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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月23日

「ローカル・モモ」が必要なんだ

探究学習コミュニティの5回目。
ゲストは津和野高校コーディネーターの山本竜也さん。

~~~以下メモ

・まず第一に、生徒たちにとって「の」魅力がある。
・生徒たちの保護者、教職員、生徒や学校を支える地域社会の人々にとって「も」魅力がある。
・地域社会の未来を切り拓く資質・能力の育成&魅力あるまちづくり

【核3つ】
1 T-PLAN(授業内)
・ブリコラージュゼミ
・トークフォークダンス
・選択プロジェクト

2地域と連携したプロジェクト(授業外)
・授業外でのマイプロジェクト支援
・地域系部活動「グローカル・ラボ」

3進路サポート
・町営英語塾「HANKOH」
・総合型選抜、学校推薦型選抜サポート

【総合的な探究の時間】
ブリコラージュゼミ(1年次に4回行う)
・1年次に年間4回行う
・毎回6~8講座から選択(★趣味的なもの)
・地域の方に講師になってもらう
★地域の大人を面白いと思わせることができるか?

トークフォークダンス
・1年次に1回行う
・地域の方々を生徒と同数集める。
★ふりかえりシートを自分で設計する。

選択プロジェクト
・2年次に半年かけて実施
・自ら選んだテーマに関し、個別ORグループでプロジェクトを行う。

2014年当時はそうじゃなかった。
敷居が高い、無駄遣い、もっと部活頑張ろう、みたいな

ヤマタツさんの地域とのコミュニケーション(関係性づくり)
・地域おこし協力隊と話す、プロジェクトやる、呑む
・地域の関係者(飲食店、経営者、自治会等)をあいさつ回り、のみまくり&お祭り参加
・行政の高校支援係につなぎを頼んで話題提供きてもらう
・フェイスブックでこまめに連絡をとる
・公民館長、社会教育主事と仲良くなる
★ヤマタツ個人として依頼すること

結果、学びの土壌の数値がダントツ。
・興味を持ったことに対してすぐに橋渡しをしてくれる大人がいる
・挑戦する人に対して、応援することができている
・自分と異なる立場や役割を持つ人と交流している
・生徒の関心に合わせて機会を提供できている

まちづくり⇒ひとづくり

2015年度:非進学クラスから立命館大学文学部AO入試合格
強み(日本史・小論文)をHAN-KOHの授業で発見
志望校を一緒に探し、進路指導部に提案
★強みを生かした大学選択

2016年度:20コマを1学期に一気にやる(6クラス同時)
⇒教職員との関係性づくり

2016年度:慶応SFCAO入試合格
強み:地域愛、イベント実施、大学での活動が見えている
進路指導部などとの協働での面接指導等

2016年度:教育課程外の拠点ができた:グローカル・ラボ
1,2年生合わせて20名程度が部員として参加
1年生は体験を重視し、農園づくり、地域イベント等へ積極的に参加
2年生は自分の関心や問題意識に合わせてマイプロジェクトに取り組む

2020年3月卒ストーリー
1年冬~2年春:短編映画づくりワークショップからPVづくりへ
2年冬:プロジェクト2周目(インバウンド/SDGs)
2年冬~3年春:マイプロジェクト全力疾走(和菓子屋で英語メニュー/絵本製作)
3年夏~3年冬:進路実現へ全力疾走(立命館大学食マネジメント/立教大学コミュニティ福祉学部)
⇒大学進学してからも津和野に帰ってくる。

2年の総合的探究
依頼型プロジェクト R1:14種類49名⇒R2:8種類27名
・津和野野菜PR/芸術士ワークショップ/木部ふれあい食堂
自発型プロジェクト R1:1種類2名⇒R2:21種類30名
・空き家活用/マネージャーサミット/つわのアットホームプロジェクト
サポーター数 R1:9名⇒R2:18名「個別最適化」へ。

教員組織の強み
・生徒の声をしっかり聴く⇒つなぐ
・成長ストーリーの共有ができている(あの子みたいに・・・)
・探究やマイプロジェクト、新しい企画に関しては、柔軟な対応を臨機応変さ

津和野コンソーシアム(2つ以上が組織や人の共同事業体)へ。
・コーディネーター頼み、コーディネーター人材確保、魅力化の広がりの弱さを解決
⇒コーディネーターの地位向上と事業の見える化
⇒教育魅力化から町の魅力化へ。

コーディネーターとして大切にしていること
「架橋」:地域とつなぐ、社会(大学、民間、企業等)とつなぐ、知識とつなぐ、未来とつなぐ
「越境」:立場や分掌を越える、常に業務範囲を更新する、グレーゾーンに飛び込む
「公共」:「持続可能性」にコミット、開かれた取り組み、学びを共有し、発信し続ける

~~~ここまでメモ

質疑応答で印象に残ったのは、「マイプロ」と「進路」の関係。
津和野高校は「マイプロ」を通してうまく越境(架橋?)ができているなあと。

ヤマタツさんも言っていたけど、
「進路実現」のポイントは、
・「話を聞いてくれる」という在り方。
・マイプロの抽象化⇒大学の求める人物像とマッチングする
・徹底した面接、小論文、志望理由書サポート

地域の人の最大の役割は、「話を聞いてくれる大人」になることなのだろうな。
「第三の大人」の役割はそこにある。

そして、またしても「編集」。
マイプロで打った点を抽象化すること。
「それって、食を通じてコミュニケーションを活発にして地域を元気にしたいんじゃないの?」
みたいな。

ああ、「就活」における「編集」と同じだ、と。
あとポイントは「関係性づくり」かな。それも広義の「編集」なのだろうけど。
ヤマタツさんが個人として人と人をつなぎまくった。
だから最初は属人的な「人」の魅力なのだろうなと。

「トークフォークダンス」の振り返りをしたけど、
こちらの課題は「言語化」と「語彙力」、そして「対話力」のところかな。

「場」と「関係性」のデザインでクリアしていくこと。
(KJ法等のワークショップ手法、ブリコラージュゼミのような趣味的なつながり)

あとは教科でも振り返りとか言語化、
とかをやってみるのはアリかもしれない。

「マイプロ」という点を数多く打ち、それを編集することで進路実現になる。
それはまるで、満天の星の中から星座を見つけるようなものだ。
いや、星座として「編集」するだけかもしれない。

この点とこの点をこうつなぐと、「こぐま」みたいに見えませんか?みたいな。
(ちなみにこぐま座の尻尾は北極星なのだそうです)

まあでも、その点を打つ前段階として、
あるいは点を打ちながらも、話を聞いてくれる人が必要なのだろうな。
そしてそれは先生でも親でもない、「第三の大人」
評価者でも当事者でもない大人が必要なんだな。

そんな「ローカル・モモ」を高校生たちはきっと必要としている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)日記

2021年01月21日

「やらされ感」の正体


NHK100分で名著「カール・マルクス『資本論』」

第3回目のキーワードは「構想」と「実行」の分離。

ひとつ、謎が解けた。(仮説です)
「やらされ感」という感覚。

これ、「構想」と「実行」の分離のことを言っているのではないか、って。
自分が構想していないことで、かつ構想に同意できていないとき、いわゆる「やらされ感」という違和感を感じるとする。

それは、仕事でもそうかもしれないし、学校の授業でもそうかもしれない。

学校の授業で言えば、
「教科学習」と「探究(的な)学習」があるとする。

よくある話が「探究学習」だと言いながら、
「素材選択→課題設定→解決策の提示」
みたいな枠組みで取り組んでみること。

この場合、「構想」はあるだろうか。
鍵られた授業時間の中で、無理無理課題を設定させられ、解決策を提示させられる。
そもそもこの「課題解決型の学び」とやらにどんな意味があるんだ?
っていう問いに答えられないまま進む探究学習。

一方で教科学習も別に「構想」はしていない。
文部科学省が「構想」した教育課程に従って、
先生が授業を「実行」し、成績がつく。
しかし、こっちのほうが「構想」に対して、
多くの人が同意したであろうことはなんとなく想像がつく。

仕事もおそらくはそうだ。
番組の中でも取り上げられていたが、
いわゆる「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」
に時間を費やしている人がいかに多いか。

その始まりは「構想」と「実行」の分離にあるのではないか。
それは「機械化」「分業化」によって、一気に進んだ。
資本家にとっての価値は「効率化」だったから。

労働者は切り離された。
ふるさとや生産手段からだけでなく、ついに、「仕事」からも。

つまり、たとえば職人がものづくりをするとき、
そこには「構想」と「実行」がセットで「仕事」をなしていたのに、
工場ではそれが「分離」され、労働者にはただ「実行」だけがある。

いわゆる仕事のモチベーションっていうのも、そこにあるのだろう。
「構想」づくりに参画できる働き方。
「構想」づくりに参加できる(意見・考えを述べられる)働き方。
「構想」づくりに参加はしていないが、「構想」に同意している働き方。
「構想」づくりに参加してなく、「構想」にも同意していない働き方。
「構想」がそもそもない、ただ「実行」している働き方。

大きい組織であればあるほど、
「構想」に「参画・参加」するのは難しいことであるだろうけど。
たぶん、これが「やらされ感」の正体だ。

「やらされ感」とは、する・されるの能動・受動のことではなくて、
「構想」していない、「構想」に参加していない、「構想」に同意していない場合の
「実行」のときに感じるもの、なのではないか。

昨日の「にいがたイナカレッジ」の話に戻るけど、
「にいがたイナカレッジ」ではチューニングによる「場のチカラ」を大切にしている。

7 どのように
6 何を
5 誰のために
4 なぜ
3 どこで
2 いつ
1 誰と

がプロジェクトの構成要素だとしたら、下から丁寧に積み上げていくのが「にいがたイナカレッジ」のプログラムだ。

もうひとつは、川喜田二郎さんが問いかける、それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?という問い。
何が違うのか?そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。

参考:「判断の余白をつくる」(19.12.9)
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

彼の言う「ひと仕事」は、
A探検 →B野外観察 →Cデータをして語らしめる→D評価・決断・構想計画→E具体策・手順化→F実施→G吟味検証→H結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。「仕事」にモチベーションが上がらないのは、F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。
あ、それって「学習」も同じだ。学校の授業にはFしかないんだ。授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

「構想」とは、川喜田さんの言うところで、A探検→D評価・決断・構想計画をやること。
にいがたイナカレッジで言えば、1誰と~3どこでをチューニングしながら、地域を観察し、地域の人と対話し、4なぜ~6何を をつくっていくこと。
たぶんそれだ。

「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」(福島正伸・きこ書房)
の「人であふれた駐車場」の話にめっちゃ感動して涙をしたけども、
あれは単に「気持ちの持ちようで、どんな仕事も感動する仕事になる」っていう精神論ではなくて、
「構想」できる部分がある仕事を「構想」しようっていうことなのではないかなと。

「人であふれた駐車場」PVはこちらから(2008年)
http://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho

「やらされ感」の正体は、「構想」を奪われたこと。

だとしたら
「場」を設計する(モチベーションの高い職場・モチベーションの高い(探究の)授業)ことのポイントは、

3「構想」に同意している。
2「構想」に参加している。
1「構想」に参画している。

という階段を登っていくことなのだろうと。
それは個人やチームでのプロジェクトにおいても同じだろう、と。

いや、もしかしたら、「進学」「就活」のその先の人生の「編集」においても、「構想」と「実行」を分離させないこと。あるいはこの視点を持ちながら労働者であること。

マルクスが150年前に、川喜田二郎氏が25年前に語っていたことがいま、目の前にある。
その問いにどう応えていこうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:12Comments(0)日記

2021年01月20日

視点を上げると、問いが小さくなる

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」最終回。

いつにも増して、「問い祭り」でした。
次々にチャットに投げ込まれる不完全な問い。
即答できない問い、そもそも答えがないような問いに、
ただただもやもやが募る。

こういうのもいいかもしれない、と思った。
オンラインの「場」の魅力を考えさせられた。

ふりかえりを発表してくれた
くまがいくんとにしやまさん。

くまがいくんのサイクル
体験→余裕→いちいち楽しむ→違和感→体験
これはすごい編集だなと。

豊かさより心地よさも
(頭)→(心)っていうことなのかも。

「豊かさ」は頭で感知し、「心地よさ」は心で感知する。
二元論じゃないので、グラデーションだけども。
有意義-無意義と快-不快っていうのと近いかもね。

その組み合わせに仕事をつくること。
仕事上で「無意識に頑張れちゃうこと」って体が快だと言っているのかもしれないですね。

そしてにしやまさん。
越境をテーマに学び続ける長岡ゼミ生なので、
言葉が鋭いなあと思いました。

いちばん心に残ったのは、「世界が広がっていく感覚」
たしかにこれが学びの意味だし、喜びだよなあと。

これにヒントを得て話したのが
「問いのスケール」の話でした。

「やりたいことは何か?」という問いの中にいると、
やりたいことが見つかっていない状態がすごくつらくて、
「やりたいことを見つけること」が唯一の苦しさの解決策だと思っている。

しかし、その問いの地点から
ドローンで垂直方向に上がっていくと、

「やりたいことは何か?」という問いがみるみると小さくなって、
「やりたいことがわからないはなぜ苦しいのか?」
という問いへとスケールが大きくなる。

これが、にしやまさんの言う、
「世界が広がっていく感覚」と近いのではないか、と思った。
だから僕は本を読むし、本を届けたいのだなあと。

世界を上から見たり、歴史的な時を越えて移動してみたり、
「いま」「ここ」がずっとずっと小さく見えること。

たぶんこれ。

いま、必要とされているし、オンライン化された世の中で、
より可能になっているような気がした。

昨日の僕の話のキーワードは
にいがたイナカレッジを取り囲むキーワード
・「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
・「近代」(工業社会+学校教育)からの呪縛
・アイデンティティと存在の承認
・夢という神話

・「場」のチカラ
・わたしを「ひらく」
・場とともに自分が変容する

・有意義-無意義と快-不快
・オンラインで突破できるもの(哲学対話とインタビュー)
・ベクトル多様性とベクトルの一致
・身体性を伴わないからこそできること。
・思ったことを即座に言える(書ける)。叫べる。
・音声(画面)とチャットの併用による問いのドライブ
・自分を経営する

~~~

こういう感じ。

昨日の「はたらくくらすラボ」で気づいたオンラインの価値は、頭と体の一部しか参加していないからこそ、「不完全な問い」も場にもチャットにも投げ込めること。インタビューや哲学対話的なトークに向いている理由はそういうところにあるのかもしれない。

「場」というのを考える意味では、オンラインイベントは非常に有効なのかもしれないと思った。

最後に「はたらくくらすラボ」なので、就活の話になっていったけど、
ここでもにしやまさんとの対話での発見があった。

僕は「演じる」というのをポジティブな意味で使っているのだけど、
それに対するてらださんの違和感があって、そこからの対話。

就活は「演じる」のではなくて、視点を上げて(メタ化)してみることができるかどうか?
それをストーリー化できるかっていうことなのでは?

ふだんは「越境」をキーワードに、
多分野の活動に、いろいろ視野を拡げておく。
それが視点を上げる際にも役に立つ。

「就活」はそれを組み合わせて
(企業にとっての)有意義性(価値があるか)で編集していくこと。
それを「ポートフォリオ」と呼ぶのかもしれない。

活動のひとつひとつは、つながっているように見えないのだけど、
部分的に取り出し、組み合わせ、並び替えると、
「私はあなたの会社にとって有用であるかもしれませんよ」って
言えるような、就職活動ができるのかもしれない。

まずは、感覚的に、点を打っておく。
打った点を、上から眺めて、編集する。

その先に自分があるし、オンラインでは、「編集された自分」というのを
より意識しやすいのかもしれないと思った。

本屋×オンライン対話っていう次のステージが僕も見えてきました。
本が売れそう。笑  

Posted by ニシダタクジ at 07:39Comments(0)イベント日記

2021年01月17日

生きるために作品をつくる

オンライン劇場ツルハシブックス2021の1回目。

満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。



https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。

「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。

「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。

そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。

紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。

昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。

オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。

音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。

第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。

「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。

ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。

2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。

9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html

10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html

9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」

これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。

あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。

10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。

そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。

大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。

やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。

TO自分とTO社会という2軸で考える。

つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける

自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。

~~~ここまで第1部

いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。

そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。


「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。

だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。

「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。

「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。

たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。

~~~

とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:10Comments(0)イベント日記

2021年01月15日

「なんとなく」シフトふたたび


「わかりやすさの罪」(武田砂鉄 朝日新聞出版)

読み始めました。
面白いですね。
とっても痛快です。

「わかりやすい」ことにどれほどの意味があるのだろうか?って。
「測定可能であること」はわかりやすさの一つでもある。
それだけじゃないひとりひとりとそれぞれの関係性によって
人って変わってくるよねっていう前提でチームを作りたいなと思う。

今日は2か所して紹介します。

1つ目は、「コミュニケーション能力」について。

~~~ここから引用

関西学院大学准教授の貴戸理恵が「コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、能力として個人のなかに固定的に措定すること『関係性の個人化」と呼んでいる(『「コミュ障」の社会学』青土社)。他人との関係性でのみ成り立つものを、自分の能力として問われてしまえば、当然、皆が皆、どうしてその能力が私にはかけているのだろうと悩む。無理がある。だって、コミュニケーションは他者との関係性で成り立つのだから、いつだって欠けているはずなのだ。

しかし、とにかく無理解を嫌い、意味のわからないものを遠ざける昨今、結果的に個人が理解すべき範囲が拡張され、抱え持つ必要のないものまで持たねばならなくなる。貴戸の言う「関係性の個人化」によって、私たちは、理由あるもの、有効なものばかりを獲得するようになった。

~~~ここまで引用

そうっすよね。
「コミュニケーション能力」っていう言葉自体がおかしいと。
コミュニケーションは個人に属するわけではないのだから。
これ、「責任の生成」にあったASDの話にも通じるなあ、と。

そしてもうひとつ。
鷲田清一さんの「わかりやすいはわかりにくい?」を紹介して次のように述べる

~~~ここから引用

「何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、『これができたら』という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせていく。自分が『いる』に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに、恒常的に自分に向けるようになる」(前掲書より)

そこにいるだけでは価値が認められない社会において、自主的に価値を探し出し、打ち出し、強化していく。その繰り返しによって、やがて他人から価値を認められていく。生きていく上で、あらゆる場面でプレゼンが必須になっている。なぜそのような行動をnとったのかについて、明確な理由を示し、その行動について認可を得なければならない。自分の行動なのに、おい、それに意味があるのか、あるんだろうな、と尋問されるのは、相当にしんどい。そうではなく、相手が何をして、何を考えているのか、それがどうにもわからない、という状態をそのまま放置しておきたい。

~~~

いやあ。そのままズバリですね。
大学生の生きづらさというか、親世代とのギャップってこういうところにあるんじゃないかって思います。

以前に「にいがたイナカレッジ」で講演した時、
「なんとなく」シフトを提唱したことがあったのだけど、まさにこれですね。
参考:(16.6.13ブログ)
http://hero.niiblo.jp/e480075.html

個人としては、「なんとなく」をむしろ推奨していくこと。

内田樹さんが「日本習合論」で説明していた
「理解と共感に基づかない関係性と共同体」を探っていくこと。

そしてもうひとつがやはり「場」にフォーカスしていくことだと思う。
「場」を活動の主体にし、個人は「場」にチューニングし、「場」の構成員としての自分を感じること。

ひとりひとりが「存在の承認」を、いま切実に必要としている。

それは「チームや誰かの役に立つ」という「有用性」や
「〇〇という将来の夢に向かって今は全力でこれに打ち込んでいる」といったような
「わかりやすく夢に向かう自分」によってのみ得られるものではない。
(現実社会はそのようになっているけど)

ひとつひとつのシーンで、プロジェクトで、「なんとなく」やってみる
理解と共感を前提とせず、理解しえないであろう他者と協働してみること。

前回の「アイデンティティデザインの時代」の紹介で、
リーダーシップとはイシューを設定する力であり、
しかもそのイシューは、非目的で他者と関係する活動の中にあるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e491351.html

それって。ひとりひとりの中でも言えるのではないか。
「なんとなく」やってみた中に「発見」があり、「顧客」との出会いがあり、顧客にとっての「価値」を考え、その先に「使命」を知ることになる。

個人としては「なんとなく」、
チームとしては「理解と共感に基づかない協働」、
プロジェクトとしては「場」を主体にチューニングをしながらイシューを見つけていくこと。

現時点ではそのアプローチが、「生きづらさ」に対処する僕の仮説です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)日記

2021年01月14日

「学び」ってなんだっけ?

2020年9月
取材型インターンひきだしの事後研修からスタート。「オンラインの向こう側」を見せてもらったというか体感させてもらった機会となりました。

ハイライトは「やりがい問題」ですかね。
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。例えば「お客様に感謝されること」それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

やりがいは何か?と聞かれて、やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。「近代」なる何か(資本主義や教育)は、「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。それが、「計測可能」という罠だ。「学び」の目的は「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った。「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)」

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。そして、「学び」を「遊び」にしたい。その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

~~~

いいですね。取材型インターン「ひきだし」はオンラインになって、たくさんの「発見」をもらいましたし、そもそもオンラインとは何か?みたいな可能性を見せてもらいました。

そして、次は
広島県立大崎海星高校のドキュメンタリー本「教育の島発! 高校魅力化&島の仕事図鑑」(大崎海星高校魅力化プロジェクト 学事出版)
http://hero.niiblo.jp/e491054.html

まずは「学び」とはそもそもなんだっけ?っていう話

~~~
学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。
~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

いやあ、一言一言が重いっすね。

そして「島の仕事図鑑」をやってよかったこと。
1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。
2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。
3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

生徒たちにとっても、地域の大人たちにとって、いや、おそらく先生たちにとっても、いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、もっとも大切になっていくのだろうと。

~~~

そして、9月に遊びに来たフォルケホイスコーレ帰りの二人から、エッセンスをもらった。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。
いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。
そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。
並列するというコンセプトはここから生まれたのかも。

~~~

そして、ティール組織を読んで「内包する」っていうコンセプトを得て、さらに探究コミュニティとにいがたイナカレッジラボへ。

キーワードは「委ねる」かなあ。

あとは、取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題はアイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

~~~

なるほどな。「場」に「学び」と「承認」を委ねるんだ。

そして、「ダブルローカル」のイベントに。
http://hero.niiblo.jp/e491095.html

「現代の分身の術」おもしろかったなあ。

僕の中で残ったキーワードは、「対話」「余白(余地)」「現在地」かなあ。

「自分との対話」っていうけども、その時に、「ダブルローカル」みたいにベースの違う「もうひとりの自分」と話せることってとても大切かもしれないなあと。なんか余裕とういうか「余白」が生まれるよね。

「ダブルローカル」という2つの視点を持つということ。あ、視点っていうのは支点っていうことなのかもしれない。考えるための軸足。「自由」っていうのは、それをいくつも持つことなのかもしれないなあと。

最後に「現在地」。こんなにも結論がない本もないかもしれない、と。おじさんが読んだら「結局、何が言いたいの?」ってレビューしちゃうかもしれない。

でもその「結局」とかっていう思想じゃない世界観で書かれているんだなあと。

複数の視点であり、なりわいであり、場を行き来すること。行き来し続けること。そのある部分を切り取って言語化する。それが今回の「ダブルローカル」。話したとき、書かれたときの「現在地」に過ぎない。

そんな「現在地」を重ねていくような生き方。たまたまそこに居合わせた人と「現在地」を共有していくような場。

うん、それ、やりたいです。

~~~
学びの場でも「行き来すること」ができたらいいなあと。

そして、コミュニティスクール(学校運営協議会)と拡大熟議

「あなたの学びのスイッチが入った瞬間は?」という自己紹介兼アイスブレイクは機能しましたね。

僕のグループでのキーワードは、

「一生を通して学び続ける人」を輩出したいとするならば。「学び」を再定義しないといけないな、と。与えられて、教えられて、覚えて、テストを受ける「勉強」から機会を得て、好奇心をくすぐられて、やってみて、発見する「学び」へとシフトしないといけない。

それを高校でやらないといけないのではないか。言ってみれば「学びのスタートラインに立つ」ための準備期間。

就職も、専門学校進学も、大学進学も、「学びのスタートラインに立つ」という意味ではまったく同じだ。

だって、人生は巨大な学び場なのだから。

「あなたは何を学びたいのか?」という問いに答える高校3年間であってほしいし、そのための機会として地域の人達と地域資源があるのだと思う。

あなた固有のその「学び」は就職によって深められるのか、その舞台は、専門学校なのか、もしくは大学なのか?そんな問いを地域と一緒に受けとめ、ともに育んでいくこと。それは、実は地域の大人に向けられた問いでもある。

巨大な学び場としての人生を、地域社会をいかに生きるのか?何を学びたいのか?探究したいのか?その問いは大人にとっても、先生にとってもフラットに刺さってくる。

きっとそれが地域と連携した学びのスタートであり、ゴールになっていくのだろうなと。

生徒の「学びのスタートライン」(進路)を一緒に考え、ともにつくっていくこと。地域の大人自身も学びのスタートラインに立つということ。

「学びとなんだろうか?」と問いかけるプロジェクトのスタート地点に立とうとしているのではないかと思うと、ワクワクしました。

~~~

ここまで。
最後に「学びとはなにか?」の本質に迫った9月。
いよいよ2020年ラスト3か月です。  

Posted by ニシダタクジ at 12:09Comments(0)足跡日記

2021年01月13日

アイデンティティデザインの時代


「仮想空間シフト」(尾原和啓 山口周 MdN新書)

いいですね。
こういう軽い本好きなんですよ。
いいキーワードたくさんもらいました。

~~~以下一部引用

これから起きる変化っていうのは、新型コロナウイルスによって突然変異的に生じる未知のものではなく、元から本質的に存在していた考え方であったり将来像であったりが一足早く顕在化しただけだ。

これは言葉を変えれば「今まで私たちが信じたきたことは実はフィクションだったんだと気づく」ということができる。

「大企業」というのは完全なフィクションですよね。

1 仕事が変わる
2 暮らしが変わる
3 社会が変わる
4 人生が変わる
5 国と行政が変わる

issueを見つける能力をつけること。
世の中ってこうあるべきじゃないか、仕事ってこうあるべきだよね、っていう思想を持っておくこと。

アラン・ケイは、コンピュータは軍事や金融ではなく「人間の知性と創造性を開放する道具となるべきだ」と考えたからパーソナルコンピュータという概念が生まれた。コンピュータの在り方に疑問を呈したわけですね。

IKEA This Ables
https://thisables.com/en/
家具に取り付けて使う補助パーツを3Dプリンタデータとして公開。

自分たちの持つテーマに愚直に向き合う。IKEAのミッションは「家具をデモクラタイズ(民主化)する」
貴族じゃなくても素敵な家具を持てるように。

「リーダーシップ」とは、魅力的なイシューを提示できる力のことになるのだろうな。

そのイシューを見つけるには「目的に向かわない」ことが必要になる。

仮想空間の解像度を上げる四象限(P75)
タテ軸:みんなで(上)⇔ひとりで(下)
ヨコ軸:非目的型(左)⇔目的型(右)

右側はオンライン(ZOOM)と相性がいいが
それだけでは新しいものは生まれず、左上が重要であり、
左下の自分の時間がないとストレスがかかる。

リンダ・グラットンの言う「生産性資産」と「変身資産」と「活力資産」の中の「変身資産」ね。
それが旅に出て人に会うことなのかもしれないですね。ご当地の美味しいものを食べるのは「活力資産」のアップか。

「人生を経営する」ためにイニシアティブ・ポートフォリオをつくり、意識すること。

会社の外側のプロジェクトに少し参加してみるとか、そういう小さなステップの積み重ねが人生を大きく変えてくれる。とにかく打席にたって自分が適材適所になる場所を探すというのは、仮想空間シフトが広がると余計に重要になると思っています。

~~~

ここまで一部引用。

いやあ、わかりやすい。
ZOOMがうまくいく集まり、うまくいかない集まり。
オンライン飲み会とかは左上象限にあるのだけど、
やっぱそれには身体性が必要なのだなあと。

僕がこの本で重要だと思える、アイデンティティのところを抜粋します。
本書P92~

~~~
どうせ仮想空間でしか仕事をしなくなるのなら、そもそもデジタルアイデンティティを持てばいい。まず仕事が会社と言う組織ベースではなく、プロジェクトベースになると、あなたは「〇〇社の社員」というアイデンティティではなくて、「そのプロジェクトの中の〇〇係の人」という役割に紐づいたアイデンティティを持つようになります。

アイデンティティというのは関係性の中で築かれるものですからね。そしてすべての人がさまざまなプロジェクトを渡り歩くわけですから、自然と複数のアイデンティティを持つことになります。だって、このプロジェクトではリーダーだけれど、あっちのプロジェクトでは単なるエンジニア、という働き方になるわけですから、役割に紐づくアイデンティティは当然複数に分かれていく。

その中で自分のアイデンティティを好きになるためには、その自分の役割、係を好きにならないといけないわけですが、それはすなわり「仕事の目的、意味」です。だから、魅力的なイシューのもとで、熱量をもって仕事を消費するということが、自分というアイデンティティを愛して精神状態を健康に保つことになるわけです。

~~~

いいですね。「デジタルアイデンティティ」っていう感覚。ネット上のもうひとつの人格。これってインターネット黎明期にはみんなが持っていたはずなのに、フェイスブックによって現実空間とネット空間が同一化されてしまったのだろうな。若者のフェイスブック人口が少ないのは、リアル社会と同一化された世界だから、みたいな理由もあるでしょうね。

さらに、この本は、近代化=都市化に一石を投じる

~~~
近代化というのは都市化とイコールなんですね。近代化というと産業構造の変化が起きて、一次産業から三次産業へとシフトする。これはつまり畑とか森とか海から財を作っていた人たちが情報から財を作るようになるわけです。情報から財をつくると言うのは、はじめに語った脳を工場にしてあさまざまなアウトプットを生産していくような仕事をするということですよね。これまでは物理空間に縛られていましたから、脳を工場にすると一極集中にならざるを得なかったわけです。

自分の脳で生産した情報は、また他の誰かの脳にわたってさらに磨かれたりするわけですが、そのためには二つの脳みそが近くになければならなかったので。工場を移動させるのは無駄なので、じゃあどうするかといえば近くに工場を置くしかない。だから本当は住みたいところが他にあるけれど、三次産業として情報を扱っていく都合上、多くの脳みそが東京というひとつの都市に集まらざるをえなかったわけですね。これは世界共通の事象ですから近代化と都市化はかならずセットで起きることになります。

その一方で、今回起きたパンデミックというのは都市を狙うものですよね。人が密集していればいるほど危険になるわけですから。ある種パンデミックというのは都市が生み出した病とも言えるわけです。これまで都市というのは近代産業を支えている最重要ポイントだったのですが、それが最脆弱ポイントとなってしまった。これは人類史に残る事件なのではないかと私は考えています。

~~~

いやあ、これですね。春くらいにウィークリーオチアイでも言っていた。コロナウイルスは都市への挑戦だと。

そして、この後、山口さんが「東京こそが仮想空間である」と語ります。今となっては仮想空間上で作れるものをわざわざ資源を使って物化させているだけの存在であると言うことができます。

まさにそうですね。今まさにその過渡期にある。

そして、最後に紹介したいのが
こういう本にありがちな「これからの世界を生き抜く10のアクション」から。
その1「境界性領域をつくる」の中での山口さんの発言を。

シチュエーションやコンテキストに応じてアイデンティティを切り替えるということを考えてみたときに、「アイデンティティデザイン」という考え方がこれからは必要になってくるかもしれません。人のアイデンティティは人間関係の中の位置づけで、成り行きで決まっていくようなところがありますが、仮想空間シフトが起きると、必ずしも顔が見える関係性の中だけで物事が進むわけではないので、自分の「ブレないアイデンティティ」をキャラクターとしてしっかりと持つということが必要になると思います。

これですね。「アイデンティティデザイン」
自分のアイデンティティをデザインし、プロジェクトに参画していくこと。

それを複数個もつこと。Z世代(1996年以降生まれ)は普通にやれていることなのかもしれない。
彼らが覇権を握るのは15年後くらいなのだろうけど、それを新型コロナウイルスが一気に変えてしまっている。
だから、おじさん世代もシフトする必要があるよねっていう話。

「アイデンティティ」(自分らしさ)だってフィクションになっていく。

本当の自分とはなにか?
自分が本当にやりたいことは?

という問い自体が無効化される時代。
それは言い換えれば、アイデンティティそのものをデザインできる時代になると言えると思う。

「仮想空間シフト」は、リアルとネットの境目が溶けている状況のことを言うのだろう。
そして、「学び」の文脈で言えば、ますます地域というフィールドの価値が増すだろうと思う。

東京から地方の高校に進学して学ぶ。
地域の大人と複数個のプロジェクトを立ち上げ、それぞれでアイデンティティをデザインする。
そのプロジェクトには自らの学びのために東京から参加している会社員がいたりする。
進行しているプロジェクトを他地域の高校生と共有・ブラッシュアップする。
そんな学びのカタチが見えつつある。

いやあ、面白かったですね。

僕の中の面白かったポイントは3つ
1 リーダーとは良いイシューを提示できる人
2 「生産性資産」「変身資産」「活力資産」をマネジメントする=人生を経営する
3 アイデンティティはデザインできる。しかもそれはZ世代以降であれば普通にできる。

そんな感じですかね。
「探究」の授業設計に良いエッセンスを頂きました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)日記

2021年01月11日

「場の豊かさ」をベースに「場のチカラ」を発揮できるチームをつくる

2020年8月

7月末の探究学習コミュニティ(オンライン勉強会)から。
大船渡高校の梨子田先生。

まずは「問い」について
・質問:問われる側が答えを知っている⇒情報を引き出すトリガー
・発問:問う側が答えを知っている⇒考えさせるためのトリガー
・問い:問う側も問われる側も答えを知らない⇒創造的対話を促すトリガー

「問い」ブレスト
90秒でお題⇒180秒で質問を10個以上出す
※質問には答えない。すべて質問の形に書き直す。細かい質問OK

問いをつくる⇒再設定を繰り返す。
問いみがき⇒問いが育つ⇒生徒が育つ

「新しいワクワクがもらえる」目の前のワクワクに向かっていける。
⇒「面白いね(共感・承認)」って言ってもらえること。
評価⇔「面白いね」

「テーマ」ではなく「問い」:肌感覚的な何か、感じる何かによって磨かれる
手触り感がある経験⇒「問いで研いで磨く」:磨くには接点が必要

「志望理由指導」⇒「主体的探究支援」
大学や社会は受験勉強ができる生徒を求めているのだろうか?自ら問いを立て、主体的に学べる生徒、仮説検証プロセスを体得している生徒を待っているのでは?

1 教材が提示した問題を生徒が考える
2 先生が提示した問いを生徒が考える
3 生徒が立てた問いを生徒同士で考える
4 生徒が立てた問いを生徒本人が考える

1・2は生徒は客体で3・4は生徒が主体。現状では3・4の時間はほとんどない。
⇒問いを立てると主体となる。

かつて、ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)は言った。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

ああ。火を灯すための種火は、生徒の中にあるんだって。支援者の役割は、その種火に、枯れ草を添えて、団扇で軽く仰いでやるだけなんだって。

そして問いを磨いていくこと。リアルな、手触り感のある肌感覚で味わえるものに触れて、磨いていくこと。その問いは研げば研ぐほど、鋭くなって、やがて、北極星になる。北極星があれば、もう、そこへと進んでいけばいい。

そんな探究的学びができるまち、できる高校を実現したい。

~~~

さらに2週連続で五ヶ瀬中等の上水先生
http://hero.niiblo.jp/e490965.html

PDCAからAARへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感:
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ、社会で取り組みたい人は就職へ。

「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」
生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。圧倒的な敗北がここにありました。
2020年8月7日。世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと。他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。パートナーのみなさん、よろしくお願いします!

~~~
「現代版スクールウォーズ」それが探究なのだと。俄然モチベーションが上がってきたなと。

そしてその週末
「NIIGATAマイプロジェクトLABO」キックオフ
http://hero.niiblo.jp/e490977.html

ゲストだった大船渡高校でマイプロアワードをグランプリだった船野さん。

彼女の話を聞いていて、探究サイクルとは、
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思った。

僕のテーマは、「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」

「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。

「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト

それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。

出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。

現代版スクールウォーズだとあらためて思った。伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」

「誇り」が必要なのだと思う。それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。

「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。

現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。

そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。

~~~
いいですね。アツくなってます。スクールウォーズなんですね。

そして8月25日。前の週末の学校見学&まなび体験会を開催し、他県から2名の男子生徒と家族が見に来てくれました。

その1週間は大学生との対話の機会があったり、取材型インターン「ひきだし」の事前研修があったり、いろいろ考えました。

ダイジェストでお送りします。

企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
「恋愛」上手になるには?と聞けば、「経験値を積んでいく」ことだとみんな言いますよね?

どんな恋愛をしたいか?
理想的な恋愛の始まり方は?
恋愛が終わるときは?
と聞かれたら、就職活動そのものが変わらざるを得ない。

取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。

愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)

「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい

仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。

~~~ここまで「就活」について

ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。

「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする

~~~ここまで「ブレスト」について

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

12歳時点で、存在の承認(親和的承認)が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。

~~~ここまで「承認」について

最後にまとめ。

僕がアプローチしてきた「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」問題の原因と課題とその解決方法。(私のマイプロ)

その出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること、そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。その時点で「親和的承認(存在の承認)」が満たされていないにも関わらず。

人はみな「承認されたい」。しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。自らが感じるしかない。

「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。

そのころにはもう「評価」中毒になっている。

地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。

「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」

しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を評価してくれる「誰か」はいない。

そして就職活動。「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。
ところが、何をやったらいいのかわからない。どうすれば評価されるのか、わからない。自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。

仕方なく、資格やスキルを身につける。しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。

そこで行き詰まる。
がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。

「量的に測れない。」これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。でも、自分は量的なアプローチしか知らない。「就活の不安」の根本はそこにあるのかもしれない。

時計の針を巻き戻す。中学入学時点まで。

本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。しかもその「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。

本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」というメッセージを伝え続けること。

しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、家庭や地域にその役割を負わせることはほぼ不可能となっている。

だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。

その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。

思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。

そうやって、見つける、発見する。この「場」でしか生まれないものを生み出す。

それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。
だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。
見つけ合う場を、そしてはじまる場を。

~~~
いやあ、渾身のブログですね。アツいです。2011年の本屋開業、もっと言えば2006年から大学生インターン事業開始15年がひとつに繋がってくるような感覚があります。

そして、ひきだし研修2週目。
引き出しの実施可否を考える上で、いちばんポイントになったのは、
「オンラインでなければたどり着けない場所があるのでは?」という仮説の検証だった。

チューニング=感性の共有

オンラインマジカルバナナの「これ、目的に向かっていないんじゃないか?」っていう面白さ。

「印象に残ったこと」をチャット欄に同時に書き込むことで、違う回路が開く面白さ。

「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から少し異なるのだなあと思った。

「場」をオンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。

一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。

ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。仕事の打ち合わせの人もいるだろう。そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。

おそらく、「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。

~~~
ここまで。いや、あらためて読んでみると、ちゃんと考えながらやっているなあと。
「場のチカラ」と「場の豊かさ」のベクトル性の違い。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。
これってさ、内田樹さんの言う、「理解と共感に基づかない協働」なのではないか?
理解と共感できないからこそ、突破できるベクトルを生むことが可能なのではないか。

そんなことを思った2020年8月ふりかえりでした。
  

Posted by ニシダタクジ at 09:05Comments(0)足跡日記

2021年01月10日

経験をデザインするために「動詞」として捉える

2020年7月

いよいよ、寮を設定して「地域みらい留学フェスタ(オンライン)」に向けて急ピッチで準備しているところ。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」に刺激を受けて、買ってみたのがこの本。「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)
これ、面白かったなあ。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。「情報」から「体験」「コミュニケーション」へと音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーからコンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」という新たなフロンティアが発見される。サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

「コロナの時代」が問いかけているのは、「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。

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このころ、タイミングよく「ウィークリーオチアイ」の「ギグワークは仕事の未来なのか?」を見る。

http://hero.niiblo.jp/e490845.html
キーワードは「響き合わせる」

まずは本「ギグワーク」からメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。それこそが奴隷づくりの方法なのに。「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

「ウィークリーオチアイ」からまとめ
ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

宮田さんのこれがアツかった。

働くを響き合わせる。与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく。
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ
都市や会社=お金のためだった。自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、伴奏者としての大人たちと一緒に、ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?

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そしてこのタイミングで内田樹さんの「ひとりでは生きられないのも芸のうち」
これ、就活生必読ですよ。そもそも論好き。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違えだったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

これは「まなび」についても言えるなと

「まなび」の報酬が学んだ本人宛てに戻されなければならないっていうこと自体が、子どもから「学びの意欲」を奪ったのではないか。

「まなび」の成果はそもそも属する集団に帰属するんだ。その「集団」を失っているんだろうな。と同時にアイデンティティ不安に陥っているんだ。

「労働」の報酬を受け取る人が増えるほうがモチベーションは維持できるように、「まなび」の報酬を受け取る人が増えるほど、「学びの意欲」は高まるのではないか。

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オンラインイナカレッジラボ作戦会議
「チェンジ」⇒「シフト」

「にいがたイナカレッジ」とはなんなのか?について、昨日に引き続き、内田さんの本からの考察。

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

いやあ、これはすごいな。身体的なコミュニケーションと共同体の帰属儀式としての会食。チューニング(同期)方法としての食事。

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いやあ、これすごいですね。「まきどき村」の朝ごはんっていうのはこういうことなんだなあと。

さらに橘川幸夫さんの「参加型社会宣言」。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。いやあ、スケールデカいな。橘川さんかっこいい。

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そして、「地域みらい留学LIVE」で確信を持てたキーワード「発見」
http://hero.niiblo.jp/e490866.html

若新雄純さんひさしぶり
わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないだろうか

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」

「線形」の学び=これまで。
〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
予測可能(指数関数的)⇔予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続=ゴールがない、わからない、計測不可能

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。「発見」は100%生まれる。

「線形」と「非線形」の話で「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)を思い出す。

「コンテンツ」の3つの軸
ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

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これって・・・まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。ストックとフローを組み合わせつつ、「権威型」から「参加型」に寄りつつ、ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。その先に非線形の学びがある。その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。「発見」を価値だと認識すること。場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。

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7月14日「まなびのよはく」
http://hero.niiblo.jp/e490874.html

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、「主体的全体」なのだろうと。僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」、「個人」と「共同体」そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。内田樹さんがよく言っている。教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして家電王国としての国を支えたりした。いつのまにか教育は「お買い物」と化し、最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」やにいがたイナカレッジのプログラム、そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。その「よはく(余白)」は、「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。そして、その「よはく」に「場」ができていく。それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。

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「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

愛(=身近な関係)には4つあるという話。

・横の相補型:恋人、夫婦など
・縦の相補型:親子、師弟など
・横の共同型:友達、コミュニティなど
・縦の共同型:部活、上司と部下など

って。これはわかりやすい。相補型では、相手もっている自分と違うものを大切にすること協働型では、相手と共通するものを大切にすることがポイントなのだと。

そして60°の「ナナメの関係」としてのおじさん

ここでいう「おじさん」は、両親と違うことを許容してくれるテキトーな存在、つまり「ナナメの関係」として書かれています。

「ナナメの関係」っていうのはNPOカタリバが言っているコンセプトなのだけど、高校生にとっての大学生という意味合いで表現されているのだけど。

「おじさん」っていうナナメの関係もありなのかもしれないと。ちょっと角度が大きくなりますけどね。(大学生30°⇒おじさん60°くらい)

それって、地域コミュニティが、というより、地域の大人ひとりひとりがなっていけるんじゃないかと。そんな「おじさん」と中学生高校生の接点をつくっていくこと。

「学びの土壌」の構成要素としての「おじさん」の存在をあらためて考えなおしてみることにする。

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そして、渡辺保史さんの「自分たちごとのデザイン」を。
ここで僕は「見つけ合い」というコンセプトにたどり着く。

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

主語を私たちにシフトしていくこと。「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

「ワクワク」は伝染する。その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場をつくる。


そして、オンラインツルハシで宮本明里さんと対話。

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。それでようやく「自分」がわかる。

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さらに、渡辺さんの「自分たちごとのデザイン」より

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。
経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

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おおお。ここで「動詞」っていうキーワード出てきているんですね。これ、進路選択にもに使えると思う。

「探究」って一言で言えば「学びの経験のデザイン」だもんね。

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライツルハシで宮本明里が言っていた。「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。

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そしてSMOUTによるプロジェクトの取材

あらためて明治時代以降の教育シフトとは何か?を考えた。

1 「発見」から「達成」へのシフト
学びの喜びを「発見」から「達成」へとシフトさせた。

2 「承認」から「評価」へのシフト
承認欲求を他者からの評価欲求へとズラした。

3 「場」から「個人」「自分」へのシフト
学びが「科学」となり、量的に測られるようになった。

これら3つのシフトは、「近代工業社会」の要請によって、「科学的」であり、「量的に計測可能」であることが大切だった。その、前提が何十年も前に崩れているのだ。

学校に通っているといつのまにか、学びは苦役となる。学べば学ぶほど、「自分はアタマ悪いんじゃないか?」って思うようになる。なんだそれって。学びが人を幸せにしないシステムってなんなんだって。

「学び」の逆シフトを起こさなければならない。いや、もう起こっているはずだ。

「個人」から「場」へ。
「評価」から「承認」へ。
「達成」から「発見」へ。

それを始めるのが「場」の構築であると思う。「場」で学ぶとは、「学び合い」を「見つけ合い」にするということ。心に浮かぶ言語化以前の不完全なキーワード、もしくは、「印象に残ったこと」というあいまいなものを「場」に出し合うこと。

それを「その人はなぜ、そんなことを思ったのだろう?」と「場」で考えること。

そして、見つけること、発見すること。
そこに喜びを見出すこと。

思ったことをいうこと。言える場があること。「個人」を「場」に溶かしていくこと。

それが「対話の場」だったり、「ワークショップ」だったり、「プロジェクト」だったり、町を舞台にした「探究学習」だったりする。この町にはそれを起こせる「場」がある。「場」の構成物、構成者たちがいる。

人口1万人の小さくて広い阿賀町には、流行りの言葉で言えば、「手触り感のある」「高解像度」な「資源」と「課題」と「関係性」が詰まっている。

それらを「場」が希望に変えていく。そんな学びの未来を見てみたい。

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という感じの7月でした。

「見つけ合い」「私たち」とか
いまにつながる重要なコンセプトを見出した7月でした。  

Posted by ニシダタクジ at 05:18Comments(0)足跡日記

2021年01月09日

「主体的にやる」と「機会提供」のあいだ

2年間ふりかえり。2020年6月。
休校が明け、怒涛の日々が始まる。

そんなスタートの日に読んだ伝説の講演録
「2020年6月30日にまたここで会おう~瀧本哲史伝説の東大講義」(瀧本哲史 星海者新書)

アツかったなあ。

「教養の役割とは、他の見方、考え方があり得ることを示すことである。」アラン・ブルーム

コロナ前後で何かシフトするのか、考えたこと。

学びの構造が「(目的・目標を設定し)手段として学ぶ」から「(展開・振り返り重視で)機会として学ぶ」へシフトする。

教育だけではなく、近代のパラダイム(価値観)のキーワードは「効率化」だった。「目的・目標を設定して、そこに最高速で行く」に価値があった。それは工業を中心とした社会だったからだ。ところが、そのゴールを失い、しかも「効率化」が価値を生まないことがわかってきた今。当然教育の現場のパラダイムもシフトせざるを得ない。

ところが「AO・推薦入試のために、探究を」って、まったく目的・目標設定のパラダイムではないか。そのほかにもシフトしているように思うこと。

「個人として学び」から「場としての学び」へのシフト。
方法(メソッド)から場へのシフト。
挑戦から実験へのシフト
達成感から予測不可能性へのシフト。
伝説のカリスマ教師から歌われざる英雄へのシフト。
明確なゴールから方向感・ベクトル感へのシフト。

そんなシフトが始まっている。いや、コロナ休校期間中にもうシフトは終わっていて、気づいていないだけかもしれない。

瀧本さんに言葉を借りれば、あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマが、きっとあるはずだ。

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「あなたが今だからこそやらなければいけない探究テーマがきっとあるはずだ」
このメッセージは熱いな。
「自らのあり方生き方と一体的で不可分の問い」っていうだけではなく、そこに「現在性」つまり「今」っていうのを加えないといけないのかもな。

「なぜ、いま、あなたからこれを買わないといけないのか?」に応えられないとモノは売れないのだと本屋さん時代に痛切に思った。

これは「勉強」「学び」も「探究」「プロジェクト」も同じだ。なぜ今、自分はこれをこの場であなたから(場・プロジェクトから)学ばないといけないのか?
に応えられない「学び」はもう成立しない。
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このタイミングで「サピエンス全史」なんか、読まなきゃいけないような気がしたんですよね。

ホモ・サピエンスがなぜ地上の覇者になったのか。激しい議論は今なお尽きないが、最も有力な答えは、その議論を可能にしているものにほかならない。すなわち、ホモ・サピエンスが世界を征服できたのは、何よりも、その比類なき言語のおかげではなかろうか。

集団の限界値である「150人」を超えるための虚構の登場。「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ。」

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

宇宙には神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。

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ウィークリーオチアイでやっていた「sio」の話面白かったな。
「エンゲージメント」とは何か、考えさせれた。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)、1000円の弁当も本気で作る。

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これ、飲食店のリアルだなあと。「商品」ではなく「価値」を届け続けたら、お客とエンゲージメントできるんだなあと。先日の「合理性」の話にも通じるなあと。
サンクチュアリの営業の時も他社の本をよく紹介していたもんなあと。

そして、このタイミングで、夏休みのえぽっく「取材型インターンひきだし」をやるかどうか、っていう決断を迫られて会議をした。

http://hero.niiblo.jp/e490767.html

面白かったのは、「ひきだし」の価値を考えるほどに、「オンラインじゃ再現できないよね」っていうのが列挙されているところ。結局、検討の結果、完全オンライン実施をすることになるのだけど、この当時の葛藤がなつかしい。

1 学生側と企業側のフラットな関係性
・ミステリーツアー方式(選んでないし、選ばれていない)
・「目的多様性」と「身体性」を持つ「場」づくり
2 会社を「人」から知る
・雑談、雰囲気などから会社のリアルを知る。
3 共同生活がある
・合宿形式で、家事分担などから身体感覚を共有している(オフの時間がある)
4 企業を含め全員が参加者(当事者)である。
・同じ空間(場)を共有すること、問いに向かっていくことで、全員が当事者になっている。
・会社の魅力を引き出して冊子をつくる、とぃうゴールがある。

これがオンラインでできるのか?っていう問いじゃなくて、オンラインだからこそできることがあるか?っていう問いに転換した。

~~~

藤岡さんの話を聞いて、思ったこと

大学に入るのも、企業に入社するのも、「乗り物に乗る」ようなものだなあと。もしかすると、ワークショップのような一回性の高い「場」も、「乗り物に乗る」ようなもの、かもしれませんね。

試験は、乗り物に乗るチケットを手に入れるためのもの。あるいは、この人たちと一緒に乗ったら楽しいか?成長できるか?みたいなことを確かめるもの。そんな感覚で、大学入試にも就職活動にも向かっていけたらいいなと。

お互いにね。この人と一緒に船に乗れるのか?っていう。

~~~
で、オンラインツルハシで吉野さくらさんの登場。

「とまれみよ」という動的な屋号。「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。動的な(動きを感じられる)屋号だということ。そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。そういう感じ。
~~~
2020年にインスピレーションのあった言葉のうちに大きかったのがこの「動的な屋号」っていう方法だろうなあと。

次。角田陽一郎さんの「13の未来地図」。よかったですね。
組織⇒バンド、イデオロギー⇒ユーモアへとシフトしていく、と言っています。

これからの仕事における個人と組織の形態はバンドなのではないか?
バンドメンバーは基本的に全員でステージに立ち「替えが効かない」のです。

ここで、素敵な一節を

「ロックバンドが気の合う仲間とともに音楽を奏でるように、あなたがやりたいプロジェクトのための自分のバンドを作るべきだと言っているわけです。」そういう「プロジェクトバンド」経験が就職に効くって言ってます。

ああ、それはあるなって。ボーカルだけじゃなくて、相手によってはギターもベースもドラムもできます。みたいなこともできるし。バンド名を考えたし、作曲も作詞もやったことあります、みたいなのは重宝されそうですよね。でもいちばん自分が好きなのはベースです、みたいな就活。

でも、そもそも、企業ってバンドなのか?みたいなところもあります。特に大企業では難しいかもしれません。「替わりがいること」が最優先されます。やりたい曲もなかなかやらせてもらえないかもしれません。それって、音楽性の違い、なんじゃないか?みたいな気もします。

取材型インターン「ひきだし」のオンラインミーティングで若松さんが「人を通して会社を知る」って言っていたけど、それってまさにバンド選びのようなものだなあと。ただ、もちろん、大オーケストラでしか奏でられない音楽もあって。そういう音楽を目指したい人は大企業にいったほうがいいかもしれない。

でも、音楽性の合う仲間と、バンド組みたいんだよ、みたいな人は、その音楽性を頼りに、会社を選んだらいいなと。

じゃあ、音楽性って何?みたいなときに、それって、ベクトル感だと思うんだよね。メンバーひとりひとりや全体から感じるベクトル感。そういうのを感じられる「就活」ってできないかなあと。

~~~
これ、読み直すとめちゃめちゃ深い。おもしろ。

さらに、「言葉にできるは武器になる」の梅田さんの本「企画者は3度たくらむ」より
http://hero.niiblo.jp/e490791.html

1つ目「ビジョンづくり」って「企画書づくり」だなあと。
ビジョンだけ示しても、現状認識と課題設定からくるプロセスの提示が必要なのだよね。
そのすべてに共感というか少なくとも同意がないと、ビジョンで終わってしまう

2つ目は、
そもそも「キャリア教育」ってなんだっけ?みたいな。
「全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。」この原則から始めないといけないのではないだろうか。

だとしたら「やりたいことは何か?」よりもはるかに大切な問いは、困っている人はいないか?不便を感じていることはないか?それを解決するには?なのではないか。

3つ目の気づきは、アイデンティティの危機という課題に対してのアプローチのこと。僕が思うに、その筆頭は属するコミュニティを多様化・多層化してその掛け算として生きる、で、その階層1つ下に「地域の個性の構成員になること」があり、その場合、地域の個性は「編集」によって生み出すことができるし、周りの人たちと一緒に創ることもできる。

つまり、この本で言うところの「企画書づくり」(課題発見からの一連のプロセス)を通して、チーム(会社・地域)の個性を生み出すこともできるし、その構成員になることもできる。

ビジョンづくりは、企画書づくりへ。そしてそれは個人のアイデンティティをも創っていく。
いや、仮説ですけどね。課題とビジョンと、仮説と、打ち手。そのくりかえし。

~~~
「学ぶ環境」の豊かさっていうのは
・資源の豊かさ:くるみやの農作物などの自然資源
・課題の豊かさ:高齢化・猿による農作物被害などの課題
・関係性の豊かさ:地域の人たちが重層的に学びにかかわる。

~~~
そして地域探究系部活動で学んだこと

これまで僕は思っていたのは「主体的である」と「やらされる(主体的でない)」の二項対立。じゃあ、「機会提供」は「やらされる」なのかと言えば、そうでもないと思うし。「最初は先生に言われたので始めました」っていうのは、高校生のマイプロ発表聞いててもよく出てくる言葉だし。

高校生側の感じ方だったり、ひとりひとりに話を聞いているか、ひとりひとりに話しかけているか、だし。もっと大切なのは「ふりかえりをしているか」だったりかもしれないし、こちらが「機会提供」しているつもりでも、高校生は「やらされている」と思っているかもしれないし。その前提となる信頼関係があるかないか、にもよると思うし。

つまり。「主体的である」は「やらされる」と二項対立で考えるものではなく、高校生目線で言えば、「主体的である」と「機会提供」のあいだにグラデーションが広がっているのだと。

やりたいことがないと悩んでいる子の隣に座って、機会を提供する。その提供の仕方もあるよね。ただネタを提供してこちらは見ているだけっていうのは、やらされ感が出る。一緒にやってみる。考えてみる。悩んでみる。

それが大切なのだろうなと。

地域の自然も資源も課題も地域の大人も、自らも独自の楽器をもって学びという音楽づくりに参加する高校生にとっての「学びの伴奏者」であること。学びという営みのプレイヤーとして参加すること。
~~~

まさにこれ。総合型選抜で問われる「主体的に」活動したこと、をどうデザインするか?これはずっと大きな課題なのだろうなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)足跡日記

2021年01月09日

「学び」と「遊び」のあいだに「探究」がある

2020年5月。

この本に出会っているんだなあ
「世界は贈与でできている」
http://hero.niiblo.jp/e490625.html

なぜ、学ぶのか?なぜ、知性が必要なのか?それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。「贈与を受けてしまった」という自覚からしか贈与が始まらない。生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。

~~~
ふたたび安宅さん。
このころニューズビックスの本ばかり読んでますね。

不確実性の4つのレベル
1 確実に見通せる未来
2 他の可能性もある未来
3 可能性の範囲が見えている未来
4 まったく読めない未来

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

具体的な手法
1 大勝負に出る
2 オプションを仕掛ける
3 後悔のない行動をとる

~~~

先端教育5月号から、雑木林の話

「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

いやあ、これですね。これからの森づくり。「学びの土壌」の上にある、「学びの生態系」ってそういうところにあるのかもしれませんね。

かつて、杉林を育てる理由があった。しかし、社会や時代のほうが変わってしまい、杉をつくっても売れなくなってしまった。

いまや、森の中で自分の木を育て、それを自分自身で売り込まないといけない。そしてそれは、木単体で売るのではなくて、ほかの木や生き物との組み合わせで売る、あるいは、森を観光資源にした観光ビジネスや生き物を教育コンテンツにした教育ビジネスを売っていかないといけないのだ。

学びの雑木林づくり。先生はその見守り人(ファシリテーター)に。地域の人は、雑木の中の1つや動物に、あるいは太陽や風という役割を担っていくことかもしれない。

~~~ここまで

次に大学生の「やりたいことの見つけ方」っていうタイトルへの違和感から

~~~ここからメモ

アイデンティティとコミュニティ
個人戦と団体戦
東洋と西洋
デカルトとスピノザ
計画性と予測不可能性
評価と承認
共感と違和感
自我と共同体
個性の構成員になる
他者と出会う
キャリアデザインとキャリアドリフト
贈与者になる。イスラムとキリスト
手段として学ぶと機会として学ぶ

~~~ここまでメモ

そして、5月から実験的にスタートする「オンライン劇場ツルハシブックス」の企画を考えたのがこのころ。ツルハシブックス閉店のときのコミュニティの閉鎖性について、宮台真司さんが次のように言っていた。
プラットフォームの寿命は2年。2年が過ぎれば、アーリーアダプターの次のアーリーマジョリティが参入し、結果、プラットフォームは死んでいく。

まさにこれ。人材募集市場でも起こっていること。

2年で劣化しない「プラットフォーム」「場」「コミュニティ」は可能か?
っていうことで考えついたキーワードは次の3つ。

1 身体性
本屋というのは、言語コミュニケーションで成り立っている。言語コミュニケーションの得意ではない人は、その「場」に、悪い影響を与えてしまう。言語コミュニケーション以外のコミュニケーションの方法を持つこと、それが「畑のある本屋」仮説だった。

2 (半)開放性
「リアルな場」というのは、そこに存在しているから価値があるわけであって、だからこそそこには「いい雰囲気」みたいなものが流れるのだけど、一方でそれは、場を内と外に分ける、というリスクを負っている。「安心感」という意味では、ある程度の「顔を知ってる」みたいなやつは必要なのだけど、それを外に開き続ける、みたいなことが必要である。

3 (共同体の)多層性
横につながるのではなく、ひとりひとりが幾重にもさまざまな共同体を掛け持ちしている前提で、目の前にある「場」は、それを切り出した場面に過ぎない。ひとりひとりの視点から描かれるスタイルの小説があるけど、そういう感じ。仕事場でも、家庭でもない「サードプレイス」がいくつもあって、その「場」ごとに人は変わる。

~~~
さらに、「お金2.0」へ

発展する「経済システム」の5つの要素
生産活動をうまく回す仕組みを経済システムとここでは呼びます。

1 インセンティブ
2 リアルタイム
3 不確実性
4 ヒエラルキー
5 コミュニケーション

1 インセンティブ
現代は生物的な欲望よりも社会的な欲望が目立っていて、なかでも3M(儲けたい・モテたい・認められたい)の3つが欲望としては特に強く、これらを満たすようなシステムは急速に発展しやすいです。

2 時間によって変化する(リアルタイム)
常に状況が変化するということを参加者が知っていることが重要です。人間(生物)は変化が激しい環境では緊張感を保ちながら熱量の高い状態で活動することができます。

3 運と実力の両方の要素がある(不確実性)
自らの思考と努力でコントロールできる「実力」の要素と、全くコントロールできない「運」の要素が良いバランスで混ざっている環境のほうが持続的な発展が望めます。

4 秩序の可視化(ヒエラルキー)
「経済」は実物のない、参加者の創造の中だけにある「概念」に過ぎません。なので、目に見える(数値化される、分類される)指標がないと参加者は自分の立ち位置がわからなくなってしまいます。また、指標が存在することで自分と他人の距離感や関係性をつかみやすくなるメリットもあります。

一方でこのヒエラルキーも、それが固定化されると
2 リアルタイム(時間によって変化)と
3 不確実性(運と実力の要素)
が失われ、全体の活気を失わせてしまう原因にもなる諸刃の剣です。

5 参加者が交流する場がある(コミュニケーション)
人間は社会的な生き物ですから、他人との関係性で自己の存在を定義します。参加者同士が交流しながら互いに助け合ったり議論したりする場が存在することで、全体が1つの共同体であることを認識できるようになります。

追加1 経済システムの「寿命」を考慮しておく
フェイスブックがインスタグラムを買収したように、次の経済システムを用意しておく。

追加2 「共同幻想」が寿命を長くする
参加者が共同の幻想を抱いている場合、システムの寿命は飛躍的に伸びます。全員が同じものに価値を感じれば、実際に価値が発生してしまうのです。共同幻想はシステムに対して自己強化をかけます。
~~~

これ、やっぱりすごいな。意識したほうがいいやつ。
みんな1インセンティブばかり見ているような気がする。

さらに、お金2.0は、「価値」主義の時代へのシフトを語る

~~~ここから
1 有用性としての価値
これはもっともなじみが深く、資本主義がメインに扱う価値です。経済、経営、金融、会計などで価値という言葉が出たらこの有用性・有益性・実用性としての価値を指しています。一言で言えば、「役に立つか?」という観点から考えた価値です。
現実世界で使用できる、利用できる、儲かる、といった実世界での「リターン」を前提にした価値です。なので、直接的に次のお金に繋がらない、現実世界で利用できないものは有用性としての価値はないということになります。

2 内面的な価値
実生活に役に立つか?という観点とは別に、個人の内面的な感情と結びつけても、価値という言葉は使われます。愛情・共感・興奮・好意・信頼など、実生活に役立つわけではないけれど、その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼす時に、価値があるという表現を使います。有用性としての観点で考えると、個人が心の中でどんなことを思っているのかは関係ありませんし、それらの感情が役に立つといったことはありません。感情は消費する、役に立つといった実用性とは無縁だからです。ただ、美しい景色を見た時、友達と過ごして楽しかった時、それらには価値があると表現しても特に違和感はないはずです。

3 社会的な価値
資本主義は個人の利益を追求していくことが全体の利益につながるという考え方です。一方で、慈善事業やNPOのように、個人でなく社会全体の持続性を高めるような活動も私たちは価値があると表現します。金融や経営の観点から考えると、社会全体の持続性を高めるような行動はただのコストに過ぎず、少なくとも価値があるとは言えませんでした。ただ、砂漠に木を植える人たちや、発展途上国に学校を作ったりする人の行動に価値を感じる人は多いと思います。

このように一言で「価値」と言っても、私たちは3つの異なる概念を区別せずに使っていることがわかります。そして、いずれも私たちの脳の報酬系を刺激する現象であり、脳からしたら等しく「報酬」ととらえることができます。

資本主義の問題点はまさに1の有用性のみを価値として認識して、その他の2つの価値を無視してきた点にあります。ただ、実際に1の価値のみを追求して2と3を無視すると崩壊します。例えば、自社の価値のみを追求し、ブラックな労働環境で社員を酷使して何の社会的意味も見出せないような企業は、優秀な人材も引き寄せられず、内部告発や社員の離反を招き、消費者からの共感も得られません。

価値主義で扱う価値とは、1も2も3もすべて価値として取り扱う仕組みです。そして1と比べて2や3は物質がなくあいまいであるがためにテクノロジーの活用が不可欠です。

裏を返せば、価値主義とは資本主義と全く違うパラダイムではなく、これまでの資本主義が認識できなかった領域もテクノロジーの力を使ってカバーする、資本主義の発展系と考えもらったほうがわかりやすいと思います。

~~~

「You Tuber」とは、チャンネル登録し動画を見てくれるファンからの「興味・関心」という価値を最大化している人のことであり、彼らが稼ぐ広告費などの「お金」とは、その「価値」の一部を変換したものに過ぎないのです。

つまり、「資本」を最大化するのではなく、「資本」の源泉である「価値」を最大化すること。
そしてその価値は上に挙げたように「有用性」だけではないということ。
そして2 内面的な価値と3 社会的な価値を現金化(資本化)する手法が例えば九ラウンドファンディングなどテクノロジーの発達によって訪れているということ。

そういう意味において、キャリアを考える上での大切な質問は、
「あなたのやりたいことは何か?」ではなく、
「あなたが感じる価値は何か?」になってくるのだろう。

超一流企業に就職できるエリートが名もなきNPOに就職するということは、自分が考える「価値」の言語化ができているのだろうと思う。まさに「合理的」判断というときの「合理的」が経済合理性のみを指し示さなくなってきているのだ。

~~~
そして、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトの転機となったコロナ休校期間中の先生方とパートナーズの「オンライン勉強会」。

「対話」の重要性と「承認」との関係を感じる機会となった。

~~~ここから

society5.0が問いかけるのは、目標達成というパラダイムそのものなのではないか?これからの社会に向けて、磨いていくべきは、目標達成の能力だけではなく、(もちろんそれが大切ではないとは言わないが)学び続けること、そしてそのために対話し続けることなのではないか?

自分と対話し、他者と対話し、社会と対話する。その社会との対話方法の1つとして仕事、キャリアがあるのではないか。「対話」によって、目の前の人は「他者」になる。いや、自分さえも他者になる。「ふりかえり」とは、自分を他者化する行為であるとも言える。

「対話」の習慣は、人を「承認」する。

~~~

いや、これ、ホントそう。承認の中でも特に「存在の承認」は、「対話」によって徐々に生成されていくのではないかと思う。

さらに、税所篤史さんと苫野一徳さんの対話から。

「探究的」に学ぶとは、「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?学校じゃなければ、できないことは何か?学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。現在の教育は150年前の仮説にすぎない。それ以前から学びはすでに存在していた。時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。それが現在の学校システム。

~~~
ホントそうだよね。新型コロナウイルスが問いかけているのはまだにそれだ。「学び」と「遊び」は、本来は分けられずつながっているのかもしれない。その「あいだ」に探究はあるのかもな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:30Comments(0)足跡日記

2021年01月08日

二元論でも第三の道でもなく「あいだ」がある

2020年4月
学校始まったばかりでふたたび休校措置になった4月。
取り憑かれたように本を読みながら、
いまやれることを考えていました。
ここからは1か月単位でいきます。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」から

~~~
かつて、インターネットが代表する情報技術が人類に与えていた「夢」とは、「ここではない、どこか」を仮構することだった。この世界とは異なるもうひとつの世界を構築すること。それが前世紀の末にコンピューターが担った最大の気体であり、そして当時の若者たちが虚構に求めたものだった。

だからこそ僕たちはそこで本名ではなくハンドルを用い、もうひとつの自分を演出した。そしてそこには現実とは切り離されたもうひとつの世界を作り上げ、そこでもうひとつのルール、もうひとつの秩序、もうひとつの社会を築き上げようとした。まだインターネットがソーシャルネットワークに飲み込まれる前の話だ。

だが、現在は違う。僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。多くの人たちが実社会の人間関係の効率化とメンテナンスのためにfacebookを使い、夜の会食の店を食べログで検索して予約し、移動中はApple musicでヒットチャートをチェックする。退屈な会議中は、海外出張中の友人にメッセンジャーで愚痴をこぼす。

21世紀の今日、僕たちは情報技術を「ここではない、どこか」つまり仮想現実を作り上げるためではなく「ここ」を豊かにするために、つまり拡張現実的に使用している。

(中略)

20世紀の最後の四半世紀のあいだ、虚構とは、革命の可能性を失った消費社会において、「ここではない、どこか」を仮構することが役割だった。これが仮想現実的な虚構だ。しかし、超国家的に拡大した市場を通じて世界を変える回路が常態化した今日において、外部を失ったグローバル化以降の世界において虚構が果たすべき役割は「ここ」を重層化し、世界変革のビジョンをこの現実において示すことなのだ。拡張現実(AR)的な虚構がいま、求められているのだ。

~~~

「外部」を失ったグローバル化以降の世界のために「ここ」を重層化する必要がある。
これ、たぶん「探究」にも言えるなあと。
津和野高校の探究って意図せずして「高校生活」の重層化を可能にしているのではないか。

「ここ」「この町」の暮らしの重層化のために、観光を強化し、外国人観光客を呼び、テレワーク拠点をつくり、IT企業と連携し、まちをつくっていくこと。それがこの町で暮らす意味になると思う。

十数年前、「課題先進地」というフロンティアを求め、海士町に、西粟倉村に、神山町へと志ある若者が移住した。

それはきっと、アメリカ西海岸でインターネット産業を興した若者たちの「世界に素手で触れている」という感覚に似たようなもの。

「未来に素手で触れている」というような感覚なのではないか。それがフロンティアなのではないか。

~~~
緊急事態宣言まであと少しのところで、
「心の時代にモノを売る方法」と「武器になる哲学」の合わせ技

「心の豊かさと毎日の精神的充足感」への希求が主流をなしてくると共に、長らく―おそらく産業革命以来200年以上も―「生産と分配の経済」の陰に隠れていたもうひとつの系統、「贈与と交換」そして「社交と商業」の経済が、再び表舞台に出てきたのである。
(中略)
もうひとつの経済(贈与と交換の経済)の決定的な原則は
1 1回ごとの試みによって(お客さんに喜ばれるかどうか)が模索される
2 常に需要のないところに新しく需要を作り出す
3 あらかじめ需要は予測され得ない

とダーウィンのこれ。
もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。
って、僕も言ってました。だから、変化しなきゃいけないんだよ、お前(オレ)って。

誤解していました。僕は、ダーウィンを誤解していました。この本を読んで、突然変異は「意志」ではなく「偶然」に起こり、生き延びるのは、「個人」ではなく「集団」なのだ、と。

この町が生き延びるために、異質な他者(エラー)を組み込んでいくことが必要なのだと。
そのエラーを得るために「学ぶ環境」を売り込むキリギリスになろうじゃないか。
エラー求む、だよ。

~~~
これ、いいな。高校魅力化の基本姿勢かも。

からの平田オリザ「22世紀を生きる君たちへ」

現在、ハーバード大学やMITあるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは一見、不思議な事象だ。学生は厳しい受験戦争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。

インターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。

もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。そのようなネット時代を前提にして、ハーバードで一緒に議論することに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。

だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員を含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ。

~~~
これもめちゃめちゃ本質的。大学は1年間もオンラインになっているけど、そもそも「授業料」って言ってるけど、それは授業に対して払っているのではなくて、「学びの共同体」に入る「会費」のようなものになっていくのだと。

高校魅力化も同じだろうな。学びの「コンテンツ」というよりは「学びの共同体」「学びの土壌」に対して対価を払うのだろうなと。「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ、さらには「どこで学ぶか?」がとても大切になっていく。

~~~

そしてウィークリーオチアイをこの頃見始めてますね。
シン・ニホンの安宅さんから。
http://hero.niiblo.jp/e490580.html

コロナショックで起こっていることは、クローズで密な空間からオープンで疎な空間へと距離をとるところが標準になる。

それっていうのは、City(都市)への挑戦、つまり「文明なるもの」への挑戦なのだと。都市に人が集まり、交わることで人類は文明をつくってきた。2000年以上続いた転換点にいるのだという。

そういう意味では、いま、多くの人が当たり前のように使っているzoomのようなテレビ電話システムを使えば、開疎化されても、価値を生むことができるような世の中にはなっている。つまりデジタルテクノロジーやネットワークがそれを可能にしている。

「都市」「高密度」「効率性」「弱者切り捨て」といった社会モデルそのものが変わらなければいけないのだと。

開疎化された世界では
・土地が余っている
・職住隣接
・食べものがおいしくて安い

また、起業家、ベンチャー企業にとっても東京のイベントがぜんぶzoomでオンライン配信となったことで、地方にいても東京と同じ情報が手に入る。ベンチャー企業にとっては大きなビジネスチャンスが生まれているかもしれない。建築やオフィスのリノベーションなど。と同時に地方も企業誘致のチャンスがきている。

~~~
さらに「シン・ニホン」から。

マネジメントとは
0 あるべき姿を見極め、設定する
1 いい仕事をする(顧客を生み出す、価値を提供する、低廉に回す、リスクを回避する他)
2 いい人を採って、いい人を育て、維持する
3 以上の実現のためにリソースを適切に配分し運用する

価値創出の3つの型
1 N倍化(大量生産)
2 刷新(A→B)
3 創造(0→1)

複素数平面的なゲームに入る前の実数空間ゲームのときは、ご存知のとおりとにもかくにも「N倍化」、大量生産でボリュームを生み出すことが何よりも大きな価値の源泉だった。トップに立つことはトップシェアをとることと同義だった。

次の強かったのが「刷新」だ。なんらかの分野に知恵を絞ってアップデートすることである。この実数軸の時代、日の目を見なかったのが今風に言えば0to1の「創造」だ。

ところが今はどうか。「N倍化」はすでにシェアを握りスケール(規模)をとってしまった大企業にとっては、長期的な人口調整局面については先細りのトレンドだ。一方の「刷新」は今や「N倍化」よりも遥かに価値を生む力がある。0to1の聖地のように言われるシリコンバレーで行われている大半の取り組みも実際にはこの刷新モデルが中心だ。

そして、今の時代において明らかにもっとも力強いのは0to1「創造」だ。妄想を形に変える力を持つコミュニティ、人、企業が、もっとも影響力が強く、その結果、富も握る。
だから、「異人」の時代なのだと安宅さんは言う。「異人」からイノベーションを生むのだと。

~~~
からの共同体の基礎理論(内山節)
これもウィークリーオチアイで紹介されてて、買ってみましたがタイムリーでしたね。

特にこの「コミュニティ」の定義と「多層性」のところ。

マッキーヴァーのコミュニティとアソシエーション
コミュニティ:共同的な生活が営まれている場であり、社会のあり方や文化などが共有されている結合体
アソシエーション:コミュニティの内部にある、ある目的を達成するための組織

「コミュニティは、社会生活の、つまり社会的存在の共同生活の焦点であるが、アソシエーションは、ある共同の関心または諸関心の追求のために明確に設立された社会生活の組織体である。アソシエーションは部分的であり、コミュニティは統合的である。」(「コミュニティ」(中久郎・松本通晴監訳 ミネルヴァ書房)

真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。

それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。

共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。

この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。

とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。

故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。

トクヴィルにとって健全な社会とはさまざまな精神の習慣が併存している社会だった。逆に述べれば、ひとつの精神の習慣が覆っているような社会を、トクヴィルは危険な社会とみなした。ひとつの理念が支配するような社会をよい社会だと考えてはいなかったのである。なぜならひとつの理念が支配すれば、その理念だけが正義になり、それとは異なる精神の習慣を圧迫する抑圧的な社会が生まれてしまうからである。

いくら制度が民主的でも、圧倒的な多数派が同一の精神の習慣をもっていれば、それが当たり前のように正義になり、それと異なる意見をもっている人は葬り去られる。ここに制度は民主的でも、実態は強権的、抑圧的、全体主義的な社会が生まれる。それがトクヴィルのみたアメリカだった。

では多様な精神の習慣はどうしたら生まれるのか。小さな集団が多様に存在することだと彼は考える。人間の精神の習慣は自分でつくっているように見えるかもしれないがじつはそうではない。そのグループに加わっていることによって、そのグループの精神を身につけるのだと。

いくつかの精神の習慣を1人の人間が身につけるようになると、どれかひとつの精神の習慣に絶対的な真理があるわけではないことに、人々は気づくようになる。

~~~

「多様性」っていうのは、本当はこういうことなのだろうな、と。
もともと日本の共同体には「自治」があったのだと。

からの、内田樹×えらいてんちょう「しょぼい生活革命」

~~~ここから引用
学校教育は戦後のある時点から「工業製品を作る」という産業形態に準じて、制度設計されるようになりました。それは適切に管理された工程をたどって、仕様書どおりの「製品」ができていくプロセスを教育についても理想とする考え方です。

その前の時代、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと収穫期になると「何か」が採れる。

「工場での工業製品を製造する」というのは第二次産業が支配的な業態だった前期産業社会に固有のメタファーです。「教育の質管理」とか「PDCAサイクルを回す」とか「シラバスによる工程管理」とか、そういうのは全部「工場でものを作る」ための作業なんです。

「私はこれこれこういう人間ですと自己規定して、それを言葉にしてずっと維持してゆく」というアイデンティティ圧力というのは、工業製品に固有のものなんです。缶詰や乾電池だったら、規格化しないと使えない。だから、つよい同質化圧が学校教育で働く。

一度仕様書に組成や使途を定められた製品は、途中で仕様を変更することが許されない。いまの日本社会では、その「仕様変更の禁止」のことを「アイデンティティー」と呼んでいるんです。

~~~ここまで引用

いやあ、これはそのとおり。「自分らしさ」とは「自分のやりたいことは?」とかアイデンティティへの違和感って、これが原因だろうなあと。

いまの社会に合ってない。複雑化し、予測不可能化している社会に、価値を生むためにはそもそも「アイデンティティ」の確立は必要なのか?っていう。

~~~
そして「共感資本社会を生きる」。
やっぱ高橋さんいいなあと。

印象的だったのは「間」の話。

「間」っていう概念も大事ですよね。どっちかを取るってことではない。西洋って「間」がないので、あなたか私か、自然か人間か、みたいなどっちかを取るってなりがちです。だけど日本の面白いところは、間があるんですね。どっちかを取るということをしない。

間にフォーカスすれば、基本的に対立構造っていうのは生まれないんですよ。なぜかと言ったら、そこの間に存在しているのはあなたでもなく自分でもないものだから。でも、自分とあなたってなった瞬間に、壁をつくり対立が生まれるんですよ。

これからは共同体感覚の時代なので、お互いが交わる場所があって、お互いが当事者になれる場所が必要になる。その場所が、僕は「間」だと思っていて、あなたもこの間の当事者だし、自分も当事者であるっていう、お互いが当事者になったときには争いなんて起こらないんです。

この間にフォーカスするっていうことがすごく重要で、これが関係性の再構築なのかなと思っています。

「間」にできあがるものってお互いでつくるものだから、自分自身じゃない部分がある。そうしたときに自分という器の中ではできないことが、この「間」ではできるし、存在しうるわけですよ。

「間」を育むための必要な時間とか環境とかって、僕は地域にすごく存在していると見ている。

働きかけ、働きかけられる、動き、動かされるっていう、この相互作用の複雑系がまるっと「生きる」っていうことだとしたら、地域にはこれを感じやすい環境がありますよね。

人と人との関係性だけじゃなくて、人と自然との関係性もそこには存在していて、その「間」には対話があるじゃないですか。

~~~

4月のラストは、「13歳からのアート思考」から

「表現の花」にとらわれるのではなく、興味のタネを蒔き、探究の根を伸ばし、アートという植物を育てていくこと。その植物は、作品でもあり、高校生自身、つまりアイデンティティでもあるんだと。

そんな場づくり。そして地域の環境づくり。

アートって自由だと思った。いつのまにか収容されていた(あるいは自ら築いてきた)檻をぶっ壊すのは「問い」というベクトルだった。
自由とは「自ら定義すること」だと思った。誰かの設定した枠組みで誰かの設定した答えに向かっていくことは不自由だと思った。

~~~

「間(あいだ)」っていうコンセプト。
二元論ではなく第三の道でもなく、「あいだ」っていうのがあるんだよな。
しかも「あいだ」には無数のグラデーションがあるんだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)足跡日記

2021年01月06日

プロジェクトという「庭」づくり

2年間ふりかえりシリーズ
2109年10月~12月

10月、公営塾研修。
藤岡さんの総合型選抜についての話。

大学=研究機関:分かっていないことを研究する
⇒推薦・総合型選抜でも見るのは、「学生」をやれるかどうか?

学生とは?
「研究=自ら物事を突き詰めて明らかにする」ために
自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定し、
その課題を解決するために、自分で動ける人が求められる。

自律的に研究できる⇒プロジェクト設計力
PBL=プロジェクト学習の重要性
学力の3要素⇒PBLで身につける⇒地域という題材が必要

11月、読書月間
橘玲さんの「人生は攻略できる」
いいなあ橘さん。
自己啓発本にまみれて売れるようなタイトルをつけるという美学。

「やればできる」ではなく、「やってもできない」を前提に人生ゲームの戦略を立てる。

~~~ここから引用

「圧倒的な努力」ができるのは好きなことだけ。

最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。

君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。

ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。

トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。

~~~ここまで

「スピリチュアル」つまり感性のこと。それはトライアンドエラーの中から何かを見つけてくれる。

あとは、仕事の3種類:クリエイター、スペシャリスト、バックオフィス。
バックオフィスだけは仕事=会社名となる。

あと、毎度出てくる伽藍とバザール。

インターネットは伽藍の壁を破壊しつつある。「伽藍(がらん)」とは、寺院にある門のように、外界と遮断する壁の内部のことだ。かつて会社は、そして地方は、さらには地域社会は、伽藍の中にあった。

そこでのゲームのルールは、橘さんのいうように「ネガティブゲーム」だ。「失敗をするようなリスクを取らず、目立つことは一切しないこと」。失敗すれば、不義理をすれば、そのネガティブな評判は一生ついてまわる。

その壁は、破壊されたのだ。あるいは、破壊されつつあるのだ。世界はバザールに向かっている。

バザールとはオープンな市場だ。誰かが珍しい良いものを売れば、それが評判を生んで儲かっていく。粗悪品は評判によって淘汰されていく。よいものはよいフィードバックがなされ、評判資本が増える。たぶん、そんな社会へと変化しつつあるんだ。

大切なことは「地域の課題解決」なんかじゃなくて、高校生ひとりひとりのスピリチュアルが「これだよ!」って思える題材に出会えること。課題解決は目的ではなく結果だし、単なる機会にすぎない。それを「伴走」ではなく、「伴奏」するようなかかわり。

高校生に伝えたいこと。

与えられても与えられていなくても「機会」の中で自らの「違和感」をキャッチし、それを深めていく中で「これだ!」って思える題材に出会い、好奇心を原動力に深めていくことによって、自分が信じられる「価値」に出会うこと。

~~~ここまで

11月の連休中は、正徳館高校に長谷川さんの講演を聞きに行きかき氷を食べて、
その後、黎明学舎体験合宿+公開ミーティングでした。

http://hero.niiblo.jp/e489973.html

キーワードとしての「かかわりしろ」を増やす、とか、地域内でも、関係人口的なアプローチが有効なのかもしれない。
・労力を出す・道具を出す・お金を出す・情報を出す(アイデア、人を紹介)みたいなメニューの設定。

「勉強」と「部活」という価値観。数値化され、序列化される価値。そこにはやはり、「効率化」という工業社会の要請があった。そもそも学校は「最小の労力で、(工場労働者として)一人前の人材を育てる」という「効率化」というコンセプトで始まった。おそらくは社会全体が「効率化」という価値観を信じた。

「効率化」とは、「価値の一元化」そしてそれによる「序列化」のこと。数値化し、量的に見るということ。その前提が崩れ去っている。価値は常に流動し、しかもそれは同じモノサシでは測れない。そのほうがよっぽどリアルで、量的な指標しかない社会のほうがパロディに思えてくる。

誰かが設定した価値に対して、量的に反応して一喜一憂するのではなく、自らが価値を設定し、それを分かち合える仲間とチームを組み、その価値に共感してくれる人に商品やサービスを届ける。それを作っていかなくてはいけない。

「ギャップ萌え人材」「〇〇探究芸人」をつくっていくこと。

大学入試でさえも、推薦・AO入試という「バザール」に向かっているのだ。
トライアンドエラーで一発当てる、っていうポジティブゲームを展開しないといけない。

~~~

上野千鶴子さんは「学校化社会」を次のように断じる。
http://hero.niiblo.jp/e484636.html

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

~~~

そして、映画「Most Likely To Succeed」上映会
http://hero.niiblo.jp/e489987.html

「教育はガーデニングに似ている。」

その種が、何の種なのか、わからないのだ。だから、まず、植えてみるしかない。それが「プロジェクト」という小さな庭なのだと思った。

土壌によって、気象環境によって、また一緒に育つ相手によって、その庭の出来は決まってくるし、自分自身がどんな花を咲かせるのか、また、咲かせようとワクワクするのか?が決まってくる。

みんなでいい庭をつくろうと、チームビルディングをする。

そんな庭をたくさん作ること、なのではないか。そして、その子がどんな種を持っているのか、興味深く見守ること、なのではないか。そしてそれを自らも庭の一部としてデザインすること、なのではないか。

これからやることは、「庭づくり」。

全員にキレイだねとは言ってもらえないかもしれないが、野菜も花も、皆それぞれが咲き誇っている庭を見ながら、その庭で取れた野菜のたくさん載ったスープカレーを食べたいなと思った。

~~~

そして、浦崎先生の講演会を初めて聞きました。

人間には容易だがAIには困難なこと
1 現場で「感じる」こと
2 問いを立てること
3 意味を味わうこと
→探究(自問自答)によって

・課題発見(問い)には、現場(地域)で感じることが必要
・感性には個性→探究テーマは高い個別性

~~~

さらに高校の生徒会による高校説明会初参加。
五泉高校のプレゼンが圧倒的に素晴らしかった。

まず、プレゼンの主語は誰なのか?
「学校」なのか、「わたし(生徒自身)」なのか。
これは全然違うよね。半数くらいの高校が「学校」を主語にして話していた。

そして五泉高校はさらにその上をいった
1 総合高校だから「個別最適化」できる:資格もとれるし進学もサポートしてくれる
2 先輩たちがやさしく「コミュニケーション」してくれる
3 地域を題材にチャレンジできる

これは今年の秋に復活したら意識しようと。

~~~

そして大崎海星高校と嶺北高校の視察・見学

大崎海星高校
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

嶺北高校
http://hero.niiblo.jp/e490024.html

大崎海星高校コーディネーターの取釜さんの
私塾での取り組みが出発点だった。
「やりたいイベント実行委員会」
中学生高校生が自主的にイベントを企画・実行する掲示板。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。はじまりはひとりかもしれない。でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

~~~
嶺北高校の探究の授業には度肝を抜かれた。

瀬戸さんは「次に会うときには別の人になっているという前提で授業をする」それはおそらく瀬戸さんにとっても。

来週の授業に来ている生徒は、今週とはまったく別人なのだ。その前提で、授業をつくる。ふりかえりをつくる。ライブ。瞬間瞬間

この授業は、瀬戸さんにしか作れないと思った。いや、本来はどの授業も、その人にしか作れないんだ。

瀬戸さんが言ってた。「目の前で変化している人の変化を見逃さずに済む。」

それを見ているんだ。ひとりひとりの「変化」そのものを。

瀬戸さんのNPO法人SOMAが運営する地域の学びの場「あこ」が本当に子どもから大人までが集って学んでいて、すごい場所だった。あれ見たら、僕が中学生だったら入学するよなあと。

エコシステム(=生態系)とそこにいるひとり。
という視点。

個の存在を意識しながら、学びのために環境(場)にアプローチすること。「承認欲求を満たす」というよりも「あなたを見ていますよ」というメッセージを言語外で伝えていくこと。そういうかかわり。

授業も、場も、エコシステム(生態系)ではないのか?

そんな深く、重い問い。再現性なんて、やってみないとわからないけど、誰がやっても同じ結果には絶対にならない。そして、環境も、そこにいる人ひとりひとりも、常に変化し続けている。それを感じながら、「学び」をつくっていくこと。「場」をつくっていくこと。

その「場」を見て、感じて。中学校3年生が直感で「ここにしよう」って決められるような。「ひとめぼれしました」って言ってもらえるような。

そんな「場」がつくれるか?にかかっている。

~~~
これだよね、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトが目指す「場」は。
まだまだ、これからだな。

11月のラストは
泉谷さんの「普通がいい」という病

http://hero.niiblo.jp/e490011.html
「頭」と「心」「体」についての関係性がわかりやすい。

「二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・数量化や計量ができるもの・再現可能なもの・必然性の明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を与えない場合しか扱えないという大きな限界があります。しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・質的なもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとってはむしろ重要です。なぜなら、それらの性質とは、「生きているもの」や「大自然」の特性そのものだからです。」

「人間をひとつの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。」「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけど、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。それがうつ状態や幻覚、妄想、そして摂食障害などです。いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の特異な秘書を雇ったのだけど、いつの間にかその秘書が社長を仕切り始めた、そんなイメージです。」

うーん、まさに。

~~~

イオン亀田でむかごジェラートを売っていた11月のラスト
そして迎えた12月。

一度行ってみたかった栃木の非電化工房へ。
月3万円ビジネスの著者フジムラさんの遊び心が詰まってた。
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

そして、それと合わせて
KJ法生みの親、川喜田二郎氏からの学びを。

~~~

「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)

この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。

「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?

「課題が与えられ、解決策を提案する」では、「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?

「判断」の余白をつくること。そこに「主体性」と呼ばれるような何かが生まれるのだと思う。それは「好奇心」だったり「探究心」だったりするのだろうけど。

~~~

デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場の価値。それは「創造」が起こること。それにより自己が変容すること。

そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?
そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。

そんな「場」をともにつくる。

~~~

これも深いですね。
初めににあるのは「我」ではなく「混沌」である。

12月14-15日はマイプロラボ新潟初開催でした。
「やりたいことは何か?」っていう問い自体が人口流出の原因じゃないか?
って思った。

もっとそもそも「仕事」とは?
わたしにとっての「価値」とは?
って聞かないといけないよね。

12月21日からは清川で温泉カフェをやっていました。
コーヒー焙煎楽しかったなあ。

そして公民連携ミーティングに出て山倉さんの話を聞いて、
その後、阿賀町で山倉さんのレクチャーを聞く。

はちみつ草野の
★「はちみつには使命があります」
★あなたにも使命があるんじゃないか?って問いかけてくる。
っていうのが衝撃的だったなあと。

このまちの使命はなんだろう?
ですね。

やっと、2019年おわりだ~。
次はいよいよ2020年。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)足跡日記

2021年01月05日

仕組まれた自由に誰も気づかずに

2019年7月~9月 ふりかえり

「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)
が2019年ベスト3に入る衝撃でしたね。

6月末に見学した「地域みらい留学フェスタ@東京」
http://hero.niiblo.jp/e489518.html

このタイミングで、いい本に出会った。
僕が高校魅力化プロジェクトで伝えたいことは、この本に書いてあるロバート・ヘンライの言葉だ。

「芸術家は人生についての考え方を世界に教えている。金だけが大事だと信じている人は自分を欺いている。芸術家が教えているのは、小さな子供が無心で遊ぶように、人生も熱中して遊ぶべきだということである。ただし、それは成熟した遊びである。人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり、革新である。」(ロバート・ヘンライ)

いいなあ。人生も熱中して遊ぶべきだ。
僕は「べき」という言葉は好きじゃないけど、これには賛同するなあ。

その前日には同書から、
「意義」というモンスターについて書いている。

「意義」と「意味」を混同しているのでは?と。
「意義」というのは「価値」からきている。
しかもその「価値」は世間的画一的な価値だ。
「意味」は人それぞれにあるし、世間的価値とは無関係につくることができる。

印象に残ったのは長野県立白馬高校の説明。

■こんな人におすすめ
・白馬でやりたいことがある
・多様な価値基準を受け入れられる
・人と協働することが好き
・新しいことにチャレンジできる

■反対に、3つの誤解
1 白馬にいけば変われる⇒本人が変わらないと
2 個人の希望を優先できる⇒全日制の公立高校
3 平日でもスキーやスノボいける⇒いけない

■メッセージ
1 何を学びたいのか?
2 広く学ぶ覚悟はありますか?
3 白馬で生活する覚悟はありますか?

これ、来年の募集では阿賀黎明高校バージョンで整理してちゃんと言おうと。

そして。
いまのマルクスの話にも通じる、この一節

貨幣経済が「質」を「量」に還元した(19.7.4)
http://hero.niiblo.jp/e489521.html

「頭」と「心」が対立せずに、互いが相乗的に喜び合っている状態。これを、私たちは「遊び」と呼ぶのです。誰しも幼い子供時代には、自然に「遊び」に夢中になっていたはずなのですが、それがどうして、こんなにも縁遠いものになってしまったのでしょう。

物事の「質」を「量」に還元してしまう貨幣経済というものが、私たちの世界を動かす支配的な価値観になってしまったことが挙げられるでしょう。お金というツールはそもそも、物々交換の不便さを解消するものとして登場し、あらゆるものを「量」に還元して交換、つまり取引を可能にしました。「質」の異なる様々なものをすべて「量」に置き換えてしまうということは、本来は暫定的・便宜的なことであって、そこに無理があるのは当然です。

しかし、いつの間にか、経済原理が世の中を動かす中心的な力を持つようになってしまい、人々は「質」の大切さを犠牲にしてまでも経済価値を追い求めるようになってしまいました。その結果、様々な物事に対しても、プロセスよりも結果のほうを重視するような考え方が、広く世の中に蔓延するようになったのです。

~~~
これはまさに「呪い」ですね。「量」的に計測可能にする、という呪い。

昨日の「街場の共同体論」の話にもつながります。

「労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。」

短期間でいかに「量」的に稼ぐか。それは「計測可能」です。しかも際限がありません。それは「学習」においても同じです。短時間でいかに成績を上げるか?が「能力」の指標として、いまだに採用されているのが現状です。

そして、「キャリア教育」もその「呪い」にかかってしまいました。
「やりたいことは何か?」「将来なりたいものは何か?」と問われ、
その目標に対して今できることは何か?と問われます。

それは言わば「手段」にあふれた教育、「手段」だらけの世の中です。
それをどうシフトしていくか?

「機会」として学ぶへのシフト。「目標達成」さえも機会としてとらえるような教育、世の中ができないだろうか。
「機会」を得て、そこで心の動き(共感・違和感・衝動)を得て(ふりかえって)、問いを立てて活動をする。
その活動がまた「機会」となって、、、そんなサイクルができないだろうか。

そんなことを考えていた時の7月24日、法政大学の長岡先生に再会。
僕の水戸留学時代の影の師匠。
「越境」をキーワードにゼミを展開しオープン参加の「カフェゼミ」を実施。
参加した時のゲスト、「つながるカレー」の加藤文俊さんの話から、
エンターテイメントの本質は「予測不可能性」というキーワードをもらった。

その長岡先生のコメントがアツい。
「直感で動け、そうすれば間違いしかない」
そういう前提で「呪い」を解いていくのだろうなと。

その後は阿賀町の自然薯農家、目黒さんに話を聞いて、
「百姓2.0」を実感した。
「仕事」も「幸せ」も自ら定義すること。
「仕事」も「幸せ」も自分でつくるものだと。

7月のラストは、「街場の平成論」(内田樹編著)だった。
ここでの平川克美さんの一節にうなる。

「消費者」は、これまでの古い慣習や、しがらみから自分を解き放つことが可能な存在であった。一人の時間を大切にし、誰からもその行動を干渉されず、好きなときに好きなものを自由に所有することができる。

消費者が持った解放感は、日本の歴史上稀有のものだったように思える。金の力が、個人を解放するという幻想を多くの日本人が共有したのである。ただし、金さえあればの話である。

考えてみれば、「消費者」は、革命を経なかった日本人が初めて手にした「個人」であったと言えるかもしれない。ここでも、但し書きがつく。但し、金さえあれば。

~~~

「消費者」になるという自由。
かくして人は「個人」となった。

尾崎豊が「卒業」で歌った
「仕組まれた自由に誰も気づかずに」
っていうのは、このことなんじゃないか、って。

ということで8月。

イナカレッジのトビラプロジェクトで
顧客である「ひとり」に出会うことを再確認。

人生は経営であり、ドラッカーの5つの質問に答える必要があること。

1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

人生は経営であるが、
ただし、個人戦でもトーナメント戦でもないこと。

山口周さんの「武器になる哲学」ではダーウィン理論の誤解が溶ける。

もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。

だから、変化しなくちゃいけないんだよ、って思ってた。
そうじゃなかった。

生物はすべて「集団が生き延びること」を最大の価値として存在しているんだろうと思う。そのために「自然淘汰」というメカニズムがあるのだと。そのメカニズムは、「突然変異」というエラーから始まるのだと。

「環境」は変わる。

環境が変化したときに、適応できる(生き残る)のかどうか、は、変化後の環境に適応し得る突然変異を継承しているかどうか。集団が生き延びること。この「集団」を「組織」あるいは「会社」にしても、同じことなのだと。突然変異(エラー)を組織内(会社内)に許容できないと、外部環境が変化したとき、生き残る可能性が下がる。

これが今コロナ禍で起こっていることではないかと。

8月末はイナカレッジの研修講師がうまくいかなくて、
それを考えて、実習地のひとつ、矢田集落でヒントを得た。

「チューニング」
・予測不可能性で心を開く
・感覚の共有。
・向き合わない

相手を理解しようとしないで、相手が出す「音」に関心を向ける。3人の「音」を合わせて、音楽(場)をつくる。その音楽(場)から、自らが学ぶ。新しい「音楽」を生み出す。そうやってプロジェクトを前に進めていく。そのために、付箋を使ったKJ法があるのかもしれない。

「ともに学ぶ」そして、「新しいものを生み出す」ために、コミュニケーションがあり、ミーティングがある。そのためには、チューニングというコミュニケーションが必要なのだ。

そうだな。たぶんそう。理解と共感に基づかない協働。
そのために「チューニング」があるのだ。

9月1日には阿賀町レガッタで黎明学舎チームがかき氷を売りました。
丁寧なふりかえりでモチベーションが上がることを目の当たりにした。
「やってみる」が先だよ、意志じゃなくて。って。

9月7日茨城でのえぽっく「取材型インターンひきだし」の振り返りセッション。

えぽっく代表、若松さんの一言。
「正直、ひきだしにどんな価値があるのかって、わからないんですよ」っていう一言だった。

これは、すごかったな、と。場の空気が一気に変わった。投げ込まれたいまのリアルな感情。

どんな価値があるのか?それは事後的に決まるっていうか、いま、この瞬間に決まるんだよ、ひとりひとりの感想と場の空気で。だからいま、価値を語ってくれ。そんなメッセージ。

「機会としての学び」の前で、人は等しくその場の「参加者」としてフラットになる。
「発見」「創造」する仲間になるんだ。
9月の連休は、福島県広野町で暗やみ本屋ハックツの出店。
タイミングよく福島県立ふたば未来学園高校で探究の発表会があったのでのぞいてきた。

「地域」や「まち」を主語にして語らない。「自分たち」を主語にして語る。しかしその「たち」の中に、「地域」や「まち」が含まれているような、そんなプロジェクトをつくっていけないだろうか。

発表会での違和感。

3つのプロジェクトに共通することは?⇒「あきらめないで活動することです」みたいな振り返りに意味があるのか?っていう。

プロジェクトをやったことで、こんなことを起こり、こんな人に出会い、こんな経験をして、こんな自分に気づいたんだと。そんなストーリーを聞きたいのだ。プロジェクトの成果なんかよりずっとずっとそれを聞きたい。どんな感情の動きやどんな学びがあったのか?を知りたい。

「高校生」が「地域」で「探究」の意味は、そこにあるのではないか、って思う。

http://hero.niiblo.jp/e489823.html
「あきらめない理由」に出会うこと。

プロジェクトを始めることで、何かが起こり、誰かに出会う。そこで何かを感じる自分がいる。そこにフォーカスすること。「気づいたこと、学んだこと」の前に「印象に残ったこと」という心のふりかえりをすること。

「機会」から学ぶっていうこと。そして、「あきらめない理由」を発見すること。プロジェクトの評価を自分ですること。

~~~っていうまとめ。

ふりかえり方法は3つ
「メタ化して学びにフォーカスすること」
「深掘りして個人の感情にフォーカスすること」
「地域にとっての価値にフォーカスすること」

答えを持っている大人からは、もう何も学べない時代に入ったのではないか。
っていう感想

9月のラストに「阿賀町まちづくり会議」があって、
うまくできずに、山本さんに相談にいった。

未来日記のポイントは、顧客を主人公にする、ということ。その顧客は自分自身であってもいいのだけど、プロジェクトが実現している未来に登場する人がいい。

「高校生のための場をつくりたい」っていうのだったら、5年後、その場ができているとしたときの、高校生自身の日記をかかなければいけない。
今日も、「場」に行って、友達としゃべった、とか、自分たちでくるみのプロジェクトに挑戦している、とか。そういう感じ。

ワークショップっていう「パフォーミングアート(舞台芸術)」について考えさせられた。

「場」に対する信頼を。ファシリテーターはその意味で迷ってはいけない。ファシリテートとは、「パフォーミングアート」なのだから。

「正解がある」というOSでは、もう勝負できない。「正解がない」という前提で、取り組んでいけるか。

「創造的混沌」を味わう。「創造的混沌」というカオスの中から新しいものが生まれ出て、秩序化されることで新しい常識が生まれる。

要するに、そのワークショップには、「愛」がなかった。

~~~ここまで

「愛」のあるワークショップ、つくらないとね。
っていう3か月でした。

だんだん、「探究」プロジェクトに寄ってきています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:24Comments(0)足跡日記

2021年01月04日

いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ

2019年4月~6月のふりかえり。
4月はまだ本屋モードですね。

~~~ここから振り返り

堀江貴文「すべての教育は洗脳である」から

「僕は宗教にには何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

「学校」は、あるいは「就活」というシステムは、もしくは、「会社で働く」ということは、「常識」への適応を要求する。もちろんそれは、世の中を生きていくために、必要なことだろうと思う。

しかし、「常識」を「信仰」してはならない。本書にあるように、「学校」というシステムは、200年前に存在していないし、「工業社会」とセットで生み出された仕組みだった。「就活」について言えば、もっと短い期間でしかない。その「常識」に適応する、ということ。それは「適応」であって、正解ではないこと。

その後、内田樹「街場の共同体論」。
これ、すごく的確に、アイデンティティ危機の原因に迫っているのではないかと。
http://hero.niiblo.jp/e489105.html

経済成長のための最適解を求めた結果、最も合理的な政策は「家族解体」でした。消費活動を活性化するためには家族の絆がしっかりしていて、家族たちが連帯し、支えあっていては困る。だから、国策として家族解体が推し進められたのです。

労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。

ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が最も賢い働き方だということになる(例えば、金融商品の売買)。一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生み出しても、高額の収入をもたらさない労働は社会的劣位に位置づけられました(例えば、農林水産業)。

そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根元から傷つけられていった。

~~~ここまで引用

「労働者=消費者」を生み出していった国策。
これが日本型資本主義システムを形作ることに成功した。

そして、さらにこの本から、「弟子」について。

「あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいのものを知らないか、技が使えないか、誰よりも自分が知ってますよ。だから師匠に就いて学んでいるんじゃないか」という話です。

だから、「知らない」「できない」ということによるストレスがない。自分がその道の開祖とか、学派の学祖とかであったら、「知らない」や「できない」は許されません。

でも、違う。いくらでも間違えることができる。いくらでも失敗することが許される。この広々とした「負けしろ」が、弟子というポジションの最大の贈り物です。今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。この開放性が、弟子であることの最大のメリットだと思います。

~~~ここまで

「自由」ってなんだろう?「オリジナリティー」ってなんだろう?って思った。

「自分は伝統の継承者であって、私の教えには何も新しいものはない。」この圧倒的な強さ。そして自由。そして何より、「弟子」なんて、勘違いや思い込みに過ぎないっていうこと。あの孔子でさえ、勝手に弟子を名乗っていただけなんだと。


そして苫野一徳さんの本「学校をつくり直す」
キーワードは「共同探究者」「探究支援者」になる、ということ。

「地域」には、宝物が眠っている。それは「探究」を駆動する何か、だ。

「地域の課題解決」が叫ばれているが、「解決」したいと心から思うのは、一般的「課題」じゃなくて、具体的な誰かが困っていることだ。それを解決することで楽しい未来が待っているようなこと。それに出会えること。それが「地域」の魅力だろうと思う。

「地域の人」や「地域の課題」に出会い、心が動くこと。「衝撃」や「共感」だったり、「何とかしたい」と思うこと。そこから「探究」が「学び」が駆動していく。そういう場所をつくりたいんだ。

~~~

「先生はえらい」(内田樹)につづく。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

この4つのフレーズから、「学ぶ」とは?から始まって、「生きる」とは?まで進んでいる。
なぜ、「学ぶ」のか?この問いを多くの人が持った2020年。ここに一つのヒントがあるように思います。

そして近畿大学を紹介した「なぜ関西のローカル大学「近大」が、志願者数日本一になったのか」(山下柚実 光文社)

「入学式は、新入生たちに全力で大学生活に取り組む決意をしてもらう、最大のチャンスなんです。その大切な瞬間を、私たちの思いを真心込めて伝えていく大切な時間にしたいんです。」

「不本意新入生」と大学がどう向き合うのかは、入学してくる学生に意欲や勇気を持ってもらう教育問題であると同時に、大学の経営問題でもあるのだ。入学式という一瞬の時間によって、「不本意新入生」の意識をいかに転換し、近大に入学して良かったと思える大学生に変えていくことができるのか。「よくぞ近大に入学してくれました」という感謝の思いを伝えることができれば、新入生は新たなるモチベーションを獲得し、大学はその結果として安定した授業料収入を確保できる。

近大は「パートナー」として大学生を見ているんだなと熱くなった。

★「成果目標」「行動目標」「意義目標」の関係性

そして、2019年6月。
まずは6月1日の柏崎変態ツアーから。
http://hero.niiblo.jp/e489377.html

テック長沢・長沢社長の一言
「いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ」

茂木さんの「探究」のレクチャーより

「学びの意欲の低下」ってホントなんだなと。そのインセンティブがないもんね。そもそも「インセンティブ」っていう考え方が学びの意欲の低下を引き起こしているけど。

「学びの主体性」を取り戻すこと。そこに尽きるのかもしれないな、と。そこには大人の「愛」や「探究」に直に触れること。そして人は地域の当事者になると同時に、学びの当事者になる、ということなのかもしれない。

自分を愛する前に、誰かや地域を愛すること、その前に誰かや地域の「愛」を体感すること。それが必要なのかもしれない。「愛」は言葉じゃなくて、波動というか、「波」だから。

~~~

石山アンジュさんの「シェアライフ」より
東洋思想では、「個人」という概念は存在せず、「自分は全体の中の一部であり、一部である自分が全体を構成する」と考える。

~~~

つまり、「チームひきだし」や「にいがたイナカレッジ」の1か月プログラムの最大の「価値」は、「価値」とは何か?を問う機会を得るということです。

経済社会においての最大の価値は、売り上げを上げること、伸ばすことです。しかし、売り上げを伸ばすためにがんばっていても、売り上げは上がり続けることはありません。売り上げの源泉は「価値」だからです。顧客に価値を提供できるからこそ、その商品、そのサービスは売り上げを伸ばし続けることができるのです。

かつて、その「価値」は長持ちしました。新商品の洗濯機を作れば、何万台、何十万台も売れ、長く売れ続けました。ところが、テクノロジーの発展など様々な要因によって、価値が長持ちしない、かつ多様になってきてしまいました。

「価値」そのものが流動している。だから、自ら「価値」を考え、生み出せる人になることが求められます。

~~~

「価値」を問う夏休みを提供しているのです。イナカレッジとひきだしは。

そしてラストは山口周さんの「劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?」(山口周 光文社新書)

「教養」の敗北。

「経験」「挑戦」「失敗」の意味が変わりますね。

同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。

なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。

~~~ここまで

最後に泉谷さんの
「仕事なんか生きがいにするな」に出会っているんですね。

これはホント衝撃でした。

刺激に対する単なる反作用としての「能動」、あるいは外観は情熱のようでも、実は外力に動かされている「能動」は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。(「人生と愛」エーリッヒ・フロム)

外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らすために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

将来どんな仕事に就くべきかといった「社会的自己実現」について苦悩することよりも、もう一つ深い層の「生きることの意味を求める」という実存的な飢えの方が若い世代にとってはむしろ切実な問題になってきているわけです。

~~~ここまで

実存的な飢え。まさにそれです。
アイデンティティ危機の根源。

あと1年半。ながいな、これは。
ラストは長沢社長の一言で。

「いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ」

もし、人生が経営だとしたら、
いま、誰と出会えるかがわが人生の未来、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 11:46Comments(0)日記

2021年01月03日

「おでん」に溶けるジャガイモになる

みなさんが振り返っているのに影響されて、
わたしも振り返ります。

2019年1月~3月(さきは長い・・・)

この3か月のテーマは「本屋」と「就活」でした。
まだ自分が5月から高校魅力化プロジェクトに携わろうとは思っていなかったですね。

2019年1月は、
「かえるライブラリー」のクラウドファンディングに挑戦。

年明けは「本を贈る」と「続・ゆっくりいそげ」を併せて読んでいました。
want,doからbeで自分のありたい姿を現すこと。
何をやるか?ではなく、誰とやるか?どうありたいか?を問いかけました。

★影山さんの場の定義
空間×関係性×記憶っていうのも記憶に残る。

★影山さんの場のチカラは
1 目的がなくても参加できる
2 多様な人が来る
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一
5 楽しく遊びの要素がある

影山さんは、「それってカフェじゃないか」って思うのだけど、
僕はやっぱり「それって本屋じゃないか」って思ったのです。

★向き合わないデザイン
また、「本の処方箋」から考えた「向き合わないデザイン」について。
1つ目 その場限りであること
2つ目 その悩みは本では解決しない
3つ目 向き合わずに本棚を見ながら話すこと
これによって、相談者が「心を開く」ことができるのでは?と考えた

★本屋は「委ねる」
・場に委ね
・感性に委ね
・購入者の未来に委ねる

★かえるライブラリーのシステムは公務員も参画できる地域ビジネスのプラットフォームであること。
・公開積読
・本で出会う就活⇒耳をすませばプロジェクト⇒「手紙を届ける」

★本屋のオヤジのおせっかい
無力というのは「何もしない」ということではない

★本屋は「つくる」と「届ける」が同時に起こる
文化=質の高い時間を盗まれたい。質のいい時間どろぼう

★場をつくることは未来をわからなくする方法

にいがたイナカレッジの連載では
「挑戦するな、実験しよう」が生まれた。
https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/

・やりたいことがわからない
・自分に自信がない
・リーダーシップ・主体性がない
・「就職」したいけど「就活」したくない
・「働きたい」より「暮らしたい」

クラウドファンディングは場になりうるのか?という実験は
1月28日の野島萌子の投稿がその1つの答えだった。
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72112#main

そして2月。
クルミドコーヒー影山さんに誘ってもらい、胡桃堂喫茶店での対談。

★主客同一⇒主客未分
新しいシステムをつくるには問いが必要。
「生産性」が問われると人は手段化する。
「問い」の種をまくような本屋
「空間的」にも「時間的」にもフラットであること。

まちから:水戸部さん
「欠落」と「有意味性」
伴走型支援⇒伴奏型支援

★地域の個性の構成員になること。
「営み」の中にあるという身体性(食や農)を通じて自分自身の豊かさに気づくこと。

「課題解決」⇒価値アプローチ
「源泉」をさがす⇒顧客(自分)アプローチ(面白がること)

doの肩書き×beの肩書き
「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく。

そして3月。
益田ひとづくりフォーラムへ。
ライフキャリア教育、カタリ場、大人と子どもの出会い直し
新・職場体験

2018年11月に行った「しまね教育の日ファーラム」で感銘を受けて、
2018年度3度目の島根へ(6月には海士町と雲南に行ってますね)

空っぽなままで言葉は出てこない
心動かしたことを貯めていく
★思考停止こそが絶望
アイデンティティ問題⇒未分化な地方でクリアできないか?

学び合えば希望は生まれる
⇒究極のエンターテイメント(予測不可能性)としての学び
⇒贈与を受けた者であることを知るために学ぶ

★「第3の大人」:評価しない大人、共に学ぶ大人

心>頭
「感じる」から始めるキャリア教育
共に「価値」を設定していく。
中学生も大人も「感じること」から始める。

そして、その帰り道。
愛知県のとある高校で講師を行う。
あれは大きかった。
http://hero.niiblo.jp/e488989.html

自分は多感な高校生に通用するのか?
っていうプレッシャーがすごかった。
お題はコミュニケーションについて
コミュニケーション力(スキル)⇒コミュニケーションデザインへ

さらに、
3月15日には再びクルミドコーヒーで影山さんと「就活」についてのトーク
良いものと悪いものはコナトゥスとの組み合わせによって決まる
リザルトパラダイムとプロセスパラダイムを併せること

3月のラストは
落合陽一さんの「日本再興戦略」が締めくくった。
http://hero.niiblo.jp/e489076.html

~~~少しだけ改めて抜粋

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きてきました。我々は個人なんてなくても、権利なんて与えられなくても、江戸時代など、対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、誰かが技術失業することはありませんでした。

~~~ここまで抜粋

そしてもうひとつ。日本再興戦略の冒頭から抜粋

~~~ここから引用

我々の教育は、人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるには特化していないからです。しかし、それで良かったのです。むしろそのほうが近代的工業生産社会では優位に立てたのです。

だって、近代以前の個別に尖った創造性社会を無個性で共通認識のある訓練された集団へ変換するほうが、マスを解体するより難しいと思いませんか?

これまでのシステムは、大量生産型の工業社会、たとえばトヨタの車をつくるのには向いてましたし、ソニーのテレビをつくるのには向いていました。みなが均質な教育を受けていて、何も言わなくても足並みがそろうからです。不良品が少なく、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せ感を演出できる社会は非常にうまくデザインされていたといえるでしょう。幸せは演出され、成長は計画されてきたのです。

ただし今は、工場が本質的に機械知能化されていっています。スマホのように、高集積で人間が関与することが難しいものに関しては、その作業工程で足並みをそろえる必要がありません。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればいい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」の3点セットだと僕は考えています。つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。

~~~ここまで「日本再興戦略」より引用

「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」
すごい発明だなあと。
カール・マルクス「資本論」の前に読み直しておいてよかった。

じゃあ、どうすればいいのか?
ヒントは「おでん」だ。

場という「おでん」の具として生きる(19.3.18)
http://hero.niiblo.jp/e489028.html

~~~ここからブログより引用

「二元論」でわかりやすくすること、とか「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が苦しさの原因なのではないかと。

よい「場」っていうのは、おでんのようなもので。

それぞれが、おでんに向かって
ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、
ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、
全体としてひとつのおでんができている。
ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。

よい場っていうのは「おでん」のような場なのではないか。

個人を個人として考えるのではなく、場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、とらえてみること。

2003年に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は200万部を売り、子どもたちに呪いをかけた。「プロフェッショナルになれ」という呪いを。一方で同じ年にリリースされた「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」と言った。それは子どもたちを癒すのではなく、よりいっそう、「何者かにならなければならない」という呪縛につながった。

でも。そもそも人はONEなのではないのではないか。
おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。

場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、
場とやり取りしながら、出番が来るまで、
役割を全うすることなのではないか。

そんな「おでんの歌」を、必要としているのかも。

~~~ここまでブログより引用

1月のかえるライブラリーと本屋の価値の話から、
「続・ゆっくりいそげ」から始まった2月、3月の影山さんとの対話。
そして益田ひとづくりフォーラムからの高校生への講演。
さらに、近代的自我に対する疑問。

2019年1月~3月。
この時点ですでに、僕が取り組みたい課題と、
その手法(おでんのような「場」をつくる)

振り返っていて一番驚いたのは、4月1日のブログに、こう書いてあること。

~~~

中学・高校の時から学校以外の場所に「おでん」を持つこと。「居場所」じゃなくて、「おでん」のような「場」を持つこと。何か小さなプロジェクトが生まれる、そこに小さな帰属意識と小さな参加意識が生まれるような、そんな「場」を持つこと。

その「場」は、「場」から生み出されるプロジェクトは、個人が特定されないような、中途半端な「匿名性」を持っていること。

それは、「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)で紹介されていた鯖江市「JK課」の取り組みのように、「JK課が批判されても、私の学校の成績が下がるわけじゃない」(参加高校生のコメント)とか、福岡で出会った大学1年生の「インスタ講座」で「インスタはもうひとつの人格を作り出す装置」というような、

調べればだれがやっているのか分かるけど、発言(表現)はプロジェクトとして、あるいはチームとして行う、っていうのが、日本人のメンタリティに向いているのかもしれない。だからこそ、大学生たちは、「場」を持とうじゃないかと。「おでん」のように相互に関係し合う「場」で小さなプロジェクトを生んでいこうじゃないか。

「プロジェクト」は仮の自分だ。もうひとつの自分だ。もちろん複数名でやっているから、自分そのものではないけれど。その「中の人」として、何かを始めてみること。

これが、オルタナティブ就活への第1歩なのかもしれない。

~~~

いや、すでに、今とほぼ同じような結論に到達しているんだなあと。
おそるべし、現代美術家、ニシダタクジ。

ふりかえり、やっぱ大事だ、と。

  

Posted by ニシダタクジ at 15:08Comments(0)足跡日記

2020年12月31日

異世界をつくり、呪いを解く

「オンライン劇場ツルハシブックス」振り返り。
5月にスタートした「オンライン劇場ツルハシブックス」。

3,4月に全国が一斉にコロナストップがかかったとき。
取り憑かれるように本を読んだり、ウィークリーオチアイを見たり、
歴史の転換点をいかに捉え、いかにアクションするかを考えていて。
「本屋だ」と直感した。

「オンライン上に本屋は創れる。」
そしてオンライン上で本を売ることができる、と考えた。

そしてそれには、身体性、具体的に言えば、圧倒的な身体的経験、具体的に言えば、
長崎・ひとやすみ書店という空間で本を選び、買い、コーヒーを飲む、という一連の体験が必要になってくる。
僕が当初感じていたZOOM会議のキーワードは「フラットさ」と「身体性」だった。

ZOOM画面上で人はフラットになる。
それは身体性のない2次元空間だから。
社長も、校長先生もひとつの画面に過ぎない。

しかし、その分、リアリティのなさをフォローするために
「身体性」をどのように補うかが重要になる。
もっとも簡単なのは、「食べ物トークをする」というもの。
「おいしそう~」っていう共感によって、ネット上でも距離を縮めることができる。

だから、オンライン劇場「ツルハシブックス」と名付けた。
「場」は「ツルハシブックス」という「身体性の共有」が必要だったからだ。

「劇場のような本屋、本屋のような劇場」
気がついたら私も本屋という舞台の共演者になっていました。
がテーマだったツルハシブックスは、ネット上にも再現できるというより、
アップデートされるのではないか、という直感だった。

5月、書道家のえみさん
6月、ZINEを創刊したさくらさん
7月、場をプロデュースする宮本さん
8月、3つのワラジで活躍する原さん
9月、音楽で表現するさえさん
10月、カフェという空間研究をする飯田さん
11月、軽やかな移住で町を動かす大庭さん

12月29日はスタッフふりかえりと来年度の企画を練るオンライン会議でした。

~~~オンラインツルハシをやってみてのメモ

・「好き」のエネルギーはネット上の空間を超えられる

・「とまれみよ」のような動的な屋号、在り方(こうありたい)を示す屋号

・「発見」=「問いを見つける力」
・「発見」するために「手触り感と違和感」に出会うこと

・仕事=「価値の交換」
・仕事をつくる⇒「仲間を見つける」「価値を共有」「価値を届ける」をぐるぐるすること。

・クラシック音楽も演奏者によってアップデートされ続ける
・「つづいていくもの」=営み=アップデートされ続ける

・カフェという階級を越えられるフラットな「場」
・何者でもない人が何者かに出会い、演じられるカフェ

・軽やかな移住
・20代の1年は重い。
・「一回性」と「シェア」と「神話」

~~~まあ、いろいろあるんだけどね。

そのあと、第2部、第3部と盛り上がりました。

キーワードは「適応」すること。

個人は「適応」しすぎるとその価値を(たとえば資本主義的価値観)内面化してしまう。

組織は適応し続けるためにアップデートし続けなければならない。だから、組織に適応しきっていない個人を組織に入れる必要がある。
完全なる共感からは新しいものは生まれない。「違和感」にこそ新しい1歩へのヒントがある。
「理解と共感に基づかないチーム」をつくり続けることができるか?

「一体感」なんてそもそも組織運営にとっては不要だと、20代以下は思っているんじゃないか?
それが上司部下のすれ違いの根本にあったとしたら・・・

理解と共感など無くても、協働できて成果だせれば、それでいいのでは?仕事だし。
みたいな感覚なのかもしれませんね。

「チューニング」っていうのは、他者理解のためではなく、あくまでも「チューニング」に過ぎないのだ。
それってプロの音楽に少し似ているのかも。
そんなことが繋がってきた。

「適応する」ってなんだろう?

アイリスオーヤマという企業がある
参考:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59930

製造業でありながら工場の稼働率は65%前後と、
あえて3割の余裕を残しておくというのだ。
その理由は、「世の中が変わるから」。
今年、マスクを大量生産供給できたのも、そのおかげだ。
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07

3割の余裕。7割:3割。
それくらいのバランスが大切なのかもしれない。

「全力でやることが美しい」という価値観は本当だろうか?
変化に適応できるのだろうか?
「価値」が刻々と変化する時代において、変化対応力を持っておくこと。

副業をつくること。
70%-30%くらいのバランスで自分のリソースを振り分けておくこと。
もちろんそのパーセンテージは
個人の性格や人生ステージ、タイミングによるのだけど。

高校生活、大学生活で言えば、
70%を「達成・成長」のパラダイムへ
30%を「発見・変化」のパラダイムへ
と力を注いでいくこと。

僕たち地域の大人にできることは、「異世界をつくる」こと
「学びの意欲」は、「実践」と「学び」がつながったとき、重なった時に一気にスパークする。

参考:あなたは何芸人なのか?(19.11.9)
http://hero.niiblo.jp/e489978.html

そのためには「地域」が
「学校化社会」の価値観のままではダメなんだ。

坂口恭平さん的に言えば、「放課後社会」、
子どもたちにとって異なる価値観を持つ「異世界」であることが必要なのだ。
「異世界」であるからこそ、自分とは異なる、あるいは自分の一部である何者かを「演じられる」。

たぶん、それは、
「地域の向こう側」と「オンラインの向こう側」(それと本屋)をミックスさせた「場」であるのかもしれない。

理解も共感もできない異質な「他者」とプロジェクトを組み、
チューニング(音合わせ)しながら、ひとつの音楽のような作品のような(期間限定の)プロジェクトをつくること。

そうやって「呪い」を解くんだ。

「評価」という呪い
「同調圧力」という呪い
「達成・成長」という呪い

それが全てではなくて、もうひとつの世界があるんだ。
そして、それを自分の中で7割-3割のようにバランスさせていくこと。

高校2年の齋藤くんが問いかけた
#高校生は副業です
は、思ったよりも深いなと感じている2020年の年末です。

  

Posted by ニシダタクジ at 06:33Comments(0)日記

2020年12月15日

自分に向き合うのではなく、「場」と「問い」にフォーカスする その2

昨日のつづき。

第1期:1985~1999
キーワード「生きる意味」「豊かさ」「農」「自然」「思考停止」「センスオブワンダー」・・・

第2期:2000~2014
キーワード:「コミュニケーション」「15歳」「瞬間」「創造」「学び合えば希望は生まれる」

第3期:2015~
キーワード:「アイデンティティ危機」「創造的脱力」「場のチカラ」「チューニング」「予測不可能性」「高校魅力化」

ということで、第2期から「問い」の変遷を。

2000年8月、巻町へ転居。大学院を半年残しての移住。
一軒家で知り合い向けゲストハウス、本屋、学習塾を小さくやってみた。
「まちづくり」ってなんだ?

2002年、地ビール屋退職後、中学3年生シンタロウとの出会い。

どうしてこの子は、無職の僕に心を開いたんだろう?
⇒仮説1 むしろ無職だからよかった⇒多様な大人に会える機会をつくる。
⇒NPO法人虹のおと設立して子どもの遊び場づくり

15歳が自分と地域と社会を好きになり、自分と社会の未来創造へ向けて歩き出している地域社会の実現。

2004年「小説吉田松陰」の野山獄エピソード
⇒学び合えば獄中でさえ希望を生むことができる。
⇒学び合いの場づくりどうつくるか?

2004年中越地震
ボランティアってなんだ?
⇒一方的に与える、与えられるものじゃなく、双方向コミュニケーション。

子どもが日常的に地域の大人と接するには?
⇒神社で子どもと遊ぶ虹のひろば


2006年NEC社会起業塾応募をきっかけにNPO法人ETICのチャレンジコミュニティプロジェクト(チャレコミ)に参画
大学生の地域企業インターンシップ事業を立ち上げ。

「社長に挑戦セヨ」:1泊2日で社長の出したお題に学生がビジネスプランを考える。
学生と社長が学び合う場をつくれないか?

長期インターンシップ。
顧客は誰で、価値は何か?(ドラッカーの5つの質問)

2011年ツルハシブックス開店
⇒大阪・スタンダードブックストアをモデルに。
⇒再来店するには?
⇒1回目客の滞在時間を伸ばす

「本」を介して、人と人がつながる。
「サムライ」「劇団員」システム導入。
参加型本屋になり、店員とお客の区別をあいまいに。

大学と連携したコミュニケーション講座や商店街や粟島でのプログラムづくりを行う。
粟島3泊4日で大学生が劇的に変わる!

「長期インターンシップ」のお客は誰で、価値は何か?に悩む。
その優秀な子たちには、僕がサービス提供をしなくてもいいのではないか?

「就活」に向かう大学生の「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」
という悩みが深刻なことに気づく。

「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか?
巻き込まれて、小さなプロジェクトをやってみること。

⇒「うちのまち なじみのお店 ものがたり」プロジェクト
大学生がコーディネーターとなり商店街で講座を開く。

「就活」というコミュニケーションデザインへの疑問
⇒「夜景企画会議」
大学生と中小企業の社長が新潟の夜景を見ながらビジネスアイデアを考える。

第3期:2015年~

茨城大学社会連携センター・COCコーディネーター。
COC=センターオブコミュニティ=コミュニティの拠点としての大学を目指す文科省事業

授業構築サポート(茨城学・地域PBL)
大学生の地域プロジェクト支援

岡倉天心との出会い
西洋と東洋を茶で結べないか?⇒コミュニケーションデザイン

暗やみ本屋ハックツ立ち上げ「10代限定古本屋」
茅ヶ崎美術館ハックツ展示「ハックツ」というコミュニケーション・ツール

2016年ツルハシブックス閉店
居場所になるリスク⇒コミュニティは閉じやすいこと。
どうすれば開かれ続けるのか?

カフェゼミ×つながるカレー 加藤文俊先生
⇒「予測不可能性」こそがエンターテイメントの本質

にいがたイナカレッジ、取材型インターンひきだし、新城劇場。
チューニング・ファシリテーション⇒
「価値観とルーツ」を語る自己紹介と、思ったことを言える場づくり、振り返りのエンターテイメント化

場のチカラ⇒アウトプットを出すのは個人のチカラでもチーム力でもなく場のチカラ
山口周「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」で退職を決意。

2018年退職
「創造的脱力」(若新雄純)というコンセプト
創造的脱力アプローチが得意だったのに創造的破壊アプローチを志向したこと。
大学のような大きな組織にはフラットなコミュニケーションが成立しにくいこと。

2019年阿賀黎明高校魅力化プロジェクトへ

課題整理と魅力化のポイントは?
⇒留学生の確保がカギ
⇒寮の設定と募集活動へ。
ベネフィットじゃなくてWHYを語るべき。

2020年コロナショック
オンラインでないとたどり着けない場とは?

「高校魅力化」をコミュニケーションの手段として
地域の人と「見つけ合う」ことが可能なのではないか。
場のチカラを高め、「学び合い」から「見つけ合い」へ。

その瞬間を見たい。
「探究」活動をベースに、地域と高校生との問いに対してのフラットな場が生まれること。



こうして見てくると、
土曜日に久保さんが言っていたように、
「問い」はどんどん変わっていく。
「問い」が変わるということは、自分(の思考)も変わっているということ。

だから。
手法としては、自分に向き合い、目標を立てて、達成を繰り返し、成長実感を得るよりも、
実は「場」と「問い」に注目して、「場」をベースに活動し、結果、「問い」が深まる(変化・進化・深化する)
探究活動やマイプロは、そんなことを繰り返すためにあるのではないか。

「やりたいことがわからない」
「自分に自信がない」

全然問題ない。
結果を出すのはあなた個人ではなく「場」だからだ。

「自分自身の問いが見つからない」

全然問題ない。
「場」をベースに活動し、ふりかえりの時間を多くとっているから。
共感や違和感をベースに「問い」を見つけていこう。

問いがなんとなく見つかったら、その問いに対するアクションを起こし、
さらに自分で振り返り、「問い」を育てる(変化・進化・深化させる)
問いが変わると共に、実は変わっていた自分に気づく。

そんな繰り返しでアイデンティティはなんとなく構築され、アップデートされ続けるのでは、という仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 06:42Comments(0)日記

2020年12月14日

自分に向き合うのではなく、「場」と「問い」にフォーカスする その1

土曜日のマイプロジェクトラボniigataのふりかえりその2

「問い」っていうキーワードで、自分自身を振り返ってみた。
「問い」は最初は人から与えてもらうものなのかもしれない。

僕が最初に「問い」をキャッチしたのは
ドラマ「スクールウォーズ」(再放送)だった。

「先生、人は何のために生きているんですか?」
という奥寺浩(イソップ)の問いが心に刺さった。

だから僕にとっては
「やりたいことは何か?」と
「人は何のために生きるのか?」と「私は何に人生を賭けるべきか?」
は同時進行で起こった。

その中でヒントになったのが(1990年代始め)
環境問題だった。
高3の時に図書館で出会った「沙漠緑化に生命を賭けて」(遠山正英)が
僕に鳥取大学農学部という志望校を与えてくれた。

世界の食糧不足が心配されていた。
経済システムによる「飢餓と飽食」が同時に起こっていることに、心を痛めた。

昨日のブログで言えば、
志(目的意識)・Being(生き方)
★ふりかえることで進化できる
自分のマイ感(WILL・WANT・PAIN・NEEDS)
を深掘り・省察して、自分の人生の舵を取る人へ

ここのところになるのかもしれない。
僕としてはPAINから来る共感だったのだろう。

その後、浪人中に「平成の米騒動」と呼ばれた
米の不作とタイ米輸入問題起こる。
稲作を学ぼうと、新潟大学農学部へ。

キーワードは「環境保全型農業」だった。
ところが、大学1年次に衝撃の事実が明らかになる。
エビデンスを知れば知るほど環境問題はすでに手遅れだった。

僕は大学進学の意味を失う。
人生を賭けていた問いを失ったのだ。

一筋の光は、また本が与えてくれた。
「微生物技術で環境問題は解決する」と力強く書かれた本により、
「これに賭けてみよう」と
その技術を検証するべく、畑サークルを始めた。

最初に取り組んだのは、学食の生ごみのたい肥化だった。
学食の店長に頼み込んで生ごみを分けてもらった。
微生物資材と米糠でつくった「ボカシ」と呼ばれるもので発酵させて
生ごみをたい肥化した。

思えばあれが、僕にとっての初めての実践の場だった。

フィールドワークもした。
微生物技術を取り入れている農家さんを訪れ、話を聞いた。
農家さんは、どこの馬の骨とも分からない僕に、熱く語ってくれた。
いつのまにか僕は、農家さんの生き方、哲学そのものに関心を持った。

同時に、自分が取り組んできた微生物農法に疑問を感じた。
きっかけは、微生物技術開発者の大学教授の講演会。

「この技術を使えば、自動車の排気ガスは環境を汚染しなくなる」

衝撃の一言。
「そんなすごい技術が!」

ではない。
「環境問題ってそういう問題なの??」
「環境問題の技術的解決」に疑問が湧いた。

「環境問題の原因ってなんだ?」
っていう問い。
その時に書いたのは
「フロンが環境問題の原因か?」というエッセイ。

そもそも、環境問題の原因は、
消費行動だから、その消費行動を行うマインドを変えないと
本質的には環境問題は解決しない。
あ、これって、土曜日にやった「氷山モデル」だなと。

その時に、どうやったらマインドを変えられるのか?
という問いの中で生まれたのが
「作物を種まきから収穫まで育てる体験」ができる場をつくる、だった。

畑サークルで初めてサツマイモを育てた。
あんな細い苗から、本当にさつまいもができた。
あの感動。
「生命」の何かを僕は感じた。

結果。

1999年4月にまきどき村が発足。

当時は、「畑のある公園づくり」と言っていたのだけど。
そうして、僕は巻町福井という集落に出会って、
その先に問いへとつながっていくことになる。

その話はまた、次の機会に。

写真はまきどき村の「ハートの田んぼ」田植えの図
  

Posted by ニシダタクジ at 12:28Comments(0)日記

2020年12月13日

「問い」を育てる森づくり

マイプロジェクトラボNIIGATAブラッシュアップDAYでした。

マイプロ=マイプロジェクト=実践型探究

なぜマイプロなのか?

想い;マイプロを通じて自分の人生の舵を取れ!
★入試でも主体性が問われる
自分の生きたい未来は自分の力で創ることができる。
未来社会を創り出していくのも自分自身!

地域・社会への当事者意識・使命感
★ジブンゴトの問いから社会へ
学生だからできないということはない。
自分にもできることがある。自分もやってみたい!

志(目的意識)・Being(生き方)
★ふりかえることで進化できる
自分のマイ感(WILL・WANT・PAIN・NEEDS)
を深掘り・省察して、自分の人生の舵を取る人へ

認知スキルと非認知スキル
★学力と社会で生きる力
論理的思考力・仮説検証力・セルフマネジメント
実行力 コミュニケーション クリエイティビティ など

0→1を創る イノベーション力
★未来を創る力
創造型課題解決のプロセスを実践を通じて学ぶ

長谷川さんの講演メモ

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マイプロジェクトとは?
身の回りの課題や関心をテーマにプロジェクトを立ち上げ、実行する高校生の活動(実践型探究活動)

全国高校生マイプロジェクトの誕生:
岩手県大槌町の「被災したまちのために何かしたいという高校生の想い」を「マイプロジェクト」という手法を使って2012年ごろからカタリバが支援して始まった放課後の活動。

高校生の想い×マイプロジェクト(慶応SFC井上英之研究会2006~)×カタリバのコラボスクール大槌臨学舎
⇒「復興木碑プロジェクト」:木碑に刻む言葉を住民みんなで考えることで震災の記憶を風化させない
⇒「笑顔フォトプロジェクト」:震災で写真も流されてしまったので笑顔の写真を配って地域の人達を元気づける。

マイプロジェクトでの学び:
参画度の高いテーマで「主体性」を育み、実践の中で「協働性」を発揮し、それらを繰り返す中での問いの更新を通して「探究性」を養うことを重視する。

「主体性」:ロジャー・ハート参画のはしごモデル
⇒参画の段階のより上段を目指すために、主体性を持てるテーマを発見する。課題と自分の繋がりが強ければ強いほど、取り組みは真剣になり、学びが深くなる。
「協働性」
⇒調べて終わりにせず、課題解決に向けた実践を行うことで、実社会における他者との協働を経験する。
「探究性」主体的な問い⇔実践
実践を繰り返す中で問いを更新する。途中で問いが変わることを厭わない。

マイプロジェクト事例1:「ホヤの魅力を全国へ」(2016)
実家がホヤ養殖⇒出荷先が減少し、捨てられるホヤ⇒アンケートで知らない・食べられないが出る
⇒ホヤの魅力を広めるプレゼンと誰にでも食べられるホヤ料理(ホヤボール)を開発し祭り等で販売。

マイプロジェクト事例2:「郷土~ふるさと~の水にチャレンジ」(2017)
主体性:化学・実験が好きを地域活性につなげたい
協働性:地元企業にかけあい、水を開発
探究性:水の成分比較⇒失敗からの新たな仮説

「主体的な問い」と「実践」を重視するとは?
・学びが大きい分、ただ調べたり、提案したりするより大変
・その覚悟が必要

受動的⇔主体的
仮説提案⇔仮説検証・実践(アクション)
右上の象限:学びが多いがコストも大:マイプロジェクト的探究学習

★「想定外」の連続の中にこそ「主体性」「協働性」「探究性」が育まれる。
★すべての経験を「学び」に⇒かかわる大人も!!

マイプロジェクトの考え方
高校生自らが「やりたい」と思えるテーマを設定し、リアルな社会と接する実践を繰り返すことで、高校生が意欲と創造性を育む学びを得る。
「主体的な問い」×「実社会での実践」=「意欲と創造性を育む学び」

理想と現実:平たんではなくデコボコ
★山と谷を越えるため、オトナ(伴走者・協力者・応援者)を探せ!

単発的な関わり⇒継続的な関わり
予備軍⇒3応援者⇒2協力者⇒1伴走者

3応援者:活動を認識して好意的に受け止めてくれている人
・プロジェクト発表会などへの参加
・調査アンケートなどへの回答
・単発での講和の実施

2協力者:自身のリソース(技術/知識/経験値など)を活用して具体的な協力をしてくれている人
・調査のための個別インタビュー
・場所や道具・機器の貸し出し
・商品開発など専門技術・知識によるサポート

1伴走者:継続的に関わり、裏方として活動に支援・指導をしてくれる人
・定期的な打ち合わせや相談
・計画作成や振り返りなども含めた継続的なプロジェクト推進支援

マルシェ(青空市場)の活性化に取り組む生徒
プロジェクト担当の先生⇒伴走者
マルシェの仕掛け人である地域の大人⇒協力者
マルシェに参加する地域の大人⇒プロジェクトの「応援者」

★小さな問いを、大きく育てていこう。

「もやもや」と「探究テーマ」と「問い」と「実践」の関係性
探究テーマに対する問いを明らかにすることを通じて、現状やニーズを把握していきます。
おばあちゃんがずっと家にいる⇒高齢者がひきこもるのはなぜか?
・他のお年寄りもそうなの?
・なんで家から出ないの?
・外に出てるお年寄りって何してるの?
⇒北極星(創りたい未来):高齢者が健康的にいきいき生きている社会

北極星と現状とのギャップ=課題に対して、
課題解決のための実践・アクション!がある。

失敗だって、「この方法だと失敗する」という新しい発見でもある。
おすすめ
1 まずは、やってみること
2 どんどん議論を仕掛けること

~~~ここまで講演

午後の部はブラッシュアップセッション。
システム思考の「氷山モデル」を使用して。

参考:
https://www.change-agent.jp/keywords/000933.html

下に行けば行くほど変化のレバレッジ高
★問いの変化=自分の変化⇒問いが育てば、自分が育つ
問いを変化させる環境づくり

できごと:実際に何が起こったのか
⇒時系列パターン:今まで何が起こってきたか
⇒構造:何がパターンに影響を及ぼしたか?
⇒メンタルモデル:人々はそのシステム(構造)に対してどんな感情を抱いているか?

例:おっちゃん祭(佐渡中等)
1 できごとのレベル:イベントを開催する
2 パターンのレベル:保家の世代と関わらない理由を調査する
3 構造のレベル:世代の壁を無くす⇒おっちゃんと若者をつなぐ策を考え、実行する。
4 メンタルモデルのレベル:日常的におっちゃんと若者が交流できる環境をつくる
⇒世代ごとの壁があるため、佐渡のおっちゃんの魅力が認知されず、若者が佐渡を面白くないと思っている

~~~ここまで

なるほど~。
こうやって、プロジェクトを深め、問いを進化・深化させていくんだなあと。

★マーク(印象に残ったこと)の振り返りを。

★「想定外」の連続の中にこそ「主体性」「協働性」「探究性」が育まれる。
★すべての経験を「学び」に⇒かかわる大人も!!
★山と谷を越えるため、オトナ(伴走者・協力者・応援者)を探せ!
★小さな問いを、大きく育てていこう。
★問いの変化=自分の変化⇒問いが育てば、自分が育つ

マイプロジェクト。
まちという「環境」の中で、プロジェクトを起こすということ。
そこには「想定外」なことに溢れている。
やってみて、感じ、考え、ふりかえり、次の問いへの進む。
まるで実写版ロールプレイングのようなマイプロ。

その「環境」に働きかけるのが大人たちの役割だ。
伴走者、協力者、応援者として、そこに立つ。
そこでの「経験」は高校生だけでなく大人にとっても「学び」の場でしかない。

高校生も、関わる大人も、「プロジェクト」という「場」(環境)に溶けだし、
ともに感じ、考え、ふりかえり、次の「問い」を育むこと。

「問い」が育つことでプロジェクトが育ち、結果として高校生が育つし、
関わったおとなも育つし、結果としてまちも育つ。

そんな「環境」づくり、里山や雑木林のような森づくりを、始めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:27Comments(0)日記