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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年04月15日

「テーマと問い」、「プロジェクトと自分」の往還



マイプロ勉強会は長野県教委の内堀さんでした。
昨年2月のSCHで衝撃を受けたプレゼンふたたび。
シビれまくってました。

http://hero.niiblo.jp/e490352.html
差別化や資源化ではなく(20.2.25)

~~~以下前回の内堀さんの話を聞いて

僕は今まで、何をして、何を考えてきたのだろうか?
・他の高校と、どうやって「差別化」するか。
・ネットN高と違って、「全日制」で、かつ「地方」で、何ができるか。
・まちの資源や課題をどうやって「教育資源化」するか。

そんな浅い問いたちを一蹴してくれた講演だった。
・そもそも、何のために高校教育はあるんだっけ?
・だれの幸せを願って、あなたはここにいるんですか?
・あなたがそこにいる意味はなんですか?
胸の奥底にある、そんな問いを掘り出されるような、えぐりだされるような、そんな時間。

~~~ここまで。

今回も刺激だらけの時間でした。

~~~以下メモ

予測困難な時代に大切なもの
【最上位の目的】
一人ひとりが、豊かで幸福な人生とよりよい社会の創り手になること
個人と社会のwell-beingの達成(※well-being幸福、良好な状態、満たされる状態)
↑その達成のために
1 一人ひとりが、そのために必要な力(資質・能力)と意思を持つこと
2 一人ひとりの存在やいのち、そこから立ち上がる願い等を大切にすること

【長野県が進める高校改革・学びの改革】
学びのカタチ=「新しい時代」に必要な力(資質・能力)を育むための
〇「探究的な学び」(主体的対話的で深い学び、アクティブラーニング)
〇「個別最適な学び」(生徒個々に合った自律的な学び)
〇学校内外の多様で異年齢の人々との「協働的な学び」
〇個々の生徒と結びつき現実社会と一体となった「リアルな学び」
〇感動や発見にあふれた「ワクワクする学び」

★多様性を受容し、失敗を許容する環境
(哲学)対話による内省、同調圧力の排除、自己肯定感・学ぶ意欲の向上

学びの改革によって目指す学校の姿
1 教員(指導者)主導の「教育」⇒生徒(学習者)主体の「学び」
2 学校に閉じた、頭の中の「勉強」⇒「現実社会と、Actionを通じてつながった市民としての「学び」
3 集団を成立させるための同質的な個の育成⇒多様な個と多様性のある集団の尊重
4 うまくいくこと、戦って勝つことの追求、チャレンジすることと、失敗することと、共に考え創ることの推奨
5 Equality(平等)の提供⇒Equity(公正)の提供
6 同調圧力によりいることがつらい場所⇒自己開示や対話により学びを深められる、楽しくて、行きたい場所
7 他者との比較による相対的・偏差値的評価⇒生徒が自分軸に基づいて振り返り、自分の成長に繋げられる指標(新しい学びの指標)

★新しい時代における学校・教育の意味や価値の追求

長野県・高校改革のページ
https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/gakko/saihen/joho/manabinokaikaku.html

「探究的な学び」の捉え方
「楽しい」「おもしろい」「自然」の復権(人工的な20世紀型「学校」教育への違和感の払拭)
自分の人生・学校づくり・よりよい社会づくり等の「当事者」としての自覚
「生徒発」の重視=学校の教育活動の中心に学習者である生徒を捉えること
「帰納」と「演繹」の往還(個別最適な学び+協働的な学び)
「共通性の確保と多様性への対応」

探究サイクルの回し方
1 課題設定(趣味・想い・好き)
2 情報収集(アカデミック⇔ストリート Actionと協働)
3 整理分析
4 まとめ・表現(全体を通じ、様々な人の対話とリフレクション(ふりかえり)
探究の質を上げる=生徒の変容⇒マイプロジェクト

【探究のつくり方】
社会課題と生徒自身の興味関心と+α(SDGs、SSH、地域などの学校特有のテーマ)
社会課題(テーマ)は最初は教員が示す

生徒の探究テーマ
「行きつ戻りつ、「テーマ」を具体的な「問い」に落とし込む中で
生徒が自分と向き合い、確信を見出していく=探究活動が主体性の育成とともにキャリア教育たる理由

【カリキュラムマネジメントにおける探究的な学びとマイプロ】
1 生徒育成方針から教育課程編成・実施方針へ
2 生徒育成方針を達成するための「探究的な学び」を軸として教科等が相互に関連付けられた教育課程のあり方を学校全体で検討
3 その際、マイプロのスタートアップ、中間報告会、県サミットなどの企画と関連付け
4 教育課程編成、学習評価、学校評価、授業改善などの中心となる部署を明確化し、その実質化・活性化を図るとともに、日常的に連携する仕組みを構築
5 PDCAサイクルとともに、より短期のAAR(Anticipation-Action-Reflection)サイクルを回す

【これからの学校】

(これまでの学校)
個々の教員の自主的・主体的実践や工夫、スーパーティーチャーの存在
+学校(チーム・組織)としての統一的な価値観、統一的方向性(手法は個々に異なっても)

(これからの学校)
「すべての学習者が一人の人間として全人的に成長し、その潜在能力を引き出し、個人、コミュニティ、そして地球のウェルビーイングの上に築かれる私たちの未来の形成に携わっていくことができるように支えていく」学校

~~~以上メモ

「まなびの動的平衡」が必要なのだ、と思った。

「往還する」ということ。
自分だけの探究テーマを見つけるには、
「テーマと問い」を往還し、「プロジェクトと自分」を往還していくこと。

「仕事」は、
「自分」(パーソナルなありのままの自分)と「社会」(社会人としての自分)
との往還であると言える。

「まなび」も、
「自分」(パーソナルなありのままの自分)と「学習活動」(学習者・プロジェクト実施者としての自分)
との往還であるのかもしれない。

この場合の「社会人としての自分」や「学習者としての自分)は、
僕の言い方で言えば、

「場と一体化した、場の構成員としての自分」である。
だから「自分」と「場」の往還であるとも言える。

「自分を知る」という意味では、そういう「動的平衡」が必要なのだ。

だからこそ、「ふりかえり」をするのだ。
プロジェクトを振り返るだけではなくて、自分の感情を振り返るのだ。
印象の残ったこと、疑問に思ったこと、面白いと思ったことを言語化し続けることによって、ようやく自分が分かっていくのだ。

何か構造的に見えてすっきりした日になりました。
内堀さん、ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:16Comments(0)日記

2021年03月20日

なんのために「評価」するのか?

同志、法政大学長岡先生の紹介。
https://www.hosei.ac.jp/pickup/article-20210304092713/

「私立文系」志望の高校生で
「学び」そのものを深めたい人は、法政大学経営学部をオススメします。

最近、僕の使うキーワードが
だいぶ長岡先生に寄って来たなあと思ってきてました。
「地域みらい留学」って「越境」そのものだよなあと。
そしてそれは、地元高校生にとっても、「越境」になる。

「越境」して「他者」に出会う。
「異質」な「他者」と協働する「場」をつくり、
「発見」「創造」する。

そんなことが価値なのではないか?
と考えていたところこの記事。

「越境」が過程で「アンラーニング」が結果。
なるほどなあと。

この一節を引用します。

~~~
近年、大学は社会から「人材育成」の場と見られている現実がありますが、大学教育と人材育成は明確に違うものです。それは、誰がお金を払っているかを考えてみればわかる通り、人材育成とは企業が利益を追求するための「手段としての学習」です。一方、学習者自身がお金を払う大学教育はもっと自由で多様な価値観に溢れた活動であり、4年間の経験を通じて、広い意味で人間としてより良くなっていくことが、大学の活動としての学びです。与えられた条件の中で目的を達成するトレーニングのような「手段化された学習」だけでは、予見困難で多様な価値観に溢れる未来を切り開こうとするマインドセットを醸成するのは難しいように思います。企業にとって人材育成の効率化は重要なテーマですが、学生一人ひとりが試行錯誤しながら、目指すべき社会の未来像を描いていくプロセスそのものが、大学における「学び」の重要な一部を構成していると私は考えています。
~~~

これ、激しく同意します。
そして、僕が高校というフィールドでやりたいのも、まさにこれだと。
「手段化された学習」は端的に言って「つまらない」のです。

それは高校生のプロジェクトの発表を聞いていても同じです。
「〇〇のために、〇〇という活動をしています」

いや、わかるけれども。
子育て支援とかLGBTとかゴミの削減の課題とか、
それに取り組む当事者性が欲しいんですよ。
いや、それは、始まる前ではなくて、事後的にあらわれるのかもしれない。

やってみて、振り返った時に、あらわれるのかもしれない。
発見されるのかもしれない。
だから、「ふりかえり」をするんです。

結果検証、成長を測定するためにふりかえるのではないのです。
学びの「過程」として「ふりかえり」があるのです。

「評価」のためにふりかえりがあるのではないのです。
教育には、目的があり、目標があり、その達成度を測るために評価があったはずです。
いつのまにか「評価」はシステムの「前提」となり、さらには「評価」が「目的」や「目標」となり、「学習」が手段化されてしまいました。

「シャドーカリキュラム(隠されたカリキュラム)」の恐ろしさは、その文化を身体化してしまうことです。

評価を前提とした学校システムの中で育った人たちは、社会的活動のすべてに対して評価を前提とするようになり、「趣味」と「仕事」の境界線を分けるし、「仕事」は(比較的つらい)評価を受ける苦痛の場となってしまいます。「評価」を前提としたシステムの中で、成績優秀者でなければ、「自分らしく」あることは著しく困難であると、言えるでしょう。

そこのいまこの瞬間の「学びの喜び」はありません。

プロジェクトもそう。
「なぜ、あなたが、いま、そのプロジェクトに取り組まなければならないのか?」

そんな問いに応えられるか?
そう答えられるか?ではなくて、応えられるか?なのです。
そこに他者が納得するロジックは必要ないのです。

「このような出来事があって、こう強く感じたから。」
そんなストーリーを聞きたいのです。

目の前の出来事にどう感じたか?
を大切にしていってほしいと思います。
そして、「感じる」ためには、「越境」が有効です。

「越境」して「他者」に出会う。
「異質」な「他者」と協働する「場」をつくり、
「発見」「創造」する。

価値や喜びは他者からの高評価にあるのではなくて(そう感じる人がいてもいいとは思うけど)、発見・創造の瞬間にある。
アイデンティティを発見・創造する場の構成員としての自分として位置づけていくこと。
もうひとつは、継承者であるという物語の構成員としての自分。
この2つの構築。

これが、僕の考える「アイデンティティ危機」に対抗する方法です。
そしてそれは、地方の(田舎の)高校だからこそ可能になる、と僕は思っています。

さて、今年は、長岡さんと何かやろうかな。  

Posted by ニシダタクジ at 05:48Comments(0)日記

2021年03月17日

定義することで失われるもの

福島発!地域・高校教育コーディネーターの資質・能力とは?
のメモ。

【コーディネーター】
★トライ(3つの)セクターリーダー

【コーディネーターの担う機能】
1 高校におけるコーディネート機能:
・地域社会とかかわる教育課程のコーディネート
・地域側との連絡調整・情報提供
・学校への地域資源の活用
・地域系部活動等、教育課程外
・地域との連携・協働に係る研修の企画・実施

2 地域におけるコーディネート機能
・地域資源(人・もの・こと・課題等)の掘り起こし
・学校側との連絡調整・情報提供
・学校外での高校生を含む活動の企画・支援
・地域留学等新しい人の流れをつくる企画・調整
・卒業生とのつながり構築や活動支援

3 協働体制におけるコーディネート機能
・組織体制の構築・運営(ビジョン・計画づくり、事業・会議の運営等
・外部資源獲得(ふるさと納税・寄付等)
・大学・民間企業等との連携・協働など

【そもそも資質・能力とは?】
知識、スキル、人間性(態度/個性)、メタ認知

【スキル】
基礎スキル
1 エンパシー(共感力)
・観察力と想像力を働かせ相手の文脈を認知・理解し、関係構築することができる
2 ロジカルシンキング(論理的思考力)
・最上位目標から逆算して戦略を立てることができる
3 コミュニケーションデザイン力
・誰に、どんな順番で、どんな言葉やロジックで働きかけると良いか考えられる。

課題設定
4 問いを立てる力
・解くべき課題を定めるための良質な問いを立てることができる
・問いをもとに仮説を立て、検証に向けた活動を設定できる
・曖昧性の高い中でも自らの仕事の枠組みを定義できる

実践
5 プロトタイピング
・解のない仮説設定が多い中でスピード感を持って実践を繰り返し仮説検証の中から質の高いアウトプットを出せる。
・机上の空論に終わらせず、0⇒1を形にできる。

【知識】
対自分(フレームワーク):セオリーや行動パターンの理解
対周囲(関係者・ステークホルダー):その人のこれまで、活動、ゴールを知る
対環境(役割等によって変動):活動の沿革、現在の状況、予想されるなりゆきの未来
対社会(時代感):10年前、現在、20年後。
これらを過去、現在、未来軸でそれぞれ知識を得る。

【人間性】
1 オーナーシップ(主体性):熱意やこだわりを持つ
★コーディネーターは熱源。圧倒的主体性。
2 コ・クリエーション(協働性):多様性を受け止め、協働・共創する
★対話から生まれる創発
3 ラーニング(探究性):探究心を持って学び続けている
★スキルや知識を高速アップデートしている
4 ソシエビリティ(社会性):あるべき未来の姿を描き、追求し続けている。

【メタ認知】
1 自己を認知する
自分を内省したり整理するための環境づくりを自らできる
・客観的に思考を深めるためにメンターやコーチと話す機会を自ら設定している
2 環境を認知する
その状況においての人間関係や最適な期待役割を見いだせる。
・様々な状況における人間関係や立場、またその中での自身のポジショニングを
認識することができる
3 認知したズレに対応する
自分を含む、誰かと誰かの頭にあるコンテクストのズレに気づき、そのズレに対応できる。
・コンテクストのズレに気づき、修正・対応するため、行動変容することができる

~~~

とこんな感じ。すごい知見だなあと。
「コーディネーターって何するの?」っていう質問に、これなら答えられますね。

感想は3つ
1 コーディネーターは役割なので、「なぜやるのか?」が必要であること。
Q:コーディネーターとして何を成し遂げたいのか?

2 「コーディネーター必要なスキルや知識」を定義してしまうと、
コーディネーターになるためにはどうしたらいいのか?という「手段型の学び」を生んでしまうこと。

3 「何を」「どのように」やるか?の前に、「なぜ」「誰のために」やるのか?を考えること。
やりながら事後的に出てくるのかもしれないけど、「ミッションは何か?」「顧客は誰か?」「顧客にとっての価値は何か?」
という問いに答え続けていくこと。

僕の場合は、
アイデンティティ危機を抱える若者に対して「場のチカラの体感」という機会提供を通して、「自分」という境界を溶かしつつ創造する「場」の体感によって、「場」の構成員であり、役を演じる自らを承認することで、アイデンティティ危機を無効化していきたい。

もうひとつは、創造性と行動力を必要としている組織や地域(これも広く言えば、アイデンティティ危機、誇りの空洞化)に対して、アイデンティティ不安を抱えた若者を核とした「場(やプロジェクト)」によって、「場のチカラ」を高めることで、創造性と行動力を生んでいきたい。

その相互のやり取りが、「達成と成長」から、「発見と変容」へのパラダイムシフトを起こし、「学びの未来」をも拓いていくっていう仮説。

っていうミッションのために、「コーディネーター」という役割というよりも「役」がいま、目の前にあるのだと認識している。

いい問い、もらいました。
ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)日記

2021年03月01日

「越境」して「異文化」と出会う


ICT機器活用研修でした。
講師は総務省情報化アドバイザーの大辻雄介さん。
高知県立嶺北高校の魅力化プロジェクトで活躍されている大辻さんは
この春から北海道の大空町立大空高校の校長になります。
そんな大辻さんからICT機器の活用のキモと高校魅力化について話を聞きました。

ICT研修については、
11月13日のシークレット講演会がベースになっているので、
そちらを参考にしてくださ。

「ICTってそういうことか、って。」
http://hero.niiblo.jp/e491183.html

~~~

今回の僕の中でのキーワードは「越境」。「越境」して「異文化」に触れること。
ココが探究の、というか学びの出発点なのだなとあらためて思った。

「地域みらい留学」というプラットフォームから進学してくる他県からの寮生はすでに「越境者」であり、「他者」である。
彼らにとってみれば、阿賀町にくること「越境」である。

先日の「自分らしさは原因ではなく結果である」の話にも関連してくるのだけど、
「越境」して「他者」と「異文化」に出会い、「違和感」を「言語化」することで、
「自分」や「自分らしさ」を事後的に知るのではないだろうか。

だから、出発点は、「越境」ではないか。
それは「挑戦」とは若干ニュアンスが異なる。

茨城でやっている取材型インターン「ひきだし」での
コミュニケーションしやすさの一つに、「会社を希望していない」ということがある。
インターンシップでも、会社説明会でも、「なぜこの会社を希望したのか?」が問われる。
それが問われないのが相当に心理的に気楽だということだ。

大辻さんが「OODAサイクル」を紹介してくれた
PDCAサイクルはVUCAの時代に通用しないという。
https://achievement-hrs.co.jp/ritori/?p=2213

観察⇒仮説構築⇒意思決定⇒実行⇒観察

2つ目の「O」はOrient
上の記事では「仮説構築」と訳されているが、
方向づける、ということ。

このステップで行うのは、自身が持つ経験や文化の特徴、身体的特徴、歴史といったものと観察によって手に入れたデータを統合して分析し、仮説を構築することです。(上記記事より)

まさにここの部分なのだろうな。ここに、「自分らしさ」が発現していく
文科省の言葉で言えば「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」だ。
「探究」ってそういうことだろうな、と。

高校生の「探究」活動を応援するときに、つい「失敗してもいいから挑戦しよう」と声をかけがちなのだけど、
実は、「サイクル」には、「失敗」という概念はない。ただ、起こったことを「観察」し、次の「仮説構築」へと繋げるだけだ。

OODAサイクル的に言えば、まずは「越境」がある。そして「観察」して「異文化」「他者」に触れる。次に「仮説構築」があり、「実行」がある。
(「探究」の場合は時間的な制約が少なく、「意思決定」フェーズで止まることはあまりない)

「実行」を「観察」し「ふりかえる」ことで、学びがある。と同時に、「自分」や「自分らしさ」を事後的に知る。

そんなサイクル。
このサイクルは、「自分らしさ」という文脈で考えても、とても大切なことだろうと思う。

学校という「同質性集団」において、「自分らしさ」を実感するには、「他者との差異」ということになり、それは構造的に「劣等感」を生み、自己肯定力を下げる。

また、需要が飽和した現代社会において、「広告」特にネット広告はひたすらその「劣等感」をついてくる。

「同質性集団の中で比較により自分らしさを表現すること」から脱して、「越境」することで「他者」や「異文化」に触れ、「実行」して「違和感」を「言語化」することで見えてくる「自分」「自分らしさ」があるのではないか。

「探究」サイクルを回していくこと。
それは「自分らしさ」軸からも、高校生にとって切実に必要なこと、なのかもしれない。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)日記

2021年02月22日

「自分らしさ」は、原因ではなく結果

中京圏の大学生向け「就活」テーマイベント「就活を哲学する」でした(オンライン開催)。
「就活」の違和感がどこにあるのか?

そんな問いを一緒に考えていました。
夏の取材型インターン「ひきだし」での名言
「就活と恋愛は似ているけど、それなら恋愛のほうがずっと難しいな」
っていうのを思い出した。

僕が思ったのは、二元論の呪縛。
たとえば「安定を求めるのか?」「好きなことをやるのか?」みたいな問い。
あるいは「働くこと」と「稼ぐこと」をどうバランスさせていくのか?みたいな。

最後のふりかえりででてきたのは、
「7:3で自分を配分すること」
⇒これ、アイリスオーヤマの話で証明されている
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07

そして、
「アイデンティティと仕事を切り離すこと」
⇒結局、これが苦しさの源泉。
アイデンティティと仕事を直結させて考えさせられてきたから。

「やりたいことは何か?」と問われ、「好きなことを仕事にする」ことが理想とされ。
しかもそれを他者に説明しなければならないし、同世代との比較も起こってくる。
しかも1つの仕事に人生の全てを賭けてしまう、つまり「10:0」の働き方を
していた時、仕事で失敗をした、あるいは仕事を失ったとき、かなり大きなダメージとなる。

人生が経営であるとすると、1つの業務に自分という会社の資源(特に時間)を全て突っ込むことは
あまりにも危険だ。VUCA(予測不可能)な世の中ならばなおさらだ。

特に、2020年以降の就活生には、その実感は大きいだろう。
世の中は小さな(しかも目に見えない)ウイルスひとつでひっくり返る。

だから、アイデンティティと仕事を切り離す、つまり
アイデンティティと1つの仕事をイコールで結ばないこと。

そもそも。
アイデンティティ=自分らしさは、事後的に発現してくるのではないか?
それが土曜日に会った高校3年生の言う「ちえりっぽくないね」戦略だろうと。
自分っぽくないことをやって、「自分」そのものを拡張していくこと。

芸能人が、「芝居の幅を広げる」と言って、悪役に挑戦してみる。
役作りのためにダイエットしたり、髪をバッサリと切ってみる。

劇団員に応募するように、企業に応募してみる。
「その役には私がふさわしい」みたいな顔をして、面接に行ってみる。
残念ながら不採用となる。それは、役どころが違ったのだ。
監督の創りたい絵の中に入らなかっただけだ。

こちら側も、しっかりと監督が創りたい芝居の方向性や
誰に向けて、どんな価値を提供したいのか、そもそも何のために
このお芝居があるのか?を問いかけないといけないし、
こちら側もそれに共感して芝居をやりたいと思わないといけない。

就職をして、やってみて、初めて、自分を知る。
僕は40歳で初めて就職したのだけど、そこでやらないと気付けなかった自分がいた。
「フラットな関係性のない会議からは何も生まれないし、何も生まれない場にいる自分はすごくつらい」
そんな「自分らしさ」に気がついた。

そして、なぜ間違えたのか?というと、それまでの「創造的脱力」路線から急に「創造的破壊」路線にシフトしてしまったこと。

「よくわからないけど、ひとまずやってみましょうか。そのあとで考えましょう」っていう実験的なアプローチと「正しいゴールがそこにあるから、それを実現するには自分が偉くなるか、もしくは偉い人の力を借りて、会議で勝ち取りましょう」っていう挑戦的アプローチを間違えたのだということ。
そして自分は「創造的破壊」アプローチは全く向いていない、ということ。
そんなことを3年もかけて学んだのか、っていう。

そんな風に、「自分らしさ」って「原因」じゃなくて「結果」なのではないか?って。
やってみた後に「自分らしさ」を知るし、「自分らしさ」が形作られる。
つまり、「自分らしさ」とは、更新(アップデート)され続けるものなのではないのか。

そう考えるとすると、全ての就職は、「芸の幅を広げ、自分らしさを知る」プロセスということになる。

大学3年生の今現在の「自分らしさ」と就職を直結させる必要はない。
だって、自分らしさはその仕事をした後に立ち上がってくるものなのだから。
そんなことを感じた2時間。

あと、最後に一緒にやってくれたカジワラくんが振り返って言っていたことが印象的でした。
具体的な悩みを抽象的に落とし込んでいくと、その問い自体に疑問を持つようになる、まさに「哲学な時間」だったと。

「問いが間違っているかもしれない。」
これって、大きいなと思う。前提を疑うっていうこと。

「やりたいことは何か?」っていう問いによって、こんなにも苦しんでいる人がいる。

誰が、いつ、何のために、この「問い」をつくったのだろうか?
この「問い」によって、誰が得をするのだろうか?

そんなことを考えてみるのもいいなと。
「違和感」と問いに変換し、「問い」の前提を疑ってみること。

それこそが「学び」の出発点なのかもしれないなと。
またやりたいですね。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)イベント日記

2021年02月21日

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ

オンラインイベント昼夜連続でした。

昼間は宮崎県立飯野高校の「グローカル・リーダーズ・サミット」
事例発表では、愛媛県立三崎高校のせんたん部の話が面白かったな。
全校生徒を6つのプロジェクトに分けて、その中にマネージャー的存在がいるという、
コーディネーターとかプロジェクトマネージャー部みたいな感じ。
そういうのやりたい人っているんだろうな。

あとは飯野高校の異世代ルームシェアとかも、
阿賀町でもできたら楽しい。

午後からは対話の時間で、
20分を4タームくらい、ひたすら「自分らしさ」についてトーク。

キーワード的には

~~~

生徒会長など、みんなの場にいるときの役割としての自分
1人の空間にいるときの自分らしさ
好きなことをしているときの自分。
没頭している時の自分。

★「ギャップ萌え」
生徒会長としての自分と、お笑い好きな自分。

否定されないという前提の場でないと自分らしさを出せない。

多重人格でいいんじゃないか?
その場に合った自分らしさがあるのでは?
★「自分らしさ」は流動的なもの?

自分らしさを発揮しないスポーツは観客として面白くない。
チームで見ている。

★没頭(集中)しているとき、「自分らしさ」という意識はない
⇒「自分らしさ」は結果なのではないか?

自分から見た自分とまわりから見た自分のギャップ
⇒それを嬉しいと感じるのは自分を肯定的に捉えているから?

★「ちえりっぽくないね」
ソフトボール部⇒吹奏楽部
意外にしっくり来た。自分にギャップ萌えした。

自分らしいこと=好きな自分
自分らしくないこと=嫌いな自分
ではなくて。
「自分らしくないことをやってみる」:固定概念を壊す。

★自分らしくないことをやる⇒自分を拡張していくこと。

~~~

特に「ちえりっぽくないね」が響きました。

自分ぽくない(自分らしくない)ことをやってみること。
そうやって「自分」を拡張していくこと。

「自分らしさ」という言葉の罠にはまらないこと。
他者からの評価を生きないこと。
ギャップ萌えを楽しむこと。

「自分らしさ」というお題は、高校生における哲学対話のいいテーマだなあと思いました。

~~~

夜は「オンライン劇場ツルハシブックス」
ゲストはフリーランス農家の小葉松真理さん。
https://agri.mynavi.jp/2020_07_01_122811/

第1部は遊撃農家はら農園の原さんと3人でトーク

農家さんへの思いが溢れて涙交じりのトークとなりました。
アツかった。
「生きる」ってなんだっけ?って問い直されたように思った。

フリーランス農家の小葉松さんは
夏は北海道、冬は沖縄や高知、和歌山といった、
農家をハシゴして農作業を手伝いながら、
野菜販売、農家訪問ツアー企画、スナックイベント、農業ライターなどを行っている、
「土地を所有しない」農家だ

出発点は地域を支えるのは農業だと直感し、農業を体験したとき、
「食べものって作れるんだ」って思ったこと。
実際に農業をやってみたら、ずっとひとりだった。

その時に気づいたのは、
「野菜をつくるプロになりたいわけではない」ということだった。
そこで、土地に縛られない「フリーランス農家」に。

農家の魅力について、
小葉松さんも原さんも、そのスケールの大きさを語る。
空間軸だけでなく、時間軸、そして思想軸の大きさ。

自分の土地、農業だけでなくて、地域全体のこと、
そして文化とか歴史のこと。

農業は自然との対話だ。
一年一年違うし、一瞬一瞬に神経を集中させなければならない。

そんな農家さんの姿に惚れて、
小葉松さんも原さんも農の世界へ誘われる。

「仕事じゃないです。同志を手伝っているだけ」
この一言はすごかったな。ガツンとやられた。

農業手伝い、ライター、ツアー、スナック
小葉松真理という切り口で「農」を発信してるんだな、と。
アートだなあ、って思った。





僕が大学時代に通った徳島の沖津一陽さんを思い出した。(写真は2016年の再会時)
「ダイコンがダイコンを全うするように、私は私を全うする」という沖津さんの言葉は、
僕の座右の銘になった。

小葉松さんからは「生きてる感」が伝わってきた。
それは、「自然の中で生かされている」という一体感からくるのだろうか。
原さんによれば、小葉松さんの文章には、農家さんと小葉松さんがお互いに溶けだしているのだと。
それは、一緒に農作業をしているからなのだろうな。

生態系の一員、構成メンバーとして、ここに存在している、という誇り。
それが農家の美しさなのではないか。

「モチベーション」っていう言葉が急に安っぽくなった。
「自立」とか「自分」っていう概念は、そもそも嘘なんじゃないか、って思った。

小葉松さんを見ていると、
「共有財」」として生きる、ということが可能なんだ、って思わされた。
空間的・時間的・思想的な大いなる循環の中で、いま、生きている。
ひとつの生命体としてこの地に存在している。
そんな生き方が可能なのだ、と。

昼間の高校生が話していたように
「没頭」「集中」しているときに、「自分らしさ」という問いは消えている。
それは目的ではなくて結果だから。

自分と仕事が一体化していないとき、人は「モチベーション」を必要とする。
生きていく意味が必要な時、人は「使命感」という物語を必要とする。

小葉松さんは、ただ、生きていた。
生きることを全うしていた。
そんなカッコよさ、そして美しさ。

それは、宮澤賢治が語った「農民芸術概論綱要」に描かれた世界なのかもしれない。

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)イベント日記

2021年02月15日

消滅可能性都市⇒コモンズ再生可能性都市


金曜日、岡本太郎展@万代島美術館を見に行ってきました。

「岡本太郎の仕事論」(平野暁臣日経プレミア新書)
を読んでから行くといいかもしれません。
http://hero.niiblo.jp/e163257.html
(12.3.28)

未来の輝かしい世界を見せた後、観客はエスカレーターで一気に地上に降りてくる。そこには現在を表現する最後のセクション「世界を支える無数の人々」だ。そこには世界から集められた600の写真が掲げられていた。

著名な写真家による芸術写真ではない。毎日を必死で生き抜く名も無き大衆の生活写真である。太郎はこの展示に込めた。「世界は無名な人々がつくっている」というメッセージを。

~~~

今回、地下展示の全貌が再現してあって、そこが一番すごかったかな。
「いのち」「ひと」「いのり」。

「いのち」はつながっていて、
「ひと」もその道の途上にあって、
「いのり」と共に今を生きている。

そんな感覚。
太郎が遺したメッセージとはなんだったのか?
とあらためて問い直された。

そんなタイミングで、年末からの「資本論」シリーズのラスト、
「人新世の資本論」(斎藤幸平 集英社新書)


白井聡「武器としての資本論」(20.12.28)
http://hero.niiblo.jp/e491278.html

100分DE名著「カールマルクス資本論」(21.1.21)
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
からの、この本。

僕が本屋さんだったら読んでほしい人は、

・大学生(特に経済学部・農学部)
・地方議員・首長(特に小さな町村)
・90年代に大学生だった僕ら世代。

「SDGs」(持続可能な開発目標)への違和感を鋭く切ってくれる1冊。

「はじめに」でいきなり、SDGsは「大衆のアヘン」である、と断じる。私たちは、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺く「グリーン・ウォッシュ」にいとも簡単に取り込まれてしまう、と。

この本は、「気候危機」に際して、アヘンに逃げることなく、政治家や専門家に危機対応を任せるだけではなく、ひとりひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければ、超富裕層だけが優遇され、その他多数、特に「グローバル・サウス」(グローバル化によって被害を受ける領域ならびのその住民)への影響は甚大なものとなるだろうと説く。

1997年、地球温暖化防止京都会議(COP3)のとき、僕は農学部の大学生だった。
あのときと事態は何ら変わっていない。いや、それどころか悪化の一途を辿っている。
「環境問題」は資本主義社会の中で、単なるビジネスチャンスへと変わってしまった。

なんでこんなことになってしまったのか。
そんな問いに対して、この本は「不都合な真実」を次々と明らかにしていく。
読みながら、胸が苦しくなる。

僕の中でのキーワードをいくつか抜粋してみる。

「外部化」たぶんこれが矛盾というか不条理の最大の要因。

資本主義は「中核」と「周辺」で構成されていて、「グローバル・サウス」という周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。

これは、日本のいわゆる「高度経済成長」でも構図は同じだ
農家の次男、三男を安い労働力として抱え込んで、利潤を最大化してきた。
かつ、「武器としての資本論」にあったように、フォーディズムのように、
彼らを「消費者」としても育てていったのだが。

そして今。
もはや奪うべき「周辺」がなくなってしまった。

これは「労働力」だけではない、「地球環境」もそうだと本書は説明する。
「人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁をおこなうための外部が消尽した時代だといってもいい。」

マルクスを参照し、三種類の「転嫁」について説明する。

1 技術的転嫁-生態系の攪乱
マルクスと同時代の科学者リービッヒは持続可能な農業のためには、穀物が吸収した分の無機物を土壌に戻すことが不可欠だと説いた。ところが都市と農村の分業により、野菜は都市へと出ていき、その養分は戻らない。また、資本主義では短期的な利潤を最大化するため、連作が起こり、土壌は疲弊していく。それが文明崩壊の危機だと。

ところが、それは起こらなかった。「ハーバー・ボッシュ法」により、廉価な化学肥料が大量生産されるようになったからだ。ただし、この発明によって、循環の「亀裂」が修復されたわけではない。「転嫁」されたに過ぎない。窒素化合物の環境流出によって、地下水の硝酸汚染や富栄養化による赤潮を引き起こす。

2 空間的転嫁-外部化と生態学的帝国主義
ハーバー・ボッシュ法が開発されていなかったマルクスの時代に注目された代替肥料は海鳥の糞が化石化した「グアノ」だった。南米のペルー沖には島のようにグアノが積み重なっていて、それをイギリスやアメリカに持っていった。大勢の労働者が動員され、グアノは一方的に奪いさられた。結果、枯渇する資源をめぐって、戦争が勃発することになる。

このような矛盾を中核部にとってのみ有利な形で解消する転嫁の試みは、「生態学的帝国主義」という形を取る。生態学的帝国主義は、周辺部からの掠奪に依存し、同時に矛盾を周辺部へと移転するが、まさにその行為によって、原住民の暮らしや生態系に大きな打撃を与えつつ、矛盾を深めていく。

3 時間的転嫁-「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
化石燃料の大量消費が気候変動を引き起こしているのは間違いない。とはいえ、その影響のすべてが即時に現れるわけではない。ここには、しばしば何十年にも及ぶタイムラグが存在するのだ。そして資本はこのタイムラグを利用して、すでに投下した採掘機やパイプラインからできるだけ多くの収益を上げようとするのである。

~~~

このあと、第2章ではいわゆる「グリーン・ニューディール」政策では解決にならないと説明し、第3章では、「ドーナツ経済」理論を例示しながら、「脱成長」論へと向かっていく。

「脱成長」というのは新しい概念ではなく、以前にもあった。しかし本書はそれを「楽観的脱成長論」だと斬る。

~~~
「資本主義の矛盾の外部化や転嫁はやめよう。資源の収奪もなくそう。企業利益の優先はやめて、労働者や消費者の幸福に重きを置こう。市場規模も、持続可能な水準まで縮小しよう。」

これはたしかにお手軽な「脱成長資本主義」に違いない。だが、ここでの問題は、利潤追求も市場拡大も、外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も、資本主義の本質だということだ。それを全部やめて、減速しろ、ということは、事実上資本主義をやめろ、と言っているのに等しい。

「脱成長」は平等と持続可能性を目指す。それに対して資本主義の「長期停滞」は、不平等と貧困をもたらす。そして、個人間の競争を激化させる。
~~~

第3章のラストはこう締めくくられる。
「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ。」

ということで138ページ読んだ後にようやくマルクス登場。
なんか、お芝居を見ているような感覚でぐんぐん読み進めてしまいました。
第4章「人新世」のマルクスのところからがこの本の主題なので、それは読んだ人に任せるとして。

読んでいて圧倒的な絶望と共に、光を感じるような本でした。
90年代に環境を学んでいた時、そこにはただただ絶望があった。
「もう、間に合わないのではないか」と何度も思った。

僕が結論したアウトプットは、
「生命の循環の中に人を入れる」という農的暮らし体験の場「まきどき村」だったのだけど。

あれから20年以上が経ち、この本に光を観る。

脱成長コミュニズムに柱として、斎藤さんは5つ挙げる。
「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャルワークの重視」
これは、自然豊かな小さな自治体でこそ、始められるのではないか、と思う。

この本の最後のほうに出てくるアメリカのかつての自動車工業都市「デトロイト」の事例。

自動車産業の衰退によって失業者が増えて財政が悪化し、2013年に破綻。街から人が消え、治安が悪化し、荒廃した状態の中から、都市再生の取り組みが始まった。そこで始まった取り組みのひとつが都市農業であるという。

野菜の栽培、ローカルマーケットでの販売、地元のレストランへの食材提供といった形で、住民のネットワークが再構築されていったという。もちろん、新鮮な野菜へのアクセスは、住民の健康維持にも貢献する。

~~~
うわー、まきどき村やるときに大きな影響を受けた「種をまく人」(ポールフライシュマン)の世界がまさにアメリカに実現してたんだ、ってちょっと感動。

そんなふうに取り組む小さな都市が連帯していくことだと斎藤さんは言う。
それでなければ、気候危機は乗り越えられないと。
むしろ、気候変動対策を柱に連帯できるのではないかと。
日本の小さな町だって、世界中の都市と連帯できる。

2014年「消滅可能性都市」が話題となった。
少子化によって、次世代を確保できなくなる都市という意味だった。
その多くは、主だった産業がなく、都市に人が流出してしまう町だった。

柏崎市高柳荻ノ島集落で「現代の百姓」を名乗る橋本くんを見ていると、
アップデートし続ける「百姓」という感覚と、コモンズ(共有財産)再生とが
合わさっている強さを感じる。

「消滅可能性都市」はそのまま「コモンズ再生可能性都市」へと変貌できる。

それがこの本に僕が見た光なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)日記

2021年02月10日

「学びの手段化」からの解放

クルミドコーヒーの影山さんが著書「ゆっくり、いそげ」のサブタイトルに
カフェからはじめる人を手段化しない経済と付けた。

参考:健全な負債感を持つという豊かさ(15.8.24)
http://hero.niiblo.jp/e472045.html

この本でのキーワード「健全な負債感」。

交換を「等価」にしてしまってはダメなのだ。「不等価」な交換だからこそ、より多くを受け取ったと感じる側(両方が感じる場合もきっとある)がその負債感を解消すべく次なる「贈る」行為への動機を抱く。

~~~

「健全な負債感」こそがお店に通い続ける人を生むのだと。
いやあ、その通りですね。

経済(経営)とは本質的に「継続して循環する」ことで成り立つ。

そこで読んで頂きたいのがこの本
何を考えているか分からないと、もう一度会いたくなる(17.1.24)
http://hero.niiblo.jp/e483798.html

「ビジネスに『戦略』なんていらない」(平川克美 洋泉社)

冒頭から
「現在」の絶えざる手段化こそビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因。
と始まる1冊。

少し引用します。

~~~
言葉を持つ、火を使う、墓を持つということと同様に、人間を他の動物と隔てる条件のひとつが交換するということであり、それこそがビジネスの起源的な場所であるということです。

自分の演じているキャラと自分の個性との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人のあいだで生起しており、同時に他者との間においても行われている。

ビジネスとはモノやサービスを媒介とした高度な非言語的なコミュニケーション。

ぼくたちはひとりひとりが大きな流れ、巨大なシステムの中の一部分であり、その中で限定的な役割を期待されています。

サーリンズは、人々は適切な等価交換が行われたように思われないときに、「もう一度であわなければならないと感じてしまう」と書いています。そして、それが沈黙交易の原動力である、と。

ユニクロがフリースを二千万着売ったのは、割安感ではなく、どうしてこんなに安いのか、その合理的理由がわからないという、考量不可能性がもう一度ユニクロに行かねば、という消費者サイドの焦燥感に点火したのではなかったか。

何を考えているかわからない、とどうなるでしょう?正解はサーリンズが教えてくれたとおりです。もう一度会わずにはいられないと思うようになるのです。
~~~

いいですね。ビジネスは恋愛に似ています。もう一度会わずにはいられないのは、「何を考えているか分からない」から。

僕はコミュニケーション志向性(世の中でいちばん大切なのはコミュニケ―ションだと考えてしまう性質)が強いので、このメッセージが特別響くのですけど。

これ、「ビジネス」や「経済」を「学び」に換えても同じように言えるではないか、と。

「現在」の絶えざる手段化こそ「学び」の本来の面白さを殺ぐ原因。
これなんじゃないか。

ビジネスと同じく、かつて「学び」も、「営み」の中の一部であった。「継続して循環する」ものであった。
近代は、資本制は、世の中の全てを「手段」と「目的」に分けた。

いつのまにか、「人」さえもシステムのために手段化された。
「学び」も例外ではなかった。

「学びの手段化」

なんのために学ぶのか?という問い自体が、非常に近代的であると思う。
「学び」も「人」も、いやその「人生」さえも、手段化されてきた。
夢や目標、「なりたい自分」に向かっている自分というわかりやすい物語を求めてきた。

マイプロジェクトを語る高校生の強さや輝きは、
夢や目標ではなく、問いに向かっているということ。しかも、到達し得ない問いに。
それは「学び」を手段化から解放していく。

いま、ここ、この瞬間に心と体も開放して、目の前に来る予測不可能な事態に対応していくこと。
たぶんそれだ。

かつて、つながるカレーの加藤さんの話を聞いた時、エンターテイメントの本質は、「予測不可能性」であると思った。
「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)
http://hero.niiblo.jp/e484808.html

「学びの手段化」こそが「勉強」を苦役にしている。
それは大きく言えば、近代の呪縛であり、資本制の宿命なのかもしれない。

「勉強」という行為を、予測できる数値化された目標に向かう手段として認識し、かつ身体化していることがつらいのだ。

「学びの手段化」からの解放、それは、自ら設定した、心から湧き上がるような問いへ向かって、予測不可能性と過程を楽しむ学びへとシフトしていくこと。

それが探究の授業、あるいはマイプロジェクトの意義なのかもしれない。

あ、「意義」っていう概念が近代的ですが。笑  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)日記

2021年02月09日

「過程」としての学びと「手段」としての学び

なぜ人は本を読むのだろうか。
なぜ人は本を読まなくなったのだろうか。
なぜ人は本屋に行くのだろうか。
なぜ人は本屋に行かなくなったのだろうか。

そんな問い。
マイプロ関東summitで知り合った高校生のからの一言で、何か見えた

「確かに、本は学びの目的ではなく、過程という感じがしますね。本を開くまで何が書いてあるかは分からないですし、読むこと以上に、本からその人が何を考えて、得るのかが大切な気がします。」

それか!!

「過程」なんだなあ。
本屋に行くことも、本棚を眺めることも、本を読んでいる行為も。

目的ではなくて過程だ。
「〇〇のために」する読書は楽しくない。
「過程」であるからこそ、いま、ここ、この瞬間を楽しめるのかもしれない。

って思っていたところに

「結局「学び」の定義ってどこまで入るのでしょうか?私は、人生の経験そのものが学びのような気がします。辛くてもそこから得たものは学びなのかなと。そうすると瞬間だけを切り取れば必ずしも楽しいだけではないかもしれません。」

そうか!!

「一生学び続けるには?」と問うのではなくて、
「人生の経験=学びの舞台」にするためには?
と問わないといけないのか。

って。
そんな対話。

「過程」というキーワード。
それは、「営み」にも通じる。
そして、「機会として学ぶ」にも。

いわゆる「勉強」のつまらなさは端的に言うと、
(自ら設定したわけではない)目標に向かっての手段として勉強している(させられている)からであると言える。

マイプロジェクトをやっている高校生のプロジェクトという「まなび」の楽しさは、
自己の在り方生き方と一体的で不可分のテーマで(自ら設定した)目標(しかもその目標には到達点がない)に向かい、瞬間的には「機会」として、長期的には「過程」としてプロジェクトに取り組んでいる「まなび」にあるのではないか。

それは、その人の人生そのものであると言えるだろう。
だって、「過程」なのだから。

人生も学びも「営み」であり、「プロジェクト」はその過程の小さな点に過ぎない。
(「プロジェクト」:独自の価値を生むための期限のある業務)

目標のある「プロジェクト」として見れば、いまやっていることは、「手段」に過ぎない。
しかし、人生という「営み」からすれば、全てのやっていることは「過程」となる。

そして「過程」という感覚は、
「いま、ここ、この瞬間」というマインドフルネスと矛盾しない。

「過程」である今を生きる。

そしていまという「場」を動的に捉える。
いま、ここ、この瞬間をチューニングする。
「いつ、どこで、誰と」を確認しながら合わせていく。

そんな「過程」としての学び。

そんな学びを実現できる地域協働を創っていけないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)言葉日記

2021年02月08日

「存在」と「学び」の出発点としての被贈与







全国マイプロジェクトアワード関東summitでした。
昨年は現場に見に行ってました。

参考:自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題(20.2.11)
http://hero.niiblo.jp/e490297.html

今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、オンライン開催。
東京、行きたかったのですが、
全国summitへの出場選考を兼ねない発表会+ブラッシュアップ+交流
だったので、そういう意味では、雰囲気的にリラックスできていいのかもしれないと。

阿賀黎明高校2年のSくんのプロジェクト「釣りってなんだ!?」も
後半の2場目に8グループで発表しました。
途中で石油ファンヒーターの灯油切れサインがなるというアクシデント(笑)
にも負けずに、堂々と発表してました。

夏から半年、彼が動いていく中で、
たくさんの町の大人が応援・協力してくれたことをあらためて思い出しました。
動こうとした若者の背中を押し、応援する町なのだと感じました。

鮎釣りつながりで、夏のまなび体験会の際、午前中の釣り大会で釣った鮎を分けてくれたS課長。
糀漬した肉で燻製をつくりたいといったら、塩糀を分けてくれたY糀屋、
今度の夏、一緒に何かやろう、と誘ってくれ、温泉旅館「K会瀬」の女将、

summitの終了後、地元スーパーでほぼ毎週日曜日開催の豚肉特売(1g1円!!)を買い込んで、
先日SくんがもらってきたK会瀬の自家栽培の米を炊いて、焼肉パーティー打ち上げしました。
豊かな時間。

最後の交流会では、僕の興味関心で「なぜ学ぶのか?」っていう部屋へ。
「高校生コミュニティ相談室」の対話イベントが興味深くて、今度のぞいてみようかなと思いました。

あと、他の部屋の発表を見ていて印象に残った一言は,
「本で人を繋ぐ」プロジェクトのOさんが言っていた

「マイプロは等身大だよ」

かなあ。最後のコメントも「自分でもできるんだ」だったので
非常に印象に残りました。
そういうマイプロをつくっていきたいな、と。

人はなぜ学ぶのか?

僕はこのプロジェクトを通じて、
・すでに返せないほどの贈与を受けてしまった者だという自覚。
・この物語をつないでいかなければならないという使命感(勘違い)。
だと思った。

そしてそれが出発点となり、
贈り物を先に贈る(ペイ・フォワード)するために、
物語をつないでいくために、
人は学び続ける。

そしてその自覚や使命感は、
頭(脳内つまり言葉)だけでなく、心と身体を伴ったときに、
より強く感じられるのだろうと。

Sくんのマイプロは、「等身大」そのもの。
釣りを起点に、たくさんの人とつながり、プロジェクトが展開している。

昨日も、「なぜ学ぶのか?」部屋で、彼は鮎釣りの醍醐味を話していたのだけど、
「おとり鮎をいかに元気に泳がせるか」が大切で、
「アタリがあってから、手元に引き寄せ、確保するまで」の瞬間の魅力を熱く語っていた。

ああ、それって、「マインドフルネス」ってやつじゃん、って。
「いま、ここ」に集中して、言葉の世界から距離を置くこと。
自然という「営み」の中に入ること。自らを溶かすこと。
そこに「生きてる」感があるのかもしれないな。

釣りってなんだ!?っていう問いは僕にとっての問いでもあったんだな、と。

釣りは農と同じく、圧倒的な贈与でもある。
贈与を受けた者しか、贈与を送ることはできない。
だから、学びの出発点をSDGs的な「貢献」ではなくて、
被贈与におかないといけないのではないかと。

釣りも、糀も、蕎麦も、自然や微生物、植物からの圧倒的な贈与だ。
決して返すことができない。

川喜田二郎さんは、ふるさとを定義した。
「全力傾注して創造的行為を行った場を人はふるさとだと認識する」
その出発点に、僕は被贈与があるのではないか、と考えた。

あるのではないか、というより、あると強いな、と思った。

「すでに自分はもらいすぎている」
「だから自分はこの物語を繋いでいかなければならない」

そんな自覚と使命感。
そこに「存在」があるのではないか、と思った。
「存在する理由」と言ったらいいのか。

もらいすぎた贈与を先に贈らなければならない。
この物語をつないでいくのは自分しかいない。

その「体感」ができるかどうか。
頭ではなく心・身体で感じられるかどうか。

自然の少ない都市部においては、
その役割を「本屋」や「図書館」が担っているのではないか。
本好きであるということは、
本という次世代へのパスをもらいすぎている人であるということだ。

たぶん人は「等価交換」だけでは生きられない。生き続けられない。
「等価交換」ということは1回1回の取引で関係が終わる(清算される)ということを意味しているからだ。

それなら、交換する主体としての自分は、存在し続ける意味はあるのだろうか?
たぶんそんな、根源的な問いを、10代20代は抱えているのではないか。

だから、若者は、地方を目指す。
「ふるさと」と「存在」と「学び」を求めて。

自然豊かなこの町には、圧倒的な贈与がある。
「先に贈らなければならない」と支えてきた人たちがいる。

もらいすぎだな、と思うくらいの贈り物をもらう。
それを返すために全力を注いで創造的行為を行う。

「存在」は創造のエッジにあり、その創造のエネルギーは、
「被贈与」の自覚と物語の継ぎ手であるという使命感から生まれる。

これらは循環していくことで、ようやく自分は「存在」になり、そのまちは「ふるさと」になる。

「釣りってなんだ!?」

エキサイティングないい問いをありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)イベント日記

2021年02月01日

「プロボノ」募集します

1月3日から始めた2019~2020の2年振り返り(ブログ読み直し)終わりました。
2019年は「かえるライブラリー」とクルミドコーヒー影山さんとの対話から始まっていたんですね。「おでん」理論は「場」を考える上でとても大切になってます。

おでんに溶けるジャガイモになる(2019年1月~3月)
http://hero.niiblo.jp/e491316.html

6月には「柏崎・変態ツアー」開催。長沢さんの言葉。
いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ(2019年4月~6月)
http://hero.niiblo.jp/e491319.html

ロバート・ヘンライに心を撃ち抜かれた夏
仕組まれた自由に誰も気づかずに(2019年7月~9月)
http://hero.niiblo.jp/e491322.html

「教育はガーデニングに似ている」って言われた秋
プロジェクトという「庭」づくり(2019年10月~12月)
http://hero.niiblo.jp/e491327.html

「ブレスト」の本当の意味を知った2020年アタマ(コロナ前)
学びの土壌に興味のタネを蒔く(2020年1月~3月)
http://hero.niiblo.jp/e491331.html

そして、緊急事態宣言からスタートした2020年度。
二元論でも第三の道でもなく「あいだ」がある。(2020年4月)
http://hero.niiblo.jp/e491336.html

「学び」と「遊び」のあいだに「探究」がある(2020年5月)
http://hero.niiblo.jp/e491337.html

「主体的にやる」と「機会提供」のあいだ(2020年6月)
http://hero.niiblo.jp/e491338.html

経験をデザインするために「動詞」として捉える(2020年7月)
http://hero.niiblo.jp/e491343.html

「場の豊かさ」をベースに「場のチカラ」を発揮できるチームをつくる(2020年8月)
http://hero.niiblo.jp/e491362.html

「学び」ってなんだっけ?(2020年9月)
http://hero.niiblo.jp/e491363.html

で、この土日で一気に10月~12月やりました。宿題達成って感じです。達成感もたまには悪くない。
モチベーションの源泉(2020年10月)
http://hero.niiblo.jp/e491395.html

まなびはつづく・・・(2020年11月)
http://hero.niiblo.jp/e491396.html

この支配からの卒業(2020年12月)
http://hero.niiblo.jp/e491397.html

最後のほう、タイトルつけるのがめんどくさくなっていますが。
そして、コピペだらけで僕じゃないと読めないですね。10000字以上あります。
卒論で西田卓司の研究やる人にだけオススメします。

あらためて、振り返ってみると、探究学習コミュニティや新潟のマイプロLABO、完全オンライン化した取材インターンひきだし、イナカレッジと一緒にやった「はたらくくらすラボ」など、オンライン上での勉強会やワークショップがかなり効いているなと。

それも「実践する現場」があるからだなあと。高校生のマイプロのように、学校での学びと現場(フィールド)での学びを往還していくことで、「学び」がよりリアリティとエンターテイメント性を帯びていくような感覚があります。

ということは、東京にいてステイホームしながらも学んでいる20代の社会人や大学生たちもきっと、リアルな実践の場を必要としているのではないかと。

先日の北陸地方大雪の中、石川・七尾の「かえるライブラリー」のインターン生のキックオフ研修に行ってきたのだけど、その前日の金沢の雄・仁志出くんとの定番の餃子ミーティングで、プロボノの話を聞いていたので、新潟でもプロボノのプロジェクト設計してみたいなと。

「高校魅力化」「探究(プロジェクト)学習」「教育×観光」「旅行」「日帰り温泉」「本・書店・ライブラリー」「コミュニケーション・デザイン」「農業・林業」
こんな感じのキーワードを複数個お持ちの方、相談に乗ってください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)足跡日記

2021年01月31日

「自分」という共有財産


「ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す」(山口周 プレジデント社)

これは、すごかったですね。
2017年秋に大阪・スタンダードブックストアで山積みされてた「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」を読んだときの衝撃を思い出しました。

あの時。ああ、今やっていることは美しくないなと思い、帰りの新幹線の中で退職を決意しました。

いま読み進めていた2冊の本


「100分de名著 カールマルクス資本論」(解説 斎藤幸平)


「ブルシットジョブ~クソどうでもいい仕事の理論」(デヴィッド・グレーバー 岩波書店)

これらを「そもそも」っていうのから考えるのに最適な一冊。
哲学的でもあります。
山口さんの切れ味(書き味)、めちゃめちゃ好きです。
「ぐうの音も出ない」とはこのことか、と。

ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?

という書き出しから始まるこの本。
その使命とは「経済成長とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」です。
もはやその使命はほぼ果たされ、「祝祭の高原」にいるのだと説明します。

徹底してデータから低成長は危機ではなく通常モードであることを説明します。
「成長」とは本当に価値なのだろうか?と問いかけます。
そして、イノベーションを牽引し、再び経済成長をしているからのようなアメリカにおいても、
それは「富の移転」でしかないのだと。
それは200年前に自動車が発明された時とは、まったく社会的状況が異なるのだと。

僕が注目したのは、
P109に載っている「問題の普遍性」と「問題の難易度」のマトリックスです。

問題の普遍性が高く、問題の難易度が低い領域には、
多くの人が悩んでいる問題で、かつ、投資する資源は少なくて済むので、
多くの企業はそこに参入します。
松下電器が電化製品をつくり、トヨタが自動車を生産したわけです。

「課題を解決すること」がビジネスの本質であるとすると、
困ったことに、問題(課題)はだんだんと解消されていきます。
多くの家庭に洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自家用車・・・が行き渡ってしまいました。
それを解決したのが「地理的拡大」でした。
アメリカに売り、ヨーロッパに売り、そしてアジア諸国に売ったわけです。

この「地理的拡大」に際して重要なのが「スケールメリット」です。
普遍的な課題(誰もが感じている課題)に対してアプローチするのなら、
多くの商品をより効率的に作ったほうが競争力を生みます。

ところが。

「普遍性が高く、難易度の低い問題」の領域こそが高いビジネス性を持っていたのですが、
その領域は解決されつくしてしまいました。しかも、これ以上の「地理的拡大」も望めません。

したがって、企業が採用する選択肢は2つ。
「普遍性が高いが、難易度の高い問題」へのアプローチ
「普遍性は低いが、難易度の低い問題」へのアプローチ
となります。

いわゆる「ニッチ市場を狙え」みたいなやつは後者で、中小企業が採用しやすい領域です。
大企業は余力(資本)がありますから、前者のアプローチも可能です。

しかし、いずれにしても、「経済合理性」という観点から考えれば、メリットが薄くなります。
これをP116で経済合理性限界曲線という形で表しています。

ラインの上側に抜けようとすると、問題解決の難易度が高すぎて投資を回収できない
左側に抜けようとすると問題解決によって得られるリターンが小さすぎて投資が回収できない
という限界に突き当たります。
つまり、市場は「経済合理性限界曲線」の内側の問題しか解決できないのです。

じゃあ、どうするのか?
山口さんは熱く、語りかけます。
引用するのは、サン=テクジュペリ「人間の大地」

人間であるということは、まさに責任を持つことだ。
おのれにかかわりないと思われていたある悲惨さをまえにして、恥を知るということだ。
仲間がもたらした勝利を誇らしく思うことだ。
おのれの石を据えながら、世界の建設に奉仕していると感じることだ。

モチベーションの源泉は「人間性に根ざした衝動」だと山口さんは言います。「衝動」とはつまり「そうせざるにはいられない」という強い気持ちのことです。損得計算を勘定に入れれば「やってられないよ」という問題を解決するためには、経済合理性を超えた「衝動」が必要になります。

たしかに、いわゆる「ソーシャル・イノベーション」を起こしている人たちの出発点は、
「衝動」に当事者意識を持ってしまったところから始まっているなあ、と。

普遍的問題については、あらかた解決してしまった高原社会にいる私たちに残された活動は次の2つです。

1 社会的課題の解決(ソーシャルイノベーションの実現)
経済合理性限界曲線の外側にある未解決の問題を解く
2 文化的価値の創出(カルチュラルクリエーションの実践)
高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す。

そして
P236の「バリューチェーンからバリューサイクル」へと。

これは「東北食べる通信」なんかで起こっていることだよなと。
「責任ある消費」という概念。

~~~ここから一部引用

「自分が稼いだお金は自分が自由に使っていい」という自明のように見える言葉に、その「自由」はどのように認められるのか?と問いかけます。

ジョン・ロックは説明しました。自分の身体は自分の所有物である。そして労働はその身体を通じて行われる、したがってその労働の結果生み出された価値はその人のモノであり、そのい価値と交換することで得られたお金もその人のモノである。したがってそのお金は自由に使って構わない。

このロジックの違和感は起点となる「自分の身体は自分の所有物だ」という一文にあります

自分の身体は、生物学的には両親から贈与されたものですし、遺伝子レベルで過去に遡及していけば単細胞生物から永遠と続く無限の縁から贈与されているわけで、要するに「宇宙から与えられた」としか言いようがないものです。

私たちの存在は「死者」と「自然」から贈与されています。贈与されたモノは贈与し返さないといけません。私たちもまたいずれ「死者」あるいは「自然」として未来に生きる私たちの子孫に対して贈与する義務を負っているからです。つまり、私のいう「責任消費」というのは、贈与された私たちの存在を未来の子孫に対して贈与し返しましょう、ということになります。

~~~ここまで一部引用

いいですね。「世界は贈与で生きている」(近内悠太 ニューズピックス)を思い出しました。
http://hero.niiblo.jp/e490625.html
(20.5.3 手紙を受け取るために学ぶ)
僕たちが学ぶ目的は、「被贈与者であるという自覚」のためだとこの本を読んで思いました。

「責任ある消費」
それは「贈与」や「応援」の意味合いを持つ消費だと山口さんは言います。
経済成長を前提とした「大きく、遠く、効率的」という社会から
「小さく、近く、美しく」というベクトルへとシフトしていこうと。

先日、とある「誇り高き百姓」の家で、ご飯をご馳走になったのだけど、
自分の畑や山で録れた野菜・山菜料理に、手打ちそば、そしてどぶろくと
豊かさと誇りを感じる時間だった。ただただ、その時が美しいと感じた。

「誇り」とは、営みの中にあること、そして責任なのではないか、と思った。
被贈与者であることを知り、それを次に贈らなければならないと感じていること。

僕はこの「営みの中に入る」という方法が、
僕の15年の課題である、若者のアイデンティティ問題に直結しているように直感した。

旅行に行ったときに、観光客向けの整備されたキレイなレストランではなく、地域の人に長年愛される大衆食堂(たいていが中華やカツ丼)に行きたくなるのは、「営み」に入りたいからではないか。

「にいがたイナカレッジ」の1か月インターンが提供しているのも、集落を維持していく営み、つまり自分の人生を超える長さの「営み」の中に、自分を委ねてみること、なのではないか。

コモンズ(共有財産)の再生、再構築。
シェアハウスなどの「シェアの文化」もその萌芽だと思うのだけど。

それは、他でもない自分自身が「コモンズ(共有財産)」であることを知ることなのかもしれない。
ジョンロックの定義とはまったく逆で、「自分自身が自分のモノではない」という自覚から、
実はアイデンティティが立ち上がってくるのはないか、という仮説。

それが観光×教育のキーコンセプトになりそうな気がしています。  

Posted by ニシダタクジ at 09:00Comments(0)思い日記

2021年01月27日

この支配からの卒業

2020年12月

なんとか、1月の宿題である、2019年1月~2020年12月の2年振り返りのラストになりました。

~~~
まずは浦崎先生を囲む会の山本一輝さんの一言から

「主体性」や「当事者意識」について話していた時の山本一輝さんの一言が心に残った。
「同質化」と「危機感」。東北マイプロでの「この町がなくなったら、私が無くなるようなものだ」そういう感じ。まさに「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」に出会った人たち。

僕はそこに「好奇心」を加えようとしているのかもしれない。そして何度も言うように「好奇心」は鍛えられるのだ。「面白がる」「疑問を持つ」ことによって。「好奇心」から来る「同質化」っていうのもあり得るんじゃないか。それは「危機感」から来る「同質化」とはかなり質が違ったものになるかもしれないが。

僕が言う「場のチカラ」っていうのも、「同質化」へのアプローチのひとつだと思う。チューニングし、場と一体化する。それはこの前オンラインツルハシでイケトが言っていた「人生は自分のものではない」と感じられる瞬間であるのかもしれない。しかし、それはフィクションだ。

「遅いインターネット」によれば、
https://note.com/tsuruhashi/n/n07ca42b9a1d8?magazine_key=m21a04cf91a68
僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。「多層化」という表現の方がいいか。

「主体性」「主体的に学ぶ」への旅。分かりやすいのは「危機感」から来る「同質化」(≒当事者意識)からの「主体性」。

これから実験したいのは、「好奇心」と「場のチカラの体感」によるフィクションとしての「同質化」からの「主体性」。極端に言えば、主体性を持つのではなく、主体性を持っているやつを演じるのだ。

来春、他県からも多くの新入生が入ってくる。彼ら、彼女らは「最良の高校選択をした」と思って入学してくるだろう。そこからが始まりだ。

「主体性のある人たち」を演じているうちに、「主体性のある生徒が多い高校」を演じているうちに、気がついたら素敵な高校になっている。
それを「創造的脱力」と言うのだろうな。

~~~
からの「はじめてのスピノザ」
http://hero.niiblo.jp/e491214.html
自分の使っている言葉がスピノザ哲学としっくりくることを実感する。
~~~
そして12月4日「創造的な探究の時間」というコンセプトへ。

キーワードは「創造」だろうと思う。
課題を設計して解決のアイデアを「創造」するのが探究の醍醐味であり、ワークショップ形式である意味だと思う。
あらためて、川喜田二郎氏の著作を読んでみる。
(過去のブログより)

http://hero.niiblo.jp/e490111.html
「学び」はこの直線上にない。(19.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e490086.html
最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である。(19.12.10)

かつて日本にあった、「師匠」と「弟子」、そして「道」という考え方

~~~上のブログより

ゴールが見えている時。我が国において「教育」というシステムは、力を発揮した。

ゴールを見失った、いやそもそもゴールが存在しなくなった今、「道」を歩むような「学び」へシフトしていく必要がある。

そしてもうひとつ。下ブログで出てくる、「混沌」というキーワード。

~~~ここからブログより引用
デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

川喜田先生は、このように説く。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場をつくる。っていうのは、きっとそういうことなのだろうと。そしてそれはそのまま「学びの場」、あるいは「学びあいの場」づくりに直結しているのだろうと。「場」の価値。それは創造が起こること。それにより自己が変容すること。そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。そんな「場」をともにつくる。

~~~ここまでブログより引用

「場」の価値は創造が起こること。それは学びの創造であり、「場」の創造であり、構成員としての「個人」の創造でもある。

「創造」を前提にして、探究の時間を設計すること。ワークショップを語源通りに、工房とすること。

「創造」のワクワクの中にこそ、「学びの意欲」は眠っているし、それは個人ひとりひとりの中ではなく、関係性の中、関係性から創られる「場」の中に眠っている、っていう仮説。

そんな「創造的な探究の時間」がつくれたらいいなあ。

~~~
12月5日、情熱を探すのではなく育むということ。orientedからnon-oriented(非志向性)へ―"向かわない"社会の私たち(20.6.25)

~~~
12月6日、入寮面接を経て、あらためて「使命」ついて考えた。

「誇り」がある人には使命感がある。その使命感は「継いでいく者」だという自覚によるところも大きい。

老舗和菓子屋の跡取りであり、先祖代々の農家であり、伝統芸能の継承者であるという自覚が使命感を生む。

「誇り」が必要なんだと思う。個人にも、学校にも、そしてまちにも。「誇り」は使命感から生まれる。

「small life with mission」使命とともにある小さな暮らし。塩見直紀さんの提唱する「半農半X」(半分は農的な暮らし、半分は自分の使命を果たすような仕事)の僕なりの英語訳だ。

その「使命」というのは、極端に言えばフィクション(つくり話)だ。自分なりの物語を勘違いしているに過ぎない。

でも。そんなもんだ。
「本当の自分」なんて存在しないように、
「本当の使命」などこの世に存在しない。
「使命感」という勘違いがあるだけだ。

それはきっと文科省の言葉で言えば、「使命感」⇒「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」になるのだろう。

問いかけることだ
この学校の使命はなんだろう?
このまちの使命はなんだろう?

勘違いすることだ
この学校には果たすべき使命がある。
このまちには果たすべき使命がある。

学校やまちの「使命」を物語化し、その物語に自らを登場させていくこと。そうやっている中で、自分のX(使命)が見つかっていく。正確に言えば、「見つかったような気がする」

高校生たちをプロデュースしているつもりで、実は同時に、学校やまちがプロデュースされていく。主体と客体の変容は同時に起こるからだ。

あらためて川喜田二郎「伝統と創造」より
~~~
創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。
~~~
そんな「場」づくり、「学校」づくり、「まち」づくり。
来春、入学してくる生徒のみんなと考えてみたいんだ。
このまちの使命はなんだろう?
~~~

12月8日は「スクール・ミッション」について

~~~ここから内田樹氏の本から引用
出発点における否定的棲息状況ということが、あるいはミッションスクールの場合は最大の強みではないかという気がするのです。

教わりたいという人がいなくてもとりあえず教えたいという奇妙な旗を掲げるところから始まった。教わりたい人がいるから教えにきたのではない。教わりたい人を創り出すために教えに来たのである。

自分たちの旗印の下に集まってくる少女たちをひとりひとり見つけ出し、掘り起こしていかなければならない。それは市場のニーズに対応して教育プログラムを整備するといった今日の学校の作り方と全く逆のものです。

つまり、マーケットをほぼ完全に無視して、自分たちが教えたいことを基軸に学校を作ったわけです。神戸女学院の教育についてのニーズはまだ明治初年の日本には存在しない。ならばそのニーズを創り出さなければならない。

私たちがこの学校の最初の生徒であり、そうである以上、この学校が何のために存在するのかを身を以て証明するという責務を負っている。という、責務の感覚を自発的に抱かなければ、学校は立ちゆきません。

~~~ここまで引用

僕はこの本を読んで、「ミッション系大学」の意味を知った。

キリスト教系で、教会で鐘がなる大学のことではなく、文字通り、ミッション(使命)を帯びて、日本の地にやってきた人がつくった大学という意味。

偉大なる勘違いだよ、ミッション系大学。(称賛)

地域と共に「この学校の使命はなんだろう?」と問いかけ、言葉を紡ぎ、「伝えたいことがあるんだ」と小田和正バリに語りかける、そんな学校づくり、まちづくりを始めませんか。

~~~

12月9日、パブソン大学のメソッド

バブソン大学が提供しているプログラムが次の5つの内容です。

1 遊びのプラクティス:自由で創造的な思考に関連し、イノベーションや機会を見いだす。
  ⇒マシュマロタワー、ビジネスシミュレーションゲームをして振り返る
2 共感のプラクティス:心理学、神経科学、デザイン思考などを用いて、他人のニーズや感情を理解する。
  ⇒ピア・コーチング、起業家へのインタビュー
3 創造のプラクティス:予想するのではなく、創り出すための思考を身に付ける。
  ⇒リソース獲得ゲーム、ネットワーキング
4 実践のプラクティス:実際の状況下で、実験結果を見て結果から学び、再度試すことを通して、機会の創造や資源獲得、リーダーシップに関する概念やテクニック、知識を得る
  ⇒アイデアの機会班別を行う訓練や「失敗」についてお互いの認識を議論するもの、5ドル、50ドル、500ドルでそれぞれどういう実験ができるかを考えさせるものがあったりします。
5 内省(リフレクション)のプラクティス:学習体験を体系化し、すべてのプラクティスを統合する。
  ⇒内省のフレームワークを練習したり、自社の文化や自分の価値観を振り返るような経験をする。

~~~
12月13日:マイプロブラッシュアップの日

地域の大人の関わり方3パターン
予備軍⇒3応援者⇒2協力者⇒1伴走者

3応援者:活動を認識して好意的に受け止めてくれている人
・プロジェクト発表会などへの参加
・調査アンケートなどへの回答
・単発での講和の実施

2協力者:自身のリソース(技術/知識/経験値など)を活用して具体的な協力をしてくれている人
・調査のための個別インタビュー
・場所や道具・機器の貸し出し
・商品開発など専門技術・知識によるサポート

1伴走者:継続的に関わり、裏方として活動に支援・指導をしてくれる人
・定期的な打ち合わせや相談
・計画作成や振り返りなども含めた継続的なプロジェクト推進支援

例:マルシェ(青空市場)の活性化に取り組む生徒
プロジェクト担当の先生⇒伴走者
マルシェの仕掛け人である地域の大人⇒協力者
マルシェに参加する地域の大人⇒プロジェクトの「応援者」

そして、2日間にわたり、自分自身の問いの変遷についてまとめた

「問い」はどんどん変わっていく。「問い」が変わるということは、自分(の思考)も変わっているということ。

だから。手法としては、自分に向き合い、目標を立てて、達成を繰り返し、成長実感を得る
よりも、実は「場」と「問い」に注目して、「場」をベースに活動し、結果、「問い」が深ま
る(変化・進化・深化する)探究活動やマイプロは、そんなことを繰り返すためにあるので
はないか。

「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」
全然問題ない。結果を出すのはあなた個人ではなく「場」だからだ。

「自分自身の問いが見つからない」
全然問題ない。「場」をベースに活動し、ふりかえりの時間を多くとっているから。共感や
違和感をベースに「問い」を見つけていこう。

問いがなんとなく見つかったら、その問いに対するアクションを起こし、さらに自分で振り
返り、「問い」を育てる(変化・進化・深化させる)問いが変わると共に、実は変わってい
た自分に気づく。

そんな繰り返しでアイデンティティはなんとなく構築され、アップデートされ続けるので
は、という仮説。

~~~

なるほど。問いを育てると結果的に自分が変容しているってやつですね。
これはたしかにそうだわ。

~~~
そしてマイプロ新潟での齋藤くんの「釣りってなんだ?」プロジェクトがベストアントレプ
レナーシップ賞を受賞。あれはうれしかったですね。

~~~
からの内田樹「日本習合論」(ミシマ社)

「習合」というキーワードに、希望を感じた。なぜならそれが我が国の「お家芸」だからだ。

「習合」というキーワード。食べ物で言えば、「あんぱん」や「カレーうどん」や「たらこ
パスタ」のような。

戦わず、主導権を争わず、合わせてしまう。それを今風に言えば、「創造的ハイブリッド」
となるかもしれません。たぶんこれが1300年続いてきた我が国のお家芸なのでしょう。

だから本当は、「多数派」に従うような「事大主義」ではなく、「少数派」を取り入れ、創造
的にハイブリッドしていくこと。理解と共感をベースにしない「協働」をたくさんつくって
いくこと。

「高校(教育)魅力化」っていうのもそういう文脈で語れるのではないかと。地域には何百
年と積み重ねられてきた「営み」がある。そこに「学校」という西洋由来のシステムが入っ
てきて百数十年。

それを「習合」させていく取り組み。「創造的ハイブリッド」を生み出していくこと。
具体的に言えば、それが地域での探究活動だし、その地域ならではの「マイプロジェクト」
ということになるのだろう。

「理想的な学校をゼロから新設する」のではなく、「習合」という観点で創造的ハイブリッ
ドを目指すような「高校魅力化」プロジェクトができるなら、僕にとっては、そのほうが創
りたい絵、なのかもしれないな、と。

~~~
いいですね。「動的平衡」に通じる「習合」としての高校魅力化。これは面白いなと。
~~~

そして12月24日。
仙台「火星の庭」で読書の神様がくれたクリスマスプレゼント。

「はみだしの人類学」
http://hero.niiblo.jp/e491269.html
これは衝撃でした。

ここでは一節だけ

潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。ここで重要なのは、他者によって「引き出される」という点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみ出しながら、浸透しあう柔軟なもの、そうとらえると少し気が楽になりませんか?

もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられている。という自覚があります。

~~~ここまで

わたしはもっと「やわらかい」存在なのだと認識して生きられた方が楽しそうです。

~~~
からの、岩手・さわや書店で買った「武器としての資本論」ですね。

http://hero.niiblo.jp/e491278.html
資本主義を内面化している私たちに問いかけます。

「誇り」が失われた。資本主義とシステムによって。
人々は数値化された。「労働者」であり「消費者」であるということによって。

システムによって「存在」が揺るがされている。「就職活動」への違和感は究極、そういうことなのだろうと思います。

「就活」というシステムに適応することは、自分たちを本当に幸せにするのだろうか?極端に言えば、それで「生きられる」のだろうか?という疑問。

本書の最後に、白井さんは語りかけます。

「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったらおしまいです。それはネオリベラズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。

意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためにはベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。だから、食べ物の話は、代表的事例であると同時に比喩でもあります。私たちの生活の全領域で、どういう感性を持つのかが問われている。

いやあ、ホントそう。「感性」に戻ること。自分自身の身体性としての「センスオブワンダー」を見つけ、感じること。

そこからしか始まらない。いま、自分が、そしてあなたが何を感じているのか?「場」として何に「価値」をおき、何を創っていくのか?

そんな根源的な問いを見つめていくことから始めていこうと僕も思っています。

~~~
いやあ、根源的ですね。「存在」を揺るがす正体が見えてきます。

12月のラストには、
「オンライン劇場ツルハシブックス」のふりかえりを
http://hero.niiblo.jp/e491295.html

自分というリソースを7:3に配分する。
そんな「経営」が可能なのではないか、という仮説です。

ということで、2020年ふりかえり終了です。
たくさんの言葉を発見しました。
ふりかえりのふりかえりが大事だなとあらためて思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 11:15Comments(0)足跡日記

2021年01月26日

まなびはつづく・・・

2020年11月

あと2か月。
ふりかえります。

10月31日~11月3日は、益田・津和野のエデュトリップにお邪魔してきました。

~~~
まずは益田市のユタラボ

静的な「場」(居場所)と動的な「場」(プロジェクト)を複数個持つこと。それぞれの「場」で「演じ分ける自分」を肯定できること。特に動的な場=プロジェクトにおいては、場と一体化できるまでチューニングすること。

たぶんぜんぶつながっているな。

「個」が「達成」して「成長」することに価値を置く「達成」パラダイムと「場」が「発見」して「変化」することを楽しむ「発見」パラダイム。

「教科(学習)」の視点で言えば、学びの目的は「成長」であるのかもしれないけど、「探究(学習)」の視点で言えば、学びは個々の「変化」を前提としている。

学びの主体を「場」に移行していくことで、個人戦から「場」の一員としての自分になり、アイデンティティの危機を超えていけるのではないか、と思っている。

あとは、「おもろい」が大事。負けないこと投げ出さないこと逃げださないこと信じ抜くことよりもずっとずっとはるかに「おもろい」が大事だ。その「おもろい」っていう要素のひとつに、「予測不可能性」があるような気がする。

そしてその予測不可能性は、「達成」のパラダイムと「発見」のパラダイムのあいだと余白に生まれてくる「何か」なのだと思っている。

~~~

2日目。
午前中は子どもたちとの「てつがく対話」。
冒頭に投げ込まれたのは「教育」という言葉への違和感。
「教育に関心のあるみなさんがここに集まってきていると思いますけど・・・」
あれっ、僕、「教育」に関心なんてあったっけ?と、心底、驚いた。

その謎は、午後に解けた。
益田市社会教育課の大畑課長の講演。
「教育」という言葉そのものへの違和感の正体。

Aという人がA´(もしくはB)という人に「成長する」。そのプロセスデザインや、右斜め上に向かう、そのベクトルを「教育」であると定義する。

でも実際地域で起こっているのは、Aという人は動的な「場」(サイクル)に投げ込まれ、ぐるぐると回っていくなかで「発見」を繰り返し、いつか外へはじきだされたときにA´かBかC、もしくはDになっているのだ。

そのサイクルの中の一瞬を切り取ると、あのスライドショーのような写真になるのかもしれない。それは、そこに立ち会った人しか味わえない一期一会の「場」だ。

そうか、僕は「個人」が「成長」するっていうことに興味が持てないのかもしれない。「場」が「発見」することには大いに関心がある。「成長」じゃなくて「変化」だし、その二つとも、目的ではなく結果だ。

その「場」のフィールドが「学び」(地域と共にある学び)っていうことなのか。フラットなコミュニケーションと見つけ合える「場」をつくりたいんだ。
ひとつ、謎が解けた。

~~~
これは大きな発見だったな、と。
「教育」をしたいんじゃないんだと。
「場」を創りたいんだ、と。
現在性と一回性と全体性を感じられる場をつくりたいのだと。
~~~
3日目は津和野高校魅力化プロジェクトを中心に。
違和感の中から見えてきたのは、「劇場」というコンセプトだった。

引っかかったのは「県外生に影響されて津和野の子もだんだんと自分を表現する、やりたいことを口に出すようになってきた」という一節。県外生に影響された、とはいったいどういうことだろうか?

だって、チャレンジできない理由として大きいのは津和野=コミュニティがひとつしかない=逃げ場がないことだったはずなのに、その原因を解消せずに、「やりたいことやろうよ」って大合唱したら、急にできるようになる?

もちろん、人間は環境に影響されるし、その環境の要因として最も大きいのは人間関係だとは思うのだけど・・・と考えていて仮説が生まれた。

学校空間(探究の授業や地域部活だけかも)そのもののサードプレイス化。つまり、1/3が県外、1/3が町外からの通いである津和野高校は、狭い津和野のコミュニティとは違う空間となっているのではないか。だからこそ、心理的安全性があるのかもしれない。

もうひとつ引っかかったのは、「中学生のやってみたい!をカタチにする」というところ。それを、日々の学校での発言から先生と一緒に拾う、というところ。中学生に「やってみたい」が言語化できるだろうか?もちろん、できる人もいるとは思うのだけど。

やりたいこと(自分の意志)を知る前に、好きなこと(快・不快)を知ること。他者を理解するためにもまずは他者のやりたいことではなく、快・不快を知ること。

「劇場」だ。劇場のような「場」をつくることだ。

★自分の好きなこと(快・不快)⇒自分の学びたいこと(意思・意志)を「場のチカラ」と「地域の大人」で「発見」する営みを「探究」の入り口に置くこと。

場のチカラを体感することで、・見つけ合い・ふりかえり・場でやればできるじゃん⇒場の構成員である実感が湧いて、それが承認につながっていくのではないか。

見つけた!という「快」と達成した!という充実感の違い。学校(教科学習)という伽藍と「探究(地域)」というバザール(市場)。バザールの戦略は試行錯誤を繰り返すこと。(伽藍の戦略は失敗をしないこと)

プロジェクトに締め切りはない⇒「成果」ではなく「自分の成長」を語る

★発見ベースで発表フォーマットをつくるのもいいかも
「個人戦」から「場」へ⇒場にまきこまれる(友人がやっているから)
「自分を知る」=関係性、行動からだんだんとわかる。

★屋号(チーム名)で活動すること
⇒自分とは違うものとして取り組む

旅に出る前のテーマ。
学びの動機を「達成」から「発見」へ
学びの主体を「個人」から「場」へ
学びの成果を「評価」から「承認」へ
その方法論は、「学校のような劇場をつくる」だ。

「演じる」ことを前提に場を設計することだ。「やりたいこと」の前に「快・不快」を大切にすることだ。頭ではなく心でふりかえり、感情の揺れにフォーカスすることだ。バザール(市場)として「探究」の舞台をつくることだ。

「高校生」というフィクションを生きろっていう感じかなあ。

学校を劇場に。
そしてまち全体を劇場に。
「一期一会」の瞬間を生み出す舞台をつくるんだ。

ああ、それなら、やったことあるな、と。

~~~
4日の帰り道。本にまつわる人に出会う旅。
広島のあやさんには「読書」の魅力をいっぱい教えてもらった。

読むってどういうこと?
1 知らない
2 知っている
3 説明できる
4 使える
3~4までいきましょうと。

読書によって得られるスキル
1面白がる
2疑問を持つ
3人に伝える
★1,2は「好奇心」の具体的表現

3つのうち、どれを頑張るか、事前に決める
好奇心を育むことはできるか?⇒面白がっている人のそばにいること
先に発表する人を決めておく⇒そのつもりで聞くことができる
疑問を持つ⇒目の前に著者がいたら何を聞きますか?

サードプレイスは、第1、第2の場と異なる価値観によって運営されている場だとすると、「本屋」には、無数の価値観が(もちろん店主の価値観によりセレクトされているが)背表紙から訴えてくる。

そういう言語と非言語のあいだにあるもの、それが「本棚」であり「本屋」だ。ゆたラボの檜垣さんの言う「グレーゾーン」(学校教育と社会教育の)は、僕が言ってきた、「境界をあいまいにする」「余白をデザインする」っていうのは、本棚、本屋でこそ、成立しやすいのではないか。

出会う「場」であり、託す「場」であり、創る「場」としての本のある空間。
そんなのをつくりたいなあ。

~~~

そして、「阿賀探究の森構想」へ。
「未来をつくる言葉~わかりあえなさをつなぐために」(ドミニク・チェン 新潮社)
第7章にこんな一節がある。

~~~ここから引用
自然史は、遺伝子複製のエラーを許容することによって駆動されてきた。つまり生命はそれ自体が非生産的な現象として進化してきたのだ。自分の領域が侵犯されるという認知によって、「わたし」と「他者」を区別しようとする防衛本能が働くことは、身体の免疫系と同様の働きだといっていいだろう。生物学的にいえば、これは原初のレベルの自己同一性(アイデンティティ)である。しかし、連綿とつながる進化の鎖に注意を向ければ、種の系統発生という個体の寿命よりも長い時間軸の中で、より高次な自己同一性が発現してきた。

先に見た遺伝子の交配とは、個々にとっての自己、つまり究極的な「わたし」に、「他者」のものが混ざることで個がゆるやかに変容していくプロセスなのだ。短期的な個体発生の時間の上に、より長期的な系統発生の時間が重畳している。この二つのリアリティを架橋するための認識が必要とされていないだろうか。
~~~

「他者」と混ざりあい、自己が変容していくプロセスは、これまでの歴史そのものではなかったか、と問う。それは自然との関係性でも同じだ。常に変容し続ける自然に対し、種は遺伝子エラーを許容することによって生き延びてきた。

さらにこの章は「ぬか床」を引き合いに出しながら続く。

~~~ここからさらに引用
ぬか床と人間はひとつのホロビオントを形成していると言える。
ホロビオント:複数の異なる生物種が共生関係を結び、一個の不可分の全体を形成すること。(リン・マーギュラス 1991)

標準的なぬか床にの内部には100種類ほどの菌類が棲息しているが、この多様性こそがぬか床の成立条件だろう。なかでも、一般には悪臭の原因だとされるグラム陰性菌は、ぬか床の初期段階では抑制される必要があるが、最終的には彼らが「復活」しないと、ぬか床独特の豊かな風味が生まれない。

システムの構成要素を善と悪、効率と非効率で区分する思想からは、ぬか床の豊潤な発酵状態には到達できない。造礁サンゴやぬか床のように、複雑な要素が互いに排除し合うのではなく、絶妙なバランスの上で共生するシステムの姿から、人間の社会の在り方を考えることはできないだろうか。
~~~ここまでさらに引用

ここで言う、ぬか床のような、もしくはサンゴ礁や雑木林のような。そんな共生関係のある学びの場が可能なのではないか?

名付けて「阿賀探究の森構想」(仮)だ。

この町を舞台に、いくつもの探究サイクルが回っている。その真ん中には、子どもたちがいる。そして、それはひとりではないかもしれない。

町の大人たちもいつのまにか、そのサイクルに巻き込まれ、サイクルの規模(対象範囲)がだんだん広くなっていく。子どもはじきにそのサイクルを卒業し、次のサイクルへと歩みを進める。

大人達も刺激を受け、自ら探究サイクルを回す大人もいる。そのサイクル全体を多方向から支える人たちがいる。学校システムや行政システムがある。

まちと探究サイクルも「ホロビオント」(共生関係)を形成しながら、まちそのものも元気になっていく。

気がついたら子どもは18歳になっていて、自らつくった新しい問い、新しい探究サイクルに向かうべく、旅立っていく。ある人は大学で、ある人は専門学校で、またある人は就職先で、サイクルを回す。

探究の森の子どもたち。
それは保育園児、小中学生、高校生だけのことじゃない。
この町で探究サイクルを回す人はみんな、子どもたちだ。
20年後、みんながハタチになったら、同窓会でもやろうかな。

~~~
いいなあ、これ、実現したい。

11月10日
「存在」は創造のエッジにある。
http://hero.niiblo.jp/e491178.html
ここから何かが見えてきています。

「課題発見/問いを立てる」には、「違和感の言語化」が必要で。
「違和感のキャッチ」には心を開いていることが必要で。
「言語化」は普段から思ったことを言葉や文字にしていくことが必要で。
「違和感」を感じるためには自分の「快・不快」を知ることと「他者との違い」を理解することが大切で。

っていうように、つながっている。
「主体性」という言葉はよく叫ばれるけれども、「指導」によってそれを生むことは原理的に不可能で、「対話」によって課題(問い)を発見することで生まれてくるのだと思う。

「好奇心」とは、面白がることと疑問を持つことでそれってスキル(技術)だよね、って友人が言っていた。「場」においてそのスキルを磨いていくこと。「主体性」さえ、見つけ合うことが可能なのではないかと僕は思っている。

~~~

そして大辻さんによるICT講習(オンライン)

15歳から18歳までを単なる「消費者」として過ごしていて、18歳、あるいは22歳になったら突然感性と企画力(課題発見・解決能力)が付くのだろうか。

田舎で、まずは感性を開く。感じる。疑問・違和感をキャッチする。問いを立てる。仮説を立てる。ICT活用して調べ、計画書・企画書を書く。「場」に飛び出す。

「発見」する。「発見」をシェアする。ICTで他校とも他流試合ができる。

「学び」がある。次の課題が見つかる。次の「場」へ飛び出す。その繰り返しの中で学びたいことができる。進路希望ができる。ICTで個別最適化された学びができる。総合型選抜だけでなく、受験にも対応できる高校生になる。

そんなシナリオ。
これ、実現できるよ、って。
この町でならやれるわ、って。
ICTってそういうことか。

~~~
いいっすね。
ICT化する必然を感じました。
最上のマイプロ学びの場のゲストは飛騨の関口さん。
これもシビれましたね。
~~~

関口さんのアプローチ(課題に向かう時に大切にしている考え方)

1 森を歩く
・関係する人々はどんな日々を送っているのか(情報収集できているか?)

2 声を聞く
・どんなことを目指しているのか(目的や目標を知っているか?)
・どんなことを大切にしているのか(価値観を知っているか?)
・今何に困っているのか(困りを聞けているか?)

3 妄想する
・本当はどうなったらいいと思うのか(共有したい未来を考えられているか?)
・どんな未来は避けたいと思うか(どんな未来が来ることは避けたいか?)

4 手札を知る
・既に上手くいっていることは何か(出来てることに気がつけているか?)
・既にどんな資源があるか?(人や文化、団体、活動、施設など)(町の資源についてどれだけ知れているか?)

5 道を描く
・何をしたら良さそうか(いくつか行動のイメージができているか?)
・やってみる(実際行動できているか?)

大人の存在が学習意欲を高める鍵を握っている
★学習意欲とのつながり:
1 勉強の面白さを教えてくれた大人の数
2 将来目標にしている大人の数
3 尊敬できる大人の数
4 相談できる大人の数
5 友人の数
6 親友の数
7 所属しているグループの数
8 異性の友人の数
9 近所であいさつしたり、会話をする大人の数
10 日常的に連絡をとる家族・親戚の数

★「支援マインド」と「協働マインド」
★大人の課題解決力・探究心をいかに高められるか?
★「地域」と「授業」のあいだでカリキュラムマネジメントする。

ステキな視点だなあと。

あとは冒頭の問い。何のための教育魅力化か?中心的課題は何か?その課題をどうやって解決するのか?

僕はが取り組みたいのは、やっぱり「アイデンティティ」の課題だ。「やりたいことが分からない」「自分に自信がない」という大学生。アンジェラアキの「手紙」を聞いて、涙する15歳。そんなんじゃないぜって。

教育魅力化は、学校と地域が対話しながら、その地域独自の「新しい学び」を創っていくことだと思う。その創造のエッジに、アイデンティティ、つまり「存在」があるという仮説。言い換えれば「発見」になるのかもしれない。

アイデンティティ問題の原因の多くは、家族・地域社会のつながりの薄さだろうと思う。だからこそ、つながりを取り戻していくんだ、みたいな意見もあると思う。

しかし、課題は同じパラダイムでは解決しない。存在の承認を、つながりによって取り戻すことは難しいと僕は考えている。

存在の承認を、創造のエッジに求めていくこと。フラットなコミュニケーションの「場」に求めていくこと。自らを部分的に取り出し、そのそれぞれを「場」に溶かし、それを本体である自分が承認すること。そんな方法で、アイデンティティは構築できるのではないか。

そのための「場」の構成要素として、「地域」、そして「地域の大人」が必要になってくる。その「場」はプロジェクトを生むだけではなく、結果として大人も、まちをも創っていく。

そんな循環。生態系。そんなのを僕は見てみたいのだよね。森と川と温泉のあるこの町で。

~~~

そして、「まなびはつづく」へ。

現在、多くの人が抱えている「存在」への不安の秘密はそこにあるのではないか。新型コロナウイルスによって「予測可能な未来」は破壊された。だとしたら、自分の「存在」はどこにあるのだろうか?

ひとつの方法は、「継承者になる」ということではないかと。

僕は29歳のあの日(完全に思い込みなのだが)、吉田松陰先生の思想「学び合えば希望は生まれる」の継承者となった。(現在、旧会津藩に住んでいるので、声を潜めて言いますが)

そこに、自らの「存在」の意味が発生したのではないか。
受け取ったこの「手紙」を誰かに渡さなければならない。
受け取ったこの贈与を、誰かに返礼しなければならない。
「継承者」となる、というのは、そういうことだ。

近代社会成立以降、僕たちは「自由」と引き換えにたくさんのものを失ってきた。
・身分制度と役割の固定化
・イエ制度と継承者である自覚
・地域コミュニティと祭りなどでの一体感
・日本型雇用と社内コミュニティ
ひとつひとつが今のアイデンティティ不安に影響しているのではないか。

好きなことを仕事にしたほうがいい、やりたいことは何か?みたいな「自由」こそが、人の「存在」を揺るがせているのではないか。ひとりひとりを「交換可能」にしているんじゃないか。

「つながりが大切」「コミュニティを再構築せよ」と人は言うけれど。ヨコのつながりだけではなく、「営み」のようなタテのつながりを感じられるようにすること。

継承者、つなぎ手であると同時に、創造者であること。その創造を生むのは、自分とまわりの人たちと、環境とタイミング(時)(誰といつどこで)をチューニングした「場」であること。

そんな場に身を委ねることで、「存在」を感じられるような仕組みをつくりたい。つなぎ手として生きる。かつて、会津若松城にモノを運ぶ中継地点として栄えた河港がある、この町で。

まなびはつづく・・・

~~~
11月17日、小国高校へ。
http://hero.niiblo.jp/e491191.html
体育館の床で真剣にフィードバックを書く先生の姿に胸が熱くなりました。

~~~

11月のオンラインツルハシのゲストは益田の大庭さん。

大庭さんの「軽やかな移住」は、そこに「一回性」の高い「場」を生み出した。このまちで、いま、自分(たち)にしかやれないこと。これは、「場」の構成要素である「誰と、いつ、どこで」に対応している。カレー会も、フォトウォークも一期一会の瞬間を生み出している。

イケト×井上有紀のシェアハウスの話がつづく。「人生は自分のものではない」という感覚。
シェアハウスは、「家」をシェアしているのではなく。日常でありながらも「偶然性」の高い「場」をシェアしているんだなと。暮らし、人生そのものを「シェア」している、というか「シェアしている感覚」をシェアしているのかもしれない。

ラストの対話の部屋の「神話」の話も、少し抽象化(メタ化)した「場」の話だったように思う。「場」には神話(物語)が必要なんだ、と。特にゴールが明確(確実)じゃない「場」には。ひとりひとりの人も「場」であるとすれば、

その場に立つための神話(物語)が必要で、それはフィクションなのだけど、そのフィクションを自分で選んでいる、っていうことが大切なのではないかと。

~~~

次にいつも連続している工藤くんゲストのはたらくくらすラボ

1 好奇心や主体性は磨くことができる
「面白がる」習慣によって、「好奇心」は磨くことができる。「好奇心」を磨いた結果、内発的動機が磨かれ、「主体性」につながる。これは高校生からでも、中学生からでも、小学生からでもやったほうがいい。

2 「存在」の切実さが好奇心のトビラを開く。
「ただ居る」ということを許される「田舎」という場と切実に「存在」の課題を抱えている大学生が出会う。「地域という場」は、いちいち楽しめる対象がある。⇒それって、自然とか、農とか、営み?なのかな

3 もうひとつの「自分」を切り離す。
「対象を通して世界を見渡す」っていうのはそういうこと、なのかもしれない。自分が面白がった(興味を持った)対象そのものから世界を見渡してみる。

4 変化の可能性にあふれた「場」に身を委ねる。
「変化の可能性」の中に「存在」がある。そしてそれは、「自分」という単位で世界を捉えないこと、なのかもしれない。

もしかしたら、「面白がる」ことで、人は自分の存在を確認できる、のかもしれない。

もしかすると、アイデンティティ(自分らしさ、個性)が必要なのではなく、自分が「存在」する(「存在」していいんだと感じる)場が必要なのかもしれない。
~~~

「問いのデザイン」をようやく読みましたね。

面白かったのは、リフレーミングのテクニック(P98)
1 利他的に考える
2 大義を問い直す
3 前向きにとらえる
4 規格外にはみ出す
5 小さく分割する
6 動詞に言い換える
7 言葉を定義する
8 主体を変える
9 時間尺度を変える
10 第三の道を探る

特に次の3つ
4 規格外にはみ出す
理想の学校教育とは?⇒国を滅ぼす最悪の授業を考えてみることで理想の学校教育を考えると

6 動詞に言い換える
万歩計をリデザインする⇒歩行を「はかる」をリデザインする

8 主体を変える
この会社の10年後のあり方を考える⇒この会社で働く私たちの10年後のあり方を考える

うーむ、これは面白いぞと。これ、学校現場が直面している課題そのものだなあと。なんとなく思っている「問題」からチームが共通認識できる「課題」へ。その「課題」を手に入れるための「問い」。

それには、リフレーミング(枠組みを組み直すこと)が大切なのだと「地域との連携」「地域に開かれた教育課程」ってそういうことですよね。それは地域側も同じだ。「学校との連携」「小中学生、高校生と一緒にやるまちづくり」

その両者のあいだに、というか全体としての「場」に、「問いのデザイン」が必要なのだなあと。

チームになる1歩は、「問い」を共有することから始まる。

~~~

ここまで。「リフレーミング」ってとっても大切だよなあと。
11月ラストは、とある高校で開催されたフォーラムの感想です。

~~~
「これをやっても世界を1ミリも変えない探究」みたいなお題でワークするのも面白いなと。

課題を解決しない探究っていうのを1度回してみることだ。「やってみた」⇒「ふりかえってみた」⇒「印象に残ったこと、感じたこと」⇒「次のやってみる」っていうのを1度、回してみることだ。

そうすると、振り返りを経て、自分が少し変わっていくのが実感できる、かもしれない。世界は1ミリも変わっていないけど、自分が(自分の世界の見方)が変わっている可能性は十分にある。

今回のテーマは「変容の可視化」だったけれど、その前に「変容」の体感、「変容」の快感を味わうこと。やってみる、ふりかえってみる、のサイクルを回してみることがまずは出発点なのかなあと思った。

~~~

11月、終わりました。
長かったなあ。

ラスト1か月。
ラストスパートです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:06Comments(0)足跡日記

2021年01月25日

モチベーションの源泉

2020年10月

やっとあと3か月地点まで来た。
10月中旬に「まなび体験会」に7名が来て、ようやく行けそうな感じになった月ですね。

まずは尾原和啓さんの「モチベーション革命」
http://hero.niiblo.jp/e491106.html
読み直すとすごいこと書いてあるな、と。

~~~
モチベーションの5つの要素
「達成(アチーブメント)」
「快楽(ポジティブエモーション」
「意味合い(ミーニング)」
「良好な人間関係(リレーションシップ)」
「没頭(エンゲージメント)」

おじさん世代は上の2つにモチベーションを駆動されるけど、今の世代は、下の3つ、「自分が頑張る意味が持てるもの」に「自分の好きな人たち」と「とことんハマる」ことを重要視する。金銭や物理的報酬とは関係なく、自分の好きを追求する。

団塊の世代が幸福だったのは、何かを達成することが同時に社会貢献につながっていたからです。「乾けない世代」は、何かを「達成」することにそれほど心を動かされません。なぜなら、「何もなかった時代」を知らないからです。

「世界一」や「21世紀を代表する」という「達成する大きさ」ではなく、「何を」「何のために」やるのか?を語らないと心が動かされない。
上の世代では、別にやりたいことなんてなくても、与えられたことをこなして、人よりよい結果を出せれば、それで十分成功できました。大きな目標は誰かが掲げてくれたので、必死に「達成」を追い求めれば幸せでした。

いやあ、これはすごいな。
ジェネレーションギャップというのはこのことだ。

~~~

次、10月7日。

やっぱり振り返らないとダメですね。
すごく大切なことが書いてあった。

~~~ここから

フリッチョフ・カプラ「ターニングポイント」
reductionistic(還元主義的)=scientific(科学的)=rational(合理的)=analytic(分析的)=linear(線形)
還元主義の定義。「何かを知るということは、その物質的構成を知るということだ」

「抽象」と「捨象」は表裏一体です。事実、英語ではともにabstractionと言います。
「例外のない法則はない」と言うように、抽象するためには捨象しなければならず、捨象しなければ、抽象することはできません。

デカルトは、「科学」を抽象するために、仏教が「縁」と呼ぶ不可思議な現象、予測不能な事態を捨象したのです。これこそが、近代科学の出発点です。そして以後、そうした「非決定性」や「不確実性」は、「非科学」として括られていくことになります。

カプラによれば、西洋近代社会は、一貫して陽的(男性的、積極的、競合的、合理的、科学的、断片的)側面を好み、強調してきた。そして、陰的(女性的、反応的、協力的、直観的、神秘的、全体的)側面を排除し、軽視してきたことが、さまざまな危機を招いていると。

~~~

なるほどなあ。
これもすごいな。
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Posted by ニシダタクジ at 05:10Comments(0)足跡日記

2021年01月23日

「ローカル・モモ」が必要なんだ

探究学習コミュニティの5回目。
ゲストは津和野高校コーディネーターの山本竜也さん。

~~~以下メモ

・まず第一に、生徒たちにとって「の」魅力がある。
・生徒たちの保護者、教職員、生徒や学校を支える地域社会の人々にとって「も」魅力がある。
・地域社会の未来を切り拓く資質・能力の育成&魅力あるまちづくり

【核3つ】
1 T-PLAN(授業内)
・ブリコラージュゼミ
・トークフォークダンス
・選択プロジェクト

2地域と連携したプロジェクト(授業外)
・授業外でのマイプロジェクト支援
・地域系部活動「グローカル・ラボ」

3進路サポート
・町営英語塾「HANKOH」
・総合型選抜、学校推薦型選抜サポート

【総合的な探究の時間】
ブリコラージュゼミ(1年次に4回行う)
・1年次に年間4回行う
・毎回6~8講座から選択(★趣味的なもの)
・地域の方に講師になってもらう
★地域の大人を面白いと思わせることができるか?

トークフォークダンス
・1年次に1回行う
・地域の方々を生徒と同数集める。
★ふりかえりシートを自分で設計する。

選択プロジェクト
・2年次に半年かけて実施
・自ら選んだテーマに関し、個別ORグループでプロジェクトを行う。

2014年当時はそうじゃなかった。
敷居が高い、無駄遣い、もっと部活頑張ろう、みたいな

ヤマタツさんの地域とのコミュニケーション(関係性づくり)
・地域おこし協力隊と話す、プロジェクトやる、呑む
・地域の関係者(飲食店、経営者、自治会等)をあいさつ回り、のみまくり&お祭り参加
・行政の高校支援係につなぎを頼んで話題提供きてもらう
・フェイスブックでこまめに連絡をとる
・公民館長、社会教育主事と仲良くなる
★ヤマタツ個人として依頼すること

結果、学びの土壌の数値がダントツ。
・興味を持ったことに対してすぐに橋渡しをしてくれる大人がいる
・挑戦する人に対して、応援することができている
・自分と異なる立場や役割を持つ人と交流している
・生徒の関心に合わせて機会を提供できている

まちづくり⇒ひとづくり

2015年度:非進学クラスから立命館大学文学部AO入試合格
強み(日本史・小論文)をHAN-KOHの授業で発見
志望校を一緒に探し、進路指導部に提案
★強みを生かした大学選択

2016年度:20コマを1学期に一気にやる(6クラス同時)
⇒教職員との関係性づくり

2016年度:慶応SFCAO入試合格
強み:地域愛、イベント実施、大学での活動が見えている
進路指導部などとの協働での面接指導等

2016年度:教育課程外の拠点ができた:グローカル・ラボ
1,2年生合わせて20名程度が部員として参加
1年生は体験を重視し、農園づくり、地域イベント等へ積極的に参加
2年生は自分の関心や問題意識に合わせてマイプロジェクトに取り組む

2020年3月卒ストーリー
1年冬~2年春:短編映画づくりワークショップからPVづくりへ
2年冬:プロジェクト2周目(インバウンド/SDGs)
2年冬~3年春:マイプロジェクト全力疾走(和菓子屋で英語メニュー/絵本製作)
3年夏~3年冬:進路実現へ全力疾走(立命館大学食マネジメント/立教大学コミュニティ福祉学部)
⇒大学進学してからも津和野に帰ってくる。

2年の総合的探究
依頼型プロジェクト R1:14種類49名⇒R2:8種類27名
・津和野野菜PR/芸術士ワークショップ/木部ふれあい食堂
自発型プロジェクト R1:1種類2名⇒R2:21種類30名
・空き家活用/マネージャーサミット/つわのアットホームプロジェクト
サポーター数 R1:9名⇒R2:18名「個別最適化」へ。

教員組織の強み
・生徒の声をしっかり聴く⇒つなぐ
・成長ストーリーの共有ができている(あの子みたいに・・・)
・探究やマイプロジェクト、新しい企画に関しては、柔軟な対応を臨機応変さ

津和野コンソーシアム(2つ以上が組織や人の共同事業体)へ。
・コーディネーター頼み、コーディネーター人材確保、魅力化の広がりの弱さを解決
⇒コーディネーターの地位向上と事業の見える化
⇒教育魅力化から町の魅力化へ。

コーディネーターとして大切にしていること
「架橋」:地域とつなぐ、社会(大学、民間、企業等)とつなぐ、知識とつなぐ、未来とつなぐ
「越境」:立場や分掌を越える、常に業務範囲を更新する、グレーゾーンに飛び込む
「公共」:「持続可能性」にコミット、開かれた取り組み、学びを共有し、発信し続ける

~~~ここまでメモ

質疑応答で印象に残ったのは、「マイプロ」と「進路」の関係。
津和野高校は「マイプロ」を通してうまく越境(架橋?)ができているなあと。

ヤマタツさんも言っていたけど、
「進路実現」のポイントは、
・「話を聞いてくれる」という在り方。
・マイプロの抽象化⇒大学の求める人物像とマッチングする
・徹底した面接、小論文、志望理由書サポート

地域の人の最大の役割は、「話を聞いてくれる大人」になることなのだろうな。
「第三の大人」の役割はそこにある。

そして、またしても「編集」。
マイプロで打った点を抽象化すること。
「それって、食を通じてコミュニケーションを活発にして地域を元気にしたいんじゃないの?」
みたいな。

ああ、「就活」における「編集」と同じだ、と。
あとポイントは「関係性づくり」かな。それも広義の「編集」なのだろうけど。
ヤマタツさんが個人として人と人をつなぎまくった。
だから最初は属人的な「人」の魅力なのだろうなと。

「トークフォークダンス」の振り返りをしたけど、
こちらの課題は「言語化」と「語彙力」、そして「対話力」のところかな。

「場」と「関係性」のデザインでクリアしていくこと。
(KJ法等のワークショップ手法、ブリコラージュゼミのような趣味的なつながり)

あとは教科でも振り返りとか言語化、
とかをやってみるのはアリかもしれない。

「マイプロ」という点を数多く打ち、それを編集することで進路実現になる。
それはまるで、満天の星の中から星座を見つけるようなものだ。
いや、星座として「編集」するだけかもしれない。

この点とこの点をこうつなぐと、「こぐま」みたいに見えませんか?みたいな。
(ちなみにこぐま座の尻尾は北極星なのだそうです)

まあでも、その点を打つ前段階として、
あるいは点を打ちながらも、話を聞いてくれる人が必要なのだろうな。
そしてそれは先生でも親でもない、「第三の大人」
評価者でも当事者でもない大人が必要なんだな。

そんな「ローカル・モモ」を高校生たちはきっと必要としている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)日記

2021年01月21日

「やらされ感」の正体


NHK100分で名著「カール・マルクス『資本論』」

第3回目のキーワードは「構想」と「実行」の分離。

ひとつ、謎が解けた。(仮説です)
「やらされ感」という感覚。

これ、「構想」と「実行」の分離のことを言っているのではないか、って。
自分が構想していないことで、かつ構想に同意できていないとき、いわゆる「やらされ感」という違和感を感じるとする。

それは、仕事でもそうかもしれないし、学校の授業でもそうかもしれない。

学校の授業で言えば、
「教科学習」と「探究(的な)学習」があるとする。

よくある話が「探究学習」だと言いながら、
「素材選択→課題設定→解決策の提示」
みたいな枠組みで取り組んでみること。

この場合、「構想」はあるだろうか。
鍵られた授業時間の中で、無理無理課題を設定させられ、解決策を提示させられる。
そもそもこの「課題解決型の学び」とやらにどんな意味があるんだ?
っていう問いに答えられないまま進む探究学習。

一方で教科学習も別に「構想」はしていない。
文部科学省が「構想」した教育課程に従って、
先生が授業を「実行」し、成績がつく。
しかし、こっちのほうが「構想」に対して、
多くの人が同意したであろうことはなんとなく想像がつく。

仕事もおそらくはそうだ。
番組の中でも取り上げられていたが、
いわゆる「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」
に時間を費やしている人がいかに多いか。

その始まりは「構想」と「実行」の分離にあるのではないか。
それは「機械化」「分業化」によって、一気に進んだ。
資本家にとっての価値は「効率化」だったから。

労働者は切り離された。
ふるさとや生産手段からだけでなく、ついに、「仕事」からも。

つまり、たとえば職人がものづくりをするとき、
そこには「構想」と「実行」がセットで「仕事」をなしていたのに、
工場ではそれが「分離」され、労働者にはただ「実行」だけがある。

いわゆる仕事のモチベーションっていうのも、そこにあるのだろう。
「構想」づくりに参画できる働き方。
「構想」づくりに参加できる(意見・考えを述べられる)働き方。
「構想」づくりに参加はしていないが、「構想」に同意している働き方。
「構想」づくりに参加してなく、「構想」にも同意していない働き方。
「構想」がそもそもない、ただ「実行」している働き方。

大きい組織であればあるほど、
「構想」に「参画・参加」するのは難しいことであるだろうけど。
たぶん、これが「やらされ感」の正体だ。

「やらされ感」とは、する・されるの能動・受動のことではなくて、
「構想」していない、「構想」に参加していない、「構想」に同意していない場合の
「実行」のときに感じるもの、なのではないか。

昨日の「にいがたイナカレッジ」の話に戻るけど、
「にいがたイナカレッジ」ではチューニングによる「場のチカラ」を大切にしている。

7 どのように
6 何を
5 誰のために
4 なぜ
3 どこで
2 いつ
1 誰と

がプロジェクトの構成要素だとしたら、下から丁寧に積み上げていくのが「にいがたイナカレッジ」のプログラムだ。

もうひとつは、川喜田二郎さんが問いかける、それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?という問い。
何が違うのか?そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。

参考:「判断の余白をつくる」(19.12.9)
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

彼の言う「ひと仕事」は、
A探検 →B野外観察 →Cデータをして語らしめる→D評価・決断・構想計画→E具体策・手順化→F実施→G吟味検証→H結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。「仕事」にモチベーションが上がらないのは、F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。
あ、それって「学習」も同じだ。学校の授業にはFしかないんだ。授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

「構想」とは、川喜田さんの言うところで、A探検→D評価・決断・構想計画をやること。
にいがたイナカレッジで言えば、1誰と~3どこでをチューニングしながら、地域を観察し、地域の人と対話し、4なぜ~6何を をつくっていくこと。
たぶんそれだ。

「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」(福島正伸・きこ書房)
の「人であふれた駐車場」の話にめっちゃ感動して涙をしたけども、
あれは単に「気持ちの持ちようで、どんな仕事も感動する仕事になる」っていう精神論ではなくて、
「構想」できる部分がある仕事を「構想」しようっていうことなのではないかなと。

「人であふれた駐車場」PVはこちらから(2008年)
http://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho

「やらされ感」の正体は、「構想」を奪われたこと。

だとしたら
「場」を設計する(モチベーションの高い職場・モチベーションの高い(探究の)授業)ことのポイントは、

3「構想」に同意している。
2「構想」に参加している。
1「構想」に参画している。

という階段を登っていくことなのだろうと。
それは個人やチームでのプロジェクトにおいても同じだろう、と。

いや、もしかしたら、「進学」「就活」のその先の人生の「編集」においても、「構想」と「実行」を分離させないこと。あるいはこの視点を持ちながら労働者であること。

マルクスが150年前に、川喜田二郎氏が25年前に語っていたことがいま、目の前にある。
その問いにどう応えていこうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:12Comments(0)日記

2021年01月20日

視点を上げると、問いが小さくなる

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」最終回。

いつにも増して、「問い祭り」でした。
次々にチャットに投げ込まれる不完全な問い。
即答できない問い、そもそも答えがないような問いに、
ただただもやもやが募る。

こういうのもいいかもしれない、と思った。
オンラインの「場」の魅力を考えさせられた。

ふりかえりを発表してくれた
くまがいくんとにしやまさん。

くまがいくんのサイクル
体験→余裕→いちいち楽しむ→違和感→体験
これはすごい編集だなと。

豊かさより心地よさも
(頭)→(心)っていうことなのかも。

「豊かさ」は頭で感知し、「心地よさ」は心で感知する。
二元論じゃないので、グラデーションだけども。
有意義-無意義と快-不快っていうのと近いかもね。

その組み合わせに仕事をつくること。
仕事上で「無意識に頑張れちゃうこと」って体が快だと言っているのかもしれないですね。

そしてにしやまさん。
越境をテーマに学び続ける長岡ゼミ生なので、
言葉が鋭いなあと思いました。

いちばん心に残ったのは、「世界が広がっていく感覚」
たしかにこれが学びの意味だし、喜びだよなあと。

これにヒントを得て話したのが
「問いのスケール」の話でした。

「やりたいことは何か?」という問いの中にいると、
やりたいことが見つかっていない状態がすごくつらくて、
「やりたいことを見つけること」が唯一の苦しさの解決策だと思っている。

しかし、その問いの地点から
ドローンで垂直方向に上がっていくと、

「やりたいことは何か?」という問いがみるみると小さくなって、
「やりたいことがわからないはなぜ苦しいのか?」
という問いへとスケールが大きくなる。

これが、にしやまさんの言う、
「世界が広がっていく感覚」と近いのではないか、と思った。
だから僕は本を読むし、本を届けたいのだなあと。

世界を上から見たり、歴史的な時を越えて移動してみたり、
「いま」「ここ」がずっとずっと小さく見えること。

たぶんこれ。

いま、必要とされているし、オンライン化された世の中で、
より可能になっているような気がした。

昨日の僕の話のキーワードは
にいがたイナカレッジを取り囲むキーワード
・「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
・「近代」(工業社会+学校教育)からの呪縛
・アイデンティティと存在の承認
・夢という神話

・「場」のチカラ
・わたしを「ひらく」
・場とともに自分が変容する

・有意義-無意義と快-不快
・オンラインで突破できるもの(哲学対話とインタビュー)
・ベクトル多様性とベクトルの一致
・身体性を伴わないからこそできること。
・思ったことを即座に言える(書ける)。叫べる。
・音声(画面)とチャットの併用による問いのドライブ
・自分を経営する

~~~

こういう感じ。

昨日の「はたらくくらすラボ」で気づいたオンラインの価値は、頭と体の一部しか参加していないからこそ、「不完全な問い」も場にもチャットにも投げ込めること。インタビューや哲学対話的なトークに向いている理由はそういうところにあるのかもしれない。

「場」というのを考える意味では、オンラインイベントは非常に有効なのかもしれないと思った。

最後に「はたらくくらすラボ」なので、就活の話になっていったけど、
ここでもにしやまさんとの対話での発見があった。

僕は「演じる」というのをポジティブな意味で使っているのだけど、
それに対するてらださんの違和感があって、そこからの対話。

就活は「演じる」のではなくて、視点を上げて(メタ化)してみることができるかどうか?
それをストーリー化できるかっていうことなのでは?

ふだんは「越境」をキーワードに、
多分野の活動に、いろいろ視野を拡げておく。
それが視点を上げる際にも役に立つ。

「就活」はそれを組み合わせて
(企業にとっての)有意義性(価値があるか)で編集していくこと。
それを「ポートフォリオ」と呼ぶのかもしれない。

活動のひとつひとつは、つながっているように見えないのだけど、
部分的に取り出し、組み合わせ、並び替えると、
「私はあなたの会社にとって有用であるかもしれませんよ」って
言えるような、就職活動ができるのかもしれない。

まずは、感覚的に、点を打っておく。
打った点を、上から眺めて、編集する。

その先に自分があるし、オンラインでは、「編集された自分」というのを
より意識しやすいのかもしれないと思った。

本屋×オンライン対話っていう次のステージが僕も見えてきました。
本が売れそう。笑  

Posted by ニシダタクジ at 07:39Comments(0)イベント日記

2021年01月17日

生きるために作品をつくる

オンライン劇場ツルハシブックス2021の1回目。

満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。



https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。

「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。

「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。

そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。

紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。

昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。

オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。

音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。

第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。

「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。

ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。

2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。

9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html

10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html

9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」

これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。

あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。

10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。

そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。

大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。

やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。

TO自分とTO社会という2軸で考える。

つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける

自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。

~~~ここまで第1部

いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。

そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。


「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。

だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。

「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。

「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。

たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。

~~~

とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:10Comments(0)イベント日記

2021年01月15日

「なんとなく」シフトふたたび


「わかりやすさの罪」(武田砂鉄 朝日新聞出版)

読み始めました。
面白いですね。
とっても痛快です。

「わかりやすい」ことにどれほどの意味があるのだろうか?って。
「測定可能であること」はわかりやすさの一つでもある。
それだけじゃないひとりひとりとそれぞれの関係性によって
人って変わってくるよねっていう前提でチームを作りたいなと思う。

今日は2か所して紹介します。

1つ目は、「コミュニケーション能力」について。

~~~ここから引用

関西学院大学准教授の貴戸理恵が「コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、能力として個人のなかに固定的に措定すること『関係性の個人化」と呼んでいる(『「コミュ障」の社会学』青土社)。他人との関係性でのみ成り立つものを、自分の能力として問われてしまえば、当然、皆が皆、どうしてその能力が私にはかけているのだろうと悩む。無理がある。だって、コミュニケーションは他者との関係性で成り立つのだから、いつだって欠けているはずなのだ。

しかし、とにかく無理解を嫌い、意味のわからないものを遠ざける昨今、結果的に個人が理解すべき範囲が拡張され、抱え持つ必要のないものまで持たねばならなくなる。貴戸の言う「関係性の個人化」によって、私たちは、理由あるもの、有効なものばかりを獲得するようになった。

~~~ここまで引用

そうっすよね。
「コミュニケーション能力」っていう言葉自体がおかしいと。
コミュニケーションは個人に属するわけではないのだから。
これ、「責任の生成」にあったASDの話にも通じるなあ、と。

そしてもうひとつ。
鷲田清一さんの「わかりやすいはわかりにくい?」を紹介して次のように述べる

~~~ここから引用

「何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、『これができたら』という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせていく。自分が『いる』に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに、恒常的に自分に向けるようになる」(前掲書より)

そこにいるだけでは価値が認められない社会において、自主的に価値を探し出し、打ち出し、強化していく。その繰り返しによって、やがて他人から価値を認められていく。生きていく上で、あらゆる場面でプレゼンが必須になっている。なぜそのような行動をnとったのかについて、明確な理由を示し、その行動について認可を得なければならない。自分の行動なのに、おい、それに意味があるのか、あるんだろうな、と尋問されるのは、相当にしんどい。そうではなく、相手が何をして、何を考えているのか、それがどうにもわからない、という状態をそのまま放置しておきたい。

~~~

いやあ。そのままズバリですね。
大学生の生きづらさというか、親世代とのギャップってこういうところにあるんじゃないかって思います。

以前に「にいがたイナカレッジ」で講演した時、
「なんとなく」シフトを提唱したことがあったのだけど、まさにこれですね。
参考:(16.6.13ブログ)
http://hero.niiblo.jp/e480075.html

個人としては、「なんとなく」をむしろ推奨していくこと。

内田樹さんが「日本習合論」で説明していた
「理解と共感に基づかない関係性と共同体」を探っていくこと。

そしてもうひとつがやはり「場」にフォーカスしていくことだと思う。
「場」を活動の主体にし、個人は「場」にチューニングし、「場」の構成員としての自分を感じること。

ひとりひとりが「存在の承認」を、いま切実に必要としている。

それは「チームや誰かの役に立つ」という「有用性」や
「〇〇という将来の夢に向かって今は全力でこれに打ち込んでいる」といったような
「わかりやすく夢に向かう自分」によってのみ得られるものではない。
(現実社会はそのようになっているけど)

ひとつひとつのシーンで、プロジェクトで、「なんとなく」やってみる
理解と共感を前提とせず、理解しえないであろう他者と協働してみること。

前回の「アイデンティティデザインの時代」の紹介で、
リーダーシップとはイシューを設定する力であり、
しかもそのイシューは、非目的で他者と関係する活動の中にあるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e491351.html

それって。ひとりひとりの中でも言えるのではないか。
「なんとなく」やってみた中に「発見」があり、「顧客」との出会いがあり、顧客にとっての「価値」を考え、その先に「使命」を知ることになる。

個人としては「なんとなく」、
チームとしては「理解と共感に基づかない協働」、
プロジェクトとしては「場」を主体にチューニングをしながらイシューを見つけていくこと。

現時点ではそのアプローチが、「生きづらさ」に対処する僕の仮説です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)日記