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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年10月27日

世界は意味にあふれている


『才能をひらく編集工学』(安藤昭子 ディスカバートゥエンティワン)

いや、これいいですね。僕が追いかけてきた「リアルメディア」や「場のチカラ」っていう問いが言語化されていてドキドキします。

ということでメモメモ。

~~~
生物の進化というのは、設計図に基づくエンジニアリングではなく、既存の系統を課題解決に応じて変更させてきたブリコラージュのプロセスである、ということです。

わたしたちの思考には連想力(跳躍に向かう力)と要約力(着地に向かう力)が元来備わっていて、そのいずれも動かさないとならない、ということです。

アナロジカル・シンキング
1 何かと何かが「似ている」と思う
2 (似ているものの構造を)「借りてくる」
3 (借りてきた構造を)「当てはめる」
似ているものを、借りてきて、当てはめる。じゃんけんのグーは石、チョキは鋏、パーは紙みたいな。

ビジネスの戦略立案においては、合理的な演繹的思考と実践的な試行錯誤の組み合わせが王道とされながら、実際にはそのどちらでもない「アナロジー」によって難局を突破したり、新たなビジネスを構想したりするケースが多く、先行き不透明な状況になるほどアナロジーに頼る傾向があったそうです。

ロジカル・シンキングのトレーニングを徹底して受けた組織ほど、アナロジーの発動力が乏しいのです。

落ちる林檎への驚きと疑問がなければ、ニュートンの探究は始まりません。自然界や目の前の現象に眼を凝らす中で、こうした閃きのようなしさあを得るために、探偵のような洞察力で、小さな異変や兆しや違和感をキャッチするところからアブダクションは起動します。

伝統的な知覚論は「意味」はいたってプライベートなもので、知覚者に「私有」されていると考えられてきました。これをギブソンは、どんな生き物にもアクセス可能な公共的な「リソース」と捉え直したのです。そして、生き物によって、人によって、異なるアフォーダンスが知覚される。だから、環境の中のすべてのものに、アフォーダンスは「無限」に存在し、行為を通して発見されていく。近くとはつまり、「変化」に埋め込まれている「不変」を知ることなのだと言います。

わたしたちを囲む世界は、文脈に応じて柔らかく形を変え、相互に意味を織りなし、幾重にも重なり合っているものです。少し視点をずらしてみれば、今見えている世界とはまったく違う世界がそこに存在することに気がつきます。

関係発見の原動力となる「アナロジー」、思い切った仮説にジャンプする「アブダクション」、世界と自分との関係をやわらかく捉え直す「アフォーダンス」、これらを編集工学では3Aと呼んで非常に重視しています。

~~~
3Aと呼ばれる「アナロジー」「アブダクション」「アフォーダンス」。
これって「リアルメディア」だったり「場のチカラ」だったり「探究」の説明だったりするよね。

僕は編集工学を追いかけてきていたのか!と。

P115の一節がとてもアツかったので、ここの記録しておきます。
~~~
突然の閃きや事態を急展開するアイデア、湧き出る好奇心や壁を突破する探究力。そうしたイマジネーションやクリエイティビティは、限られた人に授かったギフトであるかのように思われがちです。

そうではないのです。すべてわたしたちの中に潜んでいて、あるいは世界の中にすでに意味として存在していて、発見されるのを待っているのです。誰であれ、どこであれ、例外なく、です。
~~~

いやー、すごい。僕が本屋という「リアルメディア」という場や、ワークショップという「場のチカラ」を体感する場を作ってきたのは、このことを伝えたかったのかもしれないなと。

イマジネーションやクリエイティビティは、個人の中にあるのではなく、「場」に見出される。
私たちの中や世界に意味として存在しているものを発見するプロセスにあるのだ。

そんな希望というか真実というかを伝えて、探究をスタートしていきたいな、と思いました。
さて、どうやって説明しようか。  

Posted by ニシダタクジ at 13:55Comments(0)学び日記

2023年10月25日

「アート」と「コネクティング・ドット」


『ビジネスの限界はアートで超えろ』(増村岳史 ディスカバートゥエンティワン)

こういう本、うっかり買いがちですね。(笑)

参考:
【初心者向け】デザイン思考・アート思考の概要と必要性
https://note.com/zelda1/n/n94ccaf6d20f3

この中に図が出てくるんですけど、これ、めっちゃ明確でいいなと

「アート」「デザイン」「サイエンス」「テクノロジー」を「課題解決」」-「問題提起・価値の創造」という軸と、「ロジック」-「感性」という軸で4象限に分けます。

テクノロジー:ロジックで課題解決を図ります
サイエンス:ロジックで問題提起・新たな価値の創造をします
デザイン:感性で課題解決を図ります
アート:感性で問題提起を行い新たな価値の創造をします

そして、この4象限は相互に関連し合っていると著者は説明します。

ここでもうひとつ「表層的な思考」と「深層的な思考」の話。

~~~
表層的な思考とは、短期的な課題や目標を完遂するためのものです。具体的例としては
・KPIを達成するために日々の仕事でPDCAを回す
・来週末に実施するバーベキューの食材リストを考える
・天気予報によると明日は大雨なのでレインコートとレインブーツを用意する など

深層的な思考とは、長期的な目標達成やビジョンを実現するためのものです。具体的例としては
・2023年問題に対してどのような対策をとったらよいのか?
・2030にすべての車が電気自動車化した際の自動車関連産業はどうしたらよいのか?
・人生100年時代に30年後の自身の人生設計をする

日々の仕事や生活では「表層的な思考」でさまざまなことをこなしていますが、長期的なビジョンを育むための「深層的な思考」を持っていないと路頭に迷ってしまいますし、人として生きていくことの価値を見出せなくなってしまいます。

テクノロジーやデザインは課題解決のために必ず実現・実行するためのものですので、どちらかというと「表層的な思考」に依存しています。一方、サイエンスやアートは世の中に問題提起をし、新たな価値を創造するものであるため、「深層的な思考」により多く依存しています。

~~~
これって、「サイエンス」「アート」を「哲学」に言い換えても言えると思いますね。またはこの数日の文脈で言えば、「遊び」ということになるでしょうか。「〇〇のために」とか「課題解決」とかって、非常に表層的な思考だし、価値を志向しちゃうなあと思います。

「サイエンス」「アート」というようないわゆるすぐに役に立たない「教養」みたいなものが、あとになって効いてくるのではないか、スティーブジョブズがマッキントッシュのカリグラフィーを生んだエピソードを元に説明します。

~~~
「深層的な思考」はいわば地層のようなものです。さまざまな経験や学習が血となり肉となり自己のアイデンティティが確立されるように、「深層的思考」が顕在化するまでには大きな個人差があります。しかしながら、必ずどこかで、何らかの形で「深層的な思考」が生きてくるのです。

スティーブジョブズには、「深層的な思考」であるアートを学んだ経験が、すなわち、頭の中の深い地層の中にある引き出しにしまってあった「カリグラフィーを描いた経験」が10年の時を経て突如、具体的なアイデアとしてよみがえってきたのです。
~~~

「コネクティング・ドット」のドット(点)は、まさに深層的な思考で頭の中にある深い地層に眠っていたものがいつかつながる時が来て、そこから新たなものが生まれてくるのだなあと。

「コネクティング・ドット」への新たな説明を手に入れました。♪(レベルアップの音)  

Posted by ニシダタクジ at 09:24Comments(0)学び日記

2023年10月24日

「目的」と「遊び」


『目的への抵抗』(國分功一郎 新潮新書)

『あそびの生まれる時』からのこの本。
タイムリー過ぎます。

私たちが使っている「目的」とは、いったいなんだろうか?
「目的」は僕たちを幸せにするのだろうか?
そんな問いが生まれます。

「目的から考えろ」とよく言われてきましたけど、それは本当なのか?
っていうことをいろいろ考えちゃいます。

今日は第2部の冒頭の言葉から。
~~~
「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」(ハンナ・アレント『人間の条件』)
~~~

いやあ。すごいですね。グサッと来ます。
目的があって手段があるのだと思っていたのだけど、そもそも手段を正当化する機能として「目的」があるのではないか、と問います。

象徴的なのは「浪費」と「消費」の違いについて。

~~~
人類はずっと浪費を楽しんできた。ところが、20世紀になって人類は突然全く新しいことを始めた、とボードリヤールは言います。それが「消費」です。

満足すれば浪費は止まります。たとえば、十二分に食事をして満足したら、お腹がいっぱいになって食事は終わる。つまり浪費には終わりがある。ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするのだとボードリヤールは指摘します。

観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。そのような性質を名指して、ボードリヤールは消費を観念的な行為とも呼んでいます。

僕らは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている。
~~~

これ、まさにそうだなあと。今起こっているのは、「時間」っていう資源に対しても、そのような「コストパフォーマンス」的な要素が大切にされてきていると思う。時間を「浪費」しないことがすごく大切なことのように言われている。

それって、為政者たちにコントロールされていないか?と警鐘を鳴らす。
それがコロナ化の「不要不急の外出」をしないように、というアナウンスになったのかもしれない。

そして、アーレントの次の言葉を。

~~~
行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない。行為の一つ一つの局面において動機づけや目的が重要な要因でないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因であるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由なのである。
~~~

ここで、驚くべきことに國分さんの口から「遊び」という言葉が登場する。
なんというシンクロニシティ。

~~~
目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動、それは一言で言うと「遊び」ではないでしょうか。遊びは目的に従属する行為、哲学的な用語で硬く言えば、合目的的な活動から逃れるものに他なりません。そして、合目的性を逃れることは少しも不真面目であることを意味しません。遊びは真剣に行われるものであるし、ゆとりとしての遊びは活動がうまく行われるために欠かせないものです。
~~~

まさかの「遊び」登場。
http://hero.niiblo.jp/e493290.html
「あそびごころ」が生まれる放課後研究所(23.10.22)
を思い出しました。

大切なのは、目的-手段という関係の活動だけじゃなく、「遊び」の生まれる時だし、場所なのだろうと。
そもそも、目的に向かうが唯一の正しさではないということ。

一歩引いて世の中を見るには最高の1冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 16:58Comments(0)学び日記

2023年10月22日

「あそびごころ」が生まれる放課後研究所


『あそびの生まれる時 「お客様」時代の地域活動コーディネーション』(西川正 ころから)

読み終わりました。今年、最高に揺さぶられる1冊です。ひとつひとつのセンテンスがグサっと刺さります。

教育関係の方にも場づくり系の人たちにも読んでいただきたい1冊です。「参加のデザイン」というキーワードの人は特におススメです。

ということで、厳しい言葉たちをメモ

まずはP162 放課後かふぇとP166 旅の醍醐味は道中にあり、より
~~~
学校、塾、習い事・・・子どもたちは、「子どもに何かの価値を付加すること」を有料で請け負った大人たちに囲まれて過ごす。そこには必ず成果・評価がついてまわる。気づかぬうちに子どもも大人も息が詰まってしまう。

ゴールを決めることで、プロセスが生まれる。そのプロセスの中に〈遊ぶ〉が潜在していて、時に顔を出す。そういうことなのではないだろうか、と。旅の醍醐味は道中にあり、とでも言おうか。

「結果が出る」=夢が叶うことは必須とはいえない。しかし、最初から叶わなくてよいとなると、「道中」は生まれない。どうしてもなにかを叶えたい、やってみたいと思うからそれは生まれる。他方でゴール=結果しか評価されないとなると、その道中は何をしてもよいということになる。

冒険遊び場は、決して完成しない遊び場だと言われている。つまりは「前」も「後」もなく、あるのは「今」だ、と。人生は、終わりまで「今」の連続。つまり道中。どこへ向かうかとだいじだが、だれとどう過ごすかということでもある。

その人生のはじまりの時期である子ども時代に、道中を楽しむということの経験を保障してあげたい。大人は、やらせたり、やってあげたりという邪魔をしないで、可能な限り、見守りたい。醍醐味である道中を奪ってはいけない。
~~~

「道中をともにする」
そういう感覚で、子どもも含めていろんな人と接していきたいな、と。

そして第6章 for(ために)からwith(ともに)へ
でクライマックス。

ここで印象に残ったのが「主導権」(業界的に言えば「学びのコントローラー」ってやつか)

安藤忠雄さんの言葉を引用し、鷲田清一さんが語る。
~~~
今の子供たちの最大の不幸は、日常に自分たちの意思で何かが出来る、余白の時間と場所を持てないことだ(安藤忠雄)

自立心を育もうと言いながら、大人たちは保護という名目で、危なそうなものを駆除して回る。そのことで子供たちは緊張も工夫の喜びも経験できなくなった。安全と経済一辺倒の戦後社会が、子供たちから自己育成と自己管理の機会、つまりは「放課後」と「空き地」を奪ってきたと建築家は憂う。著書「建築家 安藤忠雄」から。
~~~

この後、国際比較調査での日本の子どもたちの自尊感情の低さの背景に何があるのか、を著者が仮説を立てる。
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/tokushu.html
参考:特集 今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~(H26 子ども・若者白書)

本書では、タテ軸に主導権が大人OR子どもでヨコ軸にはその場に大人がいるORいないのマトリクスで説明されている。

~~~
主導権が大人にあり、大人がいる環境=学校 B 主導権が大人にあり、大人がいない環境 A
主導権が子どもにあり、大人がいない環境=放課後 C 主導権が子どものあり、大人がいる環境 D

この「放課後」部分がどんどん少なくなっているのでは、と著者は指摘する。

いわゆる「地域活動」と言いながら、主導権が大人にあり、かつ大人がいる環境が拡大している、と。
※大人が「指導」し「評価」する場=学校的な場所(B)が拡大している

そしてこれからは主導権を子どもに渡していこうと。

かつての放課後があった 主導権が子どもにあり、その場に大人がいない時間は、まち全体を遊び/学びの場にしていくこと。主導権が子どもあり、かつ大人がいる場所での大人は、「ファシリテーターがいる学びの場」か「プレイワーカーがいる遊びの場」にしていこうと。

哲学者の西研は、次の3つの行動を通じて人は自由の感触を得ると述べている。
1 探索:新しい世界や興味のある世界にふれる
2 創造:エネルギーを投入して何かをつくりだそうとする
3 成長:これまでできなかったことができるようになる

Dの時間、子ども自身があたかも自分の意思でそれをおこなったかのようにまわりの大人がしむける、という風にも見える。大人の枠組みの中の話でもある(教育は本来そういうものだともいえるが)。
その意味で、設定された環境などぶちこわす、Cの時間を少しでも多く保障していきたい。本来、子どもは子ども同士で、まちじゅうで勝手に遊ぶものであってほしい。だからこそ、まちの中に、子どもにとって信頼できる大人がいる場所Dを点在させていきたい。CとDの場所(時間)が、混在するそんな地域を子どもたちは必要としているといえるのではないだろうか。

年のために書いておくが、ABの時間をすべてなくせといってるわけではない。大人には大人の都合がある。大人の都合が優先されるべき場面はもちろんある。しかし、現状は、あまりにも、大人が主導し、大人が評価する時間が、多すぎるのではないか。子どものためといいながら、子どもが主役になっていないことが多すぎる。
~~~

「主導権」が子どもにあるのか。まさにそれが「遊び」と「学び(というより勉強)」を分けるものだし、「総合的な探究の時間」はまさにその主導権を高校生に渡していこうとする試みだと思う。

現場では、「自発性」「主体性」「主導権」という言葉が躍るが、それは、まさに「学び」と「遊び」のパラダイムを問い直すところから始めなければならないのだとこの本を読んで思った。

~~~
〈遊ぶ〉(=やってみる)は本来、売ることはもちろん、提供することさえできないものだ。その場のいる人たち、あるいは環境との間で、応え合うなかから「生まれて」くるものだ。

〈遊び〉は、頭で遊ぼうと思って(意識して)できるものではない。気づいたら身体が動いていたというものだ。そしてうまくいったりいかなかったり、苦労しながら工夫したりする、その時間が〈遊ぶ〉ということなのだ。

そして、すべて終わってから、ふりかえって「ああ、おもしろかった、またやりたい」とそこではじめて言葉になる(意識する)。

遊びは、メニューではない。遊びは他者あるいは自然との関係性の中から生まれてくる。

子どもたちは今、毎日の暮らしの中でそんな時間を過ごせているだろうか。
~~~

本来の「遊び」を取り戻したい。心からそう思った。

そして最後に僕も感じていた子どもの「居場所」施設への違和感が明確に指摘されている次の文章を。

~~~
子どものための施設が増えれば増えるほど、子どもは自尊感情を持ちにくくなっていった。それがこの半世紀の大人と子どもの関係の歴史ではなかったのだろうか。だとしたら、いまある施設やサービスのありようを、一度根本から見直す=「誰が主導権をもっているのか」という視点で問い直すべきなのではないだろうか。

この認識を社会的な共通理解にしていけないものだろうか。「先生、この大縄跳びが終わったら遊んでいい?」という幼稚園児の言葉がある。子どもの傍らにいる大人のありようを考えてほしい、という訴えに私には聞こえる。
~~~

「(子どもの、あるいは中高生の)居場所をつくりたい」という人に何人もお会いしたことがあるし、行政主導の「中高生の居場所」も見学したことがある。そこで生まれた問いは、

そもそも、「居場所」は提供できるのか?

という問いである。
「居場所」というのは、物理的な場所のことではなく、人それぞれが「居場所」だと感じられる空間/時間のことだと思う。

そしてひとりひとりにとって「居場所」は、事後的に確認されるのだ。中高生の時の居場所は、何年も経ってから「そういえば、あそこが居場所だった」と過去時制で思い出されるものだ。

もうひとつは、中高生には「居場所」という語彙(あるいは概念)がない。だからこそ、そこをその瞬間に居場所だと認識することができない。

http://hero.niiblo.jp/e492902.html
参考:「構想」と「実行」、そして「アイデンティティ」(23.2.19)

高校3年生の千代実さんは見事に「居場所」としてのアルバイト先「かまパン」を言語化しているけども。

本書でも西川さんが言うような「安心」と「工夫の余地」がある場所のこと、もっと言えば本来の意味での「遊び」があるところなのだろうと思う。

ラストはこんな形で締めくくられる。
~~~
大人の子どもへのかかわりとは、「次にどんな社会を望むのか」という視点から考える必要があるのではないだろうか。現在の子どもがいる場所の姿は、将来の社会の姿なのだ。

子どものために、といいながら、一方的に与え、指示し、点数をつけることで、子どもの今の時間を奪うことは、もう終わりにしたい。こどものために〈for〉から子どもとともに〈with〉へ。大人はかかわり方を見なおすべき時に来ている。
~~~

あなたはこれからどんな社会を構想するのか?それをベースに子どもとの関わり方がある。
「ともにつくる」っていうのはそういうことかも。

本書の「遊ぶ」「遊び」定義をふりかえる。
~~~
〈遊ぶ〉(=やってみる)は本来、売ることはもちろん、提供することさえできないものだ。その場のいる人たち、あるいは環境との間で、応え合うなかから「生まれて」くるものだ。

〈遊び〉は、頭で遊ぼうと思って(意識して)できるものではない。気づいたら身体が動いていたというものだ。そしてうまくいったりいかなかったり、苦労しながら工夫したりする、その時間が〈遊ぶ〉ということなのだ。

そして、すべて終わってから、ふりかえって「ああ、おもしろかった、またやりたい」とそこではじめて言葉になる(意識する)。
~~~

僕が言う「場をつくる」っていうのは「遊び」をつくることだったのかもしれない。

次のステップを言語化すると

「あそびごころ」が生まれる放課後研究所、なのではないかと。

もっとライトな名前ないかな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:37Comments(0)学び日記

2023年10月21日

「遊ぶ」の土台としての「あそび」


『あそびの生まれる時 「お客様」時代の地域活動コーディネーション』(西川正 ころから)

「あそび」の探究中です。
ホントに素晴らしい1冊がタイムリーに届きました。
電車の中で読みながら亀田駅あたりで泣きそうになってました。

PTA活動などの地域活動がいかに楽しくやれるのかが書かれた1冊。
探究の授業の伴走者や教育コーディネーターと呼ばれる人たちにはぜひ読んでいただきたいです。

「ともにつくる」ってなんだろう?っていうのにもばっちり応えてくれる1冊です。

まずは最初の問題提起から

長い間、人は、手間をともにすることで、他者との関係性を育みながら、生き延びてきた。制度やルールを整えることで「みんなの問題」だったものを「その人の問題」にしてきた。

ホント、それです。制度やルールを整えることで「みんなの問題」が「その人の問題」になる。
これ、寮運営をする上で肝に銘じておきたいことですね。
みんなの問題として受け止めて、考えること。

~~~P10
必要なのは「一緒につくる」こと。
そうすれば、結果がうまくいかなくても、そこには、信頼が生まれている。
その信頼は次の「何かしてみよう」という気持ち、すなわち「遊び」を生み出す。
「何かあったら困るので」は「なにかあっても、大丈夫」に変わる。

私たちはいま、結果のみを重視する社会に生きている。最短で結果を出すことを求められ、自分たちなりの模索=失敗が許容されなくなった。みんなでわいわいと試行錯誤する時間を持つことが難しくなった。しかし、結果に至る苦労と工夫こそが「遊ぶ」ということなのだ。
~~~

次に「好き」の力について
~~~
好きになるというのは自分を含めて誰にも止めることができない。

自分が好きなものを好きと表現すること。そのことをまわりの人が「そうなんですね~」と受けとめていくこと。

「私はこれが好き」の受容は、少しおおげさに言えば、その人の存在が肯定されるということではないだろうか。出会いは、まず「これが好き」の開示と、その受容からはじめたい。

「あなたの好きな〇〇を教えてください」「「あなたの好きを教えてください」シンプルな問いから不思議なあたたかさが生まれてくる。
~~~

いいですね。
4マス自己紹介には「好きな〇〇」って
いれたほうがいいなと思いました。

そして今日の本題の「遊ぶ」と「あそび」の話に

~~~
読者の皆さんは子どものころ、友達と遊ぶ時。最初から「○○しよう」と決めていただろうか。集まってから、「今日はなにする?」と決める(もめる)ことが普通にあったのではないか。

遊びが生まれるために、どこまでを準備し、また、準備しないのかという視点の重要性について考えさせられる。

食べ物も、遊び道具も、労力も、話題も、経験も、知識も参加者が持っているものをみんなにシェアしてもらう。人の集まりにはそんな〈もちより〉の視点を含ませたい。そうすれば、自然とみんなが場の当事者になってしまう。そして、その場は、互いを知り合う自己紹介の場にもなっている。「へーそんなんだ」「おもしろい!」が生まれている。
~~~

もちよること。
僕が学んだNPOの精神。
そして、遊ぶとあそびが定義されます。

~~~
ここでの〈遊ぶ〉とは、「やってみよう」という意味だ。

「やってみよう」の2つの種類(状態)
1 決断した時に口から出る「やってみよう」:経験と情報にもとづいた決定。
2 気がついたらしてしまっていた:おもしろ「そう」なことやってるなあと近づいていって、でき「そう」だから手を出してしまう。

どんなときに人は〈遊ぶ〉のか。「あたま」ではなく、「こころ」そして「からだ」が動くのか?

〈あそび〉の保障
1 〈安心〉してそこにいられること
2 自分なりに変えていくことができる〈工夫の余地〉があること

この〈あそび〉の土台の上に〈遊ぶ(やってみる)〉が生まれる。
~~~

ここで〈安心〉の事例として路上での「道で書くから書道」イベントの事例が出ていた。

「おもしろそう、そしてやってみたらできそうというふたつの「そう」があり、そこになにをやっても大丈夫「そう」あるいは、失敗してもなんとかなり「そう」が重なる時に、人は動く。」

そして、アーティストの藤浩志さんの言葉が引用されている。

「上手にふるまうことへ導く価値観と、感覚的に自由にふるまうことへ導く価値観はまったく相反するものでもある。多くの大人がある時期に「自由にふるまう感覚」を失い、「上手にふるまうこと」がよいことだと思い込み、常識に束縛され、場合によってはある時点で「技術的挫折」を体験する。

「うまいね」は善し悪しを評価する言葉、「いいね」はおもしろがる言葉。その作品を面白がってくれる人が横にいると、遊びとして盛り上がる。視線は作品に向けられる。ともに作る人として対等な関係になる。でも横にいる人が「その泥団子は75点」などと点数を付けはじめると、とたんに遊びではなくなる。視線が人格に向けられる。その場の権力を持つ者の上からの評価の目線が入ると、人は気持ちを閉じていく。
~~~

幼児~小中学生の芸術的行為(あそび)に対する大人の態度が、子どもの創造性をぐんぐん奪っていることが分かる。なんかもう、泣きそうだ。

~~~
小学校1年生は、みな絵を描くことが大好きだ。ところが、中学3年生になると多くの生徒が絵が嫌いになって卒業していく。これは「お前は他の子よりうまい/下手だ」という評価を9年間繰り返し、「上手になる」ことを大人が求めてしまった結果ではないか。褒められるからやる、勝てるからやる、という動機づけは、やがて「自分よりもできる人」が登場すると大きく揺らぐことになる。

何かを表現してみたら、誰かの「応え」があると嬉しい。しかし、上から目線の評価が返ってくることを知ると、やがて、できる子は忖度をし、できない子は表現自体をやめる。好き/嫌いと、できる/できないは別の軸だが、できる子は好きと思い込み、できない子は嫌いと感じるようになっていく。
~~~

「義務教育」ってなんのためにやってるんだ?って憤りたくなる一文。
9年間で「表現しない」という自己防衛機能を身につけるとしたら、それはいったい何の役に立つのか教えてほしい。

もうひとつのキーワードが「工夫の余地」だ

西川さんが企画を立てるときに悩むこと。

どこまでを運営者が準備し、何を当日スタッフに「委ねるのか、どこを来場者と一緒につくるのか。

「そこに、〈安心〉と〈工夫の余地〉はあるか?」と
P61の図を見ながら考えていくこと。

工夫する力が強い人が工夫する余地が大きい(自由度が高い)ことをやることで「(大変だけど)たのしい」につながっていく。そこに工夫する余地が小さいことをやってもらうと「つまらない(不満)」となり、反対に工夫する力が弱い人には、いきなり工夫する余地が大きい(自由度が高いこと)をやってもらうと、わからないという不安・困惑につながるから、その人に会わせた工夫の余地を見極める必要がある。
~~~

これは「総合的な探究の時間」設計のところでの「フレームワーク」問題に直結しているなあと。

授業の枠内で行うのを前提として、個人差があることも考慮して、そもそもフレームワークにするのか、というのと、次にどこまでの自由度でやるのか、という問いかけは常に先生と相談しながらやっている。

なるべくなら自由度の高いものをやってもらいたいのだが。
授業内ではここまで、だからこそ授業外にその先のものを設計したいなと思うのだけど。

「探究なんて遊びじゃないか」と言われながらも、その「遊び」こそを探究したいなと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学び日記

2023年10月19日

「ともにつくる」という日本的アプローチ


『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』(ドミニク・チェン 新潮社)

第8章 対話・共話・メタローグより

娘にフランス語を話すように促すために、「日本語を理解できなくなった父」を演じた著者の話。

~~~
それは、自らの認識方法を変えることで、相手との関係性を設計(デザイン)するということだ。親子という生物学的に固定した関係性においても、架空の対話を記述したり話す言語を変えるということが共進化を起こす。学習行為とは個の中だかで行われるのではなく、他者との関係性のなかで発達すると実感した。今回はわたしの悪巧みが発端となったが、学習を行う必然性が娘に生じる状況を、一種の場の設計(デザイン)として作り出した。

つぎに、ひとつの能力が線形に上昇するプロセスではなく、複数の能力が増減や進退を繰り返す「変化」が学びだともわかった。

変化する二人の関係性そのものが一つの共通の環世界をかたちづくる感覚も生まれた。互いをつなぐ関係性そのものが一つの共通の環世界をかたちづくる感覚も生まれた。互いをつなぐ方法としての言葉が、関係そのものにフィードバックされ、互いのコミュニケーションを規定する構造がそれまでとも違うかたちになる。
~~~

「場の設計」「変化」「関係性」「環世界」など、キーワードがすごい。
「ともにつくる」ってそういうことなんですよね。

そして、次に書いておきたい「共話」と「対話」について

~~~
日本語では、話者同士が互いのフレーズの完成を助け合いながら進める会話形式である「共話」が発達しているのだという。あいづちは英語に比べると日本語は2.6倍の量があるのだという。

日本では文の後半をあえて省略して相手にその完成をゆだねることが、一緒に文をつくる共話的な態度として日常的に歓迎されるのに対して、英語でそのような話し方をすると「稚拙」と評されてしまう。単に文化間の表面的な差異であるだけでなく、それぞれの言語の選択が「自己」の認識論に深く影響を及ぼすようにも思える。

共話とは、互いの発話プロセスを重ね合う話法であるのに対して、対話とはターンテイクを行い、互いの発言をなるべく被せ合わせない話法であるといえる。対話では、発話主体は明確に区別され、相手が言ったことを受けて次の発話内容が決まる。対して共話では、フレーズの主語が共有されることで発話主体の区別が曖昧になり、内容なリアルタイムに生成される。だから、対話では個々の主体の差異が明確になるが、共話のなかでは主体がコミュニケーションの場に融け込んでいくいく。

対話では互いの発話の事後に個々の話者が反省の上で次の発話を決定するが、共話では相互の発話内容が共有の素材となり、互いの発話の最中で反省が働いていく。そこでは、話者同士が互いの近くの一端を担い合うように、それぞれの知識と記憶を喚起し合う。そうしてコミュニケーションが、川の両岸の中間に位置する中洲のような、一種の共有地(コモンズ)として生起する。
~~~

能作品『小鍛冶』は、シテの稲荷明神の化身がワキの刀鍛冶である宗近との物語

~~~
人間である宗近は、自然と同化した超越的存在と、言語ではなく相槌という身体的な共同作業つまり非言語的な共話を通して、最終的に目的を成し遂げる。

自然そのものを体現する稲荷明神は宗近にとって、進化を促す環境変化としてただそこに在るだけだ。稲荷明神には人間的な意志はないが、宗近はただ一心不乱に向き合い、そして変化を遂げる。この作品はだから、進化の過程を記述する一種のメタローグとしても読めるのだ。

そこではまた、主体と環境との空間的な区別が曖昧になるのと同時に、時間の流れも混交しはじめる。非現実の存在と現在を生きる人間の心がつながり、過去と現在が複層的に重なり合っていく。
~~~

なるほど~。
「梵我一如」:バラモン教由来で密教に取り入れられた概念:世界と自我の一体化を指す。
アジアの広範な地域にそういうのが根付いているのだというけど、そういう感覚なのかも。

「ともにつくる」っていうコンセプトは、非常に日本的、アジア的なのではないか、って思ったし。

僕自身がなんで、「哲学対話」とか、「コーチング」とかが苦手なのかが分かった。
「共話」っていう状態を目指してしまうからなのかもしれないな、と。

この本でも出てきているけど、
循環する時間の中で、自分と他者や環境の区別なく「ともにつくる」っていう感覚。
それがワークショップの意味だし、地域プロジェクトの意味なのだと思う。

そしてそれは同時に、
自分は何者なのか、というアイデンティティ問題も解決していく糸口になっていくと僕は思っている。  

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2023年10月14日

わたしたちのウェルビーイング


『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』(ドミニク・チェン 新潮社)

『冒険の書』との交互読書になってますけど、今日はこちらから

第七章「開かれた生命」より

~~~P128 開かれた進化
わたしたちの産業文明は、その進化の「開かれ」具合をできるだけ最小化しながら制御しようとしてきた。過去を分析し、未来予測の精度を上げることで、不確実な自然を制御し、自然進化の環から降りることで、みずからの世界を人工的に最適化してきたのだ。

特定の目的を持たない自然進化は、偶発的な環境変化への脈々と起こってきたが、技術を手にした人間社会は、偶発性を無化することで安全を担保しようとしている。
~~~
自動運転車を題材に、考察。たしかに。
それは「生命体」としてはどうなんだろう?という問い。

著者はそれをウェルビーイングという視点からさらに深める

~~~
欧米社会をモデルにしたウェルビーイングの今日までの指標は、いずれも個人の幸福感を追求する前提だったが、他者とのつながりがより重要視されるアジア諸国では、集団や共同体といった関係性の充足を介してウェルビーイングが向上することが文化心理学の研究によって解明されてきた。

「わたしのウェルビーイング」ではなく、「わたしたちのウェルビーイング」を思考するために、個人としての自律性を保ったうえで、他者と自己の意識が重なり合う感覚を創出するワークショップやインターフェイスを研究している。
~~~

「わたしたちのウェルビーイング」いいですね。まさにそれかも。その「わたしたち」の範囲を、空間軸と同時に時間軸(歴史軸)で設定していくこと。それこそが(アジア的な)アイデンティティの構築方法なのかもしれないな、と。

そして、この章は、P132「個」から「共」への軌跡へとつづく

~~~
ある生物が個体であることは、自他の境界が物理的に決定していることを意味する。他者と自己との境界が定かでなければ、ある個体が自律的に行動することは不可能になってしまう。

完全に閉じているシステムは環境とのエネルギー交換が行えず、死滅してしまう。

生命は、呼吸や発酵、光合成、そして摂食といった代謝なくしては、エネルギーを生成することができず、生命活動を維持できない。だから、個を維持しつつも、外界に対して「開かれている」必要がある。

「閉鎖と開放」のこの適切な配合を数値で表す指標は存在しない。
~~~

と、ここからガイア理論からホロビオントの話へと進んでいくのだが、自然進化を人間社会に当てはめることに注意を促す。

~~~
自然進化を人間社会に当てはめるのは二重の意味で注意が必要だ。まず、人間の技術文明が自然進化に内包されるかは自明ではない。なぜなら目的を持たない自然進化と、局所的な目的をもって推進される社会活動を比較することは論理的にてきかくではないからだ。

わたしたちは、多様な職能を持つ個人によって構成される人間社会を造礁サンゴのようなホロビオントとしてみなす誘惑に駆られるが、安易に進化史を社会に当てはめようとすると、思考停止に陥りかねない。
~~~

たしかに、と。進歩史観や優生学も、そうやって考えを肯定してきた歴史があるからね。

「個」から「共」への軌跡は次のように締めくくられる

~~~
遺伝子の交配とは、個々にとっての自己、つまり究極的な「わたし」に、「他者」のものが混ざることで個がゆるやかに変容していくプロセスなのだ。短期的な個体発生の時間の上に、より長期的な系統発生の時間が重畳している。この二つのリアリティを架橋するための認識が必要とされていないだろうか
~~~

いやー、それです。たぶんそれ。
産業資本主義、つまり「効率化」を突き詰めていった結果。
それは等価交換で無時間モデルを志向することになる。
いまこの瞬間の価値を最大化しようとする。
いわゆる「WIN-WIN」モデルとでも言おうか。

参考:届いていた手紙に気づくために、届いていた手紙を読むために(22.3.7)
http://hero.niiblo.jp/e492336.html

それは時に上記で言うよう「長期的な系統発生」の視点を見失うことを意味する。僕の言葉で行けば、時間軸(歴史軸)といったタテ軸の発想を失うことだ。

それによって人は「アイデンティティ」を見失い、短期的な「個性」を得るために、他者への寛容性を失い、他者との差異比較によってしか自分の存在を確認できなくなっているではないのか。

ラストにP137 微生物の共生よりぬか床の話

~~~
ぬか床と人間はひとつのホロビオントを形成しているといえる。人の皮膚にある常在菌がぬか床に入り込むことが、独自の風味の形成に寄与するからだ。

標準的なぬか床の内部には100種類ほどの菌類が棲息しているが、この多様性こそがぬか床の成立条件だろう。なかでも、一般には悪臭の原因だとされるグラム陰性菌は、ぬか床の初期段階では抑制される必要があるが、最終的には彼らが「復活」しないと、ぬか床特有の豊かな風味は生まれない。

システムの構成要素を善と悪、効率と非効率で区分する思想からは、ぬか床の豊穣な発酵状態には到達できない。造礁サンゴやぬか床のように、複雑な要素が互いに排除し合うのではなく、絶妙なバランスの上で共生するシステムの姿から、人間社会の在り方を考えることはできないだろうか。
~~~

なるほど~。

「環世界」っていうのを、今この瞬間のことではなくて、ぬか床を形成する微生物たちの時間軸だったり、自分たちの系統的発生の時間軸だったり、「地域を継いでいく」みたいな時間軸だったり、そういう視点で捉えて、その「環世界」の多様性を開かれた「場」に入れていくっていうことなのではないかと。

たくさんの生命体が、それぞれの「環世界」を生きていて、そこには、空間軸と時間軸とがあって、それが交差するのが「場」なのだよね。

地域みらい留学によって全国から集まった高校生たちは、その時間軸においての多様性が少ないから、それを地域や、人間以外の生物との共生・共営によって、「ぬか床」(またはおでん)のような場をつくっていくこと。

それが交差する場所に「わたしたちのウェルビーイング」があるのではないかと僕は思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:14Comments(0)学び日記

2023年10月13日

「自立」「自由」にどれほどの価値や意味があるのか


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

帰ってきました。
第5章 学びほぐそう より
個人と資本主義の矛盾について鋭くえぐります。

このP280からのスタートする6ページだけ読んでも、これから就活する大学生の方や仕事に悩む20代の方はグッとくるのではないでしょうか。

~~~
「子どものうちはやりたいことだらけなのに、社会人になるとやりたいことを見失う」という事実から考えると、私たちが受けてきた教育や社会の環境がそうさせているとしか考えられません。

私たちが暮らす社会は、多くの人に自分がやりたいことや、やるべきことがわからなくなるシステムとして機能してしまっているのです。

「なにがしたいのかわからない」という人の多くは、決して「なにもしたいことがない」わけではありません。そうではなくて、彼らは「自分の存在価値がどこにあるのかわからない」と言っているのだと僕は感じます。つまり、「自分には人に認められるほどの価値を生み出せる能力がない」と思い込んでいるのです。
~~~

いやあ、ものすごいダブルバインドなんですよね。悪魔のような社会だなと。

「やりたいこと」や「やるべきこと」がわからなくなるような社会システムを採用しているにも関わらず、中学生、高校生、大学生に向かって、「あなたのやりたいことは何ですか?」と問う。こんな暴力があっていいのか、って思います。

著者は、その原因は資本主義社会という根本的なシステムにあると言います。

~~~
資本主義に参加する人は皆「儲けられるなら、どんどん儲けるぞ!」と考えるのです。その結果、儲けられるならなんでも、ありとあらゆるものを「商品」に仕立て上げ、「価値」に変えようとします。この考え方にどっぷり浸かっている人は、しまいには、「お金で買えないものがある世界は不平等だ」と考え、「お金で買えないものがあると思い込んでいる人は間違っている」と主張するようになります。

なぜか。それは、資本主義こそが「機会の均等」につながると彼らは心の底から信じているからです。お金は誰でも努力すれば貯めることができる。、「努力の成果」であるお金でなんでも手に入るなら、それがいちばん公正で公平な社会じゃないか。むしろお金で買えないものがあるほうが不透明で不公平じゃないか。資本主義とはそういう世界観なのです。

僕が思うに、「やりたいことが特にない」と言う人たちは、「やりたいこと」の定義を「お金になるようなことの中で、自分がしたいこと」と限定してとらえているのです。

「自分の商品価値を上げるようなことであり、なおかつ自分が本当にやりたいこと」それこそがこの資本主義社会で初めて「やりたいこと」として認められる。そんな厳しい制約条件がつくのなら、やりたいことがなかなか見つからなくても当然です。

こんなふうに、人間でさえも「商品」に変えてしまう資本主義をなぜ人間は選んできたのか。そこには「自由」という、誰もが大事だと思っているものがあるからです。

オカネさえあればなんでも好きなものを買える、つまり自分の思うままに選べる「自由」が手に入るのです。だからこそ、資本主義は「世の中をどんどん自由にしてくれる偉大な力」としてこれまで手放しに受け入れられてきたのです。
~~~

すごいですね。シンプルに資本主義システムの原理が説かれていて素晴らしいなと思います。

1 「自由」を求めて資本主義を導入
2 ひとりひとりが「商品」化される
3 「やりたいこと」は「商品価値をあげる何か」として定義する必要がある
4 「やりたいこと」の範囲が限定される
5 「やりたいこと」を見失う

つまり。
自由を求めていたはずが結果として自由を失っている、ということになっているです。

おそろしい社会です。
この「なにがしたいかわからない」は次の言葉で締めくくられます。

~~~
一人で生きていけることこそが、真の意味での「自立」なのだと信じ、自立していることこそがほんとうに自由な人間に必要なことなのだとうそぶく。誰にも頼れないから、ふとした時にすごく不安になることもあるけれど、その不安は「自由の代償」だと自分をごまかし、我にかえって他人に自立を求める。それが今の「大人」たちの姿です。

誰も必要としないけれども、誰からも必要とされない社会を「無縁社会」といいます。そこにはなんの「必然性」も「使命」もない。だから人々は、自分がなにがしないのか、なんのために生きるのかがわからなくなるのです。
~~~

いやー、つらい。
どんな宗教にハマってしまったのだろう。
しかも全世界が一緒に、ときている。

僕が高校生に伝えたいのは、
「グローバルな社会を生き抜く力」ではなくて、ただたた、「あなたはひとりじゃない」ってこと。

それを言葉ではなく体感できるような3年間をつくっていきたいと心から思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)学び日記

2023年10月12日

「越境」と「脱領土化」と「環世界」


『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』(ドミニク・チェン 新潮社)

「つくる」と「わかる」(23.10.6)
http://hero.niiblo.jp/e493264.html
から「環世界」をキーワードに寄り道。

「環世界」にもアイデンティティ構築のキーワードがあるように思っている。

~~~第1章 混じり合う言葉より
全く知らないことや、よく知らないことについて書く以外に、果たして書きようがあるのだろうか?わたしたちは自らの知識の先端、つまり既知と未知を隔て、片方からもう片方へと移行させる極限点においてしか書くことができない。このような方法によってのみ、わたしたちは書くことを決意できるのだ。(ジル・ドゥルーズ 著者訳)

「脱領土化」

未知の領域に向けて足を踏み出す動き以外に、新しい知識は獲得できないし、自らの立つ領土の輪郭を認識することもできない、ということだ。そして、わたしたちは領土を脱した後に、別の場所を再・領土化する。この運動を繰り返すうちに、無数の世界のあいだを行き来する。

ドゥルーズが「領土」という概念を用いる時、生物学者フォン・ユクスキュルが発明した「環世界」という概念に依拠している。環世界とは、それぞれの生物に立ち現れる固有の世界のことを意味する用語だ。

自然言語を獲得することによって、人間の環世界はほかの生物と比べて飛躍的な変容を遂げた。

ジャック・ラカンは、「人の無意識は言語のように構造化される、と表現し、「無意識は言語学の条件」であると同時に「言語は無意識の条件」だとも書いている。ここで「無意識」という言葉を「身体が言語に頼らずに世界を知覚する形式」と読み替えてみれば、言語と身体の関係性が、一方による他方の制御によってではなく、双方向のフィードバックを介して結ばれている状態をイメージできるだろう。そして、言語的相対論に拠って立てば、言葉とは、現実世界の現象を無意識から意識へと受け渡すための「受容体」として捉えられる。

受容体とは通常、外界や体内の刺激を刺激を神経系が受け容れ、情報として活用できるかたちに変換する細胞やタンパク質などの分子構造を指す。このイメージを言語に適用してみると、知覚された情報が言葉という受容体によって意識の俎上にあげられることで人間の環世界が立ち現れる様子が見えてくる。

三枝弁証法:「正反合」
ある主張を記述し(正)、次にそれに対する反論を書き(反)、最後にそれら二つのエッセンスを比較しながら、第三の項へと統合する(合)。

ここでも、テクニック(技法)がメッセージ(意味内容)に優先するので、真逆の結論を書いた二つの論文が、同じ教師によって両方高く採点されるということが普通に起こる。

「守破離」:既に定まっている型をひたすら守ることで初学の域を破ることができ、その反復を通してはじめて、自分に固有の境地へと離れることができる。

武道における型とは、具象化された意味内容であり、自らの身体に宿し、あくまでも主観的に経験されるものだ。それはいくら理知的に取り扱おうとしても、身体に流し込まなければ意味をなさない。対照的に、正反合という論理の型は抽象化された構造であり、それはあらゆる具象化された事物に適用できる汎用的な共通言語(プロトコル)である。守破離においては、当事者の身体という主観から出発し、代々受け継がれる型の反復を通して、そのうち新たな型が自然発生することを期待する。正反合では逆に、理知的な意志の力によって、個別の事実から普遍的な価値を抽出し、その次の展開へ導こうとする。

こうしてみると、ヨーロッパ的弁証法と日本的武道の世界認識法はそれぞれ、かなり異質な環世界を生成している。これは文化ごとの形成過程で使用されてきた文字の違いからも考えられるのかもしれない。表音文字であるアルファベットにはそれ自体に意味は立ち現れない。無意味なブロックをいくつも積み上げることを通して、ようやく分節化された意味を持つ一つの単語が現れる。文章を組み立てる際には、単語の連なりをつなげる論理という接着剤が必要不可欠であり、文章の強度を支えるためには糊の粘着度が決定的に重要になる。
~~~

なるほど。「脱領土化」と「環世界」ですね。
これ「越境」とか「アンラーニング」っていうのがどういうことか、っていうのを表しているのではないかと。
「アイデンティティ」って、そうやって形成されていくのではないかと。

「越境」して、新たな領土を獲得して、あらためて元いた領土を見つめてみる。越後の田舎から東京に出ていって、ふるさとを見直してみるように。「環世界」が変わることはつまり、認知が変わることだし、結果、それが「自分が変わる」という感覚につながる。

「学ぶ」っていうのはその繰り返しのこと。

「勉強の哲学」の千葉哲也さんが次のように言う
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。

勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。

とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~

まさにこれが「脱領土化」っていう話だと思う。
越境、もしくは坂本龍馬風に言えば「脱藩」だろうか。

冒頭のジル・ドゥルーズの言葉
「わたしたちは自らの知識の先端、つまり既知と未知を隔て、片方からもう片方へと移行させること極限点においてしか書くことができない。」

http://hero.niiblo.jp/e491178.html
参考;「存在」は創造のエッジにある(20.11.20)

まさにその極限点(エッジ)にこそ、「存在」を感じられる瞬間があると、僕は思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:59Comments(0)学び日記

2023年10月08日

「学ぶ」と「遊ぶ」を再び融合させること


『「わかり方」の探究』(佐伯胖 小学館)

本日2記事目。いよいよメインです。
先日の「遊び」と「学び」はいつ分かれたのか?
http://hero.niiblo.jp/e493256.html
に続いての、待望のこの箇所です。

~~~P198「遊ぶ」ということの意味より
まずは遊びの定義
「その活動がなんらかの別の目的を達成するための手段ではなく、それ自体が目的であるとしか言いようのない、自発的な活動」
~~~

まずその定義からしてすごいな、と。それ自体が目的であること。それが遊び。
「ストレス解消」とか「明日からの英気を養う」目的にやるとかじゃないんですよ。

その定義からすれば、もはや購入して享受するだけの「遊び」は本来の意味で「遊び」とは言えないのだろうな。そこから出発した方がいいな、と。

「本気で遊ぶ」そんな大人の背中を見せていくこと。地域愛ってそういうところから始まるのではないかと。

~~~
「活動の目的」とか「自発性」などは、厳密に言えば、当人しか分からないことだから、やはり「遊んでいるか、否か」は当人しか分からないはずのことである。

「遊び」が「活動形態」のカテゴリーになり、「レジャー産業」という産業による商業活動にゆだねられるようになった。私たちはそういう売り物になった「遊び」をオカネを払って「買う」ようになってしまった。

さらに大人の世界では、「遊び」といえば、「仕事」の対立語であり、「仕事に疲れたから」、「仕事から逃れるために」遊ぶ。

そこでは「遊ばせてくれる」ことを期待し、「楽しませてくれるハズ」の世界に身を預ける。遊び本来の「無目的性」や「自発性」はどこかに飛んでしまい、「仕事を忘れるタメ」、いろいろなことを「シテクレル」ことを期待し、そのためにオカネを払って「遊ぶ」のである。

子どもの世界では、遊ぶことと学ぶことはほとんど区別がない。遊びの中で学んでいるのだし、学びは遊び心をともなって生じている。

これが大人の世界になると、全然話が違ってくる。遊びというのは、ヒマつぶしであり、ただ楽しむことだけのためにやることで、そこで何かを「学ぼう」などという気は起こらない。

一方、学ぶ(これを大人は「勉強する」というのだが)ときは、遊んではいられない。我慢して、努力して、一歩一歩、何らかの知識や技術を「向上」させていくのである。

しかし、大人でも、実は子どものように、遊んでいるのだか学んでいるのだか分からないという場合もある。科学者が研究に没頭しているときとか、画家が夢中で絵を描いているとき、というような場合である。「結果的には」それでお金をかせいでいるのだが、当人にとってはオカネが目的ではない。

ものごとの探究がおもしろくて、「やめられない」だけの話である。
~~~

ほんとそれだ。では、いつから「遊び」と「学び」や「仕事」は分かれてしまったのか。著者はいつのまにか「勉強」=「学び」-「遊び」時代が到来してしまったのだと言う。

「能力」という信仰(23.10.5)
http://hero.niiblo.jp/e493261.html

にも書いたけど、まさに「能力」なるモノを高めるために「勉強」するように強いられるのである。そしていつの間にか「遊び」と「学び」や「仕事」は切り離されてしまった。

~~~以下引用
わたしたちが「学校」という奇妙なところを作って、そこ(学校)では、学ぶ(勉強する)ことを主たる目的とし、そればかりだと疲れてしまうので、休み時間というものを合間にいれて、その休み時間には遊んでもよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。

それ以来、学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶときは勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つにわかれてしまった。

そればかりではない。大人の世界には、「仕事」というものが入ってきて、「外から」与えられた課題、要求される作業を達成することで、その代償としてオカネをもらい、生計を立てることになり、それこそ「遊んでいられない」事態になってしまった。
~~~

なんてことだ!「学校」という箱はなんのためにあったのか。「学び」と「遊び」を分離し、「勉強」、「学力(能力)」というフィクションを作り上げたのだった。

それはたぶん「仕事」と「余暇」を分ける発想にも似ている。そしてその両方が資本主義社会に絡めとられ、仕事以外の時間に「消費する」レジャーをさせられている。

さらに、本書では「評価」についても言及されている

~~~P212「評価」というバケモノ
「評価」というのは、「評価スル側」が「評価サレル側」に向けて行うものである。そこにはあきらかに「権力関係」がある。「評価スル側」は「評価」によって、「評価サレル側」を支配し、相手を「変える」のである。「評価サレル側」は評価内容、評価基準に「あわせて」、学習活動を組織し、そこに無関係ないしは直接関係しないことはムダなこととして排除される。

「ハゲミ」というのは、外からの枠組みや基準とは無関係に、「わき起こってくる」ものであり、「発見」されるものである、。ただそれが自分の「よさ」の自覚であり、自分で進んでいる方向の適正さの自覚である。

ものごとをじっくり鑑賞する(appreciateする)ことを広げることである。ものごとのおもしろさ、不可思議さ、大切さ、そして「ありがたさ」をじっくり味わうことである。(英語のappreciationには「感謝」の意味も含まれる)

レイチェルカーソンの言う「センスオブワンダー」もアプリシエーションの一つである。世界の不可思議さ、見事さ、美しさなどに「驚愕する」感覚である。
~~~

ホント、それ。「評価」によって、スル側とサレル側に分断されている。分断を超えて、「ともにつくる」ために、アプリシエーションを実践していかなければならない。

「生きてるぜ」っていう実感が足りないと、多くの若者が思っている。僕はその根源に、「学び」と「遊び」の分離があり、それによって「創造」から遠ざかっているからなのではないかと思う。

ジミー大西さんの発言が、ヒントをくれる。

~~~
たまたま「遊びごころ」で描いた絵を、故・岡本太郎氏に文字通り「アプリーシエイト」(絶賛)されたことがきっかけで世界的な画家になったジミー大西が、次のように語っていた。

「エジソンは、99パーセントの努力と1パーセントのヒラメキやというたけど、あれ、まちがってますね。99パーセントの遊びと1パーセントのヒラメキですわ。ヒラメキが1パーセントというのはホンマやけど、努力が99パーセントいうのはウソや。99パーセント遊びでないと、1パーセントのヒラメキも出ませんわ」

この1パーセントのひらめきを、「遊び」のなかから発掘し、コトアゲし、みんなでそれを喜び合う、つまり、アプリーシエ―ションの実践の共同体が、今日、私たちのまわりにどれだけあるのだろう。

バケモノとなった「評価」におびえ、笑いを失い、真からの怒りもなく、シラケきった勉強で「能力」だけを追い求めている世界には「遊び」もないし、そこから生まれるヒラメキもない。
~~~

僕たちはもっと遊ばなければいけない。本気で遊ぶ、大人の姿を見せること。
本気で遊びながら、振り返って結果的に学んでいた、みたいな活動をしていくこと。
「学ぶ」と「遊ぶ」を再び融合し、「ともにつくる」を実践し続けなければならない。

そんな実践を重ねているうちに、この町と、小さな共同体と、ひとりひとりの未来がつくられていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)学び日記

2023年10月08日

「課題解決」というわかりやすさの罠


『「わかり方」の探究』(佐伯胖 小学館)

「冒険の書」からの読書サーフィン。衝撃の1冊となりました。

まずは、第1章4 「考える」ということはどういうことか

P47のおやつをかいにいきました問題の解説がすごい。
~~~
おやつをかいにいきました。
あめだまを、5つかうと まだ20円のこっていました。
そこで、あめだまを、ぜんぶで7つかうことにしました。
すると4円しかのこりません。
あめだまは1こいくらですか?
~~~
この問題は小学校6年生でも正答率が1割程度という「むずかしい問題」である。
ところが同じ問題を小学校2年生を対象にして83%の正答率を得ている。
「2個で16円」だというところまでわかった子どもを含めると94%になる。
(ちなみに小学校2年生段階ではまだ「割り算」を習っていない。)

どんな魔法をつかったのか?
実は3つの段階に分けて考えさせていくにすぎない
1 問題文を読んで解かせる:正答できた子ども:35人中1人
2 買う人になって考えさせる(子どもたちにキミならどうする?と問う):35人中9人が正答
3 売る人になって考えさせる(売る人と買う人に分かれ、お店屋さんごっこをする):35人中19人(計29人)が正答
~~~

このことから展開して、著者は「文化と思考」の観点から次のように説明する
1 生きた知恵や技能というものは、そもそもそれを活用する現実生活の実践と結びついたものであり、文化的実践と無縁の「形式的」な思考は、本来は身につかないはずのものだ、ということである。それにもかかわらず、「知能テスト」で高得点をとれる子どもというのは、文化的実践と切り離した、「人工的」な世界での操作活動にたまたま習熟しており、「頭を切り替えて」しまうスキルを身につけているのではないか、という考え方もできる。これは思考の「領域固有性」の問題として注目されてきた。

2 「発達段階」というものに対する盲信への警告である。思考は「具体から抽象へ」と発達するというが、人は本当に「抽象的に」思考できるのか。本当に「形式」に従って思考しているのか。私たちは「形式」的思考を教えるのではなく、「具体」的思考を「形式」で代用して考えるようにしむけているにすぎない。

「文化の中で意義を確かめられる活動や操作と結びつく」ためには、どういう授業の進め方があるか。
1 エピソード化:ものごとの背景となる具体的なエピソード、物語、経験談を話す
2 多元機能化:こういうことのために有効だとか、これはこういう状況でこういう機能を果たしているということを様々な観点から見る。
3 モデル化:アナロジーや比喩、隠喩による理解の促進

教材を意義づけること。子どもの世界、子どもの生活の中で、自然に活用している知恵と技能と、どの程度の連続的な関連を結びつけることができるか、という点にもっと注目してほしい。

これ、本当にリアルだな、と。
国語や算数が、現実に即していなかったら、それをやる意味がわからない。
それをただ覚えるっていうのは、どんなゲームなのだろうか。
いや、子どもが興味があって、鉄道の路線名を全部覚えるだったらいいのだけど。

小学校6年生が解けない問題を2年生が解ける実践はそんなことを教えてくれる。

この後の「信じる」とはどういうことか についての図が、現在の「教科における探究」や「アンラーニングできない組織」への違和感とマッチしていたので図をお借りする。


(わかり方の探究 P69より)

学校においては、Ⅱの「課題解決」ばかり取り組んでいるのではないか。その前にⅢの「方略選択」があり、もっと言えばⅣの「自己、視点」がある。そして、それより上のⅠには「展開」がある。ところがⅡの訓練ばかりをしていると、子どもたちはⅠやⅢ、Ⅳのレベルでの吟味をしなくなっていくのではないか。

そして「教科探究」を含めて「探究」と呼ばれるものは、このⅠ~Ⅳのレベルで考える、ということなのではないのか。アンラーニングできないおじさんたちは、「仕事」とは目に見えるⅡ「課題解決」のことだと思っているからではないのか。

大人こそ、「探究」が必要なんだよね。
ということで、次につづきます。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)学び日記

2023年10月06日

「つくる」と「わかる」


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

メモです。

P254
~~~
私たち人間は、「こんなものがあればいいのになあ」と考えたものと、「つくる」ことによって形にできます。そうして「内的な知覚世界」と「外的な作用世界」とのギャップをうめて両者を一致させることができた時に初めて、そこに新たな「環世界」が生まれます。その環世界があらたに生まれた状態のことを「わかる」というのではないかと僕は思うのです。つまり、「つくる」ことが「わかる」ことにつながる、ということです。

人に伝えたいことがあるのだけれど、言葉ではうまく伝えられない。だから、その人にわかってもらおうと思って、なにか形のあるものをつくる。しかし、つくることによっていちばんわかるのは実は自分であり、そうして以前よりうまく相手に伝えられるようになる。また、つくってみると、たくさんの「わからない」が生まれる。わからないから、わかるためにつくる。このように、「つくる」と「わかる」は輪っかのようにつながっているのです。

今までわからなかったことがわかる。わかっていると思っていたことがわからなくなる。それらをおもしろがり、自分が得た新しい世界の見方や意味を、他の誰かもおもしろいと感じてくれるんじゃないかと期待すること。そして、自分も新しい見方を誰かに伝えることができるんじゃないかと希望を持つこと。

そこにこそ、それぞれの人の環世界が交わるきっかけが生まれるのではないかと思うのです。つまり、それぞれの情報環世界に分断されている私たちを結びつけてくれるのは「つくる」という行為と「わかる」という状態のループ、つまり機能環にあるのではないか、と。

小さな「問い」に始まり、「つくる」ことを通じて「わかる」ようになる。同時に「わからない」こともたくさん生まれ、そこからさらなる「問い」が生まれる。それらを繰り返していくうちに何か「形になったもの」が生まれる。

それが何かを解決していたらイノベーションと呼ばれ、人類のまったく新しい知を開くものであれば「発明」と呼ばれ、人の心を動かすものであれば「芸術」と呼ばれる。これらはすべて創造の豊かなバラエティだと言えるでしょう。そしてすべての創造は「アプリシエーション」によって支えられ、さらに新しいものへと高められていきます。
~~~

いいですね。
コミュニケーションとかイノベーションとか
そういうところの本質ってなんだろうって。
そんな問いを持っている人(僕です)にとっては、すごい一節なので、全文を写しました。

「ともにつくる」
っていうコンセプトは、「つくる」と「わかる」を繰り返した先にある環世界を「ともにつくる」という話なのかもしれません。

「わかる」には、「わからない」が含まれていて、そこが新たな行動の動機になって、「つくる」へと向かっていく。

「探究サイクル」って、どこから始まってもいいのかもしれないなと。
だって、サイクルだから。

「問い」から始まってもいいし、「つくる」から始まってもいいし、「わかる(わからない)」から始まってもいい。
そんなことがループし続ける「場」をつくっていきたいと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 11:29Comments(0)学び

2023年10月06日

「アフェクト」を制するものが


『行動経済学が最強の学問である』(相良奈美香 SBクリエイティブ)

読み進めています。
今回は第3章「感情」について

感情といえば「喜怒哀楽」ですけども、行動経済学ではそれを「ディスクリートエモーション」といって区別していて、それよりも淡い感情を「アフェクト」と呼んでいます。

私たちは日々、無数の判断にさらされますが、それらをすべて熟考していたら、とてもでありませんが対応できません。しかし、この淡い感情を感じることによって、アフェクトを「認知の近道」の目安として使い、瞬時に行動に移すことができるのです。

そして重要なのは「アフェクトは(ネット上でも)伝染する」ということ。
たしかに、SNS上でのネガティブな投稿見てるとつらくなってきますもんね。

今日はポジティブ・アフェクトのうちのいくつかを紹介します。

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【拡張・形成理論】
ポジティブな感情は将来的に幸せになる上昇スパイラルの引き金となる=拡張・形成理論:ノースカロライナ大学の心理学者バーバラ・フレデリクソンの論文。

基本的に、ポジティブな感情は視野や思考の幅を広め、ストレスによる身体と心の不調を整えてくれます。そればかりか、打たれ強くなり、レジリエンス(精神的な回復力)も身についていきます。能力・活力・意欲が高まり、人脈や活動の範囲が広がります。

・楽しかった家族旅行の写真を仕事場のデスクに飾る
・使いやすい上質なペンで契約書にサインする
・いいイメージを思い浮かべるなどしていい気分になり、クリエイティビティを上げる
・ストレスの多い会議後、あたたかい飲み物を飲んでホッとする。
いずれもすぐにできる「ポジティブ・アフェクト」の活用法です。

「部下が成果を出せるかは上司の責任」
「楽しんでやれる仕事でなければ、上手くなれない」

総合的に見て「楽しい仕事」と思えなければ、成果は上がりません。だからこそ、部下のアフェクトに注意を払い、選択を任せたり、権限を与えたり、やりたいと思うことはやらせたりするようにしています。なぜなら「上司に信用されている。任せてもらっている」と感じた部下は、ポジティブ・アフェクトが高まり、自己肯定感も上がるからです。そうすると注意力、思考力が高まり、コミットメントが強くなり、何より一番うれしいことに成長します。

仕事の質が上がれば業績も自然に上がります。ポジティブ・アフェクトを積極的に取り入れることは、仕事の一部、いや、重要な仕事そのものです。

【心理的所有感】
実際は所有していなくても「自分のものだ」と思うと行動が変わってくる、「心理的所有感」もポジティブ・アフェクトと重要な関わりがあります。例えば、従業員はオーナーでも大株主でもないので、会社の所有者ではありません。それでも「ここは自分がいるべき会社だ、これは自分がやりたい仕事だ」という心理的な所有感を持つと、仕事へのポジティブ・アフェクトが高まり、熱心に働くことがわかっています。

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なるほど。
世の中の「上司」と呼ばれている人たちは必読ですね。
もしかしたら「ハウスマスター」と寮生の関係もそうかも。

この本はこのあと「ネガティブ・アフェクト」に言及されていくわけですが、今日は高校生にも使えそうなやつを2つ紹介します。

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【認知的再評価】
自分が抱いている漠然とした感情に目を向け、理解し、再評価し、もっと役立てるというもの。
たとえば2分間のスピーチの前に声を出してつぶやく。
グループ1 「私はワクワクしている」
グループ2 「私は平常心で落ち着いている」
結果、グループ1が圧倒的にいいスピーチができたといいます。
不安や緊張というネガティブな感情は簡単に消えるものではなく、抑え込もうとすると逆効果になります。それゆえにネガティブ・アフェクトを認識し、その上で「やる気」などのポジティブ・アフェクトに変換したのがグループ1になります。

仕事や運動、勉強を始めるときに目標を立てたけど、「嫌だなあ、無理そうだ」とネガティブ・アフェクトが湧いてきたときには、「あえて目標を立てず、すぐにやめるつもりで」始めることをおすすめします。ネガティブ・アフェクトが入り込む間もなく、とりあえず始めることによって、小さな成果が出ます。そうすると、自分の中にポジティブ・アフェクトが生まれます。「始めた」というだけで成果ですし、たった5分の努力でも小さな達成感が出てきます。またいったん始めると現状維持効果が働いて、継続できます。
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いいですね。これ。高校生の授業や勉強にも使えます。
「行動経済学」マーケティングにも高校生の勉強にも使えるなんて、いい研究だなあと。

「アフェクトを制するものが、受験を制す」とかいう言葉も出てきそうなくらいです。
というか、上司-部下の関係もそうですけど、ビジネスも制す、のかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:44Comments(0)学び日記

2023年10月06日

「アプリシエイト」し合える場をつくる


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

さっき書いたばかりなのですけど、読み進めていたら、どうしてもメモしたくなっちゃったので書きます。

P186 デール・カーネギーの言葉
Give honest,sincere appreciation.
「誠実に、心を込めて、相手の良さを認める」

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彼はこの「アプリシエーション」というキーワードを繰り返し使っています。これは「ある人や物をきちんと理解する」という意味ですが、そこには相手の良いところを理解してほめるというあたたかいまなざしがあります。

動詞の「アプリシエイト appreciate」には「鑑賞する」と「感謝する」という、2つの意味があると書かれています。この言葉は、2つの意味の間に切っても切り離せない密接な関係があることを教えてくれます。

「アプリシエーション」とは、なにかにふれて、わきあがった感情とその感情が生まれるプロセスすべてを指し示す言葉であり、ただそれが「ある(在る)」ということがいかに「ありがたい(在り難い)」ことかという点に意識を向けた態度だと言えるでしょう。

僕は、このアプリシエーションこそが学びを楽しく豊かにするものになるのではないか、そして結果的に学ぶ人にとって最大の励みになるのではないかと思うのです。

人は誰しも、アプリシエイトされるとうれしくなって、ますますがんばろうという気持ちになります。そしてアプリシエイトした人も、相手を「在り難い」存在だと感じ、ますます親愛と感謝の気持ちを持つようになるでしょう。もし自分がそのような気持ちで相手に接することができれば、きっと相手も自分をアプリシエイトしてくれるはずです。

良い「つくり手」は良い「つかい手」であり、良い「わかり手」であることが多いのは偶然ではありません。多様な存在である人間がお互いに尊敬しあい、高めあい、愛情によって支え合うことによって、私たちの創造はどんどん素晴らしいものになっていくのです。

僕が新しい学びの場をつくるなら、アプリシエーションにあふれた場にしたいと思います。評価という冷たいメスで切り刻み、子どもたちに弱点を意識させて自信を失わせるかわりに、アプリシエーションという尊敬と愛情と感謝を注ぎ、ただみんなの持つ可能性を開花させてあげたい。
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いいですね。
そしてこの章のラストはこう締めくくられる。

~~~
ひとつの基準で結果を評価するかわりに、発想そのものや創造のプロセス全体を愛でるアプリシエーションがあればいい。その姿勢は、成果に対する尊敬はもちろん、それを行った人への愛情と感謝を生む。

アプリシエーションが励みとなって生まれた新たな挑戦がさらなるアプリシエーションを生む。そして、その先に多様な良さを認め合う社会が生まれる。

学びの場は、評価をして自信を失わせる場ではなくお互いが多様なアプリシエーションによって、勇気づけられる場であればいいと僕は心から思った。
~~~

いいですね。
「ともにつくる」の土台には、「アプリシエーション」を位置づけたいなと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:57Comments(0)学び日記

2023年10月05日

「能力」という信仰


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

これ、いい本ですねえ。
中学生の授業で1コマ1年間通してみたい内容です。

「遊び」と「学び」や「仕事」はなぜ区別されるようになったのか?が前回。
その前には「子ども」と「大人」が切り離されてしまったことがある。
その根本的な原因には社会の産業化が起こったからであるという。

~~~
産業社会は人々がなにかの専門家になることを求め、なんでもどんどん細分化していきます。そうした性質がこのような線引きをしていくのです。あらゆるものが分業化されるようになると、人々は労働者として専門的な知識や技能を伸ばすこと求められるようになります。

人生のすべてに生産性や効率を求める考えにとらわれた私たちは、お金をかせぎ続けるためにおもしろくもない仕事をして人生の大半を過ごし、将来に不安を感じながら生きています。その厳しい実力主義は当然、学校にも伝わり、ますます「学び」から「遊び」が取り除かれるようになっていったのです。
~~~

おそらくは産業社会への適応とか子どもたちを児童労働から守るとか、そういった大義の中で教育というシステムができていったのだろうけど、近代社会的な産業構造が変わって、「教育」という枠組みそのものをアンラーニングしなきゃいけないのだなと。

さて、第3章に進んで、今日は「能力」の話を。
やっぱりキーワードは「分業」です。

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産業社会の最大の特徴は「分業」です。効率を高めるために仕事をこま切れにし、専門をとことん追求します。実際、工業生産は分業と機械化によってめざましく成長しました。そこで、工場で働く人間も、専門的な知識や技能を伸ばすことが求められるようになりました。そして、人々は「優秀な能力を持つ人は高い給料をもらうことができ、そうでない人は給料が安くて当然だ」と考えるようになったのです。

こうして「能力」は万能な「通貨」のようにみなされるようになり、人々は「能力さえあればなんでもできる」と考えるようになりました。

「なんのために勉強するの?とか言われてもよくわからないし、考えるのもめんどくさいから、とにかく目先の勉強に集中しよう」というのは、思考停止以外のなにものでもありません。

思考停止はかならず「手段の目的化」を生み出します。大学に行く理由は本来、自分が探究したい学問を研究するためであり、大学に入ることは単なる「手段」にすぎないにもかかわらず、今では「いい大学に入ること」そのものが勉強の目的になっています。これを「自己目的化」といいます。

「能力」というのはあくまで「結果論」であり、同じようなことをしている他の人との比較でしかないのです。結果が良ければ「あの人は能力がある」、悪ければ「能力がない」他人と比較して優れていれば「能力の高い優秀な人」劣っていれば「能力の低いイマイチな人」と言っているだけなのです。

人は必ず
行動してみた⇒だから良い結果が出た⇒だから「あの人は能力が高い」と評価される
という順番で評価を組み立てていて、「能力」の有り無しは、結果論と比較論によって生まれた「フィクション(つくりごと)」でしかないにもかかわらず、多くの人々はそのフィクションを実態として存在するものだと信じてしまっているのです。

行動してみた⇒だから良い結果が出た⇒だから「あの人は能力が高い」と評価される
ということは
良い結果が出そうなら行動してみよう←良い結果が出る可能性が高まるだろう←能力を高めれば(信仰)

これは「循環論法」であり、理屈として成立していない。

にもかかわらず、多くの人はそれが理屈としてちゃんと成り立つと考え、「勉強して学力を高めれば、きっといつか報われる」「能力を高めることが幸せになるための唯一の道だ」とかたく信じている。これが、能力信仰の正体なのです。

現代人はまさに「能力教の信者」です。「能力教」は、ひょっとしたらいまや世界最大級の信仰かもしれません。

人間は機械が発達してきたこの200年、工場の生産システムや管理システムの一部に組み込まれて働くうちに自分たちを機械のようなものだと考えるようになった。つまり、これまでは「人間の機械化」が進んだ200年だったんだ。

「機械化した人間」も「成果」で評価されるようになった。だから人間は性能が良くて、壊れなくて、使い勝手が良い存在として、「能力」をアップデートし続けなければならなくなったのか。「リスキニング」なんてまさにそうだ。
~~~

「能力」という信仰。
まさに「信仰」としか言いようがない。

結果論であり、比較でしか位置づけられない「能力」を、実体のあるものとして認識するっていうのは、どう考えてもおかしいのだけどね。

そのスタート地点が「分業」にあるっていうのも、今回あらためて分かったところです。

佐々木俊尚さんは
「レイヤー化する世界」の中で国民国家の神髄は、
「ウチとソトを分ける」ところにあると説きました。
http://hero.niiblo.jp/e483303.html
(参考:自分を「多層化」して生きる 16.12.20)

「分業」と「効率化」
そこから「能力」という信仰も始まっている。

そうだとしたら。「能力」の呪縛から解き放たれるためには、
「分業」と「効率化」というところから、始めなければならないのだと思う。

だから伊藤洋志さんの言う「ナリワイ」の概念や
http://hero.niiblo.jp/e441317.html
(参考:50年間だけの成功モデル 14.6.29)

内山節さんの「共同体」の概念が必要となってくる。
http://hero.niiblo.jp/e490602.html
(参考:豊臣秀吉はなぜ検地、刀狩りを行ったのか? 20.4.26)

そのひとつの方法論として、高校の寮を運営し、
「循環する時間の中にある偶然性を見つけ、ともにつくる、という創造性につなげていく」
っていうことがあるのだと僕は思っています。

阿賀黎明高校の越境入学する生徒たちの寮「緑泉寮」は令和6年度からのスタッフを募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html  

Posted by ニシダタクジ at 09:38Comments(0)学び日記

2023年10月03日

「遊び」と「学び」はいつ分かれたのか

いつもの3冊同時読書


『行動経済学が最強の学問である』(相良奈美香 SBクリエイティブ)


『コモンの「自治」論』(齋藤幸平・松本卓也 集英社シリーズ・コモン)


『冒険の書-AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

なんか、今の僕っぽい感じで面白い。
1章ずつ、3冊をまわり読んでいます。

今日は『冒険の書』からの一節を。

~~~P104より
遊びと学びはもともとシームレスにつながっているのに、近代以降、「遊び」と「学び」はまったく別のものとして区別されてしまいました。そして、それが「学び」を貧しいものにしてしまったという気がしてなりません。逆に言えば、「遊び」が持つ素晴らしい可能性がしぼんでしまったとも言えます。

本来、「遊び」と「学び」と「働き」はひとつのものだったのに、それらがまったく別のものとして分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまったと言えます。

佐伯胖『「わかり方」の研究』(2004)によると
1 社会における「遊び」と「働き」の区別
2 学校における「遊び」と「学び」の区別
3 「自らすすんでする遊び」と「受け身の遊び」の区別

「その休み時間には遊んでよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。それ以来学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶときは勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つに分かれてしまった。(前掲書)

「遊びは、新しい学びや創造、発見などをするための本質的な活動であったにもかかわらず、ただの『エンターテイメント消費』になってしまった。」(前掲書)
~~~

いやあ、まさに。
「本気で遊ぶ」ってなんだろう?って思った。
むしろ、「本気で遊びたい人、求む」だよ、と。

さらに、P110暴かれた秘密から。

~~~
「近代以前には『子ども』は存在しなかったということだ。つまり、『子ども』という概念は『発明された』のだよ」

「子ども」の発明とは、大人と子どもの間に線を引かれたことを意味する。同じような分割線は『仕事』と『遊び』の間や、『公』と『私』の間にも引かれていった。そしてこの区別こそが人間の生活を貧しくしたのだ。
~~~

うわー、まさかの。ここで『コモンの自治論』にもつながってきます。
これが読書の面白さですね。

「遊び」と「学び」そして「遊び」と「働き(仕事)」

それがいつ分かれたのか?
近代の最大の発明は、「分ける」ということだったのかもしれない。

だからこそ、僕たちは、学びを再定義すると共に、
「遊び」を再定義していかないといけない。
はたして本当に「遊び」と「学び」の区別に意味があるのか?

むしろ「受動的な遊び」によって、
自分達の疎外、アイデンティティの危機は
拍車がかかっているのではないのか。

そんな問いが生まれてきます。
ひとまず佐伯先生の本を読んでみます。

「遊び」の中に「学び」や「働き」があって、それこそがもっともパワフルな原動力だったはずなのに、近代社会はそれを明確に分けてしまった。

言ってみれば、それは「目的に向かう」「目的に向かわない(向かっているかどうかは事後的に分かる)」
の区別だったのかもしれない。

そういう意味では「受動的な消費」というのは、ある意味「目的に向かっている」ことなのかもしれません。

その中にあるささやかな「予測不可能性」を楽しみに、エンターテイメントを消費している。その枠組みこそが、「生きてる感」というか「存在」を失わせているような気もする。

「本気の遊び」を取り戻すこと。それを大人がこのフィールドでまず始めること。そこからしか始まらないなあと。

「本気で遊ぶ」大人を待っています。

※緑泉寮「ハウスマスター」(R6.4~)募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び日記