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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年09月23日

単元テストという相互フィードバック





北海道大空高校
https://ozora-h.ed.jp/

女満別空港から20分ほど。
東京から一番近い北海道でみらい留学の受け入れをしている高校だ。
昨年4月に民間人校長大辻さんを招いて開校。
僕が興味を持ったのは、定期テストから単元テストに変えたこと。

英語の先生へヒアリングしたときのこの一言にインスパイアされた。
「習ったところがすぐにフィードバックされる」

そうか。単元テストとは、いわゆる生徒がどのくらい学習したか、という到達度を測るだけのテストではなく、教師と生徒のお互いのフィードバックの機会である。

つまり、単元テストは、教師・生徒双方のふりかえり、フィードバックの機会だということ。
この瞬間、教師と生徒は、評価者と被評価者の関係ではなく、「ともにつくる仲間」になるのではないかと

単元別テストにするメリットとして
1 1度作ってしまえば毎年使える
2 学習の進度に関わらず、同じものを使える
3 学校の中でライブラリー化すれば、指導要領が変わらない限り次の年も使える(参考にできる)
4 先生は長期休みに教材研究をし、テストを作ることができる
などなど。

「探究的な学びの推進」の観点からのみでなく、「先生の働き方改革」という点でも
多くのメリットがあると感じた。

調整が必要なのは
1 教科間のテストがかぶらないようにすること
2 テスト期間の緊張感みたいなのが失われる

何よりも、単元テストがすでに作ってあることによって、中期的なゴールを設定して、授業に臨むことができる、というメリットがあるのではないかと思う。

単元テストというゴールは、教師がここまでは到達してほしいという単元のゴールである。底に向かって、今日はどこまでやったらいいのか。何を理解し、 何を理解してないのか。

定期テストから単元テストへ。これからいろんなアプローチで実現していきたいなと思った。

6限の生徒総会では、会計に立候補した地元出身の1年生の演説に涙が出そうになった。

オープンキャンパスで越境留学した先輩(生徒会長立候補者)にあこがれて入学。地元の子からは、大空高校はやめたほうがいいと言われながらも、自分にはこの高校が合っていると思い、その評判を良くしていきたいと入学。先輩と一緒にこの学校を良くしていくんだ、と生徒会選挙に立候補した。

これって「高校魅力化」の出発点じゃん、って思った。

ひとつひとつ。そして、ひとりひとり。
それらをていねいに重ねていくことでしか、高校魅力化は達成されない。
いや、達成ではなくどこまでもプロセスなのだろうと思う。

大空高校でいいものを見せていただきました。
大辻さん、受け入れありがとうございました。

私たちも「ともにつくる」をテーマに、あらためて再構築していこうと思います。



  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)日記

2022年09月19日

焚き火のような本屋



昨日は西会津町の「いとなみ」にお邪魔してきました。
佐々木さん、ほんと素敵な人だなあと。
https://www.100itonami.com/

今日はこの1冊を紹介します。

「ことばの焚き火」(大澤真美 中村一浩 植田順 野底稔 ハンカチーフブックス)

期せずして昨日の「本が届く場をつくる」の続きになった。
これだから読書は面白いなと。

春先に手にはしていたのだけど、読むべきタイミングがなかなか来なくて。
今朝、目の前に飛び込んできて(昨日の言葉で言えば呼ばれて)読んでました。

対話(ダイアローグ)がテーマの本。

新型ウイルスは「世界がつながっている」つまり「世界はひとつ」だということを自覚させてくれた。
そんなつながっている感じを味わいながら、生きていけたらいいと思う。

ここで面白かったのが対話は波紋の広がりというイメージ。
そこで出てくるのが「焚き火」のメタファーなのだけど。

大澤さんは、
「焚き火にあたりながら、薪をくべるように、場に声を出す」という表現をする。

誰に向かうでもなく、火を見ながら、ポツリポツリとことばを出していくように思う。そして、人のことばだけでなく、火の揺らめきや、鳥の声、木々の音も耳に入ってくるだろう。

暖かい火にあたって、からだがゆるんだ状態でいると、こころもゆるむ。だから、誰かのことばや、何かの音や匂いをきっかけに、自分の中から普段は見えない声が立ち上がって来て、うっかり口をつくことがある。

その時のそのメンバーだからこそ、その場だからこそ、その時間だからこそ、出てくることばがある。対話の一回性、再現不可能性、唯一無二性は、まさに参加型の即興ライブだ。それに気づくと、本当にワクワクするし、「人」と「場」と「時間」との一期一会が尊く感じられる。
~~~

わー、それそれ。
昨日の「本が届く場をつくる」ってそういうことじゃないかなと。

そこに本もある、みたいな。
「対話」というのを言葉だけじゃなくて、本の背表紙や本棚の並びも、本屋にやってきた人たちの存在も。

隣の温泉で心身を解放して、高校生ともおしゃべりして。
この高校生っていう存在が、また一期一会感を強くしてくれるんだ。

焚き火に薪をくべるように、「場」に、発言を、本を、自分という存在を置いてくる。
自らも構成員としてたしかにありながら、空間に委ねているような「場」。

そこから生まれてくる何か。それを見てみたい。
だから今日も、僕は焚き火に火をくべるように、本棚に本を置き、本棚という表現をつくり、対話する空間をデザインする。

そんな「焚き火のような本屋」になれたらいいな。  

Posted by ニシダタクジ at 09:21Comments(0)日記

2022年09月18日

「本が届く」場をつくりたい

「本を売りたいわけじゃない。」
ツルハシブックスの時にそう思っていた。

大学生が来て、話をしてておススメしたい本が見つかって、
買うほど(家にストックしておくほど)でもない本の場合は、
3階に上がって僕の本を貸したりしていた。

きっと
「かえるライブラリー」というあいまいな空間を作ったのも
それが理由だと思う。

スピノザに出会ってから、僕は「意志」が信じられなくなった。
http://hero.niiblo.jp/e489527.html
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ(19.7.6)

「挑戦」という言葉への違和感から始まった旅は、
スピノザによって、暫定的なゴールにたどり着いた。

そして、何かが起こるのは、「場」であり「中動態」であるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e492444.html
「自分」から「場」へ(22.5.18)

地下古本コーナーHAKKUTSUから始まった
「10代(中高生)に本を届ける」活動。

「本を売りたい」というより「本を届けたい」のだと思っていた。
でも昨日、緒ラジオ収録で、大学生と話していて、
「本を届けたい」わけでもないことが分かった。

5年位前に渋谷のとある本屋で、「〇〇な時に読みたい本」だったかな、そんなタイトルのフェアがやっていて、各界の有名人が本を選んで顔写真付きのPOPと共にディスプレイされていた時の違和感。

「そのフェア、リアル本屋でやる必要あります?」って思った。ネットでやった方がいいな、って。

あらためてそれを思い出して、僕は「本を届けたい」わけでもないなと思った。11年前に本屋さんになるずっと前から、自分は「本好き」ではなく、「本屋好き」だと思っていたのだけど、それはつまり、「(背表紙が並んだ)本棚が好き」だっていうことが分かった。

東京・千駄木の往来堂書店の棚を見てるだけでワクワクするし、長崎・ひとやすみ書店で立ち読みしてたら全部ほしくなるし、福岡・箱崎のブックスキューブリックに行ったら手に汗かくほどドキドキする。

本棚、そしてその本棚のある空間。
そこで人は、本棚と本に出会う。
たぶんそういうことだ。

「本を売りたい」わけでも「本を届けたい」わけでもなく、ただただ「本が届く」場をつくりたんだ。本が届く瞬間を見たいんだ。

「風舟」でやっている一箱本屋「緒-itoguchi」ってきっとそういうことなんだな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2022年09月04日

「自分」と「時間」に中途半端に抗う

三大発明と言えば「火薬」「羅針盤」「活版印刷」なのだそうです。

僕は、ツルハシブックス前後から、
(正確には中越地震ボランティア以来)
大学生と接する機会が増えた中で、

「やりたいことがわからない」
「自分に自信がない」
が大きな二大悩みであることを知った。

その解決策は、いま多くの場所で行われているような
「やりたいことを見つける」ことや「自分に自信をつける(もしくは自己肯定感を高める)」
ことなのだろうか?

そもそも、
「やりたいことがわかっている」「自分に自信がある」
という状態に価値があるのか?
価値があるとしたら、どんな価値なのか?

課題は、「やりたいことがわからない」ことではなく、
「やりたいことがわからなくてつらい」ことではないか。

取り組みべきは
「やりたいことがわかっている」状態を目指すことではなく
「やりたいことがわからなくてもつらくない」状態なのではないか。

「13歳のハローワーク」(村上龍 はまのゆか 2003)
と「世界にひとつだけの花」(SMAP 2003)

が同時に登場したことで、小中学生はどんなメッセージを受け取ったのか?
「あなたにもオンリーワンの自分に向いている仕事がある」なのではないか?
もしくは、「好き」を仕事にしている大人はカッコいい、なのではないか?

ひきだし2022で出てきたキーワードは「苦にならない」だった。
人は、「苦にならない」を見つけて、仕事にしている。

「好き」でも「嫌い」でもない。二元論ではない「苦にならない仕事」。
それを見つけるためには、「やってみる」以外に方法はない。

自分の意志ではなく、「言われたから、頼まれたから、仕事だから、やってみた。」

そういうことの中で自分の「苦にならない」を見つける。
あるいは人から「そういう作業、早いよね」って指摘されて意外な自分を知る。
「意志」ではなく「意外」

明治時代の最大の発明は「自分」と「時間」なのではないかと。
そして、その概念こそが、大学生を、高校生を苦しめているのではないかと。
そんな仮説を持った。

「アンチテーゼを示す」っていうのは、たぶん僕の得意分野でななくて、
フワッとした中途半端なものを差し出す、というのが僕の手法なのかもしれない。
中途半端で、あいまいであることが「余白」を生み「参加性」を増やす。(と言い訳している)

「自分」ではなく「場」を主体にすること。
「意志」ではなく「委ねる」こと。

直線的に進む「文明の時間」ではなく、循環する「自然の時間」を感じること
目的・目標ではなく、回っていく何かに委ねてみること。
それができるのが、この町なんだろうと。

その「あいだ」、そして行き来する何か、なのだろうな、と。

にいがたイナカレッジのやっている「にいがたでくらすはたらく編集室」
ってまさにそれを表現する「場」なのかもしれないな、と。

かといって、人は、環境に適応しなければ生きていけないから、
いまの「自分」と「(文明の)時間」のある経済社会に、ある程度の適応が必要となる。

副業とか複業とかプロボノとか趣味とかボランティアとかで
自分と社会のあいだの「場」をつくったり、
文明の時間(仕事)と自然の時間(暮らし)を行き来したり。
そういう視点で人生を捉えるのもいいなあと思う。

僕のアプローチは、「探究的な学び」において、
「自分」単位から「場」単位へのシフトというか行き来ができるようにすることと

丘の上の高台に、温泉と高校生寮を併設した目的・目標がわかりにくい空間をつくる、
というのが、

「自分」と「時間」という宗教に抗う中途半端な方法、なのかなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)思い日記

2022年08月23日

「文明の時間」と「自然の時間」


「撤退論」(内田樹編著 晶文社)

読み進めています。今日取り上げるのは映画監督の想田和弘さんの話。「文明の時間から撤退し、自然の時間を生きる」ニューヨークから瀬戸内海の牛窓というところに居を移したということです。

~~~ここから引用
山尾三省さん「アミニズムという希望」(野草社)の言葉から

「文明の時間」:進歩し続ける。それは必ず前に進み、後戻りすることはありません。
必ず昨日よりも今日、今日よりも明日には進歩するのであって、後退したりしません。世の中の主流の価値観と親和性の高い時間です。

「自然の時間」:循環し回帰する時間です。
地球は1日1回自転をしながら、1年に1回、太陽の周りを回ります。そのサイクルは太陽系が生まれて48億年前から変わらず、まったく進歩していません。地球の回転により季節は春から冬への変化しますが冬の次はまた春に戻ります。くるくると回転しているだけで前には進まないのです。

生き物としての人間の身体や心も、この循環する時間に属します。人間は誰しも生まれ、成長し、老いて、死んでいきますが、このサイクルもやはり進歩しないからです。
~~~

「文明の時間」と「自然の時間」この2つの時間を意識していくことが大切なのかな、と思った。
「時間」っていう壮大なフィクションを前提として、僕たちは社会生活を送っている。
もうひとつの「自然の時間」に沿って暮らすこと、何かやることが大切なのはないか、と。

それはもしかしたら、畑で野菜を育てたり、子どもの教育に携わるということなのかもしれない。
循環する何か、「営み」のようなものに委ねるということ。

それが、伊藤洋志さん的に言えば「イドコロをつくる」ということになるのかも。
http://hero.niiblo.jp/e491754.html

~~~
猫には循環する時間だけが流れているのです。彼らには「進歩」の概念がない。実はそれは猫に限らず、人間以外の「生きとし生けるもの」すべてにいえることだと気づいたとき、僕はかなり大きな衝撃を受けました。

直進する時間に生きているのは、唯一、人間だけなのです。直進する文明の時間はいわば人間の独壇場です。
~~~
「文明の時間」は人間だけの特殊能力(生物的には特殊)だったのです。

そっか。だから人は「文明の時間」だけでは生きられず。
「自然の時間」を求めて、海に行き、山に登り、キャンプをするのかもしれない。
それを単に余暇にやるレジャーとして、ではなくて、日常に取り込んでいくこと。
それをいま、10代、20代は特に必要としている気がする。

かつて宮沢賢治は生徒に向け語りかけた。
(「生徒諸君に寄せる」より)
~~~
諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性は
ただ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
~~~
それは「文明の時間」を生きているからではないのか。

そして続ける
~~~
新たな詩人よ
雲から光から嵐から透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て

衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ
~~~
これは「自然の時間」を生きよ、と言っているのではないのか。

~~~
おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか
~~~
(農民芸術概論綱要)
そして一緒に第四次元の芸術をつくろうと呼び掛けている。

それがこれからやることなのかなと思った。

ラストはこの問いを

中等学校生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか。

はい、感じます、賢治先生。

  

Posted by ニシダタクジ at 06:28Comments(0)日記

2022年08月18日

「場」と「今」と「誇り」


大学生向け
企業取材インターン「ひきだし」の事前研修の日でした。
2020年度から完全オンラインになって3年目。

最初の年は、オンラインでの取材インターンは無理だと思い、中止しようと思っていた。
(合宿形式で得られるものが大きかったから)

が、オンラインだからこそできるっていうのがあるんじゃないか、
それを見てみたいという仮説でやってみたら、

ZOOMのブレイクアウトルームやチャット機能を駆使すると、
研修や取材の質が変化することが分かった。

特にインタビュー時のチャット機能の活用は、
インタビューを聞いている人が思ったことを書き込めるので
脳みそはフル回転するのだけど、話をどんどん展開させていくことが可能になる。

過去2年は、それを「オンラインの向こう側」と呼んだ。

3年目、オンラインが当たり前になったのと同時に、オフラインで行うインターンも増えてきた。
学生募集も、昨年に比べたら希望者が少なかった。

事前研修のキーワードは
・場のチカラ
・魔法をかける編集
・小さな誇りと物語
だった。
上の2つは、にいがたイナカレッジのプログラムでも言っているのだけど。

「場のチカラ」:成果を出すのは個人の力ではなく場のチカラなので、場のチカラを高めること
「魔法をかける編集」:いま、このメンバーでしか書けない記事を書くこと(感じたことを文字にすること)

そして3つ目。
取材先の人の小さな誇りを見つけ、再物語化すること。
歌われざる英雄(アンサング・ヒーロー)の発掘・発信。

今朝、振り返って思うのは、この3つは、僕自身の最大のテーマである
若者の自分らしさ(アイデンティティ)問題に対するアプローチなのではないか、と。

明治時代に、「自分」というフィクションを手に入れ、それを原動力に我が国は経済発展してきた。
ところがその経済発展という目的を失ったと同時に「自分」をも失ってしまった。

だから、
「場」にフォーカスすること
「今」にフォーカスすること
「誇り」にフォーカスすること

そこから生まれる「何か」にフォーカスすること。

「自分」にフォーカスしないこと。

たぶんそういうことだ。
「誇り」というのは、「継いでいく」べき物語のことなのではないか、って思った。

「継いでいく」と「創っていく」
そこに「誇り」が生まれ、物語が始まっていくのだろう。

それをクロスさせる「場」
今を感じられる「場」
創造のベースとなる「場」

を、僕はいろんな場所に(オンライン上も含めて)創りたいのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:36Comments(0)日記

2022年08月12日

はじまり、という名の高校

地域みらい留学の企画「第1期生に聞く!阿賀黎明高校と私たちのこれから」でした。

あらためて、こんなふうに落ち着いて話を聞く機会ってないし、オンラインだからこそ話せることもあるなあっていう。

1 阿賀黎明高校に決めた理由
2 実際に入ってみてよかったこと・悪かったこと
3 これからの高校・寮について

これで60分があっという間でした。もっと話してみたいと思ったし、ハウスマスターや公営塾スタッフも参加してもいいかなと。
「オンラインフォーラム」みたいなのってありかもって思った。

みんなが言うのは「人があったかい」(印象)っていうこと。
たぶん、仲間だと認識するのが早いんだろうな、阿賀の人は。
港町ならではなのかもしれないけど、町全体にそういう空気感があるような。

「第1期生であること」が魅力だってふたりとも言っていた。
まだ寮の予定地でしかなくて、通学の方法も「スクールバスの、予定です」
みたいなのがよかったって。
それって、1度しか使えないのだろうかって思った。

入ってくる人みんなが第1期生であるような、そんな「はじまり」を感じられる場がつくれないだろうか。
だって、黎明ってはじまり・夜明けっていう意味なんだから。

入ってみて、のところは自習スペース問題が出てきましたね。こちら、なんとかしたいです。
1人で居たいときにも友人が誘ってくる、とか。

あとは1,2年生の関係づくりを寮生主導でやっていくこと。スポーツ系とか、レクリエーション系とか。
そうやって関係性ができれば、勉強したいときに「静かにしてね」って言えるから。

これからやりたいことについては、「地域に開かれた文化祭」
これはもう10月8日なのだけど、地域の人に出店してもらったり、発表してもらったり、そういうのをやりたいと。
それ、いいじゃん。時間ないけどやってみようよ。

あとは7月の球技大会のように学年を横断したチームをつくって、学年の隔たりを無くしていく、って言ってた。たしかにグループってあるし、そこに自分らしさを求めると、閉鎖的になっちゃうから、むしろ、そんなグループを無数につくっていけばいいんだよね。

新潟大学のダブルホーム的な。そういうのがあってもいい。
そのひとつの方法が地域プロジェクトなんだろうと思うんだよね。

ひとりひとりがつくる学校、ひとりひとりがつくる寮をつくっていきたいとあらためて思った。
そっか、新たに創れば、創った人が1期生になっていくんだな。

創り続けること、はじまり続けること。
入学生すべてが第0期生であるような、そんな学校を、寮をつくれないだろうか。

あなたは、何をはじめますか?何を創りますか?
それを誰とやりますか?

はじまり、という名の高校で待っています。  

Posted by ニシダタクジ at 06:12Comments(0)日記

2022年07月25日

小さな誇りを届けて「時間軸」を揺さぶる

久しぶりに読書ブログじゃない記事を。
東京での3日間の対話と発見のまとめ。

まずはキーワードのまとめから
~~~
Day 1@武蔵新城
・会社(上司)とのマッチング:求めるエネルギーレベルの問題が大きい
⇒「エネルギーレベル・マネジメント」が必要
⇒就活のときにその視点がない
⇒年齢やライフステージによっても変化する
・オープンっていうムラ社会
⇒「情報共有」にフォーカスするばかりに逆にスピード遅くなっている。

Day 2@北千住「空中階」
・「余白」はどこにできるのか?
⇒境界をあいまいにする
⇒フラットな関係を合わせたところに「余白」が生まれる
・「ベクトルを思い出して、その方向に舵をきっていく」
・時空がねじれている⇒面白がらないといけない
⇒所有を手放すという「現代の共有地」をつくる実験
・声で著者をお願いするか判断している
⇒視覚から聴覚、触覚(身体性)へのシフト

Day 3@北千住
・「誇り」に触れる、という経験を20代でやれるかどうか?
・「誇り」=「継ぐ」ことから生まれるのでは?

・「小さな誇り」を文章化したい人
・金銭以外の報酬について考えたい人
・「帰る場所」がほしい人
そんな人たちとつくる、農家体験取材付きのプロモーション代行プロジェクト。
「仲間づくり」は結果であって目的ではない
・小さな誇りを継ぐ人たち(歌われざる英雄)の文章化・結晶化
・「人」「歴史」「誇り」にフォーカスし物語化する
⇒「小さな誇り」というバトンを届け、わたす
~~~

最大のキーワードは「時間軸」かなあと思った。

「資本主義≒お金」という前提のもと、お金に頼らない暮らしやコミュニティ、っていう方向性もわかるのだけど、そもそも「資本主義=お金」じゃなくて、「資本主義≒所有」ということで空中階のように期限のある場をシェアするっていうアプローチもあるし。

僕としては「資本主義≒時間」ということで時間軸へ揺さぶりをかけたいなと思った。効率化という宗教にあらがうために。そのアプローチのひとつが山の上の本屋「風舟」であり、麒麟山つぐさけプロジェクトなのだろうなと。

このプロジェクトが継ぐものは、酒造りであり米作りであり地域そのものなわけだけど。
その原動力は、1軒1軒、ひとりひとりの農家の「小さな誇り」なのだろうと。

Day 3の時に原さんや外山さんが言っていたけど、それって20代半ばまでにやっておいたほうがいいやつなのかもしれない。
まだ、「報酬≒お金」ではない時に。自分の価値が時間当たりの金銭に換算されないうちに。

・価値とは何か?報酬とは何か?を問いかける機会
・「小さな誇り=継ぐ」に触れ、それを物語として表現する機会
・自分自身の物語を探し、気づく機会

たぶん、時間を手放すっていうこと。
「効率化」という時間軸を揺さぶること。

そこから「自分」が「価値」が「生きる」が見えてくるのではないか、って僕は思ってます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:33Comments(0)思い日記

2022年07月17日

高校魅力化とアイデンティティ

今日はプレゼンテーションづくりのメモを

1 タイトル
ともに創り、ともに継ぐ。
地域とつくる「場」と「アイデンティティ」

2 前提としての「創造社会」への移行
1 Consumption(コンサンプション:消費)を中心とした消費社会⇒どれだけ商品やサービスを享受しているか
2 Communication(コミュニケーション:)を中心とした情報社会⇒どれだけよい関係やコミュニケーションをしているか
3 Creation(クリエイション:創造)を中心とした創造社会⇒どれだけ生み出しているか、どれだけ創造的でいるか

3 自己紹介
20代:まきどき村(1999) #農 自然 畑
30代:ツルハシブックス(2011)
40代:高校魅力化+ブックカフェ+温泉(2022)
問い:アイデンティティはどこにあるのか?

4 阿賀黎明高校魅力化プロジェクトとNPO法人かわみなと
温泉‐寮‐風舟
行政‐高校‐地域
の三角形の真ん中にプロジェクトをつくる活動

5 それぞれのゴール
高校:生徒自身が主体的協働的探究的な学ぶ姿勢を身に付け社会で活躍する人になる
地域:現在のプロジェクトのまちのプレイヤーとして高校生と協働する
行政:中長期的にふるさとに残る、帰ってくる、貢献する人材を育成する。

6 キーワード
A Amateurism(アマチュアリズム):体験・体感
B Bricolage(ブリコラージュ):場のチカラ
C Co-Creation(コ・クリエーション):発見と変容

7 これからの学び方
「6Cs(シックスシーズ)」
1 コラボレーション collaboration
2 コミュニケーション communication
3 コンテンツ content
4 クリティカル・シンキング critical thinking
5 クリエイティブ・イノベーション creative innovation
6 コンフィデンス confidence

学び方(探究サイクル)
Wモデル(川喜田モデル⇒羽生田モデル)
A フィールドワーク⇒B 質的研究(ビジュアル・シンキング)⇒C アブダクション
⇒D 物語化⇒E 狭義のデザイン⇒F プロトタイピング(ブリコラージュ)
⇒G フィードバック⇒H (自己)振り返り

マインドセットとしての5Gシステム
1 遭遇:いつでも遭遇しているというマインドセット
2 偶然:たまたまつながる偶然な発見
3 隅:隅っこから始まるのを厭わない
4 愚:まずは愚直に続ける
5 寓:追いかけた先に物語(寓話)が生まれる

9 地域とつくるプロジェクト学習
多様な人とプロジェクトを組み、Wモデルを回していくこと。

10 アイデンティティを再構築する
存在の承認⇒感じる⇒演じるのプロセスを踏む
存在の承認段階:わたしの好きなもの、フォトスゴロク
⇒ワークショップ手法:思ったことを言う、創造する場の体験
「まなぶ」⇒「つくる」へ:
「つくる」と「つぐ」のプレイヤーになる=アイデンティティの再構築  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)日記

2022年07月16日

阿賀町という「迷宮」への「探検」

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応義塾大学出版会)
を読み進めていまして。
第4章 パターンランゲージとネイチャー・オブ・オーダー
のP293の 羽生田栄一さんのWプロセス2.0にハッとして。

KJ法生みの親川喜田二郎氏の「発想法」に出てくる
W型問題解決モデル

参考:「判断」の余白をつくる(19.12.9)
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

それを羽生田栄一さん(ソフトウェア工学の会社)が直した図が面白くて。

なんか、探究サイクルじゃなくて、Wモデルの方が、
探究の授業的には創りやすいのかもしれませんね。

A 探検 →B 野外観察 →C データをして語らしめる
→D 評価・決断・構想計画→E 具体策・手順化
→F 実施 →G吟味検証→H 結果を味わう
というW型で起こっていくのが川喜田モデル

羽生田モデルは
A フィールドワーク⇒B 質的研究(ビジュアル・シンキング)⇒C アブダクション
⇒D 物語化⇒E 狭義のデザイン⇒F プロトタイピング(ブリコラージュ)
⇒G フィードバック
でたぶんこのあとにH (自己)振り返りがあるのだろうなと。
現場に出て観察あるいは体験して、推論してデザインしてプロトタイプを実行すること。
この「観察」っていうのは、Fの時も必要で、そこにフィードバックと振り返りがあるのだろう、と。

これを「場のチカラ」によって実行しませんか?
っていうのがたぶん今やっているプログラムの根幹になるのだろうと思う。

そんなことを考えていて、
読み直したのはこちら

参考:まなびの「場」の人類学的アプローチ
http://hero.niiblo.jp/e492240.html

つくりたいのは、こういう「場」なのだろうな、とあらためて。
この中で、ティムインゴルドの「迷宮」と「迷路」の話が面白かったので再掲

~~~
わかりやすい「迷宮」のイメージとして、インゴルドは、登下校の子どもたちの歩みを例にあがています。子どもたちは通学路を俯瞰的にみて目的地に最短ルートを進むのではなく、驚きと発見に満ちた曲がりくねりとしてとらえた歩いているはずだ、と。

一方、都市で働いている大人たちは、ある地点から目的地に向けて、ナビに従って最短ルートを進むように歩きます。そこであらわれる道が「迷路」です。目的地に速やかに到達することしか頭になく、誰かに話しかけられて足が止まったり、ルートとは違う道に入り込んでしまったりすると、いずれもがある種の「失敗」として経験されます。
~~~

越境してこの町に来る。それは「迷宮」への入り口なのだろうなと。

実は世の中全体がすでに「迷宮」化しているのかもしれない。かつてのように、たったひとつの「正解」ルートを通り、出口にたどりつくような「迷路」はもう存在しないのかもしれない。

そんな迷宮で、W型の学びを繰り返すこと。

方向性やキーワードを捉え、
フィールドワークに出て観察して、
データを整理して、問いを立て、
プロジェクトをデザインし試作・試行し、
フィードバックをもらって振り返る。

そしてまた問いを立て、プロジェクトをブラッシュアップする
あるいはゼロからフィールドワークをし、観察から始める

たぶんその繰り返しだけが、
迷宮を歩んでいける方法なのだろう。

迷宮を脱出しようとするのではなく、迷宮を観察し、試作・試行しながら歩んでいける高校生たちと、そのパートナーとなる地域の大人たちがいる、そんな阿賀町ができるといいな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)思い日記

2022年07月03日

自ら「自由」と「豊かさ」を定義する

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応義塾大学出版会)
第1章 建築におけるパターンランゲージの誕生

昨日に引き続き、この章から。

いやあ、これ2013年の本かよ~、って。
俺のアンテナ折れてたんだなあ、昔の携帯電話みたいに。

いままさにタイムリーなのでいいのですが。
目の前に来た時が新刊って出版社営業のときに教わりました。
井庭先生、ありがとうございます。

~~~以下メモ
パターンに書くのは現状のことではなく、ちょっと先の理想のようなことを書くように心がけました。もちろん、理想を書くといっても、いまどこにも存在しないような夢物語ではなく、これまでにもそういうことをやってきた人はいるけれども、あまり多くの人に共有されていない、そういうコツをパターンに書いていくのです。

パターン・ランゲージとは、経験的なステートメントであるとともに、規範的なステートメントでもある。「実際こういうふうにうまくやっている人がいるよ」という記述であるとともに、「こうするのがよいよ」という記述でもあるのです。パターン・ランゲージとは、そういう二面性を持った言葉を紡ぐということなのです。
~~~

いいですね。「あいだにある言葉」って感じです。
そして、この章でアツかったのはこの後ろ、P96からの「ひとつの美学を確立する」です。

~~~
子どもたちがミュージカルをする中野zeroキッズの活動を通し、大学生になってから言うのは
「私たちが、この活動で一番よかったことは、自分が自由になれたことです。」

自分にとっての本当の豊かさとは何か、本当の自由とは何かを誰もが問う必要があるのです。それは絶対問わなければならないことです。

映画監督になりたかった理由は、作品を通じて観た人に気づきがあったり、物の見方・世界の見方が少し変わったり、勇気をもらって元気になったりする。パターンランゲージを書くということは、僕にとっては映画をつくることと同義です。

ただ、映画と違うのは、最終的な物語はみんながつくるということです。みんなでつくる、と言ってもいい。パターンをつくるというのは、物語をつくる素材をつくって提供するだけで、それを使って物語を紡ぐのは、みんななのです。

もはやパッケージ化された物語を消費するだけの時代ではないと思うのです。どうやって自分たちで自分たちの物語を紡いでいくのか。これが僕が「創造社会」という言葉で言おうとしてる社会観です。

トーマス・クーンの「パラダイム理論」では、ある理論が以前の(他の)理論よりも優れているから勝利するわけではなく、圧倒的多数の人間がそちらのほうが実用的で機能的で便利でかっこいいから使うようになると多数を占めて勝ったように見える。これがパラダイムの転換なのです。
~~~

社会に出る前、高校時代・大学時代に手に入れてほしいのは、「自由」と「豊かさ」の自分なりの定義です。大学生の時に岩波新書の「豊かさとは何か」(暉峻 淑子)を読みましたけど、まさにその「豊かさ」「自由」を問いかけることが大切なのだなあと。

終わりのない問いなんですけどね。

「自由」や「豊かさ」とは何か?という問いに対して、自分なりの暫定解を見出すこと。
そしてそれを表現する方法を試すこと。
それをひとりではなく、「場」で、「チーム」で、「地域」でできないだろうか?
それをコーディネートもしくはデザインできないだろうか?

たぶんそれが僕の問いですね。

僕にとっての「自由」は、ミクロとマクロ、あるいはレイヤー(層)的に視点を行き来できること。で
「豊かさ」とは(参加性などに使える)余白がある状況、なのかなあ。

「自由」と「豊かさ」を定義すること。
それを3年間(大学生なら4年間)の宿題にしたいです。

いや、それこそ「20代の宿題」なのかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2022年07月02日

都市も人もツリーではない

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応義塾大学出版会)

ちょっとあいてしまいましたが、朝読書。
第1章 建築におけるパターンランゲージの誕生。

いやあ、アツいっすね。
外も8月のように暑いですけど、この本もアツいです。

今日はパタン・ランゲージの提唱者であるクリストファー・アレグザンダーについて、井庭さんと中埜博さんの対談。
これは読んでおいてよかったなあと。

~~~ここからメモ
「無意識の文化」と「意識の文化」
「無意識の文化」:白川郷の合掌造りとか、設計図も技術的な裏付けもなく、歴史的な記録もない。でも白川郷はできた。ところが「意識の文化」では、完成されたつくり方を学んで機械に作らせるので、美しさを生み出すことがが難しい。「形の合成に関するノート」でアレグザンダーは、意識的な文化のなかでも、もう一度、無意識の文化に近いものをつくることができると考えた。その型をダイアグラムと呼んだ。その後、ダイヤグラムはパターンと言い換えられた。

「都市はツリーではない」
都市や町を分析していくといろいろな要素に分解されて、次々と細かく枝分かれしていきます。住宅街・商業地・農村部、など。ところが世の中の構造は、ある階層で隣り合わせのものと重なり合い(オーバーラップ)やつながりを持っています。つまりツリー構造にはなっていない。それを数学的に「セミラティス構造」と言ったわけです。
~~~

これはすごいなあ。
ツリー構造とか、ロジカルシンキングで言うMECEとか。農地に家を建ててはいけないとか。
すべて「管理しやすく合理的だ=効率的である」という観点でつくられた考え方だもんなあ。

「都市はツリーではない」とアレグザンダーは言ったけど、つまり、「ツリーな(≒効率的な)都市は面白くない」って言っているってことだよね。

ツリーじゃなくて、セミラティス。
ツリー構造:集合の要素が下位集合で枝分かれする階層構造になっていること。要素同士に重なり合いは生まれない。
セミラティス構造:集合の要素が複数の下位集合に包まれるという「重なり合い」(オーバーラップ)を持つ構造のこと。

これって、魅力ある都市(まち)っていうのもそうだけど、人に関してもそうだよなあと。

佐々木俊尚さんは「レイヤー化する世界」の中で、インターネットによって世界はレイヤー化しているのだから、自分自身をも多層化してそのプリズムとして生きろ、と語った。

参考:自分を「多層化」して生きる(16.12.20)
http://hero.niiblo.jp/e483303.html

たぶん人も社会も、ツリーではなくて、セミラティス構造をしているし、その重なり合い(オーバーラップ)の部分に「偶然」が生まれてくるのだろうなと。

昨日は、第1回の風舟交流会「アイデアミーティング」で、高校生4名も含む15名が参加。
「風舟周辺でやってみたいこと」と題して、様々なアイデアが出た。
(原木しいたけ栽培⇒しいたけバーベキューとか楽しそうだった)



風舟はこのまちにもう一つの「層」をつくる。
そこに「層」(レイヤー)の集合体である誰かがやってきて、その物語が重なり合う(オーバーラップする)
そこに生まれる「偶然」や「物語」を育てていくこと。
そうやって、地域も人も生きていくのではないかなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)日記

2022年06月26日

「仮説を試す」ために「感覚を解放」して「場に身を委ねる」こと

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応大学出版会)

クリエイティブ・ラーニングからの続きですが、読み始めました。
井庭先生、面白いなあ。
非常に本質的なところを突いてきて、ドキドキします。

プロローグよりメモ
~~~
いま私たちが感じている閉塞感がどこから来るのかを辿っていくと、社会や組織のあり方が「応急処置的」であるという点に行き着くように思う。

その要因は
1 価値判断の難しさ
2 実際につくり上げることの難しさ
3 専門や分野が異なる人とのコラボレーションの難しさ
であるように思う。

制度や仕組みをつくった経験がある世代が引退した後に残されるのは、「自分たちでつくったことがない世代」である。

「どのように」だけではなく「何を」「なぜ」つくるのかの支援が重要になる。

「何を」「なぜ」つくるのかを具体的に他者から与えられ、ただそれを遂行しているという状況は、とても創造的であると言えないだろう。

パターンランゲージは、「何を」「なぜ」「どのように」つくるとよいのかを言語化したものである。

「何を」つくるとよいのか「なぜ」つくるのかを考える「考え方」を提供することであり、その意味で抽象的なかたちでの支援でなければならない。

パターンランゲージの各パターンは、どのような「状況」でどのような「問題」が生じやすく、それをどう「解決」すればよいのかという形式で記述されており、それに「名前」(パターン名)がつけられている。

パターンランゲージでは、各パターンにおいて、「何を」つくればよいのかが抽象的に提示される。またある「状況」で生じるどのような「問題」を解決するためにつくるのかという「なぜ」についても明言される。さらにそれを「解決」するものを「どのように」つくることができるのかも提示される。それゆえ、パターンランゲージは、「何を」「なぜ」「どのように」つくるのかを考えることを支援するのである。

他方、パターンには、それを「いつ」「どこで」「誰が」使うべきかという記述はない。つまり限定されてはいないのである。各パターンは、そこに書かれている「状況」と同じような状況において、その「問題」を解決したいというときにだけ、参考にすることができる。「なぜ」つくるのかという理由が合致することが大切なのであり、「いつ」「どこで」「誰が」つくるのかは本質的な問題ではないということである。

パターンランゲージこそが応急処置的社会・組織の檻から抜け出す鍵になる理由
1 対象デザイン領域において「よい」「美しい」という価値観が提示されるため「何を」「なぜ」つくるのか考えられる
2 デザイン=問題発見・解決の秘訣が記述されているため、「どのように」実現すればよいのかを考えられる
3 視点や発想を言語化し、一つ一つに「名前」があるため共通言語として使用することができ、相互理解・コラボレーションに役立つ
~~~ここまでプロローグ

つづいて序章
~~~
パターンランゲージ:建築家クリストファー・アレグザンダーによって提唱された住民参加型の町づくりを支援する方法

アレグザンダーの自然物と人工物の違い
「自然物」:誰かが計画してデザインしたものではなく、長い年月の中で徐々に形成されてきた結果である。そして、完成形という状態はなく、いつも成長・形成の途上である。
「人工物」:基本的には誰かのデザインによってつくられ、完成した状態で使い手に渡される。それゆえ、使用する人間や環境に馴染まなくなってしまう可能性が生じてしまう。

アレグザンダーの3つの考え
1 全体が成長すること
美しく調和がとれている自然物は「全体」として成長する。「全体」は「全体」として始まり、「全体」として成長する。「生きている花」をつくろうと思うならば、種から育てなければならない。
2 内なる力に誠実であること
「全体」の成長は絶えざる「適応」のプロセスである。その適応においては、その時々の「内なる力」を無視したり封じ込めたりすることなく、その力に正直・忠実でありながら変化していく必要がある。
3 環境に適合的であること
成長のプロセスにおいて、誠実である必要があるのは、その周囲の環境における諸力との折り合いもつけなければならない。つまり、環境側に生じる力にも適合するように自らを変容させていく必要があるのである。

1本の「木」を例にとって、
1 その木の形は、ごく小さな全体から始まって時間をかけて成長する。部分を組み合わせて作られたものではない。
2 その木の具体的な成長ステップは物理学や遺伝的に定められたルールに基づいて展開されている。
2 その木の具体的な形状は、成長の過程における環境、地形や土壌、日光、雨風、周囲の草木などへの適応の結果である。

アレグザンダーの「名づけえぬ質」
「いきいきとした」「全体的な」「心地よい」「自由な」「精密な」「無我の」「時間を超越した」を併せ持つもの。
例:京都などの古くからある町を訪れたときに感じる深い味わいや歴史的な質感のこと。
~~~

この後P34から来る井庭先生のパターン・ランゲージ再考がアツいので多めに記載

~~~
1 善や美においての反証可能な仮説
パターンランゲージを構成する個々のパターンは常に仮説である、とアレグザンダーは強調する。パターンはいきいきとして調和のとれた美しい「質」をいかにしてつくることができるかについてまとめた仮説である。仮説である以上、反証するような事実が突きつけられた場合には、取り下げられることになるだろう。このアレグザンダーのビジョンが興味深いのはこれまで科学における「真/偽」についての基準であった反証可能性の議論を「よい/悪い」および「美しい/美しくない」というコードにも適用しようとしている点である。

2 感覚の解放の手段
パターンの言わんとすることは、実は私たちのなかにもともとあるものなのだ、という指摘。現代の私たちは、自分の内なる感覚をあまりにも素朴すぎるという理由で認めることができなくなってしまったという。本当は深いところでわかっているのに、それをなすがままに出していくことを恐れ、私たちの内部に凍結させてしまっているのである。かわりに、外から与えられた概念やルール、手順に置き換え、自分に合わない歪んだままの状態を受け入れざるを得なくなっている。しかし、本当は私たちの身体に備わっている感覚は知っているのであり、その感覚を信じて解放すればよく、パターンランゲージは、内なる感覚に自信をもたせ、それを実現・実践することを支援する。

3 自我を超えた創造への道
パターンランゲージを用いたデザインでは、自然物が少しずつ形成されるように、内なる力と環境に適応しながら、全体として成長していくプロセスとなる。言うなれば、パターン・ランゲージによるデザインでは、それが自然に生じたように具現化されるということである。それは、人間が一種のメディア(媒体)になるということでもある。つくる主体として、個人の強い意図や自我を持ち込むのではなく、より自然に、より調和的な秩序を生み出すために、力を貸す存在になるのである。
~~~

いやあ、いいですね。この3つ。
「仮説を試す」ために「感覚を解放」して「場に身を委ねる」こと。
それこそが「創造」の方法だと。いやあ、すごい。その方法を僕も探していました。

「人間は一種のメディア(媒体)になる」
っていうのもすごい言葉ですよね。

自我を超え、「創造」のための「媒体」になる。

そんな感覚的な経験が「自分らしさ問題」を解決するためのデザインになっているのではないか、と直感する本でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:04Comments(0)日記

2022年06月23日

「自由」の実験者たち

「自由」の実験者たちに何人も出会った。
この不確実性が高まった世の中において、「自由」をどう定義し、どう表現するか。そこに向かっているのかもしれない。

「アイデンティティ=(目に見える)仕事」にせずに、今まさにつくっている人たち。
在野の研究者であり在野のアーティストであるような生き方。

その表現方法がたくさんあった。
・山奥にアジール(避難場所)としての図書館をつくっている人
・「お茶」を様々な角度からとらえ場づくりをしている人
・音楽家とサラリーマンを並行することで一期一会の場で歌う人
・人事の仕事を「自由」への学校だと思って実践し続ける人

日曜日に対談を聞いた梅田蔦屋の三砂さんは「西村佳哲さんの本には数字が出てこない」と
言っていたけど、たぶんそういう自分の中の感覚的なものというか美学。

自分自身の存在そのものを場に差し出して、置いてくる。
そこから「創造」されるものがあるのではないか。
「存在」それ自体が問いになっているような生き方。
たぶんそういうのを感覚的にやっているんだろうな。

「仕事」っていうのは、世間とのコミュニケーションのツールであり、
生物としての本能である(環境への)「適応」であると思う。

しかしその「環境」それ自体が激変している今。
「越境」して「アンラーニング」できるかどうかが大切で、
それはひとつの仕事にとどまらずに社会や時代とのコミュニケーションを図り、
その「場」で何かを創造していくこと、なのかもしれない。

「適応」と「創造」を繰り返して、自分なりの感覚としての「自由」をつかんでいくこと。
「自由」の実験者であり、実践者であり、表現者であるような生き方。

そんな「存在」が集まることで、場の「創造」が始まっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 05:58Comments(0)日記

2022年06月21日

「伝える」と「伝わる」



音楽は最初の音と最後の音をつなぐ物語だ。

それって、プロジェクトも、人生もぜんぶそうなのかもしれないな、と。

【文化人類学×観光】
パーソナルなきっかけ×いろんな人(他者)の視点
ひとり×全体
ミクロ×マクロ
両方あって、その場に応じて使い分ける
誰のものでもあり、誰のものでもない=共有物

【伝えると伝わる】
「感覚」的な「変換」を楽しむ:即興性
⇒自分の「感覚」に出会う⇒自分を知る

「伝える」:目に見えている⇒「伝わる」目に見えていない
主語は誰?お客は誰?⇒目に見える世界を大事にする

目に見えないもの、言葉にできないものにどこまで思いを馳せられるか。
数値化・言語化できるもの、できないもの

「言葉」=みんなで考えるためのツールであり、なおかつ「音」
⇒深い音を出せる人、浅い音を出している人
⇒本を読む人とラジオは相性がいいかも

【本質と身体性】
「本質=生物的に揺るがないもの」⇒地層とか
宇治茶という場づくり
「お茶」という総合芸術
ダンス、音楽⇒音であり、身体性。

キーワードとしてはこの3つ。

文化人類学×観光は、「個人の感覚」から始まるものを「他者の感覚」と合わせるもので、

そのためには身体を感じながら、「場」に入っていくこと。即興音楽のように場を体感すること。生物的に揺るがないもの(感覚的な何か)を見つけること。

目に見えないもの、言葉にできないものを感じながら、「場」でつくっていくこと。

それを重ねることで「伝える」が「伝わる」になったらいいな。  

Posted by ニシダタクジ at 06:40Comments(0)日記

2022年06月19日

風景画を描くインタビュー



梅田蔦屋書店のイベントで西村さん×三砂さんの話を聞いて非常にエキサイティングだったのでメモを残しておきます。

【冒頭=本の紹介】
「自分の仕事をつくる」:人との対話による思考のプロセス

「本屋という仕事」
リスペクトする人から教わる⇒広場みたいな1冊
この人のこの本棚:自分なりの学校をつくる
本屋とは?について語り合う広場

広場としての本屋をつくる
⇒下北沢イベント⇒気になる本を選んで、なぜその本なのか?を語るトークイベント⇒お客さんも選んで、隣の人とシェアする。

【本屋で売れる本とネットで売れる本】
マーケットイン:ビジネス書的な作り方
プロダクトアウト:かける人は少ない

ネットで売れる本⇒検索可能である⇒目的が明確、価値が定まっている人、著名な人
本屋で売れる本⇒検索しない単語のタイトル=問い、わからなさ⇒聞いてみたい
見て伝わる本。「これは水です」⇒何の本かわからない⇒本屋向き

【ジャンルとは?】
江戸時代に本が増えすぎた
1 本屋:商品としての本:「自分で探せる」「入れ替わる(循環する)」
2 図書館:アーカイブとしての本:ひたすら足し算

ジャンルには正解がなく、探しやすいかどうか?
文庫、新書、雑誌⇒形による分類
ビジネス書・児童書⇒読者層による分類
本棚⇒まちの風景 お客さんが棚を決めていく
マーケットインとプロダクトアウトの組み合わせ

【生きてる棚】
ブックディレクターの棚:ディスプレイであり生きてない
磯場みたいな本屋⇒生き物がいる感じ
書店の本棚のいいところ⇒循環している⇒生きている
「これからの本屋」⇒夜明け この本でなければならない理由=切実さがある
この著者によって書かれなければならなかった本=必然性

【西村さんのインタビュー】
・自分自身の働きにくさ=切実さから出発している
・インタビューという場に運ばれていく感覚
・「けどね」の先にその人の最前線(いま)=見え始めている景色、ベクトルがある
・言葉にならない語を拾う。「なんていうかな」「なんだろうな」⇒感じているけど言葉になっていないものを聞いていく

「自分の仕事をつくる」は半分が余白で出したかった
⇒半分を読者に渡したかった。共演者としての読書、一緒につくっていく余白
⇒電子書籍化しにくい=プロダクト(立体物)としての本
一緒に歩いていく感じ。

インタビューの変遷
1 仮説検証時代 自分の書きたいこと以外は切り落としていく不誠実さ
         ⇒自分の書きたいことをしゃべってもらっている
2 肖像画時代  相手を観察し、どう見えたかを書いて渡す
3 風景画時代  インタビュー相手が背を向けて歩き始める⇒ついていく

取材とインタビューの違い
取材:材料を取りに行く インタビュー:一緒に旅に出る
~~~

「インタビューとは?」みたいなものが立体的に浮かび上がる時間。
行ってよかった。  

Posted by ニシダタクジ at 04:14Comments(0)イベント日記

2022年06月13日

「センス」の違いを活かし、違和感として場に差し出す


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ついに10記事目。
「コミュニティ難民のススメ」を更新して、1冊の本での最多記事になっている気がします。

第4章 創造的な学びをつくる
ドキドキしながら一気に読みました。

まずはヴィゴツキーの「意味」の話より。

~~~以下メモ
「意味」には二種類ある。
一つは「Meaning」(ミーニング)で、辞書的な語義のこと
もう一つは「Sense」(センス)で、事象に対する各人にとっての個人的意味のこと

教育は効率よくミーニングを理解し、記憶することを追求しがち。
これからは自分なりのセンスをつくりあげること、そしてそれを対話によって共有することが重要。
対話をすると、お互いのセンスのズレが自覚できる。そのズレこそが創造性を育む。

ミーニング:社会システムと心的システムの間でコミュニケーション・メディアとして働く
センス:心的システムの中で生み出され、「心的システム」と「創造システム」の中で発見メディアとして働く

なるほど。センスとは「感じ方の型」の差で、それは創造の要素として非常に重要なのだと。
場やブレストにおいて「違和感の表明」が大切なのってそういうことだなと。

ともに探究していく関係になるには、ともにアマチュアの探究人として、興味や関心を分かち合うことが必要です。
自分も子どもも「好奇心」に誘発されている、「創造を目指している」という意味では同じ立場。
~~~~

あと、書いておきたいのは、My discovery/Your discoverey/Our discovoryの話。

~~~以下メモ
「発見の拡がり」3段階

まずは思いつきレベルのMy discoveryを大切にする。
フォトスゴロクで言えば、ひとりひとりの「センス」を活かした写真を撮ってくる、ところ。
My discoveryによって、自分なりの見方や考え方の特徴、好みを知る。

そしてそれぞれのMy discoveryに価値があると思えるのが次のYour discovereyの段階
相手、チームメイトの発見を認められるようになる。

それを繰り返していくと、だんだんとMyとYourの境界線がなくなってOur discovoryになる。
この3段階を意識せずにいきなりOur discovoryを目指すグループワークをやってもうまくいかない。

つねに「My」と「Our」を行き来すること
他者や周囲の環境に対する好奇心を発揮したり
「Your」という働きを介して、相手の面白さに気づくこと

創造的な対話。

ここで、プロローグに出てきた6Cs(シーズ)をあらためて。

「6Cs(シックスシーズ)」 P5
1 コラボレーション collaboration
2 コミュニケーション communication
3 コンテンツ content
4 クリティカル・シンキング critical thinking
5 クリエイティブ・イノベーション creative innovation
6 コンフィデンス confidence

認知科学研究の結果(2017)、
人の学びの道筋は、まずは「コラボレーション」「コミュニケーション」から始まる、だったのです。

にもかかわらず、これまではコンテンツ・ファーストの学びが行われてきてしまった。

「もちろんコンテンツの学びは重要だし、学んだ知識や考え方をクリティカル・シンキングで多面的に見ることは大事ですよ。それがないと考えや発想が広がっていきませんからね。でも、本気でコラボレーション氏、そこで思いついたことをポリフォニックに対話コミュニケーションしていると、必要なコンテンツが自ずと巻きついてくるんですよ。そうするとふとした瞬間にひらめくことがある。

クリエイティブ・イノベーションをしようと力まないのに、プロジェクトを始める前の想定をはるかに超えたアイデア・発想の種が生まれるのです。これはどうしたってみんなに発表して、伝えたくなる。だから作品にする。そのためには人に伝える価値があるかどうか複眼的に考えるようになる。つまり、クリティカル・シンキングが働きます。

こうしてできた作品を発表して「面白い!」と評価を受けると、よし、これからも探究していこうというコンフィデンスが生まれる。」

~~~

いやあ、すごいね。
涙でそうになる。

「場のチカラ」にフォーカスし、「場に溶け出して」、「場を主語にして」、創造する「場」の一員となる。
それこそがアイデンティティ問題や承認欲求、「自分に自信がない問題」の解決方法だと思い、授業を含めて場を設計してきた。

それままさに、discoveryの3ステップや、
6Csのステップになっているのではないか、と。

さらに言えば、ブレストの場での「違和感の表明」は
まさに「ミーニング」ではなく「センス」を表現することであり、
それこそが創造にとっては重要なのだと。

これまで言ってきたキーワードが、すべてつながってきて、
僕の人生を巻き込んだいい小説を読んだような気分です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記

2022年06月12日

「デバッグ」のマインドを持ち、「違和感」をキャッチし、主体をも「創造」する


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回は第4章 創造的な学びをつくる より
「ジェネレーター」を出版した元になった対談たと思います。

今日のキーワードは「違和感」と「デバッグ」

その前に、第3章で出てきた「知識=事実ではない」という話も少し復習。
「知識=事実」ではなく、常に暫定的なシステムであり、ネットワークである。
ということで。

~~~以下メモ
プラグマティズムの特徴は、行動と思考の関係に注目することと実験主義にあります。

パースは、私たち一人ひとりが、いくつもの知識―「信念」(belief)が関係し合っているネットワークをもっていることから考えるべきと言いました。その信念のネットワークは未熟だし、誤りをたくさん含んでいるかもしれない。でも、この信念のネットワークを持っているからこそ、疑うことが可能になるのです。

いま持っている信念のネットワークと異なることが現実に起きたとしましょう。そうすると、その気づきから「なぜこの問題が生じたんだろう」という「疑念(doubt)」が生じます。そこから「探究(inquity)」が始まります。そこから思考を進めて、問題が理解可能になったら、そのとき新たな信念が獲得できるわけです、ここでひとまず一段落です。ただ、この信念もそれほど確実なものではありません。別の状況においては、これまでの信念のネットワークでは説明できない事象がまた生じるかもしれませんからね。このように、信念のネットワークの綻びから疑念が生じ、疑念から探究が生じる。これがパースの考える「探究」です。
~~~

このあとパパートの「コンストラクショニズム」、つまり自分の中の理解(第3章の話でいえばシステム)のモデルはひとりひとり違っているんだという話から「デバッグ(バグを取り除く)」の思想へとつながっていきます。

デバッグの思想はまさに上に出てきた信念のネットワークの修正・改善の話で、つまり破壊と創造なわけです。

一回つくったものを壊すのってなんか嫌だし、勇気が要ります。にもかかわらず、臆することなく破壊と創造を繰り返すマインドセットを身に付けるには、実際に自分が創造したものを壊してまたつくるという経験を積み重ねるしかない。

~~~
これまでの教育実践では、こういう活動をしましたとか、こんなものをつくりましたとか、一回一回の取り組みの「出来」に注目が集まりがちでした。しかし、プラグマティズムの議論からもわかるように、「出来」がよい活動を目指すことが探究だというわけではありません。そうではなく、地味なことであっても、子どもたちが自分なりに「ここが気になる」「もっとよくしたい」という気持ちを持ってひたすら探究を続ける「プロセス」が重要なんです。こういうマインドは一朝一夕では育たない。何度も工夫しながら、つくる行為をひたすら続けることで初めて生まれてくるものです。
~~~

自分が「つくっている」のか「つくらされている」のかわからなくなる。自分がそうしたいからそうするのではなく、そのものが「あるべきかたち」になろうとするのを一生懸命追いかけている感じです。

川喜田二郎氏は「創造と伝統」の中で言いました。

「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。
~~~

創造的行為は客体だけでなく主体をも創造する(変容させる)。
それを個人ではなく「場」を主語にできるんじゃないか?
「自分を変えたい」と思うなら、まずは創造的な場に身を置くことかもしれませんね。

昨日は、新潟県・大学・私学振興課の「くらす・はたらく編集室」でした。
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/daigaku/gakuseijohohasshin01.html
(カタカナ表記ってアーティストっぽいですね。笑)



「場のチカラ」「魔法をかける編集」「ふるさとを創る」というキーワードで説明したのだけど、たぶん、お伝えしたいことは、こういうことかもしれません。

「デバッグ」のマインドを持つからこそ、「違和感」のキャッチ(とそれを場に共有すること)をプラスに捉えることができる。

さらに活動主体を個人ではなく「場」に移すことで、「場」を主語にして客体を創造するプロセスの中で主体としての「場」が変容する。

「自分を変えたい」という意志のチカラを信じるのではなく、「場のチカラ」と「創造のチカラ」に委ねてみると、結果的に自分(信念のネットワーク)が変わっていた。

そして変わった自分も暫定的なものであり、ひたすらに「デバッグ」していくプロセスにあるのだということ。

これ、うまくパワーポイントで伝えたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:09Comments(0)日記

2022年06月07日

「内言」としてのパターンランゲージ


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回も第2章「自ら学ぶ学級をつくる」(岩瀬直樹×井庭崇)より。
1日に2つ記事書いちゃってますね。

今回は井庭先生のパターンランゲージについて。
ヴィゴツキーの内言についての言及がすごかったので、メモしておきます。

~~~ここからメモ
内言には主語がありません。
「述語化されている」のです。

内言では「私は」という主語が中心ではなく、「何をするのか」という述語の方に重きが置かれた文の構成になります。

実は、僕がパターンランゲージをつくるときにすごく気を使うのは、内言的に読める文章に仕上げるということです。つまり、主語を書かずに述語化される内言に近いように書くのです。

物事の秘訣、やり方の共有というのは、基本的には、それを知っている人が知らない人に教えるというかたちになります。これを教えてもらう側の立場からみると、「〇〇ができる他の人(他者)ができない自分に教える」という構図になります。否応なしに「他者」と「自分」、「できる」「できない」という区別が強調されます。そうなると、受け身になり、できない自分に対して自信を失ったり、自己肯定感が低くなる可能性があります。

内言的な文章は、自分からの内発的な思考を下支えします。たとえば「相手が自分なりに考え、言葉にするために間を取り、待つようにします」という文章を読んだときに、「対話のうまい人はそういうとき、相手が自分なりに考え、言葉にするための間を取り、待つようにします(しています)」と読むことができるだけでなく、「これから自分も、そういうふうに待つようにします」と近未来の自分の方向性としても読めるわけです。「そろそろごはんを食べようかな」と同じように、「待つようにします」という内言のように読めるのです。

パターンランゲージでやってはいけないことは、「行きつけの場所をつくりましょう」という書き方です。「〇〇しよう」とか「〇〇しましょう」と書くと途端に二人称的になるのです。つまり、「あなたは〇〇をつくるべきです、つくるとよいですよ」と誰かが自分にアドバイスをする構図に、どうしてもなります。どんなに丁寧な言葉にしても、そのアドバイスが、自分ではないどこかからやってくるということが強調されてしまうのです。

パターンを英語で書くと、命令形にならざるを得ない。
日本語は内言的に書ける。

さらに興味深いことに、日本語という言語は、文法上は現在と未来を区別しません。そのあたりが曖昧なのです。たとえば、「(わたしはいつもこの場所でこれを)つくります」と「(私は来月この場所でこれを)つくります」は述語的には同じ言い方になる。

なので、パターンランゲージの解決策の部分を「〇〇をつくります」と書いたときには、すでにそれを実践している人にとっては普段していることとして読めますが、していない人にとっては「これからしようかな、これからやります」と読めます。

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いやあ、これもすごいな。
内言、ですか。

「中動態」の話にも通じるところではあるけど。

「主体性」って言われるけれど、きっとこういうデザインが必要なのだろうな。

この後に、先生が主語になって彼らの主体性や内発性を「引き出してあげる」のではなくて、生徒自身が「どう主体性を発揮するようになるか」についての話に展開していくのだけど、それはまた別の機会に書きます。

「内言」で書かれた文、それは非常に日本語的である、ということ。
ここが今日は面白かったです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)日記

2022年06月07日

「なってみる」という学び方


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回は第2章「自ら学ぶ学級をつくる」(岩瀬直樹×井庭崇)より。

~~~以下メモ
・教室の空間リノベに参加
・協同的な学びの実施

「自己主導学習」=学びのコントローラーを自分で持つ
「このクラスに自分が関わると何かが変わるぞ」⇒「協同して学ぶ」の体験・体感

「作家の時間」:子どもたちが1人ずつ作家ノートをもって、作家になりきって、自分の書きたいテーマで作品を書く

「みなさん一人ひとりは作家です」
「自分が書きたいことを書きたいように書きたいだけ、自分のペースで書いてください。」
「作家ですから」

書いたものを作品にして出版し、読者に読んでもらうという学び方、つまり本物になることを通して学ぶ、ということなんですね。作家になるために練習するのではなく、作家としてスタートするのです。

「自分の作品には読者がいたんだ」ということを体験すると書き手のモチベーションが変わるんですね。

そのうちに読書をしていても「この表現は上手いね」と言い始めるんです。作家の目で本を読むようになっていく。

つまり、「なってみる」という学び方です。書いている途中でたくさんの人のフィードバックを受けた方が、作品がより良くなるという体験をするのです。下書き段階は、ダイヤモンドでいえば原石みたいなものです。たくさんのフィードバックや自身の修正を経てどんどん磨かれていく。他者の存在が自分と作品を成長させてくれる。その体験の積み重ねが、協同で学んでいこう、プロの作品から学んでいこうという意識に変わっていく、そういう学び方です。

このことを僕は「ワークショップの学び」と呼んでいます。
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いやあ、これすごいな。
「なってみる」という学び方。

僕の3つのテーマは、
チーム観「Destined people~導かれし者たち」
成長観「Fake it till you make it~できるまでフリをしろ」
対話観「Shall we dance?~一緒に踊らないか?」

なのだけど、まさにその2つ目のとこだなあと。

「なってみる」学び。たとえば、「デザイナー」っていう名刺をつくれば、デザインの仕事が来て、いつのまにか本物のデザイナーになっていた、みたいな。

そしてなにより「作家の時間」がすごいところは、他者からのフィードバックがいい作品をつくっていくんだ、と実感できること。何よりもそこに相互の「承認」があるというところなのかもしれない。

プロジェクトも同じだなあと。何度も中間発表して、フィードバックをもらって、いいプロジェクトにしていく体感。それが大切なのだろうなと。
「下書き段階ですけど」「試作品なんですけど」って言いながら見せて、フィードバックをもらうこと。

何よりもまず、作家になりきること、アーティストとして取り組むこと。
ジュニエコとかでも「仮想の会社をつくり、社長(店長)の役を決めること。
そういうのが大事なんだろうな。広い意味での演劇ワークショップ。
肩書決めて、名刺作って、みたいなことをしてもいいのかもしれません。

まずは作家になってみる、デザイナーに、芸術家になってみる。
つくるものはすべて「作品」としてとらえる。

そういうフィクションの力が必要なのだろうな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)日記