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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年06月26日

「仮説を試す」ために「感覚を解放」して「場に身を委ねる」こと

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応大学出版会)

クリエイティブ・ラーニングからの続きですが、読み始めました。
井庭先生、面白いなあ。
非常に本質的なところを突いてきて、ドキドキします。

プロローグよりメモ
~~~
いま私たちが感じている閉塞感がどこから来るのかを辿っていくと、社会や組織のあり方が「応急処置的」であるという点に行き着くように思う。

その要因は
1 価値判断の難しさ
2 実際につくり上げることの難しさ
3 専門や分野が異なる人とのコラボレーションの難しさ
であるように思う。

制度や仕組みをつくった経験がある世代が引退した後に残されるのは、「自分たちでつくったことがない世代」である。

「どのように」だけではなく「何を」「なぜ」つくるのかの支援が重要になる。

「何を」「なぜ」つくるのかを具体的に他者から与えられ、ただそれを遂行しているという状況は、とても創造的であると言えないだろう。

パターンランゲージは、「何を」「なぜ」「どのように」つくるとよいのかを言語化したものである。

「何を」つくるとよいのか「なぜ」つくるのかを考える「考え方」を提供することであり、その意味で抽象的なかたちでの支援でなければならない。

パターンランゲージの各パターンは、どのような「状況」でどのような「問題」が生じやすく、それをどう「解決」すればよいのかという形式で記述されており、それに「名前」(パターン名)がつけられている。

パターンランゲージでは、各パターンにおいて、「何を」つくればよいのかが抽象的に提示される。またある「状況」で生じるどのような「問題」を解決するためにつくるのかという「なぜ」についても明言される。さらにそれを「解決」するものを「どのように」つくることができるのかも提示される。それゆえ、パターンランゲージは、「何を」「なぜ」「どのように」つくるのかを考えることを支援するのである。

他方、パターンには、それを「いつ」「どこで」「誰が」使うべきかという記述はない。つまり限定されてはいないのである。各パターンは、そこに書かれている「状況」と同じような状況において、その「問題」を解決したいというときにだけ、参考にすることができる。「なぜ」つくるのかという理由が合致することが大切なのであり、「いつ」「どこで」「誰が」つくるのかは本質的な問題ではないということである。

パターンランゲージこそが応急処置的社会・組織の檻から抜け出す鍵になる理由
1 対象デザイン領域において「よい」「美しい」という価値観が提示されるため「何を」「なぜ」つくるのか考えられる
2 デザイン=問題発見・解決の秘訣が記述されているため、「どのように」実現すればよいのかを考えられる
3 視点や発想を言語化し、一つ一つに「名前」があるため共通言語として使用することができ、相互理解・コラボレーションに役立つ
~~~ここまでプロローグ

つづいて序章
~~~
パターンランゲージ:建築家クリストファー・アレグザンダーによって提唱された住民参加型の町づくりを支援する方法

アレグザンダーの自然物と人工物の違い
「自然物」:誰かが計画してデザインしたものではなく、長い年月の中で徐々に形成されてきた結果である。そして、完成形という状態はなく、いつも成長・形成の途上である。
「人工物」:基本的には誰かのデザインによってつくられ、完成した状態で使い手に渡される。それゆえ、使用する人間や環境に馴染まなくなってしまう可能性が生じてしまう。

アレグザンダーの3つの考え
1 全体が成長すること
美しく調和がとれている自然物は「全体」として成長する。「全体」は「全体」として始まり、「全体」として成長する。「生きている花」をつくろうと思うならば、種から育てなければならない。
2 内なる力に誠実であること
「全体」の成長は絶えざる「適応」のプロセスである。その適応においては、その時々の「内なる力」を無視したり封じ込めたりすることなく、その力に正直・忠実でありながら変化していく必要がある。
3 環境に適合的であること
成長のプロセスにおいて、誠実である必要があるのは、その周囲の環境における諸力との折り合いもつけなければならない。つまり、環境側に生じる力にも適合するように自らを変容させていく必要があるのである。

1本の「木」を例にとって、
1 その木の形は、ごく小さな全体から始まって時間をかけて成長する。部分を組み合わせて作られたものではない。
2 その木の具体的な成長ステップは物理学や遺伝的に定められたルールに基づいて展開されている。
2 その木の具体的な形状は、成長の過程における環境、地形や土壌、日光、雨風、周囲の草木などへの適応の結果である。

アレグザンダーの「名づけえぬ質」
「いきいきとした」「全体的な」「心地よい」「自由な」「精密な」「無我の」「時間を超越した」を併せ持つもの。
例:京都などの古くからある町を訪れたときに感じる深い味わいや歴史的な質感のこと。
~~~

この後P34から来る井庭先生のパターン・ランゲージ再考がアツいので多めに記載

~~~
1 善や美においての反証可能な仮説
パターンランゲージを構成する個々のパターンは常に仮説である、とアレグザンダーは強調する。パターンはいきいきとして調和のとれた美しい「質」をいかにしてつくることができるかについてまとめた仮説である。仮説である以上、反証するような事実が突きつけられた場合には、取り下げられることになるだろう。このアレグザンダーのビジョンが興味深いのはこれまで科学における「真/偽」についての基準であった反証可能性の議論を「よい/悪い」および「美しい/美しくない」というコードにも適用しようとしている点である。

2 感覚の解放の手段
パターンの言わんとすることは、実は私たちのなかにもともとあるものなのだ、という指摘。現代の私たちは、自分の内なる感覚をあまりにも素朴すぎるという理由で認めることができなくなってしまったという。本当は深いところでわかっているのに、それをなすがままに出していくことを恐れ、私たちの内部に凍結させてしまっているのである。かわりに、外から与えられた概念やルール、手順に置き換え、自分に合わない歪んだままの状態を受け入れざるを得なくなっている。しかし、本当は私たちの身体に備わっている感覚は知っているのであり、その感覚を信じて解放すればよく、パターンランゲージは、内なる感覚に自信をもたせ、それを実現・実践することを支援する。

3 自我を超えた創造への道
パターンランゲージを用いたデザインでは、自然物が少しずつ形成されるように、内なる力と環境に適応しながら、全体として成長していくプロセスとなる。言うなれば、パターン・ランゲージによるデザインでは、それが自然に生じたように具現化されるということである。それは、人間が一種のメディア(媒体)になるということでもある。つくる主体として、個人の強い意図や自我を持ち込むのではなく、より自然に、より調和的な秩序を生み出すために、力を貸す存在になるのである。
~~~

いやあ、いいですね。この3つ。
「仮説を試す」ために「感覚を解放」して「場に身を委ねる」こと。
それこそが「創造」の方法だと。いやあ、すごい。その方法を僕も探していました。

「人間は一種のメディア(媒体)になる」
っていうのもすごい言葉ですよね。

自我を超え、「創造」のための「媒体」になる。

そんな感覚的な経験が「自分らしさ問題」を解決するためのデザインになっているのではないか、と直感する本でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:04Comments(0)日記

2022年06月23日

「自由」の実験者たち

「自由」の実験者たちに何人も出会った。
この不確実性が高まった世の中において、「自由」をどう定義し、どう表現するか。そこに向かっているのかもしれない。

「アイデンティティ=(目に見える)仕事」にせずに、今まさにつくっている人たち。
在野の研究者であり在野のアーティストであるような生き方。

その表現方法がたくさんあった。
・山奥にアジール(避難場所)としての図書館をつくっている人
・「お茶」を様々な角度からとらえ場づくりをしている人
・音楽家とサラリーマンを並行することで一期一会の場で歌う人
・人事の仕事を「自由」への学校だと思って実践し続ける人

日曜日に対談を聞いた梅田蔦屋の三砂さんは「西村佳哲さんの本には数字が出てこない」と
言っていたけど、たぶんそういう自分の中の感覚的なものというか美学。

自分自身の存在そのものを場に差し出して、置いてくる。
そこから「創造」されるものがあるのではないか。
「存在」それ自体が問いになっているような生き方。
たぶんそういうのを感覚的にやっているんだろうな。

「仕事」っていうのは、世間とのコミュニケーションのツールであり、
生物としての本能である(環境への)「適応」であると思う。

しかしその「環境」それ自体が激変している今。
「越境」して「アンラーニング」できるかどうかが大切で、
それはひとつの仕事にとどまらずに社会や時代とのコミュニケーションを図り、
その「場」で何かを創造していくこと、なのかもしれない。

「適応」と「創造」を繰り返して、自分なりの感覚としての「自由」をつかんでいくこと。
「自由」の実験者であり、実践者であり、表現者であるような生き方。

そんな「存在」が集まることで、場の「創造」が始まっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 05:58Comments(0)日記

2022年06月21日

「伝える」と「伝わる」



音楽は最初の音と最後の音をつなぐ物語だ。

それって、プロジェクトも、人生もぜんぶそうなのかもしれないな、と。

【文化人類学×観光】
パーソナルなきっかけ×いろんな人(他者)の視点
ひとり×全体
ミクロ×マクロ
両方あって、その場に応じて使い分ける
誰のものでもあり、誰のものでもない=共有物

【伝えると伝わる】
「感覚」的な「変換」を楽しむ:即興性
⇒自分の「感覚」に出会う⇒自分を知る

「伝える」:目に見えている⇒「伝わる」目に見えていない
主語は誰?お客は誰?⇒目に見える世界を大事にする

目に見えないもの、言葉にできないものにどこまで思いを馳せられるか。
数値化・言語化できるもの、できないもの

「言葉」=みんなで考えるためのツールであり、なおかつ「音」
⇒深い音を出せる人、浅い音を出している人
⇒本を読む人とラジオは相性がいいかも

【本質と身体性】
「本質=生物的に揺るがないもの」⇒地層とか
宇治茶という場づくり
「お茶」という総合芸術
ダンス、音楽⇒音であり、身体性。

キーワードとしてはこの3つ。

文化人類学×観光は、「個人の感覚」から始まるものを「他者の感覚」と合わせるもので、

そのためには身体を感じながら、「場」に入っていくこと。即興音楽のように場を体感すること。生物的に揺るがないもの(感覚的な何か)を見つけること。

目に見えないもの、言葉にできないものを感じながら、「場」でつくっていくこと。

それを重ねることで「伝える」が「伝わる」になったらいいな。  

Posted by ニシダタクジ at 06:40Comments(0)学び日記

2022年06月19日

風景画を描くインタビュー



梅田蔦屋書店のイベントで西村さん×三砂さんの話を聞いて非常にエキサイティングだったのでメモを残しておきます。

【冒頭=本の紹介】
「自分の仕事をつくる」:人との対話による思考のプロセス

「本屋という仕事」
リスペクトする人から教わる⇒広場みたいな1冊
この人のこの本棚:自分なりの学校をつくる
本屋とは?について語り合う広場

広場としての本屋をつくる
⇒下北沢イベント⇒気になる本を選んで、なぜその本なのか?を語るトークイベント⇒お客さんも選んで、隣の人とシェアする。

【本屋で売れる本とネットで売れる本】
マーケットイン:ビジネス書的な作り方
プロダクトアウト:かける人は少ない

ネットで売れる本⇒検索可能である⇒目的が明確、価値が定まっている人、著名な人
本屋で売れる本⇒検索しない単語のタイトル=問い、わからなさ⇒聞いてみたい
見て伝わる本。「これは水です」⇒何の本かわからない⇒本屋向き

【ジャンルとは?】
江戸時代に本が増えすぎた
1 本屋:商品としての本:「自分で探せる」「入れ替わる(循環する)」
2 図書館:アーカイブとしての本:ひたすら足し算

ジャンルには正解がなく、探しやすいかどうか?
文庫、新書、雑誌⇒形による分類
ビジネス書・児童書⇒読者層による分類
本棚⇒まちの風景 お客さんが棚を決めていく
マーケットインとプロダクトアウトの組み合わせ

【生きてる棚】
ブックディレクターの棚:ディスプレイであり生きてない
磯場みたいな本屋⇒生き物がいる感じ
書店の本棚のいいところ⇒循環している⇒生きている
「これからの本屋」⇒夜明け この本でなければならない理由=切実さがある
この著者によって書かれなければならなかった本=必然性

【西村さんのインタビュー】
・自分自身の働きにくさ=切実さから出発している
・インタビューという場に運ばれていく感覚
・「けどね」の先にその人の最前線(いま)=見え始めている景色、ベクトルがある
・言葉にならない語を拾う。「なんていうかな」「なんだろうな」⇒感じているけど言葉になっていないものを聞いていく

「自分の仕事をつくる」は半分が余白で出したかった
⇒半分を読者に渡したかった。共演者としての読書、一緒につくっていく余白
⇒電子書籍化しにくい=プロダクト(立体物)としての本
一緒に歩いていく感じ。

インタビューの変遷
1 仮説検証時代 自分の書きたいこと以外は切り落としていく不誠実さ
         ⇒自分の書きたいことをしゃべってもらっている
2 肖像画時代  相手を観察し、どう見えたかを書いて渡す
3 風景画時代  インタビュー相手が背を向けて歩き始める⇒ついていく

取材とインタビューの違い
取材:材料を取りに行く インタビュー:一緒に旅に出る
~~~

「インタビューとは?」みたいなものが立体的に浮かび上がる時間。
行ってよかった。  

Posted by ニシダタクジ at 04:14Comments(0)学びイベント日記

2022年06月13日

「センス」の違いを活かし、違和感として場に差し出す


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ついに10記事目。
「コミュニティ難民のススメ」を更新して、1冊の本での最多記事になっている気がします。

第4章 創造的な学びをつくる
ドキドキしながら一気に読みました。

まずはヴィゴツキーの「意味」の話より。

~~~以下メモ
「意味」には二種類ある。
一つは「Meaning」(ミーニング)で、辞書的な語義のこと
もう一つは「Sense」(センス)で、事象に対する各人にとっての個人的意味のこと

教育は効率よくミーニングを理解し、記憶することを追求しがち。
これからは自分なりのセンスをつくりあげること、そしてそれを対話によって共有することが重要。
対話をすると、お互いのセンスのズレが自覚できる。そのズレこそが創造性を育む。

ミーニング:社会システムと心的システムの間でコミュニケーション・メディアとして働く
センス:心的システムの中で生み出され、「心的システム」と「創造システム」の中で発見メディアとして働く

なるほど。センスとは「感じ方の型」の差で、それは創造の要素として非常に重要なのだと。
場やブレストにおいて「違和感の表明」が大切なのってそういうことだなと。

ともに探究していく関係になるには、ともにアマチュアの探究人として、興味や関心を分かち合うことが必要です。
自分も子どもも「好奇心」に誘発されている、「創造を目指している」という意味では同じ立場。
~~~~

あと、書いておきたいのは、My discovery/Your discoverey/Our discovoryの話。

~~~以下メモ
「発見の拡がり」3段階

まずは思いつきレベルのMy discoveryを大切にする。
フォトスゴロクで言えば、ひとりひとりの「センス」を活かした写真を撮ってくる、ところ。
My discoveryによって、自分なりの見方や考え方の特徴、好みを知る。

そしてそれぞれのMy discoveryに価値があると思えるのが次のYour discovereyの段階
相手、チームメイトの発見を認められるようになる。

それを繰り返していくと、だんだんとMyとYourの境界線がなくなってOur discovoryになる。
この3段階を意識せずにいきなりOur discovoryを目指すグループワークをやってもうまくいかない。

つねに「My」と「Our」を行き来すること
他者や周囲の環境に対する好奇心を発揮したり
「Your」という働きを介して、相手の面白さに気づくこと

創造的な対話。

ここで、プロローグに出てきた6Cs(シーズ)をあらためて。

「6Cs(シックスシーズ)」 P5
1 コラボレーション collaboration
2 コミュニケーション communication
3 コンテンツ content
4 クリティカル・シンキング critical thinking
5 クリエイティブ・イノベーション creative innovation
6 コンフィデンス confidence

認知科学研究の結果(2017)、
人の学びの道筋は、まずは「コラボレーション」「コミュニケーション」から始まる、だったのです。

にもかかわらず、これまではコンテンツ・ファーストの学びが行われてきてしまった。

「もちろんコンテンツの学びは重要だし、学んだ知識や考え方をクリティカル・シンキングで多面的に見ることは大事ですよ。それがないと考えや発想が広がっていきませんからね。でも、本気でコラボレーション氏、そこで思いついたことをポリフォニックに対話コミュニケーションしていると、必要なコンテンツが自ずと巻きついてくるんですよ。そうするとふとした瞬間にひらめくことがある。

クリエイティブ・イノベーションをしようと力まないのに、プロジェクトを始める前の想定をはるかに超えたアイデア・発想の種が生まれるのです。これはどうしたってみんなに発表して、伝えたくなる。だから作品にする。そのためには人に伝える価値があるかどうか複眼的に考えるようになる。つまり、クリティカル・シンキングが働きます。

こうしてできた作品を発表して「面白い!」と評価を受けると、よし、これからも探究していこうというコンフィデンスが生まれる。」

~~~

いやあ、すごいね。
涙でそうになる。

「場のチカラ」にフォーカスし、「場に溶け出して」、「場を主語にして」、創造する「場」の一員となる。
それこそがアイデンティティ問題や承認欲求、「自分に自信がない問題」の解決方法だと思い、授業を含めて場を設計してきた。

それままさに、discoveryの3ステップや、
6Csのステップになっているのではないか、と。

さらに言えば、ブレストの場での「違和感の表明」は
まさに「ミーニング」ではなく「センス」を表現することであり、
それこそが創造にとっては重要なのだと。

これまで言ってきたキーワードが、すべてつながってきて、
僕の人生を巻き込んだいい小説を読んだような気分です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)学び日記

2022年06月12日

「デバッグ」のマインドを持ち、「違和感」をキャッチし、主体をも「創造」する


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回は第4章 創造的な学びをつくる より
「ジェネレーター」を出版した元になった対談たと思います。

今日のキーワードは「違和感」と「デバッグ」

その前に、第3章で出てきた「知識=事実ではない」という話も少し復習。
「知識=事実」ではなく、常に暫定的なシステムであり、ネットワークである。
ということで。

~~~以下メモ
プラグマティズムの特徴は、行動と思考の関係に注目することと実験主義にあります。

パースは、私たち一人ひとりが、いくつもの知識―「信念」(belief)が関係し合っているネットワークをもっていることから考えるべきと言いました。その信念のネットワークは未熟だし、誤りをたくさん含んでいるかもしれない。でも、この信念のネットワークを持っているからこそ、疑うことが可能になるのです。

いま持っている信念のネットワークと異なることが現実に起きたとしましょう。そうすると、その気づきから「なぜこの問題が生じたんだろう」という「疑念(doubt)」が生じます。そこから「探究(inquity)」が始まります。そこから思考を進めて、問題が理解可能になったら、そのとき新たな信念が獲得できるわけです、ここでひとまず一段落です。ただ、この信念もそれほど確実なものではありません。別の状況においては、これまでの信念のネットワークでは説明できない事象がまた生じるかもしれませんからね。このように、信念のネットワークの綻びから疑念が生じ、疑念から探究が生じる。これがパースの考える「探究」です。
~~~

このあとパパートの「コンストラクショニズム」、つまり自分の中の理解(第3章の話でいえばシステム)のモデルはひとりひとり違っているんだという話から「デバッグ(バグを取り除く)」の思想へとつながっていきます。

デバッグの思想はまさに上に出てきた信念のネットワークの修正・改善の話で、つまり破壊と創造なわけです。

一回つくったものを壊すのってなんか嫌だし、勇気が要ります。にもかかわらず、臆することなく破壊と創造を繰り返すマインドセットを身に付けるには、実際に自分が創造したものを壊してまたつくるという経験を積み重ねるしかない。

~~~
これまでの教育実践では、こういう活動をしましたとか、こんなものをつくりましたとか、一回一回の取り組みの「出来」に注目が集まりがちでした。しかし、プラグマティズムの議論からもわかるように、「出来」がよい活動を目指すことが探究だというわけではありません。そうではなく、地味なことであっても、子どもたちが自分なりに「ここが気になる」「もっとよくしたい」という気持ちを持ってひたすら探究を続ける「プロセス」が重要なんです。こういうマインドは一朝一夕では育たない。何度も工夫しながら、つくる行為をひたすら続けることで初めて生まれてくるものです。
~~~

自分が「つくっている」のか「つくらされている」のかわからなくなる。自分がそうしたいからそうするのではなく、そのものが「あるべきかたち」になろうとするのを一生懸命追いかけている感じです。

川喜田二郎氏は「創造と伝統」の中で言いました。

「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。
~~~

創造的行為は客体だけでなく主体をも創造する(変容させる)。
それを個人ではなく「場」を主語にできるんじゃないか?
「自分を変えたい」と思うなら、まずは創造的な場に身を置くことかもしれませんね。

昨日は、新潟県・大学・私学振興課の「くらす・はたらく編集室」でした。
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/daigaku/gakuseijohohasshin01.html
(カタカナ表記ってアーティストっぽいですね。笑)



「場のチカラ」「魔法をかける編集」「ふるさとを創る」というキーワードで説明したのだけど、たぶん、お伝えしたいことは、こういうことかもしれません。

「デバッグ」のマインドを持つからこそ、「違和感」のキャッチ(とそれを場に共有すること)をプラスに捉えることができる。

さらに活動主体を個人ではなく「場」に移すことで、「場」を主語にして客体を創造するプロセスの中で主体としての「場」が変容する。

「自分を変えたい」という意志のチカラを信じるのではなく、「場のチカラ」と「創造のチカラ」に委ねてみると、結果的に自分(信念のネットワーク)が変わっていた。

そして変わった自分も暫定的なものであり、ひたすらに「デバッグ」していくプロセスにあるのだということ。

これ、うまくパワーポイントで伝えたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:09Comments(0)学び日記

2022年06月07日

「内言」としてのパターンランゲージ


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回も第2章「自ら学ぶ学級をつくる」(岩瀬直樹×井庭崇)より。
1日に2つ記事書いちゃってますね。

今回は井庭先生のパターンランゲージについて。
ヴィゴツキーの内言についての言及がすごかったので、メモしておきます。

~~~ここからメモ
内言には主語がありません。
「述語化されている」のです。

内言では「私は」という主語が中心ではなく、「何をするのか」という述語の方に重きが置かれた文の構成になります。

実は、僕がパターンランゲージをつくるときにすごく気を使うのは、内言的に読める文章に仕上げるということです。つまり、主語を書かずに述語化される内言に近いように書くのです。

物事の秘訣、やり方の共有というのは、基本的には、それを知っている人が知らない人に教えるというかたちになります。これを教えてもらう側の立場からみると、「〇〇ができる他の人(他者)ができない自分に教える」という構図になります。否応なしに「他者」と「自分」、「できる」「できない」という区別が強調されます。そうなると、受け身になり、できない自分に対して自信を失ったり、自己肯定感が低くなる可能性があります。

内言的な文章は、自分からの内発的な思考を下支えします。たとえば「相手が自分なりに考え、言葉にするために間を取り、待つようにします」という文章を読んだときに、「対話のうまい人はそういうとき、相手が自分なりに考え、言葉にするための間を取り、待つようにします(しています)」と読むことができるだけでなく、「これから自分も、そういうふうに待つようにします」と近未来の自分の方向性としても読めるわけです。「そろそろごはんを食べようかな」と同じように、「待つようにします」という内言のように読めるのです。

パターンランゲージでやってはいけないことは、「行きつけの場所をつくりましょう」という書き方です。「〇〇しよう」とか「〇〇しましょう」と書くと途端に二人称的になるのです。つまり、「あなたは〇〇をつくるべきです、つくるとよいですよ」と誰かが自分にアドバイスをする構図に、どうしてもなります。どんなに丁寧な言葉にしても、そのアドバイスが、自分ではないどこかからやってくるということが強調されてしまうのです。

パターンを英語で書くと、命令形にならざるを得ない。
日本語は内言的に書ける。

さらに興味深いことに、日本語という言語は、文法上は現在と未来を区別しません。そのあたりが曖昧なのです。たとえば、「(わたしはいつもこの場所でこれを)つくります」と「(私は来月この場所でこれを)つくります」は述語的には同じ言い方になる。

なので、パターンランゲージの解決策の部分を「〇〇をつくります」と書いたときには、すでにそれを実践している人にとっては普段していることとして読めますが、していない人にとっては「これからしようかな、これからやります」と読めます。

~~~

いやあ、これもすごいな。
内言、ですか。

「中動態」の話にも通じるところではあるけど。

「主体性」って言われるけれど、きっとこういうデザインが必要なのだろうな。

この後に、先生が主語になって彼らの主体性や内発性を「引き出してあげる」のではなくて、生徒自身が「どう主体性を発揮するようになるか」についての話に展開していくのだけど、それはまた別の機会に書きます。

「内言」で書かれた文、それは非常に日本語的である、ということ。
ここが今日は面白かったです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)学び日記

2022年06月07日

「なってみる」という学び方


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回は第2章「自ら学ぶ学級をつくる」(岩瀬直樹×井庭崇)より。

~~~以下メモ
・教室の空間リノベに参加
・協同的な学びの実施

「自己主導学習」=学びのコントローラーを自分で持つ
「このクラスに自分が関わると何かが変わるぞ」⇒「協同して学ぶ」の体験・体感

「作家の時間」:子どもたちが1人ずつ作家ノートをもって、作家になりきって、自分の書きたいテーマで作品を書く

「みなさん一人ひとりは作家です」
「自分が書きたいことを書きたいように書きたいだけ、自分のペースで書いてください。」
「作家ですから」

書いたものを作品にして出版し、読者に読んでもらうという学び方、つまり本物になることを通して学ぶ、ということなんですね。作家になるために練習するのではなく、作家としてスタートするのです。

「自分の作品には読者がいたんだ」ということを体験すると書き手のモチベーションが変わるんですね。

そのうちに読書をしていても「この表現は上手いね」と言い始めるんです。作家の目で本を読むようになっていく。

つまり、「なってみる」という学び方です。書いている途中でたくさんの人のフィードバックを受けた方が、作品がより良くなるという体験をするのです。下書き段階は、ダイヤモンドでいえば原石みたいなものです。たくさんのフィードバックや自身の修正を経てどんどん磨かれていく。他者の存在が自分と作品を成長させてくれる。その体験の積み重ねが、協同で学んでいこう、プロの作品から学んでいこうという意識に変わっていく、そういう学び方です。

このことを僕は「ワークショップの学び」と呼んでいます。
~~~

いやあ、これすごいな。
「なってみる」という学び方。

僕の3つのテーマは、
チーム観「Destined people~導かれし者たち」
成長観「Fake it till you make it~できるまでフリをしろ」
対話観「Shall we dance?~一緒に踊らないか?」

なのだけど、まさにその2つ目のとこだなあと。

「なってみる」学び。たとえば、「デザイナー」っていう名刺をつくれば、デザインの仕事が来て、いつのまにか本物のデザイナーになっていた、みたいな。

そしてなにより「作家の時間」がすごいところは、他者からのフィードバックがいい作品をつくっていくんだ、と実感できること。何よりもそこに相互の「承認」があるというところなのかもしれない。

プロジェクトも同じだなあと。何度も中間発表して、フィードバックをもらって、いいプロジェクトにしていく体感。それが大切なのだろうなと。
「下書き段階ですけど」「試作品なんですけど」って言いながら見せて、フィードバックをもらうこと。

何よりもまず、作家になりきること、アーティストとして取り組むこと。
ジュニエコとかでも「仮想の会社をつくり、社長(店長)の役を決めること。
そういうのが大事なんだろうな。広い意味での演劇ワークショップ。
肩書決めて、名刺作って、みたいなことをしてもいいのかもしれません。

まずは作家になってみる、デザイナーに、芸術家になってみる。
つくるものはすべて「作品」としてとらえる。

そういうフィクションの力が必要なのだろうな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)学び日記

2022年06月04日

「個別暫定解」しかない時代を生きる


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

第1章にようやく突入しました。いきなり、面白いですね。読書って楽しいなあと思います。
これ、僕ゼミやります。シリーズ「クリエイティブ・ラーニングを読む」やります。

今日は「コミュニティ・ソリューション」から。
「ガバメント・ソリューション(政治による解決)」「マーケット・ソリューション(市場による解決)」に対比される言葉ですね。
同名の本を古本屋で見つけて、買っただけで読んでませんでした。
「コミュニティ・スクール」もまさにコミュニティ・ソリューションの方法論ですよね。

~~~以下メモ

「マニュアルを覚えろ」「正確に再現しろ」「ミスをするな」
工業社会、産業社会とは、結局のところ、スペックどおり、仕様書どおりにどれだけ正確に、不良品を最小化できるかを競っていたわけです。

それが全部デジタルテクノロジーに入れ替わってしまったという悲劇というか喜劇。

インターネットでとても重要なポイントは「ベスト・エフォート best effort」なことです。「ミスを恐れずに最善を尽くす」か。

パターンランゲージはベストエフォート的なメディア

「一般普遍解」を求める力ではなく、「個別暫定解」を求める力がとても重要になります。なるほど、パターンランゲージとは、状況に対処できる層をつくり、その層を組み合わせて対処すること、か。

~~~ここまでメモ

ここからです。
今日書きたかったこと。

~~~
今までは、世の中に一般普遍解があると思われてきました。しかし、「卒近代」においては個別暫定解しかないんです。機械は同じものを二つつくれますが、生命はこの世に同じものは二つはない。

今までの社会は、コモディティ化し、何か一つの価値観に合わせて動く仕組みで動いてきました。本当は小さな差異がたくさんあって、それらが複雑に絡み合っているのだけれど、その複雑性をネグリジブル・スモールだと無視して唯一の一般普遍解を求めようとしてきたのです。それが、ガバメント・ソリューションとマーケット・ソリューションの特徴です。

しかし、実はその無視してきた小さな差異と複雑性こそが重要であることがわかってきた。統計的に処理して無視してきた小さなパーツや差異、そこから生まれる複雑性こそが、実はコミュニケーションや社会の秩序を形成する上で重要だったのです。それは複雑性を残したまま、そのなかで暫定解を求めることが重要だということです。
~~~

「一般普遍解」の呪縛を脱し、「個別暫定解」を求めること。
それが「コミュニティ・ソリューション」なのだと。

「コミュニティ・スクール」とはその一つの方法論なのだと。
これは、小さく言えば、「場のチカラ」でしょうね。
差異を活かし、複雑性を活かし、目の前の課題、あるいは「創る」に取り組む。

たぶん、探究の方向性としてはそういう感じです。
これ、図解したいな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)学び日記

2022年06月02日

「プロジェクト」という創造の物語に身を委ねる


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

序章から5記事目。
もはやバイブルですね。

いよいよデイヴィッド・コルブ先生の出番です。
「経験学習」理論です。

~~~以下メモ
「学びとは経験の変容を通して、知識が構成される過程である」とコルブは定義した。知識は、経験の把握と変容の組み合わせの結果生じる。

「ラーニング・サイクル」
1 具体的経験:主体が環境に働きかけて相互作用すること。⇒「経験する experiencing」
2 内省的観察:自分の経験の意味を俯瞰的な視点や多様な観点で振り返ること。⇒「振り返る reflecting)」
3 抽象的概念化:経験を抽象化して一般化し、そのルールやパターンを把握し、同化・構成すること。⇒「考える thinking」
4 積極的実験:抽象的概念化で得られた知識を踏まえて次なるアクションを起こすこと。「行為する acting」

また、行為と内省(4⇔2)、経験と抽象化(1⇔3)という2つの軸で学びが駆動される。つまり、

経験の把握する二つの様式である「具体的経験」と「抽象的概念化」の弁証法的解消と、経験を変容させる二つの様式である「内省的観察」と「積極的実験」という相反するものが弁証法的に解消するときに学びが生じるというのである。

※弁証法的解消:「正」(テーゼ)と「反」(アンテーゼ)を本質的に統合した「合」(ジンテーゼ)へと導く重要さをヘーゲルは説いた。
~~~

この後、コミュニケーションと創造のシステム理論へと進んでいく

~~~以下メモ
ニクラス・ルーマンの社会システム理論では、コミュニケーションは、主体の伝達や受信の行為のことではなく、複数の心的システムの間に生じる一つの「出来事」として、創発するものだとされる。コミュニケーションは、それに先行するコミュニケーションからの文脈をもっており、そのあとに続くコミュニケーションにつながっていくという文脈をつくる。

次に「創造」について考えたい。

何かをつくり込むときには、つくられるものの「あるべきかたち」があるということを、ここでは強調したい。つくり手がつくりたいようにつくれるわけではないのである。例えば、作曲をしているときに、合わせる音がずれていたら、つくり手がどう思うかに関わらず、それは事実として美しさが損なわれているのであり、きちんと合わされるべきだ、ということになる。あるいは、物語において主人公がとるべき言動はそのキャラクターと文脈に応じて自然なものであるべきだろう。このようにつくり手の「こうしたい」という作為にもとづいてではなく、「こうあるべき」だということに従ってつくられるのである。

これは、創造が、その創造ごとに固有の内的な論理によって進められることを意味している。

宮崎駿「クリエイティブというとかっこいいけれども、そうではなくて、自分の今の能力と、与えられている客観的な条件の中で、最良の方法はひとつしかないはずで、この路線、方法を決めてしまった以上、その方法は毎回、ひとつしかないはずだ。それにより近い方法を見つけていく作業にすぎない。映画は映画になろうとする。作り手は実は映画の奴隷となるだけで、作っているのではなく、映画につくらされている関係になるのだ。

谷川俊太郎「最終的には語と語の順列組み合わせでしかない文章というものにおいて、私たちは或る一語の次に他の一語を択ぶ。その選択には動かすことのできない必然性があると私たちは感じている。

このように創造の内実は、つくっていくもの(作品)が、「あるべきかたち」になっていくための次の一手を「発見」していくことの連続なのである。このことを、創造システム理論では、「創造とは発見の生成・連鎖である」と言う。しかも、その発見は、その創造に固有の内的な理論に従って生み出される。発見は、その創造(のシステム)のなかでのみ、発見としての意味があり、システムの中で要素として構成されると言うことができる。つまり、創造における発見の生成・連鎖も、オートポイエティック(自己創成的)なのである。

これって「委ねる」っていうことじゃないか。「創造」と「委ねる」って実は近いのかも。

創造システムとは、発見を要素とするオートポイエティック・システムであるということになる。「発見」は、ある「アイデア」が今取り組んでいる創造に必要なものだと「関連づけ」られるということを見出したときに創発する。

ここでいう発見は単に創造のプロセスを進めるという意味での「発見」である。

創造のプロセスにおいて、先行する発見を受け、それ以降の発見へとつながっていく、という機能を果たす要素を「発見」と呼ぶ。ここでいう「発見」は、心的システムのなかの意識としてではなく、また社会的な側面からも独立したものとして捉えられている点に、創造システム理論の特徴がある。あくまでも、その創造における論理・文脈での発見の生成・連鎖に注目するのである。

宮崎駿「映画というのは、映画になろうとしますから、その道筋をこちらが間違えないように見定めて、映画が映画になろうとするのを、ちゃんとやらなきゃいけないんですよ。自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃ仕様がないんですよね。」

村上春樹「本を書き始めるとき、僕の中には何のプランもありません。ただ物語がやってくるのをじっと待ち受けているだけです。それがどのような物語であるのか、そこで何が起ころうとしているのか、僕が意図して選択するようなことはありません。物語が何を求めているかを聴き取るのが僕の仕事です。」

何かの創造が可能となるためには、ヴィゴツキーが言うように、心的システムにおいて想像力が発動しなければならないのは確かである。しかし、それは心的システム側の事情であって、創造はその心的システムの意図や作為の思いどおりにはいかない。つくっているもの(作品)は、創造システムのなかで、その創造に固有の内的な論理に従って、発見の生成・連鎖としてつくられていく。心的システムは、創造システムの固有の内的な論理に従って「あるべきかたち」に向かう発見の生成・連鎖を「体験」し、受け入れるというかたちになる。

村上春樹「物語を書きだすときには、僕はそれがどんな結末を迎えるのか知らないし、次に何が起こるのかもわからない。最初に殺人事件があったとしても、誰が犯人なのか僕は知識を持ちません。僕はそれが誰なのかを知りたくて、小説を書き続けるわけです。もし誰が犯人なのかわかっていたら、小説を書く目的がなくなってしまいます。」

おいおい。マジかよ。犯人誰か作者も分からないのに殺人事件は起こっているんだ。

小川洋子「作家はその作品の一から百まで、全部自分一人の責任で書いているのだから、自分の思いどおりにできるじゃないか、と思われるかもしれませんが、実はそうではありません。・・・「こっちへいこう、こういうふうに世界を広げていこう」という、物語自身が持っている力に導かれないと小説は書けないと思います。」

人間がいなければ(心的システムがなければ)、創造システムが作動することはないのであるが、それは心的システムが創造システムをコントロールしているということを意味するのではない。創造にとっては、人間は不可欠ではあるが、あくまでも「環境」にすぎないのであり、創造は、創造そのものが自ら展開するのである。このようなことは物語をつくることにとどまらず、あらゆる創造に言えることである。

久石譲「頭の中でこんな曲にしようと考えている段階は、あくまで入り口でしかない。作曲の本質は、もっと無意識の世界に入り込んで、カオスの中で自分でも想像していなかった自分に出会うことにある。つくろう、つくろうという意識が強いときは、まだ頭で考えようとしているのだと思う。秩序立てて考えられないところで苦しんで、もがいて、必死の思いで何かを生み出そうとする。その先の、自分でつくってやろう、こうしてやろうといった作為のようなものが意識から削ぎ落とされたところに到達すると、人を感動させるような力を持った音楽が生まれてくるのだと思う。」

創造に「意志」なんて要らない、というか、「意志」という邪念がなくなったところに人を感動させるような作品が生まれるのだ。

創造システムの発見の生成・連鎖を、心的システムの意識が認識することは、心的システムは、いわば創造における発見を(後から)取り入れることを意味する。村上春樹は、その感覚を「ぼく自身、小説が自分自身よりも先に行っている感じがする」と言い、「いまぼく自身がそのイメージを追いかけている、という感じがある」と表現している。小川洋子も、「小説を書きながら、書き手である自分がいちばん後ろを追いかけているな、と感じます。宮崎駿も同様に、「僕は、ものを作る主体として作品を作っていたというより、ただ後ろからくっついていただけで・・・」と語っている。

さらに、創造的行為は、自分自身も変えていく。

村上春樹「長編小説を書いているときは、書きながら身体の組成そのものが刻々と変化していくようなところがあって、それは何ものにもかえがたい興奮であり、充実感です。でも「楽しいか?」と質問されると、そんな単純な言葉ではとても形容できないというしかないんですね。見通しの悪い未知の大地をどんどん前に進んでいくようなものだから、そりゃしんどいし。きついし、不安がないといえば嘘になります。小説を書くのは、僕にとってすごく大事なことなんです。それは自分の作品を生み出すことであると同時に、自分を変えていく、自分自身をバージョンアップしていくことでもあるわけだから。」

そして、プロローグにも書いてあるけど、川喜田二郎先生。
「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象をつくり出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある」

そして、ここでデューイふたたび登場。
「あらゆる探究と発見は、そのなかに含まれているあらゆる危険を冒して、なお個人を作ることを含意している。というのは、新しい真理と展望に到達することは変わることだからである。古い自我は捨て去られ、新しい自我のみが形成されつつあり、その自我が最終的に取得した形態は、冒険の予見できない結果にかかっている。」

プロローグからの村上春樹とミヒャエルエンデをここでもう一度
村上春樹「主人公が体験する冒険は、同時に、作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっているんです。」

ミヒャエル・エンデ「わたしはよく言うのですが、わたしが書く行為は冒険のようなものだって。その冒険がわたしをどこかへ連れていき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身がちがう人間になりました。私の人生は実際、わたしが書いた本を節として区切ることができる。本を執筆することがわたしを変えるからです。」

川喜田二郎の「絶対的受け身」
「自分がやりたいからやるんだという底の浅いものではなく、全体状況が自分にこういうことをやれと迫ってくるから、やむなくやっているという絶対感があるもので、それは絶対的受け身ということでもある。・・・全体状況が自分にやれと迫るからやらざるをえないというほうが、じつは真に主体的だと私は思うのである。」

「創造的行為の内面、それもひじょうに深いところに宿っている不可思議な何かに導かれているのではないかという気持ちは、創造的行為を達成したときの人の心に、自ずから愛と畏敬の念を生み出すものである。それは、今度やった仕事は創造的だったと思うような体験をしたとき、それを達成した人に、自らが生み出したものに対して、「俺が生み出したのだから、これは俺のものだ」という所有の概念がけっして生じないことでわかる。その人は何かの暗示によって、生み出されたものに対して対等の愛を感じるものであって、そこには所有物という感覚は生じないのである。」

「創造的行為において「客体」と「主体」の双方が創発されるだけかというと、その行為を通じて主体と客体とは、ひじょうに深い「愛と連帯感」で結ばれるのである。創造的行為が達成された当座は、きわめてホットな愛であり、時間がたつと連帯という形で落ち着く。」

「しかも、主体と客体が創造されるだけでなく、その創造が行われた「場」も、新たな価値を付加されて生み出されるものである。したがって、ひとつの創造的行為が達成された場合、そこには「主体」と「客体」と「場」の三つが生み出されるということで、その「場」というものが、第二の、そして第三の「ふるさと」となるということである。」

これからの学校は、「つくる」場になるのであり、それゆえ、それは、創造の「ふるさと」として位置づけられるようになることを意味する。学校は、創造社会における創造を下支えする思い出深い象徴的な場所になるのであり、創造社会を希望を持って生きることを内側から支えるような心の「ふるさと」になるのである。
~~~

つながった。
ぜんぶつながりました。
場のチカラも、発見と変容も、アイデンティティ問題も。なんなら「現代の美術家」も。(笑)
「創造社会」へのアプローチだったんですね。

「創造システム」に身を委ねること。
「創造の物語」の意志に従うこと。
「創造」が目指すあるべき姿に向けてアイデアを出すこと。

その創造の先に、結果として自己の変容があるんだ。
「自分を変えたい」と望まなくてもいい。

「プロジェクト」ってそんな風に「委ねる」ものなんだなって思った。
プロジェクトという「創造の物語」に身を委ね、感じることを発言し、発見を楽しみ、創造する場をともにすること。

ドキドキするような「創造」の瞬間に何度も立ち会うこと。夢中で取り組んで気がついたら、そこが「ふるさと」になっている、っていう仮説。

かつて、宮澤賢治は「農民芸術概論綱要」でこう語りかけた。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

探究学習に取り組む生徒たちと大人たちにいま一度メッセージを送りたい。

芸術家であれ  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)学び日記

2022年06月01日

2次元の目標達成から3次元の探究へ


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

まだ序章なのに4記事目。楽しいです。
ついにきましたジョン・デューイ。
「発見と変容」と言っていた僕の言葉が今なら説明できる気がする。

~~~ひたすらメモ
デューイの「経験の連続性」と「経験の再構成」

「生命とは、環境にたいする行動を通じての、自己更新の過程」であるという。人間は、有機体としての更新だけでなく、社会の中で経験を連続的に更新していく存在だと、デューイは考えたのである。

デューイは「経験」を環境との相互作用であると捉え、行動とそれによって被る結果とがともに含まれているものだと考えた。このことをデューイは「経験の相互作用性」の原理と呼ぶ。経験とは、環境における事物や他者との関わりのなかで生じるものだというわけである。

「経験は型と構造をもつ。というのも、経験はたんに交互に行われる能動と受動ではなく、両者の関係性のなかで成り立つものだからである。(中略)行動とその結果が、近くのなかで結びつけられるべきである。この関係性が意味を与えるものである。この関係性を把握することが、すべての知性の目的である。」

あらゆる経験は、願望や意志とはまったく無関係に、引きつづき起こってくる更なる経験の中に生きるのである。

経験のどのような場合にも、ある種の連続というものがある、というのは、あらゆる経験がある種の好き嫌いを引き起こすことによって、あれこれの目的に適った行動を容易にしたり、困難なものにしたりする。しかも、このことによって、更なる経験の質を決定するうえで役立つような態度について、よかれあしかれ影響をおよぼすことになる。そのうえ、あらゆる経験は、それがさらに進んだ経験がなされるための条件に対して、ある程度の影響を与える。

経験がどのような方向をとっているのかを知ることが、教育者の仕事になる。・・・経験を動いている力として判断し、そのような力を指導するような経験の動力を考慮しないようでは、教育者は経験の原理それ自体に誠実に対応していないことになる。

「問題を面倒なことにしているのは、伝統的学校では経験が欠如しているというのではなく、そこでなされる経験の誤った欠陥のある性格―未来の経験に接続するという見地からすると、その経験の誤用による欠陥のある性格―にある。」

「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっているのである。」

「教育は生活の過程であって、将来の生活に対する準備ではない」

形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。もしこのような方向への推進力が強化されないどころか弱められるようでは、教育上準備するという考え方がたんに欠如するどころではなく、もっと重要なことが起こってくるであろう。
~~~

デューイの「共同体としての学校」

したがって、結局のところ、社会的生命がそれ自身の永続のために、教えることと学ぶことを要求するだけでなく、一緒に生活するという過程そのものが、教育を行う。その過程は、経験を拡大し、啓発する。その過程は、想像力を刺激し、豊富にする。その過程は言明や思想を正確なものにし、生き生きとしたものにする責任を創造する。

すべての教育は、個人が人類の社会的意識に参加することによって行われる。この過程は、ほとんど誕生とともに、意識されないまま始まる。そしてたえず、個人の諸能力を形づくり、その意識を染めあげ、その習慣を形成し、その観念を陶冶し、またその感情と情緒を喚起しつづける。この無意識的な教育を通して、個人は次第に、人類が共同してこれまで実らせてきた知的道徳的財産を共有するようになる。個人は、文明という蓄積された資本を相続するものとなる。

他者と顔を突き合わせて協働することを信じ、たとえ各人の要求や目的や結果が違っていても、親和的な協働の習慣は、それ自体がかけがえのないものを人生に与えてくれる。

~~~
デューイの「内省的思考」と「探究」

「経験から学ぶ」ということは、われわれが事物にたいしてなしたこと、結果としてわれわれが事物から受けて楽しんだり苦しんだりしたこととの間の前後の関連をつけることである。そのような事情の下では、行うことは、試みることになる。つまり、世界はどんなものかを明らかにするために、行う、世界についての実験になるのであり、被ることは教訓‐事物の関連の発見になるのである。

教授や学習の方法の永続的改善への唯一の正攻法は、思考を必要とし、助長し、試すような情況を中心に置くことにある。

さらにまた、すべての思考は危険を伴う、ということにもなる。確実性を前もって保証することはできない。未知のものへの侵入は冒険的性格を帯びる。われわれは前もって確信をもつことはできないのである。したがって、思考の結論は、事象によって確証されるまでは、多かれ少なかれ試験的ないし仮説的である。

どれほど大人になっても、何かの新しい材料への接触の最初の段階は、必然的に、試行錯誤的なものにならざるを得ない。人は、遊びでも仕事ででも、自分の衝撃的活動を実行する際、材料を使って何事かをなすことを実際に試み、そして、自分の力と、使った材料の力との相互作用に注目しなければならない。このことは、子どもがはじめて積み木を積み立て始めたときに、起こることであり、また同様に、科学者が自分の実験室で未知の対象について実験を始めたときに起こることでもあるのである。

あらゆる探究と発見は、そのなかに含まれているあらゆる危険を冒して、なお個人を作ることを含意している。というのは、新しい真理と展望に到達することは変わることだからである。古い自我は捨て去られ、新しい自我のみが形成されつつあり、その自我が最終的に取得した形態は、冒険の予見できない結果にかかっている。

~~~

・ふりかえりの大切さ
・場のチカラと共同体
・発見と変容

デューイがかつて説明してるじゃんって。実践から学ぶ、実験から学ぶがベースだからいいのですけど。

ここに僕なら、「予測不可能性」というキーワードを加える。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)

「まなぶ」から「つくる」へ。
って言ってた意味も、今ならわかる。

http://hero.niiblo.jp/e491969.html
「勉強」という乗り物(21.8.16)

勉強は乗り物だっていうのもなんとなく。
これを学んだあとには自分が変わってしまうかもしれない。
そんな恐怖さえ感じるような探究活動をやっていくことなのだろうなと。

探究において、個人は「場」に一体化し、「場」を主語として感じ、考え、学ぶ。
発見し得たことによって、主体である「場」は変わらざるを得ない。
そのとき、場に溶け出してしまっている個人も変容している。

探究は、予測できない。
試行錯誤の繰り返しだ。
だからこそ、発見がある。
だからこそ、場も自分も変容する。

2次元の課題発見⇒課題解決⇒目標達成活動から「場」で個々人のベクトルを活かした予測不可能な3次元の「探究」へとシフトさせていくこと。

たぶん、これです。これからやること。
  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)学び日記