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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年10月26日

「まちづくり」と「アイデンティティ」

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」第3回
ゲストは亀山咲さん。

リアルな話が聴けて良かったなあ。
いまだに胸の奥が苦しいけども。
にいがたイナカレッジで2度の田舎インターンを経験。

「学校以外の人に会うことが新鮮だった」
って言ってたところから、
プログラム中に気づいた農家の魅力を探りに、
農家巡りを6軒行った。

行動しているうちに誰かに伝えたくなった。
発信する、表現することが楽しくなった。

2回目のインターンは企画側としても関わった。
この企画側に入るインターンはありかもしれないと思った。
2度目の人はそうやるとか。

在学中に「下宿」を経験。
いわゆる地域の人との同居だ。
大学卒業後、就職はせずに、
自ら「ホームシェアプロジェクト」を立ち上げ、活動する。

~~~ここからメモ

町を歩いて、人と話すと「なにやってるんですか?」って聞かれる。
プロジェクトの説明をすることが面白い。

下宿のおばさんに言われるままにいろんな場に行き、話をした
※やりたいことがない⇒プロデューサーを手に入れること
言われたとおりにやってみる、っていうのもありだなあ。

楽しくて始めたはずなのに、
市役所の人たちに、事業に組み込まれていった。
お金がもらえるけど、荷が重い。
大人の都合。まちづくりというビジネス

「若いのにスゴイ」という言葉への違和感
若くて、ここにいることに価値があると言うのなら
私じゃなくてもいい。

「私じゃなくてもいいんじゃないか?」
⇒方向性の違いが明らかになる。

何者かになりたかった。
わかりやすい個性、説明できる個性
すきなことを仕事にすることへの憧れ
専門性:自分はどう役に立てるのだろう?

~~~ここまでメモ

いやあ、聞いてていろいろ胸が痛くなった。
リアルな経験だなあと。

彼女は、違和感をキャッチして、途中でやめることができた。
それって大きいなあと。
違和感からは逃れられないんだなあと。
「まちづくり」とアイデンティティについて考えてみたくなった。
それは「場」の話にも通じているなあと。

「会社」や「地域」や「家族」。
その「所属している感じ」を失いつつある今。
(それは僕が大学生だった90年代からそうだったのだけど)

アイデンティティの不安にさらされている。
「好きなことを仕事にする」という言葉に代表されるように、
NHK「プロフェッショナル」的な仕事に憧れ、何者かになりたいと思う。

そのための分かりやすい「個性」を見つけたいと、
大学時代から精力的に動いている。

「若いのにスゴイ考えてるね。僕が大学生の時なんて遊んでただけだったよ」
っていうオッサンが嫌いだ。
どの位置からその言葉を言っているんだろうって思う。
その「場」から遠く離れた安全地帯から放っている言葉だと思う。

カギを握るのは「場」とメンバーに対する「リスペクト」だろうと思う。
いまの大学生が20年前の大学生よりも広く深く考えているなんて当たり前の話だ。

初期のガラケー(アンテナが伸びるヤツ)と最新のiphoneくらいの差がある。
メールも送れる。(ショートメールさえ当時は画期的だった。笑)
カメラ機能もどんどん上がる。
もはや手の中にパソコンがあるようなものだ。

「場」にフォーカスすることだ。
「場」を高めるために、ひとりひとりをリスペクトし、個性を引き出すことだと思う。

「感想は?」と聞くのではなく、「印象に残ったことは?」と聞き、
場全体で、それを味わい、考えることだ。

アイデンティティ不安に対する僕の方法論は、
「場」の一員となり、「プロジェクト」の個性の構成員となる、
という経験の積み重ねによって、
複数個のアイデンティティを同時進行していくこと。
なのではないかと思っている。

それは、他者から見て「わかりやすい」個性とはならないのだけど、
「アイデンティティ不安」を少し和らげてくれると思う。

そもそも、アイデンティティ(自分らしさ)っていう概念さえ疑わしい。
「自分」なんて存在するのだろうか?
って始まってしまうと、長くなるので、今日はこの辺にする。

阿賀町では高校生たちとリスペクトを持ちながら
「場」と「プロジェクト」をたくさん生んでいこうと。

それを「まなびのトビラ」と言うのかもしれない。
10月31日(土)@新潟駅で待っています。

https://reimei-gakusya.localinfo.jp/posts/10858791?categoryIds=477469

  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)学び日記

2020年10月25日

「達成」と「発見」を動的平衡できる複数の「場」


「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

の著者飯田美樹さんを招いてのオンライン劇場ツルハシブックス。
エコリーグに参加している時、僕はあれが「場」っていう認識がなかったし、
そもそも僕は実行委員会側ではなくて、プレイヤーとして参加していたし。

彼女は大学1年のときから「場」について認識していて、
合宿やイベントなどの期間限定で場をつくる限界を感じて、
パリでのカフェ研究に勤しむこととなる。

パリではなぜ、芸術家がたくさん生まれ、また集まってきたのか。
彼らはなぜ、カフェに集まったのか?
当時のパリのカフェとはなんだったのか?
そんな問いから始まる冒険に連れていってくれる1冊です。

昨日は、その本を通しての対話の時間となりました。

~~~イベントメモ

3万円のホテルに泊まることと、1000円のコーヒーを飲むこと。
空間、飲食物、対話、出演者、、、総合芸術としてのカフェ体験。

目的多様性とベクトル多様性。
「打ち合わせ」か「ひとり時間」か「友人とのおしゃべり」か、とか。なんのためにカフェに行くか。
と、その人が持つ「こうありたい」「こうなりたい」と思う気持ち(スピノザ的に言えばコナトゥス)。
それらがクロスする場としてのカフェ。

場と溶け合う。
それは意識してもしなくても、個人と場は相互に影響される。
スマホとPCのようにつながなくても、wifiで同期しちゃう。

場と一体化していると、そこにふさわしい人にいつのまにかなっている。

テーブル席があり、テラス席があり、カウンター席がある。
席を選ぶことからコミュニケーションは始まっている。
そう考えるとカウンターのデザインってすごく大事だ。

オンラインではベクトルを合わせないと場がつくれない。
リアルな場では、ベクトルの多様性が空間の価値を増す。

~~~ここまでメモ

フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン。
これが僕の場づくりのテーマだったのだけど。

あらためて「場」について考える機会となった。

いちばん印象に残ったのは、
カフェにいると、いつのまにか変わっている自分になるとか、
カフェ空間と同期しちゃう、とか
カフェ空間をつくっている一員になる、とか

そういう話。
ああ、それって、僕的に言えば、
「個人」と「場」を行き来するっていうことだなあと。

ラストに、飯田美樹さんが現在執筆中の本の話で、
「インフォーマル・パブリック・ライフ」という言葉が。

https://www.la-terrasse-de-cafe.com/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB-%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%A8%E3%81%AF/

インフォーマル・パブリック・ライフを一言で表すと、気軽に行けて、予期せぬ誰かや何かに出会えるかもしれない場所で、リラックスした雰囲気が特徴的です。 (中略) インフォーマル・パブリック・ライフには、ここではこうすべき、こう振る舞うべき、という社会的コードがなく、身分に縛られた自分ではなく、自分らしく振舞うことが許されます。日本でも人が集まるイベントや場づくりなどに、カフェや広場といった名称が使用されているように、カフェと広場には共通点が存在するのです。その共通点とは場に1つの明確な目的が設定されていないことです。八百屋は野菜を買うため、ワインショップはワインを買うために行く場所ですが、カフェは飲み物代さえ払えば友人と話をする、本を読む、手紙を書く、ゲームで遊ぶなど、何をしても許されます。広場も同様であり、広場という大きな空間自体にはその場の明確な目的が設定されていないからこそ、人々は他の場で要求されるコードから自由になれるのです。

たぶん、これ。
「ツルハシブックス」で目指していたものだし、
これから阿賀町でつくっていきたいもの。

学びの動機を「達成」から「発見」へ
学びの主体を「個人」から「場」へ
学びの成果を「評価」から「承認」へとシフトさせたい。

でも、それは一気には起こらない。
徐々にシフトしていくんだ。

「目的・目標」をもって、「個人」が能力向上を目指して学び、「評価」される。
それが現在のシステムである。「達成」のパラダイムだ。

しかし、
飯田さんが「インフォーマル・パブリック・ライフ」の説明の中で言うように、

カフェと広場の共通点とは場に1つの明確な目的が設定されていないことです。八百屋は野菜を買うため、ワインショップはワインを買うために行く場所ですが、カフェは飲み物代さえ払えば友人と話をする、本を読む、手紙を書く、ゲームで遊ぶなど、何をしても許されます。広場も同様であり、広場という大きな空間自体にはその場の明確な目的が設定されていないからこそ、人々は他の場で要求されるコードから自由になれるのです。

それはきっと、人生において必須なものなのだ。
家庭、職場(学校)、そしてここで言う「カフェや広場」のような第3の場があること。
僕がつくりたい「場」とは、そういう場だ。

「場」にフォーカスして「場」が主体となって、プロジェクトをつくり、実行する。
「発見」に価値を置き、見つけ合う「場」をつくる。
自分はその「場」に溶けだして、いつのまにか一員となっている。
その場の一員であることがその子のアイデンティティ、つまり「承認」を形成してくれる。

それらを、学校社会と動的平衡を保ちながら実現していくというのが、
阿賀黎明高校魅力化プロジェクトなのではないか、と僕は現時点で解釈している。

学校(教科)は、「達成」「個人」「評価」のパラダイムで動き、
地域(探究)は、「発見」「場」「承認」のパラダイムで動く。

当然、「達成」のプロセスの中でも「発見」はあり(それを振り返っていないだけ)、
「発見」のパラダイムの中でも「達成」(いわゆる「成長」)は結果的に見て取れる。
必要なのは主体を「場」としてとらえる、ということと、その一員となること。
それを繰り返すことによって「承認」(自分で自分を承認すること、存在承認)を感じられること。

それこそが、「探究」の意義や、地域の力を必要とする理由なのではないだろうか。

一気には変わらない。
徐々にシフトさせてゆく。
というより、動的平衡のほうが、「発見」は大きくなるのではないか?

素晴らしい教育システムを一気に導入するのもいいのだけど、
既存のシステムを活かしつつ、地域の資源を活かした探究的学びとの
共存・ともに進みながら変わっていっているような「場」(町)ができること。

それってすごくワクワクするよなあと思っています。

10月31日(土)は
まなびのトビラを「ともにひらく」です。
これからのまなびについて対話しましょう。

https://reimei-gakusya.localinfo.jp/posts/10858791?categoryIds=477469  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)アイデア日記

2020年10月22日

「大学入試改革」と「地域で探究」



11月7日(土)9:30~11:15
「これからのまなび座談会」
@阿賀町公民館(鹿瀬)
対象:中学生、高校生のご家族の方

昨年くらいから記述式や民間試験導入などで
揺れている大学入試改革について。
その背景と、どのように対応したらよいのか、を対話します。

大学入試が推薦やAO(総合型選抜に名称統一)にシフトしているのは、
文部科学省のいう、新たな学力観のため。

1 何を理解しているか、何ができるか(知識・技能)
2 理解していること・できることをどう使うか(思考力・判断力・表現力)
3 どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びに向かう力・人間性等)

これらを学ぶ柱になるのが「探究」(総合的探究の時間)である。

では、「探究的に学ぶ」とはなんだろうか?その背景は?

背景にあるのは、工業社会からのパラダイムシフトだ。
「効率化」や「選択と集中」みたいな価値観ではもはや価値は生み出せず、
「変革(イノベーション)」」や「課題の発見」がビジネスにもン必要になってくる
その時に必要なのは「リテラシー」(能力)ではなく「コンピテンシー」(思考・行動特性)だ。

研究機関としての大学が求めているのは、経営体としての会社と同じで、
自律的に研究(仕事)ができる人であり、言われたことを言われたとおりにやる人は残念ながら不要だ。

だからこそ「探究的な学び」という舞台で、
学びの主導権(コントローラー)を自ら握り、
仮説・検証のプロセスを回していく、という経験が
必要になるのだと思う。

仮説・検証プロセスを何度も回していく中で
文部科学省の説明する「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」に出会い、
その後、自律的に学んでいくことができるようになる。
というシナリオだ。

その時「地域」という舞台が非常に大切になる。

1つ目が、地域という舞台が仮説検証の実践の場になるからだ。
リアルな生活、暮らしがそこにあるので、そこで課題に気づくことができるかもしれないからだ。

2つ目が、地域の大人が学校の先生でも同級生でもない「ナナメの関係」になれるからだ。
先生と生徒というタテの関係においては「評価」が、同級生同士においては「同調圧力」という
行動阻害要因がある。それらを取り除いてやることだ。

自ら学びの主導権を握り、地域を題材に、地域を舞台に、
地域の大人や異年齢の人といった「ナナメの関係」とのコラボレーションによって、
仮説検証プロセスを回していく先に、
「自分を知ること」と並行して、「自らの在り方生き方と一体的で不可分の課題」に出会える。

地域の役割は環境を用意するとともに、時に一緒にプレイヤーとなり行動し、時にそれを見守ること。

先端教育6月号にあったように、
「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

推薦・AO(総合型選抜)の「志望理由書の書き方~7つの観点」はテクニック論ではなく、学びの本質的な要素をついていると思う。

【7つの観点】
1 経験(活動実績)
2 気づき・価値観
3 実現したい野望・問題意識・テーマ
4 3の社会的意義
5 3に向けて取り組むべき課題・実現方法(解決策)
6 志望大学が最適である理由
7 将来の夢・志

6のところを、会社や専門学校に替えても同じだ。

「進学する・しない」「学力選抜か推薦・AO(総合型選抜」かに関わらず、
自らの人生を「経営」するために、「地域で探究」が必要なのだと思う。

仮説・検証を繰り返し、ふりかえりを丁寧にやることで自分を知り、
「自らの在り方生き方と一体的で不可分の課題」に出会える。

本当の「まなびのはじまり」は、それからだ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:51Comments(0)学び日記

2020年10月17日

ウチに天才はいない。だがウチが最強だ。


「海南(ウチ)に天才はいない。だが海南(ウチ)が最強だ」

スラムダンク、高頭監督の名台詞を思い出した、
第4回の探究学習コミュニティの勉強会。

講師は、福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校の
学校支援統括コーディネーターの長谷川勇紀さん。

もう、絶句するくらい、すごかったなあ。

何度もお話は聞いているのだけど、
いま探究学習やマイプロジェクトを設計する状況になると
ふたば未来の実践のすごさがよく分かる。

そもそもマイプロって何?からスタート

~~~ここから勉強会メモ

岩手県大槌町の高校生が東日本大震災で被災した町で何かしたいという思いを
NPOカタリバがマイプロジェクトという手法を通じて2012年から始まった放課後活動

「高校生の被災したまちへの想い」×「マイプロジェクト」手法(SFC井上研究室2006年~)×カタリバ「コラボスクール大槌臨学舎」
=復興木碑プロジェクト、笑顔photoプロジェクト

マイプロジェクトの考え方:
高校生自らが「やりたい」と思えるテーマを設定し、リアルな社会と接する実践を繰り返すことで、
高校生が意欲と創造性を育む学びを得る。
「主体的な問い」×「実社会での実践」×「意欲と創造性を育む学び」

マイプロジェクトでの学び:
参画度の高いテーマで「主体性」を育み、実践の中で「協働性」を発揮し、それらを繰り返す中での問いの更新を通して「探究性」を養うことを重視する。

主体性(参画のはしご)・・・ロジャー・ハート:
参画の段階のより上段を目指すために、主体性を持てるテーマを発見する。課題と自分の繋がりが強ければ強いほど、取り組みは真剣になり、学びが深くなる。

協働性:
調べて終わりにせず、課題解決に向けた実践を行うことで、実社会における他者との協働を経験する。

探究性:
主体的な問い⇔実践
実践を繰り返す中で、問いを更新する。途中で問いが変わることを厭わない。

マイプロジェクトの進め方
1 プランニング・・・プロジェクトをつくる
自分を知る(興味関心・価値観を知る)、課題の設定、情報の収集、整理・分析
2 アクション・・・プロジェクトを実行する
行動(実践を試みる)
3 リフレクション・・・プロジェクトを振り返る
まとめ、考えの更新(振り返り)
「自分の関心をベースにプロジェクトを作る」⇒「実践と振り返りを繰り返し、学びを深める」

2012~2014年度:プログラム開発期
岩手県大槌町で高校生マイプロジェクト誕生
プランニング合宿を開催
2015~2017年度:放課後展開期
東北初のプランニング合宿
2018~2020年度:総探融合期
高校でマイプロ型の探究学習の実践が始まる

~~~

総合的な探究の時間とマイプロジェクトの共通点
従来の総合的な学習の時間では、「課題」と「自己」は別々であった。
自己の在り方生き方を考えながら、よりよく課題を発見解決していく
総合的な探究の時間は、マイプロジェクトの考え方と一致している。

主体性と実践を重視するとは?
・学びが大きい分、従来よりコストがかかる
・その覚悟と実践での工夫が必要
主体的⇔受動的 仮説検証・実践(アクション)⇔仮説提案

2017:大船渡高校船野さんのマイプロ
ふるさとの水にチャレンジの衝撃
主体的な問い⇔実践の繰り返しによって問いの更新が起こっていた。

年間の授業の流れモデル

1 自分を見つめよう
2 北極星を見つけよう
3 問いを出そう⇒調査してみよう⇒結果を整理・分析しよう(夏休み)
4 調査結果を発表してみよう
5 北極星に向けたアクションを決めよう⇒アクションしてみよう⇒振り返ろう(8~2月)
6 学びを発表してみよう

プロジェクト事例
テーマ設定の理由
課題の発見(夏季アクション)
具体的な課題と解決方法(仮説提示)
解決アクション
活動からの学び

高校3年間を通した総合的な探究の時間
地域をフィールドに、地域の課題を題材に、その解決の過程を通して、汎用的なスキルを身につけたり、自分自身の生き方あり方に繋げていく、地域課題解決型プロジェクト学習

1年次:複雑な地域課題を多面的に理解する(ふるさと創造学 2単位)
2年次:地域課題解決の探究と実践(未来創造探究 3単位)
3年次:探究成果発表と自らの進路実現

探究のプロセスに対応した「生徒の学びの姿勢」
テーマの設定⇒調査のための実践⇒振り返り⇒解決のための実践⇒発表⇒振り返り
学びの準備
⇒「守」:受容的な姿勢(問題状況の把握と課題設定、現状や事実を正確に知る)
⇒「破」:生成的な姿勢(現状を他の事例や考え方と繋げる、課題解決の仮説を立て、プロジェクトを実践する)
⇒「離」:持続的にプロジェクトに取り組む姿勢(プロジェクトの実践を振り返りフィードバックをかける、実践の課題から次なる独自の実践を創造する、実践の連鎖)

生徒の学びの姿勢と教員の関わり方
「学びの準備」⇔「モチベーター(探究心に火を灯す)
探究に対する学びの意欲を高める⇒意欲に火を灯すコミュニケーション、外部イベントへの参加
「守:受容的な姿勢」⇔インストラクター(現状を正しく捉えさせる)
正確に物事を知り探究の基礎を作る⇒知識のレクチャー、調査研究(書籍、WEB、インタビューなど)
「破:生成的な姿勢」⇔「ファシリテーター(問いを立てて引き出す)」
柔軟に他の問題と繋げたり想像力を働かせる⇒問いを通してテーマを深化させる、生徒自身が本当に取り組みたい実践を引き出す
「離:持続的に取り組む姿勢」⇔メンター(応援・勇気づけをする)
リスクを恐れずチャレンジし、実践を連鎖させる⇒実践への勇気づけ、実践後の振り返り(リフレクション)

この4つのパターンに生徒、プロジェクトの現状を把握する

意欲高め⇔低め(上下)
課題設定のセンス良⇔いまひとつ(右左)
で右上:メンター、左上:インストラクター、右下:ファシリテーター、左下:モチベーター
的なかかわりをする。

左下方向では、教材指定、グループで調べ学習、動画で発表や個別面談をして丁寧にテーマ設定をするが
右上方向ではアクションの計画サポートと振り返りに重点を置く

探究テーマを決める視点

地域・社会の理解を深める(地域・社会から解決を求められる課題(NEED)が明らかになる
自分について理解する(自分の取り組みたいこと(WILL)自分ができること(CAN)が見つかる
その真ん中に探究テーマをつくれるかどうか。
そのプロセスにおいての「ヒューマンライブラリー」(カタリバ型講義&対話)などの活用

成長をどう測るか?

半年に1度ルーブリックで資質・能力について自己評価する。
2期生アンケート
入社試験や入学試験に活用したか?→62%
社会とどう関わっていきたいかを見出すことに繋がったか→80%
自分の価値観を考えることに繋がったか?→87%
「探究学習」が進路選択やキャリア形成に影響を与える

「未来創造探究の全体像」
1 建学の精神・理念:新しい生き方・新しい社会の建設
2 教育目標:変革者たれ
3 資質・能力:自立・協働・創造
4 ルーブリック:知識・技能・人格・メタ認知
5 カリキュラム:未来創造探究・各教科学習
6 教員体制:企画研究開発部・6つのゼミ・教科チーム
7 各ゼミ計画:授業設計
8 教材:全体教材・各ゼミ教材
9 指導法:生徒への関わり方
10 外部活用:地域・講師・カタリバ・課外活動

「教員体制」
1 探究カリキュラム企画開発の校務分掌を設定
(教務部、進路指導部とも密に連携・協働)
2 教科担当横断の全教員体制で探究活動を指導
(毎週水曜日5・6限目に、1~3年生のそれぞれの授業が行われる)
3 教員間で悩みを共有し解決策を考えていく
(各学年で月1で全員参加会議を設定。生徒の伴走のあり方などを議論)

~~~ここまでメモ

圧倒された。
声が出ない。
すごすぎるわ、ふたば未来。

ポイントは、前日の浦崎先生の話でも出てきたけど
仮説・検証プロセスの楽しさをいつ知るか?というところ。
ふたば未来の場合は、1年生の夏休みの「調査」において
仮説検証プロセスを回しているということ。

まずはそういうような「探究プロセス」の面白さを知るということ
なのかもしれない。

質疑応答で、
探究的な学びの成功とはどこにあるのか?という問いかけがあり、

それに応える形で、
マイプロ2.0→船野さんの登場により、マイプロの評価基準に「探究性」が加わったこと
つまり、「実践による問いの更新」の重要性が加わったこと、
さらに言えば、マイプロ3.0は実際の「課題解決」なのだろうと。
しかし「課題解決」そのものを評価するのかどうか?は難しいところだと。

僕はそれを聞いて、
「北極星」とは、終わらない問いの方向性なのではないか?
その北極星に出会うことだ、と。

その北極星は、ミッションであり、ビジョンであり、好奇心の源であり、
そういう方向・方角のこと。

実践の中にある「違和感⇔問い」の積み重ねの中で、北極星は生まれてくる。

「北極星」に出会えたら、
あとは問いが無限に出てくる。終わらない問いの連鎖が起こる。
そうやって、問いの更新と自己変容、つまり自己の更新のサイクルが回る。

長谷川さんの言葉を借りれば、
マイプロはどこまでいってもキャリア学習で、
自分が自分であるために変容していくプロセスのことだと。
だから、いわゆる「マイ感」が必要なのだと。

ラストに、
「組織としてどうマイプロ・探究的学びを根付かせていくのか?」に対して、
「先生が全員関わる探究でないと、文化にはならない」と言っていた。
ふたば未来は、先生みんなでやってる、と。

長谷川さんはラストに言った。
「ふたば未来にはスゴイ先生いないじゃないですか。」

たしかにそうだ。
大船渡に梨子田先生あり、とか
飯野には梅北先生あり、とか
佐渡中等に宮崎先生あり、とか
じゃなくて、組織全体でやっているんだと。
だから「文化」になっていくんだ、って。

かっけー。
かっけーなと。

組織のチカラ、そして、地域を含めた場のチカラが探究的学びをつくっているんだ。

もちろん、ふたば未来の実践メソッドというか仕組みは、ものすごかったし、
真似できるところがたくさんあるなと思った。
でも、ふたば未来が本当にすごいのは、「学びの環境(場)」に働きかけている、ということ。
「文化」を作り始めている、ということ。
わが町でも必要なのは、きっとそういう実践なのだろうなと。

コーディネーターってそういうことか、と思った。

僕も数年後に言ってみたい。

「ウチにはスゴイ先生もスゴイ地域の人もスゴイ生徒もいない。だがウチが最強だ」と。  

Posted by ニシダタクジ at 09:56Comments(0)学び日記

2020年10月16日

地域を舞台にしたシミュレーションゲームとしての探究

シミュレーションゲーム。

シミュレーションゲーム (simulation game) とはその名の通り現実の事象・体験を仮想的に行うコンピュータゲームのジャンルの一つ。(Wikipedia)
ロール・プレイング・ゲーム(RPG)っていうのは、シミレーションゲームの1つに分類されたりするんですね。

「探究」っていうのは地域でやるリアルなシミレーションゲームなのではないかと。
そんな風に思ったのは、昨日の最上地域マイプロジェクト研修(オンライン)でした。

パイオニア中のパイオニアである大正大学浦崎太郎先生が講師。
昨日は分科会2つとも講師の先生と一緒という贅沢な時間となりました。

~~~というわけでいつものメモ起こし

越境と共学共創

育成を目指す「資質・能力」
1 何を理解しているか、何ができるか(知識・技能)
2 理解していること・できることをどう使うか(思考力・判断力・表現力)
3 どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びに向かう力・人間性等)

自分らしく社会に参加するには?⇒高校生に届けるべき学びであり、問い
⇒高校教育改革の本流:単なる地域連携ではない

総合的な学習の時間:例えば「人口減少」など課題を設定し、解決していくことで、自己の生き方を考えていく。「一律的な課題」
総合的な探究の時間:自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題を発見し、解決していく。「個に応じた課題」⇒個別最適化された学び

自分軸と社会軸の融合⇒マイプロジェクト
自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題を「自ら」発見し、解決していく。

ジブンゴト・個別最適と地域課題の発見・解決の真ん中にふるさと学習をつくり、
自分らしく社会に参加する。

協働性・社会参画性・創造性
単に協力して事にあたるという意味ではなく、個人ではつくりだすことができない価値を生み出す。

諸科目との有機性
総合的探究において、生徒の関心や疑問を大切にし、それをよりどころとして学習活動を生み出すのは、その先で価値ある学習を実現するため。
⇒カリキュラムマネジメント:すべての科目がつながっていかないといけない。

普通科改革・スクール・ミッション
これからの高等学校教育においては、地元の自治体や産業界、社会教育機関、地域のNPO法人などの多様な主体と協働体制を構築するとともに、他の学校や高等教育機関等の関係機関とも連携を図ることで、各学校をとりまく課題や状況に対応し、20年後・30年後の社会を見据えた学びを提供することが求められている。
https://chikouken.org/report/11114/

飛騨市学園構想:共通言語をもつ⇒意味を共有する
https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/30/20111.html

高校でも大学的な知見で探究に取り組むことも大切。

普通科改革・スクールミッション
高校が生徒に縁のある地域の多様な人々とともに、
・20~30年後、どんな社会になるのか
・地域をどうしていけばいいのか
・どんな次世代を育てていけばいいのか
・どのように役割を果たし合っていけばいいのか
を探究した上で、自校が社会の未来に果たすべき使命を明確化し、各校が使命の達成に必要な教育課程を柔軟に編成できるよう弾力化したほうがいいのでは?



to do から to beへ(コナトゥスへ)

小さな事例をどうつくるか?
⇒具体的な1人をつくっていくこと

マイプロがなぜあそこまでやれるのか?
⇒自らの在り方生き方と一体的で不可分の課題を見つけたから。
現場を見た人は、エピソードを介して文科省の言葉がわかる。

先生方が本音で探究しようと思っているか。

オンラインでも探究の伴走はできる。
⇒卒業生コミュニティを活かせないだろうか。

地域探究:「文系」な課題を「理系的」にアプローチする
⇒「仮説・検証・ふりかえり」は文系も理系も同じ
不確実性が高いだけ。
「仮説・検証・ふりかえり」のサイクルを楽しめるかどうか?

「やってみる」の分母を増やすこと。
⇒「やってみる」を素直にできるのは小学生まで。
⇒小学校からの取り組みが大切

~~~以上メモ。

そっか。
探究って、地域を舞台にしたシミュにレーション・ゲームなのだ、と。
もちろん、生の人間たちがやっているから、痛みも伴うし、感情も動くのだけど。

でも、それこそが学びなんじゃないの?って。

そして、地域の人達は、
そのゲームのサポーターじゃなくて、そのゲームのプレイヤー(登場人物)なんだよね。
たぶん、そういう感覚。

20年後30年後の地域の未来と新潟や日本の未来を考えて、
いま、このチームで何ができるか。
そんな探究テーマを見つけること。
大人や先生こそが探究をはじめること。

それを楽しむこと。
ワクワクすること。
仮説検証を繰り返すこと。
分母を増やしていくこと。

その先に。
未来を創る1つのプロジェクトが生まれていく。

たぶんそれ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:15Comments(0)学び日記

2020年10月15日

ベクトルとして存在を許されるカフェという場


「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

来週10月24日(土)に
オンライン劇場ツルハシブックスに登壇いただきます飯田美樹さん。
実は20年前に、開村当初のまきどき村に遊びに来たことがあり。
彼女はその後の大学院時代にカフェの研究をすることになる。

その博士論文が書籍化され、当時も読んでいたのだけど、
今年、クルミド出版から再販。問いの刺さるリリースとなった。
このタイミングで読めることはなんとも言えない感慨がある。
いろいろ話してみたい、聞いてみたいことはあるのだけど。

読み直していて、
ツルハシブックスってやっぱりカフェなんじゃないか?
って思った。

「中学生高校生のための入場料無料のカフェ。」
まあ、それは本屋であり、劇場であったわけだけど。
中学生高校生に「カフェ」的な空間を提供したかったのだろう。

本書のラストに、クルミドコーヒー影山さんが解説をしているのだけど、
その中に、こんな一節が。

カフェは、飲食店であるとともに一つの「場」でもある。場とは、「参加者相互に影響を与え合う空間」と定義できる。
カフェが場としてその参加者と絶妙な相互作用を起こしたとき、それはきわめて大きな力を持つという。
そこから人が育ち、文化が生まれ、時代が創られる舞台になることがあるという。
偉大な人がカフェに集うのではなく、そこにカフェがあることで、そこに集う人々が後の時代に名を残すことになるというのだ。

おおお。
まさにそれがカフェ的空間の魅力だなあと。
僕的に言えば、「劇場のような本屋」「本屋のような劇場」なのだけど。
そういう「場」ですね。

では、そうした「場」がカフェではどのように形成されるのか?を本書から。

~~~第4章「カフェという避難所」から引用

第一にカフェにある自由、それは居続けられる自由である。
第二に挙げられるのは、思想の自由であり、
第三に、時間的束縛からの自由、
最後に、振る舞いの自由が挙げられる。

カフェは必ずしもコーヒーを飲みに行く場所ではない。
カフェという場は他の公共的な施設と異なり、合目的性がほとんど追求されない不思議な空間なのである。

飲み物を頼むというのはカフェという空間に入るためのルールであって、必ずしもそれを目的に客はカフェに来ているわけではない。

劇場やレストランに行くにはかなりのお金もかかれば、それなりのドレスコードや振る舞い方も要求される。それに対してカフェでは安い値段で誰でも入れるどころか、社会的地位も要求されない。

カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。

通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。

特定の個人が開催する夕食会やサロンとカフェが違うのは、カフェでは誰もあえて「社会的地位を無視しましょう」と言ってはおらず、客たち全員がカフェの飲食代を支払うというこのシステム自体が自然に平等性をつくっているということである。

カフェでは主人という場所の所有者兼管理者に客が平等にお金を払うことで、空間に参与している客たちの平等性が保証されている。つまり、主人のもとで客は平等になるわけである。

~~~ここまで引用

まだまだ、時間的束縛からの自由とか振る舞いの自由とかに言及されていくわけですけど、今日はここまで。

僕は、「フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン」を志向し、

まきどき村という畑をやり、ツルハシブックスという本屋空間をやり。
場づくり(ワークショップ含む)を行ったりしてきて、

今年はオンライン上にも「場」をつくれるのではないか?と直感し、
取材型インターン「ひきだし」の完全オンラインでの実施や
にいがたイナカレッジの「イナカレッジ・ラボ」のオンライン化、
月1回の「オンライン劇場ツルハシブックス」をやっている。

本書を読んで、
ああ、それって「カフェ」をやりたかったのかもしれない、と思った。
しかもそれは、本書に登場する画家の藤田嗣治がかつてそうだったように
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェだ。

「何者でもない誰か」を言い換えれば、
名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。
スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。

実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、
「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。

東京で朝活をしようと、恵比寿駅にほど近いスタバに入ったら、
全員が一人残らず集中して勉強していて、
スマホをいじったり友達と談笑してる人はひとりもおらず、
私語さえ許されない状況に耐えられずに30分で脱出して
別のカフェに入ったことがある。

あのスタバには、「ベクトル多様性」が存在しなかったのだ。

「何者でもない自分」への不安。
朝井リョウの小説じゃないけど、10代や大学生の多くが持っているだろう不安。
いや、40代になってもあるけども。(笑)

その不安を否定しなくてもいいってことだ。
何者かになろうとしているベクトルとしての自分を楽しむことだ。

そのためには、ベクトルとしての存在を許される「場」が必要なのかもしれない。
飯田さんや影山さんによれば、それは「カフェ」として表現されているのだと。

僕がツルハシブックスをカフェだと思ったのは、
中学生高校生、大学生がベクトルとして存在できる場をつくりたかったからかもしれない。

そして、これから高校生やまちの人達と共に創る場も、
きっとそういうカフェ的な空間なのだろうとイメージ出来た、すてきな読書時間でした。  

Posted by ニシダタクジ at 06:21Comments(0)学び日記

2020年10月07日

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?


「大学受験に強くなる教養講座」(横山雅彦 ちくまプリマー新書 2008年)

某大手古本屋さんで購入。
いい本あるなあ、ちくまプリマー新書。

ひとつ、謎が解けました。
いや、解けないけど。
謎にたどり着くドアのカギを手に入れた感じ。

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?
「地域で」学ぶのか、「地域を」学ぶのか?
そんな問いに、一筋の光を射してくれる1冊です。
紹介するのは、冒頭と最後のところにします。

~~~ここから引用

英語と小論文、現代文の垣根はどんどんなくなっている。

フリッチョフ・カプラ「ターニングポイント」
reductionistic(還元主義的)=scientific(科学的)=rational(合理的)=analytic(分析的)=linear(線形)
還元主義の定義。「何かを知るということは、その物質的構成を知るということだ」

「抽象」と「捨象」は表裏一体です。事実、英語ではともにabstractionと言います。
「例外のない法則はない」と言うように、抽象するためには捨象しなければならず、捨象しなければ、抽象することはできません。

デカルトは、「科学」を抽象するために、仏教が「縁」と呼ぶ不可思議な現象、予測不能な事態を捨象したのです。これこそが、近代科学の出発点です。そして以後、そうした「非決定性」や「不確実性」は、「非科学」として括られていくことになります。

カプラによれば、西洋近代社会は、一貫して陽的(男性的、積極的、競合的、合理的、科学的、断片的)側面を好み、強調してきた。そして、陰的(女性的、反応的、協力的、直観的、神秘的、全体的)側面を排除し、軽視してきたことが、さまざまな危機を招いていると。

「陽」が「因果」、「陰」が「縁」
「因」と「果」をつなぐものとしての「縁」

陰陽思想では、あらゆるものが、陰と陽の動的なバランスの上に成り立っています。
不可知にとどまること。

「縁」の世界は、近代文明が少なくとも300年以上のあいだ、置き去りにしてきた世界です。

~~~ここまで第1章から引用

いいですねえ。
近代とは、科学とは、問い直されます。

そして、
さっき読み終わった第6章から。

~~~ここから引用

「discipline 学問分野」とは何か?

ディシプリンの違いは、その立脚点の違いにあります。一人の人間存在(being)には、様々な様態(mode)があります。他の動物と共通する様態もあれば、人間だけにしかない様態もあります。

およそ人間だけに備わった特殊な様態を扱うのが文系(人文・社会科学)、他の動物や自然にも共通する様態を扱うのが理系(自然科学)と言っていいと思います。

もともと古代ギリシャには「フィロソフィア」しかありませんでした。「哲学」です。古代ギリシャの哲学者たちは、一人で人間に関わるすべてのことを考えたのです。

「言葉」について考え、「貨幣」について考えた。言語学であり、経済学です。「自由」について考え、「死」について考えた。政治学であり、宗教学です。あるいは、「火の性質」、「水の性質」について考えました。これは自然科学です。

とはいえ、哲学者の個人的性質は、めいめいに異なります。人間存在のどの様態に一番強い関心があるかは、哲学者によって違う。そこで徐々に哲学からディシプリンが自立していくわけです。しかし、立脚点の違いはあっても、みな「人間とは何か」という根源的な問いに貫かれていました。

どのディシプリンにも、常にディシプリンに先立つ哲学的な問いがありました。人間存在やこの世界全体に向けられた広い関心です。

educationという言葉には、二つの意味があります。ひとつは、technical education(専門的知識)です。ディシプリンのことです。そしてもう一つがliberal educationです。すべてのディシプリンの根底にある広く深い「知恵」であり、「教養」です。これこそが、「リベラルアーツ」にほかなりません。

「価値相対主義:すべての価値は等価である。価値観に優劣はなく、それぞれに尊重すべきものだ」
たしかに、価値相対主義があって初めて言論の自由や思想の自由が保障されることになるね。
それって、「対話」を無くしていくことになるけどね。
価値絶対主義がいいわけではもちろんないけども。

「学際」さえも1つの専門分野(ディシプリン)になってしまうのか。

自分の全存在をあげての学問、「これじゃなければ自分じゃない」という学問をすること。そうすれば、放っておいてもリベラルアーツに向かっていくはずです。

経済学者が、たとえばアメリカ経済を研究しているとして、その人が心の底からアメリカ経済を理解したいと思うなら、経済学という狭いディシプリンにとどまっていることはできなくなるはずです。アメリカという存在は、単に経済的な存在だけではないからです。肩肘張って、「学際研究」などと構えなくてもいいのです。

既存のディシプリンに身を置いていていい。「実存的な学問」をすることです。研究対象に自分の全存在をあげての関心を持つこと。そうすればひとりでに学際研究になっていくはずです。つまり、「ひとり学際」です。それこを、僕たちが目指すべきものだと思います。

~~~ここまで第6章より引用

いやあ、いい本。
「まなびの最前線」だわ、これは。
書かれたの2008年だけれども。

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?
「地域で」学ぶのか「地域を」学ぶのか?

それは、本来の意味で「学びたいから」なのではないか。
という仮説が生まれた。

「地域」っていうのは、

「歴史」であり、「社会(コミュニティ)」であり、
「農業」や「産業」であり、「教育」でもあり、
「コミュニケーション」であり、「政治」であり、、、

プロジェクトを遂行するためには、学際的(ジャンル横断的に)アプローチせざるを得ない。

高校生たちはそこにまなびの本質を見ているのではないか。
だから、学びのフィールドとして「地域」を目指すのではないか。
「ひとり学際」こそが「まなび」だと思っているんじゃないのか。

さらに言えば、その「ひとり学際」にそ、
アイデンティティ不安を乗り越えるカギがあるのではないか。

横山さんは言う。
「自分の全存在をあげての学問、「これじゃなければ自分じゃない」という学問をすること。そうすれば、放っておいてもリベラルアーツに向かっていくはずです。」

それって、文科省が「総合的探究の時間」の指導要領で言う、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのではないか。
それを探しに、ヒントを見つけに、「地域」に入り、仮説、実験、結果、検証を繰り返すのではないか。

いわゆる「キャリア教育」は、アイデンティティ(自分らしさ)は職業によって形成・実現されるという誤解を生み、
英語などのスキルを磨けば磨くほど、交換可能になるというダブルバインドの中に若者は生きている。

そんな状況の中、ますますアイデンティティ不安に陥っているように見える。

アイデンティティはどこにあるのか?
どうすれば安心できるのか?

もしかすると「地域」を目指す若者たちは、「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」
の中にこそ、アイデンティティがあるのだと直感しているのかもしれない。
そしてそれを見つけるには。「地域」の中で学際的に学ぶことだと。

僕はそれを、
最初から「自己」という単位で動くのではなく、
「自己」と「場」(同級生や地域の環境や大人含む)の動的平衡な主体によるプロジェクトによって、
いくつかの仮説を実験・検証を繰り返す中で、

たどりつく「問い」こそが、アイデンティティを形成してくれるのではないかという仮説に至る、今日の読書日記でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:41Comments(0)学び日記

2020年09月27日

2軸を行き来し、「余白」をつくる



「DOUBLE LOCAL ダブルローカル~複数の視点・なりわい・場をもつこと」
(gift_ 後藤寿和/池田史子 木楽舎)

の発刊記念イベントにお邪魔しに
新潟駅のニュースポット「MOYORe:」へ。







ステキな空間でステキな話を聞いたなあと。
一言一言に「美しさとは何か?」問い直される時間となりました。

いつものように、メモを。

~~~ここからメモ

90年代~00年代
東東京での様々なアート的プロジェクト
都市の空間を展示空間にする流れ
作家と作家を応援する人たちが東東京に集まってきた。

クリエイターたちがまちのレイヤーをつくっていった。
もともとあった町に新しい(複数の)レイヤーがかけられていった。
コトを起こすこと、ヨソモノ・ワカモンの目で再発見・再編集する。

そうやってできた新しいレイヤーと
もともとあったものが共鳴していく。

2011.3.11東日本大震災
「消費していくだけの大都会で住んでいるだけでいいのか?」
何かしないといけないんじゃないか?
2011.6「山ノ家」を借りる。

積極的なYesじゃなかった。
流されてプロジェクトの主語になっていった感。

十日町・松代・山ノ家:気兼ねなく泊まれてちょっとランチできる
1F:カフェ 2F:ドミトリー
なんとなく直感で都市とローカルを行き来する人が増えていく予感
⇒その活動拠点となるような場をつくる
★移住したいから場をつくったわけではないし、プランがあったわけでもない
何かできそうな物件があったから。

「消費するだけでいいのか?」という問いの中にいたときに
きっかけとしての山ノ家があった。
⇒2つの場を持つことを選択した「ダブルローカル」の誕生

ダブルローカル⇔二拠点居住

2つのジモトを持つこと。半分半分で暮らす。
どちらも「ただいま」「おかえり」と言える空間。
どちらにもなりわいがあって、住みかもある。近所の人もいる。

本業だと思っていたデザイン業としての自分と宿・カフェの店主としての自分。
2つの自分を行き来している⇒もうひとりの自分を手に入れる。
★もうひとりのわたし「アナザーセルフ」
都市圏にいるときの視点と、山ノ家にいるときの視点を得る。

~~~本ができるまで。

長野:瀧内さん(ダブルローカルの出版ディレクションをした)と一緒に、
2015「地域カフェのつくり方」を開催(山ノ家で開催)⇒対話を重ねていった。
地域にカフェをつくるというのはどういうことか?をみんなで考えた
gift_のふたりと何かやってみたいと持っていたのでとりあえずYesと言った。

いい話しているなあと。
使えるかもしれないから録画しておいた。
gift_のふたりとの関係性の中で普段と違う話が引き出されていた。

「対話」/明確にゴールがあるわけじゃなく。
もっと面白いことが見つかるかも。
結論を出すものではない。瞬間瞬間に思ったことを話していく。

2015年⇒2018年になって、今どうですか?
っていうのを清澄白河(gift_lab)でやった。
文字起こしした原稿を「公開赤入れ」した。
「対話」を本にした。
2019年プロローグとエピローグを録った。

内容があって、タイトル(ダブルローカル)があって、編集方針が決まった。

~~~ここまで出版の流れ

恵比寿の設計事務所を開かれたヒミツキチにしたかった。
山ノ家のカフェ⇒不特定の人が来るし、地元の人も気軽に来てくれる。

東京でヨコ文字の仕事をやっている人と
新潟の普通のおじちゃんおばちゃんが来るような開かれたカフェ
⇒東京ではできない

自分たちの活動拠点を人に使ってもらい、結節点とする。
場を開く。

もうひとりのわたしを持つこと。
今の私を、もうひとりのわたしが見ている。
現代の分身の術。

カフェだけの対話じゃないもうひとつのコミュニケーションスタイルとしての「小屋バー」

カフェと違い、必然的に放置される
⇒その時隣り合った人と自然と対話が始まる。
★無理に対話を生まなくてもいい。
なんとなくその場にいてもいい空気

「計画通りに成し遂げる」のではなく、
ハプニング・対話からきっかけを得て考えること。
結論を出さずに、「つづく」にすること。

場のつくり方:懐の深さとライブ感⇒余白・余地のデザイン。
「セッション」:即興の音楽をつくるように場をつくる
三味線とバイオリンでも角度を変えて聞くと音楽になる。

余白・余地の中に自分が存在する心地よさ
(可能性)
また話したいね、そうだね。⇒つづく

「ダブルローカル」もそういう本
読むときの状況によって残ることが違う。

⇒「現在地」をしゃべっているから。

ダブルローカル:2つじゃなくていいのか?
Having more than one perspective,life and home

身近なものの再発見・再構成・再編集。
(当たり前)

この本は「冒険の報告」です。

~~~ここまでメモ

「ダブルローカル」的な視点っていま、高校生・大学生にこそ必要なのではないかと強く思った。

僕の中で残ったキーワードは、
「対話」「余白(余地)」「現在地」かなあ。

「自分との対話」っていうけども、
その時に、「ダブルローカル」みたいに
ベースの違う「もうひとりの自分」と話せることって
とても大切かもしれないなあと。
なんか余裕とういうか「余白」が生まれるよね。

他者との対話だと、さらにワクワクする余白につながっている。
瀧内さんが言っていたけど、「懐の深さ」と「ライブ感」のあるような「場」で、対話することで、
発見があって、それがきっかけになって何か始まるのかもしれないと。
そんな「余白の中にいる」感覚っていうのがカフェの心地よさなのかもしれない。

「ダブルローカル」という
2つの視点を持つということ。

あ、視点っていうのは支点っていうことなのかもしれない。
考えるための軸足。
「自由」っていうのは、それをいくつも持つことなのかもしれないなあと。

最後に「現在地」。
こんなにも結論がない本もないかもしれない、と。
おじさんが読んだら「結局、何が言いたいの?」
ってレビューしちゃうかもしれない。

でもその「結局」とかっていう思想じゃない世界観で
書かれているんだなあと。

複数の視点であり、なりわいであり、場を行き来すること。
行き来し続けること。

そのある部分を切り取って言語化する。
それが今回の「ダブルローカル」。
話したとき、書かれたときの「現在地」に過ぎない。

そんな「現在地」を重ねていくような生き方。
たまたまそこに居合わせた人と「現在地」を共有していくような場。

うん、それ、やりたいです。

最高のタイミングでいい本に出会い、いい話を聞くことができました。
後藤さん、池田さん、MOYORe:のみなさん、ステキな企画をありがとうございました!

  

Posted by ニシダタクジ at 08:53Comments(0)学び日記

2020年09月26日

学びの主体を「個人」から「場」へ移行する

イナカレッジラボオンラインと探究学習コミュニティが2夜連続でした。
「つながっている!」かもしれないと思いました。

探究学習コミュニティのメモから。
(ゲストは米沢興譲館高校の廣瀬先生でした)

~~~ここからメモ

「進学指導」「学力向上」「キャリア教育」の真ん中に探究をつくっていく。

理念を共有しながらなぜその連携が必要なのか_を自分の言葉で語れる先生にならないと。

「始め方」:進学指導におけるわかりやすい課題を使うこと
・推薦・AOで志望理由が深まらない
・面接指導で本人が語るものが浅い
・小論文指導で、志望系統に関する知識が浅い
・これからも推薦・AO入試が減ることはないから、指導体制の構築が必要
○志望理由が明確な生徒が合格している、最後まで頑張りぬいている。
○今までの活動から志望理由書に書ききれないほど書きたいことがあった生徒がいる
⇒だから探究学習やったほうがいいよね。

困っていることを吐き出しやすい雰囲気づくり
研修:現在の実践をワールドカフェで共有する
職員研修でもふりかえりシートを各人が記入して終わる

コンピテンシーベースで教科・行事・探究を結びつける

ワンページポートフォリオ(OPP)

違いを認めてリスペクトし合う

ふりかえりでメタ認知させながら他教科につなげられるか?
⇒教員間もコンピテンシーベースで話ができるか。

~~~ここまでメモ。

そもそも「ふりかえり」とは何か?みたいな根源的な問い。
なぜふりかえるのか?
なぜ僕は、「感想は?」ではなく、「印象に残ったことは?」と投げかけるのか。

「ふりかえり」によって、「場」に出されたもの。
それは、自分とは切り離された「何か」だ。

そうして、少し離れたところから(上から)そのふりかえりを見てみる。
このことをいわゆる「メタ認知」と言うのかもしれないが。

それによって見えてくるものがある。
それは生徒だけではなく先生も含めて、だ。

ふりかえることでメタ認知が可能になり、
コンピテンシーベースで各教科をつなげることができ、
それが探究を核にした横断的カリキュラムの実践になる。

「学びの創造」がそこにある、と思った。

一方で、イナカレッジ・ラボ(オンライン開催)で思ったこと。

~~~ここからメモ

イナカレッジは、地方の暮らしという場に身を委ねる、という練習なのかもしれませんね。
ただ、ご飯食べて寝ているだけなのでは?という不安になるくらいの暮らしを経ることで得られること。

それは田舎のもっている共同体というか、自然や風土との一体感というか、そういう場を前提としているのかもなー。

ひきだしもイナカレッジもやっているのは場に一体化し、場のチカラを高めることで、新たな発見やアウトプットを出すこと。

ひきだしは、場にひとりひとりのベクトルを差し出すことで、その共通理解と共有によって、企業とともに価値の扉を開けていくような感覚があるし、イナカレッジは暮らしをする場そのものが地域の時間の愛に包まれるから、場に溶け出すことができる感覚がある。

「一緒に暮らすこと」と「(作ろうとしている冊子の)コンセプトさえも途中で変わる」
それって「場」に溶けだして、「場」と「心」がつながっているということなのかもしれない。

「感情を大切にして行動する」っていう行動原則の人は、「なんでするの?」っていうwhyの問いかけに対し、論理的に説明するのが難しく、葛藤することになるのかも。

~~~ここまでメモ

取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。

そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、
何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題は
アイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。
その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、
それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。
当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。
あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。
「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの
「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。
学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。
そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)学びイベント日記

2020年09月18日

学校を変えるのではなく、演じるためのもうひとつの場をつくる

デンマークのフォルケホイスコーレ留学帰りの
大学生2名が阿賀町にやってきてました。
昨日はそのふりかえり。

公営塾スタッフやまちの人に
インタビューしてもらったので、
それがこれから記事になります。

なので、
取材型インターンひきだしの
フォーマットを使って振り返りました。

キーワードは
・場のチカラ
・魔法をかける編集
・予測不可能性
・解像度を上げる

などなど。

~~~以下ふりかえりメモ 
(フォルケホイスコーレ(ipc)留学経験の視点を入れつつ振り返りしました)

瞳の色が印象的。たどりついていない感じ。
まだ何かあるんじゃないか、と思わせる。

ipcも色で覚えている
コモンルームのオレンジ色の光と2つのソファー。
オンラインの画面では色が見えない。
リアルだと色が立体的に感じられる。

・関係性を鮮やかにしていくこと
ベクトル=問いの共有

その人が拡張されていく感じ。
面が増えていく。
人と一緒に旅をすることの醍醐味。

一緒に旅をする=自分を見つける/相手を見つける。
プロジェクト=小さな船旅

多様性を組み込んでいくコミュニティ。
年齢は数字でしかない。
その人のできないところ、ニガテなところもさらけ出して共有することでフラットになれる。
フラットに感じられる。
学びの場においてフラットであることが大切。

一緒に体を動かす。
「楽しさ」=身体性の共有

ipc:先生は「自分が分からないこと」も共有してくれるんだ!
一緒に考えてくれるんだ。

問いの共有

新型コロナウイルスの時の激動の2週間の後、
自分たちの気持ちを話し、また気持ちを聞いていく。
新型コロナウイルス=課題であると同時に機会でもある。

「感情」を出せる場が大切。
空間のデザインも重要。
共感・違和感をともにすることを大切にする。
リアルな不安も話せる場づくり。
「先生」でもあり、ひとりの市民でもある。

日本の「学校」=演じる場
ipc=さらけ出せる場。
学校をフィクションだと認識する。
先生の発言は仮説にすぎない。

他者と話す。紙に書くこと。
「体から切り離して」出してみる。
相手の言葉によって、自分を理解する。

~~~ここまでメモ

ああ、フォルケホイスコーレって
とっても素敵な「場」ができているんだな、と。
新型コロナウイルスでさえ、「機会として学ぶ」
に組み込まれているんだなと。

たぶん、高校における「探究」っていうのも、
大きな流れで言えば、そういうことなのだと思うのだけど。

僕の感想としては、
やっぱり「場」が大切なんだなと。

そして一気には変わらないし、
そもそもそういうエネルギーの使い方は
「創造的破壊」アプローチで、僕に向いてないなと。

フォルケホイスコーレ的な学びの場を日本にも作ろうって
動きが盛んだけれども、そしてそれはまたそれで理想的なのかもしれないけど、

僕のアプローチは、
「並行」「並列」「ハイブリッド」なのかもしれない。

と、打っていたら。
「へいこう」の変換が「平衡」になり。

!!!ってなった。

それだ!
「二元論」から「動的平衡」へ。
いま、僕の中でのキーワードなのだけど。

その「動的平衡」のためには、
2つの世界が必要で、

坂口恭平さん風に言えば(「独立国家のつくり方」より)、
「学校社会」と「放課後社会」なのだけど、
それを行き来すること、できることが大切なのだなと。

それはいわゆる「サードプレイス」とは少しニュアンスが違っていて、
「並列」なんだよね。

そしてそれはもしかすると、
高校生のための寮を併設しているからこそ、可能になるのかもしれないと思った。

生活とか暮らしの中で、経験し対話し、感性が磨かれて、
そして「感情」を「場」に出していくことで、相手を知り、また自分を知る。
学校にいる時間は学校にいる時間で、「学校にいる自分」を生きていく。

フォルケホイスコーレの先生たちは、ひとりの人間として、
感じたことを大切にして、時にそれをさらけ出して、学生たちと接していた。
それはそれで素晴らしいと思うのだけど。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。
そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、
「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。

もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、
関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。

いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。

そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。


写真は、大学生撮影のオラに力を分けてくれ、の図。  

Posted by ニシダタクジ at 06:41Comments(0)学び日記

2020年09月07日

やりがいは何か?という愚問

9月4日
取材インターン「ひきだし」事後研修でした。

僕の興味は、取材を通して、
「オンラインの向こう側」を見てみたかった。

結論としては、
チューニングを強化してチャットと併用することで、
チームインタビューはうまくいくことが分かった。

実は「場」に差し出してるものが多くなるっていうこと。
それが場との一体感を生んでいる。
オンラインは、頭や気持ちの一部だけを取り出せるからかもしれない。

~~~ここからはメモ

「否定」ではなく、「違和感の表明」。
違和感を受け止める場があるかどうか?
自分にしかできない質問=いまこの瞬間に感じた違和感を問いに替えること
その質問がインタビューをドライブさせる。

「昭和のサラリーマンはお金のために好きでもない仕事をやっていた」は本当なのか?
⇒また行きたくなる「場」「一体感」があったのではないか。

好きなこと=doやwhatではなくbeやhowかも。
何をやるかではなく、状態や関係性が大切。

★「やりがい」問題
仕事人にインタビューをするとき、ついつい、
「この仕事のやりがいは何ですか?」と聞いてしまう。

今回インタビューした会社の中で、
「やりがいを感じるのは感謝されたとき」
との回答を得て、ひとりの大学生が違和感を持った。
感謝ってやりがいなの?って
それがふりかえりでホットな議論になった。

その違和感について、僕が感じたのは、
「やりがいは何か?」って仕事の目的を聞いているはずなのに、
「感謝されること」は結果であって、目的ではないから。

でも、そもそも仕事に目的は必要なのか?
そもそも普段「やりがい」なんて意識して仕事しているか?
もしかすると、経営者は必要なのかもしれないけど。

目の前の仕事に、お客様に、集中しているとき、
「やりがい」という言葉は頭から消えている。

大学生に質問されてはじめて意識する。
問われたから無理やり考える。

そしてそれは、研修でやったけど、
「内なる言葉」ではなく「外に向かう言葉」で答えてしまう。
「外に向かう言葉」=人に説明する言葉⇒見える化⇒計測可能(量的に語れる)
結果、「感謝」が出てくる。

1人が書いていたけど、
仕事の目的というかそもそもの成り立ちは「お客様に価値を届けること」であり、
「感謝されること」は結果である。

だから、やりがいは何か?という質問の仕方が間違っているのだ。

あなたが届けたい、届けられる価値は?
と聞かないといけないし、

「感謝」をもっと解像度を上げるには、
あなたが喜びを感じる瞬間は?
と質問しないといけない。

ただ、今回聞いていて思ったのは、
「感謝」によって思いやりと愛の循環が起こる
⇒「場」の空気がよくなる⇒明日も会社行こうと思う
っていうことなのかもしれない。

つまり。
モチベーションの源泉は、ゴール(目的)ではなく、
「場」から湧いているのではないか、と。

~~~ここまでメモ

いいですね。
やりがい問題。

タイトルの話に戻ると、
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと
同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、
ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。
例えば「お客様に感謝されること」
それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。
しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど
夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。
たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

あとは、「外に向かう言葉」と「内なる言葉」の違い。
やりがいは何か?と聞かれて、
やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、
リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。

「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。

「近代」なる何か(資本主義や教育)は、
「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。
それが、「計測可能」という罠だ。
「学び」の目的は
「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、
実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。
「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)
「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

9月4日を予言するかのように、9月3日にツイートしたもの

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。
ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。

そして、「学び」を「遊び」にしたい。
その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。
遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。
目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。
「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

たぶんそういうこと。

事後研修を終えて、数名の参加者が
ふりだしに戻った!と叫んでいた。(チャットで)

~~~
振り出しにもどった!!!!
OKいろいろあるのね、自分のとらえかた次第ね
業界や職種で絞れないね
→どう絞れば!?
スキを仕事にしなくてもいい
→楽になったけど、なにを軸にすればいいんだ!?
自分にできることって何
→やってからじゃないとわからない、最初どうすれば!?
~~~

いいなあ、内なる言葉が出てくる「チャット」という機能は。(笑)

ふりだしに戻る。
でも、それは戻ったわけではなく、螺旋階段を1段登っている。
そして、1段登った分、見える景色が変わっているはずだ。

そんな「機会提供」の場をつくりたかった。
たぶんそれが主催者である若松さんと僕の想い。
機会をどうとるかは参加者次第なのだけど。

今回の「ひきだし」も僕にとっても予測不可能な発見の連続で、
めちゃめちゃ楽しかったのです。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:24Comments(0)イベント日記

2020年08月30日

場のチカラと場の豊かさ

取材インターン「ひきだし」第2週の事前研修でした

「場のチカラ」
「魔法をかける編集」
「オンラインの向こう側」
がテーマ。

~~~以下メモ

オンラインマジカルバナナの威力がすごい。
あれ、目的に向かってないからいいのかもしれない。
場を温める。

「チューニング」についてあらためて説明。
チューニング=感性を共有すること
ではないか?と言われて、そうかも、と。
思ったことが言える場づくりがいちばん大切だなあと。
あとは振り返りにおける「印象に残ったこと」

今回いちばん面白かったのはチャットの活用ですかね。

「ふりかえり」特に印象に残ったことを書き出すことで、
お互いがお互いを知ることにつながるし、そこでの発見がある。
ふりかえりつつ、気づくみたいなことはオンラインのほうが可能かもしれない。

また、インタビュー時はインタビューしつつチャットを併用することで、
頭の違う部分が開かれるような気がする。それは相手(話し手)にとっても同じだ。

「オレンジ」とか暖色系で、
チームカラーを決めるっていう方法もあるかも。

チューニングとふりかえりを繰り返すことで
チームの雰囲気ができていく。

現代の美術家のアート領域。
境目をあいまいにすること。

~~~ここまでメモ

ふりかえり

1 場のチカラについて

目指す方向だけを決めた方がいいのではないか?
という話から、「誰のために、なぜ冊子をつくるか?」という議論になった。

場(プロジェクト)の構成要素である
誰と⇒いつ⇒どこで⇒なぜ⇒誰のために⇒何を⇒どのように
の「どこで」(オンライン)で「何を」(企業取材を)とだけ決まっていて、
そのあいだを埋めていくこと。それによって、「誰と」「いつ」が明確になっていくこと。

2 魔法をかける編集について

いま、あなたにしか、このチームにしか書けない記事がある。
それを実現するために。

・相手(インタビュー先、チームメンバー)を知る、知りたいと思う。
・感じることを、感じたことを大切にして、それを場に出す。
・人の話(ふりかえり含む)に乗っかる。
⇒自分のいま抱えている何かとリンクさせて語る

3 オンラインの向こう側について

チャットとの併用にヒントがある。
脳の境界をあいまいにすること。
違う回路を開きつつ、進めていくこと。
相手(しかも複数名)がいったことが同時に見れる。

オプションで「交流会」時間があったのだけど、
編集長の青木さんが言っていた「これ、編集だな」っていう一言にインスパイアされた。

編集かもね。
人と人とをうまく編集すること。
言われてみれば、人生も、仕事も全部編集なのかも。

この前のオンライン・ツルハシで話した原さんのような
編集の仕方があるっていうこと。

今回の「ひきだし」もめちゃめちゃそうだなと。
「オンライン」っていう条件さえも、制約ではなく編集対象にしてしまうこと。

っていう振り返りをしていて、僕が思ったこと。(ふりかえりのふりかえり)

「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から
少し異なるのだなあと思った。

そして、オンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。
「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。
場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。

一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」
スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、
お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。

ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、
またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。
仕事の打ち合わせの人もいるだろう。
そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。

参考ブログ「分断から共存へ」(13.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e302022.html

おそらく、
「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。
「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。

そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。
そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)学びイベント日記

2020年08月25日

見つけ合う「場」をつくる

取材型インターン「ひきだし」の事前研修でした。

他者の意見に「乗っかる」練習として
オンライン・マジカルバナナに初挑戦。
めちゃ使える。
またひとつ、技が増えた。(♪ドラクエの効果音)

ここ1週間で大学生との対話の機会が何度かあり、
そこで感じたことも含めて、メモにまとめておきます。
(ツイートメモを含む)

~~~

「手段として学ぶ」⇒「機会として学ぶ」へのシフト
目標⇒ベクトル
個人⇒場
評価⇒承認
達成⇒発見
学び合い⇒見つけ合い
アイデンティティ、予測不可能性、今を生きる、という側面から見れば、このシフトのほうが現実的だなあと。

「プロジェクト」を褒めることで間接的に承認になる。承認は与えられるものじゃないから、直接褒められても得られないのかもしれない。

「感動を売る」仕事と「必要を満たす」仕事。
スポーツでも芸能でも「感動を売る」エンターテイメントビジネスは、その仕事に必要な技能を習得するには、バックキャスティング的なアプローチが必要になってくる。一方で「必要を満たす」仕事に対して、そのアプローチは必要なのか?

プロジェクトという場に自分を溶かして、一体化すること。
そうすればプロジェクトによって承認される、というか自分を承認することができるのかも。
それが自らの在り方生き方と一体的で不可分のプロジェクト。
一体的というより、一体化してしまうの。それがいい。

誰かに決められた人生を生きるか? 自分で決めた人生を生きるか? みたいな2択じゃないよ。
そのあいだに無限にグラデーションが広がっているし、誰と一緒に決めて動くか?生きるか?を考えること。

気づきや学びではなく、発見と変容。でも、発見と変容を目的にしてはいけない。
結果に過ぎない。そのへんのデザイン。

自分は変われる、と思っているか、自分は変わらないと思っているか。

自分の感情を確認し表現しながら、参画したいと思える仲間を見つけ、参画してわたしを拡張し「わたしたち」になる。
わたしたちが決めた今を生きること。

通知表、成績表によって、人生が個人戦であり、その戦いの勝ち負けを決めるのは先生や上司や世間からの評価であるかのような錯覚に陥っているのではないか。それはもはや「学び」と呼べるのか。

「見つける楽しさ」にフォーカスすれば、「学び」は遊びを超える遊びになる。

そもそも資本主義が、とかいっているのに、自分の壁を超えるために、スキルアップが必要で、その講座を受講しないと壁は越えられないという矛盾。資本主義とは、ゴールに向かっていくことだし、二元論だし、手段として今を生きることなのに、な。

教育とか学びとかの観点からすれば、問うべきは就職や資本主義じゃなくて、「近代」というシステムそのもののような気がします。

今日のゴールは?って確認するのをできればやめたいです。
幅が狭くなる気がする。

承認を直接的に得るのか、間接的に得るのか。
間接的に得るほうが健全な気がする。
人に与えてもらうものじゃないからね。
コーチングとか、対話系イベントの危うさ。

「親和的承認」が不十分な人に、「承認」を与えてはいけないんだよ。
それは「評価」であっても同じだ。
そんな「人」や「場」が人を依存させるのかもしれない。
「承認」依存症になっちゃうぜ。

企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。「就活」は「お見合い結婚」システムで、インターンシップが「恋愛」で、インターンシップ就職は「恋愛結婚」だと茨城でお世話になった社長は言っていた。

ところが。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
つまり。別れを前提に付き合ってみる、ということ。

「恋愛」上手になるには?
恋愛の経験値を積んでいく。
だとみんな言いますよね。

あと「どんな恋愛がしたいか?」
って言われたらどう答えますか?
もしくは「どんな恋愛の始まり方が理想ですか?」
って聞かれたら?

ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、
それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。
本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。

やりたいことは何か?という呪い。
職業と自分らしさと自己実現をイコールで結ぶことでどんどん辛くなるよ。
そんな呪いを解いていく呪術師にもなるしかないか。
カギを握るのは場のチカラ、だと思います。あとは読書で俯瞰することか。

「自分を知る」ために、中に向かうのではなく、むしろ、外の「場」へ自らを投げ出して、溶け出した後に、ふりかえりをしてみること。
そのほうが結果、自分が分かるような気がします。「わたし」と「わたしたち」を行き来すること

二元論と、目標に向かっていくことと、量的に測るということ。
それこそが資本主義の本質じゃないか。
資本主義に違和感、といいながら、アプローチが資本主義的すぎるよ。

13歳のハローワークで語られた「あなたにも向いている仕事がある」っていう適職幻想が大多数であるサラリーマンの労働意欲を著しく下げた。
それが決定的になるのが、2005年プロジェクトXから2006年プロフェッショナルへの移行という社会学的な仮説。
向上しなかった生産性の原因はどこにあるか。

身体性と、方向性と、偶然性の共有。オンラインだからこそ。

人材マーケットのために人は人材となり、量的に測られるようになった。
量的に測られること、それはすなわち、交換可能になるということと同義だ。
資格試験を頑張るという矛盾はそこにある。
役所などの巨大な組織は、交換可能であることを前提としている。

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、
それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。
これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。
「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

12歳時点で、親和的承認が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。

インターンからの就職は「恋愛結婚」だと、とある社長が言っていたが、もはや就職そのものが「恋愛」に替わっていくいくのではないか。
だけど恋愛マッチングサイトと違って就活マッチングサイトが暴力的なのは、圧倒的に立場の差があるということだ。
フラットじゃないコミュニケーションつらい

取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。
お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)

「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、
「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい。

「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。
発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。
そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。
そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする

共感しながらも違和感をキャッチし、それを質問すること。
インタビューのコツってそういうことか。

仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。

~~~とまあ、こんな感じ。

「場」「承認」「見つける」
とか、このあたりがキーワード。

ひきだし研修での一番の気づきは

人材マーケットのために人は人材となり、量的に測られるようになった。量的に測られること、それはすなわち、交換可能になるということと同義だ。資格試験を頑張るという矛盾はそこにある。役所などの巨大な組織は、交換可能であることを前提としている。

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

たぶんこの矛盾。
そしてその出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。

目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること
そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。

その時点で「親和的承認」が満たされていないにも関わらず。

人はみな「承認されたい」
しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。
自らが感じるしかない。

「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、
それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。
中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、
5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。

そのころにはもう「評価」中毒になっている。

地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、
一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。

「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」

しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を
評価してくれる「誰か」はいない。

そして就職活動。
「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。

ところが、何をやったらいいのかわからない。
どうすれば評価されるのか、わからない。
自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。

仕方なく、資格やスキルを身につける。
しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。

そこで行き詰まる。

がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。

「量的に測れない。」
これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。

でも、自分は量的なアプローチしか知らない。
「就活の不安」のおおもとはそこにあるのかもしれない。

時計の針を巻き戻す。
中学入学時点まで。

本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。
しかも「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。

本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。
「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」
というメッセージを伝え続けること。

しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、
家庭や地域にその役割を負わせることは不可能となっている。

だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。

その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。

思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。
実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。
「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、
「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。

そうやって、見つける、発見する。
この「場」でしか生まれないものを生み出す。

それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。

だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。

見つけ合う場を、そしてはじまる場を。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:25Comments(0)日記

2020年08月01日

問いを研いで磨く



探究学習コミュニティの1回目。
ゲストは前大船渡高校「大船渡学」の梨子田先生。
わずか3年で、東大生まで輩出した大船渡学。
その秘密に迫る。

~~~以下メモ

「学力の氷山モデル」
見える学力⇒見えにくい学力⇒ほとんど見えない学力⇒見えない学力
ペーパーテスト学力⇒思考力⇒関心・意欲⇒感性・経験
センター試験⇒共通テスト⇒二次試験⇒推薦AO
★ここを授業や問題集で鍛える☆ここを探究やPBLで鍛える

コルブの経験学習のモデル:「問う力」と「言語化する力」が学力の根本にある。

☆目に見える☆
試行・実践⇒挑戦・経験
家庭学習、宿題、練習問題、質問⇒授業を聞く・ワークをする
★目に見えない・意識下★
⇒振り返り⇒抽象化・概念化
疑問点・わかったことなどを抽出⇒そういうことか!の発見。わからないことの焦点化

この「挑戦・経験⇒振り返り」のスイッチが「問う」で「抽象化・概念化⇒試行・実践」のスイッチが「言語化」

探究のサイクル
「経験」⇒「問う(探究)」⇒「アクティブラーニング(言語化)」
※授業改善のポイントは授業を「経験」に変えること。

・質問:問われる側が答えを知っている⇒情報を引き出すトリガー
・発問:問う側が答えを知っている⇒考えさせるためのトリガー
・問い:問う側も問われる側も答えを知らない⇒創造的対話を促すトリガー

「問い」ブレスト
90秒でお題⇒180秒で質問を10個以上出す
※質問には答えない。すべて質問の形に書き直す。細かい質問OK

「大船渡学」:地元を知ることがゴールなのか?
この違和感からのイノベーション。
⇒「地域のため」ではなく、生徒の「学びたいこと」を中心に

教育課程に入れる⇒生徒全員が取り組む
⇒全生徒・全職員が主体的に取り組めるように
⇒地域ベースではなく学びベースに

目的は地元の活性化ではなく、行動や考え方の変容、
課題設定力や課題解決力など自己実現に必要な力を養うこと。
「まなびたい」ことを真ん中においたマインドマップ。

地域と関係のないようなテーマも出てくる。⇒生徒の多様性
⇒総合的探究のテーマ「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」
⇒鉱脈を掘り当てる:対話を通して内発的な動機を探す。
⇒生徒がオーナーシップを持つようになる。

「双子の過ち」を乗り越える
×地元学習×調べ学習
⇒机上の探究ではなくフィールドへ。
ネットや本に答えを求めるのではなくリアルの世界で本気の思考を。
⇒考察のスイッチが入る⇒さらなる問いを得る。

アクションの条件:結果にコミットすること:1㎜でも動かす、1人でも変える。
「ポスターを貼る」「SNSで情報発信」だけでは課題の解決につながりません。
情報発信を行うときは、「誰がどのような行動を起こすためのものなのか」、
そして、その情報発信によって、「本当にその行動が起こせるか」を検証してください。
★この条件が本気の思考を促すスパイス

ロジャー・ハート「参画のはしご」
1「偽り参画」⇒4「与えられた役割の内容を認識した上での参画」⇒6「大人主導で意思決定に子どもも参画」⇒8「子ども主導の活動に大人を巻き込む」へ

大船渡を学ばない大船渡学
あなたにとって大船渡学とは?

・「学び」を学ぶもの
・問題を自力で見つける力
・姿勢と育てるレッスン
⇒コンピテンシーベースの学び

自宅の水を調べて、ニアウォーターをつくる。
⇒圧倒的にジブンごと。

北極星:まだ知らない化学の世界を見たい。⇒「好奇心」

周りからの「なんのためにやってるの?」「カッコ悪い」の目
⇒「好奇心」で突破していく
⇒「問い」というコンパス。

他校の生徒:外の世界を見ること⇒フレームを外して見つめてみる
「言葉を発することを怖がっている人はひとりもいない」
「探究」っていう世界に「第3の場所」が作れるのかもしれない。

「とりあえず驚くこと」「伴奏者:打てば響く人」
「おっ!」て思うことにリアクションする。
事象、行為に対する承認なのかもしれない。

問いをつくる⇒再設定を繰り返す。
問いみがき⇒問いが育つ⇒生徒が育つ

「新しいワクワクがもらえる」
目の前のワクワクに向かっていける。
⇒「面白いね(共感・承認)」って言ってもらえること。
評価⇔「面白いね」

紙飛行機はまっすぐ飛ばない

「テーマ」ではなく「問い」
肌感覚的な何か、感じる何かによって磨かれる
手触り感がある経験⇒「問いで研いで磨く」
磨くには接点が必要

「志望理由指導」⇒「主体的探究支援」
大学や社会は受験勉強ができる生徒を求めているのだろうか?
自ら問いを立て、主体的に学べる生徒、仮説検証プロセスを
体得している生徒を待っているのでは?

1 教材が提示した問題を生徒が考える
2 先生が提示した問いを生徒が考える
3 生徒が立てた問いを生徒同士で考える
4 生徒が立てた問いを生徒本人が考える

1・2は生徒は客体で3・4は生徒が主体
現状では3・4の時間はほとんどない。
⇒問いを立てると主体となる。

見通しがないことが大切。
先生もわからない、「指導」できない。
誰も踏んでいない雪道を歩く。
不安、だが、ワクワク、
失敗したらそれを次へ転がす

1 見通しがない
2 ワクワク。常識を覆す
3 生徒の中から生まれている
4 フィールドで検証できる
5 「気づき⇒発見」発展性

~~~

とまあ、そういう感じ。
探究学習とか、地域を題材に、とかって、地域ファーストになりがちだけど、
探究の本来は、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」に出会うこと。

地域サイドからしたら、地域のことをもっと知ってほしい。
ってなるんだろうけど、
それって、生徒のためなのか?って。

1月にコミュニティスクール立ち上げ準備をしたとき思ったこと。
「地域の良さを伝えていないから子どもたちは出て行ってしまう」は本当か?(20.1.21)
http://hero.niiblo.jp/e490223.html

まさに僕たちの「問い」の設定がそれでいいのかっていうこと。

「地元に残って(戻って)もらうにはどうするか?」
っていう問いじゃなくて、
「どんな生徒(若者)に地元に残って(戻ってきて)もらいたいか?」
って問いが必要なのではないか?

そして印象に残ったのは、鉱脈を掘り当てるっていう表現。
対話を通して、内発的な動機を探すことで生徒がオーナーシップを持つようになる。

三田愛さんが「種火」と表現していたもの。
ツルハシが掘るもの(17.10.15)
http://hero.niiblo.jp/e486023.html

ああ、そうか。
種火っていうのは、生徒の中にあるんだって。

かつて、ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)は言った。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

ああ。
火を灯すための種火は、生徒の中にあるんだって。
支援者の役割は、その種火に、枯れ草を添えて、団扇で軽く仰いでやるだけなんだって。

そして問いを磨いていくこと。
リアルな、手触り感のある肌感覚で味わえるものに触れて、磨いていくこと。
その問いは研げば研ぐほど、鋭くなって、やがて、北極星になる。
北極星があれば、もう、そこへと進んでいけばいい。

そんな探究的学びができるまち、できる高校を実現したい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学び日記

2020年07月28日

「学び」の逆シフト

移住情報サービス「SMOUT」の「SMOUT移住研究所」で阿賀黎明高校魅力化プロジェクトが紹介されています。
https://lab.smout.jp/primapinguino

この記事のメイキング映像がこちら。(6月ロケ)





取材は終始和やかな雰囲気。
清川高原も映してもらいたかったので、連れまわした結果、
ジェラート「Referi」と「桝や酒店」にしかいけず。
素敵な記事に仕上がってよかったです。

1か月ほど前の取材なので、もっと言いたいことが出てきましたので、
こちらで発信しようと思います。

これからの学びに大切なのは、「資源」と「課題」と「関係性」
ってコメントしているけど、その話には続きがあって、

そして、「場」が重要だっていうこと。
「学び」は「場」がつくる、「場」によって生み出されるっていうこと。

それは、付箋を使ったワークショップであり、
支えてくれる地域の自然や社会資源、人たちだったりするのだけど。

「学び」はいつから苦役になってしまったのだろう?

「追いつけ、追い越せ」など、目指す目標や夢を失ったときからか?
いま、学ぶことが「将来」を保証しなくなったときからか?

ここで。
明治時代に起こった「学び」の変化について考えてみたい。
藩校、寺子屋、私塾、かつて様々な学びの形があった。

それが明治以降に「学校」へと統一され、150年が過ぎた。
「学校」へのシフトとはなんだったのか?を学ぶ側からの視点で考えてみる。

1 「発見」から「達成」へのシフト
学びの喜びを「発見」から「達成」へとシフトさせた。

2 「承認」から「評価」へのシフト
承認欲求を他者からの評価欲求へとズラした。

3 「場」から「個人」「自分」へのシフト
学びが「科学」となり、量的に測られるようになった。

これら3つのシフトは、
「近代工業社会」の要請によって、「科学的」であり、「量的に計測可能」であることが大切だった。
その、前提が何十年も前に崩れているのだ。

「地方創生」が叫ばれ、都市から地方へ人の逆流が起こっている。
計画された「工業社会」ではなく、日進月歩する技術の中で、
「イノベーション」を起こせる人材が求められている。

いや。
そうじゃない。
「人材」という価値観が違うのかもしれないのだ。

イノベーションを起こすのは個人のチカラではなく、
場のチカラであり、それを支える想いのチカラだ。

そして、その原動力は、「好奇心」。
この先に何があるのだろう?というスピリットだ。

エンターテイメントの本質は、「予測不可能性」にあるという仮説を
僕は3年前に「つながるカレー」の加藤文俊さんのトークをヒントに得た。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
(「予測できない」というモチベーション・デザイン 17.5.19)
もちろんそれは、「安定性」「安心感」とトレードオフなのだけど。

上田信行さんが、キャロル・ドゥエック博士の研究を説明し、
小中学校に通っていると、
「成長的知能観」(やればできるかもしれない)から
「固定的知能観」(自分の才能は生まれつき決まっている)へのシフトが起こるのだと説いた。
http://hero.niiblo.jp/e459844.html
(「自信がない」は後天的に獲得した資質である 14.12.29)

学校に通っているといつのまにか、学びは苦役となる。
学べば学ぶほど、「自分はアタマ悪いんじゃないか?」って思うようになる。

なんだそれって。
学びが人を幸せにしないシステムってなんなんだって。

「学び」の逆シフトを起こさなければならない。
いや、もう起こっているはずだ。

「個人」から「場」へ。
「評価」から「承認」へ。
「達成」から「発見」へ。

それを始めるのが「場」の構築であると思う。
「場」で学ぶとは、「学び合い」を「見つけ合い」にするということ。

心に浮かぶ言語化以前の不完全なキーワード、
もしくは、「印象に残ったこと」というあいまいなものを
「場」に出し合うこと。

それを「その人はなぜ、そんなことを思ったのだろう?」
と「場」で考えること。

そして、見つけること、発見すること。
そこに喜びを見出すこと。

思ったことをいうこと。言える場があること。
「個人」を「場」に溶かしていくこと。

それが「対話の場」だったり、「ワークショップ」だったり、「プロジェクト」だったり、町を舞台にした「探究学習」だったりする。
この町にはそれを起こせる「場」がある。「場」の構成物、構成者たちがいる。

人口1万人の小さくて広い阿賀町には、流行りの言葉で言えば、「手触り感のある」「高解像度」な「資源」と「課題」と「関係性」が詰まっている。

それらを「場」が希望に変えていく。そんな学びの未来を見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び日記

2020年07月14日

「まなび」の「よはく」



パンフレット用写真撮影の日。
7月に入ってからずっと雨&くもりだったのが、奇跡的な晴れに。

「神は細部に宿る」ってこういうことか!と感じた1日でした。
15歳になりきって、その世界の中を躍動していきながらの写真撮影。
写真のディレクションってそういうことか、と。

その前の日の夜に少し聞かせてもらった
Ciftの説明会の話が面白くて。

「拡張家族における親と子。自己変容型リーダーシップ」~Cift2周年祭で僕が語ったこと
https://cift.co/life/1659

補完としてこちら。
「なぜ“家族”になるために「人事」があるのか」
https://cift.co/work/802

~~~ここから上記ページよりメモ

仲間:ともに働く
家族:ともに暮らす

世界⇒私たち(Cift)⇒私
世界平和への拡張家族への自己変容

「拡張j家族」:「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡されながら、深化と成長を生む生命体

ひとつ(関係性):あなたもわたし、弱さでつながる、共に暮らす、助け合う組織、共依存関係、今が大事、居場所、愛
ひとり(主体性):あなたとわたし、強さでつながる、共に働く、育みあう組織、共自立関係、未来が大事、出番、力

「自己変容」:自分に全体性を取り戻し、次元をシフトする。

「自己変容」⇒「自己変容型リーダーシップ」へ。

「自己変容」:内に解き(対個人)、Be(内的姿勢)、さらけ出す、自責する、アンラーンする、人の成長を信じる、習慣化する
+(型)「リーダーシップ」:外に結ぶ(対全体)、Do(外的行動)、方針を示す、率先する、つなげる、やる気を上げる、役割分担する

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

依存的全体:属する共同体に依存している状態。大いなる母親に包まれている状態。

このフェーズで必要なのは居心地の良い共同体から自らの離脱を通して自立することである。全体から分離することで、自分自身の存在に向き合い、力を身につけ、自信を持つということが重要だ。その自立が新たな共同体に入ることだと今度はそれに依存してしまうのでCiftに入るタイミングではないと考える。まずは自らの足で立てる力をつけようと伝えることにしている。

主体的個別:共同体から離脱し、自らの足で歩きはじめ、自己実現を目指そうとしている状態。

この状態は力を得るためにとても必要な時期であると同時に、Ciftではこの力はあくまで手段であって、目的である愛の主体的全体へと意識を向けるかどうかがポイントになる。主体的個別を目指して邁進している人については、それを応援しながら、Ciftという場所はその自己実現を一部解いて全体実現に加担する行為なので今は適切ではないと伝えるようにしている。

主体的全体:自己実現において限界感や喪失感を感じた上で、自我を超えたものにコミットしようとする状態。

力を得る主体的個別フェーズを通った人たちがそれを手段として、愛という目的に意識が向き始めたらCiftに入る立ち位置になったと言える。ここでポイントなのは主体的全体がすでに体現できている態度の状態ではなく、そう在りたいと思う意識の状態を確認していることだ。なぜなら僕も含めてここができている人は少ないし、むしろそこを共進化するための場所がCiftだからだ。その時に大事なのは自らの意志で入った環境が自ずと人を変容させていくことだ。このとき、主体的全体への意志がなければ、どんな環境があっても発酵しないし、むしろその人の人生にとって腐敗してしまうので、ここの音合わせはとても大事と言える。

~~~ここまでメモ

刺さる言葉がたくさんあって、タイムリーだなあと。

7月10日のブログ「はみ出しものの系譜」
http://hero.niiblo.jp/e490859.html

にもつながっていく話で面白いなと。
僕としてのキーワードは「自分たち」「わたしたち」なのだけど。
それを「ひとり」と「ひとつ」という言葉で表していたのがすごい。

そして、未来を占うのはこちら。
「オフグリッド化するコミュニティ 渋谷Ciftが提唱する“拡張家族“とは?」
https://nextwisdom.org/article/2291/

~~~ここから上記ページより引用

全体の一部である構成員でありながら、自立した人間であるという状態の矛盾した関係を解決するのが新しいコミュニティのキーになると思っています。

人類の歴史を考えると、17世紀前後の科学革命の前は人間ではなく自然が中心の社会で、人は生まれてから死ぬまで全体に依存しなければ生きていけなかった。その中で全体としての秩序があった。そこから、個人というものが台頭してきて、現代はかなりの個人化の時代にも思えますが、この先もっと個人化、個別化が進んでいくのだと思います。人間の心と体が分離するとかも十分起こりえると思います。

でも、もともと人類というのはコミュニティから始まっているんですよね。生まれた瞬間は誰もひとりでは生きられない。家族というコミュニティに守られていて、生活を安定させるために家族が集まって村を作り農耕社会になっていった。現代の社会では、高校を卒業する頃には、家族から離れて村から飛び出して、ひとりで生きていくこともできます。だけど、そっちにも限界がある。

全体の一部として生きていくということは、個性は無いけど協調性はあるという状態。言い換えると、愛はあるけど力は無いということになります。

近代以降の私たちは外側に力を求めがちです。内省することや、空を見上げることもあまりせずに。それは、外にしか目が向いていないからです。力はすごくあるんだけど、その力がすべて外に向かっているから、自分の傍にある愛を大切に生きていない。

本質的に平和って何か考えたとき、個が自立して多様で皆が好き勝手にやる世界なのか、それとも、皆が協調し合って一つとして愛し合う世界なのかっていうと、そのどちらでもない。要は、それを止揚させた世界でなくてはいけない。

~~~ここまで引用

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、
海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、
前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの
個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と
皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。
つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、
「主体的全体」なのだろうと。
僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」
「個人」と「共同体」
そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。

内田樹さんがよく言っている。
教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、
個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして
家電王国としての国を支えたりした。
いつのまにか教育は「お買い物」と化し、
最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。
だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。
「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、
Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。
その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。
「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」や
にいがたイナカレッジのプログラム、
そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。

その「よはく(余白)」は、
「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、
いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。
そして、その「よはく」に「場」ができていく。
それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、
高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、
まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、
ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:11Comments(0)学び日記

2020年07月06日

「達成感」の使い方


「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

僕が読んでいるのは文藝春秋の単行本のほうですが。
08年の本ですので、古本屋でも見つけられます。

第2章の「働くということ」がタイムリーだったのでメモします。

~~~

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な資金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望が持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違え」だったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価のほうが本人の自己評価よりも客観性が高いのである。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのもの。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。

~~~ここまでメモ

人間という集団が生き延びるために「労働」があり、「労働」の受益者は基本的に集団である。おそらくはこのリアリティがない。

この章の後半、著者は「スイスのロビンソン」を題材に「無人島のルール」を説明する。集団で生きるとき、個人の利益を最大化するという行為はルールに反するのだと。

そして社会のルールは、「複数の人間が無人島で暮らせる」ことを基準に作られていて、そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。

「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」である。いわば「温室」ルールである。敗者になっても命までは取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。

「キャリア教育」の名の下に、何をしてきたのだろうか。
3年で会社を辞める若者は、「適職ではなかった」からなのだろうか?

そもそも労働とは何か?
という問いが必要だったのではないか。

「ふるさと教育が叫ばれ、地域を愛する子どもを育てたい。」と多くの人が願っている。
わが町も例外ではない。

先週のプロジェクト打ち合わせで出てきた「早く大人にしたい。」その言葉に込められた思い。
集団の成員として学校改革の、まちづくりの、パートナーになってほしい。

名作マンガ「SLAMDUNK」で桜木花道が5人いたとしても山王工業には決して勝てない。
「地域の役に立つ」前に「集団の役に立つ」という経験が必要なのかもしれない。

そしてそれは目に見える「報酬」がある役に立つではない。
集団の成員として、責任を果たした。そんな「達成感」。

そんな達成感を報酬だと感じられるような、
一緒にいると楽しくなるような、そんなパートナーを育む学びができるのではないか?

そしてそれこそが、若者自身が「アイデンティティ危機」と付き合っていく有効な方法なのだと僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)日記

2020年06月11日

「大学」という乗り物に乗る。

公営塾対象のAO・推薦入試(総合型選抜)研修(オンライン)でした。
いつも藤岡さんの話は本質的だなあと。

ということで、ひたすらメモします。

~~~ここからメモ

コロナ過で様々な大会、コンクール、部活動、学校外の活動などが停止。
⇒AO・推薦を受験できないのではないか?という不安
⇒(実績)要件は緩和されている

しかし、問うべきは
「そもそも、大学側は、大会、生徒会などで、何を、なぜ、見たいのでしょうか?」

「三ポリ」
・ディプロマ・ポリシー(DP):大学卒業時に身につけておくべき学力の3要素
・カリキュラムポリシー:DPを体系的に身に付けるための授業の配置方針と教育方針
・アドミッション・ポリシー:カリキュラムを受けるために入学者に求めたい学力の3要素

例:北陸大学
https://www.hokuriku-u.ac.jp/about/outline/policy.html

DPルーブリック(学年別到達目標・評価基準)とカリキュラムツリーがある。
AP:求める学生像が書いてある:例
・自分の考えや意見を述べることができる人
・経験を振り返り、自分の言葉で表現できる人

⇒APから求められる力を導き、ルーブリックを作ってみる
・「表現力」4 聞き手に対して熱意を持って、効果的に語り掛けることができている。⇒1 聞き手を意識せず原稿を読み上げているだけである。

アドミッションポリシー(AP)の例:慶応SFC総合政策学部
総合政策学部は「実践知」を理念とし、「問題発見・解決」に拘る学生を求めます。問題を発見・分析し、解決の処方箋を作り実行するプロセスを主体的に体験し、社会で現実問題の解決に活躍する事を期待します。
従って入学試験の重要な判定基準は、自主的な思考力、発想力、構想力、実行力の有無です。「SFCでこんな事に取り組み学びたい」という問題意識に基づいて、自らの手で未来を拓く力を磨く意欲ある学生を求めます。

~~~ここまで第1部

DP⇒CP⇒APの流れって、高校でも意識してもいいような気がした。
いわゆる「教育目標」って、DPにあたると思うし、
「カリキュラムマネジメント」って言われているのは、CPをベースになっているし、
APも、普通科であればだれでも歓迎なのだろうけど、高校魅力化の観点からは、
そのあたりを明確に、「こういう人に来てほしい」っていうメッセージが必要かなと思う。

あとは、推薦やAOに関わらず、高校でも公営塾でもルーブリック評価みたいな軸を
作っておくことも、自らを確認する上では重要だと思う。

~~~僕の中で切っているだけですが第2部

・大学は「教育研究機関」であり、「研究」の側面を持つ。
・「研究」とは、「まだわかってないことの答えをみつける」こと
⇒講義を受けて知識を得るだけではなく、課題を設定して研究すること「自ら物事をつきつめて明らかにする」ことが求められる
⇒そのために必要な教授や授業、研究会を選び、意見を交換し、アドバイスをもらい、自分の意見を考え続け、まとめていく
・「学生」(≠生徒)とは「自ら物事を突き詰めて明らかにする」自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定、その課題を解決するために自分で動ける人
⇒「学生」として求められるチカラ
基本的な学習能力⇒基礎学力
自ら課題・テーマを発見できる⇒問題発見能力
自ら教授や授業、研究会・ゼミを選ぶ⇒主体性
研究会・ゼミを活性化する力⇒周囲を巻き込む力

推薦・AO入試(総合型選抜)とは
「学生として求められる力」と持つ高校生を多面的観点から選ぶ入学試験。

★大学の裏事情として、大学入試改革が文科省から迫られていることもある。

・大学が見たい高校生のコンピテンシー
⇒大会やコンクールなど、いわゆる「実績」がなくても合格可能
⇒大学は「結果」だけでなく、そこに至るプロセス、プロセスにおけるコンビテンシー(思考特性・行動特性)を見ている。
⇒コンピテンシーとは「思考特性・行動特性」であり、思考と行動、その背後にある価値観や信念を含めて大学側が見たい「人となり」です。

★「個性」とは
「理念・価値観・世界観」⇒「思考」⇒「行動」の集合体

これ、西村モデルの高校生版だなと。


こちらより引用
https://note.com/yuumitakano/n/n767c1516fc65

・なぜ目覚ましい実績・成績があると合格しやすいと言われていたり、出願要件に入っているのか?
実績・成績はあくまで人となりが結果として表出化され出てきたもの。
⇒二次面接者にとって、高校生のわかりやすい人となり:コミュニケーション・ツールになる。

★実績の言語化が必要
・あくまで志望校のアドミッションポリシーに合うかどうかがポイント
・実績があればOKではない
・実績を相手に伝わるように言語化
・活動において実績を出すに至った価値観・思考・行動の言語化が必要。

経験学習サイクル(デイビット・コルブ)
行動(具体的経験)⇒振り返り(自分の経験を言葉でふりかえる)⇒本質の気づき(教訓や持論・自論を引き出す)⇒将来の目標設定(次の経験の際に自分が取る行動の目標を立てる)⇒行動に戻る
★具体から抽象へ。なぜうまくいったか、を再現できる。うまくいかなかったことを再現せず、失敗しない。
「人はおよそ70%を経験から学び、20%は観察学習や他者からのアドバイスによって学び、残りの10%は研修や書籍などから学ぶ。
経験を言語化できる人はパフォーマンスが高くなる傾向がある。

~~~ここまで第2部

今回の研修で、多くの人がヒットしたのは、ここだった。
経験の言語化、ふりかえりの重要性はわかるのだけど、
そもそも高校生が言語化に慣れていない。

藤岡さんは
・言語化するメリットと手法
・言語化できる自信と期待感⇒話したら共感が得られた(うまくいった)みたいな
を高めていく必要を語っていたし、
その前提となるような心理的安全性(安心空間)
をつくっていかないといけないと言った。

多くの高校生は、話すことそのものが不安というか
自分のことを話すのはイタイやつみたいな習慣があるので、
それを打破していかないといけない。

黎明学舎でやっているような、
雑談の時間や、毎日やるお題自己紹介などは
非常に有効なのかもしれない。

「ふりかえり」を反省(特に目標に対する結果の)の場にしないこと
「印象に残ったこと」など、心をまずふりかえること。

~~~ここから第3部メモ(テクニック編)

・プレスタ法
PREP法とSTAR法

PREP法(説明の順番)
1 Point:伝えたい結論・メッセージ
2 Reason:理由・経緯・Pointの詳しい説明
3 Episode:具体的エピソード
4 Point:伝えたい結論・メッセージ

STAR法(言語化の順番)
1 Situation:状況
2 Target&Task:目標・障害・壁・課題
3 Action:解決に向けた意志・行動・姿勢など
4 Result:結果・好転した状況・気づいたこと・得た意見

TAE(Think at the Edge)
https://taetokyo.jimdofree.com/
http://gen.taejapan.org/index.html

志望理由書と7つの観点
1 経緯:過去(高校時代まで)に頑張ったこと、印象に残ったこと、自分に大きい影響を与えた出来事、など
2 気づき・価値観:1を通して、気づいたことや学んだことから得た考え方・大切に思うこと
3 問題意識・テーマ(実現したい野望):2に照らしたとき、問題だと感じること、考えること、このままではいけない、解決したいと思うこと。
4 社会的意義:3の、社会における重要性。それに取り組むべき社会的必然性と、その先にある利益(メリット)
5 解決すべき課題・解決策:3の原因を解決(解消)するためのアイデア、具体的な方法
6 志望大学が最適である理由:5を実現するために、その大学(・学部)に進学したいという根拠。大学の理念・ゼミ・研究内容など。
7 将来の夢・志:その大学での学びをとおして、社会に出て何をしたいか、どのように社会貢献したいか、など。

AO・推薦入試で評価されること⇒総合的な評価が得られれば合格できる。
A 基礎学力
B 人物像(主体性)
C 大学で学ぶときに必要な力(周囲を巻き込む力・リーダーシップ・プレゼン力・コミュニケーション能力など)
D 明確な目的意識(問題発見能力)

AO推薦入試がおすすめな理由
1 一般入試より学力レベルの少し高い大学へ合格できる
2 一般入試(学力)にも相乗効果がある
3 AO入試に挑戦することで就活・社会人など、将来に渡り役に立つスキルが身に付く

~~~ここまで第3部メモ

いや、これって、構造的には大学生の就活とまったく変わらないなあと。
あときっと、中学生が高校を選ぶときにだって、こういう選択プロセスを踏んでいるはずだ。
これを入学志願者を集めるほうの視点で考えることはできるよね。

◎◎な課題を解決したい人にとっては、
ウチの高校のこういう活動、ウチの地域のこういう人、ウチの町のこういう環境は、
とても魅力がありますよ、っていうこと。

それを言語化していくことだ。

「言語化」の課題。
それは高校生ばかりではなく、一生モノの課題。

あとは、全体として思ったことは、
大学に入るのも、企業に入社するのも、
「乗り物に乗る」ようなものだなあと。
もしかすると、ワークショップのような一回性の高い「場」も、
「乗り物に乗る」ようなもの、かもしれませんね。

試験は、乗り物に乗るチケットを手に入れるためのもの。
あるいは、この人たちと一緒に乗ったら楽しいか?成長できるか?
みたいなことを確かめるもの。

そんな感覚で、大学入試にも就職活動にも向かっていけたらいいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)イベント日記

2020年06月10日

ひきだしミライカイギ

昨日は、取材型インターンひきだしミライカイギ~オンライン「ひきだし」はできるのか~
でした。
参加してくださった企業の方、OBOGの方ありがとうございました。

「ひきだし」の本質的な価値はどこにあったのか?を
改めて考えていく中で、その価値をオンラインである程度再現しつつ、
オンラインでしかたどり着けない場所にいくというミッション。

結論からいけば、始まる前には、完全オンラインは難しくって、
一部オンライン(現地に何名かは行くパターン)
を考えていたけど、実際に話してみたら完全オンラインもいけるような気がしてきました。

さて。
昨日の話を整理してみます。

取材型インターン「ひきだし」の価値(特徴)について


1 学生側と企業側のフラットな関係性

・ミステリーツアー方式(選んでないし、選ばれていない)
・「目的多様性」と「身体性」を持つ「場」づくり

2 会社を「人」から知る

・雑談、雰囲気などから会社のリアルを知る。

3 共同生活がある

・合宿形式で、家事分担などから身体感覚を共有している(オフの時間がある)

4 企業を含め全員が参加者(当事者)である。

・同じ空間(場)を共有すること、問いに向かっていくことで、全員が当事者になっている。
・会社の魅力を引き出して冊子をつくる、とぃうゴールがある。

と、かけば書くほど、やっぱオンラインなんて無理じゃんってなるのだけど、
昨日は後半で、いろいろ大学生や企業の担当者の話を聞いていると、
いや、やっぱいけるかも、と思った。

【オンラインの課題】
・大学のオンライン授業の場合:そもそも主導権が学生側にあるし、自由度が高いので、当事者意識が下がる。
⇒それはかけてるコストが少ないから。
⇒有料化することでそれは変わるのか?

・「人」から会社を知る、という意味では、リアルならでは「雑談」「雰囲気」が大切
⇒オンラインだとフラットなだけにさらに「人」にフォーカスできる可能性がある。(プログラム次第)

・身体性をベクトル性で補えるのか?
⇒ベクトルを合わせることはそもそも難しいし、場のチカラと矛盾するのではないか。
⇒ベクトルを合わせるのではなく、ベクトル性を共有(お互いに知る)ことでできないか。
⇒キーワード・トークなどを会社側も交えてやるとか。

・トランプやサイコロなどの「ギャンブル性」を入れる
⇒これってリアルでもそうだけど、オンラインだからこそのドキドキが必要なのかも。
⇒ブレイクアウトセッションも、ランダムで決めればくじ引きだもんね。

【オンラインひきだしの案】

・各人の「問い」(ベクトル)をていねいにチューニングする。
⇒企業の担当者も含めてやる。
⇒キーワード・カフェとか。
⇒いままでよりさらに「人間性」で勝負する。
⇒会社を「人」で知る

・ブレイクアウトセッションでの対話、雑談の時間を増やす。
⇒経営者や社員とのトークの合間や振り返りで、ブレイクアウトセッションを増やし、1対1の場をランダムにつくる。
⇒雑談の場の設計。ごはんや飲み会、飲みながらの振り返りなども入れる。

・学生の当事者意識を上げるには?
⇒参加費を取る☆コロナ後に使える企業訪問ツアーを付けるなどの特典
⇒参加課題を出す、面接する(ベクトル性の異なる人を集める)

~~~
っと現時点ではこういう感じかな。
来週また話しましょう。

僕としてはあらためて、
「機会として学ぶ」っていう原点に返った気がします。

新型コロナウイルスによって、
現地型のインターンがすべてNGになっていく中で、ひきだしは、どこへ向かっていくのか。
「オンライン化」でなく、オンラインだからこそたどり着ける学びの機会をつくれるのではないか。

キーワードは、向き合わないことだと思った。

人は人と出会うべきなのか(斎藤環)
https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec

の中で、

~~~
あらゆる関係性は非対称である。これが前提だ。言い換えるなら、非対称性が想定されない場所には関係性も生まれない。そう、「対等な関係性」などは、誰かの政治的夢想の中にしか存在しない。どんな関係性にも上下関係、支配関係が埋め込まれている。
~~~

と出てくる。そしてそれには臨場性が必要だと。
人間関係の非対称性は身体からくるのだと。
まあ、そうなのかもしれないけど。

僕がひきだしに込めた思いは、
「機会としての学び」の中で、人と人はフラットになる、ということだった。
そしてその「場」にこそ、生まれる未来がある、と。

ひきだしがオンラインになったとしても、
機会としての学びに向かって、
企業も、学生も向き合わずに未来を生み出していくような
場をつくっていけるし、
むしろ、オンラインひきだしじゃないと、たどりつけない「場」があるのではないか、と予感した。

まあ、予感しただけなのですが。

それにしても、イベントラストに撮ったこの写真が楽しそうすぎる。
やっぱ身体性大事だわ。
それでは、ご唱和ください。「ヒキダシ、ヒキダシ」

  

Posted by ニシダタクジ at 07:05Comments(0)学び日記

2020年06月01日

何がどうシフトするのか?

5月29日金曜日に、2つのオンライン勉強会に出たのでキーワードまとめ。

~~~ここからメモ

昼の部:尼崎市職員向け研修(ゲスト:ディスカバ・今村亮さん)

オンラインになると先生中心の「教育」から生徒中心の「学習(学び)」へシフトせざるを得ない。

従来型の学びで得たものを今仕事で使っているとしたら、従来型の学びを提供しようとする。

「問いの立て方、問いの作り方」っていう問いは違うのではないか。
感じたことを、言葉にするプロセスの中で5W1Hを組み合わせれば、問いは生まれる。

サイコロ探究
https://hen-ai-topic.jimdosite.com/junior/?fbclid=IwAR3K7FTaN5iGjStcY-T4h7Xnj9JOAsLTBVMRM_a0yG4wetPkVG5l04Fskfc

浦崎先生の言う「感じること」「問いを立てること」「意味を味わうこと」
の「感じること」と「問いを立てること」のあいだに、深い深い「言語化の谷」が広がっている。

ディスカバ!オンライン(PBLをオンライン上で再現)
https://discova.jp/online/

「教育」つまり、「教える」のは先生だが、「学ぶ」のは子ども。
主語、主導権の大転換が起こっている。

言いたいことが言えない関係。タテの関係は「評価」というプレッシャーが、ヨコの関係は「同調圧力」がかかる。
「評価」も「同調圧力」もない「ナナメの関係」、それがカタリバの関係。ようやく「ナナメの関係」が腑に落ちた。

「学び」の主導権の移行。
それは経済では「企業」から「消費者」へと30年前に起こっていたこと。
ここ30年の経済史をふりかえることで、何か見えるのかもしれない。
戦後最大・明治以来と言われる教育改革としての「探究」
正解を教わるの教育ではなく自ら主導権を持つ探究へ。

本来は「学校」「家庭」「地域」の3つで構成される子育て。しかし、「ステイホーム」は子どもの居場所を「家庭」だけに制限した。
→オンライン上に居場所をつくる必要があった。
→たとえば、「カタリバオンライン」とか「朝の会」とか。
→異年齢の子が接する時間になった。

わかりやすい勉強コンテンツはウェブ上にいくらでもあった。

必要なのは対話・コミュニケーション。
→オンライン朝礼をした
→不登校傾向の子どもたちにとってはむしろプラスに働くこともあった。

夜の部:マイプロ勉強会・事例紹介(ふたば未来学園高校・鈴木先生)

福島県立ふたば未来学園高校の「未来創造探究」
地域社会のneedと自分について理解するWillの真ん中にテーマ設定すること。
「調査のためのアクション」と「解決のためのワーク」を行き来する。

「知らないことを知る」ワーク
自分は何を知っていて、何を知らないのか?
聞いたことがある≠知っている
を再認識する。

情報の種類を知る:「事実」「意見」「仮定」
聞いたことがあって、自分でも使っているのに実はよく知らないこと
→友人に説明できるようになるまでインプットする。
知らなかったワードを自分自身で定義しなおすこと。

「ヒューマン・ライブラリー」
近隣地域で活動する人々を8名を呼び、うち2名に話を聞ける時間にする。
「会いにいけるゲスト」
テーマ「私のマイプロ(探究)」で話してもらう。

そこで新たな問い、観点、ロールモデルを得て、実際に現場に会いに行ってみる。
→問いと調査のためのアクション。

~~~とこんな感じ。

たまたま5月30日に、本屋さんで目に留まったこの本を買いまして、今朝、一気に読みました。


「2020年6月30日にまたここで会おう~瀧本哲史伝説の東大講義」(瀧本哲史 星海者新書)
昨年急逝された瀧本さんの講演録。
久しぶりに奥底に響くような内容。

~~~以下本からメモ

「教養の役割とは、他の見方、考え方があり得ることを示すことである。」アラン・ブルーム

学問や学びというのは、答えを知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。
なるほど、学校で学ぶことは守破離の守の、さらに基礎なのか。

バイブルとカリスマの否定。

明治維新というのは近代革命の中でも、際立って言葉を武器にして行われた革命だったと言える。

教養の1歩目は言語。
右手にロジック、左手にレトリックを。

だから「瀧本先生、僕に進むべき道を教えてください」じゃないんです。ぜんぜん違うんです。君が自分の仮説を出して、それを試してみるしかないんですよ。

「弱いつながり」とはSNSでつながることではなくて、バックグラウンドが違う人とつながっているということ。

アイデアがどうかなんてことより、「あなただからその事業をやる意味がある」ということが、やはりきわめて重要です。

~~~ここまでメモ。

なんだかタイムリー。

金曜日の今村さんの一言。
オンラインは先生が主導権を握る「教育」から生徒が主導権を握る「学び」へと変えてしまった。

パラダイムシフト。

夜の部のとある学校の先生が言っていた一言。
「探究活動を積極的にやった子が有名大学にAO・推薦で受かっているので、うちの学校では今年から探究の授業を検討するところと進路指導部が一緒になったんです。」

えっ。
それって・・・
強烈な違和感。

有名大学にAO・推薦で合格するというのは、
探究の「結果」であって、探究の「目的」ではないはずなんです。

そもそも探究とは、
個人の関心と社会の課題の重なるところにできていって、
その題材は、ひとりひとりに委ねられている。
個人の興味関心というエネルギーを注ぎ込まないと成立しないもの。

パラダイムシフト。

が起こっているはずだ。
「探究型学び」へのパラダイム・シフトが。

今村さんが言うように、
教育(≒学び)の主導権が「教師」から「生徒」自身へシフトする。

そして、僕が以前から言っている「機会としての学び」
http://hero.niiblo.jp/e489763.html

学びの構造が「(目的・目標を設定し)手段として学ぶ」から「(展開・振り返り重視で)機会として学ぶ」へシフトする。

教育だけではなく、近代のパラダイム(価値観)のキーワードは「効率化」だった。
「目的・目標を設定して、そこに最高速で行く」に価値があった。
それは工業を中心とした社会だったからだ。
ところが、そのゴールを失い、しかも「効率化」が価値を生まないことがわかってきた今。
当然教育の現場のパラダイムもシフトせざるを得ない。

ところが「AO・推薦入試のために、探究を」って、まったく目的・目標設定のパラダイムではないか。
そのほかにもシフトしているように思うこと。

「個人として学び」から「場としての学び」へのシフト。
方法(メソッド)から場へのシフト。
挑戦から実験へのシフト
達成感から予測不可能性へのシフト。
伝説のカリスマ教師から歌われざる英雄へのシフト。
明確なゴールから方向感・ベクトル感へのシフト。

そんなシフトが始まっている。
いや、コロナ休校期間中にもうシフトは終わっていて、気づいていないだけかもしれない。

瀧本さんに言葉を借りれば、
あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマが、きっとあるはずだ。  

Posted by ニシダタクジ at 09:55Comments(0)学び日記