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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年06月01日

2次元の目標達成から3次元の探究へ


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

まだ序章なのに4記事目。楽しいです。
ついにきましたジョン・デューイ。
「発見と変容」と言っていた僕の言葉が今なら説明できる気がする。

~~~ひたすらメモ
デューイの「経験の連続性」と「経験の再構成」

「生命とは、環境にたいする行動を通じての、自己更新の過程」であるという。人間は、有機体としての更新だけでなく、社会の中で経験を連続的に更新していく存在だと、デューイは考えたのである。

デューイは「経験」を環境との相互作用であると捉え、行動とそれによって被る結果とがともに含まれているものだと考えた。このことをデューイは「経験の相互作用性」の原理と呼ぶ。経験とは、環境における事物や他者との関わりのなかで生じるものだというわけである。

「経験は型と構造をもつ。というのも、経験はたんに交互に行われる能動と受動ではなく、両者の関係性のなかで成り立つものだからである。(中略)行動とその結果が、近くのなかで結びつけられるべきである。この関係性が意味を与えるものである。この関係性を把握することが、すべての知性の目的である。」

あらゆる経験は、願望や意志とはまったく無関係に、引きつづき起こってくる更なる経験の中に生きるのである。

経験のどのような場合にも、ある種の連続というものがある、というのは、あらゆる経験がある種の好き嫌いを引き起こすことによって、あれこれの目的に適った行動を容易にしたり、困難なものにしたりする。しかも、このことによって、更なる経験の質を決定するうえで役立つような態度について、よかれあしかれ影響をおよぼすことになる。そのうえ、あらゆる経験は、それがさらに進んだ経験がなされるための条件に対して、ある程度の影響を与える。

経験がどのような方向をとっているのかを知ることが、教育者の仕事になる。・・・経験を動いている力として判断し、そのような力を指導するような経験の動力を考慮しないようでは、教育者は経験の原理それ自体に誠実に対応していないことになる。

「問題を面倒なことにしているのは、伝統的学校では経験が欠如しているというのではなく、そこでなされる経験の誤った欠陥のある性格―未来の経験に接続するという見地からすると、その経験の誤用による欠陥のある性格―にある。」

「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっているのである。」

「教育は生活の過程であって、将来の生活に対する準備ではない」

形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。もしこのような方向への推進力が強化されないどころか弱められるようでは、教育上準備するという考え方がたんに欠如するどころではなく、もっと重要なことが起こってくるであろう。
~~~

デューイの「共同体としての学校」

したがって、結局のところ、社会的生命がそれ自身の永続のために、教えることと学ぶことを要求するだけでなく、一緒に生活するという過程そのものが、教育を行う。その過程は、経験を拡大し、啓発する。その過程は、想像力を刺激し、豊富にする。その過程は言明や思想を正確なものにし、生き生きとしたものにする責任を創造する。

すべての教育は、個人が人類の社会的意識に参加することによって行われる。この過程は、ほとんど誕生とともに、意識されないまま始まる。そしてたえず、個人の諸能力を形づくり、その意識を染めあげ、その習慣を形成し、その観念を陶冶し、またその感情と情緒を喚起しつづける。この無意識的な教育を通して、個人は次第に、人類が共同してこれまで実らせてきた知的道徳的財産を共有するようになる。個人は、文明という蓄積された資本を相続するものとなる。

他者と顔を突き合わせて協働することを信じ、たとえ各人の要求や目的や結果が違っていても、親和的な協働の習慣は、それ自体がかけがえのないものを人生に与えてくれる。

~~~
デューイの「内省的思考」と「探究」

「経験から学ぶ」ということは、われわれが事物にたいしてなしたこと、結果としてわれわれが事物から受けて楽しんだり苦しんだりしたこととの間の前後の関連をつけることである。そのような事情の下では、行うことは、試みることになる。つまり、世界はどんなものかを明らかにするために、行う、世界についての実験になるのであり、被ることは教訓‐事物の関連の発見になるのである。

教授や学習の方法の永続的改善への唯一の正攻法は、思考を必要とし、助長し、試すような情況を中心に置くことにある。

さらにまた、すべての思考は危険を伴う、ということにもなる。確実性を前もって保証することはできない。未知のものへの侵入は冒険的性格を帯びる。われわれは前もって確信をもつことはできないのである。したがって、思考の結論は、事象によって確証されるまでは、多かれ少なかれ試験的ないし仮説的である。

どれほど大人になっても、何かの新しい材料への接触の最初の段階は、必然的に、試行錯誤的なものにならざるを得ない。人は、遊びでも仕事ででも、自分の衝撃的活動を実行する際、材料を使って何事かをなすことを実際に試み、そして、自分の力と、使った材料の力との相互作用に注目しなければならない。このことは、子どもがはじめて積み木を積み立て始めたときに、起こることであり、また同様に、科学者が自分の実験室で未知の対象について実験を始めたときに起こることでもあるのである。

あらゆる探究と発見は、そのなかに含まれているあらゆる危険を冒して、なお個人を作ることを含意している。というのは、新しい真理と展望に到達することは変わることだからである。古い自我は捨て去られ、新しい自我のみが形成されつつあり、その自我が最終的に取得した形態は、冒険の予見できない結果にかかっている。

~~~

・ふりかえりの大切さ
・場のチカラと共同体
・発見と変容

デューイがかつて説明してるじゃんって。実践から学ぶ、実験から学ぶがベースだからいいのですけど。

ここに僕なら、「予測不可能性」というキーワードを加える。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)

「まなぶ」から「つくる」へ。
って言ってた意味も、今ならわかる。

http://hero.niiblo.jp/e491969.html
「勉強」という乗り物(21.8.16)

勉強は乗り物だっていうのもなんとなく。
これを学んだあとには自分が変わってしまうかもしれない。
そんな恐怖さえ感じるような探究活動をやっていくことなのだろうなと。

探究において、個人は「場」に一体化し、「場」を主語として感じ、考え、学ぶ。
発見し得たことによって、主体である「場」は変わらざるを得ない。
そのとき、場に溶け出してしまっている個人も変容している。

探究は、予測できない。
試行錯誤の繰り返しだ。
だからこそ、発見がある。
だからこそ、場も自分も変容する。

2次元の課題発見⇒課題解決⇒目標達成活動から「場」で個々人のベクトルを活かした予測不可能な3次元の「探究」へとシフトさせていくこと。

たぶん、これです。これからやること。
  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)学び日記