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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年05月28日

「自分ごと」になるための「対話」のデザイン

「就活」の違和感。
その大きなもののひとつが「自己分析」だろうと思う。
「自分を知る」というやつだ。

人はそんなに、自分を知らない。

しかも「自分」はひとつではなく、インスタの複数アカウントのごとく、シーン(場面での立場)によって使い分けている。

昨日は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会第3回目
題材は、
【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編②
https://www.youtube.com/watch?v=sHemvchZ_6c&t=2481s
でした。

昼の部は先生方4名+校長先生
地域の方3名+学校教育課長
そして黎明学舎スタッフ4名の計13名、
夜の部はパートナーズ3名+私の4名で行いました。

題材があることで対話できるなあと。

~~~ここから動画メモ

感じること、問いを立てること、意味を味わうこと

地域課題解決(地域素材・探究能力):これまで総合で取り組まれてきたこと
と個別最適化(問いに当事者性):マイプロジェクトなど
の真ん中にふるさと教育(探究)をつくっていくこと。

マイプロジェクト:その子にとって、とことん自分ごとを追求した。

飛騨市学園構想⇒大人の探究活動
検討委員会:対話が乏しい。
事務局が原案をつくり、委員の質問に対して事務局が答える。
行政の会議こそ探究的にしていくべきではないか?

授業も同じ。
教える流れのデザインをして、生徒がお客さんであっていいのか?
対話性・創造性が失われている。
探究:問いを引き出すことが重要。問いづくりから出発する。
唯一解はなく、納得解を追う:当事者性や創造性が向上する。

探究的な行政プロセス
委員から問いが生まれるように工夫する。
ファシリテーターとしての事務局

主体的になる←自分ごとになる←対話によって←問いによって←題材によって
休校前⇒休校後
※対話する必要がある。
育ちの文脈の共有・関係性づくりが重要

~~~ここまで動画メモ

そのあと、先生方を交え、ディスカッションしました。(メモは夜の部を含む)

・ゴール到達点を共有することが大切なのではないか。
・「自分を知る」のと「地域を知る」ということは同時に起こるのではないか?
・筑波大学付属坂戸高校は、体験⇒対話の流れができていた。
・畑作業はしんどいという身体性を共有していることも。
・ゴールを設定するとゴールに向かって最適化するのでは?
・「他者」として目の前の相手を認識できるか
・「信用社会」から「信頼社会」へ
・体験で終わらずにそれをふりかえり、言語化すること。
・頭で振り返るまでに「印象に残ったこと」など、心の振り返りをする。
・ボート部:まちの人との対話の機会がある
・雑談・身体性感覚、共通テーマが重要
・答えを教えてしまうのではなく、もやもや感を助ける
・違う年齢層の人と話す(他者と話す)
・多様な人と関わる:ロールモデルを通して自分を知る
・「自分」っていうのは「哲学(美学)」と「承認欲求」
・「対話」(ふりかえりを含め)によって言語化がおこって自分を知り、自分を承認できるようになる。
・大人自身が変わり続けないといけない。
・「対話」をすることの重要性:相手の話を聞く、感じたことを言葉で表現する。
・「学びの土壌づくりをやらなければならない。
・「問い」を深めるために、問いかける人が必要。

探究

承認

フラットな「対話」←「問い」

たぶんそんな感じ。

・先生という言葉は死語。どの方向に進むかわからないのだから。
・「探究的に学ぶ」とは「対話的」「機会的」「実験的」に学ぶということ。

そんな感じ。
これからやっていくこととしては、「対話」の時間のデザイン。
題材としての大人と問いかける大人の確保・授業参画。
その大人が、自分自身も探究していること。
問いかける人は、ある意味、アーティストである。
教育はアートに近づいていく。そんな風に思った。

夜の部で出たアイデアは、
地域人にインタビューして、編集してアウトプットするような機会がつくれないか?ということと
zoomなどのツールを使ったコミュニケーションの場がもっとつくれないか?

中高生が地域の人的資源(大人というか、対話ベースで取材)を編集して発信する「奥阿賀編集室」(仮)と
そこに至るきっかけにもなる、あがまち未来フォーラム・オンライン(仮)を立ち上げてもいいのかなあと思ってます。

「主体的に学ぶ」には、「自分ごとになる」ことが大切で
「自分ごとになる」ためには、「対話」による相互理解、相互承認が必要で、
「対話」を生むには問い、その前にある題材が必要で。

っていうことになっていて、
「対話」を真ん中に、パートナーズの大人たちも参画したような
デザインが可能になっていくのではないだろうか。

最後に、次回のお題動画になるかもしれないけど、

苫野一徳×税所篤快ZOOMトークイベント――ぼくたちは、「未来の学校」をどうつくっていくのか?
https://www.youtube.com/watch?v=0JiYqY-O-rM&t=447s

これを見ていて、気が付いたことを含めて、まとめてみる。

~~~ここから動画メモ

「探究的」に学ぶとは、
「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

子どもに主体性がなく、チャレンジしない、覇気がない、っていっているとしたら、
先生自身が主体性がなく、チャレンジせず、覇気がにじみ出てないのではないか。

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。
「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。
教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。
「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?
学校じゃなければ、できないことは何か?
学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。
だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。
現在の教育は150年前の仮説にすぎない。
それ以前から学びはすでに存在していた。

時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。
それが現在のシステム。

~~~ここまで動画メモ

「探究」がどのように起こるのか?
そもそも探究とはなにか?
っていうのに対しての爽快とも言えるくらいのはっきりした考え。

一番印象に残ったのは
「探究」って遊びでしょ?って。

そうそう。
「遊び」つまり、エンターテイメントの本質は「予測不可能性」なのだよね。
「ゴールに向かって、近づいている」とか「ゴールを達成した」っていうのは、実は楽しくない。

そう考えると、答えがないような探究テーマを、自分で設定し、
そこに向かっていく(実際はどこに向かっているのかわからない)のは
とても楽しい「遊び」なのだろうなと思った。

そんな探究を、このまちと、まちに住む大人を題材につくっていくこと、
オンラインでたくさんの場や大人とつないで、機会と対話を生んでいくこと。
それらによって刺激された好奇心と探究心でガンガン実験してみること。

そんな探究を学校も、地域も、先生も、生徒自身も、ともに学びながらつくりあげていけたら、楽しいなあと思う。

君も、この列車にのらないか?

  

Posted by ニシダタクジ at 09:11Comments(0)学び日記

2020年05月27日

「合理的」が「経済合理性」のみを指し示さなくなった


「お金2.0」(佐藤航陽 幻冬舎)

これ、面白いです。まさに「就活」前に乗りたいヘリ、筆頭ですね。
それくらい上空から「就活」とか「働くこと」を眺めてみてもいいなあと思えました。

5月18日にも書きましたが、
昨日読み終わりましたので、追加したいと思います。

発展する経済システムの5つの要素
http://hero.niiblo.jp/e490677.html

「経済システム」という観点から、いろんな活動を分析したものとして
非常にわかりやすかったです。

そして、この本の最終局面で、「経済システム」そのものが
「お金」を媒介にした「国家に1つ」のものではなく、
複数のシステムが同時に共存しうるのだと。
つまり、「レイヤー(層)化」するのだと。

それってすごいな。
「チャレンジする」ってデザインだなあと思った。

「田舎ではチャレンジは起こりにくい」
っていうのはホントだと思っていて、
僕も新潟にきて大学生の時に畑を始めたのだけど
あれ、実家暮らしだったら絶対にできていないと思う。

それはコミュニティが1つだからであり、
失敗することのリスク(特に評判リスク)が高いからだ。

しかし、今は、移動が可能だ。
「東京はチャレンジできる街だ」というのは、チャンスがたくさんある、というのもそうだと思うけど、
そのチャレンジに一定の匿名性があるから、ではないか、と思う。

山岸俊男さん的に言えば、
「信用社会」では相手への信用(評判)がそのまま失敗リスクとなるためチャレンジが起こりにくく
「信頼社会」では、まずは信頼してみる、というところから始まるのでチャレンジが起こりやすい。

昨日、weekly ochiaiの録画を見ていて、
参考:【WEEKLY OCHIAI】“リモートワーク疲れ”の正体を解明せよ
https://newspicks.com/news/4933399/body/?ref=user_2250

社員700名がすべてリモートワークであるという、
キャスター取締役COOの石倉秀明の最後の一言にハッとしたのだけど、

~~~
・会ったことがない人と一緒に働く時代となる。
・リモートワークの最大の敵は疑心暗鬼
・この人は信頼する、とこちらが決める
・「無条件の信頼」から始める。
~~~

そういった意味ではリモートワークが信頼社会への移行を迫っている、とも言える。
学校文脈で語られる「その人は信用できるのか?」っていう言葉は、まさに「信用社会」の用語だと言えるだろう。

リモートワークが「信頼社会」へのシフトを進めてくれるとしたら、それは歓迎すべきことなのかもしれない。
オンライン本屋でも、「他者」と出会い、「信頼」するところから始まるのだ、と。
これは大きな時代の変わり目に差し掛かっているなあと。

さて。話は変わりまして。
「お金2.0」では、資本主義の替わりに「価値主義」を説きます。
少し引用します。

~~~ここから引用

この資本主義が考える価値あるものと、世の中の人の考える価値あるものの間に大きな溝ができており、それが多くの人が違和感を持つ原因です。

新しいテクノロジーが生まれると人間が作った概念は変化を余儀なくされます。それまでは文字の記録手段として主流だったのは紙ですが、ITの発達で文字を電子的に記録して自由に発信できるようになったので、紙は記録手段の1つの選択肢になりました。別の見方をすれば、紙はITの誕生でその影響力を大きく下げたとも言えます。同様に、ITは価値のやりとりも電子的にやってくれる技術ですから、既存の「お金」を価値媒介手段の1つの選択肢に変えてしまう力があります。

つまり、今起きていることは、お金が価値を媒介する唯一の手段であったという「独占」が終わりつつあるということです。価値を保存・交換・測定する手段は私たちがいつも使っているお金である必要はなくなっていきます。手段の多様化により人々が注力するポイントが「お金」という手段から、その根源である「価値」に変わることは予想できます。価値を最大化しておけば、色々な方法で好きなタイミングで他の価値と交換できるようになっていきます。

「価値」とは商品のようなものであり、「お金」とは商品の販売チャンネルの1つみたいなものです。今後は、可視化された「資本」ではなく、お金などの資本に変換される前の「価値」を中心とした世界に変わっていくことが予想できます。超一流企業にも就職できるエリートがその道を選ばずにNPOや社会起業家などに専念するのは、資本主義的には非合理的な選択に見えますが、価値主義的には合理的な意思決定とみなすことができます。

~~~

なるほど。
違和感の正体、まさに、という感じです。

西野亮廣さん的に言えば、
クラウドファンディングとは「信用」をお金に変える装置である
っていうのが、さらにちょっと高い位置から理解できた。

「合理的判断」っていうのがよく言われるけど、
その合理的っていのが「経済合理性」だけを示さなくなってきた時代。

これさ。
「やりたいことは何か?」から始まるキャリア教育を根本的に改めないといけないんじゃないか。

仕事とは何か?
お金を稼ぐとは何か?

っていう話をしないで、
何が好きか?何が得意か?

だけを聞いて、仕事を選ぶなんて。
それで今は「AIに奪われない仕事は?」みたいな話をしている場合じゃなくて。

「You Tuberとはなんだろうか?」
っていう話から社会の仕組み、資本主義の仕組み、
そしてそれが今変わりつつあるのだと。
いや、そもそもそれこそがキャリア教育の前提でなければならない。

「You Tuberとはなんだろうか?」
っていう話に必要なのが、「価値」の話だ。

この本の一番のハイライトはここ。P166。

~~~ここから引用

1 有用性としての価値
これはもっともなじみが深く、資本主義がメインに扱う価値です。経済、経営、金融、会計などで価値という言葉が出たらこの有用性・有益性・実用性としての価値を指しています。一言で言えば、「役に立つか?」という観点から考えた価値です。
現実世界で使用できる、利用できる、儲かる、といった実世界での「リターン」を前提にした価値です。なので、直接的に次のお金に繋がらない、現実世界で利用できないものは有用性としての価値はないということになります。

2 内面的な価値
実生活に役に立つか?という観点とは別に、個人の内面的な感情と結びつけても、価値という言葉は使われます。愛情・共感・興奮・好意・信頼など、実生活に役立つわけではないけれど、その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼす時に、価値があるという表現を使います。有用性としての観点で考えると、個人が心の中でどんなことを思っているのかは関係ありませんし、それらの感情が役に立つといったことはありません。感情は消費する、役に立つといった実用性とは無縁だからです。ただ、美しい景色を見た時、友達と過ごして楽しかった時、それらには価値があると表現しても特に違和感はないはずです。

3 社会的な価値
資本主義は個人の利益を追求していくことが全体の利益につながるという考え方です。一方で、慈善事業やNPOのように、個人でなく社会全体の持続性を高めるような活動も私たちは価値があると表現します。金融や経営の観点から考えると、社会全体の持続性を高めるような行動はただのコストに過ぎず、少なくとも価値があるとは言えませんでした。ただ、砂漠に木を植える人たちや、発展途上国に学校を作ったりする人の行動に価値を感じる人は多いと思います。

このように一言で「価値」と言っても、私たちは3つの異なる概念を区別せずに使っていることがわかります。そして、いずれも私たちの脳の報酬系を刺激する現象であり、脳からしたら等しく「報酬」ととらえることができます。

資本主義の問題点はまさに1の有用性のみを価値として認識して、その他の2つの価値を無視してきた点にあります。ただ、実際に1の価値のみを追求して2と3を無視すると崩壊します。例えば、自社の価値のみを追求し、ブラックな労働環境で社員を酷使して何の社会的意味も見出せないような企業は、優秀な人材も引き寄せられず、内部告発や社員の離反を招き、消費者からの共感も得られません。

価値主義で扱う価値とは、1も2も3もすべて価値として取り扱う仕組みです。そして1と比べて2や3は物質がなくあいまいであるがためにテクノロジーの活用が不可欠です。

裏を返せば、価値主義とは資本主義と全く違うパラダイムではなく、これまでの資本主義が認識できなかった領域もテクノロジーの力を使ってカバーする、資本主義の発展系と考えもらったほうがわかりやすいと思います。

~~~ここまで引用

「You Tuber」とは、
チャンネル登録し動画を見てくれるファンからの「興味・関心」という価値を最大化している人のことであり、
彼らが稼ぐ広告費などの「お金」とは、その「価値」の一部を変換したものに過ぎないのです。

つまり、「資本」を最大化するのではなく、「資本」の源泉である「価値」を最大化すること。
そしてその価値は上に挙げたように「有用性」だけではないということ。

そして2 内面的な価値と3 社会的な価値を
現金化(資本化)する手法が例えば九ラウンドファンディングなど
テクノロジーの発達によって訪れているということ。

そういう意味において、
キャリアを考える上での大切な質問は、

「あなたのやりたいことは何か?」
ではなく、
「あなたが感じる価値は何か?」
になってくるのだろう。

超一流企業に就職できるエリートが名もなきNPOに就職するということは、
自分が考える「価値」の言語化ができているのだろうと思う。
まさに「合理的」判断というときの「合理的」が経済合理性のみを指し示さなくなってきているのだ。

なるほどなあ。
この経済の話と「承認欲求」などの心理学的な話を
組み合わせて、読み解く、みたいなゼミをやろうかなあ、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2020年05月21日

「対話」と「承認」



阿賀黎明探究パートナーズ・オンライン勉強会の第2回目。
大正大学・浦崎先生の動画を見ながら、先生方とパートナーズの皆さんが対話をする。

今回の動画は【TARO CHANNEL】Withコロナ時代に高校と地域が打つべき一手とは / 本編①
https://www.youtube.com/watch?v=VOzliqJIVS0
でした。

エキサイティングだったのは、やっぱり山形県立小国高校の事例でした。
小規模校サミットへ向けての話、感動的でした。

~~~ここから動画メモ

society5.0時代に大切なこと
・感じること
・問いを立てること
・意味を味わうこと

感性とは個性
探究テーマには高い個別性がある。

問いを立てるには現場(地域)で感じることが大事

3.0時代の依存・受け身・暗記から
4.0時代の自立・能動・アクティブラーニングへ

全員一斉⇒公正に個別最適化された学び

規格品を大量生産するのではなく、尖った人材をどう作るのか?
興味関心を尊重して個別に最適化する。
それには学校だけでは完結できない。

コンソーシアム
各生徒の興味関心と地域の課題を効果的にマッチングする組織

「学びの自走性」
エンジン→ギア→駆動輪
4サイクルエンジン

学力低下:パワーダウン
⇒「学力向上」頑張って押した:N(ニュートラル)にいれたほうが楽だ。
⇒素直で従順な子が育った。

いま「探究だ」と。
エネルギー源そのものを考えないといけない。
勉強した後に高収入が待っている⇒誰も勉強しない。
知的欲求(知りたい、学びたい、実現したい)をエネルギー源にしないといけない。

事例:山形県立小国高校

R1.7.31「小規模校サミット」
参加校依頼に直筆の手紙を書いた。
国語の先生は学習の絶好の機会ととらえ、国語力がめちゃめちゃついた。

「グループワークを成功させたい」という思いで、練習した
⇒思考力・表現力・判断力がついて面接で役立った。

生徒がもつ興味関心を軸に各教科とのつながり、カリキュラムマネジメントを考える。
カリキュラムマネジメントは個別性が強い。
学校都合ではなく生徒の思いでつくっていったこと。
先生は伴走するだけでいい。

~~~ここまで動画メモ

約1時間の動画のあと休憩。
休憩後に2グループに分けて先生方とのディスカッション

・興味関心が自分でわかっている生徒とわかっていない生徒がいて、わかっていない生徒にどう進路(キャリア)を考えてもらうか?
・個々人が何を目指すか?に最適化するのがいいのだが、その前に学校として何を目指すか?という方法もある。
・町の歴史や自然、福祉やまちづくりに関することなどを学んでいくことも大切
・「発酵」のような横断したテーマでつくれないか?
・地域学などで生徒は、「やってみたらよかった」という。
・分水高校の事例のように短期スパンでの「インプット⇒アウトプット」みたいなことがやれないか?

夜の部でも、
・興味関心や進路希望に応じて人をマッチングする⇒ランダムにインタビューしてアウトプットする。
・感じたことをアウトプットする練習が必要
・「対話」による「承認」
・「自分をみつける」⇔「地域を知る」を交互に起こる⇒結果、やりたいこと方向性が決まる。
・「自分を知る」とは「自分の感情を知る」⇒他者を知るとは、他者の感情を知ること⇒だから対話


「言葉にできる」は武器になる。

いま、この本を読んでいるのだけど、
言葉にできる、っていつでも大事だなと。

浦崎先生の言っていた
「感じること」と「問いを立てること」
のあいだに、深い谷があるのだと。
そこに橋をかけてやるところから始まるのではないか。

その前に、「感じたことを言葉にする」という段階がある。
それってきっと練習なので、何度も繰り返してやるっていうこと。

そして、その練習をするためには「題材」としての何かと、
「安心空間」を作らなきゃいけなくて、ってことなのではないかと。
その場を作ったうえで「対話」的に聞き出していくっていうことを
ていねいにやっていくことなのかなと。

先生方の話を聞いていて思ったことは、
「地域」や「地域の人」とどのように連携していくか?
って考えたときに、

つい、本人の興味関心または進路に向けて
「最適化」するような大人をマッチングしようとしてしまう。

言い替えれば、
ゴールを設定し、そのゴールに向かって向かっている状態を良いものとしている、
目標達成のパラダイムなのではないか。

society5.0が問いかけるのは、
目標達成というパラダイムそのものなのではないか?

これからの社会に向けて、
磨いていくべきは、目標達成の能力だけではなく、
(もちろんそれが大切ではないとは言わないが)

学び続けること、そしてそのために対話し続けることなのではないか?

自分と対話し、他者と対話し、社会と対話する。
その社会との対話方法の1つとして仕事、キャリアがあるのではないか。

「対話」によって、目の前の人は「他者」になる。
いや、自分さえも他者になる。
「ふりかえり」とは、自分を他者化する行為であるとも言える。

「対話」の習慣は、人を「承認」する。

今回の小国高校の事例。
保健室登校が二けたに達するほどいたのがゼロになった。
多くが「自分に自信がない」などのメンタルの不調だったという。

それを浦崎先生は
「生徒たちが一丸となってサミットを成功させようとして、実際に成功させた」
ことによる自信の回復だと説明したが、

(ここからは実際に保健室の先生や生徒たち自身に聞いてみたいところだが)

小国高校は1年生の入学時から、
東北芸術工科大学コミュニティデザイン学科と連携して、
ワークショップ・ファシリテーションなどの基本を学ぶ機会がある。
たとえば、コミュニケーション手法としての「Yes,and」とかの練習する、など。

そのような「対話」のスキルを磨いているのだ。
そこに「小規模校サミット」という題材がやってきて、それが見事にはまり、
各教科への学びにまでつながっていった。

しかし、ベースには「対話」の習慣とスキルの上達があるのではないか。

72人の小規模校とはいえ、全員が心から同意して熱意をもってイベントに取り組むとは思えない。
仮にそれがあるとしたら、逆に昭和の一斉教育のようだと思う。

そうではなく、小国高校には「対話」があった。
つまり、イベントに乗り気じゃない人の話を「他者」として受け止め、理解しようとした。
結果、イベントはうまくいった。
それは、見た目上、「一丸となった」ように見えるのだろう。

さらに、保健室の話もそうだ。
保健室に来る子がいなくなったのは、自信がついた、のではなく、
「対話」による「承認」があった、からではないか。

っていう、仮説です。

昨年から「機会」「対話」「実験」と言ってきたけど、

まずは「機会」と「対話」を繰り返すこと。
そして「対話」はスキルでもあるので、練習すること。
練習のために、感じたことを言葉にしてみること。
インプットとアウトプットを繰り返すこと。
それを踏まえて、実験段階にいけるのかもしれない。
「オンライン・トークフォークダンス」とか、いいかもね。

「地域を知る」っていうのと
「自分を知る」っていうのは並行して起こる、ということ。
「自分を知る」上で自分の感情を知ること、つまり言葉にすること。
「他者を知る」ために、他者の感情、言葉に耳を傾けること。

そんな設計が必要な気がしています。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)学び日記

2020年05月18日

発展する経済システムの5つの要素


「お金2.0」(佐藤航陽 幻冬舎)

これは、面白い。
いまから設計するオンライン本屋について考えさせられる本。
頭いいひとっているんだなあって。
メモメモします。

~~~ここからメモ

発展する「経済システム」の5つの要素

生産活動をうまく回す仕組みを経済システムとここでは呼びます。

1 インセンティブ
2 リアルタイム
3 不確実性
4 ヒエラルキー
5 コミュニケーション

1 インセンティブ

現代は生物的な欲望よりも社会的な欲望が目立っていて、なかでも
3M(儲けたい・モテたい・認められたい)の3つが欲望としては特に強く、
これらを満たすようなシステムは急速に発展しやすいです。

2 時間によって変化する(リアルタイム)

常に状況が変化するということを参加者知っていることが重要です。
人間(生物)は変化が激しい環境では緊張感を保ちながら熱量の高い状態で活動することができます。

3 運と実力の両方の要素がある(不確実性)

自らの思考と努力でコントロールできる「実力」の要素と、
全くコントロールできない「運」の要素が
良いバランスで混ざっている環境のほうが持続的な発展が望めます。

4 秩序の可視化(ヒエラルキー)

「経済」は実物のない、参加者の創造の中だけにある「概念」に過ぎません。
なので、目に見える(数値化される、分類される)指標がないと
参加者は自分の立ち位置がわからなくなってしまいます。また、指標が存在することで
自分と他人の距離感や関係性をつかみやすくなるメリットもあります。

一方でこのヒエラルキーも、それが固定化されると
2 リアルタイム(時間によって変化)と
3 不確実性(運と実力の要素)
が失われ、全体の活気を失わせてしまう原因にもなる諸刃の剣です。

5 参加者が交流する場がある(コミュニケーション)

人間は社会的な生き物ですから、他人との関係性で自己の存在を定義します。
参加者同士が交流しながら互いに助け合ったり議論したりする場が存在することで、全体が
1つの共同体であることを認識できるようになります。

追加1 経済システムの「寿命」を考慮しておく

フェイスブックがインスタグラムを買収したように、次の経済システムを用意しておく。

追加2 「共同幻想」が寿命を長くする

参加者が共同の幻想を抱いている場合、システムの寿命は飛躍的に伸びます。
全員が同じものに価値を感じれば、実際に価値が発生してしまうのです。
共同幻想はシステムに対して自己強化をかけます。

~~~

なるほどなあ。
ここの部分だけでもエッセンスが詰まってます。

オンライン本屋も、
インセンティブと、ヒエラルキーをどのように設計するか?

がカギになってくるなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)

2020年05月17日

場(プラットフォーム)が機能され続けるための仮説

オンライン・ツルハシブックスという実験に向けての仮説を。

weekly ochiai 2019年2月22日
落合陽一×宮台真司「人類をアップデートせよ)
https://newspicks.com/news/3689270/body/?ref=user_2250

で、宮台さんが言っていたこと。

~~~以下一部抜粋(上記ウェブページより)

いいねボタンは、人をクズにする。
何故かというと、アートとエンターテイメントは違う。エンターテイメントは、楽しませて回復させる、re・creation。
アートはロマン派の定義によると、人の心に傷をつけることなんですよね。ある種の不快さに直面させて、何かを持って帰ってもらう。
だから、エンターテイメントはいいねが集まるけど、アートはいいねが集まらないのが当たり前で、それを目指すべき。

意識高い系がなぜクズなのか。皆んながいいねボタンを押すものを良いものだと思ってるから。

日本の文化は、自分が所属している内集団でもっぱらコミュニケーションして、外集団の人たちとは関わらない。
ヨーロッパやアメリカみたいに、内集団と外集団を含めた、包括集団のプラットホームを「公」って言うんだけど、日本にはそれが全くない。
内集団じゃない人間たちを含めて、みんなどういう風に行動するんだろうと、想像する場がパブリックなんだけど、日本は想像しなかった。

今起こってることはね、テクノロジーが発達して、システムが拡張した結果、世界中が日本化してるんですよ。
見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。付き合いたいやつだけ付き合って、そうじゃない人間を排斥する。

人間的なものを保つことが大事。
なので、人類をアップデートするという発想にも、問題があるかなという気もする。
人間的なるものを支える、プラットフォームをアップデートするということなんじゃないか。

~~~

そして、放送の中でいちばん印象に残ったことは、
プラットフォームの寿命は2年。
2年が過ぎれば、アーリーアダプターの次の
アーリーマジョリティが参入し、結果、プラットフォームは死んでいく。

ここにおそらく「テーマコミュニティ」の難しさがある。

上に書いてあるように、
テクノロジーによって、人と人はつながりやすくなったかもしれない。
しかしそれによって、見たいものだけを見る、付き合いたいやつだけと付き合う、
みたいな世界がきてしまっている。

・・・

という前提で。
だからこそ「本」をテーマにしたコミュニティ(あるいはイベント)は脆弱だと言えるのかもしれない。

おそらくはこれに近い理由で
ツルハシブックスという場は、限界を迎えた。

閉店の2日後のブログ
「居場所のジレンマ」(16.11.7)
http://hero.niiblo.jp/e482717.html

~~~以下ブログより抜粋

11月3日も、同じことが起こった。
ツルハシブックスで知り合ったお客さん同士で
遊びに行った後の午後6時前に、
ふたたび「ただいま」ともどってきた。

10人ほどのお客さんが、テーブル席に集まっていた。

そうなると、もう、
その空間は「劇場」としての緊張感を失う。
初めて来店したお客さんへの対応も、
まずは「うるさくってすみません」という言葉から入るようになる。

それが決して悪いわけではないという人もいるかもしれない。

でも、僕がツルハシブックスで創りたかったのは、
劇場としての本屋であって、「居場所」ではない。

~~~以上抜粋

これがまさに、ツルハシブックスの閉店理由だった。
いつのまにか、プラットフォームの2年の寿命に到達してしまったのかもしれない。

今回。この外出自粛の状況の中で、「偶然」を生み出し続ける、
「本屋のような劇場」がアップデートできるのではないかと思った。

と同時に、劣化しないプラットフォームとはなんだろうか?
という問いを同時に考えた。
たとえば、22年目を迎える「まきどき村」はなぜ続いているのか?ということ。
唐澤さんとの対話も大きな価値を持った。

キーワードは、次の3つだ。

1 身体性

本屋というのは、言語コミュニケーションで成り立っている。
言語コミュニケーションの得意ではない人は、その「場」に、悪い影響を与えてしまう。
言語コミュニケーション以外のコミュニケーションの方法を持つこと、それが「畑のある本屋」仮説だった。

2 (半)開放性

「リアルな場」というのは、そこに存在しているから価値があるわけであって、
だからこそそこには「いい雰囲気」みたいなものが流れるのだけど、
一方でそれは、場を内と外に分ける、というリスクを負っている。
「安心感」という意味では、ある程度の「顔を知ってる」みたいなやつは必要なのだけど、
それを外に開き続ける、みたいなことが必要である。

3 (共同体の)多層性

横につながるのではなく、ひとりひとりが幾重にもさまざまな共同体を掛け持ちしている前提で、
目の前にある「場」は、それを切り出した場面に過ぎない。
ひとりひとりの視点から描かれるスタイルの小説があるけど、そういう感じ。
仕事場でも、家庭でもない「サードプレイス」がいくつもあって、その「場」ごとに人は変わる。


内山節「共同体の基礎理論」(農文協)では、以下のように「共同体」の多層性について語られる。

~~~以下引用

真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。

共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。

この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。

とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。

故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。

~~~以上引用

思えば、僕のテーマはずっと「アイデンティティ・クライシス」だった。
「自分らしく生きる」とはなんだろうか?若者(かつて若者だった私)は、なぜこんなにも苦しそうなのか。

そこに対して、ひとつのアプローチ。
「この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。」

たぶん、つくりたいプラットフォームは、そんな「場」。
そしてそれは継続的に現れるのではなく、瞬間に訪れる。

アサダワタルさんの表現を借りれば、

自分にとって居場所とは、場所ではなく、「今この瞬間」という「時間」そのものだった。そしてそれは当然のように常に変化し、転がってゆくものだ。その感覚ってすごく大切だと思う。「場」が「居場所」になった瞬間、そこへのある種の「安定」というか、変わらないでほしい、というか、保ちたいというか、そういうのが始まってしまう。

そういう瞬間をつくること。
そして、それが、オンライン空間にこそ作ることが可能なのではないか。

その実験はまずは、
「ツルハシブックス」という身体性の共有をベースに、つくっていくこと。

それが本屋のような劇場、「オンラインツルハシブックス」への仮説です。  

Posted by ニシダタクジ at 05:55Comments(0)日記

2020年05月15日

やりたいことは何か?と7つの問い

初開催した黎明学舎「テラコヤ・オンライン」
タイトルは「やりたいことの見つけ方」
東北芸術工科大学の本間真生さん。

高校時代、バレー部を途中でやめて、
一気にまちづくり、地域づくりにシフトし、
大学に入ってからも出会いと直感と行動力で
クランボルツ博士のプランドハプンスタンス(計画された偶発性)理論を
地で行くようなお話でした。

いちばん学びがあったのは、大学選びの話。
「まちづくり」や「地域」という分野に関心があり、
進路選択をするときに、つい、キーワードで選んでしまいがち。

そうすると、「地域」とか「コミュニティ」とかっていう学部・学科を目指すことになる。

たとえば国立大学の「地域〇〇学部」とか
経営学部の「地域〇〇学科」とか
本間さんがいる芸工大のように芸術・デザイン寄りの
「コミュニティデザイン学科」とか。

それって実は、アプローチの方法が違うんだよね、って。

某国立大学の地域〇〇学部の学生が言ってましたが、
フィールドワークが多すぎて、それに伴うレポート提出が山のようにあり、
みなレポート職人のように定型文になっていっていると。

いやあ、それでいいのか?って。
他者からの評価を前提にした教育カリキュラムは
ある程度仕方ないのだと思うのだけど、
そうやって出会った地域のどこかを、
卒論などで深めていけばいいのかもしれないけど。

そういう意味では本間さんの学科では、
夏に1か月、どこの地域でも行ってきて、
っていう「インターン」を実施していて、
その場所を決定し、何をやるか?に関しても
学生自身の感性と行動力に委ねられている。

高校生の時に、キーワードでフワッと進路を決めてしまうのではなくて、
そこまで大学の様子を調べて、AOや推薦の志望理由書がかけるくらいに
なっておくのってとても大切だなあと。
大学時代という膨大な時間(とお金)の投資を
納得できるものにするには、いっぱい調べないといけないなあと。

とりあえず、キーワードと偏差値(やブランド大学名)でこんくらいかな、みたいな進路選択してたらアウトだなと。
そんな大きな学びがありました。

あとは、今日のタイトルが
「やりたいことの見つけ方」だったのだけど、
やっぱり、「やりたいことは何か?」っていう問いでいいのか?
って思いました。

ブレークアウトルームでも話していましたが、
あらためて「地域」とか「コミュニティ」とかについて考えときに、
僕としては切り口を「アイデンティティ」に置きたいなと。

僕の本丸は、やっぱり「アイデンティティ・クライシス(自分らしさ危機)」だと感じました。
そしてそこから全部つながっているなあと。

これ、そろそろ整理する時を迎えているので、
ノートにキーワードを書き出してみました。

~~~ここからメモ

アイデンティティとコミュニティ
個人戦と団体戦
東洋と西洋
デカルトとスピノザ
評価と承認
共感と違和感
自我と共同体
個性の構成員になる
他者と出会う
キャリアデザインとキャリアドリフト
贈与者になる。
手段として学ぶと機会として学ぶ

~~~ここまでメモ

これで読書マップとかつくってみようかな。

ということで、寝るまでこの問いがぐるぐるしていて、夜中に出てきた言葉。

やりたいことは何か問題の深刻さはそれがアイデンティティに直結しているから。
いまはそれが負の連鎖をしている。

やりたいことは何か?という問いだけに集中してしまうのは平成で終わりにしよう。
誰と、いつ、どこで。
なぜ、誰のために。
何を、どのように。
その全ての問いが大切。

誰と、いつ、どこで学ぶか、学びたいか?
なぜ、誰のために学びたいのか?

その前提の上で、何をどのように学ぶか?
を考えることなのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:13Comments(0)学び

2020年05月14日

杉林を育てるのではなく、雑木林を見守る。

5月13日付新潟日報の
県央・下越版に「オンライン黎明学舎」の様子が掲載されました。


そして昨日午後は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会で
先生方とパートナーズの皆さんがオンライン上ですが、顔合わせました。

「話をする時間がもっと欲しい」との声が多数あり、
来週からは事前に資料を見てもらう「反転授業」パターンを検討します。


そして今朝、月刊先端教育のオンライン教育特集を読みました。

日本教育工学会が3月31日に発表した
「学校と家庭をつなぐオンライン学習実践ガイド」。
https://www.jset.gr.jp/sig/pre_online_learning_guide_sig04.pdf

まず同期型(リアルタイムでつなぐ)と
非同期型(時間を合わせずに学校と家庭のあいだでやりとりする)
の2つに分けた上で、オンライン教育の4つの方法を示す。

1 リアルタイム授業配信
会議ツール等を使ったネットでの授業実施

2 録画授業動画の配信
授業の講義場面を録画したビデオを、学習者が各自で視聴して学習する

3 ドリル形式アプリ
学習に使えるドリル形式のアプリを活用したオンライン学習

4 オンラインでの共同制作
学習者たちが一緒に何かをつくる共同制作をオンラインで実施する

なるほど。
ほかにも、たくさんの実践例などからのメモを以下に。

~~~ここからメモ

オンライン教育の最大の魅力は、自分に合った「師匠」と出会うチャンスが世界に広がることです。

同じ形ではなく、同じ価値を追求すること。



オンラインは自律性を身に付けるチャンス

壇上の賢者から寄り添う案内人へ

最大の課題はモチベーション維持。

録画版に向いているのは、英文法などのインプットが多い知識伝達型の授業です。

質問がリアルタイムでできる双方向型でなければできない授業は何か?という問い。

「ちゃんとやる」っていうことに対するハードルが下がっている。
大学であれば、聞いているほうがフォローすることもできる。

ICTが持つ3つの機能
1 個別で学ぶこと(Adaptive)
2 気付きの機会があること(assistive)
3 協働すること(Active)

多くの人は、「学習指導要領が変われば、教育が変わる」と思っていますが、それは大きな間違いです。現場の授業を実施質的に規定しているのは学習指導要領ではなく、アナログ環境下で構築された各教科の教科教育の指導法なのです。

子どもたちは毎日、ランドセルを背負って、「過去」にタイムスリップしているようなものです。

料理をしてみるという最小単位のPBL。確かに、料理って小さな、でも壮大な、自由度の高い、プロジェクトだなあ。

~~~ここまでメモ

思ったことは、

「何を学ぶか?」から「どのように学ぶか?」
そして「誰と、いつ、どこで学ぶか?」が大切になってくるということ。
そして、その前に「なぜ学ぶか?」と「誰のために学ぶか?」を考えるとき。

場のチカラとか、プロジェクトとかの話だなあと。
プロジェクトベースドラーニングってそういうことかもしれない。
さらに、特別企画「GIGAスクール構想の実現と教育改革」のページでの一言

「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

いやあ、これですね。これからの森づくり。
「学びの土壌」の上にある、「学びの生態系」って
そういうところにあるのかもしれませんね。

かつて、杉林を育てる理由があった。
しかし、社会や時代のほうが変わってしまい、
杉をつくっても売れなくなってしまった。

いまや、森の中で自分の木を育て、それを自分自身で売り込まないといけない。
そしてそれは、木単体で売るのではなくて、ほかの木や生き物との組み合わせで売る、
あるいは、森を観光資源にした観光ビジネスや生き物を教育コンテンツにした教育ビジネスを売っていかないといけないのだ。

学びの雑木林づくり。
先生はその見守り人(ファシリテーター)に。
地域の人は、雑木の中の1つや動物に、
あるいは太陽や風という役割を担っていくことかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:23Comments(0)学び

2020年05月13日

匿名化した「世間」の暴走と「アイデンティティ」の喪失

開店を自粛しない飲食店などに心無い張り紙をする
「自粛警察」なるものが暴走しているらしい。
同調圧力をまとった「匿名」なる世間は恐ろしい。

何が人をそんな風に走らせてしまうのだろう。
と、「世間」と「空気」いうキーワードが浮かぶ。

「世間」と「空気」と「アイデンティティ」。
それを現実世界にあぶりだしたのが
今回のコロナショックであるのかもしれない。

「世間」と「社会」を分けるもの(14.4.23)
http://hero.niiblo.jp/e409952.html

「世間」の崩壊と「空気」の台頭(14.4.24)
http://hero.niiblo.jp/e410436.html

と鴻上さんの本を読み直してみて。

かつて共同体は強固に結びつき、自分たちの暮らしを保証してくれた。
その代わり、その結びつきは「世間」という神を生んだ。
皆が近くに住んでいて、今後もその付き合いが続いていくという前提の
中で生み出された「世間」

ところが、都市化し、個別化し、人々は分断された。

かつて「家族」「世間」の替わりに機能してきた
「会社」という組織は、もはや自分を守ってくれない。

帰属する場所がないということは、
「アイデンティティ」の喪失を同時に意味する。

「所属」することでアイデンティティを構築してきた人たちは、
大きな不安の中にある。

かくして、「世間」や「空気」が暴走する。
しかもそれは匿名で行われるから、暴走を抑止する機能(あとでしっぺ返しがくる等)を失っている。

頼れるものがなく、アイデンティティも喪失した彼らが
すがるのは小さな正義(だと自分が思っていること)だ。

新しい共同体の作り方と新しいアイデンティティの構築方法を考えないといけない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)

2020年05月10日

脱マシン(人間的であること)


「シン・ニホン」(安宅和人 ニュースピックスパブリッシング)

書き残していたメモがあったので、それをまとめてみます。

「異人」の時代へ(20.4.20)のつづきです。
http://hero.niiblo.jp/e490580.html

どうやって、それをいわゆる「教育」「学び」の場で実現していくか?

これまでの工業社会型資本主義:GDP=付加価値の総和⇒スケール(規模)の勝負
⇒中国、インドなど人口が増えているところが伸びる⇒多くの国では人口増が止まったからもう伸びない。

これからの市場価値を生み出すのは「異人」。
→事業のありかた、人材のありかたが変わる
→教育も変わるし、研究開発、基礎技術も変わらざるをえない。

すべてがいっぺんに変わる。
人口増のロジックでは考えられない。
ハード系のAIだけじゃなく、ソフト系(データ×AI)が必要

昔はスケールで利益出して、ブランド作って、時価総額が上がった。
今は時価総額から付加価値へ。

夢を形にする時代。
そこに技術とデザイン&アートが必要。

必要なのは「脱マシン」なのに、良いマシンになるための教育をやっている。

国語:空気を読む技術を学んでる、敬語とか。
数学:センター試験まで計算ドリルやってる。
理科:見つける⇒はめこむ(ドリル)。「パターン」見つける。
体育:前ならえ気をつけ(G20の誰もやってない)は明治の残留物→ものすごい勢いで国民を兵隊にしなければならなかったから。

入試:5~7割が解ける問題を並べている→多数決で多いほうが正解
平均的に得意な子が取りたいから。問題をみなくても正解がわかる。

徹底的にマシン化する教育をやめないといけない。
違うこと自体が価値になる時代。同じであることは「無」。

銀行の支店長になるには、膨大な社内ルールを覚えることが必要だった。
→今や人間がやる必要がない。付加価値にならないのだから。

マシンだと「仕掛ける」ことが禁止されている。
勤め人に集合体だから仕掛けることができない。

SFCのAO入試⇒変わったやつしかこない。
想定する変わったやつよりも変わったやつをとらないと。
わけわからない、解読できない価値をとりにいくのがAO入試。

一般(学力)入試は、心をまったく見ないで人をとっている。心のベクトル、価値観を見ていない。魂の色が何色か?
高校4年生は高校7年生になって、社会に入ると、高校生のままで死んでいく。
KPIが受験になっているとすべてが終わる。そこが固定されていないやつだけが輝いている。学力は重要だけど正義ではない。

日本におけるリベラルアーツの認識間違っている。
人にものを伝える力:論理学修辞学が重要なのに「国語」が空気を読むゲームになっている。
わざわざ不完全な文章を読ませている。大学生で論文を書いたことがない子は指導ができない。
伝えたいことを伝えたいように書けるかどうか?を批判的に見ることができるかどうかを磨くこと。

「生命力」に回帰している。
人間も生き物(動物)であるという前提。

「ニュートン」ペストで大学が封鎖になっているときにいちばん成果を残した。
いま、天才が生まれているかもしれない。異人からしたら最高の世の中。マシンになるための教育から解き放たれている。

生体験の量では学校外にある。誰に会うか、どんな体験をするか人生に刺さったひとことは課外活動でしかうまれない。

「心を育てる」には学校の外というか「非ドリル」的な何か。才能はひとりひとり違うのでそのひとりひとりに目を向ける。

30人同時は無理で、針治療しかない。月に2回くらいその子にしか刺さらない針を打てるか?
特に小中学校、高校の前半までに打たなければならない。その子にしか効かない針治療を。
さまざまな人が打ち込んだ針がいつまでも思い出されるような、彼ら彼女らの遠い未来に向かって深い針を打たないといけない。
何かに突き抜けている人材を応援する。むちゃくちゃ仕掛けるやつが有利→若くて何もない人がチャレンジできる。

新しい制約をつくることで新しい成長をつくる
SDGsは現代の5-7-5(俳句)
アイデアを激しくうむシステム→知恵を絞らないといけない。お金使わないといけない。
経済成長させるためにSDGsを生む。SDGsの半分以上が才能と情熱を解き放つ系となっている。

と、まあそんな風に世の中が変わっていっているのですが、
(以上、weekly ochiaiよりメモ)

あらためて、じゃあどうしすればいいのか?を再び「シン・ニホン」本文より。

~~~ここから引用メモ

漢字の書き取り、計算ドリルは、マシンとして子どもを育てていて、「意思」「自分らしさ」「憧れ」のない子どもが普通になっている。
「その人なりの心のベクトル」を育てること。

1 何を教えるにしても作業内容ではなく意味、目的を主として教える。一方でマシンにアシストされるのが当然の活動のスキル育成(ドリル的なもの)の割合を、世界の先端事例を参考に大胆に削り、21世紀らしくマシンを活用する技を前提に育成する。

2 スポンジのように引っかかりなく吸収することよりも、体験する、ものを読む中でその人なりに感じること、引っかかることを優先し、そこから生まれる気持ちを育て、「知覚」を育む。

3 さまざまな近代・現代に偉業を成し遂げた人の、過度に偶像化されていない話に触れ、考えさせ、1つ1つの偉業は観念論的なものではなく、すべてリアルな課題を乗り越えることによって達成されたことであり、その実感と重さを想像することはきっと未来において彼らが何かを仕掛けるために大きな力となる。

4 明らかに「その人らしい近くと深み」の育成を阻害している仕組みを取り除く。

仕事=力×距離
  =質量×加速度

ガリレオの時代からずっと、サイエンスの根源は、自然からパターンを見出すこと。
発見されたルールと事実を覚えて、それを物理や化学の問題に適用することではない。

夢×技術×デザイン視点で未来を創る教育を刷新する。

あらゆる文化は「手」によってつくられる。真の創造は最終的には「手」によってなされる。「手」を忘れることは文化の原点を忘れ、人間性を見失うことである。このプロジェクトは「手」を通じて「新しい生活のあり様」を提案し、「文化」の本質的な復権を願って企てられたものである。

1 「手」を動かす
課題に接し、対象や土を触り、触る対象の声に耳を澄ませ、ほしい姿を手で描き、モノを作る。

2 データ×AIがどのように世の中を変えているのかという実例を数多く見せ、実感を持ってもらう。

3 小中学校から何かを実現する道具としてデータ×AIを馴染ませ、データ×AIネイティブを生み出す。

4 新しいものをつくる体験で夢を描くを養成する。

5 風景、景観に対する視点をいれる。

初等・中等教育刷新に向けた課題
1 「データ利活用」
2 「ソフトウェアづくり」
3 「ものづくり」
4 「空間づくり」

不確実性の4つのレベル
1 確実に見通せる未来
2 他の可能性もある未来
3 可能性の範囲が見えている未来
4 まったく読めない未来

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

具体的な手法
1 大勝負に出る
2 オプションを仕掛ける
3 後悔のない行動をとる

SDGsとSociety5.0の交点をとる

SDGsは、以下の3つに分けられる(P372)
「才能と情熱を解き放つ」系
「持続可能な空間をつくる」系
「力と方法を持つ」系

Society5.0の価値の源泉
デジタル革新×妄想力

規模拡大の効率性⇒課題解消・価値創造
均一性⇒多様性
集中⇒分散
脆弱⇒強靭
環境負荷大・資源多消費⇒持続可能性・自然共生

~~~ここまでメモ

とくに、ここかな。

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

形成か、適応か、プレー権の確保か。
それは課題ごとに違ってくるのだろうけど。

いまこそ、観察し、学ばないといけない。
状況が日々、変わっている。
今日と同じ、明日は来ない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2020年05月09日

脱マシーン

往年のモーニング娘。の曲を彷彿とさせますが。(古いかも)


「シン・ニホン」(安宅和人 ニュースピックスパブリッシング)
読みつつ、「WEEKLY OCHIAI」の対談を見る。

うなるわ、これは。


やっぱり響いたのは教育の話かなあ。
画面見ながらメモしたよ。

その前にいまの経済と市場の話。

~~~

マーケットキャップ:市場価値
GDPの伸び:付加価値の総和(スケール勝負)
→人口増が止まったから伸びない

いま市場価値を生み出すのは「異人」
市場価値はデータ×AIでどんどん新しい価値が上がっている。

事業のありかた、人材のありかたも変わる
→教育も変わるし、研究開発、基礎技術も変わらざるをえない。
すべてがいっぺんに変わる。
人口増のロジックでは考えられない。
ハード系のAIだけじゃなく、ソフト系(データ×AI)が必要

昔はスケールで利益出して、ブランド作って、時価総額が上がった
今は時価総額から付加価値へ。

夢を形にする時代(妄想の時代)
そこに技術とデザイン&アートが必要

教科書でどうやって計画立てて物事ができるか?
資源を再配分するにはどうしたら?
→スケールの時代の話。予定通りやる。

~~~

そして、ハイライトの「脱マシーン」につながっていく

~~~ここから

「脱マシーン」

国語:空気を読む技術を学んでる、敬語とか。
数学:センター試験まで計算ドリルやってる
理科:見つける⇒はめこむ(ドリル)
「パターン」見つける
体育:前ならえ気をつけ(G20の誰もやってない)は、
明治の残留物→ものすごい勢いで国民を兵隊にしなければならなかった。
徹底的にマシン化する教育をやめないといけない。
違うこと自体が価値になる時代。
同じであることは「無」

支店長になるには、膨大な社内ルールを覚えること。
→人間がやる必要がない。付加価値にも資本にもならない。

~~~ここまで

マシンだから「仕掛ける」ことが禁止されている勤め人の集合体だから仕掛けることができない。
入試:5~7割が解ける問題を並べている→多数決で多いほうが正解
平均的に得意な子が取りたい。問題をみなくても正解がわかる。

SFCの入試は英数+小論文→変わった人を掘り出すシステム。AOしかないと言ってもいい。

リベラルアーツ自由7科、アルテスメカニケ
とコンビューターは相性がいい。
想定する変わったやつよりも変わったやつをとらないと。わけわからない、解読できない価値をとりにいくのがAO入試。

心をまったく見ないで人をとっている。
心のベクトル、価値観を見ていない。
魂の色が何色か?
高校4年生は高校7年生になって、社会に入ると、高校生のままで死んでいく。
KPIが受験になっているとすべてが終わる。
そこが固定されていないやつだけが輝いている。
学力は重要だけど正義ではない。

日本におけるリベラルアーツの認識間違っている
人にものを伝える力、論理学修辞学
「国語」が空気を読むゲームになっている。
わざわざ不完全な文章を読ませている。
大学生:論文を書いたことがない子は指導ができない。

伝えたいことを伝えたいように書けるかどうか?を批判的に見ることができるかどうか。

コロナ的なウイルスが3年に1度くるような世界をどう生きるか?
「生命力」回帰:メシ食え、よく寝ろ。若い人のほうが強い
生き物だっていうところに立ち返るところに来た。

「ニュートン」ペストで大学が封鎖になっているときにいちばん成果を残した
いま、天才が生まれているかもしれない。
異人からしたら最高の世の中。
マシンの教育から解き放たれている。

生体験の量では学校外にある。
誰に会うか、どんな体験をするか
人生に刺さったひとことは課外活動でしかうまれない。

~~~ここまでメモ

針を絶妙なタイミングで打てる人のことをこれからは教育者と呼ぶのだろう。

いや、すでに教育者という職業は成り立たないのかもしれない。

地域の大人の多くが、そんな針職人になったらいい。  

Posted by ニシダタクジ at 09:08Comments(0)

2020年05月09日

他者と出会い、他者と働く


他者と働く~「わかりあえなさ」から始める組織論(宇田川元一 ニュースピックス)
読みました。

ダイジェストはこちらのページがわかりやすいのでどうぞ。
https://motarasu.jp/business/35_narative/

「対話」「対話」いってるけど、それは何なのか?
っていうのがなんとなく理解できる1冊。
上司や組織に不満を持っている人、必読です。

ロナルド・ハイフェッツによれば、世の中の課題は以下の2つに分類できるそうです。
1 技術的問題・・・既存の知識・方法で解決できる問題
2 適応課題・・・既存の方法で一方的に解決できない複雑で困難な問題(関係性の中で生じる問題)

私たちの社会がこじらせているのはほとんどが適応課題なのです。
適応課題をいかに解くか。そのカギが「対話」です。

キーワードは「ナラティヴ」。
本書によれば「ナラティヴ(narrative)とは物語、つまりその語りを生み出す解釈の枠組みのことを指します。

経営者には経営者のナラティヴ(判断の基準となるような解釈の枠組み)があり、
部下には部下の「上司はこうあるべき」といったような「ナラティヴ」があります。

こちら側のナラティヴに立って相手を見ていると、相手が間違って見えることがあると思います。しかし、相手のナラティヴからすれば、こちらが間違って見えている、ということもありえるのです。

こちらのナラティヴとあちらのナラティヴに溝があることを見つけて、言わば「溝に橋を架けていくこと」が対話なのです。

~~~以下本文よりメモ

対話とは「新しい関係性を構築すること」

組織とはそもそも「関係性」だからです。

「私とそれ」の関係性(道具的な関係)と「私とあなた」の関係性(固有の関係)
「私とそれ」:立場や役割によって「道具」的にふるまうことを要求する関係。
「私とあなた」:相手の存在が代わりが利かないものであり、相手が私であったかもしれない、と思えるような関係。

それぞれの立場におけるナラティヴがある。

特に、専門家としての物語を生きていると、相手を自分の仕事を行う対象、道具として捉えやすくなります。

相手を捉える私の物語をどのように対話に向けていくか。

個人とは「個人と個人の環境」によって作られている。

人はその人の置かれた人間関係や環境にそもそも埋め込まれて作られた存在なのです。

対話は権限がなくても、自分のナラティブを一度脇に置いて、観察‐解釈‐介入を地道に回していくことによって可能です。

人が育つというのは、その人が携わる仕事において主人公になること。

実は主体性を発揮してほしいと思うことは、こちらのナラティブの中で都合よく能動的に動いてほしいと要求していることがほとんどです。

そして、今の職場のナラティブの中で活躍できる居場所を失ってしまっているので、「主体性がない」ように見えるに過ぎません。

~~~ここまでメモ

これ、上司と部下っていう話だけじゃなくて、先生と生徒っていう文脈でも同じですよね。

そして、さらに「観察」における注意点として、
「権力の作用を自覚しないとよい観察はできない」と説明します。

たとえば、「社長とのランチミーティング」みたいなやつ。
経営者は社員の言葉にしっかりと耳を傾けているように見えます。
しかし、下の立場の人間が語ることは、「経営者としてのあなた」に
対して語っているのだということです。

これはあるね。

そういう意味では、今のzoom会議時代っていうのは、「対話」の場として魅力的だなと思った。
それは「対話」の前提である、「他者」の自覚ができるということだし、
現実世界の立場を超えてフラットに話がしやすいのかもしれないなと。

ブレイクアウトルームで、「ダイアログインザダーク」的に
本名禁止(ニックネームで呼び合う)、画面オフでお題に対して
会話やチャットをするっていうのとか。

昨日、桜新町で「屋台やってます」っていう出会いの吉池さんとオンライントークしていて、思ったこと。

http://hero.niiblo.jp/e488340.html
(リアルメディアという参加のデザイン 2018.11.2)

http://hero.niiblo.jp/e489321.html
(屋台のある街 2019.5.12)

zoomは「他者に出会う」ツールなのではないかと。
つまり、関係性を再構築することができるのではないかと。

ただつないで、何もお題がないと、話をしづらい状況になる。
何か最近気になっているキーワードとか、昔のエピソードとか。
相手の興味関心、もっと言えばルーツとか価値観がわかるようなお題。

よく知っていると思っている人でも、
zoomというツールを通して、あらためて発見することができる。
この本的に言えば、相手のナラティヴを理解しようとすること。
そんなことが可能になるのではないかと思った。

僕がやりたい「コミュニケーション・デザイン」とはそういうことなのかもしれないなと。
「本の処方箋」でも、相手の悩みの物語に溶けていく中で、浮かんでくる本がある。
そのコミュニケーションの瞬間が面白いからやっているので、本を届けることが目的ではない。

他者と出会い、他者と働く。
そんな地平に立っているのではないかと思う。

では、どうして私たちは対話に挑むのか?

第6章:対話を阻む5つの罠
この本はここで僕的にクライマックスを迎えました。

~~~ここから一部引用

そもそも私たちは何のために対話に挑むのでしょうか。
ハイフェッツの言う「適応課題」を乗り越えていくため、自分と組織、ひいては社会にとってなすべきことをなすためです。

対話に挑むことを別の言い方をするならば、それは組織の中で「誇り高く生きること」です。つまり、成し遂げられていない理想を失わずに生きること、もっと言うならば、常に自らの理想に対して現実が未完であることを受け入れる生き方を選択することです。

どうやったら誇れるか。

それは、私たちが何を守るために、何を大切にしていくために、対話に挑んでいるのかを問い直すことによって可能になると私は確信しています。私たちは何者なのでしょうか。何のためにがんばっているのでしょうか。そのことを見定めることによって、私たちは困難に常に挫かれ、改められることが必然である暫定的な理想を掲げ続け、歩むことができるはずです。

相手を観察し、対岸に橋を架けることは単なるその一過程に過ぎません。そのことは目的ではないのです。誇り高く生きることは、孤独であることを避けられません。しかし、その孤独ゆえに、他者に迎合するのではなく、孤独にこそ私たちの理想が刻まれていることを思い返すとよいでしょう。

~~~

いやあ。熱い。
急に熱い。
宇田川さん、好きだわ。(笑)

「組織の中で誇り高く生きろ」
そのためのツールがナラティヴアプローチであり、対話である、と。

そうなんですよね。
たったひとりでも、相手のナラティヴを知り、橋を架け続けること。

それがこの本からの最大のメッセージではないかと思います。

多くの悩める組織人と、これから組織人になっていく大学生へ、この本を届けたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:15Comments(0)

2020年05月08日

教育の場を人間的にすること

5月5日にやっていた
Learn by Creation オンライン vol2: コロナ後の社会と教育の可能性 苫野一徳 (教育哲学者)X 尾原 和啓(フューチャリスト)
https://www.youtube.com/watch?v=SYiPFajMmrA&t=2658s
を録画で見ました。

そして、その流れで(尾原さんが講演の中で紹介していたので)
TED2011「サルマン・カーン:ビデオによる教育の再発明」
https://www.ted.com/talks/sal_khan_let_s_use_video_to_reinvent_education?language=ja

日本語訳はこちら
http://www.aoky.net/articles/salman_khan/let_s_use_video_to_reinvent_education.htm
を見ました。

10年の時を経て、いまようやく、目の前にきているんだなと。

~~~以下メモ

学びのマインドセット:信頼して任せて待って支える→共同探究者、探究支援者になる。
コロナ休校→先生がコントローラーを常に持っていることができなくなった。

コンフォートゾーンの外に出て「好奇心」に喉を乾かすこと。
大事なものができたら、それが壊れないように社会課題を解決する。

自由のトレードオフに気づく→自由の相互承認へ
今こそ夢中になれること、好奇心をかきたてられることを。

大きくなるとどうして好奇心がなくなるのか?→他人(大人)の時間を生きるから
自分の時間を生きること。自分でルールを決めること。
自由を自分で行使すること。自立から自律へ。

自律⇔他律
効率的にするには他律で統一すること。
コロナ休校:自律を試される1か月。
マイルールを一緒に寄り添いながらつくること。

モンテッソーリ:先生の役割は環境を整えること。
現状であれば、ネット上の良質コンテンツを探し、紹介すること。
データを可視化することによって、自分でふりかえることができる。

個別化+協同化するには?
学びは個別化するが、場面によって力を借りたり貸したりできる。

「教育の機会均等」をベルトコンベア式で実現しようとしたのは当時(産業革命当時)としては革命。
今はそれが成り立っていない。一斉授業では同じところに到達しない。
個別化したほうが機会均等になる。格差は縮小する。
ゴールに至る道は違ってもいい。

カーンアカデミーはボランティアがメンターをできる。
すぐに協同化できる。

ギブすることの喜びを知る。
ありがとう(あることが難しい)を実感する。
自分は何をギブできるだろうか?
自分のあたりまえが遠くにいるひとにとっては「有り難い」ことだったりする。

「自由の相互承認」を失われない。
十分な自由と人権が保障されていれば責任ある行動がとれる。
自由を奪われるからどうやったら勝ち逃げできるか?になってしまう。

探究をドライブするには?
長期:徹底的に遊びぬく。
中期:いろんなテーマに浸る時間がある。
短期:本物との出会いをつくる(憧れを駆動する)

~~~以上メモ

そして、TEDにシビれる一節が。

「教育の場を人間的にする」

私たちが目指しているのは、世界的なスケールで教育の場を人間的にすることです。これは興味深い視点をもたらします。教室をより人間的なものにする努力はもっぱら「生徒あたりの先生の数」に向けられています。私たちから見ると、重要な指標は「生徒あたりの、貴重で人間的な先生の時間」であるべきなのです。従来のやり方では、先生の時間のほとんどは、講義したり成績をつけたりすることに費やされます。生徒の横について一緒に取り組む時間は、せいぜい5%といったものでしょう。今や100%の時間をそこに充てられます。テクノロジーを使うことで、教室をひっくり返すだけでなく、教室を人間的にすることができるのです。それも5倍、10倍という割合でです。

テクノロジーが何のためにあるのか?
それは非人間的になるためではなく、
より人間的になるためなのではないか。

まさにこんな原点を思い出させてくれました。

さて、具体的方法を一緒に考えましょうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)学び日記

2020年05月03日

「手紙」を受け取るために学ぶ


「世界は贈与でできている」(近内悠太 ニュースピックスパブリッシング)

衝撃でした。
「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)以来の衝撃。

「贈与」は受けとることなく開始することができない。
贈与された、という気づきからしか始まらない。

モチベーションの源泉。
それは「贈与」そのものなのだろう。
言い換えれば、その人が「贈与を受けた」という勘違いすること。

大学生のアイデンティティ・クライシス問題に切り込む1冊。

アイデンティティは、どのような未来を目指すか?ではなく、過去にどのような贈与を受け取っているか?という問いから始まる。
「自己分析」でやるべきはきっとそっちだ。

何をやりたいか?ではなく、
これまでどんな贈与をもらったのだろうか?
誰にそれをパスしたいのか?

僕はそれを「お客は誰か?」という問いで表現してきたけど、お客の設定としてもっともパワフルなのは「過去の自分」で、そのためなら無限にエネルギーを得られるのだけど、それって過去の自分にとって「つらかったこと」も本質的には「贈与を受けている」からなのかもしれない。

交換の論理と贈与の論理。
消費者マインドと贈与者マインド。
道徳って本来きっとそういうことだ。

「地域愛をもった高校生を育む」のではなく、
「ペイフォワードしたくなるくらい贈与を受け取った」と認識できているかどうか?
イナカレッジの大学はまず最初に、いや1か月のあいだずっと、贈与を受け取りつづける。
結果、何度も帰ってくる。

~~~本文から

そもそも、僕らがつながりを必要とするのは、まさに交換することができなくなったときなのではないでしょうか。(中略)交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。

贈与は届かないかもしれない。
贈与は本質的に偶然で、不合理なものだ。
そう思えることが差出人に必要な資質なのです。

~~~

交換の論理しかない社会が果たして「社会」と呼べるのか?

天職(calling)への道は、誰かの声を聴くこと。耳を澄ませること。

人はみな「言語ゲーム」という「世界」を生きている。
他者を理解するとは、その「言語ゲーム」を理解する、ということか。
そしてその言語ゲームを開いていく、というのが「コミュニケーション」なのか。

人は「正統的周辺参加」によって、ルールや言語を習得しているのか。
ルールが先にあるのではなく、ゲームが先にあるのだ。「実存は本質に先立つ」っていうのもね。
とすれば、「地域の活動への参加・参画」っていうのは、文科省が言っているから、ではなく根源的に必要なのかもしれない。

「疑い」ではなく、「自身の言語ゲームに対する問い」か。
「この言語ゲームで本当に良いのか?」という問いね。
「常識を疑え」って言われるよりもよっぽど刺さりますね。

この本の言う「言語ゲーム」っていう概念を実感することで何かが変わるなあと。

僕は、この本を読んでいて、なんのために学ぶのか?についてのひとつの仮説を得た。

なぜ、学ぶのか?
なぜ、知性が必要なのか?
それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。
たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。

「贈与を受けてしまった」という自覚からしか
贈与が始まらない。

生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。

これはもう一度読み直さないといけないな。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)学び

2020年04月30日

自由は「問い」の向こうに。


「13歳からのアート思考」(末永幸歩 ダイヤモンド社)

ニュースピックスと晶文社とダイヤモンド社の本ばかり読んでいるなあ。
偏ってる。大丈夫か、おれ。
後半を一気に読み進めて読了。

熱い。
宮澤賢治先生の墓参りしたくなった。

「芸術家たれ」
っていう世界がいままさに目の前にあるなと。

この本は、20世紀のカメラの普及とともに、
アート界に投げ込まれた問いである
「アートにしかできないことは何か?」
を自分なりに問い続けアウトプットしたアーティストが紹介されている。

WEEKLY OCHIAIで宮台真司さんが言っていたけど
https://newspicks.com/news/3689270/

相手の外を設計する、指し示すのがアートだと。
内側に閉じて最適化するのはワクワクしないと。
そういう意味では、「つくる」っていうのは外側にあるなあと。

オンラインの話とかでカギになるのは、
「セミオープン」っていうことなのかもしれないなと。
半分開く。
半分というより、場によって、その比率を変化させていくことなのかもしれない。

そしてもうひとつ。

問わないと、生まれない。
問わないと、つくれない。
オンラインに必要なのは、「問い」なのかもなと。
動画見て、とか話聞いて、の後に問いをひたすら考える時間があってもいいのかも。

問いを生むのは共感ではなく、圧倒的に違和感。
違和感をキャッチするのは脳や視覚ではなく、それ以外の感覚。
オンライン上でその「感覚」を研ぐことができるか。

答えを求めてさまよっていた。
でも、そもそも1つの問いに唯一の答えなど存在しなかったのだとしたら。
答えを探す練習ではなく、問いを生む練習をしなければならない。
個性は、問いによって磨かれ、問いの持つベクトル感が、人と人をつなぐ。

「違和感」を「問い」に言語化し、問いで「ベクトル感」を「共有」することかな。
それを「共感」と呼びたい。文字や同調圧力から強制される共感ではなく。

そんな感覚。

休学してイナカレッジ界隈で1か月の旅をした熊谷くんの冊子のタイトルは「五感再生日記」だった。
まさにそれが必要なのだなあと。

そして、高校生のやる「探究」もまさにそれだもんね。

「13歳からのアート思考」の表現を借りれば、

「表現の花」にとらわれるのではなく、
興味のタネを蒔き、探究の根を伸ばし、アートという植物を
育てていくこと。
その植物は、作品でもあり、高校生自身、つまりアイデンティティでもあるんだと。

そんな場づくり。そして地域の環境づくり。

アートって自由だと思った。
いつのまにか収容されていた(あるいは自ら築いてきた)檻をぶっ壊すのは「問い」というベクトルだった。

自由とは「自ら定義すること」だと思った。
誰かの設定した枠組みで誰かの設定した答えに向かっていくことは不自由だと思った。

宮澤賢治先生は「農民芸術概論綱要」でこう語りかけた。

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

誰もがみな芸術家たれ、と。
茨城で「アーティストとは問いを投げかける人」のことだと知った。

その問いに乗って、という方法だけが
僕たちがこの壁の向こうへ運んでくれるのかもしれない。

だから、芸術家たれ、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2020年04月29日

共同体としての学びをつくる


「共感資本社会を生きる」(新井和宏・高橋博之 ダイヤモンド社)

流れがよい。

「共同体の基礎理論」
→「しょぼい生活革命」
→「共感資本社会を生きる」
この順番に読んで未来を展望したい。

鎌倉投信と東北食べる通信の
お二人の次なるステップのその先に見ているもの。

どきどきしながら読み終わりました。

~~~ここから引用とメモ

都会の人って、僕を含めて消費者でしかなくて、みんな割と「点」で生きている。自分の得になることしか考えていない。でも生産者ってすごいんです。亡くなったじいちゃん、ばあちゃんの話はするし、先祖の話、未来の孫子の話、そして動植物、森、海、山、川などの自然の話も。だから「面」なんですよ、あの人たち。あの人たちは面における自分っていうのをすごく意識していて、そこが個でしか生きられない都会の人と全然違うなと思っています。

「まきどき村」の「営み」っていうのもきっとそうだなと。地域には、「面」っていうのと、時間的な流れである「タテ軸」が流れている、つまり自らが3次元的な空間の中にある1つの点であることが感じられるのではないかな。

生きてる実感から遠ざかるっていうことが起こるのは、もはやいまを犠牲にする正当な理由がないにもかかわらず、なにかの目的や意味のために、いまを使えって言われているからです。

それって「学び」も同じだよな、と。
「志望校合格」や「将来のなりたい職業に就く」という目的のために今がまんして学べっていうのは、もう無理なんだよね。
そもそもその先の未来みたいなやつは失われちゃっているのだから。

なぜ「予定調和」、つまり「こうすればああなる」っていう考え方の中にいると安心で、自分のいまを犠牲にすることをいとわなくなるのか。この問いに、都会的な問題の本質があると思うんです。いわば人工物というのは人間がコントロールするために設計しているもの。

人間がコントロールできないものがあれば効率も落ちてよくないというので、徹底的に自然を排除してつくられているのが都会。その中で生きていれば、すごく予定調和な思考、「こうすればああなる」という考え方に染まってしまうのは当然です。

対して地方はどうか。都市に比べて、はるかに自然の残る田舎に帰ると、コントロールできないことが一気に増える。自然っていうのはやっぱり思い通りにはならないし、都会より地方のほうが予期せぬことは起きやすい。

「こうすればああなる」っていうことじゃなくて、生き物として、言葉の世界にない感覚的なもので、突如異質なものに遭遇したときにどう対応するかっていうときに必要になるのは、もはや意識的な思考じゃないと思うんですよ。

不確実なものはないほうがいいって、どんどん自然なものから自然でないものに切り替えていくことによって、効率を上げて、不確実性というものを排除する。

「複雑系」を生きていかなきゃいけない時代に、都市の図書館やスタバで大学受験勉強だけをする3年間という投資にどれほど価値があるのか?
「身体性」とか「感性」を磨かないとヤバいんじゃないの、って思う。

「間」っていう概念も大事ですよね。どっちかを取るってことではない。西洋って「間」がないので、あなたか私か、自然か人間か、みたいなどっちかを取るってなりがちです。だけど日本の面白いところは、間があるんですね。どっちかを取るということをしない。

間にフォーカスすれば、基本的に対立構造っていうのは生まれないんですよ。なぜかと言ったら、そこの間に存在しているのはあなたでもなく自分でもないものだから。でも、自分とあなたってなった瞬間に、壁をつくり対立が生まれるんですよ。

これからは共同体感覚の時代なので、お互いが交わる場所があって、お互いが当事者になれる場所が必要になる。その場所が、僕は「間」だと思っていて、あなたもこの間の当事者だし、自分も当事者であるっていう、お互いが当事者になったときには争いなんて起こらないんです。

この間にフォーカスするっていうことがすごく重要で、これが関係性の再構築なのかなと思っています。

「間」にできあがるものってお互いでつくるものだから、自分自身じゃない部分がある。そうしたときに自分という器の中ではできないことが、この「間」ではできるし、存在しうるわけですよ。

「間」を育むための必要な時間とか環境とかって、僕は地域にすごく存在していると見ている。

働きかけ、働きかけられる、動き、動かされるっていう、この相互作用の複雑系がまるっと「生きる」っていうことだとしたら、地域にはこれを感じやすい環境がありますよね。

人と人との関係性だけじゃなくて、人と自然との関係性もそこには存在していて、その「間」には対話があるじゃないですか。

~~~ここまで引用とメモ

キーワードでまくり。
そして、アイデンティティ問題への視点もありましたね。
「点」で生きてるのがつらいのではないか、ってね。

田舎に行くと、「面」で生きている人がたくさんいて、
もっと大きな時間軸での3次元空間の構成員としてそこに存在できることが
ある意味、幸せだったりする。

一方で、田舎にある関係性っていうのは
いわゆる「しがらみ」的なものでもあって、
そのあたりをどのようにデザインしていくのか?ってことなのだと思う。

昨日、いい問いをもらって、
「これからコーディネーターの役割は変わっていくのではないか?」

っていうのについて考えていたら、まさにここ1週間で読んできた3冊の本に
方向性へのヒントがあるなあと。

うまく説明するのが難しいのだけど、
「学びの共同体」と「共同体としての学び」をつくる。
っていうことなのかもしれない。

ここでいう「共同体」は、
内山さんの「共同体の基礎理論」で書いてあったような、
ヨーロッパ由来の人と人の共同体の意味ではなく、明治以前の日本的な共同体を意味する。
人と自然、人と宗教、都市と農村。それぞれが学びあうこと。感じあうこと。

3次元の、あるいは「シン・ニホン」的に言えば、複素数平面的な学びをつくっていくためには「身体性」は必須で。
さらに、コーディネーターがコーディネートするものは学校とまち、や、生徒と地域の人、とかではなくて、
自然や歴史や宗教や風土や、そういうあらゆる資源や課題なのだろうと思った。

そうやって、「学びの共同体」をつくること。
それにともなって「共同体としての学び」をつくっていくこと。

上に引用した「共感資本社会を生きる」にも書いてあったけど、

(目的に対する)「手段としての学び」は、ひたすら効率化されてしまう。
だから、探究学習に代表されるように「機会としての学び」にシフトしていくこと。
それこそが予測不可能性を高め、学びを面白くするって思う。

その「機会としての学び」を
地域全体から見れば、自然、歴史、宗教を含めた
「共同体としての学び」になっていくのではないか。

まだ、仮説の段階なのだけど、うっすら見えてきた気がします。
いい問いをありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:47Comments(0)学び

2020年04月28日

「風の通り道」のような本屋


「しょぼい生活革命」(内田樹×えらいてんちょう 晶文社)

いやあ。
いい本読んだなあって。

僕にとって文句なくいい本っていうのは、
「やっぱ俺が本屋やらなきゃいけないんじゃないか?」
って思い出させてくれる1冊。
そんな1冊になりました。

「共同体の基礎理論」の直後に読んだという奇跡も
本文中に見受けられて読書運の強さを感じました。

さて。
大学生のみなさんにお届けしたい部分は
「第4章 教育、福祉制度を考える」より。

~~~ここから引用

学校教育は戦後のある時点から「工業製品を作る」という産業形態に準じて、制度設計されるようになりました。それは適切に管理された工程をたどって、仕様書どおりの「製品」ができていくプロセスを教育についても理想とする考え方です。

その前の時代、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと収穫期になると「何か」が採れる。

「工場での工業製品を製造する」というのは第二次産業が支配的な業態だった前期産業社会に固有のメタファーです。「教育の質管理」とか「PDCAサイクルを回す」とか「シラバスによる工程管理」とか、そういうのは全部「工場でものを作る」ための作業なんです。

「私はこれこれこういう人間ですと自己規定して、それを言葉にしてずっと維持してゆく」というアイデンティティ圧力というのは、工業製品に固有のものなんです。缶詰や乾電池だったら、規格化しないと使えない。だから、つよい同質化圧が学校教育で働く。

一度仕様書に組成や使途を定められた製品は、途中で仕様を変更することが許されない。いまの日本社会では、その「仕様変更の禁止」のことを「アイデンティティー」と呼んでいるんです。

~~~ここまで引用

うわー。
学校教育(のキャリア教育的文脈)で語られるアイデンティティってそういうことだわ。
それだよね、違和感の正体。

工業中心の社会・時代は終わったんです。
だいぶ前に。

~~~ここからさらに引用

もし、現代において支配的な産業構造のメタファーを適用するとしたら、「離散的なネットワークの中で、さまざまなアクターが自由に出会うことでそのつど一回的に価値物が創造される」というイメージになるはずなんです。

だから、教育も遠からず、工業製品だけではなく、機能とか情報とか生命力とか、そういう「かたちのないもの」を原イメージとして組織化されるようになります。

だとしたら、これからの教育は学校で斉一的に教育されるのではなく、むしろ自己教育というものになると思います。自分のための教育環境を自分で手作りして、自己教育する。そういうかたちのものになると思います。必ず、なる。

その場合の自己教育の目標は一言で言えば、複雑化ということです、教育環境を選ぶ場合に、子どもたちは「自分がそのプロセスを経由することで、どれだけ複雑になれるか」、それを問う。

いまのこの社会の犯している最大の誤謬は「単純であるのはいいことだ」という信憑です。どんな場合でも、同じように考え、同じようなことを言い、同じようにふるまう首尾一貫したアイデンティティを持った人間でなければならないという強い自己同一化圧がかけられている。

~~~ここまでさらに引用

なっていきます。
そういうのを創りたいと願ってもいます。

あと、
「共同体の基礎理論」(内山節 農文協)で読んだばかりの宗教の話からも一節だけ。

「明治政府は宗教の近代化、宗教の国家統制をめざしたわけですけれど、そのときまず標的にされたのが、神仏習合という数理、もう一つは遊行の宗教者という生き方でした。神仏習合のという数理と、宗教者は旅をするという生活形態は実際には不即不離のもので、それこそが日本人にとって一番ベーシックな宗教生活だった。それを支えていた人たちが最初に弾圧されて、神道と仏教という体系化されたものだけが残り、次に仏教が弾圧されて、さらに神道のなかで国家管理になじまないものが廃された。」

これもすごいね。

「効率化」のために、「暮らし」と「宗教」をまず分離したのだと。
そして、「工業化」のために均一化された製品を生み出すための「教育」
が始まったのだ。

でも、世の中はすでに変わっていて。
ただ、「効率化」によって金銭的価値を生み出せる会社というか仕組みは
まだ残っているから、そのハザマで学ぶ大学生にとっては非常にもやもやしたものがあるのだろうと。

「にいがたイナカレッジ」が取り組んでいる地域の集落に入り込んで1か月生活する、
みたいなのは、そういう「身体性」を伴う何かを必要としているからなのではないか?
言語化できない何かをつかみたいからなのではないか?
そうやって自らの「アイデンティティ」そのものを複雑化していく実践なのではないか?
と思った。

あとがきでこの本の対談の司会を務めた中田考さんが引用している内田さんのブログの文面にシビれた。

師弟関係における「外部への回路」は、「師の師への欲望」を「パスする」ことによって担保される。

真の師弟関係には必ず外部へ吹き抜ける「風の通り道」が確保されている。あらゆる欲望はその「通り道」を吹き抜けて、外へ、未知なるものへ、終わりなく、滔々と流れていく。

師弟関係とはなによりこの「風の通り道」を穿つことである。この「欲望の流れ」を方向付けるのが師の仕事である。
師はまず先に「贈り物」をする。
その贈り物とは「師の師への欲望」である。

うわー。
それです。

僕が実現したい本屋はそういう本屋です。
「風の通り道」的な本屋を、ぼくは創ります。  

Posted by ニシダタクジ at 09:04Comments(0)

2020年04月26日

豊臣秀吉はなぜ検地、刀狩りを行ったのか?



「共同体の基礎理論」(内山節 農文協)

WEEKLY OCHIAIの2019.12.19
https://newspicks.com/movie-series/25?movieId=428
「未来のコモンズとコミュニティ」を考える。
で紹介されていたので買いました。

100ページ、第3章まで来ましたが、これは深い!
ドキドキしながら読んでます。
イナカレッジとかにも通じるなあと。

さてさて。
いつもながらメモ。

~~~ここからメモ

わずか半世紀の間に、共同体は克服すべき前近代から未来への可能性へとその位置を変えたのである。

「近代化」とは何であったのだろうか。第一に、国民国家の形成があった。国民国家とはそれまでの地域の連合体としての国家を否定し、人々を国民という個人に変え、この個人を国家システムのもとに統合管理する国家システムのことである。

第二に市民社会の形成がある。個人を基礎とする社会の創造である。第三に資本主義的な市場経済の形成があった。

さらにこれらの動きを促進するためには、科学的であることや合理的であることに依存する精神を確立する必要があったし、歴史は進歩し続けているのだという「共同幻想」を定着させる必要もあった。

外来語の「共同体」は人間の共同体を指していて、自然と人間の共同体を意味する日本の地域社会観とは違う概念である。

たとえば村とか集落とかいうとき、日本の村や集落は伝統的には自然と人間の里を意味している。自然もまた社会の構成者なのである。

「私」をもっているとは、仏教的にいえば「煩悩」をもっていることと同義である。ヨーロッパの思想では人間は自己をもち、欲望を抱くからこそ文明が発展するというように、「私」があることを肯定的にとらえる。

テンニュスによる「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」・
ゲマインシャフト:地縁、血縁などで結ばれた有機体
ゲゼルシャフト:利害関係や目的意識などでつくられた人間の社会

ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行が
歴史の発展としてとらえられていた。
それは近代形成過程の理論だといってもよい。

マッキーヴァーのコミュニティとアソシエーション
コミュニティ:共同的な生活が営まれている場であり、社会のあり方や文化などが共有されている結合体
アソシエーション:コミュニティの内部にある、ある目的を達成するための組織

「コミュニティは、社会生活の、つまり社会的存在の共同生活の焦点であるが、アソシエーションは、ある共同の関心または諸関心の追求のために明確に設立された社会生活の組織体である。アソシエーションは部分的であり、コミュニティは統合的である。」(「コミュニティ」(中久郎・松本通晴監訳 ミネルヴァ書房)

真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。

真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。

それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。

共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。

この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。

とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。

故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。

トクヴィルにとって健全な社会とはさまざまな精神の習慣が併存している社会だった。逆に述べれば、ひとつの精神の習慣が覆っているような社会を、トクヴィルは危険な社会とみなした。ひとつの理念が支配するような社会をよい社会だと考えてはいなかったのである。なぜならひとつの理念が支配すれば、その理念だけが正義になり、それとは異なる精神の習慣を圧迫する抑圧的な社会が生まれてしまうからである。

いくら制度が民主的でも、圧倒的な多数派が同一の精神の習慣をもっていれば、それが当たり前のように正義になり、それと異なる意見をもっている人は葬り去られる。ここに制度は民主的でも、実態は強権的、抑圧的、全体主義的な社会が生まれる。それがトクヴィルのみたアメリカだった。

では多様な精神の習慣はどうしたら生まれるのか。小さな集団が多様に存在することだと彼は考える。人間の精神の習慣は自分でつくっているように見えるかもしれないがじつはそうではない。そのグループに加わっていることによって、そのグループの精神を身につけるのだと。

いくつかの精神の習慣を1人の人間が身につけるようになると、どれかひとつの精神の習慣に絶対的な真理があるわけではないことに、人々は気づくようになる。

日本の共同体にはどのような前提基盤があったのだろうか。そのひとつは自然である。

日本の共同体の特徴のひとつはその自治力の高さである。

豊臣秀吉が検地、刀狩りを実行しようとしたのも、武装した自治する共同体が統一国家を形成するうえで壁になっていたからである。

江戸期の社会は、武士が城下町に住み、農村から都市に移動したことが大きな意味を持っている。幕府は武士を農村から引き上げさせることによって、武士と農民のつながりを断ち、検地、刀狩りを実現することによって、自治する共同体を支配する共同体に変えようとしたのである。

中世後期以降のヨーロッパの農村のように、死後のことはキリスト教の神が受けもち、共同体も人間だけの共同体としてつくられていれば、共同体の管理、維持の仕方はわかりやすいかたちが可能になる。ところが自然や死後の世界を含めて共同体をもとうとすれば、人間同士の取り決めだけでは十分ではなく、自治の方法のなかに祭りや年中行事が大きな意味を持つものとして入ってくる。

村人が守ろうとしたのはこういう世界である。だから、それが守れれば、ときには案外簡単に妥協する。武士が強い命令をだせば、とりあえずしたがってみせたりする。壊してはいけない世界を守るためには、そこに手を突っ込まれない限り、平気で「服従」もするのである。それは村人たちの自身である。どうせ武士は農村の直接支配はできないのである。

~~~ここまでメモ

このあと、印象的な一言が出てくる。
「村人は自分の一生だけがすべてだとは思っていない」

うーむ。
「共同体」、奥が深いぞ。  

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2020年04月20日

「異人」の時代へ


「シン・ニホン」(安宅和人 ニュースピックスパブリッシング)

最初、難しくて流し読みしてしまいましたが、
「WEEKLY OCHIAI」の安宅さんの回を見て、
読み直したら、グイグイ来ます。

今日は第3章からの写経。

~~~ここからメモ

マネジメントとは
0 あるべき姿を見極め、設定する
1 いい仕事をする(顧客を生み出す、価値を提供する、低廉に回す、リスクを回避する他)
2 いい人を採って、いい人を育て、維持する
3 以上の実現のためにリソースを適切に配分し運用する

価値創出の3つの型

1 N倍化(大量生産)
2 刷新(A→B)
3 創造(0→1)

複素数平面的なゲームに入る前の実数空間ゲームのときは、ご存知のとおりとにもかくにも「N倍化」、大量生産でボリュームを生み出すことが何よりも大きな価値の源泉だった。トップに立つことはトップシェアをとることと同義だった。

次の強かったのが「刷新」だ。なんらかの分野に知恵を絞ってアップデートすることである。この実数軸の時代、日の目を見なかったのが今風に言えば0to1の「創造」だ。

ところが今はどうか。「N倍化」はすでにシェアを握りスケール(規模)をとってしまった大企業にとっては、長期的な人口調整局面については先細りのトレンドだ。一方の「刷新」は今や「N倍化」よりも遥かに価値を生む力がある。0to1の聖地のように言われるシリコンバレーで行われている大半の取り組みも実際にはこの刷新モデルが中心だ。

そして、今の時代において明らかにもっとも力強いのは0to1「創造」だ。妄想を形に変える力を持つコミュニティ、人、企業が、もっとも影響力が強く、その結果、富も握る。

Tesla が生み出したのは電気自動車ではなく「人が乗る走るスマホ」
Appleが生み出したのは「人間とインターネット、そして計算機がリアルタイムでつながる世界」

価値創造において、これまでとは真逆の世界が来ていることを直視しよう。
量的拡大のハードワークができるスケール型人材を生み出すことだけに注力してきた
日本の人材育成モデルは、根底から刷新が求められている。

そもそも生み出そうとしている人材の像、ゴール設定が間違っていたのだ。

結果、現在、この日本の教育システムが生み出す最高の人材は、テレビ番組でクイズ王になる、教育評論家や予備校講師になるぐらいしかないという残念なことになってしまう。世界の同世代の若手リーダーが刻一刻と未来を変えていっているそのときに、だ。

★ここからめちゃ重要★

「創造」「刷新」こそが大切な時代にどのような人が未来を作るカギとなる人材なのか。

これまでのゲームでは、とにかくみんなが走る競争で強い人が大切だった。また個別領域での専門家がとても大切だった。なんでも万遍なくできるスーパーマン的な人が期待されてもきた。

しかし、このような世界ではカギとなる人材像も本質的に変容する。これからは誰もが目指すことで一番になる人よりも、あまり多くの人が目指さない領域、あるいはアイデアで何かを仕掛ける人が、圧倒的に重要になる。

1つの領域の専門家というよりも夢を描き(=ビジョンを描き)、複数の領域をつないで形にしていく力を持っている人が遥かに大切になる。

一言で言えば、これからの未来のカギになるのは普通の人と明らかに違う「異人」だ。



図3-2(シン・ニホンより)

当然「異人」は少ない。しかし、異人が大切だと思う社会でなければ、こういう人の多くは異物として排除されるか、秩序を乱す人として潰されてしまう。だから価値観の変容と彼らが生き延びることができる空間が必要なのだ。またこういう人たちを尊重する価値観の人がある程度以上いて、閾値を超えないと変化は起きない。

「起爆人種」
「参画人種」
「応援人種」
「無関心人種」
「批判人種」

「狭き門より、入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていくものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出すものは少ない」(マタイによる福音書第7章)

つまり、人が群がって流れていくような方向へは行くな、必ずしも人が気づいていないような自分の道に進め、という教えだ。異人化の教えは実は2000年前から存在していたのだ。

これは実に真実を突いている。人生設計、就職、仕事探しにおいて、とりわけ正しい。人が群がるところに行くということは、コモディティへの道、部品化の道を歩むということだ。人がすでに歩いた道を行くのだから、当然、先行者利益などない。その人の価値は「何者であるか」ではなく、「どの組織に属しているか」でほとんど判断されることになる。

少なくとも他人の判断に流されるのを避け、自分の目で見て肌で感じた判断を信じ、逆を張るべきだ。独自性、つまり同列の競争での優秀さではなく質的な違いこそが価値になる時代において、交換可能な部品になると実に厳しい道を歩むことになるからだ。

人生でもビジネスでも直接的な競争はできるだけ避けるのが正しい。実質的な無競争空間を生み出せるかどうかが、幸せへのカギだ。競争から解き放たれたとき、人も事業も自由になれる。そもそも同じ軸で勝負している段階で「異人」ではないことは明らかだ。それは単なる同じ軸上のズレにすぎないからだ。他の人の判断軸に乗らない、ねじれの位置にあるような軸に飛び移るべきだ。

「好きなことをやれ」は正しいけれど、ある意味では正しくないということだ。熱狂的にやるものは、あくまで自分らしくではあるが、他人と自分を異質化できるものであるべきだ。

仕事とは他の人に評価される価値を生むことであり、その人の存在意義の視点で見れば、価値が生み出せることは好きか嫌いかよりも遥かに大切だからだ。たとえば、ゲームが好きだからただやるのは中毒に過ぎない。造り手の作った罠にかかっただけだ。人が作った問いに対して、すでに用意されている答えを出しているだけとも言える。ひたすら探求して、自ら新しく問いを生み出せるかという視点で領域を見たほうがいいだろう。

~~~ここまでメモ

「異人」の時代。

柏崎風に言えば、「変態」の時代。
これはまさしく生存戦略の問題だと思う。

何に張るか?(賭けるか?)っていう問題だ。

ひとつ、書いていて思ったのは、

他者からの「評価」は本来楽しいことなのではないか?
ということ。
それを単一の軸で序列化されてしまう学校教育システムが
つらいのではないか。

自分なりの分野で突き抜けて、異人となり、
それが評価されるのであれば、それは楽しいことなのかもしれない。

まだまだ噛み砕いていく必要があるけど、今日はこのへんで。  

Posted by ニシダタクジ at 08:53Comments(0)学び

2020年04月16日

「文明なるもの」への挑戦

「WEEKLY OCHIAI」
https://newspicks.com/user/2250/

の4月8日放送分
「Withコロナ時代の日本再生ロードマップ」を見ました。

「コロナショック」とはいったい何なのか?
についての皆さんの話が面白く、また可能性を感じて、
メモに残しておきます。

いちばんおもしろかったのは、「シン・ニホン」の著者、
安宅さんの開疎化の話。


詳しくは以下の「そろそろ全体を見た話が聞きたい2」に載ってますが。
https://kaz-ataka.hatenablog.com/entry/2020/04/04/190643

コロナショックで起こっていることは、
クローズで密な空間からオープンで疎な空間へと
距離をとるところが標準になる。

それっていうのは、
City(都市)への挑戦、つまり「文明なるもの」への挑戦なのだと。

都市に人が集まり、交わることで人類は文明をつくってきた。
2000年以上続いた転換点にいるのだという。

そういう意味では、
いま、多くの人が当たり前のように使っているzoomのようなテレビ電話システムを使えば、
開疎化されても、価値を生むことができるような世の中にはなっている。

つまりデジタルテクノロジーやネットワークが
それを可能にしている。

「都市」「高密度」「効率性」「弱者切り捨て」といった
社会モデルそのものが変わらなければいけないのだと。

鳥取・島根・岩手が最後まで感染者が出なかったように、
もっとも開疎な場所がコロナウイルスの感染が遅かった。

都市化でいい思いをするのは高学歴のインテリだけなんだと。

開疎化された世界では
・土地が余っている
・職住隣接
・食べものがおいしくて安い

また、起業家、ベンチャー企業にとっても
東京のイベントがぜんぶzoomでオンライン配信となったことで、

地方にいても東京と同じ情報が手に入る。
ベンチャー企業にとっては大きなビジネスチャンスが生まれているかもしれない。
建築やオフィスのリノベーションなど。
と同時に地方も企業誘致のチャンスがきている。

zoomによって経営のスピードが上がる。
おじさんたちのゴルフや会食で決めてきた「昭和」の終わり。

「食」や「イベント」:GDPで見れば、トータルで自動車と同じくらいの産業になっている。
⇒もはや基幹産業であり、基幹産業とは多くの平均的な人が働く場所。

~~~

「開疎化」は大きなキーワードだ。
5Gが整い、オンライン会議が標準的になれば、
もはや、東京にいることはプラスというよりもリスクでしかない。

コロナショック後の世界、コロナウイルスと共存しながら未来に向かっているいま、、

本当の価値。
幸せってなんだっけ?

っていう哲学的な問いも、ひとりひとりには課せられているのだなと。

この町でもその問いに対して、1つの旗を立てられないか?と思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:51Comments(0)学び

2020年04月09日

「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ


22世紀を見る君たちへ~これからを生きるための「練習問題」(平田オリザ 講談社現代新書)

読み始めました。
第2章 未来の大学入試(二)まできました。

いちばん刺さったのはこれ。

「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ

~~~以下一部引用

現在、ハーバード大学やMITあるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは一見、不思議な事象だ。学生は厳しい受験戦争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。

インターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。

もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。そのようなネット時代を前提にして、ハーバードで一緒に議論することに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。

だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員を含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ。

反改革派の方々は口々に「受験勉強にもいい点がある」と言う。それらはいろいろと理由はつけても結局のところ、「達成感が得られる」「根性がつく」「集中力が養われる」といった、「それは部活でも、他の場所でも養えるんじゃないかな?」と思えるものが多い。

たしかに従来型の受験勉強で救われる人もいるのだろう。だがそれは改革自体を阻む理由にはならない。

「努力」や「根性」「従順さ」も大事なのだろうが、それそのものが、もはや人生の中で優先順位が低くなってしまっている。先に掲げた「主体性」「多様性」「協働性」などの方が、21世紀の日本社会と国際社会を生きる上では、少なくとも同等か、それ以上に必要なものとなっている。人生にとって必要な能力自体が変化しているのに、受験がそのままでいいわけがない。

~~~ここまで一部引用

大学入試は近いうちに変わる。
求められる能力も変わっていくる。

いや、そもそも。
新型コロナウイルス感染防止のための一斉休校を受け、
オンライン上での授業が行われたり、
ウェブで学べる様々な学習コンテンツを、
ほとんどが無料で利用できることがわかった。

この本に書いてあるように、
「コンテンツ」(知識や情報)そのものは共有物となって、いつでも誰でも取り出せるものとなっている。
学びが「コンテンツ(知識や情報)の移転」である時代は終わりつつあるのだ。

大学だけではない。高校もそうだ。

「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ、さらには「どこで学ぶか?」
がとても大切になっていく。

キーワードはこの本で言えば、「学びの共同体」だ。
SCHシンポジウム的に言えば、「学びの土壌」だ。

「誰と」
「どこで」
「何を」
学ぶのか。

「何を」のところ入るのは、単にコンテンツではない。
地域にある題材・課題を探究し、創造する学びになる。

その学びが、この町でしかできない理由。
ここにある「学びの共同体」「学びの土壌」でしかできない理由。

この状況の中で、その問いに答えていくこと。

僕だけでなく、共同体として答えていくこと。

そんな学びの場をつくっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 09:37Comments(0)学び