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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2018年01月17日

「自由」への学び(前編)


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)

読み進めています。
オランダの公教育を題材に
深く教育について問い直す1冊。

第4章の苫野一徳さんのところが
学び多いので、メモします。

~~~以下メモ

現在において、「自由」に生きるための力とは何か。

現在とは、「知識基盤社会」と「グローバル化社会」である

「知識基盤社会」。
産業主義社会が終わり、ポスト産業主義社会を迎えた今、
すでに多くの商品が市場に行き渡っています。

単純な大量生産・大量消費はあまり成り立たず、
企業は、さまざまなサービスや付加価値を見出し続けなければなりません。

産業主義社会においては、
多くの企業が求める人材の大多数は、
一部の経営者層の支持に従い、
「言われたことを言われた通りに効率よくこなす」
ことができる労働者であったと言えるでしょう。

そのため、学校教育もまた、
子どもたちに、「決められたことを決められた通りに勉強させる」
ことが、ある意味では求められていたと言えるでしょう。

ポスト産業主義社会(知識基盤社会)では、
「言われたことを言われたとおりにこなす」
だけでなく、みずから考え、また多様な人たちと協同して
課題を解決していける、そんな力が求められるようになっているのです。

「学び続けることを余儀なくされる」現代社会においては、
「学ぶ力」「考える力」「考え合う力」を
すべての子どもたちに育み、保障しなければならないというべきなので。

この息苦しい時代・社会において、
どうすれば自分なりの幸せや喜びや自由を
得られるのだろうか?

そのための力能は
いったいどのようなもので、どうすれば学び取っていくことができるのか?
子どもたちは、こうした問いを、ただ教育から受け身に与えられるだけでなく、
みずから考え、学び、そして多様な人たちと協力し合って、答えを
見出していく必要があるのです。

「決められたことを決められた通りに」
「言われたことを言われた通りに」
勉強させることが中心の教育では、
そんな子どもたちを力強くはぐくみ支えていくことは困難でしょう。

以上のような学力観の転換は、一般に
「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ」
といわれています。

つまり、どれだけの知識・情報(コンテンツ)をため込んだかよりも、
それらを駆使して何ができるのかという能力(コンピテンシー)が
今日求められているというのです。

OECD-DeSeCo「キーコンピテンシー」
「相互作用的に道具(言語・知識・情報)を用いる能力」
「異質な集団で交流する能力」
「自律的に活動する能力」

国立教育政策研究所「21世紀型能力」
「思考力」を中核に、それを支える「基礎力」、
そしてこの両者を方向づける「実践力」の
三層構造から成るものです。

~~~ここまでメモ。

うんうん。
たしかに、世の中の変化からいって、
そういう方向で進んでいくのは間違いなあと。

次、「グローバル化社会」について書きます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2018年01月14日

「主人公になる」本屋という場をつくる

山形市・郁文堂書店でイベント





本の処方箋もやりました。


そしてオーナーの原田さんの
手作りの漬物と煮卵。
日本酒飲みたくなった。(笑)







僕は昨年9月、東北ツアー中に郁文堂に立ち寄り、
原田さんに会うことができた。

そして今回、
郁文堂書店プロジェクトをすすめてきた
追沼さん、芳賀さんに会いにやってきたのだった。

郁文堂書店復活プロジェクト。
それはかつての「郁文堂サロン(本屋サロン)」の復活だった。
山形市七日町、山形市の中心部に位置するこの場所は、
役所も近くにあり、たくさんの人たちが交わる交差点だった。

そんな中にあった、郁文堂書店。
現オーナーの原田伸子さんに聞くと、
そこは昔、サロンのようだったという。
サロン、それは情報交換の場。
「生きた」情報が飛び交う場だった。

東北芸術工科大学の当時3年生だった追沼さんと芳賀さんは
この物件に出会った。
斉藤茂吉や司馬遼太郎、井上ひさしも訪れたこの場所は、
すでに閉じてから10年以上の月日が流れていた。

山形ビエンナーレに合わせて、
1日だけのイベントを開催。
100名以上の来場者が集まり、
そこから郁文堂は再生へと歩き始める。

クラウドファンディングで資金を調達し、
「知識の本棚」などを開設した。

僕が9月に行って、
一番びっくりしたのは、
原田さんがそこにいたことだった。

「商売はよ、ここ、ハートだがんな」(2017.9.25)
http://hero.niiblo.jp/e485890.html

原田さんは
その場にいた全員分のお茶を入れ、
おしぼりを出してくれた。
そして、漬物も。

「何十年も前から、そうやってやってきた」
って笑った。

衝撃だった。
それまでの僕は、
「リノベーション」って、古い建物の雰囲気を生かしつつ、
いまの時代に合わせて新しくつくりかえることだと思っていた。

そうじゃない。

リノベーションは、その土地や場所に息づく継ぎたい何か、を
どのように継いでいくかの方法論として改築や新しく何かをつくること
なんだって思った。

郁文堂書店プロジェクトが継ぎたいもの、残したいものは
「郁文堂サロン」と呼ばれていた文化だった。

昨日、原田さんが言っていた。

「ここにくれば、誰かに会える」
と言って人は来たのだという。

えっ。それって、2014年2月のソトコトで
ツルハシブックス店員だった野島萌子が言った言葉だ。

そっか。
本屋っていうのは、そういう空間なんだ。

偶然性というか、予測不可能性というか、
そういうのを求めて、人は本屋に足を運んだんだ。
本との出会い、だけではなく、
それと同じくらいの人との出会いが
郁文堂サロンにはあったのだ。

ツルハシブックスのキャッチコピーは、
「気がついたら私も、本屋という舞台の、共演者になっていました」だ。
(少し長い)

郁文堂サロンもきっとそんな機能だったのだと思うとうれしくなってきた。

そして、電車の中で読んできたこの本とリンクしてるなあって。

「コト消費の嘘」(川上徹也 角川新書)

おととい、水戸で川上さんのトークイベントがあり、購入。



この本がめちゃめちゃ問いに詰まっていて、
ドキドキしながら読み進めたら、
昨日の山形行きの電車の中で読み終わってしまった。

柴咲コウさん風に言えば、
「頷きながら、一気に読みました」となる。
(某映画化されたミリオンセラー小説のマネ)

モノではなく、コトを。
外国人観光客に、コト消費を。
それ、本当に継続した売り上げにつながってますか?
って。

コト消費ではなく、
コトとモノがつながったコトモノ消費へ
もっと言えば、人にフォーカスした「モノガタリ消費」へ

川上さんって、「ストーリーブランディング」を売っているというより、
「あなたの物語はなんですか?」っていう問いを売っているんだなって。
素敵な仕事だ。

川上さんによれば、ストーリーブランディングの手順は以下の通りだ。
1 ヒストリーを聞き出す。(会社・個人)
2 ビジョンとキャラクター設定を考える
3 川上コピー(旗印)を決める
4 三本の矢(志・独自化・エピソード)
5 川中・川下の言葉やアイデアを出す
6 川上コピーを発表する
7 社内浸透と社外アピール

ここでポイントは3の「川上コピー(旗印)」を決めるということころ。

川上さんは、
「過去」と「未来」を融合して旗印を掲げ物語の主人公になる。
と説明する。

過去のストーリーと未来のビジョン、そしてキャラ設定。

会社も、個人も、商品も、「主人公」化するということ。
ここが本書の大きなポイントだと思った。

このあと本書では、台湾の宮原眼科というお菓子屋さんの事例が
出てくるが、これが圧倒的にすごい。
建物、お客さん、従業員、商品、最後に企業を
主人公にしながら、お菓子を売っている。

これは、昨日の郁文堂書店にも当てはまる。
建物や、原田さんや、原田さんがつくってきた
郁文堂サロンの物語が人を惹きつけている。

そして、この文にシビれた。

「物語の主人公になって商売をする」と一度決めたら、ゴールはありません。
あなたのお店が主人公であり続けるには、
常に「未来のビジョン」に向かって進んでいく姿を、
観客(顧客・見込み客・消費者)に見せ続ける必要があるからです。

いいな、そうそう。
そんな商売をしていかないとね。
お客と高めあえるようなお店をつくること。
それが商売の醍醐味だよなあって思った。

そして、昨日もイベント前にやっていた、
本の処方箋でも、人生に悩む人たちが集まってきていた。

「ここに来れば誰かに会える」
それがサロンの役割だったのではないか。

そして、その「出会い」が起こったとき、
人生が動き始める。

それは、その人が人生の「主人公」へと
変わった瞬間なのではないのか。

本来、人は、人生の主人公だ。
日々を過ごしていると、それを忘れてしまう。

本屋での本との出会い、人との出会いが、
人生を少し動かす。

いや、気がつかないうちに、
人生が動いている。

たぶん、本屋が提供する「機会」は、
そういう機会なのだろう。

気がついたら、人生が動いていた。
気がついたら、共演者になっていた。
それは、その人が人生の主人公になる瞬間、

山形・郁文堂書店が売っているもの、
僕がツルハシブックスで売りたいものは、
そんな瞬間なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)イベント

2018年01月12日

学力という「単一の指標」は「唯一の指標」ではない


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)

福岡・ブックスキューブリック箱崎店にて購入。
大好きな本屋さんで堅めの1冊。

翌日に伺った「こととば那珂川」の坂口さんとの
話にも刺激を受けて、
再び教育というか、小学校中学校高校の
ことを考えるようになっています。

この本、買ってよかった。
いいタイミングで、いい問いをくれる本屋は本当に貴重です。
僕もそういう本屋になりたいです。
ブックスキューブリック箱崎店さん、ありがとう。

坂口さんに話を聞いて、
いちばん感じたことは、
学校の勉強だって「リベラルアーツ」になり得るっていうこと。
(リベラルアーツ:自由への学問、教養)

数学はアートで、
英語はサイエンスだ、っていうこと。

そういうふうに、学びを楽しむこと、
好奇心をはぐくむこと。
きっとそれが子どもの時に必要なのだろうな。

ということで、この本。
まだ第1章ですが、リヒテルズ直子さんの
心をえぐるような、辛辣というか、真実というか、
感じていることを言葉にしてくれている感じに
胸が苦しくなります。

~~~以下、本文よりメモ

学習とは、本来楽しいもののはずです。
これからの社会がますます必要とする
人間のさまざまな創造力や批判的な思考力は、
学ぶことに喜びを感じられる環境の中で初めて
育つものです。

しかし、日本の子どもたちは、
まだ生まれてほんの数年の、幼稚園に通う年齢の時から、
「勉強とは一所懸命励むもの」
「勉強が他人より遅れたら人生に失敗してしまう」
という外からの強制と脅しの中で、

学ぶことの楽しさを奪われ、
生きがいを見出すうえで大切な好奇心を
磨滅させられているのです。

受験で成功することが人生を切り開く第一歩。
学校で落ちこぼれたり受験に失敗したりすることは、
幸福な人生への切符を取り損ねたも同じ。

18歳の若さで、みずからに「負け組」のレッテルを貼って、
自己肯定感とは正反対の精神状態に放り込まれる・・・。
そういう、必要のない無意味な敗北感を持ったまま
大人になっていく子どもが、日本にはあまりにも多すぎます。

そして、子どもたちから遊ぶ時間や家族と過ごす時間を奪い去って、
「いま苦しみに打ち勝てば、やがて幸福な人生を手に入れられる」
と無責任にささやいているのは、塾や家庭教師といった
大小の教育産業に携わる大人たちです。

大人たちが寄ってたかって、子どものためというよりも
自分たちの立場や利益のために、子どもたちの可能性を
損っているのではないでしょうか。

自分が営利の仕組みに組み込まれてそれをどうすることも
できないでいるのを内心では承知していながら、
「子どものためにやっているのだ」と、
自分だけはその仕組みがもたらす結果の責任から
免れているかのような態度をとります。

企業戦士の塾教師たちが大声でかける叱咤激励のもと、
子どもたちは「必勝」などと書いたハチマキを頭に巻きつけ、
個性などまったく無視されて、
大きなホールに何十人も一緒に並んで反復学習に励まされる・・

成績ランキングにさらされ、「負けることは恥」と心に刷り込まれ、
最後にはおおげさな打ち上げ花火までして、
合宿終了がお祭り騒ぎで祝われます。
こうした偽りの「達成感」に陶酔させられる子どもたちの中には、
涙すら流す子が何人もいるのです。

競争神話の刷り込み以外の何ものでもないこうした行為に
「教育」という看板をつけて親から金を巻き上げているこんな国が、世界のどこにあることでしょう。

問題は、
こうした「最小限の投資による効率化」ばかりを狙う国の施策によって、
すっかり「粗末」となり硬直してしまった日本の公教育が、
公的な縛りを受けない塾産業や、親や教材やサービスを購入する
教育産業を助長させ、結果として、
営利ベースの教育機会にアクセスできない貧困家庭の子どもたちが
最新のメソッドや機器に触れる機会から遠ざけられていることです。

長きにわたり続いた学歴社会と受験競争によって確立してしまった
学歴偏重の社会意識(子どもの人間性尊重の欠如)

それがもたらした塾・教育産業の無節操な蔓延(次世代教育の営利事業化)

それが逆に学校関係者に次世代教育の責任の放棄を促していること(公教育の荒廃)

教育委員会等の行政指導によって教員の自由裁量権が取り上げられている(教育の自由の剥奪)

貧困家庭の子どもたちが学力競争のスタートラインでハンディキャップを負っている(発達の権利の剥奪)

日本の公教育の課題の大もとは、
直接的には、学歴社会と受験戦争にあるでしょう。
そして、この競争的な学歴社会を生んだのは、
学校教育を「優れた人材の選抜システム」とみなす考え方に
あることもあきらかです。

~~~ここまでメモ

このあと、教科書の問題になっていくのだけど、
それはまた別の機会に。

一言で言って、「ヤバイね、これは」
っていう感じですね。
その通り過ぎるよって。

「効率的であること」
に最大の価値がおかれたシステム。
それが現代の日本の教育システムにいまだ生きているのだなと。

この文章を読んでると、
あまりにも異常だと思えてくるんだけど、
なぜ、それが今まで続いてきたのか?
って考えると、

2017年の僕のテーマのひとつだった
「近代」とは何か?に入っていく。

「明治維新以来、日本の近代化が急速に進んだ。」
と習ってきたけれど、

それはいったいなんだったのか?

一言でいえば、「効率化」であり、
「日本人」という「国民」をつくること。
「富国強兵」「殖産興業」というスローガンのもと、
我が国は近代化への突き進んだ。

やむをえない事情だったと思う。
アジア各国が植民地となる中、
戦争に負けないためには、
急速に「国民国家」を作る必要があった。

なぜなら、「国民国家」こそが
当時の戦争において最強のシステムだったからだ。

それを「効率的」につくるためにシステムのひとつ、
いや、要となるのが「学校」だった。

それが、今もつづいている。
日本は最終的に戦争に負けたが、
戦後ふたたび、「効率化」が価値を生んだ。
工業社会だったからだ。

「効率化」システムは、
ふたたび価値を生んだ。
そしてそれは、日本を「世界2位の経済大国」
と呼ばれるまでに押し上げた。

その要になったのは、やはり公教育を
出発点とする「学歴社会」システムであろう。
学力という単一の指標で輪切りにし、
システムの管理者と被管理者に分ける。

「管理者の命令だから」
と行動する人を増やしていくこと。
それが価値を、いや価値というか、
お金を生んだのだった。

ところが。
時代は変わった。

日本で「効率化」が価値を生むことは
難しくなっている。

工業社会が終わりを告げて、
付加価値をどうつくるのか?
他社とどのように差別化するのか?
が価値を生んでいる。

また、課題を解決したり、
今までにないものを生み出していくことが
求められている。

世の中はもう、「効率化」で価値は生むことはできない。

にも関わらず、
学校は、教育は、いまだに「効率化」されたシステムに
最適化する人材を育て、
また教育産業はそのようにして稼いでいる。
そんなシステム自身に問いを投げかける必要があるのではないか。

さて。
本屋にもできることがあるんじゃないか。
って思わせてくれるのに十分な第1章でした。

また、読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)

2018年01月06日

松下村塾は塾生募集広告なんか出さなかった


「ローカリズム宣言~「成長」から「定常」へ」(内田樹 deco)

移住雑誌「TURNS」の連載
「若者よ! 地方をめざせ」の大幅加筆修正バージョン。

買ってよかった。出会えてよかった。
新潟・新津の英進堂書店さん、ありがとう。

いつも内田さんの本は鋭いのだけど、
「で、どうすればいいの?」
(まあ、自分で考えろってことなんでしょうけど)
って思うのだけど、この本には提案も載っているので
より熱いです。鼓舞されます。

特に特にシビれたのは、
第9章 脱「市場経済」です。

~~~印象的だったところをメモ。まずは市場経済について

お金さえあれば、生きてゆくために必要なことが
何でも市場で買えるというのはある意味では素晴らしいことです。
お金を稼ぐことに集中して、それ以外のことは考えずに済みますから。

人間として生きる上で必要なものは全部マーケットで
値札がついて売っている。金さえあれば誰でも買える。
個人で暮らす立場からすれば、これほど生きやすいことはありません。

でも、それは逆に言えば、お金がないと生きていく上で
必須の支援さえ手に入らないということを意味しています。

格差の拡大は誰かの邪悪な意思によって起きているのではありません。
市場の合理的な選択の帰結なのです。

超富裕層に権力も財貨も文化資本もすべてを集中した方が
短期的には資本主義は快調に運転する。(先のことさえ考えなければ)

人間にとって必要な資源が少数者に排他的に蓄積された場合には、
集団全体の生命力は衰えます。イノベーションも起こらなくなる。

市場に委ねている限り、格差拡大は絶対に止まりません。
だから、どこかで強い意志をもって、市場の全能を停止させなければならない。

~~~ここまで本文よりメモ

なるほど。
市場は、「効率化」を求め、
会社は、「コストの外部化」によって儲けた。
そのスパイラルが限界に達したのだと。

さらなる効率化をするためには、
すべてを集中させることしかない。

しかし、それでは生き延びれないんじゃないの?
っていうのが内田さんの問いです。

そして、生き延びるためには、として以下のように説明します

~~~ここからメモ

これから社会的能力として最優先されるのは「いい人」であること。

「いい人」だと思われることが相互扶助・相互支援ネットワークに
登録されるときはかなり優先度の高い条件です。

能力があることより、リーダーシップがあることより、
資本があることより、「いい人」であることです。

能力とかリーダーシップというのは「ひとりでも生きていける」能力です。
集団を形成するために必要なのは、そういうタイプの強さではなく、
むしろ「仲間がいないと生きていけない」という弱さだからです。
自分の弱さを自覚している人だけが共生できる。

弱さをカミングアウトするためには「心の広さ」が必要です。
心の狭い人は、同じ意見の人と徒党を組むことはできても、
異なる意見の人と組むことはできないからです。
心の狭い人は均質な集団しかつくれない。

でも、生き延びるための集団は均質的であってはならない。
均質的な集団は、平時にルーティンワークをこなすときは効率的ですけど、
危機的な状況には対応できません。
だって、全員が同じ能力しか持っていないんですから。
危機というのは何が起きるかわからない状況のことです。

ですから、危機を生き延びることを優先させて
制度設計された集団は必ず多様な才能、多様な適性が共生するものになります。

危機を生き延びることを目指して設計された集団は、
「単独では何の役に立つのかさっぱりわからない人たち」を大量に抱え込んでいる。

集団はメンバーの資質や能力が多様であればあるほど危機的状況には強い。
そして、そういう集団の成員たちは、それぞれあまりに特異な才能の持ち主なので、
ひとりでは生きていけない。ひとりでは生きていけない人たちによって形成されている集団が最強である。

集団を強靭なものにしようと思ったら、強者連合を作るよりは、
「自分ひとりでは生きていけない」と信じている弱者たちを集めるほうがよい。

~~~ここまでメモ

なるほど。
これ、学校で習っていることとまるっきり逆ですね。

そして最後、私塾について語るココに、
シビれまくりました。

~~~さらにメモ

蘭学者の緒方洪庵が開いた適塾、大坂の商人たちがつくった懐徳堂、
吉田松陰の松下村塾、福澤諭吉の慶應義塾など、
どれも個人が身銭を切って立ち上げた教育機関です。
それらの私塾が日本教育史上もっとも成功した教育機関であった。

国家や自治体の支援がなくても、法律や要項に従わなくても、
教育はできるということを彼らの先例が教えています。

江戸時代にも藩校という、いまでいう国立大学に相当する教育機関がありました。
でも、そこからは残念ながら乱世を縦横に往来するような人材は生まれなかった。
既成のキャリアパスで出世しそうな秀才しか育てられなかった。だから、私塾ができた。

現代における私塾の登場は、時代が乱世に入りつつあることの証拠だと思います。

高等教育機関がもたらすのは、単に地域の経済効果だけではなく、
いわば一種の「空気」でもあるからです。
風通しのよい知性、権威や世俗におもねらない自尊心、活発な好奇心、
そういうものが流れ出る場所が存在する街と、
そういうものがない街の違いは暮らしていればはっきりわかります。

学校が若者たちの心身の成熟のための機関としてさっぱり機能しなくなってきた以上、
共同体にとって必須のその仕事を誰かが引き受けなければならない。
そう考えている人による私塾運動が、いま全国で同時多発的に始まっている。

塾でも道場でも、かたちはどうあれ、
教育共同体がこれからの地域共同体の再生の核になるだろうと僕は思っています。

広告なんかしなくても、知的で創造的な「空気」が漂っている場所なら、
意欲のある若い人たちは必ず惹きつけられて集まってきます。
松下村塾は広告なんて出さなかった。
でも、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋はじめ異才が門前列をなした。
そういう場所は鼻のきく若者にはわかるんです。

~~~ここまでメモ

うわ~。
それだよ、それ。
そういうのやりたいんだよ。
それが僕の考える「本屋」なんだよ。

やろうぜ、私塾をさ。
見た目は本屋かもしれないけど。

そんな感じ。

「高等教育機関」を「本屋」に置き換えてみる。

「本屋」がもたらすのは、単に地域の経済効果だけではなく、
いわば一種の「空気」でもあるからです。
風通しのよい知性、権威や世俗におもねらない自尊心、活発な好奇心、
そういうものが流れ出る場所が存在する街と、
そういうものがない街の違いは暮らしていればはっきりわかります。

そうそう。
そういう空気をつくるんだよ。

その「空気」を感じた人たちが集まってきて、
学びあい、高めあい、また助けあっている。

そんな「場」をつくるんだ、って。
そして、それは自分にしかできないんじゃないかって。

20年前。1998年2月。
大阪ボランティア協会の早瀬昇さんの講演を聞いた。

「ボランティアを始める人の条件は2つ。
これが世の中に絶対に必要だという思い込みと
これができるのは自分しかいないという思い上がりだ」

そうそう。
「思い込み」と「思い上がり」
つまり、「勘違い」が行動の源泉なんだ。
この本は僕が「勘違い」するのに十分なインスパイアがあった。

昨日のワークで出てきた
「本屋じゃない何か」、その未来像は見えた。
言語化はできていないけど、たしかに見えた。

あとはそれをストーリーへと組み込んでいく。

やろうぜ、私塾をさ。
本屋にしか見えないかもしれないけど。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2017年12月28日

「違い」の違い


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

今日は、戦略の基本原理について。

~~~以下本文より引用を含む

「違い」をつくる。
これが戦略の本質です。

競争の中で業界平均以上の利益を上げることができるとしたら、
それは競合他社と何らかの「違い」があるからです。

「違い」には2種類あり、
「程度の違い」と「種類の違い」です。

「種類の違い」を重視するのが表千家で、
それを「ポジショニング」と言い、
「程度の違い」を重視するのが裏千家で、
そのカギになるのは「組織能力」です。

レストランに例えると、
料理がおいしいという評判で流行っているレストランの場合
その料理を考案したシェフのレシピが優れているのか、
使っている素材や料理人たちのチームワークが良いのかもしれません。

シェフのレシピに注目するのが
「ポジショニング」(SP:Strategic Positioning)の戦略論で
厨房の中に注目するのが
「組織能力」(OC:Organizational Capability)に注目した戦略

このそれぞれをSP、OCと呼びます。

~~~ここまで引用。

この本では、さまざまな会社の事例を挙げて、
SP志向かOC志向か、という話、
セブンイレブンの仮説検証仕入れや、
あるいは、日産やマツダのV字回復の
要因をこの観点から分析している。

SP(ポジショニング)というのは、
「戦わないという戦略」であり、

OC(組織能力)は、
仕方なく戦わなきゃいけなくなったときに、
組織の能力を高めることで競争優位を確保する戦略である。

トヨタのカイゼンなどに代表されるように、
日本の製造業の多くでは、
現場から数々の作業イノベーションが起こり、
それによって競争優位を確保してきた。

一方で、新興企業は、
「ポジショニング」が非常に重要になり、
「ニッチな業界を狙え」などと言われる。

理想を言えば、
SPとOCがともに高いレベルにあり、
なおかつ、利益率の高い(参入障壁の高い)
業界にいることであるのだけど、
この考え方はすごく面白いなあと思った。

つまり、V字回復した企業は、
強いOC(厨房技術)を持っていたけど、
SP(シェフのレシピ)が弱かったところに、
リーダーシップを持つシェフ(カルロスゴーン社長など)
が来て、SPを強化することによって、
もともと力のあったOCが花開いたということになるのだろう。
うーん、面白いね、戦略論。

今回のこの本を読んで思ったのは、
「インターンシップにおける学生の機能」について。

これさ、SP(に強みを持つ)企業か、OC企業かによって
変わってくるんじゃないかなっていうこと。

振興のベンチャー企業は、SP企業のほうが多いと思う。
(独自のポジショニングが取れないとそもそも創業できないから)
いっぽうで、何代目社長です、創業天保何年、みたいな老舗企業は、
OC企業というか続いてるってことは内部に強みがあるんだと思う。

受け入れ先はどっち系の企業なのか?
あるいは、その企業における価値はどこにあるのか?

新規事業開拓(たとえば、食品メーカーで新商品をつくる)
みたいな場合は、OC企業におけるSPの強化になるんだよね。

一方で、インターンを長期的に見た場合。

ETIC.の研修に出てたごく初期の頃、
京都のIT企業の社長が言っていた。

「インターン受け入れですぐに売り上げが伸びるとか、
成果が上がるなどということはありません。
しかし、5年、10年のスパンで見た場合、
インターン生を受け入れ、彼らが成長する会社になるということは
会社にとっては大きな財産です。」

そうそう。
まさにそういうことなんだろうね。
これは、SP企業における、OCの強化ということになる。

うーむ、なるほど~。
もちろん、SPもOCも両方が優れていることが
競争に強い企業の条件なのだけど、

インターン生の役割を、どちらに位置づけるのか?
っていうのを受け入れ先の経営者と合意しているって
大事なことだなと思った。

そしておそらく、相性がいいのは、
中小企業・伝統企業でどちらかというと
OC(組織能力)に強みのある会社での、
SP(ポジショニング)戦略を進めるインターンかもしれないですね。

第2章読み終わりました。
ラストに少し怖い話を。

企業の業績が悪化したとき。
SP先行型の企業は、みるみる業績が悪化し、シェフを変えなければならなくなるが、
OC先行型の企業は、冷蔵庫の中身が時間をかけて徐々に腐っていく。

それ、まさに、日本の大手製造業で
起こっていったことなんじゃないすか。
こわい。

さて、僕は世の中にどんな価値を生めるのだろう。

読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:36Comments(0)

2017年12月26日

あなたは何屋さんなんですか?


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

この本、おもしろい。
なんかいい。

今日は、「機能分化」と「価値分化」の違いについて。

ガイシ系(=外資系)
っていう組織体が少しわかった気がする。

前までは、
能力主義で、ドライなんだろうなくらいしか
印象がなかったので。

欧米の会社が「機能分化」であるのに対して、
日本の会社が「価値分化」であるという説明。

ソニーがトランジスタ・ラジオを開発できた理由の
エピソードを紹介している。

~~~ここから本文より引用

ソニーの創始者、井深大さんは、トランジスタの話を聞いてすぐに、
「それは自分にとってなんだろう?わが社にとってなんだろう?」と考えている。
そして、非常に早い時期に、もう、トランジスタ・ラジオをやってみようと心に決めている。

井深さんは、ニューヨークの昼食会に招かれたとき、
「この頃何をしようと考えていますか?」と問われ、
「トランジスタでラジオをつくろうと思って」と答え、
大声で笑われたのだという。

トランジスタ誕生のあと、米国では4つの研究プロジェクトが動いていた。
1 トランジスタの性質の物理的研究
2 トランジスタの性能の改善の研究
3 トランジスタのつくり方の研究
4 トランジスタの普及のための再教育のやり方の研究

米国では、大局から方針を立て、
その方針に合った計画をつくり、それを動かす、
という方法を好む。

そういう米国の通念からすれば、
まだ未熟なトランジスタをいきなり
ラジオという商品にするというのは
夢のような話だと映ったのだろう。

ところがトランジスタ・ラジオという目標が
設定され、そこに活力が集中されたために、
問題解決のための努力が実った。

~~~ここまで本文より引用

ここで著者が説明したいのは、
「機能分化」と「価値分化」の違い。

アメリカはトランジスタの開発を
機能分化したプロジェクトそいて進め、

ソニーの井深さんは初めから自分の仕事を
「トランジスタでラジオをつくろう」
という顧客に提供する製品の価値から入っている。
そして現実にソニーはトランジスタ・ラジオの
イノベーションに成功した。

顧客がどのように使うのか、どのように喜ぶのか、という
観点から開発の基本的な方向づけがされていたことが
日本のエレクトロニクス産業が育った本質的な要因なのではないか。

なるほど。

ここから本文中では前後するのだけど、
僕のメモを

~~~以下メモ

機能と価値の違い。
「マーケティング」が「機能」であれば、
「オーディオ」という切り口は「価値」を問題にしています。

機能のお客さんは組織です。
ある人の「マーケティングの専門知識・技能」という機能は、
その人が所属する組織に提供されるものです。
その意味で、機能は組織に対するインプットです。

これに対して、
価値のお客さんはその人が所属する組織の内側にはいません。
お客さんは文字どおり組織の外にいる顧客です。

価値にコミットするということは、「こういうものをお客さんに提供したい」
というアウトプットが仕事のよりどころになるということです。

欧米では自分が組織に提供するインプット(機能)が
そのまま仕事の定義になるのに対して、
日本企業では、組織が提供する
アウトプット(価値)が人々のアイデンティティとなる傾向がある。
これが分化という組織の編成原理に注目した対比の図式です。

~~~ここまでメモ

なるほど。
欧米の企業は機能分化を文化とし、
日本の企業は価値分化を文化としている。

なるほどね。
外資系っていう世界が少しだけ理解できた気がする。

そして同時に、就活の「違和感」の原因がそこにもあるなと思った。

良い悪いではなく、
日本人は、考え方の癖として、

「価値」は何か?
というふうになっているんだ。

だから、オーディオを作っている会社で、
マーケティングを日々やっているとしたら、

「あなたは何屋さんですか?」
っていう質問に対して、
「マーケティング屋さん」ではなくて、
「オーディオ屋さん」であると答えるのが日本人「的」であるというのだ。

「マーケティング」というのは、
その人が属する組織(会社)にとっての価値であって、
「オーディオ」っていうのは、
その会社が提供する商品の顧客にとっての価値である。

なるほど。

だからさ、就活の時に、
「業種」と「職種」とかって聞かれるのって、
やっぱりちょっと違和感があるんじゃないかな?

特に「職種」っていうのは、
会社に対する機能を聞かれているわけだからね。

その会社にとってお客は誰なのか?
生み出す価値は何なのか?

そういうことをお互いにイメージする「就活」が
日本「的」なのかもしれないですね。

さて、
「あなたは何屋さんなんですか?」  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)

2017年12月25日

「生きる」という問い



「たたみかた」(アタシ社)
23日の鎌倉さんぽで購入しました。

今年の4月に発行された創刊号は、
福島特集。

この前、逗子であった、
10代のためのブックフェアで
「アタシ社」を知った後だったので、
ビビっときました。

まえがきでもう、問いがいっぱい。

自分の「正しさ」がどこからやってきたのかも知らないで、
他者の「正しさ」を理解しようとすることができるだろうか?
これが、私が私に投げかけた問いである。

ただ一つの「正しさ」は存在しない、という結論に至ったからこそ、
その存在しないはずの「正しさ」を探せたらなあと思うようになった。
できる限り、全ての生命が調和的に生きられるような、そんな「正しさ」。

いいな。
そうそう。
終わりのない問い、正しさ。
それは、「美しさ」と言い換えてもいいかもしれない。

そういうやつ。

巻頭に出てくる「上野」の話は
とってもグッとくる。

東北の人たちにとって、「東京」とは
上野のことだと。
長らく発着駅であった上野。

以下、本文から。

~~~以下引用

東北の、そして福島の余韻をまだちょっとだけ残した、
あの混沌の街。闇市に始まり、高度経済成長を支え、
「ヒルズ」的な商業施設を拒絶し、昭和の亡霊を一人引き受け
今ではアジアの混沌を、その深い懐の中に迎え入れている上野。
生きることの根源がそこにはあるんだ。

~~~ここまで引用

そっか。
上野ってそういうところか。
たしかに、包容力ある。

ここに出てくるアメ横の魚屋「魚草」の店主、
大橋さんのコメントが素敵だ。

「アメ横で魚屋をやるっていうのは、
矜持と忸怩を2つ持たなければいけないんだ」

いいなあって。
そこには、「生きる」っていうのがあるなあって。

キレイなだけじゃないし、
正しいだけじゃない。

そこに、自分なりの「生きる」があるのだろうなと。

そんな文を電車の中で、読んでいたら、
あ、そういえば、今日アメ横行けるなって。

常陸多賀「クリエイティブ図書館‐kazamidori」で本棚つくってから上野へ移動。

アメ横

八百屋を探したけど、魚屋さんばっかりで、
地下街でようやく発見。


めちゃアジアでした。
金額も電卓を見せられる感じです。

せっかくなので、魚草(立ち飲みは年内最終日でした)


そして、合羽橋・飯田屋さんへ。


200種類のおろし金の中から、
ジンジャーエールつかうジンジャーシロップ用の
生姜を下ろすためのおろし金を吟味!


新城劇場の麗花さんも実演!

結局、下ろし界のベンツ、に決定しました。


最後に飯田さんと!


料理人を幸せにしたい。
いい料理道具を手に持ったときの、
その「ひと手間」が、たくさんの人を笑顔にする。
そんな飯田屋さんのミッションを感じた。

暮らすこと。
食べること。
生きること。

「働くこと」も大切だけど、
暮らすこと、食べること、生きること。

そういう根源的な問いにも、
自分なりの「生きる」を探し、実践していきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:30Comments(0)

2017年12月18日

海図は必要だが、航路を決めすぎてはならない


「結論は出さなくていい」(丸山俊一 光文社新書)

「ニッポンのジレンマ」をはじめ、
問いを放つ番組をつくるNHKプロデューサー
丸山俊一さんの最新刊を読み始めました。

実は、前著の「すべての仕事は肯定から始まる」(大和書房)
に感激して、去年の2月頃、時間を作ってもらい、
お話をさせてもらったことがある。

僕はこの本の中で、本屋である意味を確認させてもらった。
http://hero.niiblo.jp/e475347.html
(素直で謙虚でありながら権威を疑うこと 2015.12.16)

「僕たちは、ある時代ある場所に選択を許されることなく、生まれ落ちます。
そこには過去の歴史があり、その場所の制約の中での位置づけがあり、
ひとつの座標軸の中に立つわけです。
そうしたとき、時間の流れを把握し、空間の広がりを意識した上で、
その座標軸の中でものごとを捉え、考えなければならない。

つまり、そのとき大事なのは、どんな状況に置かれても、
自分の立っている場所を相対化して考えることができるような視野の広さと、バランス感覚、
何よりもそうした思考法、センスを身につけることこそが最大の武器になるのだと思います。」

そうそう。
それが本屋の使命のひとつですよね、と。

さて、今回のこの本。
冒頭から、シンプルに時代を表していて、
とってもドキドキさせられます。

~~~以下、まえがきより引用

「正解のない時代」と言われて久しい。
幸せの形を人々が共有することが難しくなったかに見える時代。

多様性が叫ばれ、叫ばれれば叫ばれるほどに、
現実にはそれが実現していないことを証明しているかに思える時代。
ひとつのレールから降りることがプレッシャーとなり、
多くの人々を縛っているかのごとく感じられる時代。

そんな時代に生きるからこそ、自らの心、意識、
そして無意識のあり方までを丁寧に見つめ、
自分自身と対話することが重要になる。

~~~以上、まえがきより引用

そうそう。
そうだわ。

「多様性」が叫ばれれば叫ばれるほどに
現実にはそれが実現していない。

無言のムラ社会的な同調圧力が
呪いのように多くの人を覆っているように見える。

丸山さんがつくってきた番組の多くが
「教養」と「笑い」の掛け算
なのだという。

そこには決まった結論は存在しない。
出演者の人たちが展開する話を、
見守っていくことだ。

「あるひとつの枠組みの中で自足してしまったり、
自分というものを固定化させてしまうことなく、
他者の声に耳を傾け、変化を楽しみ続ける、柔らかな思考だ」

「結論を出すという不自由さが逃れた時、
人は自由になれるのだ。
思考の運動に身を委ねていけるのだ。
生きていくということは、そうした発見の連続ではなかったか?」

「企画段階の文章は、徐々に書き換えられ、
台本は「捨てるべきハシゴ」となってしまう。」

なるほど。
そして言う。

企画の哲学からブレず、同時に、
多くの人々が関わって転がしていくうちに
成長していく番組の生命力を維持していくためには、
海図は必要だが、航路を決めすぎてはならない。

そうね。
これだね。
ホント、これ。

海図は必要だが、航路を決めすぎてはならない。

いまの世の中は、
高校3年生や大学3年生に
「航路を決めろ」と迫っているのではないか。

また、丸山さんは、この本のなかで、
大学生の安易な「インターンシップ」志向について
警鐘を鳴らす。

▽▽▽以下本文より引用

なんでも体験して、幅を広げて・・・とは、
耳ざわりはよいけれど、さしたる考えもないうちに、
あるひとつの特定の企業の風土、
仕事の流儀、さらには市場の論理に
どっぷりとつかってしまうことが、
むしろ視野狭窄を生んでしまう可能性もある。

「積極的」「体験主義」のプラスとマイナスは、
よく見極めたほうがいい。
インターンシップの間は、当然ながら、
大学生活はかなりの制約を受ける。

講義や、友だちとの交友、キャンパス内で
過ごして学問の基礎や原理を学び、
考える時間はかなり削られることになるだろう。

もちろん、夏休みなどを利用して短期で
さまざまな世界、ビジネスの現場などを垣間見ることには、
メリットもある。

しかし、それは自らの資質や、価値観を
見つけ出すためのものだ。
さまざまな企業の価値観を比較することが
できるような幅のある体験であってほしいし、
そのためにはキャンパスという
空間での思考の軸も失わないように注意したほうがいい。

(中略)

時代の激変期だからこそと焦る気持ちはよく分かるが、
やはり学生時代にこそ、自らの頭で考え、
自らの心と対話するゆとりを持ち続けたいものだ。

学問というものに耽溺すると、
「問い」続ける力が要請される。
原初的な「問い」を考え続ける力でもある。

△△△以上本文より引用

そうそう。
「インターンシップ」だけでなく、
「問い続ける力」をつけること。
これが大切なんだよね。

進路の検討・進路の選択とは、
単に乗る船を決めることではなく、

目的地や方向性を決め、
方角を指し示すコンパスを手に入れ。
そのための地図を描くことなのだろう。

目的地や方向性が決まっていれば、
航路や乗る船はいつでも変更できる。

2年前のブログと同じ結論になってしまうけど、

志向し続けること。
思考し続けること。
試行し続けること。

そうやって、自分の海図を手に入れること。

そのための「本屋じゃない、何か」になりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2017年12月09日

正しいことをしたければ、偉くなれ。


「青島よ。正しいことをしたければ、偉くなれ」(「踊る大捜査線」より)


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)
いよいよ最終章「どう美意識を鍛えるか?」

最後まで熱かったっす。

「なぜ、本屋なのか?」
ってよく聞かれるのだけど、
それに対してのひとつの仮説が書かれてるし、
そこには非常に大きな共感があった。

ひとつは、「哲学」についての話。

~~~ここから一部引用

海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、
その上で功利的なテクニックを身につけさせるという
側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の
「哲学教育」がすっぽりと抜け落ちていて、
ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせている。

哲学からの得られる学びには大きく3種類ある。

1 コンテンツからの学び
2 プロセスからの学び
3 モードからの学び

コンテンツとは、その哲学者が主張した内容そのもの、
プロセスとはそのコンテンツを生み出すに至った気づきと思考の過程、
モードとは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢

現代社会を生きるエリートが、
哲学を学ぶことの意味合いのほとんどが、
実は過去の哲学者たちの「1.コンテンツ」ではなく、
むしろ「2.プロセス」や「3.モード」にあるということです。

「真に重要なのは、その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、
その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考えたかというプロセスや態度だからです。」

その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、
批判的に疑いの目を差し向ける。
誤解を恐れずに言えば、これはつまりロックンロールだということです。

「哲学」と「ロック」というと、何か真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、
「知的反逆」という点において、両者は地下で同じマグマを共有している。

哲学を学ぶことで、「無批判にシステムを受け入れる」という「悪」に、
人生を絡めとられることを防げるということです。

エリートというのは、自分が所属しているシステムに最適化することで
多くの便益を受け取っているわけですから、
システムを改変することのインセンティブがないわけです。

システムに最適化すること自体は、批判されるべきことではありません。
かつての歴史においても、現代においても、
システムに最適化すること自体を否定し、いわばシステムの外側から
遠吠えのようにシステム批判を繰り返している人はたくさんいます。

しかし、ではそういう人たちが、
実際にシステムを改変できるだけの権力や影響力を持てたかというと、
残念ながらそういうことはほとんどありません。

システムの内部にいて、これに最適化しながらも、
システムそのものへの懐疑は失わない。
そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を
発揮できるだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、
理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる。
これが現在のエリートに求められる戦略であり、
この戦略を実行するためには、「システムを懐疑的に批判するスキル」としての
哲学が欠かせない、ということです。

おれたちはみんなどぶの中を這っている。
しかし、そこから星を見上げている奴だっているんだ。(オスカー・ワイルド)

~~~ここまで引用

なんか、そうだなあって。

踊る大捜査線の名ゼリフ
「正しいことしたければ偉くなれ」
を思い出した。

そうなんだよ。
社会を変えるには、システムの内側にいて、
そのシステムを修正していける人が必要なんだ。

僕はそのプレイヤーにはなれないけど、
そういう人たちに、本という機会を提供することはできる。

エリートたちに、問いを生んでもらう本屋。
エリートの卵である大学生に、問いを育む本屋。

社会システムに対するロックンロールを
奏で、歌えるようなエリートを生んでいきたい。

僕の社会へのアプローチは、
今のところ、そういう感じです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)

2017年12月08日

美意識とクリティカル・シンキング


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)

いやあ、ホント、いい本。
僕にとってめちゃめちゃ刺さる。
グサグサくる。
ドキドキするわ、ほんとに。

昨年の「コミュニティ難民のススメ」以来の衝撃。
タイムリーな本をありがとうスタンダードブックストア。

~~~今日のメモ

「イノベーションが競争の鍵だ」ということを誰もが言うようになったということは、
つまりすでにイノベーションは競争の鍵ではない、ということでもあります。

競争戦略というのは差別化を追求するわけですから、
皆が同じ目標を掲げて走っているという現在の状況の先に、
大きな見返りがあるとは考えられない。

問題になるのは「イノベーションのその先」に何を追求するか、ということです。
このパースペクティブを持たないままに、
「イノベーションの実現」だけをゴールに走るのは非常に危険だと思います

世界観とストーリーは決してコピーすることができない。

デザインとテクノロジーはコピーできるが、ストーリー性だけは、
コピーされてもオリジナル価値が揺るがない最後の価値である

アカウンタビリティとは要するに「言語化できる」ということであり、
言語化できることは全てコピーできるということです。

ノート型パソコンというイノベーションを生み出したのは東芝でした。
優れたイノベーションは、それが優れていればいるほど、即座にコピーされることになります。
デザインとテクノロジーはサイエンスの力によって容易、かつ徹底的にコピーすることが可能だからです。

人生を評価する自分なりのモノサシを持ちなさい

これからのビジネスリーダーの素養として、最も重要な要素は何か
それはセルフアウェアネス=自己認識である。
つまり、自分の状況認識、自分の強みや弱み、
自分の価値観や志向性など、自分の内側にあるものに気づく力のことです。

「システムに良く適応する」ということと、「より良い生を営む」というのは、全く違うことだからです。

「誠実性」というコンピテンシーを高い水準で発揮している人は、
外部から与えられたルールや規則ではなく、
自分の中にある基準に照らして、難しい判断をしています。

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである。」ハンナ・アーレント

「悪」というものが、システムを受け入れ、それに実直に従おうとする「誠実さ」によって、
引き起こされるものだとすれば、私たちは、「悪」に手を染めないために、どうすればいいのか?

「システムを相対化すること」しかありません。

自分なりの「美意識」を持ち、その美意識に照らしてシステムを批判的に見ることでしか、
私たちは「悪」から遠ざかるすべはないのです。

一方でシステムから排除されてしまえば、社会的な成功を収めることは難しい。
ここに私たちが向き合っている大変難しい問題があります。

「システムを批判的に対象化する」ということは、
そのまま「システムを全否定する」ことを意味するわけではありません。

システムを修正できるのは、システムに適応している人だけです。
つまりエリートの役割なのです。

~~~ここまで今日のメモ

やっとタイトルの意味が分かった。
エリートこそがシステムを修正できる。
そしてそれに気づくのは美意識の力だ。

オウム真理教事件が引き起こされたのは、
システムへの過度の適応と美意識の欠如だった。

美しさを鍛えながら、
クリティカル・シンキングというか、
相対的にシステムを見ることが必要だ。

本を読み、美意識を磨き、
目の前のことをどう感じるのか、
表現していくこと。

それは本当ですか?
と問いかけること。

たとえば、
「自分に自信がない」っていうのは
ダメなことだと思えるけど、
それは本当にダメなことなのか?

ひとりでは何もできない。ということは、
言い方を変えれば、
必ず誰かと一緒にやるということ。

それっていま、むしろ求められてるんじゃないの?
そういう発想。
フラットな関係性の中でプラスを掛け合わせていく。

そういう中で「美しい」に出会うこと。
「美しくない」と思うことはやめること。

その繰り返しで、
自らの「美意識」を鍛えること。
それが一番、大学時代に必要なことなんじゃないのか?

本棚で世界観を表現しあい、
ときに本を売り、ときに人と出会う場となり、
ミーティングファシリテーションを学び、
さまざまなプロジェクトを生み出し、
美しいかどうか振り返り、
その繰り返しによって、
未来が創られていくような、

そんな本屋をつくりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:38Comments(0)

2017年12月07日

「正しい手」よりも「美しい手」を指す


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)

第1章読み終わりました。
いやあ、いいですね。
エッセンスだらけっす。

今日のテーマは「美しさ」です
エレガントな一手ってやつですね。

まずは
「デザインと経営には、本質的な共通点がある。」
ここから。

ユニクロが佐藤可士和氏を、
ソフトバンクが大貫卓也氏を起用して、
商品づくりの根幹にかかわることを決定しているのはなぜか?
ということ。

これを著者は次のように説明します。

~~~ここから引用

「エッセンスをすくいとって、後は切り捨てる」
そのエッセンスを視覚的に表現すればデザインになり、
そのエッセンスを文章で表現すればコピーになり、
そのエッセンスを経営の文脈で表現すればビジョンや戦略ということになります。

強い会社は選択が上手なのではなく、捨象、つまり捨てることに長けているのたわ、と指摘しています。

なにをしないかを決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。
会社についてもそうだし、製品についてもそうだ。
スティーブ・ジョブズ

コンプライアンス違反がどうやっておきるか。
なんら有効な経営戦略を打ち出せない経営陣が、
現場に無茶な目標を突きつけて達成し続けることを求めた結果、
やがてイカサマに手を染めざるを得なくなった、というストーリー。

そもそも、経営陣の最も重要な仕事は、
経営というゲームの戦略を考える、
あるいはゲームのルールを変えるということです。

昨今、労働問題や粉飾決算などのコンプライアンス違反を犯して
世間を仰天させるような企業には、一つの「共通項」があります。
それは既存事業の枠組みを前提にしてKPIを設定し、
ひたすらに現場の尻を叩くという、
いわゆる「科学的マネジメント」に傾斜していた、ということです。

大規模な「イカサマ」に手を染めて破滅する企業の多くは、
その直前まで「科学的経営管理」によって世間から称賛されているケースが少なくない。

サイエンスだけに立脚していたのでは、
事業構造の転換や新しい経営ビジョンの打ち出しはできません。

「そもそも何をしたいのか?」「この世界をどのように変えたいのか?」
というミッションやパッションに基づいて意思決定することが必要になり、
そのためには経営者の「直感」や「感性」、
言いかえれば美意識に基づいた大きな意思決定が必要になります。

このような局面で、サイエンスのみに軸足をおいて、
論理的に確度の高い案件ばかりに逃げ込み続ければ、
やがて現場は疲弊し、モラルの低下とイカサマの横行という
問題が起きるのは当たり前のことです。

「フワッ」と浮かんだアイデアが優れたものであるかどうかを判断するためには、
結局のところ、それが「美しいかどうか」という判断、つまり美意識が重要になるからです。

正しい手を指すためにどうするかではなく、
美しい手を指すことを目指せば、正しい手になるだろうと考えています。
このアプローチのほうが早い気がします。(羽生善治「捨てる力」)

高度で複雑で抽象的な問題を扱う際、「解」は、
論理的に導くものではなく、むしろ美意識に従って直感的に把握される。
そして、それは結果的に正しく、しかも効率的である。

大きな方向性や戦略について深く考察することは、
とりもなおさずこのスピードを毀損することになります。

~~~ここまで引用

なるほど。

科学的な正しい一手を指すということは、
とても大切なことなのだろうけど、
そこに傾斜しすぎることの危険を説いている。

そして、
日本企業の「成功体験」とは、
「スピード」という強みを最大限に活かしたこと。

そして、その「スピード」のために必要なのは、
「ゴール」であって、「ビジョン」ではなかった。

「思考停止」して動くことであって、
「なぜ、これが必要なのか?」と考えることではなかった。

そして何より、
年功序列型組織が悪いわけでは決してないけど
負の側面として、「失敗しないと出世する」
という思考に陥ってしまい、

そうなると打ち手はどんどん「サイエンス」的に
正しい一手となるが、それは次第にコモディティ化し、
さらなるスピード勝負、コストダウン勝負になる。

経営陣は経営戦略、つまり
経営的にどのように「戦い」を「省略して」いくか
を考えなければならないのに、

KPIを設定して、現場にがんばれ、と言い、
その数字を管理するだけである。
構造的に疲弊せざるを得ない。

足し算でイノベーションは起こらない。

まず引き算をして、
強みだけを取り出して、
掛け算していくこと。

あるいは、マイナスとマイナスを
掛け合わせて、一気にプラスにしていくこと。

そうやって、イノベーションは起こるのだと思う。

必要なのは、「ゴール」ではなく「ビジョン」であり「ミッション」である。
この世界をどうしたいのか?
この事業の先にどんな社会が広がっているのか?

そして、
「美しい」と思う一手を打つことである。

だから、感性を磨くこと。

「自信を持つ」っていうのは、
スキルではなく、むしろ感性のほうだ。

感性を信じて、
美しいと思う次の一手を打ち続けること。

プロフェッショナルとは、美しい一手が、
あとから考えると正しく、効率的だったとなることだ。

さて。

僕にとっての次の「美しい一手」とはなんだろうか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)

2017年12月06日

「やりたいことがわからない」は種として正常な状態


キンコン西野さんトークライブ。


「革命のファンファーレ」(西野亮廣 幻冬舎)

もうね。
1500円(税込)っていう価格設定からすごい。
講演会場での直売を前提としている。

食わず嫌いだったのだけど、
塩尻の山田くんが面白かったというので、
僕も興味があって、行ってきました、トークライブ。

いやあ、面白かった。
怒涛のマシンガントーク。

エッセンスは2日のブログ
http://hero.niiblo.jp/e486424.html
に書いたので、今日はその続き。

~~~以下トークライブおよび本文からメモ

クラウドファンディングはお金を集める装置ではない。
お金の正体が分からないとお金は集められない。
お金とは何か?という問い。
クラウドファンディングとは何か?という問い。

ホームレス小谷がお金の本質を語ってくれている。
1日を50円で売る。なんでもやる。
お金を受け取らないことで信用を稼いでいる。
クラウドファンディングで結婚式費用を集める。50円で買った人が入れている。
信用の両替機としてのクラウドファンディング

お金とは、信用の数値化であり、クラウドファンディングとは信用をお金に換える両替機。

テレビタレントのクラウドファンディングがうまくいかないのは、
テレビタレントは、意外に信用がないから。
テレビはスポンサーがお金をはらっているから。

料理番組では美味しいと言わないといけない。
好感度が重要だから。好感度を上げるためにウソをつく。
昔は確かめる術がなかったが、今はその真偽を確かめることができる。
情報操作ができなくなった。

テレビに出続けると、好感度、認知が上がる代わりに信用を失う。
好感度と信用はトレードオフ。
認知タレントと人気タレントの違い。
認知タレントはスキャンダルがあると詰んでしまう。

認知タレントのCDは売れないし、有料ライブも人は呼べない。
現代の通貨は信用。

ウソは感情がつくんじゃなくて、環境がつかせる。
ウソをつく環境に身を投じないこと。
つまりテレビのグルメ番組に出ないこと。

空気を読むと、信用が離れていく。
大切なのは大局観。

アイデアを提供してもらうにはどうしたらいいか?

徹底的に行動すること。
動かないやつは自分ひとりの脳みそでしか考えられない。
徹底して行動することで脳みそが集まってくる。

そして、旗を立てる。
人とアイデアが集まってくる。

~~~ここまで引用メモ

印象に残ったのは、
「飛行機はなぜ飛ぶのか?」
という往年の漫才コンビ紳助竜助のネタ。

「飛行機ってなぜ飛ぶか知ってるか?」

・何百人も載せている
・結構なお金を払ってもらっている
・目的地につくと思っている
・そのままいったら海に落ちる

「飛ばなしゃーないやろ。」

鳥も羽はやさなきゃしゃーないから羽が生えた
両生類も陸にあがらなしゃーないから上がった

天才のつくり方⇒極端な環境に身を置くしかない
サラリーマンからは天才は生まれない。みんながやっているから。

いいなあ、そういうの。
飛ばなしゃーない。だから飛ぶ。

そして、本で復習。
いきなりまえがきでシビれたよ。

~~~以下本からのメモ。

「やりたいことはわからない」は、種として、動物として、環境に即した、正常な状態である。

「いつの時代も、次の世代のほうが種として優秀である」という自然界の宿命。

最近の若者は・・・、というのは、「進化に乗り遅れてる」と自ら宣言するようなものだ。

親世代の常識は、「お金=ストレスの対価」だ

ところがストレスがかかる仕事から順にロボット化されていき、
ストレスがかかる仕事がみるみる世の中からなくなっていくではないか。

好きなことを仕事化するしか道は残されていない時代

批判のほとんどは、変化に対する恐れだ

学校の先生に一番必要のないスキルがお金だ。

哲学や教養のない炎上は商法として成立しない。

まもなく定年で、まとまった退職金も貰えるのに、
それまで我慢できずに会社を辞めて、喫茶店始めちゃうオヤジだとか、
そういった生き方をしている人を芸人と呼んでいる。
つまり芸人というのは、肩書きではなく、生き方の名称だ。

肩書きを変える程度のことで炎上してしまう、
肩書きは一つに絞れという世間の風潮が、
職業に寿命がやってくる、これからの時代を生きる上で極めて危険。

インターネットが何を生んで、何を破壊したのか。

過去の常識にしがみつくな。その船は、もう沈む。逃げろ。

感情に支配されず、常識に支配されず、お金に支配されず、
時代の変化を冷静に受け止め、常に半歩だけ先回りすることが大切だ。

船底に穴が空き、沈んでいく船の、まだマシな部屋を探してはいけない。
最後に水に浸かる部屋を奪い合ってはいけない。
今の状況を正確に捉え、生き延びることが大切だ。

クラウドファンディングは資金調達のツールではなく、
共犯者作りのツールである。

おみやげは生活必需品だったのだ。
おみやげは必ず体験の出口にある。

スマホがカバーできてない娯楽となると、あとは体験しか残らない。

体験を共有するべく、おみやげを買う。
商品は、体験に紐付ければ確実に売れる。

自分一人で広告してはいけない。広告させることが大切だ。

宣伝用アカウントに、宣伝効果があるはずがない。
大切なのはニュースを出すことではなくて、ニュースになることだ。
何の為の情報解禁日なのかを、もう一度考えろ。考えるんだ。

決定権は覚悟だ
未来は覚悟に比例する
キミに決定権はあるか?
成功者は必ず決定権を持っている。

~~~ここまで本文より引用。

僕の読書は、
線ひいたり折ったりしないで、
ツイッターでつぶやきながら読むスタイルなのだけど、
なんかめちゃメモしたなと。

本の一番のポイントは、
「やりたいことがわからない」は種として正常な状態であるということ。

種の生存戦略として、
時代や社会に合わせていくこと。

時代が社会、いやお金のシステムや意味づけさえ
変わろうとしている現代において、
やりたいことが決まっているというのは、
むしろ危険なことなんじゃないかと。

そして、思わず笑ってしまったのが、ここ。

宣伝用アカウントに、宣伝効果があるはずがない。
大切なのはニュースを出すことではなくて、ニュースになることだ。
何の為の情報解禁日なのかを、もう一度考えろ。考えるんだ。

「もう一度考えろ。考えるんだ。」

いいなあ。
この繰り返し。

常識や慣習をそのまま受け入れないこと。
思考停止しないこと。
考え続けること。
試作しつづけること。

僕がここ数年で読んでシビれたビジネス書のエッセンスというか
ポイントみたいなものが詰まっている1冊でした。

・ゆっくりいそげ(影山知明 大和書房)
・MEDIA MAKERS(田端信太郎 宣伝会議)
・魔法のマーケティング(川上徹也 フォレスト出版)
・心の時代にモノを売る方法(小阪裕司 角川新書)
・応援したくなる企業の時代(博報堂ブランドデザイン アスキー新書)

と併せて読みたい。

そして、この前紹介した、
「あなた」という商品を高く売る方法―キャリア戦略をマーケティングから考える(永井孝尚 NHK新書)
がこの「革命のファンファーレ」の解説になっているような気もする。

「考え続けるという希望」(2014.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e457307.html

変化の時代に、
怖いのは、停止してしまうことだ。
動き続ける、考え続けるしかない。

そこには、「知るべき絶望」があるかもしれない。
しかし、そこからしか始まらない。

いま、自分が乗っている船
(学校や会社、プロジェクト、あるいは思想や考え方)
の船底に穴が空き、沈み始めているからもしれない。

そのときに、自らの船で漕ぎ出していけるか。
あるいは新しい船を造ることができるのか。
船を造るための資金を集めるほどの信用があるのか。

そして、なにより、その船の行き先を自分で決められるのか。

そんな問いが突き刺さる、トークライブと本でした。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)

2017年12月05日

ミッションに基づく直感で決める



大阪心斎橋・スタンダードブックストア。
ツルハシブックスの本のラインナップは、
オープン当初から
この本屋さんを参考にしていました。

僕が買いたいな、と思った本を注文して、
お客さんに先に買われると、
「お客さん、お目が高いね。」(オメガトライブではない。)

と言いながら売っていた。
ツルハシブックスは1日1冊は必ず新刊を売る、
というルールになっていたので、
お客さんが来ないころは、自分で買っていた。
(まあ、自分が買いたい本をそろえているのだから、そうだよね)

今回は、わずか15分しかなかったけど、
のぞきに行ってきた。

そしたら、やっぱりあるんですよ。
この本の中身はこれ。


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営における「アート」と「サイエンス」 (山口周 光文社新書)

おもしろ~。
こういう本好き。
なんていうか、真実すぎて、笑えない。

「個人や組織のイノベーションがどう起こるか?」

っていうのは、僕と問いが近いので、
この本はめっちゃ響きます。

といっても、まだ第1章の途中なのですが、
ここらで少しアウトプットしておきます。

~~~以下本文より引用

正しく論理的・理性的に情報処理するということは、
「他人と同じ正解を出す」ということでもあるわけですから、
必然的に「差別化の消失」という問題を招くことになります。

「科学的に検証できない」ということは、
「真偽がはっきりしていない」ということを意味するだけで、
その命題が「偽」であることを意味しません。

コンサルティング会社が提供している価値を一言で言えば、
「経営にサイエンスを持ち込む」ということになります。
「サイエンス」に依拠する以上、その判断の立脚点はどうしても数値にならざるを得ません。

歴史を振り返ってみれば、過去の優れた意思決定の多くは、
意外なことに感性や直感に基づいてなされていることが多いということです。

フランスでは、文系、理系を問わず、
すべての高校生が哲学を必修として学び、
哲学試験はバカロレア(大学入学資格試験)
の第1日目の最初の科目として実施されます。

これまでの日本企業の多くは、
「人と同じ答え」を「より早く、より安く」
市場に提供することで勝ち残ってきたわけです。

経営における意思決定のクオリティは、
「アート」「サイエンス」「クラフト」の三つの要素の
バランスと組み合わせ方によって大きく変わる。

「アート」はアカウンタビリティ(説明責任)に耐えられないから
「アート」と「サイエンス」と「クラフト」
を戦わせると、「アート」は負ける。

イチロー
「僕は天才ではありません。
なぜかというと、自分が、どうしてヒットを打てるかを
説明できるからです。」

言語化できるかどうか、再現性があるかどうか、
「サイエンス」の世界では重要な案件。
天才・長嶋茂雄は説明できないから天才。

アカウンタビリティ(説明責任)は無責任の無限連鎖を呼び、
リーダーシップの放棄を引き起こす。
「あのときは、そのように判断することが合理的だったのです。」
という言い訳を生んでしまう。

しかし、考えてみれば、
もしセオリー通りに論理的にかつ理性的に経営するのであれば、
経営者やリーダーの仕事とはいったいなんなのでしょうか?

もし、経営における意思決定が徹頭徹尾、論理的かつ理性的に
行われるべきなのであれば、それこそ経営コンセプトと
ビジネスケースを大量に記憶した人工知能にやらせればいい。

トップに「アート」(系人材)を据え、
左右の両翼を「サイエンス」と「クラフト」
で固めてパワーバランスを均衡させる。

強い企業、類い稀な革新を成し遂げた
多くの企業がこのようなガバナンスの構造を持っていた。

ウォルトディズニーもホンダの創業期も、
80年代のアップルも、近年のソフトバンクも、

強烈なビジョンを掲げてアートで組織を
牽引するトップをサイエンスやクラフトの面で
強みを持つ側近たちが支えてきたという構造になっていた。

~~~ここまで本文より引用

なるほどな~~~。

めっちゃいいわ、これ。
問いが熱い。

アカウンタビリティ(説明責任)は無責任の無限連鎖を呼び、
リーダーシップの放棄を引き起こす。
「あのときは、そのように判断することが合理的だったのです。」
という言い訳を生んでしまう。

しかし、考えてみれば、
もしセオリー通りに論理的にかつ理性的に経営するのであれば、
経営者やリーダーの仕事とはいったいなんなのでしょうか?

もし、経営における意思決定が徹頭徹尾、論理的かつ理性的に
行われるべきなのであれば、それこそ経営コンセプトと
ビジネスケースを大量に記憶した人工知能にやらせればいい。

めちゃその通り過ぎる。
「アート」人材をリーダーに据えて、
直感で決める。
どちらが美しいか?で決める。

それはきっと最初のほうで出てくるけど、
「哲学」を学んでいるか、っていうことも重要なのだろう。

西村佳哲さんのいう、「あり方」がある人が、
直感で選ぶ道に行くこと。

そこに向かって進める個人や組織体こそが
イノベーションを起こせるのだと思う。

ミッションに基づく直感を発動させられるチームをつくる

それが一番大切なことじゃないかなと感じた1冊です。
まだ途中ですが。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)

2017年11月30日

「マイノリティー」と「マジョリティー」を無くした「場」をつくる

福岡の大学生、井上洋菜のブログで、
イノベーションと言葉についての
記述があったので、そこにインスパイアされて
もやもやと考えている。

https://yona47.wordpress.com/2017/11/26/

キーワードは
・イノベーション
・言葉
・多様性
・マイノリティーとマジョリティー

などなど。
そんなことをもやもや考えながら
電車に乗って、本を開く。


「断片的なものの社会学」(岸政彦 朝日出版社)

最近は読書運がすごくいいので、
タイムリーに飛び込んでくる言葉たちがある。

110ページから引用する。

~~~ここから一部引用

幸せのイメージというものは、
私たちを縛る鎖のようになるときがある。
同性愛のひと、シングルのひと、子どもができないひとなど、
家族や結婚に関してだけでも、これだけいろいろな生き方がある。

それだけではなく、働き方や趣味のありかたなど、
生きていくうえで私たちがしているありとあらゆることについて、
なにか「良いもの」と「良くないもの」が決められ、区別されている。

ここから、考え方がいくつかに分かれる。
おそらく、そのなかでもっとも正しいのは、
極端に言えば「良い」と思うことをやめてしまうこと、
あるいは、そこまでいかなくても、それが「一般的に良いものである」
という語り方をやめてしまうことだろう。

ある人が良いと思っていることが、
また別のある人びとにとっては
暴力として働いてしまうのはなぜかというと、
それが語られるとき、徹底的に個人的な
「<私は>これがよいと思う」という語り方ではなく、
「それは良いものだ。なぜならば、<一般的に>良いとされているからだ」
という語り方になっているからだ。

完全に個人的な、私だけの「良いもの」は
誰も傷つけることもない。

そこにはもとから私以外の存在が
一切含まれていないので、誰も排除することもない。
しかし、「一般的に良いとされているもの」は、
そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人びととの
区別を自動的につくり出してしまう。

「私は、この色の石が好きだ」という語りは、
そこに誰も含まれていないから、誰のことも排除しない。
しかし、「この色の石を持っているひとは、幸せだ。」
という語りは、その石を持っているひとと、
持っていないひととの区別を生み出す。
つまりそこには幸せなひとと、不幸せなひとが現れてしまう。

したがって、まず私たちがすべきことは、
良いものについてのすべての語りを、
「私は」という主語から始めるということになる。
あるいは、なにかの色の石を持っているかどうか、
ということと、幸せかどうか、ということを切り離して考えること

~~~ここまで引用

うわ~。
なるほどな。
めちゃその通り過ぎて震えた。

そもそも、
「マイノリティー(少数派)」とか
「マジョリティー(多数派)」とか
って言葉はあんまり意味がないんじゃないかと思った。

いや、意味がないんじゃなくて、
良いと悪いがないってことか。

多数派だから良いわけじゃない。

特に「イノベーション」の視点からは、そうかもしれないよね。
イノベーションは最初はだれも賛同しないって言うし。
多様性や異質から生み出されるって言うし。

「多数派」=「良い」っていうふうになったのは、
いつからだろうか。

っていう問いが浮かんだ。

いま、
長岡藩の河井継之助が描かれた
司馬遼太郎の「峠」を読んでるのだけど、

幕末も、関ヶ原の戦いのときも、
大切なことは「時勢を読むこと」、つまり「勝ち馬に乗る」ことだった。
だから、情報収集し、あるいは裏切りを画策し、
自らが多数派であろうとした。

KJ法というワークショップ手法がある。

これはラベル(付箋)にひとりひとりの意見を書き込んで、
「ラベルに語らせる」という手法だ。

そこにいる多様な人たちの意見をいったん紙に落とすことで
意見を出した個人の肩書や実績ではなく、
純粋にそのラベルを見て、アイデアを生んでいくということ。

そうそう。
あくまで、大切なのは「個」なのだ、と。

「個」が「個」として、場にコミットすること。
それが大切なのだと思う。

だからこそ、
「アイスブレイク」じゃなくて、「チューニング」が大切なんだ。

場にフォーカスするんじゃなくて、
個人にフォーカスして、
「今日、この人はどんな音を出す人なのだろう?」
を認識して、

ひとつの音楽・曲のような「場」を
生み出していくこと。

イノベーションは、マイノリティーが生み出す、
のではなくて、

「マイノリティー」や「マジョリティー」という言葉が無くなり、
「個」にフォーカスする「場」から生まれる。

そんな仮説ができました。

井上洋菜さん、ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)

2017年11月29日

「仮説検証」をエンターテイメント化する


「あなた」という商品を高く売る方法―キャリア戦略をマーケティングから考える (永井孝尚 NHK出版新書)

読み終わりました。
なんか、しっくりくるわ。
わかりやすい。

27日のブログにも書いたけど、
http://hero.niiblo.jp/e486383.html
「バリュープロポジション」という考え方。

「①どんな強み(自分の強み)」を生かして
「②だれの(ターゲット)」
「③どんな悩みに(ニーズ)」
「④いかに応えるか(自分の仕事)」

そして
「相手がほしいもの」
「自分が提供できるもの」
「ほかが提供できるもの」
の三角形の中の

「相手がほしいもので、
ほかが提供できなくて、
自分が提供できるもの」

を見つけていくことが
バリュープロポジションだと。
(ここまで再掲)

この本では、
阿智村の「星空エンターテイメント」の話で、
リーンスタートアップと振り返りの大切さが書いてある。

~~~以下本書より一部引用

2011年末、ヒト・モノ・カネものなく、
ホームページすらない状況で、
「日本一の星空ナイトツアー」プロジェクトが立ち上がった。

全員手弁当の持ち出しだったが、
翌年の3月には地元小学生を招いて
モニターツアーを行った。
満天の星に大興奮の子供たちを見て、
これはイケルといい感触をつかんだ。

8月1日、第1回目の「日本一の星空ナイトツアー」
参加者はたったの3名だったが、
これも大感動の様子でさらにイケルと思った。

そこで「スターガイド」を募集。
3人公募のところ3人が応募。
経験者はおらず、人前で話したこともなかった。

谷澤さんは、素晴らしい運営の仕組みを持っていた。
それは「翌日に持ち越さない」ことだ。

谷澤さんたちはナイトツアー終了後に、
毎晩反省会を行った。

「何がよかったか?」
「何が悪かったか?」
「悪かった点はどう直すか?」
を必ず話し合い、全員で共有した。

谷澤さんたちが行ったのが、
まさにリーンスタートアップによる「仮説検証」だ。

阿智村では2012年8月以来、この仮説検証を
毎日行い、試行錯誤から学んだ分厚い学びが蓄積されている。

~~~ここまで引用

「企画会議」

「リーンスタートアップ」(とりあえずやる)

「仮説検証」

「企画会議」

これをいかにグルグルするか。
きっとこれが地域での若者のチャレンジの場づくりの
カギになっていくだろうと思う。

そして、僕自身のバリュープロポジションが
そこにあるのかもしれないと思った。

「とりあえずやる」ためには、
それを「挑戦」だと自覚しないことが大切だと思う。

「企画会議」を「キカクカイギ」にして、
ワクワクしながら始める。

そして、今回の阿智村の事例で学んだのは、
「翌日に持ち越さない」ということ。

尊敬する友人が
毎日夜リセットするために1時間ほど散歩を
していると言っていたが、そういうことか。

ツルハシブックスも、
振り返り、したほうがよかったな。

魔法の4窓振り返りで
・予想できたよかったこと
・予想できた悪かったこと
・予想できなかった悪かったこと
・予想できなかったよかったこと
これ、毎日やったほうがよかったな。

そして、ヒーローズファーム時代にやっていた
スタッフ間のフィードバックセッションも
やるのがいいのかも。合宿時とかに。

〇〇さんへ
・印象的だったコト
・チームの中で担っていた役割
・こういうところはすごい
・このあたりはあと一歩・・・
・これから期待すること

これは相手をよく見ていないと書けないから
習慣化すると、チームがよくなるだろうなと思う。

そうやって、
はじまりの企画会議と
しめくくり・次につなげる仮説検証を
エンターテイメント化する。

そして、
「予測不可能性」というエンターテイメント性を
高めていくこと。

昨日、熱海からとっくんが遊びに来て、
話していたんだけど、

リクルートスーツ来て就活ってまだやってるんですか?

結果が決まっている会議なんてあるんですか?

って真顔で驚いていたので、
きっとそれが、本当なんだろうと思った。

外国人が日本人はちょんまげで刀を差して歩いてる、みたいな。
(いや、なんかちょっと逆か)

リクルートスーツとか
結果が決まっている会議とか、
アンビリーバブルだなあと思う。

多様性と予測不可能性
一緒にやってみる、そしてふりかえる。

それをエンターテイメント化すること。

そこにミッションがあるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年11月26日

ベルギービールを愛するということ



名古屋女子ビール部の復活イベント。
日本におけるベルギービールの第一人者である
三輪一記さんのトークからスタート
一般財団法人日本ベルギービールプロフェッショナル協会代表理事
ベルギーは九州と同じくらいの面積に1000万人が暮らしている。
なんと、1600種類のベルギービールがあるのだという。

ワイン以上の多様性があって、
熟成することでまた味わいが変わり、
開ける瞬間、飲む瞬間、楽しみが広がるのだという。

昨日は8名の参加者と
数年前まで活動していた名古屋女子ビール部についてと
2階にあるライブラリーの活用法について、話をしました。

いちばん盛り上がったのは、
ベルギービールの絵本をつくる、というもの。
三輪さんがベルギーで出会ってきた作り手の物語を
ちょっとずつ絵本にしていくこと。

ひとつは、
・酔った段階では、活字の本はなかなか読めない。
そして、
・作り手の物語を知りたい。
さらに、
・絵本であれば、みんなで読める。

そういうコミュニケーション・ツールとしての
本づくりをするのはいいかもしれない。


「ソムリエール」っていうマンガがある。
(著:城アラキ、イラスト:松井 勝法 集英社 2007年第1巻発売)

このマンガでは、作り手の物語がつづられている。
北海道で無農薬で作り続けている兄弟の話とか。
ラベルからは伝わってこない作り手の物語、思いに触れると、
そのワインを飲むときに、心が旅をするんだ。

そういえば、今回誘ってくれた
名古屋女子ビール部のプロデューサーの
本間さんが最初に言っていた。

「ベルギービールを飲むと、
ベルギーを旅しているような気持ちになる」
旅ができるビールなんだ、ベルギービールは。

で、今回のイベント企画がなぜ起こったのかというと、
新潟で本間さんと話していて、

ベルギービール屋さんの2Fに本棚があって、
そこでライブラリーをつくる、みたいな話で、
そのときにピンと来たのは。

ひとり飲みできる女子は、(男子もだけど)
精神的に自立した人が多いような気がする。(僕の統計上)

そういう人たちが、
ビールと本をきっかけに出会ったりしたら
楽しいのではないかなと思ったのです。

で、実際に昼間からビールを飲む、
名古屋女子ビール部っていう名称
に惹かれてやってきた女子が2名いたので、
それは意外に当たっていたのかもと。

そして、参加者のひとりが言っていたことで
印象的なことがひとつ。
「出会いが楽しいから1人で飲みに行く。」

なるほど。
酒場はお酒をみんなで飲むことで、
心が開いている状態をつくりやすい。
酔っ払いはみな、(精神的に)フラットになれる。
そういうことなのかもしれない。

「イノベーション」がどう起こるか。
これは、水曜日のフォーラム、
金曜日の信州大学の授業からのテーマでもあるのだけど。

多様性とフラットな関係性。
これがカギになるなと思った。

そういう意味では、
ベルギービールを飲みながら
語る場は、何かが起こりそうな気がする。

ひとつ詩が浮かんだ。

ベルギービールを愛するということ。
それは多様性を愛するということ。
作り手をリスペクトするということ。

酒場で飲む、を愛するということ。
それはフラットな関係性を愛するということ。
1回限りのいまこの瞬間を楽しむということ。
(2017.11.25 名古屋女子ビール部)

ベルギービールは、本に似ている。
そしてベルギービール屋は本屋に似ている、って思った。

本屋という空間は、
「人は多様でいいんだ」というメッセージを
本棚が発している空間だと僕は思う。

そしてそこで本と出会い、心が動かされる。
人と出会い、何か会話が生まれる。
そこから始まる物語がある。

本を通じると、人と人はフラットになる。
本屋での出会いは、その時限りの劇場のようになる。
それがツルハシブックスでやってきたことだった。

そうだとすると、ベルギービール×本って、
かなり面白いんじゃないか。

「集まる場」と「始まる場」
そんな場所になったらいいなと思いました。

僕にとっても素敵な気づきがありました。
またご一緒しましょう、本間ねーさん。  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)イベント

2017年11月21日

越境する窓としての本と、ドアとしての本屋


「断片的なものの社会学」(岸政彦 朝日出版社)

11日に行われたイベント「DIVE IN BOOKS」内の
「はじめましての3冊」企画で「魔法をかける編集」と交換した本。
お借りしています。ようやく読み始めました。
現在91ページまで来ました。

素晴らしくタイムリーでした。

昨日の「秘密の作戦会議」のテーマは、
「越境」だったので、

「越境」というキーワードがぐるぐる
していたところだったので、
この80ページからの「出ていくことと帰ること」
がめっちゃよかった。

「なぜ本屋なのか?」っていう問いに対しての
僕自身の仮説がカタチを伴ってきたな、って。

アウェー感っていう言葉があるけど、
そういうのを感じる場所に身を置かないと、
「越境」とは言えないのだろうなと。

大学生が地域に出る意味、について。
それはひとえに「越境する学び」だろうと思う。

地域に出る。
なにか活動に参加する。
その意味がどこにあるのか、考える。
フィードバックをもらい、自己評価を行う。

「大学の外に出る」っていうのは、
物理的に出ることじゃなくて、精神的に、
つまり、以前書いた「他者評価の檻」
から脱出することなのだろうと思う。

「学び」は越境にある。
境の向こう側か、あるいは境目上にある。

その「学び」こそ、エンターテイメントだ。
最強のエンターテイメントとは、「学び」だと僕は思う。

だから人は本を読み、旅をして、人に会うのだろうと思う。

そんなことをぼんやりと考えながら電車に乗って、
この本を開いたところで、タイムリーに飛び込んできた言葉たちがあった。

~~~ここから引用

私たちはいつも、どこに行っても居場所がない。
だから、いつも今いるここを出てどこかへ行きたい。

居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、
手に入れられないかのどちらかのときで、
だから居場所はつねに必ず、否定的なかたちでしか存在しない。

しかるべき居場所にいるときには、
居場所という問題は思い浮かべられさえしない。
居場所が問題になるときは、
必ず、それが「ない」ときに限られる。

誰にでも思わぬところに「そとに向かって開いている窓」があるのだ。
私の場合は本だった。同じような人は多いだろう。
四角い紙の本はそのまま、外にむかって開いている四角い窓だ。

だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、
ここではないどこかに「外」というものがあって、
私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、
という感覚を得ることができる。

そして私たちは、時がくれば本当に窓や扉を開けて、
自分の好きなところに出かけていくのである。

あるときには本が窓になったり、人が窓になったりする。
音楽というものも、多くの人々にとって、そうだろう。
それは時に、思いもしなかった場所へ、
なかば強引に私たちを連れ去っていく。

~~~ここまで引用

そうそう。
思わぬところに窓があって、そこから人は「越境」していく。
そこにエンターテイメントとしての「学び」があるのではないかと思うのだ。

そしてそれこそが、
「自由への扉」となる。

ローカル・リベラルアーツ・ラボラトリーと
しての本屋をやる上で、避けられない問い。

それは「自由」とは何か?である。
そして、自分はどのレベルの自由を欲するか、である。

会社員になる、というのは、
月曜日から金曜日の時間的制約を受ける代わりに
一定の給与によって、一定の金銭的自由が得られる。
そして、金銭的自由が精神的自由をもたらしてくれる。
多くの人がそうやって生きてきたし、生きているのだろう。

その「自由」を自分なりに定義をすることが大切だと僕は思うし、
それは大学生、いや高校生のときから問い始めても早くないと思う。

「自由」とはなにか?を問うためには、
越境してみることは非常に有効だろうと思う。

絵にすると、こういう感じ。


自分が生きている世界というか会社というか学校というか、
その価値観の外に出ること。
他者評価の檻を脱出すること。

そこでいろいろやってみて、
振り返って、自己評価を行うこと。
それを言語化し、人に伝え、
フィードバックをもらうこと。

その繰り返しでしか、「自由」の定義は得られないのではないか。
「自由」とは、嫌われる勇気であるってアドラーは言ったけど、

「自由」とは、他者評価オンリーの人生を生きないということなのだと
現時点では僕は思う。

だから、「自由」の獲得のためには、
自己評価の習慣をつけること。
その前に、他者評価の外へ出ること。
越境すること。

岸さんのいうように、そのための方法のひとつ、
窓のひとつが、本である。

越境する機会の提供。
本と本屋の役割があるはそこにあるのだと思う。

日立の海のような本屋「うみまちブックス」も
越境するためのドアのような本屋になったらいいなと思う。
https://camp-fire.jp/projects/view/51775

最後に、昨日、一番響いた言葉を。

「志があれば、生きること自体が学問になる」(吉田松陰)

熱いっす。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年11月20日

本屋というメディアをつくる


「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)

この本があまりにもタイムリーだったので、
ダイジェストでもう一度振り返りメモ。
この本は買いです。

~~~以下本文よりちょっとずつ引用。

「メディア」と「ファイナンス」は似ている
⇒「対象への信頼」が鍵になっている。

何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。

Media型:送信者1 VS 受信者N ヤフーニュース等
Tool型:送信者N VS 受信者1 G-mail等
Community型:送信者N VS 受信者N フェイスブック等

メディアの影響力の本質
メディアで語られる=生きた証が記憶されるということ
メディアの価値「予言の自己実現能力」

ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

ペルソナの設定と、それが動き出すような物語をつくる。
尊敬・信頼・畏怖されないメディアは叩き売りされる。

テクノロジーの進化によって、
メディア自身も変わらざるを得ない。

馬具メーカーをやめたエルメス。
自分たちは何屋さんなのか?という問いに対して、
「馬具メーカーである」と答えることをやめた。

「自分たちは何屋なのか?」
「自分たちだからこそ、社会や顧客に提供できる本質的価値とは何か?」
このことを常に自問自答しなければなりません。

新聞はすべてパッケージされていた。
いまはすべてがアンバンドリング(バラバラになる)されている

新聞社に突き付けられているのは、プラットフォーマーになるのか、
プレイヤーに徹するのか?という重い選択です。

これまでは、さまざまなビジネス上の
生態系をもとに産業の垣根ができていたわけですが、
クラウドのインフラ上では、あらゆる境界線が溶けてなくなりつつあります。
そんな状況では、メディア企業と事業会社や広告主の境界線も消滅しつつあります。

さらに、プロとアマチュアの境界線も、
例えば、大学と書店とコンサルティング会社とビジネス・カンファレンス業と、
専門出版社の境目すら消えつつあるわけです。
知識を売る、という意味では、大学も書店も、
コンサルティング会社も全てフラットに同一平面上に並ぶわけです。

そして、徹底的にアンバンドリングが進んだ後には、
これまでとは違ったメディア環境が広がり、
アンバンドルされたものがまた別の視点から
パッケージングされ、リワイヤリングされているのではないでしょうか?

その際の主役となるプレイヤーは誰でしょうか?
私の仮説では、それは個人です。

雑誌がオーケストラなら、メルマガはロックバンド。

雑誌は抱き合わせ販売されていて、
個人のファンならメルマガを購読したほうが
効果的で効率的。

「雑誌は編集長の王国」だった時代は終わり、
誰も王の名前も知らない。

いまや有料個人メルマガこそが
「王国型メディア」である。
それは、個人が「無限責任」を負うということ。

商業メディアは有限責任で
(記者の)匿名性の高いメディアである。
そこには、嘘というか、ネガティブな意図が入り込む
隙が生まれる。

有限責任である株式会社で発信する限り、
そこが限界になる。

誰でも発信者(メディア)になれる時代に
どちらが信頼に足りうるでしょうか。

~~~ここまで引用メモ

いいですね。
振り返っても、すごい学び多い1冊。
このメディアを「本屋」に替えてみる。
媒体を「クラウドファンディング」に替えてみる。

その先に、僕が29歳の時に「小説吉田松陰」を読んで
妄想した、「学びあいの仕組み作りで希望の灯を燃やす」

そんな本屋の形があるように思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)

2017年11月17日

メディアの力とは予言の自己実現能力のこと


「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)

個人がメディアになる時代に、読んでおきたい1冊

結論から。
「メディアの持つ影響力」について、明確に一言で。

~~~以下引用

メディアには、そこでなされた予言自体を
自己実現させてしまう傾向があり、
この「予言の自己実現能力」こそが、
メディアへの畏怖の念と影響力の源泉でもありました。

そしてメディアの信頼性・ブランド力・影響力とは、
「予言」実現能力対する価値のことである。

~~~以上引用

なるほど。
めちゃ本質的。

このあとコンテンツを3つの軸で読み解く。

1つめが
ストックとフロー

単行本からツイッター(SNS)まで
ストック性は大きいものから小さくなっていく。
ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。

これらはどちらがいいとかではなくて、
どちらもミックスする必要がある。
本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが
参加性と権威性

食べログとミシュランなどを例に出して
参加性と権威性について語る。
こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめが
リニアとノンリニア

リニアというのは線形のことで、
映画のように、一度見始めると、
最後まで見るというように、
リニア性の高いコンテンツであり、

他方、テレビやネットメディアは、
チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、
ノンリニアなコンテンツといえる。
特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

なるほどな~って。

で、僕の中でいちばんおもしろかったのは、次のペルソナのところ。
(まだ読み終わってないですが)

「メディア編集者は、対象読者の「イタコ」となれ!」
ではじまる項がナイスです。

~~~以下引用

成功している一流メディアでは、明示的か、暗黙的かは別にして、
その読者がどういう人なのか?を活き活きと独り語りするような、
いわゆる「ペルソナ」と呼ばれるものが、関係者の「脳内」に存在しています。

長編小説を書く作家や人気マンガの原作者が、作品完成後のインタビューなどで、
しばしば『頭の中に、登場人物の「キャラ設定」さえできてしまえば、
あとは勝手に登場人物たちが、ストーリーを前に引っ張っていくんですよ』
といった趣旨のことを話すのを聞いたことはないでしょうか。

ここで言われるキャラ設定と、
メディア編集の世界における読者「ペルソナ」の設定は
ほどんど同じものだと思います。

擬人化のパワーを利用し、想定読者にイタコのように憑依してみることで、
こうしたシチュエーションにおける編集ジャッジの速度と精度、一貫性は
飛躍的に高まるでしょう。

個人の想像力には、限界がありますから、
実際のペルソナ作りには、想像力を補完するために
対象ターゲットを集めて、いわゆる
グループインタビューをすることは極めて有用です。

~~~以上引用

なるほどな~。

ここで、
「クラウドファンディング」をひとつのメディアだとして見ると、
そこには、買う人=寄付者=お客=読者がいる。

その人の設定ができているか、
ってとても大切なことだなと。

そしてもうひとつ気づいたこと。

クラウドファンディングが成功したその先の未来日記を
書くことってとても大切だなと。

今の現状のシチュエーションの中で、
未来を描いていくこと。

半分事実で、半分フィクション。
そういう未来。

そして、それは、
自分自身じゃなくて、もしかしたら、
設定した上で、他者が書いたほうが、
ワクワクする文章になるのかもしれないなと思った。

クラウドファンディングというメディアは、
まさに予言を自己実現していくものだ。

描く未来に共感を集めるために、
物語の力が必要なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)

2017年11月15日

テクノロジーの使い方


「なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。」
(家入一真 ディスカヴァー・トゥエンティワン)

読み終わりました。
読み直し中です。

家入さん、カッコいいわ。
どうして、「CAMPFIRE」のスタッフのみんなが
キラキラしているのか、少しだけわかった気がした。

「この船に乗りたい」
って思わせる目的地(ビジョン)がある。

家入一真さんは、高校中退後、引きこもりになり、
対人関係に悩んで、「誰にも合わずに仕事がしたい」
と起業を決意して、レンタルサーバー事業をスタート。
その後、カフェの運営や現代の駆け込み寺「リバ邸」などを展開。
2016年に自らが立ち上げたクラウドファンディング「CAMPFIRE」に復帰する。

この本では、「CAMPFIRE」での取組みが語られている。

クラウドファンディングのビジネスモデルは、
プロジェクトの達成金額の中から何%かを
運営会社が受け取るというプラットフォームビジネスである。

したがって、
目標金額(達成金額)が大きくなればなるほど、
手数料の額も大きくなる。

5000万円のプロジェクトがサクセス(達成)したら、
手数料が20%であれば、1000万円の収入となる。

家入さんは
「CAMPFIRE」復帰後、手数料をいきなり5%に下げた。
(現在は8%・・・決済手数料を除く)
5000万円のプロジェクトを1つつくるより、
5万円のプロジェクトを1,000個つくりたいという思いが詰まっていた。

家入さんが目指すのは、「金融包摂」だ。(以下本書より引用)

世界銀行による「金融包摂」の定義は、
「すべての人々が経済活動のチャンスを捉えるため、
また経済的に不安定な状況を軽減するために必要とされる
金融サービスにアクセスでき、またそれを利用できる状況」
ということ。

昨今話題になっている、社会的困難を抱える状況でも
社会参加の機会を与える、社会包摂という動きの金融版
と表現することもできる。

元来、金融システムは、既得権益は既得権益に守られがちなので、
金融のあり方は、金融機関による自助努力か、国によるトップダウン
でしか変化は期待できないものだった。

しかし、フィンテックの波が大きくなったことで、
僕たちベンチャー企業が金融の分野でも
声をあげられるチャンスが回ってきた。

今こそ、膠着した金融のあり方、
行きすぎた資本主義をアップデートする時が来ているのだ。

(ここまで本書より引用)

この後、家入さんは自らの活動を振り返り、
今までの活動は「社会包摂」にあったのではないか、と説明する。

レンタルサーバーやシェアハウス、
「居場所」をつくってきたけど、
そこから「アクション」を起こす時には
どうしてもお金の問題がつきまとう。
だから、クラウドファンディングなのだと。

すごいな。
コミュニティビジネス・ソーシャルビジネスって
そうやって起こるんだなとあらためて。

明確なWHYがある。
言い方を変えれば、ミッションがある。
そして顧客が「社会」だし、「未来」だ。

僕はこの本を読んでいてワクワクしたのは、

これは、本屋というプラットフォームとも
相性がいいということを感じたからだ。

ツルハシブックスのような若者が集まる本屋を
つくることができれば、

そこを「居場所」にだけするのではなく、
「アクション」の起こる「プラットフォーム」
に変えていくこと。

クラウドファンディングを立ち上げ、
それをメディアとして、全国の人たち、地域の人たちと
コミュニケーションをすること。

そこから、本書でいうような「小さな経済圏」を
つくっていくこと。

「居場所」ではなく「プラットフォーム」
「集まる場所」から「始まる場所」へ。
「集まる」と「始まる」が交互に起こり続ける場所。

きっとそんな場所を
地域資源をベースに作っていくこと。
それが、僕の「これからの本屋」の仮説だ。

僕自身は、顧客を絞り込んでいる。

やりたいことがわからない。
自信がない。
将来が漠然と不安だ。

そんな高校生大学生20代に、
「きっかけ」としての本、
「きっかけ」としての地域活動
「きっかけ」としてのインターン

を提供し、それを振り返り、自己評価することで
「学び」に落とし込む場をつくることだ。

その場の実現のために、
クラウドファンディングというテクノロジーをどう使うか?

どうせやるなら、誰とやるか、誰とどんな船に乗るか、ってめっちゃ大事だよね。

家入さんのテクノロジーの使い方には、
ミッションがある、ロマンがある。
その絵を一緒に実現するひとりになりたいと思う。

家入さん、その船、僕も乗りたいです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)