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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2017年07月20日

政治空間と貨幣空間のあいだ


「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 幻冬舎文庫)

前から気にはなっていたのだけど。
やっぱり面白いっす。

第2章 自分は変えられるか

これは大学生は読んどいたほうがいいかも。

引き寄せの法則の法則とか。

元祖自己啓発の
ナポレオン・ヒルの本を出した田中さんの話とか。

20世紀少年や木更津キャッツアイの背景とか。

ここで
面白いのは、
愛情空間‐友情空間(この2つを合わせた「政治空間」)‐貨幣空間

の図解。

世界は、貨幣空間に覆われているが、
ひとりひとりの人生的には
愛情空間と友情空間の割合は大きい。

そして
政治空間と貨幣空間ではルールが違う。

~~~ここから引用

政治空間の基本は、
敵を殺して権力を獲得する冷酷なパワーゲームだ。
それに対して、貨幣空間では、競争しつつも契約を尊重し、
相手を信頼するまったく別のゲームが行われている。

人間社会に異なるゲームがあるのは、富を獲得する手段に、
①相手から奪う(権力ゲーム)
②交易する(お金儲けゲーム)という二つの方法があるからだ。

政治空間の権力ゲームは複雑で、
貨幣空間のお金持ちゲームはシンプルだ。
誰だって難しいより簡単なほうがいいから、
必然的に貨幣空間が政治空間を侵食していく。

~~~ここまで引用

これらを
社会心理学者ロバート・アクセルドットの行った
「囚人のジレンマ」実験から、
「しっぺ返し戦略」が有効であることを実証した。

つまり、
まずは相手を信頼し、行動し、結果が出たら、
その後は相手の信頼度に合わせて、
自分もふるまうということである。

なるほど。

さらに社会心理学者の山岸俊男のいうように、
市場の倫理と統治の倫理の違いを語り、

それが日本社会にどのような影響を及ぼしているか、
を示している。

学校社会は統治の倫理が作用し、
しかし、グローバル化されたビジネス社会は市場の倫理で
動いている。

その狭間にいるのが僕たちである。

そっか~。

そこに生きづらさや働きづらさ、
学校や企業の息苦しさのヒントがあるような気がします。

政治空間と貨幣空間のあいだ。

それを揺れ動いているのですね、大学生は。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年07月14日

いつのまにか「目的」が分からなくなる


「日本の覚醒のために」(内田樹 晶文社)

模様替えしてしまった
スタンダードブックストアあべので購入
模様替え残念。
何があるかわからない感じが好きだった。

この本は、講演集なのだけど、
テーマが多岐にわたっていて、
ひとつひとつ読んでいく感じ。

読み終わった余韻で、
じわじわ来るのが、やっぱり
「目的」って忘れられやすいんだな、って。

何か「目的」があって
それを始めたはずなのに、
それをどんな「指標」で評価するか?

っていうようになってくると、
「手段」が目的化する。

あるいは、
大学のサークルとかでもあるのは、
時が経ち、代替わりをして、
最初の人がなんのために始めたのか
わからなくなったとき。

そういう点では、
この本にも書いてあるのだけど、

武道っていうのは、
創始者の像が飾ってある。

あれって、どこを目指しているか、
見失わないように。

そしてそれが「達成される」ことは決してない。
そういうのが大切なのだなあと。

そうしないと、
「目的」があって、「目標」があって、
そのための「指標」(数字)
あったはずなのに、

いつのまにか、
「指標」(数字)が目標になり、目的になっていく。
何件達成しました。

僕たちの社会はそういう危うさを
常に抱えているのだ。

だからやっぱり
PDCAだけじゃなくて、

ミッションは誰で
顧客は誰で
顧客価値は何かって
問いかけ続けなきゃいけないのだろうね。

ほかにも紹介したいところがあるのだけど、
今日はこのへんで。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2017年07月13日

盛岡の「楽園」


「書店員X」(長江貴士 中公新書ラクレ)

大ヒットした「文庫X」を
生み出したさわや書店フェザン店の
長江さんの本。

文庫Xっていうのは
「本を読むとは何か?」
っていう根源的な問いを与えてくれる1冊
だったんだな、と。

「未知のもの」
とどう出合い、どう生かすか。
そんなことが書いてある。

これ、よかったなあ。

この本のサブタイトルは
「常識」に殺されない生き方。

私たちがいかに
「先入観」を脱していくか、
が書いてある。

~~~以下メモ

共感を求めれば求めるほど、
「今の自分」を超えたものに出合う機会が狭まる、ということでもあるのだ。

すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。
そして国語教科書の詩の単元は、この権利をわたしからうばうものだった。
「わからない状態のたいせつさ」という考えは、
このころに芽ばえ、いつのまにかわたしの生涯のテーマになったように思う。

「わからない状態」で出合うからこそ、
「自分にとっての魅力」に気づくことができるのだ。
そんなふうに世の中のいろんなものと出合うことで、
僕たちは「今の自分」を超え、「先入観」を乗り越えることができる。

「未知のもの」に「わからない状態」で出合う。
情報が氾濫している世の中では
ますます難しくなってしまったこんなやり方が、
僕たちを少しずつ押し広げていくのだ。

本はそんなふうに、ネットと比べて遥かに簡単に
「未知のもの」と出合う可能性を与えてくれる存在だ。

書店の存在意義というのは、
「読者(お客さん)が本を選ぶ力を高めることにある」と思っているんです。

「未知のもの」との出合いすべてに「失敗」はない。

「未知のもの」との出合いやすさを売り場づくりのベースにしながら、
その中にどれだけ探しやすさという要素を組み込むことができるのか。
今書店に求められている発想はこういうものなのではないかと思う。

~~~ここまで引用

そうそう。
本屋の役割ってきっと、そういうことだと。

文庫本Xっていうのは
長江さんからの、強烈な、
本とは何か?
本屋とは何か?
っていう問いなんだなと。

そして、この本の僕的なクライマックスは、
証言3:さわや書店フェザン店の田口店長のコラムだ

「北に楽園があるよ。来てみない?」

そう言って田口さんは、
川崎にいた長江さんを盛岡に誘った。
3年越しのアプローチ。
すげーなって。

☆☆☆

「『文庫X』についてどう思われますか?」
同じ質問を何度もされた。
「たまたまです」といつも僕は答えている。

その間、彼が本の魅力を伝えようとした
熱意と努力の積み重ねの日々を傍らで見てきたから、
そう断言できる。「文庫X」はあくまでその一部なのだ。

★★★

ホントはこの後の「さわや書店という場とは?」の部分を書きたいのだけど、
文庫Xにならって、ここは伏せておくことにする。

楽園は南の国にあるのではなく、
日本の岩手、盛岡にたしかにあった。

くやしい。
やっぱり、くやしい。

「本屋」はどこまで「本屋」に、
そして「楽園」になれるのか?

そんな大いなる問いをもらった1冊となりました。

田口店長の
「まちの本屋」とも合わせてどうぞ。

「ひとりひとりに使命があるように、本屋にも使命がある。」
http://hero.niiblo.jp/e475548.html
(15.12.21)  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)

2017年07月07日

パスと敬意と委ねること


「呪いの時代」(内田樹 新潮社)

またしてもいい本に当たってしまった。
熱い。

教育とは?
学ぶとは?

そんな問いをたくさんもらえる本。

~~~キーワードを以下に

贈与経済のいうのは、要するに自分のところに来たものは
退蔵しないで、次に「パス」するといことです。それだけ。

贈り物を受け取ったときに、目にも止まらぬ速さで次の贈り先に
それがパスされるような人のところにしか、贈り物は届かない。
そういうものなのです。

私はあなたに贈り物をする。
それがどのような価値をもつものであるかを
贈与者である私は言うことができない。
そこに価値を見出すのは受け取り手であるあなたである。
この世に価値をもたらすのはあなたである。
あなたが価値の創造主である。そう告げるのが贈与の構造です。

人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、
ましてやそこ能力が所有者にもたらした利益によってではなく、
その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。

最終的に人間がその言葉に聴き従うのは、
その言葉のうちに聴き手に対する深い敬意が含まれている場合だけだ。

人はどれほどわかりにくいメッセージであっても、
そこに自分に対する敬意が含まれているならば、
最大限の注意をそこに向け、聴き取り、理解しようと努める。

だから、もしあなたが飲み込むことの
むずかしいメッセージを誰かに届けようと願うなら、
深い敬意を込めてそれを発信しなさい。
それがコミュニケーションにかかわる
ユダヤ=キリスト教の太古的な叡智の一つではないかと僕は思います。

~~~ここまでキーワード

そっか~。

暗やみ本屋ハックツを構造的に説明すると
そういうことなのかもしれないな、と。

まず、誰かから、
影響を与えられた「本」という贈り物をもらう。

それを誰かにパスしないと
いけないという気持ちが芽生える。

そして、
受け取り手に敬意を込めて、
メッセージを書く。

しかし、最終的に、それが価値あるものか
判断するのは、ハックツした若者次第で
あって、そこには手が及ばない。

また、それを「贈り物だ」と思ったとして、
それを本人にお返しすることはなかなかできないので、
違う人に贈ることになる。

そうやって本と気持ちの贈り物の連鎖を生んでいくこと。

きっとそれがハックツに仕組みなのだろうなと
この本を読んでいて思いました。

「ハックツ」ってすげーな。
って思いました。

そこに「教育とは?」や「学びとは?」、大げさに言えば、「生きるとは?」
という問いに対しての原点的な何かがあるのではないかなと思いました。

パスと敬意と委ねること。
そんな贈与経済的なアートですよ、ハックツは。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)

2017年07月05日

「正解しなければいけない」は敗北への一歩


「呪いの時代」(内田樹 新潮社)

第3章 後手に回る日本

面白かった。

アメリカの「設計図神話」の話。
理想国家をつくる、というコンセプトで
できたアメリカでは、

システムに不具合が起きた時、
アメリカでは、システムの設計そのものを
見直すのではなく、バグや人為的ミス
のせいであるとする。

「ありあわせのものでしのぐ」という発想をせずに
「最初の設計図通りに作り直す」というかたちで処理する。

へ~。
なるほど。

~~~ここから一部引用

だからアメリカ合衆国の大統領は
建国の「物語」を力強く語ることができる。

いっぽう、日本の政治家は、「物語」を語れない。
統治原理の根幹が何であるか、
本人たちも分かっていない。

アメリカに従属しなければ生き残れない。
という「やむをえない実証性」に基づいて
その場の最適解で応じている。

相手がこう来たらこう返す、
こうされたらこう逃げるという受け身の姿勢でいること。

つねに状況に対して「後手」に回るという
日本の政治文化は受験生に似ています。
受験生はつねに「試験問題に遅れている」。

そもそも何のために受験勉強をしているのか?
などということは問わない。

この「受験生マインド」は、
政治家のみならず、官僚にもビジネスマンにも
日本人全体に蔓延しています。

まず「問題」が出る。
その問題に対してどう解答するかを
必死で考える。

そしてそれなりのよい解答を思いつく。
そういう能力は日本人はけっこう高いのです。

白紙にゼロから絵を描くように、
なすべきことを創造することは、
まったく不得手だけれど、
言い逃れとか言いくるめとかはうまい。
恐ろしいほどうまい。

~~~ここまで一部引用

なるほど。
この後に、武道的観点から、バッサリと切ります。

☆☆☆ここから引用

相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく、
全神経を集中すること、それを武道では「居着き」と言います。

物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない
状態ですが、居着くとは構造的に「負ける」ことです。

居着いた相手は活殺自在である、そう言われます。
端的に言えば、武道はどちらが相手を「居着かせる」ことが
できるかを競っている。

ですから、武道的観点から言うと、
「問題に正解しなければならない」という
発想をする人は構造的に敗者であるということになります。

★★★ここまで引用

うわ~。
これは、あれですね。

スラムダンクの流川と沢北の勝負ですね。

「お前はまだその才能を活かしきれてねえ」
の後にパスを出す流川。

パスもある、と思った瞬間に
沢北のディフェンスが「居着き」の
状態にあって、

「ひとつ忘れてるぜ」

でスリーポイントが決まる、みたいな。

思い出しちゃった。

後手に回らず、そもそも、と考えること。
目的はなんだっけ?
って問い直すこと。

そこからしか、始まらんのですね、きっと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)

2017年06月30日

アンサング・ヒーロー

ああ、読み終わってしまう・・・

と読み進めていきなら、悲しくなる本に出会うことがある。
「もったいないから一章ずつ読もう」とか

アサダワタルさんの
「コミュニティ難民のススメ」以来のドキドキ。


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

うわー、うわーって
何度もうなっていた。

もっともこころ揺さぶられたのは、

第5章 「次世代にパスを送る」の「教育の奇跡」のところ。

またしても興奮状態でツイートしすぎた。

さて、ちょっと引用させてください。

~~~ここから引用

人間は知っている者の立場に立たされている間は
つねに十分に知っている。

「教卓のこちら側」にいる人間は、
「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、
すでに「教師」としての条件を満たしている。

教師は別にとりわけ有用な、
実利的な知識や情報や技能を持っており、
それを生徒や弟子に伝えることができるから
教師であるわけではない。
これが教えることの逆説である。

教師は「この人は私たちが何を学ぶべきか知っている」
という確信を持っている人々の前に立つ限り、
すでに十分に教師として機能する。
彼に就いて学ぶ人たちは、
「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」
を彼から学ぶ

誰だって教師になれる。
そうでなければ困る。

人間たちが集団的に生き延びてゆくために
ほんとうに重要な社会制度は、
「誰でもできるように」設計されている。
そうでなければ困る。

例外的に卓越した資質を持っている
人間にしか社会制度の枢要な機能を
担い得ないという方針で社会制度が
設計されていたら、とっくの昔に
人類は滅亡していただろう。

学校における知の非対称性とは
「あなたたちはなぜ学ばなければならないのかその理由を知らないが、
私はあなたたちが学ばなければならない理由を知っている」という一言に尽くされる。

私たちは「教卓の向こう側にいる人」はすでにそのことだけで
すでに教える資格があるというルールを身体化していたからである。

「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、
少しも人間的に卓越しているわけではない」
という事実を意地悪く暴露して、
教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。

私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、
「言うべきではなかったこと」だった。
それに気づくほど私たちは大人ではなかった。

教師は自分の知らないことを教えることができ、
自分ができないことをさせることができる」という
「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。

教師であり続けるためには、一つだけ条件がある。
一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。

自分は自分がよく知らないことを教えることができる。
なぜか、教えることができる。
生徒たちは教師が教えてくれないことを学ぶことができる。
なぜか、学ぶことができる。
この不条理のうちに教育の卓越性は存する。
それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。

もし、生徒たちが学んだことは、どれも教師がすでに知っていることの
一部を移転したにすぎないと思っている教師がいたとしたら、私は
「そのような教師は教卓に立つべきではない」と思うし、当人にはっきりとそう告げるだろう。

その人には「教育制度に対する敬意がかけている」からである。
教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。

教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を
知識において技芸において凌駕することが
日常的に起きるという事実のうちにある。
「出力が入力を超える」という事実のうちにある。

「教室とはそこに存在しないものが生成する奇跡的な場だ」
という信念を持たない教師は
長期にわたって(生徒たちが卒業した後になっても)
彼らの成熟を支援するというような仕事はできない。

今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、
教師に教科に知識が不足しているからでも、
専門職大学院を出ていないからでもない。
そうではなくて、教師たちが教育の信じるのを止めてしまったからである。

教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。

~~~ここまで引用

教育の奇跡。
なるほど。

それは「場」にあるのだと。
教師と生徒が教卓を挟んで、向かい合う。
その「場」に「奇跡」が生成するのだ。

教師とは、
その構成員のひとりにすぎないのだ。

この本を読んでいて、つぶやいた。
(というかいつも、最近、主語を「本屋」に置き換えてしまうのだけど)

「教育」を「本屋」あるいは「本屋という場」に置き換えてみる。
わくわくする。
本屋が、「出力が入力を上回る」という
「本屋の奇跡」を信じることを止めて、いったい誰が本屋を信じるのか。

「劇団員」とか「サムライ」とか「ヤクシャ」
ってきっとそういうこと。

学びあいの場をつくる、
本屋を学びあいの場にする、
ってきっとそういうこと。

そこに師匠はいないかもしれないけど、
本の中に師匠がいるかもしれない。
いや、今日やったイベントの中に、
師匠がいるのかもしれない。

そこから何を学ぶか。
その入力から何を出力するか。
それが入力を上回るという点において、
本屋は本屋である意味がある。

この本のあとがきに
「アンサング・ヒーロー」のことが書いてある。

事故を未然に防いだ人たちの功績は
決して顕彰されることがありません。

そういう顕彰されることのない英雄のことを
「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」
と呼びます。「歌われざる英雄」です。

このアンサング・ヒーローたちの
報われない努力によって
僕たちの社会はかろうじて成立している。

なるほど。

教師も、本屋も、
目指していくところは、
「アンサング・ヒーロー」なのかもしれない。

僕が高校生の時に通っていたたこ焼き屋のおばちゃんのことだ。
店内でヤンキー高校生にタバコを吸わせながら
たこ焼きやカップラーメンを食べさせて、話を聞いてあげていた。
あのおばちゃんのおかげで悪さをしなかった高校生はひとりふたりじゃないだろう。

思えばあれが僕の原点になっているのかもしれない。

教育の奇跡を、本屋の奇跡を信じ、

周りの大人を、先輩を、地域の人たちを
「アンサング・ヒーロー」にしていくような学びの場や本屋を
いま、作らなければならないのではないか。

100年先の日本のために。

今一度、日本を小さく洗濯しようか。
小さな本屋で。
ねえ、龍馬さん。
  

Posted by ニシダタクジ at 10:37Comments(0)

2017年06月28日

「小さな本屋」というゆらいだメディア


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

昨年秋に「街場の憂国会議」からの
三部作を読んでいたのだけど、
この本はまだ読んでなかった。

この本もとっても熱い。

P216 「日本のメディアの病」より

~~~ここから一部引用

生き延びるためには、複雑な生体でなければならない。
変化に応じられるためには、
生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで
構造化されていなければならない。
ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、
それが生物の本態である。

私たちのうちには、気高さと卑しさ、
寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、
入り交じっている。

私たちはそのような複雑な構造物としての
おのれを受け入れ、それらの要素を
折り合わせ、強制をはかろうと努めている。
そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人の
ことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。

メディアは「ゆらいだ」ものであるために、
「デタッチメント」と「コミットメント」を
同時的に果たすことを求められる。

「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、
そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、
それが何であるのか、なぜ起きたのか、
どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。

「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、
他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、
当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。

この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、
混沌としたこの世界の成り立ちをいくぶんか明晰な語法で明らかにし、
そこでの人間たちのふるまい方についていくぶんか倫理的な指示を示すことができる。

メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を
果たすことではじめてその社会的機能を果たす。
だが、現実に日本のメディアで起きているのは、
「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。

「デタッチメント」的報道は、ストレートな事実しか報道しない。
その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、
どういう意味を持つものなのか、私たちは
どの出来事をどう解釈すべきなのかについて、
何の手がかりも提供しない。
そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。

「コミットメント」的報道は、その逆である。
その出来事がある具体的な個人にとって
どういう意味を持つのかしか語らない。
個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを
一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が
他ならぬこの人において、なぜどのゆおうに生じたのかを
「非人情的」な視点から分析することを自制する。
そこに「客観的冷静さ」を混じり込むことを嫌うからである。

いまメディアに必要なものは、
あえて抽象的な言葉を借りて言えば、
「生身」なのだと思う。

~~~ここまで一部引用

本屋は本来のメディアになりうる、と思った。
「デタッチメント」と「コミットメント」
を同時に提供できるからだ。

世の中を客観的に構造的にドライに見るヒントも本から与えることもできるし、
お客さんのパーソナルな話を聞き、共感し、寄り添うこともできるからだ。

人間的な「生身」のメディアとしての本屋。

「小さな本屋」は、そういう存在になれるのではないか。

私たちの多くは、ゆらいでいる。
(イチロー並みにブレない人もごく少数いる)

ゆらいでいるからこそ、
偶然を楽しみ、多様性に埋もれ、
予期せぬ何かや誰かに出会い、
さらにゆらいで生きていくのだろう。

小さな本屋はそんな存在になれるのではないか。

それが僕が「本屋というメディア」の先に見るものかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)

2017年06月26日

「学びあい」で希望を生む


「フォー・ビギナーズ・シリーズ 108 吉田松陰」(現代書館)

こんな本あったんだ。
と古本屋さんで買ってしまった。

やっぱり、僕の原点は(原点いっぱいあるな~)、
吉田松陰先生の野山獄エピソードだろうと思う。

たとえ獄中であっても、
一生そこから出られないとしても、
「学びあいで希望は生まれる」

ということを学んだし。
これだ!と直感し、すぐに萩に向かい、
野山獄跡地と、松下村塾(松陰神社)と松陰先生の墓に
手を合わせた。

学びあうこと。
考え続けること。
そういうのを作りたいのだ。

「カレーキャラバン」が楽しいのは、
「予測不可能」という価値を追い続けているから。

予想しなかったよかったことも
予想しなかった悪かったことも
彼らの中では等しく価値があるのだ。

いや、価値に等しいも等しくないもない。

そこに価値を感じる自分とチームメイトがいればいい。
それだけだ。

ツルハシブックスの店員サムライも
新城劇場のヤクシャも、
そういう仕組みをつくっているということ。

コメタクも、
なじみのお店ものがたりも、
夜景企画会議も、
インターンシップの設計も、

社長に挑戦セヨ!と題して、
「これは研修です」と
社長たちから参加費30,000円を徴収したのも、

それはともに学ぶ場をつくる
というコミュニケーション・デザインだったのだと思う。

そういう視点で、
もういちど整理してもいいのかもしれない。

学びあいの場をつくる。
そこに余白がある。

市場ってそういうものなのかもしれない。

そういう場所を必要としているのは、
コミュニティ難民な、中学生高校生大学生
そして20代社会人なのだろうと思う。

「余白のある学びあいの場。」

これをつくっていこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年06月18日

ハタチのためのブックガイド

ハタチのためのブックガイド
そんなのを作ってみようかなと思う。

岡倉天心の五浦で読むのがオススメ。
みたいなやつ。

じぶん編
しごと編
くらし編

おまけで
ばづくり編
とか。
かな。

みたいな感じですかね。

まずは「じぶん編」
「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)

まずはここから入門かな。
日本の学校環境の同調圧力について考えてみる。
鴻上さんの熱いメッセージにシビれる

そして「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
ここでは、自由と承認、そして「親和的承認」について理解する。

で、「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)かな。

この3つ。
これで「自分」と「他者」について
相対的に、全体的に、俯瞰的に見てみる。

次にどう生きていくか、視野を一気に広げる。
ヘリコプターで上に上がっていくような感じ。

「独立国家のつくり方」(坂口恭平 講談社現代新書)
自分たちが今見えている世界だけが世界ではないのだと実感する。

「自分とは何か」(平野啓一郎 講談社現代新書)
本当の自分など存在しない、「分人」を生きることを提案してくれる。

「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)
歴史的視点から、自分とはプリズムなのだと教えてくれる。
この3冊でさらに高い視点でじぶんを見つめなおす。

こんな感じ。

ちょっと続けます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)

2017年06月13日

「アイデンティティ」という音


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

まさか。
さっき書いたばっかりのブログの続きが
電車で開いた本に出てくるなんて。
どこまでも読書運が強い。

第2章 マルチプルな自己へ

一級建築士のいしまるあきこさんの
マルチな活動がひとつの肩書で言い表せない。
何屋さんですか?と言われたら、「きっかけ屋」と返すのだという。

そう「一級建築士の」と書いたけど、
それはわかりやすい肩書で、
いしまるさんの仕事は、
「〇〇のいしまるあきこ」とは言い表せないのだという。

どちらかといえば、「職業・いしまるあきこ」、
「いしまるあきこが〇〇も◇◇もやっている」
のほうがしっくりくる。
彼女自身が優れたメディアなのだと。

彼女の例をもとに、アサダさんは
自身が感じている「アイデンティティの揺らぎ」
について、次のように言う。

~~~ここから引用

2005年に上野千鶴子によって
編纂された『脱アイデンティティ』は、
アイデンティティの本質的含意に、
多様な切り口からの再考を促す
刺激的なアンソロジーだ。

上野氏はその中で、
社会学者ピーター・L・バーガーの論考を引きながら、
以下のように語る。


現実が社会的に構成されるものならば、
それを「生きられた現実」として経験する主体もまた、
社会的に構成される。
バーガーは、それを自己と現実の弁証法と呼んだ。

現実とは人間の能動的な活動が「外化(externalization)」
されたものであり、ひるがえってそれが「内化(internalization)」
される過程を経て、自己が形成される。
現実とはそのような弁証法的プロセスを得て構成された
「生きられた現実(lived experiences)」にほかならない。
☆(上野千鶴子『脱アイデンティティ』P18~19)

つまり、音楽で喩えるなら、
「個人練習」のみで自分なりの音を生み出すのではなく、
外にある世界(他者)との「セッション」を通じて、
音の質を磨き、その音に共鳴して
世界との「アンサンブル」もまた変奏され、
そして自分が次に出す音が定位される、というサイクルだ。

こうしてアイデンティティが社会的に
構築されるものだとわかれば、
逆に社会的に操作することも可能になる。

~~~

えっ。
マジか。
と思った。

さっきのブログを書いた後に、
この文章が飛び込んでくるなんて、
どうなってるんだ、読書の神様。

ジャズセッションによって、
自己のアイデンティティも磨かれていくのだとしたら、
楽しくなっちゃうなあ。

さらにアイデンティティについて、
佐々木敦さんの『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』
を引いて、次のように語る。

「アイデンティティという言葉が危険だと思うのは、
多数で複数の差異を抱えている存在様態の背後に、
もしくはその底に、「自分自身(トゥルー自分)」が
潜在していると考えてしまうからです。

僕はそれは、最初からあるのではなくて、
事後的に生み出されているものだと思います。

マルチエンディングがトゥルーエンドを
生み出すように、「マルチプル」であることが
「トゥルー」を引きずり出す。

つまり、あらゆる人間がもともとは一種の多重人格者として
生きているからこそ、アイデンティティという概念が必要と
なってきたのです。」

そして、次のように続ける。

▽▽▽ここから一部引用

私も世界もすでに、マルチプル(多様な、複合的な)であること。
つまり最初から「ひとりの自分」という概念を手放してしまうことができれば、
理解されないという悩みを根本的に打ち消すことができるかもしれない。

そして、それゆえにたったひとつの
「トゥルーな(本当の)自分」が
もしあるとしても、それはマルチプルに
生きていく中で事後的に生み出された
イメージとして存在するのみだという
事実に気づけば、いま目の前で起きている、
その時々の自分と他者とのコミュニケーションを肯定的に
捉えることができるだろう。

小説家・平野啓一郎は言う。
「すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
そこでこう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。
裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、
すべて「本当の自分」である。」

平野氏は分人という概念を提唱し、
人間を「分けられる」存在であるとする。
そして、
「一人の人間は複数の分人のネットワークであり、
そこには『本当の自分』という中心はない」と答える。

分人主義を突き詰めていく先には、
複数の分人のネットワークの総体
を何かしらメディア化して伝えたいという欲望を持ちながら、
メタ分人として他者に事後的に気づかせることを可能にし、
コミュニティ難民が抱える内的難民性をじわじわと
ポジティブに反転させてゆくのだ。

△△△ここまで一部引用

うんうん。
なるほどって。

大学生や20代が抱える「アイデンティティ」問題。
(いや、中学生高校生もだ。いやいや、僕もだ。)

その考え方の仮説として非常に興味深いし、
「ジャズセッション」のようなプロジェクトは
そのような個人のアイデンティティというか、
ひとつの「分人」が奏でる音を、
セッションしていくことなのだろうと思う。

場に合わせて、相手に応じて、
いろんな音が出せる楽器のような存在。
楽器のような人生。

本当の自分など、存在しない。

セッションを積み重ねて、
自分の音を見つけ、創っていくこと。

そんなセッションをつくるための
チューニングをするのが僕の役なのかもしれない。

そういうの、なんて言うんですか?
チューニングをする人のこと。
教えてください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年06月09日

パスを受ける準備はできているか?


「せいめいのはなし」(福岡伸一 新潮社)

「動的平衡」というキーワードで
対談しながら世の中を読み解く1冊。
第1章は内田樹さんと。

これは生物の世界と経済の世界の話を
リンクさせて語っている。

内田さんの「贈与経済」の話は、
前から読んでいたのだけど、
その表現方法が美しかったので、引用。

~~~ここから引用

富全体が増えていても、循環しなくなってくると、
経済システムの生命はだんだん衰弱してゆく。
いま、日本を含めて世界の経済システムが死にかかっているのは、
運動がなくなっているからだとぼくは思います。

回っている「もの」のほうに価値があると思い込んで、
回すことそれ自体が経済活動の目的なんだという
根本を忘れてしまったからだと思う。

だから、僕が提案しているのは贈与経済の復権なんです。
「交換から贈与へ」ということなんです。
要するに、受け取ったものをどんんどん次にパスしましょうよ、と。

90年代以降、商品は
個別的な有用性や実用性(使用価値)を離れて、
象徴価値(所有者の帰属階層やアイデンティティを示す能力)
にシフトします。

消費行動が誇示的なものに変わった。
こんな服を着て、こんな家に住んで、
こんな車に乗って、こんなものを食べて・・・
ということを誇示することで、
自分自身のアイデンティティを基礎づけた。

物欲には身体という限界があります。
1日に食べられる消化能力を超えられないし、
着られる服の数だって限られている。
でも、自己同一性を基礎づけるための消費には
「これで終わり」ということはありません。

~~~ここまで引用

なるほど。
経済も生物も「動的平衡」なのだと、まわし続けることだと。

それを無限に続けるために、
「誇示的消費」が生まれたのだなあと思う。

しかし、誇示的消費は、自己矛盾を抱えていて、
自分自身が唯一無二であるというアイデンティティを、
ものを買うことで満たすことは、
その「もの」自体が、ある一定層の人が
一定数持っていなければいけない。

そんな自己矛盾を抱えている。そしてそれが
「自分らしく生きるためには『自分らしさ』を誇示する
商品を買うためのお金が要る。」という理屈を生み出し、
お金がない人はまだ自分になっていない、ことになり、
ネットに「名無し」という名乗りで書き込み続け、
アイデンティティを誇示するしかない。

これが三浦展さんの「第4の消費」で説明されているような、
必需品が終わったあとの需要の喚起のために、
経済界がとった(結果として、かもしれないが)戦略であった。

そして、これに続く内田さんのたとえが素晴らしくて、引用

▽▽▽ここから引用

でも、これはやはり発想の根本が間違っていると思う。
どんな商品を所有していようとそんなことは
本来何の関係もない。

クラ交易と一緒で、貝殻自体には何の意味もないんです。
問題はそれをどうやってパスするかということであって、
パスの仕方によってのみその人のアイデンティティは示される。

サッカーやラグビーのようなボールゲームには
太古的な起源があると思うんです。よくできている。
人間が営むべき基本的社会活動の原初的な構造を持っています。

与えられたものは次に渡さなければならず、
渡すときにできるだけ多様な形の、自由で、
ファンタスティックで、予想を裏切るようなパスを
しなくてはいけない。

ボールをもらったらワンタッチで次にパスしなければいけない。
だから、パスをもらってから、そこで「次、どうしようかな」
と考えていたら間に合わないのです。

ふだんからずっと考えていなくちゃいけない。
いつもいつも「いまパスをもらったら次にどうパスしようか」
を考えている。

贈り物の受け手がどこにいて、
どんなふうに自分を待っているか、
自分がもらったら遅滞なく次に渡す相手に
あざやかなパスを送ることだけを
日々、考えているような人こそが、
贈与経済の担い手になりうる人だと思うのです。

与える先は、ボールゲームと同じで、
「その人の前にスペースが空いている人」です。
次にパスする選択肢がいちばん多い人。
ボールゲームでは必ずそういう人に向けて、
パスが送られる。

もらったボールを退蔵する人や、
いつも同じコースにしかパスを出さない人の
ところにはボールは回ってこないんです。

そういう点で、
ボールゲームの意義は、人間の経済活動の、というよりも
社会を構成していくときの根本原理が
書き込まれているんじゃないかとぼくは思っているんです。

△△△ここまで引用

うわああ。
すげええ。
もう、シビれちゃったよ。

今日のブログは、本当は、
アサダワタルさんの本を引用して、
「余白」について書こうと思ったのだけど、

朝、ふと目に留まったこの本を読んでたら
うお~!って叫びたくなっちゃった。

パスをもらうためには、
「目の前にスペースを空けておくこと」
「次にどこにパスを出すか、考えていること」

そしてなにより、
「多様な形の、自由で、ファンタスティックで、
予想を裏切るようなパス」をしなくてはいけない。
しかも瞬時に。
それこそがアイデンティティなのだ。

うーー。
唸るわ。

そういう意味では、
古本屋って、とっても素敵な仕事だな、って。

受け取った本を、ワンタッチで、
ファンタスティックで、予想を裏切るように
棚に並べ、
次のプレイヤーにパスを出す。

そこには、前にスペースが空いている
プレイヤーがやってきて、
そのパスを受け取って、先に送る。

それをぐるぐるぐるぐる回していく、
それが古本屋という仕事なのではないだろうか。

まるでラグビーのように、
ボールを持った人が、まずは突破していき、
絶妙のタイミングでフォロワーにパスを出す。

そうやってパスをつないでいくような仕事。
そんな仕事をしたいと思う。

あなたのまわりに、
そんな「突破」をしている人がいないだろうか?

そしてそもそも、
あなたの前にスペースは空いているのだろうか?

パスを受ける準備はできているか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)

2017年06月07日

あなたのために、このお店を始めた

「お店をやる」ってどういうことだろう。

2014年11月24日。
http://hero.niiblo.jp/e457867.html

中学2年生のメイちゃんが
ツルハシブックスに屋台を出した日。

メイちゃんは、その少し前
お父さんに連れられて、
お姉ちゃんの塾のお迎えのための
時間つぶしにやってきた。


その日は、「鶴酒場」という飲み会中だった。

えっ。
なんだここ。
とビックリしたと思う。

聞けば、部活を辞めたばかりで、
何に打ち込めばいいのか、
もやもやしているのだという。

「屋台、やってみればいいじゃん」
そんな声を掛けた。

それが実現したのが、2014年11月24日。
今では高校に元気に通っている。

そしてもうひとつ、2012年12月23日。
http://hero.niiblo.jp/e222624.html

「失恋に効く本、ありますか?」
とクリスマス直前に入ってきた学ランの高校2年生男子。

彼にテキトーにアドバイスする大人たち。
「詩を書けっ。今ならいい詩が書ける。」
ってそんな・・・

その日は2Fでクリスマスライブがあって、
みんなそのため、1Fからはいなくなる。

ライブの受付を終え、1Fに戻ってみると、
彼は、まだいた。

少し明かりを落とした店内で話をしていた。
フリー看護師(当時)のなっぱさんと。

そして、力のない笑顔でこう言って帰っていった。
「また来ます。」

お店には、そんな瞬間がある。
いや、仕事には、人生にはそんな瞬間がある。

それを、リアルに感じられる場所。
偶然を起こせる場所。
それが小さなお店なのかもしれない。

僕の仕事観、人生観は、
工藤直子さんの「あいたくて」
に集約されているのだけど、

「あいたくて」工藤直子

 あいたくて
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきた──
 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか
 あえるのは いつなのか──
 おつかいの とちゅうで
 迷ってしまった子どもみたい
 とほうに くれている

 それでも 手のなかに
 みえないことづけを
 にぎりしめているような気がするから
 それを手わたさなくちゃ
 だから

 あいたくて

お店をやるっていうのは、
渡さなければいけない気がする手紙を
預かっているからで、それを渡したいのだろう。

それを渡す相手が誰なのか?

それが顧客は誰か?
という問いなのだろうと思う。

小さなお店に立っていて、
次に入ってくるお客さんが、その人なのかもしれない。
暗やみ本屋ハックツに寄贈した本が、
もしかしたらその人に届くかもしれない。

そんな瞬間に立ち会えるかもしれない。

だから人は、小さなお店を始め、
あるいはハックツに本を寄贈し、
そして中高生と一緒に本屋を運営するのだろう。

「あなたのために、このお店を始めたんだ。」

そう思える瞬間のために。  

Posted by ニシダタクジ at 05:28Comments(0)

2017年06月06日

2人の「顧客」


「経営者に贈る5つの質問」(P.F.ドラッカー ダイヤモンド社)

最近よく出てくる
「5つの質問」をあらためて
考えてみようと思って購入。

もともと、5つの質問は
非営利組織のために書かれたのだという。

非営利組織は、損益というコンセプトが
ないからこそマネジメントが必要であり、
ミッションに集中するにはマネジメントを
駆使しなければならない。

そうそう。
そうなのだ。

非営利組織の評価は売上や利益だけでは測れない。
だからこそ、顧客と顧客にとっての価値を
問い続け、検証し続けなければならない。

今回得た新しいエッセンスは、
組織には、二種類の顧客がいる、ということ。

~~~ここから引用

一方は、活動対象としての顧客(プライマリー・カスタマー、主たる顧客)、
すなわち組織の活動によって生活と人生を変えられる人たちである。
組織が成果をあげるには、活動対象としての顧客を絞らなければならない。
「われわれの顧客は誰か?」という質問に答えなければならない。
焦点を絞らなければ、エネルギーは拡散し、成果はあがらない。

もう一方は、パートナーとしての顧客(サポーティング・カスタマー、支援者たる顧客)
である、ボランティア、有給スタッフ、寄付者、委託先など、
やはり組織の活動によって満足させるべき人たちである。

彼らパートナーとしての顧客は、組織が提供するものに
ノーと言える人たち、つまり組織の活動とのかかわりを
拒むことのできる人たちである。
彼らこそ、組織が意義ある奉仕の機会を与え、
その寄付を成果に結びつけ、その活動をコミュニティのニーズに
応えさせることによって、満足させるべき人たちである。

活動対象としての顧客だけが顧客ではない。
パートナーとしての顧客が満足しなければ
成果をあげることはできない。
そこで、パートナーとしての顧客を
活動対象としての顧客と並置したくなる。
しかし、組織が成果をあげるには、
その焦点はあくまで活動対象としての顧客に絞らなければならない。

~~~ここまで引用

なるほど~。
パートナーとしての顧客か~。

ツルハシブックスのサムライとか
新城劇場のスタッフ(現在呼び名検討中)は、
きっとこれですね。

新城劇場のマキちゃんのブログ。
http://ameblo.jp/22375324/entry-12281148750.html

新城劇場は、
「活動対象としての顧客」を「中学生・高校生」に設定している。
地域の中学生・高校生が変な本屋に出会い、
屋台で何か売ってみたりするような本屋さんを目指す。

そして、
「パートナーとしての顧客」を「大学生・20代社会人」を想定している。
彼らが、店員となって、劇場をプロデュースする。
自ら何かを売ってもいい。

「活動対象としての顧客」の価値は、
これから対話をしながらつくっていかなければならないが、
ツルハシブックスや暗やみ本屋ハックツなどでの経験からいけば、

「地域の大人との出会いによる視野の広がり」
「部活に代わる第3の熱中できる場の提供」
であり、そのためには屋台でモノを売ってみる、とか
自らもスタッフになって何かを企画・実行する、とかがいいと思っている。

一方で
「パートナーとしての顧客」の価値は、
第1に「本屋のある暮らし」ができること。

そしてそれは、本屋のお客として、ではなく、
本屋の店員として、の暮らしである。

新城劇場で店員をやる。
それは、劇場の中の演者になるということ。
入ってきた人はお客さんではなく、共演者であるということ。

そんな時間があるような暮らしを
大学生や20代は必要としているのではないか。
いや、実際、僕が必要としているのだけど。笑。

なんというか、マキちゃんがブログに書いているように、
「生きてるな」っていう感じがあるのだろうと思う。
日々、「生きてるぜ」って実感しながら生きたいと僕も思う。

そしてそれが
「パートナーとしての顧客」であるスタッフの価値であるのではないか。

また、「活動対象としての顧客」を呼ぶために、
どのようにアプローチするか?を問いかけ続けることによって、
あるいはスタッフ皆でミーティングすることによって、
そこには「思考する時間」そして「学び」があるからだろうと思う。

そんな連鎖を生み出すことによって、
「武蔵新城」というまちの魅力を高めていくこと。
シンプルに言えば「住みたいまちをつくる」ということ。
それが「新城劇場」プロジェクトなのだろうと思った。

さて。
今週末10日(土)は、暗やみ本屋ハックツ@新城劇場のオープンです。
10代に贈りたい本を持って、遊びに来ませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:04Comments(0)

2017年06月04日

国家がプロデュースした「神話」と博物館という「神殿」


「誰も戦争を教えてくれなかった」(古市憲寿 講談社)

移動があったので、1日で読み終わりました。
3時間くらいかな。
古市さんのスタイルは読みやすいし、
随所に出てくるツッコミが好き。

さてさて。
「あの戦争」について、28歳(当時)の古市さんが、
世界各地の戦争博物館を見て回り、
その考察を1冊にまとめた本。

いわゆる、「戦争本」とは違い、
なんだろう、メタ的に「戦争」を
遠目から眺めようという感じ。
社会学好きな人にオススメ。

読書サーフィンというか。
この本も川崎駅のブックオフで買ったのだけど、
最近は、読む本がみんな関連しているようで
とっても楽しい。

最近のテーマは、
「就職」とか「キャリア」を考える前に「近代」をどうとらえるか?
「国民国家」というシステムをどう考えるか?
ということなのだけど、そういう意味でも今回の本はとても面白かった。

「近代国民国家は、政教分離という「政治に宗教の力は借りません」
という宣言からスタートした。
だけど人をまとめあげるのに宗教ほど便利なものはない。
そこで、宗教に代わる新しい神と、
新しい国民神話を、国家プロデュースのもと作ろうとした。」

つまり、博物館は「神殿」なんだと。

「近代」というのは、戦争の時代であり、
中世との最大の違いは、
戦争において国民が戦うということだ。

なるほど。

産業革命にともなう、急速な人口増。
それに伴う資源の不足。
それを他国や南方に求めた西欧諸国。
その前に「民主主義」の成立があった。

民主主義だろうが、貴族が国を治めていようが、
国というシステムを採用するということは、
誰か政治をする人がいて、その政治を受け入れる人がいるということ。

フランス革命のあと、時の為政者たちは、
宗教に代わる国家プロデュースの神話をつくろうとした。

日本も同じだ。
明治政府は天皇を神とする国民国家へと
一気に舵を切った。

堀江さんが
「すべての教育は洗脳である」(光文社新書)
に書いているように、
「国民国家」そのものがファンタジーなのだと。

だから、現在、世界各地の
戦争博物館を見て回ると、
その国の戦争に対するスタンスがわかる。

ドイツは、敗戦国としての責任を甘受しようとしているし、
イタリアは、国家という意識がそもそもないから、
国のスタンスとしての博物館がない。

中国は、日本に侵略された歴史を少し語り、
韓国は、朝鮮戦争後の独立を語る。

しかし、我が国の博物館は、
明確にスタンスを決めることなく、
いろいろな主張に配慮した展示となっている。

でも、きっと、
日本はそういうものなのだ、と。

「誰も戦争を教えてくれなかった」のは、
「大きな物語」、つまり統一見解として、
いまだに「あの戦争」を位置づけられていないからなのだと、
古市さんは言う。

そういうことが苦手な民族なのかもしれない。
あるいは、為政者たちに「経済成長」という物語に
意図的にシフトさせられたのかもしれない。

時代の流れで、
民主主義が起こり、近代国民国家が成立した。
国民が国のために戦う「国民国家」は戦争にめっぽう強かった。
そしてアジアがそこに巻き込まれていく、そんな時代。

為政者はいつも、民衆には思考停止を望む。
それのほうが効率的だからだ。

戦争博物館を通じて見えてくる、国家と国民の関係。
国民国家という仮説。

それって今の
企業と個人の関係にも似ているのではないなと思うのだ。

思考を深めるいい1冊でした。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:41Comments(0)

2017年05月29日

「近代」というアイデア・テクノロジー


「なぜ働くのか?」(バリー・シュワルツ 朝日出版社)

を読んだ後で、

「近代の意味」(桜井哲夫 NHKブックス)
を読んでます。

「近代」がどのように、
人々を洗脳していったのか。

「近代」あるいは「民主化」は、
上昇志向(努力すれば出世できる)という「平等」を共有することで、
国家のために生きる人々を作り出す。
その装置として、学校というシステムが生まれた。

「なぜ働くのか?」の中で
著者は、「テクノロジー」について、
新しい見方を提案しています。

~~~以下引用

「テクノロジー」の概念を、
日常生活の状況を変えるために人々の知性が
生み出した物や手段と考えるなら、
アイデアもまた、コンピューターに勝るとも劣らない
テクノロジーの所産であることは自ず明らかでしょう。

ところで、多くの「モノのテクノロジー」と
「アイデアのテクノロジー」を分け隔てる要素が2つあります。

第1に、アイデアは物体とは違って、
気づかれないうちに人々に深い影響を及ぼします。

第2に、アイデアは、モノとは異なり、
たとえそれが間違ったものであっても、
人々に重要な影響を及ぼす可能性があります。

企業は悪影響を及ぼすテクノロジー製品を
売り続けることはできませんが、

誤ったアイデアは、人々がそれを信じるかぎり、
その行動に影響を及ぼすのです。

誤ったアイデアに基づいた
「アイデア・テクノロジー」を「イデオロギー」
と呼ぶことにしましょう。

アダム・スミスによれば、

「ごく限られた単純労働だけをこなして生きてきた人物は・・・
自らの見識を披露する機会、もしくは、経験したことのない
困難に対処するための創造性を行使する機会を持たない。
彼は、それゆえに、努力するといった習慣を自然と失い、
人間という生物がそうなりうる限りに、
愚かで無知な存在へと概してなっていくのである」

のだという。

ここで注目すべきは
「失い」と「なっていく」というキーワードです。

では、工場で働く人々が
以前は持っていて、その後「失った」ものとは一体なんでしょう?

この引用には、
働き手としての人間のあり方は、その人の働く環境による、
そうスミスは信じていたという証拠を見てとれます。

しかし、いつのまにかこの微妙なニュアンスは
忘れ去られ、経済的効率のみに意識が向けられ、
労働環境が非人間的なものに変化していったのです。

~~~ここまで引用

このあと、「やればできるの研究」の
ドゥエック博士を引用しながら、
物質的インセンティブが機能しない理由などに
ついて語っていきます。

これが「近代」の意味という本では、
フランスに国民国家社会が出来上がっていくまでが
段階を追って書かれています。

僕たちは、
「近代」というアイデア・テクノロジーを
無条件に信じてはいないだろうか?

そんな問いをくれる2冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年05月26日

「未成年」を抜け出る


「わたしのはたらき」(西村佳哲 弘文堂)

のラストから引用

西村さんが今回の嬉しい出会いのひとつとして
坂口恭平さんが紹介したカント「啓蒙とは何か。」

~~~ここから引用

「啓蒙の定義。啓蒙とは何か。
それは人間が、自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだ。」

“抜け出る”ことだと書いてある。
“抜け出させる”ことではなないんですね。

「未成年の状態とは、他人の支持をあおがなければ、
自分の理性を使うことができないということである。」

この文章に少しドキッとします。
とくに「未成年」という言葉に。

それは自分に「その部分はありはしないか?」
というのが一つ。

あと、
「人を未成年の状態に留めておくような仕事を、
自分はしてはいないだろうか?」と

「ほとんどの人間は、自然におしても
既に青年に達していて、他人の指導を求める
年齢ではなくなっているというのに、
死ぬまで他人の指示をあおぎたいと思っているのである。」

「また他方では、あつかましくも、
他人の後見人と僭称したがる人もあとをたたない。」

人に「ああしなさい」「こうすべきだ」と指図する人たち。
いまで言えば自己啓発をビジネスにしている人たちが
該当するんでしょうか。

書かれたのは1784年ですから、230年前からいるのか。

ということは、他人に指南を求める心性も
現代人の特質というわけではなくて、
その資質として人間が持っているものなのかもしれない。

それでもなお、「本人がみずから抜け出る」
ことが大事であると考えるなら、重要なポイントは、
「大人になりましょう、と諭すことじゃない。
ちゃんと「大人扱いする」ことだと思うわけです。

~~~ここまで引用

なるほど。「未成年」の状態から、本人がみずから抜け出ること。
これって、「20代の宿題」なんじゃないかな。

自分で考え、自分で判断し、行動する。
そして結果を他者からフィードバックをもらいながら、
みずから受け入れていく。
きっと、この繰り返しでしかない。

会社や世の中のせいにしない。

今年2月、岡倉天心から学ぶこれからの成人式という
タイトルでプレゼンをした。

岡倉はまさに、
未成年の状態を抜け出した人だったと思う。

自らの感性を信じて、
東京美術学校(現東京藝大)を飛び出し、
インドにわたり、五浦に日本美術院を移設。
そして世界へ、自らの理想と思想を発信し続けた。

五浦に、その魂が眠っている。

それを拾いに行くところから、
20代の宿題は始まるのではないか。

五浦からはじまる、
これからの成人式、僕は強くお勧めします。  

Posted by ニシダタクジ at 05:48Comments(0)

2017年05月25日

チームという生命体


「わたしのはたらき」(西村佳哲 弘文堂)

年明けからつづく、
西村さんキャンペーン、ついに6冊目。
「自分の仕事を考える3日間」シリーズのラスト。

皆川明さんのところでシビれまくった。

ミナ ペルホネンという洋服ブランドを展開する皆川さん。
もともとは陸上競技ひとすじで体育大に行くはずだったのが
インターハイで大きな骨折をして選手生命を絶たれる。

体育と美術しか能がないと思っていた皆川さんは、
高校を卒業して、何か月かアルバイトして、
そのお金でヨーロッパに行ってみた。

最後にパリについたら、ちょうどパリコレを
やっていて、たまたま出会った日本の某ブランドの人に
「手伝わないか?」と言われて仕事をはじめる。

すごい。
そんなふうに始まるのだね、仕事って。

ということで
~~~以下メモ~~~

不器用だと飽きずにその仕事ができるんじゃないかなと。
できる感覚がすぐ芽生えてしまわないことで、
逆に一生できるかもしれないと。
それで、「この仕事に決めた!」と思ってしまったんです。

最初の生地のところから一貫して洋服をつくることを
ひとりでやってみようと思ったのがミナの始まりでした。

アルバイトをしながら洋服づくりの仕事もできるんじゃないか。
で「お金はいいので教えてください」と染屋さんや機屋さんにお願いして。

魚市場で冷凍マグロをさばく仕事を始めたんです。
ミナの仕事の基本的な考え方はその魚市場で形成された
と思っています。

あと大事にしたいと思ってやってきたのは、
経済効率を優先させないことです。
ファッション業界全体は良くも悪くも合理化されていて、
モノの完成度より物流と経済性の方が優先されている。

でも洋服を換金して利益を生もうと思ったわけでもなくて、
洋服そのものをつくってみたいという気持ちで始めたわけです。
そこがブレてしまうと、この職業を自分が選んでいる意味がなくなる。

目上のクリエイターが「自己満足じゃだめなんだよ、君」と言う。
若い頃それを聞いて、「自己満足がなかったらダメじゃん」と思ったんですよね。
「自己満足のないものを世の中に発表するのは、不誠実なんじゃないの?」と。

「“やめない”ことだけ決めて、始めてみよう」

鈴木大地という水泳選手を覚えていますか?
あの人が金メダル獲った時のバサロスタートが
僕は目に焼き付いていて。
自分もバサロだと。

貨幣価値とともに、働いている人の精神的な満足も生み出したい。

つづいていくなら、自分がやぅていなくてもいいんです。
始めた時は自分自身に近かったものが、
いまは一つのフィロソフィー(哲学)を軸にした生命体のようになっていて、
そこに僕も属して役割としてデザインや経営的な判断を担っている。
そんな状態なんです。

間違えて、「ミナに入った頃は」と言っちゃう時があって。
「別の方が始めたんですか?」と訊かれたり。(笑)

服は考えが社会と接した結果です。
だから一つのモノや一人のクリエイターの素晴らしさより、
それを生み続けるベクトルというか、生命体の方にすごく興味があるんですね。

ブランドの個性は各時代のチームごとに違っていい。
社会と連動しながらやっていけばいいと思うんです。
けど、つくる姿勢や考え方。

モノはこのようにつくり、互いに満足感のある働きをして、
形にした価値が人の生活の中できちんと機能して、それが社会の潤いにもなる。
そういうものをデザインしていこうという姿勢は、
変えずに積み重ねてゆけるものだと思う。

「100年間つづくブランドの最初の30年を受け持つんだ」、
と考えれば、やることは明確です。
「準備が仕事なんだ」と思えれば、役割がハッキリするし、腰も据わる。

100年近く経つと、それがようやくフィロソフィーとして
揺るがない形になる気がする。
それは、「リレーしてみたいな」と思うんです。

バトンゾーンってわかりますか?
そこでは渡す側も、もらう側もトップスピードで走る。
僕もあと数年すると、そんなバトンゾーンに入ると思っています。
トップスピードに入って、次のクリエイターも加速し始めて。

そしてバトンを渡すときには、「もう楽勝」みたいな表情で
次の人に感情もタッチしないといけない。「もうヘトヘトです」じゃなくて。
姿が見えるくらいの頃から、「ノリノリです。あなたもイケます!」みたいな感じで渡す。
それがどんどん継続していくようにしたい、と思っているんです。

~~~以上メモ~~~

うわあ、いいなあ。
チームという生命体。
それは人が変わっても続いていく。

この前「資本主義を語る」(岩井克人 ちくま学芸文庫)で
読んだ、日本的な「法人」の考え方に近い。

そしてなにより、ココ
「でも洋服を換金して利益を生もうと思ったわけでもなくて、
洋服そのものをつくってみたいという気持ちで始めたわけです。
そこがブレてしまうと、この職業を自分が選んでいる意味がなくなる。」

ツルハシブックスを経営的に成り立たせようと思って、
試算をしたことがある。

ジュンク堂並みに売れればいい。
と。

ジュンク堂の売り上げを坪数で割って、
さらに営業時間で割って、
それに自分の店の営業時間と坪数をかける。

そうすると、坪・時間あたりの
目指すべき売上の数値が出る。

試算してみたら、ツルハシブックスは、
1000円の本を10秒に1冊売らなければならなかった。

それはツルハシブックスじゃない。
って思った。

僕がやりたかった本屋じゃない。
10秒に1冊本を売るような店では、
人と話をすることができない。

ツルハシブックスやハックツという何か。
それが生命体として続いていくような、
あるいはコメタクもきっとそんな感じだ。

ああ、こういう話、吉野さくらちゃんと話したい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)

2017年05月17日

本を通じて「手紙」を届ける

川崎市・南武線武蔵新城駅の前で進んでいる
「新城劇場~屋台のある本屋」プロジェクト
昨日はスタッフ合宿が行われていたみたい。

今度の日曜日、21日からは、
ついに、「暗やみ本屋ハックツ@新城劇場」
の工事がスタート。
(工事に参加してくれる10代・大学生を募集しています!)

「暗やみ本屋ハックツ」
2015年9月から毎月1回東京・練馬・上石神井でコツコツと
回数を重ね、20日に近所のカフェへ移転・再オープンする。
(5月からは第3土曜日が定例になります)

武蔵新城では、随時オープンな場にできそうで楽しみ。

この前、ラジオのインタビューで答えたのだけど、
「屋台のある本屋」の近い将来イメージは、
今度の夏休みくらいには、高校生が屋台で
小商いを始めているような場所になるといいなと思っている。

アクセサリーを作って売ってもいいし、
古本屋さんをやってもいいし、
雑貨屋さんをすたーとしてもいい。
資金がなかったらクラウド&リアルファンディングするのもありかな。

そんな高校生を発掘するための
きっかけにもなる「暗やみ本屋ハックツ」

サンクチュアリ出版の金子さんが顧問となって、
大きな推進力となっている。
(僕がサンクチュアリで営業をしてたころは上司だった。)
※6月10日(土)には武蔵新城に金子さん登場します。

金子さんと、2015年の上石神井オープンのとき、
福岡・大阪ツアーに行って、トークライブをした。

そのときに強く思ったこと。
ハックツは「手紙」なんだってこと。

10代に本を届ける、のではなくて、
本を通じて、手紙を届けるのだと。

「手紙」といえば思い出さずにはいられないのが、
2008年、NHK合唱コンクールの課題曲、アンジェラアキの「手紙」。
歌いながら涙する中学生の姿が日本中に届けられた。

~~~以下、2015年3月31日のブログより引用

苦しい。
なんという違和感。

いまでも僕は、
この歌を聴いて、共感はするけど、
僕は何とも言えない無力感に襲われる。

「十五の僕には誰にも話せない悩みの種があるのです。」
という十五歳の自分に対して、
「自分とは何でどこへ向かうべきか問い続ければ見えてくる。」

って。
そんな道徳的なことを言って、
果たして15歳は救われるのだろうか?

「誰にも話せない」のはなぜなのか?

そもそも「誰にも」の「誰」が
親と友達、学校の先生しかいないのではないか?
だから15歳はネット上に救いを求めているのではないか?
そんな地域社会に誰がしたのか?

そう思うと、僕はなんとも言えず悲しくなる。

~~~以上ブログより引用

そんなやり場のない憤りを感じた2008年だった。

「暗やみ本屋ハックツ」は、
地域の大人が寄贈した本にメッセージを書き、
それを暗やみで懐中電灯の灯りを頼りに、
10代が本を探し、ハックツするという仕組み。
気に入ったら1冊100円で買うことができる。

そのメッセージは「手紙」だ。

実は、暗やみ本屋ハックツは、
本を届けるのではなくて、「本」を通じて、
10代へ「手紙」を届けるプロジェクトなのである。

金子さんと話をすると、
売れた本には、「手紙」の要素があるという。
僕は金子さんとトークをしたとき、
ああ、仕事って本当は手紙なんだって実感した。

工藤直子さんの詩「あいたくて」が
僕の仕事観を表しているのだけど。

あいたくて
工藤直子

 あいたくて
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきた──
 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか
 あえるのは いつなのか──
 おつかいの とちゅうで
 迷ってしまった子どもみたい
 とほうに くれている

 それでも 手のなかに
 みえないことづけを
 にぎりしめているような気がするから
 それを手わたさなくちゃ
 だから

 あいたくて

この詩が僕の仕事観、人生観の出発点になっている。
にぎっている手紙を渡さなきゃいけない気がするから、
今日も仕事に行くのではないだろうか。

ドラッカーの質問でいえば、顧客はだれか?
という問いである。

そして、暗やみ本屋ハックツは、
それを端的に具現化したものであると思う。

手紙を届けたい相手を想像して、
手紙を書き、それが1人の人に届く。

そういう意味では
「暗やみ本屋ハックツ」は、
本屋ともライブラリーとも違う、何かであるように思う。

テレビの中からアーティストが
「負けないでがんばれ」と言うことで
多少の癒しはあるかもしれない。

でも単なる近所で今を生きている一オッサンから
届けられる本とそこに付いた一遍の手紙。

それは、文章そのものではなく、
そこにある「思い」こそ、「祈り」こそが価値だ。

そしてそれが何かの「きっかけ」になる。

そんなものを届ける本屋が武蔵新城にもできます。

あなたも10代に手紙を届けませんか?
寄贈本、随時募集しています。

  

Posted by ニシダタクジ at 05:49Comments(0)

2017年05月13日

仕事と遊びの境界線をあいまいにすること


「中身化する社会」(菅付雅信 星海社新書)
読み終わりました。

ラストの引用は鋭いものばかりで、
トリハダものだった。

その中でも飛びきりのメッセージがこちら
「普通をやめよう、生きるために」
http://rootport.hateblo.jp/entry/20121004/1349356161

スピルバーグやジェイミー・オリバーを
例に出して、
彼らは「ふつうの生き方」を選ばなかったのだという。

そしてラストはこう締めくくられる。

~~~以下引用

いま、世界は“ふつう”の人が生きづらい時代へと向かっている。
あらゆる単純作業が機械に置き換えられ、人間の仕事が恐ろしい速さで減っている。
創造的な活動だけを残して、人のすべきことは無くなりつつある。
当たり前のことを当たり前にできるだけでは、とても生きていけない時代がやってくる。

それが100年以上先なのか、それとも20年もかからないのかは判らない。
しかし、遅かれ早かれ“ふつう”の人の居場所は無くなる。
障害を乗り越えた人々の活躍は、そんな時代を生きる私たちに勇気をくれる。
「あなたは普通だね」と言われるのは、ほんとうはとても怖いことだ。
今の時代、「普通の人」って最悪の蔑称だ。「ちょっと変な人」と呼ばれるぐらいでちょうどいいのだ。

普通をやめよう、生きるために。

~~~以上引用

坂口恭平も
著書「独立国家のつくり方」の中で、

「常識というものは、文句を言わないようにというおまじないである。
まずは、そのおまじないから解放される必要がある」

「やりたいことを無視して、自分がやらないと誰がやる、
ということをやらないといけない。」

と説く。

そして僕が最もシビれたのは、リンダ・グラットンの
「ワーク・シフト」(プレジデント)からの引用だ。

グラットンは、3つの面で従来の常識がシフトしなければならないという。

第1に
「ゼネラリスト的な技能を尊ぶ常識」
第2に
「職業生活とキャリアを成功させる土台が個人主義と競争原理だという常識」
第3に
「どういう職業人生が幸せかという常識」

これら3つの常識が
問い直されないといけないという。

そして、このように述べる。

「未来の世界で創造性を発揮するうえで最良の方法は
間違いなく、仕事と遊びの境界線をあいまいにすることだ。

仕事が情熱を燃やせる趣味であるとき、私たちは最も充実した仕事ができる。
そして、情熱を燃やせる趣味が仕事であるとき、私たちは最も充実した趣味を満喫できる。」

このような文章を引用しながら、
著者は、最終的には
「人生の作品化」が必要であり、
人は常に、「人生を編集している」のだと。

なるほどなあ。

人生の編集者であり、
人生という作品をつくっているような生き方。

そんな生き方をひとりひとりが
求められる時代になっているのだなあと改めて感じた。

「生きる」ってことを
もっともっと考えなきゃいけない時代になりましたね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:10Comments(0)

2017年05月10日

現代の聖職者


「情報の文明学」(梅棹忠夫 中公文庫)

まさかの。
おととい読んでいた本に引用されていたので、
ほしいなあと思っていたら、近所のブックオフにありました。
108円。読書運、まだまだあるね。

まだ読み始めだけど
面白かったので。

情報業の先駆者たち、と題された
「情報産業としての教育、宗教」の項

~~~以下引用

より組織的に、情報を売ることを
業務としてのは「教育」の仕事であった。

現実に、一定の情報を伝達することによって、
伝達者の生活がまかなわれ、
伝達組織が維持されるものである以上は、
基本的構造は同じである。

その意味では、
組織化された教育制度そのものが、
現代における情報産業の先駆型なのである。

その意味からも、
ラジオ、テレビの放送人たちを
「現代の聖職者」とよんでも、かならずしも
見当ちがいではないはずである。

宗教集団とは、
神を情報源とするところの、情報伝達者の組織である。
「神聖化」という特殊処理をうけた
一定のタイプの情報を大衆に伝達すれば、
その伝達行為によって生活をささえることが
できるということを発見したとき、情報業の先駆形態としての
宗教が発生し、職業的宗教家が誕生したのであった。

~~~以上引用

なるほど。
情報産業というのは、現代において生まれたものではなく、
昔から存在し、教育と宗教もそれによって、
職業として成り立つ(すなわち食べていける)としたら
それは情報産業に他ならないのだという。

うむうむ。

まだ読み進めていないので、
どう展開するかわからないのだけど、

そこに近代社会的な「効率化」が加わると、
何かが変化するのかなと思う。

効率化は記号化を生み、
システム化は、提供者と消費者の違いを生む。

これはおもしろそうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)