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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年02月11日

子どもたちは「仕事」と「遊ぶという行為」を失った


『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)

読み進めていたら、メモしたくなったのでメモ。
満足度アンケートによって、ますます「お客さん化」を促してしまっているのではないかと反省した。

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高度成長以降の子どもたちは、2つのものを失った。一つは仕事、もう一つは遊ぶという行為である。かつては農業、自営業が多く、さまざまな子どもの仕事があり、具体的に子どもの手を必要としていた。

しかし、生業(稼ぐ場)と再生産(子どもの育つ場)の場が分離されて、子どもたちは仕事、すなわち家族や地域社会での役割を失った。かわりに大人たちが管理しやらせる時間、やってもらう時間が増え、自由に自分たちでつくる時間、すなわち遊びの時間を失った。普通に暮らしているだけでは多様な人々との豊かなかかわりが持てなくなってしまった。

他方で、サービスとして子どもたちに仕事でかかわる大人たちが激増した。彼らは、常に責任を取らされないように、ことが起こらないように子どもに接するようになった。

社会学者の宮台真司さんは、この半世紀の日本社会の変化を、「〈生活者会〉が空洞化し、〈システム〉に置き換わっていった」と説明している。

〈生活社会〉とは、「善意と自発性」に支配される、人間関係や人情が意味を持つようなコミュニケーション領域。個人が日常生活で、出会う、ヒト、モノ、コトの意味のつながりの世界の総体。
〈システム〉とは「役割とマニュアル」に支配されるコミュニケーション領域のこと。人の入れ替えが可能で、物事を計算可能にする手続きが一般化した領域のこと。

もともと〈システム〉は、〈生活世界〉を豊かにするための手段であったが、〈システム〉が広がって生活が空洞化すると、〈生活世界〉が〈システム〉に規定されるようになる、という。主従の転倒が起こる。

いま、「郊外型の暮らし」は、地理的に郊外とよばれる地域だけではなく、全国的に広がった。子ども、主婦、障害者、高齢者とそれぞれ、専門の施設やサービスのもとにおかれ、それぞれ時間単位の効率性を求められる世界=サービス産業の対象となった。

そこでは、隙間=〈あそび〉が許容されない。〈あそび〉のないところ、すなわちルールとマニュアルに支配される世界では、遊びは発生しない。
~~~

この章を、ミヒャエル・エンデ『モモ』を題材に説明しているが、まさに今、目の前で起こっていることだなあと。

「仕事」と「遊ぶという行為」を失い、システムに飲み込まれた生活世界こそが、アイデンティティ不安の原因なのではないか、と強く思った章でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:24Comments(0)学び日記

2024年02月11日

「あそび」の復権


『あそびの生まれる場所』(西川正 ころから)

10月に読んだ『あそびの生まれる時』(ころから)
http://hero.niiblo.jp/e493287.html
参考:「遊ぶ」の土台としての「あそび」(23.10.21)
http://hero.niiblo.jp/e493290.html
参考:「あそびごころ」が生まれる放課後研究所(23.10.22)
の前作です。

いきなり前書きから本質的なので、メモに残します。
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さて、そもそも、遊びとは何だろうか。
こんな幼稚園児のつぶやきがある。
「先生、この『大縄跳び』が終わったら、遊んでもいい?」

遊びとは、「大縄跳び」や「かくれんぼ」などの「メニュー」のことではない。
遊びは、心のありようを表す言葉である。

その子が、自分でやりたい(おもしろそう)と感じ、動き出すことが遊び。
したがって誰かにやらされていると感じているうちは、遊びとはならない。

また、最初から結果が見えていたら遊びにはならない。
どうなるかわからないという時、はじめてそれは遊びになる。

身体の動きは小さくても、「(その時の、その子にとって)何か違う世界が見えるかもしれないからやってみたい」という意味では、川に飛び込むことと同じ。「おもしろそう」であるかどうか、心がアクティブな状態かどうかなのだ。ゆえにいずれの場合も集中した表情になる。

あとさき考えず、何かをしてみて、未知の心の動きを味わう。それが遊ぶということ。
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さらに、もうひとつの「あそび」について

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ところで、日本語の「あそび」には、もうひとつの意味がある。
車のハンドルや、建築物で「意図してつくったゆるみ」などを表すことばも「あそび」という。一見、無駄に見えるが、それがなければ全体をうまく動かすことができないもの。こういうことに対して、私たちは「あそび」ということばを当てはめてきた。
私たちが気づかないうちに失くしてきたのはこちらの〈あそび〉かもしれない。

時間、空間、仲間
遊びが生まれやすいのはこの3つの「間」があるときだという。

すなわち、ひま=〈時間のあそび〉、すきま〈空間のあそび〉、そして、よい間合い=〈間柄/人と人の関係のあそび〉の3つの〈あそび〉があるとき、人の心が動きはじめる、と。

遊びの本質は、「想定外のドキドキ」だ。結果がわからないから、遊びになる。
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「あそび」をデザインすることは、「あいだ」をデザインすること。

学びー遊び
目標に向かうー目標に向かわない
計測可能-計測不能
予測可能-予測不能
個人-場(共同体)
プロ(仕事)ー素人(遊び)
一元化されたモノサシー多様なモノサシ
序列があるー序列がなくフラット
適応するー個性を発揮する

このあいだを行き来できる道具や乗り物やかぶりものをつくりたい
まず最初に打つべき1点は、「あそび」の復権なのではないだろうか  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)学び日記

2024年02月05日

n=1とどこで出会うのか?







岩波書店 ジュニアスタートブックス「知図を描こう」(市川力)の出版記念セミナーに行ってきました。
「ジェネレーター」を読んでからずっとお会いしたかったのです。
市川さんの優しいオーラに包まれてきました。

昨日のセミナーのメモを残しておきます。

~~~
第1部
問題意識から出発するのではなく、「観察」から始めて、問題意識に辿りつく
「興味を感じた」⇒何か自分の中に響くものがあった
アーカイバーとしての知図師

「音楽と生命」(坂本龍一×福岡伸一)
ノイズ⇒シグナル⇒星座
雑を集める⇒知図を描く⇒表現・論文

「雑を集める」には、さまよいあるくこと、心がプルっとしたら撮る
⇒その中でもさらに気になるものをスケッチする
レオナルド・ダヴィンチ:これをやり続けて3万枚

■大学は研究するための場所:自分の星座をどうつくるのか?
まずは目的を持たずに歩くことから。
面白いものが必ずある⇒好奇心図鑑をつくる

それをすればみんながダヴィンチになれる。
⇒好奇心のかけらを図鑑として集める。
⇒ジャンプの土台になる。

遺伝子ではなくミーム(社会的遺伝子)のほう。
「誰かにとってのおっちゃんになりたい」
文化=チャンスがあるっていうこと。
図ばかり見ていないで、地を見ること。

小さいもの、ささやかなものを自然の中から発見することで自分の感性を発見していく
「ピュシスの中のノイズに内部観察者として入る」

ブルースリーの有名なセリフ「Don't think, feel.」の前に、「We need emotional content.」と言っている。
感情にまつわるもの(エモーショナルコンテンツ)が必要なのだと。
だから「心が動いたもの」は全部記録しておく
それをベースに学びを継続していく

そんなエモーショナルコンテンツをいかに見つけるか⇒学びにつながっている。

ジェネレーターの5G (ジェネレーターP129)

遇:出逢い
偶:偶然
隅:一隅を照らす
愚:ひたすらやる
寓:星座になる

いかにエモーショナルコンテンツをfeelできるか?

第2部
個の尊厳:グリーフケアワーク
30年度、死に直面した時にどうするか?
「し」の「し」と「し」
師の死と志:世代から世代へ渡される志というバトン
人生楽ありゃ苦もあるさ年表(30年分)を書く:大人が問われる。
苦が上/楽が下=苦のほうは当たる/楽の方は前倒しで叶う

グリーフケア:記憶のアップデート
教科書がない=体験しないと分からないこと

話すこと、表現することで記憶はアップデートされる
歩くこと:故人の行った場所を追体験する⇒アップデート
巡礼の道:四国八十八か所

「生きる」ことそのものを問う。

第3部
空き家問題=feel度walkを事業化
ベースキャンプツーリズム(machiyado network)
まちづくりの文脈で取り組む=事業になる
学校を変える、つくるとは別のアプローチ⇒空き家をベースキャンプに

通信制高校=地域をフィールドにできる。
「あいだ」に学びの場をつくる

n=1の出会い:高校時代に1人面白い人に出会えるか
どこで出会えるのか?学校のなかではなく、空き地(あわい)
まちそのものがジェネレーター化する⇒間接的に学校が変わっていく。

ゲストハウス:季節ごとの知図を描き、それがストックされていく。
泊まった宿によって、何か発見があり、人生が動いていく、そんなツーリズム。
宿がジェネレーター化していく。
「歴史」の重要性:伝えて、体験・体感していくこと

「学びをつくる」ことができれば、世界は広げていける。
まなび=教育(学校)と捉えると小さくなっちゃう。
市川さんの財産は、様々な大人と子どもに出会えた

文化:言葉でつくられる。
知図を描くから意味が分かる、言葉が豊かになる
~~~

知図を描くこと。
それは「まなび」の方法であり、
「生きる」ことを問うことでもあり、
「まちづくり」の手法でもある。

「まなび」と「あそび」のあいだにあり、
時間軸を超えていくことができるし、
ひとりひとりの個性の表現でもある。

高校生にとっては(もちろん大学生・20代にとっても)、
そのすべてが必要なのだろう。

それは、まなびのエンジンを駆動してくれる
「n=1」との出会いのためだ。

それは人かもしれないし、モノかもしれないし、観光や歴史などのコトかもしれない。ブルースリーの言葉を借りれば、自分自身に固有の「エモーショナルコンテンツ」と出会うことの先にn=1との出会いが待っているのだと思う。

そんな機会を提供するために、僕はいま、舞台づくりをしているのかもしれない。

ツルハシブックスより以前から「機会提供」と言い続けてきた自分の意味がようやく分かった気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)学びイベント日記