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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年09月30日

ものづくりがやりたくて、この会社に入ったんだ

大正大学「地域実習」10日目
株式会社竹内電設の竹内一公社長より。
昼休みに見た柏崎の海も。





AKK(明るい柏崎計画)と
株式会社AKKプラス(AKKの事業団体)
の説明を受けた。

~~~以下メモ

地域の経済が成り立たないと、
自分たちも成り立たない。

竹内電設:電気設備業
ブルボン本社やテック長沢の
電気設備工事を担当
「お客様の生産性に貢献する」

AKKプラス
防災、観光、エネルギーをテーマに事業開発。

防災無線:60億円事業
⇒柏崎で作れないか?

柏崎:部品産業のまち:ラジオまで持っていけるのか。
付加価値をつけるにはラジオまで開発したい。

通信大手7社へ営業をかける
→ほとんどが門前払い
たった1社話を聞いてくれた。

「技術屋は誰かのために何かをつくりたいんだ」
「ものづくりがやりたくて、私はこの会社に入ったんだ。それを思い出させてくれた」

1 被災経験に基づいた本当に必要な情報を届ける「いのちつなぐラジオ」
2 製造業の集積を活かした革新的な地方創世の試み
AKKプラス:みんなで雇用をつくる

「地消地産」(地方で消費するものは地方でつくろう)
わくわくする方法でお金をもうけること。

~~~以上メモ

届く人には届くんだなあと。
AKKプラスが開発したラジオが
防災ラジオとして採用されることを
強く願う。

素敵な物語がうまれつつあります。  

Posted by ニシダタクジ at 19:52Comments(0)

2018年09月29日

工場は嘘つかないですから

大正大学「地域実習」10日目。

製造業のまち、柏崎。
伸びてる会社「テック長沢」さんへ。
いわゆる「まちの鉄工所」
代表取締役の長澤智信さん。

ていねいにも「柏崎の工業について」から
レクチャーしていただいた。

~~~以下メモ

明治前期:石油産業が盛ん
日本石油(現エネオス)創業の地。
精油所がたくさんできた。

明治中期:新潟鉄工所開業

昭和初期:理化学研究所柏崎工場
化学工業を開始。
リケン(ピストン製造)、リコー(コピー)、
協和発酵(医薬品)などが生まれる。
軍事産業に使われていく。

鉄道も石油を運ぶために早く敷かれた。
しかし、石油はすぐに枯渇していく。
⇒金属加工業へ転換
製造業のまち、機械金属系

テック長沢
部品・組み立てに強い
金属部品の総合メーカー
工場は24時間稼働

自動車部品(おもにガソリン車)をつくっている。
電気自動車:普及はまだ先。
1 電気を安定供給できる国は珍しい
2 電池の機能がまだ乏しい

新興国(中国など)は
電気自動車を開発する
トヨタにはガソリン車ではかなわないから

テレビCMしない
知っている会社=CMしてる会社=B to Cビジネスの会社

テレビCMしても自動車は売れるけど、
自動車部品は売れない。
⇒業界向けの展示会・商談会に出ている。

オモテに出てくる:華やかな仕事よりも
そうじゃない仕事のほうが多い。

鍛造(たたく)、鋳造(型に流し込む)、切削(除去)加工(きる)
を込み合わせてコストを下げる。

テック長沢の強み

1 異形ワークの中ロット(月間1,000~5,000)量産切削加工
  クランプ治具(モノを固定する)の設計製作を100%内製

2 世界最新鋭の工作機械と伝統の加工技術の融合
⇒いい機械つかってもいい人がいないといいものできない。

3 社員が若い/環境づくり
  ・失敗おめでとう
  ・答えは一つじゃない
  ・得意をいかそう
「失敗しない方法が1つだけある。それは何もしないことだ」

4 多様な人財による人間力
  ・働きやすい職場
  ・女性の比率高い(30%は女性社員)

5 下請けではないパートナー戦略
  ×お客様は神様
  ○お客様はモノづくりのパートナー
  ★品質、納期、価格

2007年リーマンショックで仕事が95%減少した。
⇒社員を減らさず、勉強会をした
現在、伸びまくり。
設備投資と人材育成が必要なので倍々ゲームでは伸びないが、
前年比130%を達成。

社員旅行を毎年やっている(自由参加)
→お互いの信頼関係構築のため

柏崎で感じるデメリット
・経験人材の不足
・市場が小さい
・物流に費用が掛かる

柏崎で感じるメリット
・労働力の確保が比較的容易
・生活コストが安い
・敷地が安い
・行政からの支援
・まちぐるみの一体感
・頑張る人がわかりやすい

「のっかる先がない」
のっかりたい人には生きづらい
⇒やりたいことがある人は応援してもらえる

地方で雇用を生み出すこと
⇒住むことができるということ
ものづくりは人を幸せにする道具

製造業と観光業だけがよさからお金を稼ぐことができる。

「工場を見てください」
「工場は嘘つかないですから」
「従業員の顔、5S、リアルで感じてみてください」

会社:条件じゃないはず。感じてほしい。

唯一の技術なんてもものはない。
適正な価格で売ること

~~~以上メモ

人柄。
にじみ出る。



工場見学のラストに言っていたこと。

「工場を見てください」
「工場は嘘つかないですから」
「従業員の顔、5S、リアルで感じてみてください」

会社:条件じゃないはず。感じてほしい。

お客様はパートナー。
唯一の技術なんてもものはない。
適正な価格で売ること

これ。
これだよなあって。

現場。
感じること。
お客様はパートナー。
そんな会社と取引したいよねえ。

テック長沢。
就職先としてもオススメします。
まずは長澤さんに会ってほしいなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 18:18Comments(0)

2018年09月28日

「機会」を「ご縁」に変える

公益財団法人 ブルボン吉田記念財団が運営する
「ドナルドキーンセンター柏崎」
http://www.donaldkeenecenter.jp/




ドナルドキーン先生の書斎の再現



午前中はセンターの概要と内部見学
午後は財団の理事、吉田眞理さんに話を伺う。
27日に話を伺ったブルボンCSR担当の小保方さんの話も合わせてメモ。

~~~以下メモ

東日本大震災のあと
「ともに生きたい、ともに死にたい」
と日本への帰化を表明。

「百代の過客」
新聞連載は司馬遼太郎の一言から始まる

司馬は「戦友」である。

安いからという理由で買った「源氏物語」(英訳)
に戦争からの逃避もあって惹きこまれていった。

「縁」を大切にする。
「縁」:戦争、地震、出会いすべて

自己肯定する。

~~~以上メモ

「ドナルドキーンセンター」は
キーン先生との3年間のご縁が実を結び、
新潟・柏崎の地に誕生した。

それって、吉田さんと
会社としてのブルボンそのものの歩みだったんじゃないかと思った。

▽▽▽以下ブルボン本社メモ





ブルボン:関東大震災の翌年から
ビスケットで創業。
⇒災害時でも食べられる、保存が効くから

経営理念:
利害相反する人を含めて集団の生存性を高める

他社と比べて商品・営業所・従業員数が圧倒的に多い。
雇用を生んでいる。

CSR‐CSV ヨーロッパでは常識。

CSR:企業の社会的責任
企業が「持続的発展」をしていくために
「事業活動を通して」
「新しい価値」を生み出し
社会から「信頼」されること

本業を通じた持続的な社会課題の解決

CSRを通じた
新規顧客開拓、社員活性化、地域経済の活性化ができる。

CSV:共通価値の創造:社会価値と経済価値の同時実現

利潤と道徳を調和させる:
日本的経営「論語と算盤」(渋沢栄一)「三方よし」(近江商人)


ESG投資、SDGs


社会価値↑ CSR      CSV
     コンプライアンス PPP(経済価値に軸足)

        経済価値→

ブルボンのCSV
社会の諸問題を自社の収益機会獲得機会としても捉え、
自社の強みを活かしたそれらの社会的課題の解決に貢献。

△△△以上ブルボン本社メモ

なんていうか。
人、地域を大切にする会社なんだなって思った。

いま、調べたのだけど、
ブルボンの従業員数は
同業他社に比べて圧倒的に多い。
売上高は5位経常利益率は6位なのに、だ。
https://gyokai-search.com/4-kashi-jyugyo.html

それだけの人を雇用して、
利益を確保するのはすごい経営努力なんだなあと。

「人」そして「ご縁」を大切にするからこそ、
ドナルドキーン先生とつながり、
「ドナルドキーンセンター柏崎」ができた。

あれがブルボンそのもの
吉田財団そのものなのだろうなと。

キーン先生の新聞連載タイトル「百代の過客」は
松尾芭蕉の
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」
からきている。

また旅人なり。
みんなが旅人だとしたら。

今この瞬間の「ご縁」を大切にする。
それぞれの「旅」(人生)を自己肯定すること。
たぶん、そういうことなんだなあと。

「やりたいことは何か?」
「何になりたいのか?」

という問いではなくて、
「何を大切にしていきたいのか?」
「どうありたいのか?」

が必要なのではないか。
そして、あなたはなぜ旅に出たのか?と

松尾芭蕉は、
自らの旅への欲求を抑えきれずに
「奥の細道」へと旅立っていく。

キーン先生はおそらく。
日本文学にそんな「美」を見た。

三島由紀夫や川端康成をつづって、
「美」という言葉をつかう。

「美しく生きる。」

この答えのないテーマに挑む人たちと出会い、
それを研究した。

キーン先生もまた旅人だった。
いや、僕たちひとりひとりも旅人なんだ。

だから、目の前の「機会」を「ご縁」に変えること。

大地震や戦争さえも、
キーン先生にとっては「機会」に過ぎず、
それを「試練」ではなく「ご縁」へと変えていった。

そんなことを感じられる柏崎の
「ドナルドキーンセンター柏崎」。
人生に迷った人におすすめです。

あなたもまた旅人なり。  

Posted by ニシダタクジ at 08:12Comments(0)

2018年09月27日

過去の「違和感」を掘り下げる

大正大学「地域実習」8日目。
午後は株式会社with you
小林俊介さん

午前も思ったけど、
うわあ、すげー人いるなあって。
衝撃だよね、もう。

これを大学1年生で授業で聞けるって
すごいなと。

4000円/1H
払っている価値あるわ、と。

このプログラムを
一般の人に売ったほうがいいと思いましたよ。

ということで
with youの小林さん。



「inclusion&innovation」
と会社に掲げてある。

そのテーマにまい進している会社。

~~~以下メモ※表記は「障がい者」に統一してあります。

父が脱サラして会社を設立
特別支援などなかったので
障がいがあることが当たり前だった。

少年期の違和感/途中で彼らと離れ離れになること。

18~25歳:ただのクズ
自分の好きなことだけをやっていた
25歳の2010年1月1日の交通事故
無になって人生リセットした。

死ぬんだと思ったとき、この人生でいいのかと思った。
少年期の「違和感」を思い出した。
あいつらいなくなったのはなんだろう?
障がいと向き合うことを生涯の仕事にすると決意
福祉はひとつのツール

問題意識と違和感
1 まちなかで障がい者見かけない
2 シャレにならない低賃金
3 福祉業界はビジネスのセンスがほぼゼロ
4 企業の人たちは福祉バリアの中が見えていない。
5 働きたくても仕事がない障がい者と人手不足企業と高齢化地域

持っていたリソース
1 幼少期からのダイバシティ経験
2 父の30年以上にわたる障がい者雇用
3 事故でもらった未来意志

必要としたもの
1 「福祉」をやるための最低限の知識
2 「福祉」をやるための清廉潔白さ

(主婦+障がい者)×(製造業+就労支援)
⇒社会課題の解決
道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である(二宮尊徳)

会社の収入
1 訓練等給付金
2 製造業の仕事

ちりばめた工夫
1 法人格:株式会社でスタート。他会社とコミュニケーションとるため
2 スタッフ:主婦だけ。福祉未経験
3 制服:カジュアル。そのまま買い物いける
4 看板:カッコよくデザイン
5 自力通勤:公共交通によるインパクト
6 勤務時間:14時半まで。まちに出られるように
7 アウトプット:メディア戦略、プレスリリース
8 イベント:地方じゃ誰も見たことないことを

結果
・障がい者を取り巻く環境の変化
・地域や企業の「福祉」に対するイメージの変化
・若手の福祉人材の活性化

「地方で働き、地方で生きる、イキって生きる」
課題の数だけビジネスチャンスがあり、「個」が際立つほどに同志が増える
困難を乗り越えるたびに心が躍る
⇒地方で働く醍醐味

信念に基づいてやってきたことが
実はSDGsだった!
インクルージョン&イノベーション

障がい者によりそうのではなく、
よりそわなくてもいい社会をつくる
信念に背かずに、カッコよく。

障がい者は感動の対象ではない。
自分たちがいなくなることがゴール
柏崎では、そんなこと(障がい者雇用とか)当たり前だよね、っていう社会

できないからやらせないのではなく、
どうやったらできるか考える。
自分たちで考えてもらう

個人に戻れる場をもっておくこと。
いま身にまとっているものを全て脱いで語れる場所を持つこと。

~~~ここまでメモ

美学。
というか、美しさとは何か?
って考えさせられる。

そしてそれには、
自らの過去の「違和感」を掘り下げること
が大切だなあと思った。

自分の過去の感情の揺れを解読すること。
そこから始まるなあと。

「障がい者に寄り添うのではなく、
寄り添わなくてもいい社会をつくる」

「柏崎ではそんなこと(障がい者雇用とか)
当たり前だよねっていう社会をつくる」
自分自身が考えるカッコよさに向かっていく。

そんなことを感じた。

柏崎4人衆
あいさの水戸部さん
小清水の矢島さん
la Luce e L’ombraの西村さん
with youの小林さん

彼らに共通するのは「発信力」だ。
自分の言葉で語り、メディアに出て、
応援者、ファンを増やす。

そうやって未来に向かって行くエネルギーを感じる。

この4人に会って現場見て話を聞ける旅。
名付けて「柏崎変態ツアー。」
(僕が言ったんじゃないですよ。矢島さん水戸部さんが言ったんです)

これ、来たい人いっぱいいるんじゃないかなあ。

ツアコンやりたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:52Comments(0)

2018年09月27日

「実験室」で始めてみる

大正大学地域実習8日目。

午前は、夢の森公園のカフェ
「I’m home」で。


西村遼平さん:
有限会社la Luce e L’ombra
カフェ:I’m home(夢の森公園内)
ケータリング:Boratorio
を展開している。

いやあ、すげー人いるな、って思った。

会社に勤めながら
ケータリングのサービスを仲間4人とスタートして
半年先まで予約で埋まってて、
それで独立してカフェ始めました。

みたいな。
4行で書けちゃうけど、
ホントすげーって。

~~~以下メモ。

会社につとめながらケータリングしてた。
ケータリング:半年先まで予約で埋まってた。
告知:口コミのみ

高校卒業して眼科に就職した。
医療=接客業:体に不安をもっている人がくる=それを接客する

22歳:父の手術
→地元帰ってきて転職:飲食店のホール。
→料理を学びたかったのでキッチンに入りたかったが接客が良すぎてホールへ。
→ウェディングプランナーへ。

28歳:このままだとお店もてない!
「Boratorio(実験室) La Luce L’ambra」をスタート
→実験室が取れて、会社になった。

休業中・営業後の飲食店を使用:家賃タダ
→facebook告知:広告費タダ
全員が素人でやった。
・料理人×2
・接客のプロ目指したい
・デザイナー
・写真とる人

思いはあるけどやってない人
お店をやるけど無リスクでやってみないか?
お金は払わないけど(当初)、ほかに得るものはあるよ。
お金じゃなくて思いのあるやつが集まった。

告知2日で58席予約/24席
コース料理を3回転させた

ケータリングチーム
・ユニフォームつくった
・家賃払わない
・人件費+材料費だけ
→利益率高い

・リスクを少なく、利益を出していくこと。
「まちのために」:数字がついてこないとひとりごと
「思い」と「ビジネス」を両立させていく。

「地産地消」:簡単じゃない。
トマトソースは夏しか出せない。
今あるもの=旬のものしか使えない

「今売りたい野菜、旬の野菜なんですか?」
→全部ください
→それからメニューを考える
主婦が冷蔵庫見ておかずつくる感覚
この食材で何ができるか?

「食べる人」「つくる人」「料理する人」が
みんなハッピーになる。

「地産地消」が目的となっていないか?
ゆがんだ地域愛:直売所で野菜買ってます、みたいな。
「地産地消」を目的にしない。
それをやることで「外」に売れるようになる。

B級グルメ:その場所に来たからついでに食べる
A級グルメ:それを目的に来る
地元に支持されていないものを外に出せるのか?

「めんどくさがらずにめんどくさいことをやるか?」
効率よくやらないこと

ぐるっとまわって自分の利益になる。
ケータリングサービス:料金表・メニュー表がない
→ウェディングプランナー経験が生きてくる

お金じゃなくて思いが真ん中にある。

【大学生へのメッセージ】
・悩んだり苦しんだほうがいい
⇒気づきは早いほうがいい、始めるのも早いほうがいい

座っているだけで4000円/1H払っている
眠いならやめたほうがいい。
させられているならあらためたほうがいい。

成長したい人:採用しない 会社は生産しなきゃいけない
成長→成熟

器の大きさ:時間かけてる長さじゃない
→出来事・瞬間に広がる

感じること:危機感・違和感を持てば、
何者かになれる

0を1にする力
とりあえずOKすること。
とりあえずやります。
「実験室」で始めてみる。

勘違い=重要

しっかり遊んだ
遊び=本気だった
どれだけうまくやるか?向上心を持った
⇒趣味の領域を超えてる、と言われた。
⇒言語化してきた

後天的天才:目の前のよさを言語化できること。
遊びで培われた。
人がお金をつかう理由を言語化する。
・特別感、非日常感
・自分をよりよくしていける

好きになる没頭できる。
トップを取ることができる

~~~以上メモ

柏崎80年代生まれ4人衆。
「あいさ」の水戸部さん
小清水の矢島さん
with youの小林さん
そして西村さん。

4人を分析して西村さんが言っていたのが、

どうやってそこに到達するか?のアプローチの違い。
なぎ倒していく:水戸部さん、小林さん
よけていく:矢島さん、西村さん

なるほど。
僕はよけていくほうかな、と。

あと、印象に残ったのは、
「実験室」で始めること。

「Boratorio(実験室)」と名付けて、
始めてしまうこと。

そこで試行錯誤、スキルを向上して、
次に進んでいくこと。
そうやって道は拓けていくんだな、と。

あとは「天才」の定義。
西村さんは「後天的天才」と言っていたけど、
目の前にあるものが
「なんでいいのか?」を言語化できることだと。

たしかに。
それが言語化できると、
次にカタチにできるもんね。

それを西村さんは
遊びを通して学んだのだという。
西村さんは遊びでも全力投球で真剣にやる。
ダーツでもボーリングでも研究して極めたくなるのだという。

ああ、そうやって、
自分の「好き」を言語化してきたんだろうなと。

ランチはこんな感じ。




野菜が歌を歌っているようでした。  

Posted by ニシダタクジ at 08:31Comments(0)

2018年09月26日

「好きなこと」という「点」をいっぱい打っておく

大正大学「地域実習」7日目。
柏崎市小清水集落でカフェなどを
手がける矢島衛さんに話を伺う。


矢島さんの守る神社で話を聞く。




矢島さんと奥様が運営するEALY CAFEの豆カレー。

~~~以下メモ

矢島衛さん:1984年生まれ。東京出身。
2007年大学卒業後、母の実家だった小清水へ孫ターン

百年後まで集落を残す。をミッションに
「ひゃくいちねんかい」を発足。

それが紹介してある柏崎まちづくりネットあいさのウェブもすごい。
http://npo-aisa.com/hero/hyakuichinenkai/

誇りが持てる暮らしをつくる。
集落を元気にする。

念仏を唱えてご飯を食べる、などの風習が
震災による建物の倒壊で中断。
⇒そういう場所必要じゃん

EALY CAFÉ(イーリーカフェ)をスタート
・集まれる、食べられる場所が必要
・情報発信の場として
・気軽に地域外の人が呼べる

※古民家風カフェにはしたくなかった。
この先に何があるのかわからない⇒期待値を超えたい
整えられた空間。
月300名の来店。(村2・市内4・市外4)
地元の人談「若い人ががんばっているのを見るのがうれしい。」

景観が荒れると心が荒れる。
里山:自然と人の営みが一緒になっている空間

田の多面的機能
冬の間は農業できないので酒造りをしている
コメ作りを今年から始めた。
→小清水の酒を造りたい:毎年味が変わる

ワイン:ブドウの出来で9割決まる
日本酒:米の出来では1割しか決まらない
人間によって味が設計できる
その年何があったか?の物語を日本酒で語れる
つらいことがあったら辛い酒
めでたいことがあったら華やかな酒

大学では民俗学を専攻。
小清水集落でフィールドワーク。
「小清水こそ私のふるさと」「孫まで伝えたい」
誇り=自分がやらなきゃ。就活やめて移住。

その年の7月に中越沖地震。
ロウソクの火を見ながら、腹を決める。「この道でいく」

ほかの地域なにやっているんだろう。と視察。
山奥でもお店できるんだ、と。

25歳でIT企業に就職、結婚。

企業では上へ上へひっぱり上げられる
→これが俺のやりたかったことかな?
→集落を元気にする、残す。
→「命削って会社員して、週末だけ地域活動するだけでいいのか?」

集落の田んぼがヤバいから農業法人へ転職。
奥さんとカフェをオープン。

矢島さんからのメッセージ。

好きなことを極めてほしい。
好きなこと=没頭する=努力必要ない
まわりにもいい影響を及ぼす。

「できること」「やりたいこと」「喜ばれること」の
三角形の真ん中につくっていく。

課題に真正面から向き合わない、背負いすぎない。
メインストリーム(主流)じゃない。
⇔亜流であるっていうこと。決まりきってはいけない
使命感でやらないこと。

ハードウェア:小清水
ソフトウェア:東京

物語をつむぐ
好きなこと=点
点と点がつながる。

イノベーション:点と点の組み合わせ
⇒点をいっぱい打っておいたほうがいい
⇒遠ければ遠いほどいい

ポートフォリオワーカー
変態:好きが行きすぎる人

編隊が育つと地方がおもしろくなる。
「あいさ」:変態製造所

変態ツアーをやる。
農家民宿:ツアーが組める
何を食べるかよりも人に会うツアー

ふるさとを複数個もつこと

プレスリリース:
ニュース性、社会性、話題性があれば取材きてくれる。

~~~以上メモ

いやあ、めちゃめちゃ面白かった。
日本酒づくりの話とか変態ツアーの話とか。
僕もやりたいわ、と思いました。

大学生の心に響いたのは、
「好きなことやれ」っていうこと。
好きなことは没頭できるから努力が必要ない。

そうやって「好きなこと」っていう
点をいっぱい打っておくこと。

ジェームズ・W・ヤングは、かつて言った。
「アイデアは既存の要素の組み合わせにすぎない」と。

プロジェクトも、イノベーションも、
いや、もしかしたら人生もそうなのかもしれないと思った。

「好きなこと」に「没頭」して、「点」を打っておく。

後から、スティーブジョブズが言うように
「点」と「点」がつながる(コネクティング・ドット)のだ。

すべての点がつながるわけではもちろんないと思うのだけど、

その「点」が遠ければ遠いほど、イノベーションは大きくなる。
「カケルナニカ」のナニカの距離が遠いっていうこと。

点をいっぱい打っておくこと。
それをあとから振り返って、つなげること。

そう考えると、やっぱり僕の次の一手は
「畑のある本屋」ですかねえ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)日記

2018年09月25日

「夢」や「目標」にアイデンティティを依存しないこと

「やりたいことがわからない」
ことがつらいのは(つらく感じるのは)、

心はやりたいことを決めるべきではない。
(価値を固定すべきではない)
キャリアデザインではなくキャリアドリフト的な
生き方がいいと直感ではわかっているのだけど。

教育によって、
「目標のある人生に価値がある。」
と思い込んでいる(思い込まされている)から、
そのギャップがつらいのと。

もうひとつは、
夢、目標に、自らのアイデンティティ(存在意義・存在承認)
を依存するしかないからだろうと思う。

ひとつに、
「地域」コミュニティの崩壊。
またひとつに、
「会社」コミュニティの崩壊。

それは同時に
「地域」アイデンティティの崩壊と「会社」アイデンティティの崩壊
を意味する。

いまだに町人総出の祭りのある地域の
出身の人たちには、何とも言えない自信がある。
それは「誇り」と呼べるようなものかもしれない。

その要因のひとつは、
「地域」アイデンティティが備わっている人たちだからだと思う。

かつてはどこの会社に勤めているか?
がその人のアイデンティティだった。
ほとんどの会社員が定年まで働くという
状況の中で、会社は家族であったし、会社と自分は一体だった。

2012年3月26日に書いたブログ
「アイデンティティ・クライシス」
http://hero.niiblo.jp/e162894.html

で、若者が直面する最大の危機は
アイデンティティの危機であり、
それは「役割の喪失」からくる、と書いている。

毎週日曜日(冬季のぞく)に
「人生最高の朝ごはん」が開催されている
新潟市西蒲区福井地区。


そこのじいちゃんたちに会い、
「誇り」そして「役割」こそがアイデンティティの源泉だと思った。
だから、「役割」を持たなければならない。と思っていた。

いま、そんな「誇り」や「役割」のあるコミュニティは
数えるほどしかない。

一方、学校社会は、「キャリア教育」の名の下、
早期のキャリア目標の設定を迫る。
親戚のおじさんは、正月に、甥っ子姪っ子に対して、
「将来何になりたいんだ?」と聞く。

いまなら、タカアンドトシばりに「昭和かっ!」
って額を叩いてやりたいところだけど。

まるで、「夢がなければ、人に非ず」
と言っているようなものだ。

そう。
「夢」や「目標」がアイデンティティに直結していること。
それが現代の若者の生きづらさの一つの要因となっていると思う。

その前提を疑うこと。

昨日、「常識を疑うことから始めよう」(ひすいこたろう・石井しおり サンクチュアリ出版)
を読み直していて、「前提を疑う」ことってとても大切だなと思った。


例:
「常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである」(アインシュタイン)

教育の奥にあるものを考えること。
「夢」や「目標」にアイデンティティを依存しないこと。

かといって、アイデンティティを「役割」に求めるのは
少しズレてくるように思う。
「役割」には「承認」が必要だから。

6年前のブログにも書いているけど、
「人のためになる仕事がしたい」という大学生の欲求は
「役割を持つことで承認されたい」だと思う。

「承認されたい」という病(というか本能)に気づくこと。
場(プロジェクト)の一員となり、役を演じること。

「役割」ではなくて、「役を演じる」くらいの
軽やかさで、人生を生きていければいい。

「やりたいことがわからない」
とアイデンティティの問題は根深い。

僕はそれを場のチカラで超えていけると思っている。
「アイデンティティ」も「個人」も場に溶けてしまえばいいと思っている。

そういう意味では、「イナカレッジ」という地域と一体化する1か月の
プログラムは、そういう設計になっているのかもしれないと思った。
地域の「誇り」や「地域愛」に包まれる1か月。

そこから始まる何かがあるような気がする。
これ、イナカレッジ参加者に聞いてみたいなあ。




写真は出雲崎・海チーム(2018.9.22)  

Posted by ニシダタクジ at 08:21Comments(0)学び

2018年09月22日

個性を生み出す「場」の構成員となる

地域実習3日目。
今日は柏崎のまちづくりネットあいさの
水戸部さんに話を聞く。



2007年の中越沖地震のときに
大学3年生で建築を学んでいた水戸部さんは
中越沖復興支援ネットワークの
立ち上げにかかわる。

これがきっかけとなって、
現在の「柏崎まちづくりネットあいさ」
「市民活動センターまちから」につながっている。

~~~ここからメモ

町:AREA・・・区域のこと    柏崎市
街:HARD・・・建物のあつまり  中心市街地
まち:SOFT・・・人と人との関係、暮らし

ミッション:
自分たちの地域を
自分たちの手で
よくしていくこと

よくしていこうとしている人をバックアップする。
挑戦したいという志に火をつける。

挑戦の循環によって躍動する地域
縮小の時代:地域に挑戦が必要
事業を通じて社会に貢献するプレイヤーを増殖させる。
都会:消費するものがコンテンツ化されている。

3段階のステップ
1 任意団体:中越沖復興支援ネットワーク
2 NPO法人柏崎まちづくりネットあいさ
3 市民活動センター「まちから」

家族以外の最小単位のコミュニティ

「ディス柏」:若者が集う場
「Okinet press」の発行
おもしろい人がいる
→取材にいけるし、深く知れる

話聞いてくれる人=向かい側
となりにたまにいる人
ピストルの弾=事業をどこに打ち込むか

※総合計画をちゃんと読む

やりたいことがやれて自己満足している状態

隣の友達を助けられる

やりたいことを応援していく

やりたいことをやっている

ハッピーになる

まわりをHappyにしていく

まちからはみんなと楽しめるまちを目指して、
あなたとやりたいことをカタチにします。

※会議体の役割を明確にする

主体性・高
A:立ち上げ・中心メンバー
B:参画メンバー
C:参加してみたい
D:関心がない
主体性・低

A~Bをあいさが支援
C~Dをまちから:応援する、つながる、つたわるで支援

東京にはないものがない
地方にはないものがある
地域にないことをやれれば仕事になる。
相談される。メシが食える。地方はパラダイス。

今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない

ビジネス=仮説の検証
あのころの自分(の直観)が正しかったかかどうかわかる。

金もうけの勉強していない
→22歳から金もうけが問われる

100点とれるやつ=みんなと同じことができる
みんなができないことがやれる
どっちに価値があるか?

~~~ここまでメモ

あいさ~市民活動センターの取り組み。
10年でここまでなるか、っていう驚き。
地震という強いインパクトがあって、
復旧、復興、そしてその先、どうするか。

そんな問いの中で、
参加型まちづくり、ひとりひとりが主役であるような、
そんな場を「よりそう支援」をしながらつくっていた。

市施設を活用した
市場のような市民団体がお金を稼げるような
取り組みも素晴らしかった。

「学校では金もうけをやり方を習わない。」
そんな、伝えたい思いがあふれていた。

僕が話を聞いていて思ったこと。
それは昨日の続きだ。

ひとりひとりが
個性を発揮する必要はないのではないか、
ということ。

「個性」とは、「役割」のことではないのではないか。
ましてや「能力」のことではないのではないか。
ということ。

個性(アイデンティティ)≠役割 ≠能力

水戸部さんが言っていたように、
「今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない」

そうそう。
正しさも、価値も、流動している。

だから。
もっと場に溶け出していいと思った。

昨日と一昨日のブログ
http://hero.niiblo.jp/e488131.html
地域の「個性」の構成員となる(18.9.19)

http://hero.niiblo.jp/e488136.html
「主客未分」で場に溶けていく(18.9.20)

これを合わせて、
個性(を生み出す「場」)の構成員になる

っていうのが可能なのではないか、


「日本人は何を考えてきたのか~日本の思想1300年を読み直す」(斉藤孝 洋伝社)

「中動態の世界」のあと、
読み直したくなった1冊。

これもまた、めちゃタイムリー。

昨日は西田幾多郎について書いたのだけど、
今日は「禅」を研究した鈴木大拙の言葉から。

「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」(禅と日本文化)

禅においては「体験」が重要であり、
「言葉」はむしろ妨げになる。

「日本人は、自分たちが最も激しい興奮の状態に置かれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛錬されてきた」

自分を囚われから引き離すことが大切である、ということ。
自己が囚われるということは、心が何かにとどまるということです。
そこから、「心をとどめぬが肝要」と言います。

心がとどまってしまうと人は反応できなくなります。
「あのとき、ああすればよかった」と思っていると
また失敗してしまいます。
また先のことを思って、
「こうすればほめられるだろう」と先回りすると、
やはりこれも失敗してしまいます。

「石火の機」というのは、まさに火花が飛ぶ瞬間のように、
いまその瞬間にきちんと反応する、ということですが、
反応するためには、常に心を無にしていなければいけません。

そして極めつけは
この2つあとに出てくる、
大森荘蔵の言葉。

「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思い込んでいる感情に他ならない。」
(大森荘蔵セレクション・平凡社より)

感情というものは心の中にあるのではない、そもそも心の中というものはなくて、天地がすでに感情を持っていて、そこに自分は参加しているのだ、ということです。

大森は
「心の中」とか「意識」という言葉は危険なワードだと言います。
なぜなら、この「意識」という言葉が世界と人間を隔ててしまっているからです。

この後、斉藤孝さんはこのように解説します。

~~~ここからさらに引用

ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、
人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。

(中略)

このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを
前提とするよりも、場の雰囲気といったものを
前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。

「私」というものがあって、
その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら
思い込みなのかもしれません。

「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、
禅の伝統も生きてきます。

~~~ここまで引用

うわ~!って
日本の哲学スゲーって。
うなっちゃいました。

そして、僕のコンセプト「場に溶ける」なんて、
全然新しくないんだって。(笑)

「個性」とか「私」とか
そもそも幻想なんじゃないか。

もともと、「私」は世界に、というか場に溶けているんだ。
「場」から生み出される「価値」を「個性」と呼ぶのだと。

だからさ、個人が個性を発揮する必要なんて必要なくて、
「場」の構成員になればいい、というか、すでになっているんだって。

「やりたいこと」とか「夢」って「囚われ」のひとつだって思った。
自分なんてない。

水戸部さんは、長野市から柏崎市へ進学し、
3年次に震災が起こった。
その「場」に溶けていったのではないか。

震災復興から、まちづくりへ。
ひとりひとりがやりたいことを実現できるサポートを。
Happyの連鎖を。

そして、「あいさ」や「まちから」がそこにあることが
柏崎市の個性になっていく。

場に溶けていく。
そこから始まっていく。

それがいつのまにか「個性」となる。

私のやりたいことは何か?
私のビジョンは何で、いまどこのプロセスにあるのか?

そんなことを考えるよりも、
場に溶けていく。「場」に委ねてみる。

そんなほうが楽なんじゃないですかね。

楽に生きたい。ただそれだけなのかもしれないですが。  

Posted by ニシダタクジ at 10:31Comments(0)学び

2018年09月21日

「主客未分」で場に溶けていく

西田幾多郎。
「京都学派」の源流。

西洋の哲学・思想を踏まえた上で、
初めて本格的に日本の哲学、あるいは日本の思想
と言えるものを作った人物。

西田の根本的な思想に「純粋経験」がある。


斉藤孝「日本人は何を考えてきたのか」(洋伝社)
には、西田の言葉として以下が紹介されている。

「通常、経験といわれているものは、すでにその内に何らかの思想や反省を含んでいるので、厳密な意味では純粋な経験とはいえない。純粋経験とは、一切の思慮分別の加わる以前の経験そのままの状態、いいかえれば直接的経験の状態である。例えば、ある色を見たり、音を聞いたりするその瞬間、それがある物の作用であるとか、私がそれを感じているとかいった意識や、その色や音がなんであるかという判断の加わる以前の原初的な意識や経験の状態である。」

つまり、「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句。ここに「私は聞いた」というのはない。「ボチャン」という水音だけ。そこに静かな沈黙が広がっている。これが純粋な経験だとすると、「そこに私がいて、池があって、池の淵にカエルがいて、そのカエルが飛び込む音を、私はそのとき聞いて逆に沈黙を感じました。」ということと同じことのようで全く違うのだと。

単純に「ボチャン」という音があった。私はたまたまそこにいたにすぎないのです。
つまり、意識的な私というものが先にいて、そういう経験が起こったわけではない。
そんな主客未分の純粋経験がこの世の基本であると西田は説く。

さらに「自覚」と「場所」というキーワードに行き着く。

「直観というのは主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、翻って之を見た意識である。・・・余は我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにするものは
われわれの自覚であると思う。」

そして、「西田幾多郎の思想」(小坂国継 講談社学術文庫)の言葉によると、それは「場所」によって起こるという思想に行き着く。

「西田の考えでは、対象と対象が相互に関係するには、そのような関係が(そこに於いて)成立する「場所」というものがなければならない。例えば、物と物とは共通の空間においてはじめて関係するものである。」

斎藤孝さんは、この解説の中で、
「場所」は実体的な場所だけにとどまらず、「有の場所」「無の場所(意識の野)」、さらに有無を超越した「絶対無の場所」、それは禅でいうところの「空」に近いものであらゆるものが生まれ出る「場所」なのだと言っている。

~~~ここから引用
アリストテレス以来、西洋倫理学の基本は
「AはAである。(同一律)」
「Aであるか、またはAではない」(排中律)」
「Aかつ非Aであることはない。(矛盾律または無矛盾律)」

これらは一見、絶対的に正しいように思えます。
しかし、西田に言わせれば、Aと非Aを分けている点ですでにおかしいということになります。

色で考えるとよく分かります。赤と青はもちろん違う色です。
しかし、どこまでが赤でどこからが青なのかというと、はっきりしません。
色は七色のスペクトルにはっきりと分かれているのではなく、グラデーションになって無限に続いているからです。「ここから」と線引きすることができない以上、赤と非赤があるとは言えません。

(中略)

西田の言うように、主客の分かれていないところでこそ、純粋な経験が起こっている状態は何も特別なことではなく、私たちが折々に感じているものでもあります。

たとえばスポーツや音楽をしているときに「自分をなくす経験」をしたことがある人は多いと思います。意識せずに打っていたとか、思わず演奏していたとか、その行為に集中することで、音楽そのものになり切っていたという経験です。こうした経験は、音楽を聞くだけでも体験することがあります。

~~~ここまで引用(日本人は何を考えてきたのか)

主客未分。利休の茶の世界でも、そのように言われてきたし、岡倉天心も、東洋も西洋もないと表現してきた。

それって、この前読んだ「中動態の世界」そのものなのではないか。

アリストテレス以前に、「意志」も「未来」も存在しなかった。
これにも関連しているのではないか。

そして、それは最近僕がよく使う
「場に溶けている」状態のことをいうのではないのか。

目的という「主」に対して、手段は「客」である。
「主客未分」であるということは、目的と手段がごっちゃになっているという状態である。

よく、「目的と手段が逆転している」あるいは「手段が目的化している」というけど、それって起こりやすいのだろうなと思う。

「価値」は、常に流動している。

国民国家とか学校システム、会社システムなどは、
価値を固定した仕組みである。
だから、目的を固定化することができた。

ところが、価値が流動している時代においては、
目的と手段も流動しているし、
それは個人においても同じだと思う。

「ランナーズハイ」のように、自分を無くし、場に溶けている感覚。
その瞬間こそ、人は心地よさを感じるのではないだろうか。

主客のわかれていないところで、「純粋経験」をして、
そこから「自分(たち)なりの価値」を発見し、
松尾芭蕉が俳句を詠むように、
その「価値」を表現していくこと。

それをひとりではなくて、「場のチカラ」を通して、やっていくこと。
その繰り返しなのではないかなと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 09:27Comments(0)学び

2018年09月20日

地域の「個性」の構成員になる





大正大学「地域実習~越後バージョン」
6週間にわたって、新潟県を縦断するプログラムの2日目。
柏崎市(旧高柳町)の荻ノ島集落。
かやぶきの里として知られる荻ノ島ではたくさんの取り組みが行われている。

代表の春日さんに話を伺う。
キーワードは「個性」。

以下、春日さんのトークのメモ

~~~ここから
金太郎飴のようなまちでは個性が無くなる
個性がなくなると自主性・主体性がなくなる。
地域づくりがマニュアル化して個性がなくなった。

「理屈・スローガン」ではなく、「共感」でつながる。
「共感」:意識しなくてもつながる、伝わる。

ポスターづくり:「来てください・お待ちしています」と言わない。
⇒地域のありようを伝える

自治組織と活動組織
守りの自治と攻めの自治

田植え:苗が活着してないと風景にならない。根を張ってこそ美しさ。
風景:村の人が暮らしている気持ちが表れたもの。⇒「誇り」こそ風景

経済社会と戦っていく道ではない。
→戦わないポジショニング。共感してくれる人たちとつながりを持とう。

収穫した米:横浜の社会福祉法人に売っている。
福祉法人がお米屋さんを持っている。

コシヒカリ7/こしいぶき3
⇒作業分散のため。
10,500円/30kgで売っている。
※コシヒカリとこしいぶきの価格は同じ
モノをつくる前に買ってくれる人を浮かべる。
=ピンホールマーケティング
収穫後、全量横浜の低温倉庫に保管し、社会福祉法人が管理する。

力があれば競争できる。
競争できないところはどうするか?

雪が降るということ:情報が減るということ。
⇒自分・自分に近い人と向き合える時間ができる。
人が生きていくには、インプットとアウトプットの時間が必要
アウトプット一辺倒はありえない。
自分の今のありようを確かめながらアウトプットしていく

あたたかみ:手間をかけること
⇒言葉のひとつひとつが感性に訴えている:共感する。

スローガンではなく、一緒に活動する。
橋本さん:京都府立大公共政策⇒イナカレッジ長期インターン⇒移住1年目
「人口減少」という課題に対して、地域がリアルにどういう対応をしていくのか。
地域移住して不安になる要素:お金、地域とうまくやっていけるか?など

「会社ではたらく」⇒「米、野菜を自分でつくって百姓的に生きる」ほうが安定しているのではないか?5つ以上の仕事をしている

集落単体で越えていけない:連携する。
他地域、福祉法人と連携すること。

「個性」がないと発信できないんじゃないか。
「誇り」と「アイデンティティ」
効率化⇒単純化⇒類友
田舎:複雑系⇒多様である。時間軸がたくさんある。

地域の個性の構成員であるということ。
「個性」=「能力」?
「価値観が変わってきてる」のではなく「価値が流動している」

便利=考えない⇒幸せにならない
ストックする幸せ=つながらない
「仮説にすぎない。検証してもらいたい」

東京に住み続ける:地方とのつながりが必要
関係性をもたないと生きていけない。

ムラの葬式:念仏を唱えることで呼吸を合わせた仕組み。

~~~ここまでメモ

共感。
個性。
アイデンティティ。
誇りの空洞化。
連携。

僕の中ではタイムリーなキーワードだった。
ひとつ、違和感があったのは、「個性」の話。

「地域は単体で生きていかなくてもいい」

そっか。
連携が「個性」を生むんだ。

横浜の社会福祉法人とコメの販売で連携している新潟の集落、荻ノ島。
それは「個性」だよね。

その「個性」は荻ノ島単体で成り立っているのではなくて、
横浜の社会福祉法人があって初めて「個性」になるんだ。

個人も同じなんじゃないか。
関係性の中で、「個性」やアイデンティティが生まれるんじゃないか。
地域の個性の構成員になる。

そこから始まるアイデンティティがあるのかもしれない。

だから、若者よ、地域に出よう。  

Posted by ニシダタクジ at 18:48Comments(0)学び

2018年09月20日

「正解がない」という普通



「口笛を吹きながら本を売る」(石橋毅史 晶文社)

神保町の「岩波ブックセンター」柴田信さんを書いた本。
サブタイトルは「柴田信、最終授業~本屋は「普通」であればいい」



元郵便局を使った素敵な建物、富山のひらすま書房で6月に購入。
(ココ、マジで素敵なので行ってください!)

3か月寝かせておいて、ようやく読めました。
まだ途中ですが、ビビっときたところを。

~~~以下引用

世の中の変化にどう合わせるか。そんな方法は、私にはなかった、ということです。というより、方法は定まらない。世の中がこう変化したから自分もこう変わろうなんて、決まったものはなかった。だからこそ、変化にどこまでも合わせていけるんだ、と思っているんだよね。その途中で、押したり引いたり、ずるかったり、妥協したり、いろいろしてるだろうけど、私はこう対応した、なんて話はない。

この歳になると、なにが正しいか、正解か、なんていうのは全然面白くないんだね。形の定まらないまま直感でいくというのが面白い。

そういう本屋は、その店なりの個別の条件を抱えながら、そこの店主にとっての普通を、身の丈でやってると思うんだよ。私のところも、そうです。

~~~ここまで引用

「普通」っていうのを考えさせられるし。
変わっていく自分と変わっていく社会、世の中
に対して、どうするか、という問いが詰まっている。

注目すべきは、
何が正しいか、正解か、なんていうのは「全然面白くない」
と書いてあるところ。

面白いとか、面白くないとか
そういう問題か?
と思うんだけど、そういう問題なんだよなって改めて思った。

昨日のつづきで言えば、

「変わっていく自分」を前提にすること。
変わりつつある自分の今を前提にして、価値を今この瞬間設定するということ。
「社会」や「世の中」は前提条件ではなく、要素(パラメータ)に過ぎない。

そういうことかなと思う。
それを積み重ねて、柴田さんのいう「普通」ができていく。

ああ、自然農に似ているな、と思った。

自然農と、宮澤賢治と、
長期インターンと、岡倉天心と、
本屋と、現代美術家と。

全部つながってんだな。

そんな気がした素敵な1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)

2018年09月19日

「変わっていく自分」を前提にする

「福島白河にもうひとつの拠点をつくる」合宿。


2泊3日の工程を終えました。
僕自身のお題は、このツアーの
参加者にとっての価値を確認すること。

ひとりひとりのリアルな発言に耳を傾け、
「価値」を確認すること。

参加者のひとりが帰りのバスの中でつぶやいた一言。

「私が地域に関わりたい理由。居場所をたくさんつくる。
変わっていく自分を受け入れるために、生き方のバリエーションを増やす。」

それだ、って思った。

「変わっていく自分」を前提にする。

だから、二拠点目が必要だし、
だから、青砥さんが冒頭に言っていた
「他者」と「余白」が重要なんだし、

17日のブログに書いた、
http://hero.niiblo.jp/e488110.html
(もうひとつの拠点をつくる18.9.17)

体験を通して、「価値」に気づく。
同世代との対話を通して、「大切にしたいもの」を感じるっていうことが
切実に重要なものとなってくる。

そう。
「価値」は常に流動しているからだ。

ひとりひとり価値は違うし、
かつその自分の価値さえも変化し続けているから。

「個人」っていう考え方は、
変化しないことを前提にしていないだろうか。

やりたいことは何か?
とか
あなたの将来の夢は?
っていう質問は、

「個人が一定期間、変わらないこと」を前提にしていないだろうか。

「変わっていく自分」を前提にする。

そのとき、
「やりたいこと」と
「やっておいたほうがいいこと」と
「やらなければいけないこと」
に差があるのだろうか。

17日のブログから、さらに参加者の発言を引用する。

「東京は類友だから、同じような人が集まっていて、
だんだん狭くなっていく。他者に出会えない。」
「好きなことを仕事にする、っていうことは、
そういう人ばかりの集まりになって、やっぱり閉じていく」

「変わっていく自分」。

いま好きなことは、明日好きでなくなっているかもしれない。
世の中が変化しているのだから、自分も変化し続ける。

そのために「他者」の存在が必要であり。

それには、
「やりたいこと」も
「やっておいてほうがよいこと」も
「やらなければいけないこと」も
同様に価値がある。

やることで、「価値」や「他者」に出会えるかもしれないからだ。

「変わっていく自分」を前提にする。

何度も書いているけど、
これってかなり大切なことなのかもしれないと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2018年09月17日

もうひとつの拠点をつくる

9月15日~17日で
「福島白河にもうひとつの拠点をつくる」合宿を
コーディネートしています。(あまりしていないけど)

東京・新潟・宮城から20代6名が集まって、
「移住」「二拠点居住」をテーマに
福島の地域を、見て、感じて、アウトプットします。

僕の肩書は、
「二拠点キャリアコーディネーター」です。
今回の合宿のためにつくりました。

まずは1日目。
ご当地の白河ラーメンを食べたあと、
白河駅近くのコミュニティカフェ「EMANON」で
青砥さんの取り組みを聞いて、
キーワード「他者」と「余白」、
「やらされる」から遠い場所をつくりたい。
を得る。

その後、聖ヶ岩キャンプ場へ行き、芋煮会。

1日目のハイライトは
参加者の一人が言ってた2つ。

「東京は類友だから、同じような人が集まっていて、
だんだん狭くなっていく。他者に出会えない。」

「好きなことを仕事にする、っていうことは、
そういう人ばかりの集まりになって、やっぱり閉じていく」

へ~。
そうなんだね。
「閉じていく」ことへの怖さみたいなものがあるんだな。
僕にもあるけども。

新潟で本屋をやっていて、
「ツルハシブックスの西田」になっていく怖さと
あとはSNSでおっさんのランチのラーメンの写真を見ながら
俺は死んでいくのか?
って思ったもんなあ。
「二拠点」とかってそういうことなのかもしれないですね。

そういう人に出会って、話をしていく中で、
気がついたことをメモできるって大事かもしれないな。

A6ノートとボールペンとか
参加者全員に渡すのはありかもしれませんね。

キャンプ場は圏外だからデジタルデトックスできるのも
強みだなあと思いました。



2日目は西郷村(にしごうむら)ツアー

朝8時から酪王カフェオレの元となる牛乳をつくっている
「雪割牧場」へ行き、酪農の現場を見る。
ここは、震災後に規模を拡大して、地元の雇用の場となっていた。
酪王カフェオレ(牛乳も)おいしいもんね。



その後、上野農場でジャガイモ掘り。

西郷村は、戦後、開拓された村。
満州からの引揚者を含む全国からこの地に移住する。
だから村の歴史はまだ70年。
「うちのオヤジたちが・・・」
とよく話していたけど、まだ2代目、3代目だ。

なぜ、ジャガイモが特産なのか。
風が強くて、なかなか作物が育たなかった。
だから防風林として松を植え、
その風下に杉を植えて建材とした。
そんな畑。

掘ったばかりのじゃがいもを
地元のお母さんたちが待機している集会所へ行き、
ゆでじゃがと、カレーを作って食べた。
その時に、子育てや地域のリアルな話が聞けた。

午後からは遊歩道を散策。
紅葉したらすごくきれいなんだろうなと思う
場所を地元のガイドさんたちと滝まで歩いた。
こういうときのコミュニケーションって大事だな、と。

そして夜。
地元の方々との交流会。
これがタレントぞろいで面白かったのだった。

ということで、2日目の振り返り。

酪農の現場を見る、に反応していたのは、
大学の時に農業系の団体をやっていたHさん。
全国のいろんな農家さんを見に行きたくて
いったのだけど、酪農家だけはいけなかったのだという。

今回、最新の搾乳機を備えた
規模の大きな酪農業を見たのと、
家業だった酪農を閉業して、
雪割牧場で働いているリアルな話を聞けたりして、
ああ、酪農ってそうなっているんだ、って思えた。

いつも、当たり前のように冷蔵庫に入っている牛乳が
たくさんの人(や牛)の手を通って目の前にあること。
そんなことを実感できたという。

たぶん、みんないろんなシーンで感じることがあっただろうと思う。

体験を通して、「価値」に気づく。
同世代との対話を通して、「大切にしたいもの」を感じる。

それってとても大切なことなのかもしれないなと思った。

まずは五感を開く。
他者と出会い、感じる。
「価値」に気づく。
そして、やってみる。

そういう「もうひとつの拠点」
を、必要としているのではないだろうか。

「移住」は、その人の人生の瞬間の出来事のことだ。
当然ながら、「移住」は目的ではなく手段に過ぎない。

だから、「移住」をゴールにした取組みではなくて、
参加者それぞれの人生にフォーカスし、
その地域の資源(自然資源、人的資源)に出会い、
感性を発動させながら、

自らが大切にしたい「価値」に気づくこと。
同世代との対話の中で、「感性」に自信を持つこと。

生きていくのに本当に必要なのは、
感性に自信を持つことだと僕は思っているし、

ツルハシブックスという実験の価値も
そこにあったと思っている。
(今井さんも井上有紀さんも同じことを言っていた)

「感性に自信を持つ」には、
場のチカラが必要なのだよね、きっと。

誰とやるか
いつやるか
どこでやるか

福島白河。
開拓者の村、西郷村。

この村での様々な体験が、
参加者ひとりひとりの、そして地元の人たちにとっての、
「感性に自信を持つ場」になったらいいなと思った。

それが「もうひとつの拠点をつくる」ことの価値なのかもしれないと思った。

僕自身も振り返ると、素敵なカフェをやっている
主催の青砥さんの感性を信じられると思った。
参加者の顔が浮かんで、いい合宿になりそうな気がした。

この2日間のプログラムやお会いした人たちを思い返すと、
その感性でいいんだなと思えた時間になった。

青砥さん、参加者のみなさん、西郷村のみなさん、
素敵な時間をありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 07:02Comments(0)日記

2018年09月15日

「なぜあなたは、その本を10代に届けたいのか?」

茨城県日立市・明秀学園日立高等学校。

今年春の甲子園にも出場した文武両道な高校。
9月15日(本日)午後、暗やみで本をハックツする
「ジブンハックツ」が学校の中の図書館で開催される。







昨日は本番に向けての最終打ち合わせにお邪魔してきました。



僕もインタビューを受けて、1冊寄贈してきました。







昨日まで4日間、図書館に展示されていた本。



これは8月から高校生自身が町を歩いて、
「10代に贈りたい本」をテーマに、
地域の人から集めてもらったもの。

2016年4月に神奈川県茅ケ崎市の
「茅ヶ崎市美術館」で行われた展示の
高校生バージョン。

http://hero.niiblo.jp/e478527.html
(アートとは「問い」を灯すことで、仕事とは「手紙」を届けること)
(2016.4.16)

この時、リベンデル熊沢さんに出会って、展示をして、
本のチカラというか思いを本に託す、ということの
パワーを改めて感じた。

そして、暗やみ本屋ハックツで
「寄贈本読書会」をやっていて、
「なぜ、この本を10代に届けたいのか?」
という話題で盛り上がるのだけど、

それを、高校生と地域の人が
直接やりあったら、面白いのではないかと思った。

そしてそれは、
いわゆる「キャリア教育」とは
ちょっと違った効果を生むのではないだろうか、と思った。
「職業観」ではない、何か。

たとえば、
「今の仕事のやりがいはなんですか?」
「仕事をしていてどんなときに一番よろこびを感じますか?」
みたいな質問。

それと、
「あなたが10代に贈りたい本はなんですか?」
「なぜその本を10代に届けたいのですか?」
という質問。

それを、高校生自身が問うということ。

それはきっと、
「あり方」が問われているのだと思った。

「あなたは今まで、何を大切に生きてきましたか?」
「人生を賭けて、10代に届けたいメッセージは何か?」
というのと本質的には同じ質問である。

高校生自身が取り組む
「10代に届けたい本」や10代限定本屋「ハックツ」は、
そんな「問いのデザイン」になっていると思った。

地域の大人から、
本というコミュニケーション・ツールを通じて、何かを学ぶこと。

大人自身も、高校生を目の前にして、
人生を見つめなおし、大切にしてきたものを確認すること。
そんなことを可能にする。

そこには、
「教えてもらう」
というよりも
「学びあう」という空間があると思う。

高校生は、大人の差し出す本と
大人自身が発する言葉から、
何らかの「誤解」をする。

昨日のブログ。
「個性」とは、どのように誤答するか?ということ(18.9.14)
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

で言えば、
誤答の旅が始まる。

そんな空間や時間が起こること。

たぶん、それが
僕が「ジブンハックツ」的なものに望むことなのだろうと思った。

僕自身が寄贈した本に書いたメッセージで締めます。

「個性」「自分らしさ」は
美しい誤解の積み重ねの先にある。

現時点で僕が高校生に伝えたいメッセージはこれで、
本は内田樹「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)です。

よき旅を。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:22Comments(0)学び

2018年09月14日

「個性」とは、どのように誤答するか?ということ

朝活@中目黒蔦屋。


ここ、外を見ながら充電もありながら
できるので、かなりいいです。

さて。
茨城県日立市にある明秀学園日立高等学校では、
図書館のリニューアルに合わせて、
「ジブンハックツ」なる企画が進行しています。





高校生自身がまちを歩いて、
お店の人に、「10代に届けたい1冊」を
聞いて、本を集めて、

9月11日~14日に展示(17:00~18:00)
9月15日に暗闇でハックツするという企画。
(13:30~15:00 10代のみハックツ可。見学はいつでも可能)
企画の立ち上げにかかわりました。
僕も今日(14日)現地へ見に行ってきます。

ということで、
僕も1冊。
「10代に届けたい本」を考えました。

「孤独と不安のレッスン」とか
「非属の才能」とか
「種をまく人」とか
いろいろ考えたのだけど。

これ、読み直してみたかったので、これにしました。


「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)

あらためて読んでみると、
これはすごい本だなと。

学びとは何か?
人はなぜ学ぶのか?

とか。

タイムリーだったのは、
「場のチカラ」とか、「予測不可能性」とか、
そういうのにも通じているような、
そんな本でした。

さて。
ということで、

本のメモを。

~~~ここから引用

「いい先生」というのはみなさんが出会う前にあらかじめ存在するものではないからです。
あるいは「万人にとっての、いい先生」というのもまた存在しない、と申し上げた方がよろしいでしょうか。

師との出会いに偶然ということはありません。

恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、
私にはこの人がとても素敵に見える」という
客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。

生物に関する限り、ほとんどの場合、「誤解」がばらけることの方が、
単一の「正解」にみんなが同意することよりも、
類的な水準でのソロバン勘定は合うんです。

技術には無限の段階があり、完璧な技術というものに人間は決して到達することができない。
プロはどの道の人でも、必ずそのことをまず第一に教えます。

道に窮まりなし。だからこそ人は独創的でありうる。

「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」
と「恋愛に終わりはない」と「失敗する方法において私たちは独創性を発揮する」
は同じ。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。
自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在である
という事実を確認するために私たちは学ぶのです。

あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない。
だから私は生きなければならない。

先生は「私がこの世に生まれたのは、私にしかできない仕事、
私以外の誰によっても代替できないような責務を果たすためではないか・・・」
と思った人の前だけに姿を現します。

二人の人がまっすぐ向き合って、
相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、
そこで話しているのは、二人のうちどちらでもないものなんです。
対話において語っているのは「第三者」です。

人間は本当に重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える。

沈黙交易の最初のとき、人間たちはそれにいかなる価値があるのかわからないものを交換しあった。

ロレックスを買うのは、「どうしてこんなに高いかわかんない」から。

ユニクロのフリースも安かったから売れたのではなくて、どうしてこんなに安いか理解できなかったから。

交易が継続するためには、この代価でこの商品を購入したことに対する割り切れなさが残る必要があるのです。
「もう一度あの場所に行き、もう一度交換をしてみたい」という消費者の欲望に点火する、価格設定にかかわる「謎」が必須なんです。

サッカーボールそのものには価値はない。ボールに求められる機能は、「最も速く移動する能力」。
サッカーは交易の原初的形態を現代におそらく伝えているゲームだろうと私は思います。
それはやりとりされるものには価値がなく、やりとりという行為そのものがこの遊びの愉悦の源泉であるからです。

通販は本質的なところで沈黙交易的だから、みんなハマってしまう。

コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。
何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、
そこで取り替えつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなく、メッセージをやりとりすることそのものなのではないか。

コミュニケーションを前に進めることができるのは、
そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。

誤解の幅があるようにコミュニケーションする。
それこそがコミュニケーションの王道。

ことばの意味がよく分かるということと、ことばがこちらに触れてくるということは全く別のことです。

誤読を許容する文章というのは、実は誤読しか許容しない文章なんです。

夏目漱石が「先生」の条件として挙げているのは、
一つは「なんだかよくわからない人」であること、
一つは「ある種の満たされなさに取り憑かれた人」であること。この二つです。

先生が先生として機能するための条件は、その人が若いときにある種の満たされなさを経験して、
その結果「わけのわからないおじさん」になってしまった、ということである。

人間の定義がコミュニケーションするものだとすると、
コミュニケーションにおいて「正解」を決めてしまうと、
ほとんどの人間はその存在理由を失って、人間じゃなくなってしまいます。

人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者としての独創性」です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。

すべての弟子は師を理解することに失敗します。
けれども、その失敗の仕方の独創性において、
他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、
師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。

大人と子どもの分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうかという一点にかかっている。

かけがえのなさ、というのは自らのバカさ加減によって担保されてる。

解釈者の位置に身を固定させるということは、武道的には必敗の立場に身を置くということです。

相手に先手を譲って、それをどう解釈するかの作業に魅入られるというのは、構造的に負ける、ということです。

真の師弟関係において、学ぶものは自分がその師から何を学ぶのかを、師事する以前には言うことができないからです。

学ぶ者の定義とは、「自分は何ができないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。

師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たしうるかを、師が知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです。

学ぶのは学ぶもの自身であり、教えるものではありません。
「それがなんであるかを言うことができないことを知っている人がここにいる」
と「誤解」したことによって、学びは成立するのです。

この謎めいた音声は何かのメッセージではないのか?これらの記号の配列には何らかの規則性があるのではないか?
これがすべての学びの根源にある問いかけです。学ぶことの全行程はこの問いを発することができるかどうかにかかっています。

謎から学び取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在するということこそが、学びの豊饒性を担保しているからです。

~~~ここまで引用

またやってしまいました。
嵐の引用。(ツイッター@tkj83から転機)
買ってくださいね、ホントに。

今回さらに選ぶとしたらココですかね。

「私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。
自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在である
という事実を確認するために私たちは学ぶのです。

あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない。
だから私は生きなければならない。」

「コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。
何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、
そこで取り替えつつあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなく、メッセージをやりとりすることそのものなのではないか。

コミュニケーションを前に進めることができるのは、
そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。」

「人間の定義がコミュニケーションするものだとすると、
コミュニケーションにおいて「正解」を決めてしまうと、
ほとんどの人間はその存在理由を失って、人間じゃなくなってしまいます。

人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者としての独創性」です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。

すべての弟子は師を理解することに失敗します。
けれども、その失敗の仕方の独創性において、
他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、
師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。」

この3つ。
「かけがえのない存在として生きるために学ぶ」

「コミュニケーションを進めるには、誤解の幅と訂正の道が残されているから。」

「個性とは、誤答者としての独創性のこと」

いいなあ。
それが学ぶっていうことなのだなあと。

生きるために学び、誤答しながら訂正し、
コミュニケーションを前に進めていくこと。

そうやって、アイデンティティというものが
できていくのだとしたら、
そういうのが進んでいく「場」をつくっていくことが、
僕はやってみたいなあと思いました。

「松下村塾」とは、
吉田松陰先生が師だと思い込んだ人たちが、
ともに学ぼうという「場のチカラ」によって、
花開いていくプロセスのことなのだろうと思いました。

自分が思ったことを口に出せる安心空間をつくり、
一緒にいる人たちと、「勘違い」によって、仮説(誤答)を立てて、
実践し、訂正していくプロセス。

「プロジェクト」が始まる場所は、
そんな場であってほしいなと思います。

さて、本日夕方、明秀学園日立高等学校にお邪魔します。
よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)

2018年09月12日

はたらく女子のための「プロジェクト」ラボ

かえるライブラリーキカクカイギ。
隣の自習室との関連性について。

届けたいのは誰なのか。
という大切な問い。

昨日、新宿で
大学生2人と話した、
「場のチカラ」と「プロジェクト」について

1「誰とやるか」2「いつやるか」3「どこでやるか」
が場のチカラで。

そこに
4「なぜやるか?」
5「誰に対してやるか?」
6「何をやるか」
7「どのようにやるか」
が加わって、プロジェクトになる。

企業インターンシップは、
あらかじめ1~6までが決められていて、
7を考えるというものが多いだろう。

何をやるか、やゴールは決まっていて、
それをどのようにやるか?を委ねられている。

しかし。
そもそも、そのゴールに同意・共感しているのか?
があまり問われない。

「何あまいこと言ってんだ」
と言う人もいるかもしれない。

でも、インターンだって、
めちゃめちゃ貴重な大学生の数週間~数か月を投資してやっていくのだから、
できることなら、同意・共感しているプロジェクトをやりたいだろうと思う。
そこでも、参加とケアのデザインが重要だと思った。

「にいがたイナカレッジ」のすごいところは、
4 なぜやるか
5 誰に対してやるか
6 何をやるか

が大学生のチームに委ねられているところだと思った。


(写真は9月3日の交流会の様子)

9月3日の中間研修のときの
各プロジェクト紹介では、

「最初は・・・だったんですけど、
私たちはこう考えて、こういうアウトプットにすることにしました」
っていう話が続出。

ああ、アウトプットを自分たちで決めていいんだ。
というか、プロジェクトの「価値」と「顧客」を自分たちで
決めていいんだって思った。

それって。
めちゃめちゃ重要なことなんじゃないか?

時代の境目にある、とか
社会は大きな変化の中にある、とか
よく聞く話なのだけどさ、

本質的には「価値」を自分なりに設定して、「顧客」に届けていくこと。
そう、「手紙」を届けていくことだと僕は思っているのだけど、

そのためにはさ、「価値」を問い、「顧客」を設定し、
そこに対してアウトプットして、振り返る。

それをやんなきゃいけないよね。
企業が設定した「価値」(≒売上・利益)
に「どうやるか」だけを考えるだけじゃさ、
なんか、物足りないって感じるのはその通りだろうなと思う。

それは大学生だけじゃなくて、
いま会社員として働いている人も同じで、

たぶん、自分で「価値」と「顧客」を設定して、
プロジェクトを生み出すみたいなことって、
絶対的に必要としているのではないかなあと思う。

世の中が激変しているのではなくて、
「価値」が流動していて、

今までは「効率化すること」と
「課題を解決すること」は、
「価値」(≒売上・利益)に
直結していたわけだけど、

「効率化」や「課題解決」は
もはや「価値」の源泉ではなくなっているのだと思う。
というより、
みんなが思う「価値」みたいな共有ができなくなっている
と言ったほうがいいか。

だから、その都度、集まったメンバーで、
ひとりひとりの物語も大切にしながら、
「価値」を設定して、プロジェクトを設計して、
それをやってみる、そんな「場」を必要としているのだろうと思う。

はたらく女子のための「プロジェクト」ラボとしての
「かえるライブラリー@湯島」っていう方向性は
かなり実現したい絵だなあと思いました。

※10月7日(日)に「かえるライブラリー」の東京拠点である、
ソラ-solur-のプレゼンテーション大会が入谷であります。
ピアノ発表会のようなプレゼンテーション大会、一緒に見に行きませんか?
当日はツルハシブックスも出店予定です。
http://solur.jp/Presentation/  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)かえるライブラリー

2018年09月08日

「参加」と「ケア」のデザイン

「参加」と「ケア」。
これからはこの2つがテーマになってくると思う。

「場のチカラ」を高めるために、
個人が思っていることを話す。
そういう環境をつくることはとても大切だ。

それは「ケア」であると同時に「参加」になっている。
実は最大のケアは「参加」なのではないか、と思った。

それは決して、
「役割がある」ということではない、と思う。

「役を演じる」というか、
即興演劇に近いような、そういう感じ。

生きづらさの源泉は
「個人」という考え方にあるのではないかと
思う今日この頃。

学校は、「集団生活」を学ぶといいながら、
「個人戦」を強いる。
他者と比べることで、
アイデンティティを確立しようとする。

結果、いじめが起こる。

アウトプットを出すのは、
場のチカラであって、個人やチームの力ではない。

だから、そこにいるひとりひとりが
「参加」すること。「ケア」されること。

「ひとりひとり」と「個人」っていう概念は違うのではないか。
そう思っている。

場の構成員としての「ひとりひとり」であり、
それは一個の「個人」ではない。
決して切り離すことはできない。

それがたぶん「場」という考え方
だろうと思う。

「参加」と「ケア」のある場をデザインすること。

それって、ミーティングの時の「チューニング」とか
そういう話でもある。

多くの大学生がアイデンティティの不安を抱えている。
自分が何者であるか、わからない。

それはコミュニティが希薄化したことが
大きな要因であるといえるだろう。
また、学校社会が「夢」や「目標」を
アイデンティティの要素として聞いてくることも大きいような気がする。

「夢」がなければ人に非ず。

そんなことないんだよ。
常に場に溶け出していけばいいと思う。

「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)を読むと、
「意志」とか「未来」とか「個人」とか、幻想のような気もしてくる。

そんなあいまいな世界を生きる僕たちに、
「参加」と「ケア」のある場をデザインしていきたいなあと思う。

8月29日(水)から9月7日(金)まで、
10日間にわたり、そんなことを考えていました。

場を共有していただいた方、ありがとうございました。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:03Comments(0)学び

2018年09月06日

「手紙」を届ける「プロジェクト」を支える「場のデザイン」





まりさんにヒアリングしてもらいました。
!!っていうことがたくさんありました。

いちばん驚いたのは、
「場のチカラ」とか「場をデザインすること」
を大切にしているのだけど、
その根本にあるコンセプト(大切にしたいもの)は、
「手紙」であるということ。

そのふたつがズレているということ。
そこかな。

自分がいちばん心地よいのは、
「場のデザイン」なのだなあと。

ツルハシブックスで階段から見た
いろんな場所に輪ができている景色。
武雄市図書館で感じた
違う目的の人が同じ空間を分け合っている景色。
ワークショップの個人振り返りをしているときのあの空気感。

僕自身は場のデザインをすることで、
何かが起こっていることを見るのが好きだ。
その「何か」とは、
「プロジェクト」のことではないかと。

場のチカラを高めること。
・誰とやるか
・いつやるか
・どこでやるか
それを大切にすること。
前提としてオープンマインドをつくること。

それは「参加のデザイン」にも通じるのだということ。
ツルハシブックスの店員サムライや
寄付サムライの仕組みのように、
境界をあいまいにすること。

流動する価値を
一緒にやるメンバーと一時的に固定して、プロジェクトをつくること。
その価値に同意して、勝ちに向かっている状態であること。
問いを共有し、学びあうこと。

学びの結果として、予測不可能な何かが起こること。
そもそも、場に溶け出して、アウトプットすること。
そういうことを目指してきたんだとわかった。

それと「手紙」。
その根底には、「手紙」というコンセプトがあるのだなあと。

誰もが手紙を預かってきて、
それを渡すのが誰なのかいつなのかわからない。
その手紙を渡すためのプロセスにいること。
それが「プロジェクト」なのではないかなと思った。

つながったね。

僕自身が渡したい手紙は、それなんだ。

人生は、仕事は、
手紙を届けるようなものだっていうこと。

その手紙は、
宛先=「誰に」=「顧客」があって
内容=「何を」=「価値」がある、
プロジェクトを通して届けられるんだっていうこと。

そのプロジェクトを生み出すような、
あるいは促進していくような、
もしくは、きっかけをつくるような、
そんな「場のデザイン」が僕のミッションなのではないかと。

なんか。
しっくりと来た。

まりさん、1時間のヒアリングありがとうございました。
やっと、つながりました。そんな感じ。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:14Comments(0)学び

2018年09月05日

「好き」と「刺激」のあいだ

えぽっくのチームひきだしからイナカレッジ
の中間研修ハシゴで、

場のチカラについて考えて、
ぐるぐるしている。

場のチカラはチームの力とイコールではなく、

人(誰とやるか) with whom
タイミング(いつ) when
場所(どこで) where

が「場」であり、
人ひとりひとりは、その人の過去がつくっている。
研修でやったのは過去の感じたことを思い出すこと。
いましか書けないことを書くこと。

そこにプラスして
なぜやるか(ミッションは何か?) why
誰に対してやるか(お客はだれか?) for whom
何をやるか(価値は何か?)what
どのようにやるか how

という風に、展開していく。

大切なのは、
「個人」を場に溶かしていくことだと思った。

「場」がアプトプットを出す。
そのために、場に自らを溶かしていくこと。

そんなことを考えていたら、
出雲崎町釜谷集落のチームのコンセプトが
「トキメキ」だった。

「刺激」ではなく、「好き」でもなく、「トキメキ」

ああ。
なるほど、って思った。

刺激と好きのあいだ。

受動的に刺さる感じでもなく、能動的に好きになる感じでもなく、トキメキ。
「違和感」っていうのにも近いと思うのだけど、
自分の中からあふれてくる(こぼれてくる)何か。
それが「トキメキ」なのかもしれないと思った。
中動態っぽいなあと思った。

そんな「トキメキ」をアウトプットするには
どうしたらいいのか?
それは楽しみだなあと思った。
あと、柏崎市の岩の入集落の出来上がった暦を見た。

表紙からすでに泣きそうで、
「魔法がかかる編集」が詰まっていた。

イナカレッジ、素敵なプログラムを展開しているなあと思いました。
ありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:35Comments(0)学び

2018年09月04日

参加のデザインとしてのイナカレッジ

イナカレッジインターン中間研修




夜は集落の人たちと交流会




昨日、大学生のプロジェクト紹介とブラッシュアップの話を聞いていて、
イナカレッジは参加のデザインだと思った。

それってたぶん中越地震の時から、
いや、20年前からやろうとしていたこと。

参加型社会。
それをいかに作るか。
それはNPO法ができたときからのテーマであったと思う。

イナカレッジインターンには
地域の人たちが「参加」できる。

野菜を持って来たり、
話をかけにきたり。

自分がどうやって関わろうか?
という問いの中にいる。
大学生に何かしてやりたい。

それって地域づくりにおいては
まさに参加のデザインではないのか。

そういう見せ方もあるなあと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 06:29Comments(0)イベント