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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月21日

「やらされ感」の正体


NHK100分で名著「カール・マルクス『資本論』」

第3回目のキーワードは「構想」と「実行」の分離。

ひとつ、謎が解けた。(仮説です)
「やらされ感」という感覚。

これ、「構想」と「実行」の分離のことを言っているのではないか、って。
自分が構想していないことで、かつ構想に同意できていないとき、いわゆる「やらされ感」という違和感を感じるとする。

それは、仕事でもそうかもしれないし、学校の授業でもそうかもしれない。

学校の授業で言えば、
「教科学習」と「探究(的な)学習」があるとする。

よくある話が「探究学習」だと言いながら、
「素材選択→課題設定→解決策の提示」
みたいな枠組みで取り組んでみること。

この場合、「構想」はあるだろうか。
鍵られた授業時間の中で、無理無理課題を設定させられ、解決策を提示させられる。
そもそもこの「課題解決型の学び」とやらにどんな意味があるんだ?
っていう問いに答えられないまま進む探究学習。

一方で教科学習も別に「構想」はしていない。
文部科学省が「構想」した教育課程に従って、
先生が授業を「実行」し、成績がつく。
しかし、こっちのほうが「構想」に対して、
多くの人が同意したであろうことはなんとなく想像がつく。

仕事もおそらくはそうだ。
番組の中でも取り上げられていたが、
いわゆる「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」
に時間を費やしている人がいかに多いか。

その始まりは「構想」と「実行」の分離にあるのではないか。
それは「機械化」「分業化」によって、一気に進んだ。
資本家にとっての価値は「効率化」だったから。

労働者は切り離された。
ふるさとや生産手段からだけでなく、ついに、「仕事」からも。

つまり、たとえば職人がものづくりをするとき、
そこには「構想」と「実行」がセットで「仕事」をなしていたのに、
工場ではそれが「分離」され、労働者にはただ「実行」だけがある。

いわゆる仕事のモチベーションっていうのも、そこにあるのだろう。
「構想」づくりに参画できる働き方。
「構想」づくりに参加できる(意見・考えを述べられる)働き方。
「構想」づくりに参加はしていないが、「構想」に同意している働き方。
「構想」づくりに参加してなく、「構想」にも同意していない働き方。
「構想」がそもそもない、ただ「実行」している働き方。

大きい組織であればあるほど、
「構想」に「参画・参加」するのは難しいことであるだろうけど。
たぶん、これが「やらされ感」の正体だ。

「やらされ感」とは、する・されるの能動・受動のことではなくて、
「構想」していない、「構想」に参加していない、「構想」に同意していない場合の
「実行」のときに感じるもの、なのではないか。

昨日の「にいがたイナカレッジ」の話に戻るけど、
「にいがたイナカレッジ」ではチューニングによる「場のチカラ」を大切にしている。

7 どのように
6 何を
5 誰のために
4 なぜ
3 どこで
2 いつ
1 誰と

がプロジェクトの構成要素だとしたら、下から丁寧に積み上げていくのが「にいがたイナカレッジ」のプログラムだ。

もうひとつは、川喜田二郎さんが問いかける、それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?という問い。
何が違うのか?そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。

参考:「判断の余白をつくる」(19.12.9)
http://hero.niiblo.jp/e490083.html

彼の言う「ひと仕事」は、
A探検 →B野外観察 →Cデータをして語らしめる→D評価・決断・構想計画→E具体策・手順化→F実施→G吟味検証→H結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。「仕事」にモチベーションが上がらないのは、F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。
あ、それって「学習」も同じだ。学校の授業にはFしかないんだ。授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

「構想」とは、川喜田さんの言うところで、A探検→D評価・決断・構想計画をやること。
にいがたイナカレッジで言えば、1誰と~3どこでをチューニングしながら、地域を観察し、地域の人と対話し、4なぜ~6何を をつくっていくこと。
たぶんそれだ。

「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」(福島正伸・きこ書房)
の「人であふれた駐車場」の話にめっちゃ感動して涙をしたけども、
あれは単に「気持ちの持ちようで、どんな仕事も感動する仕事になる」っていう精神論ではなくて、
「構想」できる部分がある仕事を「構想」しようっていうことなのではないかなと。

「人であふれた駐車場」PVはこちらから(2008年)
http://www.youtube.com/watch?v=eJw-W2Ja1ho

「やらされ感」の正体は、「構想」を奪われたこと。

だとしたら
「場」を設計する(モチベーションの高い職場・モチベーションの高い(探究の)授業)ことのポイントは、

3「構想」に同意している。
2「構想」に参加している。
1「構想」に参画している。

という階段を登っていくことなのだろうと。
それは個人やチームでのプロジェクトにおいても同じだろう、と。

いや、もしかしたら、「進学」「就活」のその先の人生の「編集」においても、「構想」と「実行」を分離させないこと。あるいはこの視点を持ちながら労働者であること。

マルクスが150年前に、川喜田二郎氏が25年前に語っていたことがいま、目の前にある。
その問いにどう応えていこうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:12Comments(0)日記

2021年01月18日

「承認」不安とアイデンティティ


「ひとはなぜ「認められたい」のか ―承認不安を生きる知恵」 (山竹伸二 ちくま新書)

「認められたい」の正体(講談社現代新書)から10年。
(僕にとっては)待望の新刊です。

ツルハシブックス時代に聞いた大学生の二大悩み
「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
の「自信がない」ほうの原因のひとつが
この「承認」不安なのではないかと思っています。

「承認」不安のメカニズムをどうとらえたらいいのか?
大学生からで間に合うのか?
家庭で「親和的承認」が得られない場合、学校や地域でフォローは可能か?
チューニング(チームビルディング)によって「存在の承認」は可能か?

そんな問い。

2012年夏、大学の課外活動プログラムづくりで、
粟島に行った時の劇的な効果(実感値)を目の当たりにして、
そのカギは、存在の承認(≒親和的承認)にあるのではないかと思った。

http://hero.niiblo.jp/e291471.html

この時のキーワードが
1 親和的承認
2 集団的承認
3 一般的承認
だった。

大学生が抱える「自分に自信がない」の中に、
アイデンティティの不安がある。
「何者かにならなければならない」という脅迫だ。

本書ではアイデンティティと承認不安の関係を次のように説明する

~~~ここから引用

近代以前なら、共通の社会規範・価値観によってアイデンティティも明確でしたが、そうした大きな価値観がなくなると、私たちは根無し草のようになり、自分が何者なのかを自分で探し求めなければなりません。しかも、自由な社会であるはずなのに、「自分らしく生きろ」とか「個性が大事だ」などといわれながら、独自のアイデンティティを見出す必要性に迫られています。

哲学者のチャールズ・テイラーも、近代以前は「アイデンティティが、それとした主題化されるに値するほどの疑わしさを持たなかった」が、近代ではアイデンティティが他者との対話的な関係、承認に依存するようになったのだと述べています。「内面において生み出されるアイデンティティの理念の発展が承認に新たな重要性を付与するのは、このゆえである」というのです。

このように現代は自分の固有性・独自性を他者に認めてもらわなければ、自分のアイデンティティがはっきりしない時代です。そのため、他人の目を気にし、周囲の評価に怯えるばかりで、なかなか自由に行動することができなくなっています。もはや私たちは、社会的な価値観に制約されず、社会の評価、承認をさほど怖れてはいないのですが、身の回りにいる人々に対しては、強い承認不安を抱いているのです。

~~~ここまで引用

サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、まさにそれだなと。
そして彼は「社会参画せよ」とも言った。

「では、どうするか?」
という課題。

ベースとなる「存在の承認」を家庭以外で取り戻せないだろうか?


ひとつ目は、離島に行くこと。新潟で言えば粟島。
シーズンオフに行けば、すれ違う人が皆、話しかけてくる。
「どこから来たんだ?」と。

2泊3日で行けば、民宿のおじちゃんが、
2日目の過ごし方を心配してくれる。
「明日の昼間、何するんだ?車、乗ってく?」

マザーテレサは愛情の反対は無関心だと言ったが、
粟島にいけば、「関心」にさらされる。
それを繰り返すと、「もしかしたら自分は若いだけで価値があるのかもしれない」と勘違いできる。
いや、本当に「若いこと」は(おじいちゃん、おばあちゃんにとっては特に)価値があるのだけど。

それは「にいがたイナカレッジ」の1か月を中山間地の集落で「暮らす」のも同じだ。
そこに「存在の承認」(自己承認)のチャンスがあると思っている。

ふたつ目は、「チューニング」だ。
ミーティングの最初に「最近あったよかったこと」を言う。
ミーティングの終わりに「印象に残ったこと」を言う。
いわゆる感覚、感性の共有。「思ったことを言う」こと。
それを繰り返すことで、「存在の承認」が得られるのではないか、
という仮説を持って、「チューニング」をやっている。

みっつ目は、
「チームや地域や場の個性の構成員になる」というもの。

これは非常に感覚的なものなのだけど、
自分が属しているチーム、地域、場の
一員として、自分が存在していて、
そのチーム(地域・場)全体として個性を発揮できる環境。
(そのチームには「チューニング」によって自らが一部溶け出している)

その個性や独自性、生産物が認められること。
それによって間接的に自分を認められるようになるのではないか。

っていう3つの仮説。
「アイデンティティ」と「承認」は密接に関係していると僕も思う。
「行為の承認」を求めて「チャレンジ」を始める前に、「存在の承認」が必要だと思う。
そしてそれは、チャレンジしながらでも作っていくことができるのではないか。

まあ、本当は「チャレンジ」などではなくて、「実験」に過ぎないのだけど。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)

2021年01月15日

「なんとなく」シフトふたたび


「わかりやすさの罪」(武田砂鉄 朝日新聞出版)

読み始めました。
面白いですね。
とっても痛快です。

「わかりやすい」ことにどれほどの意味があるのだろうか?って。
「測定可能であること」はわかりやすさの一つでもある。
それだけじゃないひとりひとりとそれぞれの関係性によって
人って変わってくるよねっていう前提でチームを作りたいなと思う。

今日は2か所して紹介します。

1つ目は、「コミュニケーション能力」について。

~~~ここから引用

関西学院大学准教授の貴戸理恵が「コミュニケーションのように『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』を、能力として個人のなかに固定的に措定すること『関係性の個人化」と呼んでいる(『「コミュ障」の社会学』青土社)。他人との関係性でのみ成り立つものを、自分の能力として問われてしまえば、当然、皆が皆、どうしてその能力が私にはかけているのだろうと悩む。無理がある。だって、コミュニケーションは他者との関係性で成り立つのだから、いつだって欠けているはずなのだ。

しかし、とにかく無理解を嫌い、意味のわからないものを遠ざける昨今、結果的に個人が理解すべき範囲が拡張され、抱え持つ必要のないものまで持たねばならなくなる。貴戸の言う「関係性の個人化」によって、私たちは、理由あるもの、有効なものばかりを獲得するようになった。

~~~ここまで引用

そうっすよね。
「コミュニケーション能力」っていう言葉自体がおかしいと。
コミュニケーションは個人に属するわけではないのだから。
これ、「責任の生成」にあったASDの話にも通じるなあ、と。

そしてもうひとつ。
鷲田清一さんの「わかりやすいはわかりにくい?」を紹介して次のように述べる

~~~ここから引用

「何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、『これができたら』という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせていく。自分が『いる』に値するものであるかどうかを、ほとんどポジティブな答えがないままに、恒常的に自分に向けるようになる」(前掲書より)

そこにいるだけでは価値が認められない社会において、自主的に価値を探し出し、打ち出し、強化していく。その繰り返しによって、やがて他人から価値を認められていく。生きていく上で、あらゆる場面でプレゼンが必須になっている。なぜそのような行動をnとったのかについて、明確な理由を示し、その行動について認可を得なければならない。自分の行動なのに、おい、それに意味があるのか、あるんだろうな、と尋問されるのは、相当にしんどい。そうではなく、相手が何をして、何を考えているのか、それがどうにもわからない、という状態をそのまま放置しておきたい。

~~~

いやあ。そのままズバリですね。
大学生の生きづらさというか、親世代とのギャップってこういうところにあるんじゃないかって思います。

以前に「にいがたイナカレッジ」で講演した時、
「なんとなく」シフトを提唱したことがあったのだけど、まさにこれですね。
参考:(16.6.13ブログ)
http://hero.niiblo.jp/e480075.html

個人としては、「なんとなく」をむしろ推奨していくこと。

内田樹さんが「日本習合論」で説明していた
「理解と共感に基づかない関係性と共同体」を探っていくこと。

そしてもうひとつがやはり「場」にフォーカスしていくことだと思う。
「場」を活動の主体にし、個人は「場」にチューニングし、「場」の構成員としての自分を感じること。

ひとりひとりが「存在の承認」を、いま切実に必要としている。

それは「チームや誰かの役に立つ」という「有用性」や
「〇〇という将来の夢に向かって今は全力でこれに打ち込んでいる」といったような
「わかりやすく夢に向かう自分」によってのみ得られるものではない。
(現実社会はそのようになっているけど)

ひとつひとつのシーンで、プロジェクトで、「なんとなく」やってみる
理解と共感を前提とせず、理解しえないであろう他者と協働してみること。

前回の「アイデンティティデザインの時代」の紹介で、
リーダーシップとはイシューを設定する力であり、
しかもそのイシューは、非目的で他者と関係する活動の中にあるのだと。
http://hero.niiblo.jp/e491351.html

それって。ひとりひとりの中でも言えるのではないか。
「なんとなく」やってみた中に「発見」があり、「顧客」との出会いがあり、顧客にとっての「価値」を考え、その先に「使命」を知ることになる。

個人としては「なんとなく」、
チームとしては「理解と共感に基づかない協働」、
プロジェクトとしては「場」を主体にチューニングをしながらイシューを見つけていくこと。

現時点ではそのアプローチが、「生きづらさ」に対処する僕の仮説です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)日記

2021年01月13日

アイデンティティデザインの時代


「仮想空間シフト」(尾原和啓 山口周 MdN新書)

いいですね。
こういう軽い本好きなんですよ。
いいキーワードたくさんもらいました。

~~~以下一部引用

これから起きる変化っていうのは、新型コロナウイルスによって突然変異的に生じる未知のものではなく、元から本質的に存在していた考え方であったり将来像であったりが一足早く顕在化しただけだ。

これは言葉を変えれば「今まで私たちが信じたきたことは実はフィクションだったんだと気づく」ということができる。

「大企業」というのは完全なフィクションですよね。

1 仕事が変わる
2 暮らしが変わる
3 社会が変わる
4 人生が変わる
5 国と行政が変わる

issueを見つける能力をつけること。
世の中ってこうあるべきじゃないか、仕事ってこうあるべきだよね、っていう思想を持っておくこと。

アラン・ケイは、コンピュータは軍事や金融ではなく「人間の知性と創造性を開放する道具となるべきだ」と考えたからパーソナルコンピュータという概念が生まれた。コンピュータの在り方に疑問を呈したわけですね。

IKEA This Ables
https://thisables.com/en/
家具に取り付けて使う補助パーツを3Dプリンタデータとして公開。

自分たちの持つテーマに愚直に向き合う。IKEAのミッションは「家具をデモクラタイズ(民主化)する」
貴族じゃなくても素敵な家具を持てるように。

「リーダーシップ」とは、魅力的なイシューを提示できる力のことになるのだろうな。

そのイシューを見つけるには「目的に向かわない」ことが必要になる。

仮想空間の解像度を上げる四象限(P75)
タテ軸:みんなで(上)⇔ひとりで(下)
ヨコ軸:非目的型(左)⇔目的型(右)

右側はオンライン(ZOOM)と相性がいいが
それだけでは新しいものは生まれず、左上が重要であり、
左下の自分の時間がないとストレスがかかる。

リンダ・グラットンの言う「生産性資産」と「変身資産」と「活力資産」の中の「変身資産」ね。
それが旅に出て人に会うことなのかもしれないですね。ご当地の美味しいものを食べるのは「活力資産」のアップか。

「人生を経営する」ためにイニシアティブ・ポートフォリオをつくり、意識すること。

会社の外側のプロジェクトに少し参加してみるとか、そういう小さなステップの積み重ねが人生を大きく変えてくれる。とにかく打席にたって自分が適材適所になる場所を探すというのは、仮想空間シフトが広がると余計に重要になると思っています。

~~~

ここまで一部引用。

いやあ、わかりやすい。
ZOOMがうまくいく集まり、うまくいかない集まり。
オンライン飲み会とかは左上象限にあるのだけど、
やっぱそれには身体性が必要なのだなあと。

僕がこの本で重要だと思える、アイデンティティのところを抜粋します。
本書P92~

~~~
どうせ仮想空間でしか仕事をしなくなるのなら、そもそもデジタルアイデンティティを持てばいい。まず仕事が会社と言う組織ベースではなく、プロジェクトベースになると、あなたは「〇〇社の社員」というアイデンティティではなくて、「そのプロジェクトの中の〇〇係の人」という役割に紐づいたアイデンティティを持つようになります。

アイデンティティというのは関係性の中で築かれるものですからね。そしてすべての人がさまざまなプロジェクトを渡り歩くわけですから、自然と複数のアイデンティティを持つことになります。だって、このプロジェクトではリーダーだけれど、あっちのプロジェクトでは単なるエンジニア、という働き方になるわけですから、役割に紐づくアイデンティティは当然複数に分かれていく。

その中で自分のアイデンティティを好きになるためには、その自分の役割、係を好きにならないといけないわけですが、それはすなわり「仕事の目的、意味」です。だから、魅力的なイシューのもとで、熱量をもって仕事を消費するということが、自分というアイデンティティを愛して精神状態を健康に保つことになるわけです。

~~~

いいですね。「デジタルアイデンティティ」っていう感覚。ネット上のもうひとつの人格。これってインターネット黎明期にはみんなが持っていたはずなのに、フェイスブックによって現実空間とネット空間が同一化されてしまったのだろうな。若者のフェイスブック人口が少ないのは、リアル社会と同一化された世界だから、みたいな理由もあるでしょうね。

さらに、この本は、近代化=都市化に一石を投じる

~~~
近代化というのは都市化とイコールなんですね。近代化というと産業構造の変化が起きて、一次産業から三次産業へとシフトする。これはつまり畑とか森とか海から財を作っていた人たちが情報から財を作るようになるわけです。情報から財をつくると言うのは、はじめに語った脳を工場にしてあさまざまなアウトプットを生産していくような仕事をするということですよね。これまでは物理空間に縛られていましたから、脳を工場にすると一極集中にならざるを得なかったわけです。

自分の脳で生産した情報は、また他の誰かの脳にわたってさらに磨かれたりするわけですが、そのためには二つの脳みそが近くになければならなかったので。工場を移動させるのは無駄なので、じゃあどうするかといえば近くに工場を置くしかない。だから本当は住みたいところが他にあるけれど、三次産業として情報を扱っていく都合上、多くの脳みそが東京というひとつの都市に集まらざるをえなかったわけですね。これは世界共通の事象ですから近代化と都市化はかならずセットで起きることになります。

その一方で、今回起きたパンデミックというのは都市を狙うものですよね。人が密集していればいるほど危険になるわけですから。ある種パンデミックというのは都市が生み出した病とも言えるわけです。これまで都市というのは近代産業を支えている最重要ポイントだったのですが、それが最脆弱ポイントとなってしまった。これは人類史に残る事件なのではないかと私は考えています。

~~~

いやあ、これですね。春くらいにウィークリーオチアイでも言っていた。コロナウイルスは都市への挑戦だと。

そして、この後、山口さんが「東京こそが仮想空間である」と語ります。今となっては仮想空間上で作れるものをわざわざ資源を使って物化させているだけの存在であると言うことができます。

まさにそうですね。今まさにその過渡期にある。

そして、最後に紹介したいのが
こういう本にありがちな「これからの世界を生き抜く10のアクション」から。
その1「境界性領域をつくる」の中での山口さんの発言を。

シチュエーションやコンテキストに応じてアイデンティティを切り替えるということを考えてみたときに、「アイデンティティデザイン」という考え方がこれからは必要になってくるかもしれません。人のアイデンティティは人間関係の中の位置づけで、成り行きで決まっていくようなところがありますが、仮想空間シフトが起きると、必ずしも顔が見える関係性の中だけで物事が進むわけではないので、自分の「ブレないアイデンティティ」をキャラクターとしてしっかりと持つということが必要になると思います。

これですね。「アイデンティティデザイン」
自分のアイデンティティをデザインし、プロジェクトに参画していくこと。

それを複数個もつこと。Z世代(1996年以降生まれ)は普通にやれていることなのかもしれない。
彼らが覇権を握るのは15年後くらいなのだろうけど、それを新型コロナウイルスが一気に変えてしまっている。
だから、おじさん世代もシフトする必要があるよねっていう話。

「アイデンティティ」(自分らしさ)だってフィクションになっていく。

本当の自分とはなにか?
自分が本当にやりたいことは?

という問い自体が無効化される時代。
それは言い換えれば、アイデンティティそのものをデザインできる時代になると言えると思う。

「仮想空間シフト」は、リアルとネットの境目が溶けている状況のことを言うのだろう。
そして、「学び」の文脈で言えば、ますます地域というフィールドの価値が増すだろうと思う。

東京から地方の高校に進学して学ぶ。
地域の大人と複数個のプロジェクトを立ち上げ、それぞれでアイデンティティをデザインする。
そのプロジェクトには自らの学びのために東京から参加している会社員がいたりする。
進行しているプロジェクトを他地域の高校生と共有・ブラッシュアップする。
そんな学びのカタチが見えつつある。

いやあ、面白かったですね。

僕の中の面白かったポイントは3つ
1 リーダーとは良いイシューを提示できる人
2 「生産性資産」「変身資産」「活力資産」をマネジメントする=人生を経営する
3 アイデンティティはデザインできる。しかもそれはZ世代以降であれば普通にできる。

そんな感じですかね。
「探究」の授業設計に良いエッセンスを頂きました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)日記

2021年01月12日

「場」とともにある「わたしたち」


「責任の生成-中動態と当事者研究」(國分功一郎 ・熊谷晋一郎 新曜社)

久しぶりにゾクゾクくる本を読みました。うわあ、うわあ、って。
「やりたいことは何か?」っていう「意志」を問う問いはやっぱおかしいよねって。

まずは、熊谷さんの「当事者研究」のひとつであるASD(自閉スペクトラム症)について。

環境と私との相互作用によって発生したり消えたりする障害をディスアビリティと表現し、皮膚の内側にある障害、環境から独立している障害はインペアメントと表現される。

では、コミュニケーション障害は、インペアメントなのかそれともディスアビリティなのか。素朴に考えてディスアビリティですよね。なぜなら、気心の知れた相手なら発生しにくいけれど、相性の悪い人とならコミュニケーション障害は発生しやすいからです。あるいは共通前提が無い人や、文化的背景の異なる人であれば発生しやすい。

どころが、ASDの診断基準はあたかもインペアメントを表しているものとして世界中で解釈して使われている。

ディスアビリティのインペアメント化が起こっているのではないか?

~~~

そして「意志」について

ギリシアは非常にアジア的であってその文明の根底にあるのは循環する時間と自然という考え方です。それに対し、キリスト教は直線的な時間感覚を生み出しました。始まりと終わりがある時間という考えです。

何ものからも自由で、何ものにも先行されない意志というものはあり得ない。にも関わらず、僕らはこの意志という概念を日常的に利用している。だとしたら、これはもう信仰としか言いようがありません。つまり、僕らは意志信仰のなかにいる。

そして意志がキリスト教哲学によって発見された概念であるのならば、僕らはクリスチャンであろうとなかろうと、キリスト教哲学の影響下にあるのだとすら言えるのかもしれません。

意志という概念を使って、因果関係を恣意的に切断してしまっているわけです。

意志という概念が切断の効果をもつことが分かります。そしてそれは本来切断できないものを切断しているわけです。

本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

~~~

これはヤバいですね。「自分のやりたいことは何か?」と「意志」を問うことでいわゆる「自己責任論」が発生するわけですね。
「中動態の世界」でもありましたが、そもそも他から切り離された「意志」なんて存在するのか?と國分さんは問いかけます。

あとは「意志」と「選択」を混同しないことだと。

あと興味深いキーワードとして「反芻」と「省察」を

「省察」は好奇心を掻き立てる研究対象となるような有意味性をもった出来事として過去を思い出すスタイルです。能動/受動の形式で過去の出来事を思い出すことを「反芻」、中動態の形式で「自分において生起した現象」として過去の出来事を思い出すことを「省察」として考える。

これ、つまり振り返りにおける「場」として見るっていうことだろうなあと思います。
個人戦ではなく「場」を主体としてふりかえること。
ライフチャート(モチベーショングラフ)への違和感もこれで説明できます。

~~~

だからこそ「意思決定支援」ではなく、「欲望形成支援」が必要なのだと。

個人的ではなく集団、意思決定のような切断ではなくて、過去との連続体のなかにある欲望の形成の重要性ということになります。

人間は自分では意思決定を感じる。それはある意味では意志が「うっかり」生成するものだからだと言えるかもしれません。頭のなかでいろいろな演算が行われて、その結果が意識に上ってきます。意識には結果しかわからない。その諸々の結果をうっかりまとめ上げてしまうことで意志を感じられるようになる。

もうひとつ「想像力」について

人間の精神的能力の全ては想像力からきている。想像力の定義は存在していないものを存在させる能力。図式化とは多様なものを大雑把なイメージに当てはめること。このイメージは現実には存在していないものであり、心のなかで作り出さなければならない。だから想像力が図式化を行うと言われるわけです。

~~~

次に「他者」について

自分に見えていないものの存在を信じられるためには他者が必要である。

当事者研究は、傷から自伝的自己を生成するための他者との出会いの条件を探究しなければいけない。

他者というものを、一つの、あるいは大文字の「他者」みたいに思わないほうがよいのでしょう。特定の状況において登場してくる多様な他者を、変数として分析しないといけないと思います。

そして、今の教育が目指すコンピテンシー重視の人物像について次のように説明する。

いかなる変化にもフレキシブルに対応し、いかなる感情も操作し、過去を切断しながら未来志向で生きていく労働者。 
経営者が課すお題を効率よく達成するにはそんな人は重宝するかもしれないけど、そもそも、そんな人と働きたいだろうか?

~~~

最後、あらためて「中動態」について確認するとともに「責任」の話へ

中動態とは、主語が動詞の名指す動作の場所になっているときに用いられる態でした。これに対し、中動態に対立する場合の能動態は、動作が主語の外で完結する際に用いられる。

あらかじめ確固として存在している主体が、客体を支配するというのとは違う契機が中動態に見出されるからです。繰り返しになりますが、中動態の場合、主語は単なる場所だからです。

格変化はだんだんなくなってきたと言いましたが、前置詞というのはそれに伴って現れてきた新しい品詞です。名詞自体を見てもその役割がわからないので、名詞の前に、その役割を表す言葉を置くことにしたわけです。

~~~

このあと、僕の中でのハイライト、「場」とは何だろう?「場に溶ける」とは?を説明する上で大切な「主体」「客体」をギリシア語で「使う」を意味するクレースタイを持ち出して、説明します。

ここだけ引用させてください。

~~~ここから一部引用

クレースタイという動詞には中動態しかありません。ギリシア語は直接目的語を表すために名刺を対格というかたちに格変化させますが、クレースタイは対格をとらないのです。「格」というのは名詞の役割を表すものです。ギリシア語やラテン語では名詞が縦横無尽に変化します。格変化はだんだんなくなってきましたが、前置詞というのはそれに伴って現れてきた新しい品詞です。

クレースタイが目的語を対格でとらないということは、「使う」という言葉がただ「・・・を使う」を意味するわけではないことを意味します。私という言葉=主体があって、物という目的語=客体があって、前者が後者を使うというのとは異なる意味が「使う」という概念には秘められていることを、このクレースタイという動詞は示していることになります。

「誰が何ものかを使用するという近代的な考えたのうちにかくもはっきりと刻印されている主体(主語)と客体(目的語)の関係がこのギリシア語の動詞の意味を捕まえるには不適切なのである。」(アガンペン「身体の使用」)

僕らは「使用」を「支配」の意味で考えていると思います。ペンを使うとき、ペンを支配して、みずからの思いのままにそれを使っている、と。しかし自転車や車いすの例からわかるように、むしろ使うためには、使う主体にならなければならない。クレースタイを通じて主体が出てくる、というか、クレースタイを通じて主体と客体の一つの組み合わさった何か、自己のようなものが構成されると考えねばならないのではないか。そしてクレースタイが中動態にしか活用しないのであれば、それはまさしく主語が自己の生成する場所であることを示しているのではないか。

~~~

このあと、いよいよ「責任」の話に入っていくわけですが、それは本書をお読みください。
NHK100分で名著の「カールマルクス・資本論」を読んで考えていた「自由」の話にも通じるなあと。

「意志という神話」を信じ込まされ、労働者となった私たち。そこには「消費者としての自由」があった。

強い「意志」によって自分と過去とを切断し、描いた「未来」に向かって力強く進んでいく存在。

しかしそれはかつて尾崎豊が「卒業」で語ったような「仕組まれた自由」なのかもしれない。

私たちは切り離された。「共同体」からも、そして「過去」からも。
それをうまく切り離せない人が「生きづらさ」を抱えているのかもしれない。

だからこそ「場」を主体にして、「学び」を再構築できないだろうか?
「学びの場」に自らを溶け出していくことで、「切り離されていない自己」を構築できないか、と。
もちろんそれは、自らを「多層化」したうちのひとつではあるのだけど。

中動態の世界において、動詞が示す変化は自分の中の「場」で起こる。
そしてそれは相手を変化させていると同時に自らを変化させる。

「探究的な学びは自己の変容を前提としている」と前に書いたけど
http://hero.niiblo.jp/e491217.html
それは実はギリシア時代には当たり前のことだったのだ。

「場」とともにある「私たち」。

そんな感覚が持てるような場(やプロジェクト)をつくっていくこと。

それが、多くの若者が、いや私たちを含めて直面している「アイデンティティ危機」に対する僕なりのアプローチなのかしれないと感じています。ステキな本をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)

2021年01月05日

仕組まれた自由に誰も気づかずに

2019年7月~9月 ふりかえり

「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)
が2019年ベスト3に入る衝撃でしたね。

6月末に見学した「地域みらい留学フェスタ@東京」
http://hero.niiblo.jp/e489518.html

このタイミングで、いい本に出会った。
僕が高校魅力化プロジェクトで伝えたいことは、この本に書いてあるロバート・ヘンライの言葉だ。

「芸術家は人生についての考え方を世界に教えている。金だけが大事だと信じている人は自分を欺いている。芸術家が教えているのは、小さな子供が無心で遊ぶように、人生も熱中して遊ぶべきだということである。ただし、それは成熟した遊びである。人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり、革新である。」(ロバート・ヘンライ)

いいなあ。人生も熱中して遊ぶべきだ。
僕は「べき」という言葉は好きじゃないけど、これには賛同するなあ。

その前日には同書から、
「意義」というモンスターについて書いている。

「意義」と「意味」を混同しているのでは?と。
「意義」というのは「価値」からきている。
しかもその「価値」は世間的画一的な価値だ。
「意味」は人それぞれにあるし、世間的価値とは無関係につくることができる。

印象に残ったのは長野県立白馬高校の説明。

■こんな人におすすめ
・白馬でやりたいことがある
・多様な価値基準を受け入れられる
・人と協働することが好き
・新しいことにチャレンジできる

■反対に、3つの誤解
1 白馬にいけば変われる⇒本人が変わらないと
2 個人の希望を優先できる⇒全日制の公立高校
3 平日でもスキーやスノボいける⇒いけない

■メッセージ
1 何を学びたいのか?
2 広く学ぶ覚悟はありますか?
3 白馬で生活する覚悟はありますか?

これ、来年の募集では阿賀黎明高校バージョンで整理してちゃんと言おうと。

そして。
いまのマルクスの話にも通じる、この一節

貨幣経済が「質」を「量」に還元した(19.7.4)
http://hero.niiblo.jp/e489521.html

「頭」と「心」が対立せずに、互いが相乗的に喜び合っている状態。これを、私たちは「遊び」と呼ぶのです。誰しも幼い子供時代には、自然に「遊び」に夢中になっていたはずなのですが、それがどうして、こんなにも縁遠いものになってしまったのでしょう。

物事の「質」を「量」に還元してしまう貨幣経済というものが、私たちの世界を動かす支配的な価値観になってしまったことが挙げられるでしょう。お金というツールはそもそも、物々交換の不便さを解消するものとして登場し、あらゆるものを「量」に還元して交換、つまり取引を可能にしました。「質」の異なる様々なものをすべて「量」に置き換えてしまうということは、本来は暫定的・便宜的なことであって、そこに無理があるのは当然です。

しかし、いつの間にか、経済原理が世の中を動かす中心的な力を持つようになってしまい、人々は「質」の大切さを犠牲にしてまでも経済価値を追い求めるようになってしまいました。その結果、様々な物事に対しても、プロセスよりも結果のほうを重視するような考え方が、広く世の中に蔓延するようになったのです。

~~~
これはまさに「呪い」ですね。「量」的に計測可能にする、という呪い。

昨日の「街場の共同体論」の話にもつながります。

「労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。」

短期間でいかに「量」的に稼ぐか。それは「計測可能」です。しかも際限がありません。それは「学習」においても同じです。短時間でいかに成績を上げるか?が「能力」の指標として、いまだに採用されているのが現状です。

そして、「キャリア教育」もその「呪い」にかかってしまいました。
「やりたいことは何か?」「将来なりたいものは何か?」と問われ、
その目標に対して今できることは何か?と問われます。

それは言わば「手段」にあふれた教育、「手段」だらけの世の中です。
それをどうシフトしていくか?

「機会」として学ぶへのシフト。「目標達成」さえも機会としてとらえるような教育、世の中ができないだろうか。
「機会」を得て、そこで心の動き(共感・違和感・衝動)を得て(ふりかえって)、問いを立てて活動をする。
その活動がまた「機会」となって、、、そんなサイクルができないだろうか。

そんなことを考えていた時の7月24日、法政大学の長岡先生に再会。
僕の水戸留学時代の影の師匠。
「越境」をキーワードにゼミを展開しオープン参加の「カフェゼミ」を実施。
参加した時のゲスト、「つながるカレー」の加藤文俊さんの話から、
エンターテイメントの本質は「予測不可能性」というキーワードをもらった。

その長岡先生のコメントがアツい。
「直感で動け、そうすれば間違いしかない」
そういう前提で「呪い」を解いていくのだろうなと。

その後は阿賀町の自然薯農家、目黒さんに話を聞いて、
「百姓2.0」を実感した。
「仕事」も「幸せ」も自ら定義すること。
「仕事」も「幸せ」も自分でつくるものだと。

7月のラストは、「街場の平成論」(内田樹編著)だった。
ここでの平川克美さんの一節にうなる。

「消費者」は、これまでの古い慣習や、しがらみから自分を解き放つことが可能な存在であった。一人の時間を大切にし、誰からもその行動を干渉されず、好きなときに好きなものを自由に所有することができる。

消費者が持った解放感は、日本の歴史上稀有のものだったように思える。金の力が、個人を解放するという幻想を多くの日本人が共有したのである。ただし、金さえあればの話である。

考えてみれば、「消費者」は、革命を経なかった日本人が初めて手にした「個人」であったと言えるかもしれない。ここでも、但し書きがつく。但し、金さえあれば。

~~~

「消費者」になるという自由。
かくして人は「個人」となった。

尾崎豊が「卒業」で歌った
「仕組まれた自由に誰も気づかずに」
っていうのは、このことなんじゃないか、って。

ということで8月。

イナカレッジのトビラプロジェクトで
顧客である「ひとり」に出会うことを再確認。

人生は経営であり、ドラッカーの5つの質問に答える必要があること。

1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

人生は経営であるが、
ただし、個人戦でもトーナメント戦でもないこと。

山口周さんの「武器になる哲学」ではダーウィン理論の誤解が溶ける。

もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。

だから、変化しなくちゃいけないんだよ、って思ってた。
そうじゃなかった。

生物はすべて「集団が生き延びること」を最大の価値として存在しているんだろうと思う。そのために「自然淘汰」というメカニズムがあるのだと。そのメカニズムは、「突然変異」というエラーから始まるのだと。

「環境」は変わる。

環境が変化したときに、適応できる(生き残る)のかどうか、は、変化後の環境に適応し得る突然変異を継承しているかどうか。集団が生き延びること。この「集団」を「組織」あるいは「会社」にしても、同じことなのだと。突然変異(エラー)を組織内(会社内)に許容できないと、外部環境が変化したとき、生き残る可能性が下がる。

これが今コロナ禍で起こっていることではないかと。

8月末はイナカレッジの研修講師がうまくいかなくて、
それを考えて、実習地のひとつ、矢田集落でヒントを得た。

「チューニング」
・予測不可能性で心を開く
・感覚の共有。
・向き合わない

相手を理解しようとしないで、相手が出す「音」に関心を向ける。3人の「音」を合わせて、音楽(場)をつくる。その音楽(場)から、自らが学ぶ。新しい「音楽」を生み出す。そうやってプロジェクトを前に進めていく。そのために、付箋を使ったKJ法があるのかもしれない。

「ともに学ぶ」そして、「新しいものを生み出す」ために、コミュニケーションがあり、ミーティングがある。そのためには、チューニングというコミュニケーションが必要なのだ。

そうだな。たぶんそう。理解と共感に基づかない協働。
そのために「チューニング」があるのだ。

9月1日には阿賀町レガッタで黎明学舎チームがかき氷を売りました。
丁寧なふりかえりでモチベーションが上がることを目の当たりにした。
「やってみる」が先だよ、意志じゃなくて。って。

9月7日茨城でのえぽっく「取材型インターンひきだし」の振り返りセッション。

えぽっく代表、若松さんの一言。
「正直、ひきだしにどんな価値があるのかって、わからないんですよ」っていう一言だった。

これは、すごかったな、と。場の空気が一気に変わった。投げ込まれたいまのリアルな感情。

どんな価値があるのか?それは事後的に決まるっていうか、いま、この瞬間に決まるんだよ、ひとりひとりの感想と場の空気で。だからいま、価値を語ってくれ。そんなメッセージ。

「機会としての学び」の前で、人は等しくその場の「参加者」としてフラットになる。
「発見」「創造」する仲間になるんだ。
9月の連休は、福島県広野町で暗やみ本屋ハックツの出店。
タイミングよく福島県立ふたば未来学園高校で探究の発表会があったのでのぞいてきた。

「地域」や「まち」を主語にして語らない。「自分たち」を主語にして語る。しかしその「たち」の中に、「地域」や「まち」が含まれているような、そんなプロジェクトをつくっていけないだろうか。

発表会での違和感。

3つのプロジェクトに共通することは?⇒「あきらめないで活動することです」みたいな振り返りに意味があるのか?っていう。

プロジェクトをやったことで、こんなことを起こり、こんな人に出会い、こんな経験をして、こんな自分に気づいたんだと。そんなストーリーを聞きたいのだ。プロジェクトの成果なんかよりずっとずっとそれを聞きたい。どんな感情の動きやどんな学びがあったのか?を知りたい。

「高校生」が「地域」で「探究」の意味は、そこにあるのではないか、って思う。

http://hero.niiblo.jp/e489823.html
「あきらめない理由」に出会うこと。

プロジェクトを始めることで、何かが起こり、誰かに出会う。そこで何かを感じる自分がいる。そこにフォーカスすること。「気づいたこと、学んだこと」の前に「印象に残ったこと」という心のふりかえりをすること。

「機会」から学ぶっていうこと。そして、「あきらめない理由」を発見すること。プロジェクトの評価を自分ですること。

~~~っていうまとめ。

ふりかえり方法は3つ
「メタ化して学びにフォーカスすること」
「深掘りして個人の感情にフォーカスすること」
「地域にとっての価値にフォーカスすること」

答えを持っている大人からは、もう何も学べない時代に入ったのではないか。
っていう感想

9月のラストに「阿賀町まちづくり会議」があって、
うまくできずに、山本さんに相談にいった。

未来日記のポイントは、顧客を主人公にする、ということ。その顧客は自分自身であってもいいのだけど、プロジェクトが実現している未来に登場する人がいい。

「高校生のための場をつくりたい」っていうのだったら、5年後、その場ができているとしたときの、高校生自身の日記をかかなければいけない。
今日も、「場」に行って、友達としゃべった、とか、自分たちでくるみのプロジェクトに挑戦している、とか。そういう感じ。

ワークショップっていう「パフォーミングアート(舞台芸術)」について考えさせられた。

「場」に対する信頼を。ファシリテーターはその意味で迷ってはいけない。ファシリテートとは、「パフォーミングアート」なのだから。

「正解がある」というOSでは、もう勝負できない。「正解がない」という前提で、取り組んでいけるか。

「創造的混沌」を味わう。「創造的混沌」というカオスの中から新しいものが生まれ出て、秩序化されることで新しい常識が生まれる。

要するに、そのワークショップには、「愛」がなかった。

~~~ここまで

「愛」のあるワークショップ、つくらないとね。
っていう3か月でした。

だんだん、「探究」プロジェクトに寄ってきています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:24Comments(0)足跡日記

2021年01月04日

いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ

2019年4月~6月のふりかえり。
4月はまだ本屋モードですね。

~~~ここから振り返り

堀江貴文「すべての教育は洗脳である」から

「僕は宗教にには何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

「学校」は、あるいは「就活」というシステムは、もしくは、「会社で働く」ということは、「常識」への適応を要求する。もちろんそれは、世の中を生きていくために、必要なことだろうと思う。

しかし、「常識」を「信仰」してはならない。本書にあるように、「学校」というシステムは、200年前に存在していないし、「工業社会」とセットで生み出された仕組みだった。「就活」について言えば、もっと短い期間でしかない。その「常識」に適応する、ということ。それは「適応」であって、正解ではないこと。

その後、内田樹「街場の共同体論」。
これ、すごく的確に、アイデンティティ危機の原因に迫っているのではないかと。
http://hero.niiblo.jp/e489105.html

経済成長のための最適解を求めた結果、最も合理的な政策は「家族解体」でした。消費活動を活性化するためには家族の絆がしっかりしていて、家族たちが連帯し、支えあっていては困る。だから、国策として家族解体が推し進められたのです。

労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。

ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が最も賢い働き方だということになる(例えば、金融商品の売買)。一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生み出しても、高額の収入をもたらさない労働は社会的劣位に位置づけられました(例えば、農林水産業)。

そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根元から傷つけられていった。

~~~ここまで引用

「労働者=消費者」を生み出していった国策。
これが日本型資本主義システムを形作ることに成功した。

そして、さらにこの本から、「弟子」について。

「あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいのものを知らないか、技が使えないか、誰よりも自分が知ってますよ。だから師匠に就いて学んでいるんじゃないか」という話です。

だから、「知らない」「できない」ということによるストレスがない。自分がその道の開祖とか、学派の学祖とかであったら、「知らない」や「できない」は許されません。

でも、違う。いくらでも間違えることができる。いくらでも失敗することが許される。この広々とした「負けしろ」が、弟子というポジションの最大の贈り物です。今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。この開放性が、弟子であることの最大のメリットだと思います。

~~~ここまで

「自由」ってなんだろう?「オリジナリティー」ってなんだろう?って思った。

「自分は伝統の継承者であって、私の教えには何も新しいものはない。」この圧倒的な強さ。そして自由。そして何より、「弟子」なんて、勘違いや思い込みに過ぎないっていうこと。あの孔子でさえ、勝手に弟子を名乗っていただけなんだと。


そして苫野一徳さんの本「学校をつくり直す」
キーワードは「共同探究者」「探究支援者」になる、ということ。

「地域」には、宝物が眠っている。それは「探究」を駆動する何か、だ。

「地域の課題解決」が叫ばれているが、「解決」したいと心から思うのは、一般的「課題」じゃなくて、具体的な誰かが困っていることだ。それを解決することで楽しい未来が待っているようなこと。それに出会えること。それが「地域」の魅力だろうと思う。

「地域の人」や「地域の課題」に出会い、心が動くこと。「衝撃」や「共感」だったり、「何とかしたい」と思うこと。そこから「探究」が「学び」が駆動していく。そういう場所をつくりたいんだ。

~~~

「先生はえらい」(内田樹)につづく。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

この4つのフレーズから、「学ぶ」とは?から始まって、「生きる」とは?まで進んでいる。
なぜ、「学ぶ」のか?この問いを多くの人が持った2020年。ここに一つのヒントがあるように思います。

そして近畿大学を紹介した「なぜ関西のローカル大学「近大」が、志願者数日本一になったのか」(山下柚実 光文社)

「入学式は、新入生たちに全力で大学生活に取り組む決意をしてもらう、最大のチャンスなんです。その大切な瞬間を、私たちの思いを真心込めて伝えていく大切な時間にしたいんです。」

「不本意新入生」と大学がどう向き合うのかは、入学してくる学生に意欲や勇気を持ってもらう教育問題であると同時に、大学の経営問題でもあるのだ。入学式という一瞬の時間によって、「不本意新入生」の意識をいかに転換し、近大に入学して良かったと思える大学生に変えていくことができるのか。「よくぞ近大に入学してくれました」という感謝の思いを伝えることができれば、新入生は新たなるモチベーションを獲得し、大学はその結果として安定した授業料収入を確保できる。

近大は「パートナー」として大学生を見ているんだなと熱くなった。

★「成果目標」「行動目標」「意義目標」の関係性

そして、2019年6月。
まずは6月1日の柏崎変態ツアーから。
http://hero.niiblo.jp/e489377.html

テック長沢・長沢社長の一言
「いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ」

茂木さんの「探究」のレクチャーより

「学びの意欲の低下」ってホントなんだなと。そのインセンティブがないもんね。そもそも「インセンティブ」っていう考え方が学びの意欲の低下を引き起こしているけど。

「学びの主体性」を取り戻すこと。そこに尽きるのかもしれないな、と。そこには大人の「愛」や「探究」に直に触れること。そして人は地域の当事者になると同時に、学びの当事者になる、ということなのかもしれない。

自分を愛する前に、誰かや地域を愛すること、その前に誰かや地域の「愛」を体感すること。それが必要なのかもしれない。「愛」は言葉じゃなくて、波動というか、「波」だから。

~~~

石山アンジュさんの「シェアライフ」より
東洋思想では、「個人」という概念は存在せず、「自分は全体の中の一部であり、一部である自分が全体を構成する」と考える。

~~~

つまり、「チームひきだし」や「にいがたイナカレッジ」の1か月プログラムの最大の「価値」は、「価値」とは何か?を問う機会を得るということです。

経済社会においての最大の価値は、売り上げを上げること、伸ばすことです。しかし、売り上げを伸ばすためにがんばっていても、売り上げは上がり続けることはありません。売り上げの源泉は「価値」だからです。顧客に価値を提供できるからこそ、その商品、そのサービスは売り上げを伸ばし続けることができるのです。

かつて、その「価値」は長持ちしました。新商品の洗濯機を作れば、何万台、何十万台も売れ、長く売れ続けました。ところが、テクノロジーの発展など様々な要因によって、価値が長持ちしない、かつ多様になってきてしまいました。

「価値」そのものが流動している。だから、自ら「価値」を考え、生み出せる人になることが求められます。

~~~

「価値」を問う夏休みを提供しているのです。イナカレッジとひきだしは。

そしてラストは山口周さんの「劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?」(山口周 光文社新書)

「教養」の敗北。

「経験」「挑戦」「失敗」の意味が変わりますね。

同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。

なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。

~~~ここまで

最後に泉谷さんの
「仕事なんか生きがいにするな」に出会っているんですね。

これはホント衝撃でした。

刺激に対する単なる反作用としての「能動」、あるいは外観は情熱のようでも、実は外力に動かされている「能動」は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。(「人生と愛」エーリッヒ・フロム)

外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らすために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

将来どんな仕事に就くべきかといった「社会的自己実現」について苦悩することよりも、もう一つ深い層の「生きることの意味を求める」という実存的な飢えの方が若い世代にとってはむしろ切実な問題になってきているわけです。

~~~ここまで

実存的な飢え。まさにそれです。
アイデンティティ危機の根源。

あと1年半。ながいな、これは。
ラストは長沢社長の一言で。

「いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ」

もし、人生が経営だとしたら、
いま、誰と出会えるかがわが人生の未来、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 11:46Comments(0)日記

2021年01月01日

全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる


「おやときどきこども」(鳥羽和久 ナナロク社)

新年1冊目はこの本。
12月30日に新津・英進堂で購入しました。
英進堂で買いたい本ですね。

思春期の若者、そしてその親と対話してきた塾の先生の記録なのだけど、
一言一言が美しくて、胸に来るものがあります。

詳しくは本書を読んでいただくとして、
(僕もまだ読み終わってないのだけど)
一節だけ紹介します。

~~~ここから引用

「遊びと企て」
企てと遊びとは、人間の日常生活における、二つの基本的なありかたであり、ひととひとの関係のとりかたと、その関係のもとでのふるまいかたの二つの基本様式である。(西村清和「電脳遊戯の少年少女たち」)

この場合の「企て」とは、その都度ある目的や意図をもってその実現に向かっていく行動全般のことで、一方で「遊び」というのは、例えば母親と赤ん坊の間の「いない、いない、ばあ」のような、私と他者との同調関係のなかで軽やかに世界に包まれる実感を得るような、それ自体は目的を伴わない所為を指しています。

私たちは「企て」と「遊び」の両方を享受しなければ満たされません。日々の生活にメリハリをつける目標や動機付けは欠かせませんし、勉強や仕事などの生活のために必要な行為は、広い意味ではすべてが「企て」と言えるものものです。一方で精神の緊張が伴う「企て」の狭間には、心をほどく「遊び」の時間が必要になるでしょう。「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

(中略)

親は子どものことを思って何かやろうとすると、いつの間にか子どものあらゆる可能性を自分の「企て」の中に回収してしまいます。

子どもの「遊び」にかまっていられない親が、その代理物としてすがるのが「企て」です。中でも、塾や習い事は、「やってる感」が得られやすいので、安心したい親としては便利なツールです。子どもが手から離れる上に、将来のために目的を見つけて成長していく子どもの姿を見ることができるわけですから、親にとってこれ以上のことはありません。こうして「遊び」を侵食する形で、ある目的を達成するための「企て」が子どもの生活の大半を占めていくことになります。

こうした「企て」には本来的に転倒が潜んでいます。私たちはある目的を達成したいから「企て」が生じると考えますが、そうではなく「企て」という欲求によって、事後的に「ある目的」が召喚されるのです。目的というのは初めから素朴にあるのではなく、目的的に動きたい私たちが目的的に動くために自らの手で立てるフラグの一種です。

こうして目的の達成を目指すというふるまいを手に入れたあとには、私たちが抱えていたもともとの不安の中身は忘れ去られ、目的の達成という情熱がそれに取って替わります。こうして急場をしのぐためのプロジェクトが成立します。

~~~ここまで引用

昨日のブログで書いた「副業をつくること」。
70%-30%くらいのバランスで自分のリソースを振り分けておくこと。
もちろんそのパーセンテージは個人の性格や人生ステージ、タイミングによるのだけど。

高校生活、大学生活で言えば、
70%を「達成・成長」のパラダイムへ
30%を「発見・変化」のパラダイムへ
と力を注いでいくこと。

これは、この本で言えば、「企て」の部分を70%-30%に配分していくこと。
さらに、その上で生活の時間の中で「企て」と「遊び」を70%-30%で配分していくこと。

「土日でストレス解消」という言葉は、
仕事でたまったストレスを、土日の何らかの活動で「解消」し、
また月曜日に仕事場へ向かうことを意味する。
それって、「遊び」じゃなくて「企て」だよね、ってこの本は問いかけてくる。

本書にあるように、
★「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

そういう「遊び」が必要なのだと。
いま、おれは生きているという「快」、「生」の実感が。

そんな「遊び」を人は根源的に必要としているのだと。
その「環境」を用意すること。
目的に取り込まれない「生」をともに生きること。


もうひとつ。100分de名著の「カール・マルクス 資本論」(2021年1月放送)から

これは昨日31日に読み始めてさきほど読み終わりました。

~~~ここから引用

かつては誰もがアクセスできるコモン(みんなの共有財産)だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、「商品」になる。例えば飲料メーカーが、ミネラル豊富な水が湧く一帯の土地を買い占め、汲み上げた水をペットボトルに詰めて、「商品」として売ってしまう。それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければ、スーパーやコンビニで買うほかない。これが商品化です。

二重の意味の「自由」。ひとつは、強制労働ではないという自由。もうひとつは、生産手段を持たないという自由。普通の人が生活のために売ることができるのは、唯一、自分自身の労働力だけなのです。

資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係からもフリーになる、つまり切り離されてしまうということです。

しかも、責任の感情をもって仕事に取り組む労働者は、無理やり働かされている奴隷よりも良く働くし、いい仕事をします。そして、ミスをしたら自分を責める。理不尽なことさえも受け入れて、自分を追い詰めてしまうのです。これは、資本家にとって、願ってもないことでしょう。資本家にとって都合のいいメンタリティを、労働者自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。

資本主義社会では、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されていくことをマルクスは指摘し、警告していたのです。

マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしという富を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない。

~~~ここまで引用

この話、つながっているんじゃないかと。
「主体性」が、「企て」に取り込まれていないだろうか?

私たちが高校生、大学生に身につけてほしいと思っている「主体性」は、
会社や社会が求める、「企業人として求められる主体性」なのではないか。

それは果たして、本人たちを、本質的な意味で「豊か」にするのだろうか?

カギは「演じること」だと僕は思っている。
「演じること」が人生を経営することの始まりだと思っている。
場面場面で、複数の自分を使い分けていくこと。
1つのことに全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じること。

「企て」と「遊び」を自ら配分していくこと。
「企て」の中身も、「達成」パラダイムと「発見」パラダイムに自らのリソースを振り分けること。
限られた資源をバランスし、理解も共感もできないかもしれない他者とチューニングし、協働していくこと。

予測不可能な、未来が分からない時代・社会で、どのようにふるまうべきか、大人たちも迷っている。
そんな不安に、一筋の仮説をもらった2冊の本でした。  

Posted by ニシダタクジ at 10:39Comments(0)

2020年12月28日

「存在」を揺るがすものとしての資本主義と身体性としてのセンスオブワンダー


武器としての「資本論」(白井聡 東洋経済新報社)

就職活動の違和感、「存在」を考える上で、
構造的に考えるにはいい1冊。
前回の「はみだしの人類学」と一緒に読むことで
さらに就活の違和感について解読できるのかもしれません。

この本には端的にこう書いてあります。

「就職活動とは労働力商品の買い手を探すことです。」

いや、まあ、その通りなのです。

自らを「商品」として、買ってくれる人を探す。
一流企業総合職であれば、生涯賃金が〇億円とか、
そういう価格で自らを売れるかどうか、
それが就職活動というマーケットなのです。

「当たり前だろう」と思った人。

まさにこの本の帯にある、
「資本主義を内面化した人生」を生きているのでしょう。

いつのまにか私たちは、自分たちを幸せにするはずだった
「資本主義(資本制)」を内面化し、
私たちが幸せになるためにシステム(仕組み)ができたはずが、
(本書によれば、それもかなり疑わしいのですが)

いつのまにか、システムを内面化し、
システムjを維持するために苦しむようになっている、
それが現状の苦しさなのではないか?と著者は問いかけます。

おそらく、「就職活動」への違和感っていうのは、
まさにその「商品としての自分」というものに対しての違和感が
大きいのではないか、と感じます。

資本制は「存在」を揺るがしてきた。
それが本書を読んだ上での僕の感想です。

いつもながら、本を読んで響いたところをメモします。

~~~ここから引用

富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ。

商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。

人類史の大半で、生産的労働は共同体的に営まれてきました。働くとはつまり、人々が自分たちの生存を維持するための共同作業であったわけですし、資本制が発展したいまでも本当はそうなのです。

しかし、近代資本主義が始まったとき、途方もない変化が起こった。生産的労働が商品交換を介して行われるようになった。つまり、共同体の維持のために共同作業をするのではなく、商品の価値の実現のために労働力が売られたり買われたりされるようになるのです。

肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ。

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。

新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

労働者階級はいまや純然たる消費者であって、文化の創造者ではない、ということが暗黙の前提となっている。

資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

資本が価値増殖をするときに、それは一般的に何に基づいているのか。先にそれは「差異」だと申し上げました。金融資本であれば時間的差異、商人資本であれは空間的差異が、剰余価値を生むベースになっていました。産業資本の場合は労働力の使用価値と交換価値の差異から、剰余価値を引き出していました。

特別剰余価値とは、「高まった生産力によって商品を廉売することによって得られる利益、イノベーションによって獲得された期限付きの剰余価値であり、ある商品の現在の社会的価値と未来の社会的価値との差異から生まれる」と定義できるでしょう。

~~~ここまで引用

さらに、僕がうなったのはこちら。
いわゆるフォーディズムの説明

~~~ここから引用

このように労働者を単に搾取の対象と見なすのではなく、消費者としても扱っていこうという発想が、20世紀後半の資本主義の特徴でした。この特徴を最も早く体現していたのがアメリカのフォード社による生産と労働の体制であったわけで、ゆえにこの体制がフォーディズムと呼ばれるわけです。

果たして生産力を際限なく上げていくことが、人間の幸福に結びつくのだろうか。

生産されたものの社会的価値が下がるということは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下するということです。

「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。

1 貨幣・生産手段・生活手段の所有者
2 労働力の販売者である自由な労働者
が出会うことこそ、資本主義の始まる条件である、とマルクスは考えます。

ここで言う労働者とは、自分の労働力を売る以外に生計手段がない人たちということです。

そのような存在をマルクスは「二重の意味で自由な労働者」と呼んでいます。この場合の自由とは、

1 身分制から解放されている
2 生産手段を持たない
ということです。これが「はじまりの労働者」とされます。

~~~ここまで引用

この本には、日本で言えば「地租改正」など、いかにしてそのような「はじまりの労働者」が都市部に出てきたか。そして、そもそもの「価値」の源泉が差異、つまり「安い労働力」であることから、だんだん地方との賃金格差をなくなると共に、海外に生産拠点を求め、あるいは安い労働力を「輸入」して差異としての「価値」を生み続ける、あるいはそもそも「労働力」に頼らないソフトウェアやウェブ上のシステムを売っていくことで「価値」を生んでいくこと、これが資本主義のカラクリ。

いや、なんとなくは分かっていたのだけど、ここまで説明されるととてもスッキリします。

そして、すごかったのはやはり「フォーディズム」。

そもそも、工業生産において、労働者は搾取されるだけの存在であっては、成長し続けることができない。つまり、生産したモノを買い続ける「消費者」を同時に生んでいく必要がある。こうして「労働者」は同時に「消費者」としてふるまうようになっていきます。

それは、資本主義の発展、つまり「経済成長」という側面では大成功だったのでしょう。
一億総中流と呼ばれ、マイカー・マイホームを持ち、購買意欲の高い都市生活者をたくさん生みだしました。

ところが、もはや「差異」の源泉がなくなってしまった。「グローバル化」とはそういうことです。
社会は再び、自国の労働者からの搾取を必要とした。それがいま現在進行形で世の中で起こっている。

「誇りの空洞化」。
明治大学の小田切先生は、もっとも大きな課題として、それを指摘しました。

参考:誇りという観光資源(2015.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e470410.html

「誇り」が失われた。資本主義とシステムによって。
人々は数値化された。「労働者」であり「消費者」であるということによって。

システムによって「存在」が揺るがされている。
「就職活動」への違和感は究極、そういうことなのだろうと思います。

「就活」というシステムに適応することは、
自分たちを本当に幸せにするのだろうか?
極端に言えば、それで「生きられる」のだろうか?という疑問。

本書の最後に、白井さんは語りかけます。

「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったらおしまいです。それはネオリベラズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。

意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためにはベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。だから、食べ物の話は、代表的事例であると同時に比喩でもあります。私たちの生活の全領域で、どういう感性を持つのかが問われている。

いやあ、ホントそう。
「感性」に戻ること。自分自身の身体性としての「センスオブワンダー」を見つけ、感じること。

そこからしか始まらない。
いま、自分が、そしてあなたが何を感じているのか?
「場」として何に「価値」をおき、何を創っていくのか?

そんな根源的な問いを見つめていくことから始めていこうと僕も思っています。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2020年12月26日

「わたし」をやわらかく開く


「はみだしの人類学~ともに生きる方法」(松村圭一郎 NHK出版)

読むべき本にタイムリーに出会えるって幸せだなあと。
たぶん、レヴィナスが言っていた
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」

じゃあ、どうすりゃいいんだ?
っていう問いに一定のヒントを与えてくれる1冊。

冒頭から「近代」に対する問い。

~~~
「近代社会」を支える人間観・社会観の中心に「個人」という存在があります。
確固とした「個人」が間違いなく存在する。近代はこの個人としての「わたし」の存在をもとに、
その個人が集まって社会を構成している、という考え方を発展させてきました。
でも、歴史的に見れば、それは必ずしも「あたりまえ」でも「自然」でもありませんでした。
~~~

興味を引く導入ですね。
そして次に「つながり」について言及します。

~~~
「つながり」には、ふたつの働きがあります。
存在の輪郭を強化する働きと、反対にその輪郭が溶けるような働き。
「ともに生きる方法」を考えるとき、この両方の側面に目を向ける必要がある。
~~~

現在起こっている「つながり」の可視化(SNS等)によって起こっているのは、「存在の輪郭が強化される」です。

エドワード・サイードが「オリエンタリズム」で述べたように、「オリエント世界を描く」ことは「ヨーロッパ人が何者であるかを知る」ためにある。つながりを通してAとBが何者であるかが定まるように、他者表象と自己理解は別々の営みではなく、同時に起きているのです。そうして、文化人類学は「異文化」を理解するための学問というよりも、異文化との出会いを通して自分たちのことを理解しようとする学問であると認識されるようになりました。

フレデリック・バルトは、「エスニック・バウンダリー論」を提唱し、民族集団はそれぞれ言語や文化、習慣といった内側の要素から定義されるのではなく、境界(バウンダリー)を接している他民族との関係によって定義される、としました。

次に、「輪郭が溶ける」について

松村さんはフィールドワークで訪れた場所での気づきを、次のように述べます。

それまで「わたし」という存在は明確な輪郭をもって存在していると思っていました。でも、見知らぬ他者と出会い、別の世界や生き方の可能性に触れることで、それまで「輪郭」だと信じていたものが揺さぶられる。その揺さぶりによって「わたし」のなかの大きな欠落に気づく。その欠落を埋めようと、「わたし」がそれまでの輪郭をはみだしながら他者と交わり、変化していく、そんな経験だったのです。

イギリスの人類学者ティム・インゴルドは、その著書「メイキング」で、人類学の参与観察は対象についての研究ではなく、相手とともに考えるプロセスなのだとはっきり書いています。そこで互いに変容することのほうが、客観的データを収集するより大切なのだ、と。自分たちの知識や枠組みを相手に押しつけず、相手と同じ場に身をおき、相手から学ぼうとする姿勢で「わたし」を開いておく。すると、その「つながり」はおのずと互いを変容させていく。その変容こそが「学び」なのだとインゴルドは言います。

人類学のフィールドワークでは、人びとの生活の中に入り込み、長い時間を一緒に過ごします。そうしているうちに「わたし」の輪郭が溶けて、他者であるはずの「かれら」の存在へとはみ出していくような経験をします。そのとき「わたし」と「かれら」の境界があいまいになり、もともと「わたし」だと信じていたものが、そうではないあり方へと導かれる。たしかにそこに「ある」と思っていた「わたし」の人格や価値観が絶対的なものではなく、容易に変化しうることに気づかされるのです。

私たちは他者とつながるなかで境界線を越えたいろんな交わりをもちます。それによって変化し、成長することもできます。それは「わたし」という存在が、生まれつきのプログラム通りに動くようなものではなく、いろんな外部の要素を内側に取り込んで変わることができる「やわらかなもの」だからです。

「わたし」が溶ける経験を変化への受容力ととらえると、ポジティブに受け止められると思います。さまざまな人と出会い、いろんなものをやりとりした結果として、いまの「わたし」がいる。その出会いの蓄積は、その人だけに固有のものです。だれ一人として、あなたと同じ人に同じように出会っている人はいません。「わたし」の固有性は、そうした他者との出会いの固有性の上に成り立っている。

でもだからこそ、いまの「わたし」が不満な人は、それを悲観する必要もない。みんな気づかないうちにかつての「わたし」を捨て、こっそり他者からあらたな「わたし」を獲得しているのですから。

この後、
平野啓一郎さんの「分人」理論(「自分」とは何か? 講談社現代新書より)を人類学視点から説明します。

状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、まさに「分人」的な人間のとらえ方です。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。ここで重要なのは、他者によって「引き出される」という点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみ出しながら、浸透しあう柔軟なもの、そうとらえると少し気が楽になりませんか?

もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられている。という自覚があります。

この本のラストに、まとめがあり。
輪郭が強調されるつながりを「共感のつながり」と定義し
輪郭が溶けるような、他者と交わるなかでお互いが変化するようなつながり方を「共鳴のつながり」と呼びます。

共感して「いいね!」をつけるのではなく、
自他の区別があいまいになり、「わたし」が他者との響き合いをとおして
別の「わたし」へと生まれ変わっていくといったイメージです。

~~~ここまでいろいろ引用

いやあ、これはすごい本だなあ。
僕が「場」に溶ける、「場を学びの主体にする」とかって言っていたことの
理論的な裏付けができているのかもしれない。

「取材型インターンひきだし」とか「にいがたイナカレッジ」とかでの大学生との対話でも、
「やりたいこと」とか「個性」とか「強み」とかって言っているけど、
そもそも、それを問うことで「自分らしさ危機(アイデンティティ・クライシス)」の負のスパイラルに落ちていっているのかもしれない。

「自分」を起点に考え、
「自分」と他者を分けること、
「自分」で意志を持ち、目標を立てること
そのものが「自分らしさ危機」を招いているのかもしれない。

そして僕が取り組みたいのはまさにそこだ。

「わたし」をやわらかく開くこと。
「場」に溶けだしていること。
「他者」と影響しあい、求められる「役」を演じること

「自分」という単位で考えることを
「自分たち」や「場」や「関係性」でとらえ直すこと。

そうやって委ねているうちに、
いつのまにかたどりつく「わたし」、
変化し続ける「わたし」を楽しんでいける、

そんな日々を送ってみたいと僕も思うのです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:42Comments(0)

2020年12月24日

創造的ハイブリッドというお家芸


「日本習合論」(内田樹 ミシマ社)

タイムリーな本かも、って思って購入。
想像以上にインスピレーションが多い読書時間。
いろいろありすぎてうまく感想が書けません。

いきなりエマニュエル・レヴィナスの一言から。
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」
いいですね。

「理解と共感の上に人間関係を築く」これが現代日本の「常識」です。
でも、理解と共感に過剰な価値を賦与すべきではないと僕は思います。

「あいつは変わってる」
みたいなやつって、まさにその「常識」の上にある偏見なのだと思うのだけど。

そして、「事大主義(じだいしゅぎ)」について。「多数派は正しい」という信憑。
これは、コロナの「自粛警察」とか芸能人のスキャンダルに対しての反応とかにも言えると思うのだけど、多数派でないことで攻撃される。
もちろん「和を乱さない」ということは、集団を安定的に維持するためには必要であるのだけど。
これはさらに言えば、「多数派であること」が正しいこととイコールになってしまうということ。
それは本当に危険だなあと。

だって、「集団が安定的に維持される」っていうのは、現時点でもはや、考えられないですもんね。
「安定的に」は、人口減少して集落も町も無くなっていくんです。

みんな「不安」だから、多数派に属していようとする。
だから過度に「理解と共感」に現れちゃっているのが現在の状況なのかなと。
「身の程を知れ」っていう言葉からは何も創造できないですもんね。
この本にも書いてあるけど「動的な調和」っていうのがあり得るのではないかと。

そして、「ミスマッチ」について。
この本では阪神大震災のボランティアで起こった「ミスマッチ」を題材に、
次のように述べられている。

~~~ここから引用

ミスマッチでいいじゃないですか。知らない同士がそれぞれの思いを抱えてピンポイントで出会うんですから、共感できないのが当たり前です。

ミスマッチを「悪いこと」だと考えるから傷つくんです。人生はミスマッチだらけです。僕たちは間違った家庭に生まれ、間違った学校に入り、間違った人と友だちになり、間違った相手と結婚して、間違った仕事を選んで、間違った人生を送る。そういうものなんですよ。

「ミスマッチ」が悪だと思うのは「マッチすること」がふつうだと思っているからです。共感主義者たちは「マッチすることがふつうだ」と思っている。だから、「何も言わなくても、気持ちが通うはずだ」というようなとんでもないことを期待する。そんなわけないじゃないですか。

~~~ここまで引用

そうなんだよね。「ミスマッチ」をエラー(失敗)ではなくて、「ミスマッチ」を前提に仕組みを構築しなければいけない。
だからこそ、ミーティングの度に「最近あったよかったこと」を言いながら「チューニング」する必要があるんだと。

そして、この本の中心テーマは「神仏習合」と「神仏分離」です。

六世紀に仏教が伝来して以来、
土着の信仰と儀礼を「仏教とは違うもの」として位置づけたことで、
神道はかたちづくられました。

以来、1300年ほど、仏教と神道は癒合したかたちで存在していました。
神社の中に寺院があり、寺院の中に神社があるという共生です。

ところが、慶応四年(1868年)、神仏分離令によって神仏は引き裂かれてしまいます。
千年以上続いた伝統が政令1つで途絶してしまう、
さらにそれを受け入れてしまう国民に、内田さんが
「なぜだ?」と思ったのがこの本の始まりです。

地域によって異なりますが、「神仏分離令」は「廃仏」と解釈した場所では、
激しい廃仏運動が起こり、歴史的なものが多く失われました。
詳しくはこの本を読んでもらうとして、ここでは「聖地巡礼」の話を。

~~~ここから一部引用

「お伊勢参り」は、江戸時代において、我が国最大規模の聖地巡礼であり、同時に最大規模の観光旅行でもありました。
天保元年(1830年)には427万人、実に総人口の8人に1人は伊勢神宮に参拝した計算になります。
そこに一大ビジネスが生まれます。「御師」と呼ばれる人たちが各地からの伊勢神宮参りに取り仕切り、
またオフシーズンには地域を回ったのだそうです。

「聖地巡礼」と「観光」はセットだったのです。つまり宗教活動であり、楽しみの活動でもあった。
ところが、「観光」という言葉の登場で、宗教的行為と観光は切り離された。
そうか。そもそも「観光」は、「聖地巡礼」を前提としていたのか。
そしてその成立のためにはその仕組みを支える「御師」や宗教家などの「旅する人たち」が必要だった。

しかし、政府はそれを嫌った。
近代国家にとって、管理外の人たちを減らしたかった。
「国民を移動させないこと」が近代国家成立に必要だった。
こうして「宗教の近代化」「土着のものの浄化」が
国をひとつにまとめていくための政策として採用された。

それから150年の時がすぎて、羽黒山に来る若い人たちを見ていると、
再び、神仏習合に還ってきているのではないかと内田さんは説明します。

~~~ここまで一部引用

「習合」というキーワード。
食べ物で言えば、「あんぱん」や「カレーうどん」や「たらこパスタ」のような。

戦わず、主導権を争わず、合わせてしまう。
それを今風に言えば、「創造的ハイブリッド」となるかもしれません。
たぶんこれが1300年続いてきた我が国のお家芸なのでしょう。

だから本当は、「多数派」に従うような「事大主義」ではなく、
「少数派」を取り入れ、創造的にハイブリッドしていくこと。
理解と共感をベースにしない「協働」をたくさんつくっていくこと。

「高校(教育)魅力化」っていうのもそういう文脈で語れるのではないかと。
地域には何百年と積み重ねられてきた「営み」がある。
そこに「学校」という西洋由来のシステムが入ってきて百数十年。

それを「習合」させていく取り組み。
「創造的ハイブリッド」を生み出していくこと。
具体的に言えば、それが地域での探究活動だし、
その地域ならではの「マイプロジェクト」ということになるのだろう。

「理想的な学校をゼロから新設する」のではなく、
「習合」という観点で創造的ハイブリッドを目指すような「高校魅力化」プロジェクトが
できるなら、僕にとっては、そのほうが創りたい絵、なのかもしれないな、と。

阿賀黎明探究パートナーズのみなさん、令和3年、いよいよ始まりです。
よろしくお願いいたします。  

Posted by ニシダタクジ at 06:26Comments(0)

2020年12月09日

アントレプレナーシップとは規律ある実践である


成功する起業家は「居場所」を選ぶ(馬田隆明 日計BP)

5日に引用したブログの作者の本。
http://hero.niiblo.jp/e491218.html
「学ぶ意欲」は育むことができる(20.12.5)

「私は、私と私の環境である」(ホセ・オルテガ・イ・ガゼット「ドン・キホーテをめぐる省察)から始まる、この本。
「場のチカラ」とかに通じるなあと思って読んでみました。

「私」は私だけで自立しているように見えるけれど、実は自分の周りや環境も含めて「私」である、ということ。

大前研一さんも言う。
「自分を変えるにはどうしたらいいか。簡単な方法が3つある。時間配分を変える、住む場所を変える、そして付き合う人を変えることである。」
後者の2つを言い換えると「自分の居場所を選ぶ」ことなのではないかと。
「環境」という言葉が示す範囲は、自分の居場所や自分の周りの人たち、もっと大きな捉え方をするならば社会や時代というものも含まれる。

と始まります。
今日は、第4章の「practice」をご紹介します。

~~~ここからメモ

ピーター・ドラッカーは言った。
Entrepreneurship is neither a science nor an art ,It is a practice.
著者による日本語意訳:「起業家精神とは科学でもアートでもない。実践である」

アントレプレナーシップ教育で知られる米・バブソン大学では、
アントレプレナーシップ教育の中心軸を「プロセス」を教えるのではなく、
「メソッド」の提供に移していったのだと言います。

プロセスという言葉には、「既知のインプットから既知のアウトプットが出てくる」という意味が含まれます。決まったステップがあり、線形的で予測可能なのがプロセスです。
一方で「メソッド」とは、未知の領域で実践を繰り返しながら、新しい学びを得つつ、他人と協働して進んでいく方法論というふうに解釈できます。
どちらも企業経営に不可欠なことですが、より起業に役立ちそうなのは「メソッド」ではないでしょうか。

バブソン大学が提供しているプログラムが次の5つの内容です。

1 遊びのプラクティス:自由で創造的な思考に関連し、イノベーションや機会を見いだす。
  ⇒マシュマロタワー、ビジネスシミュレーションゲームをして振り返る
2 共感のプラクティス:心理学、神経科学、デザイン思考などを用いて、他人のニーズや感情を理解する。
  ⇒ピア・コーチング、起業家へのインタビュー
3 創造のプラクティス:予想するのではなく、創り出すための思考を身に付ける。
  ⇒リソース獲得ゲーム、ネットワーキング
4 実践のプラクティス:実際の状況下で、実験結果を見て結果から学び、再度試すことを通して、機会の創造や資源獲得、リーダーシップに関する概念やテクニック、知識を得る
  ⇒アイデアの機会班別を行う訓練や「失敗」についてお互いの認識を議論するもの、5ドル、50ドル、500ドルでそれぞれどういう実験ができるかを考えさせるものがあったりします。
5 内省(リフレクション)のプラクティス:学習体験を体系化し、すべてのプラクティスを統合する。
  ⇒内省のフレームワークを練習したり、自社の文化や自分の価値観を振り返るような経験をする。

~~~ここまで引用。

なるほど。これは「探究」にも通じるやつですね。
印象的なのは、「起業家精神は鍛えられる」っていうところ。
これって、いわゆる「学ぶ意欲」とか「主体性」とかって話にも通じるよね。
「主体性」の先に「起業」っていうのがあるから。
「遊び」「共感」「創造」「実践」「内省」のプラクティスを探究プログラムに組み込むこと。
そんなメソッドによって主体性は育むことができる、ということ。

このあと、「場」をつくる、話にもいくのですけど、
今日はここまで。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)日記

2020年12月02日

「探究」とスピノザ哲学


「はじめてのスピノザ~自由へのエチカ」(國分功一郎 講談社現代新書)

浦崎先生との対話会の前に、
5分だけジュンク堂新潟をチラ見したら、
この本が飛び込んできて、衝動買い。

このタイミングで、この本。
持ってるわ、読書運。

金曜日に出た高校でのフォーラムと
http://hero.niiblo.jp/e491208.html

月曜日の対話会での話と
http://hero.niiblo.jp/e491211.html

これから「探究」をどうデザインしていくか?
っていうタイミングで、この本。
いま、僕たちは、17世紀以来のすごい転換点に立っているんじゃないか、って改めて実感する1冊。
それは明治維新以来とかそういうことじゃなくて、近代そのもの、科学主義そのものに対しての転換なのかもしれない。

~~~ここからメモ

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。
⇒「ワンネス」ですね。「全体性」というか。

スピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。(中略)やってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は「実験すること」を求めます。
⇒出た、「実験」

個々人の活動能力を増大させるものが善きもので、コナトゥス「自分の存在を維持しようとする力」こそが本質。人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯する中で生きている。その中で出来上がる力としての本質は一人ひとり大きく異なります。どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけではわからない。「お前は女だから、子どもだから、老人だからこうしろ」というのは、その人の本質を踏みにじることになるのです。

人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。
⇒これ、「温泉」とか「満員電車」のことじゃないかな。

私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状して様々なものになります。私たち人間のようなものとしても存在できるし、水のようなさらさらしたものとしても存在できるし、太陽のように強力なエネルギーを発するものとしても存在できる。神は実にさまざまな仕方で存在できる。すると、私たちを含めた万物は、それぞれが神が存在する様式であると考えられます。
⇒来ました、これ。「演じること」や「場との一体化」っていうのはそういうことじゃないか。

デカルトの「心身二元論」(精神が身体を操作している)に対してスピノザは「心身並行論」(精神と身体で同時に運動が進行する)

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
⇒「実験」しないとその人の身体や精神の必然性にたどり着けない。少しずつ「実験」しながら学んでいくこと=「自分を知る」こと

「強制」とは本質がふみにじられている状態
⇒「やらされる」とはそういうことか

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。
⇒「他者評価の奴隷」となって勉強することは能動ではないよね。

自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。もちろんそれを知るためにもこれまでも強調してきた実験が必要です。実験しながら、自分がどのような性質のコナトゥスをもっているかを知らなければなりません。
⇒「実験」して、「コナトゥス」を知ること、そしてそれを実践することが「自由」への道。そしてコナトゥス(ベクトル)はいくつもあってもいい。

意志を巡る現代社会の論法というのは次のようなものです。-これだけ選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、あなたが自分の意志で決められたのがこれです。ご自身の意志で選択されたことですから、その責任はあなたにあります。(中略)私はこの意志という概念に現代社会が取り憑かれている気がしてなりません。何もかもが意志によって説明されてしまう。私たちは意志を信仰しつつ、意志に取り憑かれ、意志に悩まされているのではないでしょうか。
⇒「意志」って神話だよなと、ホント思う。

自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらします。つまり、何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。真理は単なる認識の対象ではありません。
⇒「変容」は学習の目的ではなく、前提なんだなと。

フーコーは「主体の解釈学」の中でかつては真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体が変容を被り、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめて真理に到達できる。その考え方が決定的に変わったのが17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。
⇒例外はスピノザ1人だけでスピノザだけが真理の獲得には「主体の変容」が必要だと考えていたのだと。

デカルトはどうしようもなく疑ってしまった。自分自身ではどうにもならない懐疑の泥沼から出られなくなってしまったのです。デカルトの哲学はそのような疑いの病からの治癒の物語でもあります。コギト命題というのはその意味で、デカルトが自分に対して処方した薬のようなものです。だとすると、コギト(私は考えている、だから私は存在している)による説得は実のところ、誰よりも、他ならぬデカルト自身に向けられていたと考えねばなりません。

~~~ここまでメモ

いやあ。これ。すごすぎて言葉を失いますね。

キーワードを出していくと、「探究」に繋がっていくなと。
「全体性(場、同質化)」「実験」「コナトゥス(ベクトル)と演じること」「主体性⇔やらされ感」「変容」
こんなキーワードが出てくるのかなあと。

昨日のブログに書いた一節をあらためて。

~~~
「好奇心」と「場のチカラの体感」によるフィクションとしての「同質化」からの「主体性」
極端に言えば、主体性を持つのではなく、主体性を持っているやつを演じること。
「主体的な高校生」を演じているうちに、「主体性のある生徒が多い高校」を演じているうちに、
気がついたらカッコイイ高校生や魅力的な高校になっている。そんな物語(フィクション)。
~~~

スピノザによれば、真理への到達は、主体の変容を前提としている。

場のチカラを高め、実験を繰り返しながら、
自分の、あるいはチームの、または地域のコナトゥスに気づき、
気がついたら主体性を持っていて、結果として変容が起こった、

そんな探究的学びがつくれないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)

2020年11月28日

「効率化」以外の解決策はないのか?

とある高校でのフォーラムに参加。
いや、文科省プロジェクトってちゃんとやらないといけないんだなあ、と。

テーマは
探究学習と総合型選抜、それに伴う「変容の可視化」について。

「総合型選抜」「学校推薦選抜」が
国公立大学にも広がってきていて、
実際に志願者も増えているところで、どうしようかと。
2年前から全職員が志望理由書などの指導をしている。

特に活動報告書をどう表現したらいいのか?
大学のアドミッションポリシーに応じて書いていく
⇒1年生から取り組んでいく必要がある。

志望理由書
⇒学力の3要素を意識して書く
⇒授業をそのように設計する必要がある
「課題研究」をどうまとめるのか?アウトプットするのか?

大学側として
「知識集約型」教育が求められる。
=知識を総動員して課題解決に向かう

就職活動:どの大学で学んだか?⇒大学で何を学んできたか?
大学入試:どの高校で学んだか?⇒高校で何を学んできたか?

※大学がもっているカラー(強み)と本人の志向性があっているか?が大切
アドミッションポリシーを読み込むこと

新潟大学創生学部:後期日程をやめ、
前期+総合型選抜に。

後期合格者の方が偏差値高いが意欲が低い
⇒滑り止めで合格しているから

大学の教育内容に興味関心をもって入ってくることが大切
⇒総合型選抜にシフトする

志望理由書に先生の手が入っているのは見れば分かる。
⇒いかに面接で自分の言葉で語れるか?を見る。
⇒普段から自分を見つめ直すこと
⇒言語化をベースにした基礎学力も必要

大学もマッチング(結婚)になっていく。
志望理由書=ラブレター

変容とエビデンス。
どんな困難があり、どう乗り越えたのか?
⇒ふりかえりの重要性

新潟大学創生学部
フィールドスタディーズ(1年第2クォーター)
4weekの課題探究型授業

毎週のふりかえり
⇒次週にむけて何をしたいのか、成果
⇒自ら探究サイクルを回せるかどうか。
⇒最終レポート:課題の整理⇒今後の大学生活でどうする?

変容の可視化について。
チームで回しているときのやるやつとやらないやつの不公平感
役割分担:タスク化するリスク

ルーブリックづくりワークショップ
※視点が1つ。企画の相手側の視点がない。⇒どう広げるか?
⇒リアルな話を聞いて当事者意識を高めるとともに視点を手に入れる

文系⇒話がデカくなる。SDGsがどうか?みたいな
⇒それ、調査なのか?みたいになる。リアリティがない。
本を読むこと。
総合型選抜:「主体性」というキーワード
「高校時代に主体的に取り組んだ活動」

主体性⇐好奇心⇐面白がる、疑問を持つ
やってみる⇒ふりかえる⇒主体性
自分のbefore⇒afterを語れるように。

~~~

ワークショップで出た中で面白かったのは、

「これをやっても世界を1ミリも変えない探究」
みたいなお題でワークするのも面白いなと。

課題を解決しない探究っていうのを1度回してみることだ。
「やってみた」⇒「ふりかえってみた」⇒「印象に残ったこと、感じたこと」⇒「次のやってみる」
っていうのを1度、回してみることだ。

そうすると、振り返りを経て、
自分が少し変わっていくのが実感できる、かもしれない。

世界は1ミリも変わっていないけど、
自分が(自分の世界の見方)が変わっている可能性は十分にある。

今回のテーマは「変容の可視化」だったけれど、
その前に「変容」の体感、「変容」の快感を味わうこと。
やってみる、ふりかえってみる、のサイクルを回してみることが
まずは出発点なのかなあと思った。

あと、全体として感じたのは、
「効率化」っていう宿命がある現場はつらいな、っていうこと。

生徒が何名も「総合型選抜」を目指してきて、
それを個別対応するっていうのは、想像を絶するハードさだなと。

それをどのように個人に依存せずに
仕組みとして、継続する取り組みとして、つくっていけるか?
っていう問い。

それはめちゃめちゃ大変だなあと。

小さい高校で、地域の人の力を借りながら、
ひとりひとりに寄り添い、ともに学べるような、
そんな高校じゃないと、
「総合型選抜」のような進路実現はなかなか大変なのではないかな、
というのが率直な感想です。

「効率化」以外の選択肢はないのか?と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)日記

2020年11月27日

チームになるとは、「問い」を共有すること


「問いのデザイン~創造的対話のファシリテーション」(安斎勇樹・塩瀬隆之 学芸出版社)

みなさまから半年遅れて読み始めました。
いつもそんな感じです。
第3章まできました。
いやあ、めちゃ本質的で楽しい。

ということで、忘れないようにメモ

~~~ここからメモ

アイデアの進化の歴史とは、問いの進化の歴史である。

導かれる「答え」を大きく変えたければ、まず「問い」を変えることが必要なのです。

「認識」と「関係性」の固定化の病い。

問いかける側と問いかけられる側に優劣や上下関係がなく、問いの前に対等な関係性が構築できていたことが、参加者の思考や感情を刺激することができたのかもしれません。

問いは集団に共有されたとき、主体的なコミュニケーションを誘発する性質をもっています。

問いに対峙した個人は、頭のなかで自分なりの意見を考えたり、新しいアイデアを思いついたり、あるいは新しい疑問やモヤモヤが生まれているかもしれません。そうした個人の思考の「種」は、同じ問いに対峙していたとしても、1人1人異なるはずです。その思考や感情の種が「場」に共有されたとき、コミュニケーションは駆動されます。

「教える-教わる」という関係が固定化されたままの場合、多くの問いは教わる側から始まりますが、2人のどちらからも問いが生まれるようになると、その関係性は変化し始めたと考えられます。

「問う」という行為は創造的対話を通して「答え」に辿り着くことがゴールではありません。創造的対話を通して認識と関係性が新たに編み直されたからこそ、現実を捉える別のまなざしが生まれ、新たな「問い」がそこから立ち現れる。そのようにしてデザインされた問いは、また新たな問いを生み出すのです。

問いの基本性質(P39)
1 問いの設定によって、導かれる答えは変わり得る
2 問いは思考と感情を刺激する
3 問いは、集団のコミュニケーションを誘発する
4 対話を通して問いに向き合う過程で個人の認識は内省される
5 対話を通して問いに向き合う過程で集団の関係性は再構築される
6 問いは、創造的対話のトリガーとなる
7 問いは、創造的対話を通して、新たな別の問いを生み出す

問いの基本サイクル(P41)
1 問いの生成と共有
2 思考と感情の刺激
3 創造的対話の促進
4 認識と関係性の変化
5 解の発見・洞察

質問・発問・問いの違い
質問:情報を引き出すトリガー
発問:考えさせるためのトリガー
問い:創造的対話を引き出すトリガー

「課題のデザイン」:問題の本質をとらえ、得べき課題を定める
「プロセスのデザイン」:問いを投げかけ、創造的対話を促進する

課題設定の罠(P58)
自己本位、自己目的化、ネガティブ・他責・優等生・壮大

問題を捉える思考法(P65)
素朴思考、天邪鬼思考、道具思考、構造化思考、哲学的思考

課題を定義する手順(P79)
要件の確認、目標の精緻化、阻害要因の検討、目標の再設定、課題の定義

目標の精緻化ポイント(P81)
1 期間によって、短期目標、中期目標、長期目標にブレイクダウンする
2 優先順位をつけて、段階的に整理したり(松竹梅・ABC、複雑な目標を分割する
3 目標の性質によって、成果目標・プロセス目標・ビジョンの3種類に整理する

目標の阻害要因(P93)
1 そもそも対話の機会がない
2 当事者の固定観念が強固である
3 意見が分かれ合意が形成できない
4 目標が自分ごとになっていない
5 知識や創造性が不足している

リフレーミングのテクニック(P98)
1 利他的に考える
2 大義を問い直す
3 前向きにとらえる
4 規格外にはみ出す
5 小さく分割する
6 動詞に言い換える
7 言葉を定義する
8 主体を変える
9 時間尺度を変える
10 第三の道を探る

課題の定義(P105)
1 効果性
2 社会的意義
3 内発的動機

~~~ここまでメモ

リフレーミングのテクニック、おもしろいなと。
特に次の3つ
4 規格外にはみ出す
理想の学校教育とは?⇒国を滅ぼす最悪の授業を考えてみることで理想の学校教育を考える

6 動詞に言い換える
万歩計をリデザインする⇒歩行を「はかる」をリデザインする

8 主体を変える
この会社の10年後のあり方を考える⇒この会社で働く私たちの10年後のあり方を考える

うーむ、これは面白いぞと。
これ、学校現場が直面している課題そのものだなあと。
なんとなく思っている「問題」からチームが共通認識できる「課題」へ。
その「課題」を手に入れるための「問い」。

それには、リフレーミング(枠組みを組み直すこと)が大切なのだと
「地域との連携」「地域に開かれた教育課程」ってそういうことですよね。
それは地域側も同じだ。
「学校との連携」「小中学生、高校生と一緒にやるまちづくり」

その両者のあいだに、というか全体としての「場」に、
「問いのデザイン」が必要なのだなあと。

チームになる1歩は、「問い」を共有することから始まる。

いい本だなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2020年11月04日

それは「本屋」かもしれない

放課後社会。
坂口恭平さんが「独立国家のつくりかた」(講談社現代新書)で
提唱した「学校社会」へプラスしたもうひとつのレイヤーとしての「場」。
それは、ツルハシブックスのような本屋であるのかもしれない。

「本」と「本屋」にまつわる人に出会う日。

~~~ここからメモ

「読書会」のやりかた

読むってどういうこと?
1 知らない
2 知っている
3 説明できる
4 使える
3~4までいきましょうと。

読書によって得られるスキル
1面白がる
2疑問を持つ
3人に伝える
1,2は「好奇心」の具体的表現

3つのうち、どれを頑張るか、事前に決める

好奇心を育むことはできるか?
⇒面白がっている人のそばにいること

先に発表する人を決めておく
⇒そのつもりで聞くことができる

疑問を持つ
⇒目の前に著者がいたら何を聞きますか?

ふりかえり
・印象に残ったこと
・明日に活かせること

親和的承認⇒集団的承認⇒一般的承認
「親和的承認を学校でつくれるか?」

目標⇒評価⇒達成感(個人で起こる)
発見⇒承認⇒変化(場でおこる)
対話=ゴール、正解はない。

かんたね会(テーマ別読書会)⇔こころの美容院
ミッション「本で生きる力を育てる」
読書会のおかげで人生が変わる
生きるために本が必要だった。⇒本が味方
「ぽつりの時間」ぽつりぽつり話す
センスオブワンダー、エンデの遺言

1 テーマ別読書会に参加
2 好きなテーマを見つける
3 自分にとっての生きる力を育てるもの、テーマを見つける
4 深掘りする

本を読むようになってから生きる力が湧いてきた。

課題が明確=ベクトルがひとつ⇒パワーはあるけど、居心地はよくない
課題はあいまい⇒ベクトル多様性⇒居心地はいいがパワーはない

自分と場の相互作用であり方をアップデートし続ける。

~~~メモ

「複数アカウント型探究」ってありえると思うし、
それを補完、実践する上で「本」「本屋」というものが
大切になってくると思った。

サードプレイスは
第1、第2の場と異なる価値観によって運営されている場だとすると、

本屋には、無数の価値観が(もちろん店主の価値観によりセレクトされているが)
背表紙から訴えてくる。

そういう言語と非言語のあいだにあるもの、
それが「本棚」であり「本屋」だ。

ゆたラボの檜垣さんの言う「グレーゾーン」(学校教育と社会教育の)
は、僕が言ってきた、「境界をあいまいにする」「余白をデザインする」
っていうのは、本棚、本屋でこそ、成立しやすいのではないか。

出会う「場」であり、託す「場」であり、創る「場」としての本のある空間。

そんなのが美しいなあと僕は感じている。  

Posted by ニシダタクジ at 07:20Comments(0)日記

2020年10月25日

「達成」と「発見」を動的平衡できる複数の「場」


「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

の著者飯田美樹さんを招いてのオンライン劇場ツルハシブックス。
エコリーグに参加している時、僕はあれが「場」っていう認識がなかったし、
そもそも僕は実行委員会側ではなくて、プレイヤーとして参加していたし。

彼女は大学1年のときから「場」について認識していて、
合宿やイベントなどの期間限定で場をつくる限界を感じて、
パリでのカフェ研究に勤しむこととなる。

パリではなぜ、芸術家がたくさん生まれ、また集まってきたのか。
彼らはなぜ、カフェに集まったのか?
当時のパリのカフェとはなんだったのか?
そんな問いから始まる冒険に連れていってくれる1冊です。

昨日は、その本を通しての対話の時間となりました。

~~~イベントメモ

3万円のホテルに泊まることと、1000円のコーヒーを飲むこと。
空間、飲食物、対話、出演者、、、総合芸術としてのカフェ体験。

目的多様性とベクトル多様性。
「打ち合わせ」か「ひとり時間」か「友人とのおしゃべり」か、とか。なんのためにカフェに行くか。
と、その人が持つ「こうありたい」「こうなりたい」と思う気持ち(スピノザ的に言えばコナトゥス)。
それらがクロスする場としてのカフェ。

場と溶け合う。
それは意識してもしなくても、個人と場は相互に影響される。
スマホとPCのようにつながなくても、wifiで同期しちゃう。

場と一体化していると、そこにふさわしい人にいつのまにかなっている。

テーブル席があり、テラス席があり、カウンター席がある。
席を選ぶことからコミュニケーションは始まっている。
そう考えるとカウンターのデザインってすごく大事だ。

オンラインではベクトルを合わせないと場がつくれない。
リアルな場では、ベクトルの多様性が空間の価値を増す。

~~~ここまでメモ

フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン。
これが僕の場づくりのテーマだったのだけど。

あらためて「場」について考える機会となった。

いちばん印象に残ったのは、
カフェにいると、いつのまにか変わっている自分になるとか、
カフェ空間と同期しちゃう、とか
カフェ空間をつくっている一員になる、とか

そういう話。
ああ、それって、僕的に言えば、
「個人」と「場」を行き来するっていうことだなあと。

ラストに、飯田美樹さんが現在執筆中の本の話で、
「インフォーマル・パブリック・ライフ」という言葉が。

https://www.la-terrasse-de-cafe.com/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB-%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%A8%E3%81%AF/

インフォーマル・パブリック・ライフを一言で表すと、気軽に行けて、予期せぬ誰かや何かに出会えるかもしれない場所で、リラックスした雰囲気が特徴的です。 (中略) インフォーマル・パブリック・ライフには、ここではこうすべき、こう振る舞うべき、という社会的コードがなく、身分に縛られた自分ではなく、自分らしく振舞うことが許されます。日本でも人が集まるイベントや場づくりなどに、カフェや広場といった名称が使用されているように、カフェと広場には共通点が存在するのです。その共通点とは場に1つの明確な目的が設定されていないことです。八百屋は野菜を買うため、ワインショップはワインを買うために行く場所ですが、カフェは飲み物代さえ払えば友人と話をする、本を読む、手紙を書く、ゲームで遊ぶなど、何をしても許されます。広場も同様であり、広場という大きな空間自体にはその場の明確な目的が設定されていないからこそ、人々は他の場で要求されるコードから自由になれるのです。

たぶん、これ。
「ツルハシブックス」で目指していたものだし、
これから阿賀町でつくっていきたいもの。

学びの動機を「達成」から「発見」へ
学びの主体を「個人」から「場」へ
学びの成果を「評価」から「承認」へとシフトさせたい。

でも、それは一気には起こらない。
徐々にシフトしていくんだ。

「目的・目標」をもって、「個人」が能力向上を目指して学び、「評価」される。
それが現在のシステムである。「達成」のパラダイムだ。

しかし、
飯田さんが「インフォーマル・パブリック・ライフ」の説明の中で言うように、

カフェと広場の共通点とは場に1つの明確な目的が設定されていないことです。八百屋は野菜を買うため、ワインショップはワインを買うために行く場所ですが、カフェは飲み物代さえ払えば友人と話をする、本を読む、手紙を書く、ゲームで遊ぶなど、何をしても許されます。広場も同様であり、広場という大きな空間自体にはその場の明確な目的が設定されていないからこそ、人々は他の場で要求されるコードから自由になれるのです。

それはきっと、人生において必須なものなのだ。
家庭、職場(学校)、そしてここで言う「カフェや広場」のような第3の場があること。
僕がつくりたい「場」とは、そういう場だ。

「場」にフォーカスして「場」が主体となって、プロジェクトをつくり、実行する。
「発見」に価値を置き、見つけ合う「場」をつくる。
自分はその「場」に溶けだして、いつのまにか一員となっている。
その場の一員であることがその子のアイデンティティ、つまり「承認」を形成してくれる。

それらを、学校社会と動的平衡を保ちながら実現していくというのが、
阿賀黎明高校魅力化プロジェクトなのではないか、と僕は現時点で解釈している。

学校(教科)は、「達成」「個人」「評価」のパラダイムで動き、
地域(探究)は、「発見」「場」「承認」のパラダイムで動く。

当然、「達成」のプロセスの中でも「発見」はあり(それを振り返っていないだけ)、
「発見」のパラダイムの中でも「達成」(いわゆる「成長」)は結果的に見て取れる。
必要なのは主体を「場」としてとらえる、ということと、その一員となること。
それを繰り返すことによって「承認」(自分で自分を承認すること、存在承認)を感じられること。

それこそが、「探究」の意義や、地域の力を必要とする理由なのではないだろうか。

一気には変わらない。
徐々にシフトさせてゆく。
というより、動的平衡のほうが、「発見」は大きくなるのではないか?

素晴らしい教育システムを一気に導入するのもいいのだけど、
既存のシステムを活かしつつ、地域の資源を活かした探究的学びとの
共存・ともに進みながら変わっていっているような「場」(町)ができること。

それってすごくワクワクするよなあと思っています。

10月31日(土)は
まなびのトビラを「ともにひらく」です。
これからのまなびについて対話しましょう。

https://reimei-gakusya.localinfo.jp/posts/10858791?categoryIds=477469  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)アイデア日記

2020年10月17日

ウチに天才はいない。だがウチが最強だ。


「海南(ウチ)に天才はいない。だが海南(ウチ)が最強だ」

スラムダンク、高頭監督の名台詞を思い出した、
第4回の探究学習コミュニティの勉強会。

講師は、福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校の
学校支援統括コーディネーターの長谷川勇紀さん。

もう、絶句するくらい、すごかったなあ。

何度もお話は聞いているのだけど、
いま探究学習やマイプロジェクトを設計する状況になると
ふたば未来の実践のすごさがよく分かる。

そもそもマイプロって何?からスタート

~~~ここから勉強会メモ

岩手県大槌町の高校生が東日本大震災で被災した町で何かしたいという思いを
NPOカタリバがマイプロジェクトという手法を通じて2012年から始まった放課後活動

「高校生の被災したまちへの想い」×「マイプロジェクト」手法(SFC井上研究室2006年~)×カタリバ「コラボスクール大槌臨学舎」
=復興木碑プロジェクト、笑顔photoプロジェクト

マイプロジェクトの考え方:
高校生自らが「やりたい」と思えるテーマを設定し、リアルな社会と接する実践を繰り返すことで、
高校生が意欲と創造性を育む学びを得る。
「主体的な問い」×「実社会での実践」×「意欲と創造性を育む学び」

マイプロジェクトでの学び:
参画度の高いテーマで「主体性」を育み、実践の中で「協働性」を発揮し、それらを繰り返す中での問いの更新を通して「探究性」を養うことを重視する。

主体性(参画のはしご)・・・ロジャー・ハート:
参画の段階のより上段を目指すために、主体性を持てるテーマを発見する。課題と自分の繋がりが強ければ強いほど、取り組みは真剣になり、学びが深くなる。

協働性:
調べて終わりにせず、課題解決に向けた実践を行うことで、実社会における他者との協働を経験する。

探究性:
主体的な問い⇔実践
実践を繰り返す中で、問いを更新する。途中で問いが変わることを厭わない。

マイプロジェクトの進め方
1 プランニング・・・プロジェクトをつくる
自分を知る(興味関心・価値観を知る)、課題の設定、情報の収集、整理・分析
2 アクション・・・プロジェクトを実行する
行動(実践を試みる)
3 リフレクション・・・プロジェクトを振り返る
まとめ、考えの更新(振り返り)
「自分の関心をベースにプロジェクトを作る」⇒「実践と振り返りを繰り返し、学びを深める」

2012~2014年度:プログラム開発期
岩手県大槌町で高校生マイプロジェクト誕生
プランニング合宿を開催
2015~2017年度:放課後展開期
東北初のプランニング合宿
2018~2020年度:総探融合期
高校でマイプロ型の探究学習の実践が始まる

~~~

総合的な探究の時間とマイプロジェクトの共通点
従来の総合的な学習の時間では、「課題」と「自己」は別々であった。
自己の在り方生き方を考えながら、よりよく課題を発見解決していく
総合的な探究の時間は、マイプロジェクトの考え方と一致している。

主体性と実践を重視するとは?
・学びが大きい分、従来よりコストがかかる
・その覚悟と実践での工夫が必要
主体的⇔受動的 仮説検証・実践(アクション)⇔仮説提案

2017:大船渡高校船野さんのマイプロ
ふるさとの水にチャレンジの衝撃
主体的な問い⇔実践の繰り返しによって問いの更新が起こっていた。

年間の授業の流れモデル

1 自分を見つめよう
2 北極星を見つけよう
3 問いを出そう⇒調査してみよう⇒結果を整理・分析しよう(夏休み)
4 調査結果を発表してみよう
5 北極星に向けたアクションを決めよう⇒アクションしてみよう⇒振り返ろう(8~2月)
6 学びを発表してみよう

プロジェクト事例
テーマ設定の理由
課題の発見(夏季アクション)
具体的な課題と解決方法(仮説提示)
解決アクション
活動からの学び

高校3年間を通した総合的な探究の時間
地域をフィールドに、地域の課題を題材に、その解決の過程を通して、汎用的なスキルを身につけたり、自分自身の生き方あり方に繋げていく、地域課題解決型プロジェクト学習

1年次:複雑な地域課題を多面的に理解する(ふるさと創造学 2単位)
2年次:地域課題解決の探究と実践(未来創造探究 3単位)
3年次:探究成果発表と自らの進路実現

探究のプロセスに対応した「生徒の学びの姿勢」
テーマの設定⇒調査のための実践⇒振り返り⇒解決のための実践⇒発表⇒振り返り
学びの準備
⇒「守」:受容的な姿勢(問題状況の把握と課題設定、現状や事実を正確に知る)
⇒「破」:生成的な姿勢(現状を他の事例や考え方と繋げる、課題解決の仮説を立て、プロジェクトを実践する)
⇒「離」:持続的にプロジェクトに取り組む姿勢(プロジェクトの実践を振り返りフィードバックをかける、実践の課題から次なる独自の実践を創造する、実践の連鎖)

生徒の学びの姿勢と教員の関わり方
「学びの準備」⇔「モチベーター(探究心に火を灯す)
探究に対する学びの意欲を高める⇒意欲に火を灯すコミュニケーション、外部イベントへの参加
「守:受容的な姿勢」⇔インストラクター(現状を正しく捉えさせる)
正確に物事を知り探究の基礎を作る⇒知識のレクチャー、調査研究(書籍、WEB、インタビューなど)
「破:生成的な姿勢」⇔「ファシリテーター(問いを立てて引き出す)」
柔軟に他の問題と繋げたり想像力を働かせる⇒問いを通してテーマを深化させる、生徒自身が本当に取り組みたい実践を引き出す
「離:持続的に取り組む姿勢」⇔メンター(応援・勇気づけをする)
リスクを恐れずチャレンジし、実践を連鎖させる⇒実践への勇気づけ、実践後の振り返り(リフレクション)

この4つのパターンに生徒、プロジェクトの現状を把握する

意欲高め⇔低め(上下)
課題設定のセンス良⇔いまひとつ(右左)
で右上:メンター、左上:インストラクター、右下:ファシリテーター、左下:モチベーター
的なかかわりをする。

左下方向では、教材指定、グループで調べ学習、動画で発表や個別面談をして丁寧にテーマ設定をするが
右上方向ではアクションの計画サポートと振り返りに重点を置く

探究テーマを決める視点

地域・社会の理解を深める(地域・社会から解決を求められる課題(NEED)が明らかになる
自分について理解する(自分の取り組みたいこと(WILL)自分ができること(CAN)が見つかる
その真ん中に探究テーマをつくれるかどうか。
そのプロセスにおいての「ヒューマンライブラリー」(カタリバ型講義&対話)などの活用

成長をどう測るか?

半年に1度ルーブリックで資質・能力について自己評価する。
2期生アンケート
入社試験や入学試験に活用したか?→62%
社会とどう関わっていきたいかを見出すことに繋がったか→80%
自分の価値観を考えることに繋がったか?→87%
「探究学習」が進路選択やキャリア形成に影響を与える

「未来創造探究の全体像」
1 建学の精神・理念:新しい生き方・新しい社会の建設
2 教育目標:変革者たれ
3 資質・能力:自立・協働・創造
4 ルーブリック:知識・技能・人格・メタ認知
5 カリキュラム:未来創造探究・各教科学習
6 教員体制:企画研究開発部・6つのゼミ・教科チーム
7 各ゼミ計画:授業設計
8 教材:全体教材・各ゼミ教材
9 指導法:生徒への関わり方
10 外部活用:地域・講師・カタリバ・課外活動

「教員体制」
1 探究カリキュラム企画開発の校務分掌を設定
(教務部、進路指導部とも密に連携・協働)
2 教科担当横断の全教員体制で探究活動を指導
(毎週水曜日5・6限目に、1~3年生のそれぞれの授業が行われる)
3 教員間で悩みを共有し解決策を考えていく
(各学年で月1で全員参加会議を設定。生徒の伴走のあり方などを議論)

~~~ここまでメモ

圧倒された。
声が出ない。
すごすぎるわ、ふたば未来。

ポイントは、前日の浦崎先生の話でも出てきたけど
仮説・検証プロセスの楽しさをいつ知るか?というところ。
ふたば未来の場合は、1年生の夏休みの「調査」において
仮説検証プロセスを回しているということ。

まずはそういうような「探究プロセス」の面白さを知るということ
なのかもしれない。

質疑応答で、
探究的な学びの成功とはどこにあるのか?という問いかけがあり、

それに応える形で、
マイプロ2.0→船野さんの登場により、マイプロの評価基準に「探究性」が加わったこと
つまり、「実践による問いの更新」の重要性が加わったこと、
さらに言えば、マイプロ3.0は実際の「課題解決」なのだろうと。
しかし「課題解決」そのものを評価するのかどうか?は難しいところだと。

僕はそれを聞いて、
「北極星」とは、終わらない問いの方向性なのではないか?
その北極星に出会うことだ、と。

その北極星は、ミッションであり、ビジョンであり、好奇心の源であり、
そういう方向・方角のこと。

実践の中にある「違和感⇔問い」の積み重ねの中で、北極星は生まれてくる。

「北極星」に出会えたら、
あとは問いが無限に出てくる。終わらない問いの連鎖が起こる。
そうやって、問いの更新と自己変容、つまり自己の更新のサイクルが回る。

長谷川さんの言葉を借りれば、
マイプロはどこまでいってもキャリア学習で、
自分が自分であるために変容していくプロセスのことだと。
だから、いわゆる「マイ感」が必要なのだと。

ラストに、
「組織としてどうマイプロ・探究的学びを根付かせていくのか?」に対して、
「先生が全員関わる探究でないと、文化にはならない」と言っていた。
ふたば未来は、先生みんなでやってる、と。

長谷川さんはラストに言った。
「ふたば未来にはスゴイ先生いないじゃないですか。」

たしかにそうだ。
大船渡に梨子田先生あり、とか
飯野には梅北先生あり、とか
佐渡中等に宮崎先生あり、とか
じゃなくて、組織全体でやっているんだと。
だから「文化」になっていくんだ、って。

かっけー。
かっけーなと。

組織のチカラ、そして、地域を含めた場のチカラが探究的学びをつくっているんだ。

もちろん、ふたば未来の実践メソッドというか仕組みは、ものすごかったし、
真似できるところがたくさんあるなと思った。
でも、ふたば未来が本当にすごいのは、「学びの環境(場)」に働きかけている、ということ。
「文化」を作り始めている、ということ。
わが町でも必要なのは、きっとそういう実践なのだろうなと。

コーディネーターってそういうことか、と思った。

僕も数年後に言ってみたい。

「ウチにはスゴイ先生もスゴイ地域の人もスゴイ生徒もいない。だがウチが最強だ」と。  

Posted by ニシダタクジ at 09:56Comments(0)日記

2020年10月15日

ベクトルとして存在を許されるカフェという場


「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

来週10月24日(土)に
オンライン劇場ツルハシブックスに登壇いただきます飯田美樹さん。
実は20年前に、開村当初のまきどき村に遊びに来たことがあり。
彼女はその後の大学院時代にカフェの研究をすることになる。

その博士論文が書籍化され、当時も読んでいたのだけど、
今年、クルミド出版から再販。問いの刺さるリリースとなった。
このタイミングで読めることはなんとも言えない感慨がある。
いろいろ話してみたい、聞いてみたいことはあるのだけど。

読み直していて、
ツルハシブックスってやっぱりカフェなんじゃないか?
って思った。

「中学生高校生のための入場料無料のカフェ。」
まあ、それは本屋であり、劇場であったわけだけど。
中学生高校生に「カフェ」的な空間を提供したかったのだろう。

本書のラストに、クルミドコーヒー影山さんが解説をしているのだけど、
その中に、こんな一節が。

カフェは、飲食店であるとともに一つの「場」でもある。場とは、「参加者相互に影響を与え合う空間」と定義できる。
カフェが場としてその参加者と絶妙な相互作用を起こしたとき、それはきわめて大きな力を持つという。
そこから人が育ち、文化が生まれ、時代が創られる舞台になることがあるという。
偉大な人がカフェに集うのではなく、そこにカフェがあることで、そこに集う人々が後の時代に名を残すことになるというのだ。

おおお。
まさにそれがカフェ的空間の魅力だなあと。
僕的に言えば、「劇場のような本屋」「本屋のような劇場」なのだけど。
そういう「場」ですね。

では、そうした「場」がカフェではどのように形成されるのか?を本書から。

~~~第4章「カフェという避難所」から引用

第一にカフェにある自由、それは居続けられる自由である。
第二に挙げられるのは、思想の自由であり、
第三に、時間的束縛からの自由、
最後に、振る舞いの自由が挙げられる。

カフェは必ずしもコーヒーを飲みに行く場所ではない。
カフェという場は他の公共的な施設と異なり、合目的性がほとんど追求されない不思議な空間なのである。

飲み物を頼むというのはカフェという空間に入るためのルールであって、必ずしもそれを目的に客はカフェに来ているわけではない。

劇場やレストランに行くにはかなりのお金もかかれば、それなりのドレスコードや振る舞い方も要求される。それに対してカフェでは安い値段で誰でも入れるどころか、社会的地位も要求されない。

カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。

通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。

特定の個人が開催する夕食会やサロンとカフェが違うのは、カフェでは誰もあえて「社会的地位を無視しましょう」と言ってはおらず、客たち全員がカフェの飲食代を支払うというこのシステム自体が自然に平等性をつくっているということである。

カフェでは主人という場所の所有者兼管理者に客が平等にお金を払うことで、空間に参与している客たちの平等性が保証されている。つまり、主人のもとで客は平等になるわけである。

~~~ここまで引用

まだまだ、時間的束縛からの自由とか振る舞いの自由とかに言及されていくわけですけど、今日はここまで。

僕は、「フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン」を志向し、

まきどき村という畑をやり、ツルハシブックスという本屋空間をやり。
場づくり(ワークショップ含む)を行ったりしてきて、

今年はオンライン上にも「場」をつくれるのではないか?と直感し、
取材型インターン「ひきだし」の完全オンラインでの実施や
にいがたイナカレッジの「イナカレッジ・ラボ」のオンライン化、
月1回の「オンライン劇場ツルハシブックス」をやっている。

本書を読んで、
ああ、それって「カフェ」をやりたかったのかもしれない、と思った。
しかもそれは、本書に登場する画家の藤田嗣治がかつてそうだったように
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェだ。

「何者でもない誰か」を言い換えれば、
名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。
スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。

実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、
「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。

東京で朝活をしようと、恵比寿駅にほど近いスタバに入ったら、
全員が一人残らず集中して勉強していて、
スマホをいじったり友達と談笑してる人はひとりもおらず、
私語さえ許されない状況に耐えられずに30分で脱出して
別のカフェに入ったことがある。

あのスタバには、「ベクトル多様性」が存在しなかったのだ。

「何者でもない自分」への不安。
朝井リョウの小説じゃないけど、10代や大学生の多くが持っているだろう不安。
いや、40代になってもあるけども。(笑)

その不安を否定しなくてもいいってことだ。
何者かになろうとしているベクトルとしての自分を楽しむことだ。

そのためには、ベクトルとしての存在を許される「場」が必要なのかもしれない。
飯田さんや影山さんによれば、それは「カフェ」として表現されているのだと。

僕がツルハシブックスをカフェだと思ったのは、
中学生高校生、大学生がベクトルとして存在できる場をつくりたかったからかもしれない。

そして、これから高校生やまちの人達と共に創る場も、
きっとそういうカフェ的な空間なのだろうとイメージ出来た、すてきな読書時間でした。  

Posted by ニシダタクジ at 06:21Comments(0)日記

2020年10月07日

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?


「大学受験に強くなる教養講座」(横山雅彦 ちくまプリマー新書 2008年)

某大手古本屋さんで購入。
いい本あるなあ、ちくまプリマー新書。

ひとつ、謎が解けました。
いや、解けないけど。
謎にたどり着くドアのカギを手に入れた感じ。

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?
「地域で」学ぶのか、「地域を」学ぶのか?
そんな問いに、一筋の光を射してくれる1冊です。
紹介するのは、冒頭と最後のところにします。

~~~ここから引用

英語と小論文、現代文の垣根はどんどんなくなっている。

フリッチョフ・カプラ「ターニングポイント」
reductionistic(還元主義的)=scientific(科学的)=rational(合理的)=analytic(分析的)=linear(線形)
還元主義の定義。「何かを知るということは、その物質的構成を知るということだ」

「抽象」と「捨象」は表裏一体です。事実、英語ではともにabstractionと言います。
「例外のない法則はない」と言うように、抽象するためには捨象しなければならず、捨象しなければ、抽象することはできません。

デカルトは、「科学」を抽象するために、仏教が「縁」と呼ぶ不可思議な現象、予測不能な事態を捨象したのです。これこそが、近代科学の出発点です。そして以後、そうした「非決定性」や「不確実性」は、「非科学」として括られていくことになります。

カプラによれば、西洋近代社会は、一貫して陽的(男性的、積極的、競合的、合理的、科学的、断片的)側面を好み、強調してきた。そして、陰的(女性的、反応的、協力的、直観的、神秘的、全体的)側面を排除し、軽視してきたことが、さまざまな危機を招いていると。

「陽」が「因果」、「陰」が「縁」
「因」と「果」をつなぐものとしての「縁」

陰陽思想では、あらゆるものが、陰と陽の動的なバランスの上に成り立っています。
不可知にとどまること。

「縁」の世界は、近代文明が少なくとも300年以上のあいだ、置き去りにしてきた世界です。

~~~ここまで第1章から引用

いいですねえ。
近代とは、科学とは、問い直されます。

そして、
さっき読み終わった第6章から。

~~~ここから引用

「discipline 学問分野」とは何か?

ディシプリンの違いは、その立脚点の違いにあります。一人の人間存在(being)には、様々な様態(mode)があります。他の動物と共通する様態もあれば、人間だけにしかない様態もあります。

およそ人間だけに備わった特殊な様態を扱うのが文系(人文・社会科学)、他の動物や自然にも共通する様態を扱うのが理系(自然科学)と言っていいと思います。

もともと古代ギリシャには「フィロソフィア」しかありませんでした。「哲学」です。古代ギリシャの哲学者たちは、一人で人間に関わるすべてのことを考えたのです。

「言葉」について考え、「貨幣」について考えた。言語学であり、経済学です。「自由」について考え、「死」について考えた。政治学であり、宗教学です。あるいは、「火の性質」、「水の性質」について考えました。これは自然科学です。

とはいえ、哲学者の個人的性質は、めいめいに異なります。人間存在のどの様態に一番強い関心があるかは、哲学者によって違う。そこで徐々に哲学からディシプリンが自立していくわけです。しかし、立脚点の違いはあっても、みな「人間とは何か」という根源的な問いに貫かれていました。

どのディシプリンにも、常にディシプリンに先立つ哲学的な問いがありました。人間存在やこの世界全体に向けられた広い関心です。

educationという言葉には、二つの意味があります。ひとつは、technical education(専門的知識)です。ディシプリンのことです。そしてもう一つがliberal educationです。すべてのディシプリンの根底にある広く深い「知恵」であり、「教養」です。これこそが、「リベラルアーツ」にほかなりません。

「価値相対主義:すべての価値は等価である。価値観に優劣はなく、それぞれに尊重すべきものだ」
たしかに、価値相対主義があって初めて言論の自由や思想の自由が保障されることになるね。
それって、「対話」を無くしていくことになるけどね。
価値絶対主義がいいわけではもちろんないけども。

「学際」さえも1つの専門分野(ディシプリン)になってしまうのか。

自分の全存在をあげての学問、「これじゃなければ自分じゃない」という学問をすること。そうすれば、放っておいてもリベラルアーツに向かっていくはずです。

経済学者が、たとえばアメリカ経済を研究しているとして、その人が心の底からアメリカ経済を理解したいと思うなら、経済学という狭いディシプリンにとどまっていることはできなくなるはずです。アメリカという存在は、単に経済的な存在だけではないからです。肩肘張って、「学際研究」などと構えなくてもいいのです。

既存のディシプリンに身を置いていていい。「実存的な学問」をすることです。研究対象に自分の全存在をあげての関心を持つこと。そうすればひとりでに学際研究になっていくはずです。つまり、「ひとり学際」です。それこを、僕たちが目指すべきものだと思います。

~~~ここまで第6章より引用

いやあ、いい本。
「まなびの最前線」だわ、これは。
書かれたの2008年だけれども。

なぜ、若者は「地域」を目指すのか?
「地域で」学ぶのか「地域を」学ぶのか?

それは、本来の意味で「学びたいから」なのではないか。
という仮説が生まれた。

「地域」っていうのは、

「歴史」であり、「社会(コミュニティ)」であり、
「農業」や「産業」であり、「教育」でもあり、
「コミュニケーション」であり、「政治」であり、、、

プロジェクトを遂行するためには、学際的(ジャンル横断的に)アプローチせざるを得ない。

高校生たちはそこにまなびの本質を見ているのではないか。
だから、学びのフィールドとして「地域」を目指すのではないか。
「ひとり学際」こそが「まなび」だと思っているんじゃないのか。

さらに言えば、その「ひとり学際」にそ、
アイデンティティ不安を乗り越えるカギがあるのではないか。

横山さんは言う。
「自分の全存在をあげての学問、「これじゃなければ自分じゃない」という学問をすること。そうすれば、放っておいてもリベラルアーツに向かっていくはずです。」

それって、文科省が「総合的探究の時間」の指導要領で言う、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのではないか。
それを探しに、ヒントを見つけに、「地域」に入り、仮説、実験、結果、検証を繰り返すのではないか。

いわゆる「キャリア教育」は、アイデンティティ(自分らしさ)は職業によって形成・実現されるという誤解を生み、
英語などのスキルを磨けば磨くほど、交換可能になるというダブルバインドの中に若者は生きている。

そんな状況の中、ますますアイデンティティ不安に陥っているように見える。

アイデンティティはどこにあるのか?
どうすれば安心できるのか?

もしかすると「地域」を目指す若者たちは、「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」
の中にこそ、アイデンティティがあるのだと直感しているのかもしれない。
そしてそれを見つけるには。「地域」の中で学際的に学ぶことだと。

僕はそれを、
最初から「自己」という単位で動くのではなく、
「自己」と「場」(同級生や地域の環境や大人含む)の動的平衡な主体によるプロジェクトによって、
いくつかの仮説を実験・検証を繰り返す中で、

たどりつく「問い」こそが、アイデンティティを形成してくれるのではないかという仮説に至る、今日の読書日記でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:41Comments(0)日記