プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 76人
オーナーへメッセージ

2022年09月19日

焚き火のような本屋



昨日は西会津町の「いとなみ」にお邪魔してきました。
佐々木さん、ほんと素敵な人だなあと。
https://www.100itonami.com/

今日はこの1冊を紹介します。

「ことばの焚き火」(大澤真美 中村一浩 植田順 野底稔 ハンカチーフブックス)

期せずして昨日の「本が届く場をつくる」の続きになった。
これだから読書は面白いなと。

春先に手にはしていたのだけど、読むべきタイミングがなかなか来なくて。
今朝、目の前に飛び込んできて(昨日の言葉で言えば呼ばれて)読んでました。

対話(ダイアローグ)がテーマの本。

新型ウイルスは「世界がつながっている」つまり「世界はひとつ」だということを自覚させてくれた。
そんなつながっている感じを味わいながら、生きていけたらいいと思う。

ここで面白かったのが対話は波紋の広がりというイメージ。
そこで出てくるのが「焚き火」のメタファーなのだけど。

大澤さんは、
「焚き火にあたりながら、薪をくべるように、場に声を出す」という表現をする。

誰に向かうでもなく、火を見ながら、ポツリポツリとことばを出していくように思う。そして、人のことばだけでなく、火の揺らめきや、鳥の声、木々の音も耳に入ってくるだろう。

暖かい火にあたって、からだがゆるんだ状態でいると、こころもゆるむ。だから、誰かのことばや、何かの音や匂いをきっかけに、自分の中から普段は見えない声が立ち上がって来て、うっかり口をつくことがある。

その時のそのメンバーだからこそ、その場だからこそ、その時間だからこそ、出てくることばがある。対話の一回性、再現不可能性、唯一無二性は、まさに参加型の即興ライブだ。それに気づくと、本当にワクワクするし、「人」と「場」と「時間」との一期一会が尊く感じられる。
~~~

わー、それそれ。
昨日の「本が届く場をつくる」ってそういうことじゃないかなと。

そこに本もある、みたいな。
「対話」というのを言葉だけじゃなくて、本の背表紙や本棚の並びも、本屋にやってきた人たちの存在も。

隣の温泉で心身を解放して、高校生ともおしゃべりして。
この高校生っていう存在が、また一期一会感を強くしてくれるんだ。

焚き火に薪をくべるように、「場」に、発言を、本を、自分という存在を置いてくる。
自らも構成員としてたしかにありながら、空間に委ねているような「場」。

そこから生まれてくる何か。それを見てみたい。
だから今日も、僕は焚き火に火をくべるように、本棚に本を置き、本棚という表現をつくり、対話する空間をデザインする。

そんな「焚き火のような本屋」になれたらいいな。  

Posted by ニシダタクジ at 09:21Comments(0)日記

2022年09月18日

「本が届く」場をつくりたい

「本を売りたいわけじゃない。」
ツルハシブックスの時にそう思っていた。

大学生が来て、話をしてておススメしたい本が見つかって、
買うほど(家にストックしておくほど)でもない本の場合は、
3階に上がって僕の本を貸したりしていた。

きっと
「かえるライブラリー」というあいまいな空間を作ったのも
それが理由だと思う。

スピノザに出会ってから、僕は「意志」が信じられなくなった。
http://hero.niiblo.jp/e489527.html
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ(19.7.6)

「挑戦」という言葉への違和感から始まった旅は、
スピノザによって、暫定的なゴールにたどり着いた。

そして、何かが起こるのは、「場」であり「中動態」であるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e492444.html
「自分」から「場」へ(22.5.18)

地下古本コーナーHAKKUTSUから始まった
「10代(中高生)に本を届ける」活動。

「本を売りたい」というより「本を届けたい」のだと思っていた。
でも昨日、緒ラジオ収録で、大学生と話していて、
「本を届けたい」わけでもないことが分かった。

5年位前に渋谷のとある本屋で、「〇〇な時に読みたい本」だったかな、そんなタイトルのフェアがやっていて、各界の有名人が本を選んで顔写真付きのPOPと共にディスプレイされていた時の違和感。

「そのフェア、リアル本屋でやる必要あります?」って思った。ネットでやった方がいいな、って。

あらためてそれを思い出して、僕は「本を届けたい」わけでもないなと思った。11年前に本屋さんになるずっと前から、自分は「本好き」ではなく、「本屋好き」だと思っていたのだけど、それはつまり、「(背表紙が並んだ)本棚が好き」だっていうことが分かった。

東京・千駄木の往来堂書店の棚を見てるだけでワクワクするし、長崎・ひとやすみ書店で立ち読みしてたら全部ほしくなるし、福岡・箱崎のブックスキューブリックに行ったら手に汗かくほどドキドキする。

本棚、そしてその本棚のある空間。
そこで人は、本棚と本に出会う。
たぶんそういうことだ。

「本を売りたい」わけでも「本を届けたい」わけでもなく、ただただ「本が届く」場をつくりたんだ。本が届く瞬間を見たいんだ。

「風舟」でやっている一箱本屋「緒-itoguchi」ってきっとそういうことなんだな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2022年09月16日

「自己」ではなく「自分」


「会社という迷宮」(石井 光太郎 ダイヤモンド社)

いつも話していてインスパイアされる友人絶賛の1冊。
でてくるキーワードにいちいちシビれますが、今日はこちらを。

~~~
「組織」との関係の中で自分の場所というのは、古来、日本では「分」という言葉で表現されてきた。

「分」とは何かと言えば、そもそもは、集団の中で自分の役割や責任を自覚的に認識するポジティブな概念であったはずである。何より社会においては、人間は常に「自己」ではなくて「自分」なのである。

「分」とは、社会や集団や組織の中で、自分はどのような位置を占めるか、何者なのであるか、を自覚・他覚し、共有するための表象なのである。そして、職業や仕事の世界においては、自らの職業人としての責任や矜持を表象するものが「職分」であった。
~~~

!!!

そうか。
「自分」を知るって、自らの「分」を知るってことなんだな。
「分」を言い換えれば「役割と責任」

就活の時の「自己分析」の違和感ってそこにあるんじゃないのか。

大切なのは「自己」ではなく「自分」

かつて茨城大学の学生が言っていた。「どんな仕事でもいい。この人と一緒に働きたいと思える人と働けるなら、1日中コピーを取っていても、エクセルに数値を入力してても、なんでもいいんです。」

たぶん。
そういうプロセスの中で「自分の場所」を見つけていくのだろう、って思った。

高校生や大学生にとって、「自分を知る」というのは、「自己を知る」ということではなく、文字通り「分」を、役割や責任を知りたいということなのではないか。

それは自己分析では出てこなくて、いろんなアクションの先での対話と探究の結果、自覚・他覚されてくるもの、なのだろうなと。

そういう意味においては「自分」っていい訳語だなあと。

ひとりひとりは「自己」ではなくて「自分」なんだよなと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)

2022年09月13日

「国語力」のために本屋と寮と公営塾ができること


「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(石井光太 文藝春秋)

久しぶりにガチの教育ルポ読みました。
思った以上に自体は深刻だなあと。

ネットゲームやLINEなどの日常風景によって
国語力が育まれることがなく年齢を重ねていく子どもたち。

こうなってしまった社会背景を探り、
実際に犯罪にまで至ったケースをルポタージュし、
それに対してフリースクールや更生施設で行われていることの
リアルは、胸に刺さる。

ラストの、私立の中高一貫校で取り組まれている
深夜特急などの文庫本を出発点にした各科目の横断教育や
哲学対話の実践などは、まさに「探究的な学び」そのものだと思った。

本屋は、寮は、公営塾は、そして小中高校は今、何をすべきか?
「心理的な安全性」とはどのようにつくるのだろうか?

自分の気持ちを言語化する機会、対話によって自己理解と他者理解をする機会は、
どのようにつくったらいいのか?

そんな問いも刺さる。

・対話の場と機会をつくる(本屋)
・ふりかえりと対話の時間を持つ(寮)
・探究活動を深める対話を繰り返す(公営塾)

そんなことができるのではないか。

文科省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「創造する力」「表す力」の四つの中核からなる能力としている。その基盤になる「語彙力」、それと同時に伸ばしていくのが「情緒力」と「想像力」である。

「ふりかえれない探究」には大きな意味がないと思う。
体験を経験にするために、国語力が必要なんだ。

町ぐるみでそれをやっていくことが大切で、この町ならそれができるのではないか、と感じる1冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)

2022年08月12日

はじまり、という名の高校

地域みらい留学の企画「第1期生に聞く!阿賀黎明高校と私たちのこれから」でした。

あらためて、こんなふうに落ち着いて話を聞く機会ってないし、オンラインだからこそ話せることもあるなあっていう。

1 阿賀黎明高校に決めた理由
2 実際に入ってみてよかったこと・悪かったこと
3 これからの高校・寮について

これで60分があっという間でした。もっと話してみたいと思ったし、ハウスマスターや公営塾スタッフも参加してもいいかなと。
「オンラインフォーラム」みたいなのってありかもって思った。

みんなが言うのは「人があったかい」(印象)っていうこと。
たぶん、仲間だと認識するのが早いんだろうな、阿賀の人は。
港町ならではなのかもしれないけど、町全体にそういう空気感があるような。

「第1期生であること」が魅力だってふたりとも言っていた。
まだ寮の予定地でしかなくて、通学の方法も「スクールバスの、予定です」
みたいなのがよかったって。
それって、1度しか使えないのだろうかって思った。

入ってくる人みんなが第1期生であるような、そんな「はじまり」を感じられる場がつくれないだろうか。
だって、黎明ってはじまり・夜明けっていう意味なんだから。

入ってみて、のところは自習スペース問題が出てきましたね。こちら、なんとかしたいです。
1人で居たいときにも友人が誘ってくる、とか。

あとは1,2年生の関係づくりを寮生主導でやっていくこと。スポーツ系とか、レクリエーション系とか。
そうやって関係性ができれば、勉強したいときに「静かにしてね」って言えるから。

これからやりたいことについては、「地域に開かれた文化祭」
これはもう10月8日なのだけど、地域の人に出店してもらったり、発表してもらったり、そういうのをやりたいと。
それ、いいじゃん。時間ないけどやってみようよ。

あとは7月の球技大会のように学年を横断したチームをつくって、学年の隔たりを無くしていく、って言ってた。たしかにグループってあるし、そこに自分らしさを求めると、閉鎖的になっちゃうから、むしろ、そんなグループを無数につくっていけばいいんだよね。

新潟大学のダブルホーム的な。そういうのがあってもいい。
そのひとつの方法が地域プロジェクトなんだろうと思うんだよね。

ひとりひとりがつくる学校、ひとりひとりがつくる寮をつくっていきたいとあらためて思った。
そっか、新たに創れば、創った人が1期生になっていくんだな。

創り続けること、はじまり続けること。
入学生すべてが第0期生であるような、そんな学校を、寮をつくれないだろうか。

あなたは、何をはじめますか?何を創りますか?
それを誰とやりますか?

はじまり、という名の高校で待っています。  

Posted by ニシダタクジ at 06:12Comments(0)日記

2022年07月03日

自ら「自由」と「豊かさ」を定義する

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応義塾大学出版会)
第1章 建築におけるパターンランゲージの誕生

昨日に引き続き、この章から。

いやあ、これ2013年の本かよ~、って。
俺のアンテナ折れてたんだなあ、昔の携帯電話みたいに。

いままさにタイムリーなのでいいのですが。
目の前に来た時が新刊って出版社営業のときに教わりました。
井庭先生、ありがとうございます。

~~~以下メモ
パターンに書くのは現状のことではなく、ちょっと先の理想のようなことを書くように心がけました。もちろん、理想を書くといっても、いまどこにも存在しないような夢物語ではなく、これまでにもそういうことをやってきた人はいるけれども、あまり多くの人に共有されていない、そういうコツをパターンに書いていくのです。

パターン・ランゲージとは、経験的なステートメントであるとともに、規範的なステートメントでもある。「実際こういうふうにうまくやっている人がいるよ」という記述であるとともに、「こうするのがよいよ」という記述でもあるのです。パターン・ランゲージとは、そういう二面性を持った言葉を紡ぐということなのです。
~~~

いいですね。「あいだにある言葉」って感じです。
そして、この章でアツかったのはこの後ろ、P96からの「ひとつの美学を確立する」です。

~~~
子どもたちがミュージカルをする中野zeroキッズの活動を通し、大学生になってから言うのは
「私たちが、この活動で一番よかったことは、自分が自由になれたことです。」

自分にとっての本当の豊かさとは何か、本当の自由とは何かを誰もが問う必要があるのです。それは絶対問わなければならないことです。

映画監督になりたかった理由は、作品を通じて観た人に気づきがあったり、物の見方・世界の見方が少し変わったり、勇気をもらって元気になったりする。パターンランゲージを書くということは、僕にとっては映画をつくることと同義です。

ただ、映画と違うのは、最終的な物語はみんながつくるということです。みんなでつくる、と言ってもいい。パターンをつくるというのは、物語をつくる素材をつくって提供するだけで、それを使って物語を紡ぐのは、みんななのです。

もはやパッケージ化された物語を消費するだけの時代ではないと思うのです。どうやって自分たちで自分たちの物語を紡いでいくのか。これが僕が「創造社会」という言葉で言おうとしてる社会観です。

トーマス・クーンの「パラダイム理論」では、ある理論が以前の(他の)理論よりも優れているから勝利するわけではなく、圧倒的多数の人間がそちらのほうが実用的で機能的で便利でかっこいいから使うようになると多数を占めて勝ったように見える。これがパラダイムの転換なのです。
~~~

社会に出る前、高校時代・大学時代に手に入れてほしいのは、「自由」と「豊かさ」の自分なりの定義です。大学生の時に岩波新書の「豊かさとは何か」(暉峻 淑子)を読みましたけど、まさにその「豊かさ」「自由」を問いかけることが大切なのだなあと。

終わりのない問いなんですけどね。

「自由」や「豊かさ」とは何か?という問いに対して、自分なりの暫定解を見出すこと。
そしてそれを表現する方法を試すこと。
それをひとりではなく、「場」で、「チーム」で、「地域」でできないだろうか?
それをコーディネートもしくはデザインできないだろうか?

たぶんそれが僕の問いですね。

僕にとっての「自由」は、ミクロとマクロ、あるいはレイヤー(層)的に視点を行き来できること。で
「豊かさ」とは(参加性などに使える)余白がある状況、なのかなあ。

「自由」と「豊かさ」を定義すること。
それを3年間(大学生なら4年間)の宿題にしたいです。

いや、それこそ「20代の宿題」なのかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2022年07月02日

都市も人もツリーではない

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応義塾大学出版会)

ちょっとあいてしまいましたが、朝読書。
第1章 建築におけるパターンランゲージの誕生。

いやあ、アツいっすね。
外も8月のように暑いですけど、この本もアツいです。

今日はパタン・ランゲージの提唱者であるクリストファー・アレグザンダーについて、井庭さんと中埜博さんの対談。
これは読んでおいてよかったなあと。

~~~ここからメモ
「無意識の文化」と「意識の文化」
「無意識の文化」:白川郷の合掌造りとか、設計図も技術的な裏付けもなく、歴史的な記録もない。でも白川郷はできた。ところが「意識の文化」では、完成されたつくり方を学んで機械に作らせるので、美しさを生み出すことがが難しい。「形の合成に関するノート」でアレグザンダーは、意識的な文化のなかでも、もう一度、無意識の文化に近いものをつくることができると考えた。その型をダイアグラムと呼んだ。その後、ダイヤグラムはパターンと言い換えられた。

「都市はツリーではない」
都市や町を分析していくといろいろな要素に分解されて、次々と細かく枝分かれしていきます。住宅街・商業地・農村部、など。ところが世の中の構造は、ある階層で隣り合わせのものと重なり合い(オーバーラップ)やつながりを持っています。つまりツリー構造にはなっていない。それを数学的に「セミラティス構造」と言ったわけです。
~~~

これはすごいなあ。
ツリー構造とか、ロジカルシンキングで言うMECEとか。農地に家を建ててはいけないとか。
すべて「管理しやすく合理的だ=効率的である」という観点でつくられた考え方だもんなあ。

「都市はツリーではない」とアレグザンダーは言ったけど、つまり、「ツリーな(≒効率的な)都市は面白くない」って言っているってことだよね。

ツリーじゃなくて、セミラティス。
ツリー構造:集合の要素が下位集合で枝分かれする階層構造になっていること。要素同士に重なり合いは生まれない。
セミラティス構造:集合の要素が複数の下位集合に包まれるという「重なり合い」(オーバーラップ)を持つ構造のこと。

これって、魅力ある都市(まち)っていうのもそうだけど、人に関してもそうだよなあと。

佐々木俊尚さんは「レイヤー化する世界」の中で、インターネットによって世界はレイヤー化しているのだから、自分自身をも多層化してそのプリズムとして生きろ、と語った。

参考:自分を「多層化」して生きる(16.12.20)
http://hero.niiblo.jp/e483303.html

たぶん人も社会も、ツリーではなくて、セミラティス構造をしているし、その重なり合い(オーバーラップ)の部分に「偶然」が生まれてくるのだろうなと。

昨日は、第1回の風舟交流会「アイデアミーティング」で、高校生4名も含む15名が参加。
「風舟周辺でやってみたいこと」と題して、様々なアイデアが出た。
(原木しいたけ栽培⇒しいたけバーベキューとか楽しそうだった)



風舟はこのまちにもう一つの「層」をつくる。
そこに「層」(レイヤー)の集合体である誰かがやってきて、その物語が重なり合う(オーバーラップする)
そこに生まれる「偶然」や「物語」を育てていくこと。
そうやって、地域も人も生きていくのではないかなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)日記

2022年06月26日

「仮説を試す」ために「感覚を解放」して「場に身を委ねる」こと

「パターン・ランゲージ」(井庭崇 慶応大学出版会)

クリエイティブ・ラーニングからの続きですが、読み始めました。
井庭先生、面白いなあ。
非常に本質的なところを突いてきて、ドキドキします。

プロローグよりメモ
~~~
いま私たちが感じている閉塞感がどこから来るのかを辿っていくと、社会や組織のあり方が「応急処置的」であるという点に行き着くように思う。

その要因は
1 価値判断の難しさ
2 実際につくり上げることの難しさ
3 専門や分野が異なる人とのコラボレーションの難しさ
であるように思う。

制度や仕組みをつくった経験がある世代が引退した後に残されるのは、「自分たちでつくったことがない世代」である。

「どのように」だけではなく「何を」「なぜ」つくるのかの支援が重要になる。

「何を」「なぜ」つくるのかを具体的に他者から与えられ、ただそれを遂行しているという状況は、とても創造的であると言えないだろう。

パターンランゲージは、「何を」「なぜ」「どのように」つくるとよいのかを言語化したものである。

「何を」つくるとよいのか「なぜ」つくるのかを考える「考え方」を提供することであり、その意味で抽象的なかたちでの支援でなければならない。

パターンランゲージの各パターンは、どのような「状況」でどのような「問題」が生じやすく、それをどう「解決」すればよいのかという形式で記述されており、それに「名前」(パターン名)がつけられている。

パターンランゲージでは、各パターンにおいて、「何を」つくればよいのかが抽象的に提示される。またある「状況」で生じるどのような「問題」を解決するためにつくるのかという「なぜ」についても明言される。さらにそれを「解決」するものを「どのように」つくることができるのかも提示される。それゆえ、パターンランゲージは、「何を」「なぜ」「どのように」つくるのかを考えることを支援するのである。

他方、パターンには、それを「いつ」「どこで」「誰が」使うべきかという記述はない。つまり限定されてはいないのである。各パターンは、そこに書かれている「状況」と同じような状況において、その「問題」を解決したいというときにだけ、参考にすることができる。「なぜ」つくるのかという理由が合致することが大切なのであり、「いつ」「どこで」「誰が」つくるのかは本質的な問題ではないということである。

パターンランゲージこそが応急処置的社会・組織の檻から抜け出す鍵になる理由
1 対象デザイン領域において「よい」「美しい」という価値観が提示されるため「何を」「なぜ」つくるのか考えられる
2 デザイン=問題発見・解決の秘訣が記述されているため、「どのように」実現すればよいのかを考えられる
3 視点や発想を言語化し、一つ一つに「名前」があるため共通言語として使用することができ、相互理解・コラボレーションに役立つ
~~~ここまでプロローグ

つづいて序章
~~~
パターンランゲージ:建築家クリストファー・アレグザンダーによって提唱された住民参加型の町づくりを支援する方法

アレグザンダーの自然物と人工物の違い
「自然物」:誰かが計画してデザインしたものではなく、長い年月の中で徐々に形成されてきた結果である。そして、完成形という状態はなく、いつも成長・形成の途上である。
「人工物」:基本的には誰かのデザインによってつくられ、完成した状態で使い手に渡される。それゆえ、使用する人間や環境に馴染まなくなってしまう可能性が生じてしまう。

アレグザンダーの3つの考え
1 全体が成長すること
美しく調和がとれている自然物は「全体」として成長する。「全体」は「全体」として始まり、「全体」として成長する。「生きている花」をつくろうと思うならば、種から育てなければならない。
2 内なる力に誠実であること
「全体」の成長は絶えざる「適応」のプロセスである。その適応においては、その時々の「内なる力」を無視したり封じ込めたりすることなく、その力に正直・忠実でありながら変化していく必要がある。
3 環境に適合的であること
成長のプロセスにおいて、誠実である必要があるのは、その周囲の環境における諸力との折り合いもつけなければならない。つまり、環境側に生じる力にも適合するように自らを変容させていく必要があるのである。

1本の「木」を例にとって、
1 その木の形は、ごく小さな全体から始まって時間をかけて成長する。部分を組み合わせて作られたものではない。
2 その木の具体的な成長ステップは物理学や遺伝的に定められたルールに基づいて展開されている。
2 その木の具体的な形状は、成長の過程における環境、地形や土壌、日光、雨風、周囲の草木などへの適応の結果である。

アレグザンダーの「名づけえぬ質」
「いきいきとした」「全体的な」「心地よい」「自由な」「精密な」「無我の」「時間を超越した」を併せ持つもの。
例:京都などの古くからある町を訪れたときに感じる深い味わいや歴史的な質感のこと。
~~~

この後P34から来る井庭先生のパターン・ランゲージ再考がアツいので多めに記載

~~~
1 善や美においての反証可能な仮説
パターンランゲージを構成する個々のパターンは常に仮説である、とアレグザンダーは強調する。パターンはいきいきとして調和のとれた美しい「質」をいかにしてつくることができるかについてまとめた仮説である。仮説である以上、反証するような事実が突きつけられた場合には、取り下げられることになるだろう。このアレグザンダーのビジョンが興味深いのはこれまで科学における「真/偽」についての基準であった反証可能性の議論を「よい/悪い」および「美しい/美しくない」というコードにも適用しようとしている点である。

2 感覚の解放の手段
パターンの言わんとすることは、実は私たちのなかにもともとあるものなのだ、という指摘。現代の私たちは、自分の内なる感覚をあまりにも素朴すぎるという理由で認めることができなくなってしまったという。本当は深いところでわかっているのに、それをなすがままに出していくことを恐れ、私たちの内部に凍結させてしまっているのである。かわりに、外から与えられた概念やルール、手順に置き換え、自分に合わない歪んだままの状態を受け入れざるを得なくなっている。しかし、本当は私たちの身体に備わっている感覚は知っているのであり、その感覚を信じて解放すればよく、パターンランゲージは、内なる感覚に自信をもたせ、それを実現・実践することを支援する。

3 自我を超えた創造への道
パターンランゲージを用いたデザインでは、自然物が少しずつ形成されるように、内なる力と環境に適応しながら、全体として成長していくプロセスとなる。言うなれば、パターン・ランゲージによるデザインでは、それが自然に生じたように具現化されるということである。それは、人間が一種のメディア(媒体)になるということでもある。つくる主体として、個人の強い意図や自我を持ち込むのではなく、より自然に、より調和的な秩序を生み出すために、力を貸す存在になるのである。
~~~

いやあ、いいですね。この3つ。
「仮説を試す」ために「感覚を解放」して「場に身を委ねる」こと。
それこそが「創造」の方法だと。いやあ、すごい。その方法を僕も探していました。

「人間は一種のメディア(媒体)になる」
っていうのもすごい言葉ですよね。

自我を超え、「創造」のための「媒体」になる。

そんな感覚的な経験が「自分らしさ問題」を解決するためのデザインになっているのではないか、と直感する本でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:04Comments(0)日記

2022年06月13日

「センス」の違いを活かし、違和感として場に差し出す


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ついに10記事目。
「コミュニティ難民のススメ」を更新して、1冊の本での最多記事になっている気がします。

第4章 創造的な学びをつくる
ドキドキしながら一気に読みました。

まずはヴィゴツキーの「意味」の話より。

~~~以下メモ
「意味」には二種類ある。
一つは「Meaning」(ミーニング)で、辞書的な語義のこと
もう一つは「Sense」(センス)で、事象に対する各人にとっての個人的意味のこと

教育は効率よくミーニングを理解し、記憶することを追求しがち。
これからは自分なりのセンスをつくりあげること、そしてそれを対話によって共有することが重要。
対話をすると、お互いのセンスのズレが自覚できる。そのズレこそが創造性を育む。

ミーニング:社会システムと心的システムの間でコミュニケーション・メディアとして働く
センス:心的システムの中で生み出され、「心的システム」と「創造システム」の中で発見メディアとして働く

なるほど。センスとは「感じ方の型」の差で、それは創造の要素として非常に重要なのだと。
場やブレストにおいて「違和感の表明」が大切なのってそういうことだなと。

ともに探究していく関係になるには、ともにアマチュアの探究人として、興味や関心を分かち合うことが必要です。
自分も子どもも「好奇心」に誘発されている、「創造を目指している」という意味では同じ立場。
~~~~

あと、書いておきたいのは、My discovery/Your discoverey/Our discovoryの話。

~~~以下メモ
「発見の拡がり」3段階

まずは思いつきレベルのMy discoveryを大切にする。
フォトスゴロクで言えば、ひとりひとりの「センス」を活かした写真を撮ってくる、ところ。
My discoveryによって、自分なりの見方や考え方の特徴、好みを知る。

そしてそれぞれのMy discoveryに価値があると思えるのが次のYour discovereyの段階
相手、チームメイトの発見を認められるようになる。

それを繰り返していくと、だんだんとMyとYourの境界線がなくなってOur discovoryになる。
この3段階を意識せずにいきなりOur discovoryを目指すグループワークをやってもうまくいかない。

つねに「My」と「Our」を行き来すること
他者や周囲の環境に対する好奇心を発揮したり
「Your」という働きを介して、相手の面白さに気づくこと

創造的な対話。

ここで、プロローグに出てきた6Cs(シーズ)をあらためて。

「6Cs(シックスシーズ)」 P5
1 コラボレーション collaboration
2 コミュニケーション communication
3 コンテンツ content
4 クリティカル・シンキング critical thinking
5 クリエイティブ・イノベーション creative innovation
6 コンフィデンス confidence

認知科学研究の結果(2017)、
人の学びの道筋は、まずは「コラボレーション」「コミュニケーション」から始まる、だったのです。

にもかかわらず、これまではコンテンツ・ファーストの学びが行われてきてしまった。

「もちろんコンテンツの学びは重要だし、学んだ知識や考え方をクリティカル・シンキングで多面的に見ることは大事ですよ。それがないと考えや発想が広がっていきませんからね。でも、本気でコラボレーション氏、そこで思いついたことをポリフォニックに対話コミュニケーションしていると、必要なコンテンツが自ずと巻きついてくるんですよ。そうするとふとした瞬間にひらめくことがある。

クリエイティブ・イノベーションをしようと力まないのに、プロジェクトを始める前の想定をはるかに超えたアイデア・発想の種が生まれるのです。これはどうしたってみんなに発表して、伝えたくなる。だから作品にする。そのためには人に伝える価値があるかどうか複眼的に考えるようになる。つまり、クリティカル・シンキングが働きます。

こうしてできた作品を発表して「面白い!」と評価を受けると、よし、これからも探究していこうというコンフィデンスが生まれる。」

~~~

いやあ、すごいね。
涙でそうになる。

「場のチカラ」にフォーカスし、「場に溶け出して」、「場を主語にして」、創造する「場」の一員となる。
それこそがアイデンティティ問題や承認欲求、「自分に自信がない問題」の解決方法だと思い、授業を含めて場を設計してきた。

それままさに、discoveryの3ステップや、
6Csのステップになっているのではないか、と。

さらに言えば、ブレストの場での「違和感の表明」は
まさに「ミーニング」ではなく「センス」を表現することであり、
それこそが創造にとっては重要なのだと。

これまで言ってきたキーワードが、すべてつながってきて、
僕の人生を巻き込んだいい小説を読んだような気分です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記

2022年06月12日

「デバッグ」のマインドを持ち、「違和感」をキャッチし、主体をも「創造」する


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回は第4章 創造的な学びをつくる より
「ジェネレーター」を出版した元になった対談たと思います。

今日のキーワードは「違和感」と「デバッグ」

その前に、第3章で出てきた「知識=事実ではない」という話も少し復習。
「知識=事実」ではなく、常に暫定的なシステムであり、ネットワークである。
ということで。

~~~以下メモ
プラグマティズムの特徴は、行動と思考の関係に注目することと実験主義にあります。

パースは、私たち一人ひとりが、いくつもの知識―「信念」(belief)が関係し合っているネットワークをもっていることから考えるべきと言いました。その信念のネットワークは未熟だし、誤りをたくさん含んでいるかもしれない。でも、この信念のネットワークを持っているからこそ、疑うことが可能になるのです。

いま持っている信念のネットワークと異なることが現実に起きたとしましょう。そうすると、その気づきから「なぜこの問題が生じたんだろう」という「疑念(doubt)」が生じます。そこから「探究(inquity)」が始まります。そこから思考を進めて、問題が理解可能になったら、そのとき新たな信念が獲得できるわけです、ここでひとまず一段落です。ただ、この信念もそれほど確実なものではありません。別の状況においては、これまでの信念のネットワークでは説明できない事象がまた生じるかもしれませんからね。このように、信念のネットワークの綻びから疑念が生じ、疑念から探究が生じる。これがパースの考える「探究」です。
~~~

このあとパパートの「コンストラクショニズム」、つまり自分の中の理解(第3章の話でいえばシステム)のモデルはひとりひとり違っているんだという話から「デバッグ(バグを取り除く)」の思想へとつながっていきます。

デバッグの思想はまさに上に出てきた信念のネットワークの修正・改善の話で、つまり破壊と創造なわけです。

一回つくったものを壊すのってなんか嫌だし、勇気が要ります。にもかかわらず、臆することなく破壊と創造を繰り返すマインドセットを身に付けるには、実際に自分が創造したものを壊してまたつくるという経験を積み重ねるしかない。

~~~
これまでの教育実践では、こういう活動をしましたとか、こんなものをつくりましたとか、一回一回の取り組みの「出来」に注目が集まりがちでした。しかし、プラグマティズムの議論からもわかるように、「出来」がよい活動を目指すことが探究だというわけではありません。そうではなく、地味なことであっても、子どもたちが自分なりに「ここが気になる」「もっとよくしたい」という気持ちを持ってひたすら探究を続ける「プロセス」が重要なんです。こういうマインドは一朝一夕では育たない。何度も工夫しながら、つくる行為をひたすら続けることで初めて生まれてくるものです。
~~~

自分が「つくっている」のか「つくらされている」のかわからなくなる。自分がそうしたいからそうするのではなく、そのものが「あるべきかたち」になろうとするのを一生懸命追いかけている感じです。

川喜田二郎氏は「創造と伝統」の中で言いました。

「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。
~~~

創造的行為は客体だけでなく主体をも創造する(変容させる)。
それを個人ではなく「場」を主語にできるんじゃないか?
「自分を変えたい」と思うなら、まずは創造的な場に身を置くことかもしれませんね。

昨日は、新潟県・大学・私学振興課の「くらす・はたらく編集室」でした。
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/daigaku/gakuseijohohasshin01.html
(カタカナ表記ってアーティストっぽいですね。笑)



「場のチカラ」「魔法をかける編集」「ふるさとを創る」というキーワードで説明したのだけど、たぶん、お伝えしたいことは、こういうことかもしれません。

「デバッグ」のマインドを持つからこそ、「違和感」のキャッチ(とそれを場に共有すること)をプラスに捉えることができる。

さらに活動主体を個人ではなく「場」に移すことで、「場」を主語にして客体を創造するプロセスの中で主体としての「場」が変容する。

「自分を変えたい」という意志のチカラを信じるのではなく、「場のチカラ」と「創造のチカラ」に委ねてみると、結果的に自分(信念のネットワーク)が変わっていた。

そして変わった自分も暫定的なものであり、ひたすらに「デバッグ」していくプロセスにあるのだということ。

これ、うまくパワーポイントで伝えたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:09Comments(0)日記

2022年06月07日

「内言」としてのパターンランゲージ


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回も第2章「自ら学ぶ学級をつくる」(岩瀬直樹×井庭崇)より。
1日に2つ記事書いちゃってますね。

今回は井庭先生のパターンランゲージについて。
ヴィゴツキーの内言についての言及がすごかったので、メモしておきます。

~~~ここからメモ
内言には主語がありません。
「述語化されている」のです。

内言では「私は」という主語が中心ではなく、「何をするのか」という述語の方に重きが置かれた文の構成になります。

実は、僕がパターンランゲージをつくるときにすごく気を使うのは、内言的に読める文章に仕上げるということです。つまり、主語を書かずに述語化される内言に近いように書くのです。

物事の秘訣、やり方の共有というのは、基本的には、それを知っている人が知らない人に教えるというかたちになります。これを教えてもらう側の立場からみると、「〇〇ができる他の人(他者)ができない自分に教える」という構図になります。否応なしに「他者」と「自分」、「できる」「できない」という区別が強調されます。そうなると、受け身になり、できない自分に対して自信を失ったり、自己肯定感が低くなる可能性があります。

内言的な文章は、自分からの内発的な思考を下支えします。たとえば「相手が自分なりに考え、言葉にするために間を取り、待つようにします」という文章を読んだときに、「対話のうまい人はそういうとき、相手が自分なりに考え、言葉にするための間を取り、待つようにします(しています)」と読むことができるだけでなく、「これから自分も、そういうふうに待つようにします」と近未来の自分の方向性としても読めるわけです。「そろそろごはんを食べようかな」と同じように、「待つようにします」という内言のように読めるのです。

パターンランゲージでやってはいけないことは、「行きつけの場所をつくりましょう」という書き方です。「〇〇しよう」とか「〇〇しましょう」と書くと途端に二人称的になるのです。つまり、「あなたは〇〇をつくるべきです、つくるとよいですよ」と誰かが自分にアドバイスをする構図に、どうしてもなります。どんなに丁寧な言葉にしても、そのアドバイスが、自分ではないどこかからやってくるということが強調されてしまうのです。

パターンを英語で書くと、命令形にならざるを得ない。
日本語は内言的に書ける。

さらに興味深いことに、日本語という言語は、文法上は現在と未来を区別しません。そのあたりが曖昧なのです。たとえば、「(わたしはいつもこの場所でこれを)つくります」と「(私は来月この場所でこれを)つくります」は述語的には同じ言い方になる。

なので、パターンランゲージの解決策の部分を「〇〇をつくります」と書いたときには、すでにそれを実践している人にとっては普段していることとして読めますが、していない人にとっては「これからしようかな、これからやります」と読めます。

~~~

いやあ、これもすごいな。
内言、ですか。

「中動態」の話にも通じるところではあるけど。

「主体性」って言われるけれど、きっとこういうデザインが必要なのだろうな。

この後に、先生が主語になって彼らの主体性や内発性を「引き出してあげる」のではなくて、生徒自身が「どう主体性を発揮するようになるか」についての話に展開していくのだけど、それはまた別の機会に書きます。

「内言」で書かれた文、それは非常に日本語的である、ということ。
ここが今日は面白かったです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)日記

2022年06月07日

「なってみる」という学び方


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

ひとり「クリエイティブ・ラーニング」ゼミ。
今回は第2章「自ら学ぶ学級をつくる」(岩瀬直樹×井庭崇)より。

~~~以下メモ
・教室の空間リノベに参加
・協同的な学びの実施

「自己主導学習」=学びのコントローラーを自分で持つ
「このクラスに自分が関わると何かが変わるぞ」⇒「協同して学ぶ」の体験・体感

「作家の時間」:子どもたちが1人ずつ作家ノートをもって、作家になりきって、自分の書きたいテーマで作品を書く

「みなさん一人ひとりは作家です」
「自分が書きたいことを書きたいように書きたいだけ、自分のペースで書いてください。」
「作家ですから」

書いたものを作品にして出版し、読者に読んでもらうという学び方、つまり本物になることを通して学ぶ、ということなんですね。作家になるために練習するのではなく、作家としてスタートするのです。

「自分の作品には読者がいたんだ」ということを体験すると書き手のモチベーションが変わるんですね。

そのうちに読書をしていても「この表現は上手いね」と言い始めるんです。作家の目で本を読むようになっていく。

つまり、「なってみる」という学び方です。書いている途中でたくさんの人のフィードバックを受けた方が、作品がより良くなるという体験をするのです。下書き段階は、ダイヤモンドでいえば原石みたいなものです。たくさんのフィードバックや自身の修正を経てどんどん磨かれていく。他者の存在が自分と作品を成長させてくれる。その体験の積み重ねが、協同で学んでいこう、プロの作品から学んでいこうという意識に変わっていく、そういう学び方です。

このことを僕は「ワークショップの学び」と呼んでいます。
~~~

いやあ、これすごいな。
「なってみる」という学び方。

僕の3つのテーマは、
チーム観「Destined people~導かれし者たち」
成長観「Fake it till you make it~できるまでフリをしろ」
対話観「Shall we dance?~一緒に踊らないか?」

なのだけど、まさにその2つ目のとこだなあと。

「なってみる」学び。たとえば、「デザイナー」っていう名刺をつくれば、デザインの仕事が来て、いつのまにか本物のデザイナーになっていた、みたいな。

そしてなにより「作家の時間」がすごいところは、他者からのフィードバックがいい作品をつくっていくんだ、と実感できること。何よりもそこに相互の「承認」があるというところなのかもしれない。

プロジェクトも同じだなあと。何度も中間発表して、フィードバックをもらって、いいプロジェクトにしていく体感。それが大切なのだろうなと。
「下書き段階ですけど」「試作品なんですけど」って言いながら見せて、フィードバックをもらうこと。

何よりもまず、作家になりきること、アーティストとして取り組むこと。
ジュニエコとかでも「仮想の会社をつくり、社長(店長)の役を決めること。
そういうのが大事なんだろうな。広い意味での演劇ワークショップ。
肩書決めて、名刺作って、みたいなことをしてもいいのかもしれません。

まずは作家になってみる、デザイナーに、芸術家になってみる。
つくるものはすべて「作品」としてとらえる。

そういうフィクションの力が必要なのだろうな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)日記

2022年06月04日

「個別暫定解」しかない時代を生きる


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

第1章にようやく突入しました。いきなり、面白いですね。読書って楽しいなあと思います。
これ、僕ゼミやります。シリーズ「クリエイティブ・ラーニングを読む」やります。

今日は「コミュニティ・ソリューション」から。
「ガバメント・ソリューション(政治による解決)」「マーケット・ソリューション(市場による解決)」に対比される言葉ですね。
同名の本を古本屋で見つけて、買っただけで読んでませんでした。
「コミュニティ・スクール」もまさにコミュニティ・ソリューションの方法論ですよね。

~~~以下メモ

「マニュアルを覚えろ」「正確に再現しろ」「ミスをするな」
工業社会、産業社会とは、結局のところ、スペックどおり、仕様書どおりにどれだけ正確に、不良品を最小化できるかを競っていたわけです。

それが全部デジタルテクノロジーに入れ替わってしまったという悲劇というか喜劇。

インターネットでとても重要なポイントは「ベスト・エフォート best effort」なことです。「ミスを恐れずに最善を尽くす」か。

パターンランゲージはベストエフォート的なメディア

「一般普遍解」を求める力ではなく、「個別暫定解」を求める力がとても重要になります。なるほど、パターンランゲージとは、状況に対処できる層をつくり、その層を組み合わせて対処すること、か。

~~~ここまでメモ

ここからです。
今日書きたかったこと。

~~~
今までは、世の中に一般普遍解があると思われてきました。しかし、「卒近代」においては個別暫定解しかないんです。機械は同じものを二つつくれますが、生命はこの世に同じものは二つはない。

今までの社会は、コモディティ化し、何か一つの価値観に合わせて動く仕組みで動いてきました。本当は小さな差異がたくさんあって、それらが複雑に絡み合っているのだけれど、その複雑性をネグリジブル・スモールだと無視して唯一の一般普遍解を求めようとしてきたのです。それが、ガバメント・ソリューションとマーケット・ソリューションの特徴です。

しかし、実はその無視してきた小さな差異と複雑性こそが重要であることがわかってきた。統計的に処理して無視してきた小さなパーツや差異、そこから生まれる複雑性こそが、実はコミュニケーションや社会の秩序を形成する上で重要だったのです。それは複雑性を残したまま、そのなかで暫定解を求めることが重要だということです。
~~~

「一般普遍解」の呪縛を脱し、「個別暫定解」を求めること。
それが「コミュニティ・ソリューション」なのだと。

「コミュニティ・スクール」とはその一つの方法論なのだと。
これは、小さく言えば、「場のチカラ」でしょうね。
差異を活かし、複雑性を活かし、目の前の課題、あるいは「創る」に取り組む。

たぶん、探究の方向性としてはそういう感じです。
これ、図解したいな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2022年06月02日

「プロジェクト」という創造の物語に身を委ねる


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

序章から5記事目。
もはやバイブルですね。

いよいよデイヴィッド・コルブ先生の出番です。
「経験学習」理論です。

~~~以下メモ
「学びとは経験の変容を通して、知識が構成される過程である」とコルブは定義した。知識は、経験の把握と変容の組み合わせの結果生じる。

「ラーニング・サイクル」
1 具体的経験:主体が環境に働きかけて相互作用すること。⇒「経験する experiencing」
2 内省的観察:自分の経験の意味を俯瞰的な視点や多様な観点で振り返ること。⇒「振り返る reflecting)」
3 抽象的概念化:経験を抽象化して一般化し、そのルールやパターンを把握し、同化・構成すること。⇒「考える thinking」
4 積極的実験:抽象的概念化で得られた知識を踏まえて次なるアクションを起こすこと。「行為する acting」

また、行為と内省(4⇔2)、経験と抽象化(1⇔3)という2つの軸で学びが駆動される。つまり、

経験の把握する二つの様式である「具体的経験」と「抽象的概念化」の弁証法的解消と、経験を変容させる二つの様式である「内省的観察」と「積極的実験」という相反するものが弁証法的に解消するときに学びが生じるというのである。

※弁証法的解消:「正」(テーゼ)と「反」(アンテーゼ)を本質的に統合した「合」(ジンテーゼ)へと導く重要さをヘーゲルは説いた。
~~~

この後、コミュニケーションと創造のシステム理論へと進んでいく

~~~以下メモ
ニクラス・ルーマンの社会システム理論では、コミュニケーションは、主体の伝達や受信の行為のことではなく、複数の心的システムの間に生じる一つの「出来事」として、創発するものだとされる。コミュニケーションは、それに先行するコミュニケーションからの文脈をもっており、そのあとに続くコミュニケーションにつながっていくという文脈をつくる。

次に「創造」について考えたい。

何かをつくり込むときには、つくられるものの「あるべきかたち」があるということを、ここでは強調したい。つくり手がつくりたいようにつくれるわけではないのである。例えば、作曲をしているときに、合わせる音がずれていたら、つくり手がどう思うかに関わらず、それは事実として美しさが損なわれているのであり、きちんと合わされるべきだ、ということになる。あるいは、物語において主人公がとるべき言動はそのキャラクターと文脈に応じて自然なものであるべきだろう。このようにつくり手の「こうしたい」という作為にもとづいてではなく、「こうあるべき」だということに従ってつくられるのである。

これは、創造が、その創造ごとに固有の内的な論理によって進められることを意味している。

宮崎駿「クリエイティブというとかっこいいけれども、そうではなくて、自分の今の能力と、与えられている客観的な条件の中で、最良の方法はひとつしかないはずで、この路線、方法を決めてしまった以上、その方法は毎回、ひとつしかないはずだ。それにより近い方法を見つけていく作業にすぎない。映画は映画になろうとする。作り手は実は映画の奴隷となるだけで、作っているのではなく、映画につくらされている関係になるのだ。

谷川俊太郎「最終的には語と語の順列組み合わせでしかない文章というものにおいて、私たちは或る一語の次に他の一語を択ぶ。その選択には動かすことのできない必然性があると私たちは感じている。

このように創造の内実は、つくっていくもの(作品)が、「あるべきかたち」になっていくための次の一手を「発見」していくことの連続なのである。このことを、創造システム理論では、「創造とは発見の生成・連鎖である」と言う。しかも、その発見は、その創造に固有の内的な理論に従って生み出される。発見は、その創造(のシステム)のなかでのみ、発見としての意味があり、システムの中で要素として構成されると言うことができる。つまり、創造における発見の生成・連鎖も、オートポイエティック(自己創成的)なのである。

これって「委ねる」っていうことじゃないか。「創造」と「委ねる」って実は近いのかも。

創造システムとは、発見を要素とするオートポイエティック・システムであるということになる。「発見」は、ある「アイデア」が今取り組んでいる創造に必要なものだと「関連づけ」られるということを見出したときに創発する。

ここでいう発見は単に創造のプロセスを進めるという意味での「発見」である。

創造のプロセスにおいて、先行する発見を受け、それ以降の発見へとつながっていく、という機能を果たす要素を「発見」と呼ぶ。ここでいう「発見」は、心的システムのなかの意識としてではなく、また社会的な側面からも独立したものとして捉えられている点に、創造システム理論の特徴がある。あくまでも、その創造における論理・文脈での発見の生成・連鎖に注目するのである。

宮崎駿「映画というのは、映画になろうとしますから、その道筋をこちらが間違えないように見定めて、映画が映画になろうとするのを、ちゃんとやらなきゃいけないんですよ。自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃ仕様がないんですよね。」

村上春樹「本を書き始めるとき、僕の中には何のプランもありません。ただ物語がやってくるのをじっと待ち受けているだけです。それがどのような物語であるのか、そこで何が起ころうとしているのか、僕が意図して選択するようなことはありません。物語が何を求めているかを聴き取るのが僕の仕事です。」

何かの創造が可能となるためには、ヴィゴツキーが言うように、心的システムにおいて想像力が発動しなければならないのは確かである。しかし、それは心的システム側の事情であって、創造はその心的システムの意図や作為の思いどおりにはいかない。つくっているもの(作品)は、創造システムのなかで、その創造に固有の内的な論理に従って、発見の生成・連鎖としてつくられていく。心的システムは、創造システムの固有の内的な論理に従って「あるべきかたち」に向かう発見の生成・連鎖を「体験」し、受け入れるというかたちになる。

村上春樹「物語を書きだすときには、僕はそれがどんな結末を迎えるのか知らないし、次に何が起こるのかもわからない。最初に殺人事件があったとしても、誰が犯人なのか僕は知識を持ちません。僕はそれが誰なのかを知りたくて、小説を書き続けるわけです。もし誰が犯人なのかわかっていたら、小説を書く目的がなくなってしまいます。」

おいおい。マジかよ。犯人誰か作者も分からないのに殺人事件は起こっているんだ。

小川洋子「作家はその作品の一から百まで、全部自分一人の責任で書いているのだから、自分の思いどおりにできるじゃないか、と思われるかもしれませんが、実はそうではありません。・・・「こっちへいこう、こういうふうに世界を広げていこう」という、物語自身が持っている力に導かれないと小説は書けないと思います。」

人間がいなければ(心的システムがなければ)、創造システムが作動することはないのであるが、それは心的システムが創造システムをコントロールしているということを意味するのではない。創造にとっては、人間は不可欠ではあるが、あくまでも「環境」にすぎないのであり、創造は、創造そのものが自ら展開するのである。このようなことは物語をつくることにとどまらず、あらゆる創造に言えることである。

久石譲「頭の中でこんな曲にしようと考えている段階は、あくまで入り口でしかない。作曲の本質は、もっと無意識の世界に入り込んで、カオスの中で自分でも想像していなかった自分に出会うことにある。つくろう、つくろうという意識が強いときは、まだ頭で考えようとしているのだと思う。秩序立てて考えられないところで苦しんで、もがいて、必死の思いで何かを生み出そうとする。その先の、自分でつくってやろう、こうしてやろうといった作為のようなものが意識から削ぎ落とされたところに到達すると、人を感動させるような力を持った音楽が生まれてくるのだと思う。」

創造に「意志」なんて要らない、というか、「意志」という邪念がなくなったところに人を感動させるような作品が生まれるのだ。

創造システムの発見の生成・連鎖を、心的システムの意識が認識することは、心的システムは、いわば創造における発見を(後から)取り入れることを意味する。村上春樹は、その感覚を「ぼく自身、小説が自分自身よりも先に行っている感じがする」と言い、「いまぼく自身がそのイメージを追いかけている、という感じがある」と表現している。小川洋子も、「小説を書きながら、書き手である自分がいちばん後ろを追いかけているな、と感じます。宮崎駿も同様に、「僕は、ものを作る主体として作品を作っていたというより、ただ後ろからくっついていただけで・・・」と語っている。

さらに、創造的行為は、自分自身も変えていく。

村上春樹「長編小説を書いているときは、書きながら身体の組成そのものが刻々と変化していくようなところがあって、それは何ものにもかえがたい興奮であり、充実感です。でも「楽しいか?」と質問されると、そんな単純な言葉ではとても形容できないというしかないんですね。見通しの悪い未知の大地をどんどん前に進んでいくようなものだから、そりゃしんどいし。きついし、不安がないといえば嘘になります。小説を書くのは、僕にとってすごく大事なことなんです。それは自分の作品を生み出すことであると同時に、自分を変えていく、自分自身をバージョンアップしていくことでもあるわけだから。」

そして、プロローグにも書いてあるけど、川喜田二郎先生。
「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象をつくり出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある」

そして、ここでデューイふたたび登場。
「あらゆる探究と発見は、そのなかに含まれているあらゆる危険を冒して、なお個人を作ることを含意している。というのは、新しい真理と展望に到達することは変わることだからである。古い自我は捨て去られ、新しい自我のみが形成されつつあり、その自我が最終的に取得した形態は、冒険の予見できない結果にかかっている。」

プロローグからの村上春樹とミヒャエルエンデをここでもう一度
村上春樹「主人公が体験する冒険は、同時に、作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっているんです。」

ミヒャエル・エンデ「わたしはよく言うのですが、わたしが書く行為は冒険のようなものだって。その冒険がわたしをどこかへ連れていき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身がちがう人間になりました。私の人生は実際、わたしが書いた本を節として区切ることができる。本を執筆することがわたしを変えるからです。」

川喜田二郎の「絶対的受け身」
「自分がやりたいからやるんだという底の浅いものではなく、全体状況が自分にこういうことをやれと迫ってくるから、やむなくやっているという絶対感があるもので、それは絶対的受け身ということでもある。・・・全体状況が自分にやれと迫るからやらざるをえないというほうが、じつは真に主体的だと私は思うのである。」

「創造的行為の内面、それもひじょうに深いところに宿っている不可思議な何かに導かれているのではないかという気持ちは、創造的行為を達成したときの人の心に、自ずから愛と畏敬の念を生み出すものである。それは、今度やった仕事は創造的だったと思うような体験をしたとき、それを達成した人に、自らが生み出したものに対して、「俺が生み出したのだから、これは俺のものだ」という所有の概念がけっして生じないことでわかる。その人は何かの暗示によって、生み出されたものに対して対等の愛を感じるものであって、そこには所有物という感覚は生じないのである。」

「創造的行為において「客体」と「主体」の双方が創発されるだけかというと、その行為を通じて主体と客体とは、ひじょうに深い「愛と連帯感」で結ばれるのである。創造的行為が達成された当座は、きわめてホットな愛であり、時間がたつと連帯という形で落ち着く。」

「しかも、主体と客体が創造されるだけでなく、その創造が行われた「場」も、新たな価値を付加されて生み出されるものである。したがって、ひとつの創造的行為が達成された場合、そこには「主体」と「客体」と「場」の三つが生み出されるということで、その「場」というものが、第二の、そして第三の「ふるさと」となるということである。」

これからの学校は、「つくる」場になるのであり、それゆえ、それは、創造の「ふるさと」として位置づけられるようになることを意味する。学校は、創造社会における創造を下支えする思い出深い象徴的な場所になるのであり、創造社会を希望を持って生きることを内側から支えるような心の「ふるさと」になるのである。
~~~

つながった。
ぜんぶつながりました。
場のチカラも、発見と変容も、アイデンティティ問題も。なんなら「現代の美術家」も。(笑)
「創造社会」へのアプローチだったんですね。

「創造システム」に身を委ねること。
「創造の物語」の意志に従うこと。
「創造」が目指すあるべき姿に向けてアイデアを出すこと。

その創造の先に、結果として自己の変容があるんだ。
「自分を変えたい」と望まなくてもいい。

「プロジェクト」ってそんな風に「委ねる」ものなんだなって思った。
プロジェクトという「創造の物語」に身を委ね、感じることを発言し、発見を楽しみ、創造する場をともにすること。

ドキドキするような「創造」の瞬間に何度も立ち会うこと。夢中で取り組んで気がついたら、そこが「ふるさと」になっている、っていう仮説。

かつて、宮澤賢治は「農民芸術概論綱要」でこう語りかけた。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

探究学習に取り組む生徒たちと大人たちにいま一度メッセージを送りたい。

芸術家であれ  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)日記

2022年06月01日

2次元の目標達成から3次元の探究へ


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

まだ序章なのに4記事目。楽しいです。
ついにきましたジョン・デューイ。
「発見と変容」と言っていた僕の言葉が今なら説明できる気がする。

~~~ひたすらメモ
デューイの「経験の連続性」と「経験の再構成」

「生命とは、環境にたいする行動を通じての、自己更新の過程」であるという。人間は、有機体としての更新だけでなく、社会の中で経験を連続的に更新していく存在だと、デューイは考えたのである。

デューイは「経験」を環境との相互作用であると捉え、行動とそれによって被る結果とがともに含まれているものだと考えた。このことをデューイは「経験の相互作用性」の原理と呼ぶ。経験とは、環境における事物や他者との関わりのなかで生じるものだというわけである。

「経験は型と構造をもつ。というのも、経験はたんに交互に行われる能動と受動ではなく、両者の関係性のなかで成り立つものだからである。(中略)行動とその結果が、近くのなかで結びつけられるべきである。この関係性が意味を与えるものである。この関係性を把握することが、すべての知性の目的である。」

あらゆる経験は、願望や意志とはまったく無関係に、引きつづき起こってくる更なる経験の中に生きるのである。

経験のどのような場合にも、ある種の連続というものがある、というのは、あらゆる経験がある種の好き嫌いを引き起こすことによって、あれこれの目的に適った行動を容易にしたり、困難なものにしたりする。しかも、このことによって、更なる経験の質を決定するうえで役立つような態度について、よかれあしかれ影響をおよぼすことになる。そのうえ、あらゆる経験は、それがさらに進んだ経験がなされるための条件に対して、ある程度の影響を与える。

経験がどのような方向をとっているのかを知ることが、教育者の仕事になる。・・・経験を動いている力として判断し、そのような力を指導するような経験の動力を考慮しないようでは、教育者は経験の原理それ自体に誠実に対応していないことになる。

「問題を面倒なことにしているのは、伝統的学校では経験が欠如しているというのではなく、そこでなされる経験の誤った欠陥のある性格―未来の経験に接続するという見地からすると、その経験の誤用による欠陥のある性格―にある。」

「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっているのである。」

「教育は生活の過程であって、将来の生活に対する準備ではない」

形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。もしこのような方向への推進力が強化されないどころか弱められるようでは、教育上準備するという考え方がたんに欠如するどころではなく、もっと重要なことが起こってくるであろう。
~~~

デューイの「共同体としての学校」

したがって、結局のところ、社会的生命がそれ自身の永続のために、教えることと学ぶことを要求するだけでなく、一緒に生活するという過程そのものが、教育を行う。その過程は、経験を拡大し、啓発する。その過程は、想像力を刺激し、豊富にする。その過程は言明や思想を正確なものにし、生き生きとしたものにする責任を創造する。

すべての教育は、個人が人類の社会的意識に参加することによって行われる。この過程は、ほとんど誕生とともに、意識されないまま始まる。そしてたえず、個人の諸能力を形づくり、その意識を染めあげ、その習慣を形成し、その観念を陶冶し、またその感情と情緒を喚起しつづける。この無意識的な教育を通して、個人は次第に、人類が共同してこれまで実らせてきた知的道徳的財産を共有するようになる。個人は、文明という蓄積された資本を相続するものとなる。

他者と顔を突き合わせて協働することを信じ、たとえ各人の要求や目的や結果が違っていても、親和的な協働の習慣は、それ自体がかけがえのないものを人生に与えてくれる。

~~~
デューイの「内省的思考」と「探究」

「経験から学ぶ」ということは、われわれが事物にたいしてなしたこと、結果としてわれわれが事物から受けて楽しんだり苦しんだりしたこととの間の前後の関連をつけることである。そのような事情の下では、行うことは、試みることになる。つまり、世界はどんなものかを明らかにするために、行う、世界についての実験になるのであり、被ることは教訓‐事物の関連の発見になるのである。

教授や学習の方法の永続的改善への唯一の正攻法は、思考を必要とし、助長し、試すような情況を中心に置くことにある。

さらにまた、すべての思考は危険を伴う、ということにもなる。確実性を前もって保証することはできない。未知のものへの侵入は冒険的性格を帯びる。われわれは前もって確信をもつことはできないのである。したがって、思考の結論は、事象によって確証されるまでは、多かれ少なかれ試験的ないし仮説的である。

どれほど大人になっても、何かの新しい材料への接触の最初の段階は、必然的に、試行錯誤的なものにならざるを得ない。人は、遊びでも仕事ででも、自分の衝撃的活動を実行する際、材料を使って何事かをなすことを実際に試み、そして、自分の力と、使った材料の力との相互作用に注目しなければならない。このことは、子どもがはじめて積み木を積み立て始めたときに、起こることであり、また同様に、科学者が自分の実験室で未知の対象について実験を始めたときに起こることでもあるのである。

あらゆる探究と発見は、そのなかに含まれているあらゆる危険を冒して、なお個人を作ることを含意している。というのは、新しい真理と展望に到達することは変わることだからである。古い自我は捨て去られ、新しい自我のみが形成されつつあり、その自我が最終的に取得した形態は、冒険の予見できない結果にかかっている。

~~~

・ふりかえりの大切さ
・場のチカラと共同体
・発見と変容

デューイがかつて説明してるじゃんって。実践から学ぶ、実験から学ぶがベースだからいいのですけど。

ここに僕なら、「予測不可能性」というキーワードを加える。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)

「まなぶ」から「つくる」へ。
って言ってた意味も、今ならわかる。

http://hero.niiblo.jp/e491969.html
「勉強」という乗り物(21.8.16)

勉強は乗り物だっていうのもなんとなく。
これを学んだあとには自分が変わってしまうかもしれない。
そんな恐怖さえ感じるような探究活動をやっていくことなのだろうなと。

探究において、個人は「場」に一体化し、「場」を主語として感じ、考え、学ぶ。
発見し得たことによって、主体である「場」は変わらざるを得ない。
そのとき、場に溶け出してしまっている個人も変容している。

探究は、予測できない。
試行錯誤の繰り返しだ。
だからこそ、発見がある。
だからこそ、場も自分も変容する。

2次元の課題発見⇒課題解決⇒目標達成活動から「場」で個々人のベクトルを活かした予測不可能な3次元の「探究」へとシフトさせていくこと。

たぶん、これです。これからやること。
  

Posted by ニシダタクジ at 07:18Comments(0)日記

2022年05月31日

2つのソウゾウリョクと本を読むこと


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

完全に自習モード。
今回も大量のメモを。

東京での田口幹人さんとの再会でNPO法人読書の時間設立の話を聞けたのもよかった。
僕はなぜ、本屋なのか?そういうのって後付けについてくるんだよね。

ということで、本書より
今日はヴィゴツキーの「想像力」と「創造性」(P96)より

~~~ここからメモ

ヴィゴツキーは、人間は想像する能力をもっており、それは創造性の重要な要因であるとして、想像力についても研究した。人間は、実際には見たことがない過去や未来のこと、現実とは異なる世界の情景を想像することができる。「脳は私たちの過去経験を保持し再生する器官であるばかりではなく、その過去経験の要素から新しい状況や新しい行動を複合化し、創造的につくりかえ、新たに生み出す器官でもある」のである。この力が人間を、未来をつくり出し、現状から変えていく存在にしている。

想像や空想(ファンタジー)というと、私たちは日頃、非現実的で単なる遊びや趣味の世界であり、実際には重要ではないものと捉えがちだが、ヴィゴツキーはそれこそが、芸術的な創造や科学的な創造、技術的な創造を可能にすると、その重要性を強調した。

「私たちの回りにあるもの、人間の手によって作られたものはすべて例外なく、つまり自然の世界とはちがう文化の世界すべては、人間の想像力の産物であり、人間の想像力による創造の産物なのです。」

そして、そのような力は一部の天才のみにあるのではなく、すべての人に備わっているのであり、「名もない発明者たちの協同的な創造」によって世界はつくられてきたという。

心理学的に見るならば、想像は無から生み出されるのではなく、いつも現実から得た素材によって成り立っている。過去の経験が空想を構成する素材を提供するのである。その人のこれまでの経験が豊かであるほど、想像で用いられる素材も多くなることを意味している。このとき、過去のある経験がまるごとそのまま再生されるのではなく、分解されて保持されるものであり、忘れられる。そして、それらは、想像を生み出すときに、変形や新しい結びつきを伴って、新しい印象や意味をもって、構成される。

(中略)

ヴィゴツキーは、想像と経験は相互に関わりあっているという。一方で、いま述べてきたように、経験に基づいて想像がつくられ、他方で、想像が経験に影響するということである。

想像が経験に影響するということは、まず、想像が現実的な感情を生み出すことに関係する。想像されたことがたとえ架空のことであっても、そこから引き起こされる感情は現実のものである。恐ろしい情景を想像して身震いするとか、楽しい場面を想像して気持ちがウキウキすることは、日常的にもよくあるだろう。また作家が生み出された空想が表現された作品によって、感情が大きく揺さぶられることもある。物語は空想上の虚構であったとしても、読者は本当に興奮したり不安を感じたりする。このように想像は、本物の感情を伴って体験されるのである。

(中略)

ヴィゴツキーは、「子どものあらゆる教育において想像力を形成することは、個々の機能の訓練とか発達促進という部分的な意味だけでなく、人間の行動全般に反映する全体的な意義を持っています」として、想像力と創造性の形成を促す教育のあり方についても論じている。

結論にあたって、学齢期に創造性を培うことの重要性を指摘しなければなりません。人間は未来のことはみな創造的な想像の助けをかりて理解します。すなわち未来を見定め、その未来に依拠し、そして未来から発する行動は、想像の最も重要な機能です。ですから、教育者の指導の基本的な教育姿勢が、児童生徒を未来に向かって準備する路線で彼らの行動を方向づけることであるかぎり、この想像力を発達させ、練習することは、その目的の実現過程にとって、基本的な力の一つなのです。未来を志向する創造的な人格は、具象化される創造的な想像の準備教育で今つくられるのです。

この問題は次の二つの部分から成り立っています。一方からすれば、創造的な想像を豊かにしなければならないし、また他方では、創造によってつくりだされるイメージを具体化するには特別な技芸が必要なのです。その両者の面が十分に発達しているところでのみ、子どもの創造力は正しい発達をすることができ、子どもから当然に期待されているものを与えることができるのです。

この後、本書では、伝統的な教育(学校)は、創造性な可能性が芸術的創造に限られているかのように捉えているがそうではなく、技術の分野でも発揮できるとし、教育者も実生活の創造者となっていく必要があると説きます。「教育を創造的にする」には教育者自らが生活を創造的なものにしていくのだと。

~~~
消費社会⇒情報社会⇒創造社会への移行。
「創造性」が求められる時代。

ヴィゴツキーによれば、
「創造」のためには「想像力」が不可欠であり、想像と経験は相互に関わりあっている。
おそらくその「想像」の一歩目が、「感情」の振り返りなのではないかと。

「体験学習」の意味もそこにあるのではないか。

校内ではなく、校外の現場に行って学ぶ。その道のプロに話を聞く。
そのとき、心が動く。それをキャッチし、表現する。
他者の表現を見て、他者を認識するとともに自分を認識する。

体験にベースにした「問い」を考え、仮説と立てる。
感じたことの違いを活かし、創造する。

そのときに「想像力」の出番だ。
かつての経験から未来を展望するんだ。

その「経験」の中には読書経験も含まれるだろう。
本書の中で引用されているがミヒャエル・エンデや村上春樹は、
自分の経験が断片的に無意識の中に埋もれていて、
とつぜんアイデアとして浮かび上がる、あるいは染み出してくる。

だから、経験が必要で、そのひとつの方法が「読書」なんだなと思った。

「創造力」のために「想像力」が必要で、「想像力」のために経験(体験)と読書が有効なんだと。
しかしそれは、目的最適化することはできず、無意識の中のストックを増やすだけだと。
しかしそのストックこそが「想像力」と「創造力」の礎となるのだ、と。

2つのソウゾウリョク、そして本を読むこと。
教育と本屋、やっとつながってきました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:02Comments(0)日記

2022年05月29日

「発達の最近接領域」をともにつくる


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

まだ序章なのですけど、内容が濃すぎて。
ひとまず、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」についてメモ

~~~
ヴィゴツキーは、これまで、知能の評価では、すでに成熟した能力のみが評価されてきたが、いま成熟しつつある能力にも目を向けるべきだと主張した。なぜなら、そのいま成熟しつつある領域こそが、教授‐学習が可能で、効果を発揮する領域だからである。教育において重要なのは、その人がすでに知っている‐できることだけでなく、何を学ぶことができるのかを知ることだというわけである。

ヴィゴツキーは、これまで知能や発達の段階としては、現在の発達水準、つまり、すでに発達のサイクルが完了し、成熟した能力のみがその評価の対象となってきたと指摘する。このことは試験の場面に端的に表れている。試験とは「もっぱら一人で行う問題解決に基づくもの」だと考えられてきたのである。

これに対してヴィゴツキーは、この現在の発達水準だけでなく、いま成熟しつつあるが、まだ十分に発達していないという水準も見るべきだという。

ヴィゴツキーは、自分一人で自力で解ける水準(現在の発達水準)と、他者の助けを借りて解ける水準(いま成熟しつつある水準)の間の領域を「発達の最近接領域」と名付けた。現在の発達水準に「最も近接」する「発達」の「領域」という意味である。

「発達の最近接領域は、まだ成熟してはいないが、成熟中の過程にある機能、今はまだ萌芽状態にあるけれども明日には成熟するような機能を規定します。つまり発達の果実ではなくて、発達のつぼみ、発達の花とよびうるような機能、やっと成熟しつつある機能です。」

「模倣は、それが子どもにおおよそ可能な領域にあるときにのみ可能なのです。それゆえ、子どもがひそかに助言を得てなしうることは、子どもの発達状態の十分な指標となります。」

~~~
ここで、中断。ロシア語の「obuchenie」について解説。ヴィゴツキーが使っていた「obuchenie」という言葉は、「教授」という意味と「学習」という意味を併せ持っており、その相互作用を表す言葉である。そのどちらか一方の訳語で訳してしまうと、本来持っている意味・ニュアンスが損なわれてしまう。実は、かつては日本でも欧米でもこの言葉は「教授」か「学習」のどちらか一方で翻訳されていたため、ヴィゴツキーの考えに対する混乱・曲解が生まれたと言われている。

いや、言葉は大切。「教育心理学者たちの世紀」でジョナサン・タッジとシュリル・スクリムシャーは、次のように指摘している。

「obuchenie」の用語のもっとも適切な訳は「指導」に含まれるよりも双方向性の流れを意味している。その訳によって私たちは、「教授/学習」が、子どもたちが学校に行くずっと前に生じるというヴィゴツキーの見方をよく理解できるのだ。優れた翻訳は読者に、発達の最近接領域が教師と子どもの間、あるいは二人以上の仲間の間の相互作用の過程で作り出されるとき、あらゆる参加者は、創造の過程と生じてくる次の発達の過程との両方に参加していることも理解させる

これ、すごいですよね。「発達の最近接領域」は相互作用の中で作り出せる。僕が「創造のエッジ」って言ってたやつはこれなんじゃないかな。

http://hero.niiblo.jp/e491178.html
存在は創造のエッジにある(20.11.10)

学校にとって重要なのは、子どもがすでに何を学んだかではなくて、むしろ何を学ぶことができるかであり、発達の最近接領域こそ、子どもがまだできないことを、指導や援助を受けたり、指示にしたがったり、協同のなかで習得するという意味で、子どもの可能性とはどのようなものであるかを近似的に明らかにするものです。

教授‐学習は、発達の最近接領域でのみ可能であり、効果をもつ。すでに発達している領域で教授‐学習をしても意味がなく、また、発達の最近接領域を超えて、未成熟な領域で行うことは難しく、効果を持たない。遅すぎる教授‐学習も、早すぎる教授‐学習も、効果がないのである。学習の最盛期には下限と上限が存在する。その意味において、ヴィゴツキーは、教授‐学習は発達の最近接領域に対して行われるべきであり、それゆえ、いわば教授‐学習に先回りするもののみが効果を持つと唱えた。

そして、ヴィゴツキーは一方的な教授に対しての厳しい批判をしている。

「生徒は自分自身で学ぶのです。教師によってなされる講義は多くのことを教え込むことができますが、それは自分で何もせず、何も確かめることをしないで、他人に頼る能力や願望を育てるだけです。今日の教育では、知識の一定量を教えることはそれほど重要ではなく、その知識を獲得し、利用する能力を育てることの方が重要です。それは(生活ほかのすべてと同様)活動の過程でのみ獲得されるものです。」

教師は、生徒に教えるのではなく、生徒が自分で学ぶことができるように環境を組織化する役割を担うのである。ヴィゴツキーに言わせれば、教師は、社会環境の組織者であり、生徒と環境の相互作用の調整者であるべきなのである。

「園芸家が、植物の成長に影響を与えようとして、手でそれを土から直接引っ張り出すとしたら、狂人と言われるように、教育者が子どもに直接影響を及ぼそうとするのは、教育の本質に反することになるでしょう。しかし、園芸家は、温度を高め、湿度を調整し、隣の植物の配置を変え、土や肥料を選んだり混ぜ合わせることによって、すなわち、またしても間接的に、環境を適切に変化させることによって、花の発芽に影響を及ぼすのです。それと同じように、教育者も環境を変えることで子どもを教育するのです。」

教育においては、生徒による刺激の知覚、それらの加工、応答的行為という三つの要素がすべて揃う過程がなければならないと、ヴィゴツキーは言う。

~~~

今日はこの辺で。次回は「想像力」と「創造力」について書きます。

「ともにつくる」場っていうのは、ヴィゴツキーの言うところの「発達の最近接領域」なのではないか、と。

ヴィゴツキーを解説したこの部分が、今日のハイライトかな。

発達の最近接領域が教師と子どもの間、あるいは二人以上の仲間の間の相互作用の過程で作り出されるとき、あらゆる参加者は、創造の過程と生じてくる次の発達の過程との両方に参加している

http://hero.niiblo.jp/e491411.html
「過程」としての学びと「手段」としての学び(21.2.9)

「発達の最近接領域」が相互作用で作り出されるとき、あらゆる参加者は創造の過程に参加している。

これです。場のチカラって。
「地域学」でパートナーズと生徒が生み出す学びの「場」って、こういうやつじゃないかなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2022年05月24日

「つくる」こと、発見と変容

昨年から取り組んでいる探究学習では、

・個の力、チームの力⇒場のチカラ
・「達成と成長」⇒「発見と変容」モデル
・心理的安全性を高める探究ネーム
を大切にしてきた。

そして語ってきたのは、「まなぶ」から「つくる」へのシフトだった。
「つくる」を前にすると人と人はフラットになるし、(学校社会的)能力差が無効化される。

そんなタイミングで「ジェネレーター」を読み、そしてその1つ前の
「クリエイティブ・ラーニング」にたどり着いた


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

今日、読み始めたばかりですが、プロローグでもうすでに、すごいことになっているのでアウトプットせずにはいられません。

~~~以下メモ
「6Cs(シックスシーズ)」 P5
1 コラボレーション collaboration
2 コミュニケーション communication
3 コンテンツ content
4 クリティカル・シンキング critical thinking
5 クリエイティブ・イノベーション creative innovation
6 コンフィデンス confidence

コラボレーションとコミュニケーションがコンテンツ、クリティカルシンキングより先に来ている点。
⇒人間は生まれながらにして社会的存在でありその中で交流し、協働し、学んでいく。

ここ100年とこれからの社会の変化と豊かさ指標
1 Consumption(コンサンプション:消費)を中心とした消費社会⇒どれだけ商品やサービスを享受しているか
2 Communication(コミュニケーション:)を中心とした情報社会⇒どれだけよい関係やコミュニケーションをしているか
3 Creation(クリエイション:創造)を中心とした創造社会⇒どれだけ生み出しているか、どれだけ創造的でいるか

「つくる」ことが前提の社会になっていく。

30年後の人が今の時代を振り返るときに、「信じられないことに、自分が使う道具や身につけているものを、自分ではいっさいつくらず、すべてを買っていた時代」として、驚きをもって語られることになるだろう。

創造社会では、生活のあり方が変わり、ビジネスのあり方が変わり、教育のあり方が変わるのである。ありとあらゆるものが「つくる」対象になることは、すなわち、自分たちの未来を自分たちでつくるということを意味している。

創造的であることを一部の職種や天才に任せるのではなく、誰もが創造的に「つくる」ことに参加する社会。これが、本書が見据えている未来である。
~~~

いいなあ。そうそう。そうなんですよ。
「まなぶ」から「つくる」へのシフトが起こっているんです。
そして、それを裏付けるような一流たちからのコメントが熱い。

~~~
村上春樹は、自分が書いている小説が「どんな物語になるかは僕自身にもわかりません」と断言し、次のように語る。

主人公が体験する冒険は、同時に、作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっているんです。

ミヒャエル・エンデもこのように言う。

わたしはよく言うのですが、わたしが書く行為は冒険のようなものだって。その冒険がわたしをどこかへ連れていき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身がちがう人間になりました。私の人生は実際、わたしが書いた本を節として区切ることができる。本を執筆することがわたしを変えるからです。

さらに「冒険」について、エンデは語る。

本当の冒険は、そんな力が自分のなかにあるとはそれまでまるで知らなかった、そのような力を投入しなければならない状況に人を運んでゆくものです。そうして、そんなふうにして自分を知ることになる。真の冒険者は実はそれを求めているのだと思います。そして、わたしは、いわば書くことを通じてそれを行っているのです。書きながら、わたしはわたし自身について何かを体験する、そのなかには、それがわたしのなかにあることも、わたしがそれをできることも、それまでまったく知らなかったことです。考えるだけでは、それはわからないことなのです。

さらに、KJ法の川喜田二郎氏の言葉「主体」と「客体」について

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。

参考:最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である(19.12.10)
http://hero.niiblo.jp/e490086.html

これらの人たちが示していることは、小説を書くこと(つくること)は、新しい発見が生じるプロセスであり、何かを「つくる」ことはつくり始める時点ですでに自分のなかにある何かを外に出すということではなく、つくることで新たな発見が生じ、学びが深まり、成長につながるという「構造的」なものである。

「つくる」という冒険に出る。
探究的な学びとはきっと、こういうことなのだろうな、と。

この後、本書はそのかかわり方として「ジェネレーター」を提唱している。

知識を教えたりスキルを身につける機会をつくるティーチャーやインストラクターではなく話し合いの流れを促すファシリテーターでもなく、一緒につくることに参加するジェネレーターという関わりが必要になるのだと。
~~~

なるほど。「つくる」という冒険を生成するジェネレーター的なかかわりが重要なのだ、と。

さらに、もうひとつ。「自己表現」についても言及されている。

村上春樹が次のように述べる

~~~
今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという脅迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。・・・日本というか世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であることを押しつけているわけです。教育だってそういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを少しだも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。
~~~

「創造」「つくる」とは、自分の主張や自分らしさを表現するという「自己表現」をしようと呼び掛けているのではないと井庭さんは言う。

たんに自分を表現しているのでは、そこに学びや成長は見込めない。そうではなく、自分がつくっているもの(つくられつつあるもの)が「あるべきかたち」になるようにつくることによって、自分を超えたものに出会い、気づきがあり、成長が可能となる。村上春樹はつくるものの論理に身を委ね、それについていくことで自己表現の罠から抜け出せると言う。

~~~
物語という文脈を取れば、自己表現しなくてもいいんですよ。物語がかわって表現するから。僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方のようなものを表現しようとは思っていなくて、自分の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなのをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」の罠を脱することができる
~~~

これさ、「物語」とか「小説を書く」を「プロジェクト」に換えても同じだろうな。同じというか、プロジェクトという場に溶け出してこそ、いいアウトプットが出るのだと思う。そしてそれこそが「自己表現の罠」、つまりアイデンティティの呪縛を解くカギになっていくのだと。

いやあ、今日、僕確信しました。これでいいんだ、って。

プロローグは次のように締めくくられる。

このように、本格的な創造とは、つくっているものの「あるべきかたち」になるようにすることであり、その過程で、つくる対象やその世界を内側から体験することを伴う。それは自我の表出や作為というものを手放し、対象と一体になるという意味で「無我の創造」と呼びうるような創造である。そのような意味での創造の経験の機会を、教育の場では提供していくことがこれからますます重要になってくる。
~~~


・「つくる」という冒険に出る。
・その物語(プロジェクト)を走らせる。
・その物語(プロジェクト)に自我を沈める。

この繰り返しこそが「自己表現せよ」という呪いを解くカギなのだろう。

「つくりこと」から始め、発見と変容を繰り返す「場」を持つプロジェクトを設計すること。たぶん、そういうことだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)日記

2022年05月20日

散歩するように本を読む


「ジェネレーター まなびと活動の生成」(市川力+井庭崇 学事出版)

もうブログを書けなくなってしまうのが残念ですが読み終わってしまいました。
最後まで揺さぶられ続けました。

今日は阿賀黎明高校でフォトスゴロクの実践をするところだったのでタイムリーでした。

エピソード8は「歩き、つくる」

ここで出てくるのは「feel度 walk」。
なんとなく気になるモノ・コト・ヒトと出「遭」いながらあてもなく歩くこと。

あてもなく歩き、発見した物事を愛でてゆくと「歩き愛でスイッチ」がONになり、5Gシステムが作動する。

★5Gシステム
1 遭遇:いつでも遭遇しているというマインドセット
2 偶然:たまたまつながる偶然な発見
3 隅:隅っこから始まるのを厭わない
4 愚:まずは愚直に続ける
5 寓:追いかけた先に物語(寓話)が生まれる

ここで出てきたキーワードは、陸奥賢さんがポリフォニックミュージアム冊子で語っていたことと同じだ。

冊子:「歩くというのは字義通り、少し止まる」ことだと考えている
本書:「歩」という漢字は、「止」と「少」という漢字を組み合わせて構成されている

!!!
きたね、これ。シンクロニシティ。

そして、こっからですよ、こっから。
面白いのは。

1 feel度 walk でMy Discovery 「アイ(I)」
写真を撮るワークをするとき、ひとりひとりが撮ってきた写真にはほぼ同じものがない。
2 My Discoveryのシェアが生み出すYour Discovery 「アイ(相)」
お互いのMy Discoveryをシェアすると他者のMy Discoveryに関心が向き始める。
3 発見がひとつに合わさるOur Discovery 「アイ(合い)」
場によってMy Discoveryを元に別の発見をする。
※発見の拡張はアイの拡張でもある。

そして、ココもよかった P224
~~~
関心の低い子は自身のない子も多く、「どうせ私の発見なんて大したことない、面白くない、誰かにバカにされたら嫌だ」と思っている。このときに普段から教師自身がfeel度walkを積み重ねていると、君も世の中のあちこちに転がっているささやかな発見を共有する仲間になったね!という思いのこもった「面白いね!」という言葉が口をついて出てしまう。この思いが相手をゆさぶり、どの発見にも「意味」を見出すことができ、優劣はないという気持ちが開く。たかが「なんとなくの発見」と侮ることができない、自己効力感を取り戻す場になる。

feel度walkは、効率性と画一化からの「逸脱」を許す。みんなが足並みをそろえて反応しなくてもよい。個々の発見するまでの時間差も個々の発見の多様さも当たり前。何かがみつかるのを待てる余白。それを受け止める寛容さ=generosityがジェネレーターの持ち味だ。励まそうとか、支援しようとかいうようなアプローチで「動機づける」のではなく、お互いのDiscoveryを素直に認め合うことで、どの瞬間でも何かしらみつけてしまうfeel度が高まり、歩き愛でスイッチがONになるのである。
~~~

いやあ、これです。僕が「場のチカラ」にフォーカスし続けた理由。「自分」ていう境目をなくすために、まずはアイデアを出すところ、そして「場」を体感するところから始めてほしいと思っていたんです。なんだかうれしいなあ。

さらに、feel度walk Focus walk Ferment walkで探索・試行・表現のサイクルを回していくことが大切だと言います。feel度walkすると気になるものが生まれそれに焦点を当てたFocus walkが始まる。すると自ずと気になった物を追いかけ続け、仮説が発酵して現れるFerment walkへと移行する。

この3つのwalkを続けていると自ずと独創的仮説が生成され、それを追究する「プロジェクト」が始まる。

なるほど。walk(観察) ⇒仮説⇒プロジェクトか。
そうだよね。

「プロモート」のために観察し、感じること(21.9.20)
http://hero.niiblo.jp/e492042.html

昨年の探究学習の勉強会で「プロモート」のための観察力っていうキーワードがあったけど。
これってそのまま探究の授業、特に地域の魅力発信のプロジェクトには使えるだろうなと。

workの時もwalkと同じように、最初はfeel度workを行う。

直観の赴くままにあちこちさまよいながら思考を進めて、発見感度を研ぎ澄ますworkがfeel度workであり、そこからFusion workへと発展する。Fusionとは2つのものが合わさること。似ている二つを比べて違いを見つけたり、全く違うものに共通点を見いだしたりすること。さらに発展して、Fantasy workへとつながる。これはFusionによって仮説が更新され続けて見えてきたことを作品化しようとする動きのことだ。

ここで読書の話も出てきます。

「私たちはFision workやFantasy workにつながる「仮説」の芽を伸ばすために読んでいる。だから自分の仮説にヒットする部分がないかどうかを探しながらパラパラと読み進める。直接仮説を後押ししている部分があればよし。仮説の反例でもよし。新たな発想を刺激してくれる部分があってもよい。流し読み、斜め読みで気になる部分を探すのは、まさに「散策して発見する」のと同じ感覚だ。
~~~

なるほどなあ。
プロジェクトとか探究のカギは、feel度walk=観察し、感じる散歩なのかもしれないなあと。
それは読書でも同じだ。

感性と好奇心を発揮しながら、町を歩き、観察し、発見する。本を読み、感じ、発見する。
その身体的な解放と、精神的なオープンマインドがカギを握るのだろう。

昨日は友人と「スターバックスエクスペリエンス」の話をしていた。「レシピはあるけどマニュアルがない」スターバックスの研修。「スターバックスはコーヒーを売っているのではなく、サードプレイスを提供している」お店という「舞台」を、つくり続けているのだろう。「舞台」をつくること、それは「舞台」を構成する要素にアプローチするということ。

その話の中で一番!!と来たのが「外へのブランディングと内なるブランディング」。

「スターバックスエクスペリエンス」を支える最大のものは、空間を共に構成するスタッフの「誇り」「誇らしさ」なのだろうと。その「誇り」が同じ空間を共にするお客様に伝わることが最大のブランディングになっているのだろう。

外に対するブランディングには、お金がかかるプロの助けが必要だ。もちろんそれも、スターバックスはやっているのだろうけど。大切なのは「内なるブランディング」でスタッフの誇りを生み出すことだ。

外なるブランディングは空間を共にしていない分、洗練された言葉やデザインが必要になる。しかし、内なるブランディングは目に見えない「誇り」そのものの勝負だから、今すぐにできるし、工夫次第でお金はかからない。そんな風に場づくり、組織づくりをしていくほうがいいんだろうな。それは1本の授業だとしても同じだなあと。

高校の探究の授業の話で言えば、地域の大人も、生徒本人たちも、先生たちも、「ジェネレーター」になっていくこと。生成の場に身を置くこと。それを繰り返した先に、お互いにいい授業だと思える「舞台」が整っていくこと。その授業に参加できることを嬉しく思うこと。

そんな「エクスペリエンス」を生んでいく授業が次々と連鎖させていきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 06:42Comments(0)日記

2022年05月18日

「自分」から「場」へ


「ジェネレーター まなびと活動の生成」(市川力+井庭崇 学事出版)

僕としてのクライマックス





「場の力」「中動態」・・・
いや、ホント、ここまでやってきてよかったな、と。

僕が「場のチカラ」という言葉を初めて使ったのは、
ブログによれば2009年だったようだ。

その後、茨城の取材インターンひきだしや田舎インターンのにいがたイナカレッジによって磨かれた。

「好き」と「刺激」のあいだ(18.9.5)
http://hero.niiblo.jp/e488038.html

今も、大学生にも高校生にも「成果を生み出すのは個人の力ではなく、場のチカラなんです」って言い続けているし、それを「体感」するところから始めたいということで、偏愛マップ⇒インタビューワークをしたり、カヤック風ブレストをしたり、フォトスゴロクをつくったりしてきた。

この本にもエピソード7(P196)で「なりきる」っていうのが紹介されていて、これは「探究ネーム」の設定によって目指していたものと近いものだった。「なりきりワークショップ」もコンテンツに加えたい。

この本で紹介されているのが「電柱好き」になりきってインタビューを受けるというもの。これもひとりじゃなくて2対2くらいでワークすると面白いかもしれない。「本日のゲストは、電柱をこよなく愛する電柱ブラザーズのみなさんです~パチパチパチ」などと言いながら、テレビ番組さながらインタビューを行う。これも大人とこどもミックスでやったら楽しいだろうね。

この「なりきる」というのは「リフレーム」の練習だと市川さんは言う。

http://hero.niiblo.jp/e492190.html
目的地を決めないこと、地図とコンパスを持たないこと(21.11.25)

このときにえぽっくにとってコーディネートとは?で定義されたのが
・無理でしょ、と思えることをできるようにつなぐ
・面白がる(リフレーミング)
・リソースを拡張する
ことだと。たしかに、コーディネートの価値は、ここにある。

・不可能(だと感じること)を可能にするために「場をつくること(立ち位置を知ることとイメージの共有)」
・新しいアイデア、発想、具体先を出すために「面白がる(⇒リフレーミング)すること」
・それらの実行によって、自分の手持ちだでなく「資源(リソース)を拡張すること」
・仮説を実行した後にふりかえることによって「検証すること」
これはそのままジェネレーターシップにつながっていく。

そのリフレームの練習が市川さんの言う「なりきる」なのだと。

広島の杉本さんが「読書会で好奇心は育むことができる」と言った
http://hero.niiblo.jp/e491170.html
そのキーワードも面白がる、だった。

本書のエピソード6「場の力」から引用する

~~~
自分が属する組織や社会を変えようとすることはとても大事だが、ジェネレーターシップの本質は自分がどう変わるかというところにある。自分が率先して面白い状況をつくりだし、そこに自分がまず没入し、中動態的な生き方をしてゆく。そのために、親子、友達というような思いを共有する小さな仲間とともにジェネレーターシップを発揮する場をつくることからスタートするのがよい。

面白がる場は、決して人と何かをする場だけに限らない。植物や野菜を育てるような自然と関わる場を持つのもいい。植物を育てようというとき、僕らができるのは水と肥料をやるというぐらいで、ほとんどコントロールできない。「こんな花が咲いた」「こんなに実ができた」「今年のミニトマトは調子が悪いな」というように相手が育ってゆくのに寄り添ってゆくしかない。相手が人間だと、相手側の都合や作為が自分に絡んでくるし、相手を変えてやろう、コントロールしようという気持ちが出てきてしまう。しかし、植物相手にはそういう気持ちが働かないので、場に任せ、感じるためのよいトレーニングになる。

(中略)

野菜づくりに没入してもよし、みんなで料理をつくってみるのを楽しむ会からスタートしてもよい。そうすると、個の境目が消えてみんながつくるプロセスに没入する瞬間が訪れる。つくりながら気づいたちょっとしたことをみんなでワイワイ語りあっていくうちに、自らフタをしてきた「面白がる」感覚が目覚めるはずだ。
~~~

「個の境目が消えてみんながつくるプロセスに没入する瞬間が訪れる」
いやあ、それです。「境目をあいまいにすること」「場に溶けだすこと」
それを体感してもらいたいんです。

この部分の続きでは、
大人と子どもが一緒に企み、思いつきを解き放つ場をつくる例として、子どもたちと身のまわりを散策することを薦めている。

~~~以下メモ

子どもたちは、人ではなく人工物にも草にも虫にもフラットな関係性を気づく。子どもと一緒になって歩く「場」に参加し、子どもの感性に触れることで自ずと大人の鎧がとれてゆくだろう。

天真爛漫に見える子どもたちも実は、誰かの期待に応えようとしたり、「そんなのあるわけないよね」と言われることを恐れていたり、好奇心のフタが閉じかかっていることが多い。大人と同じくらい、場合によってはそれ以上に、ここは思いつきを披露する場だという認識を持たせることはとても重要である。

外をあてもなく歩くのがよいのは、会議室や教室のような閉じた空間を飛び出ると、頭と体と心が自ずとゆるむからである。

大人と子どもが一緒に学ぶシチュエーションをつくることはこれからの学びの場づくりにおいてとても大事になってくる。そのときに大人「が」子ども「を」教えるのではなく、大人「と」子どもが対等に同じことをしたり、つくったりすることが大きなカギを握る。
~~~

P173に、子どもが大人とタッグを組むことの効用がまとめられていて

  子ども⇔大人
目:解像度⇔周辺視
耳:問いかけ⇔受けとめ
口:思いつき⇔雑談
手:描写力⇔記憶力

と表現されている。なるほど。
このほかにも「強者と弱者が生まれないフラットな関係を生み出すメタメタマップ」など、「まなぶ」から「つくる」へのシフトを言っていた僕にとってはうなずくばかり。「つくる」にフォーカスすることで人はフラットになる。

今日の最後に、「場」についての記載を引用する。

~~~
「誰が」発見したかは生成・発見の連鎖においてなんら重要ではない。明らかにジェネレーターがよいアイデアを出したら採用される。大切なのは、よいアイデアかどうか本気になって追究する場であるという共通認識が参加者全体にあることだ。

それぞれの強みを発揮し、お互いの発見を面白がり、リスペクトしあう。これがスーパーフラットな関係性でつくり続けるということだ。社会関係が優先される場からともにつくる場へとシフトすることで、こうした関係性が生まれ、ジェネレーターは、出し惜しみしないで本気で相手と関わることができる。
~~~

師匠にあこがれ、師匠のようになろうと「周辺」の軽い仕事から参加し、次第に「中心」の重要な仕事を任されるという「正統的周辺参加」な形ではなく、好奇心がだんだんと目覚め、仕事のプロセス自体を面白がるようになり、ともに表現し、作品をつくりだすためにコラボレーションする「好奇心誘発参加」という形ができる。こうして、相互の関係が対等でありながら、創造に真剣に向き合う場がジェネレートする。(P161)
~~~
「作品をつくるために」っていうのがいいですね。

そしてラスト「場の力」に関しての言及
~~~
ジェネレーターは失敗を引き受け、場を盛り上げ、明るく、面白がれる人であることは間違いない。しかし、その力は個人の属人的な能力や性格を源泉としたものではなく、創造の「場」が生み出す力=Field Forceなのだ。

心は揺らぐものと覚悟し、心に依存せず、発見と創造のプロセスに身を任せる。自分の心の強さで乗り越えるのではなく、「場」に身を委ね、「場」を感じとり、柔軟に問題を解決しようとしている。

すぐに解決されることはなく、解決したと思ったらまた新たな課題が出てくるのが何かをつくるプロセスである。まさに「終わりが始まり」としか言いようがない。このプロセスが繰り広げられる「場」はジェネレーターにとっても、参加者にとっても一世一代の「舞台」に等しい。それぐらいやりがいがあるし、そこで生まれたものを世に披露したいという思いも強くなる。

ジェネレーターは、新たな意味づけを繰り返し、発見と創造の連鎖が生成する「舞台」の上で、「自分」が考えるととらえるのではなく、逆に「自分」の心を突き放して、創造のプロセスに一体化して中動態的に動き続けるのである。
~~~

いやあ、もう、ありがとうございます。
感謝しかありません。キーワード全部入ってます。

トンネル開通です。

アイデンティティ・クライシスのトンネルとクリエイティブ・ラーニングのトンネルは実は1本のトンネルだったんだなあと。その交点に「中動態」があり「場のチカラ」があり「ジェネレーターシップ」があった。

そしてそれは「舞台」であり「委ねる場」でもあった。

成果を生む出すのは、発見・創造を生むのは個人の力でもチームのチカラでもなく「好奇心」により駆動されフラットな関係で個人が溶け出している「場」のチカラだった。

なんだかうれしい気持ちでいっぱいです。
これから実践していきます。
ステキな本をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:39Comments(0)日記