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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2016年04月26日

本当にすごい戯曲は、それを読んだ人が勝手に上演をしてしまう


「戯曲は作品である」(岸井大輔)

いや、面白いね。
読み進めるほどに。

450ページからの
戯曲は作品なのか(黒瀬陽平×岸井大輔)

紙幣は紙に書いてあるだけなのに
人が動くから戯曲であるという
岸井さんの発言から始まる。

~~~以下メモ

戯曲は「アクションせよ」って言っているだけじゃないか。
再現するべき台詞などがありながら、
一回性をしてくれという矛盾を含むわけ。
演劇は、この一回性、つまり、今生成された
演技の良さと、あらかじめ計画された戯曲による演技の良さという
矛盾によって成立する。
で、その矛盾を成り立たせるために戯曲はある。

反復する演技の文化ってあからさまに反復不可能な
ほとんど奇跡のような事件を起源に設定していることが
多いですよね。

それによって自ら一回性と複数性、
再生産可能性と再生産不可能性を抱え込んでいるというか。
例えば、落語って同じ話を何回も何回も繰り返すないですか。
それを繰り返すことに意味がある。
稽古にしたって、基本的には、師匠が喋ったことを
何度も反復することによって技を修得する

でもあの伝説の圓朝の「三題噺」って即興で作られたことになってますよね。
反復の芸能の起源が、即興によって生まれている。

繰り返される上演の起源というのは、
一回しか起きなかった奇跡であるということですね。

紀元前6世紀の頃の孔子にしても、
釈迦にしても、ソクラテスにしても、
文字を書かなかった。
つまり、一回性のトークをしてただけです。

だけど、何も書かずに死んじゃったら、
その弟子の中で必ず書くやつが出てきた。
しかもその書いたやつの形式が全部戯曲形式である。

「あの人がこの人に向かってこう言った」という
残し方しかできなかった。

ギリシア悲劇って、プラトンと同時期だから、
この時期に人類は戯曲を手に入れたんだと思うんだよね。
アクションは記録ではなく、一回性の再生産によってしか残せない
ということだと思うんですよ。

読んだ人がもう一回考えて、
アクションをもう一回再生させないと、
釈迦は残せない。
理論化しても、釈迦のアクションは伝わらない。

だから戯曲は、ちょっと考えさせるようになっている。
すると、読んだ人がなんだろう?と思って、
「あ、こういうことかあ!」ってなったときにアクションが起きる。

優れたアレゴリーは、
それを見た人に上演(解釈)を無限にさせてしまう力を持っている。
人類はおそらく、
再解釈を強制的に駆動させるようなアレゴリーに力に、
紀元前5世紀くらいのときに気づいた。

そして同時に、人生の一回性とかについても考えた。

一回性を運命づけられた人類の中で、あまりにも
すごいやつが出てきてしまったために、
「こつが死んだらやばくね?」みたいな話になって、
なっとか反復する方法を一斉に考えた。

それが演劇の期限であり、アレゴリーの起源でもある、
っていう風にも言うことも可能ですね。

釈迦とかが、
相手や状況に合わせたアクションとして示した、
演技でしか伝えられない真実。
このときにアレゴリーを使っている。
だから最初の戯曲家たちも、アレゴリーを活用したんじゃないかと。

本当にすごい戯曲は、それを読んだ人が勝手に上演をしてしまう。
あるいは上演せざるを得なくなる。

もし優れた戯曲やアレゴリーの条件が、
他人に上演させてしまうことなのだとしたら、
その条件を構造的に持っていないとだめだと思うんですよ。

読者がそのフィクションをおもしろいと感じるかどうかとは別に、
それを読んでいる時点ですでにフィクションに巻き込まれてしまっているような構造。

~~~ここまでメモ

いやあ。
面白いね。
そうそう。

そういう空間を「ツルハシブックス」で
実現したいのだと。
一回性と複数性。

「気がついたら私も本屋という舞台の共演者になっていました。」
っていうのはまさにそういうことかと。

岸井さん、また話したいな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)

2016年04月25日

私にできることは、なんだろう

2005年に行われた「愛・地球博」
リベンデル主宰の熊澤さんが
手にした1冊の本。


「私にできることは、なんだろう。」(地球市民村編)

今回の茅ヶ崎リベンデル5周年の
特別企画「一夜限りの特別な本屋ハックツ」
に熊澤さん本人が寄贈した1冊。

僕は金曜日の夕方から
土曜日の夕方まで、リベンデルで過ごした。

なんとも言えない暖かい雰囲気に包まれている場所。
「ココロ満タンになりますから。」と
何度も熊澤さんに言われたけど、
本当にそんな感じ。

土曜日のお昼は、
すべてリベンデルの畑で採れた
熊澤夫妻の手料理がふるまわれた。

そして愛・地球博から10年の付き合いである
楽器ディジュリドゥのバンド「じぶこん」のライブ。
で本当にココロが満タンになって帰ってきた。


ハックツに集められた
未来に託す思いの詰まった57冊の本は、
無事、旅立っていった。


ハックツオープン前の人だかり。


この部屋にも本を隠しました。


暗やみで本を探します。


ハックツしたら、メッセージへの返信を書きます。


ハックツで知り合った二人。高校生と中学生。

ハックツがこんなふうに素敵な空間で
また新しい意味合いを持って、行われたことが
とてもうれしかった。

僕は茅ヶ崎在住ではないので、
本を寄贈できなかったのだけど、
もし僕が1冊贈るとしたら、

やっぱり「種をまく人」(ポールフライシュマン・あすなろ書房)
なのだろうなと思った。


土曜日もリベンデルには、
1区画の畑を借りている人たちが朝からやってきて、
農作業をしていた。

そうそう。
僕が98年にこの本を読んだときに
つくりたかった景色が確かにここにあった。

舞台はアメリカ・クリーヴランド。
ゴミ捨て場になっていた空き地に、
ベトナム人の少女が3粒のマメの種を蒔いた。
そしてそれから、毎日水をやりに来た。

近所アパートからそれを見たおばちゃんは、
麻薬か拳銃かよからぬものを隠しているのではないか?
と、少女がいない隙を見て、
その場所を掘ってみた。

ところが、麻薬も拳銃も何もない。

なんだ、なにもないじゃないか。
そのとき、ハッと気がついた。
芽を出したばかりのマメの種が3粒。

「なんてことをしてしまったのだろう」
おばちゃんはすぐに種をその場に戻した。

少女は、またやってきた。
水をやっているようだった。
小さな芽が出た。

おばちゃんはそれから、
マメの様子が気になって仕方ない。
少女が来ないとき、自分が水をやっていた。
そのうちに、自分も何か育ててみたくなった。

時が経ち、
ゴミ捨て場だった空地は、美しい菜園に変わった。

それだけではない。
「水はどうやってやるのか」「管理はどうするか」
を話し合っていくうちに、
人種や職業の壁を超え、みんなが仲良くなっていった。

ベトナム人の少女が蒔いたマメの種。

それは、マメの種ではなかった。
いや、たしかにそれはマメの種だったのだけど。
新しい関係性、新しいコミュニティをつくっていく種になるのだ。

大げさにいけば、
彼女が蒔いたのは、新しい社会、新しい時代の種だったのだ。

98年。
この本を読んで思ったこと。
僕も新しい時代の種を蒔きたい、と。

翌99年4月、畑のある公園づくり
「まきどき村」がスタートする。

「まきどき村」の「まきどき」とは、
種の「まきどき」の意味。

今、種を蒔かなければ、決して芽を出したり
花を咲かせたりしない。
今こそが種を蒔くときなんだ。
24歳のいまこそ。世紀末のいまこそ。
そんな思いを込めた。

今回のリベンデルでのハックツは、
そんなことを思い出させてくれた。
熊澤さん、本当にありがとう。

いま、ふたたび。
なんどでも。
この問いを胸に進んでいこうと思う。

「私にできることは、なんだろう。」  

Posted by ニシダタクジ at 07:12Comments(0)日記

2016年04月22日

利益と向き合う

エリア・イノベーション・アライアンス
木下斉さんの「狂犬ツアー@水戸」に参加。

切れ味鋭いトークが痛快だった。

「なぜ地方は補助金もらって衰退するのか」
http://toyokeizai.net/articles/-/57362

そして、
活動するときのエッセンスも詰まっていた。



特に補助金中毒の図は、
多くの団体がすでに陥っているのではないだろうか。

事業組織と協議会組織をわける。

これは、地域づくりやNPO実践者が
必ずあたる壁だろう。

みんなが運営にモノを言うように
なったら、何も決まらず、ふわっとした
事業になっていく。

利益と向き合う。
これが基本だと木下さんは言う。

投資ではなく融資。

収入属性と経費属性を考える。
固定か変動か。

新しかったのは、「ピンホールマーケティング=実名市場」

ターゲットとかペルソナとか言ってないんで、
そのサービスをリリースすれば、必ず買ってくれる人の
リストをつくること。

そのリストが集まるから、事業がスタートできる。
事業開始の前に営業する、というのはそういうことなのかも。

利益と向き合う。
僕もそろそろその領域に行くときが来たような。  

Posted by ニシダタクジ at 07:19Comments(0)日記

2016年04月21日

ボールのないバレーボール

「ボールのないバレーボール」
という演劇の稽古がある。

文字通りボールなしでバレーボールをする。
ないバレーボールがそこにあることを共有する。

つまり。
「存在しないけれど共有されているもの」
こそが演劇の素材であると岸井大輔さんは言う。

演劇は、歴史的に非物質を素材としてきて、
現実には存在しないものが人に影響を与えてきた。

ああ。
なるほどな。
ツルハシブックスの合宿でやっているのって
そういうことなのかもな、と。

1泊2日の合宿をして、
顧客はだれか?価値は何か?について問いかける。
実際に言葉にはなるのだけど、
実はその言葉が大切なわけじゃなくて、

そういう未来図を共有した感じに
なることが大事なんだよね。

なんというか、
「僕たちはあのとき、ビジョンを共有したよねえ」
という感覚が大事なんだと思う。

それはボールのないバレーボールに
近いんじゃないかなあと。

おもしろい本です。
戯曲は作品である。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)言葉

2016年04月19日

後輩ができた瞬間に人は急に先輩になる


お弁当の日@茨城大学


「すごい弁当力」(佐藤剛史 五月書房)
を読んで始まった取り組み。

お弁当の日の意図としてはこちら。
http://hero.niiblo.jp/e469778.html
「親和的承認装置としての本屋」

新入生6人を含む9名で
ひとりひとりが作ってきたおかずを
つまみました。

みんながおいしいと言ってくれること。
それは本当に親和的承認、
つまり、自分自身がそこにいていいんだと
感じられるように思う。

それにしても、この前まで1年生だった彼らが
急に先輩のように見えてきたのが驚きだった。
後輩ができた瞬間に人は急に先輩になるんだなと。

こういうのを見るのは、楽しいですね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:03Comments(0)日記

2016年04月18日

夢はのりもの



「ゆめのはいたつにん」出版記念イベント
千住まちマルシェ@北千住長円寺にいってきました。
僕は、書籍販売&サイン会担当でした。


「ゆめのはいたつにん」(教来石小織 センジュ出版)
センジュ出版の記念すべき第1作目。

この本には、
とっても素敵な「手紙」が詰まっています。

この本を読んでいて、
ふと思ったつぶやき。

「夢はのりもの」
夢は見るものではなく、のりものなんだって。

スゲーって。
だから、そのことを著者に伝えようと、
「ゆめのはいたつにん」をあらためて読んでみるのだけど、
全然その場所が見つからない。

見つからないままに、
イベントを迎え、サイン会の時間がやってきた。

「あそこがいちばんよかったです。夢はのりもの、のところ」
「えっ。そんなこと書いてないですよ。あれ、西田さんのオリジナルです。」
「ええええ!!ホントですか??」

とめちゃめちゃビックリ。
ということで、過去のtwitterを見直して、
ふたたび「ゆめのはいたつにん」を読み直してみる。

すると、ありました。
122ページ
「こんな私でさえ、夢はすごいところに連れていってくれました。」

これだ、きっと。
夢が教来石さんを連れてってくれた。
きっとそれって本当だろうなあと。

夢はのりもの。

目指していくものではなく。
追い続けるものでもなく。
のりもの。

そしてそこにはおそらく、
目的地が設定されていない。

でも、来たるべきときに。
そののりものは、乗換駅に、乗換港にたどり着く。
違うのりものに乗り換えるときがくる。

そしたら、乗り換えればいいんだ。

昨年9月、今井さんがツルハシブックスを卒業したときの、あの感情だ。
http://hero.niiblo.jp/e473195.html

だから、乗ってみたらいいんだ。
恐れずに。

どこに連れていかれるのか、わからないけど、
夢は自分をいろんなところに連れていってくれる。

他者の夢を応援するっていうのは、
そののりものの乗組員を志願するということ。
決して進路を指し示すことではない。

乗換駅に、あるいは乗換港に到着する日まで、
一緒にこの列車に、この船に乗らないか?

キャリアドリフト時代の「夢」は、
目指すものでも叶えるのものでもなく、
のりものなのかもしれないな。  

Posted by ニシダタクジ at 06:14Comments(0)言葉

2016年04月17日

感じるキャリア教育

僕が、「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎 2003)以来、
ずっと違和感をもっていたこと。

ひとつは、天職がある、ということ。
もうひとつは、天職は選ぶものである、ということ。
これらの2つは幻想だと思ったし、
その幻想によって子どもたちは苦しんでいると思った。

それは、
「ホスピタルクラウン」(大棟耕介 サンクチュアリ出版 2007)
を読んだときに、より強く思った。

病院で長期入院中の子どもに、
道化師として接し、一緒に遊んだりして彼らの笑顔を引き出すこと。
この「仕事」を「選択」したり目指すことはなかなか難しい。

「天職とは、選ぶものではなく、
目の前のことを大切にしているうちにたどりつくもの」
だと思った。

それは僕のキャリアドリフト理論の原点になっているかもしれない。



今日4月17日まで
茅ヶ崎市美術館エントランスホールで行われている
「あなたが未来に託す想い展」は、

現在の小中学校・高等学校で行われている
「キャリア教育」という名の「職業カテゴリー選択教育」
に一石を投じているのではないか?と改めて思った。

「地域の教育力」と言われ、
多様な大人と接することの重要性が叫ばれ、
学校現場に実際に地域の大人が来たり、
あるいは地域で働く大人に、話を聞きに行ったり、
そんな大人たちを特集した小冊子が配られたりしている。

その時に主眼が置かれるのは、
仕事の楽しさやあるいは働き甲斐かもしれないけど、
それは、ひとつの職業カテゴリーで働く1人としての働き甲斐である。
これは言わば、知る、そして考えるキャリア教育だと言えるだろう。

ところが。
「あなたが未来に託す想い展」では、
「10代に贈りたい本、想いを託す本」についての話を聞き、
メッセージを書いてもらう。

それはもはや、その人の生き方、人生そのものだ。

そして、いま若者たち(いや若者だけでなくすべての大人)が問われているのは、
「どんな職業カテゴリーを選択して食べていくのか」
ということではなく、
「どう生きるのか?何に価値をおいて生きていくのか?」
ということであると思う。

そして、それは、本質的には、
写真や冊子では伝わらず、生の本の展示や
実際にその人に会ってみることで、より強く感じられるのだと思う。

茅ヶ崎市美術館の「あなたが未来に託す想い」展は、
そういう意味で、職業名も載せながらも、
名前と職業の一覧を別々に展示することで、
まずは本とメッセージをじっくりと感じ、味わい、
その上で人の名前と職業を確認する、
という順序になっていて、これはまさにアートの楽しみ方と同じだ。

そしてそれこそが
キャリアを職業カテゴリーではなく、
生き方や価値観から考えていくことにつながっていく。

そしてもうひとつ。
この展示は茅ヶ崎に住んでいる(あるいはお店を構えている)
人たちの本ばかりだ。

だから本やメッセージにビビっと来たら、
いつでも会いに行ったらいいのだ。
「感じる、そして行動すること」ができるのだ。

知るキャリア教育や考えるキャリア教育から
感じるキャリア教育、行動するキャリア教育への
提案を、この展示はしているのではないだろうか。

思いかけず、10年以上もっていた違和感を
少しだけ言語化することができた。
だから感じて行動することなんだなあと。

熊澤さん藤川さんのおかげで様々な気づきがあった。
今回のハックツがこれまでと違うのは、
・美術館であること(観たり感じたりする場所)
・公募をしないということ
・1冊のみ寄贈という限定により、送り側自身の人生がより問われるということ

それによって、生み出される空間のチカラを感じます。
まだ見に行っていない方、本日4月17日までです。  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)日記

2016年04月16日

アートとは「問い」を灯すことで、仕事とは「手紙」を届けること

茅ヶ崎市美術館。
「あなたが未来に託す想い」展

あまりに素晴らしくて、
また感じたくて、茅ヶ崎にふたたび。

企画者の熊澤さん、
美術館の藤川さんにもまた会えた。

http://www.kanaloco.jp/article/166139

昨日の神奈川新聞にも掲載されていた。
これで朝日、読売、神奈川新聞と続いた。
すごい企画になった。

今回は、
図書館ではなく、美術館で「展示」するところが
大きかった。

美術館は、観るところであり、感じるところだからだ。

図書館は、本を借りるところだから、
展示だけでは機能を果たさない。
「この本を借りたいのだけど?」
と言われてしまう。

熊澤さんの言葉が胸に刺さった。
いろんな仕事の人をただ集めたわけじゃない。

この人は、という人を、
自分の蝋燭を燃やし続けている人。
次世代に何かを紡いでいる人。
そんな気になる10人をまずは思い浮かべた。

熊澤さんは実験をしていた。
それは、「大切な本を手放す」から
始まるギフトエコノミーが可能か?
というもの。

大切な本を手放した人ほど、
想いも強く、また自分の中での気づきも
大きくなるのだという。

熊澤さんの言葉をここでお借りする。

「今回、本当に僕からの意図が伝わった方は、
本当に大切な1冊しかない本(買えない)を手放してくれています。
しかし、そういった方に限って、僕が預かる際にお礼を言われました。

「自分の本当に大切にしていた気持ち、その時の情熱が蘇ってきた」
「いい機会をありがとう」と。
手放したようで、得ているのです。
実は本を手放す側も貴重なワークを体験してるのです。」

そう。
茅ヶ崎市美術館の「未来に託す想い」展は、
本を提供する大人たちにとっても、
大いなる「問い」だった。

その問いに向き合うことで、
提供者自身の人生が再び輝いていく。

そして、同時に「手紙」だった。

未来に託す想い展の来場者アンケートに
寄せられる言葉がとっても素敵だった。

「茅ヶ崎というまちを思う気持ちが伝わってきた。」
そんな感想もあった。

「未来に託す想い」を、たった1冊の本にメッセージをつけて贈る。

57人の思い。
57冊の本。

暗やみ本屋ハックツをスタートして、
すべての仕事は本質的に「手紙」だと思った。
手紙が届いたときに、「売上」が生まれるのだと思った。

今回のアンケートは
その手紙に対する返信のようなものだ。

「未来に託す想い」展は、
ハックツを「問い」と「手紙」
というアートに変えた。

アートとは、「問い」を灯すことで
仕事とは、「手紙」を届けること。

そんな原点を思い出した茅ヶ崎市美術館の展示となった。

熊澤さん、藤川さん、素敵な「アート」と「仕事」を
ご一緒できてうれしいです。
ありがとうございます。

展示は明日17日まで。

【あなたが未来に託す想い展】
会期:2016年4月10日~17日(11日は休館)
時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
観覧料:無料
場所:茅ヶ崎市美術館エントランスホール
主催:RIVENDEL、NPO法人ツルハシブックス、公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団
協力:NOMADIC CAFE、Okeba

http://www.chigasaki-museum.jp/exhi/2016-0410-0417-omoiten/























  

Posted by ニシダタクジ at 06:43Comments(0)日記

2016年04月15日

まちとは、演劇なのだ

昨日に引き続き。
「戯曲は作品である」(岸井大輔)
より。



やっぱり。
すごいタイミングで本の神様は
僕に本を届けてくれる。
いきなりシビれまくりだ。

特にここ。
122‐3ページ。

そうそう。
そうそう。

僕はこういう場所をつくりたかったし、つくりたいんだ。
と心の奥が揺さぶられる感覚を覚えた。

~~~以下引用

演劇は集団で創る。
全員が生き生きしていて、それぞれが自由で、同時に、
全体に独特の雰囲気があるものを見たいし創りたい。

孤独を真剣に生きている人々の飛翔と、
そこにいる全員を貫く空間の同居を見たくて、
それだけが見たくて僕は演劇をやっているのに、
出会うのは偶然だとしか思えない。

ところが10年前、
確実に常に自由と空間の両立を
成し遂げているものがあることに気がついて、
衝撃をうけた。まちである。

つまり、まちとは、演劇なのだ。

その生成の秘密を知りたくて、
劇場を離れ、まちをさまよい、創作を続けた。

その秘密はやっぱり、
各自が創造的であること、孤独を楽しむことにあると、
当たり前のことを思っている。
スケッチブックとクレヨンに集中する子供たちのように。

各自が創造的であることと
全員が一緒にすることが両立する方法の一つだ。

~~~ここまで引用

いいなあ。
これ、いいよ。

「これが、ツルハシブックスを設立した理由です。」

と僕が書いてもまったく違和感がない。

劇団員っていうのは、
そういう空間を実現する人たちのこと。

ツルハシブックス第4期劇団員の募集は今月30日まで。
http://www.tsuruhashibooks.com/gekidan.html

岸井大輔さんの本を買いたい。
という方の予約も受け付けます。
2500円+税です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:44Comments(0)

2016年04月14日

けれど言葉と現実は残り、だからこそ解釈と表現が実現し続ける

昨年1月にツルハシブックスに来てくれた
岸井大輔さんから「戯曲は作品である」が届いた。

クラウドファンディングしたことを思い出した。


昨年6月に京都で行われた個展の個展の書籍化。



まだ何も読んでないのだけど、
すでに添え状からビビビとくる。
いま、読むべき本だということがビシバシくる。

ここに、一部を引用する。

~~~ここから引用

面白いまちづくりの現場を調べると、出発点となった
故人にいきつくことが多いです。
考えてみれば、楽しい地域や社会は個人の
不条理な思いつきから始まる以外ない。

それらの思いは、たとえば
「結婚式ではお酒を飲まない(雲南市日登)」
「まちの名士は河童の仲間になる(久留米市田主丸)」
といった、ナゾかけのような言葉とともに残っています。

そしてナゾを解釈し、あいまいでしかない言葉が
暗示する未来から、それぞれの解釈を現実にしていく
営みに引き継がれました。

多くの営みは最初の一人を忘れていくので
名は埋もれていきます。けれど言葉と現実は残り、
だからこそ解釈と表現が実現し続ける。

戯曲は、目の前の上演のためにあります。
が、遠い未来のリアライズを夢見ていなければ、
残る形態をとる必要はない。

人生より長く大きい世界を夢見て
戯曲集は編まれます。
あなたの本棚の片隅に居場所をいただけますと
幸いです。

4.6岸井大輔

~~~ここまで引用

いやあ。
カッコイイなあ、岸井さん。

本とは何か?
に対しての、大いなる提示だなあと。

わかりやすいことだけが価値ではないのだと
ナゾを残すことが価値なのかもしれないと。

そんな本を、そしてまちづくりの現場を、
つくっていけたらいいなあと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 05:57Comments(0)言葉

2016年04月13日

「ふるさと」を創出する、とは創造的行為の現場となること

「まきどき村」の2016年がスタート。


http://niigata-repo.com/life/post-8809/

新婚の唐澤夫妻
(昨年9月に活動拠点である旧庄屋佐藤家で挙式)
がすっかり中心メンバーとなって活躍している。

僕の20代は、すべてここにあった。

畑はコミュニティの拠点になる、と直感し、
千葉県育ちだった僕は、畑とは山のふもとに
あるもんだ、という固定観念があり、
大学から少し離れた西蒲区(旧巻町)福井地区に畑を求めた。
1999年のことだった。

当時はマイナースポーツ(?)だった畑を
気軽にやってもらおうと、日帰り温泉が近くにあったことも魅力だった。

やってみたら、
そこには大きな発見があった。
旧庄屋佐藤家。
地域住民で古民家を保存・活用しようとする集まり。

このレポでもあるように、
2000年の春、僕もカヤ刈りに参加。
その夜の飲み会で、衝撃を受けた。
ムラのじいちゃんたちの楽しそうな表情と
圧倒的な地域愛に、心を動かされた。

あのとき。
「これだ!」と直感した。

これ、を言い表すのは難しいのだけど、
簡単に言えば、コミュニティ、だと。
コミュニティが解決するんだ、と。
そんなふうに直感した。

川喜田二郎さんが
「創造性とは何か?」という本で言っていたけど。

「ふるさと」とは、
全力を注いで創造的な行為をした場所のこと。

昔の多くの人たちにとって、
ウサギを追いかけた山や
コブナを釣った川がふるさとであるのは、
そこに「創造的行為」が詰まっているからだ。

たぶん、ツルハシブックスが卒業したサムライたちの
ふるさとになるのだとしたら、
ツルハシブックスは、創造的行為の現場である
ということになる。

そう考えると、都会育ちの人が
「ふるさと」がない、と嘆くのではなく、
「ふるさと」は創造することができる。
それは、創造的行為の現場となることから始まる。

だから、
ただ単に、自然豊かな農山村に連れていくだけでは、
そこがふるさとになることはない。
難しい言い方をすれば、「ふるさと」としてコモディティ(交換可能)になる。

場に「創造的行為」を生んでいくこと。
しかも全力を注いで、だ。

新潟大学の美術科が取り組んでいる
「うちのDEアート」という商店街での
アートプロジェクトの卒業生たちは、
今でも、内野を訪れ、手土産まで買ってくる。

僕自身は、このまきどき村で、20代のとき、
創造的行為を全力で行っていたのだと思う。

「人生最高の朝ごはん」は
2001年にスタートした企画。

朝6時に集合して畑作業をした後で、
おかずや味噌汁を作り、
朝市のおばちゃんから漬物を購入して
みんなで囲炉裏を囲んで食べる、というもの。



これは、夏の暑い日に偶然生まれたものであったが、
振り返ると、素晴らしいコミュニケーション・デザインとなっている。

1 朝の集合時間が早すぎる。
電車の人は始発、車の人も5時には起きて、
向かわなければならない。
当然、女性はお化粧もちゃんとできない。
寝ぐせも、寝ぼけていても、大丈夫。
それによって心のバリアが下げられている。

2 農作業や料理というコミュニケーションのきっかけ
農作業や料理でコミュニケーションをとることで、
初対面でも一気に仲良くなることができる。

3 囲炉裏を囲むというのは火を囲むということ
火を囲むことで、人間にとって根源的な何かが
よびさまされ、話が弾んでいく。

ほかにも、
朝ごはんであるために、簡単なおかずで済むこと
地域のじいちゃんばあちゃんとの対話
など、様々な要素があるのだけど、

これらのコミュニケーション・デザインによって、
まきどき村の朝ごはんは
毎週「人生最高の朝ごはん」となっていく。
「最高」が更新されていくのだ。

それはもしかしたら、参加者のみんなにとっては、
小さな「創造的行為」なのかもしれない。

新潟は寒いし雪も降るので、
12月~3月までは活動をお休みしている。
もしかしたら、その渇望感も
プラスに働いているのかもしれない。

今年も、まきどき村の季節がやってきました。
人生最高の日曜日の朝を過ごしに来ませんか?  

Posted by ニシダタクジ at 06:04Comments(0)日記

2016年04月12日

ゆめのはいたつにん


「ゆめのはいたつにん」(教来石小織 センジュ出版)

センジュ出版の吉満さんが
あまりに素敵なので、買いました。

正直なところ。
僕は「夢」という言葉があまり好きではありません。

「夢至上主義」と言うような
キャリア教育のあり方に疑問を持っているからです。
がんばれば夢は叶う。
とプレッシャーをかけるのもどうも好きではないです。

ところが。
「ゆめのはいたつにん」は、

そんな僕の「ゆめ」観を
変えてくれた1冊になりました。

「夢は見るものではなく、乗りもの。」

この衝撃。
夢は私をいろいろなところに連れて行ってくれる。
だから夢は乗りものなんだと。

そっか!
夢って乗りものなんだ。

いいなあ、その感覚。
そうそう。
そこを目指していくのではなくて、
それに乗って飛んでいくものなんだね。

~~~ここから引用

カンボジアに映画を届ける。
それは、物語の力を信じているから。
人としての尊厳を与え、希望を与えるためには、
夢を育む物語を提供することが大事なのだ。

私の場合、活動を始めたときの一歩を踏み出すのに勇気も決意も不要でした。
なぜなら、当時の私には、守りたいものがなかったからです。
地位も名誉も、守りたい人もいませんでした。
守りたいものがないどころか、辛い現実から逃げ出すように一歩を踏み出したのだと思います。

けれども活動を始めてから、私には守りたいものができました。
メンバー、活動そのもの、応援してくださる方たち、
また映画を届けに来るね、という子どもたちとの約束。

守りたいものができた私は弱くなりました。
一歩を踏み出すたびに、自分は間違っているのではないかと不安になるのです。

この仕事は楽しい。この仕事をくれて、ありがとう

成長はしていないが、私は変わった

~~~ここまで引用

カンボジアに映画を届ける。
それは子どもたちひとりひとりに宛てた
手紙のようなもの。
あなたにも、何かできることがある。

「ゆめのはいたつにん」ってそういうことか!
って勝手に誤読した。

カンボジアに映画を届ける。
それは、きっと出版社が、本屋が
「手紙」を誰かに届けると同じこと。

本とは、出版社とは、「ゆめのはいたつにん」なのではないか、
という仮説が生まれました。

センジュ出版の1作目にふさわしい渾身の一冊となりました。
吉満さん、カッコイイなあ。

今朝、ふと思い出した一節。

「わたしにできることはなんだろう。」

リベンデル熊澤さんさんが
茅ヶ崎市美術館「未来に託す想い展」に寄贈した1冊

「私にできることはなんだろう」(地球市民村編)

何度も何度も
私にできることはなんだろう、と問いかける1冊。

そんな問いが生まれることが映画を届ける
意味なのかもしれない。

「ゆめ」とは、
問いを育むことなのかもしれないな、と思った。

私にできることは、なんだろう。

そんな想いを育むこと。
物語の力で、そのきっかけをつくること。

偶然の力で、そのきっかけをつくること。
本屋という「場」はそういう場所なのかもしれないなと思った。

今度の日曜日17日(日)
北千住でマルシェイベントがあり、
教来石さんのトークもあります。

あったかいイベントになるだろうと
想像されます。

☆「ゆめのはいたつにん」発売記念イベント☆
センジュ出版produce 第1回まちマルシェ
「せかいにえがおをとどけよう」
日時:4月17日(日)13:30〜16:30(開場・受付開始 13:00)
場所:長円寺(足立区千住四丁目27番5号)北千住駅から徒歩5分

13:30~14:30の第1部は海外及び足立区内で、
まちづくりや人づくりに関わる3人の女性によるトークライブ。
テーマは「だれかのやくにたつしあわせ」です。
スピーカー
▶︎NPO法人CATiC代表 教来石小織
http://catic.asia/
▶︎NPO法人国際学校建設支援協会(Issc)代表理事 石原ゆり奈
http://worlli.com/nepal-laos-create-the-future/
▶︎キネセンジュ 代表 栗林治子
https://www.facebook.com/kinesenju/

14:30~16:30の第2部は、センジュ出版セレクト「まちマルシェ」
売上の一部が三者の活動に寄付されるマルシェを同時開催。

美味しい手作りパン、有機野菜、雑貨、アクセサリー、スイーツ、
本、ハンドドリップコーヒーなど、センジュ出版セレクトの美味しくて可愛いお店がたくさん並びます。

なお、第1部のトークライブをお聞きくださった方には、
book cafe SENJU PLACEの
挽きたてハンドドリップコーヒーを1杯、無料でお淹れいたします。

詳しくはこちらから。
http://senju-pub.com/event-2/  

Posted by ニシダタクジ at 06:43Comments(0)

2016年04月11日

「ハックツ」が「アート」になった日

素敵な映画を見た後のような、
ジーンと心に残るもの。
言語化できない感動。

会場に入った瞬間に感じる、
あったかい何か。

もし、心を揺り動かす目に見えない力を放つものを
「アート」と呼ぶのであれば、
熊澤さんと茅ヶ崎市美術館は、
「暗やみ本屋ハックツ」をアートに変えてしまった。
そんな風に思った。

茅ヶ崎市美術館でのハックツ展
「あなたが未来に託す思い展」
を見に行ってきました。

茅ヶ崎市内の飲食店や美容師さん、学校の先生など57名が
「10代に託したい思い」を本とメッセージで表現した展示。

なんていうか。
パワーがすごい。
1冊1冊から何かが出ている。

12月に茅ヶ崎リベンデルに初めて行ったときに、
熊澤さんがハックツに関心を持ってくれて、
4月22日の満月ワインバーとの同時イベントで
「暗やみ本屋 ハックツ」をやるというもの。

知り合いに声掛けて集めます、って2月に動き出したら、
素敵な本とメッセージが集まり、暗やみでハックツするだけでは
もったいない、ということで、茅ケ崎市美術館とのコラボが決定。
主催には、NPO法人ツルハシブックスの名前も。

これ、図書館じゃなくて、美術館であるところが大事。

「未来に託す想い展」。
ここに展示されているのは、「本」や「選書」ではなく、
「想い」や「生き様」だからだ。

それを本と手書きのメッセージを
通じて、伝える、というアートだからだ。

展示されている本には、
メッセージだけがついている。
本の展示の最後に、寄贈してくれた人の名前と職業が書いてある。

これも、最初に職業や人の名前の先入観が入らないように、
まずは本とメッセージを感じてください、という展示になっている。
「星の王子さま」が2冊あっても、メッセージが違うので、
それは違う「想い」となる。

いやあ、スゲーって。
これはスゲーって。
本のチカラと人のチカラ、地域への愛。
そんな言葉では表現できない「想い」が詰まっているんだ。

あの空間に足を踏み入れただけで感じる、
包まれているかのようなあたたかさと
未来へ足を進めたくなる力強さ。

2016年4月10日。
「ハックツ」が「アート」になった日。

この日、この感情は、
心に刻まれたような気がする。









※2016年4月7日付朝日新聞湘南版に様子が掲載されています。

webはこちらから
http://www.asahi.com/articles/ASJ4520LBJ45ULOB002.html

【あなたが未来に託す想い展】
会期:2016年4月10日~17日(11日は休館)
時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
観覧料:無料
場所:茅ヶ崎市美術館エントランスホール
主催:RIVENDEL、NPO法人ツルハシブックス、公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団
協力:NOMADIC CAFE、Okeba

http://www.chigasaki-museum.jp/exhi/2016-0410-0417-omoiten/  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)日記

2016年04月10日

暗やみ本屋ハックツというコミュニケーション・ツール

本日4月10日~17日茅ヶ崎市美術館で
「あなたが未来に託す想い」展を開催しています。



http://www.chigasaki-museum.jp/exhi/2016-0410-0417-omoiten/

会期:2016年4月10日~17日(11日は休館)
時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
観覧料:無料
場所:茅ヶ崎市美術館エントランスホール
主催:RIVENDEL、NPO法人ツルハシブックス、公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団
協力:NOMADIC CAFE、Okeba

4月22日には、茅ヶ崎REVENDELで
暗やみ本屋ハックツ@REVENDELが開催されます。

※こちらは10代限定のイベントです。
大人は同時開催の満月ワインバーへ。

昨年12月に並河進さんのトークイベントで
お邪魔しましたREVENDEL。
主宰する熊澤さんと意気投合してスタートした今回の企画。

実際は熊澤さんがほとんどやっていて、
僕は今日見に行くだけです。
ありがとうございます。
今回を機に、「現代美術家」の名刺をつくりました。

本当は、僕じゃなくて、
熊澤さんこそが現代美術家なんですけどね。

ハックツとは、
本を通して、地域の大人と中高生が
つながる企画。

今回の茅ヶ崎市美術館の企画で、
熊澤さんが、「この人素敵だなあ」という人を50人
セレクトして、本を集めた。

本当は22日のハックツで中高生に届けるつもりだったのだけど、
それだけだともったいないということで実現した今回の企画。

僕はこの企画に、シビれた。

熊澤さんは、
「暗やみ本屋ハックツ」そのものを「コミュニケーション・ツール」に
変えてしまった。

「10代に贈る本、未来へ託したい思いを表現する本を1冊、お願いします。
そしてそれは展示されたあと、暗やみに置かれ、若者のハックツを待ちます。」

こんな風に言われたら、
誰もが、ちょっと躊躇するのではないか?

中高生に贈る1冊。
もしかしたら、その1冊が人生を変えてしまうかもしれない1冊。

それはそのまま、
その人の人生が問われる1冊になる。
そしてその時に始まる対話がある。

だから、僕は、この企画は、
大学生や中学生高校生が集めたらいいのではないか?
と思う。

展示の日を決めて、本を集める。
その前には、話を聞いてみたい大人をリストアップする。
そうやって手作りでつくるハックツ展とハックツ。

そんな可能性を見せてくれた、茅ヶ崎市美術館の企画です。
僕と熊澤さんは17時ころから茅ヶ崎市美術館にいます。  

Posted by ニシダタクジ at 06:18Comments(0)思い

2016年04月08日

感性の謎を解いていく旅

27歳のときの年末、ビール屋さんを辞めた。
(辞めたと言っても、週3日しか働いてなかったけど)

理由は、「もっと畑をやりたかったから」。
新商品を開発し、会社が忙しくなってきたためだった。

晴れて、プータローになった。
さすがにちょっと不安だった。

そんなとき。
地元のFMラジオのサポーター会議で知り合ったお母さんから、
不登校の中学3年生の家庭教師を頼まれた。

受験までの日がなかったから、毎日、家に来てもらった。
学力は全然足りていなかった。

間に合わないから、勉強合宿しよう、と
2泊3日の合宿をした。

初日。
彼の大きなリュックの中には、プレステ(ゲーム機)が入っていた。
サッカーのボードゲーム「Jリーグスーパーサッカー」も車から降ろされた。

ゲームをして、勉強もして、夜ご飯を作って食べた。
スーパーでアメリカ産の肉を買い込み、すき焼きを作った。
途中からキムチを大量投入して、何鍋だか分からなくなった。

「ああ。僕はこれを仕事にしたい。」
強くそう思った。
心からそう思った。

しかし、「これ」が何か、わからなかった。

まず、地域のおじいちゃんと子どもが昔の遊びをする場をつくった。
次に、大学生が企業で実践型インターンを行うプログラムを作った。

そして、ツルハシブックスができた。

地下古本コーナーハックツをやったとき。
「これ」は、「多様な大人と中学生高校生との出会い」だと思った。
その仕組みをずっとつくりたかったんです、と思った。

しかし。
それもひとつの仮説に過ぎなかった。

「本の処方箋」をやって、
本を処方するというコミュニケーション・デザインによって、
相手が心を開いていくことがわかった。

コメタク合宿で井上有紀ちゃんが言ってくれたひとこと。
「西田さんは、自分が言語化できていないものを信じてくれる。」

あ、そうなんだ。
気づかなかった。

そう。
僕自身も悩んでいるから。

「共に悩む」という価値を提供できるのだと思った。

ツルハシブックスが売っているのは、
「偶然」と「共に悩む」なのかもしれないなあと。

そう。
14年前の1月にすき焼きを食べたときに感じた
「これ」を仕事にしたい。の「これ」とは、
「共に悩む」だったのかもしれないなと思いだした。

人生とは、もしかしたら、
そのような圧倒的な感性の発動に対して、
言語化できない、感性の響きに対して、

自分なりに仮説を立てて、
謎解きをしていく旅なのではないか、と思った。

内田樹先生風に言えば、
師匠とは、自分の中にいる言語化できない感性なのかもしれない。

よい旅を。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)学び

2016年04月04日

つくっているのは缶詰じゃない





水戸芸術館の高校生ウィーク内で
「暗やみ本屋ハックツ」が開催されました。
たくさんの来場者が来てくれました。
4月3日付朝日新聞茨城版に掲載されました。

で、
ふたたびこの本。


「最終講義」(内田樹 技術評論社)

なんか、この本は、
ツルハシブックスのことを言ってるんじゃないか?

(と、そんな風に思えることが、この本では学びの本質だと言います)

とそんなことばかり。

~~~ここからキーワード抜粋

出発点における否定的棲息状況ということが、
あるいはミッションスクールの場合は
最大の強みではないかという気がするのです。

教わりたいという人がいなくてもとりあえず教えたいという
奇妙な旗を掲げるところから始まった。
教わりたい人がいるから教えにきたのではない。
教わりたい人を創り出すために教えに来たのである。

自分たちの旗印の下に集まってくる少女たちをひとりひとり見つけ出し、
掘り起こしていかなければならない。
それは市場のニーズに対応して教育プログラムを
整備するといった今日の学校の作り方と全く逆のものです。

つまり、マーケットをほぼ完全に無視して、
自分たちが教えたいことを基軸に学校を作ったわけです。
神戸女学院の教育についてのニーズはまだ明治初年の日本には存在しない。
ならばそのニーズを創り出さなければならない。

私たちがこの学校の最初の生徒であり、そうである以上、
この学校が何のために存在するのかを身を以て証明するという責務を負っている。という、
責務の感覚を自発的に抱かなければ、学校は立ちゆきません。

神戸女学院に通っている女の子たちは、
何を習っているか知らないが楽しそうに通っている、と。
スキップしながら通っている。

学校が大きくなってゆく過程というのはそれしかないような気がする。

何をしているかわからない学校、
でも、そこにはどうやらぜひこのことを教えたいという強い意志を持った教師がいる。

そのような強い意志を持った教師のまわりに子どもたちが集まってきて、
集まった子どもたちがある種の知的な輝きを、微細なオーラを周囲に発信してゆく。
感受性の鋭い他の子どもたちがそれに反応する。

輝いている子どもたちがいると、
輝いている子どもたちがいるところに私たちも行きたいという欲求が生まれる。
そういう幸福な連鎖があり、
学校というのは成立していったんじゃないかと思うんです。

教育は商取引ではありません。
最初は無償の贈与から始まる。
教わりたいという人がいなくても、
私にはぜひ教えたいことがあるという人が勝手に教え始める。

聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、
教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。

まず教える側の教えたいという踏み込みがある。
それに対して教わりたいという生徒の側の踏み込みがある。
教える側の踏み込みと、教わる側の踏み込みが、
両方成立したときに、初めて教育というのは成立するのではないか、と。

人間が勉強しようと思うときのきっかけというのは、いつだってなんとなくなんです。
あることをすごく学びたい。でも、理由はうまく言えない。
それが、人間がものを学ぶときの、一番まっとうなマインドセットですよね。

シラバスを読むと、学生たちがこれから学ぶことについて一望俯瞰できる。
その努力がもたらす報酬があらかじめ一覧的に開示されている。
それって商品のスペックでしょう。

われわれは学校で缶詰を作っているわけじゃない。

人間の知性というのは、効能がわかったことに対しては発動しないんです。

自分がなぜそこについて行って、習う気がなかったものを習うことになったのか、
本人にはうまく言えない。
でも、気がついたら学ぶ場にいた、というのが学びにとっておそらく最良の条件なんです。

なぜ自分がそこにいるのかよくわからないけれど、
気がついてみたらそこにいた、という状況で人間は
自分の目の前にあることに対して、最もオープンマインドになるからです。

いったい私はここで何をしているのか。こういう状況のときには、
答えを出す方法はひとつしかありません。
それは今の自分が採用しているものの
見方、考え方、価値観や知的度量衡をいったん「棚上げ」することです。

自分がここにいて、こんな仕事をしている理由は理解できない。
それなら、もう一歩踏み出すしかない。

学びの出発点において、教える側と学ぶ側の
インターフェイスに存在するものとは、極めて曖昧なものだということですよね。

教える側と教わる側の相互交流が始まると、
そのインターフェイスで何か新しいものが生成する。
そこで、教える側の「これだけは教えたい」というものもゆっくり変わっていく。
教える側、学ぶ側がそれぞれ自分の手持ちのカードを出し合って、そこに新たなものができあがる。

一回的なもの、そこにしか存在しないような唯一無二の学びの場が生成する。
これが、学校というものの原基的形態ではないかと思うのです。

~~~ここまでキーワード抜粋。

おいおい!
本当か!!
これって、ツルハシブックスとハックツのことじゃなんじゃないか!

って勝手に僕が思っているだけだと思いますが。(笑)
本から学ぶってそういうことだと内田先生がこの本に書いてあるし。(笑)

ハックツする1回1回が、
いや、店内に足を踏み入れたときの一瞬一瞬が
「学び」への入り口であり、
お客さんとサムライの一回一回の唯一無二の学びの場なのだと。

キーワード抜粋の冒頭。

ここにツルハシブックスのサムライや
昨日東京から来てくれた暗やみ本屋ハックツのスタッフの
みんなへのメッセージが隠されていると思った。

「出発点における否定的棲息状況ということが、
あるいはミッションスクールの場合は
最大の強みではないかという気がするのです。

教わりたいという人がいなくてもとりあえず教えたいという
奇妙な旗を掲げるところから始まった。
教わりたい人がいるから教えにきたのではない。
教わりたい人を創り出すために教えに来たのである。

自分たちの旗印の下に集まってくる少女たちをひとりひとり見つけ出し、
掘り起こしていかなければならない。
それは市場のニーズに対応して教育プログラムを
整備するといった今日の学校の作り方と全く逆のものです。

つまり、マーケットをほぼ完全に無視して、
自分たちが教えたいことを基軸に学校を作ったわけです。
神戸女学院の教育についてのニーズはまだ明治初年の日本には存在しない。
ならばそのニーズを創り出さなければならない。

私たちがこの学校の最初の生徒であり、そうである以上、
この学校が何のために存在するのかを身を以て証明するという責務を負っている。という、
責務の感覚を自発的に抱かなければ、学校は立ちゆきません。

神戸女学院に通っている女の子たちは、
何を習っているか知らないが楽しそうに通っている、と。
スキップしながら通っている。

学校が大きくなってゆく過程というのはそれしかないような気がする。」

「学校」を「ツルハシブックス」や「暗やみ本屋ハックツ」
に置き換えてみる。

ニーズに応えるわけではなく、
ツルハシブックスや暗やみ本屋ハックツが
存在する意味を身を以て証明することが自分たちの責務である。

そんな一期一会の学びの場をつくっているのではないか?
とあらためて思った2日間と今朝の読書でした。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)学び