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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





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2018年05月07日

「本屋の青空」のある暮らし

本屋のある暮らしをつくる。
好きな本屋で本を買う。

それが、1年前の「新城劇場」のときのコンセプトだった。
(JR南武線武蔵新城駅前・7月リニューアルOPEN予定)

入ってから、出てくるまでが
楽しくなるような本屋さんに
出会うと幸せになる。

鳥取・定有堂書店の奈良さんは、
買おうと思っていた本をいつの間にか忘れ、
目的外の本をつい、買ってしまうことを、
「本屋の青空」と呼んだ。
(POPEYE「君の街から、本屋が消えたら大変だ!」より)

すてきだな、と。
そんな本屋さんのある暮らしがすてきだなと。

長崎・ひとやすみ書店には、
そんな「青空」があった。

福岡のブックスキューブリックも行くたびに
そんな青空を見せてくれる。

この前の武蔵新城ドライブで立ち寄った
荻窪の・「本屋・Title」にも青空が広がっていた。

入って3分で目に飛び込んでくる本に、
心を奪われた。


モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語(内田洋子 方丈社)

こんな本あったんだ、って。
3回手に取って、迷ったけど、購入した。
そこまで10分。

そんなドラマ。
1944円。

それが本屋で本を買うっていうことなんだろうと思う。

昨日は、
「帰ってきたツルハシブックス@ウチノ食堂藤蔵ブックカフェ」
の初日でした。


「本」の看板を置かせてもらい、


店内の左側のスペースに本を置き、


店主が淹れてくれる珈琲を味わいながら談笑し、


素敵なお客さんが来店してくれました。

閉店間際に、
野呂さんにいい問いをもらった。

「西田さんにとって、本屋をやるって、本を売るってなんですか?」

僕自身は、
本が好きというよりも、本屋が好きだ。
大好きな本屋で本を買う、というのが好きだ。

実は素人でも、本屋はできるのだ。

実は、ツルハシブックスの選書のほとんどは、
大阪の某素敵な書店に並んでいる本だった。
それを仕入れて、
自分なりのコンセプトにしたがって並べること。

それが僕が2011年の開店から3年半やってきたことだった。

僕が、茨城に行った理由の一つは、
ツルハシブックスの「場」としての可能性を見てみたかったからだ。
実際、山田マサシと井上くまもんとサムライのみんなのおかげで
2015年12月にツルハシブックスは「場」としての最高レベルに達したと思う。

つまり、ツルハシブックスは、
本屋という「場」の実験場、
本屋はどこまで「劇場」になれるか?
という可能性をさぐっていたのではないだろうか。

2016年11月の閉店から1年半。
ふたたび、「本屋とは?」という問いを目の前にして、考えてみる。

月に1度の本屋さんがあるとして、
そこで届けたいもの。

本屋の青空。

そして、手紙としての本。

東京で暗やみ本屋ハックツをやって
思ったこと。

それは、「手紙」。
本は手紙なんだな、って。
本屋っていうのは郵便屋さんみたいなもんなんだなって。
誰かから預かった手紙を届ける。

そうなんだよね。
本は売るものじゃなくて、届けるものなんだよね。

僕が本屋として、これからやりたいことは2つだ。

ひとつは、自分自身が「本を届ける人」になり、
「本屋の青空」を見せていくこと。

もうひとつは、何人かの人が「本を届ける人」となることで、
地域に「本屋の青空」が生まれていくこと。

「本屋の青空」のある暮らし。

そんな暮らし、そんなまちをつくっていきたいです。

野呂さん、素敵な問いをありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:05Comments(0)

2018年04月26日

場の魅力は、場への期待値のこと






「地域プロデュース、はじめの一歩」(山納洋 河出書房新社)

の山納さんにお会いできました!

僕は、ツルハシブックスを始めたばかりのころに、
山納さんの「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)
を読んでいて、ツルハシブックスは
「新刊書店」ではなくて「カフェ」なのだと思った。

http://hero.niiblo.jp/e208716.html (12.10.28)

http://hero.niiblo.jp/e306473.html (13.11.25)

そんな山納さんに「場」について話を聞いてきました。

~~~以下メモ

「常連を教育する」「いい常連に囲まれる店」
たぶん、いいスナックとかそういう感じなんでしょうね。
お客さんが店長の代わりをしているようなケアができる。

非構成エンカウンターグループ
https://himitsukichicollege.wordpress.com/2015/09/29/basic_encounter_group_01/

「チューニング」って呼んでたやつは、理論的に説明するとそういうことになるのか。

朝30分のミーティングで今の状態(気持ち)をいう。
夕30分のミーティングで今感じているもやもやを吐き出す。
「場」にいた人がその場の「空気」になる。
だからリラックスした状態でいることが重要。
次の日にもやもやを残さないこと。
ああ、喫茶店のよいマスターってそんな感じだな。

「出会いたい人集まれ」という呼びかけでは、
焚き木はちゃんと燃えてくれない。
どのように木を組んでいくか、司る人が必要。

「場の魅力」っていうのは場への期待値。
行かないより行ったほうがいい、と思わせるものは何か。

「はじめての人をケアする」というのを場のルールにする。
深い人なのか浅い人なのか。
何に関して深いのかを聞いてあげられるか。
関心空間、領域をさぐりながら聞いていくこと。
場を司る人の力量が問われる。

たき火マスターとしてのファシリテーター。
フラットである人。
自分を引き算し、聞き役に徹すること。

どんな境遇の人も「経験を持っている」という意味でリスペクトし、受け入れられるか。

まちの話は最強。
「あるまちのある場所については、誰かより詳しい」
→誰でも話ができる。
まち歩きの楽しさってそういうところにあるのかもね。
まちの話コレクターになること。

コミュニティナースと図書館とか本とかを組み合わせられるんじゃないかな。
https://www.huffingtonpost.jp/2016/11/18/community-nurse-akiko-yada_n_13069376.html

図書館を教育委員会管轄から外して、
サードプレイス的要素を高めていくことってできるんじゃないかな。
「社会教育」よりも広いくくりに位置づけることで、
医療や経済、観光とかと組み合わせられる。ものを売ったりとか。
でもそれがその場にいる子どもにとっては「社会教育」そのものなんじゃないか。

「身近な人を健康で元気になるお手伝いをしたい」
と思ってナースになったはずなのに、病院に来たときにはすでに手遅れになっていたりする。
How?ばかり考えている。
なんのために?っていうWhy?に立ち返る。

これ、すべての働く人が問わなければいけないやつだ。
How?どうやって?
ばかり考えて仕事していないか?
そもそも
Why?なぜ?
この仕事があるのだろう、自分はここにいるのだろう?
って問うこと。

Why?から考えて、
仮説→実践→検証を繰り返していくのって楽しいよね。
「違和感」→「問い」→「仮説」→「実験」
だね。

介護民俗学。
聞き書きをすると、すべてのおじいちゃんが「本」になる。
これも図書館と相性がいいな。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3083

図書館が「保健師」や「カウンセラー」的な人を雇ったら、まちはもっと健康になるんじゃないのか。
農業‐福祉連携の先に
図書館を核にした
農ー本ー医療ー福祉の連携とかあり得るよね。

地域おこし協力隊はアントレプレナー(起業家)になることが求められているのだけど、
それは「特産品をネットで売る」とか「カフェ」とか「ゲストハウス」とかの
レッドオーシャンに飛び込むのではなくて、
近所のおじいちゃんおばあちゃんの困りごとを解決するような
小さなサービスから始めるほうがいい

っていう世界を、僕のような本屋が見せてあげることって大切だなと。
その本屋同士がネットワークを組んで行ったりする。

~~~ここまでメモ(自分のつぶやき含む)

エッセンスがすごいなと。

自分が「チューニング」って呼んでいたやつが
「芝の家」とかでもやっているやつだったんだなと。
「つながるカフェ」を読まなきゃだ。

「場」をどう設計し、どう「魅力」をつくるか?
っていう問いをこたえていくような場をつくっていくこと。

それは常設の本屋なのか、間借りの本屋なのか。
それぞれの地域ではどうやったらいいのか。
そんな問いが生まれた。

あとは、図書館の可能性について。
図書館はもっと人と人をつなげられるな、と。

教育委員会管轄を外したらいいのにって思った。
もっとビジネスしたり、医療したり、
そういうのに場を使ったらいいなと思った。

そして、そういう場をつくることで、
高校生や大学生にとってのリアルな
学びの場が生まれていくのではないかなと思った。

さて。
山納さんの本をもう一度、読み直します。

貴重な時間をありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 09:12Comments(0)

2018年04月13日

安定とは特定のものに依存しないこと


20代に伝えたい50のこと(秋元祥治 ダイヤモンド社)

ようやく手に入れて、読みました。

岐阜市を拠点に、
地域企業×大学生の数々のプロジェクトを生み出してきた
チャレコミ界の星、NPO法人G-net秋元さんの本。

名言だらけです。
素敵な人に出会い、素敵なチャレンジをして
また素敵なチャレンジを生み出したのだろうなあと。

いきなりガツンと来ますよ。

「あなたは、あなたの人生の所有者(オーナー)でしょ。
そして、あなたはあなた自身の人生の経営者なんだ。」

そうそう。
ほんとこれ、大事。

僕だったらすぐに
だから、ドラッカーが、
5つの質問が、
ってなっちゃうんだけど。

秋元さんは自身の経験を踏まえた
珠玉の名言を連発。
インターンマッチングフェアで
1つずつ挨拶に使えそうな感じです。

たとえば、やりたいことを見つける方法。
「目についたら行ってみる。誘われたら断らない。」
たしかに。

たとえば、
「うだうだ言って何もしない人よりも、
うだうだ言われてでも
何かしている人のほうが、ずっと偉い。」

いっすね。そうそう。

そして。
「ものわかりのよい若者なんて、いる意味がない。」

そして何より、
僕の中でのハイライトはココでした。

「特定のものに依存する、ということは不安定なこと。
自身のキャリアや仕事でもそう。安定とは、依存しないこと。」

いやあ、ほんとそうだなと。
収入の安定よりも心の安定だと僕も思うけども、
それって、特定のものに依存するという
不安定を自覚するところからしか始まらない。

21歳で創業してから
地域×若者ジャンルで活躍してきた秋元さんの
人生が詰まった1冊。

言うなれば、「王道」のような本。

さてさて。
僕が併読していたのは、
西野亮廣さんの「魔法のコンパス」(主婦と生活社)



秋元さんの本が「王道」だとすれば、
こちらは、「邪道」とは言わないけど。
「脇道」というか、先行きのわからないちょっと細い道って感じ。
ただ、未来がそこにあるような気にさせてくれる1冊です。

すでに
水戸市での講演で聞いたこともたくさん入っていたのですけど、
なんていうか、そもそも、仕事ってなんだろう?職業ってなんだろう?
って問いが詰まっている本ですね。

進みたい道が「王道」じゃない人におすすめ。

「西野亮廣?ああ、炎上してる人ね。」

って思っている食わず嫌い王の人に読んでほしいですね。
僕自身も講演聞くまでは食わず嫌いでした。

まずは、「芸人」の定義から。

~~~以下本文より

僕の考えは、世間の皆様のそれとは少し違っていて、
進学校を卒業して皆が大企業に就職していく中、
「俺、芸人になる」と言っちゃう奴や、

あと2年も働けば退職金をもらえるのに、
その日を待てずに「沖縄で喫茶店を始める!」
とか言っちゃうオヤジ。

そういう人達がその瞬間にとっている姿勢
およびそういった姿勢をとる人のことを「芸人」と呼んでいる。

(中略)

「それもいいけど、こういう「オモシロイ」もあってよくない?」と提案したり、
時に、「アイツのやっていることは、はたして正解なのかなあ」
という議論のネタになったり、そういった、
「存在そのものが「質問」になっている人を僕は芸人と定義している

~~~以上本文より

そーなのか!
それって、僕のいう「現代美術家」に近いかもしれない、と。

僕は
「やりたいこと」や「ミッション」を見つける方法として、

「違和感」→「問い」→「仮説」→「実験」→「使命・ミッション」

の流れだと思っているのだけど。

西野さんも本文の中で、問いが落ちているのは、
「居心地の悪い場所」だと言っている。

なるほど。
だから、会社や学校は問いの宝庫なのだな。(笑)

「勉強は面白い。
ただ、勉強を教える先生が面白くなかった。」

ストレートだな、と。(笑)

「革命のファンファーレ」でも
西野さんの講演でも感じたことだけど、
彼は超一流のマーケッターだなあと。

顧客が何を感じ、
何を価値だと思い、お金を支払っているか、
そういうのの分析がすごいな、と。

・お金とは「信用の面積」を可視化したもの
・SNSは拡散のためのツールではなく、1対1をつくるためのもの
・本を体験に対しての「おみやげ」化をすれば、本は売れる。

なるほど。

いちばん勉強になったのは、
「セカンドクリエイター時代」という表現。

「場」や「商品」をゼロからつくるのではなくて、
LINEスタンプのプラットフォームのように、
クリエイターがスタンプつくって、
それを売れるような仕組みづくりが大切なんだなと。

そんな感じ。
2冊の併読で、
「王道」と「脇道」の両方を知っておくことって
大切なんじゃないかと思いました。

安定とは、特定のものに依存しないこと。

そのためには、考え続けること、本を読むこと。
だから、本を読まなきゃいけないんだよね。

本、読もうぜ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)

2018年03月16日

創造的な「問い」からはじまる

「挑戦」という言葉があまり好きじゃない。
だって、挑むと戦うですよ。
「成長」っていうのもいまいちピンとこない。
長くなるってどういうことだ。

まあ、おいといて。

好きな言葉。

好奇心
偶然
実験

そういうやつ。


東大教養学部「考える力」の教室(宮澤正憲 ソフトバンククリエイティブ)

こういう本が好きなんですよ。(笑)

「受験勉強は正解のある問いに1人で挑むものだが、
99%の仕事は、正解のない問いにみんなで挑むスタイルで進めている。」

こんな冒頭から始まります。

そうそう。
だからさ、自信とか不要なんですよ。
本来は。

アウトプットするのはチームや場の力だから。
個人の力は必要ないわけじゃないけど、
個人の力だけでアウトプットする必要はない。

この本にもいろいろインスパイアされました。

~~~ここからメモ

改善するほど、自社とライバル社の商品に差異がほとんどなくなる

「解析」:事物の構成要素を細かく理論的に調べることによって、その本質を明らかにすること
「解釈」:物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること
現状の人工知能が得意なのは「解析」の領域です。
一方、解析した情報を「解釈」することは、人間が得意な領域といえるでしょう

わかりやすくいえば、人工知能が得意なのは「ゴールが明確」な分野です。
囲碁や将棋の世界では、人工知能とプロが対戦し、
人間のプロが歯が立たないというところまできています。
これは、囲碁や将棋のルールが決まっていて、「勝つ」という目的が明確なためといえます

このことから推測すると、「ゴールが明確な仕事」は
いずれ人工知能に取って代わられる可能性が高いということです。
逆にいえばゴールが明確でないもの、複数の目的が同居しているもの、
異なる領域に横断するものといったジャンルは、
必ずしも人工知能が得意な分野ではありません。

コンセプトがないと、課題に1対1に対応した解決を図ろうとしてしまうのです。
しかし、競合他社も概ね同じ課題を持っており、その結果、解決アイデアも似たものになりがちです。

コンセプトが差別化できていれば、その段階で他と考えが似ていないだけでなく、
そこからさらにもう一段階解決策アイデアがジャンプすることができます。
そうなれば、最終的なアウトプットが同質化することは少なくなるのです。

リボン思考(参考)
http://www.hakuhodo.co.jp/archives/column/34495

3つのK。共有力、期待力、起点力。

考える、とは、そもそも何をすることか。
俯瞰する、分類する、掘り下げる、混合する
これらの組み合わせ。

~~~ここまで引用メモ

なるほど。
人工知能の得意とする分野は「解析」か。
なるほどね。

そして、インプットを一度「コンセプト」としてまとめてから、
アウトプットするというのは本当に重要だなと思った。

KJ法的なアプローチで陥りがちなのは、
課題に対して1対1で対応するアクションを考えてしまうこと。

それは本当に課題なのか?と、
問いかけつつ、それらを横断した
コンセプトをつくることが大切なのだなと。

クライマックスは、「デザイン思考」についての言及。
これが鋭かったのです。

~~~ここからさらに引用

デザイン思考は、新しいものを生み出すプロセスとして、
デザイナーの思考に注目してそれを定型化したものです。

つまり
「デザイナーの思考方法を、デザイナーでない人も使えるようにした思考」
であり、
「新しいことを生み出すために創造的に課題解決する思考」といえます。

デザイン思考がビジネスの現場で一般的になるにつれ、
新たな課題も見えてきました。

1つめが「形骸化し、同質化が起こり始めている」ということ。
デザイン思考のプロセスがやや定型化しすぎて受け止められている。
デザイン思考という「思想」ではなく、「手法」が重要視(目的化)されて
しまっている。


2つめは「デザイン思考では、課題解決の域を出ないこともある」ということ。

デザイナーは、「創造的な解決策を提示する思考を行う人」で
可能性を理解し、可能性を活用する人

それに対しアーティストは、
「創造的な問いを発する思考を行う人」といえます。
新しい方向性を探索し、可能性を見出す人です。
アーティストは必ずしも解決策を提示しません。

アーティストがなぜ現状の延長線上にないアイデアを
生み出すことができるのでしょうか?

それは、解決策という目の前の制約がないからです。
その分自由に枠外のことを発想し、結果、課題そのものを
見直す力を持つことがあります。
このアーティストの思考を形式知化したものが「アート思考」です。

・創造的な「解決策」を提示するデザイン思考
→現状に比較的近い領域にある新しいアイデアが出てくる可能性がある

・創造的な「問い」を発するアート思考
→現状の延長線とは全然違う領域で新しいアイデアが出てくる可能性がある。

ということを踏まえて、

リボン思考とは、

プロセスの固定化を起こさないために、
「自由度の高い最低限のフレームを用意すること」

最初の課題設定で枠外の発想を可能にするために、
「創造的な問いからスタートすること」
情報のクオリティを高めるために、
「インプット手法の創造性を重視すること」
アイデアの同質化を起こさないために、
「コンセプトという集約行為を大切にすること」
1人の能力の限界を大幅に超えるために
「チームでの共創を基本とすること」

の5つを重視している。

~~~ここまで引用

な、なるほど~
最後の5か条はめっちゃ共感します。
「問い」が大切なのですよ。
すべて「問い」から始まるのです。

問いから始まって、
いろんなドアを開けていくのだなあと。

その原動力は
好奇心じゃないかなあ。

「学びたい」っていうのは、そもそも、
「何ができるのか知りたい」っていう好奇心
なのではないかな。

好奇心、
偶然、
実験。

この3つを大切にしながら、次のステージに進みましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)

2018年03月15日

これからの「地域メディア」をつくる

川崎市・武蔵新城駅前の「新城劇場」が
「shinjo gekijo」にリニューアル中。

地元産野菜を使ったクレープとジェラートの「Revegee」、
本屋の後をつぐ「よりみちブックス」、
大学生4人で立ち上げた「出会えるラジオ、まるラジ」

の3つが1つの建物を分け合うようになる。
(6月オープン予定で進行中)

そんな中で、
まるラジがクラウドファンディングに挑戦中。

https://camp-fire.jp/updates/view/48907
未来に悩む若者のために、フリーペーパー『まるラジおとな図鑑』を作りたい!

たぶん、この場所が
これからの地域メディアの実験場になっていくのだろうと思う。

http://hero.niiblo.jp/e486304.html
メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)

http://hero.niiblo.jp/e486326.html
本屋というメディアをつくる(17.11.20)



ふたたび、「MEDIA MAKERS」から引用するけど、

~~~以下引用

何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。

Media型:送信者1 VS 受信者N ヤフーニュース等
Tool型:送信者N VS 受信者1 G-mail等
Community型:送信者N VS 受信者N フェイスブック等

メディアの影響力の本質
メディアで語られる=生きた証が記憶されるということ
メディアの価値「予言の自己実現能力」

これまでは、さまざまなビジネス上の
生態系をもとに産業の垣根ができていたわけですが、
クラウドのインフラ上では、あらゆる境界線が溶けてなくなりつつあります。
そんな状況では、メディア企業と事業会社や広告主の境界線も消滅しつつあります。

さらに、プロとアマチュアの境界線も、
例えば、大学と書店とコンサルティング会社とビジネス・カンファレンス業と、
専門出版社の境目すら消えつつあるわけです。
知識を売る、という意味では、大学も書店も、
コンサルティング会社も全てフラットに同一平面上に並ぶわけです。

そして、徹底的にアンバンドリングが進んだ後には、
これまでとは違ったメディア環境が広がり、
アンバンドルされたものがまた別の視点から
パッケージングされ、リワイヤリングされているのではないでしょうか?

その際の主役となるプレイヤーは誰でしょうか?
私の仮説では、それは個人です。

雑誌がオーケストラなら、メルマガはロックバンド。

~~~ここまで引用

そうそう。
境界線が溶けてなくなっている現在において、
主役となるプレイヤーは、「個人」であって、
その「個人」には大学生もなりうるということ。

「何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。」

最近、新刊書店をやっぱりやりたいなあと思うのは、
メディアの力が予言の自己実現能力だとすれば、

新刊書店っていうのは、
まさにそういう場だし、
僕がヴィレッジヴァンガード郡山アティ店で感じたのは
まさにそれだった。

http://hero.niiblo.jp/e337058.html
「本屋という双方向メディアの可能性」(14.1.17)

大学生が地域メディアのプレイヤーになる。
たぶん、まるラジはそういう実験なのだろうと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2018年03月13日

探しもの


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

読み終わりました。
ラストに近づくほどいろんなものが見えてきます。

僕がヒットしたのは、
文明と文化について。

~~~以下引用

文明は人間が自分の外側に作り出したある仕組みで、
私たちを豊かにし、便利にし、快適にするものとして作られた。
それは常に更新されるもので、
効率と雇用とお金を生み出すはずだったんです。

文化というのは人間が自分たちの内部に育ててきた仕組み。
それは私たちの歴史と共に歩んで、私たちの生命を守り、生活を支えてきた。
場所に依存して、風土に寄り添い、そこで常に伝えられるものとして意味があったんです。

文明はここ数十年、
長く見ても数百年くらいに人間が勝手に作り出したもので、
それよりもずっと長い文化の歴史があったのに、
文明によって世界全体を覆おうとする動きのほうにみんな来ちゃったんですよね

人間はメカニズムとして機械論的に世界を因果関係で説明できるとみなして、
それを作っているパーツを制御したり交換すればコントロール下におけると考え始めた。
その源流はフェルメールの時代、1600年代にある。
その頃はまだ世界はよくわからない動的なもので、科学と芸術はそれほど分化していなかった

レーウェンフックやデカルト的なほうを選んじゃったのは、
そのほうが資本主義社会に親和的だったからだと思うんです。
分けて部品化して商品化されていくという流れで。

~~~ここまで引用

なるほど。
生物学と社会も密接につながっているんだなって。

「社交する人間」(山崎正和)を思い出した。

http://hero.niiblo.jp/e484451.html
「アルスの終焉」(17.4.7)

かつて、「アルス」と呼ばれて、
芸術と技術と社交は一体であった。

「資本主義社会との親和性」
という言葉が胸に刺さる。

ダーウィンが言うように、
人間(動物)は「適応」する生き物である。

人間にとって、
「世界」が「資本主義社会」で覆われているとすれば、
そこに適応したビジネス、そして学者が生き残っていく。
それの集合体を「文明」と呼ぶんだな。

そこに適応していなくても、
コミュニティには、「文化」がある。
その価値をもう一度見つめなおすときに来ているのだろうな。

福岡さんが、こんな言葉を残している。

生物学者としての私の問いは、
「生命とは何か」を言い表す言葉を探す
ということに尽きると思うのです。

これをビジネスマンに置き換えたらどうだろうか。
「ビジネスとは何か」を言い表す言葉を探す、
ということに尽きる。

ということだ。

本屋だったら、本屋とは何か?
に答えていくこと。

僕にとってまきどき村とは、
「豊かさとは何か?」という問いに対して
リアルに見せたかったという「アルス」
だったんだろうなと。

さて。
次の本屋はどんな「アルス」になるのだろうか。

何を探しに行くのだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2018年03月07日

歌われざる英雄が詰まった本棚


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

福岡さんが発見したGP2遺伝子の働きを検証するために、
GP2ノックアウトマウス
(GP2遺伝子を遺伝的に排除したマウス)
をつくり、それにどんな異常が起こるのか、
見守っていたところ。

異常なし。

必ず異常があるはずだと思って、
血液を検査したり、細胞を調べたりしたけど
どの値もみんな正常。
寿命も短くならない。

そこで福岡さんは気がついた。
「生命は機械なんかじゃありませんよ。
もっと流れ流れているダイナミックなものです」

それを言っていたのが、
福岡さんにとってのアンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)
であるルドルフ・シェーンハイマー博士だった。

アイソトープを使った
食べ物実験でわかったことは、
日々、食べ物の細胞と体の細胞が入れ替わっている、
シェーンハイマーはこれを「ダイナミック・ステート(動的な状態)」
と呼んだが、福岡さんはバランスがとれているというコンセプトの
ほうが大事だと思ったので、これを「動的平衡」と訳した。

つまり、自然界においては、
そのような平衡状態が存在しているっていうこと。
まあ、動的平衡の話はおいといて。

http://hero.niiblo.jp/e485211.html
「アンサング・ヒーロー」(17.6.30)

僕が好きなのは、
歌われざる英雄(アンサング・ヒーロー)のほうだなあと。











暗やみ本屋ハックツって
それを象徴したようなものですよね。

「10代に贈りたい本」っていうテーマで、
本にメッセージを付けて、寄贈した本を
10代が発見する。

今回は、図書館の本で、
メッセージだけを公募して、66人分集まったのだけど。

それって。
この本を贈りたいっていう思い、というか手紙だから。

本屋や図書館っていうのは、
ひとりひとりや、1冊1冊の本を
「歌われざる英雄」にしていく
魔法をかけるところなのかもしれませんね。

そんな本棚をつくっていきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)

2018年03月02日

貨幣とメールの共通点


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)

いったん中断していましたが、読み終えました。
うなる内容。

~~~以下引用

楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、
直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、
依然として、楕円が楕円である限り、
それは、醒めながら眠り、眠りながら覚め、泣きながら笑い、
笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。
(花田清輝 楕円幻想)

花田が言っていることの意味は、相反するかに見える二項、
これまでわたしが言及してきた言葉で言えば、
「縁」と「無縁」、田舎と都会、敬虔と猥雑、死と生、
あるいは権威主義と民主主義という二項は、
同じ一つのことの、異なる現れであり、
そのどちらもが反発しあいながら、必要としているということ

どちらか一方しか見ないというのは、ごまかしだということです。
ごまかしが言い過ぎだとすれば、知的怠慢といってもいいかもしれません。

真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、
初めからそんなものは存在していなかったかのように思考の外に追い出してしまいます。

真円的思考とは、すなわち二項対立的な思考であり、
それは田舎か都会か、科学か信仰か、権威主義か民主主義か、
個人主義か全体主義か、理想主義か現実主義か、
どちらかを選ぶのかと二者択一を迫ることです。

最大の変化は、全体給付モデルを
採用していた時代の相互負債関係のモラルから、
貨幣交換の時代の賃借関係のモラルへの
180度の転換でありました。
・贈与は義務である
・贈与に返礼してはいけない
・贈与物を退蔵してはならない
というモラルから、
・返礼を受けるのは当然の権利である
・賃借関係は等価交換によって清算されなければならない
・貯蓄は美徳である
というモラルへの転換したのです

「楕円も、円とおなじく、一つの中心と、
明確な輪郭を持つ堂々たる図形であり、
円は、むしろ楕円のなかのきわめて特殊な場合である」
と花田は言っています。
にも関わらず、ひとは真円の潔癖性に憧れる。

貨幣:非同期交換を可能にした、劣化しない価値の担い手(だと信じられた)
インターネットメール:非同期的コミュニケーションを可能にした

非同期的コミュニケーションの結果、
人々が、聞きたい声だけを聴き、読みたい記事だけを読み、
連絡したい仲間とだけ交信することが可能になり、
その結果、社会が、世代間や、趣味や、嗜好によって、
分断されてしまったことです。

コミュニケーションのツールを手にしたゆえに、
社会が、言葉が通じないグループに色分けされることになったのです。

貨幣が、社会を富者と貧者に分割したように、
コンピューターもまた、情報格差の問題を生み、
さらには、それぞれの趣味や嗜好や政治思想ごとの小さなグループへ
分断してしまったのです。

その一番大きな問題は、
一度グループに分断されてしまうと、
もう、ほかのグループとは
コミュニケーションをしなくなってしまうことです。
回復の回路が切断されてしまうということです。

SNSでほかのグループにいる人間と出会うときは、
罵倒するか、冷笑するか、無関心かのいずれかの
態度しかとれなくなる。

そもそも、関心がない相手との回路は、
断ち切ることが可能になっているツールなので、
必然的に、同じような価値観をもった人間ばかりが集まることになります。

どちらのツールも、
コミュニケーションの必要性から生まれてきましたが、
結局、どちらもコミュニケーションツールを断絶する道具として、
社会に機能してしまっているからです。

その結果、人々は自由を手にするわけですが、
自由を手にした分だけ孤立化し、分断されることに
なっていったのではないか。

現代という時代ほど、金銭の万能性が強まった時代は
ないように思えます。
世の中には「等価交換のモラル」だけしか、
なくなっているかのように見える。
しかし、それは、「贈与のモラル」が消え去ったということではないのです。

日蝕、あるいは月蝕のように、
二つの焦点が重なってしまい、
「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の
背後に隠されてしまって見えなくなっている
ということにすぎません。

わたしたち現代人が陥っている陥穽は、
こうした楕円的で両義的な構造を持つ、
異なる経済・社会システムや、
モラルの体系というものを、
二者択一の問題であるかのように錯覚してしまうことです。

現代社会を覆っているのは、
むしろ、この「これだけしかない」という
見方の硬直性であると言えるかもしれません。

~~~ここまで引用

うわー、引用しすぎた。
全部読んだ人はご購入ください。(笑)

そっか!って。

貨幣とメールは、
「非同期交換」っていう共通点があるんだ。

それによって、貨幣は貯めこむことが価値ができて、
メールやSNSは、志向性が近い人と知り合える、逆に言えば
自分が望む人としかコミュニケーションしないようにできる。
そうやって人と人が分断されていく。

そして、最近起こっている、
贈与経済の胎動のような動きは、
そのもうひとつの軸を示しているのではないか。

そしてそれは、
「貨幣経済」か「贈与経済」か
というような二元論ではなく、
楕円のように2つの焦点を持ちながら共存していく、
そんな社会を実現していかなきゃいけないんじゃないか。

うんうん。
ホント、そうだなあと思う。

若者の生きづらさの深いところには、
「二元論」的な社会の雰囲気があるのだと思う。

就職するか、起業するか。
みたいな。

本当は、ぜんぜんそんなことない。
贈与の仕組みの中に入ってしまえば、
どちらもする必要がない。

「正解」なんてない。
そんなことみんな分かっているはずなのに、
二元論で考えてしまう。
そうやって分断が起こり、冷たい社会になっていく。

本のある空間のひとつの使命は、

世の中には多様な価値があり、
二元論では説明、解釈できないのだという
メッセージを放つこと。

それはそのままその人を
問いの海に放り込むことになるのだけど。

「価値とはいったいなんだろうか?」
と問いかけるような場をつくらないといけない。  

Posted by ニシダタクジ at 06:52Comments(0)

2018年02月27日

「負債感」と「当事者意識」


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)

第4章まで来ました。
「有縁」社会と「無縁」社会。

第3章の途中から、
さらに面白くなってきました。

場、近代、縁などなど、
僕のキーワードにピッタリです。

いちばんハッとさせられたのは、
この章の冒頭にある「賭場の論理、世俗の論理」。

カジノ法案、是か非か、みたいな。

まあ、政治っていうのは決めることだからいいのだけど、
1つの価値観でもって、それをどちらか決めるのはどうなんだと。

平川さんが言うように、

~~~以下引用

酒やたばこ、あるいはギャンブルを楽しむという社会と、
酒やたばこは身体に良くない、
ギャンブルは依存症をつくりからダメだという社会と、
比較してどちらに同意するんだと迫るのは、
思考停止だといわざるを得ないのです。

こうした、思考停止による二者択一は、
文化的なふるまいから逸脱した、
生活の強制へと向かってしまいます。

そもそも、相反する二つの事項、
異なった原理を有する二つの事項について
考えるときに、どちらか一方だけに
収斂させれば問題は解決すると考えるのは、
成熟した大人がやるべきことではない。

~~~以上引用

なるほど。
僕もそう思います。

そして、賭場の原理を以下のように説明します。

~~~以下引用

賭場の原理というのは、
人情無縁の「無縁」の原理なんです。
一人ひとりが縁を結ばず、金だけが支配している社会です。
だからこそそこには中央権力が定める法律も及ばないし、
世俗のしきたりも希薄である。

そういう逃げ場がないと、
世俗の社会をはじきだされたものは、
死ぬしかなくなってしまいます。

共同体が存続していくために必要なことは、
脱落者を出さないことです。

(中略)

だから、「無縁」の原理を必要としているのは、
「有縁」の場なのであり、「有縁」の原理もまた
「無縁」の場が必要としているともいえるだろうと思います。

~~~以上引用

「駆け込み寺」っていうのは、
中央権力、幕府の権力が及ばないところでした。

そうやって、
「有縁」と「無縁」がうまくかみ合って、
世の中は存在していたのではないかと。

平川さんの言葉を借りれば、
宗教的な場は「許し」の場であり、
世俗の場は、「贖罪」と「許し」がせめぎあう場であり、
ビジネスは厳格な等価交換の場だということです。

なるほどね。
世の中が「ビジネスの場」で一元化されちゃうと
それはつらいですね。

「相互扶助では儲からない」
これはたしかにそうなんでしょう。

友達から本を借りて読むより、
古本屋で安く本買うより、
新刊書店で定価で買ってもらったほうが儲かるもんね。
そうやって、だんだんと「無縁社会」へとシフトしていった。

でも、そこに惹かれた若者たちって
なんだったのだろう。

「東京には夢がある」って思って、
田舎から出てきて、高いアパート家賃を払って、
家賃を払うためにアルバイトして、
J-POPを聞きながら、途方に暮れる、みたいな暮らし。
ホントにしたかったのかな、って。

挙句に、「自己責任」とか言われちゃって。
「無縁社会」を象徴するような言葉です。
「自己責任」。

平川さんが指摘しているように、
起こった結果に対して、当事者として、
自分の身に引き受けるという本来の意味ではなく、
自分には無関係であるということの言明にすぎないのです。
つまり、「俺には関係ないよ」ってことです。

~~~以下三たび引用

「責任」は、英語ではresponsibilityと言いますね。
これは、respond(応答する)と同じ語源を持つ言葉だと
いうことがわかります。

日本語なら、まさにこれは「縁」ですね。

(中略)

「縁」の世界で起きたことは、
どんなことも、どこかでつながっており、
呼びかけがあれば応答しなければならない。

すべての人間は、
程度の差はあっても当事者性から
逃れることができないということです。
まあ、面倒くさいといえば面倒ですね。

しかし、当事者性を意識するところから責任をとるという
モラルが出てくる

しかし、他者に対して「自己責任だ」と言うのは、
自分とはまったく関係がないという責任転嫁の
言明でしかありません。

~~~以上三たび引用

ここから、平川さんは、
「無縁」を否定しない「有縁」社会を提案します。

江戸時代の厳しい身分社会の中でも成立していた、
共同体の内側では、相互扶助的なものが
息づいているような社会。

たぶん。
いま、若者がシェアハウスをしたり、
メルカリでものをやり取りするのも、

あまりにも世の中が「無縁社会」なので、
なんとか生き延びていく方法論なのだろうなと思います。
なんか、いろいろ深いところで考えさせられるなと。

「縁」って「負債感」を負わせる。
「借りがある」と思わせる。
等価交換じゃない何か。

たぶんそういうのが大切なので、
当事者意識の源泉なのではないかなと思う。

中村くん星野くんと2008年に立ち上げた
「起業家留学」(byヒーローズファーム)の
キーコンセプトは「当事者意識」と「価値創造力」だった。

中小企業経営者のもとで、
「当事者意識」を育みながら、
価値について考え、価値を生み出していく
人材を育成していくこと。
なかなかいいコンセプトだったなと改めて思う。

「志」とは、
社会や先輩方に対しての「負債感」と
責任を勝手に引き受ける「当事者意識」
からも生まれてくるのだろうなと思った。

そしてもうひとつ。
僕がいつも「顧客はだれか?」「顧客は過去にいる」
と問いかけているのは、

過去に出会った具体的な人や
過去の自分自身を顧客とすることが
もっとも当事者意識を感じることができるからではないか。

なんか、いろいろ過去が解読される感じでよいですね。
ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:36Comments(0)

2018年02月26日

「お金」とは、関係を「断ち切る」ためのツール


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)

くまざわ書店南千住店の阿久津店長
のご紹介により購入。

いま100ページくらいまで読み進めましたが、
心の深いところをえぐるように来ますね。

第3章 見え隠れする贈与‐消費社会の中のコミュニズム

より、ひとまずキーワード抜粋

~~~以下抜粋

モラルとは、生き延びるための共同規範

「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」は、
マルクス主義の基本ですが、(中略)
小さな相互扶助はほとんど無意識に行われている。

皆が「自己責任」だとか言い出したら、
その社会はもはや共同体としては、崩壊している
ということだと思うのです。

社会全体が崩れるというのは、
社会の秩序を支えているモラルが
崩壊し始めているということなんです。

言葉は、他者の共生を前提にして交換されるものです。
言葉に対する相互の信頼があって初めて、
人間同士の交通が可能になります。

その意味では、言葉は貨幣に似ているのですが、
決定的に違うのは、貨幣は商品交換のための
道具であるのにたいして、言葉は、
もともと贈与のための道具だったということです。

貨幣は、それが偽札でない限りは、
それが偽札でない限りは、
それが流通している地域においては、
誰に対しても同じ価値基準を表現します。
同じ交換価値として機能しています。

一方、言葉はそれが嘘であるか、
本当であるか、傍からは、見分けがつきません。
相互に信頼し、相互に扶助し合う共同体の
内部においてのみ力を発揮するものであり、
異なった共同体や異人種とのあいだでは、
言葉はときに敵対のための道具になってしまうことが
あるのだろうと思いますね。

「自己責任」とは、まさに、
ひとつの共同体の内部が、分断され、
敵と味方に分別されたときに発声される敵対的な言葉なのです。

~~~ここまで抜粋

言葉と貨幣。
おもしろい。

つづいて、貨幣(お金)の交換性と関係性について。
「お金」とはつまり、「等価交換」のための道具である。
という前提で。

▽▽▽以下引用

贈与と返礼という
交換関係もまた、それが等価交換ではない限り、
どちらかが負債を負った状態のまま、
贈与返礼を繰り返しているということになります。

関係を続けていくためには、
返礼は等価ではいけないのです。

お金とは、関係を断ち切るための道具として
登場したということなのです。

お金:
・交換を促進する道具
・関係を断ち切る道具

交換を促進するためには、
関係を絶えず断ち切る必要があったのです。

お金を払うことによって負債関係が断ち切られる。
負いつ負われつという関係の無限連鎖を
終了するためには、等価物を返さなければならない。

等価物を返すことで、相対の関係が終了する。
じゃあ終了しない関係は何かというと、その逆です。
お金が介在しない贈与関係なんですよ。

贈与関係:
・交換を禁止すること
・関係を継続させること。

△△△ここまで引用

このあと、本では、
「消費者」の登場によって、
「近代化」という名のコミュニティの崩壊が起こる、
と続いていく。

これも書きたいけど、今日はここまで。

面白いです。
「ゆっくりいそげ」(影山知明 大和書房)と
合わせて読みたいですね。
あ、西野彰廣さんの「革命のファンファーレ」に書いてある
「お土産理論」にも近いものがあるかも。

「健全な負債感」とは何か?
そんなことが書いてあるような気がします。

楽しいね、読書。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)

2018年02月20日

本のある空間という祈り


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

名古屋のちくさ正文館本店で購入。
いついってもほしい本だらけです。
今回は泣く泣く3冊に絞りました。
そのうちの1冊。

「生物と無生物のあいだ」の福岡さんと
「聞く力」の阿川さん。

対談本ってあんまり得意じゃないのだけど
この本はするする来ます。

序盤のハイライトを紹介します。

阿川さんは、石井桃子さんが始めた私設図書室「かつら文庫」
に子どものころ通っていたが、
ほかの子どもが次々と大作を読破する中で、
さんざん外で遊んだあとに、文字の少なくて絵が多い、
「せいめいのれきし」や「ちいさいおうち」などを読んでいたという。

「かつら文庫50周年の集い」で
石井さんのお弟子さんで、児童文学者の
松岡享子さんの講演で
「子どもの感受性は大人になってからでは取り返しがつかない」
と聞いて、「今から読んでも無駄なんだ」と悲しくなったのだという。

そしてトークショーで松岡さんと一緒になったとき、
思わず言ったという。

~~~以下本文より引用

「私は本当にダメな子でした。
かつら文庫に通っていたほかの子どもたちと違って、
あんまり本を読まなかったし」とお話したら、

「大丈夫よ、佐和子ちゃんはたくさん本のオーラを
浴びて育ったから、それがちゃんと残ってる」
というような言葉で励ましてくださったんです。

~~~ここまで本文より引用

そっか!
本のオーラを浴びるだけでいいんだ。

そのあとに紹介される石井桃子さんの言葉も素敵です。

「子どもたちよ。子ども時代をしっかりと楽しんでください。
大人になってから、老人になってから、
あなたを支えてくれるのは子ども時代の『あなた』です」

うわ~。
そうなんだよね。
子ども時代はちゃんと遊ばないとね。
って。
かつら文庫には、そんな「祈り」が詰まっていたのだろうな。

「本」というものが、著者の「祈り」を形にしたものだとしたら、
「本棚」っていうのは、本棚のつくりての「祈り」そのものだ。

そこからは、
「本のオーラ」が確実に出ていて、
それを感じるだけで、何かが動いていく。

「暗やみ本屋ハックツ」で
暗やみの中にあるのは、
本を寄贈してくれたひとりひとりの「手紙」であり、「祈り」だ。

それを感じることだけでも、何かになるような気がした。

3月4日まで、
東京都練馬区関町図書館(最寄駅:西武新宿線・武蔵関駅)で
「暗やみ本屋ハックツが関町図書館にやってくる!」
を開催中です。
https://www.lib.nerima.tokyo.jp/event/detail/2202

3月4日には僕も行きます。

本のオーラ、感じに来てください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2018年02月16日

「違和感」をリスペクトすること

気になる異性に対して思う「違和感」をギャップ萌えという、
と言ったのは、現代美術家の
ニシダタクジ(1974‐)だったけど。(笑)

すべては「違和感」から始まってるんじゃないか。
「違和感」というか、「好奇心」というか、そういうやつ。

そんなことを思っていたら、
そういえば、積ん読にこんな本があったなと。


「同調圧力にだまされない変わり者が社会を変える」(池田清彦 大和書房)

タイムリーヒット。(笑)

まだ前半だけど、
生物学者が書く、同調圧力について。

~~~ここから引用

民主主義は多数決を宗とする政治制度であるため、
マジョリティに属していたほうが、
法律上の優遇措置を受け易く、マイノリティよりはるかに有利である。

タバコバッシングがこれほどきつくなったのは、
もちろん喫煙者がマイノリティになったからだ。
残念なことに民主主義はマイノリティを抑圧する制度としても機能するのだ。

マイノリティの人たちを擁護するのは、自分のためなのだ。
人は、常にマジョリティでいることはできないのだから。

群れで生活している動物にとって、
仲間に同調するのは身を守るための大切な本能だ。

人類は野生動物から身を守ったり、野生動物を捕獲するために、
集団で生活するようになったことは間違いなく、その習性は今に引き継がれている。

現代社会を見ても、ビジネスや新しい技術で社会に驚くような
イノベーションを起こすことができるのは「変な人」である。
人類は経験的にそのことを知っていた。

そのためどの文明でも、社会構造の中に「変な人」を一定数取り入れ、
彼らを排除しないようにしてきたのであろう。

「世の中で流行しているものが好き」というタイプの人もいる。
いや、むしろそちらのほうがずっと数が多い。
彼らは「同調するのが好き」なので、他の人と同じ行動をするのにためらいがない。
それは生物学的にも、同調を好む人のほうが社会の中で生存する確率が高いからである。

~~~ここまで引用

なるほどね~。
説得力あるね、「生物学的に」って言われると。
人がマジョリティーになるのは、習性なんだね。
まあ、それはそれとして。

僕が思うのは、「同調圧力」によって、
自らの感性を発動させない、ということが
起こっていないだろうか?
ということ。

数学とは何か?
数学は何から始まったか?

っていうのは、
僕としては今年のマイブームな問いなのだけど

解き明かしたい自然現象や
違和感みたいなのがあって、
わかった!ってなって、
それを数式で表現したっていうことなんだよね。たぶん。

そういう、違和感に対するリスペクトみたいのが
始まりなんだったと思うんだよね。

違和感という感性の発動を大切にすること。
それ、すごい大事だと思う。

みんなと一緒に絶滅しないために。  

Posted by ニシダタクジ at 08:43Comments(0)

2018年02月15日

百姓=農民ではなかった


「日本」とは何か 網野善彦 講談社

某古本屋さんで購入。
なかなか面白い。

「日本」が誕生したのは、7世紀末。
壬申の乱に勝利した天武天皇が
「倭国」から「日本」へと国号を変えた。

対外的に初めて用いられたのは、
702年、中国大陸に到着した
ヤマトの使者が、唐の国号を
周と改めていた則天武后に対してであった。

にもかかわらず、
明治以降の国家的教育によって、
記紀神話の描く日本の「建国」が
そのまま史実として、徹底的に
国民に刷り込まれた。

なるほど。

「建国記念日」っていうのは
神話に基づいているんだな。

それはそれで面白い。
「物語の力」ってすごいなと。

そして、この本の目玉としては、
第四章の「瑞穂国日本」の虚像

江戸時代まで我が国の農村部は
稲作を中心とした自給自足が基本であった、というもの。
年貢だって米で納めていたし。みたいな。

しかしそれは、
為政者たちが描いた「こうなったらいいな」
というストーリーに過ぎなかったのだ。

しかもそれは701年の大宝律令までさかのぼる。
「班田収授法」だ。(なつかしい)

簡単に言えば、
田んぼから全国一律に税を徴収するという制度。
政治をするほうとすれば画期的だ。

ところが、これは、
理想先行で、うまく機能しなくなってのだという。

そこで政治は、

「三世一身法」を723年に、
「墾田永年私財法」を743年に制定。
田んぼつくっていいから、税を納めろよっていうやつだ。
ここから「荘園」時代が始まっていく。

しかしながら、
実際のところ、海や山の幸が豊かだった地域では、
海産物を獲ったり、絹織物を生産したりして、
貨幣経済、市場経済で生きてきたのではないかという。

たしかにそう考えるほうが自然な気がする。
著者は、能登輪島の海産物の豪商が、
明治時代の壬申戸籍によると、
いわゆる土地を持っていない水呑(=小作農)にカウント
されているのだという。

つまり、教科書に記載されている
士農工商の「農」は、
漁民や、養蚕⇒織物、地方での商業などを
全部、「農」にくくったのだ。

つまり、データ上は、
自作農が少なく、小作農が多い「貧しい農村」は、
「農業以外の仕事で食べていた」という可能性があるというのだ。

なるほど。

百姓っていうのは農民とはイコールではなくて、
田んぼもやってたかもしれないけど、
さまざまな仕事を並行してやっている人たちと
考えたほうがよさそうだということ。

それを明治政府は
「四民平等」という名のもとに、
「農民」に一元化したのだ。

つまり、あとづけで「農民」という
カテゴリーがつくられているのだ。

なるほどね~。
そうやって、「専業思想」が生まれていったのかも

終身雇用、年功序列による「専業」システムに
国家を、国民を無理やり適用させていったのだろう。

壮大なストーリーだなと思う。
歴史はこういうふうに見ると、めっちゃ楽しいかも。
いろいろ問いがある。  

Posted by ニシダタクジ at 08:12Comments(0)

2018年02月08日

「古本屋セット」始めようかな

結局、本売りたいんだよね。
届けたいんだよね。
他者評価の呪縛から、解放したいんだよね。
それには本がいいと思うんですよ。

世の中を俯瞰して見ることが
必要だと思うんですよ。

そんな声に賛同する人に、
「古本屋セット」を始めようかなと思ってます。

タイトルは、
「19歳のための本棚」

主に大学の前の
カフェとかお店とかNPOとか、
そういう場所に、
本棚を設置してもらって、

僕が選んだ本(古本)を
たとえば、150冊⇒30000円とかで送りつけるんです。
売る人は300円・500円とかで値段をつけて売る。
こっちで値段を付けてもいいけど。

そしたら30000円で本屋スタートできるじゃん。
他の本で自分が並べたい本があったら、
それも並べたり、某古本屋で仕入れてきたり。
それって結構楽しいよ。
本棚のない人は、「こっそりー」を
そのまま展開したいんだけどね。
やっぱ、それやりたいかも。

ストライクゾーンである
15歳~25歳にフォーカスした本を、
セレクトするのをはじめようっと。

カテゴリは
「じぶん」
「まなび」
「しごと」
「こらぼ」
「れきし」
「くらし」
「ものがたり」

こんな7カテゴリかな。

「じぶん」は、
・孤独と不安のレッスン(鴻上尚史・だいわ文庫)
・非属の才能(山田玲司・光文社新書)
「まなび」は、
・先生はえらい(内田樹・ちくまプリマー新書)
・すべての教育は洗脳である(堀江貴文・光文社新書)
「しごと」は、
・ナリワイをつくる(伊藤洋志・ちくま文庫)
・計画と無計画のあいだ(三島邦弘・河出文庫)
「こらぼ」は、
・かかわり方の学び方(西村佳哲・ちくま文庫)

とかとか。
ちょっと考えてみます。

ツルハシブックス常備本(16.5.12)
http://hero.niiblo.jp/e479203.html

こちらも参考にしてみようと。
これで150冊のラインナップができたら、
新刊も交えていけるかもな。

ちょっと構想してみます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2018年01月17日

「自由」への学び(前編)


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)

読み進めています。
オランダの公教育を題材に
深く教育について問い直す1冊。

第4章の苫野一徳さんのところが
学び多いので、メモします。

~~~以下メモ

現在において、「自由」に生きるための力とは何か。

現在とは、「知識基盤社会」と「グローバル化社会」である

「知識基盤社会」。
産業主義社会が終わり、ポスト産業主義社会を迎えた今、
すでに多くの商品が市場に行き渡っています。

単純な大量生産・大量消費はあまり成り立たず、
企業は、さまざまなサービスや付加価値を見出し続けなければなりません。

産業主義社会においては、
多くの企業が求める人材の大多数は、
一部の経営者層の支持に従い、
「言われたことを言われた通りに効率よくこなす」
ことができる労働者であったと言えるでしょう。

そのため、学校教育もまた、
子どもたちに、「決められたことを決められた通りに勉強させる」
ことが、ある意味では求められていたと言えるでしょう。

ポスト産業主義社会(知識基盤社会)では、
「言われたことを言われたとおりにこなす」
だけでなく、みずから考え、また多様な人たちと協同して
課題を解決していける、そんな力が求められるようになっているのです。

「学び続けることを余儀なくされる」現代社会においては、
「学ぶ力」「考える力」「考え合う力」を
すべての子どもたちに育み、保障しなければならないというべきなので。

この息苦しい時代・社会において、
どうすれば自分なりの幸せや喜びや自由を
得られるのだろうか?

そのための力能は
いったいどのようなもので、どうすれば学び取っていくことができるのか?
子どもたちは、こうした問いを、ただ教育から受け身に与えられるだけでなく、
みずから考え、学び、そして多様な人たちと協力し合って、答えを
見出していく必要があるのです。

「決められたことを決められた通りに」
「言われたことを言われた通りに」
勉強させることが中心の教育では、
そんな子どもたちを力強くはぐくみ支えていくことは困難でしょう。

以上のような学力観の転換は、一般に
「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ」
といわれています。

つまり、どれだけの知識・情報(コンテンツ)をため込んだかよりも、
それらを駆使して何ができるのかという能力(コンピテンシー)が
今日求められているというのです。

OECD-DeSeCo「キーコンピテンシー」
「相互作用的に道具(言語・知識・情報)を用いる能力」
「異質な集団で交流する能力」
「自律的に活動する能力」

国立教育政策研究所「21世紀型能力」
「思考力」を中核に、それを支える「基礎力」、
そしてこの両者を方向づける「実践力」の
三層構造から成るものです。

~~~ここまでメモ。

うんうん。
たしかに、世の中の変化からいって、
そういう方向で進んでいくのは間違いなあと。

次、「グローバル化社会」について書きます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2018年01月14日

「主人公になる」本屋という場をつくる

山形市・郁文堂書店でイベント





本の処方箋もやりました。


そしてオーナーの原田さんの
手作りの漬物と煮卵。
日本酒飲みたくなった。(笑)







僕は昨年9月、東北ツアー中に郁文堂に立ち寄り、
原田さんに会うことができた。

そして今回、
郁文堂書店プロジェクトをすすめてきた
追沼さん、芳賀さんに会いにやってきたのだった。

郁文堂書店復活プロジェクト。
それはかつての「郁文堂サロン(本屋サロン)」の復活だった。
山形市七日町、山形市の中心部に位置するこの場所は、
役所も近くにあり、たくさんの人たちが交わる交差点だった。

そんな中にあった、郁文堂書店。
現オーナーの原田伸子さんに聞くと、
そこは昔、サロンのようだったという。
サロン、それは情報交換の場。
「生きた」情報が飛び交う場だった。

東北芸術工科大学の当時3年生だった追沼さんと芳賀さんは
この物件に出会った。
斉藤茂吉や司馬遼太郎、井上ひさしも訪れたこの場所は、
すでに閉じてから10年以上の月日が流れていた。

山形ビエンナーレに合わせて、
1日だけのイベントを開催。
100名以上の来場者が集まり、
そこから郁文堂は再生へと歩き始める。

クラウドファンディングで資金を調達し、
「知識の本棚」などを開設した。

僕が9月に行って、
一番びっくりしたのは、
原田さんがそこにいたことだった。

「商売はよ、ここ、ハートだがんな」(2017.9.25)
http://hero.niiblo.jp/e485890.html

原田さんは
その場にいた全員分のお茶を入れ、
おしぼりを出してくれた。
そして、漬物も。

「何十年も前から、そうやってやってきた」
って笑った。

衝撃だった。
それまでの僕は、
「リノベーション」って、古い建物の雰囲気を生かしつつ、
いまの時代に合わせて新しくつくりかえることだと思っていた。

そうじゃない。

リノベーションは、その土地や場所に息づく継ぎたい何か、を
どのように継いでいくかの方法論として改築や新しく何かをつくること
なんだって思った。

郁文堂書店プロジェクトが継ぎたいもの、残したいものは
「郁文堂サロン」と呼ばれていた文化だった。

昨日、原田さんが言っていた。

「ここにくれば、誰かに会える」
と言って人は来たのだという。

えっ。それって、2014年2月のソトコトで
ツルハシブックス店員だった野島萌子が言った言葉だ。

そっか。
本屋っていうのは、そういう空間なんだ。

偶然性というか、予測不可能性というか、
そういうのを求めて、人は本屋に足を運んだんだ。
本との出会い、だけではなく、
それと同じくらいの人との出会いが
郁文堂サロンにはあったのだ。

ツルハシブックスのキャッチコピーは、
「気がついたら私も、本屋という舞台の、共演者になっていました」だ。
(少し長い)

郁文堂サロンもきっとそんな機能だったのだと思うとうれしくなってきた。

そして、電車の中で読んできたこの本とリンクしてるなあって。

「コト消費の嘘」(川上徹也 角川新書)

おととい、水戸で川上さんのトークイベントがあり、購入。



この本がめちゃめちゃ問いに詰まっていて、
ドキドキしながら読み進めたら、
昨日の山形行きの電車の中で読み終わってしまった。

柴咲コウさん風に言えば、
「頷きながら、一気に読みました」となる。
(某映画化されたミリオンセラー小説のマネ)

モノではなく、コトを。
外国人観光客に、コト消費を。
それ、本当に継続した売り上げにつながってますか?
って。

コト消費ではなく、
コトとモノがつながったコトモノ消費へ
もっと言えば、人にフォーカスした「モノガタリ消費」へ

川上さんって、「ストーリーブランディング」を売っているというより、
「あなたの物語はなんですか?」っていう問いを売っているんだなって。
素敵な仕事だ。

川上さんによれば、ストーリーブランディングの手順は以下の通りだ。
1 ヒストリーを聞き出す。(会社・個人)
2 ビジョンとキャラクター設定を考える
3 川上コピー(旗印)を決める
4 三本の矢(志・独自化・エピソード)
5 川中・川下の言葉やアイデアを出す
6 川上コピーを発表する
7 社内浸透と社外アピール

ここでポイントは3の「川上コピー(旗印)」を決めるということころ。

川上さんは、
「過去」と「未来」を融合して旗印を掲げ物語の主人公になる。
と説明する。

過去のストーリーと未来のビジョン、そしてキャラ設定。

会社も、個人も、商品も、「主人公」化するということ。
ここが本書の大きなポイントだと思った。

このあと本書では、台湾の宮原眼科というお菓子屋さんの事例が
出てくるが、これが圧倒的にすごい。
建物、お客さん、従業員、商品、最後に企業を
主人公にしながら、お菓子を売っている。

これは、昨日の郁文堂書店にも当てはまる。
建物や、原田さんや、原田さんがつくってきた
郁文堂サロンの物語が人を惹きつけている。

そして、この文にシビれた。

「物語の主人公になって商売をする」と一度決めたら、ゴールはありません。
あなたのお店が主人公であり続けるには、
常に「未来のビジョン」に向かって進んでいく姿を、
観客(顧客・見込み客・消費者)に見せ続ける必要があるからです。

いいな、そうそう。
そんな商売をしていかないとね。
お客と高めあえるようなお店をつくること。
それが商売の醍醐味だよなあって思った。

そして、昨日もイベント前にやっていた、
本の処方箋でも、人生に悩む人たちが集まってきていた。

「ここに来れば誰かに会える」
それがサロンの役割だったのではないか。

そして、その「出会い」が起こったとき、
人生が動き始める。

それは、その人が人生の「主人公」へと
変わった瞬間なのではないのか。

本来、人は、人生の主人公だ。
日々を過ごしていると、それを忘れてしまう。

本屋での本との出会い、人との出会いが、
人生を少し動かす。

いや、気がつかないうちに、
人生が動いている。

たぶん、本屋が提供する「機会」は、
そういう機会なのだろう。

気がついたら、人生が動いていた。
気がついたら、共演者になっていた。
それは、その人が人生の主人公になる瞬間、

山形・郁文堂書店が売っているもの、
僕がツルハシブックスで売りたいものは、
そんな瞬間なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)イベント

2018年01月12日

学力という「単一の指標」は「唯一の指標」ではない


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)

福岡・ブックスキューブリック箱崎店にて購入。
大好きな本屋さんで堅めの1冊。

翌日に伺った「こととば那珂川」の坂口さんとの
話にも刺激を受けて、
再び教育というか、小学校中学校高校の
ことを考えるようになっています。

この本、買ってよかった。
いいタイミングで、いい問いをくれる本屋は本当に貴重です。
僕もそういう本屋になりたいです。
ブックスキューブリック箱崎店さん、ありがとう。

坂口さんに話を聞いて、
いちばん感じたことは、
学校の勉強だって「リベラルアーツ」になり得るっていうこと。
(リベラルアーツ:自由への学問、教養)

数学はアートで、
英語はサイエンスだ、っていうこと。

そういうふうに、学びを楽しむこと、
好奇心をはぐくむこと。
きっとそれが子どもの時に必要なのだろうな。

ということで、この本。
まだ第1章ですが、リヒテルズ直子さんの
心をえぐるような、辛辣というか、真実というか、
感じていることを言葉にしてくれている感じに
胸が苦しくなります。

~~~以下、本文よりメモ

学習とは、本来楽しいもののはずです。
これからの社会がますます必要とする
人間のさまざまな創造力や批判的な思考力は、
学ぶことに喜びを感じられる環境の中で初めて
育つものです。

しかし、日本の子どもたちは、
まだ生まれてほんの数年の、幼稚園に通う年齢の時から、
「勉強とは一所懸命励むもの」
「勉強が他人より遅れたら人生に失敗してしまう」
という外からの強制と脅しの中で、

学ぶことの楽しさを奪われ、
生きがいを見出すうえで大切な好奇心を
磨滅させられているのです。

受験で成功することが人生を切り開く第一歩。
学校で落ちこぼれたり受験に失敗したりすることは、
幸福な人生への切符を取り損ねたも同じ。

18歳の若さで、みずからに「負け組」のレッテルを貼って、
自己肯定感とは正反対の精神状態に放り込まれる・・・。
そういう、必要のない無意味な敗北感を持ったまま
大人になっていく子どもが、日本にはあまりにも多すぎます。

そして、子どもたちから遊ぶ時間や家族と過ごす時間を奪い去って、
「いま苦しみに打ち勝てば、やがて幸福な人生を手に入れられる」
と無責任にささやいているのは、塾や家庭教師といった
大小の教育産業に携わる大人たちです。

大人たちが寄ってたかって、子どものためというよりも
自分たちの立場や利益のために、子どもたちの可能性を
損っているのではないでしょうか。

自分が営利の仕組みに組み込まれてそれをどうすることも
できないでいるのを内心では承知していながら、
「子どものためにやっているのだ」と、
自分だけはその仕組みがもたらす結果の責任から
免れているかのような態度をとります。

企業戦士の塾教師たちが大声でかける叱咤激励のもと、
子どもたちは「必勝」などと書いたハチマキを頭に巻きつけ、
個性などまったく無視されて、
大きなホールに何十人も一緒に並んで反復学習に励まされる・・

成績ランキングにさらされ、「負けることは恥」と心に刷り込まれ、
最後にはおおげさな打ち上げ花火までして、
合宿終了がお祭り騒ぎで祝われます。
こうした偽りの「達成感」に陶酔させられる子どもたちの中には、
涙すら流す子が何人もいるのです。

競争神話の刷り込み以外の何ものでもないこうした行為に
「教育」という看板をつけて親から金を巻き上げているこんな国が、世界のどこにあることでしょう。

問題は、
こうした「最小限の投資による効率化」ばかりを狙う国の施策によって、
すっかり「粗末」となり硬直してしまった日本の公教育が、
公的な縛りを受けない塾産業や、親や教材やサービスを購入する
教育産業を助長させ、結果として、
営利ベースの教育機会にアクセスできない貧困家庭の子どもたちが
最新のメソッドや機器に触れる機会から遠ざけられていることです。

長きにわたり続いた学歴社会と受験競争によって確立してしまった
学歴偏重の社会意識(子どもの人間性尊重の欠如)

それがもたらした塾・教育産業の無節操な蔓延(次世代教育の営利事業化)

それが逆に学校関係者に次世代教育の責任の放棄を促していること(公教育の荒廃)

教育委員会等の行政指導によって教員の自由裁量権が取り上げられている(教育の自由の剥奪)

貧困家庭の子どもたちが学力競争のスタートラインでハンディキャップを負っている(発達の権利の剥奪)

日本の公教育の課題の大もとは、
直接的には、学歴社会と受験戦争にあるでしょう。
そして、この競争的な学歴社会を生んだのは、
学校教育を「優れた人材の選抜システム」とみなす考え方に
あることもあきらかです。

~~~ここまでメモ

このあと、教科書の問題になっていくのだけど、
それはまた別の機会に。

一言で言って、「ヤバイね、これは」
っていう感じですね。
その通り過ぎるよって。

「効率的であること」
に最大の価値がおかれたシステム。
それが現代の日本の教育システムにいまだ生きているのだなと。

この文章を読んでると、
あまりにも異常だと思えてくるんだけど、
なぜ、それが今まで続いてきたのか?
って考えると、

2017年の僕のテーマのひとつだった
「近代」とは何か?に入っていく。

「明治維新以来、日本の近代化が急速に進んだ。」
と習ってきたけれど、

それはいったいなんだったのか?

一言でいえば、「効率化」であり、
「日本人」という「国民」をつくること。
「富国強兵」「殖産興業」というスローガンのもと、
我が国は近代化への突き進んだ。

やむをえない事情だったと思う。
アジア各国が植民地となる中、
戦争に負けないためには、
急速に「国民国家」を作る必要があった。

なぜなら、「国民国家」こそが
当時の戦争において最強のシステムだったからだ。

それを「効率的」につくるためにシステムのひとつ、
いや、要となるのが「学校」だった。

それが、今もつづいている。
日本は最終的に戦争に負けたが、
戦後ふたたび、「効率化」が価値を生んだ。
工業社会だったからだ。

「効率化」システムは、
ふたたび価値を生んだ。
そしてそれは、日本を「世界2位の経済大国」
と呼ばれるまでに押し上げた。

その要になったのは、やはり公教育を
出発点とする「学歴社会」システムであろう。
学力という単一の指標で輪切りにし、
システムの管理者と被管理者に分ける。

「管理者の命令だから」
と行動する人を増やしていくこと。
それが価値を、いや価値というか、
お金を生んだのだった。

ところが。
時代は変わった。

日本で「効率化」が価値を生むことは
難しくなっている。

工業社会が終わりを告げて、
付加価値をどうつくるのか?
他社とどのように差別化するのか?
が価値を生んでいる。

また、課題を解決したり、
今までにないものを生み出していくことが
求められている。

世の中はもう、「効率化」で価値は生むことはできない。

にも関わらず、
学校は、教育は、いまだに「効率化」されたシステムに
最適化する人材を育て、
また教育産業はそのようにして稼いでいる。
そんなシステム自身に問いを投げかける必要があるのではないか。

さて。
本屋にもできることがあるんじゃないか。
って思わせてくれるのに十分な第1章でした。

また、読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)

2018年01月06日

松下村塾は塾生募集広告なんか出さなかった


「ローカリズム宣言~「成長」から「定常」へ」(内田樹 deco)

移住雑誌「TURNS」の連載
「若者よ! 地方をめざせ」の大幅加筆修正バージョン。

買ってよかった。出会えてよかった。
新潟・新津の英進堂書店さん、ありがとう。

いつも内田さんの本は鋭いのだけど、
「で、どうすればいいの?」
(まあ、自分で考えろってことなんでしょうけど)
って思うのだけど、この本には提案も載っているので
より熱いです。鼓舞されます。

特に特にシビれたのは、
第9章 脱「市場経済」です。

~~~印象的だったところをメモ。まずは市場経済について

お金さえあれば、生きてゆくために必要なことが
何でも市場で買えるというのはある意味では素晴らしいことです。
お金を稼ぐことに集中して、それ以外のことは考えずに済みますから。

人間として生きる上で必要なものは全部マーケットで
値札がついて売っている。金さえあれば誰でも買える。
個人で暮らす立場からすれば、これほど生きやすいことはありません。

でも、それは逆に言えば、お金がないと生きていく上で
必須の支援さえ手に入らないということを意味しています。

格差の拡大は誰かの邪悪な意思によって起きているのではありません。
市場の合理的な選択の帰結なのです。

超富裕層に権力も財貨も文化資本もすべてを集中した方が
短期的には資本主義は快調に運転する。(先のことさえ考えなければ)

人間にとって必要な資源が少数者に排他的に蓄積された場合には、
集団全体の生命力は衰えます。イノベーションも起こらなくなる。

市場に委ねている限り、格差拡大は絶対に止まりません。
だから、どこかで強い意志をもって、市場の全能を停止させなければならない。

~~~ここまで本文よりメモ

なるほど。
市場は、「効率化」を求め、
会社は、「コストの外部化」によって儲けた。
そのスパイラルが限界に達したのだと。

さらなる効率化をするためには、
すべてを集中させることしかない。

しかし、それでは生き延びれないんじゃないの?
っていうのが内田さんの問いです。

そして、生き延びるためには、として以下のように説明します

~~~ここからメモ

これから社会的能力として最優先されるのは「いい人」であること。

「いい人」だと思われることが相互扶助・相互支援ネットワークに
登録されるときはかなり優先度の高い条件です。

能力があることより、リーダーシップがあることより、
資本があることより、「いい人」であることです。

能力とかリーダーシップというのは「ひとりでも生きていける」能力です。
集団を形成するために必要なのは、そういうタイプの強さではなく、
むしろ「仲間がいないと生きていけない」という弱さだからです。
自分の弱さを自覚している人だけが共生できる。

弱さをカミングアウトするためには「心の広さ」が必要です。
心の狭い人は、同じ意見の人と徒党を組むことはできても、
異なる意見の人と組むことはできないからです。
心の狭い人は均質な集団しかつくれない。

でも、生き延びるための集団は均質的であってはならない。
均質的な集団は、平時にルーティンワークをこなすときは効率的ですけど、
危機的な状況には対応できません。
だって、全員が同じ能力しか持っていないんですから。
危機というのは何が起きるかわからない状況のことです。

ですから、危機を生き延びることを優先させて
制度設計された集団は必ず多様な才能、多様な適性が共生するものになります。

危機を生き延びることを目指して設計された集団は、
「単独では何の役に立つのかさっぱりわからない人たち」を大量に抱え込んでいる。

集団はメンバーの資質や能力が多様であればあるほど危機的状況には強い。
そして、そういう集団の成員たちは、それぞれあまりに特異な才能の持ち主なので、
ひとりでは生きていけない。ひとりでは生きていけない人たちによって形成されている集団が最強である。

集団を強靭なものにしようと思ったら、強者連合を作るよりは、
「自分ひとりでは生きていけない」と信じている弱者たちを集めるほうがよい。

~~~ここまでメモ

なるほど。
これ、学校で習っていることとまるっきり逆ですね。

そして最後、私塾について語るココに、
シビれまくりました。

~~~さらにメモ

蘭学者の緒方洪庵が開いた適塾、大坂の商人たちがつくった懐徳堂、
吉田松陰の松下村塾、福澤諭吉の慶應義塾など、
どれも個人が身銭を切って立ち上げた教育機関です。
それらの私塾が日本教育史上もっとも成功した教育機関であった。

国家や自治体の支援がなくても、法律や要項に従わなくても、
教育はできるということを彼らの先例が教えています。

江戸時代にも藩校という、いまでいう国立大学に相当する教育機関がありました。
でも、そこからは残念ながら乱世を縦横に往来するような人材は生まれなかった。
既成のキャリアパスで出世しそうな秀才しか育てられなかった。だから、私塾ができた。

現代における私塾の登場は、時代が乱世に入りつつあることの証拠だと思います。

高等教育機関がもたらすのは、単に地域の経済効果だけではなく、
いわば一種の「空気」でもあるからです。
風通しのよい知性、権威や世俗におもねらない自尊心、活発な好奇心、
そういうものが流れ出る場所が存在する街と、
そういうものがない街の違いは暮らしていればはっきりわかります。

学校が若者たちの心身の成熟のための機関としてさっぱり機能しなくなってきた以上、
共同体にとって必須のその仕事を誰かが引き受けなければならない。
そう考えている人による私塾運動が、いま全国で同時多発的に始まっている。

塾でも道場でも、かたちはどうあれ、
教育共同体がこれからの地域共同体の再生の核になるだろうと僕は思っています。

広告なんかしなくても、知的で創造的な「空気」が漂っている場所なら、
意欲のある若い人たちは必ず惹きつけられて集まってきます。
松下村塾は広告なんて出さなかった。
でも、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋はじめ異才が門前列をなした。
そういう場所は鼻のきく若者にはわかるんです。

~~~ここまでメモ

うわ~。
それだよ、それ。
そういうのやりたいんだよ。
それが僕の考える「本屋」なんだよ。

やろうぜ、私塾をさ。
見た目は本屋かもしれないけど。

そんな感じ。

「高等教育機関」を「本屋」に置き換えてみる。

「本屋」がもたらすのは、単に地域の経済効果だけではなく、
いわば一種の「空気」でもあるからです。
風通しのよい知性、権威や世俗におもねらない自尊心、活発な好奇心、
そういうものが流れ出る場所が存在する街と、
そういうものがない街の違いは暮らしていればはっきりわかります。

そうそう。
そういう空気をつくるんだよ。

その「空気」を感じた人たちが集まってきて、
学びあい、高めあい、また助けあっている。

そんな「場」をつくるんだ、って。
そして、それは自分にしかできないんじゃないかって。

20年前。1998年2月。
大阪ボランティア協会の早瀬昇さんの講演を聞いた。

「ボランティアを始める人の条件は2つ。
これが世の中に絶対に必要だという思い込みと
これができるのは自分しかいないという思い上がりだ」

そうそう。
「思い込み」と「思い上がり」
つまり、「勘違い」が行動の源泉なんだ。
この本は僕が「勘違い」するのに十分なインスパイアがあった。

昨日のワークで出てきた
「本屋じゃない何か」、その未来像は見えた。
言語化はできていないけど、たしかに見えた。

あとはそれをストーリーへと組み込んでいく。

やろうぜ、私塾をさ。
本屋にしか見えないかもしれないけど。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2017年12月28日

「違い」の違い


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

今日は、戦略の基本原理について。

~~~以下本文より引用を含む

「違い」をつくる。
これが戦略の本質です。

競争の中で業界平均以上の利益を上げることができるとしたら、
それは競合他社と何らかの「違い」があるからです。

「違い」には2種類あり、
「程度の違い」と「種類の違い」です。

「種類の違い」を重視するのが表千家で、
それを「ポジショニング」と言い、
「程度の違い」を重視するのが裏千家で、
そのカギになるのは「組織能力」です。

レストランに例えると、
料理がおいしいという評判で流行っているレストランの場合
その料理を考案したシェフのレシピが優れているのか、
使っている素材や料理人たちのチームワークが良いのかもしれません。

シェフのレシピに注目するのが
「ポジショニング」(SP:Strategic Positioning)の戦略論で
厨房の中に注目するのが
「組織能力」(OC:Organizational Capability)に注目した戦略

このそれぞれをSP、OCと呼びます。

~~~ここまで引用。

この本では、さまざまな会社の事例を挙げて、
SP志向かOC志向か、という話、
セブンイレブンの仮説検証仕入れや、
あるいは、日産やマツダのV字回復の
要因をこの観点から分析している。

SP(ポジショニング)というのは、
「戦わないという戦略」であり、

OC(組織能力)は、
仕方なく戦わなきゃいけなくなったときに、
組織の能力を高めることで競争優位を確保する戦略である。

トヨタのカイゼンなどに代表されるように、
日本の製造業の多くでは、
現場から数々の作業イノベーションが起こり、
それによって競争優位を確保してきた。

一方で、新興企業は、
「ポジショニング」が非常に重要になり、
「ニッチな業界を狙え」などと言われる。

理想を言えば、
SPとOCがともに高いレベルにあり、
なおかつ、利益率の高い(参入障壁の高い)
業界にいることであるのだけど、
この考え方はすごく面白いなあと思った。

つまり、V字回復した企業は、
強いOC(厨房技術)を持っていたけど、
SP(シェフのレシピ)が弱かったところに、
リーダーシップを持つシェフ(カルロスゴーン社長など)
が来て、SPを強化することによって、
もともと力のあったOCが花開いたということになるのだろう。
うーん、面白いね、戦略論。

今回のこの本を読んで思ったのは、
「インターンシップにおける学生の機能」について。

これさ、SP(に強みを持つ)企業か、OC企業かによって
変わってくるんじゃないかなっていうこと。

振興のベンチャー企業は、SP企業のほうが多いと思う。
(独自のポジショニングが取れないとそもそも創業できないから)
いっぽうで、何代目社長です、創業天保何年、みたいな老舗企業は、
OC企業というか続いてるってことは内部に強みがあるんだと思う。

受け入れ先はどっち系の企業なのか?
あるいは、その企業における価値はどこにあるのか?

新規事業開拓(たとえば、食品メーカーで新商品をつくる)
みたいな場合は、OC企業におけるSPの強化になるんだよね。

一方で、インターンを長期的に見た場合。

ETIC.の研修に出てたごく初期の頃、
京都のIT企業の社長が言っていた。

「インターン受け入れですぐに売り上げが伸びるとか、
成果が上がるなどということはありません。
しかし、5年、10年のスパンで見た場合、
インターン生を受け入れ、彼らが成長する会社になるということは
会社にとっては大きな財産です。」

そうそう。
まさにそういうことなんだろうね。
これは、SP企業における、OCの強化ということになる。

うーむ、なるほど~。
もちろん、SPもOCも両方が優れていることが
競争に強い企業の条件なのだけど、

インターン生の役割を、どちらに位置づけるのか?
っていうのを受け入れ先の経営者と合意しているって
大事なことだなと思った。

そしておそらく、相性がいいのは、
中小企業・伝統企業でどちらかというと
OC(組織能力)に強みのある会社での、
SP(ポジショニング)戦略を進めるインターンかもしれないですね。

第2章読み終わりました。
ラストに少し怖い話を。

企業の業績が悪化したとき。
SP先行型の企業は、みるみる業績が悪化し、シェフを変えなければならなくなるが、
OC先行型の企業は、冷蔵庫の中身が時間をかけて徐々に腐っていく。

それ、まさに、日本の大手製造業で
起こっていったことなんじゃないすか。
こわい。

さて、僕は世の中にどんな価値を生めるのだろう。

読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:36Comments(0)

2017年12月26日

あなたは何屋さんなんですか?


「ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件」(楠木健 東洋経済新報社)

この本、おもしろい。
なんかいい。

今日は、「機能分化」と「価値分化」の違いについて。

ガイシ系(=外資系)
っていう組織体が少しわかった気がする。

前までは、
能力主義で、ドライなんだろうなくらいしか
印象がなかったので。

欧米の会社が「機能分化」であるのに対して、
日本の会社が「価値分化」であるという説明。

ソニーがトランジスタ・ラジオを開発できた理由の
エピソードを紹介している。

~~~ここから本文より引用

ソニーの創始者、井深大さんは、トランジスタの話を聞いてすぐに、
「それは自分にとってなんだろう?わが社にとってなんだろう?」と考えている。
そして、非常に早い時期に、もう、トランジスタ・ラジオをやってみようと心に決めている。

井深さんは、ニューヨークの昼食会に招かれたとき、
「この頃何をしようと考えていますか?」と問われ、
「トランジスタでラジオをつくろうと思って」と答え、
大声で笑われたのだという。

トランジスタ誕生のあと、米国では4つの研究プロジェクトが動いていた。
1 トランジスタの性質の物理的研究
2 トランジスタの性能の改善の研究
3 トランジスタのつくり方の研究
4 トランジスタの普及のための再教育のやり方の研究

米国では、大局から方針を立て、
その方針に合った計画をつくり、それを動かす、
という方法を好む。

そういう米国の通念からすれば、
まだ未熟なトランジスタをいきなり
ラジオという商品にするというのは
夢のような話だと映ったのだろう。

ところがトランジスタ・ラジオという目標が
設定され、そこに活力が集中されたために、
問題解決のための努力が実った。

~~~ここまで本文より引用

ここで著者が説明したいのは、
「機能分化」と「価値分化」の違い。

アメリカはトランジスタの開発を
機能分化したプロジェクトそいて進め、

ソニーの井深さんは初めから自分の仕事を
「トランジスタでラジオをつくろう」
という顧客に提供する製品の価値から入っている。
そして現実にソニーはトランジスタ・ラジオの
イノベーションに成功した。

顧客がどのように使うのか、どのように喜ぶのか、という
観点から開発の基本的な方向づけがされていたことが
日本のエレクトロニクス産業が育った本質的な要因なのではないか。

なるほど。

ここから本文中では前後するのだけど、
僕のメモを

~~~以下メモ

機能と価値の違い。
「マーケティング」が「機能」であれば、
「オーディオ」という切り口は「価値」を問題にしています。

機能のお客さんは組織です。
ある人の「マーケティングの専門知識・技能」という機能は、
その人が所属する組織に提供されるものです。
その意味で、機能は組織に対するインプットです。

これに対して、
価値のお客さんはその人が所属する組織の内側にはいません。
お客さんは文字どおり組織の外にいる顧客です。

価値にコミットするということは、「こういうものをお客さんに提供したい」
というアウトプットが仕事のよりどころになるということです。

欧米では自分が組織に提供するインプット(機能)が
そのまま仕事の定義になるのに対して、
日本企業では、組織が提供する
アウトプット(価値)が人々のアイデンティティとなる傾向がある。
これが分化という組織の編成原理に注目した対比の図式です。

~~~ここまでメモ

なるほど。
欧米の企業は機能分化を文化とし、
日本の企業は価値分化を文化としている。

なるほどね。
外資系っていう世界が少しだけ理解できた気がする。

そして同時に、就活の「違和感」の原因がそこにもあるなと思った。

良い悪いではなく、
日本人は、考え方の癖として、

「価値」は何か?
というふうになっているんだ。

だから、オーディオを作っている会社で、
マーケティングを日々やっているとしたら、

「あなたは何屋さんですか?」
っていう質問に対して、
「マーケティング屋さん」ではなくて、
「オーディオ屋さん」であると答えるのが日本人「的」であるというのだ。

「マーケティング」というのは、
その人が属する組織(会社)にとっての価値であって、
「オーディオ」っていうのは、
その会社が提供する商品の顧客にとっての価値である。

なるほど。

だからさ、就活の時に、
「業種」と「職種」とかって聞かれるのって、
やっぱりちょっと違和感があるんじゃないかな?

特に「職種」っていうのは、
会社に対する機能を聞かれているわけだからね。

その会社にとってお客は誰なのか?
生み出す価値は何なのか?

そういうことをお互いにイメージする「就活」が
日本「的」なのかもしれないですね。

さて、
「あなたは何屋さんなんですか?」  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)