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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年03月29日

「近代的個人」という輸入品


「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)

これ。
就活前に読んでおいてほしい1冊。

「就活の違和感」の大きな原因のひとつに、
アイデンティティ・クライシス(自分らしさ危機)
があると思う。

そしてそれは
(地域)あるいは(会社)コミュニティの崩壊とともに
深刻さを増している。

自分とは何で、自分らしさとはどこにあるのか?

そんな問いに苦しんでいる。

前回のクラウドファンディングのキーワードである
「何者かにならなければならない」というのも
同じようなところに原因があるのではないかと思う。

では、
自分って?
自分らしさってそもそも何?

ここから出発しないといけないと思う。
そこで「日本再興戦略」だ。

~~~以下引用

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。
それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは
1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、
いまだに日本には「個人」によって成り立つ
「国民国家」という感覚が薄いように感じます。
むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。
これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、
依存的に生きてきました。
我々は個人なんてなくても、
権利なんて与えられなくても、江戸時代など、
対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。

それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。
個人の持つ意味を理解していないのに、
西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。
隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。
過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、
我々は過度に分断されるようになった。
そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、
そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、
働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、
誰かが技術失業することはありませんでした。

でも今は、
「誰々の職業がAIに奪われる」なんて話題ばかりがメディアに出てきます。

これからの本質的な問題は、
「我々はコミュニティをどう変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」
ということなのに、「どの職業が食いっぱぐれるのか」という議論ばかりしているのです。

そうした「AI脅威論」は西洋の個人主義の文脈において出てくるものですから、
本来の日本人がそうした問いに振り回される必要はありません。

これから日本が東洋的な感覚を土台としてテクノロジーを生かしていくためにも、
まずは西洋的個人を超越しなければならないのです。
一人がひとつの天職によって生きる世界観に我々はもともと住んでいませんでした。
百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

そもそも、アジアは昔から、言語によって
何かを分断する考え方をよしとしません。

荘子は言語による二分法でモノを語りません。
個人と個人以外、対象と対象以外というように
分断する行為は、世界が調和によって成り立っていた
安定状態を破壊してしまう行為であると主張しています。
つまり、西洋思想の二分法の考え方は、
アジア的な安寧に関するかなく、美的感覚や価値観とは合わないのです。

~~~ここまで引用

この章はひたすらうなづくばかり。
まだ後半に続くので
明日にでも全文を書き写そうかなと思います。

西洋から持ち込まれた「近代的個人」という感覚こそが
自分たちを苦しめているのではないか。
そしてそれは我が国の風土に合わないのではないか。

なんか、感覚的にはすごくわかるんだけど、
それを言葉にした落合さんはすごいなあと思います。

この本にめちゃめちゃヒントがあるなあと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 18:44Comments(0)

2019年03月28日

世の中をマクロで見ること

世の中をマクロで見ること。

鳥の目、虫の目。
っていうのと、
もうひとつ、時間軸、歴史軸で見てみる
っていうこと。

その2つが必要なのだと思う。

簡単に言えば、
いま、目の前にあるものを疑うこと。
当たり前だと思わないこと。


「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)


「10年後の仕事図鑑」(堀江貴文×落合陽一 ソフトバンククリエイティブ)

この2冊。
就活生、大学生にめちゃめちゃオススメします。
就活、いや働くことをマクロに見てみること。
そこからしか始まらないんじゃないかと。

「日本再興戦略」は冒頭からすごいです。

~~~ここから引用

我々の教育は、人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるには特化していないからです。しかし、それで良かったのです。むしろそのほうが近代的工業生産社会では優位に立てたのです。

だって、近代以前の個別に尖った創造性社会を無個性で共通認識のある訓練された集団へ変換するほうが、マスを解体するより難しいと思いませんか?

これまでのシステムは、大量生産型の工業社会、たとえばトヨタの車をつくるのには向いてましたし、ソニーのテレビをつくるのには向いていました。

みなが均質な教育を受けていて、何も言わなくても足並みがそろうからです。不良品が少なく、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せ感を演出できる社会は非常にうまくデザインされていたといえるでしょう。幸せは演出され、成長は計画されてきたのです。

ただし今は、工場が本質的に機械知能化されていっています。スマホのように、高集積で人間が関与することが難しいものに関しては、その作業工程で足並みをそろえる必要がありません。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればいい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」の3点セットだと僕は考えています。

つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。

~~~ここまで「日本再興戦略」より引用

まえがきでこれですからね~。
面白いです。

そして、10年後の仕事図鑑では、
冒頭に「AIに仕事が奪われる」的な、なぞの脅迫に
その実態はなんなのか?説明してくれる。
そして「イカれた就活システムから脱出せよ」と説く。

「近代」とはなんだったのか?
日本再興戦略でいえば、「欧米」ってなんだよ?
っていうところから考えなきゃいけない。

「自我」とか「愛」とか、
1860年以降に日本に入ってきた概念で
世の中を見ていないか?みたいな。

それ、本質的だなあと思う。

この2冊。
読めば読むほど面白いです。

つづきます。  

Posted by ニシダタクジ at 18:52Comments(0)

2019年03月18日

場という「おでん」の具として生きる

イナカレッジ・ラボ@東京・湯島でした。


午前中は
「beの肩書き」ワークショップを
40代のおじさん3人でやるという・・・
みんな人生、迷ってますね。笑

人生を物語として見たときに、
どう見えるか?
っていう鈴木さんが言っていたことが
印象的でした。

僕の中で出てきたキーワード。

本、問い、場、フラット、創造、コミュニケーション・デザイン、コミュニケーション・ツール、お客は誰か?、脱・自分、脱・二元論、いいかげん、目的に向かわない、機会提供、溶け出す、とかとか。

あとは「場づくり」の価値をどのように伝えるか?
っていう話。これは面白かった。

参加者の鈴木さんは
「鈴木さんって何をしたいのか、よくわからないですよね」
ってよく言われるらしい。
それって場づくりにとっては、むしろプラスなんじゃないか、と。

場の価値や目的を言語化できる、っていう場と
言語化できない場っていうのは、
どちらが価値があるのか?っていうジレンマ。
というか、価値があるのは言語化できない「場」なのではないか。

午後は、イナカレッジの井上有紀さんと
「挑戦するな実験しよう」をテーマに参加者とフリートーク。

「やってみる」こと、「ふりかえる」こと
「ふりかえる」ときに、
「目的」「目標」に沿って考えたことをふりかえるのか?
「顧客」「価値」について感じたことをふりかえるのか?
「予想できなかったよかったこと」は何か?

「適応する」ことは個体にとっては「本能」であって、「価値」そのものではない。
その個体が属する集団にとっては価値である可能性が高いけど。

予測不可能性というエンターテイメント性と
予測可能性という安全性・安心感

「何に囲まれるか?」という判断基準。
「感性」を磨いていくこと。「問い」を共有すること。
とまあ、こういう感じ。
この4日間の「就活の違和感」ウィークで思ったこと。

「二元論」でわかりやすくすること、とか
「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が
苦しさの原因なのではないかと。

3月14日(木)の
「続・ゆっくり、いそげ」の夜でも、
本の中でも出てくるけど。

よい「場」っていうのは、
おでんのようなもので。

それぞれが、おでんに向かって
ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、
ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、
全体としてひとつのおでんができている。
ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。

よい場っていうのは「おでん」のような場なのではないか。

個人を個人として考えるのではなく、
場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、
とらえてみること。

2003年に発売された
「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は
200万部を売り、子どもたちに呪いをかけた。
「プロフェッショナルになれ」という呪い。

一方で同じ年にリリースされた
「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、
「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」

それは子どもたちを癒すのではなく、
よりいっそう、「何者かにならなければならない」
という呪縛につながった。

でも。
そもそも人はONEなのではないのではないか。
おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。

場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、
場とやり取りしながら、出番が来るまで、
役割を全うすることなのではないか。

そんなおでんの歌を、必要としているのかも。  

Posted by ニシダタクジ at 06:37Comments(0)日記

2019年03月15日

「おでん」のような「場」をつくり、「植物」を育てるように「事業」をつくる

クルミドコーヒー影山知明さんとの
「続・ゆっくり、いそげ」の夜。



「続・ゆっくり、いそげ」を読んでの
知の巨人、影山さんとのトーク。

キーワードは、「おでん」と「植物」かなあ。

~~~ひとまずメモ書き起こし。

おでんの中のジャガイモになる。最後はつゆに溶けてしまっている。でもたしかにじゃがいもはそこにいる。

小さなおでんをたくさんつくる、ということ。

「自分」ていうのと「二元論」みたいなやつが苦しさの源泉だと思う。

「共感できる」っていうのはビジョンや目標ではなくて、その人物に、心が、感性が反応するっていうこと。

「就活」とは限られた時間の中で内定を取るゲーム、つまりフレームワークだ、システムにおいて必要なのはそこに適応できる人。

違和感を感じる=創造のチャンス。

「何がしたいのか?」って問いが違うような気がするんですよね。

小さな植物を育てるようなプロジェクトをやってみる。育てながら、「顧客」はだれか?「価値」は何か?と問い続ける。

「リザルトパラダイム」⇒正解主義⇒論理的思考⇒わかりやすさ⇒効率的

「人の役に立つ」とか「役割を果たす」という呪縛はあるよね。自分の存在意義をそこに求めてしまう。
「自分とは?」とひとりの個人として問うのではなく、「価値とは?」「顧客とは?」を場として問うということ。

「身体がついていかない」っていうリアルを大切にしたい。それ、どうありたいか?に対する身体からのメッセージ。

「小さな植物を育てる」「小さなおでん鍋をつくる」っていうこと。

おでん×植物理論
人(具)は場(つゆ)によって活かされ、場は人によって生かされる。その「場」(土)から植物が育つように事業は展開していくことができないか。

「おでん」っていう「場」の良さは、時間軸があいまいになっていること。完成されないこと。終わりがないこと。いつからでも参加できること。
「続・ゆっくり、いそげ」の夜が旅をするとしたら、「カレーキャラバン」じゃなくて「おでんキャラバン」ですね。

「おいしいおでん」ができたとき。(プロセス上の一地点であって、「完成」ではない)その手柄は個人(具ひとつひとつ)にはなくて、「場」(具とつゆの集合体)にある。
そういうおでん的な関係を職場と結べるか?

植物、たとえば木であれば、大きさに限りがある。大きいもの(構造物)を作るには、ピラミッド型にするしかない。そうしてリザルトパラダイムが始まる。

~~~ここまでメモ

「おでん」のような「場」をつくれたら理想的だなあと思った。
それは、職場でも、飲み屋でも、本屋でも同じなのだけど。

積み重なる何かがダシとなり、「つゆ」ができる。
ジャガイモすでに溶けているのかもしれない。
新しい人が来たら、だんだんと味をなじませる。
もしかしたら、新しいおでん鍋をこしらえたほうがいいのかもしれない。

そんな「場」から生まれる、
というか、育てる「植物」のような事業、あるいはプロジェクト。

どんな種がまかれたか、
どんな土の状態なのか、
によって、育つ植物の樹形や根の張り方はかわってくる。

そんな風な、リザルトパラダイムではなく、
プロセスパラダイムにある事業、
あるいはプロジェクトに携わっていくこと。

そう考えると、教育っていう空間、
つまり学校空間そのものが
巨大なリザルトパラダイムの中にあるっていうのは
どういうことなのだろうなと思った。

学校・教育への違和感は究極そこに行くのかもしれないなと。

まあ、それも
「二元論」で語らないほうがいいのだろうと。

正しい間違っているとか
どっちがいいとか悪いとかではなくて、

それはそれとして、
適応していくのか、距離をおいていくのか。
そこを自らの判断でやっていくことなのだろうなと。

「違和感」を感じるからといって、
それは必ずしも排除すべきものではないのだと思う。

そんな「違和感」を組み合わせて、
新しいものが生まれる可能性がある。
つまり創造の種になることがあると思う。

僕は、「就活」という舞台を、
もっと創造的な場にしたいと思う。

面接が終わった時に、
「いま、話したことで、新たな事業のヒントが得られました」
みたいに人事担当者が言うような、就活。
創造的な就活。

「自動車をつくるように」ではなくて、
「植物を育てるように」、やってみること。

その予測不可能性と
ブリコラージュを楽しむこと。
そんな機会に触れることを
大学じゃなくて、高校、中学のときからやってみること。

リザルトパラダイム一色の教育を受けてきたのに、
急に、「未来はAIの登場によってわかりません」って
言われたら、それは困るよね。

学校教育はリザルトパラダイムの中で
目標設定・達成を行う場であるとしたら、
学校外の場、カリキュラムの外では
プロセスパラダイムでプロジェクトをつくっていくことを
やっていったらいいのではないかと思う。

それが、僕が考える「オルタナティブ就活」なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 10:55Comments(0)日記

2019年03月14日

コナトゥスを意識する

今夜のクルミドコーヒー影山さんとの
「就活の違和感」トークに向けての準備中。

上野駅の「book express」でふと、
目の前に飛び込んでくる本。
「仕事選びのアートとサイエンス」(山口周 光文社新書)



買っちゃいました。
まだ冒頭しか読んでいないけど、
就活に行く前に乗るべきヘリのラインナップに入れなきゃだ。

冒頭からだいぶ攻めてきます。

~~~ここから引用

仕事選びを予定調和させることはできない。
自分をオープンに保ち、いろんなことを試し、しっくりくるものに落ち着くしかない。

「計画」に価値ははい

「風が吹く、生きようと試みなければならない。」
変転し続ける世の中で、私たちは世界に身を投げ出すようにして、
まず「生きる」ことをを試みなければならない、
そうしなければ何も始まらない、と言っているわけです。

スピノザは
「本来の自分らしい自分であろうとする力」を「コナトゥス」と呼びました。

その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、「コナトゥス」に
よって規定されると考えました。
当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なることになります。

この世の中に存在しているあらゆるものは、
それ自体として「良い」とか「悪い」とかいうことはなく、
その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけです。

私たちは極めて変化の激しい時代に生きており、私たちを取り巻く事物と
私たち個人の関係性は、常に新しいものに取って代わられていくことになります。

このような時代にあって、何が「良い」のか「悪い」のかを、
世間一般の判断に基づいて同定することはできません。
自分なりの「良い」「悪い」の評価軸をつくっていくこと。

自分の姿形や立場などの形相を「エイドス」と呼びます。

私たちは往々にして自分の属性や立場といった「エイドス」に
基づいて「私はこうするべきだ」「私はこうしなければならない」と
かんがえてしまいがちですが、
このようなエイドスに基づいた自己認識は往々にして個人のコナトゥスを
毀損し、その人がその人らしく生きる力を阻害する要因となっています。

私たちは自分のコナトゥスを高める事物を様々に試していくことが
必要になります。

~~~ここまで引用

いやあ。
そうそれ!
みたいな感激があります。

「にいがたイナカレッジ」で昨年末から連載した
「挑戦するな実験しよう」では、まさにそのような
「コナトゥス」を高めるためにはどうしたらいいのか?
みたいな問いを持ちながら実験していくことについて書きました。

https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/

今日、この後にお話する「就活、働くことの違和感」についても、
通じてくるものがあるなあと感じています。


「続・ゆっくり、いそげ」(影山知明・クルミド出版)

▼▼▼ここから「続・ゆっくり、いそげ」より

目的と目標(P50)
目標:計数管理⇒体温を測るようなもの。体温がその人のすべてを反映するわけではないように、計数がお店のすべてではない。

疑問詞でいえば、
目標:how much⇒取り組みの進捗を測る目安
目的:why⇒取り組みの存在理由や意義

「あなたの中に種のあることをやりなさい」(P58)

「have」「do」「be」という目的地(目標)設定。
「do」の目標設定だけだと、人生を不足と未達成の連続にしてしまう。

「人生はそんなロールプレイングゲームのようなものではない。」

「でない」が「である」の苗床になる。(P71)
僕はフラットじゃないコミュニケーションの場、その瞬間が何よりも嫌だったんですね。何も生まれないから。

「いってまいります」という言葉。(P75)
日本人はあたかも自らの自我を、外部から出発して構成するかのようです。

システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムをつくったのです。(村上春樹 雑文集「壁と卵」より)(P210)

1つ1つのシステムには、それが組み立てられた動機であり、目的があり、その動機や目的に沿うような人々のふるまいと相性がいい。いやむしろ、その動機や目的に沿ってふるまうよう、人々を方向付ける力をもっていると言った方がいいかもしれない。

システムをつくるには、それをつくるための原初的な「問い」がいる。現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、その問いに答えようとしていると考えれば、今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。(P228)

▲▲▲ここまで「続・ゆっくり、いそげ」より

まず目的と目標について

目標だけだと、予測可能なのだけど、目的っていうのは、予測不可能だったり、変わり続けるもの、随時変更していかないといけないのではないか。

エンターテイメントの本質は
「予測不可能性」にあるのだと僕は思うし、

僕の「コナトゥス」的には、
おそらくは「予測不可能性」が高いものを楽しめるというか
好奇心が旺盛だから、そういうことになるのかもしれないけど、

人によっては、自分が自分らしくあるためには、
ある程度予測可能な未来設計と、
目の前のことをコツコツやることが心地よいのだなあと。

人を一元化して語ることは不可能だなんて当たり前なんだけど、
いわゆる成功者の実践だったり、
多数派が納得していることだったりっていうのは、
受け入れる人の「コナトゥス」に関係なく、
受け入れざるを得ないような状況があるのだろう。

「本来の自分らしい自分であろうとする力」に耳を傾けること。
本人だけではなく、一緒に場をつくっていく人たちがコナトゥスを意識すること。

やっぱ、哲学って必要だなと思った今日の読書でした。  

Posted by ニシダタクジ at 16:46Comments(0)就職

2019年03月09日

未来を見たい人のための本





3月4日、愛知県のとある高校で講義。
最近はワークショップスタイルのものしかやっていなかったので、
講演スタイルは久しぶり。
2000年代生まれの高校生に、
余白おじさんは通用するのかドキドキしてました。

予告で先生が
「コミュニケーションのプロが新潟から来ています」
みたいなことを言っていたのでドキっとする。

ああ、たしかにプロフィール読んで、
なんのプロなのか?って問われたらそうなりますかね。(笑)

2時間(50分×2)続きの授業の時間をもらいました。

前半
ハックツの紹介ビデオからのその企画に至った経緯としての家庭教師の話、
お客は誰か?価値は何か?っていう話。

現代美術家とは問いを投げかけること、
余白デザイナーというフラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザインの話。

コミュニケーション力とは、会話のスキルやテクニックではなく、コミュニケーション・デザインが重要だという話。

そもそもどうしてコミュニケーション力を高めないといけないのか?

第二次、第三次産業の比率のシフトと
「日本でいちばん大切にしたい会社」の話。
第三次産業へのシフトによって働ける人の輪が縮小した

後半
後半はツルハシ黄金期のビデオを見た後で閉店に向かうストーリーを話す。

予測不可能性と挑戦するな実験しようのコンセプト。
自信とは、やったことがある、っていうこと。

これからやりたいことの話。

本屋の話。
カメラマンデビューの話。
絵本出版の話。

「あいたくて」の詩の朗読。

ラストメッセージは「自分の感性を信じてほしい。」ってこと。大人よりずっと上回ってるはず。
そして、感性を実行し、それを振り返ること。

~~~とまあこんな感じ。

出てきた質問はコミュニケーションに関するもの多数。

・どうやったら友達ができますか?
・普段あまり話しませんが、せめて「おはよう」や「ありがとう」などのあいさつはしたいのですが、緊張して言えません。どうすればいいですか?
・話の話題が上手く決められない。どうすれば話題が出てくるでしょうか。
・話題に困ったときはどうしたらいいですか。
・コミュニケーションを上手にできるコツはありますか?
・コミュニケーションがとても苦手です。人と話したりすると言葉がつまります。どうしたらいいですか。
・人見知りを直す方法を教えてください。
・毎日のようにあう相手とのコミュニケーション方法について
・コミュニケーションで自分の意思を尊重することと他者の意思を理解することとどちらがより重要ですか?
・話すことが必要だと思わないので必要性を教えてください。
・相手に興味がない場合も必要ですか?
・相手のお気に召す話は人によりまずが、大抵これならダイジョウブとかありますか?
・年の離れた人や地位の離れた人とのコミュニケーションの方法
・コミュニケーションをするにあたって、いろんな気遣いをすると思うのですが、小さな子どもやお年寄りにはそれぞれどんな気遣いに気を付ければいいですか?
・なんで本屋さんなのにコミュニケーションするのか?

なるほど。
これ、僕が「回答」を答えるよりもみんなでこれを題材に話し合ったらいいかも。

「正解」じゃなくて、「仮説」と「実験」があるだけから。
そういうワークショップ型の授業をやりたいですね。

さらに、講演内容(と僕)に関する質問。
これ、答えていきます。

・閉店するとき、自分のやりたいことをみつけてあらたな自分の考えやアイデアでつぎやっていくことをきめていくのですか?
⇒「やりたいこと」というより、「お客」にフォーカスしているので、
「お客を幸せにする方法」としての「やりたいこと」は無限に出てくる。

・お店が閉店した場合、在庫や土地はどうなるのか?
⇒在庫は生産します。お店は賃貸だったので返します。
契約時に「原状復帰条項」を削除していたので、
閉店したときはそのまま返しました。

・一番困ったことは何か、どう解決したか?
⇒やはり運営費・改装費などの確保ですかね。
「寄付サムライ」などの制度を生み出して、
寄付によってカバーしました。

・なにをしている時がいちばん楽しいですか?
⇒新しいプロジェクトを考えているとき。わくわくしているとき。

・お金のやりくりは大丈夫か?
⇒あんまり大丈夫じゃないです。(笑)

・現代美術家とはなにか
⇒これは授業中に説明しましたが、
「問いを投げかける人」のことです。

・余白デザイナーというのは空間デザイナーと似ていますか?
⇒似ているかもしれませんね。
人がかかわれる余地というか余白を増やすという意味です。
空間的にも、精神的にも。

・働きたくないと思ってしまうのですが、どうしたらいいですか?
⇒いいですね~。
「やりたくないこと」を探すっていうのが、まずは大切みたいです。
働かないで稼ぐには?っていう問いを次にいきますか。
あるいは、なぜ、働きたくないんだろう?
っていうことかなあ。

~~~ここまで。
いちばん下のやつもみんなで話したいネタではあります。
上の質問には回答書を送ろうかなと思います。

そして、講義後の感想

▽▽▽ここから
見てて楽しそうに思える人だなと思う。

コミュニケーション「力」ではなく、コミュニケーション「デザイン」と聞いて、自分なりのコミュニケーションをすることが大事なんだなと思った。

デザインやアートにもいろんな解釈があって、こういうの新鮮だなあと思いました。コミュニケーションにも大事なやり方とかあって、「やってみよう」って思うことが多々ありました。とても奥深くて面白い2時間でした。ありがとうございました。応援してます!

コミュニケーションを必要と言わない人は初めてでした。お話聞けてよかったです。ありがとうございました。

たくさんコミュニケーションについて知れて、途中に言ってた言葉がいい言葉すぎてすごく心に響きました。一番最後の詩も感動しました。

コミュニケーションと言ってもただ言葉のコミュニケーションだけじゃないというのがより分かったと思います。大学へ上がるうえで不安な気持ちがあったけど、もう少し軽く考えても良いんじゃないかと感じました。

短い時間でしたが、「なるほど」「うんうん」といろいろと感じるものがありました。本屋さんもステキな場所で、もっと身近にたくさんあればいいのにと思いました。本屋さんじゃなくても、私自身が友達にとってあの本屋さんのような存在になれたらいいなと思います。人間関係で悩んだり、私ってなんだろう、って思うこともあるけど、それでも人が好きって言えるような人間になりたいです。

コミュニケーションをとる方法を少し変える(座る向きとか?)だけで変わってくることに驚きました。でも確かに変わってくるなあと思いました。

最後の詩、すごくよかったです。本屋もすごく行きたいと思いました。話もすごく良かったです。

不思議に思ったことは、すぐに声を出して発言したほうがいいとわかりました。失敗をおそれて挑戦しないよりも実験してみるほうがいいとわかった。よかったことなどの感想を書いたほうがいいと知りました。

本屋さんはコミュニケーションをつかわず本を買うというのがふつうですが、西田さんの本屋さんは本をハックツとかできるようにコミュニケーションを大事にしている本屋さんだと感じました。私が思ったのは本の発掘からコミュニケーションがとれているんだなあとビデオを見ているときに思いました。

ほかの本屋さんだとシーンとするような感じのイメージがあるのですが、西田さんの本屋さんはコミュニケーションを大事にしているん本屋さんだなあと思いました。閉店してしまったのは残念ですがビデオみていってみたかったと心の中で思っていました。

~~~ここまで感想

最後にいちばん、心に響いたもの

本屋さんのビデオを見てとても行ってみたいなと思いました。自分は小説が好きなのでとても気になりました。自分は生きることがいやになって死ぬことを考えた時がありました。なんで頑張って生きなくちゃいけないんだろうってすごく考えました。今でも考える時があります。そうなった時にヒントがもらえる本がすごくほしいです。かこを忘れたいです。未来を見たいです。それを教えてくれる本が欲しいと思いました。

ありがとうございます。
そんなに心を開いてもらって。

僕自身も、生きることが嫌になった時があります。
大学2年生、21歳のときでした。

僕は「環境」というキーワードで
1年浪人して、農学部に進学しました。

当時、深刻化している(と言われていた)
地球温暖化等の環境問題に対し、
自分が何かできることはないか?
と考えていました。

ところが。
学べば学ぶほど。
本を読めば読むほど。

そこには絶望しかありませんでした。

「20年遅かった。」
そんなふうに思っていました。

僕は大学に進学した意味を失った、
つまり「未来」を失ったのです。

なんのために生きているんだろう?
という問いへの回答を失った僕は、
日々を生きることがつらかったです。

そんなとき、
僕を救ってくれたのは1冊の本でした。
微生物技術を活用した農業に関する本。

これに賭けてみよう。

その農法で畑をやっている
新潟県内の農家さんに連絡をして、
会いに行き、話を聞きました。

大学の裏の空き地を勝手に開墾して、
畑サークル「有機農業研究会STEP」をつくりました。
サツマイモを育て、それにあまりに感動して、
みんなで畑をやりたいと思うようになりました。

1冊の本から、僕の人生は大きく動きました。

いま、書いていて思ったのですが、

僕がやりたい本屋は、そういう本屋なのかもしれません。
たまたま目の前に来た1冊の本に出会える本屋。

目的をもって、本を探しに行くのではなく、
ふと、本棚を目にして、手に取ったら、
その1冊から人生が動いていく。

そんな本屋のイメージが湧いてきました。
いい問いをありがとうございました。

さて。
そんなあなたに贈る1冊。

やっぱり
ポール・フライシュマンの「種をまく人」(あすなろ書房)
にします。



僕が「畑こそ人が集まる場になる」と直感した1冊。
京都の半農半X研究所の塩見直紀さんに贈ってもらった本。

舞台はアメリカ。
ゴミ捨て場になっていた空き地に
ベトナム人の少女が3粒のマメの種をまきました。
そして、毎日、様子を見にいきました。

それをアパートから見ていたおばさんは
「あの子は何か悪いもの(麻薬か拳銃か)を隠しているんじゃないか?」
と疑い、

少女がいない隙に、土を掘り起こします。
ところが、何も出てきません。
おばさんはハッと気づきます。
そこには芽が出たばかりのマメの種が3粒あったのです。

なんということをしてしまったのだ、
とおばさんは後悔し、
種を元に戻し、土をかぶせました。

そこからおばさんはマメのことが気になって仕方ありません。
日照りなのに少女が水やりに来ないとき、
自分がこっそり水をやったりしていました。

と。
こんな感じで物語が展開していきます。

ベトナム人の少女がまいた、3粒の種。
それはマメだけではなく、いろんなものが展開していく
「未来の種」だったのかもしれません。

そんなふうに、
いつ芽を出すか出さないか分からないけど、
いま、種をまいていくこと。
僕にとってはそんな気持ちになれる本です。

高校生とのライブは、
僕にとってはとても刺激的でした。

またいい問いをたくさんもらって、
僕自身もめちゃめちゃ学びと気づきがありました。
自己開示を引き出されました。

またお会いできたらうれしいです。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 11:14Comments(0)学び

2019年03月03日

「感じる」から始まるキャリア教育

ひとが育つまち益田フォーラム2019に参加。


エンディング風景


ロビーではいろんな販売ブースがありました。


出たかった新・職場体験


中学生・高校生を交えたワークショップ

きっかけは11月3日の「しまね教育の日フォーラム」。
このときに益田市の取り組みの分科会に出て、衝撃。
特に益田版カタリ場と新・職場体験に感銘を受けた。
今回は「新・職場体験」について学ぶ分科会Bへ参加。

~~~以下メモ

ワークキャリアだけじゃなく
人生観(どんな人になりたいか、何を大切にしたいか、生きがい
を感じる生き方)を含んだライフキャリア教育

「何になりたいのか?」を職業名で答えさせるキャリア教育でいいのか?

プログラム前、大人たちは「益田には仕事がない」と言っていた。

大切なのは仕事さがし、仕事えらびだけではないのでは?

「13歳のハローワーク」的な仕事:それって益田にはないよね?

「三方よし」っていう三者関係が大事なんだろうな。
win-winっていう二者関係ではなく。

中学生:さまざまな価値観や生き方に触れ、どんな生き方をしたいのか問う。
事業所:PRの場、リクルーティングの場、研修の場として使う。
自治体:未来の担い手を育成する。

1 求人票
2 面接
3 事業所研修:ノウハウ、つながり
4 対話

いずれ地元に戻ってきたい魅力的なまちだと思うかどうか。
ライフキャリアを体現する大人:すごくたくさんいる。

ニシムラ装飾のコンセプト
「セカイを装飾する。」

職場体験を経て、すごいとか楽しかったです、っていう感想が出てくること。
「大人がキラキラしてるんです」

「思い」というエネルギー源。

1 考えるようになった
2 話をするようになった
3 関わるようになった
4 あきらめないようになった
5 いろんな角度からものを見るようになった

★新・職場体験の感想(村田さん)
楽しかった。
本物の「仕事」に触れる機会がなかった。

保育はたいへんなんじゃないかと勝手に思い込んでいた。
笑顔にあふれて楽しそうだった。

「益田にこんなに魅力的な大人がいたんだ!」

「たくさんの大人に支えられている」ことを実感できる。

人を楽しませることをしたい。

★ここまで

「こうなりたい」っていうような職業じゃなくて、「こうありたい」っていうような楽しさ、やりがい、コンセプトのようなもの。

「新・職場体験」は、「中学生の未来」を軸に学びあっている対話のデザイン

益田市豊川の事例もすごかった。
中高生に「小学校はどうしたらよくなるのか?」のアイデアを出してもらい、大人の会議に混ざって、小学校の中に部屋ができる。

マスダひとまちカレッジ 豊川カレッジ
夜や休日に小学校に集まることができる。

ピザが焼ける校長。壁紙も貼れる校長。中高生に教わった。
学びがフラット。楽しんでいる。豊かなかかわりのなかでみんなが伸びている。8年前にはなにもなかった。

「地方創生」と「社会教育」がリンクしてくる。公民館が核となって活性化している。

1つの正解があるわけじゃない。

「系統主義」と「経験主義」の戦い。

大人たちこそ「大切なことが何か」分からなくなってきている。

「感じる」から始まる。「感じる」から始める。

~~~ここまでメモ

いちばんのハイライトは
分科会で「新・職場体験」を経験した村田さんの一言。

「益田にこんなに魅力的な大人がいたんだ!」
これだなあと思った。

「感じる」から始まる。
「感じる」から始める。
そこなんだろうなと思った。

体験じゃなく対話を重視したキャリア教育。
というコンセプト。

フォーラムの最後に、教育支援協会の吉田さんが言っていたこと。

大人たちこそ「大切なことが何か」分からなくなってきている。
そう、「価値」が揺らいでいる。

でもそれは、
「現代は価値がわからなくなっている」っていうことではなくって、

人口減少問題のように、
「昔に戻る」だけなんだろうと思う。

明治維新以降、あるいは戦後70年にわたって
多くの人が共有できる「共通の価値」みたいなものがあった。
そのほうが「特殊な時代」なのではないか。

「価値」は常に流動している。
その前提の中でキャリアを、そしてプロジェクトを作っていったほうがいいと思う。

いま、この瞬間(期間)、僕たちのチームでは、
これを価値ということにしよう、という前提。

そしてその「価値」に向かっていくには、
「感じる」ことから始めていくことが必要なのだろうと思う。

そして、その「感じること」については、
大人よりも中学生高校生のほうが圧倒的に優れている。
それを発動させること。

3年前にも似たようなタイトルのブログを書いていた。
http://hero.niiblo.jp/e478562.html
(感じるキャリア教育 16.4.17)

★上記ブログから引用

いま若者たち(いや若者だけでなくすべての大人)が問われているのは、
「どんな職業カテゴリーを選択して食べていくのか」ということではなく、
「どう生きるのか?何に価値をおいて生きていくのか?」ということであると思う。

そして、それは、本質的には、写真や冊子では伝わらず、
生の本の展示や実際にその人に会ってみることで、より強く感じられるのだと思う。

★以上ブログより引用

まさにこれが大切なのではないかと思う。
そして益田市の「新・職場体験」は、
「中学生の未来」を軸に、
職場で働く大人と中学生が学びあっている。

未来に対して、人はフラットになる。
特に予測不可能な未来に対して。

中学生が何を感じたか。
大人たちが何を感じたか。
それを共有することで、うっすらと見えてくる自分の未来と益田という地域の未来。

対話から始まるキャリア教育は
「感じる」から始まるキャリア教育で、

そこでは中学生も職場の大人も学校の先生も
フラットになる。

三方よしっていうのは単に
「トリプルウイン」の意味ではなく、
「場」における関係性において、
それぞれが相互に関係し合って、
生み出される何かがあること、なのではないかな。

益田市の「新・職場体験」の取り組みに、
僕は未来を感じました。

いい学びの機会をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:49Comments(0)イベント