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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年12月17日

「作品」として観る

「どんな20代だったのか?」
と聞かれて、自らの20代を振り返る。

それを現代美術家(リレーショナル・アート)
として観る。(鑑賞する)みたいな感じで振り返ることにすると楽しい。

週末、いのうえゆき+さかのあきプレゼンツの
ツルハシブックスサムライ+まきどき村の
忘年会的な合宿@旧庄屋佐藤家でした。



20人以上集まりましたね。
なんだったんだろう、ツルハシブックスとは。
黄金期は僕が茨城に行った後の2015年の1年間だったなあと
あらためて思い出して。

ということで。
どんな20代だったのか?と振り返っていたら、
「現代美術家」風にポートフォリオ化したほうがいいのではないかなと。

編集すると、
「リレーショナル・アート」
(関係性のアート)
で問いを投げかけてきたのだなと。

そして、主に「農」とか「食」とか「本」とか「キャリア」とかのキーワードで
コミュニケーションと場のチカラのデザイン
で境界をあいまいにする、ということをやってきたのだなあと。

ということで。
振り返ってみる。

・まきどき村(1999年~)
農作業後に囲炉裏を囲んで釜炊きごはんを食べる活動。
設立当初のコンセプトは「畑のある公園づくり」
日帰り温泉の隣で、農作業後にお風呂に入って帰るという
ライフスタイルの提案。

「畑は人と人をつなげるツールになる」と
小説「種をまく人」(ポールフライシュマン あすなろ書房)
を読んで思った。





当時は、「ほたるの里朝市」が元気で、
そこで漬物を買って、畑で炊いたごはんを食べる、という活動だった。

・「人生最高の朝ごはん」(2011年~)
2001年頃に付けた朝ごはん活動のネーミング。
毎週更新される「人生最高」は、
来る人、食べるもの、その日の天気、
すべての要素を複合して成り立つもの。
そんなメッセージ。

・「遊びと学びの寺子屋 虹のひろば」(2005年~2009年)
2004年の中越地震でのボランティアをきっかけに始まった活動。
神社の境内で小学生と近所のおじいちゃんおばあちゃんが
昔の遊びをしたり、手作り豆腐をつくったりした。

「小学生をどうやって集めたのか?」と言われるが、
もともとその神社は子どもが遊んでいる場所で、
そこに月に1度「虹のひろば」という旗を掲げて、
大学生とおじいちゃんおばあちゃんが遊びのネタを持っていき、
子どもと遊ぶので、その旗によって、活動に人が集まっているように見えた。





「起業家留学」(2007年~2012年)

大学生の地域企業での長期インターンシッププログラム。
地域企業と学生が共に学びあえるような設計を目指した。
イベント「社長に挑戦セヨ!」は
学生も経営者も参加費を支払い、参加するイベント。



「にいがた地域留学」(2010年)

新潟県内の5大学15名と中学生3名(オプション参加)が旧庄屋佐藤家と
岩室温泉街を舞台に、1泊2日で地域の魅力を引き出すツアープランを企画する。

新潟市職員の若手勉強会「新潟せいさく所」とコラボレーションして
ワークショップファシリテーターを担ってもらった。





ということで、PCの電池がなくなってきたので、メモを残して、次回へつづく。

・「コミュニケーション力養成講座」(2011年~)
・「地域コミュニケーション留学」(2012年)
・「にいがた未来考房」(2014年)

・「ツルハシブックス」(2011年~2016年)
・「店員サムライ」
・「寄附サムライ」
・「暗やみ本屋ハックツ」(2015年~)
・「10代に贈りたい本読書会」
・「あなたが未来に託す思い展@茅ヶ崎」(2016年)

などなど。
もうちょっと考えます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)足跡

2018年12月14日

営みと「天の恵み」という贈与と返礼


「TANEMAKI.01~まきどき村の米づくり」

購入はこちらから(こちらは米3合付き!)
https://karasawa.thebase.in/items/15213326

先週の金曜日、唐澤さんと長岡で
トークイベントをして1週間。

帰りの車で生まれたキーワードは、
「営み」だった。

http://hero.niiblo.jp/e488524.html
「自己肯定は営みの中に内蔵されている」(18.12.8)

ここでは、イナカレッジにも言及されているけど

※イナカレッジの来春からのプロジェクトはこちらから。
https://inacollege.jp/2019spring/

イナカレッジの参加者が地域の集落での暮らしで、
唐澤さんがまきどき村の米づくりに見たものは、感じたものはなんだったのか?
という問い。

そんな問いに応えてくれる本に出会った。


「農業を株式会社化するという無理」(内田樹他 家の光協会)

久しぶりの内田節にうなりました。

藤山浩さんの「郷の駅」構想は
まさに僕が本屋さんや米屋さんでやりたいことだったりした。

「人口じゃなくて、ひとりひとりの人生」っていうのはまさしくその通り。
大学生が直面しているアイデンティティ問題にも直結している。

宇根豊さんの「農本主義」にもシビれた。
いきもの指標による「環境支払い」とか、
農をふたたび取り戻す仕組みだよなあと。

ドイツの農村には、
「このリンゴジュースを買って飲まないと、
この村の美しい風景が荒れ果ててしまう。」
と言ってリンゴジュースを買っていく風景があるのだと。

「天地と自分は別々ではなかったのだ」と感じられること。

「農業は、労働ではなく天地との協働」
そんな思想にあふれていた。

ラストは、平川克美さんが締めた。

「AかBかの二項対立で考えないこと。
二項対立になった瞬間にそのあいだの選択肢をすべて失っている。」
「これからの生き方」みたいな答えはないから考え続けるしかない。

そうそう。
そうだなあと。

あらためて、第1章の内田樹さんのところからいくつか抜粋する

~~~ここから引用

農業が他の産業と一番違うのは、その成果の多くが自然からの贈与に拠っているということです。鉄の塊を地面の上に置いておいたら自動車ができあがっていたというようなことは絶対に起こりませんが、農業の場合は、種子を土の上に置いておいたら、土壌と雨水と太陽の熱で気がついたら可食物がそこに育っていたということが起こり得るというか。というか、そういう「奇跡」に感動したことが人間が農業を始めたきっかけであるはずです。

それは狩猟や漁労でもそうですけれど、自分たちが手にした成果が「天からの贈与」であるということを第一次産業の人たちは実感している。自分たちが贈与を受ける立場にあることを実感する。ですから当然それに対しては感謝の気持ちを抱く。「ありがたい」と思う。

自分たちが企業活動を通じて得た利益を「天からの贈与」だと思って、感謝するというマインドがデフォルトであるようなビジネスが他にあるでしょうか。製造業でも、サービス業でも、そんなことはありません。

実際に自分の体を使って、太陽を浴びて、雨に濡れて、風に吹かれて労働した後に、その成果として青々とした作物が実り、それを収穫して、食べて美味しかったということの感動は、他の仕事では得られないものだと言います。

そしてそれが「贈与」であると実感したら、人々は「反対給付」の義務を感じる。当然のことなんです。誰かに贈り物をしてもらったら、「お返し」をしないと気が済まないというのは人間として当然のことだからです。

農作物は部分的には天からの贈与です。贈与である以上、それを受け取った者は反対給付義務を感じる。この恵みについては誰かに対して「お返し」をする義務が自分にあると感じる。

それが自分の社会的な責務、人類学的な責務であるということを感じる。きちんと「お返し」をしないと悪いことが起きると感じる。それが価値を生成する現場に直接立ち会う人だけが味わう特殊な経験だと思います。

教育の過程もまさに「開花」とか「果実」という言葉を使うわけです。水をやり、肥料をやり、一生懸命手がけてあげて、雨雪から守ってあげてるうちに、地面から才能が湧き出てくる。

~~~ここまで引用

ふむふむ。
何度読んでも内田さんの「贈与」の話はうなるなあ。
そんな風に世の中はなっているのだなあと思う。

米づくりという「営み」の中には、「天の恵み」があって、
その贈与を受けた者として、何かお返しをしなければいけない。
その贈与の「連鎖」の中にいること。

たぶんそれが、
米づくりにはあるのだろうし、

20年前に僕がひたすら問いかけていた
「自然」とはなんだろうか?」という問いへの
一つの回答になっている。

そういう「贈与」の感覚を、
僕は、本屋や米屋や畑や田んぼによって
表現したいのかもしれないなあと今思っている。

唐澤くんが田んぼ1年目で感じたこと。
そして、イナカレッジの参加者が1か月の田舎の集落暮らしで感じること。
それらはきっと近いものがあるのかもしれないと思った。

営みの中にある圧倒的な贈与。
そこに、「生きる」ために必要な何かがあるのだろうな、と思う。

ああ、最近は読書運がいいなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2018年12月13日

「問いが近い」ということ

最近のキーワード。

「場のデザイン」
「参加とケア」
「承認と自己肯定感」
「営みと暮らし」
「関係性のアート」
「境界を溶かす」
「余白と未分化」
「脱力とイノベーション」

これを曼荼羅にしてみたらいいのかもしれないね。
これ、全部つながっているよなあ。

たぶんそういうキーワードにヒットする人っていうのは、
「問いが近い」っていうことなのだろうと思う。

そして、「問いが近い」人と話すのは楽しいし、
それはジェネレーションギャップを超えられる。

たぶん。
そういうこと。

おじさんの説教話を聞いて、
まったくそこに何も感じないのは、
そこに問いが無いからではないだろうか。

ということは、コミュニケーションの本質としては、
「同じ問いを見つめる」っていうことになるのかもしれない。

それは1対1の対話でも
チームでの対話でも同じだろう。

「チームに一体感が無い」のは、
同じ問いを見つめていないから。

そして、
そもそも同じ問いを見つめていない人と
チームは組めないのではないのか。

だから、問いが近い人とチームを組んで、
何かを始めてみること。

たぶん、目的・目標が明確ではない
ふわっとしたプロジェクトのほうがそういう人が
集まりやすいのかもしれない。

にいがたイナカレッジってきっと、そういうやつ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)日記

2018年12月09日

地域の暮らしに「伴走」する

「営み」というキーワード。
「場のチカラ」研究の上では重要な言葉だなと。

「にいがたイナカレッジ」の価値の独自性を考える。

キーワードは
「場のチカラ」「働き方と暮らし方」「営み」「伴走」

そして、「創造的脱力」(若新雄純さんによる)かな。

1 「創造的脱力」プロジェクトである、ということ。

若新雄純さんの「創造的脱力」(光文社新書)
によると、「創造的破壊から、創造的脱力へ。」
http://hero.niiblo.jp/e488462.html
「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)

ここから引用する。

~~~以下引用
「JK課は、あくまで実験的なプロジェクトで、政策の本流じゃないですから」といった調子で、「ゆるいプラン」であることを強調しました。その結果多くの人が気軽に参加できる環境ができ、活動に広がりが生まれています。

「とりあえず楽しもう」「やりながらちょっとずつ良くしていけばいいじゃないか」という適度な脱力感が、「白か黒か」「成功か失敗か」という過度な緊張感を遠ざけ、すぐには結果の見えない実験的なプロジェクトに粘り強さをもたらしています。

「脱力」は「無力」ではありません。そして、それは「不真面目」でもありません。

「こういうのもあっていいんじゃないですか?」とか、「まずは実験してみよう」といって、本流ではないところで、周辺からアクションしてみる。既存のシステムや勢力を直接には攻撃してしまわない離れたところから、でも、ちゃんと見えるところから、それをやりたいという当事者たちが集まって、真面目に考え、小さくてもいいから、何かが変化するような振り切った実験を、真剣にやってみるのです。

失敗したならやり直せばいいし、もしうまくいったらなら、どんどん増やしたりひろげたりすればいい。

すると、そこに人や情報がどんどん流れてきて、いつかは本流にすり替わったりするかもしれません。

もちろん、新しい支流や一つの文化になるだけでもいい。これが僕の考える、「創造的破壊」ならぬ「創造的脱力」です。

~~~以上引用

詳しくは上記ブログか本書を読んでもらいたいのだけど、
これ、まさに大学に必要な考え方なのではないのか、と。

大学での本流なるためには、あまりにもハードルが高く、
「正しいことをしたかったら偉くなれ」(by踊る大捜査線)
の世界が広がっている。

「価値観の多様化」ならぬ
「価値の流動化」が起こっている現在において、

大学が、文科省が、あるいは経産省が定めた「価値」
に向かっていく人も多数派でいてもよいが、
そうじゃない価値を志向する人も許容されるというか
「当然、多数派じゃない人もいるよね」と思っていいはずだ。

よく言われることだけど、
学生は2-6-2で分かれる。

優秀な学生2割
普通の学生6割
どちらでもない学生2割

「就活」で困るのは実は真ん中の6割の学生だという。
だから、その6割にどうアプローチし、カリキュラムを提供するのか、
ということになる。

でも、その発想って、
「優秀さ」という画一的な「価値」における序列なわけで、
そもそも画一的価値が溶け出しているのだから、
その発想自体が時代遅れ感があるよね。

トップ2割じゃなくて、
その企画にヒットする20/100が来ている、だけなんだよね。

そういう意味では、
「にいがたイナカレjッジ」は脱力系プロジェクトの代表例でもあると思う。

2018年の修了生のひとりが言っていた。
「大学にいるときは、部活・サークルの繰り返しで、全く余裕がなかった。
この集落での暮らしでは、朝起きたら、「今日、朝ごはんどうしようかな。」と言って、
3人で塩おにぎりときゅうりの漬物とトマトと食べた。
そんな日々を送ったら、心に余裕が生まれた」

その「余裕」や「ゆるさ」や「余白」から、創造力が生まれてくるのではないか。

という仮説を検証するプロジェクトだ。

2 「場のチカラ」を活かすプロジェクトである、ということ。

場のチカラの構成要素は
1 誰とやるか
2 いつやるか
3 どこでやるか

であり、これに
4 なぜやるか
5 誰のためにやるか
6 何をやるか
7 どのようにやるか

を足すとプロジェクトになる。

「にいがたイナカレッジ」では、
「誰とやるか」を大切にする。
それはチューニングと呼ばれる方法だ。

ひとりひとりの過去を振り返り、
自分たちがなぜ、ここにいるのかを考える。

日々のミーティングでは、
「最近あったよかったこと」から始まり、
「ミーティングの場の感想」を言う。
そうやって「誰と」の「誰」を知っていくのだ。

2 いつやるか
3 どこでやるか

は、まさに活動する地域の状況と
自分たちの問題意識、時代背景などを
すべて要素に入れながら、場のチカラを高めていくのだ。

誰かが設計したプロジェクトに
「機能」として組み込まれるのではなくて、
自らがプロジェクト設計に参加・参画することで、
そのプロジェクトが自分自身のものになると考えている。

3 「地域暮らしに伴走する」動的なプロジェクトである、ということ。

にいがたイナカレッジでは、地域(集落)の中で寝泊まりをして、
そこでの「暮らし」そのものを実践できる。「期間限定の住民」になる。

地域には「営み」がある。

「営み」とは、「暮らし」よりももう少し大きな体系の概念であり、
自然の流れや、その地域で育まれた歴史を含んでいる。

その「営み」の中で、
自らが価値だと感じるものをカタチにしていく。

2018年夏の例だと、
日々の暮らしの豊かさを伝えたいので、日誌風の冊子をつくったり、
集落の人たちと一緒につくりたいし、たくさん来てもらいたいので
写真展を開催したり、というアウトプットになった。

「価値」は常に流動している。

誰とやるか、いつやるか、どこでやるかの場のチカラ3要素によって大きく変わる。
そしてそれは、地域側も同じだ。大きな「営み」の中で、地域は動いている。

スピードは違うけど、お互いに動いているものの接点を探り、
そこに価値を見つけ、アウトプットをつくっていく。

言ってみれば、地域の暮らしに「伴走」する動的なプロジェクトであるということだ。

3つの要素をまとめていうと、

「にいがたイナカレッジ」は、
「場のチカラ」を高めて、地域の暮らしに伴走しながら
その接点上に「価値」を見つけアウトプットする、
脱力系のプロジェクトである。

っていうことになるかな。

まとまってます?  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)日記

2018年12月08日

自己肯定は「営み」の中に内蔵されている



長岡市・コモンリビングで
唐澤頼充さんとトークしてきました。


まきどき村の米づくりを追いかけた
1年間の記録。「TANEMAKI」

購入はこちらからもできます。
https://karasawa.thebase.in/

イベントは
コモンリビングの「ごはん会」の一環で行われました。
ごはん食べてから話を聞くってスタイルもいいなあ。

ということで、唐澤さんとトーク。
イベントでしゃべるのは実は2回目。

面白かった。

まあ、一番おもしろかったのは、
帰りの車の中の反省会だったのだけど、
ひとまずイベント中のことを。

~~~ここからイベントメモ

都会:人を相手にする→個人にフォーカスしてる
米作り:自然を相手にする→自然にフォーカスする。生きてる感がある。

自分が何かをすることが返ってくる。
自然との関係の中にいることを感じられること。

旧庄屋佐藤家:250年の歴史の中にある。

身体感覚として気持ちいい。
身体のポテンシャルを使っている実感。

アート:身体感覚を伴っていた。
宮澤賢治的な。
それがいつのまにかファインアートに寄ってしまった。

等価交換ではない農業。
贈与し、贈与される。

化学肥料とちがって、
堆肥は直接作物に吸収されない。

~~~ここまでイベントメモ

僕がヒットしたのはそんなところかな。
さて、この本の唐澤さんのあとがき

「米作りはひとりではできないなぁ」
ここがハイライト。

極力機械を使わず、
人の力で、米作りをしたリアル。

昨日は、そんな話だった。

帰りの車の中でしていた話のキーワードは、「営み」

田植えをしているとき。
雑草をとっているとき。
稲刈りをしているとき。

そこには「営み」があった。
「営み」というのは、自分とは違った時の流れのこと。

自然の時の流れ。
稲の時の流れ。
その流れの中にいること。
そのとき、人は何とも言えず、満たされた気持ちになるのではないか。

場のチカラの構成要素
1 誰とやるか
2 いつやるか
3 どこでやるか

この2 いつやるか?3 どこでやるか?

のチカラを高めるには、
「営み」の中に身をおく、ということ。
身を委ねる、ということ、なのかもしれないなと思った。

そして、それが、
「自己肯定」をアップさせるのかもしれないと思った。

「自己肯定」は「営み」の中に内蔵されている、と。

それは意識上には上がってはこないけれど。
「地域の祭り」によって、自己肯定感がアップするのは、
「地域のつながり」なのだけど、その「つながり」とか「絆」っていうのは、
人とかコミュニティの中にあるのではなくて「営み」の中にあるんじゃないか。

「自己肯定感」が大事だって言われるけど、
それを自己にフォーカスして高めることは難しいのではないかな。
1年を通して田んぼで米作りや田舎や島の暮らし、
みたいに「営み」の中に身を置くこと。

暮らし方って個人戦じゃなくて、
もしかしたら「営み」の中の一部になること、なのかもしれない。

唐澤くんが昨日言っていたけど、
米作りは人間と自然の等価交換じゃなくて、
常にどちらかが負債を抱えている(感じがする)。

「営み」は中に「負債感」を内包している。

そしてその「負債感」こそが、
もしかしたら、「自己肯定」につながっていくのではないか。

「営み」という場に一体化する。

まきどき村の米作りも、朝ごはんも、
イナカレッジプログラムも、

「営み」の中に溶けていけるから、魅力的なのではないか。

今日はそんな仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 11:03Comments(0)イベント

2018年12月07日

「場のチカラ」でひとりにフォーカスすること

イナカレッジ修了生との対話。
キーワードだらけ、なのでメモ残しておく。

~~~ここからメモ

楽しくない未来をイメージして、そこに計画を立てることにどんな価値があるのか。

東京には「未来」があるから、今を楽しめないのかもしれない

木沢は「未来」が描けない限界集落だからこそ、今を楽しめるのかもしれない。

未来」と「今」が一体化している、という強さがあるな、そういう田舎には。

大学4年の春に就職決めて、就職までの1年間で気が変わらない自信が無かった。

「挑戦」には「主語(たとえば私)」と「意志」と「未来」が存在する。だから「成功」と「失敗」に一喜一憂してしまう。「実験」には「状況」と「結果」しか存在しないからこそ、「結果」をドライに俯瞰して見れる。もっと自分を実験用試料にしたらよいと思う。

地域の、集落の未来のビジョンではなく、「今」を大切にすること。そうすると、今いるひとりひとりが大切になってくる。

~~~ここまでメモ

「場」のチカラと「挑戦」とか「実験」とか
リンクしているんだなと。

そして、ひとりひとりのケアができるのは、
場のチカラを重視するからではないか。

人は、場のチカラの手段になったほうが
心地よくそこに居られるのではないか。

「未来」とか「意志」とか、「挑戦」とか「自分」とかが無い世界。

木沢にはそういうのがあるのかもしれないね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)日記

2018年12月04日

ロールモデルではなく、問いを見つけること


「これからの世界をつくる仲間たちへ」(落合陽一 小学館)

AIの時代って言われてるけど、何が起こっているのか?
わからないまま、怯えていないか。

それに対して、
図解を含めてわかりやすく教えてくれるこの本。

映像の世紀(20世紀)から魔法の世紀(21世紀)へ。

テレビ、映画、アニメなど「映像メディア」の中での表現から
映像的な表現が現実の物理空間で可能に。

リアルとバーチャルは区別されていたのが
境目がなくなる。

1対NだったのがN対Nになる
魔術化:コンピュータ、コードというブラックボックス

「コンピュータは電化製品ではなく、我々の第二の身体であり、脳であり、そして知的処理を行うもの、たんぱく質の遺伝子を持たない集合型の隣人です。」

「人は人らしさを自分の中に持つのではなく、対話の中で「人らしいな」と自覚するものだと思います。いま、人はコンピュータと向き合うことで自分を見直す時期に来ました。」

「シンギュラリティ(技術的特異点):それより先は人工知能が猛烈なスピードでテクノロジーを進化させていくので、人間は世界の将来を予測することすらできません」

そんな感じで前半からガンガンきます。

ここで大きな問いは、
「人間がやるべきこと」は何か?というもの。

~~~以下引用

ただ基本的には、コンピュータが不得意で人間がやるべきことは何なのか?を模索することは大事だと言えます。

それはおそらく「新奇性」や「オリジナリティ」を持つ仕事であるに違いありません。

少なくとも、処理能力のスピードや正確さで勝負する分野では、人間はコンピュータに太刀打ちできない。

ざっくり言うと、いまの世界で「ホワイトカラー」が担っているような仕事は、ほとんどコンピュータに持って行かれるのです。

それは、よく人工知能が職を奪うという恐怖を掻き立てる表現とともに語られますが、ほんとうの問題は、どのようにして人の良いところと人工知能の良いところを組み合わせて次の社会に行くのかということだと思います。

つまり、迎合や和解のために知らなくてはいけない隣人の性質について考えないといけません。コンピュータとの文化交流が必要なのです。

~~~以上引用

いまのホワイトカラーの仕事はコンピュータにもっていかれる。それなのに、ビジネス書、自己啓発書の類は、効率化など処理能力を高める、といったホワイトカラー教育を志向している。

「意識だけ高い系」:
専門性がないがゆえに、自慢することが人脈、評価されない活動歴、意味のない頑張り程度でしかない人たちのこと。

人間が持っていて、コンピュータが持っていないものは「根性」「ガッツ」「気合」ではなく、「モチベーション」。

モチベーションを持って、コンピュータをツールとして使う「魔法をかける人」になれるか、あるいは「魔法をかけられる人」のままになるのか。

落合さんが学生たちに問いかけるのは、
「その新しい価値がいまの世界にある価値を変えていく理由に、文脈がつくか」「それに対してどれくらい造詣が深いか。」が大切だということ。

ここでいう「文脈」は次の5つの問いに落とし込むことができる

・それによって誰が幸せになるのか。
・なぜいま、その問題なのか。なぜ先人たちはそれができなかったのか。
・過去の何を受け継いでそのアイディアに到達したのか。
・どこに行けばそれができるのか。
・実現のためのスキルはほかの人が到達しにくいものか。

この5つにまともに答えられれば、そのテーマには価値があります。これを説明できるということは文脈で語れる=有用性を言語化できるということであり、他人にも共有可能な価値になる可能性があります。

この「なぜいま」のところにコンピュータが入ってくるのだと言います。

そして、最後に、3つのキーワードを。

・クリエイティブ・クラスにはロールモデルは存在しない。
・何を研究し、どんな暗黙知を貯めていくのか。
・好きなことを見つけろ、やりたいことを探せ、ではなく、自分が解決したいと思う小さな問題を探せ。

コンピュータによってホワイトカラー的な仕事はなくなっていく。新しいものを生み出せる力が必要になる。
最初のクリエイティブを作った人だけが価値を持つので、あの人のようになりたい、というロールモデルは通用しない。

そのためには勉強ではなく「研究」しなきゃいけない。
その「研究」は他者がやっていないこと。

その出発点に立つのは、好きなこと、やりたいこと、ではなくて、小さな問題を発見し、それを深く掘り下げること。

そうそう。
だから、現場で、プロジェクトを設定・設計・実行する、
そういう力が必要なんですよね。

やっぱイナカレッジだな、と思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:47Comments(0)