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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年09月20日

「正解がない」という普通



「口笛を吹きながら本を売る」(石橋毅史 晶文社)

神保町の「岩波ブックセンター」柴田信さんを書いた本。
サブタイトルは「柴田信、最終授業~本屋は「普通」であればいい」



元郵便局を使った素敵な建物、富山のひらすま書房で6月に購入。
(ココ、マジで素敵なので行ってください!)

3か月寝かせておいて、ようやく読めました。
まだ途中ですが、ビビっときたところを。

~~~以下引用

世の中の変化にどう合わせるか。そんな方法は、私にはなかった、ということです。というより、方法は定まらない。世の中がこう変化したから自分もこう変わろうなんて、決まったものはなかった。だからこそ、変化にどこまでも合わせていけるんだ、と思っているんだよね。その途中で、押したり引いたり、ずるかったり、妥協したり、いろいろしてるだろうけど、私はこう対応した、なんて話はない。

この歳になると、なにが正しいか、正解か、なんていうのは全然面白くないんだね。形の定まらないまま直感でいくというのが面白い。

そういう本屋は、その店なりの個別の条件を抱えながら、そこの店主にとっての普通を、身の丈でやってると思うんだよ。私のところも、そうです。

~~~ここまで引用

「普通」っていうのを考えさせられるし。
変わっていく自分と変わっていく社会、世の中
に対して、どうするか、という問いが詰まっている。

注目すべきは、
何が正しいか、正解か、なんていうのは「全然面白くない」
と書いてあるところ。

面白いとか、面白くないとか
そういう問題か?
と思うんだけど、そういう問題なんだよなって改めて思った。

昨日のつづきで言えば、

「変わっていく自分」を前提にすること。
変わりつつある自分の今を前提にして、価値を今この瞬間設定するということ。
「社会」や「世の中」は前提条件ではなく、要素(パラメータ)に過ぎない。

そういうことかなと思う。
それを積み重ねて、柴田さんのいう「普通」ができていく。

ああ、自然農に似ているな、と思った。

自然農と、宮澤賢治と、
長期インターンと、岡倉天心と、
本屋と、現代美術家と。

全部つながってんだな。

そんな気がした素敵な1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)

2018年09月14日

「個性」とは、どのように誤答するか?ということ

朝活@中目黒蔦屋。


ここ、外を見ながら充電もありながら
できるので、かなりいいです。

さて。
茨城県日立市にある明秀学園日立高等学校では、
図書館のリニューアルに合わせて、
「ジブンハックツ」なる企画が進行しています。





高校生自身がまちを歩いて、
お店の人に、「10代に届けたい1冊」を
聞いて、本を集めて、

9月11日~14日に展示(17:00~18:00)
9月15日に暗闇でハックツするという企画。
(13:30~15:00 10代のみハックツ可。見学はいつでも可能)
企画の立ち上げにかかわりました。
僕も今日(14日)現地へ見に行ってきます。

ということで、
僕も1冊。
「10代に届けたい本」を考えました。

「孤独と不安のレッスン」とか
「非属の才能」とか
「種をまく人」とか
いろいろ考えたのだけど。

これ、読み直してみたかったので、これにしました。


「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)

あらためて読んでみると、
これはすごい本だなと。

学びとは何か?
人はなぜ学ぶのか?

とか。

タイムリーだったのは、
「場のチカラ」とか、「予測不可能性」とか、
そういうのにも通じているような、
そんな本でした。

さて。
ということで、

本のメモを。

~~~ここから引用

「いい先生」というのはみなさんが出会う前にあらかじめ存在するものではないからです。
あるいは「万人にとっての、いい先生」というのもまた存在しない、と申し上げた方がよろしいでしょうか。

師との出会いに偶然ということはありません。

恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、
私にはこの人がとても素敵に見える」という
客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。

生物に関する限り、ほとんどの場合、「誤解」がばらけることの方が、
単一の「正解」にみんなが同意することよりも、
類的な水準でのソロバン勘定は合うんです。

技術には無限の段階があり、完璧な技術というものに人間は決して到達することができない。
プロはどの道の人でも、必ずそのことをまず第一に教えます。

道に窮まりなし。だからこそ人は独創的でありうる。

「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」
と「恋愛に終わりはない」と「失敗する方法において私たちは独創性を発揮する」
は同じ。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。
自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在である
という事実を確認するために私たちは学ぶのです。

あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない。
だから私は生きなければならない。

先生は「私がこの世に生まれたのは、私にしかできない仕事、
私以外の誰によっても代替できないような責務を果たすためではないか・・・」
と思った人の前だけに姿を現します。

二人の人がまっすぐ向き合って、
相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、
そこで話しているのは、二人のうちどちらでもないものなんです。
対話において語っているのは「第三者」です。

人間は本当に重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える。

沈黙交易の最初のとき、人間たちはそれにいかなる価値があるのかわからないものを交換しあった。

ロレックスを買うのは、「どうしてこんなに高いかわかんない」から。

ユニクロのフリースも安かったから売れたのではなくて、どうしてこんなに安いか理解できなかったから。

交易が継続するためには、この代価でこの商品を購入したことに対する割り切れなさが残る必要があるのです。
「もう一度あの場所に行き、もう一度交換をしてみたい」という消費者の欲望に点火する、価格設定にかかわる「謎」が必須なんです。

サッカーボールそのものには価値はない。ボールに求められる機能は、「最も速く移動する能力」。
サッカーは交易の原初的形態を現代におそらく伝えているゲームだろうと私は思います。
それはやりとりされるものには価値がなく、やりとりという行為そのものがこの遊びの愉悦の源泉であるからです。

通販は本質的なところで沈黙交易的だから、みんなハマってしまう。

コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。
何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、
そこで取り替えつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなく、メッセージをやりとりすることそのものなのではないか。

コミュニケーションを前に進めることができるのは、
そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。

誤解の幅があるようにコミュニケーションする。
それこそがコミュニケーションの王道。

ことばの意味がよく分かるということと、ことばがこちらに触れてくるということは全く別のことです。

誤読を許容する文章というのは、実は誤読しか許容しない文章なんです。

夏目漱石が「先生」の条件として挙げているのは、
一つは「なんだかよくわからない人」であること、
一つは「ある種の満たされなさに取り憑かれた人」であること。この二つです。

先生が先生として機能するための条件は、その人が若いときにある種の満たされなさを経験して、
その結果「わけのわからないおじさん」になってしまった、ということである。

人間の定義がコミュニケーションするものだとすると、
コミュニケーションにおいて「正解」を決めてしまうと、
ほとんどの人間はその存在理由を失って、人間じゃなくなってしまいます。

人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者としての独創性」です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。

すべての弟子は師を理解することに失敗します。
けれども、その失敗の仕方の独創性において、
他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、
師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。

大人と子どもの分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうかという一点にかかっている。

かけがえのなさ、というのは自らのバカさ加減によって担保されてる。

解釈者の位置に身を固定させるということは、武道的には必敗の立場に身を置くということです。

相手に先手を譲って、それをどう解釈するかの作業に魅入られるというのは、構造的に負ける、ということです。

真の師弟関係において、学ぶものは自分がその師から何を学ぶのかを、師事する以前には言うことができないからです。

学ぶ者の定義とは、「自分は何ができないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。

師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たしうるかを、師が知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです。

学ぶのは学ぶもの自身であり、教えるものではありません。
「それがなんであるかを言うことができないことを知っている人がここにいる」
と「誤解」したことによって、学びは成立するのです。

この謎めいた音声は何かのメッセージではないのか?これらの記号の配列には何らかの規則性があるのではないか?
これがすべての学びの根源にある問いかけです。学ぶことの全行程はこの問いを発することができるかどうかにかかっています。

謎から学び取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在するということこそが、学びの豊饒性を担保しているからです。

~~~ここまで引用

またやってしまいました。
嵐の引用。(ツイッター@tkj83から転機)
買ってくださいね、ホントに。

今回さらに選ぶとしたらココですかね。

「私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。
自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在である
という事実を確認するために私たちは学ぶのです。

あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない。
だから私は生きなければならない。」

「コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。
何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、
そこで取り替えつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなく、メッセージをやりとりすることそのものなのではないか。

コミュニケーションを前に進めることができるのは、
そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。」

「人間の定義がコミュニケーションするものだとすると、
コミュニケーションにおいて「正解」を決めてしまうと、
ほとんどの人間はその存在理由を失って、人間じゃなくなってしまいます。

人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者としての独創性」です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。

すべての弟子は師を理解することに失敗します。
けれども、その失敗の仕方の独創性において、
他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、
師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。」

この3つ。
「かけがえのない存在として生きるために学ぶ」

「コミュニケーションを進めるには、誤解の幅と訂正の道が残されているから。」

「個性とは、誤答者としての独創性のこと」

いいなあ。
それが学ぶっていうことなのだなあと。

生きるために学び、誤答しながら訂正し、
コミュニケーションを前に進めていくこと。

そうやって、アイデンティティというものが
できていくのだとしたら、
そういうのが進んでいく「場」をつくっていくことが、
僕はやってみたいなあと思いました。

「松下村塾」とは、
吉田松陰先生が師だと思い込んだ人たちが、
ともに学ぼうという「場のチカラ」によって、
花開いていくプロセスのことなのだろうと思いました。

自分が思ったことを口に出せる安心空間をつくり、
一緒にいる人たちと、「勘違い」によって、仮説(誤答)を立てて、
実践し、訂正していくプロセス。

「プロジェクト」が始まる場所は、
そんな場であってほしいなと思います。

さて、本日夕方、明秀学園日立高等学校にお邪魔します。
よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)

2018年08月24日

なぜ本なのか、なぜ本屋なのか?

とあるケーブルテレビのインタビューを受ける前の
事前打ち合わせ。
最後に、「なぜ本なのか?」と問われた。

これまで幾度となく聞かれ、
なんて答えたのか覚えていない質問。

気がついたら、本屋だった。

そして、本屋で目指していたのも
「劇場のような本屋、本屋のような劇場」だった。

キャッチコピーは
「気がついたら私も、本屋という舞台の共演者になっていました」
だ。(キャッチコピーとしては長い)

本屋をやる一方で(多方で、か)、

僕はまきどき村で畑と朝ごはんをやり、
ヒーローズファームで大学生の実践型インターンシップ「起業家留学」をプログラムし、
大学生向けの地域プログラムを書き、また大学のコーディネーターとして、
地域活動の立ち上げ支援を行った。

それはなぜなのか?
そもそも本とは、本屋とはなんなのか?

昨日、「かえるライブラリー」の説明をしていて、
「本屋の機能」について説明していた。

僕が考える本屋(あるいは古本屋)におけるもっとも重要な機能は、
「何か面白いものないかなあと」という気持ちだ。
つまり、予測不可能な面白い本(情報)がある、ということだ。

そこに新刊書店であれば、「最近の世の中はどうなっているんだろう」というのが付加される。

ツルハシブックスであれば、そこに集まる人(ほかのお客さん)との出会いも付加される。
野島さんがソトコトに語った「ツルハシブックスにいけば誰かに会えるから」と言ったあれだ。

東京でやっている「暗やみ本屋ハックツ」は、
メッセージで本を選ぶことで普段手にしない本を手に入れたり、
あるいは誰か(寄贈者)の思いを受け取る。といったような機能があるだろう。

僕が現代美術家であるとするならば(この前提。笑)、
すべてのプロジェクトに「問いかけたい(表現したい)」何かがある、はずである。

まきどき村は「豊かさ」の表現だった。
ツルハシブックスは「偶然」という価値の演出だった。
じゃあ、かえるライブラリーは?

そんなことに思いを馳せていると、
1冊の本に出会った。


「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)

僕が本を読む動機の中でもっとも強いのは、
自らの現在や過去の「違和感」や「感動」を解読したいからだ。

そういう意味では、
この「中動態の世界」が僕に拓いてくれたものは
とてつもなく大きい。

僕が何を大切にしているのか、
なぜ本なのか、なぜ本屋なのか。

それは、僕たちが中動態の世界を生きているから、
あるいは僕が生きたいから、なのかもしれない。

「意志」も「未来」も存在しない。
能動と受動が対立するのではなく、
それは中動態から始まっているのだ。

「やりたいことは何か」「将来何になりたいのか?」という問いは
問いが間違っているのではないか、とずっと思っていた。
「意志」と「未来」が存在しないとしたら、
その問いは大きく間違っているのだろう。というか、意味をなさないだろう。

西村佳哲さんがいう、仕事の根っこにある
「あり方、存在」の大切さもここにある。

「場」のチカラって、
それぞれの人が「変状する」のが
それぞれの人の本質に沿っている、
つまり自由が発揮されている状態にあること、だなあと。

「挑戦」とか「目標」とかじゃなくて、
ただ、「結果」が目の前にあって、
他者からの影響も受け続けていて、
そこに対して自分がどのように影響を受け、
またどのように変状していくか。

たぶんそんなのを本屋でやりたいんだ。

なぜ本なのか?
それは、本がもっとも不確実に人に影響を及ぼすからだ。
意図しない変化をもたらすからだ。

なぜ本屋なのか?
それは、本屋空間という場のチカラによって、予測不可能性が高まり、
それによって相互の影響しあうからだ。

目の前の状況から、
いまいるメンバーで何かが起こっていくこと。
それを見届けること。
あるいはそこに自分も参画すること。

そんな「あり方」を僕が望んでいるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 12:21Comments(0)

2018年08月20日

「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感


「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)

3月に西村佳哲さんに聞き、
4月にブックスキューブリック箱崎店で購入し、
4か月寝かせておりましたが、
お盆に読んだ「日本文化の論点」(宇野常寛 ちくま新書)
でも言及されていたので、読み始めました。

こんどの週末に行われる
陸奥賢さん、江口歩さんとのコラボに向けて、
この本は読んでおいたほうがいいのではないかと。

この本は、中動態(いま、単語登録しました)
をめぐる旅。
考古学的言語学?人類学的言語学?
とでも言うのだろうか。

國分さんの語り口が、まるで名探偵のように
的を射ていて、とてもワクワクしながら読める。
この週末で第6章まで読みました。

ここらで少しまとめておこうかなと。

まずこの本は
「能動態」(する)と「受動態」(される)という現在の区分のほかに
「中動態」があったとするところから始まる。

~~~以下シビれたところを本書より引用(自分のメモ含む)

実は多くの言語が能動態と受動態という区別を知らない。

責任を負うためには人は能動的でなければならない。

責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉する、ということである。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題だった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

ギリシア世界には「意志」はなかった。能動態が中動態に対立している世界に「意志」はない。

おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきたこの思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだという見解は、暗々裏に、未来を真正な時制とすることを否定している。

アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去からの切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力の存在が認められる。

選択は過去の帰結としてあるが、意志は、過去を断ち切るものとして責任に付随している。

選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。

能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。

「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。

出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。

意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。

私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。

~~~ここまで引用

どんどん先を読み進めたいところなのだけど。

ギリシア世界には、「意志」は存在しないし、
それに伴って「未来」も存在しない。
過去からつづく流れの中で、状態(状況)としての今がある。

能動態‐受動態という言語体系は、
「この行為は誰のものか?」と問うが、
その問いはそんなに大切なのか?

大切だとしたら、それが大切とされるようになったのはいつからなのか?
そんな問いが浮かぶ。

そこで。
僕の興味ジャンルに、このことを
応用しようとすると、

小学生~大学生が向き合っている(向き合わざるを得ない、強制的に向き合わされている)
次のふたつの問いが浮かんでくる。

「やりたいことは何か?」
「何になりたいのか?」
この二つはまさに「意志」と「未来」を問う
質問なのではないか。

あたりまえだけど、
「言葉」と「世界」は相互に作用している。
「言葉」が「世界」を規定し、
「世界」が「言葉」を規定している。

だから、「やりたいことは何か?」
と問われれば、「やりたいことは何だろう?」
と考え、それに答えようとしてしまう。

でもさ、
そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。
能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。

もしかしたら、そんなところに
これらふたつの問いの
違和感の正体があるような、ないような気がする本です。
いやあ、これだから本は面白いなあと思いました。

で、この本がどう週末のイベントに関係しているかというと、

陸奥さんのテーマは「コモンズ(共有地)デザイン」
江口さんのテーマは「越境」

大きな意味でふたりは、
「分ける」ということに対して、
チャレンジしているのではないかなと思った。

僕は、そのヒントが「能動態」と「受動態」の対立、
「行為者」や「意志」を確定させようとする言語というか
言語の変遷にあるような気がして、
まあ、たぶん水曜日までに読み終わります。

お楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)

2018年08月16日

「人」にフォーカスする本屋


「日本文化の論点」(宇野常寛 ちくま新書)

お盆読書。
宇野さんの本。
スラスラ読めた。
「メディア」屋の人は必読だと思った。
本屋もそう。

インターネットとはなんだったのか?
AKB現象とは何なのか?
「文化」の役割とは何か?
そんな問いを持っている人に読んでほしい1冊。

キーワードは「想像力」かなあ。

~~~以下一部引用

かつては、宗教がこの想像力の増幅器として機能して、「個」と「公」、「一」と「多」を結びつけていました(祭政一致)。しかし時代が下り、人々が精神の自由を求めるようになると宗教という装置は機能しなくなった。

その代わりに台頭したのが物語(イデオロギー)です。民族や国家の歴史を、個人の人生を意味づける「物語」として機能させることで国民統合を計る、という社会的回路がやがてヨーロッパを中心に標準的になります(国民国家)。

「自分は~民族である/~国民である/~党員である」という物語で、個人の人生の価値を保証することで、「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶわけです。このとき大きな役割を果たしたのが新聞やラジオといったマスメディアの存在です。

とくに、すべての国民が同時に同じ番組に耳を傾けることのできるラジオの登場は決定的でした。20世紀前半はこのラジオの威力を用いて、国民の熱狂的な支持を集めることで急進的な独裁政権がいくつか生まれています。ナチス・ドイツやイタリアのファシズム政権がその代表です。

言ってみれば20世紀前半はマスメディアの進化が災いして、それが政治利用されファシズムが台頭し、世界大戦が二度も起こって危うく人生が滅びかけた時代です。

その反省から、20世紀後半の西側諸国では、マスメディアがいかに政治から距離を取るか、政治からの独立性を保つか、が大きな課題になりました。しかしその結果、今度はマスメディアの力が大きくなりすぎて国によっては民主主義が立ち行かなくなっています。

ではどうするか。答えは明白です。
マスメディア「ではない」装置によって「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶ以外にありません。ソーシャルメディアがその役割を果たすのです。

これまでのメディアについての議論では、情報化の進行は主に誰もが発信者にも受信者にもなれること、つまり双方向性に力点が置かれていた。

たとえば映画というのは、実際には非常に能動的な観客を対象にしているメディアです。(中略)それに対して、テレビはかなり受動的な視聴者を想定したメディアと言える。より正確に言えば、ダラダラ見たいと考えている視聴者に対応できる番組構成が要求されている。

では、能動性/受動性という観点から考えたとき、インターネットはいかなるメディアだと言えるのか。いや、いかなるユーザーを想定したメディアだといえるのか。それはずばり、その中間です。より正確には、インターネットは映画よりも能動的に扱えるし、テレビよりも受動的に消費できる。

「ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。」

仮に映画が想定している人間の能動性を100、テレビが想定している能動性を0として考えた場合、人間は0から100のあいだを常に揺れ動いている(あるいは100以上や0以下にもなる)存在です。僕の考えでは、ここにインターネットというメディアの本質があります。

これまで(20世紀)のあいだは情報技術が未発達だったために、人間本来の姿、つまり常にその能動性が変化する主体としての性質に対応することができずに、(能動的な)「観客」や(受動的な)「視聴者」といった固定的な人間像を「想定するしかなかった」と考えるべきでしょう。

人間を二元論的に捉えることが困難になっている。20世紀後半の人間観というのは「能動的かつ理性的な主体=市民」と「受動的かつ感情的な主体=動物」というふたつの側面から人間を捉えようとするもので、前者に対しては規律訓練によって、後者に対しては環境管理によって対応しようとしてきた。

これまでは技術の問題で、人間を中動態として考えることが非常に困難だった。しかし、テクノロジーの発展によってインターネットが登場したことで、僕たちは中動態としての(本来の)人間を可視化することができるようになったわけです。

だからこそ、インターネットについて考えるということは、単にメディアの変化を考えるということに留まらず、「人間という存在をどのようなものとしてイメージしていくことが可能か」という非常に巨大な問いにつながっていくのです。

「若者の街」渋谷から「埼玉の首都」池袋、「サブカルの聖地」下北沢、「オタクの聖地」秋葉原、など特定の都市が若者文化を代表することがなくなり、それぞれのトライブごとに街々がすみ分けるようになってきた。

「秋葉原」という街は若者たちが自分たちの力でー「~が好き」という気持ちで、そこを自分たちの場所に変えていく空間として機能していたからです。

アニメの「聖地」。普通の人にはなんでもない場所が、そのアニメのファンにとっては特別な場所になる。ここではオタクたちがその想像力でなんでもない場所を「意味」と「歴史」を与えている。

かつては「地理」が「文化」を生んでいた。「この町には~な産業が発達した歴史があって、そのために・・・系な施設や商店が多い」云々、といった形式で地理が文化を規定していた。しかし、現代は逆です。文化が地理を規定している、と言えます。

今もオタクたちは郊外のショッピングモールや、ありふれた田舎の駅前の「風景」を自分たちの力で着々と「聖地」に変えていっているのです。

サブカルチャーの歴史とは、半ば創作者であり、半ば消費者である人簿とのコミュニティーたとえばインディーズ作家たちとそのファンたちのコミュニティから文化運動が発生していく、という現象の反復です。

情報化が進行するとコンテンツ(情報)自体でなく、それを媒介としたコミュニケーションこそが価値を帯びる。これはコンテンツビジネスのあり方を根本から書き換えかねない、極めて大きく本質的な変化ななずです。

ゲームというのは、究極的には手段と目的のバランスに介入して、イコールに近づけることで快楽を生むものです。つまり、ゲームを攻略することは手段であると同時に目的でもある。RPGをプレイするとき、レベル上げやアイテムの探索自体が面白くなければならない。

すべてが自己決定=実力で決定されてしまうゲームは攻略の方法が明確に存在するため、人はすぐ飽きてしまう。対してすべてが運で決定されてしまうゲームもまた、人は攻略(介入)の余地がなくおもしろみを感じないのです。

徹底してフェアでオープンな自己決定と、徹底して偶然性に左右される運命。このともに現代社会において信頼を失って久しいもの(そして一見相容れないもの)を奇跡的に両立させている。それが、AKB48の本質なのだと思います。

AKB48も若手芸人たちのM-1グランプリなどの番組も「ゲーミフィケーション」(ゲーム化)の流れの中で、「大きなゲーム」として機能している。
1 個性的なシステムを持つ番組(ゲーム)をプレイすることで魅力が引き出される
2 ゲームの中にいる複数のプレイヤーのうち誰を応援するかは自由

「政治と文学」つまり、「社会と文化」「世界と個人」「システムと内面」がうまく結びついていない。
近代的な(大きな)「物語」が機能しなくなったときの、その代替物としての大きな「ゲーム」の可能性。

<昼の世界>からは見向きもされない<夜の世界>で培われた思想と技術ーここにこの国を変えていく可能性が詰まっている。

<昼の世界>と<夜の世界>のパワーバランスは圧倒的に<昼の世界>。
<夜の世界>が勝っているのは、目に見えない力、つまり「想像力」。<昼の世界>の住人達が思いつかないアイデアやビジョンを見せることで彼らを魅惑して、ワクワクさせて、味方になってもらう、「推して」もらうしかない。

~~~ここまで一部引用

と、またしても引用しすぎ。
ホント、買ってください。笑

AKBとアマゾンが「ロングテール戦略」を取っているという点で
似ていること。

変革を起こすときは、
平氏的アプローチじゃなくて、源氏的アプローチで。

みたいな。
エッセンスの詰まった1冊でした。

序章を読むだけでも、
メディアの変化と歴史について、
なかなか大きな示唆があります。

僕が感じたのは、
「本屋」という「場」、
あるいは小売業という「場」がこれから
どうなっていくのか、っていうこと。

お店が「メディア」であるとすれば、
(僕はそう思っているのだけど)

「ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。」

たぶんココ。
ここに対応できるツールがインターネットであると
宇野さんは言う。

だから、たぶん、ここの部分を
SNSなどのツールを使って、
本屋というか「お店」がデザインできればいいのだろうと。

おそらくはこれが
今流行っている「ファンクラブ」的なビジネス
になっていくのだ。

ツルハシブックスの「サムライ」制度は、
まさにそのあたりをついていたのだなあと。

この本を読んで、
AKB48的なビジネスの「仕組み」が
やっと読み解けた。
そう読めばいいのか、って思った。

だから、AKBを「総選挙」だと思って、
その手法だけ真似する「総選挙」的なものが世の中にあふれているのだけど。
それは、消費者という主体としてのあなた(の1票)に
フォーカスしているという点では同じだ。

AKBの神髄は、「会いに行けるアイドル」、つまり、
秋葉原の専用劇場に行けば、毎日公演をやっていて、
そこで見れるばかりか、CDについている「握手会参加権」を
行使すれば推しメンと握手ができることだ。

それは、AKBというゲームに自分自身が
「参加」「登場」し、かつゲームの行方に
影響を与えられる、ということである。

そこの意味を理解せず、
「総選挙」という手法だけを真似しても、
AKBほどのビジネスにはならない。

僕は、これからの小さな小売業は
「参加」だけではなく、「ケア」が必要になると思っている。

たとえば、古本屋さんにいて、
「この本はあの人が必要としそうだ」
と思い、購入して店頭に並べる、とか。

この商品は仕事で疲れて
1人暮らしの部屋に帰ってきたときの
こういうシーンで飲んでほしいとか。

それを参加者と一緒に考えていくような、
そんなビジネスになっていく。

そもそも「本屋」っていうのは
そういうビジネスだったのではないか。

本を見ていて、誰かの顔が浮かぶ。
誰かの生活シーンが浮かぶ。
その先の未来を想像する。

宇野さんが最後に

<夜の世界>が勝っているのは、目に見えない力、つまり「想像力」。<昼の世界>の住人達が思いつかないアイデアやビジョンを見せることで彼らを魅惑して、ワクワクさせて、味方になってもらう、「推して」もらうしかない。

こう書いているように、
キーワードは「想像力」だ。目に見えないものに思いを馳せること。

これからの本屋は、そんな想像力を持って、
「人」にフォーカスして、本を並べていくこと。
お客さんが「参加」できる仕組みをつくること。

たぶんそんな感じ。

サムライ制度とか
暗やみ本屋ハックツとか
いい線いってるわ、と改めて思った読書でした。

宇野さん、素敵な本をありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)

2018年08月13日

17歳に贈りたいマンガ

茨城県日立市の高校で
「ジブンハックツ」という企画が進んでいる。

高校生自ら商店街を訪ねて、
高校生に贈りたい本を集めてくる。

この「高校生に贈りたい本を1冊」というテーマは、なかなか深い。
双方の想像力が問われる。

自らが高校生の時に読んで感銘を受けた本を
オススメする場合もあるし、
「もっと早く読んでおけばよかった」
という本もあるし、
いま、よく売れていて、
高校生に読んでほしいなあと思う本もあると思う。

昨日、
「覇王伝説タケル」というマンガを読み直していた。

久しぶりに読んだら感動しちゃったよ。

ストーリーはいたってワンパターン。(笑)

裏切り続けて、恐怖政治を敷く
人を人とも思わない悪役と戦い、
信と義によって、仲間を増やし、
最終的には天下を取るというストーリー。

当時週刊少年マガジンで連載。
毎週それが楽しみで、コンビニで立ち読みした。

今回読んでみてのハイライトは
19巻の葵四迷が、
自分はニセモノのインチキ軍師
だと告白するところ。

それに対して、タケルは言い放つ。
ニセモノか本物かはどうだっていいと。
おれ自身がニセモノかもしれない、と。

「目の前にやらなきゃいけないことがあった時、
それが王の子であろうとなかろうと関係ねえじゃんか」
と。

いい。
これいい。
17歳に送りたいマンガだわ。

僕は当時きっと、
このマンガを読んで、
「使命」とか「志」とかを学んだ気がする。

他にも
「SHOGUN」と「沈黙の艦隊」
はまさにそんな本だったなあ。

17歳に贈りたいマンガ展、やってみようかなと思った。

それぞれの世代に、それぞれの人生を動かしたマンガがある。
それを集めるのっていいかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)

2018年08月07日

創造力の翼

電車旅。
3冊同時読書。


「一緒に冒険をする」(西村佳哲 弘文堂)
つくばの江本珠理が絶賛していたので積ん読だったのを呼び出してきた。
(大阪・スタンダードブックストアで4月に購入)


「市場って何だろう」(松井彰彦 ちくまプリマー新書)
(甲府・春光堂書店で7月に購入)


「芸術論」(宮島達男 アートダイバー)
(先週、金沢21世紀美術館で購入)

の3冊を同時並行読み。
ちなみに、坂口恭平「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)
もなぜかカバンに入ってたので読んだ

素敵なタイミングで、
素敵な本に会うなあと思った。

西村さんの本では、
本城慎之介さんの話が響いた。

楽天副社長から、
学校づくりへとシフトする中で
軽井沢の森のようちえんにたどり着き、
そのスタッフをしながら、学校を構想している。

「森のようちえん ぴっぴ」のエピソードがすごい。
子どもはみんな、知っているんだって。
どうやって決めていったらいいのか。
ケンカになったとき、
誰かが泣いているとき、どうしたらいいのか。

答えのない問いへの対応を知っているのだ。
まず、輪になって語る。
ひとりひとりの顔が見えるように。
ひとりひとりが当事者であり、
ひとりひとりが大切である、っていうこと。

そういうのって子どもは知っているんだなと。
いつの間に忘れちゃったのだろうか。

最後に登場する内野加奈子さんが言っている。

~~~ここから引用

私は日本の教育のネガティブな恩恵を直に受けていたなと思います。
「答えがある」という教育。正しい答えがあって、
ちゃんと調べて勉強してゆけばそこに辿り着ける、
という教育をずっと受けてきたと思うんです。

そこから離れるのに少し時間がかかった。
航海術を教わっていたとき、ナイノアに
「僕は君に情報は与えれるけど、知恵はあげることはできない。
機会はあげられるけど経験はあげることはできない。」
と何度も言われた。

「それは自分でやらなきゃいけない作業なんだよ」
ということを教えてもらった。

自分が知ったことを人に伝えることはできる。
けど「体験する」には、本人が自分で動いていかないと。
やっぱり身体を使って感じることが、すごく大切だと思います。

~~~ここまで引用

そうそう。
本当は「答え」などなくて、
「機会」のみが差し出すことができる。

そういうこと。
その機会を生み出すのが「市場」だ。

「市場はヒトとモノ、ヒトとヒトをつなげる場である。
作品(アート)にも市場が必要だ。
市場がなければ僕たちは素晴らしい作品(アート)に出会えない。
それまでお互いに知らなかった人同士が市場を介して
突然結びつく。そのこと自体が市場の力だ。」(「市場ってなんだろう」本文より)

そして、重要なのが自立と依存についての記述
依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。
たしかにそうだなあと。
特定の何かに依存していると不自由だもんね。

そして最後に、「芸術論」。
これには、シビれるフレーズがたくさん掲載されている。

~~~ここから引用

はっきり言って、「絵で飯は食えない」。誰もがわかっていることだが、
「プロのアーティスト=絵で飯を食う人」という幻想を持ち続ける者は意外に多い。

元来、アートは職業になじまない。職業とは誰かのニーズがあり、
それに応えて初めて成立するものだ。ところが、
アートには他者のニーズがなく、
自らの思いをカタチにするだけだから、そもそも職業とはなり得ない。

ピカソのように絵で食える人は、全体の1パーセントにも満たず、
宝くじを当てるより難しい。したがって、食える/食えないは、
まったくの偶然であると言っても過言ではないのだ。
アーティストはそんなギャンブルのような賭けに、
自分の人生やアートを翻弄されてもいいのだろうか。

私は、アーティストは自分の生活を自分で支え、
なお、自らの思いを納得するまでカタチにし、他者に伝える人間だと考えている。
こう考えていけば、アーティストとは職業ではなく、むしろ生き方になってくる。

アーティストという生き方を選べば、じつはもっと自由になる。

アーティストという「名詞」を目指すのではなく、
アーティストという「形容詞」の生き方を目指してほしい。

~~~ここまで引用

「アート」を「本棚」に「アーティスト」を「本屋」に替えても、同じだろうな、と。
本屋という「形容詞」の生き方を目指す。
たぶんそういうことだ。

この3冊は、まったく別々なようで、
僕が編集すると、
すべて、ひとつのところに向かっているように思う。

「答え」はないということ。
「場」をつくるということ。
「表現」するということ。
「問い」があるということ。
そして、「本屋」である、ということ。

そういうものとして、この3冊を読んだ。

本って素敵だ。

機会しかない。
ヒントしかない。

それをどう学びに変えるか、
力に変えるか、は読んだ人次第だ。

そんな、目的のあいまいな読書をしてしまうような、
興味関心の罠がたくさん仕掛けられているような、
次の世界への扉が無数に存在するような、

そんな本屋になりたいなあ。

最後に「芸術論」から一言。

絵が描けなくても、モノが作れなくても、創造力の翼で芸術家になれるのだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2018年07月14日

19歳に贈る50冊の本

選書しました!
マイナーチェンジはあるかもしれませんが、
ひとまず思い浮かぶ本を。
メモとして置いておきます。

「じぶん」を考える

1「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
キーワード:承認欲求
2「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)
キーワード:同調圧力
3「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)
キーワード:自分と他者
4「私とは何か」(平野啓一郎 講談社現代新書)
キーワード:分人、本当の自分
5「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)
キーワード:国民国家、多層化
6・7「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」(岸見一郎、古賀史健 ダイヤモンド社)
キーワード:アドラー心理学、自由
8「教育の力」(苫野一徳 講談社現代新書)
キーワード:教育、学びの個別化、協同化、プロジェクト化
9「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 幻冬舎文庫)
キーワード:能力、開花
10「評価経済社会」(岡田斗司夫 ダイヤモンド社)
キーワード:シャドウカリキュラム、ネット中世

「まなび」を考える

1「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社)
キーワード:学校化社会
2「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)
キーワード:常識、国民国家
3「日本人」という、うそ(山岸俊男 ちくま文庫)
キーワード:道徳、武士道、商人道
4「日本人は何を考えて生きてきたのか」(斎藤孝 洋伝社)
キーワード:神、宗教、東洋、西洋
5「プレイフル・シンキング」(上田信行 宣伝会議)
キーワード:マインドセット、固定的知能観、成長的知能観
6「先生はえらい」(内田樹・ちくまプリマー新書)
キーワード:師匠、学び
7「最終講義」(内田樹 文春文庫)
キーワード:ミッション
8「本を読む人だけが手にするもの」(藤原和博 日本実業出版社)
キーワード:宗教、幸福論
9「教養のススメ」(池上彰 日経BP)
キーワード:教養、大学
10「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)
キーワード:学校、近代化、効率化

「しごと」を考える
1「クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方」(海老原嗣生 星海社新書)
キーワード:キャリアデザイン・キャリアドリフト
2「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)
キーワード:メディア、予言の自己実現
3「心の時代にモノを売る方法」(小阪裕司 角川新書)
キーワード:生産と分配の経済と贈与と交換の経済
4・5「天職の作法」「冒険の作法」(小阪裕司 大和書房)
キーワード:天職、冒険、旅立ち
6・7「自分の仕事をつくる」「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)
キーワード:氷山、仕事
8「ナリワイをつくる」(伊藤洋志・ちくま文庫)
キーワード:兼業、副業、暮らし
9「なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。」(家入一真 ディスカヴァー・トゥエンティワン)
キーワード:お金
10「転換期を生きる君たちへ~中高生に伝えておきたいたいせつなこと」(内田樹編 晶文社)
キーワード:13歳のハローワークの呪い

「みらい」を考える
1「コミュニティ難民のススメ。」(アサダワタル 木楽舎)
キーワード:コミュニティ難民
2「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)
キーワード:美意識、アート、サイエンス
3「わたしが芸術について語るなら」(千住博 ポプラ社)
キーワード:美しく生きる。
4「ホスピタルクラウン」(大棟耕介 サンクチュアリ出版)
キーワード:天職、顧客
5「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)
キーワード:学校、仕事
6「計画と無計画のあいだ」(三島邦弘・河出文庫)
キーワード:計画、目標
7・8「独立国家のつくり方」(坂口恭平 講談社現代新書)「隅田川のエジソン」(坂口恭平 幻冬舎文庫)
キーワード:世界はひとつではない。
9「種をまく人」(ポールフライシュマン あすなろ書房)
キーワード:種、畑、コミュニケーション・ツール
10「せかいでいちばんつよい国」(デビッド・マッキー 光村教育図書)
キーワード:世界の変え方

「こらぼ」を考える
1「かかわり方の学び方」(西村佳哲 ちくま文庫)
キーワード:場のデザイン
2「人が集まる「つなぎ場」のつくり方」 (ナカムラクニオ 阪急コミュニケーションズ)
キーワード:一期一会、場のチカラ
3「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」(小林せかい 太田出版)
キーワード:コミュニケーションデザイン
4「企画書のつくり方、見せ方の技術」(藤村正宏 あさ出版)
キーワード:企画、ラブレター
5「魔法をかける編集」(藤本智士 インプレス)
キーワード:編集、魔法
6「魔法のマーケティング」(川上徹也 フォレスト出版)
キーワード:好き、関係性
7「応援したくなる企業」の時代(博報堂ブランドデザイン アスキー新書)
キーワード:テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(合)
8「ローマ法王に米を食べさせた男」(高野誠鮮 講談社+α新書)
キーワード:仕事づくり、体当たり
9「Communication Shift」(「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ 並河進 羽鳥書店)
キーワード:伝える
10「ロングエンゲージメント~なぜあの人は同じ会社のものばかり買い続けるのか?」(京井良彦 あさ出版)
キーワード:「共感」の時代、コンセプト、ストーリー、デザイン  

Posted by ニシダタクジ at 14:49Comments(0)

2018年07月13日

19歳に贈る50冊

ウチノ食堂に小さな本屋さん
「Apartment bookstore」ができるというので
古本を選書しようかなと。

「かえるライブラリー@ウチノ食堂」
にしようかな、と。

50冊程度しか入らないということなので、
渾身の50冊を選んでみようかと。

ということで、
過去のブログをさかのぼりながら、
50冊選んでみようかなと。

「19歳に贈る50冊。」ってテーマで選書。
主な対象者は、
高校生までいわゆる「優等生」で来て、
地方国立大学に合格した1年生。

真っ先に浮かぶのは、

「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)
かな。

「じぶん」「せかい」「しごと」「みらい」「いきる」
の5テーマで選書してみようっと。

途中経過は以下。

19歳のための50冊

「じぶん」を考える
「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
キーワード:承認欲求
「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)
キーワード:同調圧力
「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)
キーワード:自分と他者
「自分とは何か」(平野啓一郎 講談社現代新書)
キーワード:分人、本当の自分
「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)
キーワード:国民国家、多層化

「せかい」を考える
「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社)
キーワード:学校化社会
「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)
キーワード:常識、国民国家
「日本人」という、うそ(山岸俊男 ちくま文庫)
キーワード:道徳、武士道、商人道
「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)
キーワード:神、宗教、東洋、西洋
「プレイフル・シンキング」(上田信行 宣伝会議)
キーワード:マインドセット、固定的知能観、成長的知能観

「しごと」を考える
「僕たちはこれからなにをつくっていくのだろう」(箭内道彦 宣伝会議)
キーワード:仕事、誇り、綺麗事上等
「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)
キーワード:メディア、予言の自己実現
「心の時代にモノを売る方法」(小阪裕司 角川新書)
キーワード:生産と分配の経済と贈与と交換の経済
「天職の作法」「冒険の作法」(小阪裕司 大和書房)
キーワード:天職、冒険、旅立ち
「自分の仕事をつくる」「自分をいかして生きる」「かかわり方の学び方」
(西村佳哲 ちくま文庫)
キーワード:氷山、仕事

「みらい」を考える
「コミュニティ難民のススメ。」(アサダワタル 木楽舎)
キーワード:コミュニティ難民
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)
キーワード:美意識、アート、サイエンス
「ホスピタルクラウン」(大棟耕介 サンクチュアリ出版)
キーワード:天職、顧客
「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)
キーワード:学校、仕事

「いきる」を考える
「独立国家のつくり方」(坂口恭平 講談社現代新書)
「隅田川のエジソン」(坂口恭平 幻冬舎文庫)
キーワード:世界はひとつではない。
「種をまく人」(ポールフライシュマン あすなろ書房)
キーワード:種、畑、コミュニケーション・ツール
「せかいでいちばんつよい国」(デビッド・マッキー 光村教育図書)
キーワード:世界の変え方  

Posted by ニシダタクジ at 18:08Comments(0)

2018年07月13日

19歳に本という「機会」を届ける

プロジェクト「かえるライブラリー」
を準備している。

ツルハシブックスの正式名称は、
「ジブン発掘本屋ツルハシブックス」。

名前の由来は、
諸説あるのだけど、

まきどき村を始めるときに、
ツルハシを使って荒れ地を耕した、
あの初心を忘れないように、だ。

ちなみに
「本屋には新しい人生が転がっている」
(0.01坪のトランク本屋の名称)
「襷(たすき)書店」(箱根駅伝ブームだった)

は今井さん(ツルハシブックス設計・施工者)
によって却下された。

でもって、ツルハシブックスが2011年3月、
東日本大震災直後にひっそりとオープン。

6月の一箱古本市参加をきっかけに、
「地下古本コーナーHAKKUTSU」の
年齢制限アイデアが浮かび、7月にスタート。
30歳以上立ち入り禁止、がウケた。



万引き対策ということと、
古物商を持っていなかったので、
地域の人からメッセージを書いてもらい、
本を寄贈してもらった。

2014年1月発売のソトコト2月号、
同5月にはNHK新潟の特集
7月にはTBSの「知っトク」
8月ドキュメント20minNHK全国放送となり、話題となった。

「どうしてこんな企画を思いついたのか?」
とよく聞かれた。

1つ目は、地下室の有効活用を考えたときに
ドラクエ(ドラゴンクエスト)の地下に宝物があるような
イメージで宝探しをするように本探しをして欲しかったこと。

2つ目は、暗やみで「偶然」出会う本に出会ったほしかったこと。

3つ目は、中学生高校生に、地域の大人との出会いの機会
を作りたかったこと

「機会」を提供すること、
意図はたぶんそこにある。

「暗闇で本に出会った人に、どうなってほしいですか?」

よくインタビュー終盤に聞かれた質問。
答えられなかった。

「本に出会う」って機会の提供だから。
「機会」そのものが目的だから。

僕が(学校)教育とうまく合わないのはそこかもしれない。
教育の目的は、「教育目標の達成」である。
機会提供では断じてない。

先月、島根で「コミュニティナース」という活動に出会った。
「コミュニティナース」とは問いなのだと知った。
何をもってコミュニティナースとするか、
それはひとりひとりに委ねられている。

本屋もそうなんじゃないか、って思った。

最先端の知恵を提供する本屋
未来への希望が詰まった本屋
古き良き名作にである本屋
居心地の良い「居場所」としての本屋

「スターバックスはコーヒーを売っているわけではない。」
から始まった問いの旅は、まだ続いていたんだ。

あのとき。2014年1月。
秋田駅前のスターバックスで「劇場だ!」
と叫んだ。(心の中で)

ツルハシブックスは「劇場」を売る本屋だった。

「気がついたら私も
本屋という舞台の
共演者になっていました」
というコピーが生まれた。

じゃあ、僕はなんだろう?



2015年9月。
2014年のNHK放送をニューヨークで見た
サンクチュアリ出版の金子さんと
トーハンの水井さんが
東京でもやろうとブックスタマの加藤社長とつないでくれ、
「暗やみ本屋ハックツ@上石神井」がスタート。

初代代表の宮本さん、現代表の原さんを中心に、
10代に本という「機会」を提供している。
また、20代である自分たちに「学び」の機会を自らつくっている。
「暗やみ本屋ハックツ」は、そういう学びあいのデザインになっている。

僕自身の最終ミッションというか、コンセプトは、
「学びあいの場づくりで希望の灯を灯す」だ。
吉田松陰先生の野山獄エピソードがきっかけになっている。

そこに向かって、いま、何をするのか。
顧客は誰で、価値は何なのか?
そんな問い。

3年間大学にいて、
大学の外でも、対話をしてきて。
「他者から評価」「価値」「顧客」「就活」
について考えさせられた。

僕がこれからやること。
ひとまず、19歳に本という「機会」を届けること。

「本」の部分が、
にいがたイナカレッジインターンだったり、
米を炊くことだったり、
畑をすることだったりするのだろうけど。

ひとまずは、そこ、いってみようかな。

19歳に「機会」を届けること、始めてみます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:28Comments(0)

2018年06月20日

「本を届ける」ということ

福岡・津屋崎を目指して西へ向かっています。
今朝は隠岐・海士町でむかえています。


七類港から「フェリーくにが」に乗ります。


約3時間の旅を終えると、隠岐・海士町です。


海士町といえば、「ないものはない」です。


今回僕を誘ってくれたのは浅井さんです。


夜は自ら魚をさばいて、お寿司を握ってくれました!


「めぐりの環」のまかないランチを食べ、阿部さんに再会。




学習センターにもお邪魔しました。
澤さん、ありがとうございます。
「予測不可能性」について少しばかりお話しました。
島前高校の高校生がたくさん勉強してました。

今回、一番ビックリしたのは、海士町中央図書館。
休館日に入れてもらいました。


カフェコーナーが充実!
50円~100円でなんでも飲めます!


そしてカウンター席!


こんな感じです。

超素敵ブックカフェ(しかも図書館)が海士町にありました。

司書の磯谷さんに話を聞いていると、
とってもワクワクしました。

カウンターの横には、
「もう1冊いかがですか?」コーナーがあり、
最近気になる出来事に関連した本が並んでいます。


本のセレクトもめちゃめちゃ素敵で、
いままさに素敵本屋さんに新刊で並んでいるような
本が、未貸出しのままで(笑)、すぐに読めるなんて!

なんていうか。
僕、この隣に本屋だしたいなと思いました。
こんなに本が買いたくなった図書館は初めてです。

「本を届ける」っていうこと。

そんなことをあらためて考えさせられた。

6月15日。
今回の旅の初日に、
富山県射水市の小杉駅の近くにある
「ひらすま書房」にお邪魔しました。





旧郵便局をそのまま使った店舗にシビれました。
僕もお店をやるなら、郵便局跡にやろうと思いました。

6月18日。
本屋の聖地、鳥取市・定有堂書店。
奈良さんにお会いして、お話を聞くことができました。





「これからは音楽を選ぶように、本を選ぶようになる。」
と思いました。

というか、小さい書店の価値は、
「音楽を聴いているかのように棚を見て、レコードを買うかのように、本を手に取る」
ということなのだろうと、実感しました。

本屋も、図書館も、そのミッションは、
「本を届ける」ということです。

定有堂書店の奈良さんは元郵便局員で、
こんな話を聞かせてくれました。

郵便事業っていうのは、運送業ではなくて
逓送業なんだって。

てい‐そう【逓送】とは、
[名](スル)
1 通信や荷物などを人の手から手へ順送りにすること。順送り。「物資を逓送する」
2 宿場などを次々に経由して送ること。
3 郵送すること。
「終に書を―するの意なし」〈織田訳・花柳春話〉

という意味なのだ、と。
つまり、「手紙をつないでいく、リレーする」
ということ。

それって本に似ているって思った。
僕がサンクチュアリ出版の営業をしているとき。
初めて編集会議に出て、編集のヨウヘイが
このフォントにした理由を説明していたとき、
電流が走るような衝撃があった。

駅伝なんだ!って思った。

本は思いを
著者から編集者へ
編集者から営業へ
営業から書店員へ
書店員から読者へ
リレーしていく。
営業とはその第3走者を走ることなのだ、と。

「本を届ける」ということ。
それはとっても素敵な仕事だなあと
あらためて強く思った。

そして、海士町中央図書館のような空間づくりが
「本を届ける」ということに、大きく影響するのだなあと。

全身で、五感を発動させて、
空間を味わいながら、本を手にとる。
そんなことが生まれる場。

そんな場を、僕もつくりたいと強く思った。

「本を届ける」場、僕もつくります。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:23Comments(0)

2018年05月30日

「アイデンティティ」と「劇場」と「ふるさと」

最近のキーワードは
「予測不可能性」なのだけど。

くまざわ書店南千住店の店長、阿久津のアニキ
が僕に選んでくれた
「島はぼくらと」(辻村深月 講談社文庫)」
を読み終えて、さわやかな読後感にひたっている。





離島、コミュニティデザイン、幻の脚本などなど、
キーワードが僕にぴったり。
すげーな、阿久津のアニキ。

高校生が出てくる小説って、
アイデンティティのゆらぎみたいなやつが
だいたい出てくるのだけど、
そういうのに感情移入して、苦しくなってる自分がいる。
(「桐島部活やめるってよ」(朝井リョウ)的な)

「アイデンティティ」と「コミュニティ」
は密接に関わっていると思うけど、

「地域コミュニティ」的なものが
だんだんとつながりが薄れていく
(お祭りがなくなったり)と共に、
若者のアイデンティティは浮遊した状態になる。

今で言えば、
学校でも運動部のような強いつながりはなくなっているから、
そこでもアイデンティティは揺らいでいる。

地域コミュニティから
テーマコミュニティへ
と言われていたときもあったけど、

僕の感覚では、
「コミュニティ」という静的なものではなくて、

ウォンテッドリーの仲さんが言う「トライブ」
http://hero.niiblo.jp/e485916.html
(就活を再定義する 17.9.15)

というか、もっと動的な「プロジェクト」に
近いものではないかと思う。
その「トライブ」「プロジェクト」の集合体が自分自身である。

「コミュニティ」と「トライブ」「プロジェクト」の違いは、
「価値」の流動性である。

コミュニティの価値は、
その成り立ちから言っても、
「生き延びること」「生き続けること」
つまり、「継続性」に価値を置いて、設計されている。

「会社コミュニティ」も同じだ。
継続して働いてもらうために、
保険・年金制度を整備し、社宅をつくった。

ところが。
現在のように、「地域コミュニティ」「会社コミュニティ」そのものが薄れてきて、
人の流動性が高まってくると、同時に人は「アイデンティティ」不安に陥る。

「アイデンティティ」と「承認欲求」は、
密接にかかわっていると思う。

マズローは欲求5段階説の中で、
3段階目に「所属と愛の欲求」を
4段階目に「承認欲求」を
5段階目に「自己実現欲求」
が来ると説明したが、

現代社会においては、
この3つが溶け出して、明確に分かれてはいないのではないか。
「所属」という概念が、変わりつつあると思う。

そもそも、「所属」に対するメリットは
「生き延びる」という点においては機能しなくなってきている
(ふたたびそれをつなぎなおすという動きももちろんあるのだけど)

そんな社会において、
どう生きていったらいいのか?
というのは若者のみならず重要な問いとなる。

僕自身は、「コミュニティ難民」であり、
http://hero.niiblo.jp/e485055.html
(「アイデンティティ」という音17.6.13)

「コミュニティ」「共同体」というのが苦手なのだけど、
そういう人はどうしたらいいのか?
たぶん、「承認」を他者やコミュニティからではなくて、
自分自身で獲得していくことが必要なのだろうと思う。

「学校教育」は「承認欲求」を巧みに
「他者からの評価欲求」へとすり替えてきた。
その自覚。

「劇場のような本屋」「本屋のような劇場」が
ツルハシブックスのテーマであったのだけど、
プロジェクトを生み出す
偶然の出会いの創出装置としての意味合いがあったのかもしれない。

そこでのキーワードは「予測不可能性」となる。

まきどき村の「人生最高の朝ごはん」というネーミングも
その日に来た人たちと、その日に収穫した野菜を、
その日だけの調理法で食べること。
そこに「一期一会」があるから、「予測不可能性」が高いと言える。

そんな「一期一会」を生み出す
ゆるやかなつながりはまるで劇場のようだなと思う。
そんな場がひとりひとりの
アイデンティティの一部になっているのではないか。

そして、自らのアイデンティティを形成する、あるいは形成した場のことを
人は「ふるさと」と呼ぶのではないか。

予測不可能な劇場のような何か。
それをみんなで生み出していくということ。

「アイデンティティ」と「劇場」と「ふるさと」を
同時につくる場を育てる。

そんな仕組みづくりをしたいなあと思った1冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)

2018年05月07日

「本屋の青空」のある暮らし

本屋のある暮らしをつくる。
好きな本屋で本を買う。

それが、1年前の「新城劇場」のときのコンセプトだった。
(JR南武線武蔵新城駅前・7月リニューアルOPEN予定)

入ってから、出てくるまでが
楽しくなるような本屋さんに
出会うと幸せになる。

鳥取・定有堂書店の奈良さんは、
買おうと思っていた本をいつの間にか忘れ、
目的外の本をつい、買ってしまうことを、
「本屋の青空」と呼んだ。
(POPEYE「君の街から、本屋が消えたら大変だ!」より)

すてきだな、と。
そんな本屋さんのある暮らしがすてきだなと。

長崎・ひとやすみ書店には、
そんな「青空」があった。

福岡のブックスキューブリックも行くたびに
そんな青空を見せてくれる。

この前の武蔵新城ドライブで立ち寄った
荻窪の・「本屋・Title」にも青空が広がっていた。

入って3分で目に飛び込んでくる本に、
心を奪われた。


モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語(内田洋子 方丈社)

こんな本あったんだ、って。
3回手に取って、迷ったけど、購入した。
そこまで10分。

そんなドラマ。
1944円。

それが本屋で本を買うっていうことなんだろうと思う。

昨日は、
「帰ってきたツルハシブックス@ウチノ食堂藤蔵ブックカフェ」
の初日でした。


「本」の看板を置かせてもらい、


店内の左側のスペースに本を置き、


店主が淹れてくれる珈琲を味わいながら談笑し、


素敵なお客さんが来店してくれました。

閉店間際に、
野呂さんにいい問いをもらった。

「西田さんにとって、本屋をやるって、本を売るってなんですか?」

僕自身は、
本が好きというよりも、本屋が好きだ。
大好きな本屋で本を買う、というのが好きだ。

実は素人でも、本屋はできるのだ。

実は、ツルハシブックスの選書のほとんどは、
大阪の某素敵な書店に並んでいる本だった。
それを仕入れて、
自分なりのコンセプトにしたがって並べること。

それが僕が2011年の開店から3年半やってきたことだった。

僕が、茨城に行った理由の一つは、
ツルハシブックスの「場」としての可能性を見てみたかったからだ。
実際、山田マサシと井上くまもんとサムライのみんなのおかげで
2015年12月にツルハシブックスは「場」としての最高レベルに達したと思う。

つまり、ツルハシブックスは、
本屋という「場」の実験場、
本屋はどこまで「劇場」になれるか?
という可能性をさぐっていたのではないだろうか。

2016年11月の閉店から1年半。
ふたたび、「本屋とは?」という問いを目の前にして、考えてみる。

月に1度の本屋さんがあるとして、
そこで届けたいもの。

本屋の青空。

そして、手紙としての本。

東京で暗やみ本屋ハックツをやって
思ったこと。

それは、「手紙」。
本は手紙なんだな、って。
本屋っていうのは郵便屋さんみたいなもんなんだなって。
誰かから預かった手紙を届ける。

そうなんだよね。
本は売るものじゃなくて、届けるものなんだよね。

僕が本屋として、これからやりたいことは2つだ。

ひとつは、自分自身が「本を届ける人」になり、
「本屋の青空」を見せていくこと。

もうひとつは、何人かの人が「本を届ける人」となることで、
地域に「本屋の青空」が生まれていくこと。

「本屋の青空」のある暮らし。

そんな暮らし、そんなまちをつくっていきたいです。

野呂さん、素敵な問いをありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:05Comments(0)

2018年04月26日

場の魅力は、場への期待値のこと






「地域プロデュース、はじめの一歩」(山納洋 河出書房新社)

の山納さんにお会いできました!

僕は、ツルハシブックスを始めたばかりのころに、
山納さんの「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)
を読んでいて、ツルハシブックスは
「新刊書店」ではなくて「カフェ」なのだと思った。

http://hero.niiblo.jp/e208716.html (12.10.28)

http://hero.niiblo.jp/e306473.html (13.11.25)

そんな山納さんに「場」について話を聞いてきました。

~~~以下メモ

「常連を教育する」「いい常連に囲まれる店」
たぶん、いいスナックとかそういう感じなんでしょうね。
お客さんが店長の代わりをしているようなケアができる。

非構成エンカウンターグループ
https://himitsukichicollege.wordpress.com/2015/09/29/basic_encounter_group_01/

「チューニング」って呼んでたやつは、理論的に説明するとそういうことになるのか。

朝30分のミーティングで今の状態(気持ち)をいう。
夕30分のミーティングで今感じているもやもやを吐き出す。
「場」にいた人がその場の「空気」になる。
だからリラックスした状態でいることが重要。
次の日にもやもやを残さないこと。
ああ、喫茶店のよいマスターってそんな感じだな。

「出会いたい人集まれ」という呼びかけでは、
焚き木はちゃんと燃えてくれない。
どのように木を組んでいくか、司る人が必要。

「場の魅力」っていうのは場への期待値。
行かないより行ったほうがいい、と思わせるものは何か。

「はじめての人をケアする」というのを場のルールにする。
深い人なのか浅い人なのか。
何に関して深いのかを聞いてあげられるか。
関心空間、領域をさぐりながら聞いていくこと。
場を司る人の力量が問われる。

たき火マスターとしてのファシリテーター。
フラットである人。
自分を引き算し、聞き役に徹すること。

どんな境遇の人も「経験を持っている」という意味でリスペクトし、受け入れられるか。

まちの話は最強。
「あるまちのある場所については、誰かより詳しい」
→誰でも話ができる。
まち歩きの楽しさってそういうところにあるのかもね。
まちの話コレクターになること。

コミュニティナースと図書館とか本とかを組み合わせられるんじゃないかな。
https://www.huffingtonpost.jp/2016/11/18/community-nurse-akiko-yada_n_13069376.html

図書館を教育委員会管轄から外して、
サードプレイス的要素を高めていくことってできるんじゃないかな。
「社会教育」よりも広いくくりに位置づけることで、
医療や経済、観光とかと組み合わせられる。ものを売ったりとか。
でもそれがその場にいる子どもにとっては「社会教育」そのものなんじゃないか。

「身近な人を健康で元気になるお手伝いをしたい」
と思ってナースになったはずなのに、病院に来たときにはすでに手遅れになっていたりする。
How?ばかり考えている。
なんのために?っていうWhy?に立ち返る。

これ、すべての働く人が問わなければいけないやつだ。
How?どうやって?
ばかり考えて仕事していないか?
そもそも
Why?なぜ?
この仕事があるのだろう、自分はここにいるのだろう?
って問うこと。

Why?から考えて、
仮説→実践→検証を繰り返していくのって楽しいよね。
「違和感」→「問い」→「仮説」→「実験」
だね。

介護民俗学。
聞き書きをすると、すべてのおじいちゃんが「本」になる。
これも図書館と相性がいいな。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3083

図書館が「保健師」や「カウンセラー」的な人を雇ったら、まちはもっと健康になるんじゃないのか。
農業‐福祉連携の先に
図書館を核にした
農ー本ー医療ー福祉の連携とかあり得るよね。

地域おこし協力隊はアントレプレナー(起業家)になることが求められているのだけど、
それは「特産品をネットで売る」とか「カフェ」とか「ゲストハウス」とかの
レッドオーシャンに飛び込むのではなくて、
近所のおじいちゃんおばあちゃんの困りごとを解決するような
小さなサービスから始めるほうがいい

っていう世界を、僕のような本屋が見せてあげることって大切だなと。
その本屋同士がネットワークを組んで行ったりする。

~~~ここまでメモ(自分のつぶやき含む)

エッセンスがすごいなと。

自分が「チューニング」って呼んでいたやつが
「芝の家」とかでもやっているやつだったんだなと。
「つながるカフェ」を読まなきゃだ。

「場」をどう設計し、どう「魅力」をつくるか?
っていう問いをこたえていくような場をつくっていくこと。

それは常設の本屋なのか、間借りの本屋なのか。
それぞれの地域ではどうやったらいいのか。
そんな問いが生まれた。

あとは、図書館の可能性について。
図書館はもっと人と人をつなげられるな、と。

教育委員会管轄を外したらいいのにって思った。
もっとビジネスしたり、医療したり、
そういうのに場を使ったらいいなと思った。

そして、そういう場をつくることで、
高校生や大学生にとってのリアルな
学びの場が生まれていくのではないかなと思った。

さて。
山納さんの本をもう一度、読み直します。

貴重な時間をありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 09:12Comments(0)

2018年04月13日

安定とは特定のものに依存しないこと


20代に伝えたい50のこと(秋元祥治 ダイヤモンド社)

ようやく手に入れて、読みました。

岐阜市を拠点に、
地域企業×大学生の数々のプロジェクトを生み出してきた
チャレコミ界の星、NPO法人G-net秋元さんの本。

名言だらけです。
素敵な人に出会い、素敵なチャレンジをして
また素敵なチャレンジを生み出したのだろうなあと。

いきなりガツンと来ますよ。

「あなたは、あなたの人生の所有者(オーナー)でしょ。
そして、あなたはあなた自身の人生の経営者なんだ。」

そうそう。
ほんとこれ、大事。

僕だったらすぐに
だから、ドラッカーが、
5つの質問が、
ってなっちゃうんだけど。

秋元さんは自身の経験を踏まえた
珠玉の名言を連発。
インターンマッチングフェアで
1つずつ挨拶に使えそうな感じです。

たとえば、やりたいことを見つける方法。
「目についたら行ってみる。誘われたら断らない。」
たしかに。

たとえば、
「うだうだ言って何もしない人よりも、
うだうだ言われてでも
何かしている人のほうが、ずっと偉い。」

いっすね。そうそう。

そして。
「ものわかりのよい若者なんて、いる意味がない。」

そして何より、
僕の中でのハイライトはココでした。

「特定のものに依存する、ということは不安定なこと。
自身のキャリアや仕事でもそう。安定とは、依存しないこと。」

いやあ、ほんとそうだなと。
収入の安定よりも心の安定だと僕も思うけども、
それって、特定のものに依存するという
不安定を自覚するところからしか始まらない。

21歳で創業してから
地域×若者ジャンルで活躍してきた秋元さんの
人生が詰まった1冊。

言うなれば、「王道」のような本。

さてさて。
僕が併読していたのは、
西野亮廣さんの「魔法のコンパス」(主婦と生活社)



秋元さんの本が「王道」だとすれば、
こちらは、「邪道」とは言わないけど。
「脇道」というか、先行きのわからないちょっと細い道って感じ。
ただ、未来がそこにあるような気にさせてくれる1冊です。

すでに
水戸市での講演で聞いたこともたくさん入っていたのですけど、
なんていうか、そもそも、仕事ってなんだろう?職業ってなんだろう?
って問いが詰まっている本ですね。

進みたい道が「王道」じゃない人におすすめ。

「西野亮廣?ああ、炎上してる人ね。」

って思っている食わず嫌い王の人に読んでほしいですね。
僕自身も講演聞くまでは食わず嫌いでした。

まずは、「芸人」の定義から。

~~~以下本文より

僕の考えは、世間の皆様のそれとは少し違っていて、
進学校を卒業して皆が大企業に就職していく中、
「俺、芸人になる」と言っちゃう奴や、

あと2年も働けば退職金をもらえるのに、
その日を待てずに「沖縄で喫茶店を始める!」
とか言っちゃうオヤジ。

そういう人達がその瞬間にとっている姿勢
およびそういった姿勢をとる人のことを「芸人」と呼んでいる。

(中略)

「それもいいけど、こういう「オモシロイ」もあってよくない?」と提案したり、
時に、「アイツのやっていることは、はたして正解なのかなあ」
という議論のネタになったり、そういった、
「存在そのものが「質問」になっている人を僕は芸人と定義している

~~~以上本文より

そーなのか!
それって、僕のいう「現代美術家」に近いかもしれない、と。

僕は
「やりたいこと」や「ミッション」を見つける方法として、

「違和感」→「問い」→「仮説」→「実験」→「使命・ミッション」

の流れだと思っているのだけど。

西野さんも本文の中で、問いが落ちているのは、
「居心地の悪い場所」だと言っている。

なるほど。
だから、会社や学校は問いの宝庫なのだな。(笑)

「勉強は面白い。
ただ、勉強を教える先生が面白くなかった。」

ストレートだな、と。(笑)

「革命のファンファーレ」でも
西野さんの講演でも感じたことだけど、
彼は超一流のマーケッターだなあと。

顧客が何を感じ、
何を価値だと思い、お金を支払っているか、
そういうのの分析がすごいな、と。

・お金とは「信用の面積」を可視化したもの
・SNSは拡散のためのツールではなく、1対1をつくるためのもの
・本を体験に対しての「おみやげ」化をすれば、本は売れる。

なるほど。

いちばん勉強になったのは、
「セカンドクリエイター時代」という表現。

「場」や「商品」をゼロからつくるのではなくて、
LINEスタンプのプラットフォームのように、
クリエイターがスタンプつくって、
それを売れるような仕組みづくりが大切なんだなと。

そんな感じ。
2冊の併読で、
「王道」と「脇道」の両方を知っておくことって
大切なんじゃないかと思いました。

安定とは、特定のものに依存しないこと。

そのためには、考え続けること、本を読むこと。
だから、本を読まなきゃいけないんだよね。

本、読もうぜ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)

2018年03月16日

創造的な「問い」からはじまる

「挑戦」という言葉があまり好きじゃない。
だって、挑むと戦うですよ。
「成長」っていうのもいまいちピンとこない。
長くなるってどういうことだ。

まあ、おいといて。

好きな言葉。

好奇心
偶然
実験

そういうやつ。


東大教養学部「考える力」の教室(宮澤正憲 ソフトバンククリエイティブ)

こういう本が好きなんですよ。(笑)

「受験勉強は正解のある問いに1人で挑むものだが、
99%の仕事は、正解のない問いにみんなで挑むスタイルで進めている。」

こんな冒頭から始まります。

そうそう。
だからさ、自信とか不要なんですよ。
本来は。

アウトプットするのはチームや場の力だから。
個人の力は必要ないわけじゃないけど、
個人の力だけでアウトプットする必要はない。

この本にもいろいろインスパイアされました。

~~~ここからメモ

改善するほど、自社とライバル社の商品に差異がほとんどなくなる

「解析」:事物の構成要素を細かく理論的に調べることによって、その本質を明らかにすること
「解釈」:物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること
現状の人工知能が得意なのは「解析」の領域です。
一方、解析した情報を「解釈」することは、人間が得意な領域といえるでしょう

わかりやすくいえば、人工知能が得意なのは「ゴールが明確」な分野です。
囲碁や将棋の世界では、人工知能とプロが対戦し、
人間のプロが歯が立たないというところまできています。
これは、囲碁や将棋のルールが決まっていて、「勝つ」という目的が明確なためといえます

このことから推測すると、「ゴールが明確な仕事」は
いずれ人工知能に取って代わられる可能性が高いということです。
逆にいえばゴールが明確でないもの、複数の目的が同居しているもの、
異なる領域に横断するものといったジャンルは、
必ずしも人工知能が得意な分野ではありません。

コンセプトがないと、課題に1対1に対応した解決を図ろうとしてしまうのです。
しかし、競合他社も概ね同じ課題を持っており、その結果、解決アイデアも似たものになりがちです。

コンセプトが差別化できていれば、その段階で他と考えが似ていないだけでなく、
そこからさらにもう一段階解決策アイデアがジャンプすることができます。
そうなれば、最終的なアウトプットが同質化することは少なくなるのです。

リボン思考(参考)
http://www.hakuhodo.co.jp/archives/column/34495

3つのK。共有力、期待力、起点力。

考える、とは、そもそも何をすることか。
俯瞰する、分類する、掘り下げる、混合する
これらの組み合わせ。

~~~ここまで引用メモ

なるほど。
人工知能の得意とする分野は「解析」か。
なるほどね。

そして、インプットを一度「コンセプト」としてまとめてから、
アウトプットするというのは本当に重要だなと思った。

KJ法的なアプローチで陥りがちなのは、
課題に対して1対1で対応するアクションを考えてしまうこと。

それは本当に課題なのか?と、
問いかけつつ、それらを横断した
コンセプトをつくることが大切なのだなと。

クライマックスは、「デザイン思考」についての言及。
これが鋭かったのです。

~~~ここからさらに引用

デザイン思考は、新しいものを生み出すプロセスとして、
デザイナーの思考に注目してそれを定型化したものです。

つまり
「デザイナーの思考方法を、デザイナーでない人も使えるようにした思考」
であり、
「新しいことを生み出すために創造的に課題解決する思考」といえます。

デザイン思考がビジネスの現場で一般的になるにつれ、
新たな課題も見えてきました。

1つめが「形骸化し、同質化が起こり始めている」ということ。
デザイン思考のプロセスがやや定型化しすぎて受け止められている。
デザイン思考という「思想」ではなく、「手法」が重要視(目的化)されて
しまっている。


2つめは「デザイン思考では、課題解決の域を出ないこともある」ということ。

デザイナーは、「創造的な解決策を提示する思考を行う人」で
可能性を理解し、可能性を活用する人

それに対しアーティストは、
「創造的な問いを発する思考を行う人」といえます。
新しい方向性を探索し、可能性を見出す人です。
アーティストは必ずしも解決策を提示しません。

アーティストがなぜ現状の延長線上にないアイデアを
生み出すことができるのでしょうか?

それは、解決策という目の前の制約がないからです。
その分自由に枠外のことを発想し、結果、課題そのものを
見直す力を持つことがあります。
このアーティストの思考を形式知化したものが「アート思考」です。

・創造的な「解決策」を提示するデザイン思考
→現状に比較的近い領域にある新しいアイデアが出てくる可能性がある

・創造的な「問い」を発するアート思考
→現状の延長線とは全然違う領域で新しいアイデアが出てくる可能性がある。

ということを踏まえて、

リボン思考とは、

プロセスの固定化を起こさないために、
「自由度の高い最低限のフレームを用意すること」

最初の課題設定で枠外の発想を可能にするために、
「創造的な問いからスタートすること」
情報のクオリティを高めるために、
「インプット手法の創造性を重視すること」
アイデアの同質化を起こさないために、
「コンセプトという集約行為を大切にすること」
1人の能力の限界を大幅に超えるために
「チームでの共創を基本とすること」

の5つを重視している。

~~~ここまで引用

な、なるほど~
最後の5か条はめっちゃ共感します。
「問い」が大切なのですよ。
すべて「問い」から始まるのです。

問いから始まって、
いろんなドアを開けていくのだなあと。

その原動力は
好奇心じゃないかなあ。

「学びたい」っていうのは、そもそも、
「何ができるのか知りたい」っていう好奇心
なのではないかな。

好奇心、
偶然、
実験。

この3つを大切にしながら、次のステージに進みましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)

2018年03月15日

これからの「地域メディア」をつくる

川崎市・武蔵新城駅前の「新城劇場」が
「shinjo gekijo」にリニューアル中。

地元産野菜を使ったクレープとジェラートの「Revegee」、
本屋の後をつぐ「よりみちブックス」、
大学生4人で立ち上げた「出会えるラジオ、まるラジ」

の3つが1つの建物を分け合うようになる。
(6月オープン予定で進行中)

そんな中で、
まるラジがクラウドファンディングに挑戦中。

https://camp-fire.jp/updates/view/48907
未来に悩む若者のために、フリーペーパー『まるラジおとな図鑑』を作りたい!

たぶん、この場所が
これからの地域メディアの実験場になっていくのだろうと思う。

http://hero.niiblo.jp/e486304.html
メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)

http://hero.niiblo.jp/e486326.html
本屋というメディアをつくる(17.11.20)



ふたたび、「MEDIA MAKERS」から引用するけど、

~~~以下引用

何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。

Media型:送信者1 VS 受信者N ヤフーニュース等
Tool型:送信者N VS 受信者1 G-mail等
Community型:送信者N VS 受信者N フェイスブック等

メディアの影響力の本質
メディアで語られる=生きた証が記憶されるということ
メディアの価値「予言の自己実現能力」

これまでは、さまざまなビジネス上の
生態系をもとに産業の垣根ができていたわけですが、
クラウドのインフラ上では、あらゆる境界線が溶けてなくなりつつあります。
そんな状況では、メディア企業と事業会社や広告主の境界線も消滅しつつあります。

さらに、プロとアマチュアの境界線も、
例えば、大学と書店とコンサルティング会社とビジネス・カンファレンス業と、
専門出版社の境目すら消えつつあるわけです。
知識を売る、という意味では、大学も書店も、
コンサルティング会社も全てフラットに同一平面上に並ぶわけです。

そして、徹底的にアンバンドリングが進んだ後には、
これまでとは違ったメディア環境が広がり、
アンバンドルされたものがまた別の視点から
パッケージングされ、リワイヤリングされているのではないでしょうか?

その際の主役となるプレイヤーは誰でしょうか?
私の仮説では、それは個人です。

雑誌がオーケストラなら、メルマガはロックバンド。

~~~ここまで引用

そうそう。
境界線が溶けてなくなっている現在において、
主役となるプレイヤーは、「個人」であって、
その「個人」には大学生もなりうるということ。

「何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。」

最近、新刊書店をやっぱりやりたいなあと思うのは、
メディアの力が予言の自己実現能力だとすれば、

新刊書店っていうのは、
まさにそういう場だし、
僕がヴィレッジヴァンガード郡山アティ店で感じたのは
まさにそれだった。

http://hero.niiblo.jp/e337058.html
「本屋という双方向メディアの可能性」(14.1.17)

大学生が地域メディアのプレイヤーになる。
たぶん、まるラジはそういう実験なのだろうと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2018年03月13日

探しもの


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

読み終わりました。
ラストに近づくほどいろんなものが見えてきます。

僕がヒットしたのは、
文明と文化について。

~~~以下引用

文明は人間が自分の外側に作り出したある仕組みで、
私たちを豊かにし、便利にし、快適にするものとして作られた。
それは常に更新されるもので、
効率と雇用とお金を生み出すはずだったんです。

文化というのは人間が自分たちの内部に育ててきた仕組み。
それは私たちの歴史と共に歩んで、私たちの生命を守り、生活を支えてきた。
場所に依存して、風土に寄り添い、そこで常に伝えられるものとして意味があったんです。

文明はここ数十年、
長く見ても数百年くらいに人間が勝手に作り出したもので、
それよりもずっと長い文化の歴史があったのに、
文明によって世界全体を覆おうとする動きのほうにみんな来ちゃったんですよね

人間はメカニズムとして機械論的に世界を因果関係で説明できるとみなして、
それを作っているパーツを制御したり交換すればコントロール下におけると考え始めた。
その源流はフェルメールの時代、1600年代にある。
その頃はまだ世界はよくわからない動的なもので、科学と芸術はそれほど分化していなかった

レーウェンフックやデカルト的なほうを選んじゃったのは、
そのほうが資本主義社会に親和的だったからだと思うんです。
分けて部品化して商品化されていくという流れで。

~~~ここまで引用

なるほど。
生物学と社会も密接につながっているんだなって。

「社交する人間」(山崎正和)を思い出した。

http://hero.niiblo.jp/e484451.html
「アルスの終焉」(17.4.7)

かつて、「アルス」と呼ばれて、
芸術と技術と社交は一体であった。

「資本主義社会との親和性」
という言葉が胸に刺さる。

ダーウィンが言うように、
人間(動物)は「適応」する生き物である。

人間にとって、
「世界」が「資本主義社会」で覆われているとすれば、
そこに適応したビジネス、そして学者が生き残っていく。
それの集合体を「文明」と呼ぶんだな。

そこに適応していなくても、
コミュニティには、「文化」がある。
その価値をもう一度見つめなおすときに来ているのだろうな。

福岡さんが、こんな言葉を残している。

生物学者としての私の問いは、
「生命とは何か」を言い表す言葉を探す
ということに尽きると思うのです。

これをビジネスマンに置き換えたらどうだろうか。
「ビジネスとは何か」を言い表す言葉を探す、
ということに尽きる。

ということだ。

本屋だったら、本屋とは何か?
に答えていくこと。

僕にとってまきどき村とは、
「豊かさとは何か?」という問いに対して
リアルに見せたかったという「アルス」
だったんだろうなと。

さて。
次の本屋はどんな「アルス」になるのだろうか。

何を探しに行くのだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2018年03月07日

歌われざる英雄が詰まった本棚


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

福岡さんが発見したGP2遺伝子の働きを検証するために、
GP2ノックアウトマウス
(GP2遺伝子を遺伝的に排除したマウス)
をつくり、それにどんな異常が起こるのか、
見守っていたところ。

異常なし。

必ず異常があるはずだと思って、
血液を検査したり、細胞を調べたりしたけど
どの値もみんな正常。
寿命も短くならない。

そこで福岡さんは気がついた。
「生命は機械なんかじゃありませんよ。
もっと流れ流れているダイナミックなものです」

それを言っていたのが、
福岡さんにとってのアンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)
であるルドルフ・シェーンハイマー博士だった。

アイソトープを使った
食べ物実験でわかったことは、
日々、食べ物の細胞と体の細胞が入れ替わっている、
シェーンハイマーはこれを「ダイナミック・ステート(動的な状態)」
と呼んだが、福岡さんはバランスがとれているというコンセプトの
ほうが大事だと思ったので、これを「動的平衡」と訳した。

つまり、自然界においては、
そのような平衡状態が存在しているっていうこと。
まあ、動的平衡の話はおいといて。

http://hero.niiblo.jp/e485211.html
「アンサング・ヒーロー」(17.6.30)

僕が好きなのは、
歌われざる英雄(アンサング・ヒーロー)のほうだなあと。











暗やみ本屋ハックツって
それを象徴したようなものですよね。

「10代に贈りたい本」っていうテーマで、
本にメッセージを付けて、寄贈した本を
10代が発見する。

今回は、図書館の本で、
メッセージだけを公募して、66人分集まったのだけど。

それって。
この本を贈りたいっていう思い、というか手紙だから。

本屋や図書館っていうのは、
ひとりひとりや、1冊1冊の本を
「歌われざる英雄」にしていく
魔法をかけるところなのかもしれませんね。

そんな本棚をつくっていきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)

2018年03月02日

貨幣とメールの共通点


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)

いったん中断していましたが、読み終えました。
うなる内容。

~~~以下引用

楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、
直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、
依然として、楕円が楕円である限り、
それは、醒めながら眠り、眠りながら覚め、泣きながら笑い、
笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。
(花田清輝 楕円幻想)

花田が言っていることの意味は、相反するかに見える二項、
これまでわたしが言及してきた言葉で言えば、
「縁」と「無縁」、田舎と都会、敬虔と猥雑、死と生、
あるいは権威主義と民主主義という二項は、
同じ一つのことの、異なる現れであり、
そのどちらもが反発しあいながら、必要としているということ

どちらか一方しか見ないというのは、ごまかしだということです。
ごまかしが言い過ぎだとすれば、知的怠慢といってもいいかもしれません。

真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、
初めからそんなものは存在していなかったかのように思考の外に追い出してしまいます。

真円的思考とは、すなわち二項対立的な思考であり、
それは田舎か都会か、科学か信仰か、権威主義か民主主義か、
個人主義か全体主義か、理想主義か現実主義か、
どちらかを選ぶのかと二者択一を迫ることです。

最大の変化は、全体給付モデルを
採用していた時代の相互負債関係のモラルから、
貨幣交換の時代の賃借関係のモラルへの
180度の転換でありました。
・贈与は義務である
・贈与に返礼してはいけない
・贈与物を退蔵してはならない
というモラルから、
・返礼を受けるのは当然の権利である
・賃借関係は等価交換によって清算されなければならない
・貯蓄は美徳である
というモラルへの転換したのです

「楕円も、円とおなじく、一つの中心と、
明確な輪郭を持つ堂々たる図形であり、
円は、むしろ楕円のなかのきわめて特殊な場合である」
と花田は言っています。
にも関わらず、ひとは真円の潔癖性に憧れる。

貨幣:非同期交換を可能にした、劣化しない価値の担い手(だと信じられた)
インターネットメール:非同期的コミュニケーションを可能にした

非同期的コミュニケーションの結果、
人々が、聞きたい声だけを聴き、読みたい記事だけを読み、
連絡したい仲間とだけ交信することが可能になり、
その結果、社会が、世代間や、趣味や、嗜好によって、
分断されてしまったことです。

コミュニケーションのツールを手にしたゆえに、
社会が、言葉が通じないグループに色分けされることになったのです。

貨幣が、社会を富者と貧者に分割したように、
コンピューターもまた、情報格差の問題を生み、
さらには、それぞれの趣味や嗜好や政治思想ごとの小さなグループへ
分断してしまったのです。

その一番大きな問題は、
一度グループに分断されてしまうと、
もう、ほかのグループとは
コミュニケーションをしなくなってしまうことです。
回復の回路が切断されてしまうということです。

SNSでほかのグループにいる人間と出会うときは、
罵倒するか、冷笑するか、無関心かのいずれかの
態度しかとれなくなる。

そもそも、関心がない相手との回路は、
断ち切ることが可能になっているツールなので、
必然的に、同じような価値観をもった人間ばかりが集まることになります。

どちらのツールも、
コミュニケーションの必要性から生まれてきましたが、
結局、どちらもコミュニケーションツールを断絶する道具として、
社会に機能してしまっているからです。

その結果、人々は自由を手にするわけですが、
自由を手にした分だけ孤立化し、分断されることに
なっていったのではないか。

現代という時代ほど、金銭の万能性が強まった時代は
ないように思えます。
世の中には「等価交換のモラル」だけしか、
なくなっているかのように見える。
しかし、それは、「贈与のモラル」が消え去ったということではないのです。

日蝕、あるいは月蝕のように、
二つの焦点が重なってしまい、
「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の
背後に隠されてしまって見えなくなっている
ということにすぎません。

わたしたち現代人が陥っている陥穽は、
こうした楕円的で両義的な構造を持つ、
異なる経済・社会システムや、
モラルの体系というものを、
二者択一の問題であるかのように錯覚してしまうことです。

現代社会を覆っているのは、
むしろ、この「これだけしかない」という
見方の硬直性であると言えるかもしれません。

~~~ここまで引用

うわー、引用しすぎた。
全部読んだ人はご購入ください。(笑)

そっか!って。

貨幣とメールは、
「非同期交換」っていう共通点があるんだ。

それによって、貨幣は貯めこむことが価値ができて、
メールやSNSは、志向性が近い人と知り合える、逆に言えば
自分が望む人としかコミュニケーションしないようにできる。
そうやって人と人が分断されていく。

そして、最近起こっている、
贈与経済の胎動のような動きは、
そのもうひとつの軸を示しているのではないか。

そしてそれは、
「貨幣経済」か「贈与経済」か
というような二元論ではなく、
楕円のように2つの焦点を持ちながら共存していく、
そんな社会を実現していかなきゃいけないんじゃないか。

うんうん。
ホント、そうだなあと思う。

若者の生きづらさの深いところには、
「二元論」的な社会の雰囲気があるのだと思う。

就職するか、起業するか。
みたいな。

本当は、ぜんぜんそんなことない。
贈与の仕組みの中に入ってしまえば、
どちらもする必要がない。

「正解」なんてない。
そんなことみんな分かっているはずなのに、
二元論で考えてしまう。
そうやって分断が起こり、冷たい社会になっていく。

本のある空間のひとつの使命は、

世の中には多様な価値があり、
二元論では説明、解釈できないのだという
メッセージを放つこと。

それはそのままその人を
問いの海に放り込むことになるのだけど。

「価値とはいったいなんだろうか?」
と問いかけるような場をつくらないといけない。  

Posted by ニシダタクジ at 06:52Comments(0)