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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年02月11日

子どもたちは「仕事」と「遊ぶという行為」を失った


『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)

読み進めていたら、メモしたくなったのでメモ。
満足度アンケートによって、ますます「お客さん化」を促してしまっているのではないかと反省した。

~~~
高度成長以降の子どもたちは、2つのものを失った。一つは仕事、もう一つは遊ぶという行為である。かつては農業、自営業が多く、さまざまな子どもの仕事があり、具体的に子どもの手を必要としていた。

しかし、生業(稼ぐ場)と再生産(子どもの育つ場)の場が分離されて、子どもたちは仕事、すなわち家族や地域社会での役割を失った。かわりに大人たちが管理しやらせる時間、やってもらう時間が増え、自由に自分たちでつくる時間、すなわち遊びの時間を失った。普通に暮らしているだけでは多様な人々との豊かなかかわりが持てなくなってしまった。

他方で、サービスとして子どもたちに仕事でかかわる大人たちが激増した。彼らは、常に責任を取らされないように、ことが起こらないように子どもに接するようになった。

社会学者の宮台真司さんは、この半世紀の日本社会の変化を、「〈生活者会〉が空洞化し、〈システム〉に置き換わっていった」と説明している。

〈生活社会〉とは、「善意と自発性」に支配される、人間関係や人情が意味を持つようなコミュニケーション領域。個人が日常生活で、出会う、ヒト、モノ、コトの意味のつながりの世界の総体。
〈システム〉とは「役割とマニュアル」に支配されるコミュニケーション領域のこと。人の入れ替えが可能で、物事を計算可能にする手続きが一般化した領域のこと。

もともと〈システム〉は、〈生活世界〉を豊かにするための手段であったが、〈システム〉が広がって生活が空洞化すると、〈生活世界〉が〈システム〉に規定されるようになる、という。主従の転倒が起こる。

いま、「郊外型の暮らし」は、地理的に郊外とよばれる地域だけではなく、全国的に広がった。子ども、主婦、障害者、高齢者とそれぞれ、専門の施設やサービスのもとにおかれ、それぞれ時間単位の効率性を求められる世界=サービス産業の対象となった。

そこでは、隙間=〈あそび〉が許容されない。〈あそび〉のないところ、すなわちルールとマニュアルに支配される世界では、遊びは発生しない。
~~~

この章を、ミヒャエル・エンデ『モモ』を題材に説明しているが、まさに今、目の前で起こっていることだなあと。

「仕事」と「遊ぶという行為」を失い、システムに飲み込まれた生活世界こそが、アイデンティティ不安の原因なのではないか、と強く思った章でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:24Comments(0)日記

2024年02月11日

「あそび」の復権


『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)

10月に読んだ『あそびの生まれる時』(ころから)
http://hero.niiblo.jp/e493287.html
参考:「遊ぶ」の土台としての「あそび」(23.10.21)
http://hero.niiblo.jp/e493290.html
参考:「あそびごころ」が生まれる放課後研究所(23.10.22)
の前作です。

いきなり前書きから本質的なので、メモに残します。
~~~
さて、そもそも、遊びとは何だろうか。
こんな幼稚園児のつぶやきがある。
「先生、この『大縄跳び』が終わったら、遊んでもいい?」

遊びとは、「大縄跳び」や「かくれんぼ」などの「メニュー」のことではない。
遊びは、心のありようを表す言葉である。

その子が、自分でやりたい(おもしろそう)と感じ、動き出すことが遊び。
したがって誰かにやらされていると感じているうちは、遊びとはならない。

また、最初から結果が見えていたら遊びにはならない。
どうなるかわからないという時、はじめてそれは遊びになる。

身体の動きは小さくても、「(その時の、その子にとって)何か違う世界が見えるかもしれないからやってみたい」という意味では、川に飛び込むことと同じ。「おもしろそう」であるかどうか、心がアクティブな状態かどうかなのだ。ゆえにいずれの場合も集中した表情になる。

あとさき考えず、何かをしてみて、未知の心の動きを味わう。それが遊ぶということ。
~~~

さらに、もうひとつの「あそび」について

~~~
ところで、日本語の「あそび」には、もうひとつの意味がある。
車のハンドルや、建築物で「意図してつくったゆるみ」などを表すことばも「あそび」という。一見、無駄に見えるが、それがなければ全体をうまく動かすことができないもの。こういうことに対して、私たちは「あそび」ということばを当てはめてきた。
私たちが気づかないうちに失くしてきたのはこちらの〈あそび〉かもしれない。

時間、空間、仲間
遊びが生まれやすいのはこの3つの「間」があるときだという。

すなわち、ひま=〈時間のあそび〉、すきま〈空間のあそび〉、そして、よい間合い=〈間柄/人と人の関係のあそび〉の3つの〈あそび〉があるとき、人の心が動きはじめる、と。

遊びの本質は、「想定外のドキドキ」だ。結果がわからないから、遊びになる。
~~~

「あそび」をデザインすることは、「あいだ」をデザインすること。

学びー遊び
目標に向かうー目標に向かわない
計測可能-計測不能
予測可能-予測不能
個人-場(共同体)
プロ(仕事)ー素人(遊び)
一元化されたモノサシー多様なモノサシ
序列があるー序列がなくフラット
適応するー個性を発揮する

このあいだを行き来できる道具や乗り物やかぶりものをつくりたい
まず最初に打つべき1点は、「あそび」の復権なのではないだろうか  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)日記

2024年01月20日

まだ途中なんですけど、、、


『知図を描こう~あるいてあつめておもしろがる』(市川力 岩波書店)

読み進めていると、市川さんの愛にあふれた取組に、泣きそうになりました。

たくさんメモしちゃいました。

~~~以下メモ
ゆるりと探検し続け、結論を急がずに考え続けるために、「なんとなく、とりあえず、あてもなく」歩き続けるfeel度walkでの発見・思いつきを「ひたすら」書き残したものが「知図」です。

「知図」の「知」が意味するのは、教科書にのるような一般的で常識的な「知」ではなく、私の好奇心がとらえた小さな感動のカケラです。私が発見し、思いついた「知」を自分なりに表現し、記録した「図」だから「知図」なのです。

私たちはアートのプロではなく、面白がるアマチュアとしてのfeel度を高めたいと考えています。

「へえ、こんなのあるんだ!」と思ったとき、発見した対象とその場で抱いた感動の記憶をとどめる装置として、写真は素晴らしい機能を発揮します。

現場では次々と発見し、いろいろな感情がわき起こります。それを逃さずに、反射的に記録しておくことができるのが写真なのです。

他の人の絵に触発された対話が自然に始まります。話しかけられた方は、自分の発見に関心を持ってもらえたことがうれしいうえに、自分の絵まで認められてさらによい気分になります。お互いの絵に興味を持つことで、結果的にみんなが自分の絵に対する自信を深めるのです。

こうしたムードが生まれるのは、描く絵が「なんとなく」の発見だからです。「なんとなく」の発見には、正解も優劣もありません。また、自分なりの発見を絵にするのだから、うまいか下手かを比較することもできません。

そのため、自分の絵を卑下したり、また反対に、誰かの絵をけなしたり、からかったりというようなことが起きないのです。模造紙がまるでいろりのようになり、そこを囲んでみんながそれぞれの発見を素直に出せるという安心で和やかな場が生み出されます。
~~~

それぞれの「発見」と「感動」を愛でること。
そこには「比較」や「評価」が不要だ。
Feel度Walkってそういうことなんだな、と。
「存在の承認」や「フラットなコミュニケーション」がキーワードの僕にとっては、感動的な一節。
こういうのを小学生や中学生と一緒にやりたいなと思いました。

さらに、Feel度Walkには、自己紹介やアイスブレイクも不要だといいます。

~~~
自己紹介やアイスブレイクを最初に行うのは、お互いが知り合うきっかけをつくり、緊張を解いて和やかになってから活動を始めるためです。

しかし、今、一緒にいる人がどんな名前で、職業や趣味は何で、今、関心がどこにあるのかを知ると、それに引っ張られて相手を見てしまいがちです。また、いきなり自分のことを語れと言われても、場の空気を読んで当たりさわりのないことを言ったり、無理して場の期待に合わせたことを言おうとしてしまいます。アイスブレイクも同様で、だんだんと知り合っていくという余白が与えられません。

そもそもFeel度Walkして知図を描くのは、知らず知らず抱いている思い込みをほどき、「なんとなくセンサー」を研ぎすますためです。だからこそ、ゆるりと歩き、ゆるりと描きます。ゆるやかな時間の流れの中でだんだんと知り合えばよいのですから、自己紹介もアイスブレイクも不要です。

Feel度Walkの間も、知図を描いている間も、お互いの名前を知らなくても対話がはずみます。なぜなら、「自分」のことや「相手」のことを語るではなく、発見したモノやコトについて語りあうからです。知図を仲立ちとして、描いた人と見ている人との間でお互いの素の思いをさらけ出す対話が始まります。知図を描いた側は、発見したことがどう面白いのかひたすら語ろうとします。相手にどう思われるかを一切気にせず、発見した対象への愛と喜びを素直に語ります。

こうした知図たちの間に優劣はなく、正解・不正解もありません。自分なりに世界を切りとって描いた「知」をみんなで愛であうと、自分にも世界を発見できる力があることを再認識できます。その結果、誰もが「自分にもできる」「きっとうまくいく」という自己効力感を取り戻して元気になるのです。それは、どうせ自分なんてという思いこみから逃れ、歩いて、描いて、みんなにシェアし続ければ、世界を見る目をどんどん研ぎすましてゆけると実感することであると言えるでしょう。
~~~

ステキです。自己紹介もアイスブレイクもせず、お互いをひとりの生きる人間として、知図を描き、お互いの発見を愛でること。
「発見の余白」を持って場をつくっているだろうか?と問いかけられます。

そして、最後、知図について

~~~
知図は、正しい知識が表現されたものでも、完成した作品でもありません。そこには間違っていることも、妄想に近い仮説も描かれています。しかし、それが真実であり、唯一の答えだと示しているわけではありません。

むしろ、私たちアマチュアが歩いて実体験したことをネタに、思いついたことを素直に表現した途中「経過物」です。「成果物」ではないからこそ、知図展に訪れた人は自由に考えを語りたくなります。
~~~

アマチュアリズム。「つながるカレー」の話を思い出した。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
参考:「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)

知図は「成果物」ではなく「経過物」。いいですね。
高校生の「総合的な探究の時間」もそんな気持ちでできたらいいなと。

「まだ、途中なんですけど、、、」みたいな。
いいタイミングでいい本を目の前に差し出してくれるなあ、神様、って感じです。
本の神様を信じてしまう。

あと、存在の承認というか、「自尊感情」についてもふたたび
http://hero.niiblo.jp/e485809.html
参考:「ふりかえり」と「自己評価」(17.9.12)

http://hero.niiblo.jp/e484636.html
参考:「近代」という「旧パラダイム」(17.4.30)

~~~ここから引用
自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない
従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。
しかも、「だれかのために」「なにかのために」という
大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を
受け入れることを「自尊感情」といいます。
(中略)
エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした
場所でもありました。
学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。
学校は優位者に対しても、彼らの人生を
なにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、
条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。
~~~ここまで引用

「学校」というシステムが奪ってきたもの。それはまさに「自尊感情」であり、「自尊感情」を育むシステムでもあります。それは「他者から評価」という檻の中で、一生過ごすことになるという刑罰のようです。

Feel度Walkは、それを解きほぐす可能性があると思いました。

「評価」という壁を越える。

自尊感情、つまり自らの存在の承認は他者からの評価によって得ることができない。という前提において。
自分が発見したモノ・コトを承認し合うというコミュニケーション・プロセスの中で、自らを承認し始めるというのが知図づくりのポイントなのかもしれません。

高校生の総合的な探究の時間の設計で、「達成と成長」から「発見と変容」へと言っていた理由、その前提となる思想(の言語化)に出会えたような気がして、すごく嬉しい気持ちになりました。

まちをあるいて、写真を撮って、スケッチして、図にする。
そしてそれぞれの「発見」を愛であうこと。

それだけなのです。本当にそれだけなのだけど、何とも言えない愛と、子どもへのインパクトの可能性を感じています。素敵な1冊をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)日記

2024年01月18日

「自分をひらく」面白がり屋を育むまち


「知図を描こう」(市川力 岩波書店)

「ジェネレーター」の著者、市川力さんの知図づくりの実践が書籍になった1冊。
これ、やってみたかったので、すごくうれしい。

「はじめに」からメモします。

~~~
大事なことは、あらかじめ「好き・得意」を定めることではありません。そうなると「好き・得意」が決まらないと行動できなくなってしまいます。最初から「好き・得意」を持つことより、とりあえず面白そうだからやってみよう!というフットワークの軽さがポイントです。

「好き・得意」は目指すべき「目標」と言い換えることができます。私たちは「目標」がはっきり決まっていれば行動しやすいでしょう。
~~~

好きは?
得意は?
ってたしかに聞いちゃっているかもなあ。
「好き」を表現することよりも、じぶんを「ひらく」ことから始めないといけないのだなと。

~~~
誰もが、幼児や小学校の中学年ぐらいまでは好奇心のフタがすぐに開きます。しかし、だんだんと身のまわりの物事への関心を失っていきます。とはいえ、フタは閉じられているだけで、好奇心自体は失われたわけではありません。再びこのフタを開けるきっかけさえつくれば、好奇心は再起動します。あとは、日々好奇心を動かし続けることが面白くて仕方がないと思えれば、自ずと習慣になります。

直感やこれまでの経験にもとづく先入観によって物事を判断し、自分の思い込みを裏づけるような情報しか受け入れなくなることを「認知バイアス」といいます。
~~~

いいですね、岩波ジュニアスタート。何歳に向けて書かれているんだろう。
SNSでフィルターバブルで認知バイアスなんですよ。(笑)

そして、「好奇心」へ言及されていきます。
~~~
「好奇心」は「なんか気になる」という「違和感」を抱く心の動きです。私たちが効率よく日常生活を送るためには、いちいち「好奇心」を抱いて物事を眺める余裕はありません。日々このように過ごしているうちに、だんだんと「好奇心」にフタがされてしまいます。さらにSNSでのつながりがメインになっていると、自分の好みに応じた情報にばかり触れて、「好きじゃない」モノ・コト・ヒトとのつきあいがなくなります。

実は、私たちに今、求められているのは、「好き探し」をすることではなく、出会ったモノ・コト・ヒトを見逃さないことなのです。自分が「好き」なのはこれしかないと簡単に決めつけるのではなく、また、「好き」が見つからないといたずらに嘆くのではありません。日々、出くわしているささやかな出来事に目を向けてみることから始めるのです。

小さな不思議を感じとるのが「好奇心」と言えるでしょう。「好奇心」をベースにした学びは、私たちヒトの根源的な学び方です。
~~~

まさに。
「好奇心」こそが「遊び」と「学び」の境界を無くしていくのかもしれない。
探究の入り口ってそういうことなんじゃないのか。

そして、最後に知図づくりの導入である「面白がり屋」へ

~~~
「好き」と「好奇心」が違うように、「面白い」と「面白がる」は異なります。

「面白がる」とは、一見、楽しそうでも、心地よさそうでもないことに対して、自分なりに「面白い」とい思える何かを発見することです。なかなかうまく結果が出ず、つらかったり、突然わけのわからない事態が起きたりしても、そこに「面白さ」を見出すのが「面白がる」ということです。

「面白がり屋」とは、特に楽しいことがない状況であっても、発見した何かに新たな「意味」を見出す人だと言えましょう。こうした「面白がり屋」が予期せぬ不確実な状況に登場すると、場の雰囲気が変わります。その雰囲気が他の人にも伝染し、ともに意味をとらえ直し始めるのです。すると、重苦しかった雰囲気が一変し、いろいろな可能性を素直に出して「面白がる」場が生まれるのです。

好きなことがない、得意なことがない、何から始めたらよいかわからないなどと思い悩む必要はありません。まずは歩いて、集めて、描いてみることから始めればよいのです。そうすると今まで見えなかった何かが見えてくる感覚をじわじわと取り戻します。
~~~

まずは面白がり屋になること。
「探究の出発点」は「自分を知る」「好きを知る」のではなくて、「面白がり屋になる」つまり、「自分をひらく」こと。

そのためには歩いて、集めて、描いてみる。

探究の出発点をそこにおきたいなと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:16Comments(0)日記

2024年01月14日

「創造」の前提となる「存在の承認」


『ぼくは蒸留家になることにした』(江口宏志 世界文化社)

年末に購入しまして、いよいよ出番。
著者の江口さんは、10数年前に本屋を始めるときに
本屋特集などに多く掲載されていた「UTRECHT」を2002年に立ち上げた元本屋さん

第1章冒頭の「僕が本屋を辞めたわけ」がタイムリーだったのでメモ

~~~
それはこの先、本というフィールドのなかで、常に更新していけるものを発見できるのだろうか、という疑問だった。拠って立つべき居場所が曖昧で、自分の存在が希薄になり、マーケティングやら消費やら見えない何かに飲み込まれてしまうようなもどかしさ・・・とでも言うべきだろうか。

誌面で展開される、暮らしの上澄みをすくいとった、うっとりするような美しい情景。それはそれでいいのだけれど、その情景自体が自体がスタイルのようになってしまった。(中略)うわべだけの「ライフスタイル」が消費されていくのを横目で見ながら、ますます表現の下にあるしっかりとした「技術」の蓄積が自分にも欲しくなった。

農業に従事するということは、短期間のプロジェクトから距離を置くということでもある。そして時には経済活動からも。もし繁殖用の鶏を2.5ユーロで買うならば、その鶏自体の価値は限りなくゼロで、卵を産む装置こそが鶏の価値なんだ。それはホビーとかでもなければ、経済活動でもなく、そしてプロジェクトでもない。それは単に何かと生活をともにすることなのだ。

五感と自然が響き合う。植物だけでなく、土や苔も、環境そのものが豊かな香りを放っている。ぼくらは、こんな複雑で繊細な香りの世界に身を置いているのだ。
~~~

「アイデンティティ」のリアル。

かつて川喜田二郎は、ふるさとを「全力傾注して創造的な行為を行い、そのいくつかを達成した場所を人はふるさとだと認識する」と言ったが、その前提となる土台としての「存在の承認」はどのように得られるのだろうか。

「ホーム」と呼べるのような場所、あるいは関係性がないままに、創造性を発揮することは可能なのか。

あるいは、創造のプロセスの中で、「存在の承認」は徐々に得られていくのだろうか。

「未来から逆算する今」だけじゃなく、「過去を継ぎ、未来へつなげる今」が必要なのではないのか。

「わたしたち」を空間的ヨコ軸と時間的タテ軸の真ん中につくっていく必要があるのではないか。

個々の弱さこそを場のクリエイティビティの源泉にできないだろうか。

そんな問いが浮かびます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:52Comments(0)日記

2024年01月06日

「わたしたち」をデザインする「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

第2章 わたしたちを支える3つのデザイン要素「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」
~~~
ゆらぎ:適時性、固有性⇒固有の文脈を踏まえたうえで、適切なタイミングの変化をもたらすか
ゆだね:自律性⇒自律性を尊重したうえで、望ましいゆだねのレベルになっているか
ゆとり:内在性⇒目的だけではなく経験そのものに価値を感じ取れるか

「ゆらぎ」:適切な変化を見定める
適時性:
人や生き物は固定されている存在ではなく、常にゆらぎ、変化する存在として理解するのが「ゆらぎ」という考え方の根底にあります。心身が不調のときに自分の意思で決める状況ばかり用意することは、かえってその人を疲れさせてしまいます。逆に調子のよければ自分で新しいことに挑戦したり、自分で決める状況を用意することがよいでしょう。このように、タイミングが適しているかどうかという「適時性」の視点が重要になります。
固有性:
年齢に加えて、当人のジェンダーや経済状況、性格やさまざまな嗜好性など、当人を当人たらしめている固有の文脈を理解することが重要になります。この側面を「固有性」と呼びましょう。

個々人のゆらぎとは、ある人が他者たちと関わる過程で、一緒に変化していける可能性を示しています。一人ひとりのウェルビーイングのかたちが重なり合うことで、わたしたちのウェルビーイングを作れるようになるにはどのような「ゆらぎ」が必要かを問うことが求められます。

「ゆだね」:他律と自律の望ましいバランス
誰かのウェルビーイングを支援しようとすることが、支援される人の自律性を損なう結果にもなりえるということです。このように、ウェルビーイングの支援では、対象となる人がその支援に積極的になってもらう、当人の意思を尊重する、複数の選択肢を提示するなど、自律性を担保することがとても重要な原理になります。

適切なゆだねを考えるうえでは、自律と他律の順番が重要です。まず個人としての望ましい自律のレベルを見定め、そのうえで他者にゆだねられることを探すこと。

「ゆとり」:目的ではなく経験そのものの価値
目標を設定したとしても現在を犠牲にすることなく、過程自体に価値を見出し、そこから未来の目標をいつでも柔軟に再設定できるためのゆとりを生み出す設計が大切になります。

★わたしたちの持続性
自律性(ゆだね)とプロセスの価値(ゆとり)、そしてそれぞれの人に固有のタイミングと文脈(ゆらぎ)にもどづいて設計された体験によって、ウェルビーイングを生み出す支援が可能になったとしても、最終的にはそれが一時的なものではなく、当人たちにとって持続される必要があります。
~~~

なるほどな~。
「探究的な学び」の究極的な目標を、わたしの、そして「わたしたち」のウェルビーイングとするならば、「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」はまさにそれだなああと思いますね。

このあとSNSのアルゴリズムがいかに「ウェルビーイング」の3要素を損なう可能性があるか、を説明しているのだけど、これがこれで怖いのでメモ。

~~~
私たちの心が充足するためには、回復、持続、発見という3つの行為が関係していると仮定してみましょう。心がダメージを負っており、休息を求めているときには、回復のプロセスが必要です。心が持ち直した後には、その良い状態を維持するための技法が求められます。そこからまた傷ついたり落ち込んだりすれば、再び回復が必要となります。この循環のなかで適宜、回復や持続のあたらしい方法を発見するプロセスが付随します。

SNSの設計原理としては、常に刺激の強い情報や、利用者の嗜好性にマッチする同質の情報を提示することで、利用時間を伸ばそうとするアルゴリズムが作用します。このループのなかで、利用者は徐々に自分とは異なる意見を許容できなくなるフィルターバブル現象が生じると考えられています。それは、大量の情報の一つひとつを時間をかけて検証するプロセスを省略し(ゆとりの欠落)、自分自身の思考によって判断をしたり、判断を保留することから遠ざける(過度のゆだね)状況を生み出し、結局は自分の考えが変化する機会を減らすこと(ゆらぎの欠如)を招きかねません。
~~~

なるほど。
これは、宇野さんが「遅いインターネット」で危惧した状況なのではないのか。

参考:未来に素手で触れている、というフロンティア(20.4.3)
http://hero.niiblo.jp/e490521.html

「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」をベースに、「場」や「授業」をデザインしていくこと。
それがウェルビーイング時代の「場づくり」なのだろうと強く感じた。  

Posted by ニシダタクジ at 10:06Comments(0)日記

2024年01月05日

Self-as-We としての「わたしたち」


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

「わたし」でも「ひとびと」でもない「わたしたち」をいかに実現するか?
という問いを。

第1章 Q3ウェルビーイングには何が大事なのか?(P43)より
~~~
エドワード・デン/リチャード・ライアンの「自己決定理論」
・何かを自分の意思で行う自律性
・自分に成し遂げる能力があると感じる有能感
・他者との関係性

マーティン・セリグマンの「PERMA理論」
・ポジティブ感情
・没頭する経験
・良好な人間関係
・人生の意味や意義を感じること
・達成感をもつこと
~~~

同じくQ5 「わたしたち」をどう実現するのか?(P76)より
~~~
一体感:このグループの取り組みがうまくいくと、自分のことのようにうれしい
両動感:私はこのグループでの役割を自ら果たしている感覚と、担わされている感覚の両方を感じる
被委譲感:このグループでは、一定の期間の意思決定がメンバーに担わされていると感じる
開放性:このグループの活動は、このグループのメンバーだけで成立しているわけではない
全体性:このグループの取り組みで起きた失敗は、特定の誰かのせいにすることはない
脱中心性:このグループは、誰かがリーダー役を担わなくても、うまく活動を進められる
仲間性:このグループは意見が異なっていても尊重し合える
(共同行為の場を評価するSelf-as-We尺度 2023)
~~~

一人称でも三人称でもない、それらを合わせた
Self-as-Weとしての「わたしたち」を実現していくこと。

その1歩目をどのように踏み出すか、が大切だ、と。  

Posted by ニシダタクジ at 12:51Comments(0)日記

2024年01月04日

「わたしたち」をデザインする


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

渡辺保史師匠の「自分たちごとのデザイン」を思い出した。
参考:「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ(20.7.21)
http://hero.niiblo.jp/e490894.html

昨日の『体はゆく』からの流れで、「はじめに」からテクノロジーの機能とは何か?

~~~
地球上で最も影響力の大きい生命種となった人類は、主に自分たちの利便性や効率性を求めてテクノロジーの開発に邁進してきました。それを支えてきたのは「人間は自然を制御できる」という思想です。(以下「制御の思想」)

この制御の思想を、自然に対してだけでなく、人類がお互いに対しても持つようになり、人(他者)をコントロールするテクノロジーが作られるようになりました。

実際、現代のデジタルテクノロジーの多くは制御の思想にもとづいて実装されています。ウェブ広告やマーケティングの分野では「関心経済・注意経済(アテンションエコノミー)」と呼ばれるように、人々の関心を吸い寄せ収益を上げることが中心的な話題となっています。

制御の思想には、自分の便益のために他者を利用する、「わたし」のための「あなた」という考えが根底にあります。

「わたし」のウェルビーイングのために「あなた」のウェルビーイングが損なわれる。それが意識的な無意識的かにかかわらず「わたし」のための「あなた」という考え方だけでは、人々は共によく生きる社会が実現できないのは明らかでしょう。
~~~

そこで筆者らは2つのことが重要だと説きます。

1 「わたし」のウェルビーイングの〈対象領域〉を他者との関係(WE)、社会との関係(SOCIETY)、自然や地球などより大きなものとの関係(UNIVERSE)という複数の要因にまで意識を広げ、多層的な関係性からウェルビーイングの選択肢を広げていく

2 〈関係者〉として、「わたし」個人だけでなく、他者や社会、自然を含めた全体を自分事としながら、個人と全体の両方のよいあり方(ウェルビーイング)を実現すること

ここで重要なのは、「わたし」と「わたしたち」は相互に補完的な関係だということです。自分とは、異質な存在たちとわたしたちという共通認識を築けない自己中心的な「わたし」ではなく、また、「わたし」が自由に存在できない呪縛としての「わたしたち」でもない、それら2つの充足が並立する世界の見方が求められるのです。
~~~

これは、只見高校の「総合的な探究の時間」のコンセプト
「個」と「場」の往還によるResponsibility(責任感)の醸成
の理論的な説明になっているのかもしれない。

「個」を「場」に委ね、「場の一員」として何か活動することによって、創造的な何かを達成し、それを個として振り返ることによって、Responsibility(=言語どおりに訳せば反応する力)を身につけ、只見というまちのプレイヤーとなっていく。

そんなストーリーだった。それって、個々の「アイデンティティ」の醸成に役立つんじゃないの?っていう話で計画していたのだけど、まさにそれはP43のさまざまな「ウェルビーイング」心理要因指標における自律性、有能感、良好な人間関係に当てはまっているのではないかな、と思った。

僕が目指していたのは「アイデンティティ」の確立ではなくて広い意味では「ウェルビーイング」なのかもな、と。

つづいて、第1章Q1:なぜウェルビーイングなのか?より

~~~P22より
「道具的価値(instrumental value)」から「内在的価値(intrinsic)」へのパラダイムシフト(もしくは回帰)という視点。

前者の道具的価値は、対象が役に立つか、何らかの機能を有するかという視点から判断される価値です。何かをうまく早くできるという機能性は社会を維持するうえで必要不可欠であり、この価値判断自体に問題があるわけではありません。経済が発展している時には、わかりやすい価値の捉え方でしょう。しかし、社会がこの価値判断のみにもとづいて営まれていたとすると、新しい機能を実現できる人や、特別な機能を実現できる人だけが価値あることになってしまいます。

一方で、内在的価値は、対象が役に立つかどうかではなく、対象の存在自体に価値を見出します。たとえば、人間の命の価値は、何かができるからあるのではなく、生きていること自体にあります。そして、それを尊び慈しむうえでその価値を比較することもできません。それぞれの人の存在やあり方を尊重するという意味で、ウェルビーイングは内在的価値がその根底にあるといえます。
~~~

まずは、ここからですね。
内在的価値から出発すること。

もうひとつQ4なぜわたしたちなのか?より

~~~
東洋的な思想では、自と他を完全に分けるのではなく、その中間領域である、物事の「あわい」を積極的に見出す傾向があると言われており、その「あわい」は、縁側という建築空間にも見てとれます。日本家屋の縁側とは、家の内でもあり、外でもある、中(なか)と呼ばれる空間であり、そこでは家人と客人が「仲間(なかま)」として出会う場だと説かれています。そのような場が「わたしたち」の醸成には重要になるのではないでしょうか。

オンラインのチャットで、話者同士が互いの打っているチャットを可視化することで、「能」の物語のような共話的な側面が生じているのだと考えられます。

重要なのは、「わたしたち」の意識が生まれるあわいの場は動的に生成されること、そしてその場が生まれるためのコミュニケーションのデザインが可能であるということです。
~~~
京都大学教授で哲学者の出口康夫さんが提唱されている「Self-as-We(われわれとしての自己)」という自己観です。自己観というのは、自分自身の存在や範囲をどう捉えるか、ということですが、この「Self-as-We」という考え方では、自己を個人主義的な独立した個ととらえるのではなく、ある行為にかかわるすべての人やモノを自己として捉え、同時にそこからゆだねられた個を考えるものです。

このような1つのシステムとして活動するグループ全体を自分事としつつ、それを構成する個の主体性を担保する考え方は、わたしたちのウェルビーイングと方向性を同じくするものです。

このような「わたしたち」の視点が持つ重要な示唆は、グループの中の関係性として、「わたし」と「あなた」に分かれて「する/される」の関係になるのではなく、グループとしての活動において、わたしでありながらもわたしたちとして一緒に活動や意味をつくり出していく「協働者」になるということです。
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「ともにつくる」ってそういうことかな、と。
たぶんそれは、昨年読んでいた井庭先生シリーズにも通じているな、と。

参考:「プロジェクト」という創造の物語に身を委ねる(22.6.2)
http://hero.niiblo.jp/e492476.html

「ともにつくる」協働のデザイン、それは、「わたしたち」のつくり方だし、「わたしたちとしてのわたし」のつくり方だし、ウェルビーイングへの1歩なのだろうと感じる1冊です。読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:54Comments(0)日記

2024年01月03日

「できる」をもっと楽しむには?


『体はゆく~できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(伊藤亜紗 文藝春秋)

コロナ禍で失われた「身体性」とはいったいなんなのか?
プロローグはそんな問いかけから始まります。

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「けん玉できた!VR」を体験した1128名のうち、96.4%にあたる1087名がわずか5分程度でけん玉の技を習得するという「奇跡」が見られたのです。

参考:けん玉できた!VR
https://star.rcast.u-tokyo.ac.jp/kendama-dekita-vr/

おじいちゃん動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=hJl_DRyyaIc

私たちがどんなに意識して「リアル」と「バーチャル」に線を惹こうとも、その境界線をやすやすと侵犯してもれ出てくるような体のあり方です。体は、私たちが思うよりずっと奔放です。

そもそも、「できなかったことができるようになる」という変化は、体にとっては非常に不思議な出来事です。

「できなかったことができるようになる」という経験は、本質的に魔法のような不思議さを秘めています。

結論から言えば、私たちは、自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになるのです。

「できなかったことができるようになる」とは、端的に言って、意識が体に先を越される、という経験です。つまり、「できるようになる」の中に、すでに「負け」があるのです。
~~~

「できないことができるようになる」ためには、意識が体に先を越されなければならない。
これは、目標設定とはなんだろう?と考えさせられます。

ここでは、第1章「こうすればうまくいく」の外に連れ出すテクノロジー」と題してピアニストの演奏技術を助ける方法を研究している古屋晋一さんのところから、抜粋
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「こうすればうまくいく」という自分なりの方程式の外側に転がっている可能性。

できるためにはイメージが必要だけど、できないからイメージがない。「できない」→「できる」のジャンプを起こすためにはこのパラドクスを超えて、「イメージがなかったけどできた」という偶然が成立する必要があります。

限界を拡張していくのが筋トレ的なテクノロジーだとすれば、エクソスケルトンは、偽の限界から人を解放してくれるテクノロジーだと言えます。
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19世紀のピアノ教育は、ピアニストを機械のようにとらえ、徹底的に体を鍛え、その結果何も考えずとも自在に指が動くようになること、つまり「指を自動化し、精神を解放すること」が目指されていたと言います。

音楽学者の岡田暁生は、こうした筋トレ的なピアノ教育は19世紀になって出てきたものだと言います。つまり18世紀にはなかった。その特徴は、ひとことで言うなら、音楽を部分へと分解してしまうことにあります。

18世紀の職人は「目指すべきかたちが予めはっきり見えている」ので、それに照らし合わせて、自分が行なった作業の結果がよいのか、まずのか、判断することができました。つまり、職人の持つ「感覚」の鋭さとは、自分が今行っている作業が全体の中でもつ「意味」を理解しているからこそわかる。

19世紀の工場労働者はこうした「感覚」をもちえません。なぜなら、彼らは部分的な作業をひたすら反復しているだけなので、それが全体の中でもつ意味は失われ、ただ無感覚に手を動かしているだけだからです。「目指すべきかたち」に照らして「手元の作業」を判断することができない。「ベクトルなき点」とでも言えばいいのでしょうか。
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ベクトルなき点から、美しい音楽は生まれるのか?
端的にそんな疑問が湧きます。

そして、ピアノの練習について、次のように説明します。

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ここに、ピアノの練習の根本的な盲点があります。それは、どうしても「音」のために練習してしまう、ということ。結果、「体」が無視されてしまうのです。「この音を出したい」という目的が先行し、「自分の体は今どのような状態なのか」「体にとってふさわしい練習とはなんなのか」という視点が抜け落ちてしまう。

感性の観点から「自分はこんな音が出したい」と思う範囲は広いと思うんですけど、その中で「体が鳴らせる範囲」はもっと狭くて、絞り込んでいくんですよね。そこが、その人の鳴らせる範囲だし、練習するべき範囲なんですよね。そこで、いかに効率よく練習していくかというお手伝いをぼくはさせてもらっている、という感じです。
~~~

つづけて第2章 あとは体が解いてくれる より
元プロ野球選手 桑田真澄さんのピッチング解析などで知られる柏野牧夫さんの章

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一定のレベルを超えた学習者に対しては、やはりテクノロジーは「教師」の立場から降りなければならない、と柏野さんは言います。解析データは未知なる土地の存在を教えてくれる「灯台」にはなるかもしれないけれど、したがうべき「見本」ではない。

自由意志とか責任とか個人とか、そういうものが、この手の研究をしていると怪しくなってきますよね。探索もそうだけど「あなたの自覚であなたをうまくしなさい」みたいなことじゃないんじゃないか。むしろ、「誰にそうさせれているか分からないけれど、そうさせられている」みたいなことなんじゃないか

フィクションだとしても「個」「意志」「責任」が問われるからこそ、勝負が成立しているのですし、それによって職業としてスポーツが成り立っていることも事実です。

「個」対「個」で、バッターにいろんなオプションがあって、打ちました、当たりました、空振りしました、っていうんじゃないくて、もう「個」じゃないんですよ。ひとつのイベントをただ二人でやった、という感じなんです。音楽のセッションに似ています。
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テクノロジーがついに、「科学」的なるもの。「普遍性」「再現可能性」あるいは「意志」「責任」のような近代的なものに対して挑戦してきている時代になってきているのだなと。

本書にはいろいろなエピソードが入っているのだけど、最後に著者の思いを。

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「できる」「できない」という言葉は、「できる=優れている」「できない=劣っている」という能力主義的な価値観と結びつきがちです。単なる違いであるはずのものが、この価値観のもとでは優劣というひとつのスケールの上に並べられてしまいます。

そのような社会では、「できるようになる」経験は、「〇〇さんよりできるようになる」という他者との競争や比較の問題に、容易にすり替えられてしまいます。

「他者よりできること」が目的になってしまい、「できるようになる」という出来事そのものがもつ不気味な面白さや想像を超える豊かさには、あまり目が向けられないのです。

「できるようになる」過程は、人を小さな科学者にします。そして、同時に文学者にします。できるようになるとは、自分の輪郭を書き換えることです。それは本人にとって大きな冒険です。

「できるようになる」過程でつくり出される身体的なアイデンティティと、そこに生まれる唯一無二の物語は、まさに文学のそれです。
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「できるようになる」過程の物語、ひとりひとりのアイデンティティを形成していく。

「できる」や「できた」という結果ではなく、「できるようになる」という過程の「体に先を越される」物語。

ひとりひとりが自分の体と異なる物語を見つめ、それを味わい、楽しむこと。「学び」や「遊び」にはカテゴライズされない何かがそこには立ち上がってくると僕は思っているし、そこにこそ、アイデンティティの謎を解くカギが眠っているのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 13:28Comments(0)日記

2024年01月02日

コンピューターという補助輪を外し「あそび」つづける人になる

元日の大地震では新潟市内もかなりの被害が出ているようですが、阿賀町も揺れましたが、日常通りです。
JR磐越西線は点検のため夕方まで運転見合わせのようです。


『ひとりあそびの教科書』(宇野常寛 河出書房新社)

新年最初の1冊はこの本になりました。
いきなり問いかけてきます。
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世界に二通りの人間がいる。それはいつも誰かの顔色をうかがっていて、自分は他の人からどう見えるのかということで自分の振る舞いを決めている人と、自分の考えをしっかり持っていて、その上で自分の考えを通すためには周りの人たちとどうかかわるかを考えている人だ。

顔色をうかがう人は「みんな」であそぶことばかり考えていることが多くて、逆に自分で考える人は「ひとり」であそぶ方法をよく知っていることが多い。

たしかにいまからもう何十年も前、20世紀の工業社会までは、そうやって「自分たち」と「それ以外」とをしっかり分けて、「自分たち」の結束を固めることが、産業の発展に有利だった側面もあった。
~~~

「思考停止」に価値があった時代(社会)がかつてあった。
そんな昔話が生まれそうな時代。

宇野さんは、「ひとりあそび」のルールとして以下の4つを挙げる。

1 人間以外の「ものごと」にかかわる
「もの」というのは、動植物や石ころのような自然物あるいは服やおもちゃのような人工物のこと。「こと」というのは走ることや食べることなど、つまり、(ここでは自分の)行為のことだ。「他の人のこと」はここではいったん、忘れよう。

2 「違いがわかる」までやる
これはおもしろいなと思ったら同じことを「違いがわかる」までやってみること。「ひとりあそび」はやればやるほど、「違いがわかる」ようになっていってどんどんおもしろくなっていくからだ。

3 「目的」をもたないでやる
「~のために」やることは「あそび」じゃない。あくまでそうやって「あそぶ」こと自体を目的としていないと、そのおもしろさはわからないからだ。

4 人と比べない、見せびらかさない
こういう「あそび」をしていると他の人からどう思われるだろうとか、一切考えないこと。他の人と比べたり、見せびらかすことが目的になってしまったら、それはもう「ひとりあそび」じゃないし、そのおもしろさもわからなくなってしまう。
~~~

これって、高校生の探究活動にも通じてきますね。とくに3と4の扱いが難しいところなのだろうと思います。「総合型選抜で大学合格」という「目的」や、「発表会(プレゼンテーション)」を前提として活動を決めていくと、「あそび」ではなくなってしまう。

高校の授業でやる場合は、もちろん「あそび」ではないのだから、それでいいと思いますけど、いわゆる「自走していく」みたいなときには、この「ひとりあそび」のなかの「あそび」要素が必要なのだろうなと思います。

第1章 街に走りに出てみよう。
最初に提案される「ひとりあそび」は「ランニング」だ。

えっ。ランニング?ってちょっとビックリしてしまった。
ここでいう「ランニング」は、「競技スポーツ」ではなく、「ライフスタイルスポーツ」としてのランニング。目的がある(勝つ・タイムを上げる)ランニングではなく、身体を動かすことそのものを楽しむためのランニングだ。

宇野さんは、旅先でもランニングシューズを持参し、朝走っているということなのだけど、これもなかなか面白い視点だったのでメモ。
~~~
住人と旅行客の振る舞いに差が出るのは、それぞれの目的が違うからだ。住人が日常の暮らしのために街に出るのに対して、旅行客は非日常の特別な体験を味わいに来ている。だから目に入るものも違えば、振る舞いに差が出るのも当たり前だ。

ところがランナーになったとき、住人と観光客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、ランニング中は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っているときは、その差はまったくなくなるのだ。
~~~

「目的」が異なること。「走る」ことそのものを楽しむこと。フラットさとは、まさにそこから生まれているのかもしれない。その昔やっていたmixiグループ「いっとうや友の会」を思い出した。好きっていうだけで、こんなにも人はすぐ仲良くなれるのかと思った。

そして、今回の本のハイライト、「ゲーム」にハマっている高校生へのメッセージがアツい。

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君がいま、普通にゲームを「攻略」しているのだとしたら、君はプログラマーの組み立てた道を、指図どおりに歩いているだけに過ぎない。それでは「ゲーム」のおもしろさを半分も味わっていない。

僕がゲームを「攻略」してしまうとゲームのほんとうの「おもしろさ」がわからなくなるというのは、「攻略」という「目的」がゲームそのもののほんとうのおもしろさを覆い隠してしまうと思うからだ。

そしてそのゲームのほんとうのおもしろさとは、「攻略する」ことではなく「つくる」ことにある。自分で目の前にある情報を分析し、自分でルールをつくればそこにゲームが生まれる。たとえば君の目の前に4種類のマークごとに1から13までの番号が振られたカードがある。そこに「ルール」を与えれば、それはその瞬間にゲームになる。
~~~

「4種類のマークごとに1から13までの番号が振られたカード」つまりトランプのことなのだけど、それをゲームの素材として見ることができるかどうか。たぶんこれって、小学校の休み時間とかにクリエイトしていくものなのだろうけど。トランプゲームでルールが決まっているのだとしても、いわゆる「ローカルルール」(〇〇縛りだったり)を生み出していくことでゲームはクリエイトされていく。

さらに、ゲームの先には「読書」があると宇野さんは力説する。読書とは「ゲームをつくる」ことだし、「補助輪を外した」ゲームなのだと。

~~~
本を読むのが苦手な人は、本を読んで「考える」ことのおもしろさを知らない人がほとんどだ。本を読むと、他人の考えに触れて思うこと、考えることが自然と湧いて出る。これが面白いのだ。実はほとんどの人は、知識を得るという「目的」をもって本を読んでいるために、本を読むことそのもののおもしろさを見失っていると思う。

本当の読書のおもしろさは、むしろわからないことや、はっきりしないことをその本を書いた人の意見を参考にしながら、一緒に考えることにある。だからほんとうにおもしろい読書では、人は安心しない。答えを聞いてスッキリもしない。その代わりにワクワクして、自分ならこうするとか、前に読んだ本の内容と組み合わせるとこういうことが言えるんじゃないかとか、そういった自分の考えがモヤモヤと立ち上がってとても興奮してくる。これがほんとうの「読書」なのだ。

コンピューターゲームとは言ってみれば「知識」を得るという目的の代わりに「攻略する」という目的を与えた読書のようなものということがわかる。「知識を得る」よりも「攻略する」ほうがよりはっきりと成果が確認できるので、簡単に充実感が手に入る。

誰かにつくられたコンピューターゲームをプレイしているとき、人間はコンピューターから、この情報をこういうふうに整理して、こう扱うと、問題が解けますよ、と親切にガイドしてもらっている。

本を読むという行為は、「他人の考え」という、世界に莫大に存在する情報を前に、自分で問題を、ゲームをつくり続ける行為だ。

ゲームにおけるコンピューターのプログラムとは、自転車の補助輪のようなものだ。少し練習すれば、誰でも補助輪を外して自由に走ることができる。それが読書なのだ。
~~~

コンピューターというガイド的な「補助輪」を外し、自ら「あそび」つづける人になること。それはYoutubeのレコメンドを外して観ることなのかもしれない。そしてそれこそが18歳までの宿題なのかもしれない。

「補助輪のついた自転車」にいつまでも乗っていていいのか?と宇野さんは問いかける。

~~~P192より
僕くらいの世代の人にとって、ゲームというのは一番総合的な、つまりいろいろな要素が混じり合った、一番進化した表現だと考えられていた。小説には言葉しかない、映画には言葉に加えて音と映像がある。そいてゲームにはそれら全部に加えてプライヤーが物語の中の状況の変化に対応できる。だからゲームが一番すごいものだという考え方が当時の若者を惹きつけていた。しかし、いま振り返って考えるとこれは逆なのだ。むしろ、言葉や映像を自分の目と耳と頭でしっかり受け止めて、つくり手と一緒に考える(解釈する)という行為ができない人のための補助輪が紺ビューターで、その補助輪がついた自転車がコンピューターゲームなのだ
~~~

終章であらためて宇野さんはネット上で「石を投げる」世界の現状を憂うと共に、ひとりあそびをすすめる。

~~~
インターネットは、世界中のほとんどの人に、「発信する」能力を与えた。

それまでテレビなどが担ってきた「他人の物語に感情移入すること」よりも気持ちのいいことをひとつ、覚えてしまった。それは「自分の物語」を「発信する」ことだ。

いま人々は、20世紀のころほどは、「他人の物語」に感情移入して生きてはいない。その代わりに「自分の物語」を発信することに時間と労力をつかうようになってきている。

人間には「他人の物語」に触れて、そこで描かれているものが心に侵入してきて、それ以前と以後ではがらりと自分が変わってしまう、そんな体験をすることがある。

「他人の物語」に「共感」しても、「自分の物語」を「発信」して、その内容に共感した人から「いいね」をもらっても、自分自身は何も変わらない。「共感」できない「他人の物語」に侵入されたときこそ、人間は決定的に変われるのだと思う。

「他人の物語」に侵入されて、自分が変えられてしまうことでしか味わえないことが世界にはたくさんある。なぜならばそうやって自分が心の奥から変えられてしまうと、そのたびに世界の見え方ががらりと変わってしまうからだ。
~~~

ラストに、ひとりあそびを発信せよ、と語る

~~~
人々に向けられていない発信、自分のために書かれた発信が増えれば増えるほど、世の中は多様に、豊かになると考えているのだ。

自分のための、人間ではなくてものごとや場所に対して向けられた発信は違う。自分がそのものごとのどこに、どう、興味をもってどう感じたのか、誰の顔色もうかがわない発信は人それぞれの異なった考えがそのまま発信されるので世界をどんどん多様にしていく。

自分が日々何を感じて、何を考えているか、「あそび」を通して世の中の見え方がどう変わっていくのかが、言葉にすることでだんだんとわかってくる。
~~~

いいなあ。少ししか読まれていない読書ブログを発信している僕にとってはとても励みになる一言でした。

こんなふうに、ほんとうの「あそび」を手に入れること。
コンピューターという補助輪なしに、自転者がこげるようになること。

そんな「あそび」を自走できることが高校生までにできるといいな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 11:55Comments(0)日記

2023年12月28日

PUBLIC HACKで「まち」と「まなび」を楽しむ


『PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う』(笹尾和宏 学芸出版社)

「マイパブリックとグランドレベル」以来の衝撃。
参考:マイパブリックと参加のデザイン(23.5.8)
http://hero.niiblo.jp/e493048.html

冒頭から
「賑わいや集客によらずにまちの魅力を高められないか。」と問いかけてきます。

そして、続けます。
~~~
私たちは忙しく生きることを余儀なくされています。勤労であることが賞賛され、余暇を満喫することは軽んじられてきました。加えて、失敗することが許されず、ひたすら成功を追求する価値観が支配する社会で生きています。

そういう社会で生きていると、ものになるかわからないけれどゼロからつくりあげる「満足」より、すでに完成されて結果が保証された「満足」を知らず知らずのうちに選んでしまいます。

こうして私たちは、手近な快楽に抗えなくなります。手近な快楽は、それと引き換えに、私たちから「自分で探し求める力」を奪い、「そう行動すべき」と仕組まれている状況に違和感を持たなくさせます。
~~~

「コスパ」や「タイパ」を指標としてすべてのものを測るようになってしまうこと。
「賢い消費者」としてのふるまいを、人生の始めから終わりまで強いられること。しかも、無自覚に。
これは、かつて尾崎豊が歌った「仕組まれた自由」なのではないか、そんな風に思いました。

仕組まれた自由という「不自由さ」に抗う人たちが、
地方や農業、地域おこし協力隊、あるいは地域みらい留学を志向しているのではないか、と僕は思います。
著者は、数々の「PUBLIC HACK」の実例を見せながら、町でもっと遊ぼう、と誘います。

僕がこの本を買ったのは、この本に掲載されている「流しのこたつ」を実践されている奥井希さんの活動に参加し、本屋という「リアルメディア」についてあらためて考えたからです。

参考:「リアルメディア」という参加のデザイン(18.11.2)
http://hero.niiblo.jp/e488340.html



著者は「ルール」について次のように述べます。
~~~
ルールはその時々で判断が狂わないよう、どう解決するかが定められた「関係者共通の決めごと」と言えます。ルールができる以前の解決手段だった「当事者同士のやりとり」を省略するツールです。その判断の良し悪しがいつ何時も変わらないならルール化は有効な手段です。

当事者同士でやりとりをするという柔軟な対応ができれば、お互いの望みを叶える最適解を導ける可能性があります。

ところが、ルール化をしてしまうと、当事者同士でやりとりする余地が消えてしまい、より優れた答えを導く可能性を放棄することになるのです。

「ケースバイケース」という考え方を放棄することは、合理化・効率化をもたらすと同時に、判断をルールに丸投げする思考停止を進めることになります。

ある状況を解決するための手段としてつくったルールは、いつの間にかそれ自体を守ることが大切であるかのように目的化されます。
~~~

これもまさにそうですね。高校生の寮についても、同じことが言えます。
大城美空さんが体感したフォルケホイスコーレで夜な夜な行われている、対話の時間を思い出しました。

参考:はじめに「越境」ありき(21.8.1)
http://hero.niiblo.jp/e491941.html

著者は、現在おこなわれている「公民連携」は、「公共空間の管理運営事業の収益化」であると言い切り、それでいいのか?と問います。

ラスト、痺れすぎてたくさん引用しちゃいました。

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まちの自由度が高まり、自分のやりたいことがまちでできるようになることで、個人の満足感が達成され、それがそのまちへの「私」の意識を高めます。そして、そのプロセスの中で場所とのコミュニケーションが生まれます。

供給側が用意したプログラムに参加しても印象に残るのはそのプログラムの内容ですが、個人のやりたいことが実現できると、自分のやりたいことを受け止めてくれた場所に対する思いが芽生えます。

また、その場所を大切に感じながら関わり続けていくなかで、他の利用者や管理者とのつながりが育まれ、最終的にまちへの愛着につながります。

それぞれが利害関係のある目的意識のもとで同じ空間を共有していると、ただ何もせず、その場でお互いの存在を許容し続けることができなくなります。

人があるまちを訪れるのは、そこで「人が楽しそうにしているから」です。そのまちにやってきた人がもっと滞在しようと思うのも、そのまちで「人が楽しそうにしているから」です。

純粋に「やりたい」という思いを持った人の企画は、内容も集まるコミュニティもオリジナリティを帯びます。企画者が満足すれば、「またやりたい」という継続性が生まれ、それに参加した人が「自分もやりたい」と始めれば、アクティビティの多様さにつながります。
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うー。これ、探究的な学びとかマイプロとか、「若者を活かしたまちづくり」とか、全部に刺さってきますね。そして高校や地域自体が「利害関係(たとえば、評価)のある目的意識のもとで同じ空間を共有していないか?」という問いかけにもなってます。前向きなベクトルの強い「学びのコミュニティ」にも、同様なことが起こらないか、非常に気になります。

そしてもうひとつのキーワードは「寛容性」について

~~~
経済性やジェンダーの分野でマイノリティとされる存在が住み続けたいと思えるまちには寛容性がらあり、そういった町ではクリエイティビティに満ちた開放的な文化が生まれ、その先にイノベーションにあふれた企業が生まれるというロジックが示されています。

「まちの自由度」を支えているのは、まさにこの「寛容性」です。目新しく見慣れない行為=PUBLIC HACKの種をそのまま許容しようという考え方が働くのは、まちが寛容性を備えているということに他なりません。

まちの自由度は、寛容性によって支えられ、それがまちに創造性を生み出すのです。まちの自由度が高まると、自らの欲求に従順になり、創意工夫に基づく独創的な行為が公共空間に生まれます。これらの行為は、誰にも目に触れる場所で行われるため、偶然通りがかった人が登場人物になってら参加し、出会いが増えます。「出会い」は創造性を高める重要な要素であるとされています。
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「寛容性」とっても大切。麒麟山公園には、〇〇禁止とは一切書いていなくて(だからバーベキューもキャンプもできる)、ただ一言「ゴミは持ち帰りましょう」って書いてある。まさにこれ、まちの寛容性だろうな、って。

さらにPABLIC HACKと「地域活性化」について
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私的で自由な行為は、地域活性化に役立つかと言うと、一義的には役にたちません。

別に社会のため、まちのためではなく、自分本位のモチベーションでやっていることなので、メッセージ性はありませんし、社会の課題にメスを入れるような強い想いも不要です。制度化されるほどの大きなムーブメントを目指しているわけでもありません。

事業価値のある汎用性のあるビジネスモデルとは言えず、事業化されて広がっていくこともありません。つまり、世の中に普及すべきものとしては位置づけられておらず、あくまでそれで得られる成果の大部分は、私たち自身の満足感です。

でも、「それでもかまわない」と言いたいのです。私たちの自分本位な行為はそれをやっている本人が満足している限りまちに表出し続けます。その行為を何に波及させるか、活用するか、ではなくその行為が行われているまちの現場そのものが価値になります。

そんな行為ができる環境と、それを実践する人がいること自体がすでにまちの値打ちなのです。

本人が続けていきたいと思える満足感が得られていて、さらにそこに触れた人がそれぞれ私的で自由な行為を連鎖していけば、個人プレーがまち中に広がり、いつの間にかまちの風景を変えていきます。

私的で自由な行為を倣うべき「モデル」ではなく、「ケース」として捉え、それぞれの個別解としてケースが積み重なっていくことによって達成されるPUBLIC HACKが、まちの魅力を高めていくのです。
~~~

「まちの魅力」とは、なんだろうか?そんな問いにあふれています。

移住者たちの個人店が立ち並ぶまちも素敵ですが、宮崎県立飯野高校のような、高校生が町をフィールドにして躍動している場所の空気感はまた違った魅力があるのだろうなと思うのです。

最後に、著者は新しい都市像を提案します。
~~~~
量から質に価値が転換され多様な個性が良しとされる現在、PUBLIC HACKを通じた「自分で何をしたいかを見出し実践することができる生活文化の醸成」は、市民1人1人の自律性を高め、質の高い多様性のある社会を実現し、まちの持続性を高める一助になりうるのではないでしょうか。

公共空間を通じた地域の活性化を志す時、事業化に直ちに舵を切って、他の選択肢を放棄するのではなく、たくさんの市民による一時的な利用を積み重ねていくことによる活性化の可能性を検討してみてはどうでしょうか。市民に「~させる」という使役動詞型の取り組みに依存せず、市民が自ら「~する」という自動詞型の取り組みを通じたまちの魅力づくりに目を向ける必要があると言えます。

PUBLIC HACKでは、「楽しむ」という価値は与えられるのではなく、自らその力を高めることによって獲得されます。それは、自分の人生をより自分のものにするための鍛錬だとも言えます。自分が楽しめる時間を増やすことで、生活そのものが楽しくなるように、小さなアクションであっても継続していくことで、結果的にまちの姿が変わっていくのです。

PUBLIC HACKを通じて、都市生活者は、都市というシステムに生かされる受動的生活者にとどまるのではなく、自ら能動的に都市を生きることができるようになります。そうした状況が多数集まり続いていくまちにこそ、私たちが望む都市像が体現されるのです。
~~~

これ、都市生活者=生徒、まち(都市)=学校、生活=学び、学習と置き換えても、いいのではないかと思います。

▽▽▽以下置き換え
PUBLIC HACKでは、「楽しむ」という価値は与えられるのではなく、自らその力を高めることによって獲得されます。それは、自分の人生をより自分のものにするための鍛錬だとも言えます。自分が楽しめる時間を増やすことで、「学び」そのものが楽しくなるように、小さなアクションであっても継続していくことで、結果的に「学校」の姿が変わっていくのです。

PUBLIC HACKを通じて、「生徒」は、「学校」というシステムに生かされる受動的「学習」者にとどまるのではなく、自ら能動的に「学校」を生きることができるようになります。そうした状況が多数集まり続いていく「まち(学校)」にこそ、私たちが望む「まち(学校)」像が体現されるのです。
△△△

「地域で(をフィールドに)学ぶ」っていうのは、そういうことなのだろうな、と。
「生徒の進路実現」と「まちづくり(地域活性化)」のあいだにある、どちらにも属していない余白のある「学び」。

それを「自らつくっていくこと」そして「楽しむ」こと。そういう現場を地域の大人たちと「ともにつくる」まちにしていきたいな、と。

本書のP52「流しのこたつ」のふたりの言葉がカッコいいので、最後に引用を。
~~~
こたつを目的地まで電車で手運びする風景や、外に持ち出している風景を他の人が見ることで、「よくわからないもの」に対する社会の許容度を広げたり、誰かがやろうとするハードルを下げたりするきっかけになればと、2人は語っています。

2人は、何かゴールを掲げてそのためにこたつを広げているのではありません。予測を超えた面白さや出会いへの機会として、流しのこたつそのものを楽しんでいます。
~~~~
めっちゃ素敵だし、アーティストだな、と思った。
そんな活動を許容できる町に暮らしていきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)日記

2023年12月09日

悪魔のように細心に、天使のように大胆に


「妄想する頭 思考する手」(暦本純一 祥伝社)

スマホに使われている「スマートスキン」というマルチタッチインターフェースを発明した暦本さんのエッセンスに詰まった1冊。

キーワードが詰まっているし、高校生に説明するときに、その入り口はいいなと思い、メモします。

~~~
「イノベーションのスタート地点には、必ずしも解決すべき課題があるとはかぎらない」

「真面目:課題を解決する」「不真面目:真面目を逸脱する」
⇒真面目と不真面目は「真面目度」を計る価値軸の上に乗っている。
「非真面目」
⇒真面目度の価値軸の上に乗っておらず、上司や先生の命令に関わらず、やりたいことに集中している。

課題解決型の真面目なやり方だけでは、予測不可能な未来に対応するイノベーションを起こすことができない。
素人のように発想し、玄人のように実行する

悪魔のように細心に!天使のように大胆に(黒澤明)
「天使度:発想の大胆さ」「悪魔度:技術の高さ」

「言語化」:WHAT(何を)WHY(なぜ)やるのかを説明するツール。

「やりたいこと=クレーム」は一行で言い切る。
クレームは「答え」ではなく「仮説」で。

やりたいジャンルはクレームではない
始める前にあらすじを書く
・課題は何か?それは誰にとって必要なものか?
・その課題はなぜ難しいのか?あるいはなぜ面白いのか?
・その課題をどう解決するのか?(ココが一行クレーム)
・その手法で解決できることをどう立証するか、どう決着をつけるか
・その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の可能性

これを12月23日「星影書店」をベースに書いてみる。
https://hoshikage1223.peatix.com/

〇一行クレーム
「就職活動をスペックのマッチングからベクトルのマッチングへ換える本屋さん」

〇課題は何か?それは誰に取って必要なものか?
・学生:業種や業態、給与などで就職先選ぶのではなく、社長の人柄やビジョンで共感できる会社と出会いたい。
・企業:優秀な(面白い)学生は、(スペック・知名度が低い)自分の会社を選択肢に入れてくれない。

〇その課題はなぜ難しいのか?
・学生:すでに出来上がっている巨大な就活システムがそのような仕様になっており、それを前提としている
・企業:上記システムを活用するには費用がかかる、スペック勝負だと、検索・検討されにくい

〇その課題をどう解決するのか?
就職活動を「スペック」のマッチングから「ベクトル」のマッチングに換える本屋さん

その手法で解決できることをどう立証するか、どう決着をつけるか
1 10名程度の企業経営者へインタビューを行い、15冊~20冊程度の本棚をつくる。
2 一定期間本屋さんを開店し、主に大学生を対象に販売する。
3 本を購入した人が会社・経営者にアクセスができる仕組みをつくる
4 実際にマッチングが起こるか検証

〇その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の可能性
・就職活動中以外の学生や若手社会人との接点がつくることができる。
・複数回の実施、他地域での展開の可能性。
・ウェブサイト、SNS上での再現性の可能性。

~~~
いいですね。こういうの。
プロジェクトのはじまりって感じです。

この方法で、ひたすらに打数を増やしていくことだと暦本さんは言う。
「一行のクレームを書いてから決着をつけるまでの最初のサイクルを短くすることが大事だ。そこに時間をかけていると打数は増えない」

なるほど。
これは高校生でも、大学生でも、むしろ大人になっても、ずっと同じだろうと思う。
だからこそ

1 クレームの素材を集めるためにアンテナを張る
2 クレームを書けるようになる
3 クレームを検証(アクション)する
4 ふりかえって、次のクレームに備える

みたいな繰り返しをやっていくことが大切なのだろうと思う。
まだ第2章です。読み進めるのが楽しみです。
  

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2023年12月03日

己の唯一無二性に気づくため「座標軸」の外に出る


「ケアしケアされ、生きていく」(竹端寛 ちくまプリマ―新書)

まずはP22 子ども基本法第三条第三項より

「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること」

なるほど。
寮のルールとか勝手に決めちゃいけないんですね。子ども基本法違反なんです。
授業のカリキュラムもどうなんでしょうか。

次にwith-nessについて。
~~~
about-nessな考え方:「〇〇について考える」やり方で、問題を対象化して「客観的に」分析する思考。常に問題を細分化・他人事化しやすいし、他者の問題なら「それは〇〇が悪い」と上から目線で指導や指摘をしやすいです。

with-nessな考え方:「〇〇についてあなたと私が共に考え合う」という姿勢で、物事を切り離して分割するのではなく、どのように関連づけられそうか、いかに相互作用が起こるのか、を大切にします。まずは相手が悩んでいること、しんどいこと、苦しいことを遮らずに最後までじっくり聞いてみる。相手の話を否定せずにまるごと受け止めてみる。その後、その話を聞いた自分は心の中にどんなことが浮かぶかを、私を主語にして、話し始めてみる。それがwith-nessなアプローチです。
~~~

ケアの種類について

~~~
1 関心を向けること Caring about
2 配慮すること Caring for
3 ケアを提供すること Caring giving
4 ケアを受けとること Care-receiving
5 共に思いやること Caring with:複数性、コミュニケーション、信頼と尊敬、連帯感
~~~

そして手厳しい「昭和98年的世界」の描写
~~~
「迷惑をかけるな憲法」と同じような「呪いの言葉」としての「頑張れば報われる」は、「報われるためには頑張らなければいけない」:根性論「頑張らないなら報われなくても仕方ない」:自己責任論へと転化してしまう。

学校は標準的で規格化された学力を埋め込むための「学力工場」になっているのではないか。

パウロ・フレイレは「教師が一方的に話すと、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚えるというだけになる。生徒をただの『容れ物』にしてしまい、教師は『容れ物を一杯にする』ということが仕事になる。『容れ物』にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に『容れられている』だけがよい生徒になってしまう。」と言い、それを「銀行型教育」と名付けた。

知識を預金するかのようにため込む時、「なぜ?」「どうして?」という問いを抱えること自体が無駄になります。黙って暗記した方が、たしかに「効率的」です。でもそれは自らの中で湧きあがる「問い」を消して「正解」ばかり追い求める行為になります。そして、そのような「問い」を消すことは、私自身にとっては「学びの自発性」の炎を消すことでもあったのです。
~~~

昭和的な「正解≒効率化」がある時代から、標準化・規格化された「正しい答え」を失った令和の時代。世の中が変わってしまったのに社会のシステムと人々の思考がアップデートされていないことで生きづらさが増しているのではないか、と筆者は言います。


最後のケアの項目から、「共に思い合う関係性」(P 164)

~~~
中核的感情欲求(伊藤絵美)
1 愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい
2 有能な人間になりたい、いろいろなことがうまくできるようになりたい
3 自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい
4 自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい
5 自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい

この要素が満たされない状況
1 人との関わりが拒絶されること
2 「できない自分」にしかなれないこと
3 他者を優先し、自分を抑えること
4 物事を悲観し、自己や他人を追い詰めること
5 自分勝手になりすぎること

ケア対象者の中核的欲求を満たすためには、どうしたらいいのか?

P168 岸政彦さんが提唱する「他者の合理性の理解」のための「生活史」の把握

「生活史とは、出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積である。そしてその連鎖と蓄積を通じて、人生そのものに『意味』というものを付与していくのである。私たちは自分の経験、出来事、他者、場所などに、常にさまざまな意味付けをおこなう。それは希望に満ちたものでもあるだろうし、絶望的なものでもあるかもしれない。わたしたちの人生の中心には意味があり、その意味をめぐって私たちの人生は展開する。意味によって人は生かされていて、そして生きることで意味が生み出されていく。」

あなたが誰かをケアする際には、ケアする相手の「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」を理解する必要があります。その人は、これまでの人生にどのような「意味づけ」を行ってきたのか。これから、いかなる意味づけを行っていこうとするのか。本人の過去の意味づけと、未来への展望をうかがいながら、では自分はそこにどのように能動的に関わっていけるのか、を考えていきます。ここで能動的と述べたのは、絶望的な意味づけが希望的な意味づけに変わるように積極的に関与しケアすることができるか、という視点です。

伊藤絵美さんによると「他者を優先し、自分を抑えること」の中には、「『ほめられたい』『評価されたい』スキーマ」が、「物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること」の中には、「完璧主義的『べき』スキーマ」が存在する、といいます。(スキーマ:無自覚・無意識の認識のパターンやクセのようなもの)

そんな他者の生活史の理解を通じて、他者がいかなる中核的感情欲求をどのように満たされたか、満たされていないか、を把握していくプロセスは、「他者の他者性」に気づくことであり、それを通じて「己の唯一無二性」を捉え直すことでもあります。

「他者の他者性」とは、「他者には、自分には理解し得ない他者性がある」ということです。

ものごとを決めるときにも、その前提で進めていくときに大切なことが、「違いを知る対話」と「決定のための対話」を分けるということです。

学級会であれ会社の会議であれ、話が揉めるのは、価値観が対立した際です。その前に、お互いの価値前提を聞き合う時間があれば、話は違ってきます。なぜあの人は私と反対の意見を持っているのか、そこには必ず理由や背景があります。

他者の他者性を理解するプロセスの中で、彼女がそうせざるを得ない出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積(≒他者の合理性)が理解できてきます。すると、彼女を許せるだけでなく、彼女にイライラした自分の内的合理性も理解でき、それをも許せるようになってくるのです。

「迷惑をかけるな憲法」とは、まさに魂の植民地化そのものです。中核的感情欲求の1つ、「自分の感情や思いに蓋をして、「他者を優先し、自分を抑えること」に必死になる姿です。学生たちも私も、制度的な植民地状態に生きているわけではありません。言論の自由が保障された日本社会に暮らしています。でも、「個々人の精神が内部で深く植民地化されている」のです。
~~~

いま・ここ、の不確実性に身をさらすこと。これはめちゃくちゃ怖いことです。何が正解かわからない状況にあるなかで、自分が言ったことを理解してもらえるか、受け入れてもらえるかどうかわからない。それは自分が傷つく恐れもあり、不安感も高まる状況です。

でも、それが己の影だとしたら、どうでしょう。影を無視して、他者との出会いによる葛藤を回避して、スムーズな日常に逃げ込むことによって、己の唯一無二性に出会うチャンスをも見失ってしまいます。それは中核的感情欲求を満たすチャンスを見失うことであり、「世の中なんてどうせそんなもんだ」と諦めて、自己責任的社会を消極的に受け入れ、自分自身が縮こまっていきます。それこそが「魂の植民地化」なのです。

魂の「脱」植民地化とは、この葛藤の最大化場面において、他者を信じて、他者や己との対話を豊かにしていくプロセスなのではないかと思います。落としどころや見通しの利かない場面で、とにかく他者の他者性を理解しようと、全身で聞き耳を立てる。そういうふうに、相手に自分をさらけ出すことで、相手との間に信頼関係が生まれ、そっから相手も自分の声を聞いてくれる展開が生まれる。そういう不確実さをそのものとして大切にする姿勢の中から、「違いを知る対話」が生まれてきます。そしてあなたがそう心がけさえすれば、いま・ここ、でその対話を始めることもできるのです。

それこそがケアに満ちあふれた対話なのです。

他者の他者性に出会った上で、どのようにいま・ここで己の唯一無二性と関係性のダンスを踊れるか、が問われています。正直、ダンスを始めてみないと、そのダンスはどこに行き着くか、わかりません。
~~~

いいですね。このラスト。グッときます。

ケアする、ケアされるということ。
それは共に思いやること。
相手の他者性に気づくこと。
それを通じて己の唯一無二性に気づくこと。

「アイデンティティ」という問題の解決策のひとつがここにある、と思いました。

他者の生活史の物語を知ること。
「出来事の選択と理由」の連鎖と蓄積を受け止めること。

それはある意味、自分が築いてきた「座標軸」の外に出ることを意味するのかもしれない。
己が唯一無二であること。

それは他者で他者であることの自覚から始まっていくのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 12:11Comments(0)日記

2023年11月22日

関係人口は「一緒にやる」「場と余白」がつくる

「名所じゃない観光」Day1でした。

ゲストは香川県三豊市の石井さんと鳥取県南部町の井上さん。

メモ:石井さん(香川県三豊市 Cafe季)
洋菓子店⇒古民家でお店がしたい
Cafe季(とき)を開設

テーマ「地域のアップデート」
カフェ季(とき):地産地消:消費者と共に生産者を応援できる拠点
⇔シェアハウスNAE:移住支援:ヨソ者と地域、人と人をつなぐHUB拠点
おためしカフェ

ジュージュー会:毎月10日に行う焼肉会

三日月の夜会:ウチの町にないものをひとつ実現するには?というテーマでディスカッションする
地域の人と未来に向けての話がしたい、マッチングのミスを減らしたい。
ヨソ者のアツい思いをどのように地域の人が受けとめるか。

やり方。
模造紙、町内のマップ:町内にあるもの、景色が綺麗とか、魅力の洗い出し
この町に住むとしたら何が必要か?ハード、ソフトでないものをひとつだけ企画する
サイコロで予算を決めて、実現するための妄想アイデア出しをする。
⇒こうやったらできるよ、っていうところまでやっていく話し合い。
⇒マップが成長していく
⇒空き家ができたら、これやります、みたいな。

「一緒にやる」っていうのが大事。
シミュレーションゲームを行う。

カルチャー:大人の部活動:草木染、キャリアカウンセリング

メモ:井上さん
「食べて泊まれる寄り合いの場 てま里」でゲストハウスと子ども向け英会話教室を運営して5年目
好きなもの「旅×子ども」⇒ゲストハウス×英会話教室⇒いろんな価値観や職業の大人に出会える機会。
親でも先生でもないけど子どもと大人をつなぎたい。

てま里は、里山のくらしと、人のあたたかみを分かち合える場所。
宿やカフェは手段で、目的は、鳥取県南部町の手と手、自然の間に込められたあたたかみを世代、住む場所、性別を超えて分かち合うことです。

ゲストハウス+カフェ+交流スペース
土日になると小学生が何かつくってる

親子ワーケーション(農泊・てま里宿泊)を実施
全校17人の小学校に体験入学
ちょっとのんびり滞在⇒日常~非日常が溶ける感覚
子どもにとって特別な「何か」が見つかる旅

★お互いを知る時間:オンラインでつなぐ
★五感を感じる体験
★偶然の出会いとあたたかさ

トークセッション
★移住したきっかけ
石井さん:古民家でお店をしたい。
地域でビジネスをする:ハードルが高い
⇒地域おこし協力隊でコミュニケーションを図りながら起業する。
パティシエ+子どもの食育⇒カフェ
井上さん:ゲストハウスで英会話ができるところ
絵(画)ファーストの移住
つながりから場所が見つかった!⇒地域おこし協力隊の枠に入れてくれた。

「地域の人」「地元」の定義が違う。
家具をつくるイベントをやり続ける。

「この人にまた会いたい」
⇒お互いが一参加者ではなくて、余白のある場でコミュニケーションを取っているか。
⇒プログラムに余裕を持っていた方がいい:偶然的な機会
⇒一方通行じゃないで一緒につくる場

町の小学生限定で、外国人とかキャンプとか農家さんと料理をしたいとか。
⇒「料理をする」っていうコミュニケーションはありかもしれない。
イベントを月に1度くらいやっていた。
芝生で朝ごはんを食べようとか
食材を活かしたカフェメニューづくり
地域の人にイベントやってもらう:絵本メニュー作りとか

どんなカフェが必要ですか?
⇒カフェをやるという前提になる。
⇒どんなものが必要か?できたときに来てくれる(確認したくなる)

フィールドワークで「人目が気になる」⇒カフェの配置で目線が合わないように設計
話を聞いていくこと。他人事をいかに自分事にするか?感情論を汲み取って、反映していく。

話をただ聞くのではなく、「農家の手伝いをする」などの双方にメリットがあるような
「観光」じゃなくて地元の人が楽しんでいるイベントに外の人も呼べる
地域の人が一緒に何かをつくってる、これからの話をしている、その場に参加してもらう。
それを余白のある場にできたらまた会いたくなる人になる。

名所じゃない観光=ホームステイ
探究カードで行き先を決めるとか

~~~
関係人口ってつくるものではなくて、「一緒にやる」「場と余白」によって、つくられるものなのだなと。

関係人口って、厳密には数値化されないと思うのだけど、やっぱりそれを「個人」としてカウントするのではないほうがいいような気がしますね。

場というか、環境によって、いつのまにか、なっていた、みたいなものなのだろうな。

いつのまにか、「一緒にやる=ともにつくる」仲間になっている、そんな場をつくりたいなあと。

まずは三日月の夜会の阿賀町バージョンでもやりましょうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:43Comments(0)日記

2023年11月18日

「主体性」という監獄


『学びの脱中心化~知的冒険としての学校教育研究』(田本正一編 大学図書出版)

読み直し
以前の読書日記はこちら
http://hero.niiblo.jp/e491788.html
(21.6.7 二人称的アプローチとアイデンティティ)

結局アイデンティティの問題に関心があるのだなあと。
今日は最終章(第12章):主体的な学びについての実存論的検討~本来的自己への変容としての学び より

11.14シンポジウムのつづきで、「主体性」について考えてみましょう。
~~~
そもそも「主体的・対話的で深い学び」や「主体的な学び」を行うに先立ち「主体」について明らかにしなければならないはずである。このことを欠いたままに、学習者が学校教育において振舞ったり、活動したりすることを自明視し、その学習活動を主体的な学びとして実践している場合が多い。主体をどのように捉えるかにより、学校教育の主体的な学びの目標や内容、及び方法は異なってくるはずである。

すなわち、主体的な学びの基礎付けが必要となってくるであろう。現状を鑑みると、主体は自明視され、学校的状況の中でよりよく振る舞うことがよいという常識に従い、主体的な学びが論じられ、授業実践されている。
~~~
いやあ、いいですね。こういうそもそも論。疑問を持つって大事だ。

ということで、まずは第1節:近代的主体の形成から
~~~
「『近代性』という特徴を持つすべての思考には、『個人を単位として、世界あるいは人間社会を見る』という共通の発想がある。

「自立した個」を構成単位とすることが、近代であるということが示されている。

近代は、普遍性、合理性を掲げる。つまり、一般的で超時間的な存在を認めるのである。さらに近代はその考え方を人間にも当てはめようとする。すると、人間は普遍的で超時間的な行為が可能であると考えられる。そのことで、状況や環境に埋め込まれた存在ではなく、それから超越した個人が誕生するのである。

このような「自立した個人」を想定すれば、様々な近代社会のシステムを統一的に説明することが可能になる。

「自立」:近代における構成単位
「自律」:自らの行為等をコントロールできること

学校教育の場合は、まさしく自立した個人が自律的に行為することが求められているのである。それを「主体的な学び」と考えてきたのである。

近代は普遍性、及び合理性に強く依存する。さらに、それらを原理として自律した主体を成立させる。その主体は、常に適切な判断や自由な選択が可能となる存在であると考えられているのである。

澤井陽介によれば「主体的な学び」とは
1 興味や関心を持っていること
2 見通しを持っていること
3 粘り強く取り組んでいること
4 自分の学びの振り返りができること
となるが、これらは自律した主体が前提となっており、それは、客体である対象を操作し、支配することができる主体を自明視する近代的な人間観である。

学校という場で自由に学ぶ姿こそが主体的な学びであるということができるのである。

学校教育は近代の本質を貫徹しているといえよう。それはまるで学習者が学校で主体的に振る舞っているように思える。しかしそれらが主体的な学びであろうか。学校教育の実際からすれば、教師の指示通り、あるいは指示の範囲内で活動することも多々あろう。そこから逸脱して自由に活動しようとするならば、不適切であるとみなされ、許されない行為であるとみなされることもあろう。

ここでの疑問は、果たして近代に依拠した学校教育は、主体的な学びであるといえるのかということである。
~~~
いいですね。この問い。まさにまさに、です。

著者はフーコー『監獄の誕生-監視と処罰』から、「生の権力」について説明する。

~~~
フーコーは中世から近代へと移る際「死の権力」が「生の権力」へ移行し、その理由を規律・訓練に求める。その特徴は
1 配分の技術:特定の空間への各個人の配分
2 活動の取り締まり:時間割等を作成し、行為を方向づけていく
3 段階的形成の編成:些末な活動から始まり、次第に高度な活動を行えるように内容を編成していく
こうした一連のシステムは、軍隊、学校、病院などで認めることができる。例えば学校ではクラスという空間に配分される。さらにそこでは毎日の時間割が決められ、それに従って活動していく。また、授業規律などが決められる。ノートの書き方、姿勢、発言の仕方などがその例である。また、1年間で不十分な成果であると課題を与え、一定の水準に達することができるように指導していく。そうすることで、より高い次元へ移行できるようにするのである。つまり、規律・訓練が当然となり、学習者の規格化が成立していく。そのような場所の1つが監獄なのである。

生の権力は、死の権力のように恐怖心を与えていくものではない。むしろ、メンバーに共通の思考様式を身につけさせ、規格化させることで社会秩序を維持するという考え方なのである。いわば思考停止の状態を無意識に作られているとも考えられよう。
~~~

著者は学校でもまさに「生の権力」が蔓延している場所ととらえる。そしてその構造は「パノプティコン」(一望監視施設)だと説明する。

~~~
この施設における管理人は不可視の状態で、囚人は常に見られている状況が続いていると思い込む。すると、囚人たちはいつみられても困らないように自らの行為をよりよくしていくのである。すなわち、規律が効率よく徹底されていくのである。

こうして自らは好ましくない状況であっても、本人の意思とは異なり、受け入れていくこととなる。つまり行為の制御の内面化である。このような独房において可視化された個人がまさに近代の主体であろう。

以上のパノプティコンから次のような結論を導くことができる。それは主体化が服従化を招くという矛盾した結論である。主体の存立根拠は、前述した理性ある自律した人間観である。しかし、フーコーからすれば、それは疑うべき対象となる。すなわち、服従化によって初めて主体化が可能となることである。

それは近代が目指していた主体が虚構でしかないことを意味するのである。そうであれば、学校教育で実施されている「主体的な学び」も再考すべきであろう。フーコーの論から明らかとなる主体的な学びは、服従化においてのみ成立するものだからである。
~~~

「主体」とは何か、鋭く問いかけてくる著者。
このあとにハイデガーの「実存」について言及される。

~~~
現存在は各状況において「どうすべきか」という問いを立てざるを得ない。またその問いは自己についても向けられ、言及される。つまり、現存在は問う存在である。

<わたし>が存在するということは、<わたし>という自律した実体があるのではない。自己と状況とがアド・ホック(ad hoç)に構成されていることを意味しているのである。その意味では現存在は、1回限りのその都度的なものと考えることができよう。一般的に考えられている「いつでもどこでも誰でも」という学習者でないことは確かである。

我々は世界との関係によって構成されている。つまり、我々は世界を作り替えようと行為する。すると、世界が変わると同時に自己が変容するのである。すなわち、自己が世界を形成し、一方で世界が自己を形成するという相互構成的な関係となる。
~~~

「わたし」とは何か?
そんな出発点から考えていきたい人にはとても刺激的な一節ですね。

つづいて、レイヴ/ウェンガーの「状況に埋め込まれた学習」から

~~~
このことは、学習は知識技能の習得ではないことを意味する。すなわち、学習は状況との相互作用によって成立することを意味する。状況が学習者を作り、学習者が状況を作る。さらには学習活動が世界や学習者を作り出すような相互作用のことである。

学校における教師や学習者と、市民社会におけるあらゆる学習資源(ひと・もの・こと)の相互作用によって学習が成立するとみなすのである。すると、教師、学習者、学校、市民社会あるいはそれに関わる学習資源が1つでも欠けると学習は成立しないのである。この関係性を作り上げていくことで教師、学習者はともに変容していくことが期待できるのである。

レイヴらによると、学習は全人格(whole person)を取り込んだ社会的実践であり、その社会的実践への参加としてアイデンティティを形成していくことである。社会的実践の場は、目的が共通している共同体となる。したがって、学習は社会的実践の共同体でなされ、共同体における人々から意味や価値が与えられる実践となる。社会的な実践によって、学習者は共同体の一員としてのアイデンティティを形成する。一方で、共同体は有能な参加者を得てその維持、発展が可能となる。すると学習者は共同体へ参加するには正統的に、かつ周辺的なところからはじめる必要が出てくるのである。すなわち、正統的周辺参加である。

参加とは周辺から十全へと移行する軌跡を描く。つまり、参加は本物であり、周辺的なことから十全へ進む必要がある。

学習の生起は、何かしらの共同体への参加が可能にしている。したがって参加していないということはありえない。

正統的周辺参加からすれば、学習者は社会的実践の共同体に参加することによって、共同体の一員となるための学習が可能となる。参加によって社会的実践の共同体におけるメンバーとして変容していくのである。このような過程を学習と視れば、学習とは共同体への参加となるのである。
~~~
「探究」のキーワードとしての「正統的周辺参加」。まさにこれだなあと思っています。

著者がまとめます

~~~
正統的周辺参加によれば、学習を共同体への参加と捉える。したがって、学習を個人の内面に見る学習論とは決定的に異なるといえよう。さらに「学習はいわば参加という過程であり、個人の頭の中にはないのである。このことは、とりもなおさず、共同体参加者での間での異なった見え方の違いによって学習が媒介されるということである。この定義では『学ぶ』のは共同体である。あるいは少なくとも、学習の流れ(Context)に参加している人たち、といえよう。学習はいわば、共同体参加者にわかち持たれているのであり、一人の人間の行為ではない」

「正統的周辺性は、関連する共同体の結節点だともいえる。こういう意味で正統的周辺参加は権力のものであると同時に無力さのものであり、実践共同体での結合と相互交流を喚起するとともに阻止もする、というところなのである。

つまり周辺性は特定の共同体において熟達していないため、柔軟で他の共同体との交流を可能にすることを意味している。さらに「正統的周辺性のこのあいまいな潜在力こそが、この概念が通常は関係していると認められないような諸関係の結び目に近づくためのかなめになる役割を反映している。」と述べる。つまり、周辺的参加はある特定の共同体だけではなく、複数の共同体への参加を可能にしていく概念だと考えられる。

これらから周辺的参加は、初期状態に戻ることではない。ある共同体への参加によって形成されたアイデンティティを絶対的なものとせず、それ自体を批判の対象とし、柔軟に新たな世界を作りだそうとするのである。周辺的な参加への移行を志向すれば、1つの共同体にとどまらず、1つの共同体にとどまらず、複数の共同体を横断的に移行する可能性が開かれる。すなわち、共同体間を越境するのである。

ここでの越境とは、異なる共同体を自由に横断するのではない。それは複数のそれらをまとめたり、結びつけたりするものである。

過去の学びをリソースとして新たな共同体において変形させたり、結び付けたりして位置づけ直すことを意味するのである。そうすることで新たな自己へと変容するのである。
~~~
著者は「周辺性への回帰」と言っているが、これって「コミュニティ難民のススメ」とか「アンラーニング」とかの文脈でも説明できそうです。

参考:まるでCDのコンピレーションアルバムのように(16.10.24)
http://hero.niiblo.jp/e482541.html

参考:「自分」を揺さぶり「価値」を揺さぶれ(22.2.2)
http://hero.niiblo.jp/e492293.html

「越境」ってなんだっけ?って改めて考えてみる。

「主体性」という言葉を近代(もしくは「学校」)という枠内で捉えないこと。

それは本書によれば、学校という監獄モデルの服従化を前提とした主体性だし、長岡先生的に言えば、目的-手段の世界だし、そこだけが世界のすべてではないのだから、越境しなければならないのだと。その共同体(価値観・方向感を共有した場)を渡り歩き、周辺参加してみること。

「主体性」という監獄を抜け出すこと。
そんなことを考えていたら、1冊の本を思い出した。


『移住と実存』(瀬下翔太 企画編集)
この鈴木元太さんのところを読み直した。

『地域活動と高校生の〈主体性〉-生活・活動・進路の語りから』

衝撃的な言葉が躍る
~~~
僕は高校3年間を通して主体性・内発性を持った語りを身につけた。主体的にやりたいことを見つけ、内発的な動機のもと自身の生活、学び、キャリア選択を一貫して語ることができるようになった。これは良し悪しで判断できるものではなく、自分が無意識に引き受けたものだった。

「なぜあなたが主体性を持ってこの活動に取り組んでいるのか」を問われ続け、そして自ら問い直す作業を重ねることによって、僕は活動している理由を自らの内発的関心に由来する主体性と結びつけて語れるようになった。同じコミュニティの人とは文脈が共有された状態なのでそのまま固有名詞でしゃべればよいが、発表の場では前提となる文脈や個人的な関係性を一般化した言葉で話す必要が出てくる。その翻訳を行うことに成功した。

東京では、自分がやっていることが自分と社会の全体を作り上げているような感覚を保ち続けることが困難だからだ。津和野のような小さなまちだと、生活の延長でやっている趣味のような活動がもつ意味に、レバレッジがかかる。今までの語りが通用していたのは、地域社会のスケールが小さいからだったのだろう。僕は社会的な自己と主観的な自己とのあいだに乖離を感じるようになった。もっと言えば、自らの語りによって、自分自身が枠にはめられてしまうような窮屈さを感じるようになっていった。

津和野に行って良かったことは何かと聞かれれば、主体性がなくても生活できたことだと答える気がする。自ら主体性を持っていなくとも地域の集まりに誘われたり、偶発的に集まったり、なにかしらイベントが発生するのだ。主体性の有無を問わずに受け入れてくれたコミュニティはとても居心地がよかった。

では主体性を求めていたのは誰なのだろうか。ひとつは地方創生文脈だ。「あなたは何をしたいのですか?」という問いは「あなたはこのまちで何をしたいのですか?という意味合いを含んでいる。

もうひとつは教育文脈だ。近年は自ら問いを立てて、その解決のために情報収集したり、他者と協働したりするという学びのあり方が重視されるようになってきた。自ら問いを立てるために「あなたは何をしたいのですか?」「あなたが関心のある(社会)問題はなんですか?」といった問いが明に暗に投げかけられ、その問いに答えようとし続けてきた。
~~~

いやあ、怖いですね。
「主体性」という「価値」に適応する、適応できてしまう自分への問いかけ。

鈴木さんは、本文の中で、「主体性を削がないこと」と「主体性を問うこと」のあいだには大きな違いがあると説明する。

~~~
主体性を削がないことと、主体性を問うことのあいだには大きな違いがある。津和野の素晴らしい点は、主体性を削がない環境が整っていたところだと思う。けれども、自分の活動を積極的に意味づけして町外の発表会で話したり、地域おこし協力隊と同じ土俵に立ちたくて自分自身をまちづくりの文脈にのせて考えたりすると、主体性を問うばかりの環境がつくられてしまう。

主体性を問われる場なんて、社会に出ればいくらでもあるだろう、しかし、それは多くの場合、社会人として問われる主体性のことを指しているはずだ。いくつかの教育界隈では、社会人がキャリア選択で用いる自己分析の考え方を高校の探究文脈に流用しているケースがあり、僕もその教育を学校外で受けた。例えば、自分のやりたいことをプロジェクトにするためのワークショップとして、will,can,needの重ね合わせを探すフレームワークを使ったことがある。

このようなフレームワークに適応できる高校生もいれば、適応できない高校生もいる。それは言語化能力が足りないとか、主体性が足りないとかいうことではないだろう。高校生は大学生と異なるアイデンティティ形成の時期である。主体性を問うにしても高校生には別の方法論が求められるのではないか。

高校生と社会人の大きな違いは、高校生にはプライベートと仕事の区別がないことだろう。多くの高校生にとって仕事で求められるような主体性はないから、それを問われたら、自分の身の回りのものや生活から考えていくしかない。先ほどのフレームワークで言えば、willやcanは生活の中に見出すことになる。他方で、needについては、一足飛びに社会課題のような大きなトピックになってしまう。

その結果、コミュニティやまちづくりのような、小さなところからコツコツと進め、最終的には社会全体にその取り組みが波及するようなストーリーに辿り着く。本来、プライベートな生活に主体性なんて求められなくても良いはずだし、それを社会的な文脈にのせて語る必要もなければ、社会から共感を得る必要もないはずだ。
~~~

そして「主体性」を問い続ける現在の教育現場に警鐘を鳴らす。

~~~
ひたすら問い続けていくということは、一貫した自我の存在を前提に、自らの自由意志に自信がなければできない。高校時代の僕は、自ら問いを立てたり、他者に問いを投げかけたりすることを無批判に善と捉えてきたけれども、それは負荷の高いことだと今は感じている。

高校生が自らの「主体性」に依拠した行動を続けると、自分の生活を延長させたり、身の回りの出来事への感度を上げたりして、それらに対する意味づけばかりするようになる。そうすると、未知の選択肢を好奇心で選ぶことをしなくなる。

自分自身、自らの主体性を問うことを重視した結果、選ばなかった選択肢がいくつもある。例えば、とりあえず面白そうだからプログラミングを勉強してみようかな、と考えるようなことはなかった。

他方で地方において主体性を重視することは、その社会における生存戦略として真っ当だったようにも思う。どうしても刺激の少ない環境だから、問い、問われるなかで無理矢理にでも周りの出来事に意味を見いださなければ、なににも興味をもたなかったかもしれないからだ。

これは進学校において、学歴至上主義的な価値観をインストールして受験勉強するのと同じようなもので、社会の一要素のようなものだ。結果的に、それなりに今でも興味のある対象を見出すことができた点で、自分にはこの環境がたまたま向いていたのかもしれない。
~~~

「探究」や「マイプロジェクト」でひたすらに主体性を問う、問われることによって、すべての出来事を意味づけようとして結果として、多様な経験ができなくなるという矛盾。

学力、学力と言わなくなった代わりに、こんどは主体性、主体性と言い、目標達成のパラダイムの中でそれが語られていること。

主体性という監獄から高校生たちはいつ、脱出できるのだろうか。  

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2023年11月16日

「世界観」という自転車を創り、漕ぎ出す


『自由に生きるための知性とはなにか』(立命館大学教養教育センター 晶文社)

なぜ人はあいまいさを嫌うのかP162より
~~~
私たちの社会は、いつの間にか数値による評価経済にどっぷり浸かっていますよね。「商売の業者は信頼できるべきだ」という考えに基づき、信頼できない人をマイナス評価にして排除していく仕組みをつくってきた。

他方、タンザニアの人たちは、業者は信頼できるときもあるし、できないときもあると考えています。羽振りがよいときは信頼できると思ったり、他者にやさしくしていたら「この人は心に余裕があるな」と考えたりする。反対に、「不運が続いているようだから今回は注文をやめておこう」とも、「ちょっと助けてやるか」とも考える。裏切られても、「うまくいってなかったんだな」くらいの感じで、状況が変わったと分かれば、また取引をする。そこにあるのは「人は常に変わりゆくものだ」という前提です。
~~~
いいですね。まさにまさに。
これを高校生に落とし込んでいくときに、坂口恭平さんのエッセンスを借りたいな、と。


『独立国家のつくり方』(坂口恭平 講談社現代新書)

キーワードは、「態度経済」「放課後社会」「交易」このあたりか。
~~~
態度経済は貨幣経済と決別するわけではない。ただそれは匿名化されたシステムとはまったく別のレイヤーにあるものだ。もっと抽象度の高い、かつ具体的な経済感覚である。

態度経済というのは、通貨というような物質によって何かを交換する経済ではない。交換ではなく「交易」するものだ。交易。つまり、そこに人間の感情や知性などの「態度」が交じっていることが重要だ。ただの交換ではないのだ。

「頭の中に都市をつくる」⇒思考都市
自分の様々な思考、志向、嗜好、試行をもとに、都市計画家のように自分の頭の中で実際に都市をつくっていく。そして、人と交易しているときには、その思考都市に招き入れて、対話を行うのである。
~~~

これ、面白いな。本屋さんって、現場で「思考都市」的な対話をしているんじゃないかと思います。

そして本題。
10年前にインパクトを受けた「放課後社会」のキーワードが今よみがえります。

~~~
この社会にはどうやら二つの世界があるらしいということだった。みんなが同じことをやらされる「学校社会」と土井くんが本領を発揮する「放課後社会」。その二つが学校の中で織りまざっているように感じた。

放課後社会は、単一の学校社会と違って、おのおの違う社会の在り方がある。土井くんと僕は同じ放課後社会の仲間だが、目指している社会は違う。でも共存し合える。一方、学校社会は単純でつまらなかった。

学校社会は何度も言うように無意識の世界である。匿名化したレイヤー。これが社会システムのことだ。都市に張り巡らされたインフラのようなものだと言ってもいい。
~~~
大切なのは価値観の形成というより、世界観の醸成でしょ、って感じ。

小規模校の魅力としてよく語られるのは「きめ細かい指導」だが、それを若者のアイデンティティ側面から見たら、ひとりひとりが匿名化されないということなのではないか。学校というシステムが大きくなればなるほど、1人の個人は匿名化され、数値化される。

坂口恭平さんの言う「放課後社会」の形成、それこそが匿名化された社会を生き延びるために高校時代にやってみることなのではないのか。自分自身の放課後社会を見つけること。それは「遊び」を見つけるという意味なのかもしれない。

マイプロジェクトの「マイ」という意味が、マイ放課後社会のようなプロジェクトを一緒につくりたいのよ。「釣りってなんだ?」だよ。

学校社会レイヤーからではない情報。そこに自分独自のレイヤーへの道がある。だから図書館が大切なんですよ。

さらにつづく
~~~
カントは「知る勇気を持て」と言っている。そして、知ったらその自動的な匿名化したレール上の電車から降り、自転車に乗り換えなくてはならない。その自転車は初めて乗るので当然ながらコケる。乗り方を覚える必要がある。

自転車で三回コケても凹んではいけない。今、ほとんどの人が自転車に乗ることができる。コケたから乗れるのだ。しかし、どうやって乗れるようになったのか、もしくは乗れなかった時のことを思い出せる人がいるだろうか。そんなのとっくに忘れている。慣れれば、できなかった自分ですら忘れてしまうのである。もちろんこのレイヤーには「考える」という行為が必要だ。

ただ、何度も言うように、学校社会、つまり無意識の匿名化したレイヤー、つまり社会システムは絶対に忘れてはいけない。このレイヤーから逃れたいと希求する人もいるけれど、それはとんでもない話だ。これがあるから社会は成り立っている。つまり、これは地面のようなものだ。アスファルトです。アスファルトになってしまっているので、息苦しいのだが、本当は社会システムもアスファルトを壊して、ぼこぼこの土のようになればいいのだと思うが、なかなかそうなるのは難しいだろう。
~~~

「探究的な学び」の目的とは、坂口恭平さん的に言えば、この「自転車」づくりということになるのだろうな。「学校社会」という地面(匿名化されたシステム)の上を行き来し、他者(他の自転車)に出会い、交易すること。

匿名化されたシステム(≒学校社会)においては、数値が個性を表す(実際は表さず、交換可能になるだけ)指標になるのだけど、それだけではない「個性」を身につけること、しかもそれは(数値的に)システムから評価されるような「個性」ではなく、自分自身の「世界観」と呼ぶべき何か(≒放課後社会)を必要としているのだと思う。

アスファルトも、自転車が動くには必要な要素である。しかし、アスファルトの地平だけに立っていては、大切なものは見えず、「交易する主体」になることができない。

学校の(勉強の)成績、あるいは他者からの評価だけを気にし続けて、これからずっと生きていくのか?

自らの世界観(≒放課後社会)という自転車を創り出し、徒歩圏内では見えなかった何かや知らなかった誰かに出会う。

「世界観」という自転車で漕ぎ出す、そんな機会をたくさん作って、たくさんコケてほしい。それを人は、世間は「失敗」と呼ぶかもしれない。それは漕ぎ出して者にしか見えない、アスファルトを離れた世界(レイヤー)での機会だ。

機会をさらなる自転車づくりの道具として生かし、次へ向かっていく。その繰り返しによって、アスファルトを見下ろし、風を切っていく視点を手に入れることができるのだ。

僕が高校生に伝えたいのは、この自転車づくりの重要性です。

あなたオリジナルのチャリで、世界へと漕ぎ出さないか。  

Posted by ニシダタクジ at 15:25Comments(0)日記

2023年11月14日

能力ば「場」に宿る


『自由に生きるための知性とはなにか』(立命館大学教養教育センター 晶文社)

高円寺の蟹ブックスさんのオープン当初に購入。
積読になっていました。

まずは「はじめに」から
東京大学教養学部の1993年のカリキュラム改変に際して開設された新規文系科目の教科書から。(『知の技法』より)

~~~
高校までの教育はあくまで、知る者が知らない者に知識とその獲得の方法を与えるという、関係の不均衡と能力の落差が前提でした。しかし大学での教育は、教師と学生が同等に立つことを目標とし、同時に最初からそれが実現されているとの仮説の枠組みで「教育」を行うため、その二者のあいだで、また大学を超えた社会に対して、知の行為者としての倫理が要求されるのです。

その根底にあった理念は、「知は知識ではなく行為である」ということである。知は、まずみずからを、そして世界を更新する革命的行為である!「教養」とは知識の集積ではない、日々あらたに世界を学ぼうとする君自身の「態度」のことだ!

教師と学生が同等に立ち、各々の言は常に反証することが可能なように他者に開かれ、落差のない地平で、対等で平等な相互応酬の議論空間が立ち現れる-これこそが大学、という場です。そして、そうした空間を成立させるために必要なのが教養、すなわちリベラルアーツです。
~~~

いいですね。アツいです。
知は知識ではなく行為であり、教養は知識の集積ではなく世界に対する態度なのだ、と。

そして次に熊谷普一郎さんの「わたし」について

~~~
わたしを形づくる要素には、最低でも二つあるのではないかと考えていて、一つは、わたしだけが持っているこの「からだ」。もう一つはこれまで歩んできた歴史や自分だけの「物語」です。

当事者研究では多くの場合、このからだと物語の二つを、「わたし」を形づくる要素と見なし、それぞれを探求するスタイルをとります。
~~

なるほど。「からだ」と「物語」ね。
これは高校生であってもそうですね。

今日は文科省事業のSaGaSuプロジェクトのシンポジウムなのですが、「自律的な」学習者を「育てる」についての一節を抜粋。

~~~
「自律的な」学習者を「育てる」ということ自体、考えようによっては、形容矛盾に思われるかもしれません。それは学習者を個としてのみ捉え、学ぶ意欲をただ個の内側から出てくるものとしか見ないからです。

実際には学習者は、己を取り巻く様々な人やモノとの関係の網の目の中で、学びの機会に開かれ、学びに関心を見出し、学びの意欲に駆り立てられます。自律的な学習者としての強度は、むしろ学習者を学習者たらしめている関係の束の厚みと豊かさに支えられているのです。

関係の網の目がより包摂的で力動的であれば、「変容する自己」というものを経験することができる。逆に関係の網の目が固定的であれば、「変容する自己」を実現することができない。だから、多様な背景を持ち、多様な条件におかれているあらゆる学び手をエンパワーメントしていかなくてはならない。
~~~

いやあ、まさにまさに。
これが学校における「地域連携」の意味なんだと思います。

自律的な学習者は個として存在するのではなく、あくまで場の構成員として立ち現れるのだと。

そしてP100の発言にあるような

能力というのは「個」に宿るのではなく「場」に宿る、「関係」に宿るという原則です。

これです。たぶんこれ。
人が共同体や組織を生きているのは、場や関係のなかで自分が活かされるから。

大人も子どもも関係なく

学びの機会に開かれ、
学びに関心を見出し、
学びに意欲に駆り立てられる。

そんな地域をつくっていくことがこれからの物語のような気がしています。  

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2023年11月12日

「問い」を生み出すレイヤーライフ


『坂口恭平の心学校』(みなみしま 晶文社)

第1章 建築
を読んでいたら、無性に復習したくなった10年前の本を再読。


『独立国家のつくり方』(坂口恭平 講談社現代新書)

これ、大学生にもっともおススメしたい新書です。
たぶん某大手古本チェーン店で110円で買えるので探してみてください。

僕はこの本の「放課後社会」というキーワードにビビっと来て、その日以来、そんな場づくりを心掛けているのですけども。
参考:自由とはタテの世界を行き来すること(13.1.19)
http://hero.niiblo.jp/e229119.html

問いが詰まりまくってます。
今日はこの本の根幹をなす「レイヤーライフ」について。

P31 思考が空間を生み出す より

~~~
これまで、人間はこの一つの地球という空間の中で領土を拡げようと試みてきた。あらゆる戦争、いがみ合いの原因はここにある。日本という国の中でも、お金を獲得して自らの土地を増やす、所有を増やすという行為がすべての経済活動、生活のもとにあった。しかし、路上生活者たちは違った。

僕がいた建築の世界もそうだ。私的所有することができた土地を、建築物で囲っていく。そうすることが空間をつくり上げることだとしていた。しかし、それは本当なのか。僕はそうは思わない。なぜなら、どんなに壁をつくって自らの領土に建築物をつくったとしても、空間は増えないからだ。むしろ減る。

それに対して、路上生活者たちの空間の捉え方は違った。もともと自分の土地というような私的所有を断念せざるをえない状況で生きているので、実際に買うことができない。そこで、彼らは自分たちのレイヤーをつくることにしたのだ。日本に住むみんなが当たり前と思い込んでしまっている「匿名化」した社会システムと別のレイヤーを。

建築では空間を生み出せないけど、思考では生み出すことができる。

レイヤーライフが創造にも転化することを教えてくれたのは、鈴木さんの家の玄関だった。この玄関はドアを閉め、ブルーシートを閉じて、沸かしたお湯をプラスチックのケースに入れるとお風呂になる。さらにドアを開くと、裏側には包丁が入っており、台所に早変わり。玄関のどこに自分が立つかによって、一つの空間の用途が変幻する。

つまり、レイヤーを使うことによって、空間がどんどん増えていくのである。これまでの建築の「一つの空間をどうやって壁で埋めていくか」という考え方とはまったく正反対の方法だ。壁など必要ない。人間には見えない空間を次々とつくり出す能力がもともと備わっているのだ。

僕が言うレイヤーとは新しい技術ではない。それは太古からの力だ。
~~~

昔の家でいうところの縁側とか、土間とか、そういう感じの場所、立ち位置や構成員によって変化する場所、なのかもしれませんね。

さらにP41には

~~~
何かを変えようとする行動は、もうすでに自分が匿名化されたレイヤーに取り込まれていることを意味する。そうではなく、既存のモノに含まれている多層なレイヤーを認識し、拡げるのだ。チェンジじゃなくてエクスバンド。それがレイヤー革命だ。
~~~

いや、まさにこれなんですよ。
それが「放課後社会」というキーワードにたどりついた当時の僕のレイヤーに対する認識。

高校生や大学生にとって、本当に大切なのは、「やりたいことが見るかる」ではなくて、「一生かけても答えを出したい問い」が見つかることなのだろうと思う。

!「驚く」ことと?「疑問を持つ」ことを出発点にして、自分の中の共感と違和感に気づいていく。そこから問いを生み出していくこと。

それをもっとも生み出しやすいのは「越境」なのだと思うけど、その「越境」とは、物理的な距離の遠さというよりも、坂口さんの言う、「レイヤーを変えて観る」ということなのかもしれない。

たとえば旅人の目線(視点)から自分の町を見てみること。

そんなレイヤーライフの方法のひとつが「放課後社会」から見る、ということになるのかもしれない。

P123 匿名で交易はできない より

~~~
学校社会から放課後社会へはジャンプできない。学校社会は人間が集まって暮らすには必要な要素である。それに対して、放課後社会は完全に個人の領域だからだ。でも、放課後社会どうしはジャンプすることができる。これが僕の考える交易だ。学校社会上では交易することができない。交易は匿名下では不可能なのである。

今の状況を見ていると、どうにかして学校社会自体をぶっつぶして新しい社会を形成しようと試みている人が多いように感じる。しかし、それは不可能なことだ。なぜなら学校社会は個人の領域ではないからである。それは無意識だから。他人の見る夢なんて改変できっこない。

学校社会は変わらない。変えられるのは放課後社会とのバランスだけだ。

学校社会は消せないけど、認識を変化させることはできる。それが「考える」という行為。学校社会が無数の中のひとつのレイヤーであり、唯一の無意識領域のレイヤーであることがわかれば、もっとうまくバランスが取れる。そのためには自分の放課後社会の風景を拡げる必要がある。
~~~

いやー。これ伝わりますかね。
「放課後社会:おのおのにとって違う社会の在り方」から世界を見つめてみること。

あるいは放課後社会を形成している一人のオーナーとして、違う放課後社会オーナーと、「交易」すること。

それこそがいわゆる「越境」であり、「対話」の意味なのではないか、と。
そこから!や?と共感や違和感をキャッチして、問いが生まれてくる。

まずはこの「放課後社会」っていう概念をいかに伝えていけるか(できれば図解したい)

そんなことを考えていきたいな、と。

「自由」とはタテの世界、つまりレイヤーライフを行き来し、いくつかのレイヤーのオーナーになること。

そこから「探究」的な人生が始まっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)日記

2023年11月10日

「想像力/創造力」の育て方


『才能をひらく編集工学』(安藤昭子 ディスカバートゥエンティワン)

「遊び」について、もっと考察した方がいいなと思って、P74 より引用

その前提として、「編集工学」に必要な3Aをおさらい(P115)
1 関係発見の原動力となる「アナロジー」
2 思い切った仮説にジャンプする「アブダクション」
3 世界と自分の関係を柔らかく捉え直す「アフォーダンス」

この中の「アナロジー」について。「遊び」の要素があったのでメモ。

~~~
ロジェ・カイヨウは著書『遊びと人間』の中で遊びの四分類を以下のように提示しています。

1 アゴン(競い)
2 アレア(運)
3 ミミクリー(模倣)
4 イリンクス(目眩)

その前提として
1 パイディア:即興と歓喜の間にある、規則から自由になろうとする原初的な力⇒遊戯
2 ルドゥス:恣意的だが強制的で窮屈な規則に従わせる力⇒競技
というふたつの特徴を遊びの本質としてあげています。

パイディア(遊戯)⇒騒ぎ・はしゃぎ・ばか笑い⇒胴上げ・穴送りゲーム・トランプの1人占い・クロスワード⇒ルドゥス

アゴン(競い)⇒競争・取っ組み合いなど(規則なし)⇒運動競技・ボクシング・玉突き⇒フェンシング・サッカー・チェス・スポーツ競技全般
アレア(運)⇒鬼を決めるジャンケン⇒裏か表か・賭け・ルーレット⇒富くじ
ミミクリー(模倣)⇒子供の物真似・空想の遊び・人形・仮面・仮装・演劇
イリンクス(目眩)⇒子供の「ぐるぐるめまい」・メリーゴーランド・スキー・登山・サーカス

スイカ割りや「ケイドロ」はこの四つのすべてが入っている。
~~~

著者は、この遊びの中での「ミミクリー(模倣)」こそが編集工学にとって重要な「アナロジー」の原郷だと説明します。

~~~
ミミクリー(模擬)と思われる遊びを思い浮かべてください。おままごとやごっこ遊びの他にも、積み木の家や秘密基地、変身レンジャーや折り紙やあやとり。何かを何かに見立てたり、そのつもりになってみたりした遊びも結構あるでしょう。それが「あなた」の中にあるアナロジーの原郷です。

カイヨウは、ひときわ「ミミクリー(模擬)」を重視します。
「人間の最大の誘惑は類似のものを見つけ出すということにあった。」として、人間に備わった「似たもの探し」の本能を、遊びを通して示しました。

何かと何かが似ているということは、それだけで人間のイマジネーションの根っこをくすぐるちょっとした魔術です。目前の問題解決にとどまらず、人間に潜在する想像力の可能性を最大限に引き出すフックとして、アナロジーが重要です。

松岡正剛は、「『似ている』とは、そこにひとつの遊星的郷愁を蝕知する信号だと言いました。それはどこか遠いところにあるものではなく、いまも自分の中で息を潜めている性質なのです。

胸の中のおもちゃ箱の蓋を開けるように、子どものころに慣れ親しんだアナロジカル・シンキングを今一度手の中に取り戻してみてください。

まずは「これは何と似ているかな?」と思ってみる。そこでピンときたものに自信を持つ。自分のイマジネーションの底力を信じる

やがて「アナロジー」という名の眠れる獅子が、ゴソゴソと目をさますはずです。
~~~

最近のキーワードとしての遊び。

1 アゴン(競い)
2 アレア(運)
3 ミミクリー(模倣)
4 イリンクス(目眩)

「遊び」と「学び」が原初的には分かれていないとしたら、このような要素が入っていくことで「学び」は楽しくなるはずだ。そして、自分がまずはどの「遊び」に楽しくなるのか、その自覚から始めてもいいと思った。

そしてさらに「ミミクリー(模倣)」という原動力について、もっと僕たちは注意を払ってもいいのかもしれない。

小学生でも高校生でも、先生の「ものまね」はウケる。いや、大人になってからも、それはエンターテイメントとして人気がある。(だからテレビで視聴率がとれる)

「ものまね」とは観察と表現が問われる遊びである。

以前に、「好奇心は育てられる」として、読書会のやり方を紹介したけど
http://hero.niiblo.jp/e491170.html
参考:それは「本屋」かもしれない(20.11.4)

アナロジーは、ミミクリー(模倣)という遊びによって育まれるし、それこそが「想像力/創造力」の源になっていくと思う。

そしてさらに言えば、「正統的周辺参加」アプローチは、模倣的で「遊び」要素があるんだなと思った。
http://hero.niiblo.jp/e491788.html
参考:二人称的アプローチとアイデンティティ(21.6.7)

「ミミクリー(模倣)」と「表現」を行き来しながら、「面白がる」と「疑問を持つ」を繰り返していくこと。

それによって、楽しく(遊びながら)「想像力/創造力」が育まれるのではないか、という仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:28Comments(0)日記

2023年11月03日

一立方センチメートルのチャンス


『気流の鳴る音』(真木悠介 ちくま学芸文庫)

友人に勧められた1冊。なんとタイムリー。
『才能をひらく編集工学』とリンクしていてビックリします。
『編集工学』のP215~の「地」と「図」に分けて考えるのところ、ちょうど読んでいたので。

紹介するのはⅡ「世界を止める」-〈明晰の罠〉からの解放(P73~)より「見る」についての考察を
~~~以下メモ

「心の明晰さ、それは得にくく、恐怖を追い払う。しかし同時に自分を盲目にしてしまう。それは自分自身を疑うことをけっしてさせなくしてしまう」

「明晰」とはひとつの盲信である。それは自分の現在もっている特定の説明体系(近代合理主義等々)の普遍性への盲信である。特定の歴史的・文化的世界像への自己呪縛である。人間は、〈統合された意味づけ、位置づけの体系への要求〉という固有の欲求につきうごかされて、この「明晰」の罠にとらえられる。

コヨーテがしゃべるということをあたまから信じないのが、ふつうの人の「明晰」である。これにたいして、コヨーテがしゃべるということを信じてしまうことが呪術者の「明晰」である。しかし両方の「世界」がともにカッコに入ったものであり、どちらも「現実」であるということ、「現実」とはもともとカッコに入ったものであること、このことを〈見る〉力が真の〈明晰〉である。

「明晰」を克服したものがゆくべきところは、「不明晰」ではなく、「世界を止め」て見る力をもった真の〈明晰〉である。

〈明晰〉は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。
~~~

むずかしいけど、まさに、って感じです。

「恐怖」とは知らないことである。
それを逃れようと人は知りたい、理解したいと思う。

「知り、理解する」ということは、「特定の説明体系」で物事をとらえるということであり、それこそが「明晰の罠」だとドンファンは言う。

だから、真の〈明晰〉を手に入れ、「世界を止め」て見ることが必要なのだと

~~~
目の世界が唯一の「客観的な」世界であるという偏見が、われわれの世界にあるからだ。われわれの文明はまずなによりも目の文明、目に依存する文明だ。

〈目の独裁〉からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。

仏教では五根を眼⇒耳⇒鼻⇒舌⇒身と並べるように、視覚⇒聴覚⇒嗅覚⇒味覚⇒触覚はこのような配列が自然なように思われる。それはおそらく、対象を知覚するにあたって、主体自身が変わることの最も少なくてよい順であろう。

「身」による認識は文字どおり「身をもって」せねばならない。熱ければ火傷、冷たければ凍傷、その他対象による捕捉等々の危険を賭することなしに「知る」ことはできない。ここでは「知ること」と「生きること」はほとんど未分化である。

視覚は、遠く身をかくしたままで細大もらさず観察するように、主体自身の身を賭すること最小にして対象をこまかに知覚することができる。それはわれわれの〈世界〉からの自立を最も容易にするとともに、〈生きること〉と〈知ること〉の乖離を最大限にする
~~~

「五感で感じる」ことを大切にしよう、と言っているけど、まさにそれには順序があって、「身」には自己変容の【危険】と隣り合わせであるから、なかなかハードルが高いのだろう。

しかし、視覚に頼りきった近代文明(しかも昨今はPCやスマホ画面上での視覚の使用でしかない)こそが、われわれを「生きる」ことから遠ざけているのかもしれない。

さらに、『才能をひらく編集工学』とリンクしてくる「図」と「地」の話へ。

~~~
われわれがふだんおこなっている〈焦点をあわせる見方〉は、全体から引き出され抽象された個物に関心を集中する。ルビンやゲシュタルト心理学の用語で言えば〈図〉と〈地〉の明確な分化をその前提とする。

〈焦点をあわせない見方〉とはぎゃくに、個別にのめりこまないように全体のバランスをみる見方であり、〈図〉と〈地〉の分化以前にたもつということである。

われわれは無意識に、いつも焦点を合わせているので、〈地〉となった部分を無視しているからだ。〈焦点を合わせる見方〉においては、あらかじめ手持ちの枠組みにあるものだけが見える。「自分の知っていること」だけが見える。〈焦点をあわせない見方〉とは、予期せぬものへの自由な構えだそれは世界の〈地〉の部分に関心を配って「世界」を豊饒化する。
~~~

うーん、深い。
プロジェクト学習において、テーマや目的・目標を「明確に」定めることへの違和感はこういうところにあるのだろう。

さらに、ドン・ファンが語る

~~~
「わしはそいつを一立方センチメートルのチャンスと言っておるんだ」ドン・ファンが言う。「戦士であろうがなかろうが、わしらはみんな目の前に飛び出す一立方センチメートルのチャンスをもっておるんだ。ふつうの人間と戦士のちがいは、戦士はこれに気づいておって、自分の一立方センチメートルが飛び出してきたときにそいつをつかまえるだけのスピードと勇敢さをもてるように、いつもじっくり油断なく待っておるのさ。

チャンスとか、幸運とか、個人的な力とか、とにかくなんと呼んでもいいが、そいつは独特のものなんだ。わしらのまえに出てきて、摘むように招くひどく小さな小枝のようなものさ。ふつうだと、わしらはいそがしくしすぎたり、他のことに気を奪われていたり、でなければただおろかで不精すぎたりして、それが自分の一立方センチメートルだってことに気づかないんだ。
~~~

そう。
誰もの目の前に飛び出す一立方センチメートルのチャンスがある。

それに気づけるかどうか、そしてそれつ掴めるかどうか。
「そいつをつかまえるだけのスピードと勇敢さ」をもてるように、待っていること。

それが、人生を動かすコツなのだろうと思う。

目的・目標を決めすぎず、常に一立方センチメートルのチャンスに応えられる、そんな「生きる」を歩きたいものですね。  

Posted by ニシダタクジ at 09:23Comments(0)日記