プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





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2017年09月12日

「ふりかえり」と「自己評価」

http://hero.niiblo.jp/e484636.html
「近代」という「旧パラダイム」
(2017.4.30)

4月に書いた
「サヨナラ学校化社会」(上野千鶴子)
ブログを読み直す。

~~~ここから引用

自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない
従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。
しかも、「だれかのために」「なにかのために」という
大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を
受け入れることを「自尊感情」といいます。

(中略)

エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした
場所でもありました。
学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。
学校は優位者に対しても、彼らの人生を
なにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、
条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。

~~~ここまで引用

ここ数年テーマだった「大学生の自信の無さ」について。
昨日、話していて、ひとつの気づきがあった。

学校というのは、
他者評価を前提とした生き方を強いる。

あなたはできないんだ。凡人なんだ。
だから、努力しなきゃいけない。
努力して、安定した仕事につかないといけない。

それを学校の先生からも、
親からも強いられる。

そうやって、「労働者」を生み続けるシステム。
それが学校であり、学校化社会なのだろうな。

昨日の気づき。

「自信の無さ」がどこから来るのか。
それは、「他者評価への依存」からではないか。

他者からどう見えるか?
先生からどうしたら認めてもらえるか?

そればかりを気にして、
「評価されるように」行動する。

ところが。
大学生になったとき。
そこに評価してくれる大人はいない。
そもそも評価軸がない。

「他者評価」からの解放。

されたはずだった。
ところが、学校化社会の呪縛は大きい。

来たるべき「就活」や「就職」のために
いま何をしなければならないか。
どうすれば評価されるのか。
そんな問いを始めてしまう。
「効率化」とともに大きな「他者評価」の呪縛。

そもそも、人生に「失敗」など存在しないのかもしれない。
他者評価の檻の中にのみ「失敗」は存在するのかもしれない。

そのリハビリを始めていくこと。
それが大学1,2年生でやらなければ
いけないことなのかもしれない。
具体的に何をすればいいのか。

「ふりかえり」である。

何かやってみて、「ふりかえり」をする。
ひとりではなくて、何人かで
イベントスタッフやプロジェクトをやってみて、
「ふりかえり」の時間を大切にする。

自分自身への自己評価と、
一緒にやった仲間からのフィードバックがある。
それを同時にやっていくこと。

大学生は、だからこそ
「やってみる」、そして「ふりかえる」が大切なのだ。

僕がツルハシブックスで目指してきたのは、
「チャレンジと自覚しないでチャレンジを始める」という
機会を提供することだった。

そしていまやっているのは、
「ミーティング」と「ふりかえり」をエンターテイメント化すること。

「つながるカレー」の話を聞いて、
「予想しなかったこと」はよかったことも悪かったことも
彼らにとってはエンターテイメントなのだと知った。

それは明確な(経済的な)目的・目標を決めていない
アマチュアリズムからくるということを知った。

「そんな甘い考えでは、この厳しい経済社会を
渡り歩いていけない。」
と大人たちは言うかもしれない。

しかし、その考え方そのものが、
資本主義・学校化社会の呪縛であるのではないか。

人はみな、人生のアマチュアである。
目標など明確に決めずに、感性を信じて、「やってみる」。

そして「ふりかえる」こと。フィードバックをもらうこと。
自己評価こそが自信の源泉である。

自己肯定感の低い若者問題をどうするか?
は、多くの人たちが問いかけ、僕自身も考えてきた。

決して「ほめること」ではない。
「ほめる」ことは「他者評価」であるから。

そうではなく、
「ふりかえり」の手法を伝えること。
「ふりかえり」のエンターテイメント性を伝えること。
自己評価の機会を増やしていくこと。
そして「自己評価で生きている大人たち」に出会うこと。

そんなリハビリが必要なのかもしれないな、と。

なんかだんだん、僕がこれからやりたいことがわかってきました。
時間かかりすぎだけどね。
いいんだ、人生劇場は巨大な実験室なのだから。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)日記

2017年09月08日

「就職」という「間借り」

「就職」「就活」を変える
っていうのはどういうことなのだろう?

一方的に企業側が選ぶのではなくて
学生が自らPRして企業を選ぶ「逆求人」なんかを
仕掛けることだろうか。

あるいは、
地域の中小企業にアプローチできるように
インターンシップのプログラムを準備して
1,2年生のうちから実践的に実施することだろうか。

でも。
僕は本屋さんだ。
本屋さんができるアプローチはなんだろうか。

茨城が誇るサザコーヒーの話を聞いていて、
たくさんのエッセンスをもらった。

「自分の会社を一言で言うと、何ですか?」
「レッドオーシャンで生き残るには、トップで無ければならない。
トンがることに集中する。」
「お客さんがこの店を使ってる、っていう誇りを持つような店。」

などなど。

はたらくってなんだろう?
って問いをたくさんもらった。

本屋としてのアプローチは、「間借り」という
考え方を広めること。
すべて、間借りなのだと。

たとえるなら、船の一角に乗せてもらっているだけなんだ
っていうこと。

その船が大きければ、
1人への負荷は少ないし、
その船が小さければ、
1人の責任とやりがいも大きい。

いずれにしても、
その船に乗ることは、「間借り」なのだということ。

たまたま今、このタイミングで
同じ船に乗っているのだということ。

カタカナでいえば、「パートナーシップ」だ。

「行き先の方向性が近いので、
私も載ってもいいですか?
お役に立てるようにがんばります。」
ってそういう感じ。

船長が、「載せてやってるんだから」
とか偉い顔をして、命令口調で言われたら、
すぐに降りたほうがいい。

就職も3日間の小さなプロジェクトも、「間借り」にすぎない。

パートナーシップを組んで、
それぞれ独立しながら、個性や特技を生かした、
楽しい船旅をつくっていくことだと思う。

「就職」はいつでも降りられる船旅。
「就活」はその船えらび。

そんな感覚で、
就職するほうも、されるほうも考えられたらいいなと思う。

そんな船旅に出るとしたら、
あなたが誰と旅に出たいですか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)日記

2017年09月07日

好きがアートに変わるまで

サザコーヒー。
茨城が誇るコーヒーブランド。

「こだわり」
って言葉が安っぽく感じる。

内装。
装飾品。
そして庭。
もちろん従業員教育も。

あの空間の心地よさはどこから来るのだろうか。
「好き」の先にあるもの。

それはもはや「こだわり」ではなかった。

「哲学」だったし、「哲学」だった。
そう、アートだった。

それを感じるために
人はサザコーヒーに行くのだろうと。

印象的だったのは、
庭の木には黄色い花や赤色の花が咲くものはありません。
葉っぱは毎日掃き掃除をしています。
そこまでやるか、と。

神は細部に宿る。
これは、お店にこそ当てはまる。
そして、それを声高に語るわけじゃない。
そこに「美学」があるのだなあと。

その美学に共鳴した人
よくわからないけど、なんとなくいいなと思った人が
リピート客となるのだろう。

新潟のラーメンいっとうや
を思い出した。

西村佳哲さんの
「自分をいかして生きる」の島の図を
思い出した。

目に見える商品の下には
技術・知識があり
それを支える考え方・価値観があり
さらにそれをささえるあり方、存在があるのだという。

その深いところ。
そこに到達するにはどうしたらいいのか。

「好き」を追求することだ。
どこまでも追求すること。

深く深く掘り下げること。
それを掘っていくと、「哲学」や「芸術」に到達する。
アートになる。

スターバックスはコーヒーを売っているのではない
「サードプレイス(第3の場)」を打っているのだ。
はわかりやすく言葉化した成功例だけど。

わかりやすく説明することは
はたして美しいのだろうか?
という問いも一方である。

好きがアートに到達したとき。

おそらくそこに言葉は不要だ。
言葉にするとむしろ軽くなる。
その場所に来て、あなたの感性で感じてほしい。

そんな風に思った。
サザコーヒー本店は
常磐線勝田駅から徒歩10分ほどです。  

Posted by ニシダタクジ at 06:31Comments(0)日記

2017年09月06日

「ターゲット」と「お客」のあいだ



9月1日(金)
金沢・石引パブリックさんで
POPEYE「君の街から、本屋が消えたら大変だ!」
を購入。

どこかで買おうと思っていたのだけどね。
石引パブリックさんも掲載されています。
https://www.ishipub.com/

鳥取・定有堂書店の奈良さんのメッセージが
とっても素敵で。
心を打ち抜かれました。

「本屋の青空」か。

~~~ここから引用

目的を持って本屋に来たはずなのに、
徐々に緊張がほぐれ、
考える余地や次へのきっかけが生まれる。
この開放感を本屋の青空と呼びたい。

街の本屋の使命の一つは人を迷わせ、
探している本を諦めさせ、
意図せぬ本を手に取らせることなのです。

~~~ここまで

それそれ。
それだよ、本屋の使命は。
そんな青空を見せてやることだよ。

ニーズに応えるのでもなく、
ディズニーランドやリッツカールトンのように
ニーズをはるかに超えるのでもなく、
ニーズとは違った本を売ること。

それだよね。きっと。

僕の「本の処方箋」もそうありたいと思った。
いや、そこにこそ、ライブがあるのだと思った。

ネットで受け付けて、
1万円分の選書っていうのは、
僕には読んでいる本のジャンルが
狭すぎて無理だ。

でも、仕事やはたらく、に悩んでいる女子や
感性の高い男子には、話を聞いて、本を選ぶことができる。

そしてその本の
1冊目は、直球で答える本
2冊目は変化球で答える本

3冊目は話を聞いていて思い浮かんだ
まったく別の本。

その3冊目が
奈良さんのいう「青空」かもしれない。

いや、まだ曇り時々晴れくらいか。
そんな空間や場をつくっていきたいと思った素敵な1冊だった。

ニーズにまっすぐに答えないこと。
ターゲットを明確に設定しないこと。
中高生向けの店に中高生は行きたくないかもしれないのだ

そんなことを考えさせられた。
なんだか、いい問いもらったな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)日記

2017年08月25日

「手紙を届けた」瞬間に出会うために

「経営の神様」ドラッカーの5つの質問

1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

組織を経営するには、これらの質問に答える必要があるのだという。

これを船旅に例えると

1 目的地はどこか、地図と、それを指すコンパスは持っているか。
2 誰に会いに行くのか
3 渡すものは何か
4 何を持って帰ってくるのか
5 いつまでに

といったところだろうか。
1~3がわからないうちは、旅に出られない。
というか、旅とは言わないだろう。

実は、
「やりたいことをやりなさい」とか
「好きなことをやれ」というアドバイスは、

「顧客は自分である」と想定してやれって
いうことなんじゃないか。

だから、やっぱりやりながらでも、
その問いを抱えていたほうがいいのだろうと思う。

それが「どんな自分なのか」っていうことが
大切なんだと思う。

僕にとって「まきどき村」の顧客は、自分自身だった。

農学部に進学したのに、
畑をやったことがない自分が、
大工3年生の時に、
生まれて初めてサツマイモを育てた。

「苗を植えて、水やっただけでサツマイモができるなんて!」
とすごい衝撃だったし、喜びだった。

「みんなやったほうがいい」って思った。
(昨日のブログに「思い込み」と「思い上がり」ですね)

そして、
1999年4月10日オープン。(開村?)
最初の数か月は、ホント人来なかった。

そして迎えた8月1日の朝。
猛暑の夏に、神奈川からひとりのお客さん。

せっかくだからやりましょう、と
朝7時からの作業をする。
竹炭を焼くための竹切りから。
朝8時、すでに汗だく。

ひとりのおばあちゃんが通りがかる。

「なにしてんだ?」
「竹炭焼くための竹を切っているんです。」
「暑いのにたいへんだな~」

数分後、おばあちゃんが戻ってきた。
手にはたくさんのトマトが。
休憩しよう、とトマトを食べた瞬間。

「これか!」
って思った。

これをやりたかったんだ。
この瞬間をつくりたかったんだ。
それは、誰よりも、僕のために。
自分自身のために。

なんというか。
「生きてるぜ」っていうか。
そういうやつ。

そのとき、顧客に出会った。
自分自身だったけど。
「手紙を届けた」っていうか、
そういう感じ。

その瞬間なんだろうね。
それをどうつくっていくか。
それがキャリアにとってとても大切なことなのだと思う。

その瞬間をつかむ感性と
行動力が必要なのだと思った。
そのうちに顧客が自分から他人になるのかもしれないね。
あるいは他人と一体化した自分なのかも。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2017年06月23日

「なぜ」「いま」「私が」やるのか

イベント「稼ぐ地域ビジネスのつくり方。」でした。
15分講師初体験。
問いと事例紹介だけっていう
新しさ。

もっと事例を少なくしてもよかったなあと
思いました。

僕の感想は、
物語こそが原動力だと思った。

マクロな課題を出発点にするのではなく、
ミクロな個人的エピソードこそが出発点だと思った。

マクロな課題
・若者が少ない
・人が集まらない

というところからは、
当事者意識が生まれないので、
アクションが起こらないのではないかと思った。

個人的具体的エピソードは「物語」を生む。

昨日は少し話があったけど、

クラウドファンディングにとって必要なのは、
そのプロジェクトを「なぜ」「いま」「私」がやるのか?

という問いに答えることだと僕は思う。
それには個人的なストーリーが必要だと思う。

昨日のプレゼンでの3つの問い。

1 「稼ぐ」って何?:
あなたは何を稼ぎたいのか?

2 「顧客」は誰か?:
なぜ、茨城でビジネスしたいのか?

3 「ふりかえり」してますか?:
他者評価の檻を脱出し、人生を経営する

これって根源的な問いだと思う。
相手にとって、社会にとって、そして自分にとって価値は何か?
そんな問いを続けていくこと。

近江商人の三方よし
という考え方は
「自分よし相手よし世間よし」だといわれるが

思考の順番としては
「相手よし」「世間よし」「自分よし」
というようになっていくのではないか。

ドラッカーさんの言葉を借りれば
「世間よし」の前に「第2の顧客よし」っていうのが入るのかもしれないが。

そして、今日から読み始めたのはこの本。

「市場の倫理 統治の倫理」(ジェイン・ジェイコブス 日経ビジネス人文庫)

世の中には2種類の道徳、
市場の倫理(商人道)と統治の倫理(武士道)
があり、それらを混同すると腐敗が生まれるというもの。

どちらも道徳としてはもっともなのだろうけど、
これらは目的が違うので、
相互に相容れないのだという。

多様化した価値観では、
「何を稼ぎたいのか?」「顧客はだれか?」
に対する答えがひとりひとり違っているはずである。

そしてそれは非常にミクロでパーソナルなものになるはずだ。
そしてたぶん、そこからしか始まらない。

そこから始まる、小さなビジネス、いっぱいつくりたいなと感じた。
ドラッカーサイクルを小さく回す。

そこからいろんなものが開いていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)日記

2017年06月19日

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ

昨日は久しぶりの開催。
「何か企むミーティング」

なんとなく感覚で集まった
4人で新しいプロジェクトを考える時間。

特にゴールはないアイデアだしの時間。

15時スタートだったのだけど
14時に集まって、お菓子を食べながら話す。
その時間がすごくよかった。
僕は途中抜けていたのだけど
家族との関係について、いい話ができていたようだった。

アイドリングというかチューニングというか
そういう時間。
15時からものんびりと話しました。

みんな中学・高校の時に
いろんなことを抱えていて、
特に女子は同調圧力が強くて、
そこに馴染めない人にはつらいんだろうなって。
なんか共感してつらくなっちゃいました。

僕はそこかも、って。
「コミュニティ難民」的な人に、話を聞いて、本を届ける。

新城劇場ってそういうところかもしれない。
そういう人たちが集まって、
コミュニティではなくて、プロジェクトを立ち上げる。

ビジネスやろう。
っていうのは、
経済社会の土俵で、人とコミュニケーションしよう。
ってこと。

ビジネスモデルがこうで、
こうやって投資を回収します、
みたいなことじゃなくて、
もっとヒューマンスケールで始めてみるのがいいなと。

そしてそれは、プロジェクトとして起こしていくこと。
チームはコミュニティではなく、プロジェクトチーム。

「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、
所産を創造するために実施される有期性の業務である。」
(PMBOKの定義)

なるほど。
「独自」なものを「創造」するための「有期性」の仕事のこと、か。

有期性、つまり、「終わりがある」ということ。
だから、「ふりかえる」ということ。
「独自」なものを「創造」しなければならないということ。

それは決してコミュニティではない。
というか非営利活動が陥る「マンネリ」というのは、
プロジェクトがコミュニティに変質してしまっているのではないか。

そして、かつ、それは純粋なプロジェクトでもなく、
プロセスを大切にするということ。
アウトプットと同じくらい、ひとりひとりを大切にすること。

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ。
そういう感じのやつを、
「コミュニティ難民」なみんなと共につくりたい
っていうのが、僕にとっての新城劇場なのかもしれません。

場づくり×小商い×ゼミ(動的な学びの場)

その先に、僕と地域の未来があるような気がしています。



今回始まりそうなのは、「おとばたけ」プロジェクト。
なんだか面白そうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2017年06月11日

「余白」があるから開かされる


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

余白の話。

「町工場がひしめくものづくりの街、東大阪。
その街の看板には偽りが多いのだという。
「〇〇ミシン工業」「××バネ製作所」などと
記しているのに、実際はまったく違うものをつくっている。

東大阪の職人がよく口にする言葉は、
「どないかします。」である。」
こんな部品がつくれるかと聞かれれば、
決して無理だとは言わない。

次々と大企業の要望に応えるうち、
いつのまにか「本業」からずれていった。
偽りの看板は進化の証である」
という日本経済新聞『春秋』(13.5.10)からの抜粋。

これを読んだとき、
アサダさんは電車の中で思わず
声をあげてそうや!と頷いてしまったという。

そして、
アサダさんは、「余白」の重要性についてこう語る。

~~~ここから引用

工学者でボランティアネットワークについての
論考で知られる金子郁容は、その昔、
他者からの力が流れ込んでくるのに、
「ふさわしい場所を空けておく」ことの重要性を語った。

「変化への潜在的可能性、いわば存在の余白のようなもの」

その場所、余白を開けておくのが重要なのだ。
「自分はこれしかできない」とか
「自分はこれが専門だから」ということに固執しすぎると、
他者が与えてくれる力が流れ込んでくる「隙間」が生まれない。

「自分の可能性が他人によって開かされていく」
ことをもっと楽しんでいいのではなかろうか。

そう。とにかくここは一つ、
自分を使った「人体社会実験のようなものだ」
と考えるようになった時に、
ジメジメした不安は、
ドキドキとふわふわを携えた「未知」へと
変わっていく実感を持てたのだ。

未だ知り得ぬ自分は、
いまの自分ができることを鮮やかに裏切り、
いずれ「偽りの看板」と呼ばれるほどに、
その「専門」のかたちが
変えられていく可能性を示してくれる。

秋田住職はいつも、スタッフにこう話していた。
「人は、あなたに出会って、わたしになる」と。
この言葉の意味を、今改めて自分に引き寄せて
反復せざるを得ない。

~~~ここまで引用

そうそう。
「余白」って大事だ。
「余白」があるから、変化ができる。

「迷わずゆけよ、ゆけばわかるさ」

っていう
「道」という詩があるけれど、

前に道はない。
後ろにしか道はできない。
っていうのは、

未知を歩むから道になるのだなあと。

余白を残しておくことって
大事だなあと。

ひとりひとりに余白をつくっていく。

僕はそれを仕事にしたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 06:37Comments(0)日記

2017年06月05日

「他者評価」藩から脱藩する

だんだん謎が解けていく感じ。
これが学びの醍醐味なのだろうね。

やってみる
ふりかえる
といかける

まずはやってみる。
振り返りで違和感をキャッチし、
なぜ?と、問いかけること。

本を読んでみること。
またやってみること。

そんな学びの楽しさを知ること、体感すること。
それはもしかしたら自然の中での遊びから身につくのかもしれないね。

僕たちは、生きてきた「システム」によって、
一定の価値観を植え付けられている。

為政者たちが、
より効率的に統治できるように。
「近代」「資本主義」「国民国家」「民主主義」「学校教育」
という巨大なシステム。

堀江貴文さんが
「本音で生きる」(ソフトバンク新書)の中で
「自信がないのは経験不足だからだ。」
と言い切っていたけど、まさにその通りだなあと。

自信とは、
「やったことがある」というところから来るのかもしれない。
だから、自信をつける方法は、
「やってみる」を繰り返す他にはないのだ。
成功も失敗も、「経験」である。

しかしながら、
学校的価値観の中を生きていると、
だんだんと「固定的知能観」(人間の能力は生まれつき決まっていて、変化しない)
に染まっていき、挑戦するのが怖くなる。

「自信がない」は後天的に獲得した資質である
http://hero.niiblo.jp/e459844.html
(14.12.29)

かつて坂本龍馬は
土佐藩から「脱藩」したのだけど、
彼が脱藩したのは、土佐藩ではなくて、
既存の価値観や枠組みのことだったのだろう。

そんな小さいことを言っている場合か、
っていうことや、世界の動きを目の当たりにして、
脱藩するしかないってことになった。

いま。
僕たちが脱藩するべきは、
おそらくは「他者評価」主義を掲げる藩からの
脱藩だろう。

学校、大企業、政治、多くの近代のシステムが
他者評価を前提として出来上がっている。

そして、岡田斗司夫が言うように、
ネット社会の到来により、
ますます「評価」は重要となり、
評価経済社会がやってくるのだろう。

しかし。
そこで大切なのは、
「他者評価がすべてではない。」ではないということ。
「他者評価」を前提としないということ。

参考にする程度でとどめておくこと。

結局、人を幸せにしないのは、
他者評価依存であると僕は思う。

他者から評価されるほうはどちらだろう?
という思考のなかで人生を生きていくこと。

これは、
ある程度は「近代」というシステム上
仕方のないことかもしれない。
だから、完全に脱藩することはできないのかもしれない。

しかし、
一度だけでも、脱藩して、
それを空の上から見てみる。
そんな本屋をつくれたら面白いなあと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年06月02日

「プラットフォーム」と「デザイン思考」

蔦屋書店(TSUTAYA)を展開する
カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)
の増田社長は、その著書の中で、

「TSUTAYAは本を売ったことは一度もない」
と言い切っている。

参考:書店は本を売ってるから、ダメなのだ
http://hero.niiblo.jp/e457514.html
(14.11.18)

ツタヤは書店ブランド別の書籍売上で
紀伊國屋を抜いて1位となっている。

もはや「本」を
欲しているのではないと増田さんはいう。
ほしいのは「ライフスタイル提案」であると。

おそらく。
マスで言えば、これは正しいだろう。

だからこそ代官山をはじめとする
「蔦屋書店」ブランドが各地に出店されているのだろう。

昨日の話でいえば、
マーケティングの結果の話であると言えるだろう。
それがプラットフォームモデルである。
ネット時代の伸びるビジネスのモデルだと思う。

しかし、それとは別に、
顧客1人にフォーカスし、
新しい価値を生んでいくようなビジネスをつくる、
それがデザイン思考的なアプローチなのだろうと思う。

顧客は誰か?
顧客にとって価値は何か?

にフォーカスしていくことで、
次のビジネスが見えていく。

おそらく、この両輪が必要なのだろうと思う。
特に本屋はそうなのかもしれないな、と思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:31Comments(0)日記

2017年06月01日

「マーケティング」という仮説

http://www.buildinsider.net/enterprise/designthinking/02
「0から1を創り出すデザイン思考 ― 新たなイノベーション創出手法」

ドラッカーの5つの質問

1 ミッションは何か?
2 顧客は誰か?
3 顧客にとって価値は何か?
4 成果は何か?
5 計画は何か?

この200年。
その質問にきちんと答えてこなかったのではないか。

そして、「疎外」とは、この5つの質問に
答えられない状態に置かれるということ。
成果(目標)と計画しかない状況に
追い込まれることなのではないか。

進学校の高校生が
「そんなこと考えてないで勉強しろ」
と言われるのは、そういうことだ。

もちろん、
1~5の質問にていねいに答えようとすることは、
「非効率的」であり、4と5をひたすらに回していくほうが
「効率的」である。

さて。それでは、仮に人生が経営であるとするならば、
(毎度、この表現だ。)
あなたは「効率的」な人生を送りたいだろうか?

Yesという人はどのくらいいるのだろうか?

しかし、近代工業社会は、
そのシステムからして、人々に「効率性」を強いてきた。
「効率性」は大きな共通の価値であった。
他者のマネし、それを効率化することで、
(たとえば人件費の低い地域に工場を移転するなど)
あるいは効率化する「発明」をすることで、競争優位があった。

しかし、社会が成熟し、モノは行き渡り、
「効率性」が価値ではなくなったとき。

新たな「価値」(たとえば問題解決)を
生むために、どうしたらいいのか?

その方法論のひとつが
冒頭の「デザイン思考」である。

本文にあるように、
デザイン思考は徹底した「人」「現場」へのフォーカスで
観察し、共感し、問題発見をしていく。

簡潔に言えば、
「観察から洞察を得て、仮説を作り、プロトタイプを作って、
それを検証し、試行錯誤を繰り返して改善を重ねながら
モノ(製品/サービス)を創り出す」創造的なプロセス。(本文より)

そうやってぐるぐる回していくこと。
その出発点は「共感」だ。
ユーザーを見つけ、フィールドワークを
行い、その課題の本質を見つける。

これは、ドラッカーの
「顧客は誰か?」「顧客にとっての価値は何か?」
というプロセスとも言えるだろう。

本文中にも書かれているが、
マーケティングリサーチが有効に作用したのは、
「事前に解くべき問題が認識されていたから」
であるという。

そう。
近代工業社会においては、人口が増え続け、
「消費者」が多数存在した。

そして、その消費者の課題やニーズが
ある程度予想できた。
(たとえばファミリーレストランは
家族で行って騒がしくしても怒られずに
一定のメニューが安く提供される)

しかしながら、それを繰り返すと、
いわゆる「コモディティ化」(交換可能化)が起こり、
人は、アイデンティティを喪失しやすくなる。

サンクチュアリ出版の金子さんがいうように、
「手紙」のような本を出すことがヒットの条件であるように、
いま、世の中はマーケティングではなく、個別化、
個人の課題解決をどれだけ具体的にやれるか、である。

まずは個人をきちんと観察するところから、始まる。
その練習は、地域の現場で、できていく。
それを繰り返すことで、お客に出会えるかもしれない。

キャリアドリフトと、デザイン思考で
ドラッカーの2と3の質問に答えていくこと。

これがキャリアに必要なプロセスなのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2017年05月31日

「学校」は他者評価を「前提」としたシステム


「すべての教育は洗脳である」(堀江貴文 光文社新書)

1周まわって、みたいな読書。
こういうのも楽しい。

~~~以下一部引用

僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。
それによって幸せになれると
思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。
だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。

残念ながら、普通に暮らしている限り、
「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。

それは「常識」の洗脳が、
国家ぐるみで行われているからだ。
国家は、全国に4万6000箇所もの「出先機関」を設け、
この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。

その出先機関とは、「学校」だ。

知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。
主観の一切入り込まない事実(ファクト)にもとづく知、
それが知識である。

一方、常識とは「解釈」である。
主観の入りまくった、その時代、その国、
その組織の中でしか通用しない決まりごと。
それが常識である。

日本でよく見られる儒教的な道徳規範などは、
まさに「常識」の最たる例だ。

学校は、そこに通う人間を、
とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。
建前上は「個性を大切にしよう」
「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、
その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という
本音が潜んでいるのだ。

産業革命の時に庶民は、
「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」
という新しい働き方を得た。

読み書きそろばんができ、
指定された場所に毎日規則正しく通い、
リーダーの指示に耳を傾け、
言われた通りの作業に励む。

そんなサイクルをこなせる
「きちんとした大人」を大量に用意するには、
子どもの頃から仕込むのが手っ取り早い。

つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を
使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する
「工場」の一つだったのである。

今の学校も、この原則はまったく変わっていない。
学校で押し付けられるのは「工場=会社」の
予行練習のようなことばかりだ。

たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、
ボス=教師の言うことへの服従・・・

今の子どもたちも、
雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」
としての規格からはみ出ないよう、
「常識」をせっせと教え込まれているのである。

~~~ここまで引用

いやあ、怖い。
怖いです。
近代国民国家という壮大な仮説。

その中でも、僕が感じる、
一番つらいところは、

学校が「他者評価」を「前提」として
システムになっているところではないかと思う。
「他者評価」は「前提」とすべきではなくて、
あくまで「自己評価」の「参考」程度にとどめておいて方がいい

それが主体的に生きる、
ということであるだろうと思う。

すなわち、
主体性を評価するということの可笑しさ。

そもそも、他者評価を前提とした
システムの中で主体性のある子が育つのは
きわめて稀なのではないか。

そしてそれこそが生きづらさの源泉であるかもしれない。
先生からだけではなく、同級生からも
他者評価を受ける存在としての自分。

そうして比較が生まれ、
「劣等感」や「空気を読むこと」が起こっていく。
それが生きづらさの本質なのではないか。

他者評価を生きている限り、幸せにはなれない
と僕はかつて思ったことがあるけれど。

それは学校が構造的に抱えている課題なのではないか。

キャリア教育も同じだ。
学校というシステムの中で、
キャリアデザインという理論しか選択されないのは、

それ以外のキャリア理論が基本的に評価不能だからではないか。
キャリアドリフト、いわゆる計画された偶発性理論を採用しても、
子どもたちは、「いま、ドリフト中です」みたいなことを言って
前に進んでいるか後ろに戻っているのかよくわからない(笑)

大学生はキャリアを考える前に、
この学校というシステムについて、もう一度とらえなおす必要が
あるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)日記

2017年05月27日

be ambitious




クラーク博士。
わずか9か月札幌農学校に滞在。
Boys be ambitiousって言ったとか言わないとか。
定かではないそうだ。
https://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/boys-be-ambitious/
(北大の図書館のサイトより)

なのに、北海道大学を挙げての激推し。笑。

でも、いいなあって。
be ambitiousって状態のことですよね。

大志を抱いている状態のこと、
have a dreamじゃないもんね。
あり方を問いかけているんだなと。
どうあるか。

それにしてもミッションのある大学
って空気感がちがうなあと。

内田樹さんも言っていたけど、
キャンパスライフって、
そういう「ミッションに包まれる」っていう
経験もあるんだろうな。

もっと五感を動かすような、
場の力を生かした何かが必要なのかもしれないね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年05月24日

リスペクトより「心を開く」がほしい

過去の経験にどんな意味があるのだろうか?
それは自分にしか解釈できない。

僕がいつも話す、
2002年1月の不登校の中学生の話。

あれは、
「多様な大人との出会いの場が
中学生にとって必要なのではないか。」

そしてそれは、
いろんな職業でバリバリ活躍している
「カッコイイ大人」たちではないんじゃないか。

いまだに中学高校のキャリア教育の現場
で行われている「ロールモデル」モデル。
目標となるような大人に出会うこと。

最近では地域のNPOもそれをサポートしている。
しかし、そんな学校に呼ばれるような大人は、
いわゆる「ちゃんとしている」大人だ。
少なくとも週5日は働いているだろう。(笑)

そして、何よりも、
学校という四角い空間の力の無さ。
蛍光灯の明かりが象徴している
「効率性」がもっとも重要視された空間。

義務教育空間そのものが、
「効率性」をメッセージとして伝えている。

そうじゃない。
多様な価値観とは、
坂口恭平が「隅田川のエジソン」や「東京0円ハウス0円生活」
で描いたような人たちと出会うことによって得られるのだ。
そんな大人との出会いをつくりたい。
それがツルハシブックスの出発点だったと思う。

3年前、「本の処方箋」というコンテンツが始まり、
パワフルな機能に僕自身が驚いた。

「あなたの悩みに本を処方します。」

そう言っただけで、
初対面の人たちが、
自分のホントの悩みを話してくれるのだ。

それは、僕がカウンセラーではなく、
本屋のおじさんだから。

「どうせ、このおっさんに話しても、
本紹介してもらったぐらいでは、
悩みなんか解決されるはずもない。」
という安心感(?)が、本当の悩みを話させるのではないか。
素晴らしいコミュニケーションデザインだと思った。

そんな話をしているときに、友人から
「若者と向き合いたいんですね」と言われ、

あれ?っと思った。
いや、僕は向き合いたくないな、と。
本のほうを向いて、
その悩みは聞き流したい、と思った。

本の処方箋は、相手と向き合わないで、
本棚と向き合う。

そしてそのときの最大の気づきは、
「ああ、僕は共に悩みたいんだ」って思った。

中学生の彼と出会ったとき、
僕自身が無職だった、先行きがわからなくて不安だった。
だから、彼と一緒に悩みたかっんだと思った。

そして、昨日。
取材を受けたある人との対話。

西田さんって注目されたんでしたっけ?
なんか微妙に注目されすぎたくないような。
道化ですよね、ある種。

道化。
そうかも。

僕が最大にリスペクトしているのは、
「ホスピタルクラウン」の大棟耕介さん。
彼の生きる姿勢が大好きだ。
あとは、カリスマへの嫌悪感はたしかにある。

「カッコイイ大人」と出会い、リスペクトする。
しかしそれをロールモデル(目標)としては
いけないのではないか。
カリスマのファンになるのはいいのだが、
思考停止してはいけないのではないか。

絶望とは思考停止であり、
希望とは考え続けることだと思うから。

そういう意味では、僕が道化を演じるのは、
(演じているのかどうかわからないけど)
相手の心を開くためなのではないか。

そんな風に思った。
そして口をついて出た一言。

結局、リスペクトより心を開くのほうがほしいですもん。
そっか。って。

「心を開く」に価値を置いているんだ、と。
昨日、気がついた。
それは冒頭の中学生のエピソードにもうひとつの
意味を加えてくれる。

いろいろな事情があり、閉ざされた心。

それを、一緒に勉強したり、
ボードゲームのサッカーをしたり、
一緒に鍋をつくったり、
俺も将来わかんないんだよね~、って話すことによって、
徐々にほぐれて、心が開かれていったのではないか。

そしてそれが、もしかしたら
彼にとっての価値だったのかもしれない。

「心を開く」という価値へ
向かっていくのかもしれない。

すごい人だとリスペクトされるより、
本当はダメなおっさんなのだけど、
おもしろいところあるな、って思われていたほうが
相手は心を開きやすいのかもしれない。
まあ、それはきっと人によるけど。

過去のエピソードの意味が
またひとつ加わった。
答えも問いも、自らの過去にあり、
その問いに対する答えも無数にある。

そうやって、「コネクティングドット」はできてゆく。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)日記

2017年05月18日

ドラッカー・サイクル

PDCAサイクルは品質管理のサイクルである。

http://topmanagement.co.jp/faq/2012/03/pdca-1.php
「なぜ、PDCAはやめた方がいいのですか?」
~山下淳一郎が答えるドラッカーに関する質問~より

"PDCAがマネジメントのサイクルである"ということが世の常識になっています。
これは間違った常識です。
PDCAは機械でつくられた製品の不合格品の比率下げる品質管理の手法です。

なるほど。

品質管理のサイクル(PDCAサイクル)
PLAN(計画)   :どのように
Do(実行)    :実行する
Check(確認)  :確認する
Action(行動)  :行動する

ではなく、

マネジメントサイクル
何のために (われわれの事業は何か)
誰に (われわれの顧客は誰か)
何を (顧客の価値は何か)
何を成果として (われわれの成果は何か)
どのように (われわれの計画は何か)

を回すんだ、と言っている。

昨日、訪問先で、伺ったお話。
「地域活性化」の先に何があるのか?
「まちづくり」の「まち」とは、そもそも何か?
という問いをいただき、考えた。

近代工業社会は、
ひたすらにPDCAを回し続けた社会であると言えるだろう。

それはつまり、
ドラッカーのサイクルで言えば、
上のマネジメントサイクルと同じことだが、

1 ミッション(使命)は何か?
2 顧客はだれか?
3 顧客にとって価値は何か?
4 成果は何か?
5 計画は何か?

ここの4・5だけをひたすらに回し続けた
ということになるのだろう。
言い換えれば、
1~3を国や経営陣に任せてしまったのだ。

それは工場で、
日々、一部品を作っているようなものだ。

完成版をイメージすることなく、
田坂広志さんが語る石切り職人の逸話のように、
「多くの人を幸せにする教会をつくっているんだ」
っていうふうに思うことなく、ひたすらに部品を作り続ける。

そうして、「疎外」が起こる。

それは人生も同じだ。
人生を経営するには、何よりも
1~3が重要なのであって、4,5は方法論に過ぎない。

そして1~3を達成する方法は、
いわゆる「仕事」(マネーワーク)であるとは限らない。

高橋歩さんが著書の中で紹介していた、
妻のさやかさんの夢、「歩の妻を極めること」のように、

本来は、ひとりひとりにミッションがあり、顧客がいて、
顧客を幸せにする方法は100万通りあり、
それを本来は人を夢と呼んだのではないか。

いつのまにか、「夢」さえも、
工業社会のサイクルにからめとられて、
PDCAサイクルを回すことで、夢へと近づくような
教育がされているのではないか。

高校生や20歳のころ、多くの人が
「自分は何のために生きているんだろう?」
という問いを持っていたように思う。

それは、ドラッカー・サイクルでいえば、
1~3の問いであり、それにこたえられることを望んでいる。

しかし、就職して、会社ではいつのまにか、
4.5だけを回すようになる。
そうやって多くの人は人生から疎外されていくのではないか。

そして、中小企業でのインターンシップは
ドラッカー・サイクルを下から回していくこと、
それをかつて職人の世界では、
「正統的周辺参加」と呼んだのではないか。

計画に参加し、
目標にコミットし、
価値を生み出し、
顧客は誰かを問い、
最後にミッションを共有、あるいは創造するんじゃないか。

そしてそれこそが特に中小企業での社長と近い
インターンシップの価値であるのではないか。

なるほど。
そういうことか!

なんだかとってもうれしい発見をしたような。  

Posted by ニシダタクジ at 05:43Comments(0)日記

2017年04月22日

承認のスパイラル

「屋台のある図書館」
長野県の塩尻市立図書館の
入っている「えんぱーく」で
構想していたこと。

参考:「誰のための図書館?」(15.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e474463.html

高校生が屋台で何かを売るということ。
それは、地域を知る、そして好きになることにつながる。

ワークショップでよく使われるKJ法の生みの親
川喜田二郎氏によれば、
「ふるさととは、子どもながらに全力傾注して
創造的行為を行った場所のこと。」だと言う。
(「創造性とは何か」川喜田二郎 洋伝社新書より)

参考:「帰る場所、ふるさとをつくる」(15.5.14)
http://hero.niiblo.jp/e468419.html

いま、自分の育ったところが
「ふるさと」にならないのは、
そこに全力傾注するほどの創造的行為
をする場と機会がなかったからであると思う。

僕にとっての千葉県袖ケ浦市はまさにそうだ。
むしろ、まきどき村のある新潟市西蒲区福井こそが
僕にとってのふるさとである。

屋台で商売をすること、は
そんな創造的な何かなのではないか。

そしてそれは、
高校生の自信につながってくる。
承認欲求を商人欲求に。

これが
ハックツ×小商いのコンセプト

育ってきた環境が
「承認」を与えてくれないから、
ついつい人は承認を求めてしまう。

大学生が「ボランティア」とか「貢献」
という言葉にヒットするのは、
「親和的承認」の代わりに「一般的承認」
を求めてしまうからではないか。

そしてその土台のない承認は
負のスパイラルを生み出してしまうのではないか。
つまり、「承認」を求めて活動を繰り返す、
ことになってしまうのではないか。

それを「商人欲求」に変えていく。
駄洒落だけど、ね。笑。

物を売りたい。
どうやったら売れるだろう。

売れた。
うれしい。
買ってもらえた。
どうして買ってくれたんだろう。

そんなスパイラル
そこには、小さな承認がある。

承認されたい、という他力本願ではなく、
売ることで承認される、というモチベーションが上がる。

商人欲求を持つ。
ものを売ってみる。

小さな承認を得られる。
すると、自分に自信が持てるようになる。
そんなスパイラルに変えていけないだろうか。

そこには
「全力傾注する創造的行為」
が起こるかもしれない。

地域の大人とのコミュニケーションが生まれ、
たとえば農家さんのものを売ってみたりする。

そうやって、
そのまちは、高校生にとっての「ふるさと」に変わっていく。
同時に、高校生たちの承認欲求が満たされる。

地方創生の切り札って
「屋台のある本屋」なのではないかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:00Comments(0)日記

2017年04月14日

フェーズと人材

日々、会社のフェーズは変わる。
日々の仮説検証を経て、マイナーチェンジする。
あるいは、軌道に乗って、安定走行を目指す。

本来なら、そのタイミングで
人も入れ替えられたらいいのだけど、
そんなに柔軟性のある組織には作られていない。

立ち上げ期、変革期に必要な人材と、
安定走行への移行期に必要な人材は異なる。

だから、
起業家志向の人が、
伸び盛りのベンチャー企業に
就職を志向するのは、実はミスマッチが起こる可能性が高い。

なぜなら、
正社員を募集する時点で、
その会社は、事業は、ある程度
ビジネスプラン的にはうまくいき、
軌道に乗っていることが多いからだ。

そんなときに必要な人材は
「整えていく人材」であって、
「壊して、生み出していく」人材ではない。

むしろ、硬直化した組織にこそ、
起業家志向の人材がマッチする。

公務員や大企業で常識を打ち破っていくこと。
新しいものを生み出していくこと。

それを人材ひとりあたりではなく、
組織全体でできていくといいのだな。

西洋と東洋の融合。
岡倉天心の描いた世界がそこにも広がっている気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:44Comments(0)日記

2017年03月26日

夢を語れ

どうやるか?
ではなくて、
なぜやるか?

方法を語るのではなく、
夢を語れ。

きっとそのフェーズに戻したほうがいいのだろうね。

描く未来にワクワクしていないと、
仕事は作業になる。

その未来を描くところから、
もう一度やり直しだなと思った。

1人のリーダーにに求心力を期待するのではなく、
コンセプトに求心力を持たせること。
それをやらなければいけないのだな。

誰かが人生を賭けないプロジェクトは
成功しない。

いや、人生賭けたって、
うまくいかないプロジェクトはある。

それを誰かに期待するのではなく、
自分が動くしかないのかもしれないなと。

もう一回、
ワクワクする未来を描くところから、やり直そうかな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)日記

2017年03月19日

アーティストと作品の関係

アーティストは最初、作品によって見出される。

いい作品を何作か続けると、
そのアーティストの名前が売れる。

すると、そのアーティストの
名前で、作品を鑑賞したくなる人が増えてくる。

本で言えば、
有名著者の作品は発売前に
たくさんの予約が入る。

一方で、
一作品しかヒット作を生み出せなかった人は、
「一発屋」と称される。

その人の名前は、
すぐに消えてなくなる。

でも、作品は残る。
記憶にも残る。

アーティストの名前が売れてくると、
極端な話、作品の良さに関わらず売れる、という現象がおきる。

その人の作品だから買おう、ということが起こる。

著名な画家の無名時代の作品に、
何億円もの値段がつくような現象だ。

それは作品というよりは、
ネームバリュー、つまり世間的価値を
買おうということなのだろう。

アーティスト<作品
だったのが
だんだんとアーティスト=作品
になり、いつのまにかアーティスト>作品となるのだ。

しかし、それは、
アーティストの本望なのだろうか?

岡本太郎は、
「今日の芸術」(光文社知恵の森文庫)の中で、
芸術はわかろうとするものではないと説く。

そして、今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

と言う。
目の前の作品と対峙せよ。
対峙し、感じること。
そこから芸術鑑賞は始まるのだと。

「わからなさ」と向き合い、
自分なりの答えを出していくこと。
そんなことを説いた。

岡本太郎からすれば、おそらくは、
作品ではなく、名前が注目されることは、
あまり好ましいことではない。

アーティストであるならば、
作品を見て、作品を味わってほしいと思うはずだ。
そこに「作家の名前」は邪魔になる。

しかし。
作家にも「承認欲求」がある。
いい作品を書いたら、それを承認されたいし、賞賛されたい。

それは個人に向かってくるものであるから、
そこに、ジレンマがある。

作品を純粋に見てほしい。
でも、作家としての自分を認めてほしい。

その壁を作家自身が超えられるかどうか。
あるいは、世間が作家の名前を超えて、
作品を見ることができるか。

そんなことをふと考えたいい時間をもらった。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)日記

2017年03月13日

かつての市場が交換していたもの

かつての市場が
交換していたものは、
モノだったのだろうか。

小阪裕司さんの
「心の時代にモノを売る方法」(角川ONEテーマ21)を思い出す。



http://hero.niiblo.jp/e386148.html
200年隠れていた「贈与と交換」の経済
(2014.3.23 20代の宿題)

この本に引用されている山崎正和氏の本
「社交する人間」(中公文庫)

「経済の第一の系統は生産と分配の経済であって、
これは同質的で均一的な集団を形成しながら、
それによって生産物の効率的な増産を目標としてきた。

これに対して第二の系統をつくるのが贈与と交換の経済であって、
言葉を換えれば社交と商業の経済だといえる。」
(社交する人間より)

この第1の系統である
「生産と分配の経済」は、
共同体が「生き延びる」ために必要な経済であったと言えるだろう。

それに対して、
第2の系統である「贈与と交換の経済」は、
個人が楽しく豊かに「生きる」ための経済だったと言えるだろう。

なるほど。
そもそも市場の起源は、
贈与と交換の経済の実現場所だったのではないか。

かつて、コミュニティは基本的に
家族を単位とし、「自給自足」してきたはずだ。

そのあいだに「市場(いちば)」が成立していったのだと思う。
その市場で最初に取引されたものは、
おそらくは生活必需品というか、
生きるのに必須のものではなかっただろう。

すでに生きていくだけの何かはあった。
その余剰物を、交換するところから市場は始まっているはずだ。

そしてそこに旅人としての商人の存在があり、
旅先で手に入れた様々な珍しいものを売ったのだろう。

「商人はめぐりあった消費者に商品の物語を説き、
その心を魅惑する会話の成功とともに需要を創造したのであった。」

きっとそうだ。
かつて市場は、そもそも商品というよりも、
共感や驚きを売ってきたのではないか。
物語を売ってきたのではないか。

未知なるものを、共感という舞台を
出現させることで売る。それが市場なのではないか。
商人はそこで学び、技を磨く。

市場は、劇場であり、また学びの場であった。
未知なるものを知る場所であった。

「小商いをやってみる」
っていうのが少し流行っているようだけど、
もしかしたらそこには、根源的な「生」があるのではないか。

未知のものばかりが売っている市場では、
まずは感性がヒットする。
おや?と心が奪われる。
そこで商人が語る。

その物語や人の魅力に心惹かれて、
人はモノを買ったのではないか。

そのときに買っていたのは、
モノではなかったのだろう。
「共感」だったのだろう。

そういう意味では、
いま、世の中で動いている
「クラウドファンディング」は文字通り
「共感」を介して、お金が動いている。
つまり、共感を取引していると言えるのではないか。

「小商い」や「ナリワイ」と呼ばれるものは、
まさに生命的な本能がそちらに向かわせているのではないか。

「市場(いちば)」は交換の場であり、
エンターテイメントの場であり、学びの場でもあったのだろう。

たぶん、これから始まるプロジェクトって
そういうのをやりたいのだろうな、って思っている。

次のステージがだんだんと見えてくる。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)日記