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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年04月30日

安定期の具体、変革期の抽象


「具体⇔抽象」トレーニング-思考力が飛躍的にアップする29問(細谷功 PHPビジネス新書)

この本も続いて、「探究」の設計に使えそうなので購入。
半分くらいまで来ましたが、大切そうなところに来たのでメモします。

問題解決の3パターン
1具体→具体の問題解決:表面的問題解決
2抽象→抽象の問題解決:机上の問題解決
3具体→抽象→具体の問題解決:根本的問題解決

ビジネス書にありがちなのが1
官僚的組織(学校含)にありがちなのが2

とかね。
具体と抽象を行き来することの大切さを教えてくれます。

今読んでいるところはこちら

~~~ここから引用(P113)

保守的な考え方をする人や組織によくある思考回路ですが、とにかく前例に則る、あるいは過去の経験に則るというのは、実は何か考えているわけではなく、思考停止に陥った解決策と言えます。こうした解決策は、外部環境やその他の周囲の条件が変わっていない場合には有効であることが多いのですが、様々な条件が変わった場合の変化への対応性がありません。つまり、先に述べた「安定期の具体、変革期の抽象」の具体的な例です。

規則や常識にとらわれているといのは具体レベルにとらわれているのとほぼ同義と言えます。その規則や常識を世の中の全てだと信じて疑わないために、その世界から出られないというわけです。

一方、規則や常識を抽象化して考えられる人はそれをメタの視点からとらえ、なぜそれが必要なのか、その意味するところは何なのかと問いかけることで、その抽象レベルの意味合いを抽出し、もしそれに変化があるのであれば新しい規則を生み出し、次世代の常識をゼロベースから作り上げることができるのです。

~~~ここまで引用

この後も抽象化とは「WHYを問うこと」「メタで考えること」「全体を俯瞰すること」という、まさに!っていうのが続きます。
そして具体化とはその逆に「HOWを問うこと」と続きます。

これ、いいですね。使えそうです。
KJ法は、まさに「具体と抽象」を行き来する発想法なのだと思うのですが、
「具体化」「抽象化」を意識して練習することが大切なのかもしれません。
本に紹介されているP65「具体と抽象のツリー」みたいな練習がいいかもしれない。

高校生の「志望理由書」も大学生の「就活」も言ってみれば自分の人生の抽象化をやっているってことですよね。
スティーブジョブズ的に言えば、コネクティング・ドット。
まあ、そのためには、コネクトできるだけのドット(経験)をたくさん打っておく必要があるのですが。
そういう前提を共有して、具体⇔抽象のトレーニングをやっていく必要があるかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 08:12Comments(0)

2021年04月29日

「学びの意欲」はどこから来るのか?


「問う方法・考える方法~「探究型の学習」のために」(河野哲也 ちくまプリマー新書)

非常に読みやすい。
シンプルにまとめてあって素晴らしいなと。
「探究型学習」とは何か?
いまなぜ探究なのか?を理解するにはとてもよい1冊かと思います。

以下、心に留まったところの引用

~~~

これから重視される学歴とは、どこの有名大学を出たかではありません。あなたが何の勉強をしたか、どんな知識や能力を身につけて、それがどのように社会と結びついているのか、本当の意味での「学」びの履「歴」が問われるのです。

今の自分が何者であるか、すなわち自己同一性(アイデンティティ)よりも、これから何をするか、その活動を通してこれから何になるかに重きが置かれるようになります。新しい活動を行っていくこと、そうして変わっていくこと、すなわち「自己変容」に人が関心を持つようになります。

教養とは一般的な事柄について広く浅く学び、常識を身につけること、あるいは、専門に行くための基礎的な知識を身につけること、ではなく、教養とは、現在の狭く細分化されすぎている専門性をより広い視野に立って鳥瞰的・俯瞰的に捉えるための知的態度のことなのです。

~~~

読んでいて、2つ思い浮かんだので、2つのブログ引用

「学び」と「遊び」のあいだに「探究」がある(21.1.9)
http://hero.niiblo.jp/e491337.html

「共同探究者」になるということ(19.4.8)
http://hero.niiblo.jp/e489119.html

~~~

「探究的」に学ぶとは、「対話的」に学ぶこと、「機会的」に学ぶこと、「実験的」に学ぶこと

小学校に上がると「祝福」のパラダイムが「評価」のパラダイムに変わってしまう。

小学校に上がると「遊び」と「学び」が分けられてしまう。「探究」なんてハマっている子にとっては遊びのようなもの。教育というシステムが「遊び」と「学び」を分けている。「学びのコントローラー」を握れずに、「人生のコントローラー」を握れるのか?

自転車に乗れるようになると、乗れないように戻ることはできない。

この瞬間、子どもの目の輝きが意義深いと直感したときに、どういう時に子どもたちの目が輝いたのか?その本質や構造を明らかにすれば、それは教育の指標になり得る。

先生に教えてもらうこと。それは学校じゃなくてもできるのではないか?学校じゃなければ、できないことは何か?学校に行く理由が先生に教えてもらうことではなくなる。だとしたら、生活する「場」が大切になるのでは。

学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」っていうのは人間にとって自然。現在の教育は150年前の仮説にすぎない。それ以前から学びはすでに存在していた。時間割に合わせて、探究心をそぎ落としてきた。それが現在の学校システム。

~~~

さらに、下のブログからこちら。

学びと遊びが連続的に起こっていくこと。それこそが「探究」の楽しさであると思う。
「挑戦」の連鎖じゃなくて、「学び」と「遊び」と「さらなる学び」の連鎖をつくっていきたいな、と。

~~~

探究なんて「遊び」のようなものだ、と思っていたのだけど、それがこの本に少し解説されているような気がします。
その鍵になるのが「学びの意欲」です。

~~~ここから引用

人はどういうことに学ぼうとする意欲を持つでしょうか。「知りたい」という気持ちには、大きく言って二種類の動機があると思います。ひとつは、世界がどうなっているかが分かるような、一種の見取り図のようなもの、あるいは地図のようなものがほしいという願望です。これは子どもの頃からの好奇心に近いものです。

もうひとつは、何かができるようになりたいという気持ちです。この何かができるようになりたいという気持ちは、「何かを達成して、自分が世界の中で効力を持てる存在になりたいという気持ち」でもあります。自分を含めただれかの苦しみを取り除きたいとか、だれかに楽しさを与えたいといった目的を持ち、そのために何かができるようになりたいというのが人間の学びへの動機になります。

ごく単純に言えば、楽しいこと、面白いことをやりたい、そして嫌なことを避けたいという気持ちに素直になり、そのために何かがやりたいと思うことが動機づけになるのです。

~~~ここまで引用

「学びの意欲」がシンプルに書き示されています。

僕のつぶやきはコチラ

「これを勉強すると何のためになるのか」という問いは、知識と社会の関わりについての全体像がないまま学び続けることへの抗議なのです。

「苦しみを減らしたいか?」「楽しみを増やしたいか?」もしくは、その両方か。

世界のカタチを知るために学び、本を読み、話を聞き、世界の役に立つために誰かのために何かをできる存在になる。

「できるようになりたい」と思えるような「経験」の圧倒的な不足と、「自分は(勉強)やってもできない」という負の記憶の蓄積により、「学びの意欲」は中学卒業までにひたすらに削られていく。その「経験」と、「(勉強以外の)やったらできた」を積み重ねていくこと、それを地域でつくれないか?

~~~

あとは哲学対話のやり方のシンプルなもの

「創造的思考」「批判的思考」「ケアする思考」
この3つをベースに、
・意味の明確化
・理由
・証拠
・検証
・一般化
・含意
という6つの質問をすること。

あとは問いについて。

「問い」には「事実に関する問い」と「価値に関する問い」の2つがあります。
「事実に関する問い」は事実の中に答えがあり、データによって100名中100名が納得する回答を得ることができますが「価値に関する問い」は、事実の中には答えは見つからないので、価値に関する問いについては、共通の価値や考え方を知り、同意してもらう人を増やすしかない。

うーん。
これもシンプルでいいなと。
このあとレポートの書き方とかって進んでいくのですが、この1冊で、総合的な探究の時間のアウトラインはできそうな。

いちばん印象に残ったのは、「学びの意欲」が「世界の構造を知りたい」と「誰かの役に立つためにできるようになりたい」という2つにまとめられる話と、それらが「経験」の圧倒的な不足など、学校や地域のシステム(環境)によって徐々に削られていくにも関わらず、「学ぶ意欲のある子、ない子」などと生徒個人の責任になってしまっていること。

「学びの意欲」を育み、共同探究者としての大人を増やしていくこと。
それがこの地域では可能なのではないか、と感じています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:38Comments(0)学び

2021年04月26日

人間が生物であること


「進化思考」(太刀川英輔 海士の風)

土曜日の朝から読み始めて、300ページまで来ました。
500ページ越えの大作なのに、すいすい読めます。
3300円。安い。と思える1冊です。
自宅待機のGWにオススメです。

すごい本だわ、この本。
読み始めから心と頭を撃ち抜かれて、つぶやきまくっています。

僕が帯を書くなら、
「人間が生物であることを思い出させてくれる本。「変異」と「適応」で集団として生き延びろ。」
かなあ。

「創造」とは何か?
それは、「進化」のプロセスに似ているのではないか?
という壮大な問いから始まったこの本。

まず、この二つ。

目的は適応であり、変異は手段だ。この二つのバランスが創造性そのものなのだろう。

進化は、偶然だ。無数の変異的挑戦による、壮大な結果論なのだ。そして変異のパターンとは、結果を恐れずに偶然に向かおうとする挑戦のパターンそのものでもある。

この2つにすべてが詰まっている、と言ってもいい。
人間とは、生物なのだ、と。
「創造」とは、「進化」そのものである。

そして、これ。
「モノを改善する解剖と、過去の分類からの系統が20世紀的な適応の分析手段だったとすれば、人や自然との繋がりを取り戻す生態的哲学と、未来のために創造する予測的哲学によって、まだまだ時代の創造性は高まる可能性がある」

希望とは、こういうことを言うのだろう。
まだまだ時代の創造性は高まるし、そのプレイヤーたちが今目の前にいる高校生たちだ。

そして、これ。
「すべての創造は、進化のように遺伝的で、過去からの影響を受けた変異として発生する。」
「創造にもまた種の起源がある。こうして起源から創造は脈々と遺伝する」

いいなあ、これ。
「総合的な探究の時間」設計のコンセプトワークにも使えるし、何よりも
僕がツルハシブックス以来取り組んできたアイデンティティ・クライシス(「存在」の危機)に
どのように対処したらよいか?について、ひとつの指針をくれる。

昨年11月。
「存在」は創造のエッジにあるという仮説を立てた。
http://hero.niiblo.jp/e491178.html

結論はこれだ。
「存在(承認)」とは、「偶然性」と「一回性」と「全体性」の交点にある個人が「場」と一体化した創造のエッジに生み出される何かの中に、現れるものであるのかもしれない。

「一回性」のところが、僕の「場のチカラ理論」の特徴ではあるのだけど、「進化思考」的に言えば、「偶然性」が変異で、「全体性」が適応である。変異と適応。これが進化の本質であり、

「適応」が、
ヨコ軸としての「解剖」・・・細かく分け内部構造を見る 「生態」・・・外部との関係性を想像する
タテ軸としての「系統」・・・過去からの文脈を見る 「予測」・・・未来を現実に近づける
の4つの「時空観」によって考えられるからだ。

この本の212ページに書いてある
「好奇心とは時空観の探求にほかならない」という一節もすごい。
たしかにそうだ。好奇心とは、上の4つの方向へ向かうベクトルのことである。
これは、「総合的な探究の時間」の「探究」の考え方にも近い。

何よりも。
ひとつの事柄(X)をこの4つの視点で見てみることが大切だ。
例えば、学校もしくは教育。

第三章「適応」の「系統」のところに書いてあるが、2019年にテスラ社が新しいEV「サイバートラック」を開発したが、この発明品の目的は、5500年前に登場した「車輪」の目的「自分の身体や重いものを、少ない労力で効率的に遠くまで早く運ぶこと」と本質的には変化していない。

だとすれば。
「学校」あるいは「教育」の本質的な目的は、「集団が生き延びるために子どもを集団の成員にする」ことであると言えるだろう。それが、明治時代という世界情勢(社会環境)の中での「適応」の結果として、「効率性」を最大の価値とする、一斉授業や教科分化が起こった。それがこの本で言うところの「進化」であり、「学校システム」である。

社会環境が変化すれば、当然「進化」が起こる。
それはもはや意志ではなく、必然だ。
その時に必要なのは、「変異」であり「適応」である。

「場のチカラ」で言えば、「変異」とは「違和感」「疑問」であり、「適応」とは、「試行する」「ふりかえる」「意味づける」となる。
「変異」を起こすために、地域の環境があり、大人たちがいるし、「適応」を果たすために、地域の環境があり、大人たちがいる。

進化はつづく

「すべての創造は未完成で、進化のように変化し続ける」
この本に何度も出てくるフレーズだ。

僕たちはいま、「進化」の過程にある。
それは、この町の進化の過程であり、
ひとりひとりの「進化」の過程であり、
「まなび」そのものの「進化」の過程である。

変異を歓迎し、むしろ変異を起こし、この町や社会に合わせ、適応していこう。
それは決して個人戦ではなく、チームであり、学校であり、この町が「場」として機能することで「創造」が起こる。

その「創造」は、この学校や町の未来だけでなく、ひとりひとりの「存在」をも作っていく。
なぜなら、人間は生物だからだ。

まなびはつづく・・・  

Posted by ニシダタクジ at 07:04Comments(0)

2021年04月23日

学びの伴奏者としての地域の大人







阿賀黎明探究パートナーズの「地域学(プロジェクト活動)」に向けた研修会でした。
地域の大人がジャンル別にチームを組み、授業(プロジェクト)のコーディネーターとして活動していきます。

令和2年4月、コミュニティスクール指定から活動を開始したパートナーズ。会長の齋藤さん、副会長の石川さん、清田さんをはじめとする皆様の熱意で、ここまで来ました、という感じです。

あとは及川さんの「問いのデザイン」と、伴走者ならぬ伴奏者としての皆さんの関わりになってきます。

今回の研修会はみらいずワークス小見さんにお願いしました。
テーマはプロジェクト活動のイメージ、見通しを共有する、です。

アイスブレイクとしてやった問い
「阿賀黎明高校の高校生に伝えたいこと」がすごくよかった。
ひとりひとりの想いが溢れて、それだけで泣きそうになりました。
自己紹介の時に毎回やってもいいな、と。

プロジェクト活動のスケジュールと概要を説明し、グループワークへ。
グループワークのお題は「高校生と関わるチャンス、高校生と一緒にどんなことをやりたい?どんなインパクトを生みたい?」
でしたが、僕の入ったチームは、コンビリーの柳沼さんと包括支援センター渡部さんと、巴山組の眞田さんでしたが、
グループワーク盛り上がりました。

柳沼さんがビジネスマンらしく、物事の本質を問いかけてきて、
課題をつかみに行きまして、次に顧客(高校生)にとっての価値を言語化。

好きなことを追求して生きていく時代、
サラリーマンであっても人生を経営する時代に、
高校はどうあるべきか?

やりたいことを追求できる高校。
マイプロジェクトをできる高校。
地域の資源が豊富にある高校。

その価値軸、偏差値ではない価値を提供すること。
N高と普通高校のあいだ。
そこを見せていく、具体的な活動としてこの地域学(プロジェクト活動)があるのではないか。
と、そんな感じ。

なるほど。
「やりたいことをプロジェクト化して、地域資源を活かしながら実現する。」
その繰り返しかもしれない。

問いに向かっているプロジェクトというのは強いなあとあらためて思った。
「高校魅力化」とは何か?誰にとっての魅力なのか?
高校生にとっての価値は何か?どんな中学生に対してアピールするのか?

答えのない問い。そこに仮説をつくり、進んでいく。

今回のプロジェクトは、大人にとって2つのチャレンジが同時進行している。
ひとつは、「問いをつくり、そこに向かっていく」というプロジェクトとしてのチャレンジ。
高校生と一緒になって学んでいくというチャレンジ。

もうひとつは、それを1段階俯瞰して、プロジェクト活動の設計自体がこれでいいのか?
高校生の学びをつくれているか?人生にインパクトを与えているか?っていうチャレンジ。

地域の大人は、この「プロジェクト活動」で、
「学びの伴走者」ならぬ「学びの伴奏者」として、プロジェクトの「場」を共有する。

ともに発見し、ともに創り、ともに学ぶ。
そんな時間を一緒につくっていけたら、と思います。

阿賀黎明探究パートナーズ発足から1年。
いよいよスタートラインです。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)学び

2021年04月15日

「テーマと問い」、「プロジェクトと自分」の往還



マイプロ勉強会は長野県教委の内堀さんでした。
昨年2月のSCHで衝撃を受けたプレゼンふたたび。
シビれまくってました。

http://hero.niiblo.jp/e490352.html
差別化や資源化ではなく(20.2.25)

~~~以下前回の内堀さんの話を聞いて

僕は今まで、何をして、何を考えてきたのだろうか?
・他の高校と、どうやって「差別化」するか。
・ネットN高と違って、「全日制」で、かつ「地方」で、何ができるか。
・まちの資源や課題をどうやって「教育資源化」するか。

そんな浅い問いたちを一蹴してくれた講演だった。
・そもそも、何のために高校教育はあるんだっけ?
・だれの幸せを願って、あなたはここにいるんですか?
・あなたがそこにいる意味はなんですか?
胸の奥底にある、そんな問いを掘り出されるような、えぐりだされるような、そんな時間。

~~~ここまで。

今回も刺激だらけの時間でした。

~~~以下メモ

予測困難な時代に大切なもの
【最上位の目的】
一人ひとりが、豊かで幸福な人生とよりよい社会の創り手になること
個人と社会のwell-beingの達成(※well-being幸福、良好な状態、満たされる状態)
↑その達成のために
1 一人ひとりが、そのために必要な力(資質・能力)と意思を持つこと
2 一人ひとりの存在やいのち、そこから立ち上がる願い等を大切にすること

【長野県が進める高校改革・学びの改革】
学びのカタチ=「新しい時代」に必要な力(資質・能力)を育むための
〇「探究的な学び」(主体的対話的で深い学び、アクティブラーニング)
〇「個別最適な学び」(生徒個々に合った自律的な学び)
〇学校内外の多様で異年齢の人々との「協働的な学び」
〇個々の生徒と結びつき現実社会と一体となった「リアルな学び」
〇感動や発見にあふれた「ワクワクする学び」

★多様性を受容し、失敗を許容する環境
(哲学)対話による内省、同調圧力の排除、自己肯定感・学ぶ意欲の向上

学びの改革によって目指す学校の姿
1 教員(指導者)主導の「教育」⇒生徒(学習者)主体の「学び」
2 学校に閉じた、頭の中の「勉強」⇒「現実社会と、Actionを通じてつながった市民としての「学び」
3 集団を成立させるための同質的な個の育成⇒多様な個と多様性のある集団の尊重
4 うまくいくこと、戦って勝つことの追求、チャレンジすることと、失敗することと、共に考え創ることの推奨
5 Equality(平等)の提供⇒Equity(公正)の提供
6 同調圧力によりいることがつらい場所⇒自己開示や対話により学びを深められる、楽しくて、行きたい場所
7 他者との比較による相対的・偏差値的評価⇒生徒が自分軸に基づいて振り返り、自分の成長に繋げられる指標(新しい学びの指標)

★新しい時代における学校・教育の意味や価値の追求

長野県・高校改革のページ
https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/gakko/saihen/joho/manabinokaikaku.html

「探究的な学び」の捉え方
「楽しい」「おもしろい」「自然」の復権(人工的な20世紀型「学校」教育への違和感の払拭)
自分の人生・学校づくり・よりよい社会づくり等の「当事者」としての自覚
「生徒発」の重視=学校の教育活動の中心に学習者である生徒を捉えること
「帰納」と「演繹」の往還(個別最適な学び+協働的な学び)
「共通性の確保と多様性への対応」

探究サイクルの回し方
1 課題設定(趣味・想い・好き)
2 情報収集(アカデミック⇔ストリート Actionと協働)
3 整理分析
4 まとめ・表現(全体を通じ、様々な人の対話とリフレクション(ふりかえり)
探究の質を上げる=生徒の変容⇒マイプロジェクト

【探究のつくり方】
社会課題と生徒自身の興味関心と+α(SDGs、SSH、地域などの学校特有のテーマ)
社会課題(テーマ)は最初は教員が示す

生徒の探究テーマ
「行きつ戻りつ、「テーマ」を具体的な「問い」に落とし込む中で
生徒が自分と向き合い、確信を見出していく=探究活動が主体性の育成とともにキャリア教育たる理由

【カリキュラムマネジメントにおける探究的な学びとマイプロ】
1 生徒育成方針から教育課程編成・実施方針へ
2 生徒育成方針を達成するための「探究的な学び」を軸として教科等が相互に関連付けられた教育課程のあり方を学校全体で検討
3 その際、マイプロのスタートアップ、中間報告会、県サミットなどの企画と関連付け
4 教育課程編成、学習評価、学校評価、授業改善などの中心となる部署を明確化し、その実質化・活性化を図るとともに、日常的に連携する仕組みを構築
5 PDCAサイクルとともに、より短期のAAR(Anticipation-Action-Reflection)サイクルを回す

【これからの学校】

(これまでの学校)
個々の教員の自主的・主体的実践や工夫、スーパーティーチャーの存在
+学校(チーム・組織)としての統一的な価値観、統一的方向性(手法は個々に異なっても)

(これからの学校)
「すべての学習者が一人の人間として全人的に成長し、その潜在能力を引き出し、個人、コミュニティ、そして地球のウェルビーイングの上に築かれる私たちの未来の形成に携わっていくことができるように支えていく」学校

~~~以上メモ

「まなびの動的平衡」が必要なのだ、と思った。

「往還する」ということ。
自分だけの探究テーマを見つけるには、
「テーマと問い」を往還し、「プロジェクトと自分」を往還していくこと。

「仕事」は、
「自分」(パーソナルなありのままの自分)と「社会」(社会人としての自分)
との往還であると言える。

「まなび」も、
「自分」(パーソナルなありのままの自分)と「学習活動」(学習者・プロジェクト実施者としての自分)
との往還であるのかもしれない。

この場合の「社会人としての自分」や「学習者としての自分)は、
僕の言い方で言えば、

「場と一体化した、場の構成員としての自分」である。
だから「自分」と「場」の往還であるとも言える。

「自分を知る」という意味では、そういう「動的平衡」が必要なのだ。

だからこそ、「ふりかえり」をするのだ。
プロジェクトを振り返るだけではなくて、自分の感情を振り返るのだ。
印象の残ったこと、疑問に思ったこと、面白いと思ったことを言語化し続けることによって、ようやく自分が分かっていくのだ。

何か構造的に見えてすっきりした日になりました。
内堀さん、ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:16Comments(0)学び日記