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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2017年06月23日

「なぜ」「いま」「私が」やるのか

イベント「稼ぐ地域ビジネスのつくり方。」でした。
15分講師初体験。
問いと事例紹介だけっていう
新しさ。

もっと事例を少なくしてもよかったなあと
思いました。

僕の感想は、
物語こそが原動力だと思った。

マクロな課題を出発点にするのではなく、
ミクロな個人的エピソードこそが出発点だと思った。

マクロな課題
・若者が少ない
・人が集まらない

というところからは、
当事者意識が生まれないので、
アクションが起こらないのではないかと思った。

個人的具体的エピソードは「物語」を生む。

昨日は少し話があったけど、

クラウドファンディングにとって必要なのは、
そのプロジェクトを「なぜ」「いま」「私」がやるのか?

という問いに答えることだと僕は思う。
それには個人的なストーリーが必要だと思う。

昨日のプレゼンでの3つの問い。

1 「稼ぐ」って何?:
あなたは何を稼ぎたいのか?

2 「顧客」は誰か?:
なぜ、茨城でビジネスしたいのか?

3 「ふりかえり」してますか?:
他者評価の檻を脱出し、人生を経営する

これって根源的な問いだと思う。
相手にとって、社会にとって、そして自分にとって価値は何か?
そんな問いを続けていくこと。

近江商人の三方よし
という考え方は
「自分よし相手よし世間よし」だといわれるが

思考の順番としては
「相手よし」「世間よし」「自分よし」
というようになっていくのではないか。

ドラッカーさんの言葉を借りれば
「世間よし」の前に「第2の顧客よし」っていうのが入るのかもしれないが。

そして、今日から読み始めたのはこの本。

「市場の倫理 統治の倫理」(ジェイン・ジェイコブス 日経ビジネス人文庫)

世の中には2種類の道徳、
市場の倫理(商人道)と統治の倫理(武士道)
があり、それらを混同すると腐敗が生まれるというもの。

どちらも道徳としてはもっともなのだろうけど、
これらは目的が違うので、
相互に相容れないのだという。

多様化した価値観では、
「何を稼ぎたいのか?」「顧客はだれか?」
に対する答えがひとりひとり違っているはずである。

そしてそれは非常にミクロでパーソナルなものになるはずだ。
そしてたぶん、そこからしか始まらない。

そこから始まる、小さなビジネス、いっぱいつくりたいなと感じた。
ドラッカーサイクルを小さく回す。

そこからいろんなものが開いていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)日記

2017年06月19日

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ

昨日は久しぶりの開催。
「何か企むミーティング」

なんとなく感覚で集まった
4人で新しいプロジェクトを考える時間。

特にゴールはないアイデアだしの時間。

15時スタートだったのだけど
14時に集まって、お菓子を食べながら話す。
その時間がすごくよかった。
僕は途中抜けていたのだけど
家族との関係について、いい話ができていたようだった。

アイドリングというかチューニングというか
そういう時間。
15時からものんびりと話しました。

みんな中学・高校の時に
いろんなことを抱えていて、
特に女子は同調圧力が強くて、
そこに馴染めない人にはつらいんだろうなって。
なんか共感してつらくなっちゃいました。

僕はそこかも、って。
「コミュニティ難民」的な人に、話を聞いて、本を届ける。

新城劇場ってそういうところかもしれない。
そういう人たちが集まって、
コミュニティではなくて、プロジェクトを立ち上げる。

ビジネスやろう。
っていうのは、
経済社会の土俵で、人とコミュニケーションしよう。
ってこと。

ビジネスモデルがこうで、
こうやって投資を回収します、
みたいなことじゃなくて、
もっとヒューマンスケールで始めてみるのがいいなと。

そしてそれは、プロジェクトとして起こしていくこと。
チームはコミュニティではなく、プロジェクトチーム。

「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、
所産を創造するために実施される有期性の業務である。」
(PMBOKの定義)

なるほど。
「独自」なものを「創造」するための「有期性」の仕事のこと、か。

有期性、つまり、「終わりがある」ということ。
だから、「ふりかえる」ということ。
「独自」なものを「創造」しなければならないということ。

それは決してコミュニティではない。
というか非営利活動が陥る「マンネリ」というのは、
プロジェクトがコミュニティに変質してしまっているのではないか。

そして、かつ、それは純粋なプロジェクトでもなく、
プロセスを大切にするということ。
アウトプットと同じくらい、ひとりひとりを大切にすること。

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ。
そういう感じのやつを、
「コミュニティ難民」なみんなと共につくりたい
っていうのが、僕にとっての新城劇場なのかもしれません。

場づくり×小商い×ゼミ(動的な学びの場)

その先に、僕と地域の未来があるような気がしています。



今回始まりそうなのは、「おとばたけ」プロジェクト。
なんだか面白そうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2017年06月11日

「余白」があるから開かされる


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

余白の話。

「町工場がひしめくものづくりの街、東大阪。
その街の看板には偽りが多いのだという。
「〇〇ミシン工業」「××バネ製作所」などと
記しているのに、実際はまったく違うものをつくっている。

東大阪の職人がよく口にする言葉は、
「どないかします。」である。」
こんな部品がつくれるかと聞かれれば、
決して無理だとは言わない。

次々と大企業の要望に応えるうち、
いつのまにか「本業」からずれていった。
偽りの看板は進化の証である」
という日本経済新聞『春秋』(13.5.10)からの抜粋。

これを読んだとき、
アサダさんは電車の中で思わず
声をあげてそうや!と頷いてしまったという。

そして、
アサダさんは、「余白」の重要性についてこう語る。

~~~ここから引用

工学者でボランティアネットワークについての
論考で知られる金子郁容は、その昔、
他者からの力が流れ込んでくるのに、
「ふさわしい場所を空けておく」ことの重要性を語った。

「変化への潜在的可能性、いわば存在の余白のようなもの」

その場所、余白を開けておくのが重要なのだ。
「自分はこれしかできない」とか
「自分はこれが専門だから」ということに固執しすぎると、
他者が与えてくれる力が流れ込んでくる「隙間」が生まれない。

「自分の可能性が他人によって開かされていく」
ことをもっと楽しんでいいのではなかろうか。

そう。とにかくここは一つ、
自分を使った「人体社会実験のようなものだ」
と考えるようになった時に、
ジメジメした不安は、
ドキドキとふわふわを携えた「未知」へと
変わっていく実感を持てたのだ。

未だ知り得ぬ自分は、
いまの自分ができることを鮮やかに裏切り、
いずれ「偽りの看板」と呼ばれるほどに、
その「専門」のかたちが
変えられていく可能性を示してくれる。

秋田住職はいつも、スタッフにこう話していた。
「人は、あなたに出会って、わたしになる」と。
この言葉の意味を、今改めて自分に引き寄せて
反復せざるを得ない。

~~~ここまで引用

そうそう。
「余白」って大事だ。
「余白」があるから、変化ができる。

「迷わずゆけよ、ゆけばわかるさ」

っていう
「道」という詩があるけれど、

前に道はない。
後ろにしか道はできない。
っていうのは、

未知を歩むから道になるのだなあと。

余白を残しておくことって
大事だなあと。

ひとりひとりに余白をつくっていく。

僕はそれを仕事にしたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 06:37Comments(0)日記

2017年06月05日

「他者評価」藩から脱藩する

だんだん謎が解けていく感じ。
これが学びの醍醐味なのだろうね。

やってみる
ふりかえる
といかける

まずはやってみる。
振り返りで違和感をキャッチし、
なぜ?と、問いかけること。

本を読んでみること。
またやってみること。

そんな学びの楽しさを知ること、体感すること。
それはもしかしたら自然の中での遊びから身につくのかもしれないね。

僕たちは、生きてきた「システム」によって、
一定の価値観を植え付けられている。

為政者たちが、
より効率的に統治できるように。
「近代」「資本主義」「国民国家」「民主主義」「学校教育」
という巨大なシステム。

堀江貴文さんが
「本音で生きる」(ソフトバンク新書)の中で
「自信がないのは経験不足だからだ。」
と言い切っていたけど、まさにその通りだなあと。

自信とは、
「やったことがある」というところから来るのかもしれない。
だから、自信をつける方法は、
「やってみる」を繰り返す他にはないのだ。
成功も失敗も、「経験」である。

しかしながら、
学校的価値観の中を生きていると、
だんだんと「固定的知能観」(人間の能力は生まれつき決まっていて、変化しない)
に染まっていき、挑戦するのが怖くなる。

「自信がない」は後天的に獲得した資質である
http://hero.niiblo.jp/e459844.html
(14.12.29)

かつて坂本龍馬は
土佐藩から「脱藩」したのだけど、
彼が脱藩したのは、土佐藩ではなくて、
既存の価値観や枠組みのことだったのだろう。

そんな小さいことを言っている場合か、
っていうことや、世界の動きを目の当たりにして、
脱藩するしかないってことになった。

いま。
僕たちが脱藩するべきは、
おそらくは「他者評価」主義を掲げる藩からの
脱藩だろう。

学校、大企業、政治、多くの近代のシステムが
他者評価を前提として出来上がっている。

そして、岡田斗司夫が言うように、
ネット社会の到来により、
ますます「評価」は重要となり、
評価経済社会がやってくるのだろう。

しかし。
そこで大切なのは、
「他者評価がすべてではない。」ではないということ。
「他者評価」を前提としないということ。

参考にする程度でとどめておくこと。

結局、人を幸せにしないのは、
他者評価依存であると僕は思う。

他者から評価されるほうはどちらだろう?
という思考のなかで人生を生きていくこと。

これは、
ある程度は「近代」というシステム上
仕方のないことかもしれない。
だから、完全に脱藩することはできないのかもしれない。

しかし、
一度だけでも、脱藩して、
それを空の上から見てみる。
そんな本屋をつくれたら面白いなあと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年06月02日

「プラットフォーム」と「デザイン思考」

蔦屋書店(TSUTAYA)を展開する
カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)
の増田社長は、その著書の中で、

「TSUTAYAは本を売ったことは一度もない」
と言い切っている。

参考:書店は本を売ってるから、ダメなのだ
http://hero.niiblo.jp/e457514.html
(14.11.18)

ツタヤは書店ブランド別の書籍売上で
紀伊國屋を抜いて1位となっている。

もはや「本」を
欲しているのではないと増田さんはいう。
ほしいのは「ライフスタイル提案」であると。

おそらく。
マスで言えば、これは正しいだろう。

だからこそ代官山をはじめとする
「蔦屋書店」ブランドが各地に出店されているのだろう。

昨日の話でいえば、
マーケティングの結果の話であると言えるだろう。
それがプラットフォームモデルである。
ネット時代の伸びるビジネスのモデルだと思う。

しかし、それとは別に、
顧客1人にフォーカスし、
新しい価値を生んでいくようなビジネスをつくる、
それがデザイン思考的なアプローチなのだろうと思う。

顧客は誰か?
顧客にとって価値は何か?

にフォーカスしていくことで、
次のビジネスが見えていく。

おそらく、この両輪が必要なのだろうと思う。
特に本屋はそうなのかもしれないな、と思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:31Comments(0)日記

2017年06月01日

「マーケティング」という仮説

http://www.buildinsider.net/enterprise/designthinking/02
「0から1を創り出すデザイン思考 ― 新たなイノベーション創出手法」

ドラッカーの5つの質問

1 ミッションは何か?
2 顧客は誰か?
3 顧客にとって価値は何か?
4 成果は何か?
5 計画は何か?

この200年。
その質問にきちんと答えてこなかったのではないか。

そして、「疎外」とは、この5つの質問に
答えられない状態に置かれるということ。
成果(目標)と計画しかない状況に
追い込まれることなのではないか。

進学校の高校生が
「そんなこと考えてないで勉強しろ」
と言われるのは、そういうことだ。

もちろん、
1~5の質問にていねいに答えようとすることは、
「非効率的」であり、4と5をひたすらに回していくほうが
「効率的」である。

さて。それでは、仮に人生が経営であるとするならば、
(毎度、この表現だ。)
あなたは「効率的」な人生を送りたいだろうか?

Yesという人はどのくらいいるのだろうか?

しかし、近代工業社会は、
そのシステムからして、人々に「効率性」を強いてきた。
「効率性」は大きな共通の価値であった。
他者のマネし、それを効率化することで、
(たとえば人件費の低い地域に工場を移転するなど)
あるいは効率化する「発明」をすることで、競争優位があった。

しかし、社会が成熟し、モノは行き渡り、
「効率性」が価値ではなくなったとき。

新たな「価値」(たとえば問題解決)を
生むために、どうしたらいいのか?

その方法論のひとつが
冒頭の「デザイン思考」である。

本文にあるように、
デザイン思考は徹底した「人」「現場」へのフォーカスで
観察し、共感し、問題発見をしていく。

簡潔に言えば、
「観察から洞察を得て、仮説を作り、プロトタイプを作って、
それを検証し、試行錯誤を繰り返して改善を重ねながら
モノ(製品/サービス)を創り出す」創造的なプロセス。(本文より)

そうやってぐるぐる回していくこと。
その出発点は「共感」だ。
ユーザーを見つけ、フィールドワークを
行い、その課題の本質を見つける。

これは、ドラッカーの
「顧客は誰か?」「顧客にとっての価値は何か?」
というプロセスとも言えるだろう。

本文中にも書かれているが、
マーケティングリサーチが有効に作用したのは、
「事前に解くべき問題が認識されていたから」
であるという。

そう。
近代工業社会においては、人口が増え続け、
「消費者」が多数存在した。

そして、その消費者の課題やニーズが
ある程度予想できた。
(たとえばファミリーレストランは
家族で行って騒がしくしても怒られずに
一定のメニューが安く提供される)

しかしながら、それを繰り返すと、
いわゆる「コモディティ化」(交換可能化)が起こり、
人は、アイデンティティを喪失しやすくなる。

サンクチュアリ出版の金子さんがいうように、
「手紙」のような本を出すことがヒットの条件であるように、
いま、世の中はマーケティングではなく、個別化、
個人の課題解決をどれだけ具体的にやれるか、である。

まずは個人をきちんと観察するところから、始まる。
その練習は、地域の現場で、できていく。
それを繰り返すことで、お客に出会えるかもしれない。

キャリアドリフトと、デザイン思考で
ドラッカーの2と3の質問に答えていくこと。

これがキャリアに必要なプロセスなのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2017年05月31日

「学校」は他者評価を「前提」としたシステム


「すべての教育は洗脳である」(堀江貴文 光文社新書)

1周まわって、みたいな読書。
こういうのも楽しい。

~~~以下一部引用

僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。
それによって幸せになれると
思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。
だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。

残念ながら、普通に暮らしている限り、
「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。

それは「常識」の洗脳が、
国家ぐるみで行われているからだ。
国家は、全国に4万6000箇所もの「出先機関」を設け、
この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。

その出先機関とは、「学校」だ。

知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。
主観の一切入り込まない事実(ファクト)にもとづく知、
それが知識である。

一方、常識とは「解釈」である。
主観の入りまくった、その時代、その国、
その組織の中でしか通用しない決まりごと。
それが常識である。

日本でよく見られる儒教的な道徳規範などは、
まさに「常識」の最たる例だ。

学校は、そこに通う人間を、
とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。
建前上は「個性を大切にしよう」
「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、
その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という
本音が潜んでいるのだ。

産業革命の時に庶民は、
「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」
という新しい働き方を得た。

読み書きそろばんができ、
指定された場所に毎日規則正しく通い、
リーダーの指示に耳を傾け、
言われた通りの作業に励む。

そんなサイクルをこなせる
「きちんとした大人」を大量に用意するには、
子どもの頃から仕込むのが手っ取り早い。

つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を
使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する
「工場」の一つだったのである。

今の学校も、この原則はまったく変わっていない。
学校で押し付けられるのは「工場=会社」の
予行練習のようなことばかりだ。

たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、
ボス=教師の言うことへの服従・・・

今の子どもたちも、
雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」
としての規格からはみ出ないよう、
「常識」をせっせと教え込まれているのである。

~~~ここまで引用

いやあ、怖い。
怖いです。
近代国民国家という壮大な仮説。

その中でも、僕が感じる、
一番つらいところは、

学校が「他者評価」を「前提」として
システムになっているところではないかと思う。
「他者評価」は「前提」とすべきではなくて、
あくまで「自己評価」の「参考」程度にとどめておいて方がいい

それが主体的に生きる、
ということであるだろうと思う。

すなわち、
主体性を評価するということの可笑しさ。

そもそも、他者評価を前提とした
システムの中で主体性のある子が育つのは
きわめて稀なのではないか。

そしてそれこそが生きづらさの源泉であるかもしれない。
先生からだけではなく、同級生からも
他者評価を受ける存在としての自分。

そうして比較が生まれ、
「劣等感」や「空気を読むこと」が起こっていく。
それが生きづらさの本質なのではないか。

他者評価を生きている限り、幸せにはなれない
と僕はかつて思ったことがあるけれど。

それは学校が構造的に抱えている課題なのではないか。

キャリア教育も同じだ。
学校というシステムの中で、
キャリアデザインという理論しか選択されないのは、

それ以外のキャリア理論が基本的に評価不能だからではないか。
キャリアドリフト、いわゆる計画された偶発性理論を採用しても、
子どもたちは、「いま、ドリフト中です」みたいなことを言って
前に進んでいるか後ろに戻っているのかよくわからない(笑)

大学生はキャリアを考える前に、
この学校というシステムについて、もう一度とらえなおす必要が
あるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)日記

2017年05月27日

be ambitious




クラーク博士。
わずか9か月札幌農学校に滞在。
Boys be ambitiousって言ったとか言わないとか。
定かではないそうだ。
https://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/boys-be-ambitious/
(北大の図書館のサイトより)

なのに、北海道大学を挙げての激推し。笑。

でも、いいなあって。
be ambitiousって状態のことですよね。

大志を抱いている状態のこと、
have a dreamじゃないもんね。
あり方を問いかけているんだなと。
どうあるか。

それにしてもミッションのある大学
って空気感がちがうなあと。

内田樹さんも言っていたけど、
キャンパスライフって、
そういう「ミッションに包まれる」っていう
経験もあるんだろうな。

もっと五感を動かすような、
場の力を生かした何かが必要なのかもしれないね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年05月24日

リスペクトより「心を開く」がほしい

過去の経験にどんな意味があるのだろうか?
それは自分にしか解釈できない。

僕がいつも話す、
2002年1月の不登校の中学生の話。

あれは、
「多様な大人との出会いの場が
中学生にとって必要なのではないか。」

そしてそれは、
いろんな職業でバリバリ活躍している
「カッコイイ大人」たちではないんじゃないか。

いまだに中学高校のキャリア教育の現場
で行われている「ロールモデル」モデル。
目標となるような大人に出会うこと。

最近では地域のNPOもそれをサポートしている。
しかし、そんな学校に呼ばれるような大人は、
いわゆる「ちゃんとしている」大人だ。
少なくとも週5日は働いているだろう。(笑)

そして、何よりも、
学校という四角い空間の力の無さ。
蛍光灯の明かりが象徴している
「効率性」がもっとも重要視された空間。

義務教育空間そのものが、
「効率性」をメッセージとして伝えている。

そうじゃない。
多様な価値観とは、
坂口恭平が「隅田川のエジソン」や「東京0円ハウス0円生活」
で描いたような人たちと出会うことによって得られるのだ。
そんな大人との出会いをつくりたい。
それがツルハシブックスの出発点だったと思う。

3年前、「本の処方箋」というコンテンツが始まり、
パワフルな機能に僕自身が驚いた。

「あなたの悩みに本を処方します。」

そう言っただけで、
初対面の人たちが、
自分のホントの悩みを話してくれるのだ。

それは、僕がカウンセラーではなく、
本屋のおじさんだから。

「どうせ、このおっさんに話しても、
本紹介してもらったぐらいでは、
悩みなんか解決されるはずもない。」
という安心感(?)が、本当の悩みを話させるのではないか。
素晴らしいコミュニケーションデザインだと思った。

そんな話をしているときに、友人から
「若者と向き合いたいんですね」と言われ、

あれ?っと思った。
いや、僕は向き合いたくないな、と。
本のほうを向いて、
その悩みは聞き流したい、と思った。

本の処方箋は、相手と向き合わないで、
本棚と向き合う。

そしてそのときの最大の気づきは、
「ああ、僕は共に悩みたいんだ」って思った。

中学生の彼と出会ったとき、
僕自身が無職だった、先行きがわからなくて不安だった。
だから、彼と一緒に悩みたかっんだと思った。

そして、昨日。
取材を受けたある人との対話。

西田さんって注目されたんでしたっけ?
なんか微妙に注目されすぎたくないような。
道化ですよね、ある種。

道化。
そうかも。

僕が最大にリスペクトしているのは、
「ホスピタルクラウン」の大棟耕介さん。
彼の生きる姿勢が大好きだ。
あとは、カリスマへの嫌悪感はたしかにある。

「カッコイイ大人」と出会い、リスペクトする。
しかしそれをロールモデル(目標)としては
いけないのではないか。
カリスマのファンになるのはいいのだが、
思考停止してはいけないのではないか。

絶望とは思考停止であり、
希望とは考え続けることだと思うから。

そういう意味では、僕が道化を演じるのは、
(演じているのかどうかわからないけど)
相手の心を開くためなのではないか。

そんな風に思った。
そして口をついて出た一言。

結局、リスペクトより心を開くのほうがほしいですもん。
そっか。って。

「心を開く」に価値を置いているんだ、と。
昨日、気がついた。
それは冒頭の中学生のエピソードにもうひとつの
意味を加えてくれる。

いろいろな事情があり、閉ざされた心。

それを、一緒に勉強したり、
ボードゲームのサッカーをしたり、
一緒に鍋をつくったり、
俺も将来わかんないんだよね~、って話すことによって、
徐々にほぐれて、心が開かれていったのではないか。

そしてそれが、もしかしたら
彼にとっての価値だったのかもしれない。

「心を開く」という価値へ
向かっていくのかもしれない。

すごい人だとリスペクトされるより、
本当はダメなおっさんなのだけど、
おもしろいところあるな、って思われていたほうが
相手は心を開きやすいのかもしれない。
まあ、それはきっと人によるけど。

過去のエピソードの意味が
またひとつ加わった。
答えも問いも、自らの過去にあり、
その問いに対する答えも無数にある。

そうやって、「コネクティングドット」はできてゆく。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)日記

2017年05月18日

ドラッカー・サイクル

PDCAサイクルは品質管理のサイクルである。

http://topmanagement.co.jp/faq/2012/03/pdca-1.php
「なぜ、PDCAはやめた方がいいのですか?」
~山下淳一郎が答えるドラッカーに関する質問~より

"PDCAがマネジメントのサイクルである"ということが世の常識になっています。
これは間違った常識です。
PDCAは機械でつくられた製品の不合格品の比率下げる品質管理の手法です。

なるほど。

品質管理のサイクル(PDCAサイクル)
PLAN(計画)   :どのように
Do(実行)    :実行する
Check(確認)  :確認する
Action(行動)  :行動する

ではなく、

マネジメントサイクル
何のために (われわれの事業は何か)
誰に (われわれの顧客は誰か)
何を (顧客の価値は何か)
何を成果として (われわれの成果は何か)
どのように (われわれの計画は何か)

を回すんだ、と言っている。

昨日、訪問先で、伺ったお話。
「地域活性化」の先に何があるのか?
「まちづくり」の「まち」とは、そもそも何か?
という問いをいただき、考えた。

近代工業社会は、
ひたすらにPDCAを回し続けた社会であると言えるだろう。

それはつまり、
ドラッカーのサイクルで言えば、
上のマネジメントサイクルと同じことだが、

1 ミッション(使命)は何か?
2 顧客はだれか?
3 顧客にとって価値は何か?
4 成果は何か?
5 計画は何か?

ここの4・5だけをひたすらに回し続けた
ということになるのだろう。
言い換えれば、
1~3を国や経営陣に任せてしまったのだ。

それは工場で、
日々、一部品を作っているようなものだ。

完成版をイメージすることなく、
田坂広志さんが語る石切り職人の逸話のように、
「多くの人を幸せにする教会をつくっているんだ」
っていうふうに思うことなく、ひたすらに部品を作り続ける。

そうして、「疎外」が起こる。

それは人生も同じだ。
人生を経営するには、何よりも
1~3が重要なのであって、4,5は方法論に過ぎない。

そして1~3を達成する方法は、
いわゆる「仕事」(マネーワーク)であるとは限らない。

高橋歩さんが著書の中で紹介していた、
妻のさやかさんの夢、「歩の妻を極めること」のように、

本来は、ひとりひとりにミッションがあり、顧客がいて、
顧客を幸せにする方法は100万通りあり、
それを本来は人を夢と呼んだのではないか。

いつのまにか、「夢」さえも、
工業社会のサイクルにからめとられて、
PDCAサイクルを回すことで、夢へと近づくような
教育がされているのではないか。

高校生や20歳のころ、多くの人が
「自分は何のために生きているんだろう?」
という問いを持っていたように思う。

それは、ドラッカー・サイクルでいえば、
1~3の問いであり、それにこたえられることを望んでいる。

しかし、就職して、会社ではいつのまにか、
4.5だけを回すようになる。
そうやって多くの人は人生から疎外されていくのではないか。

そして、中小企業でのインターンシップは
ドラッカー・サイクルを下から回していくこと、
それをかつて職人の世界では、
「正統的周辺参加」と呼んだのではないか。

計画に参加し、
目標にコミットし、
価値を生み出し、
顧客は誰かを問い、
最後にミッションを共有、あるいは創造するんじゃないか。

そしてそれこそが特に中小企業での社長と近い
インターンシップの価値であるのではないか。

なるほど。
そういうことか!

なんだかとってもうれしい発見をしたような。  

Posted by ニシダタクジ at 05:43Comments(0)日記

2017年04月22日

承認のスパイラル

「屋台のある図書館」
長野県の塩尻市立図書館の
入っている「えんぱーく」で
構想していたこと。

参考:「誰のための図書館?」(15.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e474463.html

高校生が屋台で何かを売るということ。
それは、地域を知る、そして好きになることにつながる。

ワークショップでよく使われるKJ法の生みの親
川喜田二郎氏によれば、
「ふるさととは、子どもながらに全力傾注して
創造的行為を行った場所のこと。」だと言う。
(「創造性とは何か」川喜田二郎 洋伝社新書より)

参考:「帰る場所、ふるさとをつくる」(15.5.14)
http://hero.niiblo.jp/e468419.html

いま、自分の育ったところが
「ふるさと」にならないのは、
そこに全力傾注するほどの創造的行為
をする場と機会がなかったからであると思う。

僕にとっての千葉県袖ケ浦市はまさにそうだ。
むしろ、まきどき村のある新潟市西蒲区福井こそが
僕にとってのふるさとである。

屋台で商売をすること、は
そんな創造的な何かなのではないか。

そしてそれは、
高校生の自信につながってくる。
承認欲求を商人欲求に。

これが
ハックツ×小商いのコンセプト

育ってきた環境が
「承認」を与えてくれないから、
ついつい人は承認を求めてしまう。

大学生が「ボランティア」とか「貢献」
という言葉にヒットするのは、
「親和的承認」の代わりに「一般的承認」
を求めてしまうからではないか。

そしてその土台のない承認は
負のスパイラルを生み出してしまうのではないか。
つまり、「承認」を求めて活動を繰り返す、
ことになってしまうのではないか。

それを「商人欲求」に変えていく。
駄洒落だけど、ね。笑。

物を売りたい。
どうやったら売れるだろう。

売れた。
うれしい。
買ってもらえた。
どうして買ってくれたんだろう。

そんなスパイラル
そこには、小さな承認がある。

承認されたい、という他力本願ではなく、
売ることで承認される、というモチベーションが上がる。

商人欲求を持つ。
ものを売ってみる。

小さな承認を得られる。
すると、自分に自信が持てるようになる。
そんなスパイラルに変えていけないだろうか。

そこには
「全力傾注する創造的行為」
が起こるかもしれない。

地域の大人とのコミュニケーションが生まれ、
たとえば農家さんのものを売ってみたりする。

そうやって、
そのまちは、高校生にとっての「ふるさと」に変わっていく。
同時に、高校生たちの承認欲求が満たされる。

地方創生の切り札って
「屋台のある本屋」なのではないかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:00Comments(0)日記

2017年04月14日

フェーズと人材

日々、会社のフェーズは変わる。
日々の仮説検証を経て、マイナーチェンジする。
あるいは、軌道に乗って、安定走行を目指す。

本来なら、そのタイミングで
人も入れ替えられたらいいのだけど、
そんなに柔軟性のある組織には作られていない。

立ち上げ期、変革期に必要な人材と、
安定走行への移行期に必要な人材は異なる。

だから、
起業家志向の人が、
伸び盛りのベンチャー企業に
就職を志向するのは、実はミスマッチが起こる可能性が高い。

なぜなら、
正社員を募集する時点で、
その会社は、事業は、ある程度
ビジネスプラン的にはうまくいき、
軌道に乗っていることが多いからだ。

そんなときに必要な人材は
「整えていく人材」であって、
「壊して、生み出していく」人材ではない。

むしろ、硬直化した組織にこそ、
起業家志向の人材がマッチする。

公務員や大企業で常識を打ち破っていくこと。
新しいものを生み出していくこと。

それを人材ひとりあたりではなく、
組織全体でできていくといいのだな。

西洋と東洋の融合。
岡倉天心の描いた世界がそこにも広がっている気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:44Comments(0)日記

2017年03月26日

夢を語れ

どうやるか?
ではなくて、
なぜやるか?

方法を語るのではなく、
夢を語れ。

きっとそのフェーズに戻したほうがいいのだろうね。

描く未来にワクワクしていないと、
仕事は作業になる。

その未来を描くところから、
もう一度やり直しだなと思った。

1人のリーダーにに求心力を期待するのではなく、
コンセプトに求心力を持たせること。
それをやらなければいけないのだな。

誰かが人生を賭けないプロジェクトは
成功しない。

いや、人生賭けたって、
うまくいかないプロジェクトはある。

それを誰かに期待するのではなく、
自分が動くしかないのかもしれないなと。

もう一回、
ワクワクする未来を描くところから、やり直そうかな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)日記

2017年03月19日

アーティストと作品の関係

アーティストは最初、作品によって見出される。

いい作品を何作か続けると、
そのアーティストの名前が売れる。

すると、そのアーティストの
名前で、作品を鑑賞したくなる人が増えてくる。

本で言えば、
有名著者の作品は発売前に
たくさんの予約が入る。

一方で、
一作品しかヒット作を生み出せなかった人は、
「一発屋」と称される。

その人の名前は、
すぐに消えてなくなる。

でも、作品は残る。
記憶にも残る。

アーティストの名前が売れてくると、
極端な話、作品の良さに関わらず売れる、という現象がおきる。

その人の作品だから買おう、ということが起こる。

著名な画家の無名時代の作品に、
何億円もの値段がつくような現象だ。

それは作品というよりは、
ネームバリュー、つまり世間的価値を
買おうということなのだろう。

アーティスト<作品
だったのが
だんだんとアーティスト=作品
になり、いつのまにかアーティスト>作品となるのだ。

しかし、それは、
アーティストの本望なのだろうか?

岡本太郎は、
「今日の芸術」(光文社知恵の森文庫)の中で、
芸術はわかろうとするものではないと説く。

そして、今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

と言う。
目の前の作品と対峙せよ。
対峙し、感じること。
そこから芸術鑑賞は始まるのだと。

「わからなさ」と向き合い、
自分なりの答えを出していくこと。
そんなことを説いた。

岡本太郎からすれば、おそらくは、
作品ではなく、名前が注目されることは、
あまり好ましいことではない。

アーティストであるならば、
作品を見て、作品を味わってほしいと思うはずだ。
そこに「作家の名前」は邪魔になる。

しかし。
作家にも「承認欲求」がある。
いい作品を書いたら、それを承認されたいし、賞賛されたい。

それは個人に向かってくるものであるから、
そこに、ジレンマがある。

作品を純粋に見てほしい。
でも、作家としての自分を認めてほしい。

その壁を作家自身が超えられるかどうか。
あるいは、世間が作家の名前を超えて、
作品を見ることができるか。

そんなことをふと考えたいい時間をもらった。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)日記

2017年03月13日

かつての市場が交換していたもの

かつての市場が
交換していたものは、
モノだったのだろうか。

小阪裕司さんの
「心の時代にモノを売る方法」(角川ONEテーマ21)を思い出す。



http://hero.niiblo.jp/e386148.html
200年隠れていた「贈与と交換」の経済
(2014.3.23 20代の宿題)

この本に引用されている山崎正和氏の本
「社交する人間」(中公文庫)

「経済の第一の系統は生産と分配の経済であって、
これは同質的で均一的な集団を形成しながら、
それによって生産物の効率的な増産を目標としてきた。

これに対して第二の系統をつくるのが贈与と交換の経済であって、
言葉を換えれば社交と商業の経済だといえる。」
(社交する人間より)

この第1の系統である
「生産と分配の経済」は、
共同体が「生き延びる」ために必要な経済であったと言えるだろう。

それに対して、
第2の系統である「贈与と交換の経済」は、
個人が楽しく豊かに「生きる」ための経済だったと言えるだろう。

なるほど。
そもそも市場の起源は、
贈与と交換の経済の実現場所だったのではないか。

かつて、コミュニティは基本的に
家族を単位とし、「自給自足」してきたはずだ。

そのあいだに「市場(いちば)」が成立していったのだと思う。
その市場で最初に取引されたものは、
おそらくは生活必需品というか、
生きるのに必須のものではなかっただろう。

すでに生きていくだけの何かはあった。
その余剰物を、交換するところから市場は始まっているはずだ。

そしてそこに旅人としての商人の存在があり、
旅先で手に入れた様々な珍しいものを売ったのだろう。

「商人はめぐりあった消費者に商品の物語を説き、
その心を魅惑する会話の成功とともに需要を創造したのであった。」

きっとそうだ。
かつて市場は、そもそも商品というよりも、
共感や驚きを売ってきたのではないか。
物語を売ってきたのではないか。

未知なるものを、共感という舞台を
出現させることで売る。それが市場なのではないか。
商人はそこで学び、技を磨く。

市場は、劇場であり、また学びの場であった。
未知なるものを知る場所であった。

「小商いをやってみる」
っていうのが少し流行っているようだけど、
もしかしたらそこには、根源的な「生」があるのではないか。

未知のものばかりが売っている市場では、
まずは感性がヒットする。
おや?と心が奪われる。
そこで商人が語る。

その物語や人の魅力に心惹かれて、
人はモノを買ったのではないか。

そのときに買っていたのは、
モノではなかったのだろう。
「共感」だったのだろう。

そういう意味では、
いま、世の中で動いている
「クラウドファンディング」は文字通り
「共感」を介して、お金が動いている。
つまり、共感を取引していると言えるのではないか。

「小商い」や「ナリワイ」と呼ばれるものは、
まさに生命的な本能がそちらに向かわせているのではないか。

「市場(いちば)」は交換の場であり、
エンターテイメントの場であり、学びの場でもあったのだろう。

たぶん、これから始まるプロジェクトって
そういうのをやりたいのだろうな、って思っている。

次のステージがだんだんと見えてくる。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)日記

2017年03月05日

人の魅力からコンセプトの魅力へ

プロジェクトが始まるとき。
そこには「人の魅力」が重要である。

その人に吸い寄せられるようにして、
人が集まってくる。

ほぼ「プロジェクト=人」である状態。

「〇〇プロジェクトをやっている〇〇さん。」
に会いに行く。
会いに行きたくなる。

そうしないと、
小さな事業は始まってはいかないと思う。
特に非営利事業はそうであると思う。

コンセプトももちろん大事だけど、
誰が語ったか、によって、
プロジェクトの成否が決まる。

それが第1フェーズ。

だんだんと
「プロジェクト>人」にしていかないといけない。

そうしないと、
その人がいなくなったらどうなるのか?
という問題が生じる。

そこで、必要になってくるのがコンセプトの力だ。

何が大切なのか、何が提供している価値なのか。
それを参加している人たちが共有していること。
(必ずしも「言語化」されている必要はない)

それができてくると、
「場のチカラ」が形成されてくる。
すると、最初の発起人の存在感が薄れてくる。
それが第2フェーズ

そして、最後には、その場やコンセプトに対して、
人が集まってくるようになる。
そのとき、発起人の存在は不要になる。

まきどき村もツルハシブックスも
そのようなフェーズをたどってきたように思う。

現代は、ソーシャルネットワークサービスなどの影響で、
「個」に重きを置きすぎる傾向がある。

これまでの工業社会で、
「個」が疎外されてきたというか、
アイデンティティの発揮を限りなく少なくする方向に
動いてきた。(昨日の属人的な話のような)
その反動であるのかもしれないが。

ただ、コンセプトではなく、「個」に注目しすぎると、
その活動は一般化しないというか、
継続性と再現性(だれでもどこでもいつでもできる)がなくなっていく。

だから、コンセプトをもっと大事にしていく必要がある。
きっと、コメタクはそういう過渡期にあるのだろうな。

人からコンセプトへ。
第2フェーズが始まろうとしている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:50Comments(0)日記

2017年03月04日

システム化はひとりひとりを幸せにするのか

属人的なシステムは継続しない。

だから、情報を共有し、
その人がいなくなったときでも、
誰かが替わりをできるようなシステムを
つくらなければいけない。

これはそのとおりだろうと思う。

しかし、システム化するということは、
ひとりひとりにフォーカスしないということ
なのではないか?

その人じゃなくてもできる、
というシステムをつくることなのではないか。

それはひとりひとりを幸せにするのか。
交換可能な部品にしてしまうのではないか。

ふと、北九州市立大学の竹川先生の言葉を
思い出す。

「優れたシステムは自律的に動く」

そうそう。
そういうやつ。

自律的に動くシステムをつくる。
ひとりひとりにフォーカスされるような。
ひとりひとりを大切にできるような。

そんなシステムをつくること。

継続することが目的ではなく、
ひとりひとりにフォーカスされ、
力が発揮できるようにするために、
システムをつくっていく。

それがこれからやることなのかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)日記

2017年01月17日

なぜ本屋だったのか?

なぜ本屋だったのか?
と聞かれるけど。
いろいろ理由はあるのだけど。

不登校の中学生の家庭教師をしたとか、
サンクチュアリ出版の営業をしたとか、
郡山のヴィレッジヴァンガードの店長とか、
インターン事業のプラットフォームが欲しかったとか。

いろいろ言語化されていることは
あるのだけれど。

今回の九州で、わかったこと。
やっぱり本屋だったんだなあということ。

箱崎・キューブリック・丸充酒店・見月さん
小倉・旦過市場・大學堂・竹川さん
天神・ひとつ星・屋台・白石さん
古湯・泊まれる図書館・キッチン10・白石さん
熊本・正統的周辺参加・ねぎぼうず・松尾さん
鹿児島・居場所・第3の場・本の処方箋・4人のスタッフ大学生と参加者

僕にとって本屋とは、
「新しい世界との境界」で、「コミュニケーション」で
「人と人が出会う」ところであり、
システムとしての「場」であり、
本への「愛」を届ける「実験場」であり、
「癒し」であり「多様性」であり「地域への愛」であり、
「参加の仕組み」であり、
固定された「居場所」ではなく「流動性」のある「第3の場」であり、
そして、「学び」にあふれた「劇場」だったのだ、と。

そんな「劇場」のような本屋を。
いや、本屋のような「劇場」を
この世につくっていくことこそ、
僕のミッションなのではないかと思った。

最後の鹿児島は、
ジャズセッションのようなライヴ感のあるイベントとなった。

「本の処方箋」もしてくれた参加者のひとりからメッセージをもらった。

~~~ここから引用

今日のお話を聞いて、悩みが解決した気がします。
診察のときに”いま満たされているのが悩み”って言いましたが、
たぶん、私は今まで人生の充実ばかり求め過ぎていたんだなって思いました。
だから、目的を果たした途端、
何を目的にして進めばいいか分からなくなって迷っていたんだと思います。
これからは、もっと場の楽しみを追い求めてみようと思います!笑

役割を果たすだけじゃなくて、色んな劇場で色んな役を演じてみようと思いました!
今までは、何か悩みがあると1人でひたすら考え込んで
落ち込んでしまうのが当たり前だったんですけど、
今日みたいに、あんなに楽しく落ち込まずに悩みを解決する方法があったんだなって、
終わった後で気がついてすごく衝撃でした笑

なんだか落ち着く場所で、すごく幸せな時間でした(o^^o)
今日のイベントが背中を押してもらうきっかけになった気がします。
処方していただいた本も読んでみます!本当にありがとうございました。

~~~ここまで引用

イベントでは、
「第3の場」と「居場所」について
参加者全員で考えるという、そんな話になった。
(打ち合わせと全然違う)

「人生を充実させる」には「役割」があることが大切だけど、
「場を楽しむ」には「役割」ではなく「役」を演じることが大切なのではないか。

「第3の場」は、
必ずしも空間ではなく、時間でもいいのだと。
いてもいい、と存在が許される空間・時間なのだと。
そういう時間と空間と関係性が「第3の場」をつくるのだなあと。

そしてそれは時間的継続性を持たず、
一瞬一瞬を楽しむ場になっている。

いい意味で無責任というか、
ゆるやかな「役」があるかもしれない、ということ。

おそらくはツルハシブックスが目指していた「本屋のような劇場」は、
そんな「場」だったのだろうと思う。

そういう「場」をつくるには、
本屋という「システム」はかなり魅力的なものと
なるのだろうなと改めて思った。

鹿児島のイベントを企画してくれた
4人の大学生のみなさん、ありがとうございました。

15日・鹿児島を目標に
予定を組んでいたら、
自分自身を問い直す。
とても有意義な時間となりました。

本当にありがとうございました。

最後に翌日の朝活で思ったこと。
主催の1人がさまざまな場所で自分を演じる、
というのを図解して書いていて、
それを支える「受け止める」「受け入れる」存在
という図解を書いていたけど、

そういう、ありのままを愛してくれる存在、
受け入れてくれる存在を、
きっと多くの人、特に中高大学生は必要としていて、

そんな存在に、本屋ならなれるんじゃないか。
きっとそれが僕が本屋である理由なのではないか。

だから、次は「畑のある本屋」なんだと、
自分の中でしっくりきた、九州縦断でした。
最後まで、大きな学びをありがとうございました。

写真は末吉くんが撮ってくれました。
  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)日記

2017年01月08日

食堂のような劇場





「未来食堂」にいってきました。
メニューは鮭のちゃんちゃん焼定食でした。


「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」(小林せかい 太田出版)
年末に読んだこの本が衝撃的過ぎて。

お店でこちら

「未来食堂ができるまで」(小林せかい 小学館)
を買いました。
いま読んでいます。

ランチを食べ終わったら、
なんと、ライフネット生命の出口さんが登場。
思わず3ショット。(笑)
「仕事に効く教養としての世界史」、読んでます。



で。
ランチだけではなく夜も行きました。
さすが山田さん@塩尻市役所。

そしたら、この写真です。


閉店時間の22時がせまってくると
突如始まるミュージカルのような時間。
お客さん全員で、お店の掃除です。
明日はサロン18禁という18歳以上は入場できない
イベントがあるので、すみずみまでピカピカにします。

このあと、ワックスまでかけました。
そして、最後にみんなで記念撮影。



1人が言いました。
「なんか、ラジオ体操の後みたいですね」

そうそう。
そういう感じ。
すがすがしい感じ。

今日も夏休み始まるぞ~、みたいな。

その店にたまたま居合わせた2人も
誘って、吉野家で乾杯しました。
なんか、人生史に残る2次会だったなあ。

「未来食堂」は、
食堂のような劇場でした。

なんでしょう、このすがすがしい敗北感は。

「本屋のような劇場」を
目指してきた僕としては、
圧倒的に敗北しました。

ツルハシブックスは、
「アートとビジネスとデザインのあいだ」
を目指してきましたが、

未来食堂は、
「目指したい未来」といういちご
が「遊び心」と「アート」という餡でくるまれ、
さらにそれを「ビジネス」というもちで包んだ、

「いちご大福」のような場所でした。

せかいさん、山田さん、みなさん
劇場のような1日を、ありがとうございました。

楽しかったです。

1月28日(土)
飯塚商店withツルハシブックスで
こちらの2冊を販売します。

購入いただいた方にはなんと!
「未来食堂」の何度でも使える100円引き券をプレゼントします。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)日記

2017年01月05日

「場」と「コミュニティ」のあいだ

必要なのは、「場」であって、
「コミュニティ」や「居場所」ではない。
プラットフォームとは、
「場」であって、「居場所」ではない。

まあ、日本語のニュアンスは難しいのだけども。

その「場」とは、
相互に作用する「学びの場」で
あるのではないか。

そこには少しばかりの緊張感があり、
少しばかりの安心感もある。

緊張感があるとすれば、
「自分が変わるかもしれない」という変化への恐怖かもしれないし、
安心感があるとすれば、
それは同じ学びをする「同志」としての感覚なのかもしれない。

一方で、人が「コミュニティ」を欲してしまうのに、無理はない。

人は、生き延びるために「コミュニティ」を
必要としてきた。

農村社会
職人や商人たちの組合
あるいは企業社会

そのコミュニティに属していることが
「生き延びる」ために必要だった。

しかし。
いまは、その前提は崩されている。

一部大企業や官公庁・自治体に属さない限り、
「コミュニティ」は生活を保証してくれない。

しかし。
人は「コミュニティ」を求める。

「場」が「コミュニティ」になってしまうことがある。

常連さんのついた居酒屋や喫茶店。
入り口を開けた時の「ギラッ」とにらまれる感じ。
なんとも言えず居心地が悪い。

ツルハシブックスもそのような状況に陥りつつあったのではないか。

僕にとって、価値があるのは、「機会提供」だ。
そこにたくさんの人が来て、本や人との出会いを
提供したいから本屋というスタイルにつながった。

それが「コミュニティ」を形成し、「居場所」利用が
進んでしまうと、そのような「機会提供」機能が損なわれる。

それには、
「アイデンティティ」という課題が存在するのだろうと思う。

私が私である意味。
私は何者なのか?という問いに答えられない不安。

それが、「コミュニティ」に属することで、
少し解消されるのだと思う。
マズローの欲求五段階説のような。

問題は
「場」と「コミュニティ」が両立しないことだ。

「場」は絶えず、「新しい風」を必要としている。
「コミュニティ」は世界をウチとソトに分け、
新しい人はソト側になってしまう。

これを「ゲストハウス」は性質上、
うまいこと仕組化しているのだろうと思う。

「場」と「コミュニティ」のあいだ。

おそらくはそこに「場」をつくっていくことだろうと思う。
具体的には「市場」のような空間なのかもしれない。

新しい人が入ってきて、
古い人も、ゆるやかにつながり、
それぞれの人が自分の「店=見世」を
やったりやらなかったりするような空間。

そんな空間をつくっていけたらいいなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)日記