プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2017年02月28日

その点は、角か桂馬か

菊地くんと朝活。

過去の出来事を振り返って、
意味づけをして、
それが今につながっている、
って思うことがある。

たとえば、ぼくの場合は、
不登校の中学校3年生の家庭教師をしたとき。

「ああ、ぼくはこれを仕事にしたい」
と心の底から思ったのだけど、

「これ」がどれなのか?何なのか?
っていうのは今も問いかける。

その当時は、

「中学生にとっては、無職の若者(当時の僕)のような
地域の多様な大人に出会うことが必要ではないか。
とNPO法人を設立したけど。

そして、それは、10年の時を超えて、
地下古本コーナー「HAKKUTSU」として結実する。


しかし。
その後、僕は「本の処方箋」というコンテンツを手に入れる。

人の悩みを聞き、本を処方する、というもの。

これはどちらかというと、
本を処方するよりも、人の悩みを聞くほうに
重きが置かれる。

そのことを友人に話したら、
「人と向き合いたいんですね」って言われ、
いや、そうじゃないなと思った。

向き合いたくない。
人の話を聞くのも実はそんなに得意ではなかった。
でも、本のほうを向いて、なら
話を聞くことができる、ってことがわかった。

そのとき。
あのときの中学生とのエピソードが少し違って見えた。

これを仕事にしたい。
の「これ」は、中高生と地域の大人が出会う場所、ではなくて、

ともに悩みたかった
のかもしれないと思った。

未来は見えないけど、
そこに向かって、ともに悩む。
「本の処方箋」っていうのは、そういうコンテンツだ。

そうやって、過去の点の見え方が変わってくる。

「コネクティング・ドット」は、
スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの一節だけど、

菊地くんに言わせると、
「あの時打った将棋の駒が、ここに効いてきたのか」
っていう感覚。

それ、いいね。
ジョブズより日本的だね。

人生が巨大な将棋盤だとしたら、
あの時、打った角が、いま、ここに効いてくる。

「そんなにナナメに行けるんだ!」みたいな。

予想だにしない巨大な桂馬が、
時空を飛び越えて、目の前に現れる。

あなたが今、打った点。

それがもし将棋盤の上だとしたら、
その点は、角か桂馬か。  

Posted by ニシダタクジ at 08:42Comments(0)言葉

2017年02月24日

すべては機会でしかない

大学時代に、
環境問題啓蒙系のNPOを少しかじっていた。

新潟で活動していた人たちは
歯医者さんとか大学の先生とか、
いわゆるハイソな人たちが多かった。

彼らの探究心は
環境だけにとどまらずに、
「豊かさとは何か」という根源的なところに
迫っていっていた。

「西田くんも来ない?学割でタダでいいよ」
って、講演5000円懇親会5000円(たしか)
のところに呼ばれていった。

出会ったのは、
小林正観先生でした。

ブレイクしたのはその当時から
10年くらい経ってからだと思うので、
本当にマニアックな頃。

そのときに「正しく観る」ということを、
教えてもらった。

今でも印象に残っているのは、
出来事によいことも悪いことも、
幸せも不幸せもない。
そう思う自分の心があるだけだ。

出来事はすべてニュートラルだ。

般若心経の
「色即是空 空即是色」
の話とか聞いていた。

「空」というのは
「無」ではなく、「空」なんだ。
そこに色はついていない。
それに色をつけるのは人の心だ。

出来事にプラスもマイナスもない。
そこに出来事があるだけだ。

それ以来。

何かが起こるたびに、
「これは何の機会なのだろう?」
と問いかけるようにしてきたし、
実際そうなってきたと思う。

ツルハシブックスは経営難のおかげで、
劇団員というコンセプトに出会い、
山田正史と井上有紀というスターを生んだ。
家賃フェスや灯油フェスという伝説を生んだ。

機会でしかない。

だとしたら、目の前にあるものは
どんなきっかけなんだろう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)言葉

2017年02月20日

「東京」基準を疑う

敗北感って大事だと思う。

「何者でもない自分」を認め、
新たなスタートを切る上で。

僕も、大学2年から3年に上がるときに、
「農ゼミ」という
農学部系の学生が集まる全国大会に出て、
圧倒的な敗北を味わった。

あれが僕の人生にとっては、大きな大きな経験になった。
その直後に僕は「有機農業研究会・STEP」を設立し、
大学の校舎の裏に畑をつくったのだから。

しかし。
そこで陥りがちなのが、「比較」の罠であるかもしれない。

「すごい人」が同世代であるとき、
ついつい比べてしまう。

そういえば、人のことばかり言えず、僕だって、ごく最近、
カキモリの広瀬さんやクルミドコーヒーの影山さんに出会い、
勝手に苦しくなっていたっけ。
「同世代なのに、スゲーな」って勝手につらくなっていた。

その苦しさのひとつの要因として、
facebookなどのネットワークサービスが
あるだろうと思う。

離れていても、
ライバル(こう呼ぶのは正しくないかもしれないが)
たちの活躍ぶりが伝わってくる。

頻繁に連絡をとることができ、
アクティブな人であれば、地域を超えて、会いに来る。

「意識高い」系コミュニティに入り、
そこから振り落とされないように、
自分も何かしなきゃ、とあせる。

それって、他者比較なんじゃないか。

他者と比較して、自分はがんばっているのか?
と問うことは苦しい。
自分よりがんばってるであろう人はいるだろうし、
他者との比較上位にありたいから頑張るわけでもない。

たまに出会ったその瞬間に
「健全な敗北感」を感じ、明日からのモチベーションに
替えていくこと。

それだけでいいのだ。

「東京」基準で、
他者から評価されやすいわかりやすいチャレンジを
する必要などない。

「東京」って
アイデンティティの源泉が
自分と人的コミュニティ(同世代が多い)に依存しているのがつらいと思う。

だからつい、
他者との比較をしてしまい、
自分の位置を確認したくなる。

「地方」はそうじゃない。
住んでいるまち、まちの人たち。
歴史とか。営みとか。
やっているプロジェクトの言語化・数値化できない価値。

そんなのが複合的にある。

それって主観だから、
ほかのプロジェクトと比較することができない。

誰から見てもわかりやすい「チャレンジ」をする必要なんてない。
多様化する価値観を、自分なりに小さく表現していけばいい。

成功も、失敗も、
達成感も、敗北感も、
その日1日で捨て去り、目の前の今を、生きてゆけ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)

2017年02月19日

「驚き」からはじまる

高田さん家で本のイベント。
5分で本を選び、10分で本を読み、
2分くらいで説明する。

1冊目に選んだのは、
「つながるカフェ」(山納洋 学芸出版社)


3年前に塩尻で出会った
三田の家の坂倉さんの言葉が印象に残った。

「創造的な欠如」

通常に空間にあるはずの何かが
欠けていることが重要だと坂倉さんは考えている。

何かが「無いこと」で、
出来事や人間関係が動き始める余地が生まれる。
そうした、あるべきものの不在が創造するゆるやかな
相互作用が、三田の家という場の魅力や磁力を
つくっているように見える。(本文より引用)

なるほど。たしかに。
坂倉さんに会ったことが僕がツルハシブックスを去る
引き金を引いたことを思い出した。
何かが無いことで、生まれるものがあるのではないかと。

そして2冊目はこちら。

「アブダクション~仮説と発見の論理」(米盛裕二 勁草書房)

科学的論理的思考をする上で、
「推論」というのをするわけですが、
それには「演繹法」と「帰納法」がある
と聞いたことがあるかと思います。

しかし、パースは、
科学的発見や創造的思考のためには、
それらとは別の「アブダクション」という推論の方法があるのでは、
と説きます。

「アブダクション」とは、

1 驚くべき事実Cが観察される、
2 しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
3 よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

ここで、
「驚くべき事実C」というのはわれわれの疑念と探求を引き起こす
ある意外な事実または変則性のことであり、
「H」はその「驚くべき事実C」を説明するために考えられた
「説明仮説」です。

ここでニュートンの万有引力の仮説を例に出して説明している。

~~~以下説明

ニュートンの非凡なところは、
リンゴが落ちるという事実に対するかれの「驚き」にあります。

「リンゴはなぜいつも垂直に落ちるのか、なぜわきの方ではなくて、
いつも地球の中心に向かって落ちるのか」という
ニュートンの驚きと疑念そのものが、
かれの独創的な洞察力と想像力によるものです。

それまでも、リンゴは落ちていたけど、
それらは「驚くべき事実」ではなかったのです。

ニュートンはその驚くべき事実に対して、頭の中で考えた。

物体の中には「引力」が働いていて、
それが地球の中心に集中しているのではないか。

そして1つの物体がほかの物体を引くとしたら、
その引力の大きさには比例関係がなければならない。

これが説明仮説Hになります。

~~~ここまで説明

なるほど。
まず「驚くべき事実」を発見することから
発明や創造的思考は生まれていくのだなあと。

「驚き」から始まる。

「驚き」っていうのは、「違和感」だったりも
するのだろうな。

アブダクション、を積み重ねていくのだろうな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)

2017年02月18日

無力感という出発点

石井秀和さん。
武蔵新城プロジェクトでご一緒させてもらっている。
話をしてると、とってもいい人だなあと。
この人の周りに人が集まるのはわかるなあと。



昨日は本棚づくりの作業日でした。
終わった後、川合くんの湯ミットのリハーサル
行く予定でしたが、残念ながら金曜日は定休日。

その後、喫茶店でパフェを食べて、
そのあとで石井さんと話をしていた。

若者と接するときに、
一番大切なのって、無力感なのかもしれないなと。

人を導いたり、元気にしたりすることはできない。
すべての人を助けることはできない。
もちろんそうなってもらいたいという気持ちは
あって接しているのだけど。

そんな無力感を出発点にすると、
接するときにコミュニケーションしようとする。
いや、正確に言えば、
「コミュニケーションしかできない」のだ。

僕の出発点は、
2004年に新潟県で起きた中越地震のボランティアだった。

当時30歳。
子どもの居場所づくりというか
一緒に遊ぶボランティアを新潟大学の学生と行っていた。

あのときは、ただただ、無力だった。
無力感しかなかった。

水道もガスも止まっているという
避難生活の中で、親のストレスから離れて、
子どもと遊ぶ。
遊んでいるときは、楽しそうにしている子どもたち。

16時が近づく。
ボランティアセンターに戻る時間。

車に乗り込んで、センターに帰る僕たちを
小学生が途中まで追いかけてくる。
最後に手を振って別れる。

みな、黙り込む。
センターに着くまでのあいだ、誰も口を開かない。

ただ、無力だった。
そして、活動の効果に疑問を感じていた。

「こんな活動をして、何になるんだろう。」
「子どもたちは本当に喜んでいるのだろうか。」

そんな答えのない問いが浮かぶ。
でも、翌日、また川口に向かっている自分がいる。

あのボランティアで僕が感じていたのは
圧倒的な無力だった。
でも、それが僕の出発点になっている。

子どもはニーズを語らない。
ボランティアとは、差し出した半分のハートに
相手のハートを合わせていく行為。
そんな双方向のコミュニケーションが必要。

「一般的な正しさ」
なんて存在しないのだから。

目の前の人、ひとりずつの中に、
何があるのかをコミュニケーションしながら探り探り
接していくこと。
そこからしか始まらない。

若者はそれぞれ、自らの過去と未来を背負って生きている。

そのすべてを受け入れることはできない。
いい方向に進んでいくサポートもできない。

「いい方向」など、私たちにはわからないから。
私たちには、「機会」の提供しかできないのだから。

そんなコミュニケーションと機会提供の場を持つということ。
それが本屋をやるということ、なのではないかな。

昨日は、石井さんと、
無力感という出発点を思い出したよい夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 06:08Comments(0)

2017年02月17日

「発酵」しながら生きる


西村佳哲さん。

初めてお会いしました。
2017年の初めから、
「自分の仕事をつくる」「自分をいかして生きる」を読み直し、

そして今も「かかわり方の学び方」を
読み進めていたので、非常にタイムリーでした。
素敵な人だった。

さらに、進行していた、津屋崎ブランチ
http://1000gen.com/
の山口さんの冒頭のトークが熱くって。
一気にテンションあがった。
コメタクのコンセプトに非常にシンクロしている気がして。

なんか自分の方向性に自信が持てた1日となりました。

~~~以下メモ

注意事項
・否定しないで耳を澄ます。
・自分だけが正しいと思わない。断定しない。新しい気づきを大切に。
・沈黙を歓迎する。言葉が出てこないのは生まれる前兆。
・落書き・メモを取る。

感じをデザインする。感じを交わし合う。
自然物のカラーパレット。

自分は何をするか、から、周りにいる人と何ができるか?
という問い。
出会いをカタチにする。

15分プレゼン→シェア
を繰り返すと様子がわかってくる感じになる。
「思い浮かぶ人」を増やすことが地域に活動を増やす。

つなぐ公社のロゴはこぐま座。
北極星を見失わずにつなぎ直して価値をつくる。

名刺交換でその人を見てない。
肩書きとメリットしか見てなかった。

肩書きじゃなく、まずその人とつながること。
そこから始まる。

どこで、だれと、なにを、して生きていくか。
「なにを」から、「だれと」になり、「どこで」というのも大切になってきた。

暮らしをつくる。風景をつくる。
本当の暮らし、働き方、つながり。
暮らし→家族、地域
働き方→専業なのか?
つながり→人として見る
風景→人の営みがにじみ出る

まちづくりとは、このまちにあった
営みの哲学を新しい形でとりもどすことだ。

風景=情景をつくる。いい映画を見たとき、シーンが残る。空気感。
シーンを生み出していくこと。
シーンには、暮らす人の価値観がにじみ出る。

いいアウトプットを出す人は、方法論が違うだろう。

違和感を大切にする。
違和感こそ衝動のタネ。
やり方を変えられる。

仕事だから、っていう言い訳は、
仕事と自分が分離している。

仕事は、
はたらき→生業→事業→産業と拡大していく。
地方創生とかで、仕事をつくる、って言う時の仕事ってどれ?

はたらき、は、いるだけで作動する機能。ほっとする、とか。
生業は、機能+技能。個人に依存している。その人がいなくなったら無くなる。
事業は、個人に依存していない。仕組みができている。システムに依存する。
このあいだにカベがある。
産業は事業の集積。

その場合の仕事は、どの位相の仕事のことを言ってるの?

生業のデメリットは、本人が本人の奴隷になることがあること。
事業になるとそれがなくなる。
そのあいだに家業がある。

最近は家業っぽい事業が増えつつある。
ニュー家業的会社が増えている。個人が大事にされている。

移住して仕事をつくる、のときの仕事は「生業」であることが多い。
それをどうニュー「家業」に発展させていけるか。

日本は産業(工業)がダメになっている。
カンフル剤としての多機能化やエコ家電があったが、すでに限界。
次の産業をつくらなければいけないが、いきなり産業はつくれず、
生業から始めて、家業、事業と発展させなければならない。

まずは生業を集めて、組み合わせること。星座のように。
ねんど細工のような、やりながら考えるような。
⇒「発酵」みたいな。
温度や湿度が整えば勝手に生まれてくるような。
コンディションが大事。

都会のアスファルトでは芽吹かないが、
津屋崎ではミミズがいっぱいいるので、種があれば芽吹く。

「はたらき」に気づくには他者が必要。

自分で見つけるのは難しい
→あきもせずに繰り返しできること
→たいしたことないと思っている
→実は才能かも。

「生業」も自分だけでは考えないこと。

世界に一つだけの花という強迫。
出会いを仕事にする、というような感覚。

個人にウェイトを置くキャリア教育=西洋的
「個人」という縛りから外れること。発酵=環境

自分の思惑通りの人生は意外に面白くない。
「気がついたらここに来ちゃった。」と言っている人で
つらそうな人はあまり見たことがない。楽しそう。

自分が開かれていることが大事。

「費用対効果」「原因と結果」という幻。
1対1の対応関係であるはずがない。
小さな「原因」をたくさんつくっていくようなまちづくり。

イベントをやる(非日常)
→日々、今日を幸せに生きる。(日常)
→平凡なことしかやってない。
→営みの中にシーン(風景・情景)が生まれる。

結果としてしか起こらないことを目的にしているのではないか?

~~~ここまでメモ

これが、また今朝読んでいた
「かかわり方の学び方」の内容とリンクする。

カール・ロジャースの
「パーソン・センタード・アプローチ」。

共感、無条件の肯定的尊重、自己一致。
これらの条件が揃うと、その気があろうとなかろうと
より一致する方向へ向かう。

たとえ相手がどんな人であろうと、生き物であるなら、
聴き手の条件が揃うと語り手の中に自然に発動する動きがある

なるほど。
これがつまり、「発酵」ってことか。

環境を整えることで
おのずから、芽が出る。
そんな場をつくっていくこと。

昨日の話を聞いて、
「豊かさ」や「キャリア」について、
僕が考えてきたこと、考えていることが、
非常にいい線いってるなあと実感した。

そして、いま自分がここに立っている意味を。

大学時代、自然農に学び
まきどき村で農を核としたコミュニティをつくり、
大学生のインターンプログラムをつくり、
キャリアのことに関心を持ち、

もっと自信のない子にアプローチしたいと
ツルハシブックスをつくり、
そして、茨城に来て、岡倉天心という生き方に出会った。

これがもし、偶然ではないとすると。

西村さんが
「かかわり方の学び方」のあとがきで

「やり方」の奥には、「あり方」があったわけです。
そこがなによりも違うんだなと。
働き方方面から掘っていた穴と、
かかわり方(ワークショップとかそのファシリテーション)方面から
掘っていた穴がそこで貫通します。

そうそう。
そういう「貫通」した感じ、昨日はありました。

大学時代に環境問題をテーマにしたことで出会った
「豊かさと何か?」という問いと
若者のキャリア形成というシーンで出会った、
「地域とキャリアの関係」という問いが貫通したように思えます。

そして、
それは「発酵」のように「自然農」のように、
環境をつくるということ。

パーソン・センタード・アプローチのように、
ひとりひとりの中にあるものを信じるということ。

「未来」という「自然」と、ともにあるということ。

キャリアデザインもキャリアドリフトも
個をベースにしてつくられているけど、もしかしたら
日本では、もっと、主客一体とか一座建立とか
そういう精神でキャリアをつくっていくことが可能なのではないか。

いや、二者択一ではなくて、
それらをミックスしながら、
岡倉天心的な第3の道を歩んでいくことが可能なのではないか。

鴻上尚史さんのいう、
同調圧力についても理解し、
俯瞰して世の中を見ること。

それと同時に、
地域や世の中という環境に委ね、
感じ、行動していくこと。

そこから対話しながら、キャリアを構築していくこと。
そこに僕の使命があるんじゃないか。

まずは僕自身も発酵しながら生きたいと
強く思った1日になりました。

西村さん、山口さん、本当にありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)学び

2017年02月16日

「おもしろさ」はどこにあるのか?


「かかわり方の学び方」(西村佳哲 ちくま文庫)

西村さん3部作読み直し中。
今日これから西村さんにお会いします。
うれしい。

まだ途中ですが、
ビビっと来たので。
そして昨日の「茨城学」深掘りカフェでの
テーマともかぶっていたので。

「学び」の面白さ、「ワークショップ」の面白さは
どこにあるのか?
という問い。

117ページから始まる、
音楽家の野村誠さんへのインタビューが
非常に興味深かったのでメモ。

~~~ここからメモ

「ワークショップ」とは「その時に初めてつくっているもの」

面白いかどうかは、
可能性が広がるか、広がらないかです。
何かを始める時に、出発点から到達できそうな場所が
いくつか見えているとしますよね。
すでに見えている場所に行くのは面白くないです。

90分あれば誰でもそこに到達できる、と
最初からわかっていたところにしか行けないのは、大変面白くない。
出発点からまったく見えないところへ行くのが面白い。

90分だと、あそこまでしか行けないように思える。
でも抜け道がどこかにあるかもしれないわけで、
それは進みながら見つけ出して、どんどん選択してゆくしかないわけです。
そして最初はまったく見えてなかった場所にたどりつく。

始める時にはいろんな場所に行ける可能性があるわけだから、
それを広げてゆくほうが面白い、という意味です。

特に複数名で進んでゆく場合、
ある人には見えないものが他の人には見えるかもしれない。
誰かが抜け道を見つけるかもしれないし、
他の人が持っていない知恵を働かせるかもしれない。

~~~ここまで引用メモ

そうそう。
それね。

だから人は集って、学びの場をつくるのでしょうね。

最初には想像つかないところにたどりつくから。
それが「おもしろさ」ってやつなのかもしれない。

本を読むのも、
ワークショップをするのも、
本質的にはおんなじで、
予想をつかないところにたどりつきたいっていう
根源的欲求があるのではないかな。

そんな中で少しずつ自分の外側が
えぐられるように、他者と交換されるように、
新しいものになっていき、
気がつくとやる前とは違う、
新しい自分がそこに広がっているのかもしれない。

そういうのを「おもしろい」っていうのかもね。

だから、「場」をつくる人は、
境界線をあいまいにして、
そこに余白をつくって、
いろんな考えやアイデアが入ってくる場をつくる。

そうやって「場」全体が、
あるいは「場」の一部が相互作用して
生まれてくるんだろうな。

解決策は、個人の頭の中ではなくて、
「場」の中にあると僕は思っている。

そしてそれこそが「おもしろさ」の源泉なのではないか、と
この本を読んで感じた。

「学ぶ」面白さを伝えられる、いや一緒につくっていける人になりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 10:07Comments(0)

2017年02月15日

「選択と集中」という唯一の選択肢


「地方消滅の罠~「増田レポート」と人口減少社会の正体」(山下祐介 ちくま新書)

「地方消滅」、いわゆる増田レポートについての批判本。

ここで筆者は
「選択と集中」という言葉に違和感を語る。

~~~以下一部引用してメモ

そもそも選択とは、
複数の中から選ぶものであり、
一つしか道がないのでは選択にならない。

国家の経済力を拡大・維持するために
人員を供給し続けたのがこの半世紀の家族の姿で
あったとするなら、これからもそれを続けるのか。

経済性や効率性で「地域」をとらえてよいのか。

そもそもこれまでやってきた
国の政策という「選択と集中」は
うまくいってきたのか?

そういう一律的基準による画一的集中化が
東京一極集中をもたらしているのではないか。

「選択と集中」論は、
「選択と集中」を選択するように要請する。

経済的に自立している人とは、
たとえ天地がひっくり返っても自分の才覚で
生産し、社会に貢献できる人だ。

このたしかな絆の連鎖を
経済効率のために崩しすぎてきたようだ。

~~~ここまで一部引用してメモ

うんうん。
たしかに。

「選択と集中」という言葉によって、
「選択と集中」という選択肢しかないように思わされる。

前提を疑う。

これが大切だ。

「選択と集中」以外の道があるのではないか。
そんな問いかけ。

そこには、
幸せとは何か?
働くとは何か?

そんな根源的な問いから始まっていく未来があるように思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:44Comments(0)

2017年02月14日

対話型キャリア形成

キャリアドリフトは、東洋的キャリアなのではないか、
という仮説は、僕の中では結構しっくりと来ている。

今日、2月14日は、
岡倉天心先生の生誕の日。

150年前。
西洋化の道をひた走る日本美術界に、
東洋にもいいものがある、と
日本・インド・中国文化を発信し続けた。
その生き様に触れ、胸が熱くなる。


「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)

読み終わり。
ラストに近づくにつれて、西村さんの
熱意と問いがあふれ出てくる。

働くことは本当に喜びなんだろうか?
とはじまる第3章が熱い。

~~~以下引用

本質とまで言わないにしても、生まれてきたからには
本領を発揮したいしエネルギーを解き放ちたいわけで、
その意味でも、仕事はきわめて有力で魅力的なメディアだ。

自分にも、他者にも、社会にも深く関わることが可能で、
承認欲求も満たせば成長快感も得られるし、
仕事の体験を通じた感情や感覚の起伏はそのまま生きている手応えにもなる。

でも本人の実感以外のところから、まるで倫理や徳や常識のように語られる
「働くことは喜びである」といった言い切りには同意しきれない。

それが〈自分の仕事〉ならむろん働くことは喜びになると思うが、
そう思い込まされるようなファシリテーションが社会に施されているとしたら?

そもそもこの、働くことはよいことであるという考え方は、
人類史の途中から姿をあらわしたものだ。
その時々の為政者や権力によって人々に与えられてきた痕跡も見受けられる。
これは労働文化史の領域では決して斬新な視点ではない。

働くことをよしとする価値観は、近世のヨーロッパで生まれ、
キリスト教と産業革命を足がかりに世界へ広がった。

労働や働くことをよしとする考え方は、
共産主義においても資本主義においても機能した。
それは都市化・数量化・産業化の流れに沿って広がった
近代以降の価値観であって、それ以前の社会には、実はあまり見られないという。

人は、より生きているという実感に喜びをおぼえる。
仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、というだけのことだ。

ただ働くことだけが、わたしたちの生を充足させるわけじゃない。
価値観の形成過程に誘導性も感じられるので、
このことについては、むしろ慎重でいたい。

~~~ここまで引用

「仕事」このくらい俯瞰して見ること。

そもそも働くことそのものはよいことなのだろうか?
いつからそんな価値観が浸透したのだろうか?
それは、自分たちの意思ではなかったのではないか?

そんな問いを問うことがキャリア形成の出発点なのではないか?
と思う。

対話型キャリア形成。
僕はこれを目指していこうと思う。

本屋であること。
本の処方箋というコンテンツを持っているということ。
地域というフィールドに大学生を送り出していること。

そのすべてがそこに向かっている。

目標設定・達成という
キャリアデザインなるもの。

それが唯一の方法ではないということ。

もちろん昨日のブログで書いた東洋的キャリア形成も
そのひとつの方法にすぎないのだけど。

それらを組み合わせながら、
<自分の仕事>をつくっていくこと。

それをサポートしながら、
僕自身が<自分の仕事>をつくってみようと思った。

岡倉天心先生のように、
西洋だけでも、東洋だけでもない、
その両方と、そのあいだの道があるのだと、

そしてひとつなのだと。

まあ、茶でも飲もうじゃないか、と。

そんな「対話型キャリア」というジャンルを
切り拓いていきたいと思った。

未来という「自然」に向き合い、
一体化して、ともにつくっていく仕事。

そんなのをつくりたいね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2017年02月13日

東洋的キャリアのつくり方


「自分をいかして生きる」(西村佳哲 ちくま文庫)

年始の「自分の仕事をつくる」につづいて、
西村さんの本読み直し。

いやあ、すごい。
読み直しても、いまいるステージに響く言葉だらけ。

昨日は、佐藤孝治さんと
その仲間たちとの観劇の会でした。



1998年11月。
大学院の1年目に、僕は伝説のバー、
王子・「狐の木」に足を踏み入れました。

あの日も、
王子小劇場で熱いお芝居を見た後で
「農」を語る熱い飲み会に参加。

「熱い」「アツい」
ってそのころから使っているな。(笑)

昨日の裏テーマは、
キャリアドリフト
=プランドハプンスンスタンスセオリー(計画された偶発性理論)

だったのだけど。

そのテーマと
「自分をいかして生きる」が
なぜかマッチしていて、すごいなと思った。

西村さんは本文の中で、

「好きなことを仕事にする」とか
「やりたいことをやれ」とかいう話に、
問いを投げかける。

~~~以下本文より引用メモ

好きなことよりも「大切にしたいことは?」
という問いのほうがまだ有効なんじゃないかと思う。

あるいは、「自分がお客さんでいられないことは?」という
問いはどうだろう?

他の人がどれほど素晴らしくやっていても、
その成果の享受がただ楽しめること。
他の誰がやっていても構わずにいられる仕事は、
いわば他人事の仕事と言える。

気持ちがザワザワする。落ち着かない。見たくない。悔しい。
時にはその場から走り出したくさえなるような、
本人にもわけのわからない感覚を持て余す感覚を
感じている人は、そのことについて
ただのお客さんじゃいられない人なんじゃないかと思う。

悩みや葛藤は自分そのものだ。
これまでの経験や環境など、自分のすべてがあることで、
それが悩みになりえる。

「できてない」ことが、可能性でもあるということ。

心の水面にさざ波が立つ時。それまで平坦だった気持ちに、
プクッと微かな膨らみが生じる時。
その下には、まだ現実化していないなにかがある。
それはほかでもない、自分だけの資産だ。

「ザワザワする」ところ。「お客さんではすまない」部分。
「好き」より、さらに前の感覚的なもの。

~~~ここまで引用

なるほど。
「好き」より前の違和感。
これを感知することから始まるのだな。なるほど。
やっぱり感性って大切だ。

さらに、ロサンジェルスの宿をやっているバッツィーさんの話
で、昨日のお題に近づいていく。

~~~以下さらに引用

その時その時に自分が正しいと思ってやってきたことが、
何かにこういう結果につながってるとしか言えない。
つまり目標よりプロセスを重要視して、歩きながら行く先を決めて行くようなスタイルね。

こういうのはむしろ東洋的な考え方かも。
少なくともアメリカ的なやり方ではないと思う。

「はじめれば、はじまる。」ということ。
逆にいうと、
「はじめないかぎり、何もはじまらない」というものだった。

あの頃の自分に会えるとしたら、ただ黙って話を聴く。そして
たまらなくどうである、とか、わけもなくこうである、
といった感覚的な言葉が顔を覗かせたら、さらに耳を傾けると思う。

他人からもらったアドバイスより、
口に出してみた気持ちや自分が語った言葉の余韻が、
再び自分に揺さぶりをかけて、
それが次の場所へ向かう足掛かりになってきた感覚があるからだ。

やってみて、そこから何か手がかりを得て、
またやってみるというスパイラルをまわすことの他に、
人間、あるいは生命がその力を展開させてゆく道筋はないと思う。

どの時代にもそれまでなかったことや、まだ教科書が編まれていないこと、
誰も教えてくれないようなことを手探りではじめた人たちはいて、
彼らはどうそれをやったかというと、ただ無我夢中でやったのだと思う。

~~~ここまで引用

そうそう。
これだよね。
これなんですよ。

佐藤孝治さん(コージさん)の生き方そのものだった。

就活する学生をエンパワーメントすることで、
学生が、そして就職した人たちが元気になり、
日本が元気になっていくんじゃないか。

そうやって、テーマ別就活メーリングリストと
オフ会から始まったジョブウェブ。

創業したコージさんのやっていることは
今も変わらない。

一緒に銭湯に行き、メシを食って、語る。
そこに観劇が加わっていたけど、
20年前からずっと、そうやってやってきたんだ。

僕は18年前にコージさんに出会い、
「まきどき村」構想を語り、翌年にオープンした。

そのオープン日に、
コージさんは新潟で僕と荒れ地で石を掘っていた。

「それ、面白そうだね。やってみたらいいよ。」
そんな声を今も、掛けつづけているんだな。

なんだか、ちょっぴり苦しくなった。

苦しくて、うれしくて、あたたかい。

なんとも言えない気持ちになった。

別れ際、大阪で体操教室をやっている舟木くんが
「やらなアカンな。」って言って、帰って行った。
まぶしかった。

「キャリアドリフト」
っていうのは、東洋的な考え方なのかもしれない
と思った。

相手に合わせて、自分が変化する。

相手と一緒に、何かをつくっていく。

自然を支配するのではなくて、自然と一体化していく。

合気道や茶道や、日本庭園のような、

「相手」が「就職する会社」や「与えられた仕事」、
そして「自然」が「未来」だとしたら、

やってみる。
違和感に耳を傾ける。
生き生きとする瞬間を見つける。

そんなキャリア形成こそ、心地よいのではないか。

コージさんと一緒につくりたい未来も、
少し見えたアツい夜になりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)

2017年02月12日

「少数派」を好きになるということ

福島に来ています。

朝7時から、大学生4人とミーティング


おとといの農家ヒアリングで大学生が聞いた一言。

「農業は可能性だらけだ。」

ホント、僕もそう思う。

「顔が見える」っていうのは
つくっている人の顔が見えるだけでなく、
食べている人の顔が見えるということでもある。

とか。
いろいろ学びが多かった。

そして今回、
僕がもっとも痛切に感じたのは、

「食」や「農」というテーマは、
若者のアイデンティティ問題にとっては、
解決策のひとつとなるのではないか?
という仮説だ。

若者のアイデンティティ問題。

たとえば、
「自信がない」とか
「やりたいことがわからない」とか

その大きな原因は
満たされていない承認欲求、
とくにベースとなる「親和的承認」の機会の少なさにあると
僕は考えている。

参考:「評価」ではなく、「承認」を必要としている。
http://hero.niiblo.jp/e470668.html
(2015.7.16)

その解決策は、商店街や離島に行くことだと思った。
そこで存在そのものを受け入れてもらうことが大切ではないかと。

もうひとつ、方法があるのではないか。
それが「食」や「農」なのかもしれないと思った。

有機農家やオーガニックレストランの
運営者に話を聞くこと。
価値観を揺さぶられること。
そして好きになること。

そのプロセスの中で、
大学生は「好き」という関係性を築いていく。

その「好き」の関係性を増やしていくこと。

結局、個人のアイデンティティは
その人の中にあるのではなくて、関係性の中にある。
フェイスブックは関係性の可視化ツールで
あるからこそ、ときに喜びや出会いを、
ときに悲しみや嫉妬を運んでしまうのではないか。

しかし、ネットの中ではなく、
リアルな社会に、「好き」という関係性をつくっていけるか、
それがアイデンティティにつながっていく。

「恋愛したいけどできない。」
と思っている女子には、自信が足りないのだと大人はいう。

「人を好きになる前にまず自分を好きにならなきゃ」
という謎のアドバイスをするおじさんもいる。

しかし、
簡単に言っても、「自分を好きになる」っていうのは
そんなに簡単なものではない。

だから、まず、恋愛ではなく、人を好きになる。
それは、お気に入りのお店でもいいし、住みたいまちでもいい。

その「好き」を好きだと自信を持って言えるとき
(それは決して好きである理由を述べられるという意味ではない)
人は小さな自信の階段を登るのではないか。

今回、大学生たちがヒアリングした農家はしきりに、
自分たちが「少数派」であることを語っていたという。

僕は、そこにまた違った希望を見た。

つまり、「少数派」である人たちを
かっこいい、とか、尊敬できる、とか
好きになった時点で、
自分の感性への自信が少し増しているのではないか。

その他大勢ではなく、
自分が感じる「好き」を集めていくこと。
その入り口を食べることにすること。

今回のミーティングは、
若者のアイデンティティ問題を
「食」「農」というフィールドで、アプローチできるのでは、
という仮説を得た、僕にとっても収穫の多いものとなった。

もうひとつ。
つけ加えると、「伝え方」のこと。

「伝えよう」とすると、伝わらないのではないかと思った。
今回はひとりの大学生の言葉に胸を打たれた。

それは、彼女自身が、
農業者の話を聞いて、価値観を揺さぶられたのを
素直に表現していたからだ。

こんなことは今まで考えてなかった。
世界が広がった。

そんなことを自分の言葉で紡いでいた。
実はそれこそが「伝わる」言葉なのかもしれない。

僕たちはいま、
新しいメディアをつくろうとしている。

大学生や高校生が「食」「農」をテーマに取材し、
学んだことをアウトプットするプロセスの中で、
価値観に揺さぶりをかけ、生き方を探っていく、
その探っていく過程そのものに、
実はメディアとしての価値もあるのかもしれない。

感じたことを素直に書いていくこと。
それをアウトプットしていくこと。

それを繰り返すことで、
小さなメディアができていくのかもしれない。

「食」「農」の可能性を感じた1日でした。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:23Comments(0)学び

2017年02月10日

ヒューマン・スケールであるということ

明日は福島オーガニックフェスタの打ち合わせ。
そのタイミングで、この本。
いいかもしれない。


移行期的乱世の思考~「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか(平川克美 PHP)

2012年の1冊。
鋭い。実に鋭い。

経済成長って何か?
根本的に考えさせられる。

~~~ここから一部引用

設備投資し、生産を増やすと、消費が増える。
生産すればするほど、消費が増える、税収も上がる、
さらなる設備投資をする、その経済サイクルが成り立つと見抜いた。

持てる人が所得を今以上に上げたときに、
彼らはそれを何に使うのか。それが投資なんです。
つまり金で金を買うという行為に出る。

金融市場というのは、ただお金を流動させることだけが目的の市場なんですね。

持つということは、いつも失う危機感とセットなんです。

効率化とは、無駄を排除すること。

無駄をどんどん削った結果、見えてきたことは何か。
最終的に何が一番無駄なのか。
「それは時間だ」という結論に至ったわけです。

つまり、商品を作り、市場に出すという迂回路を通って利益を得る、
そのサイクル自体が無駄なのでは、と考えた。
そんな活動は抜きにして、直接お金でお金を得られないかとなったわけです。

その最後のフロンティアが地上ではなく、
コンピューターの中での金融ビジネスだった。

~~~ここまで引用

なるほど。
なるほど。
うなってしまうね。

金融ビジネスが最後のフロンティアだったのか。
それは暴走してしまうよなあと。

まだ第1章しか読んでないのだけど、
最後にキーワードが。

「ヒューマン・スケールであるということ」

うんうん。
オーガニックってそういうことだと思う。

僕は大学時代に有機農業研究会・STEP
というサークルをつくり、
生ごみをたい肥化して、野菜を育てていたのだけど。

そして、全国の有機農家や
自然農の実践者をひたすらめぐる旅を3年くらいしていたのだけど。

世の中では、
「有機農業」という言葉が独り歩きしていて、
有機農業とか言いながら、
その肥料は、中国から輸入した貝殻だったり。

有機って
有機物の肥料を使えばいいのか?
と激しく疑問に思った。

そのときに思ったのは、
「有機」とはつながっていることだと思った。

そして
「つながり」こそが幸せの実態だと思った。

そう。
地域で、目の見えるところで「循環」していること
それこそが価値であって、
有機肥料を使っているから価値があるわけでは決してない。

それを一言でいえば、
「ヒューマン・スケール」ということになるのかもしれない。

「オーガニックフェスタ」という「メディア」は
何を伝えるのか?

そんな問いを明日、投げかけてみようかなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)

2017年02月09日

「正しさ」への違和感

最近のトピック。

「正しさ」への違和感。

「バブル以前」と「バブル以降」と
世代をぶったぎるわけではないけれど、
そこに大きな隔たりがあるような気がしている。

僕が啓発系の環境NGOから手を引いたのも、
まさに「正しさ」への違和感だった。

自分たちは正しく、世の中は間違っている、あるいは狂っている。

その価値観。
それが多数派であれば、
それ以外の人たちは少数派「アウトロー」として外に追いやる。

http://hero.niiblo.jp/e483155.html
(20代の宿題 16.12.10)

の佐々木さんも言っているように、
上へ、でも、外へでもない
第3の道を探れ、と言っている。

これがおそらくはこれからの時代の
スタンダードになっていくのだろう。

「正しさ」など存在しない。

ミスチルの歌ではないけれど、
白と黒のあいだに無限のグレーが広がっているのだ。

その「正しさ」とは、
経済至上主義であり、学歴社会であり、
そこから紡がれてきた「社会の常識」だ。

「正しさ」への違和感を抱えながら、生きていく。
これはもはや必要不可欠なのだろうと思う。

「価値観の多様化」とはそういうことなのだろうと。

信念を持つことは素晴らしいと思う。
しかし、世の中は変わってしまったのだ。
いつまでも過去の「正しさ」を引きずってはならない。

その「正しさ」を捨て去ることができるか。
「もしかしたら」と他の要素が入ってくる余裕を持てるか。

それがないと、
これからの時代は非常に生きづらくなっていくのかもしれないな、と思った。

「シーナと一平」が言っていたけど
境界のデザインを意識して、コミュニケーションのきっかけになる
パブリックマインドを持ち得たとき、輪が広がる。

まさにそういうこと。
そんな境界をデザインして、
そこの生まれるコミュニケーションによって
生成される何か。

きっとそれこそが「場」の目的なのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 06:14Comments(0)学び

2017年02月08日

ポートフォリオ型就活の時代


「ポートフォリオをつくろう~新しい自己PRのための編集デザイン」(フィルムアート社)

読みました。
1時間で読めた。

まあ、ひとまず、ポートフォリオ型就活の時代が来そうだなと
思いました。

学生時代に自分がやってきたことを
組み立てて、編集して、ライティングして、意味づけして
それをファイルに畳んで、持っていく。
もちろん持っていかなくてもウェブ上でもいいのだけどね。

就職とか仕事をもらうとかって
そういう時代になってきてると思う。

僕も作らなきゃな、と。

さて。
この本を作り方ではなく、
いまなぜポートフォリオなのか、が書いてある本です。

でも、キーワードがたくさんあったので
メモしておきます。

~~~ここから引用

プロセスの作品化、という意識

相手を想定して自分のプロセスを組み立てていくパターンと、
自分が納得したプロセスを相手にわかってもらうようにするパターン。
どちらでもあり、どちらでもない。その間にこそ答えはあるのです。

他者のなかに入って自分を見てみる

無意識の意識化

ワークショップで重要なポイントは即興性と身体性

即興性と身体性を正しく含んだワークショップは、
無意識を意識化する経験をつくります。
同じようにポートフォリオもまた、
即興性とか身体性から導かれるリアリティやアウトプットてまきるツールなのだ

おもしろいことをしたいと願うのであれば、
社会に対して自分がおもしろいことができる人間であるとアピールしなければならない。

自分と社会とがどうかかわってきたか、
その固有の歴史性を編集した結果できあがる生産物なのです。

カメラを持って街を歩くと、いつもとは違う、場への意識が生じることがあります。

いかに、主体から経験を引き離して、対象化し、再構成していくか。
そのときに対象の再構成の仕方を左右するのが、
素材を加工するための道具、すなわち媒体です。

自分らしさを自分で決めない。

ポートフォリオなら、失敗談を修正力の具体例として示すことができる。

修正力をアピールする。

コミュニケーションはマッサージ。
触って押して、相手の中を動かしていく。

社会とは、市場+ソーシャル(価値やミッションをつくる)のこと。

コラボレーションとは、分担することではなく、越境的対話が起こるということ。

究極的には、ポートフォリオとは、
多様化する相手(社会)との接点をつくりながら、
変化する自分を発見するための装置なのです。

~~~ここまで引用

なるほど。
たぶんそうだな。

ポートフォリオ型就活、始まっているのかも。

まずは感性を信じて行動してみて、
たくさんの体験をして、
その体験を経験に昇華させ、

その経験を編集し、ポートフォリオ化する。

そんな関わったプロジェクトや
自分自身をも作品化すること。

それがこれからの就活、
というか人生なのかもしれないなと思いました。

ポートフォリオ型就活、始めませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:06Comments(0)就職

2017年02月07日

グローバルだからこそローカル。


「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)

グローバルとローカルの関係を
情報、ソーシャルメディアの観点から切りとった1冊。

僕は2011年にこの本を1度読んでいるのだけど、
6年たってから読み直すと、まったく違う世界がそこに広がっていた。

茨城大学でやっている「茨城学」でも、
グローバルとローカルについて、
言及されているけど、
この本のラストの章を読むと、
グローバルだからこそ、ローカルなんだな、と実感できる。

~~~以下一部引用

広告のクリエイティブディレクターとして
世界的に有名なアレクサンダー・ゲルマンは、
「ポストグローバル(グローバル以後)」
というコンセプトを提唱しています。

ゲルマンはもの凄くシンプルでミニマル(最小限)
なデザインのスタイルを1990年代に確立し、
そのシンプルな表現は国境を越えて、
多くの国の人に受け入れられてきたことから、
グローバリゼーション時代を象徴するデザインとして評価されてきました。

どの国の人にとっても、ゲルマンのデザインは
まるで自分の国の民族性を体現しているように受け止められたのです。

スウェーデン人はゲルマンのシンプルですっきりとした手法を北欧的と考え、(中略)
日本は繊細に洗練されて「間」の美学があるゲルマンは日本そのものだと考えました。

彼は、「魂に響くものなら、どんな文化とも共鳴し合える。
本当のグローバルとは画一化されて巨大化することではなく、
人間の根源的な部分で相通じることができるようになることだ」
と言っています。

グローバリゼーションの嫡子として新たなデザインを切りひらいたゲルマンは、
グローバル化された文化の突端まで行き着いたからこそ、
その先の「反転」を予測したということなのでしょう。

つまり、グローバル化したシステムでは、
情報の伝達は今までよりもずっと容易になる。
だからこそローカルカルチャーの重要性がいっそう高まっていくのだ、と。

~~~ここまで一部引用

このあと、この本は、
そんなことが本当に可能か?
文化の多様性が無くなって、
みんな単一の文化に飲み込まれるだけのではないか?

とマクドナルドを引き合いに出して、論じられます。
マクドナルドは高度なマニュアル化によって
世界中のどこにいても同じ味、同じ接客を受ける(理論上)ことができます。

しかし、日本の「身土不二」やイタリアの「スローフード」のように、
その土地で旬にとれた食材はその時間と空間の中でしか生まれない
唯一のものであって、それを消費する側の人たちがきちんと評価してこそ
食と人の良い関係が成り立つという考え方。つまりそこには「一回性」が
存在するわけです。

旬の食材を「いまこの瞬間にしか出会えない」と感謝しながらいただく。
それは日本の食文化の根幹にひそんでいる美学でもあります。

マクドナルドは、昨日も今日も明日も、
ここにくれば同じ味のハンバーガーが食べられるんだと再現性を信じている。
店の側もそれを保証している。

しかし、
「グローバリゼーション=一回性を否定したファストフード文化」
という考え方ではあまりにもステレオタイプで、

それを
SNSのような文化のグローバルプラットフォームが
文化の多様性をさらに高めてくれるだろうと佐々木さんは
モンゴル帝国時代を引き合いに出して、説明します。

白磁器に、青い染付。
中国では青花と呼ばれていて、それはモンゴル帝国時代にさかのぼり、
モンゴル帝国がつくりあげた文化的プラットフォームの賜物だと言います。

フェイスブックなどの「プラットフォーム」の定義は
1 圧倒的な市場支配力
2 つかいやすいインターフェイス
3 プラットフォーム上でプレイヤーが自由に活動できる許容力

の3つをモンゴル帝国も有していたそうです。

グローバリゼーションと画一化はイコールではないと
佐々木さんは言います。

多様性を許容するプラットフォームが確立していけば、
私たちの文化は多様性を保ったまま、
他の文化と融合して新たな文化を生み出すことができる。

その世界で新たなまだ見ぬ文化はキュレーションによって、
つねに再発見され続けていく。

こうして、これからの「文化」は生まれていく。

そうそう。
これ、そうだわ。

本とソーシャルメディア、
そしてプレイヤーのプラットフォーム

としての「本屋」っていうのが
文化発信の可能性に満ちていると
僕は感じました。

ツルハシブックス「劇団員」必読の1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)

2017年02月06日

一座建立


「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)

5年前に読んではいたのだけども、
佐々木俊尚月間を過ぎて2か月。
あらためて読んでみようかなと。

そしたら、やっぱり、
今でも色褪せない、シビれる感じだなあと。

今回のブログは
その中から、お茶の話を。

~~~ここから引用

「主客一体」という言葉があります。
禅に由来する言葉で、
客のおもてなしというのは
招くあるじが一方的に行うものではない。
招く側(ホスト)と招かれる客(ゲスト)が協力し、
ともに一体となってつくりあげるものであるという意味です。

そこではホストとゲストの間に、
その場で生み出される芸術に対する共鳴がなくてはならない。

お互いが共鳴し合ってこそ、
ホストとゲストがおもてなしの場を共有し、
一体感を感じ、素晴らしい芸術を生み出すことができる。

これを茶道の世界では、「一座建立」といいます。

(中略)

茶道の世界では、あるじと客が一体となってその場をつくる。
これが一座建立で、主客一体の理想のあり方だと考えられています。

欧米の伝統的な文化が
ホストとゲストの関係性を固定しているとされるのに対し、
日本古来の主客いったいではホストとゲストの関係は
常に対等で、共鳴によってお互いが協力していく。

客の側も「オレは客でござい」と威張るのではなく、
あるじが何を考え、どのような趣向を見せようとしているのかを
言葉にせずに察して、それに共鳴してふるまうような「客ぶり」が求められる。

(中略)

「日本文化がはぐくんできた、主客一体の相互コミュニケーションが
インターネットの場でも成立する可能性はあると思う。
というか、一部では成立していると思う。」

「インターネットがある程度価値観や興味を共有した人々をつなげるからだ。
ブログなどへのコメントやツイッターの呟きの連鎖の中には、
すでにこうした『主客一体』の関係が存在すると思う。」

「価値観や興味を共有」している人たち、つまりコンテキストを
共有している人たちの間では、たがいが共鳴によってつながり、
そこにエンゲージメントが生み出されるのです。

~~~ここまで引用

いいですね。
そうそう。
こういう感じ。

ツルハシブックスの「劇団員」
っていうのも、

「気がついたら私も、
本屋という舞台の、
共演者になっていました。」

というキャッチコピーも、
そんな世界を実現したいからではないかと思います。

「一期一会」という言葉や瞬間に終わるのではなく、

「一期一会」の空間と時間を共に作り上げていく、
そんな共演者たちが「エンゲージメント」していくような空間を、
本屋で目指したいのかもしれません。

一座建立。
いい言葉をいただきました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)

2017年02月01日

その本屋に来ることで好きになる

ヴィレッジヴァンガードの初期のイメージは
「立体BRUTUS」だったという。

そのストライクゾーン。
そんなふうに作ると、楽しいのだろうな。

もし、
これから本屋さんをやるとしたら、

あるいは、
米屋本屋であるとしたら、
そこに来た人にどうなってもらいたいか。

まちを好きになる。
みせを好きになる。
ひとを好きになる。

そして、人生が楽しくなる。

そんなプロセス。
それがいいかも。

それが本屋や米屋で始まったらいいなと思う。

よく、恋愛するには、
まず自分を好きにならなきゃいけないっていうけど、
それってそんなに簡単じゃないよね。

それってやっぱり
承認プロセスを登っていくことなのかもしれない。

1 親和的承認
2 集団的承認
3 一般的承認

「認められたいの正体~承認不安の時代」(山竹伸二 講談社現代新書)より

このプロセスをあがっていった先に
自信というか、自分を好きになるが待っているような気がする。

でも。
「まず好きになる」っていう方法があるんじゃないかと思う。

恋愛じゃなくて、
住んでいるまちだったり、
旅行でいったまちだったり、

そのまちをまず好きになること。
その店を好きになることから
はじまっていく。

その空間を好きになれば、
その空間を構成する人も好きになるのではないか。

そういうまちや店や人を好きな自分が
いることで、だんだんと好きになれるのかもしれない。

そんな本屋や米屋ができるんじゃないか。

まちを好きになる。
みせを好きになる。
ひとを好きになる。

そして自分の人生を好きになる。

そんなプロセスが始まる店を、
本屋を、本のある空間をつくりたいと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)思い