プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年11月14日

なぜ、(小さな)本屋なのか?

なぜ本屋なのか?

そこには省略されているのは
なぜ(図書館ではなく)(大きな書店でもなく)(小さな)本屋なのか?
ということなのだろう。

そんな問いをもらって、あらためて考える。

本屋を始めた理由。
http://hero.niiblo.jp/e269505.html
(13.6.11 僕が本屋さんになった3つの理由)

1 ヴィレッジヴァンガード郡山店の店長のカフェをつくりたい話からいつか本屋をしようと思っていた。
2 「ホスピタルクラウン」(大棟耕介)を仕入れすぎた。
3 地域と若者のプラットフォームは本屋なのではないかと直感した。

と簡単に言えば3つになるのだけど。

なぜ本屋なのか?はそのまま「本屋とは何か?」
という問いにつながっている。

ツルハシブックスを始めてから、「なぜ本屋なのか?」というよりも、
「それを実現するのは本屋なんじゃないか?」と思うようになった。
特に「カフェ」という概念に出会ってから、かもしれない。

クルミドコーヒー影山さんやCommon Cafe山納さんの著書を読んでいると、
「それはカフェでこそ実現できる」というニュアンスで書かれていることが、
僕にとっては、それは本屋でこそ実現できる、と思える。

ツルハシブックスを開店した当初に、
山納さんの「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)を読んで、
僕がやりたいのは「新刊書店」ではなくて「カフェ」なのだと知った。
http://hero.niiblo.jp/e208716.html
(12.10.28 カフェという場のつくり方)

2019年のかえるライブラリーのクラファンのときに、
http://hero.niiblo.jp/e488750.html
(19.1.20 本屋元年)

~~~
「つくる」と「届ける」。そのあいだに、本棚があるように思う。
つくり手と受け手のコミュニケーションのあいだに、本棚があるように思う。
~~~

なるほど。
本棚をつくる人は、その「あいだ」をつくっているんだ。ただ機会を提供しているだけ。
その本を買うか、買った本を読むか、は読み手(買い手)に委ねられている。
そんな「あいだ」をつくる、それがかえるライブラリーだろうと。

もうひとつ。
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
(20.10.15 ベクトルとして存在を許されるカフェという場)

~~~
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェ。
「何者でもない誰か」を言い換えれば、名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。
実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。
~~~

クルミドコーヒー影山さんは、「続・ゆっくりいそげ」の中で「場が力をもつための条件」として5つ挙げている。
1 目的がなくともふらっと行ける場であること
2 多様な人が参加できる場であること
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一の要素があること
5 楽しく、遊びの要素があること

うんうん。このすべてが合わさって、ようやく場は力を持つのだろうと。
そして、それはカフェではなくて、「(小さな)本屋」でこそ、実現できるのではないかと。
もちろん、カフェでも本屋でもない別の方法もあるのだと思うけども。

その本屋をかつて僕は「劇場のような本屋、本屋のような劇場」と名付けた。
提供している価値は「予測不可能性」という楽しさ。

つくると届けるの「あいだ」にあり、それを委ねる空間。
それがつくりたい小さな本屋という空間なのかもしれません。

それを僕やスタッフだけがやるのではなく
主客をあいまいにしながら本棚を作っていく「かえるライブラリー」のオーナーや、
温泉入ってサッパリしてからひと仕事しよう、とか。
いろんな人たちが「ベクトル」だけになって、そこに存在を許されるような、
そういう「場」としての本屋を、始めてみようと思っています。

「かえるライブラリー」は年間8,000円で借りることができます。(予定 3月まではお試し期間で1,000円/12月~3月)
詳しくは西田までお問合せください。  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)

2021年10月24日

「見つけた、つくった」に向かう生態系


「役に立たない研究の未来」(初田哲男・大隅良典・隠岐さや香 柏書房)

またしてもタイムリーな本でした。
「探究」をドライブするのはなんなのか?
山崎糀屋・山崎京子さんを突き動かした「好奇心」は
基礎科学の研究者の原動力でもあるようです。

この本でのとても大切なテーマは「役に立つ」と「役に立たない」です。
いわゆる「基礎研究」と呼ばれる分野は有用性が(すぐには)分かりづらいので、
しばしばそのような議論にさらされると言います。

本書44ページには
「役に立つ」知識と「役に立たない」知識との間に、不明瞭で人為的な境界を無理やり引くのはもうやめよう、として、基礎研究の特徴が以下のようにまとめられています。

1 基礎研究はそれ自体が知識を向上させる
2 基礎研究がしばしば予想外のかたちで、新しいツールや技術をもたらす
3 好奇心を原動力とする基礎研究は、世界レベルの学者を惹きつける
4 基礎研究によって得られる知識の大半は公共の財産となる
5 基礎研究の最も具体的な効果はスタートアップ企業というかたちで現れる。
~~~

そうか、基礎研究の原動力は「好奇心」なのか。

この本のラストに隠岐さんが以下のように言っている。

~~~
一般的に「何かに役に立つ研究」の動機は、「Xのために役立つからYを研究したい」といったかたりで表明されます。すると、内容はどうであれ、その人の関心はXとYとに分散していることになります。場合によっては研究対象のYよりXのほうが大事なことすらあるかもしれません。

それに対して「とにかくYを研究したい」という場合、その人は基本的にYのことしか考えていないはずです。すぐには役に立たないとされる研究の多くは、このように研究対象自体への純粋な関心により成り立つものが多いように思います。

自然科学の基礎研究なら、Yのところになんらかの自然現象が入ります。人文社会系の研究の場合、そこには人間社会に存在する対象が当てはまります。
~~~

うわー、これは厳しい指摘。
探究をプロジェクト型学習だとすると、私たちは、隠岐さんの言うXつまり目的を大切にしすぎているのではないか?

SDGsに当てはまるとか、地域の活性化や、空き家の解決だとか。
もしくは顧客は誰で、その人がどうなったら幸せなのか?

それを言語化していくことは、そんなに大切なのだろうか?と。
もっと「好奇心」そのものを出発点にできないだろうかと。

その「好奇心」そのものが学校および学校型社会によって削がれてしまう、
というのなら、それを取り戻すところから始める必要があるのではないか、と。

だからこそ振り返りで「印象に残ったこと、面白いと思ったこと、疑問に思ったこと」を
継続して問い続けないといけないのではないか、と。

僕たちは呪われてしまったのではないか。
「役に立つ(=有用性)」という悪魔に。

しかもこの本で書かれているが、古代ギリシア・ローマ時代の有用性とは、便利、とか実用性という意味とは違い、共同体の繁栄の役に立つ、ということであったのだと。自分とか就職とか短い射程ではなく、共同体とか人類の未来だとか、空間的時間的に広い射程の中で「有用性」を捉えていくことが必要になってきているのだと思う。

なるほどなあ。
そもそも役に立つとか、インセンティブとかそういう考え方が「好奇心」そのものを奪ってきたのかもしれない。

さらにこの本で出てくる「科学」とは何か?というところ。

~~~
1を100にする時には選択と集中は有用だがゼロをイチにする時には使えない。

「科学」というものは、原理や普遍性や法則性を「発見」する過程です。一方の「技術」とは、「発明」という言葉に代表されるものです。

科学の本質は自分で「問い」を見つけることにあります。

科学は「文化」の一つである。陸上で新記録が出たとか、ベートーヴェンの音楽に感動するだとか、儲けにも「役に立つ」にもつながらない感動が、科学にもあるのです。
~~~

これさ、「科学」を「学び」や「探究」に換えても、同様のことが言えるのではないか、と。
高校生や大学生のうちから、「役に立つ」にフォーカスしなくてもいい。
むしろそのフォーカスが、学びを狭くしているのではないかと。

さらにつづきます。

~~~
それが大事な研究課題だったら、いずれどこかで大きな分野に育っていくだろうし、そもそもそんな予測は立てられないし、本人にもわからないのですよ。やってみる以外に解はないのです。

自分ではこうに違いないと信じるのだけど、それが必ずしも100パーセント当たるわけでもない。それがサイエンスという営みなので、そういうものなんだと思うことも、私は同じくらいに大事だと思っています。

一人の天才が急に現れて、すべての理論ができあがったわけではまったくなくて、結局、氷山の一角なんですよね。たまたま機が熟し、そのひとの能力もあいまって、新しい発見や発明が出てきたというだけ。

サイエンスという生態系により、新たな発見が生まれるんだ。科学は堤防を決壊させる地点にいた人だけで進んできたのではなく、アインシュタインでさえその例外ではありません。
~~~

そっか。「営み」の中の「場」の一員として、そこにある、って感覚なのかもしれないな。
つくりたい「まなびの生態系(まなびサイクル)」はきっとそういうイメージだと思いました。

高校生への問いかけは、
この3年間で何を達成したか?と問うのではなく、
この3年間何を発見したか?と問うべきなんだろうな。
顧客も、ミッションも、価値も、自ら「発見」しないとね。

マイプロジェクトで語るべき「君だけのドラマ」は
その「発見」のストーリーなんだよな、きっと。

「変わりたい」「変わった」は目的・目標ではなくて結果なんだよね、きっと。
見つけた、つくった。その先に「変わった」が結果としてある。
フォーカスすべきは見つけた、つくった、なのではないか。

「見つけた、つくった」に向かうとき、高校生と大人のあいだに上下関係も師弟関係もなく、ただただフラットな同志というか仲間というかそういう関係がある。

つくりたいのは、そういう生態系です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)日記

2021年10月20日

そして「つなぐ」



明治元年創業の山崎糀屋6代目、山崎京子さん。
いつも高校生たちとお世話になっています。

そんな山崎さんのお話と糀のレシピが詰まった1冊
「糀入門」(山崎京子 新潟日報事業社)


山崎さんからいつもお話を伺っている
糀の話や味噌の話も書いてあります。

なぜ味噌を煮るのにガスや圧力釜ではなく、薪火を使うのか。
これ、僕も昨年の春に見せてもらいました。







~~~以下本書より引用
発酵食品をつくるために一番大切なのは徹底した温度管理です。微生物の活動によって成立する発酵食品ですから、それらが死んでしまうような高温で処理すると台無しです。「温度管理=火力を御すること」と考えれば、味噌に使う大豆を煮る時も同じ考え方です。

山崎糀屋では、大豆を煮る時、薪に火を起こして、そのとろ火で大豆を煮ています。火力の強いガスや圧力釜を使った方が効率的だと思います。なにせ大豆を煮てやわらかくするだけで、半日以上かかります。
~~~

この大豆の煮汁を飲ませてもらったのですが、これがビックリするほど美味しい!「れふぇり」さんに持ち込んでジェラートつくってもらおうかと思いました。

あと、この本には、山崎さんのこれまでの半生が描かれ、40代後半から50代にかけては、本業の糀屋女将の他に、アパート新設と経営、スナックのママ、町議会議員と、4足のワラジを履いて忙しい日々を過ごしていたということです。

昨年の「まなび体験会」で聞いて度肝を抜かれたマサイ族に会いに行った話も収録されています。世界中の人たちがどんなものを食べて、どんなからだの仕組みをしているかが知りたくて世界14か国を歩いたのだと。

その中にアフリカ・ケニア・マサイ族や極北イヌイットに会いに行った話が書いてあり、彼らが「牛の生き血」や「アザラシの肉」を食べていることを目で見て、民族や人種によって、腸のつくりや消化能力が異なることを実感したと言います。

それにしても、「なぜ、マサイ族はそんなに視力がいいんだ?」と問いかけ、実際に会いに行ってくる、なんて、「探究的学び」そのものですよね。問いと発見の連続。昨年制作した「プロジェクトA探究者たち」っていいネーミングだなあと。阿賀町にはたくさんの探究者たちがいるんです。

この本の冒頭に、「こうじ菌」そのものの説明が載っています。こうじ菌は日本の「国菌」として指定され、和食文化において果たしてきた役割が大きいということです。

こうじが伝来したのは弥生時代とも言われ、奈良時代の書物には記載があったと言われています。「発酵」という文化はそれぞれの地方や国にありますが、こうじ菌をつけることで腐敗ではなく発酵に導く、というのは日本の風土(温度や湿度)に合っていたのでしょう。

そんな糀について学ぶこと。微生物の偉大さを体感すること。「受け継がれてきた何か」に思いを馳せること。たぶん、そこから始まっていくものもあるのだろうな、と思います。

前回のブログに、自分で「決めて」みんなで「つくる」と締めくくりましたが、実はその先に「つなぐ」があるのかもしれないと思いました。「つなぐ」とは、「人と人がつながる」ことではなく、時間軸的に「継いでいく」ということ。

弥生時代、奈良時代から連綿と受け継がれ、発展してきた糀、そして発酵文化。明治元年創業、山崎糀屋6代目の山崎京子さんは、「つないできた」人だし、「つなぐ」人だ。

僕は、アイデンティティを「場」によって構築しようとしているのだけど、そのキーワードとしても、継いでいくという意味の「つなぐ」が大切だと思っていた。

「経済成長」というスローガンのもと、地域社会や家制度は崩壊させられ、個人は「ひとりの力」で「自立」するように強制させられた。

それはいったい誰のためだったのだろう。
http://hero.niiblo.jp/e346221.html
(参考:14.1.30 家電を売るために「夢を持て」?)

今年春に読んだ「進化思考」(太刀川英輔 海士の風)で、「人間が生物であること」を再確認した。
http://hero.niiblo.jp/e491673.html
(参考:21.4.26 人間が生物であること)

僕たちは生物として「継いでいくこと」を前提としているはずだ。その実感を取り戻していくこと。そのためには、糀のような、つながれてきた文化を肌で感じることが大切なのかもしれない。

山崎京子さんのように好奇心を表現して前進・創造しながら、問いを探究していくこと。
そして「受け継がれてきた何か」を次世代につないでいくこと。

それは、高校生や若い人の最大の課題である(と僕が思っている)
自分らしさ(アイデンティティ)問題にも直結していると感じる。

自分で「決めて」みんなで「つくる」そして「つなぐ」

その繰り返しで「自分らしさ」は創られる。

あなたが「継いでいきたい何か」は何ですか?  

Posted by ニシダタクジ at 06:59Comments(0)日記

2021年10月18日

自分で「決めて」みんなで「つくる」


「会って、話すこと」(田中泰延 ダイヤモンド社)


「14歳の君に伝えたいお金の話」(藤野英人 マガジンハウス)

電車の中での2冊並行読書。
これが僕のリラックスタイムjかもしれません。

今回はこの2冊。
「会って、話すこと」は前作の「読みたいことを、書けばいい」(同社)があまりにも面白かったので。
「14歳の君に伝えたい『お金の話』」は、「投資家がお金よりも大切にしていること」(星海社新書)が面白かったで。

ということで、読み進めました。
詳しい話は本書を読んでいただくとして。

まずは、14歳の君に伝えたいお金の話より
~~~
お金は僕たちに「フラットであれ」という教訓を教えてくれます。

お金は「使って終わるもの」ではなく、むしろ「違うことから始まるもの」なのです。

老若男女すべての人にとって、「何を買うか」に意思は宿るのです。

自分の人生と未来を自分自身で決めるという場面が、日常には無数にあるということです。
~~~

「お金を使う」ということは、意思を表示している、ということです。

駒崎弘樹さんの「社会を変えるお金の使い方」(英治出版)や
家入一真さんの「なめらかなお金がめぐる社会」(ディスカヴァ―・トゥエンティワン)
にも同様の表現があったように思いますが、
こちらの本ではさらにシンプルに解説してくれています。

この中での高校生に伝えたいエッセンスは「自分で決める」ということ。

水戸で、商工会議所が主催する小学生(5,6年)向けのお店体験である「ジュニアエコノミーカレッジ」(ジュニエコ)に参加させてもらったときに感じたこと。ひたすら問われるのは「自分で決める」ということ。

ジュニエコは「自分で決める」の1点勝負。
中小企業の経営者・経営幹部が多く参加している商工会議所だからこその説得力があるメッセージ。

「先生や親が言ったから」ではなく「自分で決める」こと。
そこからしか始まらないのだとジュニエコは教えてくれる。

そしてもう1冊。「会って、話すこと」会話というより、対話の本。
前作に続きこの本もひたすら痛快で、いわゆる会話術的な本をバッサリ切っていて爆笑しながら読めます。

冒頭に引用されているアメリカの物理学者デヴィッド・ボームの言葉がズッシリくる。
「対話では、話し手のどちらも、自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。むしろ、二人の人間が何かを協力して作ると言ったほうがいいだろう。つまり、新たなものを一緒に創造するということだ」

いやあ、そうなんですよ。それなんです。
大切なのは「対話」であり「創造」なんです。

そしてその「創造」がどこにあるのか?ということで本書より抜粋するのは
~~~
「ボケ」は現実世界への「仮説」の提示であり、「ツッコミ」は「マウンティング」である。

「ツッコミ」は漫才や落語などの舞台演芸場の職務であって、現実の会話にはまったく必要がない。

会話の参加者のだれも「ツッコミ」というマウンティングをせず、「その発想、おもしろいね」という審査員にもならず、全員がプレーヤーとしてスローインされたボールをドリブルしてパスを出す。

そうしてただパスを回す遊び、それが最上の会話であり、「連歌」にも通じる遊びの本質なのである。

関西人は日常をひとつの舞台として捉え、どこかにカメラがあるような意識を持って、自分を客観視している。

有名な起業家はみんな、アイデアという大ボケをかましたんです。その壮大な仮説に乗っかった人がいたから、世界は前よりも便利になったり、おもしろくなってきた。いわゆるイノベーションと呼ばれるビジネスはそうやって実現してきたんじゃないでしょうか。
~~~

そうか。スティーブ・ジョブズの「Stay foolish」って「ボケろ」「ボケんかい」ってことだったんですね。(違うか)
「創造」は「対話」の「あいだ」に生まれる。

蓮歌のように、会話を楽しむこと。

そうか。エンターテイメントの本質は「つくる」にあるのかもしれない。

だから、人はボケなければならない。
「学び」と「遊び」ってかなり近いところにあるんじゃないか、って思った。
大切なのは「教える」と「まなぶ」なんかじゃなくて「決める」と「つくる」なんじゃないか。

「決める」と「つくる」にフォーカスすること。
対話と創造を楽しむこと。
実はそのマインドセットこそが、どんなスキルよりも大切なのかもしれない。

自分で「決めて」みんなで「つくる」
それを何度も何度も繰り返し、その人の人生は創られる。
アイデンティティも、仕事も、暮らしも。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)日記

2021年10月15日

舞台俳優を育てる3つのセリフ


「学校ってなんだ!」(工藤勇一 鴻上尚史)

読み始めました。
今日は子どもとの接し方のアドバイスのところ。

麹町中学校に掲げられている「リハビリのための三つのセリフ」

1つ目「どうしたの」。
子どもにどんなことが起こってもまずは「どうしたの?」「困ったことあるの?」と聞いてみる。
先生はそれを「へえ、そうなんだ」と耳を傾ける。

2つ目「それで君はこれからどうしたいの?」
子どもの希望を聞き出す。

3つ目「何か支援できることある?」「手伝えることあるかい?」
3つ目を放った後に、選択肢の提示をする、というパターンもある。

大切なのは「本人が決める」というプロセス。
三つのセリフというのは、すべて自己決定せざるを得ないものになっている。
小さな自己決定の積み重ねが子どもを元気にさせていく。

と工藤さんが言うと、鴻上さんがこう返す。

それ、演劇の世界でも同じなんですよ。俳優を育てる一番確かな方法は、問いかけることなんです。「今の役の気持ちは?」「いま、この役は何をしたい?」「今、この役は何を考えていると思う?」と問い続け、答えをキャッチボールすることで、俳優は育つんです。

「こう動いて」「こう話して」という命令をすると、俳優は上手くなったように見えることもありますが、一時的なもので、持続しないんです。演劇は映像と違って、何度もやり直しができるんです。映像は、一回撮影したらそれで終わりですが、演劇は稽古でも本番でも常にくりかえします。だからこそ、一回で答えを出す必要がなくて、試行錯誤できるんです。
~~~

いや、これ、サラッと言っているけど、すごいエッセンスだなと。
問い続け、小さな自己決定をさせ続けること。
それが子どもも、俳優も育てる。

僕の「成長」仮説は、
「Fake it till you make it」(実現するまでそのフリをしろ)なのだけど、
まさに「演じる」ということなので、今回の鴻上さんの話にはビビっと来た。

ちなみに、
「チーム」仮説は、「destined team~導かれし者たち」で
「コミュニケーション」仮説は、「Shall we dance?」(一緒に踊らないか?)
なのですけどね。

つまり。
テレビや映画の俳優を育てているのか?
それとも舞台俳優を育てているのか?
っていう話。

定期テストや入試など、ココ一番に強い俳優なのか?
何度も練習と自己決定を繰り返して、「過程として学べる」俳優なのか?

それは、後者ですよね。
人生にはテレビや映画のようなココ一番のシーンもあるかもしれないけど、
基本的には稽古と本番の繰り返しだ。そしてその本番も、次の稽古として存在している。

たぶん、そういう感じ。
だからこそ、周りの大人は、
いい俳優をつくるために、小さな自己決定を促す問いを、
もっとあなたの可能性をを知りたいんだと伝わる問いを、
投げかけないといけないのだろうな。

この町は、この学校は、劇場のようなものなのだから。

宮沢賢治先生はかつて言った。(農民芸術概論綱要より)
「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか」

つくりたいのは、そんな劇場のような「場」です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:38Comments(0)日記

2021年10月14日

うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ

まなびときばんだい(福島県磐梯町)に通りすがりにお邪魔してきました。








関係者の皆様(特に塩尻の山田さん)、
塩尻でお会いして以来の高田さん、お元気でしたよ!

小中高生のための自習スペース「まなびときばんだい」は、
たくさんのコミュニケーションの仕掛けが隠されていて、
学校以外の「まなびのトビラ」をうっかり開いてしまうような場になっていました。

公民館的な場所でも、デザインによってこんな素敵な「場」(空間)ができるなんて、と感動しました。
くじ引きシステムとか、やっぱり素敵だなあと。しかも番号じゃなくてカルタなところとか。

ということで、本日の1冊はこちら。

「やりたいことが見つからない君へ」(坪田信貴 小学館)

あの「ビリギャル」の坪田さんからのメッセージ。

いきなりいいです。

人生の早い段階で自分のやりたいことを決めるということは、「今、持っているカードの中から最善のものを選ぼうとしている」ということです。つまり、人生の早い段階で中途半端な夢を持つ人よりも、「人が求めていること」や「世の中が必要としていることは何か」を考える人のほうが、後々にずっと大きな可能性を持っているということです。

いや、ホントそうなんですよ。
夢・目標を定めることに大した価値はないんです。
(全くないとは言わないですけど)
だって、15年後には65%の仕事は入れ替わっている、らしいんですから。

あとは、受験勉強についてのこれ
「はっきり言って、受験勉強というのはパターン学習にすぎません。」

いいっすね。
何人もの子どもを有名大学に合格させてきた坪田さんが言うと説得力がある。

今日は「第3章「自分」を知ると関係性が開けてくる」からエッセンスを一部抜粋。

「自分」を知ることは一人ではできません。
この本の中で坪田さんは3つの方法をお勧めしています。

1 メタ認知
2 20答法
3 ジョハリの窓

たぶん、メタ認知っていうのは探究の授業とかの振り返りに当たるのだろうな。
その辺の重要性、もう一度確認しないとね。

基本的には
「印象にのこったこと、疑問に思ったこと、面白いと思ったこと」
「自分(あるいはグループメンバー)はなぜ印象にのこったのか?」
この繰り返しになると思うし、

予想できた、できなかった、よかった、悪かったマトリクスもメタ認知の手法なのだろうけど。
もう少し、高校生にもふりかえり・メタ認知の重要性を伝えることと
その具体的方法について一緒に試行錯誤することが大切だなと。

そしてもうひとつ、アイデンティティの話

~~~
つまり、君という人間のアイデンティティは、君の周りの人との関係性、さらにその先の人との関係性、もっとさきの人との関係性によって大きく左右されるということです。まさに網の目のように延々と続いていくネットワーク全体があなた自身のアイデンティティである、とも言えるのです。
~~~

アイデンティティ(自分らしさ)とは関係性である、と坪田さんは言います。
だからこそ坪田さんは、目の前の一人を感動させることが大切で、その評判はどんどん伝わっていく、と。
「誰かのため」にやっていることが「自分のため」になることもある、と。

夢や目標は一人ではかなえられないのだだから、偶然の積み重ねによって、時には誰かの目標に巻き込まれ、一緒にやり、仲間を増やしていくことで、実現の可能性が広がっていく、と。まずは目の前の一人を感動させることだ、と。

いや、ホントそうなのだろうな、と。
高校生の探究的な学びも向かうところはそこなのではないかなと。

昨日の只見高校でも、新國農園の新國さんが「手触り感(実現可能性)」と「ターゲット(顧客イメージ)」
について、高校生に説明していたけど、プロジェクトのモチベーションとかワクワクって結局そこだよね、と。

目の前のイメージできる誰かに、価値を届けること。
その届けるリアルを感じられること。
そこなんだろうな、と。

人生は、プロジェクトの連続である。しかも仕事や家庭、恋愛、その他プライベートなど、複数のプロジェクトの同時進行である。

プロジェクトづくりをする上で必須なのは、企画づくりと仲間づくりである。

企画づくりには「企画書づくり」のスキルと、社会や時代を読み取る観察力が必要であり、仲間づくりには、コミュニケーション・デザイン力と「自分を知り、相手を知る」ことが必要である。

プロジェクトは一隻の船をつくるようなものだ。
1 誰と船に乗っているか。
2 船に乗る人と、船を取り巻く環境のタイミングはいつなのか。
3 船の内装はどうか?どこの海、または川、湖に浮かんでいるのか?
4 船の目的地はどこか
5 この航海は誰をハッピーにするのか
6 この船は何を運んでいるのか、どんな機能をもっているのか
7 どうやって運ぶのか、その機能をどうやって発揮するのか。

こうして人はプロジェクトという船旅に出る。その時に、「成功」「失敗」にこだわらないこと。
全ては「実験と結果」にすぎないし、旅に出たからには「発見」があるはずだ。
つねに僕たちは船旅の途中だから。

トーマス・エジソンは言った。
「私は失敗などしていない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」

さて、次はどんな発見が待っているのだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)日記

2021年10月11日

変化しない「語義」と変化し続ける「意味」


「教えから学びへ~教育にとって一番大切なこと」(汐見稔幸 河出新書)

界隈で話題になっていたので読みました。
考えさせられるキーワードがたくさんありました。

~~~
・エージェンシー(当事者性)
・文科系と理科系は分けられない
・MITでは音楽を重視している
・「わかる」の3つのレベル(言葉・名前を知る⇒対象の属性を知る⇒現象の背景にある法則を知る)
・3つの教養
  1 分化した知識をつなぎ直す
  2 関心の発展的システムを持っている
  3 全体との関係で自分を位置づける
・本来の学びは「師弟モデル」
・「受動の中に能動を見る」パッシブ=受け止める
・全ては仮説にすぎない(1+1=2ではない)
~~~

とこんなところでしょうか。
詳しくは本書を読んでください。

今日は、僕にとってもっとも大きかった「語義」と「意味」のところから。

~~~
ロシアの心理学者、レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーは「思想と言語」の中で、「一人ひとりが"これが面白い!”と感じるものは、社会が与えている意味とは異なる。しかし、そのような個人的な意味を与えていくところにその人の個性が現れる。」というのです。

「私が自分で意味を与えていく心の働き」と「世間で言われている意味を取り入れる働き」の兼ね合いに、精神活動の面白さがある。

自分が何かを感じたものに意味を与えていくのことは、感覚に深く関わっているからsense(感覚、センス)、
社会が与えた意味を理解し、そういうものだとして取り入れていくことはmeaning(意味・目的)なのだと。

ヴィゴツキーの本の中では、senseは意味、meaningは語義と訳されていました。

たとえば宇宙人に「母親とはどういう意味か」とたずねられたらどう答えますか?
「子どもを産んだり育てたりする女の人」と答えるのは語義meaningです。

「あなたにとって母親とは?」とたずねられたらどうでしょう?その答えは人によって千差万別です。
「愛の象徴」「憎むべき存在」など、それぞれ自分の経験から価値づけしているのが意味senseです。l

語義meaningの上に、意味senseが重なって、発酵していくのです。
そして「母親は嫌いだったけど、自分が母親になったら理解できるようになった」など、意味senseは時間や経験の影響を受けながら深まり、変化していきます。

本来、私たち人間は、生きる「意味」を求めて生きているのですが、その意味は世間でつくられるものではなく、私が私の経験に基づいてつくる「意味sense」です。しかしそこが大切にされず、「語義」の世界に合わせて振る舞うように望まれるのがいまの社会です。

人間にとって「学ぶ」ということは、「意味」の世界が経験によって深まり重層化し発酵していくことによって、「語義」の世界も深まって進むことだと私は考えています。別の言い方をすれば、人間は「語義」を学ぶことで社会性を身につけます。しかし、社会の中で皆が使う「語義」に、その人なりの「意味」が乗ることで、その人の個性が出てくるわけです。その人らしく生きていくためには、私にとっての「意味」の世界を豊かにしていく必要があるのです。

学校で身につける認識は三人称的な認識で、それだけでは認識が行動をコントロールするレベルにまで進化しない。その三人称的な観念を、「自己一身上」の問題として認識し直さなければならない。つまり「一人称化する」ということです。

「一人称化する」とは、「語義」の世界だけではなく「意味」の世界を豊かにしていくこと

「一人称化」するプロセスは「問いと答えの間」だと言えます。その「間」をどれだけ充実させるかという問題。
~~~

これがきっと「地域を舞台にした学び」「プロジェクト型学習」の価値なのだろうな、と。(という仮説)
「語義」だけではなく、自分なりの「意味」を載せていく。

それは体験・経験に基づく感情の揺れを言語化することだし、さらにそれを振りかえって意味に落とし込んでいくこと。ひたすら、その繰り返し。

その中から「問い」が生まれ、問いに向かって進んでいく中で「プロジェクト」が生まれる。

「プロジェクト」とは1「期限」があり、2「独自のプロダクトや価値」を生み出す、3「段階的な」活動のことであり、「プロジェクト型学習」は「活動」と「自分」を行き来することによって、活動の成否だけではなく、自分を知るために「語義」に「意味」をまぶしていく活動だと言えるだろう。

「こんなこと(勉強)をやっても意味ないよ」というときの「意味」は、たぶん自分にとっての「意味sense」ではなくて、共通理解としての「語義meaning」なのだろう。

キーワードはやはり「時間軸」のような気がする。本書でも、「一人称化する:当事者性を上げる」ためには、問いと答えの往還が必要だとしているけど、そのあいだ、つまり長い時間軸が必要になる。

ひとりひとりの「人生の意味」に唯一の定まった答えは存在しない。
鎌倉幕府でさえ1192(イイクニ)が1185(イイハコ)つくろうに変わっているのだ。

問いと答えの往還を活動と言語化を繰り返しながらするのがプロジェクトだ。

1 誰と 2 いつ 3 どこで
という「場」をチューニングしながら高め

4 なぜ 5 誰のために
という「ベクトル感」と「解像度」を上げ

6 何を 7 どのように
具体的な活動へと展開していくこと。

・印象に残ったこと・疑問に思ったこと・面白いと思ったことフォーマットで振り返りことで、好奇心を育みながら言語化を促し、語義meaningを身につけるだけではなく意味senseを発見し、磨いていく。

「何かが(スキル的に)できるようになる」よりも、「何かをやる意味を自分で(事後的にも)探せるようになる」

「人生の意味」はそうやって見つかっていく、という仮説に向けて、プロジェクトというのは、それを見つける、探すための箱(手段)なのだろう。

イイハコつくろう、高校生。  

Posted by ニシダタクジ at 07:42Comments(0)日記

2021年09月20日

「自分に自信がない」の社会学

本日の黎明ラヂオに向けてまとめておこう思います。

「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか?
プレ企画第2弾「自分に自信がない」の社会学です。

1 天職などない
2 自信は要らない
3 試作の時代へ

です。
2013年当初に、金沢大学などでお話しさせてもらってものを書き直しました。

まずは
1天職などない
「13歳のハローワーク」と「世界にひとつだけの花」の2003年問題によってかけられた呪いについて。
デューク大学のデビッドソン博士の話。⇒これ、もう古いのかな。
を題材に。

そして本題
2 自信は要らない へ。
・固定的知能観と成長的知能観
・「自信がない」後天的に獲得した資質である。
・スラムダンク理論でやってみる「みんなでやればできる、かもしれない。」

3 試作の時代 へ
・答えがわからない時代」っていうのは「答えが存在しない時代」ではなくて「ひとりひとりに違う答えがある時代」という意味であり、しかもそれがいま共にしている「場」(誰といつどこで)によって変わり続けるから、暫定の答えでしかない、ということ。

予測不可能な時代
・「挑戦」という言葉への違和感。
・「挑戦」⇒「実験」:挑戦には成功or失敗があるが、実験には結果and発見がある。
・エジソン「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」

「未来」「自分」「意志」「挑戦」⇒明治時代以降に発明されたのでは?

※工業社会における価値
1 計画通りにできる
2 均一につくる
3 効率化する

学校でいうところの
⇒「目標」「計画」「努力」「反省」
⇒自信を失っていく仕組み

何のために学ぶのか?

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。
先生は「私がこの世に生まれたのは、私にしかできない仕事、私以外の誰によっても代替できないような責務を果たすためではないか・・・」と思った人の前だけに姿を現します。
(「先生はえらい」内田樹 ちくまプリマー新書)

何のための教育なのか?

われわれは子どもたちを格付けして資源分配するために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。

集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。

教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。
(「サル化する世界」(内田樹 文藝春秋)  

Posted by ニシダタクジ at 10:05Comments(0)

2021年09月19日

コミュニケーション・ツール


「逆ソクラテス」(伊坂幸太郎 集英社)

陽気なギャングが地球を回す、チルドレン以来の伊坂幸太郎3作目。

いやあ、すごいなあって。
小説家ってすごいな。
文章を通して「何か」を伝えてくるんだ、「何か」を。

まだ3つ目までしか読んでないのだけど、
心が持っていかれる感じがすごい。

コミュニケーション・ツール。

言葉は言葉でも、
文章は文章でも、
プレゼンとして伝えるのか、論文として伝えるのか、小説として伝えるのか。
そういうところに美学があるのだろうな、と。

「リアルメディア」
これは本屋を終えてみてから気がついたテーマでした。

「里山十帖」に見学に行った2018年10月
http://hero.niiblo.jp/e488269.html

11月には「流しのこたつ」デビューをして
http://hero.niiblo.jp/e488340.html

19年5月には桜新町の「屋台」へ
http://hero.niiblo.jp/e489321.html

僕は「本のある場」を通じて伝えようとしている。
それは、スピノザ哲学的な世界なのかもしれない。

ありえたかもしれない、もうひとつの近代(19.4.18)
http://hero.niiblo.jp/e489179.html

~~~
フーコーの「主体の解釈学」。かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていた。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。

この考え方が変わったのは17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。

フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。
~~~

僕が「場のチカラ」「チューニング」「発見と変容」「見つけ合い」と言っているのは、このことなんじゃないか、と。
「場」に溶けて、「場」を主体に創造することによって、アイデンティティが構築される。
その「アイデンティティ」は固定的なものではなく、常に流動しているアイデンティティだ。

万人にとっての真理があるとするデカルト的哲学と、真理はそれぞれにあり、しかもそこには変容が前提となっているスピノザ的哲学
近代が終わりを告げようとしている今、どちらが時代にあっているんだろうか。

っていうのを、問いかけたいのだよね。たぶん。
そういう「対話の場」をつくってみるのです。

ということで、「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか?
明日もプレをやりますが、来月あたりから始動します。
対象は15歳~25歳です。

企画経緯
https://note.com/tsuruhashi/n/n1d9934a7ba5c
企画概要
https://note.com/tsuruhashi/n/n18ac03fcf903  

Posted by ニシダタクジ at 11:19Comments(0)

2021年09月04日

「場」という舟とともに流れる自分を感じること

昨日は、探究学習コミュニティの1回目でした。

テーマはメンタルモデルを知ること。
メンタルモデルについてはこちらから。
https://sevendex.com/post/322/

こんな学びをつくりたい⇒壁になっていることは?⇒そこにあるメンタルモデルは?
というワークをグループで行いました。

僕は、キーワード的には、
発見と変容とか、伴奏者によるジャズセッションのような学びとか、書いたのですが、
一番はやはり学びの主体を「個人」から「場」へとシフトさせたい、ということでした。

そのための壁はやはり「定期テスト」かなあと。
そこにあるメンタルモデルは、評価軸がひとつで先生方がなにをもって自分たちの成果を含めて評価するのか?という問いに対して、探究学習が答えられにくい、というのがあるなあと思いました。

「評価」の呪縛だし、評価の前には「計測可能」「再現可能」であるという教育を含めた「科学」の前提も影響しているなあと。
それ以前には昨日のメモマップにも書いたけど、工業社会という前提があるのではないかなあと。

もうひとつの見つかった課題は僕自身が、「個」から「場」へと、言ってはいるけど、それがわかりやすい言葉や感覚では伝えきれていないので、そこは試行錯誤する必要があるなと。一方で言葉にすると失われるものがあるから、そこにも注意して言語と非言語(感覚)の双方からアプローチが必要だなあと。

そんな振り返りをしていたら、朝読書はタイムリーにこの本が。

「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)
第7章 頭の中(お花)畑だよねあんた
から。

~~~

詩はお金になりません。しかしだからといって経済ではないとは断定できないんです。(中略)お金とは経済です。でも数多ある経済のうちの一つなんです。

コツは、楽しくない時間を経済にしないことです。やりたくないことはしない。(中略)理由はそれではお金を稼げないだけでなく、他の経済の流れも堰き止めてしまうからです。

畑の中では経済がぐるぐると回り回っています。流れてます。いい感じです。心地いいです。何よりも楽しいです。

なぜなら植物は自分自身が経済であることに気付いているからです。

植物は自分が経済であることを知っている。一方、人間は自分が経済であることを知らないんです。もう困ったものです。その挙句「私はなんのために生きているのかわからない」なんてことをぬかす、いや、失礼、嘆いてしまうんです。いやはや!

植物はなんで自分が経済であることを知っているんでしょうか。簡単なことです、一人じゃないからです。植物がどこかに生えると、というか生える前から植物はすでに土の中にいまして、その時点で一人じゃありません。土がベッドです。

作品を外に発表すると、流れが発生します。経済が生まれてます。経済は素直であればあるほど、生であればあるほど、その人の一番自然な部分であればあるほど、すくすくと、植物なんですから、どんどん伸びていきます。どこまでも届いていきます。

僕の経済は常にみんなの経済なのです。僕は経済です。みんなは経済です。僕と経済とみんなは、一つの大きな流れなのです。海みたいなものです。どこまでも流れていきましょう。

~~~

きましたね。タイミングよく。「個人」じゃなくて「場」を主体にする、ということに大きなヒントがあります。
その「場」とは「流れ」の中にある「場」であり、「場」に溶けだしている自分も「流れ」を感じているはずです。

植物は自分が「経済」であることを知っている。
この本でいうところの「経済」である、とは、「流れ」があるということ。
いや、そもそも自分自身が「経済」、つまり「流れ」である、ということ。
そういう意味では、「場」とは、「流れ」のある川の中に浮かぶ小さな船のようです。

ひとりひとりも「経済」つまり「流れ」であり、また「船」でもあるのでしょう。

そのことを実感・体感したとき、「自分」とか「意志」とか、そのような問いが無効化されていくのかもしれません。
僕が探究学習でつくりたいのは、そんな「場」であり、「舟」であり、「瞬間」なのだと思いました。

体験と、言語と感覚(非言語)で、そこにアプローチしていきたいなと思います。
コミュニティの皆様、3月までよろしくお願いいたします。  

Posted by ニシダタクジ at 07:54Comments(0)日記

2021年08月31日

酋長として生きることを選択する


「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)

今日も紹介していきます。
経済学部の大学生は必読の一冊。

第6章まで来ました。
経済とは「流れ」である、と。

ということで、今日は第6章から
~~~
経済の語源って知ってますか?経世済民という中国語です。「世を直し、民を救う」という意味です。つまり「大丈夫、きっとうまくいくよ」と声をかけてあげるのが、経世済民ってことです。つまり、これが経済なのです。お金=経済=「大丈夫、きっとうまくいくよ」と声をかけてあげること。

不景気とはつまり「お前はダメだ」と自分で言い聞かせていることなんですよ。

楽しい仕事=経済。恩恵によってはじまったあれこれが、大丈夫、きっとうまくいくという言葉の波に乗って、どこまでも流れていきます。経済の発生です。

英語の経済「economics」の語源は、oikosとnomosという二つのギリシア語から来てます。oikosとは共同体をあらわします。nomosは法です。つまり、英語のeconomicsは、大雑把に言うと共同体のルールってことです。これが経済ってことです。つまり、経済=楽しい仕事=世を直し、民を救う=共同体のルール

経済とは流れです。流れが起きて、それが楽しく心地よいものであるならば、止まることはありません。だからこそ、常に交渉し、常に心地よくするための環境を整えていく必要があります。でもその作業こそ、一番楽しい作業なので、もうどうにも止まらないのです。
~~~

いいですね。
こういうの経済学部では教えてくれるんだろうか。
経済とは流れであり、お金=経済だけど、それだけが経済じゃないと坂口さんは言います。

だから「流れ」をつくり、「流れ」に乗ること。いいですね、この感覚。
身体性とか、全体性とか、東洋的な何かを感じます。

最後に、第6章からこの言葉を。

経済とはまずは自分を救うということである。
そうすることで新しい共同体の気配に気づくことができる。
そしてその共同体の酋長として生きることを選択する。
それが経済である。

(中略)

酋長とは何よりも気前がいいってことです。そして、器用とは、知的な面で気前がいいってことなんで、つまり、気前がよくムッチャ器用なやつ、っていうのが酋長であり、それが次の経済そのものっていことなんです。
~~~

いいですね。
サンドウイッチマンさんが「ちょっと何言ってるかわからない」って言いそうですけど。
感覚的に非常にヒットしますね。

まず自分を救い、自分という共同体を自覚する。
新しい共同体の気配に気づく。
「流れ」を生み出すきっかけをつくる。
それが「経済」なのだろうな。

酋長として、生きていく。
お金だけが経済ではない。
たくさんの「流れ」を生み出して、それが結果的にお金経済をも動かしていく。

そんな感覚、なんとなくわかるなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記

2021年08月29日

キミはどう読んだ?







細井岳さん。通称ガクさん。
山頂で本を売る杣Booksを仕掛ける。
https://www.instagram.com/somabooks/

僕の知り合いの中ではもっとも「常人」じゃないなと思う人。笑
「問いを投げかける」という意味では僕よりはるかにアーティストだと思う。

昨日はオンライン劇場ツルハシブックスでした。
第1部の杉本さんと三宅さんとの生物としてのヒト視点の話からの
第2部の細井さんでした。

あらためて衝撃と爆笑の60分だったので、ここに記録しておきます。
~~~
1「本はキケンなもの」

冒頭のくじびき1質問から。「加齢臭はなぜクサいのか?」
いいですね。それは生物的な種の存続の理由なんですね。
第1部とつながりました。(笑)
細井さんがやっている質問は「質問」(田中未知)に触発されて始めたものだという。

真に受けて、行動する。これを細井さんは「誤読」であり体を使った「冗談」だと表現する。
4年越しの日本橋「本との土曜日」で言っていた「ぜんぶ冗談なんすよ」の解説。
たしかに本読んだ人がみんな真に受けて具体的行動・表現をしたら、世の中はキケンなものになる。
一方で自己啓発書的なモノは売れなくなるだろうけど。

杣ブックスのミッションは「本をキケンなものにする」こと。
いやあ、いいですね。
僕もそんなキケンな本屋になりたい。

2「シゼンとジネン」

誤読して、体を使って、表現(行動)することは自然なことだと細井さんは言う。
自然はシゼンではなくて、ジネンのほうだと。
自(おの)ずから然(しか)り。

目の前に来たものを受容し、反応し、外に出すこと。
それをいちばん真っ当にやっているのがシゼンと読む方の自然だし、
人間は生命として、そこに憧れるのではないか、と。
「くう、ねる、のぐそ」だと。(伊沢正名さんの本より)

言葉を替えれば「委ねている」ということ。
ああ、たしかに。委ねちゃうってことだ。

細井さんは「あきらめたいんです」って言ってた。
あきらめるの語源は「明らかにみる」こと。
ジネンで、受け入れて、そして「空」であるということ。
そこには「自分」という存在はとけてしまっている。

3「誤読行動体験文」

「ウムヴェルト」(五十嵐大介)から環世界の話に。
人によって、感覚受容器が違うから、同じことを聞いても読んでも、感じ方が違う。

だからこそ、本を読んだら真に受けて行動することだ。
本を読んでいると、どんどん世界を俯瞰して見れるようになるのだけど、
その上でちっぽけな存在として表現(行動)すること。
その位置エネルギーの落差を行動に替えることだと。

なるほど。本を読めば読むほど、位置エネルギーはたまっていくから、
それをうまく排出しないといけないわけですね。

細井さんが言う、「真に受けてやってみた」っていうのは、そういうことなんだ。
だから、夏休みに本に親しむためにやることは、
「読書感想文」ではなくて、「誤読行動体験文」であるべきなのでは、と。
~~~

いやあ、面白い。真っ当な本屋だなあ、細井さん。
僕自身のテーマでもある「自分」とか「意志」とかいう話で盛り上がったのだけど、まさにそういう話をするにはバッチリなトーク相手でした。

「ある」ものとしての自分が何者かに「なる」ために向かっていくのではなく、
常に「なりつづけている」存在としてのわたしがあるということ。

昨日のわたしと今日のわたし。
この本を読む前と読んだ後のわたし。
それらはずっと変化し続けているんだと。

だから「自分」というのはあくまでその一瞬を切り出した存在であり、
実際それを切り出すことは不可能。
それは時間軸としてもそうだし、空間軸としてもそうだ。
わたしを時の流れ(変化し続けるもの)や場(環境)から切り離すことはできない。

ジネンを生きることで「自分」という呪縛から解放されたと細井さんは言っていた。
その感覚をどう得ていくか、なのだろうなと。

そのためにできることは、
本を読んだら「真に受けて表現(行動)すること」
それがジネンの始まりなのかもしれない。

話をしていて、僕が真に受けた3冊の本が浮かんだ。


「沙漠緑化に生命を賭けて」(遠山正英 阪急コミュニケーションズ 1992)

進路がまったく決まっていない高校3年の夏に図書館で見つけて「沙漠緑化」は大成建設のCMを見て以来の夢だった「地図に残る仕事」だ!と思い、俺も生命賭けるぜと、鳥取大学農学部を第1志望に⇒農学部という選択肢のきっかけに。


「種をまく人」(ポールフライシュマン あすなろ書房 1998)

24歳の時に京都の塩見さんに贈ってもらい読んだら電流がかけぬけ、「畑でこんなことができるんや!」と誤読。就職するよりも畑をやり、この世界を実現することの方がはるかに大切だと「まきどき村」の発足に向けて準備を始めた。


「小説 吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)

27歳のときに不登校の中学3年生に出会い大きな問いをもらって、もやもやと考えていた2年後にこの本に出会う。獄中を学びの場に変えてしまった「野山獄」のエピソードに衝撃を受けて(真に受けて)これや!!「学び合いで希望は生まれるんや」と思い、すぐに山口県萩に向かい、野山獄後を確認し、墓前に線香を供え、桜の中を登校していく小学生の列に、「安心して大人になってくれ、おっちゃん頑張るからな」と祈った。

うん。
いま考えてみると、とんでもない誤読だわ。

と、こんな感じで今朝振り返ろうと思っていたら、細井さんから朝5時台にメッセージが。

~~~
感覚受容器として取り込み吐き出されてしまう「誤読/冗談」。当然、他者に「読まれる、読んでもらう」なんて事はないと思うのです。だって意味わからないですからね。これが「諦め」のもう一つの側面です。

しかし、何故か、ごくごく稀に「俺の誤読」を読んでしまう人、もしくは共鳴してしまう人が出てきます。例えば、山の上で杣Booksに会ってしまうとか(笑)本日の質問を受け取ってしまうとか。

たぶん、それは「奇跡的な事」でそうそう起こる事じゃないんです。故に「有り難い」のです。奇跡なんてそうそう起きるもんじゃねーと「諦め」ているから、「誤読」が出てしまっても、それを気に病まない。裏返して言うと、奇跡を「諦め」るからこそ、奇跡を信じられる訳ですね。
~~~

そうか。ジネンであることと今ここにある奇跡は両立するのだと。

細井さんはきっと、これからも本を読み、誤読し、冗談としての表現(行動)を繰り返していくのだろう。

細井さんに出会って、うっかり本を買うという誤読。
共感も誤読だし、違和感も誤読だ。
だって冗談なんだよ、最初から。

誤読し、真に受けて、やむにやまれぬ行動をしちゃっただけだ。そこには相互作用を受ける「場(空間)」と「時間」があるのだろうと思う。
その「場(空間)」と「時間」に、(奇跡的)にうっかり足を踏み入れてしまったときに、誤読のチャンスが生まれ、表現(行動)が始まるのだ。

本屋とはなんとキケンな場所なのだろうと。
そして、細井さんがやっていることはなんと「真っ当な本屋」なのだろうと。

細井さんは今日もその存在から問いかけてくる。
僕はこう読んだ(誤読した)んだけど、キミはどう読んだ?  

Posted by ニシダタクジ at 08:51Comments(0)日記

2021年08月28日

在野の〇〇

「在野研究(者)」という言葉がある。
(専門的な研究機関である)大学外で研究し、本や論文などを書いて発表する(人)のことだ。

って調べてみたら、2019年「いまブーム」って言われていたみたい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67039

昨日は取材型インターン「ひきだし」の事後研修でした。
印象に残ったキーワードは「違和感」

オンラインでの取材型インターンの最大のポイントは
「思ったことを言う」ことで、それが難しかったのだという。

その難しさは「違和感」の表明にあるのだと。
これまでの学校生活、社会生活では、違和感を表明する機会がなかった。
どちらかと言えば「共感」の表明を求められた。
しかも「違和感」の表明(言語化)は難しい。
なんとなくのもやもやした感じ、だから。

一方でこの「違和感」トークに違和感を感じていた参加者もいた。
彼女が育ってきたり、いまいる多様な人たちから成る大学では、違和感の表明は当たり前のことだからだ。
このトーク、本質をついているなあと。

創造性は違和感から生まれる、って思った。
多くのソーシャルビジネスと呼ばれる取り組みが「違和感」から始まっている。
「課題発見」のはるか前に「違和感」がある。
「違和感」を言語化することで、それを「問い」に変換する。

それをひとりでやるのはかなり大変なので、みんなでそれをやってみること。
それが取材型インターン「ひきだし」だけではなく、ワークショップの意味なのではないか。

違和感の表明、それ以前のたくさんの違和感を感じられる多様な人。
そう、実は「違和感」こそが個性だ。そしてその「違和感の表明」を可能にする心理的安全性。
たぶんそれが、創造的な組織(一時的な「チーム」を含む)には必要なんだ。

~~~~~
と、こういう感じで。

僕の在野研究テーマは、フラットな関係をつくるコミュニケーションのデザインと「存在の承認」なので、今回の「ひきだし」も「違和感」というキーワードを得たことで発見があった。

そんなところで本日の1冊はこちら

「文化人類学の思考法」(松村圭一郎 中川理 石井美保)

第5章 モノと芸術より
~~~
トロブリアンド諸島のクラ交換に用いられるカヌーは、卓越した彫りや彩色で知られ、どんな美術館に並べても引けをとらないような視覚的特徴をもつ。そしてこの視覚的特徴こそがクラ交換の相手に返礼をさせる力の一端を担うともいわれる。だが、それが現に美術館のガラスケースに入れられたのなら、おそらく発揮される力はずいぶん異なるたぐいのものになるだろう。それは青い海とのコントラストの中に浮き上がった白と赤として、ぐんぐん島へ迫ってくるから人びとをぎょっとさせるのであり、巧みな技術を見て人びとは「こんなものを作り出すなんて、彼らはいったいどんな凄い呪術力をもっているのだろう」と畏れる。カヌーはこのようなさまざまな事象と一体になってこそ大きな力を発揮するのだ。

美的判断が独立せずに、その他の実践の中に埋め込まれているという視点の土台には、マルセル・モースの贈与論がある。モースは贈与交換を、あらゆる種類の諸制度が一挙に現れる現象すなわち「全体的社会的事実」として論じた。モースが引きあいに出す諸制度とは、宗教、法、道徳、経済、芸術だ。贈与交換においてはこれらの領域がすべて渾然一体となって駆動しているので、そこで用いられるモノを説明するにあたっては、たとえばその芸術的(美的)価値のみを取り出すわけにはいかないのだ。

また、モースのこのような議論に先立って、マックス・ウェーバーは、芸術はとりわけ宗教と不可分な領域を構成していたにもかかわらず、啓蒙思想をつうじて芸術と宗教が分かたれたと論じた。そして芸術誕生の歴史を、芸術の脱呪術化(合理化)の過程として説明した。
~~~

いやあ。そうなんですよ。
芸術と生活は切り離すことができない。

たぶんそれは、「仕事」や「はたらく」においてもそうだ。

就職活動の本質的な違和感の原因は、「個」として「システム」に対峙するところにあると僕は思う。
あなたは「個」としてどんな「機能」を有し、会社にどんな「価値(利益)」をもたらすのか?
という問いは、果たして答えるべき問いなのだろうか?

成果を生み出すのは、個人ではなく、会社という「場」なのではないか?

同じように、私という存在も、会社という一組織の構成員としてだけではなく、友人やスポーツや出身高校や、たくさんのレイヤーの中のひとつとして会社があるだけだ。

アイデンティティを仕事そのものに依存しないことだと思う。
僕は「在野の〇〇」として生きていくことを提案したい。

僕自身は「現代美術家」を名乗ってはいるけど、完全に自称だ。
作品と言えば、2015年松本市の栞日で行った「天空ハックツ」くらいだ。
しかし、「文化人類学の思考法」にあるように、芸術が生活に埋め込まれているとしたら、僕は在野のアーティストとして、ここに立っていることになる。

「仕事とは、組織でつくっていく芸術的要素を含んだ何か」なのではないか、と思うし、そんな「仕事」をつくっていきたいと思う。

「在野の〇〇」にあなたは何を入れますか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:06Comments(0)日記

2021年08月21日

桃太郎のおばあさんになれ

「きみだけのドラマを語れ」

これは、いわゆる「マイプロ」
全国高校生マイプロジェクトのテーマだ。
https://myprojects.jp/

今日の1冊はこちら

「将来の夢なんか、いま叶えろ」(堀江貴文 実務教育出版)

通信制高校サポート校である「ゼロ高等学院」を立ち上げた堀江さんが
2017年の「すべての教育は洗脳である」に続いて、2020年9月に刊行した本。

参考:「学校」は他者評価を「前提」としたシステム(17.5.31)
http://hero.niiblo.jp/e484924.html

このときは、衝撃のワンフレーズ。
僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。

いや、ホントそれだよね。
いま、まさにそんな時代や社会を生きている気がします。

ということで、今回もなかなか考えさせられるフレーズが。

まずはこの一言から。
「教育現場で教えられることは、リアルの体験以外すべて、テクノロジーで代用できる」

高校魅力化プロジェクトのライバルは他の公立高校などではなく、ゼロ高やN高といったテクノロジーを駆使して個別最適化した学校なんだと思う。
じゃあ、ゼロ高やN高に対抗できる価値ってなんだろう?そんな問いを考える上でいい機会になる1冊。

~~~ここからメモ
英語ができればたしかに社会で便利な場面は多いけれど、英語だけできて、ほかに何もできなければ「英語×ゼロ=ゼロ」だ。英語を使って、何をしたい?という問いを深める機会と環境を学校が提供しないまま英語を詰め込んでも、無意味だ

「その学びを選んだ理由を、自身の没頭体験をもとに語ることができる」若者の育成。

没頭への支援ができなければ親の資格はない。

数字評価なんかに、心の充足を委ねてはいけない。

「やりたいことがある大人は楽しそうに生きている」と「やりたいことがない大人は我慢しながら生きている」の2つのイメージが合わさって「やりたいことが見つからない=将来お先真っ暗」と思い込んでしまうのではないでしょうか。
~~~

そして、ゼロ高が目指す方向性で共感したのはこの2つ

~~~
自立の3本の足
1 自分に何ができるのか、何をしたいのかを行動による失敗から理解していく
2 自分のできること、したいことで助け合える仲間を見つける
3 自分ができること、したいことでファンをつくる
この3本の足で立つことができたとき、人は自立することができます。

僕自身が、繰り返し生徒に伝えていることがあります。「僕は君のこれまでの、そしてこれからの物語を何も知らない。だから、自分でつくり上げて僕に教えてほしい」と。ゼロ高生には卒業するとき、誰かにこう語れるようになってほしいと考えています。

私は、ゼロ高というコミュニティで学びました。
私はその中で、自分だけの物語を紡いできました。
たとえば、ストーリー1、ストーリー2、ストーリー3。
ストーリー1の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー2の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー3の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
そして私はいま、4つ目のストーリーとして〇〇をやろうとしています。
その理由は△△をやってみて、◇◇が面白いと思ったからです。
~~~

いやあ、これですよね。
マイプロジェクトをいくつも作って、振り返って、学びに落とし込む。
そうやって自分のやりたいことに出会うっていうパターン。

この本のラストは中高生世代に向けてのメッセージになっているのだけど、
その中でもシビれるところを抜粋します。

~~~
みんなが知っている「桃太郎」の話をしよう。
子どものときに親から聞かされて、よく覚えているのは主人公の桃太郎だろう。だが、本当に注目すべきは、おばあさんだ。川に洗濯に行ったおばあさんは、上流から「ドンブラコ」と流れてきた巨大な桃を、迷いなく拾い上げた。そして家に持ち帰り、何が入っているのだろう?と包丁でパカンと真っ二つに割ってみた。すると可愛らしい桃太郎が誕生した。

昔話のオブラートに包まれているが、おばあさんの行動は完全にぶっ飛んでいる。抱えきれないほどの巨大な桃を素手で拾ってくるだけでなく、家まで持ち帰って包丁で切るなんて、変わり者すぎる。普通だったら、そんな得体のしれない巨大桃が流れてきたら、ビビって見送ってしまうだろう。仮に拾ったとしても、常人なら包丁を入れるほどの勇気は持てないはずだ。

そうなのだ。おばあさんの「ありえない行動」が桃太郎の大冒険の始まりとなり、不朽の名作を後世に残したのだ。
~~~

いいなあ。
川上から流れてくる巨大な桃を拾うことで冒険が始まるんだ。

そして、人生の点を思い切り打ちまくれ、とスティーブジョブズの「コネクティングドット」の話を引用して語る。

~~~
「未来をあらかじめ予測して、点と点をつなぎ合わせることはできない。可能なのは、後からつなぎ合わせることだけだ。つまり私たちは、いまやっていることが、今後の人生のどこかでつながり、自然に実を結ぶことを信じ(て行動し続け)るしかない」

誰かではなく自分自身を驚かせる未来のために、たくさんの点を打とう!

多くの「点」は、やがて迎える未来の「いま」を描く、太い「線」になる。
~~~

堀江さんと思いは共通するところが多いかも、って思った。

点を打つ場所をどこにするか?
そして、誰と一緒に点を打つのか?

たぶん、中高生が持っている根源的問いはそこにあるのだろうし、点を打ちたくなる地域や地域との関係、コーディネーター的な動きが必要になる。

冒頭に書いたけど、「個別最適化」を考えれば、圧倒的にゼロ高やN高だと僕も思う。

でも、地域で、地域の大人たちと見つけ合いながら、地域の未来も少しだけ背負いながら、「点」を打っていく。

既存のシステムともうまく折り合いながら、未来を探り、試し、見つけていくような、そんな「まなび」をともに創っていけたらいいな、と。

今日は新潟駅MOYORe:で「まなびのトビラをともにひらく」が開催されます。

トビラを見つけ、ともに開けましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)日記

2021年08月18日

「他者」と出会い、困難なコミュニケーションを立ち上げ「調和」していく


「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)

昨日に引き続きこちらの本から。
「痛快」です。切れ味が好き。

まずは「グローバル人材育成」についてバッサリ
~~~
日本の学生に際立って欠けているのは、一言でいえば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力だということです。

しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは、日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとまでは言わないまでも)黙許してきました。

でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略が、皆さん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。
~~~

く~~~。
そうなんですよ。そうなんですよね。
「学校」なるシステムに「適応」しすぎるとそうなっちゃうんです。

さらに、その教育が生み出すエリートについて原発事故を題材にバッサリ。
~~~
エリートたちは受験秀才です。彼らの仕事は正解を答えることであり、誤答を嫌います。誤答するくらいなら黙っている。でも、危機というのは「資源がない、情報がない、人員がない、時間がない」という状況のことです。そのような状況下で最適判断を求められると、受験秀才はフリーズしていまう。そういう訓練を受けたことがないからです。

彼らは決断するに先立って、その判断の法的根拠や上司からの指示や「言い訳」をまず探します。「このように判断したことには十分な根拠がある」という条件が整うまで、秀才は何もしない。その間に、もっとも貴重な資源である「時間」は不可逆的に失われてしまう。そして、危機とはまさに時間が失われるにつれて採りうる選択肢がどんどん減っていく状況のことなのです。
~~~

自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。
危機において、それを最も短い時間でやらなければ、最大の資源である「時間」を失ってしまう。

それを鍛えるに受験秀才ではないんですね。
何度も(規模の大小はあれ)危機(ピンチ)対応をしている経験が必要なのです。

最後に、それらを踏まえて「自由」と「調和」について。

~~~
日本人にとって、気が楽になるとか、心が落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうですから。それよりはほっとしたい、気楽でいたい。

集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は解放感と達成感を覚えます。理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して・・・というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に日本人はなぜか深い満足感を覚える。これはどう考えてもヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。

ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカをとって・・・」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したテーマでした。
~~~

そうか。
民族の地理的歴史的にね~。
こういう話面白いですよね。

茨城大学時代に公開講座で聞いた
日本にやってきた5つの移民の話を思い出しました。
これからのキャリアと縄文と弥生の関係(15.10.16)
http://hero.niiblo.jp/e473674.html

そうなんだよね。
日本人は「調整」してきたし、大切なのは「調和」だった。

このあと、爆笑な部分(あるある話)がふたつ。

~~~
サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ってありましたけど、日本人だったら、「さあ、正解はどっちだ」と切り立てられたら、「まあそう言わずに、どうですお茶でも一杯」というかたちで「白熱しない」方向に誘い込もうとするんじゃないでしょうか。

でも、日本人はちょっと違う。「いや~悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない?いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょう。
~~~

爆笑。めちゃ面白い。あるあるですね。
「そのどこが仕事やねん!」って関西弁でツッコミたい。笑
そしてそれは、地理的歴史的に仕方ないと内田さんは説明します。

~~~
でも、それはしょうがないと思うんです。「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力こそが列島住民たちが生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島住民はそういう生存戦略で2000年くらいずっとやってきたわけで、いまさら変えろといわれても無理ですよ。
~~~

そうなんです。「他者と折り合いをつける」っていうのを生存戦略的に採用してきたんです。

ということで、最後に我田引水して終わりますけども。(いつも)

実は(危機的な・・・今まさにそんな状況ですが)社会で求められるのは、「英語がバリバリ話せて言われた仕事が最高速でできる」秀才型エリート人材などではなく、

「自分と価値観も行動規範も違う『他者』と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力」を持った人であり、それは、(程度の差はあれ)危機的な何度も繰り返すことによって身につけることができる。

しかし、それは学校のような同質性集団の中だけでは育むことが難しい。だからこそ東京から地方に出て、たくさんの「他者」と出会えることを望んでいるのではないか。

さらに、そもそも地理的歴史的に私たちは「調和」「折り合い」を大切にするという生存戦略をとってきて、そういう文化を築いてきた。それが同質性集団の中では、むしろマイナスに働くのだろう。

だから内田さんの言うような「学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる『身内』と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること」

「他者」に出会うこと。そこで違和感を感じながらも、敬意と好奇心をもって、困難なコミュニケーションを立ち上げていくこと。

それには「学校」だけじゃなく「地域」が必要なんだと。
そう直感した人たちが「地域みらい留学」のトビラをノックしているのではないか、というのが私の実感です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記

2021年08月17日

「計測可能である」という前提を疑う


「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)

久しぶりに内田節を聞きたくなって某古本屋さんで購入。
第3章 ウチダ式教育再生論 から
元原稿は、京都精華大学の精華人文文庫「きみの生きづらさと向き合うために」
なので、主に大学生向けに書かれているのだと思う。

「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解
とタイトルされた文章が昨日の「なぜ本屋なのか?図書館なのか?」
につながっていると思ったので書きます。

~~~ここから引用
世界は移行期的混乱のうちにあり、あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけている。それなのに、日本の社会はその変化に対応できずに硬直化している。金魚鉢にひびが入り、いまにも割れて中の水ごと放り出されるしかないのに、若い人たち、相変わらず「金魚鉢の中の」価値観や規範に適応するように求められている。むしろ、外側で大きな変化が起きている分だけ、恐怖と不安で、硬直化しているように見えます。

激動期に対応して、生き残るためには、集団の一人一人が持っている多様な能力や資質を活かして、「強い」チームを形成しなければいけないのですが、日本の学校教育は単一の「ものさし」をあてがって子どもたちを格付けして、スコアの高い者には報酬を与え、低い者には処罰を与えるということしかしていない。

多様な才能や資質を開花させるためにはほとんど何もしないで、ただ「みんなができることを、他の人よりうまくできる」競争に若者たちを追い込んで、消耗させている。こんな相対的な優劣を競わせても、来るべき変化に備え、それを生き延びる知恵と力を育てるには何の役にも立ちません。
~~~

いやあ、もう、ホントそれ。
ひれ伏すしかない。

そして「コミュニケーション」についても大学での経験から「コミュ障」だという大学生に出会い、次のようにコミュニケーションを定義し直す。
~~~
コミュニケーションすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイディアを他人から得ることや、自分とは違う感受性を通じて経験された世界を知ることにあると僕は思っています。自分の感情や思考を他人にまるごと肯定してもらっても、うれしいけれど、それによって自分が豊かになるわけではない。対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になることでしょう?
~~~
内田さんによれば、極端な同調的コミュニケーションも、自己責任論を内面化し、十分な評価を得られないときに自分の能力や努力にしてしまう、格付け志向については、若者の責任ではなく、「金魚鉢の中の硬直化したルール」を適用する社会がそうさせている、と言います。

そして、人文学の意味を語ります。
~~~
自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。

人文学というのは、扱う素材の時間軸が長く、空間も広い。考古学や歴史学なら何千年、何万年前のことを扱うし、民俗学や地域研究では、はるか遠い国の文化を学びます。文学もそうです。遠い時代の、遠い国の、人種や信仰や性別や年齢が違う人の中に想像的に入り込んでいって、その人の心と身体を通じて世界を経験する。「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。

学ぶことによって、自分たちが閉じ込められている「金魚鉢」のシステムや構造を知り、それがいつどんな歴史的条件下で形成されたものであるかを知り、金魚鉢の外側には広い社会があり、見知らぬ世界があり、さらにそれを取り巻く宇宙があることを知る。金魚鉢を含めた世界はどこから来て、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしているのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。これが人文学を学ぶということです。

この混乱期を生き延びていくためには、できるだけ視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の情勢を俯瞰することが必要です。
~~~

これ、人文学を「読書」や「地域探究」に置き換えても同じだろうなと。ヘリコプター(ドローンでもいいけど)に乗って、世界を(歴史的地理的民俗学的視点からも)俯瞰して見る方法の1つとして読書や地域探究はあるんだと。

さらに(僕が少し編集しましたが)、「実学」についても以下のようにバッサリ行きます。
~~~
政治学や経済学や法学といった「実学」というのは、既存のシステムが正常に作用している時代の、いわば「平時の学問」です。ある数値や理論を入力すれば、こんな出力があるという入力出力の相関が計算できる場合にはきわめて効率がよい。それに対して、自分が存在し、生きているこの社会の成り立ちや学問領域そのものの意味を問いかけていく人文学は、いわば「乱世の学問」です。
~~~

そうなんだよね。だから歴史だったり哲学だったりが必要なのだよね。
金魚鉢そのものがもうすぐ割れちゃうかもしれないんだから。

そしてこの文は、「自分が機嫌よくいられる場所」を探そう、と締めくくられます。
~~~
武道的な意味での「正しい場所」とは「どこにでもいける場所」のことであり、「正しい時」というのは「次の行動の選択肢が最大化する時」のことだからです。

「正しい位置」というのは、空間的に決まった座標のことではなくて、その時々において最も自由度の高いポジションを選択できる「開放度」のことだからです。

これと同じで、生きていく上で最も大事なのは、ニュートラルで選択肢の多い、自由な状態に立つことです。それはできるだけ「オープンマインド」でいることと言い換えることもできます。オープンマインドこそは、学ぶ人にとって最も大切な基本の構えです。
~~~

そうなんだよね。そういう「場」が必要なんだよね。ひとりひとりにとってその「場」が違うんだよね。
坂口恭平さん的に言えば「学校社会」のルールとは異なる無数の「放課後社会」が必要なんだよね。
そしてその「自分が機嫌よくいられる場所」の価値は、身体的なものであり、本人にしか分からない。つまり「計測不可能なもの」。

この「計測不可能」な余白を許容できなくなっているんだな。
金魚が金魚鉢ではなくて、広い川で泳いでいた時のような。

この文の少し前に、格付けできないのが「知」と題して、人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減少していることに対して、考察している。
~~~
「数値的な格付け」に基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。

というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。

独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。
~~~

うう。うなってしまうね。
「個性を発揮せよ、独創性を持て。」と言うならば、それを格付けすることをやめなければならない。その計測可能性を捨てないといけない。

「学校」は、「教育」は、「まちづくり」はどうなんだ?と問いかけてくる。

「越境」し、他者や本と「対話・協働」し、「試行・省察」すること。
金魚鉢の外の広い世界や、新たな自分を「発見」し、「変容」し続けること。

そのベースキャンプに、本屋や図書館がなったらいいと思うし、自分がニュートラルになれる無数の余白が、まちにたくさんあったらいい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)日記

2021年08月16日

「勉強」という乗り物

雨だったのでいろいろ乱読。読み終えたのはこの2冊かな。


「読書からはじまる」(長田弘 ちくま文庫)


「日本哲学の最前線」(山口尚 講談社現代新書)

なぜ「本/読書」なのか?
なぜ「まなび」なのか?
そんな問いの海をプカプカと浮かんでおりました。

「読書からはじまる」の
第2章は「読書のための椅子」。

その本をどんな椅子で読むか?
ってとても大切な問いだなあと。
空間として椅子にこだわりたいなあと。

そして「日本哲学の最前線」では、
大好きな國分功一郎さんの「中動態」の話から始まって、
6名の哲学者たちの現在進行形な哲学のベクトルが示されている。

テーマは「不自由とどう向き合い、真の自由を手に入れるか?」だ。

今日はこの本の第三章 偶然の波に乗る生の実践‐千葉雅也『勉強の哲学』より。

キーワードとして押さえておくのは「非意味的切断」。
~~~
意味的切断が「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」という意図に導かれながら情報収集をやめて次の行動に移る過程」のことを指すのに対し、非意味的切断とは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害と言った「有限性(finitude)」のために、あちこちを乱走している切断である。
~~~(本書より引用)

そして「非意味的切断は現に偏在する」と指摘し、「私たちは偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として『善用する』しかない」と説明する。

そして、ここから「勉強」の本質を鋭くえぐる。

~~~
勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。なぜなら《いま取り組んでいる物語が自分をどこへ連れていくか》は勉強するものにとっては前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性を持つ。

例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。(中略)そして―多くの人が経験から知るとおり―勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上はいけないな」と感じると別の一冊に向かう、というやり方のほうが享楽も多く意欲も持続する。

勉強を続けるには、<不意に読めなくなったときに警戒に中断してとりあえずイケる本を開くという柔軟な姿勢‐すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢‐こそが重要になる。偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけではなくその創造性も増しうる。
~~~
「勉強」とは乗り物なのだな、と。しかもそれは行き先が分からず、生成変化し続ける乗り物なのだ、と。

さらに「不自由」からどう脱出するかについても「勉強」が有効だとする。
※ノリ=コード(規範)のこと。
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。

勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。

とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~
「越境」の意味とはそういうことか、と。
そして勉強の結果起こるのは「成長」なんかではなく「変化」に過ぎないのだと。

このあと本書は千葉さんの具体的方法として「アイロニー」(一歩退いた姿勢)と「ユーモア」(コードをズラす発現)

そして「こだわり」について。
~~~
こだわりとは、何なのでしょう。
何かの作品、あるキャラクター、味や色、言葉などへのこだわりをもっている。それがなぜ自分にとって重要なのか、ある程度なら理由を説明できるかもしれません。しかし、こだわりとは、この身体にたまたま生じたもの、何か他者との偶然的な出会いによって生じたものであり、根本的に言って理由がない。こだわりには、人生の偶然性が刻印されている。偶然的な出会いの結果として、私たちは個性的な存在になるのです。
~~~

そうだよね。いまの自分っていうのは、まさに「偶然≒非意味的切断」の産物なんだよ。
5年前から今を目指して努力してきた直線の延長上には自分はないんだよね。

だから、人は「勉強」するし「読書」するんだよね。
生成変化の「過程」にある自分として。

ラストに「読書からはじまる」の最終章から「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」というキーワードを。

~~~
今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えばモノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして情報というのは物流・流通に似ています。

簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。

「育てる」文化と「分ける」文化というのは拠って立つものが違います。「育てる」文化の基本は、個性です。「分ける」文化の基本にあるのは平等です。今日の世界に広くゆきわたったのは平等の文化の景色です。

この国が情報社会として「分ける」力をつけるにつれて、逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。

「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。
~~~
このあと、「蓄える」文化の担い手として、いつの時代も図書館があり、図書館をのあり方について問いかけてきます。

この「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」は、「産業」だけでなく、いわゆる「教育」や「学び」のジャンルにおいても、「まちづくり」のジャンルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

いつのまにか本は「情報」を運ぶ箱に過ぎなくなった。
分けられ、選ばれ、消費されるものになった。
図書館カードは通帳化され、貸出冊数が見える化された。

民間図書館や小さな本屋さん古本屋さんをやる人たちっていうのは、そんなふうに「情報」として、分ける文化としての本ではなくて、育てる文化、蓄える文化の担い手としての場になることの大切さを本能的に感じている人たちなのではないか。

本は「育てる」し読書は「蓄える」。
そして本のある場には、千葉さん的に言えば「偶然≒非意味的切断」がある。

そうやって人は「越境」し、「生成変化」し、新たな自分となる。
その「過程」をただ、歩んでいるだけなのかもしれない。

まず「越境」するために「勉強」という乗り物が必要なんだな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:55Comments(0)日記

2021年08月01日

はじめに「越境」ありき



オンライン劇場ツルハシブックス
昨年5月から毎月1回開催。
なんだろうな。
気軽な哲学対話な時間って感じですかね。

なんとなくやっているのは僕の「問い」仲間をゲストに呼んでのトークセッション
※来月の8月28日はついに細井岳さん登場です!

今回は、デンマーク・フォルケホイスコーレに留学中の大城美空さんとの時差7時間トーク。
あっという間に時間が過ぎて30分も延長しちゃいました。

まずは僕のふりかえりメモから

~~~
はじめに意志ありきではなく、はじめに越境ありき。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」ではなくて、「直感で動け、そうすれば失敗しかないのだから。」

直感と好奇心で始めるから面白い。
目的や目標から始めると面白くない。
「予測不可能性」こそがエンターテイメントだから。

相手の分かる言葉で話しているか?

「自由の相互承認」は、言葉で言うのは簡単だけど、実際はすごくスッキリしないあいまいなもので、立場や意見の違いをかみしめてその場の納得解(妥協点)を探っていくことの繰り返しで、「決めたから守る」というのものではなく、永遠にその問いが繰り返される。

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのではないか。

ひとりひとり「個」のために福祉がある。しかし(この国における)福祉は制度であり、制度とはルールを決めることだ。ルールを決めなくては判断ができない。しかし、そのルールによって人は区分けされ匿名化する。

肉体的背景、精神的背景、社会的背景、文化的背景、すべてがその人を構成している。

「哲学」も「承認」も他者から教えられたり与えられたりするものではなく、思考と実践(試行)のあいだを往復することによって徐々に自分の中に形成されていくものだ。

「人材育成」は効率化できるのかもしれないが「人を育てる」とか「人が育つ場をつくる」っていうのはとてつもなく非効率な営みなのだなあ。

ルールや立場を固定すると「安定」が得られる。
しかし、そこでは1回1回の真剣勝負が失われる。
ルールや立場(肩書き)は人を匿名化し交換可能にする。

「属人的である」ということは、いまこの瞬間の関係性が大切にされ再現可能性が低い。
「誰でもできる」ことは、継続的であり再現可能性が高い。
ルールやマニュアルはなんのためにあるのか?

ルールがないということは自由であるということではなく、思考し続けないといけないということ。
どのくらいのスパンの時間軸で「効率性」「成長」を目指し、測るのか?

「立場」を演じているうちに「自分」を失っていっていないか。

ルールを作っていく、ということはふりかえりが必須である、ということ。
「迷いがある」「悩みがある」ことを肯定する。
ふりかえり⇔反省、愚痴
プロであること:「迷わないこと」ではなく「考え続けること」
~~~

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまったのではないか。
デンマークのエピソードを聞いて、そんな風に感じた。

決められたルールを守ること。
それを当たり前だと思っていた。

今回、大城さんは新型コロナウイルス危機の最中にデンマークで暮らし、共同生活の中で、外出をどう制限すべきか、について、話し合ったという。毎日酒を飲むようなお酒好きな人たちは、酒を買い出しに行きたいといい、そんなにお酒を飲まない人たちは、リスクが高いからやめたほうがいいと主張する。

自分も意見を言いながら、相手の顔を見ると、「うわ、面倒なことを言って・・・」というような顔をしている。なんらかの結論が出るのだが、なんだかスッキリしない。もやもやしていると、「こういう話がすっきり終わるはずないよね~」と当たり前のように言われる。そしてルールについて守らないヤツがいたりするので、以降も何度も話し合われ、ルールが微妙に変更されたりする。「みんなでルールを決めて、それを守ること」が当たり前だと思っていた自分に気がつく。

苫野一徳さんによれば、公教育の目的は「自由の相互承認」に在るという。
参考:価値観の多様化とは、明確な価値が失われたのと同義語である(15.6.26)
http://hero.niiblo.jp/e469959.html
参考2:「共同探究者」になるということ
http://hero.niiblo.jp/e489119.html

「自由の相互承認」と、言葉で書けば7文字でしかないのだけど、
それはとてつもない「非効率」な営みによって実現されるんだということ。

もうひとつ。フォルケには「先生」と敬称付きで呼ばれる人はいない。校長でさえファーストネームで呼ばれることもある。

そもそもルールとか立場(肩書き、役割)ってなんのためにあるんだろう?って。

ルールや立場を固定化すると、「安定」を得られる。しかし、その「安定」は同時に1回1回の真剣勝負の場を失うことと同義だ。ひとりの生身の人間として一期一会の場に臨んでいるんだという自覚を失う。

「ルールを決めて守ること」
「立場(肩書き、役割)を決めてその責任を果たすこと」
が当たり前だと思っている私たちは、「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのかもしれない。

VUCAの時代、予測不可能な時代だと言われる。
答えのない時代だ、とも言われる。
社会が大きく変化するときだ、とも言われる。

社会が大きく変化し続けているとしたら、その社会に合わせて、いまのチームの、場の構成員に合わせて、ルールを変化させ続ける必要がある。

だから、考え続けなければならない。
対話し続けなければならない。
ふりかえり続けなければならない。
それはものすごく「非効率」な営みなのだ、と。

デンマークは第二次大戦後、「教育」「福祉」「医療」に力を入れてきた。この3つは別々ではなく、それぞれの仕事に携わる人には共通の哲学を身に付けている必要があるという。

その「哲学」に近いものが、このページに書かれている「デンマーク・スタイル」なのだろう。
http://www.capnochokinbako.jp/denmark/style/

「指導から支援へ」:スタッフは問題を解決するためのサポーターであること。
「上下関係から対等な立場へ」:人としての敬意をはらい、信頼関係を築くこと。
「すべての支援はコミュニケーションから」:言葉だけがコミュニケーションではないことを知り、コミュニケーションスキルを模索すること。
「機会を与えること」:人と交わる機会、社会と交わる機会、自然と交わる機会

ミクさんが言っていた「その人に出会う」という福祉の出発点。
それをひたすらにやっていくことなのだろうと思った。

最後に、あらためて「越境」について。

まずは「越境」してみること、なのだろうと。はじめに「意志」「挑戦」ありきではなく、はじめに「越境」ありきだ。

「直感で動け、そうすれば失敗しかない」これはミクさんの恩師、長岡先生からのメッセージだ。(たぶんこれ。言い方ちがうかも)

参考:「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける(19.7.24)
http://hero.niiblo.jp/e489583.html

「やりたいことは何か?」
じゃなくて、はじめに越境があるんだ。

ミクさんが大学時代から続けてきたように、

越境し、そこにいる人たちと場を共にすること。
違和感をキャッチし、表現し、ともにルールを作っていくこと。
対話し、ふりかえり、次のルールを考えていくこと。

その繰り返しでしか「自らの未来をつくる」ことはできない。
小さな小さな、非効率な営みの先にしか、僕たちの未来はないのかもしれない。

その未来へ、15歳~18歳と一緒に歩んでいくこと。
それが僕にとっての高校魅力化プロジェクトです。

本日も「地域みらい留学合同オンライン説明会」でお待ちしています。
https://c-mirai.jp/schools/18

高校魅力化プロジェクトのページ
https://www.agareimei.com/  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)イベント日記

2021年07月30日

「できるかも」「やってみようか」のつくり方


昨日は阿賀黎明探究パートナーズの「地域学」中間振り返りでした。

リアルな現場があることの良さは、「実現可能性」をリアルに感じられること、かなと思った。机上で「できる、できない」をやると、自信のない生徒、成功体験のない生徒は、どうしても「できない」という結論になってしまうけど、

昨日のまちづくりチームや、観光チームの話を聞いていると「いろんな方法がある」ということをリアルに体感したり、それをやってきた大人に接することで、「それくらいだったら、できるかも」が生まれていく。それって、最初の1歩なのかもしれないなと。

まず、「やりたい」という意志があるのではなく、「できるかも」「やってみようか」という感覚があるのかもしれない。

そもそも僕は、意志という神話を信じてはいないのだけども・・・
参考:「手段」としての学びから「機会」としての学びへ(19.7.6)
http://hero.niiblo.jp/e489527.html

地域学というほぼ必修の授業で(半ば強制的に)、地域のおもしろい(わけのわからない)オッサンに出会い。リアルな現場を目の前にして、「いやいや無理でしょ」が「できるかも」「やってみようか」に変わっていくこと。そこから始まっていくものがあるのではないか、って思う。

「マイプロ以前」みたいなやつ。
そこが大切なのかもしれないなと。

今日から読み始めた本
「本物をまなぶ学校」(自由学園 婦人之友社)


「自由学園」って聞いてはいたけど、実態を知らず。
いきなり冒頭からシビれております。

~~~
自由学園の「自由」とは、自然界の制約からの「自由」でも、家族やコミュニティからの「自由」でもない。過去からの「自由」でも、社会からの「自由」でもない。そして、生活と教育を切断し、頭と体と魂を切り離し、過去を切り捨てる、いわゆる自由主義者の「自由」でもない。逆にそれは、教育と生活との、頭と体と魂との、過去と未来との、個人と社会との調和を志し、それを実際に学校という場で、試し、つくりだす自由だ。

この学校の創立者たちはこう考えていたという。学校は今ある社会の模倣ではない。そこに人材を送り込むためのものでもない。学校は今ない社会をつくる人たちを育てるのだ、と。
~~~

いいですね。
「自由」ってなんだっけ?
という問いがまず投げ込まれます。

そして第2章「自分で考える、生活に学ぶ」に続いていきます。

~~~
学校は、置き換え可能な人材をつくり出す場ではなく、一人ひとりを大切にし、新しい社会へのビジョンを持った人が育つ場でありたいという信念です。ですから学校は、今の社会を模倣していてはダメなんです。今は教育現場にグローバルな競争に打ち勝つ人材育成が求められていますが、この学校は人材育成ではなく、どんな時代どんな社会にあっても、自分の人生を自分らしく歩み、そしてよい社会とは何かと自分の頭で考え、それをつくっていく人が育つことを願っています。
~~~

これですね。そうそう。
学校が「人材」を育成しているから、ますます生徒は「自信」と「存在」を失っていくのだろうと。

承認を求め、勉強を頑張り、資格を取り、技術を磨いた結果、「交換可能な人材(グローバル人材とはそういうことだ)」になってしまい、ますます承認不安(特に存在承認不安)に陥るというジレンマ。

生活の中にある、小さな「場」。
そこには、何百年と続いてきた「営み」がある。リアルな「暮らし」がある。

「いやいや無理でしょ」から大人を含めた周りの環境によって「できるかも」「やってみようか」が生まれる。
そこから始まるのではないか、と思う。

昨日の中間振り返りで福祉チームが話していた。「若い人が来ることでお年寄りたちは孫ができたみたいですごく喜んでいる。料理の話とかをしていた。今後生徒たちをどうやって活かしていくか?が私たちの課題」

そうなんですよね。チームとして、場として、どうしていくか。だからこそ、昨日の振り返りでも

「15分前に帰ってきて、全体で振り返りを行い、大人達も振り返りに(プレイヤーとして)参加する」
「その際に、自分たちの授業目標である問いを発して、生徒のリアクションを見る」

という2つが改善策として出てきました。
活動が学びにつながるように、振り返りをすること。それは高校生だけではなく、大人も一緒だということ。共に見つけ合うこと。たぶんそうやって場をつくっていくことなのだろうなと思った。

ということで、
そんな地域の大人たちがともに学ぶ授業がある阿賀黎明高校の現地説明会は8月21日(土)22日(日)です。
21日(土)は新潟駅MOYORe:で、参加型のワークショップで新しいまなびの場を構想します。
https://www.agareimei.com/posts/19611879?categoryIds=477469





22日(日)は現地見学会です。
申し込み・問い合わせはこちらから。
https://www.agareimei.com/posts/19710284?categoryIds=477469

明日7月31日8月1日は「地域みらい留学」合同オンライン説明会です。
https://c-mirai.jp/
こちらでもお待ちしています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)

2021年07月28日

「オレンジ星人」を作ってはいないか?


「実存的変容」(天外伺朗 内外出版社)

キーワードに惹かれて購入しました。

ティール組織(フレデリック・ラルー 英知出版)
の組織の変遷(進化)に合わせて、人はどのように変容していくか、
というのが書いてあります。

ちなみにティールに至る道は
1 レッド(衝動型)
2 アンバー(順応型)
3 オレンジ(達成型)
4 グリーン(多元型)
5 ティール(進化型)
ということでティールは青緑色なんです。

「実存的変容」を読んでいて一番ヒットしたのは「オレンジ星人」でした。(P132)

1 善良で立派な社会人、親切な隣人、良き家庭人を装うことができる
2 責任感があり、勤勉でよく働く
3 人間集団の中で、適切な立ち位置を見出し、チームワークよく仕事を遂行できる
・・・とまあ25項目あるんですけど。(長い)

つまり、オレンジな組織に適応するために
ひとりひとりが「オレンジ星人」として養成されているということです。

本書では、意識レベルの上に上がってくる下のレベルにはモンスターが住んでいて、それを抑圧して、ペルソナ(仮の自分)を作り上げていると説明されています。

~「実存的変容」というのは、モンスターの支配から逃れて自分の人生を取り戻すことです。~
と本書にはあるのですが、「変容」という言葉にビビっときます。

いちばん面白かったのは、ココ。
成長のための方法論である「目標をしっかり持ち、それに向かって努力する」は「意識の変容」にはまったく役に立たない。

まさに学校は、オレンジ星人をつくっているんじゃないか?

それは適応であって、価値ではないのではないか。
そんな風に感じています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)日記