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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年03月17日

地域と伴奏する探究学習

福島県立只見高等学校「総合的な探究の時間」。令和3年に黎明学舎の丹羽さんが移籍してコーディネーターとなり、一緒に進めてきた授業。3月15日5・6限に2年次に行うプロジェクト顔合わせと、その後、令和6年度授業に向けた地域と教員の打ち合わせが行われました。

なんか、空気違うな、と。
先生方も、地域の方々も前のめりだ。

伏線があった。授業が始まる前の地域協力者キックオフ(打ち合わせ)で、新國農園の新國さんが言った。「具体的になにをするか?よりも、自分たちがなぜこの授業に関わって、どんな未来を描いているのか?を話したほうがいいんじゃないの?」

昨年度のキックオフは、1時間しか授業がなかったので、自己紹介⇒アイデア出し⇒年間計画づくりとあわただしくなってしまった反省もあり、今年はじっくりを時間をかけることにした。

1 授業の概要説明:個人⇒場(プロジェクト)、発見と変容、伴奏者としての地域の大人、
2 4マス自己紹介(名前・出身・私の好きな〇〇・只見町の〇〇がすごい)
  ⇒熱血自己紹介(郡山駅に降り立った人が行く場所決めていない時にプレゼンするとしたら)
3 この授業(プロジェクト)を通して、私が、只見町が、世の中が、〇〇になったらいい
4 3を実現するためにできること、アイデア30個出してみる(ブレスト)
(休み時間)
5 アイデアの中で、他人が言ったことで、あ、それいいな、と思ったものはどれか?印をつける
6 5を軸にして、年間計画に落とし込んでいく
7 春休みリサーチシートの記入
8 連絡先交換

こんな流れ。なかなかよかったなと。

想いの確認。WHYから始めよ。まさにそんな感じ。地域の人だけじゃなく、生徒も個人としての想いを語り、それをベースにアイデア出しをする。その「想い」には正解がないから。ひとりひとりに思いがある。これ、学期ごとにやってもいいなと思う。

春休みのリサーチは、その個人の想いや、5の他人が言ったアイデアでそれいいなって思ったものをリサーチしてみるのもいいのかもしれない。

感性が先にくるプロジェクト。それって、いわゆる「課題解決」とは違うアプローチなのだろうなと思った。

https://goodpatch.com/blog/product-value-solve-problem

検索すると、こんなページが。
課題解決型:ユーザーが認識し、顕在化している課題(Needs)を解決するためのアプローチ
価値提案型:ユーザーがまだ認識していない、顕在化する前の課題(Seeds)に対して、新たな価値や価値観を提案し、欲しいと思えるモノやコト(Wants)に変えるアプローチ

こちらも
https://www.daisuketsutsumi.com/entry/two-ways-of-NPO-strategic-thinking

課題解決型:
課題解決型とは字の通りですが「社会に存在する課題を解決する」ことを目的としたマイナスの状態を±0の状態に近づけることを目指す活動
価値創造型:
価値創造型とは、「社会に対して新しい価値を創造し、提供する活動」です。±0の状態から5にも10にも増やす活動
こちらに掲載されている表で見ると結構わかりやすい。

高校生が実行するプロジェクト文脈に落としていけば、
課題解決型:世の中に顕在化している課題に解決する。ex.防災の意識を高めるには?、子育てママを支援するには?
価値提案(創造)型:自分がやりたい、こんな町にしたい、から発想し、ひとまずやってみてから(それが結果的に課題を解決しているかどうか)検証する。

という風に分けてみると、商品開発とかPRのプロジェクトっていうのは、価値提案(創造)アプローチになっていくよなあと。

山口周さんが「ビジネスの未来」で言っていたけど
http://hero.niiblo.jp/e491394.html
参考:「自分」という共有財産(21.1.31)

上記ブログから引用
~~~
「問題の普遍性」と「問題の難易度」のマトリックスです。

問題の普遍性が高く、問題の難易度が低い領域には、多くの人が悩んでいる問題で、かつ、投資する資源は少なくて済むので、多くの企業はそこに参入します。松下電器が電化製品をつくり、トヨタが自動車を生産したわけです。

「課題を解決すること」がビジネスの本質であるとすると、困ったことに、問題(課題)はだんだんと解消されていきます。多くの家庭に洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自家用車・・・が行き渡ってしまいました。それを解決したのが「地理的拡大」でした。アメリカに売り、ヨーロッパに売り、そしてアジア諸国に売ったわけです。
(中略)
したがって、企業が採用する選択肢は2つ。「普遍性が高いが、難易度の高い問題」へのアプローチか、「普遍性は低いが、難易度の低い問題」へのアプローチとなります。
~~~
「課題解決」というのが(大)企業だとしてもとても難しいアプローチなのだということがわかります。

だから、高校生のプロジェクトにおいて「課題解決」を前提として設計するのがナンセンスなことがわかります。

1 市役所にヒアリングして、課題を聞き
2 現場の人にインタビューして課題の現場を見て
3 自分なりに考えた解決策を提案する

で終わり。みたいなことをプロジェクト活動といって大学生になってもやっている新聞記事をいまだに見かけますけど、そこにどんな意味やスキルの向上があるのでしょうか。
せめて、4 自分でやってみる 5 ふりかえり 6 再設計があればいいのですけど。

それにしても、やっぱり世の中は「課題解決」という宗教に乗っ取られてしまっているように思います。山口さんのいうように、課題解決という手法では、よっぽどの大企業が「普遍性が高いが難易度の高い」課題(難しい疾病の治療など、莫大な投資が必要)もしくは中小企業が「普遍性は低いが難易度の低い」課題(いわゆるニッチな市場向けの課題解決商品・サービス開発)にいくしかないのです。

それかもしくは冒頭に説明した「価値創造(提案)」のアプローチと言うことになります。
高校生のときに、この実感をしていくことって大切なのではないかと思います。

自分(can)と社会(need)と未来(will)の真ん中にプロジェクトをつくっていくとうまくいく、と言われますけど、その3つの順番は、どこからでもいいのだと思いました。

なんとなくいいなと思った(will)から始めてもいいのです。
必ずしも社会課題(need)から始める必要ないのです。
やりながら自分(can)を発見し、変容していっていいのです。

あれは真ん中につくるのじゃなくて、三角形の「動的平衡」が機能しているときに、プロジェクトがうまくいく(変化し続ける)のだろうと思いました。

春休みリサーチにおいても、もしかしたらプロジェクトそのものも、「価値創造(提案)」アプローチっていうのがあってもいいのかなと思いました。個人の性格にもよると思いますけど。

授業後、令和6年度の打ち合わせを教員と地域の人で行った。熱量が過去最高に大きかったように思った。

その要因を振り返れば、コーディネーターの丹羽さんが夏に去り、自分たちでプロジェクトを回さなければいけなくなったこと。その中で「こういうときどうしたらいいんだろう?」ということや、他チームの状況が気になったこと。次年度に向けてどうやったらいいか?ということについて考えたこと。

教員サイドとしては、総探をやってきて、生徒が成長していることが実感できていること。いわゆる「手応え」が感じられてきていること。
1 アンケート調査での自己評価の伸びが数字として出たこと
2 最新の入試での総合型、学校推薦選抜の結果がある程度出たこと
3 学校長をはじめ管理職が「総探」に力を入れていくことを明言していること

地域サイドとしては
1 自分が担当している仕事に関連したプロジェクトであること
2 授業で、自分たちがなぜやっているのか?を語る機会があったこと
3 総探のプロジェクトが町のためにもなっていることが実感できていること

そんな要因から、50分の会議が終わっても、なかなか席を立たないアツい会議となった。
ようやくスタートラインに立った。
そんな実感があった。

令和6年度の発表会は学校を飛び出し、町の施設(公民館等)で公開で行うことになりそうです。
僕の役割はだんだんと少なくなっていきますが、引きつづきよろしくお願いします。

「地域と伴奏する探究学習」、始まります。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2024年02月11日

子どもたちは「仕事」と「遊ぶという行為」を失った


『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)

読み進めていたら、メモしたくなったのでメモ。
満足度アンケートによって、ますます「お客さん化」を促してしまっているのではないかと反省した。

~~~
高度成長以降の子どもたちは、2つのものを失った。一つは仕事、もう一つは遊ぶという行為である。かつては農業、自営業が多く、さまざまな子どもの仕事があり、具体的に子どもの手を必要としていた。

しかし、生業(稼ぐ場)と再生産(子どもの育つ場)の場が分離されて、子どもたちは仕事、すなわち家族や地域社会での役割を失った。かわりに大人たちが管理しやらせる時間、やってもらう時間が増え、自由に自分たちでつくる時間、すなわち遊びの時間を失った。普通に暮らしているだけでは多様な人々との豊かなかかわりが持てなくなってしまった。

他方で、サービスとして子どもたちに仕事でかかわる大人たちが激増した。彼らは、常に責任を取らされないように、ことが起こらないように子どもに接するようになった。

社会学者の宮台真司さんは、この半世紀の日本社会の変化を、「〈生活者会〉が空洞化し、〈システム〉に置き換わっていった」と説明している。

〈生活社会〉とは、「善意と自発性」に支配される、人間関係や人情が意味を持つようなコミュニケーション領域。個人が日常生活で、出会う、ヒト、モノ、コトの意味のつながりの世界の総体。
〈システム〉とは「役割とマニュアル」に支配されるコミュニケーション領域のこと。人の入れ替えが可能で、物事を計算可能にする手続きが一般化した領域のこと。

もともと〈システム〉は、〈生活世界〉を豊かにするための手段であったが、〈システム〉が広がって生活が空洞化すると、〈生活世界〉が〈システム〉に規定されるようになる、という。主従の転倒が起こる。

いま、「郊外型の暮らし」は、地理的に郊外とよばれる地域だけではなく、全国的に広がった。子ども、主婦、障害者、高齢者とそれぞれ、専門の施設やサービスのもとにおかれ、それぞれ時間単位の効率性を求められる世界=サービス産業の対象となった。

そこでは、隙間=〈あそび〉が許容されない。〈あそび〉のないところ、すなわちルールとマニュアルに支配される世界では、遊びは発生しない。
~~~

この章を、ミヒャエル・エンデ『モモ』を題材に説明しているが、まさに今、目の前で起こっていることだなあと。

「仕事」と「遊ぶという行為」を失い、システムに飲み込まれた生活世界こそが、アイデンティティ不安の原因なのではないか、と強く思った章でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:24Comments(0)日記

2024年02月11日

「あそび」の復権


『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)

10月に読んだ『あそびの生まれる時』(ころから)
http://hero.niiblo.jp/e493287.html
参考:「遊ぶ」の土台としての「あそび」(23.10.21)
http://hero.niiblo.jp/e493290.html
参考:「あそびごころ」が生まれる放課後研究所(23.10.22)
の前作です。

いきなり前書きから本質的なので、メモに残します。
~~~
さて、そもそも、遊びとは何だろうか。
こんな幼稚園児のつぶやきがある。
「先生、この『大縄跳び』が終わったら、遊んでもいい?」

遊びとは、「大縄跳び」や「かくれんぼ」などの「メニュー」のことではない。
遊びは、心のありようを表す言葉である。

その子が、自分でやりたい(おもしろそう)と感じ、動き出すことが遊び。
したがって誰かにやらされていると感じているうちは、遊びとはならない。

また、最初から結果が見えていたら遊びにはならない。
どうなるかわからないという時、はじめてそれは遊びになる。

身体の動きは小さくても、「(その時の、その子にとって)何か違う世界が見えるかもしれないからやってみたい」という意味では、川に飛び込むことと同じ。「おもしろそう」であるかどうか、心がアクティブな状態かどうかなのだ。ゆえにいずれの場合も集中した表情になる。

あとさき考えず、何かをしてみて、未知の心の動きを味わう。それが遊ぶということ。
~~~

さらに、もうひとつの「あそび」について

~~~
ところで、日本語の「あそび」には、もうひとつの意味がある。
車のハンドルや、建築物で「意図してつくったゆるみ」などを表すことばも「あそび」という。一見、無駄に見えるが、それがなければ全体をうまく動かすことができないもの。こういうことに対して、私たちは「あそび」ということばを当てはめてきた。
私たちが気づかないうちに失くしてきたのはこちらの〈あそび〉かもしれない。

時間、空間、仲間
遊びが生まれやすいのはこの3つの「間」があるときだという。

すなわち、ひま=〈時間のあそび〉、すきま〈空間のあそび〉、そして、よい間合い=〈間柄/人と人の関係のあそび〉の3つの〈あそび〉があるとき、人の心が動きはじめる、と。

遊びの本質は、「想定外のドキドキ」だ。結果がわからないから、遊びになる。
~~~

「あそび」をデザインすることは、「あいだ」をデザインすること。

学びー遊び
目標に向かうー目標に向かわない
計測可能-計測不能
予測可能-予測不能
個人-場(共同体)
プロ(仕事)ー素人(遊び)
一元化されたモノサシー多様なモノサシ
序列があるー序列がなくフラット
適応するー個性を発揮する

このあいだを行き来できる道具や乗り物やかぶりものをつくりたい
まず最初に打つべき1点は、「あそび」の復権なのではないだろうか  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)日記

2024年02月05日

n=1とどこで出会うのか?







岩波書店 ジュニアスタートブックス「知図を描こう」(市川力)の出版記念セミナーに行ってきました。
「ジェネレーター」を読んでからずっとお会いしたかったのです。
市川さんの優しいオーラに包まれてきました。

昨日のセミナーのメモを残しておきます。

~~~
第1部
問題意識から出発するのではなく、「観察」から始めて、問題意識に辿りつく
「興味を感じた」⇒何か自分の中に響くものがあった
アーカイバーとしての知図師

「音楽と生命」(坂本龍一×福岡伸一)
ノイズ⇒シグナル⇒星座
雑を集める⇒知図を描く⇒表現・論文

「雑を集める」には、さまよいあるくこと、心がプルっとしたら撮る
⇒その中でもさらに気になるものをスケッチする
レオナルド・ダヴィンチ:これをやり続けて3万枚

■大学は研究するための場所:自分の星座をどうつくるのか?
まずは目的を持たずに歩くことから。
面白いものが必ずある⇒好奇心図鑑をつくる

それをすればみんながダヴィンチになれる。
⇒好奇心のかけらを図鑑として集める。
⇒ジャンプの土台になる。

遺伝子ではなくミーム(社会的遺伝子)のほう。
「誰かにとってのおっちゃんになりたい」
文化=チャンスがあるっていうこと。
図ばかり見ていないで、地を見ること。

小さいもの、ささやかなものを自然の中から発見することで自分の感性を発見していく
「ピュシスの中のノイズに内部観察者として入る」

ブルースリーの有名なセリフ「Don't think, feel.」の前に、「We need emotional content.」と言っている。
感情にまつわるもの(エモーショナルコンテンツ)が必要なのだと。
だから「心が動いたもの」は全部記録しておく
それをベースに学びを継続していく

そんなエモーショナルコンテンツをいかに見つけるか⇒学びにつながっている。

ジェネレーターの5G (ジェネレーターP129)

遇:出逢い
偶:偶然
隅:一隅を照らす
愚:ひたすらやる
寓:星座になる

いかにエモーショナルコンテンツをfeelできるか?

第2部
個の尊厳:グリーフケアワーク
30年度、死に直面した時にどうするか?
「し」の「し」と「し」
師の死と志:世代から世代へ渡される志というバトン
人生楽ありゃ苦もあるさ年表(30年分)を書く:大人が問われる。
苦が上/楽が下=苦のほうは当たる/楽の方は前倒しで叶う

グリーフケア:記憶のアップデート
教科書がない=体験しないと分からないこと

話すこと、表現することで記憶はアップデートされる
歩くこと:故人の行った場所を追体験する⇒アップデート
巡礼の道:四国八十八か所

「生きる」ことそのものを問う。

第3部
空き家問題=feel度walkを事業化
ベースキャンプツーリズム(machiyado network)
まちづくりの文脈で取り組む=事業になる
学校を変える、つくるとは別のアプローチ⇒空き家をベースキャンプに

通信制高校=地域をフィールドにできる。
「あいだ」に学びの場をつくる

n=1の出会い:高校時代に1人面白い人に出会えるか
どこで出会えるのか?学校のなかではなく、空き地(あわい)
まちそのものがジェネレーター化する⇒間接的に学校が変わっていく。

ゲストハウス:季節ごとの知図を描き、それがストックされていく。
泊まった宿によって、何か発見があり、人生が動いていく、そんなツーリズム。
宿がジェネレーター化していく。
「歴史」の重要性:伝えて、体験・体感していくこと

「学びをつくる」ことができれば、世界は広げていける。
まなび=教育(学校)と捉えると小さくなっちゃう。
市川さんの財産は、様々な大人と子どもに出会えた

文化:言葉でつくられる。
知図を描くから意味が分かる、言葉が豊かになる
~~~

知図を描くこと。
それは「まなび」の方法であり、
「生きる」ことを問うことでもあり、
「まちづくり」の手法でもある。

「まなび」と「あそび」のあいだにあり、
時間軸を超えていくことができるし、
ひとりひとりの個性の表現でもある。

高校生にとっては(もちろん大学生・20代にとっても)、
そのすべてが必要なのだろう。

それは、まなびのエンジンを駆動してくれる
「n=1」との出会いのためだ。

それは人かもしれないし、モノかもしれないし、観光や歴史などのコトかもしれない。ブルースリーの言葉を借りれば、自分自身に固有の「エモーショナルコンテンツ」と出会うことの先にn=1との出会いが待っているのだと思う。

そんな機会を提供するために、僕はいま、舞台づくりをしているのかもしれない。

ツルハシブックスより以前から「機会提供」と言い続けてきた自分の意味がようやく分かった気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)イベント日記

2024年01月20日

まだ途中なんですけど、、、


『知図を描こう~あるいてあつめておもしろがる』(市川力 岩波書店)

読み進めていると、市川さんの愛にあふれた取組に、泣きそうになりました。

たくさんメモしちゃいました。

~~~以下メモ
ゆるりと探検し続け、結論を急がずに考え続けるために、「なんとなく、とりあえず、あてもなく」歩き続けるfeel度walkでの発見・思いつきを「ひたすら」書き残したものが「知図」です。

「知図」の「知」が意味するのは、教科書にのるような一般的で常識的な「知」ではなく、私の好奇心がとらえた小さな感動のカケラです。私が発見し、思いついた「知」を自分なりに表現し、記録した「図」だから「知図」なのです。

私たちはアートのプロではなく、面白がるアマチュアとしてのfeel度を高めたいと考えています。

「へえ、こんなのあるんだ!」と思ったとき、発見した対象とその場で抱いた感動の記憶をとどめる装置として、写真は素晴らしい機能を発揮します。

現場では次々と発見し、いろいろな感情がわき起こります。それを逃さずに、反射的に記録しておくことができるのが写真なのです。

他の人の絵に触発された対話が自然に始まります。話しかけられた方は、自分の発見に関心を持ってもらえたことがうれしいうえに、自分の絵まで認められてさらによい気分になります。お互いの絵に興味を持つことで、結果的にみんなが自分の絵に対する自信を深めるのです。

こうしたムードが生まれるのは、描く絵が「なんとなく」の発見だからです。「なんとなく」の発見には、正解も優劣もありません。また、自分なりの発見を絵にするのだから、うまいか下手かを比較することもできません。

そのため、自分の絵を卑下したり、また反対に、誰かの絵をけなしたり、からかったりというようなことが起きないのです。模造紙がまるでいろりのようになり、そこを囲んでみんながそれぞれの発見を素直に出せるという安心で和やかな場が生み出されます。
~~~

それぞれの「発見」と「感動」を愛でること。
そこには「比較」や「評価」が不要だ。
Feel度Walkってそういうことなんだな、と。
「存在の承認」や「フラットなコミュニケーション」がキーワードの僕にとっては、感動的な一節。
こういうのを小学生や中学生と一緒にやりたいなと思いました。

さらに、Feel度Walkには、自己紹介やアイスブレイクも不要だといいます。

~~~
自己紹介やアイスブレイクを最初に行うのは、お互いが知り合うきっかけをつくり、緊張を解いて和やかになってから活動を始めるためです。

しかし、今、一緒にいる人がどんな名前で、職業や趣味は何で、今、関心がどこにあるのかを知ると、それに引っ張られて相手を見てしまいがちです。また、いきなり自分のことを語れと言われても、場の空気を読んで当たりさわりのないことを言ったり、無理して場の期待に合わせたことを言おうとしてしまいます。アイスブレイクも同様で、だんだんと知り合っていくという余白が与えられません。

そもそもFeel度Walkして知図を描くのは、知らず知らず抱いている思い込みをほどき、「なんとなくセンサー」を研ぎすますためです。だからこそ、ゆるりと歩き、ゆるりと描きます。ゆるやかな時間の流れの中でだんだんと知り合えばよいのですから、自己紹介もアイスブレイクも不要です。

Feel度Walkの間も、知図を描いている間も、お互いの名前を知らなくても対話がはずみます。なぜなら、「自分」のことや「相手」のことを語るではなく、発見したモノやコトについて語りあうからです。知図を仲立ちとして、描いた人と見ている人との間でお互いの素の思いをさらけ出す対話が始まります。知図を描いた側は、発見したことがどう面白いのかひたすら語ろうとします。相手にどう思われるかを一切気にせず、発見した対象への愛と喜びを素直に語ります。

こうした知図たちの間に優劣はなく、正解・不正解もありません。自分なりに世界を切りとって描いた「知」をみんなで愛であうと、自分にも世界を発見できる力があることを再認識できます。その結果、誰もが「自分にもできる」「きっとうまくいく」という自己効力感を取り戻して元気になるのです。それは、どうせ自分なんてという思いこみから逃れ、歩いて、描いて、みんなにシェアし続ければ、世界を見る目をどんどん研ぎすましてゆけると実感することであると言えるでしょう。
~~~

ステキです。自己紹介もアイスブレイクもせず、お互いをひとりの生きる人間として、知図を描き、お互いの発見を愛でること。
「発見の余白」を持って場をつくっているだろうか?と問いかけられます。

そして、最後、知図について

~~~
知図は、正しい知識が表現されたものでも、完成した作品でもありません。そこには間違っていることも、妄想に近い仮説も描かれています。しかし、それが真実であり、唯一の答えだと示しているわけではありません。

むしろ、私たちアマチュアが歩いて実体験したことをネタに、思いついたことを素直に表現した途中「経過物」です。「成果物」ではないからこそ、知図展に訪れた人は自由に考えを語りたくなります。
~~~

アマチュアリズム。「つながるカレー」の話を思い出した。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
参考:「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)

知図は「成果物」ではなく「経過物」。いいですね。
高校生の「総合的な探究の時間」もそんな気持ちでできたらいいなと。

「まだ、途中なんですけど、、、」みたいな。
いいタイミングでいい本を目の前に差し出してくれるなあ、神様、って感じです。
本の神様を信じてしまう。

あと、存在の承認というか、「自尊感情」についてもふたたび
http://hero.niiblo.jp/e485809.html
参考:「ふりかえり」と「自己評価」(17.9.12)

http://hero.niiblo.jp/e484636.html
参考:「近代」という「旧パラダイム」(17.4.30)

~~~ここから引用
自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない
従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。
しかも、「だれかのために」「なにかのために」という
大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を
受け入れることを「自尊感情」といいます。
(中略)
エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした
場所でもありました。
学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。
学校は優位者に対しても、彼らの人生を
なにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、
条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。
~~~ここまで引用

「学校」というシステムが奪ってきたもの。それはまさに「自尊感情」であり、「自尊感情」を育むシステムでもあります。それは「他者から評価」という檻の中で、一生過ごすことになるという刑罰のようです。

Feel度Walkは、それを解きほぐす可能性があると思いました。

「評価」という壁を越える。

自尊感情、つまり自らの存在の承認は他者からの評価によって得ることができない。という前提において。
自分が発見したモノ・コトを承認し合うというコミュニケーション・プロセスの中で、自らを承認し始めるというのが知図づくりのポイントなのかもしれません。

高校生の総合的な探究の時間の設計で、「達成と成長」から「発見と変容」へと言っていた理由、その前提となる思想(の言語化)に出会えたような気がして、すごく嬉しい気持ちになりました。

まちをあるいて、写真を撮って、スケッチして、図にする。
そしてそれぞれの「発見」を愛であうこと。

それだけなのです。本当にそれだけなのだけど、何とも言えない愛と、子どもへのインパクトの可能性を感じています。素敵な1冊をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)日記

2024年01月18日

「自分をひらく」面白がり屋を育むまち


「知図を描こう」(市川力 岩波書店)

「ジェネレーター」の著者、市川力さんの知図づくりの実践が書籍になった1冊。
これ、やってみたかったので、すごくうれしい。

「はじめに」からメモします。

~~~
大事なことは、あらかじめ「好き・得意」を定めることではありません。そうなると「好き・得意」が決まらないと行動できなくなってしまいます。最初から「好き・得意」を持つことより、とりあえず面白そうだからやってみよう!というフットワークの軽さがポイントです。

「好き・得意」は目指すべき「目標」と言い換えることができます。私たちは「目標」がはっきり決まっていれば行動しやすいでしょう。
~~~

好きは?
得意は?
ってたしかに聞いちゃっているかもなあ。
「好き」を表現することよりも、じぶんを「ひらく」ことから始めないといけないのだなと。

~~~
誰もが、幼児や小学校の中学年ぐらいまでは好奇心のフタがすぐに開きます。しかし、だんだんと身のまわりの物事への関心を失っていきます。とはいえ、フタは閉じられているだけで、好奇心自体は失われたわけではありません。再びこのフタを開けるきっかけさえつくれば、好奇心は再起動します。あとは、日々好奇心を動かし続けることが面白くて仕方がないと思えれば、自ずと習慣になります。

直感やこれまでの経験にもとづく先入観によって物事を判断し、自分の思い込みを裏づけるような情報しか受け入れなくなることを「認知バイアス」といいます。
~~~

いいですね、岩波ジュニアスタート。何歳に向けて書かれているんだろう。
SNSでフィルターバブルで認知バイアスなんですよ。(笑)

そして、「好奇心」へ言及されていきます。
~~~
「好奇心」は「なんか気になる」という「違和感」を抱く心の動きです。私たちが効率よく日常生活を送るためには、いちいち「好奇心」を抱いて物事を眺める余裕はありません。日々このように過ごしているうちに、だんだんと「好奇心」にフタがされてしまいます。さらにSNSでのつながりがメインになっていると、自分の好みに応じた情報にばかり触れて、「好きじゃない」モノ・コト・ヒトとのつきあいがなくなります。

実は、私たちに今、求められているのは、「好き探し」をすることではなく、出会ったモノ・コト・ヒトを見逃さないことなのです。自分が「好き」なのはこれしかないと簡単に決めつけるのではなく、また、「好き」が見つからないといたずらに嘆くのではありません。日々、出くわしているささやかな出来事に目を向けてみることから始めるのです。

小さな不思議を感じとるのが「好奇心」と言えるでしょう。「好奇心」をベースにした学びは、私たちヒトの根源的な学び方です。
~~~

まさに。
「好奇心」こそが「遊び」と「学び」の境界を無くしていくのかもしれない。
探究の入り口ってそういうことなんじゃないのか。

そして、最後に知図づくりの導入である「面白がり屋」へ

~~~
「好き」と「好奇心」が違うように、「面白い」と「面白がる」は異なります。

「面白がる」とは、一見、楽しそうでも、心地よさそうでもないことに対して、自分なりに「面白い」とい思える何かを発見することです。なかなかうまく結果が出ず、つらかったり、突然わけのわからない事態が起きたりしても、そこに「面白さ」を見出すのが「面白がる」ということです。

「面白がり屋」とは、特に楽しいことがない状況であっても、発見した何かに新たな「意味」を見出す人だと言えましょう。こうした「面白がり屋」が予期せぬ不確実な状況に登場すると、場の雰囲気が変わります。その雰囲気が他の人にも伝染し、ともに意味をとらえ直し始めるのです。すると、重苦しかった雰囲気が一変し、いろいろな可能性を素直に出して「面白がる」場が生まれるのです。

好きなことがない、得意なことがない、何から始めたらよいかわからないなどと思い悩む必要はありません。まずは歩いて、集めて、描いてみることから始めればよいのです。そうすると今まで見えなかった何かが見えてくる感覚をじわじわと取り戻します。
~~~

まずは面白がり屋になること。
「探究の出発点」は「自分を知る」「好きを知る」のではなくて、「面白がり屋になる」つまり、「自分をひらく」こと。

そのためには歩いて、集めて、描いてみる。

探究の出発点をそこにおきたいなと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:16Comments(0)日記

2024年01月14日

「創造」の前提となる「存在の承認」


『ぼくは蒸留家になることにした』(江口宏志 世界文化社)

年末に購入しまして、いよいよ出番。
著者の江口さんは、10数年前に本屋を始めるときに
本屋特集などに多く掲載されていた「UTRECHT」を2002年に立ち上げた元本屋さん

第1章冒頭の「僕が本屋を辞めたわけ」がタイムリーだったのでメモ

~~~
それはこの先、本というフィールドのなかで、常に更新していけるものを発見できるのだろうか、という疑問だった。拠って立つべき居場所が曖昧で、自分の存在が希薄になり、マーケティングやら消費やら見えない何かに飲み込まれてしまうようなもどかしさ・・・とでも言うべきだろうか。

誌面で展開される、暮らしの上澄みをすくいとった、うっとりするような美しい情景。それはそれでいいのだけれど、その情景自体が自体がスタイルのようになってしまった。(中略)うわべだけの「ライフスタイル」が消費されていくのを横目で見ながら、ますます表現の下にあるしっかりとした「技術」の蓄積が自分にも欲しくなった。

農業に従事するということは、短期間のプロジェクトから距離を置くということでもある。そして時には経済活動からも。もし繁殖用の鶏を2.5ユーロで買うならば、その鶏自体の価値は限りなくゼロで、卵を産む装置こそが鶏の価値なんだ。それはホビーとかでもなければ、経済活動でもなく、そしてプロジェクトでもない。それは単に何かと生活をともにすることなのだ。

五感と自然が響き合う。植物だけでなく、土や苔も、環境そのものが豊かな香りを放っている。ぼくらは、こんな複雑で繊細な香りの世界に身を置いているのだ。
~~~

「アイデンティティ」のリアル。

かつて川喜田二郎は、ふるさとを「全力傾注して創造的な行為を行い、そのいくつかを達成した場所を人はふるさとだと認識する」と言ったが、その前提となる土台としての「存在の承認」はどのように得られるのだろうか。

「ホーム」と呼べるのような場所、あるいは関係性がないままに、創造性を発揮することは可能なのか。

あるいは、創造のプロセスの中で、「存在の承認」は徐々に得られていくのだろうか。

「未来から逆算する今」だけじゃなく、「過去を継ぎ、未来へつなげる今」が必要なのではないのか。

「わたしたち」を空間的ヨコ軸と時間的タテ軸の真ん中につくっていく必要があるのではないか。

個々の弱さこそを場のクリエイティビティの源泉にできないだろうか。

そんな問いが浮かびます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:52Comments(0)日記

2024年01月06日

「わたしたち」をデザインする「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

第2章 わたしたちを支える3つのデザイン要素「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」
~~~
ゆらぎ:適時性、固有性⇒固有の文脈を踏まえたうえで、適切なタイミングの変化をもたらすか
ゆだね:自律性⇒自律性を尊重したうえで、望ましいゆだねのレベルになっているか
ゆとり:内在性⇒目的だけではなく経験そのものに価値を感じ取れるか

「ゆらぎ」:適切な変化を見定める
適時性:
人や生き物は固定されている存在ではなく、常にゆらぎ、変化する存在として理解するのが「ゆらぎ」という考え方の根底にあります。心身が不調のときに自分の意思で決める状況ばかり用意することは、かえってその人を疲れさせてしまいます。逆に調子のよければ自分で新しいことに挑戦したり、自分で決める状況を用意することがよいでしょう。このように、タイミングが適しているかどうかという「適時性」の視点が重要になります。
固有性:
年齢に加えて、当人のジェンダーや経済状況、性格やさまざまな嗜好性など、当人を当人たらしめている固有の文脈を理解することが重要になります。この側面を「固有性」と呼びましょう。

個々人のゆらぎとは、ある人が他者たちと関わる過程で、一緒に変化していける可能性を示しています。一人ひとりのウェルビーイングのかたちが重なり合うことで、わたしたちのウェルビーイングを作れるようになるにはどのような「ゆらぎ」が必要かを問うことが求められます。

「ゆだね」:他律と自律の望ましいバランス
誰かのウェルビーイングを支援しようとすることが、支援される人の自律性を損なう結果にもなりえるということです。このように、ウェルビーイングの支援では、対象となる人がその支援に積極的になってもらう、当人の意思を尊重する、複数の選択肢を提示するなど、自律性を担保することがとても重要な原理になります。

適切なゆだねを考えるうえでは、自律と他律の順番が重要です。まず個人としての望ましい自律のレベルを見定め、そのうえで他者にゆだねられることを探すこと。

「ゆとり」:目的ではなく経験そのものの価値
目標を設定したとしても現在を犠牲にすることなく、過程自体に価値を見出し、そこから未来の目標をいつでも柔軟に再設定できるためのゆとりを生み出す設計が大切になります。

★わたしたちの持続性
自律性(ゆだね)とプロセスの価値(ゆとり)、そしてそれぞれの人に固有のタイミングと文脈(ゆらぎ)にもどづいて設計された体験によって、ウェルビーイングを生み出す支援が可能になったとしても、最終的にはそれが一時的なものではなく、当人たちにとって持続される必要があります。
~~~

なるほどな~。
「探究的な学び」の究極的な目標を、わたしの、そして「わたしたち」のウェルビーイングとするならば、「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」はまさにそれだなああと思いますね。

このあとSNSのアルゴリズムがいかに「ウェルビーイング」の3要素を損なう可能性があるか、を説明しているのだけど、これがこれで怖いのでメモ。

~~~
私たちの心が充足するためには、回復、持続、発見という3つの行為が関係していると仮定してみましょう。心がダメージを負っており、休息を求めているときには、回復のプロセスが必要です。心が持ち直した後には、その良い状態を維持するための技法が求められます。そこからまた傷ついたり落ち込んだりすれば、再び回復が必要となります。この循環のなかで適宜、回復や持続のあたらしい方法を発見するプロセスが付随します。

SNSの設計原理としては、常に刺激の強い情報や、利用者の嗜好性にマッチする同質の情報を提示することで、利用時間を伸ばそうとするアルゴリズムが作用します。このループのなかで、利用者は徐々に自分とは異なる意見を許容できなくなるフィルターバブル現象が生じると考えられています。それは、大量の情報の一つひとつを時間をかけて検証するプロセスを省略し(ゆとりの欠落)、自分自身の思考によって判断をしたり、判断を保留することから遠ざける(過度のゆだね)状況を生み出し、結局は自分の考えが変化する機会を減らすこと(ゆらぎの欠如)を招きかねません。
~~~

なるほど。
これは、宇野さんが「遅いインターネット」で危惧した状況なのではないのか。

参考:未来に素手で触れている、というフロンティア(20.4.3)
http://hero.niiblo.jp/e490521.html

「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」をベースに、「場」や「授業」をデザインしていくこと。
それがウェルビーイング時代の「場づくり」なのだろうと強く感じた。  

Posted by ニシダタクジ at 10:06Comments(0)日記

2024年01月05日

Self-as-We としての「わたしたち」


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

「わたし」でも「ひとびと」でもない「わたしたち」をいかに実現するか?
という問いを。

第1章 Q3ウェルビーイングには何が大事なのか?(P43)より
~~~
エドワード・デン/リチャード・ライアンの「自己決定理論」
・何かを自分の意思で行う自律性
・自分に成し遂げる能力があると感じる有能感
・他者との関係性

マーティン・セリグマンの「PERMA理論」
・ポジティブ感情
・没頭する経験
・良好な人間関係
・人生の意味や意義を感じること
・達成感をもつこと
~~~

同じくQ5 「わたしたち」をどう実現するのか?(P76)より
~~~
一体感:このグループの取り組みがうまくいくと、自分のことのようにうれしい
両動感:私はこのグループでの役割を自ら果たしている感覚と、担わされている感覚の両方を感じる
被委譲感:このグループでは、一定の期間の意思決定がメンバーに担わされていると感じる
開放性:このグループの活動は、このグループのメンバーだけで成立しているわけではない
全体性:このグループの取り組みで起きた失敗は、特定の誰かのせいにすることはない
脱中心性:このグループは、誰かがリーダー役を担わなくても、うまく活動を進められる
仲間性:このグループは意見が異なっていても尊重し合える
(共同行為の場を評価するSelf-as-We尺度 2023)
~~~

一人称でも三人称でもない、それらを合わせた
Self-as-Weとしての「わたしたち」を実現していくこと。

その1歩目をどのように踏み出すか、が大切だ、と。  

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2024年01月04日

「わたしたち」をデザインする


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

渡辺保史師匠の「自分たちごとのデザイン」を思い出した。
参考:「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ(20.7.21)
http://hero.niiblo.jp/e490894.html

昨日の『体はゆく』からの流れで、「はじめに」からテクノロジーの機能とは何か?

~~~
地球上で最も影響力の大きい生命種となった人類は、主に自分たちの利便性や効率性を求めてテクノロジーの開発に邁進してきました。それを支えてきたのは「人間は自然を制御できる」という思想です。(以下「制御の思想」)

この制御の思想を、自然に対してだけでなく、人類がお互いに対しても持つようになり、人(他者)をコントロールするテクノロジーが作られるようになりました。

実際、現代のデジタルテクノロジーの多くは制御の思想にもとづいて実装されています。ウェブ広告やマーケティングの分野では「関心経済・注意経済(アテンションエコノミー)」と呼ばれるように、人々の関心を吸い寄せ収益を上げることが中心的な話題となっています。

制御の思想には、自分の便益のために他者を利用する、「わたし」のための「あなた」という考えが根底にあります。

「わたし」のウェルビーイングのために「あなた」のウェルビーイングが損なわれる。それが意識的な無意識的かにかかわらず「わたし」のための「あなた」という考え方だけでは、人々は共によく生きる社会が実現できないのは明らかでしょう。
~~~

そこで筆者らは2つのことが重要だと説きます。

1 「わたし」のウェルビーイングの〈対象領域〉を他者との関係(WE)、社会との関係(SOCIETY)、自然や地球などより大きなものとの関係(UNIVERSE)という複数の要因にまで意識を広げ、多層的な関係性からウェルビーイングの選択肢を広げていく

2 〈関係者〉として、「わたし」個人だけでなく、他者や社会、自然を含めた全体を自分事としながら、個人と全体の両方のよいあり方(ウェルビーイング)を実現すること

ここで重要なのは、「わたし」と「わたしたち」は相互に補完的な関係だということです。自分とは、異質な存在たちとわたしたちという共通認識を築けない自己中心的な「わたし」ではなく、また、「わたし」が自由に存在できない呪縛としての「わたしたち」でもない、それら2つの充足が並立する世界の見方が求められるのです。
~~~

これは、只見高校の「総合的な探究の時間」のコンセプト
「個」と「場」の往還によるResponsibility(責任感)の醸成
の理論的な説明になっているのかもしれない。

「個」を「場」に委ね、「場の一員」として何か活動することによって、創造的な何かを達成し、それを個として振り返ることによって、Responsibility(=言語どおりに訳せば反応する力)を身につけ、只見というまちのプレイヤーとなっていく。

そんなストーリーだった。それって、個々の「アイデンティティ」の醸成に役立つんじゃないの?っていう話で計画していたのだけど、まさにそれはP43のさまざまな「ウェルビーイング」心理要因指標における自律性、有能感、良好な人間関係に当てはまっているのではないかな、と思った。

僕が目指していたのは「アイデンティティ」の確立ではなくて広い意味では「ウェルビーイング」なのかもな、と。

つづいて、第1章Q1:なぜウェルビーイングなのか?より

~~~P22より
「道具的価値(instrumental value)」から「内在的価値(intrinsic)」へのパラダイムシフト(もしくは回帰)という視点。

前者の道具的価値は、対象が役に立つか、何らかの機能を有するかという視点から判断される価値です。何かをうまく早くできるという機能性は社会を維持するうえで必要不可欠であり、この価値判断自体に問題があるわけではありません。経済が発展している時には、わかりやすい価値の捉え方でしょう。しかし、社会がこの価値判断のみにもとづいて営まれていたとすると、新しい機能を実現できる人や、特別な機能を実現できる人だけが価値あることになってしまいます。

一方で、内在的価値は、対象が役に立つかどうかではなく、対象の存在自体に価値を見出します。たとえば、人間の命の価値は、何かができるからあるのではなく、生きていること自体にあります。そして、それを尊び慈しむうえでその価値を比較することもできません。それぞれの人の存在やあり方を尊重するという意味で、ウェルビーイングは内在的価値がその根底にあるといえます。
~~~

まずは、ここからですね。
内在的価値から出発すること。

もうひとつQ4なぜわたしたちなのか?より

~~~
東洋的な思想では、自と他を完全に分けるのではなく、その中間領域である、物事の「あわい」を積極的に見出す傾向があると言われており、その「あわい」は、縁側という建築空間にも見てとれます。日本家屋の縁側とは、家の内でもあり、外でもある、中(なか)と呼ばれる空間であり、そこでは家人と客人が「仲間(なかま)」として出会う場だと説かれています。そのような場が「わたしたち」の醸成には重要になるのではないでしょうか。

オンラインのチャットで、話者同士が互いの打っているチャットを可視化することで、「能」の物語のような共話的な側面が生じているのだと考えられます。

重要なのは、「わたしたち」の意識が生まれるあわいの場は動的に生成されること、そしてその場が生まれるためのコミュニケーションのデザインが可能であるということです。
~~~
京都大学教授で哲学者の出口康夫さんが提唱されている「Self-as-We(われわれとしての自己)」という自己観です。自己観というのは、自分自身の存在や範囲をどう捉えるか、ということですが、この「Self-as-We」という考え方では、自己を個人主義的な独立した個ととらえるのではなく、ある行為にかかわるすべての人やモノを自己として捉え、同時にそこからゆだねられた個を考えるものです。

このような1つのシステムとして活動するグループ全体を自分事としつつ、それを構成する個の主体性を担保する考え方は、わたしたちのウェルビーイングと方向性を同じくするものです。

このような「わたしたち」の視点が持つ重要な示唆は、グループの中の関係性として、「わたし」と「あなた」に分かれて「する/される」の関係になるのではなく、グループとしての活動において、わたしでありながらもわたしたちとして一緒に活動や意味をつくり出していく「協働者」になるということです。
~~~

「ともにつくる」ってそういうことかな、と。
たぶんそれは、昨年読んでいた井庭先生シリーズにも通じているな、と。

参考:「プロジェクト」という創造の物語に身を委ねる(22.6.2)
http://hero.niiblo.jp/e492476.html

「ともにつくる」協働のデザイン、それは、「わたしたち」のつくり方だし、「わたしたちとしてのわたし」のつくり方だし、ウェルビーイングへの1歩なのだろうと感じる1冊です。読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:54Comments(0)日記

2024年01月03日

「できる」をもっと楽しむには?


『体はゆく~できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(伊藤亜紗 文藝春秋)

コロナ禍で失われた「身体性」とはいったいなんなのか?
プロローグはそんな問いかけから始まります。

~~~
「けん玉できた!VR」を体験した1128名のうち、96.4%にあたる1087名がわずか5分程度でけん玉の技を習得するという「奇跡」が見られたのです。

参考:けん玉できた!VR
https://star.rcast.u-tokyo.ac.jp/kendama-dekita-vr/

おじいちゃん動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=hJl_DRyyaIc

私たちがどんなに意識して「リアル」と「バーチャル」に線を惹こうとも、その境界線をやすやすと侵犯してもれ出てくるような体のあり方です。体は、私たちが思うよりずっと奔放です。

そもそも、「できなかったことができるようになる」という変化は、体にとっては非常に不思議な出来事です。

「できなかったことができるようになる」という経験は、本質的に魔法のような不思議さを秘めています。

結論から言えば、私たちは、自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになるのです。

「できなかったことができるようになる」とは、端的に言って、意識が体に先を越される、という経験です。つまり、「できるようになる」の中に、すでに「負け」があるのです。
~~~

「できないことができるようになる」ためには、意識が体に先を越されなければならない。
これは、目標設定とはなんだろう?と考えさせられます。

ここでは、第1章「こうすればうまくいく」の外に連れ出すテクノロジー」と題してピアニストの演奏技術を助ける方法を研究している古屋晋一さんのところから、抜粋
~~~
「こうすればうまくいく」という自分なりの方程式の外側に転がっている可能性。

できるためにはイメージが必要だけど、できないからイメージがない。「できない」→「できる」のジャンプを起こすためにはこのパラドクスを超えて、「イメージがなかったけどできた」という偶然が成立する必要があります。

限界を拡張していくのが筋トレ的なテクノロジーだとすれば、エクソスケルトンは、偽の限界から人を解放してくれるテクノロジーだと言えます。
~~~
19世紀のピアノ教育は、ピアニストを機械のようにとらえ、徹底的に体を鍛え、その結果何も考えずとも自在に指が動くようになること、つまり「指を自動化し、精神を解放すること」が目指されていたと言います。

音楽学者の岡田暁生は、こうした筋トレ的なピアノ教育は19世紀になって出てきたものだと言います。つまり18世紀にはなかった。その特徴は、ひとことで言うなら、音楽を部分へと分解してしまうことにあります。

18世紀の職人は「目指すべきかたちが予めはっきり見えている」ので、それに照らし合わせて、自分が行なった作業の結果がよいのか、まずのか、判断することができました。つまり、職人の持つ「感覚」の鋭さとは、自分が今行っている作業が全体の中でもつ「意味」を理解しているからこそわかる。

19世紀の工場労働者はこうした「感覚」をもちえません。なぜなら、彼らは部分的な作業をひたすら反復しているだけなので、それが全体の中でもつ意味は失われ、ただ無感覚に手を動かしているだけだからです。「目指すべきかたち」に照らして「手元の作業」を判断することができない。「ベクトルなき点」とでも言えばいいのでしょうか。
~~~

ベクトルなき点から、美しい音楽は生まれるのか?
端的にそんな疑問が湧きます。

そして、ピアノの練習について、次のように説明します。

~~~
ここに、ピアノの練習の根本的な盲点があります。それは、どうしても「音」のために練習してしまう、ということ。結果、「体」が無視されてしまうのです。「この音を出したい」という目的が先行し、「自分の体は今どのような状態なのか」「体にとってふさわしい練習とはなんなのか」という視点が抜け落ちてしまう。

感性の観点から「自分はこんな音が出したい」と思う範囲は広いと思うんですけど、その中で「体が鳴らせる範囲」はもっと狭くて、絞り込んでいくんですよね。そこが、その人の鳴らせる範囲だし、練習するべき範囲なんですよね。そこで、いかに効率よく練習していくかというお手伝いをぼくはさせてもらっている、という感じです。
~~~

つづけて第2章 あとは体が解いてくれる より
元プロ野球選手 桑田真澄さんのピッチング解析などで知られる柏野牧夫さんの章

~~~
一定のレベルを超えた学習者に対しては、やはりテクノロジーは「教師」の立場から降りなければならない、と柏野さんは言います。解析データは未知なる土地の存在を教えてくれる「灯台」にはなるかもしれないけれど、したがうべき「見本」ではない。

自由意志とか責任とか個人とか、そういうものが、この手の研究をしていると怪しくなってきますよね。探索もそうだけど「あなたの自覚であなたをうまくしなさい」みたいなことじゃないんじゃないか。むしろ、「誰にそうさせれているか分からないけれど、そうさせられている」みたいなことなんじゃないか

フィクションだとしても「個」「意志」「責任」が問われるからこそ、勝負が成立しているのですし、それによって職業としてスポーツが成り立っていることも事実です。

「個」対「個」で、バッターにいろんなオプションがあって、打ちました、当たりました、空振りしました、っていうんじゃないくて、もう「個」じゃないんですよ。ひとつのイベントをただ二人でやった、という感じなんです。音楽のセッションに似ています。
~~~

テクノロジーがついに、「科学」的なるもの。「普遍性」「再現可能性」あるいは「意志」「責任」のような近代的なものに対して挑戦してきている時代になってきているのだなと。

本書にはいろいろなエピソードが入っているのだけど、最後に著者の思いを。

~~~
「できる」「できない」という言葉は、「できる=優れている」「できない=劣っている」という能力主義的な価値観と結びつきがちです。単なる違いであるはずのものが、この価値観のもとでは優劣というひとつのスケールの上に並べられてしまいます。

そのような社会では、「できるようになる」経験は、「〇〇さんよりできるようになる」という他者との競争や比較の問題に、容易にすり替えられてしまいます。

「他者よりできること」が目的になってしまい、「できるようになる」という出来事そのものがもつ不気味な面白さや想像を超える豊かさには、あまり目が向けられないのです。

「できるようになる」過程は、人を小さな科学者にします。そして、同時に文学者にします。できるようになるとは、自分の輪郭を書き換えることです。それは本人にとって大きな冒険です。

「できるようになる」過程でつくり出される身体的なアイデンティティと、そこに生まれる唯一無二の物語は、まさに文学のそれです。
~~~

「できるようになる」過程の物語、ひとりひとりのアイデンティティを形成していく。

「できる」や「できた」という結果ではなく、「できるようになる」という過程の「体に先を越される」物語。

ひとりひとりが自分の体と異なる物語を見つめ、それを味わい、楽しむこと。「学び」や「遊び」にはカテゴライズされない何かがそこには立ち上がってくると僕は思っているし、そこにこそ、アイデンティティの謎を解くカギが眠っているのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 13:28Comments(0)日記

2024年01月02日

コンピューターという補助輪を外し「あそび」つづける人になる

元日の大地震では新潟市内もかなりの被害が出ているようですが、阿賀町も揺れましたが、日常通りです。
JR磐越西線は点検のため夕方まで運転見合わせのようです。


『ひとりあそびの教科書』(宇野常寛 河出書房新社)

新年最初の1冊はこの本になりました。
いきなり問いかけてきます。
~~~
世界に二通りの人間がいる。それはいつも誰かの顔色をうかがっていて、自分は他の人からどう見えるのかということで自分の振る舞いを決めている人と、自分の考えをしっかり持っていて、その上で自分の考えを通すためには周りの人たちとどうかかわるかを考えている人だ。

顔色をうかがう人は「みんな」であそぶことばかり考えていることが多くて、逆に自分で考える人は「ひとり」であそぶ方法をよく知っていることが多い。

たしかにいまからもう何十年も前、20世紀の工業社会までは、そうやって「自分たち」と「それ以外」とをしっかり分けて、「自分たち」の結束を固めることが、産業の発展に有利だった側面もあった。
~~~

「思考停止」に価値があった時代(社会)がかつてあった。
そんな昔話が生まれそうな時代。

宇野さんは、「ひとりあそび」のルールとして以下の4つを挙げる。

1 人間以外の「ものごと」にかかわる
「もの」というのは、動植物や石ころのような自然物あるいは服やおもちゃのような人工物のこと。「こと」というのは走ることや食べることなど、つまり、(ここでは自分の)行為のことだ。「他の人のこと」はここではいったん、忘れよう。

2 「違いがわかる」までやる
これはおもしろいなと思ったら同じことを「違いがわかる」までやってみること。「ひとりあそび」はやればやるほど、「違いがわかる」ようになっていってどんどんおもしろくなっていくからだ。

3 「目的」をもたないでやる
「~のために」やることは「あそび」じゃない。あくまでそうやって「あそぶ」こと自体を目的としていないと、そのおもしろさはわからないからだ。

4 人と比べない、見せびらかさない
こういう「あそび」をしていると他の人からどう思われるだろうとか、一切考えないこと。他の人と比べたり、見せびらかすことが目的になってしまったら、それはもう「ひとりあそび」じゃないし、そのおもしろさもわからなくなってしまう。
~~~

これって、高校生の探究活動にも通じてきますね。とくに3と4の扱いが難しいところなのだろうと思います。「総合型選抜で大学合格」という「目的」や、「発表会(プレゼンテーション)」を前提として活動を決めていくと、「あそび」ではなくなってしまう。

高校の授業でやる場合は、もちろん「あそび」ではないのだから、それでいいと思いますけど、いわゆる「自走していく」みたいなときには、この「ひとりあそび」のなかの「あそび」要素が必要なのだろうなと思います。

第1章 街に走りに出てみよう。
最初に提案される「ひとりあそび」は「ランニング」だ。

えっ。ランニング?ってちょっとビックリしてしまった。
ここでいう「ランニング」は、「競技スポーツ」ではなく、「ライフスタイルスポーツ」としてのランニング。目的がある(勝つ・タイムを上げる)ランニングではなく、身体を動かすことそのものを楽しむためのランニングだ。

宇野さんは、旅先でもランニングシューズを持参し、朝走っているということなのだけど、これもなかなか面白い視点だったのでメモ。
~~~
住人と旅行客の振る舞いに差が出るのは、それぞれの目的が違うからだ。住人が日常の暮らしのために街に出るのに対して、旅行客は非日常の特別な体験を味わいに来ている。だから目に入るものも違えば、振る舞いに差が出るのも当たり前だ。

ところがランナーになったとき、住人と観光客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、ランニング中は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っているときは、その差はまったくなくなるのだ。
~~~

「目的」が異なること。「走る」ことそのものを楽しむこと。フラットさとは、まさにそこから生まれているのかもしれない。その昔やっていたmixiグループ「いっとうや友の会」を思い出した。好きっていうだけで、こんなにも人はすぐ仲良くなれるのかと思った。

そして、今回の本のハイライト、「ゲーム」にハマっている高校生へのメッセージがアツい。

~~~
君がいま、普通にゲームを「攻略」しているのだとしたら、君はプログラマーの組み立てた道を、指図どおりに歩いているだけに過ぎない。それでは「ゲーム」のおもしろさを半分も味わっていない。

僕がゲームを「攻略」してしまうとゲームのほんとうの「おもしろさ」がわからなくなるというのは、「攻略」という「目的」がゲームそのもののほんとうのおもしろさを覆い隠してしまうと思うからだ。

そしてそのゲームのほんとうのおもしろさとは、「攻略する」ことではなく「つくる」ことにある。自分で目の前にある情報を分析し、自分でルールをつくればそこにゲームが生まれる。たとえば君の目の前に4種類のマークごとに1から13までの番号が振られたカードがある。そこに「ルール」を与えれば、それはその瞬間にゲームになる。
~~~

「4種類のマークごとに1から13までの番号が振られたカード」つまりトランプのことなのだけど、それをゲームの素材として見ることができるかどうか。たぶんこれって、小学校の休み時間とかにクリエイトしていくものなのだろうけど。トランプゲームでルールが決まっているのだとしても、いわゆる「ローカルルール」(〇〇縛りだったり)を生み出していくことでゲームはクリエイトされていく。

さらに、ゲームの先には「読書」があると宇野さんは力説する。読書とは「ゲームをつくる」ことだし、「補助輪を外した」ゲームなのだと。

~~~
本を読むのが苦手な人は、本を読んで「考える」ことのおもしろさを知らない人がほとんどだ。本を読むと、他人の考えに触れて思うこと、考えることが自然と湧いて出る。これが面白いのだ。実はほとんどの人は、知識を得るという「目的」をもって本を読んでいるために、本を読むことそのもののおもしろさを見失っていると思う。

本当の読書のおもしろさは、むしろわからないことや、はっきりしないことをその本を書いた人の意見を参考にしながら、一緒に考えることにある。だからほんとうにおもしろい読書では、人は安心しない。答えを聞いてスッキリもしない。その代わりにワクワクして、自分ならこうするとか、前に読んだ本の内容と組み合わせるとこういうことが言えるんじゃないかとか、そういった自分の考えがモヤモヤと立ち上がってとても興奮してくる。これがほんとうの「読書」なのだ。

コンピューターゲームとは言ってみれば「知識」を得るという目的の代わりに「攻略する」という目的を与えた読書のようなものということがわかる。「知識を得る」よりも「攻略する」ほうがよりはっきりと成果が確認できるので、簡単に充実感が手に入る。

誰かにつくられたコンピューターゲームをプレイしているとき、人間はコンピューターから、この情報をこういうふうに整理して、こう扱うと、問題が解けますよ、と親切にガイドしてもらっている。

本を読むという行為は、「他人の考え」という、世界に莫大に存在する情報を前に、自分で問題を、ゲームをつくり続ける行為だ。

ゲームにおけるコンピューターのプログラムとは、自転車の補助輪のようなものだ。少し練習すれば、誰でも補助輪を外して自由に走ることができる。それが読書なのだ。
~~~

コンピューターというガイド的な「補助輪」を外し、自ら「あそび」つづける人になること。それはYoutubeのレコメンドを外して観ることなのかもしれない。そしてそれこそが18歳までの宿題なのかもしれない。

「補助輪のついた自転車」にいつまでも乗っていていいのか?と宇野さんは問いかける。

~~~P192より
僕くらいの世代の人にとって、ゲームというのは一番総合的な、つまりいろいろな要素が混じり合った、一番進化した表現だと考えられていた。小説には言葉しかない、映画には言葉に加えて音と映像がある。そいてゲームにはそれら全部に加えてプライヤーが物語の中の状況の変化に対応できる。だからゲームが一番すごいものだという考え方が当時の若者を惹きつけていた。しかし、いま振り返って考えるとこれは逆なのだ。むしろ、言葉や映像を自分の目と耳と頭でしっかり受け止めて、つくり手と一緒に考える(解釈する)という行為ができない人のための補助輪が紺ビューターで、その補助輪がついた自転車がコンピューターゲームなのだ
~~~

終章であらためて宇野さんはネット上で「石を投げる」世界の現状を憂うと共に、ひとりあそびをすすめる。

~~~
インターネットは、世界中のほとんどの人に、「発信する」能力を与えた。

それまでテレビなどが担ってきた「他人の物語に感情移入すること」よりも気持ちのいいことをひとつ、覚えてしまった。それは「自分の物語」を「発信する」ことだ。

いま人々は、20世紀のころほどは、「他人の物語」に感情移入して生きてはいない。その代わりに「自分の物語」を発信することに時間と労力をつかうようになってきている。

人間には「他人の物語」に触れて、そこで描かれているものが心に侵入してきて、それ以前と以後ではがらりと自分が変わってしまう、そんな体験をすることがある。

「他人の物語」に「共感」しても、「自分の物語」を「発信」して、その内容に共感した人から「いいね」をもらっても、自分自身は何も変わらない。「共感」できない「他人の物語」に侵入されたときこそ、人間は決定的に変われるのだと思う。

「他人の物語」に侵入されて、自分が変えられてしまうことでしか味わえないことが世界にはたくさんある。なぜならばそうやって自分が心の奥から変えられてしまうと、そのたびに世界の見え方ががらりと変わってしまうからだ。
~~~

ラストに、ひとりあそびを発信せよ、と語る

~~~
人々に向けられていない発信、自分のために書かれた発信が増えれば増えるほど、世の中は多様に、豊かになると考えているのだ。

自分のための、人間ではなくてものごとや場所に対して向けられた発信は違う。自分がそのものごとのどこに、どう、興味をもってどう感じたのか、誰の顔色もうかがわない発信は人それぞれの異なった考えがそのまま発信されるので世界をどんどん多様にしていく。

自分が日々何を感じて、何を考えているか、「あそび」を通して世の中の見え方がどう変わっていくのかが、言葉にすることでだんだんとわかってくる。
~~~

いいなあ。少ししか読まれていない読書ブログを発信している僕にとってはとても励みになる一言でした。

こんなふうに、ほんとうの「あそび」を手に入れること。
コンピューターという補助輪なしに、自転者がこげるようになること。

そんな「あそび」を自走できることが高校生までにできるといいな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 11:55Comments(0)日記

2023年12月31日

「ともに歩み、ともにつくる」経験と場がその町を「ふるさと」へと育ててゆく

年内ラストの日記は、大掃除によって発掘されたAFTER2025の冊子の人類学者ティム・インゴルド氏の「生きた世界の住人として、ともにつくること」より。

こちらから全文読めます。
https://after2025.jp/magazine/

2月18日に少し引用しています。
参考:輸送から徒歩旅行へ、そして「自由」を手に入れるために学ぶ(23.2.18)
http://hero.niiblo.jp/e492901.html

本日もメモから
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「輸送(transport)」から「徒歩旅行(wayfaring)」への変化。「目標を掲げて、AからBへ移動すること」から「常にまわりの状況に反応し続けられる状態にあること」への転換こそがほんとうのシフトだと考えています。

私たちの行動は、すべて人生の一部であると捉えてみましょう。そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです。

少し想像してみてください。もし、みんながまったく同じ考えを持っていたら、会話は成り立たないと思いませんか?それぞれが違うことを考えていたり、異なる経験や知恵を持ち込むからこそ、私たちは言葉を交わすことができる。人は誰しも異なる経験を持っています。だからこそ、なんらかの形で会話に関わっていくことができる。公共とは、「ある問いに対して集められた異なる経験や知恵の集合」なのです。

教育とは本来、私たちの人生の歩みを導くこと。固定観念や思い込みから解放し、世界に対する知覚をひらくー私たちは世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学ばなければならないのです。

人類学は「他者の声に耳を傾け、真剣に受け止めること」を公言している唯一の学問です。人々の経験から発された言葉に学び、私たちみんなの人生の道しるべとする。これこそが人類学の主題であり、社会生活の主題でもあります。このような人類学を実践できれば、違いのなかで共生していくモデルになるかもしれませんね。

物事を閉じ込めるのではなく、外へ溢れ出させること。そうすることではじめて、私たちの身のまわりで起こることに応答する生き方ができるようになります。

外へと溢れ出させるための方法、そのひとつは動詞化することです。たとえば、コモンズ(共有の資源)を動詞化して、「コモニング(commoning)」に変えてみるのはどうでしょう?

コモンズをひとつの活動として捉えることで、ある問題のもと、異なる経験と背景を持った人々が集い、会話することができるようになります。

そしてコモニングには、会話を前に進める力がある。一人ひとりが想像力を発揮して、会話を通して、理解し合える場所を見つけ出す。-これは、過去を掘り下げて、すべての人たちの共通点に立ち戻ることとは、真逆の考え方です。それぞれが自分の経験を軸にしながらも、今いる場所を超えて、想像力を前に向かって投げだすこと、それこそがコモニングなのです。
~~~

「コモニング」という「ともにつくる」の具体的方法。

将来的には「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」になるかもしれない人と人のあいだにある「共有の資源」。それを目の前の異なる経験と背景を持った人々が集い、会話することを通じてつくりあげていくプロセス。

人と町の関係だって、川喜田二郎氏の言った
「全力で創造的な行為を行い、そのいくつかを達成した場所を人はふるさとだと認識する」
っていうものも同じだ。

「創造的な行為」をともにつくった人や場所と人は「創造の物語(ともにつくった物語)」をともにする。

その「創造の物語」が「共有の資源」となり、それがあいだにある関係が「社会関係資本」となるのではないか。それはもちろん、「贈与-被贈与」の関係だとしても、創造ずる「場」の存在により、それは可能になる。

1月14日(日)に行われる地方の正月行事に、東京の大学生がふたたび来たいと言っている。それはきっと9月の稲刈り合宿の時に単なる農作業や飲み会をしたのではなく、「一緒に何かをつくった」からだろうと僕は思っている。

高校生にとっても、地域おこし協力隊にとっても、それは同じだ。
「ともに歩み、ともにつくる」経験と場が、その町をふるさとへと育てていく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)思い日記

2023年12月28日

PUBLIC HACKで「まち」と「まなび」を楽しむ


『PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う』(笹尾和宏 学芸出版社)

「マイパブリックとグランドレベル」以来の衝撃。
参考:マイパブリックと参加のデザイン(23.5.8)
http://hero.niiblo.jp/e493048.html

冒頭から
「賑わいや集客によらずにまちの魅力を高められないか。」と問いかけてきます。

そして、続けます。
~~~
私たちは忙しく生きることを余儀なくされています。勤労であることが賞賛され、余暇を満喫することは軽んじられてきました。加えて、失敗することが許されず、ひたすら成功を追求する価値観が支配する社会で生きています。

そういう社会で生きていると、ものになるかわからないけれどゼロからつくりあげる「満足」より、すでに完成されて結果が保証された「満足」を知らず知らずのうちに選んでしまいます。

こうして私たちは、手近な快楽に抗えなくなります。手近な快楽は、それと引き換えに、私たちから「自分で探し求める力」を奪い、「そう行動すべき」と仕組まれている状況に違和感を持たなくさせます。
~~~

「コスパ」や「タイパ」を指標としてすべてのものを測るようになってしまうこと。
「賢い消費者」としてのふるまいを、人生の始めから終わりまで強いられること。しかも、無自覚に。
これは、かつて尾崎豊が歌った「仕組まれた自由」なのではないか、そんな風に思いました。

仕組まれた自由という「不自由さ」に抗う人たちが、
地方や農業、地域おこし協力隊、あるいは地域みらい留学を志向しているのではないか、と僕は思います。
著者は、数々の「PUBLIC HACK」の実例を見せながら、町でもっと遊ぼう、と誘います。

僕がこの本を買ったのは、この本に掲載されている「流しのこたつ」を実践されている奥井希さんの活動に参加し、本屋という「リアルメディア」についてあらためて考えたからです。

参考:「リアルメディア」という参加のデザイン(18.11.2)
http://hero.niiblo.jp/e488340.html



著者は「ルール」について次のように述べます。
~~~
ルールはその時々で判断が狂わないよう、どう解決するかが定められた「関係者共通の決めごと」と言えます。ルールができる以前の解決手段だった「当事者同士のやりとり」を省略するツールです。その判断の良し悪しがいつ何時も変わらないならルール化は有効な手段です。

当事者同士でやりとりをするという柔軟な対応ができれば、お互いの望みを叶える最適解を導ける可能性があります。

ところが、ルール化をしてしまうと、当事者同士でやりとりする余地が消えてしまい、より優れた答えを導く可能性を放棄することになるのです。

「ケースバイケース」という考え方を放棄することは、合理化・効率化をもたらすと同時に、判断をルールに丸投げする思考停止を進めることになります。

ある状況を解決するための手段としてつくったルールは、いつの間にかそれ自体を守ることが大切であるかのように目的化されます。
~~~

これもまさにそうですね。高校生の寮についても、同じことが言えます。
大城美空さんが体感したフォルケホイスコーレで夜な夜な行われている、対話の時間を思い出しました。

参考:はじめに「越境」ありき(21.8.1)
http://hero.niiblo.jp/e491941.html

著者は、現在おこなわれている「公民連携」は、「公共空間の管理運営事業の収益化」であると言い切り、それでいいのか?と問います。

ラスト、痺れすぎてたくさん引用しちゃいました。

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まちの自由度が高まり、自分のやりたいことがまちでできるようになることで、個人の満足感が達成され、それがそのまちへの「私」の意識を高めます。そして、そのプロセスの中で場所とのコミュニケーションが生まれます。

供給側が用意したプログラムに参加しても印象に残るのはそのプログラムの内容ですが、個人のやりたいことが実現できると、自分のやりたいことを受け止めてくれた場所に対する思いが芽生えます。

また、その場所を大切に感じながら関わり続けていくなかで、他の利用者や管理者とのつながりが育まれ、最終的にまちへの愛着につながります。

それぞれが利害関係のある目的意識のもとで同じ空間を共有していると、ただ何もせず、その場でお互いの存在を許容し続けることができなくなります。

人があるまちを訪れるのは、そこで「人が楽しそうにしているから」です。そのまちにやってきた人がもっと滞在しようと思うのも、そのまちで「人が楽しそうにしているから」です。

純粋に「やりたい」という思いを持った人の企画は、内容も集まるコミュニティもオリジナリティを帯びます。企画者が満足すれば、「またやりたい」という継続性が生まれ、それに参加した人が「自分もやりたい」と始めれば、アクティビティの多様さにつながります。
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うー。これ、探究的な学びとかマイプロとか、「若者を活かしたまちづくり」とか、全部に刺さってきますね。そして高校や地域自体が「利害関係(たとえば、評価)のある目的意識のもとで同じ空間を共有していないか?」という問いかけにもなってます。前向きなベクトルの強い「学びのコミュニティ」にも、同様なことが起こらないか、非常に気になります。

そしてもうひとつのキーワードは「寛容性」について

~~~
経済性やジェンダーの分野でマイノリティとされる存在が住み続けたいと思えるまちには寛容性がらあり、そういった町ではクリエイティビティに満ちた開放的な文化が生まれ、その先にイノベーションにあふれた企業が生まれるというロジックが示されています。

「まちの自由度」を支えているのは、まさにこの「寛容性」です。目新しく見慣れない行為=PUBLIC HACKの種をそのまま許容しようという考え方が働くのは、まちが寛容性を備えているということに他なりません。

まちの自由度は、寛容性によって支えられ、それがまちに創造性を生み出すのです。まちの自由度が高まると、自らの欲求に従順になり、創意工夫に基づく独創的な行為が公共空間に生まれます。これらの行為は、誰にも目に触れる場所で行われるため、偶然通りがかった人が登場人物になってら参加し、出会いが増えます。「出会い」は創造性を高める重要な要素であるとされています。
~~~

「寛容性」とっても大切。麒麟山公園には、〇〇禁止とは一切書いていなくて(だからバーベキューもキャンプもできる)、ただ一言「ゴミは持ち帰りましょう」って書いてある。まさにこれ、まちの寛容性だろうな、って。

さらにPABLIC HACKと「地域活性化」について
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私的で自由な行為は、地域活性化に役立つかと言うと、一義的には役にたちません。

別に社会のため、まちのためではなく、自分本位のモチベーションでやっていることなので、メッセージ性はありませんし、社会の課題にメスを入れるような強い想いも不要です。制度化されるほどの大きなムーブメントを目指しているわけでもありません。

事業価値のある汎用性のあるビジネスモデルとは言えず、事業化されて広がっていくこともありません。つまり、世の中に普及すべきものとしては位置づけられておらず、あくまでそれで得られる成果の大部分は、私たち自身の満足感です。

でも、「それでもかまわない」と言いたいのです。私たちの自分本位な行為はそれをやっている本人が満足している限りまちに表出し続けます。その行為を何に波及させるか、活用するか、ではなくその行為が行われているまちの現場そのものが価値になります。

そんな行為ができる環境と、それを実践する人がいること自体がすでにまちの値打ちなのです。

本人が続けていきたいと思える満足感が得られていて、さらにそこに触れた人がそれぞれ私的で自由な行為を連鎖していけば、個人プレーがまち中に広がり、いつの間にかまちの風景を変えていきます。

私的で自由な行為を倣うべき「モデル」ではなく、「ケース」として捉え、それぞれの個別解としてケースが積み重なっていくことによって達成されるPUBLIC HACKが、まちの魅力を高めていくのです。
~~~

「まちの魅力」とは、なんだろうか?そんな問いにあふれています。

移住者たちの個人店が立ち並ぶまちも素敵ですが、宮崎県立飯野高校のような、高校生が町をフィールドにして躍動している場所の空気感はまた違った魅力があるのだろうなと思うのです。

最後に、著者は新しい都市像を提案します。
~~~~
量から質に価値が転換され多様な個性が良しとされる現在、PUBLIC HACKを通じた「自分で何をしたいかを見出し実践することができる生活文化の醸成」は、市民1人1人の自律性を高め、質の高い多様性のある社会を実現し、まちの持続性を高める一助になりうるのではないでしょうか。

公共空間を通じた地域の活性化を志す時、事業化に直ちに舵を切って、他の選択肢を放棄するのではなく、たくさんの市民による一時的な利用を積み重ねていくことによる活性化の可能性を検討してみてはどうでしょうか。市民に「~させる」という使役動詞型の取り組みに依存せず、市民が自ら「~する」という自動詞型の取り組みを通じたまちの魅力づくりに目を向ける必要があると言えます。

PUBLIC HACKでは、「楽しむ」という価値は与えられるのではなく、自らその力を高めることによって獲得されます。それは、自分の人生をより自分のものにするための鍛錬だとも言えます。自分が楽しめる時間を増やすことで、生活そのものが楽しくなるように、小さなアクションであっても継続していくことで、結果的にまちの姿が変わっていくのです。

PUBLIC HACKを通じて、都市生活者は、都市というシステムに生かされる受動的生活者にとどまるのではなく、自ら能動的に都市を生きることができるようになります。そうした状況が多数集まり続いていくまちにこそ、私たちが望む都市像が体現されるのです。
~~~

これ、都市生活者=生徒、まち(都市)=学校、生活=学び、学習と置き換えても、いいのではないかと思います。

▽▽▽以下置き換え
PUBLIC HACKでは、「楽しむ」という価値は与えられるのではなく、自らその力を高めることによって獲得されます。それは、自分の人生をより自分のものにするための鍛錬だとも言えます。自分が楽しめる時間を増やすことで、「学び」そのものが楽しくなるように、小さなアクションであっても継続していくことで、結果的に「学校」の姿が変わっていくのです。

PUBLIC HACKを通じて、「生徒」は、「学校」というシステムに生かされる受動的「学習」者にとどまるのではなく、自ら能動的に「学校」を生きることができるようになります。そうした状況が多数集まり続いていく「まち(学校)」にこそ、私たちが望む「まち(学校)」像が体現されるのです。
△△△

「地域で(をフィールドに)学ぶ」っていうのは、そういうことなのだろうな、と。
「生徒の進路実現」と「まちづくり(地域活性化)」のあいだにある、どちらにも属していない余白のある「学び」。

それを「自らつくっていくこと」そして「楽しむ」こと。そういう現場を地域の大人たちと「ともにつくる」まちにしていきたいな、と。

本書のP52「流しのこたつ」のふたりの言葉がカッコいいので、最後に引用を。
~~~
こたつを目的地まで電車で手運びする風景や、外に持ち出している風景を他の人が見ることで、「よくわからないもの」に対する社会の許容度を広げたり、誰かがやろうとするハードルを下げたりするきっかけになればと、2人は語っています。

2人は、何かゴールを掲げてそのためにこたつを広げているのではありません。予測を超えた面白さや出会いへの機会として、流しのこたつそのものを楽しんでいます。
~~~~
めっちゃ素敵だし、アーティストだな、と思った。
そんな活動を許容できる町に暮らしていきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)日記

2023年12月19日

偉大なコーディネーターはチョウチンに光を灯す

「居場所の解剖学」(全9回)の初回に出たのでまとめておきます。
https://musubie.org/news/7900/

説明文には
『「居場所とは」何か、どのような場なのかを多面的に明らかにしつつ、居場所を運営している・したいと考えている方・または居場所のコーディネーター等が考える居場所の機能を、わかりやすく視覚化できるように、解剖していきたい』
とあります。

今回のお題は、室田信一さん(東京都立大学)をゲストに、「支える」から考える人の居場所、でした。

~~~以下メモ

・「支える人」と「支えられる人」の非対称性。互いが支え、支えられるためには?
・インターネットラジオ:自然、ゆったり、うすぐらい、会話、深夜、コミュニケーション
⇒がんばらなくてもいい会話
・スノーフレークリーダーシップ:コミュニティ・オーガナイジング参照

・サグラダファミリア:建築と修復が並行している:完成しない(しなかった):ライフデザインラボ
https://minatokurasu.com/
・なぎさ:個と地域の境目をあいまいにする:子育ての輪Lei
https://kosodatenowa.wixsite.com/kosodatenowa-lei
・メッカ:いつかそこに行きたいと願う場:こまちぷらす
↓こまちプラスのaboutページ。言語化すごい。
https://comachiplus.org/about/
~~~
「居場所とは何か?」:湯浅誠 2023 居場所の政策論(試論)
居場所とは、誰かにちゃんと見てもらえている、受け止められている、尊重されている、つながっていると感じられるような関係性のある場のことを言う。

そこに居ると落ち着ける、安心できる、ほっとする、元気になれる、力が湧いてくる、ごきげんでいられるとその人自身が感じられる〈場〉のことであり、関係性を含んだ空間の概念である。
(中略)
同じ空間であっても、居場所になったりならなかったりする。自分の部屋、自分の家、自分の学校、自分の職場であっても、同じだ。よって居場所とは、個人的で、主観的で、暫時的なものである。万人にとっての普遍的で恒久的な居場所などというものをありえない。

居場所の解剖学が目指すもの:「居場所」が生まれやすい条件を知り、「居場所」を増やす。
居場所とは、個人的で、主観的で、暫時的なものです。それは、「幸せ」のように、本人が感じるかどうかであって、他者がコントロールできることではないので、100%の答えを導き出すことができません。

しかし、「多くの人にとっての幸せ」が何かを考えるように「多くのひとにとっての居場所」となる法則を考えることで、よりたくさんの人が「居場所づくり」をできる社会にしていけるのではないかと考えています。

「居場所」の定義とは「自分の存在を確認できる場所」と集約でき、以下のように分類できる。
「社会的居場所」:他者と関わりを持つことで自分を確認できる場所
「個人的居場所」:他者との関わりから離れて自分を取り戻せる場所

コミュニティデザインラボが考える「居場所が生まれやすい法則」
人×場×係:3つが揃う時、そこは居場所(社会的居場所)になる
※「人」と「係」だけでは、友人関係や人間関係であり、居場所ではない。

「係」とは:自認できる存在意義
1 その場において本人が納得できる存在意義
2 他者から与えられても与えられなくてもいいが、自認ができるもの
3 場においての自認は他人の影響を受けやすいもの
4 役割のようなわかりやすいものだけではなく、その場の空気感や人によっていくらでも増えるもの。

「タッチポイント」(ステージ)⇒「居場所未満」(ステージ)⇒「居場所」(雲)
1 タッチポイント:#(タグ):「考えや思い」が多様であり複数ある程、タッチする人が増える
居場所と人が出会う入り口のようなもの。
たとえば
#建物の外観が可愛い #知り合いがいたから #サッカーが好き #そこにいる人が好き
というように、様々なタグがあり、居場所に出会う動機づけのようなものを指します。

2 居場所未満:コントロールできる、把握できる。誰でも自分の意志でアクセスできる
ここには「人」と「場」がありますが、まだ居場所といえるまでではありません。
場の中で人と人が出会い、様々なコミュニケーションが巻き起こることで「自認」や「承認」が掛け合わせれ「係」という概念が生まれます。この「係」は、次のステージである「居場所」へと導きます。

3 居場所:個人的、主観的、暫時的であるためコントロールしにくい
居場所は、そこに居ると落ち着ける、ごきげんでいられると「その人自身が感じられる」場のことであるため、個人的で、主観的で、暫時的なコントロールしにくいものです。
特に、「係」という概念は流動的なものなので、ふとしたことで生まれることもあれば、喪失することもあり、それに伴って居場所も生まれたり、喪失したりします。
~~~

ここで「係」を風船のように例えて、係を得た人が雲の上に上がっていって、それが「居場所」になるという仮説が示された。
ここで室田先生登場。居場所を「上下」でとらえることに違和感があると。doingよりもbeingが大切なのではないかと。

そこで生まれたのが「チョウチンアンコウ」モデル。
人は誰もがチョウチンアンコウで、頭にその光がともっていない。
「係」というのは、そこに光を灯した状態のようなことなのでは?と
beingがアンコウそのもので、それを関係性によって、チョウチンに光を灯すこと。

当事者性と向き合うこと、当事者性に気づくこと、当事者性を発揮することで「係」に出会い、アンコウに光が灯り、アンコウが集まることで居場所ができる。
~~~

「コーディネーター」っていうのは、チョウチンアンコウの「チョウチン」に光を灯すっていうことなのだと思った。
そしてその光を灯すのは、コーディネーターという人ではなくて、コーディネーターがつくる「場」なのだろうと。

そこに居る人、そこにあるもの、空間、進行中の企画などによって、ひとりひとりが、チョウチンアンコウであることに気づき、「係」を得て、チョウチンに光を灯すこと。

それは「役割」とは違うっていうこと。もしかしたら、目的目標のよくわからないプロセスにあるほうが、「係」は生まれやすいのかもしれない。目的目標に向かっていくと明確な「役割」が生まれ、あいまいな「係」が生まれにくい。

「係」って存在と役割のグラデーションのあいだにあるような気がする。
そんなグラデーションのある「場」をつくっていくこと。

ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)の言葉を思い出した。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

これのコーディネーター版
凡庸なコーディネーターは、ただ司会をする
よいコーディネーターは、目的・目標を達成する
すぐれたコーディネーターは、相互作用を引き出す
そして、偉大なコーディネーターはチョウチンアンコウのチョウチンに光を灯す。

こんな感じ?
コーディネートってそういうことか、っていうのが見えてきた講座となりました。2回目が楽しみです。  

Posted by ニシダタクジ at 18:58Comments(0)日記

2023年12月09日

悪魔のように細心に、天使のように大胆に


「妄想する頭 思考する手」(暦本純一 祥伝社)

スマホに使われている「スマートスキン」というマルチタッチインターフェースを発明した暦本さんのエッセンスに詰まった1冊。

キーワードが詰まっているし、高校生に説明するときに、その入り口はいいなと思い、メモします。

~~~
「イノベーションのスタート地点には、必ずしも解決すべき課題があるとはかぎらない」

「真面目:課題を解決する」「不真面目:真面目を逸脱する」
⇒真面目と不真面目は「真面目度」を計る価値軸の上に乗っている。
「非真面目」
⇒真面目度の価値軸の上に乗っておらず、上司や先生の命令に関わらず、やりたいことに集中している。

課題解決型の真面目なやり方だけでは、予測不可能な未来に対応するイノベーションを起こすことができない。
素人のように発想し、玄人のように実行する

悪魔のように細心に!天使のように大胆に(黒澤明)
「天使度:発想の大胆さ」「悪魔度:技術の高さ」

「言語化」:WHAT(何を)WHY(なぜ)やるのかを説明するツール。

「やりたいこと=クレーム」は一行で言い切る。
クレームは「答え」ではなく「仮説」で。

やりたいジャンルはクレームではない
始める前にあらすじを書く
・課題は何か?それは誰にとって必要なものか?
・その課題はなぜ難しいのか?あるいはなぜ面白いのか?
・その課題をどう解決するのか?(ココが一行クレーム)
・その手法で解決できることをどう立証するか、どう決着をつけるか
・その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の可能性

これを12月23日「星影書店」をベースに書いてみる。
https://hoshikage1223.peatix.com/

〇一行クレーム
「就職活動をスペックのマッチングからベクトルのマッチングへ換える本屋さん」

〇課題は何か?それは誰に取って必要なものか?
・学生:業種や業態、給与などで就職先選ぶのではなく、社長の人柄やビジョンで共感できる会社と出会いたい。
・企業:優秀な(面白い)学生は、(スペック・知名度が低い)自分の会社を選択肢に入れてくれない。

〇その課題はなぜ難しいのか?
・学生:すでに出来上がっている巨大な就活システムがそのような仕様になっており、それを前提としている
・企業:上記システムを活用するには費用がかかる、スペック勝負だと、検索・検討されにくい

〇その課題をどう解決するのか?
就職活動を「スペック」のマッチングから「ベクトル」のマッチングに換える本屋さん

その手法で解決できることをどう立証するか、どう決着をつけるか
1 10名程度の企業経営者へインタビューを行い、15冊~20冊程度の本棚をつくる。
2 一定期間本屋さんを開店し、主に大学生を対象に販売する。
3 本を購入した人が会社・経営者にアクセスができる仕組みをつくる
4 実際にマッチングが起こるか検証

〇その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の可能性
・就職活動中以外の学生や若手社会人との接点がつくることができる。
・複数回の実施、他地域での展開の可能性。
・ウェブサイト、SNS上での再現性の可能性。

~~~
いいですね。こういうの。
プロジェクトのはじまりって感じです。

この方法で、ひたすらに打数を増やしていくことだと暦本さんは言う。
「一行のクレームを書いてから決着をつけるまでの最初のサイクルを短くすることが大事だ。そこに時間をかけていると打数は増えない」

なるほど。
これは高校生でも、大学生でも、むしろ大人になっても、ずっと同じだろうと思う。
だからこそ

1 クレームの素材を集めるためにアンテナを張る
2 クレームを書けるようになる
3 クレームを検証(アクション)する
4 ふりかえって、次のクレームに備える

みたいな繰り返しをやっていくことが大切なのだろうと思う。
まだ第2章です。読み進めるのが楽しみです。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2023年12月03日

己の唯一無二性に気づくため「座標軸」の外に出る


「ケアしケアされ、生きていく」(竹端寛 ちくまプリマ―新書)

まずはP22 子ども基本法第三条第三項より

「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること」

なるほど。
寮のルールとか勝手に決めちゃいけないんですね。子ども基本法違反なんです。
授業のカリキュラムもどうなんでしょうか。

次にwith-nessについて。
~~~
about-nessな考え方:「〇〇について考える」やり方で、問題を対象化して「客観的に」分析する思考。常に問題を細分化・他人事化しやすいし、他者の問題なら「それは〇〇が悪い」と上から目線で指導や指摘をしやすいです。

with-nessな考え方:「〇〇についてあなたと私が共に考え合う」という姿勢で、物事を切り離して分割するのではなく、どのように関連づけられそうか、いかに相互作用が起こるのか、を大切にします。まずは相手が悩んでいること、しんどいこと、苦しいことを遮らずに最後までじっくり聞いてみる。相手の話を否定せずにまるごと受け止めてみる。その後、その話を聞いた自分は心の中にどんなことが浮かぶかを、私を主語にして、話し始めてみる。それがwith-nessなアプローチです。
~~~

ケアの種類について

~~~
1 関心を向けること Caring about
2 配慮すること Caring for
3 ケアを提供すること Caring giving
4 ケアを受けとること Care-receiving
5 共に思いやること Caring with:複数性、コミュニケーション、信頼と尊敬、連帯感
~~~

そして手厳しい「昭和98年的世界」の描写
~~~
「迷惑をかけるな憲法」と同じような「呪いの言葉」としての「頑張れば報われる」は、「報われるためには頑張らなければいけない」:根性論「頑張らないなら報われなくても仕方ない」:自己責任論へと転化してしまう。

学校は標準的で規格化された学力を埋め込むための「学力工場」になっているのではないか。

パウロ・フレイレは「教師が一方的に話すと、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚えるというだけになる。生徒をただの『容れ物』にしてしまい、教師は『容れ物を一杯にする』ということが仕事になる。『容れ物』にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に『容れられている』だけがよい生徒になってしまう。」と言い、それを「銀行型教育」と名付けた。

知識を預金するかのようにため込む時、「なぜ?」「どうして?」という問いを抱えること自体が無駄になります。黙って暗記した方が、たしかに「効率的」です。でもそれは自らの中で湧きあがる「問い」を消して「正解」ばかり追い求める行為になります。そして、そのような「問い」を消すことは、私自身にとっては「学びの自発性」の炎を消すことでもあったのです。
~~~

昭和的な「正解≒効率化」がある時代から、標準化・規格化された「正しい答え」を失った令和の時代。世の中が変わってしまったのに社会のシステムと人々の思考がアップデートされていないことで生きづらさが増しているのではないか、と筆者は言います。


最後のケアの項目から、「共に思い合う関係性」(P 164)

~~~
中核的感情欲求(伊藤絵美)
1 愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい
2 有能な人間になりたい、いろいろなことがうまくできるようになりたい
3 自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい
4 自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい
5 自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい

この要素が満たされない状況
1 人との関わりが拒絶されること
2 「できない自分」にしかなれないこと
3 他者を優先し、自分を抑えること
4 物事を悲観し、自己や他人を追い詰めること
5 自分勝手になりすぎること

ケア対象者の中核的欲求を満たすためには、どうしたらいいのか?

P168 岸政彦さんが提唱する「他者の合理性の理解」のための「生活史」の把握

「生活史とは、出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積である。そしてその連鎖と蓄積を通じて、人生そのものに『意味』というものを付与していくのである。私たちは自分の経験、出来事、他者、場所などに、常にさまざまな意味付けをおこなう。それは希望に満ちたものでもあるだろうし、絶望的なものでもあるかもしれない。わたしたちの人生の中心には意味があり、その意味をめぐって私たちの人生は展開する。意味によって人は生かされていて、そして生きることで意味が生み出されていく。」

あなたが誰かをケアする際には、ケアする相手の「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」を理解する必要があります。その人は、これまでの人生にどのような「意味づけ」を行ってきたのか。これから、いかなる意味づけを行っていこうとするのか。本人の過去の意味づけと、未来への展望をうかがいながら、では自分はそこにどのように能動的に関わっていけるのか、を考えていきます。ここで能動的と述べたのは、絶望的な意味づけが希望的な意味づけに変わるように積極的に関与しケアすることができるか、という視点です。

伊藤絵美さんによると「他者を優先し、自分を抑えること」の中には、「『ほめられたい』『評価されたい』スキーマ」が、「物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること」の中には、「完璧主義的『べき』スキーマ」が存在する、といいます。(スキーマ:無自覚・無意識の認識のパターンやクセのようなもの)

そんな他者の生活史の理解を通じて、他者がいかなる中核的感情欲求をどのように満たされたか、満たされていないか、を把握していくプロセスは、「他者の他者性」に気づくことであり、それを通じて「己の唯一無二性」を捉え直すことでもあります。

「他者の他者性」とは、「他者には、自分には理解し得ない他者性がある」ということです。

ものごとを決めるときにも、その前提で進めていくときに大切なことが、「違いを知る対話」と「決定のための対話」を分けるということです。

学級会であれ会社の会議であれ、話が揉めるのは、価値観が対立した際です。その前に、お互いの価値前提を聞き合う時間があれば、話は違ってきます。なぜあの人は私と反対の意見を持っているのか、そこには必ず理由や背景があります。

他者の他者性を理解するプロセスの中で、彼女がそうせざるを得ない出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積(≒他者の合理性)が理解できてきます。すると、彼女を許せるだけでなく、彼女にイライラした自分の内的合理性も理解でき、それをも許せるようになってくるのです。

「迷惑をかけるな憲法」とは、まさに魂の植民地化そのものです。中核的感情欲求の1つ、「自分の感情や思いに蓋をして、「他者を優先し、自分を抑えること」に必死になる姿です。学生たちも私も、制度的な植民地状態に生きているわけではありません。言論の自由が保障された日本社会に暮らしています。でも、「個々人の精神が内部で深く植民地化されている」のです。
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いま・ここ、の不確実性に身をさらすこと。これはめちゃくちゃ怖いことです。何が正解かわからない状況にあるなかで、自分が言ったことを理解してもらえるか、受け入れてもらえるかどうかわからない。それは自分が傷つく恐れもあり、不安感も高まる状況です。

でも、それが己の影だとしたら、どうでしょう。影を無視して、他者との出会いによる葛藤を回避して、スムーズな日常に逃げ込むことによって、己の唯一無二性に出会うチャンスをも見失ってしまいます。それは中核的感情欲求を満たすチャンスを見失うことであり、「世の中なんてどうせそんなもんだ」と諦めて、自己責任的社会を消極的に受け入れ、自分自身が縮こまっていきます。それこそが「魂の植民地化」なのです。

魂の「脱」植民地化とは、この葛藤の最大化場面において、他者を信じて、他者や己との対話を豊かにしていくプロセスなのではないかと思います。落としどころや見通しの利かない場面で、とにかく他者の他者性を理解しようと、全身で聞き耳を立てる。そういうふうに、相手に自分をさらけ出すことで、相手との間に信頼関係が生まれ、そっから相手も自分の声を聞いてくれる展開が生まれる。そういう不確実さをそのものとして大切にする姿勢の中から、「違いを知る対話」が生まれてきます。そしてあなたがそう心がけさえすれば、いま・ここ、でその対話を始めることもできるのです。

それこそがケアに満ちあふれた対話なのです。

他者の他者性に出会った上で、どのようにいま・ここで己の唯一無二性と関係性のダンスを踊れるか、が問われています。正直、ダンスを始めてみないと、そのダンスはどこに行き着くか、わかりません。
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いいですね。このラスト。グッときます。

ケアする、ケアされるということ。
それは共に思いやること。
相手の他者性に気づくこと。
それを通じて己の唯一無二性に気づくこと。

「アイデンティティ」という問題の解決策のひとつがここにある、と思いました。

他者の生活史の物語を知ること。
「出来事の選択と理由」の連鎖と蓄積を受け止めること。

それはある意味、自分が築いてきた「座標軸」の外に出ることを意味するのかもしれない。
己が唯一無二であること。

それは他者で他者であることの自覚から始まっていくのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 12:11Comments(0)日記

2023年12月02日

「とらわれ」を獲得する前に



富山県舟橋村のfork toyamaにお邪魔してきました。
https://fork-toyama.com/

昨年のクラウドファンディングの記事に概要はまとめられています。
https://readyfor.jp/projects/forktoyama

「fork」というのは選択肢という意味。
代表の岡山さんはもともと研究者を目指し、大学院に進学。
教授から君はアカデミックよりジャーナリズムが向いていると進路変更。
PR・マーケティング会社を経て独立。
現在は富山県の事業者のブランディング等を手掛けている。

舟橋村は「日本一小さな村」。補助金や制度に頼るのではなく、住民同士が「子育て共助」に力を入れてきた結果だと言います。(上記サイトより)

市町村合併をしなかったのも、理由のひとつには「合併すると小中学校がなくなってしまうから」ということが挙げられる。

富山駅まで電車(地鉄)が走っていて、通勤するのに便利ということもあるだろうけど、「子育て共助」をキーワードに移住者も子育てを通じてまちに溶け込んでいく仕組みができている。

そんな子育ての村、舟橋村に今年5月に正式オープンしたのが学童保育だ。

運営するのが一般社団法人fork。
ミッションは「はたらく」と「そだてる」をもっと自由にする

学童保育の方針は「みん営」:子育てをみんなのものに。
保育料はゼロ。

みん営がひらく可能性
「はたらく」家庭の状況や周囲の環境にとらわれず子どもが安心して過ごせる場所をつくることで親の「はたらく」に自由な選択肢が生まれます。
「そだてる」:経済的・地理的な制約にとらわれず、子どもの能力や価値観を拡げる機会をつくることで「そだてる」ことにあたらしいチャンスが生まれます。
「くらす」:「はたらく」と「そだてる」がもっと自由になることで、自分の暮らしたい街で暮らすこと、好きな場所で生きることができるようになります。

保育理念は「まなぶをあそぶ、みらいをつくる。」
・自分で考える力を育む:指示される、命令されるのではなく、どうすべきかを自分で考えて行動できる人として育つために、大人はきっかけを提供する役割を担うことが大切です。

・子どもも大人もおなじ人:子どもだから未熟、大人だから完璧。そんなことはありません。どちらも同じひとりの人として尊重し合う関係を大切にしています。

・多様な大人の背中に出会う:子どもだからこそ、世の中にはさまざまな人がいることに気づきやすい環境が大切です。多様性との出会いは自分の可能性を広げることにつながります。

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forkの文章を読んでいると、「〇〇にとらわれず、選択肢を増やす」という文法になっていることがわかる。

これは岡山さんの「もっと自由に生きてほしい」という祈りが込められている。

「日本一小さな村、富山県舟橋村で生まれたforkは、子どもの有無や住んでいる地域を問わず、社会みんなが「子育ての関係者」になれる日本初の学童保育施設です。さまざまな個人や企業が経済的に支えることで保育料ゼロを実現し、さまざまな人・もの・コトとの出会いを提供することで子どもたちに人生の選択肢が広がる機会をつくることに挑戦しています」

まさにまさに。人は、「機会」によって、「とらわれ」から解放され「自由」を得て「選択肢」を増やす。

それをいかに早くやれるか?
つまり「とらわれ」を得る前にやれるかどうか。
やっぱり小学校からスタートすべきなのかもしれない。
「遊び」と「学び」が分かれる前に、遊びのような学び、学びのような遊びをつくっていきたいと思った。

参考:「学ぶ」と「遊ぶ」を再び融合させること
http://hero.niiblo.jp/e493270.html
参考:「自信がない」は後天的に獲得した資質である
http://hero.niiblo.jp/e459844.html

岡山さんが言っていた3次資源(=精神性)という言葉も印象に残った。富山県の歴史的背景(貿易・交流の拠点でありながら農村地帯)から、保守的な人とチャレンジングな人(田中輝美さん的に言えば土の人風の人かも)との両方がいるが、それぞれが共存・共生しあっているという。そういう歴史的背景って大切にしていきたいなと思った。

ハードと、ソフトと、精神性というか、ベクトルというか、美学っていうか、そういうもの。その3つがオーバーラップするものとしてのみん営の学童保育。しかもそれは岡山さんひとりではなく、集まってくるサポーターの人たちとの対話しながら出来上がっていくもの。そして、子どもたちも享受するだけでなく、その一員としてつくっていくもの。

その、「これからつくっていくもの」のためのハードとソフトなのだろうな、と思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)日記

2023年11月28日

その「連携」は不可能を可能にしているか

昨日は地域学Aの発表会でした。
もっと現場での振り返りでリアルな言葉を
拾えてたら、プレゼンは面白かったなと、
地域と協働した授業について、振り返りました。

盛んに聞かれる学校と地域の「連携」。
そして「コーディネート」もしくは「コーディネーター」

その意味をあらためて考えないといけない。
ここで参考になるのが、茨城の株式会社えぽっくの若松さんの言葉

参考:目的地を決めないこと、地図とコンパスを持たないこと
http://hero.niiblo.jp/e492190.html

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えぽっくにとって、コーディネートするとは、
・無理でしょ、と思えることをできるようにつなぐ
・面白がる(リフレーミング)
・リソースを拡張する
ことだと。たしかに、コーディネートの価値は、ここにある。
・不可能(だと感じること)を可能にするために「場をつくること(立ち位置を知ることとイメージの共有)」
・新しいアイデア、発想、具体先を出すために「面白がる(⇒リフレーミング)すること」
・それらの実行によって、自分の手持ちだでなく「資源(リソース)を拡張すること」
・仮説を実行した後にふりかえることによって「検証すること」
~~~

なるほど。
学校と地域の「連携」とよく言われるけど、非常に定義が曖昧で、
たとえば、中学校と高校の「連携授業」といえば、
1 どちらかの授業への「参加」(あるいは共通授業の構築)
2 発表会(プレゼン)の共有
だろうか。

学校と地域の「連携」と言えば
1 地域の人が学校に入ってくる授業
2 児童生徒が地域に出ていく「職場体験」「校外学習」
だろうか。

その時にコーディネーターの意味や価値とは、なんだろうか。

問いとなってくるのは若松さんの3つの言葉だ。

1 その「連携」は不可能を可能にしているか?(価値を生み出しているか?)
2 その「連携」は既存の枠組みを超えているか?(面白がっているか?)
3 その「連携」はどんなリソースを拡張しているか?

わかりやすいのは「リソースの拡張」でしょうね。
中学生の授業に高校生が高校生の授業に地域の大人が
入り込み、授業のコンテンツとして機能している。
あるいは教科書だけではない現場での体験・体感を引き出している。

問われるのは1と2。
不可能を可能にしているのか、そして既存の枠組みを超えているか?

「1 不可能を可能にする」とは、高校生だけではできないという意味ではなく、「高校生でなければできないこと」「高校生×地域によって初めて生まれるもの」なのだと思う。

「2 既存の枠組みを超えているか?」についても、その連携が未来のあるべき姿に近づいているか?という問いが生まれる。

この二つを問いかけていくこと。
形だけの「連携」にとどまらないためには考えておきたい問いである。  

Posted by ニシダタクジ at 07:29Comments(0)日記

2023年11月22日

関係人口は「一緒にやる」「場と余白」がつくる

「名所じゃない観光」Day1でした。

ゲストは香川県三豊市の石井さんと鳥取県南部町の井上さん。

メモ:石井さん(香川県三豊市 Cafe季)
洋菓子店⇒古民家でお店がしたい
Cafe季(とき)を開設

テーマ「地域のアップデート」
カフェ季(とき):地産地消:消費者と共に生産者を応援できる拠点
⇔シェアハウスNAE:移住支援:ヨソ者と地域、人と人をつなぐHUB拠点
おためしカフェ

ジュージュー会:毎月10日に行う焼肉会

三日月の夜会:ウチの町にないものをひとつ実現するには?というテーマでディスカッションする
地域の人と未来に向けての話がしたい、マッチングのミスを減らしたい。
ヨソ者のアツい思いをどのように地域の人が受けとめるか。

やり方。
模造紙、町内のマップ:町内にあるもの、景色が綺麗とか、魅力の洗い出し
この町に住むとしたら何が必要か?ハード、ソフトでないものをひとつだけ企画する
サイコロで予算を決めて、実現するための妄想アイデア出しをする。
⇒こうやったらできるよ、っていうところまでやっていく話し合い。
⇒マップが成長していく
⇒空き家ができたら、これやります、みたいな。

「一緒にやる」っていうのが大事。
シミュレーションゲームを行う。

カルチャー:大人の部活動:草木染、キャリアカウンセリング

メモ:井上さん
「食べて泊まれる寄り合いの場 てま里」でゲストハウスと子ども向け英会話教室を運営して5年目
好きなもの「旅×子ども」⇒ゲストハウス×英会話教室⇒いろんな価値観や職業の大人に出会える機会。
親でも先生でもないけど子どもと大人をつなぎたい。

てま里は、里山のくらしと、人のあたたかみを分かち合える場所。
宿やカフェは手段で、目的は、鳥取県南部町の手と手、自然の間に込められたあたたかみを世代、住む場所、性別を超えて分かち合うことです。

ゲストハウス+カフェ+交流スペース
土日になると小学生が何かつくってる

親子ワーケーション(農泊・てま里宿泊)を実施
全校17人の小学校に体験入学
ちょっとのんびり滞在⇒日常~非日常が溶ける感覚
子どもにとって特別な「何か」が見つかる旅

★お互いを知る時間:オンラインでつなぐ
★五感を感じる体験
★偶然の出会いとあたたかさ

トークセッション
★移住したきっかけ
石井さん:古民家でお店をしたい。
地域でビジネスをする:ハードルが高い
⇒地域おこし協力隊でコミュニケーションを図りながら起業する。
パティシエ+子どもの食育⇒カフェ
井上さん:ゲストハウスで英会話ができるところ
絵(画)ファーストの移住
つながりから場所が見つかった!⇒地域おこし協力隊の枠に入れてくれた。

「地域の人」「地元」の定義が違う。
家具をつくるイベントをやり続ける。

「この人にまた会いたい」
⇒お互いが一参加者ではなくて、余白のある場でコミュニケーションを取っているか。
⇒プログラムに余裕を持っていた方がいい:偶然的な機会
⇒一方通行じゃないで一緒につくる場

町の小学生限定で、外国人とかキャンプとか農家さんと料理をしたいとか。
⇒「料理をする」っていうコミュニケーションはありかもしれない。
イベントを月に1度くらいやっていた。
芝生で朝ごはんを食べようとか
食材を活かしたカフェメニューづくり
地域の人にイベントやってもらう:絵本メニュー作りとか

どんなカフェが必要ですか?
⇒カフェをやるという前提になる。
⇒どんなものが必要か?できたときに来てくれる(確認したくなる)

フィールドワークで「人目が気になる」⇒カフェの配置で目線が合わないように設計
話を聞いていくこと。他人事をいかに自分事にするか?感情論を汲み取って、反映していく。

話をただ聞くのではなく、「農家の手伝いをする」などの双方にメリットがあるような
「観光」じゃなくて地元の人が楽しんでいるイベントに外の人も呼べる
地域の人が一緒に何かをつくってる、これからの話をしている、その場に参加してもらう。
それを余白のある場にできたらまた会いたくなる人になる。

名所じゃない観光=ホームステイ
探究カードで行き先を決めるとか

~~~
関係人口ってつくるものではなくて、「一緒にやる」「場と余白」によって、つくられるものなのだなと。

関係人口って、厳密には数値化されないと思うのだけど、やっぱりそれを「個人」としてカウントするのではないほうがいいような気がしますね。

場というか、環境によって、いつのまにか、なっていた、みたいなものなのだろうな。

いつのまにか、「一緒にやる=ともにつくる」仲間になっている、そんな場をつくりたいなあと。

まずは三日月の夜会の阿賀町バージョンでもやりましょうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:43Comments(0)日記