2024年01月14日
「創造」の前提となる「存在の承認」
『ぼくは蒸留家になることにした』(江口宏志 世界文化社)
年末に購入しまして、いよいよ出番。
著者の江口さんは、10数年前に本屋を始めるときに
本屋特集などに多く掲載されていた「UTRECHT」を2002年に立ち上げた元本屋さん
第1章冒頭の「僕が本屋を辞めたわけ」がタイムリーだったのでメモ
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それはこの先、本というフィールドのなかで、常に更新していけるものを発見できるのだろうか、という疑問だった。拠って立つべき居場所が曖昧で、自分の存在が希薄になり、マーケティングやら消費やら見えない何かに飲み込まれてしまうようなもどかしさ・・・とでも言うべきだろうか。
誌面で展開される、暮らしの上澄みをすくいとった、うっとりするような美しい情景。それはそれでいいのだけれど、その情景自体が自体がスタイルのようになってしまった。(中略)うわべだけの「ライフスタイル」が消費されていくのを横目で見ながら、ますます表現の下にあるしっかりとした「技術」の蓄積が自分にも欲しくなった。
農業に従事するということは、短期間のプロジェクトから距離を置くということでもある。そして時には経済活動からも。もし繁殖用の鶏を2.5ユーロで買うならば、その鶏自体の価値は限りなくゼロで、卵を産む装置こそが鶏の価値なんだ。それはホビーとかでもなければ、経済活動でもなく、そしてプロジェクトでもない。それは単に何かと生活をともにすることなのだ。
五感と自然が響き合う。植物だけでなく、土や苔も、環境そのものが豊かな香りを放っている。ぼくらは、こんな複雑で繊細な香りの世界に身を置いているのだ。
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「アイデンティティ」のリアル。
かつて川喜田二郎は、ふるさとを「全力傾注して創造的な行為を行い、そのいくつかを達成した場所を人はふるさとだと認識する」と言ったが、その前提となる土台としての「存在の承認」はどのように得られるのだろうか。
「ホーム」と呼べるのような場所、あるいは関係性がないままに、創造性を発揮することは可能なのか。
あるいは、創造のプロセスの中で、「存在の承認」は徐々に得られていくのだろうか。
「未来から逆算する今」だけじゃなく、「過去を継ぎ、未来へつなげる今」が必要なのではないのか。
「わたしたち」を空間的ヨコ軸と時間的タテ軸の真ん中につくっていく必要があるのではないか。
個々の弱さこそを場のクリエイティビティの源泉にできないだろうか。
そんな問いが浮かびます。
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