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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年01月31日

「とどまる」のプロセスを経たものだけが「つながる」ことができる


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書)

読書サーフィン。
テーマは「アイデンティティの再構築」です。
今日は2020年に衝撃をうけた1冊からあらためて。

参考:
「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代(20.7.9)
http://hero.niiblo.jp/e490856.html
はみ出し者の系譜(20.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e490859.html

橘川さん、やっぱ先を言ってるなあと。

あらためてこの本から。

~~~第5章 P53 情報的自我より
これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。
~~~

宮澤賢治先生「農民藝術概論綱要」序論を思い出す。

~~~
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
~~~

そういう時代。(賢治先生は1926年に書いていますけども)
その時、私たちはどう生きていくのか。
どう、「つながって」いくのか?

「つながり」が叫ばれるようになってからかなり多くの時間が過ぎた。
近代社会のシステムによって「個人」として分断された私たちは、ふたたびつながろうとしている。

このとき。
橘川さんの「よはとつ」図形が参考になる。

~~~第6章 よはとつ図形2020 P62より

よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、その中でまた独自の掟や作法が生まれて、それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。

~~~ここまで引用+メモ

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

そうなのか、と。「つながる」ためには、「とどまる」が必要なのだ。

大切なのは「よりそう」と「つながる」を区別することだと思った。
ひとりとしての輪郭を持つ人だけが、「つながる」ことができる。

「よりそう」から生まれた共同体は、やがて「はじける」、または「はじける」人たちを生む。
「はじけた」人たちは孤独に耐えられず、ふたたび「よりそい」共同体をつくる。

その共同体を「つながり」と呼んでいないだろうか?

「とどまる」のプロセスを経たものだけが、「つながる」ことができる、そんな仮説。

~~~
指導者も教祖もいない、純粋な個人として、意識を自由にできるものだけが、つながる意味がある。それが、ネットワーク社会である。
~~~

「つながる」ためにまずは「とどまる」。
自分という輪郭をたしかめる。
そのプロセスが大切なのだろうと。

「つながりたい」
それは、孤独に耐えられない、そして満たされない承認不安をなんとかしたいと思う心から来るのだろう。

山口揚平さんは、「まだ、会社にいるの?」(2013年刊)の中で、「承認欲求」がビジネスの主役になる、と語った。

~~~
グリーやディー・エヌ・エーなどに代表される企業が提供しているものの本質はゲームではありません。彼らが提供しているのは、人に認められたいという「承認欲求」に対する満足です。

SNSのゲームを通して、武器などのアイテム、アバターを着飾るものですが、それらはゲームの世界において、他者に認められるための道具にすぎません。
~~~~
参考:何を表現するか?ではなく、何「で」表現するか?(16.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e482804.html

「つながりたい」若者を、よりそい型の「コミュニティ」が狙っている。承認欲求を満たすフリをしながら。ほんとうは「つながり」が必要なのに。

「つながる」ために、まずは「とどまる」孤独を経験する。

自分という輪郭をたしかめる。そしてその輪郭を時に発揮し、特に取り払って、人と出会い、プロジェクトをつくり、活動をする。それによって得られるものを「つながり」と呼ぶのだろう。

まずは「とどまる」ことから始めてみたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)学び日記

2023年01月29日

「問い」の瞬間こそが「創造」


「独立国家のつくりかた」(坂口恭平 講談社現代新書)

2012年5月刊
すでに10年以上前の本だけど、色あせない。
ブログにも何度も書いているけどもあらためて読み直し。

この本で「学校社会」と「放課後社会」というコンセプトに感銘を受けて、
松陰神社の絵馬に書いたのは10年前でした。
「無数の放課後社会をつくる」これがツルハシブックス3年目のテーマでした。

さて、本日はアイデンティティのつくりかたシリーズのつづきです。

本書の第4章「創造の方法論、あるいは人間機械論P160より

~~~
あなたが「やりたいこと」など、社会には必要ない。今すぐ帰って家でやれ。

やりたいことを無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。しかも、それはすべての人が持っているものだ。絶対に。なぜなら人間は考える葦と言うじゃないか。考えているのだ。自分の得意なこととかやりたいこととかはどうでもよくて、ただ考えている。それを口に出す。

好きでやっているとか、そんな動機じゃない。もっと切実な動機でやっている。こんな大人たちに任せてしまってはたいへんなことになると思った。使命といっては大げさかもしれないけれど、これは自分がやらなければならないと心に決めたのだ。

大事なことは、何かに疑問を持ったかということだ。それがあれば生きのびられる。

今まで生きてきて、一度も疑問を持ったことがなければ、今すぐ企業に走った方がいい。誰かに指示されて生きていこう。

でも、何か「疑問」をもったらチャンスだ。そこから「問い」にまで持っていこう。

「疑問」を問いにする。この過程を僕は完全に独自な「創造」と呼んでいる。綺麗な色の絵とか、美しい旋律とか、創造というのはそんなものではない。あなたがこの世界のどこをおかしいと思えたかである。

まず僕たちは生きているわけだ。この社会で。この都市で。たくさんの人が生きている。同じシステムで動いている。そこは単一レイヤーのように見える。そして、問題がないように思える。平和のように思える。でもそれは平和なシステムではない。誰かを無視している。誰か困っている一が絶対にいる。それを見ていたら疲れるから、ヒエラルキーをつくって、一つのシステムをつくり出す。でもそれはあなたのシステムではないので、当然ながらちょっと居心地が悪い。そしてちょっとだけ大変。でも、楽なものだ。

すべての人の無意識が構築したもの、それが匿名化したシステムである。

無意識というものは本当に何も考えないで厄介なものだから「疑問」を持つ。なんだ、これ?と思う。そうするとしめたもの。そこに気づいたら、次に無意識ではなく意識で生活している人を見つけないといけない。

それが隅田川の0円ソーラーハウスの住人だったわけだ。

彼は徹底して疑問を持ち、意識を持ち、自分のシステムで生活をつくり上げていた。僕の言葉でいえば、「新しい経済」をつくっていた。そして、僕は彼から学んだ。

すると漠然とした「疑問」から、「どんな住生活というものが意識生活と言えるのか」「いかなる建築が意識を持った自律した建築と言えるのか」というもっと具体的な「問い」が生まれた。そこから僕の活動は始まった。僕はその体験を踏まえてつくった本を「創造」とは思わなかった。「問い」の瞬間こそが「創造」だと思った。

そうやって、まわりの景色を見てほしい。楽になるどころか、もっと緊張して、冷や汗をかいて、泣きたくなって、死にそうになって、おびえて隠れてしまいそうになるから。それはとっても孤独だ。でも、そんな時に会える人間がいる。物事がある。それがあなたの使命を見つけるヒントになる。恐れたままでいいから、近づいて手で触れたり、直接声をかけてみよう。
~~~ここまで引用

「好奇心」が大切だと人は言う。その「好奇心」生まれもったものではなく、育むことができると、広島で読書会を主宰する友人は言う。
「疑問を持つ」「面白がる」この2つを意識的にやっていけば、好奇心は育むことができる、と。

http://hero.niiblo.jp/e491176.html
参考:探究の森の子どもたち(20.11.8)

「疑問」を持つこと。
「疑問」を「問い」にすること。
そのためにアクションすること。
問いを得てまたアクションすること。

「使命」という言葉は「問い」とセットで語られるものだと思った。
そしてそれは壮大なる「勘違い」なのだなあと。

高校生、大学生が放つ「やりたいことがわからない」という言葉は、本質的には自分の意志や目指すべき到達点を知りたいだけではなく、自らの使命、つまり「自分は何に人生を賭けるべきか」という問いを知りたいのではないのか。

そうであるとすれば、
・自分の好きやベクトルを知ること、
・なりたいロールモデルや、10年後の姿をイメージする
・目標を達成するためのPDCA的なスキル
というキャリアデザイン的なアプローチだけではなく、

・世の中に疑問を持つ
・そのための体験と振り返り
・疑問を問いに変えるメタ認知および言語化能力
というキャリアドリフト(探究)的なアプローチがもっと大切なのではないか。

そして「疑問」が「問い」に変わる瞬間にこそ「創造」があるという坂口さんの論は、
まさにアイデンティティの問題のひとつの解決方法を示している。

ふりかえると、僕自身もツルハシブックスにやってくる大学生が「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」という悩みを、生きる死ぬレベルの深刻さで語っていたことに疑問を持ったのが始まりだった。

そこからキャリア教育文脈ではクランボルツ先生の計画された偶発性理論や、哲学文脈では、國分功一郎「中動態の世界」やスピノザ「エチカ」の解説、社会学文脈では、三浦展「第四の消費」、歴史文脈では佐々木俊尚「レイヤー化する世界」など、「やりたいことがわからない」の正体を探る読書の旅と、大学生や20代と対話するフィールドワークを行ったと言えるだろう。

そもそも「やりたいことは何か?」という問い自体が間違っているのではないか?

そんな風に思ったのは、坂口さんのこの1冊が始まりだったような気がする。

疑問を持ち、行動し、それを「問い」にする瞬間。さらに行動し、次なる「問い」が生まれる瞬間。人は「学んでいる」、いや「生きている」と実感できるのではないだろうか。

そして、その瞬間にこそ「使命」という壮大なる勘違いとアイデンティティが構築されていくと僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 10:11Comments(0)学び日記

2023年01月27日

アイデンティティ構築への人類学的アプローチ


「人類学とは何か」(ティム・インゴルド 亜紀書房)

「寮のハウスマスターってどんな仕事ですか?」
と問われたら、どう答えるか?

どんな「仕事」か?ではないけど、ひとつ言えそうなのは、
「アイデンティティ構築への人類学的アプローチ」
なのだろうということ。

手法として使われるのは人類学のまなび方である「参与観察」ではないかと。

そして「参与観察」的アプローチが
学校⇒公営塾⇒寮⇒サードプレイス(阿賀町で言えば風舟等)
という円状に連なっていく外側になるほど、実際に行われていることだし、
それがプロジェクト的な場においては「ジェネレーター」と呼ばれるものとなるだろう。

その中でも特に、寮の「ハウスマスター」という立場は、
業務の性格上、そのようなアプローチにならざるを得ない。

~~~本書より引用
私たちは人々についての研究を生み出すというよりも、むしろ人々とともに研究する。このやり方を参与観察と呼ぶ

参与観察には時間がかかる。人類学者が「フィールド」と呼ぶところで何年間も過ごすのは稀なことではない。

フィールドワークとは互酬性の土台の上に築かれた原理であり、互酬性とは、与えられないものを偽ったりごまかしたりして得ようとすることではなくて、与えられたものをありがたく受け取るものである。

「質的なデータ」という考え方そのものが、私にはどこか落ち着かない感じがする。というのも、現象の質はその現前の中にしか、つまり現象を知覚する私たちを含む、周囲の環境に現象が開かれるやり方の中にしかないからである。

人類学者にとって、参与観察はデータ収集の方法では断じてない。参与観察とはむしろ、やりながら学ぶということへの積極的な関与であり、徒弟とか生徒がやっていることに比べられうる。

他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。

先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていて構わないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。
~~~

昨日見た動画「神山つなプロ ♯24 つくる暮らし・つくる仕事」
https://www.youtube.com/watch?v=dVMGrUTVDME

これを見て、あらためて「アイデンティティ構築」と「つくる(創る、作る)」の関係について考えさせられた。

アイデンティティ(自分らしさ)とは、自分を限定する(規定する)ことだと言えるだろう。
〇〇ができる、××が不得意、〇〇が好き、××は苦手、とかとか。

この動画の中の神山のアーティストたちが語るのは「神山という地域限定の中から、さらには地域との関係性から、作品を生み出したい」という想いなのではないか。

「クリエイティブ」の意味が変わってきているのではないか、と思った。

いわゆる0⇒1(ゼロイチ)ではなくて、限定(制限)された中で、すでにある資源を活かし、どう生み出すか?そしてどのように「継いでいく」のか?

さらにそれは、神山での暮らしの中で、だんだんと紡がれていく。無から有を生み出すのではなくて、資源や歴史、暮らしの営みからプロダクトを生んでいく。いや、生んでいくというより、生まれていく。

そんな「生まれていく」作品としてのモノを彼らはつくっているのではないか、と。

それを、作家の側から見ると、
「アイデンティティ構築への人類学的アプローチ」
と言えるのではないだろうか。

「つくりたい」という衝動。それは、自らのアイデンティティと切り離すことはできない。それを地域を限定した形で実現することは難しいと思うけど、なんていうか、ロマンがあるよね。神山には広大な自然と受け継がれてきた文化があり、その中で生み出す、っていうのが可能だし、それこそがクリエイティブとアイデンティティを両立させるのではないか。

22日に書いたように
http://hero.niiblo.jp/e492843.html
参考:ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」(23.1.22)

僕たちは地縁共同体を飛び出して「自由」を手に入れた。
それは同時に、受け継がれてきた「アイデンティティ」の喪失を意味する。
そのアイデンティティを消費によって生み出すという近代社会の壮大な実験は失敗した。

僕たちはアイデンティティを自ら構築しなければならない。
構築というか、おそらくはクリエイト(創造)しなければならない。

そのための一歩目が「参与観察」なのではないか。
~~~
他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。

先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていて構わないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。
~~~

この他者を「地域」と置き換えても同じことが言えるだろう。

3年間の参与観察というフィールドワーク。
それによって、他者は、そして自分は、何が変わったのか?
場は何を創造したのか?

「アイデンティティ」は、きっと「観察」と「相互作用」と「創造」のあいだに生まれていく。
それは寮生も、ハウスマスターも、寮長も同じだ。

そんなふうに場を見つめていきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:16Comments(0)学び日記

2023年01月26日

風景をつくる3つのシコウ力


「まちの風景をつくる学校」(森山円香 晶文社)

読書日記。
本を読んでいて気持ちがいいのは「圧倒的敗北感」を感じられる本に出会ったとき。

この本もそんな一冊となりました。
小さな農業高校徳島県立城西高等学校神山校で起こったこと。
高校魅力化界隈では発売当初から話題になっておりましたがようやく読み終えました。

~~~ここから引用
4つの試み P26~
1 神山創造学
  ⇒高校の「学校設定科目」(1~3年で全10単位)で地域プロジェクトを行う。
2 どんぐりプロジェクト
  ⇒山に入って種(どんぐり)を拾い、木を育て、建物を整備する。
3 孫の手プロジェクト
  ⇒学校で習った造園などの技術を活かして、有償ボランティアを行う。
4 まめのくぼプロジェクト
  ⇒耕作放棄地を耕し、野菜を育て、弁当をつくる

あゆハウス(寮)
・2019年スタート
・定員18名
・食事は自分たちでつくる
・夕食後に話し合いをして自治する

「まちづくり」ではなく「まちが生えてくる」

P218 問いを変えてみる
「このまちで3年間を過ごすことが将来にどうつながるか」から、
「神山で3年間暮らすことで何を得られるか」へのシフト
1 出会うつもりのなかった世界との出会い
  ⇒「知っている」選択肢の数と「直接関われる」選択肢の数
2 身体感覚を伴う体験
  ⇒映像や言葉でわかったつもりになってしまえることを、各々の身体と感性を拠り所に獲得していく
3 社会は手づくりという感覚
  ⇒自分の言動が周囲に影響を及ぼす経験、つくる側になる経験の積み重ねの先に自己有用感の醸成がある
~~~

印象に残ったのは、寮生の3年次の下宿について。
2年間寮で過ごした後に3年次は町の人のところにお世話になるという子が2人現れたということ。
ああ、そういうのいいなって。

最後に、森山さんが、
学校と地域、子どもと大人。異なる存在がともに育っていく環境をつくることはいかにして可能か。
という問いをふりかえります。

1 フェアな関係性
2 試みへの寛容性
3 自分自身を満たす

なんか、重みがありますね。
ホントそうだなあと。

僕自身のキーワードは、3つのシコウ力、かなあと。

1 試行する力
2 思考する力
3 志向する力

仕事と暮らしの関係、とか、
学校と地域の関係ってこのグラデーションなのではないかって。
名付けて「やってミズム」なんですけど。(笑)

神山のキーマン、大南信也さんの
「まちが生えてくる」っていう言葉に代表されるように、

種まき(試行)を繰り返し、
いつぞや蒔いた種が、あるいはどこからか吹いてきた種が、
そこの土壌に合っていればそれぞれのタイミングで芽を出す。

たぶんそれが「まち」であり、「風景」なのだろうなと。

「学校(授業)」と「地域(活動)」の関係もきっとそういう感じで、
「志向」と「思考」に寄っているのが授業で、
「思考」と「試行」に寄っているのが活動なのだろうと思う。

おそらくは人生(キャリア)もそんな感じで。

目標を持って、そこに向けてスキルを磨いて、実現していくみたいなフェーズと
なんでもやってみて、いつかつながるかもしれないから、みたいなフェーズと
その両方が必要なのだろうなと。

VUCAな社会の到来だとか言って、
ひとりひとりが予測不可能な時代を生き抜く力だとか脅してくるけど、
それはあくまでグラデーションの話で、

工業社会の時は、(仕事においては)「予測可能」な目的達成的な部分が多かっただけで、人生的には偶然の連続を積み重ねている人もかなりいただろうし。

これからもひとりひとりは、その人生フェーズによって、そのグラデーションを変えていくのだろうと。
そのひとりひとりの人生が重なる場所として、神山という町がとても魅力的なのだろうと思った。

「3年間」をその後の将来にどう生かすか?
ではなく、
「3年間」で(機会として)何が得られるか?
を訴えていくこと。

3つのシコウ力「試行」「思考」「志向」を意識し、グラデーションを創造していくこと。
その繰り返しこそが、風景がつくるのだと。

読み終え、あらためて表紙を見てハッとした。

「まちの風景をつくる学校」にはサブタイトルがあった。
小さなフォントで書かれた「神山の小さな高校が試したこと」。

そう。この本はサクセスストーリーではなく試みの記録。
あなたも、あなたの地域も「やってみないか?」と誘いかける1冊。

心に風が通り抜けるようなさわやかな1冊となりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び日記

2023年01月22日

ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」


「共有地をつくる」(平川克美 ミシマ社)

大学4年生のサードプレイスに関する卒論を読んだので読み直し。

今日は「私有」と「共同体」について

~~~ここから引用(P27 私有するとは失うものが増えるということ)
ボードリヤールは、商品は単に交換価値や等価労働価値を示すのではなく記号としての象徴的な価値を担うようになったと説き、(中略)個人のアイデンティティ(自分らしさ)を表現する記号となり、人は自分らしさを獲得するために消費するのだと説明したのです。

私有がアイデンティティを表現する記号であるならば、競争社会においては、私有への欲求は歯止めがなくなります。なぜなら、私が私有すれば、すぐにそれに追いつくように誰かが私有することになり、誰かが私有すれば、さらに他の誰かが私有することになるからです。

私有するとは、「失うもの」が増えるということです。(中略)私たちは「私有」を増やすことで、失うことへの恐怖も増やしていると言えるのではないでしょうか。
~~~さらに引用(P102 共同体のジレンマ)
外敵があるからこそ、共同体はひとつにまとまることができる。これを言い換えるなら「外敵がなければ、共同体は団結の統合軸を持てない」ということになるかもしれません。

共同体は、その内部に強い結束を維持し続ける動機というものをもともと持ってはいない。友愛の倫理とか、正義の実践というものが最初にあって、共同体ができたわけではないのです。まず外敵があって、その外敵から身を守るために、弱いもの同士が結束し、団結して外敵に立ち向かうという順序でしょうか。

格差と孤立化を生み出す原因となった、すべてを自己責任と自己決定へと収斂させてゆこうとする新自由主義が、なぜ、これほど力を持つに至ったのかということの根本に、相互扶助的な共同体の持つ負の側面から逃れたいという気持ちがあったことは否定できません。同時に、新自由主義を否定して、もう一度相互扶助的な共同体を再評価しようとする気持ちも、共同体の持つポジティヴな側面ばかりを見ているとも言えそうです。
~~~さらに引用(P118 共同体のジレンマを解くための共有地)
共同体のジレンマは、共同体を共同体たらしめる幻想の統合軸が、そこからはみ出てしまう異種を排除することによって強化されるというところから生じるものです。そこでは、一人称複数形としての「わたしたち」を成立させるために、それを一人称としての「わたし」の上位の概念として掲げているわけです。極言すれば個人を犠牲にして、共同体の生き残りのための掟が定められている。

共同体のあいだにある非武装地帯は、そうした管理武装を解除する場として機能してきました。そのような場をつくることで、共同体から排除された人間や他の共同体の人間がいきていける場所が確保されたのです。

誰も所有権を主張しない、誰のものでもない、そして誰のものでもあるような「場」こそが共有地だということで、自分のものは他人のものでもあるが故に、他者に配慮しなければならないということなのです。
~~~

これこそ「国家を守るために敵を設定し、防衛予算を増大する」とか、今まさに社会で起こっていることなのかなと思いますが、共同体の本質をついているなあと思います。

僕は、アイデンティティ論の方に興味があるので、そっちに水を引っ張っていくと。

「窮屈」な地縁共同体を抜け出して「自由」になりたい。
それって人間の本質的な欲求だと思いますし、だからこそ経済も発展したのでしょう。
逆に経済もそれを利用していた。

参考:家電を売るために「夢を持て」?(14.1.30)
http://hero.niiblo.jp/e346221.html

ボードリヤールが、商品が個人のアイデンティティ(自分らしさ)を表現する記号となり、人は自分らしさを獲得するために消費するのだと説明したとおりのことが実際に起こった(今も起こっている)と思うのです。

だから人は、旅行の名所やランチ写真を、SNSに投稿するのではないかと。

でも、なんか寂しいのです。
その原因は、おそらくは「共同体」を失ったことにあるのではないかと。
だから、シェアハウスに住んでみたり、オンラインコミュニティに参加してみたりするのだろう。

でも、平川さんが言うように「共同体」は本質的に閉じていく傾向にあり、だからこそ、新しいタイプの「共同体」「共有地」づくりと複数の共同体に属すること、さらには、この本で言うところの「共有地」が必要なのではないかと。

参考:場(プラットフォーム)が機能され続けるための仮説(20.5.17)
http://hero.niiblo.jp/e490674.html
「身体性」「(半)開放性」「多層性」
をキーワードに、これからの共同体、共有地をつくっていく必要があるのではないかと。

参考:ベクトルとして存在を許されるカフェという場(20.10.15)
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
カフェのような共有地で大切なのは、ベクトルとしてそこに存在すること。

~~~「共有地をつくる」P120から引用、
共有地では、それを利用するものは誰もがアノニマス(人称を持たず、所有権を主張しない)存在だということです。そこでは社会的ステイタスも関係ないし、貧富の格差も無関係です。
~~~

僕はこれが、アイデンティティの悩みを解くカギなのではないかと思っている。

消費によってアイデンティティを表現することは、もはや美しくないと感じている世代。
かといってそれをひとつの「共同体」に入ることで、アイデンティティ表現は満たされない世代。

カギは「ベクトル」と「余白」だと僕は思っている。

ベクトルのある時限的な共同体、つまりプロジェクトへの参加。
そしてさらには「ベクトル」として存在できる「共有地」を持つこと。

「カフェから時代は創られる」(クルミド出版)の中で飯田さんが言っている
~~~
カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。

通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。
~~~

「消費」と「共同体」で自己を表現できた時代は過去のものとなった。

アイデンティティをつくるには、「ベクトル感のある時限的共同体(プロジェクト)」と「自らがベクトルとして存在できる目的のない共有地(余白)」の両方が、しかも、複数個が必要なのだろうな、と。

これが現時点での僕のサードプレイス論、なのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 08:30Comments(0)日記

2023年01月16日

答えのない問いに出会った瞬間に、人生は探究になる


「〈問い〉から始めるアート思考」(吉井仁実 光文社新書)

「アート思考=問う力」だと定義する、吉井さんのメッセージが響きます。

まえがきより
~~~
現代の社会に対して問いを投げかけること。それが「アート思考」であると。「この既成の考え方は本当に正しいのか」「今の時代ではこのような表現もあり得るのではないか」「どうして私たちはこんな不自由を強いられるのか」などという問いを、ときにはユーモラスに、ときには洗練された手法で、ときには突拍子もないやり方で、つまり今までにないやり方法を用いて表現する。それがアートであり、その「問う力」が画期的であればあるほどにアートの価値が高まると私は思っています。

米国アップル社のiphoneにも私は画期的な「問い」があったと思っています。(中略)あの小さな危機に人々の心を揺さぶる何かがあったのでしょう。それはいったいなんなのか。便利さや機能性だけではない何かあったのです。私に言わせればそれは「問い」のようなものだと思います。問題解決から始まる何かではなく、今の社会や私たちに対する「問い」から生まれた何かがそこにあった。

イノベーションを生み出すのは「問題解決」からではなく、「問い」なのではないかと思うのです。

「問い」は、「答え」よりも、時を越えて大きな力を持ち得ます。その「問い」が社会的かつ本質的なものであればあるほど、人々を驚かせたり、今まで感じたことのない感情を与えたり、今まで思考したことのないものを考えさせたり、感動させたり、新しい世界を見させたりできます。
~~~

とまあ、こんなスタートで始まるのですけど、いちばんすごかったのは、
第五章 芸術祭とは何か で建築家の石上さんのすぐに消える建築物というアート。

「アートというのは本来こういうものではないかとも思いました。どれほど長く作品を残すかではなく、どれほど人の心を揺るがし、その中で何を響かせるのか。」

なるほどなあ。
アート思考=問いってそういうことか、と。
デザイン(課題解決)とアート(問う力)のバランスが大切だと思いました。

そして、進学や就職(課題解決)のために、問いをつくるのではなく、問いが結果として、進学や就職につながっていくという構図が大切なのではないか、とも思いました。

大学進学の総合型選抜のために探究活動をやる、みたいなのではなくて。
問いにひたすらに向かって行ったら探究的に学んでいた、っていうのが大切かなあと。

昨日、高校魅力化スタッフの募集イベントがあったのだけど、僕の最近のキーワードは、中心と周辺で。

「学校」っていう中心に対して、公営塾、寮、そして風舟、そして地域っていうグラデーション(周辺というか周縁)で考えることが大切なのだなあとあらためて考えた。

中心に近づくほどベクトル性(課題解決性)を持ち、周辺に行くほど、偶然性(機会)を大切にして、成果が見えにくい。
それって、デザインとアートの関係に似ているのかもしれない、と。

「問いを見つけ、探究していく。」
それは、直接的に何かにつながってはいない。
だからこそ、偶然性や一回性が高く、ワクワクする瞬間がある。

人生をデザインすること(目標を持ち、課題を解決すること)。
それと同時に人生をアートすること(問いを持ち、探究すること)。
その両方が大切なのだろうな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)学び日記

2023年01月14日

外向的なのは鈍感だから


スピリチュアルズ 「わたし」の謎(橘玲 幻冬舎)

これでもか、というくらい、エビデンスベースで残酷な事実を突きつけてくる橘さんの本。
今回はこの1冊を紹介します。

大学生にまずおススメなのは、
文庫版「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 幻冬舎文庫)でしょうか。
http://hero.niiblo.jp/e485390.html
(参考:政治空間と貨幣空間のあいだ 17.7.20)

やればできる!努力は報われる!というのが実はウソであったことを解き明かした1冊。
本当に救いがなくてどうしようかと思うのだけど、ラストのあとがきでようやく救われます。
世の中に出ている「やればできる」「夢は叶う」系の「自己啓発本」を一刀両断する1冊。おススメです。

そして、その次に読みやすいのは
「人生は攻略できる~君たちはこれからどう生きるか?」(橘玲 ポプラ社)
橘さんの本の面白さは、いかにも自己啓発っぽいタイトルなのに、
本人はこの世から自己啓発書を消滅させたいと思っていること。
http://hero.niiblo.jp/e489952.html
(参考:伽藍を捨ててバザールに向かえ 19.11.1)

せっかくなので上記ブログより引用
~~~
最初から「好き」がわかっていて、夢に向かって一直線に進んでいける幸運なひとを除けば、「好きを仕事にする」方法はたぶんひとつしかない。それはトライ&エラーだ。その時に大事なのは「会社」ではなく「仕事」を選ぶことだ。

君が知らなくても、君のスピリチュアルは知っているから。

ジョブズが「探し続けてください」というのは、「天職」が見つかるまで何度も転職しろとか、「運命の相手」が見つかるまで恋人を取り替えろということではない。「スピリチュアルが拒絶するもので妥協するな」ということだ。

トライ&エラーをしていくうちに、君のスピリチュアルが「好きなこと」を(偶然に)見つけてくれる。そうなれば、あとはそれに全力投球するだけだ。
~~~
いいですね。好きを仕事にする方法。最後にはスピリチュアル(無意識)が見つけてくれる。

ということで、今回の1冊は、
まさにそのスピリチュアル(無意識)を追いかけた1冊。

心理学の進展によって、パーソナリティ(性格)5因子でできていることが分かってきた。
その5因子とは
1 外向的/内向的
2 神経症傾向(楽観的/悲観的)
3 協調性(同調性+共感力)
4 堅実性(自制力)
5 経験への開放性(新奇性)
である。これらは「ビッグファイブ」と言われる。
「人格(パーソナリティ)」とはあなたの内部にあるのではなく、身近な他者の評価がフィードバックされたものだからだ。パーソナリティとは「キャラ」のことだが、それは「観客」の評価を反映しているのだ。

ということで、この本ではビッグファイブそれぞれの因子について詳しく解説されている。

今日紹介するのは最初の「外向的/内向的」から。
~~~
生き物は、「快/不快」「覚醒/鎮静」という「感じ」を持つように進化した。感覚器官が快を感じると中枢神経は覚醒し、その方向に筋肉=身体を動かす指示を送る。逆に不快を感じると、逆の方向に身体を動かそうとする。これが「動く生き物」の基本だ。この覚醒の度合には、個体ごとに一定の範囲でばらつきがあるが、脳=中枢神経系が快適に感じる覚醒度はぼぼ決まっているようだ。するとこの「最適覚醒度」に対して、それぞれの個体の生得的な初期値がどうなっているかで2つのタイプの反応が生じるだろう。

1 刺激に対して鈍感な人は、覚醒度を上げようとして強い刺激を求める⇒外向的
2 刺激に対して敏感な人は、覚醒度を下げようとして強い刺激を避ける⇒内向的

最適覚醒度に対して、ふだんの覚醒度が低い個体は、そのことを「不快」と感じるから、覚醒度を上げようとする。逆にふだんの覚醒度が高い個体は、そのことが「不快」だから、覚醒度を下げようとするはずだ。このとき、「覚醒度を上げようとする傾向」を外向的、「覚醒度を下げようとする傾向」を内向的という。

なぜ、「外向的/内向的」にばらつきがあるのか。これは「身体のエネルギーは有限である」という制約から説明できる。外向的な個体は覚醒度を上げようとして刺激に向かって進んでいくから、食べ物や生殖の相手を獲得するなど、目的を実現する可能性が高まるが、エネルギーの消耗も激しい。それに対して内向的な個体は、強い刺激を避けようとするからエネルギーは保存できるが、目的を実現する機会は少なくなるだろう。

身体のエネルギーが無限にあるのなら外向的な戦略が最強だし、動かなくても食べ物がいくらでも手に入るなら内向的な戦略でこと足りる。しかし自然界にそんなウマい話があるわけがなく、生き物は「あちらを立てればこちらが立たず」のトレードオフの状況に置かれている。「外向的/内向的」は、このトレードオフ(ジレンマ)に対する適応なのだ・
~~~

なるほど。生物の進化の過程で、「外向的/内向的」が正規分布(ベルカーブ)しているんだ。だから、進路講演会で、「やりたいことがわからないのなら行動した方がいい」っていうのは、「外向的」な人つまり鈍感な人には最適な戦略なのだけど、「内向的」な人つまり敏感な人には採用できる戦略ではない。

キャリア教育の入り口。それは「個人」を単位として仕事を考えること。それこそが最大の間違いなのではないかと思う。

「やりたいことがわからない」の苦しさのひとつには、敏感な(内向的な)人たちが、「なんでもやってみよう」という戦略を性格的な理由(パーソナリティ)から採用できないことにある。

そもそも、仕事は個人戦なのだろうか?と問いかけたい。

「マイノリティ・デザイン」の話にも通じるけど、個人ではなく共同体(チーム)単位で見れば、「誰かの弱さは、誰かの強さを引き出す力」だと思う。

ひとりひとりが自分や相手のパーソナリティを理解し、社会(会社)でのポジショニングを考え、全体としてうまくいくようなデザインを必要としているのだと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:40Comments(0)学び

2023年01月08日

VUCAな世界を見る「まなざし」


「まなざしの革命」(ハナムラチカヒロ 河出書房新社)

途中、なかなか難しかったのですが読み終わりました。

第九章の「解放」からメモ
~~~
三つの「り」の話。

1 「利」のまなざし:利益に基づいて見ること
何をするときでも、それがどのような利益や不利益をもたらすのかを考えねばならない。資本主義は利のまなざしが強いシステムである。利は人を結びつける大きな引力を持つが、その利のスケールを今だけここだけ自分だけの利へと、時間的にも空間的にもどんどん小さくしてしまったことで、世界は破綻へと向かっている。

2 「理」のまなざし:物事の「道理」を基準に何かを行うこと
理は利と異なり、理想や理念、そして理由が重要である。己の利だけで動くのではなく、「善」であったり、「情」であったり、「愛」であったり、「哀」にもとづいて何かを選択する。だが理だけで物事を見つめると、正しさと間違いに囚われがちになる。共産主義や社会主義は理のまなざしで物事を推し量りがちなシステムだ。そこでの理は社会全体として正しいことを掲げながら、一人一人の利を犠牲にするものであったかもしれない。

3 「離」のまなざし:物事に囚われないこと
自分の欲や怒りとは離れた場所から、しっかりと物事を観察するニュートラルな視座である。自分の判断や、自分の価値基準を持つことは大切だが、私たちはつい自分の見方にこだわってしまう。これまで自分が経験してきたことにもとづいて今を判断し、その延長線上に未来を想像する。しかし本当は、私たちが見ているものは、常に初めて経験するものである。

しかし一方で離が「無知」や「痴」に囚われると、物事に無関心になり、なんでも諦めるようになり、何も考えずにその場限りの行動をしてしまうことになる。これからやってくるかもしれない監視管理システムに基づくデジタル社会主義は、私たち自身に対する「無知」を育てるシステムである。管理者や人工知能に委ねてしまうと、私たちはそのうち判断や思考すらしなくなるだろう。

それぞれの「り」には、良い側面と悪い側面がある。三つの「り」はそれぞれ「欲」「怒り」「無知」に囚われやすいが、順序を間違えるとその状態に気づけない。「り」の順序として大事なのは「離」「理」「利」である。

まず自分自身のまなざしに対して「離」を向ける。正しい判断をするためには物事を少し離れて見つめねばならないし、何かを行うことだけに囚われてはならない。何かに囚われたままだと、視野が狭くなりできることがどんどん狭まっていく。一方で離れて視野を拡げることで私たちは時代がどの方向に向かっているのかを知ることができる。その上で「理」のまなざしを向けて、今とこれからにおいて何が正しいのかを見つめる。時代の流れや自然の法則から外れたことは理にかなっていない。それに沿う形で最後に「利」のまなざしを向ける。それは自分一人の利ではなく、より多くの生命にとって利がもたらされる方向を見つめる。そのように「り」の順番を組み立てていけば、どんな問題が起こっても、適切に物事を判断していけるだろう。その積み重ねが私たちを人生の問題から解放するのではないか。

しかし私たちは正反対の順番でものごとを見つめる。どうすれば「利」が得られるのかを考え、そのために「理」を掲げて人を巻き込み、挙げ句の果てに「離」を決め込み責任逃れをする。
~~~ここまで一部引用

この章のテーマは「解放」。

「いま必要な「ソーシャル・ディスタンス」は、感染を防ぐために人から距離をとる社会的距離ではなく、常識や概念といった多くの人が共有する社会的な見方からの距離である。」と続く。

予測不可能なVUCAな時代に、僕たちはどう生きていくのか。

この本に書いてあるように、新型コロナウイルスという「未曽有の危機(と言われている)」機会に乗じて、資本主義以上に私たちを思考停止させる監視管理型デジタル社会主義が待ち受けているのかもしれない。

「解放」のために、思考をとめないこと。
「利」や「理」に流されないこと。
「離」の視座をもつために、アンラーニングすること。

そこから始めていかないといけないのだろうな。

最後にあらためてこの一節を。

私たちはつい自分の見方にこだわってしまう。これまで自分が経験してきたことにもとづいて今を判断し、その延長線上に未来を想像する。しかし本当は、私たちが見ているものは、常に初めて経験するものである。

初めて経験する機会に対して、「離」⇒「理」⇒「利」のまなざしをもって、対応していきたいですね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:57Comments(0)日記

2023年01月07日

見えないけどそこにある「あはひ」


「見えないものを探す旅」(安田登 亜紀書房)

新年最初に開いた1冊。
タイトルのテーマがピッタリだなあと。

安田さんの「あわいの力」は21年6月に読んでいたのですが。
http://hero.niiblo.jp/e491828.html
(参考:「心」に代わる何か 21.6.21)

「アンチ〇〇やポスト●●ではなく、中心と周辺」がテーマな今こその1冊でした。

まずは、「花」から。
花っていうのは、草冠に「化」ということで「変化」を表している。
~~~
P84
変化(花)は存在ではない。点は現象ではあるが、存在ではない。それは絶対の闇と同じく、時間も空間も所有しない。しかし花(化)は絶対の闇と違って、時間と空間を生み出す母胎たりうる現象だ。変化そのものがそこに立ち現れた瞬間に、時間と空間が誕生する。

P86
さて、「花」の訓の「はな」は鼻でもあり、端=先っぽでもある。すなわち枝の「先」に咲くもの、それが花だ。そして先っぽの「先」は「咲く」と語源を共有し、サキ(幸、崎、先)やサカ(坂、境)にもつながる。すなわち枝の先に神が寄り付き、その霊力が最高に発動している状態、それが「咲く」であり「花」である。
~~~
おおお~!これもすごいですねえ。
花っていうのはプロセスでありながら、これから生まれる何かを予感させる現象なのですね。

次に藤原定家と松尾芭蕉からひもとく「非在」について

~~~
P99
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
霧の彼方の桜や紅葉を観るのは、私たちの普段使う目ではなく、もうひとつの次元の意識が有する目である。感覚器官である「目」を使わない目で見る。目を使わずに見るということを、私たちは日常的に行っている。(中略)この歌は、そんな別の次元の意識だけが見ることができる幻の桜や幻の紅葉を出現させてしまう。

P100
このように、<事実としての存在>はそこにはないが、しかし厳然とそこにある存在、それを「非在」と呼ぶことにしよう。「非」はただの否定ではない。花などの美しいさまを「菲々(ひひ)」というが、そんな香るような存在が「非在」だ。

P103
「古池や蛙飛こむ水の音」
水音がした時点で「蛙」はすでにいない。芭蕉は蛙を見ることができなかったはずだ。それなのになぜわかったのか。それは芭蕉が水と一体化していたからではなかっただろうか。

P105
日本人は昔から組織や共同体の中で自分の「物語」を紡いできた。あるときは英雄になり、あるときは悲劇の主人公になり、あるときは三枚目となり、などなど。だから組織や共同体から追い出されるということは物語を剥奪されてしまうということになる。

物語がなければよって立つ所もない。どこに足を置いたらわからなくなる。深い暗闇が大きな口を開いている、そんな穴の上に立たされるのと同じだ。そんな時、昔人は旅をした。物語を喪失した旅人はあてのない旅の途中で、ある場所と出会う。

P106
漂泊の旅人はそこで歌を謡う。(中略)歌を通じて彼は土地の霊や物語と出会い、その出会いによって、喪失した自分の物語も再び紡がれ得る可能性を感じ、そして自分の霊である魂が甦るのを体感する。

「生きる意味」とか「自分探し」というのは日本人にはあまり合わない。そういう硬質な方法論ではなく、ぶらぶらはぐれ旅をしながら非在と出会い、物語が再び紡がれるのを待つ、そんなゆったりとした方法で日本人は昔から、その魂を癒してきた。
~~~

むうう。なるほど。
旅に出てその「場(土地)」にある「非在」の存在である霊や物語に出会う。
そこから新たな物語が始まってくのか。
「始める」のではなく「始まる」のだなあと。


そしてテーマは「あはひ」の話へ。
~~~
P152
レレレのおじさんの特徴は、自分のうちの前だけを掃除するのではない。ということだ。隣のうちの前もついでに掃除する。縄張りにあまりこだわらない。小難しく言えば自他の境界が曖昧なのである。自他の境界が曖昧だから、目の前に現れた人に対して「お出かけですか」と声をかけるのがレレレのおじさんである。

P154
お盆は死者が戻ってくる日だが、お盆という「とき」そのものが、あの世とこの世との接点、糊代なのである。この接点、糊代を「あはひ(あわい)」と呼ぼうと思う。
「あはひ」というのは「あいだ(間)とは違う。「あいだ」は、ふたつのものの間隙をいう。それに対して「あはひ」は「会ふ(会う)」を語源としてふたつのものの重なっている部分を言う。そしてこの糊代文化、あはひ文化こそが日本文化の特色のひとつのような気がする。

P155
また、「あはひ」文化の建築版と言えば縁側だ。縁側は内でもあり社外でもある境界としての存在だ。(中略)古くは「うち」と「なか」の区別があったという。家の中は「うち」、縁側は「なか」である。「うち」まで入ることができるのは「みうち」だけだが、「なかま」であれば「なか」である縁側までは入ることができる。「なか」である縁側は自他の境界があいまいな「あはひ」の空間だ。
~~~

そうか。年末に言っていた「ギャップ」っていうのは実は「あはひ」のことだったんだなあ。
どちらでもあるあいまいな「境界」のことをギャップと言っていたんだなと。

中心と周辺。
そしてそのあいだにある「あはひ」のデザイン。
「周辺」をつくりながら、その境界にある「あはひ」への参加をデザインすること。

これが2023年のミッションなのでしょうね。

人は、物語を求め、旅に出る。
物理的にも、精神的にもそうだ。

そして、花に出会う。心が動く。
物語が始まる。物語によって自身が変化する。

おそらくはそうやって、人は生きていくのだろう。

「花」「非在」「あはひ」というキーワードをもらった大きな1冊となりました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:20Comments(0)学び日記

2023年01月05日

誰かの弱さは、誰かの強さを引き出す力


「マイノリティ・デザイン」(澤田智洋 ライツ社)

1日1冊、紹介できるといいなあと思いつつ。

~~~ここから引用
すべての「弱さ」は、社会の「伸びしろ」

あなたが持つマイノリティ性=「苦手」や「できないこと」や「障害」や「コンプレックス」は、克服しなければならないものではなく、活かせるものだ。誰かの弱さは、誰かの強さを引き出す力だから。そう伝えたくて僕はこの本を書きました。

~~~ここまで引用

そうそう。
そういうこと。

もうひとつ。
~~~
「境界線上」に立つ、アウトサイダーにこそ価値がある

アメリカ在住時にラルクアンシエルに影響を受け、日米のロックを混ぜたような音楽をつくって、インディーズデビューしたエピソードで著者は日本とアメリカの境界線上に立っていること自体の価値に築く。

広告マンも境界線上に立っていて、いろんなものを俯瞰的な見方で捉えていることを知る。
~~~

「境界線上」に立つことそのものに価値があるっていいなと。
それが僕たちが目指しているところでもあるのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)日記

2023年01月04日

ゲーミフィケーションと進化論マーケティング


「進化論マーケティング」(鈴木祐 すばる舎)
仙台の丸善アエル店で見つけて、新潟で購入。

年末年始の読書ラインナップの1つに。
本能を8つに分類して、そのそれぞれに対する
アプローチを指南してくれる1冊。
テクニック本と言えばテクニック本なのだけど。

こちらの

「まなざしの革命」(ハナムラチカヒロ 河出書房新社)
と合わせて読むことで、自覚をもってマーケティングや広報ができるような気がします。

資本主義が限界を迎えた今、世界は管理社会に向かっていて、新型コロナのパンデミックはその絶好の機会を与えている、とハナムラさんは言う。

そんな状況に対して、一庶民としてできることはあるのだろうか。
そんな問いが生まれる本。

でも僕は、やっぱりマーケティングとか広報とか、好きなんだよね。
自分の大好きなものが売れていくのが好き。
そしてその売るときのコミュニケーションが好き。
そのコミュニケーションから生まれる創造がもっと好き。
たぶん、そういう感じ。

今回は進化論マーケティングのStage4の2.進める本能デザインについて。

~~~ここから引用メモ

「進める本能が活性化した消費者は、「大事なことを成し遂げた」「重要なスキルを身につけた」が旺盛

・即時フィードバック:ユーザーが行った行動に対してすぐに何らかの結果を返す仕組み。例:テストの結果がすぐ表示される
・進捗トラッキング:ユーザーの進捗状況を記録する仕組み。例:ラジオ体操の参加でシールを貼る
・ロードマップ提示:ユーザーが目標を達成するまでの道のりを示した大まかな計画表。例:最初の1週間で初球をクリアして3週間で上級を目指します。
・マイルストーン解除:進み具合に応じて新たな可能性が広がる。例:レベルが上がったら新しい魔法が使える
・難易度ステップ:ユーザーが経験を積むごとに、課題の難しさが上がっていく仕組み。例:英単語800を覚えたら次は2000語へ
・極小クエスト:1万の英単語を覚えるではなく、3日で小テストをクリアするなど、小さなミッションをいくつも用意する手法。
・限定ボーナス:ある特定の条件下でのみ、特別なアイテムや報酬が手に入るように設定された仕組み。例:午後5時より前の来店でハッピーアワー
・コンボ連鎖:ユーザーが特定の行動を連続で行った場合に、得られる報酬が倍々に増えていく仕組み。
・達成メッセージ:「改善」や「没頭」の感覚を打ち出したメッセージ。「もっといい方法がある」「ゾーンを体験しましょう」

~~~ここまで引用メモ

おお!
これ、ゲーミフィケーションの手法じゃんって。
http://hero.niiblo.jp/e492335.html
(ゲームにはゲームを 22.3.5)

「アンロック」と「レベルデザイン」。
これっていうのは、「進める本能」を活性化する手法だったんだ。
ゲームの世界がビジネスチャンスになる分、それが徹底されている。
学校の授業とか探究とか、もっとこの手法を学んでいいんじゃないかと。

テクニック論だと言われても、ゲームに対抗しうる「まなび」を創りたいなあと僕は思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2023年01月02日

融合しないブレンド

摂田屋のLISにお邪魔してきました。



長谷川さん元気そうでよかったです。で、出会ってしまったのがこの1冊


「融合しないブレンド」(庄野雄治 ミルブックス)
この1冊を5人目のメンバーに加えて、旅読書を開始して晴れの国にやってきました。




「水中の哲学者たち」(永井玲衣 晶文社)
「見えないものを探す旅」(安田登 亜紀書房)
「まなざしの革命」(ハナムラチカヒロ 河出書房新社)
「進化論マーケティング」(鈴木祐 すばる舎)

この5冊を並行して読みながら我田引水する。がいつもの読書パターンなのですけど、今回は、なんかほんとにつながっているんじゃないかなって。

最近のテーマである「つくるためのギャップ」「二項対立ではなく中心と周辺」「ベクトル感のあるマーケティング」とかにつながっていくキーワードがたくさんありました。

~~~ここから一部引用
哲学は何も教えない。哲学は手を差し伸べない。ただ、異なる声を聞け、と言う。(水中の哲学者たち 永井玲衣)

今、マーケティングが管理しようとするのは、私たちの価値観であり、理想像であり、あるべき姿である。それを叶えるようなサービスを提供することが、次の課題になっていく。数々のモノやサービスが溢れる中でこれから選ばれるもの。それは私たち自身を方向づけてくれるもの。私たちの存在を、もっと意義深く、価値ある方向へと導いてくれるようなもの。自分らしさを引き出し、自分をより高めてくれるもの。そのように、自分を承認し、保証し、演出してくれるものを人々はますます求めるようになる。しかし、そこには大きな罠が潜んでいる。その自分らしさは本当に自分自身が望んでいる理想の姿なのだろうか。それともマーケティング技術によって、こんな自分になりたいと思わされた願望に過ぎないのだろうか。その区別は私たちが思っているほど容易ではない。(まなざしの革命 ハナムラチカヒロ)

自分に足りないところがあるから、誰かに助けてもらう。その代わり、誰かの足りないところを自分が補えるようにする。なにかはある、自分にしかできないことではなく、自分にもできることが。(融合しないブレンド 庄野雄治)
~~~ここまで引用

アイデンティティの喪失という課題にどうアプローチするか。

「ギャップ」(差異、隙間、違和感)を「つくる」ための方法として大切にする。つまり人や自然やプロジェクトと対話する。「対話」の際には、見える(言語化・映像化されている)ものだけではなく、見えないものを大切にする。

世界の見方を変えてみる。誰かの意図によってコントロールされているのではないかと疑ってみる。

マーケティングしてみる。行動してみる。プロダクトやサービスをリリースしてみる。

コントロールされたりコントロールしたりではなくて、参加と余白をデザインする。

「融合しないブレンド」の一節、「自分にしか」できないことではなくて、「自分にも」できることがあること。

「場のチカラ」ってきっとそういうところに生まれるんだよね。
そんなアプローチをブレンドコーヒーを飲みながら考え、実行する2023年にしたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 05:25Comments(0)学び日記