プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年03月30日

「問いを共有する」というチームづくり

鳥取から萩を目指す。

移動中に、ブログを更新し、facebookへ
シェアしていると、

僕にとって、学びの場づくりの同志、
濱ちゃんが島根県益田市へ
転居したとの情報をキャッチ。

えっ。
いま、益田に向かっているし。
ということで、運命的な再会。
大阪にいるときには会えなかったので、
3年近くぶりかなあ。

http://hero.niiblo.jp/e463632.html
「正しさ」より「対話」を(15.2.22)

http://hero.niiblo.jp/e466292.html
宣言すれば学校はできる(15.4.5)

http://hero.niiblo.jp/e466522.html
自立してはいけない(15.4.10)

ブログ検索で「濱ちゃん」って打つと
たくさんのブログがヒットする。
3年前、大きな衝撃を受けたことがわかる。

久しぶりの再会。
益田で食べるのは、
もちろん「ローメン」だ。(笑)


益田駅に程近い「豊味軒」


ローメン発見


これがローメンだ!


そして濱ちゃん

オランダ3か月修行の話をしてくれたし、
僕は水戸留学3年間の話をしていた。

そう。
子どもにとって「価値」は何か?
問い続けること。
それが学校の先生にずっと課せられ続ける課題である。

そしてその問いを共有すること。
それが学校がチームになるということであると思う。

「問いを共有すること」
それが出発点になる。

そんなランチを終えて、
いざ、萩・松陰神社へ。








いい感じの桜が咲いていた。

そして、吉田松陰先生の墓参り。


管理者のおじさんの掃除のタイミングにぶつかる。
門下生がこの墓を建てたのだと
自分たちはそれを伝えるためその17名の説明書きを
つけたのだと熱く説明してくれた。
そして、街中まで車に乗せてくれた。
いまでも、街の人の誇りになっているなあと。

伝説のゲストハウスrucoでひと休みした後、野山獄へ。
(ウチノ食堂の野呂くんが来たって言ってた。津屋崎に続きここにも!笑)









やっぱりここが僕にとっての聖地だ。
2004年春。

「小説・吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)
の野山獄エピソードに驚愕した。

「学びあいの仕組み作りによって、
たとえ獄中であっても希望を生むことができる」

「これだ!」と思った僕は、新潟から萩を目指した。

4月の頭。
朝、墓参りの帰り道、松陰神社の脇の道で、
ランドセルを背負った小学生の集団登校に出くわした。

その小学生たちに誓ったのだった。
「安心して大きくなっていい。
君たちが中学生高校生になるころには、
学びあいの場をつくり、希望は次々に生まれているだろう。

あれから14年が過ぎた。
萩にはまた桜が咲いていた。

松陰神社内、「至誠館」には、
留魂録が展示されている。

その中の四季の部分に胸が熱くなる
(深谷さんに借りた「松下村塾」を読みながら来ました)

~~~
以下引用
http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/ryukonroku.html
より

一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、
春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、
村々に歓声が満ち溢れるのだ。この収穫期を迎えて、
その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。

未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、
これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、
実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、
三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、
それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、
穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
(参考文献:古川薫著「吉田松陰 留魂録」)

~~~ここまで引用

四季のように人生を生き、そして死ぬ。
吉田松陰先生の死生観があらわされた一節だ。
死を覚悟した松陰先生が
門下生たちに伝えたかったメッセージ。

そういえば、
「至誠館」っていうのは、「死生観」と同じ音だ。

生きるっていうのは本来は、
誠を尽くすということなのだろうな。

あらためて、
松下村塾の基本スタイル「共に学ぼう」について考えた。

それは、
「問いを共有する」ということなのではないか。

それはもしかしたら「いかに生きるか」かという問いなのかもしれないし、
「価値は何か?」ということなのかもしれない。

それは決して
「幕府を倒し、外国に対抗しうる日本をつくる」
という目標だけではななかったのだろう。

松下村塾というチームには、
問いが共有されていた。

問いの共有、
それこそがパートナーシップの
出発点だと思った。
まさに「共に学ぼう」だ。

目標の共有では、
役割分担を生むだけだ。

問いの共有こそが、
互いにリスペクトし、パートナーシップを組み、
それぞれの力を発揮して、前に進んでいく力になるのではないか。

チームづくり、学びの場づくりにもっとも必要なのは、
それなのではないか。

松陰先生は問いかけた。
そして行動した。
いかに生きるか。
日本にとって何が価値か。

その「問いの共有」
こそが松下村塾を最強の学びの場にしたのではないか。

現代社会において、それをどう再現するのか。
ひとつの仮説は、それは本屋というプラットフォームによって
可能になるのかもしれないということだ。

「問いを共有」するための本、そして人。
地域資源を活用したプロジェクト。
地域企業と行うプロジェクト型のインターンシップ。

その入口に、本屋はなり得るのではないか。
僕がやりたいのは、そんな本屋だ。

14年も経ってしまいましたが、
またそんな場づくりにチャレンジします。

松陰先生、熱い風をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:16Comments(0)学び

2018年03月29日

地域に風を吹かせる男



鳥取砂丘。

高校3年の夏、鳥取大学農学部の遠山先生の本を
読んで、僕も砂漠を緑化したいと思って、
鳥取大学農学部を第一志望にして
受験勉強を開始しました。





憧れの鳥取大学農学部へ。

ランチは学生人材バンクの事務所から徒歩10分くらいの「更科」
の塩サバ重





未体験ゾーンに突入する味でした。



夜は惜しまれつつ閉店した「ホンバコ」でトークイベント。
タイトルは、僕らが学生を街に巻き込み続ける理由

中川玄洋さん(NPO法人学生人材バンク代表理事)が
15年ほど前に学生を農村部に送り込む的な活動から
始まった取り組みについて、話を聞いた。

出発点は、自分自身が
鳥取大学農学部時代にやっていた地域活動だった。

学生時代にバリバリ活動していた玄洋さんは、
地域のおっちゃんから、こんなことを言われる。

「ゲンちゃん卒業したら、こういうのって終わるよね?」

そう。
学生団体というのは、そんなふうになっている。

初代代表が卒業すると急速に衰退する。
2代目まで元気、3代目は初代代表を知らなかったり、
接点がなかったりするので、
急速に目的を失い、失速して4代目で消える。

ゲンちゃんは、そこに問題意識をもった。

地域の情報を学生に出し続けてはどうか。
ネット時代には、地域の学生も
タイムロス無しに情報を手に入れることができる。

その情報が信頼できるか否か。
自分自身がその毒見役になる。
そんな思いでスタートした。

それが、
2002年に始動し、学生を地域に送り続けている「農村16きっぷ」だ
http://nouson.wixsite.com/nouson16kippu

そんな事業を足掛かりに、
現在では、長期実践型インターンなど、
鳥取県内でさまざまなプロジェクトを仕掛けている。

参考」「NPO法人学生人材バンク」
https://www.jinzaibank.net/

すでに16年も活動している玄洋さんの活動の秘密に迫ってみることにする。

げんよーさんの学生団体マネジメントのコツ1「自然消滅を許さない」

ミーティングでは参加者、遅刻者を明記する。
「いい別れ方をしないと、その団体に戻ってこられないし、
ほかのところであった時に、気まずくなるから」
これ、すごく学生団体にとって大事だ。

大学生のモチベーションを保っていくこと。
活動するほうも活動をやめるほうも、
きっちりと参画し、きっちりとやめる。
途中でやめること自体は悪いことではない。

「決めた」ということだ。

今回、玄洋さんが鳥取でイベントやろうって
言ってくれたのは、僕のブログのこのところだった。

http://hero.niiblo.jp/e487085.html
「世の中には二種類のおじさんがいる」(18.3.6)

活動に始めるのもやめるのも、
「自分で決める」ということ。
そしてそれを表明すること。
「自然消滅」は許さない。

そうやって、「自分で考えて、自分で決める」
っていう人を育てているんだなと。

僕が思うに、
活動する学生のモチベーションは、
究極的には「学びがある」っていうことだと思う。
「学びたい」に応えてくれるプロジェクトを、「問い」を、必要としている。
その問いは答えがある問いより、ない問いのほうがいいのかもしれない。
そういう「問い」を設定することって大事だなと。

そして、もうひとつ。
げんよーさんの学生団体マネジメントのコツ2「居場所化させない」
学生にとってその団体、プロジェクトが「居場所」化してしまうと、新しいことが起こりにくくなる。
すると、「場」や「プロジェクト」を「消費する」存在となってしまう。
その反対側には「消費させられちゃう」学生がいる。

うわ。
これ、すごく共感だわ。
ツルハシブックス閉店のときに学んだこと。
「消費させられちゃう」のはやっぱりつらいもんね。

そういう現象を目にしたら、
玄洋さんは個別に対応して、
活動を離れさせたりするのだという。

さっきの「自然消滅」の話もそうだけど、
ミーティングの議事録をチェックして、
活動に参加していないな、っていう学生がいたら、
「最近どう?」って話を聞いてみるのだそう。

おいおい。
大学よりよっぽど学生をフォローしてるな、と。
玄洋さんには愛があるな、とすごく感じた。
後輩だからね、みんな。

さらに3つ目
げんよーさんの学生団体マネジメントのコツ3「学生の入れ替わりをデザインする」
大学生は、3,4年で入れ替わる。
そこをどう引き継いでいくか。

これはよく言われる「活動の継続性」という点では、
マイナスだが、プロジェクト的視点からすれば、
同じプロジェクトを違うメンバーで動かせるということなので、
そこに新鮮さと緊張感が生まれ、
地域にとってはプラスに作用することもある。

メンバーが入れ替わるということ。

それは、活動の目的、プロジェクトの目的を
問い直すいい機会となる。

「プロジェクト」の定義は
新たな価値を創出する有期性の業務のこと。
つまり、プロジェクトを設定するとは、
「顧客」「価値」「期限」を決めること。

おそらくはこれを少なくとも毎年、
可能なら半年、または3か月に1度、
メンバーで考えることが大切なのだろうと思った。
そういえば、ツルハシブックスの「店員サムライ」制度は
半年に1度、それをやっていたっけ。

最後に、質疑応答で出た質問への答えに、
僕は玄洋さんの魅力を見た。

Q「たとえば「泥団子づくり」のような、世間的には「価値がない」
と思われていることに熱中している子には、どう声をかけますか?

それに対して、玄洋さんは言った。

「なぜ、それが好きなのか?」と問いかける、と。
そして、その価値をメタ的に見ること。
すると、次のステップが見えてくるかもしれない、と。

玄洋さんの好奇心がその一言に集約されていた。
みんな、「可能性を引き出す」って難しく言うけど、
そんな大したことじゃないな、と。

「なぜ、それが好きなのか?」と問うことができる好奇心を持つこと。
意外に、それだけかも、と。

好奇心と愛にあふれた玄洋さんに触れて、
僕もなんだかとてもうれしい気持ちになった。

「地域に風を吹かせる男」

げんよーさんがネイティブアメリカンのホーリーネームを授かるとしたら、きっとこんな感じだ。
大学生が入り込む地域プロジェクトをデザインしてゆるくマネジメントしていく。
大学生そのものが「風」だ。

そして鳥取には、今日も風が吹いているし、明日も違う風が吹く。

またきますね、玄洋さん。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)

2018年03月26日

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ

八戸・デーリー東北新聞社で
「偶然が起こる場のつくり方」
というテーマでイベントを行いました。

まず第1部はまわしよみ新聞。
木曜日に陸奥さんに直伝してもらった
まわしよみ新聞を実践しました。
陸奥さんのようなゆるい司会できなかったな~。

後半のテーマは
偶然が起こる場のつくり方。

ツルハシブックスやハックツの事例を出しながら、
八戸のまちに必要なメディアとしての場
について検討した。

高校生とか若い人にもっと何かやってほしいという
思いは、多くの大人の中にあるようだった。

そういうまちって
きっとあるのだろうな。

若者が何かに出会ったり、
何かを始めたりするプラットフォームをつくる
そういう機能を果たすのが、
駅やバスターミナルの近くの本屋であるのかもしれない。

そういうのを部活感覚でできないか、
というのが、僕のイメージ。

ツルハシブックスにも屋台があったけど、
そういう小さなチャレンジが連鎖するような、
そういう場をつくること、かなと。

「本」っていうのは、
コミュニケーション・ツールとして、
非常に有効であると思う。

僕は「本屋」そのものがメディアであると思っているし、
ヴィレッジヴァンガード郡山アティ店の店長に言われた
「郡山にカフェを作ろうと思っているんです」
という一言こそが僕を本屋に導いたと思っている。

「偶然」が起こり、「運命」的に出会い、
「プロジェクト」に参加する。

この「プロジェクト」という
考え方も重要だと思う。

「プロジェクト」の定義は
新たな価値を創造するための有期性の業務
のこと。

「新たな価値」「創造する」「期限のある」
これがキーワード

「プロジェクト」と「コミュニティ」は目的が違うのだ。
コミュニティは、どちらかというと、居場所機能を果たし、
長く続いていくことが大切だ。

たぶん。
この2つをうまく組み合わせていくというか、
そういう場所をつくること。

コミュニティになりきらない、
プロジェクトのようなドライな関係だけでもない、

そんな関係性が地元にあったら、
高校生たちにとっての「ふるさと」をつくれるのではないか。

川喜田二郎が著書「創造性とは何か」(洋伝社新書)で
ふるさと定義している。

「ふるさと」とは、子どもから大人になる途中で、
子どもながらに全力傾注で創造的行為を行ない、
それをいくつか達成した、そういう達成体験が累積した場所だから、
「ふるさと」になったのだということである。

ベクトルの矢印は「過去←」ではなく
「→未来」という矢印が累積したところが
いつまでも離れがたいふるさとになったということである。

そう。
だから、若者が地方に帰ってこない、と嘆くだけでなく、

若者にとって全力傾注できる「創造的行為」の場を
つくっていくことが地域のカギになる。
そのうち、わかりやすいのがアートの領域だろう。

でも、僕はビジネスの領域でもそれは可能だと思う。
たとえば、八戸の有名な館鼻岸壁朝市に店を出店してみるとか。

そういうやつ。
そんな「プロジェクト」が始まる場所、
それを本屋ができるのではないかと思っている。

さてさて。
僕も新潟でそんな場所をつくろうと思う。

また来ます、八戸。  

Posted by ニシダタクジ at 06:50Comments(0)イベント

2018年03月24日

人生を「個人戦」から「チーム戦」にする

話題の「喫茶ランドリー」
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000030634.html

1階づくりはまちづくりという
株式会社グランドレベル(名前がいい)が企画。
ランドリーを地域の核に置いている。

昨日は、コクリエドリンクス
テーマは「パラレルキャリア」。
株式会社えぽっくの若松さんの
パラレルキャリアの話から。

若松さんは研究者を志して大学に進学したが、
何年かかるかわからない研究をするよりも
目の前の現実を変えたい、とビジネスの分野に
飛び込むことにする。

新卒の時の会社選びの視点は、
・創業5年以内
・社員50人以内
・市場が伸びている

ということで
マーケティング会社に入る。

そして、NPO法人ETIC.が提供する
地域を舞台に若手社会人が研修するプログラムなど
さまざまなことを仕事と並行しながら行う。

のち、人材育成の分野に興味を持って転職。

人生100年時代
就業期間>産業寿命
複数のコミュニティ
スキルのかけ合わせ

など、パラレルキャリアが必要な理由を語った。

いま、株式会社えぽっくでは、
「パラレルプロジェクト」という新規事業を
立ち上げ中で、そこには僕も参画している。

後半のワークショップは、
実際に「パラレルプロジェクト」を考えてみる
というワークを行った。

お題はクリーニング専科という
クリーニング店が展開するコインランドリー事業の企画。

大学の近くにあるコインランドリーを
どのように魅力化するか。
4チームに分かれて検討した。

ポイントは、「価値は何か?」というところ。
当然、そこには
「顧客はだれか?」という問いが含まれているのだけど。

ただ単にブレストをして、
アイデアを出して終わりにするのではなくて、
その企画の価値はなにか?問いかける。

プレゼンタイム。
ビックリするような企画がたくさん出た。

印象に残ったのは、
「大学2年生をターゲットにする」
という企画と「卓球台付ランドリー」
かな。

みんなランドリーで誰かと出会い
仲良くなるような企画を提案していた。

そう。
コインランドリーは地域のプラットフォームになりうる。

そんな予感がした。
高齢化した田舎こそ、もしかしたら
コインランドリーが地域の核になるのかもしれないなと。

そこに小さなスーパー(コンビニ)
などがあったり、お茶を飲み、休憩できる場所がある
とすれば、そこが地域の核になるし、
うまくいけば、運営自体を自治会がやるというのも
ありえなくないと思った。

あと、大学2年生でサークルに入っていない人を
ターゲットにしたイベントは面白いかもしれないなと思った。

卓球付きランドリーはめちゃ面白かった。
夜はバーになって、秘密の扉を開けて入る
っていうのもよかった。

こうやって、キカクカイギするのって
楽しいよなあって思った。

昨日も就活についての話になったけど、
やっぱり根本的に、人生というかキャリアを「個人戦」で
考えるのはちょっと違うような気がするんだよね

昨日みたいにワークショップすれば、
アイデアがどんどん出てくるのだから、
もっとチーム戦で考えたらいい。

個人ひとりでやる仕事なんて
ほとんどないのだから。

そんな文化をつくる意味も
「パラレルプロジェクト」にはあるのかもしれないなと
思った。

※パラレルプロジェクトでは、参画者を募集しています。
お問い合わせください。  

Posted by ニシダタクジ at 09:10Comments(0)イベント

2018年03月23日

ノーファシリテーション!~「まわしよみ新聞」の魅力

開発者の陸奥賢さん直伝!
茨城新聞でまわしよみ新聞!
@コミュニティスペースcocoon@常陸多賀
でした。


こんな感じ。


18歳の高校生からおじさんまでが集まりました。


陸奥さん直伝中


かっこいいムツサトシ/観光家・コモンズデザイナー


陸奥さんが書いたまわしよみ新聞の見本

まわしよみ新聞について詳しくはこちらから
http://www.mawashiyomishinbun.info/

作り方はこちらから。
http://www.mawashiyomishinbun.info/manual/

今回は、陸奥さんが茨城県に来られるということで、
僕も直伝されにいってきました。

準備するもの:新聞、はさみ、四つ切画用紙、のり、プロッキー(色ペン)

1 新聞(茨城新聞1か月分)を用意する
2 新聞を読み、「気になる」「おもろい」「なんだこれ」を切り抜く
3 1人1記事ずつ、記事の概要となぜその記事を選んだのか語る、そして雑談する
4 4つ切り画用紙に張り付けて、コメントを書き込む。

できあがった新聞を見て、
陸奥さんもいっていたけど、
「あたたかみがある」って。

そうそう。たしかに、色とりどりのコメントを読んでいる
だけで楽しくなってくる。

あと、最後に編集して1枚の新聞にするときに
編集力とパラレル思考が鍛えられるなと

今回主催した
「ローカル・パラレルキャリア・ラボ」的にも
なかなかありだなと。

「まわりよみ新聞」は
総合コミュニケーションツールになっているなと
あらためて思う。

そしてすごいなあと思ったのは、
ワークショップでありながら、
「ノーテーマで、ノーファシリテーション」であるということ。

通常のワークショップには、テーマがあり、
ファシリテーター(役)が配置されることが多い。

ところが、
まわしよみ新聞は、全員が同じだけ新聞を読み、
1人1人順番に1記事ずつプレゼンしていくことによって
1人が同じだけしゃべれる。

そしてこれは陸奥さんが解説してくれたんだけど、
後半の編集して、1つの新聞をつくるというのは、
同じ作業(手を動かす)を同時に行うという
ノンバーバル(非言語)コミュニケーションが
行われているのだ。

これ、やっぱすごいことだなと。

短時間で「チューニング」するツールとしては、
とってもいい時間になるなと思う。

25日に青森・八戸で「デーリー東北新聞社」さんと
やってみるのだけど、これは何度もやっていくと、
とてもいいチームができていくような気がする。

何よりも、
僕が「キャリアドリフト」文脈で言っている、
(今回のパラレルキャリアプロジェクトもそう)

「オープンマインド」(心を開く)
「価値観をチューニングする」
「偶然をつかむ」

が「まわしよみ新聞」には
要素として含まれているんだなと。

これを教育現場などでやったら、
子どもたちは気づかずに、
「キャリアドリフト」という手法を体験することに
なっているのかもしれない。

そういう意味では、
まわしよみ新聞のインパクトはとても大きいなと思った。

地域のまちづくりのミーティングみたいなやつとか、
まずは「まわしよみ新聞」でチューニングしたほうがいいと思う。

大学生の地域づくりの入り口としても
めちゃめちゃいいなと。

おそるべきはノーファシリテーション。
つまり、誰も場をホールドしなくてもできるということ。

そんな自由な空間から、生まれてくる何かがある、
そんな風に強く思った夜だった。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)学び

2018年03月22日

最終講義



イベント「最終講義」でした。
佐川さん、深谷さん、お寿司差し入れ
ありがとうございました。
楽しいトークイベントになりました。

深谷さんから冊子を1冊いただきました。
吉田松陰先生の「水戸留学」の詳細が書いてあります。

今朝はそんな冊子を読みながら電車にのってきました。

「水戸留学」で学んだことはたくさんあるのだけど、
これから作っていきたいのは、

「学びあいの仕組みづくりで希望を生む」
っていうのを基本に、
問いを投げかけていきたいなと。

昨日もキーワードになった
「他者評価の檻を脱出する」
っていうこと。

質問で出た、
自己評価と他者評価についてのコメントが
なかなか考えさせられて。

自己評価と他者評価を対立概念で
考えないことっていう話が印象に残った。
他者評価は自己評価のひとつの指標にすぎないっていうこと

あとは、そもそも「評価」っていう言葉が
しっくりこない、みたいな。
たしかに、そうかもね。

「評価」っていうのは、
「価値」を生み出したのか?
によって測られるものだと思うし、

その「価値」は、
「経済的価値(つまりお金)」だったり、「動員数」だったり、
あるいは「他者から褒められる」っていうことなんですよ。

で、その多くが、「一元化」されているってういうのが
「学校的価値」なんだよね、きっと。

だから、「他者評価の檻を脱出する」というのは、
「学校的価値」を相対化するというか、
「そういうのもあるよね」的に見られるかどうか、なのではないかなと思う。

僕がそんなことを考えているときに思ったのは、
「就職」とか、「就活」とかって
「旅」や「読書」と同じく、学びの場、機会の選択に過ぎない
っていうこと。

だから、もっと、
フラットに、就職について考えて、就活をできたらいいなあと思う。

「就職」をもっと、
「パートナーシップ契約」にしていかないといけないと思う。
ひとまず数年、会社とパートナーシップ契約を結ぶ。
そこは全力でコミットします、みたいな。
そんなふうな文化をつくっていけたらいいなと思う。

「パートナーシップ」こそが
足し算ではなく、掛け算を生んでいく。
その先に「価値」があると僕は思っている。

そんな「価値」を共に
問いかけられる仲間と仕事がしたいなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 07:55Comments(0)イベント

2018年03月20日

「水戸留学」を終え、フリーランスの現代美術家になります



北茨城市五浦・天心遺跡・六角堂。
明治初期を駆け抜けた美術思想家、岡倉天心。

西洋一辺倒ではない、
東洋的価値があるはずだと。
アジアは、世界はひとつだと。

西洋も東洋もなく、
「まずは茶でも一杯飲もうじゃないか」
と語りかける「茶の本」。
僕の「水戸留学」の出発点がここでした。

太平洋に向かって、
Asia is One と表現した遺跡。
(まあ、仮説ですが)

「ひとつであるということ」(15.10.2)
http://hero.niiblo.jp/e473277.html

そして、何より心に残っているのは、
現代美術家の北澤潤さんとの出会い。

「リビングルーム」と名づけられた場を
つくっていた北澤さんにお会いして、
「デザイン」と「アート」の違いについて、話を聞いた。

「当たり前を揺るがすこと」(15.10.3)
http://hero.niiblo.jp/e473298.html

そして、2015年の末、
REVENDELの熊澤さんに出会い、
2016年4月に茅ヶ崎市美術館でハックツ展
(あなたが未来に託す「想い」展)を開催

アートとは「問い」を灯すことで、仕事とは「手紙」を届けること(16.4.16)
http://hero.niiblo.jp/e478527.html

2016年の後半は、
ツルハシブックス閉店へと向かっていった。

そんな中で出会った本が
「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

「まるでCDのコンピレーションアルバムのように」(16.10.24)
http://hero.niiblo.jp/e482541.html

このときに書いてある「3号室プロジェクト」が
2017年4月オープンの新城劇場になり、

出会ったのは「チューニング」という概念と
「余白おじさん」という肩書。

「ミーティング」とは感性をチューニングすること(17.4.23)
http://hero.niiblo.jp/e484576.html
「余白おじさん」(17.5.14)
http://hero.niiblo.jp/e484767.html

最近は、多治見の本屋プロジェクトなどでの
チューニング付のワークショップ「キカクカイギ」
が楽しいです。

無目的性と多目的性のあいだ(18.2.19)
http://hero.niiblo.jp/e486995.html

本日、3月20日は、
ツルハシブックスの7歳の誕生日です。


2002年発行の本「劇場としての書店」(福島聡 新評論)

引っ越しのため本を整理していたら見つけました。
ツルハシブックスの10年前に、
すでに劇場としての本屋というコンセプトはあったんだなあと。

この3月をもって
「水戸留学」を終え、拠点を新潟に移します。
次の仕事は?と、聞かれるのだけど、
ひとまず、現代美術家として、やっていこうかなと思っています。(謎)

そんな不思議なおじさんが
世の中にいてもいいのではないかと。

チューニングのあるミーティング、キカクカイギを重ねながら、
「顧客は誰か?」「顧客にとって価値は何か?」
という問いに挑んでいくようなチーム作りをしたり、
新潟で新刊書店を復活させたり、

学校的価値一辺倒の社会でいいのか?っていう
問いを投げかけるような教育系のプロジェクトを
スタートさせていこうと思います。

デザインとは、課題を解決すること
アートとは、問いを投げかけること
ビジネスとは、価値を生み出し、買ってもらうこと

そんなデザインとアートとビジネスのあいだを
つくる、あいまいな存在でありたいと思います。

僕の出発点は、(いくつもあるけど)
29歳の時に読んだ「小説・吉田松陰」
の野山獄でのエピソードでした。

獄中にありながら、囚人同士で俳句や書道を学びあい、自らは孟子の講義をした。
すると、みるみると皆の顔が明るくなっていったということです。
「共に学ぼう」という松下村塾の出発点がここにあります。

僕はこのエピソードを読んで、
「学びあいで希望は生まれる」ということを知りました。

獄中のような世の中(言い過ぎ)で、
希望を生んでいく一つの方法が、
学びあいの仕組みをつくる、ということで、
そのうちのアウトプットの一つが、
「ツルハシブックス」だったのだろうと思います。

思えば、人生最高の朝ごはんをやっている「まきどき村」も
「豊かさとは何か?」という問いに対してのアプトプットでした。
そういう意味では、
この20年、現代美術家的に生きているのかもしれません。

2018年4月から、
フリーランスの現代美術家になりますので、
各地のみなさんと「問い」を投げかけるプロジェクトを
ご一緒できればと思います。

ツルハシブックスさん、誕生日おめでとうございます!(笑)  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2018年03月16日

創造的な「問い」からはじまる

「挑戦」という言葉があまり好きじゃない。
だって、挑むと戦うですよ。
「成長」っていうのもいまいちピンとこない。
長くなるってどういうことだ。

まあ、おいといて。

好きな言葉。

好奇心
偶然
実験

そういうやつ。


東大教養学部「考える力」の教室(宮澤正憲 ソフトバンククリエイティブ)

こういう本が好きなんですよ。(笑)

「受験勉強は正解のある問いに1人で挑むものだが、
99%の仕事は、正解のない問いにみんなで挑むスタイルで進めている。」

こんな冒頭から始まります。

そうそう。
だからさ、自信とか不要なんですよ。
本来は。

アウトプットするのはチームや場の力だから。
個人の力は必要ないわけじゃないけど、
個人の力だけでアウトプットする必要はない。

この本にもいろいろインスパイアされました。

~~~ここからメモ

改善するほど、自社とライバル社の商品に差異がほとんどなくなる

「解析」:事物の構成要素を細かく理論的に調べることによって、その本質を明らかにすること
「解釈」:物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること
現状の人工知能が得意なのは「解析」の領域です。
一方、解析した情報を「解釈」することは、人間が得意な領域といえるでしょう

わかりやすくいえば、人工知能が得意なのは「ゴールが明確」な分野です。
囲碁や将棋の世界では、人工知能とプロが対戦し、
人間のプロが歯が立たないというところまできています。
これは、囲碁や将棋のルールが決まっていて、「勝つ」という目的が明確なためといえます

このことから推測すると、「ゴールが明確な仕事」は
いずれ人工知能に取って代わられる可能性が高いということです。
逆にいえばゴールが明確でないもの、複数の目的が同居しているもの、
異なる領域に横断するものといったジャンルは、
必ずしも人工知能が得意な分野ではありません。

コンセプトがないと、課題に1対1に対応した解決を図ろうとしてしまうのです。
しかし、競合他社も概ね同じ課題を持っており、その結果、解決アイデアも似たものになりがちです。

コンセプトが差別化できていれば、その段階で他と考えが似ていないだけでなく、
そこからさらにもう一段階解決策アイデアがジャンプすることができます。
そうなれば、最終的なアウトプットが同質化することは少なくなるのです。

リボン思考(参考)
http://www.hakuhodo.co.jp/archives/column/34495

3つのK。共有力、期待力、起点力。

考える、とは、そもそも何をすることか。
俯瞰する、分類する、掘り下げる、混合する
これらの組み合わせ。

~~~ここまで引用メモ

なるほど。
人工知能の得意とする分野は「解析」か。
なるほどね。

そして、インプットを一度「コンセプト」としてまとめてから、
アウトプットするというのは本当に重要だなと思った。

KJ法的なアプローチで陥りがちなのは、
課題に対して1対1で対応するアクションを考えてしまうこと。

それは本当に課題なのか?と、
問いかけつつ、それらを横断した
コンセプトをつくることが大切なのだなと。

クライマックスは、「デザイン思考」についての言及。
これが鋭かったのです。

~~~ここからさらに引用

デザイン思考は、新しいものを生み出すプロセスとして、
デザイナーの思考に注目してそれを定型化したものです。

つまり
「デザイナーの思考方法を、デザイナーでない人も使えるようにした思考」
であり、
「新しいことを生み出すために創造的に課題解決する思考」といえます。

デザイン思考がビジネスの現場で一般的になるにつれ、
新たな課題も見えてきました。

1つめが「形骸化し、同質化が起こり始めている」ということ。
デザイン思考のプロセスがやや定型化しすぎて受け止められている。
デザイン思考という「思想」ではなく、「手法」が重要視(目的化)されて
しまっている。


2つめは「デザイン思考では、課題解決の域を出ないこともある」ということ。

デザイナーは、「創造的な解決策を提示する思考を行う人」で
可能性を理解し、可能性を活用する人

それに対しアーティストは、
「創造的な問いを発する思考を行う人」といえます。
新しい方向性を探索し、可能性を見出す人です。
アーティストは必ずしも解決策を提示しません。

アーティストがなぜ現状の延長線上にないアイデアを
生み出すことができるのでしょうか?

それは、解決策という目の前の制約がないからです。
その分自由に枠外のことを発想し、結果、課題そのものを
見直す力を持つことがあります。
このアーティストの思考を形式知化したものが「アート思考」です。

・創造的な「解決策」を提示するデザイン思考
→現状に比較的近い領域にある新しいアイデアが出てくる可能性がある

・創造的な「問い」を発するアート思考
→現状の延長線とは全然違う領域で新しいアイデアが出てくる可能性がある。

ということを踏まえて、

リボン思考とは、

プロセスの固定化を起こさないために、
「自由度の高い最低限のフレームを用意すること」

最初の課題設定で枠外の発想を可能にするために、
「創造的な問いからスタートすること」
情報のクオリティを高めるために、
「インプット手法の創造性を重視すること」
アイデアの同質化を起こさないために、
「コンセプトという集約行為を大切にすること」
1人の能力の限界を大幅に超えるために
「チームでの共創を基本とすること」

の5つを重視している。

~~~ここまで引用

な、なるほど~
最後の5か条はめっちゃ共感します。
「問い」が大切なのですよ。
すべて「問い」から始まるのです。

問いから始まって、
いろんなドアを開けていくのだなあと。

その原動力は
好奇心じゃないかなあ。

「学びたい」っていうのは、そもそも、
「何ができるのか知りたい」っていう好奇心
なのではないかな。

好奇心、
偶然、
実験。

この3つを大切にしながら、次のステージに進みましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)

2018年03月15日

これからの「地域メディア」をつくる

川崎市・武蔵新城駅前の「新城劇場」が
「shinjo gekijo」にリニューアル中。

地元産野菜を使ったクレープとジェラートの「Revegee」、
本屋の後をつぐ「よりみちブックス」、
大学生4人で立ち上げた「出会えるラジオ、まるラジ」

の3つが1つの建物を分け合うようになる。
(6月オープン予定で進行中)

そんな中で、
まるラジがクラウドファンディングに挑戦中。

https://camp-fire.jp/updates/view/48907
未来に悩む若者のために、フリーペーパー『まるラジおとな図鑑』を作りたい!

たぶん、この場所が
これからの地域メディアの実験場になっていくのだろうと思う。

http://hero.niiblo.jp/e486304.html
メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)

http://hero.niiblo.jp/e486326.html
本屋というメディアをつくる(17.11.20)



ふたたび、「MEDIA MAKERS」から引用するけど、

~~~以下引用

何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。

Media型:送信者1 VS 受信者N ヤフーニュース等
Tool型:送信者N VS 受信者1 G-mail等
Community型:送信者N VS 受信者N フェイスブック等

メディアの影響力の本質
メディアで語られる=生きた証が記憶されるということ
メディアの価値「予言の自己実現能力」

これまでは、さまざまなビジネス上の
生態系をもとに産業の垣根ができていたわけですが、
クラウドのインフラ上では、あらゆる境界線が溶けてなくなりつつあります。
そんな状況では、メディア企業と事業会社や広告主の境界線も消滅しつつあります。

さらに、プロとアマチュアの境界線も、
例えば、大学と書店とコンサルティング会社とビジネス・カンファレンス業と、
専門出版社の境目すら消えつつあるわけです。
知識を売る、という意味では、大学も書店も、
コンサルティング会社も全てフラットに同一平面上に並ぶわけです。

そして、徹底的にアンバンドリングが進んだ後には、
これまでとは違ったメディア環境が広がり、
アンバンドルされたものがまた別の視点から
パッケージングされ、リワイヤリングされているのではないでしょうか?

その際の主役となるプレイヤーは誰でしょうか?
私の仮説では、それは個人です。

雑誌がオーケストラなら、メルマガはロックバンド。

~~~ここまで引用

そうそう。
境界線が溶けてなくなっている現在において、
主役となるプレイヤーは、「個人」であって、
その「個人」には大学生もなりうるということ。

「何かを伝えたい、という発信者の思いがあるときに、
それを伝達する「媒体・媒質」となるものこそが
語源本来の意味でのメディアの定義。

メディアとは、そこに情報の送り手と受け手の
二者が存在し、その間を仲介し、両者間において、
コミュニケーションを成立させることを目的とするものである。」

最近、新刊書店をやっぱりやりたいなあと思うのは、
メディアの力が予言の自己実現能力だとすれば、

新刊書店っていうのは、
まさにそういう場だし、
僕がヴィレッジヴァンガード郡山アティ店で感じたのは
まさにそれだった。

http://hero.niiblo.jp/e337058.html
「本屋という双方向メディアの可能性」(14.1.17)

大学生が地域メディアのプレイヤーになる。
たぶん、まるラジはそういう実験なのだろうと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:46Comments(0)

2018年03月14日

ルーツと価値観を開示すること

「思えば、あれが私の出発点でした」ワーク。

僕が武蔵新城で編み出した
チームビルディング手法。

遠い目をしながら、
「思えば、あれが私の出発点でした。」
と言って、終わるというもの。

チームビルディングのポイントは
「自己開示」、つまりオープンマインドである。

ミーティングで
「アイスブレイク」、「チェックイン」
と呼ばれるものをするのはその理由である。

僕の中での定番は
・出身地とご当地自慢
・最近(または24時間以内に)あったよかったこと

これをすべてのミーティングの前に
やったほうがいいと思う。
議題から始まるミーティングをやってはいけないと思う。

ミーティングの目的が、
「情報共有」ではなく、「新しいものを生み出す」
ことであるならば。

それって、メタ的に言えば、
「ルーツ」と「価値観」の開示と共有
なのだと思う。

物語風に言えば、
「あなたはどこから来て、何に価値を感じるのか」
っていうこと。
どこへ行くのか?
という方向性にも価値観は影響してくる。

だれと行くのか?も価値観が重要だよね。

ここで重要なのは、
価値観を「共有」する必要はあるけど
価値観を「一致」させる必要はないということ。

チームというのは、異なる価値観を持つ人が集まり、
これまでにないアウトプットを出していくためにある。

だから、価値観を一致させるのではなく、
共有し、ベクトルの和を増やしていくこと。

そんなときに有効なワークが冒頭の
「思えば、あれが私の出発点でした。」
だ。

これはある程度顔を合わせて時間がたってからやると有効なのだけど
(1泊2日の合宿でいえば1日目の終わりとか)

みんなが遠い目で
「思えばあれが私の出発点でした」で
締める物語を語るのだ。

これって、演劇的手法なのかな。
なんか、すごい盛り上がったんだよね。

いまでも武蔵新城でやったときの
すずちゃんのやつ、覚えているからなあ。

ルーツと価値観を共有するには
素晴らしい手法だと思います。

やってみませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)チーム

2018年03月13日

探しもの


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

読み終わりました。
ラストに近づくほどいろんなものが見えてきます。

僕がヒットしたのは、
文明と文化について。

~~~以下引用

文明は人間が自分の外側に作り出したある仕組みで、
私たちを豊かにし、便利にし、快適にするものとして作られた。
それは常に更新されるもので、
効率と雇用とお金を生み出すはずだったんです。

文化というのは人間が自分たちの内部に育ててきた仕組み。
それは私たちの歴史と共に歩んで、私たちの生命を守り、生活を支えてきた。
場所に依存して、風土に寄り添い、そこで常に伝えられるものとして意味があったんです。

文明はここ数十年、
長く見ても数百年くらいに人間が勝手に作り出したもので、
それよりもずっと長い文化の歴史があったのに、
文明によって世界全体を覆おうとする動きのほうにみんな来ちゃったんですよね

人間はメカニズムとして機械論的に世界を因果関係で説明できるとみなして、
それを作っているパーツを制御したり交換すればコントロール下におけると考え始めた。
その源流はフェルメールの時代、1600年代にある。
その頃はまだ世界はよくわからない動的なもので、科学と芸術はそれほど分化していなかった

レーウェンフックやデカルト的なほうを選んじゃったのは、
そのほうが資本主義社会に親和的だったからだと思うんです。
分けて部品化して商品化されていくという流れで。

~~~ここまで引用

なるほど。
生物学と社会も密接につながっているんだなって。

「社交する人間」(山崎正和)を思い出した。

http://hero.niiblo.jp/e484451.html
「アルスの終焉」(17.4.7)

かつて、「アルス」と呼ばれて、
芸術と技術と社交は一体であった。

「資本主義社会との親和性」
という言葉が胸に刺さる。

ダーウィンが言うように、
人間(動物)は「適応」する生き物である。

人間にとって、
「世界」が「資本主義社会」で覆われているとすれば、
そこに適応したビジネス、そして学者が生き残っていく。
それの集合体を「文明」と呼ぶんだな。

そこに適応していなくても、
コミュニティには、「文化」がある。
その価値をもう一度見つめなおすときに来ているのだろうな。

福岡さんが、こんな言葉を残している。

生物学者としての私の問いは、
「生命とは何か」を言い表す言葉を探す
ということに尽きると思うのです。

これをビジネスマンに置き換えたらどうだろうか。
「ビジネスとは何か」を言い表す言葉を探す、
ということに尽きる。

ということだ。

本屋だったら、本屋とは何か?
に答えていくこと。

僕にとってまきどき村とは、
「豊かさとは何か?」という問いに対して
リアルに見せたかったという「アルス」
だったんだろうなと。

さて。
次の本屋はどんな「アルス」になるのだろうか。

何を探しに行くのだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2018年03月11日

無力感とコミュニケーション

「27歳にとって、
東日本大震災は大きな転換点だった。」

1990年生まれ。
20歳の時に震災があった。

そういえば、僕ら世代である、1974年生まれは、
成人の日の直後に阪神大震災があり、
新潟に住んでいた僕は、
30歳の時に中越地震があった。

すぐそこにある死。
なぜ、生きるのかという問い。
「生きる」を見つめなおしたと言う。

僕自身は「震災ボランティア」というか、
「ボランティア」というのに参加したのが
2004年が初めてだったように思う。

http://hero.niiblo.jp/e471369.html
「計画通り」じゃないことに価値がある(15.8.5)

圧倒的な無力感。

これが僕の震災ボランティアで得たことだ。
水道が出ない、ガスが出ないなどの状況の中で、
僕は子どもの心のケア部門に入った。

家の片づけなどで
子どもの面倒を見られない親に代わって
大学生ボランティアと一緒に遊ぶ。
あっという間に夕方の集合時間となる。

「明日もまた来てくれるのか?」
と聞かれる。

帰りの車に向かって、
子どもたちが追いかけて走ってくる。

無言。
車内には何とも言えない空気が残る。

僕はただただ、無力を感じていた。
「この活動は果たして意味があるのか」
「子どもの心のケアに本当につながっているのか」
と、答えの出ない問いと向き合っていた。

あと、もうひとつ感じたのは、
「災害ボランティアセンター」というシステムへの疑問。

災害ボランティアセンターは、
ニーズに対して最高速で応えるシステムを
作り上げていた。

家のがれきの撤去をお願いしたいので
3名くらいお願いしたい。
という要望が出されたら、
「力のある方3名、いらっしゃいませんか?」
と手を挙げ、現場に行く。
その繰り返し。

そこには当然ながら次のような課題が発生する。
「ニーズを上げられない人はどうするのか?」

たとえば、ホールアース自然学校が
やっていた子どもの心のケアボランティアは、
「3日以上」の「連続で」入れる人が
リーダーとする、と厳密に決まっていた。

それはこれまでの経験から、
子どもにとっては、同じ人が一人でもいたほうが
打ち解けやすいということからだった。

これは想像するにその通りだろうと思う。
今日はこのお兄ちゃんと、明日は別のお姉ちゃんと、
ということになると、目に見えないストレスがあるだろうと
いうことだった。

しかし、子どもはニーズを挙げない。
「できることなら、3日間同じお兄ちゃんが遊んでくれるとありがたい」
とは言わない。

だから、ボランティアをするほうは、
相手が何を欲しているのか、
言語化されないニーズはなんなのか、
考えなければならない。

しかし、それは「仮説」にすぎない。
その検証は日々、行っていかなければならない。
正解なんてない。
目の前にいる子どもを観察し、たしかめていくしかない。

僕にとって、震災とは、
無力感から出発した
相手の観察、コミュニケーションによる
ニーズの把握から仮説を立てるという
今風にいうと、デザイン思考の基礎になるような
ことを学んだ場だった。

また、ボランティアをする方を観察したとき、
そこには、アイデンティティと承認欲求の課題が見えた。

http://hero.niiblo.jp/e454995.html
「土台となる親和的承認」(14.10.24)

思えば、あそこが僕にとっては
ひとつの出発点だった。

3月11日。
無力感からはじまる1日にしたいと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:14Comments(0)足跡

2018年03月10日

「機能」としてでなく、「人間」として就職する。


川原涼太郎プレゼンツ「茨大生にとっての場づくりとは?」

会場のたねホールカフェも面白い場所で、
1時間100円で席だけ使えるようになっている。
貸切だと1時間2400円
ピアノも貸したりしてたな。

さて。
イベントは、Tsukuba Place Labに
刺激を受けた川原くんによる「場づくり」を
テーマにしたイベントでした。

Tsukuba Place Labの堀下さん、
茨城移住計画の菅原さんがゲストで
僕はシークレットゲストツルハシ〇ックスでした。(笑)

~~~以下イベントメモ

グリーンバードつくば:「ごみを拾いすぎないように」という
⇒ゴミを拾うってかっこいいっていう文化をつくりたい

本を読む
人に会う
旅に出る

地方の悩みは「プレイヤーが足りない」こと
まちのプレイヤーを増やすこと
⇒つくばプレイスラボ

目的をもって始めるより
目的をもって始めないこと。

場を持っていると、「生まれる瞬間」がある。
30歳前後にとっての東日本大震災の意味。

さかなクンのエネルギー
=好きオーラに人はよってくる。
内側にある好きが渦となって人を吸い寄せる。

「好き」しかない=求心力

「言葉を定義すること」って大事だ
「場づくり」「評価」などなど。

「学生さん」ではなく、
ひとりの人として見る。

場の価値=パートナーシップを組める
ということ。
パートナーシップから「何か」が生まれる。

グリーンバードは参入障壁が低い。
ゴミ拾いだから。
体を動かす=非言語コミュニケーションができる。

現在進行形であるということ。
=ベクトル感、求心力と推進力みたいなやつ。

ベクトル感を持った人に出会うと、横に立ちたくなる。
一緒に進みたくなる。

~~~以上メモ

いいですね。
なんか、整理されました。

「場づくり」の「場」ってどんな場なのか、
誰がその場を必要としているのか。
そこに出会うにはどうしたらいいのか。

そして人は何に集まるのか。

さかなクンの話、面白かったな。
子どもがグワーって寄ってくるのって、
さかなクンがかっこいいからでも、
かわいいからでも、有名だからでもないですよね。

「好き」が服を着て歩いているから。
「好き」の求心力ってスゲーって。

最近僕が言っている(白河「エマノン」発)
「ベクトル感」っていうのも、

今度は中学生高校生大学生にとって必要な
コンセプトなのかもしれない。

ベクトル感には、求心力と推進力がある。
ああ、そういう方向にこの人を向かっているんだな、って。
そういう大人に出会えることが大切なんだなと

地域の大人に出会えるんじゃないくて
ベクトル感のある地域の大人。

他者からの評価とは別の、
自分なりの評価軸を持って、進んでいる人。
そういう人のところに、
中高生大学生は吸い寄せられていくのではないかな。

一般的に行われている「目標設定型」のキャリア教育が
根本的に違っていると僕が思うのは、

「目標」、つまり「到達点」としての大人を見せていること。
この仕事は、つらいこともあるけど、こんなやりがいがあります。
それって、非常にパーソナルなことだし、
そしてその会社にいる人みんながそういう風に思っているわけでもないし。

ひとりの生身の「迷える大人」として
自分が持つベクトル感を見せていくことのほうが
「目標」も「答え」も手に入らないけど、
「推進力」はもらえるんじゃないかな。

って。
そんな感想。

最後の打ち上げ(@大興飯店)で鈴木高祥さんと堀下さんと
話していたことが印象的だったので紹介します。

就職面接で、「機能」の質問だけされたら、
その会社へ入るのはやめたほうがいい。
会社があなたに求めるのは、特定の機能だ。

そうではなくて、パーソナリティを質問してくる会社、
それはあなたという人間を必要としているのだということ。
「機能」としてではなく、「人間」として就職する。
だから、選ばれるのではなく、双方が選ぶ。

雇用契約ではなく、パートナーシップ契約。
そんな就職、企業から言えば採用をしていくことだと思う。

先の見えない時代に、
イノベーションや価値を生み出すのは、
「ピラミッド型」組織ではなく、「パートナーシップ型」の組織である。

いや、むしろ、
「ピラミッド型」組織が機能したのは、
経済が右肩上がりに成長し、

「効率性」に価値があったときの時代の話だ。
「足し算」のロスを以下に減らすか、が価値を生み出した時代が
かつてあった。

人と人がパートナーシップを組んで、何かを生んでいくこと。
その先に、未来が待っていると僕は思っている。

そのパートナーシップの種がまかれている所のことを、
僕は「場」と呼びたいと思います。

川原さん、素敵な機会をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:33Comments(0)就職

2018年03月08日

「信念」よりも「迷い」があるほうが価値


Tsukuba Place Labの「Lab対談 vol.11 場を編み、場を育む」
に行ってきました。

藤本遼さん、江本珠理さんを招いての
堀下さんのトーク炸裂。
みんな1990年生まれ。
時代の最先端だわ~、とシビれてました。

~~~ここからメモ

藤本さんの原点。
小2の図工の授業で先生から
「これは人の顔の色じゃない。やり直し」
と言われた時の憤り。

正しさは何によって正当化されるのか?
という問いが生まれた。
1つの方向に収斂されていくのなら
少数派はどうやって生きていくのか。
小さき声は無視されるのか。

1問いかけ
2編集・組み合わせ
3遊び
4余白

問いかけることで主体性が生まれる。
問うことで皆が当事者になる。

ゴールを達成するより
プロセスを楽しむほうが価値があるんじゃないか。

完璧を求めない。
ひとりで背負わない。
委ねること。

完璧じゃないことを見せること。
委ねると想定外が起こる。それを楽しむこと。

余白=委ねるデザイン

イベントでも顧客にどう思いを伝えるか?
を考えつくすから人が集まる。
人を集めることそのものは価値ではない。

ワークショップ型で作り上げていくイベントは、
企画書で書いたよりも面白くなる。
ワークショップでアイデアが出て、
企画が次々生まれていくから。

主体性の演出、それはそのままプロセスまるごと価値にすることだ。

ひとりでできるなら関われない。
できないことがあるから協働できる。
かかわる中でお互いが変わっていく。

~~~ここまでメモ

なんというかね。
「ワークショップマインド」というか、
「参加のデザイン」というか、
そういうのを見せてもらったなあと。

藤本さんのプロジェクトには、

1問いかけ
2編集・組み合わせ
3遊び
4余白

これが全部あるんだよね。
いちばん面白いと言っていた、
「ミーツ・ザ・福祉」
http://meetsthefukushi.strikingly.com/

の話とか特にそうだったなと。

行政が定期的にやっていた
いわゆる「福祉まつり」的なやつを
事業提案して、ワークショップスタイルに
するのだけど、

その時のプレゼンも、
「この企画書に書いてあるより面白くなります。」
って言い切っているとか面白い。

いや、ワークショップってそういうことだよなと。
「出力が予想できない」ということ。
入力以上の出力が出るということ。

ひとりひとりの思いや悩みを引き出し、
「ミーツ・ザ・福祉」にそれぞれにとっての「価値」を
埋め込んでいく。

だからこそ。
かかわった人が、周りの人にオススメして、
たくさんの人が来場する。

行政がやっていた時の祭りは、「お客」も「価値」も不在だ。
(いるのかもしれないけど、少なくともチラシには明記されていない)

イベントひとつとっても、「価値」を埋め込んでいく。
「この人に来てほしい」という人に声をかける。
そうやって、イベント自身が
どんな「価値」を生んだのか、振り返る。
そうやって、自分自身の価値をつくっていくのだろうなと。

ていねいに、価値を紡いでいくことで、
真の意味で「人と人がつながる」っていうことになっていくんだなと思った。

そして、昨日の一番のハイライトは、
おかみこと江本珠理さんが言っていた、

おかみの旅。

おかみになる前に、自腹で旅をしていた時のこと。

ゲストハウスでおかみをやることを話しながら
こういうのいいと思うんですが、どう思いますか?
と対話を続けていた。

むしろそれが「参加のデザイン」だったのかも。
自分のやっていることを信じきれなくてもいい。
それを素直に出せばいい。

信念が人を集める時代は終わったのだ。
「迷い」こそが人を参加者、当事者にする。


「ファンベース」(佐藤尚之 ちくま新書)
を今読んでいるのだけど、

顧客をファンにし、
信頼を得ていくための最初の部分って

「正直であること」
なのかもしれないなと。

http://hero.niiblo.jp/e484384.html
「市場の倫理、統治の倫理」(18.3.27)

一番大切なのは、
信念を持つこと。
目標を明確にすること。

ではないのだ。

正直であること。
不安を抱えていると認めること。

お客さんと向き合うのではなく、
横に座って、どう思いますか?と
話しかけること。

これからの価値は、
「パートナーシップ」を結ぶこと
「ワークショップマインド」を持ちながら、
当事者意識を高め、
インプットをはるかに凌ぐアウトプットを出していくこと。

ひとりひとりが自ら問い、考え、
自分の役を演じること。
そのプロセスそのものを楽しむこと。

そんな社会をつくっていくため必要なのは、

「信念を持つこと」ではなくて
「迷いがあること」、そしてそれを語ること
なのではないだろうか。

とても素敵な気づきをもらいました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:05Comments(0)学び

2018年03月07日

歌われざる英雄が詰まった本棚


「センスオブワンダーを探して」(福岡伸一 阿川佐和子 だいわ文庫)

福岡さんが発見したGP2遺伝子の働きを検証するために、
GP2ノックアウトマウス
(GP2遺伝子を遺伝的に排除したマウス)
をつくり、それにどんな異常が起こるのか、
見守っていたところ。

異常なし。

必ず異常があるはずだと思って、
血液を検査したり、細胞を調べたりしたけど
どの値もみんな正常。
寿命も短くならない。

そこで福岡さんは気がついた。
「生命は機械なんかじゃありませんよ。
もっと流れ流れているダイナミックなものです」

それを言っていたのが、
福岡さんにとってのアンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)
であるルドルフ・シェーンハイマー博士だった。

アイソトープを使った
食べ物実験でわかったことは、
日々、食べ物の細胞と体の細胞が入れ替わっている、
シェーンハイマーはこれを「ダイナミック・ステート(動的な状態)」
と呼んだが、福岡さんはバランスがとれているというコンセプトの
ほうが大事だと思ったので、これを「動的平衡」と訳した。

つまり、自然界においては、
そのような平衡状態が存在しているっていうこと。
まあ、動的平衡の話はおいといて。

http://hero.niiblo.jp/e485211.html
「アンサング・ヒーロー」(17.6.30)

僕が好きなのは、
歌われざる英雄(アンサング・ヒーロー)のほうだなあと。











暗やみ本屋ハックツって
それを象徴したようなものですよね。

「10代に贈りたい本」っていうテーマで、
本にメッセージを付けて、寄贈した本を
10代が発見する。

今回は、図書館の本で、
メッセージだけを公募して、66人分集まったのだけど。

それって。
この本を贈りたいっていう思い、というか手紙だから。

本屋や図書館っていうのは、
ひとりひとりや、1冊1冊の本を
「歌われざる英雄」にしていく
魔法をかけるところなのかもしれませんね。

そんな本棚をつくっていきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)

2018年03月06日

世の中には二種類のおじさんがいる

世の中には二種類のおじさんがいる。

自分で決めてきたおじさんと
自分で決めてこなかったおじさんだ。

なんか、ドキッとするね。
さっきふと思い浮かびました。



3月4日(日)東京都練馬区関町図書館
暗やみ本屋ハックツ×関町図書館
16:00~17:00のトークイベントに参加。

ニューヨークから帰国するたびに
暗やみ本屋ハックツに参加してくれる
金子さんと館長とトーク。

金子さんが
西野亮廣さんの「革命のファンファーレ」を引用して
言っていたけど、

「スマホと同じで、昔のやつより、最近のやつのほうが性能がいい。
だから、おじさんよりも若者のほうが優れていると考えたほうがいい。」

いや、ホントそうだよ、って思う。

よくさ、バリバリ活動している学生とか
志を語る若者を見て、

「大学1年生なのにすごいね。僕が大学1年のころなんて・・・」

みたいなことを言う大人がいるけど、
めちゃそれって違和感があって。

当たり前ですよ。
若者は、どんどんバージョンアップされて
世の中に出てくるんですから。

その発言って、若者へのリスペクト足りないなと思う。
いま、熱海の本屋プロジェクトで一緒にやっている
とっくんっていう18歳がいるんだけど、
なんていうか、話してるだけで楽しいもんね。
ベクトル感にあふれているし。


「経済成長なき幸福国家論」(平田オリザ・藻谷浩介 毎日新聞出版)

今日の電車朝読書はこの本だったのだけど、
「自己決定力」についての記載が心に刺さった。

オリザさんは兵庫県豊岡市などで
アートを通じて、自己決定力をつけてもらう
という活動をしているのだけど、
こんなことを言っている。
(藻谷さんのコメント含む)

~~~ここから引用

自己決定力なんて自然には育たないんです。
だから義務教育プラス3年間まで、自己決定力を
育てる手助けは行政の責務としてやろうと考えています。
そのあとは自分で考えてもらうしかない。

日本のエリートとノンエリートの区別がナンセンスだと思うのは、
エリートと称しているのに自己決定を一切できない人が
大量に存在することです。

まあそれも当たり前で、何をしたいからというのではなく、
周囲に褒められるからというだけで「いい学校」に入り、
教わった通りになるべく疑問を持たずに暗記し、
東京の「いい組織」に就職した人たちがエリートとされている
わけですから。

つまり自己決定しないほど、東京に集まって
エリートになれるというわけです。

そんな人たちが
大学を中退する、仕事を辞める、地方に移住する、
そういう自己決定した人たちを低く見るとすれば笑止千万でしょう。

国際競争力は暗記能力の競争ではなく、自己決定力の競争ですよ。

大きな組織であれば大きな仕事ができる、と言う人がいますが、
ではその中であなたは実際、日々何を自己決定しているのでしょうか。
あなたがいることで結果が変わりましたか?
党議拘束に従って票を入れるマシーンと化した与党議員のようなことになっていませんか?

~~~ここまで引用

なるほど。
手厳しいな。

そう考えるととっくんなんて、
自分で「これは違うわ」って思って、
高校中退して、飛び級で18歳秋に大学入って、
いまは熱海で本屋開業しようとしているとかって、

自己決定力の塊じゃないすか、すげえよ。
って思うわけです。

じゃあ、その出発点をどうつくるのか?
っていうことです。

オリザさんが芸術でそれをやったように、
僕は「プロジェクト」でそれができるんじゃないか、
と思っている。

メカニズムとしては、おそらく
・学校的価値以外の価値が存在すること=世界の広さを知る
・自分としての価値を問いかけ、実践すること
・それを振り返ることでだんだんと他者評価の呪縛を解く

というふうになるのだと思う。

その時のポイントは、
「顧客はだれか?」
っていう問いだと僕は思う。

このプロジェクトは誰のためにやるのか。
その人にとっての価値はなんなのか?

イベントだったら、
どういう人が来て、どういうコメントを
してもらうと成功なのか。

それを事前に設定して、
そこを目標にしていくこと。

決して、参加者数とか、売上金額とか、
そういうわかりやすい指標に逃げないこと。

そのうえで、イベントした後、
プロジェクト終わった後の振り返りをきっちりすること。
そこには動いた分だけの
「予想しなかった価値」が生まれているはずだ。

振り返り手法の
「予想した/予想しなかった」「よかったこと/悪かったこと」
マトリクスで、予想しなかったよかったことに出てくるコメントだ。
それを踏まえて、もう一度プロジェクトを組みなおす。

そうやって、
「お客」と「価値」を問い続けながらプロジェクトを
遂行していくこと。

その先に、他者評価の呪縛からの自由があると
僕は考えている。

そんな「場」をこれからつくっていく。

世の中には2種類のおじさんがいる。

自分で決めてきたおじさんと
自分で決めてこなかったおじさんだ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)日記

2018年03月04日

WHYから始まる学習塾

学習塾×哲学カフェ×本屋
みたいな場所ができないだろうか

数学とは何か?
英語とは何か?

なぜ、英語は主語の次に動詞が来るのか。
日本語はそうではないのか。

ニュートンは思ったのだという。
リンゴは気から落ちるのに
なぜ、月は落ちないんだろう?と

センス・オブ・ワンダー

不思議だ。
と思った時に、好奇心が作動する。
なぜ?だ。

子どもは、なぜ?なぜ?の怪物だ。
不思議に思ったことをなんでも大人に聞いてくる。
それこそが
センス・オブ・ワンダーなのだ。

大人になると、
いつの間にか、WHY?と考えることが減ってくる。

大人にとって大切なセンス・オブ・ワンダーは
「違和感」ではないだろうか。

「感性」というと、
キレイに聞こえるかもしれない。

たぶん、使われ方は、
きれいだとか、美しいとか、感動した、とか
ポジティブな意味の心の動きを「感性」と呼び、
ネガティブな心の動きを「違和感」と呼んでいるように思う。

僕にとっては、15歳の不登校の少年に出会い、
まったく話してくれなかった彼が、
だんだんと心を開き、話せるようになったのは
「違和感」でしかなかった。

「違和感」を言語化する。
それが、仕事にとって大切なのではないか。
なぜなら、「違和感」の先にお客がいるからね。

だからこそ、子どものころに、
なぜ?を大切にすること。
それってすごく大切なことだと思う。

そんな私塾をつくれないだろうかと思う。
学習塾×哲学カフェ×本屋
みたいな場所。

子どもだけじゃなく、
なぜ?を考えたい大人たちも参加できるような
本屋さん。
WHYから始める学習塾。

目的は、センスオブワンダーを保ちながら、
学びへの意欲を高めていくこと。

学びのモチベーションを上げる。
それこそがみんながほしいものなのではないだろうか。

知識基盤社会においては、
学び続ける力こそが生きる力になっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 11:29Comments(0)アイデア

2018年03月03日

「価値」は何か?~二元論を超えて


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)
http://hero.niiblo.jp/e487063.html
貨幣とメールの共通点(18.3.2)


「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子×苫野一徳 日本評論社)
http://hero.niiblo.jp/e486753.html
学力という「単一の指標」は「唯一の指標」ではない(18.1.12)


「ローカリズム宣言~「成長」から「定常」へ」(内田樹 deco)
http://hero.niiblo.jp/e486707.html
松下村塾は塾生募集広告なんか出さなかった(18.1.6)

今年に入って、
特にインパクトのあった3冊
僕、こういう本が好きなんだなあ。

二元論からの脱出。
これすごく大切だろうな。

そのためには、「価値」は何か?
っていう問いを心に刻まないといけないのかもしれない。

それは、リヒテルズ直子さんが
上の本で指摘するように

「学習とは、本来楽しいもののはずです。
これからの社会がますます必要とする
人間のさまざまな創造力や批判的な思考力は、
学ぶことに喜びを感じられる環境の中で初めて
育つものです。

しかし、日本の子どもたちは、
まだ生まれてほんの数年の、幼稚園に通う年齢の時から、
「勉強とは一所懸命励むもの」
「勉強が他人より遅れたら人生に失敗してしまう」
という外からの強制と脅しの中で、

学ぶことの楽しさを奪われ、
生きがいを見出すうえで大切な好奇心を
磨滅させられているのです。

受験で成功することが人生を切り開く第一歩。
学校で落ちこぼれたり受験に失敗したりすることは、
幸福な人生への切符を取り損ねたも同じ。

18歳の若さで、みずからに「負け組」のレッテルを貼って、
自己肯定感とは正反対の精神状態に放り込まれる・・・。
そういう、必要のない無意味な敗北感を持ったまま
大人になっていく子どもが、日本にはあまりにも多すぎます。」

これは本当にリアルだ。
僕が本屋で接してきた大学生には、
勝手に「負け組」だと思っている人が多すぎる。

そして、
「何のために生まれ、何をして生きるのか」
というアンパンマンのテーマをもやもやと考えるのだけど

効率化一辺倒の社会の中で、
「やりたいことがわからない」とつぶやきながら、
ひとまず就職して、気がついたら30歳間近。
本当にそれでいいのだろうか。

会社に勤め続けるか、
辞めてドロップアウトするか。
みんな、二元論だと思っている。

でも、そんなことないんだ。
無数に世界は広がっている。

僕はここ数年。
大切なのは、ドラッカーの5つの質問のうち、
「顧客はだれか?」
「顧客にとって価値は何か?」
だと言ってきた。

もしかしたら、
顧客はだれか?
の前に、

「価値」とはなんだろうか?
とばくぜんと考える必要があるのかもしれない。

たとえば、
僕だったら、大学時代の問いは
環境問題をきっかけを感じた、
「豊かさとは何か?」だった。

そしてそれを言葉ではなく、
「これですよね、豊かさ」って見せたくて、
まきどき村をやったんだと思う。
自分が直感した価値に向かっていくこと。

そこからすべて始まるし、
迷った時はそこに返っていくことだと思う。

いま、自分は価値を生み出せているのだろうか?
この団体は、このプロジェクトは、どんな価値を生み出しているのだろうか?

もちろん、価値を測るには、顧客が必要で、
その尺度のひとつが売り上げであることは
間違いないだろう。

しかし、単純に数値化、言語化できない、
たとえば教育サービスのようなものはどうなるだろう。
中間テストから期末テストまで何点アップ。
資格試験の合格率が〇〇パーセント。
いつのまにか、数値が目的となってしまう。

価値は何か。

そしてそれは、世の中的な価値なのか?
その組織やチームにとっての価値なのか?
自分自身の価値なのか?
そして、それに同意しているのか?

そんな問いが大切になる。

価値に向かっていること。
それがきっと、船の行き先になる。

「差異」こそが価値(18.2.1)
http://hero.niiblo.jp/e486878.html

学びのスタイルのスタンダードは、
世界的にも、歴史的にも、
「寺子屋」方式というか、私塾方式なのだという。

つくっているのは缶詰じゃない(16.4.4)
http://hero.niiblo.jp/e478219.html

伝えたい思い(当然それを伝えることが価値があると思っている)
を、持った人が、そこに集まり、
学校をつくったのがミッションスクールの始まりであり、
その波に吸い寄せられた人たちが
輝いているから、周りにいる人たちがさらに集まってきたのだろう。

そんな私塾をたくさんつくっていくこと。
実は、建物や、固定した場所は必要ないんじゃないかって思う。
プロジェクトでいいのではないかと。

このプロジェクトにとって価値は何か?
を共有するプロジェクトを持っていること。
それは仕事だけに限らない。
地域のボランティア活動でも、
文化祭の出し物でも同じだ。

僕自身は、まきどき村で、「豊かさ」を問い、
地域のじいちゃんたちと一緒に茅葺屋根のための
カヤ刈りをしたときに、価値を感じた。

「虹のひろば」では、昔の遊びというコミュニケーションツールを
使った、地域のお年寄りと子どもたちのつながりに価値を置いた。

起業家留学では「当事者意識」と「価値創造力」
というテーマに価値を置き、
大学生と経営者のプロジェクトをつくった。

ツルハシブックスでは、本屋という場を通じて、
たくさんの「偶然」という価値が起こっていく
ことを目の当たりにした。

「価値」とは何か?

その問いが人生のスタートラインになるのではないだろうか。
そんな問いを提供できるラボラトリーをつくるんだ。

ローカル・リベラルアーツ・ラボラトリー
地域資源を活用した自由のための学び実験室

「価値」を問いながら、
地域資源を活用して、プロジェクトをつくっていく、
そしてプロジェクトだけでなく、自分自身を振り返り、
問いかける場。

これがたぶん僕の次のステージです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)日記

2018年03月02日

貨幣とメールの共通点


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)

いったん中断していましたが、読み終えました。
うなる内容。

~~~以下引用

楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、
直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、
依然として、楕円が楕円である限り、
それは、醒めながら眠り、眠りながら覚め、泣きながら笑い、
笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。
(花田清輝 楕円幻想)

花田が言っていることの意味は、相反するかに見える二項、
これまでわたしが言及してきた言葉で言えば、
「縁」と「無縁」、田舎と都会、敬虔と猥雑、死と生、
あるいは権威主義と民主主義という二項は、
同じ一つのことの、異なる現れであり、
そのどちらもが反発しあいながら、必要としているということ

どちらか一方しか見ないというのは、ごまかしだということです。
ごまかしが言い過ぎだとすれば、知的怠慢といってもいいかもしれません。

真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、
初めからそんなものは存在していなかったかのように思考の外に追い出してしまいます。

真円的思考とは、すなわち二項対立的な思考であり、
それは田舎か都会か、科学か信仰か、権威主義か民主主義か、
個人主義か全体主義か、理想主義か現実主義か、
どちらかを選ぶのかと二者択一を迫ることです。

最大の変化は、全体給付モデルを
採用していた時代の相互負債関係のモラルから、
貨幣交換の時代の賃借関係のモラルへの
180度の転換でありました。
・贈与は義務である
・贈与に返礼してはいけない
・贈与物を退蔵してはならない
というモラルから、
・返礼を受けるのは当然の権利である
・賃借関係は等価交換によって清算されなければならない
・貯蓄は美徳である
というモラルへの転換したのです

「楕円も、円とおなじく、一つの中心と、
明確な輪郭を持つ堂々たる図形であり、
円は、むしろ楕円のなかのきわめて特殊な場合である」
と花田は言っています。
にも関わらず、ひとは真円の潔癖性に憧れる。

貨幣:非同期交換を可能にした、劣化しない価値の担い手(だと信じられた)
インターネットメール:非同期的コミュニケーションを可能にした

非同期的コミュニケーションの結果、
人々が、聞きたい声だけを聴き、読みたい記事だけを読み、
連絡したい仲間とだけ交信することが可能になり、
その結果、社会が、世代間や、趣味や、嗜好によって、
分断されてしまったことです。

コミュニケーションのツールを手にしたゆえに、
社会が、言葉が通じないグループに色分けされることになったのです。

貨幣が、社会を富者と貧者に分割したように、
コンピューターもまた、情報格差の問題を生み、
さらには、それぞれの趣味や嗜好や政治思想ごとの小さなグループへ
分断してしまったのです。

その一番大きな問題は、
一度グループに分断されてしまうと、
もう、ほかのグループとは
コミュニケーションをしなくなってしまうことです。
回復の回路が切断されてしまうということです。

SNSでほかのグループにいる人間と出会うときは、
罵倒するか、冷笑するか、無関心かのいずれかの
態度しかとれなくなる。

そもそも、関心がない相手との回路は、
断ち切ることが可能になっているツールなので、
必然的に、同じような価値観をもった人間ばかりが集まることになります。

どちらのツールも、
コミュニケーションの必要性から生まれてきましたが、
結局、どちらもコミュニケーションツールを断絶する道具として、
社会に機能してしまっているからです。

その結果、人々は自由を手にするわけですが、
自由を手にした分だけ孤立化し、分断されることに
なっていったのではないか。

現代という時代ほど、金銭の万能性が強まった時代は
ないように思えます。
世の中には「等価交換のモラル」だけしか、
なくなっているかのように見える。
しかし、それは、「贈与のモラル」が消え去ったということではないのです。

日蝕、あるいは月蝕のように、
二つの焦点が重なってしまい、
「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の
背後に隠されてしまって見えなくなっている
ということにすぎません。

わたしたち現代人が陥っている陥穽は、
こうした楕円的で両義的な構造を持つ、
異なる経済・社会システムや、
モラルの体系というものを、
二者択一の問題であるかのように錯覚してしまうことです。

現代社会を覆っているのは、
むしろ、この「これだけしかない」という
見方の硬直性であると言えるかもしれません。

~~~ここまで引用

うわー、引用しすぎた。
全部読んだ人はご購入ください。(笑)

そっか!って。

貨幣とメールは、
「非同期交換」っていう共通点があるんだ。

それによって、貨幣は貯めこむことが価値ができて、
メールやSNSは、志向性が近い人と知り合える、逆に言えば
自分が望む人としかコミュニケーションしないようにできる。
そうやって人と人が分断されていく。

そして、最近起こっている、
贈与経済の胎動のような動きは、
そのもうひとつの軸を示しているのではないか。

そしてそれは、
「貨幣経済」か「贈与経済」か
というような二元論ではなく、
楕円のように2つの焦点を持ちながら共存していく、
そんな社会を実現していかなきゃいけないんじゃないか。

うんうん。
ホント、そうだなあと思う。

若者の生きづらさの深いところには、
「二元論」的な社会の雰囲気があるのだと思う。

就職するか、起業するか。
みたいな。

本当は、ぜんぜんそんなことない。
贈与の仕組みの中に入ってしまえば、
どちらもする必要がない。

「正解」なんてない。
そんなことみんな分かっているはずなのに、
二元論で考えてしまう。
そうやって分断が起こり、冷たい社会になっていく。

本のある空間のひとつの使命は、

世の中には多様な価値があり、
二元論では説明、解釈できないのだという
メッセージを放つこと。

それはそのままその人を
問いの海に放り込むことになるのだけど。

「価値とはいったいなんだろうか?」
と問いかけるような場をつくらないといけない。  

Posted by ニシダタクジ at 06:52Comments(0)

2018年03月01日

価値観的サードプレイス

最近のテーマであるサードプレイス。

機能も書いたのだけど、
サードプレイスじゃなくて、
アナザー・バリュー・スペース

もうひとつの価値を持った「場」
を、人は根源的に必要としているのではないかと。

言い方を替えれば、

場所的なサードプレイスではなく、
「価値観的」なサードプレイス。

たぶんそれは古くは、
「祭」や「宴」という場であったかもしれないし、
旅先であったかもしれない。

そして最近では、「学校」「家庭」「地域」
というトライアングルで子育てをしてきた。
(だいぶ前の話ですけど)

それって、
「家庭」とか「地域」とかが「何を教えるか?」
っていうのが大切なのではなくて、

「学校」と「家庭」と「地域」
異なる価値体系から成り立っているという矛盾
にこそ価値があるのではないかと。

先生の言うことなんか聞くな!
っていうオヤジがいたり、
祭のときに休めない会社なんか辞めちまえ!
と叫ぶ地域のおっさんがいた。

たぶん、それが大切だったんだ。
異なる価値体系の元に自分を置くこと。

いつのまにか、社会全体が、
経済至上主義、学校的価値一色に染められてしまった。

それはおそらく、
「効率化」という至上命題の上のことであったと思う。

小布施町のまちなみ修景事業で、
「栗の小径」をつくるとき、栗の木チップを活用した
レンガを敷き詰めるという案が出たとき、
コストはアスファルト舗装の数倍かかる、という話がでたとき、

「そもそも黒アスファルト舗装の何倍という比較がおかしい。
黒アスファルト舗装は方法のひとつであってそれが「標準」仕上げではない。」
といって、栗の木チップを活用した「栗の木レンガ」を敷き詰めた。
(小布施まちづくりの奇跡 川向正人 新潮新書)

そうなんだよ。
すべて経済社会的学校的価値観で決められてたんじゃ、誇りを持てないんだよ。

小布施町に観光客がリピートするのは、
まさにその「価値観的サードプレイス」が
息づいているからではないだろうか。

場所的サードプレイスから、
価値観的サードプレイス。

そしてそれは場所ではなく、
プロジェクトであっても実現可能だ。

顧客はだれか?
顧客にとって価値はなにか?

という問いを共有する、そんなプロジェクトが
価値観的サードプレイスになり得るし、
それを多くの人は、根源的に必要としているのではないか
という仮説だ。

うん。
そんな感じする。  

Posted by ニシダタクジ at 08:09Comments(0)日記