2020年07月21日
「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ
渡辺保史さん。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)の著者。
渡辺さんの活動を知って、「はこだてスローマップ」の
活動に参加し、会いに行ったのが2003年。
若いです。(2003.3.29)
その後、10年の時を経て、新潟青陵大学が中心となった「にいがた未来考房」
立ち上げの時に講師でお呼びして伺ったのが自分たちごとのデザイン。
スーツきてる。(2013.3.27)
このわずか3か月後の6月に急逝。
言葉を失いました。
その後、当時書いていた原稿を出版するプロジェクトが立ち上がり、
2018年3月にクラウドファンディングにより自費出版されたのがこちらの本。
「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」
いまこそ、読むときが来たと。
土日、2つの教育系ウェブセミナーと
オンライン劇場「ツルハシブックス」を開催。
土曜日は
「最上マイプロジェクト推進運営委員会オンライン勉強会 #学びの土壌づくり」
日曜日は
「スカイロケットプロジェクト主催の21世紀を生きる子供への大人のかかわり方⑥」でした。
~~~こちらはメモ
18日
高校生の探究と大人の探究が重なり合う部分にプロジェクトをつくっていけるかどうか。
対話:認識のズレを顕在化させるコミュニケーションのこと⇒違うことを楽しむこと。
「学び合えば希望は生まれる」
↑
「フラットなコミュニケーションが必要」
↑
「心をひらくためのデザイン、ツール」
「ワクワク」は伝染する。
その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。
「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。
個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場。
19日
学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。
「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。
リフレクションと対話とメタ認知
主語を私たちにシフトしていくこと。
「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。
オンラインによる「個別最適化」は学ぶ意欲のある子にとっては理想的なのかもしれないが、そうではない子にとっては、生活習慣さえ乱れてしまう。
先生や公務員こそ、「コミュニティ副業」をする時代だ。
小中学校時代にうまく学校についていけずに、高校で学び始めた子どもたちが「本当は勉強したかった」というのだと。
8割の子どもは、自己肯定感を下げるためだけに学校に行っているのではないか?
「履修主義」から「習得(修得)主義」へのリスク。プロセスにおける雑談や関係性は配慮されなくなる。
学校を社会に開く合理性を市民側が説明しているか?
市民側のリテラシーの低さ。
先生が何に苦しんでいる状況なのかを理解してから提案すること。
年齢の違う人と、テーマで話すこと。
評価・判断を保留して聞くこと。
年齢の壁はオンラインのほうが越えられるかもしれない。
発達の最近接領域
https://learn-tern.com/proximal-development/
たぶんこれと、場のチカラによる「学び合い」から「見つけ合い」へのシフト。「私たちとして探究的に学ぶ」これが自己肯定感問題を含むアイデンティティ・クライシスと探究学習を同時にクリアしていく方法かもな。
新型コロナウイルスで失われたものは学校での授業と言うよりもむしろ「登下校」や「放課後社会」といった無数の余白時間なのだろう。そしてむしろ余白のほうが本質的に重要だったものなのかもしれない。
~~~ここまでメモ
そしてもうひとつオンライン劇場の宮本さんとの対話やそのあとの「やりたいことが分からないの社会学」、
「責任」について、も。
~~~ここからメモ
「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。
そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。
「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。
その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。
好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること
「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。
ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。
「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。
それでようやく「自分」がわかる。
SDGsから出発したプロジェクトが僕の心を打たないのは、「手触り感」からスタートしていないからか。
自分に自信がない、つまり自己肯定感の低い人は、客観的に自分を見てしまうから、ついつい場において役割を果たせていないのではないか、と感じてしまう。
それって「責任感が強い」ってことじゃないですかね。オーダーされたものに真剣に応えるデザイナーのような。
これまで「自分に自信がない」とか「他者からの評価を気にしてしまう」とかって聞くと、評価という呪縛から早く逃れたほうがいいと思っていたけど、昨日のツルハシでの対話を経て、そういう人のことが好きになったというより、僕のようなクレイジー・ポジティブの人の周りには必要な存在だと分かった。平尾さんのいう「相補的関係」
同時に、その人たちが「安心」できるために、「チューニング・ファシリテーション」が必要なのだなあと思った。
冒頭で「最近あったよかったこと」を聞いて、終わりに「印象に残ったこと」を聞く。そして「発見」し合う場づくり。
最後の時間は「責任」について。哲学対話みたいになってた。これ、オンラインのほうがうまくいく気がする。今まで照れ臭くって「対話」ってタイトルのイベントには足が向かなかったのだけど。オンラインならできるね。クルミドコーヒー影山さんが言ってた「自己開示が強要されない」場づくり。
~~~ここまでメモ
っていう感じ。
昨日は校長先生と教育長と阿賀黎明探究パートナーズの会長である麒麟山齋藤社長との会談で、
プロジェクト学習について話し合っていたけど、
~~~思ったことメモ
「進学クラス」と「就職・専門学校クラス」っていう区分けがもう意味を為さないような気がした。
一緒にプロジェクトやってみたいな、と思えるヤツを育て、それをベースに「もっと研究したい」と思う人が大学に行けばいい。
マイプロジェクト
↑
プロジェクト型学習
↑
ワークショップ手法
↑
対話のデザイン、オープンマインド
↑
安心・安全の土壌づくり
マイプロジェクトの先に大学での「研究」と専門学校での「専門スキル」と企業での「就職」というプロジェクトがある。
地域の○○を学ぶ、っていうだけではほとんど意味がなく、地域の○○を活かして何かプロジェクトとして実践するところまで行かないといけない。
地域の特産物を育てて「販売」というのは一番思いつきやすい実践例だと思うが、プロジェクトはそれだけではないはずだ。
仕事や人生を主体的対話的に歩んでいけるような人に高校卒業時になっていること。
言い換えれば、人生の経営者になっていること。
会社では一介のサラリーマンであるかもしれないが、自らの人生の経営者であること。
そうしないと地域に貢献したりしないよね。それがシチズンシップ教育なのでは
~~~ここまでメモ
「わたしたち」として「見つけ合う」から始まる学び。
ワークショップ、プロジェクト学習、マイプロジェクトとつながっていく学びの前提。
そこに対話のデザイン、オープンマインドが必要で、
その前提として安心・安全の土壌づくりがあるのだろうと思う。
その「わたしたち」の範囲、フレームをどこまでにするか?
そこに心地よい責任感のヒントもあるなあと。
いろいろ繋がってきています。
渡辺先生、この本でまた学ばせてもらいます。
そして、先へ送ります。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)の著者。
渡辺さんの活動を知って、「はこだてスローマップ」の
活動に参加し、会いに行ったのが2003年。
若いです。(2003.3.29)
その後、10年の時を経て、新潟青陵大学が中心となった「にいがた未来考房」
立ち上げの時に講師でお呼びして伺ったのが自分たちごとのデザイン。
スーツきてる。(2013.3.27)
このわずか3か月後の6月に急逝。
言葉を失いました。
その後、当時書いていた原稿を出版するプロジェクトが立ち上がり、
2018年3月にクラウドファンディングにより自費出版されたのがこちらの本。
「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」
いまこそ、読むときが来たと。
土日、2つの教育系ウェブセミナーと
オンライン劇場「ツルハシブックス」を開催。
土曜日は
「最上マイプロジェクト推進運営委員会オンライン勉強会 #学びの土壌づくり」
日曜日は
「スカイロケットプロジェクト主催の21世紀を生きる子供への大人のかかわり方⑥」でした。
~~~こちらはメモ
18日
高校生の探究と大人の探究が重なり合う部分にプロジェクトをつくっていけるかどうか。
対話:認識のズレを顕在化させるコミュニケーションのこと⇒違うことを楽しむこと。
「学び合えば希望は生まれる」
↑
「フラットなコミュニケーションが必要」
↑
「心をひらくためのデザイン、ツール」
「ワクワク」は伝染する。
その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。
「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。
個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場。
19日
学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。
「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。
リフレクションと対話とメタ認知
主語を私たちにシフトしていくこと。
「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。
オンラインによる「個別最適化」は学ぶ意欲のある子にとっては理想的なのかもしれないが、そうではない子にとっては、生活習慣さえ乱れてしまう。
先生や公務員こそ、「コミュニティ副業」をする時代だ。
小中学校時代にうまく学校についていけずに、高校で学び始めた子どもたちが「本当は勉強したかった」というのだと。
8割の子どもは、自己肯定感を下げるためだけに学校に行っているのではないか?
「履修主義」から「習得(修得)主義」へのリスク。プロセスにおける雑談や関係性は配慮されなくなる。
学校を社会に開く合理性を市民側が説明しているか?
市民側のリテラシーの低さ。
先生が何に苦しんでいる状況なのかを理解してから提案すること。
年齢の違う人と、テーマで話すこと。
評価・判断を保留して聞くこと。
年齢の壁はオンラインのほうが越えられるかもしれない。
発達の最近接領域
https://learn-tern.com/proximal-development/
たぶんこれと、場のチカラによる「学び合い」から「見つけ合い」へのシフト。「私たちとして探究的に学ぶ」これが自己肯定感問題を含むアイデンティティ・クライシスと探究学習を同時にクリアしていく方法かもな。
新型コロナウイルスで失われたものは学校での授業と言うよりもむしろ「登下校」や「放課後社会」といった無数の余白時間なのだろう。そしてむしろ余白のほうが本質的に重要だったものなのかもしれない。
~~~ここまでメモ
そしてもうひとつオンライン劇場の宮本さんとの対話やそのあとの「やりたいことが分からないの社会学」、
「責任」について、も。
~~~ここからメモ
「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。
そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。
「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。
その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。
好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること
「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。
ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。
「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。
それでようやく「自分」がわかる。
SDGsから出発したプロジェクトが僕の心を打たないのは、「手触り感」からスタートしていないからか。
自分に自信がない、つまり自己肯定感の低い人は、客観的に自分を見てしまうから、ついつい場において役割を果たせていないのではないか、と感じてしまう。
それって「責任感が強い」ってことじゃないですかね。オーダーされたものに真剣に応えるデザイナーのような。
これまで「自分に自信がない」とか「他者からの評価を気にしてしまう」とかって聞くと、評価という呪縛から早く逃れたほうがいいと思っていたけど、昨日のツルハシでの対話を経て、そういう人のことが好きになったというより、僕のようなクレイジー・ポジティブの人の周りには必要な存在だと分かった。平尾さんのいう「相補的関係」
同時に、その人たちが「安心」できるために、「チューニング・ファシリテーション」が必要なのだなあと思った。
冒頭で「最近あったよかったこと」を聞いて、終わりに「印象に残ったこと」を聞く。そして「発見」し合う場づくり。
最後の時間は「責任」について。哲学対話みたいになってた。これ、オンラインのほうがうまくいく気がする。今まで照れ臭くって「対話」ってタイトルのイベントには足が向かなかったのだけど。オンラインならできるね。クルミドコーヒー影山さんが言ってた「自己開示が強要されない」場づくり。
~~~ここまでメモ
っていう感じ。
昨日は校長先生と教育長と阿賀黎明探究パートナーズの会長である麒麟山齋藤社長との会談で、
プロジェクト学習について話し合っていたけど、
~~~思ったことメモ
「進学クラス」と「就職・専門学校クラス」っていう区分けがもう意味を為さないような気がした。
一緒にプロジェクトやってみたいな、と思えるヤツを育て、それをベースに「もっと研究したい」と思う人が大学に行けばいい。
マイプロジェクト
↑
プロジェクト型学習
↑
ワークショップ手法
↑
対話のデザイン、オープンマインド
↑
安心・安全の土壌づくり
マイプロジェクトの先に大学での「研究」と専門学校での「専門スキル」と企業での「就職」というプロジェクトがある。
地域の○○を学ぶ、っていうだけではほとんど意味がなく、地域の○○を活かして何かプロジェクトとして実践するところまで行かないといけない。
地域の特産物を育てて「販売」というのは一番思いつきやすい実践例だと思うが、プロジェクトはそれだけではないはずだ。
仕事や人生を主体的対話的に歩んでいけるような人に高校卒業時になっていること。
言い換えれば、人生の経営者になっていること。
会社では一介のサラリーマンであるかもしれないが、自らの人生の経営者であること。
そうしないと地域に貢献したりしないよね。それがシチズンシップ教育なのでは
~~~ここまでメモ
「わたしたち」として「見つけ合う」から始まる学び。
ワークショップ、プロジェクト学習、マイプロジェクトとつながっていく学びの前提。
そこに対話のデザイン、オープンマインドが必要で、
その前提として安心・安全の土壌づくりがあるのだろうと思う。
その「わたしたち」の範囲、フレームをどこまでにするか?
そこに心地よい責任感のヒントもあるなあと。
いろいろ繋がってきています。
渡辺先生、この本でまた学ばせてもらいます。
そして、先へ送ります。
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