2017年06月28日
「小さな本屋」というゆらいだメディア

「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)
昨年秋に「街場の憂国会議」からの
三部作を読んでいたのだけど、
この本はまだ読んでなかった。
この本もとっても熱い。
P216 「日本のメディアの病」より
~~~ここから一部引用
生き延びるためには、複雑な生体でなければならない。
変化に応じられるためには、
生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで
構造化されていなければならない。
ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、
それが生物の本態である。
私たちのうちには、気高さと卑しさ、
寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、
入り交じっている。
私たちはそのような複雑な構造物としての
おのれを受け入れ、それらの要素を
折り合わせ、強制をはかろうと努めている。
そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人の
ことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。
メディアは「ゆらいだ」ものであるために、
「デタッチメント」と「コミットメント」を
同時的に果たすことを求められる。
「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、
そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、
それが何であるのか、なぜ起きたのか、
どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。
「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、
他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、
当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。
この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、
混沌としたこの世界の成り立ちをいくぶんか明晰な語法で明らかにし、
そこでの人間たちのふるまい方についていくぶんか倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を
果たすことではじめてその社会的機能を果たす。
だが、現実に日本のメディアで起きているのは、
「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。
「デタッチメント」的報道は、ストレートな事実しか報道しない。
その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、
どういう意味を持つものなのか、私たちは
どの出来事をどう解釈すべきなのかについて、
何の手がかりも提供しない。
そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。
「コミットメント」的報道は、その逆である。
その出来事がある具体的な個人にとって
どういう意味を持つのかしか語らない。
個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを
一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が
他ならぬこの人において、なぜどのゆおうに生じたのかを
「非人情的」な視点から分析することを自制する。
そこに「客観的冷静さ」を混じり込むことを嫌うからである。
いまメディアに必要なものは、
あえて抽象的な言葉を借りて言えば、
「生身」なのだと思う。
~~~ここまで一部引用
本屋は本来のメディアになりうる、と思った。
「デタッチメント」と「コミットメント」
を同時に提供できるからだ。
世の中を客観的に構造的にドライに見るヒントも本から与えることもできるし、
お客さんのパーソナルな話を聞き、共感し、寄り添うこともできるからだ。
人間的な「生身」のメディアとしての本屋。
「小さな本屋」は、そういう存在になれるのではないか。
私たちの多くは、ゆらいでいる。
(イチロー並みにブレない人もごく少数いる)
ゆらいでいるからこそ、
偶然を楽しみ、多様性に埋もれ、
予期せぬ何かや誰かに出会い、
さらにゆらいで生きていくのだろう。
小さな本屋はそんな存在になれるのではないか。
それが僕が「本屋というメディア」の先に見るものかもしれない。
Posted by ニシダタクジ at 05:33│Comments(0)
│本
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