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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年07月30日

「消費者」という「自由」


「街場の平成論」(内田樹編 晶文社)

ううーん。
って唸るばかりの本。
現実を目の前に苦しくなります。

その中でも(まだ途中ですが)
平川克美さんの「消費者」「自由」に関する記述が的確だと
思ったので、ブログに残したく、転載します。

~~~以下本文よりメモ

「週休2日制」は、単に1週間に休日が1日増えたというに止まらない変化を日本にもたらした。

週5日は労働のための日だが、残りの2日は消費のための日になったのである。

多くの日本人は、豊かな余暇を過ごすために、働くようになった。

週休2日制、労働者派遣法改正による非正規雇用の増加、24時間営業のコンビニエンスストアの隆盛という3つの変化は、日本に新たな階級としての「消費者」を生み出した。

ここでいう「消費者」とは単に市場における消費行動をするものののことではない。金さえあれば、誰からも命令されることなく自由に働き、自由に生活し、自由に余暇を楽しむことができるを内面化したものの謂である。

「消費者」は、これまでの古い慣習や、しがらみから自分を解き放つことが可能な存在であった。一人の時間を大切にし、誰からもその行動を干渉されず、好きなときに好きなものを自由に所有することができる。

消費者が持った解放感は、日本の歴史上稀有のものだったように思える。金の力が、個人を解放するという幻想を多くの日本人が共有したのである。ただし、金さえあればの話である。

そのことは、お金の万能性をさらに高める結果になったとも言えるだろう。「消費者」こそが自由と平等の享受者であるならば、お金こそがそれらを手に入れる鍵だからである。

もともと、自由も平等も旧体制転覆の熾烈な市民革命を経て人々が獲得したものであり、その結果として「個人」という強固な概念が生まれてきたという歴史的事実がある。

革命を経ない日本では、長い間「イエ」が社会の最小単位であり、「イエ」を存続させるために封建的な秩序が支配的であり、女性もまた「イエ」の存続のための重要な役割を担わされることを余儀なくされてきた。

考えてみれば、「消費者」は、革命を経なかった日本人が初めて手にした「個人」であったと言えるかもしれない。ここでも、但し書きがつく。但し、金さえあれば。

昭和天皇崩御のときの、日本総右ならえと、ビデオ屋での待ち行列という二つの相矛盾する行動は、「イエ」の価値観と「消費者」の価値観が交錯した風景でもあったのだ。

個人主義は、一人一人の人間には、他の何ものにも代えがたい価値があることを謳う思想であり、個人の権利と自由は、国家や共同体から束縛されたり、毀損されたりすべきではない最優先のものであると考える。

奇矯に響くかもしれないが、日本人がが獲得した個人の概念は、金で買ったものであり、金がなければ、その個人とは社会によって淘汰され、そのフルメンバーから除外される危険性もあったのだ。

~~~ここまで本文からメモ(平川克美 「消費者」主権国家まで)

金で買った「個人」。
つまり「消費者」としてふるまうことこそが自由への唯一の道だと多くの人が信じていた時代。
「経済合理性」という一元化した価値観に、みんなが投げ込まれていった。

そこに幸せはあったのだろうか?
他者との比較しかない。

それこそが「消費者」という自由だった。

この章のラストに平川さんも書いているけど、
経済合理性という物差しとは別の物差しを手に入れる以外にはないように思える。

そうそう。
それを自らつかみとっていくこと。
あるいは、百姓のように生み出していくこと。

それが本当に「自由」になる唯一の方法であると僕も思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)

2019年07月04日

貨幣経済が「質」を「量」に還元した


「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)

今日がラストです。
エッセンスに詰まりすぎて、ほかの本も読んでみたくなりました。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」から、はじまります。

~~~ここから本文より引用

「・・・からの自由」と「・・・への自由」か。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」
「自由」という名の牢獄から抜け出そうとして、ふたたび服従を求めるという構図。

個人が解放される以前にあった地縁血縁などの「第一次的絆」を断ち切っていく個性化のプロセスの中で、孤独や不安、そして自らの無力感やのしかかってくる責任の重さなど、様々な困難に直面することになります。

個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つ有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連帯と愛情や仕事という自発的な行為である。それらは第一次的絆とは違って、人間を自由な独立した個人として、再び世界に結びつける。

しかし、個性化の過程をおし進めていく経済的、社会的、政治的諸条件が、いま述べたような意味での個性の実現を妨げるならば、一方ではひとびとにかつて安定を与えてくれた絆はすでに失われているから、このズレは自由をたえがたい重荷に変える。

そうなると自由は疑獄そのものとなり、意味と方向とを失った生活となる。こうして、たとえ自由を失っても、このような自由から逃れ、不安から救いだしてくれる人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれてくる。

ちょうど肉体的に母親の胎内に二度と帰ることができないのと同じように、子どもは精神的にも個性化の過程を逆行することはできない。もし、あえてそうしようとすれば、それはどうしても服従の性格をおびることになる。

子どもは意識的には安定と満足を感ずるかもわからないが、無意識的には、自分の払っている対価が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。

~~~ここまで引用

「たとえ自由を失っても、このような自由から逃れ、不安から救いだしてくれる人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれてくる。」

フロムはまさにそれがナチスを支持する人々を生んだのだと言う。その「人間」や「外界」が、今は、新興宗教だったり、他者評価だったり、カリスマやリーダーシップだったりするのだろうな。

じゃあ、どうすればいいのか?
フロムはそれが「自発的な活動」だと言い、それは「小児」や「芸術家」のことだと著者は説明する。

~~~ここから引用

自発的な活動がなぜ自由の問題にたいする答えになるのだろうか。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界にー人間、自然、自分自身にー結びつけるから。

愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである。しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人を他者と結びつけるような愛である。

まず第一にわれわれは、自然で自発的であったひとたちを知っている。かれらの思考、感情、行為は、かれら自身の表現であり、自動人形のそれではない。これあらのひとびとは多くは芸術家としてわれわれに知られている。事実、芸術家は自分自身を自発的に表現することができる個人と定義することができる

小さな子どもたちは自発性のもうひとつの例である。かれらは本当に自分のものを感じ、考える能力を持っている。(中略)子どもの魅力がなんであるか問うならば、私はまさにこの自発性にちがいないと思う。この自発性は、それを感知する力を失うほどには死んでいないひとびとに、深く訴えていく。じっさい、子どもにせよ芸術家にせよ、あるいはこのような年齢や職業で分類することができないひとびとにせよ、かれらの自発性ほど、魅惑的説得的なものはない。

「芸術とは、邪なるものに曇らされた世俗に向かって決然と対峙して、そこで忘れ去られてしまった自然の本性、すなわち「美」を力強く表現するものです。真の芸術家の在り方というものは、子供の持つ純粋さや創造性を保ちつつ、そこに力強く成熟したものを兼ね備えた、ただならぬ「小児」と呼ぶべきものなのです。

しかし、これは芸術家に限った話ではありません。芸術とは人間であるために「不可欠なもの」であって、決して「剰余として」身にまとうような贅沢品ではないのです。

「真の藝術家は、藝術の条件のもとで人生をわれわれを見せてくれるのではあって、人生の形式の中で藝術を見せるのではない。(オスカーワイルド)

~~~ここまで引用

かつて、宮沢賢治先生が言っていた、

誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
(「農民芸術概論綱要」より)

まさにこれこそが「自由」への道だと説明するのです。
ここは僕としてはとても熱くなりました。

そして、ここからが、今日の一番のポイントです。
まずは「愛」の話から。

~~~ここから引用

「愛」とは、単に他の人に向かうものだけを指すのではなく、世界の様々な物事や人生そのものに向けられるもので、対象に潜む本質を深く知ろうとしたり、深く味わおうとしたりするものです。このように好奇心に満ちた、無邪気な子供のような性質。それが「愛」というものの大切な側面なのです。

「愛」が働く時、私たちは対象を深く見つめ、耳を澄まし、そこに潜む本質を感じ取ろうとします。これによって物事に秘められた真実が、見つめる者、耳を澄ますものに、静かに開示されてきます。その時、私たちに、あたかも対象と一体になったかのような至福の経験がもたらされます。「愛」の喜びとは、そのような経験です。

われわれ人間の「頭」は、そもそもは渾然一体となっている自他を、「観察する者」と「観察される対象」とに分ける働きがあります。そうして、本来は一元的である世界を自と他に分別して、二元論的世界に変えてしまいます。もちろん、この「頭」の働きがあったおかげで、私たちは対象を認識したり、思考したりできるようになって、それを意のままに操作することさえ可能になったわけです。

しかし私たちは、これによって世界との一体感を失ってしまったのです。つまり、世界を自分から切り離したつもりで、私たちがむしろ世界から切り離されてしまったのだと言えるでしょう。「自分」という言葉の中の「分」という文字は、私たち人間が、そういう悲劇的な宿命を負っていることを静かに教えてくれているかのように思われます。

このように世界から切り離された私たちが、しかし、もう一度世界と一体であることを思い起こすことができる経験。再び一元的な世界に立ち戻ることができる経験。それを「愛」の経験と呼ぶのです。

~~~ここまで引用

なるほど。
頭と心の二元論的分割は必然だったのだなあと。

世界から自分を切り離したつもりで、むしろ世界から自分が切り離されてしまった。
これですね。
なんとなくの不安の招待。

さらに、「日常」を「遊び」に変えよ、と続きます。

~~~ここから引用

何でもないように見える「日常」こそが私たちが「生きる意味」を感じるための重要な鍵を握っているのです。

「日常」を死んだ時間として過ごしてしまうと、その退屈で苦痛な時間を耐え忍ぶために感性を硬直化させることになってしまい、ある時にたとえ素晴らしい非日常的経験を得たとしても、もはやそこに十分な喜びを感じ取ることさえできなくなってしまうでしょう。

しかしそもそも、私たちがこんな風に「日常/非日常」を区別していること自体が問題なのかもしれません。私たちは「日常」という言葉に、ついつい「ルーチンでつまらない時間」というニュアンスを込めてしまいがちなのですから。

そこでまずは、この色あせたニュアンスをまとった「日常」というものをいかに非日常化して、区別なく味わい深いものにできるか。つまり、人生の時間を丸ごと「遊ぶ」ことができるかが、問われてくるのです。

ニーチェは人間の最も成熟した在り方を「小児」という象徴で語りました。この「小児」とは「創造という遊戯」に満ちた存在です。創造こそが最高の遊戯であり、「遊ぶ」とはすなわち創造的であることです。物事を深く「味わう」ためには、その物事に向かって「小児」のように創造的に「遊ぶ」ことが大切なのです。

~~~ここまで引用

そして、このあと、この本の中で一番衝撃を受けた、ロバート・ヘンライの言葉がつづきます。

「芸術家は人生についての考え方を世界に教えている。金だけが大事だと信じている人は自分を欺いている。芸術家が教えているのは、小さな子供が無心で遊ぶように、人生も熱中して遊ぶべきだということである。ただし、それは成熟した遊びである。人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり、革新である。」(ロバート・ヘンライ「アートスピリット」)

いいですね。
熱いですね。

高校生や大学生が「地域」で「探究」をやる本当の意味はここにあるのではないでしょうか。

大学の入試改革があったから、ではなく、
それが新しい学力観だから、でもなく、

ただただ「人生を熱中して遊ぶべきだ」というメッセージを伝えるためなのではないかと。
熱くなりました。

締めは、頭と心、量と質の二元論の説明。
僕はこういうのが好きです。

~~~ここから引用

「心=身体」が感じ取った感覚を「頭」がありのままに受け取って、それをもとに様々な好奇心を発動させたり、抽象化や概念化を行って、そこから普遍的真理を抽出したりすること。これが「意味」が析出してくれるプロセスです。ともすれば「心=身体」を抑え込み支配的に振る舞いがちな「頭」なのですが、このように協働的な「頭」の用い方ができた時、そこに至福の喜びが訪れます。古代ギリシア人が「観照生活」を最も人間らしい過ごし方と考えたのは、そのためでもありました。

このように「頭」と「心」が対立せずに、互いが相乗的に喜び合っている状態。これを、私たちは「遊び」と呼ぶのです。誰しも幼い子供時代には、自然に「遊び」に夢中になっていたはずなのですが、それがどうして、こんなにも縁遠いものになってしまったのでしょう。

物事の「質」を「量」に還元してしまう貨幣経済というものが、私たちの世界を動かす支配的な価値観になってしまったことが挙げられるでしょう。お金というツールはそもそも、物々交換の不便さを解消するものとして登場し、あらゆるものを「量」に還元して交換、つまり取引を可能にしました。「質」の異なる様々なものをすべて「量」に置き換えてしまうということは、本来は暫定的・便宜的なことであって、そこに無理があるのは当然です。

しかし、いつの間にか、経済原理が世の中を動かす中心的な力を持つようになってしまい、人々は「質」の大切さを犠牲にしてまでも経済価値を追い求めるようになってしまいました。その結果、様々な物事に対しても、プロセスよりも結果のほうを重視するような考え方が、広く世の中に蔓延するようになったのです。

さらにこの「量」的に傾斜した価値観は物事に最大限の効率を求めるようになり、ロジカルな戦略を立てて物事に取り組むスタイルを生み出しました。明確な目標設定、その実現可能性やリスクはどの程度で、勝算はどの程度見込めるのか、それに投入するコストはどこまで最小限にできるのか等々、人間の「頭」の算術的なシュミレーション機能を過大に評価した考え方が、子供の勉強から大人のビジネスまで、果ては「ライフプランニング」という言葉も登場するほどに、人生のあらゆる局面までも支配するようになってしまったのです。

この一見合理的に思える方法論には、致命的な欠陥があります。「質」は「量」に還元できないという基本的な問題を抱えてるのみならず、「頭」の行うシュミレーションは単純な算術レベルに留まるものであって、人間や社会さらには人生や運命といった「複雑系」にはまったく歯が立たないものなのです。

このような効率主義を含む合目的的な思考は、ビジネスのみならず、現代人の思考全般にすっかり浸透していて、私たちはどんな小さな選択であっても「それは何の役に立つのか?」「それは損なのか得なのか?」「コストパフォーマンスはどうなのか?」「メリットやデメリットはどうなっている?」「どんなリスクがどの程度の確率で起こり得るのか?」といったことを考える癖がついてしまいました。そして、「結局」「所詮」「面倒くさい」といった言葉が乱発されるようになり、「どうせ同じ結果が得られるのなら余計なことや無駄なことはしないのが賢明だ」と考えるようになってしまった。

~~~ここまで引用

貨幣経済が「質」の異なるものを貨幣価値という一元化したものに還元してしまった。そしてそれが究極的に進んだのが現代という時代であると僕も思います。「量」や「結果」で測るなら、最小限の努力で最大の価値を生み出したほうがいい、そのように思うのは当然です。

本当にそれで幸せになれるのでしょうか?

つづけます。

~~~

ところが、そもそも「遊び」というのは「無駄」の上にこそ成り立つのであって、その「結果」はあくまで二次的に過ぎないもので、「プロセス」のところにこそ面白味があるものです。

「頭」の計画性や合理性を回避するためには、その対極にある「即興」という概念を積極的に用いてみることがとても有効な方法です。

あえて無計画、無目的に、自分の行動を即興に委ねてみることによって、私たちの決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたものに変貌するわけです。おれを私は「偶然に身を開く」と呼んでいます。

「即興性」に加えてもうひとつ大切なこととして「面倒くさい」と感じることを、むしろ積極的に歓迎してみるという考え方があります。

~~~

「即興」。
ここで出てくるんですか。
ツルハシブックス「劇団員」のコンセプトが。
読書って楽しいなあと思います。

キーワードだらけだな、と。
「頭=脳」と「心=身体」
あまりにも頭にシフトしすぎたんだなと。

キャリア的に言えば、未来が予測不可能になって、
「目標達成」から「機会提供」へと教育がシフトしているんだなと。

「目標達成」にとって、「機会」はノイズに過ぎなく、
「即興」は説明不可能であるから、排除すべきなのだろうと。

でも、人生を遊ぶためには、創造的でなければならないのだから、
そこには「機会」を得て「即興」してみることは必須だよね。

たぶん、ぼくが伝えたいのも、そういうこと。  

Posted by ニシダタクジ at 09:19Comments(0)

2019年07月02日

「意義」と「意味」


「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)

「生きづらさ」というモンスターの正体がまたひとつ、
わかりました。

それは「意義」というモンスターです。

まずは、夏目漱石先生とニーチェ先生から学ぶ、「本当の自分」探しについて。

~~~ここからメモ

「本当の自分」「自分探し」問題をどうするか。

「自分探し」への批判は
1 「労働教」による「自分探しなんて甘えだ、働け」という道徳的な説
2 そもそも「本当の自分」を知ることはできないから考えても無駄という合理的な説
両方とも、当事者本人を救うことができない。

生まれ育ってくる中で避け難く曇らされてしまい、「頭」でっかちで神経症にならざるを得ないわれわれの感覚や認識というものを、「心」を中心に回復させることができた時、人は「本当の自分」になったという内的感覚を抱きます。これは、生まれ直したかのような新鮮さと歓びに満ちたものであり、「第二の誕生」とも呼ばれます。

夏目漱石は「私の個人主義」(1914年@学習院大学の講演録)で、「ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたははじめて心を安んずることができるのでしょう。」と語った。

このように「本当の自分」になる経験が起こると、必ずや一定期間の後に、「自分」への執着が消えるという新たな段階に入っていきます。
それが漱石の言う「則天去私」か。天に則り私を去る。自分という一人称への執着が消えた「超越的0人称」の境地を表している。

ニーチェはそれを、「駱駝」(未熟な0人称)→「獅子」(1人称)→「小児」(超越的0人称)という三様の変化と比喩的に述べている。

ただし、誤解してはならないのは、この駱駝として象徴されている「未熟な0人称」というものは、決して未成年のような未熟な状態を指しているわけではなく、むしろ私たちが「一人前の社会人」と呼んでいるような社会適応的な状態のことだという点です。

~~~ここまでメモ

「自分とは何か」という問いの後に、それを掘り当てると、自分への執着が消えていくという。
ニーチェの定義に従うならば、私たちはほとんどが「駱駝」(未熟な0人称)の段階にあるなと。
「何者でもない」という状態から、一瞬、何者かになって、そしてまた超越的0人称という自分への執着を超えた存在になるのだ。

そして、今日の本題、「意義」と「意味」の話に突入していきます。

~~~ここから引用とメモ

「意義」という思想が私たちを苦しめているのではないか。うつ状態に陥った人たちが、療養せざるを得なくなり、「有意義」な過ごし方ができなくなってしまうと、自らを「価値のない存在」として責めてしまう。

私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。

「意義」とは、何かの役に立つ、など、「価値」を生みことにつながるもの。
「意味」とは「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものでありません。

しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。

現代では「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜してしまっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっているのです。

「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまりひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。

「意義」とは、われわれの「頭」の損得勘定に関係しているものなのですが、他方の「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものであり、そこには「味わう」というニュアンスが込められています。

このように整理してみますと、「意義」と「意味」とは、かなり異なった概念であることがはっきりしてきます。

しかし、現代人が「生きる意味」を問う時には、ともすればつい、この「意味」と「意義」を混同してしまって、結局「生きる意義」や「価値」を問うてしまっていることが少なくないのです。そしてこれが、問題を余計難しくしてしまっているのです。

生産マシーンのごとく、常に「価値」を生むことを求められてきた私たちは、「有意義」という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を想像する余裕すらない状態に陥ってしまっているのです。

まだ私たちが幼かった頃、一日がとても長く感じられ、未知な世界に向かって好奇心を向け、自由な空想にひたり制約のない夢を育んでいた頃、生きることは「意味」に満ち溢れていました。

当然のことながら、子供の世界から「意味」などすっかり消え去ってしまい、生きる喜びとは無関係な「意義」だけが、彼らの中に空しく積み上げられていくようになってしまったのです。

~~~ここまで引用とメモ

生きづらさの正体、見つけた。

「意義」は何か?
その行為の「目的」は?

と聞いてくる家族、学校、社会だ。
「意義」に満たされた生活は、一見充実しているように見えるが、余裕がなく、つまらない。

だからこそ、「にいがたイナカレッジ」には1か月という時間の投資が必要なのだ。
1か月の暮らしと余裕の中で「意味」を問いかける。
「価値」というものが、本来は他者評価を前提としていないことを知る。

自分たち自身(だけ)が感じられる価値。
それを追いかけていくこと。

それはまるで、子どもが自然の中で遊ぶように、夢中になること。
その前提として、自らの存在承認を得ること。

ここにいていいんだ。
若いだけで自分は価値があるんだ。
という感情から出発すること。

たぶん、そういうことのために、
1か月が必要なのだなあと改めて思いました。

まだ、夏の予定が決まっていない人は新潟という選択肢もあります。
https://inacollege.jp/  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)

2019年06月28日

それ、「トロッコ」じゃないすか?


「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)

新津のあやさんに頂きました。
めちゃタイムリーでうれしかった!

冒頭で、
「ハングリー・モチベーション」の終焉が叫ばれる。

何らかのハングリーな状況に直面すると、
ひとはどうしても、まずはその解決を図ろうとし、
それさえ解決すれば幸せになれるのではないかと考えてしまう。

ところがその「ハングリー・モチベーション」によって駆動されてきた
時代は終わりを告げ、「なぜ生きるのか?」「なぜ働くのか?」といった
「実存的な問い」が近年増えてきているのだという。

さて。
まだ第1章しか読んでないのだけど、
エッセンスに詰まっていたので紹介します。

「活動的だな」と周りから思われている大学生は、読んでみるといいかもです。

~~~ここから引用

2,3歳の時に「イヤイヤ期」があるように、人はみな、「やりたくない」という意思表明から自我に目覚める。

「あなたのためよ」という名目の下、親の価値観に縛られて「ノー」を許されない状況で生き抜かなければならない子供たちは、主体性を放棄する以外に生き延びる道がありません。

つまり、こうして大切な自我の基本であるはずの「好き/嫌い」というものが封印されてしまうことになります。

彼らは大概、様々な事情により「自我」の芽を摘まれて育ってきた歴史を持っています。それゆえ、人生を順調に進んでいるように見えても、その内実においては「生きるモチベーション」という動力のない、言わばトロッコのような在り方だったのです。

順調に進んでいた時には、本人自身も周囲も、それが問題であるとは思いもしなかったわけですが、レール上の小石のような障害物によって、あっけなく進めなくなってしまいます。

つまり、そもそも他動的に押された慣性で走っていたため、「それぐらいの困難は乗り越えるべきものだ」といくら発破をかけられても、そもそも動力が見当たらないのです。

このように動けなくなり「うつ状態」に陥ったクライアントは、そこではたと「生きるモチベーション」の不在に気づくことになります。

このモチベーションの不在は、「自分がない」ことから生じた問題なのですが、その「自分」に対して唐突に「何がしたいのか」「何がイヤなのか」と問いかけてみても、「自分」は何も答えてくれません。長い間、「ノー」を禁じられて「自分」の声を聞かずに来たのですから、そのように扱われてきた「自分」の側ももはや主張することをあきらめてしまっていて、口をきかなくなっているのです。

このような背景があって生じた「うつ状態」なので、治療としては、深く丁寧に、実存の水準にまでアプローチしなければなりません。ですから、こうした病態にいくら薬物療法を行っても、動力のないトロッコに燃料を入れたり、燃焼賦活剤を入れたりするようなもので、原理的に効果が出るはずもないのです。

~~~ここまで引用

めちゃめちゃリアルだ。
「うつ」のリアル。

本来は実存的な課題なのに、
それを実利的なというか表面上のアプローチで
もとに戻す(また働ける)ようにするっていう方法は
はたしてどうなのか?と問いかける。

そして、エーリッヒ・フロムの「受動的人間」の定義をつづける

~~~ここから引用

刺激に対する単なる反作用としての「能動」、あるいは外観は情熱のようでも、実は外力に動かされている「能動」は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。(「人生と愛」エーリッヒ・フロム)

外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らすために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

将来どんな仕事に就くべきかといった「社会的自己実現」について苦悩することよりも、もう一つ深い層の「生きることの意味を求める」という実存的な飢えの方が若い世代にとってはむしろ切実な問題になってきているわけです。

~~~ここまで引用

やばいっすね。
外観上の「能動」や「主体的」であることを
駆動している要因が他者だったり、恐怖だったりしている。

これは、あるあるですよね。
この本にも書いてあるけど、

・「休日を有意義に過ごした」と思いたいので、出来合いのレジャーや娯楽に時間を使う。
・通勤時間といえども時間を無駄にしたくないので、経済新聞を読んで経済情勢についてキャッチアップするか、語学学習にあててスキルアップする
・独りぼっちの感覚に陥らないように、LINEやツイッター、メールなどのネットツールで常に誰かとつながっていようとする。

これらはどれも、私たちが内面的な「空虚」との直面を避けるために、ついつい行っている「受動」的行動です。

活動的な大学生あるあるとしては、「不安」という外的要因に受動的に反応して、「何かしなきゃ」とインターンに行く、海外にボランティアに行く。

それをやっているときは、不安から逃れられるけど、終わるとまた不安が襲ってくる。
そういうの、起こってますよね?めちゃめちゃ起こってる。

じゃあ、どうしたらいいのか?
っていうのはこれから読み進めて書いてあるのかもしれませんが、

僕としては、やっぱり最初のトロッコの話が衝撃的で、「他者が(特に親や先生)が押してくれたトロッコが、慣性で走っているだけ」っていう表現は、そうかもって思いますね。

3年前にセンジュ出版の「夢のはいたつにん」(教来石小織著)を読んだときに、

ああ、夢ってのりものなんだって思った。
それはきっとエンジンのついている乗り物。
いろんな場所に連れて行ってくれる乗り物。

http://hero.niiblo.jp/e478586.html

でもさ、親や学校の先生に言われたり、不安によって動かされている
「トロッコ」は、一度とまってしまうと、もう、走れないし、上り坂でも止まってしまうんだよね。

だから、最初に動力(エンジン)のついた乗り物を作らないといけないんだ。

そのためには、自分の「好き」と「嫌い」を表明して、
「好き」や「好奇心」を駆動させて、上り坂を登ってみる、ってことを
はじめないといけないし、

もし、ひとりでそれが難しいのなら、
何人かで動力のある乗り物をつくって、
乗ってみればいいと思う。

その動力ってなんだろうね?

やっぱ、なぜ?
っていうか、ミッションっていうか、そういうことなのかな。

どうしてそこに行きたいんだ?

っていう問いに答える何か。
それが動力となって、進んでいけるのかもしれない。

あなたの乗ってる乗り物。

それ、「トロッコ」じゃないっすか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:00Comments(0)

2019年06月27日

「30年の経験があります。」というウソ


「劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?」(山口周 光文社新書)

昨日にひきつづき、この本。
昨日はなぜ50代の親世代と就活・転職世代が対立してしまうのか。
今日は「実践編」というか、じゃあ、どうすればいいのか、について。

「大きなモノガタリ」への適応が
圧倒的な便益(簡単に言えばお金)を生み出したので
教養が死んだという話でした。

しかし、すでにその「大きなモノガタリ」は消えうせ、
「新しいモノガタリ」(グローバル資本主義)が始まっています。

そこへの「適応」が
英語をバリバリしゃべれて、論理的にプレゼンテーションができて、
ディスカッションでも負けない人材になる、ということだったのではないでしょうか。
外資系企業に入っても即戦力でバリバリやれます、みたいな。

「モノガタリ」への同化・適応っていうのは、キーワードとしては非常に重要だと思います。

僕が最近感じていた、
30代の「ソーシャル起業」世代と20代の「シェアライフ」世代の差は
もしかしたら、そこにあるのかもしれないと思いました。

さて。
本文から引用します。

~~~ここから引用

経営というものは、「アート」と「サイエンス」と「クラフト」が渾然一体となったものであり、「アート」は、ステークホルダーがワクワクするようなビジョンを生み出し、組織の創造性を後押しします。(ヘンリー・ミンツバーグ)

「サイエンス」は、体系的な評価や分析を通じて、「アート」が生み出したビジョンや直感に現実的な裏付けを与えます。「クラフト」は、地に足のついた経験や知識をもとに、「アート」が生み出したビジョン、「サイエンス」が裏打ちした計画を現実化するための実行力を生み出します。

まず、二流の人間は、自分は本当は二流であり、誰が一流なのかを知っています。一流の人間はそもそも人を格付けする、あるいは人を押しのけて権力を握ることにあまり興味がないので、自分や他人が何流かということをはなから考えません。三流の人間は、往々にして周囲にいる二流の人間のことを一流だと勘違いしており、自分も「いまは二流だが頑張ればいつかはああなれる」と考えて、二流の周りをヨイショしながらウロチョロする一方で、本物の一流については、自分のモノサシでは測れない、よくわからない人たちだと考えています。

社会で権力を握っている権力者に圧力をかけるとき、そのやり方には大きく「オピニオン」と「エグジット」の2つがあります。オピニオンというのは、おかしいと思うことについてはおかしいと意見するということであり、エグジットというのは権力者の影響下から脱出する、ということです。劣化するオッサンのもとで納得できない理不尽な仕事を押し付けられている立場にある人であれば、まずオピニオンとエグジットという武器を意識してほしい

「フィードバックの欠如」が、システムにとって致命的な問題をもたらします。オピニオンやエグジットというのは、もっともわかりやすく、有効なフィードバックなのです。オピニオンもエグジットも行使できないのはなぜか?「美意識の欠如」と「モビリティの低さ」にあります。汎用性の高いスキルや知識などの「人的資本」と信用や評判といった「社会資本」を厚くすることで、自分の「モビリティ」を高めるしかありません。

「年長者の価値を毀損する3つの理由」
1 社会変化のスピード
向き合う問題が年長者にとっても若者にとっても新しい問題なのであれば、問題解決の能力はむしろ若者のほうが優れている。
2 情報の普遍化
データベースとしての年長者の価値の低下が起こっている。
3 寿命の増進
寿命が延びた結果、年長者そのものの数が増えているので、相対的に価値が低下する。

~~~ここまで引用

なるほどなるほど。
組織でオッサンたちとズレがあるのはまさにここだなあと。
でも、オッサンたちもつらいだなあと。

そして、今日のメインはこちらです。
学ぶとは?経験とは何か?

~~~ここから引用

人間の成長は学習という概念と深く関連しており、学習は「経験の質」に関わっています。

「成長」にとって「経験の量」はそれほど重要ではありません。すでにできるようになったことをいくら繰り返しても脳内のニューロンの連結は変わらないから。

「わかるということは、それによって自分が変わることだ」(阿部勤也 元一橋大学学長)

情報は劣化しない:「壊れるもの」は時間を経過するごとに老いていきますが、「壊れないもの」は時間を経過するごとに若返っていく、ということです。長いこと有用な知識や情報を学びたければ、その知識や情報が活用されてきた期間に着目しろということです。それをまさしく「教養」と呼んできた。

同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。

なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。

セカンドステージにおける学びの量は失敗の回数にそのまま正相関する。

「アマゾンは創業以来70以上の事業に新規参入していますがおよそ3分の1は失敗して撤退しています」チャレンジして失敗してその学びを次のチャレンジに活かす、というサイクルを高速で回しているからこそ、新規事業の成功確率をどんどん高めることができるのです。

これは個人でも同様に言えることです。セカンドステージにおける失敗の経験が「どうすると失敗するのか」「失敗するときのポイントはなにか」という学びにつながり、これはチャレンジするときの心理的な抵抗感、つまり「失敗してしまうのではないか」という恐れを低減させる要素となります。

何度も繰り返して失敗すれば、「こういうときはヤバい」という失敗の勘所が身につきます。この勘所をセカンドステージでつかむことが重要なのです。なぜならサードステージに入ると、失敗のダメージが非常に大きくなってしまうからです。

失敗のダメージが小さいセカンドステージでたくさんチャレンジし、自分なりの「失敗マニュアル」を作ってしまうことで、サードステージにおいて、大胆なチャレンジができる、つまり「自分はどこでもやっていける」という自信の形成につながるのです。

「なにかにチャレンジする、ということは、それまでにやってきたなにかを止める、ということでもあります。今までにやってきたことをやり続けながら片手間でやる、というのは「チャレンジ」とは呼びません。」

「チャレンジ」には「時間や能力の集中」という要素が付きものであり、したがって「それまでにやっていたことを一旦止める」ということが必然的に求められます。つまり「なにかを止めないと、なにかにチャレンジできない」、チャレンジの難しさの本質は、チャレンジそのものよりも、それ以前に横たわる「なにかを止めること」にある、ということです。

~~~ここまで引用

「経験」「挑戦」「失敗」
の意味が変わりますね。

一番衝撃だったのはやはりこれですね。

同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。

なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。

~~~

大学生に例えて言えば、

「4年間部活ひとすじでやってきました。」

っていうよりは、

「10個のプロジェクトを回して、成果はこれで、失敗はこれで、これを学びました。」

っていうほうが「経験」と呼べるってことですよね。

そのために、いちばん大切なのはやっぱり「ふりかえり」ということになるのではないかなと思います。
たくさんのプロジェクトに手を出して、どんどん忙しくなって、振り返れなくなって、学びが少ない。

これは活動的な人あるある
だと思いますけど、

もったいないなと。

たくさんのチームで、たくさんのプロジェクトを回しているのだから。
そのひとつひとつを自分なりにふりかえること。そこから学ぶこと。
何より「自分を知る」こと。

僕がかかわっている、茨城・えぽっくの企業取材型インターン「チームひきだし」と
新潟・「にいがたイナカレッジ」のプログラムは、ふりかえりを重視したプロジェクト設計となってます。

興味がある方は私までお問い合わせください。  

Posted by ニシダタクジ at 07:29Comments(0)

2019年06月26日

なぜ、「教養」は死んだのか?



「劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?」(山口周 光文社新書)

なんでこういうタイトルなんですかね。

このタイトルにしたら、ターミナル駅のBOOK EXPRESSで
「新幹線で1冊読めるな」的な名古屋か仙台出張のオッサンしか
買えないじゃないか。

↑そういうペルソナ設定だと思う。(笑)

これは、むしろ20代が読むべき本です。
特に就活とか転職活動とか始める前に読めるといいですね。

自分の親世代(40代後半~50代)との感覚の違いが手に取るようにわかりますよ。

僕が大学生に言ってきた
「親世代である50代は勝ち組、負け組の価値観に染まっているから、
わが子を負け組にしたくないという恐怖がすごい。だから大企業とか安定とかを重要視する」

これが明確に論理立てて説明されているので、
ひれ伏しました。

~~~ここから引用

現代の50代・60代の「オッサン」たちは、「大きなモノガタリ」の喪失以前に社会適応してしまった「最後の世代」だという点です。

戦後の復興と経済成長を支えたリーダーたちは、「大きなモノガタリ」つまり「いい学校を卒業して大企業に就職すれば、一生豊かで幸福に暮らせる」という昭和後期の幻想の形成とともにキャリアの会談を上り、「大きなモノガタリ」の終焉とともに、社会の表舞台から退いていった。

田中角栄、森田昭夫、本田宗一郎といった昭和期のリーダーのほとんどすべてがこのセルに含まれている。

「20代は人生を決定づける10年間だ」(メグ・ジェイ 臨床心理学者)

大学卒業後のこの時期は非常に重要な期間であり、その後のキャリアを形成するための知識やネットワークの構築、マインドセット(考え方の枠組み)の書き換えなど、言うならば「人生を生きるためのOS」を作る時期に当たる、というのがメグ・ジェイの主張の骨子です。

この貴重な20代を、バブル期に浮かれる世の中で、「会社のいうとおりにやっていれば金持ちになって別荘くらいは持てるさ」という気分の中で過ごしてしまったことは不幸たったとしか言いようがありません。

「大きなモノガタリ」の喪失前に、20代という「社会や人生に向き合う基本態度=人格のOSを擁立する重要な時期」を過ごしたのちに、社会からそれを反故にされた世代なのだということを考えれば、彼らが社会や会社に対して「約束が違う」という恨みを抱えていてたとしてもおかしくはありません。

「教養世代」(教養に価値を置く世代 50~70年代)と「実学世代」(実学の習得に価値を置く世代 90年代~)のはざまに「知的真空世代」があった。

「大きなモノガタリ」が喪失されたあと、社会で支配的になった「新しいモノガタリ」が「グローバル資本主義」でした。ごく一部の強者だけが勝ち残り、残りすべては敗者となって社会の底辺に沈んでいく、という過酷な「モノガタリ」です。

一般に教養エリート文化は、社会システムを維持・継続するための尖兵として生み出されるか、その対抗軸となるレジスタンスとして生み出されるかどちらかです。

1950年代から70年代までの「教養世代」は、「大きなモノガタリへの反抗」という側面が強かった。

ところが、この「大きなモノガタリ」は、70年代の後半にいたってどんどん肥大化し、そのモノガタリに適応した人たちに対して経済的な便益、それも「ウソだろ!」と言いたくなるようなレベルの便益をあたえてくれるようになります。

こうなってくると、「大きなモノガタリ」に対して批判的な構えをとっていた教養主義は、人をつなぎ止められなくなっていきます。

それはそうでしょう。やせ我慢をしてストイックに知的修養と思索を続けたところで、「大きなモノガタリ」に身も蓋もなくうまく乗っかってしまった人のほうがずっと大きな「お金」を享受できるのですから。この時期に教養主義が廃れていったことは当然といえば当然のことでした。

哲学や思想というのは、平たくいえば、「システムを批判的に思考する技術」です。システムがこれほどまでに強力にそこに依拠する人の便益と幸福を保証するものになってしまった以上、教養主義も哲学も思想ももはや死ぬしかない。

教養主義が現実的な効力を発揮する武器としての力を失ったからこそ、床の間に飾られる人畜無害な飾り刀のような玩弄物としてもて囃されたということでしょう。

「教養主義」に続く「知的真空世代」というのは、功利と便益を保証してくれるシステムに対して、無批判に自己を同化させることで、システムがもたらす便益を最大限に搾り取ろうとした人たちだと言えます。

結果的に、こういった行動がバブル景気を膨らませ、またそこに依拠した人々の知的戦闘力を大きく劣化させることになったわけですが、これは安易に批判できることではありません。

周りの人々が、一人また一人とシステムへ同化・適応することでどんどん裕福になっていく、幸福になっていくのを見れば、どんな人であってもこころ穏やかに「知的修養はどうした、金儲けよりも大事なことがあるだろう」などとは言っていられなかったはずです。

ここにきてシステムは「批判的考察の対象」からはずれ、我先にと一体化を目指すもの、自分もその一部となって便益を享受させてくれるものに変容したわけです。

これを整理すれば、「教養世代」から「知的真空世代」への移行は、「大きなモノガタリへの反抗」から「大きなモノガタリへの適応」への移行として整理できることになります。

の後、バブル景気の崩壊と今日まで連綿と続く日本企業の経営の迷走状態が始まり、「大きなモノガタリ」は唐突に終幕となり、「グローバル資本主義」という「新しいモノガタリ」が始まります。

~~~ここまで引用

こわい。
こわすぎますね。
今の50代・60代が送ってきた20代・30代のときのバブル。

「システムに適応すること」が価値(平たく言えばお金)を生み出した時代。
そして「教養」が死んだ。

著者の山口さんは、この本の前に、
「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」(光文社新書)を書いているのだけど、

美意識を鍛えるために「教養」が必要だよね。

経営には「アート」と「サイエンス」が
両方ないとダメだよね。

もっと言えば、
そこに「クラフト」も足して3つをしっかりかみ合わないとね。
って言っている本なのだけど。

それ以前に、
なぜ「教養」が死んだのか?

みたいな問いに答えてくれる1冊でした。
まあ、教養は「実学世代」になっても死んだままなのですけどね。

この本読むと、いまの50代が生きた20代、つまりバブル時代って、
「教養」という観点からすれば、幸福だったというよりはむしろ不幸だったのではないかなと。

就活・転職で、親とどうも意見がかみ合わないなと
思ったら、読んでみたい1冊です。

たぶんまだまだ続きます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:22Comments(0)

2019年06月11日

「シェア」という問い



「シェアライフ」(石山アンジュ クロスメディアパブリッシング)
日曜日に講演聞いて、購入。
読みました。

いやあ、これ、地方の田舎こそ、
シェアの可能性にあふれているなあと思った。

そして石山さん自身がめちゃめちゃ哲学者っていうか
現代美術家っていうか。
問いを投げかけてくるなあと。

拡張家族のCiftは、家族とは何か?
を問いかけてくるし、

「家族」のかたちに正解はありません。答えがないからこそ、大切なのは、どこまで自分を閉じずに開き続けられるか、どこまで他者を自分のことのように受け入れられるか、ということ。それぞれが自分と向き合い、自己を拡張していく先に重なりが生まれたとき、新しい家族のあり方があるのではないでしょうか。

そうそう。
家族ってなんだっけ?
みたいな根源的問い。

まあ、そんな問いがたくさんあるのだけど、
ひとまず、読書メモ

~~~ここからメモ

東洋思想では、「個人」という概念は存在せず、「自分は全体の中の一部であり、一部である自分が全体を構成する」と考える。

シェアすることで生まれる最も大きな価値は「つながり」です。そうそう。つながりを取り戻す、創造する方法としての「シェア」。

「居場所」っていう概念が変わるような気がする。つながる手段が「所属場所」だけで無くなれば、プレイスとしてのリアルな場所よりも、インスタントな「場」が「居場所」的機能を果たすようになる。でも、だからこそリアルな場を欲するような気もする。

一番大きかったのは、収入や肩書き、人間関係、やりがいなどの依存先を複数にばらしたことで、「もし何か起きても、そこにしがみつかなくてもいい」という安心感と自由を得られたことです。

たぶん「強い人」「能力のある人」がそういう暮らししてるんでしょ?って見られると思う。でも、僕が感じたのは、「依存先を増やす」っていうリアル。ときに強く、ときに弱くいられる場所。おそらく、強くて弱い人がそういう働き方暮らし方にシフトしているのだろうな、と。

「世界中、どこに行っても居場所だと思える場所」がある状態が、自由と安心を感じることができる生き方につながっていることです。

シェアライフで、多拠点居住して、半年ごとに転校とかする人が学校の中に4,5人いるみたいな状況は、プロジェクト学習にとってはむしろプラスだろうな。

ホテルに泊まるよりはエアビーに泊まるほうが、コミュニケーション力が低くても、現地のいろいろな情報を得ることができる。それってコミュニケーション・デザインですよね。

「互いに教え合い、学び合う」新たな学びの形。シェアが提示するのは、「誰もが先生であり、誰もが生徒である」新しい学びの形です。

ストリートアカデミー
https://www.street-academy.com/

「すべての人が先生であり、すべてのものが教材であり、すべての人が生徒である。」いいなあ、これ。人は同時に先生になり、教材となり、生徒になる。

~~~ここまでメモ

自由とは?
家族とは?
働くとは?
学ぶとは?
暮らすとは?

そんな問いがたくさん詰まっている本でした。

そしていちばん「シェア」という問い。

昨日も書いたけど、参加・参画型社会への
いちばんの方法が「シェア」なのだろうと感じられる本。
そしてそれは世の中の要請でもある。

そんな地域を、学びを、場を、つくっていきます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:00Comments(0)

2019年05月03日

アイデンティティを保つ方法


「何者」(朝井リョウ 新潮文庫)

いまさら読みました。

リアル。
就活のリアルというより、
大学生のリアルだなあと思った。

「桐島、部活やめるってよ」
の時も、

ああ、高校生はこんなにも精神的につらい高校生活を
過ごしているのか?って思ったし、
実際に大学生に聞くとあれは本当にリアルな高校生活と
いわゆる「スクール・カースト」を表現しているのだという。

今回の「何者」のテーマは「就活」
「就活の違和感」そのものが迫ってくる作品。

アイデンティティはどこにあるのか?
自分は何者なのか?

そんな問いがどんどんと自分に突き刺さる。

「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。

そうそう。
ホントそうだ。

多数派であることを「個性がない」と思い、
多数派を上からバカにすることで、
なんとかして自分を保とうとする。

そんな苦しさ。

じゃあ、お前はなんなんだよ?
と問いかけられても、答えられない。

そんな苦しさ。

「アイデンティティ・クライシス」を生きる
大学生たちの苦しさが見事に表現された作品だなあと。

自分は何者なのか?

僕はその問いそのものが違う気がする。
いや、深い意味では違わないのだけど。
それは答えの出ない問いだと思う。

いま、この瞬間、この場で、このチームで、
自分は何ができるか?
他者との関係性の中での「瞬間的な自分」を
演じ続けること。

どこで演じたいのか?
誰と演じたいのか?
という自らの「力」を感じること。

それを積み重ねて、自分は自分に近づいていく。
近づいていくだけで、たどり着けはしないのだけど。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)

2019年05月01日

「歴史」と「哲学」を身体化すること


令和元年の始まり。
雪国の春は美しいなと。

ということで、古本屋で見つけました
この本を読んでいました。


「なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?~数千年に一度の経済と歴史の話」
(松村嘉浩 ダイヤモンド社)
※画像は増補新版ですが、僕が読んだのは旧版です。

スピノザ「エチカ」(NHK100分de名著)読んで、
そのあとにこれ読むと。

キーワード的には、
マンガ「鋼の錬金術師」に出てくる「賢者の石」。

~~~以下引用

マンガの「鋼の錬金術師」の世界観において、
錬金術は無から有を生むことはできず、
あくまでもともとあった物質の構成を変えるだけ、
つまり「等価交換」しかできないという制約があります。

しかしながら、等価交換の原則を無視して、
なんでも錬成できちゃう幻の錬金術の増幅器が「賢者の石」です。

~~~以上引用

第4章:人類はもう「賢者の石」を使い果たした。
は、このように展開されていきます。

・資本主義の歴史は「賢者の石」の奪い合いである。
・近代世界システム論の「中核」と「周辺」
・大航海時代と「国民国家」

とかとか。

これ、佐々木俊尚さんの
「レイヤー化する世界」(NHK新書)
http://hero.niiblo.jp/e483303.html

にも言及されていて、
「ウチとソトに分ける」っていうことが
国民国家の神髄なのだと。
これ、「中核」と「周辺」ですよね。

このあと本書では第5章で、「不安」の正体は、
既得権益者がそれを守ろうとする
ことから始まる、と説明されています。

「不安の正体」を知るって大切だなあと思った。
まあ、それは仮説に過ぎないのだけど。

僕たちは、ただただ、不安に震えている。
未来におびえている。

それは、歴史を知らないから。
目の前に見えていいるものにしか
目をやっていないから、
その背後に何があるのかわからなくて不安になる。

それって、
株式会社えぽっくの「チームひきだし」インターンに似ている。

https://a-port.asahi.com/updates/tabisuru_sassi/detail/4083/

昨年11月に茨城大学「iopラボ」で行われた報告会。

参加学生が語った。(本文より抜粋)

「社長は社長室から指示だけ出すイメージでした。あんなにフレンドリーなことに驚いた。」
「○○業界は怖いし、ブラックなイメージがあったけど、みんな生き生きと働いていた。」
「みんな黙々と仕事していると思ったけど、チームで話しながらみんなで企画をつくっていた。」

みんな、見たことないものに
勝手におびえ、勝手に不安になっているだけだった。
実際に見てみたら、思ったよりも「はたらく」ことはつらいことではなさそうだった。

たぶん。
そういうこと。

不安に震え、未来におびえているのは、はっきりいってつらい。

問いを立て、行動をし、振り返り、
その上で、「歴史」と「哲学」を身体化すること。

スピノザによれば、
真実は自分の中にしか存在しないのだから、
その仮説を立て、検証を繰り返していく、
それしか不安の解消方法はないのだろうと思う。

だからこそ、行動することと同じくらい、
本を読むことは大切なのではないかと僕は思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:49Comments(0)

2019年04月18日

ありえたかもしれない、もうひとつの近代


「NHK100分de名著 スピノザ『エチカ』」

2回目の読了。
読めば読むほどすごい。

そして、冒頭の見出し、
「ありえたかもしれない、もうひとうの近代」
というキャッチコピーが2回目にして、しっくりとくる。

西洋的近代とは、
二元論であり、わかりやすさであり、目標逆算型システムであり、、、

っていうのが
スタンダードで、それが時代にあっていないんじゃないか?
っていう話はたくさん出ているのだけど、
そもそもそのシステムっていうのはどこから始まったんだっけ?

っていうので、
当然、産業革命以来の社会システムの変化を挙げるのだけど。
そのシステムを作り上げた要因として、「デカルト的哲学」があったのだなあと。
その哲学が社会状況と見事に符合して、現在の社会の価値観、哲学、倫理ができていったのだなあと。

~~~ここから本文より引用

私たちがいま国家だと思っている、領域があって主権がある国家という形態は、17世紀半ばになって出てきたものです。

いわゆる近代科学もこの時期に出てくる。たとえばニュートンは17世紀後半に活躍した人です。その科学の支えであった近代哲学も同じ時期に現れました。17世紀は本当に現代というものを決定づけた重要な時代なのです。

私はその意味でこの世紀を、思想的なインフラを整備した時代と呼んでいます。たとえばデカルトは近代哲学の、ホッブスは近代政治思想のインフラを作った人です。そのインフラの上に、続く18世紀の思想が荘厳なアーキテクチャー、つまり建築物を築いていきます。たとえばカントの哲学やルソーの政治思想をそれにあたるものと考えることができるでしょう。

そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、ある一つの思想的方向性が選択された時代だったと考えることができます。歴史に「もしも」はありえませんが、別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできます。私の考えでは、スピノザはこの可能性を示す哲学なのです。それは「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」に他なりません。

~~~ここまで本文より引用

このあと、「真理」についてのデカルトとスピノザの比較があります。

「デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところです。真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。私は考えている、考えているならば、その考えている私は存在している。と言われれば反論できない。」

「スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるということです。」

これさ、哲学は何のために、誰のためにあるのか?
っていう問いになっているな、と。

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際はそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけです。

「哲学」って生きるとは何か?という究極の問いに対する仮説にすぎないだと僕は思うのだけど、デカルトは、他者を説得するとか納得させるとか、何かのための哲学になっちゃってるんじゃないかと。これこそが、まさに近代社会との分岐点でしょ。近代工業社会にはデカルトのほうがめちゃめちゃマッチするのだけどね。

そして、この後、この本は(僕の中の)クライマックスへ向かう。

~~~ここから引用

私たちの考え方は強く近代科学に規定されています。私たちの思考のOSは近代科学的です。ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれません。

これこそが私が「はじめに」で述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない」ということの意味に他なりません。

近代科学はデカルト的な方向で発展しました。その発展は貴重です。私たちは日々、その恩恵に与って生きています。そしてまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもとても大切です。それを否定するのは馬鹿げています。しかし、そのことを踏まえた上で、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいのです。

近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています。

フーコーの「主体の解釈学」。かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていた。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。

この考え方が変わったのは17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。

フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。

~~~ここまで引用

スピノザ、すげーなって。
僕が大学時代からいろいろ感じて、学んだことが
ダイジェストで説明されてくる感じ。

「場のチカラ」とか「チューニング」とか「リアルメディア」とか
めちゃめちゃスピノザ的だなあと思った。
そして、火曜日に小田原で後藤タツヤと話して、
熱海でとっくんと話して、さらにそれが確信を増した。

「機会提供」そのものの価値。
それを本屋の棚を通じて表現すること。

教育の最大の矛盾は、目的・目標をもって始めなければいけないこと。
そして評価を前提をしなければいけないこと。
でも、エンターテイメントの本質は予測不可能性にある、ということ

それはまさに近代(工業)社会と僕を含めた若者が感じている違和感の
ギャップそのものであるのだけど。

でもさ。
スピノザ的に言えば、本質は自分らしくありたいとする力(コナトゥス)であって、
人によって、真理は異なるだろうし、その真理の獲得のためには自らの変容が必要なわけですよ。

ってことはさ。
「機会提供」こそが、人を育てるんじゃないの?って。

その人がその「機会」によって、どうなるかっていうのは、
あまり重要じゃないというか、
むしろ、その機会提供によって、自らがどうなるか?
っていう問いのほうが大切なんじゃないのか?

「挑戦するな、実験しよう」

にいがたイナカレッジの連載で掲げたコピーの意味が、スピノザを読んだ今ならわかる。

去年の夏にこはるんが言ってた
「イナカレッジは自分を知るプログラムです」の意味が、今ならわかる。

そして僕が本屋をたくさん作ろうとしていることの意味も。

機会を提供したい。本棚で表現したいのは、なぜなのか?

実験するために。
実験し、自分なりの「真理」にたどりつくために。
そのたどり着く過程で、自らを変容させるために。

いや、ために、じゃないんだよ。

生きることそのものが、そのプロセスの中にただ、ある。
根源的欲求として、ただ存在するのだ。

本棚に刺さっている1冊の本。
1冊の本から実験の旅が始まる。

そんな本棚をつくりたいと心から思う。

あなたもそんな本棚をつくるひとりになりませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:45Comments(0)日記

2019年04月14日

実験しないと分からない



午前の松本での本屋宇宙旅行オープン記念イベントの後、
東京・湯島のかえるライブラリー・ラボで、本の処方箋やってました。
「二拠点居住」「地方で仕事をつくる」とかのテーマで話して、
大学2年生の中野さんに処方されたのは、


「都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡」(高橋博之 光文社新書)

でした。
こうやって、「本の処方箋」やって貸し出すライブラリーになったらいいのかも。
ということで、今日の1冊。


100分de名著 スピノザ「エチカ」(解説 國分功一郎)

テレビは見ていないのだけど、
古本屋で見つけてしまい、購入。

いきなり面白い。
國分さんの説明、わかりやすいなあ。
「エチカ」は考え方のOSが違う、と國分さんは説明します。

エチカの語源はギリシア語のエートスなのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。

と始まります。
倫理とは、ひとりひとりの環境によって変わってくる。

「自然界に「完全/不完全」の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しない。」とスピノザは言います。完全/不完全の考えは、我々が形成する一般的観念(偏見)との比較によってもたらせれる。善悪は、組合せによってもたらされる。「憂鬱な人」にとっての音楽はいい影響を与えるが、「悲傷の人」にとっては邪魔でしかないかもしれない。

その上で「自分にとって」善いものを判断しなければならないのだと。

~~~ここから引用

私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。そのことを指してスピノザは、「より小さな完全性から、より大なる完全性へ移る」とも述べます。

いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違い。道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制します。そこでは個々人の差は問題になりません。

それに対してスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。この人はこの勉強法でうまく知識が得られるけれども、あの人はそうでないかもしれない。そのように個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます。

個別具体的に組み合わせを考えるということは、何と何がうまく組み合うかはあらかじめ分からないということでもあります。たとえばあるトレーニングの方法が自分に合っているのかどうか。それはやってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合わされるかを試してみるということです。

もともとは道徳もそのような実験に基づいていたはずです。それが忘れられて結果だけが残っているのです。ですから、道徳だから拒否すべきということにはなりません。ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されることがあるならば注意が必要になるわけです。

~~~ここまで引用

これがスピノザの善悪についての考え方。

いやあ、今こそ哲学っていう感じですね。
僕たちは今、哲学なくしては生きられない時代を歩き始めているのではないかなあと。

善悪は組み合わせなのだから、実験してみるしかない。
ほかの人にとっては良くても、自分にとっては悪いことがありうると。
「考え続けること」が必須なのだなあと。
そして、この本は2日目の「本質」に移っていきます。

ここで重要なのは、「コナトゥス」という考え方です。

~~~ここから引用

「おのおのが物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。」

ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、「自分の存在を維持しようとする力」のことです。

大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質」であるとスピノザが考えていることです。

古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。ギリシア語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。これは「見る」という動詞から来ている単語で、「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では「形相」と訳されます。英語では「form」です。

このエイドス的なものの見方は、道徳的判断とも結びついてきます。人間について考えてみましょう。男性と女性というのも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができます。

そうすると、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになる。その時、その人がどんな個人史を持ち、どんな環境で誰とどんな関係を持って生きてきて、どんな性質の力を持っているのかということは無視されてしまいます。その代わりに出てくるのは、「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしく、ということになりかねないわけです。

それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。

たとえば、この人は体はあまりつよくはないけれども、繊細なものの見方はするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。

そして、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついてきます。活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです。

どのような性質を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。

ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。

~~~ここまで引用

うわー。
「場のチカラ」ってこういう考え方もできるなあと。

僕の「にいがたイナカレッジ」での肩書は、
「チューニング・ファシリテーター」なのだけど、
ミーティング中にしている「チューニング」っていうのは、
スピノザ的に言えば、

「それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。たとえば、この人は体はあまりつよくはないけれども、繊細なものの見方はするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。そして、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついてきます。活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです。」

これのことですよね!

そして、「本の処方箋」っていうのも、まさにその人の「コナトゥス」を見つけ出す旅なのかもしれない。

その見つけ出す旅の中で、「場のチカラ」が高まって、本の妖精が本を届けてくれる。
そんな活動なのかもしれないなと。

何より、前半部分であった、善悪は実験しないとわからない。
っていうのがまさにその通りだなあと。

自分に向いている仕事とか
いろいろ自己分析したら出てくるんだろうけど、

実際はやってみなければわからないし、
その職場で誰と組み合わさるか?(いい上司、悪い上司とかではなく)
っていうのがとても大切なのだと。

「本屋宇宙旅行オープン記念イベント」で菊地さんが言っていた、

・どのまちで、店を開けたいのか?
・暮らしたいまちってどんなまち?
・暮らしたいから加わりたい

松本というまち:
個人店のマスター(店主)が他のお店を紹介してくれるまち
→「目の前のお客さんを喜ばせたい」と思っているから
昔から街道の交差点
→人とモノ、情報、文化が行き交う

そして、住みたいまちに何を加えたらいいのか?
⇒それは独立系の本屋

みたいなこと、って
「コナトゥス」を大切にしてきて、
「組み合わせ」を実験し続けた結果、
「栞日」にたどり着いて、今なお進化し続けて行っている。

だから、「栞日」に行くと、
自らの本質である「コナトゥス」が
強まっていくのかもしれない。

僕が2017年から研究してきた
「場のチカラ」とか「チューニング・ファシリテーション」
が理論的に補強されたような気がして楽しいイベント&読書でした。

自分の本質である「コナトゥス」はなんだろう?  

Posted by ニシダタクジ at 05:31Comments(0)

2019年04月11日

船の行き先を知っているということ


なぜ関西のローカル大学「近大」が、志願者数日本一になったのか(山下柚実 光文社)

読んだ後にジーン熱くなるタイプの
ビジネス書が好きです。

この本。

めちゃめちゃ問いに詰まってるよ、って。
熱いっす。
って何度も思った。

「価値とは何か?」
と問いたいすべての人に贈りたい1冊です。
僕がこの本を手に取ったのは、
「近大マグロ」誕生までのプロジェクトXのVTRを見たからです。

近大の教育方針。(公式webより)

本学は、未来志向の「実学教育と人格の陶冶」を建学の精神とし、「人に愛される人、信頼される人、尊敬される人の育成」を教育理念として掲げてきました。この「建学の精神」と「教育理念」は、知識基盤社会へ転換しようとする21世紀の日本において、いっそう必要とされる理念であると自負します。本学が、総合大学として各学部の特色を生かしながら、共に手を携えて目指そうとしているのは、「実学教育」と「人格の陶冶」の融合です。真の「実学」とは、必ずしも直接的な有用性を志向するだけではなく、その事柄の意味を学び取ることを含みます。現実に立脚しつつも、歴史的展望をもち、地に足をつけて、しなやかな批判精神やチャレンジ精神を発揮できる、創造性豊かな人格の陶冶を志向するものです。「自主独往の気概に満ち」、生涯にわたって自己の向上に励み、社会を支える高い志をもつことが「人に愛され、信頼され、尊敬される」ことにつながります。このような学生を社会に送り出すことが、これからの時代に、本学が目指す社会的使命であります。

「実学」ってそういうことだったんだ。
「松下村塾」で吉田松陰先生が伝えたかった
「実学」もまさにこのことだろうと思った。

その次に出てくるのは、
女子トイレの数やパウダールーム
オープンキャンパスでの在校生の対応など

「お客は誰か?」

近大らしさ、それは、受験生を「お客さま」と位置づけて、「相手の立場を優先する」こと。最高学府に「入れてあげる」という目線からではなく、「よくいらっしゃいました」と心から歓迎すること。

であると山下さんは言う。
何よりもそれを象徴するのが入学式の現場だと。

~~~ここから引用

「入学式は、新入生たちに全力で大学生活に取り組む決意をしてもらう、最大のチャンスなんです。その大切な瞬間を、私たちの思いを真心込めて伝えていく大切な時間にしたいんです。」

「不本意新入生」と大学がどう向き合うのかは、入学してくる学生に意欲や勇気を持ってもらう教育問題であると同時に、大学の経営問題でもあるのだ。

入学式という一瞬の時間によって、「不本意新入生」の意識をいかに転換し、近大に入学して良かったと思える大学生に変えていくことができるのか。

「よくぞ近大に入学してくれました」という感謝の思いを伝えることができれば、新入生は新たなるモチベーションを獲得し、大学はその結果として安定した授業料収入を確保できる。

「一人の天才より百人の中堅という分厚い中間層を育てていくことが、実学教育を掲げる私たちの重要な役割なのです。」

~~~ここまで引用

「不本意新入生」
偏差値という序列の中で、少なくない高校生が、
「不本意入学」を強いられる。
つまり、第一志望ではない大学への進学だ。

そんな新入生をどう迎えるか。
その1点から近大は入学式をド派手に行っている。

そしてラストに出てくる「三つの目標」。
これ、書いちゃうとネタバレになってしまうのだけど。

2012年12月、近大を離れることになった世耕弘成は、
全職員を一堂に集め、近大が未来に輝く近代であるための
「三つの目標」を掲げた。

1 10年以内に「関関同立」に追いつき、追い越す
2 偏差値や大学のランクで測れない、次元の違う独自性を持った大学になる
3 世の中の役に立つ大学になる

これが、職員一同に浸透しているのだという。

すごい。
とただ、思った。

みんなが乗る船の行き先を知っている、ということ。
それって、伝わってるよって思った。

6年連続志願者数日本一(併願率とかはおいといて)のヒミツ。

それを単に
「広報うまくやってるからなあ、近大は」
と思っていた自分が恥ずかしくなった。

そんなことじゃない。
18歳はそんなことに騙されない。

近大が送り出すオープンキャンパスなどのひとつひとつのコンテンツや
広報一つ一つに、お客は誰か?という問いと仮説を感じるのだろうと思う。

そして何より、
職員ひとりひとり、学生ひとりひとりが、
「近大」という船の行き先を知り、そこへ到達するために
自らはどんな貢献ができるのか?を考え、
その一手を打っているのだろうと思った。

参りました、近大。
さわやかな風をありがとう。

さて、あなたが乗っている船の行き先はどこですか?  

Posted by ニシダタクジ at 18:44Comments(0)

2019年04月10日

「運命の人」という勘違い



「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)

内田さんの著作の中でも大好きな本のひとつ。

「学ぶ」とは何か?
そんな問いをくれる本です。

「働くこと」やそもそも「学ぶこと」
が楽しくなく、つらいことであることの理由のひとつに、
「師匠」と呼べる人(先輩)がいないことがあげられると思います。

退職した理由で
「先輩を見ていて、自分の5年後、10年後だと思って不安になった」
というのを何度か聞いたことがあります。
目指すべき「ロールモデル」が社内にいない。
それはつらいことなのだろうと思います。

しかし、本書によれば、
「師匠」とは、そのような目指すべき立派な人でなくてもよい、
ということになります。

そもそも師匠とは?
学びとは?
そんな根源的な問いをもらうのに最適な1冊です。

この本の冒頭では、「学び」と「恋愛」をうまく結び付けていて、
中学生でもわかるようになっています。

~~~以下、本書より引用

師との出会いに偶然ということはありません

先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人のことです。これが「先生」の定義です。

あなたが「えらい」と思った人、それがあなたの先生である。

先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。

「尊敬できる先生」というのは「恋人」に似ています。恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、私にはこの人が素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。

自分の愛する人が世界最高に見えてしまうという「誤解」の自由と、審美的基準の多様性によって、わが人類はとりあえず今日まで命脈を保ってきたわけです。生物種というのは、多様性を失うと滅亡してしまうんですからね。

師弟関係というのは、基本的に美しい誤解に基づくものです。その点で、恋愛と同じなんです。

あなたが「あ、この人には、そういうところがあるんだ」と思い、「そういうところ」に気がついているのは私ひとりだという確信があるから、どきどきしちゃうわけですね。

「誰も気づいていないことに、私だけが気づいていた」という経験て、たぶん人間にとって、「私が私であること」のたしかな存在証明を獲得したような気になるからでしょうね。恋も科学の実験もそういう意味では、とても人間的な営みなんです。

先生も同じです。誰も知らないこの先生の素晴らしいところを、私だけは知っている、という「誤解」からしか師弟関係は始まりません。

プロの人なら言うことは決まっている。「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。

ことばはむずかしいですけれど、これはじつは恋愛とまったく同じなんです。「恋愛に終わりはない」そして、「失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。

「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。

それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。

「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

~~~ここまで本書より引用

本当はもっともっとメモしたのですけど、
きりがないので今日はこの部分から。

一番強調したいのは、ラストのところです。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。

「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。

それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。

「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

この4つのフレーズから、
「学ぶ」とは?から始まって、「生きる」とは?まで進んでいる。

弟子になること。
それは「生きる意味」を見つけるということ。
大げさに言えば、そういうことなのかもしれない。

しかもそれは恋愛に似ている。
つまり、思い込みなんだと。
この出発点。
これが大切なことなのかなあと思います。

僕たちが学ぶのは、有用な知識や技術を習得するためではなく、
自らがかけがえのない存在であるという事実を確認するため。

そうなんですよ。

学ぶということの目的は、「グローバル人材」になって、
「エンプロイアビリティ」(雇用され得る能力)を高め、
「コモディティ化」(交換可能になること)するためではないんですよ。

そのためには、師匠に出会うこと。
師匠の教えを誤読すること。
そして、行動すること。
その繰り返しでしかない。

僕は山口・萩で吉田松陰先生に
「学びあいの場づくりこそが希望を生む」
と学び
茨城・五浦で岡倉天心先生に、
「世界はひとつなんだ。まあお茶でも飲もうじゃないか」
と学び
岩手・花巻で宮沢賢治先生に
「永久の未完成、これ完成である」
と学んだ。

彼らを師匠だと思うのは思い込みや勘違いに過ぎない。
(だって、お前が弟子だ、って言われてないから)
それは、「運命の人」に出会って結婚するのと同じだ。

師匠の教えを誤読し、自分なりのプロジェクトを作っていくこと。
そして師匠が出す問いに仮説検証を繰り返していくこと。
それが、自分が自分であるために、行っているのだなあとあらためて思いました。

さて、あなたの師匠は誰ですか?  

Posted by ニシダタクジ at 12:46Comments(0)

2019年04月08日

「共同探究者」になるということ


「学校をつくり直す」(苫野一徳 河出新書)
読みました。

長野県伊那市で「まあるい学校」やってた濱ちゃんに
紹介されて読んだのが苫野さんの「教育の力」でした。
あれから5年。

「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子・苫野一徳 日本評論社)
にも記載がありましたが、

「教育の個別化、協同化、プロジェクト化」
に僕もめちゃめちゃ賛同しています。

特にプロジェクト化について、
大学生のインターンシッププログラムを
考えていたというのもあって、

その機会をどうやってつくるか、
っていうのを僕もひたすら考え続けています。

そしてそもそも、本屋っていうのは、
そのような「プロジェクト」への入り口、機会を提供している場
なのではないかと。

人との出会いや本との出会いによって
「知りたい」「学びたい」という「探究」の心が駆動していくのではないかと
あらためて思った1冊でした。

ということで、本文より引用

~~~ここから引用

「自由の相互承認」を原理(根本ルール)とした社会を築くこと。これ以外に、人類が「自由」に平和に生きる道はない。これが哲学者の出した答えでした。そしてわたしの考えでは、この原理こそ、一万年におよぶ戦争の歴史を経て、人類がついに到達した英知の結晶にほかならないのです。

公教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きるための力を育むことを通して、「自由の相互承認」を原理としたこの市民社会の礎を築くためにあるのです。

苫野さんからの3つの問い
1 現代において「自由」に生きるための“力”とは何か?
2 その“力”はどうすれば育めるのか?
3 「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?

「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」そして、カリキュラムの中核を「プロジェクト」あるいは「探究」へと転換すること。

それはつまり、出来合いの問いと答えばかり学ぶ学びではなく、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」、そんな「探求型の学び」です。

学校はこれまで、多くの場合、子どもたちに「問いを立てる」という経験さえ十分に保障できてきませんでした。学ぶべきことはあらかじめ決められ、そしてそれを、決められた順序に従って勉強するように強いてきたのです。

わたし自身、「探究」という言葉を、「学び」それ自体として、つまり、そもそも学びとは「探究」にほかならない、という意味を込めて使っています。「プロジェクト」という言葉は、この「探究」を駆動するための方法概念です。

要するに、子どもたちの「探究」を駆動するために学校での学びを「プロジェクト化」していく必要がある。

「プロジェクトの類型」
1 課題解決型プロジェクト
2 知的発見型プロジェクト
3 創造型プロジェクト

子どもたちが「探究」によって学ぶとき、教師は「探究」をサポート、ガイドする「共同探究者」「探究支援者」になる必要があります。「共同探究者」「探究支援者」としての教師は、どれだけAIが進化したとしても、あるいはAI時代においてはなおのこと、これからますます必要とされていくはずです。

わたしたちには、今、自分はどう生きれば幸せなのか、自由になれるのか、そしてそれはどうすれば可能なのかという、自らの人生の問いそれ自体を立て、またその答えを見つけていく力が必要なのです。

「探究」の四つのステップ
1「テーマ」:探究テーマの発見・選択、およびそのテーマに浸りきる
2「問い」:探究テーマに関する「問い」を立てる
3「方法」:「問い」を解くための方法を考え出し、実行する
4「発表」:探求の成果を持ち寄り、交換し、学び合う

子どもたちの学びをもっと「遊び」にしていこうということでもあります。より正確に言うと、「遊び」と「学び」を、もっと連続的なものにしていこう、と。

幼少期の遊び浸りがその後の学び浸りの土台になる、というのは幼児教育の基本です。子どもたちは遊びの中で、自分の関心をとことん追求すること、粘り強く探究すること、また人と協働したり折り合いをつけたりすることなどを学んでいくのです。

学びは本来、とんでもなくワクワクするものなのです。新しいことを知ること、そのことで自分が成長していくのを実感することが、ワクワクしないはずがありません。

でも、小学校に入った途端に、遊びと学びは分断されてしまいます。先生は言います「はい、遊びの時間は終わり。今は勉強する時間です!」遊びとお勉強はまったく別のものにされてしまうのです。遊びは楽しいものでお勉強は嫌なものになるのです。

「探究」とは、本来最高の「遊び」である。そう、わたしは改めて言いたいと思います。子どもたちの「遊び」を見れば、それは一目瞭然です。あの「遊び」が、高度の「探求」でなくて一体何でしょう。

~~~ここまで引用

大人の役割は、
「共同探究者」「探究支援者」となること。

いや、大人に対する子どもの役割ではなくて、
人と人との関係性は、そこから始まるのかもしれない。

かつて僕の師匠の塩見直紀さんが
「一人一研究所の時代」と言っていた。

それぞれが、
それぞれのテーマで「探究」している。

本書にあるのような、
「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」、そんな「探求型の学び」を共に進めていく関係性があること。

それって人生において必要なのではないかなと思った。

そして、僕が茨城でやりたかったけど、まったくできなかったこと。

「地方は、過疎化や少子高齢化をはじめとする社会問題のいわば「宝庫」であるから、であり、むしろ地域の人たちと共に解決していく「探究」の学びをデザインすることができる。学校や世代を超えたプロジェクトチームを発足することもできるでしょう。」

そうそう、こういうの。
これをやっていくこと。

本屋っていうのは、本のある空間っていうのは、
本と出会い、そして人と出会うことによって、
その入り口を作っているのではないかな。

学びと遊びが連続的に起こっていくこと。
それこそが「探究」の楽しさであると思う。

「挑戦」の連鎖じゃなくて、
「学び」と「遊び」と「さらなる学び」の連鎖をつくっていきたいな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 11:56Comments(0)

2019年04月06日

「師匠」に出会い、「弟子」になること


山口・萩・吉田松陰生誕地から萩の街を望む。

僕の師匠は、29歳のときから、吉田松陰先生で、それは、


「小説・吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)を読んだ時の
「野山獄」エピソードの衝撃からだった。

みなを師匠とし、書道教室や俳句教室を始め、
獄中を学び舎に変えてしまった。
雰囲気は一変。希望にあふれた。

「どんな場、境遇でも、学び合うことで希望が生まれる」
これが僕の原点となった。


「街場の共同体論」(内田樹 潮出版社)の最終章、
「弟子という生き方」にシビれた。

現代に足りないのは、
「師匠」と「弟子」なのではないか、と思った。
会社に足りないのは、
「ロールモデル」ではなく「師匠」ではないかと。

~~~以下引用

弟子になったものは、自学自習のサイクルに入り込んでしまう。

師を持つ弟子のポジションときうのは、そうやって聞くと、無限に解釈し続けるばかりで、なんだかたいへんみたいですけれど、実は大きなメリットがあるんです。それは、自分を守る必要がない、ということです。

自分の今の手持ちのフレームワークや、今の自分が使える技などは、いつ捨てても平気なんです。先生がいるから。「お前のその知識や技術は使い物にならない」と誰かに言われても、全然気にならない。

だって、まさに自分の手持ちの知識や技術が使い物にならないからこそ、師について学んでいるわけで、「そんなこと、先刻ご承知だい」ということです。

「あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいのものを知らないか、技が使えないか、誰よりも自分が知ってますよ。だから師匠に就いて学んでいるんじゃないか」という話です。

だから、「知らない」「できない」ということによるストレスがない。自分がその道の開祖とか、学派の学祖とかであったら、「知らない」や「できない」は許されません。

でも、違う。いくらでも間違えることができる。いくらでも失敗することが許される。この広々とした「負けしろ」が、弟子というポジションの最大の贈り物です。今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。この開放性が、弟子であることの最大のメリットだと思います。

孔子が治世の理想としたのは、周公の徳治です。でも、すでに孔子の時代においてさえ、魯の国において、周公の治績は忘れ去られようとしていました。孔子はその絶えかけた伝統の継承者として名乗りを上げた。

そして、自分は古い知の伝統の継承者であり、私の教えには何も新しいものはないと高らかに宣言したのです。自分は何も創造せず、ただ祖述するのみである、と。

かつて白川静先生は、ここの「無主体的な主体の自覚」のうちに、孔子の「創造の秘密」があると道破しました。自分にはオリジナリティがない、私の説はどれも先賢の不正確なコピーに過ぎない。そう自己規定することによって、孔子は思考の自由と豊かな創造性を手に入れたのです。

孔子と周公のこの関係が、師弟関係の原型だと僕は思います。周公を師に選んだのは孔子自身です。孔子が進んで弟子のポジションを選んだ。そして、その「周公に師事する構え」それ自体を、顔回や子路をはじめとする孔門のすべての弟子たちが模倣することとなった。

弟子たちに思考の自由と創造性を賦与するために、孔子は弟子のポジションを取ったのです。そういうものなんです。

~~~以上引用

「自由」ってなんだろう?
「オリジナリティー」ってなんだろう?
って思った。

「自分は伝統の継承者であって、私の教えには何も新しいものはない。」
この圧倒的な強さ。
そして自由。

そして何より、
「弟子」なんて、勘違いや思い込みに過ぎないっていうこと。
あの孔子でさえ、勝手に弟子を名乗っていただけなんだと。

「師匠」とは、「問い」そのものである。

本文にも書いてあるけど、
師匠が答えを教えなければ、
弟子は「なぜ、師匠は答えを教えないのだろう?」と問い、
師匠が答えを教えれば、
弟子は「なぜ、師匠は答えを教えたのだろう?」と問うこと。

そういうスパイラルに入っていくことが
弟子になるということ。

だから、師匠には何度も会いに行かないといけない。
そのときどきの師匠を持ってもいい。


花巻・宮沢賢治の墓所にて。
僕の師匠元祖は、宮沢賢治先生だった。
「農民芸術概論綱要」を読み、心が打ち抜かれた。

花巻に行くたびに、問いをもらう。
「永久の未完成これ完成である」

それはいったいどういう意味なのか。
どう行動すればいいのか。
そこに対する、問いをもらえる。

「師匠」に出会うこと。
「弟子」として生きること。
それは不自由ではなく、圧倒的な自由だ。

僕は継承者にすぎない。
オリジナリティーなど何もない。
そう言える強さと自由こそが
オリジナルなものを生んでいくのではないか、と思った。

「師匠」に出会うこと。
「いや、僕の周りには、そんな素敵な人はいないよ。」
と言っている場合じゃない。
師匠なんて、勘違いと思い込みなのだから。

さて。
吉田松陰と宮沢賢治と岡倉天心の継承者として、
僕はどんな次の一手を打とうかな。  

Posted by ニシダタクジ at 04:32Comments(0)

2019年04月05日

「消費主体としての自分」とアイデンティティ・クライシス

昨日は、内野町で「おうちのごはん」のごはん会でした。



自己紹介で、ひとりの大学生が「シェアハウスしてます」って言ってて、
ああ、シェアハウスは住むものじゃなくて、するものなんだな、と。
(作りつつ住んでいるので「住む」と「つくる」両方やっているという意味なんだそう)

今日はそんなのにもつながる話を。

「就活の違和感」とか、「自分に自信がない」とか、「やりたいことがわからない」とかって、
結局「アイデンティティ・クライシス=(自分らしさ危機)」につながってくるなと思う。

自分とは何か?
自分らしさとは何か?
自分にはどんな価値があるのか?

その「自分」っていうのが違うんじゃないかっていうのが
ひとつのアプローチで。

もうひとつのアプローチ。
それは「アイデンティティ・クライシス」が
どのように生み出されてきたのか?ということ


「街場の共同体論」(内田樹 潮出版社)

この本に的確に指摘されているなあと。

~~~以下メモ
経済成長のための最適解を求めた結果、最も合理的な政策は「家族解体」でした。消費活動を活性化するためには家族の絆がしっかりしていて、家族たちが連帯し、支えあっていては困る。だから、国策として家族解体が推し進められたのです。

どうして、経済成長のためには家族解体が必要だったのか。問題は消費単位です。「誰が」、あるいは「何が」消費活動を行うのか。それを考えてください。近代社会では久しく消費単位は家族でした。家族のそれぞれが労働によって、いくばくかの収入を「家計」に入れる。その使途についても家族全体の合意が必要でした。

自分の消費行動について他人から批判的なコメントをされることは、現代人にとって最も耐え難い苦痛のひとつなのです。現代人は、自分の消費行動に関するコメントを、自分の人格についてのコメントとして受け取るように教え込まれているからです。

「あなたが何ものであるかは、あなたがどのような商品を購入したかによって決せられる」そのような消費者哲学に基づいて、現代人のアイデンティティは構築されています。

どういう家に住んで、どういう服を着て、どういう車に乗って、どういう家具に囲まれて、どういうワインを飲んで、どういうレストランで食事をして、どういうリゾートでバカンスを過ごすか。そういう消費行動によって、「あなたが何ものであるか」は決定される。

だから、商品購入ができない人間は「何もの」でもありえないのだ。長い時間かけて現代人はそう教え込まれてきました。

「自分らしく」生きるためには、消費行動におけるフリーハンドを手に入れるしかない。何を買うのか自己決定できる環境で暮らすこと。その消費活動が「身の程」と引き比べて適切であるかどうかということについて、誰にも口を差し挟ませないこと。それがすべての日本人にとって喫緊の課題となりました。

バブル期以前まで、自分が「何もの」であるかは、消費行動によってではなく、労働行動によって示すものと僕たちは教えられてきました。「何を買うか」ではなく、「何を作り出すか」によって、アイデンティティは形成されていた。

自分が作り出したものの有用性や、質の高さや、オリジナリティについて他者から承認を得ることで、僕らは自らのアイデンティティを基礎づけてきた。

でも、80年代からの消費文化は、そのルールを変えてしまいました。それがこの時期の最大の社会的変化だったと思います。「労働」ではなく「消費」が、人間の第一次的な社会活動になったのです。

「何を作るか」ではなく、「何を買うか」を基準に、人間の値踏みをするようになった。その場合、消費の原資となる金をどのようにして手に入れたかは、原則的に不問に付されます。

この新しい貨幣観は、僕たちの労働観にも本質的な変化をもたらさずにはいませんでした。日本人に刷り込まれた新しい労働観というのは次のようなものでした。最も少ない努力で、最も効率よく、最も大量の貨幣を獲得できるのが、「よい労働」である。

労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。

ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が最も賢い働き方だということになる(例えば、金融商品の売買)。一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生み出しても、高額の収入をもたらさない労働は社会的劣位に位置づけられました(例えば、農林水産業)。

そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根元から傷つけられていった。
~~~以上メモ

1980年代以降の「消費文化」は、
アイデンティティをずらすことに成功した。

「生産者」としてではなく「消費者」として。

そして得たマインドが、
「最も少ない努力で、最も効率よく、最も大量の貨幣を獲得できるのが、「よい労働」である。」だった。
いや、これリアルにそうだなあと。

僕が20代のころに見た雑誌の連載で、
「わずか半年で株取引で1億円つくった」みたいな
大学生の連載があって、

えっ。
それ、何がすごいんすか?

ってめちゃめちゃ衝撃を受けたことを覚えている。

この本を読んでわかった。
それが世間の(刷り込もうとしている)価値観だったのだ。

そして、何を買ったか?
どんなモノを所有しているか?

それがその人のアイデンティティ、つまり「その人らしさ」を決めるのだと。

おそらく今の大学生や20代からすれば、
まったくのファンタジーみたいな世界だろうと思うけど、
そこへ官民挙げて突き進んだ時代が確かにあったのだ。

かくして、経済は延命した。

一家に一台だったテレビは、ひとり一台となり、
新機能がたくさんつきました!と宣伝されるコンポを買い替え、
「一人前になるための」家や車を買うために、ローンを組んだ。

でも、もう、そこに夢はない。
いや、もともとなかったんじゃないか。

「消費主体としての自分」が
アイデンティティを決めるなんて、
「シェアハウスしてます」
という大学生には、まったく理解できない価値観なのだろうと思う。

でも、そういう時代があったのだ。
そしてその時、労働するモチベーションが書き換えられた。

しかし、いま。
消費主体として、アイデンティティを構築することはかなり難しい。

現在の大学生が抱える「アイデンティティ・クライシス」や
就活の違和感の原因のひとつがここにあるだろうと思う。

「消費主体としてのあなたが、あなたの価値を決めるのだ。」

そんなメッセージ。

東京でバリバリ働いて、高い家賃を払って、オシャレなカフェでランチをして、
それをインスタにアップするような暮らし。

それ、本当にやりたいですか?
っていうことなのだと思う。

「にいがたイナカレッジ」に惹かれる大学生たちの感性。
そこにヒントがあるように僕は思う。  

Posted by ニシダタクジ at 10:05Comments(0)

2019年04月04日

「学校」ってなんだっけ?


「すべての教育は洗脳である」(堀江貴文 光文社新書)を読み直し。

やっぱ、「学校」そのものをとらえなおす必要あるなあと。

「学校」ってなんだっけ?
みたいな問いから始めないといけないんじゃないかと。

~~~ここから引用

日本には、僕のような「我慢しない人」を軽蔑する文化がある。そして、「我慢強い人」を褒め称える文化がある。

どんなに不満があっても、どんなに理不尽な状況に置かれても、それを耐え忍ぶことを美徳とし、耐えしのいだ先にこそ「成功」が待っているかのような言説がまかり通っている。ほとんどマインドコントロールに近い不条理なこの呪いが、この国全体を覆っている。

その原因は何か?「学校」なのである。旧態依然とした学校教育の中で、日本人は洗脳されている。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性に蓋をすることを推奨する恐ろしい洗脳、白昼堂々なされているのが今の学校なのだ。

教育はよく「投資」に例えられる。(中略)「学び」はそれぞれにとっての投資であるべきだと思う。投資とは、投資した側へのリターンが発生すること、すなわち投入した資本がそれ以上に大きな価値を社会に生み出すことをいう。

だが、今の学校教育は「投資」になっていない。いざという時に引き出すための「貯金」にとどまっているのだ。投資型の学びに我慢は不要。貯金の本質は我慢である。そして99%の我慢は、ただの思考停止にすぎない。

でも僕は、「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の目に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳になれた人たちが信仰先を変えただけ。

僕は宗教にには何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。

残念ながら、普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国ぐるみで行われているからだ。国家は、全国に4万6000箇所もの「出先機関」を設け、この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。その出先機関とは、「学校」だ。

学校の大きな役割は二つあった。一つは子どもの保護。そしてもう一つは、彼らを「望ましい工場労働者」へと育てあげることだ。

政府にとって、工場労働者の確保は死活問題だった。工場の生産性は、国家の軍事力と直結している。しかし、ただ単に人手があればいいというわけでもない。工場の生産性を上げるために必要なのは、基礎的な学力、忍耐力やコミュニケーション能力といった、複数の能力を備えた「人的資材」だった。

つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。

世界のどの国でも、学校の誕生・発展はナショナリズムの台頭と連動している。

問題の本質は、国家が人間の規格=「常識」という鋳型を作り、そこに人間を無理やり押し込めようとすることにある。その教育システムそのものの誤りに気づいていないから、今でも学校は恣意的な常識の洗脳機関なのだ。

~~~ここまで引用

「学校」とは、そもそもなんだったのか?
「学校」制度の目的とは?
そんな「そもそも」から考えていかないといけないと思う。

もちろん、これは、堀江さんのいう、
学校の負の側面を強調した文章になっているのだから、
学校の正の側面ももちろんあるだろうと思う。
(友人を得るとか、基礎的な学力がつく、とか)

しかし、そもそも「学校」ってなんだ?
「常識」ってなんだ?

みたいな問いに対して、
何か仮説を立てようとするには、
とてもいいヒント、ネタになるのではないかと思う。

僕がこの引用した中で一番好きなのは、ここだ。

「僕は宗教にには何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

「学校」は、あるいは「就活」というシステムは、
もしくは、「会社で働く」ということは、
「常識」への適応を要求する。

もちろんそれは、
世の中を生きていくために、必要なことだろうと思う。

しかし、「常識」を「信仰」してはならない。

本書にあるように、「学校」というシステムは、200年前に存在していないし、
「工業社会」とセットで生み出された仕組みだった。
「就活」について言えば、もっと短い期間でしかない。

その「常識」に適応する、ということ。
それは「適応」であって、正解ではないこと。

それを「信仰」することなく、考え続けていくことが大切なのだと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:54Comments(0)

2019年04月01日

学校外の「居場所」ではなく、「おでん」を持つこと


「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)

今日も読書日記。
この本から「わかりやすさ」と東洋思想について。

~~~ここから引用

幸せという概念は、明治時代以降の産物です。

西洋的な幸福観は押し付けられたものなのに、
今の日本人はメディアの基準に照らし合わせて、
「とにかく幸せでないといけない」と信じ込むように
なってしまいました。

何かを求めているけれども、
それが足りないという状態は、実は依存症です。

別に、自然でいればいいのに、
メディアが定義した幸せを探す日々の中で、
日本人はいつのまにか「幸せ依存症」になってしまったのです。

「愛」も明治以降に日本に入ってきた概念です。
日本人には、きずなは昔からありましたが、愛はありませんでした。
愛ときずなの違いとは、愛が熱情的な感情を指す言葉であるのに対して、
きずなはステート(状態)であるということです。
きずなは状態ですので、それが永遠に続くこともあります。
しかし、愛はあくまでも感情ですから熱したり冷めたりで総量が変わっていきます。

たとえば、日本人の伝統的な老夫婦は、「愛している」とは口で言わずに、
静かにたたずむイメージがあると思いますが、
あれはすごく日本的でジャパニーズです。
西洋の夫婦関係は、年老いてからも愛を語る美しさがありますが、
きずなそれ自体もまた美しい関係性です。

こうした幸せや愛という概念に限らず、明治時代に生まれた翻訳言葉が、
我々の変な価値観を規定しています。
福沢諭吉や西周をはじめとする知識人たちは明治期に、
西洋社会から輸入した概念の訳語をほとんどつくりました。

それはものすごい仕事であり、評価できることなのですが、
如何せん突貫工事でもあるので、時代に合わせて修正する必要がありました。
つまり、先人に学び、先人と対話し、我々の思考基盤のアップデートが
必要になるのは先人も想定した上で取り組んでいたのでしょう。

しかしながら、それを修正する前に、日本は第二次世界大戦の
敗戦国となり再びグランドデザインされてしまいました。
日本になじむ西洋との折衷概念が生まれる前に、
多くの言葉がふたたびリセットされたしまったのです。

言葉を考え直さないと、われわれは日本再興戦略を組むことができません。
このままでは言葉尻だけを追い続けてしまう。
「欧米」と言っているうちは、コミュニケーションは
できず何も見つけることはできないのです。

~~~ここまで引用

いやあ、テレビCMとか、トレンディードラマとか、ゼクシーとか、
広告屋さんが作った「幸せ」像にみんな向かっていった。
そうやって日本は消費を拡大し、経済成長していったのだなあと

それと同じことが、
たぶん、キャリアでも起こっている。

メディアとか、リクルートがいう、「幸せな就職」とか「ロールモデル」とか
「キャリアターゲット」とか「天職」とか。

そういう言葉に流されてはいないか?

その「言葉」に対する姿勢でも、
西洋と東洋は思想的にまったく違うのだと落合さんは指摘します。

~~~ここから引用

西洋的な思想は、言葉の定義が明確であり、わかりやすいという魅力がありますが、
わかりやすさばかりを求めてはいけません。
定義によるわかりやすさの対極にあるのが、
仏教や儒教などの東洋思想です。
身体知や訓練により行間を読む文化です。

東洋文化を理解する必要があります。
理解できないのは自分のせいだから、
修業しようという精神が求められるのです。

わかりにくいものを頑張って勉強することで理解していく
―それが東洋的な価値観なのです。
言外の意味を修業によって獲得する。

それは言外の意味が参照可能な西洋的文法に対して、
内在させようとする仏教的、東洋的文法だと思います。

一方、西洋の精神は、個人主義で
みなが理解する必要があると考えます。

もし内容が理解できなければ、
「わかりやすくインストラクションしないお前が悪い」という精神なのです。

読み手が自分で修業しろ、というのはとんでもないことで、
ジャンプなく読み手のところまで降りていかないといけません。

こうした点にも、東洋思想と西洋思想は立場上、大きな違いがあるのです。

~~~

「わかりやすさ」に本当に価値があるのか?

そもそも「わかりやすさ」が価値を持つのは、
西洋的価値観、思想なんじゃないか?
そんな問い。

まあ、だからと言って、
わかりにくくてもいいってことではないのですけど。

最後に教育について言及しているこの箇所から。

~~~ここから引用

根本的には、教育から変えないと、今の流れは変えられません。
今の近代社会を成り立たせるすべての公教育とはほぼ洗脳に近いものですが、
我々は中途半端に個人、自由、平等、人権といった
西洋的な理念を押し付けられた結果、
個人のビジョンがぼやけてしまいました。

今の教育は「やりがいややりたいことがない」といった
自己否定意識を持った歪んだ人間を生み出してしまいます。

要は、欲しいものをちゃんと選ぶとか、自発的に何か
行動する、ということを練習しないし、
それをガマンするように指導するのに、
好きなものを見つけることが重要だと
言い続けるのは大きな自己矛盾を生み出しうる欠陥であり、
自己選択に意味がなく、不安が募る社会にしてしまっているのです。

教育を変えて日本人の意識を変え、
地方自治を強化して、ローカルな問題を
自分たちで解決できるようにすること。

つまり、帰属意識と参加意識、
自分の選択が意味を持っている実感を、
それぞれの人々が感じ、
相互に依存することから、
日本再興は始まっていくのです。

~~~ここまで引用

公教育が起こしているダブルバインド(矛盾)を
的確に指摘しているなあと。

重要なのはたぶん最後の一節なのだろうなと。
帰属意識と参加意識、自分の選択が意味を持っている実感を
それぞれの人々が感じ、相互に依存すること。

それを感じられるような、
小さなプロジェクト。
あるいは、「場」。

影山さんの言う、「おでん」のような場。
http://hero.niiblo.jp/e489014.html
(3月15日:「おでん」のような「場」をつくり、「植物」を育てるように「事業」をつくる)

そういうのを作っていくこと。
たぶん中学・高校の時から
学校以外の場所に「おでん」を持つこと

そうそう。
「居場所」じゃなくて、「おでん」のような「場」を持つこと。



何か小さなプロジェクトが生まれる、
そこに小さな帰属意識と小さな参加意識が生まれるような、
そんな「場」を持つこと。

その「場」は、「場」から生み出されるプロジェクトは、
個人が特定されないような、
中途半端な「匿名性」を持っていること。

それは、「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)
で紹介されていた鯖江市「JK課」の取り組みのように、
「JK課が批判されても、私の学校の成績が下がるわけじゃない」
(参加高校生のコメント)

とか、福岡で出会った大学1年生の「インスタ講座」で
「インスタはもうひとつの人格を作り出す装置」

というような、

調べればだれがやっているのか分かるけど、
発言(表現)はプロジェクトとして、あるいはチームとして行う、
っていうのが、
日本人のメンタリティに向いているのかもしれない。

だからこそ、大学生たちは、「場」を持とうじゃないかと。
「おでん」のように相互に関係し合う「場」で
小さなプロジェクトを生んでいこうじゃないか。

「プロジェクト」は仮の自分だ。もうひとつの自分だ。
もちろん複数名でやっているから、自分そのものではないけれど。
その「中の人」として、何かを始めてみること。

これが、オルタナティブ就活への第1歩なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:00Comments(0)

2019年03月29日

「近代的個人」という輸入品


「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)

これ。
就活前に読んでおいてほしい1冊。

「就活の違和感」の大きな原因のひとつに、
アイデンティティ・クライシス(自分らしさ危機)
があると思う。

そしてそれは
(地域)あるいは(会社)コミュニティの崩壊とともに
深刻さを増している。

自分とは何で、自分らしさとはどこにあるのか?

そんな問いに苦しんでいる。

前回のクラウドファンディングのキーワードである
「何者かにならなければならない」というのも
同じようなところに原因があるのではないかと思う。

では、
自分って?
自分らしさってそもそも何?

ここから出発しないといけないと思う。
そこで「日本再興戦略」だ。

~~~以下引用

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。
それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは
1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、
いまだに日本には「個人」によって成り立つ
「国民国家」という感覚が薄いように感じます。
むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。
これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、
依存的に生きてきました。
我々は個人なんてなくても、
権利なんて与えられなくても、江戸時代など、
対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。

それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。
個人の持つ意味を理解していないのに、
西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。
隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。
過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、
我々は過度に分断されるようになった。
そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、
そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、
働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、
誰かが技術失業することはありませんでした。

でも今は、
「誰々の職業がAIに奪われる」なんて話題ばかりがメディアに出てきます。

これからの本質的な問題は、
「我々はコミュニティをどう変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」
ということなのに、「どの職業が食いっぱぐれるのか」という議論ばかりしているのです。

そうした「AI脅威論」は西洋の個人主義の文脈において出てくるものですから、
本来の日本人がそうした問いに振り回される必要はありません。

これから日本が東洋的な感覚を土台としてテクノロジーを生かしていくためにも、
まずは西洋的個人を超越しなければならないのです。
一人がひとつの天職によって生きる世界観に我々はもともと住んでいませんでした。
百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

そもそも、アジアは昔から、言語によって
何かを分断する考え方をよしとしません。

荘子は言語による二分法でモノを語りません。
個人と個人以外、対象と対象以外というように
分断する行為は、世界が調和によって成り立っていた
安定状態を破壊してしまう行為であると主張しています。
つまり、西洋思想の二分法の考え方は、
アジア的な安寧に関するかなく、美的感覚や価値観とは合わないのです。

~~~ここまで引用

この章はひたすらうなづくばかり。
まだ後半に続くので
明日にでも全文を書き写そうかなと思います。

西洋から持ち込まれた「近代的個人」という感覚こそが
自分たちを苦しめているのではないか。
そしてそれは我が国の風土に合わないのではないか。

なんか、感覚的にはすごくわかるんだけど、
それを言葉にした落合さんはすごいなあと思います。

この本にめちゃめちゃヒントがあるなあと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 18:44Comments(0)

2019年03月28日

世の中をマクロで見ること

世の中をマクロで見ること。

鳥の目、虫の目。
っていうのと、
もうひとつ、時間軸、歴史軸で見てみる
っていうこと。

その2つが必要なのだと思う。

簡単に言えば、
いま、目の前にあるものを疑うこと。
当たり前だと思わないこと。


「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)


「10年後の仕事図鑑」(堀江貴文×落合陽一 ソフトバンククリエイティブ)

この2冊。
就活生、大学生にめちゃめちゃオススメします。
就活、いや働くことをマクロに見てみること。
そこからしか始まらないんじゃないかと。

「日本再興戦略」は冒頭からすごいです。

~~~ここから引用

我々の教育は、人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるには特化していないからです。しかし、それで良かったのです。むしろそのほうが近代的工業生産社会では優位に立てたのです。

だって、近代以前の個別に尖った創造性社会を無個性で共通認識のある訓練された集団へ変換するほうが、マスを解体するより難しいと思いませんか?

これまでのシステムは、大量生産型の工業社会、たとえばトヨタの車をつくるのには向いてましたし、ソニーのテレビをつくるのには向いていました。

みなが均質な教育を受けていて、何も言わなくても足並みがそろうからです。不良品が少なく、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せ感を演出できる社会は非常にうまくデザインされていたといえるでしょう。幸せは演出され、成長は計画されてきたのです。

ただし今は、工場が本質的に機械知能化されていっています。スマホのように、高集積で人間が関与することが難しいものに関しては、その作業工程で足並みをそろえる必要がありません。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればいい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」の3点セットだと僕は考えています。

つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。

~~~ここまで「日本再興戦略」より引用

まえがきでこれですからね~。
面白いです。

そして、10年後の仕事図鑑では、
冒頭に「AIに仕事が奪われる」的な、なぞの脅迫に
その実態はなんなのか?説明してくれる。
そして「イカれた就活システムから脱出せよ」と説く。

「近代」とはなんだったのか?
日本再興戦略でいえば、「欧米」ってなんだよ?
っていうところから考えなきゃいけない。

「自我」とか「愛」とか、
1860年以降に日本に入ってきた概念で
世の中を見ていないか?みたいな。

それ、本質的だなあと思う。

この2冊。
読めば読むほど面白いです。

つづきます。  

Posted by ニシダタクジ at 18:52Comments(0)