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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2016年05月31日

「科学主義」の終わり


「評価経済社会」(岡田斗司夫 ダイヤモンド社)

5年前の本。
鹿児島のブックオフでゲット。
なぜか旅先ブックオフで18冊も買ってしまった。

本を読むタイミングがいいなあって思います。
「評価経済」っていう名前は知っていたけど、
体感できてなくて。

いま、きっと松浦伸也くんとか吉野さくらちゃんとかが
やっているやつだな、これは。

貨幣経済社会から評価経済社会へ
という予言は、徐々に絵が見えてきている。
「あなたから買いたい」
っていうのはそういうことだ。

アルビン・トフラーの「第三の波」(1980年)によれば、

「今まで、人類の歴史を変えてきた大きな変化を
波にたとえる。第一の波は農業革命、第二の波は、産業革命、
第三の波は、現在起こりつつある情報革命である。

農業革命のときにも、産業革命のときにも、
大きな価値観の変化が起きている。
打ち寄せる第三の波、情報革命ですべては変化する」

と農耕や産業革命によって社会のあらゆる部分が
大きく変わったように、情報革命によって社会のあらゆる
部分が変化すると予言しました。

トフラーは、
インターネット登場のはるか前に、
「出勤せずに自宅にいながらネットで仕事」
などの予言をバンバン的中させました。

それに対して、ニッポン代表の堺屋太一は
「知価革命~工業社会が終わる 知価社会が始まる」(1985年)
の中で

「これからの商売で大切なのは、モノそのものではなく、
それに付加される知的価値である」とし、

その中で社会の共通概念としての基本価値観を次のように述べました。

「やさしい情知の法則=どんな時代でも人間は、
豊かなものをたくさん使うことは格好よく、
不足しているものを大切にすることは美しいと感じる」

つまり、(これは著者の要約)

ある時代のパラダイム(社会通念)は、
「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を
見れば明らかになる。

ということです。
しかし、ここで、著者は指摘します。

トフラーも堺屋も
「変わりゆく価値観」そのものを予測できなかった、と。

現在は、「パラダイムシフト」の時代だと、
ふたりに限らず、ドラッカーまでも言っています。

人類史上2回しか前例のない大変化の時代を
いま、生きているのだと。

ではどのように
価値観は変化しているのか?

著者は「科学の終わり」を主張します。
いまの若者は、すでに科学を信じていないと。
信じていない、というよりも、
科学よりも「今の自分の気持ち」を大切にしている、のだと。

そこで今日のブログの本題。
「科学主義」について。

トフラーや堺屋と今の若者(というか私たち)
の価値観の最大の違い。
それは「科学主義者」かどうか?

つまり「科学の発達が人類を幸福へ導いてくれる」
ということを信じているかどうか?の違いではないかと言います。

今日はこちらの「科学主義」の終わりを抜粋します。

~~~ここから引用メモ

今から200年前、ヨーロッパで「産業革命」が
起きました。

演劇、ファッション、グルメ、車、レジャーと
それまで貴族によって独占されていた特権、
娯楽がすべて大衆のものとして開放されたのです。

たとえば、
貴族しか聞くことができなかった「室内管弦楽」は
巨大な音楽ホールで、指揮者や弦楽器パートなどを
科学化、産業化されたパートによって譜面の通りに
演奏されるようになりました。

また科学の力は地理的な障害、
身分の違いをも解消し始めました。

「演劇」は、都市の住民、つまり市民でなければ
見られない娯楽でした。
しかしそれを科学は「映画」に改良しました。
これによってどんな地方でも、映写機さえあれば、
都市の住人と同じ娯楽が見られるのです。

興行関係者は、この「地方住民からの収益」
の多さに驚き、あわてて、「誰にでも分かりやすい
ストーリー」を制作者に要求しました。

聖書やシェイクスピアを諳んじてなければ
理解できない難解なテーマよりも、
単純な勧善懲悪ストーリーが映画の主流になりました。

地方の観客は、映画にストーリー以外の要素、
都市の最新流行のショーケースとなることを
要求しました。

ここにおいて、映画は、
「流行の素材を使って普遍的なストーリーを語る」
という、現在のハリウッドスタイルの原型を手に
入れたのです。そしてこれに続くラジオ、新聞によって、
「都市に住める身分の人々」と「地方にしか住めない人々」との差は、
急速に縮み始めたのです。
この差は近年、インターネットの登場によってほとんどなくなりつつあります。

科学は人々に娯楽を与えただけではありません。
科学が、人々を「市民」にした。
科学が、人々の楽しみを普遍化、平等化することによって、
身分制度、封建社会を壊滅させた。

科学には、「前世紀の貴族の特権と楽しみを市民に開放する」
という大義名分があったのです。

ああ、科学ってやつは、なんてすごいのでしょう!
そんな科学をかつての私たちは熱狂的に支持しました。
人々は目の色を変えて量産し、
目の色を変えて買い、目の色を変えて遊んだ。

人類は科学の力で、やがて月にも火星にも植民地をつくるだろう
人類は医学の力で、どんな病気も治せるようになるだろう
人類は合理主義の力で、やがて地上から戦争を撲滅するだろう
人類は民主主義の力で、最大多数の最大幸福を追求した政治を実現するはずだったのです。

社会の上から下まで、みんなが本当に、腹の底から、
それを信じていました。

科学主義とは、
実際はこのように
民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義
といった価値観を含むひとつの世界観のことだととらえてみると、

もはや私たちは、
そんなに楽観的にこれらを信じていません。

トフラーや堺屋の予言は、
若いころから染みついたこのような「科学主義」によって
描かれたので、ギャップが生じてしまうのです。

だからこそ、著者は繰り返して言います。

「科学は死んだのです。」と。

産業革命と同時に宗教が死んだように、
合理主義が世界を席巻した瞬間に宗教が
「その他大勢の価値観」の一つに甘んじる他なかったように、

情報革命によって、
科学は死を迎えているのです。

~~~ここまで引用メモ

なるほど。
ハリウッド映画はそういう見方ができるのか、と。

きっと悪気はなかったのだろうね。
最大の利益を生むためには、
ストーリーを単純化し、わかりやすくすることが
避けられなかったのだろう。

「科学主義」が生み出した「思考停止」であるとも言えるなあ。

しかし。
時代は変わった。
いや、変わりつつある社会のまっただ中をいま、生きている。

「思考停止社会」から脱出し、
考え続けること、価値観を自ら作り上げていくこと。
きっとそれがなければ生きられないのだろうと思う。

いいタイミングで読ませてもらった。
鹿児島のブックオフさん、ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2016年05月30日

「不安」の正体



朝からタリーズに集まって、
イベントに参加した大学生が朝活していた。
すごいな、この探究心。

付箋をつかって、
感じたこと、考えたこと
聞いてみたいことを書き出して、
それぞれ意見を交わしていく。

そういう時間って大切だなあと思う。

土曜日のイベントは、
なんだか後から後からじわじわ「よかったなあ」と思える
ような時間だった。

この方向でいいんだなあと
感じられた時間になった。

さくらちゃんの振り返りで面白かったのが
「不安の正体」の話。

さくらちゃんにとっての
本質的な不安は、
「やりたいと思ったことに飛び込めない」こと。

予定がキツキツに詰まっていたり、
時間の拘束される状況に自分を置くことが
何よりも不安。

だから、それをできるだけ避けるように、
暮らしていくことが一番大切。

だから、平日の昼間はなるべく
空けるようにしているのだという。
近所の人から何か頼まれたら対応できるように。

「不安」の正体を知ることが大切だと思った。
漠然とした不安がいちばん自らを苦しめる。

特に就活のとき。

「安定した名の知れた企業に入ってほしい」

というのは、だれの不安から来るのだろうか?
本人の不安なのか?

親の不安なのか?
それとも世間の不安なのか。

そうではなくて、自らの不安を認識して、
それを取り去っていくようにアプローチしていくことが
大切なのではないかなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:52Comments(0)学び

2016年05月29日

未完成であること、無力であること



昨日は、鹿児島での吉野さくらさんとの
初コラボでした。

やっぱり吉野さくら、スゲーって。
ほんと、スゲー人とやってるな、って思いました。
言葉がどんどん紡がれていっているなあと。
開花の階段を登りまくっているなあと。

~~~以下メモ

新潟に来る決め手となってのは
一番よくわからなかったから。

不安は、いいと思ったものに飛び込めないこと。
機会を得られないこと。

やりたいことはよくわからないけど
「ああ、このために新潟に来たんだ。」
と思える瞬間がある。

小豆の炊き方
すぐにネットで調べないでばあちゃんに聞く
ふたりが関わることになる。

わからないを表明する。
隙がある。

未完成である。
隙がある。

「すき」のある暮らし。

大切にしたいものを大切にする。
無力である、という豊かさ。

できない
ということは誰かと一緒にやれるということ。

人生は個人戦であるという錯覚。

「ひょっとしてこんなのもできますか?」
眠れる才能をお願いすることで開花させる。

ムチャぶりから始まる開花。
Dance with 〇〇?
誰と一緒に踊りたいのか?

若者の価値は無力であること。

~~~以上メモ。

いやあ。おもしろった。
参加者も全然帰らなかったので、
伝説のイベントになりました。

僕が一番思ったのは、
やはり「未完成である」「無力である」
という可能性についてです。

未完成で無力。
これは、商店街や地域で
活動していくうえで、最強のコミュニケーションツールに
なるのだなあと。

「参加のデザイン」になるのだなあと。

無力であるということ、未完成であるということは
誰かと一緒にできる余地がある、
つまり隙があるということ。
余白があるということ。

彼女がお米屋をやっている理由は、
もしかしたらそこにあるのかもしれません。

白いごはんのように、
無力で未完成な存在こそが、
多くの人の「参加」を促していくのだろうと
思いました。

だからこそ、大学生や20代の子は、
地域に出ていくことです。

企業インターンでは、価値(経済的価値)
を生み出せる優秀な人材が求められます。

しかし、地域インターン、田舎インターンは
参加のデザインを生み出す、
無力で未完成な人材が求められます。
必要なのは少しの行動力だけです。

地域が求めているのは、経済的価値は2番目で
もしかしたら、1番目は、「参加のデザイン」なのかもしれません。

さくらさん、あすみさん、はまつさん
素敵な機会をいただき、本当にありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:02Comments(0)学び

2016年05月26日

いつから「働く=就職」になったのか?


「僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない。」(岡田斗司夫 FREEex PHP新書)

ずっと前からなぜか温めていた本を
電車の中で読んでいたら、タイムリーな言葉に出会う。

そんなことってあるよなあと。
電車通勤バンザイ(笑)

これ、田舎インターンの補足説明に使えます。
なぜいま、ナリワイづくりか?に通じます。

冒頭が面白い。

いつから「働く=就職」になったのか?

という問い。
いいですね、こういうの。

そもそも働くとはなにか?
就職とは何か?
そんな問いかけから始まります。

~~~以下一部引用

人間が働くというのは、
必ずしも就職とは限らないはずです。

1950年代の日本では女の人はほとんど就職していない。
人口8000万人のうち半分は就職していない。

ではその半分は就職していたのか?
実は当時の仕事の大半は、「就職」ではなく
家の田んぼや畑を耕す家業や工事の日雇い、店の手伝い
など今でいうアルバイト的な雑用です。
2000万人程度しか「就職」はしていなかったそうです。

人口のほとんどが「働いている」けれど就職していない。

では、女性は働いていなかったのか?
そんなことはありません。
専業主婦や子育ては、電化製品が普及する以前は、
まさに「働いている」といっていいでしょう。

僕たちが暮らしているのは、
この数十年のあいだにいつの間にか成立してしまった
「国民が全員、一度は就職を考える」という、
かなり特殊で異常な国家である。

ほんとうは「働く」ことが大事なのに、
いつの間にか「就職=会社に雇われる」
ことばかり考えている。

結果として20歳から23歳くらいまでのあいだ、
国民の関心が「就職」にしかないという
ヘンな国家になっているんです。

~~~ここまで一部引用

いいですね。
みのもんた級にズバッときます。(笑)

ここから、さらに戦国時代から明治維新のことを
例に出して、説明してくれます。
これが痛快。

▽▽▽ここからさらに一部引用

戦国時代は、就職ラクチン社会でした。
この時代、就職とは、主君に仕えること。
どこかの家臣として召し抱えられること。
つまり「侍になること」でした。

それ以外はすべて農民、商人などの
「働くこと」でした。

戦国時代は、戦乱で荒れてはいたが、
その気さえあれば、針売りだった男が
一平卒として雇われ、のちに豊臣秀吉になって
天下統一ができるくらい就職ラクチン社会でした。

ところが戦国時代の終わりとともに、
これが終わりを告げます。
高度経済成長の終わりのように。

そして徳川時代は就職氷河期。
まるで現代そっくりです。

徳川時代の就職もやっぱり「どこかの藩に仕える」
「どこかの主君に召し抱えらえる」です。
武士は主君を得てこその武士。
そうでない武士は「浪人」と呼ばれました。

この時代の武士は、すごく厳しかった。
武士を辞めて、別の生き方を考えられた人間は
ある程度、幸せになれたんだけど、
「武家に生まれたからには」、とか「男たるもの」とか
武士として就職しなきゃいけないと強く思い込んでいた彼らの多くは、
傘張りなどの内職をしながら腕を磨き、一所懸命に「就活」していました。

では、武士としての「就職」にこだわらなかった一般の人たちにとって、
江戸時代はどうだったのでしょう?
じつは、働き口はいくらでもありました。

彼らはふつうの商売人です。
しかし、お店に就職するのではなく、
棒一本もって、その前後に荷物をぶら下げて
商売を始める、といった気楽さ。

その日に思いついて、その日に仕事を始めるのが
盛んとなりました。そんな気楽なその日暮らし産業に
よって社会が成り立っていたのです。

つまり、言い方を変えれば、
「就職」にこだわった武士たちだけがつらい生活を強いられたのです。

△△△ここまでさらに一部引用

おおお。
なるほど。
中越でのナリワイづくりインターン、やっぱりいい線いっているなあ。

そして、ここからがクライマックス。
幕末です。

☆☆☆ここから一部引用

黒船がやってきた日本は動乱期に入り、
就職しなかった武士の生き方は、
はっきりと二つに分かれました。

1つは幕末という危機に、
「よし、最後のチャンスだ!」と就職しようという生き方。

もう1つは、就職を考えずに、それどころか就活をやめて、
自分で起業しよう、ベンチャーをやろうという生き方。

あくまで就職を望んだ典型例が新撰組です。
下級武士だったり、武士かどうかわからない身分だった
人たちがこの動乱に乗じてどこかに就職しようと
最後の望みを抱いてしまった。

大企業、つまり幕府やら藩といった
旧来の制度がものすごい勢いで崩れてきているのを
横目で見ながらも、本物のサムライになれば、
殿様に会うこともできた、ひょっとした天皇にもお目通りが叶うかもしれない。

こんな悲しいまでの大企業神話に取りつかれた新撰組は、
函館の五稜郭で全滅します。

一方で大企業、つまり幕府とか藩なんてものは
もう通用しないんだ、これからは民間のベンチャーしかないんだ、
って気がついちゃったのが、坂本龍馬や岩崎弥太郎たちです。

彼らは自分たちがもっていた「武士」という身分を捨ててでも
脱藩に踏み切って、ビジネスを始めたり、日本初の株式会社をつくったり、
結果としてこの国の歴史を動かしました。

なんだかいまとそっくりだと思いませんか?

いったいどこの会社が生き残るだろうか、
ベンチャーから成長して大きくなるのはどこか、
と発想するから既存の会社に就職できると考えてしまいますけど

それって明治維新の最中に
「まだ幕府のなかで出世をめざそうとする」のと同じ努力じゃないの?

あらゆる産業がものすごい勢いで再構築されたり、
また新しく生まれたり、あるいはつぶれたりをくりかえしていると、
その過程で費やすエネルギーロスだけでもたいへんなもの。

そんな渦中にあって、なんとか自分たちだけでも
うまく入ろうなんて、「新選組の悲劇」そのものじゃないか?

かくして時代は明治になり、
幕府も藩もお家もなくなってしまった。
つまり「就職」というもの自体がなくなってしまいました。

★★★ここまで一部引用

なるほど。
たしかに似ている。

現代は幕末に似ているってよく聞く話だけど、
これを就職に例えると、まさにそうだなあと。

新選組になるのか、龍馬になるのか?

まずは、
既存の「安定した企業に就職しなければならない」
という価値観から脱藩しなきゃいけないなあと。

そのためには、
江戸時代のような、棒を一本持って、
前後に商品をぶら下げて売り歩く、とまではいかないけど、

小さなビジネスを始めていくこと。
それを試しにやってみることが
企業インターンシップに行くことよりも
大切なことのように思えてきました。

人生というアートを生きるために、
自分でつくる、を始めていければいいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 05:56Comments(0)

2016年05月25日

「田舎インターンシップ」の目的

インターンシップを「就業体験」
と訳すからいけないのだろうと思う。

新潟で中村くんや星野くん、高澤くんと
やっていたころの事業名は「起業家留学」

ライバルは「留学」だった
カナダやオーストラリアに行くように、
起業家のもとに長期のインターンに行くこと。

その目的は、
「起業家精神」(アントレプレナーシップ)
の体感と実践、だった。

福島正伸さんの「起業家精神」
(現タイトル:「夢を叶える」)
に書かれていた、自立型思考に
僕は大学4年生のときに出会った。

これだ。
環境問題の原因は、ここにあった。

そう確信した。
環境問題の原因は、根本的には、
アントレプレナーシップの欠如であり、
人が幸せだと思うものを自らも幸せだと思い込み、
消費を重ねたことだと思った。

僕たちがやっていたインターンシップは
新潟でキラリと光る中小企業の社長さんの元で、
約半年間、みっちり事業立ち上げのメンバーとして
取り組んでいくプログラムだった。

自分の責任で自ら決断し、実行する。
そんなインターンシップだからこそ意味がある。

単なる「体験」でいいのであれば、
小中学校のときにやっているし、
バイトをしたほうがよっぽどいいと思う。

もうひとつ。
インターンシップには、目的があるのではないか。

そしてそれは企業ではなく、
いわゆる「田舎インターンシップ」だ。

田舎に入り込み、
地元の人たちと一緒に作り上げるインターンシップ。

特に
「自信がない」とか
「やりたいことがわからない」とか
「将来が不安」とか
思っている大学生におススメ。
そう思っているなら4年生からでもやったほうがいいです。

「田舎インターン」の魅力は、
「自信」のベースにある「自己肯定感」を育んでくれること。

高齢者地域や高齢化した商店街は、
若者が来るだけで、ビックリして、声をかける。

「おい、何しにきたんだ?」

粟島に大学生といったときもそうだった。
地域のじいちゃんばあちゃんがみんな話しかけてきた。

実はそれこそが、
若者の自己肯定感をアップさせるのだと僕は思っている。

「もしかしたら自分は若いだけで価値があるんじゃないか?」
と勘違いする。

そう。
実はそれは勘違いではない。

特にじいちゃんばあちゃんにとっては、
若いことは最大の価値である。

自己肯定感のベースは、
自分には価値がある、ということだと思うので、
この経験は大きい。

ではその価値を生かすにはどうしたらいいか?
「試作」と「行動」である。

ためしにやってみる。
素人だけど、試してみる、行動してみる。
それが若者の価値を生かすことである。

これは企業のインターンでも同じなのだけど、
学生の価値は、「試作」と「行動」である。

もちろん「思考」というのはそれに伴って、
起こってくるが(そのために振り返りが重要なのだが)

企業インターンと田舎インターンの違いがここで出てくる。

企業は、企業活動として行っているため、
どうしても「費用対効果」が求められる。

そのため、試しにやってみたいといっても、
試作品やコストがかかることはなかなか簡単にはできない。

それに対して、田舎インターンは、試作の宝庫だ。
なにより、明治時代以降、あまり「試作」が行われてこなかった

投資はそんなに大きくないし、
失敗しても企業ほど大きなダメージはない。

だから田舎のほうがチャレンジしやすいと言える。

まずは自己肯定感をアップさせ、
プレッシャーの少ない状況で、小さなチャレンジをする。

おそらくはそれが、「自信」への小さな道となるのかもしれない。

新潟でも「田舎インターン」、スタートしています。


「イナカレッジインターン2016」
https://inacollege.jp/

「イナカレッジ学生インターン マッチングフェア2016」
東京・新潟会場には、私も顔だそうと思っています。

【東京】
○日時:6月12日(日)13:30~17:00
○場所:AP渋谷道玄坂
(東京都渋谷区道玄坂2丁目6-17 渋東シネタワー 11階H室)

【新潟】
○日時:6月19日(日)13:30~17:00
○場所:駅前オフィス 大会議室
(新潟市中央区東大通1‐1‐1 第五マルカビル7階)

詳しくはこちらまで
http://inacollege.jp/blog/2016/05/16/matingfair/  

Posted by ニシダタクジ at 05:27Comments(0)就職

2016年05月24日

「気づき」を自ら企画する



日曜日明治学院大学白金キャンパスで
行われたサービス・ラーニング・ネットワーク
「2016年度サービス・ラーニング全国フォーラム」に
に行ってきました。

現在の大学教育改革で注目されているサービス・ラーニング。
これは従来はボランティアや課外活動として
学生が独自にやっていたものを、
単位付きの授業として、学びとしてカリキュラムに位置づけ
体系的に検討していくことである。

~~~以下メモ

基調講演:筑波大学唐木清志先生

サービスラーニングとは?
・学校カリキュラムに明確に位置付けられていること。
・社会問題の解決を目指した社会的活動が保証されていること。
・市民性(シチズンシップ)の育成を目指していること。

ポートランド州立大学(PSU)におけるサービス・ラーニングのレポート。
アメリカ・オレゴン州・ポートランド市
にあるPSUは全米ランキングで上位に位置する人気大学。
学部生22,495名、大学院生5,581名。

ポートランド市:
コンパクト、ローカルファースト

PSUに学ぶ
1:まちづくりとサービスラーニング
まちを学習の場とするのがサービス・ラーニング、
まちが市民参加で満たされていれば、
サービスラーニングのパートナーを見つける可能性は高くなる。

PSUの使命
・われわれは、われわれの有する創造力、集合的な知、
そして、専門的技術を活用しながら、活気に満ちた都市に貢献する
とともに、その維持に尽力する。
・われわれは、協働的な学習、革新的な研究、持続可能性、
そして、地域参画に専念する。
・われわれは、多くの生涯学習者から構成される多様なコミュニティを
守り育てる。
・われわれは、すべてのものが誠実さを尊敬をもって対処されることを
信じて疑わない。

PSUのモットー
Let knowledge serve the city

PSUに学ぶ
2 大学の地域貢献に基づくサービス・ラーニング
大学の地を地域に還元するプロセスで、
大学と地域の連携が図られ、そこにサービス・ラーニングが誕生する。

PSUの学部カリキュラム
卒業要件180単位中、45単位が
University Studies(NUST 地域系科目)

NUSTの目標
・探求と批判的思考
・コミュニケーション
・人間経験の多様性
・倫理と社会的責任
1年(探究)2年(コミュニケーション)3年(個性化)4年(協力)

PSUに学ぶ
3 系統的・体系的なサービス・ラーニング
明確な目標観、そして、学生による4年間の学びを見通して、
体系的・系統的にサービス・ラーニングのカリキュラムを構築する。

★自分のメジャー(専攻・専門)とは異なるクラスター(領域)
を選択することが条件

★1,2年次は先輩の支援がつくが、3年次はつかない

PSUに学ぶ
4 学際的な学びに基づくサービス・ラーニング
専門的な知識・技能を習得し、その活用を通して社会的活動
を展開するのがサービス・ラーニングの基本だが、
その知識・技能は学際的であった方が、
社会課題の解決時における活用度は高い。

4年次:シニア・キャップストーン
いわゆるサービス・ラーニング
週2回の学校での授業と週数回のサービスサイト(地域)
で実施される。

事例:ファームエデュケーション
小学生と一緒に農作業をする教育活動を行う団体を
60時間以上サポートする。
授業後半は、飢餓や食の安全保障などの課題について考える。

PSUに学ぶ
5 地域とのパートナーシップに基づくサービス・ラーニング
PSUのシニアキャップストーンでは、コミュニティ・パートナーと授業者が
協力して授業を作ることが前提とされている。

授業目標:
批判的思考、コミュニケーション、多様性などが入った
目標が設定されている。

パウロ・フレイレの言葉
「世界と対峙することを恐れないこと。
世界で起こっていることに耳を澄ますことを恐れないこと。
世界で表面的に生起していることのばけの皮を剥がすことを恐れないこと。
人々と出会うことを恐れないこと。対話することを恐れないこと。

対話によって双方がより成長することができること。
自分が歴史を動かしていると考えたり、人間を支配できると考えたり、
あるいは逆の意味で自分こそが抑圧されている人たちの解放者になれる、
と考えたりしないこと。歴史のうちにあると感じ、コミットメントをもち、
人々と共に闘う。そういうことだけだと思う。

PSUに学べる点
6 サービス・ラーニングにおける批判的思考の役割

サービス・ラーニングでは、体験を通して、
自らの在り方・生き方を見つめ直すことを大切にするが、
同時に、批判的思考などの育成を通して、
市民性(シチズンシップ)を高めることも重視する。

日本の大学教育におけるサービス・ラーニングのこれから
・大学教育改革の大きな枠組みでサービス・ラーニングを考える
サービスラーニングは、「アクティブ・ラーニング」の1つであるし、
「地域創生」にも役立つ理論であり方法である。
また課外活動だけでなく、専門教育の充実にとっても、
十分に役立つものであろう

・今ある取り組みを、サービス・ラーニングの観点から振り返る
ある基準を設け、サービスラーニングとそうでないものを
明確に区別しながら前者の優位性を際立たせることは必ずしも生産的とは言えない。
いまある取り組みをサービス・ラーニングの理論と方法に照らしながら振り返り、
改良・発展するための道具としてサービス・ラーニングを役立てるほうが賢明である

・大学のグローバル展開にサービスラーニングを位置づける
国内のネットワークに留まらず海外とのネットワークも模索すべきである。

・教員あるいは職員の研修に力を注ぐ
多くの教員あるいは職員が授業などにサービスラーニングを
取り入れるにはそれなりの研修が必要になるだろう。

マーガレット・ミードの言葉
われわれは誰も、次の考えを疑うことはできない。
それは小さいが非常に凝縮された一つの集団が
世界を変えることができるといういうことを。
歴史を紐解いてみれば、それが唯一の方法であることが、よくわかる。

基調講演につづいては、パネルディスカッション。
まずはパネリストの3名からの事例発表

最初に、日本福祉大の原田正樹先生。
こちらは2年次に特化したサービスラーニングを行っている。

こちらもコンセプトが熱い。
福祉系の専門人材になる学びをする3年次より前に
ひとりの市民として、どう生きていくか?
を学ぶためにサービス・ラーニングを導入。

まなぶ力(学習意欲)、つながる力(対人関係能力)、やりとげる力(問題解決能力)

ボランティアとソーシャルワーク実習とサービス・ラーニングとの違い
・ボランティアは主体的な活動であり、評価はされない。
・サービス・ラーニングは、
1 授業として評価を伴い、単位として認定される
2 教育活動として事前・事後学習を重視する

・ソーシャルワーク実習は、国家資格として標準化された目標に向かっていく実習
・サービス・ラーニングは
1 社会活動を通しての個人の「気づき」からスタート
2 「気づき」を自ら企画する提案型のプログラム

ソーシャルワーク教育の基盤として、
・「市民性」を土台とした社会福祉の専門職を要請したい
・社会福祉の多様性、制度の範囲を知る。
・市民として地域福祉にかかわるリーダーから学ぶ
⇒地域社会を構成する一人として自分は地域に何ができるか考えさせたい。
★狭い意味での専門職養成ではなく、地域社会を作っていく人材を育みたい。

学習プロセスの「リフレクション」を重視して
・やりっぱなしの活動ではなく、リフレクション(振り返り)を繰り返す
「活動前」「活動中」「活動後」⇒ポートフォリオの活用
・「自己形成力」を高めるために、体験の意味や背景の意味を考えて気づきを促す。
リフレクションの重視
・活動を通して、自分自身のこと、利用者や地域のことに関心をよせ、
社会の問題意識を育む⇒地域貢献活動を通して市民性を育む

★トライアングル・リフレクションの導入
「学生:自己形成評価の重視」
「NPO:各団体の活動の活性化の評価」
「教員:学習効果の評価」
・学生の学びを多面的に評価すること
・本プログラムの有効性を相互評価すること
・三者が相互に企画から評価まで共有する「協同実践」の展開

知多半島の多様なNPOが実践の場

1年間の流れ
「前期」
ステップ1「活動先について学ぶ」
ステップ2「活動の原案を練る」
ステップ3「企画と準備、スケジュールを立てる」

年間
3月:NPOバスツアー(見学・訪問)
4月:事前学習、NPOの実態把握
6月:プランニングシート立案
7月:活動前事前訪問:プログラムすりあわせ
8・9月:プラインニングシートに基づいた6日間の活動
10・11月:活動プログラムの評価、レポート作成
12月:活動報告会
1月:学習のまとめ

~~~ここまでメモ

いちばん熱かったのは、
ICUの黒沼先生が言った
「一般的なサービスラーニング」なんて存在しない。
担当する人が個人として、どういう価値観を持って、
どんな学びを得たいのか、どんな世界をつくりたいのか?
という世界観が影響する。

なるほど。
そうだよね。
そういう個人の集合体がつくっていくのだろうなあと。

サービス・ラーニングは
ポートランド州立大学の事例を見ても、
日本福祉大学の取り組みを見ても、

大学と地域がともに学ぶ。
学生と教員と地域が、トライアングルで学んでいく。

それによってよりよい学びと
よりよい地域が実現していくのだと。

大学教育にサービスラーニングを導入していくには、
大学改革の流れの中で、
「アクティブラーニング」「課題解決型学習」
のひとつの方法論としてアクティブラーニングがあるということ、

だからすでにある科目で「サービスラーニング」的な
授業をそのように位置づけたり、

やってみた後で振り返ると
サービスラーニングだった、みたいなプログラムを
つくっていくことだろうと。

大切なのは、サービスラーニングは、
学びの方法論の1つの方法にすぎないということ。

うまいことデザインしていく必要があるなあと。

印象に残った言葉はたくさんあるのだけど、
その中でも原田先生のスライドにあった

「気づき」を自ら企画する。っていうのが、
クランボルツ博士の「計画された偶発性理論」に
通じるものがあって、シビれました。

気づきと偶然を企画する。
そんな時代になったのかなあと。

まだまだ、奥が深そうで、可能性がありそうです。
もう少し学びたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)日記

2016年05月23日

導かれし者たち





茨城大学図書館土曜アカデミー
「茨城学への招待~岡倉天心と六角堂と『茶の本』」

昨年、茨城にやってきて、
もっとも衝撃的だったのが岡倉天心との出会い。

これからの生き方に大きなヒントをくれる
岡倉の生き様に惚れた。

~~~以下メモ

本名:岡倉覚三
文部省の官僚で美術行政に携わり、
東京美術学校(現東京藝術大学)の立ち上げ、校長就任。

校長の座を追われ、
民間の美術学校である日本美術院を設立。
そのとき多くの人が自分もやめると言いだした。

ところが、日本美術院の画家たちが生み出す絵画は
朦朧体と称され、酷評され、売れない。
(いまで言えば前衛すぎる「現代アート」だった)
経営難に陥り、インドへ。

これは逃避行ではない。
入念に準備・計画している。

ヒンドゥー教の僧ヴィヴェーカーナンダに会うためや
仏教遺跡を訪れ、日本―中国―インドの関係を明らかにする。

ヴィヴェーカーナンダは、
シカゴ万国宗教会議での演説で、
すべての宗教は1つのゴールに向かっている、
道が違うだけだ、と宗教の融合をスピーチし信徒を多数獲得した

インドでヴィヴェーカーナンダと意気投合した岡倉は
連れて帰りたい、と思った。

このことは「茶の本」にも表れている。

東西両大陸が互いに悪口を言い合うのをやめにしましょう。
異なった道を歩いてきただけだ。
互いにたりないことを補い合っていく。

インドで仏教遺跡をめぐり、岡倉は確信した。
Asia is one (東洋の理想)

六角堂=インド・中国・日本文化の融合
3つの建築様式と3つの思想

外から見ると仏堂、中から見ると茶室
海には中国庭園に欠かせない岩
五浦にもガート(沐浴場)があった。

ボストンから持ってきた芝生の種と窓ガラスを入れた。

「茶の本」
西洋の科学と東洋の思想はたたかわずに
まあ茶でも一杯すすろうではないか。
(第1章「The cup of Humanity」)

東洋も西洋もない。
紅茶はインドで生まれ、西洋へ。
お茶を飲む空間には平和しかない
新しいものをつくろうじゃないか。

~~~以上メモ

いまこそ、岡倉天心。
心からそう思った。

そして、茨城大学の入学生たちは、
「導かれし者たち」なんじゃないか。

そんな勘違いを起こすのに十分だった。

海の向こうに向けて、
六角堂を通して、インド‐中国‐日本が
ひとつであることを表現した。
(海からしかガートを含めた全貌は見えない)

五浦には、祈りが詰まっている、
そう思った。
だからパワーを感じるのかもしれない。

そんなことをして、世界は変わるのかい?
と嘲笑う奴らがいたとしても、
やらずにはいられないことをやる。

それが美しく生きる、ということなのだろう、と。

六角堂はメディアだった。
アジアはひとつだと、いや、東洋も西洋もない、
世界はひとつだと。

そんなことを伝えていくために、
表現するためにつくられた場所だ。

大学生がこれから生きていく社会は、時代は、
答えのない世界だ。

世界と対話しながら、
世界に表現しながら、
自分はいかに美しく生きていくのか?

そんな問いそのものを生きていかなければいけない時代だ。

だからこそ、いまこそ、岡倉の生き方に、思想に学ぼうじゃないか。

自分たちが「導かれし者たち」かもしれない。
という勘違いを胸に、表現し続けようじゃないか。

そして、隣人に語りかけよう。
まあ、茶でも一杯すすろうではないか、と。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)学び

2016年05月22日

向いている仕事、という幻想


昨日の日本経済新聞一面。

大学1年生から長期のインターンシップ。

大手17社と大学・高専11校が
連携して、大学1年次から長期インターンシップに
取り組み、職業観の醸成などを行うという。

気になったのが見出し。
「採用ミスマッチ防ぐ」

なるほど。
現在の1,2日間~1,2週間の短期インターンシップでは
人物を見ることができないから、
人事は「採用ミス」が起こるのだろうな、と。

もうちょっと長期で学生を見ることができたら、
会社への適性がわかって、いいのだろうな、と。

今回は、有名企業と有力大学
がタッグを組んだ形。
得をするのは企業と一部の優秀な学生
だけだろうなと。

若者が離職するのは、
「ミスマッチ」だからではない。

いや、確かに、会社に適応できなかった、
だからミスマッチといえばそうなのだろうけど。
それは決して、
「業種」や「職種」に対してのミスマッチではないだろうと思う。

ミスマッチという表現は
「マッチする(向いている)仕事がある」という幻想を生む。

13歳のハローワークといった職業紹介本や
イチロー、石川遼、本田圭祐の「卒業文集型」キャリア教育、
さらには、自己分析・適性判断といった統計学型の就活
が生みだしているのは、
「自分にも向いている仕事がある。」という幻想である。

向いている仕事など存在しない。
と僕は思う。

いや、もちろん、「この仕事、向いてるわ」
と思える仕事はあるだろう。
得意なことを生かせるなどの要素もある。

でも。
本質的には、
「仕事に合わせて、自分を開花させていく。」
という働き方をしていくほうが、
キャリアドリフト時代には合っている。

なぜなら、猛スピードで
仕事の内容自体が変化しているからだ。
新しい仕事がどんどん生まれてきているからだ。



中小企業庁の出している商品のライフサイクルを
見ればわかるとおり、ヒット商品が5年以上続いて売れるのは
2000年代の時点でわずかに5%だ。
現在はもっと短くなっているだろう。

中小企業はもちろん、大企業も
経営の多角化、新規事業立ち上げなどが
継続して行っていかなければならない。

そんな中で、
業種や職種にマッチングすることにどんな意味があるのだろうか?

向いている仕事なんてない。
仕事に合わせて、自分を開花させていく。
自分に合わせて、仕事を生み出していく。

その繰り返し。
仕事と自分とお客とのコミュニケーションを繰り返し、
人はきっと職業人になっていくのだろう。

冒頭の新聞記事に戻るが、
長期インターンシップを大企業で行うことに
私は意義をほとんど感じない。

なぜなら、長期インターンシップは、
職業マッチングのためではなく、
アントレプレナーシップ(起業家精神)の醸成の
ためであるからだと思っているからだ。

それには「経営者」に触れることが大切だからだ。
大企業のインターンシップにはそのようなことがなかなかできない。

中小企業だからこそ経営者(社長に限らず幹部)と
密接にかかわり、その中で思考・試行することによって、
アントレプレナーシップを身に付けていくこと。

それは、どんな業種、職種であっても、
将来就職を検討しているかどうか、に関係なく、
この人だ!と感じた経営者、この会社だ!と思った会社での
長期のインターンシップをおススメしたい。

向いている仕事など存在しない。
仕事に合わせて自分を開花させていく。
自分に合わせて仕事を生み出していく。
お客に合わせて価値を生み続ける。

その繰り返し。
それを支えるのがアントレプレナーシップということに
なるのだろう。

大学生たちが夏休みの活動を考える時期だ。
ツルハシブックスでは、そんな活動相談に応じます。

あ、夏は合宿免許、という方は、
新潟中央自動車学校での合宿免許をおススメします。
大学行きの送迎バスでツルハシブックスに通うことができます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:14Comments(0)就職

2016年05月21日

平成の野山獄をつくる

平成の松下村塾をつくらないか?

って言われたらちょっとワクワクする。

ツルハシブックスも
暗やみ本屋ハックツも、
そういう構造になっている。

でも、本当は松下村塾ではなくて、
「野山獄」が原点なんだよね。

海外渡航の罪で
吉田松陰が入れられていた野山獄。

ここで、驚くべきことが起こる。
吉田松陰は、一生そこから出られない人たちを観察し、
俳句教室や書道教室の講師にしてしまう。

「俳句教室、やりませんか?」と
本人にも、周りの在牢人たちにも声をかけて、
俳句教室が行われた。

するとどうだろう。
彼らがキラキラと輝きだすのだという。

小説「吉田松陰」を読んでいて、
このエピソードに衝撃を受けた僕は、
すぐに萩に向かった。

野山獄跡地を見て、
吉田松陰先生の墓参りをするためだ。

2004年4月。
桜舞う季節に、僕は萩にきた。
野山獄のエピソードが僕に火を灯した。

「学びあいで希望は生まれる」
というヒントだった。

平成の野山獄。
それは今の世の中にある、
僕たちのチームのようなものだ。

経済至上主義という獄の中で、
希望を生み出そうともがいている僕たち。

その有効なひとつの方法が
「学びあいの場をつくる」だ。

おそらくはツルハシブックスも、
暗やみ本屋ハックツも、
まきどき村も、
そのようなものを目指してきたのかもしれない。

次は大阪。
またしても僕は、平成の野山獄をつくります。

あなたも共に学びませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)思い

2016年05月20日

世界を変える覚悟がなければ


「HAB(Human and Bookstore)新潟」を創刊した
松井祐輔さんの新作が出る。


「HAB 本と流通」(5月31日刊行予定)

いずれも1200円+税
※ツルハシブックスでも販売しています。

詳しくはこちらから
http://www.habookstore.com/

2年前のHAB新潟では、
古本いと本との対談が載っている。
「感性は自覚なく死んでいく」
という言葉を紡いだ。

第1号刊行のときの宣言文。
これを昨日見ていて、衝撃を受けた。

「世界を変える覚悟がなければ、
いまどき本なんて出さない方がいい。」

いいなあ。
熱い。

「これからの本屋」の北田くんからも感じたけれど、

彼らには「美学」があるよね。
「美しさとは何か?」という問いに、
向き合っている強さがある。

昨日はカタリバが運営するb-lab(文京区)
にお邪魔してきました。


「本の処方箋」と、本棚の活用についてのミーティングのファシリテーションを
してきました。

なんか、最近、ファシリテーションスタイルが
上田信行先生に近寄ってきた気がする。(笑)
めっちゃ自分もしゃべるファシリテーション。
こういうスタイルでいいんですよね、荒木先生。

ワークショップで出てきた言葉がさっきの言葉。

「世界を変える覚悟がなければ、
いまどき本なんて出さない方がいい。」

これの上の句だけもらって、
下につけた。

「世界を変える覚悟がなければ、
いまどき本棚なんてつくらないほうがいい」

そのあと高校生の話からいろいろ展開して、
本以外のものを置いてみる、とか
コミュニケーションのツールになっていくような
本棚がこれからできていくのだろうと思った。

そうそう。
きっとそういうことだ。

「本棚をつくる」ってそういうこと。
つくりたい世界を表現するっていうこと。

「本をつくる」
「本棚をつくる」
「本屋を運営する」

とは、きっとそういうことなんだ
と教えてもらった1日になった。

だからみんな本屋に立ちたいのかもしれないな。
ツルハシブックスの店員サムライたちに贈ります。

「世界を変える覚悟がなければ、
いまどき本棚なんてつくらないほうがいい」  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)

2016年05月18日

「どういうコミュニケーションを起こすのか」

図書館でうっかり見つけたソトコト6月号。
冒頭の特集は豊島区の「シーナと一平」。


http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201606

これがシビれるほどに名言。
そしてタイムリー。
思っていたことが言語化されている。
土曜日に陸奥さんと話していたことも。

あらためて、
ゲストハウスと新刊書店は似ているなあと

~~~ここからメモ

ホームステイからタウンステイへ。
僕たちは、このまちを楽しんでもらうための案内役になりたい。

ゲストハウスでありながらまちのダイニングキッチン。

布は世界の共通言語

喫茶スペースにミシンを置き、お客さんが使えるようにしようと。
布で世界とつながり、ミシンでまちとつながれたらと思います。

空き家バー
トレーニングオープン
説明会を開き出資してもらう

コミュニティって同質的なものが集まって
排他的な雰囲気を出してしまうこともあります。
でも幸いなことに、旅館業によって、ここには新鮮な顔ぶれがある。
それが面白いです。

「自分ごと」にすることで実現化:自分がどんな立場にあっても、
そこにコミットする方法はないか、真剣に考える。

共感を生むためのビジョンを考える:手段ではなく、
目的や理念を設定し、「どういうコミュニケーションを起こすか」を考える。

境界のデザインを意識する:コミュニケーションのきっかけになる
パブリックマインドを持ち得たとき、輪が広がる。

自然に当事者どうしがコミュニティを意識して輪が広がっていくもので、
それがサスティナブルになっていく。
誰かが主導していたり、当事者意識がなかったりすると、
「イベントやって終わり」なんてことになりかねないんです。

それはつまり、当事者意識をどう生み出すかが大切だということ。
そのために必要なのは共感を生むための理念。

何をするか、というのはあくまで手段。
シーナと一平で言えば、宿や喫茶、布などは手段にすぎません。
目的や、そのもう少し上にある理念こそ重要です。
まず理念があり、どういうコミュニケーションを起こそうかを考えていきます。

商店街にありながら、まちのリビングやダイニングルームのような場所にしよう。

コミュニティってただ仲良し同士がただ集まったものではありませんよね。
すべての人がなんらかのコミットメントの意識を持って、主体的に動けているかどうか。
それが実現できている人ところこそがいいコミュニティだと思います。

自分ごとという当事者意識や、共感し得る理念を持っているかどうか。
それが主体的に活動できるコミュニティのバロメーターです。

パブリックマインド(公共心)は境界に宿るんです。

コミュニケーションのきっかけとなるのがパブリックマインド、つまり公共心。

それは店舗の入り口といった店内と店外の境目や
飲食店のカウンターといった運営側とお客側の境目、
つまり境界にパブリックマインドは宿る。

~~~ここまでメモ

おい。
おいおいおい!!
って読み進めるとゾクゾクしてくる。

きっとツルハシブックスがこれまでやってきたこととか
コメタクがこれからやっていくこととか、
東京や大阪のハックツとかってそういうことか!って。

そんな社会実験なんだなあって。

「どういうコミュニケーションを起こすのか?」
っていう問い。

理念や目的をもって、
どういうコミュニケーションを起こすのか?

とこうなる。
そうそう。

そうだよね。
コミュニケーションこそが未来を切り拓くよね。

茅ヶ崎でやったハックツ展もまさにそう。
熊沢さんが「ギフトエコノミー(贈与経済)」の
実験としてやってみたのだと言う。

10代に託す思いを本に込めて渡してください。

それによって寄贈者側に問いが生まれた。
学びが生まれた。

どんな世界をつくりたいのか?

そのために、どういうコミュニケーションを起こすのか?

最高の問いをいただいた1冊になりました。

ソトコト6月号、
「これからの本屋」と並べて売りたい1冊です。
注文しなきゃ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:16Comments(0)

2016年05月17日

「やってみる」が始まる場所

やるからには、続けなければならない。
やるからには、途中で投げ出してはいけない。

「石の上にも3年」神話。
それは本当なのか?

「人生は試作品じゃないのか?」説
を僕はそこに対抗してつくりたい。

「何かにチャレンジしたい。
でもこれまで始められなかった。」

土曜日にある大学生にそんなことを聞いた。
責任感が強い。

それは、
これまで受けてきた教育が影響しているだろう。

もちろん、続けることに価値はあるだろう。
プロフェッショナルと呼ばれる人たちは、
コツコツと経験と技術を積み上げて、
今の技を手に入れている。

しかし。
時代は大きく変わった。

設備に投資して、
計画的に生産して、大量に販売して、
という工業社会モデルは、もう成り立たない。

昨日最先端だった技術は、
すぐに追いつき、追い抜かれる。

工業社会からIT社会へ。
産業構造のシフト。

IT社会は、
仮説⇒試作⇒検証⇒商品化のサイクルが早い。
工場が不要だからだ。

仮説を立てたらすぐに試作版をリリースし、
ユーザーと一緒に検証し、商品を作り上げていく時代。

1つのヒット商品の裏には、
何千という消えていった試作
何十万という消えていったアイデアがあるのだろう。

産業社会は明らかにシフトしている。

それにもかかわらず、
若者が「石の上にも3年」呪縛に縛られているのはなぜか?
「ひとつのことを続けることに価値がある」
と思っているのはなぜか?

究極的には、
長い間稲作をベースにした社会であったことに
起因しているだろう。

稲作は特殊な農業だ。
初期投資はかかるが、
同じ土地でほぼ永久的に再生産が可能だ。

まさに「継続は力なり」だ。

その社会では、
「昨年と同じ」ことに大きな価値がある。
新しいことを始める、はリスクが大きい。
なぜならまったく採れなくなってしまうかもしれないからだ。

続けることと始めること(14.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e457867.html

「自信がない」は後天的に獲得した資質である(14.12.29)
http://hero.niiblo.jp/e459844.html

キャリアドリフト時代におけるカフェ的空間の役割(16.2.26)
http://hero.niiblo.jp/e477315.html

時代は変わった。
工業社会に就職することは難しいし、
若者は稲作で生計を立ててないし、
狭い地域コミュニティに縛られてもいない。

それにもかかわらず「石の上にも3年」という
神話だけが生きている。

「やってみる」
「ふりかえる」
「改善する」
ふたたび「やってみる」。

人生は永遠の試作品だと思う。

何かを始めることは、
何かを途中でやめることだ。

自分の感性を信じて、スタートし、
自分の感性を信じて、途中でやめる。

そうやって、感性を磨いていくこと。
それを地域が受け止める。

そのコミュニケーションが、
これからの地域と、これからの若者の人生を
つくっていくと思う。

そんな「やってみる」が始まる場をつくりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 06:09Comments(0)思い

2016年05月16日

「あいまいさ」という知恵



陸奥賢さんの特別講座。
「コミュニティ・デザインからコモンズ・デザインへ」
が面白かった。

江戸時代までは、日本にはこんな言葉があった。
「ヤマアガリ」:食うことに困った人を山に上げて
世間とのかかわりを切り、一人前に立ち直るようにさせた。

「道道外才人」(歩き筋):
コミュニティには入らず、旅をしながら芸をしたり、
特異技能をもって、定住者社会に外との接点をもたらした人

それらは
「入会地」(いりあいち)あるいは「入会山」(いりあいやま)
と呼ばれる、どこのコミュニティにも属していない共有の土地(山)
によって育まれていた。

山に山菜が取れれば、
それを少しずつ分け合った。

いや、他者のことを想像して、
自分たちの取る分を決めた。
その他者には、歩き筋の人たちも含まれていた。

誰の土地でもない共有の土地。
それは、明治時代に一気に無くなった。
物理的に消滅した。

「地租改正」である。

明治政府は、近代国家社会への脱皮として
全国から一律で税を取り立てるべく、
地租改正を実施。
全国の山という山土地という土地はすべて、
私有地か国有地に分類された。

かくして入会地(共有地)は
姿を消した。

陸奥さんは、
コミュニティ・デザインは
新たなコミュニティ間の競争を生み、
勝ち組、負け組を生み出すだけだと言った。

そこからこぼれ落ちる人をどう助けていくか
が大切だと。
だからコモンズ(入会地)を
作っていかなければならないと。

僕は、ツルハシブックスとは、
「精神的な入会地」だと思った。

みんな共有財産。
コミュニティの外と中の境界線にある場所。

自分が属するコミュニティを
いったん抜けて、ホッとできる場所。

内野町からしてみれば、
現代の「歩き筋」(もしかしたら大学生は現代の歩き筋かも)
の知恵をもらう場所。

そこには、きっと
「あいまいさ」が必要なのだろうと思う。

食えなくて「やまあがり」になる人たち。
コミュニティにうまく属せなくて「歩き筋」になった人も
いるだろう。

それらを受け止める「あいまいさ」が
入会地にはあったのではないか。
そしてその「あいまいさ」が
定住者と歩き筋をうまく繋いだのではないか?

つまり、
「あいまいさ」とは、人が生きる上での、
生き延びる上での大いなる知恵だったのではないか。

人間が動物である限り、
「生き延びること」はもっとも重要な要素である。

稲作社会では、
それが五人組という制度になり、
コミュニティを内向きに強化した。
おそらくそれを補っていたのが「入会地」(コモンズ)である。

しかし。明治時代。
産業革命からスタートする帝国主義の波に、
飲み込まれないように、日本を近代国家社会として
成立させる必要があった。

「地租改正」を行い、「あいまいさ」を消滅させた。
その代わり、生命は国家が守る、と
保険制度などを整備した。

しかし、「あいまいさ」は、
人間にとって根源的に必要なもの、なのかもしれない。
隙があるっていうのはそういうことなのかもしれない。
生き延びるための知恵なのかもしれない。

わずか150年。
しかもそれは人類史上例のない
「人口が増え続けた150年」だった

「生き延びる」ために何をするのか?
ひとりひとりが考えなければいけない時代。

ツルハシブックスとは、
その「あいまいさ」を提供する場所なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:05Comments(0)学び

2016年05月13日

夜明けのような本屋

ぼくは「夜明け」のような本をつくりたいと思っていた。

いやあ、カッコイイな。

「これからの本屋」(北田博充 書肆汽水域)

この本の全編を流れる想い。
それがこの一文に集約されている。

北田さんが
フリーランス書店員の久禮さんと
SUNNY BOY BOOKS高橋さんにそれぞれ対談した
「これからの本屋」の話が熱い、熱い。

~~~ここから引用メモ

本と本を組み合わせて、
本と本の間にある「本じゃないもの」
というか、新しい何かをつくるというか。

本と人とが出会うパターンって
もっといろいろあると思うから、
本と人を出会わせるやり方をもっと考えていきたい
というのはあります。

あとは、本屋という場所で
人と人とを出会わせるホスト役というか、
黒子役になれるんじゃないのかな、と。

本屋の仕事って
人の心のやわらかいところを突くことですよね。
本屋は人の願望が丸裸になる場所というか。

お客さんが「自分で本を選び取った」という感覚を
残しておくことかな。

本屋という言葉って、
場所をさす言葉なのか、それとも人をさす言葉なのか、
人によって考え方が違うと思うんですけど、
僕はSUNNY BOY BOOKSが本屋というよりは
高橋さんが本屋なのかなと思っているんですよ。

高橋さんが居るSUNNY BOY BOOKS
っていうか。だから高橋さんが店の外で活動すれば、
そこが本屋になる。

本屋って生き方だと思う。

「生き方」っていうのを本屋の定義にすると、
別に本を売っていなくても本屋を名乗れるじゃないですか。
本屋という定義がもっと緩やかになって人そのものが本屋に
なっていく方がいいような気がしています。

商売というよりは遊びだし、
楽しいかどうかが大事だし、
それって生き方だから。

生き方として本屋を選んだってことですかね。

~~~ここまで引用メモ

なんか、いいね。
北田さんと2人の人柄が伝わってくる
あたたかい本だなあと。
素敵な本屋さんがいっぱいいるんだなあと。

そして、僕が感じてきた違和感が
なんとなくすっきりした、そんな1冊になりました。

僕も
夜明けのような本屋をつくりたいなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:32Comments(0)

2016年05月12日

ツルハシブックス常備本

店員サムライの選書チームの
桜井くんからメッセージ。
ツルハシブックス常備本を決めてほしいと。
やる気だなあ、桜井くん

ちょうどタイミングいいな。
スタンダードブックストアめぐりをして、
もう一度常備100冊を決め直そうと。

ということで、
選びます。
まだ途中だけどアイデアベースで。

もちろんテーマは
「これからの成人式」

カテゴリー1 「学び」「本」「よのなか」
・下流志向
・先生はえらい
・最終講義

・本なんて読まなくたっていいのだけど
・本を読む人だけが手にするもの
・まちの本屋
・これからの本屋

・隅田川のエジソン
・独立国家のつくり方
・ゆっくりいそげ
・腐る経済

カテゴリー2 「はたらく」「ナリワイ」
・ナリワイをつくる
・月3万円ビジネス
・月3万円ビジネス100の事例

・計画と無計画のあいだ
・プレイフルシンキング
・味の形
・心の時代にモノを売る方法
・つながる技術

カテゴリー3 「いきる」「ていねいに」
・今日もていねいに
・あなたにありがとう
・あたらしいあたりまえ
・谷川俊太郎詩集
・半農半Xという生き方

カテゴリー4 「デザイン」「場のチカラ」
・種をまく人
・つなぎ場のつくり方
・ミーティングファシリテーション
・コミュニティデザイン
・コミュニティデザインの時代
・まちの幸福論
・ソーシャルデザイン
・日本のソーシャルデザイン

カテゴリー5 「手紙」「つなぐ」「とどける」
・ゆめのはいたつにん
・アメリカ・インディアン系の「7世代先」の本

という感じ。
まだ途中経過ですが、桜井くん、待っていてね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:33Comments(0)

2016年05月11日

宗教なき時代に、本屋ができること


「宗教なき時代を生きるために」(森岡正博 法蔵館 1996年刊)

20年前の1冊。
本体1942円。消費税が3%だった時代。
2000円の本を新刊で買うくらい、
大学生の僕は生き方がテーマだったんだなあと。

宗教なき時代をどう生きるのか?
オウム真理教のような新興宗教にハマらないためには
どうしたらいいのか?
また、何を信じて進んでいったらいいのか?

この本を読んだとき、
僕は農家めぐりの真っただ中で、
各地の農家さんに話を聞いていた。

いま思えばそれは、
「答え」を求める旅だった。

どんな農業をして、自分は生きていったらいいのか?
その問いはイコール、自分はどのように生きていったらいいのか?
という問いだった。

そして自然農に出会った。
耕さない、肥料・農薬をやらない、草・虫を敵としない。
を原則とした自然農。

徳島の沖津さんが放った一言。
「その草を残すべきか、刈るべきか、
畑に立つと自然とわかるようになる」

ああ。
僕はマニュアルを探していたのだ。
答えを求めていたんだ。

そんなことに気づかされて、僕の農家めぐりの旅は終わった。

自ら、生きていくしかない。
目の前のことに、本気、全力でぶつかってみるしかない。
それが生きることなんだ、と。
僕は自然農に教わった。

宗教なき時代、宗教なきこの国でどう生きるのか?

藤原和博さんは
著書「本を読む人だけが手にするもの」の中で、
こんなことを言っている。
(詳しくは、この日のブログで http://hero.niiblo.jp/e475503.html )

~~~ここから引用

宗教が機能している社会では、宗教が物語をつくり、幸福とは何かを教える。
でも、日本のように宗教が機能不全の国家では、自分で自分の宗教、
あるいはその代替物としての幸福論を持たなければならない。
だが、携帯メールはその場限りのつながりを与えてくれるだけで、幸福論の代わりにはならない。

だれもが、やがて決断せざるを得なくなるだろう。
自分の世界観と人生観を持ってどういうベクトルに向かって進んでいくのか。
つまり、何をテーマに掲げて生きていくのかということを決めなければならない。

誰かに託したり、自らを捨てて帰依することができる人はそれでいいと思う。
しかし、そうではない普通の人は、自分で本を読み、
自分で世界観を構築しなければ幸福論は築けない。

~~~ここまで引用

そうなのだ。

「だれもが、やがて決断せざるを得なくなるだろう。
自分の世界観と人生観を持って、どういうベクトルに向かって進んでいくのか。」

この前、「これからの本屋」の北田さんや一緒につくった花田さんと
イベント打ち合わせで話をしているうちに、
「本屋という祈り」という言葉を聞いた。

本屋は祈りだと。

ヴィレッジヴァンガード郡山アティで
「郡山にカフェをつくりたいんです。」
と祈りを込めてカフェのコーナーを作った店長。

本屋というのは祈る場所だ。

いや、宗教なきこの時代、この国で、
お店を持つ、ということは祈ることなのではないか。

こんな風になってほしい。
こんな人に出会ってほしい。

そんな祈りを込めて、今日も本屋の一日が始まります。  

Posted by ニシダタクジ at 07:14Comments(0)思い

2016年05月10日

愛とリスペクトと祈り


「これからの本屋」(書肆汽水域)

を出版した北田さん。
素敵な人だったなあ。

最初にリーディングスタイルで
お会いした時から素敵だなあと
思っていたけれど。

なんというか、
本や本屋に対する愛とリスペクトが
詰まっている人だなあって。

こういう人がこれからの本屋、
なんだろうなって。

名言は
「食べ物屋さんをやるつもりで本屋をやる。」

1つのメニューに、本に入魂する。
そしてお客とコミュニケーションする。
本棚に祈りを込める。
お客ではなく、共演者。

やっぱり「本屋」ってスゲーなって。

本屋という空間に立つということに
向き合いたくなる1冊です。

そんな北田さんとトークイベントをします。
6月4日(土)13:00~
新宿のネイキッドロフトです。
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/naked/44927  

Posted by ニシダタクジ at 06:38Comments(0)

2016年05月08日

ツルハシブックスを目指さない

「成功は一日で捨て去れ。」
とは、ユニクロの柳井さんの言葉であるが。
ユニクロはともかく。

僕は知らず知らずのうちに、
ツルハシブックスを目指してしまっていたのではないかと。

ツルハシブックスのような空間は理想だと思う。
ただひたすらに理想を目指してきたから。

オープン後に試算した。
やるからには日本一の本屋になりたい。
ジュンク堂に勝つにはどうしたらいいか?

ジュンク堂よりも坪当たり売り上げを上回る。
そんな本屋はカッコイイなと。

で試算した。
ツルハシブックスの営業時間内で、
15秒に1冊、単価1500円の本が売れること。

それは無理だ。
と思った。

売ることが無理なのではなく、
それを目指してしまうと、ツルハシブックスはツルハシブックスでは
なくなってしまうから。

そうやって。
誰のために何を売るか?
ツルハシブックスってなんだっけ?
というのをひたすらに問い続けてきて、
結果、サムライの制度ができて、いい空間が出来上がっている。

そこにとらわれていたのではないか。
と昨日ハックツの話をしていて思った。

中高生のいい意味でのたまり場を目指す。
というのは、理想的ではあるが、
それはイコール、ツルハシブックスを目指すのとは違う。

何よりお客さんに向かっていくこと。

ハックツのお客さんである
中学生高校生によりよい空間と時間を提供すること。
ブックスタマのお客さんである
地域ユーザーにも、そのことを知ってもらうこと。
そして経営体としてのブックスタマにも
経済的価値を生んでいくこと。

そのためには、
店内を一体化した取り組みが必要なのだろう
という結論に達した。

仮称「まちの本屋の日」だ。
地域プラットフォームとしての本屋を月に1日だけ出現させること。
そうやって、10代だけではなく、ほかのユーザーにも
従業員さんにも、「まちの本屋」を楽しんでもらう日。

そんな場をつくっていきたいと思った。

そして、
これまでの「成果」をちゃんと表現していくこと。

毎月ハックツに通いながら、この前引っ越していった小学生が
ハックツあてに手紙をくれたこと。
そんな小さな物語がたくさん生まれていること
をちゃんとブックスタマの人にも伝えていかないといけないなと。

お客はだれか?
お客にとっての価値は何か?

その価値を生み出すにはどうしたらよいか?
何がそれを妨げているのか?
それをスムーズにやっていくにはどうしたらよいか?

東京ハックツの場合は
お客はメインは中高生であるが、
一般の地域ユーザーでもあり、
ブックスタマという経営体でもある。

その「あいだ」にプロジェクトを置いていくというデザイン。

それは決して「ツルハシブックスを目指す」
ということではないんだな、と当たり前のことに
いまさら気づいた。

その三者を同時に満たしてこそ、
中高生にとっての場所ができるし。

もし、仮にツルハシブックスのような
日常的なたまり場、秘密基地のような空間を
目指すというのを第一義にするのであれば、
明かりや椅子といったハードの部分からも
考え直す必要があるなあと。

暗やみ本屋ハックツとブックスタマは、
まちの本屋としての役割と可能性を
実験する場にこれからなっていくと思う。

答えなどない。
社会実験を繰り返して、「場」は、できていく。

ツルハシブックスを目指さない。
ハックツはハックツを目指す。  

Posted by ニシダタクジ at 10:25Comments(0)学び

2016年05月07日

「この先生を知ったことがもう合格なんだ」


「わたしのはたらき」(西村佳哲 弘文堂)

来週、奈良県立図書情報館の仕掛け人、
乾さんに会いにいくのもありまして、
ツルハシブックスで購入。(残り1冊です)

まだ序盤なのですが、坂口恭平さんへの
インタビューがめっちゃ面白い。

~~~以下メモ

自分には可能性がある。
けどそれを自分の身体で、この寿命の中で、
完全に解放することはできないだろう。
だから遠回りする時間はない。「近道してくれ」って。

それはどうすればいいかというと、
「明日死んでもいい」ということだけやればいい。
才能を毎日100%つかってくれ。
油断しないで真剣にやれってことを僕は誓ったんですよ。

この32年間が準備段階という感じで、
本当にここからやらなきゃならないと思っている。

「俺は秘密基地創作者になりたい」

高校では、受験勉強中の同級生とは別に図書館へ。
日本の大学の建築家の中で
いちばん会いたい人をまず見つけようと。
建築雑誌のバックナンバーを遡った。

75年のところで石山修武さんの「幻庵」に出会った。

「よし、この人に」とページをめくったら、
早稲田大学で教授をしているとある。
それで志望校を早稲田にした。

僕の成績だと合格率は20%くらいで、
判定上は絶対に受からない。

でも「大学じゃない」と思っていた。
「この先生を知ったことがもう合格なんだ」

試験に落ちても、上京して
この人の研究室をノックすればいいじゃないか。
道はあるんだもの。なんて簡単なことなのだろう!

図書館でバックナンバーを調べている時、
「どう考えても俺は冒険してる」と思った。

「お前はこれ10年やったら本物だ。
つまり飯を食えるだろう。
でも途中でやめたら本当にバカだ。死ぬだろう。」と言った。

「もしやるんだったら、コルビュジュやライトのような
建築家の勉強は一切しなくていいから、
10年間この仕事をやってみろ」って言われたんです。

僕にとっては彼は先人ですから、その人の言うことは絶対です。

冒険家ですよね。
誰もが「できるわけない」と言うことを実際にする。
そして見たこともない風景をそこに見る。

冒険家には、ゴールはないけど、確信だけはあるわけです。
自分がやろうとしていることは間違いないということだけが
本能としてわかっていて。
僕もそうなりたかったし、そうだった。
運命を感じていて、自分には使命があるとわかっていたんですよね。

「お前それ自伝に書けんの?」

彼らは大抵10年は食えていない。
これも先人の教えです。
だからそもそも食えるとか食えないといった話じゃない。

僕には成功という概念はないです。実現しかない。
やらなきゃいけないことが人間にはあるんだよ、って。

僕が持っているように見えるのは渡されたバトンでしかない。

何かが実現するときって絶対に一人ではない。
必要な誰かと出会うことによって、ほぼそれで実現すると思うんです。

だからハードルはまったく気にせずに、自分がいちばん会いたい人を
一人だけ、何年かかっても探し出すといい。

「啓蒙とはなにか。
それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。
未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ、自分の理性を
使うことができないということである。」(カント)

~~~ここまでメモ

いやあ。
書きすぎちゃったかも。著作権大丈夫かな。

ラストのあとがきも熱い。
人気イベントだった「自分の仕事を考える3日間」を
3年目でバツっと辞めるところもすごい。
そんな乾さんに会いに行ってきます。

「わたしのはたらき」
の坂口恭平さんのところは高校生・大学生必読です。

できれば「隅田川のエジソン」と
「独立国家のつくり方」を合わせて読みたいですね。

いちばん会いたい人を見つける。
実は人生の入り口は、そこなのかもしれないなと。

そしてラストのカントの言葉に、共時性を感じてシビれた。
「これからの成人式」を売る。

きっとこれがお店として、そして学びの場としてのツルハシブックスの使命であり、
それを実現していくプロセスにツルハシブックス3rdはあるのだろう。

そして「これからの成人式」を経済社会とのコミュニケーションツールとして、
商品化していくことが求められているのだろう。

この本のラストにある、
西村さんと乾さんのクロストークに出てくる、
「マジ温かい」場をつくる熱源に、
ツルハシブックスの店員サムライのひとりひとりがなればいい。

心からそう思った1冊でした。

素敵な1冊をありがとうございました。
お買い求めはツルハシブックスでお願いします。

先を読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2016年05月06日

ツルハシブックス3rd




ツルハシブックス3rd
次のステージの幕開け。
いよいよ。
新たなるツルハシブックスがスタートする。

そんな実感のある店員サムライ研修合宿となった。

久しぶりのファシリテーター。
僕自身が一番驚いたのは、

合宿の目的は、
言葉ではなく心を共有すること。
「おれたちはあの方向に向かっているんだよなあ」
という感覚を共有すること。

だと最初から思っていたけど、
そのためには逆説的だけど言葉を共有する必要があると思っていた。

「言葉」とは、
「誰に」「何を」提供しているのか?
ということを明確にすること。

今回の合宿は、
それを明確な言葉にせずに、
それぞれが、「それをどう提供するか?」
の脚本を書く、ということに挑んだ。

「劇団員」であるサムライに
必須のことなのかもしれない。
自分にとって、誰がお客で、そのお客に
どうなってほしいのか?

そんなシーンを思い浮かべ、
自らを登場させ、シナリオを書いた。
これが面白かった。

ちなみに僕の書いたシナリオはこちら。

~~~ここからシナリオ

出演者
店員:さかのあき
お客A:新潟大学人文学部2年生女子はづき
お客B:初来店の高校生女子

ある雨の日。
制服姿の高校生がツルハシブックス入ってくるところから
シーンは始まる。
お客Aは3回目の来店で、店員とも面識がある。
すでに店内にいて、カラバコのコーナーを見ている。

店員:「こんにちは」
お客B:「こんにちは」
店員:「今日帰り早いんですね、テストですか?」
お客B:「三者面談です。でも雨が降っているので、
車の迎え待ちです。あと20分くらいはかかるって」

店員:「じゃあ、お菓子でも食べる?昨日、お客さんからもらったの。郡山のままどおる」
お客B:「え。いいんですか?」
店員:「差し入れは初来店のお客さんと一緒に食べるってルールがあるんです。
わたしのほうこそラッキー。」

お客Aも呼び寄せて、麦茶を入れて、3人でままどおるを食べる。

店員:「三者面談終わったの?」
お客B:「明日なんです。」

ここでお客Aに話しかける

店員:「三者面談のとき、どうでした?」
お客A:「三者面談っていやだよね~。私もすごくいやだった。」
お客B:「実は私も明日なんて言おうかと・・・」

店員:「理系なの?文系なの?」
お客B:「いちおう理系なんですけど、数学が苦手で、
文系にしたいんですけど、親が文系だと就職がたいへんだって。」

店員:「そうなんだ。はづきちゃんのときってどうだった?」
お客A:「私は今社会学っていうのを勉強しているんだけど、
すごく面白いよ。若者にとって、学校でも家庭でもない場が必要なのではないか?
って、そういうやつ。」

お客B:「面白そう。で将来はどんな仕事に?」
お客A:「そんなに決まってないよ。まだまだこれから。」

店員:「私もこども学科で幼稚園とか保育園とかに行く人が多いのだけど、
ここで店員とかしていると、それだけじゃないかもしれないって思い始めてきてね。」

お客B:「そうなんですね。大学生ってもっと進路が決まっていると思ってた。あ、電話」

高校生の電話が鳴る。

お客B:「お母さん駅についたって」
店員:「そっか。またね。」

お客B:「また来てもいいですか?」
店員:「うん。木曜日なら私がいるから。」

お客B:「木曜日ですね。また来ます。ありがとうございました。」
店員:「またね~」

~~~ここまでシナリオ

ひとりひとりが書いたシナリオ。
そこには、違う登場人物つまり共演者がいて、
主人公である初来店の誰かに、
何かを提供している。

きっと店員サムライにとって、ツルハシブックスとは、
そういう空間なのだ。

誰かのために何かを、このような手段で提供する。
というようなものは決まっていない。

いや、前者の2つは、だいたい決まっている。

初来店の中学生高校生大学生に、
たったひとりであの重い扉を開けて入ってくる
勇気ある中学生高校生大学生に、
なんらかの機会を提供したい。

しかしその提供する方法は決められていない。
方法というか、どのようなシーンで、
それを提供するか?が
それぞれのサムライに委ねられている。

きっと、ツルハシブックス3rdは、
そういう場になるのだろう。

2011.3~2014.12の第1期
2015.1~2016.3の第2期
から第3期へ。

ツルハシブックスはまた新しいツルハシブックスになります。
ご期待ください。  

Posted by ニシダタクジ at 06:32Comments(0)チーム