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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年10月26日

「まちづくり」と「アイデンティティ」

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」第3回
ゲストは亀山咲さん。

リアルな話が聴けて良かったなあ。
いまだに胸の奥が苦しいけども。
にいがたイナカレッジで2度の田舎インターンを経験。

「学校以外の人に会うことが新鮮だった」
って言ってたところから、
プログラム中に気づいた農家の魅力を探りに、
農家巡りを6軒行った。

行動しているうちに誰かに伝えたくなった。
発信する、表現することが楽しくなった。

2回目のインターンは企画側としても関わった。
この企画側に入るインターンはありかもしれないと思った。
2度目の人はそうやるとか。

在学中に「下宿」を経験。
いわゆる地域の人との同居だ。
大学卒業後、就職はせずに、
自ら「ホームシェアプロジェクト」を立ち上げ、活動する。

~~~ここからメモ

町を歩いて、人と話すと「なにやってるんですか?」って聞かれる。
プロジェクトの説明をすることが面白い。

下宿のおばさんに言われるままにいろんな場に行き、話をした
※やりたいことがない⇒プロデューサーを手に入れること
言われたとおりにやってみる、っていうのもありだなあ。

楽しくて始めたはずなのに、
市役所の人たちに、事業に組み込まれていった。
お金がもらえるけど、荷が重い。
大人の都合。まちづくりというビジネス

「若いのにスゴイ」という言葉への違和感
若くて、ここにいることに価値があると言うのなら
私じゃなくてもいい。

「私じゃなくてもいいんじゃないか?」
⇒方向性の違いが明らかになる。

何者かになりたかった。
わかりやすい個性、説明できる個性
すきなことを仕事にすることへの憧れ
専門性:自分はどう役に立てるのだろう?

~~~ここまでメモ

いやあ、聞いてていろいろ胸が痛くなった。
リアルな経験だなあと。

彼女は、違和感をキャッチして、途中でやめることができた。
それって大きいなあと。
違和感からは逃れられないんだなあと。
「まちづくり」とアイデンティティについて考えてみたくなった。
それは「場」の話にも通じているなあと。

「会社」や「地域」や「家族」。
その「所属している感じ」を失いつつある今。
(それは僕が大学生だった90年代からそうだったのだけど)

アイデンティティの不安にさらされている。
「好きなことを仕事にする」という言葉に代表されるように、
NHK「プロフェッショナル」的な仕事に憧れ、何者かになりたいと思う。

そのための分かりやすい「個性」を見つけたいと、
大学時代から精力的に動いている。

「若いのにスゴイ考えてるね。僕が大学生の時なんて遊んでただけだったよ」
っていうオッサンが嫌いだ。
どの位置からその言葉を言っているんだろうって思う。
その「場」から遠く離れた安全地帯から放っている言葉だと思う。

カギを握るのは「場」とメンバーに対する「リスペクト」だろうと思う。
いまの大学生が20年前の大学生よりも広く深く考えているなんて当たり前の話だ。

初期のガラケー(アンテナが伸びるヤツ)と最新のiphoneくらいの差がある。
メールも送れる。(ショートメールさえ当時は画期的だった。笑)
カメラ機能もどんどん上がる。
もはや手の中にパソコンがあるようなものだ。

「場」にフォーカスすることだ。
「場」を高めるために、ひとりひとりをリスペクトし、個性を引き出すことだと思う。

「感想は?」と聞くのではなく、「印象に残ったことは?」と聞き、
場全体で、それを味わい、考えることだ。

アイデンティティ不安に対する僕の方法論は、
「場」の一員となり、「プロジェクト」の個性の構成員となる、
という経験の積み重ねによって、
複数個のアイデンティティを同時進行していくこと。
なのではないかと思っている。

それは、他者から見て「わかりやすい」個性とはならないのだけど、
「アイデンティティ不安」を少し和らげてくれると思う。

そもそも、アイデンティティ(自分らしさ)っていう概念さえ疑わしい。
「自分」なんて存在するのだろうか?
って始まってしまうと、長くなるので、今日はこの辺にする。

阿賀町では高校生たちとリスペクトを持ちながら
「場」と「プロジェクト」をたくさん生んでいこうと。

それを「まなびのトビラ」と言うのかもしれない。
10月31日(土)@新潟駅で待っています。

https://reimei-gakusya.localinfo.jp/posts/10858791?categoryIds=477469

  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2020年09月29日

学びのスタートラインに立つ

阿賀黎明高校の学校運営協議会(コミュニティスクール)第2回でした。

地域団体「阿賀黎明探究パートナーズ」もオブザーブ参加して
「拡大熟議」をご一緒しました。

今回のお題は令和4年度からの教育課程(新カリキュラム)について。

校長先生の「求める生徒像」の話から。

1 地域を知ることを通じて、学ぶ姿勢を身につけ、自ら進路を切り開く生徒
2 教養を高め、人間性を磨くことを心がけ、人のために尽くす志をもつ生徒
3 学ぶことに意義を感じ、未知のものに勇気をもって向き合おうとする生徒

この特に2を強調して説明されていました。

・真摯に学ぶことに意義を見出すこと
・学ぶことは魅力的であると感じること
・学ぶ過程において教養を身に付ける

・人間性を磨くこと
・相手に対する配慮、いたわるやさしさ

・ノブレスオブリージュ(高貴なるものの義務)
・もっているものが贈与する

拡大熟議。
ここを工夫しました。
通常ですと、「育てたい生徒像」みたいな問いになってしまのだけど。
その問い方が違うなあと。

「育てたい生徒像」って問いかけた時に
・あいさつができる、服装がちゃんとしてる
みたいな具体的な話と
・好奇心を持って自ら学んでいく生徒
みたいな抽象的な話が混在しちゃって議論がかみ合わなくなるっていう。

だから、もうそれをお題にして議論するのはやめようと。
そもそも校長先生が提示した「求める生徒像」があるわけだから
それをどう達成していくかっていうのを考えた方が建設的だろうと。

というわけで考えたグループワーク。

求めたい生徒像を真ん中において
前半:そもそも学びとは何か?なんのために学ぶのか?
みたいにさらに抽象度を上げる質問。

後半:求めたい生徒像を実現するために、何をしたらいいのか?
という具体的な行動の話。

結果としては、前半がいわゆる「チューニング」みたいになっていた。

その時の冒頭の問いかけが、
「あなたの学びのスイッチが入った瞬間はいつですか?」
だった。

数学のM先生は、中学生の頃、数学で、「いろんな解き方があるんだ!」
と知ってから数学に目覚めていくプロセスを語ってくれた。
そうそう、そういうやつ。
「機会」があって、「好奇心」を刺激され、学びのスイッチが入る。
たぶんそういうことなのだろうなと。

まあでも、このワークいいなあと。
アイスブレイク不要になる。
ルーツと価値観の開示。
これができる問いが心を開くよね。

そのあと、ワークで、僕の入ったテーブルは、
進路指導部の先生だったので、進路の話になりました。

先生からは、
・「進路選択」というのは避けられない。
地域の方からは
・そもそも「就職・専門学校」と「大学進学」っていう分け方でいいのか?

「一生を通して学び続ける人」を輩出したいとするならば。
「学び」を再定義しないといけないな、と。
与えられて、教えられて、覚えて、テストを受ける「勉強」から
機会を得て、好奇心をくすぐられて、やってみて、発見する「学び」へとシフトしないといけない。

それを高校でやらないといけないのではないか。
言ってみれば「学びのスタートラインに立つ」ための準備期間。

就職も、専門学校進学も、大学進学も、
「学びのスタートラインに立つ」という意味ではまったく同じだ。

だって、人生は巨大な学び場なのだから。

「あなたは何を学びたいのか?」
という問いに答える高校3年間であってほしいし、
そのための機会として地域の人達と地域資源があるのだと思う。

あなた固有のその「学び」は就職によって深められるのか、
その舞台は、専門学校なのか、もしくは大学なのか?

そんな問いを地域と一緒に受けとめ、ともに育んでいくこと。
それは、実は地域の大人に向けられた問いでもある。

巨大な学び場としての人生を、地域社会をいかに生きるのか?
何を学びたいのか?探究したいのか?
その問いは大人にとっても、先生にとってもフラットに刺さってくる。

きっとそれが地域と連携した学びのスタートであり、ゴールになっていくのだろうなと。

生徒の「学びのスタートライン」(進路)を一緒に考え、ともにつくっていくこと。
地域の大人自身も学びのスタートラインに立つということ。

「学びとなんだろうか?」と問いかけるプロジェクトのスタート地点に立とうとしているのではないかと思うと、ワクワクしました。


  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)

2020年09月18日

学校を変えるのではなく、演じるためのもうひとつの場をつくる

デンマークのフォルケホイスコーレ留学帰りの
大学生2名が阿賀町にやってきてました。
昨日はそのふりかえり。

公営塾スタッフやまちの人に
インタビューしてもらったので、
それがこれから記事になります。

なので、
取材型インターンひきだしの
フォーマットを使って振り返りました。

キーワードは
・場のチカラ
・魔法をかける編集
・予測不可能性
・解像度を上げる

などなど。

~~~以下ふりかえりメモ 
(フォルケホイスコーレ(ipc)留学経験の視点を入れつつ振り返りしました)

瞳の色が印象的。たどりついていない感じ。
まだ何かあるんじゃないか、と思わせる。

ipcも色で覚えている
コモンルームのオレンジ色の光と2つのソファー。
オンラインの画面では色が見えない。
リアルだと色が立体的に感じられる。

・関係性を鮮やかにしていくこと
ベクトル=問いの共有

その人が拡張されていく感じ。
面が増えていく。
人と一緒に旅をすることの醍醐味。

一緒に旅をする=自分を見つける/相手を見つける。
プロジェクト=小さな船旅

多様性を組み込んでいくコミュニティ。
年齢は数字でしかない。
その人のできないところ、ニガテなところもさらけ出して共有することでフラットになれる。
フラットに感じられる。
学びの場においてフラットであることが大切。

一緒に体を動かす。
「楽しさ」=身体性の共有

ipc:先生は「自分が分からないこと」も共有してくれるんだ!
一緒に考えてくれるんだ。

問いの共有

新型コロナウイルスの時の激動の2週間の後、
自分たちの気持ちを話し、また気持ちを聞いていく。
新型コロナウイルス=課題であると同時に機会でもある。

「感情」を出せる場が大切。
空間のデザインも重要。
共感・違和感をともにすることを大切にする。
リアルな不安も話せる場づくり。
「先生」でもあり、ひとりの市民でもある。

日本の「学校」=演じる場
ipc=さらけ出せる場。
学校をフィクションだと認識する。
先生の発言は仮説にすぎない。

他者と話す。紙に書くこと。
「体から切り離して」出してみる。
相手の言葉によって、自分を理解する。

~~~ここまでメモ

ああ、フォルケホイスコーレって
とっても素敵な「場」ができているんだな、と。
新型コロナウイルスでさえ、「機会として学ぶ」
に組み込まれているんだなと。

たぶん、高校における「探究」っていうのも、
大きな流れで言えば、そういうことなのだと思うのだけど。

僕の感想としては、
やっぱり「場」が大切なんだなと。

そして一気には変わらないし、
そもそもそういうエネルギーの使い方は
「創造的破壊」アプローチで、僕に向いてないなと。

フォルケホイスコーレ的な学びの場を日本にも作ろうって
動きが盛んだけれども、そしてそれはまたそれで理想的なのかもしれないけど、

僕のアプローチは、
「並行」「並列」「ハイブリッド」なのかもしれない。

と、打っていたら。
「へいこう」の変換が「平衡」になり。

!!!ってなった。

それだ!
「二元論」から「動的平衡」へ。
いま、僕の中でのキーワードなのだけど。

その「動的平衡」のためには、
2つの世界が必要で、

坂口恭平さん風に言えば(「独立国家のつくり方」より)、
「学校社会」と「放課後社会」なのだけど、
それを行き来すること、できることが大切なのだなと。

それはいわゆる「サードプレイス」とは少しニュアンスが違っていて、
「並列」なんだよね。

そしてそれはもしかすると、
高校生のための寮を併設しているからこそ、可能になるのかもしれないと思った。

生活とか暮らしの中で、経験し対話し、感性が磨かれて、
そして「感情」を「場」に出していくことで、相手を知り、また自分を知る。
学校にいる時間は学校にいる時間で、「学校にいる自分」を生きていく。

フォルケホイスコーレの先生たちは、ひとりの人間として、
感じたことを大切にして、時にそれをさらけ出して、学生たちと接していた。
それはそれで素晴らしいと思うのだけど。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。
そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、
「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。

もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、
関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。

いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。

そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。


写真は、大学生撮影のオラに力を分けてくれ、の図。  

Posted by ニシダタクジ at 06:41Comments(0)日記

2020年09月13日

ドリームチームのフリをしろ



「教育の島発 高校魅力化&島の仕事図鑑~地域とつくるこれからの高校教育」
(編著 大崎海星高校魅力化プロジェクト 文 松見敬彦 学事出版)

読み終わりました。
シビれまくりましたね。

僕は昨年11月に大崎海星高校におじゃましました。

「コーディネーターがつなぐのは」(19.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

今年2月に新潟で再会
「気が付くと地域と自らの人生の当事者になっている」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

圧倒的な勝手な使命感、何度聞いてもアツいなあ。

ということで本を読んだメモを書きますが、
その前に、わかりやすく学校の現状がまとめられている部分を引用します

~~~

学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。

~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

まさにこれ。
こういう「本能的な学び」をつくっていくこと。
これが地方にある高校の使命だと思います。

じゃあ、どうしたらいいのか。
本書を読んでひとまずメモします。

~~~ここからメモ

「これってこうだよ」ではなく、「それってどうなの?」って訊いてくれるから。
よい教師は、生徒によい問いを発する。

校長から電話。でも、夜10時以降じゃないと時間が取れない。
校長は言った。「じゃあ、その時間で」
深夜に教頭を伴ってやってきた大林校長(当時)。

「ここまでやれる校長がおるんか!」
取釜さんのあの時の感動が、「直接会いに行く」という基本姿勢につながっているのだろうな。

「魅力化推進チーム」
ここから生まれてる。
取釜さんと先生方のチーム。
これ、大事かも。

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。
「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

~~~ここまでメモ

エッセンスに詰まっているなあと。
魅力化3番手グループとしては、めちゃめちゃ響きます。

タイトルにもなっている「島の仕事図鑑」は
魅力化の初年度からスタートしたプロジェクト。
町と商工会との協力によりスタート。

地域の大人にインタビューをして冊子化する地域プロジェクト(有志の課外活動)

本書にコラムを寄せている東北芸術工科大学岡崎エミさんによれば、

「きく」という行為だけでも
1「じっくり聞く」 2「共感して聞く」 3「質問して聞く」 4「要約して聞く」
の4種類があり、依頼の時には自己との対話が不可欠だし
聞いた後に第三者に表現して伝えるアウトプットにもなる
コミュニケーション訓練のフルコースなのだという。

なるほど。
インタビュー冊子づくりやってみたいなと。

この冊子づくりが果たした役割はとてつもなく大きいと感じた。

1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。

2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。

3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

特に、3つめの「承認」と「誇り」については、僕の長年のキーワードでもあるので、
ここに書いておきたい。

第4章「若手教員」
登場しているのは新任教員の長門先生。
仕事図鑑づくりに寄り添った。

~~~以下本文より引用

誰もが、いまの長門にないものを持っているような気がした。
きらきらと輝いてまぶしく映った。背景や想いは異なっても、
彼らはみな自分の意思で選択した「自分の人生」を生きていたのだ。

彼らの矜持は、生徒たちのインタビューに付き添って、
話を聞いていればすぐに分かった。

他者からの承認を求めたり、それを行動原理にしたりすることもない。
自分の中から突き上げる内なる声に正面から向き合い、その
野生が赴くまま正直に生きていた。

(中略)

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」と長門。
羨ましかった。純粋に、心から憧れた。まさしく生徒たちに期待した
刺激や感動、変化を、長門も一緒に追体験していたのだ。
もしかすると、他でもない自分が最も強く影響を受けたかもしれないとさえ感じる。

~~~以上本文より引用

ふふふ。
すごいね。
笑ってしまう。

これが、デザインのチカラだと思った。
きっと、取釜さんは「結果的にそうなった」と言うだろう。
それが想いの力とふりかえりの成果なのだろう。

生徒も、先生も、地域の人たちも「機会」を起点にともに学ぶ。
大崎上島では「島の仕事図鑑」こそが「機会」だった。

そしてそれは同時に「承認」と「誇り」を生みだすプロジェクトとなった。

生徒たちにとっても、
地域の大人たちにとって、
いや、おそらく先生たちにとっても、
いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。
「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。
たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、
もっとも大切になっていくのだろうと。

第6章で「島の仕事図鑑PJ」を立ち上げた
当時の商工会の総務企画課長、渡川さんは言う。

「すべてにおいてタイミングも良かったんじゃと思います」

自分が移住定住の担当者だった時に高校魅力化PJが始まったこと、
コーディネーターとなる取釜さんがいたこと、大林校長が赴任してきたこと。

「うまい時にうまいこと『変人』が三人集まったんですよ」と笑う。

そういう意味では、今の阿賀黎明高校魅力化チームも、
「ドリームチーム」ってのちに言われるくらいの人が集まってきているな、と。

Fake it till you make it
「実現するまでそのフリをしろ」
という言葉がある。

そうだ。
僕たちはドリームチームだ。

ドリームチームのフリをして、
本日も「まなび体験会」と「地域みらい留学フェスタ」でお待ちしています。


※写真は8月23日まなび体験会の様子です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)

2020年08月08日

信は力なり


昨日は、探究学習コミュニティの2日目でした。

ゲストは宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校の上水先生
http://gokase-h.com/

いやあ。
もう、衝撃がすごすぎて、手に汗かいちゃいました。
最後には泣きそうになってた。

ということで、自分のためのメモ

~~~ここからメモ

学びの氷山モデル。
育てたい資質・能力:野性味あふれる地球市民の育成
・つながる力・試みる力・見る力・問う力・関連付ける力
・networking/experimenting/observing/questioning/associating
・個人will×社会needs

「実社会」(具体)⇔「探究」(半抽象)⇔(抽象)
ステップ型からスパイラルな探究へ
フォアキャスティング⇒バックキャスティングへ

地域での体験⇒地域での経験⇒地域での実践(普遍性)⇓・・・ローカル
社会への発信⇐社会への参画⇐社会への問い・・・グローバル

中3マイプロジェクト活動:自分の中にある興味・関心(Will)から生まれたテーマを設定し、ワンアクションを起こす
高1知の理論・問いの探究:問いの構造を学び、深く考えることによって物事を抽象化する思考法を身につける。(Why)
高2・3課題研究活動・・・社会に散在する諸問題(needs)に対して、グローカルな視点から探究活動に取り組む

これまでのKKD(経験・勘・度胸)⇒できる人ができる
これからのKKD(仮説・検証・データ)⇒やりたい人ができる

PDCAからAAPへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

「思い込み」と「思い上がり」でプロジェクトをつくる、に似ているなあ。
ゼミ形式で共飲1名あたり6名を担当する。

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。
「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ
社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

~~~以下第2部

society5.0時代における持続可能な社会と幸福な人生の創り手として、予測困難な未来社会を自立的に生き、多様な人々と協働しながら社会の形成に創造的に参画することができる資質・能力。

遠隔・オンライン学習やデジタル技術を活用した個別最適化した学び⇔対面指導や集団活動、地域社会の多様な教育資源を活用し社会とつながる真正な学びの充実

自立的な学び⇔協働的な学び⇔探究的な学び
主体的な学び⇔対話的な学び⇔深い学び
⇒誰一人取り残されることなく社会につながる教育環境の実現

「対話と協働」でリアルな学びの場と学校をつなぎ
「越境」で学校外とつなぎ「普遍化」でグローバルとつなぐハイブリッド探究・協働様式

自ら学びをデザインし、新しい時代を共に生き抜く力
「つながり」「対話・協働」「自立・探究」「社会・創造」を組み合わせて学ぶ
それを支える「学びの土壌」があること

ハイブリッド⇒どちらも
対面・体験・オフライン⇔遠隔・体感・オンライン
知識・技能・教科学習⇔探究・実践・総合探究の時間
全体・指導・公教育が持つ強み⇔個別・伴走・地域社会が持つ強み

「共創的カリキュラム」
個別的カリキュラム:学びの実態や環境に応じて、社会総掛かりで知見を共有しながら個別に学習計画が設計されたカリキュラム
明示的カリキュラム:新しい時代に必要となる資質・能力の獲得を目指して、誰一人取り残さないための「学習保障」「関係保障」「健康保障」が明示されたカリキュラム
潜在的カリキュラム(学びの土壌):学校や地域の特性や歴史・風土を活かし、学び手を伴走する土壌によって自然に生み出されるカリキュラム。

★余白をつくること
何を教えて、何を学んだか⇒何を教えず、何を学ばないのか
「対話」と「協働」で探究をドライブする。

ビジョン委員会:半分つくり、半分はつくらない。ねらいと偶然性を両方とる。5年後10年後を語り合う
「対話」の文化があること。

オンラインは会いに行くたくなるように終わること。

★「探究」と「教科」
コンテンツベースで教科をつなぐのではなく、コンピテンシーベースでつなぐ。
教科における見る力とは何か?問いを立てる力とは何か?ふりかえりをする力とは何か?

~~~以上メモ

すげえ・・・
ヤバい・・・

途中から僕の言語化能力を超えてきてしまって、手に汗かいてきた。
こんなの、前にあったな。

2005年の玉川大学のスクーリング「教育の原理」だ。
教育とは何か?を真正面から考える授業に、心も体も震えた。

僕がなぜ今ここにいるのか、わかった気がした。

探究の3つの感。
自分にしかできない感、自分がやるべき感、そして自分にもできそう感、
それって、「思い上がり」と「思い込み」つまり勘違いなのだけど、
生きていくってそれが大事だなとあらためて思った。

一番印象に残ったのは、
「探究」と「研究」の話。

「探究」は入り口が「好き」にあって入りやすいく、その先に青天井に進んでいける。
「研究」は入り口に社会のニーズ(課題)があって、そのフレーム設計をして進んでいく。
つまり、「探究」はフレームを超えていける。

そして探究を、客観(ニーズ)に落とし込んだときに自己変容が始まる、というのもすごくしっくりきた。
学びの醍醐味はまさにそこにあるんじゃないのか、と。

何より上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」

生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。
「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。
時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。
圧倒的な敗北がここにありました。

2020年8月7日。
世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは
五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。
で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと
他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。

パートナーのみなさん、よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)イベント

2020年07月24日

「結節点」としての私と「わたしたち」


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」(渡辺保史)

読み終わりました。
2年以上の時が過ぎ、今こそ、読むべき時が来ました。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)から、
時代の10年先を行っていた渡辺さん。

「社会の時代」から「情報の時代」への変化の中で、
渡辺さんの先見の明がすごいなと。
約10年前にこんな世界を予感していたなんて。

本書は非売品なので、読むことができる人は少ないかもしれませんが。
ここにメモを。

~~~ここからメモ 1 経験デザインとインターフェイスについて

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。

経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。

「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

~~~ここからメモ2 学びについて

大切なキーワードは「学び」で、一部の専門家から、「残り多く」の人へ知識が受渡されるのではなく、ある時空間を共有しながら、実践を通して、互いが学び合うこと。そんな実践コミュニティ。

地域社会の未来を構築する力の源泉として「学び」を捉えること。

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。

三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

ノード(結節点)としての大学。

~~~ここからメモ3 コワーキングについて

コワーキングは、都市内の空きストックの単なる有効活用(場所貸し)でも、社会的に立場の弱いフリーランサーのためのアジール(避難場所)でもない。

これまで、仕事は組織の「所有物」と見なされ、ひとは組織から仕事を与えられて働いてきた。

戦後の高度経済成長期、ひとは組織の成長や目的とおのれを重ね合わせ、一心不乱に働くことで自身の豊かさを充足できると信じていた。

組織と個人のベクトルの同一化は、高度成長が終わってしばらくの間も、あたかも慣性の法則が作用しているごとく、ある程度は続いていたが、それもバブル経済のつかの間の繁栄がしぼむとともになし崩し的に消えていった。

「仕事」全体の再発明を余儀なくされているのかもしれない。

コンピュータとインターネットさえあれば「どこでも仕事ができる」と一般には思われがちだが、実際には「どこでも仕事ができ」てしまうからこそ、逆に「どこで、誰と、どんな風に働くのか?」にきわめて意識的にならざるを得ない。

そうした人々が、創造的な環境を実現する条件として強く希求するのが、居心地のよいコミュニティであるというのは非常に示唆的なことではないだろうか。

創造的な人材を引きつけるためには、企業でなくコミュニティの品質と活力が大切である。創造的会社の従業員は独立した起業家であり、どこで生活するかを自由に決める人種である。(「市民起業家」エドワード・マクラッケン 1997)

地域において最も必要なインキュベーターとは、「高速回線付きの安い貸しオフィス」などではなく、多様な人々が集う結節点的な場だと唱えた。もちろん、物理的な空間やインフラが不要だというわけじゃない。

それよりも大事なのは、ビジネスやまちづくりや文化活動を盛り上げる「地域全体のインキュベーター」なのではないか?

~~~ここまで本書より引用メモ

「経験デザイン」「学び」「コワーキング」と非常に示唆に富んだ文だが、

キーワードは「インターフェイス」と「結節点」だと思った。

もともと僕が渡辺さんに実際にお会いしたのは、
2003年の「はこだてスローマップ」のワークショップだった。

その時のことも本書に書いてあるが、「地図」というのはそもそも「インターフェイス」だと

地図というインターフェイス。インターフェイス「二つのものの間ににある接点、境界」
1 フィジカル(物理的に存在する)空間とデジタル情報空間
2 知識から経験へ
3 マップ作りを通して人と人を結びつける

このインターフェイスという考え方と
当時から聞いていたノード(結節点)というキーワードが
今になって立体的に見えてきた。

第10章 まちなかで模索する新しい働き方 より抜粋する

~~~ここから引用

どこでも仕事ができるようになったからこそ、逆に、どこで、どんな風に(そして誰と)働くのかに意識的にならざるを得ない。そこで強く希求されるようになったのがコミュニティだったのではないか。コワーキングの中心層であるフリーランスやスタートアップの起業家、あるいは社会起業家たちは、まぎれもなくコミュニティを必要とする人々である。

たとえば、フリーランスの生命線は、いかに多様な人々や組織とのつながりがあるか、いわゆる「ソーシャルキャピタル」を持っているか。あるいはある種の「生態系」の中で活動する自分を意識できるかどうかに尽きる。

とはいえ、それは単に人脈(コネ)があるとか、顔が利くという皮相なレベルではない。かつて名著「マインド・ネットワーク‐独創力から協創力の時代へ」(マイケル・シュレーグ 1992)で言及されたコラボレーション(協調・共創)の条件をクリアしていくこと。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。
「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、
ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、
そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライン劇場ツルハシブックスで宮本明里が言っていた。
「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。
その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

そして、上の引用に書いてあるが、
メディアで起こっている3Cの変化は、これから、「学び」の世界で急速に起こることなのだろう。

▼▼▼ふたたび引用

メディアの3つのC「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」テレビで言えば番組、受像機、地上波・衛星派。三位一体のその構造がYoutubeやKindleなどの台頭によって崩れようとしている。

実は、教育においても近い将来、メディアで進んでいるとのと同じような三つのCが崩れる、あるいは新しい関係を結ぶような時代が待ち受けているんじゃないかと思っている。三つのCを全て併せもっていたのが従来の大学だったけれど、Cのうちある部分は、大学の外から調達してきたり、外にもっと開放していくとか、他の組織と共有するとか。

たとえば、大学教育におけるコンテンツは授業そのもの。90分1コマを基本に教室というコンテナに入れて、大学という囲い込まれた環境というコンベアの中で展開されていた。

大学あるいは学校が持っていた機能を腑分けして再構成すると、実は学びの社会的な可能性はもっと広がるし、本来教育が持っていた価値を今までと違った形で提供すると、多くの人が参画し、担い手になっていくこともできる。

▲▲▲ふたたびここまで引用

いままさに、これが起ころうとしている。
少なくとも、新潟県東蒲原郡阿賀町では起こりつつある。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、
ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、
高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、
一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、
僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)思い

2020年06月14日

動的な屋号と空白のある地図

オンライン劇場ツルハシブックス2回目。
ゲストは、ZINE「とまれみよ」を発行した吉野さくらさん。
https://www.tomaremiyo.com/

自らの祖父を題材としたZINE
テーマは散歩と聞き書き。
散歩しながらじいちゃんの話を聞く。

気になったのは、
「とまれみよ」という屋号の由来。

踏切によく書いてある「とまれみよ」
これを見た時にハッとしたのだという。
「とまれみよ」は、自分の在り方としてしっくりくる。

コメタクの活動も、「とまれみよ」だ。
朝ごはんのご飯を炊くこと。
炊きあがるまでの時間(隙)をつくること。

さんぽ×聞き書き

散歩:偶然に出会える、思いつく
聞き書き:アウトプットすること(成果物)が唯一のゴールではない

日常と非日常
言葉と身体性
情報と感情

~~~こんな感じ

いちばん来たのは、屋号の話かな。
「とまれみよ」は、まさにさくらさんの在り方を示している。

いいなあ、在り方を示す屋号。
そういう意味では「ツルハシブックス」もいい線言ってますけどね。

次は「機会として学ぶ」の屋号化だな。

その後、つくばのじゅりさんと今は東京のみのりんと3人で茨城県人会(誰も茨城出身じゃない)
ただの雑談。最近読んだ本とか感じていることとかはひたすら話す、みたいな。

なんか、楽しい時間だった。
お茶とスイーツ、もしくはお酒とおつまみ(手でつまめるもの)をご用意ください。
って書いておけばいいかもしれない。
スイーツ紹介から始まる本の処方箋っぽい雑談、楽しいかも。

そして、第3部は、オンライン・ゼミ
「やりたいことがわからない」の社会学でした。

まず、「やりたことがわからないの社会学」を聞いて、キーワードだし。
そこからひとつずつ拾っていく。

まずは大学生が話した
「ライフヒストリー(チャート)」への違和感。
これ、僕も感じていたので、いいお題だった。

ライフヒストリー(チャート)は、
自分の人生を振り返ってその時のプラスマイナスを折れ線グラフ化するもので、
就活の自己分析に使われたり、チームビルディング研修などでも使われるやつ。

ここ数年、僕もライフヒストリーには違和感があって、
人を理解する方法としては使ってこなかったのだけど、
最近思うのは、「自己開示」のツールとしては使えるのだけど
「自己分析」や「他者理解」のツールとして使うのは危ういなということ。

言ってみれば「人生の編集」だもんね。
その瞬間のその人はあぶりだされない。

次のキーワードは「アイデンティティ」。
まあ、これ言っちゃったら、ゼミが終わっちゃうんだけどね。笑

アイデンティティを分散させる
って誰かが言っていたけど、
コミュニティを多層化、複層化するっていうのはありだなと思う。

そういう意味でも第1部のさくらさんの話に戻るけど、
あり方としての屋号っていうのは面白いなと。

「とまれみよ」は言葉だけど、動的であり。
「言葉」と「身体」、「考える」と「感じる」のあいだにあり、動きを表している。
スピノザ的に言えば、「コナトゥス」(こうありたいと働く力)のことだろう。

動的な(動きを感じられる)屋号だということ。

そういう意味では、僕の次の本屋のイメージは「風の通り道」なのだけど。
そういう感じ。

ライフヒストリー(チャート)の違和感のひとつもそこにあるのかも。

過去の出来事を静的な点として観る。
でも、その時、その点はたしかに動いていたし、
今現時点ではその点(出来事)はマイナスに感じられるのかもしれないけど
5年後にはプラスに感じられるかもしれないので、現実には今も動いているかもしれない。

だからこそ、動的な屋号とか、コンセプトが必要なんだなと。
そしてそれは一人でなくても、二人でも、チームでも、いいのかもしれない。
この船はどこに向かっているんだっけ?っていうのに答えられるような名前を必要としている。

~~~

っていう感じ。
オンライン劇場の未来がまた一つ見えた。


「サピエンス全史 下」(ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社)

を読んでいて出会ったシビれるキーワード
「空白のある地図」

~~~ここから一部引用

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ人は空白の多い世界地図を描き始めた。それ以前には地図には空白はなかった。だからそれらは世界の隅々まで熟知しているという印象を与えた。

コロンブスは、1492年に中南米のバハマ諸島に到達した時、東アジア沖にある小島にたどり着いたと信じていた。だからこそ、そこに住む人を「インディアン」と呼んだ。コロンブスは死ぬまでそう誤解していた。

その10年後、1502年~04年にイタリア人航海者アメリゴ・ヴェスプッチらは何度かアメリカ探検をした。これらの探検について書かれた書簡の中で、彼は、コロンブスが到達したのは東インド諸島ではなく、まったく無知の大陸だとした。

1507年、定評のある地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが発行した改訂した世界地図にはそれが独立した大陸であると初めて書かれ、その大陸を発見したのがアメリゴだと誤解したヴァルトぜーミューラーは、その大陸に名前を付けるとき、アメリゴの栄誉をたたえて「アメリカ」と名付けた。

この地図は非常な人気を博し、他の多くの地図製作者に複写されたので、彼が新大陸につけた名前が広まっていった。

世界の陸地面積の四分の一強を占める、七大陸のうちの二つが、ほとんど無名のイタリア人にちなんで名づけられたというのは、粋なめぐりあわせではないか。彼は「私たちにはわからない」と言う勇気があったというだけで、その栄誉を手にしたのだから。

(中略)

これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ。

~~~ここまで一部引用

いいですね、「空白のある地図」。
まさに、僕がオンライン劇場に感じているのはこれのことだなあと。
インターネット黎明期の90年代後半にその世界の人が感じていたものらしき何かを感じている。

オンラインだからこそ、たどり着ける地平があると。
そしてそれは、ひとりではなたどり着けないくらい遠くにありそうで、まだ見えていない。

そこへの旅を進めるために、ひとりひとりの動的な屋号を、ベクトル感を共有したい。

それは「言葉」と「身体」のあいだ。
「考える」と「感じる」のあいだにある何か、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 09:22Comments(0)

2020年06月05日

「機会」を「問い」に換え、Whyに立ち返る。

今週のweekly ochiaiでの一コマ。
テーマは、アフターコロナのリアル「飲食・小売」編
代々木上原のsioの鳥羽周作さんのお店でやってきたことが衝撃で。

sio
http://sio-yoyogiuehara.com/

レシピを無料公開していたツイッター
https://mobile.twitter.com/pirlo05050505

お店ってなんだっけ?
っていう問いに詰まっていたので、メモしておく。
まだ途中までしかみていないのだけど。

~~~以下メモ(他・出演者のもの含む)

コロナ期間中にやったこと。
・ツイッターでのレシピ公開
・1,000円のお弁当
・10,000円/13,500円(2名分)のお弁当
・お店の営業
⇒コロナ前以上の売り上げ

レシピ公開:
お客様しかコロナの答えはもっていない。⇒何を求めているか?
ステイホーム:料理する人が増える。包丁を握ったことがない人もいる
⇒再現性の高いレシピを。

家でつくってみて、弁当にして再現できるか?妻に食べてもらって判定
⇒お客さんの立場(包丁もったことがない)まで想像できているか?

1000円の弁当:
レストランクオリティ(価値体験)を1000円であっても提供するんだという意志。
⇒ぜいたく弁当(10,000円~/2名)へ
※通常のコースは1名10,000円~

トップシェフが弁当で新しい価値を提供する
⇒今まで向き合ってなかった層に価値を提供すること
⇒まず3weekお弁当を研究した。
⇒レストランに求めている価値をどうやって自宅にお弁当として届けるか?

「エンゲージメント」
もともとのお客さんにちゃんと届けているか。

HowやWhatではなく、Whyがあるかどうか?
レシピ公開:売るものさえ変えている。「価値」を届けること

基準は:これをやって幸せな人が増えるのか?増える:やる 減る:やらない
⇒意思決定を最高速に。

レストラン価値を届ける方法として、弁当という方法もある。
10,000円のコースも、1,000円の弁当も、同じ熱量で作りこむ。
誇りをもって1,000円で新しい体験価値を届ける。ナポリタンでもからあげでも。

視点は常に「お客様は何を求めているか?」
⇒予想を上回るものを出し続けることがエンゲージメントにつながる。
エンゲージメント:ファンをつくること。
地域のおばあちゃんが1,000円の弁当やめないでね、と言ってくれる。

~~~ここまでメモ

いやあ、すごい。

「機会」を「問い」に変換し、お客様を見ながら、Whyに立ち返り、
「価値」を提供することに集中する。

お客様が欲しいのは、
「価値」であって、「弁当」や「食事」そのものではない。

だからレシピは公開するし、
(お客さんのレシピを見て料理をつくっても1円の売り上げにもならないが価値は提供できる)
1000円の弁当も本気で作る。

かっこいいなと。
そんな本屋をつくりたいなと。
僕がつくるのではなくて、劇団員と呼ばれる人たちと、ね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)

2020年02月12日

地域のためではなく、自分のために

真冬の佐渡へ。船が揺れなくてよかった。


(ぜんぜん分かりにくいですが、下のほうに朱鷺がいます)

佐渡中等教育学校宮崎先生を訪ねて。
21日のSCH前々夜祭に向けてのプレゼン準備中で
その完全版を聞かせていただきました!
刺激的な時間!



もともと大学のころから「地域づくり」に関心があり、
卒業論文のテーマは「豊かさとは何か?」
ミクロネシアでの生活を通じて、
日本とミクロネシア、どちらが文明的か?持続可能か?
そんな問いを投げかけた。

卒業後に就職した大手旅行代理店を退職し、新潟県で高校教師になる。
2016年佐渡中等教育学校(佐渡・両津)へ。
新潟をマイプロ先進県にする、というミッションもプラスされ、活動してきた。
2019年田舎力甲子園(実行委員会:福知山公立大学)で最優秀賞を受賞するなど、
新潟の「高校生×地域」をけん引してきた宮崎先生の完全版プレゼンとそこからのヒントのまとめ。

2019年度グッドデザイン賞受賞
https://www.g-mark.org/award/describe/49734

~~~以下メモ

サイモン・シネック「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」(TED)
https://www.ted.com/talks/simon_sinek_how_great_leaders_inspire_action?language=ja

「WHYから始めよ」(日本経済新聞出版社)
WHY→HOW→WHAT

大船渡学に学ぶ「問い磨き」
http://souken.shingakunet.com/career_g/2018/12/2018_cg425_5.pdf

ロジャー・ハート「参画のはしご」
https://dohijun.com/post-1582/

「私たち嫌われているんです」
学校と自分に自信が持てない現実に愕然とする。

「佐渡キャリア教育ネットワーク」の存在。
月に1度の会合でモチベーションを保つ。

2016年
地域人・職業人と話す
佐渡版カタリ場
「出会いを刺激に。」
本気の大人が生徒の心に火をつける。
「火起こし」の1年。

ビジネスモデルキャンバス
https://vision-cash.com/keiei/business-model-and-business-model-canvas/

ビジョン・ゴール、ターゲット、ニーズ、実現性などを設定

「佐渡を豊かにする中等生プロジェクト」の発足。
★主体性の尊重を徹底する→wantを掘り起こす。
★必要なこと、ものは自分たちで用意する
★常にビジョンを追い続ける。→「やりやすいから」とビジョン変更しない

2017年
「イノベーションを生み出す場づくり」
大人と共創してアイデアを形にすることでイノベーションが起きた。
Sフェスが生み出した価値

2018年
0→1にする
「何もない」→ないものは作ればいい。
志望理由書につながっている。
「継続性」という課題

2019年
「学びの質」
プリンフェス/おっちゃん祭

小さいイベント→大きいイベント
「魅力が伝わっていない!」という学び。
★アクションを学びに変えるリフレクション

ポジティブ・アプローチとギャップアプローチ
https://successpoint.co.jp/portfolio-view/%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%A8%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%81

★自分で思い描いた未来は実現できる。
★ジブンゴトやマイ感
★伴走者で探究者であること

JTB「地域深耕」
ライフミッションとしての地域づくり。
「社会的な評価」が自己肯定につながる。

★「対話」と「探究」
★地域のためにやっているんじゃない、自分のためにやること。

学校と地域との対話の場・時間をつくる
目指す資質・能力を共有できているか?

~~~ここまでメモ

ヒントにあふれた時間でした。
さっそく、大船渡高校の「大船渡学」紹介記事をダウンロードして読んでいます。

▼▼▼
「主体的学び」という言葉が「積極的」「意欲的」程度の意味で捉えられている気がしています。生徒が自ら問いを立ててこそ学びの主体となる。これが主体的学びの本当の意味だと思います。(梨子田先生)
▲▲▲

問い磨き。
学びの主導権を生徒に返す。
などキーワードにあふれた記事。

「地域のためではなく、自分のために。」

自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題。
そこに出会うプロセスの設計とデザイン。
それがいま、求められているのだなあと。

宮崎先生に教わったのは
「たったひとりでも始められる」ということ。
「ひとりの本気で、何かが動く」ということ。
佐渡まで足を伸ばせてよかったなあと思いました。



  

Posted by ニシダタクジ at 13:19Comments(0)

2019年12月09日

「判断」の余白をつくる

栃木・那須にある非電化工房に行ってきました。
行きの電車の中で読んでいたのはこの本。


「野性の復興」(川喜田二郎 祥伝社)

こちらのW型の問題解決図式。
これが面白かった。

P109のこの図

「ひと仕事」とは、このように動くのだと。

それは「実行」「実践」ではなく、「執行」に過ぎないのではないか?
と川喜田さんは問いかける。

何が違うのか?
そこに「判断」「決断」がないからである。「判断」することのなければ、実行、実践とは呼べず、単なる「執行」である。
これは厳しい一言だなあと。

A 探検 →B 野外観察 →C データをして語らしめる
→D 評価・決断・構想計画→E 具体策・手順化
→F 実施 →G吟味検証→H 結果を味わう
というW型で起こっていくのだと。

ああ、そうか。
「仕事」にモチベーションが上がらないのは、
F以降、むしろFのみのことしかやらせてもらってないからだ。

あ、それって「学習」も同じだ。
学校の授業にはFしかないんだ。
授業案もぜんぶ先生がつくっているから。

そして、非電化工房見学会へ。


予算50万円で建てた非電化カフェ。

中に入るとこんな感じ。




~~~ここから見学会メモ

「非電化工房」見学会に参加。
感想がうまくまとまりそうにないけど、一言で言えば、ジーンと来ちゃったなあ。静かな感動というか、そういうやつ。
高校~大学の僕のトピックは環境問題だった。その頃に出会っていたら、1年修行したかった。
環境問題は技術でなく、価値観の画一化と思考停止の問題だと思った。

生きる力。食べるもの、住む家、エネルギーを自分で何とかすること。
+生活に必要な資金を稼ぐこと。
特に住む家を自分で建てられるというときの安心感。50万円で家は建つ。

テスト弟子入りのポイント
1 体力
2 性格
3 志

杉皮の遮光性とか、もみ殻の断熱性とか、すげえなと。自給できるじゃんって。

「非電化」というのは、「電気を使わない」ということではなくて、「電気に依存しない」ということ。
「お金やエネルギーに依存しない」ということ。「生きていける」という実感。

「現代の縄文人」っていうか、そういう感じ。
テクノロジーさえも自然資源とするような。

「保温調理器」とか「圧力鍋」とか。
エネルギーを与え続ける必要はなくて、温度を保てばいいのだと。

白金カイロ「ひとりキャンペーン」。
いいなあ、藤村先生の遊び心。

土塗りワークショップの一番の利点は仲良くなること。

「非電化工房じゃないとできないワークショップ」
同じワークショップは2度とやらないという発明家の意地。
でも、あまりにもそれだと大変なので、やっぱり2,3回はやろうかという余白。笑。
その余裕が魅力だ。「しなければならない」「こうでなければならない」は一つもないのだから。

女2人で2日で1万円で井戸を掘るWS
http://hidenka.net/seminar/ws2018/ws5.htm
いきたい。

もはや上水道は維持できない。
だとすると、井戸を掘るしかないよね。
出るまで掘る。1人ではやらないこと。みんなでやること。

「発明家」とは何か?
困っている人がいたら何か発明して解決する人のこと。

汚い水が原因で子どもが毎日死んでいる。なぜそれを放っておくのか?という憤りから始まった井戸掘り。
お金を使わないで井戸を掘る方法はないか?女の人は子どものためなら動く。だから、女2人で、ってタイトルなのか。

ワークショップで簡単に水が出るのはあまりよくない。井戸掘りの技術そのものがすごいのではなくて、出るまでやっても1万円しかかからないこと。みんなでやれること。出るまでやり続けることができる、という価値。

「お金があることでチャレンジできる」のではなく、「お金がなくてもチャレンジできる」へ
出るまで掘れば井戸から水は出る。やればできる。

「非電化工房」全体の横たわる遊び心がすごいな、と。日々実験してる。

「時間が止められるか?」という問い。
「空間が狭くなるほど時間は長くなる」理論。面白かったな。

クレーの絵と谷川俊太郎の詩で感動できないはずがない。
→感動できないのは時間に追われているからだ。
→時間を止められる場所をつくれないか。
→ツリーハウス。

猪熊弦一郎×ホンマタカシも感動できないはずがない。
「時間の流れを変えられないか?」という問い。

「非電化」っていうのは技術じゃなくて思想や文化、なのだなあと。
そこに若い人が吸い込まれていくのはよくわかる。
それでいて思考停止させない余白だらけの空間がある。
常に判断、し続ける。

非日常空間をつくるには、太陽(光)を見せないこと。

「窓」とはいったい何か?
採光や風を通すという機能以外の何か、もっと大事なものが入ってくるのではないか?
それは未来や希望なのかもしれない。
想像力。

「機能」よりも大切なものがあるんじゃないか?という問い。

~~~ここまでメモ

どこまでも遊び心にあふれた発明家、藤村靖之さん。
「非電化」とは、「電気を使わない」ことではなく、「電気に依存しない」こと。

そして、「非電化工房」っていうのは、
巨大な実験場で、日常生活そのものを「自らつくる」という
プロセスそのものを楽しんでいるところ。
発明家の意地、誇りから始まった井戸掘りプロジェクト。
家を自ら作ることで得られる、圧倒的な安心感。

「時間を止めることができるか?」
「窓」ってそもそもなんだろう?
と実践を通して問われる哲学的な対話の時間。
ここには、川喜田さんの言う「仕事」が、たしかにある。

それは、探検(実験)し、野外観察し、評価と決断をして、
次の策を考えるという問題解決図式の本質がある。

「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)

この言葉は重い。
多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。
それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。

「学び」もきっとそうだ。
「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?

そこに「判断」があるのか?
「構想計画」があるのか?

「課題が与えられ、解決策を提案する」
「観察」も「判断」も「執行」もない。
そんな授業でどんな力をつけようとするのか?

「判断」の余白をつくること。
そこに「主体性」と呼ばれるような何かが生まれるのだと思う。
それは「好奇心」だったり「探究心」だったりするのだろうけど。

たぶん、そこが一番大切なところだと。  

Posted by ニシダタクジ at 10:20Comments(0)日記

2019年11月20日

コーディネーターがつなぐのは

6月の地域みらい留学フェスタ@東京でめちゃめちゃ輝いていた
大崎海星高校におじゃましています。



1日目は
コーディネーターの取釜さんに話を聞き、
「みりょくゆうびん局」交流チームのランチミーティングの後、
1年生の大崎上島学「羅針盤学」の授業を見学し、
その後、公営塾「神峰学舎」へ。

公営塾は、夢☆ラボ。
1年生による「興味があるもの発表会」
「興味があるもの」についてプレゼン。
「ビートルズから学ぶ」の彼、面白かったな。

大好きなものがあって、
なぜ、自分は好きなのか?って問うのは
探究の入り口のような気がしたし、
最後にビートルズから学んだことを
自分の言葉で語ってくれた。
「自分は自分、好きなことをして、好きなように生きていい」
いいなあ、そういう入口。

モチベーションのスイッチを押すって
そういう機会の積み重ねなんだなあって。
黒ひげ危機一髪みたいに、
「機会」というナイフを刺しまくっていくことだなあと。

ランチーミーティングの進行をした石井先生もすごかった。

ほかの人の意見を聞きたい
→「それによってあなたはどう変わる?」
おどおどしたくない
→そういう経験があったの?

ひとりひとりのコメントに対して、それを掘り下げる質問力。
すごいなあって。
わずか30分の魔法を見せてもらったようだった。

プロジェクトの説明をしてくれたのは取釜宏行さん。

2011年にUターンして私塾をスタート。
学習支援とキャリア教育の2本柱で取り組む。
この私塾でのキャリア教育がすごかった。

6つの柱で「島キャリ」を行っていて、
生徒が主体となった「やりたいイベント実行委員会」など、
興味深いプログラムが詰まっている。

ここから始まったんだ。

そんな風に思った。
26年から準備して平成27年度に大崎海星高校の魅力化がスタート。

考えられることはすべてやった。
民泊を受け入れている大阪の中学校全校に校長先生と一緒に営業にいった。
東京での説明会を12回行ったが、参加者ゼロの会も数回あった。
寮の整備も予算のない中、様々な可能性を検討し、交渉した。

いま、コーディネーターとしてプロジェクトの設計や
地域の人たちとの橋渡しを行っている。

「関係者には、電話で済む話でも直接会いに行く」
と取釜さんは言っていた。

車に乗せてもらっているあいだも、
郵便局でも、道端でも、
取釜さんは知り合いを見つけては、
自分から話しかけていっていた。

取釜さんが言う。
「すごい人がいたわけじゃない。熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。」

その通りなのだろうと思う。
はじまりはひとりかもしれない。
でも、その熱意が、熱意あるひとりを引き合わせる。
そこがつながると、何かが起こる。

コーディネーターがつなぐのは、
人と人ではなく、大人と高校生でもなく、地域と高校生でもなく、
熱意と熱意、なのだろうと。

熱意ある人がいて、その熱意がつながっただけ。

と振り返られるようなプロジェクトをつくっていこう。

夜明けは近い。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)

2019年07月24日

「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける



法政大学長岡研究室にお邪魔してきました。
いま参画している「阿賀黎明高校魅力化プロジェクト」
のコンセプトを考えていて、長岡先生の取り組みと
親和性が高いなあと思ったからです。

もともと、塩尻で出会ったエミリーが長岡ゼミ生で
この春卒業したのだけど、カフェゼミに誘ってもらって、
そのカフェゼミのゲストが慶応大学の「つながるカレー」の
加藤先生で、「予測不可能性」の大切さを気づかせてもらった場でした。

ということで、
長岡研究室訪問メモ。

~~~ここからメモ

長岡ゼミの基本方針:「直感」と「好奇心」で動き続ける

好奇心:興味を広げる(⇔知識を深める・技術を高める)
直感:試行錯誤で学ぶ(⇔正解を教わる/受け入れる)

漢方薬⇒長期的な変化(⇔迅速な修正)
    &個別対応(⇔プログラム対応)

垂直的発達(積み上げ)⇔水平的発達

「越境」⇔「学習」(目的に向かう)
「経営学」⇔「教育工学」

「経営学」がささいな問題に厳密に回答するようになり、役に立たなくなった。

2004年パルサミーノ・レポート
https://tech.nikkeibp.co.jp/it/free/NC/TOKU2/20041228/1/
「工業的な新しいことは必ず追いつかれる」
「アメリカはイノベーションし続けないといけない」

経営学総論(2011)

プレイヤーは「企業」と「政府」と「家計」
仕組みは「交換(市場)」と「再分配(税金)」
それらを支える学問が「経営学」「経済学」「家政学」

営利性原理の脱構築:「再分配」⇔「交換」⇔「互酬」
企業とは「営利性原理」に基づく活動「利潤最大化」と「自己責任」
最小の費用(効率)で最大の成果(成長)を得ようとする合理性が求められる。

交換:等価かつ同時
互酬:仲間内だけを助ける

資本主義の基本概念モデル

(所有権の移動)
取引⇒交換:市場/企業&家計
徴収⇒再分配:国家/政府
贈与⇒互酬:共同体(コミュニティ)

「ワークシフト」(リンダ・グラットン)

精神的ゆとりの欠如
人間的つながりの欠如
経済的な格差(貧困)

協力する社会←競争する社会:「強さ」よりも「優しさ」や「思いやり」
社会の利益←個人の利益:私とみんなの幸せを考える「共」の意識
自立する個人←集団に頼る個人:所属や肩書きに頼らない幅広い「人脈」

第1のシフト:「教えられて、やらされる勉強」から
「新しいことを主体的に学び続ける」へ。
第2のシフト:「閉ざされた世界の中での孤独な競争」から
「開かれた世界の人々のネットワーク」へ
第3のシフト:「金銭欲・自己顕示欲・独占欲」から
「楽しいからやる、分かち合う歓び」へ

ワークシフト時代を生き抜くために必要な「仲間」とは、
精神的な安らぎをもたらす仲間
プロジェクトを共に進める仲間
世界を広げてくれる仲間

ソーシャルデザインの視点
「公」「共」「私」
パブリック、コモン、プライベート

未来にある世界とは?
先行きが見えない世界⇒想定外を生き抜く力
多様な価値観が交差する社会⇒葛藤と向き合い、乗り越える力

「釜石の奇跡」
・マニュアルに頼らない
・ミスを恐れず最善を尽くす
・指示を待たずに率先する

「直感」⇔「計画」

大学生の現状:
人の評価が気になる。
間違えることを恐れる。

「評価されない」前提ですすめる。
プロジェクトのゴールを作らない。
キレイな物語(目的地から再構成する)ではなく
プロセスを記述できるか?

トライ&エラーで学ぼう
(直感)⇔計画
直感で動くと間違える。
計画して動くと動けなくなる。

直感で動いたことをふりかえる「越境」学習

イノベーティブなプロジェクトほど失敗が許される。
イノベーティブじゃないプロジェクトほど計画を綿密に立てる。

プロジェクトごとの評価をしない。
3年間の自らの成長を見る。

「計画できない」という前提

~~~ここまでメモ

いちばん感じたのは、
「評価」ではなく、「ふりかえり」であるということ。
直感で動けば、間違いしかないということ。

時代がシフトするように、
考え方もそちらへシフトしないといけない。

あとは、「教育学」は「経営学」より20~30年遅れているということ。

たしかに、「人を育てる」という意味では、
経営学は絶えずトライ&エラーを繰り返してきたと言えるだろう。

その経営学が
「これからは合理性じゃないんじゃないすか?」
って15年も20年も前から言っているのに、
いまだに教育現場では目標を立てて達成するっていうのを
やっていて大丈夫なのか?と

「機会」を得て学び、それを振り返って学びに変えていく。

そんな「学び」の出発点、いや人生の出発点に立つのは、
大学生からでは遅すぎるくらいだ。早ければ早いほどいい。

Good Luck!  

Posted by ニシダタクジ at 09:39Comments(0)

2019年05月19日

「屋台」のある街

東急田園都市線
桜新町駅徒歩3分のところに、
小さな神社「桜神宮」がある。



あれ。
鳥居の横に何かありますね。


人だかりができている「屋台」です。


やっているのは吉池くんと近所の小学生。


アメ横直送のシシャモが七輪であぶられていました。

吉池さんとは、昨年の11月1日@大阪での
「ながしのこたつ」がご縁でお会いしました。

阪急百貨店の前での「ながしのこたつ」

その時に
「ぼく、東京で屋台やってるんです」
って自己紹介されて、

えっ。
屋台やってるって何?

みたいな感じで知り合ったのだけど、
僕が大好きな著者の人のところで働いていたり、
アメ横の魚屋さんにいたり、不思議な人なんですけど、
一度いってみたいなあと思って、行ってきました。

屋台には、次から次へと地元の集まってきます。
そこで近所の小学生の男の子。
お手伝いをしています。
これ、楽しいだろうなと。

そういえば、ツルハシブックスにも、屋台があったな、と。


「屋台」のある街に住んでいた、っていう記憶。
それはその子の人生にとってどんなに大きいだろう?

「地元のまちに屋台があってさあ。
変な兄ちゃんがやってたんだよね。
小学生のとき、そこ手伝ってたんだよ」
って。

あ、そういえば「タナカホンヤ」もそんな感じかもしれないですね。

僕にとってはそれが、
「スナックたこ焼き」(スナックを改装せずにたこ焼きを売っていたお店が地元の駅前にあった)
だったのかもしれないけどね。

11月に大阪で話していた時のテーマは
「リアルメディア」(身体性を伴ったメディア)
だったのだけど、まさに桜新町の屋台はそんな感じだったなと。

そして、テーマは「場」へと移っていきます。

つづく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)

2019年04月18日

ありえたかもしれない、もうひとつの近代


「NHK100分de名著 スピノザ『エチカ』」

2回目の読了。
読めば読むほどすごい。

そして、冒頭の見出し、
「ありえたかもしれない、もうひとうの近代」
というキャッチコピーが2回目にして、しっくりとくる。

西洋的近代とは、
二元論であり、わかりやすさであり、目標逆算型システムであり、、、

っていうのが
スタンダードで、それが時代にあっていないんじゃないか?
っていう話はたくさん出ているのだけど、
そもそもそのシステムっていうのはどこから始まったんだっけ?

っていうので、
当然、産業革命以来の社会システムの変化を挙げるのだけど。
そのシステムを作り上げた要因として、「デカルト的哲学」があったのだなあと。
その哲学が社会状況と見事に符合して、現在の社会の価値観、哲学、倫理ができていったのだなあと。

~~~ここから本文より引用

私たちがいま国家だと思っている、領域があって主権がある国家という形態は、17世紀半ばになって出てきたものです。

いわゆる近代科学もこの時期に出てくる。たとえばニュートンは17世紀後半に活躍した人です。その科学の支えであった近代哲学も同じ時期に現れました。17世紀は本当に現代というものを決定づけた重要な時代なのです。

私はその意味でこの世紀を、思想的なインフラを整備した時代と呼んでいます。たとえばデカルトは近代哲学の、ホッブスは近代政治思想のインフラを作った人です。そのインフラの上に、続く18世紀の思想が荘厳なアーキテクチャー、つまり建築物を築いていきます。たとえばカントの哲学やルソーの政治思想をそれにあたるものと考えることができるでしょう。

そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、ある一つの思想的方向性が選択された時代だったと考えることができます。歴史に「もしも」はありえませんが、別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできます。私の考えでは、スピノザはこの可能性を示す哲学なのです。それは「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」に他なりません。

~~~ここまで本文より引用

このあと、「真理」についてのデカルトとスピノザの比較があります。

「デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところです。真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。私は考えている、考えているならば、その考えている私は存在している。と言われれば反論できない。」

「スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるということです。」

これさ、哲学は何のために、誰のためにあるのか?
っていう問いになっているな、と。

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際はそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけです。

「哲学」って生きるとは何か?という究極の問いに対する仮説にすぎないだと僕は思うのだけど、デカルトは、他者を説得するとか納得させるとか、何かのための哲学になっちゃってるんじゃないかと。これこそが、まさに近代社会との分岐点でしょ。近代工業社会にはデカルトのほうがめちゃめちゃマッチするのだけどね。

そして、この後、この本は(僕の中の)クライマックスへ向かう。

~~~ここから引用

私たちの考え方は強く近代科学に規定されています。私たちの思考のOSは近代科学的です。ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれません。

これこそが私が「はじめに」で述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない」ということの意味に他なりません。

近代科学はデカルト的な方向で発展しました。その発展は貴重です。私たちは日々、その恩恵に与って生きています。そしてまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもとても大切です。それを否定するのは馬鹿げています。しかし、そのことを踏まえた上で、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいのです。

近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています。

フーコーの「主体の解釈学」。かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていた。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。

この考え方が変わったのは17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。

フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。

~~~ここまで引用

スピノザ、すげーなって。
僕が大学時代からいろいろ感じて、学んだことが
ダイジェストで説明されてくる感じ。

「場のチカラ」とか「チューニング」とか「リアルメディア」とか
めちゃめちゃスピノザ的だなあと思った。
そして、火曜日に小田原で後藤タツヤと話して、
熱海でとっくんと話して、さらにそれが確信を増した。

「機会提供」そのものの価値。
それを本屋の棚を通じて表現すること。

教育の最大の矛盾は、目的・目標をもって始めなければいけないこと。
そして評価を前提をしなければいけないこと。
でも、エンターテイメントの本質は予測不可能性にある、ということ

それはまさに近代(工業)社会と僕を含めた若者が感じている違和感の
ギャップそのものであるのだけど。

でもさ。
スピノザ的に言えば、本質は自分らしくありたいとする力(コナトゥス)であって、
人によって、真理は異なるだろうし、その真理の獲得のためには自らの変容が必要なわけですよ。

ってことはさ。
「機会提供」こそが、人を育てるんじゃないの?って。

その人がその「機会」によって、どうなるかっていうのは、
あまり重要じゃないというか、
むしろ、その機会提供によって、自らがどうなるか?
っていう問いのほうが大切なんじゃないのか?

「挑戦するな、実験しよう」

にいがたイナカレッジの連載で掲げたコピーの意味が、スピノザを読んだ今ならわかる。

去年の夏にこはるんが言ってた
「イナカレッジは自分を知るプログラムです」の意味が、今ならわかる。

そして僕が本屋をたくさん作ろうとしていることの意味も。

機会を提供したい。本棚で表現したいのは、なぜなのか?

実験するために。
実験し、自分なりの「真理」にたどりつくために。
そのたどり着く過程で、自らを変容させるために。

いや、ために、じゃないんだよ。

生きることそのものが、そのプロセスの中にただ、ある。
根源的欲求として、ただ存在するのだ。

本棚に刺さっている1冊の本。
1冊の本から実験の旅が始まる。

そんな本棚をつくりたいと心から思う。

あなたもそんな本棚をつくるひとりになりませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 09:45Comments(0)日記

2019年02月22日

「ただいま」って言える場所

茨城大学iopラボ「場づくりラボ」スピンオフ
場づくり公務員と行くWagtail見学ツアーでした。







水戸市南町にあるコワーキングスペースWagtail。
ビジター500円で4時間というコワーキングスペース

http://www.wagtailmito.jp/

会員になると、イベントスペースも無料で使えるという
これ、近くにあったらいいなあと思える。

いちばんよかったのはハードが立体的だったこと。
もともと洋服屋さんだったところなので
フロアの仕切りがオープンになっていて、アイデアが浮かびそう。

そんな見学ツアーのあとで小泉さんのお話。

~~~以下メモ

創業・副業支援:社会保険料を1.5倍払ってね。
ワグテイル:公設(水戸市)民営(公社)

場にいない「場づくり」の難しさ

企業創業支援っていうマジの人だけに特化しない
やりたいけど、どうしようかなあという人に使ってもらう

畑をやる部活:ローカルならでは。
飲み会以外のコミュニケーションのデザイン。

「地域」と「行政」を結ぶ価値

場づくりは、結ぶこと
公務員=ジェネラリストが求められる。

最近は中途採用が増えている。
中途専門職員:公募しなくていい。

唯一の価値:なくなった。
「価値はなんだっけ?」と考え始めている。

水戸だけではおさまりきれない。
価値の考え方を再構築する。

働くと住むをもっと自由に。
好きなまちで仕事をしたい。
拠点=ただいまって言える場所。

~~~ここまでメモ

小泉さんのお話、おもしろかったなあ。
公務員っていう立場とか、自分のおかれている環境とかを
デザインしているなあと思った。

ワグテイルの仕組みも
公設民営っていうことでのイベントの自由度が
上がったりして、仕組みとして面白いなあと思った。

僕も「本屋のつくり方講座」をやろうと思います。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)日記

2019年02月09日

「伴奏型支援」

2月7日(木)@新潟県庁
「地域づくり支援者サミット」に出席してきました。

大正大学「地域実習」でご一緒した
柏崎まちづくりネットあいさの水戸部さんに注目していて、
そのプレゼンが聞きたかったので。

1 新潟空港でバス停までダッシュ 12:50
2 新潟駅で南口から万代口へダッシュ 13:25
3 新潟県庁で西回廊講堂へダッシュ13:45

で、なんとか水戸部さんのプレゼン2分前に会場入り。
受付してなくてすみません。





すごい人数でした。
まあ、3分の2は自治体の人でしたけど。
登壇者はフレッシュな人たちだったなあと。

柏崎の水戸部さん
糸魚川の屋村さん
川口の砂川さん
新鮮だったなあと。

たぶん、こっち系のイベントには
ヒーローズファーム始めてから行っていないから
10年以上ぶりになるのではないかな。
しばらく行かないうちに、自分が若手じゃなくなってた。(笑)

一番の感想は、特に上の3人みたいに
現場で体当たりでやってきた人たちの生の声って
めちゃめちゃ響くなあと。

実践者の声はリアリティが違うなと。
3人のお話を中心にメモ。

~~~ここからメモ

まちのプレイヤーを増やす。
キーワードは「欠落」と「有意味性」。

「欠落を抱えている人」を探す。
それをどう「欠落を補う人」に変えるか?

欠落を補う「有意味性」
「あなたはなぜそれをやらなければならないのか?」に対する答え。

有意味性とはなにか?
・過去に欠落や喜怒哀楽、得意不得意を見つけ、自己開示する
・なぜか?には理由があり、理由である原体験は模倣できない
そこから導かれる答えはあなたにしかないストーリーになる。
そこに有意味性を見つけること。

まちにプレイヤーが少ないこと

まち・社会とふれる機会が少ないこと

まちでの生き方の選択肢が少ないこと

⇒まちにふれて自分の生き方をふれる機会が必要

学校教育のインプットと社会で求められるアウトプットのギャップ
「協調性」「空気を読む力」⇒「独自性」「当たり前を疑う力」
「まんべんなく能力を伸ばすバランス型人材」⇒「特徴や個性のある特化型人材」
大きなギャップがある。

「チェンジメーカー」柏崎の中学生から大学生までの次代の担い手にソーシャルアントレプレナーシップを持ってもらうための教育プログラムを提供することで、柏崎の未来を担う起業家の発掘を目指すローカルプロジェクト。

「民間メンター」:地域の起業家の伴走型支援、
「社会とお金」:地域課題解決を事業化する方法、
「起業家精神」:感じたこと、考えたことから自主的・主体的に行動すること

↑ここまで柏崎まちづくりネットあいさの水戸部さんのプレゼンメモ。
めちゃめちゃ共感しました。
そういう「場」を地域でいかに作れるか、っていうこと。

そして、なんといっても、昨日の地域づくり支援者サミットの主演は、屋村さんでした。
面白かったし、プレゼンかっこよかった。
旦那さんの「スライド10枚以上残して終わる人なかなかいませんよ」
っていうコメントもさらによかった。笑

ということで、屋村さんプレゼンメモ

「波と母船」(糸魚川市木浦地域)
2018年春、長者温泉ゆとり館を引き継ぐ。

致しません。
地域起こし
地域活性化

そこに地域住民への思いやりはある?
若者に「あなたたちの地域は何もない」と言われたら悲しい。
「そのままの知恵、暮らし」を宝ものにするだけ。

地域・残し
「変えたほうがいい」と思っているものはありません。
「見方、見る方向が変わっているだけ」です。

今あるその暮らしを学んで、磨いて輝かせて
私たち世代から次世代に残してつないでいくだけ。
それがこの地域を「のこす」ことにつながると考えています。

★ここ、ホントそれ、って。
「地域」ってなに?

いままでの「地域づくり」は、
実体のない「地域」を支援してきたのではないか。
地域って、ひとりうひとりの暮らしの集合体だろうと。
ひとりひとりをリスペクトしているのかっていう問いに詰まってた。

「地域を置いてきぼりにしない」を学ぶ。
地域への説明の大切さ。

あとは、相談→解決の流れを繰り返す、という。
ブリコラージュの精神にあふれた、地域づくりのお手本のような事例だったなと。
相談して、地域の誰かが、いっちょやってやるか、
って立ち上がって、解決していった。すげーな。

プロセス(経過、順番)デザイン
進め方は慎重に。
誰の為に?何の為に?どうしてやるの?そこに愛はあるか?

・地域への思いやりがあって私たちの活動がある
・地域の思いを丁寧にくみ取ることをおろそかにしない
・進める順番、配慮、気付きを10個くらい考える
・地域でコトを動かすには「良いこと」「悪いこと」の判断ではなく筋の通し方で始まるか始まらないかが決まっていく。

★これ、リアル。実践から出てくる言葉で重い。
プレイヤーやったことないのに、中間支援ができるのか?っていう問いになってる。

「ぼちぼちたけだ」砂川さんのデザインも素敵だった。

・紙ベースで手書き。難しい漢字は使わない。
・コンビニでコピーできる「白黒A3サイズ」
・発行日を決めない。ネタが集まり次第発行
・なるべく手渡し
・ニヤリと笑えるネタや書き方を工夫。
・捨てられないように裏側はイラストマップ
・批判しない 傷つけない マイナスオーラ出さない
・集落情報だけでなく、地域や代表の関係性の情報も載せる。

7世帯の竹田集落に配る新聞「ぼちぼちたけだ」
7部だけすればいいという。
(増刷はコンビニですぐにできる)

いいなあ、この力の抜け具合。

~~~

現場のリアル。
それが詰まった、すてきな報告会だった。

それを踏まえて役所はどうするのか?
中間支援団体どうするのか?

みたいな会議だったのだけど。

メモにも書いたけど、屋村さんの言っていたことって
実際の現場飛び込んで、右往左往したからこそ
リアリティがあって、そうそう、そうそうって思えるのであって、

大学の先生や、コーディネーターや地域づくりの重鎮が
「筋を通すことが大事です」とか言われても、
そんなに響かないんだろうな。
「ひとり」や「ひとりひとり」にフォーカスしている重みがあるなあと感じた。

しばらく行かないうちに時代は変わったんだ。

地域づくりしたい。

コーディネーター養成講座に出て、

地域づくりワークショップを開催して、

付箋にアイデアだして、

「それいいね」と思うけど誰もやらない。

そんな時代の終わりを感じた。
(僕がそっちの業界に行かなかった理由です)

プレイヤーが飛び込んで、
地域とコミュニケーションしながら、
一緒に作っていくこと。

その「一緒につくる」の部分に、
「自分は支援者だ」と思っている人は入っていけない。
「支援・被支援の時代」の終わりを感じた。

誰が「つくる」のか?
支援者か、被支援者か?
その問いが存在している地域では
「つくる」ことは起こらないと思った。

もっと、今を、ライブに生きること。
ひとりひとりの人生に、暮らしに、フォーカスすること。

そしてやってみること。
相談すること。
発信すること。

そうやって、結果、つくられていく地域。
地域づくりは目的ではなく、結果なんだなと。

そんな方法論を、
「伴奏型支援」と名付けられないだろうか。

こういうレポートタイプのブログは、
ツイッターでメモを起こして、
そのあとからそれを眺めながら記事を書いていくのだけど、

パソコンやスマホでメモを打っていると
「誤変換」されることがたまにある。

水戸部さんのプレゼンに出てくる、
「伴走型支援」と打とうとして、
「伴奏型支援」に変換された。

えっ。
いいじゃん。伴奏型支援。
ジャズのような、即興音楽のような、
そういう「場」を地域に作っていく人。

もちろん自分自身もひとつの楽器になり、
そこに加わっているという。

それって、
どっちが支援されているんですか?みたいな。

そういう「場」をつくっていくような
地域づくりが始まっていく、
そんな予感のしたフォーラムでした。

楽しかった。  

Posted by ニシダタクジ at 06:39Comments(0)日記

2019年02月04日

「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ

「続・ゆっくり、いそげの朝」@胡桃堂喫茶店(2019.2.3)





※新潟内野・「ウチノ食堂藤蔵」内の「APARTMENT BOOKS」でも販売しています。

新年に「続・ゆっくり、いそげ」を読んでから
心地よい敗北感(この場合の敗北ってなんでしょうね。言語化やコンセプト化への敗北感なのか)
に浸っている中でも何かムズムズとしていたところ、
影山知明さんにお誘いいただき、国分寺・胡桃堂喫茶店での
「続・ゆっくり、いそげの朝」で対談してきました。

テーマは「場」ということだったのですが。

面白かったのは、
影山さんがいう場の力(影山さんは漢字表記)は、
「空間」×「関係性」×「記憶」

っていうことで、
だんだんと積み重なっていくものという感覚だったのに対して
僕が昨年考えたのは。

1 誰とやるか
2 いつやるか
3 どこでやるか

っていう比較的インスタントというか、
その瞬間の場のチカラ(カタカナ表記)について
考えているのだなあと。

影山さんの言葉を借りれば、
僕は「場」へのインプットに力点を置いていて
影山さんは「場」からのアウトプットを大事にしている。

それは、
「土になりたい」「土でありたい」
という言葉にも表されているけど、

植物を育てるように、
種を蒔き、水をあげ、コンディションを整えて、
目を出してくれるのを待つ、というもの。

それが「続・ゆっくり、いそげ」のテーマである
△を▽に。だ。

文字にすればリザルト・パラダイムからプロセス・パラダイムへ
人を手段化するのではなく、ひとりひとりの人から始まる経済、世の中。
僕のワークショップの時の肩書は、チューニング・ファシリテーター。

影山さんは、そのようなファシリテーションがあまりしっくりこない、という。
無理やり「自己開示させられている」のはないか、と思うからだという。

なるほど!
と思った。

たしかに、「自己開示させられている」と不快(大げさに言えば)
に思った人が何人かいた場合、
その場の雰囲気は、なんかおかしなものになるのではないか。
その通りだなあと思った。

そして、
「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ
そこには無数のグラデーションがあるのではないかと思った。

ある1冊の本を思い出した。
「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)。



http://hero.niiblo.jp/e487965.html
(「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感 18.8.20)

一部だけ抜粋すると

~~~
能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。

「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。

出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。

意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。

私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。
~~~

「自己開示する」と「自己開示される」
の差は、実はあいまいなものだと思った。

影山さんが「続・ゆっくり、いそげ」の中で一貫して言っている
「リザルト・パラダイム」に組み込まれ、人が手段化されることへの違和感。
それは、「させられる」ことへの違和感、なのかもしれない。

~~~
P197
サポートする側としても、支援「させられる」のではなく、
自己決定に基づいて支援「する」のであれば、
それはギブし合う(支援し合う)関係となる。
~~~

それにはめちゃめちゃ同意できるし、その通りだと思うのだけど、
「させられる」と「する」の差は、紙一重なのではないか、と思うのだ。

同じ行為であっても、「セクハラ・パワハラ」に該当するかどうかは、
当人たちがそれをどのように捉えるか、にかかっているように、
発言や行動などの事実のみで、それを判断することはできない。

「支援させられる」のか、「支援する」のか、
「自己開示させられる」のか、「自己開示する」のか、
っていうのも、非常に線引きが難しいところだと思う。

たとえば、
「自己開示させられている」と認識した上で、
あえて、ここはそういう場だから、そういう場づくりに向けて、
「自己開示する自分を演じよう」と思ったとき、
それは「自己開示している」のか、「自己開示させられている」のか。

おそらくは、本屋である、ということは、
そのあいだをつくろうとしているのではないかと思っている。

たとえば、「本の処方箋」。
あなたの悩みを聞いて、本を3冊、処方します。
問診票を書いてもらい、話を聞く。
聞いている僕がびっくりするようなリアルな悩みを話してくれる。
それはマクロでみれば、「自己開示させられている」
自己開示をさせる手法として、見ることもできる。

しかし、ミクロで見れば、
その「場」には、自ら「自己開示する」あるいは「自己開示してしまう」
ような何かが存在している。
ひとつめに、僕が初対面の本屋のおじさんであること。
ふたつめに、本を処方したくらいでは、その悩みは到底解決しないということ。
この2つが、自己開示を促すことになる。

もしくは、
本屋さんの店内で、飲み会をしている。(営業時間中)



とある中学2年生女子がお姉ちゃんの塾の送り迎えの合間に、
お父さんと一緒に立ち寄ったら、なんか、飲み会してる。
「部活なにやってるの?」と聞かれる。
「実は、部活やめてやることがないんです。」と答える。
「屋台をやってみたら?」と言われて、友達をお菓子の屋台をやってみる。
(ツルハシブックスで実際に起こった話)




つまり、「する」と「される」のあいだは非常にあいまいなんだということ。

僕はそれが「場」なのだろうと思う。

「続・ゆっくり、いそげ」の中で影山さんは場が力を持つときの
5つの条件を紹介していて、
4つ目に「主客同一の要素があること」
が出てくるのだけど、

僕としては、
「主客同一」というより、西田幾多郎風に
「主客未分」な状態なのだと思う。

そして、「主客未分」とは、
「する」と「される」の境目があいまいな状態なのではないかと思う。

「支援する」と「支援される」があいまいな状態。
そういう場こそが場のチカラを発揮するのではないかと思う。
昨日の話で言えば、「参加」と「ケア」が同時に起こるということ。
本屋さんっていう空間は、それが作りやすいのではないかと思った。
今回のトークでの一番の問いはここでした。

「問いを得られる場」「問いをつかめる場」って大切だなあとあらためて。

「続・ゆっくり、いそげ」のラストに、こう書いてある。

~~~
システムをつくるには、それをつくるための原初的な問いがいる。
現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、
その問いに答えようとしていると考えれば、
今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。
~~~

新しいシステムをつくるには、「問い」がいる。

1999年、24歳の時に始めた「まきどき村」は、
僕の中の「豊かさってなんだ?」っていう問いへのアウトプットだし。
ツルハシブックスの地下古本コーナーHAKKUTSUだって、
「15歳と地域の多様な大人に出会わせるには?」という問いから始まっている。

昨日もトーク終了後に、たくさんの人が
会場にそのまま残ってランチやお茶を楽しみながら、
延長戦として話していた。

投げ込まれた問い、あるいは自分の中で生まれた問いを
そのまま自分の中だけで消化できず、みんなでシェアしていたのかもしれない。

そういう問いから、システムは生まれていくし
「システム」っていう言い方が大袈裟ならば、
仕組みやプロジェクトが生まれていく。

そういう「場」を僕はつくりたいし、
それが「本屋」だったら素敵だなあと思う。

そうやって生まれてくる「問い」に対して、
人はフラットになれると思う。

今回影山さんと話して僕が確認したのは、
・僕が「いま」にフォーカスしているということ。
・僕が主客未分、あるいは「する」「される」という概念があいまいであることを望んでいること。

「本屋のような劇場」
を目指していたのは、おそらくはそういうことなのだろうと思った。

影山さん、今田さん、参加されたみなさん、
素敵な「場」をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:39Comments(0)

2019年01月22日

場をつくることは、未来を分からなくする方法

中目黒蔦屋朝活からの武蔵新城へ。



石井さんに久しぶりに会ってきました。

その後、新潟・粟島のゲストハウス「おむすびのいえ」の
花ちゃんと、新城が誇る名店「自慢亭」へ行き、タンワンメン。


おいしそうに食べるなあ、花ちゃん。(笑)

その後、定休日の「book & cafe stand shinjo gekijo」へ。
マネージャーの真希ちゃんと3人で話をしてました。



2時間半があっという間に過ぎていったのだけど、
一番印象的だったのは、花ちゃんの一言。

「場をつくるっていうことは未来を分からなくするってことだよね。」

ゲストハウスやっていると、いろんな人が来る。
その出会いによって、人生が動く。
だから、ずっとゲストハウスをやっているか?
って聞かれても、わからないとしか答えられない。

場をつくる、場を持つ。
っていうのはそういうことなんだ。

そっか。
そうだよね。
「場」っていうのはそういうものなんだよね。

ってすごく納得した。
そういう場が「一期一会」の空気をつくり、
(おそらくゲストハウスの最大の魅力はそこにある)
そういうのを大切にしたい人が集まり、人生が動いていくんだよね。
それは、カフェでも本屋でも同じだと思った。

夜は、「イナカレッジ・ラボ」。
いま、湯島天神のすぐ下に、ラボをつくる構想中で、
日曜日に小さな本屋をやり、
昨日はイナカレッジ・ラボというイベント。







新潟・飯塚商店の米を食べてからワークショップ。
今回も前回に引き続き、キーワード・カフェを行った。

時間が足りない。
という声が続出。
いい時間となった。

「キーワードカフェ」のいいところは、

感性でキーワードを選んで、
そのあとで理由をつけていく、

そして何より、みんなが、それ、なんで?

っていうように「問いから始まる」
からではないかなあと思った。

昨年秋に茨城大学で「場づくりラボ」をやったときに、若松さんが
「西田さんのワークショップはもやもやして終わる。スッキリしない。」
って言われたけど、

それって、「問いが残る」っていうことなのではないかな。

「問い」って言っても、
それが言語化されていないかもしれないのだけど。

ああ、そうか。
言語化されていない問いがある時の状況を
「もやもやする」っていうのか。

確かにそうだよね。
「違和感」とかってまさにそう。

それをもらうんだ。
ワークショップっていう「場」によって、

それはもちろんひとりの「人」の発言や
発言を聞いた中で自分の中から立ち上がってくる感情なのだろうけど。

「場をつくる」とか「場に参加する」「場の構成員になる」っていうのは、
そういう問いをキャッチして、もやもやするっていうことなのかもしれない。

そこから自分の内部で、
問いが始まっちゃっているから、
それによって、未来が変わっていくのだろう。

花ちゃんが言ってた、
「場をつくることは、未来を分からなくする方法」
ってそういうことなのかもしれない。

言語化できてない未来の種を手に入れる方法。

それが「場」なのかもしれないなと思った。

本屋やライブラリーという「場」もきっと、
そういう種を手に入れる「場」になっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)

2018年10月19日

雪国の誇りをコンテナ輸送する

今朝は坂戸山に登りました、
雲海、きれいでした~。







昨日は大正大学「地域実習」31日目。

一般社団法人「ゆきぐに利雪振興会」の高橋悟さんに
お話を伺う。



まずは高橋さんの熱の入った講義から。

~~~以下メモ

消雪パイプが新潟の暮らしを劇的に変えた。
除雪→融雪になった
長野・北海道では地表に出た瞬間に凍ってしまう。
チェーンがスタッドレスでもいけるようになり、
スキー場に人があふれた。
観光産業の発達などにより出稼ぎに出なくてもよくなった。
一方で地下水のくみ上げによる地盤沈下などの問題もある。

これまでの雪との歴史
酷雪→克雪→利雪→楽雪
  消パイ・スキー場
※昔は出稼ぎ・機織りをしていた  

利雪:雪をお金にする発想力が必要

酒蔵の使うお酒:雪解け水:溶けた雪
コシヒカリをつくる:雪解け水

雪室:入れるとおいしくなるのは雪国の人は知っていた。
にんじん・だいこんなどの根菜類は甘みが増す
→なぜ甘くなるのかわからなかった。

八海醸造の雪室:自然循環型
自然循環でお酒を貯蔵している。
最初に投資はかかるけど、ランニングコストは安い

お米を貯蔵するのは
機械システム型で空気だけを冷やす。
(湿度が高いとダメ)

「雪は恵みである。」

ゆきぐに利雪振興会
東京オリンピックの競技へ雪を生かすことを目指す。
今年はお台場のビーチバレー会場へ。
トラックではなくJRのコンテナを使って輸送する。

断熱シートではなく、
ウッドチップで覆う。

断熱シート:6,7年で劣化
ウッドチップ:3年で腐食する
→腐食したウッドチップ:ドックランに最適?

これまでは雪を解かすのにエネルギーつかってた

これからは雪からエネルギーをもらおう

自然エネルギー:電気を起こすだけじゃない
雪の冷たさで冷やすこともエネルギー

~~~ここまでメモ







講義のあと、
実際に雪を貯蔵している山へ見に行く。

高橋さん、いい顔してるなあと。

高橋さんが東京に運んでいるのは、
単なる雪ではなく、
「雪国の誇り」そのものなのだろうなあと思った。

自分たちが育った、また暮らしている南魚沼の
誇りそのものを、全国に発信していく。

雪室や利雪プロジェクトは、郷土の誇りを生んでいると思いました。

そこへの共感が南魚沼のファンをまたつくっていくのだろうと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)

2018年10月07日

なぜ本屋なのか?

「本屋である」ということ
http://hero.niiblo.jp/e487816.html
(18.7.24)

8月下旬に某ケーブルテレビのインタビューを受けた時。
そんな問いを問われた。

「西田さんはなぜ、本屋なのか?」
つまり、なぜ本屋という方法をとるのか?

http://hero.niiblo.jp/e485430.html
「本屋」という方法
(17.7.25)

http://hero.niiblo.jp/e455612.html
滞在時間を増やすとリピーターになる
(14.11.2)

とまあ、
なぜ本屋なのか?
っていう問いは終わりのない旅なのだけど。

今回の東京・茨城出張で感じたこと。



10月4日朝:佐藤孝治さんと「燕湯」→「つなぎ道」インタビュー
10月4日夜:NPO・NGO勉強会「草莽の集い」ゲスト
10月5日夜:茨城大学iOPラボ「場づくりラボ」開催
10月6日朝:上野公園スタバ朝活「とやまゆか学」
などなどから。

「目的を持って始めないこと」
「課題を解決しないこと」

これがとても大切なのだなあと思った。

そしてそれが表現できるのは、
本屋という空間が大切なのだと。

まずは「場」に参加してもらうこと。
心を開いてもらって、話を聞き出すこと。
気がついたら行動を起こしてしまっていたこと。
機会の提供であって、結果は気にしないこと。

たぶんそういうの。
そういうのがやりたいのだよ。

それが一番実現するのが本屋という方法なのだろうなと思った。

それは、キャリアデザインへの違和感。
「やりたいことがわからない」という悩みへの違和感。
「夢」や「目標」を問いかける学校社会への違和感。

そういう違和感を自分なりに表現したもの。

それがまきどき村という畑であり、
ツルハシブックスという本屋であり、
暗やみ本屋ハックツというプロジェクトなのだろう。

犯人が最初から分かっている推理小説を、
誰も読み始めたいとは思わないだろう。

最初は言語化できなかった違和感を追いかけて追いかけて、
いま、ここに来ました。

安西先生、おれ、本屋がしたいです。  

Posted by ニシダタクジ at 09:35Comments(0)