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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年11月29日

「季節感」で越境すること、「安心して孤独」の場を持つこと

昨日は、オンラインツルハシでした。
ゲストは小川愛媛さんと坂口麻衣子さん。
録画してなくてすみません。

以下メモ
~~~
第1部
・自分自身が中学生の時に実感した社会教育の必要性
・大学での「生涯学習」を専攻⇒教育・学びとは?
・カタリバ等での高校生との直接的すぎる関わり⇒高校生たちにとって本当に価値なのか?
・求められているものを差し出す、優等生過ぎる自分への違和感
・就職(営業職)という越境、違う世界で生きてきた人たちに出会う、感じ方が違いすぎる;「自分」を知る2年間
・他者を演じ切る、ことはできない:「演劇」でもなりきれなかった。
・「近所のお姉さん」的なかかわり
~~~

なんというか。「教育観」というか「まなび観」というか、そういうのが問われる時間となった。
教育者と呼ばれる人たちは「あなたのおかげで」と言われることは喜ばしいことなのだろうか。
あなたを変えたのは、先生でも、教育でもなく、周りの「環境」でありあなた自身なんだと。
もっと言えば、人は20分ごとに(細胞が)生まれ変わっているんだ。

あとは、阿賀町でそれをやることの意味を。

「季節感」は、身体性(身体感覚)を呼び起こす。
そしてそれは「一回性」が高い。
それこそが「行動の理由」なのかもしれない。

そういえば、今年初めて、僕は梅酒、梅ジュースを仕込んだ。
それは、温泉や公営塾スタッフが「梅酒つけた?」みたいな会話をしていたからだ。
梅の時期には、限りがある。
すると、うっかりと行動してしまうのだ。

この場所でつくりたい「リアルメディア」。
その「リアル」には、季節感のリアルが入っているのだろう。

そんなリアルが感じられる「場」をつくっていくんだな、と。
さて、雪が積もる前に何をしようか。

~~~
第2部
・会う人によって私の見え方(肩書き)は違う。
・まちづくりの人、カフェの店主、こども芸術教室の先生、本屋さん
・「空間」と「時間」を設計している:その人がその場所で過ごせること
・「時間軸」:それぞれの人の中に「時間」は流れている
・自分に流れる時間と相手に流れる時間は違う:相手への尊重
・スタッフには「しないでほしいこと」は言うけど、「してほしいこと」は言わない:劣化コピーは20%ずつ減っていく
・カフェのメニュー:毎日見ても大丈夫なもの、ロスが少ないものにする。あとは来る人に合わせて変えていく
・カフェ:ひたすら「実験」「コミュニケーション」の場
・変化に対する受容・適応:変化することに対して責任をもつ
・カフェという「空間(場)」と個々に流れるそれぞれの「時間」
・「安心して孤独」というキーワード:空間:共にいる、時間:個別に流れている
・「屋根のある場所」の共有
・カフェ店主:「誰かの時間」と「誰かの時間」を接続する:接続した後、委ねている
・「名前」⇒「職業」⇒「連絡先」を聞くタイミング
・相手を喜ばせるためだけの接客はしない⇒合わせすぎない
~~~

それって「存在」を確かめるってことなのかもしれない、と。
麻衣子さんが言うには、
他者の中にしか自分は存在しないし、存在を決めるのは他者なんだと
その感覚ってすごく自由だなあと。アイデンティティは他者を見て自分を確かめるのだと。
他者の中にいる自分が社会的にタグ付けされた自分だと

なぜなら細胞は20分ごとに入れ替わっているから(by福岡伸一)
その不確か性、というか連続していく変化とか。
そういう「固定しない」っていうのが大事だ。

「誰かのつけたラベル」に合わせて生きるのではなく、
ハッシュタグをたくさん振っていけばいい。
会うたびに違う人を演じること(実際は自分が演じているのではなく、相手がそうラベルを振っている)

「自由」だなって思った。
「存在」を定義すること。
あとは「空間」と「時間」の感覚。

カフェという「空間(場)」は、
誰かの時間と誰かの時間が交差する、かもしれないということ。
同時に、「安心して孤独」でいられる場所だということ。

第1部と第2部がつながってくる。

「季節感」で行動・越境でできること
「誰かの時間」と「誰かの時間」を合わせること。
そして同時に「安心して孤独」を感じられる場所。

そんな空間(場)をつくっていくこと。
それが2022年の宿題です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:27Comments(0)イベント日記

2021年08月01日

はじめに「越境」ありき



オンライン劇場ツルハシブックス
昨年5月から毎月1回開催。
なんだろうな。
気軽な哲学対話な時間って感じですかね。

なんとなくやっているのは僕の「問い」仲間をゲストに呼んでのトークセッション
※来月の8月28日はついに細井岳さん登場です!

今回は、デンマーク・フォルケホイスコーレに留学中の大城美空さんとの時差7時間トーク。
あっという間に時間が過ぎて30分も延長しちゃいました。

まずは僕のふりかえりメモから

~~~
はじめに意志ありきではなく、はじめに越境ありき。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」ではなくて、「直感で動け、そうすれば失敗しかないのだから。」

直感と好奇心で始めるから面白い。
目的や目標から始めると面白くない。
「予測不可能性」こそがエンターテイメントだから。

相手の分かる言葉で話しているか?

「自由の相互承認」は、言葉で言うのは簡単だけど、実際はすごくスッキリしないあいまいなもので、立場や意見の違いをかみしめてその場の納得解(妥協点)を探っていくことの繰り返しで、「決めたから守る」というのものではなく、永遠にその問いが繰り返される。

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのではないか。

ひとりひとり「個」のために福祉がある。しかし(この国における)福祉は制度であり、制度とはルールを決めることだ。ルールを決めなくては判断ができない。しかし、そのルールによって人は区分けされ匿名化する。

肉体的背景、精神的背景、社会的背景、文化的背景、すべてがその人を構成している。

「哲学」も「承認」も他者から教えられたり与えられたりするものではなく、思考と実践(試行)のあいだを往復することによって徐々に自分の中に形成されていくものだ。

「人材育成」は効率化できるのかもしれないが「人を育てる」とか「人が育つ場をつくる」っていうのはとてつもなく非効率な営みなのだなあ。

ルールや立場を固定すると「安定」が得られる。
しかし、そこでは1回1回の真剣勝負が失われる。
ルールや立場(肩書き)は人を匿名化し交換可能にする。

「属人的である」ということは、いまこの瞬間の関係性が大切にされ再現可能性が低い。
「誰でもできる」ことは、継続的であり再現可能性が高い。
ルールやマニュアルはなんのためにあるのか?

ルールがないということは自由であるということではなく、思考し続けないといけないということ。
どのくらいのスパンの時間軸で「効率性」「成長」を目指し、測るのか?

「立場」を演じているうちに「自分」を失っていっていないか。

ルールを作っていく、ということはふりかえりが必須である、ということ。
「迷いがある」「悩みがある」ことを肯定する。
ふりかえり⇔反省、愚痴
プロであること:「迷わないこと」ではなく「考え続けること」
~~~

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまったのではないか。
デンマークのエピソードを聞いて、そんな風に感じた。

決められたルールを守ること。
それを当たり前だと思っていた。

今回、大城さんは新型コロナウイルス危機の最中にデンマークで暮らし、共同生活の中で、外出をどう制限すべきか、について、話し合ったという。毎日酒を飲むようなお酒好きな人たちは、酒を買い出しに行きたいといい、そんなにお酒を飲まない人たちは、リスクが高いからやめたほうがいいと主張する。

自分も意見を言いながら、相手の顔を見ると、「うわ、面倒なことを言って・・・」というような顔をしている。なんらかの結論が出るのだが、なんだかスッキリしない。もやもやしていると、「こういう話がすっきり終わるはずないよね~」と当たり前のように言われる。そしてルールについて守らないヤツがいたりするので、以降も何度も話し合われ、ルールが微妙に変更されたりする。「みんなでルールを決めて、それを守ること」が当たり前だと思っていた自分に気がつく。

苫野一徳さんによれば、公教育の目的は「自由の相互承認」に在るという。
参考:価値観の多様化とは、明確な価値が失われたのと同義語である(15.6.26)
http://hero.niiblo.jp/e469959.html
参考2:「共同探究者」になるということ
http://hero.niiblo.jp/e489119.html

「自由の相互承認」と、言葉で書けば7文字でしかないのだけど、
それはとてつもない「非効率」な営みによって実現されるんだということ。

もうひとつ。フォルケには「先生」と敬称付きで呼ばれる人はいない。校長でさえファーストネームで呼ばれることもある。

そもそもルールとか立場(肩書き、役割)ってなんのためにあるんだろう?って。

ルールや立場を固定化すると、「安定」を得られる。しかし、その「安定」は同時に1回1回の真剣勝負の場を失うことと同義だ。ひとりの生身の人間として一期一会の場に臨んでいるんだという自覚を失う。

「ルールを決めて守ること」
「立場(肩書き、役割)を決めてその責任を果たすこと」
が当たり前だと思っている私たちは、「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのかもしれない。

VUCAの時代、予測不可能な時代だと言われる。
答えのない時代だ、とも言われる。
社会が大きく変化するときだ、とも言われる。

社会が大きく変化し続けているとしたら、その社会に合わせて、いまのチームの、場の構成員に合わせて、ルールを変化させ続ける必要がある。

だから、考え続けなければならない。
対話し続けなければならない。
ふりかえり続けなければならない。
それはものすごく「非効率」な営みなのだ、と。

デンマークは第二次大戦後、「教育」「福祉」「医療」に力を入れてきた。この3つは別々ではなく、それぞれの仕事に携わる人には共通の哲学を身に付けている必要があるという。

その「哲学」に近いものが、このページに書かれている「デンマーク・スタイル」なのだろう。
http://www.capnochokinbako.jp/denmark/style/

「指導から支援へ」:スタッフは問題を解決するためのサポーターであること。
「上下関係から対等な立場へ」:人としての敬意をはらい、信頼関係を築くこと。
「すべての支援はコミュニケーションから」:言葉だけがコミュニケーションではないことを知り、コミュニケーションスキルを模索すること。
「機会を与えること」:人と交わる機会、社会と交わる機会、自然と交わる機会

ミクさんが言っていた「その人に出会う」という福祉の出発点。
それをひたすらにやっていくことなのだろうと思った。

最後に、あらためて「越境」について。

まずは「越境」してみること、なのだろうと。はじめに「意志」「挑戦」ありきではなく、はじめに「越境」ありきだ。

「直感で動け、そうすれば失敗しかない」これはミクさんの恩師、長岡先生からのメッセージだ。(たぶんこれ。言い方ちがうかも)

参考:「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける(19.7.24)
http://hero.niiblo.jp/e489583.html

「やりたいことは何か?」
じゃなくて、はじめに越境があるんだ。

ミクさんが大学時代から続けてきたように、

越境し、そこにいる人たちと場を共にすること。
違和感をキャッチし、表現し、ともにルールを作っていくこと。
対話し、ふりかえり、次のルールを考えていくこと。

その繰り返しでしか「自らの未来をつくる」ことはできない。
小さな小さな、非効率な営みの先にしか、僕たちの未来はないのかもしれない。

その未来へ、15歳~18歳と一緒に歩んでいくこと。
それが僕にとっての高校魅力化プロジェクトです。

本日も「地域みらい留学合同オンライン説明会」でお待ちしています。
https://c-mirai.jp/schools/18

高校魅力化プロジェクトのページ
https://www.agareimei.com/  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学びイベント日記

2021年06月27日

「委ねる」という愛

オンライン劇場ツルハシブックスでした。
ゲストは広島で読書会を主催する杉本さん。
オンラインツルハシの原点に返るような、素敵な会になりました。

「場」ってなんだっけ。
自分はどこに立っているんだっけ。
そんな問いが何度も来ました。

カッコイイ人=問いの質が高い人
っていうのも素敵な定義だなあと。

印象に残ったのは「課題の明確さ」みたいなのって
分かりやすいけど、なんていうかな、美しくないっていうか。
それって、「委ねる」部分の少なさ、なのかもしれない。

本屋の最大の魅力は、「委ねられること」だと思う。
http://hero.niiblo.jp/e488702.html
(本屋は「委ねる」 19.1.10)

「学び」という文脈でもそうだ。
A地点からB地点(目標・ゴール)まで直線的に向かうことを
サポートすることがいわゆる「教育」そのものだと定義されている。

あるいは、「自分を変えたい」とか今回のテーマである
「自分の軸を見つけたい」みたいな文脈で行くと、
経験を踏まえて自分が変わったり、自分の軸を見つけたりすること
が「学び」であるとする。

それって何か窮屈というか、美しくないんだよね。
人や人生を変えるような教育やプログラムはやりたくない。

やりたいとしたら、
「問い」が生まれるような本屋をやりたい。

プログラムを用意するのではなく、
環境を整え、機会をひたすら提供したい。
(プログラムが機会であったりするのだけど)

だから「場」なのだろうと思う。
誰とやるか。どこでやるか。いつやるか。
もっとそれをカラダで感じたい。
身体性を大切にしたい。

カラダとココロを「場に委ねる」。
それが愛するということなのではないか、と杉本さんは言う。

読書会をやっていて、
「いま、生きててよかった~」と思える瞬間がある。
本を読んでいて、
「よくぞ、このタイミングでこの本を」と思える本がある。

それは「委ねる」ことの後に、あるいは同時に
起こっていくのかもしれない。

「委ねる」の美しさ。身体性。愛すること。
そんなキーワードをもらった会になりました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:45Comments(0)学びイベント思い

2021年02月22日

「自分らしさ」は、原因ではなく結果

中京圏の大学生向け「就活」テーマイベント「就活を哲学する」でした(オンライン開催)。
「就活」の違和感がどこにあるのか?

そんな問いを一緒に考えていました。
夏の取材型インターン「ひきだし」での名言
「就活と恋愛は似ているけど、それなら恋愛のほうがずっと難しいな」
っていうのを思い出した。

僕が思ったのは、二元論の呪縛。
たとえば「安定を求めるのか?」「好きなことをやるのか?」みたいな問い。
あるいは「働くこと」と「稼ぐこと」をどうバランスさせていくのか?みたいな。

最後のふりかえりででてきたのは、
「7:3で自分を配分すること」
⇒これ、アイリスオーヤマの話で証明されている
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07

そして、
「アイデンティティと仕事を切り離すこと」
⇒結局、これが苦しさの源泉。
アイデンティティと仕事を直結させて考えさせられてきたから。

「やりたいことは何か?」と問われ、「好きなことを仕事にする」ことが理想とされ。
しかもそれを他者に説明しなければならないし、同世代との比較も起こってくる。
しかも1つの仕事に人生の全てを賭けてしまう、つまり「10:0」の働き方を
していた時、仕事で失敗をした、あるいは仕事を失ったとき、かなり大きなダメージとなる。

人生が経営であるとすると、1つの業務に自分という会社の資源(特に時間)を全て突っ込むことは
あまりにも危険だ。VUCA(予測不可能)な世の中ならばなおさらだ。

特に、2020年以降の就活生には、その実感は大きいだろう。
世の中は小さな(しかも目に見えない)ウイルスひとつでひっくり返る。

だから、アイデンティティと仕事を切り離す、つまり
アイデンティティと1つの仕事をイコールで結ばないこと。

そもそも。
アイデンティティ=自分らしさは、事後的に発現してくるのではないか?
それが土曜日に会った高校3年生の言う「ちえりっぽくないね」戦略だろうと。
自分っぽくないことをやって、「自分」そのものを拡張していくこと。

芸能人が、「芝居の幅を広げる」と言って、悪役に挑戦してみる。
役作りのためにダイエットしたり、髪をバッサリと切ってみる。

劇団員に応募するように、企業に応募してみる。
「その役には私がふさわしい」みたいな顔をして、面接に行ってみる。
残念ながら不採用となる。それは、役どころが違ったのだ。
監督の創りたい絵の中に入らなかっただけだ。

こちら側も、しっかりと監督が創りたい芝居の方向性や
誰に向けて、どんな価値を提供したいのか、そもそも何のために
このお芝居があるのか?を問いかけないといけないし、
こちら側もそれに共感して芝居をやりたいと思わないといけない。

就職をして、やってみて、初めて、自分を知る。
僕は40歳で初めて就職したのだけど、そこでやらないと気付けなかった自分がいた。
「フラットな関係性のない会議からは何も生まれないし、何も生まれない場にいる自分はすごくつらい」
そんな「自分らしさ」に気がついた。

そして、なぜ間違えたのか?というと、それまでの「創造的脱力」路線から急に「創造的破壊」路線にシフトしてしまったこと。

「よくわからないけど、ひとまずやってみましょうか。そのあとで考えましょう」っていう実験的なアプローチと「正しいゴールがそこにあるから、それを実現するには自分が偉くなるか、もしくは偉い人の力を借りて、会議で勝ち取りましょう」っていう挑戦的アプローチを間違えたのだということ。
そして自分は「創造的破壊」アプローチは全く向いていない、ということ。
そんなことを3年もかけて学んだのか、っていう。

そんな風に、「自分らしさ」って「原因」じゃなくて「結果」なのではないか?って。
やってみた後に「自分らしさ」を知るし、「自分らしさ」が形作られる。
つまり、「自分らしさ」とは、更新(アップデート)され続けるものなのではないのか。

そう考えるとすると、全ての就職は、「芸の幅を広げ、自分らしさを知る」プロセスということになる。

大学3年生の今現在の「自分らしさ」と就職を直結させる必要はない。
だって、自分らしさはその仕事をした後に立ち上がってくるものなのだから。
そんなことを感じた2時間。

あと、最後に一緒にやってくれたカジワラくんが振り返って言っていたことが印象的でした。
具体的な悩みを抽象的に落とし込んでいくと、その問い自体に疑問を持つようになる、まさに「哲学な時間」だったと。

「問いが間違っているかもしれない。」
これって、大きいなと思う。前提を疑うっていうこと。

「やりたいことは何か?」っていう問いによって、こんなにも苦しんでいる人がいる。

誰が、いつ、何のために、この「問い」をつくったのだろうか?
この「問い」によって、誰が得をするのだろうか?

そんなことを考えてみるのもいいなと。
「違和感」と問いに変換し、「問い」の前提を疑ってみること。

それこそが「学び」の出発点なのかもしれないなと。
またやりたいですね。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)学びイベント日記

2021年02月21日

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ

オンラインイベント昼夜連続でした。

昼間は宮崎県立飯野高校の「グローカル・リーダーズ・サミット」
事例発表では、愛媛県立三崎高校のせんたん部の話が面白かったな。
全校生徒を6つのプロジェクトに分けて、その中にマネージャー的存在がいるという、
コーディネーターとかプロジェクトマネージャー部みたいな感じ。
そういうのやりたい人っているんだろうな。

あとは飯野高校の異世代ルームシェアとかも、
阿賀町でもできたら楽しい。

午後からは対話の時間で、
20分を4タームくらい、ひたすら「自分らしさ」についてトーク。

キーワード的には

~~~

生徒会長など、みんなの場にいるときの役割としての自分
1人の空間にいるときの自分らしさ
好きなことをしているときの自分。
没頭している時の自分。

★「ギャップ萌え」
生徒会長としての自分と、お笑い好きな自分。

否定されないという前提の場でないと自分らしさを出せない。

多重人格でいいんじゃないか?
その場に合った自分らしさがあるのでは?
★「自分らしさ」は流動的なもの?

自分らしさを発揮しないスポーツは観客として面白くない。
チームで見ている。

★没頭(集中)しているとき、「自分らしさ」という意識はない
⇒「自分らしさ」は結果なのではないか?

自分から見た自分とまわりから見た自分のギャップ
⇒それを嬉しいと感じるのは自分を肯定的に捉えているから?

★「ちえりっぽくないね」
ソフトボール部⇒吹奏楽部
意外にしっくり来た。自分にギャップ萌えした。

自分らしいこと=好きな自分
自分らしくないこと=嫌いな自分
ではなくて。
「自分らしくないことをやってみる」:固定概念を壊す。

★自分らしくないことをやる⇒自分を拡張していくこと。

~~~

特に「ちえりっぽくないね」が響きました。

自分ぽくない(自分らしくない)ことをやってみること。
そうやって「自分」を拡張していくこと。

「自分らしさ」という言葉の罠にはまらないこと。
他者からの評価を生きないこと。
ギャップ萌えを楽しむこと。

「自分らしさ」というお題は、高校生における哲学対話のいいテーマだなあと思いました。

~~~

夜は「オンライン劇場ツルハシブックス」
ゲストはフリーランス農家の小葉松真理さん。
https://agri.mynavi.jp/2020_07_01_122811/

第1部は遊撃農家はら農園の原さんと3人でトーク

農家さんへの思いが溢れて涙交じりのトークとなりました。
アツかった。
「生きる」ってなんだっけ?って問い直されたように思った。

フリーランス農家の小葉松さんは
夏は北海道、冬は沖縄や高知、和歌山といった、
農家をハシゴして農作業を手伝いながら、
野菜販売、農家訪問ツアー企画、スナックイベント、農業ライターなどを行っている、
「土地を所有しない」農家だ

出発点は地域を支えるのは農業だと直感し、農業を体験したとき、
「食べものって作れるんだ」って思ったこと。
実際に農業をやってみたら、ずっとひとりだった。

その時に気づいたのは、
「野菜をつくるプロになりたいわけではない」ということだった。
そこで、土地に縛られない「フリーランス農家」に。

農家の魅力について、
小葉松さんも原さんも、そのスケールの大きさを語る。
空間軸だけでなく、時間軸、そして思想軸の大きさ。

自分の土地、農業だけでなくて、地域全体のこと、
そして文化とか歴史のこと。

農業は自然との対話だ。
一年一年違うし、一瞬一瞬に神経を集中させなければならない。

そんな農家さんの姿に惚れて、
小葉松さんも原さんも農の世界へ誘われる。

「仕事じゃないです。同志を手伝っているだけ」
この一言はすごかったな。ガツンとやられた。

農業手伝い、ライター、ツアー、スナック
小葉松真理という切り口で「農」を発信してるんだな、と。
アートだなあ、って思った。





僕が大学時代に通った徳島の沖津一陽さんを思い出した。(写真は2016年の再会時)
「ダイコンがダイコンを全うするように、私は私を全うする」という沖津さんの言葉は、
僕の座右の銘になった。

小葉松さんからは「生きてる感」が伝わってきた。
それは、「自然の中で生かされている」という一体感からくるのだろうか。
原さんによれば、小葉松さんの文章には、農家さんと小葉松さんがお互いに溶けだしているのだと。
それは、一緒に農作業をしているからなのだろうな。

生態系の一員、構成メンバーとして、ここに存在している、という誇り。
それが農家の美しさなのではないか。

「モチベーション」っていう言葉が急に安っぽくなった。
「自立」とか「自分」っていう概念は、そもそも嘘なんじゃないか、って思った。

小葉松さんを見ていると、
「共有財」」として生きる、ということが可能なんだ、って思わされた。
空間的・時間的・思想的な大いなる循環の中で、いま、生きている。
ひとつの生命体としてこの地に存在している。
そんな生き方が可能なのだ、と。

昼間の高校生が話していたように
「没頭」「集中」しているときに、「自分らしさ」という問いは消えている。
それは目的ではなくて結果だから。

自分と仕事が一体化していないとき、人は「モチベーション」を必要とする。
生きていく意味が必要な時、人は「使命感」という物語を必要とする。

小葉松さんは、ただ、生きていた。
生きることを全うしていた。
そんなカッコよさ、そして美しさ。

それは、宮澤賢治が語った「農民芸術概論綱要」に描かれた世界なのかもしれない。

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)学びイベント日記

2021年02月08日

「存在」と「学び」の出発点としての被贈与







全国マイプロジェクトアワード関東summitでした。
昨年は現場に見に行ってました。

参考:自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題(20.2.11)
http://hero.niiblo.jp/e490297.html

今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、オンライン開催。
東京、行きたかったのですが、
全国summitへの出場選考を兼ねない発表会+ブラッシュアップ+交流
だったので、そういう意味では、雰囲気的にリラックスできていいのかもしれないと。

阿賀黎明高校2年のSくんのプロジェクト「釣りってなんだ!?」も
後半の2場目に8グループで発表しました。
途中で石油ファンヒーターの灯油切れサインがなるというアクシデント(笑)
にも負けずに、堂々と発表してました。

夏から半年、彼が動いていく中で、
たくさんの町の大人が応援・協力してくれたことをあらためて思い出しました。
動こうとした若者の背中を押し、応援する町なのだと感じました。

鮎釣りつながりで、夏のまなび体験会の際、午前中の釣り大会で釣った鮎を分けてくれたS課長。
糀漬した肉で燻製をつくりたいといったら、塩糀を分けてくれたY糀屋、
今度の夏、一緒に何かやろう、と誘ってくれ、温泉旅館「K会瀬」の女将、

summitの終了後、地元スーパーでほぼ毎週日曜日開催の豚肉特売(1g1円!!)を買い込んで、
先日SくんがもらってきたK会瀬の自家栽培の米を炊いて、焼肉パーティー打ち上げしました。
豊かな時間。

最後の交流会では、僕の興味関心で「なぜ学ぶのか?」っていう部屋へ。
「高校生コミュニティ相談室」の対話イベントが興味深くて、今度のぞいてみようかなと思いました。

あと、他の部屋の発表を見ていて印象に残った一言は,
「本で人を繋ぐ」プロジェクトのOさんが言っていた

「マイプロは等身大だよ」

かなあ。最後のコメントも「自分でもできるんだ」だったので
非常に印象に残りました。
そういうマイプロをつくっていきたいな、と。

人はなぜ学ぶのか?

僕はこのプロジェクトを通じて、
・すでに返せないほどの贈与を受けてしまった者だという自覚。
・この物語をつないでいかなければならないという使命感(勘違い)。
だと思った。

そしてそれが出発点となり、
贈り物を先に贈る(ペイ・フォワード)するために、
物語をつないでいくために、
人は学び続ける。

そしてその自覚や使命感は、
頭(脳内つまり言葉)だけでなく、心と身体を伴ったときに、
より強く感じられるのだろうと。

Sくんのマイプロは、「等身大」そのもの。
釣りを起点に、たくさんの人とつながり、プロジェクトが展開している。

昨日も、「なぜ学ぶのか?」部屋で、彼は鮎釣りの醍醐味を話していたのだけど、
「おとり鮎をいかに元気に泳がせるか」が大切で、
「アタリがあってから、手元に引き寄せ、確保するまで」の瞬間の魅力を熱く語っていた。

ああ、それって、「マインドフルネス」ってやつじゃん、って。
「いま、ここ」に集中して、言葉の世界から距離を置くこと。
自然という「営み」の中に入ること。自らを溶かすこと。
そこに「生きてる」感があるのかもしれないな。

釣りってなんだ!?っていう問いは僕にとっての問いでもあったんだな、と。

釣りは農と同じく、圧倒的な贈与でもある。
贈与を受けた者しか、贈与を送ることはできない。
だから、学びの出発点をSDGs的な「貢献」ではなくて、
被贈与におかないといけないのではないかと。

釣りも、糀も、蕎麦も、自然や微生物、植物からの圧倒的な贈与だ。
決して返すことができない。

川喜田二郎さんは、ふるさとを定義した。
「全力傾注して創造的行為を行った場を人はふるさとだと認識する」
その出発点に、僕は被贈与があるのではないか、と考えた。

あるのではないか、というより、あると強いな、と思った。

「すでに自分はもらいすぎている」
「だから自分はこの物語を繋いでいかなければならない」

そんな自覚と使命感。
そこに「存在」があるのではないか、と思った。
「存在する理由」と言ったらいいのか。

もらいすぎた贈与を先に贈らなければならない。
この物語をつないでいくのは自分しかいない。

その「体感」ができるかどうか。
頭ではなく心・身体で感じられるかどうか。

自然の少ない都市部においては、
その役割を「本屋」や「図書館」が担っているのではないか。
本好きであるということは、
本という次世代へのパスをもらいすぎている人であるということだ。

たぶん人は「等価交換」だけでは生きられない。生き続けられない。
「等価交換」ということは1回1回の取引で関係が終わる(清算される)ということを意味しているからだ。

それなら、交換する主体としての自分は、存在し続ける意味はあるのだろうか?
たぶんそんな、根源的な問いを、10代20代は抱えているのではないか。

だから、若者は、地方を目指す。
「ふるさと」と「存在」と「学び」を求めて。

自然豊かなこの町には、圧倒的な贈与がある。
「先に贈らなければならない」と支えてきた人たちがいる。

もらいすぎだな、と思うくらいの贈り物をもらう。
それを返すために全力を注いで創造的行為を行う。

「存在」は創造のエッジにあり、その創造のエネルギーは、
「被贈与」の自覚と物語の継ぎ手であるという使命感から生まれる。

これらは循環していくことで、ようやく自分は「存在」になり、そのまちは「ふるさと」になる。

「釣りってなんだ!?」

エキサイティングないい問いをありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)学びイベント日記

2021年01月20日

視点を上げると、問いが小さくなる

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」最終回。

いつにも増して、「問い祭り」でした。
次々にチャットに投げ込まれる不完全な問い。
即答できない問い、そもそも答えがないような問いに、
ただただもやもやが募る。

こういうのもいいかもしれない、と思った。
オンラインの「場」の魅力を考えさせられた。

ふりかえりを発表してくれた
くまがいくんとにしやまさん。

くまがいくんのサイクル
体験→余裕→いちいち楽しむ→違和感→体験
これはすごい編集だなと。

豊かさより心地よさも
(頭)→(心)っていうことなのかも。

「豊かさ」は頭で感知し、「心地よさ」は心で感知する。
二元論じゃないので、グラデーションだけども。
有意義-無意義と快-不快っていうのと近いかもね。

その組み合わせに仕事をつくること。
仕事上で「無意識に頑張れちゃうこと」って体が快だと言っているのかもしれないですね。

そしてにしやまさん。
越境をテーマに学び続ける長岡ゼミ生なので、
言葉が鋭いなあと思いました。

いちばん心に残ったのは、「世界が広がっていく感覚」
たしかにこれが学びの意味だし、喜びだよなあと。

これにヒントを得て話したのが
「問いのスケール」の話でした。

「やりたいことは何か?」という問いの中にいると、
やりたいことが見つかっていない状態がすごくつらくて、
「やりたいことを見つけること」が唯一の苦しさの解決策だと思っている。

しかし、その問いの地点から
ドローンで垂直方向に上がっていくと、

「やりたいことは何か?」という問いがみるみると小さくなって、
「やりたいことがわからないはなぜ苦しいのか?」
という問いへとスケールが大きくなる。

これが、にしやまさんの言う、
「世界が広がっていく感覚」と近いのではないか、と思った。
だから僕は本を読むし、本を届けたいのだなあと。

世界を上から見たり、歴史的な時を越えて移動してみたり、
「いま」「ここ」がずっとずっと小さく見えること。

たぶんこれ。

いま、必要とされているし、オンライン化された世の中で、
より可能になっているような気がした。

昨日の僕の話のキーワードは
にいがたイナカレッジを取り囲むキーワード
・「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
・「近代」(工業社会+学校教育)からの呪縛
・アイデンティティと存在の承認
・夢という神話

・「場」のチカラ
・わたしを「ひらく」
・場とともに自分が変容する

・有意義-無意義と快-不快
・オンラインで突破できるもの(哲学対話とインタビュー)
・ベクトル多様性とベクトルの一致
・身体性を伴わないからこそできること。
・思ったことを即座に言える(書ける)。叫べる。
・音声(画面)とチャットの併用による問いのドライブ
・自分を経営する

~~~

こういう感じ。

昨日の「はたらくくらすラボ」で気づいたオンラインの価値は、頭と体の一部しか参加していないからこそ、「不完全な問い」も場にもチャットにも投げ込めること。インタビューや哲学対話的なトークに向いている理由はそういうところにあるのかもしれない。

「場」というのを考える意味では、オンラインイベントは非常に有効なのかもしれないと思った。

最後に「はたらくくらすラボ」なので、就活の話になっていったけど、
ここでもにしやまさんとの対話での発見があった。

僕は「演じる」というのをポジティブな意味で使っているのだけど、
それに対するてらださんの違和感があって、そこからの対話。

就活は「演じる」のではなくて、視点を上げて(メタ化)してみることができるかどうか?
それをストーリー化できるかっていうことなのでは?

ふだんは「越境」をキーワードに、
多分野の活動に、いろいろ視野を拡げておく。
それが視点を上げる際にも役に立つ。

「就活」はそれを組み合わせて
(企業にとっての)有意義性(価値があるか)で編集していくこと。
それを「ポートフォリオ」と呼ぶのかもしれない。

活動のひとつひとつは、つながっているように見えないのだけど、
部分的に取り出し、組み合わせ、並び替えると、
「私はあなたの会社にとって有用であるかもしれませんよ」って
言えるような、就職活動ができるのかもしれない。

まずは、感覚的に、点を打っておく。
打った点を、上から眺めて、編集する。

その先に自分があるし、オンラインでは、「編集された自分」というのを
より意識しやすいのかもしれないと思った。

本屋×オンライン対話っていう次のステージが僕も見えてきました。
本が売れそう。笑  

Posted by ニシダタクジ at 07:39Comments(0)学びイベント日記

2021年01月17日

生きるために作品をつくる

オンライン劇場ツルハシブックス2021の1回目。

満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。



https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。

「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。

「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。

そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。

紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。

昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。

オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。

音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。

第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。

「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。

ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。

2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。

9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html

10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html

9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」

これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。

あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。

10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。

そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。

大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。

やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。

TO自分とTO社会という2軸で考える。

つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける

自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。

~~~ここまで第1部

いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。

そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。


「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。

だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。

「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。

「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。

たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。

~~~

とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:10Comments(0)学びイベント日記

2020年11月25日

「面白がる」というフィクションで「存在」を確認する

にいがたイナカレッジ「はたらくくらすラボ」第4回
ゲストは2017年度に休学して小千谷市で
田舎インターンをした工藤京平さんでした。

いやあ。
めちゃめちゃ面白かったなあ。

タイトルは「幸せっていちいち楽しんでみること」
なのだけど、まさにそんな感じ。

~~~以下メモ

・自分は何がしたいの?
・これはなんの役に立つのだろう?
・どこかにつながっていなければいけない
・やりたいこと、なりたいもの?
「なんも動けねえ~。」から始まった。

イナカレッジ参加のキーワード
「就活」「田舎」「何かをやらないといけない気がした」

「ただ居る」ことができた1年間。
悩みが解消されたわけじゃない。
毎朝1日が始まるのが嬉しかった。

「居る」という感覚
でも何かが足りなかった。
⇒インターンへ。

「興味ないでしょ?」
⇒興味ないことに情熱注げません。

「何かに真剣になるのが怖かった」
無理やりに情熱を傾けてみたら、
「興味」は湧いてくるものではなく、湧かせるものだとわかった。
★フィクションの力
★「これって面白がれる余地があるかもしれない。」と面白がってみる。いちいち楽しむ。

★情熱を傾けた対象を通して周りを見渡してみる
思考の対象にとりさわれれること(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」)

「自分のもの」の変化
ものを受け取れる範囲が広がるとそのプロセスが楽しい
変化のプロセスに自分が居る、在る、幸福感
★田舎はいちいち楽しみやすい。センスオブワンダー

誰かからおすそわけをもらう。
誰かと一緒に食べる。
自然と~~できる。

★「やりたいことの探索」から「いちいち楽しむ」へ

毎日書く⇒常に面白いことを探す⇒それが楽しくなる
「書く」から世界を見渡している。

「変化」「創造」のエッジに「存在」があるのでは?

「好奇心」は才能か?
⇒「存在」への問いの切実さが「好奇心」のトビラを開く。

人生は自分を知る旅だなあと。

★「変化の可能性の中にいる」という心地よさ。変化するのが楽しい。

「達成感」⇔「変化」
成し遂げることではない。
答えがあるか、ないか。

生産と制作。
継承すべきものに出会った喜び。
「つないでいかなきゃ」という義務感ではなく、営みの中にあること。

達成感⇔内発的動機付け(個人のワクワク)
「評価のパラダイム」に載せられたマイプロの危うさ。

~~~ここまでメモ

「ただ居る」
「面白がる」
「対象を通して世界を見渡す」
「変化の可能性の中にいる」

キーワードたくさんあって、
ドキドキしながらゲストの話を聞いたし、
その後の対話でも、思考がぐるぐるした。

思考をまとめるとこんな感じかな。

1 好奇心や主体性は磨くことができる
「面白がる」習慣によって、「好奇心」は磨くことができる。
「好奇心」を磨いた結果、内発的動機が磨かれ、「主体性」につながる。
これは高校生からでも、中学生からでも、小学生からでもやったほうがいい。

2 「存在」の切実さが好奇心のトビラを開く。
「ただ居る」ということを許される「田舎」という場と
切実に「存在」の課題を抱えている大学生が出会う
「地域という場」は、いちいち楽しめる対象がある。
⇒それって、自然とか、農とか、営み?なのかな

3 もうひとつの「自分」を切り離す。
「対象を通して世界を見渡す」っていうのはそういうこと、なのかもしれない。
自分が面白がった(興味を持った)対象そのものから世界を見渡してみる。

4 変化の可能性にあふれた「場」に身を委ねる。
「変化の可能性」の中に「存在」がある。
そしてそれは、「自分」という単位で世界を捉えないこと、なのかもしれない。

もしかしたら、「面白がる」ことで、
人は自分の存在を確認できる、のかもしれない。

もしかすると、
アイデンティティ(自分らしさ、個性)が必要なのではなく、
自分が「存在」する(「存在」していいんだと感じる)場が
必要なのかもしれない。


  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)学びイベント日記

2020年11月24日

「一回性」と「シェア」と「神話」

オンライン劇場ツルハシブックス

5月からやっている
ツルハシブックスの劇場部分だけを
取り出したオンラインイベント。
毎回のゲストに問いをたくさんもらう。

昨日は第1部~3部まで、問いに溢れた時間。
自分が東京在住の20代会社員だったら刺さりまくっているなと。

~~~ここからメモ

タイトルつけるなら「軽やかな移住」

第1部はゲスト島根県益田市の大庭周さんと僕のトーク

移住1年目。24歳。
静岡県出身で東京での会社員を経て益田へ。
仕事ではユタラボ(豊かな暮らしラボラトリー)で
高校の探究の授業や下記の「益田のひと」のインタビューなどを行う。
https://masudanohito.jp/

主に社会教育ジャンルで活躍する大庭さんには、もうひとつの顔が。
「オトナ楽団」:」大人がもっと益田の暮らしを楽しんでもいいんじゃないか。

ということで開いたのが「昼カレー会」。

近所の人たちに呼び掛けて、道路でカレーを食べる。
写真を見ると、ホントに道路にはみ出してゴザ敷いているので大丈夫か、と思うのだけど
道路はこの先行き止まりになっているので知っている車しか来ないのだそう。

その他にも島根県立大の学生と
「フォトウォーク」なるものを開催。
町の至る所にある名所をそれぞれの切り口で切り取る。
写真を撮るだけじゃない。

「このまちでしかできないこと(もの)がきっとある」みたいな感覚。

「ずっといるわけじゃない」
「住んでみた、移住してみた、やってみた」
「関係人口と移住のあいだ」
「ライトな移住」
「24歳じゃないとできない」

大庭さんの一言一言が突き刺さる。
クランボルツ博士の「計画された偶発性理論」を
彷彿とさせるような「場」を生み出すひと。

そっか。
計画された偶発性理論はキャリアだけではなく、
「場」の理論でもあるんだ。

このまちで、いま、自分がいないとできない
こと、もの、イベント、企画。
それが二度とない「一回性」の高い「場」を生み出す。
「舞台」としてこのまちを認識できるか。

後半、さらに突き刺さる一言が。
「20代の1年1年は重い。若さを武器にしたい。24歳じゃないとできないことを」

なんか。
東京在住でもやもやしている20代会社員の方に伝えたいメッセージに詰まった第1部でした。

その勢いをそのままに、
第2部は「イケト×井上有紀」のシェアハウストーク。
これも問いがありましたね。

タイトルつけるなら「人間らしい暮らし」

1人で完結する暮らし/誰かと会う理由が必要
ご飯を作っていたら誰かが帰ってきて一緒にご飯を食べる。

暮らしをシェアする、ということ/所有感がない
人生も自分のものじゃなくなる。/楽になる
★そもそも人生は自分のものではない。
「人生」をシェアしよう/その時に自分と同じ「場」にいる誰かとつくる「人生」

「相手がいると、選択肢が狭まる」
⇒人生が無限だったら、自分の答えを探し続けてもいい。
⇒人生は有限だから周りに影響され、翻弄されてもいい。

自分らしい暮らし⇔人間らしい暮らし。
「人間らしい」とは何か?⇒共同体、人と人のあいだ。

ともにある存在。
自然=偶然。
偶然から生まれる創造性。

「人生は自分のものじゃない。」
名言でしたね。

第3部 対話の部屋
大学生はなぜ農、まちづくりを目指すのか。

アイデンティティ問題の対処法として
「継承者であること」がひとつ、方法になるのではないかと。

せいたろうくんが解説する一言一言に、
なるほど、とうなった。
「バックグラウンドにストーリー性があると信頼できる。」

たしかに。
「なぜやるか?」「どのようなストーリーでここに至るのか?」
っていうのがないと、なかなか応援できないもんね。

それって、自分に置き換えてみたら
まさに「存在」の話なのではないか。

いや、そもそも。
「国家」でさえも「神話」を必要としているんだ。
国家のアイデンティティは「神話」を語ることだし、
地域のアイデンティティは「祭り」と「言い伝え」をつないでいくことだ。

ひとりひとりの「存在」にも、神話が必要なのではないか。
もちろん、それはフィクションだ。

僕が吉田松陰先生から直接教えを受けたわけでもないし、
萩にゆかりのある生まれでもない。
宮澤賢治先生も岡倉天心先生も同じだ。

でもその継承者であるというフィクションをつくり、
そのストーリーに人生を委ねていく。
「存在」というのは実はそういうところで感じられるのかもしれない。

大切なのは「自分で決める」ことなんだと、ひやまりょうが言った。
社会的にどう評価されるか?でプロジェクトをスタートしてはいけないと。
最初から「人の役に立つ」みたいな要素を考えていいのか?と。

答えのない問いに挑むには「発見」のパラダイムが必要で、
答えのある問いに対しては「達成」のパラダイムが有効だ。

そして、答えのない問いに挑むには、
もしかしたら「神話」が必要なのかもしれない。
なぜ、そこに挑むのか、だ。

~~~ここまでふりかえりメモ

ぜんぶつながってるな、と。
「場」の話だなと。
まあ、それは僕の編集なのだけど。

大庭さんの「軽やかな移住」は、
そこに「一回性」の高い「場」を生み出した。

このまちで、いま、自分(たち)にしかやれないこと。
これは、「場」の構成要素である「誰と、いつ、どこで」に対応している。
カレー会も、フォトウォークも一期一会の瞬間を生み出している。

イケト×井上有紀のシェアハウスの話がつづく。
「人生は自分のものではない」という感覚。

シェアハウスは、「家」をシェアしているのではなく。
日常でありながらも「偶然性」の高い「場」をシェアしているんだなと。
暮らし、人生そのものを「シェア」している、
というか「シェアしている感覚」をシェアしているのかもしれない。

ラストの対話の部屋の「神話」の話も、
少し抽象化(メタ化)した「場」の話だったように思う。

「場」には神話(物語)が必要なんだ、と。
特にゴールが明確(確実)じゃない「場」には。
ひとりひとりの人も「場」であるとすれば、

その場に立つための神話(物語)が必要で、
それはフィクションなのだけど、そのフィクションを自分で選んでいる、
っていうことが大切なのではないかと。

今回のオンライン劇場は、非常にタイムリーでした。
出演&参加していただいた皆様、ありがとうございます。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)イベント日記

2020年09月26日

学びの主体を「個人」から「場」へ移行する

イナカレッジラボオンラインと探究学習コミュニティが2夜連続でした。
「つながっている!」かもしれないと思いました。

探究学習コミュニティのメモから。
(ゲストは米沢興譲館高校の廣瀬先生でした)

~~~ここからメモ

「進学指導」「学力向上」「キャリア教育」の真ん中に探究をつくっていく。

理念を共有しながらなぜその連携が必要なのか_を自分の言葉で語れる先生にならないと。

「始め方」:進学指導におけるわかりやすい課題を使うこと
・推薦・AOで志望理由が深まらない
・面接指導で本人が語るものが浅い
・小論文指導で、志望系統に関する知識が浅い
・これからも推薦・AO入試が減ることはないから、指導体制の構築が必要
○志望理由が明確な生徒が合格している、最後まで頑張りぬいている。
○今までの活動から志望理由書に書ききれないほど書きたいことがあった生徒がいる
⇒だから探究学習やったほうがいいよね。

困っていることを吐き出しやすい雰囲気づくり
研修:現在の実践をワールドカフェで共有する
職員研修でもふりかえりシートを各人が記入して終わる

コンピテンシーベースで教科・行事・探究を結びつける

ワンページポートフォリオ(OPP)

違いを認めてリスペクトし合う

ふりかえりでメタ認知させながら他教科につなげられるか?
⇒教員間もコンピテンシーベースで話ができるか。

~~~ここまでメモ。

そもそも「ふりかえり」とは何か?みたいな根源的な問い。
なぜふりかえるのか?
なぜ僕は、「感想は?」ではなく、「印象に残ったことは?」と投げかけるのか。

「ふりかえり」によって、「場」に出されたもの。
それは、自分とは切り離された「何か」だ。

そうして、少し離れたところから(上から)そのふりかえりを見てみる。
このことをいわゆる「メタ認知」と言うのかもしれないが。

それによって見えてくるものがある。
それは生徒だけではなく先生も含めて、だ。

ふりかえることでメタ認知が可能になり、
コンピテンシーベースで各教科をつなげることができ、
それが探究を核にした横断的カリキュラムの実践になる。

「学びの創造」がそこにある、と思った。

一方で、イナカレッジ・ラボ(オンライン開催)で思ったこと。

~~~ここからメモ

イナカレッジは、地方の暮らしという場に身を委ねる、という練習なのかもしれませんね。
ただ、ご飯食べて寝ているだけなのでは?という不安になるくらいの暮らしを経ることで得られること。

それは田舎のもっている共同体というか、自然や風土との一体感というか、そういう場を前提としているのかもなー。

ひきだしもイナカレッジもやっているのは場に一体化し、場のチカラを高めることで、新たな発見やアウトプットを出すこと。

ひきだしは、場にひとりひとりのベクトルを差し出すことで、その共通理解と共有によって、企業とともに価値の扉を開けていくような感覚があるし、イナカレッジは暮らしをする場そのものが地域の時間の愛に包まれるから、場に溶け出すことができる感覚がある。

「一緒に暮らすこと」と「(作ろうとしている冊子の)コンセプトさえも途中で変わる」
それって「場」に溶けだして、「場」と「心」がつながっているということなのかもしれない。

「感情を大切にして行動する」っていう行動原則の人は、「なんでするの?」っていうwhyの問いかけに対し、論理的に説明するのが難しく、葛藤することになるのかも。

~~~ここまでメモ

取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。

そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、
何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題は
アイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。
その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、
それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。
当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。
あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。
「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの
「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。
学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。
そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)学びイベント日記

2020年09月07日

やりがいは何か?という愚問

9月4日
取材インターン「ひきだし」事後研修でした。

僕の興味は、取材を通して、
「オンラインの向こう側」を見てみたかった。

結論としては、
チューニングを強化してチャットと併用することで、
チームインタビューはうまくいくことが分かった。

実は「場」に差し出してるものが多くなるっていうこと。
それが場との一体感を生んでいる。
オンラインは、頭や気持ちの一部だけを取り出せるからかもしれない。

~~~ここからはメモ

「否定」ではなく、「違和感の表明」。
違和感を受け止める場があるかどうか?
自分にしかできない質問=いまこの瞬間に感じた違和感を問いに替えること
その質問がインタビューをドライブさせる。

「昭和のサラリーマンはお金のために好きでもない仕事をやっていた」は本当なのか?
⇒また行きたくなる「場」「一体感」があったのではないか。

好きなこと=doやwhatではなくbeやhowかも。
何をやるかではなく、状態や関係性が大切。

★「やりがい」問題
仕事人にインタビューをするとき、ついつい、
「この仕事のやりがいは何ですか?」と聞いてしまう。

今回インタビューした会社の中で、
「やりがいを感じるのは感謝されたとき」
との回答を得て、ひとりの大学生が違和感を持った。
感謝ってやりがいなの?って
それがふりかえりでホットな議論になった。

その違和感について、僕が感じたのは、
「やりがいは何か?」って仕事の目的を聞いているはずなのに、
「感謝されること」は結果であって、目的ではないから。

でも、そもそも仕事に目的は必要なのか?
そもそも普段「やりがい」なんて意識して仕事しているか?
もしかすると、経営者は必要なのかもしれないけど。

目の前の仕事に、お客様に、集中しているとき、
「やりがい」という言葉は頭から消えている。

大学生に質問されてはじめて意識する。
問われたから無理やり考える。

そしてそれは、研修でやったけど、
「内なる言葉」ではなく「外に向かう言葉」で答えてしまう。
「外に向かう言葉」=人に説明する言葉⇒見える化⇒計測可能(量的に語れる)
結果、「感謝」が出てくる。

1人が書いていたけど、
仕事の目的というかそもそもの成り立ちは「お客様に価値を届けること」であり、
「感謝されること」は結果である。

だから、やりがいは何か?という質問の仕方が間違っているのだ。

あなたが届けたい、届けられる価値は?
と聞かないといけないし、

「感謝」をもっと解像度を上げるには、
あなたが喜びを感じる瞬間は?
と質問しないといけない。

ただ、今回聞いていて思ったのは、
「感謝」によって思いやりと愛の循環が起こる
⇒「場」の空気がよくなる⇒明日も会社行こうと思う
っていうことなのかもしれない。

つまり。
モチベーションの源泉は、ゴール(目的)ではなく、
「場」から湧いているのではないか、と。

~~~ここまでメモ

いいですね。
やりがい問題。

タイトルの話に戻ると、
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと
同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、
ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。
例えば「お客様に感謝されること」
それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。
しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど
夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。
たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

あとは、「外に向かう言葉」と「内なる言葉」の違い。
やりがいは何か?と聞かれて、
やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、
リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。

「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。

「近代」なる何か(資本主義や教育)は、
「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。
それが、「計測可能」という罠だ。
「学び」の目的は
「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、
実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。
「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)
「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

9月4日を予言するかのように、9月3日にツイートしたもの

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。
ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。

そして、「学び」を「遊び」にしたい。
その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。
遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。
目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。
「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

たぶんそういうこと。

事後研修を終えて、数名の参加者が
ふりだしに戻った!と叫んでいた。(チャットで)

~~~
振り出しにもどった!!!!
OKいろいろあるのね、自分のとらえかた次第ね
業界や職種で絞れないね
→どう絞れば!?
スキを仕事にしなくてもいい
→楽になったけど、なにを軸にすればいいんだ!?
自分にできることって何
→やってからじゃないとわからない、最初どうすれば!?
~~~

いいなあ、内なる言葉が出てくる「チャット」という機能は。(笑)

ふりだしに戻る。
でも、それは戻ったわけではなく、螺旋階段を1段登っている。
そして、1段登った分、見える景色が変わっているはずだ。

そんな「機会提供」の場をつくりたかった。
たぶんそれが主催者である若松さんと僕の想い。
機会をどうとるかは参加者次第なのだけど。

今回の「ひきだし」も僕にとっても予測不可能な発見の連続で、
めちゃめちゃ楽しかったのです。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:24Comments(0)イベント日記

2020年08月30日

場のチカラと場の豊かさ

取材インターン「ひきだし」第2週の事前研修でした

「場のチカラ」
「魔法をかける編集」
「オンラインの向こう側」
がテーマ。

~~~以下メモ

オンラインマジカルバナナの威力がすごい。
あれ、目的に向かってないからいいのかもしれない。
場を温める。

「チューニング」についてあらためて説明。
チューニング=感性を共有すること
ではないか?と言われて、そうかも、と。
思ったことが言える場づくりがいちばん大切だなあと。
あとは振り返りにおける「印象に残ったこと」

今回いちばん面白かったのはチャットの活用ですかね。

「ふりかえり」特に印象に残ったことを書き出すことで、
お互いがお互いを知ることにつながるし、そこでの発見がある。
ふりかえりつつ、気づくみたいなことはオンラインのほうが可能かもしれない。

また、インタビュー時はインタビューしつつチャットを併用することで、
頭の違う部分が開かれるような気がする。それは相手(話し手)にとっても同じだ。

「オレンジ」とか暖色系で、
チームカラーを決めるっていう方法もあるかも。

チューニングとふりかえりを繰り返すことで
チームの雰囲気ができていく。

現代の美術家のアート領域。
境目をあいまいにすること。

~~~ここまでメモ

ふりかえり

1 場のチカラについて

目指す方向だけを決めた方がいいのではないか?
という話から、「誰のために、なぜ冊子をつくるか?」という議論になった。

場(プロジェクト)の構成要素である
誰と⇒いつ⇒どこで⇒なぜ⇒誰のために⇒何を⇒どのように
の「どこで」(オンライン)で「何を」(企業取材を)とだけ決まっていて、
そのあいだを埋めていくこと。それによって、「誰と」「いつ」が明確になっていくこと。

2 魔法をかける編集について

いま、あなたにしか、このチームにしか書けない記事がある。
それを実現するために。

・相手(インタビュー先、チームメンバー)を知る、知りたいと思う。
・感じることを、感じたことを大切にして、それを場に出す。
・人の話(ふりかえり含む)に乗っかる。
⇒自分のいま抱えている何かとリンクさせて語る

3 オンラインの向こう側について

チャットとの併用にヒントがある。
脳の境界をあいまいにすること。
違う回路を開きつつ、進めていくこと。
相手(しかも複数名)がいったことが同時に見れる。

オプションで「交流会」時間があったのだけど、
編集長の青木さんが言っていた「これ、編集だな」っていう一言にインスパイアされた。

編集かもね。
人と人とをうまく編集すること。
言われてみれば、人生も、仕事も全部編集なのかも。

この前のオンライン・ツルハシで話した原さんのような
編集の仕方があるっていうこと。

今回の「ひきだし」もめちゃめちゃそうだなと。
「オンライン」っていう条件さえも、制約ではなく編集対象にしてしまうこと。

っていう振り返りをしていて、僕が思ったこと。(ふりかえりのふりかえり)

「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から
少し異なるのだなあと思った。

そして、オンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。
「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。
場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。

一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」
スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、
お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。

ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、
またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。
仕事の打ち合わせの人もいるだろう。
そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。

参考ブログ「分断から共存へ」(13.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e302022.html

おそらく、
「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。
「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。

そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。
そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)学びイベント日記

2020年08月11日

「誇り」がはじまる場所

新潟県マイプロスタートアップキャンプ2DAYSでした。

宮崎さん、スタッフのみなさん、本当にお疲れさまでした。
ご協力いただいたファシリテーター・アドバイザーのみなさんも
ありがとうございました。
阿賀黎明高校からも4名の生徒が参加し、刺激の多い1日となったようです。
これからの活動が楽しみです。

いつもの振り返りメモを残しておきます。

~~~以下、プロジェクトとコメント、問い。

「佐渡乳業を応援したい」
買い続ける理由は?
熱狂的なファンになるとしたら?

「ボランティアで人と人をつなげたい」
肉体系ボランティアをやると仲良くなれる。

「アレルギー対応のイベントしたい」
笑顔になれる食事体験の方法は?
楽しめる食事と楽しめない食事
「楽しめる食事」とは、アレルギー対応以外の方法もあるのでは?

★パートナーの「想い」を確認すること。
・佐渡乳業、ボランティアやってほしい人、アレルギーを持つ人にヒアリングする

「食品ロスをなくしたい」
データを示せば、行動が変わるのか?
どの地点の食品ロスをなくすのか?

「通販サイトさどおしなの活性化」
ふるさとを思い出すためにポストカードをいれる。
行ったことがある人に「また来て佐渡」って言いたい。
ポストカードで行ったことのある旅館に手紙を書く

「料理の絵を描き、食の魅力を伝える」
コンテストなど大規模じゃなくて、小規模で始められるものはなにか?

「佐渡チェキ」
日常風景を写真にとる。
グローバルな人は地元が好き=地元を語れる
キーワードとしての「探検」

「新潟甚句を広めたい」
歴史的なつながりに魅力を感じるのか?

「音楽をもっと身近に」
音楽の魅力は?
あなたにとって音楽とは=存在価値そのもの
ライブの一体感と偶然性、一回性。
音楽=芸術=表現すること

「五泉ニットを売り出したい」
お客は誰で価値は何か?
高校生にとっての価値は?おしゃれ?かっこいい?かわいい?
ファンとお客さんの違いとは?
誰が五泉ニットをつくっているのか?職人さん・社長さんの想いは?

「演劇文化を広く伝えたい」
演劇の魅力は?⇒心を揺さぶられる体験。
演劇鑑賞⇒対話により違いを楽しむ。
講師謝金は出やすい。

「不登校生を学校へ」
そもそもなぜ学校が必要なのか?
想定される具体的な誰かはいるか?
学校に行くことで得られるものと失われるものは?
「学校に行けなくてつらい」の解決策は
「学校にいくこと」と「学校に行かなくてもつらくない」の2つの方法がある

「佐渡金山にきてほしい」
誰かの企画に乗っかってみるという方法もある。
ふりかえって自分の勘定を知る⇒自分を知る。

★フレームを外して広く見てみること。

~~~ここまでコメント、問い


2日目の事例紹介は、7月31日の探究学習コミュニティ第1回でも登壇した元大船渡高校の船野さん。

マイプロアワード2017文部科学大臣賞
https://myprojects.jp/project/4134/

あらためて聞いてみると、「探究」とは何か?考えさせられるキーワードにあふれていた。

~~~ここからメモと考えたこと。

目標・テーマに向けて、進んでいく。(ニアウォーターをつくる)
それと同時に、自分を知る=感情の動きをキャッチする。

つまり、目標というナナメ上に進むベクトルの一方で、
自分を知るという自分自身の内に向かうベクトルを動かし続ける。
実はその「自分を知る」というベクトルの先に、目的というか、
船野さんの言葉でいうところの「北極星」に出会う。

それが「展開型の学び」の醍醐味なのではないか。

「目的から考える」というのはよく言われるのだけど、
それって、「PDCAを回す」みたいなのにとらわれている状態と同じで、

ひとまず、やってみて、ふりかえりを重ねていく中で、自分を知ること。
その振り返りも、「気づき・学び」ではなくて、「印象に残ったこと」、
つまり心の動きを振り返るということ。何を感じたか?を振り返ること。

「挑戦」⇒「失敗」⇒「気づき・学び」⇒「再挑戦」ではなくて
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか?」⇒「再実験」というプロセスの中で
自分を知っていくことなのだと思う。

その「何を感じたか?」
には「違和感」が含まれていて、その「違和感」こそが次の「問い」に繋がっている。

だから、付け足すと
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。
感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。
だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思う。

終了後、宮崎さんの一期生、「Sフェス」のふみかさんと中等生プロジェクトに伴走してきた増山さんとの対話。
ふみかさんのテーマは「イノベーションを起こす場づくり」
そういう意味では、僕のテーマに近いなあと。

僕が大学を辞めた理由は、「このコミュニケーションでは新しいものは生まれない」と思ったからだ。会議の場がまったくフラットではなかった。
教授は教授として、准教授は准教授、事務職員は事務職員、コーディネーターはコーディネーターとして、会議に参加していた。
「踊る大捜査線」の和久刑事(いかりや長介)のセリフが何度も聞こえてきた。「正しいことをしたかったら、偉くなれ」

僕のテーマは、
「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」

「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。
そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。

「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト

それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。
「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。

出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、
「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。

だからもっと「場」の力を高める必要がある気がした。
・オープンマインド(心を開く)をつくるために、「印象に残ったこと」を言葉にしてもらう。
・2人司会制度で余裕をもって進行し、随所に振る。
・特にアドバイザータイムは2人ファシリで、高校生をフォローしながら進行したほうがよさそうな。(メモも必須なので難しいところだけど)

僕は2日目、新潟が誇る「問い」の大御所、「ふりかえり王」(笑)の山本一輝さんとコンビだったのだけど、
それをファシリしていたしぶはるさんのコメントが印象的だったのでここに残しておく。

「事例紹介」で拡げて、と「問い」で深めるみたいなバランスがいい。
ああ、それって、「向き合う」っていうのと「横に並ぶ」っていうのを自在に行っているのかもって。
増山さんも、インタビューの極意は「深く聞いているか」「広く聞いているか」の使い分けだと言っていたけど、
「わたしとあなた」っていう関係性と「わたしたち」っていう関係性、それともまた少し違う「ナナメの関係」(どんどんやれやれっていうおっちゃん的な)っていうのも、自在に行き来するような、そういう「場」が作れるのではないかと思った。
だからzoomにおける2人司会制も、一方は、向き合い、一方は横に並ぶ、みたいなコミュニケーションも可能なのかも、と。

まあ、いろんなヒントがあった2DAYSでした。

最後に、宮崎さんのあの一言を。

「気がつくと地域と人生の当事者になっていた」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

佐渡中等教育学校に赴任して耳にした言葉。
「わたしたち嫌われているんです」
すべてはあの一言から始まった。

現代版スクールウォーズだとあらためて思った。
伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。
「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」

「誇り」が必要なのだと思う。
それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。
文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。

「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、
マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。
「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。

現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、
その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。
探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。

そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 07:37Comments(0)学びイベント

2020年08月08日

信は力なり


昨日は、探究学習コミュニティの2日目でした。

ゲストは宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校の上水先生
http://gokase-h.com/

いやあ。
もう、衝撃がすごすぎて、手に汗かいちゃいました。
最後には泣きそうになってた。

ということで、自分のためのメモ

~~~ここからメモ

学びの氷山モデル。
育てたい資質・能力:野性味あふれる地球市民の育成
・つながる力・試みる力・見る力・問う力・関連付ける力
・networking/experimenting/observing/questioning/associating
・個人will×社会needs

「実社会」(具体)⇔「探究」(半抽象)⇔(抽象)
ステップ型からスパイラルな探究へ
フォアキャスティング⇒バックキャスティングへ

地域での体験⇒地域での経験⇒地域での実践(普遍性)⇓・・・ローカル
社会への発信⇐社会への参画⇐社会への問い・・・グローバル

中3マイプロジェクト活動:自分の中にある興味・関心(Will)から生まれたテーマを設定し、ワンアクションを起こす
高1知の理論・問いの探究:問いの構造を学び、深く考えることによって物事を抽象化する思考法を身につける。(Why)
高2・3課題研究活動・・・社会に散在する諸問題(needs)に対して、グローカルな視点から探究活動に取り組む

これまでのKKD(経験・勘・度胸)⇒できる人ができる
これからのKKD(仮説・検証・データ)⇒やりたい人ができる

PDCAからAAPへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

「思い込み」と「思い上がり」でプロジェクトをつくる、に似ているなあ。
ゼミ形式で共飲1名あたり6名を担当する。

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。
「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ
社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

~~~以下第2部

society5.0時代における持続可能な社会と幸福な人生の創り手として、予測困難な未来社会を自立的に生き、多様な人々と協働しながら社会の形成に創造的に参画することができる資質・能力。

遠隔・オンライン学習やデジタル技術を活用した個別最適化した学び⇔対面指導や集団活動、地域社会の多様な教育資源を活用し社会とつながる真正な学びの充実

自立的な学び⇔協働的な学び⇔探究的な学び
主体的な学び⇔対話的な学び⇔深い学び
⇒誰一人取り残されることなく社会につながる教育環境の実現

「対話と協働」でリアルな学びの場と学校をつなぎ
「越境」で学校外とつなぎ「普遍化」でグローバルとつなぐハイブリッド探究・協働様式

自ら学びをデザインし、新しい時代を共に生き抜く力
「つながり」「対話・協働」「自立・探究」「社会・創造」を組み合わせて学ぶ
それを支える「学びの土壌」があること

ハイブリッド⇒どちらも
対面・体験・オフライン⇔遠隔・体感・オンライン
知識・技能・教科学習⇔探究・実践・総合探究の時間
全体・指導・公教育が持つ強み⇔個別・伴走・地域社会が持つ強み

「共創的カリキュラム」
個別的カリキュラム:学びの実態や環境に応じて、社会総掛かりで知見を共有しながら個別に学習計画が設計されたカリキュラム
明示的カリキュラム:新しい時代に必要となる資質・能力の獲得を目指して、誰一人取り残さないための「学習保障」「関係保障」「健康保障」が明示されたカリキュラム
潜在的カリキュラム(学びの土壌):学校や地域の特性や歴史・風土を活かし、学び手を伴走する土壌によって自然に生み出されるカリキュラム。

★余白をつくること
何を教えて、何を学んだか⇒何を教えず、何を学ばないのか
「対話」と「協働」で探究をドライブする。

ビジョン委員会:半分つくり、半分はつくらない。ねらいと偶然性を両方とる。5年後10年後を語り合う
「対話」の文化があること。

オンラインは会いに行くたくなるように終わること。

★「探究」と「教科」
コンテンツベースで教科をつなぐのではなく、コンピテンシーベースでつなぐ。
教科における見る力とは何か?問いを立てる力とは何か?ふりかえりをする力とは何か?

~~~以上メモ

すげえ・・・
ヤバい・・・

途中から僕の言語化能力を超えてきてしまって、手に汗かいてきた。
こんなの、前にあったな。

2005年の玉川大学のスクーリング「教育の原理」だ。
教育とは何か?を真正面から考える授業に、心も体も震えた。

僕がなぜ今ここにいるのか、わかった気がした。

探究の3つの感。
自分にしかできない感、自分がやるべき感、そして自分にもできそう感、
それって、「思い上がり」と「思い込み」つまり勘違いなのだけど、
生きていくってそれが大事だなとあらためて思った。

一番印象に残ったのは、
「探究」と「研究」の話。

「探究」は入り口が「好き」にあって入りやすいく、その先に青天井に進んでいける。
「研究」は入り口に社会のニーズ(課題)があって、そのフレーム設計をして進んでいく。
つまり、「探究」はフレームを超えていける。

そして探究を、客観(ニーズ)に落とし込んだときに自己変容が始まる、というのもすごくしっくりきた。
学びの醍醐味はまさにそこにあるんじゃないのか、と。

何より上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」

生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。
「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。
時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。
圧倒的な敗北がここにありました。

2020年8月7日。
世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは
五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。
で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと
他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。

パートナーのみなさん、よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)学びイベント

2020年07月21日

「わたしたち」として歩む~「学び合い」から「見つけ合い」へ

渡辺保史さん。
「情報デザイン入門」(平凡社新書 2001)の著者。
渡辺さんの活動を知って、「はこだてスローマップ」の
活動に参加し、会いに行ったのが2003年。


若いです。(2003.3.29)

その後、10年の時を経て、新潟青陵大学が中心となった「にいがた未来考房」
立ち上げの時に講師でお呼びして伺ったのが自分ごとのデザイン。


スーツきてる。(2013.3.27)

このわずか3か月後の6月に急逝。
言葉を失いました。

その後、当時書いていた原稿を出版するプロジェクトが立ち上がり、
2018年3月にクラウドファンディングにより自費出版されたのがこちらの本。


「Designing Ours「自分たちごと」のデザイン~これからの個人・コミュニティ・社会」

いまこそ、読むときが来たと。

土日、2つの教育系ウェブセミナーと
オンライン劇場「ツルハシブックス」を開催。

土曜日は
「最上マイプロジェクト推進運営委員会オンライン勉強会 #学びの土壌づくり」

日曜日は
「スカイロケットプロジェクト主催の21世紀を生きる子供への大人のかかわり方⑥」でした。

~~~こちらはメモ

18日

高校生の探究と大人の探究が重なり合う部分にプロジェクトをつくっていけるかどうか。

対話:認識のズレを顕在化させるコミュニケーションのこと⇒違うことを楽しむこと。

「学び合えば希望は生まれる」
     ↑
「フラットなコミュニケーションが必要」
     ↑
「心をひらくためのデザイン、ツール」

「ワクワク」は伝染する。
その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。

個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場。

19日

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。

「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

リフレクションと対話とメタ認知

主語を私たちにシフトしていくこと。
「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

オンラインによる「個別最適化」は学ぶ意欲のある子にとっては理想的なのかもしれないが、そうではない子にとっては、生活習慣さえ乱れてしまう。

先生や公務員こそ、「コミュニティ副業」をする時代だ。

小中学校時代にうまく学校についていけずに、高校で学び始めた子どもたちが「本当は勉強したかった」というのだと。
8割の子どもは、自己肯定感を下げるためだけに学校に行っているのではないか?

「履修主義」から「習得(修得)主義」へのリスク。プロセスにおける雑談や関係性は配慮されなくなる。

学校を社会に開く合理性を市民側が説明しているか?
市民側のリテラシーの低さ。
先生が何に苦しんでいる状況なのかを理解してから提案すること。

年齢の違う人と、テーマで話すこと。
評価・判断を保留して聞くこと。
年齢の壁はオンラインのほうが越えられるかもしれない。

発達の最近接領域
https://learn-tern.com/proximal-development/

たぶんこれと、場のチカラによる「学び合い」から「見つけ合い」へのシフト。「私たちとして探究的に学ぶ」これが自己肯定感問題を含むアイデンティティ・クライシスと探究学習を同時にクリアしていく方法かもな。

新型コロナウイルスで失われたものは学校での授業と言うよりもむしろ「登下校」や「放課後社会」といった無数の余白時間なのだろう。そしてむしろ余白のほうが本質的に重要だったものなのかもしれない。

~~~ここまでメモ

そしてもうひとつオンライン劇場の宮本さんとの対話やそのあとの「やりたいことが分からないの社会学」、
「責任」について、も。

~~~ここからメモ

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。
そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。
その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。
好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。
ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。
それでようやく「自分」がわかる。

SDGsから出発したプロジェクトが僕の心を打たないのは、「手触り感」からスタートしていないからか。

自分に自信がない、つまり自己肯定感の低い人は、客観的に自分を見てしまうから、ついつい場において役割を果たせていないのではないか、と感じてしまう。

それって「責任感が強い」ってことじゃないですかね。オーダーされたものに真剣に応えるデザイナーのような。

これまで「自分に自信がない」とか「他者からの評価を気にしてしまう」とかって聞くと、評価という呪縛から早く逃れたほうがいいと思っていたけど、昨日のツルハシでの対話を経て、そういう人のことが好きになったというより、僕のようなクレイジー・ポジティブの人の周りには必要な存在だと分かった。平尾さんのいう「相補的関係」

同時に、その人たちが「安心」できるために、「チューニング・ファシリテーション」が必要なのだなあと思った。
冒頭で「最近あったよかったこと」を聞いて、終わりに「印象に残ったこと」を聞く。そして「発見」し合う場づくり。

最後の時間は「責任」について。哲学対話みたいになってた。これ、オンラインのほうがうまくいく気がする。今まで照れ臭くって「対話」ってタイトルのイベントには足が向かなかったのだけど。オンラインならできるね。クルミドコーヒー影山さんが言ってた「自己開示が強要されない」場づくり。

~~~ここまでメモ

っていう感じ。

昨日は校長先生と教育長と阿賀黎明探究パートナーズの会長である麒麟山齋藤社長との会談で、
プロジェクト学習について話し合っていたけど、

~~~思ったことメモ

「進学クラス」と「就職・専門学校クラス」っていう区分けがもう意味を為さないような気がした。
一緒にプロジェクトやってみたいな、と思えるヤツを育て、それをベースに「もっと研究したい」と思う人が大学に行けばいい。

マイプロジェクト
    ↑
プロジェクト型学習
    ↑
ワークショップ手法
    ↑
対話のデザイン、オープンマインド
    ↑
安心・安全の土壌づくり

マイプロジェクトの先に大学での「研究」と専門学校での「専門スキル」と企業での「就職」というプロジェクトがある。

地域の○○を学ぶ、っていうだけではほとんど意味がなく、地域の○○を活かして何かプロジェクトとして実践するところまで行かないといけない。
地域の特産物を育てて「販売」というのは一番思いつきやすい実践例だと思うが、プロジェクトはそれだけではないはずだ。

仕事や人生を主体的対話的に歩んでいけるような人に高校卒業時になっていること。
言い換えれば、人生の経営者になっていること。
会社では一介のサラリーマンであるかもしれないが、自らの人生の経営者であること。
そうしないと地域に貢献したりしないよね。それがシチズンシップ教育なのでは

~~~ここまでメモ

「わたしたち」として「見つけ合う」から始まる学び。
ワークショップ、プロジェクト学習、マイプロジェクトとつながっていく学びの前提。

そこに対話のデザイン、オープンマインドが必要で、
その前提として安心・安全の土壌づくりがあるのだろうと思う。

その「わたしたち」の範囲、フレームをどこまでにするか?
そこに心地よい責任感のヒントもあるなあと。

いろいろ繋がってきています。
渡辺先生、この本でまた学ばせてもらいます。
そして、先へ送ります。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)学びイベント

2020年07月12日

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値



昨日の地域みらい留学LIVEを30分だけ視聴。
聞きたかった若新雄純さんの話が聴け、シビれたのでメモしておきます。

~~~ここからメモ

わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないか。

イケてる田舎の学びは「非線形」
JK課=女子高生がまちづくりに関わるプログラム
インターン・PBLがつまらないのは、先に学ぶものを決めているから

イケてる田舎での学び:予定・用意されたものじゃない何かがある。
目標・計画もない学び。

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。
よくわからないものを楽しむこと。

都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。
田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」
「線形」の学び=これまで。

〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
・予測可能(指数関数的)
・予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続
ゴールがない、わからない、計測不可能

3年間そこにいると何が学べるか=不明確なのが価値
ぜんぶたまたまの結果にすぎない。

「こうあるべき」⇒「分からないけど、面白そうだ」(創造的脱力)

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。
プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。
「発見」は100%生まれる。

~~~ここまでメモ。

いやあ、ほんと、このタイミングで聞けてよかったなと。
田舎で、この町で学ぶ価値って、魅力ってなんだろう?って
「魅力を明確に言語化しない」っていうのはすごいなと。

たしかに、一言で言える観光地よりも、底が知れない場のほうがリピートするし。
ご当地名物料理よりも、地元民御用達の駅前中華料理屋さんのほうが行ってみたいし。

そして、「線形」と「非線形」の話。

これは、「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)
に書いてあった、メディアの変化にマッチしているな、と。

参考:本屋というメディアをつくる(17.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e486326.html

参考:メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e486304.html

ここで説明されている「コンテンツ」の3つの軸

ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

~~~

これって・・・
まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。

ストックとフローを組み合わせつつ、
「権威型」から「参加型」に寄りつつ、
ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

そしてWithコロナ時代を迎えて都市と地方の「情報格差」が決定的に小さくなった今。
だからこそ学びは転換点にあるのではないか。いや、もともと転換点にあったのだけど。

そしてもうひとつ紹介したいのが若新さんの著書「創造的脱力」

参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

~~~以下、書籍より引用

目的やゴール、到達点が明確で、勝ち負けや白黒をはっきりさせたいプロジェクトやチームには、それにふさわしいまとめ方やまとめ役というのが必要なのだと思います。正しく状況を判断し、的確に情報を収集、分析し、権限を使って指示や命令をおこないながら、ときには破壊的な攻めにでることも必要なのでしょう。

一方で、すすんでみなければゴールがわからず、偶然の出来事や変化を受け入れながら学んでいくような実験的な取り組みにおいては、成果や正解を焦って求めすぎない脱力感と、そのプロセスを楽しめる柔軟性が必要です。

でも、ただ力を抜いてやわらかくしているだけでは、「まとまり」ができずバラバラになってしまいます。脱力しながらもうまくまとめていくためには、その場にいる一人ひとりの欲や好奇心、その場から得られる体験や感動をみんなで共有し、ときにはぶつかり合いながらもお互いを必要とするような、人間関係にみちあふれた「関わり合い」が必要です。

僕はこれを「ゆるいコミュニケーション」と呼んでいます。「ゆるい」というのは、「いい加減」ということではありません。

きっちりとは固定されていないのに、つながっている。
強制されているわけではないのに、参加している。
必要に迫られているわけでもないのに、欲している。
細かいことは決まっていないのに、全体としては成り立っている。

一見もろそうに見えて、実は「かたいつながり」以上の「ネバネバ感」があり、「まとまり」があるのです。

さらに「ゆるい」だけあって、平均からのズレや偏りを排除してしまわず、むしろその差や違いを吸収できる余白や「ゆらぎ」をもっています。つまり、「ゆるいコミュニケーション」は、一人ひとりの異なる価値観やライフスタイルをお互いに認め合い、それぞれの個性的なパーソナリティを引き出し合うことができる「成長の機会」なのです。

~~~ここまで

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。
田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。
その先に非線形の学びがある。
その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、
スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。
「発見」を価値だと認識すること。
場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。
その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。
いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。
そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。  

Posted by ニシダタクジ at 10:25Comments(0)学びイベント

2020年07月07日

グラデーションな人生

オンライン・イナカレッジ・ラボの作戦会議。

ふと。
聞いてみたいことが出てきたので、聞いてみた。
お題は「イナカレッジでシフトしたもの」

   ⇒

って聞いといて、自分でハッとしたこと。
そうか!チェンジするんじゃなくてシフトするんだって。

ついつい、振り返りの時に、
before arterで何か変化したことはありますか?
って成長を聞いてしまう。

でも。
そんな簡単に変わらないよね。

東京の大学生が言っていたこと。
1か月間、集落に暮らすことで、他人が身内になった。

ああ。そっか。
正確に言えば、「身内感を持つ人ができた」っていうことなのだろう。
イナカレッジで言う「関係人口」っていうのはきっと、そういうことだ。
共同体のフルメンバーではないが、補欠というか、
メンバー外(他人)とフルメンバーのあいだのグラデーションにいるということ。
そしてそれは大学生自身のアイデンティティの構成要素になる。

僕自身がイナカレッジでシフトしたものは
(これは、茨城えぽっくの「取材型インターン」と同時に起こっていたことも大きいのだけど、)
「場」についての考え方のシフト。

成果を上げるのは、個人やチームのチカラではなく、場のチカラであり、
自らを場に溶かしていくことで、「魔法をかける編集」が可能になる。というもの。

そしてそれをいくつも(地域やプロジェクト)経験することで、
個性を持つ場の構成員としての自分というアイデンティティがつくられる、という仮説

というわけで、昨日に引き続き、
2007年発売のこの本より。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

P192「個食の幸せ」
http://blog.tatsuru.com/2006/11/18_0855.html

「個食」とは何か?についての深い考察。

~~~ここから一部引用

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。

杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。

それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

~~~ここまでメモ

あー。面白い。
とくにこれ。

同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。

そうか!
あれは踊りなのか。
囲炉裏を囲んで一緒にごはんを食べるとか、最高ですよね。
身体コミュニケーションとしての食事と共同体への帰属。
イナカレッジの1か月はそれを同時に実現するのだろう。

このブログが書かれて14年が過ぎているが、

東京の大学生たちの
「このままでは生きられないのではないか?」
という直感が、イナカレッジの1か月に導いているのではないか。

こうした日々を経て、大学生は、
共同体のフルメンバーではないが、グラデーションとしてのメンバー(関係人口)になっていく。
そしてそれは、地域にとっても、大きなモチベーションになるし、

そして、上にも書いたけど、大学生個人にとっては、アイデンティティの構成要素になる。
グラデーションが濃くなるほどに、
「共同体のメンバーとしての責任」を果たしたくなる。
だから、梅もぎとかに行っちゃうのだろうな。

グラデーションな人生を生きるための共同体体験。
それが「にいがたイナカレッジ」の価値なのではないか、っていう昨日のふりかえりでした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:56Comments(0)学びイベント

2020年06月19日

時計の奴隷



https://www.katariba.or.jp/event/23138/
6月17日(水)の「ゆるいエデュケーション・ラボ」オンライン・ゼミに参加。
若新雄純さんの言う「ゆるい」が好きなので。

「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)は僕にとって思い出の1冊。
参考:「ラボ」というゆるさと強さ(18.11.26)
http://hero.niiblo.jp/e488462.html

ということで、イベントメモ

~~~ここからメモ

・学び合うことをとらえ直していく
・学ぶ場のありかたをゆるめてつくりなおす
・「ゆるい」:答えを出さないといけない⇒答えがすぐに出なくてもいい
⇒成果・結論・まとめ・気づき・学び・いいアイデア・答えを求めない。
⇒つまり、ゴールに向かわないってことか。

「対話」によって「そういう見方もある」という「発見」があるはず。
「正解」から「発見」へ

ソクラテスの時代から「対話」だった。
不知の自覚:無知の知
「哲学」:テーブルに乗せて丸裸にするという営み。
「哲学の本質」:本質洞察に基づく原理の提示。
「公教育」:社会における自由と自由の相互承認の実質化
正当性の原理は「一般福祉」。

150年かわらない学校システム⇒ベルトコンベアシステム⇒同質性の高い集団に最適化したシステム。
学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合。

アダプティ・ラーニング:キュビナ
個別に今学ぶべきことを最適に与える:テクノロジーのほうが優れている⇒テクノロジーに任せることは任せる。
モチベーションを上げることは人にしかできないから人がやる。
主体的対話的学びもテクノロジーでフォローできる。

「学びの個別化」:自分が学びのコントローラーを握っていること。
「学び(のコントローラー)」を子どもの手に返す。
高校生自身に学びの主導権を渡す。
ログが残る⇒リアルタイムのフィードバックができる⇒ゲーミフィケーション。

モチベーションをどうやって上げるのか?
ゲームの攻略:いいゲームは「チュートリアル」がしっかりしている。

麹町中学校のキュビナ導入から
1 ティーチングプロセス⇒ラーニングプロセス
2 助け合える学習空間をつくれるか?
3 先生も探究的に学ぶ

プログラムの提供⇒場を提供して待つ、一緒に学ぶ
自己成長力を信じられないと待てない。

言われたことを言われたとおりにやらせる。
⇒信頼して まかせて 待って 支える

それができないのなら、「時計の奴隷」になっている。
時間割とか、この時間までにここまで、とか。全部そうだな。

幼小中高大をつなげる「ラーニングセンター」として空間を再結成する。
「大きくはみ出せない」「多様であれない」のは、不安だから。
人と違っていてもいいという安心感をどうつくるか。
異年齢の人が出入りしていると同調圧力は軽減される。

「多様性」を目指さない。
結果であり、前提としての多様性。
僕たちはすでに多様。

これまでの学校:スーツケース
長い棒は折らないと入らない。ボールみたいな丸いやつは押し込めないといけない。
⇒ふろしきみたいな学校はつくれないか?
まあ、いろんなふろしきが学校の周りにもたくさんあったらいいなと。

「評価」(≒数値化)の呪縛をアンラーンする。
大切なのは一緒にプロジェクトをやりたいか?っていうこと。
評価が正確・公正であるというウソ。

「こういう人と一緒に学んでいきたい」
”あなたと一緒に学びたい”と思えるか。

「序列」:クラスの中で何番目か
⇒自分(たち)の目指しているものに対して何合目か?

ピアノやギター:やってるからできる
学年とかがない。誰も評価しない。

~~~

とまあこんな感じ。
高校魅力化の文脈に落とし込んでいくと、キーワードは

・「ゆるい」:答えを求めない。ゴールに向かわない。
・モチベーションとゲーミフィケーション、チュートリアル
・ラーニングセンター、異年齢の多様な人の出入りと心理的安全性
・ギターやピアノのようなやってるからできる、っていう感覚。

そんな感じかな。
いちばん響いたキーワードは「評価の呪縛」ですかね。

構造的に見れば。
「目標達成」という大きな仕組みの中で、授業の達成目標があって、
そこに対して限られた時間数で到達させることが重要で、
その到達度をテスト(高校なら中間・期末試験)によって測定するという仕組み。

ところが、キュビナのようなAI教材で学びを個別化したとすれば、
その時点(たとえば、2年生の7月時点)でのテストの結果は、どんな意味があるのだろうか?

そもそも。
目標⇒到達度評価⇒テストみたいな枠組みにどれほどの意味があるのか?

それって、サピエンス全史にも書いてあった、
「時計の奴隷」ってやつだよなあと。
工場は効率化のため、「時計」を発明した。
いや、時計はあったのだけど、イギリス各地域で異なっていた。

「時計」とか「始業時間」とか「時間割」とか
そういう概念そのものがわずか150年しか経っていないのだ。

そうそう。
人は、目標の奴隷である前に、時計の奴隷だ。
島に行くと誰も時間守らないっていうのは、時計から自由だって言うことなのかもしれない。

「学び」と「評価」と「目標」と「時計」
この構造に、何かヒントがあるよ。

「時計」から解放された学びをつくりたいね。

その「学び」はきっと、「遊び」に近づいていく。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)学びイベント

2020年06月11日

「大学」という乗り物に乗る。

公営塾対象のAO・推薦入試(総合型選抜)研修(オンライン)でした。
いつも藤岡さんの話は本質的だなあと。

ということで、ひたすらメモします。

~~~ここからメモ

コロナ過で様々な大会、コンクール、部活動、学校外の活動などが停止。
⇒AO・推薦を受験できないのではないか?という不安
⇒(実績)要件は緩和されている

しかし、問うべきは
「そもそも、大学側は、大会、生徒会などで、何を、なぜ、見たいのでしょうか?」

「三ポリ」
・ディプロマ・ポリシー(DP):大学卒業時に身につけておくべき学力の3要素
・カリキュラムポリシー:DPを体系的に身に付けるための授業の配置方針と教育方針
・アドミッション・ポリシー:カリキュラムを受けるために入学者に求めたい学力の3要素

例:北陸大学
https://www.hokuriku-u.ac.jp/about/outline/policy.html

DPルーブリック(学年別到達目標・評価基準)とカリキュラムツリーがある。
AP:求める学生像が書いてある:例
・自分の考えや意見を述べることができる人
・経験を振り返り、自分の言葉で表現できる人

⇒APから求められる力を導き、ルーブリックを作ってみる
・「表現力」4 聞き手に対して熱意を持って、効果的に語り掛けることができている。⇒1 聞き手を意識せず原稿を読み上げているだけである。

アドミッションポリシー(AP)の例:慶応SFC総合政策学部
総合政策学部は「実践知」を理念とし、「問題発見・解決」に拘る学生を求めます。問題を発見・分析し、解決の処方箋を作り実行するプロセスを主体的に体験し、社会で現実問題の解決に活躍する事を期待します。
従って入学試験の重要な判定基準は、自主的な思考力、発想力、構想力、実行力の有無です。「SFCでこんな事に取り組み学びたい」という問題意識に基づいて、自らの手で未来を拓く力を磨く意欲ある学生を求めます。

~~~ここまで第1部

DP⇒CP⇒APの流れって、高校でも意識してもいいような気がした。
いわゆる「教育目標」って、DPにあたると思うし、
「カリキュラムマネジメント」って言われているのは、CPをベースになっているし、
APも、普通科であればだれでも歓迎なのだろうけど、高校魅力化の観点からは、
そのあたりを明確に、「こういう人に来てほしい」っていうメッセージが必要かなと思う。

あとは、推薦やAOに関わらず、高校でも公営塾でもルーブリック評価みたいな軸を
作っておくことも、自らを確認する上では重要だと思う。

~~~僕の中で切っているだけですが第2部

・大学は「教育研究機関」であり、「研究」の側面を持つ。
・「研究」とは、「まだわかってないことの答えをみつける」こと
⇒講義を受けて知識を得るだけではなく、課題を設定して研究すること「自ら物事をつきつめて明らかにする」ことが求められる
⇒そのために必要な教授や授業、研究会を選び、意見を交換し、アドバイスをもらい、自分の意見を考え続け、まとめていく
・「学生」(≠生徒)とは「自ら物事を突き詰めて明らかにする」自分で学ぶべき課題やテーマを発見・決定、その課題を解決するために自分で動ける人
⇒「学生」として求められるチカラ
基本的な学習能力⇒基礎学力
自ら課題・テーマを発見できる⇒問題発見能力
自ら教授や授業、研究会・ゼミを選ぶ⇒主体性
研究会・ゼミを活性化する力⇒周囲を巻き込む力

推薦・AO入試(総合型選抜)とは
「学生として求められる力」と持つ高校生を多面的観点から選ぶ入学試験。

★大学の裏事情として、大学入試改革が文科省から迫られていることもある。

・大学が見たい高校生のコンピテンシー
⇒大会やコンクールなど、いわゆる「実績」がなくても合格可能
⇒大学は「結果」だけでなく、そこに至るプロセス、プロセスにおけるコンビテンシー(思考特性・行動特性)を見ている。
⇒コンピテンシーとは「思考特性・行動特性」であり、思考と行動、その背後にある価値観や信念を含めて大学側が見たい「人となり」です。

★「個性」とは
「理念・価値観・世界観」⇒「思考」⇒「行動」の集合体

これ、西村モデルの高校生版だなと。


こちらより引用
https://note.com/yuumitakano/n/n767c1516fc65

・なぜ目覚ましい実績・成績があると合格しやすいと言われていたり、出願要件に入っているのか?
実績・成績はあくまで人となりが結果として表出化され出てきたもの。
⇒二次面接者にとって、高校生のわかりやすい人となり:コミュニケーション・ツールになる。

★実績の言語化が必要
・あくまで志望校のアドミッションポリシーに合うかどうかがポイント
・実績があればOKではない
・実績を相手に伝わるように言語化
・活動において実績を出すに至った価値観・思考・行動の言語化が必要。

経験学習サイクル(デイビット・コルブ)
行動(具体的経験)⇒振り返り(自分の経験を言葉でふりかえる)⇒本質の気づき(教訓や持論・自論を引き出す)⇒将来の目標設定(次の経験の際に自分が取る行動の目標を立てる)⇒行動に戻る
★具体から抽象へ。なぜうまくいったか、を再現できる。うまくいかなかったことを再現せず、失敗しない。
「人はおよそ70%を経験から学び、20%は観察学習や他者からのアドバイスによって学び、残りの10%は研修や書籍などから学ぶ。
経験を言語化できる人はパフォーマンスが高くなる傾向がある。

~~~ここまで第2部

今回の研修で、多くの人がヒットしたのは、ここだった。
経験の言語化、ふりかえりの重要性はわかるのだけど、
そもそも高校生が言語化に慣れていない。

藤岡さんは
・言語化するメリットと手法
・言語化できる自信と期待感⇒話したら共感が得られた(うまくいった)みたいな
を高めていく必要を語っていたし、
その前提となるような心理的安全性(安心空間)
をつくっていかないといけないと言った。

多くの高校生は、話すことそのものが不安というか
自分のことを話すのはイタイやつみたいな習慣があるので、
それを打破していかないといけない。

黎明学舎でやっているような、
雑談の時間や、毎日やるお題自己紹介などは
非常に有効なのかもしれない。

「ふりかえり」を反省(特に目標に対する結果の)の場にしないこと
「印象に残ったこと」など、心をまずふりかえること。

~~~ここから第3部メモ(テクニック編)

・プレスタ法
PREP法とSTAR法

PREP法(説明の順番)
1 Point:伝えたい結論・メッセージ
2 Reason:理由・経緯・Pointの詳しい説明
3 Episode:具体的エピソード
4 Point:伝えたい結論・メッセージ

STAR法(言語化の順番)
1 Situation:状況
2 Target&Task:目標・障害・壁・課題
3 Action:解決に向けた意志・行動・姿勢など
4 Result:結果・好転した状況・気づいたこと・得た意見

TAE(Think at the Edge)
https://taetokyo.jimdofree.com/
http://gen.taejapan.org/index.html

志望理由書と7つの観点
1 経緯:過去(高校時代まで)に頑張ったこと、印象に残ったこと、自分に大きい影響を与えた出来事、など
2 気づき・価値観:1を通して、気づいたことや学んだことから得た考え方・大切に思うこと
3 問題意識・テーマ(実現したい野望):2に照らしたとき、問題だと感じること、考えること、このままではいけない、解決したいと思うこと。
4 社会的意義:3の、社会における重要性。それに取り組むべき社会的必然性と、その先にある利益(メリット)
5 解決すべき課題・解決策:3の原因を解決(解消)するためのアイデア、具体的な方法
6 志望大学が最適である理由:5を実現するために、その大学(・学部)に進学したいという根拠。大学の理念・ゼミ・研究内容など。
7 将来の夢・志:その大学での学びをとおして、社会に出て何をしたいか、どのように社会貢献したいか、など。

AO・推薦入試で評価されること⇒総合的な評価が得られれば合格できる。
A 基礎学力
B 人物像(主体性)
C 大学で学ぶときに必要な力(周囲を巻き込む力・リーダーシップ・プレゼン力・コミュニケーション能力など)
D 明確な目的意識(問題発見能力)

AO推薦入試がおすすめな理由
1 一般入試より学力レベルの少し高い大学へ合格できる
2 一般入試(学力)にも相乗効果がある
3 AO入試に挑戦することで就活・社会人など、将来に渡り役に立つスキルが身に付く

~~~ここまで第3部メモ

いや、これって、構造的には大学生の就活とまったく変わらないなあと。
あときっと、中学生が高校を選ぶときにだって、こういう選択プロセスを踏んでいるはずだ。
これを入学志願者を集めるほうの視点で考えることはできるよね。

◎◎な課題を解決したい人にとっては、
ウチの高校のこういう活動、ウチの地域のこういう人、ウチの町のこういう環境は、
とても魅力がありますよ、っていうこと。

それを言語化していくことだ。

「言語化」の課題。
それは高校生ばかりではなく、一生モノの課題。

あとは、全体として思ったことは、
大学に入るのも、企業に入社するのも、
「乗り物に乗る」ようなものだなあと。
もしかすると、ワークショップのような一回性の高い「場」も、
「乗り物に乗る」ようなもの、かもしれませんね。

試験は、乗り物に乗るチケットを手に入れるためのもの。
あるいは、この人たちと一緒に乗ったら楽しいか?成長できるか?
みたいなことを確かめるもの。

そんな感覚で、大学入試にも就職活動にも向かっていけたらいいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:54Comments(0)イベント日記