミたい。笑
そしてそれは、地理的歴史的に仕方ないと内田さんは説明します。

~~~
でも、それはしょうがないと思うんです。「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力こそが列島住民たちが生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島住民はそういう生存戦略で2000年くらいずっとやってきたわけで、いまさら変えろといわれても無理ですよ。
~~~

そうなんです。「他者と折り合いをつける」っていうのを生存戦略的に採用してきたんです。

ということで、最後に我田引水して終わりますけども。(いつも)

実は(危機的な・・・今まさにそんな状況ですが)社会で求められるのは、「英語がバリバリ話せて言われた仕事が最高速でできる」秀才型エリート人材などではなく、

「自分と価値観も行動規範も違う『他者』と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力」を持った人であり、それは、(程度の差はあれ)危機的な何度も繰り返すことによって身につけることができる。

しかし、それは学校のような同質性集団の中だけでは育むことが難しい。だからこそ東京から地方に出て、たくさんの「他者」と出会えることを望んでいるのではないか。

さらに、そもそも地理的歴史的に私たちは「調和」「折り合い」を大切にするという生存戦略をとってきて、そういう文化を築いてきた。それが同質性集団の中では、むしろマイナスに働くのだろう。

だから内田さんの言うような「学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる『身内』と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること」

「他者」に出会うこと。そこで違和感を感じながらも、敬意と好奇心をもって、困難なコミュニケーションを立ち上げていくこと。

それには「学校」だけじゃなく「地域」が必要なんだと。
そう直感した人たちが「地域みらい留学」のトビラをノックしているのではないか、というのが私の実感です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記

2021年08月17日

「計測可能である」という前提を疑う


「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)

久しぶりに内田節を聞きたくなって某古本屋さんで購入。
第3章 ウチダ式教育再生論 から
元原稿は、京都精華大学の精華人文文庫「きみの生きづらさと向き合うために」
なので、主に大学生向けに書かれているのだと思う。

「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解
とタイトルされた文章が昨日の「なぜ本屋なのか?図書館なのか?」
につながっていると思ったので書きます。

~~~ここから引用
世界は移行期的混乱のうちにあり、あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけている。それなのに、日本の社会はその変化に対応できずに硬直化している。金魚鉢にひびが入り、いまにも割れて中の水ごと放り出されるしかないのに、若い人たち、相変わらず「金魚鉢の中の」価値観や規範に適応するように求められている。むしろ、外側で大きな変化が起きている分だけ、恐怖と不安で、硬直化しているように見えます。

激動期に対応して、生き残るためには、集団の一人一人が持っている多様な能力や資質を活かして、「強い」チームを形成しなければいけないのですが、日本の学校教育は単一の「ものさし」をあてがって子どもたちを格付けして、スコアの高い者には報酬を与え、低い者には処罰を与えるということしかしていない。

多様な才能や資質を開花させるためにはほとんど何もしないで、ただ「みんなができることを、他の人よりうまくできる」競争に若者たちを追い込んで、消耗させている。こんな相対的な優劣を競わせても、来るべき変化に備え、それを生き延びる知恵と力を育てるには何の役にも立ちません。
~~~

いやあ、もう、ホントそれ。
ひれ伏すしかない。

そして「コミュニケーション」についても大学での経験から「コミュ障」だという大学生に出会い、次のようにコミュニケーションを定義し直す。
~~~
コミュニケーションすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイディアを他人から得ることや、自分とは違う感受性を通じて経験された世界を知ることにあると僕は思っています。自分の感情や思考を他人にまるごと肯定してもらっても、うれしいけれど、それによって自分が豊かになるわけではない。対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になることでしょう?
~~~
内田さんによれば、極端な同調的コミュニケーションも、自己責任論を内面化し、十分な評価を得られないときに自分の能力や努力にしてしまう、格付け志向については、若者の責任ではなく、「金魚鉢の中の硬直化したルール」を適用する社会がそうさせている、と言います。

そして、人文学の意味を語ります。
~~~
自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。

人文学というのは、扱う素材の時間軸が長く、空間も広い。考古学や歴史学なら何千年、何万年前のことを扱うし、民俗学や地域研究では、はるか遠い国の文化を学びます。文学もそうです。遠い時代の、遠い国の、人種や信仰や性別や年齢が違う人の中に想像的に入り込んでいって、その人の心と身体を通じて世界を経験する。「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。

学ぶことによって、自分たちが閉じ込められている「金魚鉢」のシステムや構造を知り、それがいつどんな歴史的条件下で形成されたものであるかを知り、金魚鉢の外側には広い社会があり、見知らぬ世界があり、さらにそれを取り巻く宇宙があることを知る。金魚鉢を含めた世界はどこから来て、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしているのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。これが人文学を学ぶということです。

この混乱期を生き延びていくためには、できるだけ視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の情勢を俯瞰することが必要です。
~~~

これ、人文学を「読書」や「地域探究」に置き換えても同じだろうなと。ヘリコプター(ドローンでもいいけど)に乗って、世界を(歴史的地理的民俗学的視点からも)俯瞰して見る方法の1つとして読書や地域探究はあるんだと。

さらに(僕が少し編集しましたが)、「実学」についても以下のようにバッサリ行きます。
~~~
政治学や経済学や法学といった「実学」というのは、既存のシステムが正常に作用している時代の、いわば「平時の学問」です。ある数値や理論を入力すれば、こんな出力があるという入力出力の相関が計算できる場合にはきわめて効率がよい。それに対して、自分が存在し、生きているこの社会の成り立ちや学問領域そのものの意味を問いかけていく人文学は、いわば「乱世の学問」です。
~~~

そうなんだよね。だから歴史だったり哲学だったりが必要なのだよね。
金魚鉢そのものがもうすぐ割れちゃうかもしれないんだから。

そしてこの文は、「自分が機嫌よくいられる場所」を探そう、と締めくくられます。
~~~
武道的な意味での「正しい場所」とは「どこにでもいける場所」のことであり、「正しい時」というのは「次の行動の選択肢が最大化する時」のことだからです。

「正しい位置」というのは、空間的に決まった座標のことではなくて、その時々において最も自由度の高いポジションを選択できる「開放度」のことだからです。

これと同じで、生きていく上で最も大事なのは、ニュートラルで選択肢の多い、自由な状態に立つことです。それはできるだけ「オープンマインド」でいることと言い換えることもできます。オープンマインドこそは、学ぶ人にとって最も大切な基本の構えです。
~~~

そうなんだよね。そういう「場」が必要なんだよね。ひとりひとりにとってその「場」が違うんだよね。
坂口恭平さん的に言えば「学校社会」のルールとは異なる無数の「放課後社会」が必要なんだよね。
そしてその「自分が機嫌よくいられる場所」の価値は、身体的なものであり、本人にしか分からない。つまり「計測不可能なもの」。

この「計測不可能」な余白を許容できなくなっているんだな。
金魚が金魚鉢ではなくて、広い川で泳いでいた時のような。

この文の少し前に、格付けできないのが「知」と題して、人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減少していることに対して、考察している。
~~~
「数値的な格付け」に基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。

というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。

独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。
~~~

うう。うなってしまうね。
「個性を発揮せよ、独創性を持て。」と言うならば、それを格付けすることをやめなければならない。その計測可能性を捨てないといけない。

「学校」は、「教育」は、「まちづくり」はどうなんだ?と問いかけてくる。

「越境」し、他者や本と「対話・協働」し、「試行・省察」すること。
金魚鉢の外の広い世界や、新たな自分を「発見」し、「変容」し続けること。

そのベースキャンプに、本屋や図書館がなったらいいと思うし、自分がニュートラルになれる無数の余白が、まちにたくさんあったらいい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)学び日記

2021年08月16日

「勉強」という乗り物

雨だったのでいろいろ乱読。読み終えたのはこの2冊かな。


「読書からはじまる」(長田弘 ちくま文庫)


「日本哲学の最前線」(山口尚 講談社現代新書)

なぜ「本/読書」なのか?
なぜ「まなび」なのか?
そんな問いの海をプカプカと浮かんでおりました。

「読書からはじまる」の
第2章は「読書のための椅子」。

その本をどんな椅子で読むか?
ってとても大切な問いだなあと。
空間として椅子にこだわりたいなあと。

そして「日本哲学の最前線」では、
大好きな國分功一郎さんの「中動態」の話から始まって、
6名の哲学者たちの現在進行形な哲学のベクトルが示されている。

テーマは「不自由とどう向き合い、真の自由を手に入れるか?」だ。

今日はこの本の第三章 偶然の波に乗る生の実践‐千葉雅也『勉強の哲学』より。

キーワードとして押さえておくのは「非意味的切断」。
~~~
意味的切断が「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」という意図に導かれながら情報収集をやめて次の行動に移る過程」のことを指すのに対し、非意味的切断とは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害と言った「有限性(finitude)」のために、あちこちを乱走している切断である。
~~~(本書より引用)

そして「非意味的切断は現に偏在する」と指摘し、「私たちは偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として『善用する』しかない」と説明する。

そして、ここから「勉強」の本質を鋭くえぐる。

~~~
勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。なぜなら《いま取り組んでいる物語が自分をどこへ連れていくか》は勉強するものにとっては前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性を持つ。

例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。(中略)そして―多くの人が経験から知るとおり―勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上はいけないな」と感じると別の一冊に向かう、というやり方のほうが享楽も多く意欲も持続する。

勉強を続けるには、<不意に読めなくなったときに警戒に中断してとりあえずイケる本を開くという柔軟な姿勢‐すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢‐こそが重要になる。偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけではなくその創造性も増しうる。
~~~
「勉強」とは乗り物なのだな、と。しかもそれは行き先が分からず、生成変化し続ける乗り物なのだ、と。

さらに「不自由」からどう脱出するかについても「勉強」が有効だとする。
※ノリ=コード(規範)のこと。
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。

勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。

とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~
「越境」の意味とはそういうことか、と。
そして勉強の結果起こるのは「成長」なんかではなく「変化」に過ぎないのだと。

このあと本書は千葉さんの具体的方法として「アイロニー」(一歩退いた姿勢)と「ユーモア」(コードをズラす発現)

そして「こだわり」について。
~~~
こだわりとは、何なのでしょう。
何かの作品、あるキャラクター、味や色、言葉などへのこだわりをもっている。それがなぜ自分にとって重要なのか、ある程度なら理由を説明できるかもしれません。しかし、こだわりとは、この身体にたまたま生じたもの、何か他者との偶然的な出会いによって生じたものであり、根本的に言って理由がない。こだわりには、人生の偶然性が刻印されている。偶然的な出会いの結果として、私たちは個性的な存在になるのです。
~~~

そうだよね。いまの自分っていうのは、まさに「偶然≒非意味的切断」の産物なんだよ。
5年前から今を目指して努力してきた直線の延長上には自分はないんだよね。

だから、人は「勉強」するし「読書」するんだよね。
生成変化の「過程」にある自分として。

ラストに「読書からはじまる」の最終章から「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」というキーワードを。

~~~
今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えばモノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして情報というのは物流・流通に似ています。

簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。

「育てる」文化と「分ける」文化というのは拠って立つものが違います。「育てる」文化の基本は、個性です。「分ける」文化の基本にあるのは平等です。今日の世界に広くゆきわたったのは平等の文化の景色です。

この国が情報社会として「分ける」力をつけるにつれて、逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。

「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。
~~~
このあと、「蓄える」文化の担い手として、いつの時代も図書館があり、図書館をのあり方について問いかけてきます。

この「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」は、「産業」だけでなく、いわゆる「教育」や「学び」のジャンルにおいても、「まちづくり」のジャンルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

いつのまにか本は「情報」を運ぶ箱に過ぎなくなった。
分けられ、選ばれ、消費されるものになった。
図書館カードは通帳化され、貸出冊数が見える化された。

民間図書館や小さな本屋さん古本屋さんをやる人たちっていうのは、そんなふうに「情報」として、分ける文化としての本ではなくて、育てる文化、蓄える文化の担い手としての場になることの大切さを本能的に感じている人たちなのではないか。

本は「育てる」し読書は「蓄える」。
そして本のある場には、千葉さん的に言えば「偶然≒非意味的切断」がある。

そうやって人は「越境」し、「生成変化」し、新たな自分となる。
その「過程」をただ、歩んでいるだけなのかもしれない。

まず「越境」するために「勉強」という乗り物が必要なんだな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:55Comments(0)学び日記

2021年08月07日

巻き込まれて越境し、ふりかえりで意味と自分を知る

8月26日(木)の愛知フォーラムは残念ながらオンライン開催となってしまいましたが、
https://www.agareimei.com/posts/19710629

昨日はそのフォーラムのリハーサルを兼ねた主に保護者対象のトーク企画でした。小さな離島で「島留学」をしている中3生の保護者の方に、フォーラムのプレゼンの予行練習に付き合ってもらいました。

プロジェクトという「場と機会」に自分を差し出すことで「見つけ合うまなび」をつくっていきたい、と。

その後30分の対話の時間。
彼の暮らす小さな村では地域の団結が強く、行事が多数行われるのだという。それに参加しているうちに、両親が目を見張るほどに変化していったのだという。

あらためて思い出したこと。
「巻き込まれる」から冒険は始まる、ということ。

検索したら過去にこんなブログを書いていた。
「冒険は巻き込まれるところから始まる」(15.2.1)
http://hero.niiblo.jp/e462263.html

世の中のロングセラーと呼ばれる冒険の物語の
スタートの多くは自分の意思とは無関係に
巻き込まれるところから始まっているのだという。

名作RPGと言われる「ドラゴンクエスト」。
生まれ育った町が何者かに襲われる。
王様に呼ばれる。「君は勇者だ。」

え?おれ?勇者?なの?
と言っているあいだに冒険は始まっている。
たぶん、そんなものなのだと思う。

8月1日のブログに、はじめに越境ありきと書いたが、
実はその「越境」とは、巻き込まれることによって起こるのかもしれない。

昨日は「地域学」のまちづくりチームの課外活動で、
新潟の沼垂商店街の見学と、阿賀町の空き家の中の整理をを行っていた。
2年生2名が参加。



おそらくはそういう視点でまちを見たことがなかっただろうな、と。

まちづくりチームを率いる
阿賀まちづくり株式会社の高橋眞也さんの人柄と情熱に「巻き込まれた」んだろうなと。

きっと冒険は、そうやって始まるんだ。

「やりたいことは何か?」とその子の意志を尋ねるのではなく、
まずは「越境」だし、それは巻き込まれることから始まる。

その現場で、心が動く。
ふりかえり心の動きをキャッチして、その活動の意味と自分を知る。

「自分」とは「何をやりたいか」なんかではなくて、「どうありたいか?」「どの方向へ向かうか?」なのだと思う。
「目標」(やりたいことやなりたい自分)などではなく「現在地とベクトル」こそが「自分」だと思う。

それを知るために、まずは巻き込まれて冒険をするんだ。

はじめに「やりたいこと」や「意志」があるのではない。はじめに「巻き込まれての越境」があり、その行動を振り返ることで行動の意味と自分を知るんだ。

世の中は「挑戦」に偏重し過ぎているのではないか。
意志があり、やりたいことがあり、挑戦がある。

しかし。

予測不可能なVUCAの時代(社会)が来ている、ということにはみんな同意をしているはずなのに、なぜ「挑戦」に価値を置くのだろうか。予測不可能な時代において起こっていることは、単純に「目標設定の価値の(相対的な)低下」である。だって、その方向に未来がないのかもしれないからだ。

オリンピックのような競技を見ていると、やりたいこと、なりたいものを決め、その目標に向かって「挑戦」することは美しいとは思うけど、実社会においては、挑戦の延長上に未来がないかもしれないのだ。

例えば、馬車が自動車に置き換わっている時に、「日本最高の馬車馬使いになるぜ」って目標を決めているかもしれないのだ。(美しいけども)

もっと感覚を、身体性を磨いて、ステキな大人(だと自分が感じる人)に心を開き、巻き込まれて、「冒険」を始めてほしい。
「挑戦」ではなく「冒険」なんだ。

「冒険」の途中で振り返りながら自分の現在地とベクトルを知るんだ。
阿賀黎明高校の「地域学」がそんな「冒険」の舞台になったらいいな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:47Comments(0)学び日記

2021年08月05日

「個」と「システム」、そして「場」と「余白」


サウナのあるオフィス、はたらクリエイト(ハタクリ)の佐久オフィスにお邪魔してきました。
(サウナ前で井上さんと)

上田オフィスはこんな感じ。


ハタクリサイト
https://hatakuri.jp/
もう、いろいろ圧倒されて「サウナめし」の試食までさせてもらって、ずっとビックリしてました。
「場をつくる」ってこういうことなんじゃないかって。

ハタクリは、サイトに書いてあるように、はたらくをクリエイトすることで仕事を楽しむ人を増やす、というミッションの元、子育て中のお母さん等がスキルを磨いて段階的に再就職していく場などを提供している。

その人と人とのコミュニケーションのデザインも試行錯誤しながらかなり作りこまれていて、これは寮運営にとってもすごく参考になるなあと思った。

ハタクリの人を育てるコミュニケーションシステム(個人の強みや性格を開示したり、フィードバックしたり、〇〇係をつくったり)は、よく「学校みたいですね」と言われるらしい。

たしかにやっていることは、学校みたいなのだけど、そのベースにあるものが「個」なのか「システム」なのかの違いがあると思った。

この前の大城さんの福祉の話ではないけど、「その人に出会う」ことを大切にしたシステムと、組織や会社を「運営・マネジメントする」ことを大切にしたシステムとの違い。いや、もちろん、「個」と「システム」は、相互に関係しあっているから、両方ともの要素が必要なのだけど。

ハタクリはそのあいだに絶妙に「場」をつくっているから、人が育ち、組織も成長していくのだろうと。
「その人に出会う」ことと、「組織を運営・マネジメントする」の動的平衡の絶妙な「場」を作れるか?っていう。
そういうアートに挑んでいるんだなあと。

たぶん「学校」も「寮(地域や家庭)」も同じで、学校はどちらかと言えば、システムを重視して、そこに適応できる人を育てていくことに重きが置かれ、寮はどちらかと言えば、「その人に出会う」ことを重視して、構成員に合わせシステムの方を育てていくことが大切なのだろう。

たぶん、場をつくる意味ってそういうことなのだろうなと思った。

その「場をつくる」ときに、必要となってくるのが、シロウト(素人)の意見なのかも。
「専門家」と呼ばれる人たちは、その世界に長く暮らしているので、当たり前を疑うことが難しくなる。
(超一流の専門家は、それをいとも簡単にやるのだろうけど。)

「私にとって建築は手段でしかない」とある学生が言っていたけど、そういう感覚こそ必要なのではないかと。「建築は手段でしかない」と言われたときに、じゃあ目的は?とかゴールは?とか聞いてしまうことこそが、近代システムの奴隷であるのかもしれないが、VUCAの時代、予測不可能な、答えのない時代において、手段が(感覚的に)分かっているということには大きな意味があるのだと思った。

専門家ではないからこそ、それを手段としていろんな目的地への行き方として使うことができるのではないか。

「では、私はどこに向かっているのだろう?」というのは永遠の問いなのだから、それを早いうちに決めてしまう必要は必ずしもない。(決めることでの安心感はもちろんある)

今回の遠征で出会ってしまった2冊の本


「シェルパ」と道の人類学(古川不可知 亜紀書房)


季刊誌『tattva』vol.2「にほんてき、ってなんだ?」(ブートレグ)

「シェルパ」はヒマラヤの山岳ガイド「シェルパ」について考察した人類学の論文の書籍化。

希望とは、もともとあるとのだともいえぬし、ないものだともいえない。それは、地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。(魯迅「故郷」)

いきなり魯迅の言葉がすごくて購入。
希望ってそういうものかと。
「道とは何か?」っていい問いだなあと。

もうひとつのtattvaは、にほんてきってなんだ?のあとに、いとなみ、たのしみ、アイデンティティ」って書いてあり、これはヤバい、と思ったのと、冒頭の黒川雅之さんのところにビビっと来たので。

~~~
西洋文化の市場価値は「知」、日本が大切にするのは「美」

例えば、車のハンドルには「遊び」がちりばめられています。ダイレクトではなく、ちょっと動かしてから反応する。人間の動きに完全にシンクロできてしまったら、すごく運転しにくい車になります。

この「遊び」は、人間がハンドルを操作するという行為とメカニズムとの間をつなぐために設けられています。そう考えると理詰めのものをつなぐあいまいな余白、つまり「間」のようなものを「遊び」と言っているのではないか。そして、余白をあえて埋めない「遊び」の感覚が、ものづくりから日々の暮らしまで隅々にちりばめられていたのが、日本文化の豊かさにつながっていたのではないかと思うのです。

しかし、そうした日本人が持っていたはずの美意識は、「知」を中心に置く西洋的価値観に染まった現代ではかなり失われています。では、どうすれば取り戻すことができるのでしょう?

日本の美意識を支えているのは、肌で感じ、香りを嗅ぎ、触れてわかる身体的な感覚です。細部を重視するので、表面的な形はシンプルになっていきます。ただ同時に「シンプルが至上である」というルールもないので、調和をあえて壊す型破りな側面もあります。ひとつの価値観に固定化されようとすると、そこに居心地の悪さを感じ、創造のために破壊するのです。そのため常に揺れ動き、確固とした思想として捉えることを困難にしています。代わりに日本人が重視するのは、「気」であり「間」であり、つまりは感覚的な調和感です。
~~~

そうか。日本的な美は、調和的なものなのだなあと。
そして調和的なものというのは、「あいだ」というか「余白」が大切なのだと。

はたらクリエイトのオフィスにある「純信州産サウナ」のような。

「個」と「システム」のあいだに「場」があり、その「場」には「余白」が必要なんだ。
その「場」と「余白」があることで、「個」と「システム」はうまくやっていける。

たぶん、そんな「場」と「余白」を作りたいんですよね、となんとなくあいまいに思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び日記

2021年08月01日

はじめに「越境」ありき



オンライン劇場ツルハシブックス
昨年5月から毎月1回開催。
なんだろうな。
気軽な哲学対話な時間って感じですかね。

なんとなくやっているのは僕の「問い」仲間をゲストに呼んでのトークセッション
※来月の8月28日はついに細井岳さん登場です!

今回は、デンマーク・フォルケホイスコーレに留学中の大城美空さんとの時差7時間トーク。
あっという間に時間が過ぎて30分も延長しちゃいました。

まずは僕のふりかえりメモから

~~~
はじめに意志ありきではなく、はじめに越境ありき。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」ではなくて、「直感で動け、そうすれば失敗しかないのだから。」

直感と好奇心で始めるから面白い。
目的や目標から始めると面白くない。
「予測不可能性」こそがエンターテイメントだから。

相手の分かる言葉で話しているか?

「自由の相互承認」は、言葉で言うのは簡単だけど、実際はすごくスッキリしないあいまいなもので、立場や意見の違いをかみしめてその場の納得解(妥協点)を探っていくことの繰り返しで、「決めたから守る」というのものではなく、永遠にその問いが繰り返される。

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのではないか。

ひとりひとり「個」のために福祉がある。しかし(この国における)福祉は制度であり、制度とはルールを決めることだ。ルールを決めなくては判断ができない。しかし、そのルールによって人は区分けされ匿名化する。

肉体的背景、精神的背景、社会的背景、文化的背景、すべてがその人を構成している。

「哲学」も「承認」も他者から教えられたり与えられたりするものではなく、思考と実践(試行)のあいだを往復することによって徐々に自分の中に形成されていくものだ。

「人材育成」は効率化できるのかもしれないが「人を育てる」とか「人が育つ場をつくる」っていうのはとてつもなく非効率な営みなのだなあ。

ルールや立場を固定すると「安定」が得られる。
しかし、そこでは1回1回の真剣勝負が失われる。
ルールや立場(肩書き)は人を匿名化し交換可能にする。

「属人的である」ということは、いまこの瞬間の関係性が大切にされ再現可能性が低い。
「誰でもできる」ことは、継続的であり再現可能性が高い。
ルールやマニュアルはなんのためにあるのか?

ルールがないということは自由であるということではなく、思考し続けないといけないということ。
どのくらいのスパンの時間軸で「効率性」「成長」を目指し、測るのか?

「立場」を演じているうちに「自分」を失っていっていないか。

ルールを作っていく、ということはふりかえりが必須である、ということ。
「迷いがある」「悩みがある」ことを肯定する。
ふりかえり⇔反省、愚痴
プロであること:「迷わないこと」ではなく「考え続けること」
~~~

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまったのではないか。
デンマークのエピソードを聞いて、そんな風に感じた。

決められたルールを守ること。
それを当たり前だと思っていた。

今回、大城さんは新型コロナウイルス危機の最中にデンマークで暮らし、共同生活の中で、外出をどう制限すべきか、について、話し合ったという。毎日酒を飲むようなお酒好きな人たちは、酒を買い出しに行きたいといい、そんなにお酒を飲まない人たちは、リスクが高いからやめたほうがいいと主張する。

自分も意見を言いながら、相手の顔を見ると、「うわ、面倒なことを言って・・・」というような顔をしている。なんらかの結論が出るのだが、なんだかスッキリしない。もやもやしていると、「こういう話がすっきり終わるはずないよね~」と当たり前のように言われる。そしてルールについて守らないヤツがいたりするので、以降も何度も話し合われ、ルールが微妙に変更されたりする。「みんなでルールを決めて、それを守ること」が当たり前だと思っていた自分に気がつく。

苫野一徳さんによれば、公教育の目的は「自由の相互承認」に在るという。
参考:価値観の多様化とは、明確な価値が失われたのと同義語である(15.6.26)
http://hero.niiblo.jp/e469959.html
参考2:「共同探究者」になるということ
http://hero.niiblo.jp/e489119.html

「自由の相互承認」と、言葉で書けば7文字でしかないのだけど、
それはとてつもない「非効率」な営みによって実現されるんだということ。

もうひとつ。フォルケには「先生」と敬称付きで呼ばれる人はいない。校長でさえファーストネームで呼ばれることもある。

そもそもルールとか立場(肩書き、役割)ってなんのためにあるんだろう?って。

ルールや立場を固定化すると、「安定」を得られる。しかし、その「安定」は同時に1回1回の真剣勝負の場を失うことと同義だ。ひとりの生身の人間として一期一会の場に臨んでいるんだという自覚を失う。

「ルールを決めて守ること」
「立場(肩書き、役割)を決めてその責任を果たすこと」
が当たり前だと思っている私たちは、「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのかもしれない。

VUCAの時代、予測不可能な時代だと言われる。
答えのない時代だ、とも言われる。
社会が大きく変化するときだ、とも言われる。

社会が大きく変化し続けているとしたら、その社会に合わせて、いまのチームの、場の構成員に合わせて、ルールを変化させ続ける必要がある。

だから、考え続けなければならない。
対話し続けなければならない。
ふりかえり続けなければならない。
それはものすごく「非効率」な営みなのだ、と。

デンマークは第二次大戦後、「教育」「福祉」「医療」に力を入れてきた。この3つは別々ではなく、それぞれの仕事に携わる人には共通の哲学を身に付けている必要があるという。

その「哲学」に近いものが、このページに書かれている「デンマーク・スタイル」なのだろう。
http://www.capnochokinbako.jp/denmark/style/

「指導から支援へ」:スタッフは問題を解決するためのサポーターであること。
「上下関係から対等な立場へ」:人としての敬意をはらい、信頼関係を築くこと。
「すべての支援はコミュニケーションから」:言葉だけがコミュニケーションではないことを知り、コミュニケーションスキルを模索すること。
「機会を与えること」:人と交わる機会、社会と交わる機会、自然と交わる機会

ミクさんが言っていた「その人に出会う」という福祉の出発点。
それをひたすらにやっていくことなのだろうと思った。

最後に、あらためて「越境」について。

まずは「越境」してみること、なのだろうと。はじめに「意志」「挑戦」ありきではなく、はじめに「越境」ありきだ。

「直感で動け、そうすれば失敗しかない」これはミクさんの恩師、長岡先生からのメッセージだ。(たぶんこれ。言い方ちがうかも)

参考:「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける(19.7.24)
http://hero.niiblo.jp/e489583.html

「やりたいことは何か?」
じゃなくて、はじめに越境があるんだ。

ミクさんが大学時代から続けてきたように、

越境し、そこにいる人たちと場を共にすること。
違和感をキャッチし、表現し、ともにルールを作っていくこと。
対話し、ふりかえり、次のルールを考えていくこと。

その繰り返しでしか「自らの未来をつくる」ことはできない。
小さな小さな、非効率な営みの先にしか、僕たちの未来はないのかもしれない。

その未来へ、15歳~18歳と一緒に歩んでいくこと。
それが僕にとっての高校魅力化プロジェクトです。

本日も「地域みらい留学合同オンライン説明会」でお待ちしています。
https://c-mirai.jp/schools/18

高校魅力化プロジェクトのページ
https://www.agareimei.com/  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学びイベント日記

2021年07月30日

「できるかも」「やってみようか」のつくり方


昨日は阿賀黎明探究パートナーズの「地域学」中間振り返りでした。

リアルな現場があることの良さは、「実現可能性」をリアルに感じられること、かなと思った。机上で「できる、できない」をやると、自信のない生徒、成功体験のない生徒は、どうしても「できない」という結論になってしまうけど、

昨日のまちづくりチームや、観光チームの話を聞いていると「いろんな方法がある」ということをリアルに体感したり、それをやってきた大人に接することで、「それくらいだったら、できるかも」が生まれていく。それって、最初の1歩なのかもしれないなと。

まず、「やりたい」という意志があるのではなく、「できるかも」「やってみようか」という感覚があるのかもしれない。

そもそも僕は、意志という神話を信じてはいないのだけども・・・
参考:「手段」としての学びから「機会」としての学びへ(19.7.6)
http://hero.niiblo.jp/e489527.html

地域学というほぼ必修の授業で(半ば強制的に)、地域のおもしろい(わけのわからない)オッサンに出会い。リアルな現場を目の前にして、「いやいや無理でしょ」が「できるかも」「やってみようか」に変わっていくこと。そこから始まっていくものがあるのではないか、って思う。

「マイプロ以前」みたいなやつ。
そこが大切なのかもしれないなと。

今日から読み始めた本
「本物をまなぶ学校」(自由学園 婦人之友社)


「自由学園」って聞いてはいたけど、実態を知らず。
いきなり冒頭からシビれております。

~~~
自由学園の「自由」とは、自然界の制約からの「自由」でも、家族やコミュニティからの「自由」でもない。過去からの「自由」でも、社会からの「自由」でもない。そして、生活と教育を切断し、頭と体と魂を切り離し、過去を切り捨てる、いわゆる自由主義者の「自由」でもない。逆にそれは、教育と生活との、頭と体と魂との、過去と未来との、個人と社会との調和を志し、それを実際に学校という場で、試し、つくりだす自由だ。

この学校の創立者たちはこう考えていたという。学校は今ある社会の模倣ではない。そこに人材を送り込むためのものでもない。学校は今ない社会をつくる人たちを育てるのだ、と。
~~~

いいですね。
「自由」ってなんだっけ?
という問いがまず投げ込まれます。

そして第2章「自分で考える、生活に学ぶ」に続いていきます。

~~~
学校は、置き換え可能な人材をつくり出す場ではなく、一人ひとりを大切にし、新しい社会へのビジョンを持った人が育つ場でありたいという信念です。ですから学校は、今の社会を模倣していてはダメなんです。今は教育現場にグローバルな競争に打ち勝つ人材育成が求められていますが、この学校は人材育成ではなく、どんな時代どんな社会にあっても、自分の人生を自分らしく歩み、そしてよい社会とは何かと自分の頭で考え、それをつくっていく人が育つことを願っています。
~~~

これですね。そうそう。
学校が「人材」を育成しているから、ますます生徒は「自信」と「存在」を失っていくのだろうと。

承認を求め、勉強を頑張り、資格を取り、技術を磨いた結果、「交換可能な人材(グローバル人材とはそういうことだ)」になってしまい、ますます承認不安(特に存在承認不安)に陥るというジレンマ。

生活の中にある、小さな「場」。
そこには、何百年と続いてきた「営み」がある。リアルな「暮らし」がある。

「いやいや無理でしょ」から大人を含めた周りの環境によって「できるかも」「やってみようか」が生まれる。
そこから始まるのではないか、と思う。

昨日の中間振り返りで福祉チームが話していた。「若い人が来ることでお年寄りたちは孫ができたみたいですごく喜んでいる。料理の話とかをしていた。今後生徒たちをどうやって活かしていくか?が私たちの課題」

そうなんですよね。チームとして、場として、どうしていくか。だからこそ、昨日の振り返りでも

「15分前に帰ってきて、全体で振り返りを行い、大人達も振り返りに(プレイヤーとして)参加する」
「その際に、自分たちの授業目標である問いを発して、生徒のリアクションを見る」

という2つが改善策として出てきました。
活動が学びにつながるように、振り返りをすること。それは高校生だけではなく、大人も一緒だということ。共に見つけ合うこと。たぶんそうやって場をつくっていくことなのだろうなと思った。

ということで、
そんな地域の大人たちがともに学ぶ授業がある阿賀黎明高校の現地説明会は8月21日(土)22日(日)です。
21日(土)は新潟駅MOYORe:で、参加型のワークショップで新しいまなびの場を構想します。
https://www.agareimei.com/posts/19611879?categoryIds=477469





22日(日)は現地見学会です。
申し込み・問い合わせはこちらから。
https://www.agareimei.com/posts/19710284?categoryIds=477469

明日7月31日8月1日は「地域みらい留学」合同オンライン説明会です。
https://c-mirai.jp/
こちらでもお待ちしています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)学び

2021年07月28日

「オレンジ星人」を作ってはいないか?


「実存的変容」(天外伺朗 内外出版社)

キーワードに惹かれて購入しました。

ティール組織(フレデリック・ラルー 英知出版)
の組織の変遷(進化)に合わせて、人はどのように変容していくか、
というのが書いてあります。

ちなみにティールに至る道は
1 レッド(衝動型)
2 アンバー(順応型)
3 オレンジ(達成型)
4 グリーン(多元型)
5 ティール(進化型)
ということでティールは青緑色なんです。

「実存的変容」を読んでいて一番ヒットしたのは「オレンジ星人」でした。(P132)

1 善良で立派な社会人、親切な隣人、良き家庭人を装うことができる
2 責任感があり、勤勉でよく働く
3 人間集団の中で、適切な立ち位置を見出し、チームワークよく仕事を遂行できる
・・・とまあ25項目あるんですけど。(長い)

つまり、オレンジな組織に適応するために
ひとりひとりが「オレンジ星人」として養成されているということです。

本書では、意識レベルの上に上がってくる下のレベルにはモンスターが住んでいて、それを抑圧して、ペルソナ(仮の自分)を作り上げていると説明されています。

~「実存的変容」というのは、モンスターの支配から逃れて自分の人生を取り戻すことです。~
と本書にはあるのですが、「変容」という言葉にビビっときます。

いちばん面白かったのは、ココ。
成長のための方法論である「目標をしっかり持ち、それに向かって努力する」は「意識の変容」にはまったく役に立たない。

まさに学校は、オレンジ星人をつくっているんじゃないか?

それは適応であって、価値ではないのではないか。
そんな風に感じています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)学び日記

2021年07月23日

「存在」と「創造」

来週31日のオンラインツルハシ打ち合わせ。
デンマークのフォルケホイスコーレに留学中のミクさんと話をしていた。
問い(ベクトル)が近い人と話をするのは楽しい。

タイトルは、
その人自身に出会える仕組みとしての「福祉」
~海を見せる学び舎フォルケホイスコーレより
かな。

僕としては高校や寮運営にも通じるなと思って聞いてました。

・「先生」と「生徒」のようなロール(役割)がない。
・対話することで決めていく。
・プレゼンス(存在)とトゥギャザネス(一緒にいること)
・人間中心主義としての福祉:その人自身に出会える仕組みづくり
・ルールはなくて哲学がある
・海を見せる。船は自分で作ってね。

みたいなメモ。
来週31日をお楽しみに。

そうそう。
ロール(役割)ね。

生徒と先生。
高校生とサポーター。
そのロールとして人は人に接してしまう。
ロールは人を数字、統計データにしてしまう。

昨日、違和感があったのは「成長」という言葉だ。
VUCAの時代に「成長」なんてあり得るのだろうか?なんてことを考えてしまう。

高校生に対して、「成長した」という評価をすることは、世の中が(または共同体が)確実にそちらのほうに向かっていて、そこに役に立つ人材になった。という意味になると思う。

できないことができるようになる。
それは「成長」ではなくて「変化」にすぎない。

昨日の夜は「進化思考」の読書会的集まりだったのだけど。


その前に本を読み直していて、思ったこと。

~~~
自分は生きていてもいいんだという「存在の承認」を家族ではなくて「場」が代替できないか?という問いに挑んできたのかも。その「場」は「進化思考」的に言えば創造の場で、変異(多様性、一回性)と適応(営み、長期的)の真ん中にあるもの、なのかもしれない。「創造」と「営み」の交点に存在が生まれる。

わたしたちは進化し続けている。環境が変わり続けているとしたら「成長」などあり得ない。そこには「変化」があり、それが「進化」であったことを事後的に知るのだ。その過程に立っているとしたら、僕たちはみな1年生であり、今日が残りの人生の最初の日であり、これまでの人生の最後の日なのだ。
~~~

「成長」(進化)とは、事後的にわかるものであり、現時点では「変化」にすぎない。

簡単に「成長した」という評価をすることで、高校生は「行為の承認」を得てしまうのではないか。
その前に「存在の承認」が必要なのではないか。

「福祉」とは、その人自身に出会える仕組みづくりだとミクさんは言った。
まずはどこまでもその人を知ること。過去だけではなく、今どう感じているか?を知ること。知りたいと思うこと。

「存在の承認」が得られる「場」をつくること。それはロール(役割)から解放され、その人自身を見ることであり、弱さも貴重なひとつの変異として、創造する場の一員としてそこにあること、なのかもしれない。

「存在」と「創造」。そんな場をつくりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:19Comments(0)学び

2021年07月22日

LOVE&FREE

2001年。
サンクチュアリ出版の営業デビューしたときに
最初に営業した本。


「LOVE&FREE」(高橋歩 サンクチュアリ出版)

新潟市内の本屋をくまなく回って、
「はじめまして、サンクチュアリ出版です。新刊のご案内に・・・」みたいな。
「え?紀行文?旅エッセイ?ウチそういうの弱いんだよね~。じゃあ棚イチで。新刊なら3冊で平台おいてもいいけど。」みたいな。
「平台お願いしまーす」みたいな。
結果、この本が順調に版を重ねることで、僕は出版社の営業として本屋さんに話を聞いてもらえるようになった。

ちなみにこの本は名言が詰まっていて、ラストはドキドキしてページをめくる手が止まらなくなります。
先日紹介した「夢があろうとなかろうと楽しく生きてる奴が最強」も、祭りの写真とともに納められています。今でも震えるなあ。

という前振りで。
本日は、NHK100分で名著「善の研究 西田幾多郎」(解説 若松英輔)


「善の研究」は難解であると言われていて、まだ読めてないのですが、
こういう入門編があるといいですよね。
なんとびっくり若松さんは最終章である「知と愛」から読んでいけ、と言います。

~~~
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるか、一言にて言えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。(第四編 宗教 第五章 知と愛)

「知る」と「愛する」という営みは一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。

普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。(同前)

ここでの「人格的対象」は、「生けるもの」と置き換えることができます。「非人格的対象」は「止まっているもの」ということになります。私たちは「生けるもの」を生きた存在として感じるとき、内なる愛をもってそれに接する。だが、愛が失われた目で世界を見るとき、「生けるもの」は生命なきもの、すなわち「止まっているもの」であるかのように映る、というのです。

また我々が他人の杞憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。(同前)

「知と愛」は西田にとって同じもので、二つは別な側面を持っているだけなのです。それを近代人は分けて考えてしまっていた。私たちは「知と愛」をもう一度、一緒にしなければならない。さらに、それを一つにすることによって見えてくるものを世に告げることが哲学の役割だというのです。

西田にとって「愛」とは生けるものの本質を掴むちからです。花の中には生けるもの、いのちがある。それを感じたときに私たちは花を愛し、そして花に愛されていると感じる。花に愛されるというのは、花との交わりが生まれるということです。
~~~

なるほど。「知」と「愛」ですね。
「主客合一」とか「主客未分」は僕も好きな概念です。

「私」を外すという美学(17.3.28)
http://hero.niiblo.jp/e484378.html

ここに書いた西田の言葉。
「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ。本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」
これ「中動態の世界」にも通じていくなあと思ってます。

愛とは、分けないこと、そして感じること、なのかもしれません。

そして「個」と「善」についての記述に移ります。

~~~
近代では、「個」が尊重され、「私」が「私」の人生を「私流」に生きることがよしとされました。それ以前はさまざまなところで「個」が束縛され、大きな不自由を強制されていたのです。国、宗教、共同体などが「個」であろうとすることを阻害していました。

「個」の自由、これは社会的な出来事としては、大変重要な、文字通り革命的な出来事でした。しかし、「個」で生きることに慣れた私たちは、他者とのつながりを忘れがちになっていることも否めません。

社会生活における「個」と、他者と共にある「個」は両立し得ます。この二つの「個」がともに開花することが、西田のいう「善」なのです。
~~~

これ、「LOVE&FREE」に書いてあることじゃないかって。
高橋歩さんは、「LOVE OR FREEじゃない。LOVE&FREEなんだ」と言った。

社会生活における「個」と他者と共にある「個」は両立できる。
まさに「愛」と「自由」は両立できるのだと西田幾多郎は言うのです。

たぶんこういう感覚が高校生たちにとって必要なのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 12:40Comments(0)学び

2021年07月19日

必要なのはゴールではなく、ベクトルそのもの


「ひとはなぜ認められたいのか」(山竹伸二 ちくま新書)

読みました。

「自由」と「承認」そして「アイデンティティ」。
そんなキーワードの人にオススメです。
特に「やりたいことがわからない」と深刻に悩んでいる人。

まずはその原因、
「やりたいことがわからない」はなぜこんなにも苦しいのか?
を探ってみませんか?

3年前に書いたのはこれ
「夢」や「目標」にアイデンティティを依存しないこと(18.9.25)
http://hero.niiblo.jp/e488165.html

若者のアイデンティティ不安は、「役割」の喪失から来るのではないか?という仮説。
「役割の喪失」は「承認の喪失」という見方もできる。

「ひとはなぜ認められたいか」には、歴史を振り返って、以下のような記述がある。

~~~
近代以前の価値観が一元化された世界では、その価値基準に沿った行動しか許されなかったため、自由に行動することはできませんでした。しかし、その価値観に合わせて行動していれば、周囲から認められ、自分の価値を見出すことができます。特に宗教的価値観の影響は大きく、ヨーロッパにおけるキリスト教、中東地域のイスラム教、インドのヒンズー教など、宗教は古代からその社会の行動の価値をはかる重要な基準だったのです。

しかし科学の発達とともに、こうした宗教的な価値観の絶対性はゆらぎ、それと同時に、人間は自由に生きる権利がある、という考え方が生まれました。啓蒙思想の広がりとともに、自由に生きられる権利が構想され、世界は徐々に「自由な社会」を理想とするようになったのです。

とはいえ、近代になっても最初は伝統的価値観が根強く残っていましたからその価値観に反する考え方、新しい生き方を示せば、社会から批判され、自分勝手な利己主義と見なされました。

「個人の自由」と「社会の承認」が対立し、自由と承認の葛藤に悩まされる人が増えていったのです。

やがて20世紀になると、科学技術の進歩、資本主義社会の発展、二度の世界大戦を経て、伝統的価値観は徐々に解体されていきます。

社会は個人の自由を大幅に認めはじめ、社会に対する抑圧感、社会との葛藤も薄れましたし、多くの場面で自由に行動できるようになったのも事実ですが、今度は承認の基準である社会の価値観が不透明になったので、どうすれば周囲に自分の価値を認めてもらえるか、それがわからなくなってしまったのです。

承認不安はアイデンティティの不安と密接に関係しています。

近代以前なら共通の社会規範・価値観によってアイデンティティも明確でしたが、そうした大きな価値観がなくなると、私たちは根無し草のようになり、自分が何者なのかを自分で探し求めなければなりません。しかも、自由な社会であるはずなのに、「自分らしく生きろ」とか「個性が大事だ」などと言われながら、独自のアイデンティティを見出す必要性に迫られています。

認められるための価値基準を失った人々は、強い承認不安に煽られ、身近な人々の言動に左右され、同調行動に駆られやすくなりました。しかしそのような行為は、とりあえず批判を免れ、かりそめの承認を維持することはできても、自分の存在価値に自信を持つことができません。
~~~

まさにこれ。私たちは、自由になったからこそ、承認される基準を失ったのです。
そしてこの傾向が強まるのが小学校高学年から中学生くらいの思春期であると言います。
そしてまさにこの時期に、学校(的)社会においては、いわゆるキャリア教育という名の何かが始まるのです。

プロフェッショナル的なビデオを見せられたりロールモデル的な大人の講演を聞いたりして、「やりたいことは何か?」「将来の夢(なりたい職業)は何か?」という問いを受けることで、「やりたいことがわからない」という苦しみを抱え、アイデンティティの不安に苛まれることになるのではないか、というのが僕の仮説です。

本書にも書かれているように、まず取り戻されなければいけないのは「存在の承認」(ありのままの自分を認めること、認められること)です。

~~~
「存在の承認」が保証されれば、私たちは自由に生きることができます。あるがままの自分が否定されないのですから、それも当然でしょう。だから、「存在の承認」は自由の承認でもあるのです。そこに自由と承認の葛藤はありません。自由と承認の葛藤は、自由と「行為の承認」との葛藤であり、自由な行為に対する価値評価が問題になるときにのみ顕在化するのです。

承認不安の増大は自由に行動することを不可能にします。理由は二つあって、ひとつは不安を避けることで心身ともに疲れはて、やりたいことができなくなるから。もうひとつは、承認不安は「自由に行動すれば人から認められないかもしれない」という不安でもあるからです。

自由に生きるためには、自分の「したい」ことを自覚し、それを遂行する力が必要なのですが、それは「自己了解ができる」ということでもあります。自己了解の力が形成されるには感情が受け入れられ、共感を得ることが必要です。

ロジャースは共感や自己一致をセラピーの中心に置き、カウンセラーやセラピストに必要な条件は、相談者を無条件に価値ある存在として配慮すること、相談者の感情に共感し、理解しようとすること、そして自分の感情を自覚し、言動が一致していることという三つの条件を示したのです。
~~~

「存在の承認」をどのようにつくっていくか。
これはすごく大きな課題なのだろうなあと。

あと、前半部分ですごく思ったのは、「やりたいことは何か?」という問いに対しての向き合い方が違うのではないかと。

「探究」とスピノザ哲学(20.12.2)にあるように
http://hero.niiblo.jp/e491214.html
人間の本質はカタチではなくコナトゥス(こうあろうとする力)であるとすれば。

本当に必要なのは、やりたいことやなりたい職業っていうゴールではなくて、
ベクトルそのものなのではないか、っていうこと。

ベクトルがあれば、人は生きられる。
そのベクトルをつくる方法論のひとつがゴール(目標)を持つことだとは思うけど、それは唯一の方法ではないのではないか、ということ。

言語化されない、心動かされる何かによって、生まれてくるベクトルもあるのではないか、って。
そのベクトルこそを必要としているのではないか。

そのためには、感性を発動させる環境に身を置くことだし、「存在の承認」を与えてくれる場、あるいは他者に囲まれていること、なのだろうね。

そんな「場」をつくりたいのですよ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び日記

2021年07月18日

「自由」を取るか「承認」を取るか


「ひとはなぜ認められたいのか」(山竹伸二 ちくま新書)

本屋「ツルハシブックス」時代(2013年ごろ)近くにあった新潟大学の学生の話を聞いていて、猛烈に印象に残った言葉。
「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」

本人たちにとっては、生きるか死ぬかに値するような大きな問い。

そして、その解決策を
「(自己を分析して)やりたいことが見つかること」「(小さな挑戦と成功により)自分に自信をつけること」
だと思っていること。

本当か?
って思った。

そもそも「やりたいことがわからない」ことが課題なのか?
「やりたいことがわからなくて苦しい」ことが本当の課題なのではないか?

サンクチュアリ出版を立ち上げた高橋歩は著書「LOVE&FREE」の中で言う。
「夢があろうとなかろうと楽しく生きてる奴が最強」だと。

ではなぜ、「やりたいことがわからない」はこんなにも苦しいのか?

その原因について知りたいと思った。(探究の入り口)
ひとつは、いわゆる「キャリア教育」の目標設定・達成型の仕組みが時代・社会に合っていないこと。
(これについては、他の記事でたくさん書いているので今回は触れない)
参考:http://hero.niiblo.jp/e273966.html (夢リテラシー 13.7.18)⇐8年前の今日ですね

もうひとつが、「承認(欲求)」だった。
参考:http://hero.niiblo.jp/e291471.html (承認欲求と他者評価 13.10.24)

この承認には3種類あるっていうのがヒントになって、たくさんの大学生にこの本を薦めた。

1 親和的承認
家族、恋人、親しい友人など、愛情と信頼の関係にある他者によって、「ありのままの自分」を無条件に受け入れてもらっていると感じられるような承認である。

2 集団的承認
集団が共有する価値観・ルールに基づいて行動することで集団にとって必要な存在となり、承認を得ることができる。

3 一般的承認
不特定多数の他者一般から認められること。例えば、災害ボランティアで現地に赴くというのは、なかなかできることではないから、一般的に、素晴らしいことだと思われる。そのような承認。

この本を読んでいて思い出したことがある。2004年の中越地震ボランティアだ。震度7の川口町で長期的に活動していたボランティアのひとりに聞いた。「こんなに仕事休んで大丈夫なんですか?」大丈夫だった。なぜなら仕事をしていなかった、いわゆる「ニート」状態だったからだ。そんな彼を駆動させていたのが被災者からもらう「ありがとう」だったのではないか。そこに「承認」があったのではないか、と改めて思った。

そして、2021年、待望の続編がこの本。
「ひとはなぜ認められたいのか?」

今回もより分かりやすく、時代・社会に合わせる形で(コロナ過の同調圧力とかも書いてあります)「承認」という課題について書いてあります。

まず最初に考えないといけないのは、「存在の承認」と「行為の承認」です。

上でいうところの1親和的承認:ありのままの自分を受け入れてくれることがまさに「存在の承認」です。役に立っているかどうかに関わらず、そこに存在しているだけで価値があるのです。

2集団的承認については、その集団にとって価値のある行為が承認の条件ですから、基本的には「行為の承認」です。学校の部活で、先に出て仲間のために練習の準備をしていたら、仲間から評価され承認されるでしょう。3一般的承認も「行為の承認」要素が多くなります。

ここでもう一つ、本書では「自己承認」というキーワードが出てきます。つまり「自分で自分を承認する」ということです。たとえばSNSでいいね!が付くなど、自己承認を助けてくれるツールもあります。自分が属する集団において承認の不安があっても、社会の中で共有されている価値観を理解していれば自己承認によって乗り越えられる可能性があります。

次に紹介したいのが「自由」と「承認」の葛藤です。

自由への欲望(~したい)と承認への欲望(~すべき)はしばしば葛藤します。自由になりたいと思いながらも、親や先生の言うことを守ることでしか承認が得られないとしたら、それは葛藤することになります。

「承認不安」にどのように対処するのか?について、本文には以下のように書かれています。

~~~
承認への欲望を優先する対処法でよくあるのは、「コミュニケーション・スキルを磨く」というものです。コミュニケーションの上手い人は、周囲の人々の受けもよく、好印象をもたれやすいため、「受け入れられている」「認められている」と感じる機会が多いはずです。

そもそも現代社会は第3次産業が中心で、コミュニケーション能力が仕事の評価に直結しやすい面がありますので、この力があれば承認を得る可能性が非常に高くなります。

周囲に同調し、過剰に場の空気を読み、自分の本音を抑えることでしかコミュニケーションを乗り切れない人は、自由を失い、自己不全感を抱くようになるでしょう。

一方、自由を優先する場合には、「承認を求めずに自分のやりたいことをやる」という態度に徹するやり方があります。

しかし、他人の承認を気にしないですませるためには、自分なりの信念、価値観を信じ、自己承認できなければ難しいと思います。それが独善的自己承認によるものならば、周囲の承認は得られないため、やがて耐えきれなくなり、承認不安が再び募る可能性が高いです。

そもそも承認不安の強い人は、周囲の目など気にするな、自分のしたいこと、すべきことをすればよい、と助言したところで、「それができるなら苦労はしない」と思うはずです。

また、幼い頃から承認不安を抱えてきた人は自分のしたいことを思う存分にした経験が乏しいため、自分がなにをしたいのか、なにをすべきなのか、よくわからないかもしれません。
~~~

これなんじゃないか?
「受験勉強して国立大学に合格する」っていうのは、「承認」を優先したってことなのではないか、って。

だからこそ大学に進学してしまったが最後、評価者(評価してくれる他者)を失い、不安になり、どうすればいいかわからないのではないか?

ここで、承認不安を解決するための自己分析の方法が紹介されています。
1 自分の心の動き(本心)を見つめる
2 したい(欲望)とこわい(不安)が浮かび上がる:自己了解
3 したいのにできない、こわいのはなぜか考える
4 自己ルールを自覚(したいけど、〇〇しなければ、嫌われる)
5 自己ルールの分析(過去の人間関係、出来事を振り返る)
6 自己ルールが歪んでいれば修正する。

これを支援できるとしたら、大切なのは最初の信頼関係づくり、つまり親和的承認です。

これをどうつくっていくか?しかもそれを個人対個人ではなくて、「場」としてつくっていけるか?その「場」の構成要素としては人だけではなく、本とか本棚とかも有効なのではないか。(本棚から人も世界も多様であり、多様であっていいというメッセージを発することができる)

「誰と」「いつ」「どこで」というような瞬間的な「場」と「営み」と呼ばれるような人生を超えた時間軸を合わせもつような空間をつくっていくことなのではないか。

それによって、高校生だけではなく、関わるスタッフも、地域の大人も、「自由」と「承認」を同時に満たしていけるような、そんな場をつくれないだろうか?

これが僕のいまの探究テーマ(問い)です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:25Comments(0)学び

2021年07月17日

一生残る問いを投げかけることができるか?


「探求のススメ」(宮地勘司 教育開発研究所)

15年以上にわたり、「クエスト」という教育プログラムを
学校現場に提供してきた「教育と探求社」代表の宮地さんの渾身の1冊。
「総合的な探究の時間」の設計している人にはおすすめの1冊。

タイムリーすぎて泣けてきました。本屋の神様、ありがとう。(新潟紀伊国屋書店で購入)
実践者の言葉はホントすごいなと。かっこいい。

まず紹介したいのは
「ファシリテーター」としての教師のあり方。

「教育と探求社」の「クエスト」プログラムでは、ファシリテーターのあり方として以下の4つを先生方に伝えている。

~~~以下P39~引用

1 信じること
どんな生徒のなかにもある、成長の可能性を信じることです。生徒が自分の思いを発露すること、仲間とのやり取りのなかから新たに何かをつくり出すこと、そこから新たな学びを得ること、そのことが生徒にとっては歓びとなり、成長となること。たったひとつの正解も、勝ち負けもない世界では、誰もがオンリーワンの輝きを放つことができます。そのことを教師が深く理解していることが大切です。

2 感じること
生徒の微妙な変化、柔らかな変化を常に繊細に感じ取ることです。表には出せなくとも、生徒の心のなかにはさまざまな揺らぎや複雑な変化が瞬間ごとに起こっています。先生はそこに意識を向けてください。わだかまりや違和感がありそうな顔、なにか言いたそうな気配に敏感になり、必要に応じてタイムリーに声かけをします。生徒の最終アウトプットの出来不出来で判断するのではなく、それ以前にある柔らかな心の動きと対話するようにしましょう。

3 待つこと
生徒の成長は、計画的、合理的には起こりません。それは生徒の内側から潮が満ちるように自然に起こります。赤ん坊が言葉を発するとき、自分の足で立ち上がるタイミングを計測することはできません。
知識の詰め込みやスキルのトレーニングであれば、どれくらい時間をかければどれくらいの成果が出るのか、ある程度予測できます。しかし、人の本質的な成長は、時間で計測したり、予測したりすることはむずかしいものです。教師は全力で応援し、信じて待つことしかできません。そしてそのような教師の意識やあり方こそが、生徒を安心させ、信頼を醸成し、成長を促すことになるのです。

4 一緒にいること
これまでの学びにおいては、先生は知識の番人として生徒の向かい側に対峙していたかもしれません。膨大で、複雑で、堅牢な知の体系を教師は自らの後ろに背負い、それを分解し、少しずつ、わかりやすく、秩序立てて、ときに事例をまじえながら生徒に届ける役割を担っていました。
しかし、クエストの学びにおいては、生徒は知の探求者です。自らの興味・関心に沿いながら、まるでRPG(ロールプレイングゲーム)のように、積極的に学んでいきます。先生はそんな生徒の伴走者として常に生徒の傍らにいて、同じ方向を向き、生徒を応援しながらともに歩んでいきます。教師は、管理者、裁定者の地位を自ら進んで降りることが必要です。

~~~ここまで引用

あまりにも大切にしたいので、写経してしまいました。
すごい。

信じること、感じること、待つこと、一緒にいること、ですね。

スクールウォーズの「愛とは、相手を信じ、待ち、許してやること」を思い出しました。

あとは大事マンブラザーズバンドの「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと」と。
(いまユーチューブで検索しました。笑)

特に大人に必要なのは、「感じること」なんだろうと思います。
生徒のちょっとした変化を感じ、タイムリーに声掛けをする。
それが大人にとっても大きな学びにつながるのだろうと思います。

あとまた少しメモを。

~~~
子どもが自ら学びを取り戻すための工夫
1 自分が学びの起点となる。
野性的な学びの力を賦活するためには、自分という存在が欠かせません。社会構成主義で言うところの唯一無二の客観的真実があるのではなく、意味が関係性の中に立ち現れるという学習観においては、自分の存在自体が学びのプロセスに含まれている必要があります。
水槽を客観的に外から観察するのではなく、自らもその水槽の中で魚たちとともに泳ぐのです。客観的な個体のような知識の塊を自分という袋の中に順番に入れていくような学びではなく、世界と自分との対話を通じて、その関係性の中に意味が立ち現れるわけですから、自分という存在なしには学びは起動しないのです。
(中略)
何気ない日常の気づきからイノベーションを起こしてみるという原初的な体験をすることが、子どもたちの野生の探求心に火をつけるのです。自分と切り離されて世界のどこかに格納された立派な知識ではなくて、自分との関係性のなかから紡ぎ出された「意味や想いを内包した知」を扱うことをとてもとても大切にしています。
(中略)

2 生きた素材で学ぶ
生きた素材は、こちらが働きかけることでほんの少しかもしれませんが変化する可能性があります。たとえほんの少しでも何かが変えられるとしたら、自分がこの世に生きている意味を実感することができます。自分にも居場所があるのだと思えるようになるかもしれません。

3 一貫したストーリーで学ぶ
物語の世界観があり、コンセプトに沿った初期の状況設定があり、自分たちの役割が決まれば物語は自動的に展開し始め、生徒たちは主体的に動き出します。

4 心理的安全性を確保する

そして、クエストの3つの目的
1 生徒が自ら学び、成長する
2 学校が学び合いの場となる
3 社会とつながり、社会を変える
~~~
第3章クエストエデュケーションとは何か?で紹介されている
企業探究コースの内容も参考になるなあと。

1 フィールドワーク・・・職場体験(現場を知る)
2 アンケート・・・初仕事(顧客を知る)
3 ミッション提示・・・プロジェクトのスタート
このミッション提示の時に、哲学的な問いを投げかける、という方法。
「人が生きる原点を支える大和ハウスの世界に広がる新商品を開発せよ」とか。

生徒たちは「生きる原点」という問いに対してブレストを重ね、提案を考えます。
「思い出」「利便性を求める進化の力」「温かい食事」という原点に対して
このようなサービスができるのではないか、と語ります。

~~~
「人が生きる原点」という普遍的かつ本質的価値をとことん探求し、そこから出される企画に関しては正解はなく自由であるという構造が子どもたちの創造力を発露させるのです。

いやあ、すごい。すごいわ。
この実践を通して、生徒だけではなく教師も企業人も変化が起こると宮地さんは言います。
先生は対話型の授業スタイルへとシフトし、企業人のリーダーシップも対話型になります。

今回、いちばん心震えたのは、企業人のエピソードでした。

~~~
若手の女性技術者が学校訪問をし、生徒から「〇〇さんが、仕事をしてきたなかで、もっとも企業理念を実現できたと思う仕事について教えてください」と問われたことがあります。彼女は想定外の質問にドギマギしながら、なんとか経験を高速で振り返り、内なる思いを探索し、答えを絞り出します。終了後「これまで受けたどの研修よりも厳しかった」と私にフィードバックをくれました。生徒たちの純粋な瞳の前にうそやいい加減なことは言えません。瞬間的な振り返りではありますが、「私は企業理念というものにどのように向き合い実践しているのか」、本気の内省から得られた気づきが大きかったと思います。

またある企業の現場の担当者はこんなことを言っていました。

「学校を訪問すると多くの生徒に出会います。しかし、一人の生徒とコミュニケーションできるのはほんの5分もない。ですから、ただ漫然とやりとりするのではなくて、彼らの心に一生残る問いをこちらが投げかけることができるかということを大切にしています。決して簡単なことではありませんんが、それが企業が教育にかかわらせていただく責任だと思うのです。
~~~

すごいな、この真剣勝負。
涙でる。

第3章はこのように締めくくられます。

「世の中にはほんとうに正解はなく、多くのまだ見ぬ可能性に満ちている。自分は自由で創造性に満ちている。社会は少しずつでも変えることができる。それゆえに人生は生きるに値する」生徒が心の底からそう思えたら、それで教育は成功ではないでしょうか?

アツいなあ。ホント、それです。
そんな実感が持てる授業や課外活動、マイプロをつくっていきたいなと思います。

学びは「大いなるものへの過程である今を瞬間的に切り取ったもの」だと思う。それは、大学合格や就職内定と言った短いスパンのものではなく、自分の人生の長さや、自分ひとりの人生というスケールを超えた「大いなるもの」に向けた「過程」であると思う。

その「過程」において、「先に生まれた」ことは、なんのアドバンテージでもない。

いま、この瞬間、この空間で、自分の心がどうしようもなく動く何かを発見し、それがもし課題があるとすればその課題を解決したいと思い、行動すること。

そこに伴走する大人たちもまた、問いを持ち、活動し、問いに答えていくこと。

「一生残る問いを投げかけることができるか?」という観点はすごい。
15歳から18歳に出会った問いで、人生は動くのだから。

問いというベクトルを得ること、そしてプロジェクトで小さな変化を起こすこと。
そこに「存在」もあると思う。

大学生の「存在」に対する不安は、「知りたい、わかりたい」という本来の「野性的欲求」を受験というシステムに適応するために制御ししてきたことに大きな原因があるのかもしれない。勉強するといいことがあるという「利得欲求」を学習のモチベーションとしてきたとしたら、努力して大学に入った人ほど入学前に知的好奇心を発動しないようになっているのではないか。

「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」という存在に対する不安は、「未来をこの手でつくっている」という実感の少なさからも来るのではないか。そうだとすると、高校生のときに何を学ぶか、大学生の夏休みをどうすごすか?という問いに対して、「小さな共同体で、リアルな実感のある実践的な学びをすることで、未来は自分の手の内にあると実感する」ことから始まるのではないか。

今月にはまた地域みらい留学説明会がある。
これをどのように表現していけばいいのかな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:14Comments(0)学び

2021年07月15日

「本当のわたし」という幻想

就職活動。
「自分とは何か?」という問いに、多くの高校生大学生が苦しんでいる。

それは、現象としては「やりたいことがわからない」や「自分に自信がない」ということなのだろう。
あとは、よく就職意識調査などで問われる、「人のためになる仕事がしたい」とか「人の役に立つ仕事がしたい」とか。

その根本にある、「本当のわたしって何?」とか「わたしは何がしたいの?」っていう問いがグルグルする。

今日はそんなあなたに贈る1冊。


「利他」とは何か?(伊藤亜紗編 集英社新書)

第2章「利他はどこからやってくるのか?」(中島岳志)より
「わらしべ長者」の話から。

観音様にお告げを聞きに来た若者に、夢に出てきたお坊さんが言った
「最初に手に触れたものが観音様からの贈り物だから大切にしなさい」
を実践しようとしたらいきなりコケてしまって、手元には1本のワラが。

ワラか・・・(笑)

大切に持って歩いているとアブが飛び回ってうるさいので捕まえてワラに括りつけて
振り回して遊びながら言った、すると子どもを連れた女性がやってきて、
その子どもがワラがほしいとねだる。
そうすると若者はあっさりとワラをあげてしまうのです。
これが出発点になっているところが「わらしべ長者」のポイントだと説きます。

つまり、結果としての間接互恵のシステムであり、行為を行った時点では間接互恵が前提とされていない、ということです。

自分が行ったら何かがかえってくるという前提で行った行為ではなく、結果として何かがかえってくるというのが非常に重要な問題ではないのか。それは衝動的なもの、思わずやってしまうこと、理由がつかない因果の外部の行為として行われいるものです。
~~~

このあと、仏教の話に続きます。

~~~
仏教の根本は「アートマン」の否定です。アートマンとは絶対的な我を指すヒンドゥー教の概念です。

コータマ・シッダールタは、アートマン、すなわち絶対的な我は存在しないことを解きました。本当の「我」はどこまで追求しても存在しないことが仏教にとっては非常に大切なのです。むしろ、存在するのは、縁起的現象としての「私」というものだけであるということです。

五蘊(ごうん)=色(=肉体)、受(=感覚)、想(=想像)、行(=心の作用)、識(=意識)
この五つの要素がたまたま結合した結果として「私」というものが存在していると仏教では考えます。

そして、五蘊の複合体である私は、いろいろな縁によって無数に変容していきます。たとえば、誰かと話をすることによって影響を受けると、私の五蘊の結合体は変容する。つまり、昨日の私と今日の私というのは変化している。本質的なアートマンなどというものに支配されず、我に対する執着を超え、無数の出会いによって変容していく「私」という現象こそが本当の「私」である。
~~~

なるほど。
「自分」っていうのがそもそもキリスト教の「神」に対する概念ですもんね。
仏教の「私」感のほうがしっくりと来ます。

もうひとつ仏教の話を。

第3章 美と奉仕と利他(若松英輔)より
柳宗悦「民藝」の思想から

ここでは「不二」の哲学が説明されています。

~~~
それは凡て現世での避け難い出来事なのである。仏の国のことではないからである。ここは二元の国である。二つの間の矛盾の中に彷徨うのがこの世の有様である(中略)。人間のこの世における一生は苦しみであり悲しみである。生死の二と自他の別はその悲痛の最たるものである。だがこのままでよいのであろうか。それを超えることはできないものであろうか。二に在って一に達する道はないであろうか?(『新編 美の法門』柳宗悦)

「二に在って一に達する道」、これが「不二」の世界である。生と死、自と他の存在はそのままでありながら、「二」の壁をこえることはできないか、と柳は訴える。「二」の壁を超える「不二」、それが仏教の説く「利他」と響き合うことはいうまでもありません。

(中略)

柳はそれを民藝という「美」によって表現しようとします。

利他は「他」と「自」がおのずと一つになっていなければ起こり得ない、という基本的かつ肉感的な認識が柳にはありました。そしてまた利他の本質は、人間の主体性の産物ではなく、非・人間的実在との呼応において現象するとも考えていました。

利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。それが他者によって用いられたときに現出する。利他とは、自他のあわいに起こる「出来事」だといも言えます。
~~~

いいですね。
歴史や仏教、学びたくなってきますね。

「自分とは何か?」という終わりのない問いは、そこまでさかのぼらないと解けないのかもしれません。

「私」というものがあるのではなく、私というのは「現象」に過ぎない。

僕はそれを「場」という考え方でとらえようとしているし、身体性を大切にしたいなあと思っている。

いったん「私」を「場」に溶かして、「場」を主語に活動してみる。
「場」が発見し、「場」が創造する。

そこに現象としての「私」が現れる。
そのすべてが「本当のわたし」であり、常に変化(変容)し続ける。

そんな体感が無ければ、(本人たちにとって)深刻な「自分とは何か?」問題は解決しないのではないかというのが私の仮説です。

そんな機会をつくっていきたいと思ってます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:10Comments(0)学び

2021年07月10日

「自分軸」の見つけ方


「生命科学的思考」 (高橋祥子 ニューズピックス)

読み終わりました。今日は、
第3章 一度きりの人生をどう生きるか~個人への応用
から。

この前のオンラインツルハシブックスのテーマは「自分軸」
だったのですけど、それに対してのひとつのメッセージを。

以下メモ
~~~
覚悟はまるでブロックチェーンのように、後からは改竄できない小さな約束を一つずつ刻んで未来へと繋がっていきます。それは誰にも改竄されないし奪うことのできないもの。覚悟とは、いつだって自由なものなのです。

もし「主観的な意志を持ちたいけどどうすればいいのかわからない」という人に向けて私がアドバイスするとしたら、「カオスな環境に身を置くべきだ」と伝えます。カオスは混沌という意味で、「秩序がなく、予測が不可能な環境」と表現できます。

カオスで予測不可能な環境に置かれると、「なぜ予測できない方向に向かってしまうのか」「なぜこんな理不尽な目にあわないといけないのか」「なぜ世の中はこうなっているのか」など疑問が生まれるようになります。

カオスであればあるほど疑問は生まれやすくなり、ひいては主観につながります。

「なぜ」という言葉から始まる疑問はとても重要だと私は考えています。5W1Hのうち、WHY以外の5つは客観的な視点から疑問が生じえます。一方「なぜ」から始まる疑問は、社会だけではなく自分の主観に紐づいています。

「なぜ」が発生した瞬間、その問いに対する思考に主観が生まれます。「なぜ」という疑問を設定することで、主観的な命題に気づくことができ、何を目指したいのか、そのために自分はどう行動すべきかという「自分軸」が発生します。
~~~
「やりたいことがわからない」とか「自分の軸が見つからない」とかいう人たちへのメッセージとして、かなり実践的ですね。

そもそも「やりたいこと」を職業名で答えることはまったくのナンセンスなので外しますが、
「やりたいこと=主観的な意志」だとして、それを見つけるためにはカオスに身を置くこと。
つまり、学校的空間のような「秩序だった」ところからでは生まれないということです。

なぜ生まれないか?というと、
予測不可能な、理不尽な状況、つまり「違和感」が生じる状況に置かれることで、
ひとは「なぜ?」と考えるからです。
その「なぜ?」という問いこそが、主観的な意志につながる糸口になるからです。

「なぜ?」という問いはもちろんテレビやネット、本からでも得ることができるでしょう。
僕の仮説としては、おそらくはそこに身体性が必要なのかなと考えます。

頭だけでなく体と心が動かされること。
そこから「なぜ?」が生まれる必要があるのかなと思います。

このあと、この章にはニーチェの言葉

「過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える」(フリードリヒ・ニーチェ)

から、「情熱」についての解釈があります。

~~~
未来差分の大きさと良い未来に向かって動き出す初速の掛け算、いわば積分量が情熱の源泉であると私は考えています。

意識高い系=未来差分の大きさは認識できているものの、動きださないため初速がゼロ
初速が出ていても、未来差分が認識できていない人は情熱が失われてルーティンになる
~~~

さらに、「エントロピー増大則」の説明から、ほっておくと乱雑になってしまう宇宙の法則から生命である人間は逃れられないと説き、「人間は生きて身体を維持している間、生物はまったく変化せずに身体を維持しているわけではなく、常にエネルギーを摂取し細胞を入れ替えて、常に変化しながら結果として「変わっていないように見える」ようにしているのです。」と動的平衡を説明します。

「エントロピーは無限に増大しますが、その状態に秩序を与えるために要するエネルギーは人でも企業でも国でも有限であるため、そのエネルギーをどこに投入するかを意志を持って決めることが重要となります。」

これ、人も、組織も、まちも、全部そうなんだよね。
エントロピー増大の法則に抗うためのエネルギーをどこに使うか?っていう話。

「主観的な意志」、僕的に言えばベクトルをどこに持ってくるのか?
それこそが昨日の話である「自分を知る」ということで、
「自分軸」っていうのは、「なぜ?」という疑問詞から始まっていくし、
それを得るためには予測不可能な場(カオス)に身を置くことが必要なのだと。

「やりたいこと」とか「自分軸」とかってそうやって始まっていくよなあ、っていう話に納得。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び日記

2021年07月09日

「課題」と「意志」


「生命科学的思考」 (高橋祥子 ニューズピックス)

読書日記つづき。
今日は第2章「生命原則に抗い、自由に生きる」より。

ここで言う「生命原則」とは、
すべての生命活動には「個体として生き残り、種が反映するために行動する」という共通の原則が関係しています。のことです。(本書より)
今日は「課題」について考えます。

探究学習、プロジェクト学習において、もっとも難しいのが「課題設定」だと言われていますし、その実感があります。
今日はそもそも「課題」ってなんだっけ?みたいなところから。

~~~以下本書より引用
前述した課題のほとんどは、客観的に設定された課題ではなく、それが解決された状態を私たちが主観的に望むことで初めて課題となるものです。つまり、自ら選んで「課題」を設定できるということ自体が極めて自由かつ主体的な性質を持つものです。

課題が存在するということは、現状よりもいい状態がすでに頭の中にある、ということです。

世界の現状に満足しておらず、もし今のままでは未来も同じ状況になってしまう、それではいけない、未来を理想の姿とすべく今から行動を起こさなければならない、と考える個人の「行動を起こすべき理由」こそが「課題」です。

課題を認識した時点で、自分が主観的に目指したい未来像はすでにその人の手中にあります。

未来の思い描く状況と現在の状況に差分があり、さらに現状維持のままでは思い描く未来に到達できないことがわかったとき、その未来差分を解消しようと行動が生まれます。そして、行動の初速が伴うことで情熱が生まれます。

課題というと、「解決しなければならないもの」とネガティブに捉えられがちですが、本質は「解決することでより良い未来に到達できるものであり、それを意識づけてくれるもの」です。

課題を見つめることで自身の主観的な意志をしっかり認識して行動に移していくからこそ、より良い未来に行くための原動力が得られます。
~~~

「課題」=「行動を起こすべき理由」であり、それは主観的な未来像に基づいている。

それなんですよね。
SDGsを出発点にしてもいいとは思うんですけど、それが「主観的な未来像」になっているかどうか、っていう。
国連が言っているから、ニュースで言っていたから、ということではなく。

理想の未来像と成り行きの未来像のギャップが課題であり、現状から理想の未来へ向かうベクトルが「自分」なのかなと思います。

もうひとつこの章で挙げておきたいのが「利他主義」と「生物的人間と科学的人間」について

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利他主義はしばしば自己犠牲と同一視されがちですが、利他主義においては、自分と他者を対立関係として捉える意味合いは弱く、ほとんどのケースでは「自分を含めた集団が良くなること」を意味します。

利己主義の延長上にある利他主義として、他者のことも考えて行動することで集団としての生存につながり、結果として自分も生き延びることになります。

情報という客観的なものを理解した上で、感情という主観的なものをベースに行動を起こすことが大切です。

「人間は生物的人間と科学的人間の二つの側面を持っている」(「化学と私」福井謙一)
生物的人間:人間の持つ感覚や感情によって自分の認識で世界を捉えていく側面
科学的人間:自分の持つ科学リテラシーによって世界を捉えていく側面
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「利他主義」は「利己主義」と対立するのではなく、空間的・時間的に広く見た時に利己主義の延長上にある、ということです。いや、そうなんだよね。

感情と情報、主観と客観。
そのどちらもが必要なのだけど。

この本にも書いてあるように、「科学」に偏重してきたこの世の中では、「自分(自分の感情・主観)を知る」ということがあまり大切にされてこなかったように思います。

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情報をつかむことも大事ですが、より大事なのは変わりゆく世界の中でも自分にとって変わらない主観的な軸は何かを発見することです。軸を発見できれば、また別の予測不可能な変化が起こっても、それでも生きていくことができます。主観は、人によって大きく異なります。情報はその気になれば誰でも集めることができますが、そういった代替性の高いものを全部そぎ落としたとき、最後に残るものが主観です。この主観こそがAIに代替できないものです。AIは入力された情報のみをもとに判断を行うため、人が持つような主観はなく、だからこそ思い込みや勘違いなどを排除できる利点があります。一方の人間の本質は何かといえば、思い込みを含めた主観にこそあるのではないでしょうか。
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思い込み、勘違い。
これがいろんな人の「原動力」となっているのは間違いないと思う。
そう人を駆動するのは情報や科学ではなくて「主観」なんだと。
その「主観」にフォーカスすることが大切なのではないか。

印象に残ったことは何か?
やってみて、どう感じたか?

そんな振り返りをしていくの中で、心が動き(あるいは心の動きを振り返り)課題が言語化されていく。
取り組みたい課題を知るということは、自分を知るということだ。

自分の心が動く「課題」を知ることで自らの「意志」を知る。行動し、それを確かめる。
きっとその繰り返しなのだろうなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)日記

2021年07月08日

「多様性」という生存戦略


「生命科学的思考」 高橋祥子 ニューズピックス

前回はパラパラと読んでいたのですが、今回は仙台の山崎さんが読んでいたのでタイミングよく再読中です。
「マルチ・ポテンシャライト」の次っていうのがまた良くて。

ひとまず第1章だけ紹介します。

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基本的にすべての生命活動には「個体として生き残り、種が反映するために行動する」という共通の原則が関係しています。

新しい「生」だけでなく「死」という仕組みもセットで持つことは、生命の非連続性を強制的に創出する手段として機能します。環境の変化のスピードは大きく、一つひとつの個体が連続性を持ったまま適応するには限界があります。そこで、新しい生命を常に作り続け、来たるべき環境の変化に備えようとするのです。

孤独感は人と集団で生活することで生き延びてきた人類が、一人で生きることを避けるための機能です。

「個体が生き残る」ことと「種が繁栄する」ことは並列ではなく、優先順位があります。まず個体として生き残ることが先で、個体としての生存の可能性が担保されてくると、次に種が繁栄するために行動するようになります。

時間的視野を自由に選択できるとは、過去と未来を1日、1週間のような短期だけでなく、1年、10年から1万年、100万年などの長期でも自由に捉えられる状態です。

一人の個体の中でDNAの配列が一生変わらないとなると、刻々と変化する外界の環境や体内の状況に変化するのが難しいように思えます。しかし、実際には変化する体内外の環境に対応するため遺伝子の「発現量」は日々変化しています。

DNAは長期間にわたって変わらず、RNAまたはタンパク質などの分子は環境に応じて量が変化する。同じ生命の中に複数の時間軸の仕組みを持つことで長期的な変化にも短期的な変化にも対応することができます。生命はまだ見ぬ未来への進化のためのセレンディピティ(想定外の発見)を求めて、DNAのコピーミスという不安定性を、個体が死ぬかもしれないリスクを取りながらも、種の存続のため命をかけ担保しているのです。

多様性は、進化のために必要不可欠な要素です。進化は「進」という文字が入っているために、ある目的に向かって一直線に進む合目的なものと捉えられがちです。しかし実際はそうではなく、環境が変化したときにたまたま生存に有利だったものだけが生き残ることで事後的に合目的かのようにみなされうる現象です。
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僕のメモ
・生命は非連続性を意図的に創出している⇒生き延びるため
・「個体が生き残る⇒種が繁栄する」という順番
・視野を自由に選択するために歴史や哲学を学ぶ必要があるよね。
・DNAの配列は変わらないけど発現量は日々変化している。
⇒これ、「マルチ・ポテンシャライト」の話じゃないか
・DNAのコピーミスは一定の割合で起こるようにプログラムされている⇒進化(生き延びるための変化)のため
・「進化」は多数の変異の中で変化する環境下でたまたま生存に有利だったものが事後的に分かる現象であり、「多様性」はそのためにある。
って感じですかね。

「多様性」が大切だと言われる。それは決して道徳などではなく、生存戦略なのだと。

たとえば、毎日外食で同じチェーンストアで食事をするより、その町にしかない食堂の空間で食べる町中華が美味しい。
(写真は会津宮下駅前の双葉食堂の焼きそばラーメン)







まあ、それは置いといて。(笑)

昨日も只見高校の総合的な探究の時間でも説明した
「越境・遭遇」⇒「対話・協働」⇒「試行・省察」
「越えて、ともに、やってみる」のサイクルの中で、
自分自身のDNAの発現量をいろいろ試してみることであり、様々な役を演じてみることであり、環境の変化に適応するチームをつくるために、多様な人と対話・協働することなのだなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)学び日記

2021年07月07日

あなたの人生にどの程度の「多様性」が必要か?


「マルチ・ポテンシャライト」(エミリー・ワプニック PHP研究所)

読み進めています。面白い本です。
起業家の書くビジネス書は、これのどれかに当てはまっている気がします。

何よりも、昨日も書きましたが、1つの仕事に絞ってそれを目指し、就き、磨き、プロフェッショナルになる、みたいな思想は、誰のためにあるんだろうか?って思います。そもそも時代の早い流れに合っていないし。

この本には、人生において必要なものを3つの視点から説明します。

1 「お金」
2 「意義」
3 「多様性」

よくありがちなのは、「お金」なのか「やりがい」なのか?みたいな二択。

これを真剣に考えてしまうなんて、完全に問いのマジックにかかっていると思う。
この3つすべてが必要だし、その必要度は人によって違う。
なによりもこの3つを実現するのが「1つの仕事」であるとは限らない。

「仕事」なのか「趣味」(もしくは「家庭」)なのか?
みたいな問いと同じくらい意味がないと思う。

今日は特に
3 「多様性」について取り上げたいと思う。

以下、一部引用する(P80幸せに生きる秘訣その3:多様性)
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「好きなことを仕事にすれば、一生働かなくてすむ」

このアドバイスは、マルチ・ポテンシャライトにはあまり役に立たない。なぜなら、幸せになるために「多様性」を求めるよう生まれついているからだ。

進路ガイダンスのたぐいは、世の中には多様性が欠かせない人間がいることを、ほとんど理解していない。同時に複数の分野で仕事を始めるのを支援してくれるキャリア・カウンセラーはまずいないし、キャリアにまつわる本も、選択肢を一つに絞って「ぴったりな」職業へと導こうとする。いくつもの興味を組み合わせ、いくつもの役割を演じられる多面的な仕事を考え出すのを手伝ってはくれない。

どの程度の多様性が必要かは人によって違うだけでなく、ある人の人生の中でも変化する。(中略)私たちはさまざまな季節を経験する。一つの分野にどっぷり浸るのが心地よい時期もあれば、多様性から元気をもらい、わくわくする時期もある。
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このあと、「あなたは多様性をどれくらい求めているか?」というセルフチェックがある。
自分がプロジェクトをいくつくらい抱えるのが最適なのか理解するためのワークだ。

これ、いい視点だなあと。

「興味関心は多いのだけど、何をやってもすぐ飽きるし、続かない」という相談をたまに受けることがあるけど、それって、あなたの人生にとって「多様性」が重要であるということではないのか?

「1つのことを究めてプロフェッショナルになる」というモデルは、実は一部のエンターテイメントビジネスなどの「無くならない(続いていく)仕事」に限られるのではないか。

次の章ではマルチ・ポテンシャライトの4つの働き方(ワークモデル)が紹介されている。これがなかなか興味深い。

1 グループハグ・アプローチ:1つの多面的な仕事やビジネスに関わることで職場で多くの役割を担い、いくつもの分野を行き来できること⇒いわゆる「総合職」「クリエイティブクラス」的なアプローチ

2 スラッシュ・アプローチ:パートタイムの仕事やビジネスをいくつか掛け持ちし、その間を日常的に飛び回っていること⇒いわゆる「劇団員」的あるいは「ナリワイをつくる」的なアプローチ

3 アインシュタイン・アプローチ:生活を支えるのに十分な収入を生み出し、ほかの情熱を追求する時間とエネルギーを残してくれる、フルタイムの仕事に携わること:公務員をやりながら研究をする的なアプローチ。

4 フェニックス・アプローチ:ある業界で数カ月、もしくは数年働いたあと、方向転換して、新たな業界で新たなキャリアをスタートさせること:いままでと全然違う業界に突然転職をする、みたいなアプローチ。
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重要なのは、このどれかが「答え」ではないということ。4つのアプローチを組み合わせてもいいし、数年ごとにモデルを変えても、混ぜてハイブリッドにしても、何の問題もない、ということ。

読んでいて思ったのは、これは人生の経営戦略そのものだなと。僕も意識せずに、40歳でサラリーマン初体験っていうのは、「フェニックス・アプローチ」をしていたのだなあと。

重要な問いは、あなたの人生にどの程度の「多様性」が必要なのか?だと思う。
そしてそれを知るには、「プロジェクト」をやってみること、なのかもしれない。仕事とは、人生とは、プロジェクト(の組み合わせ)であるから。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)学び日記

2021年07月06日

越えて、ともに、やってみる

地元中学3年生に対しての高校説明会でした。

他の高校のプレゼンを見ていたら、
「これだけの進学実績があるし、先輩もいるから、大学に進学したい人は来てね」
「勉強して進学したい子も、部活を頑張りたい子も、地域で活動したい子も、うちの高校に来たら何でもできるから、みんな来てね。」
みたいな感じ。プレゼンも上手だし。

いや、スペックでは全然勝てないな、と。
だから、昨日の寮の話じゃないけど、前提を疑うこと。

高校って、どんな場所だっけ?
・やりたいことを見つけて、進路選択をし、力をつけて、将来につなげる場。

本当ですか?と。

そこで、今朝読んでいたこの本。

「マルチ・ポテンシャライト」(エミリー・ワプニック PHP研究所)

副題は「好きなことを次々と仕事にして、一生食っていく方法」です。(及川さんが好きそうなタイトルです・・・)
TEDトークの書籍化ですが、やっぱりわかりやすいですよね、主張の順序がいい。
今回は最初の方しか読んでいないのですが、昨日の話と少しつながってくるので少しアプトプットしてみます。

まずはここから。
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大人になったら何になりたいの?」という質問が、夢を膨らませる楽しいゲームから、何やら深刻で、不安な気持ちをあおるような問いに変わってしまう。「現実的な答えを出さなくちゃ」というプレッシャーが生まれる。

はっきり「一つ」とは言っていないが、「大人になったら何になりたいの?」は、「この人生で許されるアイデンティティは一つだけ。だから、どれにするの?」という意味だ。
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ツルハシブックス時代に、主に新潟大学の大学生が悩んでいたことは、「やりたいことが分からない」と「自分に自信がない」だった。

キャリア(仕事選び、就職活動)の問題が深刻なのは、それがアイデンティティの問題に直結しているからである。

「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」は違うことを言っているようで、その根にはアイデンティティの危機がある。それを言えてはじめて自分は個人(大学生)として承認されるからだ。

そしてその根には学校(化)社会しか目の前に存在しないことが挙げられる。学校(化)社会は、目標を設定しそれに向かって歩みを進めることを前提としている。PDCAを回すために、計測可能であることが重要になる。

なりたいものが具体的職業の場合(しかもそこそこ生活していける専業の)は歓迎されるが、いわゆる在り方や抽象的なコンセプトの場合は、ほとんど認められないし、本人も納得できていないだろう。

昨日のプレゼンは、この話から入ったほうがよかったか。(時間ないけど)
「やりたいことは何か?」という問いと、問いの前提である、目標達成型でスペシャリストとして専業で仕事をするスタイルは、現在のような予測不可能な時代には、リスクが高いのだと。

だから、昨日も少し話したけど、
「越境・遭遇」⇒「対話・協働」⇒「試行・省察」のサイクルを回していくことが大切で。
しかもその主語は、個人単位ではなく、「個人」と「場」の動的平衡的な主体であると。

個人では「問い⇒機会⇒振り返り」が起こり、「場」では、機会⇒対話・協働⇒試行が起こる。

それを具体的にやっていくのがプロジェクト型学習であり、プロジェクト学習の前提として越境による他者(または環境)との遭遇と、他者理解のための対話がある。だから、地域の多様な人たちが関わる必要があり、学校を飛び出して地域を舞台に試行してみる必要があるし、それをコーディネートする人たちも必要になる。

キャリア的な視点でいけば、高校生がなりたいものやロールモデルを見つけるために地域(の人や環境)があるのではなく、プロジェクトのメンバーとしての多様性や越境・遭遇・対話のために、協働・試行・省察のパートナーとしてそこにあるのだと思う。

そういう意味では、一般的な高校説明の文脈で語られるような
・やりたいことを見つけて、進路選択をし、力をつけて、将来につなげる
場としてあるよりも、

「越境・遭遇」の機会をつくり、「対話・協働」する多様な人たちがいて、「試行・省察」する、というプロジェクト型の学習は、予測不可能な、答えのない時代において、一生使えるマインドやスキルを磨くのではないか、ということ。

さらに言えば、「マルチ・ポテンシャライト」に書いてあるような
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マルチ・ポテンシャライトのスーパーパワー
1 アイデアを統合できる
2 学習速度が速い
3 適応能力が高い
4 大局的な視点を持っている
5 さまざまな分野をつなぐ「通訳」になれる
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を、「場」として発揮できないか?という感覚を、プロジェクトを通じて得ていくことは、一生使えるスキルというかマインドになるのではないか、と考えられる。

マルチ・ポテンシャライトの64ページはこんな見出しで始まる。
「これは単なるキャリア論ではない―人生設計そのものだ」

もはや「やりたいことは何か?」と問いかけている時代や社会ではないのだ。
予測不可能な社会を、未来を、何とか生きていくために、
「越境・遭遇」し、「対話・協働」し、「試行・省察」する。

「越えて、ともに、やってみる」
そんなまなびを創造していく必要があるし、それは楽しいことだと僕は思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)学び日記