プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 7人
オーナーへメッセージ

2017年11月18日

ドラクエ3のように地図が広がっていく

コクリエドリンクスvol.5でした。

菅原さんの話、おもしろかった~。
人と人をつなぎまくっているヒタチモン大學の
菅原さん。

人と人をつなぐときに、
考えていること。

1 個性(らしさ、スキル、客層)どうしがどうつながるか
2 個々の相性
3 各々の客層の相性

この、3の客層の相性っていう
発想はなかったので、面白いなあと。

そして、菅原さんのすごいところは、
マップに落とし込む、ということ。

コミュニティ生息域とかファン層の分布とか、
視覚的に理解しているところがすごいなと。

ヒタチモン大學は、
毎年、テーマを持ってやっている。

1年目は日立市内でイベントをする。
2年目は食のイベントに特化してやる。
⇒すると市外・県外の人が反応し、日立に来る。

3年目はひたすら外(日立市外)に出る
⇒ドラクエ3のように地図が広がっていく

4年目の今年は都内にターゲットを絞り、
茨城へ来てもらうように

きっかけは秋田のシェアビレッジ
http://sharevillage.jp/

ここに元日にいったら、
都内からかなりの人が来ていたということ、

これは茨城に必要な動きだ、
ということで都内から茨城への動きをつくろうとして、
これから「茨城移住計画」をスタート。

強調するテーマは、「スポーツ移住」
菅原さん自身がラグビーをやるために
水戸から日立へ転職・転居をしたこともあり、
そういうニーズがあるのではないかなと。

なるほど。
たしかに、スポーツコミュニティって
同じベクトルを共有しているから、仲良くなれる。

で、菅原さんの人脈の広げ方。

紙媒体(チラシ)配りは意味がない。
デジタルだけでも意味がない。

紙媒体であれば、渡す時の工夫を。
フェイスブックでもつながってから、
ハガキを書いて、メッセージを送る。

NGワードは「よろしくお願いします」
人はお願いされたくない。
考えなきゃいけないのは、何を与えるか。giveできるか。

ハガキに書くのは、
「とりわけ、この話が面白かったです」ということ。
そして「またお会いしたい」ということ。

そして、興味深かったのは、
ハガキというメディアの位置づけ。

ハガキというメディアを会社に送る
ということ。

メールでは、個人から個人への開いて、それで終わり。

ところが、ハガキだと、
何人かの手を介さないと届かない。

そして、もし、会社に送るとなると、
(もちろん家庭でも同じだけど)

そのほかの人にも目にとまる。
ハガキはオープンメディアだから、
この人からこの人へハガキ(しかもお礼状)が来たんだな
っていうのはみんなが認識する。

そこから始まる波がある。
たしかに。
そう思った。

菅原さんは、ハガキを書くのが好きなので、
ハガキというツールを使っている。
みんなも好きなツールを使ってやったらいいと。

そういう感じ。
リアルあってのデジタル。
ほんとそうだなと。

個性や才能の見つけ方は、
過去を掘っていくこと。
これはほんとその通りだと思った。

趣味は、スーパーやコンビニで
人が何をどう買うかを見ること。
「動線フェチ」なんだって言ってた。

その原点は
ゲームにあるのだという。

プレステ版の「ザ・コンビニ」
「シムシティー」のまちづくり
そしてドラゴンクエスト。

ドラクエ3では、
旅を進めると、だんだんと地図の範囲が
広がっていくのだという。

そして、
ドラクエにはもうひとつ大切な原則がある。

「会話しないと進めない」っていうこと。

誰かと話さないと先に進めないし。
みんなと話せば、誰かがヒントを持っている。
そうやって、菅原さんは人と人をつないできたのだ。

そんなリアルとデジタルのあいだ、
な本屋さんをつくりたいなあと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)日記

2017年11月10日

「手段が目的化」する危険

制度や仕組みはいつも危うさを抱えている。

「手段が目的化する」危険だ。

内田樹さんの
「大学教育は生き延びられるのか?」
http://lite.blogos.com/article/256652/

を読んだ。
まさにそれが起こっているのだ。

有効な手段だと、
その時は結論されたのだろうが、

それを検証され続けないと、
いつのまにか手段が目的化してしまう。

そして、これを読んで思ったのが、
「評価する」ということのむずかしさ。
公平な基準で評価をする。

ひとつひとつを数値化する。
それこそが目的を失わせるのではないかと思った。

新潟市は、小中学校に
コーディネーターなる人を入れて、
地域とのコラボレーションを進めている。

その報告会に愕然とした。
「うちの学校は年間何回、行事をやり、
何人の地域の方に参画していただきました」
みたいな報告ばかりだったのだ。

うそだろ、
なんのためにコーディネーターいれたんだよ?

って率直に疑問に思った。

~~~以下、上の記事から引用

授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、
それは教師にも学生自身にも予見できません。

英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に
格付けのためのものだからです。

TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で
最も格付けが客観的で精密なテストです。
だからみんなそのスコアを競うわけです。
競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。

「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が
「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。
格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。
そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。

狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、
広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。
それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が
自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。

「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。

大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。
あなたの大学がどういう大学であるのかは、
「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、
日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、
そういう考え方に日本中が同意しているのです。

本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、
格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。
研究教育活動がユニークであればあるほど
評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。

「ランダムさのないところに新たなものは生じない」
(Without the random, there can be no new thing)。
これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。

~~~以上引用

うわっ。
少子化時代を迎えた今、
大学の淘汰はやむをえないことなのだろう。
そしてそれは、明確な基準によってなされるべきだ。

うんうん。
たしかにそうだろう。

しかし、明確な評価基準を適用すればするほど、
ユニークなものは価値を失っていくのだ。
それはそのまま、若者のアイデンティティに
直結しているだろうと思う。

他者評価を得ようとすること、
それは、交換可能になる、とほぼ同義なんだ。

評価ではなく、「価値」を生み出そう。
目の前のお客に向き合い、「価値」を創り出そう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:10Comments(0)日記

2017年11月06日

ツルハシ号、出張します。

11月5日(日)
昨年のツルハシブックス店舗の閉店の日、
新たな出発に出ることにしました。

冬の間、ツルハシ号(ミゼット2)
は軽くて後輪駆動なので、雪道は走るのが
難しいので、スタットレスタイヤを履いていません。

なので、冬のあいだ、
太平洋側へ出張することになりました。

内野から五泉を抜けて、
旧三川村の道の駅「阿賀の里」でピットイン。

阿賀野川と紅葉があまりにもきれいだったので、
その後、川沿いに登って写真を撮りました。


お昼は喜多方ラーメン。
「ばんない」は推定80人くらい並んでいました。
で隣の松食堂へ。

これが大当たり!
チャーシューが激ウマ。


また行きたい。
その後、郡山を通らないルートで、
「道の駅 羽鳥湖高原」にピンと来て、
山登りを敢行。ツルハシ号、無理させた。


そしたら、羽鳥湖が穴場中の穴場でした。
きれいだった、羽鳥湖。

山を下って、白河市へ。
白河図書館、白河駅前をとおりすがったところで、
!!!
そういえば。

白河といえば。
EMANON!

オーナーの青砥さんつながりで、
2回ほど来たことがある、
白河駅前にある、高校生×地域のカフェ「EMANON」へ。




高校生が勉強してる!


中庭には畑!


まさかのピザ窯!


ウッドデッキも高校生と作ったんだって。


これが会員証。ポイントを貯めると、すごいことに・・・


地元の食材を利用したコラボメニュー


高校生が開発したプリン。


そして、この人が青砥妹こと、青砥侑紀さん。

もう、なんか、圧倒されました。
惹きつける魅力ある。

機能もも高校生が、勉強するでもなく、
レジ前にいたのだけど、

話を聞かせてもらったら、
毎日来るのだって言ってた。

で、ポイント貯めて、
肉じゃがつくってもらうんだって。

うわ、いいね。
そういう関係。

侑紀さん自身は高校生の時に、
料理だ!ということで、料理の道に進みつつ、
お菓子屋さんでお菓子作りを学んで、
いまは東京の大学生を休学中。

いや、なんていうかね。
最終的には人の魅力だなあと。
場のチカラって人の魅力だよって。
とっても吸い込まれそうになりましたよ。

こういう場づくりのお供として、ツルハシ号が
活用できたらいいなあと思いました。

ツルハシ号と本を持って、
いろんな場所に出張して、
数週間のあいだ、その場所に、
本棚と本とツルハシ号を置かせてもらう、
みたいなことができたらいいなと思います。

来年春まで、ツルハシ号、出張します。
興味のある方は、お問い合わせください。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)日記

2017年10月19日

「機会提供」をする「アンサングヒーロー」

本屋さんってなんだろう?
本屋さんの顧客は誰なんだろう?
顧客にとっての価値はなんだろう?
そんな根源的な問い。

地下古本コーナーHAKKUTSUがブレイクして、
取材を受けていて、いちばん困った質問は

「ハックツした若者にどうなってほしいですか?」
って聞かれること。

いや、別に、、、
みたいな。エリカ様みたいになってた。

僕の役割は
「本を売った瞬間」に完結しているのだ。

その人が本を読んだことで、どうなるのか?
はあまり興味がない。

ほんと、そうなんだ。
無責任だと言われようがそうなんだよね。

そんな、「機会提供」だけをしていきたい。
それは、「学校」や「教育」には不可能だからだ。

なにか大いなる「目的」のために、
いまを生きなければならない。
プロダクトを提供しなければいけない。

そんなこと、ないんじゃないかと。

機会を提供する、ということ。
それはそれだけで価値があるのではないか。

この前の居心地のいいカフェの話でもあったけど、
目的のない「余白」時間という機会を提供する、っていうのが
カフェの役割なのではないか。

そっか。
人は「目的のない」何かを必要としているのではないか。

もともと「本屋」ってそういう場所だったんじゃないかな。
「なんか面白いことないかなあ」って。
目的のない何か。
そういうのを欲しているんだな、きっと。

そこでなんらかの本に出会う。
人生が変わるほどの衝撃を受ける。

その時に、
本屋に感謝する人もたまにいるだろうけど、
ほとんどは、本そのもの、著者だったりに
感謝するだろう。
(僕は、甲府の春光堂さんにずいぶん助けられています。)

そんな「偶然」の「機会」を提供する
歌われざる英雄「アンサング・ヒーロー」
それが本屋さんなんだと思います。

センジュ出版の吉満さんと話したことを思い出したのでシェア。
http://hero.niiblo.jp/e476010.html
(2016.1.7 「本」というささやかな祈り)  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)日記

2017年10月11日

「承認欲求」と「他者評価」をイコールで結ばないこと

昨日書いた「他者評価」についてあらためて考える。

これは細かく言えば、
「世の中的に価値があるとされる他者からの評価」(たとえば、学校の先生)
ということになるだろう。
この場合、「他者」は経済的価値、単的に言えば「お金」だったりもする。

人が、学校化社会の中で
(※学校化社会についてはこちら http://hero.niiblo.jp/e484605.html )
「他者評価の檻」に入ってしまうのはなぜなのか。

おそらく、「承認欲求」であると思う。

アドラーは、その呪縛を
以下のように説明する。
(「嫌われる勇気」より http://hero.niiblo.jp/e438912.html )

・承認欲求は不自由を強いる
・他者からの承認を選ぶのか、承認なき自由を選ぶのか
・自由とは他者から嫌われることである
・幸せになる勇気には「嫌われる勇気」も含まれる

なるほど。
それが「嫌われる勇気」か。

だから、
他者評価の檻を脱出するためには、
まずは自らの「承認欲求」について、
存在を認めることが必要だ。

僕のおすすめは、
山竹伸二さんの「認められたいの正体」(講談社現代新書)
なのだけど、

「評価」ではなく「承認」を必要としている。
http://hero.niiblo.jp/e470668.html
(2015.7.16)

日本社会は、経済成長のため、
もっと具体的に言えば、家電や
生活必需品ではないものを売るために、
「個性化消費」というものを生み出した。

つまり、自分が自分らしくあるために、
消費をするということだ。

そうやって、
「承認欲求」を「他者評価欲求」へと
巧みに切り替えていったのではないか。

「承認」とは、
権威のある人から評価してもらう、
つまり「ほめてもらう」こととは異なる。

チームで何かやってみる。
ミーティングでチューニングを行い、個人の調子を確かめる。
プロジェクトの区切りで、チームメイトからフィードバックをもらう。

それは「承認」に満ちた場であるのかもしれない。

ビジネスの本質的には、
画一的な指標、あるいは「世の中的に価値のあるとされる人」
からの評価を求める必要などない。

ただ、顧客に対して、
価値を生み続けること。

それこそが仕事の意味であり、
そこには「承認」があるはずだ。

自分を評価する人を見るのではなく、
自分の顧客を見ること。話を聞くこと。
顧客にとっての価値は何か、考えること。
試してみること。実践すること。
やってみたあとで、フィードバックをもらうこと。

「承認欲求」と「他者評価」をイコールで結ばないこと。

「評価」がほしいのか、
「承認」がほしいのか、問いかけること。

「他者評価」の「他者」を
「顧客」や「チームメイト」に替えること。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)日記

2017年10月01日

「目的」を無くす、ズラす「場」の魅力



https://www.freddy-leck-sein-waschsalon.jp/

フレディ・レック ウォッシュサロン トーキョー
東横線学芸大学駅から徒歩15分ほどのところにある
7月にオープンした
クリーニング・コインランドリー・カフェの複合タイプ
洗濯のグッズも売っている。

周りにおしゃれなカフェがたくさんあるので
純粋なカフェ利用はいなかったみたいですが、
逆に言えば、みんな洗濯してる途中にお茶してるんだね。

昨日の武蔵新城のミーティングで話した、
みんなにとっての居心地のいい場所のミーティング。

おもしろかったのが
「日記を書きたくなる場所」

いいね、それ。
どういうときに人は日記を書きたくなるのだろう。

「目的」がないとき。
カフェに行って、お茶を飲んだ瞬間。
その時間、目的がなくなる。

その時間が心地がいい。
なるほど。

定有堂書店の奈良さんが
言っていた「本屋の青空」は
それかなあと。

店に入って本棚を眺めていると、
どんな本を買いに来たか忘れてしまうような本屋。
気が付くと、目的以外の本を買ってしまったような、
そんな空間。

目的を無くしたり、ズラしたり。
そういう空間、場がいいのかもしれない。

それが「余白」ってことなのかもしれない。
冒頭のウォッシュサロンも
洗濯機に洗濯物を投入した瞬間。
60分という空白の時間ができる。

その時間をどう過ごすのか?

その余白、余裕に、生まれてくる何かを
大切にするような場が求められているのかも。

いい仮説、できました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年09月12日

「ふりかえり」と「自己評価」

http://hero.niiblo.jp/e484636.html
「近代」という「旧パラダイム」
(2017.4.30)

4月に書いた
「サヨナラ学校化社会」(上野千鶴子)
ブログを読み直す。

~~~ここから引用

自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない
従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。
しかも、「だれかのために」「なにかのために」という
大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を
受け入れることを「自尊感情」といいます。

(中略)

エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした
場所でもありました。
学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。
学校は優位者に対しても、彼らの人生を
なにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、
条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。

~~~ここまで引用

ここ数年テーマだった「大学生の自信の無さ」について。
昨日、話していて、ひとつの気づきがあった。

学校というのは、
他者評価を前提とした生き方を強いる。

あなたはできないんだ。凡人なんだ。
だから、努力しなきゃいけない。
努力して、安定した仕事につかないといけない。

それを学校の先生からも、
親からも強いられる。

そうやって、「労働者」を生み続けるシステム。
それが学校であり、学校化社会なのだろうな。

昨日の気づき。

「自信の無さ」がどこから来るのか。
それは、「他者評価への依存」からではないか。

他者からどう見えるか?
先生からどうしたら認めてもらえるか?

そればかりを気にして、
「評価されるように」行動する。

ところが。
大学生になったとき。
そこに評価してくれる大人はいない。
そもそも評価軸がない。

「他者評価」からの解放。

されたはずだった。
ところが、学校化社会の呪縛は大きい。

来たるべき「就活」や「就職」のために
いま何をしなければならないか。
どうすれば評価されるのか。
そんな問いを始めてしまう。
「効率化」とともに大きな「他者評価」の呪縛。

そもそも、人生に「失敗」など存在しないのかもしれない。
他者評価の檻の中にのみ「失敗」は存在するのかもしれない。

そのリハビリを始めていくこと。
それが大学1,2年生でやらなければ
いけないことなのかもしれない。
具体的に何をすればいいのか。

「ふりかえり」である。

何かやってみて、「ふりかえり」をする。
ひとりではなくて、何人かで
イベントスタッフやプロジェクトをやってみて、
「ふりかえり」の時間を大切にする。

自分自身への自己評価と、
一緒にやった仲間からのフィードバックがある。
それを同時にやっていくこと。

大学生は、だからこそ
「やってみる」、そして「ふりかえる」が大切なのだ。

僕がツルハシブックスで目指してきたのは、
「チャレンジと自覚しないでチャレンジを始める」という
機会を提供することだった。

そしていまやっているのは、
「ミーティング」と「ふりかえり」をエンターテイメント化すること。

「つながるカレー」の話を聞いて、
「予想しなかったこと」はよかったことも悪かったことも
彼らにとってはエンターテイメントなのだと知った。

それは明確な(経済的な)目的・目標を決めていない
アマチュアリズムからくるということを知った。

「そんな甘い考えでは、この厳しい経済社会を
渡り歩いていけない。」
と大人たちは言うかもしれない。

しかし、その考え方そのものが、
資本主義・学校化社会の呪縛であるのではないか。

人はみな、人生のアマチュアである。
目標など明確に決めずに、感性を信じて、「やってみる」。

そして「ふりかえる」こと。フィードバックをもらうこと。
自己評価こそが自信の源泉である。

自己肯定感の低い若者問題をどうするか?
は、多くの人たちが問いかけ、僕自身も考えてきた。

決して「ほめること」ではない。
「ほめる」ことは「他者評価」であるから。

そうではなく、
「ふりかえり」の手法を伝えること。
「ふりかえり」のエンターテイメント性を伝えること。
自己評価の機会を増やしていくこと。
そして「自己評価で生きている大人たち」に出会うこと。

そんなリハビリが必要なのかもしれないな、と。

なんかだんだん、僕がこれからやりたいことがわかってきました。
時間かかりすぎだけどね。
いいんだ、人生劇場は巨大な実験室なのだから。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)日記

2017年09月08日

「就職」という「間借り」

「就職」「就活」を変える
っていうのはどういうことなのだろう?

一方的に企業側が選ぶのではなくて
学生が自らPRして企業を選ぶ「逆求人」なんかを
仕掛けることだろうか。

あるいは、
地域の中小企業にアプローチできるように
インターンシップのプログラムを準備して
1,2年生のうちから実践的に実施することだろうか。

でも。
僕は本屋さんだ。
本屋さんができるアプローチはなんだろうか。

茨城が誇るサザコーヒーの話を聞いていて、
たくさんのエッセンスをもらった。

「自分の会社を一言で言うと、何ですか?」
「レッドオーシャンで生き残るには、トップで無ければならない。
トンがることに集中する。」
「お客さんがこの店を使ってる、っていう誇りを持つような店。」

などなど。

はたらくってなんだろう?
って問いをたくさんもらった。

本屋としてのアプローチは、「間借り」という
考え方を広めること。
すべて、間借りなのだと。

たとえるなら、船の一角に乗せてもらっているだけなんだ
っていうこと。

その船が大きければ、
1人への負荷は少ないし、
その船が小さければ、
1人の責任とやりがいも大きい。

いずれにしても、
その船に乗ることは、「間借り」なのだということ。

たまたま今、このタイミングで
同じ船に乗っているのだということ。

カタカナでいえば、「パートナーシップ」だ。

「行き先の方向性が近いので、
私も載ってもいいですか?
お役に立てるようにがんばります。」
ってそういう感じ。

船長が、「載せてやってるんだから」
とか偉い顔をして、命令口調で言われたら、
すぐに降りたほうがいい。

就職も3日間の小さなプロジェクトも、「間借り」にすぎない。

パートナーシップを組んで、
それぞれ独立しながら、個性や特技を生かした、
楽しい船旅をつくっていくことだと思う。

「就職」はいつでも降りられる船旅。
「就活」はその船えらび。

そんな感覚で、
就職するほうも、されるほうも考えられたらいいなと思う。

そんな船旅に出るとしたら、
あなたが誰と旅に出たいですか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)日記

2017年09月07日

好きがアートに変わるまで

サザコーヒー。
茨城が誇るコーヒーブランド。

「こだわり」
って言葉が安っぽく感じる。

内装。
装飾品。
そして庭。
もちろん従業員教育も。

あの空間の心地よさはどこから来るのだろうか。
「好き」の先にあるもの。

それはもはや「こだわり」ではなかった。

「哲学」だったし、「哲学」だった。
そう、アートだった。

それを感じるために
人はサザコーヒーに行くのだろうと。

印象的だったのは、
庭の木には黄色い花や赤色の花が咲くものはありません。
葉っぱは毎日掃き掃除をしています。
そこまでやるか、と。

神は細部に宿る。
これは、お店にこそ当てはまる。
そして、それを声高に語るわけじゃない。
そこに「美学」があるのだなあと。

その美学に共鳴した人
よくわからないけど、なんとなくいいなと思った人が
リピート客となるのだろう。

新潟のラーメンいっとうや
を思い出した。

西村佳哲さんの
「自分をいかして生きる」の島の図を
思い出した。

目に見える商品の下には
技術・知識があり
それを支える考え方・価値観があり
さらにそれをささえるあり方、存在があるのだという。

その深いところ。
そこに到達するにはどうしたらいいのか。

「好き」を追求することだ。
どこまでも追求すること。

深く深く掘り下げること。
それを掘っていくと、「哲学」や「芸術」に到達する。
アートになる。

スターバックスはコーヒーを売っているのではない
「サードプレイス(第3の場)」を打っているのだ。
はわかりやすく言葉化した成功例だけど。

わかりやすく説明することは
はたして美しいのだろうか?
という問いも一方である。

好きがアートに到達したとき。

おそらくそこに言葉は不要だ。
言葉にするとむしろ軽くなる。
その場所に来て、あなたの感性で感じてほしい。

そんな風に思った。
サザコーヒー本店は
常磐線勝田駅から徒歩10分ほどです。  

Posted by ニシダタクジ at 06:31Comments(0)日記

2017年09月06日

「ターゲット」と「お客」のあいだ



9月1日(金)
金沢・石引パブリックさんで
POPEYE「君の街から、本屋が消えたら大変だ!」
を購入。

どこかで買おうと思っていたのだけどね。
石引パブリックさんも掲載されています。
https://www.ishipub.com/

鳥取・定有堂書店の奈良さんのメッセージが
とっても素敵で。
心を打ち抜かれました。

「本屋の青空」か。

~~~ここから引用

目的を持って本屋に来たはずなのに、
徐々に緊張がほぐれ、
考える余地や次へのきっかけが生まれる。
この開放感を本屋の青空と呼びたい。

街の本屋の使命の一つは人を迷わせ、
探している本を諦めさせ、
意図せぬ本を手に取らせることなのです。

~~~ここまで

それそれ。
それだよ、本屋の使命は。
そんな青空を見せてやることだよ。

ニーズに応えるのでもなく、
ディズニーランドやリッツカールトンのように
ニーズをはるかに超えるのでもなく、
ニーズとは違った本を売ること。

それだよね。きっと。

僕の「本の処方箋」もそうありたいと思った。
いや、そこにこそ、ライブがあるのだと思った。

ネットで受け付けて、
1万円分の選書っていうのは、
僕には読んでいる本のジャンルが
狭すぎて無理だ。

でも、仕事やはたらく、に悩んでいる女子や
感性の高い男子には、話を聞いて、本を選ぶことができる。

そしてその本の
1冊目は、直球で答える本
2冊目は変化球で答える本

3冊目は話を聞いていて思い浮かんだ
まったく別の本。

その3冊目が
奈良さんのいう「青空」かもしれない。

いや、まだ曇り時々晴れくらいか。
そんな空間や場をつくっていきたいと思った素敵な1冊だった。

ニーズにまっすぐに答えないこと。
ターゲットを明確に設定しないこと。
中高生向けの店に中高生は行きたくないかもしれないのだ

そんなことを考えさせられた。
なんだか、いい問いもらったな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)日記

2017年08月25日

「手紙を届けた」瞬間に出会うために

「経営の神様」ドラッカーの5つの質問

1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

組織を経営するには、これらの質問に答える必要があるのだという。

これを船旅に例えると

1 目的地はどこか、地図と、それを指すコンパスは持っているか。
2 誰に会いに行くのか
3 渡すものは何か
4 何を持って帰ってくるのか
5 いつまでに

といったところだろうか。
1~3がわからないうちは、旅に出られない。
というか、旅とは言わないだろう。

実は、
「やりたいことをやりなさい」とか
「好きなことをやれ」というアドバイスは、

「顧客は自分である」と想定してやれって
いうことなんじゃないか。

だから、やっぱりやりながらでも、
その問いを抱えていたほうがいいのだろうと思う。

それが「どんな自分なのか」っていうことが
大切なんだと思う。

僕にとって「まきどき村」の顧客は、自分自身だった。

農学部に進学したのに、
畑をやったことがない自分が、
大工3年生の時に、
生まれて初めてサツマイモを育てた。

「苗を植えて、水やっただけでサツマイモができるなんて!」
とすごい衝撃だったし、喜びだった。

「みんなやったほうがいい」って思った。
(昨日のブログに「思い込み」と「思い上がり」ですね)

そして、
1999年4月10日オープン。(開村?)
最初の数か月は、ホント人来なかった。

そして迎えた8月1日の朝。
猛暑の夏に、神奈川からひとりのお客さん。

せっかくだからやりましょう、と
朝7時からの作業をする。
竹炭を焼くための竹切りから。
朝8時、すでに汗だく。

ひとりのおばあちゃんが通りがかる。

「なにしてんだ?」
「竹炭焼くための竹を切っているんです。」
「暑いのにたいへんだな~」

数分後、おばあちゃんが戻ってきた。
手にはたくさんのトマトが。
休憩しよう、とトマトを食べた瞬間。

「これか!」
って思った。

これをやりたかったんだ。
この瞬間をつくりたかったんだ。
それは、誰よりも、僕のために。
自分自身のために。

なんというか。
「生きてるぜ」っていうか。
そういうやつ。

そのとき、顧客に出会った。
自分自身だったけど。
「手紙を届けた」っていうか、
そういう感じ。

その瞬間なんだろうね。
それをどうつくっていくか。
それがキャリアにとってとても大切なことなのだと思う。

その瞬間をつかむ感性と
行動力が必要なのだと思った。
そのうちに顧客が自分から他人になるのかもしれないね。
あるいは他人と一体化した自分なのかも。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2017年06月23日

「なぜ」「いま」「私が」やるのか

イベント「稼ぐ地域ビジネスのつくり方。」でした。
15分講師初体験。
問いと事例紹介だけっていう
新しさ。

もっと事例を少なくしてもよかったなあと
思いました。

僕の感想は、
物語こそが原動力だと思った。

マクロな課題を出発点にするのではなく、
ミクロな個人的エピソードこそが出発点だと思った。

マクロな課題
・若者が少ない
・人が集まらない

というところからは、
当事者意識が生まれないので、
アクションが起こらないのではないかと思った。

個人的具体的エピソードは「物語」を生む。

昨日は少し話があったけど、

クラウドファンディングにとって必要なのは、
そのプロジェクトを「なぜ」「いま」「私」がやるのか?

という問いに答えることだと僕は思う。
それには個人的なストーリーが必要だと思う。

昨日のプレゼンでの3つの問い。

1 「稼ぐ」って何?:
あなたは何を稼ぎたいのか?

2 「顧客」は誰か?:
なぜ、茨城でビジネスしたいのか?

3 「ふりかえり」してますか?:
他者評価の檻を脱出し、人生を経営する

これって根源的な問いだと思う。
相手にとって、社会にとって、そして自分にとって価値は何か?
そんな問いを続けていくこと。

近江商人の三方よし
という考え方は
「自分よし相手よし世間よし」だといわれるが

思考の順番としては
「相手よし」「世間よし」「自分よし」
というようになっていくのではないか。

ドラッカーさんの言葉を借りれば
「世間よし」の前に「第2の顧客よし」っていうのが入るのかもしれないが。

そして、今日から読み始めたのはこの本。

「市場の倫理 統治の倫理」(ジェイン・ジェイコブス 日経ビジネス人文庫)

世の中には2種類の道徳、
市場の倫理(商人道)と統治の倫理(武士道)
があり、それらを混同すると腐敗が生まれるというもの。

どちらも道徳としてはもっともなのだろうけど、
これらは目的が違うので、
相互に相容れないのだという。

多様化した価値観では、
「何を稼ぎたいのか?」「顧客はだれか?」
に対する答えがひとりひとり違っているはずである。

そしてそれは非常にミクロでパーソナルなものになるはずだ。
そしてたぶん、そこからしか始まらない。

そこから始まる、小さなビジネス、いっぱいつくりたいなと感じた。
ドラッカーサイクルを小さく回す。

そこからいろんなものが開いていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)日記

2017年06月19日

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ

昨日は久しぶりの開催。
「何か企むミーティング」

なんとなく感覚で集まった
4人で新しいプロジェクトを考える時間。

特にゴールはないアイデアだしの時間。

15時スタートだったのだけど
14時に集まって、お菓子を食べながら話す。
その時間がすごくよかった。
僕は途中抜けていたのだけど
家族との関係について、いい話ができていたようだった。

アイドリングというかチューニングというか
そういう時間。
15時からものんびりと話しました。

みんな中学・高校の時に
いろんなことを抱えていて、
特に女子は同調圧力が強くて、
そこに馴染めない人にはつらいんだろうなって。
なんか共感してつらくなっちゃいました。

僕はそこかも、って。
「コミュニティ難民」的な人に、話を聞いて、本を届ける。

新城劇場ってそういうところかもしれない。
そういう人たちが集まって、
コミュニティではなくて、プロジェクトを立ち上げる。

ビジネスやろう。
っていうのは、
経済社会の土俵で、人とコミュニケーションしよう。
ってこと。

ビジネスモデルがこうで、
こうやって投資を回収します、
みたいなことじゃなくて、
もっとヒューマンスケールで始めてみるのがいいなと。

そしてそれは、プロジェクトとして起こしていくこと。
チームはコミュニティではなく、プロジェクトチーム。

「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、
所産を創造するために実施される有期性の業務である。」
(PMBOKの定義)

なるほど。
「独自」なものを「創造」するための「有期性」の仕事のこと、か。

有期性、つまり、「終わりがある」ということ。
だから、「ふりかえる」ということ。
「独自」なものを「創造」しなければならないということ。

それは決してコミュニティではない。
というか非営利活動が陥る「マンネリ」というのは、
プロジェクトがコミュニティに変質してしまっているのではないか。

そして、かつ、それは純粋なプロジェクトでもなく、
プロセスを大切にするということ。
アウトプットと同じくらい、ひとりひとりを大切にすること。

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ。
そういう感じのやつを、
「コミュニティ難民」なみんなと共につくりたい
っていうのが、僕にとっての新城劇場なのかもしれません。

場づくり×小商い×ゼミ(動的な学びの場)

その先に、僕と地域の未来があるような気がしています。



今回始まりそうなのは、「おとばたけ」プロジェクト。
なんだか面白そうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2017年06月11日

「余白」があるから開かされる


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

余白の話。

「町工場がひしめくものづくりの街、東大阪。
その街の看板には偽りが多いのだという。
「〇〇ミシン工業」「××バネ製作所」などと
記しているのに、実際はまったく違うものをつくっている。

東大阪の職人がよく口にする言葉は、
「どないかします。」である。」
こんな部品がつくれるかと聞かれれば、
決して無理だとは言わない。

次々と大企業の要望に応えるうち、
いつのまにか「本業」からずれていった。
偽りの看板は進化の証である」
という日本経済新聞『春秋』(13.5.10)からの抜粋。

これを読んだとき、
アサダさんは電車の中で思わず
声をあげてそうや!と頷いてしまったという。

そして、
アサダさんは、「余白」の重要性についてこう語る。

~~~ここから引用

工学者でボランティアネットワークについての
論考で知られる金子郁容は、その昔、
他者からの力が流れ込んでくるのに、
「ふさわしい場所を空けておく」ことの重要性を語った。

「変化への潜在的可能性、いわば存在の余白のようなもの」

その場所、余白を開けておくのが重要なのだ。
「自分はこれしかできない」とか
「自分はこれが専門だから」ということに固執しすぎると、
他者が与えてくれる力が流れ込んでくる「隙間」が生まれない。

「自分の可能性が他人によって開かされていく」
ことをもっと楽しんでいいのではなかろうか。

そう。とにかくここは一つ、
自分を使った「人体社会実験のようなものだ」
と考えるようになった時に、
ジメジメした不安は、
ドキドキとふわふわを携えた「未知」へと
変わっていく実感を持てたのだ。

未だ知り得ぬ自分は、
いまの自分ができることを鮮やかに裏切り、
いずれ「偽りの看板」と呼ばれるほどに、
その「専門」のかたちが
変えられていく可能性を示してくれる。

秋田住職はいつも、スタッフにこう話していた。
「人は、あなたに出会って、わたしになる」と。
この言葉の意味を、今改めて自分に引き寄せて
反復せざるを得ない。

~~~ここまで引用

そうそう。
「余白」って大事だ。
「余白」があるから、変化ができる。

「迷わずゆけよ、ゆけばわかるさ」

っていう
「道」という詩があるけれど、

前に道はない。
後ろにしか道はできない。
っていうのは、

未知を歩むから道になるのだなあと。

余白を残しておくことって
大事だなあと。

ひとりひとりに余白をつくっていく。

僕はそれを仕事にしたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 06:37Comments(0)日記

2017年06月05日

「他者評価」藩から脱藩する

だんだん謎が解けていく感じ。
これが学びの醍醐味なのだろうね。

やってみる
ふりかえる
といかける

まずはやってみる。
振り返りで違和感をキャッチし、
なぜ?と、問いかけること。

本を読んでみること。
またやってみること。

そんな学びの楽しさを知ること、体感すること。
それはもしかしたら自然の中での遊びから身につくのかもしれないね。

僕たちは、生きてきた「システム」によって、
一定の価値観を植え付けられている。

為政者たちが、
より効率的に統治できるように。
「近代」「資本主義」「国民国家」「民主主義」「学校教育」
という巨大なシステム。

堀江貴文さんが
「本音で生きる」(ソフトバンク新書)の中で
「自信がないのは経験不足だからだ。」
と言い切っていたけど、まさにその通りだなあと。

自信とは、
「やったことがある」というところから来るのかもしれない。
だから、自信をつける方法は、
「やってみる」を繰り返す他にはないのだ。
成功も失敗も、「経験」である。

しかしながら、
学校的価値観の中を生きていると、
だんだんと「固定的知能観」(人間の能力は生まれつき決まっていて、変化しない)
に染まっていき、挑戦するのが怖くなる。

「自信がない」は後天的に獲得した資質である
http://hero.niiblo.jp/e459844.html
(14.12.29)

かつて坂本龍馬は
土佐藩から「脱藩」したのだけど、
彼が脱藩したのは、土佐藩ではなくて、
既存の価値観や枠組みのことだったのだろう。

そんな小さいことを言っている場合か、
っていうことや、世界の動きを目の当たりにして、
脱藩するしかないってことになった。

いま。
僕たちが脱藩するべきは、
おそらくは「他者評価」主義を掲げる藩からの
脱藩だろう。

学校、大企業、政治、多くの近代のシステムが
他者評価を前提として出来上がっている。

そして、岡田斗司夫が言うように、
ネット社会の到来により、
ますます「評価」は重要となり、
評価経済社会がやってくるのだろう。

しかし。
そこで大切なのは、
「他者評価がすべてではない。」ではないということ。
「他者評価」を前提としないということ。

参考にする程度でとどめておくこと。

結局、人を幸せにしないのは、
他者評価依存であると僕は思う。

他者から評価されるほうはどちらだろう?
という思考のなかで人生を生きていくこと。

これは、
ある程度は「近代」というシステム上
仕方のないことかもしれない。
だから、完全に脱藩することはできないのかもしれない。

しかし、
一度だけでも、脱藩して、
それを空の上から見てみる。
そんな本屋をつくれたら面白いなあと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年06月02日

「プラットフォーム」と「デザイン思考」

蔦屋書店(TSUTAYA)を展開する
カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)
の増田社長は、その著書の中で、

「TSUTAYAは本を売ったことは一度もない」
と言い切っている。

参考:書店は本を売ってるから、ダメなのだ
http://hero.niiblo.jp/e457514.html
(14.11.18)

ツタヤは書店ブランド別の書籍売上で
紀伊國屋を抜いて1位となっている。

もはや「本」を
欲しているのではないと増田さんはいう。
ほしいのは「ライフスタイル提案」であると。

おそらく。
マスで言えば、これは正しいだろう。

だからこそ代官山をはじめとする
「蔦屋書店」ブランドが各地に出店されているのだろう。

昨日の話でいえば、
マーケティングの結果の話であると言えるだろう。
それがプラットフォームモデルである。
ネット時代の伸びるビジネスのモデルだと思う。

しかし、それとは別に、
顧客1人にフォーカスし、
新しい価値を生んでいくようなビジネスをつくる、
それがデザイン思考的なアプローチなのだろうと思う。

顧客は誰か?
顧客にとって価値は何か?

にフォーカスしていくことで、
次のビジネスが見えていく。

おそらく、この両輪が必要なのだろうと思う。
特に本屋はそうなのかもしれないな、と思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:31Comments(0)日記

2017年06月01日

「マーケティング」という仮説

http://www.buildinsider.net/enterprise/designthinking/02
「0から1を創り出すデザイン思考 ― 新たなイノベーション創出手法」

ドラッカーの5つの質問

1 ミッションは何か?
2 顧客は誰か?
3 顧客にとって価値は何か?
4 成果は何か?
5 計画は何か?

この200年。
その質問にきちんと答えてこなかったのではないか。

そして、「疎外」とは、この5つの質問に
答えられない状態に置かれるということ。
成果(目標)と計画しかない状況に
追い込まれることなのではないか。

進学校の高校生が
「そんなこと考えてないで勉強しろ」
と言われるのは、そういうことだ。

もちろん、
1~5の質問にていねいに答えようとすることは、
「非効率的」であり、4と5をひたすらに回していくほうが
「効率的」である。

さて。それでは、仮に人生が経営であるとするならば、
(毎度、この表現だ。)
あなたは「効率的」な人生を送りたいだろうか?

Yesという人はどのくらいいるのだろうか?

しかし、近代工業社会は、
そのシステムからして、人々に「効率性」を強いてきた。
「効率性」は大きな共通の価値であった。
他者のマネし、それを効率化することで、
(たとえば人件費の低い地域に工場を移転するなど)
あるいは効率化する「発明」をすることで、競争優位があった。

しかし、社会が成熟し、モノは行き渡り、
「効率性」が価値ではなくなったとき。

新たな「価値」(たとえば問題解決)を
生むために、どうしたらいいのか?

その方法論のひとつが
冒頭の「デザイン思考」である。

本文にあるように、
デザイン思考は徹底した「人」「現場」へのフォーカスで
観察し、共感し、問題発見をしていく。

簡潔に言えば、
「観察から洞察を得て、仮説を作り、プロトタイプを作って、
それを検証し、試行錯誤を繰り返して改善を重ねながら
モノ(製品/サービス)を創り出す」創造的なプロセス。(本文より)

そうやってぐるぐる回していくこと。
その出発点は「共感」だ。
ユーザーを見つけ、フィールドワークを
行い、その課題の本質を見つける。

これは、ドラッカーの
「顧客は誰か?」「顧客にとっての価値は何か?」
というプロセスとも言えるだろう。

本文中にも書かれているが、
マーケティングリサーチが有効に作用したのは、
「事前に解くべき問題が認識されていたから」
であるという。

そう。
近代工業社会においては、人口が増え続け、
「消費者」が多数存在した。

そして、その消費者の課題やニーズが
ある程度予想できた。
(たとえばファミリーレストランは
家族で行って騒がしくしても怒られずに
一定のメニューが安く提供される)

しかしながら、それを繰り返すと、
いわゆる「コモディティ化」(交換可能化)が起こり、
人は、アイデンティティを喪失しやすくなる。

サンクチュアリ出版の金子さんがいうように、
「手紙」のような本を出すことがヒットの条件であるように、
いま、世の中はマーケティングではなく、個別化、
個人の課題解決をどれだけ具体的にやれるか、である。

まずは個人をきちんと観察するところから、始まる。
その練習は、地域の現場で、できていく。
それを繰り返すことで、お客に出会えるかもしれない。

キャリアドリフトと、デザイン思考で
ドラッカーの2と3の質問に答えていくこと。

これがキャリアに必要なプロセスなのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2017年05月31日

「学校」は他者評価を「前提」としたシステム


「すべての教育は洗脳である」(堀江貴文 光文社新書)

1周まわって、みたいな読書。
こういうのも楽しい。

~~~以下一部引用

僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。
それによって幸せになれると
思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。
だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。

残念ながら、普通に暮らしている限り、
「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。

それは「常識」の洗脳が、
国家ぐるみで行われているからだ。
国家は、全国に4万6000箇所もの「出先機関」を設け、
この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。

その出先機関とは、「学校」だ。

知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。
主観の一切入り込まない事実(ファクト)にもとづく知、
それが知識である。

一方、常識とは「解釈」である。
主観の入りまくった、その時代、その国、
その組織の中でしか通用しない決まりごと。
それが常識である。

日本でよく見られる儒教的な道徳規範などは、
まさに「常識」の最たる例だ。

学校は、そこに通う人間を、
とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。
建前上は「個性を大切にしよう」
「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、
その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という
本音が潜んでいるのだ。

産業革命の時に庶民は、
「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」
という新しい働き方を得た。

読み書きそろばんができ、
指定された場所に毎日規則正しく通い、
リーダーの指示に耳を傾け、
言われた通りの作業に励む。

そんなサイクルをこなせる
「きちんとした大人」を大量に用意するには、
子どもの頃から仕込むのが手っ取り早い。

つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を
使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する
「工場」の一つだったのである。

今の学校も、この原則はまったく変わっていない。
学校で押し付けられるのは「工場=会社」の
予行練習のようなことばかりだ。

たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、
ボス=教師の言うことへの服従・・・

今の子どもたちも、
雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」
としての規格からはみ出ないよう、
「常識」をせっせと教え込まれているのである。

~~~ここまで引用

いやあ、怖い。
怖いです。
近代国民国家という壮大な仮説。

その中でも、僕が感じる、
一番つらいところは、

学校が「他者評価」を「前提」として
システムになっているところではないかと思う。
「他者評価」は「前提」とすべきではなくて、
あくまで「自己評価」の「参考」程度にとどめておいて方がいい

それが主体的に生きる、
ということであるだろうと思う。

すなわち、
主体性を評価するということの可笑しさ。

そもそも、他者評価を前提とした
システムの中で主体性のある子が育つのは
きわめて稀なのではないか。

そしてそれこそが生きづらさの源泉であるかもしれない。
先生からだけではなく、同級生からも
他者評価を受ける存在としての自分。

そうして比較が生まれ、
「劣等感」や「空気を読むこと」が起こっていく。
それが生きづらさの本質なのではないか。

他者評価を生きている限り、幸せにはなれない
と僕はかつて思ったことがあるけれど。

それは学校が構造的に抱えている課題なのではないか。

キャリア教育も同じだ。
学校というシステムの中で、
キャリアデザインという理論しか選択されないのは、

それ以外のキャリア理論が基本的に評価不能だからではないか。
キャリアドリフト、いわゆる計画された偶発性理論を採用しても、
子どもたちは、「いま、ドリフト中です」みたいなことを言って
前に進んでいるか後ろに戻っているのかよくわからない(笑)

大学生はキャリアを考える前に、
この学校というシステムについて、もう一度とらえなおす必要が
あるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)日記

2017年05月27日

be ambitious




クラーク博士。
わずか9か月札幌農学校に滞在。
Boys be ambitiousって言ったとか言わないとか。
定かではないそうだ。
https://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/boys-be-ambitious/
(北大の図書館のサイトより)

なのに、北海道大学を挙げての激推し。笑。

でも、いいなあって。
be ambitiousって状態のことですよね。

大志を抱いている状態のこと、
have a dreamじゃないもんね。
あり方を問いかけているんだなと。
どうあるか。

それにしてもミッションのある大学
って空気感がちがうなあと。

内田樹さんも言っていたけど、
キャンパスライフって、
そういう「ミッションに包まれる」っていう
経験もあるんだろうな。

もっと五感を動かすような、
場の力を生かした何かが必要なのかもしれないね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)日記

2017年05月24日

リスペクトより「心を開く」がほしい

過去の経験にどんな意味があるのだろうか?
それは自分にしか解釈できない。

僕がいつも話す、
2002年1月の不登校の中学生の話。

あれは、
「多様な大人との出会いの場が
中学生にとって必要なのではないか。」

そしてそれは、
いろんな職業でバリバリ活躍している
「カッコイイ大人」たちではないんじゃないか。

いまだに中学高校のキャリア教育の現場
で行われている「ロールモデル」モデル。
目標となるような大人に出会うこと。

最近では地域のNPOもそれをサポートしている。
しかし、そんな学校に呼ばれるような大人は、
いわゆる「ちゃんとしている」大人だ。
少なくとも週5日は働いているだろう。(笑)

そして、何よりも、
学校という四角い空間の力の無さ。
蛍光灯の明かりが象徴している
「効率性」がもっとも重要視された空間。

義務教育空間そのものが、
「効率性」をメッセージとして伝えている。

そうじゃない。
多様な価値観とは、
坂口恭平が「隅田川のエジソン」や「東京0円ハウス0円生活」
で描いたような人たちと出会うことによって得られるのだ。
そんな大人との出会いをつくりたい。
それがツルハシブックスの出発点だったと思う。

3年前、「本の処方箋」というコンテンツが始まり、
パワフルな機能に僕自身が驚いた。

「あなたの悩みに本を処方します。」

そう言っただけで、
初対面の人たちが、
自分のホントの悩みを話してくれるのだ。

それは、僕がカウンセラーではなく、
本屋のおじさんだから。

「どうせ、このおっさんに話しても、
本紹介してもらったぐらいでは、
悩みなんか解決されるはずもない。」
という安心感(?)が、本当の悩みを話させるのではないか。
素晴らしいコミュニケーションデザインだと思った。

そんな話をしているときに、友人から
「若者と向き合いたいんですね」と言われ、

あれ?っと思った。
いや、僕は向き合いたくないな、と。
本のほうを向いて、
その悩みは聞き流したい、と思った。

本の処方箋は、相手と向き合わないで、
本棚と向き合う。

そしてそのときの最大の気づきは、
「ああ、僕は共に悩みたいんだ」って思った。

中学生の彼と出会ったとき、
僕自身が無職だった、先行きがわからなくて不安だった。
だから、彼と一緒に悩みたかっんだと思った。

そして、昨日。
取材を受けたある人との対話。

西田さんって注目されたんでしたっけ?
なんか微妙に注目されすぎたくないような。
道化ですよね、ある種。

道化。
そうかも。

僕が最大にリスペクトしているのは、
「ホスピタルクラウン」の大棟耕介さん。
彼の生きる姿勢が大好きだ。
あとは、カリスマへの嫌悪感はたしかにある。

「カッコイイ大人」と出会い、リスペクトする。
しかしそれをロールモデル(目標)としては
いけないのではないか。
カリスマのファンになるのはいいのだが、
思考停止してはいけないのではないか。

絶望とは思考停止であり、
希望とは考え続けることだと思うから。

そういう意味では、僕が道化を演じるのは、
(演じているのかどうかわからないけど)
相手の心を開くためなのではないか。

そんな風に思った。
そして口をついて出た一言。

結局、リスペクトより心を開くのほうがほしいですもん。
そっか。って。

「心を開く」に価値を置いているんだ、と。
昨日、気がついた。
それは冒頭の中学生のエピソードにもうひとつの
意味を加えてくれる。

いろいろな事情があり、閉ざされた心。

それを、一緒に勉強したり、
ボードゲームのサッカーをしたり、
一緒に鍋をつくったり、
俺も将来わかんないんだよね~、って話すことによって、
徐々にほぐれて、心が開かれていったのではないか。

そしてそれが、もしかしたら
彼にとっての価値だったのかもしれない。

「心を開く」という価値へ
向かっていくのかもしれない。

すごい人だとリスペクトされるより、
本当はダメなおっさんなのだけど、
おもしろいところあるな、って思われていたほうが
相手は心を開きやすいのかもしれない。
まあ、それはきっと人によるけど。

過去のエピソードの意味が
またひとつ加わった。
答えも問いも、自らの過去にあり、
その問いに対する答えも無数にある。

そうやって、「コネクティングドット」はできてゆく。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)日記