2023年06月30日
「まなび」と「身体性」
「感性の哲学」(桑子敏雄 NHK出版)
途中、難解で飛ばしてしまいましたが、最終章にグッと来たので書き残しておきます。
キーワードは「身体の配置」と「空間の履歴」です。
第9章 感性を取り戻すこと より
~~~以下メモ・引用
朱子学:人間を「身体の配置」として理解しようとした。
西洋:身体である以前に精神として人間を捉える(デカルト的)
朱子学:人間は精神である以前に身体であると捉え、しかも身体の基礎は「気」という非固体的なもの。
人間は世界の一部として、その他の部分と特有の配置でむすばれていることになる。人間は世界に対立するものでも、世界を支配するものでもありえない。また、人間のあり方と世界の変化とは不可分の関係にある。
わたしたちが生きているのは、人間と環境が常に相関している世界である。「世界のなかでモノや人々が相関している」というべきではなく、「モノやひとびとと人間が相関しているということ、そのことによって世界が成り立っている」ということである。その相関の空間的な表現が「配置」である。
「配置」は、自己とモノやひととの相関の構造を表す概念である。ひとの身体とはその身体と他のモノやひとびととの相関的な配置の関係にある。この配置こそ、ひとりひとりの固有性を決定する要因である。だから、どんな人間もすでに個性的な存在である。
中国的な時間軸では、時間は「四時」と呼ばれ「春夏秋冬」を意味する。農耕民族である中国人は、時間をつねに四季の変動とともに把握した。「春秋」は四季であると同時に歴史でもある。四季の循環が同時に、歴史の変動循環とも連動するところに、中国の歴史意識の根本がある。歴史そのものが循環するという思想である。
人間を「履歴をもつ空間での身体の配置」と捉えることで、つぎのようなことが可能になった。
1 人間のかけがえのなさ自明の事実として把握できるようになった。配置の個性が人間の個性の根幹にある。人間は生まれつき個性的な存在であり、「個性を伸ばす教育」にとってもっとも大切な一歩は、この固有の配置をこどもたちに自覚させることである。
2 履歴を蓄積するひとりひとりの人間にとって、その履歴形成の舞台となる空間のかけがえのなさを示すことができた。ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるように、そのかけがえのなさの根拠である空間もまたかけがえのない存在である。
3 空間の履歴は人間の履歴に組み込まれると考えることで、二つの履歴の不可分であることを示すことができた。このことによって空間の価値がそこに生き、そこに住むひとびとの履歴の価値と不可分であること、自分を愛することは、履歴を積んだ空間を愛することであることを論じ、また、このことによって、ひとびとの空間への愛着の根拠を示せた。
4 空間の価値は、そこに存在する希少生物やモノの価値で測ることはできず、その空間のもつ固有の歴史にもとづいているということ、したがって、希少生物が存在しない空間であろうと、単純に開発の論理に載せることができないということを示せた
5 「ローカル」と「グローバル」の区別を空間と身体の相関によって捉えることができるようになった。「ローカル」とは、ひとが履歴を積む身体空間を指し、「グローバル」とは地球全体を志向によって捉えた表現である。
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うう。これはすごい。
長年探究してきた「場のチカラ」と「アイデンティティ」の関係をズバリ言い表している。
次にこの本に引用されている 大森荘蔵の「ことだま論」について
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ことばが力をもってひとの心を動かし、ひとの身体を動かし、世界の出来事を生じさせるのはどうしてなのか。それを説明するために、人間と世界から独立したことばの意味を考える必要があるのか。
声になったことばは、じっさいは、身体の外にあってのみ、はたらくことができる。声は出されていないときには存在せず、声として身体の外の出されてはじめて存在するからである。すると、声は皮膚の外で身体の生きることに「参加」しているのである。そこでこそ、声は、身体と親密な関係を持つ。
「聞き手は話し手の身振り、すなわち話し手の体振り、視振り、声振りによって(広い意味で)触れられる。それによって聞き手は身体的、精神的に動かされるのである。多くの場合、人は対面して話す。その対面の場面では、声振りは体振りと視振りと一体となって働き、その一体となった身振りから声振りだけを引きはがして分離することはできない」
触れられ、動かされることが、ことばの意味を知ることであり、だからこそことばとは行為である。行為としてのことばがひとの心を動かし、ひとの身体を動かし、行動を引き起こす。行動が世界に変化をもたらす。
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「ことだま」という現象がどのように起こるのか、を捉えているなあと思います。
もうひとつ「空間の履歴」と「普遍性」について
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わたしが「空間の履歴」ということばを考えたのは、世界を動かす身体的配置という人間の把握に、時間を組み込んだ表現をつくりたいという思いからであった。
わたしが「空間の歴史」といわないで、「履歴」というのは、履歴がつねに現在において存在するものだからである。履歴書を書くひとは、つねに現在の履歴を書かなければならない。
履歴は過去の歴史に言及はするけれども、その記述はつねに現在に属している。履歴を語ることは現在において過去を語ることであり、また現在に属するものとして過去を語ることである。過去はすべて現在に埋め込まれている。
普遍性のことばとは、どこでもないどこかで、いつでもないいつか、だれでもないだれかの語ることばである。人間の語るものであっても、科学のことばには、配置と履歴が書き込まれていない。
今、この実験室のなかで行われている実験には、配置と履歴が存在するが、その実験によって明らかにされ、論文や教科書に記載される物理法則には、配置と履歴がないのである。科学のことばに普遍性があるというのは、要するに、配置と履歴を消去したことばだからである。
わたしの考えでは、感性とは、自己の空間的配置と時間的履歴を身体的自己が感知する能力である。このとき、配置と履歴は、相互に不可分な関係にある。わたしの配置が履歴となるのは、配置が変化してゆくからである。昨日の配置と今日の配置は異なっていて、昨日の配置は今日の履歴の一部となる。
人間は、さまざまな事物やひとびとと固有の配置でむすばれながら、行為を選択し、人生を送る。行為と人生について語るとき、ひとは自己の配置と履歴を知る。
配置と履歴を消去した普遍的なことばがどれほど力をもつように見えても、そのことばによって世界とかかわり、自己の人生を選択していくのは、どこまでも配置と履歴をもつ身体的な存在である。
環境と自己の関係を捉える能力、配置と履歴から世界を感知する能力が感性であるとすれば、この能力は、人間が身体的存在であるという人間の本質に由来している。だからこそ、ひとりひとりの感性は異なっていて、あるひとびとの感性はするどく、また豊かであるといわれる。
人間は普遍的なことばが配置と履歴を組み込んだことばよりも高い次元にあるという幻想を抱いてきたし、まだその幻想から抜けきれないでいる。この幻想から醒めて、もう一度自分の皮膚とその外の空間との境目を見つめ直すことが必要である。
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グッときますね。「感性とは、自己の空間的配置と時間的履歴を身体的自己が感知する能力である。」ホントそうだなあと思います。
「感性を磨く」ってそういうことだし、それが高校時代から磨けたらいいなと心から思います。
そしてそれは「アイデンティティ」とか「存在」の課題と直結していて。
僕たちが歴史ある居酒屋や「まち中華」、古民家をリノベーションした空間に感じるもの、なのかもしれませんし、ソーシャルバーPORTOのような「場」で起こっていることなのではないかと思います。
学校の教科書がつまらないのは、表記が「普遍的なことば」で書かれているからであって、それを生身の教師が、配置と履歴、つまり「存在」を賭けて、語るからこそ、面白い授業になるのではないかと。
探究の時間においては、「考えること」だけじゃなく「感じること」も大切にしてほしい。
達成と成長ではなく発見と変容だし、まずは観察し、感じてください。
「まなび」ってそんな風に身体的なものになっていくことで初めて「アイデンティティ」が形成されていくのではないかと。
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