2024年06月06日
技術ではなくセンスを磨く「修行」
痛快。
爆笑。
久しぶりにこういう本読んだなあ。

『「仕事ができる」とはどういうことか?』(楠木建 山口周 宝島社)
某大手古本チェーンで購入。
楠木さんの『ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件』(楠木健 東洋経済新報社)
http://hero.niiblo.jp/e486575.html
参考:もし、このプロジェクトが「アートプロジェクト」だとしたら(17.12.22)
のエッセンスも詰まっていてうなる本です。
山口さんの
『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』
http://hero.niiblo.jp/e486473.html
参考:「正しい手」よりも「美しい手」を指す(17.12.7)
『劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?』(山口周 光文社新書)
http://hero.niiblo.jp/e489486.html
参考:なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)
と合わせて、
「50代オッサン上司の言ってること意味わかんないなあ」と嘆く20代におススメの本です。(笑)
キーワードは「シークエンス(sequence):(物事の)連続,一連;(映画などの)一続きの場面、順序、配列」
「コラボレーションでシナジーを」みたいに言うオッサンに対して、手厳しい。
~~~ここから引用
成果に至るシークエンスを経営者が描いていて、そのシークエンスを構成するピースに欠けている要素がある。その欠けている要素が自社だけで用意できないから提携やら合併やらによって埋め合わせる。それを総称して「シナジー」ということになるわけですが、やたらと「シナジー」と叫んでいるだけの人は、そのシークエンスが描けていないんでしょうね
成功者が「ほかの人間とは景色が違って見えている」というのは、その人の独自のフィルターを通したときに、同じものが「違って見える」ということ。ここでフィルターに相当するのが、その人が持っているストーリーなんだと思うんです。
自分なりのストーリー上に位置づけることで、個別の要素が独自の意味を持ち始めるということ。戦略は全部「特殊解」であって、すべてが文脈に依存していて一般的な解はないですからね。
逆に言えば、論理を積み重ねていきついた解が他者と同じであれば、それは論理的に正しくても最適解ではない、ということですよね。
~~~
いやあ、その通りすぎる。
「戦略」とは「経営」とは何か、考えさせられる。
さらに「なんとか3.0」おじさん、「これからはサブスクだ!」おじさん、「GAFAはこうやってる」おじさんに対しても手厳しい。
~~~
「3.0とおっしゃいますが、だとしたら2.0ってなんだったんですか。3.0との本質的な違いはどこにあるんですか?いずれは4.0もあるんですね。」と問い詰めると、「いや、『気持ち3.0』なんだ」と。
アドビはサブスク以前に「photoshop」を売りまくっていて、条件がそろっていたからこそ、サブスクに舵を切ったのです。
GAFAはメガプラットフォームだからスゴイんだ、という話。GAFAは戦略も収益構造も、まるでちがう会社だということがすぐわかる。でも、そういう中身には立ち入らず、とりあえずの結論が「これからはプラットフォーマーの時代だ」。実に空疎です。イオンもウォルマートもセブンイレブンもプラットフォーマーと言えばプラットフォーマーですからね。JR東日本もそう。あれだけプラットフォームを持っている会社はほかにない。
「まさにプラットフォーマーです。(笑)」
「東京駅の1日の乗車人数だけで約47万人ですよ」
「現物のプラットフォームを持っている」
~~~
ここで爆笑してしまった僕もオッサンなのかもしれないですが。。。泣
本書では一貫して、仕事ができる人にはスキルではなくてセンスがある
じゃあ、そのセンスはどう磨かれるのか?という話が続いていきます。
ここでひとつ紹介したいのがセンスを磨くのは昔から「修行」だっていうこと
ここで「修業」と「修行」の違いについて。
「修業」とは,一定の業を習い修めることで,自分の利益のために業を習い修める事であるのに対して,「修行」とは何物も求めず利害得失を離れて,悟りを開いた人々の道を行ずる事です.武道修行の究極は人間形成です.著者は,武道の修行において,健康で徳を身につけ,品位と品格を備えることを常に最終目標としております.(文武不岐(ぶんぶふき) : 修業と修行遠藤 守 バイオフィードバック学会)
~~~
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)
ヘリゲルは、禅に興味があって、禅を学びたいと東北大学の教授になったとき「禅を勉強するんだったら弓をやったらいい」と言われたので当時の弓の世界の第一人者「弓聖」と言われていた阿波研造に弟子入りした。
そこで弓を持たせてもらえないところから「修行」することになる。やっと弓を的に向かって打たせてもらうときになって、「的に当てようとして撃っちゃいけない」と言われる。「あなたが的に当てようとしなくても、的にあたるように勝手に矢が出ていくから、矢にいかせなさい」というのを聞いて、ヘリゲルは爆発して、「先生は目隠しをしても当てられるんでしょうね」と言う。
そして、暗やみの中で・・・
ヘリゲルはヨーロッパに帰ってから、こう書いた
「西洋的な近代合理主義の考え方とまったく違う、まず効果が特定されない、トレーニングと成果の関係が説明されない、何かできるようになったときにはもうそれ以前に戻れないという、そういう世界がある」
~~~
まさにこれが「修行」の意味なのだろうな。
ゴールを設定してロジックで積み上げていくのではなく、センスを磨いていくこと。
「石の上にも三年」っていうのは、修業ではなく修行のことだったのだろうと思う。
スキルだけなら、Youtubeを見ながら実践した方が早いのだろうけど、センスを磨くにはまた違った方法が必要なのだろうと。
爆笑。
久しぶりにこういう本読んだなあ。

『「仕事ができる」とはどういうことか?』(楠木建 山口周 宝島社)
某大手古本チェーンで購入。
楠木さんの『ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件』(楠木健 東洋経済新報社)
http://hero.niiblo.jp/e486575.html
参考:もし、このプロジェクトが「アートプロジェクト」だとしたら(17.12.22)
のエッセンスも詰まっていてうなる本です。
山口さんの
『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』
http://hero.niiblo.jp/e486473.html
参考:「正しい手」よりも「美しい手」を指す(17.12.7)
『劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?』(山口周 光文社新書)
http://hero.niiblo.jp/e489486.html
参考:なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)
と合わせて、
「50代オッサン上司の言ってること意味わかんないなあ」と嘆く20代におススメの本です。(笑)
キーワードは「シークエンス(sequence):(物事の)連続,一連;(映画などの)一続きの場面、順序、配列」
「コラボレーションでシナジーを」みたいに言うオッサンに対して、手厳しい。
~~~ここから引用
成果に至るシークエンスを経営者が描いていて、そのシークエンスを構成するピースに欠けている要素がある。その欠けている要素が自社だけで用意できないから提携やら合併やらによって埋め合わせる。それを総称して「シナジー」ということになるわけですが、やたらと「シナジー」と叫んでいるだけの人は、そのシークエンスが描けていないんでしょうね
成功者が「ほかの人間とは景色が違って見えている」というのは、その人の独自のフィルターを通したときに、同じものが「違って見える」ということ。ここでフィルターに相当するのが、その人が持っているストーリーなんだと思うんです。
自分なりのストーリー上に位置づけることで、個別の要素が独自の意味を持ち始めるということ。戦略は全部「特殊解」であって、すべてが文脈に依存していて一般的な解はないですからね。
逆に言えば、論理を積み重ねていきついた解が他者と同じであれば、それは論理的に正しくても最適解ではない、ということですよね。
~~~
いやあ、その通りすぎる。
「戦略」とは「経営」とは何か、考えさせられる。
さらに「なんとか3.0」おじさん、「これからはサブスクだ!」おじさん、「GAFAはこうやってる」おじさんに対しても手厳しい。
~~~
「3.0とおっしゃいますが、だとしたら2.0ってなんだったんですか。3.0との本質的な違いはどこにあるんですか?いずれは4.0もあるんですね。」と問い詰めると、「いや、『気持ち3.0』なんだ」と。
アドビはサブスク以前に「photoshop」を売りまくっていて、条件がそろっていたからこそ、サブスクに舵を切ったのです。
GAFAはメガプラットフォームだからスゴイんだ、という話。GAFAは戦略も収益構造も、まるでちがう会社だということがすぐわかる。でも、そういう中身には立ち入らず、とりあえずの結論が「これからはプラットフォーマーの時代だ」。実に空疎です。イオンもウォルマートもセブンイレブンもプラットフォーマーと言えばプラットフォーマーですからね。JR東日本もそう。あれだけプラットフォームを持っている会社はほかにない。
「まさにプラットフォーマーです。(笑)」
「東京駅の1日の乗車人数だけで約47万人ですよ」
「現物のプラットフォームを持っている」
~~~
ここで爆笑してしまった僕もオッサンなのかもしれないですが。。。泣
本書では一貫して、仕事ができる人にはスキルではなくてセンスがある
じゃあ、そのセンスはどう磨かれるのか?という話が続いていきます。
ここでひとつ紹介したいのがセンスを磨くのは昔から「修行」だっていうこと
ここで「修業」と「修行」の違いについて。
「修業」とは,一定の業を習い修めることで,自分の利益のために業を習い修める事であるのに対して,「修行」とは何物も求めず利害得失を離れて,悟りを開いた人々の道を行ずる事です.武道修行の究極は人間形成です.著者は,武道の修行において,健康で徳を身につけ,品位と品格を備えることを常に最終目標としております.(文武不岐(ぶんぶふき) : 修業と修行遠藤 守 バイオフィードバック学会)
~~~
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)
ヘリゲルは、禅に興味があって、禅を学びたいと東北大学の教授になったとき「禅を勉強するんだったら弓をやったらいい」と言われたので当時の弓の世界の第一人者「弓聖」と言われていた阿波研造に弟子入りした。
そこで弓を持たせてもらえないところから「修行」することになる。やっと弓を的に向かって打たせてもらうときになって、「的に当てようとして撃っちゃいけない」と言われる。「あなたが的に当てようとしなくても、的にあたるように勝手に矢が出ていくから、矢にいかせなさい」というのを聞いて、ヘリゲルは爆発して、「先生は目隠しをしても当てられるんでしょうね」と言う。
そして、暗やみの中で・・・
ヘリゲルはヨーロッパに帰ってから、こう書いた
「西洋的な近代合理主義の考え方とまったく違う、まず効果が特定されない、トレーニングと成果の関係が説明されない、何かできるようになったときにはもうそれ以前に戻れないという、そういう世界がある」
~~~
まさにこれが「修行」の意味なのだろうな。
ゴールを設定してロジックで積み上げていくのではなく、センスを磨いていくこと。
「石の上にも三年」っていうのは、修業ではなく修行のことだったのだろうと思う。
スキルだけなら、Youtubeを見ながら実践した方が早いのだろうけど、センスを磨くにはまた違った方法が必要なのだろうと。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。