2021年11月29日
「季節感」で越境すること、「安心して孤独」の場を持つこと
昨日は、オンラインツルハシでした。
ゲストは小川愛媛さんと坂口麻衣子さん。
録画してなくてすみません。
以下メモ
~~~
第1部
・自分自身が中学生の時に実感した社会教育の必要性
・大学での「生涯学習」を専攻⇒教育・学びとは?
・カタリバ等での高校生との直接的すぎる関わり⇒高校生たちにとって本当に価値なのか?
・求められているものを差し出す、優等生過ぎる自分への違和感
・就職(営業職)という越境、違う世界で生きてきた人たちに出会う、感じ方が違いすぎる;「自分」を知る2年間
・他者を演じ切る、ことはできない:「演劇」でもなりきれなかった。
・「近所のお姉さん」的なかかわり
~~~
なんというか。「教育観」というか「まなび観」というか、そういうのが問われる時間となった。
教育者と呼ばれる人たちは「あなたのおかげで」と言われることは喜ばしいことなのだろうか。
あなたを変えたのは、先生でも、教育でもなく、周りの「環境」でありあなた自身なんだと。
もっと言えば、人は20分ごとに(細胞が)生まれ変わっているんだ。
あとは、阿賀町でそれをやることの意味を。
「季節感」は、身体性(身体感覚)を呼び起こす。
そしてそれは「一回性」が高い。
それこそが「行動の理由」なのかもしれない。
そういえば、今年初めて、僕は梅酒、梅ジュースを仕込んだ。
それは、温泉や公営塾スタッフが「梅酒つけた?」みたいな会話をしていたからだ。
梅の時期には、限りがある。
すると、うっかりと行動してしまうのだ。
この場所でつくりたい「リアルメディア」。
その「リアル」には、季節感のリアルが入っているのだろう。
そんなリアルが感じられる「場」をつくっていくんだな、と。
さて、雪が積もる前に何をしようか。
~~~
第2部
・会う人によって私の見え方(肩書き)は違う。
・まちづくりの人、カフェの店主、こども芸術教室の先生、本屋さん
・「空間」と「時間」を設計している:その人がその場所で過ごせること
・「時間軸」:それぞれの人の中に「時間」は流れている
・自分に流れる時間と相手に流れる時間は違う:相手への尊重
・スタッフには「しないでほしいこと」は言うけど、「してほしいこと」は言わない:劣化コピーは20%ずつ減っていく
・カフェのメニュー:毎日見ても大丈夫なもの、ロスが少ないものにする。あとは来る人に合わせて変えていく
・カフェ:ひたすら「実験」「コミュニケーション」の場
・変化に対する受容・適応:変化することに対して責任をもつ
・カフェという「空間(場)」と個々に流れるそれぞれの「時間」
・「安心して孤独」というキーワード:空間:共にいる、時間:個別に流れている
・「屋根のある場所」の共有
・カフェ店主:「誰かの時間」と「誰かの時間」を接続する:接続した後、委ねている
・「名前」⇒「職業」⇒「連絡先」を聞くタイミング
・相手を喜ばせるためだけの接客はしない⇒合わせすぎない
~~~
それって「存在」を確かめるってことなのかもしれない、と。
麻衣子さんが言うには、
他者の中にしか自分は存在しないし、存在を決めるのは他者なんだと
その感覚ってすごく自由だなあと。アイデンティティは他者を見て自分を確かめるのだと。
他者の中にいる自分が社会的にタグ付けされた自分だと
なぜなら細胞は20分ごとに入れ替わっているから(by福岡伸一)
その不確か性、というか連続していく変化とか。
そういう「固定しない」っていうのが大事だ。
「誰かのつけたラベル」に合わせて生きるのではなく、
ハッシュタグをたくさん振っていけばいい。
会うたびに違う人を演じること(実際は自分が演じているのではなく、相手がそうラベルを振っている)
「自由」だなって思った。
「存在」を定義すること。
あとは「空間」と「時間」の感覚。
カフェという「空間(場)」は、
誰かの時間と誰かの時間が交差する、かもしれないということ。
同時に、「安心して孤独」でいられる場所だということ。
第1部と第2部がつながってくる。
「季節感」で行動・越境でできること
「誰かの時間」と「誰かの時間」を合わせること。
そして同時に「安心して孤独」を感じられる場所。
そんな空間(場)をつくっていくこと。
それが2022年の宿題です。
ゲストは小川愛媛さんと坂口麻衣子さん。
録画してなくてすみません。
以下メモ
~~~
第1部
・自分自身が中学生の時に実感した社会教育の必要性
・大学での「生涯学習」を専攻⇒教育・学びとは?
・カタリバ等での高校生との直接的すぎる関わり⇒高校生たちにとって本当に価値なのか?
・求められているものを差し出す、優等生過ぎる自分への違和感
・就職(営業職)という越境、違う世界で生きてきた人たちに出会う、感じ方が違いすぎる;「自分」を知る2年間
・他者を演じ切る、ことはできない:「演劇」でもなりきれなかった。
・「近所のお姉さん」的なかかわり
~~~
なんというか。「教育観」というか「まなび観」というか、そういうのが問われる時間となった。
教育者と呼ばれる人たちは「あなたのおかげで」と言われることは喜ばしいことなのだろうか。
あなたを変えたのは、先生でも、教育でもなく、周りの「環境」でありあなた自身なんだと。
もっと言えば、人は20分ごとに(細胞が)生まれ変わっているんだ。
あとは、阿賀町でそれをやることの意味を。
「季節感」は、身体性(身体感覚)を呼び起こす。
そしてそれは「一回性」が高い。
それこそが「行動の理由」なのかもしれない。
そういえば、今年初めて、僕は梅酒、梅ジュースを仕込んだ。
それは、温泉や公営塾スタッフが「梅酒つけた?」みたいな会話をしていたからだ。
梅の時期には、限りがある。
すると、うっかりと行動してしまうのだ。
この場所でつくりたい「リアルメディア」。
その「リアル」には、季節感のリアルが入っているのだろう。
そんなリアルが感じられる「場」をつくっていくんだな、と。
さて、雪が積もる前に何をしようか。
~~~
第2部
・会う人によって私の見え方(肩書き)は違う。
・まちづくりの人、カフェの店主、こども芸術教室の先生、本屋さん
・「空間」と「時間」を設計している:その人がその場所で過ごせること
・「時間軸」:それぞれの人の中に「時間」は流れている
・自分に流れる時間と相手に流れる時間は違う:相手への尊重
・スタッフには「しないでほしいこと」は言うけど、「してほしいこと」は言わない:劣化コピーは20%ずつ減っていく
・カフェのメニュー:毎日見ても大丈夫なもの、ロスが少ないものにする。あとは来る人に合わせて変えていく
・カフェ:ひたすら「実験」「コミュニケーション」の場
・変化に対する受容・適応:変化することに対して責任をもつ
・カフェという「空間(場)」と個々に流れるそれぞれの「時間」
・「安心して孤独」というキーワード:空間:共にいる、時間:個別に流れている
・「屋根のある場所」の共有
・カフェ店主:「誰かの時間」と「誰かの時間」を接続する:接続した後、委ねている
・「名前」⇒「職業」⇒「連絡先」を聞くタイミング
・相手を喜ばせるためだけの接客はしない⇒合わせすぎない
~~~
それって「存在」を確かめるってことなのかもしれない、と。
麻衣子さんが言うには、
他者の中にしか自分は存在しないし、存在を決めるのは他者なんだと
その感覚ってすごく自由だなあと。アイデンティティは他者を見て自分を確かめるのだと。
他者の中にいる自分が社会的にタグ付けされた自分だと
なぜなら細胞は20分ごとに入れ替わっているから(by福岡伸一)
その不確か性、というか連続していく変化とか。
そういう「固定しない」っていうのが大事だ。
「誰かのつけたラベル」に合わせて生きるのではなく、
ハッシュタグをたくさん振っていけばいい。
会うたびに違う人を演じること(実際は自分が演じているのではなく、相手がそうラベルを振っている)
「自由」だなって思った。
「存在」を定義すること。
あとは「空間」と「時間」の感覚。
カフェという「空間(場)」は、
誰かの時間と誰かの時間が交差する、かもしれないということ。
同時に、「安心して孤独」でいられる場所だということ。
第1部と第2部がつながってくる。
「季節感」で行動・越境でできること
「誰かの時間」と「誰かの時間」を合わせること。
そして同時に「安心して孤独」を感じられる場所。
そんな空間(場)をつくっていくこと。
それが2022年の宿題です。
2021年11月25日
目的地を決めないこと、地図とコンパスを持たないこと
昨日はチーム「えぽっく」ミライ会議でした。
「ミライ会議」とは、水戸留学時代(2015~2018)に
茨城県日立市の株式会社えぽっく・若松佑樹さんと一緒に
生み出したビジョンセッションの手法です。
ミライ会議の構造は、
「過去」⇒「未来」⇒「現在」の順に考えていくこと。
これはかつて、ツルハシブックスの店員サムライたちの合宿で行われていた
1 過去(自分およびチーム)を振り返り、顧客を見つける
2 顧客にとっての価値は何かを考え、未来日記を書く
3 未来日記実現のために今、何ができるか考え、計画する。
を言語化、構造化したものです。
いわゆる「バックキャスティング(未来を先に設定して、逆算して、今やることを考える)」とは少し違って、
「ミライ会議」は過去から「顧客」を見つけ、「顧客にとっての価値」を考え、顧客の未来を描き、今やることを考える、という方法です。
ドラッカー先生の5つの質問で説明すれば、
1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か
のうちの、2と3にフォーカスして、そののちに1~5について考えていく、ということになります。
昨日は取材型インターンひきだしの編集長経験者2名(大学生)と、転職1年目のコーディネーター、そして若松さんと僕を加えたチーム「えぽっく」5人で「えぽっくミライ会議」を行いました。
まずは振り返り(主に取材インターンひきだし振り返り)から。
僕としては、
Aさんの言った「大切なものを大切にしている」と感じられる会社・場だった。
⇒ココが一番強み、求心力なのだろうな、と。
普段意識していないけど、「世の中どうしてこうなっているのだろう?」
みたいな違和感に対して、え、こんなことやってる人いるんだ!って思えるような会社。
えぽっくの事業や若松さんの言動ひとつひとつにそれが感じられるのだろう。
「事業は人」っていうのもまさにこれだ。
だからこそ「何者かになりたかった」Hさんが言っていた
「見つけたいものが見つかるんじゃないか」という予感を生むのかもしれない。
次にえぽっくの(顧客に対しての)提供価値についての話。
これが、「あなたにとってコーディネートとは?」っていうプロフェッショナル的な問いになっていた。笑
えぽっくにとって、コーディネートするとは、
・無理でしょ、と思えることをできるようにつなぐ
・面白がる(リフレーミング)
・リソースを拡張する
ことだと。たしかに、コーディネートの価値は、ここにある。
・不可能(だと感じること)を可能にするために「場をつくること(立ち位置を知ることとイメージの共有)」
・新しいアイデア、発想、具体先を出すために「面白がる(⇒リフレーミング)すること」
・それらの実行によって、自分の手持ちだでなく「資源(リソース)を拡張すること」
・仮説を実行した後にふりかえることによって「検証すること」
たぶんこの流れ、なのだろうな。
「リソースの拡張」っていうのが僕もすごくいいなと思った。
高校生の探究活動でもそれは同じだ。
人生が経営だとしたら他者の力を借りた「リソースの拡張」は必須のスキルであろうと。
「ひとりではできないけど、みんなでやればできる」っていう感覚を得られるかどうか。
それは話していた「人間観」の話にも通じるかもしれない。
今年の編集長だったSさんはやる前に若松さんに言われた。
「できないことはそのままでいい」
そんな言葉をかけてくれる大人には出会ったことがなかった。
だから、えぽっくは、Aさんがそれでいいんだ、と思ったように、
「ひとりひとりが大切にしているものを大切にして生きていくこと」をサポートできるのではないか、と。
人間観:人をどのように見ているか?だ。
Aさんは「漫画ワンピース」に例えて言った。
「仲間ができた」んだと。
一緒に船に乗ってみたい仲間が。
若松さんが振り返りで言うことにはいつもハッとさせられるのだけど、今回もそう。
「目的地を決めず、地図とコンパスを持たず、旅に出ることを決めた」
そうか。だからこそ、えぽっくは人に、あるいは相手先の企業をよく見ることができるんだ。
最後の振り返りで、みんなから出てきたキーワードは「想い」だった。
それは「ミッション」とか「目的地」とか「達成目標」とかとはちょっと違っていて。
ひとりひとりに存在の意味があるという人間観をベースにして、
大切なものを大切にしていきながら(あり方や美学を共有しながら)、
「問い(ベクトル)」を共有しながら進んでいく、ということなのかもしれない。
それが「想い」の正体なのではないか。
株式会社えぽっくは4年目。
君もこの船に乗らないか?
問いと自分を見つける旅に出ないか?
申し遅れましたが、私、株式会社えぽっくの顧問をしておりますニシダタクジです。(偉そう)
「ミライ会議」とは、水戸留学時代(2015~2018)に
茨城県日立市の株式会社えぽっく・若松佑樹さんと一緒に
生み出したビジョンセッションの手法です。
ミライ会議の構造は、
「過去」⇒「未来」⇒「現在」の順に考えていくこと。
これはかつて、ツルハシブックスの店員サムライたちの合宿で行われていた
1 過去(自分およびチーム)を振り返り、顧客を見つける
2 顧客にとっての価値は何かを考え、未来日記を書く
3 未来日記実現のために今、何ができるか考え、計画する。
を言語化、構造化したものです。
いわゆる「バックキャスティング(未来を先に設定して、逆算して、今やることを考える)」とは少し違って、
「ミライ会議」は過去から「顧客」を見つけ、「顧客にとっての価値」を考え、顧客の未来を描き、今やることを考える、という方法です。
ドラッカー先生の5つの質問で説明すれば、
1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か
のうちの、2と3にフォーカスして、そののちに1~5について考えていく、ということになります。
昨日は取材型インターンひきだしの編集長経験者2名(大学生)と、転職1年目のコーディネーター、そして若松さんと僕を加えたチーム「えぽっく」5人で「えぽっくミライ会議」を行いました。
まずは振り返り(主に取材インターンひきだし振り返り)から。
僕としては、
Aさんの言った「大切なものを大切にしている」と感じられる会社・場だった。
⇒ココが一番強み、求心力なのだろうな、と。
普段意識していないけど、「世の中どうしてこうなっているのだろう?」
みたいな違和感に対して、え、こんなことやってる人いるんだ!って思えるような会社。
えぽっくの事業や若松さんの言動ひとつひとつにそれが感じられるのだろう。
「事業は人」っていうのもまさにこれだ。
だからこそ「何者かになりたかった」Hさんが言っていた
「見つけたいものが見つかるんじゃないか」という予感を生むのかもしれない。
次にえぽっくの(顧客に対しての)提供価値についての話。
これが、「あなたにとってコーディネートとは?」っていうプロフェッショナル的な問いになっていた。笑
えぽっくにとって、コーディネートするとは、
・無理でしょ、と思えることをできるようにつなぐ
・面白がる(リフレーミング)
・リソースを拡張する
ことだと。たしかに、コーディネートの価値は、ここにある。
・不可能(だと感じること)を可能にするために「場をつくること(立ち位置を知ることとイメージの共有)」
・新しいアイデア、発想、具体先を出すために「面白がる(⇒リフレーミング)すること」
・それらの実行によって、自分の手持ちだでなく「資源(リソース)を拡張すること」
・仮説を実行した後にふりかえることによって「検証すること」
たぶんこの流れ、なのだろうな。
「リソースの拡張」っていうのが僕もすごくいいなと思った。
高校生の探究活動でもそれは同じだ。
人生が経営だとしたら他者の力を借りた「リソースの拡張」は必須のスキルであろうと。
「ひとりではできないけど、みんなでやればできる」っていう感覚を得られるかどうか。
それは話していた「人間観」の話にも通じるかもしれない。
今年の編集長だったSさんはやる前に若松さんに言われた。
「できないことはそのままでいい」
そんな言葉をかけてくれる大人には出会ったことがなかった。
だから、えぽっくは、Aさんがそれでいいんだ、と思ったように、
「ひとりひとりが大切にしているものを大切にして生きていくこと」をサポートできるのではないか、と。
人間観:人をどのように見ているか?だ。
Aさんは「漫画ワンピース」に例えて言った。
「仲間ができた」んだと。
一緒に船に乗ってみたい仲間が。
若松さんが振り返りで言うことにはいつもハッとさせられるのだけど、今回もそう。
「目的地を決めず、地図とコンパスを持たず、旅に出ることを決めた」
そうか。だからこそ、えぽっくは人に、あるいは相手先の企業をよく見ることができるんだ。
最後の振り返りで、みんなから出てきたキーワードは「想い」だった。
それは「ミッション」とか「目的地」とか「達成目標」とかとはちょっと違っていて。
ひとりひとりに存在の意味があるという人間観をベースにして、
大切なものを大切にしていきながら(あり方や美学を共有しながら)、
「問い(ベクトル)」を共有しながら進んでいく、ということなのかもしれない。
それが「想い」の正体なのではないか。
株式会社えぽっくは4年目。
君もこの船に乗らないか?
問いと自分を見つける旅に出ないか?
申し遅れましたが、私、株式会社えぽっくの顧問をしておりますニシダタクジです。(偉そう)
2021年11月14日
なぜ、(小さな)本屋なのか?
なぜ本屋なのか?
そこには省略されているのは
なぜ(図書館ではなく)(大きな書店でもなく)(小さな)本屋なのか?
ということなのだろう。
そんな問いをもらって、あらためて考える。
本屋を始めた理由。
http://hero.niiblo.jp/e269505.html
(13.6.11 僕が本屋さんになった3つの理由)
1 ヴィレッジヴァンガード郡山店の店長のカフェをつくりたい話からいつか本屋をしようと思っていた。
2 「ホスピタルクラウン」(大棟耕介)を仕入れすぎた。
3 地域と若者のプラットフォームは本屋なのではないかと直感した。
と簡単に言えば3つになるのだけど。
なぜ本屋なのか?はそのまま「本屋とは何か?」
という問いにつながっている。
ツルハシブックスを始めてから、「なぜ本屋なのか?」というよりも、
「それを実現するのは本屋なんじゃないか?」と思うようになった。
特に「カフェ」という概念に出会ってから、かもしれない。
クルミドコーヒー影山さんやCommon Cafe山納さんの著書を読んでいると、
「それはカフェでこそ実現できる」というニュアンスで書かれていることが、
僕にとっては、それは本屋でこそ実現できる、と思える。
ツルハシブックスを開店した当初に、
山納さんの「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)を読んで、
僕がやりたいのは「新刊書店」ではなくて「カフェ」なのだと知った。
http://hero.niiblo.jp/e208716.html
(12.10.28 カフェという場のつくり方)
2019年のかえるライブラリーのクラファンのときに、
http://hero.niiblo.jp/e488750.html
(19.1.20 本屋元年)
~~~
「つくる」と「届ける」。そのあいだに、本棚があるように思う。
つくり手と受け手のコミュニケーションのあいだに、本棚があるように思う。
~~~
なるほど。
本棚をつくる人は、その「あいだ」をつくっているんだ。ただ機会を提供しているだけ。
その本を買うか、買った本を読むか、は読み手(買い手)に委ねられている。
そんな「あいだ」をつくる、それがかえるライブラリーだろうと。
もうひとつ。
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
(20.10.15 ベクトルとして存在を許されるカフェという場)
~~~
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェ。
「何者でもない誰か」を言い換えれば、名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。
実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。
~~~
クルミドコーヒー影山さんは、「続・ゆっくりいそげ」の中で「場が力をもつための条件」として5つ挙げている。
1 目的がなくともふらっと行ける場であること
2 多様な人が参加できる場であること
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一の要素があること
5 楽しく、遊びの要素があること
うんうん。このすべてが合わさって、ようやく場は力を持つのだろうと。
そして、それはカフェではなくて、「(小さな)本屋」でこそ、実現できるのではないかと。
もちろん、カフェでも本屋でもない別の方法もあるのだと思うけども。
その本屋をかつて僕は「劇場のような本屋、本屋のような劇場」と名付けた。
提供している価値は「予測不可能性」という楽しさ。
つくると届けるの「あいだ」にあり、それを委ねる空間。
それがつくりたい小さな本屋という空間なのかもしれません。
それを僕やスタッフだけがやるのではなく
主客をあいまいにしながら本棚を作っていく「かえるライブラリー」のオーナーや、
温泉入ってサッパリしてからひと仕事しよう、とか。
いろんな人たちが「ベクトル」だけになって、そこに存在を許されるような、
そういう「場」としての本屋を、始めてみようと思っています。
「かえるライブラリー」は年間8,000円で借りることができます。(予定 3月まではお試し期間で1,000円/12月~3月)
詳しくは西田までお問合せください。
そこには省略されているのは
なぜ(図書館ではなく)(大きな書店でもなく)(小さな)本屋なのか?
ということなのだろう。
そんな問いをもらって、あらためて考える。
本屋を始めた理由。
http://hero.niiblo.jp/e269505.html
(13.6.11 僕が本屋さんになった3つの理由)
1 ヴィレッジヴァンガード郡山店の店長のカフェをつくりたい話からいつか本屋をしようと思っていた。
2 「ホスピタルクラウン」(大棟耕介)を仕入れすぎた。
3 地域と若者のプラットフォームは本屋なのではないかと直感した。
と簡単に言えば3つになるのだけど。
なぜ本屋なのか?はそのまま「本屋とは何か?」
という問いにつながっている。
ツルハシブックスを始めてから、「なぜ本屋なのか?」というよりも、
「それを実現するのは本屋なんじゃないか?」と思うようになった。
特に「カフェ」という概念に出会ってから、かもしれない。
クルミドコーヒー影山さんやCommon Cafe山納さんの著書を読んでいると、
「それはカフェでこそ実現できる」というニュアンスで書かれていることが、
僕にとっては、それは本屋でこそ実現できる、と思える。
ツルハシブックスを開店した当初に、
山納さんの「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)を読んで、
僕がやりたいのは「新刊書店」ではなくて「カフェ」なのだと知った。
http://hero.niiblo.jp/e208716.html
(12.10.28 カフェという場のつくり方)
2019年のかえるライブラリーのクラファンのときに、
http://hero.niiblo.jp/e488750.html
(19.1.20 本屋元年)
~~~
「つくる」と「届ける」。そのあいだに、本棚があるように思う。
つくり手と受け手のコミュニケーションのあいだに、本棚があるように思う。
~~~
なるほど。
本棚をつくる人は、その「あいだ」をつくっているんだ。ただ機会を提供しているだけ。
その本を買うか、買った本を読むか、は読み手(買い手)に委ねられている。
そんな「あいだ」をつくる、それがかえるライブラリーだろうと。
もうひとつ。
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
(20.10.15 ベクトルとして存在を許されるカフェという場)
~~~
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェ。
「何者でもない誰か」を言い換えれば、名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。
実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。
~~~
クルミドコーヒー影山さんは、「続・ゆっくりいそげ」の中で「場が力をもつための条件」として5つ挙げている。
1 目的がなくともふらっと行ける場であること
2 多様な人が参加できる場であること
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一の要素があること
5 楽しく、遊びの要素があること
うんうん。このすべてが合わさって、ようやく場は力を持つのだろうと。
そして、それはカフェではなくて、「(小さな)本屋」でこそ、実現できるのではないかと。
もちろん、カフェでも本屋でもない別の方法もあるのだと思うけども。
その本屋をかつて僕は「劇場のような本屋、本屋のような劇場」と名付けた。
提供している価値は「予測不可能性」という楽しさ。
つくると届けるの「あいだ」にあり、それを委ねる空間。
それがつくりたい小さな本屋という空間なのかもしれません。
それを僕やスタッフだけがやるのではなく
主客をあいまいにしながら本棚を作っていく「かえるライブラリー」のオーナーや、
温泉入ってサッパリしてからひと仕事しよう、とか。
いろんな人たちが「ベクトル」だけになって、そこに存在を許されるような、
そういう「場」としての本屋を、始めてみようと思っています。
「かえるライブラリー」は年間8,000円で借りることができます。(予定 3月まではお試し期間で1,000円/12月~3月)
詳しくは西田までお問合せください。