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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年10月19日

「ともにつくる」という日本的アプローチ

「ともにつくる」という日本的アプローチ
『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』(ドミニク・チェン 新潮社)

第8章 対話・共話・メタローグより

娘にフランス語を話すように促すために、「日本語を理解できなくなった父」を演じた著者の話。

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それは、自らの認識方法を変えることで、相手との関係性を設計(デザイン)するということだ。親子という生物学的に固定した関係性においても、架空の対話を記述したり話す言語を変えるということが共進化を起こす。学習行為とは個の中だかで行われるのではなく、他者との関係性のなかで発達すると実感した。今回はわたしの悪巧みが発端となったが、学習を行う必然性が娘に生じる状況を、一種の場の設計(デザイン)として作り出した。

つぎに、ひとつの能力が線形に上昇するプロセスではなく、複数の能力が増減や進退を繰り返す「変化」が学びだともわかった。

変化する二人の関係性そのものが一つの共通の環世界をかたちづくる感覚も生まれた。互いをつなぐ関係性そのものが一つの共通の環世界をかたちづくる感覚も生まれた。互いをつなぐ方法としての言葉が、関係そのものにフィードバックされ、互いのコミュニケーションを規定する構造がそれまでとも違うかたちになる。
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「場の設計」「変化」「関係性」「環世界」など、キーワードがすごい。
「ともにつくる」ってそういうことなんですよね。

そして、次に書いておきたい「共話」と「対話」について

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日本語では、話者同士が互いのフレーズの完成を助け合いながら進める会話形式である「共話」が発達しているのだという。あいづちは英語に比べると日本語は2.6倍の量があるのだという。

日本では文の後半をあえて省略して相手にその完成をゆだねることが、一緒に文をつくる共話的な態度として日常的に歓迎されるのに対して、英語でそのような話し方をすると「稚拙」と評されてしまう。単に文化間の表面的な差異であるだけでなく、それぞれの言語の選択が「自己」の認識論に深く影響を及ぼすようにも思える。

共話とは、互いの発話プロセスを重ね合う話法であるのに対して、対話とはターンテイクを行い、互いの発言をなるべく被せ合わせない話法であるといえる。対話では、発話主体は明確に区別され、相手が言ったことを受けて次の発話内容が決まる。対して共話では、フレーズの主語が共有されることで発話主体の区別が曖昧になり、内容なリアルタイムに生成される。だから、対話では個々の主体の差異が明確になるが、共話のなかでは主体がコミュニケーションの場に融け込んでいくいく。

対話では互いの発話の事後に個々の話者が反省の上で次の発話を決定するが、共話では相互の発話内容が共有の素材となり、互いの発話の最中で反省が働いていく。そこでは、話者同士が互いの近くの一端を担い合うように、それぞれの知識と記憶を喚起し合う。そうしてコミュニケーションが、川の両岸の中間に位置する中洲のような、一種の共有地(コモンズ)として生起する。
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能作品『小鍛冶』は、シテの稲荷明神の化身がワキの刀鍛冶である宗近との物語

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人間である宗近は、自然と同化した超越的存在と、言語ではなく相槌という身体的な共同作業つまり非言語的な共話を通して、最終的に目的を成し遂げる。

自然そのものを体現する稲荷明神は宗近にとって、進化を促す環境変化としてただそこに在るだけだ。稲荷明神には人間的な意志はないが、宗近はただ一心不乱に向き合い、そして変化を遂げる。この作品はだから、進化の過程を記述する一種のメタローグとしても読めるのだ。

そこではまた、主体と環境との空間的な区別が曖昧になるのと同時に、時間の流れも混交しはじめる。非現実の存在と現在を生きる人間の心がつながり、過去と現在が複層的に重なり合っていく。
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なるほど~。
「梵我一如」:バラモン教由来で密教に取り入れられた概念:世界と自我の一体化を指す。
アジアの広範な地域にそういうのが根付いているのだというけど、そういう感覚なのかも。

「ともにつくる」っていうコンセプトは、非常に日本的、アジア的なのではないか、って思ったし。

僕自身がなんで、「哲学対話」とか、「コーチング」とかが苦手なのかが分かった。
「共話」っていう状態を目指してしまうからなのかもしれないな、と。

この本でも出てきているけど、
循環する時間の中で、自分と他者や環境の区別なく「ともにつくる」っていう感覚。
それがワークショップの意味だし、地域プロジェクトの意味なのだと思う。

そしてそれは同時に、
自分は何者なのか、というアイデンティティ問題も解決していく糸口になっていくと僕は思っている。

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Posted by ニシダタクジ at 06:30│Comments(0)日記学び
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