プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 11人
オーナーへメッセージ

2020年10月25日

「達成」と「発見」を動的平衡できる複数の「場」


「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

の著者飯田美樹さんを招いてのオンライン劇場ツルハシブックス。
エコリーグに参加している時、僕はあれが「場」っていう認識がなかったし、
そもそも僕は実行委員会側ではなくて、プレイヤーとして参加していたし。

彼女は大学1年のときから「場」について認識していて、
合宿やイベントなどの期間限定で場をつくる限界を感じて、
パリでのカフェ研究に勤しむこととなる。

パリではなぜ、芸術家がたくさん生まれ、また集まってきたのか。
彼らはなぜ、カフェに集まったのか?
当時のパリのカフェとはなんだったのか?
そんな問いから始まる冒険に連れていってくれる1冊です。

昨日は、その本を通しての対話の時間となりました。

~~~イベントメモ

3万円のホテルに泊まることと、1000円のコーヒーを飲むこと。
空間、飲食物、対話、出演者、、、総合芸術としてのカフェ体験。

目的多様性とベクトル多様性。
「打ち合わせ」か「ひとり時間」か「友人とのおしゃべり」か、とか。なんのためにカフェに行くか。
と、その人が持つ「こうありたい」「こうなりたい」と思う気持ち(スピノザ的に言えばコナトゥス)。
それらがクロスする場としてのカフェ。

場と溶け合う。
それは意識してもしなくても、個人と場は相互に影響される。
スマホとPCのようにつながなくても、wifiで同期しちゃう。

場と一体化していると、そこにふさわしい人にいつのまにかなっている。

テーブル席があり、テラス席があり、カウンター席がある。
席を選ぶことからコミュニケーションは始まっている。
そう考えるとカウンターのデザインってすごく大事だ。

オンラインではベクトルを合わせないと場がつくれない。
リアルな場では、ベクトルの多様性が空間の価値を増す。

~~~ここまでメモ

フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン。
これが僕の場づくりのテーマだったのだけど。

あらためて「場」について考える機会となった。

いちばん印象に残ったのは、
カフェにいると、いつのまにか変わっている自分になるとか、
カフェ空間と同期しちゃう、とか
カフェ空間をつくっている一員になる、とか

そういう話。
ああ、それって、僕的に言えば、
「個人」と「場」を行き来するっていうことだなあと。

ラストに、飯田美樹さんが現在執筆中の本の話で、
「インフォーマル・パブリック・ライフ」という言葉が。

https://www.la-terrasse-de-cafe.com/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB-%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%A8%E3%81%AF/

インフォーマル・パブリック・ライフを一言で表すと、気軽に行けて、予期せぬ誰かや何かに出会えるかもしれない場所で、リラックスした雰囲気が特徴的です。 (中略) インフォーマル・パブリック・ライフには、ここではこうすべき、こう振る舞うべき、という社会的コードがなく、身分に縛られた自分ではなく、自分らしく振舞うことが許されます。日本でも人が集まるイベントや場づくりなどに、カフェや広場といった名称が使用されているように、カフェと広場には共通点が存在するのです。その共通点とは場に1つの明確な目的が設定されていないことです。八百屋は野菜を買うため、ワインショップはワインを買うために行く場所ですが、カフェは飲み物代さえ払えば友人と話をする、本を読む、手紙を書く、ゲームで遊ぶなど、何をしても許されます。広場も同様であり、広場という大きな空間自体にはその場の明確な目的が設定されていないからこそ、人々は他の場で要求されるコードから自由になれるのです。

たぶん、これ。
「ツルハシブックス」で目指していたものだし、
これから阿賀町でつくっていきたいもの。

学びの動機を「達成」から「発見」へ
学びの主体を「個人」から「場」へ
学びの成果を「評価」から「承認」へとシフトさせたい。

でも、それは一気には起こらない。
徐々にシフトしていくんだ。

「目的・目標」をもって、「個人」が能力向上を目指して学び、「評価」される。
それが現在のシステムである。「達成」のパラダイムだ。

しかし、
飯田さんが「インフォーマル・パブリック・ライフ」の説明の中で言うように、

カフェと広場の共通点とは場に1つの明確な目的が設定されていないことです。八百屋は野菜を買うため、ワインショップはワインを買うために行く場所ですが、カフェは飲み物代さえ払えば友人と話をする、本を読む、手紙を書く、ゲームで遊ぶなど、何をしても許されます。広場も同様であり、広場という大きな空間自体にはその場の明確な目的が設定されていないからこそ、人々は他の場で要求されるコードから自由になれるのです。

それはきっと、人生において必須なものなのだ。
家庭、職場(学校)、そしてここで言う「カフェや広場」のような第3の場があること。
僕がつくりたい「場」とは、そういう場だ。

「場」にフォーカスして「場」が主体となって、プロジェクトをつくり、実行する。
「発見」に価値を置き、見つけ合う「場」をつくる。
自分はその「場」に溶けだして、いつのまにか一員となっている。
その場の一員であることがその子のアイデンティティ、つまり「承認」を形成してくれる。

それらを、学校社会と動的平衡を保ちながら実現していくというのが、
阿賀黎明高校魅力化プロジェクトなのではないか、と僕は現時点で解釈している。

学校(教科)は、「達成」「個人」「評価」のパラダイムで動き、
地域(探究)は、「発見」「場」「承認」のパラダイムで動く。

当然、「達成」のプロセスの中でも「発見」はあり(それを振り返っていないだけ)、
「発見」のパラダイムの中でも「達成」(いわゆる「成長」)は結果的に見て取れる。
必要なのは主体を「場」としてとらえる、ということと、その一員となること。
それを繰り返すことによって「承認」(自分で自分を承認すること、存在承認)を感じられること。

それこそが、「探究」の意義や、地域の力を必要とする理由なのではないだろうか。

一気には変わらない。
徐々にシフトさせてゆく。
というより、動的平衡のほうが、「発見」は大きくなるのではないか?

素晴らしい教育システムを一気に導入するのもいいのだけど、
既存のシステムを活かしつつ、地域の資源を活かした探究的学びとの
共存・ともに進みながら変わっていっているような「場」(町)ができること。

それってすごくワクワクするよなあと思っています。

10月31日(土)は
まなびのトビラを「ともにひらく」です。
これからのまなびについて対話しましょう。

https://reimei-gakusya.localinfo.jp/posts/10858791?categoryIds=477469  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)アイデア日記

2020年10月17日

ウチに天才はいない。だがウチが最強だ。


「海南(ウチ)に天才はいない。だが海南(ウチ)が最強だ」

スラムダンク、高頭監督の名台詞を思い出した、
第4回の探究学習コミュニティの勉強会。

講師は、福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校の
学校支援統括コーディネーターの長谷川勇紀さん。

もう、絶句するくらい、すごかったなあ。

何度もお話は聞いているのだけど、
いま探究学習やマイプロジェクトを設計する状況になると
ふたば未来の実践のすごさがよく分かる。

そもそもマイプロって何?からスタート

~~~ここから勉強会メモ

岩手県大槌町の高校生が東日本大震災で被災した町で何かしたいという思いを
NPOカタリバがマイプロジェクトという手法を通じて2012年から始まった放課後活動

「高校生の被災したまちへの想い」×「マイプロジェクト」手法(SFC井上研究室2006年~)×カタリバ「コラボスクール大槌臨学舎」
=復興木碑プロジェクト、笑顔photoプロジェクト

マイプロジェクトの考え方:
高校生自らが「やりたい」と思えるテーマを設定し、リアルな社会と接する実践を繰り返すことで、
高校生が意欲と創造性を育む学びを得る。
「主体的な問い」×「実社会での実践」×「意欲と創造性を育む学び」

マイプロジェクトでの学び:
参画度の高いテーマで「主体性」を育み、実践の中で「協働性」を発揮し、それらを繰り返す中での問いの更新を通して「探究性」を養うことを重視する。

主体性(参画のはしご)・・・ロジャー・ハート:
参画の段階のより上段を目指すために、主体性を持てるテーマを発見する。課題と自分の繋がりが強ければ強いほど、取り組みは真剣になり、学びが深くなる。

協働性:
調べて終わりにせず、課題解決に向けた実践を行うことで、実社会における他者との協働を経験する。

探究性:
主体的な問い⇔実践
実践を繰り返す中で、問いを更新する。途中で問いが変わることを厭わない。

マイプロジェクトの進め方
1 プランニング・・・プロジェクトをつくる
自分を知る(興味関心・価値観を知る)、課題の設定、情報の収集、整理・分析
2 アクション・・・プロジェクトを実行する
行動(実践を試みる)
3 リフレクション・・・プロジェクトを振り返る
まとめ、考えの更新(振り返り)
「自分の関心をベースにプロジェクトを作る」⇒「実践と振り返りを繰り返し、学びを深める」

2012~2014年度:プログラム開発期
岩手県大槌町で高校生マイプロジェクト誕生
プランニング合宿を開催
2015~2017年度:放課後展開期
東北初のプランニング合宿
2018~2020年度:総探融合期
高校でマイプロ型の探究学習の実践が始まる

~~~

総合的な探究の時間とマイプロジェクトの共通点
従来の総合的な学習の時間では、「課題」と「自己」は別々であった。
自己の在り方生き方を考えながら、よりよく課題を発見解決していく
総合的な探究の時間は、マイプロジェクトの考え方と一致している。

主体性と実践を重視するとは?
・学びが大きい分、従来よりコストがかかる
・その覚悟と実践での工夫が必要
主体的⇔受動的 仮説検証・実践(アクション)⇔仮説提案

2017:大船渡高校船野さんのマイプロ
ふるさとの水にチャレンジの衝撃
主体的な問い⇔実践の繰り返しによって問いの更新が起こっていた。

年間の授業の流れモデル

1 自分を見つめよう
2 北極星を見つけよう
3 問いを出そう⇒調査してみよう⇒結果を整理・分析しよう(夏休み)
4 調査結果を発表してみよう
5 北極星に向けたアクションを決めよう⇒アクションしてみよう⇒振り返ろう(8~2月)
6 学びを発表してみよう

プロジェクト事例
テーマ設定の理由
課題の発見(夏季アクション)
具体的な課題と解決方法(仮説提示)
解決アクション
活動からの学び

高校3年間を通した総合的な探究の時間
地域をフィールドに、地域の課題を題材に、その解決の過程を通して、汎用的なスキルを身につけたり、自分自身の生き方あり方に繋げていく、地域課題解決型プロジェクト学習

1年次:複雑な地域課題を多面的に理解する(ふるさと創造学 2単位)
2年次:地域課題解決の探究と実践(未来創造探究 3単位)
3年次:探究成果発表と自らの進路実現

探究のプロセスに対応した「生徒の学びの姿勢」
テーマの設定⇒調査のための実践⇒振り返り⇒解決のための実践⇒発表⇒振り返り
学びの準備
⇒「守」:受容的な姿勢(問題状況の把握と課題設定、現状や事実を正確に知る)
⇒「破」:生成的な姿勢(現状を他の事例や考え方と繋げる、課題解決の仮説を立て、プロジェクトを実践する)
⇒「離」:持続的にプロジェクトに取り組む姿勢(プロジェクトの実践を振り返りフィードバックをかける、実践の課題から次なる独自の実践を創造する、実践の連鎖)

生徒の学びの姿勢と教員の関わり方
「学びの準備」⇔「モチベーター(探究心に火を灯す)
探究に対する学びの意欲を高める⇒意欲に火を灯すコミュニケーション、外部イベントへの参加
「守:受容的な姿勢」⇔インストラクター(現状を正しく捉えさせる)
正確に物事を知り探究の基礎を作る⇒知識のレクチャー、調査研究(書籍、WEB、インタビューなど)
「破:生成的な姿勢」⇔「ファシリテーター(問いを立てて引き出す)」
柔軟に他の問題と繋げたり想像力を働かせる⇒問いを通してテーマを深化させる、生徒自身が本当に取り組みたい実践を引き出す
「離:持続的に取り組む姿勢」⇔メンター(応援・勇気づけをする)
リスクを恐れずチャレンジし、実践を連鎖させる⇒実践への勇気づけ、実践後の振り返り(リフレクション)

この4つのパターンに生徒、プロジェクトの現状を把握する

意欲高め⇔低め(上下)
課題設定のセンス良⇔いまひとつ(右左)
で右上:メンター、左上:インストラクター、右下:ファシリテーター、左下:モチベーター
的なかかわりをする。

左下方向では、教材指定、グループで調べ学習、動画で発表や個別面談をして丁寧にテーマ設定をするが
右上方向ではアクションの計画サポートと振り返りに重点を置く

探究テーマを決める視点

地域・社会の理解を深める(地域・社会から解決を求められる課題(NEED)が明らかになる
自分について理解する(自分の取り組みたいこと(WILL)自分ができること(CAN)が見つかる
その真ん中に探究テーマをつくれるかどうか。
そのプロセスにおいての「ヒューマンライブラリー」(カタリバ型講義&対話)などの活用

成長をどう測るか?

半年に1度ルーブリックで資質・能力について自己評価する。
2期生アンケート
入社試験や入学試験に活用したか?→62%
社会とどう関わっていきたいかを見出すことに繋がったか→80%
自分の価値観を考えることに繋がったか?→87%
「探究学習」が進路選択やキャリア形成に影響を与える

「未来創造探究の全体像」
1 建学の精神・理念:新しい生き方・新しい社会の建設
2 教育目標:変革者たれ
3 資質・能力:自立・協働・創造
4 ルーブリック:知識・技能・人格・メタ認知
5 カリキュラム:未来創造探究・各教科学習
6 教員体制:企画研究開発部・6つのゼミ・教科チーム
7 各ゼミ計画:授業設計
8 教材:全体教材・各ゼミ教材
9 指導法:生徒への関わり方
10 外部活用:地域・講師・カタリバ・課外活動

「教員体制」
1 探究カリキュラム企画開発の校務分掌を設定
(教務部、進路指導部とも密に連携・協働)
2 教科担当横断の全教員体制で探究活動を指導
(毎週水曜日5・6限目に、1~3年生のそれぞれの授業が行われる)
3 教員間で悩みを共有し解決策を考えていく
(各学年で月1で全員参加会議を設定。生徒の伴走のあり方などを議論)

~~~ここまでメモ

圧倒された。
声が出ない。
すごすぎるわ、ふたば未来。

ポイントは、前日の浦崎先生の話でも出てきたけど
仮説・検証プロセスの楽しさをいつ知るか?というところ。
ふたば未来の場合は、1年生の夏休みの「調査」において
仮説検証プロセスを回しているということ。

まずはそういうような「探究プロセス」の面白さを知るということ
なのかもしれない。

質疑応答で、
探究的な学びの成功とはどこにあるのか?という問いかけがあり、

それに応える形で、
マイプロ2.0→船野さんの登場により、マイプロの評価基準に「探究性」が加わったこと
つまり、「実践による問いの更新」の重要性が加わったこと、
さらに言えば、マイプロ3.0は実際の「課題解決」なのだろうと。
しかし「課題解決」そのものを評価するのかどうか?は難しいところだと。

僕はそれを聞いて、
「北極星」とは、終わらない問いの方向性なのではないか?
その北極星に出会うことだ、と。

その北極星は、ミッションであり、ビジョンであり、好奇心の源であり、
そういう方向・方角のこと。

実践の中にある「違和感⇔問い」の積み重ねの中で、北極星は生まれてくる。

「北極星」に出会えたら、
あとは問いが無限に出てくる。終わらない問いの連鎖が起こる。
そうやって、問いの更新と自己変容、つまり自己の更新のサイクルが回る。

長谷川さんの言葉を借りれば、
マイプロはどこまでいってもキャリア学習で、
自分が自分であるために変容していくプロセスのことだと。
だから、いわゆる「マイ感」が必要なのだと。

ラストに、
「組織としてどうマイプロ・探究的学びを根付かせていくのか?」に対して、
「先生が全員関わる探究でないと、文化にはならない」と言っていた。
ふたば未来は、先生みんなでやってる、と。

長谷川さんはラストに言った。
「ふたば未来にはスゴイ先生いないじゃないですか。」

たしかにそうだ。
大船渡に梨子田先生あり、とか
飯野には梅北先生あり、とか
佐渡中等に宮崎先生あり、とか
じゃなくて、組織全体でやっているんだと。
だから「文化」になっていくんだ、って。

かっけー。
かっけーなと。

組織のチカラ、そして、地域を含めた場のチカラが探究的学びをつくっているんだ。

もちろん、ふたば未来の実践メソッドというか仕組みは、ものすごかったし、
真似できるところがたくさんあるなと思った。
でも、ふたば未来が本当にすごいのは、「学びの環境(場)」に働きかけている、ということ。
「文化」を作り始めている、ということ。
わが町でも必要なのは、きっとそういう実践なのだろうなと。

コーディネーターってそういうことか、と思った。

僕も数年後に言ってみたい。

「ウチにはスゴイ先生もスゴイ地域の人もスゴイ生徒もいない。だがウチが最強だ」と。  

Posted by ニシダタクジ at 09:56Comments(0)日記

2020年10月15日

ベクトルとして存在を許されるカフェという場


「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

来週10月24日(土)に
オンライン劇場ツルハシブックスに登壇いただきます飯田美樹さん。
実は20年前に、開村当初のまきどき村に遊びに来たことがあり。
彼女はその後の大学院時代にカフェの研究をすることになる。

その博士論文が書籍化され、当時も読んでいたのだけど、
今年、クルミド出版から再販。問いの刺さるリリースとなった。
このタイミングで読めることはなんとも言えない感慨がある。
いろいろ話してみたい、聞いてみたいことはあるのだけど。

読み直していて、
ツルハシブックスってやっぱりカフェなんじゃないか?
って思った。

「中学生高校生のための入場料無料のカフェ。」
まあ、それは本屋であり、劇場であったわけだけど。
中学生高校生に「カフェ」的な空間を提供したかったのだろう。

本書のラストに、クルミドコーヒー影山さんが解説をしているのだけど、
その中に、こんな一節が。

カフェは、飲食店であるとともに一つの「場」でもある。場とは、「参加者相互に影響を与え合う空間」と定義できる。
カフェが場としてその参加者と絶妙な相互作用を起こしたとき、それはきわめて大きな力を持つという。
そこから人が育ち、文化が生まれ、時代が創られる舞台になることがあるという。
偉大な人がカフェに集うのではなく、そこにカフェがあることで、そこに集う人々が後の時代に名を残すことになるというのだ。

おおお。
まさにそれがカフェ的空間の魅力だなあと。
僕的に言えば、「劇場のような本屋」「本屋のような劇場」なのだけど。
そういう「場」ですね。

では、そうした「場」がカフェではどのように形成されるのか?を本書から。

~~~第4章「カフェという避難所」から引用

第一にカフェにある自由、それは居続けられる自由である。
第二に挙げられるのは、思想の自由であり、
第三に、時間的束縛からの自由、
最後に、振る舞いの自由が挙げられる。

カフェは必ずしもコーヒーを飲みに行く場所ではない。
カフェという場は他の公共的な施設と異なり、合目的性がほとんど追求されない不思議な空間なのである。

飲み物を頼むというのはカフェという空間に入るためのルールであって、必ずしもそれを目的に客はカフェに来ているわけではない。

劇場やレストランに行くにはかなりのお金もかかれば、それなりのドレスコードや振る舞い方も要求される。それに対してカフェでは安い値段で誰でも入れるどころか、社会的地位も要求されない。

カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。

通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。

特定の個人が開催する夕食会やサロンとカフェが違うのは、カフェでは誰もあえて「社会的地位を無視しましょう」と言ってはおらず、客たち全員がカフェの飲食代を支払うというこのシステム自体が自然に平等性をつくっているということである。

カフェでは主人という場所の所有者兼管理者に客が平等にお金を払うことで、空間に参与している客たちの平等性が保証されている。つまり、主人のもとで客は平等になるわけである。

~~~ここまで引用

まだまだ、時間的束縛からの自由とか振る舞いの自由とかに言及されていくわけですけど、今日はここまで。

僕は、「フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン」を志向し、

まきどき村という畑をやり、ツルハシブックスという本屋空間をやり。
場づくり(ワークショップ含む)を行ったりしてきて、

今年はオンライン上にも「場」をつくれるのではないか?と直感し、
取材型インターン「ひきだし」の完全オンラインでの実施や
にいがたイナカレッジの「イナカレッジ・ラボ」のオンライン化、
月1回の「オンライン劇場ツルハシブックス」をやっている。

本書を読んで、
ああ、それって「カフェ」をやりたかったのかもしれない、と思った。
しかもそれは、本書に登場する画家の藤田嗣治がかつてそうだったように
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェだ。

「何者でもない誰か」を言い換えれば、
名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。
スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。

実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、
「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。

東京で朝活をしようと、恵比寿駅にほど近いスタバに入ったら、
全員が一人残らず集中して勉強していて、
スマホをいじったり友達と談笑してる人はひとりもおらず、
私語さえ許されない状況に耐えられずに30分で脱出して
別のカフェに入ったことがある。

あのスタバには、「ベクトル多様性」が存在しなかったのだ。

「何者でもない自分」への不安。
朝井リョウの小説じゃないけど、10代や大学生の多くが持っているだろう不安。
いや、40代になってもあるけども。(笑)

その不安を否定しなくてもいいってことだ。
何者かになろうとしているベクトルとしての自分を楽しむことだ。

そのためには、ベクトルとしての存在を許される「場」が必要なのかもしれない。
飯田さんや影山さんによれば、それは「カフェ」として表現されているのだと。

僕がツルハシブックスをカフェだと思ったのは、
中学生高校生、大学生がベクトルとして存在できる場をつくりたかったからかもしれない。

そして、これから高校生やまちの人達と共に創る場も、
きっとそういうカフェ的な空間なのだろうとイメージ出来た、すてきな読書時間でした。  

Posted by ニシダタクジ at 06:21Comments(0)日記

2020年10月07日

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?


「大学受験に強くなる教養講座」(横山雅彦 ちくまプリマー新書 2008年)

某大手古本屋さんで購入。
いい本あるなあ、ちくまプリマー新書。

ひとつ、謎が解けました。
いや、解けないけど。
謎にたどり着くドアのカギを手に入れた感じ。

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?
「地域で」学ぶのか、「地域を」学ぶのか?
そんな問いに、一筋の光を射してくれる1冊です。
紹介するのは、冒頭と最後のところにします。

~~~ここから引用

英語と小論文、現代文の垣根はどんどんなくなっている。

フリッチョフ・カプラ「ターニングポイント」
reductionistic(還元主義的)=scientific(科学的)=rational(合理的)=analytic(分析的)=linear(線形)
還元主義の定義。「何かを知るということは、その物質的構成を知るということだ」

「抽象」と「捨象」は表裏一体です。事実、英語ではともにabstractionと言います。
「例外のない法則はない」と言うように、抽象するためには捨象しなければならず、捨象しなければ、抽象することはできません。

デカルトは、「科学」を抽象するために、仏教が「縁」と呼ぶ不可思議な現象、予測不能な事態を捨象したのです。これこそが、近代科学の出発点です。そして以後、そうした「非決定性」や「不確実性」は、「非科学」として括られていくことになります。

カプラによれば、西洋近代社会は、一貫して陽的(男性的、積極的、競合的、合理的、科学的、断片的)側面を好み、強調してきた。そして、陰的(女性的、反応的、協力的、直観的、神秘的、全体的)側面を排除し、軽視してきたことが、さまざまな危機を招いていると。

「陽」が「因果」、「陰」が「縁」
「因」と「果」をつなぐものとしての「縁」

陰陽思想では、あらゆるものが、陰と陽の動的なバランスの上に成り立っています。
不可知にとどまること。

「縁」の世界は、近代文明が少なくとも300年以上のあいだ、置き去りにしてきた世界です。

~~~ここまで第1章から引用

いいですねえ。
近代とは、科学とは、問い直されます。

そして、
さっき読み終わった第6章から。

~~~ここから引用

「discipline 学問分野」とは何か?

ディシプリンの違いは、その立脚点の違いにあります。一人の人間存在(being)には、様々な様態(mode)があります。他の動物と共通する様態もあれば、人間だけにしかない様態もあります。

およそ人間だけに備わった特殊な様態を扱うのが文系(人文・社会科学)、他の動物や自然にも共通する様態を扱うのが理系(自然科学)と言っていいと思います。

もともと古代ギリシャには「フィロソフィア」しかありませんでした。「哲学」です。古代ギリシャの哲学者たちは、一人で人間に関わるすべてのことを考えたのです。

「言葉」について考え、「貨幣」について考えた。言語学であり、経済学です。「自由」について考え、「死」について考えた。政治学であり、宗教学です。あるいは、「火の性質」、「水の性質」について考えました。これは自然科学です。

とはいえ、哲学者の個人的性質は、めいめいに異なります。人間存在のどの様態に一番強い関心があるかは、哲学者によって違う。そこで徐々に哲学からディシプリンが自立していくわけです。しかし、立脚点の違いはあっても、みな「人間とは何か」という根源的な問いに貫かれていました。

どのディシプリンにも、常にディシプリンに先立つ哲学的な問いがありました。人間存在やこの世界全体に向けられた広い関心です。

educationという言葉には、二つの意味があります。ひとつは、technical education(専門的知識)です。ディシプリンのことです。そしてもう一つがliberal educationです。すべてのディシプリンの根底にある広く深い「知恵」であり、「教養」です。これこそが、「リベラルアーツ」にほかなりません。

「価値相対主義:すべての価値は等価である。価値観に優劣はなく、それぞれに尊重すべきものだ」
たしかに、価値相対主義があって初めて言論の自由や思想の自由が保障されることになるね。
それって、「対話」を無くしていくことになるけどね。
価値絶対主義がいいわけではもちろんないけども。

「学際」さえも1つの専門分野(ディシプリン)になってしまうのか。

自分の全存在をあげての学問、「これじゃなければ自分じゃない」という学問をすること。そうすれば、放っておいてもリベラルアーツに向かっていくはずです。

経済学者が、たとえばアメリカ経済を研究しているとして、その人が心の底からアメリカ経済を理解したいと思うなら、経済学という狭いディシプリンにとどまっていることはできなくなるはずです。アメリカという存在は、単に経済的な存在だけではないからです。肩肘張って、「学際研究」などと構えなくてもいいのです。

既存のディシプリンに身を置いていていい。「実存的な学問」をすることです。研究対象に自分の全存在をあげての関心を持つこと。そうすればひとりでに学際研究になっていくはずです。つまり、「ひとり学際」です。それこを、僕たちが目指すべきものだと思います。

~~~ここまで第6章より引用

いやあ、いい本。
「まなびの最前線」だわ、これは。
書かれたの2008年だけれども。

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?
「地域で」学ぶのか「地域を」学ぶのか?

それは、本来の意味で「学びたいから」なのではないか。
という仮説が生まれた。

「地域」っていうのは、

「歴史」であり、「社会(コミュニティ)」であり、
「農業」や「産業」であり、「教育」でもあり、
「コミュニケーション」であり、「政治」であり、、、

プロジェクトを遂行するためには、学際的(ジャンル横断的に)アプローチせざるを得ない。

高校生たちはそこにまなびの本質を見ているのではないか。
だから、学びのフィールドとして「地域」を目指すのではないか。
「ひとり学際」こそが「まなび」だと思っているんじゃないのか。

さらに言えば、その「ひとり学際」にそ、
アイデンティティ不安を乗り越えるカギがあるのではないか。

横山さんは言う。
「自分の全存在をあげての学問、「これじゃなければ自分じゃない」という学問をすること。そうすれば、放っておいてもリベラルアーツに向かっていくはずです。」

それって、文科省が「総合的探究の時間」の指導要領で言う、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのではないか。
それを探しに、ヒントを見つけに、「地域」に入り、仮説、実験、結果、検証を繰り返すのではないか。

いわゆる「キャリア教育」は、アイデンティティ(自分らしさ)は職業によって形成・実現されるという誤解を生み、
英語などのスキルを磨けば磨くほど、交換可能になるというダブルバインドの中に若者は生きている。

そんな状況の中、ますますアイデンティティ不安に陥っているように見える。

アイデンティティはどこにあるのか?
どうすれば安心できるのか?

もしかすると「地域」を目指す若者たちは、「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」
の中にこそ、アイデンティティがあるのだと直感しているのかもしれない。
そしてそれを見つけるには。「地域」の中で学際的に学ぶことだと。

僕はそれを、
最初から「自己」という単位で動くのではなく、
「自己」と「場」(同級生や地域の環境や大人含む)の動的平衡な主体によるプロジェクトによって、
いくつかの仮説を実験・検証を繰り返す中で、

たどりつく「問い」こそが、アイデンティティを形成してくれるのではないかという仮説に至る、今日の読書日記でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:41Comments(0)日記

2020年10月04日

「好き」をベースに差異を理解し、チームのWHYをチューニングする。


「モチベーション革命」(尾原和啓 幻冬舎)
朝読書でスイスイ読みました。

面白い!
というか、高校生にも通じるところあるなあと。

「はじめに」のところにいきなり書いてある、
「ポジティブ心理学」の話が非常に本質的で。

ポジティブ心理学についてはTEDから。
https://www.ted.com/talks/martin_seligman_the_new_era_of_positive_psychology

文字はこれがいいかな
https://life-and-mind.com/positive-psychology-9816

尾原さんによれば、
5つの要素を端的に
「達成(アチーブメント)」
「快楽(ポジティブエモーション」
「意味合い(ミーニング)」
「良好な人間関係(リレーションシップ)」
「没頭(エンゲージメント)」
と表現していて、(ポジティブエモーションが「快楽」でいいのか、とは思いますが、快感とかそういうことですね)

団塊世代に代表されるかつての世代は、
「達成」と「快楽」を原動力として動いてきた。

しかし、いまの生まれた時から
「ないもの」がない、尾原さん(編集者の箕輪さん)の言う
「乾けない世代」は、うしろの3つ、
つまり「意味合い」「良好な人間関係」「没頭」を重視するのだと。

ああ、なんか、そうかもしれませんね。
会社の中の若者世代とオジサン世代のギャップってそこにあるのかもしれませんね。

「自分が頑張る意味が持てるもの」に「自分の好きな人たち」と
「とことんハマる」ことを重要視する。金銭や物理的報酬とは関係なく、自分の好きを追求する。

いやあ、ほんとそうだなあと。
というわけでいつもの読書メモ。

~~~ここからメモ

団塊の世代が幸福だったのは、何かを達成することが同時に社会貢献につながっていたからです。

「乾けない世代」は、何かを「達成」することにそれほど心を動かされません。なぜなら、「何もなかった時代」を知らないからです。

「世界一」や「21世紀を代表する」という「達成する大きさ」ではなく、「何を」「何のために」やるのか?を語らないと心が動かされない。

上の世代では、別にやりたいことなんてなくても、与えられたことをこなして、人よりよい結果を出せれば、それで十分成功できました。大きな目標は誰かが掲げてくれたので、必死に「達成」を追い求めれば幸せでした。

偏愛こそが人間の価値になる

ビジネスにおける優先事項が「決められたことをひたすらやる」ことから、「消費者の潜在的な欲求を発見し、提案する」へ変化したからです。
これが「働き方改革」や「ワークライフバランス」の本質なんだよなあ。休みの日に「インサイト」を探してますか?っていう。

1年中会社勤めをするのではなく、まずは自分が生活者として生きることで、世の中の潜在的なニーズを拾ってきなさいという意図が込められているのです。

時間をかけて課題を解決することよりも、課題自体を発見したり、新しく課題を定義したりすることに投資するべき時代なのです。

ワークがライフを内包し、またライフがワークを内包しているような働き方が可能なのではないか。

自分にとって、得意で好きで楽にできることで、他人(相手)にとって「有ることが難しいこと」を探し当て続けるか。
これ、キャリア教育の最初に教えた方がいいことだよ。

人工知能にも代替不可能なもの、それは「嗜好性」です。簡単に言えば、「私は誰になんと言われても、これが好きだ」という偏愛です。
だって、嗜好性とは、「非効率」の塊だから。これ、めちゃその通りだなあ。「釣り」とか合理的に考えたらやれないもんね。

価値とは、差異×理解

変化のスピードには「信頼」でしか追いつけない。

~~~ここまでメモ

ラストには、「ikigai」の図が紹介されてました。
https://note.com/gorolib/n/nc44358a800af

「やりたいこと」「できること」「役に立つこと」の3つの円は
よく使われますけどね。ここは4つの円なのか。

この場合、「天職」とは、稼げることと必要とされていることの真ん中になります。
まあ、確かに、職業で言えばそうですね。
この図は「天職」をも内包する「ikigai」について考えさせられます。

これ、見ていて。

「個人」と「場」を意識し、それらを行き来しながら、
4つの円を重ね合わせていく作業のことを
「組織で働く」というのかもしれないなあと。
この本で言えば組織全体のWHYと個人のWHYを合わせていくっていうこととか。

場のチカラの出番のような気がするんですよね。

あと、一番思ったのは、ビジネスの世界ではだいぶ昔に、「達成」から「(課題)発見」に価値がシフトしているのだなあと。
中学生高校生はいまだに「達成」ばかり訓練されてて大丈夫なのか、と。

~~~
人工知能にも代替不可能なもの、それは「嗜好性」です。簡単に言えば、「私は誰になんと言われても、これが好きだ」という偏愛です。
だって、嗜好性とは、「非効率」の塊だから。
~~~

ここもまさに!とぃう感じ。
非効率な説明不能なもの。それが偏愛だから、それを伸ばしていくこと。

それ、やってみようかなと。
「好き」をベースに差異を楽しむ対話をして、
相手(他者)との差異の中から発見を促す場をつくる。
それを、最初にやってみること。

チームメイトの差異を理解し、プロジェクトに活かすこと。
ひとりひとりのWHYとチームのWHYをチューニングすること。

そんな風にプロジェクトをつくっていく練習ができたら楽しいだろうなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)

2020年09月20日

二元論ではなく内包する


ティール組織(フレデリック・ラルー 英治出版)

2018年春、僕が茨城を出る時に、話題を席巻していたこの本。
ようやく読むタイミングが来たのかもしれません。
次は「インテグラル理論」かな。

まだ途中なのですが、
就活についてもやもやしている大学生に向けて、
部分的に抜粋してお伝えします。

本について、ざっと読みたい人はこちらのブログがよいかなあ。
https://nol-blog.com/what_is_teal_organization/

組織運営および経営は
「衝動型」(レッド):オオカミの群れ
「順応型」(アンバー):軍隊
「達成型」(オレンジ):機械
「多元型」(グリーン):家族
と進化してきたのだと。

その先に
「進化型」(ティール):生命体
があると。

そこでは、3つのブレイクスルーとして
・自主経営
・全体性
・存在目的(進化する目的)
が大切になるのだと。

まあ、まとめはそういう感じで、
今日は第1部第3章の「進化型(ティール)」の紹介から

~~~以下本文より抜粋&メモ

21世紀のもっとも輝かしい躍進は、テクノロジーではなく、人間とは何か、というコンセプトを拡大することによって成し遂げられるだろう。

私たちがエゴに埋没していると、外的な要因(ほかの人々は何を考えているのか、どのような結果が達成できるのか)によって判断が左右されがちになる。

衝動型(レッド)の観点では、自分の欲しい物を獲得できる判断こそが正しい。順応型(アンバー)では、判断を社会規範への順応度に照らして考える。家族、宗教、あるいは社会階層が正しいとみなす範囲を超える判断は、罪や恥になる。達成型(オレンジ)では、効果と成功が判断の基準だ。多元型(グリーン)の場合は(組織への)帰属意識と調和を基準に判断される。

進化型(ティール)では、意思決定の基準が外的なものから内的なものへと移行する。自分の内面に照らして正しいかどうか。「私は自分に正直になっているか」「自分がなりたいと思っている理想の人物は同じように考えるだろうか?」「私はこの世界の役に立っているのだろうか?」を重視する。エゴを失う恐れが少ないので、一見危険に見える意思決定ができる。どんな結果になるのかをすべて考慮しなくても、内面の奥底にある確信に沿っているからだ。

周囲からの反対に直面したり、成功しそうにないと思われたりしても、「誠実さ」や「自分らしさ」という感覚を出発点に、本当は正しいと思えない状況、自分が声を上げ、行動をおこさなければならない状況に対する感覚を養う。

進化型(ティール)では、他人から認められること、成功、富、帰属意識は快楽的な体験であり、エゴを充足させる甘酸っぱい「わな」だととらえられる。そのため、それ以前の段階(ステージ)とは対照的に、優先順位が入れ替わる。良い人生を送るためには他人からの評価や成功、富、帰属意識を求めず、充実した人生を送るよう努める。他人から認められることや成功、富、愛は結果に過ぎない。

これ以前の段階(ステージ)では、愛や名声や成功を追い求めていくと、ゆっくりと、しかし確実に、私たちが「他人の顔を身にまとう」ようになってしまう。進化型(ティール)パラダイムでは、内面の正しさを求める旅を続けると、自分が何者で、人生の目的は何か、という内省に駆り立てられる。

進化型(ティール)パラダイムでは、人生とは自分たちの本当の姿を明らかにしていく個人的・集団的行程と見られている。

「進化型(ティール)で行く」ことになると、人生の目標を設定して、どの方向に向かうべきかを決めるのではなく、人生を解放し、一体どのような人生を送りたいのかという内からの声に耳を傾けることを学ぶ。

パーカー・パーマーは著書「人生に語りかけてもらいなさい」で次のように言う。

「職業とは何かを突き詰めていくと、「エゴ」の本音を覗くことになる。それは、だれもが日々意識している「自分」ではなく、器としての「自分」を通して人生を送ろうとしている、という事実である。つまり私が「自分の人生」と呼ぶ、表面的な、職業の型(器)にはまった経験の下には、実はもっと深い、もっと真実の、本来なりたい自分が送るべき人生がある。この違いを感じ取るには、時間と過酷な経験が必要だ。」

進化型(ティール)パラダイムに従って活動している人は、「大志を抱いているが、野心的ではない」だ。自分の本質に迫り、自分の使命に向かって努力するというのが彼らの原動力で、同じ見方をできない他の人々にとってみると、進化型(ティール)パラダイムで行動する人は、自分の個人的な成長を邪魔する人を許せず、人生の目的と合わない状況を受け入れたくない人のように映るかもしれない。

人生を「自分の本当の姿を明らかにする行程」だととらえれば、自分の限界を現実のものとして冷静に見つめ、目に入るものを心穏やかにとらえることができる。人生とは、自分にもともと素養がないものに無理をしてなろうとすることではない。

私たちはまた、周囲の人々や状況には何が足りないか、あるいは何が間違っているか、といったことではなく、そこに存在するもの、美しいもの、可能性に注意を向けるようになる。決めつけよりも思いやりと感謝を優先する。

心理学者たちは、「欠点を見る」のではなく「長所を生かす」というパラダイム変化が起こっていると指摘する。これは経営から教育、心理学からヘルスケアなど、さまざまな分野でゆっくりと深く進行している。

その出発点は、自分は人として、他人や周囲から解決してもらうことを待っている「問題」なのではなく、本質が明らかになることを待っている「可能性」なのだ、という前提である。

人生を発見の行程だと考えれば、人生で出遭う挫折や失敗、さまざまな障害に潔く対処できる。「この世の中に失敗などは存在しない。ただ自分自身や世界の奥底にある本当の姿に近づくための経験にすぎない」という精神的な悟りへの入り口をつかむことができる。

進化型パラダイムでは、人生における障害物とは、自分自身とは何か、世界とは何かを学べるよい機会なのだ。

「AまたはB」から「AもBも」へ。
矛盾ではなく、互いに必要とする2つの要素ととらえる。

全体性(ホールネス)に対するあこがれと、職場の「分離」が対立する。

ほかの人々との関係性における全体性。

判断をしない世界では、他者との関係性は新たな形をとる。他者の話に耳を傾けるとき、それはもはやうまく説得し、状況を修正し、否定するための情報収集に限られるものではない。判断から解放された共有スペースを作り、相手の話にとことん耳を傾けることによって、ほかの人々が自分の声や真実を見つけられる手助けをする。もちろん、それはお互い様である。

達成型(オレンジ)パラダイムで、人々は順応型組織の抑圧された、規範に従うコミュニティーから解放された。今や、お互いに耳を傾けて自分らしさと全体性を得られるような、新しい下地の上にコミュニティを作りなおす機会を得たのだ。

人々は自己に誠実に向き合うほど、自分がもっと大きな何か、人生と意識がお互いに結びついた一つの織物ののようなものの一部、その一表現にすぎないことがわかってくる。

~~~ここまで本文より引用、メモ

これはすごい。
面白法人カヤックのブレストが「数を出す」と「乗っかる」しかない話とか、
ミーティングにおけるチューニングの重要性とか、
荻ノ島集落で感じた「地域の個性の構成員になる」というアイデンティティの形成方法とか。
全部進化型(ティール)で説明できるじゃないかと。

考えている人いるんだなあって。

そして今僕が直面している、
「まなびとは何か?」
という問いに対しても、

受験に向けての「5教科の学び」か、地域活動等による「探究的な学び」か?

という議論がされがちだけども、
そういう二元論の議論をしていてはいけないのだと。

学力試験か推薦・AO(総合型選抜)か、
っていうAかBか?の議論ではなくて、

AもBも必要で、
両方を内包する新たな学びを提示しないといけないのだと。

そしてそれには地域の人々の協力というより、
共に学ぶ同志としての地域の大人が必要不可欠なのだと。

地域の大人は外から支えるのではなく、
地域の大人を内包した学びの場をつくっていくこと。

たぶんそれだな、と。
経営学とか組織論って、人生に直結しているよなあって思う。

自らをティール組織のように経営していくこと。

むずかしいけど、おもしろそうだな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 12:45Comments(0)

2020年09月13日

ドリームチームのフリをしろ



「教育の島発 高校魅力化&島の仕事図鑑~地域とつくるこれからの高校教育」
(編著 大崎海星高校魅力化プロジェクト 文 松見敬彦 学事出版)

読み終わりました。
シビれまくりましたね。

僕は昨年11月に大崎海星高校におじゃましました。

「コーディネーターがつなぐのは」(19.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

今年2月に新潟で再会
「気が付くと地域と自らの人生の当事者になっている」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

圧倒的な勝手な使命感、何度聞いてもアツいなあ。

ということで本を読んだメモを書きますが、
その前に、わかりやすく学校の現状がまとめられている部分を引用します

~~~

学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。

~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

まさにこれ。
こういう「本能的な学び」をつくっていくこと。
これが地方にある高校の使命だと思います。

じゃあ、どうしたらいいのか。
本書を読んでひとまずメモします。

~~~ここからメモ

「これってこうだよ」ではなく、「それってどうなの?」って訊いてくれるから。
よい教師は、生徒によい問いを発する。

校長から電話。でも、夜10時以降じゃないと時間が取れない。
校長は言った。「じゃあ、その時間で」
深夜に教頭を伴ってやってきた大林校長(当時)。

「ここまでやれる校長がおるんか!」
取釜さんのあの時の感動が、「直接会いに行く」という基本姿勢につながっているのだろうな。

「魅力化推進チーム」
ここから生まれてる。
取釜さんと先生方のチーム。
これ、大事かも。

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。
「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

~~~ここまでメモ

エッセンスに詰まっているなあと。
魅力化3番手グループとしては、めちゃめちゃ響きます。

タイトルにもなっている「島の仕事図鑑」は
魅力化の初年度からスタートしたプロジェクト。
町と商工会との協力によりスタート。

地域の大人にインタビューをして冊子化する地域プロジェクト(有志の課外活動)

本書にコラムを寄せている東北芸術工科大学岡崎エミさんによれば、

「きく」という行為だけでも
1「じっくり聞く」 2「共感して聞く」 3「質問して聞く」 4「要約して聞く」
の4種類があり、依頼の時には自己との対話が不可欠だし
聞いた後に第三者に表現して伝えるアウトプットにもなる
コミュニケーション訓練のフルコースなのだという。

なるほど。
インタビュー冊子づくりやってみたいなと。

この冊子づくりが果たした役割はとてつもなく大きいと感じた。

1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。

2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。

3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

特に、3つめの「承認」と「誇り」については、僕の長年のキーワードでもあるので、
ここに書いておきたい。

第4章「若手教員」
登場しているのは新任教員の長門先生。
仕事図鑑づくりに寄り添った。

~~~以下本文より引用

誰もが、いまの長門にないものを持っているような気がした。
きらきらと輝いてまぶしく映った。背景や想いは異なっても、
彼らはみな自分の意思で選択した「自分の人生」を生きていたのだ。

彼らの矜持は、生徒たちのインタビューに付き添って、
話を聞いていればすぐに分かった。

他者からの承認を求めたり、それを行動原理にしたりすることもない。
自分の中から突き上げる内なる声に正面から向き合い、その
野生が赴くまま正直に生きていた。

(中略)

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」と長門。
羨ましかった。純粋に、心から憧れた。まさしく生徒たちに期待した
刺激や感動、変化を、長門も一緒に追体験していたのだ。
もしかすると、他でもない自分が最も強く影響を受けたかもしれないとさえ感じる。

~~~以上本文より引用

ふふふ。
すごいね。
笑ってしまう。

これが、デザインのチカラだと思った。
きっと、取釜さんは「結果的にそうなった」と言うだろう。
それが想いの力とふりかえりの成果なのだろう。

生徒も、先生も、地域の人たちも「機会」を起点にともに学ぶ。
大崎上島では「島の仕事図鑑」こそが「機会」だった。

そしてそれは同時に「承認」と「誇り」を生みだすプロジェクトとなった。

生徒たちにとっても、
地域の大人たちにとって、
いや、おそらく先生たちにとっても、
いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。
「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。
たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、
もっとも大切になっていくのだろうと。

第6章で「島の仕事図鑑PJ」を立ち上げた
当時の商工会の総務企画課長、渡川さんは言う。

「すべてにおいてタイミングも良かったんじゃと思います」

自分が移住定住の担当者だった時に高校魅力化PJが始まったこと、
コーディネーターとなる取釜さんがいたこと、大林校長が赴任してきたこと。

「うまい時にうまいこと『変人』が三人集まったんですよ」と笑う。

そういう意味では、今の阿賀黎明高校魅力化チームも、
「ドリームチーム」ってのちに言われるくらいの人が集まってきているな、と。

Fake it till you make it
「実現するまでそのフリをしろ」
という言葉がある。

そうだ。
僕たちはドリームチームだ。

ドリームチームのフリをして、
本日も「まなび体験会」と「地域みらい留学フェスタ」でお待ちしています。


※写真は8月23日まなび体験会の様子です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)

2020年09月11日

もう出港しているんじゃけえ


「教育の島発! 高校魅力化&島の仕事図鑑」(大崎海星高校魅力化プロジェクト 学事出版)

やっと読み始めました。
最初から激アツな文章が続いて、朝からドキドキしています。
仕入れたいなあ、この本。

昨日の山形・新庄・最上ジモト大学を運営するとらいあさんが
主催する「学びの土壌づくり」のゲストにも登場していた
大崎海星高校魅力化推進コーディネーターの取釜さん。

取釜さんの一言一言に実践者としての重みを感じる。

ポイントは1~3年で取り組み「時代の航界士」となる「大崎上島学」と
島の大人たちを取材して冊子をつくる「島の仕事図鑑」だと。

~~~以下、イベントメモ

「地域と学校の連携」と、言葉で語るのはたやすいが、
それは1日1日の積み重ねの結果、ようやく実現するものだ。

「組織や行政はあとから付いてくる」

まずひとりが動き、そして地域が動く。
それから学校が変わり、行政が後追いしてくる。
「学校にとっての魅力化」と「地域にとっての魅力化」は
「生徒」「学校」「自分」「地域」の重要度が異なるが、重なる部分があり、
そこをやっていくこと。そのひとつが「島の仕事図鑑」だ、と。

そして、地域の人に対しては、
「(ゆくゆくは)地域にとってもプラスですよ」と語り続ける。
そして、目に見える成果物(印刷物など)を残していく。

始めるのはひとりの人だが、
続けていくには仕組みとかシステムにしていく必要がある。
⇒一般社団法人「まなびのみなと」設立

★どういう子を育てたいか?
⇒年々更新していってもいい。その更新システムがあることが大切。

高校生がプロジェクトに参加した時の
その日のリアルな声を積み重ねていく。

「協議会」⇔「分科会」
偉い人が入っている承認システムと役割ごとに動きが速い行動システムとの分業

★地域との接点:授業だけではなく授業外でも
・授業「大崎上島学」
・単発の「地域プロジェクト」(1~数か月)
・部活動「みりょくゆうびんきょく」
3パターンの地域との接点。

~~~ここまでメモ

取釜さんの話の後の参加者同士の対話の時間。

僕のキーワードは3つ

「講座」の終わり⇒誰かが何かを一方向的に教える「まなび方」は終わりに近づいている。

育てたい人物像⇒アップデートされ続ける。

「手段としての学び」から「機会としての学び」へ。

最後のはいつも言っていることだけども。
基本的には「対話」なんだなと。

ただひたすらに「対話」を積み重ねて、
今の大崎海星高校魅力化プロジェクトがある。

「対話」をするから、
異質な他者との協働の入り口が見えてくる。

「対話」によって「関係性の質」が高まり、「学びの質」も高まる。
だから、「ギャップ」は乗り越えるものではなく、活かすものなんだなと。
そのための対話。

話を聞いていて、
大崎海星高校のプロジェクトはよくデザインされているなと思った。

授業や授業外プロジェクト、部活動等との組み合わせによる
生徒たちの地域への「参画のハシゴ」のデザイン。

協議会と分科会といった「企画の実行」のデザイン。

島の仕事図鑑づくりという双方の「当事者意識の向上」のデザイン。

最後にそれを質問したのだけど、
取釜さんはそれを「結果」だという。

仕組み化のポイントは、
「目の前のことを大切にしながら先の話をすること」だと。

シンプルだなあと思った。
実は原則ってシンプルなのかもしれない。

目の前のこと、目の前の仲間(生徒やパートナー)を大切にして、
振り返りながら、先を見据えること。

「もう出港しているんじゃけえ」
(実際はこういう風には言ってない。笑)

そう。
船はもう、出港しているんだ。

いまいる乗組員と対話し、違いを楽しみ活かし、
目の前に来る自然条件に対応しながら、船を進めていく以外にない。

ラストは、取釜さんのモットーである「圧倒的勝手な使命感」で締められた。

「圧倒的勝手な使命感」を持ち、まだ、できることがあるんじゃないか?とひたすら考える。
そんなひとりひとりと船に乗り、船を進めていくこと。
そしてプロジェクトという船旅は続いていく。


※ 写真は昨年11月、大崎上島を訪れた際の行きの船から撮影したもの  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)

2020年07月26日

開かれ続けているということ

新潟県立阿賀黎明高等学校×阿賀町
阿賀町教育留学制度のパンフレットができました。
関係者のみなさま、たいへんお世話になりました。









ウェブはこちらから。
https://reimei-gakusya.localinfo.jp/pages/1427137/page_201711151839

昨日は「地域みらい留学フェスタ」(オンライン開催)の初日でした。
「地域みらい留学」
https://c-mirai.jp/
「新潟県立阿賀黎明高等学校」
https://c-mirai.jp/school/agareimei/

ZOOMウェビナーでの合同説明会と、ZOOMj会議を使った個別説明会。
黎明学舎スタッフの及川さんが慣れていて心強い。
校長先生が最後にいい言葉で締めてくれたり、
教育長が随所に登場してくれたりするので、
「オール阿賀町」感が出ているような気がする。

さて。
今日の1冊。


「14歳の教室~どう読み、どう生きるか」(若松英輔 NHK出版)

筑波大学付属中学校で行われた7回の授業をもとにまとめられた1冊。
新津・英進堂にありましたので思わず購入。

いきなり。
「動的に考える」から始まります。

鴨長明「方丈記」の冒頭の一節。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。」

河の流れは止まることなく、動いていて、いつも異なる水が流れている。同じ水などというものはない、というのです。

そうだなあと。
まさに人生というか、学びってそういうことなのではないかと。
川のまち阿賀町での学びも、そんな精神でいきたいですね。

この本で!!と思ったのは、
「第6章 対話するⅠ」のところ。

友と問いについて。

~~~ここから引用

たしかに、友とは、広い意味で人生の問いを共有している人かもしれません。そうした人とは対話が深まるのは当然です。

古人は歌には歌で返していました。返歌という文化がありました。そこには、目に見えない、耳にも聞こえない「対話」が成立していたのです。

私たちは歴史という豊かさな資産がある。歴史のなかに自分の対話の相手を見つけていかなければいけない場合がある。別な言い方をすれば、自分はひとりだと思う前に、皆さんは歴史の中に友を探すことができるのです。

「対話」とは、他者に向かって自分を開こうとする営みです。ジブンだけで問題を解決しようとする、そうした場所から離れることでもある。自分の問題を自分だけで解決しようとするとき、私たちは自分の可能性をどんんどん小さくしているかもしれないのです。

そして、他者に、世界に、あるいは歴史に向かって開かれていくということと、自己において深まっていくことが同時に起こり得る。むしろ、開かれていないとき、深まりもまた限定的だと言えると思います。

気を付けないと、私たちは、自分を深めていこうと思うときに、だんだん自分の世界に閉じこもってしまう。

プラトンが重んじた対話の「場」とは、目に見える空間ではありますが、目に見えない地平のようなものであることが分かります。「場」は目の前にもありますが、「眼」で「観る」世界、リルケのいう「内界」にも広がっています。だからこそ、「内なる対話」という言葉が生まれてきたのだと思います。

~~~ここまで引用

冒頭のパンフレットにあるように、
温泉と森のシェアレジデンスの意味とは、
地域に「開かれている」場であるということ。

別棟にある日帰り温泉には、
暮らしの一部として、そこに通うお年寄りを含め、地域の人たちがいます。

そこで「対話」するまでの関係性になるのはハードルが高いけれど、
人生の問いを共有できるような誰かに出会えるといいなあと思います。

一方でひとりひとりはその人なりの探究を深く掘っていくこと。
「対話」と「探究」を繰り返し、その人なりの「道」が見えてくる、

阿賀町の教育留学とは、そういうことなのかもしれません。

歴史や地域に開かれている「場」、開かれ続けている「自分」
そこで対話を繰り返し、「わたしたち」と「わたし」を行き来することが
できる場所。

そんな学びの空間を一緒につくっていきたいと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)

2020年07月24日

「結節点」としての私と「わたしたち」


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」(渡辺保史)

読み終わりました。
2年以上の時が過ぎ、今こそ、読むべき時が来ました。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)から、
時代の10年先を行っていた渡辺さん。

「社会の時代」から「情報の時代」への変化の中で、
渡辺さんの先見の明がすごいなと。
約10年前にこんな世界を予感していたなんて。

本書は非売品なので、読むことができる人は少ないかもしれませんが。
ここにメモを。

~~~ここからメモ 1 経験デザインとインターフェイスについて

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。

経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。

「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

~~~ここからメモ2 学びについて

大切なキーワードは「学び」で、一部の専門家から、「残り多く」の人へ知識が受渡されるのではなく、ある時空間を共有しながら、実践を通して、互いが学び合うこと。そんな実践コミュニティ。

地域社会の未来を構築する力の源泉として「学び」を捉えること。

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。

三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

ノード(結節点)としての大学。

~~~ここからメモ3 コワーキングについて

コワーキングは、都市内の空きストックの単なる有効活用(場所貸し)でも、社会的に立場の弱いフリーランサーのためのアジール(避難場所)でもない。

これまで、仕事は組織の「所有物」と見なされ、ひとは組織から仕事を与えられて働いてきた。

戦後の高度経済成長期、ひとは組織の成長や目的とおのれを重ね合わせ、一心不乱に働くことで自身の豊かさを充足できると信じていた。

組織と個人のベクトルの同一化は、高度成長が終わってしばらくの間も、あたかも慣性の法則が作用しているごとく、ある程度は続いていたが、それもバブル経済のつかの間の繁栄がしぼむとともになし崩し的に消えていった。

「仕事」全体の再発明を余儀なくされているのかもしれない。

コンピュータとインターネットさえあれば「どこでも仕事ができる」と一般には思われがちだが、実際には「どこでも仕事ができ」てしまうからこそ、逆に「どこで、誰と、どんな風に働くのか?」にきわめて意識的にならざるを得ない。

そうした人々が、創造的な環境を実現する条件として強く希求するのが、居心地のよいコミュニティであるというのは非常に示唆的なことではないだろうか。

創造的な人材を引きつけるためには、企業でなくコミュニティの品質と活力が大切である。創造的会社の従業員は独立した起業家であり、どこで生活するかを自由に決める人種である。(「市民起業家」エドワード・マクラッケン 1997)

地域において最も必要なインキュベーターとは、「高速回線付きの安い貸しオフィス」などではなく、多様な人々が集う結節点的な場だと唱えた。もちろん、物理的な空間やインフラが不要だというわけじゃない。

それよりも大事なのは、ビジネスやまちづくりや文化活動を盛り上げる「地域全体のインキュベーター」なのではないか?

~~~ここまで本書より引用メモ

「経験デザイン」「学び」「コワーキング」と非常に示唆に富んだ文だが、

キーワードは「インターフェイス」と「結節点」だと思った。

もともと僕が渡辺さんに実際にお会いしたのは、
2003年の「はこだてスローマップ」のワークショップだった。

その時のことも本書に書いてあるが、「地図」というのはそもそも「インターフェイス」だと

地図というインターフェイス。インターフェイス「二つのものの間ににある接点、境界」
1 フィジカル(物理的に存在する)空間とデジタル情報空間
2 知識から経験へ
3 マップ作りを通して人と人を結びつける

このインターフェイスという考え方と
当時から聞いていたノード(結節点)というキーワードが
今になって立体的に見えてきた。

第10章 まちなかで模索する新しい働き方 より抜粋する

~~~ここから引用

どこでも仕事ができるようになったからこそ、逆に、どこで、どんな風に(そして誰と)働くのかに意識的にならざるを得ない。そこで強く希求されるようになったのがコミュニティだったのではないか。コワーキングの中心層であるフリーランスやスタートアップの起業家、あるいは社会起業家たちは、まぎれもなくコミュニティを必要とする人々である。

たとえば、フリーランスの生命線は、いかに多様な人々や組織とのつながりがあるか、いわゆる「ソーシャルキャピタル」を持っているか。あるいはある種の「生態系」の中で活動する自分を意識できるかどうかに尽きる。

とはいえ、それは単に人脈(コネ)があるとか、顔が利くという皮相なレベルではない。かつて名著「マインド・ネットワーク‐独創力から協創力の時代へ」(マイケル・シュレーグ 1992)で言及されたコラボレーション(協調・共創)の条件をクリアしていくこと。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。
「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、
ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、
そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライン劇場ツルハシブックスで宮本明里が言っていた。
「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。
その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

そして、上の引用に書いてあるが、
メディアで起こっている3Cの変化は、これから、「学び」の世界で急速に起こることなのだろう。

▼▼▼ふたたび引用

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

▲▲▲ふたたびここまで引用

いままさに、これが起ころうとしている。
少なくとも、新潟県東蒲原郡阿賀町では起こりつつある。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、
ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、
高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、
一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、
僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)思い

2020年07月21日

「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ

渡辺保史さん。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)の著者。
渡辺さんの活動を知って、「はこだてスローマップ」の
活動に参加し、会いに行ったのが2003年。


若いです。(2003.3.29)

その後、10年の時を経て、新潟青陵大学が中心となった「にいがた未来考房」
立ち上げの時に講師でお呼びして伺ったのが自分ごとのデザイン。


スーツきてる。(2013.3.27)

このわずか3か月後の6月に急逝。
言葉を失いました。

その後、当時書いていた原稿を出版するプロジェクトが立ち上がり、
2018年3月にクラウドファンディングにより自費出版されたのがこちらの本。


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」

いまこそ、読むときが来たと。

土日、2つの教育系ウェブセミナーと
オンライン劇場「ツルハシブックス」を開催。

土曜日は
「最上マイプロジェクト推進運営委員会オンライン勉強会 #学びの土壌づくり」

日曜日は
「スカイロケットプロジェクト主催の21世紀を生きる子供への大人のかかわり方⑥」でした。

~~~こちらはメモ

18日

高校生の探究と大人の探究が重なり合う部分にプロジェクトをつくっていけるかどうか。

対話:認識のズレを顕在化させるコミュニケーションのこと⇒違うことを楽しむこと。

「学び合えば希望は生まれる」
     ↑
「フラットなコミュニケーションが必要」
     ↑
「心をひらくためのデザイン、ツール」

「ワクワク」は伝染する。
その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。

個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場。

19日

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。

「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

リフレクションと対話とメタ認知

主語を私たちにシフトしていくこと。
「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

オンラインによる「個別最適化」は学ぶ意欲のある子にとっては理想的なのかもしれないが、そうではない子にとっては、生活習慣さえ乱れてしまう。

先生や公務員こそ、「コミュニティ副業」をする時代だ。

小中学校時代にうまく学校についていけずに、高校で学び始めた子どもたちが「本当は勉強したかった」というのだと。
8割の子どもは、自己肯定感を下げるためだけに学校に行っているのではないか?

「履修主義」から「習得(修得)主義」へのリスク。プロセスにおける雑談や関係性は配慮されなくなる。

学校を社会に開く合理性を市民側が説明しているか?
市民側のリテラシーの低さ。
先生が何に苦しんでいる状況なのかを理解してから提案すること。

年齢の違う人と、テーマで話すこと。
評価・判断を保留して聞くこと。
年齢の壁はオンラインのほうが越えられるかもしれない。

発達の最近接領域
https://learn-tern.com/proximal-development/

たぶんこれと、場のチカラによる「学び合い」から「見つけ合い」へのシフト。「私たちとして探究的に学ぶ」これが自己肯定感問題を含むアイデンティティ・クライシスと探究学習を同時にクリアしていく方法かもな。

新型コロナウイルスで失われたものは学校での授業と言うよりもむしろ「登下校」や「放課後社会」といった無数の余白時間なのだろう。そしてむしろ余白のほうが本質的に重要だったものなのかもしれない。

~~~ここまでメモ

そしてもうひとつオンライン劇場の宮本さんとの対話やそのあとの「やりたいことが分からないの社会学」、
「責任」について、も。

~~~ここからメモ

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。
そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。
その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。
好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。
ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。
それでようやく「自分」がわかる。

SDGsから出発したプロジェクトが僕の心を打たないのは、「手触り感」からスタートしていないからか。

自分に自信がない、つまり自己肯定感の低い人は、客観的に自分を見てしまうから、ついつい場において役割を果たせていないのではないか、と感じてしまう。

それって「責任感が強い」ってことじゃないですかね。オーダーされたものに真剣に応えるデザイナーのような。

これまで「自分に自信がない」とか「他者からの評価を気にしてしまう」とかって聞くと、評価という呪縛から早く逃れたほうがいいと思っていたけど、昨日のツルハシでの対話を経て、そういう人のことが好きになったというより、僕のようなクレイジー・ポジティブの人の周りには必要な存在だと分かった。平尾さんのいう「相補的関係」

同時に、その人たちが「安心」できるために、「チューニング・ファシリテーション」が必要なのだなあと思った。
冒頭で「最近あったよかったこと」を聞いて、終わりに「印象に残ったこと」を聞く。そして「発見」し合う場づくり。

最後の時間は「責任」について。哲学対話みたいになってた。これ、オンラインのほうがうまくいく気がする。今まで照れ臭くって「対話」ってタイトルのイベントには足が向かなかったのだけど。オンラインならできるね。クルミドコーヒー影山さんが言ってた「自己開示が強要されない」場づくり。

~~~ここまでメモ

っていう感じ。

昨日は校長先生と教育長と阿賀黎明探究パートナーズの会長である麒麟山齋藤社長との会談で、
プロジェクト学習について話し合っていたけど、

~~~思ったことメモ

「進学クラス」と「就職・専門学校クラス」っていう区分けがもう意味を為さないような気がした。
一緒にプロジェクトやってみたいな、と思えるヤツを育て、それをベースに「もっと研究したい」と思う人が大学に行けばいい。

マイプロジェクト
    ↑
プロジェクト型学習
    ↑
ワークショップ手法
    ↑
対話のデザイン、オープンマインド
    ↑
安心・安全の土壌づくり

マイプロジェクトの先に大学での「研究」と専門学校での「専門スキル」と企業での「就職」というプロジェクトがある。

地域の○○を学ぶ、っていうだけではほとんど意味がなく、地域の○○を活かして何かプロジェクトとして実践するところまで行かないといけない。
地域の特産物を育てて「販売」というのは一番思いつきやすい実践例だと思うが、プロジェクトはそれだけではないはずだ。

仕事や人生を主体的対話的に歩んでいけるような人に高校卒業時になっていること。
言い換えれば、人生の経営者になっていること。
会社では一介のサラリーマンであるかもしれないが、自らの人生の経営者であること。
そうしないと地域に貢献したりしないよね。それがシチズンシップ教育なのでは

~~~ここまでメモ

「わたしたち」として「見つけ合う」から始まる学び。
ワークショップ、プロジェクト学習、マイプロジェクトとつながっていく学びの前提。

そこに対話のデザイン、オープンマインドが必要で、
その前提として安心・安全の土壌づくりがあるのだろうと思う。

その「わたしたち」の範囲、フレームをどこまでにするか?
そこに心地よい責任感のヒントもあるなあと。

いろいろ繋がってきています。
渡辺先生、この本でまた学ばせてもらいます。
そして、先へ送ります。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)イベント

2020年07月18日

おじさんという60°のナナメの関係


「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

いいっすね。
どこまでもドライ。

正義とは何か?
とか
愛とは何か?

って考えている人にめちゃめちゃおすすめ。

「愛には、4つの形があります。」
みたいな。

わーー。こんな授業聞きたいわ。
って。

まあ、今日はそういうわけで、
「おじさん」について。
愛(=身近な関係)には4つあるという話。

・横の相補型:恋人、夫婦など
・縦の相補型:親子、師弟など
・横の共同型:友達、コミュニティなど
・縦の共同型:部活、上司と部下など

って。
これはわかりやすい。

相補型では、相手もっている自分と違うものを大切にすること
協働型では、相手と共通するものを大切にすること
がポイントなのだと。

そうかもしれませんね。
あとこれは、コミュニティ論としても面白いなと。

コミュニティが育つ、長続きする、生み出し続けるためには、
共同性と相補性の双方が必要なのだと。

そしてもうひとつ。
P214のコラムにかかえれている「ぼくのおじさん」

ここでいう「おじさん」は、両親と違うことを許容してくれるテキトーな存在、
つまり「ナナメの関係」として書かれています。

わー。
これ、ツルハシブックスの僕じゃん。
やっぱおれ、おじさんだったんだ、ってちょっぴり凹みましたけど。(笑)
「ナナメの関係」っていう視点から見ると、まさにそうだったんだなと。

「ナナメの関係」っていうのはNPOカタリバがのコンセプトなのだけど、
高校生にとっての大学生という意味合いで表現されているのだけど。

「おじさん」っていうナナメの関係もありなのかもしれないと。
ちょっと角度が大きくなりますけどね。
(大学生30°⇒おじさん60°くらい)

それって、地域コミュニティが、というより、
地域の大人ひとりひとりがなっていけるんじゃないかと。

そんな「おじさん」と中学生高校生の接点をつくっていくこと。

「学びの土壌」の構成要素としての「おじさん」の存在を
あらためて考えなおしてみることにする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)

2020年07月15日

多数派でないことは、「逃げ」なのか?


「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

読み始めました。
「道徳」とか大嫌いだったんですけど、倫理学、ね。
みたいな。

「哲学」無しでは生きられない時代(社会)になったと思っていたのだけど
この前の「はみ出し者の系譜」のところで、
ステージが進むと、前のステージを内包しなければならない
っていうのも、たぶんそういうことで。

ソクラテスの時代から「よく生きる」とは何だろうか?
という問いは始まっていたのだけど、
都市化という「効率的な社会」をつくる方法が追求され続けた結果、
人は、「倫理」や「哲学」がなくても、掟とかルール(法律)に従って
生きていくことで、共同体のメンバーとなれた。

ところが。
国家や地域、会社と言った共同体や社会システムそのものが揺らいでいる今。
「情報の時代」へと突入している今。
自らの内側に「倫理」や「哲学」を内包する必要があるのではないかということで手に取った1冊。

この本の価値は、簡潔に示している(と僕が思っている)箇所から抜粋引用します。

~~~ここから引用(P58~)

倫理学の仕事パート・ワンは、倫理や道徳の整理でした。倫理や道徳は、必要なものもあるけど、中には個人が経験したことから導き出したもの(つまり人生論)や、単なる思い込み(偏見)、理由はわからないけど伝統的に受け継がれてきただけの因習(つまり、昔からの、よく分からない言い伝え)とかもあります。倫理学はまずそうしたものを整理します。つまり、「道徳とされているもの」が全部大事だとは限らないので、それらの中で本当に必要なものと、必要じゃないものに分けるのです。

必要だというのなら、なぜ必要なのか、その理由を説明する。それが倫理学の仕事パート・ツーなのです。

ほんとは必要じゃない、理由もよく分からないのに「道徳」っていう顔をしているものがあったら、これは押し付けにすぎません。倫理学の仕事は、こうした押し付けを取り除くことなのです。

倫理や道徳は「こうしなさい」とか「してはならない」という形をとります。つまり人を縛るようなものだから、出来れば少ない方がいいわけです。要するに、倫理学は道徳や倫理を整理して、必要なものに絞る。そうして倫理学は我々を自由にする。

そして、もし必要な倫理があるんだったら、倫理学は「そうしなければならないこと」「そうした方がよいこと」の理由を考えます。理由があって、必要なものなら、自分でも納得して従うことができる。そうなれば「従う」というより、自分の意志で「そうしよう!」と思えます。この意味でも倫理学は、我々を自由にする。

こうして倫理学は、二重の意味で我々を自由にするわけです。

~~~~ここまで引用

自由になるために、「倫理学」が必要って、その通りだなあと思った。
大学生や新社会人が就活や働くことへの違和感やもやもやを聞いていると、

まさにこの倫理・道徳の整理とその理由の説明が自分なりにできるのかどうか、がポイントになってくるのだと思う。
あとは社会やシステムを俯瞰して見れるかどうか。

昨日、取材型インターン「ひきだし」説明会で気づいたこと。

いわゆる「ジョブ・ローテーション」の話。いろんな仕事をやってみて(やらせてみて)、その人にあった仕事を見つける(適性)。(市役所などの場合は、癒着や汚職の防止っていう意味合いもあるのだろうけど。)

これって、一見win-winな関係に見える。適性ある仕事ができるなんて、双方にとって、ハッピーだよね、みたいな。

しかし、そこには「人間関係」は考慮されていない。(考慮されている会社もあるかもしれないけど。)

「適性」ってそもそも、会社側の論理なんだと。

「自己分析」して、「自分に向いている仕事」を判別して、御社にとって私は有用です、とアプローチする就活。

「創造を生むフラットなコミュニケーション」はそういう就活には存在しない。「使えるヤツ」「使えないヤツ」を企業側が判断するだけだ。

そこには環境(人間関係含む)によって、人のパフォーマンスは変わらない、という人間観があるような気がする。

そのコミュニケーションの時間ってもったいないな、と思ったのが取材型インターン「ひきだし」の出発点だった。

今回、完全オンラインでの開催となって、「フラットな対話空間」はより実現できそうだけど。

オンラインという「場」に会社側も学生側も何かを持ち寄って、その「場」に差し出す、みたいな場が作れないだろうか。その先にオンラインでしかたどり着けない「場」があるのではないか。それが今回見てみたいもの。

2006年から大学生と関わるようになり、「就活」というシステムそのものに違和感を抱き、立ち止まる大学生に何人も出会った。

そのシステムに適応できる人はすればいいと思うし、どちらが正しいか、という問題ではない。

ただ、現実に違和感を感じる自分がいるとしたら。その違和感を言葉にしていくこと。

周りの大学生や、大人たちが示す「常識」というかみんながやっていることにいまいち乗れないこと。そこから出発していくこと。そこには、もしかしたら倫理学的なアプローチが必要なのかもしれない。

多数派ではないことをしていると、それって「逃げ」じゃないのか?みたいな謎の恐怖が襲ってくる。その「逃げ」という言葉の大半を占めるのは「同調圧力」だと思う。

倫理や道徳、常識を整理し、その理由を考えること。「就活」とは、そんなアプローチをするいい機会や題材なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)

2020年07月10日

はみ出し者の系譜


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

はやくも2周目。今日は「はみ出し者の系譜」です。
言い換えれば、「コミュニティ難民」なのかもしれません。

参考:中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」(16.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e483286.html

ツルハシブックス閉店1か月後に書いた文。

「居場所」という場所は不要で、「劇場」をたくさんつくり、
「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。
これはもしかすると、オンライン劇場ツルハシブックスで目指しているものなのかもしれない。

リアル店舗の本屋「ツルハシブックス」とは僕なりの「参加型社会」への実験だったと言えるだろう。

本屋のような劇場をつくる。
気がついたら本屋という舞台の共演者になっている。

それは、もしかしたら、
「ヨコ軸」としての参加型社会だったのかもしれない、と。
そしてそれは「瞬間的に」発生することで、
心が開き、共同体感を感じられる場になったのかもしれない。

そして、唐澤さんたちの「ネオ・まきどき村」が志向している
「営みの中にあること」はタテ軸としての参加型社会なのかもしれない。

この本を読んで、
あらためて、自分という存在だったり、昨日のブログに書いた
「永遠に中間的なるもの」としての「自分たち」という存在を考えた。

~~~以下本書より一部引用とメモ

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。
アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。
そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、
その中でまた独自の掟や作法が生まれて、
それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。
「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

ここまで第6章の「よはとつ図形2020」より。

そっか。
「とどまる」を経験しないと、真の意味で「つながる」フェーズにはいけないんだなあと。
永遠に「よりそう」「はじける」「よりそう」「はじける」を繰り返してしまう。

もう、「よりそう」だけでは(全員は)生きていけないのだ。
コロナ過での公務員・大企業志向は、まさに「よりそう」への回帰なのだと思う。
一方で、「はじけろ」っていうだけなのも違う気がするのだよね、きっと。

このブログのタイトル「20代の宿題」っていうのは、もしかしたら、
「つながる」フェーズに行くために、
「よりそう」「はじける」「とどまる」の3フェーズを繰り返すこと、なのかもしれない。

そしてそこで圧倒的に重要で、しかも難しいのは「とどまる」だ。
意識しなければできないし、「とどまる」には孤独が必須だからだ。
そして「とどまる」の前には「はじける」がある。

同調圧力などの掟・ルールに耐えられず、コミュニティにいられなくなる。
そんな状況で「はじける」ことができるのか。

そこで、この本では歴史を壮大にふりかえる。
(この本のクライマックスなので、本を買おうと思っている人は読まないほうjがいいかも)

▼▼▼ここから一部引用・メモ

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。

海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。
海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。
生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。

私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。

私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。

「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。

その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。

▲▲▲ここまで引用・メモ

このあと本当のラスト「望郷としての海」に行くのだけど、それは本書をお読みください。

いやあ。書いていて、身震いがする。

新型コロナウイルスが強引にこじ開けたドア。
Withコロナ時代の先、向こう側。
なぜ、自分がこんなにも本を読まないといけない、と思ったのか。
「サピエンス全史」をこのタイミングで読みたかったのか。

僕たちは「はみ出し者の系譜」の中にいる。

歴史・営みというタテ軸と、共同体というヨコ軸。
自分はその真ん中に存在しているのだけど、
それを「自分たち」に拡張していくことだと思う。

そしてひとつひとつの「自分たち」には、
進んでいくベクトルがあり、それは1つ1つ異なる。

僕たちはいま、そんな世界へのドアの前に立っている両生類なんだ。

そして僕はきっと、そんな時代を見据えて、
新しい本屋に「かえるライブラリー」と名付けたんだなと。(本当か)

  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2020年07月09日

「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

予約していたものがようやく昨日届きました。

もう、すごいです。
「ヤバい」っていう言葉しか出ない。
そして、僕にとってのタイムリー。

「参加型社会」は橘川さんの半世紀のキーワード。
その本質をえぐるような言葉に、ドキドキしながら読みました。

昨日夜の「取材型インターンひきだし」での
大学生の不安を聞いていて出てきたのがやはり「近代的自我」、
つまり、やりたいことがわからない問題とアイデンティティ危機の問題。
そこともリンクしてきて面白かったのが第3章のメディアとは何か?

ここの部分を今日は紹介します。

~~~ここから本から一部引用

デカルトが定義づけた近代的自我は、まさに人間のソフトウェアに対する讃歌である。「我思う」という想像力の自由こそが、人間の持つ本来性であるとしたのである。

近代の方法論を簡単に言うと「コピペ」である。
近代とは「量」を神とする信仰であった。

本来、人間の意思(ソフトウェア)に応じて作られたのが道具(ハードウェア)である。それが、道具が道具を作り出すようになった。やがて「人間の意思」が「道具の進歩」に追いついていかなければならなくなった。

今、人間(ソフトウェア)が為すべきは、ただハードウェアに追随するのではなく、ソフトとハードの人類史をより大きな視点で俯瞰し、ソフトウェアの本質を再確認することではないか。

ソフトなきハードの暴走はいずれ停止する。その時代に向けて、人類もまた、幼児的なソフトウェア(近代的自我)の次元から、一回り成長した、大人のソフトウェア(情報的自我)へと脱皮する必要があるだろう。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。

融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

~~~ここまで引用

このあと第5章に、近代的自我の先にある情報的自我の説明がある。一部引用すると
「これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。」

これです。これ。
昨日の「取材型インターンひきだし」説明会でも話していた、
「魔法をかける編集」と「場のチカラ」の話ってまさにこの自我の話ではないかと。

アウトプットするのは個人やチームの力ではなく「場のチカラ」であり、

参考:人生は経営である。ただし個人戦ではない。
http://hero.niiblo.jp/e489703.html

「魔法をかける編集」というのは、
ひとりひとりの「今の自分しか紡ぎだせない編集」を
そのインタビューに表現していく、ということである。

アイデンティティ・危機を越えていくために、
自らを差し出して複数の「場」の構成員になり、その組み合わせを自分とすること、だと昨日話していたけど、
それって、橘川さんの言う、「情報的自我」のことなのではないかと。

「取材型インターンひきだし」は、就活という近代的「フレーム」が機能しなくなっている中で、
「永遠に中間なるもの」としての「私たちの時代」への道を切り拓いていっているのではないか、と。

そんなことを感じてワクワクした朝読書でした。

「ちょっと何言ってるかわからない」と思った方はごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)イベント

2020年07月06日

「達成感」の使い方


「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

僕が読んでいるのは文藝春秋の単行本のほうですが。
08年の本ですので、古本屋でも見つけられます。

第2章の「働くということ」がタイムリーだったのでメモします。

~~~

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な資金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望が持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違え」だったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価のほうが本人の自己評価よりも客観性が高いのである。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのもの。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。

~~~ここまでメモ

人間という集団が生き延びるために「労働」があり、「労働」の受益者は基本的に集団である。おそらくはこのリアリティがない。

この章の後半、著者は「スイスのロビンソン」を題材に「無人島のルール」を説明する。集団で生きるとき、個人の利益を最大化するという行為はルールに反するのだと。

そして社会のルールは、「複数の人間が無人島で暮らせる」ことを基準に作られていて、そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。

「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」である。いわば「温室」ルールである。敗者になっても命までは取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。

「キャリア教育」の名の下に、何をしてきたのだろうか。
3年で会社を辞める若者は、「適職ではなかった」からなのだろうか?

そもそも労働とは何か?
という問いが必要だったのではないか。

「ふるさと教育が叫ばれ、地域を愛する子どもを育てたい。」と多くの人が願っている。
わが町も例外ではない。

先週のプロジェクト打ち合わせで出てきた「早く大人にしたい。」その言葉に込められた思い。
集団の成員として学校改革の、まちづくりの、パートナーになってほしい。

名作マンガ「SLAMDUNK」で桜木花道が5人いたとしても山王工業には決して勝てない。
「地域の役に立つ」前に「集団の役に立つ」という経験が必要なのかもしれない。

そしてそれは目に見える「報酬」がある役に立つではない。
集団の成員として、責任を果たした。そんな「達成感」。

そんな達成感を報酬だと感じられるような、
一緒にいると楽しくなるような、そんなパートナーを育む学びができるのではないか?

そしてそれこそが、若者自身が「アイデンティティ危機」と付き合っていく有効な方法なのだと僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)日記

2020年07月03日

まなぶを響き合わせる

6月24日のweekly ochiai

「ギグワークは仕事の未来なのか」
https://newspicks.com/news/5016231?ref=user_2250


が面白すぎて。
特にラストの宮田さんの「はたらくを響き合わせる」がアツかったな、と。

で。本も読んでみました。


「GIG WORK」(長倉顕太 すばる社)

まあ、本は思っていたのと若干違って、
ギグワークとは何か?ではなくて
なぜギグワークか?どうやってギグワークに(自分として)シフトするかっていう話でした。
昨日読んだ「サブカルチャー論講義録」と重なっていて、これはこれでうなりました。

~~~本を読みながらのメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

「お金持ちになる」っていうことは「選択肢が増える」っていうことか。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?
「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」
そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。
本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。

昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。
それこそが奴隷づくりの方法なのに。

「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。
フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。
まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

~~~ここまで読書中のメモ

なるほど。
社会学的で、昨日の若者のサブカルチャー論講義録の補足にもなっていて、とてもスイスイきました。

で、冒頭のウィークリーオチアイのまとめ。

~~~以下、動画みながらのメモ

ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

ギグワーカー=労働法上の労働者ではない。
・環境の変化がはげしく、人材を自社で賄えなくなっている。
・労働者ではないから自由に働ける
・マッチングするプラットフォームの進化

クラウドワークス:3つのタイプ
・プロジェクトベース(単発)
・人をコンスタントに契約(長期)
・PMをやって、その下にチームをつくる
個人がだんだん事務所化している。
事務3-7だったのが9-1でオンラインになった。
主婦とシニアが増えている

人材マッチングの機会としてのギグワーク

「体験バイト」=大人版キッザニア タイミー:会社員:主婦:フリーター 同じくらいの割合
正社員:やったことないのにいきなり正社員で、やめるにやめれない。

転職のリスクはむしろ上がっている。副業がリスクヘッジになっている。副業というセーフティネット。副業は社員の幸せを考える会社は必須。実際の働きぶりを見て、転職。会社的には人材募集システムとして機能する。(無料の引き抜き)実際に働きぶりとなじんでるのを見て、採用すると長く働いてくれる。人材の流動性を高めるうえで仕組みとしていい。

セーフティネットとしてのギグワーク:ヘッドとロングテール⇒日本の分布に似ている。

稼げる、稼げないだけではなく、やりがい、充実感のグラフもある。
ギグワーク:多様なロールモデルを見せる。ひとりひとりのモチベーションにグラデーションがある。多様な生きがい。
コミックマーケット:フラットな世界⇒ロングテールが大好き

社の論理だけでフィットしない人を排除してきた。それがうまく生かせるかもしれない。

「機会の提供」という意味ではネットはいいけど、コミュニケーションのOSが増えた
オンライン時代に、リアルのスキルが下がっている。
フィットする人材の多様化。リアルに弱い人でもオンラインで強い人には活躍の場がでる。
匿名、ニックネーム、年齢・住所非公開で働ける
「承認欲求」が満たされる。ギグワークは即時相互評価。それが働くモチベーションになる。

ウーバー:「働く」って一方的な提供じゃなくて一緒につくるエクスペリエンス。お互いに仕事を提供して一緒にはたらく。
派遣は一方的な体験だったのが相互評価になる。上から命令される、みたいなかたちにならない。評価の悪い悪質な発注者は駆逐される。
ギグワーク:新しい社員探し。インターンの替わり。コンビニ向けのサービスを考える⇒ギグワークするほうが早い。

クライアントからありがとうって言われる⇒シニアにとって生きがい。
お金いる人といらないひとがいる。タイミー:ボランティアにもいけるように。
IT技術は信用(信頼)を前提としている。ピーク時の2時間だけ人がほしい。

将来のためにギグワークをする。

働くを響き合わせる。
与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ

都市や会社=お金のためだった。
自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

~~~ここまで動画メモ。

いやあ、宮田さんがアツいね、やっぱ。
仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、
やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。
お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、
「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)
みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、
フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。
僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。

一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、
一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、
伴奏者としての大人たちと一緒に、
ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:34Comments(0)

2020年07月02日

「創造力」を伸ばすまち


「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)

オジサン必読の1冊。
(まあ、僕はまだギリギリなってないけどもね。)

いやあ、こういう本、好きなんですよね。
AKBとか乃木坂とか、なんなんだ、みたいなもやもやを
すっきりとある視点から切ってくれる1冊。

京都精華大学の講義を編集したもので、
マンガ、アニメ、アイドルなどの現象を社会学的に解説。
これは面白い。
途中何度も爆笑しました。

いちばん笑ったのは、マンガ「頭文字D」の「ロータリーの高橋兄弟」のくだりですかね。
駅前のロータリーのことではなく、ロータリーエンジンのことです。

「世界でいちばん受けたい授業」ってこれかもしれない。
週に1コマこれがあるだけで、1週間が楽しくなりそう。

敗戦から戦後、そして経済成長、バブル崩壊・・・
と移りゆく時代の中で、サブカルチャーがどのように変化したか。

週刊少年ジャンプの連載マンガや
不良を題材にしたマンガの変遷など、
当時高校生だった時のものもあり、なかなかうなります。

そしてラスト1つ前のAKB現象の解説と、最終回のところは、
いままさに、高校生を取り巻く環境へのヒントが記されていて、インスパイアされました。

いくつかキーワードを。

~~~ここから引用

音楽は、CDからフェスへと市場がシフトしている
つまりコンテンツから「体験」へと価値がシフトしたということ。

「体験」の中でも一番強いのは「人とのコミュニケーション」。
アイドルは直接コミュニケーションがとれるし、「推す」ことによって、その人の人生に貢献できる。

「音楽を聴く(CDを買う)」ことは「推す」という体験を盛り上げる蝶番として機能している

現代のメジャーJ-popは三国志で言えば「蜀」で10分の1の勢力しかない。
「アイドル」と「アニソン・声優・ボーカロイド」で9割。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。
「情報」から「体験」へ
「情報」から「コミュニケーション」へ
と音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。
60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと
「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。
そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーから
コンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」
という新たなフロンティアが発見される。
サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割
「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

~~~ここまでメモ

もっと書きたいのだけど、これ以上ネタバレしてもいけないので。
予告だけにします。

「情報」から「体験」へ。
「情報」から「コミュニケーション」へ。
そして、虚構の2つ目の役割。

「コロナの時代」が問いかけているのは、
「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?
なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。
僕だって茨城時代にはインプットしたくて後半2年は東京からのアクセスのよい土浦に住んでいた。

突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、
「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば
実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、
「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。
人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。
それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。

そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)

2020年06月25日

世の中も、自分自身も、前提を疑うこと。


「FACT FULNESS」(ハンス・ロスリング 日経BP)
サブタイトルは、10の思い込みを乗り越え、データを基に、世界を正しく見る習慣。

いつか読もうと思っていたら、高校図書館にあったので借りました。
うれしい。

SDGsとセットで学ぶべき1冊ですね。
目標を立てる前にまず、事実を数字で把握することって大切だなと。

世界は変わっているし、本能は間違えるし、
その間違える本能がビジネスに有効となれば、
メディアはそれを使ってくるし。

具体的に言えば、
この本に出てくる「分断本能」「恐怖本能」「過大視本能」なんかを巧みについてくる。
今回のコロナの報道でも当てはまることが多いなと感じた。
フラットに世の中を見る目を失わなずにアップデートしていくことが大切なのだと思った。

「前提を疑え」っていうのはよく言われるし、心がけてもいるのだけど、
その「前提」は自分自身の中にある「思い込み」にも当てはまるのだと
この本を通じて思った。

特に教育の文脈では、「単純化」して「犯人捜し」をしている場合ではない。
データと、目の前にいる子どもたちと、わたしたちのいまを感じながら、考えながら進んでいくこと。



昨日は阿賀黎明探究パートナーズのミーティングでした。
昼の部10名、夜の部4名が参加。

地域みらい留学フェスタに合わせて、オープンスクール開催と、
そこでやる企画などが話し合われました。

川辺でBBQとか、釣りたての鮎の塩焼きとか、
お祭り感を出していってもいいのではないか、って。
まさにそうですね!
楽しそうな雰囲気、一緒につくろうって雰囲気もめちゃ大切。

湘南のみやじ豚に学んだ
バーベキュー・マーケティングを実現するときが来たようです。

企画詳細決定までもう少しお待ちください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)