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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

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土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2017年04月19日

ソフトとハードが未分化だった時代のLife


「日本のカタチ2050~こうなったらいい未来の描き方」
(竹内昌義、馬場正尊、マエキタミヤコ、 山崎亮 晶文社)

読み始めたばかりだが、
山崎亮さんが書いた章が面白かったので、メモ。

~~~以下メモ

山崎さんは「豊かさとはそもそも何か?」
というアプローチの中で、
働くことと宗教観の日本と西洋の違いを見出す。

日本書紀の「日神尊、天垣田を以て御田としたまふ」とあり、
天照大御神は、御自ら天垣田で稲をお育てになっている。
つまり、日本の神様は田植えをしていた。

つまり「働く」ということは、
自らを高める修業的な要素があり、
働くことによって神様のように
崇高な存在になることができるという感覚がある。

一方で、西洋で描かれる神様は、
基本的には働かなくても良い暮らしができる
素晴らしい世界に住んでいる。
果実がなり、鳥がさえずり、風景は絶景。

罪を犯すと、罰として地上で働かされる。

だから、西洋の人たちは、
労働から解放されるために機械をつくり、
オートメーション化をはかっていった。

すべてを機械化し、
人間の労働を無くし、
地上に天国をつくろう。

そういう意思があったからこそ、
欧米の産業革命はどんどん進んだのだろう。

そんな中で、デザイナー
ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスは、
ライフの大事さを説き、
アーツ・アンド・クラフト運動などを展開する。

山崎さんの主宰する
studio-LのLの字は、
この「ライフ」の頭文字をとっているのだという。

ラスキンの本「この最後の者にも」の第77節に、
「Lifeこそが最も大切である」と書いてある。

Lifeは日本語でいう「生活」というよりは、
愛も喜びも全部含まれた意味での「生」
つまり生きることそのものと訳されるべきであろう。

ラスキンが定義する
豊かな人生を生きた人々とは、

「その人格、あるいは所有物を使い、
他人に対してとてもいい影響を与え続ける生き方をした人」

なのだという。
そんな人々がたくさんいる国はラスキンは裕福な国と呼んだ。

だからこそ、
山崎さんは、新しいソフトとハードのバランスを
考えながらビジョンを示す人が必要になるのではないか、と説明する。

フランスの哲学者
シャルル・フーリエ(1772~1837)が提唱した「ファランスティール」という共同体
家族の延長上として住むのに最適な集落の形をデザインした。

なにより大切なのは、
フーリエが「人々の暮らしとコミュニティはどうあるべきか」
ということと空間の形態がぴったり一致していたことだという。

また、エベネザー・ハワード(1850~1928)は
「田園都市」を提唱し、街の真ん中に広場をつくり、その回りに商店街を、
さらに外側に住宅地を、そしてその外側に鉄道がまわされ、
鉄道の外側を農地という風に働く場所と住む場所が明確に決められている。

しかし、ル・コルビュジエ(1887~1965)になると、
空間の形態と人々の生活は一体としては提示されていない。

つまり「Life=生」が抜け落ちた計画となり、
1920年代以降の建築家や都市計画家の空間に対する提案には、
「生(=Life)」という重要な部分はほとんど見えなくなる。

~~~ここまでメモ

山崎さんは、
これからの建築家には

我々はどう生きたいのか、どう働きたいのか、さらにどう生きるべきなのか。
こうした「生=(Life)」の全体性と空間形態を
同時に提案することが求められるようになるだろうという。
ソフトとハードを統合して組み立てていく
アーキテクトの役割が求められるだろうと。

この章は、
ソフトとハードが未分化だった時代に学ばないといけないのだと締めくくられる。

なるほど。
Lifeという出発点と、
かつて未分化だったソフトとハード。

そういう意味では、
かつて、労働と芸術は未分化であった。

そしてそこにこそ
ラスキンのいう「生(=Life)」があったのではないか。

そんな古いようで新しい社会に向かって、本屋は何ができるだろうか?
という実験を武蔵新城駅前ではやっているのだろうと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)

2017年04月13日

「その日暮らし」の豊かさ


「その日暮らしの人類学」(小川さやか 光文社新書)

次はこの本。
なんだか流れがいい気がする。(笑)

アマゾンの奥地に住む狩猟採集民「ピダハン」には、
現代人の常識とされていたことがほとんど行われていない。
いわゆる「進化のプロセス」を踏んでいない。

~~~ここから一部引用

芸術作品どころか、道具類もほとんどつくらない。
物を加工することがあっても、長く持たせる手間はかけない。

肉の塩漬けや燻製といった保存食もつくらず、
食べられるときには食べつくし、ときには何日も食べない。

熟睡しない代わりにいつでもどこでも転寝をする。
人類学者が好んで調査してきた、
儀礼らしき行為も存在しない。
葬式や結婚式、通過儀礼もない。
創世神話も口頭伝承もない。
曽祖父母やいとこの概念も存在しない。

それどころか彼らの言語には、
ありがとうやこんにちはなどの「交感的言語」も
右左の概念も、数の概念も色の名前もない。

それは、「ピダハン」(みすず書房)著者のエヴァレットによると
「直接体験の原則」があるからだという。

ピダハンは実際に見たり体験したことのない事柄
~わたしたちが「過去」や「未来」と位置付ける事象や
伝説・空想の世界~に言及しないし、そもそも関心を示さない。

そして価値を抽象的な言葉で置き換えることをしない。
ある場面では右は「川の水が流れてくる場所」で
左は「川の水が流れていく場所」かもしれない。

ピダハンのほとんどの関心が
「現在」に向けられており、
それゆえ彼らが「現在」をあるがままに生きている。

彼らは直接体験したことがない他の文化に
興味がなく、自分たちの文化と生き方こそが
最高だと思っており、それ以外の価値観と
同化することに関心がない。

彼らはよく笑う、自身に降りかかってきた不幸を笑う、
過酷な運命をたんたんと受け入れる。
未来を思い悩む私たちに比べて、
何やら自信と余裕がある。

かれらは他人に貸しをつくらないし、
他人に負い目を感じることもない。
彼らにとって1日1日を生き抜くために必要なのは、
直接体験に基づ自身の「力」だけである。

~~~ここまで一部引用

なるほど。

いまを生きるってそういうことなのかもしれないね。
人と比べない。
未来に思い悩まない。

未来を予測する最良の方法は
自ら未来を発明することだ。

というアランケイの言葉を思い出した。

さて、読み進めてみようっと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)

2017年04月12日

「目的」は必要なのか?


「社交する人間~ホモ・ソシアビリス」(山崎正和 中央公論新社)

読み直すタイミングというのがある。
まさかのここでジェイコブズが登場してくる。
読書サーフィン面白い。

「効率性」
は何か違うんじゃないか?
という違和感。

「目標を立てる」というのがそもそも苦手だったこともあり。

研修に行って、
「5年後ビジョン」を「定量的」と「定性的」に言え
って言われたのもキツかった。

あのときは、
ああ、僕はビジネスに向いてないんだなと思った。

さて、この本。
読めば読むほど読み直してよかった。

キャリアデザインへの違和感。
目標設定、達成という思考への違和感。

近代工業社会の成立は、
仕事観、人生観そのものを根本から揺るがしたのだろうと
改めて実感した。

~~~以下一部引用

「テクノロジー」とは、
機械工業を富の生産の基本的なしかたと見なし、
機械生産によって実現された効率主義を文明の理想と
考える価値観の浸透であった。

いうまでもなく、
この効率主義を可能にしたのは、
人間の作業を機械で置き換えることであったが、
その前提となるのは、作業の目的を作業の実行に先立って
固定化することであった。

機械は人間の身体を作業から極力排除し、
そのことによって身体が作業から受ける抵抗や
反作業を感じられないものにする。

その結果、工業生産では作業の過程で
方法を変更したり、目的の内容を微調整する
必要は原則的に排除される。

いいかえれば作業の計画と実行、
目的と過程を不可逆的に峻別して、
後者が前者に影響することを極限まで防止するのが、
機械生産の思想なのであった。

~~~ここまで引用

なるほど。

「産業革命」が「革命」したのは、
工業生産そのものではなくて、
人間の思想そのものだったのだなと。

「何か目的のために向かっていかなくてはいけない。」

本屋をやっているとき、
そんな脅迫を抱えて生きている大学生に何人も出会った。

彼らは行動している
(ゆえに、少し変わった本屋にたどりついている)
にも関わらず、常に不安を抱えていて、

いろいろ活動しているのに、
「この先に何があるのか、わからない」
「ゴールに向かっているのか、不安だ」
という思いを抱えている。

実はその思想そのものが
工業社会的なのだと。

まず、ここから始めなきゃいけないんじゃないか。

いま、幸せになるには、何が必要で、何が必要じゃないのか。

そんな根源的な問いに挑んでみること、から始まる人生がきっとある。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)

2017年04月07日

アルスの終焉


「社交する人間~ホモ・ソシアビリス」(山崎正和 中央公論新社)

とある古本屋さんで
ハードカバーを発見。
そして書き込みあり。

これは「もう一度読め」という
神からのメッセージだと思い、
家にある文庫本を再び読み始める。

もともとは小阪裕司さんの名著
「心の時代にモノを売る方法」に
引用されていたから買ったので、

「社交と経済」のところだけしか
読んでなかった気がする。

経済の第1の系統は、
「生産と分配」の経済で
第2の系統は
「贈与と交換」の経済なのだと。

しかし、現在において
「経済」とは「生産と分配」だけのことを
指しているように思える。

まあ、それはまた次回に書くことにして、
今日は「アルスの終焉」について

古代ギリシャで
テクネー(わざ)と呼ばれたものは、
大工が机をつくる方法も、
詩人が詩をつくる営みも、
同じように呼ばれた。

それは中世になって、
「アルス」と呼ばれるようになっても、
しばらくは続いた。

イギリスでは、
アルスは「アート」と言葉を変えるのだが、
18世紀までは、
まだ、「ファイン(美しい)・アート」と
「ユースフル(有用な)・アート」と区別されていた。

ところがいつのまにか、
「ファイン」が取れ、
「アート」が芸術を指すようになったのは、
19世紀のことだったという。

それは産業革命による工業技術的な生産が
始まったこととリンクしているだろうと著者は言う。

~~~以下引用

このように振り返ると近代工業社会で生じたことは、
いわばアルスが正反対の二つの敵に挟撃され、
それまでの領土を失う過程であったと要約することができる。

かつてアルスの一部だった
二つの行動形式が独立して、
それぞれ技術と芸術としてみずからを純粋化し、
本来の母体を左右から攻撃したのである。

攻撃という言葉は必ずしも比喩ではなく、
現にどちらもあからさまにアルスを時代遅れの文化として非難した。

技術に言わせれば職人的技能は不正確で非効率的であり、
芸術に言わせれば社交儀礼は人間の心を伝えるうえで不誠実であった。

なかでも職人技能のほうはまだ幸運であって、
一部は「ノウハウ」の名で工業技術の補助とされ、
一部は「工芸」と呼ばれて芸術の周辺で生き延びることができた。

だがもともと有用性とは無縁だった社交儀礼は、
近代工業の精神というべき清教徒主義と
芸術の反俗主義の双方から直撃されて
衰退することとなったのである。

~~~以上引用

なるほど。
仕事とは何か?
を考えるうえで、非常に興味深い。

かつて芸術と技術はひとつであった。
それを「アルス」と呼んだ。

そのアルスの終焉は、
近代工業革命によって、決定づけられた。

なるほど。

もし、近代工業社会が
壮大なる仮説、だとしたら。

ふたたび「アルス」に近づいていくのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:47Comments(0)

2017年04月04日

「ちいさな本屋 こっそりー」を生んだ3冊の本

「本屋のある暮らし」
を提案したいと思っている。

それは、
いい本屋が近所にあって、
そこに通うことができる暮らしではなく。

本屋の店員ができる暮らしが
いいと思う。

「一箱古本市」は
そんな願いを叶えてくれるひとつの方法だ。

サービスリリースした
「ちいさな本屋こっそりー」
は移動型で、ソリの形をしていて、
どこでも本屋になれるツール。
(人間は乗れません)

現在第1期フランチャイズを募集しています。
加盟金は30,000円で
一切の年会費はかかりません。

長野県伊那市で、森の保全活動を推進する
KEESプロジェクトの中村さんがひとつひとつ手作りする
本棚「こっそりー」を1つお渡しします。


中村さんとツーショット。

「こっそりー物語」は
本屋さんとは?という問いから始まりました。

きっかけとなったのは3冊の本


「ゆめのはいたつにん」(教来石小織 センジュ出版)



「こっそりごっそりまちをかえよう。」 (三浦 丈典、 斉藤 弥世 彰国社)



せかいでいちばんつよい国(作・絵: デビッド・マッキー 訳: なかがわ ちひろ 光村教育図書)

まずは一番下の「せかいでいちばんつよい国」
これを読むと、世界の変え方がわかります。
文化と愛とコミュニケーションで
世界は動いていくんだ、とワクワクします。

そして、
「こっそりごっそりまちをかえよう。」

ああ、まちを変えるのは、「こっそり」なんだな。
何かを声高に叫ぶのではなく、こっそり変えるって美しいな。
って思いました。

最後に「ゆめのはいたつにん」の
本文中の印象的なフレーズ、
「夢は私をいろいろなところへ連れていってくれる」

このフレーズに衝撃を受けました。
夢は見るもの、ではなく「乗り物」なんだ!って。

これら3つの本から、

本屋っていうのは、
「文化と愛とコミュニケーションでこっそり世界を変えていく乗り物なんだ」
って。

そんなものを表現したら、ソリ型の本屋、
「ちいさな本屋 こっそりー」ができました。

4月9日には豊島区・椎名町の「シーナと一平」に
こっそりーがデビューします。

お楽しみに。  

Posted by ニシダタクジ at 07:50Comments(0)

2017年03月31日

「コラボレーション」より「一体化」


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

面白かったので、もういちど読み直す。

最初は日本語の話。

~~~ここから引用

日本人とは、日本語を母語にしている人

日本語は、私、やあなた、と言いたがらない。
古典が難しいのは、主語がわからないから。

日本人は気が小さいから、主語をあきらかにしない。

和歌や俳句の世界では、自然に仮託して
心情を表わすという表現方法を生み出し、その中で感性を鍛錬してきた。

自然と自分を区別するのではなく、
自分を自然に溶け込ませることをよしとする。

西洋は自然環境が厳しいために、人間的なるものを打ち立て、
自分たち自然の猛威から隔絶する形で自己了解してきた。

日本人は、自分の存在が自然に溶け込んだ状態を好み、
自然に溶け込んでいる自分がうれしいという感覚を持っている。

~~~ここまで引用

このあと、連歌や、
日本語が外国語をうまく取り込んだり
省略や造語がやさしいことなど、
日本語の「懐の深さ」などが書かれています。

連歌っていう文化。
大阪の陸奥くんが言っていたけど、
平安時代は、連歌を送りあって、
男女は恋をしたのだという。

問われたのは、
容姿ではなく教養。

なるほどな~。

なんていうか、
コラボレーションというより、一体化なんだろうね。

日本的な何か。
それはキャリアにも言えるのかもしれないな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)

2017年03月30日

「諸行無常」


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

東洋的キャリアを考えるで外せないと思うのが
日本人と宗教である。

日本ほど、宗教に関して
いい加減な国はないだろう。

クリスマスを盛大に祝ったと思ったら、
正月は神社に初詣に行き、
バレンタインにはプレゼントを贈り合い、
お彼岸にはおはぎを供えてお祈りし、
ハロウィンもすっかり定着した。

でも、それでいいのだ、と斉藤さんは言う。

仏教の教えとは、
現世をよりよく、より幸せに生きるためのものだからと。

「諸行無常」
すべてのものは移り変わっていく。

だから、だれが世界を創ったとか、
考える必要はないのだと。

なるほど。

「空」もそんな感じだもんね。
出来事はすべて空であって、
良いことも悪いことも存在しない。
そう思う自分の心があるだけ。

そんな、今風に言えば
「ゆるい感じの」宗教だからこそ、
日本では受け入れられたのではないか。

厳しい修行なんかしないで、
念仏だけ唱えるだけで極楽浄土にいけるなら
それはそれでいいかな。

みたいな感じで仏教を受け入れた。
つまり、八百万の神の
ひとつくらいの感覚で仏教を受け入れた。
そんな仮説が本当っぽく感じます。

それが明治時代に、富国強兵のために
「国家神道」で統一されたあと、
それが敗戦でひと段落してる。
というのが今の状況ではないかと思います。

諸行無常だから、今を楽しむ。
まあ、細かいことを言わなくてもいいじゃないか。
というのが仏教の教えです。

そういうのがいいんでしょうね。

キリスト教とか
イスラム教のように
日曜日に礼拝とか、豚肉食べちゃダメ、
とか、そういうのがあんまり合わないのでしょう。

そういう意味では今の子どもたちは、
(というか僕のころからですけど)
「夢」という一神教を背負わされてきたのではないかと思います。

夢や目標のために
今の楽しみを犠牲にする。
わき目も振らずそこへ向かっていくこと
が良しとされる。

それって、今を楽しむ
日本人の生き方とはマッチしてないのでは、と思います。

「諸行無常」
「空」

そんなことを学んでいくことも、
大切なのかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:54Comments(0)

2017年03月29日

市場の倫理 統治の倫理


「日本人」という、うそ: 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

古本屋さんで目に留まって、買いました。
セレクトされている本屋って素敵だな、と。

さて、
「安心社会」と「信頼社会」
というキーワードで知られる
社会心理学者の山岸先生。

僕はたぶん中公新書の本を
買ってはいたけど、ちゃんと読んでなかった。
ようやく読むべき時が来ました。
先生、遅くなってすみません。

この本の前半は、
道徳というか、倫理教育が機能しないこと、
そして、「日本人らしさ」という幻想を徹底的に斬ります。

まずは、「タブラ・ラサの神話」といって、
生まれたての赤ちゃんは、
タブラ・ラサ(白板)のようなもので、
そこに適切な教育をすれば「立派な人間」が
作れるはずだという説。

しかし、この仮説は20世紀の中国や旧ソ連の
社会主義国家を目指すという壮大な実験によって、
覆されていると山岸さんは言います。

何の見返りがなくても、同胞に奉仕するような
立派な人間はできずに、同じ給料ならサボる、
というメンタリティがはびこっていたので、
経済力、国力が減退し、旧ソ連はついに無くなり、
中国も方針転換をします。
つまり、「人間性」を無視した教育は機能しないということです。

つづいて、「日本人らしさ」について。

「日本人は集団主義で欧米人は個人主義だ」
というのはよく言われていることですが、

これを心理学実験によって、
次々と覆していきます。
実は集団主義的社会に暮らしている日本人が
他人を信頼していない個人主義者であり、
「人を見たら泥棒と思え」というメンタリティの持ち主
なのだという実験結果が出ます。

逆に西洋人は、
相手をまず信頼し、その後の観察によって、
信頼に足る人物かを測っていく、という方法を取るのだそうです。

そして、社会環境の差異から、
それが起こっていると説明します。
ここで「安心」と「信頼」というキーワードが出てきます。

「集団主義社会とは、信頼を本質的に必要としない社会である」
と説明します。

農村では家に鍵をかけなかったり、
共同作業に皆で参加したりということが行われます。

それはみんなが信頼し合っている、
とか心がキレイだから、というわけではなく、
そのように振る舞うほうがトクだから
(悪いことをしたり、非協力的だったりすると制裁を受ける)
という理由であると説明します。

ところが、都会では、見知らぬ人ばかりだから、
悪事や非協力的なことに対しての制裁を
加えるようなシステムがないので、
目の前の人を自分で判断しなければなりません。

それは活動的には大きなコストがかかります。
日本社会が高度経済成長を遂げたのは、
経済社会に、集団主義が機能した、「安心社会」をつくりあげた
ためではないかと言います。

しかし。
その安心社会は今や終わりを告げたのだと。
経済のグローバル化など、
「安心社会」から「信頼社会」への移行期を生きているのだと。

そして、いま、世の中で起きている問題が
企業の不祥事やいじめ問題をなんとかするために、
「道徳」を強化して、あるいは「武士道精神」などを
持ち出して、いくというのは根本的に解決しないと言います。

「信頼社会」への移行をしていく上で、
重要な示唆がヨーロッパ中世の地中海貿易の
覇権を競い合っていたマグレブ商人とジェノア商人の逸話です。

貿易を行う上で人類を悩ませてきたのは
「エージェント問題」、つまり代理人の問題でした。

代理人が自分の利益のためにちゃんと働いてくれるか
利益を途中で吸い上げたり、相手側に味方をしていたりしないか
というのをチェックする機能がなかったからです。

マグレブ商人は、徹底して身内との取引を選びました。
そして、エージェントが裏切った場合、取引停止などの厳しい措置を取りました。

ジェノア商人は、身内、よそ者に関係なく
その時々で必要なエージェントを立てました。
当然、ジェノア商人のほうがコストもリスクも高くなります。
トラブルが起こった時のために裁判所を整備せざるを得ませんでした。
それでさらなるコストは上昇します。

結果、どうなったか。

マグレブ商人は地中海から姿を消し、
ジェノア商人が覇権を握ったのです。

そして、まちから評判も、
「ジェノアは正直者を守る」というふうになっていったのです。
つまり、これが「信頼社会」の作り方です。
法制度がちゃんと機能していることで、
他人とビジネスしても裏切られない、あるいは裏切られても法が守ってくれる。

そういう「評判」がジェノア商人を押し上げていったのです。

そして、最終章。
「武士道精神が日本のモラルを破壊する」
と題された第10章で、「市場の倫理 統治の倫理」がでてきます。

まずはおさらいで
この地球上には「安心社会」と「信頼社会」
という二種類の社会が存在し、

集団主義社会が「安心社会」に
個人主義社会が「信頼社会」に寄っていきます。

「安心社会」は社会が安心を提供してくれます。
それに反すると制裁が待っているからです。
よそ者は裏切るかもしれないので歓迎されません。

「信頼社会」は、社会が提供する「安心」に
頼るのではなく、自らの責任で、
リスクを覚悟で他者と人間関係を結んでいこうとする
人々の集まりです。

これはどちらがいいというわけでもなく、
飢饉や戦争などが起これば、
「安心社会」のメリットは大きくなります。

そこで、表題の
「市場の倫理 統治の倫理」です。

アメリカ系カナダ人の学者、
ジェイン・ジェイコブズが指摘したものです。

市場の倫理をわかりやすく言えば「商人道」
統治の倫理をわかりやすく言えば「武士道」だと
著者は言います。

「市場の倫理=商人道」は信頼社会において有効なモラル体系であって、
「統治の倫理=武士道」は安心社会におけるモラルの体系であると言うことができるのです。

市場の倫理 15か条は
「他人や外国人とも気やすく協力せよ」
「正直たれ」「契約尊重」「勤勉なれ」「楽観せよ」
など、他者との協力関係を結び、
常に自己変革するために「競争せよ」「創意工夫の発揮」
などが必要とされます。

一方、統治の倫理 15か条は
「規律遵守」「位階尊重」「忠実たれ」
と集団内の秩序を保つことが大切であり、
外部からの敵から集団を守るために、
「勇敢であれ」「排他的であれ」という道徳律が必要で、
裏切られないために「復讐せよ」という道徳律も必要になります。

そして、ジェイコブズの指摘は、
この2つのモラルの混用が「救いがたい腐敗」を
もたらすと言うのです。

その理由は
この二つのモラル体系が目指す世界は
まったく対立するものであって、
混ぜることは大いなる矛盾と混乱を招き、
最終的には「何をやってもかまわない」という
究極的な堕落を生み出すと言います。

商人たちの信頼社会では、
正直であることは重要な道徳律ですが、
江戸時代の武家社会では、主君(属している藩や幕府)
を守ることに価値があり、「嘘も方便」とされるのです。

もし、商人の世界に
「嘘も方便」のモラルが混入してきたら
どのようなことが起きるでしょう。

口先では「お客様が大事」「正直が一番」
と言いながら、ホンネは自分たちの組織を
守るためには客を騙しても許されるという考えたり
儲けのためなら偽物を売ってもよい
というダブル・スタンダードが生まれてしまいます。

と、続いていきます。
これは、面白い。

おそらくは今、
「安心社会」から「信頼社会」への移行期を
生きているのだろうと思います。

その時に、
「武士道」と「商人道」を混同しないこと。

どちらかと言えば、
商人道を生きていくこと。

これ、きっと大切なことなんだと思います。

まちゼミの松井さんの本、読まないと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年03月28日

「私」を外す、という美学

読書運があるような気がする。


「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)

に衝撃を受け、

次に、手に取ったのは3月頭に買っていた本


「日本人」という、うそ: 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

からの、
ちくさ正文館でビビっときたこの本。


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

謎がだんだんと解けていく感じ。
これが僕の読書の醍醐味なのだけど、
そんな幸せな読書時間を過ごした。

堀江さんから
まずはこんなイントロ。

「常識への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

ガツーンとくる。

そして、
「つまり学校はもともと、子どもという原材料を使って、
産業社会に適応した大人を大量生産する工場のひとつだったのである。」
とバッサリ。

「N(国民国家)幻想がなくなり、誰もが共有する幸せの正解がなくなった現在、
人は国民ではない民のひとりとして、自分だけの幸せを探し、
生き方を探し、働き方を探さなければならない。
それは、画一的な学校で教えられるものではない。」

とつづく。

そして、ITで一世を風靡した堀江さんの一言

「インターネットの恩恵は、他者と通信できることではなく、
所有の価値を著しく下げたこと。」
なるほど。
これはたしかに革命だ。

そして、次の本につながっていく一言は、

~~~ここから

逆算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。
100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、
あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。
100点以上を取れる確率はゼロだ。

でも逆算をやめ、1点1点を楽しみながら積み上げていけば、
無我夢中で動いている間に、200点、300点と
その点が膨れ上がっていく可能性が開かれる。

この場合、取れる点数の上限はない。
目標からの逆算を思い切ってやめたほうが、
得られるものの可能性は大きく膨らむのである。

~~~ここまで

なるほど。
逆算じゃなくて、没頭すること。
そこから人生は開かれていくのだと堀江さんは言う。
その通りだな。

次に、「日本人というウソ」の山岸さん
「安心社会」と「信頼社会」というキーワードで
日本を読み解く。

日本人が集団に合わせて自己主張をあまりしないのは
そのような態度をとっていたほうが結果として得だから、
つまり、「情けは人のためならず」というのは、
結局そっちのほうが得だから、っていう理由である。

この本の中で、いちばん印象に残ったのは
「武士道」と「商人道」の違いだ。
それは閉鎖型社会と開放型社会
とパラレルにつながっている。

武士道の倫理は閉鎖型社会をうまく生きるための倫理だ
それに対して商人道は、開放型社会を生きるための倫理だ

たとえるなら、
武士道では、
忠実であること、規律を遵守すること、名誉を尊ぶことがよしとされるが、
商人道では、
目的のために異説を唱えること、創意工夫、正直であることたよしとされる。

この2つは両立しない、
というのが筆者と、そしてジェイン・ジェイコブズの意見だ。

しかも、この2つを混用してしまうと、
「救い難い腐敗」が進んでしまうのだという。

あ~。
これはなかなか、鋭い。

最後に、斉藤孝さんのこれ。
いまこそ、のタイミングってある。
この本を読むために、っていうやつ。

~~~ここから

日本人は、神がいろいろあるなかで、
今日はこの神に手を合わせようというのならいいのですが、
この神しかいない、という強い信仰を強制されるのが
息苦しく感じられて嫌なのです。

なぜ息苦しく感じられるかというと、日本人にとって神というのは、
実は概念に過ぎないからです。天の恵み、地の恵み、
そうした概念に神の姿を与え、現実に合わせて便利に使いたいという、
非常に現実的な思考が日本人の心情にはあるのです。

捨てる神あれば拾う神あり、という諺があるように、
万が一、神の怒りに触れたとしても逃げ場があります。

~~~ここまで

そして、西田幾多郎のこの言葉

「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。
実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。
経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ
本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、
むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」

そして、鈴木大拙がつづく

「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。
禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、
個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。
体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。
科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。
言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。
なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。
実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」

これだね。
これをキャリア理論に落とし込んでみる。

そもそも。
日本文化はそうやって、
自分を持たず、目標を持たず、
目の前にいる人と、目の前の時間を
共につくってきたのではないか?

そしてそれは、科学ではなくむしろ禅のようなものだったのではないのか。
身体性を重んじ、体験を重んじてきたのではないか。

キャリアデザインという一神教に
違和感を感じるのは当然なのではないか。

もっと状況に身を委ねてもよい。

この本の冒頭で、
「私」と言わない日本人、という項目が出てくる。

とくに俳句は、
5・7・5というシンプルな構成に奥深さがある。

松尾芭蕉は詠んだ。

五月雨を集めて早し最上川
荒海や佐渡に横たふ天の河
静かさや岩にしみ入る蝉の声
古池や蛙飛び込む水の音

西洋では、自然と自分を明確に分け、
あくまで自然ではない自分というものを表現するが、

日本では自然と自分を区別することなく、
自分を自然に溶け込ませることをよしとする。

それのようが心地よく、
それのほうが美しいと感じているのだと。

私を外し、自然と一体化する。
目の前を感じ、動き、振り返る。
きっとそうやって自分のキャリアも作られていくのだろうと思いました。

東洋的キャリア、だんだんと見えてくる3冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 05:18Comments(0)

2017年03月23日

「没頭」して、「磨く」、ということ

友人が何人かシェアしていた
「教育改革最前線#1」
https://newspicks.com/news/2129062/

スライドになっていてわかりやすい。
ちょうどタイミングよく、
旅読書で、藤原さんと堀江さんの本を読んでいたので、
ふむふむと思った。


「藤原先生、これからの働き方について教えてください。」(藤原和博 ディスカバー21)


「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)

この2冊。
大学生、20代で進路とか
仕事とか、働き方とか考えている人は読んでほしい本だ。

まずは藤原さんの本から一部引用

~~~ここから。

ひとりひとりが自分独自の幸福論を持たないと、
幸せになれない時代になりました。

与えられた選択肢の中に必ず正解があるという前提はもはやない

コミュニケーションとは、伝達することではなく、共有することである。

自己紹介から、自己プレゼンへ。
相手の脳の中にどんな像を浮かばせるか。

会社も個人もエネルギー体。
ベクトルの和の最大化を目指す。

自分にぴったりの正解の仕事なんてないと知る

人と企業という変化するもの同士が、
無限に考えられる組み合わせの中で、
日々、ベクトル合わせをし続けること。
21世紀の働き方はこれに尽きる。

毎日カスタマイズして、
お互いにベクトル合わせを続けていける会社を探しましょう

富士山型でなく、八ヶ岳型連峰主義。

~~~ここまで引用

スライドにも出てくる、藤原節の炸裂に、
久々、熱い気持ちになった。

そして昨日からワクワクしながら読んでいる本。
ちくさ正文館で購入した本が堀江さんの本。

冒頭からガンガンとくる。
でも、なんというか、痛快な、
「学校」システムそのものへの疑問。

▽▽▽ここから一部引用

常識への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる

つまり学校はもともと、子どもという原材料を使って、
産業社会に適応した大人を大量生産する工場のひとつだったのである。

国家は想像上の産物である。モノとしての国家があるわけではない。

もう、国民国家というフィクションは力を持っていない。国家はなくなりつつある。

インターネットがもたらした本当の衝撃は、国家がなくなることなのだ。

明治時代の日本が一気に列強にのし上がれたのも、
国民国家というフィクションの創作に成功したからに他ならない。

更新するべきフィクションはどんどんアップデートしなければならない。

僕たちの周りにはびこっているフィクションは、とうに古び始めている。
そろそろ、新しい時代のための、新しいフィクションが必要だろう。

時代に合った良質なフィクションは、人々に居場所を提供してくれる

インターネットの恩恵は、他者と通信できることではなく、
所有の価値を著しく下げたこと。

国民国家というシステムには、
もはや、個人の人生を左右する力はないからだ。

今を生きる人たちが向き合うべき課題は、いかにいい大学に入るか、
ではなく、いかに自分だけの幸福を見つけ、追求するか、なのである。

必要なのは、セミナーでも勉強でもない、没頭する力の解放だ

学びとは、没頭のこと。

今学問と呼ばれている領域だって、
言ってしまえば誰かの没頭体験のアーカイブだ。

逆算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。

100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、
あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。
100点以上を取れる確率はゼロだ。

でも逆算をやめ、1点1点を楽しみながら積み上げていけば、
無我夢中で動いている間に、
200点、300点とその点が膨れ上がっていく可能性が開かれる。

この場合、取れる点数の上限はない。
目標からの逆算を思い切ってやめたほうが、
得られるものの可能性は大きく膨らむのである。

△△△ここまで引用

あ、しまった。
また引用し過ぎた。
買ってください。(笑)

この前書いていた、
東洋的キャリアに非常に親和性が高い
2人の本を読んでいて、うれしくなりました。
この2冊の世界観に賛同する。

そして、堀江さんの言うように、
「やってみる」がすべてだ。

やってみて、没頭する。
そこから始まっていくのだと思う。

知識を得る。
経験をする。

そういうことじゃなくて、
「没頭」して、「磨く」ってことなんじゃないかな、と思う。

それはきっと、
学校の外にあるのだろうと。

しかもしれを周りの人との合作でつくっていくこと。
そんなキャリアのつくり方がきっとあるのだろうと、
予感している。

さて、理論化しなきゃな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2017年03月14日

世界という、わけのわからないワンダーランド


「自分の仕事を考える3日間」(西村佳哲 弘文堂)

以前に読んでいたはずなのだけど、
まったく色褪せない1冊。

今年の元日から続く、
西村佳哲キャンペーン。
今の自分に響くなあと。

あらためて「自分の仕事」ってなんだろう?
って考える。

この本もたくさんのエッセンスに
詰まっているのだけど、
特にシビれたのは、3番目に出てくる
秋田光彦さん。

浄土宗大蓮寺・慶典院住職。
情報誌の編集や映画プロデュースを経て住職へ。

実は僕も、新潟の浄土真宗のお寺の孫なので、
生まれた時から葬式は身近なものとしてあった。

お寺は葬式をするところ、
という常識が冒頭から揺さぶられる。

「お寺が葬式をするようになった歴史は、寛文4年(1664年)に
江戸時代が制定した檀家制度にさかのぼる。」

えっ。
そうなんだ。

江戸時代以前には、お寺で葬式してなかったんや。
わずか350年の歴史でしかないのか。

そして江戸幕府がそれを制定した理由が
キリスト教の禁制だったというから面白い。

~~~ここから一部引用

それからお寺は檀家の戸籍も管理する
幕府の出先機関となり、代償として
信徒の数と収入が安定した。
こうして仏事に依存する仏教の形が始まる。

そして200年後、
明治維新の流れの中で神道を国家統合の
柱に据えようとした政府は、
禁じられていた僧侶の肉食・妻帯を意図的に自由化。

世襲制度の一般化などを通じて、
僧侶を質的に破戒させ、人々の不満を募らせて、
人民の心を仏教から引き離そうと目論みる。
この動きは廃仏毀釈まで至った。

~~~ここまで一部引用

そうなんだ~。
お寺で葬式とかって誰かの仮説なんだな、と。

慶典院というお寺は小さな劇団による演劇や
市民たちによるワークショップが日々重ねられている。
檀家はなく、葬式をあげないお寺だ。

秋田さんは、現在の仏教に納得できず、
「こんなん辞めた」と国際NGOで活動し、タイに行く。
そこで、定住せずにさすらいながら、痩せた農地を開墾し、
学校をつくるといった、民のために尽くす
お坊さんの原点を見ることになり衝撃を受けて帰国。

そんなときに阪神淡路大震災が起こる。
お坊さんの格好をして歩いていたら
どこの寺だとか、どこの宗派だとか関係なく、
「うちの爺さんの供養をしてやれん。なんとかしてくれっ」
と声をかけられる。

それは秋田さんにとって人生の衝撃だった。
お寺の囲い込みをとったときに初めて、
「Who are you?」と問われた。

そこから秋田さんは
市民が知と情を編み出していく、
今の場をつくるに至る。

~~~ここからキーワード抜粋

今の都市や社会では、すべての場所にあらかじめ意味が付与されています。
その多くは効率や機能性の追求で、場の意味を自分で探したり、検証する機会がない。

場と関係はセットなんです。

「住職」っていうのは住むのが仕事

仏教に、正しい導きとか正解を期待する人がいるけど、それは難しいと思います。
仏教というのは、非常に大きな仮説を提示しているに過ぎない。

それを受け止めて、思考して、
実際の人生の中で答えを出そうと努力するのはあなたなんだ、ってことなんでよね。

あなたを差し置いて、お経を読んでもお坊さんに聞いても、どこにも答えはない。
あるのは、お前はどう思うんだっていう、この問い直しなんですよ。

そういうテレビ的なわかりやすさにいかに抗うかがテーマです。
問いというのはものすごく創造的な行為ですから。

わけがわからない、ということが大事なんです。
わかっていないから、一緒にわかっていこうというベクトルが生まれる。
わからないところから出発することで、
存在の尊さや、いのちの大きな豊かさにふれていくことができる、と。

「考える」とは、答えを得るというプロセスだけでなく、
「絶えず調節をしてゆく」こと。
そのためには「わからなさ」を手放さずに生きてゆく必要がある。

~~~ここまでキーワード抜粋

このあと、秋田さんの章は、
小学校高学年対象の
オーロラの学習教材をつくる話で締めくくられる。

そこで、小学校5年生~中学校3年生までに
「オーロラはなぜできると思いますか?」
という問いを投げかけると、

大半の小学生が自分なりの答えを書いてきたという。
「あれは夜の雲で、地球の反対側にまわった太陽の光を映している」とか
「暗くなると地面の中の鉱脈の光がもれて出てくるのだ」とか、いろいろな答えがでてくる。

ところが、中学生になると、
同じ問いに、「自然現象」の4文字で記入を済ませる子どもが
急増するのだという。

彼らの頭の中には、
自然現象というラベルの付いたフォルダがあり、
考えてもわからないことをそこにいれるようにしておけるようになるのだ。

それは処理能力の進化なのか、
それとも一種の思考停止なのだろうか。
その両方だと思う、と西村さんは言う。

「世界を、未だに知りもしなければわかってもいない、
初々しい状態にしつづけるには、知恵と精神的な体力がいる。」

そうそう。
でも、その状態のほうが、
生きるってもっと楽しくなるような気がする。

世界というワンダーランドを、
もっと楽しんでいこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年02月19日

「驚き」からはじまる

高田さん家で本のイベント。
5分で本を選び、10分で本を読み、
2分くらいで説明する。

1冊目に選んだのは、
「つながるカフェ」(山納洋 学芸出版社)


3年前に塩尻で出会った
三田の家の坂倉さんの言葉が印象に残った。

「創造的な欠如」

通常に空間にあるはずの何かが
欠けていることが重要だと坂倉さんは考えている。

何かが「無いこと」で、
出来事や人間関係が動き始める余地が生まれる。
そうした、あるべきものの不在が創造するゆるやかな
相互作用が、三田の家という場の魅力や磁力を
つくっているように見える。(本文より引用)

なるほど。たしかに。
坂倉さんに会ったことが僕がツルハシブックスを去る
引き金を引いたことを思い出した。
何かが無いことで、生まれるものがあるのではないかと。

そして2冊目はこちら。

「アブダクション~仮説と発見の論理」(米盛裕二 勁草書房)

科学的論理的思考をする上で、
「推論」というのをするわけですが、
それには「演繹法」と「帰納法」がある
と聞いたことがあるかと思います。

しかし、パースは、
科学的発見や創造的思考のためには、
それらとは別の「アブダクション」という推論の方法があるのでは、
と説きます。

「アブダクション」とは、

1 驚くべき事実Cが観察される、
2 しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
3 よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

ここで、
「驚くべき事実C」というのはわれわれの疑念と探求を引き起こす
ある意外な事実または変則性のことであり、
「H」はその「驚くべき事実C」を説明するために考えられた
「説明仮説」です。

ここでニュートンの万有引力の仮説を例に出して説明している。

~~~以下説明

ニュートンの非凡なところは、
リンゴが落ちるという事実に対するかれの「驚き」にあります。

「リンゴはなぜいつも垂直に落ちるのか、なぜわきの方ではなくて、
いつも地球の中心に向かって落ちるのか」という
ニュートンの驚きと疑念そのものが、
かれの独創的な洞察力と想像力によるものです。

それまでも、リンゴは落ちていたけど、
それらは「驚くべき事実」ではなかったのです。

ニュートンはその驚くべき事実に対して、頭の中で考えた。

物体の中には「引力」が働いていて、
それが地球の中心に集中しているのではないか。

そして1つの物体がほかの物体を引くとしたら、
その引力の大きさには比例関係がなければならない。

これが説明仮説Hになります。

~~~ここまで説明

なるほど。
まず「驚くべき事実」を発見することから
発明や創造的思考は生まれていくのだなあと。

「驚き」から始まる。

「驚き」っていうのは、「違和感」だったりも
するのだろうな。

アブダクション、を積み重ねていくのだろうな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)

2017年02月16日

「おもしろさ」はどこにあるのか?


「かかわり方の学び方」(西村佳哲 ちくま文庫)

西村さん3部作読み直し中。
今日これから西村さんにお会いします。
うれしい。

まだ途中ですが、
ビビっと来たので。
そして昨日の「茨城学」深掘りカフェでの
テーマともかぶっていたので。

「学び」の面白さ、「ワークショップ」の面白さは
どこにあるのか?
という問い。

117ページから始まる、
音楽家の野村誠さんへのインタビューが
非常に興味深かったのでメモ。

~~~ここからメモ

「ワークショップ」とは「その時に初めてつくっているもの」

面白いかどうかは、
可能性が広がるか、広がらないかです。
何かを始める時に、出発点から到達できそうな場所が
いくつか見えているとしますよね。
すでに見えている場所に行くのは面白くないです。

90分あれば誰でもそこに到達できる、と
最初からわかっていたところにしか行けないのは、大変面白くない。
出発点からまったく見えないところへ行くのが面白い。

90分だと、あそこまでしか行けないように思える。
でも抜け道がどこかにあるかもしれないわけで、
それは進みながら見つけ出して、どんどん選択してゆくしかないわけです。
そして最初はまったく見えてなかった場所にたどりつく。

始める時にはいろんな場所に行ける可能性があるわけだから、
それを広げてゆくほうが面白い、という意味です。

特に複数名で進んでゆく場合、
ある人には見えないものが他の人には見えるかもしれない。
誰かが抜け道を見つけるかもしれないし、
他の人が持っていない知恵を働かせるかもしれない。

~~~ここまで引用メモ

そうそう。
それね。

だから人は集って、学びの場をつくるのでしょうね。

最初には想像つかないところにたどりつくから。
それが「おもしろさ」ってやつなのかもしれない。

本を読むのも、
ワークショップをするのも、
本質的にはおんなじで、
予想をつかないところにたどりつきたいっていう
根源的欲求があるのではないかな。

そんな中で少しずつ自分の外側が
えぐられるように、他者と交換されるように、
新しいものになっていき、
気がつくとやる前とは違う、
新しい自分がそこに広がっているのかもしれない。

そういうのを「おもしろい」っていうのかもね。

だから、「場」をつくる人は、
境界線をあいまいにして、
そこに余白をつくって、
いろんな考えやアイデアが入ってくる場をつくる。

そうやって「場」全体が、
あるいは「場」の一部が相互作用して
生まれてくるんだろうな。

解決策は、個人の頭の中ではなくて、
「場」の中にあると僕は思っている。

そしてそれこそが「おもしろさ」の源泉なのではないか、と
この本を読んで感じた。

「学ぶ」面白さを伝えられる、いや一緒につくっていける人になりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 10:07Comments(0)

2017年02月15日

「選択と集中」という唯一の選択肢


「地方消滅の罠~「増田レポート」と人口減少社会の正体」(山下祐介 ちくま新書)

「地方消滅」、いわゆる増田レポートについての批判本。

ここで筆者は
「選択と集中」という言葉に違和感を語る。

~~~以下一部引用してメモ

そもそも選択とは、
複数の中から選ぶものであり、
一つしか道がないのでは選択にならない。

国家の経済力を拡大・維持するために
人員を供給し続けたのがこの半世紀の家族の姿で
あったとするなら、これからもそれを続けるのか。

経済性や効率性で「地域」をとらえてよいのか。

そもそもこれまでやってきた
国の政策という「選択と集中」は
うまくいってきたのか?

そういう一律的基準による画一的集中化が
東京一極集中をもたらしているのではないか。

「選択と集中」論は、
「選択と集中」を選択するように要請する。

経済的に自立している人とは、
たとえ天地がひっくり返っても自分の才覚で
生産し、社会に貢献できる人だ。

このたしかな絆の連鎖を
経済効率のために崩しすぎてきたようだ。

~~~ここまで一部引用してメモ

うんうん。
たしかに。

「選択と集中」という言葉によって、
「選択と集中」という選択肢しかないように思わされる。

前提を疑う。

これが大切だ。

「選択と集中」以外の道があるのではないか。
そんな問いかけ。

そこには、
幸せとは何か?
働くとは何か?

そんな根源的な問いから始まっていく未来があるように思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2017年02月14日

対話型キャリア形成

キャリアドリフトは、東洋的キャリアなのではないか、
という仮説は、僕の中では結構しっくりと来ている。

今日、2月14日は、
岡倉天心先生の生誕の日。

150年前。
西洋化の道をひた走る日本美術界に、
東洋にもいいものがある、と
日本・インド・中国文化を発信し続けた。
その生き様に触れ、胸が熱くなる。


「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)

読み終わり。
ラストに近づくにつれて、西村さんの
熱意と問いがあふれ出てくる。

働くことは本当に喜びなんだろうか?
とはじまる第3章が熱い。

~~~以下引用

本質とまで言わないにしても、生まれてきたからには
本領を発揮したいしエネルギーを解き放ちたいわけで、
その意味でも、仕事はきわめて有力で魅力的なメディアだ。

自分にも、他者にも、社会にも深く関わることが可能で、
承認欲求も満たせば成長快感も得られるし、
仕事の体験を通じた感情や感覚の起伏はそのまま生きている手応えにもなる。

でも本人の実感以外のところから、まるで倫理や徳や常識のように語られる
「働くことは喜びである」といった言い切りには同意しきれない。

それが〈自分の仕事〉ならむろん働くことは喜びになると思うが、
そう思い込まされるようなファシリテーションが社会に施されているとしたら?

そもそもこの、働くことはよいことであるという考え方は、
人類史の途中から姿をあらわしたものだ。
その時々の為政者や権力によって人々に与えられてきた痕跡も見受けられる。
これは労働文化史の領域では決して斬新な視点ではない。

働くことをよしとする価値観は、近世のヨーロッパで生まれ、
キリスト教と産業革命を足がかりに世界へ広がった。

労働や働くことをよしとする考え方は、
共産主義においても資本主義においても機能した。
それは都市化・数量化・産業化の流れに沿って広がった
近代以降の価値観であって、それ以前の社会には、実はあまり見られないという。

人は、より生きているという実感に喜びをおぼえる。
仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、というだけのことだ。

ただ働くことだけが、わたしたちの生を充足させるわけじゃない。
価値観の形成過程に誘導性も感じられるので、
このことについては、むしろ慎重でいたい。

~~~ここまで引用

「仕事」このくらい俯瞰して見ること。

そもそも働くことそのものはよいことなのだろうか?
いつからそんな価値観が浸透したのだろうか?
それは、自分たちの意思ではなかったのではないか?

そんな問いを問うことがキャリア形成の出発点なのではないか?
と思う。

対話型キャリア形成。
僕はこれを目指していこうと思う。

本屋であること。
本の処方箋というコンテンツを持っているということ。
地域というフィールドに大学生を送り出していること。

そのすべてがそこに向かっている。

目標設定・達成という
キャリアデザインなるもの。

それが唯一の方法ではないということ。

もちろん昨日のブログで書いた東洋的キャリア形成も
そのひとつの方法にすぎないのだけど。

それらを組み合わせながら、
<自分の仕事>をつくっていくこと。

それをサポートしながら、
僕自身が<自分の仕事>をつくってみようと思った。

岡倉天心先生のように、
西洋だけでも、東洋だけでもない、
その両方と、そのあいだの道があるのだと、

そしてひとつなのだと。

まあ、茶でも飲もうじゃないか、と。

そんな「対話型キャリア」というジャンルを
切り拓いていきたいと思った。

未来という「自然」に向き合い、
一体化して、ともにつくっていく仕事。

そんなのをつくりたいね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2017年02月13日

東洋的キャリアのつくり方


「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)

年始の「自分の仕事をつくる」につづいて、
西村さんの本読み直し。

いやあ、すごい。
読み直しても、いまいるステージに響く言葉だらけ。

昨日は、佐藤孝治さんと
その仲間たちとの観劇の会でした。



1998年11月。
大学院の1年目に、僕は伝説のバー、
王子・「狐の木」に足を踏み入れました。

あの日も、
王子小劇場で熱いお芝居を見た後で
「農」を語る熱い飲み会に参加。

「熱い」「アツい」
ってそのころから使っているな。(笑)

昨日の裏テーマは、
キャリアドリフト
=プランドハプンスンスタンスセオリー(計画された偶発性理論)

だったのだけど。

そのテーマと
「自分をいかして生きる」が
なぜかマッチしていて、すごいなと思った。

西村さんは本文の中で、

「好きなことを仕事にする」とか
「やりたいことをやれ」とかいう話に、
問いを投げかける。

~~~以下本文より引用メモ

好きなことよりも「大切にしたいことは?」
という問いのほうがまだ有効なんじゃないかと思う。

あるいは、「自分がお客さんでいられないことは?」という
問いはどうだろう?

他の人がどれほど素晴らしくやっていても、
その成果の享受がただ楽しめること。
他の誰がやっていても構わずにいられる仕事は、
いわば他人事の仕事と言える。

気持ちがザワザワする。落ち着かない。見たくない。悔しい。
時にはその場から走り出したくさえなるような、
本人にもわけのわからない感覚を持て余す感覚を
感じている人は、そのことについて
ただのお客さんじゃいられない人なんじゃないかと思う。

悩みや葛藤は自分そのものだ。
これまでの経験や環境など、自分のすべてがあることで、
それが悩みになりえる。

「できてない」ことが、可能性でもあるということ。

心の水面にさざ波が立つ時。それまで平坦だった気持ちに、
プクッと微かな膨らみが生じる時。
その下には、まだ現実化していないなにかがある。
それはほかでもない、自分だけの資産だ。

「ザワザワする」ところ。「お客さんではすまない」部分。
「好き」より、さらに前の感覚的なもの。

~~~ここまで引用

なるほど。
「好き」より前の違和感。
これを感知することから始まるのだな。なるほど。
やっぱり感性って大切だ。

さらに、ロサンジェルスの宿をやっているバッツィーさんの話
で、昨日のお題に近づいていく。

~~~以下さらに引用

その時その時に自分が正しいと思ってやってきたことが、
何かにこういう結果につながってるとしか言えない。
つまり目標よりプロセスを重要視して、歩きながら行く先を決めて行くようなスタイルね。

こういうのはむしろ東洋的な考え方かも。
少なくともアメリカ的なやり方ではないと思う。

「はじめれば、はじまる。」ということ。
逆にいうと、
「はじめないかぎり、何もはじまらない」というものだった。

あの頃の自分に会えるとしたら、ただ黙って話を聴く。そして
たまらなくどうである、とか、わけもなくこうである、
といった感覚的な言葉が顔を覗かせたら、さらに耳を傾けると思う。

他人からもらったアドバイスより、
口に出してみた気持ちや自分が語った言葉の余韻が、
再び自分に揺さぶりをかけて、
それが次の場所へ向かう足掛かりになってきた感覚があるからだ。

やってみて、そこから何か手がかりを得て、
またやってみるというスパイラルをまわすことの他に、
人間、あるいは生命がその力を展開させてゆく道筋はないと思う。

どの時代にもそれまでなかったことや、まだ教科書が編まれていないこと、
誰も教えてくれないようなことを手探りではじめた人たちはいて、
彼らはどうそれをやったかというと、ただ無我夢中でやったのだと思う。

~~~ここまで引用

そうそう。
これだよね。
これなんですよ。

佐藤孝治さん(コージさん)の生き方そのものだった。

就活する学生をエンパワーメントすることで、
学生が、そして就職した人たちが元気になり、
日本が元気になっていくんじゃないか。

そうやって、テーマ別就活メーリングリストと
オフ会から始まったジョブウェブ。

創業したコージさんのやっていることは
今も変わらない。

一緒に銭湯に行き、メシを食って、語る。
そこに観劇が加わっていたけど、
20年前からずっと、そうやってやってきたんだ。

僕は18年前にコージさんに出会い、
「まきどき村」構想を語り、翌年にオープンした。

そのオープン日に、
コージさんは新潟で僕と荒れ地で石を掘っていた。

「それ、面白そうだね。やってみたらいいよ。」
そんな声を今も、掛けつづけているんだな。

なんだか、ちょっぴり苦しくなった。

苦しくて、うれしくて、あたたかい。

なんとも言えない気持ちになった。

別れ際、大阪で体操教室をやっている舟木くんが
「やらなアカンな。」って言って、帰って行った。
まぶしかった。

「キャリアドリフト」
っていうのは、東洋的な考え方なのかもしれない
と思った。

相手に合わせて、自分が変化する。

相手と一緒に、何かをつくっていく。

自然を支配するのではなくて、自然と一体化していく。

合気道や茶道や、日本庭園のような、

「相手」が「就職する会社」や「与えられた仕事」、
そして「自然」が「未来」だとしたら、

やってみる。
違和感に耳を傾ける。
生き生きとする瞬間を見つける。

そんなキャリア形成こそ、心地よいのではないか。

コージさんと一緒につくりたい未来も、
少し見えたアツい夜になりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)

2017年02月10日

ヒューマン・スケールであるということ

明日は福島オーガニックフェスタの打ち合わせ。
そのタイミングで、この本。
いいかもしれない。


移行期的乱世の思考~「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか(平川克美 PHP)

2012年の1冊。
鋭い。実に鋭い。

経済成長って何か?
根本的に考えさせられる。

~~~ここから一部引用

設備投資し、生産を増やすと、消費が増える。
生産すればするほど、消費が増える、税収も上がる、
さらなる設備投資をする、その経済サイクルが成り立つと見抜いた。

持てる人が所得を今以上に上げたときに、
彼らはそれを何に使うのか。それが投資なんです。
つまり金で金を買うという行為に出る。

金融市場というのは、ただお金を流動させることだけが目的の市場なんですね。

持つということは、いつも失う危機感とセットなんです。

効率化とは、無駄を排除すること。

無駄をどんどん削った結果、見えてきたことは何か。
最終的に何が一番無駄なのか。
「それは時間だ」という結論に至ったわけです。

つまり、商品を作り、市場に出すという迂回路を通って利益を得る、
そのサイクル自体が無駄なのでは、と考えた。
そんな活動は抜きにして、直接お金でお金を得られないかとなったわけです。

その最後のフロンティアが地上ではなく、
コンピューターの中での金融ビジネスだった。

~~~ここまで引用

なるほど。
なるほど。
うなってしまうね。

金融ビジネスが最後のフロンティアだったのか。
それは暴走してしまうよなあと。

まだ第1章しか読んでないのだけど、
最後にキーワードが。

「ヒューマン・スケールであるということ」

うんうん。
オーガニックってそういうことだと思う。

僕は大学時代に有機農業研究会・STEP
というサークルをつくり、
生ごみをたい肥化して、野菜を育てていたのだけど。

そして、全国の有機農家や
自然農の実践者をひたすらめぐる旅を3年くらいしていたのだけど。

世の中では、
「有機農業」という言葉が独り歩きしていて、
有機農業とか言いながら、
その肥料は、中国から輸入した貝殻だったり。

有機って
有機物の肥料を使えばいいのか?
と激しく疑問に思った。

そのときに思ったのは、
「有機」とはつながっていることだと思った。

そして
「つながり」こそが幸せの実態だと思った。

そう。
地域で、目の見えるところで「循環」していること
それこそが価値であって、
有機肥料を使っているから価値があるわけでは決してない。

それを一言でいえば、
「ヒューマン・スケール」ということになるのかもしれない。

「オーガニックフェスタ」という「メディア」は
何を伝えるのか?

そんな問いを明日、投げかけてみようかなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)

2017年02月07日

グローバルだからこそローカル。


「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)

グローバルとローカルの関係を
情報、ソーシャルメディアの観点から切りとった1冊。

僕は2011年にこの本を1度読んでいるのだけど、
6年たってから読み直すと、まったく違う世界がそこに広がっていた。

茨城大学でやっている「茨城学」でも、
グローバルとローカルについて、
言及されているけど、
この本のラストの章を読むと、
グローバルだからこそ、ローカルなんだな、と実感できる。

~~~以下一部引用

広告のクリエイティブディレクターとして
世界的に有名なアレクサンダー・ゲルマンは、
「ポストグローバル(グローバル以後)」
というコンセプトを提唱しています。

ゲルマンはもの凄くシンプルでミニマル(最小限)
なデザインのスタイルを1990年代に確立し、
そのシンプルな表現は国境を越えて、
多くの国の人に受け入れられてきたことから、
グローバリゼーション時代を象徴するデザインとして評価されてきました。

どの国の人にとっても、ゲルマンのデザインは
まるで自分の国の民族性を体現しているように受け止められたのです。

スウェーデン人はゲルマンのシンプルですっきりとした手法を北欧的と考え、(中略)
日本は繊細に洗練されて「間」の美学があるゲルマンは日本そのものだと考えました。

彼は、「魂に響くものなら、どんな文化とも共鳴し合える。
本当のグローバルとは画一化されて巨大化することではなく、
人間の根源的な部分で相通じることができるようになることだ」
と言っています。

グローバリゼーションの嫡子として新たなデザインを切りひらいたゲルマンは、
グローバル化された文化の突端まで行き着いたからこそ、
その先の「反転」を予測したということなのでしょう。

つまり、グローバル化したシステムでは、
情報の伝達は今までよりもずっと容易になる。
だからこそローカルカルチャーの重要性がいっそう高まっていくのだ、と。

~~~ここまで一部引用

このあと、この本は、
そんなことが本当に可能か?
文化の多様性が無くなって、
みんな単一の文化に飲み込まれるだけのではないか?

とマクドナルドを引き合いに出して、論じられます。
マクドナルドは高度なマニュアル化によって
世界中のどこにいても同じ味、同じ接客を受ける(理論上)ことができます。

しかし、日本の「身土不二」やイタリアの「スローフード」のように、
その土地で旬にとれた食材はその時間と空間の中でしか生まれない
唯一のものであって、それを消費する側の人たちがきちんと評価してこそ
食と人の良い関係が成り立つという考え方。つまりそこには「一回性」が
存在するわけです。

旬の食材を「いまこの瞬間にしか出会えない」と感謝しながらいただく。
それは日本の食文化の根幹にひそんでいる美学でもあります。

マクドナルドは、昨日も今日も明日も、
ここにくれば同じ味のハンバーガーが食べられるんだと再現性を信じている。
店の側もそれを保証している。

しかし、
「グローバリゼーション=一回性を否定したファストフード文化」
という考え方ではあまりにもステレオタイプで、

それを
SNSのような文化のグローバルプラットフォームが
文化の多様性をさらに高めてくれるだろうと佐々木さんは
モンゴル帝国時代を引き合いに出して、説明します。

白磁器に、青い染付。
中国では青花と呼ばれていて、それはモンゴル帝国時代にさかのぼり、
モンゴル帝国がつくりあげた文化的プラットフォームの賜物だと言います。

フェイスブックなどの「プラットフォーム」の定義は
1 圧倒的な市場支配力
2 つかいやすいインターフェイス
3 プラットフォーム上でプレイヤーが自由に活動できる許容力

の3つをモンゴル帝国も有していたそうです。

グローバリゼーションと画一化はイコールではないと
佐々木さんは言います。

多様性を許容するプラットフォームが確立していけば、
私たちの文化は多様性を保ったまま、
他の文化と融合して新たな文化を生み出すことができる。

その世界で新たなまだ見ぬ文化はキュレーションによって、
つねに再発見され続けていく。

こうして、これからの「文化」は生まれていく。

そうそう。
これ、そうだわ。

本とソーシャルメディア、
そしてプレイヤーのプラットフォーム

としての「本屋」っていうのが
文化発信の可能性に満ちていると
僕は感じました。

ツルハシブックス「劇団員」必読の1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年02月06日

一座建立


「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)

5年前に読んではいたのだけども、
佐々木俊尚月間を過ぎて2か月。
あらためて読んでみようかなと。

そしたら、やっぱり、
今でも色褪せない、シビれる感じだなあと。

今回のブログは
その中から、お茶の話を。

~~~ここから引用

「主客一体」という言葉があります。
禅に由来する言葉で、
客のおもてなしというのは
招くあるじが一方的に行うものではない。
招く側(ホスト)と招かれる客(ゲスト)が協力し、
ともに一体となってつくりあげるものであるという意味です。

そこではホストとゲストの間に、
その場で生み出される芸術に対する共鳴がなくてはならない。

お互いが共鳴し合ってこそ、
ホストとゲストがおもてなしの場を共有し、
一体感を感じ、素晴らしい芸術を生み出すことができる。

これを茶道の世界では、「一座建立」といいます。

(中略)

茶道の世界では、あるじと客が一体となってその場をつくる。
これが一座建立で、主客一体の理想のあり方だと考えられています。

欧米の伝統的な文化が
ホストとゲストの関係性を固定しているとされるのに対し、
日本古来の主客いったいではホストとゲストの関係は
常に対等で、共鳴によってお互いが協力していく。

客の側も「オレは客でござい」と威張るのではなく、
あるじが何を考え、どのような趣向を見せようとしているのかを
言葉にせずに察して、それに共鳴してふるまうような「客ぶり」が求められる。

(中略)

「日本文化がはぐくんできた、主客一体の相互コミュニケーションが
インターネットの場でも成立する可能性はあると思う。
というか、一部では成立していると思う。」

「インターネットがある程度価値観や興味を共有した人々をつなげるからだ。
ブログなどへのコメントやツイッターの呟きの連鎖の中には、
すでにこうした『主客一体』の関係が存在すると思う。」

「価値観や興味を共有」している人たち、つまりコンテキストを
共有している人たちの間では、たがいが共鳴によってつながり、
そこにエンゲージメントが生み出されるのです。

~~~ここまで引用

いいですね。
そうそう。
こういう感じ。

ツルハシブックスの「劇団員」
っていうのも、

「気がついたら私も、
本屋という舞台の、
共演者になっていました。」

というキャッチコピーも、
そんな世界を実現したいからではないかと思います。

「一期一会」という言葉や瞬間に終わるのではなく、

「一期一会」の空間と時間を共に作り上げていく、
そんな共演者たちが「エンゲージメント」していくような空間を、
本屋で目指したいのかもしれません。

一座建立。
いい言葉をいただきました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)

2017年01月31日

「本屋をやる」とは、「常に変わり続ける」ということ


芸術批評誌【リア】vol.32 特集「本をとどける」

たぶん、水戸芸術館のミュージアムショップで購入。
最近は積ん読だった本が絶妙のタイミングで
目の前に現れてくるから読書が楽しい。

リアの冒頭での
ヴィレッジヴァンガード創設者の菊地敬一さんと
ちくさ正文館本店の古田一晴さんの対談。
これを「本屋は死なない」の石橋毅史さんが進行する。

これが熱かった。
キーワードだらけ。

なぜ、本屋なのか?
に対して、熱く熱く問いを深めてくれる。

以下キーワードを

~~~以下一部引用

つまり、ハードじゃなくて、ソフトなんですよね。
ソフトが一番大事で、ソフトは真似できない。動いてますから。

一部を切り取って真似できても、
動きは分かんないんで、基本的についていけない。

ヴィレッジヴァンガードの棚を見たときには、
この人(菊地さん)の頭の中は次へ行っているわけだから。

芸術性と通俗性のコンフリクト。

初期のアーリーステージは、
僕なりに「BRUTUS」の世界を立体的に
具現化するってことを志向して
立体BRUTUSをやってました。

イオンや生活創庫にでて、
立体BRUTUSじゃ立ち行かなくなったんですよね。
基本的にお客さんと対話しながらインターフェイスしながら
品揃えしていきますから、立ち行かなくなった。

中高生、ファミリー、おばあちゃんおじいちゃんを
相手しなきゃとなってBRUTUSのクールな感じが
失われていって、「BRUTUS」から「月刊宝島」になったんですよね。

「本屋をやりたい」、それは崇高な理念であるけれど、
継続させようとすれば利益を出さなければならない。
人はその狭間で悩むんですよ。
でもその悩みを最初から拒否してるんですよね、恐らく。
それっておかしいよね。もうちょっとその思いを発酵させればいいよね。

いろいろ突き詰めて考えたら、
やっぱり粗利を上げるしかないんですよ。
でも好きな本は売りたい。
その狭間にすごく悩んだ時に、粗利で雑貨を一緒に売る。

アナロジーを駆使して、本の隣に雑貨を置いて、
雑貨の隣に関連したCDを置いてということを、
僕らは融合させたんです。
複合ではなく融合。大事なのはここです。
それがコロンブスの卵だった。
そしてそれが名古屋の若者にウケたんですよね。

あの頃の夢と今の夢は違いますよ。
だって夢はどんどん変わっていかないと馬鹿でしょ。
教条主義・原理主義ほど生き方をスポイルするものはない。

そりゃあ僕だって変遷がありますよ、ものすごく。
あの頃の自分のインタビュー見ると笑っちゃいますよ。
恥ずかしくて穴に入りたいくらい。

ヴィレヴァンでは、Tシャツで仕事ができるんです。

月に100人来る本屋と月に1万人来る本屋、
どっちが社会的貢献が高いかって、
そりゃ1万人に決まってますよ。

でも、100人の方、つまり弱い者、マイノリティの方を
特にマスコミさんはね(笑)、すごく持ち上げるんです。
それでミスリードしちゃう。

「僕のことはつかまえられないよ」
こうなんだという、固定した形で語るということは
できないという意味で。

本というと、経営という現実的な問題と、
芸術性という文化というものがありますが、
書店をやる以上は通俗性とは
分かちがたいものがあるわけですよね。

アマゾンのアルゴリズムを使えるんだったら
使ったほうがいい。あれは統計学ですから。

最後の砦は、店主の人柄だけ、残念だけど、
それしかもう残っていない。(早川義夫さん)

具体的な夢を生き生きと想像する奴だけに、
その夢の実現は選択的に訪れる。

この本をどこで買ったかと思い出す時に、
ヴィレッジヴァンガートで買ったということを
まざまざと思い出すような本屋にしたいというのが具体的な夢でした。

~~~ここまで一部引用

いいですね。
熱いですね。
すごく熱いです。

この対談の締めくくりには、
ロバート・D・ヘイルの言葉が引用されている。


本の真の実質は、思想にある。
書店が売るものは、情報であり、霊感であり、
人とのかかわりあいである。
本を売ることは、
永久に伝わる一種の波紋を起こすことである。
(中略)書店は、書棚に魔法を満たすことも、
風を吹かせることもできる。
(中略)書店人が、特別な人間でなくてなんであろう。
(書店販売の手引―アメリカ書店界のバイブル)


そして、石橋さんの締めも素敵。

本屋にとって「本をとどける」とは、「売る」ことなんですよね。
生活していくための現実的な営為を抜きにして、本を語りえない。

それと、「常に変わり続けること」が
常態で、こうでなければいけない、こうしておけばいい、
と見方や関わり方を固定させた時点で役割が終わってしまう危うさもある。

本屋の凄さ、面白さを、お二人の話からあらためて感じました。
有難うございました。

うーん。
ホント、ありがとうございました。

なぜ、本屋なのか?
に対する熱い熱いメッセージをもらいました。

僕も、菊地さんが言うように、
本棚の本、手元の本をあらためて見たときに、
この本、どこで買ったんだっけな?
と思い出してもらえるような本屋になりたかったと
あらためて思いました。

まだ、これからなのですね、きっと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)