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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2017年03月14日

世界という、わけのわからないワンダーランド


「自分の仕事を考える3日間」(西村佳哲 弘文堂)

以前に読んでいたはずなのだけど、
まったく色褪せない1冊。

今年の元日から続く、
西村佳哲キャンペーン。
今の自分に響くなあと。

あらためて「自分の仕事」ってなんだろう?
って考える。

この本もたくさんのエッセンスに
詰まっているのだけど、
特にシビれたのは、3番目に出てくる
秋田光彦さん。

浄土宗大蓮寺・慶典院住職。
情報誌の編集や映画プロデュースを経て住職へ。

実は僕も、新潟の浄土真宗のお寺の孫なので、
生まれた時から葬式は身近なものとしてあった。

お寺は葬式をするところ、
という常識が冒頭から揺さぶられる。

「お寺が葬式をするようになった歴史は、寛文4年(1664年)に
江戸時代が制定した檀家制度にさかのぼる。」

えっ。
そうなんだ。

江戸時代以前には、お寺で葬式してなかったんや。
わずか350年の歴史でしかないのか。

そして江戸幕府がそれを制定した理由が
キリスト教の禁制だったというから面白い。

~~~ここから一部引用

それからお寺は檀家の戸籍も管理する
幕府の出先機関となり、代償として
信徒の数と収入が安定した。
こうして仏事に依存する仏教の形が始まる。

そして200年後、
明治維新の流れの中で神道を国家統合の
柱に据えようとした政府は、
禁じられていた僧侶の肉食・妻帯を意図的に自由化。

世襲制度の一般化などを通じて、
僧侶を質的に破戒させ、人々の不満を募らせて、
人民の心を仏教から引き離そうと目論みる。
この動きは廃仏毀釈まで至った。

~~~ここまで一部引用

そうなんだ~。
お寺で葬式とかって誰かの仮説なんだな、と。

慶典院というお寺は小さな劇団による演劇や
市民たちによるワークショップが日々重ねられている。
檀家はなく、葬式をあげないお寺だ。

秋田さんは、現在の仏教に納得できず、
「こんなん辞めた」と国際NGOで活動し、タイに行く。
そこで、定住せずにさすらいながら、痩せた農地を開墾し、
学校をつくるといった、民のために尽くす
お坊さんの原点を見ることになり衝撃を受けて帰国。

そんなときに阪神淡路大震災が起こる。
お坊さんの格好をして歩いていたら
どこの寺だとか、どこの宗派だとか関係なく、
「うちの爺さんの供養をしてやれん。なんとかしてくれっ」
と声をかけられる。

それは秋田さんにとって人生の衝撃だった。
お寺の囲い込みをとったときに初めて、
「Who are you?」と問われた。

そこから秋田さんは
市民が知と情を編み出していく、
今の場をつくるに至る。

~~~ここからキーワード抜粋

今の都市や社会では、すべての場所にあらかじめ意味が付与されています。
その多くは効率や機能性の追求で、場の意味を自分で探したり、検証する機会がない。

場と関係はセットなんです。

「住職」っていうのは住むのが仕事

仏教に、正しい導きとか正解を期待する人がいるけど、それは難しいと思います。
仏教というのは、非常に大きな仮説を提示しているに過ぎない。

それを受け止めて、思考して、
実際の人生の中で答えを出そうと努力するのはあなたなんだ、ってことなんでよね。

あなたを差し置いて、お経を読んでもお坊さんに聞いても、どこにも答えはない。
あるのは、お前はどう思うんだっていう、この問い直しなんですよ。

そういうテレビ的なわかりやすさにいかに抗うかがテーマです。
問いというのはものすごく創造的な行為ですから。

わけがわからない、ということが大事なんです。
わかっていないから、一緒にわかっていこうというベクトルが生まれる。
わからないところから出発することで、
存在の尊さや、いのちの大きな豊かさにふれていくことができる、と。

「考える」とは、答えを得るというプロセスだけでなく、
「絶えず調節をしてゆく」こと。
そのためには「わからなさ」を手放さずに生きてゆく必要がある。

~~~ここまでキーワード抜粋

このあと、秋田さんの章は、
小学校高学年対象の
オーロラの学習教材をつくる話で締めくくられる。

そこで、小学校5年生~中学校3年生までに
「オーロラはなぜできると思いますか?」
という問いを投げかけると、

大半の小学生が自分なりの答えを書いてきたという。
「あれは夜の雲で、地球の反対側にまわった太陽の光を映している」とか
「暗くなると地面の中の鉱脈の光がもれて出てくるのだ」とか、いろいろな答えがでてくる。

ところが、中学生になると、
同じ問いに、「自然現象」の4文字で記入を済ませる子どもが
急増するのだという。

彼らの頭の中には、
自然現象というラベルの付いたフォルダがあり、
考えてもわからないことをそこにいれるようにしておけるようになるのだ。

それは処理能力の進化なのか、
それとも一種の思考停止なのだろうか。
その両方だと思う、と西村さんは言う。

「世界を、未だに知りもしなければわかってもいない、
初々しい状態にしつづけるには、知恵と精神的な体力がいる。」

そうそう。
でも、その状態のほうが、
生きるってもっと楽しくなるような気がする。

世界というワンダーランドを、
もっと楽しんでいこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年02月19日

「驚き」からはじまる

高田さん家で本のイベント。
5分で本を選び、10分で本を読み、
2分くらいで説明する。

1冊目に選んだのは、
「つながるカフェ」(山納洋 学芸出版社)


3年前に塩尻で出会った
三田の家の坂倉さんの言葉が印象に残った。

「創造的な欠如」

通常に空間にあるはずの何かが
欠けていることが重要だと坂倉さんは考えている。

何かが「無いこと」で、
出来事や人間関係が動き始める余地が生まれる。
そうした、あるべきものの不在が創造するゆるやかな
相互作用が、三田の家という場の魅力や磁力を
つくっているように見える。(本文より引用)

なるほど。たしかに。
坂倉さんに会ったことが僕がツルハシブックスを去る
引き金を引いたことを思い出した。
何かが無いことで、生まれるものがあるのではないかと。

そして2冊目はこちら。

「アブダクション~仮説と発見の論理」(米盛裕二 勁草書房)

科学的論理的思考をする上で、
「推論」というのをするわけですが、
それには「演繹法」と「帰納法」がある
と聞いたことがあるかと思います。

しかし、パースは、
科学的発見や創造的思考のためには、
それらとは別の「アブダクション」という推論の方法があるのでは、
と説きます。

「アブダクション」とは、

1 驚くべき事実Cが観察される、
2 しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
3 よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

ここで、
「驚くべき事実C」というのはわれわれの疑念と探求を引き起こす
ある意外な事実または変則性のことであり、
「H」はその「驚くべき事実C」を説明するために考えられた
「説明仮説」です。

ここでニュートンの万有引力の仮説を例に出して説明している。

~~~以下説明

ニュートンの非凡なところは、
リンゴが落ちるという事実に対するかれの「驚き」にあります。

「リンゴはなぜいつも垂直に落ちるのか、なぜわきの方ではなくて、
いつも地球の中心に向かって落ちるのか」という
ニュートンの驚きと疑念そのものが、
かれの独創的な洞察力と想像力によるものです。

それまでも、リンゴは落ちていたけど、
それらは「驚くべき事実」ではなかったのです。

ニュートンはその驚くべき事実に対して、頭の中で考えた。

物体の中には「引力」が働いていて、
それが地球の中心に集中しているのではないか。

そして1つの物体がほかの物体を引くとしたら、
その引力の大きさには比例関係がなければならない。

これが説明仮説Hになります。

~~~ここまで説明

なるほど。
まず「驚くべき事実」を発見することから
発明や創造的思考は生まれていくのだなあと。

「驚き」から始まる。

「驚き」っていうのは、「違和感」だったりも
するのだろうな。

アブダクション、を積み重ねていくのだろうな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)

2017年02月16日

「おもしろさ」はどこにあるのか?


「かかわり方の学び方」(西村佳哲 ちくま文庫)

西村さん3部作読み直し中。
今日これから西村さんにお会いします。
うれしい。

まだ途中ですが、
ビビっと来たので。
そして昨日の「茨城学」深掘りカフェでの
テーマともかぶっていたので。

「学び」の面白さ、「ワークショップ」の面白さは
どこにあるのか?
という問い。

117ページから始まる、
音楽家の野村誠さんへのインタビューが
非常に興味深かったのでメモ。

~~~ここからメモ

「ワークショップ」とは「その時に初めてつくっているもの」

面白いかどうかは、
可能性が広がるか、広がらないかです。
何かを始める時に、出発点から到達できそうな場所が
いくつか見えているとしますよね。
すでに見えている場所に行くのは面白くないです。

90分あれば誰でもそこに到達できる、と
最初からわかっていたところにしか行けないのは、大変面白くない。
出発点からまったく見えないところへ行くのが面白い。

90分だと、あそこまでしか行けないように思える。
でも抜け道がどこかにあるかもしれないわけで、
それは進みながら見つけ出して、どんどん選択してゆくしかないわけです。
そして最初はまったく見えてなかった場所にたどりつく。

始める時にはいろんな場所に行ける可能性があるわけだから、
それを広げてゆくほうが面白い、という意味です。

特に複数名で進んでゆく場合、
ある人には見えないものが他の人には見えるかもしれない。
誰かが抜け道を見つけるかもしれないし、
他の人が持っていない知恵を働かせるかもしれない。

~~~ここまで引用メモ

そうそう。
それね。

だから人は集って、学びの場をつくるのでしょうね。

最初には想像つかないところにたどりつくから。
それが「おもしろさ」ってやつなのかもしれない。

本を読むのも、
ワークショップをするのも、
本質的にはおんなじで、
予想をつかないところにたどりつきたいっていう
根源的欲求があるのではないかな。

そんな中で少しずつ自分の外側が
えぐられるように、他者と交換されるように、
新しいものになっていき、
気がつくとやる前とは違う、
新しい自分がそこに広がっているのかもしれない。

そういうのを「おもしろい」っていうのかもね。

だから、「場」をつくる人は、
境界線をあいまいにして、
そこに余白をつくって、
いろんな考えやアイデアが入ってくる場をつくる。

そうやって「場」全体が、
あるいは「場」の一部が相互作用して
生まれてくるんだろうな。

解決策は、個人の頭の中ではなくて、
「場」の中にあると僕は思っている。

そしてそれこそが「おもしろさ」の源泉なのではないか、と
この本を読んで感じた。

「学ぶ」面白さを伝えられる、いや一緒につくっていける人になりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 10:07Comments(0)

2017年02月15日

「選択と集中」という唯一の選択肢


「地方消滅の罠~「増田レポート」と人口減少社会の正体」(山下祐介 ちくま新書)

「地方消滅」、いわゆる増田レポートについての批判本。

ここで筆者は
「選択と集中」という言葉に違和感を語る。

~~~以下一部引用してメモ

そもそも選択とは、
複数の中から選ぶものであり、
一つしか道がないのでは選択にならない。

国家の経済力を拡大・維持するために
人員を供給し続けたのがこの半世紀の家族の姿で
あったとするなら、これからもそれを続けるのか。

経済性や効率性で「地域」をとらえてよいのか。

そもそもこれまでやってきた
国の政策という「選択と集中」は
うまくいってきたのか?

そういう一律的基準による画一的集中化が
東京一極集中をもたらしているのではないか。

「選択と集中」論は、
「選択と集中」を選択するように要請する。

経済的に自立している人とは、
たとえ天地がひっくり返っても自分の才覚で
生産し、社会に貢献できる人だ。

このたしかな絆の連鎖を
経済効率のために崩しすぎてきたようだ。

~~~ここまで一部引用してメモ

うんうん。
たしかに。

「選択と集中」という言葉によって、
「選択と集中」という選択肢しかないように思わされる。

前提を疑う。

これが大切だ。

「選択と集中」以外の道があるのではないか。
そんな問いかけ。

そこには、
幸せとは何か?
働くとは何か?

そんな根源的な問いから始まっていく未来があるように思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2017年02月14日

対話型キャリア形成

キャリアドリフトは、東洋的キャリアなのではないか、
という仮説は、僕の中では結構しっくりと来ている。

今日、2月14日は、
岡倉天心先生の生誕の日。

150年前。
西洋化の道をひた走る日本美術界に、
東洋にもいいものがある、と
日本・インド・中国文化を発信し続けた。
その生き様に触れ、胸が熱くなる。


「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)

読み終わり。
ラストに近づくにつれて、西村さんの
熱意と問いがあふれ出てくる。

働くことは本当に喜びなんだろうか?
とはじまる第3章が熱い。

~~~以下引用

本質とまで言わないにしても、生まれてきたからには
本領を発揮したいしエネルギーを解き放ちたいわけで、
その意味でも、仕事はきわめて有力で魅力的なメディアだ。

自分にも、他者にも、社会にも深く関わることが可能で、
承認欲求も満たせば成長快感も得られるし、
仕事の体験を通じた感情や感覚の起伏はそのまま生きている手応えにもなる。

でも本人の実感以外のところから、まるで倫理や徳や常識のように語られる
「働くことは喜びである」といった言い切りには同意しきれない。

それが〈自分の仕事〉ならむろん働くことは喜びになると思うが、
そう思い込まされるようなファシリテーションが社会に施されているとしたら?

そもそもこの、働くことはよいことであるという考え方は、
人類史の途中から姿をあらわしたものだ。
その時々の為政者や権力によって人々に与えられてきた痕跡も見受けられる。
これは労働文化史の領域では決して斬新な視点ではない。

働くことをよしとする価値観は、近世のヨーロッパで生まれ、
キリスト教と産業革命を足がかりに世界へ広がった。

労働や働くことをよしとする考え方は、
共産主義においても資本主義においても機能した。
それは都市化・数量化・産業化の流れに沿って広がった
近代以降の価値観であって、それ以前の社会には、実はあまり見られないという。

人は、より生きているという実感に喜びをおぼえる。
仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、というだけのことだ。

ただ働くことだけが、わたしたちの生を充足させるわけじゃない。
価値観の形成過程に誘導性も感じられるので、
このことについては、むしろ慎重でいたい。

~~~ここまで引用

「仕事」このくらい俯瞰して見ること。

そもそも働くことそのものはよいことなのだろうか?
いつからそんな価値観が浸透したのだろうか?
それは、自分たちの意思ではなかったのではないか?

そんな問いを問うことがキャリア形成の出発点なのではないか?
と思う。

対話型キャリア形成。
僕はこれを目指していこうと思う。

本屋であること。
本の処方箋というコンテンツを持っているということ。
地域というフィールドに大学生を送り出していること。

そのすべてがそこに向かっている。

目標設定・達成という
キャリアデザインなるもの。

それが唯一の方法ではないということ。

もちろん昨日のブログで書いた東洋的キャリア形成も
そのひとつの方法にすぎないのだけど。

それらを組み合わせながら、
<自分の仕事>をつくっていくこと。

それをサポートしながら、
僕自身が<自分の仕事>をつくってみようと思った。

岡倉天心先生のように、
西洋だけでも、東洋だけでもない、
その両方と、そのあいだの道があるのだと、

そしてひとつなのだと。

まあ、茶でも飲もうじゃないか、と。

そんな「対話型キャリア」というジャンルを
切り拓いていきたいと思った。

未来という「自然」に向き合い、
一体化して、ともにつくっていく仕事。

そんなのをつくりたいね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2017年02月13日

東洋的キャリアのつくり方


「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)

年始の「自分の仕事をつくる」につづいて、
西村さんの本読み直し。

いやあ、すごい。
読み直しても、いまいるステージに響く言葉だらけ。

昨日は、佐藤孝治さんと
その仲間たちとの観劇の会でした。



1998年11月。
大学院の1年目に、僕は伝説のバー、
王子・「狐の木」に足を踏み入れました。

あの日も、
王子小劇場で熱いお芝居を見た後で
「農」を語る熱い飲み会に参加。

「熱い」「アツい」
ってそのころから使っているな。(笑)

昨日の裏テーマは、
キャリアドリフト
=プランドハプンスンスタンスセオリー(計画された偶発性理論)

だったのだけど。

そのテーマと
「自分をいかして生きる」が
なぜかマッチしていて、すごいなと思った。

西村さんは本文の中で、

「好きなことを仕事にする」とか
「やりたいことをやれ」とかいう話に、
問いを投げかける。

~~~以下本文より引用メモ

好きなことよりも「大切にしたいことは?」
という問いのほうがまだ有効なんじゃないかと思う。

あるいは、「自分がお客さんでいられないことは?」という
問いはどうだろう?

他の人がどれほど素晴らしくやっていても、
その成果の享受がただ楽しめること。
他の誰がやっていても構わずにいられる仕事は、
いわば他人事の仕事と言える。

気持ちがザワザワする。落ち着かない。見たくない。悔しい。
時にはその場から走り出したくさえなるような、
本人にもわけのわからない感覚を持て余す感覚を
感じている人は、そのことについて
ただのお客さんじゃいられない人なんじゃないかと思う。

悩みや葛藤は自分そのものだ。
これまでの経験や環境など、自分のすべてがあることで、
それが悩みになりえる。

「できてない」ことが、可能性でもあるということ。

心の水面にさざ波が立つ時。それまで平坦だった気持ちに、
プクッと微かな膨らみが生じる時。
その下には、まだ現実化していないなにかがある。
それはほかでもない、自分だけの資産だ。

「ザワザワする」ところ。「お客さんではすまない」部分。
「好き」より、さらに前の感覚的なもの。

~~~ここまで引用

なるほど。
「好き」より前の違和感。
これを感知することから始まるのだな。なるほど。
やっぱり感性って大切だ。

さらに、ロサンジェルスの宿をやっているバッツィーさんの話
で、昨日のお題に近づいていく。

~~~以下さらに引用

その時その時に自分が正しいと思ってやってきたことが、
何かにこういう結果につながってるとしか言えない。
つまり目標よりプロセスを重要視して、歩きながら行く先を決めて行くようなスタイルね。

こういうのはむしろ東洋的な考え方かも。
少なくともアメリカ的なやり方ではないと思う。

「はじめれば、はじまる。」ということ。
逆にいうと、
「はじめないかぎり、何もはじまらない」というものだった。

あの頃の自分に会えるとしたら、ただ黙って話を聴く。そして
たまらなくどうである、とか、わけもなくこうである、
といった感覚的な言葉が顔を覗かせたら、さらに耳を傾けると思う。

他人からもらったアドバイスより、
口に出してみた気持ちや自分が語った言葉の余韻が、
再び自分に揺さぶりをかけて、
それが次の場所へ向かう足掛かりになってきた感覚があるからだ。

やってみて、そこから何か手がかりを得て、
またやってみるというスパイラルをまわすことの他に、
人間、あるいは生命がその力を展開させてゆく道筋はないと思う。

どの時代にもそれまでなかったことや、まだ教科書が編まれていないこと、
誰も教えてくれないようなことを手探りではじめた人たちはいて、
彼らはどうそれをやったかというと、ただ無我夢中でやったのだと思う。

~~~ここまで引用

そうそう。
これだよね。
これなんですよ。

佐藤孝治さん(コージさん)の生き方そのものだった。

就活する学生をエンパワーメントすることで、
学生が、そして就職した人たちが元気になり、
日本が元気になっていくんじゃないか。

そうやって、テーマ別就活メーリングリストと
オフ会から始まったジョブウェブ。

創業したコージさんのやっていることは
今も変わらない。

一緒に銭湯に行き、メシを食って、語る。
そこに観劇が加わっていたけど、
20年前からずっと、そうやってやってきたんだ。

僕は18年前にコージさんに出会い、
「まきどき村」構想を語り、翌年にオープンした。

そのオープン日に、
コージさんは新潟で僕と荒れ地で石を掘っていた。

「それ、面白そうだね。やってみたらいいよ。」
そんな声を今も、掛けつづけているんだな。

なんだか、ちょっぴり苦しくなった。

苦しくて、うれしくて、あたたかい。

なんとも言えない気持ちになった。

別れ際、大阪で体操教室をやっている舟木くんが
「やらなアカンな。」って言って、帰って行った。
まぶしかった。

「キャリアドリフト」
っていうのは、東洋的な考え方なのかもしれない
と思った。

相手に合わせて、自分が変化する。

相手と一緒に、何かをつくっていく。

自然を支配するのではなくて、自然と一体化していく。

合気道や茶道や、日本庭園のような、

「相手」が「就職する会社」や「与えられた仕事」、
そして「自然」が「未来」だとしたら、

やってみる。
違和感に耳を傾ける。
生き生きとする瞬間を見つける。

そんなキャリア形成こそ、心地よいのではないか。

コージさんと一緒につくりたい未来も、
少し見えたアツい夜になりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)

2017年02月10日

ヒューマン・スケールであるということ

明日は福島オーガニックフェスタの打ち合わせ。
そのタイミングで、この本。
いいかもしれない。


移行期的乱世の思考~「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか(平川克美 PHP)

2012年の1冊。
鋭い。実に鋭い。

経済成長って何か?
根本的に考えさせられる。

~~~ここから一部引用

設備投資し、生産を増やすと、消費が増える。
生産すればするほど、消費が増える、税収も上がる、
さらなる設備投資をする、その経済サイクルが成り立つと見抜いた。

持てる人が所得を今以上に上げたときに、
彼らはそれを何に使うのか。それが投資なんです。
つまり金で金を買うという行為に出る。

金融市場というのは、ただお金を流動させることだけが目的の市場なんですね。

持つということは、いつも失う危機感とセットなんです。

効率化とは、無駄を排除すること。

無駄をどんどん削った結果、見えてきたことは何か。
最終的に何が一番無駄なのか。
「それは時間だ」という結論に至ったわけです。

つまり、商品を作り、市場に出すという迂回路を通って利益を得る、
そのサイクル自体が無駄なのでは、と考えた。
そんな活動は抜きにして、直接お金でお金を得られないかとなったわけです。

その最後のフロンティアが地上ではなく、
コンピューターの中での金融ビジネスだった。

~~~ここまで引用

なるほど。
なるほど。
うなってしまうね。

金融ビジネスが最後のフロンティアだったのか。
それは暴走してしまうよなあと。

まだ第1章しか読んでないのだけど、
最後にキーワードが。

「ヒューマン・スケールであるということ」

うんうん。
オーガニックってそういうことだと思う。

僕は大学時代に有機農業研究会・STEP
というサークルをつくり、
生ごみをたい肥化して、野菜を育てていたのだけど。

そして、全国の有機農家や
自然農の実践者をひたすらめぐる旅を3年くらいしていたのだけど。

世の中では、
「有機農業」という言葉が独り歩きしていて、
有機農業とか言いながら、
その肥料は、中国から輸入した貝殻だったり。

有機って
有機物の肥料を使えばいいのか?
と激しく疑問に思った。

そのときに思ったのは、
「有機」とはつながっていることだと思った。

そして
「つながり」こそが幸せの実態だと思った。

そう。
地域で、目の見えるところで「循環」していること
それこそが価値であって、
有機肥料を使っているから価値があるわけでは決してない。

それを一言でいえば、
「ヒューマン・スケール」ということになるのかもしれない。

「オーガニックフェスタ」という「メディア」は
何を伝えるのか?

そんな問いを明日、投げかけてみようかなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)

2017年02月07日

グローバルだからこそローカル。


「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)

グローバルとローカルの関係を
情報、ソーシャルメディアの観点から切りとった1冊。

僕は2011年にこの本を1度読んでいるのだけど、
6年たってから読み直すと、まったく違う世界がそこに広がっていた。

茨城大学でやっている「茨城学」でも、
グローバルとローカルについて、
言及されているけど、
この本のラストの章を読むと、
グローバルだからこそ、ローカルなんだな、と実感できる。

~~~以下一部引用

広告のクリエイティブディレクターとして
世界的に有名なアレクサンダー・ゲルマンは、
「ポストグローバル(グローバル以後)」
というコンセプトを提唱しています。

ゲルマンはもの凄くシンプルでミニマル(最小限)
なデザインのスタイルを1990年代に確立し、
そのシンプルな表現は国境を越えて、
多くの国の人に受け入れられてきたことから、
グローバリゼーション時代を象徴するデザインとして評価されてきました。

どの国の人にとっても、ゲルマンのデザインは
まるで自分の国の民族性を体現しているように受け止められたのです。

スウェーデン人はゲルマンのシンプルですっきりとした手法を北欧的と考え、(中略)
日本は繊細に洗練されて「間」の美学があるゲルマンは日本そのものだと考えました。

彼は、「魂に響くものなら、どんな文化とも共鳴し合える。
本当のグローバルとは画一化されて巨大化することではなく、
人間の根源的な部分で相通じることができるようになることだ」
と言っています。

グローバリゼーションの嫡子として新たなデザインを切りひらいたゲルマンは、
グローバル化された文化の突端まで行き着いたからこそ、
その先の「反転」を予測したということなのでしょう。

つまり、グローバル化したシステムでは、
情報の伝達は今までよりもずっと容易になる。
だからこそローカルカルチャーの重要性がいっそう高まっていくのだ、と。

~~~ここまで一部引用

このあと、この本は、
そんなことが本当に可能か?
文化の多様性が無くなって、
みんな単一の文化に飲み込まれるだけのではないか?

とマクドナルドを引き合いに出して、論じられます。
マクドナルドは高度なマニュアル化によって
世界中のどこにいても同じ味、同じ接客を受ける(理論上)ことができます。

しかし、日本の「身土不二」やイタリアの「スローフード」のように、
その土地で旬にとれた食材はその時間と空間の中でしか生まれない
唯一のものであって、それを消費する側の人たちがきちんと評価してこそ
食と人の良い関係が成り立つという考え方。つまりそこには「一回性」が
存在するわけです。

旬の食材を「いまこの瞬間にしか出会えない」と感謝しながらいただく。
それは日本の食文化の根幹にひそんでいる美学でもあります。

マクドナルドは、昨日も今日も明日も、
ここにくれば同じ味のハンバーガーが食べられるんだと再現性を信じている。
店の側もそれを保証している。

しかし、
「グローバリゼーション=一回性を否定したファストフード文化」
という考え方ではあまりにもステレオタイプで、

それを
SNSのような文化のグローバルプラットフォームが
文化の多様性をさらに高めてくれるだろうと佐々木さんは
モンゴル帝国時代を引き合いに出して、説明します。

白磁器に、青い染付。
中国では青花と呼ばれていて、それはモンゴル帝国時代にさかのぼり、
モンゴル帝国がつくりあげた文化的プラットフォームの賜物だと言います。

フェイスブックなどの「プラットフォーム」の定義は
1 圧倒的な市場支配力
2 つかいやすいインターフェイス
3 プラットフォーム上でプレイヤーが自由に活動できる許容力

の3つをモンゴル帝国も有していたそうです。

グローバリゼーションと画一化はイコールではないと
佐々木さんは言います。

多様性を許容するプラットフォームが確立していけば、
私たちの文化は多様性を保ったまま、
他の文化と融合して新たな文化を生み出すことができる。

その世界で新たなまだ見ぬ文化はキュレーションによって、
つねに再発見され続けていく。

こうして、これからの「文化」は生まれていく。

そうそう。
これ、そうだわ。

本とソーシャルメディア、
そしてプレイヤーのプラットフォーム

としての「本屋」っていうのが
文化発信の可能性に満ちていると
僕は感じました。

ツルハシブックス「劇団員」必読の1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年02月06日

一座建立


「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)

5年前に読んではいたのだけども、
佐々木俊尚月間を過ぎて2か月。
あらためて読んでみようかなと。

そしたら、やっぱり、
今でも色褪せない、シビれる感じだなあと。

今回のブログは
その中から、お茶の話を。

~~~ここから引用

「主客一体」という言葉があります。
禅に由来する言葉で、
客のおもてなしというのは
招くあるじが一方的に行うものではない。
招く側(ホスト)と招かれる客(ゲスト)が協力し、
ともに一体となってつくりあげるものであるという意味です。

そこではホストとゲストの間に、
その場で生み出される芸術に対する共鳴がなくてはならない。

お互いが共鳴し合ってこそ、
ホストとゲストがおもてなしの場を共有し、
一体感を感じ、素晴らしい芸術を生み出すことができる。

これを茶道の世界では、「一座建立」といいます。

(中略)

茶道の世界では、あるじと客が一体となってその場をつくる。
これが一座建立で、主客一体の理想のあり方だと考えられています。

欧米の伝統的な文化が
ホストとゲストの関係性を固定しているとされるのに対し、
日本古来の主客いったいではホストとゲストの関係は
常に対等で、共鳴によってお互いが協力していく。

客の側も「オレは客でござい」と威張るのではなく、
あるじが何を考え、どのような趣向を見せようとしているのかを
言葉にせずに察して、それに共鳴してふるまうような「客ぶり」が求められる。

(中略)

「日本文化がはぐくんできた、主客一体の相互コミュニケーションが
インターネットの場でも成立する可能性はあると思う。
というか、一部では成立していると思う。」

「インターネットがある程度価値観や興味を共有した人々をつなげるからだ。
ブログなどへのコメントやツイッターの呟きの連鎖の中には、
すでにこうした『主客一体』の関係が存在すると思う。」

「価値観や興味を共有」している人たち、つまりコンテキストを
共有している人たちの間では、たがいが共鳴によってつながり、
そこにエンゲージメントが生み出されるのです。

~~~ここまで引用

いいですね。
そうそう。
こういう感じ。

ツルハシブックスの「劇団員」
っていうのも、

「気がついたら私も、
本屋という舞台の、
共演者になっていました。」

というキャッチコピーも、
そんな世界を実現したいからではないかと思います。

「一期一会」という言葉や瞬間に終わるのではなく、

「一期一会」の空間と時間を共に作り上げていく、
そんな共演者たちが「エンゲージメント」していくような空間を、
本屋で目指したいのかもしれません。

一座建立。
いい言葉をいただきました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)

2017年01月31日

「本屋をやる」とは、「常に変わり続ける」ということ


芸術批評誌【リア】vol.32 特集「本をとどける」

たぶん、水戸芸術館のミュージアムショップで購入。
最近は積ん読だった本が絶妙のタイミングで
目の前に現れてくるから読書が楽しい。

リアの冒頭での
ヴィレッジヴァンガード創設者の菊地敬一さんと
ちくさ正文館本店の古田一晴さんの対談。
これを「本屋は死なない」の石橋毅史さんが進行する。

これが熱かった。
キーワードだらけ。

なぜ、本屋なのか?
に対して、熱く熱く問いを深めてくれる。

以下キーワードを

~~~以下一部引用

つまり、ハードじゃなくて、ソフトなんですよね。
ソフトが一番大事で、ソフトは真似できない。動いてますから。

一部を切り取って真似できても、
動きは分かんないんで、基本的についていけない。

ヴィレッジヴァンガードの棚を見たときには、
この人(菊地さん)の頭の中は次へ行っているわけだから。

芸術性と通俗性のコンフリクト。

初期のアーリーステージは、
僕なりに「BRUTUS」の世界を立体的に
具現化するってことを志向して
立体BRUTUSをやってました。

イオンや生活創庫にでて、
立体BRUTUSじゃ立ち行かなくなったんですよね。
基本的にお客さんと対話しながらインターフェイスしながら
品揃えしていきますから、立ち行かなくなった。

中高生、ファミリー、おばあちゃんおじいちゃんを
相手しなきゃとなってBRUTUSのクールな感じが
失われていって、「BRUTUS」から「月刊宝島」になったんですよね。

「本屋をやりたい」、それは崇高な理念であるけれど、
継続させようとすれば利益を出さなければならない。
人はその狭間で悩むんですよ。
でもその悩みを最初から拒否してるんですよね、恐らく。
それっておかしいよね。もうちょっとその思いを発酵させればいいよね。

いろいろ突き詰めて考えたら、
やっぱり粗利を上げるしかないんですよ。
でも好きな本は売りたい。
その狭間にすごく悩んだ時に、粗利で雑貨を一緒に売る。

アナロジーを駆使して、本の隣に雑貨を置いて、
雑貨の隣に関連したCDを置いてということを、
僕らは融合させたんです。
複合ではなく融合。大事なのはここです。
それがコロンブスの卵だった。
そしてそれが名古屋の若者にウケたんですよね。

あの頃の夢と今の夢は違いますよ。
だって夢はどんどん変わっていかないと馬鹿でしょ。
教条主義・原理主義ほど生き方をスポイルするものはない。

そりゃあ僕だって変遷がありますよ、ものすごく。
あの頃の自分のインタビュー見ると笑っちゃいますよ。
恥ずかしくて穴に入りたいくらい。

ヴィレヴァンでは、Tシャツで仕事ができるんです。

月に100人来る本屋と月に1万人来る本屋、
どっちが社会的貢献が高いかって、
そりゃ1万人に決まってますよ。

でも、100人の方、つまり弱い者、マイノリティの方を
特にマスコミさんはね(笑)、すごく持ち上げるんです。
それでミスリードしちゃう。

「僕のことはつかまえられないよ」
こうなんだという、固定した形で語るということは
できないという意味で。

本というと、経営という現実的な問題と、
芸術性という文化というものがありますが、
書店をやる以上は通俗性とは
分かちがたいものがあるわけですよね。

アマゾンのアルゴリズムを使えるんだったら
使ったほうがいい。あれは統計学ですから。

最後の砦は、店主の人柄だけ、残念だけど、
それしかもう残っていない。(早川義夫さん)

具体的な夢を生き生きと想像する奴だけに、
その夢の実現は選択的に訪れる。

この本をどこで買ったかと思い出す時に、
ヴィレッジヴァンガートで買ったということを
まざまざと思い出すような本屋にしたいというのが具体的な夢でした。

~~~ここまで一部引用

いいですね。
熱いですね。
すごく熱いです。

この対談の締めくくりには、
ロバート・D・ヘイルの言葉が引用されている。


本の真の実質は、思想にある。
書店が売るものは、情報であり、霊感であり、
人とのかかわりあいである。
本を売ることは、
永久に伝わる一種の波紋を起こすことである。
(中略)書店は、書棚に魔法を満たすことも、
風を吹かせることもできる。
(中略)書店人が、特別な人間でなくてなんであろう。
(書店販売の手引―アメリカ書店界のバイブル)


そして、石橋さんの締めも素敵。

本屋にとって「本をとどける」とは、「売る」ことなんですよね。
生活していくための現実的な営為を抜きにして、本を語りえない。

それと、「常に変わり続けること」が
常態で、こうでなければいけない、こうしておけばいい、
と見方や関わり方を固定させた時点で役割が終わってしまう危うさもある。

本屋の凄さ、面白さを、お二人の話からあらためて感じました。
有難うございました。

うーん。
ホント、ありがとうございました。

なぜ、本屋なのか?
に対する熱い熱いメッセージをもらいました。

僕も、菊地さんが言うように、
本棚の本、手元の本をあらためて見たときに、
この本、どこで買ったんだっけな?
と思い出してもらえるような本屋になりたかったと
あらためて思いました。

まだ、これからなのですね、きっと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2017年01月30日

「意識高い系」から「視野が広い系」へ


「自分でつくるセーフティネット」(佐々木俊尚 大和書房)

佐々木俊尚月間の12月の最後に
手に入れた1冊。

佐々木さんの本を読んでると、
視野が広がった感じがしますね。
視界が晴れていくというか、
世界って広いんだな、と。
歴史って長いんだな、と。

目の前のある世界が
いかに特殊な前提の上で成り立っているか、
って思います。

これからは
「意識高い系」ではなくて
「視野が広い系」が流行るんじゃないかな。

というか本屋さんの本質ってそこかも。
そんな本屋さんになりたい。

上昇志向から複眼、多眼思考へ。
そんな生き方、暮らし方を求めている人に
それに会う本を提供したいなあ。

と、まあ前提はおいておいて。

この本では、第4章で
「見知らぬ他人」をあんまり信用してはいけない、
いわゆる「人を見たら泥棒と思え」
というのは本当か?と問いかけます。

かつて、
「見知らぬ他人」を最初から信用していた時期があったのではないか、と。

~~~ここから一部引用

ムラ社会ってのは、農村で
みんなが強く強くつながって団結している社会で、
だいたい江戸時代ぐらいに成立したって言われてます。

それまでは農村といっても、半分武士で半分農民
みたいな村民が中心で、何かことがあると
刀や槍や弓矢持って戦いにいったりしてた。

黒沢明監督の「七人の侍」は、
戦国時代を舞台にして、
農民は弱くて小ずるい者たちとして描かれているが
これは史実とは違っていて、

農民が武器を捨てたのは、戦国時代の終わりに
豊臣秀吉が刀狩をしてからのことで
それまでは武士と農民の境ははっきりしてなかった。
江戸時代になってからも下級武士は、農業したり
内職したりしてきたけど。

武器をとりあげられて、しかも定住するようになって、
農村の共同体がきっちり固まるようになって、
人間関係が思いきり固定されるようになりました。

これは日本が農業国家だった昭和の初期ぐらいまで
ずっとそうだったんですよね。

そして戦争が終わって、高度成長が始まって、
農村の人たちが都会に出てきて工場に勤めるようになると
農村の共同体の役割を、今度は会社が務めるようになった。

終身雇用で勤める会社が、
「おらが村」みたいな感じになったってことです。

~~~ここまで一部引用

なるほど。

だから、佐々木さんは、
江戸時代からこの400年が
ムラ社会という共同体で生きてきて
その特徴が「人を見たら泥棒と思え」
ということだったということだったんです。

村の中の人とは信頼しあって、
強いきずなで団結して生きていくけれども、
外の人は基本的に信用しない。

そして、
日本人が和を重んじているのは、
きずなが強くて団結しているのではなくて、
システム的に「相互監視」の仕組みになっているからだと言います。

もう、すごいですね。
これが同調圧力の正体なのかと。

目の前にあるみんなと一緒でなければならない
という同調圧力の源泉はどこからくるのか?

そんなことを考えてみると、
「視野が広い系」大学生に近づけるのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)

2017年01月24日

何を考えているか分からないと、もう一度会いたくなる


「ビジネスに『戦略』なんていらない」(平川克美 洋泉社)
10年前の本(2008年初版)。

冒頭から
「現在」の絶えざる手段化こそビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因。
と始まる1冊。

よくぞこのタイミングで。
と思ってしまった。
ツルハシブックスが劇場である理由。

いやあ、読書って面白いですね。
シビれるフレーズだらけで
倒れそうになりました。

ビジネスとは、高度な非言語的コミュニケーション。
つまり、「恋愛」に似ているなあと。

これを読んだ上で、
川上徹也さんの「モテる会社」とかを
読むと、なおそう思うのかもしれませんね。

そしてお店とは、
やっぱり劇場なんだと。

そうなると本屋とは、
顧客とお店が「恋愛」劇を演じる
空間なのだなあと。

そんな風に実感しました。
もうちょっとちゃんと時間をとって、
考えたいのだけど、ひとまず読み終えたので、
何か書いておきたい。

最後に内田樹さんとの対話が収録されているのだけど
特にそこのところから非常にインスパイアされました。

~~~ここから一部引用

人間がビジネスを選ぶのではなく、ビジネスする動物が人間である。

言葉を持つ、火を使う、墓を持つということと同様に、
人間を他の動物と隔てる条件のひとつが交換するということであり、
それこそがビジネスの起源的な場所であるということです。

外部インセンティブ論がかえって根源的、本質的な面白さを
隠蔽するように機能していると言えるのではないでしょうか。
本来、人は意味や目的のために働くのではないのに、
意味や目的によって働いているように見えるわけです。

ビジネスは面白いわけでもつらいわけでもなく、
わたしたちとともにそこにあるもの。

もしビジネスに面白さを見出すとすれば、
それは自己の現実と自己の欲望との関係の中にあるのではなく、
そういった欲望の劇や商品に値づけをして
販売するという社会的な行動プロセスの背後に
非言語コミュニケーションが行われているところから来るのだろうと思います。

つまり、ビジネスが提供する
人と人との関係性の面白さに起因しているということなのです。

個人はここでは業務遂行的な課題と
自己確認的な課題に引き裂かれたような関係にあります。
この引き裂かれた関係こそが仕事の面白さの源泉であり、
エネルギーを生み出す源泉であると言えるのです。

自分の演じているキャラと自分の個性との落差の不断の交換プロセスが、
ひとりの個人のあいだで生起しており、同時に他者との間においても行われている。

コミュニケーションが発生する最初の条件は、最初の贈与であると考えています。

今、ここで行われているコミュニケーションはうまくいっているのか、
を問うべきだろうと思います。

ビジネスとはモノやサービスを媒介とした高度な非言語的なコミュニケーション。

会社が蓄積するのはお金ですが、そのお金が含意しているものが
顧客の満足や信用である限り、会社は持続的成長というものを保証されるのです。

要するに、僕たちがいるのは暫定的な場にすぎない。

ああ、私はこういう氷山の一部だったのか。

ぼくたちはひとりひとりが大きな流れ、
巨大なシステムの中の一部分であり、その中で限定的な役割を期待されています。

サーリンズは、人々は適切な等価交換が行われたように思われないときに、
「もう一度であわなければならないと感じてしまう」と書いています。
そして、それが沈黙交易の原動力である、と。

ユニクロがフリースを二千万着売ったのは、割安感ではなく、
どうしてこんなに安いのか、その合理的理由がわからないという、
考量不可能性がもう一度ユニクロに行かねば、
という消費者サイドの焦燥感に点火したのではなかったか。

何を考えているかわからない、とどうなるでしょう?
正解はサーリンズが教えてくれたとおりです。
もう一度会わずにはいられないと思うようになるのです。

信用とは、繰り返しのことである。

些末な理由ではその定期的訪問をやめないということが老舗の信用ということ

そして、その繰り返される訪問を動機づけるのは、
何度訪れても、そこでなされていることの意味や、
そこが提供する商品価格の積算根拠がよくわからない。
という不可知性だと思うんです。

値段だけじゃなくて、どうしてこんな商品を作り続けているのか、
どうしてそんな会社をやっているのか、
その動機が功利的な計算だけではどうしても考量しきれない。

ぼくたちは常に世界に絶対的に遅れて到来します。

~~~ここまで一部引用

いや、またすごく引用しちゃった。
読んだ人買ってください。(笑)

一番のところはタイトルにも書いたけど
何を考えているか分からないともう一度会いたくなる。

やっぱり「恋愛」と「ビジネス」は似ています。
というか、恋愛のようにビジネスしなくちゃね。

さてと。
不可思議な劇場を、もうひとつ、つくりましょうかね。  

Posted by ニシダタクジ at 09:33Comments(0)

2017年01月19日

可能性の無視は最大の悪策である


「ローマ法王に米を食べさせた男」(高野誠鮮 講談社+α新書)

ほんと、いまさら読んですみません。
遅すぎました。

公務員志望の大学生必読の1冊です。

「公務員こそ、プレイヤーであれ」

そんなメッセージが伝わってくる。
塩尻の山田くんとか、まさにそんな生き方だなあと。
商店街の空き店舗の掃除とかしたくなってきます。

「スーパー公務員」
と呼ばれていた高野さん。

たぶんまだお会いしていないと思うのだけど、
近いうちにお話聞いてみたいなあと。

さて。
この本。

泣けます。
笑えます。
心躍ります。

「痛快」という言葉がしっくりきます。

坂口恭平「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)のような
爽やかな風が吹きます。

ノウハウではなく、魂、スピリットがこの本にはあります。
企画だけではなく、絶えざる圧倒的な行動があります。

可能性があるのなら、やる。

「あきらめ」の扉をこじ開けるのは、
ただそれだけなのだと考えさせられます。

特に痛快だったのは、
臨時職員だったときのUFOによるまち起こし。

予算ゼロで取り組んだ
「マスコミ作戦」で町の人たちが
なだれを打って「UFO何々」を売り出すところ
が笑えた。

手紙作戦で
「羽咋でUFOによるまちおこしをやるのですが、
ゴルバチョフ書記長(当時)はどう思いますか?」
ってロシア語で手紙を書く。

もう。
すごい。
やってみるしかない。

企業協賛作戦で、UFOまんじゅうと紙ペラで
突入して、日清から返り討ちに遭うなど、
行動力がすごすぎて、もう笑ってしまいます。

でも、そうやって高野さんは、
扉をこじ開けてきたんだなあと。

壁をブチ破りたいすべての大学生に
オススメしたい1冊です。

熱い。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)

2016年12月29日

「自分」を超えて

19歳に贈りたい本。


僕が選んだのは、
「自分の仕事をつくる」(西村佳哲 晶文社&ちくま文庫)

いま、水戸市の成人式のウラで、
19歳。本で感じる「これから」展が準備中。
19歳に贈りたい本を集めている。

公式Twitterはこちら
https://twitter.com/meets_for19

僕が1冊を選ぶとしたら、
いっぱいあるのだけど、
「隅田川のエジソン」とかも素敵だなあと思うのだけど。

最近あらためて読んでタイムリーだったので、
この本にします。

26日に、まだ読み途中だった本を、
「これから」展の共同代表に渡して、
27日に、高田馬場で買い戻して、
28日に、読み終わりました。

いやあ、熱い。

ラスト、シビれます。
「働き方研究家」西村さんの原点。

仕事とは何か?
働くとは?
ビシバシ、問いかけられます。

少しだけ紹介

「たったひとつの言葉も、人の口を割って出てくるまでには、
その内面で、時には何年間にも渡る旅をしている。
デザインもモノづくりも同様だ。
その人が感じた世界、経験した出来事がそこに結晶化する。」

「個人を掘り下げることで、ある種の普遍性に到達すること。
自分の底の方の壁を抜けて、他の人にも価値のある何かを伝えることは、
表現に関わる人すべての課題だ。」

「仕事を通じて、自分を証明する必要はない。
というか、それはしてはいけないことだ。最大の敵は常に自意識である。
個性的であろうとするよりも、ただ無我夢中でやるほうが、結果として個性的な仕事が生まれる。」

「その人が欲しているけれど誰にも明かさずにいる、
あるいは本人自身まだ気づいていない何かを、
これ?といって差し出すことが出来たら、それは最高のギフトになる。」

「デザインという仕事はまさにそうありたいものだし、デザインに限らず、
この世界のあらゆる仕事がそのようにして成されたら、どんなにいいだろう。
その時、仕事に対して戻される言葉はありがとうになる。」

素敵だ、素敵。
仕事ってそういうギフトなんだよね。

この前読んだ、マーケティング4.0って根本的には、
自分を掘って掘って、掘った後に、
他者とつながれる地中深くのマグマに到達して、
それをサービスや商品としてアウトプットすることなのだろうなと。

「自分」という存在を超えて、
深く深く掘っていたったときに現れる何か。
それを提供していくことなのだろうと思う。

人生に、将来に悩める19歳に、
僕はこの本を贈ります。

すべての仕事は、「自分の仕事」になっていく。
そしてそれは「自分」を超えたところにある。  

Posted by ニシダタクジ at 07:23Comments(0)

2016年12月27日

お店をやるということは世界に問いを投げかけるということ


「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」(小林せかい 太田出版)

神保町の「未来食堂」の小林さんの本。
http://miraishokudo.com/

衝撃。

この衝撃は、タルマーリーの
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」以来。

お店をやるっていうのは、
世界に問いを投げかけるということなんだなと
思った。

資本主義経済を内側から突破していく、
突き抜ける何かがある。

まかない、ただめし、あつらえ

など、いろいろ衝撃。

あまりに衝撃過ぎてまだ、ブログには書けません。

ツルハシブックスサムライ必読の1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)

2016年12月26日

好きだけど理由のわからないもの


「自分の仕事をつくる」(西村佳哲 ちくま文庫)

読む本がなくなったので、古本屋さんに行き、
処方箋用に「見つけたら買う」ことにしている
「自分の仕事をつくる」を購入。
帰りの電車の中で読み進める。

改めて読み直すと、
キーワードがいっぱいで、
つぶやきたくなるけど、
トンネルがいっぱいで、電波が届かない。

特に
第2章他人事の仕事と「自分の仕事」
の冒頭からシビれまくる。

やっぱ、この本ですよ。
「○○歳のハローワーク」読んでる場合じゃないっす。(笑)

19歳に贈りたい本、
僕はやっぱりこれにしようかな。

日本を代表するクリエイターの佐藤雅彦さんの話。
とっても素敵だった。

佐藤さんは、最初はクリエイティブ(制作)部門ではなく、
31歳までは販促部門で、スケジュールや見積り管理と
いった一般職の仕事に従事していたという。

思うところあって社内試験を受け、合格。
クリエイティブ部門に転配属されたが、
年齢が高いわりに実績も経験もない佐藤さんには
なかなか仕事の声がかからなかった。

そこで。
佐藤さんは何をしたか。

社内の資料室に通い、世界中のCMに目を通して、
その中から自分が面白いと思うものをビデオテープに
まとめはじめる。

じきに、自分が魅力を感じたCMには、
共通するいくつかの規則(ルール)が
あると気づくようになった。

この作業は3か月ほど続けられ、
結果として佐藤さんは、面白くて
印象に残るCMに共通する23種類の
ルールをまとめるに至ったという。

その後のヒットCMのほとんどすべてが、
この時にまとめたルールから作り出された
ものだと本人は語る。

「スコーン、スコーン、湖池屋スコーン」や「バザールでござーる」
は、その一例だという。

そして、佐藤さんは慶応大学の講義で、
次のように説明している。

魅力的な物事に共通するなんらかの法則を見出そうとするとき、
「好きだけど理由がわからないものを、いくつか並べてみる」
という方法をとるのだ。

~~~ここから一部引用

自分が感じた、言葉にできない魅力や違和感について、
「これはいったい何だろう?」と掘り下げる。
きっかけはあくまで、個人的な気づきに過ぎない。

だが、そこを掘って掘って掘って、
掘り下げていくと、深いところで
ほかの多くの人々の無意識とつながる層に達する。

人々に支持される表現は、多数の無意識を代弁している。
しかしその入り口は、あくまで個人的な気づきにある。

深度を極端に深めていくと、
自分という個性を通り越して、
人間は何が欲しいのか、
何を快く思い、何に喜びを見出す生き物なのか
といった本質に辿りつかざるを得ない。

歴代の芸術家や表現者が行ってきた創作活動は、
まさにこのくり返しだ。

~~~ここまで一部引用

いいなあ。
自分の「感性」を発動させ、
それを掘って掘って掘って、

深いところまで行くと、
素敵な仕事ができる。

それを「自分の仕事」
と呼ぶのだなあと。

職業名で「自分の仕事」を選ぶなんて、
こっけいに思えてきます。

まず、感性を発動させていくこと。

たとえば、好きだけど理由のわからないものを
いくつかピックアップすること。
それを深く掘っていくこと。

そこからしか「自分の仕事」は始まらない。

進路に悩む大学生のお正月休みに
ぴったりの1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)

2016年12月21日

漂泊する個人の時代


「21世紀の自由論~優しいリアリズムの時代へ」(佐々木俊尚 NHK出版新書)

先週、今週は佐々木俊尚ウィーク。
先週の講演で引用されていた2冊を読む。

最初はリベラリズムとは何か?とか政治の話ばっかりで、
どうしようかなと、思っていたけれど、
やっぱり前フリとして重要で、
最後には希望ある終わりになるところがいいなあ。

この本の(とりあえず今の)ハイライトはこちら

~~~ここから引用

通常の共同体はどんなに小規模にしても、
一時的なものだったとしても、
赤の他人が集まったものであっても、
そこに内外の壁がある限り、
必ず外部を排除し、内部では同調圧力を
高めてしまうことが起きる。

わずか三人の共同体でも、
内部で二人が一人を仲間はずれにし、
外部は排除するというのはふつうにあることだ。

そのような排除・抑圧を防ぐ共同体は
本当に可能なのだろうか。
そのような内外の壁をつくらず、
結果として排除を生まない共同体を、
私は可能だと考えている。

中心がなく、開放され、内と外が
つねに入れ替え可能な共同体である。

~~~ここまで引用

そして、佐々木氏は、
それがテクノロジーによって
生まれたSNSなどのメディア空間によって可能になる
と説明する。

フェイスブックやツイッターには
「中心」が存在しない。
情報はあくまでも参加者同士のつながり
という「線」の上だけで流れている。

なるほど。

リベラリズムの「普遍的なもの」の世界では、
高位にある理想に向かい、人々は高みを目指して
登ることを義務づけられた。

そのような上下で移動する世界だった。

しかし、リベラリズムが終焉した後のネットワーク共同体では、
高位に理想はない。
その代わりに縦横の平面が無数に広がり、
その中を人は流動する。

そうして人は「入れ替え可能」である状態に置かれる。
それは、全員がマイノリティになるということだ。

そうして人は漂泊していく。
それを恐れるべきだはないのだろうと思う。

そしてこの本を読んで、
やはり個人としては、
アイデンティティや居場所は不要なのではないか
という思いであり、

ゆるやかにつながる空間としての
本のある空間であり、

さらにツルハシブックスとしては、
次のステージは「畑のある本屋」なのだろうなという思いが強まった。

漂泊する個人の時代をどうい生きるのか?

そんなことを一緒に悩んでいきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)

2016年12月20日

自分を「多層化」して生きる


「レイヤー化する世界~テクノロジーとの共犯関係が始まる」(佐々木俊尚 NHK出版新書)

おもしろかったです。
レイヤー(層)化しているのですね。

ソーシャルネットワークのような
プラットフォームによって、
多層化した人を、生きられるというか、生きていかざるを得ない
そういう時代に突入しているのだそうです。

なるほど、と思ったのは、
国民国家というシステムに関する記述。

「国民国家」というシステムが
生まれたのは、ヨーロッパでした。

それまでのヨーロッパは辺境の地で、
世界の中心はユーラシア大陸でした。
「帝国」が東西の交易路を築き、栄えていました。
「陸の時代」です。
そこでは、多民族が、共存していました。

ヨーロッパは、
天候も温暖ではなく、農作物も取れず、
その仲間にさえいれてもらえませんでした。

それが、コロンブスによる「新大陸の発見」で
事態は急変します。

まずは大量の銀を得て、交易に参加し、
そこで「産業革命」が起こり、
原料の調達と販売のために
大量の植民地を必要としました。

その頃は、教会の力も衰え、
人々が「よりどころ」を無くしていった時代と重なり、
そんな中で「国民国家」は発明されました。

「国民国家」は戦争を生み出しやすいシステムでした。
常に境界について争っていました。

佐々木さんは、
国民国家の神髄は、「ウチとソトを分ける」
というところにあると言っています。

自国と他国を分ける。
その中で、「最大多数の最大幸福」を目指す。

これは今も行われているような
途上国での過酷な商品(換金)作物の栽培
なども含まれます。

しかし、
そんな時代も22世紀まではもたないだろうと
佐々木さんは言います。

テクノロジーと
それを基盤にした超国家企業が、
プラットフォームという<場>をつくることによって、

国家のように「上から」支配するのではなく、
超国家企業は「下から」ひとりひとりを支え、また支配するのです。
もはや国家には税金を納めません。

レイヤー化された世の中。
それは、さまざまなレイヤー(居住地、出身校、趣味・・・)
における要素を持つ個人と個人の時代です。

この本の一番の希望は、そこにありました。

「場は、マジョリティとマイノリティを逆転させる。」

そうなんです。
マイノリティのほうが<場>では、
(特にSNSのような場)
価値を持ちます。

強くつながることができるからです。

なるほどなあ、と。

国民国家が終わり、レイヤー化された世界がやってくる、
というか、すでにやってきている。
そんな中で、個人はどう生きていけばいいのか。

佐々木さんは、このように言います。

第一に、レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分をとらえること。
第二に、<場>と共犯しながらいきていくということ。

たとえば、グーグルやフェイスブックを利用しながら、
私たちは日々、情報を提供しています。
それがビッグデータとなって、彼らのビジネスを
より儲けさせます。

一方で、そのようなテクノロジーは
複数のレイヤーにまたがる私たちをつなげてくれます。

そのように、
多数の層の集合体として自分をとらえ、
そのそれぞれの集合体として生きていくということです。

これは、平野啓一郎さんの「私とはなにか?」

「本当の自分」という幻想
http://hero.niiblo.jp/e405109.html
(2014.4.5 20代の宿題)

の分人主義と合わせて読むと、
なんか、とらえやすくなるように思います。

自分を多層化して生きる。

きっとそういう時代に突入しているのだろうなあと実感できる1冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)

2016年12月16日

本棚に向かって、ともに悩む

「本の処方箋」@センジュプレイスやりました。

みんな、話したいことってあるんだなあって。

あらためて、本の処方箋のパワーを感じました。

本を紹介する。
ただそれだけなのに、
本当に直面している悩みを話してくれる。

それは、本の力なのか、空間の力なのか。
とにかくそこには、本との一期一会が生まれている。

話を聞いて、浮かび上がる本がある。

僕は、北海道の「1万円選書」みたいなのはできない。
読書の絶対量やジャンルの幅が足りないからだ。

でも、大学生や20代の将来不安に対する
「視野を広げたり」
「不安をやわらげたり」
「なんとかなりそうだと思えたり」
「世の中ってそうなってたんだと気づきがあったり」

そんな本を処方する「本の処方箋」

この前京都でも話したけど、
「本棚に向かってともに悩む」が僕の本職(=提供価値)なのかもしれません。

井上有紀さん、吉満明子さん、たいへんお世話になりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 09:20Comments(0)

2016年12月13日

自分に向かって吹いてくる風


「釜ヶ崎で表現の場をつくる喫茶店、ココルーム」(上田假奈代 フィルムアート社)

読み始めました。
第2章のQ&A、面白い!

まずQ1がいいです。
「何かやりたいけど、何をやったらいいかわかりません。」

いいですね。
あります。
そういうの。
よくあります。

答えるのは臨床哲学者の西川勝さん。

~~~ここから一部引用

今まで、人の言うことばかり聞いていたのに、
自分というものを頼りにしろと迫られても困ってしまうのです。
他人から褒められることで満足しているあいだはよかったけど、
どうも自分自身で満足しないといけないらしい。

でも、自分がほんとうに何をやりたいのか、よくわからない。
大変に困ったことだ、というわけです。
つまりは、自分を頼りにすることが、この問題の原因なのです。

問題の原因がわかれば、対処についても浮かびます。
症状の原因である「自分」をできるだけ小さく、軽く、弱くしてみれば
どうでしょうか。

大きな、重々しい、強い自分を持った「大人」になることを
止めてみるのです。

一人の人間が思いつくことなどたかが知れています。
世界は果てしなく広いのですから、
自分のやりたいことで視野を狭めるのはやめてみましょう。

自分が行くと決めた方向にひたすらまっすぐ歩んでいけば、
自分の背後にある世界は見えません。

たんぽぽの綿毛のように、
吹く風に身を任せてみれば、
世界を360度、味わうことができるのです。

「この仕事は、自分に向いていないのでは」
と考え込むときがあります。

あるとき、「自分に向いている、向いていない」
ということばが不思議に思えて、ちょっと考えたのです。
そして、気づきました。
自分に向かって吹いてくる風に乗っているかどうかが大切なんだ。

よくわからない自分自身の気持ちや考えよりも、
自分に向かってやってくる仕事を大切にしよう。
「いや」と言わずに、自分を乗せてくれる風に乗って
知らない世界へ旅立とう。

その方が、人生は楽しくわくわくするでしょう。

~~~ここまで一部引用

そうそう。
そういう感じでいいのではないかなあ。

「アイデンティティ」や「自分らしさ」という言葉に、
惑わされないように。

目標や目指すものがある人ってカッコよく見えるけどね。
20代は特に、確固たる自分である必要などないんじゃないかなあと。

それよりも、
「自分に向かって吹いてくる風」を感じられるか?
そしてその風に乗る度胸を持てるか?のほうが大切だと思う。

感性と度胸を磨いて、
自分に向かって吹いてくる風に乗っていくような
人生が僕も楽しいなあと思います。

たんぽぽの綿毛のように、
軽やかに生きるのも悪くない。

素敵な本です。
読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)