プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年03月14日

コナトゥスを意識する

今夜のクルミドコーヒー影山さんとの
「就活の違和感」トークに向けての準備中。

上野駅の「book express」でふと、
目の前に飛び込んでくる本。
「仕事選びのアートとサイエンス」(山口周 光文社新書)



買っちゃいました。
まだ冒頭しか読んでいないけど、
就活に行く前に乗るべきヘリのラインナップに入れなきゃだ。

冒頭からだいぶ攻めてきます。

~~~ここから引用

仕事選びを予定調和させることはできない。
自分をオープンに保ち、いろんなことを試し、しっくりくるものに落ち着くしかない。

「計画」に価値ははい

「風が吹く、生きようと試みなければならない。」
変転し続ける世の中で、私たちは世界に身を投げ出すようにして、
まず「生きる」ことをを試みなければならない、
そうしなければ何も始まらない、と言っているわけです。

スピノザは
「本来の自分らしい自分であろうとする力」を「コナトゥス」と呼びました。

その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、「コナトゥス」に
よって規定されると考えました。
当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なることになります。

この世の中に存在しているあらゆるものは、
それ自体として「良い」とか「悪い」とかいうことはなく、
その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけです。

私たちは極めて変化の激しい時代に生きており、私たちを取り巻く事物と
私たち個人の関係性は、常に新しいものに取って代わられていくことになります。

このような時代にあって、何が「良い」のか「悪い」のかを、
世間一般の判断に基づいて同定することはできません。
自分なりの「良い」「悪い」の評価軸をつくっていくこと。

自分の姿形や立場などの形相を「エイドス」と呼びます。

私たちは往々にして自分の属性や立場といった「エイドス」に
基づいて「私はこうするべきだ」「私はこうしなければならない」と
かんがえてしまいがちですが、
このようなエイドスに基づいた自己認識は往々にして個人のコナトゥスを
毀損し、その人がその人らしく生きる力を阻害する要因となっています。

私たちは自分のコナトゥスを高める事物を様々に試していくことが
必要になります。

~~~ここまで引用

いやあ。
そうそれ!
みたいな感激があります。

「にいがたイナカレッジ」で昨年末から連載した
「挑戦するな実験しよう」では、まさにそのような
「コナトゥス」を高めるためにはどうしたらいいのか?
みたいな問いを持ちながら実験していくことについて書きました。

https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/

今日、この後にお話する「就活、働くことの違和感」についても、
通じてくるものがあるなあと感じています。


「続・ゆっくり、いそげ」(影山知明・クルミド出版)

▼▼▼ここから「続・ゆっくり、いそげ」より

目的と目標(P50)
目標:計数管理⇒体温を測るようなもの。体温がその人のすべてを反映するわけではないように、計数がお店のすべてではない。

疑問詞でいえば、
目標:how much⇒取り組みの進捗を測る目安
目的:why⇒取り組みの存在理由や意義

「あなたの中に種のあることをやりなさい」(P58)

「have」「do」「be」という目的地(目標)設定。
「do」の目標設定だけだと、人生を不足と未達成の連続にしてしまう。

「人生はそんなロールプレイングゲームのようなものではない。」

「でない」が「である」の苗床になる。(P71)
僕はフラットじゃないコミュニケーションの場、その瞬間が何よりも嫌だったんですね。何も生まれないから。

「いってまいります」という言葉。(P75)
日本人はあたかも自らの自我を、外部から出発して構成するかのようです。

システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムをつくったのです。(村上春樹 雑文集「壁と卵」より)(P210)

1つ1つのシステムには、それが組み立てられた動機であり、目的があり、その動機や目的に沿うような人々のふるまいと相性がいい。いやむしろ、その動機や目的に沿ってふるまうよう、人々を方向付ける力をもっていると言った方がいいかもしれない。

システムをつくるには、それをつくるための原初的な「問い」がいる。現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、その問いに答えようとしていると考えれば、今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。(P228)

▲▲▲ここまで「続・ゆっくり、いそげ」より

まず目的と目標について

目標だけだと、予測可能なのだけど、目的っていうのは、予測不可能だったり、変わり続けるもの、随時変更していかないといけないのではないか。

エンターテイメントの本質は
「予測不可能性」にあるのだと僕は思うし、

僕の「コナトゥス」的には、
おそらくは「予測不可能性」が高いものを楽しめるというか
好奇心が旺盛だから、そういうことになるのかもしれないけど、

人によっては、自分が自分らしくあるためには、
ある程度予測可能な未来設計と、
目の前のことをコツコツやることが心地よいのだなあと。

人を一元化して語ることは不可能だなんて当たり前なんだけど、
いわゆる成功者の実践だったり、
多数派が納得していることだったりっていうのは、
受け入れる人の「コナトゥス」に関係なく、
受け入れざるを得ないような状況があるのだろう。

「本来の自分らしい自分であろうとする力」に耳を傾けること。
本人だけではなく、一緒に場をつくっていく人たちがコナトゥスを意識すること。

やっぱ、哲学って必要だなと思った今日の読書でした。  

Posted by ニシダタクジ at 16:46Comments(0)

2019年02月14日

プロジェクトと自分の関係

2月10日の「OMO Niigata」のプレゼン。

いかに自分を掘っていけるか、
そしてそれを面白がれるか、
でプレゼンの共感度が変わるんだと実感した。

昨日は、電車の中で

「beの肩書き」(兼松佳宏 グリーンズ)
を読みつつ、

午後は、「マイプロ」
https://my-pro.me/
の話を聞いた。

そのプロジェクトは、
自らの中にあるどんな経験から始まっているのか?
なぜ、そう思うのか?
を受講生と一緒に考えていくというスタイル。

「自己開示」を促す
場の力の高め方がすごいなと思った。
(しかも東京のオフィスで)

そして今日はふたたび
「beの肩書き」を読み直す。

僕も2018年頭にやってみたのだけど。

その際のワークレシピはこちら
https://medium.com/be%E3%81%AE%E8%82%A9%E6%9B%B8%E3%81%8D-%E6%8E%A2%E7%A9%B6%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89/be-for-new-year-7c1122061824

これ、問いが素敵だなあと。
よく生きるってなんだろう?
って考えさせられる。

「beの肩書きインタビュー」

5つの質問

1 自分では当たり前でも、2人以上の人から「すごいね」と言われたことは?

旅行プランを立てることかなあ。
食べログで素敵な店を探す方法とか。
アイデアだしたりとか。

2 こういう瞬間こそが幸せだなあと思うことは?

これは「場」を作りながら外から見ているとき。
(ワークショップの振り返りしているとき、とか)
あとは歴史ある食堂で常連の人たちと一緒にご飯食べているとき、とか。

3 時間が経つのも忘れるくらい、情熱を持って取り組んでいることは?

「違和感を解き明かす」っていうこと?
自分で問いを立てて、それに仮説を立てていく、みたいな。

4 何かに感動したときに、思わずやってしまいそうなことは?

ツイッターにつぶやく。
翌日ブログにする。

5 この人生でやっておきたいなあと思うことは?

本を残す。
素人でもやれる本屋の仕組みを残す。

ってまあ、こんな感じ。

兼松さんは大切なのは
「リフレーミング」だという。

これは心理学用語で
「無意識下の解釈の枠組み(フレーム)に気づき、
異なるとらえ方を通じて、新たな意味を構築すること」
のこと。

たしかに、
インタビューでの問いとか、他者との対話によって、
見方が変わることってある。

僕も、12月にとある募集の要項を記入していて、
「フラットな関係性をつくるコミュニケーション・デザイン」が得意だと認識したのだけど、
「続・ゆっくり、いそげ」によって、
それは、コミュニケーションデザインが得意なのではなくて、
「フラットじゃないコミュニケーション」の現場にいることが
何より耐えられなかったからだと気づいた。

それくらい、プロジェクトと自分っていうのは
非常に近いところにあるのだと。

それをどのように掘り下げていくか。
そしてそこに「場のチカラ」の力を借りるか。

そうやって、共感されるプロジェクトが
生まれていくのだろうなと思った。

プロジェクトメンバーのひとりとして、そこにいること。
場のチカラに貢献すること。
プロジェクトリーダーだけじゃなくて、
メンバーも自らのバックボーンに気づくこと。

そうやって生まれていくプロジェクト。

みんなのbeが合わさって、
ひとつのプロジェクトになっていくような、
そんな「場」を作りたいなあと思うのです。  

Posted by ニシダタクジ at 06:42Comments(0)

2019年02月13日

「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく


「beの肩書き」(兼松佳宏 グリーンズ)
https://greenz.jp/benokatagaki/

大阪・スタンダードブックストア心斎橋で購入。
いっつも、いい本あるなあと。
すごいなあと。
僕にいちばん合っている本屋さんかもなあ。

ということで、いつもの読書メモ

~~~ここからメモ

そもそも肩書きの役割とは、自分と他者とのコミュニケーションをより円滑にするために、自分のことについて端的に知ってもらうための糸口を提供することです。

セラピストとしての運転手さん。
職人としての運転手さん。
doは同じだったとしても、ひとりひとりのbeは違うのです。

肩書きを与えるのは誰か?

「夢を叶える」とはどういうことか?

かつて「小説家になりたい」という夢を持っていたけれど、いまは別の仕事をしている、という方であっても、「商品開発担当」として商品のストーリーを組み立てたり、「保育士」としてオリジナルな絵本をつくったりしているとしたら、その夢は叶っていると言えるかもしれません。

doの肩書き×beの肩書きの意外な組み合わせこそ、ひとりひとりの個性そのものなのです。

デザイナーである限り、変わり続けなきゃならない宿命がある。

「一生続けたい」と思えるくらい好きな分野で、具体的ニーズがあって、勝手に解釈される可能性がある肩書き。それが発酵デザイナー。

僕自身が発酵デザイナーとは何なのかよくわかっていなくて。年に一度くらいアップデートしている。

「そもそも自分とは何か」という問い自体が無効化されていく。

~~~ここまでメモ

うわー!って(笑)
言語化できない(笑)

問いに詰まっているなあと。
「肩書き」とか「夢を叶える」っていう意味が変わってきているのだと。

小倉ヒラクさんの
「発酵デザイナー」っていう肩書自体が問いになっているし、
その問いの答え方によって、
いろんな仕事が生まれていくんだなと。
「仕事をつくる」ってそういうことなのか、と。
面白かった。

昔の「肩書き」って(今もそうかもしれないけど)、
そんなに変わらないことを前提につけている。
それが「doの肩書き」なんだろうな。

いま、doは変わりゆく。
同じことをずっとやっているっていうのは、なかなかない。
それを「13歳のハローワーク」は
プロフェッショナルと呼んだのだろうけど。
だからこそ、人はbeの肩書きを必要としている。

夢の叶え方、としても、
その仕事っていうことじゃなくて、
上に書いてあるような「小説家」とか。

そういえば、僕も小学生のときに、「つくば科学万博」に
何度か行って、化学者になりたかった。
実験室で白衣来て、試薬を混ぜ合わせるやつ。
で、爆発してドリフみたいな頭になるの。(笑)

それって今でいうところの本屋かもしれないですよね。
人と本や人と人を本屋の中で混ぜ合わせたいのですよ。
大学生と田舎とか。

意外に、beの肩書きへと落とし込んでいけば、
人は一貫している、というより、一貫せざるを得ないんじゃないですかね。
そうすると、僕自身のbeの肩書きはなんだろう?っていうね。

まだ、この本は読み始めたばかりなのだけど、
小倉ヒラクさんのところはめちゃめちゃよかったなあ。

★「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく★

そういう状態にあることを、
人は天職というか、「天職にある」と感じるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 13:46Comments(0)

2019年02月12日

なんのために、この船に乗ったんだっけ?


「常識的で何か問題でも?」(内田樹 朝日新書)

これは、だいぶ、きますね。
きてますね。

AERAの連載の再編集。
いちばん印象に残ったのは、
戦時中の太宰治の話。

P85「戦時下、太宰の文学的抵抗が見せたもの」

~~~以下引用

でも、私がもっとも興味を引かれたのは、多くの作家が書くことをやめてしまった戦時下に太宰が「駈込み訴へ」「津軽」「新釈諸国噺」「お伽草紙」など代表作のほとんどを書いていたという歴史的事実のほうである。

高橋によれば、それは作家がいったい何を言いたくてそんなことを書いたのか、韜晦なのか、迂回的な戦意高揚なのか、さっぱり底の読めないこれらの作品群こそが文学の独壇場だったからだ。

戦争とは、すべてのものを敵か味方かに切り分け、その上で「敵を殺す」という恐ろしいほど単純な枠組みの中に世界を縮減する企てだ。

戦争に真に反対できるのは「個別性」と「複雑性」の原理だけだと私も思う。それは「私が何ものであり、私が何を言いたいのか」を誰にも決定させないという太宰の文学的抵抗のうちにひとつの理想を見出すことである。文学に一票。

~~~以上引用

太宰の文章は、「よくわからなかった」。
戦争に反対なのか、戦意高揚なのか、
まったくわからなかった。
そこが文学の奥深さだった。

戦争とは究極の二元論、単純化である。
その反対を行こうとすれば、
多元で、複雑系の中に身を置くことだと。

なるほど。
まさにこれは現代とは逆だなあと思った。

そして、この本のラストのあとがきに、内田さんは書いている。

~~~ここからさらに引用

官邸が熟知しており、僕が過小評価していたのは、現代日本人が厳密で客観的な格付けシステムに嗜癖しているということでした。

入力と出力の間にシンプルな相関関係がある仕組みは、「ペニー・ガム・システム」とも呼ばれます。ペニー硬貨を投じると必ずガムが出て来る自動販売機の仕組みです。このシステムを現代人は偏愛しております。特に若い人たちにこの傾向が顕著である。

若い世代に「格付けシステム」への偏愛があることをはじめて僕が感じたのは、20年ほど前のフランス文学会のことでした。
フランス文学会では、その頃から研究発表が「19世紀文学」の分科会に異常に集中するようになりました。

この3分野には世界的なレベルの日本人の「大家」がそろっていたということです。ですから、その分野での研究発表に対する客観的評価はたいへん信頼性が高かった。

そして若手の研究者にとっては、これらの分野の世界的権威の諸先生に高く評価されたら、大学のテニュアのポストに指先がかかったということを意味します。

査定の厳正さを優先的に配慮すると、若手の研究者は「できるだけみんながよく知っている分野」を選択することになります。でも、学問研究においてそれをやってしまうと、研究領域の多様性・豊饒性を考えるとよいことではありません。

でも、研究についての精度の高い格付けを優先させると、そうせざるを得ない。その結果、「みんなができることを、みんなよりうまくできるようになること」を若手の研究者たちが競うようになった。

そうして、仏文学は素人から見ると、面白くもおかしくもない「内輪のパーティ」になってしまった。気が付いたら、大学の仏文科に進学してくる学生がいなくなってしまった。

研究者たちが精度の高い格付けシステムを要請したのは、フェアなポスト配分という点では合理的な解でした。でも、格付けの安定性だけを配慮しているうちに、按分されるもともとの原資は、誰がどうやって創り出すかについては考えるのをやめてしまった。

フランス文学研究の原資とは何でしょうか。
それは、「フランス文学って面白い。もっと知りたい。専門家の話を聴きたい」という大量の「非専門家」たちです。それ以外にありません。

そのような素朴な心情を軽んじて、専門家同士の競争に熱中していたら、ある時点で奪い合うリソースそのものがなくなってしまった。「誰かがみんなのためにそのような特異な専門分野を担当する必要がある。」という集団的合意の大切さを忘れてしまっていたからです。

精度の高い格付けを求める心性が過度になると、専門家たちが「誰のために・誰に代わって」この仕事をしているのかという問いを自分に向けることができなくなってしまうという痛ましい事実を教えられました。

人間はひとりひとり特異な個性と才能に恵まれている。それを生かして「余人をもって代え難い」タスクを引き受けることが人としての生き甲斐じゃないかということです。

全員が「他の人ができないことができる」ようにばらけている集団では、たしかにメンバーの格付けはむずかしい(というか不可能)でしょう。でも、そういう集団はさまざまなタイプの危機に対応できます。危機耐性ではすぐれています。

その逆に、メンバーの全員が同じ種類の知識や技能しか持たず、量的な差があるだけの集団を考えてみてください。たしかに全員が規格化されていれば、集団内部での格付けは簡単です。

でも、集団として生き延びる力は弱くなる。「みんなができること」以外の知識や技能を要求する問題には誰も対応できないからです。

僕は集団として生き延びるためにさまざまな社会的能力は開発されるべきであると信じています。ですから、集団内部的な格付けを容易にするために成員を規格化することにはつよく反対します。集団が弱くなるからです。

でも、僕のように考える人は今の日本では圧倒的な少数意見です。ほとんどの人は「誰でもできることを他の人よりうまくできる」という相対的な優劣の競争で上位にランクされることに熱中している。

~~~ここまでさらに引用

いやあ、抜粋できなくて、
またしても全文書いてしまった。

これはリアルだなあと。

そしてわかりやすい他者評価を過度に求めてしまう
大学生の不安にも当てはまるなあと。

アイデンティティの不安と、他者評価への依存。
これには相関関係があると思う。

自らのアイデンティティを
他者からの、それも権威ある何者かからの評価に
頼ってしまうこと。

そのスパイラルこそが、
大学生を生きづらくしているのだと僕は思う。
上記のフランス文学会で起こっていること。

「評価しないと出世できない」
これはある意味事実なのだろう。

そしてその環境に適応する人々は、
「お客はだれか?」という問いをだんだんと失わせていった。
いつのまにか、お客(幸せにする対象)がいなくなっていた。

「課題解決」や「目標達成」は予測可能な未来である。
僕はエンターテイメントの本質は「予測不可能性」にあると思っていて、
だからこそ「課題解決」や「目標達成」そのものは
つまらないのだと思う。

達成した先にある未来が、
せいぜい「予想以上にほめられる」ことくらいだからだ。

日曜日のOMOのプレゼンテーションでも、
その先にある未来に予測不可能なワクワクがあった
新潟の水の上を生かすプランがグランプリをとった。

なんのために、この船に乗ったんだっけ?という問いと、
その先にある予測不可能な何かに対して、人はワクワクするのだろうと思った。

僕たちは生き延びるために、何をするのか?
そんな問いをあらためて考えた1冊となった。  

Posted by ニシダタクジ at 13:13Comments(0)

2019年02月10日

「営み」の中にある「畑」と「本屋」

2018年9月。
大正大学「地域実習」でお邪魔した
柏崎・荻ノ島集落。





そのときのレポート
「地域の個性の構成員になる」(18.9.20)
http://hero.niiblo.jp/e488131.html

7日のフォーラムでもお隣だった
春日さんと共に登壇した橋本さんの話を
思い出していた。

橋本さんは京都府立大公共政策からイナカレッジ長期インターンに参加し、
荻ノ島へ移住、1年目。

「会社ではたらく」よりも「米、野菜を自分でつくって百姓的に生きる」ほうが安定しているのではないか?
いまは5つ以上の仕事をしていると言っていた。

そんな橋本さんのコメントを思い出させるような本にあった。


「常識的で何か問題でも?」(内田樹 朝日新書)
AERAの連載の再編集なのだけど。

内田さんの農業へのまなざし、というか表現力に
うなったのは、この本からだった。

営みと「天の恵み」という贈与と返礼(18.12.14)
http://hero.niiblo.jp/e488552.html

今回も素敵なフレーズがあったので、こちらに引用する。

~~~ここからメモ

文明と自然のインターフェースに立ち、自然からの贈与を人間社会に有用なものに変換する仕事には、人間性の根源に触れる何かがある。

うまく説明できないけれど、そのような場では、たぶん都市とは違う時間が流れているのだと思う。人工的な環境にいる限り決して発動しない脳内部位が活性化し、それまで使うことのなかった知覚が動き出すのではないかと思う。自分の身体が豊かな、手つかずの埋蔵資源で満たされていることに気づく。

自分自身の豊かさに気づくことのほうが、現金収入の多寡よりも大切だと彼らは直感したのだと思う。

~~~ここまでメモ

橋本くんが移住した理由って、
これなんじゃないか。
って思った。

農業(畑をやる)っていうのは、まさにそのような
贈与と返礼のまっただ中で、
自分の身体を使いながら、
自らの埋蔵資源に気づく、という営みなのではないか。

それを都市部で、バーチャルかもしれないけど、
ぎりぎり再現しようと思ったら、
「本屋」になるのではないか、とも思った。

もしかしたら「クルミドコーヒー」もそうなのかもしれない。
カフェのほうが「食べる」という身体性を伴っているし。

「本屋」を再定義すると、
本という先人からの贈与の真っただ中にあり、
その営みに組み込まれるように、
本屋に行き、本を買い、本を読む。

その繰り返しの中で、自分の中の埋蔵資源に気づいていくこと。
そして何かお返しをしなくては、と思うこと。

ああ、その通りだと思った。
「畑」と「本屋」はそういう意味で似ているのだ。

あ、僕が畑をやってから本屋になった理由がもうひとつ
見つかりました。

「営み」の中にある、という身体性を伴う経験が
自分自身やもっと大いなるものとの
コミュニケーションデザインが可能になるからです。

さて。
次は飲食店なのかもしれないな、と予感しました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)

2019年02月07日

予測不可能な未来に対してフラットであること


「ワークショップをとらえなおす」(加藤文俊 ひつじ書房)

あ、あの「つながるカレー」の加藤先生、こんな本を!
と思って購入。

まだ読み途中なのだけど、
ビビビって来るキーワードと記述が多い。

P29の
フィールド(フィールドワーク)とコンセプト(コンセプトワーク)のあいだにある
メディア、ラボラトリーワークとしてのワークショップ
という表現にはめちゃめちゃしっくりくるし、

現代の安易なワークショップ型イベントに対して、
警鐘を鳴らしているというか、問いを投げかけている。

たとえば、
「こなすだけ」のワークショップ
「アリバイ」としてのワークショップ
この2つのワードだけとっても、

僕が大学生の終わりごろに2年連続で参加した
ワークショップの違和感をめちゃめちゃ表現している。

あれ、このワークショップ、
去年と同じことを、同じ人が、同じ手法でやっている、
と、強烈な違和感を感じて、
僕はその業界から距離を置くようになった。

というわけで、
本文を読みながらメモの途中経過

~~~ここから

ひとりひとりを「個人」として大事にするんじゃなくて、「存在」として大事にする。

場を主、人を従としてみる。
でも、場を構成するもっとも大きな要素は人なのだ。
そうすると、何が起こるか。

フラットっていうのは、上下関係だけのことじゃないのかもな。
時間軸とかもめっちゃ重要。
僕は答えを知ってて、君は知らないみたいなのってフラットじゃないよね。
映画の結末を知ってる人と知らない人、みたいな関係性とか。

ワークショップでさえ、企画者、設計者と参加者は時間軸においては、フラットではないよね。

「させられる」ことによって、予測不可能性が生まれ、そこに創造の種が蒔かれる、ようなことは起こらないのか?

ほめるという行為は人を評価者と被評価者に分ける。

~~~ここまでメモ

この本を読みながら、
「フラットな関係性」についてあらためて考えていたようだ。(笑)

フラットな関係性というのを
時間軸でとらえる、っていうのが最近気になることで、

予測不可能な未来に対して、人はフラットになるし、
いま終わったばかりのイベントに対しても、人はフラットになる。

だから、企画会議(キカクカイギ)とか、
ふりかえりとかっていうコンテンツを充実させようとしているのかも。

うんうん。
もしかしたら、そういうところが「フラット」の入り口なのかもしれません。

読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 11:02Comments(0)

2019年02月05日

「問い」の種を蒔く

「続・ゆっくり、いそげの朝」のために
土曜日の移動中にもう一度読み直してのメモ。
(対談のネタ帳です)

話せたことも、
話せなかったこともあったけど、ひとまず次回に向けて。



~~~ここからメモ

「リザルトパラダイム」
教育・NPO・ボランティアの世界こそ、そこに染まっている。
理念・目的のために人が手段化されてしまう。
ひとりひとりが大切にされない。

エンジニアリング⇔ブリコラージュ

「自らに利用価値がある」と言わないといけない
⇒就活の違和感

植物の創発特性。

事業体や組織の成長であり秘めた力は、
測ろうとするのではなく、感じること。(P50)

haveの目標:もっともっとほしくなる
doの目標:すぐに実現しない。人生を不足と未達成で埋め尽くす。
beの目標:「今、ここで」達成することができる。

beをベースにしたdoを考える。

どうありたいか、どうしたいかではなく、
「どうありたくないか」「どうしたくないか」を見つける。
「不快感」や「違和感」から気づく。(P71)

「フラットじゃないコミュニケーション」
⇒何も生まない。足し算でしかない。

・目的地がわからない。
・自分のあり方が美しくない。

Noの経験が次なるYesを生む。(P72)

コンサルに入った動機は、5日間10万円。(P84)

いのちのつながりが縁となって居場所に残っていく。
場の力=空間×関係性×記憶

境界線が伸び縮みする

「自己決定に基づいた参加者だけで始められる」
「参加と退出に対して開かれている」

▽の組織
・いいアイデアに到達できる
・当事者性が増す
・成長点が増える

「参加」と「ケア」
予測不可能な未来に対してフラット

アイデア、価値観、美意識を持ち寄り、
合わせ、形成されるチームの価値観。

共通言語、価値観だって絶対的ではなく、
つねにダイナミックに動き続けている。

「一人一人の自由と自己決定」と
「組織としての意思決定」が矛盾しない。

他動詞と自動詞(P189)
「人を集めるには?」
→「人が自然と集まるようなお店をつくるには?」

「かえるライブラリーは変えない」

人は育つ、学ぶ、変わる。
Dメンバーが居場所のジレンマを生み出す。(P194)

一人一人のいのちが最大化するという戦略。

「目的地に向け、できるだけ時間やコストをかけることなく、いかに最短距離でたどり着くか」
企業経営においても、まちづくりにおいても、政治においても、教育においても
医療においても、メディアにおいても、スポーツにおいても、NPO活動においても、
当然となっている。

「生産性」が問われるようになると人間は手段化する(P201)

我々の一人一人には、手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれがありません。
システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々をつくったのではありません。
我々がシステムを作ったのです。(村上春樹『雑文集ー壁と卵』(P210)

システムをつくるためには原初的な「問い」がいる
現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、
その問いに答えようとしている。(P228)

~~~ここまでメモ

影山さんのいうように、場って「土」のようなものなのかもしれないなと思ったし、
土でありたいと僕も思う。

土としての本屋が育むのは、人じゃなくて、
「問い」の種なのかもしれない、って思った。
もちろん問いを生むのは人なのだけど。

「違和感」や「ワクワク」を文字から、本から、人から、空間から
キャッチして、問いが生まれること。
それをやって行きたいのかもしれない。

「ブランド」ってなんだろう?って考えた。
多くの人が価値だと認識しているから、
その商品・サービスはブランド化する。
高い金銭的な価値やリピート客、ファンをつくる。

じゃあ、「問い」はどうだろうか?

接する人の心と頭の中に、
なぜ?という疑問符やなんだろう?という違和感を起こす。
人はそれをわかりたくて、
もう一度その場所に行きたくなる、もう一度その人に会いたくなる。

参考:何を考えているか分からないと、もう一度会いたくなる(17.1.24)
http://hero.niiblo.jp/e483798.html

「ユニクロがフリースを二千万着売ったのは、割安感ではなく、
どうしてこんなに安いのか、その合理的理由がわからないという、
考量不可能性がもう一度ユニクロに行かねば、
という消費者サイドの焦燥感に点火したのではなかったか。」

そんな「わからなさ」や「問い」そのものがその場所に再び人を運んでくる。
(あるいは日曜日のように、イベント後にそこにずっといたいような気持ちになる)

そんな「問い」の種が蒔かれるような、場を、本屋を
作っていくのが、僕の勘違いミッションなのだろうなあと思いました。

影山さんのコール、めちゃめちゃ響きました。
まだまだレスポンスしたいと思います。
いい機会をありがとうございました。

※「続・ゆっくり、いそげ」はウチノ食堂・藤蔵内のかえるライブラリーで買うことができます。(残り1冊ですが)
また入荷します~

  

Posted by ニシダタクジ at 10:11Comments(0)

2019年02月04日

「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ

「続・ゆっくり、いそげの朝」@胡桃堂喫茶店(2019.2.3)





※新潟内野・「ウチノ食堂藤蔵」内の「APARTMENT BOOKS」でも販売しています。

新年に「続・ゆっくり、いそげ」を読んでから
心地よい敗北感(この場合の敗北ってなんでしょうね。言語化やコンセプト化への敗北感なのか)
に浸っている中でも何かムズムズとしていたところ、
影山知明さんにお誘いいただき、国分寺・胡桃堂喫茶店での
「続・ゆっくり、いそげの朝」で対談してきました。

テーマは「場」ということだったのですが。

面白かったのは、
影山さんがいう場の力(影山さんは漢字表記)は、
「空間」×「関係性」×「記憶」

っていうことで、
だんだんと積み重なっていくものという感覚だったのに対して
僕が昨年考えたのは。

1 誰とやるか
2 いつやるか
3 どこでやるか

っていう比較的インスタントというか、
その瞬間の場のチカラ(カタカナ表記)について
考えているのだなあと。

影山さんの言葉を借りれば、
僕は「場」へのインプットに力点を置いていて
影山さんは「場」からのアウトプットを大事にしている。

それは、
「土になりたい」「土でありたい」
という言葉にも表されているけど、

植物を育てるように、
種を蒔き、水をあげ、コンディションを整えて、
目を出してくれるのを待つ、というもの。

それが「続・ゆっくり、いそげ」のテーマである
△を▽に。だ。

文字にすればリザルト・パラダイムからプロセス・パラダイムへ
人を手段化するのではなく、ひとりひとりの人から始まる経済、世の中。
僕のワークショップの時の肩書は、チューニング・ファシリテーター。

影山さんは、そのようなファシリテーションがあまりしっくりこない、という。
無理やり「自己開示させられている」のはないか、と思うからだという。

なるほど!
と思った。

たしかに、「自己開示させられている」と不快(大げさに言えば)
に思った人が何人かいた場合、
その場の雰囲気は、なんかおかしなものになるのではないか。
その通りだなあと思った。

そして、
「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ
そこには無数のグラデーションがあるのではないかと思った。

ある1冊の本を思い出した。
「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)。



http://hero.niiblo.jp/e487965.html
(「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感 18.8.20)

一部だけ抜粋すると

~~~
能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。

「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。

出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。

意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。

私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。
~~~

「自己開示する」と「自己開示される」
の差は、実はあいまいなものだと思った。

影山さんが「続・ゆっくり、いそげ」の中で一貫して言っている
「リザルト・パラダイム」に組み込まれ、人が手段化されることへの違和感。
それは、「させられる」ことへの違和感、なのかもしれない。

~~~
P197
サポートする側としても、支援「させられる」のではなく、
自己決定に基づいて支援「する」のであれば、
それはギブし合う(支援し合う)関係となる。
~~~

それにはめちゃめちゃ同意できるし、その通りだと思うのだけど、
「させられる」と「する」の差は、紙一重なのではないか、と思うのだ。

同じ行為であっても、「セクハラ・パワハラ」に該当するかどうかは、
当人たちがそれをどのように捉えるか、にかかっているように、
発言や行動などの事実のみで、それを判断することはできない。

「支援させられる」のか、「支援する」のか、
「自己開示させられる」のか、「自己開示する」のか、
っていうのも、非常に線引きが難しいところだと思う。

たとえば、
「自己開示させられている」と認識した上で、
あえて、ここはそういう場だから、そういう場づくりに向けて、
「自己開示する自分を演じよう」と思ったとき、
それは「自己開示している」のか、「自己開示させられている」のか。

おそらくは、本屋である、ということは、
そのあいだをつくろうとしているのではないかと思っている。

たとえば、「本の処方箋」。
あなたの悩みを聞いて、本を3冊、処方します。
問診票を書いてもらい、話を聞く。
聞いている僕がびっくりするようなリアルな悩みを話してくれる。
それはマクロでみれば、「自己開示させられている」
自己開示をさせる手法として、見ることもできる。

しかし、ミクロで見れば、
その「場」には、自ら「自己開示する」あるいは「自己開示してしまう」
ような何かが存在している。
ひとつめに、僕が初対面の本屋のおじさんであること。
ふたつめに、本を処方したくらいでは、その悩みは到底解決しないということ。
この2つが、自己開示を促すことになる。

もしくは、
本屋さんの店内で、飲み会をしている。(営業時間中)



とある中学2年生女子がお姉ちゃんの塾の送り迎えの合間に、
お父さんと一緒に立ち寄ったら、なんか、飲み会してる。
「部活なにやってるの?」と聞かれる。
「実は、部活やめてやることがないんです。」と答える。
「屋台をやってみたら?」と言われて、友達をお菓子の屋台をやってみる。
(ツルハシブックスで実際に起こった話)




つまり、「する」と「される」のあいだは非常にあいまいなんだということ。

僕はそれが「場」なのだろうと思う。

「続・ゆっくり、いそげ」の中で影山さんは場が力を持つときの
5つの条件を紹介していて、
4つ目に「主客同一の要素があること」
が出てくるのだけど、

僕としては、
「主客同一」というより、西田幾多郎風に
「主客未分」な状態なのだと思う。

そして、「主客未分」とは、
「する」と「される」の境目があいまいな状態なのではないかと思う。

「支援する」と「支援される」があいまいな状態。
そういう場こそが場のチカラを発揮するのではないかと思う。
昨日の話で言えば、「参加」と「ケア」が同時に起こるということ。
本屋さんっていう空間は、それが作りやすいのではないかと思った。
今回のトークでの一番の問いはここでした。

「問いを得られる場」「問いをつかめる場」って大切だなあとあらためて。

「続・ゆっくり、いそげ」のラストに、こう書いてある。

~~~
システムをつくるには、それをつくるための原初的な問いがいる。
現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、
その問いに答えようとしていると考えれば、
今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。
~~~

新しいシステムをつくるには、「問い」がいる。

1999年、24歳の時に始めた「まきどき村」は、
僕の中の「豊かさってなんだ?」っていう問いへのアウトプットだし。
ツルハシブックスの地下古本コーナーHAKKUTSUだって、
「15歳と地域の多様な大人に出会わせるには?」という問いから始まっている。

昨日もトーク終了後に、たくさんの人が
会場にそのまま残ってランチやお茶を楽しみながら、
延長戦として話していた。

投げ込まれた問い、あるいは自分の中で生まれた問いを
そのまま自分の中だけで消化できず、みんなでシェアしていたのかもしれない。

そういう問いから、システムは生まれていくし
「システム」っていう言い方が大袈裟ならば、
仕組みやプロジェクトが生まれていく。

そういう「場」を僕はつくりたいし、
それが「本屋」だったら素敵だなあと思う。

そうやって生まれてくる「問い」に対して、
人はフラットになれると思う。

今回影山さんと話して僕が確認したのは、
・僕が「いま」にフォーカスしているということ。
・僕が主客未分、あるいは「する」「される」という概念があいまいであることを望んでいること。

「本屋のような劇場」
を目指していたのは、おそらくはそういうことなのだろうと思った。

影山さん、今田さん、参加されたみなさん、
素敵な「場」をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:39Comments(0)

2019年01月27日

ツイッター空間のような本屋

松本に行っていました。




いつものモーニングは「栞日」。
菊地さんいつも佇まいがかっこいい。好き。

さて、そんな菊地さんと、移転前の栞日で、
いまは岐阜「さかだちブックス」にいる
杉田さんと雑談していて生まれたコンセプト。

「内なる旅も売る旅行代理店」
コスモツーリスト×ツルハシブックスで
旅行代理店の中に本棚を作りました。




僕の屋号は「ぽてんしゃる。」にしました。
金曜日に松本の某古本屋さんで糸井重里さんの「ぽてんしゃる。」に
出会ってしまったので。
内なる旅って感じがします。





9人の店主が9つの縦横25㎝の小さな箱を担当して古本を販売します。
会計は箱が置いてあるので、付箋を取って、代金と一緒に入れてください。

と、いうことでオープンしました。
ちょっとした取材を受けて、新潟へ移動。

大雪が心配されましたが、順調に移動して、
ウチノ食堂藤蔵でのゆよん堂「カレー祭り」と「本屋ライブvol.1」へ。

やっぱり山田さんと話すと元気になるなあ。
大切なものがそこにあるように感じられます。






ライブではこの3冊をご紹介しました。

昨日のハイライトは、

「ツイッター空間の中にも場は作れるのではないか。」

「芸術の「芸」と「術」の両方を鍛錬しないといけない。」

「予測不可能性が場に与える影響」

っていう感じかなあと。

特に山田さんが言っていた、
「ゆよん堂はサーカスだから、そこでインパクトを出して、
芸に目覚める人が出てくる」みたいな話はカッコよかったな、と。

本屋をやるっていうことは、
芸人になるっていうことなのかもしれない。

「芸」とは、楽しませる、参加できる、承認されるっていうこと
「術」っていうのは、スキル、役に立つ、評価できるっていうこと

なるほどな。
世の中はあまりにも「術」にシフトしちゃったんだ。
それを「芸」と「術」とのいい関係をつくろう
というのが山田さんの本屋なのだなあと。

昨日のブログに書いたけど、僕自身は、
本屋を表現活動としてみんながやったらいいと思っていて。
(それがバンドを組むように)
「かえるライブラリー」を立ち上げようとしているのだけど。

それはツイッターみたいに、
「ひとりひとりが思ったことを話す」
っていう「場」から始まるのかもしれないなと思った。

ツイッター上に「場」が構築されるのは、
キーワードっていうか、脳内の、完全には言語化されていないものを
共有していて、そこから生まれる予期しないコミュニケーションから
「ひらめき」とかが出る、とそういうことなんじゃないかなと。

もちろんそれは、リアルタイムのチャット(2人か複数かに関わらず)
でも起こることなのだろうけど。

おそらくは、
茨大でやった「キーワード・カフェ」っていうのは、
ツイッター空間に構築される「場」をリアルな場でも
再現できるっていうことなのかもしれない。

ツイッターとは、つぶやき単体ではなくて、
つぶやき外(のニュアンス)の非言語メッセージ
を含めた「場」なのではないかと思ってきた。

そういう「場」をつくることや仕組化することが、
僕自身の「芸」であり、「術」なのではないかと
思ってきた。

言葉にするなら
「フラットな関係性をつくるコミュニケーション・デザイン」だし、
「ひとりにフォーカスした場のデザインとチューニングファシリテーション」だし、
そのキーワードは「エンタテイメントとしての予測不可能性」だ。

エンターテイメントの本質は予測不可能性であり、
それを本屋という「場」に作っていくこと。
しかもそれを、僕がひとりでプロデュースするのではなく、
誰かと一緒につくっていくこと。

そんなツイッター空間のような本屋が、
僕が「かえるライブラリー」で作りたいものなのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 11:46Comments(0)かえるライブラリー

2019年01月18日

「つくる」と「届ける」





ウチノ食堂藤蔵の中にある「APARTMENT BOOKS」で
一緒に出店している野呂さん、山田さんと公開ミーティング。

山田さんが描いている
「古本詩人ゆよん堂」のこれからも聞きたかったし、
「APARTMENT BOOKS」がこれからどうなるかも考えたかったし。
「かえるライブラリー」は全然伝わってないみたいだったので。
公開ミーティングをしてみました。

この夏、リアル店舗出店を構想中の「ゆよん堂」。
山田さんの話はひとつひとつが響くなあと思った。

本を手元に置きながらのトーク。
楽しかった。

冒頭から山田さんの問題意識。




いつのまにか世の中は労働者と消費者になっちまった。
誰かに作られた製品を買うのが当たり前になっちまった。

つくる人がいないんだ。
つくる人になりたいの?

じゃあ、つくってみたら、やってみたらいいじゃん。
本はそのつくり方を教えてくれる。

そういう店をやりたいのだと。

いやあ、それがもう、冒頭に話していた
「オルタナティブ・アート」そのものだなと。

「オルタナティブ」っていうのは解放っていうこと。
アートを解放するんだ、素人に。

芸大も美大も出なくてもいい。
つくるんだ。君の作品を。

そういうつくりたい人のための店、をつくる。
詩でも音楽でも本棚でもいいんだ。

あと、後半のハイライトは、
「じかんどろぼう」ミヒャエルエンデ「モモ」の話。

「文喫」という六本木の
入場料1620円の本屋が何を売っているか?



野呂さんが言った。
「あれ、時間泥棒だよね。」と

たしかに良質な時間を提供している。
いい「じかんどろぼう」を、人は探して、求めているんだ。

山田さんも言う。
「文化っていうのは時間なんだよ。
質の高い時間に人生を盗まれたいんだよ。」

ほかにもいろいろ感じるところはあったのだけど、
僕がいちばんヒットしたのは、

「つくる」と「届ける」だ。
2人の話を聞いていて思ったことなのだけど、

今回の「かえるライブラリー」のテーマは、
「本を届ける」だった。

クラウドファンディングのページにある、
「かえるライブラリー」しくみ図には、
最初、「本を売りたい人」「本を読みたい人」
ってなっていたのだけど、

それを
「本を届けたい人」と「本を読みたい人」に
変更した。

本を売りたい人じゃなくて、本を届けたい人が本屋をやる仕組み。
それが「かえるライブラリー」なんだ。



そんな風に話していて、
ふと思ったこと。

「届ける」っていうのは、
最初の「つくる」っていうことなんじゃないか。
もっとも原始的な「つくる」なんじゃないか。

あるいは、
「つくる」と「届ける」は同時に起こっているのではないか。

「暗やみ本屋ハックツ」では、
本の表紙に、10代に向けてのメッセージを書く。

「10代に本を通して手紙を届ける」本屋。
それがハックツのコンセプト。
それって、最初のクリエイティブなんじゃないか、
って昨日の話を聞いていて思った。

「つくる」っていうのもモノに限らないと山田さんは言った。
詩を書いてもいいし、歌を歌ってもいいのだと。

それが誰かに届いたときに、
アートと呼ばれるようになるんじゃないか。

「つくる」と「届ける」が同時に起こる場。

何かが創られたとき、何かが変わる。
さらに自分も変わるし、本棚も変わる。
そういう「場」が本屋なんじゃないか。

いや、これ、全然何言ってるかわからないんだけど(笑)、

今回のクラウドファンディングの下書きを何人かに読んでもらって、
「わかりにくい」って言われた。
もちろん「かえるライブラリー」のシステムの話もいまだに
わかりにくいと言われるけど、

「誰のために」「何を提供して」「何を解決するのか」
が分からないと。

なるほど。
と思った。

同時に、その逆をいってみようと思った。

わかりやすくあることではなくて、
「なんだかよくわからないけど、おもしろそうだな」
って思ってくれる人がどれくらいいるか、知りたかった。

バンドを始めるときに、何かを解決したくてやるわけじゃない。
なんとなく、おもしろそうだったから、そういう理由で始まる本屋があってもいい。

「つくる」と「届ける」が同時に起こっていくような場をつくりたいんだ。
それが本屋なのかもしれないから。

さて、この文章は、届けたい人に届くのだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 09:52Comments(0)かえるライブラリー

2019年01月17日

「本屋のオヤジ」のおせっかい


「奇跡の本屋をつくりたい」(久住邦晴・ミシマ社)

「くすみ書房」という伝説の本屋が札幌にあるって
いうのは知っていたんですが。。。

売れない文庫フェアや
「本屋のオヤジのおせっかい」フェア
のことも知っていたのですが。
2015年に閉店し、2017年に亡くなっていたとは。。。

昨日の夕方、ウチノ食堂藤蔵内の
APARTMENT BOOKSに
「かえるライブラリー」の隣で
出店している新刊書店の「BooKs 風見鶏」さんから
購入した「奇跡の本屋をつくりたい」

大人のホットチョコレート(名前変わった?)
を飲みながら読み始めたら止まらなくなって、
今朝、読み終わりました。

なんだろう。
このジーンと胸の奥が熱い感じ。
受け取ったタスキがてのひらの上に載っかってる感じ。

「本」キーワードにする者にとって、
「駅伝のタスキ」みたいな1冊だった。

久住さん、おれ、奇跡の本屋をつくります!
って宣言したくなるような、
そんな1冊。

「かえるライブラリー」を始める人、
「本」をキーワードに何かやりたい人は
手に取って読んでいただきたい1冊だ。

本書の中で、
久住さんの人柄を表す一節がある。
(中島孝志さんの解説の中に収録)

~~~ここから引用

「苦しくて、袋小路に入り込んだとき、
本を読むことで心の間口が広がったことが、
人生には何度もあった。
大きな海に出るような本との出会いを、
地域の大人として何とか応援したい」

~~~ここまで引用

2006年11月20日付の北海道新聞(札幌市内版)に取り上げられた
当時はいじめ自殺が頻発したことを受けて、久住さんが考えた
「本屋のオヤジのおせっかい 君たちを守りたい」という企画の記事。

久住さんは「本屋のオヤジ」だ。
「本屋のオヤジ」でしかない。
そして、できることは、
本を並べるという小さな「おせっかい」でしかない。

あまりにも無力だ。

でも、無力というのは、何もしないということではない。
本屋のオヤジというポジションで、小さな「おせっかい」をする。
それが久住さんの美しさだと思った。

「かえるライブラリー」や
「暗やみ本屋ハックツ」に本を託す。

その行為は本当に無力だ。
届くか届かないか分からない。
紙切れにメッセージを書いて、
ビンに入れて、海に流すようなものだ。

それを僕は、
「本屋のオヤジじゃなくても、できるような仕組みをつくりたい」
そう思っている。

暗やみ本屋ハックツの前身である
ツルハシブックスの地下古本コーナーHAKKUTSUのきっかけは、
2002年に不登校の中学3年生の男の子との出会いだった。

お母さんに家庭教師を頼まれたのだが、
ずいぶんとおとなしく、話をしない子で、
コミュニケーションが取れるか不安だった。

勉強は遅れに遅れていて、受験が迫っていたので、
毎日、家に来てもらうようになった。
(当時僕は一軒家にひとりで住んでいた)

すると、だんだんと彼の表情がやわらかくなり、
話をするようになってきたのだった。

不思議だった。
僕は当時、勤めていた地ビール屋さんを退職して、無職だった。

「どうして無職の兄ちゃんに、この子は心を開くんだ。
もっと立派な大人が周りにたくさんいるだろう」
そんな問いが生まれた。
いまでもその問いを考えている。

ハックツの仕組みは、その9年後の2011年に思いついた。
しかし、それを思い出したのは、ハックツがオープンして1年が過ぎ、
さまざまなメディアに取り上げられるようになってからだった。

「なぜ、このハックツをやろうと思ったのか?」

メディアは「なぜ?」が好きだ。ストーリーを知りたいから。

地下室があって、ドラクエ世代だった僕は、
地下には宝物があるって思っていたので、
宝探しをするような本屋ができないか、と思って。

と答えていたのだけど、あるとき、気が付いた。

「そういえば、僕、10年前に家庭教師していたとき、
地域のいろんな大人と中学生が出会える仕組みがあったらいいのにって思ってました」

つながった瞬間だった。

まあでも、それも、平たく言えば、
「本屋のオヤジのおせっかい」なんだなと思う。

「おせっかい」にあふれた本棚、素敵じゃないか。
そんな本棚をつくりたいと今も思う。

本屋は無力だ。

しかし、僕らはそこに思いを込めることができる。
手紙を託すことができる。

無力だけど美しいと僕は思う。

そんな行為に美しさを感じられる人たちと、
一緒に本棚をつくれたら、と強く思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:53Comments(0)かえるライブラリー

2019年01月14日

「就活」と「手紙」

昨日のつづき。

2015年から、とある大学に在籍した。
大学の「中の人」になって、「就活」の違和感の正体を知りたい。
そう思ってきた。

一方で本屋として、
本をツールにしたコミュニケーションの場を
作り続けてきた。

2015年、暗やみ本屋ハックツの立ち上げで
出会ったキーコンセプトは「手紙」だった。
サンクチュアリ出版の金子さんとのトークで感じたこと。

本が「手紙」だったとき、その本が売れるのだということ。
「手紙が届いたこと」が売り上げにつながっていくのだということ。
仕事ってそういうものなのではないかなあと思った。

2018年、「にいがたイナカレッジ」で考えてたこと。
それは場のチカラだった。
ひとりひとりの感性をチューニングすることだった。

「誰とやるか」が大事だと、ひとりの大学生が言った。
それは端的に「就活」というシステム自体の違和感を表していると思った。

おそらくその大学生は、
人にフォーカスしすぎなんだなあと思った。

資本主義というシステムは、
人を数値化(道具化・手段化)することで
利益を生み出してきた。

去年、京都で知り合った大学生がこんなことを言っていた。

「本が好きなんで、ブックオフでアルバイトをしているのですけど、
本がすべてデータで管理されていて、システマティックに
時期が来たら半額の棚から108円コーナーへ移動し、
さらに時間が過ぎたら108円コーナーから別の場所に運ばれていく」

1冊1冊の本が本じゃないみたいだと言っていた。
そう、システムは、本を本ではなく、モノ化(「消費財」化)する。
そして、モノ化し、大量に流通させることで
スケールメリットが発生し、利潤が生まれる。

それが資本主義というシステムだ。
そこでは当然、人も消費財化する。

「就活」システムは、乱暴に言えば、
「消費財」として挙動できる人材を選ぶシステムである。
新卒を100人採用する企業にとって、
1人の大学生は消費財にすぎない。

もちろん、最終面接では、
「あなたが大切にしてきたことはなんですか?」
とか本質的な質問がされが、経営者や役員が
「あなたと働きたいかどうか?」で合否が決まっちゃうのだけど。

もし、大学生が、
「手紙」を届けるような仕事がしたい、と思っているとしたら、
就職以前に「就活」というシステムに馴染めないのは
当たり前のような気がする。

「就活」はフレームワークだと思う。
企業が求めるフレームに、自分を合わせていくこと。

そう、仕事ってそういうものだ。
世の中というフレームの中で、価値を提供していくこと。
消費財を最高速で交換し続けることで利益を最大化すること。

「出版不況」に似ているなと思った。

本が手紙だったとき、
その手紙が届くべき人に届いたとき、
その本はヒットすると、金子さんが言っていた。

いつのまにか、「売れる本」を売るようになった。
マーケティングを駆使して、
売れる内容、売れるタイトル、売れる装丁をつくった。
いつのまにか、本は手紙ではなくなった。

もはやそういう余裕がないのかもしれない。
「手紙」のような本を売り出すような。

それでも今でも、手紙のような本に出会う。

年明けに読んだ、

「本を贈る」(三輪舎)

「続・ゆっくりいそげ」(クルミド出版)

「生きるように働く」(ミシマ社)

3冊とも、手紙のような本だった。
著者やつくり手の顔を知っているからかもしれないけど、
じんわりと心に沁みてくるような素敵な本たちだった。

そんな風に、「手紙」をやりとりするような本屋が作れないだろうか。
そして、「手紙」をやりとりするような「就活」ができないだろうか。

「かえるライブラリー」で起こってほしいのは、きっとそういうことだと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)かえるライブラリー

2019年01月05日

「衝動」や「違和感」に水をやり、カタチにする


「生きるように働く」(ナカムラケンタ ミシマ社)

次はこの本。
求人サイト「日本仕事百貨」を展開するナカムラケンタさん。

奈良県立図書情報館での
「シゴトとヒトの間を考える」の本を
ツルハシブックスでも取り扱っていたけど、
そんなケンタさんのストーリーが見える1冊。

いきなり
「水やり」という言葉が出てきて驚いた。

「続・ゆっくりいそげ」と植物つながり。

ケンタさんがどんな種に気づき、
どんな水やりをしてきたか。
そんなことが冒頭から書いてある。

今日はその中から冒頭の
西村佳哲さんの話を。

西村さんの子どもの頃話、めちゃめちゃ面白い。

!!
って思って、そこに出かけていく。
衝動をカタチにしようとする。

印象的だったフレーズ。

「漠然とわかっているけど、まだ思考はおいついていない。」

「衝動でこれ書かないと死ぬ、みたいになる」

ああ、西村さんって感覚的な人なんだなって思った。

自分の中に芽生えた「衝動」が種になって、
そこに水やりをするんだなあって。

ケンタさんとかは、
大学時代の建築の現場で感じた「違和感」的なものに
水やりしていくような感じだし。

僕も去年、
「Beの肩書ワークショップ」をやってみて出てきたのの
タイトルがある衝撃好きの1年だった。

1年振り返りで
「衝撃を受けた」「シビれた」が多発したから。

でも、もしかして、
そういうものなのかもしれないなと思った。

「衝撃」や「違和感」をキャッチして、
そこに水をやる。

そうすると、その種がいつのまにか芽吹く。
そうやって仕事や企画ができていく。
そういうことなのかもしれないなと思った。

僕は、自分がもらった「衝撃」を、
本屋という場で誰かに手渡したいなと思っている。

僕はこの本を、
高崎市の「REBEL BOOKS」で買ったのだけど、
どこの本屋で買うかってとても大切だなあと思う。

その「衝撃」みたいな「違和感」みたいな
本人の中でも言語化されなかった何か。

そういうのを肌感覚で感じられる本屋。
(そういうのをリアルメディアっていうのかもしれない)

そんな本屋が
本を通して、「衝動」や「違和感」を感じたり、
本に感性を磨かれることによって、
その人が日常生活で「衝動」や「違和感」を
感じられることができるようになる。

そういう本屋をつくりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 06:49Comments(0)

2019年01月04日

「顧客」から入るか、「価値」から入るか


「続・ゆっくりいそげ」(影山知明 クルミド出版)

「場の力」について言及されているので
こちらでまとめておくことにする。

P118「場が力を持つための五つの条件」だ。

1 目的がなくともふらっと行ける場であること
2 多様な人が参加できる場であること
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一の要素があること
5 楽しく、遊びの要素があること

ひとつひとつ読んでいく。

1 目的がなくともふらっと行ける場であること
カフェは目的がなくとも行くことができるし、
目的がなくとも居続けられることができる。
そうした機会であり時間だからこそ、
思いがけない人との出会いがあったり、
思いがけない着想に出会えたりする。

2 多様な人が参加できる場であること
多様な人が集まるということは、それだけ
「違い」に遭遇する確率が高まることを意味する。
「違い」は自分に世界の広がりと深まりを与えてくれるものだ。

3 主(あるじ)の存在
空間を超え、時間を超え、人と人をつなぐことができるのが
主(あるじ)の存在だ。ここで言う主は必ずしも店主(オーナー)を意味しない。
時間的にも、気持ち的にも、その場を自分事として
引き受けている人である必要はある。

4 主客同一の要素があること
スタッフとお客さんではなく、人と人として出会うこと。
人と人としての関係を育てること。
そうしたフラットな関係の上でお店についての話ができれば、
その瞬間からお客さんもお店のつくり手の一員となる。

5 楽しく、遊びの要素があること
お店の帰り際、お客さんがポロッと言ってくださる感想として
「おいしかった」とか、「いい時間だった」とかも
うれしいのだけど、もし「楽しかった」と
言ってもらえたとしたらそれはもっとうれしい。
発見があり、笑いがあり、創造的な時間が流れたということなのだろうと思うから。

なるほど。
僕にとって、居心地の良さは、
まさに1と2だったわけだけど、
つまり、「目的多様性」と人の多様性だった。

だから、駅前の本屋っていうのは
そういう意味ではかなり大きかった。

影山さんは
「それはカフェなんじゃないか」と言うけど、
僕にとっては、
それは本屋なんじゃないか、って思う。

その違いはどこからくるのか?
僕にとって本屋は方法だった。

15歳とどうコミュニケーションするか?
どうやって広い世界を見せるのか?

2002年の不登校の中学生の家庭教師を
した時からの問いへのひとつの仮説だった。

たぶんそういう「顧客」ファーストアプローチ
の違いなのだろうと思う。
「価値」から行くか、「顧客」から行くか。

10代を顧客にするなら、
中学生・高校生が来られる場所にするには、
カフェだと敷居が高い。
入場料が発生するからだ。
だから、僕はその場を本屋だと思うのだろう。

反対に、
「顧客」ファーストアプローチの弱いところ。

それは、「顧客に届いていない」と思うと、
急速にモチベーションが低下してくる。
その方法論(たとえば本屋でありお店)
ではないのではないか、と思ってしまう。

実際にそれは2016年におきて、
11月にあえなく閉店した。

この本を読んで、
大きな要因のひとつが
「主(あるじ)の不在」だったと思った。

2015年の黄金期には
山田‐井上ラインがお店を支えていた。
2016年に井上が休学期間を終え東京に戻った。
その時に店は主(機能)を失ったのではないか
と思っている。

そのほかの1、2、4、5の要素は、
順調に機能していたように思う。

主(あるじ)をつくること。

たぶんそれが、これからの本屋、
そして、「かえるライブラリー」にとっても、
大きなカギになる。  

Posted by ニシダタクジ at 07:17Comments(0)

2019年01月03日

「本を贈る」というリレー


「本を贈る」(三輪舎)を読み終わった。
併読していた「続・ゆっくりいそげ」(影山知明 クルミド出版)も。

なんだろう。
読み終えて、少しさびしい気持ちになる。

そして、それ以上に
じわじわとあったかい気持ちも湧いてくる。

これが、本のチカラか、と
あらためて思い出す。
1年の始まりにこの本に出会えてよかったなと思う。

「続・ゆっくりいそげ」からは、
あらためて、自分が目指したい「場」を
確認させてもらった。

影山さん的に言えば、
それはカフェなんだ、と思うけど。

僕が読むと、
それは本屋なんだ、って思う。

http://hero.niiblo.jp/e208716.html
(カフェという場のつくり方 12.10.28)
山納さんの「カフェという場のつくり方」
を読んだとき、
僕がツルハシブックス作りたいのは、
カフェなんだって思った。

そして、今回この本を読んで、
やっぱり限りなくカフェに近い本屋なんだって思った。
そしてそれは「かえるライブラリー」で実現できるのではないかと思った。

そしてそれがカフェではない理由は、おそらく
僕の対象とするお客の年齢層が低目だから。
中学生・高校生・大学生だから。
もっと言えば、15歳だから。

「15歳が自分と住んでいる地域を好きになり、自分と社会の未来創造へ向けて歩き出している地域社会の実現」
(twitterに書かれているプロフィール)

だから、カフェよりも、
僕は本屋なのではないかと思う。
それは僕の表現方法だ。

そんな風に考えているところに、
「本を贈る」に出てくるたくさんのシビれる言葉たち。
「本を贈る」というリレーを経ていま、目の前に本がある。
そんなことが実感できる1冊。

藤原印刷・藤原さんの「作品」というコンセプトにも熱くなったけど、

今日は、取次「ツバメ出版流通」の川人さんと
朝日出版社の営業・橋本さんのところに特にシビれた。

ああ、こうやって、本は、思いは、リレーされていくんだ。

僕自身が書店まわり営業だったとき、
名刺の肩書には、「営業」ではなく、
「人生を変える本屋プロデューサー」と書いてあった。

他書店を見て、売れている本の情報、
この本屋さんの客層からいったら売れそうな本を
自分の出版社以外にもオススメしていった。

他社の本でいちばん売ったのは
福島正伸さんの「どんな仕事も楽しくなる3つの物語」。

新潟・富山・石川の大型書店の書店員さんに
「いい本あります。プロモDVDも会社に頼めばくれますよ」と
勝手に営業し、軒並み3ケタの売り上げ
(たぶん受注は1000冊以上)を記録して、
編集の谷さんからお礼状が届いた。

僕は「そういう本屋」を作りたかった。

本屋にフラッと入ったら、DVDが流れていて、
それに感動して思わず買ってしまった。
そんな本屋を作りたかった。
そんな日々を思い出した。

川人さんの、
誰かから誰かへの「贈りもの」としての本を
責任を持って届けている、ということができる。
という言葉。

橋本さんの、
「ソーシャルデザイン」棚をつくっていく話。

そのエピソードに胸が熱くなった。

本は、そして本に携わる人たちは、
「本を贈る」というリレーの中にいる。

それはとても幸せなことだ。

まきどき村の米づくりで言うところの、
「営み」の中にあること。
だからこそ、僕は本屋でありたいのだろうと思った。

そして、届けたいんだ。
15歳に。

思いを確かにする新年に、
ステキな本を贈り出してくれたみなさんに、
ただただ、ありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 12:01Comments(0)

2019年01月02日

第四次元の芸術

おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ
われらのすべての田園とわれらのすべての生活を
一つの巨きな第四次元の芸術に
創りあげようではないか
(宮沢賢治「農民芸術概論綱要」)

1月1日、まずどの本を読むか?
について、毎年12月後半になると悩んでいるのだけど、

今回は、11月にすでに決まっていた。

11月23日に東京・千駄木・往来堂書店で
購入した1冊。


「本を贈る」(三輪舎)

帰りの電車の中で、
さっそく読み始めたのだけど、
あまりにドキドキしてしまって、本を閉じた。

すぐに読み終えてしまうことがもったいないような気がした。
そしてふたたび、購入袋の中に入れて、寝かせておいた。

「1月1日は、この本から始めよう。」
と思った。
ようやく、1月1日がやってきた。

そこに、年末、素敵なパートナーがやってきた。

「続・ゆっくり、いそげ」(影山知明 クルミド出版)
この2冊の併読から2019年が始まった。

「本を贈る」を読むと、じわじわとあったかい気持ちになってくる。
「本」がどのようなリレーを経て、いま目の前にあるのか、
そんなことに思いを馳せるようになる。

サンクチュアリ出版で営業をしていたときに、
僕は駅伝の第3走者を走っていると感じながら営業していた。

著者→編集者→営業→書店員→読者
僕は本を届ける第3走者を走っているんだ、って思ってた。

ところが、その編集者と営業のあいだに、
つまり本が原稿から本というカタチあるものになるまで、
何人ものリレーを通ってきているということが
この本を読むとじわじわと感じられてくる。

2017年に長野・木崎湖「アルプスブックキャンプ」で藤原印刷の
藤原章次さんに出会い、その後東京のオフィスにお邪魔をし、
一言に衝撃を受けた。

「それって作品って言えるのかな」

http://hero.niiblo.jp/e485548.html
(発酵人であるということ 17.8.8)

「本を贈る」には、
藤原印刷・兄こと藤原隆充さんが語っている。
章のテーマは、心を刷る「心刷」。

創業者である藤原さんのおばあちゃん輝さんは、
タイプライターを習い、タイピストとして独立。
タイプライターで原稿を打ちこんでいく。

著者の原稿がタイピストの介在によって
熱量を失ってしまうことに違和感を持った輝さんは、
「一文字一文字に心を込めて打つ」ことの大切さに気がつく。
ここから「心刷」というコンセプトが始まった。

そして、やはり印象に残ったのはこの部分。

「情報を伝えるためだけの紙メディアが
インターネットの普及で激減するのは当然のことです。
一方で残っていくものとはなにか。
それは、作品としての本だと思うのです。」

そうそう。
それが藤原印刷が支持される理由なのだろうな。

印刷物を刷っているのではなく、
「作品」を刷っているのだ。

と。

「本を贈る」はこんな風に、
1冊の本がどのようにできていくのかを
本になったつもりで旅をするように読むこともできるし、
本を手渡す一人のランナーとして、
本の流れに身を委ねることもできる、
そんなあったかい気持ちになれる1冊。
これは仕入れて届けたい本だなと思う。

「続・ゆっくりいそげ」は、
「本を贈る」に並走してくる。

~~~ここからメモ

人は幼いころ、自分の人生の目的地を動詞のhaveで考える。
そこからもう少し大人になると、動詞のdoで考えるようになる。
doで人生のゴールを定義することの辛い部分は、
多くの場合、それがすぐには達成できないことであることだ。

そこでbe動詞である。
「何を持ちたいか」、「何をしたいか」ではなく
「どうありたいか」。

beの充足は、doの挑戦への前向きな前提条件ともなる。

思うようにお店の売り上げが上がらなかったり、
企画したイベントが不発に終わったりしたとしても、
それはカフェ店主のとしての
自分の「職業技術」だったり「機能性」が十分でなかったからなのであり、
自分の「存在」そのものを否定しなくてもいいんだと思えるからだ。

beが満たされている限り、その上で、結果を振り返り、反省し、
次はもっとうまくやってやろうと再度挑戦しようという気にもなる。
そうして、ちょっとずつでもdoの達成を積み重ねていくことで、
自分のありたい姿も、より信じられるようになっていく。

その関係をぼくは、beの充足を根っことし、
具体的な行動・挑戦(do)を幹であり枝とする樹形のようにとらえている。

~~~ここまでメモ

僕(とこはるん)の場のチカラ理論によれば、
大切なのは場のチカラであり、
場のチカラの中でも
「誰とやるか」っていうのは最重要な項目となる。

影山さん的に言えば、
「誰とやるか」っていうのは、
「どうあるか」つまりbeの前提条件にもなっている。

「就活の違和感」を的確についている、と思った。

自己分析で「やりたいこと・将来ビジョン」など、
doの目標を見つけさせようとするのだけど、
本人たちにとっては、beどうありたいか?が大切なのであって、
それは言葉にすればまさにイナカレッジが言うような
「暮らし方」とかそういう話になるし、「誰と働くか?」っていうことになる。

それなしに「do」の目標だけを設定し、
そこに向かって自らを最適化させていくことは、
影山さんによれば、根っこなしに植物を育てようとしているようなものだ。

それは植物工場のように、温度管理され、
最適な養分が常に流れ込むような環境でしか育たない植物になるリスクを抱えている。
そして、その養分となるのがおそらくは「他者からの評価」であり「(金銭的)報酬」である。

そして、
「場のチカラ」がキーワードだった(というか今も)、
影山さんが「場の力」を説明している。

影山さんによれば「場の力」とは、
空間×関係性×記憶
なのだという。

おおお。
これは、僕が言っていた
「誰とやるか」「いつやるか」「どこでやるか」
をもう少し長いスパンで表現したものなのではないか。

影山さんは、
「場」をお店のような継続していく場としてとらえ、
僕は「場」を、ミーティングやイベント、合宿などの
「瞬間」の場として捉えている差なのではないかと思った。

それは僕が落ち着きがないからか、
劇団員を志向しているからかどうかはわからないけど。

そして、ここからがこの本の1月1日読書でのクライマックスだった。
(まだ読み終えていない)

「人と場とか、相互作用によってお互いを高めていくさまは身近な
事象によっても確認できる。---おでんだ。」

えええ。
おでんっスか!?

クルミドコーヒーと影山さんのスマートなイメージと
「おでん」がギャップがあって萌えた。(笑)

でも、このおでんのたとえがよかった。

~~~以下一部引用

つゆ(場)の出汁によって、
たまごも、だいこんも、こんにゃくもおいしくなるが、
そこにはたらきをなしているこんぶやさつまあげや牛すじがある。

個々の具材がいかされているといっても
それらはバラバラに活躍するわけではなく、
おでんとしての一体感がある。

具材の中に「引き立てられる」のが
上手な具材とむしろ
「場を育てる」方面でこそ
力を発揮する具材とがあることにも気がつく。

~~~以上一部引用

このあと、さくらんぼの話も素敵なのだけど、
それは、本書を読んでいただきたい。

このあと、
場が力をもつための5か条が書いてあり、
影山さんはその章を
「カフェこそが、その場である」

と締めくくるんだけど、僕にとっては、
本屋こそが、その場である、と思った。

カフェにも、
空間がもっている「歴史」があるだろう。

でも本屋には、
「本を贈る」に書いてあるような、
「思い」のリレーを経た本たちが、
そして何より、先人たちの人生そのものが、
そこに並んでいるのだ。

「本」という時間軸のラインと。
「場」という空間のデザインと。

それらが交差する場が本屋であると思う。

宮沢賢治がおよそ100年前に語った、
「第四次元の芸術」という問い。

世の中を第四次元の芸術へとつくりあげる。
その小さいものが本屋で実現できるかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)

2018年12月31日

関係性のなかにある自分


「新・幸福論~「近現代」の次に来るもの」(内山節 新潮選書)

1年の最後にいい本読んだなと。
シビれる1冊。
追いかけてきた「何か」が目の前にあるような、
そんな感じがした。

キーワードでふりかえる2018年
っていうのをおととい書いていたけど、

http://hero.niiblo.jp/e488631.html
(キーワードで振り返る2018 18.12.29)

そのキーワードが
見事につながっていくような感覚があった。

僕のキーワードは
「アイデンティティ」
「パートナーシップ」
「他者評価」
「就活の違和感」
「場のチカラ」
「誰と働きたいか」
「営み」

とかだったんだけど、
それを見事に説明してくれているかのような
内山さんのこの本のキーワードだった。

「虚無的な関係」
「イメージの世界」
「遠逃現象」
「イメージとイデオロギー」
「先進国クラブ」
「自分の保身を第一とする戦前からの個人主義」
「国家と公を同一視するがゆえに公をも彼方に追いやっていった戦後の個人主義」

~~~とまあこんな感じなのだけど。

この文章において
重要なキーワードの一番目は「人々」だったと思う。

以下、内山さんの「人々」に関する著述メモ

~~~ここからメモ

近代とはどのような社会なのか。
経済的には資本主義の時代として形成された。
社会の基本的なかたちは、共同体社会から市民社会へと移行している。
国家は国民国家というかたちをとるようになった。

とともに、それは個人の時代であり、
個人を基盤にした社会原理や政治原理がつくられていった時代である。
1789年のフランス革命では、自由、平等、友愛が宣言され、
政治的には民主主義と代議制度が確立されていった時代であった。

化学が著しく進歩し、非科学的なことを人々が迷信として
退けた時代でもあった。
この時代を私は、「人々の誕生」という視点から
考察してみようと思う。

上野村には「人々」は存在しない。
高齢者問題とは高齢者という「人々」が
生み出す問題である。

共同体とは結び合う社会のことである。
この結び合いのなかでは「人々」は発生しない。
AさんやBさんがいるだけである。
とすると「人々」が発生するためには、
結び合う社会から人間を数量でとらえる社会への
転換が必要だったということになる。

戦争の時代(戦争の戦い方の変化)

国力(軍事力・経済力)を高める必要が高まる

中央集権的な官僚機構が必要

絶対王政が倒される

経済人と市民社会の台頭

「個人」が中心の社会へ

近代の国家は国民国家として形成されている。
国民国家とは、国民のためになる国家のことではない。
それまでは共同体のメンバーとして暮らしていた人々を
国民としてバラバラにし、その国民を国家が一元管理する
国家体制のことである。すべての人間たちを国家が直接管理する体制だといってもよい。

それは国民という「人々」を形成した。
そしてそのためには国民という
イメージの世界のなかに人々を巻き込んでいく必要があった。
さらにはそのイメージを「人々」が共有していく時代をつくり出さなければならなかった。

フランスではそのひとつとして、19世紀に入ると地方言語が排され、
フランス語による言語の統一がはかられていく。
言語の統一とは概念や文法の統一であり、概念や文法の統一とは
認識や思考経路の統一である。それは国民が同じ世界を共有するためには
重要な改革課題であった。

その後、文化や文明、戦争勝利などを通じて、
「我がフランス」や「我が日本」が作られていく。

国民という「人々」や市民という「人々」の誕生である。
そしてこの時代は、さらに新しい「人々」を生み出した。
労働者という「人々」である。
社会構造のなかでは、交換可能な人々のうちの1人として存在するようになる。

「だからこそ現代世界では、存在の不調和が発生してしまうのである。
「私」は私自身でしかないはずなのに、
社会的存在としての私は「人々」や「群れ」のなかの一人にすぎない。
「人々」の誕生はこのような問題を発生させた。」

なるほどなあ。
これが、虚無感の正体か、と。

かくして「人々」は出来上がり、そして熱狂した。
戦争に熱狂し、経済成長に熱狂した。
「イメージの現実化」の流れに乗って、
熱狂し続けた。

ところが、この構造そのものが、いま、
根源的に変化しているのである。

1973年の石油価格の引き上げからはじまった
世界経済の構造変化は、その後に工業化する国々を生み出し、
低賃金国であるほうが有利な経済をつくりだしていったのである。
それを可能にする労働力市場が世界には存在していた。

旧来の社会は、経済成長をテコにして、
人々が安定雇用と賃金上昇を獲得していくという
基盤の上に成り立っていた。
この基盤が孤立した個人でも生きていける社会をつくっていた。

いわば「人々」の群れの中にいれば、
そこから発生する虚無の問題を問わなければ、
何とかやっていける社会がここにはあった。

それは誰もが自己責任など果たさなくても、
あたかも自己責任でいきてきたかのごとく
錯覚できる社会が成立していたからこそ
実現されたシステムであった。

~~~ここまでメモ

と、またしても、引用しすぎなのだけど、
(この本、買ってください)

最終的には、
「人々」としての自分から、どのようにシフトしていくのか、
という話になっていく。

この本のいちばんの「!!」は、
この先にあった。

マルクスが「疎外」といったように、
工業化されると、人々はまさに「疎外」されていくのだけど。

ヨーロッパ哲学は、最後には「個人」に行きつき、
個人が「喪失」または「疎外」されている、
という結論になる。

しかし、内山さんは、
それを「関係性の喪失」であり、
その視野の狭さを指摘する。

「人間が自分の能力のなさにきづくのは、新しい関係をつくりはじめたときである。」

「いま保有している関係のなかで働き、暮らしているかぎり、
人間は自己認識としては能力もあり、正常なのである。」

「人間性の創造とは、自分とともにある関係の創造である。」

そして実は関係性は「喪失」しているのではなく、
「遠逃現象」つまり、遠くに逃げて行っている(ように感じる)のである。

おそらく、12月7日に唐澤さんと話していた
「営み」っていうのは、
その逃げ出した関係性をリアルにつなぎなおすもの(感覚)
なのだろう。

http://hero.niiblo.jp/e488524.html
(自己肯定は「営み」の中に内蔵されている 18.12.8)

そして、この夏に、
こはるさんが言っていた「誰と働きたいか?」
っていうのと、
イナカレッジ研修で語った「場のチカラ」っていうのは、
まさに、

「人々」ではなく、
かつ、孤立した個人でもない存在としての「自分」
をいかに生きるか?そして働くか?

言い換えれば、経済社会や暮らしとどのような関係性を結ぶのか?
という問いかけであり、仮説だったのだろうと思う。

さて、2018年は、大学を休学してひたすら旅に出て遊んでいたような感じがしますが、
2019年は、「卒業制作」に打ち込みたいと思います。

明日、1月1日午前に、卒業制作「かえるライブラリー」
の乗組員募集のクラウドファンディング開始します。

本年はみなさんにたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

  

Posted by ニシダタクジ at 14:47Comments(0)

2018年12月14日

営みと「天の恵み」という贈与と返礼


「TANEMAKI.01~まきどき村の米づくり」

購入はこちらから(こちらは米3合付き!)
https://karasawa.thebase.in/items/15213326

先週の金曜日、唐澤さんと長岡で
トークイベントをして1週間。

帰りの車で生まれたキーワードは、
「営み」だった。

http://hero.niiblo.jp/e488524.html
「自己肯定は営みの中に内蔵されている」(18.12.8)

ここでは、イナカレッジにも言及されているけど

※イナカレッジの来春からのプロジェクトはこちらから。
https://inacollege.jp/2019spring/

イナカレッジの参加者が地域の集落での暮らしで、
唐澤さんがまきどき村の米づくりに見たものは、感じたものはなんだったのか?
という問い。

そんな問いに応えてくれる本に出会った。


「農業を株式会社化するという無理」(内田樹他 家の光協会)

久しぶりの内田節にうなりました。

藤山浩さんの「郷の駅」構想は
まさに僕が本屋さんや米屋さんでやりたいことだったりした。

「人口じゃなくて、ひとりひとりの人生」っていうのはまさしくその通り。
大学生が直面しているアイデンティティ問題にも直結している。

宇根豊さんの「農本主義」にもシビれた。
いきもの指標による「環境支払い」とか、
農をふたたび取り戻す仕組みだよなあと。

ドイツの農村には、
「このリンゴジュースを買って飲まないと、
この村の美しい風景が荒れ果ててしまう。」
と言ってリンゴジュースを買っていく風景があるのだと。

「天地と自分は別々ではなかったのだ」と感じられること。

「農業は、労働ではなく天地との協働」
そんな思想にあふれていた。

ラストは、平川克美さんが締めた。

「AかBかの二項対立で考えないこと。
二項対立になった瞬間にそのあいだの選択肢をすべて失っている。」
「これからの生き方」みたいな答えはないから考え続けるしかない。

そうそう。
そうだなあと。

あらためて、第1章の内田樹さんのところからいくつか抜粋する

~~~ここから引用

農業が他の産業と一番違うのは、その成果の多くが自然からの贈与に拠っているということです。鉄の塊を地面の上に置いておいたら自動車ができあがっていたというようなことは絶対に起こりませんが、農業の場合は、種子を土の上に置いておいたら、土壌と雨水と太陽の熱で気がついたら可食物がそこに育っていたということが起こり得るというか。というか、そういう「奇跡」に感動したことが人間が農業を始めたきっかけであるはずです。

それは狩猟や漁労でもそうですけれど、自分たちが手にした成果が「天からの贈与」であるということを第一次産業の人たちは実感している。自分たちが贈与を受ける立場にあることを実感する。ですから当然それに対しては感謝の気持ちを抱く。「ありがたい」と思う。

自分たちが企業活動を通じて得た利益を「天からの贈与」だと思って、感謝するというマインドがデフォルトであるようなビジネスが他にあるでしょうか。製造業でも、サービス業でも、そんなことはありません。

実際に自分の体を使って、太陽を浴びて、雨に濡れて、風に吹かれて労働した後に、その成果として青々とした作物が実り、それを収穫して、食べて美味しかったということの感動は、他の仕事では得られないものだと言います。

そしてそれが「贈与」であると実感したら、人々は「反対給付」の義務を感じる。当然のことなんです。誰かに贈り物をしてもらったら、「お返し」をしないと気が済まないというのは人間として当然のことだからです。

農作物は部分的には天からの贈与です。贈与である以上、それを受け取った者は反対給付義務を感じる。この恵みについては誰かに対して「お返し」をする義務が自分にあると感じる。

それが自分の社会的な責務、人類学的な責務であるということを感じる。きちんと「お返し」をしないと悪いことが起きると感じる。それが価値を生成する現場に直接立ち会う人だけが味わう特殊な経験だと思います。

教育の過程もまさに「開花」とか「果実」という言葉を使うわけです。水をやり、肥料をやり、一生懸命手がけてあげて、雨雪から守ってあげてるうちに、地面から才能が湧き出てくる。

~~~ここまで引用

ふむふむ。
何度読んでも内田さんの「贈与」の話はうなるなあ。
そんな風に世の中はなっているのだなあと思う。

米づくりという「営み」の中には、「天の恵み」があって、
その贈与を受けた者として、何かお返しをしなければいけない。
その贈与の「連鎖」の中にいること。

たぶんそれが、
米づくりにはあるのだろうし、

20年前に僕がひたすら問いかけていた
「自然」とはなんだろうか?」という問いへの
一つの回答になっている。

そういう「贈与」の感覚を、
僕は、本屋や米屋や畑や田んぼによって
表現したいのかもしれないなあと今思っている。

唐澤くんが田んぼ1年目で感じたこと。
そして、イナカレッジの参加者が1か月の田舎の集落暮らしで感じること。
それらはきっと近いものがあるのかもしれないと思った。

営みの中にある圧倒的な贈与。
そこに、「生きる」ために必要な何かがあるのだろうな、と思う。

ああ、最近は読書運がいいなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2018年12月04日

ロールモデルではなく、問いを見つけること


「これからの世界をつくる仲間たちへ」(落合陽一 小学館)

AIの時代って言われてるけど、何が起こっているのか?
わからないまま、怯えていないか。

それに対して、
図解を含めてわかりやすく教えてくれるこの本。

映像の世紀(20世紀)から魔法の世紀(21世紀)へ。

テレビ、映画、アニメなど「映像メディア」の中での表現から
映像的な表現が現実の物理空間で可能に。

リアルとバーチャルは区別されていたのが
境目がなくなる。

1対NだったのがN対Nになる
魔術化:コンピュータ、コードというブラックボックス

「コンピュータは電化製品ではなく、我々の第二の身体であり、脳であり、そして知的処理を行うもの、たんぱく質の遺伝子を持たない集合型の隣人です。」

「人は人らしさを自分の中に持つのではなく、対話の中で「人らしいな」と自覚するものだと思います。いま、人はコンピュータと向き合うことで自分を見直す時期に来ました。」

「シンギュラリティ(技術的特異点):それより先は人工知能が猛烈なスピードでテクノロジーを進化させていくので、人間は世界の将来を予測することすらできません」

そんな感じで前半からガンガンきます。

ここで大きな問いは、
「人間がやるべきこと」は何か?というもの。

~~~以下引用

ただ基本的には、コンピュータが不得意で人間がやるべきことは何なのか?を模索することは大事だと言えます。

それはおそらく「新奇性」や「オリジナリティ」を持つ仕事であるに違いありません。

少なくとも、処理能力のスピードや正確さで勝負する分野では、人間はコンピュータに太刀打ちできない。

ざっくり言うと、いまの世界で「ホワイトカラー」が担っているような仕事は、ほとんどコンピュータに持って行かれるのです。

それは、よく人工知能が職を奪うという恐怖を掻き立てる表現とともに語られますが、ほんとうの問題は、どのようにして人の良いところと人工知能の良いところを組み合わせて次の社会に行くのかということだと思います。

つまり、迎合や和解のために知らなくてはいけない隣人の性質について考えないといけません。コンピュータとの文化交流が必要なのです。

~~~以上引用

いまのホワイトカラーの仕事はコンピュータにもっていかれる。それなのに、ビジネス書、自己啓発書の類は、効率化など処理能力を高める、といったホワイトカラー教育を志向している。

「意識だけ高い系」:
専門性がないがゆえに、自慢することが人脈、評価されない活動歴、意味のない頑張り程度でしかない人たちのこと。

人間が持っていて、コンピュータが持っていないものは「根性」「ガッツ」「気合」ではなく、「モチベーション」。

モチベーションを持って、コンピュータをツールとして使う「魔法をかける人」になれるか、あるいは「魔法をかけられる人」のままになるのか。

落合さんが学生たちに問いかけるのは、
「その新しい価値がいまの世界にある価値を変えていく理由に、文脈がつくか」「それに対してどれくらい造詣が深いか。」が大切だということ。

ここでいう「文脈」は次の5つの問いに落とし込むことができる

・それによって誰が幸せになるのか。
・なぜいま、その問題なのか。なぜ先人たちはそれができなかったのか。
・過去の何を受け継いでそのアイディアに到達したのか。
・どこに行けばそれができるのか。
・実現のためのスキルはほかの人が到達しにくいものか。

この5つにまともに答えられれば、そのテーマには価値があります。これを説明できるということは文脈で語れる=有用性を言語化できるということであり、他人にも共有可能な価値になる可能性があります。

この「なぜいま」のところにコンピュータが入ってくるのだと言います。

そして、最後に、3つのキーワードを。

・クリエイティブ・クラスにはロールモデルは存在しない。
・何を研究し、どんな暗黙知を貯めていくのか。
・好きなことを見つけろ、やりたいことを探せ、ではなく、自分が解決したいと思う小さな問題を探せ。

コンピュータによってホワイトカラー的な仕事はなくなっていく。新しいものを生み出せる力が必要になる。
最初のクリエイティブを作った人だけが価値を持つので、あの人のようになりたい、というロールモデルは通用しない。

そのためには勉強ではなく「研究」しなきゃいけない。
その「研究」は他者がやっていないこと。

その出発点に立つのは、好きなこと、やりたいこと、ではなくて、小さな問題を発見し、それを深く掘り下げること。

そうそう。
だから、現場で、プロジェクトを設定・設計・実行する、
そういう力が必要なんですよね。

やっぱイナカレッジだな、と思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:47Comments(0)

2018年11月27日

みえない「歴史」


「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(内山節 講談社現代新書)

いいですね。
こういうの、読みたかった。
古本屋さんバンザイ。

日本人がキツネを含む山の動物に
だまされまくっていた1965年以前と以降では
何が違うのか、を解読した本。

めちゃ面白かった。
すぐには言語化できないのだけど、
これって今に通じてるなあと。

なぜ、若者は田舎を目指すのか?
そして、リアルメディアを欲するのか?
つまり、「場」が必要なのか?

結論だけになるが、本書で内山さんは、
いわゆる日本の「村」で起こってきたこと、続いてきたことをベースに、
このように述べる。

~~~ここから引用

すべてのものを自分の村のなかでつくり変えながら生きていく。

そういう生き方をしていた人々にとっては、知性の継続、身体性の継続、生命性の継続が必要であった。

村人たちは自分たちの歴史のなかに、知性によってとらえられた歴史があり、身体によって受け継がれた歴史があり、生命によって引き継がれた歴史があることを感じながら暮らしてきたのである。

日本の伝統社会においては、個人とはこの3つの歴史の中に生まれた個体のことであり、いま述べた三つの歴史と切り離すことのできない
「私」であった。

といっても、次のことは忘れてはならないだろう。それは身体性の歴史や生命性の歴史は疑うことができない歴史であるが、知性の歴史は誤りをも生み出しかねない歴史だということである。

キツネにだまされたという物語を生み出しながら人々が暮らしていた社会とは、このような社会であった。そしてそれが壊れていくのが1965年頃だったのであろう。

高度経済成長の展開、合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱。さまざまなことがこの時代におこり、この過程で村でも身体性の歴史や生命性の歴史は消耗していった。

歴史は結びつきのなかに存在している。
現在との結びつきによって再生されたものが歴史である。
現在の知性と結びついて再生された歴史。
現在の身体性と結びついて再生された歴史。
現在の生命性と結びついて再生された歴史。

1965年頃を境にして、身体性や生命性と結びついてとらえられてきた歴史が衰弱した。その結果、知性によってとらえられた歴史だけが
肥大化した。広大な歴史がみえない歴史になってしまった。

~~~ここまで引用

なるほど
「知性」「身体性」「生命性」ね。
これが1965年を境に「知性」偏重の時代となる。

そして、その「知性」によって描かれた歴史は果たして正しいのか?
という問いかけ。
ここにこの本の神髄があるように思う。

上の章より少し戻るけど紹介したい。

~~~ここから引用

かつて私たちは、人間たちの時代経過のなかに、ひとつの歴史が貫かれていると教わった。しかしいま考えてみると、この歴史観は「中央」あるいは「中心」の成立によって誕生したのではないかと思われる。

たとえば「古事記」「日本書紀」は、古代王朝という「中央」が成立することによって書かれた歴史である。そしてこの「中央」にとっては、「古事記」「日本書紀」は「正史」として機能する。

「国民の歴史」は、国民国家の形成と一対のものであった。「中央」史が国民の歴史に転ずるためには、歴史を共有した国民という擬制の誕生が必要であり、その国民が「中央」と結ばれた存在になることによって、中央史が国史、あるいは国民の歴史といsて機能するようになったのである。

そのとき歴史学は、客観的事実の中身をめぐって争った。「本当の歴史」を、それぞれの視点から書こうとした。しかし、統合された歴史が誕生したという、そのことの意味を問おうとはしなかった。

国民国家、すなわち人間を国民として一元的に統合していく国家は、国民の言語、国民の歴史、国民の文化、国民のスポーツといったさまざまなものを必要とした。求められたのは国民としての共有された世界である。

そのひとつが国民の歴史であり、私たちにとっては日本史である。そして、だからこそその歴史は人間の歴史として書かれた。

かつてさまざまに展開していた「村の歴史」はそのような歴史ではなかった。それは自然の人間が交錯するなかに展開する歴史であり、生者と死者が相互性をもって展開していく歴史であった。

なぜなら「村」とは生きている人間の社会のことではなく、伝統的には、自然と人間の世界のことであり、生の空間と死の空間が重なり合うなかに展開する世界のことだからである。

ところで「中央の歴史」としての「国民の歴史」が書かれるようになると、その「歴史」には共通するひとつの性格が付与された。現在を過去の発展したかたちで描く、という性格である。

それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済的に低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。

だがこの精神の展開は、現在の価値基準からはとらえられないものを、みえないものにしていく作用を伴う。

キツネにだまされながら形成されてきた歴史も、過去の人々の微笑ましい物語にしかならないだろう。

~~~ここまで引用

うーむ。
とうなるしかない。

かつての「村」は、いや、人間の暮らしは、
「身体性」と「生命性」を伴っていた。

それが1965年頃を境に、
「知性」のみに偏重した暮らしへとシフトしたんだ。

大学生がなぜ、田舎を、地方を目指すのか。
「農業」や「リアルメディア」に心を惹かれるのか。

それは、「身体性」や「生命性」と伴った何か。
そこに何かがあると直観しているからではないか。

ベルクソンは1907年に言った。

「直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。
知性は物質を生みだした過程にまねた過程が
そこに切りだしたものにすぎないのだ。
・・・知性からは決して直観に移れないであろう」
(創造的進化 1907)

なるほどなあ。
みえないもの。

そこに何かあるんじゃないか。
そういった感覚そのものがなくなっていった。

言語化、見える化ではなくて、言葉にできないもの、見えないもの。
身体性や生命性。
そういう感覚を、大学生や20代は必要としているのではないか。

それを求めてくる大学生に何ができるか?
どんな「場」を共有できるか。

イナカレッジをはじめ、地域で活動する団体は
おそらくそんなことが求められているのだ。

  

Posted by ニシダタクジ at 16:42Comments(0)