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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年01月20日

まだ途中なんですけど、、、


『知図を描こう~あるいてあつめておもしろがる』(市川力 岩波書店)

読み進めていると、市川さんの愛にあふれた取組に、泣きそうになりました。

たくさんメモしちゃいました。

~~~以下メモ
ゆるりと探検し続け、結論を急がずに考え続けるために、「なんとなく、とりあえず、あてもなく」歩き続けるfeel度walkでの発見・思いつきを「ひたすら」書き残したものが「知図」です。

「知図」の「知」が意味するのは、教科書にのるような一般的で常識的な「知」ではなく、私の好奇心がとらえた小さな感動のカケラです。私が発見し、思いついた「知」を自分なりに表現し、記録した「図」だから「知図」なのです。

私たちはアートのプロではなく、面白がるアマチュアとしてのfeel度を高めたいと考えています。

「へえ、こんなのあるんだ!」と思ったとき、発見した対象とその場で抱いた感動の記憶をとどめる装置として、写真は素晴らしい機能を発揮します。

現場では次々と発見し、いろいろな感情がわき起こります。それを逃さずに、反射的に記録しておくことができるのが写真なのです。

他の人の絵に触発された対話が自然に始まります。話しかけられた方は、自分の発見に関心を持ってもらえたことがうれしいうえに、自分の絵まで認められてさらによい気分になります。お互いの絵に興味を持つことで、結果的にみんなが自分の絵に対する自信を深めるのです。

こうしたムードが生まれるのは、描く絵が「なんとなく」の発見だからです。「なんとなく」の発見には、正解も優劣もありません。また、自分なりの発見を絵にするのだから、うまいか下手かを比較することもできません。

そのため、自分の絵を卑下したり、また反対に、誰かの絵をけなしたり、からかったりというようなことが起きないのです。模造紙がまるでいろりのようになり、そこを囲んでみんながそれぞれの発見を素直に出せるという安心で和やかな場が生み出されます。
~~~

それぞれの「発見」と「感動」を愛でること。
そこには「比較」や「評価」が不要だ。
Feel度Walkってそういうことなんだな、と。
「存在の承認」や「フラットなコミュニケーション」がキーワードの僕にとっては、感動的な一節。
こういうのを小学生や中学生と一緒にやりたいなと思いました。

さらに、Feel度Walkには、自己紹介やアイスブレイクも不要だといいます。

~~~
自己紹介やアイスブレイクを最初に行うのは、お互いが知り合うきっかけをつくり、緊張を解いて和やかになってから活動を始めるためです。

しかし、今、一緒にいる人がどんな名前で、職業や趣味は何で、今、関心がどこにあるのかを知ると、それに引っ張られて相手を見てしまいがちです。また、いきなり自分のことを語れと言われても、場の空気を読んで当たりさわりのないことを言ったり、無理して場の期待に合わせたことを言おうとしてしまいます。アイスブレイクも同様で、だんだんと知り合っていくという余白が与えられません。

そもそもFeel度Walkして知図を描くのは、知らず知らず抱いている思い込みをほどき、「なんとなくセンサー」を研ぎすますためです。だからこそ、ゆるりと歩き、ゆるりと描きます。ゆるやかな時間の流れの中でだんだんと知り合えばよいのですから、自己紹介もアイスブレイクも不要です。

Feel度Walkの間も、知図を描いている間も、お互いの名前を知らなくても対話がはずみます。なぜなら、「自分」のことや「相手」のことを語るではなく、発見したモノやコトについて語りあうからです。知図を仲立ちとして、描いた人と見ている人との間でお互いの素の思いをさらけ出す対話が始まります。知図を描いた側は、発見したことがどう面白いのかひたすら語ろうとします。相手にどう思われるかを一切気にせず、発見した対象への愛と喜びを素直に語ります。

こうした知図たちの間に優劣はなく、正解・不正解もありません。自分なりに世界を切りとって描いた「知」をみんなで愛であうと、自分にも世界を発見できる力があることを再認識できます。その結果、誰もが「自分にもできる」「きっとうまくいく」という自己効力感を取り戻して元気になるのです。それは、どうせ自分なんてという思いこみから逃れ、歩いて、描いて、みんなにシェアし続ければ、世界を見る目をどんどん研ぎすましてゆけると実感することであると言えるでしょう。
~~~

ステキです。自己紹介もアイスブレイクもせず、お互いをひとりの生きる人間として、知図を描き、お互いの発見を愛でること。
「発見の余白」を持って場をつくっているだろうか?と問いかけられます。

そして、最後、知図について

~~~
知図は、正しい知識が表現されたものでも、完成した作品でもありません。そこには間違っていることも、妄想に近い仮説も描かれています。しかし、それが真実であり、唯一の答えだと示しているわけではありません。

むしろ、私たちアマチュアが歩いて実体験したことをネタに、思いついたことを素直に表現した途中「経過物」です。「成果物」ではないからこそ、知図展に訪れた人は自由に考えを語りたくなります。
~~~

アマチュアリズム。「つながるカレー」の話を思い出した。
http://hero.niiblo.jp/e484808.html
参考:「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)

知図は「成果物」ではなく「経過物」。いいですね。
高校生の「総合的な探究の時間」もそんな気持ちでできたらいいなと。

「まだ、途中なんですけど、、、」みたいな。
いいタイミングでいい本を目の前に差し出してくれるなあ、神様、って感じです。
本の神様を信じてしまう。

あと、存在の承認というか、「自尊感情」についてもふたたび
http://hero.niiblo.jp/e485809.html
参考:「ふりかえり」と「自己評価」(17.9.12)

http://hero.niiblo.jp/e484636.html
参考:「近代」という「旧パラダイム」(17.4.30)

~~~ここから引用
自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない
従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。
しかも、「だれかのために」「なにかのために」という
大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を
受け入れることを「自尊感情」といいます。
(中略)
エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした
場所でもありました。
学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。
学校は優位者に対しても、彼らの人生を
なにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、
条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。
~~~ここまで引用

「学校」というシステムが奪ってきたもの。それはまさに「自尊感情」であり、「自尊感情」を育むシステムでもあります。それは「他者から評価」という檻の中で、一生過ごすことになるという刑罰のようです。

Feel度Walkは、それを解きほぐす可能性があると思いました。

「評価」という壁を越える。

自尊感情、つまり自らの存在の承認は他者からの評価によって得ることができない。という前提において。
自分が発見したモノ・コトを承認し合うというコミュニケーション・プロセスの中で、自らを承認し始めるというのが知図づくりのポイントなのかもしれません。

高校生の総合的な探究の時間の設計で、「達成と成長」から「発見と変容」へと言っていた理由、その前提となる思想(の言語化)に出会えたような気がして、すごく嬉しい気持ちになりました。

まちをあるいて、写真を撮って、スケッチして、図にする。
そしてそれぞれの「発見」を愛であうこと。

それだけなのです。本当にそれだけなのだけど、何とも言えない愛と、子どもへのインパクトの可能性を感じています。素敵な1冊をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)学び日記

2024年01月18日

「自分をひらく」面白がり屋を育むまち


「知図を描こう」(市川力 岩波書店)

「ジェネレーター」の著者、市川力さんの知図づくりの実践が書籍になった1冊。
これ、やってみたかったので、すごくうれしい。

「はじめに」からメモします。

~~~
大事なことは、あらかじめ「好き・得意」を定めることではありません。そうなると「好き・得意」が決まらないと行動できなくなってしまいます。最初から「好き・得意」を持つことより、とりあえず面白そうだからやってみよう!というフットワークの軽さがポイントです。

「好き・得意」は目指すべき「目標」と言い換えることができます。私たちは「目標」がはっきり決まっていれば行動しやすいでしょう。
~~~

好きは?
得意は?
ってたしかに聞いちゃっているかもなあ。
「好き」を表現することよりも、じぶんを「ひらく」ことから始めないといけないのだなと。

~~~
誰もが、幼児や小学校の中学年ぐらいまでは好奇心のフタがすぐに開きます。しかし、だんだんと身のまわりの物事への関心を失っていきます。とはいえ、フタは閉じられているだけで、好奇心自体は失われたわけではありません。再びこのフタを開けるきっかけさえつくれば、好奇心は再起動します。あとは、日々好奇心を動かし続けることが面白くて仕方がないと思えれば、自ずと習慣になります。

直感やこれまでの経験にもとづく先入観によって物事を判断し、自分の思い込みを裏づけるような情報しか受け入れなくなることを「認知バイアス」といいます。
~~~

いいですね、岩波ジュニアスタート。何歳に向けて書かれているんだろう。
SNSでフィルターバブルで認知バイアスなんですよ。(笑)

そして、「好奇心」へ言及されていきます。
~~~
「好奇心」は「なんか気になる」という「違和感」を抱く心の動きです。私たちが効率よく日常生活を送るためには、いちいち「好奇心」を抱いて物事を眺める余裕はありません。日々このように過ごしているうちに、だんだんと「好奇心」にフタがされてしまいます。さらにSNSでのつながりがメインになっていると、自分の好みに応じた情報にばかり触れて、「好きじゃない」モノ・コト・ヒトとのつきあいがなくなります。

実は、私たちに今、求められているのは、「好き探し」をすることではなく、出会ったモノ・コト・ヒトを見逃さないことなのです。自分が「好き」なのはこれしかないと簡単に決めつけるのではなく、また、「好き」が見つからないといたずらに嘆くのではありません。日々、出くわしているささやかな出来事に目を向けてみることから始めるのです。

小さな不思議を感じとるのが「好奇心」と言えるでしょう。「好奇心」をベースにした学びは、私たちヒトの根源的な学び方です。
~~~

まさに。
「好奇心」こそが「遊び」と「学び」の境界を無くしていくのかもしれない。
探究の入り口ってそういうことなんじゃないのか。

そして、最後に知図づくりの導入である「面白がり屋」へ

~~~
「好き」と「好奇心」が違うように、「面白い」と「面白がる」は異なります。

「面白がる」とは、一見、楽しそうでも、心地よさそうでもないことに対して、自分なりに「面白い」とい思える何かを発見することです。なかなかうまく結果が出ず、つらかったり、突然わけのわからない事態が起きたりしても、そこに「面白さ」を見出すのが「面白がる」ということです。

「面白がり屋」とは、特に楽しいことがない状況であっても、発見した何かに新たな「意味」を見出す人だと言えましょう。こうした「面白がり屋」が予期せぬ不確実な状況に登場すると、場の雰囲気が変わります。その雰囲気が他の人にも伝染し、ともに意味をとらえ直し始めるのです。すると、重苦しかった雰囲気が一変し、いろいろな可能性を素直に出して「面白がる」場が生まれるのです。

好きなことがない、得意なことがない、何から始めたらよいかわからないなどと思い悩む必要はありません。まずは歩いて、集めて、描いてみることから始めればよいのです。そうすると今まで見えなかった何かが見えてくる感覚をじわじわと取り戻します。
~~~

まずは面白がり屋になること。
「探究の出発点」は「自分を知る」「好きを知る」のではなくて、「面白がり屋になる」つまり、「自分をひらく」こと。

そのためには歩いて、集めて、描いてみる。

探究の出発点をそこにおきたいなと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:16Comments(0)学び日記

2024年01月14日

「創造」の前提となる「存在の承認」


『ぼくは蒸留家になることにした』(江口宏志 世界文化社)

年末に購入しまして、いよいよ出番。
著者の江口さんは、10数年前に本屋を始めるときに
本屋特集などに多く掲載されていた「UTRECHT」を2002年に立ち上げた元本屋さん

第1章冒頭の「僕が本屋を辞めたわけ」がタイムリーだったのでメモ

~~~
それはこの先、本というフィールドのなかで、常に更新していけるものを発見できるのだろうか、という疑問だった。拠って立つべき居場所が曖昧で、自分の存在が希薄になり、マーケティングやら消費やら見えない何かに飲み込まれてしまうようなもどかしさ・・・とでも言うべきだろうか。

誌面で展開される、暮らしの上澄みをすくいとった、うっとりするような美しい情景。それはそれでいいのだけれど、その情景自体が自体がスタイルのようになってしまった。(中略)うわべだけの「ライフスタイル」が消費されていくのを横目で見ながら、ますます表現の下にあるしっかりとした「技術」の蓄積が自分にも欲しくなった。

農業に従事するということは、短期間のプロジェクトから距離を置くということでもある。そして時には経済活動からも。もし繁殖用の鶏を2.5ユーロで買うならば、その鶏自体の価値は限りなくゼロで、卵を産む装置こそが鶏の価値なんだ。それはホビーとかでもなければ、経済活動でもなく、そしてプロジェクトでもない。それは単に何かと生活をともにすることなのだ。

五感と自然が響き合う。植物だけでなく、土や苔も、環境そのものが豊かな香りを放っている。ぼくらは、こんな複雑で繊細な香りの世界に身を置いているのだ。
~~~

「アイデンティティ」のリアル。

かつて川喜田二郎は、ふるさとを「全力傾注して創造的な行為を行い、そのいくつかを達成した場所を人はふるさとだと認識する」と言ったが、その前提となる土台としての「存在の承認」はどのように得られるのだろうか。

「ホーム」と呼べるのような場所、あるいは関係性がないままに、創造性を発揮することは可能なのか。

あるいは、創造のプロセスの中で、「存在の承認」は徐々に得られていくのだろうか。

「未来から逆算する今」だけじゃなく、「過去を継ぎ、未来へつなげる今」が必要なのではないのか。

「わたしたち」を空間的ヨコ軸と時間的タテ軸の真ん中につくっていく必要があるのではないか。

個々の弱さこそを場のクリエイティビティの源泉にできないだろうか。

そんな問いが浮かびます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:52Comments(0)学び日記

2024年01月06日

「わたしたち」をデザインする「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

第2章 わたしたちを支える3つのデザイン要素「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」
~~~
ゆらぎ:適時性、固有性⇒固有の文脈を踏まえたうえで、適切なタイミングの変化をもたらすか
ゆだね:自律性⇒自律性を尊重したうえで、望ましいゆだねのレベルになっているか
ゆとり:内在性⇒目的だけではなく経験そのものに価値を感じ取れるか

「ゆらぎ」:適切な変化を見定める
適時性:
人や生き物は固定されている存在ではなく、常にゆらぎ、変化する存在として理解するのが「ゆらぎ」という考え方の根底にあります。心身が不調のときに自分の意思で決める状況ばかり用意することは、かえってその人を疲れさせてしまいます。逆に調子のよければ自分で新しいことに挑戦したり、自分で決める状況を用意することがよいでしょう。このように、タイミングが適しているかどうかという「適時性」の視点が重要になります。
固有性:
年齢に加えて、当人のジェンダーや経済状況、性格やさまざまな嗜好性など、当人を当人たらしめている固有の文脈を理解することが重要になります。この側面を「固有性」と呼びましょう。

個々人のゆらぎとは、ある人が他者たちと関わる過程で、一緒に変化していける可能性を示しています。一人ひとりのウェルビーイングのかたちが重なり合うことで、わたしたちのウェルビーイングを作れるようになるにはどのような「ゆらぎ」が必要かを問うことが求められます。

「ゆだね」:他律と自律の望ましいバランス
誰かのウェルビーイングを支援しようとすることが、支援される人の自律性を損なう結果にもなりえるということです。このように、ウェルビーイングの支援では、対象となる人がその支援に積極的になってもらう、当人の意思を尊重する、複数の選択肢を提示するなど、自律性を担保することがとても重要な原理になります。

適切なゆだねを考えるうえでは、自律と他律の順番が重要です。まず個人としての望ましい自律のレベルを見定め、そのうえで他者にゆだねられることを探すこと。

「ゆとり」:目的ではなく経験そのものの価値
目標を設定したとしても現在を犠牲にすることなく、過程自体に価値を見出し、そこから未来の目標をいつでも柔軟に再設定できるためのゆとりを生み出す設計が大切になります。

★わたしたちの持続性
自律性(ゆだね)とプロセスの価値(ゆとり)、そしてそれぞれの人に固有のタイミングと文脈(ゆらぎ)にもどづいて設計された体験によって、ウェルビーイングを生み出す支援が可能になったとしても、最終的にはそれが一時的なものではなく、当人たちにとって持続される必要があります。
~~~

なるほどな~。
「探究的な学び」の究極的な目標を、わたしの、そして「わたしたち」のウェルビーイングとするならば、「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」はまさにそれだなああと思いますね。

このあとSNSのアルゴリズムがいかに「ウェルビーイング」の3要素を損なう可能性があるか、を説明しているのだけど、これがこれで怖いのでメモ。

~~~
私たちの心が充足するためには、回復、持続、発見という3つの行為が関係していると仮定してみましょう。心がダメージを負っており、休息を求めているときには、回復のプロセスが必要です。心が持ち直した後には、その良い状態を維持するための技法が求められます。そこからまた傷ついたり落ち込んだりすれば、再び回復が必要となります。この循環のなかで適宜、回復や持続のあたらしい方法を発見するプロセスが付随します。

SNSの設計原理としては、常に刺激の強い情報や、利用者の嗜好性にマッチする同質の情報を提示することで、利用時間を伸ばそうとするアルゴリズムが作用します。このループのなかで、利用者は徐々に自分とは異なる意見を許容できなくなるフィルターバブル現象が生じると考えられています。それは、大量の情報の一つひとつを時間をかけて検証するプロセスを省略し(ゆとりの欠落)、自分自身の思考によって判断をしたり、判断を保留することから遠ざける(過度のゆだね)状況を生み出し、結局は自分の考えが変化する機会を減らすこと(ゆらぎの欠如)を招きかねません。
~~~

なるほど。
これは、宇野さんが「遅いインターネット」で危惧した状況なのではないのか。

参考:未来に素手で触れている、というフロンティア(20.4.3)
http://hero.niiblo.jp/e490521.html

「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」をベースに、「場」や「授業」をデザインしていくこと。
それがウェルビーイング時代の「場づくり」なのだろうと強く感じた。  

Posted by ニシダタクジ at 10:06Comments(0)学び日記

2024年01月05日

Self-as-We としての「わたしたち」


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

「わたし」でも「ひとびと」でもない「わたしたち」をいかに実現するか?
という問いを。

第1章 Q3ウェルビーイングには何が大事なのか?(P43)より
~~~
エドワード・デン/リチャード・ライアンの「自己決定理論」
・何かを自分の意思で行う自律性
・自分に成し遂げる能力があると感じる有能感
・他者との関係性

マーティン・セリグマンの「PERMA理論」
・ポジティブ感情
・没頭する経験
・良好な人間関係
・人生の意味や意義を感じること
・達成感をもつこと
~~~

同じくQ5 「わたしたち」をどう実現するのか?(P76)より
~~~
一体感:このグループの取り組みがうまくいくと、自分のことのようにうれしい
両動感:私はこのグループでの役割を自ら果たしている感覚と、担わされている感覚の両方を感じる
被委譲感:このグループでは、一定の期間の意思決定がメンバーに担わされていると感じる
開放性:このグループの活動は、このグループのメンバーだけで成立しているわけではない
全体性:このグループの取り組みで起きた失敗は、特定の誰かのせいにすることはない
脱中心性:このグループは、誰かがリーダー役を担わなくても、うまく活動を進められる
仲間性:このグループは意見が異なっていても尊重し合える
(共同行為の場を評価するSelf-as-We尺度 2023)
~~~

一人称でも三人称でもない、それらを合わせた
Self-as-Weとしての「わたしたち」を実現していくこと。

その1歩目をどのように踏み出すか、が大切だ、と。  

Posted by ニシダタクジ at 12:51Comments(0)学び日記

2024年01月04日

「わたしたち」をデザインする


『ウェルビーイングのつくりかた~「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司/ドミニク・チェン ビー・エヌ・エヌ)

渡辺保史師匠の「自分たちごとのデザイン」を思い出した。
参考:「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ(20.7.21)
http://hero.niiblo.jp/e490894.html

昨日の『体はゆく』からの流れで、「はじめに」からテクノロジーの機能とは何か?

~~~
地球上で最も影響力の大きい生命種となった人類は、主に自分たちの利便性や効率性を求めてテクノロジーの開発に邁進してきました。それを支えてきたのは「人間は自然を制御できる」という思想です。(以下「制御の思想」)

この制御の思想を、自然に対してだけでなく、人類がお互いに対しても持つようになり、人(他者)をコントロールするテクノロジーが作られるようになりました。

実際、現代のデジタルテクノロジーの多くは制御の思想にもとづいて実装されています。ウェブ広告やマーケティングの分野では「関心経済・注意経済(アテンションエコノミー)」と呼ばれるように、人々の関心を吸い寄せ収益を上げることが中心的な話題となっています。

制御の思想には、自分の便益のために他者を利用する、「わたし」のための「あなた」という考えが根底にあります。

「わたし」のウェルビーイングのために「あなた」のウェルビーイングが損なわれる。それが意識的な無意識的かにかかわらず「わたし」のための「あなた」という考え方だけでは、人々は共によく生きる社会が実現できないのは明らかでしょう。
~~~

そこで筆者らは2つのことが重要だと説きます。

1 「わたし」のウェルビーイングの〈対象領域〉を他者との関係(WE)、社会との関係(SOCIETY)、自然や地球などより大きなものとの関係(UNIVERSE)という複数の要因にまで意識を広げ、多層的な関係性からウェルビーイングの選択肢を広げていく

2 〈関係者〉として、「わたし」個人だけでなく、他者や社会、自然を含めた全体を自分事としながら、個人と全体の両方のよいあり方(ウェルビーイング)を実現すること

ここで重要なのは、「わたし」と「わたしたち」は相互に補完的な関係だということです。自分とは、異質な存在たちとわたしたちという共通認識を築けない自己中心的な「わたし」ではなく、また、「わたし」が自由に存在できない呪縛としての「わたしたち」でもない、それら2つの充足が並立する世界の見方が求められるのです。
~~~

これは、只見高校の「総合的な探究の時間」のコンセプト
「個」と「場」の往還によるResponsibility(責任感)の醸成
の理論的な説明になっているのかもしれない。

「個」を「場」に委ね、「場の一員」として何か活動することによって、創造的な何かを達成し、それを個として振り返ることによって、Responsibility(=言語どおりに訳せば反応する力)を身につけ、只見というまちのプレイヤーとなっていく。

そんなストーリーだった。それって、個々の「アイデンティティ」の醸成に役立つんじゃないの?っていう話で計画していたのだけど、まさにそれはP43のさまざまな「ウェルビーイング」心理要因指標における自律性、有能感、良好な人間関係に当てはまっているのではないかな、と思った。

僕が目指していたのは「アイデンティティ」の確立ではなくて広い意味では「ウェルビーイング」なのかもな、と。

つづいて、第1章Q1:なぜウェルビーイングなのか?より

~~~P22より
「道具的価値(instrumental value)」から「内在的価値(intrinsic)」へのパラダイムシフト(もしくは回帰)という視点。

前者の道具的価値は、対象が役に立つか、何らかの機能を有するかという視点から判断される価値です。何かをうまく早くできるという機能性は社会を維持するうえで必要不可欠であり、この価値判断自体に問題があるわけではありません。経済が発展している時には、わかりやすい価値の捉え方でしょう。しかし、社会がこの価値判断のみにもとづいて営まれていたとすると、新しい機能を実現できる人や、特別な機能を実現できる人だけが価値あることになってしまいます。

一方で、内在的価値は、対象が役に立つかどうかではなく、対象の存在自体に価値を見出します。たとえば、人間の命の価値は、何かができるからあるのではなく、生きていること自体にあります。そして、それを尊び慈しむうえでその価値を比較することもできません。それぞれの人の存在やあり方を尊重するという意味で、ウェルビーイングは内在的価値がその根底にあるといえます。
~~~

まずは、ここからですね。
内在的価値から出発すること。

もうひとつQ4なぜわたしたちなのか?より

~~~
東洋的な思想では、自と他を完全に分けるのではなく、その中間領域である、物事の「あわい」を積極的に見出す傾向があると言われており、その「あわい」は、縁側という建築空間にも見てとれます。日本家屋の縁側とは、家の内でもあり、外でもある、中(なか)と呼ばれる空間であり、そこでは家人と客人が「仲間(なかま)」として出会う場だと説かれています。そのような場が「わたしたち」の醸成には重要になるのではないでしょうか。

オンラインのチャットで、話者同士が互いの打っているチャットを可視化することで、「能」の物語のような共話的な側面が生じているのだと考えられます。

重要なのは、「わたしたち」の意識が生まれるあわいの場は動的に生成されること、そしてその場が生まれるためのコミュニケーションのデザインが可能であるということです。
~~~
京都大学教授で哲学者の出口康夫さんが提唱されている「Self-as-We(われわれとしての自己)」という自己観です。自己観というのは、自分自身の存在や範囲をどう捉えるか、ということですが、この「Self-as-We」という考え方では、自己を個人主義的な独立した個ととらえるのではなく、ある行為にかかわるすべての人やモノを自己として捉え、同時にそこからゆだねられた個を考えるものです。

このような1つのシステムとして活動するグループ全体を自分事としつつ、それを構成する個の主体性を担保する考え方は、わたしたちのウェルビーイングと方向性を同じくするものです。

このような「わたしたち」の視点が持つ重要な示唆は、グループの中の関係性として、「わたし」と「あなた」に分かれて「する/される」の関係になるのではなく、グループとしての活動において、わたしでありながらもわたしたちとして一緒に活動や意味をつくり出していく「協働者」になるということです。
~~~

「ともにつくる」ってそういうことかな、と。
たぶんそれは、昨年読んでいた井庭先生シリーズにも通じているな、と。

参考:「プロジェクト」という創造の物語に身を委ねる(22.6.2)
http://hero.niiblo.jp/e492476.html

「ともにつくる」協働のデザイン、それは、「わたしたち」のつくり方だし、「わたしたちとしてのわたし」のつくり方だし、ウェルビーイングへの1歩なのだろうと感じる1冊です。読み進めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:54Comments(0)学び日記

2024年01月03日

「できる」をもっと楽しむには?


『体はゆく~できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(伊藤亜紗 文藝春秋)

コロナ禍で失われた「身体性」とはいったいなんなのか?
プロローグはそんな問いかけから始まります。

~~~
「けん玉できた!VR」を体験した1128名のうち、96.4%にあたる1087名がわずか5分程度でけん玉の技を習得するという「奇跡」が見られたのです。

参考:けん玉できた!VR
https://star.rcast.u-tokyo.ac.jp/kendama-dekita-vr/

おじいちゃん動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=hJl_DRyyaIc

私たちがどんなに意識して「リアル」と「バーチャル」に線を惹こうとも、その境界線をやすやすと侵犯してもれ出てくるような体のあり方です。体は、私たちが思うよりずっと奔放です。

そもそも、「できなかったことができるようになる」という変化は、体にとっては非常に不思議な出来事です。

「できなかったことができるようになる」という経験は、本質的に魔法のような不思議さを秘めています。

結論から言えば、私たちは、自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになるのです。

「できなかったことができるようになる」とは、端的に言って、意識が体に先を越される、という経験です。つまり、「できるようになる」の中に、すでに「負け」があるのです。
~~~

「できないことができるようになる」ためには、意識が体に先を越されなければならない。
これは、目標設定とはなんだろう?と考えさせられます。

ここでは、第1章「こうすればうまくいく」の外に連れ出すテクノロジー」と題してピアニストの演奏技術を助ける方法を研究している古屋晋一さんのところから、抜粋
~~~
「こうすればうまくいく」という自分なりの方程式の外側に転がっている可能性。

できるためにはイメージが必要だけど、できないからイメージがない。「できない」→「できる」のジャンプを起こすためにはこのパラドクスを超えて、「イメージがなかったけどできた」という偶然が成立する必要があります。

限界を拡張していくのが筋トレ的なテクノロジーだとすれば、エクソスケルトンは、偽の限界から人を解放してくれるテクノロジーだと言えます。
~~~
19世紀のピアノ教育は、ピアニストを機械のようにとらえ、徹底的に体を鍛え、その結果何も考えずとも自在に指が動くようになること、つまり「指を自動化し、精神を解放すること」が目指されていたと言います。

音楽学者の岡田暁生は、こうした筋トレ的なピアノ教育は19世紀になって出てきたものだと言います。つまり18世紀にはなかった。その特徴は、ひとことで言うなら、音楽を部分へと分解してしまうことにあります。

18世紀の職人は「目指すべきかたちが予めはっきり見えている」ので、それに照らし合わせて、自分が行なった作業の結果がよいのか、まずのか、判断することができました。つまり、職人の持つ「感覚」の鋭さとは、自分が今行っている作業が全体の中でもつ「意味」を理解しているからこそわかる。

19世紀の工場労働者はこうした「感覚」をもちえません。なぜなら、彼らは部分的な作業をひたすら反復しているだけなので、それが全体の中でもつ意味は失われ、ただ無感覚に手を動かしているだけだからです。「目指すべきかたち」に照らして「手元の作業」を判断することができない。「ベクトルなき点」とでも言えばいいのでしょうか。
~~~

ベクトルなき点から、美しい音楽は生まれるのか?
端的にそんな疑問が湧きます。

そして、ピアノの練習について、次のように説明します。

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ここに、ピアノの練習の根本的な盲点があります。それは、どうしても「音」のために練習してしまう、ということ。結果、「体」が無視されてしまうのです。「この音を出したい」という目的が先行し、「自分の体は今どのような状態なのか」「体にとってふさわしい練習とはなんなのか」という視点が抜け落ちてしまう。

感性の観点から「自分はこんな音が出したい」と思う範囲は広いと思うんですけど、その中で「体が鳴らせる範囲」はもっと狭くて、絞り込んでいくんですよね。そこが、その人の鳴らせる範囲だし、練習するべき範囲なんですよね。そこで、いかに効率よく練習していくかというお手伝いをぼくはさせてもらっている、という感じです。
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つづけて第2章 あとは体が解いてくれる より
元プロ野球選手 桑田真澄さんのピッチング解析などで知られる柏野牧夫さんの章

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一定のレベルを超えた学習者に対しては、やはりテクノロジーは「教師」の立場から降りなければならない、と柏野さんは言います。解析データは未知なる土地の存在を教えてくれる「灯台」にはなるかもしれないけれど、したがうべき「見本」ではない。

自由意志とか責任とか個人とか、そういうものが、この手の研究をしていると怪しくなってきますよね。探索もそうだけど「あなたの自覚であなたをうまくしなさい」みたいなことじゃないんじゃないか。むしろ、「誰にそうさせれているか分からないけれど、そうさせられている」みたいなことなんじゃないか

フィクションだとしても「個」「意志」「責任」が問われるからこそ、勝負が成立しているのですし、それによって職業としてスポーツが成り立っていることも事実です。

「個」対「個」で、バッターにいろんなオプションがあって、打ちました、当たりました、空振りしました、っていうんじゃないくて、もう「個」じゃないんですよ。ひとつのイベントをただ二人でやった、という感じなんです。音楽のセッションに似ています。
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テクノロジーがついに、「科学」的なるもの。「普遍性」「再現可能性」あるいは「意志」「責任」のような近代的なものに対して挑戦してきている時代になってきているのだなと。

本書にはいろいろなエピソードが入っているのだけど、最後に著者の思いを。

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「できる」「できない」という言葉は、「できる=優れている」「できない=劣っている」という能力主義的な価値観と結びつきがちです。単なる違いであるはずのものが、この価値観のもとでは優劣というひとつのスケールの上に並べられてしまいます。

そのような社会では、「できるようになる」経験は、「〇〇さんよりできるようになる」という他者との競争や比較の問題に、容易にすり替えられてしまいます。

「他者よりできること」が目的になってしまい、「できるようになる」という出来事そのものがもつ不気味な面白さや想像を超える豊かさには、あまり目が向けられないのです。

「できるようになる」過程は、人を小さな科学者にします。そして、同時に文学者にします。できるようになるとは、自分の輪郭を書き換えることです。それは本人にとって大きな冒険です。

「できるようになる」過程でつくり出される身体的なアイデンティティと、そこに生まれる唯一無二の物語は、まさに文学のそれです。
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「できるようになる」過程の物語、ひとりひとりのアイデンティティを形成していく。

「できる」や「できた」という結果ではなく、「できるようになる」という過程の「体に先を越される」物語。

ひとりひとりが自分の体と異なる物語を見つめ、それを味わい、楽しむこと。「学び」や「遊び」にはカテゴライズされない何かがそこには立ち上がってくると僕は思っているし、そこにこそ、アイデンティティの謎を解くカギが眠っているのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 13:28Comments(0)学び日記

2024年01月02日

コンピューターという補助輪を外し「あそび」つづける人になる

元日の大地震では新潟市内もかなりの被害が出ているようですが、阿賀町も揺れましたが、日常通りです。
JR磐越西線は点検のため夕方まで運転見合わせのようです。


『ひとりあそびの教科書』(宇野常寛 河出書房新社)

新年最初の1冊はこの本になりました。
いきなり問いかけてきます。
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世界に二通りの人間がいる。それはいつも誰かの顔色をうかがっていて、自分は他の人からどう見えるのかということで自分の振る舞いを決めている人と、自分の考えをしっかり持っていて、その上で自分の考えを通すためには周りの人たちとどうかかわるかを考えている人だ。

顔色をうかがう人は「みんな」であそぶことばかり考えていることが多くて、逆に自分で考える人は「ひとり」であそぶ方法をよく知っていることが多い。

たしかにいまからもう何十年も前、20世紀の工業社会までは、そうやって「自分たち」と「それ以外」とをしっかり分けて、「自分たち」の結束を固めることが、産業の発展に有利だった側面もあった。
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「思考停止」に価値があった時代(社会)がかつてあった。
そんな昔話が生まれそうな時代。

宇野さんは、「ひとりあそび」のルールとして以下の4つを挙げる。

1 人間以外の「ものごと」にかかわる
「もの」というのは、動植物や石ころのような自然物あるいは服やおもちゃのような人工物のこと。「こと」というのは走ることや食べることなど、つまり、(ここでは自分の)行為のことだ。「他の人のこと」はここではいったん、忘れよう。

2 「違いがわかる」までやる
これはおもしろいなと思ったら同じことを「違いがわかる」までやってみること。「ひとりあそび」はやればやるほど、「違いがわかる」ようになっていってどんどんおもしろくなっていくからだ。

3 「目的」をもたないでやる
「~のために」やることは「あそび」じゃない。あくまでそうやって「あそぶ」こと自体を目的としていないと、そのおもしろさはわからないからだ。

4 人と比べない、見せびらかさない
こういう「あそび」をしていると他の人からどう思われるだろうとか、一切考えないこと。他の人と比べたり、見せびらかすことが目的になってしまったら、それはもう「ひとりあそび」じゃないし、そのおもしろさもわからなくなってしまう。
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これって、高校生の探究活動にも通じてきますね。とくに3と4の扱いが難しいところなのだろうと思います。「総合型選抜で大学合格」という「目的」や、「発表会(プレゼンテーション)」を前提として活動を決めていくと、「あそび」ではなくなってしまう。

高校の授業でやる場合は、もちろん「あそび」ではないのだから、それでいいと思いますけど、いわゆる「自走していく」みたいなときには、この「ひとりあそび」のなかの「あそび」要素が必要なのだろうなと思います。

第1章 街に走りに出てみよう。
最初に提案される「ひとりあそび」は「ランニング」だ。

えっ。ランニング?ってちょっとビックリしてしまった。
ここでいう「ランニング」は、「競技スポーツ」ではなく、「ライフスタイルスポーツ」としてのランニング。目的がある(勝つ・タイムを上げる)ランニングではなく、身体を動かすことそのものを楽しむためのランニングだ。

宇野さんは、旅先でもランニングシューズを持参し、朝走っているということなのだけど、これもなかなか面白い視点だったのでメモ。
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住人と旅行客の振る舞いに差が出るのは、それぞれの目的が違うからだ。住人が日常の暮らしのために街に出るのに対して、旅行客は非日常の特別な体験を味わいに来ている。だから目に入るものも違えば、振る舞いに差が出るのも当たり前だ。

ところがランナーになったとき、住人と観光客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、ランニング中は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っているときは、その差はまったくなくなるのだ。
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「目的」が異なること。「走る」ことそのものを楽しむこと。フラットさとは、まさにそこから生まれているのかもしれない。その昔やっていたmixiグループ「いっとうや友の会」を思い出した。好きっていうだけで、こんなにも人はすぐ仲良くなれるのかと思った。

そして、今回の本のハイライト、「ゲーム」にハマっている高校生へのメッセージがアツい。

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君がいま、普通にゲームを「攻略」しているのだとしたら、君はプログラマーの組み立てた道を、指図どおりに歩いているだけに過ぎない。それでは「ゲーム」のおもしろさを半分も味わっていない。

僕がゲームを「攻略」してしまうとゲームのほんとうの「おもしろさ」がわからなくなるというのは、「攻略」という「目的」がゲームそのもののほんとうのおもしろさを覆い隠してしまうと思うからだ。

そしてそのゲームのほんとうのおもしろさとは、「攻略する」ことではなく「つくる」ことにある。自分で目の前にある情報を分析し、自分でルールをつくればそこにゲームが生まれる。たとえば君の目の前に4種類のマークごとに1から13までの番号が振られたカードがある。そこに「ルール」を与えれば、それはその瞬間にゲームになる。
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「4種類のマークごとに1から13までの番号が振られたカード」つまりトランプのことなのだけど、それをゲームの素材として見ることができるかどうか。たぶんこれって、小学校の休み時間とかにクリエイトしていくものなのだろうけど。トランプゲームでルールが決まっているのだとしても、いわゆる「ローカルルール」(〇〇縛りだったり)を生み出していくことでゲームはクリエイトされていく。

さらに、ゲームの先には「読書」があると宇野さんは力説する。読書とは「ゲームをつくる」ことだし、「補助輪を外した」ゲームなのだと。

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本を読むのが苦手な人は、本を読んで「考える」ことのおもしろさを知らない人がほとんどだ。本を読むと、他人の考えに触れて思うこと、考えることが自然と湧いて出る。これが面白いのだ。実はほとんどの人は、知識を得るという「目的」をもって本を読んでいるために、本を読むことそのもののおもしろさを見失っていると思う。

本当の読書のおもしろさは、むしろわからないことや、はっきりしないことをその本を書いた人の意見を参考にしながら、一緒に考えることにある。だからほんとうにおもしろい読書では、人は安心しない。答えを聞いてスッキリもしない。その代わりにワクワクして、自分ならこうするとか、前に読んだ本の内容と組み合わせるとこういうことが言えるんじゃないかとか、そういった自分の考えがモヤモヤと立ち上がってとても興奮してくる。これがほんとうの「読書」なのだ。

コンピューターゲームとは言ってみれば「知識」を得るという目的の代わりに「攻略する」という目的を与えた読書のようなものということがわかる。「知識を得る」よりも「攻略する」ほうがよりはっきりと成果が確認できるので、簡単に充実感が手に入る。

誰かにつくられたコンピューターゲームをプレイしているとき、人間はコンピューターから、この情報をこういうふうに整理して、こう扱うと、問題が解けますよ、と親切にガイドしてもらっている。

本を読むという行為は、「他人の考え」という、世界に莫大に存在する情報を前に、自分で問題を、ゲームをつくり続ける行為だ。

ゲームにおけるコンピューターのプログラムとは、自転車の補助輪のようなものだ。少し練習すれば、誰でも補助輪を外して自由に走ることができる。それが読書なのだ。
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コンピューターというガイド的な「補助輪」を外し、自ら「あそび」つづける人になること。それはYoutubeのレコメンドを外して観ることなのかもしれない。そしてそれこそが18歳までの宿題なのかもしれない。

「補助輪のついた自転車」にいつまでも乗っていていいのか?と宇野さんは問いかける。

~~~P192より
僕くらいの世代の人にとって、ゲームというのは一番総合的な、つまりいろいろな要素が混じり合った、一番進化した表現だと考えられていた。小説には言葉しかない、映画には言葉に加えて音と映像がある。そいてゲームにはそれら全部に加えてプライヤーが物語の中の状況の変化に対応できる。だからゲームが一番すごいものだという考え方が当時の若者を惹きつけていた。しかし、いま振り返って考えるとこれは逆なのだ。むしろ、言葉や映像を自分の目と耳と頭でしっかり受け止めて、つくり手と一緒に考える(解釈する)という行為ができない人のための補助輪が紺ビューターで、その補助輪がついた自転車がコンピューターゲームなのだ
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終章であらためて宇野さんはネット上で「石を投げる」世界の現状を憂うと共に、ひとりあそびをすすめる。

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インターネットは、世界中のほとんどの人に、「発信する」能力を与えた。

それまでテレビなどが担ってきた「他人の物語に感情移入すること」よりも気持ちのいいことをひとつ、覚えてしまった。それは「自分の物語」を「発信する」ことだ。

いま人々は、20世紀のころほどは、「他人の物語」に感情移入して生きてはいない。その代わりに「自分の物語」を発信することに時間と労力をつかうようになってきている。

人間には「他人の物語」に触れて、そこで描かれているものが心に侵入してきて、それ以前と以後ではがらりと自分が変わってしまう、そんな体験をすることがある。

「他人の物語」に「共感」しても、「自分の物語」を「発信」して、その内容に共感した人から「いいね」をもらっても、自分自身は何も変わらない。「共感」できない「他人の物語」に侵入されたときこそ、人間は決定的に変われるのだと思う。

「他人の物語」に侵入されて、自分が変えられてしまうことでしか味わえないことが世界にはたくさんある。なぜならばそうやって自分が心の奥から変えられてしまうと、そのたびに世界の見え方ががらりと変わってしまうからだ。
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ラストに、ひとりあそびを発信せよ、と語る

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人々に向けられていない発信、自分のために書かれた発信が増えれば増えるほど、世の中は多様に、豊かになると考えているのだ。

自分のための、人間ではなくてものごとや場所に対して向けられた発信は違う。自分がそのものごとのどこに、どう、興味をもってどう感じたのか、誰の顔色もうかがわない発信は人それぞれの異なった考えがそのまま発信されるので世界をどんどん多様にしていく。

自分が日々何を感じて、何を考えているか、「あそび」を通して世の中の見え方がどう変わっていくのかが、言葉にすることでだんだんとわかってくる。
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いいなあ。少ししか読まれていない読書ブログを発信している僕にとってはとても励みになる一言でした。

こんなふうに、ほんとうの「あそび」を手に入れること。
コンピューターという補助輪なしに、自転者がこげるようになること。

そんな「あそび」を自走できることが高校生までにできるといいな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 11:55Comments(0)学び日記