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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年02月21日

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ

オンラインイベント昼夜連続でした。

昼間は宮崎県立飯野高校の「グローカル・リーダーズ・サミット」
事例発表では、愛媛県立三崎高校のせんたん部の話が面白かったな。
全校生徒を6つのプロジェクトに分けて、その中にマネージャー的存在がいるという、
コーディネーターとかプロジェクトマネージャー部みたいな感じ。
そういうのやりたい人っているんだろうな。

あとは飯野高校の異世代ルームシェアとかも、
阿賀町でもできたら楽しい。

午後からは対話の時間で、
20分を4タームくらい、ひたすら「自分らしさ」についてトーク。

キーワード的には

~~~

生徒会長など、みんなの場にいるときの役割としての自分
1人の空間にいるときの自分らしさ
好きなことをしているときの自分。
没頭している時の自分。

★「ギャップ萌え」
生徒会長としての自分と、お笑い好きな自分。

否定されないという前提の場でないと自分らしさを出せない。

多重人格でいいんじゃないか?
その場に合った自分らしさがあるのでは?
★「自分らしさ」は流動的なもの?

自分らしさを発揮しないスポーツは観客として面白くない。
チームで見ている。

★没頭(集中)しているとき、「自分らしさ」という意識はない
⇒「自分らしさ」は結果なのではないか?

自分から見た自分とまわりから見た自分のギャップ
⇒それを嬉しいと感じるのは自分を肯定的に捉えているから?

★「ちえりっぽくないね」
ソフトボール部⇒吹奏楽部
意外にしっくり来た。自分にギャップ萌えした。

自分らしいこと=好きな自分
自分らしくないこと=嫌いな自分
ではなくて。
「自分らしくないことをやってみる」:固定概念を壊す。

★自分らしくないことをやる⇒自分を拡張していくこと。

~~~

特に「ちえりっぽくないね」が響きました。

自分ぽくない(自分らしくない)ことをやってみること。
そうやって「自分」を拡張していくこと。

「自分らしさ」という言葉の罠にはまらないこと。
他者からの評価を生きないこと。
ギャップ萌えを楽しむこと。

「自分らしさ」というお題は、高校生における哲学対話のいいテーマだなあと思いました。

~~~

夜は「オンライン劇場ツルハシブックス」
ゲストはフリーランス農家の小葉松真理さん。
https://agri.mynavi.jp/2020_07_01_122811/

第1部は遊撃農家はら農園の原さんと3人でトーク

農家さんへの思いが溢れて涙交じりのトークとなりました。
アツかった。
「生きる」ってなんだっけ?って問い直されたように思った。

フリーランス農家の小葉松さんは
夏は北海道、冬は沖縄や高知、和歌山といった、
農家をハシゴして農作業を手伝いながら、
野菜販売、農家訪問ツアー企画、スナックイベント、農業ライターなどを行っている、
「土地を所有しない」農家だ

出発点は地域を支えるのは農業だと直感し、農業を体験したとき、
「食べものって作れるんだ」って思ったこと。
実際に農業をやってみたら、ずっとひとりだった。

その時に気づいたのは、
「野菜をつくるプロになりたいわけではない」ということだった。
そこで、土地に縛られない「フリーランス農家」に。

農家の魅力について、
小葉松さんも原さんも、そのスケールの大きさを語る。
空間軸だけでなく、時間軸、そして思想軸の大きさ。

自分の土地、農業だけでなくて、地域全体のこと、
そして文化とか歴史のこと。

農業は自然との対話だ。
一年一年違うし、一瞬一瞬に神経を集中させなければならない。

そんな農家さんの姿に惚れて、
小葉松さんも原さんも農の世界へ誘われる。

「仕事じゃないです。同志を手伝っているだけ」
この一言はすごかったな。ガツンとやられた。

農業手伝い、ライター、ツアー、スナック
小葉松真理という切り口で「農」を発信してるんだな、と。
アートだなあ、って思った。





僕が大学時代に通った徳島の沖津一陽さんを思い出した。(写真は2016年の再会時)
「ダイコンがダイコンを全うするように、私は私を全うする」という沖津さんの言葉は、
僕の座右の銘になった。

小葉松さんからは「生きてる感」が伝わってきた。
それは、「自然の中で生かされている」という一体感からくるのだろうか。
原さんによれば、小葉松さんの文章には、農家さんと小葉松さんがお互いに溶けだしているのだと。
それは、一緒に農作業をしているからなのだろうな。

生態系の一員、構成メンバーとして、ここに存在している、という誇り。
それが農家の美しさなのではないか。

「モチベーション」っていう言葉が急に安っぽくなった。
「自立」とか「自分」っていう概念は、そもそも嘘なんじゃないか、って思った。

小葉松さんを見ていると、
「共有財」」として生きる、ということが可能なんだ、って思わされた。
空間的・時間的・思想的な大いなる循環の中で、いま、生きている。
ひとつの生命体としてこの地に存在している。
そんな生き方が可能なのだ、と。

昼間の高校生が話していたように
「没頭」「集中」しているときに、「自分らしさ」という問いは消えている。
それは目的ではなくて結果だから。

自分と仕事が一体化していないとき、人は「モチベーション」を必要とする。
生きていく意味が必要な時、人は「使命感」という物語を必要とする。

小葉松さんは、ただ、生きていた。
生きることを全うしていた。
そんなカッコよさ、そして美しさ。

それは、宮澤賢治が語った「農民芸術概論綱要」に描かれた世界なのかもしれない。

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)イベント日記

2021年02月10日

「学びの手段化」からの解放

クルミドコーヒーの影山さんが著書「ゆっくり、いそげ」のサブタイトルに
カフェからはじめる人を手段化しない経済と付けた。

参考:健全な負債感を持つという豊かさ(15.8.24)
http://hero.niiblo.jp/e472045.html

この本でのキーワード「健全な負債感」。

交換を「等価」にしてしまってはダメなのだ。「不等価」な交換だからこそ、より多くを受け取ったと感じる側(両方が感じる場合もきっとある)がその負債感を解消すべく次なる「贈る」行為への動機を抱く。

~~~

「健全な負債感」こそがお店に通い続ける人を生むのだと。
いやあ、その通りですね。

経済(経営)とは本質的に「継続して循環する」ことで成り立つ。

そこで読んで頂きたいのがこの本
何を考えているか分からないと、もう一度会いたくなる(17.1.24)
http://hero.niiblo.jp/e483798.html

「ビジネスに『戦略』なんていらない」(平川克美 洋泉社)

冒頭から
「現在」の絶えざる手段化こそビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因。
と始まる1冊。

少し引用します。

~~~
言葉を持つ、火を使う、墓を持つということと同様に、人間を他の動物と隔てる条件のひとつが交換するということであり、それこそがビジネスの起源的な場所であるということです。

自分の演じているキャラと自分の個性との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人のあいだで生起しており、同時に他者との間においても行われている。

ビジネスとはモノやサービスを媒介とした高度な非言語的なコミュニケーション。

ぼくたちはひとりひとりが大きな流れ、巨大なシステムの中の一部分であり、その中で限定的な役割を期待されています。

サーリンズは、人々は適切な等価交換が行われたように思われないときに、「もう一度であわなければならないと感じてしまう」と書いています。そして、それが沈黙交易の原動力である、と。

ユニクロがフリースを二千万着売ったのは、割安感ではなく、どうしてこんなに安いのか、その合理的理由がわからないという、考量不可能性がもう一度ユニクロに行かねば、という消費者サイドの焦燥感に点火したのではなかったか。

何を考えているかわからない、とどうなるでしょう?正解はサーリンズが教えてくれたとおりです。もう一度会わずにはいられないと思うようになるのです。
~~~

いいですね。ビジネスは恋愛に似ています。もう一度会わずにはいられないのは、「何を考えているか分からない」から。

僕はコミュニケーション志向性(世の中でいちばん大切なのはコミュニケ―ションだと考えてしまう性質)が強いので、このメッセージが特別響くのですけど。

これ、「ビジネス」や「経済」を「学び」に換えても同じように言えるではないか、と。

「現在」の絶えざる手段化こそ「学び」の本来の面白さを殺ぐ原因。
これなんじゃないか。

ビジネスと同じく、かつて「学び」も、「営み」の中の一部であった。「継続して循環する」ものであった。
近代は、資本制は、世の中の全てを「手段」と「目的」に分けた。

いつのまにか、「人」さえもシステムのために手段化された。
「学び」も例外ではなかった。

「学びの手段化」

なんのために学ぶのか?という問い自体が、非常に近代的であると思う。
「学び」も「人」も、いやその「人生」さえも、手段化されてきた。
夢や目標、「なりたい自分」に向かっている自分というわかりやすい物語を求めてきた。

マイプロジェクトを語る高校生の強さや輝きは、
夢や目標ではなく、問いに向かっているということ。しかも、到達し得ない問いに。
それは「学び」を手段化から解放していく。

いま、ここ、この瞬間に心と体も開放して、目の前に来る予測不可能な事態に対応していくこと。
たぶんそれだ。

かつて、つながるカレーの加藤さんの話を聞いた時、エンターテイメントの本質は、「予測不可能性」であると思った。
「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)
http://hero.niiblo.jp/e484808.html

「学びの手段化」こそが「勉強」を苦役にしている。
それは大きく言えば、近代の呪縛であり、資本制の宿命なのかもしれない。

「勉強」という行為を、予測できる数値化された目標に向かう手段として認識し、かつ身体化していることがつらいのだ。

「学びの手段化」からの解放、それは、自ら設定した、心から湧き上がるような問いへ向かって、予測不可能性と過程を楽しむ学びへとシフトしていくこと。

それが探究の授業、あるいはマイプロジェクトの意義なのかもしれない。

あ、「意義」っていう概念が近代的ですが。笑  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)日記

2020年12月28日

「存在」を揺るがすものとしての資本主義と身体性としてのセンスオブワンダー


武器としての「資本論」(白井聡 東洋経済新報社)

就職活動の違和感、「存在」を考える上で、
構造的に考えるにはいい1冊。
前回の「はみだしの人類学」と一緒に読むことで
さらに就活の違和感について解読できるのかもしれません。

この本には端的にこう書いてあります。

「就職活動とは労働力商品の買い手を探すことです。」

いや、まあ、その通りなのです。

自らを「商品」として、買ってくれる人を探す。
一流企業総合職であれば、生涯賃金が〇億円とか、
そういう価格で自らを売れるかどうか、
それが就職活動というマーケットなのです。

「当たり前だろう」と思った人。

まさにこの本の帯にある、
「資本主義を内面化した人生」を生きているのでしょう。

いつのまにか私たちは、自分たちを幸せにするはずだった
「資本主義(資本制)」を内面化し、
私たちが幸せになるためにシステム(仕組み)ができたはずが、
(本書によれば、それもかなり疑わしいのですが)

いつのまにか、システムを内面化し、
システムjを維持するために苦しむようになっている、
それが現状の苦しさなのではないか?と著者は問いかけます。

おそらく、「就職活動」への違和感っていうのは、
まさにその「商品としての自分」というものに対しての違和感が
大きいのではないか、と感じます。

資本制は「存在」を揺るがしてきた。
それが本書を読んだ上での僕の感想です。

いつもながら、本を読んで響いたところをメモします。

~~~ここから引用

富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ。

商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。

人類史の大半で、生産的労働は共同体的に営まれてきました。働くとはつまり、人々が自分たちの生存を維持するための共同作業であったわけですし、資本制が発展したいまでも本当はそうなのです。

しかし、近代資本主義が始まったとき、途方もない変化が起こった。生産的労働が商品交換を介して行われるようになった。つまり、共同体の維持のために共同作業をするのではなく、商品の価値の実現のために労働力が売られたり買われたりされるようになるのです。

肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ。

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。

新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

労働者階級はいまや純然たる消費者であって、文化の創造者ではない、ということが暗黙の前提となっている。

資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

資本が価値増殖をするときに、それは一般的に何に基づいているのか。先にそれは「差異」だと申し上げました。金融資本であれば時間的差異、商人資本であれは空間的差異が、剰余価値を生むベースになっていました。産業資本の場合は労働力の使用価値と交換価値の差異から、剰余価値を引き出していました。

特別剰余価値とは、「高まった生産力によって商品を廉売することによって得られる利益、イノベーションによって獲得された期限付きの剰余価値であり、ある商品の現在の社会的価値と未来の社会的価値との差異から生まれる」と定義できるでしょう。

~~~ここまで引用

さらに、僕がうなったのはこちら。
いわゆるフォーディズムの説明

~~~ここから引用

このように労働者を単に搾取の対象と見なすのではなく、消費者としても扱っていこうという発想が、20世紀後半の資本主義の特徴でした。この特徴を最も早く体現していたのがアメリカのフォード社による生産と労働の体制であったわけで、ゆえにこの体制がフォーディズムと呼ばれるわけです。

果たして生産力を際限なく上げていくことが、人間の幸福に結びつくのだろうか。

生産されたものの社会的価値が下がるということは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下するということです。

「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。

1 貨幣・生産手段・生活手段の所有者
2 労働力の販売者である自由な労働者
が出会うことこそ、資本主義の始まる条件である、とマルクスは考えます。

ここで言う労働者とは、自分の労働力を売る以外に生計手段がない人たちということです。

そのような存在をマルクスは「二重の意味で自由な労働者」と呼んでいます。この場合の自由とは、

1 身分制から解放されている
2 生産手段を持たない
ということです。これが「はじまりの労働者」とされます。

~~~ここまで引用

この本には、日本で言えば「地租改正」など、いかにしてそのような「はじまりの労働者」が都市部に出てきたか。そして、そもそもの「価値」の源泉が差異、つまり「安い労働力」であることから、だんだん地方との賃金格差をなくなると共に、海外に生産拠点を求め、あるいは安い労働力を「輸入」して差異としての「価値」を生み続ける、あるいはそもそも「労働力」に頼らないソフトウェアやウェブ上のシステムを売っていくことで「価値」を生んでいくこと、これが資本主義のカラクリ。

いや、なんとなくは分かっていたのだけど、ここまで説明されるととてもスッキリします。

そして、すごかったのはやはり「フォーディズム」。

そもそも、工業生産において、労働者は搾取されるだけの存在であっては、成長し続けることができない。つまり、生産したモノを買い続ける「消費者」を同時に生んでいく必要がある。こうして「労働者」は同時に「消費者」としてふるまうようになっていきます。

それは、資本主義の発展、つまり「経済成長」という側面では大成功だったのでしょう。
一億総中流と呼ばれ、マイカー・マイホームを持ち、購買意欲の高い都市生活者をたくさん生みだしました。

ところが、もはや「差異」の源泉がなくなってしまった。「グローバル化」とはそういうことです。
社会は再び、自国の労働者からの搾取を必要とした。それがいま現在進行形で世の中で起こっている。

「誇りの空洞化」。
明治大学の小田切先生は、もっとも大きな課題として、それを指摘しました。

参考:誇りという観光資源(2015.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e470410.html

「誇り」が失われた。資本主義とシステムによって。
人々は数値化された。「労働者」であり「消費者」であるということによって。

システムによって「存在」が揺るがされている。
「就職活動」への違和感は究極、そういうことなのだろうと思います。

「就活」というシステムに適応することは、
自分たちを本当に幸せにするのだろうか?
極端に言えば、それで「生きられる」のだろうか?という疑問。

本書の最後に、白井さんは語りかけます。

「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったらおしまいです。それはネオリベラズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。

意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためにはベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。だから、食べ物の話は、代表的事例であると同時に比喩でもあります。私たちの生活の全領域で、どういう感性を持つのかが問われている。

いやあ、ホントそう。
「感性」に戻ること。自分自身の身体性としての「センスオブワンダー」を見つけ、感じること。

そこからしか始まらない。
いま、自分が、そしてあなたが何を感じているのか?
「場」として何に「価値」をおき、何を創っていくのか?

そんな根源的な問いを見つめていくことから始めていこうと僕も思っています。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2020年11月13日

ICTってそういうことか、って。

昨日は大辻さんによるICT活用シークレット講座でした。
めちゃめちゃ参考になったなあ。
来年度からの絵が描けそう。

ということでメモにまとめておきます。

~~~ここからメモ

×オンラインをいかに対面に近づけるか
○オンラインでしかできないことに特化しよう

・みんなでチャット・こっそりチャット
の2系統でコミュニケーションする
※こっそりチャットは教室ではできない。
インタラクション(双方向性)がカギ

「リテラシーとテクノロジーの交差点」に
ICT教材、システムを使うこと

1:Nではなく1:1のN倍にすること
「こっそりチャット」の専門スタッフをつける

基本の講義(10-15分)
⇒単元テスト(web)
⇒得点に応じてレベル別授業

点数別の振り分け⇒教室の塾では不可能
※単元別に弱いところの強化とか
※中学生の塾は3教科合計点でクラス分けされていた

ライブ授業においてもインタラクション(双方向)は無くさない
有料サービスとして⇒マーケティングツールとして

ICT活用は、可能性(できるできない)ではなく
必然性(やらないといけない)から導入すること

~~~以下、公教育とICT活用について

高校魅力化プロジェクト:高校がないと人口減が進む
「公営塾」「主体的に運営される寮」「探究学習プログラム」

課題先進地である地方⇒学び(探究)んも材料がたくさんある

探究の授業をICT化
「スクールタクト」:写真共有アプリ

海の高校と山の高校
相互にいいね!を付けられる
何とも思っていなかった日常風景にいいね、が付く。
写真での双方向コミュニケーション。

Smooth Space:視界が全部スクリーンになっている

課題:コメの消費量を増やしたい
島根・隠岐島前高校⇔宮崎・飯野高校

隠岐:米粉アイスクリームを企画
・米の消費量2,3キロ
・島では手に入れにくい(価格が高い)牛乳を大量に使う

飯野:肉巻きおにぎりを道の駅で販売
・地元の宮崎牛とのコラボ商品
・米・肉の消費量増加

⇒地域系部活でも他流試合を

ICT活用のキモ/「文具化」すること
教具的活用⇔文具的活用
必ず使う⇒使っても使わなくてもいい
学び方自体の個別最適化

文具として1人1台渡す。
セキュリティ高めすぎない。
コミュニケーションに活用することが必要。

※探究とICT活用
興味・関心に火がつけば、自発的に勉強するようになる
「探究」で火をつけて⇒「偏差値」を上げるモチベーションにする
※端末やICT教材をいくら与えてもモチベーションが本人になければやれない。

普通科の探究学習低レベルだと興味関心が喚起されない
⇒ICT教材を導入しても活用できない。

探究による学習意欲UP

ある「地域みらい留学生」の言葉

都市部で得られる情報はネットでも得られる。でも過疎地の情報はネットにはないし、日々感じる季節感、温かい人間関係は田舎でしか味わえない。地域課題解決に挑戦し成長する機会も田舎の方が多い。1人に与えられる役割が多く充実しているので、いろんなことを経験できると思う。

都心と地域で教育格差は広がっているのか?
○ICTによる豊かな関係構築
○高校生主導のネット企画群
○日々移ろう季節・自然や情緒
○体験に基づく問題解決能力
○地域の多様な人との関わり
★入試対応ICT学習コンテンツ

~~~ここまでメモ

見えましたね。
見えましたよ。

ICTってそういうことか、と。
田舎×ICTが最強だな、と。

今回の大辻さんの話聞いて、
「街中の高校で、勉強と部活して、予備校いって、帰りにマクドナルド寄って」
みたいな暮らししてて大丈夫?って本気で思った。

15歳から18歳までを単なる「消費者」として過ごしていて、
18歳、あるいは22歳になったら突然感性と企画力(課題発見・解決能力)
が付くのだろうか。

田舎で、まずは感性を開く。感じる。
疑問・違和感をキャッチする。
問いを立てる。仮説を立てる。
ICT活用して調べ、計画書・企画書を書く。
「場」に飛び出す。

「発見」する。
「発見」をシェアする。
ICTで他校とも他流試合ができる。

「学び」がある。
次の課題が見つかる。
次の「場」へ飛び出す。

その繰り返しの中で学びたいことができる。
進路希望ができる。
ICTで個別最適化された学びができる。
総合型選抜だけでなく、受験にも対応できる高校生になる。

そんなシナリオ。
これ、実現できるよ、って。
この町でならやれるわ、って。

ICTってそういうことか。

写真は昨年11月に嶺北高校にお邪魔した時のツーショット

  

Posted by ニシダタクジ at 07:20Comments(0)

2020年11月04日

それは「本屋」かもしれない

放課後社会。
坂口恭平さんが「独立国家のつくりかた」(講談社現代新書)で
提唱した「学校社会」へプラスしたもうひとつのレイヤーとしての「場」。
それは、ツルハシブックスのような本屋であるのかもしれない。

「本」と「本屋」にまつわる人に出会う日。

~~~ここからメモ

「読書会」のやりかた

読むってどういうこと?
1 知らない
2 知っている
3 説明できる
4 使える
3~4までいきましょうと。

読書によって得られるスキル
1面白がる
2疑問を持つ
3人に伝える
1,2は「好奇心」の具体的表現

3つのうち、どれを頑張るか、事前に決める

好奇心を育むことはできるか?
⇒面白がっている人のそばにいること

先に発表する人を決めておく
⇒そのつもりで聞くことができる

疑問を持つ
⇒目の前に著者がいたら何を聞きますか?

ふりかえり
・印象に残ったこと
・明日に活かせること

親和的承認⇒集団的承認⇒一般的承認
「親和的承認を学校でつくれるか?」

目標⇒評価⇒達成感(個人で起こる)
発見⇒承認⇒変化(場でおこる)
対話=ゴール、正解はない。

かんたね会(テーマ別読書会)⇔こころの美容院
ミッション「本で生きる力を育てる」
読書会のおかげで人生が変わる
生きるために本が必要だった。⇒本が味方
「ぽつりの時間」ぽつりぽつり話す
センスオブワンダー、エンデの遺言

1 テーマ別読書会に参加
2 好きなテーマを見つける
3 自分にとっての生きる力を育てるもの、テーマを見つける
4 深掘りする

本を読むようになってから生きる力が湧いてきた。

課題が明確=ベクトルがひとつ⇒パワーはあるけど、居心地はよくない
課題はあいまい⇒ベクトル多様性⇒居心地はいいがパワーはない

自分と場の相互作用であり方をアップデートし続ける。

~~~メモ

「複数アカウント型探究」ってありえると思うし、
それを補完、実践する上で「本」「本屋」というものが
大切になってくると思った。

サードプレイスは
第1、第2の場と異なる価値観によって運営されている場だとすると、

本屋には、無数の価値観が(もちろん店主の価値観によりセレクトされているが)
背表紙から訴えてくる。

そういう言語と非言語のあいだにあるもの、
それが「本棚」であり「本屋」だ。

ゆたラボの檜垣さんの言う「グレーゾーン」(学校教育と社会教育の)
は、僕が言ってきた、「境界をあいまいにする」「余白をデザインする」
っていうのは、本棚、本屋でこそ、成立しやすいのではないか。

出会う「場」であり、託す「場」であり、創る「場」としての本のある空間。

そんなのが美しいなあと僕は感じている。  

Posted by ニシダタクジ at 07:20Comments(0)日記

2020年10月31日

現在性と全体性と一回性

島根県立津和野高校。

コーディネーターのヤマタツさんと
事務長のフジハラさん。
お二人に会いに行ってきました。





~~~ここからメモ

・全体コーディネーター、総合的探究コーディネーター、地域系部活動コーディネーター
の3名体制

トークフォークダンス:生徒と同数の大人を用意する
地域の大人がファシリ:トークテーマをあらかじめ出しておく。(朝ごはん、人生で悔いが残る失敗、キャリアを選ぶとき

ブリコラージュゼミ:講座を3つ選んで取る+ふりかえり
体験第1~5希望を入れて、3つ選択
1 地域にどんな人がいるか?
2 感情のハリがどこで動くか?
3 ふりかえりで言語化する。

2年生の6人に1人はプロジェクトを持っている。
コーディネーター:放課後がめちゃめちゃ忙しい

2年の総合的探究
1 依頼型/まちの人が困っていることを高校生に依頼して取り組む
2 マイプロ(自発)型/60名中25名がこちらを選択。伴走者の設定が大変
・オープンスクールに企画を入れたいっていうマイプロとか

ICTモデル校:クロームブックを1人1台

部活「グローカル・ラボ」(県外生中心で始まったが、今は地元の子も多くなってきた)
・畑をやるチーム
・竹林のことをやるチーム
・デザイン・広報をやるチーム
マイプロが総合的探究にはみ出してきている。

・マイプロやりたい子が入ってきている。
・みらい留学のプレゼンでも「あなたの一歩に寄り添います」って言っている。
・校長も話を聞いてくれる的なアピール
・友達がやっているのを見て刺激を受ける。

探究⇒学力へフィードバックすること。

「企画のつくり方講座」とか
「メールの書き方講座」とか

地域の人=話を聞いてくれる人を選ぶ。
アドバイス/説教しない人

AO入試の戦略を立てる⇒誰にどこの大学の入試があっているか?

追いつかないマイプロ伴走どうしていくか?
・生徒の自走
・地域の人による伴走
・教職員の伴走
伴走:話を聞く、整理する、組み立てる、根回し

6月末:ガイダンス+ブリコラージュゼミ第1回
9月:ブリコラージュ3回+ふりかえり
12月:トークフォークダンス
1年次の終了時点で「何かやりたいな」となっている

「やりたいことが明確じゃない」⇒自己分析やりながら進めていくから大丈夫だ
「マイプロ」に寄りすぎた。「マイ感」の重視⇒苦しくなる人もいる
プロジェクト⇔授業の中の活動

~~~ここまでヤマタツさんとの話メモ

「トークフォークダンス」と「ブリコラージュゼミ」の組み合わせで
探究テーマを見つけるという設計。

マイプロがめちゃめちゃ起こり始めていて、
その伴走をどうするか?というところ。

午後の時間は足を伸ばして吉賀高校へ。
そしたらなんと!
「環境」の授業で鮎を焼いていました!
30分ほどしか滞在しなかったのですが、鮎をいただいてしまいました。
スタバの時から何かもってますね。





地域の誇りを伝えていく授業、素敵だなあと。
教頭先生とも少し話しましたが、
これからは教科は他校と連携して教えていき、
探究とか地域を活かした授業によって目指してくる生徒が変わってくるのではないかと
ホント、その通りだなあと。

そして津和野高校に帰ってきて、校内探検。
フジハラさん、お忙しいのに2時間もお付き合いありがとうございます。

~~~校内探検メモ

進路指導室の横⇒集まれる場にした
★「余白」をたくさんつくっている⇒コミュニケーションをなめらかにする。
センセイオフィスのフリーゾーン
「○年○組 ○○入ります」みたいなのを無くす。
家具=すべて提供:「家具メーカーにできること」

センセイオフィスの書類棚
「現在性」によって分類。「いまつかう」「すぐつかう」/「たまにつかう」「もしかするとつかう」
医療機関マップをただ貼っても見ない⇒生徒につくってもらう⇒当事者になる

先生方は切り取って一面だけを見る⇒事務長は全体を見る。
ステンドグラスづくり:先生も「やったことない」ことに挑戦する。
⇒校長先生もフラットになる。

~~~ここまでメモ

途中、実際に高校生と事務長が話しているシーンを
何度も見たのだけど、すごいなと。
高校生が思ったことをしゃべっているなと。

学校の先生はひとりひとり教科を持っている。
授業態度やテストの点数と言った「評価」の観点で生徒を見る。

「でも、本当はいいやつなんですよ」
そうそう。みんな本当はいいやつ。
全体性を見れる人がいないだけ。
それを事務長が担っているんだなあと。

ステンドグラスの話で思ったのは、
初めてのことにチャレンジするっていうのは、
一回性の高いことなのだなあと。

飯野高校で聞いた、ラテアートの話。
http://hero.niiblo.jp/e490190.html
これからのアートは「一回性」が鍵になると思った。

「はじめてのこと」は1度しかやってこない。
それはもしかしたら、「場」による「発見」のことなのかもしれない。
僕はそれをデザインしたいのではないだろうか。

翌朝、津和野まで来て、行かないわけにはいかないと
萩・吉田松陰先生の墓参りへ。


事務長がいつも高校生に買ってあげているというパンを夜明け前の萩の町を見ながら食べる。


墓参り。


朝の松陰神社

原点に返るっていいもんだよね、と。

自分がなぜここに立っているのか、だんだんと分かってくる感覚、楽しいです。  

Posted by ニシダタクジ at 09:07Comments(0)日記

2020年10月26日

「まちづくり」と「アイデンティティ」

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」第3回
ゲストは亀山咲さん。

リアルな話が聴けて良かったなあ。
いまだに胸の奥が苦しいけども。
にいがたイナカレッジで2度の田舎インターンを経験。

「学校以外の人に会うことが新鮮だった」
って言ってたところから、
プログラム中に気づいた農家の魅力を探りに、
農家巡りを6軒行った。

行動しているうちに誰かに伝えたくなった。
発信する、表現することが楽しくなった。

2回目のインターンは企画側としても関わった。
この企画側に入るインターンはありかもしれないと思った。
2度目の人はそうやるとか。

在学中に「下宿」を経験。
いわゆる地域の人との同居だ。
大学卒業後、就職はせずに、
自ら「ホームシェアプロジェクト」を立ち上げ、活動する。

~~~ここからメモ

町を歩いて、人と話すと「なにやってるんですか?」って聞かれる。
プロジェクトの説明をすることが面白い。

下宿のおばさんに言われるままにいろんな場に行き、話をした
※やりたいことがない⇒プロデューサーを手に入れること
言われたとおりにやってみる、っていうのもありだなあ。

楽しくて始めたはずなのに、
市役所の人たちに、事業に組み込まれていった。
お金がもらえるけど、荷が重い。
大人の都合。まちづくりというビジネス

「若いのにスゴイ」という言葉への違和感
若くて、ここにいることに価値があると言うのなら
私じゃなくてもいい。

「私じゃなくてもいいんじゃないか?」
⇒方向性の違いが明らかになる。

何者かになりたかった。
わかりやすい個性、説明できる個性
すきなことを仕事にすることへの憧れ
専門性:自分はどう役に立てるのだろう?

~~~ここまでメモ

いやあ、聞いてていろいろ胸が痛くなった。
リアルな経験だなあと。

彼女は、違和感をキャッチして、途中でやめることができた。
それって大きいなあと。
違和感からは逃れられないんだなあと。
「まちづくり」とアイデンティティについて考えてみたくなった。
それは「場」の話にも通じているなあと。

「会社」や「地域」や「家族」。
その「所属している感じ」を失いつつある今。
(それは僕が大学生だった90年代からそうだったのだけど)

アイデンティティの不安にさらされている。
「好きなことを仕事にする」という言葉に代表されるように、
NHK「プロフェッショナル」的な仕事に憧れ、何者かになりたいと思う。

そのための分かりやすい「個性」を見つけたいと、
大学時代から精力的に動いている。

「若いのにスゴイ考えてるね。僕が大学生の時なんて遊んでただけだったよ」
っていうオッサンが嫌いだ。
どの位置からその言葉を言っているんだろうって思う。
その「場」から遠く離れた安全地帯から放っている言葉だと思う。

カギを握るのは「場」とメンバーに対する「リスペクト」だろうと思う。
いまの大学生が20年前の大学生よりも広く深く考えているなんて当たり前の話だ。

初期のガラケー(アンテナが伸びるヤツ)と最新のiphoneくらいの差がある。
メールも送れる。(ショートメールさえ当時は画期的だった。笑)
カメラ機能もどんどん上がる。
もはや手の中にパソコンがあるようなものだ。

「場」にフォーカスすることだ。
「場」を高めるために、ひとりひとりをリスペクトし、個性を引き出すことだと思う。

「感想は?」と聞くのではなく、「印象に残ったことは?」と聞き、
場全体で、それを味わい、考えることだ。

アイデンティティ不安に対する僕の方法論は、
「場」の一員となり、「プロジェクト」の個性の構成員となる、
という経験の積み重ねによって、
複数個のアイデンティティを同時進行していくこと。
なのではないかと思っている。

それは、他者から見て「わかりやすい」個性とはならないのだけど、
「アイデンティティ不安」を少し和らげてくれると思う。

そもそも、アイデンティティ(自分らしさ)っていう概念さえ疑わしい。
「自分」なんて存在するのだろうか?
って始まってしまうと、長くなるので、今日はこの辺にする。

阿賀町では高校生たちとリスペクトを持ちながら
「場」と「プロジェクト」をたくさん生んでいこうと。

それを「まなびのトビラ」と言うのかもしれない。
10月31日(土)@新潟駅で待っています。

https://reimei-gakusya.localinfo.jp/posts/10858791?categoryIds=477469

  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2020年09月29日

学びのスタートラインに立つ

阿賀黎明高校の学校運営協議会(コミュニティスクール)第2回でした。

地域団体「阿賀黎明探究パートナーズ」もオブザーブ参加して
「拡大熟議」をご一緒しました。

今回のお題は令和4年度からの教育課程(新カリキュラム)について。

校長先生の「求める生徒像」の話から。

1 地域を知ることを通じて、学ぶ姿勢を身につけ、自ら進路を切り開く生徒
2 教養を高め、人間性を磨くことを心がけ、人のために尽くす志をもつ生徒
3 学ぶことに意義を感じ、未知のものに勇気をもって向き合おうとする生徒

この特に2を強調して説明されていました。

・真摯に学ぶことに意義を見出すこと
・学ぶことは魅力的であると感じること
・学ぶ過程において教養を身に付ける

・人間性を磨くこと
・相手に対する配慮、いたわるやさしさ

・ノブレスオブリージュ(高貴なるものの義務)
・もっているものが贈与する

拡大熟議。
ここを工夫しました。
通常ですと、「育てたい生徒像」みたいな問いになってしまのだけど。
その問い方が違うなあと。

「育てたい生徒像」って問いかけた時に
・あいさつができる、服装がちゃんとしてる
みたいな具体的な話と
・好奇心を持って自ら学んでいく生徒
みたいな抽象的な話が混在しちゃって議論がかみ合わなくなるっていう。

だから、もうそれをお題にして議論するのはやめようと。
そもそも校長先生が提示した「求める生徒像」があるわけだから
それをどう達成していくかっていうのを考えた方が建設的だろうと。

というわけで考えたグループワーク。

求めたい生徒像を真ん中において
前半:そもそも学びとは何か?なんのために学ぶのか?
みたいにさらに抽象度を上げる質問。

後半:求めたい生徒像を実現するために、何をしたらいいのか?
という具体的な行動の話。

結果としては、前半がいわゆる「チューニング」みたいになっていた。

その時の冒頭の問いかけが、
「あなたの学びのスイッチが入った瞬間はいつですか?」
だった。

数学のM先生は、中学生の頃、数学で、「いろんな解き方があるんだ!」
と知ってから数学に目覚めていくプロセスを語ってくれた。
そうそう、そういうやつ。
「機会」があって、「好奇心」を刺激され、学びのスイッチが入る。
たぶんそういうことなのだろうなと。

まあでも、このワークいいなあと。
アイスブレイク不要になる。
ルーツと価値観の開示。
これができる問いが心を開くよね。

そのあと、ワークで、僕の入ったテーブルは、
進路指導部の先生だったので、進路の話になりました。

先生からは、
・「進路選択」というのは避けられない。
地域の方からは
・そもそも「就職・専門学校」と「大学進学」っていう分け方でいいのか?

「一生を通して学び続ける人」を輩出したいとするならば。
「学び」を再定義しないといけないな、と。
与えられて、教えられて、覚えて、テストを受ける「勉強」から
機会を得て、好奇心をくすぐられて、やってみて、発見する「学び」へとシフトしないといけない。

それを高校でやらないといけないのではないか。
言ってみれば「学びのスタートラインに立つ」ための準備期間。

就職も、専門学校進学も、大学進学も、
「学びのスタートラインに立つ」という意味ではまったく同じだ。

だって、人生は巨大な学び場なのだから。

「あなたは何を学びたいのか?」
という問いに答える高校3年間であってほしいし、
そのための機会として地域の人達と地域資源があるのだと思う。

あなた固有のその「学び」は就職によって深められるのか、
その舞台は、専門学校なのか、もしくは大学なのか?

そんな問いを地域と一緒に受けとめ、ともに育んでいくこと。
それは、実は地域の大人に向けられた問いでもある。

巨大な学び場としての人生を、地域社会をいかに生きるのか?
何を学びたいのか?探究したいのか?
その問いは大人にとっても、先生にとってもフラットに刺さってくる。

きっとそれが地域と連携した学びのスタートであり、ゴールになっていくのだろうなと。

生徒の「学びのスタートライン」(進路)を一緒に考え、ともにつくっていくこと。
地域の大人自身も学びのスタートラインに立つということ。

「学びとなんだろうか?」と問いかけるプロジェクトのスタート地点に立とうとしているのではないかと思うと、ワクワクしました。


  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)

2020年09月18日

学校を変えるのではなく、演じるためのもうひとつの場をつくる

デンマークのフォルケホイスコーレ留学帰りの
大学生2名が阿賀町にやってきてました。
昨日はそのふりかえり。

公営塾スタッフやまちの人に
インタビューしてもらったので、
それがこれから記事になります。

なので、
取材型インターンひきだしの
フォーマットを使って振り返りました。

キーワードは
・場のチカラ
・魔法をかける編集
・予測不可能性
・解像度を上げる

などなど。

~~~以下ふりかえりメモ 
(フォルケホイスコーレ(ipc)留学経験の視点を入れつつ振り返りしました)

瞳の色が印象的。たどりついていない感じ。
まだ何かあるんじゃないか、と思わせる。

ipcも色で覚えている
コモンルームのオレンジ色の光と2つのソファー。
オンラインの画面では色が見えない。
リアルだと色が立体的に感じられる。

・関係性を鮮やかにしていくこと
ベクトル=問いの共有

その人が拡張されていく感じ。
面が増えていく。
人と一緒に旅をすることの醍醐味。

一緒に旅をする=自分を見つける/相手を見つける。
プロジェクト=小さな船旅

多様性を組み込んでいくコミュニティ。
年齢は数字でしかない。
その人のできないところ、ニガテなところもさらけ出して共有することでフラットになれる。
フラットに感じられる。
学びの場においてフラットであることが大切。

一緒に体を動かす。
「楽しさ」=身体性の共有

ipc:先生は「自分が分からないこと」も共有してくれるんだ!
一緒に考えてくれるんだ。

問いの共有

新型コロナウイルスの時の激動の2週間の後、
自分たちの気持ちを話し、また気持ちを聞いていく。
新型コロナウイルス=課題であると同時に機会でもある。

「感情」を出せる場が大切。
空間のデザインも重要。
共感・違和感をともにすることを大切にする。
リアルな不安も話せる場づくり。
「先生」でもあり、ひとりの市民でもある。

日本の「学校」=演じる場
ipc=さらけ出せる場。
学校をフィクションだと認識する。
先生の発言は仮説にすぎない。

他者と話す。紙に書くこと。
「体から切り離して」出してみる。
相手の言葉によって、自分を理解する。

~~~ここまでメモ

ああ、フォルケホイスコーレって
とっても素敵な「場」ができているんだな、と。
新型コロナウイルスでさえ、「機会として学ぶ」
に組み込まれているんだなと。

たぶん、高校における「探究」っていうのも、
大きな流れで言えば、そういうことなのだと思うのだけど。

僕の感想としては、
やっぱり「場」が大切なんだなと。

そして一気には変わらないし、
そもそもそういうエネルギーの使い方は
「創造的破壊」アプローチで、僕に向いてないなと。

フォルケホイスコーレ的な学びの場を日本にも作ろうって
動きが盛んだけれども、そしてそれはまたそれで理想的なのかもしれないけど、

僕のアプローチは、
「並行」「並列」「ハイブリッド」なのかもしれない。

と、打っていたら。
「へいこう」の変換が「平衡」になり。

!!!ってなった。

それだ!
「二元論」から「動的平衡」へ。
いま、僕の中でのキーワードなのだけど。

その「動的平衡」のためには、
2つの世界が必要で、

坂口恭平さん風に言えば(「独立国家のつくり方」より)、
「学校社会」と「放課後社会」なのだけど、
それを行き来すること、できることが大切なのだなと。

それはいわゆる「サードプレイス」とは少しニュアンスが違っていて、
「並列」なんだよね。

そしてそれはもしかすると、
高校生のための寮を併設しているからこそ、可能になるのかもしれないと思った。

生活とか暮らしの中で、経験し対話し、感性が磨かれて、
そして「感情」を「場」に出していくことで、相手を知り、また自分を知る。
学校にいる時間は学校にいる時間で、「学校にいる自分」を生きていく。

フォルケホイスコーレの先生たちは、ひとりの人間として、
感じたことを大切にして、時にそれをさらけ出して、学生たちと接していた。
それはそれで素晴らしいと思うのだけど。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。
そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、
「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。

もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、
関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。

いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。

そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。


写真は、大学生撮影のオラに力を分けてくれ、の図。  

Posted by ニシダタクジ at 06:41Comments(0)日記

2020年09月13日

ドリームチームのフリをしろ



「教育の島発 高校魅力化&島の仕事図鑑~地域とつくるこれからの高校教育」
(編著 大崎海星高校魅力化プロジェクト 文 松見敬彦 学事出版)

読み終わりました。
シビれまくりましたね。

僕は昨年11月に大崎海星高校におじゃましました。

「コーディネーターがつなぐのは」(19.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

今年2月に新潟で再会
「気が付くと地域と自らの人生の当事者になっている」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

圧倒的な勝手な使命感、何度聞いてもアツいなあ。

ということで本を読んだメモを書きますが、
その前に、わかりやすく学校の現状がまとめられている部分を引用します

~~~

学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。

~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

まさにこれ。
こういう「本能的な学び」をつくっていくこと。
これが地方にある高校の使命だと思います。

じゃあ、どうしたらいいのか。
本書を読んでひとまずメモします。

~~~ここからメモ

「これってこうだよ」ではなく、「それってどうなの?」って訊いてくれるから。
よい教師は、生徒によい問いを発する。

校長から電話。でも、夜10時以降じゃないと時間が取れない。
校長は言った。「じゃあ、その時間で」
深夜に教頭を伴ってやってきた大林校長(当時)。

「ここまでやれる校長がおるんか!」
取釜さんのあの時の感動が、「直接会いに行く」という基本姿勢につながっているのだろうな。

「魅力化推進チーム」
ここから生まれてる。
取釜さんと先生方のチーム。
これ、大事かも。

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。
「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

~~~ここまでメモ

エッセンスに詰まっているなあと。
魅力化3番手グループとしては、めちゃめちゃ響きます。

タイトルにもなっている「島の仕事図鑑」は
魅力化の初年度からスタートしたプロジェクト。
町と商工会との協力によりスタート。

地域の大人にインタビューをして冊子化する地域プロジェクト(有志の課外活動)

本書にコラムを寄せている東北芸術工科大学岡崎エミさんによれば、

「きく」という行為だけでも
1「じっくり聞く」 2「共感して聞く」 3「質問して聞く」 4「要約して聞く」
の4種類があり、依頼の時には自己との対話が不可欠だし
聞いた後に第三者に表現して伝えるアウトプットにもなる
コミュニケーション訓練のフルコースなのだという。

なるほど。
インタビュー冊子づくりやってみたいなと。

この冊子づくりが果たした役割はとてつもなく大きいと感じた。

1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。

2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。

3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

特に、3つめの「承認」と「誇り」については、僕の長年のキーワードでもあるので、
ここに書いておきたい。

第4章「若手教員」
登場しているのは新任教員の長門先生。
仕事図鑑づくりに寄り添った。

~~~以下本文より引用

誰もが、いまの長門にないものを持っているような気がした。
きらきらと輝いてまぶしく映った。背景や想いは異なっても、
彼らはみな自分の意思で選択した「自分の人生」を生きていたのだ。

彼らの矜持は、生徒たちのインタビューに付き添って、
話を聞いていればすぐに分かった。

他者からの承認を求めたり、それを行動原理にしたりすることもない。
自分の中から突き上げる内なる声に正面から向き合い、その
野生が赴くまま正直に生きていた。

(中略)

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」と長門。
羨ましかった。純粋に、心から憧れた。まさしく生徒たちに期待した
刺激や感動、変化を、長門も一緒に追体験していたのだ。
もしかすると、他でもない自分が最も強く影響を受けたかもしれないとさえ感じる。

~~~以上本文より引用

ふふふ。
すごいね。
笑ってしまう。

これが、デザインのチカラだと思った。
きっと、取釜さんは「結果的にそうなった」と言うだろう。
それが想いの力とふりかえりの成果なのだろう。

生徒も、先生も、地域の人たちも「機会」を起点にともに学ぶ。
大崎上島では「島の仕事図鑑」こそが「機会」だった。

そしてそれは同時に「承認」と「誇り」を生みだすプロジェクトとなった。

生徒たちにとっても、
地域の大人たちにとって、
いや、おそらく先生たちにとっても、
いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。
「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。
たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、
もっとも大切になっていくのだろうと。

第6章で「島の仕事図鑑PJ」を立ち上げた
当時の商工会の総務企画課長、渡川さんは言う。

「すべてにおいてタイミングも良かったんじゃと思います」

自分が移住定住の担当者だった時に高校魅力化PJが始まったこと、
コーディネーターとなる取釜さんがいたこと、大林校長が赴任してきたこと。

「うまい時にうまいこと『変人』が三人集まったんですよ」と笑う。

そういう意味では、今の阿賀黎明高校魅力化チームも、
「ドリームチーム」ってのちに言われるくらいの人が集まってきているな、と。

Fake it till you make it
「実現するまでそのフリをしろ」
という言葉がある。

そうだ。
僕たちはドリームチームだ。

ドリームチームのフリをして、
本日も「まなび体験会」と「地域みらい留学フェスタ」でお待ちしています。


※写真は8月23日まなび体験会の様子です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)

2020年08月08日

信は力なり


昨日は、探究学習コミュニティの2日目でした。

ゲストは宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校の上水先生
http://gokase-h.com/

いやあ。
もう、衝撃がすごすぎて、手に汗かいちゃいました。
最後には泣きそうになってた。

ということで、自分のためのメモ

~~~ここからメモ

学びの氷山モデル。
育てたい資質・能力:野性味あふれる地球市民の育成
・つながる力・試みる力・見る力・問う力・関連付ける力
・networking/experimenting/observing/questioning/associating
・個人will×社会needs

「実社会」(具体)⇔「探究」(半抽象)⇔(抽象)
ステップ型からスパイラルな探究へ
フォアキャスティング⇒バックキャスティングへ

地域での体験⇒地域での経験⇒地域での実践(普遍性)⇓・・・ローカル
社会への発信⇐社会への参画⇐社会への問い・・・グローバル

中3マイプロジェクト活動:自分の中にある興味・関心(Will)から生まれたテーマを設定し、ワンアクションを起こす
高1知の理論・問いの探究:問いの構造を学び、深く考えることによって物事を抽象化する思考法を身につける。(Why)
高2・3課題研究活動・・・社会に散在する諸問題(needs)に対して、グローカルな視点から探究活動に取り組む

これまでのKKD(経験・勘・度胸)⇒できる人ができる
これからのKKD(仮説・検証・データ)⇒やりたい人ができる

PDCAからAAPへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

「思い込み」と「思い上がり」でプロジェクトをつくる、に似ているなあ。
ゼミ形式で共飲1名あたり6名を担当する。

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。
「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ
社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

~~~以下第2部

society5.0時代における持続可能な社会と幸福な人生の創り手として、予測困難な未来社会を自立的に生き、多様な人々と協働しながら社会の形成に創造的に参画することができる資質・能力。

遠隔・オンライン学習やデジタル技術を活用した個別最適化した学び⇔対面指導や集団活動、地域社会の多様な教育資源を活用し社会とつながる真正な学びの充実

自立的な学び⇔協働的な学び⇔探究的な学び
主体的な学び⇔対話的な学び⇔深い学び
⇒誰一人取り残されることなく社会につながる教育環境の実現

「対話と協働」でリアルな学びの場と学校をつなぎ
「越境」で学校外とつなぎ「普遍化」でグローバルとつなぐハイブリッド探究・協働様式

自ら学びをデザインし、新しい時代を共に生き抜く力
「つながり」「対話・協働」「自立・探究」「社会・創造」を組み合わせて学ぶ
それを支える「学びの土壌」があること

ハイブリッド⇒どちらも
対面・体験・オフライン⇔遠隔・体感・オンライン
知識・技能・教科学習⇔探究・実践・総合探究の時間
全体・指導・公教育が持つ強み⇔個別・伴走・地域社会が持つ強み

「共創的カリキュラム」
個別的カリキュラム:学びの実態や環境に応じて、社会総掛かりで知見を共有しながら個別に学習計画が設計されたカリキュラム
明示的カリキュラム:新しい時代に必要となる資質・能力の獲得を目指して、誰一人取り残さないための「学習保障」「関係保障」「健康保障」が明示されたカリキュラム
潜在的カリキュラム(学びの土壌):学校や地域の特性や歴史・風土を活かし、学び手を伴走する土壌によって自然に生み出されるカリキュラム。

★余白をつくること
何を教えて、何を学んだか⇒何を教えず、何を学ばないのか
「対話」と「協働」で探究をドライブする。

ビジョン委員会:半分つくり、半分はつくらない。ねらいと偶然性を両方とる。5年後10年後を語り合う
「対話」の文化があること。

オンラインは会いに行くたくなるように終わること。

★「探究」と「教科」
コンテンツベースで教科をつなぐのではなく、コンピテンシーベースでつなぐ。
教科における見る力とは何か?問いを立てる力とは何か?ふりかえりをする力とは何か?

~~~以上メモ

すげえ・・・
ヤバい・・・

途中から僕の言語化能力を超えてきてしまって、手に汗かいてきた。
こんなの、前にあったな。

2005年の玉川大学のスクーリング「教育の原理」だ。
教育とは何か?を真正面から考える授業に、心も体も震えた。

僕がなぜ今ここにいるのか、わかった気がした。

探究の3つの感。
自分にしかできない感、自分がやるべき感、そして自分にもできそう感、
それって、「思い上がり」と「思い込み」つまり勘違いなのだけど、
生きていくってそれが大事だなとあらためて思った。

一番印象に残ったのは、
「探究」と「研究」の話。

「探究」は入り口が「好き」にあって入りやすいく、その先に青天井に進んでいける。
「研究」は入り口に社会のニーズ(課題)があって、そのフレーム設計をして進んでいく。
つまり、「探究」はフレームを超えていける。

そして探究を、客観(ニーズ)に落とし込んだときに自己変容が始まる、というのもすごくしっくりきた。
学びの醍醐味はまさにそこにあるんじゃないのか、と。

何より上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」

生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。
「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。
時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。
圧倒的な敗北がここにありました。

2020年8月7日。
世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは
五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。
で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと
他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。

パートナーのみなさん、よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)イベント

2020年07月24日

「結節点」としての私と「わたしたち」


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」(渡辺保史)

読み終わりました。
2年以上の時が過ぎ、今こそ、読むべき時が来ました。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)から、
時代の10年先を行っていた渡辺さん。

「社会の時代」から「情報の時代」への変化の中で、
渡辺さんの先見の明がすごいなと。
約10年前にこんな世界を予感していたなんて。

本書は非売品なので、読むことができる人は少ないかもしれませんが。
ここにメモを。

~~~ここからメモ 1 経験デザインとインターフェイスについて

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。

経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。

「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

~~~ここからメモ2 学びについて

大切なキーワードは「学び」で、一部の専門家から、「残り多く」の人へ知識が受渡されるのではなく、ある時空間を共有しながら、実践を通して、互いが学び合うこと。そんな実践コミュニティ。

地域社会の未来を構築する力の源泉として「学び」を捉えること。

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。

三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

ノード(結節点)としての大学。

~~~ここからメモ3 コワーキングについて

コワーキングは、都市内の空きストックの単なる有効活用(場所貸し)でも、社会的に立場の弱いフリーランサーのためのアジール(避難場所)でもない。

これまで、仕事は組織の「所有物」と見なされ、ひとは組織から仕事を与えられて働いてきた。

戦後の高度経済成長期、ひとは組織の成長や目的とおのれを重ね合わせ、一心不乱に働くことで自身の豊かさを充足できると信じていた。

組織と個人のベクトルの同一化は、高度成長が終わってしばらくの間も、あたかも慣性の法則が作用しているごとく、ある程度は続いていたが、それもバブル経済のつかの間の繁栄がしぼむとともになし崩し的に消えていった。

「仕事」全体の再発明を余儀なくされているのかもしれない。

コンピュータとインターネットさえあれば「どこでも仕事ができる」と一般には思われがちだが、実際には「どこでも仕事ができ」てしまうからこそ、逆に「どこで、誰と、どんな風に働くのか?」にきわめて意識的にならざるを得ない。

そうした人々が、創造的な環境を実現する条件として強く希求するのが、居心地のよいコミュニティであるというのは非常に示唆的なことではないだろうか。

創造的な人材を引きつけるためには、企業でなくコミュニティの品質と活力が大切である。創造的会社の従業員は独立した起業家であり、どこで生活するかを自由に決める人種である。(「市民起業家」エドワード・マクラッケン 1997)

地域において最も必要なインキュベーターとは、「高速回線付きの安い貸しオフィス」などではなく、多様な人々が集う結節点的な場だと唱えた。もちろん、物理的な空間やインフラが不要だというわけじゃない。

それよりも大事なのは、ビジネスやまちづくりや文化活動を盛り上げる「地域全体のインキュベーター」なのではないか?

~~~ここまで本書より引用メモ

「経験デザイン」「学び」「コワーキング」と非常に示唆に富んだ文だが、

キーワードは「インターフェイス」と「結節点」だと思った。

もともと僕が渡辺さんに実際にお会いしたのは、
2003年の「はこだてスローマップ」のワークショップだった。

その時のことも本書に書いてあるが、「地図」というのはそもそも「インターフェイス」だと

地図というインターフェイス。インターフェイス「二つのものの間ににある接点、境界」
1 フィジカル(物理的に存在する)空間とデジタル情報空間
2 知識から経験へ
3 マップ作りを通して人と人を結びつける

このインターフェイスという考え方と
当時から聞いていたノード(結節点)というキーワードが
今になって立体的に見えてきた。

第10章 まちなかで模索する新しい働き方 より抜粋する

~~~ここから引用

どこでも仕事ができるようになったからこそ、逆に、どこで、どんな風に(そして誰と)働くのかに意識的にならざるを得ない。そこで強く希求されるようになったのがコミュニティだったのではないか。コワーキングの中心層であるフリーランスやスタートアップの起業家、あるいは社会起業家たちは、まぎれもなくコミュニティを必要とする人々である。

たとえば、フリーランスの生命線は、いかに多様な人々や組織とのつながりがあるか、いわゆる「ソーシャルキャピタル」を持っているか。あるいはある種の「生態系」の中で活動する自分を意識できるかどうかに尽きる。

とはいえ、それは単に人脈(コネ)があるとか、顔が利くという皮相なレベルではない。かつて名著「マインド・ネットワーク‐独創力から協創力の時代へ」(マイケル・シュレーグ 1992)で言及されたコラボレーション(協調・共創)の条件をクリアしていくこと。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。
「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、
ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、
そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライン劇場ツルハシブックスで宮本明里が言っていた。
「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。
その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

そして、上の引用に書いてあるが、
メディアで起こっている3Cの変化は、これから、「学び」の世界で急速に起こることなのだろう。

▼▼▼ふたたび引用

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

▲▲▲ふたたびここまで引用

いままさに、これが起ころうとしている。
少なくとも、新潟県東蒲原郡阿賀町では起こりつつある。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、
ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、
高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、
一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、
僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)思い

2020年06月14日

動的な屋号と空白のある地図

オンライン劇場ツルハシブックス2回目。
ゲストは、ZINE「とまれみよ」を発行した吉野さくらさん。
https://www.tomaremiyo.com/

自らの祖父を題材としたZINE
テーマは散歩と聞き書き。
散歩しながらじいちゃんの話を聞く。

気になったのは、
「とまれみよ」という屋号の由来。

踏切によく書いてある「とまれみよ」
これを見た時にハッとしたのだという。
「とまれみよ」は、自分の在り方としてしっくりくる。

コメタクの活動も、「とまれみよ」だ。
朝ごはんのご飯を炊くこと。
炊きあがるまでの時間(隙)をつくること。

さんぽ×聞き書き

散歩:偶然に出会える、思いつく
聞き書き:アウトプットすること(成果物)が唯一のゴールではない

日常と非日常
言葉と身体性
情報と感情

~~~こんな感じ

いちばん来たのは、屋号の話かな。
「とまれみよ」は、まさにさくらさんの在り方を示している。

いいなあ、在り方を示す屋号。
そういう意味では「ツルハシブックス」もいい線言ってますけどね。

次は「機会として学ぶ」の屋号化だな。

その後、つくばのじゅりさんと今は東京のみのりんと3人で茨城県人会(誰も茨城出身じゃない)
ただの雑談。最近読んだ本とか感じていることとかはひたすら話す、みたいな。

なんか、楽しい時間だった。
お茶とスイーツ、もしくはお酒とおつまみ(手でつまめるもの)をご用意ください。
って書いておけばいいかもしれない。
スイーツ紹介から始まる本の処方箋っぽい雑談、楽しいかも。

そして、第3部は、オンライン・ゼミ
「やりたいことがわからない」の社会学でした。

まず、「やりたことがわからないの社会学」を聞いて、キーワードだし。
そこからひとつずつ拾っていく。

まずは大学生が話した
「ライフヒストリー(チャート)」への違和感。
これ、僕も感じていたので、いいお題だった。

ライフヒストリー(チャート)は、
自分の人生を振り返ってその時のプラスマイナスを折れ線グラフ化するもので、
就活の自己分析に使われたり、チームビルディング研修などでも使われるやつ。

ここ数年、僕もライフヒストリーには違和感があって、
人を理解する方法としては使ってこなかったのだけど、
最近思うのは、「自己開示」のツールとしては使えるのだけど
「自己分析」や「他者理解」のツールとして使うのは危ういなということ。

言ってみれば「人生の編集」だもんね。
その瞬間のその人はあぶりだされない。

次のキーワードは「アイデンティティ」。
まあ、これ言っちゃったら、ゼミが終わっちゃうんだけどね。笑

アイデンティティを分散させる
って誰かが言っていたけど、
コミュニティを多層化、複層化するっていうのはありだなと思う。

そういう意味でも第1部のさくらさんの話に戻るけど、
あり方としての屋号っていうのは面白いなと。

「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。
「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。
スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。

動的な(動きを感じられる)屋号だということ。

そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。
そういう感じ。

ライフヒストリー(チャート)の違和感のひとつもそこにあるのかも。

過去の出来事を静的な点として観る。
でも、その時、その点はたしかに動いていたし、
今現時点ではその点(出来事)はマイナスに感じられるのかもしれないけど
5年後にはプラスに感じられるかもしれないので、現実には今も動いているかもしれない。

だからこそ、動的な屋号とか、コンセプトが必要なんだなと。
そしてそれは一人でなくても、二人でも、チームでも、いいのかもしれない。
この船はどこに向かっているんだっけ?っていうのに答えられるような名前を必要としている。

~~~

っていう感じ。
オンライン劇場の未来がまた一つ見えた。


「サピエンス全史 下」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)

を読んでいて出会ったシビれるキーワード
「空白のある地図」

~~~ここから一部引用

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ人は空白の多い世界地図を描き始めた。それ以前には地図には空白はなかった。だからそれらは世界の隅々まで熟知しているという印象を与えた。

コロンブスは、1492年に中南米のバハマ諸島に到達した時、東アジア沖にある小島にたどり着いたと信じていた。だからこそ、そこに住む人を「インディアン」と呼んだ。コロンブスは死ぬまでそう誤解していた。

その10年後、1502年~04年にイタリア人航海者アメリゴ・ヴェスプッチらは何度かアメリカ探検をした。これらの探検について書かれた書簡の中で、彼は、コロンブスが到達したのは東インド諸島ではなく、まったく無知の大陸だとした。

1507年、定評のある地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが発行した改訂した世界地図にはそれが独立した大陸であると初めて書かれ、その大陸を発見したのがアメリゴだと誤解したヴァルトぜーミューラーは、その大陸に名前を付けるとき、アメリゴの栄誉をたたえて「アメリカ」と名付けた。

この地図は非常な人気を博し、他の多くの地図製作者に複写されたので、彼が新大陸につけた名前が広まっていった。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋なめぐりあわせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

(中略)

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

~~~ここまで一部引用

いいですね、「空白のある地図」。
まさに、僕がオンライン劇場に感じているのはこれのことだなあと。
インターネット黎明期の90年代後半にその世界の人が感じていたものらしき何かを感じている。

オンラインだからこそ、たどり着ける地平があると。
そしてそれは、ひとりではなたどり着けないくらい遠くにありそうで、まだ見えていない。

そこへの旅を進めるために、ひとりひとりの動的な屋号を、ベクトル感を共有したい。

それは「言葉」と「身体」のあいだ。
「考える」と「感じる」のあいだにある何か、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:22Comments(0)

2020年06月05日

「機会」を「問い」に換え、Whyに立ち返る。

今週のweekly ochiaiでの一コマ。
テーマは、アフターコロナのリアル「飲食・小売」編
代々木上原のsioの鳥羽周作さんのお店でやってきたことが衝撃で。

sio
http://sio-yoyogiuehara.com/

レシピを無料公開していたツイッター
https://mobile.twitter.com/pirlo05050505

お店ってなんだっけ?
っていう問いに詰まっていたので、メモしておく。
まだ途中までしかみていないのだけど。

~~~以下メモ(他・出演者のもの含む)

コロナ期間中にやったこと。
・ツイッターでのレシピ公開
・1,000円のお弁当
・10,000円/13,500円(2名分)のお弁当
・お店の営業
⇒コロナ前以上の売り上げ

レシピ公開:
お客様しかコロナの答えはもっていない。⇒何を求めているか?
ステイホーム:料理する人が増える。包丁を握ったことがない人もいる
⇒再現性の高いレシピを。

家でつくってみて、弁当にして再現できるか?妻に食べてもらって判定
⇒お客さんの立場(包丁もったことがない)まで想像できているか?

1000円の弁当:
レストランクオリティ(価値体験)を1000円であっても提供するんだという意志。
⇒ぜいたく弁当(10,000円~/2名)へ
※通常のコースは1名10,000円~

トップシェフが弁当で新しい価値を提供する
⇒今まで向き合ってなかった層に価値を提供すること
⇒まず3weekお弁当を研究した。
⇒レストランに求めている価値をどうやって自宅にお弁当として届けるか?

「エンゲージメント」
もともとのお客さんにちゃんと届けているか。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること

基準は:これをやって幸せな人が増えるのか?増える:やる 減る:やらない
⇒意思決定を最高速に。

レストラン価値を届ける方法として、弁当という方法もある。
10,000円のコースも、1,000円の弁当も、同じ熱量で作りこむ。
誇りをもって1,000円で新しい体験価値を届ける。ナポリタンでもからあげでも。

視点は常に「お客様は何を求めているか?」
⇒予想を上回るものを出し続けることがエンゲージメントにつながる。
エンゲージメント:ファンをつくること。
地域のおばあちゃんが1,000円の弁当やめないでね、と言ってくれる。

~~~ここまでメモ

いやあ、すごい。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、
「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、
「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし、
(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)
1000円の弁当も本気で作る。

かっこいいなと。
そんな本屋をつくりたいなと。
僕がつくるのではなくて、劇団員と呼ばれる人たちと、ね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)

2020年02月12日

地域のためではなく、自分のために

真冬の佐渡へ。船が揺れなくてよかった。


(ぜんぜん分かりにくいですが、下のほうに朱鷺がいます)

佐渡中等教育学校宮崎先生を訪ねて。
21日のSCH前々夜祭に向けてのプレゼン準備中で
その完全版を聞かせていただきました!
刺激的な時間!



もともと大学のころから「地域づくり」に関心があり、
卒業論文のテーマは「豊かさとは何か?」
ミクロネシアでの生活を通じて、
日本とミクロネシア、どちらが文明的か?持続可能か?
そんな問いを投げかけた。

卒業後に就職した大手旅行代理店を退職し、新潟県で高校教師になる。
2016年佐渡中等教育学校(佐渡・両津)へ。
新潟をマイプロ先進県にする、というミッションもプラスされ、活動してきた。
2019年田舎力甲子園(実行委員会:福知山公立大学)で最優秀賞を受賞するなど、
新潟の「高校生×地域」をけん引してきた宮崎先生の完全版プレゼンとそこからのヒントのまとめ。

2019年度グッドデザイン賞受賞
https://www.g-mark.org/award/describe/49734

~~~以下メモ

サイモン・シネック「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」(TED)
https://www.ted.com/talks/simon_sinek_how_great_leaders_inspire_action?language=ja

「WHYから始めよ」(日本経済新聞出版社)
WHY→HOW→WHAT

大船渡学に学ぶ「問い磨き」
http://souken.shingakunet.com/career_g/2018/12/2018_cg425_5.pdf

ロジャー・ハート「参画のはしご」
https://dohijun.com/post-1582/

「私たち嫌われているんです」
学校と自分に自信が持てない現実に愕然とする。

「佐渡キャリア教育ネットワーク」の存在。
月に1度の会合でモチベーションを保つ。

2016年
地域人・職業人と話す
佐渡版カタリ場
「出会いを刺激に。」
本気の大人が生徒の心に火をつける。
「火起こし」の1年。

ビジネスモデルキャンバス
https://vision-cash.com/keiei/business-model-and-business-model-canvas/

ビジョン・ゴール、ターゲット、ニーズ、実現性などを設定

「佐渡を豊かにする中等生プロジェクト」の発足。
★主体性の尊重を徹底する→wantを掘り起こす。
★必要なこと、ものは自分たちで用意する
★常にビジョンを追い続ける。→「やりやすいから」とビジョン変更しない

2017年
「イノベーションを生み出す場づくり」
大人と共創してアイデアを形にすることでイノベーションが起きた。
Sフェスが生み出した価値

2018年
0→1にする
「何もない」→ないものは作ればいい。
志望理由書につながっている。
「継続性」という課題

2019年
「学びの質」
プリンフェス/おっちゃん祭

小さいイベント→大きいイベント
「魅力が伝わっていない!」という学び。
★アクションを学びに変えるリフレクション

ポジティブ・アプローチとギャップアプローチ
https://successpoint.co.jp/portfolio-view/%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%A8%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%81

★自分で思い描いた未来は実現できる。
★ジブンゴトやマイ感
★伴走者で探究者であること

JTB「地域深耕」
ライフミッションとしての地域づくり。
「社会的な評価」が自己肯定につながる。

★「対話」と「探究」
★地域のためにやっているんじゃない、自分のためにやること。

学校と地域との対話の場・時間をつくる
目指す資質・能力を共有できているか?

~~~ここまでメモ

ヒントにあふれた時間でした。
さっそく、大船渡高校の「大船渡学」紹介記事をダウンロードして読んでいます。

▼▼▼
「主体的学び」という言葉が「積極的」「意欲的」程度の意味で捉えられている気がしています。生徒が自ら問いを立ててこそ学びの主体となる。これが主体的学びの本当の意味だと思います。(梨子田先生)
▲▲▲

問い磨き。
学びの主導権を生徒に返す。
などキーワードにあふれた記事。

「地域のためではなく、自分のために。」

自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題。
そこに出会うプロセスの設計とデザイン。
それがいま、求められているのだなあと。

宮崎先生に教わったのは
「たったひとりでも始められる」ということ。
「ひとりの本気で、何かが動く」ということ。
佐渡まで足を伸ばせてよかったなあと思いました。



  

Posted by ニシダタクジ at 13:19Comments(0)

2019年12月09日

「判断」の余白をつくる

栃木・那須にある非電化工房に行ってきました。
行きの電車の中で読んでいたのはこの本。


「野性の復興」(川喜田二郎 祥伝社)

こちらのW型の問題解決図式。
これが面白かった。

P109のこの図

「ひと仕事」とは、このように動くのだと。

それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?
と川喜田さんは問いかける。

何が違うのか?
そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。
これは厳しい一言だなあと。

A 探検 →B 野外観察 →C データをして語らしめる
→D 評価・決断・構想計画→E 具体策・手順化
→F 実施 →G吟味検証→H 結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。
「仕事」にモチベーションが上がらないのは、
F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。

あ、それって「学習」も同じだ。
学校の授業にはFしかないんだ。
授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

そして、非電化工房見学会へ。


予算50万円で建てた非電化カフェ。

中に入るとこんな感じ。




~~~ここから見学会メモ

「非電化工房」見学会に参加。
感想がうまくまとまりそうにないけど、一言で言えば、ジーンと来ちゃったなあ。静かな感動というか、そういうやつ。
高校~大学の僕のトピックは環境問題だった。その頃に出会っていたら、1年修行したかった。
環境問題は技術でなく、価値観の画一化と思考停止の問題だと思った。

生きる力。食べるもの、住む家、エネルギーを自分で何とかすること。
+生活に必要な資金を稼ぐこと。
特に住む家を自分で建てられるというときの安心感。50万円で家は建つ。

テスト弟子入りのポイント
1 体力
2 性格
3 志

杉皮の遮光性とか、もみ殻の断熱性とか、すげえなと。自給できるじゃんって。

「非電化」というのは、「電気を使わない」ということではなくて、「電気に依存しない」ということ。
「お金やエネルギーに依存しない」ということ。「生きていける」という実感。

「現代の縄文人」っていうか、そういう感じ。
テクノロジーさえも自然資源とするような。

「保温調理器」とか「圧力鍋」とか。
エネルギーを与え続ける必要はなくて、温度を保てばいいのだと。

白金カイロ「ひとりキャンペーン」。
いいなあ、藤村先生の遊び心。

土塗りワークショップの一番の利点は仲良くなること。

「非電化工房じゃないとできないワークショップ」
同じワークショップは2度とやらないという発明家の意地。
でも、あまりにもそれだと大変なので、やっぱり2,3回はやろうかという余白。笑。
その余裕が魅力だ。「しなければならない」「こうでなければならない」は一つもないのだから。

女2人で2日で1万円で井戸を掘るWS
http://hidenka.net/seminar/ws2018/ws5.htm
いきたい。

もはや上水道は維持できない。
だとすると、井戸を掘るしかないよね。
出るまで掘る。1人ではやらないこと。みんなでやること。

「発明家」とは何か?
困っている人がいたら何か発明して解決する人のこと。

汚い水が原因で子どもが毎日死んでいる。なぜそれを放っておくのか?という憤りから始まった井戸掘り。
お金を使わないで井戸を掘る方法はないか?女の人は子どものためなら動く。だから、女2人で、ってタイトルなのか。

ワークショップで簡単に水が出るのはあまりよくない。井戸掘りの技術そのものがすごいのではなくて、出るまでやっても1万円しかかからないこと。みんなでやれること。出るまでやり続けることができる、という価値。

「お金があることでチャレンジできる」のではなく、「お金がなくてもチャレンジできる」へ
出るまで掘れば井戸から水は出る。やればできる。

「非電化工房」全体の横たわる遊び心がすごいな、と。日々実験してる。

「時間が止められるか?」という問い。
「空間が狭くなるほど時間は長くなる」理論。面白かったな。

クレーの絵と谷川俊太郎の詩で感動できないはずがない。
→感動できないのは時間に追われているからだ。
→時間を止められる場所をつくれないか。
→ツリーハウス。

猪熊弦一郎×ホンマタカシも感動できないはずがない。
「時間の流れを変えられないか?」という問い。

「非電化」っていうのは技術じゃなくて思想や文化、なのだなあと。
そこに若い人が吸い込まれていくのはよくわかる。
それでいて思考停止させない余白だらけの空間がある。
常に判断、し続ける。

非日常空間をつくるには、太陽(光)を見せないこと。

「窓」とはいったい何か?
採光や風を通すという機能以外の何か、もっと大事なものが入ってくるのではないか?
それは未来や希望なのかもしれない。
想像力。

「機能」よりも大切なものがあるんじゃないか?という問い。

~~~ここまでメモ

どこまでも遊び心にあふれた発明家、藤村靖之さん。
「非電化」とは、「電気を使わない」ことではなく、「電気に依存しない」こと。

そして、「非電化工房」っていうのは、
巨大な実験場で、日常生活そのものを「自らつくる」という
プロセスそのものを楽しんでいるところ。
発明家の意地、誇りから始まった井戸掘りプロジェクト。
家を自ら作ることで得られる、圧倒的な安心感。

「時間を止めることができるか?」
「窓」ってそもそもなんだろう?
と実践を通して問われる哲学的な対話の時間。
ここには、川喜田さんの言う「仕事」が、たしかにある。

それは、探検(実験)し、野外観察し、評価と決断をして、
次の策を考えるという問題解決図式の本質がある。

「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)

この言葉は重い。
多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。
それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。

「学び」もきっとそうだ。
「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?

そこに「判断」があるのか?
「構想計画」があるのか?

「課題が与えられ、解決策を提案する」
「観察」も「判断」も「執行」もない。
そんな授業でどんな力をつけようとするのか?

「判断」の余白をつくること。
そこに「主体性」と呼ばれるような何かが生まれるのだと思う。
それは「好奇心」だったり「探究心」だったりするのだろうけど。

たぶん、そこが一番大切なところだと。  

Posted by ニシダタクジ at 10:20Comments(0)日記

2019年11月20日

コーディネーターがつなぐのは

6月の地域みらい留学フェスタ@東京でめちゃめちゃ輝いていた
大崎海星高校におじゃましています。



1日目は
コーディネーターの取釜さんに話を聞き、
「みりょくゆうびん局」交流チームのランチミーティングの後、
1年生の大崎上島学「羅針盤学」の授業を見学し、
その後、公営塾「神峰学舎」へ。

公営塾は、夢☆ラボ。
1年生による「興味があるもの発表会」
「興味があるもの」についてプレゼン。
「ビートルズから学ぶ」の彼、面白かったな。

大好きなものがあって、
なぜ、自分は好きなのか?って問うのは
探究の入り口のような気がしたし、
最後にビートルズから学んだことを
自分の言葉で語ってくれた。
「自分は自分、好きなことをして、好きなように生きていい」
いいなあ、そういう入口。

モチベーションのスイッチを押すって
そういう機会の積み重ねなんだなあって。
黒ひげ危機一髪みたいに、
「機会」というナイフを刺しまくっていくことだなあと。

ランチーミーティングの進行をした石井先生もすごかった。

ほかの人の意見を聞きたい
→「それによってあなたはどう変わる?」
おどおどしたくない
→そういう経験があったの?

ひとりひとりのコメントに対して、それを掘り下げる質問力。
すごいなあって。
わずか30分の魔法を見せてもらったようだった。

プロジェクトの説明をしてくれたのは取釜宏行さん。

2011年にUターンして私塾をスタート。
学習支援とキャリア教育の2本柱で取り組む。
この私塾でのキャリア教育がすごかった。

6つの柱で「島キャリ」を行っていて、
生徒が主体となった「やりたいイベント実行委員会」など、
興味深いプログラムが詰まっている。

ここから始まったんだ。

そんな風に思った。
26年から準備して平成27年度に大崎海星高校の魅力化がスタート。

考えられることはすべてやった。
民泊を受け入れている大阪の中学校全校に校長先生と一緒に営業にいった。
東京での説明会を12回行ったが、参加者ゼロの会も数回あった。
寮の整備も予算のない中、様々な可能性を検討し、交渉した。

いま、コーディネーターとしてプロジェクトの設計や
地域の人たちとの橋渡しを行っている。

「関係者には、電話で済む話でも直接会いに行く」
と取釜さんは言っていた。

車に乗せてもらっているあいだも、
郵便局でも、道端でも、
取釜さんは知り合いを見つけては、
自分から話しかけていっていた。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。
はじまりはひとりかもしれない。
でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。
そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、
人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、
熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。

と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

夜明けは近い。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)

2019年07月24日

「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける



法政大学長岡研究室にお邪魔してきました。
いま参画している「阿賀黎明高校魅力化プロジェクト」
のコンセプトを考えていて、長岡先生の取り組みと
親和性が高いなあと思ったからです。

もともと、塩尻で出会ったエミリーが長岡ゼミ生で
この春卒業したのだけど、カフェゼミに誘ってもらって、
そのカフェゼミのゲストが慶応大学の「つながるカレー」の
加藤先生で、「予測不可能性」の大切さを気づかせてもらった場でした。

ということで、
長岡研究室訪問メモ。

~~~ここからメモ

長岡ゼミの基本方針:「直感」と「好奇心」で動き続ける

好奇心:興味を広げる(⇔知識を深める・技術を高める)
直感:試行錯誤で学ぶ(⇔正解を教わる/受け入れる)

漢方薬⇒長期的な変化(⇔迅速な修正)
    &個別対応(⇔プログラム対応)

垂直的発達(積み上げ)⇔水平的発達

「越境」⇔「学習」(目的に向かう)
「経営学」⇔「教育工学」

「経営学」がささいな問題に厳密に回答するようになり、役に立たなくなった。

2004年パルサミーノ・レポート
https://tech.nikkeibp.co.jp/it/free/NC/TOKU2/20041228/1/
「工業的な新しいことは必ず追いつかれる」
「アメリカはイノベーションし続けないといけない」

経営学総論(2011)

プレイヤーは「企業」と「政府」と「家計」
仕組みは「交換(市場)」と「再分配(税金)」
それらを支える学問が「経営学」「経済学」「家政学」

営利性原理の脱構築:「再分配」⇔「交換」⇔「互酬」
企業とは「営利性原理」に基づく活動「利潤最大化」と「自己責任」
最小の費用(効率)で最大の成果(成長)を得ようとする合理性が求められる。

交換:等価かつ同時
互酬:仲間内だけを助ける

資本主義の基本概念モデル

(所有権の移動)
取引⇒交換:市場/企業&家計
徴収⇒再分配:国家/政府
贈与⇒互酬:共同体(コミュニティ)

「ワークシフト」(リンダ・グラットン)

精神的ゆとりの欠如
人間的つながりの欠如
経済的な格差(貧困)

協力する社会←競争する社会:「強さ」よりも「優しさ」や「思いやり」
社会の利益←個人の利益:私とみんなの幸せを考える「共」の意識
自立する個人←集団に頼る個人:所属や肩書きに頼らない幅広い「人脈」

第1のシフト:「教えられて、やらされる勉強」から
「新しいことを主体的に学び続ける」へ。
第2のシフト:「閉ざされた世界の中での孤独な競争」から
「開かれた世界の人々のネットワーク」へ
第3のシフト:「金銭欲・自己顕示欲・独占欲」から
「楽しいからやる、分かち合う歓び」へ

ワークシフト時代を生き抜くために必要な「仲間」とは、
精神的な安らぎをもたらす仲間
プロジェクトを共に進める仲間
世界を広げてくれる仲間

ソーシャルデザインの視点
「公」「共」「私」
パブリック、コモン、プライベート

未来にある世界とは?
先行きが見えない世界⇒想定外を生き抜く力
多様な価値観が交差する社会⇒葛藤と向き合い、乗り越える力

「釜石の奇跡」
・マニュアルに頼らない
・ミスを恐れず最善を尽くす
・指示を待たずに率先する

「直感」⇔「計画」

大学生の現状:
人の評価が気になる。
間違えることを恐れる。

「評価されない」前提ですすめる。
プロジェクトのゴールを作らない。
キレイな物語(目的地から再構成する)ではなく
プロセスを記述できるか?

トライ&エラーで学ぼう
(直感)⇔計画
直感で動くと間違える。
計画して動くと動けなくなる。

直感で動いたことをふりかえる「越境」学習

イノベーティブなプロジェクトほど失敗が許される。
イノベーティブじゃないプロジェクトほど計画を綿密に立てる。

プロジェクトごとの評価をしない。
3年間の自らの成長を見る。

「計画できない」という前提

~~~ここまでメモ

いちばん感じたのは、
「評価」ではなく、「ふりかえり」であるということ。
直感で動けば、間違いしかないということ。

時代がシフトするように、
考え方もそちらへシフトしないといけない。

あとは、「教育学」は「経営学」より20~30年遅れているということ。

たしかに、「人を育てる」という意味では、
経営学は絶えずトライ&エラーを繰り返してきたと言えるだろう。

その経営学が
「これからは合理性じゃないんじゃないすか?」
って15年も20年も前から言っているのに、
いまだに教育現場では目標を立てて達成するっていうのを
やっていて大丈夫なのか?と

「機会」を得て学び、それを振り返って学びに変えていく。

そんな「学び」の出発点、いや人生の出発点に立つのは、
大学生からでは遅すぎるくらいだ。早ければ早いほどいい。

Good Luck!  

Posted by ニシダタクジ at 09:39Comments(0)

2019年05月19日

「屋台」のある街

東急田園都市線
桜新町駅徒歩3分のところに、
小さな神社「桜神宮」がある。



あれ。
鳥居の横に何かありますね。


人だかりができている「屋台」です。


やっているのは吉池くんと近所の小学生。


アメ横直送のシシャモが七輪であぶられていました。

吉池さんとは、昨年の11月1日@大阪での
「ながしのこたつ」がご縁でお会いしました。

阪急百貨店の前での「ながしのこたつ」

その時に
「ぼく、東京で屋台やってるんです」
って自己紹介されて、

えっ。
屋台やってるって何?

みたいな感じで知り合ったのだけど、
僕が大好きな著者の人のところで働いていたり、
アメ横の魚屋さんにいたり、不思議な人なんですけど、
一度いってみたいなあと思って、行ってきました。

屋台には、次から次へと地元の集まってきます。
そこで近所の小学生の男の子。
お手伝いをしています。
これ、楽しいだろうなと。

そういえば、ツルハシブックスにも、屋台があったな、と。


「屋台」のある街に住んでいた、っていう記憶。
それはその子の人生にとってどんなに大きいだろう?

「地元のまちに屋台があってさあ。
変な兄ちゃんがやってたんだよね。
小学生のとき、そこ手伝ってたんだよ」
って。

あ、そういえば「タナカホンヤ」もそんな感じかもしれないですね。

僕にとってはそれが、
「スナックたこ焼き」(スナックを改装せずにたこ焼きを売っていたお店が地元の駅前にあった)
だったのかもしれないけどね。

11月に大阪で話していた時のテーマは
「リアルメディア」(身体性を伴ったメディア)
だったのだけど、まさに桜新町の屋台はそんな感じだったなと。

そして、テーマは「場」へと移っていきます。

つづく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2019年04月18日

ありえたかもしれない、もうひとつの近代


「NHK100分de名著 スピノザ『エチカ』」

2回目の読了。
読めば読むほどすごい。

そして、冒頭の見出し、
「ありえたかもしれない、もうひとうの近代」
というキャッチコピーが2回目にして、しっくりとくる。

西洋的近代とは、
二元論であり、わかりやすさであり、目標逆算型システムであり、、、

っていうのが
スタンダードで、それが時代にあっていないんじゃないか?
っていう話はたくさん出ているのだけど、
そもそもそのシステムっていうのはどこから始まったんだっけ?

っていうので、
当然、産業革命以来の社会システムの変化を挙げるのだけど。
そのシステムを作り上げた要因として、「デカルト的哲学」があったのだなあと。
その哲学が社会状況と見事に符合して、現在の社会の価値観、哲学、倫理ができていったのだなあと。

~~~ここから本文より引用

私たちがいま国家だと思っている、領域があって主権がある国家という形態は、17世紀半ばになって出てきたものです。

いわゆる近代科学もこの時期に出てくる。たとえばニュートンは17世紀後半に活躍した人です。その科学の支えであった近代哲学も同じ時期に現れました。17世紀は本当に現代というものを決定づけた重要な時代なのです。

私はその意味でこの世紀を、思想的なインフラを整備した時代と呼んでいます。たとえばデカルトは近代哲学の、ホッブスは近代政治思想のインフラを作った人です。そのインフラの上に、続く18世紀の思想が荘厳なアーキテクチャー、つまり建築物を築いていきます。たとえばカントの哲学やルソーの政治思想をそれにあたるものと考えることができるでしょう。

そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、ある一つの思想的方向性が選択された時代だったと考えることができます。歴史に「もしも」はありえませんが、別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできます。私の考えでは、スピノザはこの可能性を示す哲学なのです。それは「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」に他なりません。

~~~ここまで本文より引用

このあと、「真理」についてのデカルトとスピノザの比較があります。

「デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところです。真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。私は考えている、考えているならば、その考えている私は存在している。と言われれば反論できない。」

「スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるということです。」

これさ、哲学は何のために、誰のためにあるのか?
っていう問いになっているな、と。

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際はそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけです。

「哲学」って生きるとは何か?という究極の問いに対する仮説にすぎないだと僕は思うのだけど、デカルトは、他者を説得するとか納得させるとか、何かのための哲学になっちゃってるんじゃないかと。これこそが、まさに近代社会との分岐点でしょ。近代工業社会にはデカルトのほうがめちゃめちゃマッチするのだけどね。

そして、この後、この本は(僕の中の)クライマックスへ向かう。

~~~ここから引用

私たちの考え方は強く近代科学に規定されています。私たちの思考のOSは近代科学的です。ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれません。

これこそが私が「はじめに」で述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない」ということの意味に他なりません。

近代科学はデカルト的な方向で発展しました。その発展は貴重です。私たちは日々、その恩恵に与って生きています。そしてまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもとても大切です。それを否定するのは馬鹿げています。しかし、そのことを踏まえた上で、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいのです。

近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています。

フーコーの「主体の解釈学」。かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていた。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。

この考え方が変わったのは17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。

フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。

~~~ここまで引用

スピノザ、すげーなって。
僕が大学時代からいろいろ感じて、学んだことが
ダイジェストで説明されてくる感じ。

「場のチカラ」とか「チューニング」とか「リアルメディア」とか
めちゃめちゃスピノザ的だなあと思った。
そして、火曜日に小田原で後藤タツヤと話して、
熱海でとっくんと話して、さらにそれが確信を増した。

「機会提供」そのものの価値。
それを本屋の棚を通じて表現すること。

教育の最大の矛盾は、目的・目標をもって始めなければいけないこと。
そして評価を前提をしなければいけないこと。
でも、エンターテイメントの本質は予測不可能性にある、ということ

それはまさに近代(工業)社会と僕を含めた若者が感じている違和感の
ギャップそのものであるのだけど。

でもさ。
スピノザ的に言えば、本質は自分らしくありたいとする力(コナトゥス)であって、
人によって、真理は異なるだろうし、その真理の獲得のためには自らの変容が必要なわけですよ。

ってことはさ。
「機会提供」こそが、人を育てるんじゃないの?って。

その人がその「機会」によって、どうなるかっていうのは、
あまり重要じゃないというか、
むしろ、その機会提供によって、自らがどうなるか?
っていう問いのほうが大切なんじゃないのか?

「挑戦するな、実験しよう」

にいがたイナカレッジの連載で掲げたコピーの意味が、スピノザを読んだ今ならわかる。

去年の夏にこはるんが言ってた
「イナカレッジは自分を知るプログラムです」の意味が、今ならわかる。

そして僕が本屋をたくさん作ろうとしていることの意味も。

機会を提供したい。本棚で表現したいのは、なぜなのか?

実験するために。
実験し、自分なりの「真理」にたどりつくために。
そのたどり着く過程で、自らを変容させるために。

いや、ために、じゃないんだよ。

生きることそのものが、そのプロセスの中にただ、ある。
根源的欲求として、ただ存在するのだ。

本棚に刺さっている1冊の本。
1冊の本から実験の旅が始まる。

そんな本棚をつくりたいと心から思う。

あなたもそんな本棚をつくるひとりになりませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:45Comments(0)日記