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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年12月31日

関係性のなかにある自分

関係性のなかにある自分
「新・幸福論~「近現代」の次に来るもの」(内山節 新潮選書)

1年の最後にいい本読んだなと。
シビれる1冊。
追いかけてきた「何か」が目の前にあるような、
そんな感じがした。

キーワードでふりかえる2018年
っていうのをおととい書いていたけど、

http://hero.niiblo.jp/e488631.html
(キーワードで振り返る2018 18.12.29)

そのキーワードが
見事につながっていくような感覚があった。

僕のキーワードは
「アイデンティティ」
「パートナーシップ」
「他者評価」
「就活の違和感」
「場のチカラ」
「誰と働きたいか」
「営み」

とかだったんだけど、
それを見事に説明してくれているかのような
内山さんのこの本のキーワードだった。

「虚無的な関係」
「イメージの世界」
「遠逃現象」
「イメージとイデオロギー」
「先進国クラブ」
「自分の保身を第一とする戦前からの個人主義」
「国家と公を同一視するがゆえに公をも彼方に追いやっていった戦後の個人主義」

~~~とまあこんな感じなのだけど。

この文章において
重要なキーワードの一番目は「人々」だったと思う。

以下、内山さんの「人々」に関する著述メモ

~~~ここからメモ

近代とはどのような社会なのか。
経済的には資本主義の時代として形成された。
社会の基本的なかたちは、共同体社会から市民社会へと移行している。
国家は国民国家というかたちをとるようになった。

とともに、それは個人の時代であり、
個人を基盤にした社会原理や政治原理がつくられていった時代である。
1789年のフランス革命では、自由、平等、友愛が宣言され、
政治的には民主主義と代議制度が確立されていった時代であった。

化学が著しく進歩し、非科学的なことを人々が迷信として
退けた時代でもあった。
この時代を私は、「人々の誕生」という視点から
考察してみようと思う。

上野村には「人々」は存在しない。
高齢者問題とは高齢者という「人々」が
生み出す問題である。

共同体とは結び合う社会のことである。
この結び合いのなかでは「人々」は発生しない。
AさんやBさんがいるだけである。
とすると「人々」が発生するためには、
結び合う社会から人間を数量でとらえる社会への
転換が必要だったということになる。

戦争の時代(戦争の戦い方の変化)

国力(軍事力・経済力)を高める必要が高まる

中央集権的な官僚機構が必要

絶対王政が倒される

経済人と市民社会の台頭

「個人」が中心の社会へ

近代の国家は国民国家として形成されている。
国民国家とは、国民のためになる国家のことではない。
それまでは共同体のメンバーとして暮らしていた人々を
国民としてバラバラにし、その国民を国家が一元管理する
国家体制のことである。すべての人間たちを国家が直接管理する体制だといってもよい。

それは国民という「人々」を形成した。
そしてそのためには国民という
イメージの世界のなかに人々を巻き込んでいく必要があった。
さらにはそのイメージを「人々」が共有していく時代をつくり出さなければならなかった。

フランスではそのひとつとして、19世紀に入ると地方言語が排され、
フランス語による言語の統一がはかられていく。
言語の統一とは概念や文法の統一であり、概念や文法の統一とは
認識や思考経路の統一である。それは国民が同じ世界を共有するためには
重要な改革課題であった。

その後、文化や文明、戦争勝利などを通じて、
「我がフランス」や「我が日本」が作られていく。

国民という「人々」や市民という「人々」の誕生である。
そしてこの時代は、さらに新しい「人々」を生み出した。
労働者という「人々」である。
社会構造のなかでは、交換可能な人々のうちの1人として存在するようになる。

「だからこそ現代世界では、存在の不調和が発生してしまうのである。
「私」は私自身でしかないはずなのに、
社会的存在としての私は「人々」や「群れ」のなかの一人にすぎない。
「人々」の誕生はこのような問題を発生させた。」

なるほどなあ。
これが、虚無感の正体か、と。

かくして「人々」は出来上がり、そして熱狂した。
戦争に熱狂し、経済成長に熱狂した。
「イメージの現実化」の流れに乗って、
熱狂し続けた。

ところが、この構造そのものが、いま、
根源的に変化しているのである。

1973年の石油価格の引き上げからはじまった
世界経済の構造変化は、その後に工業化する国々を生み出し、
低賃金国であるほうが有利な経済をつくりだしていったのである。
それを可能にする労働力市場が世界には存在していた。

旧来の社会は、経済成長をテコにして、
人々が安定雇用と賃金上昇を獲得していくという
基盤の上に成り立っていた。
この基盤が孤立した個人でも生きていける社会をつくっていた。

いわば「人々」の群れの中にいれば、
そこから発生する虚無の問題を問わなければ、
何とかやっていける社会がここにはあった。

それは誰もが自己責任など果たさなくても、
あたかも自己責任でいきてきたかのごとく
錯覚できる社会が成立していたからこそ
実現されたシステムであった。

~~~ここまでメモ

と、またしても、引用しすぎなのだけど、
(この本、買ってください)

最終的には、
「人々」としての自分から、どのようにシフトしていくのか、
という話になっていく。

この本のいちばんの「!!」は、
この先にあった。

マルクスが「疎外」といったように、
工業化されると、人々はまさに「疎外」されていくのだけど。

ヨーロッパ哲学は、最後には「個人」に行きつき、
個人が「喪失」または「疎外」されている、
という結論になる。

しかし、内山さんは、
それを「関係性の喪失」であり、
その視野の狭さを指摘する。

「人間が自分の能力のなさにきづくのは、新しい関係をつくりはじめたときである。」

「いま保有している関係のなかで働き、暮らしているかぎり、
人間は自己認識としては能力もあり、正常なのである。」

「人間性の創造とは、自分とともにある関係の創造である。」

そして実は関係性は「喪失」しているのではなく、
「遠逃現象」つまり、遠くに逃げて行っている(ように感じる)のである。

おそらく、12月7日に唐澤さんと話していた
「営み」っていうのは、
その逃げ出した関係性をリアルにつなぎなおすもの(感覚)
なのだろう。

http://hero.niiblo.jp/e488524.html
(自己肯定は「営み」の中に内蔵されている 18.12.8)

そして、この夏に、
こはるさんが言っていた「誰と働きたいか?」
っていうのと、
イナカレッジ研修で語った「場のチカラ」っていうのは、
まさに、

「人々」ではなく、
かつ、孤立した個人でもない存在としての「自分」
をいかに生きるか?そして働くか?

言い換えれば、経済社会や暮らしとどのような関係性を結ぶのか?
という問いかけであり、仮説だったのだろうと思う。

さて、2018年は、大学を休学してひたすら旅に出て遊んでいたような感じがしますが、
2019年は、「卒業制作」に打ち込みたいと思います。

明日、1月1日午前に、卒業制作「かえるライブラリー」
の乗組員募集のクラウドファンディング開始します。

本年はみなさんにたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

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