2024年07月24日
「なりきる」チカラ

『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(しんめいP サンクチュアリ出版)
広島県の山奥にある伝説の本屋、ウィー東城で購入しました。
本を読まない人のための出版社「サンクチュアリ出版」からの渾身の1冊。
出版までに3年半かかっている。編集者すごいな、と。
こういう本を書店営業したかったです。
金沢・富山あたりの大規模書店に100冊積みたいです。
とにかく読みやすい。
笑いながら一気に読みました、って感じです。
ブッダから始まって空海まで、
東洋哲学は自分を、そして世界をどのように見ているのか?
ということがとても平易な文章で書かれています。
「自分とは何か?」アイデンティティ問題に悩める中学生・高校生・大学生に特におススメの1冊。
この本のまえがきにも書いてあるけど、
「楽になるための哲学」それが東洋哲学なのです。
ひとつだけ紹介すると、「なりきる」ことのパワーについて
昨日のコミュニティデザイナーのフリをしてヒアリングに行くっていうのに通じる。
「同じポーズで、同じ言葉を使い、同じ心を持つ」
これ、たぶんビジネスの世界でも言われてきたことだなと。
「スティーブジョブズだったらなんていうか?」みたいな。
でもそこにさらにポーズ(身体性)が入っているのがすごいなあと。
(黒タートルネックを着てもいいのかもしれないが)
それって、なにか、共通の服装とかでもいいような気がする。
(カーディガンをプロデューサー巻きにするとか。笑)
タイトル通り、東洋哲学は「自分」などフィクションであると、私たちに語りかける。
「自分」も「世界」も「資本主義」も「学校」も、全部フィクションだとしたら。
「自分」もなりきって演じていくことから始めていっていいのではないか、と思った。
2024年07月14日
「利他」という「自由」へ至る道

『利他・ケア・傷の倫理学-「私」を生き直すための哲学』(近内悠太 晶文社)
昨日につづき、この本から。
第2章 利他とケア
冒頭は経済学者宇沢弘文の『自動車の社会的費用』(1974)から。
~~~
自動車の維持費は、ガソリン代・保険代などの私的費用の他に年間200万程の費用がかかると宇沢は試算しました。ちなみに運輸省試算は交通設備や警察の費用を含めて年間7万円、自動車工業会は7千円ほど、野村総合研究所はさらに大気汚染などの公害の費用も盛り込み、約18万円としました。
これらに対して宇沢の200万はあまりにも大きい。なぜか。
それは宇沢以外の三つの試算はいずれも、失われたものを「金銭的価値」に置き換えるという方法によって算出していました。たとえば「ホフマン方式」と呼ばれるものは、ある人が交通事故で死亡した場合、その損失を「仮にその人が生きていたとしたら得たであろう所得」という基準に基づき算出する方法です。
宇沢の指摘はこうです。
現行の試算の前提は、「ある人間の存在価値は、その主体の生産性すなわち生み出す金銭的価値によって規定される」というものであり、その前提は到底、人間的なものではない。そして、もしこの価値観を一度採用してしまえば、『人間存在は金銭に還元可能であり、損失を金銭によって補填することができる」という主張が帰結してしまう。
失われたものを金銭的な価値に還元せずに宇沢はどうやって試算したのか。答えはこうです。
どのような都市環境や道路の構造であれば、そもそも事故が発生せず、人命がおびやかされずにすむかという視点から計算したのです。たとえば仮に車道を両側4メートルずつ広げ、歩道と車道を並木によって分離したりなどの投資を行った場合、どのくらいのコストが発生するか。つまり、市民の基本的権利を侵害しないような道路を作るにはどれほどのコストがかかるのか、という観点に基づき試算したのです。これは発想の根本的な転換でした。
人命や健康が損なわれた、それは一体いくらのコストなのか?という前提を宇沢は拒否します。なぜなら、それはもはや「回復することのできない価値」だからです。
宇沢の倫理観はホフマン方式という既存のシステムの中で常識的なものとされていた算出方法を認めなかった。そんな倫理が宇沢に車1台あたり年間200万という額を導かせたのです。そして、実際の東京とはまったく異なる、自動車によって生命や健康が奪われない、市民の基本的な人権が守られる都市としての東京を想像したのです。
~~~
うーんすごい。
常識を疑い、リフレームすること。
それこそが倫理なのだと。
さらに、倫理と道徳について、続きます。
~~~
道徳:してはいけないからしない
倫理:したくないからしない
「罰せられるからしない」これは道徳であり
「嫌だからしない」これが倫理である
(池田晶子『言葉を生きる』22頁)
個別の出来事に配慮するシステムというものは存在しません。それは端的な形容矛盾です。そして、システムに従順な者は思考する必要がありません。なぜなら、全てはシステムが決定してくれるからです。そこでは「きまりなので」というまさに決め台詞がきちんと用意されています。
もちろん、それは公平性や公共性といった価値に基づいて設計されたものではあります。あるいは、人治に陥らず、あくまで法治として無秩序になるのを防ぐ意味合いもあるでしょう。ですが、システムがケアし切れない者、システムから「はぐれてしまった者」との邂逅が僕らに利他を促す。そして利他はその定義上、僕らをシステム・コード・規範から自由にする。
ケアと利他を概念として分けることを提案するのは、利他にはそのような「自由」を発生させる力があるからです。宇沢本人にとっては学舎としての使命を果たすという、ねじれや葛藤のない「ケア」だったのかもしれませんが、その姿を見た僕らにとってはそれは「利他」に映る。なぜなら、ホフマン方式という「システム」や「常識」に縛られていた僕らを認知的に自由にしてくれたからです。
宇沢のまなざしによって、僕らはシステム・コード・規範から少しだけ自由になる勇気をもらった。それゆえ、宇沢本人にとっては、市民の大切にしているものをともに大切にしようとしたケアであるが、それを受け取った僕らにとってはそれは利他に見える。
利他にはそのような軛としての思い込みや先入観からの離脱があります。利他には、そのような「自己変容」の契機が潜んでいるのです。
道徳:これまでのシステム・コード・規範によって「踏み固められて」きたもの
倫理:これまでの前例が通用しない、いわばカッティングエッジ(最先端)な判断
道徳はいわば「地図に載っている街」ということです。先人たちが通り抜け、歩き、踏み固められた道が縦横に走っている街が道徳なのです。それに対し、その慣れ親しんだ街から離れ、誰も歩いたことがない未開の大地を歩くこと、そして歩こうとする意志を倫理と呼ぶのです。
当然、不安を拭い去ることことはできず、ぬかるみに足を取られ、時には転びそうになることもあります。しかし、自由という可能性の大地に至るためには、そのような逆境はどうしても必要です。
~~~
「越境」とか「アンラーン」とかっていう意味は、もしかしたらここにあるのかもしれない。
人が何かを学ぶというプロセスは創造的。(寺中作雄 1949)っていうのも、こういうところにあるし、「社会教育」という自由さは、まさに道徳というか、システム・コード・規範が通用しなく(地域)社会における倫理、ケア、利他とつながっているのだろう。
昨日の社会教育主事講習の受講生と話していた時の「福祉」と「まちづくり・産業振興」と「(キャリア)教育」のあいだに、「社会教育」をつくっていくことが可能なのではないか、と思った。
まさに社会教育って「あいだ」に存在するなあと。
地図に載っている街から誰も歩いたことのない未踏の大地を歩くこと。
そして、それは、目の前の人のケアと利他からも始まるのだということ。
「学校社会」や「経済社会」、あるいは「地域(ローカル)社会」といったゴールが描かれているように見える地図とそこでのシステム・コード・規範から越境すること。利他を葛藤すること。
そこにこそひとりひとりの「自由」があるのではないか、と僕は直感した。
「道徳」を疑い、「利他」から始まる自由があるのかもしれないし、それこそが倫理を学ぶ意味なのかもしれない。
2024年07月13日
星を見るな星座を見よ

『利他・ケア・傷の倫理学-「私」を生き直すための哲学』(近内悠太 晶文社)
『世界は贈与でできている』の近内さんの言葉ひとつひとつが胸に刺さる。
まずはケアの定義から
「ケアとは、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」
まずこれを前提に読み進めていきます。
今日はイントロダクションで、
第1章 多様性の時代におけるケアの必然性 より取り上げていきます。
~~~以下メモ
キーワード:進化的適応環境EEA(environment of evolitionary adaptation)
サピエンスのEEAは、具体的には数百万年前~数万年前までの環境を指します。
少なく見積もっても、1万円前までの環境がEEAという環境です。
僕らの身体も精神も、いまだに数万年前の環境にフィットしたまま今日に至っている。
深化的適応環境においては合理的だったものが、現代においては必ずしも合理的ではない例として、著者は「髪」の例を挙げます。
なぜひとは、不合理なまでに髪にこだわるのか?なぜ髪型が思った通りにならなかったくらいのことであれほどまでに落ち込み、逆に好みの髪型やイメージ通りの髪型にカットしてもらえた時は気分が良くなるのか?
その問いに対する進化論的な仮説、理由は、こうです。EEAにおいて、サピエンスたちは潜在的な配偶者、すなわち恋愛のパートナーが若く、なおかつ健康的であるか否かを髪質というシグナルによって把握していたから。
深化的適応環境では、相手の年齢どころか自分の年齢もよくわかっていません。そもそも暦がまだありませんから。当然、病院も健康診断もありませんから本人に自覚的な症状以外の身体的状態を把握するため、髪によるシグナルを利用した、という仮説は確かに筋が通ります。そして、そうだとすれば、かつてのEEAの名残りとして、特に思春期において、急に髪型を気にし始め、髪を手入れし始め、毎朝ただ学校にいくだけにもかかわらず、髪型を整えるようになる若いサピエンスの奇習も納得できるものになります。
生物学者エドワード・O・ウィルソンが語る「人間とは何か?」
「われわれは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ」
身体と心:数万年(数千世代)
制度、社会システム:数百年(数十世代)
テクノロジー:十年~数年(一世代!)
数年単位で進歩するテクノロジーに促され、数百年かけて社会システムは変化する。僕らの精神を置いてけぼりにしながら。
サピエンスとは、他の動物であれば適応進化によって獲得するしかなかった形質を外部化することによって、環境自体を変更してしまう種なのです。身体ではなく、環境(=年における制度、テクノロジー)の側を変えてしまうという、進化のプロセスを裏切る種なのです。
料理(ccok)というテクノロジーによって、人間は胃や小腸、大腸といった消化器系(=身体)を外部化することになったのです。
文化は身体(適応進化)のスピードを凌駕する。
~~~
なるほど。「生きづらさ」の根本原因がここにあるような気がしますね。
「生きづらさ」探究、おもしろいな、と。当事者たちはつらいでしょうけど。
さらに、利他について続きます。
~~~
このズレの根本にあるのは「相手は私と似た存在である」という認識です。逆説的ですが「私とあなたは似ている」と認識することによってすれ違い、「私とあなたは異なる存在である」と知ることによって正しくつながるための道が拓かれるのです。
「あなたが大切にしているものは、私の大切にしているものと異なる」利他はこの認識から始まります。
そしてこれがダーウィンや進化論の議論から離れなければならない地点です。
文明と文化が進めば進むほど、利他は難しくなる。それは、近代的前提だけではなく、文明と文化の根本的な問題です。なぜなら、文化が発展し、複雑になればなるほど、私とあなたのあいだで、大切なものは共有されなくなってゆくからです。
大切にしているものに関する認識の共約不可能性。あるいは、僕ら一人ひとりが大切にしているものの複数性。これはいわゆる「大きな物語の失効」と言い換えることができます。現代における多様性というのはそのようなことを指します。それゆえ多様性の時代とは、僕らの善意が空転する時代のことなのです。
霊長類社会や狩猟採集社会では、例えば食料や飲み水といった資源が限られているため、その主体が生きてゆく上で大切にしているものが極めて広く共有されます。あるいは、部族社会においては、その地域、その集団に根ざした同じ宗教や神話や霊性を共有しているがゆえに、「何が大切なものであるか」が一致しやすくなります。大切にしているものがきちんと少数のものに収束している社会なのです。つまり、大きな物語がきちんと機能している社会ということです。
現代に生きる僕らは、大切にしているものが一人ひとりズレている。それが多様性の時代である。この認識からしか、利他は届かないと言えるでしょう。そうでなければ、それは利他の押し付けであり、ありがた迷惑であり、正義の強制であり、時には道徳の暴走へと至るでしょう。
利他の定義は以下のようになります。
利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること、である。
さらにこの章の僕的なクライマックス「大切なものは目に見えない」(P58)へと進みます。
~~~
たとえば大切にしている時計。時計自体はたしかに目に見えます。ですが、その時計が「祖父が遺したもの」という、時計と祖父と私の関係性は目に見えません。AとBそれ自体は目に見えたとしても「AとBの関係性」は目に見えない。それはちょうど星は見えるけれども、星座が見えないのと同じです。夜空には星と星を結ぶ線は存在しない。星を結ぼうとする意志がなければ星座は存在しない。
では、その3者を結ぶ星座は何によって立ち現れるかというとその時計をめぐる「物語」においてです、そして、その物語は他者から問われ、応答するときに語られる。「この時計はさ、僕のおじいちゃんから貰った時計で、今日みたいな大切な日にはこれを着けるんだ」という言葉の中に、この物語の中に、私、時計、祖父、そして今日という大切な日を、という星々が線で結ばれ、星座を成す。
そしてその星座を見たものは、他者の星座を見せてもらうことができた者は、その星座を組成する、新たな星としてその星座に加わる。なぜなら、その物語はまっすぐに、あなたに向けて語られた物語だからだ。星を見上げ、星座を知ること。そしてそんな星座こそが心である。その認識から利他とケアが始まる。
だとするならば、大切なものが織り成す星座は、あなたと私の<あいだ>にある。あなたから問われ、そして請われ、それに私が応答しようとするその<あいだ>に星座はその姿を顕す。大切にしているものは、モノとしては存在していない。それは、関係性だからです。それは、あなたと私のあいだに、言葉を通して、物語としてその輪郭が立ち現れる。
~~~
うーむ。うなります。
さらに続けて、近内さんは「傷」を定義します。
~~~
大切にしているものを大切にされなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。
そして、大切にしているものを大切にできなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。
~~~
サピエンスの進化の宿命としての「文化(ひとりひとり)の多様化」とそれに伴う「大きな物語の喪失」
テクノロジーの進化に、体と心がついていかないこと。
そして、それこそが「ケア」と「利他」を難しくしている。
こうしてひとりひとりは「生きづらい」世の中を生きているのだと。
星の王子さまが言った
Le plus important est invisible-大切なものは、目に見えない-
これを星と星座に例えた近松さんの言葉に胸が熱くなりました。
~~~
「物語」を知ったもの、つまりその星座を見たものは、他者の星座を見せてもらうことができた者は、その星座を組成する、新たな星としてその星座に加わる。なぜなら、その物語はまっすぐに、あなたに向けて語られた物語だからだ。星を見上げ、星座を知ること。そしてそんな星座こそが心である。その認識から利他とケアが始まる。
~~~
「コネクティング・ドット」ワークショップを思い出した(23.7.2)
http://hero.niiblo.jp/e493154.html
他者の物語を知ること。
「星」と「星」をつなぐこと。
そしてその星座に自らが加わること。
文化の多様化。それによる分断。
「(首都圏ではなく)地方の高校に越境して行く(=地域みらい留学)」という大きな物語が喪失しつつあるのかもしれない今、地域の大人を含めて、ひとりひとりの星を星座としてつないでいく機会が必要なのではないか、と強く思った。
2024年06月28日
あなたにしかできない貢献は?

『東大よりも世界に近い学校』(日野田直彦 TAC出版)
いつだったか、御徒町駅近くの夜学バーに行ったときに、日野田先生の箕面高校時代の教え子がいまして、そこから気になっていたので、ようやく読めました。
まずは、日本の学校の初期の頃のデザインについて
~~~
権力者や会社の上司など、上に立つ人の方針や考えをふまえて行動する人、もっといえば、「上」の意向をくみ取り、忖度できる人が必要でした。そのような人間を育てるために学校はデザインされています。国語の入試問題で「著者の意見」を問うのはそのためです。上の人の意見を理解できる人間を育てるためです。入試問題に強くなるには、出題者の著者の意見だけでなく、「出題者の意図」を察することが必要です。
~~~
そして、さらに就職について
~~~
ご両親が知っているような会社は、極端に言えば、いまがピークです。いずれピークアウトする可能性が高いのです。かつて製鉄業や重工業などの花形産業と言われていた企業がその後どうなったかを考えるとわかるのではないでしょうか。
みなさんは従順な犬ではなく自立心の強いネコや、どこでも生きていけるオオカミやライオンのような人間に成長しなくてはいけません。これからの社会や企業が、そのような人材を求めるようになるからです。
~~~
と説明します。
もっともですね。
海外では求められる人材について、このように説明します。(P51)
~~~
・オーナーシップを持ち
・オープンマインドで接し、
・グロース・マインドセットをもって試行し
・他者への貢献ができる人材
~~~
そのために学校は
・アカデミックスキル重視
・自由度、主体性、多様性が高い
・パーパスに気づく
ことをプログラムする必要があります。
2章と3章は、日野田先生の実践と、これまでの経歴がアツく書いてありまして、読んでもらえれば背景がじわっときます。
そして第4章「ミライの勇者へ」という熱いメッセージが。
ナレッジ=鎧 スキル=盾 マインドセット=剣
世界から問われている3つのC
「チャレンジ」「チェンジ」「コントリビュート」
そして、この本のハイライトは
P169からの「Who are you?」です
~~~
Who are you?
海外に行くと、必ずといってよいほど、そうきかれます。
What's your story?(あなたの物語は?)
What's the Contribution that only you can make?(あなたにしかできない貢献は?)
How do you see The World(あなたにはこの世界はどう見えている?)
~~~
「あんただれやねん?」と聞かれているのです。
Who are you?は、名前を聞いているのではありません。
職業を聞いているのでもない。
もっと本質的な質問です。
世界観といってもよいかもしれません。
~~~
How would you like to be remenbered?
「君はどのような人として記憶されたいか?」
なるほど、と。
そんな本を移動中に読んでいて、向かったのが、
「地域・教育魅力化プラットフォーム活動報告会2024~地方から教育を変える~」でした。


~~~以下イベントメモ
【尾田専務理事・活動報告】
・2024年度に地域みらい留学で移住した高校1年生は、3199名。2024年度は35道県144校が参画している。
・「地域・教育魅力化プラットフォーム」のビジョンは、「意志ある若者にあふれる持続可能な社会をつくる」こと。そのために「地域みらい留学事業」および「コーディネーター育成事業」を推進していく。
・「地域みらい留学」のテーマは「やりたいこと」と「自分らしさ」を見つける。
・高校時代=地域で育まれる最後の3年間
・アンケート結果によれば、地元の子を含めて意志ある若者が生まれつつある。
【卒業生トークセッション】
・地域みらい留学は育った場所と違うところでスタートするので「ありたい自分でスタートできる」
・大学(慶応大学SFC)の同級生は敷かれたレールをただ進んでいる人もいるが、自分は地方(島根県立津和野高校)で高校時代を送ったことで選択肢が多くなり、就職に迷っている。
・中学生へのメッセージは、「自分で決める」ことが大事
【岩本代表理事・みらい留学のみらい】
・キーワードは「越境」:「東京から地方へ3年間」という地域みらい留学の枠を超える。地方⇒地方、2泊3日の「みらたび」等の推進
・「地域」「学校」の枠を超えて、海外にいる日本人や日系二世を含めて、地方の高校に行くようなムーブメントを作れないか?
・海外で日本語教師として活躍している日本人・外国人は「グローカル・コーディネーター」として地方の高校に配置できないか。
・生まれた環境は選べないが、学ぶ環境は誰もが選べる時代を
【ゲストトークセッション】
・大空高校のテーマは「越境」と「探究」具体的には海外留学を進めている。(町からの補助40万。定員4名に対して応募7名。落ちた子は自費で行くなどが起こっている。
・大空高校は国内短期留学も取り組んでいる。地元出身の子も化学反応により、外に積極的に出ていくようになった。
・「みらたび(2泊3日の他地域高校みらい留学体験)」も積極的に取り組んでいる。
・大人世代の「リアルで出会った人とオンラインでつながる」のではなく高校生はネットで出会って、リアルで会いに行く、という流れが生まれている。
・地域みらい留学生のさらなる「留学」、「留学」×「留学」が起こっているのではないか。
【感想】
・144校の中でどのように個性を出して阿賀黎明高校を選んでもらうか、についてさらにメッセージを磨く必要がある。
・海外・国内を問わず、地域みらい留学生や地元の子が他国・他地域へと越境する「留学」×「留学」に取り組むのは魅力のアップにつながるのでは。
・高校時代の海外/国内の(短期)留学に町の補助等も検討していく必要がある。
・国内留学のプラットフォームとして「みらたび」について調べ、参加・参画を検討したい。
参考:みらたび https://miratabi.jp/
まさにこの感想の一番上。
中学生にどうやって阿賀黎明高校を選んでもらうか?
それには究極、かかわる大人たちひとりひとりが、
「Who are you?~あんただれやねん?」に答えられることだし、
この3年間で、ともにそれを探し、見つけ、磨き、創っていこうぜっていうメッセージを発することなのだろうな、と。
2024年06月06日
技術ではなくセンスを磨く「修行」
痛快。
爆笑。
久しぶりにこういう本読んだなあ。

『「仕事ができる」とはどういうことか?』(楠木建 山口周 宝島社)
某大手古本チェーンで購入。
楠木さんの『ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件』(楠木健 東洋経済新報社)
http://hero.niiblo.jp/e486575.html
参考:もし、このプロジェクトが「アートプロジェクト」だとしたら(17.12.22)
のエッセンスも詰まっていてうなる本です。
山口さんの
『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』
http://hero.niiblo.jp/e486473.html
参考:「正しい手」よりも「美しい手」を指す(17.12.7)
『劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?』(山口周 光文社新書)
http://hero.niiblo.jp/e489486.html
参考:なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)
と合わせて、
「50代オッサン上司の言ってること意味わかんないなあ」と嘆く20代におススメの本です。(笑)
キーワードは「シークエンス(sequence):(物事の)連続,一連;(映画などの)一続きの場面、順序、配列」
「コラボレーションでシナジーを」みたいに言うオッサンに対して、手厳しい。
~~~ここから引用
成果に至るシークエンスを経営者が描いていて、そのシークエンスを構成するピースに欠けている要素がある。その欠けている要素が自社だけで用意できないから提携やら合併やらによって埋め合わせる。それを総称して「シナジー」ということになるわけですが、やたらと「シナジー」と叫んでいるだけの人は、そのシークエンスが描けていないんでしょうね
成功者が「ほかの人間とは景色が違って見えている」というのは、その人の独自のフィルターを通したときに、同じものが「違って見える」ということ。ここでフィルターに相当するのが、その人が持っているストーリーなんだと思うんです。
自分なりのストーリー上に位置づけることで、個別の要素が独自の意味を持ち始めるということ。戦略は全部「特殊解」であって、すべてが文脈に依存していて一般的な解はないですからね。
逆に言えば、論理を積み重ねていきついた解が他者と同じであれば、それは論理的に正しくても最適解ではない、ということですよね。
~~~
いやあ、その通りすぎる。
「戦略」とは「経営」とは何か、考えさせられる。
さらに「なんとか3.0」おじさん、「これからはサブスクだ!」おじさん、「GAFAはこうやってる」おじさんに対しても手厳しい。
~~~
「3.0とおっしゃいますが、だとしたら2.0ってなんだったんですか。3.0との本質的な違いはどこにあるんですか?いずれは4.0もあるんですね。」と問い詰めると、「いや、『気持ち3.0』なんだ」と。
アドビはサブスク以前に「photoshop」を売りまくっていて、条件がそろっていたからこそ、サブスクに舵を切ったのです。
GAFAはメガプラットフォームだからスゴイんだ、という話。GAFAは戦略も収益構造も、まるでちがう会社だということがすぐわかる。でも、そういう中身には立ち入らず、とりあえずの結論が「これからはプラットフォーマーの時代だ」。実に空疎です。イオンもウォルマートもセブンイレブンもプラットフォーマーと言えばプラットフォーマーですからね。JR東日本もそう。あれだけプラットフォームを持っている会社はほかにない。
「まさにプラットフォーマーです。(笑)」
「東京駅の1日の乗車人数だけで約47万人ですよ」
「現物のプラットフォームを持っている」
~~~
ここで爆笑してしまった僕もオッサンなのかもしれないですが。。。泣
本書では一貫して、仕事ができる人にはスキルではなくてセンスがある
じゃあ、そのセンスはどう磨かれるのか?という話が続いていきます。
ここでひとつ紹介したいのがセンスを磨くのは昔から「修行」だっていうこと
ここで「修業」と「修行」の違いについて。
「修業」とは,一定の業を習い修めることで,自分の利益のために業を習い修める事であるのに対して,「修行」とは何物も求めず利害得失を離れて,悟りを開いた人々の道を行ずる事です.武道修行の究極は人間形成です.著者は,武道の修行において,健康で徳を身につけ,品位と品格を備えることを常に最終目標としております.(文武不岐(ぶんぶふき) : 修業と修行遠藤 守 バイオフィードバック学会)
~~~
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)
ヘリゲルは、禅に興味があって、禅を学びたいと東北大学の教授になったとき「禅を勉強するんだったら弓をやったらいい」と言われたので当時の弓の世界の第一人者「弓聖」と言われていた阿波研造に弟子入りした。
そこで弓を持たせてもらえないところから「修行」することになる。やっと弓を的に向かって打たせてもらうときになって、「的に当てようとして撃っちゃいけない」と言われる。「あなたが的に当てようとしなくても、的にあたるように勝手に矢が出ていくから、矢にいかせなさい」というのを聞いて、ヘリゲルは爆発して、「先生は目隠しをしても当てられるんでしょうね」と言う。
そして、暗やみの中で・・・
ヘリゲルはヨーロッパに帰ってから、こう書いた
「西洋的な近代合理主義の考え方とまったく違う、まず効果が特定されない、トレーニングと成果の関係が説明されない、何かできるようになったときにはもうそれ以前に戻れないという、そういう世界がある」
~~~
まさにこれが「修行」の意味なのだろうな。
ゴールを設定してロジックで積み上げていくのではなく、センスを磨いていくこと。
「石の上にも三年」っていうのは、修業ではなく修行のことだったのだろうと思う。
スキルだけなら、Youtubeを見ながら実践した方が早いのだろうけど、センスを磨くにはまた違った方法が必要なのだろうと。
爆笑。
久しぶりにこういう本読んだなあ。

『「仕事ができる」とはどういうことか?』(楠木建 山口周 宝島社)
某大手古本チェーンで購入。
楠木さんの『ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件』(楠木健 東洋経済新報社)
http://hero.niiblo.jp/e486575.html
参考:もし、このプロジェクトが「アートプロジェクト」だとしたら(17.12.22)
のエッセンスも詰まっていてうなる本です。
山口さんの
『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』
http://hero.niiblo.jp/e486473.html
参考:「正しい手」よりも「美しい手」を指す(17.12.7)
『劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?』(山口周 光文社新書)
http://hero.niiblo.jp/e489486.html
参考:なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)
と合わせて、
「50代オッサン上司の言ってること意味わかんないなあ」と嘆く20代におススメの本です。(笑)
キーワードは「シークエンス(sequence):(物事の)連続,一連;(映画などの)一続きの場面、順序、配列」
「コラボレーションでシナジーを」みたいに言うオッサンに対して、手厳しい。
~~~ここから引用
成果に至るシークエンスを経営者が描いていて、そのシークエンスを構成するピースに欠けている要素がある。その欠けている要素が自社だけで用意できないから提携やら合併やらによって埋め合わせる。それを総称して「シナジー」ということになるわけですが、やたらと「シナジー」と叫んでいるだけの人は、そのシークエンスが描けていないんでしょうね
成功者が「ほかの人間とは景色が違って見えている」というのは、その人の独自のフィルターを通したときに、同じものが「違って見える」ということ。ここでフィルターに相当するのが、その人が持っているストーリーなんだと思うんです。
自分なりのストーリー上に位置づけることで、個別の要素が独自の意味を持ち始めるということ。戦略は全部「特殊解」であって、すべてが文脈に依存していて一般的な解はないですからね。
逆に言えば、論理を積み重ねていきついた解が他者と同じであれば、それは論理的に正しくても最適解ではない、ということですよね。
~~~
いやあ、その通りすぎる。
「戦略」とは「経営」とは何か、考えさせられる。
さらに「なんとか3.0」おじさん、「これからはサブスクだ!」おじさん、「GAFAはこうやってる」おじさんに対しても手厳しい。
~~~
「3.0とおっしゃいますが、だとしたら2.0ってなんだったんですか。3.0との本質的な違いはどこにあるんですか?いずれは4.0もあるんですね。」と問い詰めると、「いや、『気持ち3.0』なんだ」と。
アドビはサブスク以前に「photoshop」を売りまくっていて、条件がそろっていたからこそ、サブスクに舵を切ったのです。
GAFAはメガプラットフォームだからスゴイんだ、という話。GAFAは戦略も収益構造も、まるでちがう会社だということがすぐわかる。でも、そういう中身には立ち入らず、とりあえずの結論が「これからはプラットフォーマーの時代だ」。実に空疎です。イオンもウォルマートもセブンイレブンもプラットフォーマーと言えばプラットフォーマーですからね。JR東日本もそう。あれだけプラットフォームを持っている会社はほかにない。
「まさにプラットフォーマーです。(笑)」
「東京駅の1日の乗車人数だけで約47万人ですよ」
「現物のプラットフォームを持っている」
~~~
ここで爆笑してしまった僕もオッサンなのかもしれないですが。。。泣
本書では一貫して、仕事ができる人にはスキルではなくてセンスがある
じゃあ、そのセンスはどう磨かれるのか?という話が続いていきます。
ここでひとつ紹介したいのがセンスを磨くのは昔から「修行」だっていうこと
ここで「修業」と「修行」の違いについて。
「修業」とは,一定の業を習い修めることで,自分の利益のために業を習い修める事であるのに対して,「修行」とは何物も求めず利害得失を離れて,悟りを開いた人々の道を行ずる事です.武道修行の究極は人間形成です.著者は,武道の修行において,健康で徳を身につけ,品位と品格を備えることを常に最終目標としております.(文武不岐(ぶんぶふき) : 修業と修行遠藤 守 バイオフィードバック学会)
~~~
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)
ヘリゲルは、禅に興味があって、禅を学びたいと東北大学の教授になったとき「禅を勉強するんだったら弓をやったらいい」と言われたので当時の弓の世界の第一人者「弓聖」と言われていた阿波研造に弟子入りした。
そこで弓を持たせてもらえないところから「修行」することになる。やっと弓を的に向かって打たせてもらうときになって、「的に当てようとして撃っちゃいけない」と言われる。「あなたが的に当てようとしなくても、的にあたるように勝手に矢が出ていくから、矢にいかせなさい」というのを聞いて、ヘリゲルは爆発して、「先生は目隠しをしても当てられるんでしょうね」と言う。
そして、暗やみの中で・・・
ヘリゲルはヨーロッパに帰ってから、こう書いた
「西洋的な近代合理主義の考え方とまったく違う、まず効果が特定されない、トレーニングと成果の関係が説明されない、何かできるようになったときにはもうそれ以前に戻れないという、そういう世界がある」
~~~
まさにこれが「修行」の意味なのだろうな。
ゴールを設定してロジックで積み上げていくのではなく、センスを磨いていくこと。
「石の上にも三年」っていうのは、修業ではなく修行のことだったのだろうと思う。
スキルだけなら、Youtubeを見ながら実践した方が早いのだろうけど、センスを磨くにはまた違った方法が必要なのだろうと。
2024年06月04日
「正しさ」という暴力

『インフォーマル・パブリック・ライフ』(飯田美樹 ミラツク)
第二部まで読み終わりました。
第四章から第六章のイギリス郊外の誕生の話は、
歴史的背景が詳しく書かれていてドキドキします。
以下メモ
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十九世紀の産業革命が進むにつれ、分離・役割分担は拍車をかけて進んでいった。分離したのは大抵の場合、力があり、そこから離れることにした側が嫌悪感をもっていたからである。
ロンドンは産業革命が進むにつれて田舎や外国から都市へと流れ来る人の数は日増しに多くなり、人口増加に伴う問題も手がつけられなくなっていく。賭博、強盗、売春も日常茶飯事となった。そんなロンドンの様子に嫌気が差したロンドンのブルジョワたちは、郊外の住宅に理想のイメージを抱くようになっていく。
郊外の一軒家で利発な子どもたちに囲まれて、優雅にお茶を楽しみ、精神的に豊かな暮らしを送る。それがイギリスのブルジョワたちが描いた夢だった。
~~~
分離・分断の端緒はここにあったと著者は説明する。そして、フランスでも郊外は開発されたが、カトリック色の強いフランスにおいては、ブルジョワたちは都市の楽しみを諦めることができなかった。
カギを握るのは「福音主義」と「プロテスタンティズム」である。
~~~
中世のカトリック教会は、人間の性質はアダムの罪によって堕落したが、もともと善を求めており、また人間の意志は善を求める自由をもっている、というような人間の尊厳や人間の意志の自由やまた人間の努力が有効であることを強調した。
カトリックにおける神は、イエス・キリストのように分け隔てなく人々を愛し赦してくれる、あたたかい存在だった。罪を犯しても赦してもらえるからこそ、告解という仕組みや、ルターが非難した免罪符が誕生したともいえるだろう。
また、カトリックにおいて聖書だけでなく教会とそこで執り行われる伝統的儀式もかなりの重要性をもっていた。
~~~
腐敗したカトリックに対抗して生まれたプロテスタントは、聖書に記載されていない教会の儀式や伝統などは根拠がないとして否定した。プロテスタントでは、神の言葉が書かれた聖書に直接向き合う信徒という、神と人との一対一の直接的な構図が重要だった。
ここで重要なのは、これまでの「神と人間の間に教会というクッションがある構図」から「絶対的な権力をもつ神と小さな個人」というダイレクトな構図に変わったことである。
マルティン・ルターやジャン・カルヴァンが語る神の姿は、同じキリスト教かと疑いたくなるほどに厳しい、専制君主的な恐ろしさをもっている。
フロムは言う「ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅亡とを要求した。」(『自由からの逃走』)
「神のように絶対的な理想と無力な個人」という構図こそが、近代の資本主義社会の発展や二十世紀の郊外に残された人々の魅力感を理解するための鍵になる。
~~~
「宗教改革」っていいことだと思ってました。「改革」だからね。実際はなんて恐ろしいことなのでしょうか。
この前提を知っていることは、現在の社会の構造を理解する上でとても重要なことだと思った。
さらに恐ろしいのはカルヴァンの「予定説」。
「偉大なる神は、ある選ばれた人だけを永遠の生命に予定した。他の人々は永遠の死滅に予定されている。これは人の信仰によるものではなく、変えることのできない運命として神が事前に決定したものである。」というものだ。
フロムは言う
「予定説は個人の無力と無意味の感情を表現し、強めている。人間の意志と努力とが価値がないということを、これだけ強く表現したものはない。人間の運命についての決定権は、人間みずからの手からは完全にうばわれ、この決定を変化させるために、人間のなしうることはなに一つとして存在していない」
「個人がみずからの行為で、その運命を変えることができるというのではなく、努力することができるということそれ自体が、救われた人間に属する一つの証拠なのである。さらにカルヴァニズムが発展すると、道徳的生活とたえまない努力の意味とを強調することが重要になり、とくにそのような努力の結果として、世俗的な成功が救済の一つのしるしであるという考えが重要になってくる」
~~~
あーこわい。
「努力したから成功した=神に選ばれた」がいつのまにか、「成功したのは努力したからで、成功しないのは努力が足りないからだ=神に選ばれていない」に変わってしまった。
それを後押ししたのが「福音主義」であると著者は説く。背景は産業革命によるブルジョワの誕生である。
プロテスタントの教えの通りによく働き、豊かになった者たちを待っていたのは、キリスト教の宗教観にあった「金持ちは天国にいけない」というものだった。信仰心の強い者のなかには、富を築いたことを重荷に感じ、自分を罪深く感じてアイデンティティ・クライシスに陥る者もいた。
これを「事業によって獲得した資金を自分や家族の快楽のためではなく、事業の発展のために再投資するのであれば問題は解決する。それは天職の遂行であり、世界をよりよくすることに一層貢献するため、良心の呵責は生じない。」つまり、事業の成功を収めることは、神に選ばれた証であるという発想の大転換により当時の支配階級や多くのブルジョワたちの指示を得ていったのである。
そんなタイミングで、ロンドン南西部「クラッパム」で「初期郊外」が誕生した。そこに集ったものは「クラッパム派」と呼ばれた福音主義者で、地上に神の国を創ろうと様々な慈善事業やキャンペーンを手がけていた。
福音主義の家庭にとって、最大の敵は都市での玉石混淆の娯楽だった。
真のキリスト教徒として目覚めた両親が神が非難した世界から手を切ったとしても、世界は誘惑に満ちており、子どもたちがその誘惑を避けるのは難しい。誘惑に勝ち、悪い影響を受けないようにする手っ取り早い方法は、誘惑がありそうな場所に行かないことである。
その誘惑を断ち切るためには、物理的に遠く離れた場所に居続けるというのが一番効果的な方法なのだ。郊外に引っ越せば、都市の娯楽とは全く別の穏やかな家庭生活と、自然と調和のとれた美しい生活が手に入る。
ロバート・フィッシュマンは言う。
「都市と福音主義的家庭の理想とのこの矛盾が、郊外の理念となって核となる、都市と市民の住宅の前例のない分離に対する最終的な原動力となった。都市はただゴミゴミし、汚く、不健康なだけではない。都市はモラル違反だったのだ。救済の成功は、家庭という女性の神聖な世界と子どもたちを、大都会という神を冒瀆したような場所から切り離すことにかかっていた」
こうして「郊外」は「都市」から分離された。
そしてそのことにより、郊外に移り住んだブルジョワと、都市に住み続けるしか選択肢がない労働者は大きく分断された。
「郊外」が始まったのが、経済的理由だけでなく宗教的理由が非常に大きかった、いや根本的な原動力はそこにあったのだ、と実感させられた。
そして、それこそが「分離」「分断」の始まりだったのだと。
「(宗教的)正しさ」によって、「郊外」は誕生した。それによってブルジョワと労働者は、ますます分断された。
それをさかのぼると、「宗教改革」(と学校で習った)ことの残酷さが見えてくる。
格差の増大はもちろん、それだけでなく「アイデンティティ・クライシス」についても。
産業革命によって世の中が劇的に変わっていく中で、自らの「存在」の価値を信じられなくなったこと。カトリックからプロテスタントへの大きな流れの中にあったこと。お金持ちになることへの苦悩。スラム街を見て、目の前の格差に心痛めること。
その不安から救ってくれたのが「福音主義」という「正しさ」であった。
ブルジョワは郊外へと引っ越し、家庭を守りながら仕事へと邁進した。
そして何が起こったか。
都市生活から切り離され、たしかに危険なことや誘惑から解放された。
それと同時に何かを失ったのだ。
その「何か」は、ひとりひとりの「アイデンティティ」に関わることだった。
「正しさ」という暴力に、今もなお、僕たちはさらされているのだ、と感じた。
2024年06月01日
経験に対する開放性

『インフォーマル・パブリック・ライフ』(飯田美樹 ミラツク)
この本、売りますね。僕から買いたい人はご一報ください。
本日は第2章から
キーワードは「経験に対する開放性」
以下メモ
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『新・クリエイティブ資本論』を著したリチャード・フロリダは、「芸術家や科学者、起業家に見られる高度なクリエイティビティと、新しい経験に対する好奇心旺盛で開放的な性格との間に強い相関関係があることは、多くの文献も明らかにしている」と語る。
経験への開放性とは、自分の属してきた世界の価値観とは異なる新しい経験をしたときに、「そんなんありか!」と肯定的に捉える、または少なくとも否定的に捉えないということである。
メディアを通じて異なる価値観と出会った時、私たちは「それは想像上の世界」「特殊な成功例」としてシャットアウトする傾向がある。一方で自分の意思にかかわらずシャットアウトできないものが、肌感覚での経験だ。目の前で自分の想像を超える出来事が起こったとき、それを五感を通じて全身で知ってしまったとき、それを否定することは体験した自分自身を否定することになってしまう。
自分の属してきた世界の経験と全く異なる世界があると理解したとき、「ありえへん」「許さない」と思う人もいれば、「面白い」「どうしたら私にもできるだろう」と思う人もいる。フロリダの言葉を借りれば、後者がクリエイティブな人間であり、クリエイティブな人は経験に対する開放性を強く求めているのである。
経験に対する開放性が低い場所というのは、同質性を求められ、同調圧力が強く、閉鎖的になる。まさに「出る杭は打たれる」わけで、少しでも違っていたら「ありえへん」という扱いをされてしまう。
経験に対する開放性は、同調圧力を圧力と感じない者にとっては必要ないかもしれないが、同調圧力の中で死にかけている者にとっては生死を分けるほど重要である。
クリエイティブな人間や天才的才能をもった者には、豊富な材料や広いアトリエさえあればよいのではなく、自分のことを理解し、共感し、支え、応援し、切磋琢磨できる人たちと日常的に出会えることが非常に大切である。こうした場所があれば、彼らの才能は伸びていき、単なる夢見がちな若者ではなく、現実に何かを生み出す人となっていくだろう。
こうした場での出会いやカフェでの会話は五感を通じて肌感覚で行うため、情報の伝達スピードや理解の速度がオンラインに比べて大幅に速くなる。また、何気ない会話がヒントとなり、そこから予期せぬ対話やアイデアが生まれていく。これこそが、人が実際に集まり、出会うことの醍醐味である。一+一は五にもなり、凝縮した出会いが継続的に行われるほど、爆発的なスピードが生まれ、現実になっていく。
~~~
「経験に対する開放性」
まさにこのキーワード。
これこそが地方(都市)の移住者受け入れ数を決めているのだと思う。
予測不可能な未来を前提として、そこに開かれていられるかどうか。
それがクリエイティブな若者を受け入れ、彼らのクリエイティビティを発揮できる状態にするポイントなのだろうと思う。
その「場」は、プラットフォームは。地方の小さな家でもつくれるのだろうか?
そんな問いがある。
でも、それをつくってみないことには始まらないな、という気もする。
そうやって未来を拓く方法もあるのでは。
2024年05月31日
第三の自分

『インフォーマル・パブリック・ライフ』(飯田美樹 ミラツク)
著者の飯田美樹さんとは、学生時代の「エコリーグ」からのつながり。
25年くらい経ちますね・・・
この本の出版記念パーティーが火曜日に行われていて、すれ違いで東京に行ってしまい、
重大な機会を逸しました。。。
敬愛する上田信行先生も来ていたと聞いて二重のショック。
渋谷のPRONTOで30分ほど雑談してきました。ありがとうございました。
さっそく本、読み始めていますが、第1章 インフォーマル・パブリック・ライフからいきなり心を掴まれたのでメモ
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『サードプレイス』を著した社会学者レイ・オルデンバーグはサードプレイスについて語る前に、「インフォーマル・パブリック・ライフ」について説明し、その核となる場のことをサードプレイスと呼んでいる。
インフォーマル・パブリック・ライフとは、肩書や社会のコードから一旦離れ、リラックスし、自分らしくいられる場のことである。そこは魔法のように人を惹きつけ、人を吸い寄せる力をもっている。
インフォーマル・パブリック・ライフの三つの意義
1 ソーシャル・ミックスを促す
多種多様な人たちがそこに集い、その存在を肌感覚で味わえること。映画や雑誌の中にではなく、実際に自分が立っている地平にこんなにも様々な人がいる。大道芸人として生きている人や、肌や髪の色、服装も仕事も異なる人が、同じように、ここでは幸せそうにリラックスして生きているのを肌感覚で知ることは、自分の幅を広げ、生きる勇気を与えてくれる。
2 カフェ・セラピー
訪れた人の視点を変え、視野を広げる。カフェのカウンターで、スタッフや隣り合った人たちと何気ない話をし、街を歩いて華やかなショーウインドウに見とれ、広場や公園でピクニックをする人々や走り回る子どもたちをぼんやり眺めているだけで、視線だけでなく思考も引っ張られ、次第に心すら動かされていく。すると、さっきまで問題に支配されていた頭の中が現れたようにスッとしていくのである。
3 本来の自分自身になれる
オルデンバーグの「第一の場所:家庭」「第二の場所:学校や職場」「第三の場所(サードプレイス):友人や知人と気楽に落ち合える場所」の視点を人間にも当てはめると
第一の自分:親や子どもといった家庭内での役割
第二の自分:学校や職場での役割
第三の自分:上記どちらの役割にも収まり切らない、より包括的なその人全体
「第一の自分」と「第二の自分」が板についてくると、次第に本来の自分と、仮面を被って演じていた自分との境界がわからなくなっていく。生活に余裕がなければ「第三の自分」に気づく暇すらないというなかで、本来の疎外された自分がひょっこりと顔を出すかもしれない場所、それがインフォーマル・パブリック・ライフなのだ。
~~~
!!!
「第三の自分」という言葉にピンときた。僕がつくりたいのも、そういう「場」なのではないかと。
さらに「第三の自分」についてエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を引用しながらつづく
~~~
本来の自己とは、精神的な諸活動の創造者である自己である。にせの自己は、実際には他人から期待されている役割を代表し、自己の名のもとにそれを行う代理人にすぎない。
本来の自己はにせの自己によって完全におさえられている。自己の喪失とにせの自己の代置は、個人を烈しい不安の状態になげこむ。かれは本質的には他人の期待の反映であり、ある程度自己の同一性を失っているので、かれには懐疑がつきまとう。このような同一性の喪失から生まれてくる恐怖を克服するために、かれは順応することを強いられ、他人によってたえず認められ、承認されることによって、自己の同一性を求めようとする。
~~~
うわー、つら、、、
~~~
人間にとって「第三の自分」つまり本来の自分こそが大事なのだとしたらどうだろう。するとすべてがあべこべに映り出す。「精神的な病気」と烙印を押されるような状況さえも、実は個人の責任ではなく、社会システムに無理やり適応しようとして起こったアイデンティティ・クライシスと言えないだろうか。
社会にうまく適応し、本来の自分を抑圧し、何もかもうまくいっているように見せかけても、実際には疎外された自分が、心の底で大きな悲鳴を上げ続けているかもしれない。
~~~
「第三の自分」。
この「第三の」という言い方が、サードプレイスと同じように、社会的意義としては、(序列的に)三番目に重要な、という印象を持ってしまいがちであるが、「第三の自分」こそが本来の自分であり、日本の都市のような効率化を最優先した社会の中の暮らしにおいてそれを発現する「場」は極めて少ない。
その「場」をどのようにつくるか。
それはもしかしたら、ツルハシブックスという新刊書店(2011-2016)だったのかもしれないし、昨年からスタートした「麒麟山米づくり大学」(2023-)も、日常的に行ける場所という意味ではそうで無いが、地方を舞台にした目的に向かいすぎないゆるいプロジェクトという手法で、「第三の自分」が発現する、発現しうる場をつくっているのかもしれない。
参考:麒麟山米づくり大学
https://komeuniv.jp/
若者にとって、生きるか死ぬかに値するほどの「アイデンティティ・クライシス」問題。
それをどうクリアしていくのか?
インフォーマル・パブリック・ライフは、その暗やみに一筋の光を灯している気がする。
楽しみに読み進めます!
2024年05月21日
ロックとスミスの「道徳」とルソーの「正義」

『贈与経済2.0』(荒谷大輔 翔泳社)
第2章 理想の社会をつくろうとする試みはなぜ失敗し続けるのか
第2次世界大戦とは、ファシズムとは、いったいなんだったのか?
さらには戦後民主主義や資本主義VS共産主義とは、みたいな問いに対して仮説を与えてくれる1冊。
著者は、その根本には明確に対立するはずの2つの「近代化」が同居した状態が現在の戦後民主主義であることを説明します。
~~~
ロックの社会契約論:自然状態で私的所有権が認められている
ルソーの社会契約論:「私的所有」こそが互いに競争し合うようになった原因
ルソー:共同体の「一般意志」を自分の意思とイコールにすることで「自由」を得る
⇒福祉国家としての共同体のあり方を提案
資本主義経済における「自由」:ひとりで「ほっといてくれ」
ルソーの自由:共同体へと自らを積極的にコミットさせること
ルソーの平等:社会福祉を通じた富の再分配によって実現されるべき
資本主義経済における道徳:市場原理のフェアネスを守ること
ルソーの道徳:みなで共有される一般意志
~~~
なるほど。
そのルソーの影響からマルクス主義とファシズムが生まれる。
~~~
マルクス主義のように理念を共有して共に社会を変えていこうとするルソー主義的な社会改革の運動が構造的に持つ陥穽として、「一般意志」への強制が起こる。そこには「私は違う意見である」という「自由」はありません。だからこそ「異分子の排除」が起こってしまう。
ファシズム:民衆の感性に寄り添って、一部資本家による政治・経済的支配を脱して格差を排した平等に生きられる社会を目指した。「植民地の解放」や「(高利貸しをしていた)ユダヤ人の排斥」などが起こった。
~~~
したがって、第2次世界大戦の対立軸としては資本主義VS反資本主義と言える、と著者は言います。
そして知っての通り、資本主義が勝利するわけですが、なぜか資本主義側が植民地の解放を行うのです。
著者によればそれは、
1 資本主義が「悪」とみなされる契機を減らすこと
2 植民地を解放しても宗主国として得てきた利得を放棄せずに済む方法が開発されていた
2については、本書にあるような
アメリカの「モンロー主義」における中南米地域への介入
などが挙げられますが、詳しくは本書を。
さらには、明確に対立していたはずのルソーの社会主義を各国が取り入れ始めたのです。
~~~
生存権を中心とする社会権や国際人権宣言などルソーが提示した財の再分配を行う「平等」が憲法に取り入れられるようになっていきます。
私たちが知っている戦後民主主義は、こうして資本主義経済の「道徳」とルソー主義的な「正義」が同居するかたちで成立することとなりました。しかし両者の「近代社会」は単に異なるだけではなく鋭く対立するものでした。
「戦後民主主義」として私たちが知っているものは、対立する2つの理念が調停不可能なかたちで同居する極めて特殊な政治形態と考える必要があります。
~~~
なるほど。
これは短い文章で現在の(政治)社会がどうしてこうなっているのか?を説明されていて、非常に勉強になります。
資本主義に対立するものとしてのルソーの社会主義
それは共同体における「一般意志」の共有を前提としており、
それこそが「異分子の排除」に直結している。
資本主義に対するオルタナティブな活動。
それは端的に言えば、「自由」と「平等」を得るための何か、であるだろうと思う。
しかしそれがルソー主義に基づいている限りは、共同体の一般意志が強制される場をつくってしまう。
もうひとつの道があるのではないか?
と著者は問いかける。
先を進めるのが楽しみな1冊です。
2024年05月16日
仕組まれた「自由」

『贈与経済2.0』(荒谷大輔 翔泳社)
アイデンティティ問題を探究する上での仮説
明治時代以降の三大発明「自分」「時間」そして「自由」
「自分」はスピノザとか中動態とかあたりから
「時間」は「まなびとあそび」「学級の歴史学」とかそのあたりから
でも、全部基本は近代社会成立からの流れですよね。
今回は「自由」の本丸に迫ります。
『贈与経済2.0』の第1章から。
~~~
社会分業制が成立するためには、ひとつ大きな前提があります。それは「お金さえ稼げば生活に必要な物資は賄える」という信頼が社会全体に浸透していないといけないということです。
とてもではありませんが、いつ役に立つかわからない「お金」を稼ぐためだけに全生活のリソースを割り振ることなど危険すぎてできないと言わざるをえないでしょう。
人々が安心して「自分の目の前の仕事」に注力できるためには、仕事の対価として獲得する「お金」によって、他人の労働の成果物を獲得できる見通しが人々に共有されていなければならないのでした。
お金を稼ぎさえすれば、他者の労働の成果物を獲得できるということが私たちの獲得した「自由」に他ならないのです。
~~~
なんということでしょう。(劇的ビフォーアフター風)
これが「自由」なのか。
地縁血縁のしがらみを抜けて、都市生活を送るという「自由」。
それは単に、「お金を稼げば、他者の労働の成果物を獲得できる」ということ。
これを「信仰」と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。
わずか数百年で、僕たちはそれを内面化(身体化)している。
そして、話は、経済学の父「アダム・スミス」へと。
~~~
経済学の父と呼ばれる「アダム・スミス」は、経済学者ではなく、道徳哲学者でした。スミスの生きた18世紀の思想的課題は、まさに道徳をどうやって基礎づけし直すかということにありました。「市民」の台頭によって神学的な権威が弱められると、社会的な「よい/悪い」の判断基準をどこに求めたらよいのか曖昧になってきます。
スミスはある画期的な一歩を踏み出します。「共感はそれ自体快楽である」という議論を展開することで神に代わる道徳の根拠を得ようとしたのでした。つまり「多くの人々が共感できること」が「よい/悪い」を判断する基準として位置づけられることになります。
このスミスの道徳論には明確なメリットがあります。それは社会的な善悪を完全にボトムアップで決められるという点です。それでは、何がよくて何が悪いかを判断する基準を外部の権威に求める必要はありません。
この理論においては、個々人はそれぞれ自分の快楽を追い求めているだけで、その結果として社会全体の善悪の基準が決まるということも大きな特徴になっています。スミスによれば、この仕組みの中では、誰かが社会全体のことを考えて何が「よい/悪い」を判断する必要はないとみなされます
~~~
「自由」を実現するためのボトムアップで決められる道徳。
これがスミスが目指したものでした。
さらに、「平等」と「奴隷」制度について。スミスは奴隷を解放するべきだと説きます。
~~~
奴隷を使い続けるか、奴隷を解放するか、どちらが「お得」かを考えてくれとスミスはいいます。
奴隷を購入するには大きな初期投資が必要ですし、彼らの所有権を獲得してもランニングコストはゼロではありません。まがりなりにも住居を用意し食事も提供しなくては彼らは死んでしまいます。そして死んでしまえば、初期投資は無駄になってしまうわけです。そして何よりも奴隷は強いられて労働するわけですから高い生産性を望むことはできないでしょう。嫌々ながら無理やり働かせてもコストに見合う生産性は期待できないのです。
それより奴隷を解放してみなさいとスミスはいいます。まず奴隷を購入するコストを無くせます。労働者を雇うにはもちろん奴隷を違って給料を払う必要がありますが、分業性による単純労働の導入によって賃金を安く抑える仕組みができています。単純労働をさせる分には、熟練させるためのコストは低く押さえられますし、「嫌ならやめろ」と簡単に首を挿げ替えることができるようになったのでした。奴隷の生活を維持するための家賃や食費等のコストを考えれば、安く抑えられた労働者を雇うのにそれほど多くのコストをかけずにすみます。
そして何より重要なのは、労働者は「お金がなければ生きていけない」状況におかれているため、奴隷よりも能動的に働くという点です。彼らは最低限、食を失わないように頑張る必要がありますし、彼ら自身の欲望に基づいて一生懸命働く動機づけを自分たちで用意してくれます。
人々が市場原理のフェアネスを共有し、資本主義経済の「道徳」を内面化するためには労働者の間の「平等」は不可欠のものといわなければなりません。完全競争のもとでのフェアネスが達成されるためには、みなが同じ条件で競争することが必要とされるのでした。スミスの奴隷解放論はそれゆえ、単なる資本家にむけたコンサルティングではなく、彼自身の構想に基づいた一貫した主張というべきものと思われます。
~~~
うわー。
わたしたちが獲得した「自由」(平等も)とは、いったいなんだろう?と
完全に経済社会の要請でしかないんだなと。
尾崎豊がいっていた「仕組まれた自由」は、さかのぼればまさにここからなのではないかと。たぶんスミスさんも悪い人じゃなくて、すごく楽観的に、性善説的に、これで万事うまくいくよね、道徳ってこういうものだよね、って思っていたのだろうなあと。
スミスのおじさんは、1723年生まれ。
いまから300年前に思いを馳せれば、神に代わる新しい道徳をつくらねば、という使命感のもとで、社会システムを構想したのだろうなと。
第1章しか読んでいませんが、僕は尾崎豊が歌った「仕組まれた自由」の「仕組まれた」の中身を知ることになりました。
ステキな1冊をありがとうございます。
2024年05月13日
プロとアマチュアのあいだの「余白」をつくる

『余白思考』(山﨑晴太郎 日経BP)
「ともにつくる」を再定義するタイミング。
誰と誰が何をどのようび「ともにつくる」のか?
「個」と「場」の往還によるResponsibilityの醸成
これは只見高校の総探コンセプトなのだけど。
金曜日にプロジェクトふりかえりのインタビューワークを
やってみて思ったことは、
ふりかえり後の2人ペアでのインタビューによって、プレゼンテーションを「ともにつくる」という設計が可能かもしれないと思った。
プレゼンのコアメッセージを「引き出す」という意識で、インタビューをすること。
「私が今回のプロジェクトを通して発見したことは〇〇です」の〇〇を一緒に探すためのインタビューとすること。
その発見を「ともにつくる」こと。
1 私が発見したことは〇〇です
2 プロジェクト内容は〇〇で、結果は〇〇でした
3 印象に残ったことは、〇〇です
4 やる前とやる後では、私はこのように変わりました
5 次回やるとしたら〇〇に取り組みたいです
6 今回の一番の発見は〇〇でした
こんな感じの定型文でもいいのかもしれない
大切なのは、インタビュー相手によって「引き出される」感覚かも。
「引き出した」「引き出された」を体感すること。
「創造」はどこに生まれるのだろうか?
そんな問いが生まれた。
仮説は「プロ」と「アマチュア」のあいだに生まれる、ということ。

『すべての仕事はクリエイティブ・ディレクションである』(古川裕也 宣伝会議)
この本にある「コア・アイデア」を選定することはつまり、範囲を限定する、ということ。
その範囲内で、突破していく、ということ。
プロフェッショナル(専門家)とは、そういうことだ。
その分野で他の人よりも秀でていること、が大切である。
それは「分業の時代(効率化の時代)」とリンクしているのかもしれない。
一方で時代は変わり、創造性が大切であり、
そのためのコラボレーション(協働)がさまざまなことが行なわれている。
もしかしたら、「プロ」と「アマチュア」のあいだをデザインすることが
「コーディネーター」の醍醐味なのかもしれない。
学校で言えば、先生というプロと、高校生や地域の人というアマチュア。
町で言えば、先生や生徒というアマチュアと地域の人というプロ
企業で言えば、社員というプロと、ファンというアマチュア
僕が「水戸留学:2015年~18年の茨城大学職員期間のこと」で
もっとも学んだことは、カレーキャラバンから学んだ「アマチュアリズム」なのだけど
参考:「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
「予測不可能性」を楽しめる「アマチュア」だからこそできることだ。
サッカーで言えば、プロサッカー選手とサポーターの関係のようなものだ。
それは、この前言っていた「学び」と「遊び」のあいだにも通じる
参考:「あそび」の復権(24.2.11)
http://hero.niiblo.jp/e494585.html
その「あいだ」に可能性(創造性)が詰まっているのではないか、と思った。
それが僕がつくりたい「余白」なのではないか、と思った
『余白思考』によれば、
余白のイメージは次の7つだ
1 なんでも受け止める巨大なクッション
2 曖昧で言葉にできない思い
3 おもちゃ箱
4 なんとなくやりたい気持ち
5 なんか好き
6 体感ベース
7 いつでも終わらせることができる自由
そんな「場」を学校でも作れるのではないか。前述のインタビューで引き出したいのはまさに、曖昧で言葉にできない思いや、なんとなくやりたい気持ちや、なんか好き、なのではないか。
それを自分だけで作るのではなく、2人ペアでつくっていくこと。
自分は、自分のプロフェッショナル(専門家)である。
だからこそ、見えないものがある。
それを「偉大なる素人」からの質問によって引き出す。
プロ集団の中に、アマチュア性を入れていく場をつくること。
その中で創発されたアイデアをプロの力で実現していくこと
プロとアマチュアのあいだに場と余白をつくる。そして「創造」「創発」を生む。
それはひとりひとりにとっても同じで自身や場のプロ性とアマ性のあいだに、生きる意味、アイデンティティが創造される、のかもしれない。
コーディネーターは演出家に似ている。いま目の前の舞台(場=機会)を最優先し、1人ずつの人を配役だとしてデザインする。先生も生徒も同じ1プレイヤーとして生かすこと。コーディネートとは、劇団づくり。先生をプロとしてリスペクトしながら、アマチュアである高校生や地域の人たちとやってみて、ふりかえること。
それが僕の方法かもしれません。
2024年05月06日
継承すべきなにものかを持っている人だけが

『すべての仕事はクリエイティブ・ディレクションである』(古川裕也 宣伝会議)
読み終わりました。
強くおススメしたい1冊です。
読後にグッとくるものがあります。
まず「新しさ」について
~~~
そのアイデアは対象物を事前事後でより良い状態に変化させるのか?
新しさとは、時間的・歴史的概念である。過去との相関性のなかで、「歴史的コンテキスト」という視座からのみ、新しさは生み出すことができる。そして、認識することができる。
今までの歴史の流れをこのように変えた。今までの歴史になかったこういう要素を加えた。今までの歴史にこういう視点を持ち込んだ。今までの歴史を逆流させた。今みでの歴史になかった方法を発明した。などなど。
~~~
そうそう。「新しさ」をアウトプットしたいなら、まず過去を徹底して学び、振り返らなければならない。何がやられていて、何がやられていないのか。そのために歴史を学ぶのだな、と。「探究活動」こそ、過去を、過去から学ばないといけないよなあと。
単体では課題は解決しない。だからこそ課題なのだ。何かをデザインするしかない。地域はアイデア、つまり「ひらめき」と「直感」を必要としている。そのためにはまずは歴史を学ぶこと。もう一つは場でそれを起こすこと。
そして、「不確実性」について
~~~
人は何もわからなければ、死にものぐるいで答えを見付け出そうとする。けれど、いったんわかってしまうと、経験から想像し、一から考え直すことはありません。私たちには不確実性が必要です。
不確かであればこそ、どのようにすべきか、掘り下げて自問するようになります。クリエイティブな会社であり続けるために必要なのはカオスだと思います。カオスは秩序が成し得ないことをもたらします。
秩序が決して求めないことを要求する。秩序が隠そうとすることを暴露する。カオスこそが、本当に成長を促してくれて、意味のあるモノづくりを求めてくる唯一のものです。カオスこそが、クリエイティビティを育むのです。
~~~
右脳から入って、左脳に落として、購買させるのが広告だとすると。キーワードや画像・動画という右脳から入って、左脳というか方向感・目指すもの・ビジョンを示して、プラスアルファで身体性に訴える、っていうのがこれからの方法なのかもなあ。
さらに、「祭り」とはなにか?
~~~
祭りとはなにか?
・本来は地域を限定しているもの(コミュニティの内部のためにやるもの)
・「祝祭性」と「参加性」
・参加者全員の陶酔感・一体感
~~~
これをいかにつくれるか?
がコミュニティ形成のカギかもしれない。
さらにメモ
~~~
「主語」の力である。それがすべてなのだ。残酷だけど、これがブランドの本質であり、ブランディングとは、主語の力を強くする運動に他ならない。
ヒトは、今まで、学生や職業というコミュニティに一義的に強く属していた。けれど、これからは、自分の望むコミュニティに、好きなだけ参加することができる。複数のtribeに。
何を継承し何を破壊し何を新たなに付け加えるか。掛け算の左側をグッチの歴史と置いたとき、今この時、何を右側に置くと、いちばんチャーミングで、人が新しいと感じる衝突・対立が生まれるか?
起業する若者のビジネス・デザイン
1 課題解決のアイデア
2 テクノロジーを信じる
3 起業ありき
課題⇒アイデア⇒エクゼキューションというプロセスに乗っているわけではない
たとえば、これは世界を変えるはずだ!という「テクノロジー」を信じてスタート。
アイデアが課題に先行するのだ。課題があって、それに対してアイデアが存在するのではない。
~~~
「アイデアが課題に先行する。」まさに、いま高校の授業で僕が探究しているところ。
「場」から生まれる「直感」が課題に先行する探究っていうのがあり得るのではないか。
第6章「世界にはアイデアが足りない」はこんな一節から始まる。
~~~
「広告業界は、これからどうなっていくんでしょう?」
愚問である。なぜか。その問いからは何も生まれないからだ。むしろ、こういう視座を持つべきだと思う。
「広告の仕事で獲得した能力を使って、今までやったことのないどんなことができるだろう」
⇒広告の仕事で様々な能力を持ってしまった人たちが、これからは、広告以外のフィールドでいい仕事をしていくだろう
~~~
こんな愚問を投げかけていないだろうか。
AIでどうなっちゃうのでしょう?とか、
分校になったらどうしましょう?とか
農業従事者の高齢化でどうなっちゃんでしょう?とか
投げかけているヒマはないのです。
これまでに獲得した能力を使って、新たな領域へと行くのです。
種目は非連続だけど、能力・技術は連続。そんな場所へ。
ラストに、「教育」についての本質的な一言を。
~~~
教育とはサクセッション=継承のことに他ならない。だとすると、継承すべきなにものかを持っている人だけが、若い人たちを教えて意味があることになる。
~~~
教育に携わっていると思っている全ての人に問いかける一言。
あなたが持っている「継承すべきなにものか」とは何ですか?
2024年05月03日
はじめの1割。最後の1割。

『すべての仕事はクリエイティブ・ディレクションである』(古川裕也 宣伝会議)
読書日記。
『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』に引用されていたので購入。
これは。
「地域みらい留学」新規参画校の皆様におススメしたい1冊です。
自分たちの学校(地域)の価値は何で、
どんな中学生に来てほしくて
どんなメッセージを中学生に伝えるのか
まずはメモ。クリエイティブディレクターができることすべきこと(P22)より
~~~
1 定義する:他者と共有するために、言葉にする
2 仮説を立てる:課題に対する仮説を提示する
3 プリンシプルをつくる:やっていいこととやってはいけないことを規定する
4 全体像を把握する:いちばんカメラを引いて眺める
5 ベストな悩み方を示す良い悩み、適切な悩みを提示する
6 アイデアの善し悪しがわかる:目的に対してアイデアの良い悪いを判断する
~~~
なるほど。
どれも大切だなあ。
そして第1章 クリエイティブディレクターがすべき4つのこと(P31)
1 ミッションの発見
2 コア・アイデアの確定
3 ゴールイメージの設定
4 アウトプットのクオリティ管理
これ以外のことはしなくていい。
1 ミッションの発見
「課題」ではなく「ミッション」。「課題」=「困っているコト」。
「その問題は本当の問題なのか?」と問いかけ、アイデアを考えるべき範囲を限定して、考えやすい状態にすること。それが、ミッションの発見という最初の仕事になる。
もうひとつ、ミッションを顧客側から観察し、確定すること。まだ、それほど顕在化・言語化されていないけれど、どうも確実に存在しそうな社会的・潜在的欲求を仮設することである。
ブランドがミッションとカスタマーの欲望とがミートする領域を想定しておかなくてはならない。
ボルボの夜中の自転車事故を無くすための塗料を開発したキャンペーン。自動車メーカーという原罪。世界から交通事故をなくすこと、それに対する持続的貢献こそがボルボのブランド価値を高める。
これから、これが来そう、とか、これが確実に儲かりそう、とか、この辺が空いている、とかではなく、世界にとって重要なミッションをいちばんのコアに置いて起業するのである。
2 コア・アイデアの確定
そのブランドは、そもそも何のためにこの世にあるのか。何をするために生まれてきたのか。誰にどんな種類の幸福をもたらす能力があるのか。どういうことに、どういう風に役に立つのか。
そのブランドの本質の本質の本質の本質は何か。
ミッションから生み出されたコア・アイデアが規定している範囲以外は考えさせてはいけない。なぜなら、その範囲にのみ、今回の宝は眠っているはずだから。コア・アイデアを確定するということは、他の可能性をすべて捨て去ることなのである。
コア・アイデアの果たす役割も2005年くらいから大きく変化した。深化したのだ。
それは、おそらく、企業が置かれている社会的位置の変化によるものだと思われる。すべての企業か、本業の利益だけでなく、企業としての社会的責任を明確に果たさなくてはならなくなってきている。
ブランドの価値を決めてコア・アイデアを確定することは、ひとつ以外の、他のすべての可能性を捨てることだ。ひとつの価値しか認めないということだ。やるべきことを限定するということだ。そういう意味で、「ブランドの存在意義⇒コア・アイデア」は、広告だけでなくすべての対外活動において決定的に重要な役割を果たすことになる。
世界的に評価されている仕事の多くが、人類にとって普遍的で受け取りやすい、反対できないコア・アイデアを設定している。
ブランドとは、哲学そのものであることがわかる。自分の価値を定義して、それを世界の中に、歴史の中に、置くこと。その時、重要なのは、近未来形のコンテキストで語ることだ。
ブランドメッセージは、現時点における自己紹介ではない。自分たち固有の哲学、存在意義という不変的なことから、これから世の中に向けて、どう作用することができるのか。世界のどのパートを変えていくことができるのか。未来についての意思表明が含まれていなければならない。
3 ゴールイメージの設定
このゲームで最も重要な登場人物は、カスタマー、あるいはみんな、あるいは世界である。すべては、そこで起こる。プレゼンテーション・ルームではない。彼らを、ゲームの共犯者に適切に巻き込むことが、ブランド・コミュニケーションには、不可欠なのである。
ゴールイメージの設定とは、ターゲットとの接触面を設計することである。ここで重要なのは、みんなが自分に関心があると感じること。この接触面は、もともとほぼ100%感覚的な場面で、左脳的な領域ではない。
あらゆる出会いは、ひたすら感覚的身体的なものであって、そこで受容してしまったブランドに対する「感じ」は、よほどのことがない限り、変わらない。
ゴールイメージの設定とは、アイデアの意味を超えて「こんな感じ」を設計し、共感を形成し、ヒトを動かすのが仕事である。肉体的直感的に受容されなければ、共感は形成できない。それは明らかに非論理的出来事だ。
4 アウトプットのクオリティ管理
「びっくり」と「はたひざ」(はたとひざをうつ、です)
surprise と make senseである。
Good Surpriseということになる。優れたアウトプットには、すべて、このふたつが含まれている。例外はない。
このふたつが含まれていない傑作は歴史上存在しない。
「びっくり」⇒異常値
表現は「対立」から生まれる。
「はたひざ」=最終的説得力
~~~
いいなあ。いい本。
ラストはこちら。
論理だけでは何もできない。仕事の最終的な「くる・こない」を決定するのは、残り2割の論理を超えた部分なのだ。はじめの1割。最後の1割。
そこだけは非論理的なのである。直観的本能的感覚的肉体的右脳的なのである。理性だけでは制御しきれないのである。どこから生まれるのか、どうしてこれがいいのか。実は誰にもわからない闇雲なゾーンなのである。
これ、地域みらい留学参画初年度校、いや、もちろん僕らのチームにも贈りたい本です。
2024年05月01日
「学習」ではなく「認知的変化」を「創発」する

『私たちはどう学んでいるのかー創発から見る認知の変化』(鈴木宏昭 ちくまプリマ―新書)
昨日の「衝動」に続いて、今日のテーマは「創発」。
長年、「場のチカラ」と言っていた「何か」をようやく掴める時がきた、そんな興奮がある。
この本のキーワードは「認知的変化」「無意識的なメカニズム」「創発」である。
まず「学習」と呼ばず、「認知的変化」と呼ぶ。
そして「認知的変化」が起こっているプロセスは意識的に進まなく、無意識的に起こるということ。
さらに「創発」ということは「還元不能性」「意図の不在」であるということ。
まずは「第2章 知識は構築される」より
~~~
知識は伝わらない。なぜならそれは主体が自らの持つ認知的リソース、環境の提供するリソースの中で創発するものだからだ。(中略)それらリソースを利用したネットワーキングとシミュレーションが行われる。また知識は環境の提供する情報をうまく組み込むことで生み出される。だから知識はモノのように捉えてはならず、絶えずその場で作り出されるという意味で、コトとして捉えなければならない。そうした性質を持つ知識は、粗雑な伝達メディアであるコトバで伝えることはとても困難だ。
モノ的知識観⇒コト的知識観
私たちの知識、それに基づく行動が場面、状況、環境の要素と切り離せない関係にあるという点だ。
~~~
なるほどね。10代の頃に聞いたヒットソングが突然流れてくると、あの頃にもっていかれて、胸が苦しくなるのと同じですね。(違うか)
さらに、「第5章 ひらめくー洞察による認知的変化」より「ひらめき」のところから意識と無意識について抜粋。
~~~
意識の知らない間に、寡黙で働き者の無意識的な学習のシステムが働き、それがよい配置の増大、つまり制約の緩和を支えているのだ。意識の方はボンクラだから、それにまったく気づけない。
そして無意識システムが学習を重ね、相当程度までよい配置のパターンを作り出す。すると、意識システムもさすがにそれに気づく。そして「わかった」と叫んで、成功を横取りしているのだ。
だから、ひらめきが突然訪れたかのような印象が生み出されるのは、意識システムがボンクラであることから生じる錯覚なのだ。
~~~
次に「身体性」についての言及を
~~~
環境の側から提供される視覚情報だけではなく、身体動作を環境に加えることにより、新たな視覚情報、場合によっては触覚、聴覚情報なども得られる。こうした情報が組み合わさって新たな環境が生成される。するとはじめとは異なった探索空間が生み出される。そうした中に、解決のためのヒントが潜んでいることもある。(P159)
また行為、身体動作というのは、単に手や足の動きだけにとどまらない。それと関連した認識、感情も一緒になって脳の中で活性化される。
~~~
そうそう。
きっと「場のチカラ」ってそういうことが言いたかったのだろうなあと。
「第6章 教育をどう考えるか」では、徒弟制について言及する。(生田久美子『「わざ」から知る』より)
~~~
徒弟制の学習の過程は、模倣、繰り返し、習熟という道筋を辿る。しかもそれらは非分割的である。
学習者=弟子は、師匠や先輩の振る舞いの要素化されない全体を観察し、それを模倣する。そこには基礎も応用も存在しない。つまり最初から目指すものの全体像が提示され、そこに向けて練習を重ねるのだ。これは学校での学習が、なんだかわからないけど将来ひつようになる(はず)という形で進められるのと対照的である。
もう一つの特徴として、評価が不透明であることが挙げられている。(中略)学習者は何が自分の問題であり、そのために何をなすべきかを自ら探索しなければならない。生田はこのプロセスを「学習者自らが習得のプロセスで目標を生成的に拡大し、豊かにしていき、自らが次々と生成していく目標に応じて段階を設定している」(前掲書)
弟子は師匠の作り出す世界に潜入しようとするが、はじめはうまくいかない。そこで自分の中のリソース、状況の提供する曖昧なリソースを揺らぎながら探索し、新たな目標を生成するという創発的な学習が行われていると思われる。
こうした観点からすると、大学教育でのルーブリックなどのように、達成の度合いを細かく定義し、それをわかりやすく学習者に伝える方法は、学習者自身による目標の生成的拡大を阻害するという側面を持つということがわかるだろう。
~~~
いいですね。
「ジェネレーター」にも通じる話です。
~~~
学習者の知的協力である。
教育はいうまでもなく、相互作用の場面である。だから教師が一方的に努力しても教育は成立しない。それは単に情報伝達にすぎない。学生が教師からの情報に対して自ら働きかける、そして掘り下げる=身体化する、拡げる=関連付ける、それを使いながら考える、そうした構築のための努力なしには知識は生み出されない。
またそうした協力によって、教師にも認知的変化が起こる。
~~~
「場のチカラ」の正体。
もう少しでつかめそうだ。
2024年04月30日
「奇跡」の目撃者となり、「奇跡」を体感し、「奇跡」のつくり手となること

『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川嘉浩 ちくまプリマ―新書)
これは高校生にも大学生にも20代にもおススメ。
僕の研究テーマであるアイデンティティと承認欲求に鋭く迫ります。
メモとして記録
キーワード、たくさんあるのだけど、まずは「偏愛」かなあ。
「強い欲望」と「深い欲望」についての言及も興味深い
~~~
「承認欲求」には2種類あって
(他者から)「承認される」欲求は強い欲望であり、「他人の視線」を介して生まれるが故に情動の高まりを伴い、
(自らを)「承認する」欲求は本書の深い欲望のことであり、自らを知ると同義なのかも
「承認される」欲求はSNSによって数値化を伴うことで強化され、ますます相互評価の檻の中へと自らを閉じ込めていく
「承認される」欲求を追い求めるのではなく自らを「承認する」ために「強い欲望」を発するもの(広告やSNS、相互評価ゲーム)から距離を置き、環境を活かしたプロジェクトを遂行する「わたしたち≒場」を形成し振り返りで承認することによって、その構成員である自分を承認するという方法論
二人が価値を置こうとしているのは、他人に移し替えられないほど「個人的」であり、文脈や対象を変えると成立しないくらい「細分化された」欲望です。
「欲しかった本」というのも、「深い欲望」を知るためのツールになるのかもしれない。本屋の役割って、きっとそういうことだ。欲しい本ではなく、欲しかった本を売りたい。
~~~
必要なのはその「深い欲望」に目を向けること。
そこへ到達するキーワードが「偏愛」なのだと。
~~~
「何かを理解したかのような気分」に浸り、「そうすることである種の安堵感」を得る
些細な部分についての質問や感想、細部を掘り下げる言葉こそが当人の性格を浮かび上がらせる。
効率的で、計算可能で、予測可能で、コントロールしやすいものを求める合理化された集団には、必ずこういう要素(外圧的アプローチ)があります。外圧的アプローチは、当事者の願望や欲望を無視します。
~~~
そっか。細部にこそ神は宿るんだ。
高校生や地域の大人へのインタビューはまさにその細部を浮かび上がらせるためにやっているんだなあと。それを掘り下げると。
~~~
一周回った爽やかさとは、「これさえ譲らなければ他はどうだっていいんだ」と言えるような根拠地を知っている人の自由さです。自分の衝動を知っている人には、大概のことには振り回されない泰然自若とした姿勢があります。
広告やSNSなど様々なメディアを通して色々な刺激を与えられ続けることで、自分の中で生まれた多数の強い欲望に感情を絡めとられて、小さく静かに動く深い欲望が見えなくなっている。そういうときに採用できるのは、状況全体を暗くすることです。
~~~
自分の衝動を知ること。
「〇〇がないと生きていけない」の〇〇が見つかった人は幸運だ。〇〇があれば生きていける(のに前進することを知っている)のだから。
次に、衝動と「目的」について
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「衝動」は具体的な目的地ではなく大体の方向性を告げるもの
衝動は、直接私たちになすべきことを教えてくれません。具体的な行動を導くのは「衝動」ではなく、知性が試行錯誤しながら組み立てる達成可能な「目的」です。むしろ、今掲げている目的や戦略に固執せず、衝動に照らして、よりよい目的や戦略と出会ったらどんどん修正する貪欲さこそが、彼女の行動を特徴づけていると考えられます。衝動の力が続く限り、目的や戦略は変化し、成長していくものだということです。
~~~
さらには、「キャリアデザイン」についての痛烈な一矢を。
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キャリアデザインを支えているのは、結局のところ、コントロール願望です。(中略)こうした人生設計は、自分の決定に自分自身が驚く可能性を考慮していません。考慮しないどころか、何か偶然の出会いを通して、自己がすっかり書き換えられてしまうなどという事態は、設計からは程遠いという点で許容しがたいのです。
キャリアデザインは「自分の人生を自分で設計する」ことを標榜しています。その役割を果たすために、未来の自分が過去や今の自分と本質的に同質的であると前提せざるをえません。そもそも、キャリア教育やキャリアデザインは、反設計的な衝動を悪魔祓いしたところに成立していると言えるかもしれません。
この姿勢が容認しがたいのは、キャリアデザインというコンセプトが「人生を『仕事』のように生きる」ことを要求しているところがあるからです。ここでいう「仕事」は、自分のすべての行動を目的に従属させ、それに向けて課題を分割して計画的にことに取り組み高いパフォーマンスや効率を出そうとする目的に駆動された生き方のことです。
目の前にある機会も多面的であり、私たち自身も多面性を持っている。そうしたものの組み合わせとして自分の人生を捉えた方がいいのに、リスクやキャリア、人生設計という言葉は、機会や自分を誰にとっても同じフラットで平均的なものとして捉えてしまう。
~~~
なるほど。
「キャリアデザイン」によって、むしろ僕たちは「個性」というか「固有性」、自分でなければいけない理由を失っているのかもしれませんね。
~~~
衝動の「持続性」は「特定の目的や戦略へのこだわり」という形をとりません、「手元の目的や戦略に色々な修正・変更を加えながら進む」という試行錯誤の形をとります。
自分の内側にモチベーションのきっかけがあるというよりも、環境のあちこちにモチベーションの芽が散らばっている。僕たちが心だと思っているものは記憶にせよ、行為の動機にせよ、意外と自分の周りにも広がっているのかもしれない。
~~~
モチベーションは本人の中にあるわけではない。ホントその通りだと思います。
最後に、「知性」と衝動について
~~~
「知性」:環境の観察と記憶の探索を行き来しながら、事柄の意味を判断し、具体的な行動の計画につなげる働きをするもの。
衝動は私たちの進むべき方向性を教えてくれるのに対して、知性は具体的なアクションのことを考え、判断する。
衝動と知性を行き来すること
~~~~
それって、場と個の往還に近いなあと。
中動態で動き、能動に落とし込んでいくこと。
なぜ、「衝動」が必要なのか、著者は次のように言います。
現代人の抱きがちな「寂しさ」は、私たちを抽象性や交換可能性へと導いています。「寂しさ」が導く生き方のレールを外れた先にあるのは、「衝動」が導く生き方です。
「寂しさ」を埋めるために、常に(ネット上を含め)「つながって」マルチタスクをこなし、「忙しい」状態をつくる。強い欲望を発するメディアによって行動を決められてしまう。
それによって、自分自身はますます抽象化され、交換可能になっていく。それってますます「寂しく」なっていってるんじゃないか。抜け出せない苦しさだろう。
「なんでそれを?その熱量で!?」と他人(合理的存在)が見たら、驚愕するようなこと、つまり自らの「偏愛」を知り、時間をかけて実践し、知性により言語化し、目的を定め、行動計画に落とし込むこと。
個別性と一回性と偶然性の中で、「奇跡」の目撃者となり「奇跡」を体感することいや、そこにたしかに自分が「存在」しているのだから「奇跡」のつくり手となっていると実感できること。
「衝動」と「知性」を行き来すること。
「場」と「個」を往還すること。
自らの「衝動」をつかむ。そんな1歩を踏み出せるプログラムがつくれないだろうか。
2024年04月10日
ベクトルの始点を合わせるというチューニング

ぼくの師匠、佐藤恒平さんに会いに山形県朝日町へ
話題のメインは、おとなり、西会津で撮った映画の話。
つぎの民話
https://minwa.listpage.jp/
昨年12月10日に西会津の奥川地区でやった上映会の様子(映画の予告編もあります)
https://mayoiga-k.jp/news/1589.html
滞在時間は2時間。
まずは、知る人ぞ知る地元人気食堂でモツ煮定食を頂きながら(モツ、大盛り過ぎる。笑)

その後朝日中学校内にある佐藤さんの会社「まよひが企画」オフィスにお邪魔し、恒平くんがウサヒに化けて中学校の授業に行くところの30分で映画を見せてもらって、その後、話をしました。

~~~以下メモ
1 中学校内のオフィスについて
・コミュニティスクール委員をやっているときに提案
・先生方が地域を題材にした、あるいは地域と連携した授業をしたいときに相談に行ける
・結果、働き方改革(先生の勤務超過を防ぐ)につながっている
⇒「地域連携」と「働き方改革」の文脈でNHKウイークエンド東北に
⇒次の先生にも映像で伝えられる
2 中学生の「総合的な学習の時間」について
・1年生の授業で、地元を題材にしたカルタをやる
・地元の集落ごとのジグソーパズルをつくってやってみる
⇒地理的な俯瞰をすることから始める。「地理」から始まる好奇心が歴史や人文や、理科や経済などにもつながっていく。
3 映画について
これについては、Xの投稿を貼っておきます。
地図は物理的、地理的に町を俯瞰し、ドキュメンタリー映画は、感情的、時間的に人生や関係性を俯瞰するのかもしれない。そこにナレーションというガイドは不要なのかもしれない。目的や意図を持つけど、解釈や感情の余白を残しておくこと。アートの領域だよなあ、と。
ワークショップの下ごしらえとしての30分のドキュメンタリー映画。リアルを見て、感情を動かして、自分だったら、と感じて考えて、同じ地平に立つ。仕組まれたアイスブレイクではなく、同じ地平に立つためにできることは何か?
マスに届けようとすると、背景説明を丁寧にしなければならない。その射程の半径を小さくすれば、コンテクストをある程度共有しているので、背景は説明せず、ナレーションというガイドも不要になる。結果、ダイレクトに登場人物の感情が心に響く。
映画上映会場という暗い空間の中で、俳優の一言一言との対話が起こる。それは話に応じるという意味では応話と呼べるのかも知れないし、近い暮らしを共有しているからこその共話でもあるのかもしれない。
~~~
と、こんな感じ。
僕の研究領域である、コミュニケーション・デザインとチューニング・ファシリテーションの観点からも、非常にインスパイアされるお話でした。
映画の中に、「未来型結(みらいがたゆい)」の話が出てくるのだけど
参考:未来型結について:http://kyodoshi.com/article/13015
未来型「結」にとって必要なのは、まず、同じ「座」に座り、ごはんを食べたり、農作業をしたりすることが大切なのだろう。同じ映像を見る、という方法もあるのだな、と。それもチューニング・ファシリテーションか。ベクトルの方向を合わせるのではなく、ベクトルの始点を合わせること
その「座」を共有していること。それが最大のチューニング、なのかもしれない。
たとえば、高校の授業の冒頭に、地域の人との4マス自己紹介で、出身と、最近あったよかったことを話すのも、地理的な俯瞰と、時間的な俯瞰、さらには(身近な)価値観をチューニングしているのだな、と。
ドキュメンタリー映画(映像)を見ること、あるいは探究的な文脈で言えば、生徒自身のリアルな声を聞くこと。評価をするのではなく、そこから自分は何を感じ、どんなことを思ったのか。それをシェアし、さらに深めていくこと。自分を自覚すること。
「機会として学ぶ」ってそういうことなのかもしれないなと思いました。そこでは「学ぼう」としなくても、勝手に「学び」という現象が立ち上がっていくのだと。
そういう「デザイン」をやってみたいのかもしれません。
恒平師匠、たくさんのヒントをありがとうございました。
2024年04月08日
アンサング・ヒーローの物語を紡ぐ

『チ。-地球の運動についてー』(魚豊 小学館)
話題のマンガ、一気読みしました。
題材は天動説⇒地動説へと変わるまでのフィクション。
なんというか、「アンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)」の物語ですね。
「学ぶ」とは何か?
「生きる」とは?
そして、人はなぜ、本を読むのか?
いろいろ考えさせられます。
名言だらけなのでメモしておきます。
(ネタバレなので、マンガを読む人は読まないでください)
~~~
不正解は無意味を意味しない。
あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。
ある種の想像力であり、好奇心であり逸脱で他者で外部で
畢竟、それは知性だ。
今夜君達はこれから少しの間だけ、恐らく人生で初めて、
自らの運命を変える挑戦権を得ている。
一生快適な自己否定に留まるか、
全てを捨てて自己肯定に賭けて出るか、どちらを選ぶも自由だ
思慮深くてはダメなんですよ、修道院長。
そんなヤワな姿勢じゃ時代に埋もれて終わる。
利口ではいざという時掴み取れない。
掴む?何を?
私がずっと待っている、
私を特別にする瞬間、私を偉大にする瞬間、私が歴史を動かす瞬間ですよ。
その一人とは、私ではなく君かもしれんからだ。
もし、過去の積み重ねの先に答えがないなら、真理にとって我々は無駄だったかもしれん。
しかしたとえ過ちでも何かを書き留めたことは、歴史にとって無意味ではない。と願ってる。
私達の人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められてる。
だけど、文字を読むときだけはかつていた偉人達が私に向かって口を開いてくれる。
その一瞬この時代から抜け出せる。
文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。
『自らが間違ってる可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。
第三者による反論が許されないならそれは信仰だ。
自分以外に託すって姿勢に希望を見出してた。
そしてあろうことかその姿勢を天国にいくより重視した。
そういう他者が引き起こす捩れが、現状を前に向かわせる希望なのかもしれない。
それは地動説の意味を知った時、多分、感動したからです。
君の文章は論文としての価値はない。-がそれ故、伝わる可能性は高いだろう。
伝わる? 何が? 感動だ。
それさえ残せば、後は自然と立ち上がる。
一見、無関係な情報と情報の間に関わりを見つけ出せ。
ただの情報を使える知識に変えるんだ。その過程に、知性が宿る。
それがあれば留まる勇気と踏み出す度胸が得られる。
タウマゼイン?
それは古代の哲学者曰く、知的探求の原始にある驚異。
簡単に言い換えるとこの世の美しさに痺れる肉体のこと。
そして、それに近づきたいと思う精神のこと
つまり、「?」と感じること
身体と魂、理性と信仰、哲学と神学、疑うことと信じること
これらの矛盾は両立します。何故か?
それが人間だからです。
人間は神でも獣でもない。人間はその中間に存在する。
でもだからこそ中間を、曖昧を、混乱を、受け入れられる。
むしろ矛盾で理性の息継ぎをする。
貴方は今、神を失っている。
この世界が存在するという奇跡を感じられないでいる。
奇跡とは、必然に満ちた領域で生まれる偶然のことです。
と同時に、偶然に満ちた領域で必然が生まれることです。
昔の貴方はそれを感じていた。この世のすべてが奇跡的だと知っていた。
しかし経験や記憶、過去や故郷、そして痛みと引き替えに、奇跡まで失ってしまった。
奇跡は、貴方が生きる場所だったのに・・・です。
~~~
このマンガには、ひたすらに、ただひたすらに
歌われざる英雄(アンサング・ヒーロー)が描かれています。
真実を求め、託して、死んでいくものたち。
そしてその好奇心は止められないのだ、と。
美しい人生ってなんだろう?
って考えさせられます。
2024年03月30日
SNSとアイデンティティ
『砂漠と異人たち』(宇野常寛 朝日新聞出版)
第四部 脱ゲーム的身体より
吉本隆明『共同幻想論』からの、アイデンティティ問題の考察がスルドいのでメモ
~~~
吉本の生きた20世紀が、共同幻想の肥大が個人を押しつぶしていた時代だったからだ。
イデオロギーによって思考を停止し、世界を善悪に二分してしまった人間たちが何をし得るのかは自明だ。20世紀とは、情報環境の進化に踊らされた人類が共同幻想を肥大化させ危うく自らを滅ぼしかけた時代だったのだ。だからこそ、吉本隆明はあらゆる共同幻想からの自立を唱えた。
3つの幻想は、自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人など、1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)に分類され、これらは互いに独立して存在し、かつ反発し合う性質(逆立)があると吉本は考えた。
吉本が自立の根拠としたのが、対幻想-家族や友人などに発生する1対1の対の関係性-だった。家族を守ること、妻と子の生活を守ることをアイデンティティの中核に置き、政治的イデオロギーのもたらす共同幻想から「自立」すること。つまり吉本は半世紀前に、共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠するという処方箋を提示したのだ。
その処方箋を提示された患者たちー全共闘の若き活動家たちーはたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想から自立したのかもしれない。しかし、彼らの新しい依存先となった戦後的な核家族による家庭の多くは、かつての大家族に比して制度的には緩和されているが、その分精神的にはより依存の度合いを深めた性搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止させ職場となる企業や団体のネジや歯車として埋没していったことは記憶に新しい。
前者は21世紀の今日においても性差別の根深いこの国の後進性そのものであり、そして後者は共同体の同調圧力として、個人の創造性を抑圧することでこの国の産業を20世紀的な工業社会に縛り付け、21世紀的な情報社会への対応を大きく遅らせている。
~~~
共同幻想とアイデンティティ問題。これ、僕のテーマでもあります。
著者は、この吉本の処方が失敗したプロジェクトだったと断じる。
~~~
吉本は、どこで誤ったのだろうか。吉本の失敗と、この国の長すぎた戦後史が証明することーそれはある幻想にアイデンティティを預けることがほかの幻想に取り込まれないことを保証しないということだ。
自分は妻子のために身を粉にしていることを誇りに〈対幻想への依拠〉、安心して職場ではネジや歯車となって思考を停止〈共同幻想へ埋没〉していった。
今日の情報社会においてそれは自明なことだが、むしろ人間はある領域の幻想にアイデンティティを確立することで、別の領域では安心してそれを明け渡すことができる。
資本主義と情報技術の発展は、人々に複数の場を生きることを可能にした。より正確には、人間が複数の場を生き得ることを、顕在化させた。このとき、吉本の自立論はその根底の部分で大きな修正を迫られる。三幻想はそれぞれ、別の欲望に根差して単に独立しているのであり、決して逆立はしていないのだ。
~~~
ある幻想にアイデンティティを依拠すること。それは、他の幻想が作用する場における思考停止を意味する。それで、はたして人は幸せになれるのだろうか。さらに、消費社会へと時代がシフトする中での吉本が変わっていくことを以下のように述べる。
~~~
その後の吉本は、80年代の消費社会の到来を経て、むしろ個人の単位でのアイデンティティの確立を志向するようになる。
大衆が一人ひとり生活の必需品ではなく、嗜好品を手に入れること。この国にはじめて訪れた消費社会は、日本人に消費することでの自己確認(自己表現)という回路を与えた。
モノとのコミュニケーション(所有)によって、他の誰かにも特定の共同体にも承認されることなく、アイデンティティを安定させること。モノの所有のもたらすアイデンティティは多くの場合一時的なもので、そして弱い。
実際に当時の消費社会下におけるモノの所有によるアイデンティの確認は、実質的にはそれを社会的に顕示することで、共同体からの承認を獲得することが目的とされていた。それは自己幻想による自立ではなく、実質的には共同幻想への埋没だったのだ。
そして、21世紀の今日において情報社会の到来とともに価値の中心は「モノ」から「コト」に移行した。現在ではアルマーニのシャツの袖口からロレックスの時計をチラつかせている人間に、現役世代の大半が軽蔑を感じるだろう。一方で「コト」は情報技術によって簡単に可視化され、そしてシェアされるようになっている。
そしてその結果として、多くの人々は「コト」を社会的に顕示している。この「コト」のシェアによる顕示の中心を占めるのが、SNSのプラットフォーム上の相互評価のゲームである。
情報技術はコトをシェアすることでの自己幻想の確認のコストを、大きく下げてくれる。意識の高いイベントへの参加を顕示するのは骨の折れる行為だが、タイムラインの潮目を読んで周囲の人間が石を投げつけている相手に自分も一撃を加えることには、能力もコストもそれほど必要ない。
~~~
いやあ、これはすごい。アイデンティティの確立がSNSへ依存していることがわかる。さらに著者は、現代の代表的SNSが、吉本の三幻想に対応していることを指摘する。
~~~
プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。シリコンバレーの人々が吉本と参照したなどということがあるはずもない。彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。
吉本隆明が提唱した三幻想が人間と人間の間に発生する関係のパターンを網羅し正確に分類するものであったことが、四半世紀後の情報技術によって証明されたと考えればよいだろう。
そして、いま僕たちはこれらの幻想をコントロールする情報技術によって、吉本隆明のいう「関係の絶対性」の内部に閉じ込められている。
たとえば、FacebookやTwitterのユーザーの多くが、対幻想(他のユーザーとの関係)や共同幻想(所属するコミュニティ)を誇示することでの自己幻想(プロフィール)の強化を日常的に試みている。21世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、動員のゲームのネットワークの中に閉じ込めているだ。
SNSとは情報技術を用いて人間間の社会関係のみを抽出する装置だ。人間間の関係のみを肥大させた結果としてSNSの与える社会的身体は「人と関わること」に特化し、そのために承認欲求以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。
~~~
そっか。僕たちはまだ、吉本隆明が規定した世界の中で戸惑っているんだなあと。じゃあ、どうしたらいいのか。
「このゲームから降りる」ことだと宇野さんは言う。
~~~
かつてハンナ・アーレントが指摘したように、ゲームのプレイを目的にした主体はゲームの存在とその拡張を疑うことができなくなる。そしてゲームのプレイスタイルを変えること(所有から関係性へ)も、ゲームを複数化すること(プラットフォームとコミュニティの分散)も突破口になり得ない。では、どうするべきか。僕の解答はこの(関係性の絶対性のもたらす)ゲームから降りることだ。
それは外部に脱出するのではなく、内部に潜ることでなければいけない。
その手がかりは、日常の、暮らしの内部にある。
ロレンスも村上春樹もある時期から「走る」ことをその暮らしの中に取り入れていったことを。それも一定以上の「速さ」で走ることを彼らが求めたことを。
ランナーになったとき、住民と旅行客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、走っている時間は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っている時はその差はまったくなくなる。
僕が世界中の様々な街を訪れたときに、走ることでその街の一部になることができるように感じるのはそのためだ。街を走る人は、半ば匿名的になり、その街の風景の一部になっているのだ。
ランナーは走ることによってその街と、世界と対話する。しかし、速さを求めることは、その対話の可能性を閉ざす。純化されたスピードの追求は、その土地からの切断をもたらす。
「遅い」ランナーとは人間間の相互評価のゲームから降りた存在だ。しかしそれでいながら、人間を世界から切断する「速さ」の呪縛からも逃れ、「遅さ」を受け入れることで世界に対して開かれている存在だ。街を孤独に走るとき、僕たちは人間間の相互評価のゲームからは離脱しているが、その土地の事物に対しては開かれているのだ。
ここで重要なことはたった一つ。街を走るように、世界に接することだ。ただし、ゆっくりと。
~~~
じゃあ、どうやって脱ゲーム化していくのか?宇野さんは、京都に暮らした経験を基に「歴史に見られる」ことだと言う。
~~~
言い換えれば、個人の生の尺度で測ることができない巨大がものが、自分の生活の中に存在しているという感触だった。それは歴史を見るのではなく、歴史に見られる体験だった。自分がその物語の登場人物として、歴史の当事者として関与しているという実感はない。しかし確かに歴史は存在していて、自分の等身大の生活にも強く、深く影響している。そのことを僕はあの街で暮らしているときに、「見る」ことではなく「見られる」ことで感じていた。
そこには、「いま」自分が閉じたネットワークの相互評価のゲームでどのくらいスコアを挙げているかという問題を超越した、時間的な自立を与えてくれる感覚が、それも日常の、生活の内部に存在していた。人は歴史に見られながら暮らすことで、閉じたネットワークの時間的な外部の存在を意識するのだ。
京都のような古い街に暮らすとき、人はそれを意識することなくただ生活の中で歴史に見られることになる。このとき人間は時間をかけて、自己の存在よりも圧倒的に巨大な規模で、時間の流れが存在していることを無意識のうちに認識させられる。これがおそらく、物語化されない歴史へのアプローチのほぼ唯一の回路だ。
移住者としてその土地に接することが、そこを旅先として暮らしの外部に置くのではなく、暮らしの内部として受け止めることが、もっとも効果的に歴史に見られる身体を育むのだ。
その土地を無目的に「遅く」走るとき、僕たちの身体は無防備に歴史に見られることになる。このとき僕たちの身体は走ること以外に、自由な速度を用いてその土地に触れること以外に目的を持たない。セルフィーを撮るべき名所旧跡も、承認を交換すべき他の誰かも必要としていない。そしてそのために、接した場所において目的を持たない。
~~~
「歴史に見られる」という感覚。これはきっと、麒麟山米づくり大学に参加している人たち、Feel度Walkをしている人たち、もしかしたら地域みらい留学の高校生たちががうっすらと感じていることなのではないか。
180年続く酒蔵の米づくりを体感し、酒造りの細部を知る。そこに込められた想いを知る。そして、同時に、酒造りの歴史から見られているのだ。
本書のラストに著者は三つの知恵を提案する。
~~~
第一に、人間以外の事物と触れる時間を持つこと
第二に、人間以外の事物を「制作」すること
最後に、その「制作」を通じて、他者と接すること
人間は、人間外の事物に触れることで人間間の相互評価のゲームから一時的に逸脱する。プラットフォームによって画一化され、同じ身体を持つ他のプレイヤーとの承認の交換しかできなくなった身体がその多様な側面を回復する。ここで大事なのは、その事物を消費せずに、愛好することだ。ここで述べる消費とは、その事物を受け取り、用いることを指す。そして愛好とはその事物を単に受け取るのではなく、独自の問題を設定し、探求することを指す。
このとき僕たちは事物をただ単に見る、触れるのではなく、その事物を用いて何かを制作することが望ましい。そうすることで、僕たちは相互評価のネットワーク(世間)とは、切断されながら、世界と接続することができる。そして制作された事物により、僕たちは自立しながらも開かれることになる。そして制作された事物は、未来において人間たちを「見る」歴史的な主体になっていくのだ。
こうしてその人ではなく、制作された事物とのコミュニケーションに注力することで、情報技術に支援された人間間の相互評価のゲームとは異なるチャンネルでの対話が可能になる。
~~~
SNSによる相互評価ゲームの外部を、ひとりひとりは必要としている。そしてそれは、旅先のどこかではなく、暮らしの内部にあり、住んでいる町の歴史との相互作用にあるのかもしれない。
「いきている」と実感すること。それはひとえに、自分が交換不可能な存在であると認識できることなのだろうと思う。
人間以外の事物にふれ、事物を制作し、それを通じて他者と接すること。
そこに、アイデンティティを取り戻すヒントが詰まっていると思う。
第四部 脱ゲーム的身体より
吉本隆明『共同幻想論』からの、アイデンティティ問題の考察がスルドいのでメモ
~~~
吉本の生きた20世紀が、共同幻想の肥大が個人を押しつぶしていた時代だったからだ。
イデオロギーによって思考を停止し、世界を善悪に二分してしまった人間たちが何をし得るのかは自明だ。20世紀とは、情報環境の進化に踊らされた人類が共同幻想を肥大化させ危うく自らを滅ぼしかけた時代だったのだ。だからこそ、吉本隆明はあらゆる共同幻想からの自立を唱えた。
3つの幻想は、自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人など、1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)に分類され、これらは互いに独立して存在し、かつ反発し合う性質(逆立)があると吉本は考えた。
吉本が自立の根拠としたのが、対幻想-家族や友人などに発生する1対1の対の関係性-だった。家族を守ること、妻と子の生活を守ることをアイデンティティの中核に置き、政治的イデオロギーのもたらす共同幻想から「自立」すること。つまり吉本は半世紀前に、共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠するという処方箋を提示したのだ。
その処方箋を提示された患者たちー全共闘の若き活動家たちーはたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想から自立したのかもしれない。しかし、彼らの新しい依存先となった戦後的な核家族による家庭の多くは、かつての大家族に比して制度的には緩和されているが、その分精神的にはより依存の度合いを深めた性搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止させ職場となる企業や団体のネジや歯車として埋没していったことは記憶に新しい。
前者は21世紀の今日においても性差別の根深いこの国の後進性そのものであり、そして後者は共同体の同調圧力として、個人の創造性を抑圧することでこの国の産業を20世紀的な工業社会に縛り付け、21世紀的な情報社会への対応を大きく遅らせている。
~~~
共同幻想とアイデンティティ問題。これ、僕のテーマでもあります。
著者は、この吉本の処方が失敗したプロジェクトだったと断じる。
~~~
吉本は、どこで誤ったのだろうか。吉本の失敗と、この国の長すぎた戦後史が証明することーそれはある幻想にアイデンティティを預けることがほかの幻想に取り込まれないことを保証しないということだ。
自分は妻子のために身を粉にしていることを誇りに〈対幻想への依拠〉、安心して職場ではネジや歯車となって思考を停止〈共同幻想へ埋没〉していった。
今日の情報社会においてそれは自明なことだが、むしろ人間はある領域の幻想にアイデンティティを確立することで、別の領域では安心してそれを明け渡すことができる。
資本主義と情報技術の発展は、人々に複数の場を生きることを可能にした。より正確には、人間が複数の場を生き得ることを、顕在化させた。このとき、吉本の自立論はその根底の部分で大きな修正を迫られる。三幻想はそれぞれ、別の欲望に根差して単に独立しているのであり、決して逆立はしていないのだ。
~~~
ある幻想にアイデンティティを依拠すること。それは、他の幻想が作用する場における思考停止を意味する。それで、はたして人は幸せになれるのだろうか。さらに、消費社会へと時代がシフトする中での吉本が変わっていくことを以下のように述べる。
~~~
その後の吉本は、80年代の消費社会の到来を経て、むしろ個人の単位でのアイデンティティの確立を志向するようになる。
大衆が一人ひとり生活の必需品ではなく、嗜好品を手に入れること。この国にはじめて訪れた消費社会は、日本人に消費することでの自己確認(自己表現)という回路を与えた。
モノとのコミュニケーション(所有)によって、他の誰かにも特定の共同体にも承認されることなく、アイデンティティを安定させること。モノの所有のもたらすアイデンティティは多くの場合一時的なもので、そして弱い。
実際に当時の消費社会下におけるモノの所有によるアイデンティの確認は、実質的にはそれを社会的に顕示することで、共同体からの承認を獲得することが目的とされていた。それは自己幻想による自立ではなく、実質的には共同幻想への埋没だったのだ。
そして、21世紀の今日において情報社会の到来とともに価値の中心は「モノ」から「コト」に移行した。現在ではアルマーニのシャツの袖口からロレックスの時計をチラつかせている人間に、現役世代の大半が軽蔑を感じるだろう。一方で「コト」は情報技術によって簡単に可視化され、そしてシェアされるようになっている。
そしてその結果として、多くの人々は「コト」を社会的に顕示している。この「コト」のシェアによる顕示の中心を占めるのが、SNSのプラットフォーム上の相互評価のゲームである。
情報技術はコトをシェアすることでの自己幻想の確認のコストを、大きく下げてくれる。意識の高いイベントへの参加を顕示するのは骨の折れる行為だが、タイムラインの潮目を読んで周囲の人間が石を投げつけている相手に自分も一撃を加えることには、能力もコストもそれほど必要ない。
~~~
いやあ、これはすごい。アイデンティティの確立がSNSへ依存していることがわかる。さらに著者は、現代の代表的SNSが、吉本の三幻想に対応していることを指摘する。
~~~
プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。シリコンバレーの人々が吉本と参照したなどということがあるはずもない。彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。
吉本隆明が提唱した三幻想が人間と人間の間に発生する関係のパターンを網羅し正確に分類するものであったことが、四半世紀後の情報技術によって証明されたと考えればよいだろう。
そして、いま僕たちはこれらの幻想をコントロールする情報技術によって、吉本隆明のいう「関係の絶対性」の内部に閉じ込められている。
たとえば、FacebookやTwitterのユーザーの多くが、対幻想(他のユーザーとの関係)や共同幻想(所属するコミュニティ)を誇示することでの自己幻想(プロフィール)の強化を日常的に試みている。21世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、動員のゲームのネットワークの中に閉じ込めているだ。
SNSとは情報技術を用いて人間間の社会関係のみを抽出する装置だ。人間間の関係のみを肥大させた結果としてSNSの与える社会的身体は「人と関わること」に特化し、そのために承認欲求以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。
~~~
そっか。僕たちはまだ、吉本隆明が規定した世界の中で戸惑っているんだなあと。じゃあ、どうしたらいいのか。
「このゲームから降りる」ことだと宇野さんは言う。
~~~
かつてハンナ・アーレントが指摘したように、ゲームのプレイを目的にした主体はゲームの存在とその拡張を疑うことができなくなる。そしてゲームのプレイスタイルを変えること(所有から関係性へ)も、ゲームを複数化すること(プラットフォームとコミュニティの分散)も突破口になり得ない。では、どうするべきか。僕の解答はこの(関係性の絶対性のもたらす)ゲームから降りることだ。
それは外部に脱出するのではなく、内部に潜ることでなければいけない。
その手がかりは、日常の、暮らしの内部にある。
ロレンスも村上春樹もある時期から「走る」ことをその暮らしの中に取り入れていったことを。それも一定以上の「速さ」で走ることを彼らが求めたことを。
ランナーになったとき、住民と旅行客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、走っている時間は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っている時はその差はまったくなくなる。
僕が世界中の様々な街を訪れたときに、走ることでその街の一部になることができるように感じるのはそのためだ。街を走る人は、半ば匿名的になり、その街の風景の一部になっているのだ。
ランナーは走ることによってその街と、世界と対話する。しかし、速さを求めることは、その対話の可能性を閉ざす。純化されたスピードの追求は、その土地からの切断をもたらす。
「遅い」ランナーとは人間間の相互評価のゲームから降りた存在だ。しかしそれでいながら、人間を世界から切断する「速さ」の呪縛からも逃れ、「遅さ」を受け入れることで世界に対して開かれている存在だ。街を孤独に走るとき、僕たちは人間間の相互評価のゲームからは離脱しているが、その土地の事物に対しては開かれているのだ。
ここで重要なことはたった一つ。街を走るように、世界に接することだ。ただし、ゆっくりと。
~~~
じゃあ、どうやって脱ゲーム化していくのか?宇野さんは、京都に暮らした経験を基に「歴史に見られる」ことだと言う。
~~~
言い換えれば、個人の生の尺度で測ることができない巨大がものが、自分の生活の中に存在しているという感触だった。それは歴史を見るのではなく、歴史に見られる体験だった。自分がその物語の登場人物として、歴史の当事者として関与しているという実感はない。しかし確かに歴史は存在していて、自分の等身大の生活にも強く、深く影響している。そのことを僕はあの街で暮らしているときに、「見る」ことではなく「見られる」ことで感じていた。
そこには、「いま」自分が閉じたネットワークの相互評価のゲームでどのくらいスコアを挙げているかという問題を超越した、時間的な自立を与えてくれる感覚が、それも日常の、生活の内部に存在していた。人は歴史に見られながら暮らすことで、閉じたネットワークの時間的な外部の存在を意識するのだ。
京都のような古い街に暮らすとき、人はそれを意識することなくただ生活の中で歴史に見られることになる。このとき人間は時間をかけて、自己の存在よりも圧倒的に巨大な規模で、時間の流れが存在していることを無意識のうちに認識させられる。これがおそらく、物語化されない歴史へのアプローチのほぼ唯一の回路だ。
移住者としてその土地に接することが、そこを旅先として暮らしの外部に置くのではなく、暮らしの内部として受け止めることが、もっとも効果的に歴史に見られる身体を育むのだ。
その土地を無目的に「遅く」走るとき、僕たちの身体は無防備に歴史に見られることになる。このとき僕たちの身体は走ること以外に、自由な速度を用いてその土地に触れること以外に目的を持たない。セルフィーを撮るべき名所旧跡も、承認を交換すべき他の誰かも必要としていない。そしてそのために、接した場所において目的を持たない。
~~~
「歴史に見られる」という感覚。これはきっと、麒麟山米づくり大学に参加している人たち、Feel度Walkをしている人たち、もしかしたら地域みらい留学の高校生たちががうっすらと感じていることなのではないか。
180年続く酒蔵の米づくりを体感し、酒造りの細部を知る。そこに込められた想いを知る。そして、同時に、酒造りの歴史から見られているのだ。
本書のラストに著者は三つの知恵を提案する。
~~~
第一に、人間以外の事物と触れる時間を持つこと
第二に、人間以外の事物を「制作」すること
最後に、その「制作」を通じて、他者と接すること
人間は、人間外の事物に触れることで人間間の相互評価のゲームから一時的に逸脱する。プラットフォームによって画一化され、同じ身体を持つ他のプレイヤーとの承認の交換しかできなくなった身体がその多様な側面を回復する。ここで大事なのは、その事物を消費せずに、愛好することだ。ここで述べる消費とは、その事物を受け取り、用いることを指す。そして愛好とはその事物を単に受け取るのではなく、独自の問題を設定し、探求することを指す。
このとき僕たちは事物をただ単に見る、触れるのではなく、その事物を用いて何かを制作することが望ましい。そうすることで、僕たちは相互評価のネットワーク(世間)とは、切断されながら、世界と接続することができる。そして制作された事物により、僕たちは自立しながらも開かれることになる。そして制作された事物は、未来において人間たちを「見る」歴史的な主体になっていくのだ。
こうしてその人ではなく、制作された事物とのコミュニケーションに注力することで、情報技術に支援された人間間の相互評価のゲームとは異なるチャンネルでの対話が可能になる。
~~~
SNSによる相互評価ゲームの外部を、ひとりひとりは必要としている。そしてそれは、旅先のどこかではなく、暮らしの内部にあり、住んでいる町の歴史との相互作用にあるのかもしれない。
「いきている」と実感すること。それはひとえに、自分が交換不可能な存在であると認識できることなのだろうと思う。
人間以外の事物にふれ、事物を制作し、それを通じて他者と接すること。
そこに、アイデンティティを取り戻すヒントが詰まっていると思う。
2024年03月27日
「相互評価」ゲームからの越境
『砂漠と異人たち』(宇野常寛 朝日新聞出版)
1年前に買っていたのですが、ようやく読み始め。
でも、タイムリーではあります。
僕たちは「評価」というものを問い直す必要があるのだと思う。
以下、引用。
まずはSNSによる「動員の革命」について
~~~
コロナ・ショックは人間をインターネットの中に、より正確にはSNSの作り出す人間同士の相互評価のゲームの中に閉じ込めたのだ。いつの間にか人々は問題を解決するためではなく不安を解消するために、考えるためではなく考えないために情報を検索し、受信し、そして発信するようになっていた。
マスメディアのもたらすものが他人の物語への感情移入であるのに対し、SNSのそれは自分の物語の発信である。その発信がほんの少しでも誰かを、社会を動かすと信じられるとき、人間は自己の存在が承認されたと感じる。ここにら「動員の革命」の特徴があった。「動員の革命」とは市民運動だけでなく、CDからライブやフェスへの収益構造の変化、「観る」アニメから「推す」アイドルへのサブカルチャーの中心の移動、「インスタ映え」による小売店や観光客の集客。サイバースペースの日常から、実空間の非日常に「動員」していた時代だった。
「動員の革命」とは、言い換えれば誰もが当事者として「自分の物語」を発信する快楽を得られる環境に依存した動員だ。しかし多くの人々が、その快楽の中毒となり、発信すること自体が目的化することでものを考える力を失ってしまっているのだ。彼ら、彼女らは自分が投稿した言葉が、画像が、動画が、他のプレイヤーの共感を集めたとき、自己の存在が承認されたと感じる。
このとき人間は、それがどんな小さなものであったとしても、確実に世界に素手で触れたと信じられる。この手触りは自分が存在していることを強く肯定してくれる。その結果として、今日の世界では世界中の人々が他のプレイヤーからの共感を競うこのゲームのプレイヤーになっている。プレイヤーの目的は問題の解決や再設定ではなく、問題についての応答による評価の獲得だ。他のユーザーからの評価を獲得するためには、その承認への欲求に訴えることがもっとも効果的であることを、いまやほとんどのプレイヤーが経験的に知っている。
~~~
「動員の革命」とは、SNSによって可能となった「自分の物語の発信」とそれに伴う「存在の承認」への欲求によって駆動されているのだと宇野さんは言う。
そして、いつのまにか、人はその「共感」の数を競うゲームのプレイヤーとして存在しているのだとも言う。まさに「評価経済」と呼ばれるものだ。
しかし、果たしてそれで、人は幸せになったのだろうか?
世界は進歩したのだろうか?
課題は解決したのだろうか?
「承認の欲求」という課題を含めて。
宇野さんは問いかける
~~~
しかし、僕は問いたい。この十年のあいだSNSによって動員されたそこは本当に外部だったのか。偶然目に映り、耳に入るものに溢れた出会いの場だったのだろうか。
~~~
それはむしろ、現実社会そのものがサーバー空間によって乗っ取られている、とも言えるだろう。しかしそれは「世界に素手で触れている」という感覚を喪失しているからこそ起こるのだ、と宇野さんは説明する。
~~~
グローバル資本主義というゲームをプレイし、そしてゲームそのものを内側から改変していくことが可能なメタプレイヤーキャラクターたちと、もはやこのゲームを主体的にプレイすることすら許されないノンプレイヤーキャラクターたちに世界は二分されているのだ。両者を隔てているのは、世界に素手で触れることができると信じられているかどうか、だ。
ヒッピーの脱社会性と反権威性にヤッピーたちの資本主義への過剰反応が合流したとき、シリコンバレーは生まれた。このとき、資本主義の外部に捏造するはずだったサイバースペースは、資本主義社会のあたらしいフロンティアとしてその内部に組み込まれた。
およそ百年前に、ロレンスが選択したゲームの目的(金銭や地位、そしてイデオロギーの追求など)を放棄し、ゲームのスコア自体を目的化するというアプローチこそが、帝国主義の無制限に自己拡大を試みるメカニズムの一部であるというアーレントの指摘は、情報社会を生きる僕たちに大きな示唆を与える
インターネットが、SNSのプラットフォームによって閉じた相互評価のゲームと化したとき、人々はアーレントの述べる〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーに限りなく近い存在になる。
自分の発信が他のプレイヤーから評価されることで発生する承認の快楽の中毒になっていく。そして発信の目的は世界に影響を及ぼすことではなく、承認の獲得に変化していく。気がつけば、問題の解決や問い直しではなく、どのように回答すれば他のプレイヤーから関心を集めることができるかだけを考えて発信するようになる。
~~~
いやー。まさにまさに。
僕たちはSNSによって、現実社会を乗っ取られているのだ。
著者はそれを「アラビアのロレンス問題」として、解説するのが第2章だ。
ここは、なかなか難しかったのだけど、結論だけをメモする。
~~~
僕たちはロレンスよりもずっと簡単に物理的な身体を一時的に消滅させる一方で、社会的な身体のみを肥大させ、着飾ることができる世界に生きている。ロレンスほど徹底してその身体を痛めつけることなく、精神と身体を切り離し、メディアの中の虚像を手に入れることができる。
人びとは極めて無自覚に、単純化され、画一化された身体を用いることによって、その欲望も単純化され、画一化されている。プラットフォームはあらゆるプレイヤーの社会的身体を画一化する。現実の物理的な身体は多様だが、SNS上の社会的身体は一様なものになる。人間一人ひとりの身体は全く異なるが、SNSのアカウントの機能は同一だ。しかもその社会的身体(アカウント)の機能は、相互評価のゲームによる承認の交換のみを行うように設計されている。
その結果として人々は閉じたネットワークの内部に閉じ込められて、終わりのない21世紀の〈グレート・ゲーム〉に埋没している。そして今日となっては、SNSのプラットフォームの支配下にあると言っても過言ではない実空間にまで、その繭は拡大している。
~~~
新型コロナウイルスにより、生身の身体で「外部」に触れられなくなった私たちは、身体を拒絶して絶対的な外部を求めることによって、逆に閉じたネットワークに閉じ込められたのだと著者は説明する。
これこそがこの4年間で、起こったことなのではないか。
そう思った。
コロナショックによる外出制限によって、僕たちは(特に身体的に)「存在が承認される」機会を失った。その、根源的欲求に応えるために、SNSの世界へと時間を使うようになった。そこは、ひとりひとりが「1アカウント」でしかなく、平等な条件のもとの相互評価のゲームをプレイできる場だった。
「越境しよう」
そう高校生に呼びかけるとき、越えるべき「境界」とはいったいなんだろうか?
子どもと大人の境界。
学校内と学校外の境界。
地域内と地域外の境界。
日本と世界の境界。
または身体と精神の境界。
本当に越えなければならないのは「評価」の境界ではないのか。
SNSのプラットフォームが提供している相互評価のゲーム。
学校内外の活動のすべてを大学進学のネタとして「評価」しようとする入試ゲーム。
その外部に出る必要があるのではないか。
そして、「外部」を自ら構築する必要があるのではないか。
身体を伴ったリアルな実感として。
その「越境」のきっかけをつくること、コーディネートすることこそが私たちがここに存在している理由なのではないのか。
その「越境」を欲して、ロレンスのように高校生は地方を目指しているのではないのか。
そこに応えられる地域でありたい、そんな風に思った。
1年前に買っていたのですが、ようやく読み始め。
でも、タイムリーではあります。
僕たちは「評価」というものを問い直す必要があるのだと思う。
以下、引用。
まずはSNSによる「動員の革命」について
~~~
コロナ・ショックは人間をインターネットの中に、より正確にはSNSの作り出す人間同士の相互評価のゲームの中に閉じ込めたのだ。いつの間にか人々は問題を解決するためではなく不安を解消するために、考えるためではなく考えないために情報を検索し、受信し、そして発信するようになっていた。
マスメディアのもたらすものが他人の物語への感情移入であるのに対し、SNSのそれは自分の物語の発信である。その発信がほんの少しでも誰かを、社会を動かすと信じられるとき、人間は自己の存在が承認されたと感じる。ここにら「動員の革命」の特徴があった。「動員の革命」とは市民運動だけでなく、CDからライブやフェスへの収益構造の変化、「観る」アニメから「推す」アイドルへのサブカルチャーの中心の移動、「インスタ映え」による小売店や観光客の集客。サイバースペースの日常から、実空間の非日常に「動員」していた時代だった。
「動員の革命」とは、言い換えれば誰もが当事者として「自分の物語」を発信する快楽を得られる環境に依存した動員だ。しかし多くの人々が、その快楽の中毒となり、発信すること自体が目的化することでものを考える力を失ってしまっているのだ。彼ら、彼女らは自分が投稿した言葉が、画像が、動画が、他のプレイヤーの共感を集めたとき、自己の存在が承認されたと感じる。
このとき人間は、それがどんな小さなものであったとしても、確実に世界に素手で触れたと信じられる。この手触りは自分が存在していることを強く肯定してくれる。その結果として、今日の世界では世界中の人々が他のプレイヤーからの共感を競うこのゲームのプレイヤーになっている。プレイヤーの目的は問題の解決や再設定ではなく、問題についての応答による評価の獲得だ。他のユーザーからの評価を獲得するためには、その承認への欲求に訴えることがもっとも効果的であることを、いまやほとんどのプレイヤーが経験的に知っている。
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「動員の革命」とは、SNSによって可能となった「自分の物語の発信」とそれに伴う「存在の承認」への欲求によって駆動されているのだと宇野さんは言う。
そして、いつのまにか、人はその「共感」の数を競うゲームのプレイヤーとして存在しているのだとも言う。まさに「評価経済」と呼ばれるものだ。
しかし、果たしてそれで、人は幸せになったのだろうか?
世界は進歩したのだろうか?
課題は解決したのだろうか?
「承認の欲求」という課題を含めて。
宇野さんは問いかける
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しかし、僕は問いたい。この十年のあいだSNSによって動員されたそこは本当に外部だったのか。偶然目に映り、耳に入るものに溢れた出会いの場だったのだろうか。
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それはむしろ、現実社会そのものがサーバー空間によって乗っ取られている、とも言えるだろう。しかしそれは「世界に素手で触れている」という感覚を喪失しているからこそ起こるのだ、と宇野さんは説明する。
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グローバル資本主義というゲームをプレイし、そしてゲームそのものを内側から改変していくことが可能なメタプレイヤーキャラクターたちと、もはやこのゲームを主体的にプレイすることすら許されないノンプレイヤーキャラクターたちに世界は二分されているのだ。両者を隔てているのは、世界に素手で触れることができると信じられているかどうか、だ。
ヒッピーの脱社会性と反権威性にヤッピーたちの資本主義への過剰反応が合流したとき、シリコンバレーは生まれた。このとき、資本主義の外部に捏造するはずだったサイバースペースは、資本主義社会のあたらしいフロンティアとしてその内部に組み込まれた。
およそ百年前に、ロレンスが選択したゲームの目的(金銭や地位、そしてイデオロギーの追求など)を放棄し、ゲームのスコア自体を目的化するというアプローチこそが、帝国主義の無制限に自己拡大を試みるメカニズムの一部であるというアーレントの指摘は、情報社会を生きる僕たちに大きな示唆を与える
インターネットが、SNSのプラットフォームによって閉じた相互評価のゲームと化したとき、人々はアーレントの述べる〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーに限りなく近い存在になる。
自分の発信が他のプレイヤーから評価されることで発生する承認の快楽の中毒になっていく。そして発信の目的は世界に影響を及ぼすことではなく、承認の獲得に変化していく。気がつけば、問題の解決や問い直しではなく、どのように回答すれば他のプレイヤーから関心を集めることができるかだけを考えて発信するようになる。
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いやー。まさにまさに。
僕たちはSNSによって、現実社会を乗っ取られているのだ。
著者はそれを「アラビアのロレンス問題」として、解説するのが第2章だ。
ここは、なかなか難しかったのだけど、結論だけをメモする。
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僕たちはロレンスよりもずっと簡単に物理的な身体を一時的に消滅させる一方で、社会的な身体のみを肥大させ、着飾ることができる世界に生きている。ロレンスほど徹底してその身体を痛めつけることなく、精神と身体を切り離し、メディアの中の虚像を手に入れることができる。
人びとは極めて無自覚に、単純化され、画一化された身体を用いることによって、その欲望も単純化され、画一化されている。プラットフォームはあらゆるプレイヤーの社会的身体を画一化する。現実の物理的な身体は多様だが、SNS上の社会的身体は一様なものになる。人間一人ひとりの身体は全く異なるが、SNSのアカウントの機能は同一だ。しかもその社会的身体(アカウント)の機能は、相互評価のゲームによる承認の交換のみを行うように設計されている。
その結果として人々は閉じたネットワークの内部に閉じ込められて、終わりのない21世紀の〈グレート・ゲーム〉に埋没している。そして今日となっては、SNSのプラットフォームの支配下にあると言っても過言ではない実空間にまで、その繭は拡大している。
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新型コロナウイルスにより、生身の身体で「外部」に触れられなくなった私たちは、身体を拒絶して絶対的な外部を求めることによって、逆に閉じたネットワークに閉じ込められたのだと著者は説明する。
これこそがこの4年間で、起こったことなのではないか。
そう思った。
コロナショックによる外出制限によって、僕たちは(特に身体的に)「存在が承認される」機会を失った。その、根源的欲求に応えるために、SNSの世界へと時間を使うようになった。そこは、ひとりひとりが「1アカウント」でしかなく、平等な条件のもとの相互評価のゲームをプレイできる場だった。
「越境しよう」
そう高校生に呼びかけるとき、越えるべき「境界」とはいったいなんだろうか?
子どもと大人の境界。
学校内と学校外の境界。
地域内と地域外の境界。
日本と世界の境界。
または身体と精神の境界。
本当に越えなければならないのは「評価」の境界ではないのか。
SNSのプラットフォームが提供している相互評価のゲーム。
学校内外の活動のすべてを大学進学のネタとして「評価」しようとする入試ゲーム。
その外部に出る必要があるのではないか。
そして、「外部」を自ら構築する必要があるのではないか。
身体を伴ったリアルな実感として。
その「越境」のきっかけをつくること、コーディネートすることこそが私たちがここに存在している理由なのではないのか。
その「越境」を欲して、ロレンスのように高校生は地方を目指しているのではないのか。
そこに応えられる地域でありたい、そんな風に思った。
2024年03月23日
「自分とは何か?」に応えてくれる活動

『ごちゃまぜで社会は変えられる』(濱野将行 クリエイツかもがわ)
読みました。シビれました。こんなすごい人いるんだなあって。
さっそく本書に出てくるユースサポーターズネットワークの岩井さんに連絡して、5月くらいに行きます、って言いました。
舞台は栃木県大田原市。
濱野さんが代表を務める一般社団法人えんがおは、「誰もが人とのつながりを感じられる社会」を目指して、高齢者の孤立問題を中心とした地域課題・社会課題に向き合っています。
えんがおHP
https://www.engawa-smile.org/
徒歩2分圏内の6軒の空き家を活用し、10の事業を展開しています。
もともと濱野さんは作業療法士を志す大学生でした、それが大学1年次3月東日本大震災で大きく動き出しました。高齢者の生活支援事業から始まり、いまではさまざまな事業を展開しています。
そんな濱野さんの本からの抜粋を
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「生活のお手伝いをする」という「手段」を用いて、人とのつながりが希薄な高齢者の生活に「つながり」と「会話」をつくる。それが僕たちの生活支援事業です。
地域サロンの運営で大切なのは、「役割をつくる」です。お茶飲み場が居場所になるわけではないんです。人にとって居場所とは「役割」です。
介護予防=運動+役割なんです。
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なるほどな~。役割をつくること。
畑をやり続けるっていうのもある意味「役割」だよなあと。
つづいて「関係人口の増やし方」
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関係人口の増やし方は主に2つです。
1つめ「相談」のくせをつけること。2つ目「発信」。
課題解決の力と「人を巻き込む力」の両方が必要です。
他人に対しては結果を求めなくていいけど、何かを変えたければ、自分に対しては結果主義になること。
「結果」とは、テレビに出ることやSNSのフォロワーが増えることではなく「誰が幸せになったのか」です。
「人を幸せにした事実や想い」が「発信されて」生まれるものが「信用」だと思っています
どんな人が来たのか、どんなことで困っていたのか、自分たちの活動の結果、どう喜んでくれたのか。それを発信してください。
それを第三者がみて初めて「へー。いいことしてんじゃん」となるわけです。
目の前の人を喜ばせることが、何より大切です。順番で言えば間違いなく、1番は「人を幸せにした事実を積み重ねる」ことです。だけど、これからの時代、それとセットで「発信して信用を貯める」ことも大切なんです。
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まさに、まさに。「発信」することは大切で、さらに「発信」すべきは、活動そのものではなく、「その活動によって誰がどのように幸せになったのか」ということなのです。
いや、まさに本質
さらに、濱野さんたちがひたすらやってきたこと
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・目の前のニーズを拾う。それが自分たちのもつ性質と合っているかを確認してできそうならやる。
・やるときはなるべく多くの人を巻き込む、つくる段階から巻き込む
・壁にぶつかって凹む
・とにかく相談する
・その活動で誰が喜ぶかを明確化して、発信する。
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いいですね。シンプル。
つづいて、関わりやすさを示す「余白力」について
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チーム運営において、もっとも大切なことは「メンバーのもっている強みを最大限に活かすこと」だと考えています。そのためにリーダーは「不完全」でいたほうがいいと考えています。
「意図的」に、自分の弱みをそのまま開放することで、「自然に発生する」余白。そこに人が集まる。
他者が入る余白があれば、一時的に混乱しても、リーダーである人の想像を超えた形で、チームは進化していきます。この「想像を超えた」もポイントです。予測できない変化(進化)が起きるチームです。
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いいですね。
リーダー像。
さらに、この本のハイライトはP200からの若者の巻き込み方。
これは、授業の設計においてもまったくその通りなので、写経します。
1 活動の「体験価値」を高める
2 余白をつくる
3 存在を受け入れる(名前を呼ぶ、個人の物語を捉える・強みを見つけて言語化するなど)
4 信じる。活動に来ている時点で、もう最強。信じる。任せる。
5 放置する。失敗できる環境こそが価値。間違っていても正さない。失敗してもらう。常に、付かず離れずの距離で見ている。失敗して自分で気づき、学ぶ。その過程を見守る。相談には乗る。
6 本人の変化を本人より先に捉えて、言語化して手渡す。
7 参加者(学生)よりも自分が楽しむ。
8 活動の社会的意味を伝える。なぜ、その活動がなければいけないのか。それに対してどんな解決策を提示しているのか。
9 環境のせいにする時は声をかける(気づけるような問いを投げる)。自分で気づけないスパイラルに入っているのであれば、嫌われてもいいからそれを伝える。
10 10個もなかった。だめなところを見せる。2と被った
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10。笑
すごいなあ、濱野さん。
文章からにじみ出る人間性。
そして、その前に書いてあることになるのですが、僕の研究領域であるアイデンティティ問題についての言及メモ
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家族以外にも「自分の存在を心配してくれる人がいる」という感覚が、そういう日々の声かけで、潜在意識の中に刷り込まれていくのではないでしょうか。その小さな積み重ねで「自分はここにいていいんだ」と、言語化できない、心の深いところで感じていくのだと思うんです。
誰かに心配されているとか、気にかけられている、みたいな体験の積み重ねが、数年後の自分自身への「自信」につながるのではないかと考えているのです。
彼が変わったわけではなく、「もともとできる」ことが、いろいろなものに抑圧されて、それを「発揮できなくなって」いたんです。
それが、世代を超えた交流で認められたり、受け入れられたりして、徐々に発揮できるようになっただけなんです。自分らしさが戻ったんですね。この場合もえんがおがやったのは、もともと素敵な彼を受け入れて信じることだけでした。
今も昔も、「今時のワカモノ」自体は変わっていなくて、みんな超ステキですよ。優しいんです。彼らを取り巻き育てる「環境」が変わっているんですね。そうして自分を「発揮」しにくくなっているのだと思います。
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いや、ホント、その通りだなあと思います。
「存在の承認」という出発点をどうデザインするか。
そこに若者との活動はかかっていると僕も思います。
介護予防は、運動+居場所(役割)だと濱野さんは言う。
その「役割」を感じられなくなった。
若者は本当は若いだけで価値があるのだ。
価値があるから、声をかけてくれるのだ。
話をするだけで元気もらえるからね。
「仕事でアイデンティティを形成せよ」とキャリア教育は言う。
でも、それができる人は一部の優秀な人だ。
その優秀な人だって、「経済社会」というフィクションの中における「役割」を果たしているに過ぎない。
「自分とは何か?」
その問いに応えてくれる活動を必要としている。
それは「生きる」に直結しているから。
それは若者であっても高齢者であっても私たちオジサンにとっても同じだ。
自分は、どんな共同体で、どんな役割を果たせるだろうか。どんな役を演じられるだろうか。
そんな根源的な問いを皆、かかえていて、
一般社団法人えんがおと濱野さんは、その問いに応え続けているのだと強く思った。