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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年07月10日

はみ出し者の系譜


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

はやくも2周目。今日は「はみ出し者の系譜」です。
言い換えれば、「コミュニティ難民」なのかもしれません。

参考:中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」(16.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e483286.html

ツルハシブックス閉店1か月後に書いた文。

「居場所」という場所は不要で、「劇場」をたくさんつくり、
「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。
これはもしかすると、オンライン劇場ツルハシブックスで目指しているものなのかもしれない。

リアル店舗の本屋「ツルハシブックス」とは僕なりの「参加型社会」への実験だったと言えるだろう。

本屋のような劇場をつくる。
気がついたら本屋という舞台の共演者になっている。

それは、もしかしたら、
「ヨコ軸」としての参加型社会だったのかもしれない、と。
そしてそれは「瞬間的に」発生することで、
心が開き、共同体感を感じられる場になったのかもしれない。

そして、唐澤さんたちの「ネオ・まきどき村」が志向している
「営みの中にあること」はタテ軸としての参加型社会なのかもしれない。

この本を読んで、
あらためて、自分という存在だったり、昨日のブログに書いた
「永遠に中間的なるもの」としての「自分たち」という存在を考えた。

~~~以下本書より一部引用とメモ

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。
アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。
そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、
その中でまた独自の掟や作法が生まれて、
それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。
「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

ここまで第6章の「よはとつ図形2020」より。

そっか。
「とどまる」を経験しないと、真の意味で「つながる」フェーズにはいけないんだなあと。
永遠に「よりそう」「はじける」「よりそう」「はじける」を繰り返してしまう。

もう、「よりそう」だけでは(全員は)生きていけないのだ。
コロナ過での公務員・大企業志向は、まさに「よりそう」への回帰なのだと思う。
一方で、「はじけろ」っていうだけなのも違う気がするのだよね、きっと。

このブログのタイトル「20代の宿題」っていうのは、もしかしたら、
「つながる」フェーズに行くために、
「よりそう」「はじける」「とどまる」の3フェーズを繰り返すこと、なのかもしれない。

そしてそこで圧倒的に重要で、しかも難しいのは「とどまる」だ。
意識しなければできないし、「とどまる」には孤独が必須だからだ。
そして「とどまる」の前には「はじける」がある。

同調圧力などの掟・ルールに耐えられず、コミュニティにいられなくなる。
そんな状況で「はじける」ことができるのか。

そこで、この本では歴史を壮大にふりかえる。
(この本のクライマックスなので、本を買おうと思っている人は読まないほうjがいいかも)

▼▼▼ここから一部引用・メモ

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。

海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。
海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。
生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。

私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。

私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。

「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。

その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。

▲▲▲ここまで引用・メモ

このあと本当のラスト「望郷としての海」に行くのだけど、それは本書をお読みください。

いやあ。書いていて、身震いがする。

新型コロナウイルスが強引にこじ開けたドア。
Withコロナ時代の先、向こう側。
なぜ、自分がこんなにも本を読まないといけない、と思ったのか。
「サピエンス全史」をこのタイミングで読みたかったのか。

僕たちは「はみ出し者の系譜」の中にいる。

歴史・営みというタテ軸と、共同体というヨコ軸。
自分はその真ん中に存在しているのだけど、
それを「自分たち」に拡張していくことだと思う。

そしてひとつひとつの「自分たち」には、
進んでいくベクトルがあり、それは1つ1つ異なる。

僕たちはいま、そんな世界へのドアの前に立っている両生類なんだ。

そして僕はきっと、そんな時代を見据えて、
新しい本屋に「かえるライブラリー」と名付けたんだなと。(本当か)

  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2020年07月09日

「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書 発行:メタ・ブレーン)

予約していたものがようやく昨日届きました。

もう、すごいです。
「ヤバい」っていう言葉しか出ない。
そして、僕にとってのタイムリー。

「参加型社会」は橘川さんの半世紀のキーワード。
その本質をえぐるような言葉に、ドキドキしながら読みました。

昨日夜の「取材型インターンひきだし」での
大学生の不安を聞いていて出てきたのがやはり「近代的自我」、
つまり、やりたいことがわからない問題とアイデンティティ危機の問題。
そこともリンクしてきて面白かったのが第3章のメディアとは何か?

ここの部分を今日は紹介します。

~~~ここから本から一部引用

デカルトが定義づけた近代的自我は、まさに人間のソフトウェアに対する讃歌である。「我思う」という想像力の自由こそが、人間の持つ本来性であるとしたのである。

近代の方法論を簡単に言うと「コピペ」である。
近代とは「量」を神とする信仰であった。

本来、人間の意思(ソフトウェア)に応じて作られたのが道具(ハードウェア)である。それが、道具が道具を作り出すようになった。やがて「人間の意思」が「道具の進歩」に追いついていかなければならなくなった。

今、人間(ソフトウェア)が為すべきは、ただハードウェアに追随するのではなく、ソフトとハードの人類史をより大きな視点で俯瞰し、ソフトウェアの本質を再確認することではないか。

ソフトなきハードの暴走はいずれ停止する。その時代に向けて、人類もまた、幼児的なソフトウェア(近代的自我)の次元から、一回り成長した、大人のソフトウェア(情報的自我)へと脱皮する必要があるだろう。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。

融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

~~~ここまで引用

このあと第5章に、近代的自我の先にある情報的自我の説明がある。一部引用すると
「これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。」

これです。これ。
昨日の「取材型インターンひきだし」説明会でも話していた、
「魔法をかける編集」と「場のチカラ」の話ってまさにこの自我の話ではないかと。

アウトプットするのは個人やチームの力ではなく「場のチカラ」であり、

参考:人生は経営である。ただし個人戦ではない。
http://hero.niiblo.jp/e489703.html

「魔法をかける編集」というのは、
ひとりひとりの「今の自分しか紡ぎだせない編集」を
そのインタビューに表現していく、ということである。

アイデンティティ・危機を越えていくために、
自らを差し出して複数の「場」の構成員になり、その組み合わせを自分とすること、だと昨日話していたけど、
それって、橘川さんの言う、「情報的自我」のことなのではないかと。

「取材型インターンひきだし」は、就活という近代的「フレーム」が機能しなくなっている中で、
「永遠に中間なるもの」としての「私たちの時代」への道を切り拓いていっているのではないか、と。

そんなことを感じてワクワクした朝読書でした。

「ちょっと何言ってるかわからない」と思った方はごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)イベント

2020年07月06日

「達成感」の使い方


「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

僕が読んでいるのは文藝春秋の単行本のほうですが。
08年の本ですので、古本屋でも見つけられます。

第2章の「働くということ」がタイムリーだったのでメモします。

~~~

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な資金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望が持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違え」だったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価のほうが本人の自己評価よりも客観性が高いのである。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのもの。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。

~~~ここまでメモ

人間という集団が生き延びるために「労働」があり、「労働」の受益者は基本的に集団である。おそらくはこのリアリティがない。

この章の後半、著者は「スイスのロビンソン」を題材に「無人島のルール」を説明する。集団で生きるとき、個人の利益を最大化するという行為はルールに反するのだと。

そして社会のルールは、「複数の人間が無人島で暮らせる」ことを基準に作られていて、そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。

「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」である。いわば「温室」ルールである。敗者になっても命までは取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。

「キャリア教育」の名の下に、何をしてきたのだろうか。
3年で会社を辞める若者は、「適職ではなかった」からなのだろうか?

そもそも労働とは何か?
という問いが必要だったのではないか。

「ふるさと教育が叫ばれ、地域を愛する子どもを育てたい。」と多くの人が願っている。
わが町も例外ではない。

先週のプロジェクト打ち合わせで出てきた「早く大人にしたい。」その言葉に込められた思い。
集団の成員として学校改革の、まちづくりの、パートナーになってほしい。

名作マンガ「SLAMDUNK」で桜木花道が5人いたとしても山王工業には決して勝てない。
「地域の役に立つ」前に「集団の役に立つ」という経験が必要なのかもしれない。

そしてそれは目に見える「報酬」がある役に立つではない。
集団の成員として、責任を果たした。そんな「達成感」。

そんな達成感を報酬だと感じられるような、
一緒にいると楽しくなるような、そんなパートナーを育む学びができるのではないか?

そしてそれこそが、若者自身が「アイデンティティ危機」と付き合っていく有効な方法なのだと僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)日記

2020年07月03日

まなぶを響き合わせる

6月24日のweekly ochiai

「ギグワークは仕事の未来なのか」
https://newspicks.com/news/5016231?ref=user_2250


が面白すぎて。
特にラストの宮田さんの「はたらくを響き合わせる」がアツかったな、と。

で。本も読んでみました。


「GIG WORK」(長倉顕太 すばる社)

まあ、本は思っていたのと若干違って、
ギグワークとは何か?ではなくて
なぜギグワークか?どうやってギグワークに(自分として)シフトするかっていう話でした。
昨日読んだ「サブカルチャー論講義録」と重なっていて、これはこれでうなりました。

~~~本を読みながらのメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

「お金持ちになる」っていうことは「選択肢が増える」っていうことか。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?
「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」
そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。
本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。

昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。
それこそが奴隷づくりの方法なのに。

「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。
フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。
まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

~~~ここまで読書中のメモ

なるほど。
社会学的で、昨日の若者のサブカルチャー論講義録の補足にもなっていて、とてもスイスイきました。

で、冒頭のウィークリーオチアイのまとめ。

~~~以下、動画みながらのメモ

ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

ギグワーカー=労働法上の労働者ではない。
・環境の変化がはげしく、人材を自社で賄えなくなっている。
・労働者ではないから自由に働ける
・マッチングするプラットフォームの進化

クラウドワークス:3つのタイプ
・プロジェクトベース(単発)
・人をコンスタントに契約(長期)
・PMをやって、その下にチームをつくる
個人がだんだん事務所化している。
事務3-7だったのが9-1でオンラインになった。
主婦とシニアが増えている

人材マッチングの機会としてのギグワーク

「体験バイト」=大人版キッザニア タイミー:会社員:主婦:フリーター 同じくらいの割合
正社員:やったことないのにいきなり正社員で、やめるにやめれない。

転職のリスクはむしろ上がっている。副業がリスクヘッジになっている。副業というセーフティネット。副業は社員の幸せを考える会社は必須。実際の働きぶりを見て、転職。会社的には人材募集システムとして機能する。(無料の引き抜き)実際に働きぶりとなじんでるのを見て、採用すると長く働いてくれる。人材の流動性を高めるうえで仕組みとしていい。

セーフティネットとしてのギグワーク:ヘッドとロングテール⇒日本の分布に似ている。

稼げる、稼げないだけではなく、やりがい、充実感のグラフもある。
ギグワーク:多様なロールモデルを見せる。ひとりひとりのモチベーションにグラデーションがある。多様な生きがい。
コミックマーケット:フラットな世界⇒ロングテールが大好き

社の論理だけでフィットしない人を排除してきた。それがうまく生かせるかもしれない。

「機会の提供」という意味ではネットはいいけど、コミュニケーションのOSが増えた
オンライン時代に、リアルのスキルが下がっている。
フィットする人材の多様化。リアルに弱い人でもオンラインで強い人には活躍の場がでる。
匿名、ニックネーム、年齢・住所非公開で働ける
「承認欲求」が満たされる。ギグワークは即時相互評価。それが働くモチベーションになる。

ウーバー:「働く」って一方的な提供じゃなくて一緒につくるエクスペリエンス。お互いに仕事を提供して一緒にはたらく。
派遣は一方的な体験だったのが相互評価になる。上から命令される、みたいなかたちにならない。評価の悪い悪質な発注者は駆逐される。
ギグワーク:新しい社員探し。インターンの替わり。コンビニ向けのサービスを考える⇒ギグワークするほうが早い。

クライアントからありがとうって言われる⇒シニアにとって生きがい。
お金いる人といらないひとがいる。タイミー:ボランティアにもいけるように。
IT技術は信用(信頼)を前提としている。ピーク時の2時間だけ人がほしい。

将来のためにギグワークをする。

働くを響き合わせる。
与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ

都市や会社=お金のためだった。
自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

~~~ここまで動画メモ。

いやあ、宮田さんがアツいね、やっぱ。
仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、
やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。
お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、
「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)
みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、
フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。
僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。

一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、
一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、
伴奏者としての大人たちと一緒に、
ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:34Comments(0)

2020年07月02日

「創造力」を伸ばすまち


「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)

オジサン必読の1冊。
(まあ、僕はまだギリギリなってないけどもね。)

いやあ、こういう本、好きなんですよね。
AKBとか乃木坂とか、なんなんだ、みたいなもやもやを
すっきりとある視点から切ってくれる1冊。

京都精華大学の講義を編集したもので、
マンガ、アニメ、アイドルなどの現象を社会学的に解説。
これは面白い。
途中何度も爆笑しました。

いちばん笑ったのは、マンガ「頭文字D」の「ロータリーの高橋兄弟」のくだりですかね。
駅前のロータリーのことではなく、ロータリーエンジンのことです。

「世界でいちばん受けたい授業」ってこれかもしれない。
週に1コマこれがあるだけで、1週間が楽しくなりそう。

敗戦から戦後、そして経済成長、バブル崩壊・・・
と移りゆく時代の中で、サブカルチャーがどのように変化したか。

週刊少年ジャンプの連載マンガや
不良を題材にしたマンガの変遷など、
当時高校生だった時のものもあり、なかなかうなります。

そしてラスト1つ前のAKB現象の解説と、最終回のところは、
いままさに、高校生を取り巻く環境へのヒントが記されていて、インスパイアされました。

いくつかキーワードを。

~~~ここから引用

音楽は、CDからフェスへと市場がシフトしている
つまりコンテンツから「体験」へと価値がシフトしたということ。

「体験」の中でも一番強いのは「人とのコミュニケーション」。
アイドルは直接コミュニケーションがとれるし、「推す」ことによって、その人の人生に貢献できる。

「音楽を聴く(CDを買う)」ことは「推す」という体験を盛り上げる蝶番として機能している

現代のメジャーJ-popは三国志で言えば「蜀」で10分の1の勢力しかない。
「アイドル」と「アニソン・声優・ボーカロイド」で9割。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。
「情報」から「体験」へ
「情報」から「コミュニケーション」へ
と音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。
60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと
「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。
そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーから
コンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」
という新たなフロンティアが発見される。
サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割
「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

~~~ここまでメモ

もっと書きたいのだけど、これ以上ネタバレしてもいけないので。
予告だけにします。

「情報」から「体験」へ。
「情報」から「コミュニケーション」へ。
そして、虚構の2つ目の役割。

「コロナの時代」が問いかけているのは、
「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?
なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。
僕だって茨城時代にはインプットしたくて後半2年は東京からのアクセスのよい土浦に住んでいた。

突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、
「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば
実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、
「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。
人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。
それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。

そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)

2020年06月25日

世の中も、自分自身も、前提を疑うこと。


「FACT FULNESS」(ハンス・ロスリング 日経BP)
サブタイトルは、10の思い込みを乗り越え、データを基に、世界を正しく見る習慣。

いつか読もうと思っていたら、高校図書館にあったので借りました。
うれしい。

SDGsとセットで学ぶべき1冊ですね。
目標を立てる前にまず、事実を数字で把握することって大切だなと。

世界は変わっているし、本能は間違えるし、
その間違える本能がビジネスに有効となれば、
メディアはそれを使ってくるし。

具体的に言えば、
この本に出てくる「分断本能」「恐怖本能」「過大視本能」なんかを巧みについてくる。
今回のコロナの報道でも当てはまることが多いなと感じた。
フラットに世の中を見る目を失わなずにアップデートしていくことが大切なのだと思った。

「前提を疑え」っていうのはよく言われるし、心がけてもいるのだけど、
その「前提」は自分自身の中にある「思い込み」にも当てはまるのだと
この本を通じて思った。

特に教育の文脈では、「単純化」して「犯人捜し」をしている場合ではない。
データと、目の前にいる子どもたちと、わたしたちのいまを感じながら、考えながら進んでいくこと。



昨日は阿賀黎明探究パートナーズのミーティングでした。
昼の部10名、夜の部4名が参加。

地域みらい留学フェスタに合わせて、オープンスクール開催と、
そこでやる企画などが話し合われました。

川辺でBBQとか、釣りたての鮎の塩焼きとか、
お祭り感を出していってもいいのではないか、って。
まさにそうですね!
楽しそうな雰囲気、一緒につくろうって雰囲気もめちゃ大切。

湘南のみやじ豚に学んだ
バーベキュー・マーケティングを実現するときが来たようです。

企画詳細決定までもう少しお待ちください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2020年06月22日

帰ることができる場所をともにつくる


「就活原論」(宮台真司 太田出版)

「就活への違和感」とか言っている人、
社会学的に就活をとらえ直したい人にとって面白い1冊。

ただ、入門編としては
「14歳からの社会学」をお勧めします。
「就活原論」は用語がちょっと難しいです。

参考:「自由」と「承認」と「尊厳」(16.11.18)
http://hero.niiblo.jp/e482857.html
参考:「生きがい」と「仕事」の逆転(16.11.21)
http://hero.niiblo.jp/e482895.html

エッセンスは上記の本に書かれているのだけど、この「就活原論」では、「就活」にテーマを絞って書かれている。

この本のハイライトというか、刺さるところは、やはりこの一節。

仕事での自己実現機会は希少ですが、これを煽ることで、低成長時代の高付加価値化市場に相応しい人材の「動機付けと選別」を行います。そして「仕事での自己実現」競争に敗れた大半の成員には、代わりに「消費での自己実現」を提案するわけです。

うわ。これが欠乏時代から消費社会にシフトした後のシステムなんだなあと。これと「承認」(欲求)が絡んでくるから大変なことになるのではないかと。

~~~以下読書メモ1

前近代     ⇒近代
属性主義    ⇒業績主義
生得的地位で評価⇒能力と努力の結果で評価

大卒者さえ必要なスペシャルな能力を試験で試されることなく採用されるのは、「小⇒中⇒高⇒大」という学校教育のシリーズにおいて「学歴競争に勝ち上がってきた」という事実が保証する、ある種の事務能力だけが評価されたから。

企業も、企業文化も、企業存続のために変わるかもしれない、だから「適応」ではなく「適応力」を求めざるを得ないのです。

社会システム理論では「区別」と「観察」を分けます。「区別」とは差異の線を引くことです。「観察」とは差異の線を引いた上で線の両側のどちらか一方を「指示」することです。適切な「区別」が極めて重要だということです。

70年代には、「成長の限界=環境の限界+資源の限界」が露わになる動きがあり、他方で「福祉の限界=財政破綻+共同体空洞化」が露わになる動きがありました。これに対応して80年代、先進各国で共同体自立化運動が同時多発します。北イタリア発で欧州に拡がったスローフード運動ないしスローライフ運動然り。カナダ発で大英帝国圏に拡がったメディアリテラシーないしメディアエデュケーション運動然り、米国に拡がったアンチ巨大マーケット運動然り。日本は・・・全くありませんでした。
(中略)
これらの運動の共通性は、共同体が、市場に依存しすぎても、国家(行政官僚制)に依存しすぎても危ないとして、市場や国家からの、共同体の相対的な自立を目指すところにありました。ところが、それを理解していなかった日本国民が、90年代に経済がうまく回らなくなって、ふと見回してみると、感情的安全を確保してくれるがゆえに帰還場所にもなれば出撃基地にもなるような家族親族ユニットや地域ユニットはすでに消滅していたというわけです。

要は「仕事での自己実現」などにかまけている暇があったら、市場や国家(行政官僚制)への過剰依存によって風前の灯となった共同体の、自己決定を通じた自立へ向けて、力を振り絞っていなければならないはずなのです。でも日本にはそれがありませんでした。そして気がついてみると、帰還場所も出撃基地も失っている。つまり本拠地を失っている。これを失った状態で「仕事での自己実現」に向けたリスキーなチャレンジができるはずもない。

帰還場所があれば君は言葉通りに振舞えるだろうが、帰還場所がなければ、口で何を言おうが、君には頑張りが利かない。

追い込まれた末の自発性を、内発性と取り違える愚を避けてほしい。

必要なのは、仲間の存在と、あとは泡盛とつまみを買うためのわずかなカネだけ。これといって消費しているモノもサービスもないので、「消費を通じた自己実現」じゃない。強いて言えば、コミュニケーションだけを消費している。それで十分ではないですか。共同体の空洞化ゆえに、こうした「コミュニケーションの消費」が難しくなったから、「仕事での自己実現」や「消費での自己実現」が、埋め合わせとして要求されているのではありませんか。とすれば、それは内発性というより、追い込まれた末の自発性です。

古来、人は、昨日あるように今日あり、今日あるように明日もある、というような生活をしてきました。

「任せて文句垂れる社会」から「引き受けて考える社会」へ
「空気に縛られる社会」から「知識を尊重する社会」へ
「行政に従って褒美をもらう社会」から「善いことをすると儲かる社会」へ
「国家と市場に依存する社会」から「共同体自治で自立する社会」へ
「便利と快適を追求する社会」から「幸福と尊厳を追求する社会」へ

「社会」を「個人」に置き換えてみる。

ホームベースが昔ながらの家族や地域でなければならないということは決してありません。ホームベースは今後、さまざまな形を取るしかないと予想しています。ただ、人間は、埋め込まれ、背負い、貢献し、帰還できる「我々」なくして、雨にも負けず風にも負けず前へは進めません。その「我々」は「長らく近しくあり続ける」近接的な範囲です。

この近接性は、血縁の結びつきで与えられる場合もあれば(血縁共同体)、宗教の結びつきで与えられる場合もあれば(信仰共同体)、日本のように労働集約的な共同作業を通じて物理的にトゥギャザであり続けることで与えられる場合もあります(職場共同体)

絆を与える共同体は、多かれ少なかれ、何かをシェアしているという感覚に支えられます。シェアされるものは、血縁的儀礼だったり、宗教的戒律だったり、職場の時間と空間だったりします。シェアしているという感覚が情緒的アタッチメントを与えます。

何かをシェアしているという感覚なくして「お先にどうぞ」とは言えないのです。

一見したところ典型家族とかけ離れていても、長らく近しくあり続ける近接共同体のうち、とりわけ「成人の感情的回復」機能と「子供の一次的社会化」機能を担うユニットなら、家族と見做すことが大切です。今後は変形家族こそが大切になります。

~~~ここまで読書メモ1

いやあ、すごい。そういうことか、と。
シェアハウスで子育てするとか、山倉さんのやってる拡張家族「Cift」の実験とか。
そして、これからの阿賀町の暮らしにも魅力化にもエッセンスを投入できるような気がします。
高校生を核にして、ふたたび自立的な「共同体」を構築していくこと。

ということで、次に「就職」とか「就活」についていきます。

▼▼▼ここから読書メモ2

「適職幻想」の定義:「自分はこういう人間だから、こういう仕事が向き、別の仕事には向かない」という思い込み。

選択肢が多すぎるという未規定性が人を混乱させて選択不能に陥らせる。
「ニーズに応じて選択肢が提示されるから、学生の適職幻想が煽られる」

最終目的&優先順位を巡る試行錯誤は、「スゴイ奴」と出会って感染(ミメーシス)しては卒業する経験が、最も効果的です。

「仕事の中身」より「周囲の承認」

趣味の時間や家族の時間を楽しむための食い扶持だと割り切っていれば、安全牌狙いの大企業への就職で良いでしょう。でも「仕事での自己実現」を目指している場合は、こうした「全体性からの疎外」は良くありません。全体性が見える中小企業がお勧めです。

その「社会的正しさ」は古くてダサい、これからのこの「社会的正しさ」がカッコイイという訴求を、マーケティング戦略として利用できるはずなのです。

自分にコレが向いてるとかアレがやりたいとか言わず、自分はなんでもやれます、という構えであること。次に、実際自分はなんでもやってきました、という実績を示せるということ。

内定する「他者性」
1 ビビらずに限界ギリギリまで挑戦でき、
2 限界を知るがゆえに高望みせず、
3 様々な社会的手順に通暁し、
4 コミュニケーションにおいて相手が何を求めているかを的確に把握して動ける。
内定が出ない
1 限界を試したことがないのでビビりがち
2 同じ理由でお門違いの自己実現欲求を抱いていたり、
3 どんなボタンを押すとどんな社会過程が動くのか知らなかったり
4 他者の構えに鈍感

「教育意図の失敗」による有効な社会化をいかに設計するか、という「計算不可能性の設計」の可能性が問われています。

共同体の存在が自明だった頃は、グループワーク能力の欠落は珍しいことでした。郊外化に従って共同体が空洞化してくると、グループワーク能力の欠落が珍しくなくなります。

▲▲▲ここまで読書メモ2

「適職幻想」まさにそれだなあと。
そして、この本のあとがきの書き出しが、この本からのメッセージになっている。

デタラメな社会を放置したまま、個人を癒して適応させるだけでいいのか。

就職がどうなろうと揺るぎない帰還場所=出撃基地(ホームベース)を作り、不安ベースより内発性ベースで進むほうが良いです。そうすれば、本文の言葉で言えば「適応」よりも「適応力」ということで、過剰適応せずに相手の要求に応じて「仮の姿」を適当に演じることが可能になります。
「依存」せずに「自立」するための帰還場所=出撃基地が必要です。

そういうホームベースを自らも一緒になってつくること。
これが地域(共同体)にとっても、若者自身にとっても必要なことなのだろうなあと思った。

何かをシェアする(感覚を持つ)共同体をつくっていくこと。
それこそがいまを生きるために必要なことなのだろうと考えさせられる1冊となりました。  

Posted by ニシダタクジ at 09:04Comments(0)

2020年06月18日

ビジョンづくり⇒企画書づくり


久しぶりのスターバックスひとり朝活。
ソーシャルディスタンスがすごい。
ソファー席もひとつずつ空いてる。

「言葉にできる」は武器になる
の梅田さんの「企画者は3度たくらむ」

企画書づくりの本をこれまでも読んできたけど
そもそも企画ってなんだっけ?という問いに、
スパっと答えてくれていて、いいなあと。
ビジョンづくりは企画書づくりだと思ってやったほうがいいなと。

そこに課題発見があるのか?と。
そういう意味では「探究的学び」と構造上は同じだなあと。

まだ第1章しか読んでいないのですが、
「あたりまえ」の大切なことがたくさん書いてある。

~~~以下メモ

全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。

全ての根源にあるのは「課題に気付く力」であり、そこから解決方法を紐解いていく一連の流れこそが企画なのである。

問題を解消するのではなく、課題を解決することこそが、企画者の仕事なのである。

発生している問題は、あくまでも課題が存在することによってもたらされている結果に過ぎず、解決すべき課題そのものではない。

問題ではなく、課題へ。課題ではなく、現在の課題へ。

企画力=発想力+実現力
課題解決力=企画力=(課題発見力+発想力)×チーム力

提案先が求めているのは、企画書ではない。企画である。
より正確に言えば、企画に辿り着いたプロセスが正確に記されている企画書である。

~~~以上メモ

うーん、すごい。
第1章だけでエッセンスが詰まっている。

いちばん思ったのは、
「ビジョンづくり」って「企画書づくり」だなあと。

ビジョンだけ示しても、現状認識と課題設定からくるプロセスの提示が必要なのだよね。
そのすべてに共感というか少なくとも同意がないと、ビジョンで終わってしまう。

まずその1点。

二つ目は、
そもそも「キャリア教育」ってなんだっけ?
みたいな。

「全てのビジネスは、例外なく、誰かの課題を解決することで対価としての報酬を受け取るようにできている。」この原則から始めないといけないのではないだろうか。

だとしたら「やりたいことは何か?」よりもはるかに大切な問いは、困っている人はいないか?不便を感じていることはないか?それを解決するには?なのではないか。

三つ目の気づきは、アイデンティティの危機という課題に対してのアプローチのこと。僕が思うに、その筆頭は属するコミュニティを多様化・多層化してその掛け算として生きる、で、その階層1つ下に「地域の個性の構成員になること」があり、その場合、地域の個性は「編集」によって生み出すことができるし、周りの人たちと一緒に創ることもできる。

つまり、この本で言うところの「企画書づくり」(課題発見からの一連のプロセス)を通して、チーム(会社・地域)の個性を生み出すこともできるし、その構成員になることもできる。

ビジョンづくりは、企画書づくりへ。
そしてそれは個人のアイデンティティをも創っていく。

いや、仮説ですけどね。

課題とビジョンと、仮説と、打ち手。

そのくりかえし。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)

2020年06月17日

バンド選びのように、企業を選ぶ



「13の未来地図~フレームなき時代の羅針盤」(角田陽一郎 ぴあ)

withコロナ時代を予言していたかのような2018年3月発刊の1冊。
いまだからこそ読むべき1冊だと思います。

タイトルにもあるように、この本のテーマは、フレーム(枠組み)
本書の中で著者はなんども、フレームそのものがなくなっていくのだ、と説明します。

わかりやすいところで言えば、第1章「モノ⇒情報」の「スマホは携帯電話の進化系ではない」でしょうか。

スマホはそのモノ自体にはたいして価値はなく、購入したあとにオーナーが好きな情報サービスを自由にプラスできることに価値があるわけです。その点で、スマホは携帯電話とはまったく概念が違うもの。

そのうえで著者は、「情報革命」の本質について次のように述べます。

~~~ここから引用

「農業革命」とは、人類が生きていくために「モノを生み出す進化」でした。では「産業革命」とは何だったかというと、機械の力によって「モノを生み出す進化」をより効率的に進める効率革命でした。素晴らしい効率化ですが、モノに価値があるという意味では、あくまで農業革命の延長上にしかなかったのです。

一方、今起こっている情報革命とは、モノから情報という「目に見えないコト」に価値を置く社会への転換です。それは価値の機軸の転換であり「概念革命」なのです。だからこそ、情報革命は産業革命の時よりも、はるかに大きなインパクトを世界にもたらすはずです。

~~~ここまで引用

大きく言うとこういう感じ。
いやあ、メタ認知できる人ってすごいなあと。

ということで、今日紹介するのは2つのシフト
(全部面白かったので、買ったほうがいいです)

4 組織⇒バンド

あれ、聞いたことあるな。
そうです。2019年の1月にやっていた「かえるライブラリー」の
クラウドファンディング「バンドやろうぜ、みたいに本屋やろうぜ」です。

うわー、あれパクリだったのか。って。
角田さんすみません。

これからの仕事における個人と組織の形態はバンドなのではないか?
バンドメンバーは基本的に全員でステージに立ち「替えが効かない」のです。

ここで、素敵な一節を

「ロックバンドが気の合う仲間とともに音楽を奏でるように、あなたがやりたいプロジェクトのための自分のバンドを作るべきだと言っているわけです。」

いいっすね。
かえるライブラリーで目指したのはまさにそれです。
いま、オンライン劇場でやってますけど。

その続きで書いてあるのは、そういう「プロジェクトバンド」経験が就職に効くって言ってます。

ああ、それはあるなって。ボーカルだけじゃなくて、相手によってはギターもベースもドラムもできます。みたいなこともできるし。バンド名を考えたし、作曲も作詞もやったことあります、みたいなのは重宝されそうですよね。でもいちばん自分が好きなのはベースです、みたいな就活。

でも、そもそも、企業ってバンドなのか?みたいなところもあります。特に大企業では難しいかもしれません。「替わりがいること」が最優先されます。やりたい曲もなかなかやらせてもらえないかもしれません。それって、音楽性の違い、なんじゃないか?みたいな気もします。

取材型インターン「ひきだし」のオンラインミーティングで若松さんが「人を通して会社を知る」って言っていたけど、それってまさにバンド選びのようなものだなあと。

ただ、もちろん、大オーケストラでしか奏でられない音楽もあって。そういう音楽を目指したい人は大企業にいったほうがいいかもしれない。

でも、音楽性の合う仲間と、バンド組みたいんだよ、みたいな人は、その音楽性を頼りに、会社を選んだらいいなと。

じゃあ、音楽性って何?みたいなときに、それって、ベクトル感だと思うんだよね。メンバーひとりひとりや全体から感じるベクトル感。そういうのを感じられる「就活」ってできないかなあと。

もうひとう、キーワード

5 イデオロギー⇒ユーモア

これはガツンときました。
「農業革命」によって生まれた2つの概念、国(国家)と「宗教」(あるいは「思想」)その後、産業革命によってまた2つの概念が生まれます。「会社」と「イデオロギー」です。

イデオロギーとは日本語で言えば「〇〇主義」であり、資本主義と社会主義など様々な対立を生み出しました。

そこで、角田さんが言うのは「ユーモア」です。全然違うじゃんって、僕も思いました。

~~~ここから引用

ユーモアは単におもしろいことを言ったりすることではありません。本来の意味は、ある事実や現象を多視点で見る、つまり次元を変えてとらえ直すことによって、同じ事実や事象もまったく違ったものに見えるようになり、そこに”おかしみ“が発生する、という感覚のことです。

新しいフレームを作るには、既存のフレームを超える別次元の視点が必要です。

~~~ここまで引用

おもしろいなあ、と。
「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)を思い出しました。

参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

僕の茨城での失敗は、まさにここにありました。
「創造的破壊」を志向してしまったこと。
「創造的脱力」を発揮できなかったこと。
そのためには「ユーモア」こそが(僕にも組織にも)必要なのです。

「ユーモア」は、遊びではなく、思考の次元を超えていくことだと思います。
フレームを超えるときに必要なもの。

取材型インターンは、そういうものを大切にしていきたいなと思います。

なので、取材型インターンあらため、
ミステリーツアー型企業取材編集ドキュメンタリー「ひきだし」
にするというのはどうでしょうか。(笑)
参加したい大学生はお問い合わせください。

「就活はフレームワークだ」と、大学生さとしが断言していた。

参考:「就活」というフレームワーク(18.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e488581.html

その通りだと思う。
そして違和感の正体(正体ってたくさんあるな。笑)も
そこにあるようにも思う。

「学歴社会」っていうのは、フレームワーク至上主義社会のことであると思う。偏差値の高い大学というのは、(学力)入試というフレームワークが得意かどうか?という視点において、一定のクリアをしていることを示している。

本書によれば、その「フレーム」そのものが溶け出しているのだ。「会社」というフレームも、「事業」というフレームも、もしかすると「都市」や「資本主義」というフレームさえ溶け出している。「withコロナ」とは、そういう時代だと思う。

フレームなき時代へのシフトは、すでに起こっていて、新型コロナウイルスがそれにトドメを刺した、と言えるのかもしれない。

フレームを超えて、何を創造できるか?
そんな問いに真っただ中にいる、と僕は思っている。

フレームを超えて「ひきだし」が生み出すものを見てみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)

2020年06月03日

学校はあるものではなく、つくるもの


「未来の学校のつくりかた」(税所篤快 教育開発研究所)

久しぶりに、やべえ本に出会ってしまった。
「ありのままがあるところ」以来の衝撃。
https://note.com/tsuruhashi/n/nae7ec266333e?magazine_key=m21a04cf91a68

「学校」「地域」「コーディネーター」「学び」とか
キーワードの方には読んでいただきたい1冊。
さっそく注文しました。オンライン劇場に間に合うといいなあ。

第1章の大阪市住吉区の大空小学校の話だけで2000円の元はとれます。
それくらいの衝撃というか、くやしさというか、実践者っているんやなあって。

映画っていうメディアが苦手なので、まだ見れてないのですが、この本読んだら見たくなりますね。
映画「みんなの学校」上映会+対話の会したいなあ。
6万円だから2000円×30人で見れるのか。
考えてみよう。

この章の締めくくりで書いてあるけど、
大空小学校の初代校長の木村さんの言葉は重い。

学校を「木」だとするならば、地域が「土」、教職員は「風」。
「木が最もよりどころにするのは、常にそこにある土。いい土があって、木がそこにしっかりと根を張っていれば、少々乱暴な風が吹いても倒れません。風は外から、木と土にとって必要なものを運んでこられればいい。」

税所さんは、木村さんを、手段ではなく目的を見ている人だと、
刻みつけるべきは、彼女のしてきたことではなく、彼女の視座だと語る。

ホント、そうだなあと。

キーワードだけ、メモします。
本文をぜひ読んでほしい。

・「教員」ではなく「教職員」
・学校はあるものではなくてつくるもの
・「保護者」になるな、「サポーター」であれ
・学校と地域に上下関係はない
・手段と目的を混同しないこと

いやあ、すごい。
一言一言がグサグサと刺さる。

ひとつ、ヒントになったのは、
ふれあい科の「ようこそ大空の先生たち」という
1~6年の教員(校長も含む)をシャッフルして、
くじ引きで授業をするクラスを選ぶというもの。

子どもたちはとても楽しみにしているのだという。
ああ、こんなふうに、学校現場での
「予測不可能性」ってつくれるんだなあと。

先日のサイコロをつかった探究テーマづくり
https://hen-ai-topic.jimdosite.com/junior/?fbclid=IwAR0P71ofHglQO0cHW5_1oKZYXhTEYPygG-VxjhujgGxhr22TzloayFZFDdI
とか。

そういう小さな部分にいれていくことで予測不可能性は高まるなあと。
ゴールに向かっていかない学びってパラダイムシフトだから、
予測不可能性の面白さを取り入れていく、ってことから始まるのかもしれないなと思いました。

ひとまず、この本、仕入れますので、買ってください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:39Comments(0)

2020年06月02日

「法人」という神話


「サピエンス全史(上)」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)

読み始めました。
手ごたえがありまくるので少しずつ読みますね。
今日は第2章まで。

~~~ここから読書メモ

地球に君臨する捕食者の大半は、堂々たる生き物だ。何百万年にも及ぶ支配のおかげで、彼らは自信に満ちている。それに比べると、サピエンスはむしろ、政情不安定な弱小国の独裁者のようなものだ。

私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。

激しい議論は今なお尽きないが、最も有力な答えは、その議論を可能にしているものにほかならない。すなわち、ホモ・サピエンスが世界を征服できたのは、何よりも、その比類なき言語のおかげではなかろうか。

集団の限界値である「150人」を超えるための虚構の登場、か。

「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ。」

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している。

宇宙には神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。

言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。

~~~ここまでメモ

ホモ・サピエンスを世界の覇者にしたのは、言語の力である。

最近は、「言葉」の大切さを実感しつつあったところなので、めちゃタイムリー。
そもそも人は言葉によって、世界を作ってきた。
しかし、ここまで言い切られるとすっきりしますね。

「人が神や宗教を必要としている」のではなく、
協力したり、連帯感をもったりするための「虚構」「神話」「物語」を必要としているのだと。

会社における、ビジョンとかミッションもその話ですね。
この本では老舗自動車メーカー「プジョー」を例に、
「法人」という神話を説明していますがその通りだなあと。

言葉の大切さを語る前に、言葉とは何か?
なぜ、言葉なのか?
を考えさせられる1冊。

これと、最近テーマになっているのが「身体性」なのだけど、
それに関して、友人がシェアしたnoteが面白かったので

人は人と出会うべきなのか(斎藤環)
https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec

ここでは、「臨場性」と説明されているがまさに
その身体性のようなもの。
「やさしさも暴力である」とか刺激的な内容もあるけれど、ここでは一部を引用する。

オンラインでは完結できない領域とは何だろうか。少なくとも「関係性」が重要な意味を持つあらゆる領域は、今後も臨場性が必須となるだろう。性関係はもとより、治療関係、師弟関係、家族関係、などがそれにあたる。言い換えるなら、関係性よりもコミュニケーションが意味を持つ領域では、臨場性を捨象するほうが効率化されるため、オンラインで完結できるだろう。おわかりの通り、関係性とコミュニケーション(情報の伝達)はまったくの別物であり、私からみれば、ほとんど対義語ですらある。

関係性とコミュニケーションは別物で、関係性には臨場性は必須である、と。

まさに、ここに「オンライン本屋」のカギがあるように思う。
言葉と臨場性(身体性)。

このクロスする領域というか、
無限のグラデーションの中に、「場」を構築できるか、それがカギになる。

ちょっと何言ってるか分からない。byサンドウィッチマン富澤  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)

2020年05月27日

「合理的」が「経済合理性」のみを指し示さなくなった


「お金2.0」(佐藤航陽 幻冬舎)

これ、面白いです。まさに「就活」前に乗りたいヘリ、筆頭ですね。
それくらい上空から「就活」とか「働くこと」を眺めてみてもいいなあと思えました。

5月18日にも書きましたが、
昨日読み終わりましたので、追加したいと思います。

発展する経済システムの5つの要素
http://hero.niiblo.jp/e490677.html

「経済システム」という観点から、いろんな活動を分析したものとして
非常にわかりやすかったです。

そして、この本の最終局面で、「経済システム」そのものが
「お金」を媒介にした「国家に1つ」のものではなく、
複数のシステムが同時に共存しうるのだと。
つまり、「レイヤー(層)化」するのだと。

それってすごいな。
「チャレンジする」ってデザインだなあと思った。

「田舎ではチャレンジは起こりにくい」
っていうのはホントだと思っていて、
僕も新潟にきて大学生の時に畑を始めたのだけど
あれ、実家暮らしだったら絶対にできていないと思う。

それはコミュニティが1つだからであり、
失敗することのリスク(特に評判リスク)が高いからだ。

しかし、今は、移動が可能だ。
「東京はチャレンジできる街だ」というのは、チャンスがたくさんある、というのもそうだと思うけど、
そのチャレンジに一定の匿名性があるから、ではないか、と思う。

山岸俊男さん的に言えば、
「信用社会」では相手への信用(評判)がそのまま失敗リスクとなるためチャレンジが起こりにくく
「信頼社会」では、まずは信頼してみる、というところから始まるのでチャレンジが起こりやすい。

昨日、weekly ochiaiの録画を見ていて、
参考:【WEEKLY OCHIAI】“リモートワーク疲れ”の正体を解明せよ
https://newspicks.com/news/4933399/body/?ref=user_2250

社員700名がすべてリモートワークであるという、
キャスター取締役COOの石倉秀明の最後の一言にハッとしたのだけど、

~~~
・会ったことがない人と一緒に働く時代となる。
・リモートワークの最大の敵は疑心暗鬼
・この人は信頼する、とこちらが決める
・「無条件の信頼」から始める。
~~~

そういった意味ではリモートワークが信頼社会への移行を迫っている、とも言える。
学校文脈で語られる「その人は信用できるのか?」っていう言葉は、まさに「信用社会」の用語だと言えるだろう。

リモートワークが「信頼社会」へのシフトを進めてくれるとしたら、それは歓迎すべきことなのかもしれない。
オンライン本屋でも、「他者」と出会い、「信頼」するところから始まるのだ、と。
これは大きな時代の変わり目に差し掛かっているなあと。

さて。話は変わりまして。
「お金2.0」では、資本主義の替わりに「価値主義」を説きます。
少し引用します。

~~~ここから引用

この資本主義が考える価値あるものと、世の中の人の考える価値あるものの間に大きな溝ができており、それが多くの人が違和感を持つ原因です。

新しいテクノロジーが生まれると人間が作った概念は変化を余儀なくされます。それまでは文字の記録手段として主流だったのは紙ですが、ITの発達で文字を電子的に記録して自由に発信できるようになったので、紙は記録手段の1つの選択肢になりました。別の見方をすれば、紙はITの誕生でその影響力を大きく下げたとも言えます。同様に、ITは価値のやりとりも電子的にやってくれる技術ですから、既存の「お金」を価値媒介手段の1つの選択肢に変えてしまう力があります。

つまり、今起きていることは、お金が価値を媒介する唯一の手段であったという「独占」が終わりつつあるということです。価値を保存・交換・測定する手段は私たちがいつも使っているお金である必要はなくなっていきます。手段の多様化により人々が注力するポイントが「お金」という手段から、その根源である「価値」に変わることは予想できます。価値を最大化しておけば、色々な方法で好きなタイミングで他の価値と交換できるようになっていきます。

「価値」とは商品のようなものであり、「お金」とは商品の販売チャンネルの1つみたいなものです。今後は、可視化された「資本」ではなく、お金などの資本に変換される前の「価値」を中心とした世界に変わっていくことが予想できます。超一流企業にも就職できるエリートがその道を選ばずにNPOや社会起業家などに専念するのは、資本主義的には非合理的な選択に見えますが、価値主義的には合理的な意思決定とみなすことができます。

~~~

なるほど。
違和感の正体、まさに、という感じです。

西野亮廣さん的に言えば、
クラウドファンディングとは「信用」をお金に変える装置である
っていうのが、さらにちょっと高い位置から理解できた。

「合理的判断」っていうのがよく言われるけど、
その合理的っていのが「経済合理性」だけを示さなくなってきた時代。

これさ。
「やりたいことは何か?」から始まるキャリア教育を根本的に改めないといけないんじゃないか。

仕事とは何か?
お金を稼ぐとは何か?

っていう話をしないで、
何が好きか?何が得意か?

だけを聞いて、仕事を選ぶなんて。
それで今は「AIに奪われない仕事は?」みたいな話をしている場合じゃなくて。

「You Tuberとはなんだろうか?」
っていう話から社会の仕組み、資本主義の仕組み、
そしてそれが今変わりつつあるのだと。
いや、そもそもそれこそがキャリア教育の前提でなければならない。

「You Tuberとはなんだろうか?」
っていう話に必要なのが、「価値」の話だ。

この本の一番のハイライトはここ。P166。

~~~ここから引用

1 有用性としての価値
これはもっともなじみが深く、資本主義がメインに扱う価値です。経済、経営、金融、会計などで価値という言葉が出たらこの有用性・有益性・実用性としての価値を指しています。一言で言えば、「役に立つか?」という観点から考えた価値です。
現実世界で使用できる、利用できる、儲かる、といった実世界での「リターン」を前提にした価値です。なので、直接的に次のお金に繋がらない、現実世界で利用できないものは有用性としての価値はないということになります。

2 内面的な価値
実生活に役に立つか?という観点とは別に、個人の内面的な感情と結びつけても、価値という言葉は使われます。愛情・共感・興奮・好意・信頼など、実生活に役立つわけではないけれど、その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼす時に、価値があるという表現を使います。有用性としての観点で考えると、個人が心の中でどんなことを思っているのかは関係ありませんし、それらの感情が役に立つといったことはありません。感情は消費する、役に立つといった実用性とは無縁だからです。ただ、美しい景色を見た時、友達と過ごして楽しかった時、それらには価値があると表現しても特に違和感はないはずです。

3 社会的な価値
資本主義は個人の利益を追求していくことが全体の利益につながるという考え方です。一方で、慈善事業やNPOのように、個人でなく社会全体の持続性を高めるような活動も私たちは価値があると表現します。金融や経営の観点から考えると、社会全体の持続性を高めるような行動はただのコストに過ぎず、少なくとも価値があるとは言えませんでした。ただ、砂漠に木を植える人たちや、発展途上国に学校を作ったりする人の行動に価値を感じる人は多いと思います。

このように一言で「価値」と言っても、私たちは3つの異なる概念を区別せずに使っていることがわかります。そして、いずれも私たちの脳の報酬系を刺激する現象であり、脳からしたら等しく「報酬」ととらえることができます。

資本主義の問題点はまさに1の有用性のみを価値として認識して、その他の2つの価値を無視してきた点にあります。ただ、実際に1の価値のみを追求して2と3を無視すると崩壊します。例えば、自社の価値のみを追求し、ブラックな労働環境で社員を酷使して何の社会的意味も見出せないような企業は、優秀な人材も引き寄せられず、内部告発や社員の離反を招き、消費者からの共感も得られません。

価値主義で扱う価値とは、1も2も3もすべて価値として取り扱う仕組みです。そして1と比べて2や3は物質がなくあいまいであるがためにテクノロジーの活用が不可欠です。

裏を返せば、価値主義とは資本主義と全く違うパラダイムではなく、これまでの資本主義が認識できなかった領域もテクノロジーの力を使ってカバーする、資本主義の発展系と考えもらったほうがわかりやすいと思います。

~~~ここまで引用

「You Tuber」とは、
チャンネル登録し動画を見てくれるファンからの「興味・関心」という価値を最大化している人のことであり、
彼らが稼ぐ広告費などの「お金」とは、その「価値」の一部を変換したものに過ぎないのです。

つまり、「資本」を最大化するのではなく、「資本」の源泉である「価値」を最大化すること。
そしてその価値は上に挙げたように「有用性」だけではないということ。

そして2 内面的な価値と3 社会的な価値を
現金化(資本化)する手法が例えば九ラウンドファンディングなど
テクノロジーの発達によって訪れているということ。

そういう意味において、
キャリアを考える上での大切な質問は、

「あなたのやりたいことは何か?」
ではなく、
「あなたが感じる価値は何か?」
になってくるのだろう。

超一流企業に就職できるエリートが名もなきNPOに就職するということは、
自分が考える「価値」の言語化ができているのだろうと思う。
まさに「合理的」判断というときの「合理的」が経済合理性のみを指し示さなくなってきているのだ。

なるほどなあ。
この経済の話と「承認欲求」などの心理学的な話を
組み合わせて、読み解く、みたいなゼミをやろうかなあ、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2020年05月18日

発展する経済システムの5つの要素


「お金2.0」(佐藤航陽 幻冬舎)

これは、面白い。
いまから設計するオンライン本屋について考えさせられる本。
頭いいひとっているんだなあって。
メモメモします。

~~~ここからメモ

発展する「経済システム」の5つの要素

生産活動をうまく回す仕組みを経済システムとここでは呼びます。

1 インセンティブ
2 リアルタイム
3 不確実性
4 ヒエラルキー
5 コミュニケーション

1 インセンティブ

現代は生物的な欲望よりも社会的な欲望が目立っていて、なかでも
3M(儲けたい・モテたい・認められたい)の3つが欲望としては特に強く、
これらを満たすようなシステムは急速に発展しやすいです。

2 時間によって変化する(リアルタイム)

常に状況が変化するということを参加者知っていることが重要です。
人間(生物)は変化が激しい環境では緊張感を保ちながら熱量の高い状態で活動することができます。

3 運と実力の両方の要素がある(不確実性)

自らの思考と努力でコントロールできる「実力」の要素と、
全くコントロールできない「運」の要素が
良いバランスで混ざっている環境のほうが持続的な発展が望めます。

4 秩序の可視化(ヒエラルキー)

「経済」は実物のない、参加者の創造の中だけにある「概念」に過ぎません。
なので、目に見える(数値化される、分類される)指標がないと
参加者は自分の立ち位置がわからなくなってしまいます。また、指標が存在することで
自分と他人の距離感や関係性をつかみやすくなるメリットもあります。

一方でこのヒエラルキーも、それが固定化されると
2 リアルタイム(時間によって変化)と
3 不確実性(運と実力の要素)
が失われ、全体の活気を失わせてしまう原因にもなる諸刃の剣です。

5 参加者が交流する場がある(コミュニケーション)

人間は社会的な生き物ですから、他人との関係性で自己の存在を定義します。
参加者同士が交流しながら互いに助け合ったり議論したりする場が存在することで、全体が
1つの共同体であることを認識できるようになります。

追加1 経済システムの「寿命」を考慮しておく

フェイスブックがインスタグラムを買収したように、次の経済システムを用意しておく。

追加2 「共同幻想」が寿命を長くする

参加者が共同の幻想を抱いている場合、システムの寿命は飛躍的に伸びます。
全員が同じものに価値を感じれば、実際に価値が発生してしまうのです。
共同幻想はシステムに対して自己強化をかけます。

~~~

なるほどなあ。
ここの部分だけでもエッセンスが詰まってます。

オンライン本屋も、
インセンティブと、ヒエラルキーをどのように設計するか?

がカギになってくるなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)

2020年05月14日

杉林を育てるのではなく、雑木林を見守る。

5月13日付新潟日報の
県央・下越版に「オンライン黎明学舎」の様子が掲載されました。


そして昨日午後は、阿賀黎明探究パートナーズのオンライン勉強会で
先生方とパートナーズの皆さんがオンライン上ですが、顔合わせました。

「話をする時間がもっと欲しい」との声が多数あり、
来週からは事前に資料を見てもらう「反転授業」パターンを検討します。


そして今朝、月刊先端教育のオンライン教育特集を読みました。

日本教育工学会が3月31日に発表した
「学校と家庭をつなぐオンライン学習実践ガイド」。
https://www.jset.gr.jp/sig/pre_online_learning_guide_sig04.pdf

まず同期型(リアルタイムでつなぐ)と
非同期型(時間を合わせずに学校と家庭のあいだでやりとりする)
の2つに分けた上で、オンライン教育の4つの方法を示す。

1 リアルタイム授業配信
会議ツール等を使ったネットでの授業実施

2 録画授業動画の配信
授業の講義場面を録画したビデオを、学習者が各自で視聴して学習する

3 ドリル形式アプリ
学習に使えるドリル形式のアプリを活用したオンライン学習

4 オンラインでの共同制作
学習者たちが一緒に何かをつくる共同制作をオンラインで実施する

なるほど。
ほかにも、たくさんの実践例などからのメモを以下に。

~~~ここからメモ

オンライン教育の最大の魅力は、自分に合った「師匠」と出会うチャンスが世界に広がることです。

同じ形ではなく、同じ価値を追求すること。



オンラインは自律性を身に付けるチャンス

壇上の賢者から寄り添う案内人へ

最大の課題はモチベーション維持。

録画版に向いているのは、英文法などのインプットが多い知識伝達型の授業です。

質問がリアルタイムでできる双方向型でなければできない授業は何か?という問い。

「ちゃんとやる」っていうことに対するハードルが下がっている。
大学であれば、聞いているほうがフォローすることもできる。

ICTが持つ3つの機能
1 個別で学ぶこと(Adaptive)
2 気付きの機会があること(assistive)
3 協働すること(Active)

多くの人は、「学習指導要領が変われば、教育が変わる」と思っていますが、それは大きな間違いです。現場の授業を実施質的に規定しているのは学習指導要領ではなく、アナログ環境下で構築された各教科の教科教育の指導法なのです。

子どもたちは毎日、ランドセルを背負って、「過去」にタイムスリップしているようなものです。

料理をしてみるという最小単位のPBL。確かに、料理って小さな、でも壮大な、自由度の高い、プロジェクトだなあ。

~~~ここまでメモ

思ったことは、

「何を学ぶか?」から「どのように学ぶか?」
そして「誰と、いつ、どこで学ぶか?」が大切になってくるということ。
そして、その前に「なぜ学ぶか?」と「誰のために学ぶか?」を考えるとき。

場のチカラとか、プロジェクトとかの話だなあと。
プロジェクトベースドラーニングってそういうことかもしれない。
さらに、特別企画「GIGAスクール構想の実現と教育改革」のページでの一言

「新しい学びの場における教師の役割は、いわば雑木林の成長を見守る里山の住人です。今までの教育は、一律に整えられた綺麗な杉林を作ることでしたが、これからの学びの集団は雑木林であるべきです。雑木林といっても、荒れた林ではありません。一つひとつの木の状態を見て手入れをするように、全体を見守りながらも一人ひとりの個性を伸ばしていくのです。個性は他者とぶつかり合うことで磨かれていきます。子どもたち同士の関わり合い、そして教師との関わり合いという豊かな関係性を構築していくことが大切です。」

いやあ、これですね。これからの森づくり。
「学びの土壌」の上にある、「学びの生態系」って
そういうところにあるのかもしれませんね。

かつて、杉林を育てる理由があった。
しかし、社会や時代のほうが変わってしまい、
杉をつくっても売れなくなってしまった。

いまや、森の中で自分の木を育て、それを自分自身で売り込まないといけない。
そしてそれは、木単体で売るのではなくて、ほかの木や生き物との組み合わせで売る、
あるいは、森を観光資源にした観光ビジネスや生き物を教育コンテンツにした教育ビジネスを売っていかないといけないのだ。

学びの雑木林づくり。
先生はその見守り人(ファシリテーター)に。
地域の人は、雑木の中の1つや動物に、
あるいは太陽や風という役割を担っていくことかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:23Comments(0)

2020年05月13日

匿名化した「世間」の暴走と「アイデンティティ」の喪失

開店を自粛しない飲食店などに心無い張り紙をする
「自粛警察」なるものが暴走しているらしい。
同調圧力をまとった「匿名」なる世間は恐ろしい。

何が人をそんな風に走らせてしまうのだろう。
と、「世間」と「空気」いうキーワードが浮かぶ。

「世間」と「空気」と「アイデンティティ」。
それを現実世界にあぶりだしたのが
今回のコロナショックであるのかもしれない。

「世間」と「社会」を分けるもの(14.4.23)
http://hero.niiblo.jp/e409952.html

「世間」の崩壊と「空気」の台頭(14.4.24)
http://hero.niiblo.jp/e410436.html

と鴻上さんの本を読み直してみて。

かつて共同体は強固に結びつき、自分たちの暮らしを保証してくれた。
その代わり、その結びつきは「世間」という神を生んだ。
皆が近くに住んでいて、今後もその付き合いが続いていくという前提の
中で生み出された「世間」

ところが、都市化し、個別化し、人々は分断された。

かつて「家族」「世間」の替わりに機能してきた
「会社」という組織は、もはや自分を守ってくれない。

帰属する場所がないということは、
「アイデンティティ」の喪失を同時に意味する。

「所属」することでアイデンティティを構築してきた人たちは、
大きな不安の中にある。

かくして、「世間」や「空気」が暴走する。
しかもそれは匿名で行われるから、暴走を抑止する機能(あとでしっぺ返しがくる等)を失っている。

頼れるものがなく、アイデンティティも喪失した彼らが
すがるのは小さな正義(だと自分が思っていること)だ。

新しい共同体の作り方と新しいアイデンティティの構築方法を考えないといけない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)

2020年05月10日

脱マシン(人間的であること)


「シン・ニホン」(安宅和人 ニュースピックスパブリッシング)

書き残していたメモがあったので、それをまとめてみます。

「異人」の時代へ(20.4.20)のつづきです。
http://hero.niiblo.jp/e490580.html

どうやって、それをいわゆる「教育」「学び」の場で実現していくか?

これまでの工業社会型資本主義:GDP=付加価値の総和⇒スケール(規模)の勝負
⇒中国、インドなど人口が増えているところが伸びる⇒多くの国では人口増が止まったからもう伸びない。

これからの市場価値を生み出すのは「異人」。
→事業のありかた、人材のありかたが変わる
→教育も変わるし、研究開発、基礎技術も変わらざるをえない。

すべてがいっぺんに変わる。
人口増のロジックでは考えられない。
ハード系のAIだけじゃなく、ソフト系(データ×AI)が必要

昔はスケールで利益出して、ブランド作って、時価総額が上がった。
今は時価総額から付加価値へ。

夢を形にする時代。
そこに技術とデザイン&アートが必要。

必要なのは「脱マシン」なのに、良いマシンになるための教育をやっている。

国語:空気を読む技術を学んでる、敬語とか。
数学:センター試験まで計算ドリルやってる。
理科:見つける⇒はめこむ(ドリル)。「パターン」見つける。
体育:前ならえ気をつけ(G20の誰もやってない)は明治の残留物→ものすごい勢いで国民を兵隊にしなければならなかったから。

入試:5~7割が解ける問題を並べている→多数決で多いほうが正解
平均的に得意な子が取りたいから。問題をみなくても正解がわかる。

徹底的にマシン化する教育をやめないといけない。
違うこと自体が価値になる時代。同じであることは「無」。

銀行の支店長になるには、膨大な社内ルールを覚えることが必要だった。
→今や人間がやる必要がない。付加価値にならないのだから。

マシンだと「仕掛ける」ことが禁止されている。
勤め人に集合体だから仕掛けることができない。

SFCのAO入試⇒変わったやつしかこない。
想定する変わったやつよりも変わったやつをとらないと。
わけわからない、解読できない価値をとりにいくのがAO入試。

一般(学力)入試は、心をまったく見ないで人をとっている。心のベクトル、価値観を見ていない。魂の色が何色か?
高校4年生は高校7年生になって、社会に入ると、高校生のままで死んでいく。
KPIが受験になっているとすべてが終わる。そこが固定されていないやつだけが輝いている。学力は重要だけど正義ではない。

日本におけるリベラルアーツの認識間違っている。
人にものを伝える力:論理学修辞学が重要なのに「国語」が空気を読むゲームになっている。
わざわざ不完全な文章を読ませている。大学生で論文を書いたことがない子は指導ができない。
伝えたいことを伝えたいように書けるかどうか?を批判的に見ることができるかどうかを磨くこと。

「生命力」に回帰している。
人間も生き物(動物)であるという前提。

「ニュートン」ペストで大学が封鎖になっているときにいちばん成果を残した。
いま、天才が生まれているかもしれない。異人からしたら最高の世の中。マシンになるための教育から解き放たれている。

生体験の量では学校外にある。誰に会うか、どんな体験をするか人生に刺さったひとことは課外活動でしかうまれない。

「心を育てる」には学校の外というか「非ドリル」的な何か。才能はひとりひとり違うのでそのひとりひとりに目を向ける。

30人同時は無理で、針治療しかない。月に2回くらいその子にしか刺さらない針を打てるか?
特に小中学校、高校の前半までに打たなければならない。その子にしか効かない針治療を。
さまざまな人が打ち込んだ針がいつまでも思い出されるような、彼ら彼女らの遠い未来に向かって深い針を打たないといけない。
何かに突き抜けている人材を応援する。むちゃくちゃ仕掛けるやつが有利→若くて何もない人がチャレンジできる。

新しい制約をつくることで新しい成長をつくる
SDGsは現代の5-7-5(俳句)
アイデアを激しくうむシステム→知恵を絞らないといけない。お金使わないといけない。
経済成長させるためにSDGsを生む。SDGsの半分以上が才能と情熱を解き放つ系となっている。

と、まあそんな風に世の中が変わっていっているのですが、
(以上、weekly ochiaiよりメモ)

あらためて、じゃあどうしすればいいのか?を再び「シン・ニホン」本文より。

~~~ここから引用メモ

漢字の書き取り、計算ドリルは、マシンとして子どもを育てていて、「意思」「自分らしさ」「憧れ」のない子どもが普通になっている。
「その人なりの心のベクトル」を育てること。

1 何を教えるにしても作業内容ではなく意味、目的を主として教える。一方でマシンにアシストされるのが当然の活動のスキル育成(ドリル的なもの)の割合を、世界の先端事例を参考に大胆に削り、21世紀らしくマシンを活用する技を前提に育成する。

2 スポンジのように引っかかりなく吸収することよりも、体験する、ものを読む中でその人なりに感じること、引っかかることを優先し、そこから生まれる気持ちを育て、「知覚」を育む。

3 さまざまな近代・現代に偉業を成し遂げた人の、過度に偶像化されていない話に触れ、考えさせ、1つ1つの偉業は観念論的なものではなく、すべてリアルな課題を乗り越えることによって達成されたことであり、その実感と重さを想像することはきっと未来において彼らが何かを仕掛けるために大きな力となる。

4 明らかに「その人らしい近くと深み」の育成を阻害している仕組みを取り除く。

仕事=力×距離
  =質量×加速度

ガリレオの時代からずっと、サイエンスの根源は、自然からパターンを見出すこと。
発見されたルールと事実を覚えて、それを物理や化学の問題に適用することではない。

夢×技術×デザイン視点で未来を創る教育を刷新する。

あらゆる文化は「手」によってつくられる。真の創造は最終的には「手」によってなされる。「手」を忘れることは文化の原点を忘れ、人間性を見失うことである。このプロジェクトは「手」を通じて「新しい生活のあり様」を提案し、「文化」の本質的な復権を願って企てられたものである。

1 「手」を動かす
課題に接し、対象や土を触り、触る対象の声に耳を澄ませ、ほしい姿を手で描き、モノを作る。

2 データ×AIがどのように世の中を変えているのかという実例を数多く見せ、実感を持ってもらう。

3 小中学校から何かを実現する道具としてデータ×AIを馴染ませ、データ×AIネイティブを生み出す。

4 新しいものをつくる体験で夢を描くを養成する。

5 風景、景観に対する視点をいれる。

初等・中等教育刷新に向けた課題
1 「データ利活用」
2 「ソフトウェアづくり」
3 「ものづくり」
4 「空間づくり」

不確実性の4つのレベル
1 確実に見通せる未来
2 他の可能性もある未来
3 可能性の範囲が見えている未来
4 まったく読めない未来

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

具体的な手法
1 大勝負に出る
2 オプションを仕掛ける
3 後悔のない行動をとる

SDGsとSociety5.0の交点をとる

SDGsは、以下の3つに分けられる(P372)
「才能と情熱を解き放つ」系
「持続可能な空間をつくる」系
「力と方法を持つ」系

Society5.0の価値の源泉
デジタル革新×妄想力

規模拡大の効率性⇒課題解消・価値創造
均一性⇒多様性
集中⇒分散
脆弱⇒強靭
環境負荷大・資源多消費⇒持続可能性・自然共生

~~~ここまでメモ

とくに、ここかな。

僕らがとりうるスタンス
1 「形成」自ら未来を創る
2 未来に「適応」する
3 「プレー権を確保」する

形成か、適応か、プレー権の確保か。
それは課題ごとに違ってくるのだろうけど。

いまこそ、観察し、学ばないといけない。
状況が日々、変わっている。
今日と同じ、明日は来ない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2020年05月09日

脱マシーン

往年のモーニング娘。の曲を彷彿とさせますが。(古いかも)


「シン・ニホン」(安宅和人 ニュースピックスパブリッシング)
読みつつ、「WEEKLY OCHIAI」の対談を見る。

うなるわ、これは。


やっぱり響いたのは教育の話かなあ。
画面見ながらメモしたよ。

その前にいまの経済と市場の話。

~~~

マーケットキャップ:市場価値
GDPの伸び:付加価値の総和(スケール勝負)
→人口増が止まったから伸びない

いま市場価値を生み出すのは「異人」
市場価値はデータ×AIでどんどん新しい価値が上がっている。

事業のありかた、人材のありかたも変わる
→教育も変わるし、研究開発、基礎技術も変わらざるをえない。
すべてがいっぺんに変わる。
人口増のロジックでは考えられない。
ハード系のAIだけじゃなく、ソフト系(データ×AI)が必要

昔はスケールで利益出して、ブランド作って、時価総額が上がった
今は時価総額から付加価値へ。

夢を形にする時代(妄想の時代)
そこに技術とデザイン&アートが必要

教科書でどうやって計画立てて物事ができるか?
資源を再配分するにはどうしたら?
→スケールの時代の話。予定通りやる。

~~~

そして、ハイライトの「脱マシーン」につながっていく

~~~ここから

「脱マシーン」

国語:空気を読む技術を学んでる、敬語とか。
数学:センター試験まで計算ドリルやってる
理科:見つける⇒はめこむ(ドリル)
「パターン」見つける
体育:前ならえ気をつけ(G20の誰もやってない)は、
明治の残留物→ものすごい勢いで国民を兵隊にしなければならなかった。
徹底的にマシン化する教育をやめないといけない。
違うこと自体が価値になる時代。
同じであることは「無」

支店長になるには、膨大な社内ルールを覚えること。
→人間がやる必要がない。付加価値にも資本にもならない。

~~~ここまで

マシンだから「仕掛ける」ことが禁止されている勤め人の集合体だから仕掛けることができない。
入試:5~7割が解ける問題を並べている→多数決で多いほうが正解
平均的に得意な子が取りたい。問題をみなくても正解がわかる。

SFCの入試は英数+小論文→変わった人を掘り出すシステム。AOしかないと言ってもいい。

リベラルアーツ自由7科、アルテスメカニケ
とコンビューターは相性がいい。
想定する変わったやつよりも変わったやつをとらないと。わけわからない、解読できない価値をとりにいくのがAO入試。

心をまったく見ないで人をとっている。
心のベクトル、価値観を見ていない。
魂の色が何色か?
高校4年生は高校7年生になって、社会に入ると、高校生のままで死んでいく。
KPIが受験になっているとすべてが終わる。
そこが固定されていないやつだけが輝いている。
学力は重要だけど正義ではない。

日本におけるリベラルアーツの認識間違っている
人にものを伝える力、論理学修辞学
「国語」が空気を読むゲームになっている。
わざわざ不完全な文章を読ませている。
大学生:論文を書いたことがない子は指導ができない。

伝えたいことを伝えたいように書けるかどうか?を批判的に見ることができるかどうか。

コロナ的なウイルスが3年に1度くるような世界をどう生きるか?
「生命力」回帰:メシ食え、よく寝ろ。若い人のほうが強い
生き物だっていうところに立ち返るところに来た。

「ニュートン」ペストで大学が封鎖になっているときにいちばん成果を残した
いま、天才が生まれているかもしれない。
異人からしたら最高の世の中。
マシンの教育から解き放たれている。

生体験の量では学校外にある。
誰に会うか、どんな体験をするか
人生に刺さったひとことは課外活動でしかうまれない。

~~~ここまでメモ

針を絶妙なタイミングで打てる人のことをこれからは教育者と呼ぶのだろう。

いや、すでに教育者という職業は成り立たないのかもしれない。

地域の大人の多くが、そんな針職人になったらいい。  

Posted by ニシダタクジ at 09:08Comments(0)

2020年05月09日

他者と出会い、他者と働く


他者と働く~「わかりあえなさ」から始める組織論(宇田川元一 ニュースピックス)
読みました。

ダイジェストはこちらのページがわかりやすいのでどうぞ。
https://motarasu.jp/business/35_narative/

「対話」「対話」いってるけど、それは何なのか?
っていうのがなんとなく理解できる1冊。
上司や組織に不満を持っている人、必読です。

ロナルド・ハイフェッツによれば、世の中の課題は以下の2つに分類できるそうです。
1 技術的問題・・・既存の知識・方法で解決できる問題
2 適応課題・・・既存の方法で一方的に解決できない複雑で困難な問題(関係性の中で生じる問題)

私たちの社会がこじらせているのはほとんどが適応課題なのです。
適応課題をいかに解くか。そのカギが「対話」です。

キーワードは「ナラティヴ」。
本書によれば「ナラティヴ(narrative)とは物語、つまりその語りを生み出す解釈の枠組みのことを指します。

経営者には経営者のナラティヴ(判断の基準となるような解釈の枠組み)があり、
部下には部下の「上司はこうあるべき」といったような「ナラティヴ」があります。

こちら側のナラティヴに立って相手を見ていると、相手が間違って見えることがあると思います。しかし、相手のナラティヴからすれば、こちらが間違って見えている、ということもありえるのです。

こちらのナラティヴとあちらのナラティヴに溝があることを見つけて、言わば「溝に橋を架けていくこと」が対話なのです。

~~~以下本文よりメモ

対話とは「新しい関係性を構築すること」

組織とはそもそも「関係性」だからです。

「私とそれ」の関係性(道具的な関係)と「私とあなた」の関係性(固有の関係)
「私とそれ」:立場や役割によって「道具」的にふるまうことを要求する関係。
「私とあなた」:相手の存在が代わりが利かないものであり、相手が私であったかもしれない、と思えるような関係。

それぞれの立場におけるナラティヴがある。

特に、専門家としての物語を生きていると、相手を自分の仕事を行う対象、道具として捉えやすくなります。

相手を捉える私の物語をどのように対話に向けていくか。

個人とは「個人と個人の環境」によって作られている。

人はその人の置かれた人間関係や環境にそもそも埋め込まれて作られた存在なのです。

対話は権限がなくても、自分のナラティブを一度脇に置いて、観察‐解釈‐介入を地道に回していくことによって可能です。

人が育つというのは、その人が携わる仕事において主人公になること。

実は主体性を発揮してほしいと思うことは、こちらのナラティブの中で都合よく能動的に動いてほしいと要求していることがほとんどです。

そして、今の職場のナラティブの中で活躍できる居場所を失ってしまっているので、「主体性がない」ように見えるに過ぎません。

~~~ここまでメモ

これ、上司と部下っていう話だけじゃなくて、先生と生徒っていう文脈でも同じですよね。

そして、さらに「観察」における注意点として、
「権力の作用を自覚しないとよい観察はできない」と説明します。

たとえば、「社長とのランチミーティング」みたいなやつ。
経営者は社員の言葉にしっかりと耳を傾けているように見えます。
しかし、下の立場の人間が語ることは、「経営者としてのあなた」に
対して語っているのだということです。

これはあるね。

そういう意味では、今のzoom会議時代っていうのは、「対話」の場として魅力的だなと思った。
それは「対話」の前提である、「他者」の自覚ができるということだし、
現実世界の立場を超えてフラットに話がしやすいのかもしれないなと。

ブレイクアウトルームで、「ダイアログインザダーク」的に
本名禁止(ニックネームで呼び合う)、画面オフでお題に対して
会話やチャットをするっていうのとか。

昨日、桜新町で「屋台やってます」っていう出会いの吉池さんとオンライントークしていて、思ったこと。

http://hero.niiblo.jp/e488340.html
(リアルメディアという参加のデザイン 2018.11.2)

http://hero.niiblo.jp/e489321.html
(屋台のある街 2019.5.12)

zoomは「他者に出会う」ツールなのではないかと。
つまり、関係性を再構築することができるのではないかと。

ただつないで、何もお題がないと、話をしづらい状況になる。
何か最近気になっているキーワードとか、昔のエピソードとか。
相手の興味関心、もっと言えばルーツとか価値観がわかるようなお題。

よく知っていると思っている人でも、
zoomというツールを通して、あらためて発見することができる。
この本的に言えば、相手のナラティヴを理解しようとすること。
そんなことが可能になるのではないかと思った。

僕がやりたい「コミュニケーション・デザイン」とはそういうことなのかもしれないなと。
「本の処方箋」でも、相手の悩みの物語に溶けていく中で、浮かんでくる本がある。
そのコミュニケーションの瞬間が面白いからやっているので、本を届けることが目的ではない。

他者と出会い、他者と働く。
そんな地平に立っているのではないかと思う。

では、どうして私たちは対話に挑むのか?

第6章:対話を阻む5つの罠
この本はここで僕的にクライマックスを迎えました。

~~~ここから一部引用

そもそも私たちは何のために対話に挑むのでしょうか。
ハイフェッツの言う「適応課題」を乗り越えていくため、自分と組織、ひいては社会にとってなすべきことをなすためです。

対話に挑むことを別の言い方をするならば、それは組織の中で「誇り高く生きること」です。つまり、成し遂げられていない理想を失わずに生きること、もっと言うならば、常に自らの理想に対して現実が未完であることを受け入れる生き方を選択することです。

どうやったら誇れるか。

それは、私たちが何を守るために、何を大切にしていくために、対話に挑んでいるのかを問い直すことによって可能になると私は確信しています。私たちは何者なのでしょうか。何のためにがんばっているのでしょうか。そのことを見定めることによって、私たちは困難に常に挫かれ、改められることが必然である暫定的な理想を掲げ続け、歩むことができるはずです。

相手を観察し、対岸に橋を架けることは単なるその一過程に過ぎません。そのことは目的ではないのです。誇り高く生きることは、孤独であることを避けられません。しかし、その孤独ゆえに、他者に迎合するのではなく、孤独にこそ私たちの理想が刻まれていることを思い返すとよいでしょう。

~~~

いやあ。熱い。
急に熱い。
宇田川さん、好きだわ。(笑)

「組織の中で誇り高く生きろ」
そのためのツールがナラティヴアプローチであり、対話である、と。

そうなんですよね。
たったひとりでも、相手のナラティヴを知り、橋を架け続けること。

それがこの本からの最大のメッセージではないかと思います。

多くの悩める組織人と、これから組織人になっていく大学生へ、この本を届けたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:15Comments(0)

2020年05月03日

「手紙」を受け取るために学ぶ


「世界は贈与でできている」(近内悠太 ニュースピックスパブリッシング)

衝撃でした。
「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)以来の衝撃。

「贈与」は受けとることなく開始することができない。
贈与された、という気づきからしか始まらない。

モチベーションの源泉。
それは「贈与」そのものなのだろう。
言い換えれば、その人が「贈与を受けた」という勘違いすること。

大学生のアイデンティティ・クライシス問題に切り込む1冊。

アイデンティティは、どのような未来を目指すか?ではなく、過去にどのような贈与を受け取っているか?という問いから始まる。
「自己分析」でやるべきはきっとそっちだ。

何をやりたいか?ではなく、
これまでどんな贈与をもらったのだろうか?
誰にそれをパスしたいのか?

僕はそれを「お客は誰か?」という問いで表現してきたけど、お客の設定としてもっともパワフルなのは「過去の自分」で、そのためなら無限にエネルギーを得られるのだけど、それって過去の自分にとって「つらかったこと」も本質的には「贈与を受けている」からなのかもしれない。

交換の論理と贈与の論理。
消費者マインドと贈与者マインド。
道徳って本来きっとそういうことだ。

「地域愛をもった高校生を育む」のではなく、
「ペイフォワードしたくなるくらい贈与を受け取った」と認識できているかどうか?
イナカレッジの大学はまず最初に、いや1か月のあいだずっと、贈与を受け取りつづける。
結果、何度も帰ってくる。

~~~本文から

そもそも、僕らがつながりを必要とするのは、まさに交換することができなくなったときなのではないでしょうか。(中略)交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。

贈与は届かないかもしれない。
贈与は本質的に偶然で、不合理なものだ。
そう思えることが差出人に必要な資質なのです。

~~~

交換の論理しかない社会が果たして「社会」と呼べるのか?

天職(calling)への道は、誰かの声を聴くこと。耳を澄ませること。

人はみな「言語ゲーム」という「世界」を生きている。
他者を理解するとは、その「言語ゲーム」を理解する、ということか。
そしてその言語ゲームを開いていく、というのが「コミュニケーション」なのか。

人は「正統的周辺参加」によって、ルールや言語を習得しているのか。
ルールが先にあるのではなく、ゲームが先にあるのだ。「実存は本質に先立つ」っていうのもね。
とすれば、「地域の活動への参加・参画」っていうのは、文科省が言っているから、ではなく根源的に必要なのかもしれない。

「疑い」ではなく、「自身の言語ゲームに対する問い」か。
「この言語ゲームで本当に良いのか?」という問いね。
「常識を疑え」って言われるよりもよっぽど刺さりますね。

この本の言う「言語ゲーム」っていう概念を実感することで何かが変わるなあと。

僕は、この本を読んでいて、なんのために学ぶのか?についてのひとつの仮説を得た。

なぜ、学ぶのか?
なぜ、知性が必要なのか?
それは、自分は贈与された者であると認識するための知性を身につけるためだ。
たぶんそれのほうが幸せな人生が待っているからだ。

「贈与を受けてしまった」という自覚からしか
贈与が始まらない。

生きるモチベーションの源泉は実はそこにあるのではないか。

これはもう一度読み直さないといけないな。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)