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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年07月20日

やりたいことワークショップ

7月17日に寮でやった「やりたいことワークショップ」のメモ

1 チューニング
2マス 名前:子どもの頃にやっていた遊び

2 やりたいこと付箋だし
3分間計ってひとりずつ付箋にかきまくる
(ふせん1枚につき1項目)

3 2グループに分かれて発表
・ひとり1付箋ずつ発表で何周も回す
・拍手はしないでちゃんと聞く
・何か思いついたら付箋を書き足してOK

4 眺める⇒イチ推し付箋の発表
・ひとまず出た付箋をながめてみる
・やっぱりこれがいいかも、という他者の付箋を1つ選んで発表

5 プレゼンテーション準備
・付箋を一つ選んで(自分のでもOK)
・2種類のなぜ?を書いてみる
 1 これをやることでどんないいことがあるのか?(目的のなぜ)
 2 これをやりたいと思った自分自身の過去のできごと(ストーリーのなぜ)

6 プレゼンテーション
・ひとりずつ発表する

これでちょうど60分でした。
終わり際にひとりの生徒が「どうやって企画を実現したらいいのか?」と聞いてきたので、即興で答えた。

1 この企画は誰に何を届けるのか?
2 いつ、どこで、誰と、どのようにやるのか?
3 この企画をやることによる成果、効果は?

この3つに加えてさらに
0 なぜ、私がこの企画をやらなければならないのか
  (過去の自分自身のエピソードが入るとなお良い)

って答えたのだけど。
「企画」って往々にして目的を忘れがちだっていうけど。
たしかに学校行事とかでルーティンになっていると、
2だけを考えてタスク化しちゃうんだけど。

1の目的と3の成果と。
もっと言えば、0の自分がやらなければならない理由があるといいなと、思った。

「やりたいことワークショップ」
ワークショップマインドを伝える手法としてもおススメです。

~~~追記(おまけ解説)
最近のワークでは「他の人が付箋を出すとき、拍手をしないでちゃんと聞きましょう」と説明します。拍手をすることによって、ひとつひとつの意見と人が「場」と切り離されてしまうからです。

リアルで行うワークショップの意味は「のっかる、かぶせる」ことによる創造だと思っています。そのためには他者の意見を聞き、そこからの思いつきを書き留め、さらに場に投げ込んでいくことが必須となります。

同じ理由で、ふりかえりの最後の一言のコメントの時は、「時計回り」ではなくて、「準備ができた人から手を挙げて」発表することにしています。これも可能であれば拍手は不要だと思います。

時計回りに回すと、どうしても「次は自分の番だ」と準備してしまい前の人の意見を聞くことが疎かになってしまいます。これは場に影響するし、そもそも感想の場にだって、創造する瞬間(可能性)はあります。なので、真剣に聞くこと、場の状態を高めておくこと。

ワークショップは、創造のためにあるのであり、意見を集約・分類するためにあるのではありません。  

Posted by ニシダタクジ at 07:11Comments(0)学び日記

2023年07月19日

「地図」を渡す


「THE FORMAT~文章力ゼロでも書ける究極の型」(石倉秀明 サンマーク出版)

ほぼスキル向上のための読書日記。

~~~以下メモ
・仕事の文章は同じ目的へと導く地図である。
・わかりやすい地図に必要なのは
  今いるところ⇒現状報告
  行き先⇒目的
  かかる時間⇒締め切り
  目印⇒論点、気をつけること
  予想される注意点⇒メリット、デメリット

・確実に伝わる万能フォーマット
この文章を何のために書くのか
この文章を誰が読むのか
今日、相談したいこと
現状はこうなっています
問題はこれです
こういう対策をしようと思ってます
判断してほしいこと
いつまでに返事が欲しいか

アイデアを出すための会議資料
・今日の会議のゴール
 販促イベントの目的とゴールの決定
 イベントイメージ
 達成の十分条件
 イベントの内容と方針
 タイムスケジュール
 予算
 担当決め
 次回打ち合わせ日程
~~~

なるほど。
会議は小さな舟旅、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 16:22Comments(0)学び

2023年07月15日

「水平的多様化(アイデンティティ形成)」を阻害する学校システム


「教育は何を評価してきたのか」(本田由紀 岩波新書)

「学級の歴史学」と合わせて読みたい1冊。すごい怖い本です。ホラーです。

そもそもメリトクラシー=日本語訳で「能力主義」という言葉に込められた呪いみたいなものの出発点からしてヤバいなと。メリトとは「能力」なのか?という問いから。

~~~以下引用
英語のメリト(merit)の意味は英和辞典で調べると、(称賛に値する)価値、長所、取りえ、美点、手柄、勲功、功績、功労、(請求の)実態、本案といった訳語が並んでいる。ここには「能力」は含まれていない。

つまり、「メリト」は、一般的な語義としても、本来「能力」とイコールではない言葉なのだ。それにもかかわらず、日本では「メリトクラシー」に「能力主義」という言葉が当てはめられている。
~~~

P41にメリトクラシー意識の国際比較が載っていて、興味深い。
「努力:努力する人は報われる」
「能力:知的能力や技能のある人が報われる」
「教育:給与を決めるときに重視されるべきこと:教育や研修を受けた年数の長さ」

ほとんどの国では
「教育」⇒「能力」⇒「努力」というように肯定度が推移しているが日本の場合だけ「教育」が極端に低く、最下位となっている。日本では「教育」よりも「能力」が重視されているという認識なのだ。これはつまり、職場で言えば「業績」よりも「(もともとの)能力」によって給与は変わるべきだ、ということである。

このような状況の中で、日本の学校現場における「能力」「資質」「態度」という言葉の使われ方から、本田さんは現在の閉塞感を読み解く。

~~~終章から引用
日本における人間の「望ましさ」に関する考え方は「垂直的序列化」と「水平的画一化」の独特な組み合わせを特徴とするシステム構造となっている

垂直的序列化は、相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格づけを意味している。

「学力」=従来から存在する知的で汎用的な学校的な「能力」=日本型メリトクラシー
「生きる力」「人間力」=コミュニケーション力など、新たに重要とされた知的側面以外の「能力」=ハイパーメリトクラシー

水平的画一化は、特定のふるまい方や考え方を全体に要請する圧力を意味している。これは具体的には、顕在的、潜在的な「教化」の形をとる。水平的画一化と不可分な言葉は、「態度」および「資質」である。現在の現場で起こっている水平的画一化を「ハイパー教化」と呼ぶ。

垂直的序列化は、その逆説的帰結として、「能力」の絶対水準の高度化と上位への圧縮をもたらす。なぜなら、連続変数としての性格を持つ垂直的序列化は、その縦の目盛り上でできるだけ高い位置につこうとする行為を人々の中に生み出すからである。ただし、どれほど絶対水準が上昇しようとも、相対的な差異に基づく垂直的序列化は、下位として位置づけられる層を、必ず生み出す。

水平的画一化もまた、その逆説的帰結として一定層の排除をもたらす。なぜなら、イチかゼロかの二値の性質を持つ水平的画一化は、マジョリティにイチであることを要請するが、少しでもイチでない存在をゼロとみなし否定的に扱う力学を含むからである。

これら垂直的序列化と水平的画一化の支配のもとで、過少になっているのが水平的多様化である。

垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過少という、人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な適応を阻害する。なぜなら過剰になっている垂直的序列化および水平的画一化という二つの力学は、いずれも「他の可能性」を排除するように機能する傾向があるからである。
~~~

いやあ。
こわい。

「答えのない社会」「VUCAの時代に適応できる人を育てる」みたいなことを言っておきながら、一方で学校環境は、日本型メリトクラシー(能力主義)とハイパーメリトクラシー(非認知能力)という2つの垂直的序列化と、道徳の教科化に代表される水平的画一化を迫られている。

こんな救いのないダブルバインドがあるだろうか。

ラストに、本田さんが語っている、この本を書いた動機が使命感に満ちていて心揺さぶられるので引用する。
P234
~~~
筆者が本書を書きたいと思ったそもそもの動機は、「能力」や「資質」「態度」という言葉が、人間を形容する言葉としてあまりにも日本社会に普及して頻繁に使われ、自明視され、政策や制度にも反映されることにより、人間を縦の序列で比較したり、あるいは特定のふるまい方の基準を満たしていない場合に排除したりするような事態が広く起こっているのではないか、と考えたためである。

(中略)

「能力」「資質」「態度」といった言葉がもちうる弊害を考慮し、使うときにはごく注意して使うこと、あるいはできる限り使わないこと、が、一つの方策となるだろう。あるいは、他者から言われたときには、「それはどんな意味?」「それは本当にあるの?」と問い返したり自問したりするのも有益かもしれない。

そして、「あなたは、私は、誰なのか」を語る別の言葉が必要だろう。

それをここでまだ提案することができない。個々人が、様々な独特の生き方で生きられるようになったときに、それに即して、その人が「誰」なのかを表す多彩な言葉が社会に広がることを望む。
~~~

いいですね、アツいラストですね。
アイデンティティってなんだろう、って問いかけられる。

「多様性」が大切だ。と言っておきながら、(学校/教師/為政者にとって)都合の良い考え方・感じ方を「道徳」の教科化を初めとする「水平的画一化」の手法でまずは一律化し、そこに入れないものは異質として排除する。

その上で、「日本型メリトクラシー」である学力成績と、「ハイパーメリトクラシー」である学力以外の「能力」による垂直的序列化による上下関係で自らを表現させようと仕向ける。

「多様性」、あるいは「存在の承認」を最初から得られないようなシステムになっているのである。

これでは他者からの評価(それもひとりひとりの特徴などでなく、2つの指標で数値的上位にあること)を求めてしまう子どもが量産されてしまうのは無理はない。

なぜ、わが国にイノベーションが起こらないのか?に対する、ひとつの仮説がここに成立している。

「垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過少という、人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な適応を阻害する。なぜなら過剰になっている垂直的序列化および水平的画一化という二つの力学は、いずれも「他の可能性」を排除するように機能する傾向があるからである。」

「他の可能性」の排除。

社会そのものが大きく「変化」している時代に、他の可能性を排除し、現時点で確認されている「価値」のみを信じて、あるいは属しているコミュニティ内における「価値」のみを信じて、そこに効率化していくことは、生物的には、全滅するリスクのある危険な行為だと思う。

学校からの逃亡の意味は、ここにあるのではないか。このままでは全滅しちゃう。だから脱走(脱藩?)しなければならない。

これは水平的多様化、つまり個人のアイデンティティ形成にとっても大きな話だと思う。

自らの存在自体が「他の可能性」であること。
たぶんそれを伝えたくて、「場のチカラ」や「機会から学ぶ」と言ってきたんだろうな、と。

本田さんのラストのメッセージ

~~~
そして、「あなたは、私は、誰なのか」を語る別の言葉が必要だろう。

それをここでまだ提案することができない。個々人が、様々な独特の生き方で生きられるようになったときに、それに即して、その人が「誰」なのかを表す多彩な言葉が社会に広がることを望む。
~~~

これについては、2001年に「感性の哲学」で桑子先生が話している
http://hero.niiblo.jp/e493149.html
(「まなび」と「身体性」 23.6.30)
人間を「履歴を持つ空間における身体の配置」だととらえること。

キーワードは「身体性」と「関係性」なのだろうと僕は思う。もっと身体(≒感じること)を発揮させなければ、個人は個人としてそこに存在することができない。そしてその個人が相互に影響し合う「場」をつくり、その関係性の中で自分を位置づけること。そうやってアイデンティティとは形成されていくのではないだろうか。

垂直的な序列に位置づけられたり、誰かの役に立ってほめられたりすることではなく、そもそもそれ以前に、その場に存在としてあるだけで、その存在こそが「可能性」であると思えること。

そんな場を出発点にしたいと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 05:26Comments(0)学び日記

2023年07月10日

「機会」をともにつくる



「学校じゃない教育への関わり方」高校魅力化を題材にした初開催の合宿でした。
メインは1日目夜のトークセッション。

「ともにつくる」というコンセプトについて改めて考える機会となった。

トークセッションのテーマは、「教育」じゃない言葉で、いまやっていることを表現できないか。

まずは僕の昨日の朝のふりかえりツイート
~~~
「ともにつくる」の「つくる」ものが具体的なプロダクトや課題の解決などではなくて「機会」そのもの。「機会」は「反応」があって初めて「機会」となるし、「待つ」ことそのものも機会であるのかもしれない。だから何もつくらなくていいし、課題も解決しなくてもいい。ただ、機会をともにしたい

もしかしたらそれが「場」の役割なのかもしれない。「場」(わたしたち)を主語にして演劇的に(一回性の高い)関係性を「ともにつくる」(構築する)

「ともにつくる」っていうのはBe=あり方なのかも。

学校だけではなく、公営塾、寮、風舟、そしてまちに違った立場で関わる大人がいる。そのひとつひとつの「ともにつくる」関係性が生徒の立ち位置を定めていくのかもしれない。
~~~

「機会」をともにつくること。これが阿賀の考える教育(高校)魅力化であるのかもしれない。

ではなぜそれが必要なのか。
参加者のひとり、現役の先生のOさんの言葉に衝撃を受けた。

学校には「機会」がないのだ、と。

「機会」とは、
・選択すること
・判断すること
・やってみること
そして
・待つこと
それらを振り返り、発見と変容を繰り返すこと。それこそが「学び」ではないか。

しかし、学校には「機会」は無く、ただただ「教育目標」を目指し、カリキュラムに従って、授業が展開されていく。そこに「選択」も「判断」も「やってみる」も、それを保留する「待つ」もない。

いったい何に追われ、僕たちは「まなんで」いるのだろうか。答えがひとつではない時代に、なぜ時間を区切られ、単位時間内の成果を求められるのだろうか。

これは「総合的な探究の時間」の認識の差にもつながっていく。
隣県から参加した教育コーディネーターのKさんが中堅の先生から言われた一言。
「探究?、あんなのは遊んでいるだけでしょ?」

まなびとはいったいなんだろうか。目標に向かって努力することが学びなのだろうか。

千晃さんが「遊び」が「学び」になるには?と問いを投げかけていたけど、

遊び=予測不可能性と機会と発見と変容
学び=目標(予測)と達成とそれに伴う苦労

と定義するとしたら、そういう意味では「探究」って遊びに属しているかも。探究を「遊んでるだけでしょ」っていうのは、学びの定義が上のように、目標と達成とそれに伴う苦労となっているからではないか。

僕はそれこそが学校(学級/授業)のつまらなさの最大の要因だと思う。

予測可能な目標に向かって、直線的に進んでいく授業。しかもその目標に始める前に合意しているわけではなく、すでに所与の条件としてそこにあった目標に最適化させられる、という構造。

そこに「楽しさ」はあるだろうか。しかもさらにそのベースに、「存在の承認」の問題がある。

「存在の承認」がなければ、「成果(評価)」を求めてしまい、「待つ」ことができない。個人が個人として浮遊している世の中における承認の存在の仕組み構築が最大のポイントなのではないか。それを中学生・高校生の時にやれるかどうか、それが「地域で探究」以前の出発点になるだろうな。

それは先生自身にも当てはまる。先生自身が「まなび」を達成と成長とそれに伴う苦労モデルで捉えているとすると、先生自身が「機会」から学ぶという予測不可能性の価値を体感することが難しい。

目的や目標を前提とした学校というシステムは「やってみる」「やってみた」っていういわゆる「試行」を否定してきたのかもしれない。「試行しない」ことは「思考しない」ことにつながっていて、それは自らの意志をもって「志向する」ことを妨げてきた。そのシステムは「人を喜ばせよう」という本能によって、わかりやすい(評価されやすい)目的・目標を設定することにつながり、目標を設定した瞬間に思考を停止して目標に向かう、ということが起こってしまう。

はたしてそれで人は幸せになったのだろうか。

「~~しようとして〇〇する」と「気づいたら〇〇していた」と「誘われたから〇〇やってみた」とか。その〇〇は全部試行だし、機会だし、遊びだし、エンターテイメントだと思う。そんなことが生まれる空間と関係性をつくっていくこと。それが「魅力化」の出発点なのかもしれない。「機会を楽しむ」こと。

機会をともにつくる。最後の振り返りで、参加者から「協力隊の個人個人に依存せずにこれを継続的にしていく取り組みにするには?」という問いかけがあった。

属人的な仕組みは人が変わると継続できない。だからといって、誰でもできるようにマニュアル化した瞬間に、失われるものがある。

「場」の持続性、継続性というのは、属人的にならないことではなくて、「個」ではなくて「場」を主語にして、「場」としての在り方を言語化し、それをアップデートし続けることなのではないか。属人的ではない(個性が生きない)場を作り上げた瞬間に、場の魅力は急速に失われていく。

そういう意味において、「いま、この場所で、このメンバーでしか生み出せない」というシーンを積み重ねていくこと、そしてそれを振り返り、思考し続けること。志向し、試行し、思考するの繰り返し。場にも魔法をかける編集が必要なんだな。

そして、毎年が1年目である場をつくっていくこと。
場っていうのは、個人の身体性、空間(環境)と、それらの関係性というように構成要素を分けられるだろう。

空間(環境)は大きくは変わらないかもしれないけど、人と関係性が変わっていく。
そんな人たちと一緒に空間を分けあいながら、「機会」をともにつくっていくこと。

高校魅力化も、寮も、本屋さんも、きっとそういう感じで「ともにつくって」いきたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 06:54Comments(0)学び日記

2023年07月07日

身体的思考


「コンセプトのつくり方」(山田壮夫 朝日新聞出版)

コンセプトって大切ですよね。高校の探究の授業でもコンセプトづくりって大事だなと。
それをどのやってかみ砕いで、実践的に伝えられるかっていうのがテーマでもあります。

この本のキーワードは「身体性の復権」。
まさに、そんなタイムリーなときに来てくれる本たちです。感謝。
一箱古本市@風舟の「きょうはなんにち書店」で買いました。
次回は7月23日(日)。まだ出店受け付けております。
https://kazafune.fun/news/300/

ということで、この本。

~~~以下メモ
イノベーション:
「ひとの行動・習慣・価値観にもう元に戻れないような変化をもたらすモノ・コト」

そもそも「正解」とは、「いまの常識」に従っているだけのこと。いまの常識で一番トクをするのは業界トップなのに、二位の企業も10位も100位もトップと同じ「正しい」戦いをしていたら、いつまでたっても大きな成果など上がるはずもありません。

タテ(マネジメント軸):ビジョンで論理的に管理する
ビジョン‐課題‐コンセプト‐具体策(現実)

ヨコ(コミュニケーション軸):ターゲットの気持ちを動かす
ターゲット‐(課題‐コンセプト)-商品・サービス

参考:SECIモデル
https://www.dodadsj.com/content/230427_seci-model/

「ぐるぐる思考」
1 感じる
2 散らかす
3 発見!
4 磨く

その前に古いサーチライト(常識)を確認する。

1 感じる⇒資料集め:自分のからだの中に「こびとの世界」をつくる

タテ:時代・社会-(課題・解決)-広く競合の商品・サービス
ヨコ:生活者-(課題・解決)-自社の商品・サービス

(課題・解決)に関する資料:一般的資料
それ以外に関する資料:特殊資料
⇒これらをとにかく集める

2 散らかす
4つの軸でこびとをいったりきたりさせる

3 発見!
身体的に取り組んできたコミュニケーション軸が「課題‐コンセプト」でしっかり結びつき、脳みそ(マネジメント軸)でチェックしてもビジョンときちんと符号するものこそが本物のコンセプトです。

課題はコンセプトの発見と同時に確定される

コンセプトはメタファーをつかうと感覚的に分かる。空飛ぶバス、とか。

4 磨くモード
「理解の谷」「習慣の谷」「根気の谷」を越えていく。
~~~

僕がワークショップで目指しているのも、きっとそういう感じの「発見」の瞬間なのだろうと。

・意見に対して拍手をするよりも観察・傾聴してあらたな意見をかぶせたいのは人間はいまこの瞬間に変わり得るからだろう。
・出した付箋をすぐに整理してほしくないのは、脳で考える⇒心で感じるにシフトさせたいからだろう。

もっと身体的に、もっと心で、感じてほしい。
そこから新しい発見と変容を生みたいからだろう。

コロナ禍のオンライン会議やオンラインでのインタビューで、身体性がないからこそ、脳だけで取り出せることができることが分かった。
同時に、ベクトル感のないオンラインイベント(オンライン飲み会とか)が難しいことが分かった。

本屋というのが身体的な場であることもよくわかった。
授業づくりのコンセプトにしてきた「発見と変容」(⇔達成と成長)と「場のチカラ」(個人のチカラ」の解像度が増した。

もっと真剣に「つくる」にフォーカスすること。
ワークショップの瞬間瞬間が、人生における大きな変容である可能性があるのだ。

5日、只見高校「総合的な探究の時間」でアドリブで口から出た言葉。

「世界の変え方が2通りある。ひとつは発明家になること。iPhoneを発明すれば世界は変えられる。もうひとつは、プロジェクトをやること。世界の見え方が変わる。POPづくりのプロジェクトをやれば、これまで素通りしていた道の駅のお土産ものコーナーのPOPを見るようになる。それって世界変わってませんか?」

って。
あ、「政治家になる。っていうのも入れて3つにしておこうかな。」
要するに、環境を変えるか、認知を変えるかっていう話なんですけどね。

「認知を変える」:世界の見え方を変え、身体的に思考し、創造に向かい、発見と変容を繰り返す。

たぶん、僕の手法はそういう感じ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:37Comments(0)学び日記

2023年07月02日

変化のプロセスをともにつくる

福島・楢葉町「結のはじまり」を舞台にした
余白をデザインする新スナック学講座のメモです。

1日目
13:00
〇昼ごはんを食べながらチューニングの時間
・呼ばれたい名前
・出身/住んでいるところ
・昨日の晩御飯
・スナック学でやりたいこと

参加動機はさまざまで、
スナックを開業(副業)したい人や
高校生向けの場づくりをしたい人など。

13:50
〇インタビューワーク
ワークシート「思いの源泉」⇒「やりたいスナック」

この導入ワーク:
「人生の転機」のふせん出しがよかった。
ランダムに転機を出していくっていうの。

「ライフチャート」への違和感の正体が見えた。
・時系列で振り返ることで、毎回同じようなエピソードを書いてしまう。
・エピソードにプラスとマイナスの評価を伴って記載するので、過去の出来事が固定されてしまう。

コネクティング・ドットってそういうことかな、と。
「転機」を編集することで、大切にしたいことが見えてくる気がします。

17:00
〇インタビューワークを終えた後は交代でスナックママ体験。
1ターム25分×2
中間ターム:お客さんからのアドバイス
・自分の定番の自己紹介があるとよい
・話せる人が安心感。そのために来てる
・ここはこういう場所(スタイル)というのを出す
・ハブとなるお客様をいかにひきこめるのか
後半25分×2
終了⇒お風呂⇒飲み会

2日目
8:30
〇昨日のふりかえり⇒ホームチームシェア
「印象に残ったこと、言葉、シーン」

ここで出てきたのが
「スナックママ」という役割と「自分らしさ」のグラデーションについて

~~~以下メモ
・自分ブランディング=わかりやすいキャラ設定・自己紹介ができたらいい
・お客さんが自己紹介するなど「自己開示をする瞬間」があった。
⇒「心に飛び込む自己紹介」を持つこと

・キャラクター設定(衣装でも工夫できる:エプロンの個性&バンダナ巻くとか)
⇒衣装によるキャラクター設定:視覚情報による自己開示=情報量が多いので安心する

一方で
・枠にあてはめちゃう自分でいいのか

・カウンターに入ると別の人になる(外から見ていた感想)

・「結のはじまり」は、20㎝ほどカウンター内が低くなっているので、お客さんと目線が合う
・カウンター内から全体が見渡せるサイズ感
・ライティングの影響もあるかも

・中が見えない重い扉を開ける=中は別世界だし、守られている空間。
⇒社会のルールではないルールの適用
~~~

なるほど。スナックという空間と「自分らしさ」まさに、僕もそういうのを考えたかったのです。

・「役を演じる」と「自分(らしさ)を出す」のグラデーション、というかそういう感じ。
・パブリックとプライベートを行き来するというか。

・スナック=ママがつくる空間=場に合わせる必要がある。
⇒「結のはじまり」という店の名前に込められている空間への祈り

「こういう感じ」みたいな作法がある。
⇒初々しさを失う=今日みたいな素人が入ることで空気が変わる=アマチュアリズム

スナック=誰でもできるビジネス:「素人」と「プロ」の境目があいまい。
⇒参加できる

・自分が不安定になれる場所:「場」「お客」「ママ(マスター)」という3要素を揺さぶること。
・自分から出していく「キャラクター」と周りから求められる「役割」の違いというかあいだというか。
⇒「役割」をいったんリセットできる空間としての「スナック」的空間

~~~
「個」と「場」の往還というか。参加のデザインというか。
「キャラクター」というアウトプット。場から与えられる「役割」の心地よさとリセット
それを揺さぶる不安定さ。

9:20
〇企画書作成タイム
・フォーマットに基づいてあらたに記入

10:00
〇企画書発表とふりかえり(印象に残ったこと)
・ゆらぐこと、不完全さを大切にしたい
・お客さんを見送るシーンが印象に残った。
・変わることと変わらないことのゆらぎを楽しめる場所
・変わり続ける=ゆらぎ(不安・孤独)⇔安心を行き来する「場」
・ありのままの自分とこうありたいと思う自分を場とお客の力を借りて行き来すること=スナックママ
・食材の生産者を含めて、ひとりひとりの人生にスポットライトが当たる「いま」をつくる場所
・安心感とアップデートの瞬間をつくる場、この場でしか話せないけど自分が変化していることを話せる場

10:40
〇終了、写真撮影
11:00
・完全撤収

~~~
なかなかすごい講座を作っちゃったなと。
コミュニケーションを重視した「場づくり」の講座、
っていうのが「余白をデザインする新スナック学講座」だったんですね。

スケジュールもゆったり目でよかったなあと。

コンテンツとしては
・「思いの源泉」を探るインタビューワーク
・スナックママ体験
・ふりかえりと企画書作成
の3つ。
それぞれに細かい進行上の改善点はあるけど、ひとまずは参加者満足度の高いものができた気がします。

僕自身の発見として、僕がつくりたい「場」は、「変化のプロセスをともにつくる」場なんだなあと。変化のプロセスを楽しみたいし、それがあれば、「場」は、常連さんの空気感に飲み込まれずに、変化し続けるのかもしれないなと。

そして、さらに言うと。最大の発見はスティーブジョブズの「コネクティング・ドット」(人生に打った点と点がつながる)というワークショップ手法を手に入れたこと。

「思いの源泉」探し
1 心理的な安全が確保された上で、「人生の転機」をランダムにふせんに記載する
2 そのうちのひとつを全体の場で読み上げる
3 2人ペアになり、メモの解像度を上げ、「思いの源泉」を探るインタビューワークを行う
4 インタビューワークを元に力を合わせて「思いの源泉」を言語化する
これは、チューニングの方法としてもかなり有効だなあと。

時系列で人生をチャート化すると、「評価(プラスとマイナス)」を前提に点を打たないといけない。そして、その評価は、何度やってもマイナスな出来事はマイナスになってしまう。それにどんな効果が、いや意味があるのだろうか。ふせんを出すタイミングによって、打った点の価値や意味は当然変わってくるはずだ。

人生という物語を編集し、今、自分はここに立っているし、たとえばスナックという舞台に合わせ、自分が演じたいキャラクターと求められる役割のグラデーションを演じている。

「場」も「人」も変化し続ける。たぶん、その連続性がありながらも一回性の高い空間。
そういうのが「場」のチカラなのだろうとあらためて思った。

それを1回1回のワークショップや授業で応用したら、「気づいたこと、学んだこと」という結果や目的達成度を測るのではなく。「印象に残ったこと、言葉、シーン」という点をまずは打ち、それを感情と共に編集して言語化し、振り返ることなのだろうと。

それをひとりではなく場のチカラを借りながらやる、というのが僕のワークショップ手法なんだなと。、

なので、僕がつくりたい場(スナック)は、「変化のプロセスをともにつくる」、そんな場なのだなあと言語化された、私にとっても貴重な講座となりました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)学び日記