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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2017年06月30日

アンサング・ヒーロー

ああ、読み終わってしまう・・・

と読み進めていきなら、悲しくなる本に出会うことがある。
「もったいないから一章ずつ読もう」とか

アサダワタルさんの
「コミュニティ難民のススメ」以来のドキドキ。


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

うわー、うわーって
何度もうなっていた。

もっともこころ揺さぶられたのは、

第5章 「次世代にパスを送る」の「教育の奇跡」のところ。

またしても興奮状態でツイートしすぎた。

さて、ちょっと引用させてください。

~~~ここから引用

人間は知っている者の立場に立たされている間は
つねに十分に知っている。

「教卓のこちら側」にいる人間は、
「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、
すでに「教師」としての条件を満たしている。

教師は別にとりわけ有用な、
実利的な知識や情報や技能を持っており、
それを生徒や弟子に伝えることができるから
教師であるわけではない。
これが教えることの逆説である。

教師は「この人は私たちが何を学ぶべきか知っている」
という確信を持っている人々の前に立つ限り、
すでに十分に教師として機能する。
彼に就いて学ぶ人たちは、
「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」
を彼から学ぶ

誰だって教師になれる。
そうでなければ困る。

人間たちが集団的に生き延びてゆくために
ほんとうに重要な社会制度は、
「誰でもできるように」設計されている。
そうでなければ困る。

例外的に卓越した資質を持っている
人間にしか社会制度の枢要な機能を
担い得ないという方針で社会制度が
設計されていたら、とっくの昔に
人類は滅亡していただろう。

学校における知の非対称性とは
「あなたたちはなぜ学ばなければならないのかその理由を知らないが、
私はあなたたちが学ばなければならない理由を知っている」という一言に尽くされる。

私たちは「教卓の向こう側にいる人」はすでにそのことだけで
すでに教える資格があるというルールを身体化していたからである。

「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、
少しも人間的に卓越しているわけではない」
という事実を意地悪く暴露して、
教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。

私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、
「言うべきではなかったこと」だった。
それに気づくほど私たちは大人ではなかった。

教師は自分の知らないことを教えることができ、
自分ができないことをさせることができる」という
「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。

教師であり続けるためには、一つだけ条件がある。
一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。

自分は自分がよく知らないことを教えることができる。
なぜか、教えることができる。
生徒たちは教師が教えてくれないことを学ぶことができる。
なぜか、学ぶことができる。
この不条理のうちに教育の卓越性は存する。
それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。

もし、生徒たちが学んだことは、どれも教師がすでに知っていることの
一部を移転したにすぎないと思っている教師がいたとしたら、私は
「そのような教師は教卓に立つべきではない」と思うし、当人にはっきりとそう告げるだろう。

その人には「教育制度に対する敬意がかけている」からである。
教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。

教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を
知識において技芸において凌駕することが
日常的に起きるという事実のうちにある。
「出力が入力を超える」という事実のうちにある。

「教室とはそこに存在しないものが生成する奇跡的な場だ」
という信念を持たない教師は
長期にわたって(生徒たちが卒業した後になっても)
彼らの成熟を支援するというような仕事はできない。

今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、
教師に教科に知識が不足しているからでも、
専門職大学院を出ていないからでもない。
そうではなくて、教師たちが教育の信じるのを止めてしまったからである。

教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。

~~~ここまで引用

教育の奇跡。
なるほど。

それは「場」にあるのだと。
教師と生徒が教卓を挟んで、向かい合う。
その「場」に「奇跡」が生成するのだ。

教師とは、
その構成員のひとりにすぎないのだ。

この本を読んでいて、つぶやいた。
(というかいつも、最近、主語を「本屋」に置き換えてしまうのだけど)

「教育」を「本屋」あるいは「本屋という場」に置き換えてみる。
わくわくする。
本屋が、「出力が入力を上回る」という
「本屋の奇跡」を信じることを止めて、いったい誰が本屋を信じるのか。

「劇団員」とか「サムライ」とか「ヤクシャ」
ってきっとそういうこと。

学びあいの場をつくる、
本屋を学びあいの場にする、
ってきっとそういうこと。

そこに師匠はいないかもしれないけど、
本の中に師匠がいるかもしれない。
いや、今日やったイベントの中に、
師匠がいるのかもしれない。

そこから何を学ぶか。
その入力から何を出力するか。
それが入力を上回るという点において、
本屋は本屋である意味がある。

この本のあとがきに
「アンサング・ヒーロー」のことが書いてある。

事故を未然に防いだ人たちの功績は
決して顕彰されることがありません。

そういう顕彰されることのない英雄のことを
「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」
と呼びます。「歌われざる英雄」です。

このアンサング・ヒーローたちの
報われない努力によって
僕たちの社会はかろうじて成立している。

なるほど。

教師も、本屋も、
目指していくところは、
「アンサング・ヒーロー」なのかもしれない。

僕が高校生の時に通っていたたこ焼き屋のおばちゃんのことだ。
店内でヤンキー高校生にタバコを吸わせながら
たこ焼きやカップラーメンを食べさせて、話を聞いてあげていた。
あのおばちゃんのおかげで悪さをしなかった高校生はひとりふたりじゃないだろう。

思えばあれが僕の原点になっているのかもしれない。

教育の奇跡を、本屋の奇跡を信じ、

周りの大人を、先輩を、地域の人たちを
「アンサング・ヒーロー」にしていくような学びの場や本屋を
いま、作らなければならないのではないか。

100年先の日本のために。

今一度、日本を小さく洗濯しようか。
小さな本屋で。
ねえ、龍馬さん。
  

Posted by ニシダタクジ at 10:37Comments(0)

2017年06月28日

「小さな本屋」というゆらいだメディア


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

昨年秋に「街場の憂国会議」からの
三部作を読んでいたのだけど、
この本はまだ読んでなかった。

この本もとっても熱い。

P216 「日本のメディアの病」より

~~~ここから一部引用

生き延びるためには、複雑な生体でなければならない。
変化に応じられるためには、
生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで
構造化されていなければならない。
ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、
それが生物の本態である。

私たちのうちには、気高さと卑しさ、
寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、
入り交じっている。

私たちはそのような複雑な構造物としての
おのれを受け入れ、それらの要素を
折り合わせ、強制をはかろうと努めている。
そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人の
ことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。

メディアは「ゆらいだ」ものであるために、
「デタッチメント」と「コミットメント」を
同時的に果たすことを求められる。

「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、
そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、
それが何であるのか、なぜ起きたのか、
どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。

「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、
他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、
当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。

この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、
混沌としたこの世界の成り立ちをいくぶんか明晰な語法で明らかにし、
そこでの人間たちのふるまい方についていくぶんか倫理的な指示を示すことができる。

メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を
果たすことではじめてその社会的機能を果たす。
だが、現実に日本のメディアで起きているのは、
「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。

「デタッチメント」的報道は、ストレートな事実しか報道しない。
その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、
どういう意味を持つものなのか、私たちは
どの出来事をどう解釈すべきなのかについて、
何の手がかりも提供しない。
そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。

「コミットメント」的報道は、その逆である。
その出来事がある具体的な個人にとって
どういう意味を持つのかしか語らない。
個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを
一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が
他ならぬこの人において、なぜどのゆおうに生じたのかを
「非人情的」な視点から分析することを自制する。
そこに「客観的冷静さ」を混じり込むことを嫌うからである。

いまメディアに必要なものは、
あえて抽象的な言葉を借りて言えば、
「生身」なのだと思う。

~~~ここまで一部引用

本屋は本来のメディアになりうる、と思った。
「デタッチメント」と「コミットメント」
を同時に提供できるからだ。

世の中を客観的に構造的にドライに見るヒントも本から与えることもできるし、
お客さんのパーソナルな話を聞き、共感し、寄り添うこともできるからだ。

人間的な「生身」のメディアとしての本屋。

「小さな本屋」は、そういう存在になれるのではないか。

私たちの多くは、ゆらいでいる。
(イチロー並みにブレない人もごく少数いる)

ゆらいでいるからこそ、
偶然を楽しみ、多様性に埋もれ、
予期せぬ何かや誰かに出会い、
さらにゆらいで生きていくのだろう。

小さな本屋はそんな存在になれるのではないか。

それが僕が「本屋というメディア」の先に見るものかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)

2017年06月27日

コミュニティ難民向け本屋さん

「孤独と不安のレッスン」
「売りたい」ではなく、「売らなきゃ」と思える本
http://hero.niiblo.jp/e269669.html

そういう本を売っていきたい。


コミュニティ難民のススメ。(アサダワタル 木楽舎)

手紙。
売らなきゃ、と思える本。
この本を手渡さなくちゃ、と思える本。
そんな本を売っていこうと思う。

最近は僕の周りに
コミュニティ難民な女子が多いので、
それ向けのセレクトをするのが楽しそう。
ひとまずアルプスブックキャンプでお披露目しようと。
新城劇場にも同時に発表したい。

部活をやめたばかりの
中学生高校生向けのハックツというのもいいな。
女子会に行けるような感性の強い男子も対象かな。

自分で考えること。
思考停止しないこと。
精神的に独立すること。
それが一番大切なのだろうと思う。

就職でなく、人生の経営者として、
企業とのパートナーシップ契約を結ぶ。

そういう感覚がないと、
システムはどんどん、独立を奪う。

ひとりひとりを幸せにするはずだったシステムは、
ひとりひとりを「交換可能」にし、
ひとりひとりを「顧客」から遠ざける。
顧客に「手紙」を渡せなくなる。

孤独を携えて、人生を生きる。
そんな「手紙」を僕は預かってきたのかもしれない。

「孤独と不安のレッスン」から
「コミュニティ難民のススメ」まで。

どうやってつなげていこうか、楽しみです。  

Posted by ニシダタクジ at 05:43Comments(0)アイデア

2017年06月26日

「学びあい」で希望を生む


「フォー・ビギナーズ・シリーズ 108 吉田松陰」(現代書館)

こんな本あったんだ。
と古本屋さんで買ってしまった。

やっぱり、僕の原点は(原点いっぱいあるな~)、
吉田松陰先生の野山獄エピソードだろうと思う。

たとえ獄中であっても、
一生そこから出られないとしても、
「学びあいで希望は生まれる」

ということを学んだし。
これだ!と直感し、すぐに萩に向かい、
野山獄跡地と、松下村塾(松陰神社)と松陰先生の墓に
手を合わせた。

学びあうこと。
考え続けること。
そういうのを作りたいのだ。

「カレーキャラバン」が楽しいのは、
「予測不可能」という価値を追い続けているから。

予想しなかったよかったことも
予想しなかった悪かったことも
彼らの中では等しく価値があるのだ。

いや、価値に等しいも等しくないもない。

そこに価値を感じる自分とチームメイトがいればいい。
それだけだ。

ツルハシブックスの店員サムライも
新城劇場のヤクシャも、
そういう仕組みをつくっているということ。

コメタクも、
なじみのお店ものがたりも、
夜景企画会議も、
インターンシップの設計も、

社長に挑戦セヨ!と題して、
「これは研修です」と
社長たちから参加費30,000円を徴収したのも、

それはともに学ぶ場をつくる
というコミュニケーション・デザインだったのだと思う。

そういう視点で、
もういちど整理してもいいのかもしれない。

学びあいの場をつくる。
そこに余白がある。

市場ってそういうものなのかもしれない。

そういう場所を必要としているのは、
コミュニティ難民な、中学生高校生大学生
そして20代社会人なのだろうと思う。

「余白のある学びあいの場。」

これをつくっていこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年06月23日

「なぜ」「いま」「私が」やるのか

イベント「稼ぐ地域ビジネスのつくり方。」でした。
15分講師初体験。
問いと事例紹介だけっていう
新しさ。

もっと事例を少なくしてもよかったなあと
思いました。

僕の感想は、
物語こそが原動力だと思った。

マクロな課題を出発点にするのではなく、
ミクロな個人的エピソードこそが出発点だと思った。

マクロな課題
・若者が少ない
・人が集まらない

というところからは、
当事者意識が生まれないので、
アクションが起こらないのではないかと思った。

個人的具体的エピソードは「物語」を生む。

昨日は少し話があったけど、

クラウドファンディングにとって必要なのは、
そのプロジェクトを「なぜ」「いま」「私」がやるのか?

という問いに答えることだと僕は思う。
それには個人的なストーリーが必要だと思う。

昨日のプレゼンでの3つの問い。

1 「稼ぐ」って何?:
あなたは何を稼ぎたいのか?

2 「顧客」は誰か?:
なぜ、茨城でビジネスしたいのか?

3 「ふりかえり」してますか?:
他者評価の檻を脱出し、人生を経営する

これって根源的な問いだと思う。
相手にとって、社会にとって、そして自分にとって価値は何か?
そんな問いを続けていくこと。

近江商人の三方よし
という考え方は
「自分よし相手よし世間よし」だといわれるが

思考の順番としては
「相手よし」「世間よし」「自分よし」
というようになっていくのではないか。

ドラッカーさんの言葉を借りれば
「世間よし」の前に「第2の顧客よし」っていうのが入るのかもしれないが。

そして、今日から読み始めたのはこの本。

「市場の倫理 統治の倫理」(ジェイン・ジェイコブス 日経ビジネス人文庫)

世の中には2種類の道徳、
市場の倫理(商人道)と統治の倫理(武士道)
があり、それらを混同すると腐敗が生まれるというもの。

どちらも道徳としてはもっともなのだろうけど、
これらは目的が違うので、
相互に相容れないのだという。

多様化した価値観では、
「何を稼ぎたいのか?」「顧客はだれか?」
に対する答えがひとりひとり違っているはずである。

そしてそれは非常にミクロでパーソナルなものになるはずだ。
そしてたぶん、そこからしか始まらない。

そこから始まる、小さなビジネス、いっぱいつくりたいなと感じた。
ドラッカーサイクルを小さく回す。

そこからいろんなものが開いていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)日記

2017年06月21日

自信とは、「やったことがある」ということ

人は、他者評価という檻の中にいると、
チャレンジすることを忘れていく。

チャレンジするということは
失敗するということだからだ。

学校も、会社も、
「目的の遂行」や「効率的な運営」のために、
他者からの評価を前提としたシステムをつくっている。

そんなシステムに
子どもたちを放り込んでおきながら、

個人に対して、
「チャレンジしろ」と半ば強制するのは、
完全にダブルバインドだ。
(ダブルマインド:2つのレベルの相反するメッセージを言われること)

僕も、28歳まで、
他者評価の檻の中にいた。

まきどき村を始めていたのに、
すでに、中学校3年生に出会い、
NPO法人を立ち上げていたのに、

友達の結婚式の二次会に行って
「お前、いま、何やってんの?」
って言われるのが苦痛だった。

「畑やってる。」
「なにそれ。面白そうじゃん。相変わらず自由でいいね。」

三次会には行かず、
家に帰って、なぜか凹んでた。

「俺にも、土日休みの人生があったんじゃないか。」
って、大学4年生の時の「就職しない」っていう
選択を、少しだけ後悔してた。

それは28歳のとき、突然外れた。
自分にはこの人生しかなかった。
と思えるようになった。

あのとき、僕は他者評価の檻から脱出した。
「世間」という小さな藩から脱藩した。
しかし、それは、そんなに簡単ではないだろう。

他者評価の檻を脱出するために、
どこからアクションすればいいのか。

それは「やってみる」以外にない。

自分の感性を信じて、やってみること。
他者評価を気にせずにアクションすること。
そこからしか道は開けない。

堀江貴文さんが
自信とは、「やったことがある」ということだと
言っていたけど。

まさにそれだと。
自信がなくて始められないというのは
論理的に成り立たない。

だって、自信って、成功体験じゃなくて
やってことがあるってことだから。
はじめてみる以外に方法はないのだ。

そして重要なのは自分で、あるいはチームで
「ふりかえり」をすること。

このチャレンジの意義はなんだったのか?
自分たちで評価をすること。
すべての活動を学びに変換していくこと。

そうやってだんだんと
他者評価の檻から脱出する訓練をするのだ。

檻と言っても、
囚われているのは心だけなのだから
うまくいけば、どこかで外れる。

まずは学校を飛び出して、
何かプロジェクトに参加してみるのが
いいのではないか。

自信とはやったことがある、ということ。
「やってみる」から始まるから。  

Posted by ニシダタクジ at 05:34Comments(0)思い

2017年06月20日

もうひとつのCSA

東北食べる通信の高橋さんの本。


で、書いたブログ。
「Community Supported Bookstore」
http://hero.niiblo.jp/e475942.html
(16.1.5)

この本の中で紹介されている
農家と消費者をつなぐ「CSA」。

CSAとは
「Community Supported Agriculture」のことで、
直訳すればコミュニティに支えられる農業のことだ。

コミュニティマネージャーを配置し、
生産者と消費者、あるいは消費者同士のコミュニティを育む。
そんな取り組みが始まっている。

昨日企画していた「おとばたけ」の取り組みって
その方法論のひとつになるのではないかな。

音で農とつながる。
五感を使って感じる。

それは、きっと「ひらく」ということ。

昨日、コミュニティとプロジェクトのあいだ
と書いた。
コミュニティは居場所、プロジェクトはチーム。

人には「居場所」が必要である。
というのが、もし、ウソだとしたら。

「本当の自分」など、存在しないとしたら。

そして必要なのは、「承認」だとしたら。

「承認」が得られないのは、
他者からの「評価」を基準に生きているからだとしたら。

いまや、
「学校」も、「家庭」も、「地域」も、「会社」も
すでに「居場所」ではない。

「だから『居場所』が必要なのだ」
と言う人は多い。

でも、本当は、「居場所」じゃなくて「承認」
なのではないか。
特に山竹伸二さんのいう「親和的承認」なのではないか。

「部分的承認」
http://hero.niiblo.jp/e344865.html
(14.1.28)

大げさに言えば、
「自分がこの世に存在していていいんだ」
っていう承認を必要としている。

そしてそれは、
「居場所」によって全面的に得られるのではなくて、
「プロジェクトチーム」によって、一時的、部分的に得ていく。
その方法をとったほうがいいのではないか。

そういう意味では、
「農」によって、そして音によって、
五感をひらきながら、地域とつながっていくこと。
経済社会とつながっていくこと。

そのプロジェクトは、
地域の「農」をサポートするだけではなく、
若者の「承認」をサポートするのではないか。

「Community Supported Agriculture」
というコミュニティが

「Community Supported Approval または Acknowledgment」
になり得るのではないか。

※ ↑「承認」辞書ひいてしまった。英語わかる人、どっちが正しいか教えてください。
  両方違っていても教えてください。

そんな場と機会を起こしていくような本屋を、
いろんな人と作っていくこと。

それがCSB「Community Supported Bookstore」
なのだろうな。

もうひとつのCSAを作るような本屋、やりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 05:34Comments(0)アイデア

2017年06月19日

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ

昨日は久しぶりの開催。
「何か企むミーティング」

なんとなく感覚で集まった
4人で新しいプロジェクトを考える時間。

特にゴールはないアイデアだしの時間。

15時スタートだったのだけど
14時に集まって、お菓子を食べながら話す。
その時間がすごくよかった。
僕は途中抜けていたのだけど
家族との関係について、いい話ができていたようだった。

アイドリングというかチューニングというか
そういう時間。
15時からものんびりと話しました。

みんな中学・高校の時に
いろんなことを抱えていて、
特に女子は同調圧力が強くて、
そこに馴染めない人にはつらいんだろうなって。
なんか共感してつらくなっちゃいました。

僕はそこかも、って。
「コミュニティ難民」的な人に、話を聞いて、本を届ける。

新城劇場ってそういうところかもしれない。
そういう人たちが集まって、
コミュニティではなくて、プロジェクトを立ち上げる。

ビジネスやろう。
っていうのは、
経済社会の土俵で、人とコミュニケーションしよう。
ってこと。

ビジネスモデルがこうで、
こうやって投資を回収します、
みたいなことじゃなくて、
もっとヒューマンスケールで始めてみるのがいいなと。

そしてそれは、プロジェクトとして起こしていくこと。
チームはコミュニティではなく、プロジェクトチーム。

「プロジェクトとは、独自のプロダクト、サービス、
所産を創造するために実施される有期性の業務である。」
(PMBOKの定義)

なるほど。
「独自」なものを「創造」するための「有期性」の仕事のこと、か。

有期性、つまり、「終わりがある」ということ。
だから、「ふりかえる」ということ。
「独自」なものを「創造」しなければならないということ。

それは決してコミュニティではない。
というか非営利活動が陥る「マンネリ」というのは、
プロジェクトがコミュニティに変質してしまっているのではないか。

そして、かつ、それは純粋なプロジェクトでもなく、
プロセスを大切にするということ。
アウトプットと同じくらい、ひとりひとりを大切にすること。

「コミュニティ」と「プロジェクト」のあいだ。
そういう感じのやつを、
「コミュニティ難民」なみんなと共につくりたい
っていうのが、僕にとっての新城劇場なのかもしれません。

場づくり×小商い×ゼミ(動的な学びの場)

その先に、僕と地域の未来があるような気がしています。



今回始まりそうなのは、「おとばたけ」プロジェクト。
なんだか面白そうです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2017年06月18日

ハタチのためのブックガイド

ハタチのためのブックガイド
そんなのを作ってみようかなと思う。

岡倉天心の五浦で読むのがオススメ。
みたいなやつ。

じぶん編
しごと編
くらし編

おまけで
ばづくり編
とか。
かな。

みたいな感じですかね。

まずは「じぶん編」
「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)

まずはここから入門かな。
日本の学校環境の同調圧力について考えてみる。
鴻上さんの熱いメッセージにシビれる

そして「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)
ここでは、自由と承認、そして「親和的承認」について理解する。

で、「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)かな。

この3つ。
これで「自分」と「他者」について
相対的に、全体的に、俯瞰的に見てみる。

次にどう生きていくか、視野を一気に広げる。
ヘリコプターで上に上がっていくような感じ。

「独立国家のつくり方」(坂口恭平 講談社現代新書)
自分たちが今見えている世界だけが世界ではないのだと実感する。

「自分とは何か」(平野啓一郎 講談社現代新書)
本当の自分など存在しない、「分人」を生きることを提案してくれる。

「レイヤー化する世界」(佐々木俊尚 NHK新書)
歴史的視点から、自分とはプリズムなのだと教えてくれる。
この3冊でさらに高い視点でじぶんを見つめなおす。

こんな感じ。

ちょっと続けます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)

2017年06月17日

「共鳴」から始まるプロジェクト

「チューニング」っていうマイブーム。

先週金沢文庫「キッチンのある本屋」プロジェクト
のミーティング前の平野さんとのメッセージのやりとりでも
自然と出てきた言葉。

初めての人もいるから、
いきなりミーティングしないで、
8時に集合して、称名寺散歩して、
ちょっとチューニングしてから行く。

って。


「チューニング」。
それはもちろんコミュニケーションだ。

1つは感情のコミュニケーション。
「最近あったよかったこと」
「今日のミーティングをやってみてどうだったか?」

そうやって、感情を言葉にする「チューニング」。

もうひとつは、非言語のコミュニケーション。
一緒にご飯を食べる。
ご飯をつくる。
散歩をする。
農作業をする。

そうやって相手を
「感覚的に」「なんとなく」
知っていくこと。
音楽で言えば「音合わせ」をしている状態。

そこには、
「共感」というよりは、「共鳴」が起こる。

「共感」っていうのは、言葉だけでもできる。
でも「共鳴」っていうのはもっと肌感覚で、
感じないとできない。

プロジェクトってそういうものなのかもしれないなと。

ハックツの宮本もコメタクの吉野も
「なんか一緒にやってみたいな」
というのから始まっている。

それは本当に「なにか」だったんだと
今は思う。

感覚的な何か。

一緒に踊りたかったのか、歌いたかったのか、
奏でたかったのか。

そういう感じ。
楽器としての自分を、引き出してくれるような、
そんな出会い。

共鳴から始まるプロジェクト。

そしてそれはチューニングを繰り返しながら進んでいく。
いま、この瞬間が、ひとつの音楽なのだ。

そんなプロジェクトの進め方。

ひとつひとつのミーティングが
楽曲であるような、そんな時間。

今日はいい音出せたかな、
とふりかえるようなミーティングをしたい。

「目的から考える。」
と口癖のようにいつも言われてきた。
それはもちろんそうなのだけど。

ひとりひとり、いやひとつひとつの楽器が
いい音出してこそ、いい音楽、いい仕事だったと
言えるのではないかな。

そのためには、目的から考える、その前に、
チューニングから、共鳴から始めたほうがよいのではないか。

僕はそんな「チューニング」をする人に
なりたいかもしれない。

チューニング・デザイナー
ってどうですか?(笑)  

Posted by ニシダタクジ at 06:30Comments(0)言葉

2017年06月16日

「自分のやりたいことは何か?」ではなく「自分のお客は誰か?」

「生きる力」ってなんだ?

それが最初の問いだった。

2002年、不登校の中学3年生に出会ったことがきっかけで
NPO法人虹のおとを設立した。

テーマは教育をベースにしたまちづくり、
コンテンツは、遊びと学びの寺子屋、虹のひろばだった。

その前から僕は自宅で(一軒家20,000円だった)、
ミニ本屋+ミニ学習塾+ミニゲストハウスで、
旅行者が中学生に語るような場を作っていた。

ツイッターのプロフィールに書いているが、
僕の当時のミッションは、(今でもそんなに変わらない)
「15歳が自分と住んでいる地域を好きになり、
自分と社会の未来創造へ向けて歩き出している地域社会を実現します。」
だった。

虹のひろばで大学生を集め、運営をやってもらっていたのも、
そのあとに長期実践型インターンシップに取り組もうと思ったのも、
企業会員に会費を払ってもらいながら、
実は自社プロジェクト(学習塾や虹のひろば)
にインターン生を入れるため、というのも大きな理由だった。

中高生、大学生に地域活動拠点をつくりたい、と
ツルハシブックスをはじめ、地下に若者限定の古本屋をつくり、
「偶然」が起こるようにコミュニケーション・デザインした。

長期インターンシップを辞めた理由は、
長期実践型インターンシップは優秀な学生にしか
できないからである。

もっと商店街や粟島のような離島で
「自分に自信がない」
と言っているような大学生に、機会を提供したかった。

結果論ではあるが、
僕はずっと、「お客は誰か?」
という問いに向き合った来たのだろうと思う。

不登校の15歳中学生に出会った。
「自分に自信がない」と言い、動き出せない大学生に出会った。

何より、僕自身が
20代のころ、「自分のやりたいことは何か?」
という問いに苦しめられてきた。

「まきどき村」や「虹のおと」をやっているはずなのに、
「自分の本当にやりたいことが他にあるんじゃないか?」って
ずっと思っていた。

いま。
思うのは、それは最初の問いが違ったんだってこと。

「自分のやりたいことは何か?」
という問いは、無限にループするのだということ。
そしてそこに唯一の答えがあるような気がするのだ。

そうじゃなくて、

「自分のお客は誰か?」
という問いに、変えていくこと。

そして、仮説検証を繰り返すこと。
どうやって、そのお客を笑顔に、幸せにするかを
実践してみること。
だって、目の前にお客がいるんだから、ね。

そして、それはもしかしたら、
複数名いるかもしれない。
数学でいえば、複数解。

だから、いっぱいお客を設定し、
いっぱい何かを提供して、
振り返ってみるのがいいと思う。

実は、「インターンシップ」って
そういうことなのではないかと思う。

「自分に向いてる仕事」を探すのではなく、
「自分のお客」を探し、仮定し、サービスするのだと思う。

その問いを転換していくこと。

僕のミッションはそこにあるのかもしれないね。


ドラッカー先生、もう一度、読み直します。  

Posted by ニシダタクジ at 08:23Comments(0)思い

2017年06月14日

「第3の大人」になるかもしれない場所



6月10日(土)
暗やみ本屋ハックツ@新城劇場
オープン記念イベント。

サンクチュアリ出版の金子さんを
ゲストにトークイベント。

練馬・上石神井の暗やみ本屋ハックツの話から
「第3の大人」の話になる。

井口くん。
暗やみ本屋ハックツ2015年のオープン当初から
のスタッフ。25歳男。

常連の小学生にとっての
「第3の大人」としての井口くんがいる。

それは、
もう、「第3の大人」と
総称される人ではあるけれど、
それは具体的に井口くんだ。

たぶん。
そういうのが必要なのだろう。

最近、僕の周りの人が
(具体的には、新潟の池戸や大分に行ったちひろさん)

「地域活性化とか賑わい創出とかじゃないんじゃないの?」

って言っているのと
タイミングを同じくする。

自分の暮らしや目の前にいるひとり。

それを大切にしていきたいと
仕事をつくり、また活動をしている。

「暗やみ本屋ハックツ」は、
10代が第3の大人に出会うかもしれない場所であり、
自分自身が、「第3の大人」になってしまうかもしれない場所。

大切な本にメッセージを付けて、
暗やみの本屋に託す。
懐中電灯を持ち、10代がそれを探す。

その先にもしかしたら、
それは本を寄贈してくれた人だけではなく、
ハックツした前後にスタッフと話をすることによって、
または10代自身がスタッフをすることによって、
第3の大人に出会えるのかもしれない。


暗やみ本屋ハックツ@上石神井の中高生スタッフ

そんな場をつくっているのだろうと思う。

実は、中高生にとって必要なのは
「第3の場所」ではなく、「第3の大人」ではないのか。

いや、「第3の大人」のいる場所を後から振り返って、
人は「第3の場所」だったと思うのではないか。

そしてその「第3の大人」は自分自身かもしれない。
という学びの場を、あるいは何らかの力を、
「暗やみ本屋ハックツ」での出会いが
提供してくれるのかもしれない。

だからスタッフは世間的にはいわゆる休日を
費やして、暗やみ本屋に立つのかもしれない。

今週末6月17日(土)11:00~17:00
西武新宿線上石神井駅近くのカフェで
暗やみ本屋ハックツやっています。

寄贈本を手に持って、
見学に行きませんか?
僕も一緒に行きます。

連絡いただければ駅まで
迎えに行きます。  

Posted by ニシダタクジ at 05:47Comments(0)思い

2017年06月13日

「アイデンティティ」という音


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

まさか。
さっき書いたばっかりのブログの続きが
電車で開いた本に出てくるなんて。
どこまでも読書運が強い。

第2章 マルチプルな自己へ

一級建築士のいしまるあきこさんの
マルチな活動がひとつの肩書で言い表せない。
何屋さんですか?と言われたら、「きっかけ屋」と返すのだという。

そう「一級建築士の」と書いたけど、
それはわかりやすい肩書で、
いしまるさんの仕事は、
「〇〇のいしまるあきこ」とは言い表せないのだという。

どちらかといえば、「職業・いしまるあきこ」、
「いしまるあきこが〇〇も◇◇もやっている」
のほうがしっくりくる。
彼女自身が優れたメディアなのだと。

彼女の例をもとに、アサダさんは
自身が感じている「アイデンティティの揺らぎ」
について、次のように言う。

~~~ここから引用

2005年に上野千鶴子によって
編纂された『脱アイデンティティ』は、
アイデンティティの本質的含意に、
多様な切り口からの再考を促す
刺激的なアンソロジーだ。

上野氏はその中で、
社会学者ピーター・L・バーガーの論考を引きながら、
以下のように語る。


現実が社会的に構成されるものならば、
それを「生きられた現実」として経験する主体もまた、
社会的に構成される。
バーガーは、それを自己と現実の弁証法と呼んだ。

現実とは人間の能動的な活動が「外化(externalization)」
されたものであり、ひるがえってそれが「内化(internalization)」
される過程を経て、自己が形成される。
現実とはそのような弁証法的プロセスを得て構成された
「生きられた現実(lived experiences)」にほかならない。
☆(上野千鶴子『脱アイデンティティ』P18~19)

つまり、音楽で喩えるなら、
「個人練習」のみで自分なりの音を生み出すのではなく、
外にある世界(他者)との「セッション」を通じて、
音の質を磨き、その音に共鳴して
世界との「アンサンブル」もまた変奏され、
そして自分が次に出す音が定位される、というサイクルだ。

こうしてアイデンティティが社会的に
構築されるものだとわかれば、
逆に社会的に操作することも可能になる。

~~~

えっ。
マジか。
と思った。

さっきのブログを書いた後に、
この文章が飛び込んでくるなんて、
どうなってるんだ、読書の神様。

ジャズセッションによって、
自己のアイデンティティも磨かれていくのだとしたら、
楽しくなっちゃうなあ。

さらにアイデンティティについて、
佐々木敦さんの『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』
を引いて、次のように語る。

「アイデンティティという言葉が危険だと思うのは、
多数で複数の差異を抱えている存在様態の背後に、
もしくはその底に、「自分自身(トゥルー自分)」が
潜在していると考えてしまうからです。

僕はそれは、最初からあるのではなくて、
事後的に生み出されているものだと思います。

マルチエンディングがトゥルーエンドを
生み出すように、「マルチプル」であることが
「トゥルー」を引きずり出す。

つまり、あらゆる人間がもともとは一種の多重人格者として
生きているからこそ、アイデンティティという概念が必要と
なってきたのです。」

そして、次のように続ける。

▽▽▽ここから一部引用

私も世界もすでに、マルチプル(多様な、複合的な)であること。
つまり最初から「ひとりの自分」という概念を手放してしまうことができれば、
理解されないという悩みを根本的に打ち消すことができるかもしれない。

そして、それゆえにたったひとつの
「トゥルーな(本当の)自分」が
もしあるとしても、それはマルチプルに
生きていく中で事後的に生み出された
イメージとして存在するのみだという
事実に気づけば、いま目の前で起きている、
その時々の自分と他者とのコミュニケーションを肯定的に
捉えることができるだろう。

小説家・平野啓一郎は言う。
「すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
そこでこう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。
裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、
すべて「本当の自分」である。」

平野氏は分人という概念を提唱し、
人間を「分けられる」存在であるとする。
そして、
「一人の人間は複数の分人のネットワークであり、
そこには『本当の自分』という中心はない」と答える。

分人主義を突き詰めていく先には、
複数の分人のネットワークの総体
を何かしらメディア化して伝えたいという欲望を持ちながら、
メタ分人として他者に事後的に気づかせることを可能にし、
コミュニティ難民が抱える内的難民性をじわじわと
ポジティブに反転させてゆくのだ。

△△△ここまで一部引用

うんうん。
なるほどって。

大学生や20代が抱える「アイデンティティ」問題。
(いや、中学生高校生もだ。いやいや、僕もだ。)

その考え方の仮説として非常に興味深いし、
「ジャズセッション」のようなプロジェクトは
そのような個人のアイデンティティというか、
ひとつの「分人」が奏でる音を、
セッションしていくことなのだろうと思う。

場に合わせて、相手に応じて、
いろんな音が出せる楽器のような存在。
楽器のような人生。

本当の自分など、存在しない。

セッションを積み重ねて、
自分の音を見つけ、創っていくこと。

そんなセッションをつくるための
チューニングをするのが僕の役なのかもしれない。

そういうの、なんて言うんですか?
チューニングをする人のこと。
教えてください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年06月13日

「チューニング」から始まる。

チューニング【tuning】

( 名 ) スル

受信機や受像機のダイヤルを回して周波数を同調させ、特定の放送局を選択すること。

楽器の音程を正確に合わせること。音合わせをすること。

(コトバンク 大辞林第三版より)

ジャズセッションのような
「場」をつくりたいと思う。

そこに居合わせた人が
歌いだしたり、踊りだしたり、
新たに楽器を持って来て、演奏を始めたり、するような場を。

それを見ているだけでも
楽しくなってしまうような場をつくりたい。

「多様性」と「偶然性」が「可能性」を生む。
とソトコトの取材の時に答えたけれど。

その「場」には
ジャズセッションのような、
五感に響く何か、が必要なのかもしれない。

6月11日(日)朝8時。
金沢文庫駅集合。

称名寺まで歩く。
素敵な風景が広がっている。


いったん駅に戻って、
パンを買って、10時過ぎにミーティング開始。

2時間。それは「チューニング」の時間。
いや、ミーティングの場も、
最初はそれぞれの思いを語ってた。

次の日程、内容などは
最後の30分だけだった気がする。

初参加の人がいるとき、
そこには「チューニング」の時間が必要になるのかもしれない。

音合わせの時間。
それぞれの楽器の音を出してみて、
音を合わせていく。

今回は高音の人が多いから
自分は低音でいこう、とか?
(音楽やったことがないのでよく分からない。笑)

プロジェクトが始まるとき。
そこにはチューニングの時間が必要だ。

一緒にご飯を食べたり、飲み会したり、
一緒にご飯を作ったり、キャンプをしたり。

「ミーティングとは感性をチューニングすること」
http://hero.niiblo.jp/e484576.html
(17.4.23)

のように、
チューニングっていうのはすごく大切なのだと思う。

自分の音、ちゃんと出せてるか、って。

そう。
もしかしたら、「場」に必要なものって
チューニングなのかもしれない。

もし、ジャズセッションのようなまちを
作りたいのだとしたら、

今回の金沢文庫でやる
シェアキッチンのある本屋プロジェクト(仮)で
つくる「場」は、キッチンは、本屋は、
ひとつの楽器になるのかもしれないなと。

そこに集まってくる人たちと、
「こいつ、どんな音を出すんだろう」って、
「こいつ、なかなかいい音出しそうだな」って、
チューニングして、音楽を生み出していく。

そんな場になるのではないか。

ジャズセッションのようなまち。

シェアキッチンのある本屋(仮)は、
その最初の音になりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 05:45Comments(0)言葉

2017年06月12日

僕が小さな会社でのインターンシップをおススメする理由


(写真はイメージです。笑)

2008年2月から「起業家留学」という
インターンシッププログラムを
現・一般社団法人わくわくスイッチ代表の中村さん、
新潟大学経済学部3年(当時)の星野くんとスタート。

おもに新潟市の比較的小規模の会社に
経営者密着で行うインターンシップ。
基本を半年間という長期に設定し、
企業からの会員費で運営する、というスタイルをとった。

この夏のインターンシップをどうするか?
に悩んでいる大学生も多いと思うので、
僕なりに、考えてみようと思って書いてみる。
(特に、1,2年生の比較的時間に余裕がある人向けに書いた)

1 インターンシップとは何か?

「インターンシップ」が新聞に取り上げられるとき、
「就業体験」と訳されることが多い。
ようするに、一定期間「仕事をしてみる」という
ふうに理解されているようだ。

まあ、それはそうなんだけど、ね。
「体験」ならアルバイトでもできるような。

2 なんのためにインターンシップをするか?

「向いている仕事という幻想」
http://hero.niiblo.jp/e479464.html
(16.5.22)

これが大きく誤解されていると僕は思うのだけど、
インターンシップは就職の際の「ミスマッチ」
を防ぐためだと思われているところだ。

仕事を実際やってみて、「向いている」「向いていない」が
分からないから、新卒社員が3年以内にやめていく、と思われている。

この「マッチング」という考え方こそが
逆に新卒離職をどんどん生んでいると思う。
向いている仕事など存在しない。
仕事に合わせて自分を変えていくだけだ。

3 「起業家精神」(アントレプレナーシップ)を養成ためのインターン

インターンシップの目的は、
一言でいえば、「起業家精神」の養成ということになるだろう。

目の前で起こることを、
自分ごととしてとらえ、自ら考え、自ら判断し、動いていくこと。
その繰り返しを行うことで、仕事に対する姿勢を、経験すること。

だからこそ、
小さな会社(組織)で経営者(創業社長、創設者など)
と一緒にプロジェクトを回してみることに、大きな価値があると思う。

特に具体的な進路が決まっていない
1,2年生の時こそ、アントレプレナーシップを養成する
インターンを行うことをオススメしたい。

4 ドラッカー・サイクルを回す

社会人にとって必要なのは、
「PDCAサイクルを回す」ことだとよく言われる。
計画を立て、実行し、チェックし、改善する。
そうやって仕事を回していくことだと。
これはもちろん大事なのだけど。

もっと大切なのは、
ドラッカーの5つの質問のサイクルを
回してみること。

経営の神様、ドラッカーの5つの質問。

1 ミッションは何か
2 顧客はだれか
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

この質問を回していくこと。

これが、これからの「自らの人生を経営する」
上でものすごく重要になってくる。

これを体感するには、小さな会社の経営者、
あるいは、NPOなど小さな組織の創設者に
「なぜ?」を問うのが一番いい。

そこにはミッションと顧客と顧客にとっての価値が
あるはずだ。

それを体感し、自分自身の5つの質問へ
答えるような練習をする。

5 人生を「経営」する入口に

インターンシップとは、
人生を「経営」する入口として使うものだと僕は思う。

「就職活動」の名の通り、
大学を卒業したら、どこかの会社に就職する
=サラリーマンになる
ことが一般的だと思われている。

しかし、多くの大学生が感じているように、
一生同じ会社に正社員として勤め続けられる人はごく少数だ。
つまり、雇われ続けるのは非常に難しい。

「起業しろ」と言っているわけでは決してない。
ただ、起業家精神(アントレプレナーシップ)
と5つの質問を常に持ちながら歩んでいかないと
仕事はただつらいものになってしまうだろうと思う。

仕事の喜びは、
預かってきた「手紙」を渡すことだと僕は思う。

「あなたのために、このお店を始めた」
http://hero.niiblo.jp/e484991.html
(17.6.7)

それを会社員として実現しなくても、
暗やみ本屋ハックツや新城劇場のように
実現する方法もある。

自らの人生を「経営」する。

そのために、経営者に触れてみる。
一緒にプロジェクトを動かしてみる。

そんなインターンシップを僕はおススメします。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)就職

2017年06月11日

「余白」があるから開かされる


「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)

余白の話。

「町工場がひしめくものづくりの街、東大阪。
その街の看板には偽りが多いのだという。
「〇〇ミシン工業」「××バネ製作所」などと
記しているのに、実際はまったく違うものをつくっている。

東大阪の職人がよく口にする言葉は、
「どないかします。」である。」
こんな部品がつくれるかと聞かれれば、
決して無理だとは言わない。

次々と大企業の要望に応えるうち、
いつのまにか「本業」からずれていった。
偽りの看板は進化の証である」
という日本経済新聞『春秋』(13.5.10)からの抜粋。

これを読んだとき、
アサダさんは電車の中で思わず
声をあげてそうや!と頷いてしまったという。

そして、
アサダさんは、「余白」の重要性についてこう語る。

~~~ここから引用

工学者でボランティアネットワークについての
論考で知られる金子郁容は、その昔、
他者からの力が流れ込んでくるのに、
「ふさわしい場所を空けておく」ことの重要性を語った。

「変化への潜在的可能性、いわば存在の余白のようなもの」

その場所、余白を開けておくのが重要なのだ。
「自分はこれしかできない」とか
「自分はこれが専門だから」ということに固執しすぎると、
他者が与えてくれる力が流れ込んでくる「隙間」が生まれない。

「自分の可能性が他人によって開かされていく」
ことをもっと楽しんでいいのではなかろうか。

そう。とにかくここは一つ、
自分を使った「人体社会実験のようなものだ」
と考えるようになった時に、
ジメジメした不安は、
ドキドキとふわふわを携えた「未知」へと
変わっていく実感を持てたのだ。

未だ知り得ぬ自分は、
いまの自分ができることを鮮やかに裏切り、
いずれ「偽りの看板」と呼ばれるほどに、
その「専門」のかたちが
変えられていく可能性を示してくれる。

秋田住職はいつも、スタッフにこう話していた。
「人は、あなたに出会って、わたしになる」と。
この言葉の意味を、今改めて自分に引き寄せて
反復せざるを得ない。

~~~ここまで引用

そうそう。
「余白」って大事だ。
「余白」があるから、変化ができる。

「迷わずゆけよ、ゆけばわかるさ」

っていう
「道」という詩があるけれど、

前に道はない。
後ろにしか道はできない。
っていうのは、

未知を歩むから道になるのだなあと。

余白を残しておくことって
大事だなあと。

ひとりひとりに余白をつくっていく。

僕はそれを仕事にしたいなあと。  

Posted by ニシダタクジ at 06:37Comments(0)日記

2017年06月09日

パスを受ける準備はできているか?


「せいめいのはなし」(福岡伸一 新潮社)

「動的平衡」というキーワードで
対談しながら世の中を読み解く1冊。
第1章は内田樹さんと。

これは生物の世界と経済の世界の話を
リンクさせて語っている。

内田さんの「贈与経済」の話は、
前から読んでいたのだけど、
その表現方法が美しかったので、引用。

~~~ここから引用

富全体が増えていても、循環しなくなってくると、
経済システムの生命はだんだん衰弱してゆく。
いま、日本を含めて世界の経済システムが死にかかっているのは、
運動がなくなっているからだとぼくは思います。

回っている「もの」のほうに価値があると思い込んで、
回すことそれ自体が経済活動の目的なんだという
根本を忘れてしまったからだと思う。

だから、僕が提案しているのは贈与経済の復権なんです。
「交換から贈与へ」ということなんです。
要するに、受け取ったものをどんんどん次にパスしましょうよ、と。

90年代以降、商品は
個別的な有用性や実用性(使用価値)を離れて、
象徴価値(所有者の帰属階層やアイデンティティを示す能力)
にシフトします。

消費行動が誇示的なものに変わった。
こんな服を着て、こんな家に住んで、
こんな車に乗って、こんなものを食べて・・・
ということを誇示することで、
自分自身のアイデンティティを基礎づけた。

物欲には身体という限界があります。
1日に食べられる消化能力を超えられないし、
着られる服の数だって限られている。
でも、自己同一性を基礎づけるための消費には
「これで終わり」ということはありません。

~~~ここまで引用

なるほど。
経済も生物も「動的平衡」なのだと、まわし続けることだと。

それを無限に続けるために、
「誇示的消費」が生まれたのだなあと思う。

しかし、誇示的消費は、自己矛盾を抱えていて、
自分自身が唯一無二であるというアイデンティティを、
ものを買うことで満たすことは、
その「もの」自体が、ある一定層の人が
一定数持っていなければいけない。

そんな自己矛盾を抱えている。そしてそれが
「自分らしく生きるためには『自分らしさ』を誇示する
商品を買うためのお金が要る。」という理屈を生み出し、
お金がない人はまだ自分になっていない、ことになり、
ネットに「名無し」という名乗りで書き込み続け、
アイデンティティを誇示するしかない。

これが三浦展さんの「第4の消費」で説明されているような、
必需品が終わったあとの需要の喚起のために、
経済界がとった(結果として、かもしれないが)戦略であった。

そして、これに続く内田さんのたとえが素晴らしくて、引用

▽▽▽ここから引用

でも、これはやはり発想の根本が間違っていると思う。
どんな商品を所有していようとそんなことは
本来何の関係もない。

クラ交易と一緒で、貝殻自体には何の意味もないんです。
問題はそれをどうやってパスするかということであって、
パスの仕方によってのみその人のアイデンティティは示される。

サッカーやラグビーのようなボールゲームには
太古的な起源があると思うんです。よくできている。
人間が営むべき基本的社会活動の原初的な構造を持っています。

与えられたものは次に渡さなければならず、
渡すときにできるだけ多様な形の、自由で、
ファンタスティックで、予想を裏切るようなパスを
しなくてはいけない。

ボールをもらったらワンタッチで次にパスしなければいけない。
だから、パスをもらってから、そこで「次、どうしようかな」
と考えていたら間に合わないのです。

ふだんからずっと考えていなくちゃいけない。
いつもいつも「いまパスをもらったら次にどうパスしようか」
を考えている。

贈り物の受け手がどこにいて、
どんなふうに自分を待っているか、
自分がもらったら遅滞なく次に渡す相手に
あざやかなパスを送ることだけを
日々、考えているような人こそが、
贈与経済の担い手になりうる人だと思うのです。

与える先は、ボールゲームと同じで、
「その人の前にスペースが空いている人」です。
次にパスする選択肢がいちばん多い人。
ボールゲームでは必ずそういう人に向けて、
パスが送られる。

もらったボールを退蔵する人や、
いつも同じコースにしかパスを出さない人の
ところにはボールは回ってこないんです。

そういう点で、
ボールゲームの意義は、人間の経済活動の、というよりも
社会を構成していくときの根本原理が
書き込まれているんじゃないかとぼくは思っているんです。

△△△ここまで引用

うわああ。
すげええ。
もう、シビれちゃったよ。

今日のブログは、本当は、
アサダワタルさんの本を引用して、
「余白」について書こうと思ったのだけど、

朝、ふと目に留まったこの本を読んでたら
うお~!って叫びたくなっちゃった。

パスをもらうためには、
「目の前にスペースを空けておくこと」
「次にどこにパスを出すか、考えていること」

そしてなにより、
「多様な形の、自由で、ファンタスティックで、
予想を裏切るようなパス」をしなくてはいけない。
しかも瞬時に。
それこそがアイデンティティなのだ。

うーー。
唸るわ。

そういう意味では、
古本屋って、とっても素敵な仕事だな、って。

受け取った本を、ワンタッチで、
ファンタスティックで、予想を裏切るように
棚に並べ、
次のプレイヤーにパスを出す。

そこには、前にスペースが空いている
プレイヤーがやってきて、
そのパスを受け取って、先に送る。

それをぐるぐるぐるぐる回していく、
それが古本屋という仕事なのではないだろうか。

まるでラグビーのように、
ボールを持った人が、まずは突破していき、
絶妙のタイミングでフォロワーにパスを出す。

そうやってパスをつないでいくような仕事。
そんな仕事をしたいと思う。

あなたのまわりに、
そんな「突破」をしている人がいないだろうか?

そしてそもそも、
あなたの前にスペースは空いているのだろうか?

パスを受ける準備はできているか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)

2017年06月08日

「チーム」とは、問いを共有する、ということ

チームとはなんだろうか?
と問いかけてみる。

「仲良しクラブじゃないんだから。」
とおっさんたちは言う。

「居場所」ではなく「場」であること。
それは僕がコミュニティ難民だからかもしれないけど。

アサダワタルさんの「コミュニティ難民のススメ」を読み直す。


はじめに、から、もう楽しい。本質的。
サブタイトルの「表現と仕事のハザマにあること」も深い。

表現者として生きる。
それには、現在のシステムはきついのだなあと。

~~~ここから一部引用

人は自分が所属する「専門性」や「分野」
という名のコミュニティ、ごく端的に言えば、
「ホーム」を離れた活動によって、
コミュニティとコミュニティのハザマへと
途端に迷い込み、互いの常識の間で「難民」化
してしまうことになる。

その時に生じる言葉にならない疎外感、
事故の問題意識を伝えきれないもどかしさ、
それらを抱えることで連鎖的に生じるアイデンティティの揺らぎ、
それを内的難民性という言葉で示そう。

一度発生してしまった内的難民性は、
「一つのコミュニティの価値観や常識に従うことによってのみ、
そのコミュニティからは認められる」という
社会通念自体に違和感を持ってしまう、構造的問題があるからだ。

とりわけ、「郷に入っては郷に従え」的な感覚が蔓延する日本社会では、
多くの人がそのシステム自体に無自覚であるため、その郷から洩れる動きをすれば、
それは当然個人の性質、あの人は根無し草だ、彼は流れ者だから、
というようにのみ、とらえられてしまう。

~~~ここまで引用

そう。
そうそう。

「社会人になる」とよく言うけれど、
現在の日本で、それは「会社に入る」ことを意味する。
それは、会社に適応する、ということだ。

そしてその「適応」を
世の人は「成長」と呼んでいる。

僕は「成長」という言葉が好きじゃないのは、
そういう理由なのかもしれない。
成長を目的としたら、
その成長を測るのは一体誰なのか?
自分自身で測れるのだろうか。

「問い」を持ち、
それに自分なりの答えを出していくこと。

いや、答えじゃなくて、仮説だ。
その問いは、正解のある問いではないから。

問い⇒仮説⇒実践⇒新たな問い
そうやって人生は進んでいくのではないか。

このブログは「20代の宿題」
というタイトルなのだけど、

最初、名づけたときは、「20代の宿題」とは、
「本当にやりたいことを見つけること」だと思っていた。

僕は29歳の時に。
「小説吉田松陰」(童門冬二著)を読んで
野山獄エピソードにこれだ!と思った。

「学びあいの場づくりで希望を生む。」

これが僕のやりたいことだと心から思ったし、
今でもそれは変わらない。
そんなミッションに出会えること。
それが20代の宿題なのだと思った。

でもそれは「やりたいことを見つける」ではなく、
そこにたどりつくには、
無数の問いがあり、無数の顧客との出会いがあり
コミュニティ難民としてのアイデンティティの揺らぎがあった。

だから、きっと、
「問い」こそが重要なのではないかと思う。

そして、冒頭に戻り、
チームとはなんだろうか?
と考えてみる。

「問い」を持っている人たちが
それぞれの問いを尊重しながら、
チームでひとつの問いを考え、仮説を立て、
実行していくこと、そして振り返ること。

その時に自分自身も同じ問いを投げかけ、
自分自身も仮説を立てていくこと。

そんな「場」をつくること。
これがきっと現時点での僕がやりたいことの言語化だ。

僕には「居場所」という表現がしっくりこないのは、
そこに動きがないから。

僕はアサダワタルさんの言うところの「コミュニティ難民」
だからそうじゃない人の気持ちがあまりわからないのだけど、
「居場所」にいることは、あまり居心地がよくない。

カフェ付きのゲストハウスが心地よいのは、
そこには宿泊者という旅人とカフェ利用者という地元の人が
いい感じに空気を交換しているからだ。

そしてその「場」をホールドする(ファシリテートする)人の
「問い」が心地の良い「場」には必須なのではないか。

問い続けること。
学び続けること。

それを失ったとき、
「場」は「居場所」に支配され、
動きが止まり、そして死んでいく。

それが
16年11月のツルハシブックス閉店に学んだことだった。

問いを持つ。
仮説を立てる。
実行する。

その「問い」のひとつが
「顧客はだれか?」であり、「顧客にとって価値は何か?」
であり、その問いを共有できる人たちがチームだ。

そんなチームでプロジェクトを進めていきたい。

あなたの問いはなんですか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)チーム

2017年06月07日

あなたのために、このお店を始めた

「お店をやる」ってどういうことだろう。

2014年11月24日。
http://hero.niiblo.jp/e457867.html

中学2年生のメイちゃんが
ツルハシブックスに屋台を出した日。

メイちゃんは、その少し前
お父さんに連れられて、
お姉ちゃんの塾のお迎えのための
時間つぶしにやってきた。


その日は、「鶴酒場」という飲み会中だった。

えっ。
なんだここ。
とビックリしたと思う。

聞けば、部活を辞めたばかりで、
何に打ち込めばいいのか、
もやもやしているのだという。

「屋台、やってみればいいじゃん」
そんな声を掛けた。

それが実現したのが、2014年11月24日。
今では高校に元気に通っている。

そしてもうひとつ、2012年12月23日。
http://hero.niiblo.jp/e222624.html

「失恋に効く本、ありますか?」
とクリスマス直前に入ってきた学ランの高校2年生男子。

彼にテキトーにアドバイスする大人たち。
「詩を書けっ。今ならいい詩が書ける。」
ってそんな・・・

その日は2Fでクリスマスライブがあって、
みんなそのため、1Fからはいなくなる。

ライブの受付を終え、1Fに戻ってみると、
彼は、まだいた。

少し明かりを落とした店内で話をしていた。
フリー看護師(当時)のなっぱさんと。

そして、力のない笑顔でこう言って帰っていった。
「また来ます。」

お店には、そんな瞬間がある。
いや、仕事には、人生にはそんな瞬間がある。

それを、リアルに感じられる場所。
偶然を起こせる場所。
それが小さなお店なのかもしれない。

僕の仕事観、人生観は、
工藤直子さんの「あいたくて」
に集約されているのだけど、

「あいたくて」工藤直子

 あいたくて
 だれかに あいたくて
 なにかに あいたくて
 生まれてきた──
 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか
 あえるのは いつなのか──
 おつかいの とちゅうで
 迷ってしまった子どもみたい
 とほうに くれている

 それでも 手のなかに
 みえないことづけを
 にぎりしめているような気がするから
 それを手わたさなくちゃ
 だから

 あいたくて

お店をやるっていうのは、
渡さなければいけない気がする手紙を
預かっているからで、それを渡したいのだろう。

それを渡す相手が誰なのか?

それが顧客は誰か?
という問いなのだろうと思う。

小さなお店に立っていて、
次に入ってくるお客さんが、その人なのかもしれない。
暗やみ本屋ハックツに寄贈した本が、
もしかしたらその人に届くかもしれない。

そんな瞬間に立ち会えるかもしれない。

だから人は、小さなお店を始め、
あるいはハックツに本を寄贈し、
そして中高生と一緒に本屋を運営するのだろう。

「あなたのために、このお店を始めたんだ。」

そう思える瞬間のために。  

Posted by ニシダタクジ at 05:28Comments(0)

2017年06月06日

2人の「顧客」


「経営者に贈る5つの質問」(P.F.ドラッカー ダイヤモンド社)

最近よく出てくる
「5つの質問」をあらためて
考えてみようと思って購入。

もともと、5つの質問は
非営利組織のために書かれたのだという。

非営利組織は、損益というコンセプトが
ないからこそマネジメントが必要であり、
ミッションに集中するにはマネジメントを
駆使しなければならない。

そうそう。
そうなのだ。

非営利組織の評価は売上や利益だけでは測れない。
だからこそ、顧客と顧客にとっての価値を
問い続け、検証し続けなければならない。

今回得た新しいエッセンスは、
組織には、二種類の顧客がいる、ということ。

~~~ここから引用

一方は、活動対象としての顧客(プライマリー・カスタマー、主たる顧客)、
すなわち組織の活動によって生活と人生を変えられる人たちである。
組織が成果をあげるには、活動対象としての顧客を絞らなければならない。
「われわれの顧客は誰か?」という質問に答えなければならない。
焦点を絞らなければ、エネルギーは拡散し、成果はあがらない。

もう一方は、パートナーとしての顧客(サポーティング・カスタマー、支援者たる顧客)
である、ボランティア、有給スタッフ、寄付者、委託先など、
やはり組織の活動によって満足させるべき人たちである。

彼らパートナーとしての顧客は、組織が提供するものに
ノーと言える人たち、つまり組織の活動とのかかわりを
拒むことのできる人たちである。
彼らこそ、組織が意義ある奉仕の機会を与え、
その寄付を成果に結びつけ、その活動をコミュニティのニーズに
応えさせることによって、満足させるべき人たちである。

活動対象としての顧客だけが顧客ではない。
パートナーとしての顧客が満足しなければ
成果をあげることはできない。
そこで、パートナーとしての顧客を
活動対象としての顧客と並置したくなる。
しかし、組織が成果をあげるには、
その焦点はあくまで活動対象としての顧客に絞らなければならない。

~~~ここまで引用

なるほど~。
パートナーとしての顧客か~。

ツルハシブックスのサムライとか
新城劇場のスタッフ(現在呼び名検討中)は、
きっとこれですね。

新城劇場のマキちゃんのブログ。
http://ameblo.jp/22375324/entry-12281148750.html

新城劇場は、
「活動対象としての顧客」を「中学生・高校生」に設定している。
地域の中学生・高校生が変な本屋に出会い、
屋台で何か売ってみたりするような本屋さんを目指す。

そして、
「パートナーとしての顧客」を「大学生・20代社会人」を想定している。
彼らが、店員となって、劇場をプロデュースする。
自ら何かを売ってもいい。

「活動対象としての顧客」の価値は、
これから対話をしながらつくっていかなければならないが、
ツルハシブックスや暗やみ本屋ハックツなどでの経験からいけば、

「地域の大人との出会いによる視野の広がり」
「部活に代わる第3の熱中できる場の提供」
であり、そのためには屋台でモノを売ってみる、とか
自らもスタッフになって何かを企画・実行する、とかがいいと思っている。

一方で
「パートナーとしての顧客」の価値は、
第1に「本屋のある暮らし」ができること。

そしてそれは、本屋のお客として、ではなく、
本屋の店員として、の暮らしである。

新城劇場で店員をやる。
それは、劇場の中の演者になるということ。
入ってきた人はお客さんではなく、共演者であるということ。

そんな時間があるような暮らしを
大学生や20代は必要としているのではないか。
いや、実際、僕が必要としているのだけど。笑。

なんというか、マキちゃんがブログに書いているように、
「生きてるな」っていう感じがあるのだろうと思う。
日々、「生きてるぜ」って実感しながら生きたいと僕も思う。

そしてそれが
「パートナーとしての顧客」であるスタッフの価値であるのではないか。

また、「活動対象としての顧客」を呼ぶために、
どのようにアプローチするか?を問いかけ続けることによって、
あるいはスタッフ皆でミーティングすることによって、
そこには「思考する時間」そして「学び」があるからだろうと思う。

そんな連鎖を生み出すことによって、
「武蔵新城」というまちの魅力を高めていくこと。
シンプルに言えば「住みたいまちをつくる」ということ。
それが「新城劇場」プロジェクトなのだろうと思った。

さて。
今週末10日(土)は、暗やみ本屋ハックツ@新城劇場のオープンです。
10代に贈りたい本を持って、遊びに来ませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:04Comments(0)