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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





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2017年06月18日

ハタチのためのブックガイド

ハタチのためのブックガイド
そんなのを作ってみようかなと思う。

岡倉天心の五浦で読むのがオススメ。
みたいなやつ。

じぶん編
しごと編
くらし編

おまけで
ばづくり編
とか。
かな。

みたいな感じですかね。

まずは「じぶん編」
「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)

まずはここから入門かな。
日本の学校環境の同調圧力について考えてみる。
鴻上さんの熱いメッセージにシビれる

そして「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
ここでは、自由と承認、そして「親和的承認」について理解する。

で、「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)かな。

この3つ。
これで「自分」と「他者」について
相対的に、全体的に、俯瞰的に見てみる。

次にどう生きていくか、視野を一気に広げる。
ヘリコプターで上に上がっていくような感じ。

「独立国家のつくり方」(坂口恭平 講談社現代新書)
自分たちが今見えている世界だけが世界ではないのだと実感する。

「自分とは何か」(平野啓一郎 講談社現代新書)
本当の自分など存在しない、「分人」を生きることを提案してくれる。

「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)
歴史的視点から、自分とはプリズムなのだと教えてくれる。
この3冊でさらに高い視点でじぶんを見つめなおす。

こんな感じ。

ちょっと続けます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)

2017年06月13日

「アイデンティティ」という音


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

まさか。
さっき書いたばっかりのブログの続きが
電車で開いた本に出てくるなんて。
どこまでも読書運が強い。

第2章 マルチプルな自己へ

一級建築士のいしまるあきこさんの
マルチな活動がひとつの肩書で言い表せない。
何屋さんですか?と言われたら、「きっかけ屋」と返すのだという。

そう「一級建築士の」と書いたけど、
それはわかりやすい肩書で、
いしまるさんの仕事は、
「〇〇のいしまるあきこ」とは言い表せないのだという。

どちらかといえば、「職業・いしまるあきこ」、
「いしまるあきこが〇〇も◇◇もやっている」
のほうがしっくりくる。
彼女自身が優れたメディアなのだと。

彼女の例をもとに、アサダさんは
自身が感じている「アイデンティティの揺らぎ」
について、次のように言う。

~~~ここから引用

2005年に上野千鶴子によって
編纂された『脱アイデンティティ』は、
アイデンティティの本質的含意に、
多様な切り口からの再考を促す
刺激的なアンソロジーだ。

上野氏はその中で、
社会学者ピーター・L・バーガーの論考を引きながら、
以下のように語る。


現実が社会的に構成されるものならば、
それを「生きられた現実」として経験する主体もまた、
社会的に構成される。
バーガーは、それを自己と現実の弁証法と呼んだ。

現実とは人間の能動的な活動が「外化(externalization)」
されたものであり、ひるがえってそれが「内化(internalization)」
される過程を経て、自己が形成される。
現実とはそのような弁証法的プロセスを得て構成された
「生きられた現実(lived experiences)」にほかならない。
☆(上野千鶴子『脱アイデンティティ』P18~19)

つまり、音楽で喩えるなら、
「個人練習」のみで自分なりの音を生み出すのではなく、
外にある世界(他者)との「セッション」を通じて、
音の質を磨き、その音に共鳴して
世界との「アンサンブル」もまた変奏され、
そして自分が次に出す音が定位される、というサイクルだ。

こうしてアイデンティティが社会的に
構築されるものだとわかれば、
逆に社会的に操作することも可能になる。

~~~

えっ。
マジか。
と思った。

さっきのブログを書いた後に、
この文章が飛び込んでくるなんて、
どうなってるんだ、読書の神様。

ジャズセッションによって、
自己のアイデンティティも磨かれていくのだとしたら、
楽しくなっちゃうなあ。

さらにアイデンティティについて、
佐々木敦さんの『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』
を引いて、次のように語る。

「アイデンティティという言葉が危険だと思うのは、
多数で複数の差異を抱えている存在様態の背後に、
もしくはその底に、「自分自身(トゥルー自分)」が
潜在していると考えてしまうからです。

僕はそれは、最初からあるのではなくて、
事後的に生み出されているものだと思います。

マルチエンディングがトゥルーエンドを
生み出すように、「マルチプル」であることが
「トゥルー」を引きずり出す。

つまり、あらゆる人間がもともとは一種の多重人格者として
生きているからこそ、アイデンティティという概念が必要と
なってきたのです。」

そして、次のように続ける。

▽▽▽ここから一部引用

私も世界もすでに、マルチプル(多様な、複合的な)であること。
つまり最初から「ひとりの自分」という概念を手放してしまうことができれば、
理解されないという悩みを根本的に打ち消すことができるかもしれない。

そして、それゆえにたったひとつの
「トゥルーな(本当の)自分」が
もしあるとしても、それはマルチプルに
生きていく中で事後的に生み出された
イメージとして存在するのみだという
事実に気づけば、いま目の前で起きている、
その時々の自分と他者とのコミュニケーションを肯定的に
捉えることができるだろう。

小説家・平野啓一郎は言う。
「すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
そこでこう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。
裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、
すべて「本当の自分」である。」

平野氏は分人という概念を提唱し、
人間を「分けられる」存在であるとする。
そして、
「一人の人間は複数の分人のネットワークであり、
そこには『本当の自分』という中心はない」と答える。

分人主義を突き詰めていく先には、
複数の分人のネットワークの総体
を何かしらメディア化して伝えたいという欲望を持ちながら、
メタ分人として他者に事後的に気づかせることを可能にし、
コミュニティ難民が抱える内的難民性をじわじわと
ポジティブに反転させてゆくのだ。

△△△ここまで一部引用

うんうん。
なるほどって。

大学生や20代が抱える「アイデンティティ」問題。
(いや、中学生高校生もだ。いやいや、僕もだ。)

その考え方の仮説として非常に興味深いし、
「ジャズセッション」のようなプロジェクトは
そのような個人のアイデンティティというか、
ひとつの「分人」が奏でる音を、
セッションしていくことなのだろうと思う。

場に合わせて、相手に応じて、
いろんな音が出せる楽器のような存在。
楽器のような人生。

本当の自分など、存在しない。

セッションを積み重ねて、
自分の音を見つけ、創っていくこと。

そんなセッションをつくるための
チューニングをするのが僕の役なのかもしれない。

そういうの、なんて言うんですか?
チューニングをする人のこと。
教えてください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年06月09日

パスを受ける準備はできているか?


「せいめいのはなし」(福岡伸一 新潮社)

「動的平衡」というキーワードで
対談しながら世の中を読み解く1冊。
第1章は内田樹さんと。

これは生物の世界と経済の世界の話を
リンクさせて語っている。

内田さんの「贈与経済」の話は、
前から読んでいたのだけど、
その表現方法が美しかったので、引用。

~~~ここから引用

富全体が増えていても、循環しなくなってくると、
経済システムの生命はだんだん衰弱してゆく。
いま、日本を含めて世界の経済システムが死にかかっているのは、
運動がなくなっているからだとぼくは思います。

回っている「もの」のほうに価値があると思い込んで、
回すことそれ自体が経済活動の目的なんだという
根本を忘れてしまったからだと思う。

だから、僕が提案しているのは贈与経済の復権なんです。
「交換から贈与へ」ということなんです。
要するに、受け取ったものをどんんどん次にパスしましょうよ、と。

90年代以降、商品は
個別的な有用性や実用性(使用価値)を離れて、
象徴価値(所有者の帰属階層やアイデンティティを示す能力)
にシフトします。

消費行動が誇示的なものに変わった。
こんな服を着て、こんな家に住んで、
こんな車に乗って、こんなものを食べて・・・
ということを誇示することで、
自分自身のアイデンティティを基礎づけた。

物欲には身体という限界があります。
1日に食べられる消化能力を超えられないし、
着られる服の数だって限られている。
でも、自己同一性を基礎づけるための消費には
「これで終わり」ということはありません。

~~~ここまで引用

なるほど。
経済も生物も「動的平衡」なのだと、まわし続けることだと。

それを無限に続けるために、
「誇示的消費」が生まれたのだなあと思う。

しかし、誇示的消費は、自己矛盾を抱えていて、
自分自身が唯一無二であるというアイデンティティを、
ものを買うことで満たすことは、
その「もの」自体が、ある一定層の人が
一定数持っていなければいけない。

そんな自己矛盾を抱えている。そしてそれが
「自分らしく生きるためには『自分らしさ』を誇示する
商品を買うためのお金が要る。」という理屈を生み出し、
お金がない人はまだ自分になっていない、ことになり、
ネットに「名無し」という名乗りで書き込み続け、
アイデンティティを誇示するしかない。

これが三浦展さんの「第4の消費」で説明されているような、
必需品が終わったあとの需要の喚起のために、
経済界がとった(結果として、かもしれないが)戦略であった。

そして、これに続く内田さんのたとえが素晴らしくて、引用

▽▽▽ここから引用

でも、これはやはり発想の根本が間違っていると思う。
どんな商品を所有していようとそんなことは
本来何の関係もない。

クラ交易と一緒で、貝殻自体には何の意味もないんです。
問題はそれをどうやってパスするかということであって、
パスの仕方によってのみその人のアイデンティティは示される。

サッカーやラグビーのようなボールゲームには
太古的な起源があると思うんです。よくできている。
人間が営むべき基本的社会活動の原初的な構造を持っています。

与えられたものは次に渡さなければならず、
渡すときにできるだけ多様な形の、自由で、
ファンタスティックで、予想を裏切るようなパスを
しなくてはいけない。

ボールをもらったらワンタッチで次にパスしなければいけない。
だから、パスをもらってから、そこで「次、どうしようかな」
と考えていたら間に合わないのです。

ふだんからずっと考えていなくちゃいけない。
いつもいつも「いまパスをもらったら次にどうパスしようか」
を考えている。

贈り物の受け手がどこにいて、
どんなふうに自分を待っているか、
自分がもらったら遅滞なく次に渡す相手に
あざやかなパスを送ることだけを
日々、考えているような人こそが、
贈与経済の担い手になりうる人だと思うのです。

与える先は、ボールゲームと同じで、
「その人の前にスペースが空いている人」です。
次にパスする選択肢がいちばん多い人。
ボールゲームでは必ずそういう人に向けて、
パスが送られる。

もらったボールを退蔵する人や、
いつも同じコースにしかパスを出さない人の
ところにはボールは回ってこないんです。

そういう点で、
ボールゲームの意義は、人間の経済活動の、というよりも
社会を構成していくときの根本原理が
書き込まれているんじゃないかとぼくは思っているんです。

△△△ここまで引用

うわああ。
すげええ。
もう、シビれちゃったよ。

今日のブログは、本当は、
アサダワタルさんの本を引用して、
「余白」について書こうと思ったのだけど、

朝、ふと目に留まったこの本を読んでたら
うお~!って叫びたくなっちゃった。

パスをもらうためには、
「目の前にスペースを空けておくこと」
「次にどこにパスを出すか、考えていること」

そしてなにより、
「多様な形の、自由で、ファンタスティックで、
予想を裏切るようなパス」をしなくてはいけない。
しかも瞬時に。
それこそがアイデンティティなのだ。

うーー。
唸るわ。

そういう意味では、
古本屋って、とっても素敵な仕事だな、って。

受け取った本を、ワンタッチで、
ファンタスティックで、予想を裏切るように
棚に並べ、
次のプレイヤーにパスを出す。

そこには、前にスペースが空いている
プレイヤーがやってきて、
そのパスを受け取って、先に送る。

それをぐるぐるぐるぐる回していく、
それが古本屋という仕事なのではないだろうか。

まるでラグビーのように、
ボールを持った人が、まずは突破していき、
絶妙のタイミングでフォロワーにパスを出す。

そうやってパスをつないでいくような仕事。
そんな仕事をしたいと思う。

あなたのまわりに、
そんな「突破」をしている人がいないだろうか?

そしてそもそも、
あなたの前にスペースは空いているのだろうか?

パスを受ける準備はできているか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)

2017年06月07日

あなたのために、このお店を始めた

「お店をやる」ってどういうことだろう。

2014年11月24日。
http://hero.niiblo.jp/e457867.html

中学2年生のメイちゃんが
ツルハシブックスに屋台を出した日。

メイちゃんは、その少し前
お父さんに連れられて、
お姉ちゃんの塾のお迎えのための
時間つぶしにやってきた。


その日は、「鶴酒場」という飲み会中だった。

えっ。
なんだここ。
とビックリしたと思う。

聞けば、部活を辞めたばかりで、
何に打ち込めばいいのか、
もやもやしているのだという。

「屋台、やってみればいいじゃん」
そんな声を掛けた。

それが実現したのが、2014年11月24日。
今では高校に元気に通っている。

そしてもうひとつ、2012年12月23日。
http://hero.niiblo.jp/e222624.html

「失恋に効く本、ありますか?」
とクリスマス直前に入ってきた学ランの高校2年生男子。

彼にテキトーにアドバイスする大人たち。
「詩を書けっ。今ならいい詩が書ける。」
ってそんな・・・

その日は2Fでクリスマスライブがあって、
みんなそのため、1Fからはいなくなる。

ライブの受付を終え、1Fに戻ってみると、
彼は、まだいた。

少し明かりを落とした店内で話をしていた。
フリー看護師(当時)のなっぱさんと。

そして、力のない笑顔でこう言って帰っていった。
「また来ます。」

お店には、そんな瞬間がある。
いや、仕事には、人生にはそんな瞬間がある。

それを、リアルに感じられる場所。
偶然を起こせる場所。
それが小さなお店なのかもしれない。

僕の仕事観、人生観は、
工藤直子さんの「あいたくて」
に集約されているのだけど、

「あいたくて」工藤直子

 あいたくて
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきた──
 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか
 あえるのは いつなのか──
 おつかいの とちゅうで
 迷ってしまった子どもみたい
 とほうに くれている

 それでも 手のなかに
 みえないことづけを
 にぎりしめているような気がするから
 それを手わたさなくちゃ
 だから

 あいたくて

お店をやるっていうのは、
渡さなければいけない気がする手紙を
預かっているからで、それを渡したいのだろう。

それを渡す相手が誰なのか?

それが顧客は誰か?
という問いなのだろうと思う。

小さなお店に立っていて、
次に入ってくるお客さんが、その人なのかもしれない。
暗やみ本屋ハックツに寄贈した本が、
もしかしたらその人に届くかもしれない。

そんな瞬間に立ち会えるかもしれない。

だから人は、小さなお店を始め、
あるいはハックツに本を寄贈し、
そして中高生と一緒に本屋を運営するのだろう。

「あなたのために、このお店を始めたんだ。」

そう思える瞬間のために。  

Posted by ニシダタクジ at 05:28Comments(0)

2017年06月06日

2人の「顧客」


「経営者に贈る5つの質問」(P.F.ドラッカー ダイヤモンド社)

最近よく出てくる
「5つの質問」をあらためて
考えてみようと思って購入。

もともと、5つの質問は
非営利組織のために書かれたのだという。

非営利組織は、損益というコンセプトが
ないからこそマネジメントが必要であり、
ミッションに集中するにはマネジメントを
駆使しなければならない。

そうそう。
そうなのだ。

非営利組織の評価は売上や利益だけでは測れない。
だからこそ、顧客と顧客にとっての価値を
問い続け、検証し続けなければならない。

今回得た新しいエッセンスは、
組織には、二種類の顧客がいる、ということ。

~~~ここから引用

一方は、活動対象としての顧客(プライマリー・カスタマー、主たる顧客)、
すなわち組織の活動によって生活と人生を変えられる人たちである。
組織が成果をあげるには、活動対象としての顧客を絞らなければならない。
「われわれの顧客は誰か?」という質問に答えなければならない。
焦点を絞らなければ、エネルギーは拡散し、成果はあがらない。

もう一方は、パートナーとしての顧客(サポーティング・カスタマー、支援者たる顧客)
である、ボランティア、有給スタッフ、寄付者、委託先など、
やはり組織の活動によって満足させるべき人たちである。

彼らパートナーとしての顧客は、組織が提供するものに
ノーと言える人たち、つまり組織の活動とのかかわりを
拒むことのできる人たちである。
彼らこそ、組織が意義ある奉仕の機会を与え、
その寄付を成果に結びつけ、その活動をコミュニティのニーズに
応えさせることによって、満足させるべき人たちである。

活動対象としての顧客だけが顧客ではない。
パートナーとしての顧客が満足しなければ
成果をあげることはできない。
そこで、パートナーとしての顧客を
活動対象としての顧客と並置したくなる。
しかし、組織が成果をあげるには、
その焦点はあくまで活動対象としての顧客に絞らなければならない。

~~~ここまで引用

なるほど~。
パートナーとしての顧客か~。

ツルハシブックスのサムライとか
新城劇場のスタッフ(現在呼び名検討中)は、
きっとこれですね。

新城劇場のマキちゃんのブログ。
http://ameblo.jp/22375324/entry-12281148750.html

新城劇場は、
「活動対象としての顧客」を「中学生・高校生」に設定している。
地域の中学生・高校生が変な本屋に出会い、
屋台で何か売ってみたりするような本屋さんを目指す。

そして、
「パートナーとしての顧客」を「大学生・20代社会人」を想定している。
彼らが、店員となって、劇場をプロデュースする。
自ら何かを売ってもいい。

「活動対象としての顧客」の価値は、
これから対話をしながらつくっていかなければならないが、
ツルハシブックスや暗やみ本屋ハックツなどでの経験からいけば、

「地域の大人との出会いによる視野の広がり」
「部活に代わる第3の熱中できる場の提供」
であり、そのためには屋台でモノを売ってみる、とか
自らもスタッフになって何かを企画・実行する、とかがいいと思っている。

一方で
「パートナーとしての顧客」の価値は、
第1に「本屋のある暮らし」ができること。

そしてそれは、本屋のお客として、ではなく、
本屋の店員として、の暮らしである。

新城劇場で店員をやる。
それは、劇場の中の演者になるということ。
入ってきた人はお客さんではなく、共演者であるということ。

そんな時間があるような暮らしを
大学生や20代は必要としているのではないか。
いや、実際、僕が必要としているのだけど。笑。

なんというか、マキちゃんがブログに書いているように、
「生きてるな」っていう感じがあるのだろうと思う。
日々、「生きてるぜ」って実感しながら生きたいと僕も思う。

そしてそれが
「パートナーとしての顧客」であるスタッフの価値であるのではないか。

また、「活動対象としての顧客」を呼ぶために、
どのようにアプローチするか?を問いかけ続けることによって、
あるいはスタッフ皆でミーティングすることによって、
そこには「思考する時間」そして「学び」があるからだろうと思う。

そんな連鎖を生み出すことによって、
「武蔵新城」というまちの魅力を高めていくこと。
シンプルに言えば「住みたいまちをつくる」ということ。
それが「新城劇場」プロジェクトなのだろうと思った。

さて。
今週末10日(土)は、暗やみ本屋ハックツ@新城劇場のオープンです。
10代に贈りたい本を持って、遊びに来ませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:04Comments(0)

2017年06月04日

国家がプロデュースした「神話」と博物館という「神殿」


「誰も戦争を教えてくれなかった」(古市憲寿 講談社)

移動があったので、1日で読み終わりました。
3時間くらいかな。
古市さんのスタイルは読みやすいし、
随所に出てくるツッコミが好き。

さてさて。
「あの戦争」について、28歳(当時)の古市さんが、
世界各地の戦争博物館を見て回り、
その考察を1冊にまとめた本。

いわゆる、「戦争本」とは違い、
なんだろう、メタ的に「戦争」を
遠目から眺めようという感じ。
社会学好きな人にオススメ。

読書サーフィンというか。
この本も川崎駅のブックオフで買ったのだけど、
最近は、読む本がみんな関連しているようで
とっても楽しい。

最近のテーマは、
「就職」とか「キャリア」を考える前に「近代」をどうとらえるか?
「国民国家」というシステムをどう考えるか?
ということなのだけど、そういう意味でも今回の本はとても面白かった。

「近代国民国家は、政教分離という「政治に宗教の力は借りません」
という宣言からスタートした。
だけど人をまとめあげるのに宗教ほど便利なものはない。
そこで、宗教に代わる新しい神と、
新しい国民神話を、国家プロデュースのもと作ろうとした。」

つまり、博物館は「神殿」なんだと。

「近代」というのは、戦争の時代であり、
中世との最大の違いは、
戦争において国民が戦うということだ。

なるほど。

産業革命にともなう、急速な人口増。
それに伴う資源の不足。
それを他国や南方に求めた西欧諸国。
その前に「民主主義」の成立があった。

民主主義だろうが、貴族が国を治めていようが、
国というシステムを採用するということは、
誰か政治をする人がいて、その政治を受け入れる人がいるということ。

フランス革命のあと、時の為政者たちは、
宗教に代わる国家プロデュースの神話をつくろうとした。

日本も同じだ。
明治政府は天皇を神とする国民国家へと
一気に舵を切った。

堀江さんが
「すべての教育は洗脳である」(光文社新書)
に書いているように、
「国民国家」そのものがファンタジーなのだと。

だから、現在、世界各地の
戦争博物館を見て回ると、
その国の戦争に対するスタンスがわかる。

ドイツは、敗戦国としての責任を甘受しようとしているし、
イタリアは、国家という意識がそもそもないから、
国のスタンスとしての博物館がない。

中国は、日本に侵略された歴史を少し語り、
韓国は、朝鮮戦争後の独立を語る。

しかし、我が国の博物館は、
明確にスタンスを決めることなく、
いろいろな主張に配慮した展示となっている。

でも、きっと、
日本はそういうものなのだ、と。

「誰も戦争を教えてくれなかった」のは、
「大きな物語」、つまり統一見解として、
いまだに「あの戦争」を位置づけられていないからなのだと、
古市さんは言う。

そういうことが苦手な民族なのかもしれない。
あるいは、為政者たちに「経済成長」という物語に
意図的にシフトさせられたのかもしれない。

時代の流れで、
民主主義が起こり、近代国民国家が成立した。
国民が国のために戦う「国民国家」は戦争にめっぽう強かった。
そしてアジアがそこに巻き込まれていく、そんな時代。

為政者はいつも、民衆には思考停止を望む。
それのほうが効率的だからだ。

戦争博物館を通じて見えてくる、国家と国民の関係。
国民国家という仮説。

それって今の
企業と個人の関係にも似ているのではないなと思うのだ。

思考を深めるいい1冊でした。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:41Comments(0)

2017年05月29日

「近代」というアイデア・テクノロジー


「なぜ働くのか?」(バリー・シュワルツ 朝日出版社)

を読んだ後で、

「近代の意味」(桜井哲夫 NHKブックス)
を読んでます。

「近代」がどのように、
人々を洗脳していったのか。

「近代」あるいは「民主化」は、
上昇志向(努力すれば出世できる)という「平等」を共有することで、
国家のために生きる人々を作り出す。
その装置として、学校というシステムが生まれた。

「なぜ働くのか?」の中で
著者は、「テクノロジー」について、
新しい見方を提案しています。

~~~以下引用

「テクノロジー」の概念を、
日常生活の状況を変えるために人々の知性が
生み出した物や手段と考えるなら、
アイデアもまた、コンピューターに勝るとも劣らない
テクノロジーの所産であることは自ず明らかでしょう。

ところで、多くの「モノのテクノロジー」と
「アイデアのテクノロジー」を分け隔てる要素が2つあります。

第1に、アイデアは物体とは違って、
気づかれないうちに人々に深い影響を及ぼします。

第2に、アイデアは、モノとは異なり、
たとえそれが間違ったものであっても、
人々に重要な影響を及ぼす可能性があります。

企業は悪影響を及ぼすテクノロジー製品を
売り続けることはできませんが、

誤ったアイデアは、人々がそれを信じるかぎり、
その行動に影響を及ぼすのです。

誤ったアイデアに基づいた
「アイデア・テクノロジー」を「イデオロギー」
と呼ぶことにしましょう。

アダム・スミスによれば、

「ごく限られた単純労働だけをこなして生きてきた人物は・・・
自らの見識を披露する機会、もしくは、経験したことのない
困難に対処するための創造性を行使する機会を持たない。
彼は、それゆえに、努力するといった習慣を自然と失い、
人間という生物がそうなりうる限りに、
愚かで無知な存在へと概してなっていくのである」

のだという。

ここで注目すべきは
「失い」と「なっていく」というキーワードです。

では、工場で働く人々が
以前は持っていて、その後「失った」ものとは一体なんでしょう?

この引用には、
働き手としての人間のあり方は、その人の働く環境による、
そうスミスは信じていたという証拠を見てとれます。

しかし、いつのまにかこの微妙なニュアンスは
忘れ去られ、経済的効率のみに意識が向けられ、
労働環境が非人間的なものに変化していったのです。

~~~ここまで引用

このあと、「やればできるの研究」の
ドゥエック博士を引用しながら、
物質的インセンティブが機能しない理由などに
ついて語っていきます。

これが「近代」の意味という本では、
フランスに国民国家社会が出来上がっていくまでが
段階を追って書かれています。

僕たちは、
「近代」というアイデア・テクノロジーを
無条件に信じてはいないだろうか?

そんな問いをくれる2冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年05月26日

「未成年」を抜け出る


「わたしのはたらき」(西村佳哲 弘文堂)

のラストから引用

西村さんが今回の嬉しい出会いのひとつとして
坂口恭平さんが紹介したカント「啓蒙とは何か。」

~~~ここから引用

「啓蒙の定義。啓蒙とは何か。
それは人間が、自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだ。」

“抜け出る”ことだと書いてある。
“抜け出させる”ことではなないんですね。

「未成年の状態とは、他人の支持をあおがなければ、
自分の理性を使うことができないということである。」

この文章に少しドキッとします。
とくに「未成年」という言葉に。

それは自分に「その部分はありはしないか?」
というのが一つ。

あと、
「人を未成年の状態に留めておくような仕事を、
自分はしてはいないだろうか?」と

「ほとんどの人間は、自然におしても
既に青年に達していて、他人の指導を求める
年齢ではなくなっているというのに、
死ぬまで他人の指示をあおぎたいと思っているのである。」

「また他方では、あつかましくも、
他人の後見人と僭称したがる人もあとをたたない。」

人に「ああしなさい」「こうすべきだ」と指図する人たち。
いまで言えば自己啓発をビジネスにしている人たちが
該当するんでしょうか。

書かれたのは1784年ですから、230年前からいるのか。

ということは、他人に指南を求める心性も
現代人の特質というわけではなくて、
その資質として人間が持っているものなのかもしれない。

それでもなお、「本人がみずから抜け出る」
ことが大事であると考えるなら、重要なポイントは、
「大人になりましょう、と諭すことじゃない。
ちゃんと「大人扱いする」ことだと思うわけです。

~~~ここまで引用

なるほど。「未成年」の状態から、本人がみずから抜け出ること。
これって、「20代の宿題」なんじゃないかな。

自分で考え、自分で判断し、行動する。
そして結果を他者からフィードバックをもらいながら、
みずから受け入れていく。
きっと、この繰り返しでしかない。

会社や世の中のせいにしない。

今年2月、岡倉天心から学ぶこれからの成人式という
タイトルでプレゼンをした。

岡倉はまさに、
未成年の状態を抜け出した人だったと思う。

自らの感性を信じて、
東京美術学校(現東京藝大)を飛び出し、
インドにわたり、五浦に日本美術院を移設。
そして世界へ、自らの理想と思想を発信し続けた。

五浦に、その魂が眠っている。

それを拾いに行くところから、
20代の宿題は始まるのではないか。

五浦からはじまる、
これからの成人式、僕は強くお勧めします。  

Posted by ニシダタクジ at 05:48Comments(0)

2017年05月25日

チームという生命体


「わたしのはたらき」(西村佳哲 弘文堂)

年明けからつづく、
西村さんキャンペーン、ついに6冊目。
「自分の仕事を考える3日間」シリーズのラスト。

皆川明さんのところでシビれまくった。

ミナ ペルホネンという洋服ブランドを展開する皆川さん。
もともとは陸上競技ひとすじで体育大に行くはずだったのが
インターハイで大きな骨折をして選手生命を絶たれる。

体育と美術しか能がないと思っていた皆川さんは、
高校を卒業して、何か月かアルバイトして、
そのお金でヨーロッパに行ってみた。

最後にパリについたら、ちょうどパリコレを
やっていて、たまたま出会った日本の某ブランドの人に
「手伝わないか?」と言われて仕事をはじめる。

すごい。
そんなふうに始まるのだね、仕事って。

ということで
~~~以下メモ~~~

不器用だと飽きずにその仕事ができるんじゃないかなと。
できる感覚がすぐ芽生えてしまわないことで、
逆に一生できるかもしれないと。
それで、「この仕事に決めた!」と思ってしまったんです。

最初の生地のところから一貫して洋服をつくることを
ひとりでやってみようと思ったのがミナの始まりでした。

アルバイトをしながら洋服づくりの仕事もできるんじゃないか。
で「お金はいいので教えてください」と染屋さんや機屋さんにお願いして。

魚市場で冷凍マグロをさばく仕事を始めたんです。
ミナの仕事の基本的な考え方はその魚市場で形成された
と思っています。

あと大事にしたいと思ってやってきたのは、
経済効率を優先させないことです。
ファッション業界全体は良くも悪くも合理化されていて、
モノの完成度より物流と経済性の方が優先されている。

でも洋服を換金して利益を生もうと思ったわけでもなくて、
洋服そのものをつくってみたいという気持ちで始めたわけです。
そこがブレてしまうと、この職業を自分が選んでいる意味がなくなる。

目上のクリエイターが「自己満足じゃだめなんだよ、君」と言う。
若い頃それを聞いて、「自己満足がなかったらダメじゃん」と思ったんですよね。
「自己満足のないものを世の中に発表するのは、不誠実なんじゃないの?」と。

「“やめない”ことだけ決めて、始めてみよう」

鈴木大地という水泳選手を覚えていますか?
あの人が金メダル獲った時のバサロスタートが
僕は目に焼き付いていて。
自分もバサロだと。

貨幣価値とともに、働いている人の精神的な満足も生み出したい。

つづいていくなら、自分がやぅていなくてもいいんです。
始めた時は自分自身に近かったものが、
いまは一つのフィロソフィー(哲学)を軸にした生命体のようになっていて、
そこに僕も属して役割としてデザインや経営的な判断を担っている。
そんな状態なんです。

間違えて、「ミナに入った頃は」と言っちゃう時があって。
「別の方が始めたんですか?」と訊かれたり。(笑)

服は考えが社会と接した結果です。
だから一つのモノや一人のクリエイターの素晴らしさより、
それを生み続けるベクトルというか、生命体の方にすごく興味があるんですね。

ブランドの個性は各時代のチームごとに違っていい。
社会と連動しながらやっていけばいいと思うんです。
けど、つくる姿勢や考え方。

モノはこのようにつくり、互いに満足感のある働きをして、
形にした価値が人の生活の中できちんと機能して、それが社会の潤いにもなる。
そういうものをデザインしていこうという姿勢は、
変えずに積み重ねてゆけるものだと思う。

「100年間つづくブランドの最初の30年を受け持つんだ」、
と考えれば、やることは明確です。
「準備が仕事なんだ」と思えれば、役割がハッキリするし、腰も据わる。

100年近く経つと、それがようやくフィロソフィーとして
揺るがない形になる気がする。
それは、「リレーしてみたいな」と思うんです。

バトンゾーンってわかりますか?
そこでは渡す側も、もらう側もトップスピードで走る。
僕もあと数年すると、そんなバトンゾーンに入ると思っています。
トップスピードに入って、次のクリエイターも加速し始めて。

そしてバトンを渡すときには、「もう楽勝」みたいな表情で
次の人に感情もタッチしないといけない。「もうヘトヘトです」じゃなくて。
姿が見えるくらいの頃から、「ノリノリです。あなたもイケます!」みたいな感じで渡す。
それがどんどん継続していくようにしたい、と思っているんです。

~~~以上メモ~~~

うわあ、いいなあ。
チームという生命体。
それは人が変わっても続いていく。

この前「資本主義を語る」(岩井克人 ちくま学芸文庫)で
読んだ、日本的な「法人」の考え方に近い。

そしてなにより、ココ
「でも洋服を換金して利益を生もうと思ったわけでもなくて、
洋服そのものをつくってみたいという気持ちで始めたわけです。
そこがブレてしまうと、この職業を自分が選んでいる意味がなくなる。」

ツルハシブックスを経営的に成り立たせようと思って、
試算をしたことがある。

ジュンク堂並みに売れればいい。
と。

ジュンク堂の売り上げを坪数で割って、
さらに営業時間で割って、
それに自分の店の営業時間と坪数をかける。

そうすると、坪・時間あたりの
目指すべき売上の数値が出る。

試算してみたら、ツルハシブックスは、
1000円の本を10秒に1冊売らなければならなかった。

それはツルハシブックスじゃない。
って思った。

僕がやりたかった本屋じゃない。
10秒に1冊本を売るような店では、
人と話をすることができない。

ツルハシブックスやハックツという何か。
それが生命体として続いていくような、
あるいはコメタクもきっとそんな感じだ。

ああ、こういう話、吉野さくらちゃんと話したい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)

2017年05月17日

本を通じて「手紙」を届ける

川崎市・南武線武蔵新城駅の前で進んでいる
「新城劇場~屋台のある本屋」プロジェクト
昨日はスタッフ合宿が行われていたみたい。

今度の日曜日、21日からは、
ついに、「暗やみ本屋ハックツ@新城劇場」
の工事がスタート。
(工事に参加してくれる10代・大学生を募集しています!)

「暗やみ本屋ハックツ」
2015年9月から毎月1回東京・練馬・上石神井でコツコツと
回数を重ね、20日に近所のカフェへ移転・再オープンする。
(5月からは第3土曜日が定例になります)

武蔵新城では、随時オープンな場にできそうで楽しみ。

この前、ラジオのインタビューで答えたのだけど、
「屋台のある本屋」の近い将来イメージは、
今度の夏休みくらいには、高校生が屋台で
小商いを始めているような場所になるといいなと思っている。

アクセサリーを作って売ってもいいし、
古本屋さんをやってもいいし、
雑貨屋さんをすたーとしてもいい。
資金がなかったらクラウド&リアルファンディングするのもありかな。

そんな高校生を発掘するための
きっかけにもなる「暗やみ本屋ハックツ」

サンクチュアリ出版の金子さんが顧問となって、
大きな推進力となっている。
(僕がサンクチュアリで営業をしてたころは上司だった。)
※6月10日(土)には武蔵新城に金子さん登場します。

金子さんと、2015年の上石神井オープンのとき、
福岡・大阪ツアーに行って、トークライブをした。

そのときに強く思ったこと。
ハックツは「手紙」なんだってこと。

10代に本を届ける、のではなくて、
本を通じて、手紙を届けるのだと。

「手紙」といえば思い出さずにはいられないのが、
2008年、NHK合唱コンクールの課題曲、アンジェラアキの「手紙」。
歌いながら涙する中学生の姿が日本中に届けられた。

~~~以下、2015年3月31日のブログより引用

苦しい。
なんという違和感。

いまでも僕は、
この歌を聴いて、共感はするけど、
僕は何とも言えない無力感に襲われる。

「十五の僕には誰にも話せない悩みの種があるのです。」
という十五歳の自分に対して、
「自分とは何でどこへ向かうべきか問い続ければ見えてくる。」

って。
そんな道徳的なことを言って、
果たして15歳は救われるのだろうか?

「誰にも話せない」のはなぜなのか?

そもそも「誰にも」の「誰」が
親と友達、学校の先生しかいないのではないか?
だから15歳はネット上に救いを求めているのではないか?
そんな地域社会に誰がしたのか?

そう思うと、僕はなんとも言えず悲しくなる。

~~~以上ブログより引用

そんなやり場のない憤りを感じた2008年だった。

「暗やみ本屋ハックツ」は、
地域の大人が寄贈した本にメッセージを書き、
それを暗やみで懐中電灯の灯りを頼りに、
10代が本を探し、ハックツするという仕組み。
気に入ったら1冊100円で買うことができる。

そのメッセージは「手紙」だ。

実は、暗やみ本屋ハックツは、
本を届けるのではなくて、「本」を通じて、
10代へ「手紙」を届けるプロジェクトなのである。

金子さんと話をすると、
売れた本には、「手紙」の要素があるという。
僕は金子さんとトークをしたとき、
ああ、仕事って本当は手紙なんだって実感した。

工藤直子さんの詩「あいたくて」が
僕の仕事観を表しているのだけど。

あいたくて
工藤直子

 あいたくて
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきた──
 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか
 あえるのは いつなのか──
 おつかいの とちゅうで
 迷ってしまった子どもみたい
 とほうに くれている

 それでも 手のなかに
 みえないことづけを
 にぎりしめているような気がするから
 それを手わたさなくちゃ
 だから

 あいたくて

この詩が僕の仕事観、人生観の出発点になっている。
にぎっている手紙を渡さなきゃいけない気がするから、
今日も仕事に行くのではないだろうか。

ドラッカーの質問でいえば、顧客はだれか?
という問いである。

そして、暗やみ本屋ハックツは、
それを端的に具現化したものであると思う。

手紙を届けたい相手を想像して、
手紙を書き、それが1人の人に届く。

そういう意味では
「暗やみ本屋ハックツ」は、
本屋ともライブラリーとも違う、何かであるように思う。

テレビの中からアーティストが
「負けないでがんばれ」と言うことで
多少の癒しはあるかもしれない。

でも単なる近所で今を生きている一オッサンから
届けられる本とそこに付いた一遍の手紙。

それは、文章そのものではなく、
そこにある「思い」こそ、「祈り」こそが価値だ。

そしてそれが何かの「きっかけ」になる。

そんなものを届ける本屋が武蔵新城にもできます。

あなたも10代に手紙を届けませんか?
寄贈本、随時募集しています。

  

Posted by ニシダタクジ at 05:49Comments(0)

2017年05月13日

仕事と遊びの境界線をあいまいにすること


「中身化する社会」(菅付雅信 星海社新書)
読み終わりました。

ラストの引用は鋭いものばかりで、
トリハダものだった。

その中でも飛びきりのメッセージがこちら
「普通をやめよう、生きるために」
http://rootport.hateblo.jp/entry/20121004/1349356161

スピルバーグやジェイミー・オリバーを
例に出して、
彼らは「ふつうの生き方」を選ばなかったのだという。

そしてラストはこう締めくくられる。

~~~以下引用

いま、世界は“ふつう”の人が生きづらい時代へと向かっている。
あらゆる単純作業が機械に置き換えられ、人間の仕事が恐ろしい速さで減っている。
創造的な活動だけを残して、人のすべきことは無くなりつつある。
当たり前のことを当たり前にできるだけでは、とても生きていけない時代がやってくる。

それが100年以上先なのか、それとも20年もかからないのかは判らない。
しかし、遅かれ早かれ“ふつう”の人の居場所は無くなる。
障害を乗り越えた人々の活躍は、そんな時代を生きる私たちに勇気をくれる。
「あなたは普通だね」と言われるのは、ほんとうはとても怖いことだ。
今の時代、「普通の人」って最悪の蔑称だ。「ちょっと変な人」と呼ばれるぐらいでちょうどいいのだ。

普通をやめよう、生きるために。

~~~以上引用

坂口恭平も
著書「独立国家のつくり方」の中で、

「常識というものは、文句を言わないようにというおまじないである。
まずは、そのおまじないから解放される必要がある」

「やりたいことを無視して、自分がやらないと誰がやる、
ということをやらないといけない。」

と説く。

そして僕が最もシビれたのは、リンダ・グラットンの
「ワーク・シフト」(プレジデント)からの引用だ。

グラットンは、3つの面で従来の常識がシフトしなければならないという。

第1に
「ゼネラリスト的な技能を尊ぶ常識」
第2に
「職業生活とキャリアを成功させる土台が個人主義と競争原理だという常識」
第3に
「どういう職業人生が幸せかという常識」

これら3つの常識が
問い直されないといけないという。

そして、このように述べる。

「未来の世界で創造性を発揮するうえで最良の方法は
間違いなく、仕事と遊びの境界線をあいまいにすることだ。

仕事が情熱を燃やせる趣味であるとき、私たちは最も充実した仕事ができる。
そして、情熱を燃やせる趣味が仕事であるとき、私たちは最も充実した趣味を満喫できる。」

このような文章を引用しながら、
著者は、最終的には
「人生の作品化」が必要であり、
人は常に、「人生を編集している」のだと。

なるほどなあ。

人生の編集者であり、
人生という作品をつくっているような生き方。

そんな生き方をひとりひとりが
求められる時代になっているのだなあと改めて感じた。

「生きる」ってことを
もっともっと考えなきゃいけない時代になりましたね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:10Comments(0)

2017年05月10日

現代の聖職者


「情報の文明学」(梅棹忠夫 中公文庫)

まさかの。
おととい読んでいた本に引用されていたので、
ほしいなあと思っていたら、近所のブックオフにありました。
108円。読書運、まだまだあるね。

まだ読み始めだけど
面白かったので。

情報業の先駆者たち、と題された
「情報産業としての教育、宗教」の項

~~~以下引用

より組織的に、情報を売ることを
業務としてのは「教育」の仕事であった。

現実に、一定の情報を伝達することによって、
伝達者の生活がまかなわれ、
伝達組織が維持されるものである以上は、
基本的構造は同じである。

その意味では、
組織化された教育制度そのものが、
現代における情報産業の先駆型なのである。

その意味からも、
ラジオ、テレビの放送人たちを
「現代の聖職者」とよんでも、かならずしも
見当ちがいではないはずである。

宗教集団とは、
神を情報源とするところの、情報伝達者の組織である。
「神聖化」という特殊処理をうけた
一定のタイプの情報を大衆に伝達すれば、
その伝達行為によって生活をささえることが
できるということを発見したとき、情報業の先駆形態としての
宗教が発生し、職業的宗教家が誕生したのであった。

~~~以上引用

なるほど。
情報産業というのは、現代において生まれたものではなく、
昔から存在し、教育と宗教もそれによって、
職業として成り立つ(すなわち食べていける)としたら
それは情報産業に他ならないのだという。

うむうむ。

まだ読み進めていないので、
どう展開するかわからないのだけど、

そこに近代社会的な「効率化」が加わると、
何かが変化するのかなと思う。

効率化は記号化を生み、
システム化は、提供者と消費者の違いを生む。

これはおもしろそうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年05月08日

「お買いもの」化しないインターン


「みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?」(西村佳哲 弘文堂)

まだまだ続く西村さん読み直しキャンペーン。
手持ちもものがあったはずなのだけど、
井上有紀さんから借りました。

今回も名言だらけだったのだけど、
一番響いたのは江弘毅さんのところ。

岸和田に生まれ、だんじり祭りで育った
江さんのひとことひとことが沁みる。

大人になる、ってどういうことだろう。
と西村さんから問うところから始まる。

~~~以下メモ

「何で食べてんの?」っていう問いの立て方が
一般的ですよね。
でも、そうとも言えるし、そうでないとも言えるなっていう。

経済軸で判断しすぎなん違うかと。
少なくとも、僕が育ったような街でいうところの「大人」は、
こんだけ出来るとか、稼げるとか、
世の中動かせるとか、そういうことではない。

よき先輩に成り得るか。
大人になるということは、誰かを大人にしたということでしか、なれへんのです。
誰かの先輩なり師匠になって、
その後輩や弟子が「あの人に大人にしてもろた」っていう。

大人になるっていうのは、別の言い方をすると、
責任の取りようとかなんですね。
責任っていうのは、取るもんじゃなくて全うするもんです。

今の社会はわかりやすいことばっかり通りが良くて、
仕事というものも経済軸を前面にして測られますよね。
さっきの自立や生計の話もそうだし、
お金儲けや経済活動にスコーンとアクセスするような見方が
たたき込まれていて。

消費者というのは横着やと思う。
いつも「何してくれんねん」「俺を満足させろ」って。
でもそんな人間関係って、消費以外の世界ではありえへんやないですか。

経済軸というのはとにかくわかりやすさを求めます。
そして誰もが三ツ星の店に行って
一万円払えば、一万円のものを享受できると思っている。

そもそも価値というのは、わかる人間にしかわからへん。
しかもほんまは、お好み焼きとうどんと洋食と寿司は、
近所のが一番うまいって思ってんねんから(笑)

ところで、フランス料理の記事って実は書きやすいんですよ。
シェフがリヨンのポール・ボキューズで4年修行して、
そこから帰ってきてどこどこに入って。
料理はバルバリー種の鴨をつかっていて、
チーズはどこ産のなんとかでワインの葡萄の品種は何って。
記号やデータを並べていけば書ける。

でも大阪のお好み焼き屋に行くとね、
「おっちゃん、むちゃくちゃうまいですね。これ何入ってるんですか?」
って聞いても、「小麦粉と塩と味の素や」って。
「豚肉も最高ですね。どこのですか?」って言うたら、
「近所の肉屋で買うとる。」って。
「キャベツはどこ産で?」と聞こうものなら、
「おまえ何しにきたんや」っていう話です(笑)。

容易に情報化できない。けど事実性がある。
そうしたら、どういうふうにして私は馴染んでいったかとか、
その店の言葉をつかうようになったかとか。
要するに消費される記号やなくて、
経験やコミュニケーションの有りよう、関係性でしか書けない。

「ミーツ」は自分が編集長になった真ん中あたりからは、
もうそういう記事づくりをしていました。

でもそういうのを情報化して、
誰もかもを消費者にしようとする価値軸は、
会社の中でも前面に出てきやすくて。

高度情報化社会っていうのは、情報にする技術が発達した社会のことじゃない。
容易に記号化したり、数値化できるものばかりを集めた社会のことだと思う。
「もうそんなん止めたれ」と思って。

でも本来、学ぶということは、
自分が何をわかっていないかもわかっていないわけです。
その初めの時点で「こういう勉強して何になんねん?」
なんて問いを立てていたら、何にもならへんだろうし、
誰にも学ぶ必要ないやないですか。

~~~ここまでメモ

このまえ、有紀ちゃんと話していたのは、
「商品化」と「消費財化」のリスクについて。

企業インターンに対して、田舎インターンを「価値づける」
ことはとても大切なことだと思うけど。
それを「プログラム化」することだと
安易に考えないほうがいいのではないか、ということ。

「プログラム化」し、「得られる経験」を言葉化すると、
そのインターンプログラムは商品になり、消費財化してしまう。
この文章で言えば、「記号」化するということ。

つまり、インターンが「お買いもの」になってしまう
ことを意味する。
大学生の時に身につけるべきは、
「お買いもの」ではなく、「投資」ではないだろうか。

今すぐに役立つのではないけど、
長期的に見たら、効いてくるのではないか。
そんなことを、感性で判断して、行動することではないか。

冒頭の江さんの「大人になる」っていうことは、
誰かに「大人にしてもろた」って言ってもらうことだという。

それは決して、「誰かを大人にする」という
行為ではなく、向こうが勝手に自分を見て、学び、
大人にしてもらう、のだ。

うっかり私たちは、「記号」のような経験を集めて、
大人になったような気になってしまう。

よくわからないから、やる。
価値とは何かを問い続けながらやる。
そこでやってみたことを振り返ることで、
自分の学びに変えていく。

それを時間が経ってから、経験と呼ぶような、
そんなインターンを作れないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)

2017年05月06日

「資本主義」を相対化する

トレードオフ:(コトバンク・マーケティング用語集より)
両立し得ない関係性。一方をとると他方を失うということ。
高品質と低価格の両立など、マーケティングにおいては常にぶつかる課題です。
しかし、このトレードオフの関係を解消することで、
新たなビジネスを創造することが可能となります。


「アイムミニマリスト」(YADOKARI 三栄書房)

いいですね。
小屋建てたい。
ツルハシブックス小屋チームに
ひとまずお貸しします。

YADOKARIのマニフェスト
「生きるための力」が熱い。

人生はクリエイティブだ。
僕らは湧き上がる好奇心に従う勇気を持っているだろうか?

もっと人とつながりたい。
もっと文化に触れたい。
もっと世界中を旅したい。
もっと自分を信じたい。

僕らは、凝り固まった心と体をぶち壊し、
明日をつくっていく力を秘めたアーティストだ。

あなたの好奇心はなんですか?
悔いのないいまを、一瞬を。

そして、この本の冒頭。
グリーンズの鈴木菜央さんへのロングインタビュー。

これには、
「自由」とはなにか?
問いかけられた。

~~~ここから一部引用

インターネットに感じた自由。
アラン・ケイやスティーブジョブズに感じた
個人個人のパワーを解放する思想。

しかし、ひとり1台手のひらの上で
世界中とつながる世界になったいま、
実はどんどん不自由になっている部分もある。

インターネットを作った先人たちが
持っていた哲学、思想は消費主義に取って
代わられようとしている。

最初はみんな自由になりたくて
消費主義を追求したわけですよね。

何でも買える自由はあるように見えるけど、
消費することに慣れすぎて、お金で解決する
生き方しか知らない。

ぽちっとワンクリックして買うんじゃなくて、
自分の暮らしをひとつずつ、作っていく。

このあと「ギフトエコロジー」の話につながっていく。

資本主義からギフトエコロジーにシフトするには、

1 自然がくれるギフトをなるべく活かす暮らしをデザインする。
2 人を知って、人らしく生きられる社会のデザインをする。
3 知恵も技術もモノも仕組みもすべて分かち合うこと。

「エレメント」と「ニーズ」と「ギフト」。
エレメントはそれが持つ性質で、
ニーズはそれが生きていくのに必要なこと、
ギフトはその結果生まれたもの。

それぞれのエレメントを生かして、
ニーズとギフトを交換しあうのは無理のない暮らし方だと言えます。

「資本主義って元々は人間を幸せにするには
どうしたらいいかってところから生まれたと思うんですけど、
いまは手のつけられない生き物にみたいになっちゃって、
それに多くの人が振り回されている。

経済って考え方を使って幸せになろうとしていたのに、
いつの間にか生まれた大きな生き物のしっぽに
みんなでつかまって振り回されている感覚があって。

資本主義っていうものは
あくまでたくさんある考え方や手段のひとつで、
いまたまたま主流なだけなんですよね。
幸せになるってことを人間のゴールに置いたときの
手段でしかない。」

「資本主義をハック(クリエイティブに工夫すること)して、
うまく使えばいいと思います。資本主義は便利なものでもあるし、
恩恵を受けているのは間違いないから。

その思想っていうのは何かっていうことと、
デメリットは何かっていうことをよく見極めてハックして
面白おかしく使えばいいと思います。」

~~~ここまで一部引用

実際に千葉県いすみ市に住みながら東京に通いつつ
さまざまな生活実験を行っている鈴木さんだからこその
重みのある言葉。

そうそう。
まずは「資本主義」そのものを相対化すること。

「資本主義」という魔物のしっぽに
つかまって振り回されるのではなく、
それをどう使っていくか?

そんな問いからスタートしないとね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)

2017年05月03日

何かをつくることが建築ではないのかもしれない

言葉にすることで、失われるものがあると思う。

言葉がさらに「常識」という共通言語になることで、
失われる選択肢が、可能性があると思う。

坂口恭平「0円ハウス0円生活」(大和書房 河出文庫で文庫化)


読み直してみると、
いろんな常識に問いを投げかける
「アート」な1冊。
ラストが熱くてシビれた。

まずは、「秘密基地」について。

~~~ここから引用

以前、ある子供に、
「秘密基地に連れていって」
とお願いしたところ、その小学校1年生の男の子は、
「酒屋さんの裏庭」を指差して、
「あそこが秘密基地」と教えてくれた。

しかし、どこからどう見てもお酒を入れるプラスティックケースが
積み重ねられたものしか見えなかった。

「どこが秘密基地なの?」
と聞くと、「あそこだよ」と言って、
お酒のケースが重なっているところを指差している。
そこで隠れたりするのだそうだ。

つまり、ぼくにはただケースが重なっている
酒屋さんの裏庭にしか見えないものが、
子供たちにとっては秘密基地になっているのである。

何かをつくることが建築ではないのかもしれない。
そこを自分の場所と感じられたら、
それはもう、まぎれもない「建築」なのではないかと思った。

この大阪の暖炉付きの路上の部屋も
その考えと一緒である。

そして、これは未来の家、建築の考え方を
示唆しているのかもしれない。
実際の建築がない生活。

しかし、そこにはたくさんのことを感じられる空間が
転がっており、僕たちはそれを利用することで、
世界中ほとんどを自分の家のような感覚で捉えて
生活することが可能になる。

そんな夢のようなことができるかもしれない。
と、僕は考える。

~~~ここまで引用

なるほど。
これは以前のイベントで感じた
「サードプレイス」論に近い。

中高生にサードプレイスを提供することはできない。
「サードプレイス」とは、彼らの主観だからだ。

そして、スターバックスコーヒーが
「私たちは、サードプレイスを提供している」
と言った瞬間に、

私たちはカフェのようなものが
「サードプレイス」ではないかと
考えてしまう。

アマゾン河流域に住む少数民族「ピダハン」は
言語がものすごく少ないことで知られている。

驚くべきことに左右も、数も、色の概念もない。
それはひとえに、
「今を生きている」からであるという。

左はたとえば、
「川の水が流れてくるほう」であり、
右は
「川の水が流れていくほう」になる。

いま、この瞬間、目の前の人とのためにしか、
言葉は存在しない。

そう考えると、
僕たちは、言葉にすることで失っているものがあるのではないか、
という気がする。

「東京0円ハウス0円生活」のラスト、
坂口さんが取材をした鈴木さんとの出会いを語る。

▽▽▽ここから引用

これまでの僕は、現在の建築というものに対しての
アンチテーゼとして、0円ハウスや鈴木さんの生活、
様々な非専門家による建築物や作品を捉えてきたところもあった。

しかし、今はもう全く違う。
鈴木さんと話しながら僕は彼の生活が
あまりにも本質的で正直だと思ったのだ。

それはアンチテーゼでも一風変わった生活でも
なかったのだ。
鈴木さんにしかできない、鈴木さんによる1つの確かな生活である。
そこを僕はきちんと考えていきたいと思った。

すべての人の生活はそれぞれに違い、
それぞれに面白さがあり、
それぞれに等しく素晴らしいのである。
その考え方には僕自身も大いに励まされることがあった。

「自分で考え、自分で作る」

生活、家、仕事、人間関係・・・。
鈴木さんの身の回りのあらゆることにこの思考が詰め込まれている。
そしてこれが、小学生の時に僕がなりたいと思っていた
建築家の姿でもあった。

△△△ここまで引用

建築家とは、何を設計・建築するのだろうか?
「自分で考え、自分で作る」
それは単に家という構造物だけではないのかもしれない。

そして引用した小学生のように、
今ある世の中を、秘密基地に変えてしまうこともできる。

坂口恭平さんがこの本で示したようなマインド
これこそが必要なのではないかと僕は思う。

言葉にすることを急がず、
目の前に向き合い、感性を発動させて、
つくっていくこと。
それを繰り返すこと。

そうやって、「自分の暮らし」や
西村佳哲さんのいうような「自分の仕事」が
できていく。

何かをつくることが建築ではないのかもしれない。

そんな出発点から、
暮らしや仕事や人生を
考えてみるゴールデンウィークも悪くない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:19Comments(0)

2017年05月02日

そのゴールは、本当にゴールなのか?


「ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、
不便をとり入れてみてはどうですか? 不便益という発想」
(川上浩司 インプレス)
今回のスタンダードブックストアではコレにしました。

まだ読み始めたばかりなんだけど、
便利なことと豊かなことはイコールなんでしょうか?
という問いかけが響きます。

まだこれから読み進めるのですが、
3~4年前のテーマだった
「目標を立てるということはどのくらい価値があるのか?」
「目標を立てることで失われるものがあるのではないのか?」
という問い。

この本に出てくるたくさんの「不便」は
コミュニケーションの機会になっていたり、
自然を実感するものだったりするんだけど。

http://hero.niiblo.jp/e356203.html
計測可能であるという罠(14.2.13)

3年前の結論としては、
学校が夢や目標を持て、と子どもたちに「強制」するのは、
「そのほうが管理が楽だから」
ということだった。

3年前ののブログにも書いてあるけど

科学とは、計測可能であるということ。
科学的であるとは、再現性があるということ。

つまり。
言語化・数値化されたわかりやすいゴールに対して、
この手法を使うと、誰でも到達します。
ということが科学だ。

教育が科学であるならば、
計測可能で再現性を持たなければならない。

その際におそろしいのは、
「ゴールとして書きやすいものを、ゴールとして設定してしまう。」
ことだ。

この「書きやすい」は、キャリア教育的に言えば、
「大人を納得させやすい」ということになるのだろう。

そういうことをやっていると、何が起こるか。
おそらくは、「学びからの逃亡」が起こるだろう。

予定調和。
ゴール逆算。
目標に向かった教育内容の配列。

そのどこに「面白さ」や「ワクワク」あるのだろうか?

その先に、いや、そのプロセスに、
豊かさはあるのだろうか?

受験勉強のような人生を一生続けるのだろうか。

夢は何のために設定するのか?
目標とは何のために立てるのか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)

2017年04月30日

「近代」という「旧パラダイム」


「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社)

読み終わりました。
いまこそ、読むべき1冊でした。

ラストの第7章 ポストモダンの生き方探し
には、大学生世代への熱いメッセージが込められています。
これが15年たった今でもまったく色あせないものでした。

「偏差値の呪縛から自分を解放し、
自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、
将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる。
私からのメッセージはこれに尽きるでしょう。」

という一文から始まります。

~~~ここから引用

歴史はつねによい方向に進歩している。
いまガマンすれば、明るい将来が開ける。

現在は未来に備える時間としてのみ意味をもつ・・・。
どうしてこんな無邪気な神話が信じられたのか、
いまとなっては不思議というしかありませんが、
人びとは進歩と成長のイデオロギーに駆られて、
ひたすら走り続けてきました。

フェミニズムや女性運動が、新しい社会運動として
登場した意味は、じつに大きかったと思います。

それまで運動とは、将来の革命の目的のために
現在の苦難に耐えるものでした。
しかし、フェミニズムはそんなヒロイズムを
男性性のシンボルとして批判し、否定しました。
闘いは日常のなかに、ありていに言えば、ベッドのなかにだってある。

日常にとってヒロイズムなど邪魔なだけです。
日常とは、きのうのように今日も生きること。
だから今日の解放がなくて明日の解放があるわけがない。
フェミニズムはそう言ったのです。
それは戦後社会運動の巨大なパラダイム転換でした。

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。
逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。
そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。

「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、
つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。
現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

これまでは、仕事による自己実現が価値あることとされてきた時代でした。
しかし、自己実現の喜びを味わえるような仕事に、
すべての人がめぐまれるわけではありません。
ほとんどの仕事は、他人のために自分がしたくないことをやってあげて、
そのかわりに報酬を受け取るものですから。

そうすると、仕事の優先度を下げて、
自分の人生におけるシェアを減らし、
逆に自分にとって優先度の高い活動
―たとえ金にはならなくても―
を人生のメインにもってくるという選択肢もあるでしょう。

階層化とはべつな言葉で言うと、選択肢と文字の多様化であり、
おたがいが一元尺度で競わないし、競う必要がなくなる社会になることです。

身分制社会とはそういうものです。
士農工商の身分ごとにライフスタイルがあって、
おたがいにその垣根を超えないように
統制されていた。

それが崩れて、みんなが一元的に武士階級のまねを
し始めたのが日本の近代化でした。

それを梅棹忠夫さんはサムライゼーションと呼びました。
日本の近代化にもう一つべつの選択肢があったとしたら、
それはなんだったか?

梅棹さんはそれをチョーニナイゼーションと名づけました。
金と権力に価値を置かず、宵越しの金を持たない
現在志向の町人的ライフスタイルです。

だれだって努力しさえすれば、金と権力が手にはいるという、
国民総サムライゼーションの幻想に巻き込まれて
馬車馬のように走らされてきた近代150年が、ようやく転換を迎えています。
いいことではありませんか。

ブルデューは、
学校が優勝劣敗の競争敗者に自分の劣位を
納得させるためのふるい分けの装置だと論じたさいに、
あわせてひじょうに皮肉なことを言っています。
「教育年限の延長というものは、二流のエリートに自分の二流性を
納得させるまでにかかる期間の長さである。」と。

対抗組織というのはそれが敵対していたはずの支配的社会を、
きづいたらそっくり模倣してしまっていることがあります。

学校的価値を遠く離れたつもりのサティアンのなかで、
もうひとつの学校をつくってしまった。
そして社会を現実におびやかしてしまった彼らは、
二流エリートの典型的な行動パターンだと言えるでしょう。

しかし、それはひとりオウムの若者たちだけではないはずです。
自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない
従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。

しかも、「だれかのために」「なにかのために」という
大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を
受け入れることを「自尊感情」といいます。
オウムの若者たちは、この自尊感情を奪われた若者たちでした。

ならば自尊感情はだれが植えつけてくれるのか。
他人から尊重された経験のない人は自尊感情をもてない。
―これはフェミニズムがずっと言ってきたことでした。

エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした
場所でもありました。
学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。
学校は優位者に対しても、彼らの人生を
なにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、
条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。

フリーターを非難したり、心配する大人たちは、
正規雇用というパイが一生に渡って保証される、
日本史上でも稀有な時代を生きた幸福な人びとです。

専門家になるというのは、分業構造の中で自分を
手段的な部品に変えていく、近代社会に特有の生き方です。

「持ち寄り家計」
「マルチインカムのセルフエンプロイド」
「フリーターではなくフリーランス」

仕事を手段としてではなく、自分たちの楽しみや生き甲斐とし、
仕事もやりほかのこともやる、そのために選んだワーカーズ・コレクティブ
という働き方なのですから、仕事を増やすことはありません。

「ゴー・バック・トゥ・ザ百姓ライフ」
「ひゃくせい」とは、もともと
「くさぐさのかばね」を指し、
多角経営の自営業者を意味しました。

現金収入・現物収入を自在に組み合わせ、
季節のサイクルに合わせて生業を組み立てる。
半農半漁の海辺の民などは、
農業収入の少なさだけに目を奪われていては
見誤るほどの、ゆたかで多彩な生活を送っています。
究極のサステイナブル・ライフと言えるでしょう。

人に言われたことばかりやって、人に頭をなでてもらう生き方と、
人に言われないことを勝手にやって、
自分で「あーおもしろかった」と言える生き方と、どちらがいいかです。

ほんとうに好きかどうかはやってみないとわからないでしょう。
やってみたら失敗もあります。失敗があればやり直せばいい。
それだけのことです。
そうやっているうちに、私はこれしかできない、と思うこともあるでしょう。
そのときは、その道一筋でやっていけばいい。

それでも、あれも好き、これも好き、といろいろなことに気が多かったら、
あれもこれもやったらいい。
それで食えることも食えないこともあるでしょう。
食うためには食うための仕事を必要なだけやればよい。
そのためには人さまにお役にたつスキルの一つや二つは
身につけておいてもよい。

大事なことは、いま、自分になにがキモチいいかという感覚を鈍らせないことです。
それこそが「生きる力」なのですから。

~~~ここまで引用

いやあ、また引用しまくってしまった。
ラストがアツイな、また。
渾身のメッセージだわ。

こう見ると、
「パラダイムシフト」というときの
「旧パラダイム」っていうのは、
大量生産・大量消費とか経済至上主義、とかじゃなくて、

「近代」という仮説そのものなんだと実感した。

上にも引用したが、

「近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。
逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。
そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。

「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、
つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。
現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。」

まさにここに生きづらさ、息苦しさの真実があるように思う。

夢はなんだ?
将来どうするの?
なんのためにやるの?

と聞かれ続ければ、
現在は未来のための手段であると思ってしまいます。

いまを生きること。
目の前を生きること。

そこから始まる。
ラストが、伊藤洋志さんの「ナリワイをつくる」(東京書籍)
を彷彿とさせて、ちょっとシビれた。

やっぱり、ナリワイ、小商い。
そして本を読むこと。
いまを生きながら、未来を創造していくこと。

昨日の大阪「こめつぶ本屋」ミーティングでは
学びの場としての「市」への出店が
なかなかいい線いっているなあと思った。


(昨日の寄贈本会の様子)

小商いをして、それを振り返る。
そんな場が生まれていくことで、
学びの意欲が湧き、仲間ができていく。

本をきっかけに
高校生にもそんな場が提供できたら面白いなあと思う。

上田信行先生のいう、「プレイフルラーニング」が
そこにあるような気がした。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年04月28日

生産財としての学びと消費財としての学び


「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社)

第4章 学校は授業で勝負せよ

いいですね。
ますます本質的です。

キーワード満載

前の章で、「産業資本主義から情報資本主義」
へと変わっていく後期資本主義の話が出てきます。
そこにつづいてのこの章。

~~~ここからメモ

教育とは、経済学用語でいうならば、
「人的資本への投資」です。

子どもたちは毎朝、カバンを持って通勤しているのとおなじです。
賃金を支払われないシャドウ・ワーカーが、学校在籍中の子どもたちです。

望ましい人的資本とはなにか?
あけすけに言えば「生産性が高い」ということです。

生産性とは、「情報生産性」のことです。

情報とは、すでにあるものとの違い、
既存のものとの「距離」のなかに生まれます。
これを「オリジナリティ」と呼びます。

「いけんがありませんか」というときには
「異見」と書くようにしています。

情報生産性の高い人材は、どのようにしたら生み出せるのか。
情報は差異からしか発生しません。

そのとき、落差のある生活世界とか価値体系を
どれだけ知っていて、自分のなかに
その落差のあるシステムをどこまで
取り込んでいるかが問われます。

落差のない生活をやっている人のなかには、
価値も情報も発生しません。

現にあるものとあなたはどのように違うか、
どう距離があるかということを許容する
教育カリキュラムをつくればいいのです。
そういうカリキュラムを日本の学校制度はもってきたでしょうか。
「人と違っていてもよい」といってきたでしょうか。

学校制度がこれだけの同調性を組織的に再生産しているならば、
それをどこかで根本的にひっくり返さない限り、
つまり他人と「違うことがよい」というしくみを
組織的につくっていかないかぎり、日本の高い人的資本率は
ムダ金、死に金、徒労に終わるでしょう。

私は三年生になって本郷に進学してきた学生に、
「一年間で解けそうな、かんたんな問いを立ててきてごらん。
自分で解ける問いを立ててごらん。」と言います。

人生とはなにかとか、
日本の社会福祉をどう構築するかとか、
とても解けそうにない大問題を立てない。

やりたいことよりも、できることを。
自分で問いを立て、自分で解く。
そしてどんなにささやかなものであれ情報の生産者になる。
―私はこの経験を、学生たちにさせています。

学位をとることがそのあとの職業の手段になるとしたら、
学位は生産財になります。しかし、手段にならないとしたら、
学位を得ることじたいが自己目的になります。
それが消費財としての学位です。

学歴が生産財化したのが近代という時代です。
教育が手段になりました。
みんな「~のための」という手段です。

ポストモダンとは、未来という進歩の神話が破産した時代です。
目的を失った社会にとっては、現在がいちばん大事。

大きな学校もいりません。
小さな学校でたくさんです。
知育・徳育・体育などとはいわず、
学校は分相応に知育だけをやればよい。

学校的価値を分相応に学校空間に閉じ込めて、
その価値は多様な価値の一つにすぎないという
異なるメッセージを、制度的に保障していく
仕組みをつくるべきだと思います。

それは多元的な価値をつくり出すことです。
学校ではない空間―「共」の空間を生み出すことにつながります。

「共」もしくは「協」の空間とは、パブリックでもなく、
プライベートでもなく、コモンな空間のことをいいます。

子どもたちには、家庭でも学校でもない、
コモンの場が必要です。

この幼児化は生活体験の狭さからきています。
学校と家庭、プラス塾・予備校、それ以外の空間を知らない。

それ以外の人間関係を知らない。
しかもその3つは、いまや学校的価値で一元化されています。
それ以外の価値、それ以外の生き方、それ以外の生存戦略を
知らないのです。

~~~ここまでメモ

本文中に、以下のような文があります。

遠山啓という人が
学校は「自動車学校タイプ」と「劇場タイプ」
になるべきだと言ったそうです。

自動車学校タイプは技術教育です。
劇場タイプの学校は消費財としての教育を楽しみに行くところです。

そういう意味では、劇場のような本屋は
本という投資の対象(生産財)である学びと
劇場という消費財的な得るものが混在している、
なかなかいい場所のような気がします。  

Posted by ニシダタクジ at 08:05Comments(0)

2017年04月27日

「多様な価値観」は「学校化社会」では学べない


「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社)

駄菓子屋楽校を読み進めようと思っていたけど、
昨日のそもそも学校ってみたいなところから、
ちょっとこちらを寄り道。
こちらも駄菓子屋楽校と同じく2002年発行。

読み進めてみると、キーワードが
たくさん出ています。

「多様な価値観を」と言いながら、
大枠では「学校的価値」を最大に重視しているように
思う今日この頃。

上野さんから学んでみようと。

第2章「学校に浸食される社会」は冒頭、
「学校はなぜ試行錯誤を子どもや若者に許し、
彼らが失敗から学んで育つ場所とはなっていないのでしょうか。」
という問いから始まるのですが、これが鋭いのでメモします。

~~~ここからメモ

学校という制度は近代以前にはありません。
近代になってから新しくできた職業は、官員さんと社員さんと教員さん。
「員」のつく名の職業です。これは学校も教師も、
すべて近代の産物であって、それ以前には存在しなかったということです。

師匠がボランティア的に開設していた寺子屋と違い近代の学校は、
国家が整えたひとつの制度です。

学校に通うことが義務とされ、
子どもの数に見合うだけの教室が建てられ、
そこに配置するための何十万という教員の集団が
師範学校で養成され、国定の教科書を使い、
同じようなセッティングで授業が行われる、
そういうシステムが整えられました。

そして、そこを通過することで
人間がある規格にはめられ標準化される。
―それを最近は「国民化」といいますが、
生まれも環境もばらばらな人間を、
均質な日本国民に仕立て上げていく事業が行なわれました。

学校という空間が「近代」的だというのは、
国民化の装置だったということばかりを指すのではありません。
学校の中に流れているイデオロギーが、
まさに近代のイデオロギーそのものなのです。

学校という空間は業績原理、
つまり「やればできる」という価値が
一元的に支配しているところです。

この業績尺度も一元的で、成績、すなわち点数
というもので決まっています。
門地や身分という帰属原理とは異なる業績原理、
つまり点数が採用されたので、
「だれでもやればできる」というルートが開かれました。

競争に参加するかしないかという選択肢など成り立たず、
競争に参加することがあたりまえだと思われるようになりました。

ところが、
フランスの社会学者ピエール・ブルデューによれば、
学歴と階層とのあいだには深い関連があって、
高い学歴を持っている人が上層階層を形成し、
その子弟がまた高い学歴を身につける傾向があります。

したがって、ブルデューは
「学校とはもともと階層差のある子どもたちを
もとの階層に再生産するためのふるい分けの装置だ」と言っています。

学歴社会では、学校での成績によって社会に出てからの処遇が決まり、
地位や給料というかたちで階層差が生じます。

上の階層の出身者は学校での成績もよかったので、
社会に出てからも上の階層になる。
下の階層の出身者も結局下の階層に収まる。
この再生産のカラクリが、学校を通過することで正当化されるのです。

なぜ学校がこのような階層再生産の装置として
働かなければならないのか。
これは民主主義の社会が持っているある種のジレンマだといえます。

自由・平等の民主主義の社会とは、
じつはまったく平等な社会というわけではありません。
人間の社会は実際にはそれぞれ異なる処遇と
異なる権力を付与された人びとから成り立っています。

だから人はみな平等のタテマエにもかかわらず、
他人が自分より優位な立場にあるということ、
支配的な立場にあるということを、
下位にいる人間にみずから合意してもらわなければなりません。

みずから合意すれば、服従させるコストが安くてすみます。
これが近代というもの、民主主義というもののしかけです。

もし合意がなければ、
服従を求めるためには脅し・暴力・締めつけと
とても高いコストを支払わなければなりません。

学校というシステムを通った後の
シビアな結果を正当化するイデオロギーが
業績原理であり、優勝劣敗のイデオロギーです。
自由・平等・博愛の民主主義のタテマエと現実の
あいだのズレは、こういうしかけがないと、とてもじゃないが埋まりません。

優勝劣敗主義は「敗者の不満」とともに「勝者の不安」を生み出します。
低偏差値の集団にも高偏差値の集団にも、きわめて強いストレス負荷を
かけるシステムなのです。

上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産するカラクリの中で、
学校が何をやってきたのかというと、学校的価値を再生産してきました。

学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという
「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。
だから学校はつまらないところです。

いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、
すべてを偏差値一本で評価すること学習するのが学校なのですから。

その学校的価値が学校空間からあふれ出し、にじみ出し、
それ以外の社会にも浸透していった。
これを「学校化社会」といいます。
そして「偏差値身分制」とでもいうものが出現しています。

「偏差値身分制」を内面化するということは、
自己評価の評価軸が学校的価値とおなじになるということです。
だから女の子や偏差値の低い男の子たちは二言めには、
「どうせオレらは」「しょせん私は」と言うのです。
これを「人間の学校化」と言うのです。

こうした偏差値一元主義の学校的価値の中で育った
子どもたちが、いま、世代を更新して親となっています。

いまや家庭も地域もすでに崩壊し、
子どもを評価するものは偏差値しかありません。

それ以前の時代は、学校的なできる・できないとは
ちがう価値観が親のがわに比較的はっきりあったために
教師の言うことと親の言うことが違うのがあたりまえだったし、
上級学校に進学する志向もいまほどは一元化されていませんでした。

高度成長の余波で階層差が縮小してきたこともあるけれど、
それが高校全入運動あたりから学校と
家庭のあいだにあった価値観のギャップが
どんどん縮小し、家庭の価値が学校的価値に浸食され、
学校的価値にもとづいて親が子どもを判定するという状況が生まれ、
それがいまに続いています。

「無条件の愛」などというものは、昔も今も、
親ではなく、おじいちゃんやおばあちゃんにしかなかったでしょうが、

昔は家庭には学校とは違う価値があった。
「おまえはお父さんの言うことさえ聞いてればいいんや、
学校の教師のいうことなんか聞くな。」と強制する親がいました。

学校とは違う価値、多元的価値というものが、
地域や家庭やさまざまな場所に生きていました。

子どもというものは、
自分の生存戦略を学んでいくものです。
こちらが具合が悪ければ、あちらに逃げ道があると思って、
おばあちゃんのところへ行くのです。

大人は一枚岩ではないのだ、
いろいろな価値観があるのだ、
親の言うことが絶対でも教師だけが正しいのでもない、
教師のもとで居心地が悪ければ、
用務員のおじさんのところや養護の先生のところへ行けば、
別の空間があるんだと、子どもたちは
自分の生存戦略をみずから見出していく生き物です。

ところがそれを八方ふさがりにして、子どもの退路を断つこと、
大人がよってたかってやっている。
自分と違うことを言う大人がまわりにいてやったほうがいいとは、
大人は思わなくなってきている。

いま流行りの学校と家庭と地域の「連携」など
ということも、私にはそのように映ります。

学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります。

~~~ここまでメモ

うわ~、そうだなあって。

学校化社会、学校的価値の一元化って
誰も幸せにしていないな。

これ、日曜日にやったサードプレイスの話にもつながるけど、

「サードプレイス」は単なる場所じゃないくて、
学校的価値とは、異なる価値観(あるいは多様な価値観)が
に覆われる場でなければならないのだなあと思った。

そういう意味では、
いろんな店員が交代で店番をやる本屋は、
なかなかいい線いっている気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)

2017年04月26日

「学校」という輸入されたプラント


だがしや楽校の様子(2005.6)


「駄菓子屋楽校」(松田道雄 新評論)

読み進めていくたびに、ワクワクします。

今日は「店先学校」から。

「子どもたちが成長するにつれ
コミュニティの生活機能のなかに点在する
無数の小さな、学校でない学校で
補足せねばならない。」

「地域の商店街の八百屋や魚屋さんがもっていた、
買物や教育や散策やコミュニティの醸成といった
複合的機能は、見捨てられつつあります。」

なるほど
「店」は、学校でない学校だったんだな、と。

そして、この後、
議論は「店的人間」へと移る。

~~~ここから一部引用

同じように物を「見せ」る場所でも、
「店」と「博物館」は対照的な場所です。
通常、「博物館行き」と言えば、物の死を意味します。

また、人が出会う場所でも、
「店」と「学校」は対照的です。
店は消費者に主権がある「自由で開いた出会い」
であるのに対して、学校は教師が主権を持つ
「強いられた閉じた出会い」です。

物と人が両方存在するのは「店」です。
そういうことからも、「店」が最も
「生きた生活」を具現化している場所と
言うことができます。

もうひとつ、人が物を生み出す場所として
「田畑」があります。

この4つの場所
「田畑」「店」「学校」「博物館」は
そのまま人間のキャラクターになります。

ものをつくる「田畑型人間」(農家、職人、エンジニアなど)
交流し、物を流通させてお金を稼ぐことを志向する「店的人間」(商売人、起業家など)
規則にのっとり、組織運営を行うことを志向する「学校的人間」(公務員、サラリーマンなど)
人付き合いよりも物に固執して集めて分類整理する「博物館的人間」(研究者、趣味人など)

子どもの発達には、この4つの要素がすべて必要で、
子どもの環境にもこの四種の人々がいることが
望ましいのでしょうが、現代の日本社会には、
「店的人間」が最も欠如しているようです。

(中略)

「駄菓子屋」という「子どもみせ」は、
そのような「生きた学び」を体験するための
拠点だったのです。

~~~ここまで引用

なるほど。
店的人間か~。
僕のことや(笑)。

そういう大人が必要なんだな。
きっと。

そしてこのあと、
「学校の出現」という項に移る。

ここもなかなか衝撃

▽▽▽ここから引用

「モダンのアンスタンス―教育のアルケオロジー」(森重雄著)によれば、

「ここで私たちは、こんにちの私たちにはおなじみの学校や教室のたたずまいが、
じつは世界史上きわめて新しい建築物であり建築空間であったことを
思い起こさずにはいられない。

それはまず第一には、1530年のルターの説教に始まる
義務教育就学思想を、一人の人物(大人)が
おびただしい数の人物(子ども)を教えることができる
装置の開発というかたちで追求したラトケやコメニウスが、
その追求をつうじて17世紀にあみだした近代の特許的プラントであった。

このヨーロッパ大陸で生まれた「発明品」は
大英帝国の範図のなかで、ベル・ランカースターによる
エミュレーション、すなわち模倣を端緒とする技術革新をうけ、
18世紀終盤に監視システムへと発展する。

そしてこのプラントは、
19世紀中盤に新大陸でさらにエミュレート(革新)され、
日本開国の時期にはかの地で世界的にみて
最先端のプラントとして結晶化していた。」

ということであり、

明治政府は、欧米の強さの秘密を
「教育」にあると考え、欧米に負けず肩を並べるために、
欧米製の「学校」一式を「工場」と同じように
そっくりそのまま日本各地に直輸入したのです。

(中略)

そもそも近代の「学校」は
子どもを考えて作られたのではなく、
国家のために作られたのです。

森氏は、「学校」とともに「教育」という
ことばも、当時の日本人の言葉にはなかったことを
証明しています。

それまでは寺子屋での
「学文」(文字を学ぶ)と「手習い」で
「教育」ということばは「学校」という
ハードに入れるソフトとして出てきたのです。

この「学校」なるものをできた瞬間から、
「学校化」という社会現象が始まることになります。

フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの「〈子供〉の誕生」
によれば、

「教育の手段として、学校が徒弟修業にとって代わった。
つまり、子供は大人の中にまざり、大人と接触するうちで
直接に人生について学ぶのをやめたのである。」

私たちは、生命的で包括的な子育てや学びの営みを、
すべて「教育」ということばで「学校」の内容にしてしまった結果、
学校の外に存在していた豊かな営みを、
ことごとく削除してしまったのではないでしょうか。

「学校」が作られる以前から「子ども」は存在し、
「教育」が行なわれる以前から
「子育て」も「学び」もあったのです。
新たな「ガッコウ」と「キョーイク」のヒントは、
学校以前から受け継がれてきたものにあるはずです。

△△△ここまで引用

このあと、松田さんは、
寺子屋、駄菓子屋、学校の
学びの構図について説明しています。

寺子屋は(各自が机をバラバラに配置する)分散型であり、
駄菓子屋は、(もんじゃ焼きの鉄板を囲み)車座型であるのに対し、
学校は、(先生のほうを向いた)一点型となっているし、

寺子屋が、
自宅を開放し、ささやかな学びの場をつくったという
ボランタリー(自発的な)なものでした。

松田さんがいうのは、
駄菓子屋が消滅したことによって、
現代は「一点型」の学びしかないことが問題なのだと言います。

「一点型」の学びそのものが悪いわけではなく、
(たとえば、紙芝居などは「一点型」でした)

「分散型」や「車座型」のような
「学びの型」の多様性がなくなったことが
問題なのではないかと指摘します。

なるほど。
「個の多様性」をいう前に、
「学びの型の多様性」をつくることが大切なのではないか。

という意味では、
「本屋さん」っていうのは、
現代の「寺子屋」になり得るのではないかと。

そこには、分散型の学びと車座型の学びをつくることができる。

誰もが明日から自宅の一室を開放して
学びの場とすることができる。

一室を開放しなくても、
ひとつの本箱を持って、移動しながら
本屋をやるということもできるのだ。

イベントを開催すれば、
そこは車座的な学びの場となる。

松田さんの言葉を借りれば、
「学校だけがガッコウじゃない」ということなのだ。

それをどのように表現するのか?

ヘーゲルの弁証法を思い出す。
かつてあったものが一段高くなって復活してくる。

2005年から取り組んでいた「だがしや楽校」
と2011年からやってきた「ツルハシブックス」が融合し、

「寺子屋」や「駄菓子屋」機能を持つ、
新しい学びの場として機能する場を生んでいこうと強く思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)