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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年01月22日

ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」

ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」
「共有地をつくる」(平川克美 ミシマ社)

大学4年生のサードプレイスに関する卒論を読んだので読み直し。

今日は「私有」と「共同体」について

~~~ここから引用(P27 私有するとは失うものが増えるということ)
ボードリヤールは、商品は単に交換価値や等価労働価値を示すのではなく記号としての象徴的な価値を担うようになったと説き、(中略)個人のアイデンティティ(自分らしさ)を表現する記号となり、人は自分らしさを獲得するために消費するのだと説明したのです。

私有がアイデンティティを表現する記号であるならば、競争社会においては、私有への欲求は歯止めがなくなります。なぜなら、私が私有すれば、すぐにそれに追いつくように誰かが私有することになり、誰かが私有すれば、さらに他の誰かが私有することになるからです。

私有するとは、「失うもの」が増えるということです。(中略)私たちは「私有」を増やすことで、失うことへの恐怖も増やしていると言えるのではないでしょうか。
~~~さらに引用(P102 共同体のジレンマ)
外敵があるからこそ、共同体はひとつにまとまることができる。これを言い換えるなら「外敵がなければ、共同体は団結の統合軸を持てない」ということになるかもしれません。

共同体は、その内部に強い結束を維持し続ける動機というものをもともと持ってはいない。友愛の倫理とか、正義の実践というものが最初にあって、共同体ができたわけではないのです。まず外敵があって、その外敵から身を守るために、弱いもの同士が結束し、団結して外敵に立ち向かうという順序でしょうか。

格差と孤立化を生み出す原因となった、すべてを自己責任と自己決定へと収斂させてゆこうとする新自由主義が、なぜ、これほど力を持つに至ったのかということの根本に、相互扶助的な共同体の持つ負の側面から逃れたいという気持ちがあったことは否定できません。同時に、新自由主義を否定して、もう一度相互扶助的な共同体を再評価しようとする気持ちも、共同体の持つポジティヴな側面ばかりを見ているとも言えそうです。
~~~さらに引用(P118 共同体のジレンマを解くための共有地)
共同体のジレンマは、共同体を共同体たらしめる幻想の統合軸が、そこからはみ出てしまう異種を排除することによって強化されるというところから生じるものです。そこでは、一人称複数形としての「わたしたち」を成立させるために、それを一人称としての「わたし」の上位の概念として掲げているわけです。極言すれば個人を犠牲にして、共同体の生き残りのための掟が定められている。

共同体のあいだにある非武装地帯は、そうした管理武装を解除する場として機能してきました。そのような場をつくることで、共同体から排除された人間や他の共同体の人間がいきていける場所が確保されたのです。

誰も所有権を主張しない、誰のものでもない、そして誰のものでもあるような「場」こそが共有地だということで、自分のものは他人のものでもあるが故に、他者に配慮しなければならないということなのです。
~~~

これこそ「国家を守るために敵を設定し、防衛予算を増大する」とか、今まさに社会で起こっていることなのかなと思いますが、共同体の本質をついているなあと思います。

僕は、アイデンティティ論の方に興味があるので、そっちに水を引っ張っていくと。

「窮屈」な地縁共同体を抜け出して「自由」になりたい。
それって人間の本質的な欲求だと思いますし、だからこそ経済も発展したのでしょう。
逆に経済もそれを利用していた。

参考:家電を売るために「夢を持て」?(14.1.30)
http://hero.niiblo.jp/e346221.html

ボードリヤールが、商品が個人のアイデンティティ(自分らしさ)を表現する記号となり、人は自分らしさを獲得するために消費するのだと説明したとおりのことが実際に起こった(今も起こっている)と思うのです。

だから人は、旅行の名所やランチ写真を、SNSに投稿するのではないかと。

でも、なんか寂しいのです。
その原因は、おそらくは「共同体」を失ったことにあるのではないかと。
だから、シェアハウスに住んでみたり、オンラインコミュニティに参加してみたりするのだろう。

でも、平川さんが言うように「共同体」は本質的に閉じていく傾向にあり、だからこそ、新しいタイプの「共同体」「共有地」づくりと複数の共同体に属すること、さらには、この本で言うところの「共有地」が必要なのではないかと。

参考:場(プラットフォーム)が機能され続けるための仮説(20.5.17)
http://hero.niiblo.jp/e490674.html
「身体性」「(半)開放性」「多層性」
をキーワードに、これからの共同体、共有地をつくっていく必要があるのではないかと。

参考:ベクトルとして存在を許されるカフェという場(20.10.15)
http://hero.niiblo.jp/e491129.html
カフェのような共有地で大切なのは、ベクトルとしてそこに存在すること。

~~~「共有地をつくる」P120から引用、
共有地では、それを利用するものは誰もがアノニマス(人称を持たず、所有権を主張しない)存在だということです。そこでは社会的ステイタスも関係ないし、貧富の格差も無関係です。
~~~

僕はこれが、アイデンティティの悩みを解くカギなのではないかと思っている。

消費によってアイデンティティを表現することは、もはや美しくないと感じている世代。
かといってそれをひとつの「共同体」に入ることで、アイデンティティ表現は満たされない世代。

カギは「ベクトル」と「余白」だと僕は思っている。

ベクトルのある時限的な共同体、つまりプロジェクトへの参加。
そしてさらには「ベクトル」として存在できる「共有地」を持つこと。

「カフェから時代は創られる」(クルミド出版)の中で飯田さんが言っている
~~~
カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。

通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。
~~~

「消費」と「共同体」で自己を表現できた時代は過去のものとなった。

アイデンティティをつくるには、「ベクトル感のある時限的共同体(プロジェクト)」と「自らがベクトルとして存在できる目的のない共有地(余白)」の両方が、しかも、複数個が必要なのだろうな、と。

これが現時点での僕のサードプレイス論、なのかもしれません。

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Posted by ニシダタクジ at 08:30│Comments(0)日記
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