プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年02月05日

n=1とどこで出会うのか?







岩波書店 ジュニアスタートブックス「知図を描こう」(市川力)の出版記念セミナーに行ってきました。
「ジェネレーター」を読んでからずっとお会いしたかったのです。
市川さんの優しいオーラに包まれてきました。

昨日のセミナーのメモを残しておきます。

~~~
第1部
問題意識から出発するのではなく、「観察」から始めて、問題意識に辿りつく
「興味を感じた」⇒何か自分の中に響くものがあった
アーカイバーとしての知図師

「音楽と生命」(坂本龍一×福岡伸一)
ノイズ⇒シグナル⇒星座
雑を集める⇒知図を描く⇒表現・論文

「雑を集める」には、さまよいあるくこと、心がプルっとしたら撮る
⇒その中でもさらに気になるものをスケッチする
レオナルド・ダヴィンチ:これをやり続けて3万枚

■大学は研究するための場所:自分の星座をどうつくるのか?
まずは目的を持たずに歩くことから。
面白いものが必ずある⇒好奇心図鑑をつくる

それをすればみんながダヴィンチになれる。
⇒好奇心のかけらを図鑑として集める。
⇒ジャンプの土台になる。

遺伝子ではなくミーム(社会的遺伝子)のほう。
「誰かにとってのおっちゃんになりたい」
文化=チャンスがあるっていうこと。
図ばかり見ていないで、地を見ること。

小さいもの、ささやかなものを自然の中から発見することで自分の感性を発見していく
「ピュシスの中のノイズに内部観察者として入る」

ブルースリーの有名なセリフ「Don't think, feel.」の前に、「We need emotional content.」と言っている。
感情にまつわるもの(エモーショナルコンテンツ)が必要なのだと。
だから「心が動いたもの」は全部記録しておく
それをベースに学びを継続していく

そんなエモーショナルコンテンツをいかに見つけるか⇒学びにつながっている。

ジェネレーターの5G (ジェネレーターP129)

遇:出逢い
偶:偶然
隅:一隅を照らす
愚:ひたすらやる
寓:星座になる

いかにエモーショナルコンテンツをfeelできるか?

第2部
個の尊厳:グリーフケアワーク
30年度、死に直面した時にどうするか?
「し」の「し」と「し」
師の死と志:世代から世代へ渡される志というバトン
人生楽ありゃ苦もあるさ年表(30年分)を書く:大人が問われる。
苦が上/楽が下=苦のほうは当たる/楽の方は前倒しで叶う

グリーフケア:記憶のアップデート
教科書がない=体験しないと分からないこと

話すこと、表現することで記憶はアップデートされる
歩くこと:故人の行った場所を追体験する⇒アップデート
巡礼の道:四国八十八か所

「生きる」ことそのものを問う。

第3部
空き家問題=feel度walkを事業化
ベースキャンプツーリズム(machiyado network)
まちづくりの文脈で取り組む=事業になる
学校を変える、つくるとは別のアプローチ⇒空き家をベースキャンプに

通信制高校=地域をフィールドにできる。
「あいだ」に学びの場をつくる

n=1の出会い:高校時代に1人面白い人に出会えるか
どこで出会えるのか?学校のなかではなく、空き地(あわい)
まちそのものがジェネレーター化する⇒間接的に学校が変わっていく。

ゲストハウス:季節ごとの知図を描き、それがストックされていく。
泊まった宿によって、何か発見があり、人生が動いていく、そんなツーリズム。
宿がジェネレーター化していく。
「歴史」の重要性:伝えて、体験・体感していくこと

「学びをつくる」ことができれば、世界は広げていける。
まなび=教育(学校)と捉えると小さくなっちゃう。
市川さんの財産は、様々な大人と子どもに出会えた

文化:言葉でつくられる。
知図を描くから意味が分かる、言葉が豊かになる
~~~

知図を描くこと。
それは「まなび」の方法であり、
「生きる」ことを問うことでもあり、
「まちづくり」の手法でもある。

「まなび」と「あそび」のあいだにあり、
時間軸を超えていくことができるし、
ひとりひとりの個性の表現でもある。

高校生にとっては(もちろん大学生・20代にとっても)、
そのすべてが必要なのだろう。

それは、まなびのエンジンを駆動してくれる
「n=1」との出会いのためだ。

それは人かもしれないし、モノかもしれないし、観光や歴史などのコトかもしれない。ブルースリーの言葉を借りれば、自分自身に固有の「エモーショナルコンテンツ」と出会うことの先にn=1との出会いが待っているのだと思う。

そんな機会を提供するために、僕はいま、舞台づくりをしているのかもしれない。

ツルハシブックスより以前から「機会提供」と言い続けてきた自分の意味がようやく分かった気がする。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)学びイベント日記

2023年11月19日

「見立て」「評価」というコミュニケーション・ツール

マイプロ研修でした。
講師はウィルドアの竹田さん。

マイプロの究極的な目標は、僕としては先日書きましたが、
「世界観」という自転車で漕ぎ出す(23.11.16)
http://hero.niiblo.jp/e493342.html
なのかなあと。

その時に危ういのが「主体性」という言葉です。
参考:「主体性」という監獄(23.11.18)
http://hero.niiblo.jp/e493347.html

学校というフレームで求められる学力をつけてきたのと同じように
探究(マイプロ)というフレームで求められる「主体性」を身につけているのではないか?
果たしてそれは、「自由」な学びなのか?
そんな問いかけ。

リベラルアーツという言葉にあるように、
学びが「自由」への道ならば、その伴走ってどうやるの?
っていう意味で、すごくタイムリーな研修となりました。

~~~以下メモ

みんなの学びの主語を変えること

マイプロの違和感
「プロジェクトはすごく良いけど、よく聞くと先生が生み出したい価値を生み出している」
「高校の3年間でやりきることが求められ、興味がないけどとりあえず行っている」
「学校・地域の資源を使うことは応援されるが、そこからはみ出すことを許されない」

それは関わる大人の持つ「理想」が共有されていないから「いつの間にか」「やり方がわからないから」
改めて、生徒が主語の学びという理想をみんなで共有するとともに、「関わる周囲の人」の在り方やノウハウを言語化し、共有していきたい。

・伴走する目的は、「一人ひとりが自走・自燃し、豊かな自分の人生・社会を創っていけるようになること
・自走できるようになるためには「目的意識」「選択肢」「学びを自ら創る」の3つが鍵となる。
・それらの獲得に伴走する上では、「見立て」と、それに応じた「関わり方の使い分け」が大事

★何を目指して僕たちは伴走・関わるのか。僕たちが理想とする「学び」とはどのようなものか

◆応援したい理想の学びの姿
一人ひとりが自分と社会のwell-beingの実現へとつながる自身に合った/自身の望む学びを自走し続けている状態
1 わたしが主語:自分の興味関心や内発的動機に基づく、学習者自身が主語の目的に向かっている
2 自己決定:自らの意思で選択をしている/学習者自身が主導権を持っている
3 カリキュラムなき行動:与えられた環境だけじゃなく枠を超えた機会や資源を活用している
4 わたしと社会をつなげる学び:わたしと社会の関係性の変化や変化へとつながる学びを獲得し、変化をし続けている

★学びとはどのようなものか
学び観:学びは楽しいもの。「辛く我慢するもの」ではない。特に学習者が主語の学びは、楽しく、人生を豊かにする
こども観:子ども自身に誰もが「学びたいこと」がある。無いから植え付けるのではなく、あるものを引き出せば自然に学びはじめる。
時間軸:今のwell-beingが未来につながる。未来のために今苦しむより、今をいかに楽しむかが大事

理想の学びへの伴走の形=ナビゲート
ポイント:大切なのは「自走・自燃していく」ために今何が壁になっているのか。

プロジェクトが進む/成功する
発表がうまい/うまく伝わる
それが本当に大事?という問いをもって関わるのが大事

★どうすれば「自走」できるのか
タテ:自分の理想が明確⇔不明確
ヨコ:カリキュラム泣き学びアクションの選択肢 複数ある⇔ない/少ない

左下1:理想不明確・選択肢 無
・「何をしたいのか」「何を得たいのか」わからない、言葉にできない。
・やらなくてはいけないこと以外をやっていいという発想がない。
・自分にはできないと思っている

右下2:理想不明確・選択肢 多数
・「(いろいろできるのはわかるけど)やりたいことはない」
・「何かやりたいけど、どれもピンとこない」

左上3:理想明確 選択肢 無
・「〇〇ができるようになりたいのだけど、何をしていいかわからない」
・「〇〇したいけけど、自分にはできない」
・「これをやって意味があるのか不安」

右上4:理想明確 選択肢 多数
・「本当にこれでいいのか不安」
・「やったらいいのはわかるけど勇気がでない、踏み出せない」

全体上5:
・「やってみたけど、次に何を考えたらいいかわからない」
・経験から得たことを言語化したり、次に行うべきことのヒントとなるような変化を一人で自覚するのが難しい

⇒「人との関わり」なくして、いきなり自走はできるようにならない
これらの「壁」を共に解決する「補助輪」となる伴走者に必要なのが「ナビゲート」

ナビゲートにおける関わり方
1 エンパワメント系:個人の自己決定することを強化し、自己効力感を高めることを目指す行動
「面白がり」「意見交換」「同意・承認」「意義付け」
2 リフレクション・試行整理系:これまでのっ経験や思考を共に整理し、次の行動の発見や納得感を高めることを目指す行動。
「理想の言語化」「思考の可視化・言語化」「気づきを生む問いかけ」
3 情報・選択肢提供系:相手が理想に向かって歩む上でより良い「選択肢」となりうる情報を提供することを目指す行動。
「イベント・プログラム・協力者等機会の紹介」「行動手段・やり方の紹介」「視野を広げる話

1 「マイプロでやること、何も思いつかなくて・・・」「みんなすごいことやってるけど、ああいうのはちょっと自分には無理かなって」
(エンパワメント系)
⇒「(相手の興味とかこだわり聞いて)それ面白いよね!俺も好き!特に〇〇好きで。わかってるねえ」(面白がり)
⇒「(興味のあること聞いてみて、)それ、すごい大切な視点だね。俺は〇〇と思うけど、どう思う?(意見交換・同意承認)
(リフレクション・思考整理系)
⇒「〇〇さんは、なにか将来こうなりたいとか?逆にこうはなりたくないってイメージある?」(理想の言語化)
⇒「何が自分には難しいと思った?それはなぜ?」(思考の可視化・言語化)
(情報・選択肢提供系)
⇒「〇〇、△△、✕✕、この3つだったら強いて言えばどれが面白そう?」(イベント・プログラム・協力者等機会の紹介)
⇒「別にすごいことじゃなくても、例えばまずはボランティアするとか、動画を色々見てみるのもありだよ。」(行動手段・やり方の紹介)

2 「マイプロでやること、ピンとくるものがなくて・・・」「色々面白そうと思うことやものはあるけど、踏み出せない」
(エンパワメント系)
⇒「(相手の興味とかこだわり聞いて)それ面白いよね!俺も好き!特に〇〇好きで。わかってるねえ」(面白がり)
⇒「(気になる選択肢を聞いて)合宿良いよね。楽しいし、知らない人と話すと世界広がりそうだし」(同意承認、意義付け)
(リフレクション・思考整理系)
⇒「例えば最近、なんでこうなんだろって思ったことなにか無い?」(理想の可視化)
⇒「面白いと思ったものってどんなもの?なにか共通点ある?」(思考の可視化・言語化)
(情報・選択肢提供系)
⇒「(色々話を引き出した上で)少しでも現場を見たいって気持ちがあるなら、まずは〇〇ってイベントおススメだよ。」(イベント・プログラム・協力者等機会の紹介)
⇒「(踏み出せない理由を聞いた上で)だったら、〇〇さんに話聞いてみるところから始めて見ると良いかも。」(イベント・プログラム・協力者等機会の紹介)

3 「街をもっと元気にしたいんだけど、何から始めていいかわからなくて。」「地域のボランティアとかもしたいけど不安だし何かそれで生まれるのかわからない」
(エンパワメント系)
⇒「その視点なかったなあー、たしかに!まち元気になったら良いよね。」(面白がり)
⇒「良いアクションイメージだね。俺もボランティアしたことあるけど、その場に行かないとわからないことが多いってことがすごくわかったことあるよ。」(同意承認 意義付け)
(リフレクション・思考整理系)
⇒「街を元気にするアクションを通じて、自分はどうなりたいとかってある?」(気づきを生む問いかけ)
⇒「そもそもななんで街は元気じゃないんだろう}「そもそもなぜそれをしたいって思ったの?」(思考の可視化・言語化)
(情報・選択肢提供系)
⇒「街をもっと元気にする上では、〇〇って検索してみるといいかも」(行動手段・やり方の紹介)
⇒「(目的を聞いた上で)自分だったら〇〇とかやるかも。もしくは✕✕とか。こんな事例もあるし。こういうのも楽しいかもね」(視野を広げる話)

4 「自分のプロジェクトのフィードバックのために教授にメールしてみようと思ったのだけど勇気が出ない」「農家を救うためのイベントアイデアは考えたし、色々な人から評価もらったけど、これでいいのかな。」
(エンパワメント系)
⇒「なかなか怖いよね。でも僕が〇〇でもそれはやろうって思うかも。有識者に聞くのが一番だよ」(同意承認 意義づけ)
⇒すごいオモシロイと思ったよ。特に〇〇が。なんで〇〇にしたの?△△という手もありそうだけど。」(面白がり 意見交換)
(リフレクション・思考整理系)
⇒「何が怖いの?何を恐れているんだろうね・・・(言葉にして見せて)意外に怖いことないんじゃない?」(思考の可視化・言語化)
⇒「何に納得してないと思う?何があるとスッキリしそうかな?」「アイデアを考える中で自分の中のモチベーションとか関心に変化したことってある?」(気づきを生む問いかけ)
(情報・選択肢提供系)
⇒「メールもいいし、手紙書いてみるとかも良いかもよ」(行動手段・やり方の紹介)
⇒「〇〇という助成金とかも使えるかもよ。高校生でも使ってる事例あるよ(視野を広げる話)
⇒「〇〇さんに話聞いてみたら?」(イベント・プログラム・協力者等機会の紹介)

★ナビゲートは一人で行うものではなく、様々な人が連携し合って行うのが望ましい。
★高校生のコンフォートゾーン(安心安全な場所)と外部をつないだり、紹介する存在

「きっかけとなる存在(機会・人・情報)」と「一緒に学ぶ仲間」:自分の興味関心をより深め、行動するための資源や機会をくれる存在。
情報提供ナビゲート:自分の出来ること、挑戦できることを共に見つけてくれる繋いでくれる
リフレクション型ナビゲート:何に興味があるのか、何をしたいのかを言語化してくれる存在
マッチング型ナビゲート:外部ナビゲーターとつなぐ・紹介してくれる存在
専門家ナビゲート:より専門的な領域で自身の問いや進む方を共に考える存在

★ナビゲートの極意は「見立て(自分/相手)」「関わり方の使い分け」にある
ナビゲート:一人ひとりが自分と社会のwell-beingへと近づく学習者主体の学びの【自走】を支える伴走の形
・信頼できる/相談したくなる関係性の構築へつながる振る舞い
・自走に向けた成長プロセスへの理解とその手段・選択肢に関する理解
・相手の状態の見立てとそれに応じた関わり方・バランスの調整

★「見立て」における観点
【観点⇒目指す状態】
・主語が「あの人=先生・教育者」か「わたし=学習者」か
⇒学習者が自身の内発的動機・興味関心にもとづく意思決定をしている。
・目的が「プロジェクト」か「人生」か
⇒わたしと社会の関係性の進化・深化につながる学びを獲得し、次の行動を検討している
・時間軸が「高校生活/総探等の範囲内での行動」か「高校卒業以降、より長期間での行動」か
⇒高校時代に閉じず、自らの時間軸/ペースでやりたいこと・目指したいことを語っている。
・アクションが「カリキュラム・授業の内側/設定した地域やテーマ」か「カリキュラム・授業の外側/制限のないもの」か
⇒与えられた環境だけでなく、枠を超えた機会や資源の選択肢を認識し、活用している

★「見立て」の要素
相手の状況:
「何につまずいている/何が壁となっているのだろうか?」
「何を必要としている/何があれば前に進めるのだろうか?」
自分の状況:
「どんな関わり方が得意なのだろうか?」
「何を渡すことができるのだろうか?」

★まとめ
プロジェクトの伴走ではなく人生の伴走
・伴走する目的は、「一人ひとりが自走・自燃し、豊かな自分の人生・社会を創っていけるようになること
・自走できるようになるためには「目的意識」「選択肢」「学びを自ら創る」の3つが鍵となる。
・それらの獲得に伴走する上では、「見立て」と、それに応じた「関わり方の使い分け」が大事
~~~

こういうの地域の人たちとやっていきたいなと。生徒と地域の大人との関係で言えば、大人自身もプレイヤーであるってこと。ナビゲートを経て、ジェネレートする、されるみたいな関係へと育っていければいい。

教育的文脈だけではなく、まちづくり的文脈で、関わり続ける大人としての関わりは考えたいなと

その時に、「見立て」や「評価(たとえばルーブリック評価)」はどんな意味になるのか?と考えると、「コミュニケーション・ツール」として役立てることかなあと思った。

評価される、もっと端的に言えば、ルーブリック評価の2を3に、4に、5にするために行動するのではなく、「評価」を通じて、自分自身の自転車を見つけ、漕ぎ出していくこと。

つまり「評価」を手段にすること。そしてそれは、生徒と地域の大人とのコミュニケーションだけじゃなく、大人同士のコミュニケーション機会を生んでいく。それは町の大人の価値観や方向性のチューニングにもつながり、新しい価値を生み出す行動に変わるのかもしれない。

ひたすらに「機会」から学ぶ。やったことを振り返り、疑問や次のステップを見つけ、次のステージへと行く。その機会のひとつとして「評価」があるのだと思う。

そんなコミュニケーション・デザインをつくり上げたいなと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:47Comments(0)学びイベント日記

2023年11月15日

生徒に「学び」を委ねているか


「新潟の未来をSaGaSuプロジェクト」最終事業報告会でした。

午前中の基調講演は、「堀川高校の奇跡」の荒瀬克己先生でした。
いやあ、こんなアツい方が上にいるなんて、日本の教育も悪くないんじゃないかって思える講演でした。ありがとうございました。
文字だけのパワーポイントの行間から伝わる熱意に、心震えました。

まずは、2023年8月31日の「高等学校教育の在り方ワーキンググループの中間まとめ」より
~~~
「『令和の日本型教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」(令和3年1月中教審答申)においては、これからの高等学校教育の目指すべき姿として、社会の形成に主体的に参画するために必要な資質・能力を身に付けられるよう、初等中等教育段階最後の教育機関として
・高等教育機関や実社会との接続機能を果たしていること
・生徒が自立した学習者として自己の将来のイメージを持ち、高い学習意欲を持って学びに向かっていること
・多様な生徒一人一人に応じた探究的な学びが実現されるとともに、STEAM教育などの実社会での課題解決に生かしていくための教科等横断的な学びが提供されていること
などが掲げられ、スクールミッションの再定義やスクールポリシーの策定等が提言された。

・産業構造や社会システムの「非連続的」とも言えるほどの急激な変化

・高等学校教育の在り方を「多様性」と「共通性」の観点から検討
・少子化が加速する地域における高等学校教育の在り方
・社会に開かれた教育課程の実現、探究・文理横断・実践的な学びの推進
~~~

このうちの「多様性」と「共通性」の順番について、荒瀬さんが言及していたのは、これまでは「共通性」と「多様性」の順序で書かれていたのだけど、それが「多様性」⇒「共通性」という順番に変わった。

さらに、締めくくられる言葉がアツい。

~~~
すべての生徒について、その可能性を引き出し、生徒の高等学校生活の満足度と充実度の向上、卒業後の豊かな人生や、生徒個人と社会全体の幸福度の高い状態(well-being)を実現していくべきである。

全ての関係者が連携・協働しながら「生徒を主語にした」高等学校教育の真の実現に向けた取組が進められていくことが期待される。
~~~

「生徒を主語にした」ってホントにその通りだと思うのだけど、「探究」以前のデザインっていうのが大切だと思うんですよね。昨日のパネルディスカッションでうまく答えられなかったのだけど、このあとに出てくる「自立した学習者」っていうのともリンクしてくる。

地域との連携・協働の意味はそこにあるのかもしれない。

学校側にとっての意味:「生徒を主語にした」高等学校教育の実現のためのひとりひとりに最適化された学び
地域側にとっての意味:「生徒を主語にした」高等学校教育のための、探究以前の「場」づくりのプロセスによって地域自身が育つ

学校にとって「地域」は「生徒を主語にした」学びのパートナーであり、地域にとって「学校」は住民主体の参加・参画型まちづくりのパートナーではないか。

だからこそ。
荒瀬先生も言っていた「探究=地域のこと」を学ぶのではないこと。
「市役所にいって、各課に町の課題について聞いてこい」とか
「商店街にいって、各商店に、何か商品開発しませんか?」とか
そういう話ではなくて、生徒自らがその問いを発しているかどうか?
課題意識を持つような状況をつくれるか?というのがポイントなのだと。
探究=世界の広さと深さと遠さを知っていくプロセスなのだと。

次に、どんな学び手に?のところから。
キーワードは「自立した学習者」
~~~
・多様な子供一人一人が自立した学習者として学び続けていけるようになっているか
・多様な機関と連携・協働することによって地域・社会の抱える課題の解決に向けた学びが学校内外で行われ、生徒が自立した学習者として自己の将来イメージを持ち、高い学習意欲を持って学びに向かっている。

「自立した学習者」
・自分で考えて、判断して、行動できる、しようとする能力・意思を持つ
・・・自己決定ができる
・・・他者と協働できる

・「個別最適な学び」と「協働的な学び」とを一体的に充実する
・「指導の個別化」と「学習の個性化」の両方が必要

★学習の個性化
基礎的・基本的な知識・技能等や、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力等を土台として、幼児期からの様々な場を通じての体験活動から得た子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、探究において課題の設定、情報の収集、整理分析、まとめ・表現を行う等、教師が子供ひとりひとりに応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が学習が最適となるよう調整する「学習の個性化」も必要である。

「主体的・対話的で深い学び」:アクティブラーニング
1 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って、次につなげる「主体的な学び」が実現できているかという視点
2 子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているかという視点
3 習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して、考えを形成したり、問題を見出して解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているかという視点

「主体的・対話的で深い学び」
学び方を身に付け、自ら学び続けることのできる人に。
自ら考え、判断して、行動できる人に。
「自立した学習者」に。
~~~

この冒頭の「学ぶことに興味や関心を持ち」っていうところが一番むずかしいし、そこにアプローチしたいなと思うのです。そのためには「まなぶこと」そのもののアンラーニングと新しいOSの再インストールが必要になると思います。まなびの再定義ですね。

キーワードは「遊び」ではないかと僕は思っています。
「探究的な学び」を遊びから始めていくこと。
そしてその主語を「場」にしていくことなのかな、と。

「個別最適化」の説明としての「学習の個性化」というキーワードも大きいな、と。

荒瀬先生が言っていた
1人1人がどのような学びをつくっていくのか?
⇒自分の学びをどのように構築しているのか?
⇒これからどう生きていくのか?と同義だと。

「学ぶ」=「学校に行く」ではない時代・社会において、1人1人に応じた探究的な学びが必要で、1人1人は「自立した学習者」として学びの場に立っていること。それが「多様性」なのだと。

ではその時に、「学校」は、「(一斉)授業」は、どんな意味があるのだろう?と思った。
特に上に出てくる主体的な学び、において。

そんな時にヒントとなったのは荒瀬先生が紹介した
愛知県春日井市立高森台中学校の例
参考:https://www.mext.go.jp/studxstyle/special/46.html
参考:http://swa.kasugai.ed.jp/weblog/index.php?id=kasugai10&type=2&date=20191209&category_id=298&no=3

「真似していい。」これも衝撃的だった。
主体的とは、関係性によって育まれるのではないか、と。

そういう意味では、学校と地域というのは、関係性の広がりをもたらす。
自分と他者、自分と地域。
地域や地域の大人に出会ったときのフィードバック。
そのひとつひとつの「機会」に、学びの意欲は眠っていると思った。

昨日書いた「能力は場に宿る」
参考:http://hero.niiblo.jp/e493332.html
のようなことが起こっていくのではないか。

そのあとに振り返ること。「場」と「個」を往還すること。
僕は心を揺さぶる感情は、「レスポンシビリティ」だと思う。
社会に貢献する第1歩として反応があり、反応する能力=責任が芽生える。

地域・社会における実践で具体的に何を感じたか?
そこから存在が立ち上がってくるのだと思った。

シンポジウム午後の部の遠隔事業の書道の小川先生の実践に、胸が熱くなった。
ひとりひとりの文字から見える個性を、ひとつひとつていねいに指摘していく。
ササっと書いて文字がかすれている生徒も、慎重に慎重に一筆ずつ書いた生徒にも
その芸術的な意味を指摘していく。

ああ、芸術の授業は、遠隔事業でも可能なのか、と思った。芸術には正解がないから、むしろいいのかもしれない。
むしろ、遠隔事業だからこそ、みんなが聞いている中で自分の書をほめられる。なんだか、照れくさい。
でも、対面授業だったら、もっと恥ずかしくて、教室から出ていってしまいたくなる。
素直に聞けない。これまでに何かをほめられたことなんてほとんどないから。

そんな風にお互いに「反応」し、それを表現することから「存在」の承認は始まっていくのだと思うし、それは「学びの意欲」の前提にあるものだろうと思う。

荒瀬先生のラスト「おわりに」はさらに熱くなった。

~~~
高等学校学習指導要領の前文では、これからの学校について「一人一人の生徒が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることができるようにすることが求められる。」とある。

各高等学校が、教育活動を通じてこの理念を体現していくことができるよう、今後どのような取り組みを進めていくべきか、引きつづき議論を進めていくことが必要である。

・生徒の多様な学習ニーズに応えるための遠隔授業配信センターの体制等の在り方について
・いずれの高等学校においても、全ての生徒の可能性を引き出し、生徒が、社会の一員となるための多様な資質・能力を身に付けた上で次のステップに移行することが可能となる教育システムを一層構築するために、必要な取組とその支援の在り方について
・「総合的な探究の時間」を教育課程の基軸に据えながら各教科等における学びを充実させるとともに、文理横断的な学びや実践的な学びを一層進める上で必要な体制・環境について
・次期高等学校学習指導要領に関して、内容をおおむね堅持しながら学校現場への浸透に時間をかけていくべきとの意見や、「総合的な探究の時間」を教育課程の基軸に据えながら、各教科・科目等の相互の関連を図る中で、高等学校生活全体での学びの充実を図ることを徹底していくべきとの意見、一人一人の「よさを徹底して伸ばす」在り方としていくべきとの意見、全ての通信制の高等学校において人間関係を構築しながら、自分のよさや可能性を認識し、多様な人々と協働する上で望ましい在り方としていくべきとの意見等も踏まえた、今後の望ましい在り方について
・高等学校がやるべきことの整理・明確化、学校における働き方改革の推進や、教職員の配置を含む高等学校の指導体制の充実のための方策について

その際、国、高等学校、教育委員会・学校法人等の高等学校の設置者、家庭、地元自治体、産業界、生徒への各種支援機関など、それぞれの関係機関が実施すべきことを明確化するとともに必要となるリソースの確保を含め、施策の実現に向けた見通しを立てることに留意しながら、検討を進めるべきである、

また、一つの学校の中だけで教育活動や期待される機能、役割のすべてを果たそうとする閉ざされた考え方からの脱却を図るととともに、各高等学校において展開可能な教育活動には、学校長の判断の下に多くの可能性があるとの認識を持ち、今後、高等学校教育を真に社会に開かれたものにしていくことが期待される。
~~~

さて。めっちゃ写経。笑
なんか素晴らしいですね。理念は。
これをどのように実装・実践していくかっていうこと。

パネルディスカッションでもありましたけど、どのように「学び」を委ねていくかっていうのがキーポイントのような気がします。

必要なのは、僕は「場」の力だと思っていて、生徒に「学び」を委ねるのではなく、生徒も地域も含む「場に学びを委ねる」ということが大切なのではないか。その場(環境)づくりにこそ、学校と地域が連携・協働する意味があるのではないか、と。

学びの意欲は、他者や地域、社会との関係性の中に生まれてくる。
だからまずはその関係性をつくる機会を提供する。
あるいはジェネレーター的な地域の大人が巻き込んでいくこと。
「場」を主語にして、いろいろとやってみること。

そこで「ふりかえる」こと
「個」として感じたことを言語化すること。
まわりの生徒や地域の大人からフィードバックをもらうこと。

「発見」すること。
「発見」を「問い」へと変換すること。

「プロジェクト」をつくること。
「役」を演じること

変わっていく周り(環境)を体感すること。
景色が変わること。

その繰り返しで、切実な「問い」に出会うこと。
これを解かなければ生きられないという問いに出会うこと。

そこから、ようやく「探究」は始まっていくのかもしれません。

探究の入り口に立つこと。
僕自身はそこに立っているのだろうか、と問われたシンポジウムとなりました。
関係者の皆様、素敵な機会をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 16:43Comments(0)学びイベント日記

2022年06月19日

風景画を描くインタビュー



梅田蔦屋書店のイベントで西村さん×三砂さんの話を聞いて非常にエキサイティングだったのでメモを残しておきます。

【冒頭=本の紹介】
「自分の仕事をつくる」:人との対話による思考のプロセス

「本屋という仕事」
リスペクトする人から教わる⇒広場みたいな1冊
この人のこの本棚:自分なりの学校をつくる
本屋とは?について語り合う広場

広場としての本屋をつくる
⇒下北沢イベント⇒気になる本を選んで、なぜその本なのか?を語るトークイベント⇒お客さんも選んで、隣の人とシェアする。

【本屋で売れる本とネットで売れる本】
マーケットイン:ビジネス書的な作り方
プロダクトアウト:かける人は少ない

ネットで売れる本⇒検索可能である⇒目的が明確、価値が定まっている人、著名な人
本屋で売れる本⇒検索しない単語のタイトル=問い、わからなさ⇒聞いてみたい
見て伝わる本。「これは水です」⇒何の本かわからない⇒本屋向き

【ジャンルとは?】
江戸時代に本が増えすぎた
1 本屋:商品としての本:「自分で探せる」「入れ替わる(循環する)」
2 図書館:アーカイブとしての本:ひたすら足し算

ジャンルには正解がなく、探しやすいかどうか?
文庫、新書、雑誌⇒形による分類
ビジネス書・児童書⇒読者層による分類
本棚⇒まちの風景 お客さんが棚を決めていく
マーケットインとプロダクトアウトの組み合わせ

【生きてる棚】
ブックディレクターの棚:ディスプレイであり生きてない
磯場みたいな本屋⇒生き物がいる感じ
書店の本棚のいいところ⇒循環している⇒生きている
「これからの本屋」⇒夜明け この本でなければならない理由=切実さがある
この著者によって書かれなければならなかった本=必然性

【西村さんのインタビュー】
・自分自身の働きにくさ=切実さから出発している
・インタビューという場に運ばれていく感覚
・「けどね」の先にその人の最前線(いま)=見え始めている景色、ベクトルがある
・言葉にならない語を拾う。「なんていうかな」「なんだろうな」⇒感じているけど言葉になっていないものを聞いていく

「自分の仕事をつくる」は半分が余白で出したかった
⇒半分を読者に渡したかった。共演者としての読書、一緒につくっていく余白
⇒電子書籍化しにくい=プロダクト(立体物)としての本
一緒に歩いていく感じ。

インタビューの変遷
1 仮説検証時代 自分の書きたいこと以外は切り落としていく不誠実さ
         ⇒自分の書きたいことをしゃべってもらっている
2 肖像画時代  相手を観察し、どう見えたかを書いて渡す
3 風景画時代  インタビュー相手が背を向けて歩き始める⇒ついていく

取材とインタビューの違い
取材:材料を取りに行く インタビュー:一緒に旅に出る
~~~

「インタビューとは?」みたいなものが立体的に浮かび上がる時間。
行ってよかった。  

Posted by ニシダタクジ at 04:14Comments(0)学びイベント日記

2022年01月30日

どうやったら「創造」できるのか

昨日はオンライン劇場ツルハシブックスでした。
毎回毎回シビれる時間をありがとうございます。

第1部は違和感から本棚をつくるプロジェクト第0回



「違和感」⇒「問い」⇒「対話」⇒「本棚」⇒「社会(実践)」⇒「違和感」のループ。スパイラルにループする本棚。
個人としては「機会」⇒「発見」⇒「変容」⇒「機会」のループかな。

今回のテーマはアイデンティティ。
・「個人」を求められすぎている。
・おでん理論。(個別性と全体性は一体)
・「自分は役に立てるのか?」問題。

などなどキーワードがありましたけども。「個人」として「役に立つ」ように頑張って就職するというのは交換可能になるのと同義なので、それは大変だろうなと。やっぱり一社で自分のアイデンティティを表現するのって無理があるよなあと。

第2部はキムラユキさん。
「異文化理解」の意味について、話を聞いた。

~~~メモ
英語を学ぶ本当の意味は、語学を身につけることではなくて、異文化を理解すること。「隣の人は私とは違っていて、かつ同じ人間なんだ。」ということを体感すること。それはきっと小学生のうちにやったほうがいいだろうな。「感じる」という窓が閉じないうちに。

人間の本質はカタチじゃなくてベクトルである。っていうところにフォーカスした人物紹介。

ムラ社会化した学校空間での「共感」の強制で感性を発動しなくなることをどうやったら止められるか。ここに、アイデンティティ問題の根っこもあるような。

いろんな越境を繰り返すこと。境界を溶かすことを経験すること。その方法論一つがブレストだし、KJ法なのだろうな。

「ひとりひとりは違っている」という前提でコミュニケーションをスタートさせること。「違っていて、かつ同じなんだ」と思えること。それを頭だけでなく、体感すること。

国を越境すると、時代を越境したような感覚になる。

「評価」がゴールになるような「評価」は廃止すべきだと思う。「評価」が「機会」となるような「評価⇒フィードバック」をしていくこと。向き合うのではなく、横に並びながら。

アイデンティティとか個性とかは価値観そのもの。「何を価値だと感じるか?」という問いから生まれてくる。何を価値だと感じ、どうありたくて、どこへ向かっているのか?そんな、たくさんの人の価値観を感じることを出発点にしたい。
~~~

そして、ラストの振り返りの時間はキムラさんが参加した
渋谷QWSのQWSチャレンジの話。
https://shibuya-qws.com/challenge

「自発性」「可能性」「具体性」の3つの観点。「課題解決」「SDGs」「マネタイズ」とかではなく、ただ「問いを磨く」にフォーカスすること。

~~~
「価値は何か?」から「問いは何か?」と問いをシフトした。それが「創造」の方法だと、きっとQWSの人たちは思ったんだろうな。

「どうやったら創造できるのか?」という問い。QWSの方法論は「問いを磨く」こと。

僕も同じような問いの中にある。
どうやったら「創造」できるのか?

「まなぶ」から「つくる」へ。
「学習」から「創造」へ。
「達成と成長」モデルから「発見と変容」モデルへ。
それが探究的学びの設計のテーマでもある。

そのベースにあるのは、「アイデンティティ危機」問題である。アイデンティティは「誰か(あるいは企業)の役に立つ」ことで確立されるわけではない。「他者からの評価」によって見出されるわけでもない。

「役に立つ」「他者からの評価」の軸は確かに必要だろう。ビジネスとは、社会に生きるとは、価値を提供し、対価をもらうこと、だから。

しかし、それだけでは、アイデンティティは形成されない。そして、「価値」を生み出し続けることも難しい。

渋谷QWSは、どうやったら「創造」できるのか?という問いに対して、「問いを磨くこと」だという仮説を立て、実験・実践している。
「価値は何か?」から「問いは何か?」へのシフト。それこそが「創造」を生むのだと。

そのトガった感じを10分の1くらいに薄めたものと、温泉とか自然とかでの「身体性の解放」を組み合わせた「場」を、ゆるく作っていけないか。

その先に、おでんのように、ひとりひとりのアイデンティティを活かしながら、全体としてはひとつの料理になっているような、そんな「場」を作れたらいいなと思っている。

そんな「場」と「自分」との相互作用の中に、「アイデンティティ」は育まれていく。

っていう仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:02Comments(0)学びイベント日記

2021年11月29日

「季節感」で越境すること、「安心して孤独」の場を持つこと

昨日は、オンラインツルハシでした。
ゲストは小川愛媛さんと坂口麻衣子さん。
録画してなくてすみません。

以下メモ
~~~
第1部
・自分自身が中学生の時に実感した社会教育の必要性
・大学での「生涯学習」を専攻⇒教育・学びとは?
・カタリバ等での高校生との直接的すぎる関わり⇒高校生たちにとって本当に価値なのか?
・求められているものを差し出す、優等生過ぎる自分への違和感
・就職(営業職)という越境、違う世界で生きてきた人たちに出会う、感じ方が違いすぎる;「自分」を知る2年間
・他者を演じ切る、ことはできない:「演劇」でもなりきれなかった。
・「近所のお姉さん」的なかかわり
~~~

なんというか。「教育観」というか「まなび観」というか、そういうのが問われる時間となった。
教育者と呼ばれる人たちは「あなたのおかげで」と言われることは喜ばしいことなのだろうか。
あなたを変えたのは、先生でも、教育でもなく、周りの「環境」でありあなた自身なんだと。
もっと言えば、人は20分ごとに(細胞が)生まれ変わっているんだ。

あとは、阿賀町でそれをやることの意味を。

「季節感」は、身体性(身体感覚)を呼び起こす。
そしてそれは「一回性」が高い。
それこそが「行動の理由」なのかもしれない。

そういえば、今年初めて、僕は梅酒、梅ジュースを仕込んだ。
それは、温泉や公営塾スタッフが「梅酒つけた?」みたいな会話をしていたからだ。
梅の時期には、限りがある。
すると、うっかりと行動してしまうのだ。

この場所でつくりたい「リアルメディア」。
その「リアル」には、季節感のリアルが入っているのだろう。

そんなリアルが感じられる「場」をつくっていくんだな、と。
さて、雪が積もる前に何をしようか。

~~~
第2部
・会う人によって私の見え方(肩書き)は違う。
・まちづくりの人、カフェの店主、こども芸術教室の先生、本屋さん
・「空間」と「時間」を設計している:その人がその場所で過ごせること
・「時間軸」:それぞれの人の中に「時間」は流れている
・自分に流れる時間と相手に流れる時間は違う:相手への尊重
・スタッフには「しないでほしいこと」は言うけど、「してほしいこと」は言わない:劣化コピーは20%ずつ減っていく
・カフェのメニュー:毎日見ても大丈夫なもの、ロスが少ないものにする。あとは来る人に合わせて変えていく
・カフェ:ひたすら「実験」「コミュニケーション」の場
・変化に対する受容・適応:変化することに対して責任をもつ
・カフェという「空間(場)」と個々に流れるそれぞれの「時間」
・「安心して孤独」というキーワード:空間:共にいる、時間:個別に流れている
・「屋根のある場所」の共有
・カフェ店主:「誰かの時間」と「誰かの時間」を接続する:接続した後、委ねている
・「名前」⇒「職業」⇒「連絡先」を聞くタイミング
・相手を喜ばせるためだけの接客はしない⇒合わせすぎない
~~~

それって「存在」を確かめるってことなのかもしれない、と。
麻衣子さんが言うには、
他者の中にしか自分は存在しないし、存在を決めるのは他者なんだと
その感覚ってすごく自由だなあと。アイデンティティは他者を見て自分を確かめるのだと。
他者の中にいる自分が社会的にタグ付けされた自分だと

なぜなら細胞は20分ごとに入れ替わっているから(by福岡伸一)
その不確か性、というか連続していく変化とか。
そういう「固定しない」っていうのが大事だ。

「誰かのつけたラベル」に合わせて生きるのではなく、
ハッシュタグをたくさん振っていけばいい。
会うたびに違う人を演じること(実際は自分が演じているのではなく、相手がそうラベルを振っている)

「自由」だなって思った。
「存在」を定義すること。
あとは「空間」と「時間」の感覚。

カフェという「空間(場)」は、
誰かの時間と誰かの時間が交差する、かもしれないということ。
同時に、「安心して孤独」でいられる場所だということ。

第1部と第2部がつながってくる。

「季節感」で行動・越境でできること
「誰かの時間」と「誰かの時間」を合わせること。
そして同時に「安心して孤独」を感じられる場所。

そんな空間(場)をつくっていくこと。
それが2022年の宿題です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:27Comments(0)イベント日記

2021年08月01日

はじめに「越境」ありき



オンライン劇場ツルハシブックス
昨年5月から毎月1回開催。
なんだろうな。
気軽な哲学対話な時間って感じですかね。

なんとなくやっているのは僕の「問い」仲間をゲストに呼んでのトークセッション
※来月の8月28日はついに細井岳さん登場です!

今回は、デンマーク・フォルケホイスコーレに留学中の大城美空さんとの時差7時間トーク。
あっという間に時間が過ぎて30分も延長しちゃいました。

まずは僕のふりかえりメモから

~~~
はじめに意志ありきではなく、はじめに越境ありき。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」ではなくて、「直感で動け、そうすれば失敗しかないのだから。」

直感と好奇心で始めるから面白い。
目的や目標から始めると面白くない。
「予測不可能性」こそがエンターテイメントだから。

相手の分かる言葉で話しているか?

「自由の相互承認」は、言葉で言うのは簡単だけど、実際はすごくスッキリしないあいまいなもので、立場や意見の違いをかみしめてその場の納得解(妥協点)を探っていくことの繰り返しで、「決めたから守る」というのものではなく、永遠にその問いが繰り返される。

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのではないか。

ひとりひとり「個」のために福祉がある。しかし(この国における)福祉は制度であり、制度とはルールを決めることだ。ルールを決めなくては判断ができない。しかし、そのルールによって人は区分けされ匿名化する。

肉体的背景、精神的背景、社会的背景、文化的背景、すべてがその人を構成している。

「哲学」も「承認」も他者から教えられたり与えられたりするものではなく、思考と実践(試行)のあいだを往復することによって徐々に自分の中に形成されていくものだ。

「人材育成」は効率化できるのかもしれないが「人を育てる」とか「人が育つ場をつくる」っていうのはとてつもなく非効率な営みなのだなあ。

ルールや立場を固定すると「安定」が得られる。
しかし、そこでは1回1回の真剣勝負が失われる。
ルールや立場(肩書き)は人を匿名化し交換可能にする。

「属人的である」ということは、いまこの瞬間の関係性が大切にされ再現可能性が低い。
「誰でもできる」ことは、継続的であり再現可能性が高い。
ルールやマニュアルはなんのためにあるのか?

ルールがないということは自由であるということではなく、思考し続けないといけないということ。
どのくらいのスパンの時間軸で「効率性」「成長」を目指し、測るのか?

「立場」を演じているうちに「自分」を失っていっていないか。

ルールを作っていく、ということはふりかえりが必須である、ということ。
「迷いがある」「悩みがある」ことを肯定する。
ふりかえり⇔反省、愚痴
プロであること:「迷わないこと」ではなく「考え続けること」
~~~

僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまったのではないか。
デンマークのエピソードを聞いて、そんな風に感じた。

決められたルールを守ること。
それを当たり前だと思っていた。

今回、大城さんは新型コロナウイルス危機の最中にデンマークで暮らし、共同生活の中で、外出をどう制限すべきか、について、話し合ったという。毎日酒を飲むようなお酒好きな人たちは、酒を買い出しに行きたいといい、そんなにお酒を飲まない人たちは、リスクが高いからやめたほうがいいと主張する。

自分も意見を言いながら、相手の顔を見ると、「うわ、面倒なことを言って・・・」というような顔をしている。なんらかの結論が出るのだが、なんだかスッキリしない。もやもやしていると、「こういう話がすっきり終わるはずないよね~」と当たり前のように言われる。そしてルールについて守らないヤツがいたりするので、以降も何度も話し合われ、ルールが微妙に変更されたりする。「みんなでルールを決めて、それを守ること」が当たり前だと思っていた自分に気がつく。

苫野一徳さんによれば、公教育の目的は「自由の相互承認」に在るという。
参考:価値観の多様化とは、明確な価値が失われたのと同義語である(15.6.26)
http://hero.niiblo.jp/e469959.html
参考2:「共同探究者」になるということ
http://hero.niiblo.jp/e489119.html

「自由の相互承認」と、言葉で書けば7文字でしかないのだけど、
それはとてつもない「非効率」な営みによって実現されるんだということ。

もうひとつ。フォルケには「先生」と敬称付きで呼ばれる人はいない。校長でさえファーストネームで呼ばれることもある。

そもそもルールとか立場(肩書き、役割)ってなんのためにあるんだろう?って。

ルールや立場を固定化すると、「安定」を得られる。しかし、その「安定」は同時に1回1回の真剣勝負の場を失うことと同義だ。ひとりの生身の人間として一期一会の場に臨んでいるんだという自覚を失う。

「ルールを決めて守ること」
「立場(肩書き、役割)を決めてその責任を果たすこと」
が当たり前だと思っている私たちは、「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのかもしれない。

VUCAの時代、予測不可能な時代だと言われる。
答えのない時代だ、とも言われる。
社会が大きく変化するときだ、とも言われる。

社会が大きく変化し続けているとしたら、その社会に合わせて、いまのチームの、場の構成員に合わせて、ルールを変化させ続ける必要がある。

だから、考え続けなければならない。
対話し続けなければならない。
ふりかえり続けなければならない。
それはものすごく「非効率」な営みなのだ、と。

デンマークは第二次大戦後、「教育」「福祉」「医療」に力を入れてきた。この3つは別々ではなく、それぞれの仕事に携わる人には共通の哲学を身に付けている必要があるという。

その「哲学」に近いものが、このページに書かれている「デンマーク・スタイル」なのだろう。
http://www.capnochokinbako.jp/denmark/style/

「指導から支援へ」:スタッフは問題を解決するためのサポーターであること。
「上下関係から対等な立場へ」:人としての敬意をはらい、信頼関係を築くこと。
「すべての支援はコミュニケーションから」:言葉だけがコミュニケーションではないことを知り、コミュニケーションスキルを模索すること。
「機会を与えること」:人と交わる機会、社会と交わる機会、自然と交わる機会

ミクさんが言っていた「その人に出会う」という福祉の出発点。
それをひたすらにやっていくことなのだろうと思った。

最後に、あらためて「越境」について。

まずは「越境」してみること、なのだろうと。はじめに「意志」「挑戦」ありきではなく、はじめに「越境」ありきだ。

「直感で動け、そうすれば失敗しかない」これはミクさんの恩師、長岡先生からのメッセージだ。(たぶんこれ。言い方ちがうかも)

参考:「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける(19.7.24)
http://hero.niiblo.jp/e489583.html

「やりたいことは何か?」
じゃなくて、はじめに越境があるんだ。

ミクさんが大学時代から続けてきたように、

越境し、そこにいる人たちと場を共にすること。
違和感をキャッチし、表現し、ともにルールを作っていくこと。
対話し、ふりかえり、次のルールを考えていくこと。

その繰り返しでしか「自らの未来をつくる」ことはできない。
小さな小さな、非効率な営みの先にしか、僕たちの未来はないのかもしれない。

その未来へ、15歳~18歳と一緒に歩んでいくこと。
それが僕にとっての高校魅力化プロジェクトです。

本日も「地域みらい留学合同オンライン説明会」でお待ちしています。
https://c-mirai.jp/schools/18

高校魅力化プロジェクトのページ
https://www.agareimei.com/  

Posted by ニシダタクジ at 07:52Comments(0)学びイベント日記

2021年06月27日

「委ねる」という愛

オンライン劇場ツルハシブックスでした。
ゲストは広島で読書会を主催する杉本さん。
オンラインツルハシの原点に返るような、素敵な会になりました。

「場」ってなんだっけ。
自分はどこに立っているんだっけ。
そんな問いが何度も来ました。

カッコイイ人=問いの質が高い人
っていうのも素敵な定義だなあと。

印象に残ったのは「課題の明確さ」みたいなのって
分かりやすいけど、なんていうかな、美しくないっていうか。
それって、「委ねる」部分の少なさ、なのかもしれない。

本屋の最大の魅力は、「委ねられること」だと思う。
http://hero.niiblo.jp/e488702.html
(本屋は「委ねる」 19.1.10)

「学び」という文脈でもそうだ。
A地点からB地点(目標・ゴール)まで直線的に向かうことを
サポートすることがいわゆる「教育」そのものだと定義されている。

あるいは、「自分を変えたい」とか今回のテーマである
「自分の軸を見つけたい」みたいな文脈で行くと、
経験を踏まえて自分が変わったり、自分の軸を見つけたりすること
が「学び」であるとする。

それって何か窮屈というか、美しくないんだよね。
人や人生を変えるような教育やプログラムはやりたくない。

やりたいとしたら、
「問い」が生まれるような本屋をやりたい。

プログラムを用意するのではなく、
環境を整え、機会をひたすら提供したい。
(プログラムが機会であったりするのだけど)

だから「場」なのだろうと思う。
誰とやるか。どこでやるか。いつやるか。
もっとそれをカラダで感じたい。
身体性を大切にしたい。

カラダとココロを「場に委ねる」。
それが愛するということなのではないか、と杉本さんは言う。

読書会をやっていて、
「いま、生きててよかった~」と思える瞬間がある。
本を読んでいて、
「よくぞ、このタイミングでこの本を」と思える本がある。

それは「委ねる」ことの後に、あるいは同時に
起こっていくのかもしれない。

「委ねる」の美しさ。身体性。愛すること。
そんなキーワードをもらった会になりました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:45Comments(0)学びイベント思い

2021年02月22日

「自分らしさ」は、原因ではなく結果

中京圏の大学生向け「就活」テーマイベント「就活を哲学する」でした(オンライン開催)。
「就活」の違和感がどこにあるのか?

そんな問いを一緒に考えていました。
夏の取材型インターン「ひきだし」での名言
「就活と恋愛は似ているけど、それなら恋愛のほうがずっと難しいな」
っていうのを思い出した。

僕が思ったのは、二元論の呪縛。
たとえば「安定を求めるのか?」「好きなことをやるのか?」みたいな問い。
あるいは「働くこと」と「稼ぐこと」をどうバランスさせていくのか?みたいな。

最後のふりかえりででてきたのは、
「7:3で自分を配分すること」
⇒これ、アイリスオーヤマの話で証明されている
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07

そして、
「アイデンティティと仕事を切り離すこと」
⇒結局、これが苦しさの源泉。
アイデンティティと仕事を直結させて考えさせられてきたから。

「やりたいことは何か?」と問われ、「好きなことを仕事にする」ことが理想とされ。
しかもそれを他者に説明しなければならないし、同世代との比較も起こってくる。
しかも1つの仕事に人生の全てを賭けてしまう、つまり「10:0」の働き方を
していた時、仕事で失敗をした、あるいは仕事を失ったとき、かなり大きなダメージとなる。

人生が経営であるとすると、1つの業務に自分という会社の資源(特に時間)を全て突っ込むことは
あまりにも危険だ。VUCA(予測不可能)な世の中ならばなおさらだ。

特に、2020年以降の就活生には、その実感は大きいだろう。
世の中は小さな(しかも目に見えない)ウイルスひとつでひっくり返る。

だから、アイデンティティと仕事を切り離す、つまり
アイデンティティと1つの仕事をイコールで結ばないこと。

そもそも。
アイデンティティ=自分らしさは、事後的に発現してくるのではないか?
それが土曜日に会った高校3年生の言う「ちえりっぽくないね」戦略だろうと。
自分っぽくないことをやって、「自分」そのものを拡張していくこと。

芸能人が、「芝居の幅を広げる」と言って、悪役に挑戦してみる。
役作りのためにダイエットしたり、髪をバッサリと切ってみる。

劇団員に応募するように、企業に応募してみる。
「その役には私がふさわしい」みたいな顔をして、面接に行ってみる。
残念ながら不採用となる。それは、役どころが違ったのだ。
監督の創りたい絵の中に入らなかっただけだ。

こちら側も、しっかりと監督が創りたい芝居の方向性や
誰に向けて、どんな価値を提供したいのか、そもそも何のために
このお芝居があるのか?を問いかけないといけないし、
こちら側もそれに共感して芝居をやりたいと思わないといけない。

就職をして、やってみて、初めて、自分を知る。
僕は40歳で初めて就職したのだけど、そこでやらないと気付けなかった自分がいた。
「フラットな関係性のない会議からは何も生まれないし、何も生まれない場にいる自分はすごくつらい」
そんな「自分らしさ」に気がついた。

そして、なぜ間違えたのか?というと、それまでの「創造的脱力」路線から急に「創造的破壊」路線にシフトしてしまったこと。

「よくわからないけど、ひとまずやってみましょうか。そのあとで考えましょう」っていう実験的なアプローチと「正しいゴールがそこにあるから、それを実現するには自分が偉くなるか、もしくは偉い人の力を借りて、会議で勝ち取りましょう」っていう挑戦的アプローチを間違えたのだということ。
そして自分は「創造的破壊」アプローチは全く向いていない、ということ。
そんなことを3年もかけて学んだのか、っていう。

そんな風に、「自分らしさ」って「原因」じゃなくて「結果」なのではないか?って。
やってみた後に「自分らしさ」を知るし、「自分らしさ」が形作られる。
つまり、「自分らしさ」とは、更新(アップデート)され続けるものなのではないのか。

そう考えるとすると、全ての就職は、「芸の幅を広げ、自分らしさを知る」プロセスということになる。

大学3年生の今現在の「自分らしさ」と就職を直結させる必要はない。
だって、自分らしさはその仕事をした後に立ち上がってくるものなのだから。
そんなことを感じた2時間。

あと、最後に一緒にやってくれたカジワラくんが振り返って言っていたことが印象的でした。
具体的な悩みを抽象的に落とし込んでいくと、その問い自体に疑問を持つようになる、まさに「哲学な時間」だったと。

「問いが間違っているかもしれない。」
これって、大きいなと思う。前提を疑うっていうこと。

「やりたいことは何か?」っていう問いによって、こんなにも苦しんでいる人がいる。

誰が、いつ、何のために、この「問い」をつくったのだろうか?
この「問い」によって、誰が得をするのだろうか?

そんなことを考えてみるのもいいなと。
「違和感」と問いに変換し、「問い」の前提を疑ってみること。

それこそが「学び」の出発点なのかもしれないなと。
またやりたいですね。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)学びイベント日記

2021年02月21日

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ

オンラインイベント昼夜連続でした。

昼間は宮崎県立飯野高校の「グローカル・リーダーズ・サミット」
事例発表では、愛媛県立三崎高校のせんたん部の話が面白かったな。
全校生徒を6つのプロジェクトに分けて、その中にマネージャー的存在がいるという、
コーディネーターとかプロジェクトマネージャー部みたいな感じ。
そういうのやりたい人っているんだろうな。

あとは飯野高校の異世代ルームシェアとかも、
阿賀町でもできたら楽しい。

午後からは対話の時間で、
20分を4タームくらい、ひたすら「自分らしさ」についてトーク。

キーワード的には

~~~

生徒会長など、みんなの場にいるときの役割としての自分
1人の空間にいるときの自分らしさ
好きなことをしているときの自分。
没頭している時の自分。

★「ギャップ萌え」
生徒会長としての自分と、お笑い好きな自分。

否定されないという前提の場でないと自分らしさを出せない。

多重人格でいいんじゃないか?
その場に合った自分らしさがあるのでは?
★「自分らしさ」は流動的なもの?

自分らしさを発揮しないスポーツは観客として面白くない。
チームで見ている。

★没頭(集中)しているとき、「自分らしさ」という意識はない
⇒「自分らしさ」は結果なのではないか?

自分から見た自分とまわりから見た自分のギャップ
⇒それを嬉しいと感じるのは自分を肯定的に捉えているから?

★「ちえりっぽくないね」
ソフトボール部⇒吹奏楽部
意外にしっくり来た。自分にギャップ萌えした。

自分らしいこと=好きな自分
自分らしくないこと=嫌いな自分
ではなくて。
「自分らしくないことをやってみる」:固定概念を壊す。

★自分らしくないことをやる⇒自分を拡張していくこと。

~~~

特に「ちえりっぽくないね」が響きました。

自分ぽくない(自分らしくない)ことをやってみること。
そうやって「自分」を拡張していくこと。

「自分らしさ」という言葉の罠にはまらないこと。
他者からの評価を生きないこと。
ギャップ萌えを楽しむこと。

「自分らしさ」というお題は、高校生における哲学対話のいいテーマだなあと思いました。

~~~

夜は「オンライン劇場ツルハシブックス」
ゲストはフリーランス農家の小葉松真理さん。
https://agri.mynavi.jp/2020_07_01_122811/

第1部は遊撃農家はら農園の原さんと3人でトーク

農家さんへの思いが溢れて涙交じりのトークとなりました。
アツかった。
「生きる」ってなんだっけ?って問い直されたように思った。

フリーランス農家の小葉松さんは
夏は北海道、冬は沖縄や高知、和歌山といった、
農家をハシゴして農作業を手伝いながら、
野菜販売、農家訪問ツアー企画、スナックイベント、農業ライターなどを行っている、
「土地を所有しない」農家だ

出発点は地域を支えるのは農業だと直感し、農業を体験したとき、
「食べものって作れるんだ」って思ったこと。
実際に農業をやってみたら、ずっとひとりだった。

その時に気づいたのは、
「野菜をつくるプロになりたいわけではない」ということだった。
そこで、土地に縛られない「フリーランス農家」に。

農家の魅力について、
小葉松さんも原さんも、そのスケールの大きさを語る。
空間軸だけでなく、時間軸、そして思想軸の大きさ。

自分の土地、農業だけでなくて、地域全体のこと、
そして文化とか歴史のこと。

農業は自然との対話だ。
一年一年違うし、一瞬一瞬に神経を集中させなければならない。

そんな農家さんの姿に惚れて、
小葉松さんも原さんも農の世界へ誘われる。

「仕事じゃないです。同志を手伝っているだけ」
この一言はすごかったな。ガツンとやられた。

農業手伝い、ライター、ツアー、スナック
小葉松真理という切り口で「農」を発信してるんだな、と。
アートだなあ、って思った。





僕が大学時代に通った徳島の沖津一陽さんを思い出した。(写真は2016年の再会時)
「ダイコンがダイコンを全うするように、私は私を全うする」という沖津さんの言葉は、
僕の座右の銘になった。

小葉松さんからは「生きてる感」が伝わってきた。
それは、「自然の中で生かされている」という一体感からくるのだろうか。
原さんによれば、小葉松さんの文章には、農家さんと小葉松さんがお互いに溶けだしているのだと。
それは、一緒に農作業をしているからなのだろうな。

生態系の一員、構成メンバーとして、ここに存在している、という誇り。
それが農家の美しさなのではないか。

「モチベーション」っていう言葉が急に安っぽくなった。
「自立」とか「自分」っていう概念は、そもそも嘘なんじゃないか、って思った。

小葉松さんを見ていると、
「共有財」」として生きる、ということが可能なんだ、って思わされた。
空間的・時間的・思想的な大いなる循環の中で、いま、生きている。
ひとつの生命体としてこの地に存在している。
そんな生き方が可能なのだ、と。

昼間の高校生が話していたように
「没頭」「集中」しているときに、「自分らしさ」という問いは消えている。
それは目的ではなくて結果だから。

自分と仕事が一体化していないとき、人は「モチベーション」を必要とする。
生きていく意味が必要な時、人は「使命感」という物語を必要とする。

小葉松さんは、ただ、生きていた。
生きることを全うしていた。
そんなカッコよさ、そして美しさ。

それは、宮澤賢治が語った「農民芸術概論綱要」に描かれた世界なのかもしれない。

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)学びイベント日記

2021年02月08日

「存在」と「学び」の出発点としての被贈与







全国マイプロジェクトアワード関東summitでした。
昨年は現場に見に行ってました。

参考:自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題(20.2.11)
http://hero.niiblo.jp/e490297.html

今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、オンライン開催。
東京、行きたかったのですが、
全国summitへの出場選考を兼ねない発表会+ブラッシュアップ+交流
だったので、そういう意味では、雰囲気的にリラックスできていいのかもしれないと。

阿賀黎明高校2年のSくんのプロジェクト「釣りってなんだ!?」も
後半の2場目に8グループで発表しました。
途中で石油ファンヒーターの灯油切れサインがなるというアクシデント(笑)
にも負けずに、堂々と発表してました。

夏から半年、彼が動いていく中で、
たくさんの町の大人が応援・協力してくれたことをあらためて思い出しました。
動こうとした若者の背中を押し、応援する町なのだと感じました。

鮎釣りつながりで、夏のまなび体験会の際、午前中の釣り大会で釣った鮎を分けてくれたS課長。
糀漬した肉で燻製をつくりたいといったら、塩糀を分けてくれたY糀屋、
今度の夏、一緒に何かやろう、と誘ってくれ、温泉旅館「K会瀬」の女将、

summitの終了後、地元スーパーでほぼ毎週日曜日開催の豚肉特売(1g1円!!)を買い込んで、
先日SくんがもらってきたK会瀬の自家栽培の米を炊いて、焼肉パーティー打ち上げしました。
豊かな時間。

最後の交流会では、僕の興味関心で「なぜ学ぶのか?」っていう部屋へ。
「高校生コミュニティ相談室」の対話イベントが興味深くて、今度のぞいてみようかなと思いました。

あと、他の部屋の発表を見ていて印象に残った一言は,
「本で人を繋ぐ」プロジェクトのOさんが言っていた

「マイプロは等身大だよ」

かなあ。最後のコメントも「自分でもできるんだ」だったので
非常に印象に残りました。
そういうマイプロをつくっていきたいな、と。

人はなぜ学ぶのか?

僕はこのプロジェクトを通じて、
・すでに返せないほどの贈与を受けてしまった者だという自覚。
・この物語をつないでいかなければならないという使命感(勘違い)。
だと思った。

そしてそれが出発点となり、
贈り物を先に贈る(ペイ・フォワード)するために、
物語をつないでいくために、
人は学び続ける。

そしてその自覚や使命感は、
頭(脳内つまり言葉)だけでなく、心と身体を伴ったときに、
より強く感じられるのだろうと。

Sくんのマイプロは、「等身大」そのもの。
釣りを起点に、たくさんの人とつながり、プロジェクトが展開している。

昨日も、「なぜ学ぶのか?」部屋で、彼は鮎釣りの醍醐味を話していたのだけど、
「おとり鮎をいかに元気に泳がせるか」が大切で、
「アタリがあってから、手元に引き寄せ、確保するまで」の瞬間の魅力を熱く語っていた。

ああ、それって、「マインドフルネス」ってやつじゃん、って。
「いま、ここ」に集中して、言葉の世界から距離を置くこと。
自然という「営み」の中に入ること。自らを溶かすこと。
そこに「生きてる」感があるのかもしれないな。

釣りってなんだ!?っていう問いは僕にとっての問いでもあったんだな、と。

釣りは農と同じく、圧倒的な贈与でもある。
贈与を受けた者しか、贈与を送ることはできない。
だから、学びの出発点をSDGs的な「貢献」ではなくて、
被贈与におかないといけないのではないかと。

釣りも、糀も、蕎麦も、自然や微生物、植物からの圧倒的な贈与だ。
決して返すことができない。

川喜田二郎さんは、ふるさとを定義した。
「全力傾注して創造的行為を行った場を人はふるさとだと認識する」
その出発点に、僕は被贈与があるのではないか、と考えた。

あるのではないか、というより、あると強いな、と思った。

「すでに自分はもらいすぎている」
「だから自分はこの物語を繋いでいかなければならない」

そんな自覚と使命感。
そこに「存在」があるのではないか、と思った。
「存在する理由」と言ったらいいのか。

もらいすぎた贈与を先に贈らなければならない。
この物語をつないでいくのは自分しかいない。

その「体感」ができるかどうか。
頭ではなく心・身体で感じられるかどうか。

自然の少ない都市部においては、
その役割を「本屋」や「図書館」が担っているのではないか。
本好きであるということは、
本という次世代へのパスをもらいすぎている人であるということだ。

たぶん人は「等価交換」だけでは生きられない。生き続けられない。
「等価交換」ということは1回1回の取引で関係が終わる(清算される)ということを意味しているからだ。

それなら、交換する主体としての自分は、存在し続ける意味はあるのだろうか?
たぶんそんな、根源的な問いを、10代20代は抱えているのではないか。

だから、若者は、地方を目指す。
「ふるさと」と「存在」と「学び」を求めて。

自然豊かなこの町には、圧倒的な贈与がある。
「先に贈らなければならない」と支えてきた人たちがいる。

もらいすぎだな、と思うくらいの贈り物をもらう。
それを返すために全力を注いで創造的行為を行う。

「存在」は創造のエッジにあり、その創造のエネルギーは、
「被贈与」の自覚と物語の継ぎ手であるという使命感から生まれる。

これらは循環していくことで、ようやく自分は「存在」になり、そのまちは「ふるさと」になる。

「釣りってなんだ!?」

エキサイティングないい問いをありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)学びイベント日記

2021年01月20日

視点を上げると、問いが小さくなる

にいがたイナカレッジ主催
「はたらくくらすラボ」最終回。

いつにも増して、「問い祭り」でした。
次々にチャットに投げ込まれる不完全な問い。
即答できない問い、そもそも答えがないような問いに、
ただただもやもやが募る。

こういうのもいいかもしれない、と思った。
オンラインの「場」の魅力を考えさせられた。

ふりかえりを発表してくれた
くまがいくんとにしやまさん。

くまがいくんのサイクル
体験→余裕→いちいち楽しむ→違和感→体験
これはすごい編集だなと。

豊かさより心地よさも
(頭)→(心)っていうことなのかも。

「豊かさ」は頭で感知し、「心地よさ」は心で感知する。
二元論じゃないので、グラデーションだけども。
有意義-無意義と快-不快っていうのと近いかもね。

その組み合わせに仕事をつくること。
仕事上で「無意識に頑張れちゃうこと」って体が快だと言っているのかもしれないですね。

そしてにしやまさん。
越境をテーマに学び続ける長岡ゼミ生なので、
言葉が鋭いなあと思いました。

いちばん心に残ったのは、「世界が広がっていく感覚」
たしかにこれが学びの意味だし、喜びだよなあと。

これにヒントを得て話したのが
「問いのスケール」の話でした。

「やりたいことは何か?」という問いの中にいると、
やりたいことが見つかっていない状態がすごくつらくて、
「やりたいことを見つけること」が唯一の苦しさの解決策だと思っている。

しかし、その問いの地点から
ドローンで垂直方向に上がっていくと、

「やりたいことは何か?」という問いがみるみると小さくなって、
「やりたいことがわからないはなぜ苦しいのか?」
という問いへとスケールが大きくなる。

これが、にしやまさんの言う、
「世界が広がっていく感覚」と近いのではないか、と思った。
だから僕は本を読むし、本を届けたいのだなあと。

世界を上から見たり、歴史的な時を越えて移動してみたり、
「いま」「ここ」がずっとずっと小さく見えること。

たぶんこれ。

いま、必要とされているし、オンライン化された世の中で、
より可能になっているような気がした。

昨日の僕の話のキーワードは
にいがたイナカレッジを取り囲むキーワード
・「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
・「近代」(工業社会+学校教育)からの呪縛
・アイデンティティと存在の承認
・夢という神話

・「場」のチカラ
・わたしを「ひらく」
・場とともに自分が変容する

・有意義-無意義と快-不快
・オンラインで突破できるもの(哲学対話とインタビュー)
・ベクトル多様性とベクトルの一致
・身体性を伴わないからこそできること。
・思ったことを即座に言える(書ける)。叫べる。
・音声(画面)とチャットの併用による問いのドライブ
・自分を経営する

~~~

こういう感じ。

昨日の「はたらくくらすラボ」で気づいたオンラインの価値は、頭と体の一部しか参加していないからこそ、「不完全な問い」も場にもチャットにも投げ込めること。インタビューや哲学対話的なトークに向いている理由はそういうところにあるのかもしれない。

「場」というのを考える意味では、オンラインイベントは非常に有効なのかもしれないと思った。

最後に「はたらくくらすラボ」なので、就活の話になっていったけど、
ここでもにしやまさんとの対話での発見があった。

僕は「演じる」というのをポジティブな意味で使っているのだけど、
それに対するてらださんの違和感があって、そこからの対話。

就活は「演じる」のではなくて、視点を上げて(メタ化)してみることができるかどうか?
それをストーリー化できるかっていうことなのでは?

ふだんは「越境」をキーワードに、
多分野の活動に、いろいろ視野を拡げておく。
それが視点を上げる際にも役に立つ。

「就活」はそれを組み合わせて
(企業にとっての)有意義性(価値があるか)で編集していくこと。
それを「ポートフォリオ」と呼ぶのかもしれない。

活動のひとつひとつは、つながっているように見えないのだけど、
部分的に取り出し、組み合わせ、並び替えると、
「私はあなたの会社にとって有用であるかもしれませんよ」って
言えるような、就職活動ができるのかもしれない。

まずは、感覚的に、点を打っておく。
打った点を、上から眺めて、編集する。

その先に自分があるし、オンラインでは、「編集された自分」というのを
より意識しやすいのかもしれないと思った。

本屋×オンライン対話っていう次のステージが僕も見えてきました。
本が売れそう。笑  

Posted by ニシダタクジ at 07:39Comments(0)学びイベント日記

2021年01月17日

生きるために作品をつくる

オンライン劇場ツルハシブックス2021の1回目。

満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。



https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。

「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。

「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。

そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。

紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。

昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。

オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。

音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。

第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。

「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。

ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。

2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。

9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html

9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html

10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html

9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」

これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。

あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。

10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。

そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。

大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。

やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。

TO自分とTO社会という2軸で考える。

つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける

自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。

~~~ここまで第1部

いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。

そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。


「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。

だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。

「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。

「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。

たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。

~~~

とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 09:10Comments(0)学びイベント日記

2020年11月25日

「面白がる」というフィクションで「存在」を確認する

にいがたイナカレッジ「はたらくくらすラボ」第4回
ゲストは2017年度に休学して小千谷市で
田舎インターンをした工藤京平さんでした。

いやあ。
めちゃめちゃ面白かったなあ。

タイトルは「幸せっていちいち楽しんでみること」
なのだけど、まさにそんな感じ。

~~~以下メモ

・自分は何がしたいの?
・これはなんの役に立つのだろう?
・どこかにつながっていなければいけない
・やりたいこと、なりたいもの?
「なんも動けねえ~。」から始まった。

イナカレッジ参加のキーワード
「就活」「田舎」「何かをやらないといけない気がした」

「ただ居る」ことができた1年間。
悩みが解消されたわけじゃない。
毎朝1日が始まるのが嬉しかった。

「居る」という感覚
でも何かが足りなかった。
⇒インターンへ。

「興味ないでしょ?」
⇒興味ないことに情熱注げません。

「何かに真剣になるのが怖かった」
無理やりに情熱を傾けてみたら、
「興味」は湧いてくるものではなく、湧かせるものだとわかった。
★フィクションの力
★「これって面白がれる余地があるかもしれない。」と面白がってみる。いちいち楽しむ。

★情熱を傾けた対象を通して周りを見渡してみる
思考の対象にとりさわれれること(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」)

「自分のもの」の変化
ものを受け取れる範囲が広がるとそのプロセスが楽しい
変化のプロセスに自分が居る、在る、幸福感
★田舎はいちいち楽しみやすい。センスオブワンダー

誰かからおすそわけをもらう。
誰かと一緒に食べる。
自然と~~できる。

★「やりたいことの探索」から「いちいち楽しむ」へ

毎日書く⇒常に面白いことを探す⇒それが楽しくなる
「書く」から世界を見渡している。

「変化」「創造」のエッジに「存在」があるのでは?

「好奇心」は才能か?
⇒「存在」への問いの切実さが「好奇心」のトビラを開く。

人生は自分を知る旅だなあと。

★「変化の可能性の中にいる」という心地よさ。変化するのが楽しい。

「達成感」⇔「変化」
成し遂げることではない。
答えがあるか、ないか。

生産と制作。
継承すべきものに出会った喜び。
「つないでいかなきゃ」という義務感ではなく、営みの中にあること。

達成感⇔内発的動機付け(個人のワクワク)
「評価のパラダイム」に載せられたマイプロの危うさ。

~~~ここまでメモ

「ただ居る」
「面白がる」
「対象を通して世界を見渡す」
「変化の可能性の中にいる」

キーワードたくさんあって、
ドキドキしながらゲストの話を聞いたし、
その後の対話でも、思考がぐるぐるした。

思考をまとめるとこんな感じかな。

1 好奇心や主体性は磨くことができる
「面白がる」習慣によって、「好奇心」は磨くことができる。
「好奇心」を磨いた結果、内発的動機が磨かれ、「主体性」につながる。
これは高校生からでも、中学生からでも、小学生からでもやったほうがいい。

2 「存在」の切実さが好奇心のトビラを開く。
「ただ居る」ということを許される「田舎」という場と
切実に「存在」の課題を抱えている大学生が出会う
「地域という場」は、いちいち楽しめる対象がある。
⇒それって、自然とか、農とか、営み?なのかな

3 もうひとつの「自分」を切り離す。
「対象を通して世界を見渡す」っていうのはそういうこと、なのかもしれない。
自分が面白がった(興味を持った)対象そのものから世界を見渡してみる。

4 変化の可能性にあふれた「場」に身を委ねる。
「変化の可能性」の中に「存在」がある。
そしてそれは、「自分」という単位で世界を捉えないこと、なのかもしれない。

もしかしたら、「面白がる」ことで、
人は自分の存在を確認できる、のかもしれない。

もしかすると、
アイデンティティ(自分らしさ、個性)が必要なのではなく、
自分が「存在」する(「存在」していいんだと感じる)場が
必要なのかもしれない。


  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)学びイベント日記

2020年11月24日

「一回性」と「シェア」と「神話」

オンライン劇場ツルハシブックス

5月からやっている
ツルハシブックスの劇場部分だけを
取り出したオンラインイベント。
毎回のゲストに問いをたくさんもらう。

昨日は第1部~3部まで、問いに溢れた時間。
自分が東京在住の20代会社員だったら刺さりまくっているなと。

~~~ここからメモ

タイトルつけるなら「軽やかな移住」

第1部はゲスト島根県益田市の大庭周さんと僕のトーク

移住1年目。24歳。
静岡県出身で東京での会社員を経て益田へ。
仕事ではユタラボ(豊かな暮らしラボラトリー)で
高校の探究の授業や下記の「益田のひと」のインタビューなどを行う。
https://masudanohito.jp/

主に社会教育ジャンルで活躍する大庭さんには、もうひとつの顔が。
「オトナ楽団」:」大人がもっと益田の暮らしを楽しんでもいいんじゃないか。

ということで開いたのが「昼カレー会」。

近所の人たちに呼び掛けて、道路でカレーを食べる。
写真を見ると、ホントに道路にはみ出してゴザ敷いているので大丈夫か、と思うのだけど
道路はこの先行き止まりになっているので知っている車しか来ないのだそう。

その他にも島根県立大の学生と
「フォトウォーク」なるものを開催。
町の至る所にある名所をそれぞれの切り口で切り取る。
写真を撮るだけじゃない。

「このまちでしかできないこと(もの)がきっとある」みたいな感覚。

「ずっといるわけじゃない」
「住んでみた、移住してみた、やってみた」
「関係人口と移住のあいだ」
「ライトな移住」
「24歳じゃないとできない」

大庭さんの一言一言が突き刺さる。
クランボルツ博士の「計画された偶発性理論」を
彷彿とさせるような「場」を生み出すひと。

そっか。
計画された偶発性理論はキャリアだけではなく、
「場」の理論でもあるんだ。

このまちで、いま、自分がいないとできない
こと、もの、イベント、企画。
それが二度とない「一回性」の高い「場」を生み出す。
「舞台」としてこのまちを認識できるか。

後半、さらに突き刺さる一言が。
「20代の1年1年は重い。若さを武器にしたい。24歳じゃないとできないことを」

なんか。
東京在住でもやもやしている20代会社員の方に伝えたいメッセージに詰まった第1部でした。

その勢いをそのままに、
第2部は「イケト×井上有紀」のシェアハウストーク。
これも問いがありましたね。

タイトルつけるなら「人間らしい暮らし」

1人で完結する暮らし/誰かと会う理由が必要
ご飯を作っていたら誰かが帰ってきて一緒にご飯を食べる。

暮らしをシェアする、ということ/所有感がない
人生も自分のものじゃなくなる。/楽になる
★そもそも人生は自分のものではない。
「人生」をシェアしよう/その時に自分と同じ「場」にいる誰かとつくる「人生」

「相手がいると、選択肢が狭まる」
⇒人生が無限だったら、自分の答えを探し続けてもいい。
⇒人生は有限だから周りに影響され、翻弄されてもいい。

自分らしい暮らし⇔人間らしい暮らし。
「人間らしい」とは何か?⇒共同体、人と人のあいだ。

ともにある存在。
自然=偶然。
偶然から生まれる創造性。

「人生は自分のものじゃない。」
名言でしたね。

第3部 対話の部屋
大学生はなぜ農、まちづくりを目指すのか。

アイデンティティ問題の対処法として
「継承者であること」がひとつ、方法になるのではないかと。

せいたろうくんが解説する一言一言に、
なるほど、とうなった。
「バックグラウンドにストーリー性があると信頼できる。」

たしかに。
「なぜやるか?」「どのようなストーリーでここに至るのか?」
っていうのがないと、なかなか応援できないもんね。

それって、自分に置き換えてみたら
まさに「存在」の話なのではないか。

いや、そもそも。
「国家」でさえも「神話」を必要としているんだ。
国家のアイデンティティは「神話」を語ることだし、
地域のアイデンティティは「祭り」と「言い伝え」をつないでいくことだ。

ひとりひとりの「存在」にも、神話が必要なのではないか。
もちろん、それはフィクションだ。

僕が吉田松陰先生から直接教えを受けたわけでもないし、
萩にゆかりのある生まれでもない。
宮澤賢治先生も岡倉天心先生も同じだ。

でもその継承者であるというフィクションをつくり、
そのストーリーに人生を委ねていく。
「存在」というのは実はそういうところで感じられるのかもしれない。

大切なのは「自分で決める」ことなんだと、ひやまりょうが言った。
社会的にどう評価されるか?でプロジェクトをスタートしてはいけないと。
最初から「人の役に立つ」みたいな要素を考えていいのか?と。

答えのない問いに挑むには「発見」のパラダイムが必要で、
答えのある問いに対しては「達成」のパラダイムが有効だ。

そして、答えのない問いに挑むには、
もしかしたら「神話」が必要なのかもしれない。
なぜ、そこに挑むのか、だ。

~~~ここまでふりかえりメモ

ぜんぶつながってるな、と。
「場」の話だなと。
まあ、それは僕の編集なのだけど。

大庭さんの「軽やかな移住」は、
そこに「一回性」の高い「場」を生み出した。

このまちで、いま、自分(たち)にしかやれないこと。
これは、「場」の構成要素である「誰と、いつ、どこで」に対応している。
カレー会も、フォトウォークも一期一会の瞬間を生み出している。

イケト×井上有紀のシェアハウスの話がつづく。
「人生は自分のものではない」という感覚。

シェアハウスは、「家」をシェアしているのではなく。
日常でありながらも「偶然性」の高い「場」をシェアしているんだなと。
暮らし、人生そのものを「シェア」している、
というか「シェアしている感覚」をシェアしているのかもしれない。

ラストの対話の部屋の「神話」の話も、
少し抽象化(メタ化)した「場」の話だったように思う。

「場」には神話(物語)が必要なんだ、と。
特にゴールが明確(確実)じゃない「場」には。
ひとりひとりの人も「場」であるとすれば、

その場に立つための神話(物語)が必要で、
それはフィクションなのだけど、そのフィクションを自分で選んでいる、
っていうことが大切なのではないかと。

今回のオンライン劇場は、非常にタイムリーでした。
出演&参加していただいた皆様、ありがとうございます。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)イベント日記

2020年09月26日

学びの主体を「個人」から「場」へ移行する

イナカレッジラボオンラインと探究学習コミュニティが2夜連続でした。
「つながっている!」かもしれないと思いました。

探究学習コミュニティのメモから。
(ゲストは米沢興譲館高校の廣瀬先生でした)

~~~ここからメモ

「進学指導」「学力向上」「キャリア教育」の真ん中に探究をつくっていく。

理念を共有しながらなぜその連携が必要なのか_を自分の言葉で語れる先生にならないと。

「始め方」:進学指導におけるわかりやすい課題を使うこと
・推薦・AOで志望理由が深まらない
・面接指導で本人が語るものが浅い
・小論文指導で、志望系統に関する知識が浅い
・これからも推薦・AO入試が減ることはないから、指導体制の構築が必要
○志望理由が明確な生徒が合格している、最後まで頑張りぬいている。
○今までの活動から志望理由書に書ききれないほど書きたいことがあった生徒がいる
⇒だから探究学習やったほうがいいよね。

困っていることを吐き出しやすい雰囲気づくり
研修:現在の実践をワールドカフェで共有する
職員研修でもふりかえりシートを各人が記入して終わる

コンピテンシーベースで教科・行事・探究を結びつける

ワンページポートフォリオ(OPP)

違いを認めてリスペクトし合う

ふりかえりでメタ認知させながら他教科につなげられるか?
⇒教員間もコンピテンシーベースで話ができるか。

~~~ここまでメモ。

そもそも「ふりかえり」とは何か?みたいな根源的な問い。
なぜふりかえるのか?
なぜ僕は、「感想は?」ではなく、「印象に残ったことは?」と投げかけるのか。

「ふりかえり」によって、「場」に出されたもの。
それは、自分とは切り離された「何か」だ。

そうして、少し離れたところから(上から)そのふりかえりを見てみる。
このことをいわゆる「メタ認知」と言うのかもしれないが。

それによって見えてくるものがある。
それは生徒だけではなく先生も含めて、だ。

ふりかえることでメタ認知が可能になり、
コンピテンシーベースで各教科をつなげることができ、
それが探究を核にした横断的カリキュラムの実践になる。

「学びの創造」がそこにある、と思った。

一方で、イナカレッジ・ラボ(オンライン開催)で思ったこと。

~~~ここからメモ

イナカレッジは、地方の暮らしという場に身を委ねる、という練習なのかもしれませんね。
ただ、ご飯食べて寝ているだけなのでは?という不安になるくらいの暮らしを経ることで得られること。

それは田舎のもっている共同体というか、自然や風土との一体感というか、そういう場を前提としているのかもなー。

ひきだしもイナカレッジもやっているのは場に一体化し、場のチカラを高めることで、新たな発見やアウトプットを出すこと。

ひきだしは、場にひとりひとりのベクトルを差し出すことで、その共通理解と共有によって、企業とともに価値の扉を開けていくような感覚があるし、イナカレッジは暮らしをする場そのものが地域の時間の愛に包まれるから、場に溶け出すことができる感覚がある。

「一緒に暮らすこと」と「(作ろうとしている冊子の)コンセプトさえも途中で変わる」
それって「場」に溶けだして、「場」と「心」がつながっているということなのかもしれない。

「感情を大切にして行動する」っていう行動原則の人は、「なんでするの?」っていうwhyの問いかけに対し、論理的に説明するのが難しく、葛藤することになるのかも。

~~~ここまでメモ

取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。

そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、
何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題は
アイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。
その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、
それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。
当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。
あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。
「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの
「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。
学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。
そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)学びイベント日記

2020年09月07日

やりがいは何か?という愚問

9月4日
取材インターン「ひきだし」事後研修でした。

僕の興味は、取材を通して、
「オンラインの向こう側」を見てみたかった。

結論としては、
チューニングを強化してチャットと併用することで、
チームインタビューはうまくいくことが分かった。

実は「場」に差し出してるものが多くなるっていうこと。
それが場との一体感を生んでいる。
オンラインは、頭や気持ちの一部だけを取り出せるからかもしれない。

~~~ここからはメモ

「否定」ではなく、「違和感の表明」。
違和感を受け止める場があるかどうか?
自分にしかできない質問=いまこの瞬間に感じた違和感を問いに替えること
その質問がインタビューをドライブさせる。

「昭和のサラリーマンはお金のために好きでもない仕事をやっていた」は本当なのか?
⇒また行きたくなる「場」「一体感」があったのではないか。

好きなこと=doやwhatではなくbeやhowかも。
何をやるかではなく、状態や関係性が大切。

★「やりがい」問題
仕事人にインタビューをするとき、ついつい、
「この仕事のやりがいは何ですか?」と聞いてしまう。

今回インタビューした会社の中で、
「やりがいを感じるのは感謝されたとき」
との回答を得て、ひとりの大学生が違和感を持った。
感謝ってやりがいなの?って
それがふりかえりでホットな議論になった。

その違和感について、僕が感じたのは、
「やりがいは何か?」って仕事の目的を聞いているはずなのに、
「感謝されること」は結果であって、目的ではないから。

でも、そもそも仕事に目的は必要なのか?
そもそも普段「やりがい」なんて意識して仕事しているか?
もしかすると、経営者は必要なのかもしれないけど。

目の前の仕事に、お客様に、集中しているとき、
「やりがい」という言葉は頭から消えている。

大学生に質問されてはじめて意識する。
問われたから無理やり考える。

そしてそれは、研修でやったけど、
「内なる言葉」ではなく「外に向かう言葉」で答えてしまう。
「外に向かう言葉」=人に説明する言葉⇒見える化⇒計測可能(量的に語れる)
結果、「感謝」が出てくる。

1人が書いていたけど、
仕事の目的というかそもそもの成り立ちは「お客様に価値を届けること」であり、
「感謝されること」は結果である。

だから、やりがいは何か?という質問の仕方が間違っているのだ。

あなたが届けたい、届けられる価値は?
と聞かないといけないし、

「感謝」をもっと解像度を上げるには、
あなたが喜びを感じる瞬間は?
と質問しないといけない。

ただ、今回聞いていて思ったのは、
「感謝」によって思いやりと愛の循環が起こる
⇒「場」の空気がよくなる⇒明日も会社行こうと思う
っていうことなのかもしれない。

つまり。
モチベーションの源泉は、ゴール(目的)ではなく、
「場」から湧いているのではないか、と。

~~~ここまでメモ

いいですね。
やりがい問題。

タイトルの話に戻ると、
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと
同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、
ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。
例えば「お客様に感謝されること」
それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。
しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど
夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。
たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

あとは、「外に向かう言葉」と「内なる言葉」の違い。
やりがいは何か?と聞かれて、
やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、
リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。

「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。

「近代」なる何か(資本主義や教育)は、
「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。
それが、「計測可能」という罠だ。
「学び」の目的は
「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、
実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。
「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)
「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

9月4日を予言するかのように、9月3日にツイートしたもの

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。
ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。

そして、「学び」を「遊び」にしたい。
その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。
遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。
目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。
「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

たぶんそういうこと。

事後研修を終えて、数名の参加者が
ふりだしに戻った!と叫んでいた。(チャットで)

~~~
振り出しにもどった!!!!
OKいろいろあるのね、自分のとらえかた次第ね
業界や職種で絞れないね
→どう絞れば!?
スキを仕事にしなくてもいい
→楽になったけど、なにを軸にすればいいんだ!?
自分にできることって何
→やってからじゃないとわからない、最初どうすれば!?
~~~

いいなあ、内なる言葉が出てくる「チャット」という機能は。(笑)

ふりだしに戻る。
でも、それは戻ったわけではなく、螺旋階段を1段登っている。
そして、1段登った分、見える景色が変わっているはずだ。

そんな「機会提供」の場をつくりたかった。
たぶんそれが主催者である若松さんと僕の想い。
機会をどうとるかは参加者次第なのだけど。

今回の「ひきだし」も僕にとっても予測不可能な発見の連続で、
めちゃめちゃ楽しかったのです。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:24Comments(0)イベント日記

2020年08月30日

場のチカラと場の豊かさ

取材インターン「ひきだし」第2週の事前研修でした

「場のチカラ」
「魔法をかける編集」
「オンラインの向こう側」
がテーマ。

~~~以下メモ

オンラインマジカルバナナの威力がすごい。
あれ、目的に向かってないからいいのかもしれない。
場を温める。

「チューニング」についてあらためて説明。
チューニング=感性を共有すること
ではないか?と言われて、そうかも、と。
思ったことが言える場づくりがいちばん大切だなあと。
あとは振り返りにおける「印象に残ったこと」

今回いちばん面白かったのはチャットの活用ですかね。

「ふりかえり」特に印象に残ったことを書き出すことで、
お互いがお互いを知ることにつながるし、そこでの発見がある。
ふりかえりつつ、気づくみたいなことはオンラインのほうが可能かもしれない。

また、インタビュー時はインタビューしつつチャットを併用することで、
頭の違う部分が開かれるような気がする。それは相手(話し手)にとっても同じだ。

「オレンジ」とか暖色系で、
チームカラーを決めるっていう方法もあるかも。

チューニングとふりかえりを繰り返すことで
チームの雰囲気ができていく。

現代の美術家のアート領域。
境目をあいまいにすること。

~~~ここまでメモ

ふりかえり

1 場のチカラについて

目指す方向だけを決めた方がいいのではないか?
という話から、「誰のために、なぜ冊子をつくるか?」という議論になった。

場(プロジェクト)の構成要素である
誰と⇒いつ⇒どこで⇒なぜ⇒誰のために⇒何を⇒どのように
の「どこで」(オンライン)で「何を」(企業取材を)とだけ決まっていて、
そのあいだを埋めていくこと。それによって、「誰と」「いつ」が明確になっていくこと。

2 魔法をかける編集について

いま、あなたにしか、このチームにしか書けない記事がある。
それを実現するために。

・相手(インタビュー先、チームメンバー)を知る、知りたいと思う。
・感じることを、感じたことを大切にして、それを場に出す。
・人の話(ふりかえり含む)に乗っかる。
⇒自分のいま抱えている何かとリンクさせて語る

3 オンラインの向こう側について

チャットとの併用にヒントがある。
脳の境界をあいまいにすること。
違う回路を開きつつ、進めていくこと。
相手(しかも複数名)がいったことが同時に見れる。

オプションで「交流会」時間があったのだけど、
編集長の青木さんが言っていた「これ、編集だな」っていう一言にインスパイアされた。

編集かもね。
人と人とをうまく編集すること。
言われてみれば、人生も、仕事も全部編集なのかも。

この前のオンライン・ツルハシで話した原さんのような
編集の仕方があるっていうこと。

今回の「ひきだし」もめちゃめちゃそうだなと。
「オンライン」っていう条件さえも、制約ではなく編集対象にしてしまうこと。

っていう振り返りをしていて、僕が思ったこと。(ふりかえりのふりかえり)

「場のチカラ」と「場の豊かさ」というのはベクトルという視点から
少し異なるのだなあと思った。

そして、オンラインの向こう側へと運んでくれるのは、ベクトルだ。
「オンラインの向こう側」を見てみたいという好奇心だ。
場のチカラを高めた上で場が共通したベクトルを持つと、突破力が高まる。

一方で、場の豊かさを決めるのは、「ベクトル(目的)多様性だ」
スターバックスが自らの店を第3の場所と呼んでいるが、
お客それぞれにとって、第3の場所の使い方は異なる。

ある人は試験勉強を集中してやりたいからコーヒーを買い、
またある人は友人とのんびり話したいからプラペチーノを買う。
仕事の打ち合わせの人もいるだろう。
そんなベクトル(目的)多様性がカフェという場の最大の魅力だと思う。

参考ブログ「分断から共存へ」(13.11.17)
http://hero.niiblo.jp/e302022.html

おそらく、
「オンライン劇場ツルハシブックス」で目指しているのはかつて実店舗であったような「場の豊かさ」だろう。
「ひきだし」が目指しているのはそこにベクトルを持たせた「場のチカラ」かもしれない。

「場の豊かさ」をベースにした「場のチカラ」を持つチームをつくる。

そんなことがオンラインでもリアルでも可能なのではないか。
そんな予感を感じさせてくれたひきだし研修でした。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:41Comments(0)学びイベント日記

2020年08月11日

「誇り」がはじまる場所

新潟県マイプロスタートアップキャンプ2DAYSでした。

宮崎さん、スタッフのみなさん、本当にお疲れさまでした。
ご協力いただいたファシリテーター・アドバイザーのみなさんも
ありがとうございました。
阿賀黎明高校からも4名の生徒が参加し、刺激の多い1日となったようです。
これからの活動が楽しみです。

いつもの振り返りメモを残しておきます。

~~~以下、プロジェクトとコメント、問い。

「佐渡乳業を応援したい」
買い続ける理由は?
熱狂的なファンになるとしたら?

「ボランティアで人と人をつなげたい」
肉体系ボランティアをやると仲良くなれる。

「アレルギー対応のイベントしたい」
笑顔になれる食事体験の方法は?
楽しめる食事と楽しめない食事
「楽しめる食事」とは、アレルギー対応以外の方法もあるのでは?

★パートナーの「想い」を確認すること。
・佐渡乳業、ボランティアやってほしい人、アレルギーを持つ人にヒアリングする

「食品ロスをなくしたい」
データを示せば、行動が変わるのか?
どの地点の食品ロスをなくすのか?

「通販サイトさどおしなの活性化」
ふるさとを思い出すためにポストカードをいれる。
行ったことがある人に「また来て佐渡」って言いたい。
ポストカードで行ったことのある旅館に手紙を書く

「料理の絵を描き、食の魅力を伝える」
コンテストなど大規模じゃなくて、小規模で始められるものはなにか?

「佐渡チェキ」
日常風景を写真にとる。
グローバルな人は地元が好き=地元を語れる
キーワードとしての「探検」

「新潟甚句を広めたい」
歴史的なつながりに魅力を感じるのか?

「音楽をもっと身近に」
音楽の魅力は?
あなたにとって音楽とは=存在価値そのもの
ライブの一体感と偶然性、一回性。
音楽=芸術=表現すること

「五泉ニットを売り出したい」
お客は誰で価値は何か?
高校生にとっての価値は?おしゃれ?かっこいい?かわいい?
ファンとお客さんの違いとは?
誰が五泉ニットをつくっているのか?職人さん・社長さんの想いは?

「演劇文化を広く伝えたい」
演劇の魅力は?⇒心を揺さぶられる体験。
演劇鑑賞⇒対話により違いを楽しむ。
講師謝金は出やすい。

「不登校生を学校へ」
そもそもなぜ学校が必要なのか?
想定される具体的な誰かはいるか?
学校に行くことで得られるものと失われるものは?
「学校に行けなくてつらい」の解決策は
「学校にいくこと」と「学校に行かなくてもつらくない」の2つの方法がある

「佐渡金山にきてほしい」
誰かの企画に乗っかってみるという方法もある。
ふりかえって自分の勘定を知る⇒自分を知る。

★フレームを外して広く見てみること。

~~~ここまでコメント、問い


2日目の事例紹介は、7月31日の探究学習コミュニティ第1回でも登壇した元大船渡高校の船野さん。

マイプロアワード2017文部科学大臣賞
https://myprojects.jp/project/4134/

あらためて聞いてみると、「探究」とは何か?考えさせられるキーワードにあふれていた。

~~~ここからメモと考えたこと。

目標・テーマに向けて、進んでいく。(ニアウォーターをつくる)
それと同時に、自分を知る=感情の動きをキャッチする。

つまり、目標というナナメ上に進むベクトルの一方で、
自分を知るという自分自身の内に向かうベクトルを動かし続ける。
実はその「自分を知る」というベクトルの先に、目的というか、
船野さんの言葉でいうところの「北極星」に出会う。

それが「展開型の学び」の醍醐味なのではないか。

「目的から考える」というのはよく言われるのだけど、
それって、「PDCAを回す」みたいなのにとらわれている状態と同じで、

ひとまず、やってみて、ふりかえりを重ねていく中で、自分を知ること。
その振り返りも、「気づき・学び」ではなくて、「印象に残ったこと」、
つまり心の動きを振り返るということ。何を感じたか?を振り返ること。

「挑戦」⇒「失敗」⇒「気づき・学び」⇒「再挑戦」ではなくて
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか?」⇒「再実験」というプロセスの中で
自分を知っていくことなのだと思う。

その「何を感じたか?」
には「違和感」が含まれていて、その「違和感」こそが次の「問い」に繋がっている。

だから、付け足すと
「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」なのかもしれない。
感情を振り返るというのは、問いへのプロセスなのだと思う。
だからこそ「ふりかえり」、それも「感情のふりかえり」が大切なのだと思う。

終了後、宮崎さんの一期生、「Sフェス」のふみかさんと中等生プロジェクトに伴走してきた増山さんとの対話。
ふみかさんのテーマは「イノベーションを起こす場づくり」
そういう意味では、僕のテーマに近いなあと。

僕が大学を辞めた理由は、「このコミュニケーションでは新しいものは生まれない」と思ったからだ。会議の場がまったくフラットではなかった。
教授は教授として、准教授は准教授、事務職員は事務職員、コーディネーターはコーディネーターとして、会議に参加していた。
「踊る大捜査線」の和久刑事(いかりや長介)のセリフが何度も聞こえてきた。「正しいことをしたかったら、偉くなれ」

僕のテーマは、
「新しいもの、発見を生み出す、フラットなコミュニケーションの場のデザイン」

「発見」する主体は、参加メンバーではなく、「場」そのもの。
そんなものをつくりたいと思っているし、阿賀町/阿賀黎明高校ではそれができると思っている。

「達成」から「発見」へのシフト
「評価」から「承認」へのシフト
「個人」から「場」へのシフト

それが起こっていくと思うし、起こらないと「学び」は楽しくならない。
「目標」「評価」「管理」という学校フレームを超えていくことができるのが、「探究」であり、「問い」なのだと思う。

出会うべきは「目標」ではなく、「問い」であり、スタートアップキャンプのような「場」は、
「場」の力で問いにならないものを「問い」にしていく場なのだろうと思う。

だからもっと「場」の力を高める必要がある気がした。
・オープンマインド(心を開く)をつくるために、「印象に残ったこと」を言葉にしてもらう。
・2人司会制度で余裕をもって進行し、随所に振る。
・特にアドバイザータイムは2人ファシリで、高校生をフォローしながら進行したほうがよさそうな。(メモも必須なので難しいところだけど)

僕は2日目、新潟が誇る「問い」の大御所、「ふりかえり王」(笑)の山本一輝さんとコンビだったのだけど、
それをファシリしていたしぶはるさんのコメントが印象的だったのでここに残しておく。

「事例紹介」で拡げて、と「問い」で深めるみたいなバランスがいい。
ああ、それって、「向き合う」っていうのと「横に並ぶ」っていうのを自在に行っているのかもって。
増山さんも、インタビューの極意は「深く聞いているか」「広く聞いているか」の使い分けだと言っていたけど、
「わたしとあなた」っていう関係性と「わたしたち」っていう関係性、それともまた少し違う「ナナメの関係」(どんどんやれやれっていうおっちゃん的な)っていうのも、自在に行き来するような、そういう「場」が作れるのではないかと思った。
だからzoomにおける2人司会制も、一方は、向き合い、一方は横に並ぶ、みたいなコミュニケーションも可能なのかも、と。

まあ、いろんなヒントがあった2DAYSでした。

最後に、宮崎さんのあの一言を。

「気がつくと地域と人生の当事者になっていた」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

佐渡中等教育学校に赴任して耳にした言葉。
「わたしたち嫌われているんです」
すべてはあの一言から始まった。

現代版スクールウォーズだとあらためて思った。
伏見工業に赴任した元日本代表の山口良治さんは、同僚の先生にこう言われた。
「山口先生、伏見工業をラグビーで京都一にしてください。この学校には、誇りが必要なんです。」

「誇り」が必要なのだと思う。
それは、「使命」であり「目的」であり「問い」であり、船野さんの言葉を借りれば「北極星」であり。
文部科学省の言葉で言えば、「自らの在り方生き方と一体的で不可分な課題」なのだろう。

「実験」⇒「結果」⇒「何を感じたか」⇒「違和感」⇒「問い」⇒「再実験」のサイクルを繰り返し、
マイプロジェクトを進化させていくと共に、自己変容が並行して起こっていくこと。
「探究的学び」の醍醐味はそこにこそあるし、それが自らのアイデンティティの形成になっていく。

現代版「スクールウォーズ」だと僕は書いたが、
その「誇り」を取り戻す方法は、京都一になるとか全国制覇だとか、文部科学大臣賞を取ることでは、もはやない。
探究的学びと並行して、ひとりひとりの内部に「誇り」が宿る。

そんな「誇り」がはじまる場所をはじめようと今朝も強く思っている。  

Posted by ニシダタクジ at 07:37Comments(0)学びイベント

2020年08月08日

信は力なり


昨日は、探究学習コミュニティの2日目でした。

ゲストは宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校の上水先生
http://gokase-h.com/

いやあ。
もう、衝撃がすごすぎて、手に汗かいちゃいました。
最後には泣きそうになってた。

ということで、自分のためのメモ

~~~ここからメモ

学びの氷山モデル。
育てたい資質・能力:野性味あふれる地球市民の育成
・つながる力・試みる力・見る力・問う力・関連付ける力
・networking/experimenting/observing/questioning/associating
・個人will×社会needs

「実社会」(具体)⇔「探究」(半抽象)⇔(抽象)
ステップ型からスパイラルな探究へ
フォアキャスティング⇒バックキャスティングへ

地域での体験⇒地域での経験⇒地域での実践(普遍性)⇓・・・ローカル
社会への発信⇐社会への参画⇐社会への問い・・・グローバル

中3マイプロジェクト活動:自分の中にある興味・関心(Will)から生まれたテーマを設定し、ワンアクションを起こす
高1知の理論・問いの探究:問いの構造を学び、深く考えることによって物事を抽象化する思考法を身につける。(Why)
高2・3課題研究活動・・・社会に散在する諸問題(needs)に対して、グローカルな視点から探究活動に取り組む

これまでのKKD(経験・勘・度胸)⇒できる人ができる
これからのKKD(仮説・検証・データ)⇒やりたい人ができる

PDCAからAAPへ
Anticipation ⇒ Action ⇒ Reflection
見通し⇒実行⇒振り返り

3つの感
私たちにしかできない感(当事者感)×私たちがやるべき感(社会的な課題)
⇒学びのブリッジング(紐づけ)⇒私たちでもできそう感(地域協働による探究活動)

「思い込み」と「思い上がり」でプロジェクトをつくる、に似ているなあ。
ゼミ形式で共飲1名あたり6名を担当する。

★「研究」(needsが重要)と「探究」(willが重要)
探究のほうが入り口になりやすい。自分のwillから出発できる。
「探究」があって、その先で世の中のneedsに合わせて、研究したい人は大学へ
社会で取り組みたい人は就職へ。
「探究」:自分ごと(主観)から出発して、客観に落とすことで、自己変容する。
問いの力で「研究」という枠組みを超えていくことができるかもしれない。

~~~以下第2部

society5.0時代における持続可能な社会と幸福な人生の創り手として、予測困難な未来社会を自立的に生き、多様な人々と協働しながら社会の形成に創造的に参画することができる資質・能力。

遠隔・オンライン学習やデジタル技術を活用した個別最適化した学び⇔対面指導や集団活動、地域社会の多様な教育資源を活用し社会とつながる真正な学びの充実

自立的な学び⇔協働的な学び⇔探究的な学び
主体的な学び⇔対話的な学び⇔深い学び
⇒誰一人取り残されることなく社会につながる教育環境の実現

「対話と協働」でリアルな学びの場と学校をつなぎ
「越境」で学校外とつなぎ「普遍化」でグローバルとつなぐハイブリッド探究・協働様式

自ら学びをデザインし、新しい時代を共に生き抜く力
「つながり」「対話・協働」「自立・探究」「社会・創造」を組み合わせて学ぶ
それを支える「学びの土壌」があること

ハイブリッド⇒どちらも
対面・体験・オフライン⇔遠隔・体感・オンライン
知識・技能・教科学習⇔探究・実践・総合探究の時間
全体・指導・公教育が持つ強み⇔個別・伴走・地域社会が持つ強み

「共創的カリキュラム」
個別的カリキュラム:学びの実態や環境に応じて、社会総掛かりで知見を共有しながら個別に学習計画が設計されたカリキュラム
明示的カリキュラム:新しい時代に必要となる資質・能力の獲得を目指して、誰一人取り残さないための「学習保障」「関係保障」「健康保障」が明示されたカリキュラム
潜在的カリキュラム(学びの土壌):学校や地域の特性や歴史・風土を活かし、学び手を伴走する土壌によって自然に生み出されるカリキュラム。

★余白をつくること
何を教えて、何を学んだか⇒何を教えず、何を学ばないのか
「対話」と「協働」で探究をドライブする。

ビジョン委員会:半分つくり、半分はつくらない。ねらいと偶然性を両方とる。5年後10年後を語り合う
「対話」の文化があること。

オンラインは会いに行くたくなるように終わること。

★「探究」と「教科」
コンテンツベースで教科をつなぐのではなく、コンピテンシーベースでつなぐ。
教科における見る力とは何か?問いを立てる力とは何か?ふりかえりをする力とは何か?

~~~以上メモ

すげえ・・・
ヤバい・・・

途中から僕の言語化能力を超えてきてしまって、手に汗かいてきた。
こんなの、前にあったな。

2005年の玉川大学のスクーリング「教育の原理」だ。
教育とは何か?を真正面から考える授業に、心も体も震えた。

僕がなぜ今ここにいるのか、わかった気がした。

探究の3つの感。
自分にしかできない感、自分がやるべき感、そして自分にもできそう感、
それって、「思い上がり」と「思い込み」つまり勘違いなのだけど、
生きていくってそれが大事だなとあらためて思った。

一番印象に残ったのは、
「探究」と「研究」の話。

「探究」は入り口が「好き」にあって入りやすいく、その先に青天井に進んでいける。
「研究」は入り口に社会のニーズ(課題)があって、そのフレーム設計をして進んでいく。
つまり、「探究」はフレームを超えていける。

そして探究を、客観(ニーズ)に落とし込んだときに自己変容が始まる、というのもすごくしっくりきた。
学びの醍醐味はまさにそこにあるんじゃないのか、と。

何より上水先生のラストの言葉に泣きそうになった。

「信じることです」

生徒を信じ、地域の大人たちを信じ、同僚の先生たちを信じること。
うわーって。

「信は力なり」
小学生の時に観たドラマ「スクールウォーズ」のワンフレーズがよみがえる。
「探究」とは、現代のスクールウォーズなんだなあと。
時代の激変期に、先生も不安なんだ。って。

いまこそ。
信じること。
そっからだ。

なんだろうね、この心地よい敗北感は。
圧倒的な敗北がここにありました。

2020年8月7日。
世界の広さを知った日。

上水先生のメッセージは
五ヶ瀬中等「だからこそ」挑戦し続けます。
で締められた。

「だからこそ」をつくっていこうと
他のところにはとっても真似できない学びをここにつくっていこうと。

パートナーのみなさん、よろしくお願いします!  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)学びイベント